SAO1_01_Unicode.txt
無限の蒼穹に浮かぶ巨大な石と鉄の城。
それがこの世界のすべてだ。
職人クラスの酔狂な一団がひと月がかりで測量したところ、基部フロアの直径はおよそ十キロメートル、世田谷区がすっぽり入ってしまうほどもあったという。その上に無慮百に及ぶ階層が積み重なっているというのだから、茫漠とした広大さは想像を絶する。総データ量などとても推し量ることができない。
内部にはいくつかの都市と多くの小規模な街や村、森と草原、湖までが存在する。上下のフロアを繋ぐ階段は各層にひとつのみ、そのほぼ全てが怪物のうろつく危険な迷宮区画に存在するため発見も踏破も困難だが、一度誰かが突破して上層の都市に辿り着けばそこと下層の各都市の〈転移門〉が連結されるため誰もが自由に移動できるようになる。
そのようにしてこの巨城は、二年の長きに渡ってゆっくりと攻略されてきた。現在の最前線は第74層。
城の名は〈アインクラッド〉。約四万もの人間を飲み込んで浮かびつづける剣と戦闘の世界。またの名を──
〈ソードアート・オンライン〉。
1
凄まじいスピードで飛んでくる苛烈な連撃を、俺は右手に握った剣でどうにか受け止め、弾き返した。
巨大なトカゲ人間型モンスター、〈リザードマンロード〉の装備した円月刀は斬撃に特化した剣で、刺突系の剣技はごく少ない。そのため防御にステップを使わずとも先読みさえ当たればパリィだけでしのぐことが可能だ。
無論、読みが外れれば、簡単な防具など物ともしないダメージを叩き込まれて地に這うことになる。だが、敵の技の出終わり時に距離ができてしまうステップ防御にくらべパリィならば反撃の開始速度を上げられる。俺はもう十分近く続く戦闘にわずかな焦りを感じていた。
視界の右端に表示されている自分のステータスバーをちらりと確認する。いままで強攻撃は受けていないものの、小さなダメージが積み重なってヒットポイントが七割ほどにまで減少している。
絶対に「死ぬ」──HPをゼロにするわけにはいかないこの世界では、バーが半分を割りこんでイエロー表示になった時点で、惨めに逃走するか、あるいは貴重な瞬間転移アイテムを使用してでも戦闘から離脱するのが常識だ。そう考えると残りHPにはそれほど余裕があるわけではない。
五連撃最後の右上段を弾くと、リザードマンロードは大きく体勢をくずした。すかさず右足を敵の中心にむかって踏み込み、がら空きの胴に中段斬りの一撃を叩き込む。敵の足元に表示されたHPバーががくんと減る。
俺の愛用している剣は、この世界ではもっとも一般的な武器である片手用の両刃直剣だ。威力も速度も突出したところはないが汎用的な扱いが可能で、戦闘のさまざまな局面から効果的な攻撃を繰り出すことができる。
中段が決まったあとはシステム的に不可避である小攻撃二連につないで敵の体力を削る。この先はCPUとの技の読み合いだ。俺の習得しているスキルによってあと二~三回の連続攻撃が可能だが、敵に技を予測され防御されてしまえば、避けがたい反撃を食らうことになる。
深追いを避けて、沈みこんだ姿勢から下段になぎ払いの最終撃を放つ。ガードの下をかいくぐった剣先がヒットして、敵の体勢が再び崩れる。水平四連撃技〈ホリゾンタルスクェア〉。与ダメージはそれほど大きくないが、すべて決まれば敵の反撃を潰してこちらにイニシアチブをもたらす優秀な技である。
俺は重心を下げた姿勢から剣を右に大きく引き、全身の体重と力を乗せた突きの強攻撃をリザードマンの分厚い胸板に打ち込んだ。鎧を貫通した剣先から飛び散る無数の火花。金属的な悲鳴。敵のHPバーが再び大きく減少する。イエローを通り越してニアデス状態のレッドで表示されているバーの長さは約一割、リザードマンロードのステータスデータから概算して残りHPの見当をつけ、俺はもう一度強攻撃のモーションを起こした。〈ヴォーパルストライク〉、片手直剣スキルに属する単発剣技の中でも与ダメージを重視した突き技だ。これが決まればこの戦闘も終わる――。
だが、俺の放った剣先は体勢を回復したリザードマンの左手に装備された円盾に阻まれた。鈍い金属音と火花のエフェクトを散らしながら剣が奴の右側に逸れていく。
しまった、決着を急ぎすぎた――。心の中で毒づく。
CPU相手に同じ技を二回繰り返したのはいかにも軽率、強攻撃を回避された俺は技後硬直時間を課せられ剣を戻すことができない。その隙を逃さずリザードマンは連続攻撃を開始。上段の切り下ろしが俺の身体にヒットする。重い衝撃。振動だけで痛みは無いが、HPバーが無慈悲な速度で減少する。その一撃を食らったところでようやく俺は体勢を回復させることに成功するが、まだ敵の連続技は終わっていない。
円月刀の上段中攻撃から始まる技には2つのバリエーションが存在する。ヒット率を重視した〈ダンス・マカブレ〉ならこの後は剣がそのまま中段に向けて斬り上がってくるし、ダメージ重視の〈ダブルムーン〉なら再び上段逆方向からの斬り降ろしとなる。どちらにせよ高速な技でこちらの反撃を差し挟む余裕はない。俺は今までの戦闘から敵のAIは手数重視タイプだと判断し、中段をパリィ防御すべく剣を備えた。
読みが的中。跳ね上がってきたシミターを俺の剣が弾く。だが敵の技が小攻撃だったため向こうも体勢を崩すには至らない。俺は中段にある剣をそのまま垂直に相手の上半身に斬り上げる。こちらの剣先が一瞬早くヒット。
そのまままっすぐ斬り降ろす。また斬り上げる。垂直四連撃〈バーチカルスクェア〉。小小中大とつながるその最終撃、真っ向正面の上段斬りが円盾をかすめて深々と敵の額に食い込んだ。しぶとく残っていたHPバーが音も無く消滅する。無慈悲な死の宣告。
断末魔の叫びとともに両手脚を広げたリザードマンロードの体が硬直し、刹那ののちに無数のきらめく小片となって砕け散った。ガラスの塊をすり潰すような、表現しがたい効果音を発しながらポリゴンのかけらが消滅してゆく。戦闘モードが解除され、視界から自分のHPバーが消える。
俺は振り下ろしたままの剣をゆっくりと戻した。モンスターの体液が付いているわけではないが、いつもの癖で剣を切り払うと背中に吊った鞘に収め、手近にあった岩の上に倒れるように座り込んだ。
ここはアインクラッド第74層の迷宮区域の一角だ。赤茶けた砂岩で組み上げられた長い回廊のちょうど中央辺り、索敵範囲内には今のところモンスターの反応はない。
74層ともなれば、先細りの城の構造ゆえに下部と比べてかなり狭くなってきているが、それでも直径は四キロメートルほどもあるだろう。転移門のある主街区はフロアの東端に位置し、そこからうっそうとした森を抜けて辿り着く迷宮区はいままでの例に漏れず、うんざりするほど広く、複雑だ。現在も百人ちかくが攻略に挑んでいるはずだが、今日はプレイヤーの姿を見かけることはなかった。
俺は昼過ぎに単独で迷宮区に潜り込み、マッピングしながらじわじわと奥に進んでいた。危険な最前線で経験値稼ぎをする気はさらさらなかったのでモンスターは可能な限りやり過ごし、トラップの可能性があるトレジャーボックスにも一切手を触れずにマジメな攻略に励んでいたのだが、袋小路で運悪く先刻のトカゲ男と遭遇してしまったのだった。
モンスターの種類は五フロアごとに入れ替わる。リザードマンロードとは71フロアで一度戦闘したことがあった。その時は奴の操るシミター系の剣技に瀕死寸前まで追い込まれ惨めな逃走を強いられたため、まる一日かけて情報屋の売るデータペーパーを熟読し、曲刀技のバリエーションを可能な限り頭に叩き込んでおいたのだ。その甲斐あってリベンジに成功した俺は久々の充足感を感じながら、左手を上げて空中で人差し指を軽く振った。
軽快な効果音と共に、手の平の下に半透明の主メニューウインドウが表示される。左半分には人型のシルエットが描かれ、各所の装備状況が表示されている。右には所持アイテム詳細や習得スキル一覧、マップ表示などのメニューが並ぶ。最上部には俺の名前とHPバー、EXPバー。強敵のトカゲ男を単独で撃破したため、経験値の量がかなり増加している。
俺はアイテム画面に切り替え、新規入手品リストを確認した。たった今倒したリザードマンから得たアイテム類と金──この世界では〈コル〉なる単位で表記される──が列記されている。アイテムは、奴が装備していた三日月剣と金属鎧だ。売れば、今日稼いだ金と併せて装備のフルメンテ代くらいにはなるだろう。
迷宮区を構成する巨大な搭を出ると、すでに周囲は夕刻の色彩を帯びはじめていた。目の前に広がる金色の草原と、その彼方に見える木々の梢をおだやかに揺らす風は少し冷たい。
俺は革と金属で出来たヘッドギアを外し、空を振り仰いだ。空と言っても、見えるのは上層部の底を形成する石と鉄の組み合わさった巨大な蓋だ。そこまでの距離、言い換えればこの城の層ひとつの高さは約百メートル。城全体としては十キロメートルを超えると言われる。つまり〈アインクラッド〉は、直径一万メートルの基部から高さ同じく一万メートルのほぼ円錐形をした構造物が屹立した途方もない巨大浮遊城なわけだ。
開発した会社の規模をさっぴいても、これだけのデータ量を内包する代物が三年たらずでプログラムされたのは狂気の沙汰だ。いや――修辞でなく狂気のなせる業だったのだ。ある一人の男の暴走した脳が、この世界を生み出し、ゲームであってゲームでないものへと変容させてしまった。
俺は自分の手をまじまじと眺めた。指貫きの革製グローブに包まれた手は、普段の生活では違和感を抱かないほどにはリアルであり、この世界がサーバーの中に構築されたデータの集合体なのだということを忘れさせない程度に作り物めいている。
このような思考に囚われるのは危険だ。ここで生きるために必要な現実感を喪失してしまう。だが、俺の意識はいやおうなくあの日に向って遡りはじめていた。
すべてが終わり、そして始まった日へと。
2
直接神経結合環境システム――NERv Direct Linkage Environment System、頭文字を取ってNERDLESと呼ばれる――の試作第一号機が日本のとある企業と大学の合同研究機関から産声を上げたのは二〇〇六年のことだった。
それまで、HMDとヘッドフォン、データグローブの組み合わせによるシステムが主流だった仮想現実系エンタテイメント市場が、この映像その他の信号を直接人間の脳に送り込む新技術によって席巻されるのは確実と思われた。数多の企業が共同研究に名乗りを上げ、最初は部屋ひとつ分もの体積があったNERDLES一号機が冷蔵庫程度の大きさの本体にまでダウンサイズされるのに二年。その翌年には早くも業務用の機械が発売された。さすがに恐ろしく高価な代物であり、アミューズメントセンターやリラクゼーション施設の一部に導入されたのみだったが。
NERDLESが提供する圧倒的な現実感、HMDや全方位型スクリーンなどものともしないリアリティは全国のゲームマニアを熱狂させた。大手ゲームメーカーがリリースしたNERDLES上で動く初のゲーム――対戦型ガンシューティングだった――は数時間待ちがあたりまえ、ワンプレイ三千円(!)のシロモノだったにも関わらず、全国五箇所の設置店では連日長蛇の列ができた。かくいう俺も乏しい金をやりくりしては並んだものだ。
そして二〇十一年末、満を持して民生用一号機が共同開発した各メーカーから発表された。コンパクトなヘッドギアと、光ディスクドライブを装備したこれまた小さな本体とで構成されたそれは、無理をすれば若者でも買える程度の価格だった。初期出荷分は予約もおぼつかないほどの人気ぶりで、俺も入手するのには相当苦労した。〈ナーヴギア〉という商標名を与えられたそれが届いた日の興奮は今でもはっきり覚えている。
新品のエレクトロニクス機器特有の匂いを漂わせた流線型のヘッドギアは、光沢のあるダークブルーの外装に包まれていた。前部には装着時に顔を覆う遮光シールドが装備され、後頭部から延髄部を包み込むようなパッドが伸びている。両脇からは二本のアームが伸びて顎の下で固くロックされる構造になっている。
使用者は無理のない姿勢でリクライニングできる椅子に座り(専用のシートも同時発売されたがさすがに買えなかった)、ゲームディスクを挿入し必要に応じてWANに繋がれた本体に、光ケーブルで接続したギアを装着する。ヘルメット内部の、柔らかいパッドに埋め込まれたたくさんの素子が多重の電界を発生させ、使用者の脳の、五感を司るそれぞれの部位――詳しく言えば、触覚は延髄、味覚と聴覚は脳橋、視覚は視床、聴覚は脳幹――と精密なリンクを行う。本体から送り込まれる視覚や聴覚情報はそのリンクを通して脳に流れ込む。
感覚器官から得た情報を整理・再構築して処理したものが人間にとっての「現実の環境」であるとするなら、そういう意味ではギアの生み出す世界は使用者にとって現実そのものとなるわけだ。現実の「現実らしさ」、リアリティはまた別の問題であるが。
仮想世界内において、使用者はさまざなアクションを起こす。そのとき脳から発せられる運動信号のうち、体を能動的に動かすものだけを延髄部のパッドがインタラプトしてギア内部に取り込み、本体にフィードバックする。このようにしてプレイヤーは椅子の上で体を動かすことなく、仮想の世界で動き回ることが可能となる。
無論、現実の世界からの刺激はすべてギアがシャットアウトしてしまうため、専任のインストラクターがいない家庭での使用には危険がともなうと予想された。使用者は現実世界においては失神状態にあるのと同様であり、仮に肉体に火災等の危機が迫った場合でも使用者がそれに気づくすべがないからだ。そこでギアには、温度の変化や音、振動など一定量以上の外界刺激が与えられたり、または心拍、体温等の肉体的な異常を検出した場合(付け加えれば生理的排出現象をうながす信号が下半身から発せられた場合を含む)には自動的に接続を切り意識を回帰させるセーフティ機構が与えられた。
使用者が現実世界で最後に行う動作は、「リンク・スタート」と発声することだ。音ではなく、その発声のために脳が下した命令信号を感知してギアは動き出す。
シールドの下で閉じられているはずの眼の前にスペクトル状の光が弾け、やがて白に統一されたその中に荘厳な効果音とともにメーカーのロゴが浮かび上がる。ついで基本ソフトのロゴが表示され、その下で各種接続テストがリストアップされては右側に次々とOKの文字を残して消えてゆく。
それらが終了すると、LOADINGの表示と共にセットされたアプリケーションが読み込まれてゆき、最後にひときわ輝くSTARTの文字。同時に開始画面は中央から放射される白光の中に飲み込まれてゆき、その向こうから徐々に姿を現す仮想の――いや、もうひとつの現実の世界。ゲームフィールドに降り立ったプレイヤーは、もはや椅子の上に横たわる己の肉体を感じることはない。
本体に同梱されていたゲームソフトは単純な飛行レースゲームだったが、俺はその世界にいつまでも飽くことなく潜りつづけた。とうとう家族に強引に揺り起こされたとき、窓の外がすっかり暗くなっていたのには驚いたものだ。
民生用機器の発売と同時に、無数のアミューズメントタイトルが発表された。ナーヴギアの基本ソフトは非常に汎用性のあるもので、極論すればそれまで存在した3Dゲームですらちょっと手を加えるだけでギア上で動かすことができた。もっとも、ギア最大の売りであるリアリティを最大限に生かすためには従来より遥かに作りこまれたモデリングが必要だったため、プレイヤーの多くはナーヴギアネイティブに開発された家庭用ならではのソフトを待ち望んだ。ことにアミューズメントセンターでは運営の難しいRPG、それもネットワーク対応型のものを。
ナーヴギアのNERDLES環境で動くオンラインRPG、それこそまさに前世紀から多くのゲーマーが夢想した究極のロールプレイングゲームの姿だ。その市場は途方もない規模になると予想され、立て続けにいくつものタイトルがアナウンスされた。だが、フィールド限定型のアクションやシューティング系のゲームとは違い、RPGともなればその世界を構成するデータの量は膨大なものとなる。発売時期はどのタイトルも未定、雑誌やネットで発表される先行スクリーンショットにゲームマニアが煩悶とする日々が続いた。
二〇一二年春。あるゲームタイトルが発表され、即座にベータテストが開始されたことはファンの度肝を抜いた。開発したのは、かつて業務用NERDLESゲームで日本中のゲーマーを熱狂させた〈アーガス〉という大手メーカーだった。報道によれば、アーガスは業務用ゲームの開発が終了した直後から、まだ存在もしなかったコンシューマ機器用ゲームの開発を始めていたという。
それにしても、二年たらずの開発期間を経て姿を現したそのゲームの規模は途方もないものだった。舞台は、空に浮遊する巨大な城。プレイヤーはそこで戦士や職人となって、協力や敵対をしながら最上部を目指す。RPGには必須と思われていた〈魔法〉の要素は大胆に排除されていた。ゲームの主役は無数とも思えるほどに設定されたさまざまな種類の刀剣と、それらに与えられた剣術体系だった。戦士を目指すプレイヤーはひとつの武器を選び、それを修練することによってさまざまな剣技を習得してゆく。職人プレイヤーは鍛冶、冶金の技を鍛えて剣を生み出し、商人プレイヤーがそれを流通させる。
そのゲーム内容は、タイトル名に如実に表現されていた。曰く――〈ソードアート・オンライン〉。剣の技がプレイヤーの人格を象徴する世界。
SAOの世界観と、偏執的なまでに造り込まれた巨城の壮観はたちまちゲーマーの話題をさらった。千人限定のベータテスター募集には応募が殺到し、抽選は百倍を超える狭き門となった。濃紺の巨大なプラスティック・パッケージに包まれたベータキットが宅配便で届いた日は、人生最良の一日かと思えたものだ。
半年に及んだテスト期間は夢幻のごとき日々だった。俺は学校から帰ると取るものもとりあえずSAOにログインし、我ながら呆れるほどの熱意で剣技の習得に打ち込んだ。
ゲーム内では、自分の思うとおりに五体を動かすことができる。現実世界で剣道の達人ででもあれば、あるいはSAOの中でも強力な剣士となれるのかもしれない。だがもちろん、俺を含めたほとんどのプレイヤーは救いがたいゲームマニアであり、剣の振り方など知るよしもない。
しかし、SAO内で会得した剣技に沿った動きであれば、ゲームシステムがそれを支援、加速してくれるため、プレイヤーは技の動きをイメージしながらモーションを起こすだけで剣を自在に操り、華麗な動きで攻撃することができる。最上位剣技ともなれば十連撃に及ぶまさに芸術と言うべき美しい技の数々を、自分の体がなめらかに動きながらすさまじいスピードで繰り出し、敵の体に吸い込まれるようにヒットさせてゆくときの快感は筆舌に尽くしがたい。
考えてみれば派手な魔法攻撃はシューティングやアクション系のゲームと被る要素が多い。「プレイヤー自身の肉体をデータ化できる」というナーヴギア最大の特徴をもっともよく活かし、超人願望を充足させるという意味では、SAOの剣技に特化したシステムは実にうまく考えられた代物だと言える。テスト期間が終了し、自分のキャラクターデータが消滅したときはまるで体の半分を奪われたような気がしたものだ。
結局、千人のプレイヤーが半年がかりで攻略できたのはたった十層足らずだった。オンラインRPGには明確なクリア目標がないのが普通だったため、アインクラッドの最上階を目指す、という設定には驚かされたがなるほどこの難易度とボリュームなら、と納得したのを覚えている。
二〇一二年十一月最初の日曜日。大きなバグを出すこともなく半年間のベータテストが終了し、満を持して〈ソードアート・オンライン〉は発売された。回線の安定を最優先して第一期出荷分は五万本に限定され、ベータテストの時ほどではないにせよ再び発売前からの争奪戦が過熱したが、サービスのいいことに希望する元テスターには無償で製品版ソフトとアクセスIDが与えられた。無論、俺を含むほとんどすべてのテスターがその恩恵に与ったはずだ。
発売日の正午ちょうどにアーガス本社に設置されたゲームサーバーが正式運営を開始することになっていた。秋葉原で開かれた大掛かりなイベントでは巨大なスクリーンにゲーム内部の様子がリアルタイムで映し出され、現実世界と同時進行のセレモニーが開催される予定だった。数年前にオープンした駅前のITセンターを借り切って行われたそのイベントには、アーガスの社長やナーヴギア発売各社の重役陣、都の役人にいたるお歴々が出席し、マスコミはカメラの砲列をステージとその後ろのスクリーンに向けてカウントダウンを今や遅しと待っていた。
その日、俺は自室で即席のナーヴギア専用シートにもたれてその様子をギリギリまでテレビで眺め、昼食のピザの最後のひとかけらを飲み込むと、興奮を抑えながらギアを装着した。プラスティック越しにかすかに届くイベント司会者の声を聞きながら、俺は言った。リンク・スタート――現実世界の重力を消し去る魔法の言葉。ギアから発せられた電界が俺の意識を包み、肉体から解き放つ。
正午少し前、五万人の幸運なプレイヤーは各々の自宅から一斉にアクセスし、現実世界を飛び出して巨城アインクラッドへと降り立った。
アインクラッド第1層、通称基部フロアと呼ばれる直径十キロメートルの広大な空間の北端に、ゲームのスタート地点となる〈はじまりの街〉がある。街の中央には巨大な時計塔がそびえ立っている。SAO内では現実世界と同期して時間が経過するため、時計の表示する時間は東京の標準時間とまったく同じということになる。時計塔の周囲は中国の天安門もかくやという石畳の広場で、五万のプレイヤーはほぼ同時にそこに出現することになっていた。
光の世界を突き抜けて、前方からテスト中に見慣れた〈はじまりの街〉の風景が広がり、初期装備のブーツの靴底が石畳のリアルな感触を捉えた――と思った次の瞬間、俺はひと月ぶりのアインクラッドに降り立っていた。まず自分の格好を見下ろして、登録時に選択してあったとおりの革製のロングコート姿であるのを確認する。続いて周囲に続々と出現しつづけている他のプレイヤーの顔を見渡し――そして心の底からぎょっとした。
プレイヤーは、SAOのアカウント登録時に初期のキャラクターメイキングも済ませている。キャラクターの性別はプレイヤーのそれと変えることはできないが、体格や容貌は複雑なパラメータを操作することで自由に決定することができる。そうなればすこしでも見栄えのいいものを、と考えるのが人間の常であり、ベータテスト中はそれはもうありとあらゆるタイプの――恥ずかしながら俺を含む――美男美女で溢れたものだ。当然製品版でもその状況は再現されるものと思っていたのだが――。
周囲の人間の容姿は、その雑多なバリエーション、そして何より美形顔がろくに見当たらないという点において現実世界とまったく一緒だった。絶望的なまでの既視感。間違いなくそれはゲームマニアの大集団だった。眼球に頼らないギアのシステムゆえ眼鏡をかけている者こそごく少ないが――つまり初期装備で選択した者だ――、これはどう考えても……。
俺はあわてて腰に装備されたポーチの中をまさぐった。スタートキットと呼ばれる一連の道具の中から、無骨な金属製の鏡を引っ張り出す。おそるおそる覗き込むと、そこには予想したとおりの見慣れた顔があった。見紛うはずもない現実世界の俺だ。登録時に四苦八苦しながらパラメータをいじくってつくりだした御面相とは似ても似つかない。いや、顔だけではない。俺はベータの時の経験から、動きの違和感を少なくするために身長は現実と同じ高さに設定してあるが、当時の分身が持っていたしなやかかつ逞しい筋肉などかけらもない。
これはどういうことだ――!? 俺は混乱した頭で必死に考えた。見れば、他ののプレイヤー達も続々と鏡を睨んだり周囲を見回して呆然としている。アカウント登録時に写真提出の義務はなかった。仮にあったとしても、五万人分の顔を3Dオブジェクトで再現する時間など到底なかったはずだ。唯一考えられるとすれば、ギアの発生する多重電界――あれには、使用者の脳の形状を正確に把握するための立体スキャン機能があった。それを使って顔のつくりや体格をスキャンし、再現した――? しかし、何のために? これは明らかなサービス提供契約違反ではないか。
そこまで考えたとき、重々しい金属音を響かせながら時計塔の巨大な二本の針がきっちりと重なった。正午、SAO正式運用開始の時刻だ。文字盤の下に設置された大小多くの鐘が壮麗な和音を奏ではじめ、同時にどこからともなく鳴り響くファンファーレ。いかにもRPGのオープニング然としたその重厚な旋律に、皆の顔が戸惑いながらも明るく輝いた。
広場の上空は無論青空ではなく上層部の底で覆われていたが、そのグレイをバックにSAOの凝ったタイトルロゴが光り輝きながら出現した。ロゴの周囲を派手なエフェクトの花火が彩る。周囲から湧き上がる歓声と拍手。とりあえず目先の疑問は先送りし、俺も両手を叩いた。この光景は、現実世界のイベント会場でも中継されているはずだ。 花火のエフェクトが終わると、ロゴの下部にこれまた輝く飾り文字で「Welcome to Sword Art Online World!!」というメッセージが表示された。一際高まる歓声。
不意にBGMと鐘の音がフェードアウトした。巨大なタイトルロゴが無数の光の粒となって消滅し、その中から新たなオブジェクトが姿を現した。ロゴと同じくらいの大きさで天を埋め尽くしたそれは、半透明の光で表現された人の顔だった。
これもオープニングセレモニーの演出の一部と誰もが思い、再び拍手が巻き起こった。だが、俺は打ち合わせようとした両手を途中で凍りつかせた。まだ若い男の顔。両の頬は削いだように薄く、半眼に閉じた切れ長の目の奥から表情をうかがわせぬ瞳が覗いている。
俺はその顔を知っていた。いや、俺だけではない。ほとんど全てのプレイヤーが知っていただろう。
アーガスSAO開発部長。ゲーム業界の風雲児。若き天才。彼を形容する言葉は両手の指でも足りない。つまり、このSAOをほとんど一人で企画し、開発した人物。茅場晶彦というのがその顔の持ち主の名前だった。
彼は、当時のゲーム業界最大のカリスマと呼ばれていた男だった。中学生の時に作成したゲームプログラムが大手メーカーから商品化されて大ヒットしたことにその伝説は端を発する。十八歳にして株式会社アーガスの開発陣に加わるや立て続けにリリースしたゲームはすべてそれまでの常識を打ち破る発想で世界中を熱狂させ、弱小メーカーだったアーガスを業界トップに押し上げる原動力となった。SAO発売時には弱冠二十六歳、大のマスコミ嫌いでも知られた彼は業界の生ける伝説と言ってもよい存在だった。ゲームマニアとして彼に傾倒していた俺は、その人となりをよく知っているつもりだった。だから、そのときも断言できた。茅場晶彦は、こんなセレモニーにこんな演出で顔を出す人物ではない。これはなにかの間違いだ。
その時、巨大なクリスタルの茅場の顔がゆっくりと口を開いた。歓声は波を打つように静まり返り、すべてのプレイヤーが彼の言葉を聞こうと耳を澄ませた。
ながい、ながい悪夢のはじまりだった。
3
茅場の顔は、どこか非人間的な響きのある音声でゆっくりと告げた。
「プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ」
私の世界――。その言葉を聞いたとき俺の全身を凍るような悪寒が包み込んだ。なにかがどうしようもなく間違っている、そんな予感。
『最初に言っておく。諸君らが今存在している世界は最早単なるゲームではない。諸君らにとっての、唯一の現実だ」
朗々とした、しかし金属質な茅場の声が福音のごとく響き渡った。その時点では、大多数のプレイヤーはまだ異常を感じていなかったのだろう。茅場の大仰な台詞にふたたび歓声が湧き起こった。だが、それも次の言葉で凍りついた。
「残念ながら諸君らは二度とログアウトできない」
なにを言われたのか理解できなかった。
そんな馬鹿なことがあるものか。俺は慣れた手つきでメニュー画面を呼び出した。左半分に装備フィギュア。右半分に各コマンド。その一番下に見慣れた〈ログアウト〉のボタンが――無かった。
一瞬頭のなかが空白になったあと、俺はそのあまりにも単純な事実に思わず笑い出しそうになった。ログアウトボタンがない。たったそれだけのことで――自発的ログアウト、つまり現実世界への復帰が本当にできないのだ。全身の血液が急速に冷えるような感覚を味わいながら、俺は必死にベータテストを思い出そうとした。緊急ログアウトが発生するのは……サーバーのトラブルで、SAOシステム側から落とされたとき。もしくはナーヴギアが外部的、身体的異常を感知して接続を強制切断したとき。それだけだ。自分からSAOを「落ちる」には、メニューを開いてログアウトボタンに触れる。それ以外に方法はない。なにひとつ。自分の体は、慣れ親しんだ自分の部屋でただ横になっているだけなのに、そこに戻る方法がない……。
呆然と立ち尽くした俺の頭上で茅場の声が続いた。
「付け加えれば、ゲームサーバーあるいはナーヴギアからの強制切断が起こった場合でも諸君らは現実世界に復帰することができない。その場合は正常な意識回復シークエンスが発生しないようにプログラムを組んである。回線切断後二十四時間以内に再接続すれば諸君らの意識はこの世界に戻ることができるが、それ以外の場合は――」
茅場は俺たちに次の言葉を刻み込むように一瞬の間を置いた。
「諸君らの意識は永遠に消失し、肉体は植物状態となる」
ここにきて、ようやく全てのプレイヤーが、何か予定外の、容易ならざる事態が起こりつつあるのだと気づいたようだった。五万人を飲み込んだ時計塔広場はしんとした静寂に包まれた。誰もが状況を理解できずにいた。
回線切断イコール意識消失だと!? そんな馬鹿な話があるものか。俺は混乱した頭で必死に考えた。意識回復シークエンスとはなんだ? つまり、ナーヴギアから解放されて意識が現実の肉体に戻るためには、単純にギアの電源を落として頭からむしり取るだけではだめだということなのか?
ギア使用者の脳は多重電界によってピンポイントで現実世界の信号パルスから切り離され、かわりに仮想世界の情報を与えられている。その状態を解除し、正常な五感からの入力を取り戻すには何らかの電気的な手順が必要だということだろうか。それを無視すれば――脳に損傷が……?
冗談ではない。停電でも起きたらどうするのだ!? と一瞬かっとしかけたが、その場合はなんらかのセーフティが働くのだろうと思い当たった。ギア内部のコンデンサーに電力を蓄えておき、停電やあご下のロックが外れたときは余力でシークエンスとやらを遂行すればいいわけだ。茅場のプログラムはその機構をハックし、無力化するのだろう。そもそもナーヴギア開発にも茅場は深く関わっているはずだ。そんな細工はお手の物ということか――。
俺が絶望的な想像を巡らしているうちにも、周囲のプレイヤーがざわつきはじめていた。ログアウトボタンの無いことに気付いた一部の者が騒ぎだしたのだ。そんな中、まるで託宣のような茅場の言葉が再開された。
「諸君がこのアインクラッドから脱出する方法はただ一つ――」
皆が押し黙り、固唾を飲んで次の言葉を待った。俺は、なんとなくその条件とやらを察していた。
「誰か一人が最上階に達し、このゲームをクリアすればよい」
思考がロックした俺の頭を、答えの無い計算がぐるぐると渦巻いた。 千人で十層を突破するのに半年かかった。五万人で百層なら――?
茅場の声は容赦なく続いた。
「誰か一人でもクリア者が出た時点でゲームは終了し、生き残ったプレイヤー全員が順次正常にログアウトされるだろう。最後に、マニュアルから二点変更になった部分を伝えておく。まず、もう気づいているだろうがメニューからログアウトコマンドが削除されている。諸君らが自発的にログアウトする方法は一切存在しない。そしてもうひとつ――」
仮想世界の賢者然とした茅場の顔は何ら表情を変えることなく、その先を告げた。
「ゲーム内での死亡はすべて実際の死として扱われる。蘇生等の救済措置は一切無い。HPがゼロになった時点でプレイヤーの意識はこの世界から消え、現実の肉体に戻ることは永遠になくなる。厳密に言えば脳死状態で、完全な死亡とは言えないが――そう大した差はあるまい」
テストプレイの時は、HPがゼロになった者は強制的にはじまりの街の〈黒鉄宮〉と呼ばれる施設に転送され、ペナルティとしてその時点の蓄積経験値を失い、さらに装備のうちからランダムに数個を死亡地点に残してしまうという仕様になっていた。それだけでも実際のところ相当キツかった。レベルアップ直前に死んだりしたら、黒鉄宮の冷たくだだっぴろい金属床の上で悔恨にのたうちまわったものだ。しかし――。
死? 意識の消滅?
その意味を咀嚼するのに数秒かかった。ゲームオーバーすなわち現実の死。ペナルティどころの騒ぎではない。トライ&エラーを許さないRPG……そんなゲームがあってたまるか。それは、つまり――デスゲームじゃないか。前世紀からあまたの小説や漫画、映画で扱われてきたおなじみの素材。俺の脳裏を、好きだったデスゲーム物のタイトルが泡のように浮かんでは消えた。いいかげんしゃぶりつくされてここ数年では見かけもしなかったネタと、こんな形で再会することになるとは。
デスゲーム。その言葉が浮かぶと同時に、俺の脳は妙に冷めていった。意識がようやく切り替わったとでも言うのか。落ち着け。落ち着いて考えろ――俺が自分にそう言い聞かせているとき、間を置いていた茅場の口がふたたび開いた。
「それから、これは現実世界の関係諸氏に告げておくが――」
半透明の巨大な水晶のような茅場の瞳が、まぶたの下でわずかに動き、焦点を移した。多分その方向に、例のイベント・スクリーンのカメラ視点が設定してあったのだろう。
「もしSAOゲームサーバーを一時間以上停止すれば、全プレイヤーが一生植物状態となるだろう。さらに、このプログラムには私の最高傑作と言っていいプロテクトが施してある。解除を試みるのは自由だが、もしシステムに検知されればその時も同様の結果が待っていることをお忘れなく。私の行方を探してもいけない。五万の若者諸君の未来と引き換えにする覚悟があるなら結構だが――」
イベント会場の混乱が思いやられるようだった。俺はふと、こっちからも会場の様子が見られればよかったのに、などとのんきな事を考えた。
「そしてこれは政府当局への助言だが、早急にプレイヤー諸君の現実の肉体を保護する手段を講じることをお勧めする。私としてもこのゲームがクリアされるのにどれほどの時間が必要なのか見当もつかない。回線切断猶予は二十四時間であることをお忘れなく。私の資産はすべて現金化してあるので、必要に応じて使ってくれたまえ――」
そこで茅場は不意に言葉を切り、誰かの声に耳を傾けているかのような気配を見せたが、数秒後、一つまばたきすると再び口を開いた。
「なぜ――。なぜ、か」
そこではじめて、上空に神聖なモニュメントのごとく顕現していたクリスタルのマスクが人間らしい表情を見せた。うすい唇がゆがめられた。欲しかった玩具を盗み出した子供のような笑み。
「私にとってこの状況は手段ではない。最終的な目的だ。この世界を作り出すためだけに私は――」
そこで言葉を切ると、茅場の顔はもとの陰鬱さを取り戻した。視線が再びこちらに向けられた。
「以上でソードアート・オンラインのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の――健闘を祈る」
半透明の光で描かれていた巨大な顔が、一瞬にして無数の星となって弾けた。茅場の姿はもうどこにも存在しなかった。光の残滓がきらきらと舞い散りながら消えていった。
聞き覚えのある音楽がどこからともなくフェードインしてきた。はじまりの街のBGMとして設定してある陽気なワルツだ。奏でているのはメイン商業区にいるNPCの楽団だが、音楽は街のどこにいてもかすかに聞こえるようになっている。気付くといつのまにか時計塔広場のまわりでは商人や住民のNPCがせわしげに歩きまわり、物売りの賑やかな声が広場に響いていた。職工街のあたりからはもうもうとした蒸気がいく筋もたちのぼり、剣を鍛える槌音がBGMに花を添えた。
ゲームが始まっていた。戻ることを切望した場所に俺はふたたび立っていた。いくつかのルールだけが以前とはどうしようもなく異なってはいたが。
五万のプレイヤーの反応はほぼ一様だった。みなおずおずと周囲の者と会話を始めていた。「どういうこと?」「これって何かのイベント?」……そんな声が聞こえてきた。
俺は立ち尽くしたままぎゅっと目を閉じ、最終確認だ、とでもいうように自分に言い聞かせた。これは現実だ。ここからログアウトすることはできない。死んだら、死ぬ。
周囲の人間のように、何かタチの悪いドッキリだ、などとは残念ながら思えなかった。俺は少なくともその程度には茅場晶彦のことを知っているつもりだった。茅場は本物の天才だ。その上冗談を言わない男だ。なお悪いことに、俺はどこかで深く納得してもいたのだ。あの茅場なら――これくらいのことはやる。やってもおかしくない。そう思わせる危うい破滅的な天才性が茅場の魅力でもあったのだから。
俺はその前提を苦労して噛み砕き、飲み込んで腹に収めると、ゲーマーとしての思考法にアタマを切り替えた。リアルタイムのオンラインRPGでもっとも必要な資質は状況判断力だ。現在の状況を分析し、とりうるオプションをすべて列挙し、それぞれの結果を予測する。最善と思うオプションを選択したら迷うことなくそれを遂行する。それのできる奴だけが、ベータテストで一握りの最強剣士の座につけたのだ。
座り込み、意見交換に熱中しているプレイヤーたちの間を縫うように俺は走り出した。無論、錯綜してあさっての方角に走ったわけではない。初期アイテムに含まれる千コルで、必要な装備を整えるために市場へ向ったのだ。気付けば、俺のほかにも走り出した連中が何人かいた。仮想世界での動きに慣れた身のこなしを見るかぎりほとんどがベータ経験者だろうと思えた。
予想された状況の中で少しでも生き延びる確率を上げる為には、限りあるリソースを全力で確保し、己を強化しなければならなかった。俺は走った。走りながら頭の中で、今後どのようなスキルを選択し、どのようにステータスを上げるのがベストなのか必死に考えた。幸い俺にはベータ期間中に蓄えた知識があった。広大なはじまりの街にある3つの大きな市場の、どこにどんな店があり何を安く売っているか――その程度の情報ですらとてつもなく貴重な武器だった。ともすれば暗い方向に彷徨いだしそうになる思考を無理やりブロックして、俺は走った。
4
ゲーム開始一ヶ月で五千人が死んだ。
この世界から出られないと知ったときの皆のパニックは狂乱の一言に尽きた。わめく者、泣き出す者、中にはゲーム世界を破壊すると言って街の石畳を掘り返そうとする者までいた。無論街はすべて破壊不能オブジェクトで、その試みは徒労に終わったのだが。どうにか皆が現状を納得し、それぞれに今後の方針を考え始めるまでに数日を要したと思う。
プレイヤーは、当初大きく四つのグループに分かれた。
まず、これが約七割を占めたのだが、茅場の託宣を信じず外部からの救助を待った者たちだ。気持ちは痛いほどよくわかった。自分の肉体は、現実には椅子の上でのんびりと横たわり生きて、呼吸している。それが本当の自分であり、この状況は何と言うか「仮」のもので、ちょっとしたはずみ、ささいなきっかけで向こうに戻れるはずだ。確かにメニューからログアウトはできないが、内部で何か見落としたことに気付けば――。
あるいは、外部では今必死にアーガスが、そして国がプレイヤーを救おうと最大限の努力をしているだろう。いかに茅場が天才でも、この五万人拉致監禁という最大級の「事件」に対して組織されたであろう救出チームがプロテクトの一つや二つ破れぬわけはない。あわてずに待っていればある日ふと自分の部屋に戻り、家族と感動の対面を果し、学校では英雄の生還を皆が称える。
そう思うのも本当に無理はなかった。俺自身内心の何割かではそう期待していたのだ。彼らの取った行動は基本的に「待機」。はじまりの街からは一歩も出ず、初期の千コルを僅かずつ使って日々の食糧を買い求め、安い宿屋で寝泊りし、何人かのグループを作って漠然と日々を過ごしていた。幸いはじまりの街は基部フロアの面積の約三割を占め、東京の小さな区ひとつほどの威容を誇っていたため数万人のプレイヤーがそれほど窮屈な思いをせず暮らせるだけのキャパシティがあった。
だが、助けの手はいつまで待っても届かなかった。何度目覚めても最初に目にする光景は、常に青空ではなく陰鬱な色彩の天空の蓋だった。初期資金も永遠に保つわけもなく、やがて彼らも何らかの行動を起こさざるを得なくなった。
二つ目のグループは全体の約二割。一万人ほどのプレイヤーが属したのが、協力して前向きにゲームクリアを目指そうという集団だった。リーダーとなったのは、日本国内でも最大級のネットゲーム情報サイトの管理者だった男だ。彼のもと、プレイヤーはいくつかの集団にわけられて獲得したアイテム等を共同管理し、情報を集め、上層への階段がある迷宮区の攻略に乗り出した。リーダーのグループははじまりの街の、時計塔広場に面した〈王宮〉と呼ばれる――と言っても王様などは存在せず、NPCのガーディアンがうろつくだけの場所だったが――大きな建築物を占拠し、物資を蓄積してあれやこれやと配下のプレイヤー集団に指示を飛ばしていた。この巨大集団にはしばらく名は無かったが、全員に共通の制服が支給されるようになってからは、誰が呼び始めたか〈軍〉という笑えない呼称が与えられた。
三つ目は、これは推定で三千人ほどが属したのだが、初期に無計画な浪費でコルを使い果たし、さりとてモンスターと戦ってまっとうに稼ぐ気も起こさず、食い詰めた者達だ。
ちなみに、データの仮想世界であるSAO内部でも厳然と起こる生理的欲求が二つある。睡眠欲と食欲だ。
睡眠欲は、これは存在するのも納得が行く。脳は与えられている外界情報が現実世界のものなのか仮想世界のものなのかなどということは意識していないだろうから。プレイヤーは眠くなれば街の宿屋へ行き、懐具合に応じた部屋を借りてベッドに潜り込むことになる。莫大なコルを稼げば、好みの街で自分専用の部屋を買うこともできるが、おいそれと貯まる額ではない。
食欲に関しては、多くのプレイヤーを不思議がらせた。現実の肉体が置かれた状況など想像したくもないが、多分点滴なりチューブ挿入なりで栄養を与えられているのだろう。つまり、空腹感を感じてこちらで食事をしたとしても、それで現実の肉体の胃に食い物が入るわけはない。だが、実際にはゲーム内で物を食うと空腹感は消滅し、満腹感が発生する。このへんのメカニズムはもう脳の専門家にでも聞いてもらうしかない。
逆に言えば、一度感じた空腹感は食わないかぎり消えることはない。多分、食わなくても死ぬことはないのだろうと思う。しかしやはりそれが耐えがたい欲求であることに変りは無く、我々は毎日NPCが経営するレストラン(癪なことにこれも値段によって格付けが存在する)に突撃してはデータの食い物を胃に詰め込むことになる。蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない。現実世界でのことは、食う方面よりも更に考えたくない。
さて、話を戻すと――。
初期に金を使い果たして、寝るはともかく食うに困ったもの達のうち大半は、例の共同攻略グループこと〈軍〉にいやおうなく参加することになった。上の指示に従っていれば少なくとも食い物は支給されたからだ。
だが、どこの世界にも協調性など薬にしたくもないという人々が存在する。はなからグループに属するのをよしとしなかった、あるいは問題を起こして放逐された者達は、はじまりの街のスラム地区を根城にして強盗に手を染めるようになった。
街の中そのものはシステム的に保護されており、プレイヤーは他のプレイヤーに一切危害を加えることはできない。だが街の外はその限りではない。はぐれ者たちははぐれ者たちで徒党を組み、モンスターよりもある意味旨みがあり、危険の少ない獲物であるプレイヤーを街の外のフィールドや迷宮区で待ち伏せして襲うようになったのだ。
とはいえさすがの彼らも「殺し」まではしなかった――少なくとも最初の一年は。このグループはじわじわと増加し、ゲーム開始一ヶ月で先に述べたとおり三千人に達したと推定されていた。
最後に、四つ目のグループは簡単に言ってその他の者たちだ。
攻略を目指すとしても巨大グループには属さなかったプレイヤーたちの作った小集団がおよそ百、人数にして二千。その集団は〈ギルド〉と呼ばれ、彼らは軍にはないフットワークの良さを活かして堅実な攻略と戦力増強を行っていた。
さらに、ごく少数の職人、商人クラスを選択した者たち。五万のプレイヤー中一割にも満たない四千人程度の数だったが、独自のギルドを組織して、当面の生活に必要なコルを稼ぐため徐々にではあるがスキルの修行を開始していた。
のこる千人たらずが、俺もそこに属したわけだが――〈ソロプレイヤー〉と呼ばれた者達だ。グループに属さず、単独での行動が自己の強化、ひいては生き残りにもっとも有効であると判断した利己主義者たち。そのほとんどがベータテスト経験者だった。知識を生かしたスタートダッシュによって短期間でレベルを上げ、単独でモンスターや強盗たちに対抗する力を得てしまった後は、正直に言って他のプレイヤーと共闘するメリットはほとんどなかったのだ。ベータテスター同士でギルドを作った例もあったが、一般プレイヤーから隔絶しているという点ではソロと一緒だった。
貴重な知識を独占し、猛烈なスピードでレベルアップしてゆくソロプレイヤーとそれ以外の者達との間には深刻な確執が発生した。ゲームがある程度落ち着いてからは、ソロプレイヤーは皆はじまりの街を出て、より上層の街を根城にするようになっていった。
黒鉄宮の、もとは〈蘇生者の間〉であったところには、ベータテストの時には存在しなかった金属製の巨大な碑が設置され、その表面には五万人のプレイヤー全ての名前が刻印されていた。なんとも有難い配慮で、死亡した者の名の上にはわかりやすく横線が刻まれ、横に詳細な死亡時刻と場所、死亡原因が記されるというシステムだ。
最初に打ち消し線を戴く栄誉を手にする者があらわれたのは、ゲーム開始わずか3時間後のことだった。死因はモンスターとの戦闘ではなかった。自殺である。
ナーヴギアの構造上、ゲームシステムから切り離された者は自動的に意識を回復するはずだ、という持論を展開したその男は、はじまりの街の北端、つまりアインクラッドそのものの最外周を構成する展望テラスの高い柵を乗り越えて身を躍らせた。浮遊城アインクラッドの下には、どんなに目を凝らしても陸地等を見ることは出来ず、ただどこまでも続く空と幾重にも連なる白い雲が存在するだけだ。たくさんのギャラリーがテラスから身を乗り出して見守る中、絶叫の尾を引きながら男の姿はみるみる小さくなり、やがて雲間に消えていった。
男の名前の上に簡潔かつ無慈悲な横線が刻み込まれたのは、それから二分後のことだった。二分のあいだに彼が何を体験したのかは想像もしたくない。実際に男が現実世界に復帰できたのか、それとも茅場の言葉どおり意識消失という結果を招いたのかはゲーム内部からでは知る術がないのだ。ただ、そのように手軽な手段でここから脱出できたのなら、すぐに全員が外部から回線切断・救出されていてよいはずだ、というのがほとんどのプレイヤーの共通する見解だった。
それでも、男がゲーム世界から消えたあともこの単純な決着の誘惑に身を任せる者は散発的に出現した。俺を含めたほとんど全てのプレイヤーは、SAO内での「死」に実感を持つ事がどうしても出来なかった。それは現在でも変らないだろう。HPがゼロになり、体を構成するポリゴンが消滅するその現象はあまりにも俺達が慣れ親しんだ、いわゆるゲームオーバーに近似しすぎていた。多分、SAOにおける死の意味を本当に悟るには実際に体験する以外の方法は無いのだろうと思う。その希薄感が、プレイヤーの減少に拍車をかける一因となったのは確かだろう。
さて、〈軍〉やそれ以外の集団に属したプレイヤー、特に待機組に属した者たちが遅まきながらゲームの攻略を開始するにつれて、やはりモンスターとの戦闘で命を落とす者も現れはじめた。
SAOでの戦闘には、多少の勘と慣れが必要となる。自分で無理に動こうとせずシステムのサポートに「乗っかる」のがコツと言えるだろうか。
例えば、単純な片手剣上段斬りでも、〈片手直剣スキル〉を習得して剣技リストに〈上段斬り〉を備えた者が、その技をイメージしながら初期モーションを起こせば後はシステムがほぼオートでプレイヤーの身体を動かしてくれるのに対し、スキルの無い者が無理やり動きを真似ようとしても振りは遅いわ攻撃力は低いわでおおよそ実戦で使えるシロモノにはならない。つまりある意味では格闘ゲームでコマンドを出すのに似ていると言える。
が、それに馴染めない者たちは握った剣をやたらと振り回すばかりで、初期状態で習得できる基本の単発技を出していれば勝てるはずのゴブリンやスケルトンと言った下等なモンスターに遅れをとる結果となった。それでも、HPがある程度減った時点で戦闘に見切りをつけて離脱・逃亡していれば、死という結果を招くことはなかったはずなのだが――。
スクリーンを通してグラフィックの敵を攻撃するのと違い、SAOでの戦闘はその圧倒的なリアリティゆえに原始的な恐怖を呼び起こす。どう見ても本物としか思えないモンスターが凶悪な武器を振り回して自分を殺そうと襲ってくるのだ。ベータの時ですら戦闘でパニックを起こす者がいたというのに、現実の死が待っているとなればなおさらだ。恐慌に陥ったプレイヤーは、技を出すことも逃げることすらも忘れ、HPをあっけなくゼロにしてしまいこの世界から永遠に退場することとなった。
自殺。モンスター戦における敗北。すさまじい速さで増えていく無慈悲なラインを刻まれた名前たち。その数がゲーム開始一ヶ月で五千人という恐るべき数にのぼった時、残った全プレイヤーを暗い絶望感が包み込んだ。このペースで死亡者が増えつづけるなら、一年経たないうちに五万人が全滅してしまう。
だが――人間というのは慣れるものだ。一ヶ月後にようやく第一層の迷宮区が攻略され、そのわずか十日後に第二層も突破された頃から、死者の数は目に見えて減りはじめた。生き残るための様々な情報が行き渡り、きちんと経験値を蓄積してレベルを上げていけばモンスターはそれほど恐ろしい存在ではないという認識が生まれた。このゲームを攻略できるかもしれない――、そう考えるプレイヤーの数は、少しずつ、だが着実に増えていった。
最上層は遥かに遠かったが、かすかな希望を原動力にプレイヤー達は動きはじめ――世界は音を立てて回りだした。
それから二年。残るフロアの数は二十五、生存者四万人。それがアインクラッドの現状だ。
SAO1_02_Unicode.txt
5
第74層の迷宮区画から出た俺は、アイテムやステータスの確認を済ませると街に向って歩き出した。俺のホームタウンは50層にあるアインクラッドで最大級の都市〈アルゲード〉だ。規模から言えばはじまりの街のほうが大きいが、あそこは今や完全に軍の本拠地となってしまっているので立ち入りにくい。
夕暮れの色が濃くなった草原を抜けると、深く木々が立ち並ぶ森が広がっている。この森を三十分も歩けば74層の主街区があり、そこの〈転移門〉からアルゲードへと一瞬で移動することができる。
手持ちの瞬間転移アイテムを使えばどこからでもアルゲードへ帰還することができるが、いささか値が張るもので緊急の時以外は使いにくい。まだ日没までは少々間があるし、俺は一刻も早く自宅のベッドに転がり込みたいという誘惑を振り払って、森の中へと続く細い道に足を踏み込んだ。
アインクラッド各層の最外周部は、数箇所の支柱部以外は基本的にそのまま空へと開かれた構造になっている。角度が傾きそこから直接差し込んでくる太陽光が、森の木々を赤く照らし出していた。幹の間を流れる濃密な霧の帯が残照を反射して、きらきらと美しくも妖しい輝きを発している。日中は喧しかった鳥の声もまばらになり、吹き抜ける風が梢を揺らす音がやけに大きく響く。
このへんのフィールドに出没するモンスターには寝ぼけていても遅れを取らないレベルだとわかっていても、夕闇の深まるこの時間帯はどうしても不安を抑えることができない。幼い頃、夕暮れに道に迷い途方にくれて立ち尽くした時のような……。だが俺はこんな気分が嫌いではない。あの世界に住んでいた頃は、こんな原始的な不安はいつしか忘れ去ってしまっていた。見渡す限り誰もいない荒野を単身さすらう孤独感、これこそまさにRPGの醍醐味というもので――。
そんな感慨にとらわれていた俺の耳に、不意に聞き覚えのない獣の鳴き声がかすかに届いた。高く澄んだ、草笛のような響き。俺は咄嗟に足を止めると、慎重に音源の方向を探った。聞きなれない、あるいは見なれないものの出現はこの世界ではイレギュラーな幸運か不運のどちらかの訪れを意味する。
ソロプレイヤーの俺は索敵スキルを選択している。このスキルは不意打ちを防ぐ効果ともうひとつ、スキル熟練度が上がっていれば隠蔽状態にあるモンスターやプレイヤーを見破る能力がある。俺はやがて十メートルほど離れた大きな樹の枝かげに隠れているモンスターの姿を発見した。
それほど大きくはない。木の葉にまぎれる灰緑色の毛皮と、体長以上にながく伸びた耳。視線を集中すると、自動でモンスターがターゲット状態となり、視界に黄色いカーソルと対象の名前が表示される。その文字を見た途端俺は息を詰めた。〈ラグー・ラビット〉、超のつくレアモンスターだ。俺も実物は初めて見る。その、樹上に生息するもこもこしたウサギはとりたてて強いわけでも経験値が高いわけでもないのだが――。
俺は慎重に腰のベルトから投擲用の細いピックを抜き出した。俺の投剣スキルはスキルスロットの埋め草的に選択しているだけで、それほどレベルが高くない。だがラグー・ラビットの逃げ足の速さは既知のモンスター中最高と聞き及んでおり、接近して剣での戦闘に持ち込める自信はなかった。相手がこちらに気付いていない今ならまだ、一回だけファーストアタックのチャンスがある。俺は右手に針状のピックを構えると、祈るような気持ちで投剣スキルの基本技〈シングルシュート〉のモーションを起こした。
いかにスキルレベルが低くとも、徹底的に鍛えた敏捷度パラメータによって補正された俺の右手は稲妻のように閃き、放たれたピックは一瞬の輝きを残して梢の陰に吸い込まれていった。攻撃を開始した途端にラビットの位置を示していたカーソルは戦闘色の赤に変り、その下に奴のHPバーが表示されている。祈るような気持ちでピックの行く末を見守る俺の耳に、一際甲高い悲鳴が届き――HPバーがぐい、と動いてゼロになった。お馴染みのポリゴンが破砕する硬質な効果音。俺は無意識のうちに右手をぐっ、と突き上げていた。
あわてて左手をかざしてメニュー画面を呼び出す。パネルを操作する指ももどかしくアイテム欄を開くと、果たして新規入手品の一番上にその名前があった。〈ラグー・ラビットの肉〉、プレイヤー間の取引では十万コルは下らないという代物だ。最高級のオーダーメイド武器をしつらえても釣りが来る額である。
そんな値段がつく理由はいたって単純、この世界に存在する無数の食材アイテムの中で最高級の美味に設定されているからだ。
食うことのみがほとんど唯一の快楽と言ってよいSAO内で普段口にできるものと言えば欧州田舎風――なのか知らないが素朴なパンだの煮込み料理ばかりで、ごく少ない例外が料理スキルを選択している職人プレイヤーが少しでも幅を広げようと工夫して作る食い物なのだが、職人の数が圧倒的に少ない上に高級な食材アイテムが意外に入手しにくいという事情もあっておいそれと食べられるものでもなく、ほとんど全てのプレイヤーは慢性的に美味に餓えているという状況なのだ。
もちろん俺も同様で、いきつけのNPCレストランで食うシチューと黒パンの食事も決して嫌いではないが、やはりたまにはやわらかく汁気たっぷりな肉を思い切り食ってみたいという欲求に苛まれる。俺はアイテム名の文字列を睨みながらしばし唸った。
この先こんな食材を入手できる可能性はごく少ないだろう。本音を言えば自分で食ってしまいたいのもやまやまだが、食材アイテムのランクが上がるほど料理に要求されるスキルレベルも上昇するため、誰か高レベルの料理職人プレイヤーに頼まなくてはならない。そんなアテは――いないこともないのだが……。わざわざ頼みに行くのも面倒だし、そろそろ防具を新調しなければならない時期でもあるので、俺はこのアイテムを金に替えることに決めて立ち上がった。
未練を振り切るように手を振ってステータス画面を消すと、俺は周囲をふたたび索敵スキルで探った。よもやこんな最前線、言い換えれば辺境に盗賊プレイヤーが出現するとも思わないが、Sクラスのレアアイテムを持っているとなればいくら用心してもしすぎという事はない。
これを金に替えれば瞬間転移アイテムなど欲しいだけ買えるだろうし、俺は危険を減らすべくこの場からアルゲードまで帰還してしまうことにして、腰の小物入れを探った。ちなみに、ステータス画面のアイテム欄に表示されるアイテムはその段階では名称データだけの存在で、必要に応じて選択されたものだけが重量制限の範囲内で腰と背中のパックにオブジェクトとして実体化するという仕組みだ。転移アイテムのような緊急に使用する可能性のあるものはこのように常時実体化しておくのがセオリーとなる。
俺は小物入れから空色をした八面柱型の結晶をつまみだした。〈魔法〉の要素がほとんど排除されているこの世界で、わずかに存在するマジックアイテムはすべてこのように宝石の形を取っている。ブルーのものは瞬間転移、ピンクだとHP回復、緑は解毒――といった具合だ。どれも即効の便利なアイテムだが値段が張るので、たとえば回復なら敵から離脱して時間のかかる薬類で回復するのが常道だ。俺は、今は緊急の場合と言ってよかろうと自分に言い訳すると青い結晶を握って叫んだ。
「転移! アルゲード!」
鈴を鳴らすような美しい音と共に、手の中で結晶がきらめきながら砕け散った。同時に俺の身体は青い光に包まれ、周囲の森の風景が溶け崩れるように消滅してゆく。光がひときわまぶしく輝き、次いで消え去ったときにはもう転移が完了していた。先刻までの葉擦れのざわめきに代わって、甲高い鍛冶の槌音と賑やかな喧騒が耳朶を打つ。
俺が出現したのはアルゲードの中央にある転移門だった。円形の広場の真中に、高さ五メートルはあろうかという巨大な金属製のゲートがそびえ立っている。ゲート内部の空間は蜃気楼のように揺らいでおり、他の街に転移する者、あるいはどこからか転移してきた者達がひっきりなしに出現と消滅を繰り返している。広場からは四方に大きな街路が伸び、全ての道の両脇には無数の小さい店がひしめきあっていた。今日の冒険を追えてひとときの憩いを求めるプレイヤー達が食い物の屋台や酒場の店先で会話に花を咲かせている。
アルゲードの街を簡潔に表現すれば『猥雑』の一言に尽きる。
はじまりの街にあるような巨大な施設はひとつとして存在せず、広大な面積いっぱいに無数の路地、隘路が重層的に張り巡らされて、何を売るとも知れぬ妖しげな工房や二度と出てこられないのではと思わせる宿屋などが軒を連ねている。実際アルゲードの裏通りに迷い込んで数日出てこられなかったプレイヤーの話も枚挙に暇が無いほどだ。俺もここをねぐらにして一年近くが経つが、いまだに道の半分も覚えていない。NPCの住人たちにしても、クラスも定かでないような連中ばかりで、最近ではここをホームにしているプレイヤーも一癖二癖ある奴らばかりになってきたような気さえする。
だが俺はこの街の雰囲気が気に入っていた。路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで妙な匂いのする茶を啜っているときだけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい。かつて住んでいた街に似ているからだ、などという感傷的な理由だとは思いたくないが。
俺はねぐらに戻る前に件のアイテムを処分してしまうことにして、馴染みの買い取り屋に足を向けた。転移門のある中央広場から西に伸びた目貫通りを、人ごみを縫いながら数分歩くとすぐにその店があった。人が五人も入ればいっぱいになってしまうような店内にはプレイヤーの経営するショップ特有の混沌状態を醸し出した陳列棚が並び、武器から道具類、食料までがぎっしりと詰め込まれている。
店の主はと言えば、今まさに店頭で商談の真っ最中だった。
アイテムの売却方法は大まかに言って二種類ある。ひとつはNPC、つまりゲームシステムが操作するキャラクターに売却する方法で、詐欺の危険がないかわりに買い取り値は場所によって多少の増減があるものの基本的には一定となる。プレイヤーが労せずに大金を入手するのを防ぐためにその値付けは実際の市場価値よりもかなり低く設定されている。
もう一つがプレイヤー同士の取引だ。こちらは商談次第ではかなりの高値で売れることも多いが、買い手を見つけるのに結構な苦労をするし、やれ払いすぎただの気が変っただのと言いだすプレイヤーとのトラブルも無いとは言えない。そこで、故買を専門にしている商人プレイヤーの出番となるわけだ。
「よし決まった! グラックリザードの革二十枚で五百コル!」
俺が馴染みにしている買い取り屋のエギルは、ごつい右腕を振り回すと商談相手の気の弱そうな槍使いの肩をばんばんと叩いた。そのままトレードウィンドウを出すと、有無を言わせぬ勢いで自分側のトレード欄に金額を入力する。相手はまだ多少悩むような素振りを見せていたが、歴戦の戦士と見紛うほどのエギルの凶顔に一睨みされると――実際エギルは商人であると同時に一流の斧戦士でもあるのだが――あわてて自分のアイテムウィンドウから物をトレード欄に移動させ、OKボタンを押した。
「毎度!! また頼むよ兄ちゃん!」
最後に槍使いの背中をバシンと一回叩くと、エギルは豪快に笑った。グラックリザードの革は高性能な防具の素材となる。どう考えても五百は安すぎるだろうと俺は思ったが、慎み深く沈黙を守って、立ち去っていく槍使いを見送った。故買屋相手に遠慮してはならないという教訓の授業料込みだと思うんだな、と心の中でつぶやく。
「相変わらず阿漕な商売してるな」
エギルに背後から声をかけると、禿頭の巨漢はひょいと振り向きざまニンマリ笑った。
「よぉ、キリトか。安く仕入れて安く提供するのがウチのモットーなんでね」
悪びれる様子もなくうぞぶく。
「後半は疑わしいもんだなぁ。まあいいや、俺も買取頼む」
「キリトはお得意様だしな、あくどい真似はしませんよっと……」
言いながらエギルは猪首を伸ばして俺の提示したトレードウィンドウを覗き込んだ。SAOプレイヤーの外見が、生身の肉体に即したものだという事はすでに述べたが、このエギルを見るたびに俺はよくもまぁこんなハマる外見をした奴がいたもんだと感嘆の念を禁じえない。百八十センチはある体躯は筋肉と脂肪にがっちりと包まれ、その上に乗った顔は悪役レスラーさながらにごつごつとした、岩から削りだしたかのような造作で、唯一カスタマイズできる髪型をつるつるのスキンヘッドにしているもんだからその怖さはそんじょそこらの強面NPCに引けを取らない。それでいて笑うと実に愛嬌のある、味な顔をしているのだ。年齢は二十代後半だろうが、現実世界で何をしていた男なのか想像もつかない。「向こう」でのことは尋ねないのがこの世界の不文律である。
その、分厚くせり出した額の下の両目が、トレードウィンドウを見た途端驚きに丸くなった。
「おいおい、S級のレアアイテムじゃねえか。ラグーラビットの肉か、俺も現物を見るのは初めてだぜ……。キリト、おめえ別に金には困ってねえんだろ? 自分で食おうとは思わんのか?」
「思ったさ。多分二度と手には入らんだろうしな……。ただなぁ、こんなアイテムを扱えるほど料理スキルを上げてる奴なんてそうそう……」
その時、背後から俺の肩を叩く者がいた。
「よっ、キリト君おひさ!」
女の声。俺にこれほどなれなれしく声を掛けてくる女性プレイヤーはそれほど多くない。正確には一人しかいない。俺は顔を見る前から相手を察していた。左肩に乗せられたままの相手の手をぐっ、と掴むと振り向きながら言う。
「シェフ捕獲」
「な……なによ」
相手は俺に手をつかまれたままいぶかしげな顔で後ずさる。
栗色の長い真中分けのストレートヘアを両側に垂らした顔はちいさな卵型で、大きなくるくるとした薄茶色の瞳がまぶしいほどの生気を放っている。小ぶりだがスッと通った鼻筋の下で、桜色のくちびるが華やかな色彩を添える。スラリとした小柄な体を、白と赤を基調とした騎士風の戦闘服に包み、白革の剣帯から吊ったのは優雅に伸びた細剣。
彼女の名はアスナ。SAOでは多分知らぬ者はほとんどいないであろう有名人だ。理由はいくつかあるが、まず、圧倒的に少ない女性プレイヤーであり、なおかつ文句のつけようがない華麗な容姿を持つことによる。プレイヤーの現実の肉体、とくに顔の造作をほぼ完全に再現するSAOにおいて、大変言い難いことながら美人の女性プレイヤーというのは超S級とでも言うべきレアな存在だ。おそらくアスナほどの美人は両手の指に満たない数だろう。
もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由は、その騎士服を染める白と赤――ギルド〈血盟騎士団〉のユニフォームだ。Knights of the Bloodの頭文字を取ってKoBとも呼ばれるそれは、アインクラッドに数多あるギルドの内でも誰もが認める最強のプレイヤーギルドである。
構成メンバーは五十人程と中規模だが、そのすべてがハイレベルの強力な剣士であり、なおかつギルドを束ねるリーダーは伝説的存在と言ってもよいほどのSAO最強の男なのだ。アスナは華奢な少女の外見とは裏腹に、そのギルドにおいて副団長を務めている。当然技のほうも半端ではなく、細剣術は〈閃光〉の異名を取る腕前だ。
つまり彼女は、容姿においても剣技においても四万のプレイヤーの頂点に立つ存在なわけで、それで有名にならないほうがおかしい。当然プレイヤーの中には無数のファンがいるが、中には偏執的に崇拝する者やらストーカーまがい、更には反対に激しく嫌う者――これは女性プレイヤーに多い――もいてそれなりの苦労はあるようだ。
もっとも最強剣士の一人たるアスナに正面切ってちょっかいを出そうという者はそういないだろうが、警護に万全を期するというギルドの意向もあるようで彼女にはたいてい複数の護衛プレイヤーが付き従っている。今も、数歩引いた位置に白のマントと分厚い金属鎧に身を固めたKoBのメンバーとおぼしき二人の男が立ち、そのうち右側に立っている長髪を後ろで束ねた痩せた男が、アスナの手を掴んだままの俺に殺気に満ちた視線を向けてきている。
俺は彼女の手を離し、指をその男に向ってひらひら振ってやりながら言葉を返した。
「珍しいなアスナ。こんなゴミ溜めに顔を出すなんて」
俺がアスナを呼び捨てにするのを聞いた長髪の男と、自分の店をゴミ溜め呼ばわりされた店主の顔が同時にぴくぴくと引き攣る。だが、店主のほうはアスナから笑顔とともに、お久しぶりですエギルさん、と声をかけられると途端にだらしなく顔を緩ませる。
アスナは俺に向き直ると、不満そうに唇を尖らせた。
「なによう。ちゃんと生きてるか確認に来てあげたんじゃない」
「フレンドリストに登録してんだから生きてることくらいわかるだろ。そもそもマップでフレンド追跡したからここに来られたんじゃないのか」
言い返すと、アスナは照れくさそうに下を向いた。大体、この女がなぜ俺ごときに気をかけてくれるのかが不思議で仕方ない。知り合ってからそろそろ半年になるが、会うときはこのように向こうから来てくれる場合がほとんどだ。数ヶ月前に相互フレンド登録しようと言われた時には腹の底から驚愕したものだ。さすがに俺もややその気にならないでもなかったが、相手があまりにも至高の存在すぎて、わずかな希望を持つことすら恐ろしい。俺はあえてアスナとはフランクな剣友付き合いをするよう心がけていた。過度の期待が毒に転じるのは御免だ。
アスナは両腕を胸の前で組むと、つんとあごを反らせるような仕草で言った。
「そ……そんなことより、何よシェフどうこうって?」
「あ、そうだった。お前今料理スキルどのへん?」
確かアスナは酔狂にも戦闘スキルの隙間を縫って職人系の料理スキルを上げていた覚えがある。俺の問いに、彼女は得意げ顔を輝かせると言い放った。
「聞いて驚け! なんと先週に完全習得達成!」
「なぬっ!」
ア……アホか。と一瞬思ったがもちろん口には出さない。スキル熟練度は使用する度に気が遠くなるほどの遅々とした速度で上昇してゆき、最終的に熟練度1000に達したところで完全習得となる。ちなみに経験値によって上昇するレベルはそれとはまた別で、レベルで上がるのはHPと筋力、敏捷力のステータス、それに〈スキルスロット〉という習得可能スキル限度数だけだ。俺は今十二のスキルスロットを持つが、完全習得に達しているのは片手直剣スキル、索敵スキル、武器防御スキルの三つだけである。つまりこの女は途方もないほどの時間と情熱を戦闘の役にたたないスキルにつぎ込んだわけだ。
「……その腕を見こんで頼みがある」
俺はアスナに手招きをするとアイテムウィンドウを他人にも見える可視モードにして彼女に示した。
「うわっ!! これ、S級食材!?」
「取引だ。こいつを料理してくれたら一口食わせてやる」
言い終わらないうちに〈閃光〉アスナの右手が俺の胸倉をがっしと掴んだ。そのまま顔を数センチの距離までぐいと寄せると、
「は・ん・ぶ・ん!!」
思わぬ不意打ちにドギマギした俺は思わず頷いてしまう。はっと我に返った時には遅かった。ヤッタと小躍りするアスナ。まあ、あの可憐な顔を至近距離から観察できたんだから良しとしよう、と無理やり納得する。
ウインドウを消去しながら振り向き、エギルの顔を見上げて言う。
「わるいな、そんな訳で取引は中止だ。」
「いや、それはいいけどよ……。なあ、俺たちダチだよな? な? 俺にも味見くらい……」
「気が向いたら持ってきてやるよ」
「そ、そりゃあないだろ!!」
この世の終わりか、といった顔で情けない声を出すエギルにつれなく背を向け歩き出そうとした途端、俺のコートをアスナが掴んだ。
「料理はいいけどどこでするつもりなのよ?」
「う……」
料理スキルを使用するには、食材の他に料理道具と、かまどやオーブンの類が最低限必要になる。俺の部屋にも簡単なものがあるにはあったが、あんな小汚いねぐらにアスナを招待できるはずも無く。
アスナは言葉に詰まる俺に呆れたような視線を投げかけながら、
「どうせキリト君の部屋にはろくな道具もないんでしょ。いいわ、わたしの部屋に行きましょう」
とんでもないことをサラリと言った。
言われたことを脳が理解するまでのラグで停止する俺を気にもとめず、アスナは警護のギルドメンバー2人に向き直ると声をかけた。
「今日はここから直接セルムブルグまで転移するから護衛はもういいわ。お疲れ様」
その途端、我慢の限界に達したとでも言うように長髪の男が叫んだ。SAOにもうすこし表情再現機能があったら、額に青筋の二~三本は立っているであろう剣幕だ。
「ア……アスナ様! こんなスラムに足をお運びになるだけに留まらず、素性の知れぬ奴をご自宅に伴うなどと、と、とんでもない事です!」
その大仰な台詞に俺は辟易とする。様と来た……こいつも紙一重級の崇拝者なんじゃなかろうか。目を向けると、アスナも相当うんざりした表情である。
「キリト君は素性の知れない奴なんかじゃないわ。多分あなたより十はレベルが上よ、クラディール」
「な、何を馬鹿な! 私がこんな奴に劣るなどと……!」
男の半分裏返った声が路地に響き渡る。三白眼ぎみの落ち窪んだ目で俺を憎憎しげに睨んでいた男の顔が、不意に何かを合点したかのように歪んだ。
「そうか……手前ビーターだろ!」
〈ビーター〉とはベータテスターの蔑称である。俺にとってはお馴染みの台詞だ。だが何度言われてもその言葉は俺に一定の痛みをもたらす。最初に俺に同じ事を言った、かつて友人だった奴の顔がちらりと脳裏をよぎる。
「ああ、そうだ」
俺が無表情に肯定すると、男は勢いづいて言い募った。
「アスナ様、こいつら自分さえ良きゃいい連中ですよ! こんな奴と関わるとろくな事がないんだ!」
今まで平静を保っていたアスナの眉根が不愉快そうに寄せられる。いつのまにか周囲には野次馬の人垣ができ、「KoB」「アスナ」という単語が漏れ聞こえてくる。
アスナはそちらにちらりと目を向けると、興奮の度合いを増すばかりのクラディールという男に、
「ともかく今日はここで帰りなさい。副団長として命令します」
とそっけない言葉を投げかけ、左手で俺の手を取った。そのままぐいぐいと俺を引っ張りながらゲート広場へと足を向ける。
「お……おいおい、いいのか?」
「いいの!」
まあ俺には否やのあろうはずもない。二人の護衛と、いまだに残念そうな顔のエギルを残して俺たちは人ごみの隙間に紛れるように歩き出した。最後にちらりと振り返ると、突っ立ったままこちらを睨むクラディールという男の険悪な表情が残像のように俺の視界に貼りついた。
6
セルムブルグ市は61層にある美しい城塞都市だ。規模はそれほど大きくもないが、華奢な尖塔を持つ古城を中心とした、城壁に囲まれた市街地はすべて白亜の花崗岩で精緻に造り込まれ、ふんだんに配された緑の木々とあいまって見事なコントラストを醸し出している。市場には店もそれなりに豊富でここをホームタウンにと願うプレイヤーは多いが、部屋がとんでもなく高価であり――多分アルゲードの三倍はするだろう――、よほどのハイレベルに達さないかぎり入手するのは不可能に近い。
俺とアスナがセルムブルグの転移門に到着したときはすっかり陽も暮れかかり、最後の残照が街並みを深い紫色に染め上げていた。
61層は面積のほとんどが湖で占められており、セルムブルグはその中心にある小島に存在するので外周部から差し込む夕陽が水面を煌かせる様を一幅の絵画のごとく鑑賞することができる。広大な湖水を背景にして濃紺と朱色に輝く街並みの、あまりの美しさに俺はしばし心を奪われて立ち尽くした。ナーヴギアの本体が持つ新世代のダイアモンド半導体CPUにとってはこのようなライティング処理など小手先の技なのだろうが。
転移門は古城の足許の広場に設置されており、そこからとてつもなく広い、街路樹の生えたメインストリートが市街地を貫いて南に伸びている。両脇には品のいい店やら住宅が立ち並び、行き交うNPCやプレイヤーの格好も垢抜けて見える。空気の味までアルゲードと違うような気がして、俺は思わず両手を伸ばしながら深呼吸をした。
「うーん、広いし人は少ないし、解放感あるなぁ」
「ふふ。キリト君も引っ越せばいいじゃない」
「金が圧倒的に足りません」
肩をすくめて答えると、俺は表情をあらためた。遠慮気味に尋ねる。
「……本当に大丈夫なのか? さっきの……」
「……」
それだけで何の事か察したらしく、アスナはくるりと後ろを向くと、うつむいてブーツのかかとで地面をとんとん叩いた。
「……わたし一人の時に何度か嫌な出来事があったのは確かだけど、護衛なんて行き過ぎだと思う。要らないって言ったんだけど……ギルドの方針だから、って……」
やや沈んだ声で続ける。
「昔は、団長が一人ずつ声を掛けて作った小規模ギルドだったの。でも人数がどんどん増えて、メンバーが入れ替わったりして……最強ギルドなんて言われ始めたころからなんだかおかしくなっちゃった」
言葉を切って、アスナはくるりと振り向いた。その瞳に、どこかすがるような色を見た気がして俺はわずかに息を飲んだ。何か言わなければいけない、ふとそう思ったが、利己的なソロプレイヤーである俺に何ができるというのか。俺たちは沈黙したまま数秒間見つめあった。
先に視線を逸らしたのは俺だった。アスナは少しだけ淋しそうに微笑み、場の空気を切り替えるように明るい声を出した。
「まあ、大したことじゃないから気にしなくてよし! さ、早く行かないと日が暮れちゃうよ!」
先に立ったアスナに続いて、俺も街路を歩き始めた。少なからぬ数のプレイヤーとすれ違うが、アスナの顔をじろじろと見るような者はいない。セルムブルグはここが最前線だった半年ほど前にわずかに滞在したことがあるくらいで、思えばゆっくりと見物した記憶もなかった。改めて美しい彫刻に彩られた市街をながめるうちに、ふと一度はこんな街に住んでみたいという気がわいてくるが、観光地はたまに訪れるくらいがいいのだろうと思い直す。
アスナの住む部屋は目貫通りから東に折れてすぐのところにある小型の、しかし美しい造りの建物の三階だった。無論訪れるのは初めてだ。よくよく考えると、いままでこの女とはアルゲードの酒場やらショップで話したことがあるだけで、一緒にフィールドに出たことすらない。それを意識すると俺は今更ながら腰の引ける思いで、建物の入り口で躊躇してしまう。
「しかし……いいのか? その……」
「なによ、キリト君がもちかけた話じゃない。や……やめてよ今更、わたしまで恥ずかしくなるから!」
やや顔を赤らめてうつむくアスナ。そのまま階段をとんとんと登っていってしまう。俺は覚悟を決めてそのあとに続いた。
「お……おじゃまします」
おそるおそるドアをくぐった俺は言葉を失って立ち尽くした。
未だかつてSAOでこれほど整えられたプレイヤーホームは見たことがない。広いリビング兼ダイニングと、隣接したキッチンには明るい色の木製家具がしつらえられ、統一感のあるオフグリーンのクロス類で飾られている。すべて最高級のプレイヤーメイド品だろう。そのくせ過度に装飾的ではなく、実に居心地の良さそうなインティメイトさを漂わせている。俺のねぐらとはひとことで言って雲泥の差だ。招待しなくてよかった、としみじみ思う。
「なあ……これ、いくらかかってるの……?」
即物的な俺の質問に、
「んー、部屋と内装あわせると四千Kくらいかな。あ、着替えてくるからそのへん適当に座ってて」
サラリと答えるとアスナはリビングの奥にあるドアに消えて行った。Kが千をあらわす短縮語なので四千Kとは四百万コルのことである。参考までに、平均的レベルのプレイヤーが一ヶ月の冒険で稼ぐ金額はその百分の一程度に過ぎない。俺はくらくらして、ふかふかのソファに倒れるように沈み込んだ。
やがて、簡素な白い短衣に着替えたアスナが奥の部屋から現れた。着替えと言っても実際に脱いだり着たりの動作があるわけではなく、ステータスウインドウの装備フィギュアを操作するだけなのだが、着衣変更の瞬間数秒は下着姿の表示になってしまうため、豪胆な野郎プレイヤーならいざ知らず女性は人前で着替え操作をしたりすることはない。今の俺たちの肉体は3Dオブジェクトのデータにすぎないとは言っても、二年も過ごしてしまうとそんな認識は薄れかけて、実際今も惜しげも無く剥き出しにされたアスナのスラリとした手足に自然と目が行ってしまう。
そんな俺の内心の葛藤を知ってか知らずかアスナは屈託無く笑うと、
「キリト君もいつまでそんな格好してるのよ」と言った。
俺はあわててステータスを呼び出すと、革の戦闘用コートと剣帯、金属製のレガースなどの武装を解除する。ついでにアイテムウインドウに移動し、ラグーラビットの肉をオブジェクトとして実体化させた。陶製のポットに入ったそれが目の前のテーブルに姿を現す。
アスナは感激した面持ちでそれを手に取り、中を覗き込む。
「これがS級食材かぁ。ねえ、どんな料理にしよっか?」
「シェフお任せコースで頼む」
「そうねえ……じゃあシチューにしよう。煮込みって言うくらいだからね」
そのままキッチンに向かうアスナの後を俺もついていく。キッチンは広々としていて、巨大なかまどとオーブンがしつらえられた傍らには一見してこれも高級そうな料理道具アイテムが並んでいる。アスナはオーブンの表面をダブルクリックの容量ですばやく二度叩いてポップアップメニューを出し、温度を設定したあと棚から金属製のなべを取り出した。ポットの中の生肉を移し、いろいろな香草と水を満たすと蓋をする。
「ほんとはもっといろいろ手順があるんだけどね。SAOの料理は簡略化されすぎててつまんないよ」
と文句を言いながら、鍋をオーブンの中に入れてメニューから調理開始ボタンを押した。三百秒と表示された待ち時間にも彼女はてきぱきと動き回り、無数にストックしてあるらしい食材アイテムを次々とオブジェクト化しては淀みない作業で付け合せを作っていく。実際の作業とメニュー操作を一回のミスも無くこなしていくその動きに俺はついつい見とれてしまう。
わずか五分で豪華な食卓が整えられ、俺とアスナは向かい合わせで席についた。眼前の陶器の大皿には湯気を上げるブラウンシチューがたっぷりと盛り付けられ、鼻腔を刺激する芳香を伴った蒸気が立ち上っている。照りのある濃密な茶色い液体には大ぶりな肉がたっぷりと入り、クリームの白い筋が描くマーブル模様が実に魅惑的だ。
俺達はいただきますを言うのももどかしくスプーンを手に取ると、SAO内で存在しうる最上級の食い物であるはずのそれを頬張った。口中に充満する熱と香り。大ぶりな柔らかい肉に歯を立てると、溢れるように汁液が迸る。
SAOにおける食事は、オブジェクトを歯が噛み砕く感触をいちいち演算でシミュレートしているわけではなく、アーガスと提携していた環境プログラム設計会社の開発した味覚再生エンジンを使用している。これはあらかじめプリセットされた、様々な「物を食う」感覚を脳に送り込むことで使用者に現実の食事と同じ体験をさせることができる。もとはダイエットや食事制限が必要な人のために開発されたものらしいが、要は味、匂い、熱等を感じる脳の各部位に偽の信号を送り込んで錯覚させるわけだ。つまり俺達の現実の肉体はこの瞬間も何を食べているわけでもなく、ただシステムが脳の感覚野を盛大に刺激しているだけにすぎない。
だが、この際そんなことを考えるのは野暮というものだ。今俺が感じている、間違いなくSAOにログインしてから最上の美味は本物だ。俺とアスナは一言も発することなく、ただ大皿にスプーンを突っ込んでは口に運ぶという作業を黙々と繰り返した。
やがて、きれいに――文字通りシチューが存在した痕跡もない――食い尽くされた皿と鍋を前に、アスナは深く長い息をついた。
「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」
まったく同感だった。俺は久々に原始的欲求を心ゆくまで満たした充足感に浸りながら不思議な香りのする茶を啜った。さっき食べた肉やこの茶は、実際に現実世界に存在する食材の味を記録したものなのか、それともパラメータを操作して作り出した架空の味だろうか……。そんなことを漠然と考える。
饗宴の余韻に満ちた数分の沈黙が過ぎ去ったあと、俺の向かいで茶のカップを両手で抱え込んだままアスナがぽつりと口を開いた。
「不思議だね……。なんだか、この世界で生まれていままでずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」
「……俺も最近、あっちの世界のことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この頃は、クリアだ脱出だって血眼になる奴が少なくなった」
「攻略のペース自体落ちてるよね。今最前線で戦ってるプレイヤーなんて五百人いないでしょう。危険度のせいだけじゃないわ……みんな、馴染んできてる……この世界に……」
俺は橙色のランプの明かりに照らされた、物思いにふけるアスナの美しい顔をそっと見つめた。確かにその顔は、生物としての人間のものではない。なめらかな肌、艶やかな髪、生き物としては美しすぎる。しかし、今の俺にはその顔がポリゴンの作り物には最早見えない。そういう生きた存在として素直に納得することができる。……多分、今、元の世界に復帰して本物の人間を見たら俺は激しい違和感を抱くだろう。
俺は本当に帰りたいと思っているんだろうか……あの世界に……? ふと浮かんできたそんな思考に戸惑う。毎日朝早く起き出して危険な迷宮に潜り、未踏破区域をマッピングして経験値を稼いでいるのは、本当にこのゲームをクリアして脱出したいからなんだろうか。昔はたしかにそうだった――いつ死ぬともしれないこの世界から早く抜け出したかった……。しかし、この世界での生き方に慣れてしまった今はどうなのだろう。
「でも、わたしは帰りたいよ」
俺の内心の迷いを見透かすような、歯切れのいいアスナの言葉。ハッとして顔を上げる。アスナはにこりと笑うと、言った。
「あっちでやり残したこといっぱい有るもん」
その言葉に、俺は素直に頷いていた。
「そうだな。俺たちががんばらなきゃ職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」
消えない迷いを一緒に飲み下すように、俺はお茶のカップを大きく傾けた。まだまだ最上階は遠い。その時が来てから考えればいいことだ。
珍しく素直な気分で、俺はどう感謝の念を伝えようかと言葉を探しながらアスナを見つめた。すると、アスナは顔をしかめながら目の前で手を振り、
「あ……あ、やめて」などと言う。
「な、なんだよ」
「今までそういう表情の男プレイヤーから何度か結婚を申し込まれたわ」
「なっ……」
悔しいかな、戦闘スキルには熟達してもこういう場面の反撃方法に経験の浅い俺は言葉を返すこともできず口をぱくぱくさせた。さぞ間抜けな顔をしていることだろう。そんな俺を見てアスナはにやにや笑いながら、ふうんと言っている。
「その様子じゃ他に仲のいい子とかいないでしょ」
「悪かったな……いいんだよソロなんだから」
「だめだよー、せっかくMMORPGやってるんだからもっと友達作らなきゃ!」
MMOとは大人数マルチプレイヤー・オンラインのことだ。アスナはどことなく姉か先生のような口調で問いかけてきた。
「キリト君はギルドに入る気は無いの?」
「……」
「ベータ出身者が集団に馴染まないのはわかってる。でもね」
アスナの表情が真剣味を帯びる。
「70層を超えたあたりからモンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてるような気がするの」
それは俺も感じてはいた。CPUの戦術に人間くささが混じってきたのは、当初の設計なのかシステムの学習の結果なのか……。後者だったら今後どんどん厄介なことになりそうだ。
「ソロだと、想定外の事態に対処できないことがあるわ。いつでも緊急脱出できるわけじゃないのよ。パーティーを組んでいれば安全性がすいぶん違う」
「安全マージンは十分取ってるよ。忠告は有り難く頂いておくけど……ギルドはちょっとな。そもそも俺みたいなのを入れてくれるギルドなんかないさ」
「そんなことないのに……。ウチに誘いたいんだけど……」
「い、いいって!! そんな無理に気ィ使ってくれなくても。KoBみたいな名門ギルドに入れるなんて端から思ってないよ」
「違うよ、そういう意味じゃないの」
アスナは視線を落として首を振った。その表情を払い落とすかのように大きな目をいたずらっぽく輝かせ、
「パーティープレイそのものが嫌いってわけじゃないんでしょ? じゃあわたしとコンビ組もうよ」
「んな……」
再び俺は言葉に詰まる。
「……こと言ったってお前、ギルドはどうするんだよ」
「うちは別に攻略ノルマとかないもん」
「じゃ、じゃああの護衛二人は」
「置いてくるもん」
時間稼ぎのつもりでカップを口に持っていってから空であることに気付く。アスナがにこにこしながらそれを奪い取り、ポットから熱い液体を注いでくれる。
正直、実に魅力的な誘いではある。アインクラッド一、と言ってもよい美人とコンビを組みたくない男などいるまい。しかし、そうであればある程、アスナ程の有名人がなぜ、という気後れが先に立つ。ひょっとして根暗なソロプレイヤーとして憐れまれてるのか……。後ろ向きな思考にとらわれながら、うっかり口にしてしまった台詞が命取りだった。
「最前線は危ないぞ」
「あら」
一瞬目の前を閃光がよぎったと思うと、アスナの右手に握られたナイフがピタリと俺の鼻先に据えられていた。細剣術の基本技〈リニアー〉だ。基本技とは言え圧倒的な敏捷度パラメータ補正のせいですさまじいスピードである。剣士としての興味が頭をもたげる。思えばこの女の戦闘は一度も見たことがないのだった。他人のレベルやステータス、選択スキルなどは尋ねないのがこの世界の大事なマナーだ。なぜならそれらの情報を知られることは同時に弱点を知られることでもあるからだ。誰かの強さが知りたかったら、間近で戦闘を見て推察するしかない。
両手を軽く上げて降参のポーズを取った俺は、ナイフを戻したアスナに、「……朝九時に74層のゲートで待ってる」と言った。アスナはニコリと輝くような笑顔で答えた。
「今日はありがと。久しぶりに楽しい夜だった」
アルゲードまで送っていく、というアスナの申し出を断って、俺は建物の出口で向き直った。
「こっちこそ。また頼む……と言いたいけどもうあんな食材アイテムは手に入らないだろうな」
「あら、ふつうの食材だって腕次第よ」
笑いながら、アスナはつい、と空を振り仰いだ。すっかり夜の闇に包まれた空には、しかし無論星の輝きは存在しない。百メートル上空の石と鉄の蓋が陰鬱に覆いかぶさっているのみだ。つられて上空を見上げながら、俺はふと呟いていた。
「……今のこの状態、この世界が、本当に茅場晶彦の作りたかったものなのかな……」
なかば自分に向けた俺の問いに、二人とも答えることができない。どこかに身を潜めてこの世界を見ているのであろう茅場は今何を感じているのだろうか。当初の血みどろの混乱期を抜け出し、一定の平和と秩序を得た現在の状況は茅場に失望と満足のどちらをもたらしているのか。俺にはまるでわからない。
アスナは無言で俺の傍らに近寄ると、腕に手をかけてきた。ほのかな温かみを感じる。それは錯覚だろうか、忠実なシミュレートの結果なのか。
今日もまたアインクラッドの一日が終わる。俺たちがどこへ向かっているのか、このゲームの結末に何が待つのか、今は分らない事だらけだ。道のりは遥かに遠く、光明はあまりに細い。それでも――全てが捨てたもんじゃない。
俺は上空の鉄の蓋を見上げ、まだ見ぬ未知の世界へと思考を飛翔させた。
7
午前九時。今日の気象設定は薄曇りだ。街をすっぽりと包み込んだ朝もやはいまだ消えずに、外周から差し込む陽光が細かい粒子に乱反射して周囲をレモンイエローの色彩に染め上げている。
アインクラッドは今トネリコの月、日本の暦では十月の初頭である。気温はやや肌寒い程度で、一年で最もさわやかな季節なのだが、俺の気分はかなり低調だった。
俺は74層の主街区ゲート広場でアスナを待っていた。昨夜は珍しく寝つきのよくない晩で、アルゲードのねぐらに舞い戻って簡素なベッドに潜りこんだあとも輾転反側し続けた。多分眠りに落ちたのは午前三時を回った頃だろう。SAOにはいろいろとプレイヤーをサポートする便利な機能があるが、残念ながらボタン一つで即安眠というようなものはない。
ところがどうしたわけかその逆は存在するのだ。メインメニューの時刻関連オプションには強制起床アラームというものがあり、指定した時間になるとプレイヤーを任意の音楽で無理やり目覚めさせてくれる。無論その後二度寝をするしないは自由だが、午前八時五十分にシステムによって叩き起こされた俺は意思力を振り絞ってベッドから這い出すことに成功した。大多数の不精者プレイヤーにとっての福音としてゲーム内では風呂に入ったり着替えたりという必要がないので――好きな者は毎晩入浴しているようだが、液体関連の環境の再現はさすがのナーヴギアでもやや荷の重い所で本物の風呂そのままを再現するには至っていない――俺はぎりぎりの時間に起きた後二十秒で装備を整え、よろよろとアルゲード転移門まで歩き、そして今74層で睡眠不足の不快感に苦しみながらあの女を待っているという訳なのだが――。
「来ない……」
時刻はすでに九時十分。勤勉な攻略組が次々とゲートから現れ、迷宮区目指して歩いていく。俺はあてもなくメニューを呼び出し、すっかり暗記している迷宮のマップやら、スキルの上昇具合を確認したりして時間を潰した。ああー何か携帯ゲーム端末でもあればなあ、などと考えている自分に気付きげんなりする。ゲームの中でゲームをしたくなるとは我ながら救いがたい……もう帰って寝ちゃおうかなぁ……とそこまで思考が後ろ向きになったとき、転移門内部に何度目かの青いテレポート光が発生した。 さして期待もせずゲートに目をやる。するとその瞬間――。
「きゃああああ! よ、避けて――!」
「うわああああ!?」
通常ならば転移者はゲート内の地面に出現するはずの所が、地上から一メートルはあろうという空中に人影が実体化し――そのまま宙を俺に向かって吹っ飛んできた。
「な……な……!?」
避ける、もしくは受け止める間もなく、その人物は俺に思い切り衝突し、二人は派手に地面に転がった。石畳でしたたか後頭部を打つ。街中でなければHPバーが何ドットか削れただろう。これはつまり、このトンマなプレイヤーは転移元のゲートにジャンプして飛び込んで、そのままここまでテレポートした――ということだろうなぁ……などというのんきな考察が脳裏をよぎる。混濁した意識の中、俺は自分の上に乗ったままのトンマの身体を排除すべく右手を伸ばし、ぐっと掴んだ。
「……?」
すると、俺の手に、何やら好ましい不思議な感触が伝わってきた。柔らかく弾力に富んだそれの正体を探るべく、二度、三度と力を込める。
「や、や―――っ!!」
突然耳元で大音量の悲鳴が上がり、俺の後頭部は再び激しく地面に叩きつけられた。同時に体の上から重さが消滅する。その新たな衝撃でどうにか思考が回復した俺は、パッと上半身を起こした。
目の前にペタリと座り込んだ女性プレイヤーがいた。お馴染みの白地に赤の刺繍が入った騎士服とひざ上のミニスカート。剣帯からは銀のレイピア。どうしたことか、曰く言いがたい殺気のこもった眼で俺を睨んでいる。顔は最大級の感情エフェクトで耳まで真っ赤に染まり、両腕は胸の前でかたく交差され――……胸……?
突然俺は先ほど自分の右手が掴んだ物の正体を直感的に察した。同時に今の自分が陥っている危機的状況に遅まきながら気付く。普段から鍛え上げた危機回避思考法などきれいさっぱり忘れ去り、遣り場のない右手を閉じたり開いたりしながらこわばった笑顔を浮かべて口を開いた。
「や……やあ、おはようアスナ」
アスナの眼に浮かんだ殺気が一際強まった――気がした。あれは多分エモノを抜くか抜かないか考えている眼だ。咄嗟に浮上した「逃亡」オプションの可能性について検討しようとしたその時、再び転移門が青く発光した。アスナは、はっとした表情で後ろを振り向くと慌てた様子で立ち上がり、俺の背後に身を隠すように回りこんだ。
「なん……?」
訳がわからないまま俺も立つ。ゲートの光は見る間に輝きを増し、中央から新たな人影を出現させた。今度の転移者はきちんと地面に足を付けている。
光が消え去ると、そこに立っていたのは見たことのある顔だった。アスナ以外の者には到底似合わないと思われる仰々しい赤白のマント。ギルド血盟騎士団のユニフォームを着込み、やや装飾過多気味の金属鎧と両手用剣を装備したその男は昨日アスナに付き従っていた長髪の護衛だった。名前は確かクラディールと言ったはずだ。
クラディールはゲートから出て、俺と背後のアスナに目を留めると眉間と鼻筋に刻み込まれた皺を一層深くした。そう歳は行っていない、多分二十代前半だろうと思われるがその皺のせいで妙に老けて見える。ギリギリと音がしそうなほど歯を噛み締めたあと、憤懣やるかたないといった様子で口を開いた。
「ア……アスナ様、勝手なことをされては困ります……!」
ヒステリックな調子を帯びた甲高い声を聞いて、俺は、昔のロボットアニメに出てた声優の声に似てるなぁ、などと埒もない事を考えた。落ち窪んだ眼窩にやや三白眼なところはどこかその声優が当てていたキャラクターにも似ている。
現在進行形の修羅場から逃避したくて益体も無い思考を巡らせる俺に、ここが街中で無かったら絶対にコロス、というような視線を向けながらクラディールは更に言い募った。
「さあ、アスナ様、ギルド本部まで戻りましょう」
「いや!! 今日は活動日じゃないわよ! ……だいたい、あんたなんで朝から家の前に張り込んでるのよ!?」
俺の背後から、こちらも相当キレ気味といった様子でアスナが言い返す。
「ふふ、どうせこんなこともあろうと思いまして、私一ヶ月前からずっとセルムブルグで早朝より監視の任務についておりました」
得意げなクラディールの返事に思わず絶句する。アスナも同様に凍り付いている。いくらか間を置いて、固い声で聞き返した。
「そ……それ、団長の指示じゃないわよね……?」
「私の任務はアスナ様の護衛です! それには当然ご自宅の監視も……」
「ふ……含まれないわよバカ!!」
その途端クラディールはちらりと怒りと苛立ちの表情を浮かべ、つかつかと歩み寄ると乱暴に俺を押しのけてアスナの腕を掴んだ。
「聞き分けの無いことを仰らないでください……さあ、本部に戻りますよ」
抑えがたい何かをはらんだ声の調子にアスナは一瞬ひるんだようだった。傍らの俺にすがるような視線を向けてくる。
実を言えば俺はその瞬間まで、いつもの悪い癖で逃げてしまおうかなぁなどと思っていたのだった。が、アスナの瞳を見た途端勝手に右手が動いていた。アスナを掴んだクラディールの右手首を握り、街区圏内で犯罪防止コードが発動してしまうギリギリの力を込める。
「悪いな、お前のトコの副団長は今日は俺の貸切りなんだ」
我ながら呆れる台詞だが今更後には引けない。今まで敢えて俺の存在を無視していたクラディールは顔をゆがめて手を振り解くと、
「貴様ァ……!」
軋むような声で唸った。その表情には、システムによる誇張を差し引いてもどこか常軌を逸した何かを感じさせるものがある。
「アスナの安全は俺が責任を持つよ。別に今日ボス戦をやろうって訳じゃない。本部にはあんた一人で行ってくれ」
「ふ……ふざけるな!! 貴様のような雑魚プレイヤーにアスナ様の護衛が勤まるかぁ!! わ……私は栄光ある血盟騎士団の……」
「あんたよりはマトモに勤まるさ」
まあ、正直な所この一言は余計だった。
「ガキィ……そ、そこまででかい口を叩くからにはそれを証明する覚悟があるんだろうな……」
顔面蒼白になったクラディールは、震える左手でウィンドウを呼び出すとすばやく操作した。同時に俺の前に半透明のシステムメッセ―ジが出現する。内容は見る前から想像がついた。
『クラディール から1vs1デュエルを申し込まれました。受諾しますか?』
無表情に発光する文字の下に、YesとNoのボタンといくつかのオプション。俺はちらりと横に立つアスナに視線を向けた。彼女にはこのメッセージは見えていないが、状況は察しているだろう。当然止めると俺は思ったのだが、驚いたことにアスナは固い表情で頷いた。
「……いいのか? ギルドで問題にならないか……?」
小声で聞いた俺に、同じく小さいがきっぱりした口調で答える。
「大丈夫。団長にはわたしから報告する」
俺は頷き返すとYesボタンに触れ、オプションの中から『初撃で勝敗を決する』を選択した。最初に強攻撃をヒットさせたほうが勝利するという条件だ。メッセージは『クラディールとの1vs1デュエルを受諾しました』と変化し、その下で六十秒のカウントダウンが開始される。この数字がゼロになった瞬間俺と奴の間には街区での犯罪防止コードが消滅し、勝敗が決するまで剣を打ち合うことになる。
クラディールはアスナの首肯をどう解釈したものか、
「ご覧くださいアスナ様! 私以外に護衛が勤まる者など居ない事を証明します!」
狂喜を押し殺したような表情で叫び、芝居ががった仕草で腰から大ぶりの両手剣を引き抜くと中央に構えた。アスナが数歩下がるのを確認して、俺も背から片手剣を抜く。さすがに名門ギルドの所属だけあって、剣の値段は奴の物のほうが格段に高いだろう。両手用と片手用のサイズの違いだけでなく、俺の愛剣が実用一本の簡素なものなのに比べ奴の得物は一流の彫金職人の技とおぼしき華麗な装飾が施してある。
俺達が五メートルほどの距離を取って向き合い、カウントを待つ間にも周囲には次々とギャラリーが集まってきていた。それも無理はない、ここは街のド真中のゲート広場である上に俺も奴もそこそこ名の通ったプレイヤーなのだ。
「ソロプレイヤーのキリトとKoBメンバーがデュエルだとよ!!」
ギャラリーの一人が大声で叫び、周囲がドッと湧いた。普通デュエルは友人同士の腕試しで行われるもので、この事態に至るまでの険悪な成り行きを知らない見物人たちは口笛を鳴らすわ野次を飛ばすわ大変な騒ぎである。
だが、カウントが進むと同時に俺にはそれらの声は聞こえなくなっていった。モンスターと対峙する時と同じように、固く研ぎ澄まされた緊張感の糸が全身を貫いて行くのを感じる。野次を気にしてちらちらと周囲に苛立った視線を向けるクラディールの全身の様子、剣の構え方や足の開き方といった「気配」を読むべく俺は意識を集中した。
人間のプレイヤーはモンスター以上に、繰り出そうと意図する剣技の癖が事前に現れるものだ。突撃系の技、受身系の技、上段から始まるか下段からか、それらの情報を相手に与えてしまうことは人間を相手にする場合致命的なミスとなる。クラディールは剣を中段にやや引き気味に構え、前傾姿勢で腰を落としていた。明らかに突進系の上段攻撃の気配だ。無論それがフェイントということもあり得る。実際俺は今剣を下段に構えゆるめに立ち、初動を下方向の小攻撃から始めるように見せかけている。このへんの虚実の読み合いはもうカンと経験に頼るしかない。
カウントが一桁になり、俺はウインドウを消去した。最早周囲の雑音は聞こえない。
最後まで俺とウインドウとの間で視線を往復させていたクラディールの動きが止まり、全身がぐっと緊張した。二人の間の空間に紫色の閃光を伴って『Duel!!』の文字が弾け、それと同時に俺は猛烈な勢いで地面を蹴っていた。ごくごく僅か、ほんの一瞬遅れて奴の身体も動き始める。だが、その顔には驚愕の表情が張り付いている。下段の受身気配を見せていた俺が予想を裏切って突進してきたからだ。
クラディールの初動は推測通り両手用大剣の上段ダッシュ技、〈アバランシュ〉だった。生半可なガードでは、受けることに成功しても衝撃が大きすぎて優先的反撃に入れず、避けても突進力によって距離ができるため使用者に立ち直る余裕を与える優秀な高レベル剣技だ。あくまでモンスター相手なら、だが。
その技を読んだ俺は、同じく上段の片手剣突進技〈ソニックリープ〉を選択した。技同士が交錯する軌道である。技の威力そのものは向こうの方が上だ。そして、武器による攻撃同士が衝突した場合、より重い技のほうに有利な判定がなされる。この場合は、通常なら俺の剣は弾かれ、威力を減じられるとはいえ勝敗を決するに十分なダメージが俺の身体に届くだろう。だが、俺の狙いはクラディール本人ではなかった。
二人の距離が相対的にすさまじいスピードで縮んでゆく。だが同時に俺の知覚も加速され、徐々に時間の流れがゆるくなるような感覚を味わう。これがSAOのシステムアシストの結果なのか、人間本来の能力なのかは判らない。ただ、俺の目には剣技を繰り出す奴の全身の動きがはっきりと見て取れる。大きく後ろに振りかぶった大剣がオレンジ色のエフェクト光を発しながら俺に向かって撃ち出されてくる。さすがに最強ギルドの構成員だけあってステータス・パラメータはそこそこのものらしく、技の発生速度が俺の予想より速い。オレンジに発光する刀身が迫る。必殺の威力をはらむそれを正面から食らったら、一撃終了のデュエルとは言え注意域にまで達するダメージを被るに違いない。勝利を確信したクラディールの顔に隠せない狂喜の色が浮かぶ。だが――。
奴の先を取り、一瞬早く動き出した俺の剣は斜めの軌道を描き――これがこの技の特徴だ――こちらは黄緑色の光の帯を引きながら、まだ振りはじめで攻撃判定の発生する直前の奴の大剣の横腹に命中した。凄まじい量の火花。
武器と武器の攻撃が衝突した場合のもうひとつの結果。それが武器破壊である。
無論めったに起きることではない。技の出始めか出終わりの、攻撃判定が存在しない状態に、その武器の構造上弱い位置・方向から強烈な打撃が加えられた場合のみそれが発生する可能性がある。だが俺には、当たれば折れる確信があった。装飾華美な武器は耐久力に劣る。
果たして――耳をつんざくような金属音と、オレンジ色の火花の断末魔を撒き散らしながらクラディールの両手剣がその横腹からヘシ折れた。爆発じみた派手なライトエフェクトが炸裂する。そのまま俺と奴は空中ですれちがい、もと居た位置を入れ替えて着地。回転しながら宙高く吹っ飛んでいった奴の剣の半身が、上空できらりと陽光を反射したかと思うと数瞬ののちに二人の中間の石畳に突き立った。直後、その剣先とクラディールの手に残った下半分が無数のポリゴンのかけらとなって砕け散った。
しばらくの間、沈黙が広場を覆った。見物人は皆口をぽかんと開けて立ち尽くしている。だが、俺が着地姿勢から身体を起こし、いつもの癖で剣をサッと切り払うとわっと歓声が巻き起こった。
すげえ、いまの狙ったのか、と口々に一瞬の攻防を講評しはじめる。俺は多少苦々しい気分だった。技一つとはいえ衆人環視の中で手の内を見せるのは気持ちのいいものではない。
剣を右手に下げたまま、背を向けてうずくまっているクラディールにゆっくりと歩み寄る。白いマントに包まれた背中がぶるぶると震えている。その肩口から奴の顔の横に向かって剣先を突きつけ、俺は言った。
「負けを認めろ。キーワードはわかってるな? それともルール通り強攻撃を一発食らうか?」
今まで、このデュエルを友人同士の腕試しだと思っていたギャラリーの歓声が徐々に静まっていった。いぶかしげな様子でざわめきながらこちらに視線を向けている。クラディールは俺を見ることなく、両手で石畳に爪を立てておこりのように身体を細かく震わせていたが、やがて軋るような声で「I resign」と発声した。別に日本語で『降参』や『参った』でもデュエルは終了するのだが。
俺が剣を引き、鞘に収めると同時に、開始の時と同じ位置に『デュエル終了 勝者キリト』という紫色の文字列がフラッシュした。再びワッという歓声。クラディールはよろけながら立ち上がると、ギャラリーの列に向かって喚いた。
「見世物じゃねえぞ! 散れ! 散れ!」
次いで、ゆっくりと俺の方に向き直る。
「貴様……殺す……絶対に殺す……」
その目つきには俺も少々ゾッとさせられたことを認めないわけにはいかない。SAOの感情表現はややオーバー気味なのだが、それを差っ引いてもクラディールの三白眼に浮かんだ憎悪の色はモンスター以上だ。辟易して黙りこんだ俺の傍らに、スッと歩み出た人影があった。
「クラディール。血盟騎士団副団長として命じます。本日を以って護衛役を解任。別命あるまでギルド本部にて待機。以上!」
アスナの声は表情以上に凍りついた響きを持っていた。だが俺はその中に抑えつけられた苦悩の色を感じて、無意識のうちにアスナの肩に手を掛けていた。固く緊張したアスナの身体が小さくよろめくと、俺にもたれかかるように体重を預けてくる。
「…………なん……なんだと……この……」
かろうじてそれだけが聞こえた。残りの、多分百通りの呪詛であろう言葉を口の中でぶつぶつと呟きながら、クラディールは俺達を見据えた。おそらく予備の武器を装備しなおして、犯罪防止コードに阻まれるのを承知の上で打ちかかることを考えているに違いない。だが、奴はかろうじて自制すると、マントの内側から転移結晶を掴み出した。握力で砕かんばかりに握り締めたそれを掲げ、「転移……グランザム」とつぶやく。青光に包まれ消え去る最後の瞬間まで、クラディールは俺達に憎悪の視線を向けていた。
転移光が消滅したあとの広場は、後味の悪い沈黙に包まれた。見物人は皆クラディールの毒気に当てられたような顔をしていたが、やがて三々五々散ってゆく。最後に残された俺とアスナはしばらくその場に立ち尽くしていた。
俺に寄り添うようにしていたアスナは顔を伏せ、俺の肩口に額をつけて、「ごめんね……変なことに巻き込んじゃって……」と震える声でつぶやいた。こんな時、どういう言葉を掛ければいいのか分らない自分が恨めしい。いっそ奴に負けていればよかったのだろうか……などと暗澹たる気分が湧き起こる。だが、アスナの次の言葉でそれは驚愕に変った。
「わたし、ギルド辞める」
「なっ……」
「何ヶ月も前から考えてたことなの。副団長だなんて祭り上げられてちやほやされるのはもう嫌……。団長も好きだしメンバーのみんなも好きだけど、ただの居心地のいい場所だったはずなのに……いつのまにか変っちゃった……」
俺の肩口に顔を伏せたままのアスナの背中におそるおそる手を沿わせ、その身体の小ささに改めて驚く。朴念仁の鈍感人間を自覚して恥じない俺でも、ただの女の子がこのデスゲーム・ワールドの囚人となることの意味について改めて考えないわけにはいかなかった。
俺の知る限りアスナはベータテスト参加者ではない。何の知識もなく殺戮の世界に身一つで放り込まれ、二年かかっていまの居場所に辿り着くまでにどれほどの苦労があったろう。最初から最強剣士だったわけではないのだ。俺は今更のようにそんな単純な事実に思い至っていた。たとえ前から考えていたとは言っても、アスナがギルド脱退を決意するに至るきっかけを作ってしまったのは間違いなく俺だ。
言え! 言うんだ! と内心で叫ぶ声に背を押されるように、俺はなけなしの勇気を振り絞って口を開いた。
「な……なら……俺が……その場所の代わりになる」
我ながら情けない声にも程があった。それを聞いたアスナの身体がぴくりと震えた。永遠にも等しい数秒間の沈黙。
やがてアスナは、顔を伏せたまま小さくコクリと頷くと、両腕を俺の背中に回してぎゅっとしがみついてきた。俺は、自分の中に広がった暖かく深い喜びの感覚に不思議な驚きをおぼえていた。二度とこの世界で絆を求めるまいと決意し、頑なに他人を拒否してきたつもりだったのに――。
いまだ消えない深い朝霧がひときわ濃くゲート広場に流れ込み、ぴったり寄り添って立つ俺達を薄黄色の光の粒で覆い隠した。十時を告げる鐘の音が遠くで響き、市場の開く喧騒があたりを包む頃になっても、俺達は長い間そこに立ち続けていた。
SAO1_03_Unicode.txt
8
俺とアスナは迷宮区へと続く森の小道を並んで歩いていた。今日の攻略はやめて街に戻るかと尋ねたのだが、アスナが頑として予定の消化を主張したのである。もともと予定など有って無きが如き物で、すこしでもマップを埋められればそれでいいというつもりだったのだが無論俺に否やはない。今後も継続的に戦闘を共にするというのなら早いうちに二人の剣技の相性も見ておかなければならないし、何より俺ももっと長く一緒にいたい気分だったのだ。
柔らかく繁った下草を、さくさくという小気味良い音を立てて踏みしめながらアスナが明るい声で言った。
「明日買い物に付き合ってよ。あたらしい戦闘服買わなきゃ」
両手を広げながらギルドの制服を見下ろす。
「うう……そういう店は苦手なんだけど……」
「だーめ! ついでにキリト君の服も見てあげるよー。いっつもそれじゃない」
あははと笑いながら俺のくたびれたレザーコートをつつく。
「いいんだよ別に! そんな金があったらすこしでも旨い物をだなぁ……」
言いかけながら、俺は何気なくいつもの癖で周囲の索敵スキャンを行った。モンスターの反応はない。だが――。
「……? どうしたの?」
「いや……」
俺は、索敵可能範囲ぎりぎりにプレイヤーの集団を感知していた。俺たちが歩いてきた方向だ。視線を集中すると、プレイヤーの存在を示す緑色のカーソルが連続的に点滅する。
犯罪者プレイヤーの集団である可能性はない。連中は確実に自分たちよりレベルの低い獲物を狙うので、最強クラスのプレイヤーが集まる最前線に姿を現すことはごく稀であるし、何より一度でも犯罪行為を犯したプレイヤーはカーソルの色が緑からオレンジに変化するからだ。俺が気になったのはその人数と、集団の並び方だった。
俺はメインメニューからマップを呼び出した。可視モードにしてアスナにも見えるように設定する。周辺の森を示しているマップには、俺の索敵スキルとの連動によってプレイヤーを示す緑の光点が浮かんでいる。その数十二。
「多いね……」
アスナの言葉に頷く。パーティーは人数が増えすぎると連携が難しくなるので、五、六人で組むのが普通だ。
「それに見ろ、この並び方……」
マップの端近くを、こちらに向かってかなりの速度で近づいてくるその光点の群れは二列に整然と並んで行進していた。危険なダンジョンでならともかく、たいしたモンスターのいないフィールドでここまできっちりした隊形を組むのは珍しい。
「一応確認したい。そのへんに隠れてやり過ごそう」
「そうね……」
アスナも緊張した面持ちで頷いた。俺達は道を外れて土手を這い登り、背丈ほどの高さに密集した潅木の茂みを見つけてその陰にうずくまった。道を見下ろすことのできる絶好の位置だ。
「あ……」
不意にアスナが自分の格好を見下ろした。赤と白の制服は緑の茂みの中でいかにも目立つ。
「どうしよ……わたし着替え持ってないよ……」
マップの光点の集団はすでにかなりの近さにまで肉薄していた。そろそろ可視範囲に入る。
「ちょっと失敬」
俺は自分のレザーコートの前を開くと。右隣にうずくまるアスナの体を包み込んだ。アスナはちょっと顔を赤くしたが素直に俺に密着し、自分の体がすべて俺のコートに隠れるようにした。黒のぼろコートなら格好の保護色だ。ここまで隠蔽条件を満たせば、よほど高レベルの索敵スキルで探査しないかぎり発見することは難しい。
「たまにはこの一張羅も役に立つだろ」
「もう! ……シッ、来るよ!」
アスナはささやいて指を唇の前に立てた。一層体を低くした俺達の耳に、ざっざっという規則正しい足音がかすかに届きはじめた。
やがて、曲がりくねった小道の先からその集団が姿を現した。全員が戦士クラスだ。お揃いの黒鉄色の金属鎧に濃緑の戦闘服。すべて実用的な簡素なデザインだが、先に立つ六人の持った大型のシールドの表面には特徴的な火竜の印章が施されている。前衛六人の武装は片手剣。後衛六人は巨大な斧槍だ。全員が目深にヘルメットを装着しているためその表情を見て取ることはできない。一糸乱れぬその行進を見ていると、まるで、十二人のまったく同じNPCがSAOシステムによって動かされているように思えてくる。
間違いない。基部フロアを本拠地とする超巨大ギルド〈軍〉のメンバーである。傍らのアスナもそれを察したらしく、身を固くして息を詰めている気配が伝わってくる。
彼らは決して一般プレイヤーに対して敵対的な存在ではない。それどころか、フィールドにおける犯罪行為の防止を最も熱心に推進している集団であると言ってよい。ただ、その方法はいささか過激で、犯罪者フラグを持つプレイヤー――通常緑色のカーソルが、モンスターを現す黄色に良く似たオレンジで表示される――を発見次第問答無用で攻撃し、投降した者を武装解除して黒鉄宮の牢獄エリアに監禁しているという話だ。投降せず、離脱にも失敗した者の処遇に対する恐ろしい噂もまことしやかに語られている。
また、連中は常に大人数のパーティーで行動し、モンスターの出現区域を長時間独占してしまうこともあって、一般プレイヤーの間では〈軍〉には極力近づくな、という共通認識が生まれていた。もっとも、連中は主に50層以下の低層フロアでの治安維持と勢力拡大を図っているため、最前線で見かけることはまれだったのだが――。
俺達が息を潜めて見守るなか、十二人の重武装戦士は鎧の触れ合う金属音と重そうなブーツの足音を響かせながら機械のように整然とした行進で眼下の道を通過し、深い森の木々の中に消えていった。
現在SAOの囚人となっている数万人のプレイヤーは、発売日にソフトを入手できたことだけを見ても筋金入りのゲームマニアだと思っていい。そしてゲームマニアというのは間違いなく規律という言葉からは最も縁遠い人種だ。二年が経過するとは言え、あそこまで統制の取れた動きをするというのは尋常ではない。連中は〈軍〉の中でも最精鋭の部隊なのだろう。
マップで連中が索敵範囲外に去ったことを確認すると、俺とアスナはしゃがみこんだままフウ、と息を吐き出した。
「……あの噂、本当だったんだ……」
俺のコートにくるまったまま、アスナが小声で呟いた。
「噂?」
「うん。ギルドの例会で聞いたんだけど、〈軍〉が方針変更して上層エリアに出てくるらしいって。もともとはあそこもクリアを目指す集団だったんだよね。でも25層攻略の時大きな被害が出てから、クリアよりも組織強化って感じになって、前線に来なくなったじゃない。それで、最近一般の所属プレイヤーに不満が出てるって情報だったわ。――で、前みたいに大人数で迷宮に入って混乱するよりも少数精鋭部隊を送って、その戦果でクリアの意思を示すっていう方針になったらしいの。その第一陣がそろそろ現れるだろうって団長が言ってた」
「実質プロパガンダなのか。でも、だからっていきなり未踏破層に来て大丈夫なのか……? レベルはそこそこありそうだったけどな……」
「ひょっとしたら……ボスモンスター攻略を狙ってるのかも……」
各層の迷宮区には、上層へとつながる階段を守護するボスモンスターが必ず存在する。一度しか出現せず、恐ろしいほどの強さを誇るが、確かに倒した時の話題性は抜群だ。さぞかしいい宣伝になることだろう。
「それであの人数か……。でもいくらなんでも無茶だ。74層のボスはまだ誰も見たことないんだぜ。普通は偵察に偵察を重ねた上でボスの戦力と傾向を確認して、巨大パーティーを募って攻略するもんだ」
「ボス攻略だけはギルド間で協力するもんね。あの人たちもそうする気かな……?」
「どうかな……。まあ、連中もぶっつけでボスに挑むほど無謀じゃないだろ。俺たちも急ごうぜ。中でかち合わなきゃいいけど」
俺はアスナと密着した状況を名残惜しく思いながら立ち上がった。コートから出たアスナが寒そうに体をすくめる。
「もうすぐ冬だねえ……。ついでにわたしも上着買お。それどこで買ったやつ?」
「む……たしかアルゲード西区のプレイヤーショップだけど……」
「よーし、冒険終わったらそこ行こう! 買い物買い物」
アスナはやけに嬉しそうにぴょんと跳ねると、身軽な動作で三メートルは下の小道に飛び降りた。俺もそれにならう。筋力パラメータ補正のお陰でこのくらいの高さなら無いも同然だ。
太陽がそろそろ中天に達しようという時刻になっていた。俺とアスナはマップに気を配りつつ可能な限りのスピードで先を急いだ。
幸い一度もモンスターに遭遇することもなく森を抜けると、そこかしこに水色の花が点在する草原が広がっていた。道は真中を貫いて西に伸び、その先に74層の迷宮区が威容を見せてそびえ立っている。
迷宮区、と言ってもいわゆるダンジョン=地下迷宮とは違い、アインクラッドのそれは地面と、はるか百メートル上空の新フロアを繋ぐ巨大な塔と言ってよい。その形は様々だがたいてい直径は高さの二倍以上、内部は複雑に入り組んだ無数の部屋と通路が多層構造をなしてプレイヤーを待ち受けている。出現するモンスターの危険度もフィールドとは比べ物にならない。
この迷宮区の、たいがい最上部にはひときわ大きな部屋があり、次層――この場合は75層となる――へと繋がる階段を凶悪なボスモンスターが守護している。そこを突破して次層の主街区に到達し、転移門をアクティブ化すれば晴れて一フロアの攻略達成となる。「街びらき」のときは新たな風物を求めてプレイヤーが下層のあちこちから殺到し、街全体がお祭り騒ぎとなってそれは賑やかなものだ。現在の最前線74層の攻略が開始されて今日で九日目、そろそろボスの部屋が発見されてもいい頃ではある。
草原の向こうにそびえ立つ巨塔は、赤褐色の砂岩で組み上げられた円形の構造物だった。俺もアスナももう何度も訪れている場所だが、徐々に近づくにつれ天を覆い隠さんばかりのその威容に圧倒されずにはいられない。これがアインクラッド全体の百分の一の高さなのだ。願って詮無いことではあるが、いつか外部から浮遊巨大城の全景を眺めてみたいというのが俺の密かな夢だった。
軍の連中の姿は見えない。すでに内部にいるのだろう。俺達はつい早足になりながら、ようやく近づいてきた迷宮区の入り口に向かって近づいていった。
9
ギルド血盟騎士団が最強の座を不動のものとしたのは一年以上も前のことである。その頃から、『伝説の男』ことギルドリーダーはもちろんサブリーダーのアスナもトップ剣士として名を知られ、閃光の二つ名をアインクラッド中に轟かせていた。それから一年、細剣使いとしてスキル構成の完成を見たアスナの対モンスター戦闘を俺は初めて間近で目にする機会を得た。
74層迷宮区の最上部近く、左右に円柱の立ち並んだ長い回廊に俺達は居た。戦闘の真っ最中。敵は〈デモニッシュサーバント〉の名を持つ骸骨の剣士だ。身長二メートルを超えるその体は不気味な青い燐光をまとった人骨で、右手に長い直剣、左手に円形の金属盾を装備している。当然だが筋肉などひとかけらも無いくせに恐ろしい筋力パラメータを持った厄介な相手である。だが、アスナはその難敵をむこうに一歩も引かなかった。
骸骨の剣が青い残光を引きながら立て続けに垂直に打ち下ろされた。四連続技〈バーチカルスクェア〉。数歩下がった位置から俺がハラハラしつつ見守る中、アスナは左右への華麗なステップでその攻撃全てを避けきってみせた。
たとえ二対一の状況とはいえ、武器を装備した相手だとこちらが二人同時に打ちかかれる訳ではない。システム的には不可能ではないが、目にも止まらぬ高速で武器が飛び交う刃圏に味方が近接していると、お互いの技を邪魔しあってしまうデメリットのほうが大きい。そこで、パーティープレイでの戦闘では高度な連携が要求される〈スイッチ〉というテクニックが用いられる。
四連撃最後の大振りをかわされたデモニッシュサーバントが僅かに体勢を崩した。その隙を見逃さずアスナは反撃に転じた。白銀にきらめく細剣を中段に突き入れる。見事にヒット、骸骨のHPバーが減少する。一撃のダメージは大きいとは言えないが、何しろその手数がすさまじい。
中段の突きを三連続させたあと、ガードが上がり気味になった敵の下半身に一転して切り払い攻撃を往復。次いで斜めに斬り上がった剣先が、純白のエフェクト光を撒き散らしながら上段に二度突きの強攻撃を浴びせる。なんと八連続攻撃だ。確か〈スター・スプラッシュ〉という名のハイレベル細剣技である。もともと細剣と相性が悪い骸骨系のモンスターを相手にその剣先を的確にヒットさせてゆく技量は尋常ではない。
骸骨のHPバーを三割削り取った威力もさることながら、使用者を含めたそのあまりの華麗さに俺は思わず見とれた。剣舞とはまさにこの事だ。
放心した俺に、まるで背中に目がついているかのようなアスナの声が飛んだ。
「キリト君、スイッチ行くよ!!」
「お、おう!」
あわてて剣を構えなおす。同時に、アスナは単発の強烈な突き技を放った。その剣先は、骸骨の左手の金属盾に阻まれ派手な火花を散らした。しかしこれは予定の結果だ。重い攻撃をガードした敵はごく僅かな硬直時間を課せられ、すぐに攻撃に転じることができない。無論大技をガードされたアスナも硬直を強いられるが、重要なのはその「間」だった。
俺は間髪入れず突進系の技で敵の正面に飛び込んだ。わざと戦闘中にブレイク・ポイントを作り出し、仲間と交代するのが〈スイッチ〉である。
アスナが十分な距離を取って退くのを視界の端で確認した俺は、右手の剣をしっかり握りなおすと猛然と敵に打ちかかった。彼女程の達人なら別だが、基本的にはこのデモニッシュ・サーバントのような隙間の多い敵には突き技よりも斬り技の方が有効だ。最も相性がいいのはメイス系の打撃武器だが、俺も、多分アスナも打撃系のスキルは持っていない。
俺が繰り出した〈バーチカル・スクェア〉は四回とも面白いように敵にヒットし、HPを大きく削り取った。骸骨の反応が鈍い。モンスターのAIには、突然剣技の種類を切り替えられると対応に時間がかかるという特徴があるからだ。これがパーティーでの戦闘を行う最大のメリットの一つである。
敵の反撃を武器でパリィ防御した俺は、勝負を決めるべく大技を開始した。いきなり右斜め斬り降ろしの強攻撃から、手首を返してゴルフスイングのように同じ軌道を逆戻りして斬り上げる。敵の骨だけの体を剣先が捉えるたび、ガツンという衝撃音と共にオレンジ色の光芒が飛び散る。上段の剣を受け止めるべく盾を上げる敵の思惑を外して、俺は左肩口から体当たりを敢行。姿勢をぐらつかせた骸骨の、がら空きの胴体めがけて右水平斬りを放つ。間髪入れず今度は右の肩から再び体当たり。強攻撃を連続させる隙をタックルで埋める珍しい技、〈メテオブレイク〉だ。自慢ではないが片手剣の他に体術スキルもないと使うことはできない。
ここまでの攻撃で、敵のHPバーは大きく減少して瀕死領域に入っていた。俺は、全身の力を込めて七連撃最後の上段左水平斬りを繰り出した。エフェクト光の円弧を引きながら、剣は狙い違わず骸骨の首に吸い込まれるように命中。骨が断ち切られ、頭蓋骨が勢い良く宙に舞うのと同時に、残った体は糸が切れたように乾いた音を立てて崩れ落ちた。
「やった!!」
剣を収めた俺の背中にアスナが飛びついてきた。
戦利品の分配は後回しにして、俺とアスナは先に進むことにした。ここまで四回モンスターと遭遇したが、ほとんどダメージを負うことなく切り抜けている。大技の連発を好む俺のスタイルに対してアスナは小、中の多段攻撃を得意とし、敵のAIに負荷を与え――もちろんCPUの処理能力という意味ではなく、あくまでアルゴリズムの範囲内においてだが――戦闘を有利に運ぶという面では二人の剣技の相性は悪くないと言って良いだろう。多分レベルもそう大差ないはずだ。
俺達は円柱の立ち並ぶ荘厳な回廊を慎重に進んだ。索敵スキルのせいで不意打ちの心配は無いとは言え固い石の床に反響する足音をつい気にしてしまう。迷宮の中に光源は存在しないが、周囲は不思議な淡い光に満たされて視界に不自由することはない。
その光に照らし出される回廊の様子を注意深く見渡してみる。下部では赤茶けた砂岩で出来ていた迷宮だが、登るにつれいつのまにか素材が濡れたような青味を帯びた石に変化してきていた。円柱には華麗だが不気味な彫刻が施され、根元は一段低くなった水路の中に没している。総じて言えば、オブジェクトが重くなってきているのだ。マップデータの空白部分もあと僅かである。俺の直感が正しければこの先には多分――。
回廊の突き当たりには、灰青色の金属で出来た巨大な両開きの扉が待ち受けていた。扉にも、円柱と同じような怪物のレリーフがびっしりと施してある。すべてがデジタルデータで出来たこの世界だが、その扉からは何とも言いがたい妖気が湧き上っているように感じられてならない。俺たちはその前で立ち止まると、顔を見合わせた。
「……これって、やっぱり……」
「多分そうだろうな……ボスの部屋だ」
アスナがぎゅっと俺の手を握ってきた。
「どうするの……? 覗くだけ覗いてみる?」
強気なその台詞とは裏腹に声は不安を色濃くにじませている。最強剣士でもやっぱりこういうシチュエーションは怖いと見える。まあそれも当然だ、俺だって怖い。
「……ボスモンスターはその守護する部屋からは絶対に出ない。ドアを開けるだけなら多分……だ、大丈夫……じゃないかな……」
自信無さそうに消える語尾に、アスナがとほほという表情で応じる。
「一応転移アイテム用意しといてくれ」
「うん」
頷くと、スカートのポケットから青いクリスタルを取り出した。俺もそれにならう。
「いいな……開けるぞ……」
右手でアスナの手をしっかり握り締め、俺は結晶を握りこんだ左手を鉄扉にかけた。現実世界なら今ごろ手の平が汗でびっしょりだろう。ゆっくりと力を込めると、俺の身長の倍はあるだろう巨大な扉は思いがけず滑らかに動き始めた。一度動き出すと、こちらが慌てる程のスピードで左右の扉が連動して開いてゆく。俺とアスナが息を詰めて見守る中、完全に開ききった大扉はずしんという衝撃と共に止まり、内部に隠していたものをさらけ出した。
――と言っても内部は完全な暗闇だった。俺たちの立つ回廊を満たす光も、部屋の中までは届かないらしい。冷気を含んだ濃密な闇は、いくら目を凝らしても見透かすことができない。
「…………」
俺が口を開こうとした瞬間、突然入り口からわずかに離れた床の両側に、ボッと音を立てて二つの青白い炎が燃え上がった。思わず二人同時にビクリと体をすくませてしまう。すぐに、少し離れた場所にまた二つ炎が湧き上がった。そしてもう一組。さらにもう一組。ボボボボボ……という連続音と共に、たちまち入り口から部屋の中央に向かってまっすぐに炎の道が出来上がる。最後に一際大きな火柱が吹き上がり、同時に奥行きのある長方形の部屋全体が薄青い光に照らし出された。かなり広い。マップの残り空白部分がこの部屋だけで埋まるサイズだ。
アスナが緊張に耐えかねたように全身で俺にしがみついてきた。だが俺にもその感触を楽しむ余裕など砂粒ほどもない。なぜなら、激しく揺れる火柱の後ろから徐々に巨大な姿が出現しつつあったからだ。
見上げるようなその体躯は、全身縄のように盛り上がった筋肉に包まれている。肌は周囲の炎に負けぬ深い青、分厚い胸板の上に乗った頭は人間ではなく山羊のそれだった。頭の両側からはねじれた太い角が後方にそそり立っている。眼は、これも青白く燃えているかのような輝きを放っているが、その視線は明らかにこちらにひたと据えられているのがわかる。下半身は濃紺の長い毛に包まれ、炎に隠れてよく見えないがそれも人ではなく動物のもののようだ。簡単に言えばいわゆる悪魔の姿そのものである。
入り口から、奴のいる部屋の中央まではかなりの距離があった。にもかかわらず俺たちはすくんだように動けなかった。今までそれこそ無数のモンスターと戦ってきたが、悪魔型というのは始めてだ。色々なRPGでお馴染みと言ってよいその姿だが、こうやって「直」に対面すると体の内側から湧き上がる原始的な恐怖心を抑えることが出来ない。
恐る恐る視線を凝らし、出てきたカーソルの文字を読む。〈The Gleameyes〉、間違いなくこの層のボスモンスターだ。名前に定冠詞がつくのはその証である。グリームアイズ――輝く目、か。
そこまで読み取った時、突然青い悪魔が長く伸びた鼻面を振り上げ、轟くような雄叫びを上げた。炎の列が激しく揺らぎ、びりびりと振動が床を伝わってくる。口と鼻から青白く燃える呼気を噴出しながら、右手に持った巨大な剣をかざして――と思う間も無く、青い悪魔は真っ直ぐこちらに向かって、地響きを立てつつ猛烈なスピードで走り寄ってきた。
「うわあああああ!」
「きゃあああああ!」
俺たちは同時に悲鳴を上げ、くるりと向き直ると全力でダッシュした。ボスモンスターは部屋から出ない、という原則を頭では判っていてもとても踏みとどまれるものではない。鍛え上げた敏捷度パラメータに物を言わせ、俺とアスナは長い回廊を疾風のごとく駆け抜け、遁走した。
10
俺とアスナは迷宮区の中ほどに設けられた安全エリア目指して一心不乱に駆け抜けた。途中何度かモンスターにターゲットされたような気がするが、正直構っていられなかった。
安全エリアに指定されている広い部屋に飛び込み、並んで壁際にずるずるとへたり込む。大きく一息ついてお互い顔を見合わせると、
「……ぷっ」
どちらともなく笑いがこみ上げてきた。冷静にマップなりで確認すれば、やはりあの巨大悪魔が部屋から出てこないのはすぐにわかったはずだが、どうしても立ち止まる気にはならなかったのだ。
「あはは、やー、逃げた逃げた!」
アスナは床にぺたりと座り込んで、愉快そうに笑った。
「こんなに一生懸命走ったのすっごい久しぶりだよー。まぁ、わたしよりキリト君のほうが凄かったけどね!」
「…………」
否定できない。憮然とした俺の表情を眺めながら散々くすくす言い続けたアスナは、ようやく笑いを収めると、
「……あれは苦労しそうだね……」と表情を引き締めた。
「そうだな。パッと見、武装は大型剣ひとつだけど特殊攻撃アリだろうな」
「前衛に固い人を集めてどんどんスイッチして行くしかないね」
「盾アリの奴が十人は欲しいな……。まあ、当面は少しずつちょっかい出して傾向と対策って奴を練るしかなさそうだ」
「盾あり、ねえ」
アスナが意味ありげな視線でこちらを見た。
「な、なんだよ」
「キリト君、なんか隠し技があるでしょ」
「いきなり何を……」
「だっておかしいもん。普通片手剣の最大のメリットって盾装備できることじゃない。でもキリト君が盾持ってるとこ見たことないよ。わたしの場合は細剣のスピードが落ちるからだし、スタイル優先で盾持たないって人もいるけど、キリト君の場合はどっちでもないよね。……あやしいなぁ」
図星だった。確かに俺には隠している技がある。しかし今まで一度として人前では使ったことがない。スキル情報が大事な生命線だということもあるし、またその技を知られることは俺と周囲の人間とのあいだに更なる隔絶を生むことになるだろうと思ったからだ。
だが、この女になら――知られても構わないか……。
そう思って口を開こうとした時、
「まあ、いいわ。スキルの詮索はマナー違反だもんね」
ニコッと笑われてしまった。機先を制された格好で俺は口をつぐむ。アスナは左手をひらりと動かしてウインドウを確認し、目を丸くした。
「わあ、もう三時だね。遅くなっちゃったけどお弁当にしよっか」
「なにっ」
途端に色めき立つ俺。
「て、手作りですか」
アスナは無言ですました笑みを浮かべると、手早くメニューを操作し、白革の手袋を装備解除して小ぶりな藤のバスケットを出現させた。この女とコンビを組んで確実に良かった事が、少なくとも一つはあるな――と不埒な思考を巡らせた瞬間、じろりと睨まれてしまう。
「……なんか考えてるでしょ」
「な、なにも。それより早く食わせてくれ」
むー、という感じで唇を尖らせながらも、アスナはバスケットから大きな紙包みを二つ取り出し、一つを俺にくれた。慌てて開けると中身は、丸いパンをスライスして焼いた肉や野菜をふんだんに挟み込んだサンドイッチだった。胡椒に似た香ばしい匂いが漂う。途端に俺は猛烈な空腹を感じて、物も言わず大口を開けてかぶりついた。
「う……うまい……」
二口みくち立て続けに齧り、夢中で飲み込むと素直な感想が口をついて出た。アインクラッドのNPCレストランで供される、どこか異国風の料理に外見は似ているが味付けが違う。ちょっと濃い目の甘辛さは、紛うことなく二年前まで頻繁に食べていた日本風ファーストフードと同系列の味だ。あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになりながら、俺は大きなサンドイッチを夢中で頬張りつづけた。
最後のひとかけらを飲み込み、アスナの差し出してくれた冷たいお茶を一気にあおって俺はようやく息をついた。
「おまえ、この味、どうやって……」
「一年の修行と研鑚の成果よ。アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が味覚再生エンジンに与えるパラメータをぜ~~~んぶ解析して、これを作ったの。こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」
言いながらアスナはバスケットから小瓶を二つ取り出し、片方の栓を抜いて人差し指を突っ込んだ。どうにも形容しがたい紫色のどろりとした物が付着した指を、いきなり俺の口に突っ込む。
「!?」
大胆なアスナの行為にドギマギするのも束の間、口の中に広がった味に俺は心底驚愕した。
「……マヨネーズだ!!」
「で、こっちがアビルパ豆とサグの葉とウーラフィッシュの骨」
最後のは解毒ポーションの原料だった気がしたが、確認する間もなく再び口に指を突っ込まれてしまった。その味に、俺は先刻を大きく上回る衝撃を感じた。間違いなく醤油の味そのものだ。あまりの懐かしさに、思わず口中のアスナの指を思い切り舐めまわしてしまう。
「あ、やっ!!」
慌てて指を引き抜いたアスナは真っ赤な顔でこっちを睨んだが、俺の呆け面を見てぷっと吹き出した。
「さっきのサンドイッチのソースはこれで作ったのよ」
「…………すごい。完璧だ。おまえこれ売り出したらすっごく儲かるぞ」
正直、俺には昨日のラグー・ラビットの料理よりも今日のサンドイッチのほうが旨く感じられた。
「そ、そうかな」
アスナは照れたような笑みを浮かべる。
「いや、やっぱりだめだ。俺の分が無くなったら困る」
「意地汚いなあもう! いつでも作ってあげるわよ。……毎日でも」
最後の一言を小声で付け足すと、アスナは横に並んだ俺の肩にとん、と頭をもたれ掛けさせた。ここが死地の真っ只中だということも忘れてしまうような穏やかな沈黙が周囲に満ちる。こんな料理が毎日食えるなら節を曲げてセルムブルグに引っ越すかな……アスナの家のそばに……とふと思いつき、それを口にしようとしたとき。
不意に下層側の入り口からプレイヤーの一団が鎧をガチャガチャ言わせながら入ってきた。俺達は瞬間的にパッと離れて座りなおす。
いいところで邪魔をしてくれた六人パーティーのリーダーは、顔見知りのカタナ使いだった。最前線ではよく会うし、ボス攻略では何度か共闘したこともある。気のいい男だが、今だけはうらめしい。
「おお、キリト! しばらくだな」
俺だと気付いて笑顔で近寄ってきたカタナ使いと、腰を上げて挨拶を交わす。
「……まだ生きてたかクライン」
「相変わらず愛想のねえ野郎だ。珍しく連れがいるの……か……」
荷物を手早く片付けて立ち上がったアスナを見て、カタナ使いは額に巻いた趣味の悪いバンダナの下の目を丸くした。
「あー……っと、こいつはギルド〈風林火山〉のクライン。で、こっちは〈血盟騎士団〉のアスナ」
俺の紹介にアスナはぺこんと頭を下げたが、クラインは目のほかに口もまるく開けて完全停止した。
「おい、何とか言え。ラグってんのか?」
ひじでわき腹をつついてやるとようやく口を閉じ、凄い勢いで最敬礼気味に頭を下げる。
「はっ、はじめまして!! く、クラインという者です二十四歳独身」
どさくさに紛れて妙なことを口走るカタナ使いのわき腹をもう一度今度は強めにどやしつける。だが、クラインの台詞が終わるか終わらないうちに後ろに下がっていた五人のパーティーメンバーがガシャガシャ駆け寄ってきて、全員我先にと口を開いて自己紹介を始めた。
俺は呆れて振り返ると、アスナに向かって言った。
「……ま、まあ、悪い連中じゃないから。顔はまずいがな」
今度は俺の足をクラインが思い切り踏みつける。その様子を見ていたアスナが、我慢しきれないというふうに体を折るとくっくっと笑いはじめた。クラインは照れたようなだらしない笑顔を浮かべていたが、突然我に返って俺の腕を掴むと、抑えつつも殺気のこもった声で聞いてきた。
「どっどどどういう事だよキリト!?」
返答に窮した俺の傍らにアスナが進み出てきて、
「はじめまして、アスナといいます。キリト君とコンビ組みますので今後ともよろしくお願いします!」
よく通る声で言い、もういちどぺコッと頭を下げた。俺はもうヤケで両腰に手を当て、胸を張った。
「まあそういう事だ」
クライン達が表情を落胆と憤怒の間で目まぐるしく変える。これはただでは解放されそうもないぜ……と俺が覚悟を決めた時。
先ほど連中がやってきた方向から新たな一団の訪れを告げる足音と金属音が響いてきた。やたらと規則正しいその音に、アスナが緊張した表情で俺の腕に触れ、ささやいた。
「キリト君、〈軍〉よ!」
ハッとして入り口を注視するうち、果たして現れたのは森で見かけたあの部隊だった。クラインがサッと手を上げて仲間の五人を壁際に下がらせる。例によって二列縦隊で部屋に入ってきた集団の行進は、しかし森で見た時ほど整然とはしていなかった。足取りは重く、ヘルメットから覗く表情にも疲弊の色が見て取れる。
安全エリアの、俺たちとは反対側の端に部隊は停止した。先頭にいた男が「休め」と言った途端、残り十一人が盛大な音とともに倒れるように座り込んだ。男は、仲間の様子に目もくれずにこちらに向かって近づいてきた。
よくよく見ると、男の装備は他の十一人とはやや異なるようだった。金属鎧も高級品だし、胸部分に他の者には無い、アインクラッド全景を意匠化したらしき紋章が描かれている。
男は俺達の前で立ち止まると、ヘルメットを外した。かなりの長身だ。三十代前半といったところだろうか、ごく短い髪に角張った顔立ち、太い眉の下には小さく鋭い眼が光り、口元は固く引き結ばれている。じろりとこちらを横柄な視線で睥睨すると、先頭に立っていた俺に向かって口を開いた。
「私はアインクラッド解放軍・コーバッツ中佐だ」
なんと。〈軍〉というのは、その集団外部の者が揶揄的につけた呼称のはずだったが、いつから正式名称になったのだろう。そのうえ中佐と来た。俺はやや辟易しながら、
「キリト。ソロだ」と短く名乗った。
男は軽くうなずくと、
「君たちはもうこの先も攻略しているのか?」
「ああ。ボス部屋の手前まではマッピングしてある」
「うむ。ではそのマップデータを提供して頂きたい」
当然だ、と言わんばかりの男の台詞に俺も少なからず驚いたが、後ろにいたクラインはそれどころではなかった。
「な……て……提供しろだと!? 手前ェ、マッピングする苦労がわかって言ってんのか!?」
胴間声で喚く。未攻略区域のマップデータは貴重な情報だ。トレジャーボックス狙いの鍵開け屋の間では高値で取引されている。
クラインの声を聞いた途端男は片方の眉をぴくりと動かし、ぐいとアゴを突き出すと、
「我々は君ら一般プレイヤーの解放の為に戦っている!」
大声を張り上げた。続けて、
「諸君が協力するのは当然の義務である!」
……傲岸不遜とはこのことだ。ここ一年は軍が積極的にフロア攻略に乗り出してきたことはほとんど無いはずだが。
「ちょっと、あなたねえ……」
「て、てめぇなぁ……」
左右から激発寸前の声を出すアスナとクラインを、しかし俺は両手で制した。
「どうせ街に戻ったら公開しようと思っていたデータだ、構わないさ」
「おいおい、そりゃあ人が好すぎるぜキリト」
「マップデータで商売する気はないよ」
言いながらトレードウインドウを出し、コーバッツ中佐と名乗る男に迷宮区のデータを送信した。男は表情一つ動かさずそれを受信すると、「協力感謝する」と感謝の気持ちなどかけらも無さそうな声で言い、くるりと後ろを向いた。その背中に向かって声をかける。
「ボスにちょっかい出す気ならやめといたほうがいいぜ」
コーバッツはわずかにこちらを振り向いた。
「……それは私が判断する」
「さっきちょっとボス部屋を覗いてきたけど、生半可な人数でどうこうなる相手じゃないぜ。仲間も消耗してるみたいじゃないか」
「……私の部下はこの程度で音を上げるような軟弱者ではない!」
部下、という所を強調してコーバッツは苛立ったように言ったが、床に座り込んだままの当の部下達は同意しているふうには見えなかった。
「貴様等さっさと立て!」
というコーバッツの声にのろのろ立ち上がり、二列縦隊に整列する。コーバッツは最早こちらには目もくれずその先頭に立つと、片手を上げてサッと振り下ろした。十二人はガシャリと一斉に武器を構え、重々しい装備を鳴らしながら進軍を再開した。
見かけ上のHPは満タンでも、SAO内での緊迫した戦闘は目に見えぬ疲労を残す。あちらの世界に置き去りの実際の肉体はぴくりとも動いていないはずだが、その疲労感はこちらで睡眠・休息を取るまで消えることはない。俺が見たところ、軍のプレイヤー達は慣れぬ最前線での戦闘で限界近くまで消耗しているようだった。
「……大丈夫なのかよあの連中……」
軍の部隊が上層部へと続く出口に消え、規則正しい足音も聞こえなくなった頃、クラインが気遣わしげな声で言った。まったく人のいい奴だ。
「いくらなんでもぶっつけ本番でボスに挑んだりしないと思うけど……」
アスナもやや心配そうだ。確かにあのコーバッツ中佐という奴の言動には、どこか無謀さを感じさせるものがあった。
「……一応様子だけでも見に行くか……?」
俺が言うと、二人だけでなくクラインの部下五人も相次いで首肯した。
「どっちがお人好しなんだか」
言いながらも、俺も肚を決めていた。俺達は装備を確認すると、ふたたび迷宮区上層へと足を踏み入れた。
11
途中で運悪くリザードマンロード二匹に遭遇してしまい、俺たち八人が最上部の回廊に到達した時には安全エリアを出てから三十分が経過していた。途中で軍の連中に追いつくことはなかった。
「ひょっとしてもうアイテムで帰っちまったんじゃねえ?」
おどけたようにクラインが言ったが、俺たちは皆そうではないだろうと感じていた。長い回廊を進む足取りが自然と速くなる。
半ば程まで進んだ時、不安が的中したことを知らせる音が回廊内を反響しながら俺たちの耳に届いてきた。咄嗟に立ち止まり耳を澄ませる。
「あぁぁぁぁぁ…………」
かすかに聞こえたそれはまちがいなく悲鳴だ。モンスターのものではない。俺たちは顔を見合わせると、一斉に駆け出した。敏捷性パラメータに優る俺とアスナがクライン達を引き離してしまう格好になったが、この際構っていられない。青く光る濡れた石畳の上を、先程とは逆の方向に風の如く疾駆する。やがて、彼方に大扉が見えてきた。それは左右に大きく開き、内部の闇で燃え盛る青い炎の揺らめきが見て取れる。そしてその向こうで蠢く巨大な影。断続的に響いてくる金属音。そして悲鳴。
「バカッ……!」
アスナが悲痛な叫びを上げると、更にスピードを上げた。俺も追随する。システムアシストの限界ぎりぎりの速度だ。ほとんど地に足をつけず、飛んでいるに等しい。回廊の両脇に立つ柱が猛烈なスピードで後ろに流れていく。
扉の手前で俺とアスナは急激な減速をかけ、ブーツの鋲から火花を撒き散らしながら入り口ギリギリで停止した。
「おい! 大丈夫か!」
叫びつつ半身を乗り入れる。扉の内部は――地獄絵図だった。
床一面、格子状に青白い炎が噴き上げている。その中央で、こちらに背を向けて屹立する一際輝く巨体。青い悪魔ザ・グリームアイズだ。禍々しい山羊の頭部から燃えるような呼気を噴き出しながら、右手の斬馬刀とでもいうべき巨剣を縦横に振り回している。まだHPバーは三割も減っていない。その向こうで必死に逃げ惑う、悪魔と比べて余りに小さな影。軍の部隊だ。もう統制も何もあったものではない。咄嗟に人数を確認するが、二人足りない。転移アイテムで離脱したのであればいいが――。
そう思う間にも、一人が斬馬刀の横腹で薙ぎ払われ、床を激しく転がった。HPバーが赤い危険域に突入している。どうしてそんなことになったのか、軍と、俺達のいる入り口との間に悪魔が陣取っており、これでは離脱もままならない。俺は倒れたプレイヤーに向かって大声を上げた。
「何をしている! 早く転移アイテムを使え!!」
だが、男はさっとこちらに顔を向けると、炎に青く照らし出された明らかな絶望の表情で叫び返してきた。
「だめだ……! く……クリスタルが使えない!!」
「な……」
思わず絶句する。この部屋は結晶無効化空間なのか。迷宮区で稀に見られるトラップだが、ボスの部屋がそうであったことは今まで無かった。
「なんてこと……!」
アスナが息を飲む。これではうかつに助けにも入れない。その時、悪魔の向こう側で一人のプレイヤーが剣を高く掲げ、怒号を上げた。
「何を言うか……ッ!! 我々解放軍に撤退の二文字は有り得ない!! 戦え!! 戦うんだ!!」
間違いなくコーバッツの声だ。
「馬鹿野郎……!!」
俺は思わず叫んでいた。結晶無効化空間で……二人居なくなっているということは……死んだ、消滅したという事だ。それだけはあってはならない事態なのに、あの男は今更何を言っているのか。全身の血が沸騰するような憤りを覚える。
その時、ようやくクライン達六人が追いついてきた。
「おい、どうなってるんだ!!」
俺は手早く事態を伝える。クラインの顔が歪む。
「な……何とかできないのかよ……」
俺たちが斬り込んで連中の退路を拓くことは出来るかもしれない。だが、緊急脱出不可能なこの空間で、こちらに死者が出る可能性は捨てきれない。あまりにも人数が少なすぎる。俺が逡巡しているうち、悪魔の向こうでどうにか部隊を立て直したらしいコーバッツの声が響いた。
「全員……突撃……!」
十人のうち、二人はHPバーを限界まで減らして床に倒れている。残る八人を四人ずつの横列に並べ、その中央に立ったコーバッツが剣をかざして突進を始めた。
「やめろ……っ!!」
だが俺の叫びは届かない。余りに無謀な突撃。八人で一斉に飛び掛っても、満足に剣技を振るうことが出来ず混乱するだけだ。それよりも防御主体の態勢で一人が少しずつダメージを与え、次々にスイッチしてゆくべきなのに……。
悪魔は仁王立ちになると、地響きを伴う雄叫びと共に口から大量の噴気を撒き散らした。どうやらあの息にもダメージ判定があるらしく、青白い輝きに包まれた八人の突撃の勢いが緩む。そこに、すかさず悪魔の巨剣が突き立てられた。一人がすくい上げられるように斬り飛ばされ、悪魔の頭上を越えて俺達の眼前の床に激しく落下した。
コーバッツだった。HPバーが消滅していた。奴と俺の目が合う。自分の身に起きたことが理解できないという表情。口がゆっくりと動く。
――ありえない。
無音でそう言った直後、コーバッツの体は神経を逆撫でするような効果音と共に無数の輝く砕片となって飛散した。余りにもあっけない消滅。俺の傍らでアスナが短い悲鳴を上げる。
リーダーを失った軍のパーティーはたちまち瓦解した。喚き声を上げながら逃げ惑う。もう全員のHPバーが半分を割り込んでいる。
「だめ……だめよ……もう……」
絞り出すようなアスナの声に、俺はハッとして横を見た。咄嗟に腕を掴もうとする。
だが一瞬遅かった。
「だめ――――ッ!!」
絶叫と共に、アスナは疾風の如く駆け出した。空中で抜いた細剣と共に、一筋の閃光となってグリームアイズに突っ込んでゆく。
「ええい!」
俺は毒づきながら、剣を抜きアスナの後を追った。
「どうとでもなりやがれ!!」
クライン達がときの声を上げつつ追随してくる。
アスナの捨て身の一撃は、不意を突く形で悪魔の背に命中した。だがHPはろくに減っていない。グリームアイズは怒りの叫びと共に向き直ると、猛烈なスピードで斬馬刀を振り下ろした。アスナは咄嗟に身をかわしたが、完全には避けきれず余波で地面に倒れこんだ。そこに、連撃の次弾が容赦なく降り注ぐ。
「アスナ―――ッ!!」
俺は身も凍る恐怖を味わいながら、必死にアスナと斬馬刀の間に身を躍らせた。ぎりぎりのタイミングで、俺の剣が悪魔の攻撃を弾く。途方もない衝撃。
「下がれ!!」
叫ぶと、俺は悪魔の追撃に備えた。そのどれもが致命的とさえ思える圧倒的な威力で、剣が次々と襲い掛かってくる。とても反撃を差し挟む隙などない。グリームアイズの使う技は基本的に両手用大剣技だが、微妙なカスタマイズのせいで先読みがままならない。俺は全神経を集中したパリィとステップで防御に徹するが一撃の威力がすさまじく、時々かすめる剣先によってHPがじりじりと減少してゆく。
視界の端では、クラインの仲間達が倒れた軍のプレイヤーを部屋の外に引き出そうとしているのが見える。だが中央で俺と悪魔が戦っているため、その動きは遅々として進まない。
「ぐっ!!」
とうとう敵の一撃が俺の体を捉えた。痺れるような衝撃。HPバーがぐいっと減少する。このままではとても支えきれない。死の恐怖が、凍るような冷たさとなって俺の全身を駆け巡る。最早離脱する余裕すら無い。
残された選択肢は一つだけだ。俺の全てを以って立ち向かうしかない。
「アスナ! クライン! 十秒持ちこたえてくれ!」
俺は叫ぶと、右手の剣を強振して悪魔の攻撃を弾き、無理やりブレイクポイントを作って床に転がった。間髪入れず飛び込んできたクラインがカタナで応戦する。だが奴のカタナも、アスナの細剣も速度重視の武器で重さに欠ける。とても悪魔の巨剣は捌ききれないだろう。俺は床に転がったまま左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。
ここからの操作にはワンミスも許されない。早鐘のような鼓動を押さえつけ、俺は右手の指を動かす。所持アイテムのリストをスクロールし、一つを選び出してオブジェクト化する。装備フィギュアの、空白になっている部分にそのアイテムを設定。スキルウインドウを開き、選択している武器スキルを変更。
すべての操作を終了し、OKボタンにタッチしてウインドウを消すと、背に新たな重みが加わったのを確認して俺は顔を上げて叫んだ。
「いいぞ!!」
クラインは一撃食らったと見えて、HPバーを減らして退いている。本来ならすぐに治療結晶で回復するところだがこの部屋ではそれができない。現在悪魔と対峙しているアスナも、数秒のうちにHPが半分を割り込んでイエロー表示になってしまっている。
俺の声に、背を向けたまま頷くとアスナは裂ぱくの気合とともに突き技を放った。
「イヤァァァァ!!」
純白の残光を引いたその一撃は、空中でグリームアイズの剣と衝突して火花を散らした。両者の動きが一瞬止まる。
「スイッチ!!」
俺は叫ぶと再び悪魔の正面に飛び込んでいった。硬直から回復した悪魔が、大きく剣を振りかぶる。
炎の軌跡を引きながら打ち下ろされてきたその剣を、俺は右手の愛剣で弾き返し、間髪入れず左手を背に回して新たな剣の柄を握った。抜きざまの一撃を悪魔の胴に見舞う。初めてのクリーンヒットで、ようやく奴のHPバーが目に見えて減少する。
「グォォォォォ!!」
憤怒の叫びを洩らしながら、悪魔は再び上段の斬り下ろし攻撃を放ってきた。今度は、両手の剣を交差してそれをしっかりと受け止め、押し返す。奴の体勢が崩れたところに、俺は防戦一方だったいままでの借りを返すべくラッシュを開始した。
右の剣で中段を斬り払う。間を空けずに左の剣を突き入れる。右、左、また右。脳の回路が灼き切れんばかりの速度で俺は剣を振るい続ける。
これが俺の隠し技、エクストラスキル〈二刀流〉だ。その上位剣技〈スターバースト・ストリーム〉。連続十六回攻撃。
「うおおおおおあああ!!」
途中の攻撃がいくつか悪魔の剣に阻まれるのも構わず、俺は絶叫しながら左右の剣を次々敵の体に叩き込み続けた。視界が灼熱し、最早敵の姿以外何も見えない。悪魔の剣が時々俺の体を捉える衝撃すら、どこか遠い世界の出来事のように感じる。全身をアドレナリンが駆け巡り、剣撃を敵に見舞うたび脳神経がスパークする。速く、もっと速く。限界までアクセラレートされた俺の神経には、普段の倍速で二刀を振るうそのリズムすら物足りない。システムのアシストをも上回ろうかという速度で攻撃を放ち続ける。
「…………ぁぁぁああああああ!!」
「ゴァァァアアアアアアアア!!」
気付くと、絶叫しているのは俺だけではなかった。眼前の巨大な悪魔が、天を振り仰いで口と鼻から盛大に噴気を洩らしつつ雄叫びを上げている。
と、その全身が硬直したと思った瞬間、グリームアイズは膨大な青い欠片となって爆散した。部屋中にキラキラと輝く光の粒が降り注ぐ。
終わった……のか……?
俺は戦闘の余熱による眩暈を感じながら、無意識のうちに両の剣を切り払い、背に交差して吊った鞘に同時に収めた。ふと自分のHPバーを確認する。赤いラインが、数ドットの幅で残っていた。他人事のようにそれを眺めながら、俺は全身の力が抜けるのを感じて声もなく床に転がった。意識が暗転した。
SAO1_04_Unicode.txt
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「……くん! キリト君ってば!!」
悲鳴にも似たアスナの叫びに、俺の意識は無理やり呼び起こされた。頭を貫く痛みに顔をしかめながら上体を起こす。
「いててて……」
見渡すと、そこは先ほどのボス部屋だった。まだ空中を青い光の残滓が舞っている。意識を失っていたのは数秒のことらしい。目の前に、ぺたりとしゃがみこんだアスナの顔があった。泣き出す寸前のように眉根を寄せ、唇を噛み締めている。
「バカッ……! 無茶して……!」
嗚咽混じりの声と同時に、俺の首にすごい勢いでしがみついてきた。
「……あんまり締め付けると俺のHPがなくなるぞ」
冗談めかして言うと、アスナは真剣に怒った顔した。直後、口に小さな瓶を突っ込まれてしまう。緑茶にレモンジュースを混ぜたような味の液体が流れ込んでくる。HP回復用のハイ・ポーションだ。これであと五分もすれば数値的にはフル回復するだろうが、頭痛と全身の倦怠感は当分消えないだろう。
アスナは俺が瓶の中身を飲み干したのを確認すると、またしっかり抱きつき、胸に顔を埋めてきた。今度は当分離れそうもない。長い髪をゆっくり撫でてやると、小さくしゃくりあげはじめた。アスナの身体から伝わる暖かさに、ようやく俺にも生き残った実感が湧いてくる。
足音に顔を上げると、クラインが遠慮がちに声を掛けてきた。
「生き残った軍の連中の回復は済ませたが、コーバッツとあと二人死んだ……」
「……そうか。ボス攻略で犠牲者が出たのは67層以来だな」
「こんなのが攻略って言えるかよ。コーバッツの馬鹿野郎が……。死んじゃ何にもなんねえだろうが……」
吐き出すようなクラインの台詞。頭を左右に振ると太いため息をつき、気分を切り替えるように、
「……そりゃあそうと、オメエ何だよさっきのは!?」と聞いてきた。
「……言わなきゃダメか?」
「ったりめえだ! 見たことねえぞあんなの!」
気付くと、アスナを除いた、部屋にいる全員が沈黙して俺の言葉を待っている。
「……エクストラスキルだよ。〈二刀流〉」
おお……というどよめきが、軍の生き残りやクラインの仲間のあいだに流れた。
通常、様々な武器スキルは系統だった修行によって段階的に習得することができる。例えば剣なら、基本の片手直剣スキルがある程度まで成長すると、新たな選択可能スキルとして〈曲刀〉や〈細剣〉、〈両手剣〉などがリストに出現する。
ところが、中にはスキル出現の条件がはっきり判明していない物がある。ランダム条件ではとさえ言われている、それがエクストラスキルと呼ばれるものだ。身近なところでは、クラインの〈カタナ〉も含まれる。もっともカタナスキルはそれほどレアなものではなく、曲刀をしつこく修行していれば出現する場合が多い。
そのように、十数種類知られているエクストラスキルの殆どは最低でも百人以上が習得に成功しているのだが、俺が持つ〈二刀流〉と、ある男のスキルだけはその限りではなかった。この二つは、おそらく習得者がそれぞれ一人しかいないユニークスキルとでも言うべきものだ。今まで俺は二刀流の存在をひた隠しにしていたが、今日から俺の名が二人目のユニークスキル使いとして巷間に流れることになるだろう。これだけの人数の前で披露してしまってはとても隠しおおせるものではない。
「ったく、水臭ぇなあキリト。そんなすげえウラワザ黙ってるなんてよう」
「スキルの出し方が分かってれば隠したりしないさ。でも俺にもさっぱりわからないんだ」
それは本当だった。一年ほど昔のある日何気なくスキルウインドウを見たらその名前が出現していたのだ。きっかけなど見当もつかない。以来、俺は二刀流の修行は常に人の目が無い所でのみ行ってきた。ほぼマスターしてからは、例えソロ攻略中、モンスター相手でもよほどのピンチの時以外使用していない。無論いざという時のための保身という意味もあったが、それ以上に無用な注目を集めるのが嫌だったからだ。いっそ俺の他に早く二刀流を持った奴が出てこないものかと思っていたのだが……。俺は言葉を続けた。
「……こんなレアスキル持ってるなんて知られたら、しつこく聞かれたり……いろいろあるだろう、その……」
クラインが深くうなずいた。
「ネットゲーマーは嫉妬深いからな。俺は人間が出来てるからともかく、妬み嫉みはそりゃああるだろうなあ。それに……」
そこで口をつぐむと、俺にしっかと抱きついたままのアスナを意味ありげに見やり、にやにや笑う。
「……まあ、苦労も修行のうちと思って頑張りたまえ若者よ」
「勝手なことを……」
クラインは腰をかがめて俺の肩をポンと叩くと、振り向いて〈軍〉の生存者達のほうへと歩いていった。
「お前たち、本部まで戻れるか?」
クラインの言葉に一人が頷く。まだ十代とおぼしき男だ。
「よし。今日あったことを上にしっかり伝えるんだ。二度とこういう無謀な真似をしないようにな」
「はい。……あ、あの……有り難うございました」
「礼なら奴に言え」
こちらに向かって親指を振る。軍のプレイヤー達はよろよろと立ち上がると、座り込んだままの俺とアスナに深々と頭を下げ、部屋から出ていった。回廊に出たところで次々と結晶を使いテレポートしてゆく。
その青い光が収まると、クラインはさて、という感じで両手を腰にあて、言った。
「俺たちはこのまま75層の転移門をアクティベートして行くけど、お前はどうする? 今日の立役者だし、お前がやるか?」
「いや、任せるよ。俺はもうヘトヘトだ」
「そうか。……気をつけて帰れよ」
クラインは頷くと仲間に合図した。六人で、部屋の奥にある大扉の方に歩いて行く。その向こうには上層へと繋がる階段があるはずだ。扉の前で立ち止まると、カタナ使いはヒョイと振り向いた。
「あーその……なんだ……。今日は助かった。礼を言う。これからいろいろあるかも知れんが……何かあったらいつでも言ってくれ」
ぶっきらぼうな上に迂遠な言い回しだ。俺は苦笑すると、わかった、と言う代わりに手を上げた。奴は二ッと笑みを浮かべ、扉を開けると仲間と一緒にその向こうへ消えていった。
だだっ広いボス部屋に、俺とアスナだけが残された。床から吹き上げていた青い炎はいつの間にか静まり、部屋全体に渦巻いていた妖気も嘘のように消え去っている。周囲には回廊と同じような柔らかな光が満ち、先程の死闘の痕跡すら残っていない。
まだ俺にしがみついたままのアスナに声をかける。
「おい……アスナ……」
「…………怖かった……キリト君が死んじゃったらどうしようかと……思って……」
涙まじりのその声は、今まで聞いたことがない程かぼそく震えていた。
「……何言ってんだ、先に突っ込んで行ったのはそっちだろう」
言いながら、俺はそっとアスナの背に両腕を回した。その途端、はぁっ、と深い吐息を漏らしてアスナが俺に上体を預けてきた。支えきれず床に仰向けに倒れてしまう。俺の上に乗る格好になったアスナは、そのまま全身を絡ませるようにしっかり抱きついてきた。
「……あんまり派手にやるとハラスメントフラグが立つぞ」
「いいよ……そんなのどうでも……」
無論それには大いに賛成だ。俺たちは長い時間床の上でお互いの体の感触を確かめ合った。たとえデータで出来た擬似的な身体だとしても、生命の暖かさは本物だと、そう思えた。
翌日。
俺は朝からエギルの雑貨屋の二階にシケ込んでいた。まずい茶を不機嫌に啜る。
すでにアルゲード中――いや、多分アインクラッド中が昨日の『事件』で持ちきりだった。フロア攻略、新しい街へのゲート開通だけでも十分な話題なのに、今回はいろいろオマケがついていたからだ。曰く「軍の大部隊を全滅させた悪魔」、曰く「それを単独撃破した二刀流使いの五十連撃」……。尾ひれが付くにも程がある。どうやって調べたのか、俺のねぐらには早朝から剣士やら情報屋が押しかけてきて、脱出するのにわざわざ転移結晶を使うハメになったのだ。
「引っ越してやる……どっかすげえ田舎フロアの絶対見つからないような村に……」
ブツブツつぶやく俺に、エギルがにやにやと笑顔を向けてくる。
「まあ、そう言うな。一度くらいは有名人になってみるのもいいさ」
「他人事だと思いやがって……」
奴は今、俺が昨日の戦闘で手に入れたお宝を鑑定している。時々奇声を上げているところを見るとそれなりに貴重品も含まれているらしい。下取りしてもらった売上げはアスナと山分けすることにしていたが、そのアスナは約束の時間を過ぎてもさっぱり現れない。フレンドメッセージを飛ばしておいたのでここに居ることはわかっているはずだが……。
昨日は、74層の迷宮区でそのまま別れた。アスナはギルドに脱退届けを出してくると言って、KoB本部のある55層グランザム市に向かった。クラディールとの事もあるし、俺も同行しようかと申し出たのだが笑顔で大丈夫と言われては引き下がるしかなかった。
すでに待ち合わせの時刻から二時間が経過している。ここまで遅れるからには何かあったのだろうか。やはり無理矢理にでもついて行くべきだったか……。込み上げてくる不安を抑えこむように茶を飲み干す。
俺の前の大きなポットが空になり、エギルの鑑定があらかた終了した頃、ようやく階段をトントンと駆け上ってくる足音がした。勢いよく扉が開かれる。
「よう、アスナ……」
遅かったじゃないか、という言葉を俺は飲み込んだ。いつものユニフォーム姿のアスナは顔を蒼白にし、大きな目を不安そうに見開いている。両手を胸の前で固く握り、二、三度唇を噛み締めたあと、
「どうしよう……キリト君……」
と泣き出しそうな声で言った。
「大変なことに……なっちゃった……」
新しく淹れた茶を一口飲み、ようやく顔に血の気が戻ったアスナはぽつりぽつりと話しはじめた。気を利かせたエギルは一階の店先に出ている。
「昨日……あれからグランザムのギルド本部に行って、あったことを全部団長に報告したの。それで、ギルド辞めたいって言って、その日は家に戻って……。今朝のギルド例会で承認されると思ったんだけど……」
俺と向かい合わせの椅子に座ったアスナは、視線を伏せてお茶のカップを両手で握り締めながら言った。
「団長が……わたしの脱退を認めるには、条件があるって……。キリト君と……立ち会いたい……って……」
「な……」
一瞬理解できなかった。立ち会う……とはつまりデュエルをするということだろうか。アスナのギルド脱退がどうしてそんな話になるのか? その疑問を口にすると、
「わたしにもわかんない……」
アスナはうつむいて首を振った。
「そんな事しても意味ないって一生懸命説得したんだけど……どうしても聞いてくれなくって……」
途方に暮れた幼子のような瞳で見つめられ、俺は胸の奥にある種の痛みを覚える。おいで、と手を差し伸べると、アスナはほっとしたように小さく微笑んで、俺のひざの上に飛び込んできた。細い体を抱きしめ、髪を撫でてやると甘えるような鼻声を出して胸に頭をこすりつけてくる。動物みたいな奴だ。
「……ともかく、一度グランザムまで行くよ。俺が直接談判してみる」
「ん……。ごめんね。迷惑ばっかりかけちゃうね……」
「何でもするさ。大事な……」
言葉を探して沈黙する俺を、アスナがじっと見つめる。
「……攻略パートナーの為だからな」
少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、アスナはようやく持ち前の輝くような笑顔を見せた。
最強の男。生きる伝説。聖騎士等々。血盟騎士団のギルドリーダーに与えられた二つ名は片手の指では足りない程だ。
彼の名はヒースクリフ。俺の〈二刀流〉が巷で口の端にのぼる以前は、約四万のプレイヤー中唯一ユニークスキルを持つ男として知られていた。
十字を象った一対の剣と盾を用いて攻防自在の剣技を操るそのスキルの名は〈神聖剣〉。俺も何度か間近で見たことがあるが、とにかく圧倒的なのはその防御力だ。彼のHPバーがレッドゾーンに陥ったところを見た者は誰もいないと言われている。大きな被害を出した50層のボスモンスター攻略戦において崩壊寸前だった戦線を十分間単独で支えつづけた逸話は今でも語り草となっているほどだ。
ヒースクリフの十字盾を貫く矛なし。それはアインクラッドで最も堅固な定説のひとつなのだ。
アスナと連れ立って55層に降り立った俺は、言いようのない緊張感を味わっていた。無論ヒースクリフと剣を交える気などない。アスナの名をギルド名簿から削除してくれるよう頼む、目的はそれだけだ。
55層の主街区グランザム市は別名鉄の都と言われている。他の街が大抵石造りなのに対して、街を形作る無数の巨大な尖塔はすべて黒光りする鋼鉄で作られているからだ。鍛冶や彫金が盛んということもあって人口は多いが、街路樹の類はまったく存在せず、深まりつつある秋の風の中では寒々しい印象を隠せない。
俺は不本意ながら顔を隠す為に巨大な黒革のフード付マントを装備していた。寒そうに剥き出しの両腕をこすっていたアスナが、無言でマントの中に潜り込んでくる。俺とアスナの身長はそれほど変わらないので多少見映えは悪いが、これなら注目を集めることだけは避けられそうだ。俺たちはゲート広場を横切って歩き出した。磨きぬかれた鋼鉄の板を連ねてリベット留めした広い道をゆっくり進む。アスナの足取りが重い。これから起こることを恐れているのだろうか。
立ち並ぶ尖塔群の間を縫うように十分ほど歩くと、目の前に一際高い搭が現れた。巨大な扉の上部から何本も突き出した銀の槍からは、白地に赤の十字を染め抜いた旗が垂れ下がり寒風にはためいている。ギルド血盟騎士団の本部だ。
アスナはすこし手前で立ち止まると、俺のマントの隙間から顔だけのぞかせて搭を見上げた。
「昔は、39層の田舎町にあったちっちゃい家が本部でね、みんな狭い狭いっていつも文句言ってたわ。……ギルドの発展が悪いとは言わないけど……この街は寒くて嫌い……」
「さっさと用を済ませて、なんか暖かいものでも食いに行こうぜ」
「もう。キリト君は食べることばっかり」
笑いながらマントの中で俺に抱きつくと、アスナはしばらくそのままじっとしていたが、やがて、「よし、充電完了!」と言って勢いよく飛び出した。そのまま広い歩幅で搭へ向かって歩いていく。俺は慌てて後を追った。
幅広の階段を昇った所にある大扉は左右に開け放たれていたが、その両脇には恐ろしく長い槍を装備した重装甲の衛兵が控えていた。アスナがブーツの鋲を鳴らしながら近づいていくと、衛兵達はガチャリと槍を捧げて敬礼した。
「任務ご苦労」
ビシリと片手で返礼する仕草といい、颯爽とした歩き方といいほんの一時間前に俺のひざの上で甘えていた奴と同一人物とは思えない。俺はおそるおそるアスナの後に続いて衛兵の脇を通り抜け、搭に足を踏み入れた。
街並みと同じく黒い鋼鉄で造られた搭の一階は大きな吹き抜けのロビーになっていた。人は誰もいない。
街以上に冷たい印象の建物だな……。
そんな事を思いつつ、様々な種類の金属を組み合わせた精緻なモザイク模様の床を横切って行くと、正面に巨大な螺旋階段があった。
金属音をホールに響かせながら階段を昇っていく。筋力パラメータが低い者なら絶対途中でへばってしまうだろう高さだ。いくつもの扉の前を通りすぎ、どこまで昇るのか心配になってきたころ、ようやくアスナは足を止めた。目の前には無表情な鋼鉄の扉。
「ここか……?」
「うん……」
アスナが気乗りしない様子で頷く。が、やがて意を決したように右手をあげると扉を音高くノックし、答えを待たず開け放った。内部から溢れた大量の光に、俺は目を細めた。
中は搭の一フロアすべてを使った円形の部屋で、壁は全て透明のガラス張りだった。そこから差し込む灰色の光が、部屋をモノトーンに染め上げている。中央には半円形の巨大な机が置かれ、その向こうに並んだ五脚の椅子にそれぞれ男が腰掛けていた。左右の四人には見覚えがなかったが、中央に座る男だけは見間違えようがなかった。聖騎士ヒースクリフだ。
外見にはまるで威圧的な所はない。二十代半ばだろうか、学者然とした、削いだように尖った顔立ち。秀でた額の上に、鉄灰色の前髪が流れている。長身だが痩せ気味の体をゆったりした真紅のローブに包んだその姿は、剣士というよりはこの世界には存在しないはずの魔術師のようだ。
だが、特徴的なのはその目だった。不思議な真鍮色の瞳からは、対峙したものを圧倒する強烈な磁力が放出されている。会うのは初めてではないが正直気圧される。
アスナはブーツを鳴らして机の前まで行くと、軽く一礼した。
「お別れの挨拶に来ました」
その言葉にヒースクリフはかすかに苦笑し、
「そう結論を急がなくてもいいだろう。彼と話させてくれないか」
そう言ってこちらを見据えた。俺もフードをはずしてアスナの隣りまで進み出る。
「久しいな、キリト君。いつ以来かな?」
「67層のボス攻略戦です」
ヒースクリフは軽く頷くと、机の上で骨ばった両手を組み合わせた。
「あれは辛い戦いだったな。我々も危うく死者を出すところだった。トップギルドなどと言われても戦力は常にギリギリだよ。──なのに君は我がギルドの貴重な主力プレイヤーを引き抜こうとしているわけだ」
「貴重なら護衛の人選に気を使ったほうがいいですよ」
ぶっきらぼうな俺の台詞に、机の右端に座っていたいかつい男が血相変えて立ち上がろうとした。それを軽く手で制し、
「クラディールは自宅で謹慎させている。迷惑をかけてしまったことは謝罪しよう。だが、我々としてもサブリーダーを引き抜かれて、はいそうですかという訳にはいかない。キリト君――」
ヒースクリフはひたとこちらを見据えた。金属の光沢をもつ両眼から、強烈な意思力が噴き上げてくる。
「欲しければ、剣で――〈二刀流〉で奪い給え。私と戦い、勝てばアスナ君を連れていくがいい。だが、負けたら君が血盟騎士団に入るのだ」
「…………」
俺はこの謎めいた男が少しだけ理解できたような気がしていた。結局この男も剣での戦闘に魅入られた人間なのだ。その上、自分の技に絶対の自信を持っている。脱出不可能のデスゲームに囚われてなおゲーマーとしてのエゴを捨てきれない、救い難い人種。つまり、俺と似ている。
ヒースクリフの言葉を聞いて、今まで黙っていたアスナが我慢しきれないというように口を開いた。
「団長、脱退はわたしの意思です。……初心者だったわたしを拾って、いままで育ててくれたことには感謝しています。ただ、ここにはもうわたしの居場所はないんです。ゲームクリアという目的はみんな同じはず、ギルドを出ても戦いをやめるわけじゃ……」
なおも言い募ろうとするアスナの肩に手を置き、俺は一歩前に進み出た。正面からヒースクリフの視線を受け止める。半ば勝手に口が開く。
「いいでしょう、剣で語れと言うなら望むところです。デュエルで決着をつけましょう」
「も――!! ばかばかばか!!」
再びアルゲード、エギルの店の二階。様子を見ようと顔を出した店主を一階に蹴り落としておいて、俺は必死にアスナをなだめていた。
「わたしががんばって説得しようとしたのになんであんな事言うのよう!!」
揺り椅子に座った俺の膝の上にちょこんと腰掛け、小さな拳でぽかぽか叩いてくる。
「悪かった、悪かったってば! つい売り言葉に買い言葉で・・・」
小さな子供にするように頭を撫でてやるとようやくおとなしくなり、俺の胸にぽふっと体を預けてきた。ギルドでの様子とギャップがありすぎて、笑いがこみあげてくるのを苦労して飲み込む。
「大丈夫だよ、一撃終了ルールでやるから危険はないさ。それに、まだ負けると決まったわけじゃなし……」
「う~~~……」
俺の上で丸くなり、眠気を覚えたように目をパチパチしながらアスナが唸る。
「……こないだキリト君の〈二刀流〉を見たときは、別次元の強さだって思った。でもそれは団長の〈神聖剣〉もいっしょなのよね……。あの人の無敵っぷりはもうゲームバランスを超えてるよ。正直どっちが勝つかわかんない……。でも、どうするの? 負けたらあたしが脱退するどころかキリト君がKoBに入らなきゃならないんだよ?」
「考えようによっては目的は達するとも言える。俺はアスナといられればそれでいいんだ」
以前なら逆さに振っても出てこないような言葉だ。アスナはちらりと俺を見上げるとにっこり笑い、そのまま目を閉じた。夕暮れのアルゲードの活気に満ちたざわめきが窓の向こうからわずかに流れ込んでくる。
言ったことは正直な気持ちだったが、ギルドに所属するのはやはり抵抗がある。以前一度だけ所属した、今は存在しないギルドの名を思い出してかすかな痛みを覚える。まあ、簡単に負ける気はないさ……と俺は胸の中で呟いた。
髪を撫でてやっているうち、アスナは小さな寝息を立て始めた。つられたのか俺も強い眠気を感じる。今日は朝から色々あって、迷宮攻略の倍は疲れた。
「おっと……」
アスナを起こさないようにそっと左手を振ってメニューを出し、エギルに「お前は一階で寝ろ」とメッセージを飛ばしておいて、俺は本格的に目を閉じた。
13
先日新たに開通なった75層の主街区は古代ローマ風の造りだった。マップに表示された名は〈コリニア〉。すでに多くの剣士や商人プレイヤーが乗り込み、また攻略には参加しないまでも街は見たいという見物人も詰め掛けて大変な活気を呈している。それに付け加えて今日は稀に見る大イベントが開かれるとあって、転移門は朝からひっきりなしに訪問者の群を吐き出し続けていた。
街は、四角く切り出した白亜の巨石を積んで造られていた。神殿風の建物や広い水路と並んで特徴的だったのが、転移門の前にそびえ立つ巨大なコロシアムだった。うってつけとばかりに俺とヒースクリフのデュエルはそこで行われることになった。のだが……。
「焼きグルコーン十コル! 十コル!」
「黒エール冷えてるよ~!」
コロシアム入り口には口々にわめき立てる商人プレイヤーの露店がずらりと並び、長蛇の列をなした見物人にあやしげな食い物を売りつけている。
「……ど、どういうことだこれは……」
俺はあっけにとられて傍らに立つアスナに問いただした。
「さ、さあ……」
「おい、あそこで入場チケット売ってるのKoBの人間じゃないか!? 何でこんなイベントになってるんだ!?」
「さ、さあ……」
「ま、まさかヒースクリフのやつこれが目的だったんじゃあるまいな……」
「いやー、多分経理のダイゼンさんの仕業だねー。あの人計算高いから」
あはは、と笑うアスナの前で俺はガックリ肩を落とした。
「……逃げようアスナ。20層あたりの広い田舎に隠れて畑を耕そう」
「わたしはそれでもいいけどぉー」
ニコニコしながらアスナが言う。
「ここで逃げたらす――っごい悪名がついてまわるだろうねえ」
「くっそ……」
「まあ、自分で蒔いた種だからねー。……あ、ダイゼンさん」
顔を上げると、KoBの白赤の制服がこれほど似合わない奴もいるまいという横幅のある男がでっぷりした腹を揺らしながら近づいてきた。
「いやー、おおきにおおきに!!」
丸い顔に満面の笑みを浮かべながら声をかけてくる。
「キリトさんのお陰でえろう儲けさせてもろてます! あれですなぁ、毎月一回くらいやってくれはると助かりますなぁ!」
「誰がやるか!!」
「ささ、控え室はこっちですわ。どうぞどうぞ」
のしのし歩き始めた男の後ろを、俺は脱力しながらついていった。どうとでもなれという心境だ。
控え室は闘技場に面した小さな部屋だった。ダイゼンは入り口まで案内すると、オッズの調整がありますんで、などと言って消えて行った。もうつっこむ気にもなれない。すでに観客は満員になっているらしく、控え室にも歓声がうねりながら届いてくる。
二人きりになると、アスナは真剣な表情になり、両手でぎゅっと抱きついてきた。
「……たとえワンヒット勝負でも強攻撃をクリティカルでもらうと危ないんだからね。特に団長の剣技は未知数のところがあるし。危険だと思ったらすぐにリザインするのよ。こないだみたいな真似したら絶対許さないからね……」
「俺よりヒースクリフの心配をしろよ」
俺はにやりと笑ってみせると、アスナの両肩をぽんと叩いた。
遠雷のような歓声に混じって、闘技場の方から試合開始を告げるアナウンスが響いてくる。背中に交差して吊った二本の剣を同時にすこし抜き、チンと音を立てて鞘に収めると俺は四角く切り取ったような光の中へ歩き出した。
円形の闘技場を囲む階段状の観客席はぎっしりと埋まっていた。多分一万人は居るのではないか。最前列にはエギルやクラインの姿もあり、「斬れー」「殺せー」などと物騒なことを喚いている。俺は闘技場の中央に達すると立ち止まった。直後、反対側の控え室から真紅の人影が姿を現した。歓声が一際大きくなった。
ヒースクリフは、通常の血盟騎士団制服が白地に赤の模様なのに対してそれが逆になった赤地のサーコートを羽織っていた。鎧の類は俺と同じく最低限だが、左手に持った巨大な純白の十字盾が目を引く。どうやら剣は盾の裏側に装備されているらしく、頂点部分から同じく十字をかたどった柄が突き出している。
俺の目の前まで無造作な歩調で進み出てきたヒースクリフは、周囲の大観衆に目をやってさすがに苦笑した。
「すまなかったなキリト君。こんなことになっているとは知らなかった」
「ギャラは貰いますよ」
「……いや、君は試合後からは我がギルドの団員だ。任務扱いにさせて戴こう」
言うと、ヒースクリフは笑いを収め、真鍮色の瞳から圧倒的な気合を迸らせてきた。思わず圧倒されて半歩ほど後退してしまう。俺達は現実には遠く離れた場所に横たわっており、二人の間にはデジタルデータのやり取りしか無いはずだが、それでもなお殺気としか言いようのない物を感じる。
俺は意識を戦闘モードに切り替え、ヒースクリフの視線を正面から受け止めた。大歓声が徐々に遠ざかってゆく。すでに知覚の加速が始まっているのか、周囲の色彩すら微妙に変っていくような気がする。
ヒースクリフは視線を外すと、俺から十メートル程の距離まで下がり、左手を掲げた。出現したメニューウインドウを、視線を落とさず操作する。瞬時に俺の前にデュエルメッセージが出現した。もちろん受諾。オプションは初撃決着モード。
カウントダウンが始まった。周囲の歓声はもはや小さな波音にまでミュートされている。全身の血流が早まってゆく。戦闘を求める衝動に掛けた手綱をいっぱいに引き絞る。俺は背中から二振りの愛剣を同時に抜き放った。ヒースクリフも盾の裏から細身の長剣を抜き、ピタリと構える。
盾をこちらに向けて半身になったその姿勢は自然体で、無理な力はどこにもかかっていない。さすがに初動を読むのは無理か。ならばこちらから突っ込むまでだ。
二人ともウインドウには一瞬たりとも視線を向けなかった。にもかかわらず、地を蹴ったのはDUELの文字が閃くのと同時だった。
俺は沈み込んだ体勢から全力で飛び出した。地面ギリギリを滑空するように突進していく。
ヒースクリフの直前でくるりと体を捻り、右手の剣を左斜め下からバックハンドでヒースクリフに叩きつけた。十字盾に迎撃され、激しい火花が散る。が、俺の攻撃は二段構えだった。右にコンマ一秒遅れで、左の剣がフォアハンドで盾の内側へと跳ね上がる。二刀流突撃技『クロス・スパイラル』だ。
左の一撃は、惜しいところでヒースクリフの長剣に阻まれた。さすがに奇襲を許したりはしないか。俺は技の余勢で距離を取り、向き直る。
今度はヒースクリフが盾を構えて突撃してきた。巨大な十字盾の影に隠れて、奴の右腕がよく見えない。
「チッ!」
俺は舌打ちして右方向にダッシュ回避しようとした。盾の方向に回り込めば攻撃に対処する余裕ができると踏んだからだ。
ところが、ヒースクリフは盾自体を水平に構えると、その先端で突き攻撃を放ってきた。クリムゾンのエフェクト光を引きながら巨大な盾が迫る。
「くおっ!!」
俺は咄嗟に両手の剣を交差してガードした。激しい衝撃。数メートル吹き飛ばされる。一回転して立ち上がる。なんと盾にも攻撃判定があるのか。まるで二刀流だ。手数で上回れば一撃勝負では有利と踏んでいたがこれは予想外だ。
ヒースクリフは俺に立ち直る余裕を与えまいと、ダッシュで距離を詰めてきた。十字の鍔を持つ右手の長剣が、〈閃光〉アスナもかくやという速度で突き込まれてくる。敵の連続技が開始された。俺は両手の剣をフルに使ってガードに徹する。〈神聖剣〉の連続技については可能な限りアスナからレクチャーを受けておいたが、付け焼刃の知識では心許ない。瞬間的反応だけで上下から殺到する攻撃を捌きつづける。
八連撃最後の上段斬りを左の剣で弾くと、俺は間髪入れず右手で単発重攻撃〈ヴォーパルストライク〉を放った。
「う……らぁ!!」
青い光芒を伴った突き技が、十字盾の中心に突き刺さる。構わずそのまま撃ち抜く。
今度はヒースクリフが跳ね飛ばされた。盾を貫通するには至らなかったが、多少のダメージは「抜けた」感触があった。奴のHPバーがわずかに減っている。が、勝敗を決する程の量ではない。
ヒースクリフは軽やかな動作で着地すると、距離を取った。
「……素晴らしい反応速度だな」
「そっちこそ硬すぎるぜ……!!」
言いながら俺は地面を蹴った。ヒースクリフも剣を構えなおして間合いを詰めてくる。
超高速で連続技の応酬が開始された。俺の剣は奴の盾に阻まれ、奴の剣を俺の剣が弾く。二人の周囲では様々な色彩の光が連続的に飛び散り、衝撃音が闘技場の石畳を突き抜けてゆく。強敵を相手に、俺はかつてない程の加速感を味わっていた。感覚が一段シフトアップしたと思うたびに、攻撃のギアも上げてゆく。
まだだ。まだ上がる。ついてこいヒースクリフ!!
全能力を解放して剣を振るう法悦が俺の全身を包んでいた。多分俺は笑っていたのだと思う。剣戟の応酬の最中、それまで無表情だったヒースクリフがちらりと表情らしきものを見せた。何だ。焦り? 俺はヒースクリフの奏でる攻撃のテンポがごくごくわずか遅れた気配を感じた。
「らあああああ!!」
その瞬間、俺は全ての防御を捨て去り、両手の剣で攻撃を開始した。〈スターバースト・ストリーム〉、恒星から吹き出すプロミネンスの奔流のごとき剣閃がヒースクリフへ殺到する。
「ぬおっ……!!」
ヒースクリフが十字盾を掲げてガードする。構わず上下左右から攻撃を浴びせ続ける。奴の反応がじわじわ遅れてゆく。――抜ける――!!
俺は最後の一撃が奴のガードを超えることを確信した。盾が右に振られすぎたそのタイミングを逃さず、左からの攻撃が光芒を引いてヒースクリフの体に吸い込まれてゆく――
――そのとき、世界がブレた。
「!?」
どう表現すればよいだろう。時間をほんの僅か盗まれた――と言うべきか。何十分の一秒、俺の体を含む全てがピタリと停止したような気がした。ヒースクリフ一人を除いて。右にあったはずの奴の盾が、コマ送りの映像のように瞬間的に左に移動し、俺の必殺の一撃を弾き返した。
「な――」
大技をガードされきった俺は、致命的な硬直時間を課せられた。ヒースクリフがその隙を逃すはずもなかった。憎らしいほど的確な、ピタリ戦闘を終わらせるに足るだけのダメージが右手の剣の単発突きによって与えられ、俺はその場に無様に倒れた。視界の端で、デュエル終了を告げるシステムメッセージが紫色に輝くのが見えた。
戦闘モードが切れ、耳に渦巻く歓声が届いてきても、俺はまだ茫然としていた。
「キリト君!!」
駆け寄ってきたアスナの手で助け起こされる。
「あ……ああ……。――大丈夫だ」
アスナが、呆けたような俺の顔を心配そうに覗き込んできた。負けたのか――。俺はまだ信じられなかった。最後の瞬間、奴が見せた恐るべき反応は何だ。あれがヒースクリフの強さだというのか。地面に座り込んだまま、やや離れた場所に立つヒースクリフの顔を見上げる。
勝利者の表情は、しかしなぜか険しかった。金属質な両目を細めて俺たちを一瞥すると、真紅の聖騎士は物も言わず身を翻し、嵐のような歓声のなかをゆっくりと控え室に消えて行った。
14
「な……なんだこりゃあ!?」
「何って、見たとおりよ。さ、早く立って!」
アスナが強引に着せ掛けたのは、俺の新しい一張羅だった。慣れ親しんだボロコートと形はいっしょだが、色は目が痛くなるような純白。両襟に小さく二個と、背中にひとつ巨大な真紅の十字模様が染め抜かれている。言うまでもなく血盟騎士団のユニフォームだ。
「……じ、地味な奴って頼まなかったっけ……」
「これでも十分地味なほうよ。うん、似合う似合う!」
俺は全身脱力して揺り椅子に倒れこむように座った。例によってエギルの雑貨店の二階だ。すっかり俺が緊急避難的居候先として占拠してしまい、哀れな店主は一階に簡素なベッドを設えて寝ている。それでも追い出されないのは、二日と空けずアスナがやってきて店の手伝いをしているからだ。宣伝効果は抜群だろう。
俺が揺り椅子の上でうめいていると、すっかりそこが定席だとでも言うようにアスナが膝の上に乗ってきた。ひなたの猫のようにぐんにゃり溶けた格好でしばらくごろごろ言っていたが、急にがばっと上体を起こすと、真面目くさった顔で、
「あ、ちゃんと挨拶してなかったね。ギルドメンバーとしてこれから宜しくお願いします」
ペコリと頭を下げる。
「よ、よろしく。……と言っても俺はヒラでアスナは副団長様だからなあ」
右手を伸ばしてほっぺたをぐにぐに引っ張ってやる。
「こんなことも出来なくなっちゃったよなぁー」
「む―――っ!!」
ぽかりと一発叩かれてしまった。俺は笑いながら両手でアスナの体を抱き寄せた。ゆっくり椅子を揺らしながら髪を撫でてやると、条件反射的に眠そうな顔をするのが動物のようで面白い。
晩秋の昼下がり。気だるい光の中でしばしの静寂が訪れる。
ヒースクリフとの闘い、そして敗北から二日が経過していた。俺は条件どおり血盟騎士団に参加した。今更じたばたするのは趣味ではない。三日間の準備期間が与えられ、明後日からギルド本部の指示に従って75層迷宮区の攻略を始めることになる。
ギルドか――。
俺のかすかな嘆息に気付いたアスナが、腕の中からちらりと視線を送ってきた。
「……なんだかすっかり巻き込んじゃったね……」
「いや、いいきっかけだったよ。ソロ攻略も限界が来てたから……」
「そう言ってもらえると助かるけど……。ねえ、キリト君」
アスナの榛色の瞳が真っ直ぐ俺に向けられる。
「教えてほしいな。なんでギルドを……ひとを避けるのか……。ベータテスターだから、ユニークスキル使いだからってだけじゃないよね。キリト君優しいもん」
俺はしばらく無言でアスナの髪を玩んでいた。
「…………もうずいぶん昔……、一年半くらい前かな。一度だけギルドに入ってたことがある……」
自分でも意外なほど素直に言葉が出てきた。この記憶に触れる度に湧き上がってくる疼痛を、アスナの体温が溶かしていくような、そんな気がする。
「迷宮で偶然助太刀をした縁で誘われたんだ……。俺を入れても六人しかいない小さなギルドで、名前が傑作だったな。〈月夜の黒猫団〉」
アスナがふふ、と微笑む。
「リーダーがいい奴だった。何につけてもメンバーの事を第一に考える男で、皆から信頼されていた――。ケイタという名の棍使いだった。メンバーには両手用遠距離武器の使い手が多くて、フォワードを探しているって言われた……」
正直、彼らのレベルは俺よりかなり低かった。俺が無闇と上げすぎていたと言うべきか。俺が自分のレベルを言えば、彼らは遠慮して引き下がっただろう。だが、当時の俺はベータ出身のソロプレイヤーとして単独で迷宮に潜る毎日にやや疲れていたせいか、〈黒猫団〉のアットホームな雰囲気がとても眩しいものに見えた。俺はレベルと、ベータ出身であるという事を隠してギルドに加わることにした。
〈黒猫団〉のメンバーは、皆現実世界でも友人同士だったんだとケイタは言った。特にケイタと、メンバー中唯一の女性プレイヤーだった黒髪の槍使いは幼馴染の間柄で、二人の雰囲気は傍から見ても特別なものがあった
ケイタは俺に、槍使いが盾剣士に転向するコーチをしてやってくれないかと言った。そうすれば前衛が俺を含めて三人になり、バランスの取れたパーティーが組める。俺は引き受けた。
黒髪の槍使いは、控えめなおとなしい女の子だった。ネットゲーム暦は長かったが、性格のせいでなかなか友達が作れないんだと笑っていた。俺は、ギルドの活動が無い日も大抵彼女に付き合い、片手剣の手ほどきをした。
俺と彼女は色々な意味で良く似ていた。自分の周囲に壁を作るクセ、言葉たらずな所。やがて、訓練以外の時間も二人で過ごすようになるまで、そう長くはかからなかった。
彼女は、ケイタには嘘はつけないと言った。俺達は二人でケイタに会いに行った。リーダーは黙って彼女の話を聞いていたが、いつもの笑顔でうなずくと、俺に「彼女をよろしく頼む」と言った。別れ際にちらりと寂しそうな顔を見せたのが、隠し事のできない奴らしかった。
それからしばらくたったある日、俺達はケイタを除く五人で迷宮に潜ることになった。ケイタは、ようやく貯まった資金でギルド本部にする家を購入するべく売り手と交渉に行っていた。
すでに攻略された層の迷宮区だったが未踏破部分が残されており、そろそろ帰ろうという時、メンバーの一人が手付かずのトレジャーボックスを見つけた。俺は手を出さないことを主張した。最前線近くでモンスターのレベルも高かったし、メンバーの罠解除スキルが心許なかったからだ。だが、反対したのは俺と彼女だけで、三対二で押し切られてしまった。
罠は、数多ある中でも最悪に近いアラームトラップだった。けたたましい警報が鳴り響き、部屋の全ての入り口から無数のモンスターが湧き出してきた。俺たちは咄嗟に緊急転移で逃れようとした。
だが、罠は二重に仕掛けられていた。結晶無効化空間――クリスタルは作動しなかった。
モンスターはとても支えきれる数ではなかった。メンバーはパニックを起こし逃げ惑った。俺は、今まで彼らのレベルにあわせて封印していた上位剣技を使い、どうにか血路を開こうとした。しかし、恐慌状態に陥った彼らは通路に脱出することも思いつかず、一人また一人とHPをゼロにして、悲鳴と破片を撒き散らしながら消えていった。彼女だけでも救わなければ、そう思って俺は必死に剣を振るい続けた。
しかし間に合わなかった。こちらに向かって助けを求めるように必死に手を差し出した彼女を、モンスターの剣が無慈悲に切り倒した。ガラスの彫像のように儚く砕け散るその瞬間まで、彼女は俺を信じきった目をしていた。
ケイタは、今まで仮の本部としていた宿屋で、新居の鍵を前に俺達の帰りを待っていた。一人生き残った俺だけが戻り、何があったかを説明している間ケイタは無言で聞いていたが、俺が話し終わると一言、「なぜお前だけが生還できたのか」と聞いた。俺は、自分の本当のレベルと、ベータテスト出身なのだということを告げた。
ビーターのお前が俺達に関わる資格なんてなかったんだ――
ケイタの言葉は、鋼鉄の剣のように俺を切り裂いた。
「……その人は……どうしたの……?」
「自殺した」
俺の胸の上でアスナの体がビクリと震えた。
「外周から飛び降りた。最期まで俺を呪っていただろう……な……」
自分の声が詰まるのを感じた。心の奥底に封印したつもりの記憶だったが、初めて言葉にすることによってあの時の痛みが鮮烈に蘇ってきた。俺は歯を食いしばった。アスナを抱きしめたかったが、お前にはその資格はない――と心のどこかで叫ぶ声がして、両の拳を固く握る。
「もう……嫌なんだ……目の前で……仲間を殺すのは……」
目を見開き、食いしばった歯の間から言葉を絞り出す。
不意に、アスナの両手が俺の顔を包み込んだ。穏やかな微笑を湛えた美しい顔が俺のすぐ目の前にある。
「わたしは死なないよ」
ささやくような、しかしはっきりとした声。硬直した全身からふっと力が抜けた。
「キリト君と二人なら、絶対に死なない」
そう言って、アスナは俺の頭を胸に包み込むように抱いた。柔らかく、暖かな暗闇が俺を覆った。目を閉じる。
記憶の暗幕の向こうに、オレンジ色の光が満ちた宿屋のカウンターに腰掛けてこちらを見ている黒猫団の連中の顔が見えた。俺は両手をそっとアスナの体に回した。
翌々日の朝、俺は派手な純白のコートの袖に手を通すと、アスナと連れ立ってグランザム市へと向かった。今日から血盟騎士団の一員としての活動が始まる。と言っても、本来なら五人一組で攻略に当たるところを、副団長アスナの強権発動によって二人のパーティーを組むことになっていたので実質的には今までやっていたことと変らない。
が、ギルド本部で俺を待っていたのは意外な言葉だった。
「訓練……?」
「そうだ。私を含む団員四人のパーティーを組み、ここ55層の迷宮区を突破して56層主街区まで到達してもらう」
そう言ったのは、以前ヒースクリフと面談したとき同席していた四人の内の一人だった。もじゃもじゃの巻き毛を持つ大男だ。どうやら斧戦士らしい。
「ちょっとゴドフリー! キリト君はわたしが……」
食ってかかるアスナに、片方の眉毛を上げると不遜げに言い返す。
「副団長と言っても規律をないがしろにして戴いては困りますな。実際の攻略時のパーティーについてはまあ了承しましょう。ただ、一度は実戦の指揮を預かるこの私に実力を見せて貰わねば。たとえユニークスキル使いと言っても使えるかどうかはまた別」
「あ、あんたなんか問題ならないくらいキリト君は強いわよ……」
半ギレしそうになるアスナを制して、俺は言った。
「見たいと言うなら見せてやるさ。ただ今更こんな低層の迷宮で時間を無駄にする気はない、一気に突破するが構わないだろうな?」
ゴドフリーという男は不愉快そうに口をへの字に曲げると、三十分後に街の西門に集合、と言い残してのっしのっしと歩いていった。
「なあにあれ!!」
アスナは憤慨したようにブーツで傍らの鉄柱を蹴飛ばす。
「ごめんねキリト君。やっぱり二人で逃げちゃったほうが良かったかなぁ……」
「ままならないな」
俺は笑ってアスナの頭にぽん、と手を置いた。
「うう、今日は一緒にいられると思ったのに……。わたしもついていこうかな……」
「すぐ帰ってくるさ。ここで待っててくれ」
「うん……。気をつけてね……」
寂しそうに頷くアスナに手を振って、俺はギルド本部を出た。
だが、集合場所に指定されたグランザム西門で、俺はさらなる驚愕に見舞われた。
そこに立つゴドフリーの隣に、最も見たくなかった顔――クラディールの姿があったのである。
SAO1_05_Unicode.txt
15
「……どういうことだ」
俺はゴドフリーに小声で尋ねた。
「ウム。君らの間の事情は承知している。だがこれからは同じギルドの仲間、ここらで過去の争いは水に流してはどうかと思ってな!」
ガッハッハ、と笑う。
な……なんと単純な男だ……。
大笑するゴドフリーを呆然と眺めていると、クラディールがのっそりと進み出てきた。
「…………」
全身を緊張させて、どんな事態にも対処できるよう身構える。例え街の中とはいえこの男だけは何をするかわからない。
だが、俺の予想を裏切ってクラディールは突然ぺこりと頭を下げた。ボソボソした聞き取りにくい声で言う。
「先日は……ご迷惑をおかけしまして……」
俺は今度こそ腹の底から驚いて、口をぽかんと開ける。
「二度と無礼な真似はしませんので……許していただきたい……」
陰気な長髪の下にかくれて表情は見えない。
「あ……ああ……」
俺はどうにか頷いた。一体何があったのだろう。人格改造手術でもしたのだろうか。
「よしよし、これで一件落着だな!!」
再びゴドフリーがでかい声で笑った。腑に落ちないどころではない、絶対に何か裏があると思ったが、俯いたままのクラディールの顔からは感情を読み取ることができない。SAOにおける感情表現は誇張的な反面微妙なニュアンスを伝えにくいのだ。やむなくこの場は納得したことにしておいて、警戒を切らないよう自分に言い聞かせる。
しばらくすると残り一人の団員もやってきて、俺たちは迷宮区目指して出発することになった。歩き出そうとした俺を、ゴドフリーの野太い声が引き止める。
「……待て。今日の訓練は限りなく実戦に近い形式で行う。危機対処能力も見たいので、諸君らの結晶アイテムは全て預からせてもらおう」
「……転移結晶もか?」
俺の問いに、当然と言わんばかりに頷く。俺はかなりの抵抗を感じた。クリスタル、特に転移用のものは最後の生命線と言ってよい。俺はストックを切らせたことは一度も無かった。拒否しようと思ったが、ここでまた波風を立てるとアスナの立場も悪くなるだろうと考え直す。55層のモンスターならそう危険な相手ではないが……。
クラディールと、もう一人の団員がおとなしくアイテムを差し出すのを見て、俺もしぶしぶ従った。念の入ったことで、アイテムウインドウまで確認される。
「ウム、よし。では出発!」
ゴドフリーの号令に従い、四人はグランザム市を出て遥か西の彼方に見える迷宮区目指して歩き出した。
55層のフィールドは植物の少ない乾いた荒野だ。俺はとっとと訓練を終わらせて帰りたかったので迷宮まで走っていくことを主張したが、ゴドフリーに退けられてしまった。どうせ筋力パラメータばかり上げて敏捷度をないがしろにしているのだろう。諦めて荒野を歩きつづける。
何度かモンスターに遭遇したが、こればかりは悠長にゴドフリーの指揮に従う気にならず全て一刀のもとに切り倒した。
やがて、幾つめかの小高い岩山を超えたとき、眼前に灰色の岩造りの迷宮区がその威容を現した。
「よし、ここで一時休憩!」
ゴドフリーが野太い声で言い、一同は立ち止まった。
「…………」
一気に迷宮を突破してしまいたかったが、異を唱えてもどうせ聞き入れられまいと諦めて手近の岩の上に座り込む。時刻はそろそろ正午を回ろうとしていた。
「では、食料を配布する」
ゴドフリーはそう言うと、革の包みを四つオブジェクト化し、一つをこちらに放ってきた。片手で受け取り、さして期待もせず開けると中身は水の瓶とNPCショップで売っている固焼きパンだった。
本当ならアスナの手作りサンドイッチが食えるはずだったのに、と内心で不運を呪いながら、瓶の栓を抜いて一口あおる。
その時ふと、一人離れた岩の上に座っているクラディールの姿が目に入った。奴だけは包みに手も触れていない。垂れ下がった前髪の奥から、奇妙な昏い視線をこちらに向けている。何を見ている……?
突然、冷たい戦慄が全身を包んだ。奴は何かを待っている。それは……多分……。
俺は水の瓶を投げ捨て、口にある液体も吐き出そうとした。だが、遅かった。不意に全身の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。視界の右隅に自分のHPバーが表示される。そのバーは、普段は存在しないオレンジ色に点滅する枠に囲まれている。
間違いない。麻痺毒だ。
見れば、ゴドフリーともう一人の団員も同様に地面に倒れ、もがいている。俺は咄嗟に、肘から下だけはどうにか動く右手で腰のポーチを探ろうとしてハッとした。しまった。解毒結晶も転移結晶もゴドフリーに預けたままだ。回復用のポーションがあるにはあるが毒には効果が無い。
「クッ……クックックッ……」
俺の耳に甲高い笑い声が届いた。岩の上でクラディールが両手で自分の体を抱え、全身をよじって笑っていた。落ち窪んだ三白眼に見覚えのある狂喜の色がありありと浮かんでいる。
「クハッ! ヒャッ! ヒャハハハハ!!」
堪え切れないというふうに天を仰いで哄笑する。ゴドフリーが茫然とした顔でそれを眺めながら、
「ど……どういうことだ……この水を用意したのは……クラディール……お前……」
「ゴドフリー!!速く解毒結晶を使え!!」
俺の声に、ゴドフリーはようやくのろのろとした動作で腰のパックを探り始めた。
「ヒャ――――ッ!!」
クラディールは奇声を上げると岩の上から飛び出し、ゴドフリーの右手をブーツで蹴り飛ばした。その手からむなしく緑色の結晶がこぼれ落ちる。クラディールはそれを拾い上げ、さらにゴドフリーのパックに手を突っ込んでいくつかの結晶を掴み出すと自分のポーチに落としこんだ。万事休すだ。
「クラディール……な、何のつもりだ……? これも何かの……訓練なのか……?」
「バァ――――カ!!」
まだ事態を把握できず見当はずれのことを呟くゴドフリーの口を、クラディールのブーツが思い切り蹴り飛ばした。
「ぐはっ!!」
ゴドフリーのHPバーが僅かに減少し、同時にクラディールを示すカーソルが緑から犯罪者のオレンジに変化した。だが、それは事態に何ら影響を与えるものではない。こんな攻略完了層のフィールドを都合よく通りがかる者などいるはずがないからだ。
「ゴドフリーさんよぉ、馬鹿だ馬鹿だと思っていたがあんた筋金入りの筋肉脳味噌だなぁ!!」
クラディールの甲高い声が荒野に響く。
「あんたにも色々言ってやりたいことはあるけどなぁ……オードブルで腹いっぱいになっちまっても困るしよぉ……」
言いながら、クラディールは両手剣を抜いた。大きく振りかぶる。
「ま、まてクラディール! お前……何を……何を言ってるんだ……? く……訓練じゃないのか……?」
「うるせえ。いいからもう死ねや」
無造作に剣を振り下ろした。鈍い音と共にゴドフリーのHPバーが大きく減少する。ゴドフリーはようやく事態の深刻さに気付いたらしく、大声で悲鳴を上げ始めた。だが、いかにも遅すぎた。
二度、三度、無慈悲な輝きと共に剣が閃くたびHPバーは確実に減りつづけ、とうとう赤い危険域に突入した所でクラディールは動きを止めた。さすがに殺すまではしないか……?
しかし、それも束の間。クラディールは逆手に握った剣を、ゆっくりとゴドフリーの体に突き立てた。HPがじわりと減少する。そのまま剣に体重をかけてゆく。
「ぐあああああああ!!」
「ヒャハアアアアア!!」
一際高まるゴドフリーの絶叫に被さるように、クラディールも奇声を上げる。剣先はじわじわとゴドフリーの体に食い込み続け、同時にHPバーは確実な速度でその幅を狭めてゆき――
俺ともう一人の団員が声も無く見つめる中、クラディールの剣がゴドフリーを貫通して地面に達し、同時にHPがあっけなくゼロになった。多分、無数の砕片となって飛び散るその瞬間まで、ゴドフリーは何が起きているのか理解していなかっただろう。
クラディールは地面に突き刺さった大剣をゆっくり抜くと、機械じかけの人形のような動きで、ぐるんと首だけをもう一人の団員のほうに向けた。
「ヒッ!! ヒィッ!!」
短い悲鳴を上げながら、団員は逃げようと空しくもがく。それに向かってヒョコヒョコと奇妙な足取りでクラディールが近づいてゆく。
「……お前にゃ何の恨みもねえけどな……俺のシナリオだと生存者は俺一人なんだよな……」
ボソボソと言いながら、再び剣を振りかぶる。
「ひぃぃぃぃっ!!」
「いいか~? 俺たちのパーティーはァー」
団員の悲鳴に耳も貸さず、剣を打ち下ろした。
「荒野で犯罪者プレイヤーの大群に襲われェー」
もう一度。
「勇戦空しく三人が死亡ォー」
さらにもう一度。
「俺一人になったものの見事犯罪者を撃退して生還しましたァー」
四撃目で団員のHPバーが消滅した。全身が粟立つ不快な効果音。だがクラディールには女神の美声にでも聞こえるのだろうか。爆散するオブジェクトの破片の真っ只中、恍惚の表情で体を痙攣させている。
初めてじゃないな……。俺は確信していた。たしかに奴はついさっきまで犯罪者を示すオレンジカラーではなかったが、フラグを立てずに殺人を犯す卑怯な方法はいくらでもある。しかし、今それを悟ったところで何になるだろう。
クラディールがとうとう視線をこちらに向けた。その顔には抑えようのない歓喜の色が張り付いている。右手の大剣を地面に引きずる耳障りな音を立てながら、奴はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。
「よォ」
無様に這いつくばる俺の傍らにしゃがみこみ、ささやくような声で言う。
「おめぇみてえなガキ一人のためによぉ、関係ねえ奴を二人も殺しちまったよ」
「その割にはずいぶんと嬉しそうだったじゃないか」
答えながらも、俺は必死に状況を打開する方法を考えていた。動くのは口と右手だけだ。麻痺状態ではメニューウインドウが開けず、よって誰かにメッセージを送ることもできない。焼け石に水だろうと思いながら、クラディールから死角になる位置でそっと右手を動かし、同時に言葉を続ける。
「お前みたいな奴がなんでKoBに入った。犯罪者ギルドのほうがよっぽど似合いだぜ」
「クッ、決まってんじゃねぇか。あの女、モノにすんだよ」
軋んだ声で言いながら、クラディールは尖った舌で唇を嘗めまわした。アスナの事だと気付いて全身がカッと熱くなる。
「貴様……!」
「そんなコエェ顔すんなよ。所詮ゲームじゃねえかよ……。心配すんな、おめぇの大事な副団長さまは俺がきっちり面倒見てやるからよ。いろいろ便利なアイテムもある事だしなァ」
クラディールは傍らから毒水入りの瓶を拾い上げ、チャプチャプと鳴らした。
「さて……」
機械じみた動作で立ち上がる。
「おしゃべりもこの辺にしねえと毒が切れちまうからな。そろそろ仕上げと行くかァ。毎晩夢に見てたぜ……この瞬間をな……」
ほとんど真円にまで見開かれた目に妄執の炎を燃やし、両端を吊り上げた口から長い舌を垂らしたクラディールは爪先立ちになって大きく剣を振りかざした。
その体が動き始める寸前、俺は右手に握り込んだ投擲用ピックを手首の動きだけで放った。被ダメージの大きくなる顔面を狙ったのだが、麻痺による命中率低下判定のせいで軌道がずれ、鋼鉄の針はクラディールの左腕に突き刺さった。絶望的なほどわずかな量、クラディールのHPバーが減少した。
「……ってえな……」
クラディールは鼻筋にシワを寄せ、唇をめくりあげると剣先を俺の右腕に突き立てた。そのまま二、三度こじるように回転させる。
「……っ!」
痛みはない。だが、強力な麻酔をかけた上で神経を直接刺激されるような不快な感覚が全身を駆け巡る。剣が腕を抉るたび、俺のHPがわずかだか確実な勢いで減ってゆく。
まだか……まだ毒は消えないのか……。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、体が自由になる瞬間を待つ。毒の強さにもよるが、通常麻痺毒からは五分程度で回復するはずだ。
クラディールは一度剣を抜くと、今度は左足に突き下ろしてきた。再び神経を痺れさせるような電流が走り、無慈悲にダメージが加算される。
「どうよ……どうなんだよ……。もうすぐ死ぬってどんな感じだよ……。教えてくれよ……なぁ……」
クラディールはささやくような声で言いながら、じっと俺の顔を見つめている。
「なんとか言えよガキィ……死にたくねえって泣いてみろよぉ……」
俺のHPがとうとう五割を下回り、イエローへと変色した。まだ麻痺からは回復しない。全身を徐々に冷たいものが包んでいく。死の可能性が、冷気の衣を身にまとって足元から這い登ってくる。
俺は今まで、SAO内で何人ものプレイヤーの死を目撃してきた。彼等は皆、無数のきらめく破片となって飛散するその瞬間、一様にある表情を浮かべていた。これで自分が死ぬというなどという事が本当に有り得るのか? という素朴な疑問の表情。
そうだ、多分俺たちは皆心のどこかでは、このゲームの大前提となっているルール、ゲーム内での死が即ち実際の死であるというそれを信じていないのだ。HPがゼロになって消滅すれば、実は何事も無く現実世界へと帰還できるのではないか――という希望に似た予測。その真偽を確認するには実際に死んでみるしかない。そう考えれば、ゲーム内での死というのもゲーム脱出に向かう道の一つなのかもしれない――。
「おいおい、なんとか言ってくれよぉ。ホントに死んじまうぞォ?」
クラディールの剣が脚から抜かれ、腹に突き立てられた。HPが大きく減少し、赤い危険域へと達したが、それもどこか遠い世界の出来事のように思えた。剣によって苛まれながら、俺の思考は光の射さぬ暗い小道へと迷い込もうとしていた。意識に厚く、重い紗がかかってゆく。
だが――。突然俺の心臓を途方も無い恐怖が鷲掴みにした。アスナ。アスナを置いてこの世界から消える。アスナがクラディールの手に落ち、俺と同じ責め苦を受ける。その可能性は耐えがたい痛みとなって俺の意識を覚醒させた。
「くおっ!!」
俺は両目を見開き、自分の腹に突き刺さっていたクラディールの剣の刀身を右手で掴んだ。力を振り絞り、ゆっくりと体から抜き出す。HPは残り一割弱。クラディールが驚いたような声を上げる。
「お……お? なんだよ、やっぱり死ぬのは怖えェってかぁ?」
「そうだ……。まだ……死ねない……」
「カッ!! ヒャヒャッ!! そうかよ、そう来なくっちゃな!!」
クラディールは怪鳥じみた笑いを洩らしながら、剣に全体重をかけてきた。それを右手で必死に支える。単純な数値の問題。俺の筋力パラメータと、クラディールのそれに複雑な補正がかけられ、演算が行われる。
その結果――剣先は徐々にだが、確実な速度で再び下降し始めた。俺を恐怖と絶望が包み込む。ダメなのか……。死ぬのか……アスナを一人……この狂った世界に残して……。俺は必死に抗った。歯を食いしばり、近づいてくる剣に抵抗した。
「死ね――――ッ!! 死ねェェェ―――――ッ!!」
金切り声でクラディールが絶叫する。
一センチ、また一センチと鈍色の金属に形を借りた殺意が降ってくる。剣先が俺の体に触れ――わずかに潜り込み――……
その時、一陣の疾風が吹いた。
白と赤の色彩を持った風だった。それに触れたクラディールが剣ごと空高く跳ね飛ばされた。俺は目の前に舞い降りた人影を声も無く見つめた。
「……間に合った……間に合ったよ……神様……間に合った……」
ささやくようなその声は天使の羽音にも優るほど美しく響いた。崩れるようにひざまずいたアスナは唇をわななかせ、目をいっぱいに開いて俺をじっと見た。
「生きてる……生きてるよねキリト君……」
「……ああ……生きてるよ……」
俺の声は自分でも驚くほど弱々しくかすれていた。アスナは大きく頷くと、右手でポケットからピンク色の結晶を取り出し、左手を俺の胸に当てて「ヒール!」と叫んだ。結晶が砕け散り、俺のHPバーが一気に右端までフル回復する。それを確認すると、
「……待っててね。すぐ終わらせるから……」
ささやいて、アスナはすっくと立ち上がった。優美な動作で腰から細剣を抜き、歩き出す。
その向かう先では、クラディールがようやく体を起こそうとしていた。近づいてくる人影を認め、両目を丸くする。
「あ、アスナ様……ど、どうして……。い、いや、これは、訓練、そう、訓練でちょっと事故が……」
バネ仕掛けのように立ち上がり、裏返った声で言いつのるその言葉は、しかし最後まで続かなかった。アスナの右手が閃き、剣先がクラディールの口を切り裂いたからである。
「ぶぁっ!!」
片手で口を抑えてのけぞる。一瞬動作を止めたあと、カクンと戻したその顔にはお馴染みの憎悪の色が浮かんでいた。
「このアマァ……調子に乗りやがって……。ケッ、ちょうどいいや、どうせオメェもすぐにヤッてやろうと……」
だがその台詞も中断を余儀なくされた。アスナが細剣を構えるや猛然と攻撃を開始したのだ。
「おっ……くぉぉっ……!」
両手剣で必死に応戦するクラディール。だが、それは戦いと呼べる物ではなかった。アスナの剣尖は宙に無数の光の帯を引きながら恐るべき速さで次々とクラディールの体を切り裂き、貫いていった。アスナより数レベルは高いはずの俺の目にもその軌道はまるで見えなかった。舞うように剣を操る白い天使の姿に、俺はただただ見とれた。
美しかった。栗色の長い髪を躍らせ、瞋恚の炎を全身に纏いながら無表情に敵を追い詰めていくアスナの姿は途方も無く美しかった。
「ぬぁっ! くぁぁぁっ!!」
半ば恐慌を来たして無茶苦茶に振り回すクラディールの剣はかすりもしない。HPバーがみるみる減少してゆき、黄色からついに赤い危険域に突入したところで、とうとうクラディールは剣を投げ出すと両手を上げて喚いた。
「わ、わかった!! わかったよ!! 俺が悪かった!!」
そのまま地面に這いつくばる。
「も、もうギルドは辞める! あんたらの前にも二度と現れねぇよ!! だから――」
アスナはピタリと動きを止め、無言でクラディールの言葉を聞いていた。単なるオブジェクトデータの塊を見るようなその視線。俺はハッとした。
「や……やめろアスナ……だめだ……お前がやっちゃ……だめだ……」
だが、その声はあまりにも弱々しかった。
足元で土下座し、額を地面にこすり付けて命乞いの言葉をわめき続けるクラディールの後頭部に、アスナは細剣の先端をピタリと当て――
何の躊躇も無く一気に貫いた。クラディールの全身がビクンと震えた。
アスナが剣先を抜くと、クラディールはぽかんとした表情で顔を上げた。
「あ……? おい、今何を――」
その瞬間、HPバーが音も無く消滅した。クラディールの肉体を構成する全データが細切れの欠片となって飛び散った。神経に障る、ガラスが圧壊するような効果音。あたりに四散した微小なオブジェクトは蒸発するようにたちまち消えてゆき――気付くとそこにはもう何もなかった。
立ち尽くしたアスナの右手から細剣が落ち、石混じりの地面に乾いた音を立てて転がった。
アスナはうつむいたままよろよろとこちらに歩み寄ると、糸の切れた人形のように俺の傍らに膝をついた。右手をそっと差し出してくるが、俺に触れる寸前でビクリと引っ込める。
「……ごめんね……わたしの……わたしのせいだね……」
悲痛な表情で声をしぼり出した。大きな目から涙が溢れ、宝石のように美しく輝きながら次々に滴り落ちた。
「アスナ……」
「ごめんね……。わたし……も……もう……キリト君には……あ……会わな……」
ようやく麻痺毒の効果が切れた体を俺は必死に起こした。全身に与えられたダメージのせいで不快な痺れが残っているが、構わず両腕を伸ばしてアスナの体を抱き寄せた。そのまま、桜色の美しい唇を自分の唇で塞ぐ。
「……!」
アスナは全身を固くし、両手を使って俺を押しのけようと抗った。構わず強引に抑えこみ、舌先で唇をこじ開けようとする。間違いなくハラスメント防止コードに抵触する行為だ。今アスナの視界にはコード発動を促すシステムメッセージが表示されており、彼女がOKボタンに触れれば俺は一瞬にして黒鉄宮の監獄エリアに転送されるだろう。だが、そんな事は知ったことではない。
俺はアスナの唇を割って自分の舌をすべり込ませ、システムの感覚シミュレーションの限界まで様々な行為をおこなうとようやく顔を離した。
「もう会わないなんて許さない」
顔を真っ赤に上気させたアスナの瞳をじっと見つめたまま言う。
「俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う。最後の瞬間まで一緒にいる」
アスナは瞳をうるませ、歓びの表情で熱い吐息を洩らしながら何度も頷いた。
「うん……うんっ……」
今度は自分から腕を絡ませ、顔を近づけてきたアスナを俺は固く抱きしめた。死の淵で凍りついた体の芯が、アスナの命の熱でゆっくり融けはじめるのを感じた。
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アスナはグランザムで待っている間、俺の位置をマップでモニターしていたのだと言った。ゴドフリーの反応が消失した時点で街を出て走り出したというから、俺たちが一時間かけて歩いた距離、約五キロメートルを五分で走破したことになる。敏捷度パラメータ補正の限界を超えた信じがたい数字だ。それを指摘すると「愛のなせるわざだよ」と小さく微笑んだ。
俺たちはギルド本部に戻るとヒースクリフに事の顛末を報告し、そのまま一時退団を申請した。アスナがその理由を「ギルドに対する不信」と説明すると、ヒースクリフはしばらく黙考した末に退団を了承したが、最後にあの謎めいた微笑を浮かべながら「だが君たちはすぐに戦場に戻ってくるだろう」と付け加えた。
本部を出ると街はすでに夕景だった。俺たちは手を繋いで転移門広場に向かって歩きだした。二人とも無言だった。
浮遊城外周から差し込むオレンジ色の光を背景にして、黒々としたシルエットを描き出す鉄塔群の間をゆっくりと歩く。俺は、死んだあの男の悪意はどこから来たのか、ぼんやりと考えていた。
この世界において好んで悪事を犯す者は珍しくない。盗みや追い剥ぎを働く者から、奴のように楽しみの為に人を殺す者までを含む犯罪者プレイヤーの数は数千人を下らないと言われる。その存在は今やモンスターのように自然発生的なものとして捉えられている。
しかし改めて考えてみるとそれは奇妙な事だ。なぜなら、犯罪者として他のプレイヤーに害を成すのは、ゲームクリアという最終目的に対してマイナスに働く行為だということは誰が考えても明白だからだ。つまり彼等はこの世界から出たくないのだという事になる。
だが、俺はクラディールという男を見て、それも違うと感じた。奴の思考は、ゲーム脱出を支援するでも阻止するでもない、言わば停止状態だった。過去を振り返ることも未来を予測することも止めた結果、自己の欲望だけがとめどなく肥大し、あのような悪意の花を咲かせたのか――。
しかし、ならばこの俺はどうなのだろう。自分が真剣にゲームクリアという目標を志向しているのかどうか、自信を持って断言することはできない。ただの惰性的な経験値稼ぎで毎日迷宮に潜っていると言われたほうがよほどしっくり来るのではないか。己を強化し、他人より優れた力を得る快感のためだけに戦っているのなら、俺も本心ではこの世界の終わりを望んではいない――?
不意に足元の鋼鉄板が頼りなく沈み込んでいく気がして、俺は立ち止まった。アスナの手にすがるように、繋いだ右手を固く握り締める。
「……?」
小首をかしげて俺の顔を覗き込んでくるアスナに一瞬視線を送り、すぐうつむいて自分に言い聞かせるように口を開いた。
「……君だけは……何があろうと還してみせる……あの世界に……」
「……」
今度はアスナがぎゅっと手を握ってきた。
「だめだよ。帰るときは二人いっしょ」
にこりと笑う。
いつのまにか転移門広場の入り口まで来ていた。冬の訪れを予感させる冷たい風の中、身をかがめるようにしたプレイヤーたちがわずかに行き交っている。俺はアスナにまっすぐ向き直った。
彼女の強靭な魂から発せられる暖かな光が、唯一俺を正しく導くものだと思えた。
「アスナ……今夜は、一緒にいたい……」
無意識のうちにそんなことを口にしていた。彼女と離れたくなかった。かつてないほど肉薄した死の恐怖は未だに俺の背に張り付き、容易に去ろうとしない。今夜独りで眠れば必ず夢に見るに違いない。あの男の狂気と容赦なく突き刺さる剣の感触を……。そんな確信があった。
今まで一緒にうたた寝したり長時間触れ合っていたことはあったものの、それ以上の意味を敏感に感じ取ったらしく、アスナは目を見開いて俺をじっと見つめていたが――
やがて、両頬を染めながら小さくこくんと頷いた。
二度目に訪れたセルムブルグ市のアスナの部屋は、相変わらず豪奢で、それでいて居心地のいい暖かさで俺を迎えた。そこかしこに効果的に配置された小物のオブジェクトが主人のセンスの良さを物語っている。と思ったのだが、当のアスナは、
「わ、わあー、散らかってるなぁ、最近あんまり帰ってなかったから……」
てへへ、と笑いながら手早くそれらの物を片付けてしまった。
「すぐご飯にするね。キリト君は新聞でも見ながら待ってて」
「あ、ああ」
武装解除してエプロン姿になり、キッチンに消えていくアスナを見送って、俺はふかふかのソファーに腰を下ろした。テーブルの上の大きな紙片を取り上げる。
新聞、と言っても、情報屋を生業とするプレイヤーが適当な与太話を集めて新聞と称して売っている怪しげな代物だ。だが、娯楽の少ないアインクラッドではそれでも貴重なメディアで、定期購読しているプレイヤーは少なくない。四ページしかないその新聞の一面を何気なく眺め、俺はげんなりして放り出した。俺とヒースクリフのデュエルがトップ記事だったからだ。
『新スキル・二刀流使い現れるも神聖剣の前にあっけない敗北』というその見出しの下には、ご丁寧にもヒースクリフの前で這いつくばる俺の姿を捕えた写真――記録結晶というアイテムで撮影できる――が掲載されている。奴の無敵伝説に新たな頁を加える手伝いをしてしまったわけだ。
だがまあこれで、大した事ない、という評価が下されれば騒ぎも収まるか……とどうにか理由をつけて納得し、レアアイテム相場表などに目を通しているうちに、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
夕食はワイルドオックスという牛型モンスターの肉に、アスナ・スペシャルの醤油ソースをかけたステーキだった。食材アイテムのランクとしてはそれ程高級なものではないが、何せ味付けが素晴らしい。がつがつと肉を頬張る俺を、アスナはにこにこしながら眺めていた。
食後のお茶をソファーに向かい合わせで座りながらゆっくりと飲むあいだ、アスナはやけに饒舌だった。好きな武器のブランドや、どこそこの層に観光スポットがあるという話を矢継ぎ早に喋りつづける。
俺は半ばあっけに取られて聞いていたが、アスナが突然黙り込むに及んでさすがに心配になった。お茶のカップの中に何か探してでもいるかのように、じっと視線を落としたまま身じろぎもしない。表情がやけに真剣で、まるで戦闘前だ。
「……お、おい、一体どうしたん……」
だが、俺の言葉が終わらないうちにアスナは右手のカップを音高くテーブルに置くと、
「…………よし!!」
気合をいれながらすっくと立ち上がった。そのまま窓際まで歩いていき、壁に触れて部屋の操作メニューを出すと四隅に設置された照明用のランタンをいきなり全て消した。部屋が暗闇に包まれる。俺の索敵スキル補正が自動的に適用され、視界が暗視モードに切り替わる。
薄青い色彩に染まった部屋の中で、窓から差し込む街灯のほのかな光に照らされたアスナだけが白く輝いていた。状況に戸惑いながらも、俺はその美しさに息をのんだ。
今は濃紺色に見える長い髪、チュニックからすらりと伸びた真っ白な肌の手足、それらが淡い光を反射してまるで自ら発光しているかのようだ。
アスナはしばらく無言で窓際に佇んでいた。うつむいているので表情はよく見えない。左手を胸元に添え、何かを迷っているように見える。
状況を理解できないまま俺が声をかけようとしたとき、アスナの左手が動いた。宙にかざした手の人差し指を軽く振る。ポーン、という効果音と同時にメニューウインドウが出現した。
青い闇のなか、紫色のシステムカラーに発光するその上を、ゆっくりとアスナの指が動く。どうやら左側、装備フィギュアを操作しているらしい――
と思った瞬間、アスナの穿いていた膝までのソックスが音もなく消滅した。優美な曲線を描く素足が剥き出しになる。もう一度指が動く。今度はワンピースのチュニックそのものが装備解除された。俺はポカンと口を開け、目を丸くして思考停止に陥った。
アスナは今や下着を身につけているのみだった。白い小さな布が、申し訳程度に胸と腰を隠している。
「こ、こっち……見ないで……」
震える声で、かすかに呟く。そう言われても、視線を動かすことなどできない。
アスナは両腕を体の前で組み合わせてもじもじしていたが、やがて顔を上げてまっすぐこちらを見ると、優美な動作でウインドウに新たな操作を加えた。最後に残されていたわずかな装備が消滅した。
俺は魂を抜かれるような衝撃を味わいながら、呆然とその姿を見つめた。
美しいなどというものではない。青い光の粒をまとった艶やかでなめらかな肌、最上の絹糸を束ねたような髪、思いがけず量感のある二つのふくらみは、逆説的だがどんな描画エンジンでも再現不可能と思わせる完璧な曲線を描き、ほっそりした腰から両脚にかけては野生動物を思わせるしなやかな筋肉に包まれている。
単なる3Dオブジェクトなどでは決してない。例えれば、神の手になる彫像に魂を吹き込んだようなと言うべきか――。SAOプレイヤーの肉体は、ログイン時にナーヴギアが大まかにスキャンした体格をもとに半ば自動生成的に作られている。それを考えれば、ここまで完璧な美しさを持つ肉体が存在するのは奇跡と言ってよい。
俺は呆けたようにいつまでもその裸身に見入っていた。もし、アスナが耐え切れないといったように両手で体を隠し、口を開かなければ一時間でもそのままだったに違いない。
アスナは、薄青い闇の中でもわかるほど顔を真っ赤に染めて、うつむいたまま言った。
「き、キリト君もはやく脱いでよ……。わたしだけ、は、恥ずかしいよ」
その声に、俺はようやくアスナの行動の意図するところを理解した。
つまり、彼女は――俺の、今夜一緒にいたい、という台詞を、俺より一段踏み込んだ意味に解釈したのだ。
それを理解すると同時に俺は底なしの深いパニックに陥った。結果、これまでの人生で最大のミスを犯すこととなった。
「あ……いや、その、俺は……ただ……今夜、い、一緒の部屋に居たいという、それだけの……つもりで……」
「へ……?」
自分の思考を馬鹿正直にトレースした俺の発言に、今度はアスナがぽかんとした顔で完全停止した。が、やがて、その顔に最大級の羞恥と怒りを混合した表情が浮かぶ。
「バ……バ……」
握り締めた右拳に目に見えるほどの殺気をみなぎらせ、
「バカ――――――ッ!!」
敏捷度パラメータ全開のスピードで突進してきたアスナの正拳突きは、俺の顔面に炸裂する寸前で犯罪防止コードに阻まれて大音響と共に紫色の火花を散らした。
「わ、わあー、待った!! ごめん、ごめんって! 今のナシ!」
構わず二撃目を見舞おうとするアスナに向かって両手を激しく振りながら俺は必死に弁解した。
「悪かった、俺が悪かった!! い……いや、しかし、そもそもだなぁ……。その……で、出来るの……? SAOの中で……?」
ようやく攻撃姿勢をやや解除したアスナが、怒りの冷めやらぬ中にも呆れた表情を浮べて言った。
「し、知らないの……?」
「知りません……」
「…………オプションメニューのすっごい深いとこに、倫理コード解除設定があるのよ」
まるで初耳だった。ベータの時には間違いなくそんな物はなかったし、マニュアルにも載っていない。ソロプレイに徹して戦闘情報以外に興味を向けなかったツケをこんな形で払うことになろうとは……。だが、その話は俺に新たな、看過し得ぬ疑問をもたらした。思考能力が回復しないままうっかりそれを口にしてしまう。
「……その……け、経験がおありなんです……?」
再びアスナの鉄拳が俺の顔面直前に炸裂した。
「な、ないわよバカ――――ッ!! ギルドの子に聞いたの!!」
俺は心の底からホッとしたが、危機が去ったわけではまるでない。平謝りに謝りつづけ、どうにか宥めるまで数分を要した。
アスナは裸のままどすんとソファーに腰掛けると、据わった視線で俺を睨みつけ、
「……キリト君も早く脱いで」
と命令口調で言った。
「は…………つ、続けるの……?」
「ここでやめたら馬鹿らしすぎるわよ!!」
俺は慌てて従った。アスナの言うままウインドウを開き、恐ろしく深い階層にあるオプションを解除する。
ドタバタした導入には雰囲気も何もあったものではなかったが、二人だと少々狭すぎるベッドの上で、俺たちは時間をかけてシステムの許すかぎり出来る事をした。詳細な説明は省く。
テーブルの上にたった一つだけ灯した小さな蝋燭の明かりが、俺の腕の中でまどろむアスナの肌を控えめに照らしていた。その白い背中にそっと指を這わせる。暖かく、このうえなく滑らかな感触が指先から伝わってくるだけで陶然とした気分になる。
アスナは薄く目を開けると俺を見上げ、二、三度瞬きしてにっこり笑った。
「悪い、起こしちゃったな」
「ん……。ちょっとだけ、夢、見てた。元の世界の夢……。おかしいの」
笑顔のまま、俺の胸に顔をすりよせてくる。
「夢の中で、アインクラッドの事が、キリト君と会ったことが夢だったらどうしようって思ってとっても怖かった。よかった……夢じゃなくて」
「変な奴だな。帰りたくないのか?」
「帰りたいよ。帰りたいけど、ここで過ごした時間がなくなるのは嫌。ずいぶん……遠くまで来ちゃったけど、わたしにとっては大事な二年間なの。今ならそう思える」
ふと真顔になり、自分の右手をじっと見詰める。ごくかすかな声で、
「はじめて、ほかのプレイヤーを……殺した……」
俺はハッとした。内心で激しく動揺する。やはりアスナの手を汚させるべきではなかった。
「ごめん……俺が、決着をつけるべきだった……」
「ううん、いいの」
まっすぐな瞳を向けてくる。
「キリト君を傷つけようとする人は許さない。ゲームの中だからとかじゃないよ。元の世界に戻ってからどんな罰を受けてもいい」
「アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……」
「そんなことないよ。わたし、今とっても楽なの……。ギルド辞めて、副団長なんて肩書きやっと放り出して、キリト君のそばにいるだけでいいって思うと、すーって体が軽くなった気がする。……もともと向こうじゃそういう性格だったんだ。誰かの後についてくほうが好き。このゲームだって自分で買ったんじゃないんだよ」
何かを思い出したようにくすくす笑う。
「お兄ちゃんが買ったんだけどね、急な出張になっちゃって、わたしが初日だけ遊ばせてもらうことになったの。すっごい口惜しそうだったのに、二年も独り占めしちゃって、怒ってるだろうなぁ」
身代わりになったアスナのほうが不運だと思うが……。
「……早く帰って、謝らないとな」
「うん……。がんばらないとね……」
だが、言葉とは裏腹に口篭もったアスナは不安そうに目を伏せると、体ごとぴたりと擦寄ってきた。
「ね……キリト君。ちょっとだけ、前線から離れたらだめかなぁ」
「え…………?」
「なんだか怖い……。戦いばっかりのこの世界で……こんなに幸せだと、揺り返しがありそうな気がして……。少し、疲れちゃったのかもしれない……」
アスナの髪をそっと梳りながら、俺は自分でも意外なほど素直に頷いていた。
「そうだな……。俺も、疲れたよ……」
たとえ数値的なパラメータが変化しなくても、日々の連戦は目に見えない消耗を強いる。今日のような極限状況に至る事態があれば尚更だ。どんなに剄い弓でも、引き続ければやがて折れてしまう。休息が必要なときもあるだろう。
俺は、今まで己を戦闘へと駆り立ててきた危機感にも似た衝動が遠ざかっていくのを感じていた。今は、ただこの少女との繋がり、絆を確かめていたい、そう思った。
アスナの体に両腕をまわし、絹のような髪に顔をうずめながら俺は言った。
「22層の南西エリアの、森と湖がいっぱいあるとこ……あそこに小さい村があるんだ。モンスターも出ないし、いい所だよ。ログキャビンがいくつか売りに出てた。……二人でそこに引っ越そう。それで……」
言葉に詰まった俺に、アスナがキラキラ輝く大きな瞳をじっと向けてきた。
「それで……?」
こわばった舌をどうにか動かし、続きを口にする。
「……け、結婚しよう」
アスナが見せた最上級の笑顔を、俺は生涯忘れないだろう。
「……はい」
こくりと頷いたその頬を、一粒の大きな涙が流れた。
17
SAOにおいて、システム上で規定されるプレイヤー同士の関係は四種類存在する。
まずひとつは無関係の他人。二つ目がフレンドだ。フレンドリストに登録した者同士なら、どこにいようと簡単な文章のメッセージを送ることができるし、相手の現在位置をマップ上でサーチすることも可能となる。
三つ目はギルドメンバー。上記の機能に加えて、戦闘時にメンバーとパーティーを組むと戦闘力にわずかだがボーナスを得るという特典がある。その代償として、入手したコルのうち一定の割合でギルドへの上納金が差っ引かれてしまうのだが。また、ギルドメンバーはいついかなる時でもリーダーの強制召還を拒否できないというシステム上の誓約があり、俺たちがかつてアスナのギルド脱退に拘ったのもそのへんに理由がある。
さて、俺とアスナは今までフレンドとギルドメンバーという二つの条件を共有していた訳だが、二人ともギルドからは一時脱退し、かわりに最後の一つが加わることになった。
結婚、と言っても手続きは拍子抜けするほど簡単だ。どちらかがプロポーズメッセージを送り、相手が受諾すればそれで終了である。だが、それによってもたらされる変化はフレンドやギルドの比ではない。
SAOにおける結婚が意味するものは、簡潔に言えば全情報と全アイテムの共有だ。お互いは自由に相手のステータス画面を見ることができるし、アイテム画面に至っては一つに統合されてしまう。言わば最大の生命線を相手に差し出す行為であり、裏切りや詐欺の横行するアインクラッドではどんなに仲の良いカップルでも結婚にまで至る例はごく稀だ。男女比の甚だしい不均衡も無論理由の一つではあるのだが。
第22層はアインクラッドで最も人口の少ないフロアの一つである。低層であるがゆえに面積は広いが、その大部分は常緑樹の森林と無数に点在する湖に占められており、主街区もごく小さな村と言ってよい規模だ。フィールドにモンスターは出現せず、迷宮区の難度も低かったため僅か三日で攻略されてしまい、プレイヤーの記憶にはほとんど残らなかった。
俺とアスナはその22層の森の中に小さなログハウスを購入し、そこで暮らすことにした。小さいと言ってもSAOで一軒家を買うのは並大抵の金額では済まない。アスナはセルムブルグの部屋を売ると言ったのだが、それには俺が強硬に反対し――あそこまで見事にカスタマイズされた部屋を手放すのは勿体無いどころの話ではない――結局二人の手持ちのレアアイテムを、エギルの協力を得て全て売り捌きどうにか金を工面することができた。
エギルは残念そうな顔で好きなだけ二階を使っていいんだぜ、と言ってくれたが、雑貨屋に居候の新婚生活ではあまりに侘しすぎる。それに、超有名プレイヤーのアスナが結婚したなどということが公になったらどんな騒ぎになるか、想像するのも恐ろしい。人のいない22層でなら、しばらくは静かな生活を送れるだろうと思ったのだ。
「うわー、いい眺めだねえ!」
寝室、と言っても二部屋しかないのだが、その南側の窓を大きく開け放ってアスナは身を乗り出した。
確かに絶景だ。外周部が間近にあるため、輝く湖面と濃緑の木々の向こうに大きく開けた空を一望することができる。普段、頭上百メートルにのしかかる石の蓋の下で生活しているので、間近にある空がもたらす解放感は筆舌に尽くしがたいものがある。
「いい眺めだからってあんまり外周に近づいて落っこちるなよ」
俺は家財道具アイテムを整理する手を休め、背後からアスナの体に両腕をまわした。この女性は今や俺の妻なのだ――そう思うと、冬の陽だまりのような温かさと同時に不思議な感慨、なんと遠いところまで来てしまったのだろうという驚きに似た気持ちが湧き上がってくる。
この世界に囚われるまで、俺は目的もなく家と学校を往復する日々を送るだけの子供だった。しかし最早現実世界は遥かに遠い過去となってしまった。
もし――もしこのゲームがクリアされ、元の世界に帰ることになったら……。それは俺やアスナを含む全プレイヤーの希望であるはずなのだが、その時のことを考えると正直不安になる。俺は知らず知らずアスナを抱く腕に強く力を込めていた。
「痛いよキリト君……。どうしたの……?」
「ご……ごめん……。なあ、アスナ……」
一瞬口篭もる。だがどうしても聞かずにはおれなかった。
「……俺たちの関係って、ゲームの中だけのことなのかな……? あの世界に帰ったら無くなっちゃう物なのかな……」
「怒るよ、キリト君」
振り向いたアスナは、純粋な感情が燃える瞳をまっすぐ向けてきた。
「例えこれが、こんな異常事態じゃない普通のゲームだとしても、わたしは遊びで人を好きになったりしない」
両手で俺の頬をぎゅっと挟みこむ。
「わたし、ここで一つだけ覚えたことがある。諦めないで最後まで頑張ること。もし元の世界に戻れたら、わたしは絶対キリト君ともう一度会って、また好きになるよ」
アスナの真っ直ぐな強さに感嘆するのは何度目だろう。それとも俺が弱くなっているのか。
だが、それでもいい――。アスナと深く唇を交わしながら、俺は思った。誰かに頼り、支えてもらうのがこんなにも心地よいという事を長い間忘れていた。いつまでここに居られるのかは判らないが、せめて戦場を離れている間くらいは――。
俺は思考が拡散してゆくに任せ、ただ腕の中の甘い香りと柔らかさだけに意識を集中させた。
SAO1_06_Unicode.txt
18
湖水に垂れた糸の先に漂うウキはぴくりともしない。水面に乱舞する柔らかい光を眺めていると、徐々に眠気が襲ってくる。
俺は大きく欠伸をして、竿を引き上げた。糸の先端には銀色の針が空しく光るのみだ。付いていたはずの餌は影も形も無い。
22層に引っ越してきて十日余りが過ぎ去っていた。俺は日々の食料を手に入れるため、スキルスロットから大昔に修行しかけた両手剣スキルを削除して代わりに釣りスキルを設定し、太公望を気取っているのだがこれがさっぱり釣れやしない。スキル熟練度はそろそろ600を超え、大物とまでは行かなくても何か掛かってもいい頃だと思うのだが、村で買ってきた餌箱を無為に空にする毎日である。
「やってられるか……」
小声で毒づくと竿を傍らに投げ出し、俺はごろりと寝転んだ。湖面を渉ってくる風は冷たいが、アスナが裁縫スキルで作ってくれた分厚いオーバーのお陰で体は暖かい。向こうもスキル修行中ゆえにショップメイドのようには行かないが、実用性さえあれば問題はない。
アインクラッドはイトスギの月に入っていた。日本で言えば十一月。冬も間近だが、ここでの釣りに季節は関係なかったはずだ。運のパラメータを美人の奥さんで使い果たしたのだろうか。
その思考経路によって浮かんできたにやにや笑いを隠しもせず寝転がっていると、不意に頭の上のほうから声を掛けられた。
「釣れますか」
仰天して飛び起き、顔を向けると、そこには一人の男が立っていた。
重装備の厚着に耳覆い付きの帽子、俺と同じく釣り竿を携えている。だが驚くべきはその男の年齢だった。どう見ても五十歳は超えているだろう。鉄縁の眼鏡をかけたその顔には初老と言ってもよい程の年輪が刻まれている。重度のゲームマニア揃いのSAOでこれほど高齢のプレイヤーはごく珍しい。と言うより見たことが無い。もしや――?
「NPCじゃありませんよ」
男は俺の思考を読んだように苦笑すると、ゆっくりと土手を降りてきた。
「す、すみません。まさかと思ったものですから…」
「いやいや、無理はない。多分私はここでは突出して最高齢でしょうからな」
肉付きのいい体を揺らして、わ、は、は、と笑う。
ここ失礼します、と言って俺の傍らに腰を下ろした男は、腰のポーチから餌箱を取り出すと不器用な手つきでポップアップメニューを出し、竿をターゲットして餌を付けた。
「私はニシダといいます。ここでは釣り師。日本では東都高速線という会社の保安部長をしとりました。名刺が無くてすみませんな」
またわははと笑う。
「あ……」
なるほど……。俺はこの男がここにいる理由を何となく察していた。東都高速線はアーガスと提携していた光ケーブルネットワーク運営企業だ。SAOのサーバー群に繋がる経路も手がけていたはずである。
「俺はキリトといいます。最近上の層から越してきました。……ニシダさんは、やはり……SAOのシステムセキュリティの……?」
「一応責任者ということになっとりました」
頷いたニシダを俺は複雑な心境で見やった。ならばこの男は業務の上で事件に巻き込まれたわけだ。
「いやあ、何もログインまではせんでいいと上には言われたんですがな、自分の仕事はこの目で見ないと収まらん性分でして、年寄りの冷や水がとんだことになりましたわ」
笑いながら、すい、と竿を振る動作は見事なものだった。年季が入っている。話し好きな人物のようで、俺の言葉を待たず喋りつづける。
「私の他にも何だかんだでここに来てしまったいい歳の親父が百人ほどはいるようですな。大抵は最初の街でおとなしくしとるようですが、私はコレが三度の飯より好きでしてね」
竿をくいっとしゃくってみせる。
「いい川やら湖を探してとうとうこんな所まで登ってきてしまいましたわ」
「な、なるほど…。この層にはモンスターも出ませんしね」
ニシダは、俺の言葉にはニヤリと笑っただけで答えず、
「どうです、上のほうにはいいポイントがありますかな?」
と聞いてきた。
「うーん……。61層は全面湖、というより海で、相当な大物が釣れるようですよ」
「ほうほう! それは一度行ってみませんとな」
その時、男の垂らした糸の先で、ウキが勢いよく沈み込んだ。間髪入れずニシダの腕が動き、ビシッと竿を合わせる。本来の腕もさることながら釣りスキルの数値もかなりのものだろう。
「うおっ、で、でかい!」
慌てて身を乗り出す俺の横で、ニシダは悠然と竿を操り、水面から青く輝く大きな魚体を一気に抜き出した。魚はしばし男の手許で跳ねたあと、自動でアイテムウインドウに格納され、消滅する。
「お見事……!」
ニシダは照れたように笑うと、
「いやぁ、ここでの釣りはスキルの数値次第ですから」
と頭を掻いた。
「ただ、釣れるのはいいんだが料理の方がどうもねえ……。煮付けや刺身で食べたいもんですが醤油無しじゃどうにもならない」
「あ……っと……」
俺は一瞬迷った。他人から隠れるために移ってきた場所だが……しかしこの男ならゴシップには興味があるまいと判断する。
「……醤油にごく似ている物に心当たりがありますが……」
「なんですと!」
ニシダは眼鏡の奥で目を輝かせ、身を乗り出してきた。
ニシダを伴って帰宅した俺を出迎えたアスナは、少し驚いたように目を丸くしたがすぐに笑顔を浮かべた。
「おかえりなさい。お客様?」
「ああ。こちら、釣り師のニシダさん。で――」
ニシダに向き直った俺は、アスナをどう紹介したものか迷って口篭もった。するとアスナはにこりと老齢の釣り師に微笑みかけ、
「キリトの妻のアスナです。ようこそいらっしゃいませ」
元気よく頭を下げた。
ニシダはぽかんと口をあけ、アスナに見入っていた。地味な色のロングスカートに麻のシャツ、エプロンとスカーフ姿のアスナは、KoB時代の凛々しい剣士姿とは違えどその美しさにかわるところはない。
何度かまばたきした後、ようやく我に返った様子のニシダは、
「い、いや、これは失礼、すっかり見とれてしまった。ニシダと申します、厚かましくお招きにあずかりまして……」
頭を掻きながら、わははと笑った。
ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物に調理し、食卓に並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に広がり、ニシダは感激した面持ちで鼻を盛んにひくつかせた。
魚は淡水魚というよりは、旬の鰤のような脂の乗った味だった。ニシダに言わせるとスキル値950は無いと釣れない種類だそうで、三人とも会話もそこそこにしばらく夢中で箸を動かしつづけた。
たちまち食器は空になり、熱いお茶のカップを手にしたニシダは陶然とした顔で長いため息をついた。
「……いや、堪能しました。ご馳走様です。しかし、まさかこの世界に醤油があったとは……」
「あ、自家製なんですよ。よかったらお持ち下さい」
アスナは台所から小さな瓶を持ってきてニシダに手渡した。その際素材の解説をしなかったのは賢明だろう。恐縮するニシダに向かって、こちらこそ美味しいお魚を分けていただきましたから、と笑う。続けて、
「キリト君はろくに釣ってきたためしがないんですよ」
唐突に話の矛先を向けられて、俺は憮然として茶を啜った。
「このへんの湖は難易度が高すぎるんだよ」
「いや、そうでもありませんよ。難度が高いのはキリトさんが釣っておられたあの大きい湖だけです」
「な……」
ニシダの言葉に俺は絶句した。アスナがお腹を押さえてくっくっと笑っている。
「なんでそんな設定になってるんだ……」
「実は、あの湖にはですね……」
ニシダは声をひそめるように言った。俺とアスナが身を乗り出す。
「どうやら、主がおるんですわ」
「ヌシ?」
異口同音に聞き返す俺とアスナに向かってニヤリと笑ってみせると、ニシダは眼鏡を押し上げながら続けた。
「村の道具屋に、一つだけヤケに値の張る釣り餌がありましてな。物は試しと使ってみたことがあるんです」
思わず固唾を飲む。
「ところが、これがさっぱり釣れない。散々あちこちで試したあと、ようやくあそこ、唯一難度の高い湖で使うんだろう思い当たりまして」
「つ、釣れたんですか……?」
「ヒットはしました」
深く頷く。しかしすぐ残念そうな顔になり、
「ただ、私の力では取り込めなかった。竿ごと取られてしまいましたわ。最後にちらりと影だけ見たんですが、大きいなんてもんじゃありませんでしたよ。ありゃ怪物、そこらにいるのとは違う意味でモンスターですな」
両腕をいっぱいに広げてみせる。あの湖で、俺がここにはモンスターは居ないと言った時にニシダが見せた意味深な笑顔はそういうことだったのか。
「わあ、見てみたいなぁ!」
目を輝かせながらアスナが言う。ニシダは、そこで物は相談なんですが、と俺に視線を向けてきた。
「キリトさんは筋力パラメータのほうに自信は…?」
「う、まあ、そこそこには……」
「なら一緒にやりませんか! 合わせるところまでは私がやります。そこから先をお願いしたい」
「ははぁ、釣り竿の『スイッチ』ですか。……できるのかなぁそんな事……」
首をひねる俺に向かって、
「やろうよキリト君! おもしろそう!」
アスナが、わくわく、と顔に書いてあるような表情で言った。相変わらず行動力のある奴だ。だが俺もかなり好奇心を刺激されているのは事実だった。
「……やりますか」
俺が言うと、ニシダは満面に笑みを浮べて、そうこなくっちゃ、わ、は、は、と笑った。
その夜。
寒い寒いと俺のベッドに潜り込んできたアスナは、ぴたりとお互いの体を密着させると満足そうに喉を鳴らした。眠そうに目をぱちぱちさせながら、何かを思い出したような笑みを浮べている。
「……いろんな人がいるんだねえ、ここ……」
「愉快な親父だったなぁ」
「うん」
しばらくクスクス言っていたが、不意に笑いを引っ込めて、
「今までずーっと上で戦ってばっかいたから、普通に暮らしてる人もいるんだってこと忘れてたよ……」と呟いた。
「わたしたちが特別だなんて言うわけじゃないけど、最前線で戦えるくらいのレベルだってことは、あの人たちに対して責任がある、ってことでもあるんだよね」
「……俺はそんなふうに考えたこと無かったな……。強くなるのは自分が生き残るためってのが第一だった」
「今はキリト君に期待してる人だっていっぱいいると思うよ。わたしも含めてね」
「……そういう言われ方すると逃げたくなる性分なんだ」
「もう」
不満そうに口を尖らせるアスナの唇を、俺は自分の唇で塞いだ。右手を背に這わせ、そのまま下のほうに降ろしてゆく。
「あ……誤魔化すなんて、ず、ずるい……」
構わず寝巻きの下に手を潜らせようとしたが、その手をぎゅっと抓られてしまった。
「今日はもうだめ!」
「……な、なんで……」
「……気持ちよすぎて、こわいんだもん……」
顔を赤くして毛布に潜ってしまう。
「うむ、あのシステムはどうやらリアリティは追求しないで、純粋な快感だけを無制限に脳神経シミュレートしてるみたいだからな。薬物使用みたいな物で、ある意味危険かもな」
と鹿爪らしい声で言ってやると、それにつられたように顔を出して、
「そうなのよね……。最初にこっちで慣れちゃうと、帰ってから、本物に幻滅したりすると嫌だなって……――って、何言わせるのよ!!」
耳まで真っ赤にしてぽかぽか殴りかかってくるアスナの攻撃を避けながら、
「わははは、いやらしい子だなぁアスナは」
と笑っていたら本当に怒らせてしまったらしく、俺はベッドから容赦なく突き落とされた。
「もう知らない! そっちのベッドで寝てください!」
毛布を被ってむこうを向いてしまったアスナに謝りながら、俺は内心でもう少しだけこの生活が続くように願っていた。ニシダやその他のプレイヤーの為にもいつかは前線に戻らなくてはならない。だが、せめて今だけは――。
エギルやクラインから届くメッセージで、75層の攻略が難航していることは知らされていた。しかし、俺にとってはここでのアスナとの暮らしが今いちばん大切なのだと、心からそう思えた。
19
ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは三日後の朝のことだった。どうやら太公望仲間に声を掛けて回っていたらしく、ギャラリーが三十人から来るという。
「参ったなぁ。……どうする? アスナ……」
「う~ん……」
正直、その知らせは有難くなかった。情報屋やらアスナの追っかけから身を隠す為に選んだ場所なので、衆目の前には出るのは抵抗がある。
「これでどうかなー」
アスナは栗色の長い髪をアップにまとめると、大きなスカーフを目深に巻いて顔を隠した。ウインドウを操作して、だぶだぶした地味なオーバーコートを着込む。
「お、おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」
「……それ、褒めてるの?」
「勿論。俺はまあ武装してなければ大丈夫だろう」
昼前に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。
今日はこの季節にしては暖かい。巨大な針葉樹が立ち並ぶ森の中をしばらく歩くと、幹の間からきらめく水面が見えてきた。湖畔にはすでに多くの人影が見える。やや緊張しながら近づいて行くと、見覚えのあるずんぐりした男が聞き覚えのある笑い声と共に手を上げた。
「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」
「こんにちはニシダさん」
俺とアスナも頭を下げる。年齢にバラつきのある集団はニシダの主催する釣りギルドのメンバーだと言う事で、内心緊張しながら全員に挨拶したがアスナに気が付いた者はいないようだった。
それにしても予想以上にアクティブな親父である。会社ではいい上司だったのだろう。俺たちが到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、すでに場は相当盛り上がっている。
「え~、それではいよいよ本日のメイン・イベントを決行します!」
長大な竿を片手に進み出たニシダが大声で宣言すると、ギャラリーは大いに沸いた。俺は何気なく彼の持つ竿と、その先の太い糸を視線で追い、先端にぶら下がっている物に気付いてぎょっとした。
トカゲだ。だが大きさが尋常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにぬめぬめと光っている。
「ひえっ……」
やや遅れてその物体に気付いたアスナが、顔を強張らせて二、三歩後ずさった。これが餌だとすると、狙う獲物というのは一体…。
だが俺が口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると大上段に竿を構えた。気合一発、見事なフォームで竿を振ると、ぶん、と空気を鳴らしながら巨大なトカゲが宙に弧を描いて飛んでゆき、やや離れた水面に盛大な水飛沫を上げて着水した。
SAOにおける釣りには、待ち時間というものが殆ど無い。仕掛けを水中に放り込めば、数十秒で獲物が釣れるか、餌が消滅して失敗するかどちらかの結果が出る。俺たちは固唾を飲んで水中に没した糸に注目した。
果たして、やがて釣り竿の先が二、三度ぴくぴくと震えた。だが竿を持つニシダは微動だにしない。
「き、来ましたよニシダさん!!」
「なんの、まだまだ!!」
眼鏡の奥の、普段は好々爺然とした目を爛々と輝かせ、片頬に笑みを浮べたニシダは細かく振動する竿の先端をじっと見据えている。
と、一際大きく竿の穂先が引き込まれた。
「いまだッ」
ニシダが短躯を大きく反らせ、全身を使って竿をあおった。傍目にも分るほど糸が張り詰め、びぃん、という効果音が空気を揺らした。
「掛かりました!! あとはお任せしますよ!!」
ニシダから手渡された竿を、俺は恐る恐る引いてみた。びくともしない。まるで地面を引っ掛けたような感触だ。これは本当にヒットしているのだろうかと不安になり、ニシダにちらりと視線を向けた瞬間――
突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。
「うわっ」
慌てて両足を踏ん張り、竿を立て直す。使用筋力のゲインが日常モードを軽く超えている。
「こ、これ、力一杯引いても大丈夫ですか?」
竿や糸の耐久度が心配になり、俺はニシダに声をかけた。
「最高級品です! 思い切ってやってください!」
顔を真っ赤にして興奮しているニシダに頷き返すと、俺は竿を構え直し、全力を開放した。竿が中程から逆Uの字に大きくしなる。
レベルアップ時に、筋力と敏捷力のどちらを上昇させるかは各プレイヤーが任意に選択することができる。エギルのような斧使いなら筋力を優先させるし、アスナのような細剣使いは敏捷力を上げていくのがセオリーだ。俺はオーソドックスな剣士タイプなので双方のパラメータを上げていたが、好みの問題でどちらかと言えば敏捷力に傾いている。
だが、レベルの絶対値が無駄に高いせいか、どうやらこの綱引きは俺に分があるようだった。俺は踏ん張った両足をじりじりと後退させ、遅々としながらも確実な速度で謎の獲物を水面に近づけていった。
「あっ! 見えたよ!!」
アスナが身を乗り出し、水中を指差した。俺は岸から離れ、体を後方に反らせている為確認することができない。見物人たちは大きくどよめくと、我先にと水際に駆け寄り、岸から急角度で深くなっている湖水を覗き込んだ。俺は好奇心を抑え切れず、全筋力を振り絞って一際強く竿をしゃくり上げた。
「……?」
突然、俺の眼前で湖面に身を乗り出していたギャラリー達の体がビクリと震えた。皆揃って二、三歩後退する。
「どうしたん……」
俺の言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。俺の左をアスナ、右をニシダが顔面蒼白で駆け抜けていく。あっけに取られた俺が振り向こうとしたその時――突然両手から重さが消えた。
しまった、糸が切れたか。咄嗟にそう思って水際に駆け寄ろうと片足を踏み出す。その瞬間、俺の眼前で、銀色に輝く湖水が大きく、丸く盛り上がった。
「な―――」
目と口を大きく開けて立ち尽くす俺の耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。
「キリトくーん、あぶないよ――」
振り向くと、アスナやニシダを含む全員はすでに岸辺の土手を駆け上がり、かなりの距離まで離れている。ようやく状況を飲み込みつつある俺の背後で、盛大な水音が響いた。とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、俺はもう一度振り向いた。
魚が立っていた。
もうすこし詳細に説明すれば、魚類から爬虫類への進化の途上にある生物、シーラカンスのもう少し爬虫類寄りといった様子の奴が、全身から滝のように水滴をしたたらせ、六本のがっしりとした脚で岸辺の草を踏みしめて俺を見下ろしていた。見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく見積もっても二メートルはあるからだ。牛さえも丸のみにしそうな口は俺の頭よりやや高い位置にあり、端からは見覚えのあるトカゲの足がはみ出している。
巨大古代魚の、頭の両脇に離れてついているバスケットボール大の目と、俺の目がぴたりと合った。自動で俺の視界に黄色いカーソルが表示された。
ニシダは、この湖のヌシは怪物、ある意味モンスターだと語った。
ある意味どころではない。こいつはモンスターそのものだ。
俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。左手の竿を放り出し、そのままくるりと後ろを向き、脱兎の如く駆け出す。背後の巨大魚は轟くような咆哮を上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。
敏捷度全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナの傍まで達すると猛然と抗議した。
「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」
「わぁ、そんな事言ってる場合じゃないよキリト君!」
振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。
「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」
「キリトさん、呑気なこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」
今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリー達も余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだまま呆然とするだけの者も少なくない。
「キリト君、武器持ってる?」
俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが――。
「スマン、持ってない……」
「しょうがないなぁもう」
アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。
ニシダや他の見物人達が呆然と見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時に剥ぎ取った。陽光を反射してきらきら輝く栗色の髪が、風の中で華麗に舞った。
オーバーの下は草色のロングスカートと生成り麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣の鞘がまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、地響きを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。
俺の横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕を掴むと大声で叫んだ。
「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」
「いや、任せておけば大丈夫です」
「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」
悲壮な表情で釣り竿を構え、アスナの方に駆け出そうとする老釣り師を俺は慌てて制した。
巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数の牙が並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身を躍らせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀の光芒を引いて突き込まれた。
爆発じみた衝撃音と共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュが炸裂した。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。
モンスターの図体にはかなり心胆寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからには理不尽に強敵である筈がないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。
地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、〈閃光〉の異名に恥じない連続攻撃が容赦なく加えられた。
華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々を繰り出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者達は呆けたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろう。多分両方だ。
周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んで距離を取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。彗星のように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、〈フラッシング・ペネトレイター〉だ。
ソニックブームに似た衝撃音と共にその彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長い滑走を経てアスナが停止した直後、敵の巨体が膨大な光の欠片となって四散した。一瞬遅れて巨大な破砕音が轟き、湖の水面に大きな波紋を作り出した。
チン、と音を立ててアスナが細剣を鞘に収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダ達は口を開けたまま身動ぎひとつしなかった。
「よ、お疲れ」
「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」
「もう財布も共通データじゃないか」
「う、そうか……」
俺とアスナが緊張感のないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。
「……いや、これは驚いた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルは如何程……?」
俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。
「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」
アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀に輝く一本の釣り竿が出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。
「お、おお、これは!?」
ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまく誤魔化せたかな…と思ったとき。
「あ……あなた、血盟騎士団のアスナさん……?」
一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。
「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」
「う……」
アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先程に倍するどよめきが周囲から沸き起こった。
「か、感激だなぁ! アスナさんの戦闘をこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」
若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。呆然とした表情で呟く。
「け……結婚、したんすか……」
今度は俺が強張った笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやらわからないといった様子で目をぱちくりさせていたが。
俺とアスナの蜜月はこのようにして僅か二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。
その日の夜、俺たちの元に、75層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。
翌朝。
ベッドの端に腰掛けてがっくりとうなだれていると、支度を済ませたアスナが鋲付きブーツを音高く鳴らしながら目の前までやってきて言った。
「ほら、いつまでもくよくよしてない!」
「だってまだ二週間なんだぜ」
子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤の騎士装を身に付けたアスナは非常に魅力的に見えたことは否定できない。
ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断る事もできただろう。だが、メッセージの末尾にあった「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。
「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」
背中を叩かれてしぶしぶ腰を上げ、装備画面を操作して例の派手なレザーコートと最小限の防具類、最後に二本の愛剣を背中に交差して吊る。その重みは、長らくアイテム欄に放置しっぱなしだった事に対して無言の抗議をしているかのようだ。俺は剣たちをなだめるように少しだけ抜き出し、同時に勢い良く鞘に収めた。高く澄んだ金属音が部屋中に響いた。
「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」
アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。
「……さっさと片付けて戻ってこよう」
「そうだね!」
頷きあうと、俺達はドアを開けた。冬の気配が色濃くなった冷たい朝の空気の中へと足を踏み出す。
22層の転移門広場では、釣り竿を抱えたお馴染みの姿でニシダが俺たちを待っていた。彼だけには出発の時刻を伝えておいたのだ。
ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。
「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるという事がどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出を諦めていたのかもしれませんなぁ」
俺とアスナは無言で彼の言葉を聞いていた。
「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い頃から相当いじってきたクチですから今まで何とか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場から離れちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるかわからない、厄介払いされて惨めな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿を振ってたほうがマシだ――と……」
言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOの囚人となったことによってこの男が失った物は、俺などに想像できる範疇のものではないだろう。
「わたしも――」
アスナがぽつりと言った。
「わたしも、半年くらい前までは同じ事を考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎる度に、家族のこととか、友達とか、進学とか、わたしの現実がどんどん壊れていっちゃう気がして、気が狂いそうだった。寝てる時も元の世界の夢ばっかり見て……。少しでも強くなって早くゲームクリアするしかない、って武器のスキル上げばっかりしてたんです」
俺は驚いて傍らのアスナの顔を見詰めた。俺と出会ったころはそんな様子はまるで見えなかった。他人の事をろくに見ていないのは今に始まったことではないが……。
アスナは俺に視線を送るとかすかに微笑んで、言葉を続けた。
「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生で昼寝してる人がいるんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人に『こんなとこで時間を無駄にする暇があったらすこしでも迷宮を攻略してください』って……」
片手を口に当ててクスクスと笑う。
「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に潜っちゃもったいない』って言って、横の芝生を指して『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」
笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。
「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか――って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人の隣で横になってみました。そしたらほんとに風が気持ちよくて……ぽかぽかあったかくて、そのまま寝ちゃったんです。怖い夢も見ないで、多分この世界に来て初めて本当にぐっすり寝ました。起きたらもう夕方で、その人が横で呆れた顔してました。……それがこの人です」
言葉を切ると、アスナは俺の手をぎゅっと握った。俺は内心で激しく狼狽していた。確かにその日のことはなんとなく覚えているが……。
「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」
「わかってるわよ。言わなくていいのそんな事!」
アスナは唇を尖らせる仕草をすると、にこにこしながら話を聞いているニシダに向き直った。
「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら嫌な夢も見なくなった。がんばって彼の名前調べて、時間作っては会いに行って……。だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごく嬉しくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、ここに来てよかった、って思いました……」
アスナはうつむくと白手袋をはめた手で両目をごしごし擦り、大きく息を吸って続けた。
「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、証であり、希望そのものです。わたしはこの人に出会う為に、あの日ナーヴギアを被ってここに来たんです。……ニシダさん、生意気な事かもしれませんけど、ニシダさんがこの世界で手に入れたものだってきっとあるはずです。確かにここは仮想の世界で、目に見えるものはみんなデータの偽物かもしれない。でも、わたしたちは、わたし達の心だけは本物です。なら、わたし達が経験し、得たものだってみんな本物なんです」
ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度も頷いていた。眼鏡の奥で光るものがあった。俺も目頭が熱くなるのを必死にこらえた。俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここに囚われてからも生きる意味を見つけられなかった俺こそが救われたのだ。
「……そうですなぁ、本当にそうだ……」
ニシダはふたたび空を見上げながら言った。
「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」
大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。
「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなた達のような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私に出来ることは何もありませんが、――がんばってください。がんばってください」
ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。
「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」
俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。
俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。蜃気楼のように揺れる空間に踏み込み、アスナと顔を見合わせると、二人同時に口を開いた。
「転移――グランザム!」
視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。
20
「偵察隊が、全滅――!?」
二週間ぶりにグランザムの血盟騎士団本部に戻った俺たちを待っていたのは衝撃的な知らせだった。
ギルド本部となっている鋼鉄塔の上部、かつてヒースクリフとの会談に使われた硝子張りの会議室である。半円形の大きな机の中央にはヒースクリフの賢者然としたローブ姿があり、左右にはギルドの幹部連が着席しているが、前回とは違いそこにゴドフリーの姿はない。
ヒースクリフは顔の前で骨ばった両手を組み合わせ、眉間に深い谷を刻んでゆっくり頷いた。
「昨日のことだ。75層迷宮区のマッピング自体は、時間は掛かったがなんとか犠牲者を出さずに終了した。だがボス戦はかなりの苦戦が予想された……」
それは俺も考えないではなかった。なぜなら、今まで攻略してきた無数のフロアのうち25層と50層のボスモンスターだけは抜きん出た巨体と戦闘力を誇り、どちらの攻略においても多大な犠牲が出たからである。25層では軍の精鋭がほぼ全滅して現在の弱体化を招く原因となったし、50層では勝手に緊急脱出する者が続出して戦線が一度崩壊、援護の部隊がもう少し遅れたらこちらも全滅の憂き目は免れなかったはずだ。その戦線を独力で支えたのが今目の前にいる男なのだが。
クォーター・ポイントごとに強力なボスが用意されているなら、75層も同様である可能性は高かった。
「……そこで、我々は五ギルド合同のパーティー二十人を偵察隊として送り込んだ」
ヒースクリフは抑揚の少ない声で続けた。半眼に閉じられた真鍮色の瞳からは表情を読み取ることはできない。
「偵察は慎重を期して行われた。十人が後衛としてボス部屋入り口で待機し……最初の十人が部屋の中央に到達して、ボスが出現した瞬間、入り口の扉が閉じてしまったのだ。ここから先は後衛の十人の報告になる。扉は五分以上開かなかった。鍵開けスキルや直接の打撃等何をしても無駄だったらしい。ようやく扉が開いた時――」
ヒースクリフの口許が固く引き結ばれた。一瞬目を閉じ、言葉を続ける。
「部屋の中には、何も無かったそうだ。十人の姿も、ボスも消えていた。転移脱出した形跡も無かった。彼らは帰ってこなかった……。念の為、基部フロアの黒鉄宮までモニュメントの名簿を確認しに行かせたが……」
その先は言葉に出さず、首を左右に振った。俺の隣りでアスナが息を詰めた。絞りだすように呟く。
「十……人も……。なんでそんな事に……」
「結晶無効化空間……?」
俺の問いをヒースクリフは小さく首肯した。
「そうとしか考えられない。アスナ君の報告では74層もそうだったという事だから、おそらく今後全てのボス部屋が無効化空間と思っていいだろう」
「バカな……」
俺は嘆息した。緊急脱出不可となれば、思わぬアクシデントで死亡する者が出る可能性が飛躍的に高まる。死者を出さない、それはこのゲームを攻略する上での大前提だ。だがボスを倒さなければクリアも有り得ない……。
「いよいよ本格的にデス・ゲームになってきたわけだ……」
「だからと言って攻略を諦める事はできない」
ヒースクリフは目を閉じると、ささやくような、だがきっぱりとした声で言った。
「結晶による脱出が不可な上に、今回はボス出現と同時に背後の退路も絶たれてしまう構造らしい。ならば統制の取れる範囲で可能な限り大部隊をもって当たるしかない。新婚の君たちを召喚するのは本意ではなかったが、了解してくれ給え」
俺は肩をすくめて答えた。
「協力はさせて貰いますよ。だが、俺にとってはアスナの安全が最優先です。もし危険な状況になったら、パーティー全体よりも彼女を守ります」
ヒースクリフはかすかな笑みを浮かべた。
「何かを守ろうとする人間は強いものだ。君の勇戦を期待するよ。攻略開始は三時間後。予定人数は君たちを入れて三十二人。75層コリニア市ゲートに午後一時集合だ。では解散」
それだけ言うと、紅衣の聖騎士とその配下の男たちは一斉に立ち上がり、部屋を出て行った。
「三時間かー。どうしよっか」
鋼鉄の長机にちょこんと腰掛けて、アスナが訊いてきた。俺は無言でその姿をじっと見つめた。白地に赤の装飾が入ったワンピースの戦闘服に包まれた伸びやかな肢体、長く艶やかな栗色の髪、くるくると輝く榛色の瞳――その姿はかけがえの無い宝石のように美しい。
いつまでも俺が視線を逸らさないでいると、アスナはなめらかな白い頬をわずかに赤く染めて、
「ど……どうしたのよ」
照れくさそうに笑った。俺はためらいながら口を開いた。
「……アスナ……」
「なあに?」
「……怒らないで聞いてくれ。今日のボス攻略戦……参加しないで、ここで待っていてくれないか」
アスナは俺をじっと見つめると、少し悲しそうにうつむきながら言った。
「……どうしてそんな事言うの……?」
「ヒースクリフにはああ言ったけど、クリスタルが使えない場所では何が起こるかわからない。怖いんだ……君の身にもしものことがあったら……って思うと……」
「……そんな危険な場所に、自分だけ行って、わたしには安全な場所で待ってろ、って言うの?」
アスナは立ち上がると、昂然とした歩調で俺の前に歩み寄ってきた。その瞳に激情の炎が燃えている。
「もしそれでキリト君が帰ってこなかったら、わたし自殺するよ。もう生きてる意味ないし、ただ待ってた自分が許せないもの。逃げるなら、二人で逃げよう。キリト君がそうしたいならわたしはそれでもいい」
言葉を切り、右手の指先を俺の胸の真中に当てた。瞳が柔らかくなる。口元にかすかな微笑が浮かぶ。
「でもね……。今日参加する人はみんな怖がってると思う。逃げ出したいと思う。なのに何十人も集まったのは、団長とキリト君、間違いなくこの世界で最強の二人が先頭に立ってくれるから……なんじゃないかな……。キリト君がそういうの嫌いなのはわかってる。でも、他の人たちのためじゃなくて、わたしたちのために……二人で元の世界に帰って、もう一度出会うために、一緒にがんばってほしい」
俺は右手を上げ、自分の胸に添えられたアスナの指先をそっと包み込んだ。彼女を失いたくないという痛切な感情が胸に突き上げてくる。
「……ごめん……俺、弱気になってる。本心では、二人で逃げたいと思ってるんだ。アスナにも死んで欲しくないし、俺も死にたくない。現実世界に……」
アスナの瞳をじっと見つめ、その先を口にする。
「現実世界に、戻れなくてもいいから……あの森の家でいつまでも一緒に暮らしたい。ずっと……二人だけで……」
アスナはもう片方の手で自分の胸元をぎゅっと掴む仕草をした。何かに耐えるように目を閉じ、眉根を寄せる。わずかに開いたその唇から、切ない吐息が漏れた。
「ああ……夢みたいだね……。そうできたら、いいね……。毎日、一緒に……いつまでも……」
そこで言葉を切り、はかない希望を断ち切るように唇をきつく噛み締めた。まぶたを開け、俺を見上げた表情は真剣だった。
「キリト君。考えたことある……? わたしたちの、本当の体がどうなってるか」
俺は虚を突かれて黙り込んだ。それは、多分全プレイヤー共通の疑問だったろう。だが現実世界と連絡する方法が無い以上、考えても詮無いことだ。皆漠然とした恐怖を抱きつつも、あえてその疑問に正面から向き合うことを避けていた。
「覚えてる? このゲームが始まって何週間か経った頃に、ほとんど全部のプレイヤーが半日くらい回線切断するっていう事件があったじゃない」
確かにそういう事があった。俺も十時間ほど記憶が飛んで驚いたのを覚えている。ほぼ全員が一日以内に復帰したのだが、それでもかなりの人数が戻ってこなかった。その事件は〈大切断〉と呼ばれ、サーバーダウンや、当局による救出の試みであるといった様々な憶測が飛んだのだが……。
「わたし、多分あのときに、全プレイヤーが一斉にあちこちの病院に移されたんだと思う。だって、ふつうの家で何年も植物状態の人間を介護するなんて無理だよ。病院に収容して、改めて回線を繋ぎなおしたんじゃないかな……」
「……言われればそうかもしれないな……」
「わたしたちの体が、病院のベッドの上で、いろんなコードに繋がれて、どうにか生かされてるって状況なんだとしたら……そんなの、何年も無事に続くとは思えない」
俺は不意に自分の全身が希薄になっていくような不安感に襲われた。お互いの存在を確かめるように、アスナをぎゅっと抱き寄せる。
「……つまり……ゲームをクリア出来るにせよ出来ないにせよ、それとは関係なくタイムリミットは存在する……ってことか……」
「……それも、個人差のある、ね……。ここじゃ『向こう』の話題はタブーだから、今までこの話を人としたことはないんだけど……キリト君は別だよ。わたし……わたし、一生キリト君の隣にいたい。ちゃんとお付き合いして、本当に結婚して、一緒に歳を取っていきたい。だから……だから……」
その先は言葉にならなかった。アスナは俺の胸に顔を埋め、堪えきれない嗚咽を洩らした。俺はその背中をゆっくりと撫でながら、代わりに言葉を続けた。
「だから……今は戦わなきゃいけないんだな……」
恐怖が消えたわけではなかった。だが、アスナが折れそうな心を必死に支えて運命を切り拓こうとしているのに、俺が挫けることなどどうしてできるだろう。
大丈夫――きっと大丈夫だ――二人なら、きっと――。
胸の中に忍び込んでくる悪寒を振り払うように、俺はアスナを抱く腕に力をこめた。
21
75層コリニア市のゲート広場には、すでに攻略チームと思しき、一見してハイレベルとわかるプレイヤー達が集結していた。俺とアスナがゲートから出て歩み寄っていくと、皆ぴたりと口を閉ざし緊張した表情で目礼を送ってきた。中には右手でギルド式の敬礼をしている連中までいる。
俺は大いに戸惑って立ち止まったが、隣のアスナは慣れた手つきで返礼し、俺の脇腹を小突いた。
「ほら、キリト君はリーダー格なんだからちゃんと挨拶しないとだめだよ!」
「んな…」
ぎこちない仕草で敬礼する。今までのボス攻略戦で集団に属したことは何度もあったが、このように注目を集めるのは初めてだ。
「よう!」
景気良く肩を叩かれて振り返ると、カタナ使いのクラインが悪趣味なバンダナの下でにやにや笑っていた。驚いたことにその横には両手斧で武装したエギルの巨体もある。
「なんだ…お前らも参加するのか」
「なんだってことはないだろう!」
憤慨したようにエギルが野太い声を出した。
「今回はえらい苦戦しそうだって言うから、商売を投げ出して加勢に来たんじゃねえか。この無私無欲の精神を理解できないたぁ…」
大げさな身振りで喋りつづけるエギルの腕をポンと叩き、
「無私の精神はよーくわかった。じゃあお前は戦利品の分配からは除外していいのな」
そう言ってやると途端に巨漢はつるつるの頭に手をやり、眉を八の字に寄せた。
「いや、そ、それはだなぁ…」
情けなく口篭もるその語尾に、クラインとアスナの朗らかな笑い声が重なった。笑いは集まったプレイヤー達にも伝染し、皆の緊張が徐々に解れていくようだった。
午後一時ちょうどに転移ゲートから新たな数名が出現した。真紅の長衣に巨大な十字盾を携えたヒースクリフと、血盟騎士団の精鋭達だ。彼らの姿を目にすると、プレイヤーたちの間に再び緊張が走った。単純なレベル的強さなら俺とアスナを上回るのはヒースクリフ本人だけだと思われるが、やはり彼らの結束感には迫力を感じずにいられない。白赤のギルドカラーを除けば皆武装も装備もまちまちだが、醸し出す集団としての力はかつて目にした軍の部隊とは比べ物にならないと思わせる。
聖騎士と四人の配下は、プレイヤーの集団を二つに割りながらまっすぐ俺たちの方へ歩いてきた。威圧されたようにクラインとエギルが数歩下がる中、アスナだけは涼しい顔で敬礼を交わしている。
立ち止まったヒースクリフは俺たちに軽く頷きかけると、集団の方に向き直って言葉を発した。
「欠員は無いようだな。よく集まってくれた。状況はすでに知っていると思う。厳しい戦いになるだろうが、諸君の力なら切り抜けられると信じている。――解放の日のために!」
ヒースクリフの力強い叫びに、プレイヤー達は一斉にときの声で応えた。俺は彼の磁力的なカリスマに舌を巻いていた。いきおい社会性に欠けるきらいがあるコアなネットゲーマーの中に、よくこれほど指導者の器を持った人物がいたものだ。あるいはこの世界が彼の才能を開花させたのか。現実世界では何をしていた男なのだろう……。
俺の視線を感じ取ったようにヒースクリフはこちらを振り向くと、かすかな笑みを浮べ、言った。
「キリト君、今日は頼りにしているよ。〈二刀流〉、存分に揮ってくれたまえ」
低くソフトなその声にはわずかな気負いも感じられない。予想される死闘を前にしてこの余裕はさすがと言わざるを得ない。
俺が無言で頷くと、ヒースクリフは再び集団を振り返り、軽く片手を上げた。
「では、出発しよう。目標のボスモンスタールーム直前の場所までコリドーを開く」
言って、腰のパックから濃紺色の結晶アイテムを取り出すと、その場のプレイヤー達から「おお……」という声が漏れた。
通常の転移結晶は、指定した街の転移門まで使用者ひとりを転送することができるだけだが、今ヒースクリフの手にあるのは〈回廊結晶〉、コリドークリスタルというアイテムで、任意の地点を記録し、そこに向かって瞬間転移ゲートを開くことができるという極めて便利な代物だ。
だがその利便性に比例して希少度も高く、NPCショップでは販売していない。迷宮区のトレジャーボックスか、強力なモンスターからのドロップでしか出現しないので、入手してもそれを使おうというプレイヤーはそうはいない。先ほど皆の口から嘆声が漏れたのは、レアな回廊結晶を目にしたこと対してと言うよりも、それをあっさり使用するというヒースクリフに驚いたということのほうが大きいだろう。
そんな皆の視線など意に介せぬふうで、ヒースクリフは結晶を握った右手を高く掲げると「コリドー・オープン」と発声した。極めて高価なクリスタルは瞬時に砕け散り、彼の前の空間に青く揺らめく光の渦が出現した。
「では皆、ついてきてくれたまえ」
俺たちをぐるりと見渡すと、ヒースクリフは紅衣の裾をひるがえし、青い光の中へ足を踏み入れた。その姿は瞬時に眩い閃光に包まれ、消滅する。間を置かず、四人のKoBメンバーがそれに続く。
いつの間にか、転移門広場の周囲にはかなりの数のプレイヤーが集まってきていた。ボス攻略作戦の話を聞いて見送りに来たのだろう。激励の声援が飛ぶ中、剣士たちは次々と光のコリドーに飛び込み、転移していく。
最後に残ったのは俺とアスナだった。俺たちは小さく頷きあうと、手をつなぎ、同時に光の渦へと体を躍らせた。
軽い眩暈にも似た転移感覚のあと、目を開くとそこはもう迷宮の中だった。広い回廊だ。壁際には太い柱が列をなし、その先に巨大な扉が見て取れる。
75層迷宮区は、わずかに透明感のある黒曜石のような素材で組み上げられていた。ごつごつと荒削りだった下層の迷宮とは違い、鏡のように磨き上げられた黒い石が直線的に敷き詰められている。空気は冷たく湿り、うすい靄がゆっくりと床の上をたなびいている。
俺の隣りに立ったアスナが、寒気を感じたように両腕を体に回し、言った。
「……なんか……やな感じだね……」
「ああ……」
俺も首肯する。
今日に至る二年間の間に、俺たちは七十四にも及ぶ迷宮区を攻略しボスモンスターを倒してきたわけだが、さすがにそれだけ経験を積むと、その棲家を見ただけで主の力量を何となく計れるようになる。
周囲では、三十人のプレイヤーたちが三々五々固まってメニューウインドウを開き、装備やアイテムの確認をしているが、彼らの表情も一様に固い。
俺はアスナを伴って一本の柱の陰に寄ると、その華奢な体にそっと腕をまわした。戦闘を前に、押さえつけていた不安が噴き出してくる。体が震える。
「……だいじょうぶだよ」
アスナが耳元でささやいた。
「キリト君は、わたしが守る」
「……いや、そうじゃなくて……」
「ふふ」
小さく笑みを洩らして、アスナは言葉を続けた。
「……だから、キリト君はわたしを守ってね」
「ああ……必ず」
俺は一瞬腕に力を込め、抱擁を解いた。回廊の中央で、十字盾をオブジェクト化させたヒースクリフががしゃりと装備を鳴らし、言った。
「皆、準備はいいかな。今回、ボスの攻撃パターンに関しては情報がない。基本的にはKoBが前衛で攻撃を食い止めるので、その間に可能な限りパターンを見切り、柔軟に反撃してほしい」
剣士たちが無言でうなずく。
「では――行こうか」
あくまでもソフトな声音で言うと、ヒースクリフは無造作に黒曜石の大扉に歩み寄り、中央に右手をかけた。全員に緊張が走る。
俺は、並んで立っているエギルとクラインの肩を背後から叩き、振り向いた二人に向かって言った。
「死ぬなよ」
「へっ、お前こそ」
「今日の戦利品で一儲けするまではくたばる気はないぜ」
連中がふてぶてしく言い返した直後、大扉が重々しい響きを立てながらゆっくりと動き出した。プレイヤーたちが一斉に抜刀する。俺も背から同時に二振りの愛剣を引き抜いた。隣で細剣を構えるアスナにちらりと視線を送り、うなずきかける。
最後に、十字盾の裏側から長剣を音高く抜いたヒースクリフが、右手を高く掲げ、叫んだ。
「――戦闘、開始!」
そのまま、完全に開ききった扉の中へと走り出す。全員が続く。
内部は、かなり広いドーム状の部屋だった。俺とヒースクリフがデュエルした闘技場ほどもあるだろう。円弧を描く黒い壁が高くせり上がり、遥か頭上で湾曲して閉じている。三十二人全員が部屋に走り込み、自然な陣形を作って立ち止まった直後――背後で轟音を立てて大扉が閉まった。もはや開けることは不可能だろう。ボスが死ぬか、俺たちが全滅するまでは。
数秒の沈黙が続いた。だだっ広い床全面に注意を払うが、ボスは出現しない。限界まで張り詰めた神経を焦らすように、一秒、また一秒と時間が過ぎていく。
「おい――」
誰かが、耐え切れないというふうに声をあげた、その時。
「上よ!!」
隣で、アスナが鋭く叫んだ。はっとして頭上を見上げる。
ドームの天頂部に――それが貼りついていた。
巨大だ。とてつもなくでかく、長い。百足だ――!? 見た瞬間、そう思った。全長は十メートルほどもあるだろうか。複数の体節に区切られたその体は、しかし、虫と言うよりは人間の背骨を思わせた。灰白色の円筒形をした体節ひとつひとつからは、骨剥き出しの鋭い脚が伸びている。その体を追って視線を動かしていくと、徐々に太くなるその先に、凶悪な形をした頭蓋骨があった。これは人間のものではない。流線型にゆがんだその骨には二対四つの鋭く吊りあがった眼窩があり、内部で青い炎が瞬いている。大きく前方に突き出した顎の骨には鋭い牙が並び、頭骨の両脇からは鎌状に尖った巨大な骨の腕が突き出している。
視線を集中すると、イエローのカーソルとともにモンスターの名前が表示された。〈The Skullreeper〉――骸骨の狩り手。
無数の脚を蠢かせながら、ゆっくりとドームの天井を這っていた骨百足は――全員が度肝を抜かれ、声も無く見守る中、不意にすべての脚を大きく広げ――パーティーの真上に落下してきた。
「固まるな! 距離を取れ!!」
ヒースクリフの鋭い叫び声が、凍りついた空気を切り裂いた。我に返ったように全員が動き出す。俺たちも落下予測地点から慌てて飛び退る。
だが、落ちてくる骨百足のちょうど真下にいた三人の動きが、わずかに遅れた。どちらに移動したものか迷うように、足を止めて上を見上げている。
「こっちだ!!」
俺は慌てて叫んだ。呪縛の解けた三人が走り出す――。
だが。その背後に、百足が地響きを立てて落下した瞬間、床全体が大きく震えた。足を取られた三人がたたらを踏む。そこに向かって、百足の右腕――長大な骨の鎌、刃状の部分だけで人間の身長ほどもあるそれが、横薙ぎに振り下ろされた。
三人が背後から同時に切り飛ばされた。宙を吹き飛ぶ間にも、そのHPバーが猛烈な勢いで減少していく――黄色の注意域から、赤の危険域へと――
「!?」
そして、あっけなくゼロになった。バーが消滅した。まだ空中にあった三人の体が、立て続けに無数の結晶を撒き散らしながら破砕した。消滅音が重なって響く。
「―――!!」
隣でアスナが息を詰めた。俺も、体が激しく強張るのを感じた。
一撃で――死亡だと――!?
スキル・レベル制併用のSAOでは、レベルの上昇に伴ってHPの最大値も上昇していくため、剣の腕前いかんに関わらず数値的なレベルさえ高ければそれだけ死ににくくなる。特に今日のパーティーは高レベルプレイヤーだけが集まっていたため、たとえボスの攻撃と言えど数発の連続技なら持ちこたえる――はずだったのだ。それが、たったの一撃で――。
「こんなの……無茶苦茶だわ……」
かすれた声でアスナがつぶやく。
一瞬にして三人の命を奪った骸骨百足は、上体を高く持ち上げて轟く雄叫びを上げると、猛烈な勢いで新たなプレイヤーの一団目掛けて突進した。
「わあああ―――!!」
その方向にいたプレイヤー達が恐慌の悲鳴を上げる。再び骨鎌が高く振り上げられる。
と、その真下に飛び込んだ影があった。ヒースクリフだ。巨大な盾を掲げ、鎌を迎撃する。耳をつんざく衝撃音。火花が飛び散る。
だが、鎌は二本あった。左側の腕でヒースクリフを攻撃しつつも、右の鎌を振り上げ、凍りついたプレイヤーの一団に突き立てようとする。
「くそっ……!」
俺は我知らず飛び出していた。宙を飛ぶように瞬時に距離を詰め、轟音を立てて振ってくる骨鎌の下に身を躍らせる。左右の剣を交差させ、鎌を受ける。途方も無い衝撃。だが――鎌は止まらない。火花を散らしながら俺の剣を押しのけ、眼前に迫ってくる。だめだ、重すぎる――!
その時、新たな剣が純白の光芒を引いて空を切り裂き、下から鎌に命中した。衝撃音。勢いが緩んだその隙に、俺は全身の力を振り絞って骨鎌を押し返す。
俺の真横に立ったアスナは、こちらを一瞬見て、言った。
「二人同時に受ければ――いける! わたし達ならできるよ!」
「――よし、頼む!」
俺は頷いた。アスナが隣にいてくれると思うだけで無限の気力が湧いてくる、そんな気がする。
再び、今度は横薙ぎに繰り出されてきた骨鎌に向かって、俺とアスナは同時に右斜め斬り降ろし攻撃を放った。完璧にシンクロした二人の剣が、二筋の光の帯を引いて鎌に命中する。激しい衝撃。今度は、敵の鎌が弾き返された。
俺は、声を振り絞って叫んだ。
「大鎌は俺たちが食い止める!! みんなは側面から攻撃してくれ!」
その声に、ようやく全員の呪縛が解けたようだった。雄叫びを上げ、武器を構えて骨百足の体に向かって突撃する。数発の攻撃が敵の体に食い込み、ようやく初めてボスのHPバーがわずかに減少した。
だが、直後、複数の悲鳴が上がった。鎌を迎撃する隙を縫って視線を向けると、百足の尾の先についた長い槍状の骨に数人が薙ぎ払われ、倒れるのが見えた。
「くっ……」
歯噛みをするが、俺とアスナにも、少し離れて単身左の鎌を捌いているヒースクリフにも、これ以上の余裕はない。
「キリト君っ……!」
アスナの声に、ちらりと視線を向ける。
――だめだ! 向こうに気を取られると、やられるぞ!
――そうだね……――来るよ……!
――左斬り上げで受ける!
瞳を見交わすだけで意思を疎通し、俺とアスナは完璧に同期した動きで鎌を弾き返した。
時折上がるプレイヤーの悲鳴、絶叫を無理矢理意識から締め出し、俺たちは凶悪な威力を秘めた敵の攻撃を受けることだけに集中した。不思議なことに、途中から俺たちは言葉を使わず、お互いを見ることすらしなくなっていた。まるで思考がダイレクトに接続されたようなリニア感。息もつかせぬペースで繰り出されてくる敵の攻撃を、瞬時に同じ技で反応し、受け止める。
その瞬間――限界ぎりぎりの死闘のさなか、俺はかつてない程の一体感を味わっていた。アスナと俺が融合し、ひとつの戦闘意識となって剣を振りつづける――それはある意味、途方も無く官能的な体験だった。時折繰り出される敵の強攻撃を受ける余波で、わずかずつHPが減少していくが、俺たちはそれすらもすでに意識していなかった。
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22
戦いは一時間にも及んだ。
無限にも思えた激闘の果てに、ついにボスモンスターがその巨体を四散させたときも、誰一人として歓声を上げる余裕のある者はいなかった。皆倒れるように黒曜石の床に座り込み、あるいは仰向けに転がって荒い息を繰り返している。
終わった――の……?
ああ――終わった――
その思考のやりとりを最後に、俺とアスナの「接続」も切れたようだった。不意に全身を重い疲労感が襲い、たまらず床に膝をつく。俺とアスナは背中合わせに座り込み、しばらく動くことはできそうもなかった。
二人とも生き残った――。そう思っても、手放しで喜べる状況ではない。あまりにも犠牲者が多すぎた。開始直後に三人が散った後も、確実なペースで禍々しいオブジェクト破砕音が響きつづけ、俺は六人まで数えたところで無理矢理その作業を止めていた。
「何人――やられた……?」
左の方でがっくりとしゃがみこんでいたクラインが、顔を上げてかすれた声で聞いてきた。その隣で手足を投げ出して仰臥したエギルも顔だけこちらに向けてくる。
俺は左手を振ってマップを呼び出し、表示された緑の光点を数えてみた。出発時の人数から犠牲者の数を逆算する。
「――十四人死んだ」
自分で数えておきながら信じることができない。皆トップレベルの、歴戦のプレイヤーだった筈だ。たとえ離脱や瞬間回復不可の状況とは言え、生き残りを優先した戦い方をしていればおいそれと死ぬようなことはない――と思っていたのだが――。
「……うそだろ……」
エギルの声にも普段の張りはまったく無かった。生き残った者たちの上に暗鬱な空気が厚く垂れ込めた。
ようやく四分の三――まだこの上に二十五層もあるのだ。何万のプレイヤーがいると言っても、最前線で真剣にクリアを目指しているのは数百人といったところだろう。一層ごとにこれだけの犠牲を出してしまえば、最後にラスボスと対面できるのはたった一人――というような事態にもなりかねない。
おそらくその場合は、残るのは間違いなくあの男だろう……。
俺は視線を部屋の奥に向けた。そこには、他の者が全員床に伏す中、背筋を伸ばして毅然と立つ紅衣の姿があった。ヒースクリフだ。
無論彼も無傷ではなかった。視線を合わせてカーソルを表示させると、HPバーがかなり減少しているのが見て取れる。俺とアスナが二人がかりでどうにか防ぎ続けたあの巨大な骨鎌を、ついに一人で捌ききったのだ。数値的なダメージに留まらず、疲労困憊して倒れても不思議ではない。だが、悠揚迫らぬその立ち姿には、精神的な消耗など皆無と思わせるものがあった。まったく信じられないタフさだ。まるで機械――永久機関を備えた戦闘機械のようだ……。
俺は、疲労で紗のかかったような意識のままぼんやりとヒースクリフの横顔を見つめ続けた。伝説の男の表情はあくまで穏やかだ。無言で、床にうずくまるKoBメンバーや他のプレイヤー達を見下ろしている。暖かい、慈しむような視線――。言わば――
言わば、精緻な檻の中で遊ぶ子ねずみの群を見るような。
その刹那、俺の全身を恐ろしいほどの戦慄が貫いた。
意識が一気に覚醒する。指先から脳の中心までが急速に冷えてゆく。俺の中に生まれた、ある予感――かすかな発想の種がみるみる膨らみ、疑念の芽を伸ばしてゆく。
ヒースクリフのあの視線、あの穏やかさ。あれは傷ついた仲間をいたわる表情ではない。彼は俺たちと同じ場所に立っているのではない――。あれは、遥かな高みから慈悲を垂れる――神の表情だ……。
俺は、かつてヒースクリフとデュエルした時の、彼の恐るべき超反応を思い出していた。あれは人間の速度の限界を超えていた。言いなおそう。SAOシステムに許されたプレイヤーの限界速度を、だ。システムの枠にとらわれぬ存在。だがNPCではない。単なるプログラムに、あのような慈悲に溢れた表情はできない。
NPCでもなく一般のプレイヤーでもないとすれば、残る可能性は唯一つだ。だが、それをどうやって確認すればよいのか。方法などない……なにひとつ。
いや、ある。今この瞬間、この場所でのみ可能な方法がたった一つだけある。
俺はヒースクリフのHPバーを見つめた。過酷な戦いを経て大きく減少している。だが、危険域にまでは達していない。かろうじて、本当にぎりぎりの所でイエロー表示に留まっている。
未だかつて、ただの一度もレッドゾーンに陥ったことのない男。余人を寄せ付けぬその圧倒的防御力。
俺はゆっくりと右手の剣を握りなおした。ごく小さな動きで、徐々に右足を引いていく。腰をわずかに上げ、低空ダッシュの準備姿勢を取る。ヒースクリフは俺の動きに気付いていない。その穏やかな視線はただ、打ちひしがれるギルド団員にのみ向けられている。
仮に予想がまったくの的外れなら、俺は犯罪者プレイヤーに転落し、容赦ない制裁を受けることとなるだろう。
その時は……御免な……。
俺は傍らに腰を落としているアスナをちらりと見やった。同時にアスナも顔をあげ、二人の視線が交錯した。
「キリト君……?」
アスナがハッとした表情で、声に出さず口だけを動かした。だがその時にはもう俺の右足は地面を蹴っていた。
俺は、ヒースクリフとの距離約十メートル、床ぎりぎりの高さを全速で一瞬にして駆け抜け、右手の剣を捻りながら突き上げた。片手剣の基本突進技〈レイジスパイク〉。威力の弱い技ゆえこれが命中してもヒースクリフを殺してしまうことはないが、しかし、俺の予想通りなら――。
ペールブルーの閃光を引きながら左側面より迫る剣尖に、ヒースクリフはさすがの反応速度で気付き、目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。咄嗟に体を捻って回避体勢に入る。
だが、今度ばかりは俺のほうが速かった。空を切り裂く一条の光線となった俺の剣が、狙い違わずヒースクリフの胸に突き立つ――
その寸前で、目に見えぬ障壁に激突した。俺の腕に激しい衝撃が伝わった。紫の閃光が炸裂し、俺と奴の中間に同じく紫――システムカラーのメッセージが表示された。
『Immortal Object』。不死存在。か弱き有限の存在たる俺たちプレイヤーにはありえない属性。
「キリト君、何を――」
俺の突然の攻撃に、驚きの声を上げて駆け寄ろうとしたアスナがメッセージを見てぴたりと動きを止めた。俺も、ヒースクリフも、クラインや周囲のプレイヤー達も動かなかった。静寂の中、ゆっくりとシステムメッセージが消滅した。
俺は剣を引き、軽く後ろに跳んでヒースクリフとの間に距離を取った。数歩進み出たアスナが俺の右横に並んだ。
「システム的不死…? …って…どういうことですか…団長…?」
戸惑ったようなアスナの声に、ヒースクリフは答えなかった。厳しい表情でじっと俺を見据えている。俺は両手に剣を下げたまま、口を開いた。
「これが伝説の正体だ。この男のHPはどうあろうと危険域にまで落ちないようシステムに保護されているのさ。……不死属性を持つ可能性があるのは……NPCでなけりゃシステム管理者以外有り得ない。だがこのゲームに管理者はいないはずだ。唯一人を除いて」
言葉を切り、上空をちらりと見やる。
「……この世界に来てからずっと疑問に思っていたことがあった……。あいつは今、どこから俺たちを見てるんだろう、ってな。でも俺は単純な真理を忘れていたよ。どんな子供でも知ってることさ」
俺は紅衣の聖騎士にまっすぐ視線を据え、言った。
「『他人のやってるRPGを傍から見ていることほど詰まらないものはない』。……そうだろう、茅場晶彦」
すべてが凍りついたような静寂が周囲に満ちた。
ヒースクリフは無表情のままじっと俺に視線を向けている。周りのプレイヤー達は皆身動きひとつしない。いや、できないのか。
俺の隣でアスナがゆっくりと一歩進み出た。その瞳は虚無の空間を覗き込んでいるかのように感情が欠落している。唇がわずかに動き、乾いたかすれ声が漏れた。
「団長……本当……なんですか……?」
ヒースクリフはそれには答えず、わずかに首をかしげると俺に向かって言葉を発した。
「……なぜ気付いたのか参考までに教えてもらえるかな……?」
「……最初におかしいと思ったのは例のデュエルの時だ。最後の一瞬だけ、あんた余りにも速過ぎたよ」
「矢張りそうか。あれは私にとっても痛恨事だった。君の動きに圧倒されてついシステムのオーバーアシストを使ってしまった」
彼はゆっくり頷くと、はじめて表情を見せた。唇の片端をゆがめ、ほのかな苦笑の色を浮べる。
「予定では攻略が95層に達するまでは明かさないつもりだったのだがな。確かに私は茅場だ。付け加えれば、最上層で君たちを待つはずだったこのゲームの最終ボスでもある」
隣でアスナが小さくよろめく気配がした。俺は視線を逸らさぬままそれを右手で支えた。
「……趣味がいいとは言えないぜ。最強のプレイヤーが一転最悪のラスボスか」
「なかなかいいシナリオだろう? 盛り上がったと思うが、まさかたかが四分の三地点で看破されてしまうとはな。……君はこの世界で最大の不確定因子だと思ってはいたが、ここまでとは」
このゲームの開発者にして五万人の精神を虜囚とした男、茅場晶彦は見覚えのある薄い笑みを浮べながら肩をすくめた。聖騎士ヒースクリフとしてのその容貌は、現実世界の茅場とは明らかに異なる。だが、その無機質、金属質な気配は、二年前俺たちの上に降臨したあの巨大なマスクと共通するところがある。茅場は笑みをにじませたまま言葉を続けた。
「……最終的に私の前に立つのは君だと予想していた。〈二刀流〉スキルは全プレイヤーの中で最大の反応速度を持つ者に与えられ、その者が魔王に対する勇者の役割を担うはずだった。勝つにせよ負けるにせよ。だが君は私の予想を超える力を見せた。攻撃速度といい、その洞察力といい、な。まあ……この想定外の展開もネットワークRPGの醍醐味と言うべきかな……」
その時、凍りついたように動きを止めていたプレイヤーの一人がゆっくりと立ち上がった。血盟騎士団の幹部を務める男だ。朴訥そうなその細い目に、凄惨な苦悩の色が宿っている。
「貴様……貴様が……。俺たちの忠誠――希望を……よくも……よくも……」
巨大な斧槍を握り締め、
「よくも――――ッ!!」
絶叫しながら地を蹴った。止める間もなかった。大きく振りかぶった重武器を茅場へと――
だが、茅場の動きの方が一瞬速かった。右手を振り、出現したウインドウを素早く操作したかと思うと、男の体は空中で停止し次いで床に音を立てて落下した。HPバーにオレンジ色の枠が点滅している。麻痺状態だ。茅場はそのまま手を止めずにウインドウを操り続けた。
「あ……キリト君……っ」
振り向くと、アスナも地面に膝をついていた。咄嗟に周囲を見渡せば、俺と茅場以外の全員が不自然な格好で倒れて、呻き声を上げている。
俺は剣を背に収めると跪いてアスナの上体を抱え起こし、その手を握った。茅場に向かって視線を上げる。
「……どうするつもりだ。この場で全員殺して隠蔽する気か……?」
「まさか。そんな理不尽な真似はしないさ」
紅衣の男は微笑を浮べながら首を左右に振った。
「こうなってしまっては致し方ない。予定を早めて、私は最上層の〈紅玉宮〉にて君たちの訪れを待つことにするよ。90層以上の強力なモンスター群に唯一対抗できる力として育ててきた血盟騎士団を途中で放り出すのは不本意だが、何、君たちの力ならきっと辿り着けるさ。だが……その前に……」
茅場は言葉を切ると、圧倒的な意思力を感じさせるその双眸でひたと俺を見据えてきた。右手の剣を軽く床の黒曜石に突き立てる。高く澄んだ金属音が周囲の空気を切り裂く。
「キリト君、きみには私の正体を看破した褒美を与えなくてはな。チャンスをあげよう。今この場で私と一対一で戦うチャンスを。無論不死属性は解除する。私に勝てばゲームはクリアされ、全プレイヤーがこの世界からログアウトできる。……どうかな?」
その言葉を聞いた途端、俺の腕の中でアスナが自由にならない体を必死に動かし、首を振った。
「だめよキリト君……! あなたを排除する気だわ……。今は……今は引きましょう……!」
俺の内心の声も、その意見の正しさを認めていた。奴はシステムそのものに介入できる管理者だ。口ではフェアな戦いと言ってもどのような操作を行うかわからない。ここは退き、皆で意見を交換し、対応を練るのが最上の選択だ。
だが。
奴は何と言った? 血盟騎士団を育ててきただと? きっと辿り着けるだと……?
「ふざけるな……」
俺の口から無意識のうちにかすかな声が漏れた。
奴は、己の創造した世界に五万人の精神を閉じ込め、そのうち一万人もの意識を虚無空間に破棄せしめるに留まらず、自分の描いたシナリオ通りにプレイヤーたちが愚かしく、哀れにもがく様をすぐ傍から眺めていたという訳だ。ゲームマスターとしてはこれ以上の快感はなかったろう。
俺は、22層で聞いたアスナの過去を思い出していた。俺にすがって泣いた彼女の涙を思い出していた。世界創造の快感のためにアスナの心を何度も何度も傷つけ、血を流させたこの男を目の前にただ退くことがどうしてできるだろうか。
「いいだろう。決着をつけよう」
俺はゆっくり頷いた。
「キリト君っ…!」
アスナの悲痛な叫び声に、腕の中の彼女に視線を落とす。胸を撃ち抜かれるような痛み。どうにか笑顔を浮べることに成功する。
「ごめんな。ここで逃げるわけには……いかないんだ……」
アスナは何か言おうとして唇を開きかけたが、途中でやめて代わりににこりと笑った。その頬を涙の雫が伝った。
「死にに行くわけじゃ……ないんだよね……?」
「ああ……。必ず勝つ。勝ってこの世界を終わらせる」
「わかった。信じてる」
例え俺が負け、消滅しても、君だけは生きてくれ――。そう言いたかったが言えなかった。代わりに、そっと唇を重ねた。そこだけはどうにか動く右手で、アスナが俺の手を固く握ってきた。
俺はアスナの体を黒曜石の床に横たえると、立ち上がった。微笑を浮べてこちらを見ている茅場にゆっくり歩み寄りながら、両手で音高く二本の剣を抜き放つ。
「キリト! やめろ……っ!」
「キリトーッ!」
声の方向を見ると、エギルとクラインが必死に体を起こそうとしながら叫んでいた。俺は連中に向かって剣を握った左手を突き出し、親指を立てた。泣きそうな顔で押し黙る二人にニヤッと笑ってみせると、再び茅場に向き合う。剣を下げ、口を開いた。
「……悪いが、一つだけ頼みがある」
「何かな?」
「簡単に負けるつもりはないが、もし俺が死んだら――しばらくでいい、アスナが自殺できないように計らってほしい」
茅場は意外そうに片方の眉をぴくりと動かしたが、無造作に頷いた。
「良かろう。彼女はセルムブルグから出られないように設定する」
「キリト君、だめだよーっ!! そんなの、そんなのないよ――っ!!」
俺の背後で、涙混じりのアスナの絶叫が響いた。俺は振り返らなかった。右足を引き、左手の剣を前に、右手の剣を下げて構える。
茅場が右手のウインドウを操作すると、俺と奴のHPバーが同じ長さに調整された。レッドゾーンぎりぎり手前、強攻撃のクリーンヒット一発で決着がつく量だ。次いで、奴の頭上に『changed to mortal object』、不死属性を解除したというシステムメッセージが表示される。茅場はそこでウインドウを消去すると、床に付き立てた長剣を抜き、十字盾の後ろに構えた。
意識は冷たく澄んでいた。アスナ、ごめんな…という思考が泡のように浮かび、弾けたのを最後に、俺の心を闘争本能が凍らせ、硬く研いでいく。
勝算は、実のところ何とも言えない。前回のデュエルでは、剣技に限れば奴より劣るという感触は無かった。だが奴の言うオーバーアシスト、あの、こちらが停止し奴だけが動けるというシステム介入技を使われればその限りではない。全ては茅場のプライドにかかっている。口ぶりから判断すれば、奴は『神聖剣』の性能の範囲内で俺に勝とうとするだろう。その隙を突き、短期決着に持ち込むしか俺の生き残る道はない。
俺と茅場の間の緊張感が高まってゆく。空気さえその圧力に震えているような気がする。これはデュエルではない。単純な殺し合いだ。そうだ――俺は、あの男を――
「殺す…っ!!」
鋭い呼気と共に吐き出しながら、俺は床を蹴った。
遠い間合いから右手の剣を横薙ぎに繰り出す。茅場が左手の盾でそれを難なく受け止める。火花が散り、二人の顔を一瞬明るく照らす。
金属がぶつかりあうその衝撃音が戦闘開始の合図だったとでも言うように、一気に加速した二人の剣戟が周囲の空間を圧した。
それは、俺がかつて経験した無数の戦闘の中でもっともイレギュラーで、人間的な戦いだった。二人ともに一度お互いの手の内を見せている。そのうえ〈二刀流〉スキルをデザインしたのは奴なのだから、単純な連続技は全て読まれると思っていい。以前のデュエルで俺の技が軒並み止められたのも頷ける。
俺はシステム上に設定された連続技を一切使わず、左右の剣を己の戦闘本能が命ずるままに振り続けた。当然システムのアシストは得られないが、限界まで加速された知覚に後押しされてか、両腕は通常時を軽く上回る速度で動く。自分の目にすら、残像によって剣が数本、数十本にも見えるほどだ。だが――。
茅場は舌を巻くほどの正確さで俺の攻撃を次々と叩き落した。その合間にも、すこしでもこちらに隙ができると鋭い一撃を浴びせてくる。それを俺が瞬間的反応だけで迎撃する。局面は容易に動こうとしなかった。少しでも敵の思考、反応を読もうと、俺は茅場の両目に意識を集中させた。二人の視線が交錯する。
茅場――ヒースクリフの真鍮色の双眸はあくまで冷ややかだった。かつてのデュエルのときに垣間見せた人間らしさは、今はもうかけらも見えない。
不意に、俺の背すじをわずかな悪寒が疾った。
俺が今相手にしているのは――五万人の精神を仮想世界に縛り付け、そのうち一万人を死に追いやった男なのだ。果たしてそんな事が、人間にできるものだろうか。一万人の死、その認識を受け入れてなお正気を保っていられるなら――それはもう人間ではない。怪物だ。
「うおおおおおお!!」
心の奥に生まれた、ごく小さな恐怖のかけらを吹き飛ばそうとするように俺は絶叫した。さらに両手の動きを加速させ、秒間何発もの攻撃を撃ちこむが、茅場の表情は変わらない。目にも止まらぬ速さで十字盾と長剣を操り、的確に俺の攻撃を弾き返す。
弄ばれているのか――!?
恐怖が焦りへと変わっていく。防戦一方に見える茅場は、実はいつでも反撃を差し挟み、俺に一撃を浴びせる余裕があるのではないのか――。俺の心を疑念が覆っていく。奴には、オーバーアシストなど使う必要はなかったのだ。
「くそぉっ……!」
ならば――これでどうだ――!
俺は攻撃を切り替え、二刀流最上位剣技〈ジ・イクリプス〉を放った。太陽コロナのごとく全方向から噴出した剣尖が超高速で茅場へと殺到する。連続二十七回攻撃――。
――だが。茅場はそれを、俺がシステムに規定された連続技を出すのを待ち構えていたのだった。奴の口許にはじめて表情が浮かんだ。だがそれは前回とは逆――勝利を確信した笑みだった。
最初の攻撃数発を放った時点で、俺はミスを悟った。最後の最後で、自分のセンスではなく、システムに頼ってしまった。もはや連続技を途中で止めることはできない。その瞬間硬直時間を課せられてしまう。かと言って、俺の放つ攻撃はすべて、最後の一撃に至るまで茅場に予想されている。
剣の飛ぶ方向を予測してめまぐるしく動く茅場の十字盾に空しく攻撃を撃ち込みながら、俺は心のなかでつぶやいた。
ごめん――アスナ……。せめて君だけは――生きて――
二十七撃目の左突き攻撃が、十字盾の中心に命中し、火花を散らした。直後、硬質の悲鳴を上げて俺の左手に握られた剣が砕け散った。
「さらばだ――キリト君」
動きの止まった俺の頭上に、茅場の長剣が高々と掲げられた。その剣がクリムゾンの光を放つ。紅玉色の帯を引きながら、剣が降ってくる――。
その瞬間、俺の頭の中に、強く、激しく、声が響いた。
キリト君は――わたしが――守る!!
血の色に輝く茅場の長剣と――立ち尽くす俺の間に、すさまじいスピードで飛び込んだ人影があった。栗色の長い髪が宙を舞った。
アスナ――なぜ――!?
システム的麻痺状態によって動けなかったはずの彼女が、俺の前に立っていた。敢然と胸を張り、両腕を大きくひろげて――。
茅場の表情にも驚きの色が見えた。だが剣の動きはもう誰にも止められなかった。すべてがスローモーションのようにゆっくりと動く中――長剣はアスナの肩口から胸までを切り裂き、停止した。
のけぞるようにこちらに倒れるアスナに向かって、俺は必死に手を伸ばした。音も無く、俺の腕の中に彼女が崩れ落ちた。
アスナは、俺と視線が合うと、かすかに微笑した。そのHPバーが――消滅していた。
時間が停止した。
夕暮れ。草原。微風。少し冷たい。
二人並んで丘に座り、深い紺の上に夕陽の赤金色が溶けた湖を見下ろしている。
葉擦れの音。ねぐらに帰る鳥の声。
彼女がそっと手を握ってくる。肩に頭をもたれさせる。
雲が流れていく。ひとつ、ふたつ、星が瞬き始める。
世界を染める色がすこしずつ変っていくのを、二人でいつまでも飽かず見つめ続ける。
やがて、彼女が言う。
「すこし、眠くなっちゃった。膝、借りていい?」
微笑みながら答える。
「ああ、いいよ。ゆっくりおやすみ――」
俺の腕に倒れ込んだアスナは、あの時と同じように、穏やかな笑みを浮べ、無限の慈愛を湛えた瞳で俺を見つめた。だがあの時感じた確かな重みも、暖かさも今は無かった。
アスナの全身が、少しずつ金色の輝きに包まれていく。光の粒がこぼれ、散っていく。
「うそだろ……アスナ……こんな……こんなの……」
震える声で呟く。だが、無慈悲な光はどんどん輝きを増し――。
アスナの瞳から、はらりとひとつぶの涙が落ち、一瞬輝いて、消えた。唇が、かすかに、ゆっくりと、音を刻むように動いた。
ご め ん ね
さ よ な ら
ふわり――。
俺の腕の中で、ひときわまばゆく光が弾け、無数の金色の羽根が散った。
そして、そこにもう彼女はいなかった。
声にならぬ絶叫を上げながら、俺はその輝きを両腕で必死にかき集めようとした。だが、金の羽根は風に吹き散らされるように舞い上がり、拡散し、蒸発してゆく。消える。消えてしまう。
こんなことが起きるはずがない。起きていいはずがない。はずがない。はずが――
崩れるように両膝をついた俺の右手に、最後の羽根がかすかに触れ、消えた。
23
茅場は唇の端をゆがめ、大袈裟な身振りで両手を広げると言った。
「これは驚いた。スタンドアロンRPGのシナリオみたいじゃないか? 麻痺から回復する手段は無かったはずだがな……。こんなことも起きるものかな」
だがその声も俺の意識には届かなかった。すべての感情が灼き切れ、暗く、深い絶望の淵に落下しつづける感覚だけが俺を包んでいた。
これで、何かを為す理由全てを失くしてしまった。
この世界で戦うことも、現実世界に戻ることも、生き続けることさえも無意味だ。かつて、己の無力ゆえに信頼した仲間を失ったときに、俺も命を絶っておくべきだったのだ。そうすればアスナと出会うことも、そして再び同じ過ちを繰り返すこともなかった。
アスナが自殺しないように――などと、何と愚かで、浅はかな事を言ったものだろう。俺は何もわかっちゃいなかった。こんな――空虚な穴を抱えたまま生きることなんてできやしない……。
俺は床の上で光るアスナの細剣を漠然と見つめた。左手を伸ばし、それを掴む。あまりにも軽く、華奢なその武器の中に、彼女の存在を記録する何かを見つけようとしてじっと目を凝らすが、そこには何もない。無表情に輝くその表面には主の痕跡一つ残されてはいない。細剣を握ったままのろのろと立ち上がる。
もういい。彼女と過ごしたわずかな日々の記憶だけを持って、俺も同じ場所に行こう。
右手の剣を振りかぶり、俺は茅場に打ちかかった。二歩、三歩不恰好に前進し、剣を突き出す。
技とも呼べない、攻撃ですらないその動作に、茅場は憐れむような表情を浮べ――盾で苦も無く俺の剣を弾き飛ばすと、右手の長剣で無造作に俺の胸を貫いた。
俺は自分の体に深々と突き立った金属の輝きを無感動に見つめた。さして何を思うでもない。これで何もかも終わったという無色の諦観があるだけだ。
視界の右端で、俺のHPバーがゆるやかに減少していく。知覚の加速がまだ解けないのか、消滅していく一ドット一ドットが見て取れるようだ。目を閉じる。意識が消失するその瞬間にはアスナの笑顔を思い浮かべていたい。
視界が暗闇に閉ざされても、HPバーが消えることはない。はかなく、赤く発光するその帯は、確実な速度で幅を狭めてゆく。いままで俺の存在を許していたシステムという名の神が、舌なめずりをしてその瞬間を待っている気配を感じる。あと十ドット。あと五ドット。あと――
そのとき、不意に俺は、かつて感じたことのない激烈な怒りを覚えた。
こいつだ。アスナを殺したのはこいつだ。創造主たる茅場でさえすでにその一部でしかない。アスナの肉体を引き裂き、意識を吹き消したのは、俺を包むこの気配――システムそのものの意思だ。プレイヤーの愚かしさを嘲弄しながら無慈悲な鎌を振るうデジタルの神――。
俺達は一体何なのだ。SAOシステムという絶対不可侵の糸に踊らされる滑稽な操り人形の群か。システムが良しと言えば生き延び、死ねと言えば消滅する、それだけの存在か。
俺の怒りを嘲笑うかのように、HPバーがあっけなく消滅した。視界に小さく紫色のメッセージが表示された。『You are dead』。死ね、という神の宣告。
全身に激しい冷気が侵入してきた。体の感覚が薄れてゆく。俺の存在をほどき、切り刻み、食らい尽くそうと、命令コードの大群が暴れまわるのを感じる。冷気は背筋から首を這い登り、頭の中にまで入り込んでくる。皮膚感覚、音、光、何もかもが遠ざかる。体が分解してゆく――ポリゴンの欠片となって――四散し――。
そうはいくものか。
俺は目を見開いた。見える。まだ見える。俺の胸に剣を突き刺したままの茅場の顔、その驚愕の表情が見える。俺の体はすでに輪郭がおぼろに薄れ、各所で弾けるように光の粒がこぼれては消滅してゆく。だが、まだ俺は生きている。
「うおおおおおおおお!」
俺は絶叫した。絶叫しながら抵抗した。システムに。絶対神に。
あんなに甘えん坊で淋しがりやの泣き虫だったアスナが、精一杯の意思力を振り絞って回復不可能の麻痺を打ち破り、介入不可能の剣撃にその身を投じたのだ。俺を救う、ただそれだけの為に。俺がここで無為に倒れるわけにはいかない。断じていかない。たとえ死が避けられないとしても――その前に――これだけは――。
左手を握り締める。細い糸を繋ぐように感覚を奪い返す。その手に握っているものの感触が蘇ってくる。アスナの細剣――それに込められた彼女の意思が今なら感じ取れる。がんばれと励ます声が聞こえる。
途方も無くゆっくりと俺の左腕が動き始めた。少し持ち上がるたびに輪郭がぶれ、オブジェクトが砕けてゆく。だがその動きが止まることはない。少しずつ、少しずつ、魂を削りながら持ち上げてゆく。不遜な反逆の代償か、恐ろしいほどの痛みが全身を貫くが、歯を食いしばって腕を動かす。わずか数十センチの距離が途方もなく長い。体が凍るように冷たい。すでに感覚があるのは左腕だけだ。冷気は急速にその部分にも侵食してゆく。氷細工を散らすように体が崩れ、こぼれ落ちる。
だが、ついに、白銀に輝く細剣の先端が茅場の胸の中央に擬せられた。茅場は動かなかった。その顔に驚愕の表情はすでになく――わずかに開いた口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
半分は俺の意思、もう半分は何か不思議な力に導かれて、俺の腕が最後の距離を詰めた。音もなく体を貫く細剣を、茅場は目を閉じて受けいれた。彼のHPバーが消滅した。
お互いの体を貫いた姿勢のまま、俺たちはその場に一瞬立ち尽くしていた。全ての気力を使い果たし、俺は宙を見つめた。
これで――もういいかい――?
彼女の返事は聞こえなかったが、ほのかな暖かさが一瞬、とくん、と左手を包むのを感じた。俺は砕けかけた全身を繋ぎとめていた力を解き放った。
闇に沈んでいく意識の中で、自分の体が千のかけらとなって飛散するのを、そして同時に茅場も砕け散るのを感じた。聞きなれたオブジェクト破砕音がふたつ、重なるように響いた。今度こそ全てが遠ざかっていく。急速に離脱してゆく。かすかに俺の名を呼ぶのはクラインと――エギルの声だろうか。それらにかぶさるように、無機質なシステムの声が――。
ゲームはクリアされました――ゲームはクリアされました――ゲームは……
24
全天燃えるような夕焼けだった。
気づくと、俺は不思議な場所に居た。
足元は分厚い水晶の板だ。透明な床の下には赤く染まった雲の連なりがゆっくり流れている。振り仰げば、どこまでも続くような夕焼け空。鮮やかな朱色から血のような赤、深い紫に至るグラデーションを見せて無限の空が果てしなく続いている。かすかに風の音がする。
赤金色に輝く雲の群以外何もない空に浮かぶ小さな水晶の円盤、その端に俺は立っていた。
……ここはどこだろう。確かに俺の体は無数の破片となって砕け散り、消滅したはずなのに。まだSAOの中にいるのか……それとも本当に死後の世界に来てしまったのか?
自分の体に視線を落としてみる。レザーコートや長手袋といった装備類は全て死んだ時のままだ。だが、その全てがわずかに透き通っている。装備だけではない。露出している自分の体さえ、色硝子のような半透明の素材へと変化し、夕焼けの光を受けて赤く輝いている。
左手を伸ばし、人差し指を軽く振ってみた。耳慣れた効果音と共にウインドウが出現する。では、ここはまだSAOの内部なのだ。
だがそのウインドウには、装備フィギュアやメニュー一覧が存在しない。ただ無地の画面に一言、小さな文字で『最終フェイズ実行中 現在54%完了』と表示されているだけだ。見つめるうち、数字が55へと上昇した。体が崩壊すると同時に脳死――意識消滅に陥るものと思っていたのだが、これはどういうことだろう。
肩をすくめてウインドウを消去したとき、不意に背後から声がした。
「……キリト君」
天上の妙なる音楽のようなその声。全身を衝撃が貫く。
今の声が幻でありませんように――。必死に祈りながらゆっくりと振り向く。燃えるような赤い空を背景に――彼女が立っていた。
長い髪を風がそっと揺らしている。穏やかに微笑むその顔は手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに、俺は動けない。
一瞬でも目を離したら消えてしまう――。そんな気がして、無言で彼女を見つめつづけた。彼女も、俺と同じように全身がはかなく透き通っていた。夕焼けの色に染まり、輝くその姿は、この世に存在するなにものよりも美しい。
涙が溢れそうになるのを必死にこらえ、俺はどうにか笑みを浮べた。ささやくような声で言う。
「ごめん。……俺も、死んじゃったよ」
「……バカ」
笑いながら言った彼女の目から大粒の涙がこぼれた。俺は両手を広げ、そっと彼女の名を呼んだ。
「……アスナ」
涙の粒をきらめかせながら俺の胸に飛び込んできたアスナを固く抱きしめる。もう離さない。何があろうともこの腕は離さない。
長い、長いキスの後、ようやく顔を離し、俺たちは見つめあった。あの最後の戦いについて、話したいこと、謝りたいことは山ほどあった。だが、もう言葉は不要だと思えた。代わりに視線を無限の夕焼け空に移し、口を開いた。
「ここは……どこだろう?」
アスナは無言で視線を下向けると、指を伸ばした。その先を目で辿る。
俺たちの立っている小さな水晶版から遠く離れた空の一点に――それが浮かんでいた。円錐形の先端を切り落としたような形。全体は薄い層を無数に積み重ねて造られている。目を凝らせば、層と層の間には小さな山や森、湖、そして街が見て取れる。
「アインクラッド……」
俺の呟きに、アスナがこくりと頷いた。間違いない、あれはアインクラッドだ。無限の空に漂う巨大浮遊城。俺たちが二年間の長きに渡って戦いつづけた剣と戦闘の世界。それが今、眼下にある。
ここに来る前、元の世界で発表されたSAOの資料でその外観を目にしたことはあった。だがこうして実物を外部から眺めるのは初めてだ。畏怖に似た感情にうたれ、息を詰める。
鋼鉄の巨城は――今まさに崩壊しつつあった。
俺たちが無言で見守る間にも、基部フロアの一部が分解し、無数の破片を撒き散らしながら崩落してゆく。耳を澄ませると、風の音に混じって重々しい轟音がかすかに響いてくる。
「あ……」
アスナが小さく声を上げた。下部が一際大きく崩れ、構造材に混じって無数の木々や湖の水が次々に落下し、赤い雲海に没していった。あの辺りは俺たちの森の家があった場所だ。二年間の記憶が焼き付いた浮遊城の層一つ一つが薄い膜を剥がすようにゆっくりと崩落してゆくたび、哀惜の念がちくりと胸を刺す。
俺はアスナを抱いたまま、水晶の浮島の端に腰を下ろした。
不思議に心は静かだった。俺たちがどうなってしまったのか、これからどうなるのか、何もわからないが不安は感じない。俺はやるべきことをやり、かりそめの命を失い、今こうして愛する少女と二人、世界の最後を看取っている。もうそれでいい――。どこか満ち足りた気分だった。それはアスナも同じだろう。俺の腕の中で、半ば瞳を閉じて崩壊してゆくアインクラッドを見つめている。俺はゆっくりと彼女の髪を撫でた。
「なかなかに絶景だな」
不意に傍らから声がした。俺とアスナが視線を右に向けると、いつの間にかそこに男が一人立っていた。茅場晶彦だった。
騎士ヒースクリフではなく、SAO開発者としての本来の姿だ。白いシャツにネクタイを締め、長い白衣を羽織っている。線の細い、鋭角的な顔立ちの中で、それだけは変わらない金属的な瞳が、穏やかな光を湛えて崩壊してゆく浮遊城を眺めている。彼の全身も俺たちと同じように透き通っていた。
この男とつい数十分前までお互いの命を懸けた死闘を繰り広げていたはずなのに、俺の感情は静かなままだった。この永遠の夕刻の世界に来るときに、怒りや憎しみを置き忘れてきてしまったのだろうか。俺は茅場から視線を外すと、再び巨城を見やり、口を開いた。
「あれは、どうなってるんだ?」
「比喩的表現……と言うべきかな」
茅場の声も静かだった。
「現在、アーガス本社地下五階に設置されたSAOメインフレームの全記憶装置でデータの完全消去作業を行っている。あと十分ほどでこの世界の何もかもが消滅するだろう」
「あそこにいた人達は……どうなったの?」
アスナがぽつりと呟いた。
「心配には及ばない。先程――」
茅場は右手を動かし、表示されたウインドウをちらりと眺めると続けた。
「生き残った全プレイヤー、三八八六一人のログアウトが完了した。そうだ、言い忘れていたな。ゲームクリアおめでとう、キリト君――そしてアスナ君」
俺はそれには答えずに、
「……死んだ連中は? 一度死んだ俺たちがここにこうしているからには、今までに死んだ一万人だって元の世界に戻してやることが出来るんじゃないのか?」と聞いた。
茅場は表情を変えずにウインドウを消去し、両手を白衣のポケットに突っ込むと言った。
「命は、そんなに軽々しく扱うべきものではないよ。彼らの意識は帰ってこない。死者が消え去るのはどこの世界でも一緒さ。君たちとは――最後に少しだけ話をしたくてね」
それが一万人を殺した人間の台詞か――と思ったが、不思議と腹は立たなかった。代わりに、さらに質問を重ねた。根源的な、多分全プレイヤー、いやこの事件を知った全ての人が思ったであろう疑問。
「なんで――こんな事をしたんだ……?」
茅場が苦笑を洩らす気配がした。しばしの沈黙。
「なぜ――、か。私も長い間忘れていたよ。なぜだろうな。NERDLESシステムの開発を知ったとき――いやその遥か以前から、私はこの世界をつくりだすことだけを欲して生きてきた」
少し強く吹いた風が、茅場の白衣の裾とアスナの髪を揺らした。巨城の崩壊は半ば以上にまで及んでいる。思い出深いアルゲードの街もすでに分解し、雲の連なりに飲み込まれていった。茅場の言葉が続いた。
「子供は次から次へいろいろな夢想をするだろう。空に浮かぶ鉄の城の空想に私が取りつかれたのは何歳の頃だったかな……。その情景だけは、いつまで経っても私の中から去ろうとしなかった。年経るごとにどんどんリアルに、大きく広がっていった。あの城に行きたい……長い、長い間、それが唯一の欲求だった……。私はね、キリト君。まだ信じているのだよ――どこか別の世界には、本当にあの城が存在するのだと――……」
不意に、俺は自分がその世界で生まれ、剣士を夢見て育った少年であるような感慨にとらわれた。少年はある日はしばみ色の瞳の少女と出会う。二人は恋に落ち、やがて結ばれ、森の中の小さな家でいつまでも暮らし――。
「ああ……。そうだといいな」
俺はそう呟いていた。腕の中で、アスナがそっと頷いた。
再び沈黙が訪れた。視線を遠くに向けると、崩壊は城以外の場所にも及び始めていた。無限に連なっていたはずの雲海と赤い空が、遥か彼方で白い光に飲み込まれ、消えていくのが見える。光の侵食はあちこちで発生し、ゆっくりとこちらに近づいているようだ。
「……君たちにクリアの報酬を渡さなくてはな」
茅場の声がした。俺はアスナの髪に頬をすり寄せながら答えた。
「ゲームクリアはそれ自体が報酬だろう。――この光景だけでいいよ」
「ん……。わたしも」
アスナの左手が俺の頬に触れた。笑いを含んだ茅場の声が流れた。
「まあ、そう言うな」
俺たちは右隣に立つ茅場を見上げた。茅場は穏やかな表情で俺たちを見下ろしていた。
「――さて、私はそろそろ行くよ」
風が吹き、それにかき消されるように――気づくとその姿はもうどこにも無かった。水晶板を、赤い夕焼けの光が透過し、控えめに輝かせている。俺たちは再び二人きりになっていた。
彼はどこに行ったのだろう。現実世界に帰還したのだろうか。
いや――そうではあるまい。意識を自ら消去し、どこかにある本当のアインクラッドへと旅立っていったのだ。
仮想世界の浮遊城はすでに先端部分を残すのみだった。結局俺たちが目にする事の無かった76層より上の階層がはかなく崩落してゆく。世界を包み込み、消去してゆく光の幕もいよいよ近づいていた。ゆらめくオーロラのようなその光に触れるたび、雲海と夕焼け空そのものが微細な破片を散らしながら飲み込まれてゆく。
アインクラッドの最上部には、華麗な尖塔を持つ巨大な真紅の宮殿が屹立していた。ゲームが予定通り進行すれば、俺たちはあそこで魔王ヒースクリフと剣を交えることになったのだろう。主無き宮殿は、その基部となる最上層が崩れ落ちていっても、運命に抵抗するかのようにしばらく浮遊しつづけていた。赤い空を背景にひときわ深い紅に輝くその宮殿は、最後に残った浮遊城の心臓のように思えた。
やがて破壊の波が、容赦なく真紅の宮殿を飲み込んだ。下部から徐々に無数の紅玉となって分解し、雲間に零れ落ちてゆく。一際高い尖塔が四散するのと、光の幕がその空間を飲み込んだのはほぼ同時だった。巨城アインクラッドは完全に消滅し、世界にはわずかな夕焼け雲の連なりと小さな水晶の浮島、そこに腰掛けた俺とアスナが残るのみとなった。
もうそれ程時間は残っていないだろう。
俺はアスナの頬に手を添えると、ゆっくり唇を重ねた。最後のキス。時間をかけて、彼女の全存在を魂に刻み込もうとする。
「……お別れだな」
アスナは小さく首を振った。
「ううん、お別れじゃないよ。わたし達はひとつになって消えていく。だから、いつまでも一緒」
ささやくような、しかし確たる声で言うと、俺の腕の中で体の向きを変え、正面から真っ直ぐ見つめてきた。小さく首を傾け、柔らかく微笑む。
「ね、最後に名前を教えて。キリト君の、本当の名前」
わずかに戸惑った。二年前に別れを告げたあの世界での名前のことだとようやく気付く。
自分がかつて、別の名前で別の生活を送っていたということが遥か遠い世界の出来事のように感じる。記憶の奥底から浮かび上がってきた名前を、不思議な感慨を抱きながら発音する。
「桐ヶ谷……桐ヶ谷和人。多分先月で十六歳」
その途端、止まっていたもう一人の自分の時間が音をたてて流れ出したような気がした。剣士キリトの奥底に埋もれていた和人の意識が、ゆっくり浮上してくる。この世界で身に付けた硬い鎧が、次々と剥がれ落ちていくのを感じる。
「きりがや……かずと君……」
一音ずつ噛み締めるように口にして、アスナはちょっと複雑そうに笑った。
「年下だったのかー。……わたしはね、結城……明日奈。十七歳です」
ゆうき……あすな。ゆうきあすな。その美しい六つの音を何度も胸の中で繰り返す。
不意に双眸から熱く溢れるものがあった。
永遠の黄昏の中で停止していた感情が動き出す。心臓を切り裂くような激しい痛み。この世界に囚われて以来初めての涙がとめどなく流れ落ちてゆく。小さな子供のように喉を詰まらせ、両手を固く握り締めながら声を上げて泣いた。
「ごめん……ごめん……。君を……あの世界に……還すって……約束したのに……僕は……」
言葉にならない。結局、一番大切な人を助けられなかった。この人が歩むはずだった光溢れる道を、力及ばず閉ざしてしまったという悔いが涙に形を変えて尽きることなく溢れ出してくる。
「いいの……いいんだよ……」
明日奈も泣いていた。七色にきらめく宝石のような涙が次々と頬を伝い、光の粒子となって蒸発する。
「わたし、幸せだった。和人君と会えて、いっしょに暮らせて、今まで生きてきて一番幸せだったよ。ありがとう……愛しています……」
世界の終焉は間近だった。最早、鋼鉄の巨城も無限の雲海も乱舞する光の中に消え去り、白い輝きの中に僕たち二人が残るだけだった。周囲の空間が次々と輝きに飲み込まれ、光の粒を散らしながら消滅していく。
僕と明日奈はかたく抱き合い、最後の時を待った。
白熱する光の中で、感情すら昇華されていくようだった。心の中にはもう明日奈への思慕しか存在しない。なにもかもが分解され、蒸発していくなか、僕はただ明日奈の名前だけを呼び続けた。
視界が光に満たされていく。全てが純白のヴェールに包まれ、極小の粒子となって舞い散る。目の前の明日奈の笑顔が、世界に溢れる光と混ざり合う。
――愛して……愛しています――
最後に残った意識の中に、甘やかな鈴の音のような声が響いた。
僕という存在、明日奈という存在を形作っていた境界が消滅し、ふたりが重なっていく。
魂が溶け合い、ひとつになり、拡散する。
消えていく。
25
空気に、匂いがある。
自分の意識がまだ存続していることより、まずそれに驚いた。
鼻孔に流れ込んでくる空気には大量の情報が含まれている。鼻を刺すような消毒薬の匂い。乾いた布の日向くさい匂い。果物の甘い匂い。そして、自分の体の匂い。
ゆっくり目を開ける。その途端、脳の奥までを突き刺すような強烈な白い光を感じ、慌てて目蓋をぎゅっと閉じる。
おそるおそる、もう一度目を開けてみる。様々な色の光の乱舞。目に大量の液体が溜まっていることに遅まきながら気付く。
目を瞬いて、それらを弾き出そうとする。しかし液体はあとからあとから湧き出てくる。これは涙だ。
泣いているのだった。何故だろう。激しく、深い喪失の余韻だけが胸の奥にせつない痛みとなって残っている。耳に、誰かの呼び声が微かにこだましているような気がする。
強すぎる光に目を細めながら、どうにか涙を振り払う。
何か柔らかいものの上に横たわっているようだった。天井らしきものが見える。オフホワイトの光沢のあるパネルが格子状に並び、そのうち幾つかは奥に光源があるらしく柔らかく発光している。金属でできたスリットが視界の端にある。空調装置だろうか。低い唸りを上げながら空気を吐き出している。
……空調装置。つまり機械だ。そんなものがある訳がない。どんな鍛冶スキルの達人でも機械は作れない。仮にあれが本当に――見たとおりのものだとしたら――ここはアインクラッドでは――
アインクラッドではない。
僕は目を見開いた。その思考によってようやく意識が覚醒した。慌てて跳ね起きようと――
したが体が言うことを聞かなかった。全身に力が入らない。右肩が数センチ上がるが、すぐに情けなく沈み込んでしまう。
左手だけはどうにか動きそうだった。自分の体に掛けられている薄い布から左手を出し、目の前に持ち上げてみる。
驚くほど痩せ細ったその腕が自分のものだとはしばらく信じられなかった。これでは剣など到底振れそうにない。病的に白い肌をよくよく見ると、無数の産毛が生えている。皮膚の下には青みがかった血管が走り、関節には細かい皺が寄っている。恐ろしいほどにリアルだ。あまりに生物的すぎて違和感を感じるほどだ。
二の腕には微細抽入装置と思しき金属の管がテープで固定され、そこから細いコードが延びている。コードを追っていくと、左上方で銀色の支柱に吊るされた透明のパックに繋がっている。パックにはオレンジ色の液体が七割がた溜まっており、下部のコックから滴が一定のリズムで落下している。
体の横に投げ出したままの右手を動かし、感触を探ってみた。僕が横たわっているのは、どうやら密度の高いジェル素材のベッドらしい。体温よりやや低い、ひんやりと濡れたような感触が伝わってくる。僕は全裸でその上に寝ている。遠い記憶が蘇ってくる。たしかこういうベッドが、寝たきりの要介護者のために開発されたというニュースを遥か昔に見た気がする。皮膚の炎症を防ぎ、老廃物を分解浄化するという奴だ。
視線を周囲に向けてみる。小さい部屋だ。壁は天井と同じオフホワイト。右手には大きな窓があり、白いカーテンが下がっている。その向こうを見ることはできないが、陽光と思われる黄色がかった光が布地を透かして差し込んできている。ジェルベッドの左手奥には金属製のワゴントレイがあり、藤の籠が載っている。籠にはひかえめな色彩の花が大きな束で生けられており、甘い匂いの元はこれらしい。ワゴンの奥には四角いドア。閉じられている。
得られた情報から推測するに、おそらくここは病室のようだった。僕はそこに独りで横たわっている。
宙に上げたままの左手に視線を戻した。ふと思いつき、人差し指をそっと振ってみる。
何も起こらない。効果音も鳴らないし、メニューウインドウも出てこない。もう一度、今度はもう少し強めに振ってみる。さらにもう一度。結果は同じだ。何も起こらない。
と言うことは――ここはSAOの中ではないのだ。ならば別の仮想世界だろうか?
しかし、僕の五感から得られる圧倒的な情報量は、先程からもう一つの可能性を声高に告げていた。つまり――元の世界だ。二年前に旅立ち、もう戻ることはあるまいと思いさえした、現実の世界。
現実世界――。その言葉が意味するところを理解するのには時間がかかった。僕にとっては、長い間あの剣と戦闘の世界だけが唯一の現実だった。その世界がすでに存在せず、自分がもうそこに居ないのだということがなかなか信じられない。
では、僕は還ってきたのだ。
――そう思っても、さしたる感慨や歓びは湧いてこなかった。ただ戸惑いと、わずかな喪失感を覚えるのみだ。
それでは、これが茅場の言うゲームクリアの報酬なのだ。僕はあの世界で死に、体は消滅し、それを受け入れ、満足さえ感じていたというのに――。
そうだ――僕は、あのまま消えてもよかった。白熱する光の中で、分解し、蒸発し、世界と溶け合い、彼女とひとつに――
「あ……」
僕は思わず声を上げた。二年間使われることのなかった喉にするどい痛みが走る。だがそれすらも意識していなかった。目を見開き、湧き上がってくる言葉、その名前を声に出す。
「あ……す……な……」
アスナ。胸の奥に焼きついていた痛みが鮮烈に蘇る。アスナ、僕が愛し、妻とし、ともに世界の終焉に立ち会ったあの少女は……
夢だったのか……? 仮想世界で見た美しい幻影……? ふとそんな迷いにとらわれる。
いや、彼女は確かに存在した。一緒に笑い、泣き、眠りについたあの日々が夢であるものか。
茅場はあのとき――君たちにクリアの報酬を、と言った。君たち、確かにそう言った。ならばアスナも――還ってきているはずだ。この世界に。
そう思ったとたん、彼女への愛おしさ、狂おしい程の思慕が僕の内部に満ち溢れた。会いたい。髪を触りたい。キスしたい。あの声で、呼んで欲しい。
全身の力を振り絞って起き上がろうとした。そこでようやく頭が固定されていることに気づく。顎の下でロックされている硬質のハーネスを手探りで解除する。何か重い物を被っている。両手でそれをどうにかむしり取る。
僕は上体を起こし、手の中にある物体を見つめた。濃紺に塗装された流線型のヘルメットだった。後頭部に長く伸びたパッドから、同じくブルーのケーブルが延び、床へと続いている。これは――
ナーヴギアだ。僕はこれによって二年の間あの世界に繋ぎとめられていたのだ。ギアの電源は落ちていた。記憶にあるその外装は輝くような光沢を纏っていたのだが、今や塗装はくすみ、エッジ部分では剥げ落ちて軽合金の地が露出している。
この内部に、あの世界の記憶すべてがある――。そんな感慨にとらわれて、僕はギアの表面をそっと撫でた。
多分、二度と被ることは無いだろう。でも、お前は良くやってくれたよ……。
胸の奥で呟いて、僕はそれをベッドの上に横たえた。ギアと共に戦ったのはすでに遠い過去の記憶だ。僕にはこの世界でやらなければならないことがある。
ふと、遠くざわめきを聞いたような気がした。耳を澄ませると、ようやく聴覚が正常に復帰したとでもいうように、様々な音が飛び込んでくる。
確かに大勢の人の話し声、叫び声が聞こえる。ドアの向こうで慌しく行き交う足音、キャスターの転がる音。
多分、この病院にはSAOの「患者」が大量に収容されていたのだ。彼らが一斉に目を醒ましたので、病院中が大騒ぎになっているのだろう。
アスナがこの病院にいるかどうかは分らない。SAOプレイヤーは日本中に居ただろうから、可能性で言えばここに収容されている確率はごく低い。だが、まずはここからだ。たとえどれだけ時間がかかろうときっと見つけ出す。
僕は薄い上掛けを剥ぎ取った。痩せ細った全身には無数のコードが絡み付いている。四肢に貼り付けられているのは筋肉弱化を防ぐ電極だろうか。それを苦労して一つずつ外していく。ベッドの下部に見えるパネルにオレンジ色のLEDが点り、甲高い警告音が響き渡るが無視する。
点滴のインジェクターも引き抜き、ようやく自由の身になると足を床に付けた。ゆっくり力を入れ、立ち上がろうと試みる。じりじりと体が持ち上がったものの、すぐに膝が折れそうになる。思わず苦笑する。あの超人の如き筋力パラメータ補正は見る影も無い。
点滴の支柱に掴まって体を支え、どうにか立ち上がった。部屋を見渡すと、花籠の置いてあるトレイの下段に畳まれた診察衣を発見し、裸の上から羽織る。
それだけの動作で息が上がってしまった。二年間使われなかった四肢の筋肉が痛みで抗議している。だがこんな所で弱音を吐いてはいられない。早く、早く、と急かす声がする。全身が彼女を求めている。アスナを――明日奈をもういちどこの腕に抱くまで僕の戦いは終わらない。
愛剣の代わりに点滴の支柱を握り締め、それに体を預けて、僕はドアに向かって最初の一歩を踏み出す。
(ソードアート・オンライン 終)
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プロローグ 2014年・秋
深い青の輝点が三つ、ささやかな星座のように並んでいる。
直葉(すぐは)はそっと右手の指を伸ばし、その光に触れてみた。
ナーヴギアの稼動状態を示すLEDインジケータ。ヘルメットの前縁部に設けられたそれは、右から主電源、WANリンク、大脳リンクの状態をモニターしている。左端の光点が赤に変われば――その時は、ギア使用者の脳が破壊されたことを意味する。
そのギアの主は、オフホワイトのモノトーンに統一された病室の中央、広いジェルベッドの上で、醒めない眠りについていた。いや、それは正確な表現ではない。実際には、彼の魂は遥か異世界で日夜戦っているのだ――己の解放を賭けて。
「お兄ちゃん……」
直葉はそっと眠る兄・和人(かずと)に呼びかけた。
「もう二年も経つんだね……。あたし、今度高校生になるんだよ……。早く帰ってこないと、どんどん追い越しちゃうよ……」
再び指を伸ばし、兄の顔の輪郭をなぞる。長い昏睡のあいだに肉が落ち、削いだように薄いそのラインは、もともと中性的な印象のある和人の横顔に輪をかけて少女めいた陰翳を与えている。母親などは、冗談で「うちの眠り姫」と呼んでいるほどだ。
細くなっているのは顔だけではない。全身が痛々しいほどにやせ細り、幼い頃から剣道一筋の直葉と比べると体重は今やあきらかに下だろう。このまま消えてなくなってしまうのではないか……。最近では、そんな恐怖にとらわれることもある。
でも直葉は、一年前から病室で泣くのを可能なかぎり我慢するようにしている。その頃、総務省のSAO救出対策本部のメンバーに教えてもらったのだ――兄の、ゲーム内での『レベル』が全体のトップ数パーセントに位置すること、常に危険な最前線で戦闘を行う数少ない攻略プレイヤーの一人であることを。
きっと今も、兄は死と隣り合わせの状況で戦っているのだろう。だから直葉がここで泣くわけにはいかない。それよりは手を握り、応援しようと思う。
「がんばって……。がんばって、お兄ちゃん」
いつものように、和人の骨ばった右手を自分の両手で包み込み、懸命に念じていると、不意に背後から声をかけられた。
「あら、来てたの、直葉」
慌てて振り返る。
「あ、お母さん……」
立っていたのは、母親の翠(みどり)だった。この病室のスライドドアはモーター駆動で、開閉音が恐ろしく静かなため聞き落としたらしい。
翠は、右手に下げたコスモスの束を手早くベッドサイドの花瓶に生け、直葉の隣の椅子に腰を降ろした。会社帰りなのだろうが、コットンシャツとスリムジーンズの上に革のブルゾンを羽織ったラフな格好だ。化粧も薄く、髪を後ろで無造作に束ねたその格好はとても来年不惑の女性には見えない。コンピュータ系情報誌の編集長という仕事柄のせいもあるだろうが、本人には当分歳相応に落ち着く気はないらしく、直葉にとっては母親というより姉のような存在と言っていい。
「母さんこそ、よく来られたね。校了前なんでしょ?」
直葉が言うと、翠はニッと笑った。
「押し付けて抜け出してきたわ。いつもあんまり来られないけど、今日くらいはね」
「そうだね……。今日はお兄ちゃんの……誕生日だもんね」
二人はしばし口をつぐみ、ベッドで眠る和人を見つめた。カーテンを揺らして夕焼け色の風が部屋に入り込み、コスモスの香りがかすかに漂った。
「和人も……もう一六歳なんだね……」
翠がぽつりと呟いた。
「……いい機会だから、あんたには今話しておくわ、直葉」
いつになく改まった調子の翠の声に、直葉は首を傾げて隣を見た。
「……なに?」
「和人はね……あたしが産んだ子供じゃないの」
「え……?」
母親が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「そ、それ……どういうこと……?」
「あたしに、姉さんがいた話は知ってるでしょ……?」
「う……うん、車の事故で……亡くなったって……」
「和人はね、その姉さんの子なの。奇跡的に……一人だけ、助かってね。その頃にはもう父さんも母さんも……直葉のお爺ちゃんとお婆ちゃんも亡くなってたしね……。研介さんと相談して、うちで引き取ることにしたの……。だから、和人は、直葉の従兄なのよ……本当は……」
「……そんな……そんなこと……」
直葉は呆然と翠の顔を見詰めた。頭のなかがぐるぐると渦巻いて、何も考えられなかった。
「……お兄ちゃんは、知ってるの……?」
どうにかそれだけ尋ねると、翠はゆっくりと首を振った。
「和人が高校に上がったら、二人に言おうと思ってたんだけどね……。こんなことになっちゃったから……。ごめんね、直葉……」
翠は、気丈な彼女にしては珍しく瞳を伏せると、立ち上がった。
「……それじゃ、あたし会社に戻るから……。あんまり暗くならないうちに帰るのよ」
ぽん、と直葉の頭に手を置き、翠は病室を出ていった。軽いモーター音と共にドアが閉まると、すぐに静寂が訪れた。
直葉は両手を膝の上でぎゅっと握り、眼を見開いて和人の顔を見つめた。熱に浮かされたように全身がふわふわと頼りなく、心臓の音だけがやけに大きく響いた。
白いカーテンの向こうにたゆたう金色の光が、やがて深い朱色に、さらに紫色に変わり、病室が薄闇に包まれる頃になっても、直葉はそこに留まりつづけた。身じろぎもせず、和人のささやかな息づかいにいつまでも聞き入っていた。
第一章 2015年初春
耳をすませる。
体を包む完全な静寂。無限の暗闇。NERDLES技術が開発される以前は存在し得なかった、五感の遮断によってもたらされる全き孤独の世界。
恐怖に耐えながら、俺は魂を虚無の空間に浮遊させる。ナーヴギア用テストプログラムによって、感覚は肉体から切り離されているものの、いかなるゲームソフトもロードされておらず、どこのサーバにも繋がっていない。LANケーブルは壁のジャックに接続されているが、パケットの往復は無い。
俺は暗黒の中で耳をすませる。
この世界のどこかに彼女がいる。檻に囚われ、助けを求めている。その声を聞き取ろうと全神経を集中する。
しかし、声は聞こえない。俺の耳には何も届かない。やがて、俺の意識はいつものように記憶の中に彷徨いこんでいく。彼女とすごした、短くも暖かい、冬の陽だまりのようなあの日々。
両手に持ったマグカップの片方を差し出し、にこりと笑う彼女。剣を鞘に収め、こちらに向かってVサインする彼女。一枚の毛布にいっしょにくるまり、俺にぎゅっとしがみついて不意に涙をこぼす彼女。俺が尋ねる。
「どうしたの?」
彼女が答える。
「好きってキモチがいっぱいすぎると、涙が出ちゃうんだよ」
記憶の彼方のその声が、あまりにも鮮明に響いて、俺は虚無の中に呼び戻される。五感は遮断されているが、涙が熱く溢れる感覚が湧き上がる。俺は全身の力を振り絞って彼女の名前を叫ぶ。
…………
俺の脳波が平穏状態から外れ、ナーヴギアのオートダウンサインが赤く輝いた。暗闇の中に放射状の光が広がり、同時に感覚がゆっくりよみがえってくる。皮膚感覚、聴覚、視覚の順で脳と肉体との接続が完了し、かすかな電子音とともにギアの電源が落ちた。俺はゆっくりと上体を起こした。
あごの下のロックを解除し、ギアをそっと持ち上げる。目蓋を開けると、きれいに片付いた自室の光景が目に飛び込んできた。
6畳の部屋は、今時珍しい天然木のフローリングだ。家具はシンプルなパソコンラックとスチールラック、俺が座っているパイプベッドの三つしかない。二年留守にしていた間に、ラックを雑然と埋めていた雑誌類はほとんど処分されてしまい、かつての居心地のいい混沌状態を取り戻すにはしばらくかかるだろう。
俺は両手に抱えた古ぼけたヘッドギアをそっと傍らに置き、立ち上がった。ベッドの向こうの壁にかけられた大きな鏡をちらりと見やる。
現実世界に戻ってきて二ヶ月が経つが、未だに自分の姿に慣れることができない。かつて存在した剣士キリトと、今の俺・桐ヶ谷和人は基本的には同じ容姿を持っているはずだが、落ちた体重がまだ完全には戻らないのでTシャツの下の骨ばった体がいかにも弱々しい。
俺は、鏡の中の自分の頬にふた筋の涙が光っているのを発見し、右手でそれを拭い取った。
「俺、すっかり泣き虫になっちゃったよ、アスナ」
呟いて、部屋の南側にある大きな窓に歩み寄る。両手でカーテンを開け放つと、冬の朝の控え目な陽光が、部屋中を薄い黄色に染め上げた。
ざくざくと小気味良い音を立てながら、庭先の霜柱を踏みしめて歩く。先日降った雪はもうほとんど姿を消したが、一月なかばの朝の空気はまだまだ切れるように冷たい。
直葉は、厚く氷の張った庭池のふちで立ち止まると、右手に握った竹刀をかたわらの黒松の幹に立て掛けた。眠気の残滓を体の中から追い出すようにひとつ大きく深呼吸してから、おもむろに両手を膝について、屈伸運動を始める。
まだ完全に目覚めていない全身の筋肉をゆっくりと動かしていく。つま先、アキレス腱、ふくらはぎと、徐々に血流がめぐりはじめると同時に、ちくちくする感覚が体を包んでいく。
揃えた両手を前に伸ばし、腰をぐっとかがめたところで――直葉はぴたりと動きを止めた。池に身を乗り出した自分の姿が、今朝張ったばかりの滑らかな氷に映っていた。
眉の上と、肩のラインですぱっと一直線にカットされた髪は今時珍しい青味がかるほどの黒だ。同じく深い墨色の眉はきりっと太く、その下の大きな、やや勝ち気そうな瞳とあいまって、どこか男の子めいた雰囲気を氷の鏡に映る少女に与えている。身にまとっているのが古式ゆかしい白の道着に黒袴とくれば尚更だ。
(やっぱり……似てないよね……)
最近よく浮かんでくるその思考。洗面所や玄関の姿見で自分の顔を見るたびにそう思ってしまう。昔から自分の容姿は嫌いではないし、そもそもあまり気にかけるほうではないのだが、母親にあの話を聞いたときから、つい比較してしまうのだ――自分と、和人を。
(――考えても、仕方ないよ……)
頭を振って思考を追い出し、直葉は屈伸を再開した。
ストレッチを丁寧に2セット終えると、松に立て掛けておいた竹刀を手に取る。長年使い込んで手のひらに馴染んだそれを絞り込むように握り、背筋を伸ばしてぴたりと中段に構える。
一瞬、その姿勢のまま呼吸を整え――鋭い呼気と共に、振りかぶった竹刀を正面に撃ち出した。朝の空気を断ち割る唸りに驚いた雀が数羽、黒松の梢から飛び立った。
桐ヶ谷家は、埼玉県南部のとある城下町の中でもことに昔の街並みを残した地域に建つ古い日本家屋だ。今は本丸御殿しか残らぬ城に伺候していた武家の流れだということで、四年前に他界した直葉の祖父は、それは厳しい士気質の人物だった。
長年警察に奉職し、若い頃は剣道で鳴らした豪傑で、息子――直葉の父親――にも同じ道に進むことを期待していたようだったが、父親は高校までは竹刀を握ったもののあっさりとアメリカの大学に留学し、そのまま外資系の証券会社に就職してしまった。その後はろくに日本に帰らない生活を選んだため、祖父の情熱は自然と、直葉と一つ年上の兄・和人に向けられることとなった。
直葉と兄は小学校に上がると同時に近所の剣道場に叩き込まれたのだが、コンピュータ技師だった母親の影響か兄は竹刀よりもキーボードを愛し、二年で道場を辞めてしまった。だが兄のオマケで入門した直葉はどうしたことか剣道が性に合い、以来九年、祖父が亡くなってからも竹刀を握り続けている。
直葉は今十五歳。去年、中学最後の大会では全国の上位まで進出し、春からは東京の高校への推薦入学が決まっている。
だが――。
昔は、自分の進む道に迷いは無かった。剣道は好きだったし、周囲の期待に応えることが何より嬉しかった。
しかし、二年前。日本中を激震させたあの事件に兄が巻き込まれてから、直葉の中に消えない揺らぎが生まれたのだった。それは悔い、と言ってもいい。直葉が8歳の時に兄が剣道をやめてから、二人の間に出来てしまった広く、深い溝を埋めようと努力しなかったことに対する悔いだ。
竹刀を捨ててからの兄は、それまでの渇きを一気に癒そうとするかのようにコンピュータを溺愛した。小学生にして小遣いでパーツを買い揃えてマシンを自作し、母親の手ほどきを受けながらプログラムを組んだ。直葉にとって、兄の話すことはまるで異国の言葉だった。
もちろん、学校の授業でコンピュータの操作は習うし、直葉の自室にも一台兄の手になるマシンが置かれてはいた。だが、それでする事はせいぜいメールのやりとりとウェブブラウジング程度で、とても兄の住む世界は直葉に理解できるものではなかった。特に、兄が没頭していたオンラインRPG、あれには本能的な嫌悪を覚えた。自分を偽る仮面をつけて、同じく仮面をかぶった相手と仲良く話すなんて自分にはとてもできないと思った。
とても、とても幼い頃は、直葉と兄は友達もうらやむほど仲が良かったのだ。その兄が遠い世界に行ってしまった寂しさを埋めるように、直葉は剣道に打ち込んだ。自然、日々の会話は減り、それがいつしか普通になって――そして二年前、あの事件が起こった。
悪夢のタイトル、『ソードアートオンライン』。日本全国で五万人の若者たちが意識を根こそぎ刈り取られてこの世界から姿を消した。
兄が東京の専門病院に収容されて、初めて見舞いに行った日。
ベッドの上で、たくさんのコードに拘束され、禍々しいヘッドギアを被って昏睡する兄の姿を目にした時、直葉は生まれてはじめてと言ってもいいほど号泣した。兄の体にすがって、わんわん泣いた。
もう、二度と言葉を交わせないかもしれない。なぜもっと早く、兄との距離を埋めようと努力しなかったのか。それは、そんなに難しいことではなかったはず、自分にはそれができたはずなのだ。
剣道を続ける意味、動機を真剣に考え始めたのはその頃だった。でも、どんなに迷っても答えは出なかった。兄と会えないまま直葉は14歳、15歳になり、周囲が勧めるまま推薦での進学を決めたものの、このままの道を進みつづけていいのかどうかという気持ちの揺らぎが消えることはなかった。
兄が帰ってきたら、今度こそいっぱい話をしよう。悩みも、迷いも全部打ち明けて、相談に乗ってもらおう。直葉はそう決意し、そして二ヶ月前、奇跡が起きた。兄が自らの力で呪縛を打ち破り、帰還したのだ。
――なのに、その時には、兄と自分の関係は大きく変わってしまっていた。母親・翠の言葉が脳裏によみがえる。
(和人は、直葉の従兄なのよ……)
父親の研介は一人っ子だし、翠のただ一人の姉も若くして他界していたため、いままで直葉にはいとこという存在はいなかった。だから、突然実は和人がその翠の姉の子なのだと言われても、具体的な距離感がわからない。果てしなく遠くなってしまったような気もするし、それほど変わらないという気もする。
和人はいまだそのことは知らない。両親に、自分から言いたいと直葉が頼んだからだ。だが、まだ直葉は兄に言い出せないでいる。いったい何が変わったのか、自分でもまだ言葉にできないのだ。
(ううん――たった一つ、変わったことがある……)
直葉は、思考の流れを断ち切るように、一際鋭く竹刀を打ち下ろした。その先を考えるのが怖かった。
気づくと、いつのまにか朝日の角度がかなり変わっていた。そろそろ切り上げることにして、竹刀を下ろしくるりと振り返る。
「あ……」
家に目をやった途端、直葉はぴたりと立ち止まった。スウェット姿の和人が縁側に腰掛け、こちらを見ていた。目が合うとにっと笑い、口を開く。
「おはよう」
言うと同時に、右手に持ったミネラルウォーターのミニボトルをひょいと放ってきた。左手で受け止め、直葉も言う。
「お、おはよ。……やだなぁ、見てたなら声かけてよ」
「いやあ、あんまり一生懸命やってるからさ」
「そんなことないよ。もう習慣になっちゃてるから……」
和人の隣にすわり、竹刀を立てかけてボトルのキャップを捻る。口をつけると、よく冷えた液体が火照った体の中を心地よく落下していく。
「そっか、ずっと続けてるんだもんな……」
和人は直葉の竹刀を握ると、右手で軽く振った。すぐに首をかしげる。
「軽いな」
「ええ?」
直葉はボトルから口を離し、和人を見やった。
「それ真竹だから、けっこう重いよ。ファイバーの奴と比べると二百グラムくらい違うよ」
「あ、うん。その……イメージというか……比較の問題というか……」
和人は左手で直葉のペットボトルをひょいと奪い取り、残っていた水を全部飲み干してしまった。
「あ……」
直葉は顔がかーっと熱くなる。それをごまかすように言う。
「な、何と比べてるのよ」
それには答えず、空のボトルを縁側に置くと、和人は立ち上がった。
「なあ、ちょっとやってみないか」
直葉は和人の顔を唖然として見上げた。
「やるって……試合を?」
「おう」
当然、とばかりにうなずく和人。
「ちゃんと防具つけて……?」
「うーん、寸止めでもいいけど……スグに怪我させちゃ悪いからな。じいさんの防具があるだろう、道場でやろうぜ」
「ほーお」
直葉はおもわずニヤニヤしてしまう。
「ずいぶんとブランクがあるんじゃございません? 全中ベスト8のアタシ相手に勝負になるのかしらー? それに……」
表情をあらため、
「体のほう、だいじょぶなの……? 無茶しないほうが……」
「ふふん、毎日のジム通いの成果を見せてやるさ」
にやっと笑うと、和人はすたすたと家の裏手目指して歩き始めた。直葉も慌てて後を追う。
敷地が無駄に広い桐ヶ谷家は、母屋の北側に小さいがちゃんとした道場を備えている。祖父の遺言で取り壊しはまかりならんということになっていたし、直葉も日々の稽古に使っているので、手入れもそれなりに行き届いている。
素足で道場に上がった二人は軽く一礼し、各々の支度に取り掛かった。幸い、祖父の体格はいまの和人とそれほど違わなかったようで、防具は古いがサイズは合っているようだった。面の紐を同時に結び終え、道場の中央で向き合う。再び、礼。
直葉は背筋を伸ばし、愛用の竹刀をぴたりと中段に構える。対する和人は――
「そ、それなあに、お兄ちゃん」
和人の構えを見た途端、直葉は思わず吹き出してしまった。珍妙、としか言いようがない。左足を前に半身に構え、腰を落とし、右手に握った竹刀の先はほとんど床板に接するほどに下げられている。左手は、柄に添えられているだけのようだ。
「審判がいたらむちゃくちゃ怒られるよそんなの~」
「いいんだよ、俺流剣術だ」
直葉はやれやれ、という心境で再び竹刀を構えなおした。和人はさらに両足を大きく開き、重心を落とす。
がらあきの面に一発入れてやろうと、蹴り足に力を込めたところで、直葉はあれ、と思った。滅茶苦茶な和人の構えだが――なんだか、妙にサマになっている。スキだらけのようで、不用意には打ち込めない気がする。まるで、あの型で長年稽古を積んでいたかのような――。
だが、そんな訳はない。和人が竹刀を握っていたのは6歳から8歳の二年間だけで、その間は基礎の基礎しか学ばなかったはずだ。
と、直葉の迷いを見透かしたように、不意に和人が動いた。低い姿勢で滑るように移動しながら、右下段から竹刀が跳ね上がってくる。驚くほどのスピードではなかったが、一瞬の虚をつかれて、反射的に直葉も動いていた。右開き足から、
「テェ――――ッ!!」
和人の左小手に竹刀を打ち下ろす。絶妙のタイミング、だったはずだが――直葉の一撃は見事に空を切っていた。
有り得ない避け方だった。和人が竹刀から左手を外し、体側に引き付けたのだ。そんなことが出来るものなのか――あっけに取られた直葉の面に向かって、右手一本に握られた和人の剣が飛んできた。首を捻り、必死にかわす。
体を入れ替え、再び距離を取って向き直ったときには、直葉の意識は完全に切り替わっていた。全身の血が沸きあがるような心地よい緊張感。今度は直葉から打って出る。得意技の小手面――。
だが、今度も和人はそれを綺麗にかわしてみせた。腕を引き、体を捻り、紙一重のところで直葉の竹刀をやり過ごす。直葉は内心唖然とする。打突のスピードは全国でも定評のある直葉ゆえ、こうも鮮やかに連続技を避けられたシーンはそうそう記憶にない。
もう本気の本気モードで、直葉は猛然と打ちかかった。息もつかせぬ速さで次々と鋒鋩を叩き込む。だが、和人は躱しに躱しまくる。面の奥の瞳の動きを見ると、直葉の竹刀の動きを完全に捉えているとしか思えない。
業を煮やした直葉は、強引に鍔迫り合いに持ち込んだ。足腰を鍛え上げた直葉の圧力に、和人がぐらりとよろめく。そこを逃さず、気合とともに必殺の引き面一発――。
あっ、と思ったときは遅かった。手加減の無い一撃が、真っ向正面から和人の面に炸裂。ばしーん!! という甲高い音が、道場いっぱいに響き渡った。
和人は数歩ふらついたが、どうにか踏みとどまった。
「だ、だいじょうぶ、お兄ちゃん!?」
慌てて声をかけると、問題ない、というふうに軽く左手を上げる。
「……いやぁ、参った。スグは強いな、ヒースクリフなんか目じゃないぜ」
「……ほんとにだいじょぶ……?」
「おう」
和人は数歩下がると、更に妙な行動に出た。右手の竹刀をひゅひゅんと左右に払い、背中に持っていったのだ。直後に硬直し、右手でぽりぽりと頭を掻く。直葉はいよいよ心配になった。
「あ、頭打ったんじゃ……」
「ち、ちがう!! 長年の習慣が……」
和人は礼をしてどすんと座ると、防具の紐をほどきはじめた。
連れ立って道場を出ると、二人は母屋の裏の手洗い場でばしゃばしゃと頭から水を浴び、汗を流した。ほんのお遊び程度のつもりが、直葉も思い切り真剣になってしまい、全身がかーっと熱い。
「それにしても、びっくりしたよー。お兄ちゃんいつのまに練習してたのよ」
「うーむ、ステップはともかくアタックがな……。やっぱソードスキルは再現できないよな……」
また意味不明なことを呟く和人。
「でも、やっぱり楽しいな。またやってみようかな、剣道……」
「ホント!? ほんとに!?」
直葉は思わず勢いづいてしまった。顔がぱっとほころぶのが自分でもわかる。
「スグ、教えてくれる?」
「も、もちろんだよ! また一緒にやろうよ!」
「もうちょっとキンニクが戻ったらな」
和人に頭をぐりぐりされて、直葉はにへーっと笑った。また一緒に練習できると思うだけで、涙が出そうなほど嬉しくなる。
「あのねーお兄ちゃん、わたしもねえ……」
「ん?」
「うーん、やっぱまだ内緒!」
「なんなんだよ」
大きなタオルで頭をごしごし拭きながら、二人は勝手口から家に入った。母親の翠はいつも昼近くまで寝ているので、朝食の用意は直葉と、最近は和人も交互にやっている。
「私シャワー浴びてくるね。今日はどうするの?」
「あ……俺、今日は……病院に……」
「……」
何気なくした質問の答えを聞いて、直葉の浮き立った気分は少しだけ沈んだ。
「そっか、あの人のお見舞い、いくんだね」
「ああ……。それくらいしか、出来ること無いしな……」
あの世界で、和人には大事なひとがいたのだ、という話は一ヶ月ほど前に本人から聞いた。和人の部屋で、並んで壁際に座り、コーヒーカップを抱えながら、ぽつりぽつりと話してくれた。以前の直葉なら、仮想世界で誰かを好きになるなどとても信じられなかっただろう。でも、今なら何となくわかる気がする。それに――その人の話をしたとき、和人の瞳ににじんでいたかすかな涙――。
最後の瞬間まで一緒だったんだ、と和人は言った。二人とも、一緒に現実に帰ってくるはずだったのだと。でも、和人の意識だけが戻り、その人は眠りつづけたままだった。何が起きたのかは――あるいは何が起きているのかは、誰にもわからなかった。和人は三日とあけずにその人が眠る病院を訪れている。
直葉は想像する。眠る想い人の前で、かつての自分のように、手を握り、涙をこぼし、必死に心で呼びかける和人を。その姿を思い浮かべるたび、直葉はどうにも形容できない気分に襲われる。胸の奥がきゅんと痛く、呼吸が苦しくなる。両手で自分をぎゅっと抱え、その場に座り込んでしまいたくなる。
和人にはいつも笑っていてほしいと思う。あの世界から帰還したあとの和人は、以前の彼とくらべて見違えるように明るくなった。直葉ともよく話してくれるし、びっくりするくらい優しいし、しかも無理をしている様子がない。まるで――ごく幼い頃の二人に戻れたような、そんな気さえする。だから、和人の涙を見ると、こんなに切なくなってしまうのだ。直葉は自分にそう言い聞かせる。
(でも――あたしは、もう、気づいてる……)
和人があの人のことを思って瞳を伏せるとき、自分の胸に去来する痛みの中に、もうひとつ、別の密やかな気持ちがあることを。
台所の入り口で、コップに注いだ牛乳をごくごく飲む和人を見つめながら、直葉は胸のなかでささやきかける。
(ね、お兄ちゃん、あたしたち、ほんとは従兄妹なんだよ……)
きょうだい、からいとこ、になって、何がどう変わったのか、直葉にはまだよくわからない。
でも、たった一つだけ変わったことがある。
それは、ひょっとしたら、和人のことをほんとうに好きになってもいいのかもしれない――ということ。
俺はざっとシャワーを浴び、着替えると、ひと月ほど前に新調したマウンテンバイクにまたがって家を出た。南に向かってゆっくりと漕ぎ出す。目的地までは片道15キロメートル、自転車で往復するには多少距離があるが、筋トレ中の俺にはちょうどいい負荷だ。
これから向かうのは埼玉県所沢市――その郊外に建つ最新鋭の総合病院。その最上階の病室に、彼女が眠っている。
そう――アスナは、帰ってこなかった。
彼女の消息を調べること自体はそれほど苦労しなかった。東京の病院で覚醒した直後、覚束ない足で病室を彷徨い出た俺はすぐに看護士に見付かって連れ戻され、その数十分後、スーツ姿の男たちが数人血相を変えて俺を訪ねてきた。彼らは『総務省SAO救出対策本部』のエージェントだと名乗った。
そのご大層な名前の組織は、SAO事件勃発後すぐに結成されたらしいのだが、結局二年間ほとんど手出しは出来なかったのだそうだ。まあそれもやむを得まい、下手にサーバにちょっかいを出して茅場のプロテクトを解除しそこねれば、五万人の脳が一斉に焼き切れるのだ。そんな責任は誰にも取れやしない。
彼らに出来たのは、被害者の病院受け入れ態勢を整えたことと(それだけで十分な偉業であると言える)、ごくわずかなプレイヤーデータをモニターすることだけだった。
それでも、彼らには、俺のレベルと存在場所から、俺が攻略組の――自分で言うのもなんだが――トップに立つプレイヤーであることは分かっていたらしい。それゆえ、去年の11月、突如として生き残った者達が覚醒したとき、何があったのかを尋ねるために俺の病室を急襲してきたわけだ。
俺は彼らに条件を出した。知っていることは全て(あるいは言える範囲で)話す。そのかわりに俺の知りたいことを教えろと。
知りたいこと――それは無論アスナの居場所だった。数分間携帯であちこち電話をかけまくった挙句、リーダー格の眼鏡の男が、当惑を隠せない表情で俺に言った。
『結城明日奈さんは、所沢の高度医療機関に収容されている。だが、彼女は、まだ覚醒していない……彼女だけじゃない、まだ全国で約二千人のプレイヤーが目を覚ましていないらしい』
サーバの処理にともなうタイムラグと当初は思われた。しかし、何時間、何日待とうとも、アスナを含む二千人が目覚めたという知らせはこなかった。
茅場晶彦の陰謀が継続しているのだと、世間では騒がれた。だが、俺にはそうは思えなかった。あの、夕焼けの世界でわずかな時間語り合った時の、彼の透徹した視線。彼は言った、生き残った全プレイヤーを解放すると。あの時の茅場に今更嘘をつく必要があったとは思えない。彼は間違いなく、あの世界に幕を引き、自らの命を絶ったのだ。俺はそう信じている。
しかし、不慮の事故なのか、あるいは何物かの意志によってか、完全に消去されるはずだったSAOメインサーバーは、変わらぬブラックボックスとしていまだに動きつづけている。アスナのナーヴギアも活動を続け、彼女の魂をSAOサーバに縛している。その中で今何が起きているのか――俺にはもう知る術がない。いっそ――もう一度あの中に戻れるなら――。
直葉が知ったら激怒するだろうが、俺は一度書置きを残し、自室でナーヴギアを起動してSAOクライアントをロードしてみたことすらあるのだ。だが、俺の目の前に現れたのは、『サーバーに接続できません』という無機質な一文だけだった。
俺は、リハビリが一応終わり、動けるようになった直後から今まで、可能な限り定期的にアスナの眠る部屋を訪れている。それはとても辛い時間だ。己の半身が引き裂かれ、奪い取られる物理的な痛みによって魂の内側で血が流れるのがわかる。しかし、俺には、それ以外に出来ることがない。あまりに無力で、ちっぽけな、今の俺には。
ゆっくりとしたペースで四十分ほどペダルを踏みつづけ、幹線道路から外れて丘陵地帯を巻く道を走っていくと、やがて前方に巨大なブラウンの建築物が姿をあらわした。民間企業によって運営されている高度医療専門病院だ。
何度も誰何されているうちにすっかり顔見知りになってしまった守衛に手を上げて正門を通過し、広大な駐車場の片隅にある自転車置き場に愛車を駐める。高級ホテルのロビーめいた一階受け付けで通行パスを発行してもらい、それを胸ポケットにクリップで留めて、俺はエレベーターに乗り込んだ。
数秒で最上一八階に到達し、扉が開く。無人の廊下を南に歩いていく。このフロアは長期入院患者が多く、人影を見かけることはごく少ない。やがて、突き当たりに、ペールグリーンに塗装された扉が見えてくる。すぐ横の壁面には鈍く輝く金属のパネル。名前が印刷されたプレートが嵌め込まれている。『結城 明日奈 様』というその表示の下に、一本の細いスリットが走っている。俺は胸からパスを外し、その下端をスリットに滑らせる。かすかな電子音。圧搾空気の音とともにドアがスライドする。
一歩踏み込むと、涼やかな花の香りが俺を包んだ。真冬にも関わらず、色とりどりの生花が部屋のそこかしこに飾られている。広い病室の中央はカーテンで仕切られている。俺はゆっくりとそこに近づく。
この向こうにいる彼女が、どうか目覚めていますように――。布に手をかけ、俺はしばしささやかな奇跡を祈る。そっとカーテンを引く。
大きなベッド。俺が使っていたのと同じ、ジェル素材のものだ。白い、清潔な上掛けが低い陽光を反射して淡く輝いている。その中央に――眠る、彼女。
始めてここを訪れたとき、もしかしたら彼女は意識のない現実の自分を俺に見られるのを嫌がるかもしれないと、ちらりと思った。だが、そんな心配など微塵も寄せ付けぬほどに、彼女は美しかった。
つややかな深い栗色の髪が、クッションの四方に豊かに流れている。肌の色は透き通るように白いが、丁寧なケアのせいか病的な色合いはまったくない。頬にはわずかなバラ色すら差している。
体重も、俺ほどには落ちていないようだ。なめらかな首から鎖骨へのラインはあの世界での彼女のものとほとんど同一と言っていい。薄い桜色の唇。長い睫毛。今にもそれが震え、ぱちりと開きそうな気さえする――彼女の頭を包む、濃紺のヘッドギアさえなければ。
ナーヴギアのインジケータLEDが三つ、青く輝いている。ときおり星のように瞬くのは、正常な通信が行われている証だ。今この瞬間にも、彼女の魂はどこかの世界に囚われている。俺を呼んでいる。
俺は、両手でそっと彼女のちいさな手を包み込む。かすかな温もりを感じる。かつて、俺とかたく手を繋ぎ、俺の体に触れ、背中に回された手。息が詰まる。溢れそうな涙を必死にこらえ、そっと呼びかける。
「アスナ……」
ベッドサイドに置かれた時計が、かすかな電子音で俺の意識を呼び起こした。視線を向けると、すでに正午になっている。
「そろそろ帰るよ、アスナ。またすぐ来るから……」
小さく話しかけ、立ち上がろうとした時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、二人の男が病室に入ってきたところだった。
「おお、来ていたのか桐ヶ谷君。たびたびすまんな」
前に立つ恰幅のいい初老の男が、顔をほころばせて言った。仕立てのいいブラウンのスリーピースを着込み、体格の割りに引き締まった顔はいかにもやり手といった精力に満ちている。唯一、オールバックにまとめたシルバーグレーの髪だけが、この二年間の心労を伺わせる。
彼がアスナの父親、結城彰三(ゆうき しょうぞう)だ。アスナからは、父親は実業家、とちらりと聞いたことがあったが、実際には一流電機メーカー『レクト』の社長であると知ったときはさすがに仰天した。
俺はひょいと頭を下げ、口を開いた。
「こんにちは、お邪魔してます、結城さん」
「いやいや、いつでも来てもらって構わんよ。この子も喜ぶ」
結城はアスナの枕許に近寄ると、そっと髪を撫でた。しばし沈思する様子だったが、やがて顔を上げ、背後に立つもう一人の男を俺に示す。
「彼とは初めてだな。うちの開発部で主任をしている須郷君だ」
人の良さそうな男だな、というのが第一印象だった。長身をダークグレーのスーツに包み、やや面長の顔に黒縁の眼鏡が乗っている。レンズの奥の目は糸のように細く、まるで常に笑っているかのようだ。かなり若い、二十代半ばだろうか。
俺に右手を差し出しながら、須郷(すごう)という男は言った。
「よろしく、須郷伸之です。――そうか、君があの英雄キリト君か」
「……桐ヶ谷和人です。よろしく」
須郷の手を握りながら、俺は結城をちらりと見た。すると結城は顎を撫でながら笑った。
「いや、すまん。SAO内部のことは口外禁止だったな。あまりにもドラマティックな話なのでつい喋ってしまった。彼は、私の腹心の息子でね。昔から家族同然の付き合いなんだ」
「ああ、社長、その事なんですが――」
手を離した須郷は、結城に向き直った。
「来月にでも、正式にお話を決めさせて頂きたいと思います」
「――そうか。しかし、君はいいのかね? まだ若いんだ、新しい人生だって……」
「僕の心は昔から決まっています。明日奈さんが――今の美しい姿でいる間に……ドレスを着せてあげたいのです」
「……そうだな。そろそろ覚悟を決める時期かもしれないな……」
話の流れが見えず俺が沈黙していると、結城がこちらを見た。
「では、私は失礼させてもらうよ。桐ヶ谷君、また会おう」
一つ頷いて結城は大柄な体を翻し、ドアへと向かった。二度の開閉音。後には、俺と須郷という男だけが残された。
須郷はゆっくりと歩くと、ベッドの向こう側に立った。左手でアスナの髪をひと房つまみ上げ、音を立ててこすりあわせる。その仕草に、俺はかすかな嫌悪を覚える。
「……君はあのゲームの中で、明日奈と暮らしてたんだって?」
顔を伏せたまま、須郷が言った。
「……ええ」
「それなら、僕と君はやや複雑な関係ということになるかな」
顔を上げた須郷と目が合う。その瞬間、俺はこの男の第一印象が大きく間違っていたことを悟る。
細い目から、やや小さい瞳孔が三白眼気味に覗き、口の両端をきゅっと吊り上げて笑うその表情は、酷薄という言葉以外に表現する手段を持たない。背筋にわずかな戦慄が疾る。
「さっきの話はねぇ……」
須郷は愉快でたまらないというふうにニヤニヤと笑いながら言った。
「僕と明日奈が結婚するという話だよ」
俺は絶句した。この男は一体何を言っているのか。須郷の台詞の意味が、凍るような冷気となってゆっくりと俺の体にまとわりつく。数秒間の沈黙の後、どうにか言葉を絞りだした。
「そんなこと……出来るわけが……」
「確かに法的な入籍はできないがね。書類上は僕が結城家の養子に入ることになる。まあどうでもいいのさ、『レクト』の後継者のキップさえ手に入ればね」
「……そのために、アスナを利用する気なのか」
「この娘は、昔から僕のことを嫌っていてね」
須郷は左手の人差し指をアスナの頬に這わせた。
「親たちはそれを知らないが、いざ結婚となれば拒絶される可能性も高いと思っていた。だからね、この状況は僕にとって非常に都合がいい。当分眠っていてほしいね」
須郷の指がアスナの唇に近づいていく。
「やめろ!!」
俺は無意識のうちに、その手を掴み、アスナから引き離していた。
須郷は再びニイッと笑うと俺の手を振り払い、言った。
「ねえ桐ヶ谷君。アーガスがその後どうなったか知っているかい?」
「……解散したと聞いた」
「うん。莫大な補償金を請求されてね、会社は消滅。SAOサーバの維持を委託されたのがレクトのPCソリューション部門さ。具体的に言えば、僕の部署だよ」
須郷はゆっくり歩いてベッドを回り込むと、俺の正面に立った。デモニッシュな微笑を貼り付けたままの顔をぐいと突き出してくる。
「――つまり、明日奈の生殺与奪は僕の手中ということさ。君がゲームの中でこの娘と何を約束したか知らんがね、いいか、余計な真似はするなよ。今後ここには一切来るな。結城との接触も許さん」
一瞬、常に須郷が浮かべていた笑いが消えた。俺は拳を握り締めた。凍結した数秒間が経過した。
やがて須郷は体を離すと、哄笑をこらえるように片頬を震わせながら言った。
「式は来月この病室で行う。君も呼んでやるよ。それじゃあな、せいぜい最後の別れを惜しんでくれ、英雄くん」
剣が欲しい、と痛切に思った。心臓を貫き、首を斬り飛ばしてやりたい。俺の衝動を知ってか知らずか、須郷は俺の肩をぽんと叩くと身を翻し、そのまま病室を出て行った。
どうやって家まで帰ってきたのか、一切記憶がなかった。気づくと俺は自室のベッドに腰掛け、ぼんやりと壁を見つめていた。
『レクトの後継者のキップさえ……』
『明日奈の生殺与奪は僕の手に……』
脳裏に、須郷の台詞が何度も何度もフラッシュバックする。そのたびに白熱した金属のような憤激が俺を貫く。
だが――。あるいはそれも俺のエゴにすぎないのだろうか。
須郷は昔から結城家にごく近しい人間であり、事実上のアスナの婚約者でもあったわけだ。結城彰三の信頼も篤く、レクトで責任ある立場についてもいる。アスナがあの男のものになるのは遥か昔からの規定の事実であり、それに比べて俺は単なる――ゲーム内だけでの知り合いというに過ぎない。この憤り、アスナをあの男に渡したくないという怒りは、矮小な子供の我が侭なのか――。
俺たちにとっては、あの世界、アインクラッドだけが真実の世界だった。そう信じていた。あそこで交わした言葉、約束、すべてが宝石のように光り輝いていた。
だが――現実という名の粗い研石が俺を磨耗させていく。記憶をくすませていく。
『わたし、一生キリトくんの隣にいたい――』
アスナの言葉が、笑顔が遠ざかる――。
「ごめん……ごめんアスナ……俺……なんにもできないよ……」
今度こそ堪えきれなかった涙が、ぽた、ぽたと握った拳の上に落ちた。
「お兄ちゃん、お風呂空いたよ~」
直葉は、二階の和人の部屋の前で呼びかけた。だがいらえは無い。
病院からは夕方に帰ってきたようだったが、その後は部屋に閉じこもり、夕食の時も降りてこなかった。
(寝ちゃったのかな……)
直葉はドアノブに手をかけ、しばし逡巡した。が、うたた寝してると風邪引いちゃうし、と心の中で呟いて、そっと手に力を込める。
かちゃ、というかすかな音とともにノブが回り、ドアがわずかに開いた。中は真っ暗だ。やはり寝ているのか、と思ったとき、部屋の中から凍えるような寒気が流れ出してきて、直葉は体をすくませた。
(やだ、窓開けっぱなし……。しょうがないなぁ)
そっと部屋の中に踏み込む。ドアを閉め、南がわのサッシに向かって一歩踏み出してから、てっきり寝ていると思った和人がベッドの端に腰掛けてうなだれているのに気づいて、ぎょっとして立ち止まった。
「お、お兄ちゃん……ごめん、寝てると思って……」
あわてて声をかける。しばしの沈黙のあと、和人がやけにしわがれ、掠れた声で言った。
「……悪い、ちょっと……一人にしておいてくれ……」
「で、でも……こんな寒い部屋で……」
直葉はそっと手を伸ばし、和人の二の腕に触れる。氷のように冷たい。
「やだ、冷え切ってるじゃない、風邪引いちゃうよ。お風呂、入らなきゃだめだよ」
そこまで言ってから、直葉は、窓から差し込むかすかな街明かりに照らされた和人の頬に、うっすらと光る筋が流れているのに気づいた。
「お、お兄ちゃん……どうしたの……?」
「……大丈夫だよ……明日になれば……」
その低い声も、どこか濡れている。
「……でも……」
和人は、ゆっくりと両手で顔を覆った。かすかな呟き声。
「駄目だな、俺は……。スグの前では……泣かないようにしようって……決めたのにな……」
「あの人に……アスナさんに……何か、あったの……?」
和人の体が震えた。絞り出すような嗚咽の声が、かすかに漏れた。
「アスナが……遠くに……行っちゃうんだ……俺の手の……届かないところに……」
それだけでは事情はわからなかった。しかし、背中を丸め、幼い子供のように涙を零す和人の姿に、直葉の心はどうしようもなく震えた。
窓を閉め、カーテンを引き、エアコンのスイッチを入れてから、直葉は和人のとなりにそっと腰掛けた。しばらくためらった後、両腕で冷え切った和人の体をぎゅっと包み込む。一瞬和人の体がこわばったが、すぐにふっと力が抜けた。
耳もとで囁きかける。
「ね、がんばろうよ……。好きになったひとのこと、最後まで、あきらめちゃだめだよ……」
一生懸命に探した言葉だが、自分の口から出たそれが心に届いた瞬間、直葉は張り裂けそうな痛みを感じた。
(そうだ――あたしも……)
これ以上、自分に嘘はつけない――と思った。
(あたしも、好きです……お兄ちゃん……和人、さん……)
直葉は、抱きかかえた和人の体を、そっとベッドの上に横たえた。毛布を引き上げ、その下でもういちど和人を抱きしめる。自分の体の熱で、凍えた体を温めようとするように。
そっと背中を撫でているうち、いつしか和人の嗚咽はかすかな寝息へと変わったようだった。目を閉じながら、直葉は心のなかで呟いた。
(でも――あたしは)
あきらめなきゃいけない。この気持ちは深い、深いところに埋めてしまわなければならない。なぜなら――
(お兄ちゃんの心は……あの人のものだから……)
涙がひと粒だけ直葉の頬を伝い、シーツに落ちて、消えていった。
甘く柔らかいぬくもりの中でゆらゆらとまどろむ。
目覚める直前の心地よい浮遊感。外周から森の梢を透かして差し込む陽光が、穏やかに頬を撫でている。
俺は目を閉じたまま腕のなかの彼女をそっと抱き寄せる。唇の場所を探りながらゆっくり目蓋を開けていく――
「うわ!!」
俺は喉の奥で叫びながら、横になったまま五十センチほど飛びすさった。ばね仕掛けのように上体を起こし、周囲をぶんぶんと見回す。
22層の森の家――ではなかった。現実の俺の部屋、俺のベッド、だが俺のほかにもう一人。
唖然としながら毛布をそっと捲り上げる。すぐに戻し、頭をぶんぶん振って眠気を振り落としてから、もう一度捲る。青墨のように黒い、やや短い髪。パジャマ姿の直葉が、俺の枕に頭をうずめて熟睡している。
「ど……どういうことだこれは……」
俺は昨夜のことを必死に思い出そうとした。そうだ――ゆうべ、深い絶望にとらわれているとき、直葉と会話を交わしたような記憶がある。どうしても堪えきれず涙をこぼしてしまって、直葉が抱きしめてくれたのだ。どうやら俺はそのまま眠りに落ちてしまったらしい。
「こ、子供じゃあるまいし……」
しばし恥ずかしさに身悶えたあと、俺はあらためて直葉のあどけない寝顔を見つめた。それにしたって自分までここで寝ることはないだろうに……。
そういえば――。あの世界で、前にもこんなことがあった。40層あたりで知り合った、テイマーの女の子。直葉に似ている、と思った。あの時も俺のベッドで眠り込まれてしまい、対処に思い悩んだものだ。
俺はおもわず微笑んでいた。アスナのことはいまだに心の底に重くのしかかっているが、昨日の張り裂けるような痛みは夜の間に溶け落ちてしまったようだった。
あの世界――アインクラッドでの数々の思い出は、ぜんぶ俺にとって貴重な宝物だ。嬉しいことも、悲しいことも沢山あったが、その全てが真実の記憶だ。それを俺自身が貶めてはいけない。俺はアスナと約束したのだ。この世界で、もう一度出会うと。きっと俺にもまだ出来ることがある。
眠りに落ちる直前の、直葉の言葉が耳の奥によみがえった。
『あきらめちゃ、だめだよ……』
「ああ――そうだな……」
俺は身を乗り出し、直葉の頬を指先でつついた。
「おい、起きろよスグ。もう朝だぞ」
「うぅ~……」
不満げな喉声を漏らしながら毛布を引き上げようとする直葉の頬を、今度はむにーと引っ張る。
「起きろって。朝稽古の時間がなくなるぞ」
「う~ん……」
直葉はようやくうっすらと目を開けた。
「あ……おはよ、お兄ちゃん……」
もぐもぐと呟きながら、体を起こす。
しばらく俺の顔を眺めていたが、そのうちぐるぐると部屋を見回しはじめた。ぼんやりしていた目が、次第に大きく開いていく。ついで白い肌がみるみる赤く染まっていく。
「あっ、あのっ、あたしっ」
耳まで真っ赤になった直葉は口をぱくぱくさせながらしばし硬直していたが、やがて猛烈な勢いで跳ね起きると、がちゃばたん! という大音響とともにドアを開閉し、部屋を飛び出していった。
「やれやれ……」
頭をかきながら、俺も立ち上がった。カーテンを引きあけると、薄曇りの空からささやかな光が部屋に射し込んだ。
とりあえずシャワーを浴びようと思って着替えを用意していると、ぽーん、というアラーム音が耳に飛び込んだ。
デスクに目を向けると、卓上のパネルPCの上端でメール着信ランプが点滅している。俺は椅子に腰掛けると、PCのタッチセンサーに触れてサスペンド状態を解除した。
俺が留守にしている二年の間にパソコンの構造もずいぶん変わっていた。古きよき金属円盤式HDDは姿を消し、大容量不揮発RAMに取って代わられたため、無音で一瞬にしてデスクトップが表示される。キーボードのメーラー起動ボタンを押し、受信トレイに移動。リストの一番下に表示された名前は『エギル』だった。
アルゲードのなんでも屋店主兼斧使いのエギルとは、二十日ほど前に東京で再会した。その時にアドレスも交換しておいたのだが、メールが来たのは初めてだった。タイトルは『Look at this』となっている。開くと、本文は一文字も無かったが、かわりに写真が一枚添付されていた。
その写真を見て――俺は思わず立ち上がっていた。息を呑む。
不思議な構図だった。前景には、ぼやけた金色の格子が一面に並んでいる。その向こうに、白いテーブルと白い椅子。そこに座っている、同じく白いドレス姿の、一人の女性。こちらに横顔を向けているその少女は――
「アスナ……!?」
かなり引き伸ばしたものらしくドットが粗い。それでも、長い栗色の髪の少女は、間違いなく彼女だと思えた。テーブルの上で両手を組み合わせ、横顔は憂いに沈んでいる。よくよく見ると、背中からは透明な羽根状のものが伸びているように見える。
俺は卓上から携帯を掴み取ると、電話帳をスクロールするのももどかしく発信ボタンを押した。わずか数秒の呼び出し音が途方もなく長く感じる。プツ、という接続音のあと、野太いエギルの声が聴こえた。
「もしも――」
「おい、この写真はなんだ!!」
「……あのなあキリト、せめて名前くらい言え」
「そんな余裕ねえよ!! 早く教えろ!」
「……ちょっと長い話なんだ。店に来られるか?」
「すぐ行く。今行く」
俺は返事も聞かずブツリと電話を切ると、着替えを抱えて部屋を飛び出した。
エギルの店は台東区御徒町のごみごみした裏通りにある。煤けたような黒い木造で、そこが喫茶店であることを示すのは小さなドアの上に造り付けられた金属製の飾り看板だけだ。店名は『Dicey Cafe』。
カラン、という乾いたベルの音とともにドアを押し開けると、カウンターの向こうで禿頭の巨漢が顔を上げ、ニヤリと笑った。客は一人もいない。
「よぉ、来たか」
「……相変わらず不景気な店だな。よく二年も潰れずに残ってたもんだ」
「うるせえ、これでも夜は繁盛しているんだ」
まるであの世界に戻ったような、気安いやり取りを交わす。
エギルに連絡してみたのは、先月の末だった。総務省の役人から、思いつく限りの知り合いの本名と住所のリストを入手したのだ。クラインやニシダ、シリカにサーシャと、会ってみたいプレイヤーは多いが、彼らも今は現実世界との折り合いをつけるのに苦労しているだろうと思い接触は当分控えることにしている。最初にこの店を訪ねたときそう言うと、
「じゃあ俺はどうなるんだよ!?」
とエギルはわめいたものだ。お前がそんなデリケートなタマか、と言ってやった時の奴の情けない顔は思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。
エギルこと本名アンドリュー・ギルバート・ミルズが、現実世界でも店を経営していたと知ったときはなるほどと思った。人種的には生粋のアフリカン・アメリカンだが同時に親の代からの江戸っ子でもあるそうで、住み慣れた御徒町に喫茶店兼バーを開いたのが二十歳の時らしい。客にも恵まれ、美人の奥さんも貰って、さあこれからという時にSAOの虜囚となった。二年後に帰還したときは店のことは殆ど諦めていたそうだが、奥さんが単身奮戦して細腕でのれんを守り抜いたということだ。実にいい話だ。
実際、店の固定ファンも多いのだろう。木造の店内は、行き届いた手入れによってすべての調度が見事な艶をまとい、テーブル4つにカウンターだけの狭さもまた魅力と思える居心地のよさを漂わせている。
俺は革張りのスツールに腰を下ろすと、コーヒーをオーダーするのももどかしくエギルにくだんの写真のことを尋ねた。
「で、あれはどういうことなんだ」
店主は、カウンターの下に手をやり、長方形のパッケージを取り出すをそれを俺のほうに滑らせた。指先で受け止める。
「それ、知ってるか?」
「……ゲームソフト……?」
手の平サイズのパッケージの右上にあるハードのロゴには、『AmuSphere』とある。
「アミュスフィア? 知らないハードだな」
「出たのは去年だ。ナーヴギアの後継機だよそいつは」
「……」
俺は複雑な心境で、その二つのリングをかたどったロゴマークを見つめた。
あれだけの事件を起こし、悪魔の機械とまで言われたナーヴギアだが、パーソナル仮想エンタテイメントマシンを求める市場のニーズは誰にも押しとどめることはできなかった。SAO事件が落ち着くと同時に、各社から「こんどこそ安全」と銘打たれた後継機が発売され、俺があの世界にいた二年の間に従来のディスプレイ接続型ゲーム機とシェアを逆転するまでになっていた。SAOに似たバーチャルMMOも数多くリリースされ、全世界的な人気を博している。
それらの事情は一応理解していたが、俺自身はもう二度と同様のゲームに手を付ける気は無かったので、詳しいことを知ろうとはしなかった。
「じゃあ、これもVRMMOなのか」
俺はパッケージを手にとり、眺めた。描かれているイラストは、深い夜の森の中から見上げる巨大な満月だ。黄金の円盤を背景に、少年と少女が剣を携え飛翔している。格好はオーソドックスなファンタジー風の衣装だが、二人の背中からは大きな透明の羽根が伸びている。イラストの下部には、凝ったタイトルロゴ――『Alfheim Online』。
「アルヴヘイム・オンライン? ……アルヴヘイムって何だ?」
「妖精の国、っていう意味らしいな」
「妖精……。なんかほのぼのしてるな。まったり系のMMOなのか」
「それが、そうでもなさそうだぜ。ある意味えらいハードだ」
エギルは、俺の前に芳香を漂わせるカップを置くと、ニヤリと笑った。
「ハード? どんなふうに?」
「どスキル制。プレイヤースキル重視。PK推奨」
「ど……」
「レベルは一切ないらしいな。経験値はあるがそれでスキルを上昇させるだけで、どんなに稼いでもHPは大して上がらないそうだ。戦闘もプレイヤーの運動能力依存で、剣技のないSAOと言ったところかな」
「へえ……。PK推奨ってのは」
「プレイヤーはキャラメイクでいろんな妖精の種族を選ぶわけだが、違う種族間ならキル有りなんだとさ」
「そりゃ確かにハードだ。でも人気出ないだろ、そんなコアな仕様じゃ」
「そう思ったんだけどな、今大人気なんだと。理由は、『飛べる』からだそうだ」
「飛べる……?」
「妖精だから羽根がある。フライト・エンジンとやらを搭載してて、慣れるとコントローラ無しで自由に飛びまわれる」
俺は思わずヒュウ、と口笛を鳴らしていた。ナーヴギア発売直後から、飛行系のVRゲームは数多く出たが、その全てがゲーム内で何らかの装置を操って飛ぶタイプのものだった。プレイヤーが生身でそのまま飛行するゲームが出なかった理由は簡単で、現実の人間には羽根が無いからだ。
仮想世界内において、プレイヤーは現実の体と同じように動ける。それは裏を返せば、現実の人間に不可能なことは同じく不可能、ということでもある。背中に羽根をつけることはできても、それをどの筋肉で動かしていいのかわからないのだ。
SAO内では、末期には俺やアスナは超絶的なジャンプ力によって擬似的に飛ぶことも出来るようになっていたが、それはあくまでジャンプの延長線上であってやはり自由な飛行とは違う。
「飛べるってのは凄いな。羽根をどう制御するんだ」
「わからん。だが相当難しいらしい。初心者は、やはりスティック型のコントローラを片手で操るんだとさ」
「……」
俺は一瞬、挑戦してみたい、と思ってしまったが、すぐにその気持ちを打ち消すように熱いコーヒーをごくりと飲んだ。
「――まあこのゲームのことはだいたいわかった。本題に戻るが、あの写真は何なんだ」
エギルは再びカウンターの下から一枚の紙を取り出し、俺の前に置いた。プリンタ用の光沢フィルムだ。あの写真が印刷してある。
「どう思う」
エギルに聞かれ、俺はしばらくプリントを凝視してから言った。
「似ている……。アスナに……」
「やっぱりそう思うか。ゲーム内のスクリーンショットだから解像度が足りないんだけどな……」
「早く教えてくれ、これはどこなんだ」
「その中だよ。アルヴヘイム・オンラインの」
エギルは俺の手からパッケージを取ると、裏返して置いた。ゲームの内容や画面写真が細かく配置されている中央に、世界の俯瞰図と思えるイラストがある。円形の世界が、いくつもある種族の領土として放射状に分割され、その中央に一本の途方もなく巨大な樹がそびえている。
「世界樹、と言うんだとさ」
エギルの指が大樹のイラストをこつんと叩いた。
「プレイヤーの当面の目標は、この樹の上のほうにある城に他の種族に先駆けて到着することなんだそうだ」
「到達って、飛んでいけばいいじゃないか」
「なんでも滞空時間ってのがあって、無限には飛べないらしい。この樹の一番下の枝にもたどり着けない。でもどこにも馬鹿なことを考えるやつがいるもんで、体格順に五人が肩車して、多段ロケット方式で樹のてっぺんを目指した」
「ははは、なるほどな。馬鹿だが頭がいい」
「うむ。目論見は成功して、その樹上の城にかなり肉薄した。ぎりぎりで到着はできなかったそうだが、その五人目が木の枝に下がる大きな鳥かごを見つけて撮影した。それを引き伸ばしたのがあの写真だ」
「鳥かご……」
俺は、その言葉の持つ不吉なイメージに眉をしかめた。囚われの……というフレーズが頭をよぎる。
「だがこれは正規のゲームなんだろう……? なんでアスナが……」
俺はパッケージを取り上げ、もう一度眺めた。
長方形のトールケースの下部に視線を移す。メーカー名は――『レクト・プログレス』。
「おい、どうしたキリト?」
「いや……」
俺はあの男の言葉を思い出していた。
現在SAOサーバを管理しているのは自分だ、と須郷は言った。しかし管理と言ってもサーバ自体は相変わらずブラックボックスで、内部にまでは介入できていない――と俺は理解していたのだが。
奴にとっては、アスナがこのまま眠っていたほうが都合がいいことになる。アスナらしき少女が目撃されたVRMMO――その開発元がレクトの子会社――。偶然だろうか。
総務省の救出チームに連絡してみようか、と一瞬思った。だがすぐに思い直す。あまりにも漠然とした話に過ぎる。
俺は顔を上げ、巨漢のマスターを見やった。
「エギル――これ、貰っていっていいか」
「構わんが……行く気なのか」
「ああ、この目で確かめる」
エギルは一瞬気遣わしげな顔をした。その憂慮は俺にもわかる。まさかとは思いつつも、また何か起きるのではないか――という恐怖が足許からじわりと湧き上がってくる。
それを振り払うように、俺はにやりと笑って見せた。
「死んでもいいゲームなんてヌルすぎるぜ。……ゲーム機を買わなくちゃな」
「ナーヴギアで動くぜ。OSもCPUも一緒なんだ」
「そりゃあ助かる」
俺はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。ポケットからつかみ出したコインをカウンターにぱちりと置く。
「じゃあ、俺は帰るよ。ご馳走様、また情報があったら頼む」
「情報代はツケといてやる。――アスナを助け出せよ。そうしなきゃ俺達のあの事件は終わらねえ」
「ああ。いつかここでオフをやろう」
ごつんと拳を打ち付けあうと、俺は振り向いてドアを押し開け、店を後にした。
自分のベッドにうつ伏せに転がり、枕に顔をうずめた格好で、直葉は数分毎に足をばたばたさせては身悶えていた。
まだパジャマのままだ。今日は一月一六日水曜日、学校はすでに始まっているが、直葉の中学は三年の三学期は自由登校なので行っても剣道部に顔を出すくらいしかすることがない。
直葉は、何度目ともしれない記憶のプレイバックに突入した。
昨夜――凍えた和人をどうにかして暖めたくて、一緒の布団にくるまって
(ひゃ―――――)
全身を密着させて
(うわ―――――)
そのままコトンと寝入ってしまったのだ。横になると十秒で眠りに落ちてしまう即席体質が今日ばかりは恨めしい。
(あたしのばかばかばか……)
せめて和人より先に目を覚ませば、まだこっそり脱出することも可能だったのに、よりにもよって起こされてしまった。これはもう真剣に会わせる顔が無い。
恥ずかしさ、照れくささ、それに隠し切れない愛おしさの混じった感情がぐるぐると渦巻いて、息も出来ないほど胸がきゅーんと痛くなる。
とりあえず竹刀を振って頭をからっぽにしよう、と思い、直葉はようやく立ち上がった。気が引き締まるので稽古は道着でやるのが好きなのだが、一刻も早く庭に出たくて手っ取り早くジャージに着替え、部屋を出る。
和人は早い時間に出かけたようだったし、翠はいつも昼前には出勤するし、研介は年明けからアメリカに戻っているので、家には直葉一人きりだ。一階のダイニングテーブルに置いてある籠からチーズマフィンをひとつ取って行儀悪く口にくわえ、オレンジジュースのパックを片手に持って縁側に腰掛ける。
大きく一口齧り付いたところで――玄関方向から自転車を引きながら庭に入ってきた和人とばっちり目が合った。
「ふぐ!!」
マフィンのかけらが喉を転がり落ち、思わずむせる。咄嗟に右手のジュースを飲もうとして、まだストローを挿していないことに気付く。
「うぐ、うぐ~~!」
「おいおい」
駆け寄ってきた和人が、ジュースを奪い取って手早くストローを突き立て、直葉の口に突っ込んだ。必死に冷たい液体を吸い上げ、のどに詰まった塊ごとごくりと飲み込む。
「ぷはっ! し……死ぬかと思った……」
「そそっかしい奴だなぁ。もっと落ち着いて食え」
「うう~」
しょんぼりうな垂れる直葉。和人は隣に腰掛けると、靴紐を解き始めた。その様子を横目で見ながら、もう一口マフィンを齧ったとき、不意に和人が言った。
「そうだ、スグ、昨夜のことだけど……」
ふたたび咳き込みそうになって慌ててもう一口ジュースを飲む。
「う、うん」
「その、何ていうか……サンキューな」
「え……」
予想外のことを言われ、直葉はまじまじと和人を見つめた。
「スグのお陰で元気出たよ。俺、諦めない。絶対にアスナを助け出してみせる」
ずきん、という胸の痛みを押し隠して、直葉は微笑んだ。
「うん……がんばってね。あたしもアスナさんに会ってみたいもん」
「きっと仲良くなれるよ」
和人は直葉の頭をくしゃくしゃと撫でると立ち上がった。
「じゃ、また後でな」
言い残し、二階に上がっていく和人を見送りながら、直葉はマフィンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
(あたしも……がんばっていいのかな……)
庭に降り、池のそばでストレッチを開始する。体が暖まったところで竹刀を握り、素振りに移行する。
いつもなら思い切り竹刀を振っているうちに雑念は消えていくのだが、今日はいつまでたっても頭の中にぐるぐるするものが居座りつづけた。
(ほんとに、好きになってもいいのかな……)
昨夜、寄り添って横たわりながら、一度は諦めようと思った。和人の心の中にはあの人しかいない、それが痛いほどわかったから。
(でも――それでもいい)
二ヶ月前、病院からの連絡を受け、母親を待たずに駆けつけた直葉を見て、ベッドの上の和人は涙を滲ませながら笑った。手を差し伸べ、「スグ」、と呼んだ。あの時から――直葉の中にこの気持ちが生まれたのだ。いつでも近くにいたい。もっと話をしたい。無理やり押さえつけるなんて、できない。
そばで見ているだけでもいいんだ、そう自分に言い聞かせながら、直葉は宙に向かって三連撃を放った。動きを止め、ふと居間の時計に目をやると、いつのまにか正午を回ろうとしていた。
「あ、いけない……。約束あったんだ」
呟くと素振りを切り上げ、松の枝にかけておいたタオルで汗をぬぐった。顔を上げると、雲の切れ間からわずかに青空が顔を出しはじめていた。
部屋に戻ってきた俺は、ラフな格好に着替え、携帯を留守モードにすると、ベッドの上に座った。バックパックのジッパーを開け、エギルから入手したゲームパッケージを取り出す。
『アルヴヘイム・オンライン』――話を聞いた限りでは相当に歯ごたえのありそうな内容だ。僥倖なのはレベル制ではないということで、ステータスが足りずに自由に動けないという事態はあるていど避けられそうだ。
本来であれば、MMORPGに手をつけるなら事前にネットや雑誌で情報収集をするべきなのだろうが、俺はとても悠長にそんなことをしている気にならず、パッケージを開封してディスクを取り出した。ベッドの足元に置いてあるナーヴギア本体の電源を入れ、スロットに挿入する。数秒でREADYランプが点灯する。
俺はベッドに横たわると、両手でヘッドギアを目の前に持ち上げた。
かつて濃紺に輝いていたその機械は、いまや塗装があちこちで剥げ落ち、傷ついている。これは俺を二年間捕縛した枷であり、同時に故障一つせずに動きつづけた戦友でもある。
もう一度、俺に力を貸してくれ――。
心のなかで呟き、俺はナーヴギアを頭に装着した。あごの下でハーネスをロックし、シールドを降ろして目を閉じる。
不安と興奮で速まる心臓のビートを抑えつけながら、俺は言った。
「リンク・スタート!」
目の前に虹色の光が弾けた。複雑な和音を組み合わせた起動音とともにナーヴギアのロゴマークが眼前に浮かび上がり、消滅する。ついで各種接続状況のリストアップが開始され、OKマークがフラッシュすると同時に俺の肉体感覚が消滅していく。最後に現れたLOADINGの表示がSTARTに変わり、次の瞬間、俺は新たな世界へと降り立っていた。
――と言ってもそこはまだ、暗闇に包まれたプレイヤー情報登録ステージだ。目の前にアルヴヘイム・オンラインのロゴが出現し、同時に柔らかい女性の声でウェルカムメッセージが響き渡る。
俺は合成音声の案内に従って、キャラクターの作成を開始した。目の前に青白く光るホロキーボードが出現し、まずIDとパスワードの入力を求められる。SAOの時にも使った、長年愛用し、指が記憶しているワードの羅列を打ち込む。
次いでキャラクターネームの入力。何も考えず『キリト』と入力しようとして、一瞬ためらった。
俺、桐ヶ谷和人がSAO世界でキリトと名乗っていたことを知る人間はごく少ない。総務省の救出チームと、チームに密接な関係のあるレクト社長・結城彰三、あの須郷と言う男にエギル、それにもちろんアスナ――。多分それだけだ。直葉や両親も知らないはずだ。
SAO世界でのこと、特にキャラクターネームに関しては、厳しい情報統制が敷かれている。なぜなら、SAO内ではプレイヤー同士の戦闘が頻繁に発生し、その結果現実世界で恐ろしい数の人間が死亡しているからだ。誰が誰を殺した、という話が無制限に流布すれば、おびただしい訴訟が起きることは想像に難くない。
現在、刑法的にはSAO事件で発生した殺人の咎はすべて行方不明の茅場晶彦一人に負わされている。民事訴訟はすべて今は無きアーガスを相手取って起こされ、その結果アーガスは解散してしまったのだが、今後プレイヤー間レベルでの訴訟が続発する事態は避けたい、というのが国の意向らしい。
須郷に知られているのがやや不安ではあるが、それほど目立つ名前でもないし、俺は逡巡を押し切ってキリト、と入力した。SAOと同じく性別は自動で男性が選択されている。
次に、合成ボイスはキャラクターの作成を促した。と言っても初期段階では種族の選択があるだけらしい。容姿は無数のパラメータからランダム生成され、キャンセル不可と説明される。どうしてもやり直したい場合はクライアントから購入しなおすしかないようだ。まあこの際どんな面相になろうともさして問題はない。
プレイヤーの分身たるキャラクターは、いわゆる妖精をモチーフにした九種族から選択できるようだった。それぞれに多少の得手不得手があると説明される。サラマンダー、シルフ、ノームと言ったRPGでお馴染みの名前から、ケットシー、レプラコーンとあまり聞き覚えのないものもある。
俺としては真剣にゲームを攻略する気はないのでどれでもよかったのだが、黒を基調とした初期装備が気に入ったので『スプリガン』なる種族を選択し、OKボタンにタッチする。
すべての初期設定が終了し、幸運を祈ります、という人工音声に送られて、俺は再び光の渦に包まれた。説明だと、それぞれの種族のホームタウンからゲームがスタートするらしい。床の感触が消え、浮遊感、次いで落下感覚が俺を襲う。光の中から、徐々に世界が姿をあらわす。夜闇に包まれた小さな町――その上空に俺は出現する。町の中央にある城へとぐんぐん近づいていく――。
そのとき。
いきなり全ての映像がフリーズした。あちこちでポリゴンが欠け、雷光のノイズが視界のそこかしこを這い回る。モザイク状に全オブジェクトの解像度が減少し、世界が溶け崩れていく。
「な――なんだ!?」
わめく暇もあればこそ――。俺は再び猛烈な落下状態に陥った。途方も無く広い暗闇の中を、果てしなく落ちつづけていく。
「どうなってるんだぁぁぁぁぁ」
俺の悲鳴が、むなしく虚無の空間に吸収され、消えていった。
(第一章 終)
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第二章 『妖精境の剣士』
中天にかかる巨大な月が、深い森を水底のように青く染め上げている。
アルヴヘイムの夜は長い。まだ曙光が射すまでにはずいぶん間がある。普段なら不気味なだけの深夜の森だが、撤退行動中の今はこの暗さがありがたい。
リーファはひときわ大きな樹の陰から、はるか高みの星空を見上げた。今のところ、天空を往く不吉な黒い影は見えない。押し殺した声で傍らのパーティーメンバーに言う。
「羽根が回復したらすぐに飛ぶからね。準備してて」
「ええー……僕、まだ目眩が……」
情けない声で相棒が答える。
「また酔ってるのぉ? 情けないなぁ……いいかげん慣れなさいよレコン」
「そんな事言ったって怖いものは怖いよ……」
リーファはやれやれという心境でため息をついた。
大樹の根元にしゃがみこむレコンという少年プレイヤーは、リーファとは現実世界でも友人で、ALOを始めたのも同時期である。つまりリーファと同じく約一年のキャリアがあるはずなのだが、いつまで経っても飛行酔いが克服できない。空中戦闘能力が強さの全てと言っていいALOで、一度や二度の乱戦でへばっているようでは正直頼りない。
とは言え、リーファはレコンのそんな所が嫌いではない。強いて言えば放っておけない弟、みたいなものだろうか。外見もそんなキャラクターを裏切らず、背の低い華奢な体に黄緑色のおかっぱ風の髪、長い耳も下方向に下がり、顔は泣き出す寸前で固定されたような作りだ。ランダム生成されたにしてはあまりにも現実の彼を彷彿とさせるその姿を、ゲームにジョインした直後に初めて見たときは大笑いしてしまったものだ。
もっともレコンに言わせればリーファの姿も現実の彼女にかなり似ているらしい。シルフ種族の少女にしては少しばかり骨太の体に、眉も目もきりっとした作り。
せめて仮想世界では「たおやか」といった表現の似合う姿を期待していたのだが、まあ客観的に見れば可愛い、と言っていい容姿ではある。それはこの世界ではかなりの幸運に恵まれないと得られないものであるし――満足できる姿を手に入れるまでゲームパッケージを二桁個ムダにした者もザラにいる――リーファとしては決して不満があるわけではない。
付け加えれば、ALO内での容姿はキャラクターの性能には一切影響しないので、レコンがすぐに目を回すのは純粋に彼の平衡感覚の頼りなさによるものだ。
リーファは手を伸ばすと、レコンの装備したブレストアーマーの襟首を掴み、強引に立たせた。背中の透明な四枚の翅を覗き込むと、飛行力が回復した証として薄緑の燐光に包まれている。
「よし、もう飛べるね。次の飛行で森を抜けるよ」
「え~~……きっと追手はもう撒いたよ~。もう少し休もうよ」
「甘い!! サラマンダーどもの中に索敵スキルの高い奴が一人いたから、下手するともう見付かってるよ。二人じゃ次の空中交錯(エアレイド)には耐えられない。根性でテリトリーまで飛ぶのよ!!」
「ふわーい……」
レコンは情けない返事をすると、左手で宙を握る仕草をした。その手の中に、半透明のスティック状のオブジェクトが出現する。短い棒の先端に小さな球がくっついたそれは、ALOで飛行するときに使用する補助コントローラだ。レコンが軽く手前にスティックを引くと、四枚の翅がふわりと伸び、わずかに輝きを増す。
それを確認して、リーファも自分の翅を広げ、二、三度震わせた。こちらはコントローラを使用しない。ALO内での一流戦士の証、高等技術の意思飛行をマスターしているためその必要がないのだ。
「じゃ、行くよ!!」
低い声で叫ぶと、リーファは一気に地を蹴って飛び立った。背中の翅をいっぱいに伸ばして、梢の向こうに見える満月目指して急上昇する。風が頬を叩き、長いポニーテールを揺らす。
数秒で森を突き抜け、リーファは樹海の上空に飛び出した。視界いっぱいに広大なアルヴヘイムの風景が広がる。途方も無い開放感。
「ああ……」
両手を広げ、はるかな高みを目指して上昇しながら、リーファは法悦のため息を漏らした。この瞬間、この感覚だけは何ものにも替えがたい。泣きたいほどの高揚。はるか古代から、人間は空行く鳥に憧れつづけた。そしてとうとう手に入れたのだ――己自身の翼を、この幻想の世界で。
システム的に課せられた滞空制限が恨めしい。心ゆくまで、どこまでも高く遠く飛びつづけられるなら、何を犠牲にしても惜しくない。
もっとも、それはアルヴヘイムで戦う全てのプレイヤーの望みなのだ。他種族に先駆け世界樹の上にあるという伝説の空中都市に到着し、真なる妖精アルフに生まれ変わる――そうなれば、滞空制限は一切解除され、名実ともにこの無限の空の支配者となれるという。
リーファは、自分のステータスの強化にも、レアアイテムの入手にも興味がない。この世界で戦い続ける理由はただ一つ――。
今はまだ届かない金色の月目指して、リーファは一回大きく羽根をふるわせた。零れ落ちた光の粒が、彗星のような緑色の尾となって夜空に流れた。
「り、リーファちゃん~~、待って~~」
――という弱々しい声が下方から響いてきて、リーファの意識を現実に引き戻した。上昇を停止して見下ろすと、コントローラを握ったレコンが必死にあとを追ってくる。補助システムを使用した飛翔は速度の上限が低いため、リーファが本気で飛ぶとレコンは追随できない。
「ほらもうちょっと、がんばれがんばれ!!」
翅を広げてホバリングしながらレコンに両手で手招きする。顔を上げて周囲を見渡し、広大な樹海のかなた、夜闇の中に一際黒くそびえ立つ世界樹を見つけるとそこを起点にシルフの領土がある方向を見定める。
レコンがようやく同じ高度まで追いついてきたのを確認し、今度は速度を合わせ宙を滑るように飛び始めた。
隣に並んだレコンが、顔を強張らせながら言った。
「ちょ、ちょっと高度取りすぎじゃない?」
「高いほうが気持ちいいじゃない。翅が疲れてもいっぱいグライドできるしさ」
「リーファちゃんは飛ぶと人格変わるしなぁ……」
「なんか言った?」
「う、ううん、なんでも」
軽口を叩きながら、アルヴヘイム西域にあるシルフ領目指して巡航していく。
今日は、レコンを含む気心の知れた仲間四人と待ち合わせ、シルフ領の南西、中立域の中級ダンジョンで狩りをした。幸い他のパーティーと鉢合わせることもなく充実した冒険を行い、たっぷりとお金とアイテムを稼いでさて帰ろうというところで、サラマンダーの八人パーティーに待ち伏せされてしまったのだ。
異種族同士なら戦闘可能なALOではあるが、あからさまに追い剥ぎめいたことをするプレイヤーはむしろ少数派と言っていい。特に今日の冒険は、現実時間では平日の午後ということもあって、そう大人数の襲撃部隊は現れないだろうと予想していたのだが、見事にその油断を突かれてしまった。
逃亡しながらの二度のエアレイドで敵味方とも三人ずつを減らし、もともと人数の少なかったリーファたちはとうとう二人を残すのみになってしまったが、飛行速度でサラマンダーに優るアドバンテージを活かしてどうにか追撃を振り切り、あと少しでシルフ領に到達できるというところまで来た。二度の戦闘で酔ったレコンの回復に時間を取られてしまったが、この調子ならどうにかテリトリーに逃げ込めそうだ――と思いながら、リーファが何気なく背後の森を振り返ったとき――。
鬱蒼と立ち並ぶ巨木の下で、オレンジ色の閃光がちかりと瞬いた。
「レコン!! 回避!!」
リーファは咄嗟に叫び、左下方に急速旋回した。直後、木の葉の隙間を貫いて、地上から三本の火線が猛烈な勢いで伸び上がってきた。
高度を取っていたことが幸いし、長く尾を引く熱線はぎりぎりのタイミングで直前に二人が飛行していた空間を焼き焦がしながら夜空へと消えていった。
だが胸を撫で下ろす暇はない。攻撃魔法が放たれた辺りの樹海から、五つの赤い影が飛び出し、急速にリーファたち目掛けて上昇してくる。
「もー、しつこいなあ!!」
リーファは毒づくと、北西の方角に目を凝らした。シルフ領の中央に立つ巨大な『風の塔』の灯りはまだ見えない。
「仕方ない、戦闘準備!!」
叫び、腰からゆるく湾曲した長刀を引き抜く。
「うえー、もうヤダよ」
泣き言をこぼしながらレコンもダガーを抜刀し、構える。
「向こうは五人、負けてもしょうがないけど簡単に諦めたら承知しないからね! あたしがなるべき引き付けるから、どうにか一人は落として」
「善処します……」
「たまにはイイトコ見せてね」
レコンの肩をちょんと突付くと、リーファは顔を引き締め、ダイブの姿勢を取った。体をくるりと丸め、一回転して弾みをつけると、羽根を鋭角に畳んで猛烈な勢いで急降下。くさび型のフォーメーションを組むサラマンダーたち目掛けて無謀とも言える突進を敢行する。
ALO初期からの古参プレイヤーで、経験も装備も充実しているリーファたちのパーティーがみじめに敗走する羽目になったのは、敵の人数もさることながら最近サラマンダー達が編み出したフォーメーション戦法のせいと言っていい。機動性を犠牲にして、赤いヘビーアーマーにぎっちり身を固め、逆にその重量を活かせるランスによる突進攻撃を繰り返すのだ。水平に何本も並んだ長大な槍が、猛烈な勢いで襲い掛かってくる重圧はすさまじく、シルフの利点である軽快性を発揮できる乱戦に持ち込むのが難しい。
だがリーファは、今日の二度の戦闘で、敵の攻撃方法の弱点をなんとなく察していた。持ち前のクソ度胸を発揮して、敵集団の先頭の一人に狙いを定め臆することなくダイブしていく。あっという間に距離が詰まる。敵が構える銀色のランス、その鋭い先端に全神経を集中する。
キィィィという甲高いシルフの突進音と、ギュアアアという鈍い金属質なサラマンダーのそれが奏でる不協和音がみるみる高まり、とうとう二者が交差した瞬間、大気を揺るがす爆発音となって轟いた。
リーファは歯を食いしばり、視線をそらすことなく必殺の威力を秘めたランスの穂先を首を捻るだけの動作で回避した。頬を掠めた先端が燃えるような熱さをそこに残すが無視する。直後、両手で大上段に構えた長刀を敵の赤いヘルメット目掛けて
「セイィィィィ」
叩き込む。
「ラァァァァァ!!」
分厚いバイザーに開いた覗き穴の奥で、恐怖に見開かれる眼と一瞬視線が交錯する――がそれを意識する間もなく、黄緑色のエフェクトフラッシュが炸裂し、すさまじい手応えとともに敵の巨体が吹き飛んだ。
悲鳴を上げながら錐揉み状態で落下していく敵のHPバーは、重装甲のせいで半分も減っていないが、頭部にあれだけの衝撃を受ければしばらく戦列には復帰できないだろう。リーファは即座に意識を切り替える。
(――ここだ!!)
敵の重突進戦法の弱点は、交錯後の切り替えしに時間がかかることだ。残り四人のサラマンダーとすれ違った瞬間、リーファは体を捻り、羽根を一杯に広げて強引な左ターンを行った。
恐ろしい横Gに全身が軋む。それに耐えながら、少しでもクイックに旋回するために右の羽根で推進、左の羽根で制動という無茶な動作を行い、視界の端に同じく左旋回中の敵戦列を捉える。
重武装のサラマンダーは、リーファの狙いを悟っても旋回半径を縮めることができない。その横腹めがけ、ターンを完了したリーファの剣が襲い掛かった。
左端の敵に、リーファの胴薙ぎが見事にヒット。フォーメーションが乱れる。
(このまま乱戦に持ち込んでやる!!)
五人の敵のうち、意思飛行を行っていたのは先程落としたリーダーだけで、残りは全員コントローラ使用だ。混戦時のクイックさはリーファは大きく上回る。
ちらりとレコンの姿を探すと、右端のサラマンダーと熱戦を繰り広げていた。普段は頼りないが彼もベテランプレイヤーの端くれだ。近接戦に持ち込みさえすればダガー使いの本領を発揮する。
リーファも狙った敵の背後にぴたりと張り付き、的確なダメージを与え続けた。いけるかもしれない、とちらりと考える。唯一の不安は先刻の火焔魔法攻撃で、あれは五人の中に少なくとも一人メイジがいることを意味する。武装は全員が同じ金属鎧なので補助的に魔道スキルを選択している魔法戦士だろうが、サラマンダーの操る火焔魔法は低級のものでも侮れない威力を持っている。
フォーメーションの常識として、メイジは左右どちらかの端だろうとリーファは予想していた。つまり、今相手にしている敵か、もしくはレコンが張り付いてちくちくと嫌味な攻撃をしている奴だ。この距離ならスペル攻撃を行う余裕はない。この二人を落とせば、あとは五分の勝負だ。
「ウラァァァァ!!」
リーファは気合とともに再び得意の両手上段斬りを放った。見事に敵の肩口にヒットし、HPバーがぐいっと動いて消滅した。
「畜生!!」
敵が毒づいた直後、その体が深紅の炎に包まれた。ごおっという効果音と共に火焔の雫が飛散し、あとには小さな赤い炎が残される。この火が消えないうちに蘇生魔法なりアイテムを使用すればこの場で復活できるが、約一分が経過してしまうと彼は己のテリトリーに転送されてしまい、そこで蘇生することになる。
リーファは倒した敵のことをすぐに脳裏から振り払い、新たな敵へと目標を定めた。残り三人はまだ長大なランスの扱いに不慣れらしく、接近戦での動きが鈍い。無理な突撃を交互に繰り返してくるが、速度の乗らない突き攻撃など、武器の見切りの達人であるリーファには通用しない。
再び視線を動かすと、レコンも今まさに止めを刺そうというところだった。彼のHPバーもそれなりに減少しているが、回復魔法が必要なほどではない。五対二の圧倒的に不利なエアレイドだったが、これなら勝てる――そう確信し、リーファが長刀を振りかぶった、その時。
下方向から立て続けに伸び上がった炎の渦が、レコンの体を捉えた。
「うわああ!!」
悲鳴を上げてレコンが空中で停止する。
「バカ、止まるな!!」
リーファの叫びが届く前に、瀕死のサラマンダーのランスがレコンの体を貫いた。
「ごめえええええん」
断末魔と謝罪を同時にこなしたレコンが、緑色の光に包まれた。直後、その体が消滅し、先程と同じように小さな残り火が漂う。
すぐに蘇生するとわかっていても、やはり仲間が倒れるのは嫌なものだ。リーファは奥歯を噛み締めるが、感傷に浸っている余裕はない。再び地上から殺到する火焔攻撃を、連続ターンで必死に避ける。
(メイジは先頭の奴だったのか――!!)
そうとわかっていれば、落下するのを追って止めをさしたものを。だが今更悔やんでも遅い。状況は絶対的に不利だ。
しかし、諦めるつもりはない。最後の最後まで醜くあがいて執拗に逆転の一本を狙う、それが長い年月で培ったリーファの美学でありリアリズムである。
スペルの援護で態勢を立て直した二人のサラマンダーが、遠距離からの突撃を開始した。
「来い!!」
叫んで、リーファも上段に長刀を構えた。
「フムグ!!」
途方もなく長い落下の末、情けない悲鳴を発しながら俺はどことも知れぬ場所に着陸した。前記のような声が出たのは、最初に地面に接したのが足ではなく顔面だったからだ。深い草むらに――石畳でなくて本当によかった――顔を突っ込んだ姿勢で数秒間静止したあと、ゆっくりと背中から仰向けに倒れる。
ともかく自由落下が終了した安堵感で、俺はしばらくそのまま寝転がり続けた。
夜だ。深い森の中。樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が、俺の周囲に天を突く勢いで伸び、四方に枝葉を広げている。その向こうに見えるのは星屑を散りばめた黒い空、そして真上に輝く巨大な金色の円盤。
虫の声がする。それに被せて夜鳥が低く歌っている。かすかに響く獣の遠吠え。鼻腔をくすぐる植物の香り。肌を撫でていく微風。すべてが恐ろしく鮮やかに俺の五感を包み込んでいる。現実以上の現実感――まごうことなき仮想世界の手触りだ。
「また……来ちまったなぁ……」
俺は目を閉じてひとりごちた。あの世界から解き放たれて二ヶ月、一度はもう決して訪れることはあるまいとすら思ったダイレクトVRワールドに、再びこうして横たわっている。性懲りもなく――、という言葉が脳裏をよぎり、思わず苦笑する。
だが、あの世界とひとつだけ異なるのは、いつでもここから出られるという保証があることだ……と、そこまで考えたところで、俺は不意にギクリとした。
先程のオブジェクト表示異常、謎の空間移動、あれは何だったのか。そもそも俺はなぜこんな所にいるのか。開始地点は種族のホームタウンだとナビゲータが言っていたではないか。ここはどう見ても街中ではない。
「おい、まさか……まさかねえ……」
俺は片頬を引き攣らせながら、左手を上げ、人差し指を振った。が、何も起こらない。冷や汗をかきながら何度か試したところで、先程聞き流したチュートリアルでメニューの呼び出しは右手、飛行コントローラが左手と教えられたことを思い出す。
右手の指を振ると、今度は軽快な効果音とともに半透明のメインメニューウインドウが開いた。デザインはSAOのものとほとんど同一だ。右に並ぶメニューを食い入るように見つめる。
「あ、あった……」
一番下に、『Log Out』と表示されたボタンが光っていた。ためしに押してみると、「フィールドでは即時ログアウトはできませんが云々」という警告メッセージとともにイエス/ノーボタンが現れる。
ひとまず俺は安堵のため息をついた。片手をつき、上体を起こす。
改めて周囲を見渡すと、どうやら広大な森の奥深くにいるようだった。巨木の連なりが無限に続くばかりで、灯り一つ見えない。なぜこんな所にいるのか見当もつかない。とりあえずマップを開いてみようと、再びウインドウに目を落とす。ボタンに指を伸ばしかけ――俺はあることに気付き、ぴたりと動きを止めた。
ウインドウ最上部には、キリトというお馴染みの名前とスプリガンなる種族名の表示。その下にヒットポイント、マナポイントというステータス数値がある。それぞれ400、80といういかにも初期値然とした数字だ。
俺が目を止めたのは、さらにその下にあるスキルアップポイントという表示だった。これがいわゆる経験値なのだろう。ゲームを始めたばかりの俺は当然ゼロ――であるはずなのだが。
「ええと……いち、じゅう……」
俺は指でゆっくりとケタを数えた。そこには七つの数字が並んでいた。
「二三九万……三千四百二十一……」
呆然と呟く。初期ボーナス値、という可能性もなくはないがそれにしたって膨大すぎる上にキリが悪すぎる。
これはどう考えてもデータがバグっている。こんな所に飛ばされてしまったことといい、システムが不安定なのだろうか。
「大丈夫なのかよこのゲーム……。GMコールってあるのかな……」
呆れつつ再びコマンド群を辿ろうとして、俺はふとなにか記憶にひっかかるものを感じた。スキルアップポイントの数値に目を戻す。なんだか見覚えがあるような気がする。二……三……九……。
不意に電撃のような天啓に打たれ、俺は飛び起きた。
見覚えがあるはずだ。これは俺があの世界で二年かけて稼いだ経験値、そのトータルの数字そのままだ。間違いない、アインクラッドとともに消滅したはずの剣士キリトの最終的ステータス――それが今目の前に表示されている。
俺は激しく混乱した。ありえない事が起きている、としか思えない。別の会社が開発した、別のゲームなのだ。セーブデータが勝手に移動したとでも言うのか。それとも――ここは――
「SAOの中なのか……?」
立ち尽くした俺の唇からうつろな声が漏れた。
たっぷり数十秒は続いた意識の空白からようやく回復した俺は、頭をぶんぶんと振ってからふたたびウインドウに目を戻した。
何が何だかわからないが、とりあえず他の情報がないか探ってみることにして、アイテム欄を開いてみる。
「うわ……」
そこに現れたのは、膨大な数の文字化けした表示の羅列だった。謎の漢字、数字、アルファベットが入り混じり、何がなにやら見当がつかない。
多分、これは俺がアインクラッドで所持していたアイテム群の残滓なのだろう。やはり何らかの原因で旧キリトのデータがこの世界に存在するのだ。
「あっ……待てよ……」
俺は突然、ある可能性に思い至った。
アイテムが残っているなら――あれもあるはずだ。アイテム欄を食い入るように見つめ、指先で画面をスクロールしていく。
「頼む……あってくれ……頼むよ……」
意味をなさない文字列の奔流が眼前を流れていく。心臓が早鐘のように鳴り響く。
「……」
俺の指が無意識のうちにぴたりと止まった。その下に、暖かなライムグリーンに発光するアルファベットの並び。『MHCP001X.zip』。
呼吸をするのも忘れ、俺は震えるゆびでその名前に触れた。アイテムが選択され、カラーが反転する。指を移動させ、下部の『取り出す』というボタンを押す。
ウインドウの表面に、ゆっくりと白い輝きが浮かび上がった。涙滴型にカットされた、大粒のクリスタル。中心部分がとくん、とくんと瞬いている。
俺は両手で宝石をすくいとると、そっと持ち上げた。ほのかなぬくもりを感じる。それを意識しただけで、目頭が熱くなってくる。
神様、お願いします――、胸のなかでそう念じながら、俺は人差し指の先でそっとクリスタルを二度叩いた。その途端、手の中で純白の光が爆発した。
「!!」
目を細め、一歩下がる。光の結晶体は俺の手を離れ、地上から二メートルほどの高さで停止した。光はどんどん強くなる。周囲の木々が青白く染め上げられ、月すらその輝きを失う。
俺が目をいっぱいに開いて見守るなか、光の奔流の中心部分にゆっくりとひとつの影が生まれ始めた。それは徐々に形を変え、色彩をまとっていく。四方にたなびく長い黒髪――純白のワンピース――すらりと伸びた手足――。目蓋を閉じ、両手を胸の前で組み合わせたひとりの少女が、まるで光そのものが凝集したかのような輝きをまといながら、ふわりと俺の眼前に舞い降りてきた。
光の爆発は、始まったときと同じように不意に消え去った。地上からすこし浮いた場所で静止した少女の長い睫毛が震え、目蓋がゆっくりと開いていく。やがて、夜空のように深い色の瞳が、まっすぐに俺を見つめた。
俺は動けなかった。声が出ない。まばたきすらできない。
そんな俺を見ていた少女の、桜色の唇がゆっくりとほころんだ。天使のような――という陳腐な言葉でしか表現できない微笑。それに勇気づけられ、俺は口を開いた。
「俺だよ……ユイ、わかるか……?」
そこまで言ってから、はっとして俺は自分の体を見下ろした。今の俺は、あの世界とはまるで異なる姿だ。自分では確認できないが、服装はおろか顔の造作も違うはずだ。
だが、心配は杞憂だった。少女――ユイの唇がうごき、懐かしい鈴の音のような声が響いた。
「また、会えましたね――パパ」
大粒の涙をきらめかせながら、宙を飛ぶように移動したユイが俺の胸に飛び込んできた。
「パパ……パパ!!」
何度も叫びながら、細い腕を俺の首にかたく回し、頬をすり寄せる。俺もその小さな体をぎゅっと抱きしめる。喉の奥から堪えきれない嗚咽が漏れる。
ユイ――、あの世界で出会い、たった三日だけ一緒に暮らし、そして消えてしまった少女。短い時間だったが、あの日々は俺の中でかけがえのない記憶として焼きついていた。アインクラッドでの長く辛い戦いの中、間違いなく俺が真に幸福だと感じていたあのわずかな日々――。
郷愁にも似た切ない甘さに包まれながら、俺はユイを固く抱いたままいつまでも立ち尽くしていた。こんな奇跡が起きるのだ――だから、アスナとも、きっとまた出会える。もう一度あの暮らしを取り戻せる。
それは、現実世界に帰還してから初めて芽生えた確信だった。
「で、こりゃ一体どういうことなんだろ?」
森の中、先刻墜落した空き地の片隅に手ごろな切り株を見つけて腰掛けた俺は、膝の上のユイに尋ねた。
俺の胸に頬をすり寄せて――こういう仕草はアスナにそっくりだ――至福の笑みを浮かべていたユイは、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「――?」
「いや、ここSAOの中じゃないんだよ実は……」
ユイが消滅してからの経緯をかいつまんで説明する。ユイを圧縮して保存したこと。アインクラッドの消滅。そして新たな世界、アルヴヘイム。だがアスナのことは簡単には言葉にできなかった。
「ちょっと待ってくださいね」
ユイは目を閉じると、何かの声に耳を澄ますかのように首を傾けた。
「ここは――」
ぱちりと目蓋を開け、俺を見る。
「ここは、ソードアート・オンラインサーバーのコピーだと思われます」
「コピー……?」
「はい。基幹プログラム群はほぼ同一です。ただカーディナル・システムのバージョンが少し古いですね。その上に乗っているゲームコンポーネントはまったく新しいものですが……」
「ふむう……」
俺は考え込んだ。
このアルヴヘイム・オンラインがリリースされたのはSAO事件の14ヶ月後、アーガスが消滅し、事後処理をレクトが委託されたしばらく後だ。アーガスの技術資産をレクトが吸収したということになれば、それをそのまま流用して新規のVRMMOを立ち上げるということは十分考えられる。ゲームの根幹を成す感覚シミュレーション・フィードバック技術が出来上がっているなら、開発費は大幅に抑えられるだろう。
つまり、ALOがSAOのコピーシステム上で動いている、という事は有り得なくもない。だが――。
「でも……何で俺の個人データがここにあったんだろう……」
「ちょっとパパのデータを覗かせてくださいね」
ユイは再び目を閉じた。
「……間違いないですね。これはSAOでパパが使用していたキャラクター・データそのものです。システムが共通なのでセーブデータのフォーマットもほぼ同じなのですが、この世界に存在しないアイテムは破損してしまっているようですね……。このままではエラーチェッカーに検出されると思います。アイテムは全て破棄したほうがいいです」
「そうか、なるほどな」
俺はアイテム欄に指を滑らせると、文字化けしているアイテムを全て選択し、まとめてデリートした。残ったのは正規の初期装備品だけだ。
「この経験値はどうしたもんだろう」
「システム上はエラーではないですが……不自然ではありますね。人間のメンテナンスが入ると発見されるかもしれません。使用してしまってはどうでしょう」
「おお、素晴らしい証拠隠滅方法だ。ユイは素質がある」
「へ、へんなこと言わないでください!」
頬をふくらませるユイの頭を撫でながら、俺はコマンドボタンを操作してスキルアップ画面に移動した。
「なるほど、経験値を消費して各種スキルレベルを上げるんだな……。どれどれ」
とりあえずHP増加スキルの上昇ボタンを押してみる。――効果音と共にHPが10増え、経験値が100減少した。
「……この調子で二百万消費すんの……?」
「がんばってください」
にこにこ笑いながらユイが言う。俺は相当にゲンナリしながら、半ば自棄になりつついろいろなスキルの上昇ボタンを押し捲った。
「これはもうビーターというよりチーターだよな……」
――だがまあステータスが強力であるに越したことはない。俺はこれから世界樹とやらに登り、アスナを探しに行かねばならないのだ。まっとうにゲームをプレイする気はもとより無い。
あれこれ悩みつつ数十分をかけてスキルアップポイントをほぼ消費した俺は、大きくひとつ伸びをしてウインドウを消した。
作業の結果わかったのは、この世界では経験値稼ぎはあまり意味が無い、ということだ。SAOに存在した敏捷力や筋力のパラメータは存在しないし、ヒットポイントやマナポイントの上昇幅は微々たるものである。各種武器スキルは、上昇しても装備できる武器の種類が増えるだけで、威力には影響しない。当然SAOに存在した剣技もない。
唯一未知数なのはSAOにはなかった魔法スキルだが、こればかりは使ってみないとわからないということで、適当にあれこれ上昇させておくことにした。
作業を終えた俺は、相変わらず俺に密着して猫のように目を細めているユイに尋ねた。
「そう言えば、ユイはこの世界ではどういう扱いになってるんだ……?」
彼女の実体は人間ではない。SAOのケアプログラムが異常変化を起こし、その結果生まれた人工知能、AIである。
2013年現在、いくつかの最先端の研究機関が「かぎりなく知能に近い人工知能」を発表している。プログラムの「知性的ふるまい」は、突き詰めていくと見かけ上は擬似的な知能と真の知能との境い目があいまいになっていき、現在ではそれら境界上のAIがもっとも先進的なものとされている。
ユイもあるいはそのような存在なのかもしれないし、あるいは最初に生まれた真のAIなのかもしれない。だが俺にとってはどうでもいいことだ。俺はユイを愛しているし、彼女も俺を慕ってくれている。それでじゅうぶんだ。
「えーと、このアルヴヘイム・オンラインにもプレイヤーサポート用の擬似人格プログラムが用意されているようですね。ナビゲートピクシー、という名称ですが……わたしはそこに分類されています」
言うなり、ユイは一瞬難しい顔をした。直後、その体がぱあっと発光し、次いで消滅してしまった。
「お、おい!?」
俺は慌てて声を上げる。立ち上がろうとして――膝の上にちょこんと乗っているモノに気付いた。
身長は十センチほどだろうか。ライトマゼンタの、花びらをかたどったミニのワンピースから細い手足が伸びている。背中には半透明の翅が二枚。まさに妖精と言うべき姿だ。愛くるしい顔と長い黒髪は、サイズこそ違うがユイのままである。
「これがピクシーとしての姿です」
ユイは俺の膝上で立ち上がると、両腰に手を当てて翅をぴこぴこと動かした。
「おお……」
俺はやや感動しながら指先でユイのほっぺたをつついた。
「くすぐったいですー」
笑いながらユイは俺の指から逃れ、しゃらんという効果音と共に空中に浮き上がった。そのまま俺の肩に座る。
「……じゃあ、前と同じように管理者権限もあるのか?」
「いえ……」
少ししゅんとした声。
「できるのは、リファレンスと広域マップデータへのアクセスくらいです。接触したプレイヤーのステータスなら確認できますが、主データベースには入れないようです……」
「そうか……実はな……」
俺は表情をあらためた。
「ここに、アスナが……ママがいるらしいんだ」
「えっ……ママが……!?」
ユイが肩から飛び上がり、俺の顔の前で停止した。
「どういうことですか……?」
「……」
俺は須郷のことから説明しようとしたが、寸前で思いとどまった。ユイをかつて崩壊寸前まで追い込んだのは人間の負の感情だ。これ以上ユイを人の悪意で汚染したくなかった。
「……アスナは、SAOサーバーが消滅しても現実に復帰していないんだ。俺はこの世界でアスナに似た人を見たという情報を得てここにやってきた。もちろん他人の空似かもしれないんだけど……藁にもすがる、ってやつかな……」
「……そんなことが……。ごめんなさいパパ、わたしに権限があればプレイヤーデータを走査してすぐに見つけられるのに……」
「いや、大体の居場所は見当がついてるんだ。世界樹……とか言ってたな。場所、わかるかい?」
「あ、はい。ええと、ここからは大体北東の方向ですね。でも相当に遠いです。リアル単位置換で五十キロメートルはあります」
「うわ、それは凄いな。アインクラッド基部フロアの五倍か……。うーん、そういえばここでは飛べるって聞いたなぁ……」
俺は立ち上がり、首を捻って肩越しに覗き込んだ。
「おお、羽根がある」
背中から、クリアグレーに透き通る鋭い流線型の羽根――というよりも昆虫の翅と言うべきか――が伸びている。だが動かし方がさっぱり分からない。
「どうやって飛ぶんだろ」
「補助コントローラがあるみたいです。左手を立てて、握るような形を作ってみてください」
再び肩に乗ったユイの言葉に従って、俺は手を動かした。するとその中に、簡単なジョイスティック状のオブジェクトが出現した。
「えと、手前に引くと上昇、押し倒すと下降、左右で旋回、ボタン押し込みで加速、離すと減速となっていますね」
「ふむふむ」
俺はスティックをゆくり手前に倒してみた。すると、背中の翅がぴんと伸び、ぼんやりとした燐光を放ち始める。そのままスティックを引きつづける――。
「おっ」
不意に、体がふわりと浮いた。ゆっくりとした速度で森の中を上昇していく。一メートルほど浮いたところでニュートラルに戻し、今度はてっぺんの球を押し込んだ。すると体が滑るように前方に移動していく。
下降や旋回を試すうち、俺はすぐに操作を飲み込むことができた。かつて遊んだ飛行系VRゲームに比べれば相当に単純な操作系だ。
「なるほど、大体わかった。とりあえず基本的な情報が欲しいよな……。一番近くの街ってどこかな?」
「北西のほうに『スイルベーン』という街がありますね。そこが一番……、あっ……」
突然ユイが顔を上げた。
「どうした?」
「プレイヤーが近づいてきます。三人が一人を追っているようですが……」
「おお、戦闘中かな。見に行こうぜ」
「あいかわらずパパはのんきですねえ」
ユイの頭をこつんと突付き、俺はウインドウを操作して初期アイテムの片手用直剣を背中に装備した。抜いて、数回振ってみる。
「うわあ、なんかちゃちぃ剣だなぁ。軽いし……まあいっか……」
鞘に収め、俺は再びスティックを出して握った。
「ユイ、先導頼む」
「了解です」
鈴のような音とともに肩から飛び立ったユイを追って、俺も空中移動を開始した。
サラマンダーの放った火炎魔法が、ついにリーファの背を捉えた。
「うぐっ!!」
無論痛みや熱は感じないが、背後から大きな手で張り飛ばされたような衝撃を受けて姿勢を崩す。逃亡を図りながら風属性の防御魔法を張っておいたお陰でHPバーには余裕があるものの、シルフ領はまだまだ遠い。
その上、リーファは加速が鈍り始めたのに気付く。忌々しい滞空制限だ。あと数十秒で翅がその力を失い、飛べなくなる。
「くうっ……」
歯噛みをしながら、樹海に逃げ込むべく急角度のダイブ。敵にメイジがいる以上、魔法を使っても隠れおおせるのは難しいだろうが諦めておとなしく討たれるのは趣味ではない。
梢の隙間に突入し、幾重にも折り重なった枝を縫いながら地表に近づいていく。そうするうちにも速度はどんどん落ちる。やがて前方に草の繁った空き地を見つけそこにランディングを敢行、靴底を滑らせながら制動をかけ、正面の大木の裏に飛び込むと身を伏せた。
すぐさま両手を宙にかざし、隠行魔法を使用する。詠唱タイマーバーが視界に表示され、それがゼロになると、薄緑色の大気の流れが足許から湧き上がり、リーファの体を覆った。
これで敵の視線からはガードされる。しかし、高レベルの索敵スキルもしくは看破魔法を使われればその限りではない。息を詰め、ひたすら身を縮める。
やがて――。サラマンダー特有の鈍い飛翔音が複数ゆっくりと近づいてきた。背後の空き地に着陸する気配。がちゃがちゃと鎧の鳴る音。すぐに低い叫び声がした。
「このへんにいるはずだ! 探せ!!」
「いや、シルフは隠れるのが上手いからな。魔法を使おう」
スペルを使用する効果音が続く。リーファは思わず毒づきそうになって口をつぐむ。――やがて、ざわざわと草の鳴る音が背後から近づいてきた。
巨木の根を乗り越えてこちらに近づいてくるいくつかの小さな影。赤い皮膚と眼を持つトカゲだ。火属性の看破魔法である。数十匹のサーチャーが放射状に放たれ、隠行中のプレイヤーまたはモンスターに接触すると燃え上がって場所を教えるスペルだ。
(あっちに行け! この!!)
トカゲの進路はランダムだ。リーファは必死に小さな爬虫類に向かって念ずる。が、願い空しく――。
一匹がリーファを包む大気の膜に触れた、その途端、一声甲高く鳴いて、赤々と燃え上がった。
「いたぞ、あそこだ!!」
がしゃがしゃと駆け寄ってくる音。リーファはやむなく木の陰から飛び出す。一回転して立ち上がり、抜剣して構えると、三人のサラマンダーも立ち止まってランスをこちらに向けてきた。
「梃子摺らせてくれるなぁ」
右端の男が兜のバイザーを跳ね上げ、興奮を隠し切れない口調で言った。
中央に立つリーダー格の男が、落ち着いた声で言葉を続ける。
「悪いがこっちも任務だからな。金とアイテムを置いていけば見逃す」
「なんだよ、殺しちまおうぜ!! ポイントも稼げるしさぁ」
今度は左の男が、同じくバイザーを上げながら言った。暴力に酔った、粘つく視線を向けてくる。
一年の経験から言うと、こういう、女性プレイヤーを殺すのに執着を見せる連中はかなり多い。リーファは嫌悪感で肌が粟立つのを意識する。卑猥な言葉を発したり、戦闘以外の目的で無闇と体に触れたりすればハラスメント行為で即座に隔離のうえバンされてしまうが、殺傷自体はゲームの目的でもあるゆえに自由だ。VRMMOで女性プレイヤーを殺すのはネットにおける最高の快楽とうそぶく連中すらいるのだ。
正常に運営されているALOですらこうなのである。いまや伝説となった『あのゲーム』の内部はさぞ……と思うと背筋が寒くなる。
リーファは両足でしっかりと地面を踏みしめると、愛用のツーハンドブレードを大上段に構えた。視線に力を込め、サラマンダー達をにらむ。
「あと一人は絶対に道連れにするわ。デスペナルティの惜しくない人からかかってきなさい」
低い声で言うと、両脇のサラマンダーが猛り立つように奇声を上げながらランスを振り回した。それを両手で制しながらリーダーが言った。
「諦めろ、もう翅が限界だろう。こっちはまだ飛べるぞ」
確かに、言われたとおりだった。ALOにおいて、飛行する敵に地上で襲われるのは絶対的に不利なポジションである。一対三となれば尚更だ。しかし諦める気はない。金を渡して命乞いをするなどもってのほかだ。
「気の強い子だな。仕方ない」
リーダーも肩をすくめると、ランスを構え、翅を鳴らして浮き上がった。左右のサラマンダーも左手にスティックを握り、追随する。
たとえ三本の槍に同時に貫かれようとも、最初の敵に全力を込めた一太刀を浴びせる覚悟でリーファは腕に力を込めた。敵が三方からリーファを取り囲み――今まさに突撃しようという、その時だった。
突然右方向の潅木ががさがさ揺れたかと思うと、黒い人影が転がり出てきた。
予想外のことに、リーファと三人のサラマンダーの動きが止まった。あっけに取られて黒衣の闖入者を凝視する。
「うう、いてて……。着陸がミソだなこれは……」
緊張感の無い声とともに立ち上がったのは、浅黒い肌の男性プレイヤーだった。つんつんと尖った勢いのいい髪形、やや吊り上った大きな目、どことなくやんちゃな少年と言った気配だ。背中から伸びるクリアグレーの翅はスプリガンの証である。
はるか東の辺境にテリトリーを持つスプリガンがこんな所で何を、と思いながら彼の装備をチェックしたリーファは目を疑った。黒い簡素な短衣にズボン、アーマーの類はなく、武器は背中の貧弱な剣一本。どう見ても初期装備そのままだ。初心者(ニュービー)がこんな中立域の奥深くに出てくるとは何を考えているのか。
右も左もわからないニュービーが無惨に狩られるシーンを見るにしのばず、リーファは思わず叫んでいた。
「何してるの! 早く逃げて!!」
だが黒衣の少年は動じる気配もない。まさか他種間ならキル有りというルールを知らないのだろうか。右手を腰に当てると、リーファと上空のサラマンダーたちをぐるりと見渡し、声を発した。
「重戦士三人で女の子一人を襲うのはちょっとカッコよくないなぁ」
「なんだとテメエ!!」
のんびりした言葉に激発した二人のサラマンダーが、宙を移動して少年を前後から挟み込んだ。ランスを下方に向け、突進の姿勢を取る。
「くっ……」
助けに入ろうにも、リーダー格の男が上空でこちらを牽制しているためうかつに動けない。
「一人でノコノコ出てきやがって馬鹿じゃねえのか。望みどおりついでに狩ってやるよ!」
少年の前方に陣取ったサラマンダーが、音高くバイザーを降ろした。直後、広げた翅からルビー色の光を引きつつ突撃を開始。後方の一人は、少年が回避した所を仕留めるべく時間差で襲い掛かるつもりらしい。
とうていニュービーにどうにかなる状況ではなかった。ランスが体を貫く瞬間を見たくなくて、リーファが唇を噛んで目を逸らせようとした――その時だった。
信じられないことが起こった。
右手をポケットに突っ込んだまま、無造作に左手を伸ばした少年が、必殺の威力をはらんだランスの先端をがしっと掴んだのだ。ガードエフェクトの光と音が空気を震わせる。あっけに取られて目と口をぽかんと開けるリーファの眼前で、少年はサラマンダーの勢いを利用して腕をぶんと回すと、掴んだランスごと背後の空間に放り投げた。
「わあああああ」
悲鳴を上げながら吹っ飛んだサラマンダーが、待機していた仲間に衝突し、両者は絡まったまま地面に落下した。がしゃがしゃん! という金属音が重なって響く。
少年はゆっくり振り返ると、背後の剣に手をかけ――そこで動きを止め、やや戸惑ったような表情でリーファを見て、言った。
「ええと……斬ってもいいのかな?」
「……そりゃいいんじゃないかしら……。少なくとも先方はそのつもりだと思うけど……」
もう訳がわからず、呆然と答える。
「それもそうか。じゃあ失礼して……」
少年は右手で背から貧相な剣を抜くと、だらりと地面に垂らした。斬る、と威勢のいいことを言っているわりには動きに気合というものがない。すっと重心を前に移しながら左足を一歩前に――
突然、ズバァン!! という衝撃音と共に少年の姿が掻き消えた。今までどんな敵と相対しようともその太刀筋が見えなかったことはないリーファの眼ですら追いきれなかった。あわてて首を右に振ると、遥か離れた場所に少年が低い姿勢で停止していた。剣を真正面に振り切った形である。
と、二人のサラマンダーのうち立ち上がりかけていた方の体が赤い光に包まれた。直後にその体が四散。小さな残り火が漂う。
(――速過ぎる!!)
リーファは激しく戦慄した。いまだかつて目にしたことのない次元の動きを見た衝撃で全身がぞくぞくと震えた。
この世界でキャラクターの運動速度を決定しているものは唯一つ、NERDLESシステムの電磁パルス信号に対する脳神経の反応速度である。アミュスフィアが信号を発し、脳がそれを受け取り、処理し、運動信号としてフィードバックする、そのレスポンスが速ければ速いほどキャラクターのスピードも上昇する。生来の反射神経に加えて、一般的に長期間の経験によってもその速度は向上すると言われている。
自慢ではないがリーファはシルフの中で五指に入るスピードの持ち主と称されている。長年鍛えた反射神経と、一年に及ぶALO歴によって、一対一ならばどんな相手にも遅れは取らないと近頃は自信を深めていたのだが――。
リーファと、サラマンダーのリーダーが唖然として見守る中、少年はゆっくりと立ち上がり、再び剣を構えつつ振り向いた。
もう一人のサラマンダーはまだ何が起こったのか理解していないようだ。見失った相手を探して見当違いの方向をきょろきょろと見回している。
その相手に向かって、容赦なく少年が再びアタックする素振りを見せた。今度こそ見失うまいとリーファは目を凝らす。
初動は決して速くない。気負いのない、ゆらりとした動きだ。だが一歩踏み出した足が地面に触れた瞬間――
再び大気を揺るがす大音響とともにその姿が霞んだ。今度はどうにか見えた。映画を限界まで早送りしたような、コマの落ちた映像がリーファの目に焼きつく。少年の剣が下段から跳ね上がり、サラマンダーの胴を分断。エフェクトフラッシュすら一瞬遅れた。少年はそのまま数メートルも移動し、片膝を突いた姿勢で停まる。再び死を告げる炎――エンドフレイムと呼ばれる――が噴き上がり、二人目のサラマンダーも消滅した。
スピードにばかり目を奪われていたリーファだが、今更のように少年の攻撃が発生させたダメージ量の凄まじさに気付いた。二人のサラマンダーのHPバーはフルでこそなかったもののまだ八割程度は残っていた。それを一撃で吹き消すとは尋常ではない。
ALOにおいて、攻撃ダメージの算出式はそれほど複雑なものではない。武器自体の威力、ヒット位置、攻撃スピード、被ダメージ側の装甲、それだけだ。この場合、武器の威力はほぼ最低、それに対してサラマンダーの装甲はかなりの高レベルだったと思われる。つまりそれをあっさり覆すほど少年の攻撃精度と、何よりもスピードが驚異的だったというわけだ。
少年は再びのんびりとした動作で体を起こすと、上空でホバリングしたままのサラマンダーのリーダーを見上げた。剣を肩で担ぎ、口を開く。
「どうする? あんたも戦う?」
その、あまりにも緊張感のない少年の言葉に、我に返ったサラマンダーが苦笑する気配がした。
「いや、勝てないな、やめておくよ。アイテムを置いていけというなら従う。もうちょっとでメイジスキルを上げられるんだ、デスペナが惜しい」
「正直な人だな」
少年も短く笑う。リーファに視線を向け、
「そちらのお姉さん的にはどう? 彼と戦いたいなら邪魔はしないけど」
乱入して大暴れしておきながらこの言い草にはリーファも笑うしかなかった。刺し違えても一人は倒すという気負いがいつの間にか抜けてしまっていた。
「あたしもいいわ。今度はきっちり勝つわよ、サラマンダーさん」
「正直君ともタイマンで勝てる気はしないけどな」
言うと、赤い重戦士は翅を広げ、燐光を残して飛び立った。がさり、と一回樹の梢を揺らし、暗い夜空へ溶け去るように遠ざかっていく。あとにはリーファと黒衣の少年だけが残された。
リーファは再びわずかに緊張しながら、少年の顔を見た。
「……で、あたしはどうすればいいのかしら。お礼を言えばいいの? 逃げればいいの? それとも戦う?」
少年は右手の剣をさっと左右に切り払うと、背中の鞘に音を立てて収めた。
「うーん、俺的には正義のナイトが悪漢からお姫様を助けた、っていう場面なんだけどな」
片頬でにやりと笑う。
「感激したお姫様から熱い口付けを、というのはどうだろう」
「ば、バッカじゃないの!!」
リーファは思わず叫んでいた。顔がかあっと熱くなる。
「なら戦ったほうがマシだわ!!」
「わははは、冗談だ」
いかにも楽しそうに笑う少年の顔を見ながらギリギリと歯軋りする。どう言い返してやろうかと必死に考えていると、不意にどこからともなく声がした。
「そ、そうですよ、そんなのダメです!!」
幼い女の子の声だ。咄嗟に周囲をきょろきょろと見回すが人影はない。と、少年がやや慌てた様子で言った。
「あ、こら、出てくるなって」
視線を向けると、少年の短衣の胸ポケットから何やら光るものが飛び出すところだった。小さなソレはしゃらんしゃらんと音を立てながら少年の顔のまわりを飛び回る。
「パパにキスしていいのはママとわたしだけです!」
「ぱ、ぱぱぁ!?」
あっけに取られながら数歩近寄ってよくよく見ると、それは手のひらに乗るような大きさの妖精だった。ヘルプシステムの一部、お馴染みのナビゲートピクシーだ。だがあれはゲームに関する基本的な質問に答えてくれるだけのそっけない存在だったはずなのだが。
リーファは少年に対する警戒も忘れ、飛び回る妖精にまじまじと見入った。
「あ、いや、これは……」
少年は焦った様子でピクシーを両手で包み込むと、引き攣った笑いを浮べた。リーファはその手の中を覗き込みながら訊ねた。
「ねえ、それってプライベートピクシーってやつ?」
「へ?」
「あれでしょ、プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布されたっていう……。へえー、初めてみるなぁ」
「あ、わたしは……むぐ!」
何か言いかけたピクシーの顔を少年の手が覆った。
「そ、そう、それだ。俺クジ運いいんだ」
「ふうーん……」
リーファは改めてスプリガンの少年を上から下まで眺めた。
「な、なんだよ」
「や、変な人だなあと思って。プレオープンから参加してるわりにはバリバリの初期装備だし。かと思うとやたら強いし」
「ええーと、あれだ、昔アカウントだけは作ったんだけど始めたのはつい最近なんだよ。すっと他のVRMMOやってたんだ」
「へえー」
どうも腑に落ちないところもあったが、他のゲームでアミュスフィアに慣れているというなら、ずば抜けた反射速度を持っていることについても頷けなくもない。
「それはいいけど、なんでスプリガンがこんなところをうろうろしてるのよ。領地はずうっと東じゃない」
「み、道に迷って……」
「迷ったぁ!?」
情けない顔で少年が返した答えに、リーファは思わず吹き出してしまった。
「ほ、方向音痴にも程があるよー。きみ変すぎ!!」
傷ついた表情でうなだれる少年を見ているとお腹の底から笑いがこみ上げてくる。ひとしきりけらけらと笑うと、リーファは右手に下げたままだった長刀を腰の鞘に収め、言った。
「まあ、ともかくお礼を言うわ。助けてくれてありがとう。わたしはリーファっていうの」
「……俺はキリトだ。この子はユイ」
少年が手を開くと、頬を膨らませたピクシーが顔を出した。ぺこりと頭を下げて飛び立ち、少年の肩に座る。
リーファは、なんとなくこのキリトと名乗る少年ともう少し話をしたいと感じている自分に気付いて少々驚いた。人見知りとまでは言わないが決してこの世界で友達を作るのが得意ではないリーファにしては珍しいことだった。悪い人ではなさそうだし、思い切って言ってみる。
「ねえ、君このあとどうするの?」
「や、とくに予定はないんだけど……」
「そう。じゃあ、その……お礼に一杯おごるわ。どう?」
するとキリトと名乗る少年は顔中でにこりと笑った。リーファは内心でへえ、と思う。感情表現の難しいVR世界で、ここまでいい顔で笑える人間はなかなかいない。
「それは嬉しいな。じつは色々教えてくれる人を探してたんだ」
「色々って……?」
「この世界のことさ。とくに……」
不意に笑いを収め、視線を北東の方角に向ける。
「……あの樹のことをね」
「世界樹? いいよ。あたしこう見えてもけっこう古参なのよ。……じゃあ、ちょっと遠いけど北のほうにグリエルって村があるから、そこまで飛びましょう」
「あれ? スイルベーンって街のほうが近いんじゃあ?」
リーファはやや呆れながらキリトの顔を見る。
「そりゃそうだけど……ほんとに何も知らないのねえ。あそこはシルフ領だよ」
「何か問題あるの?」
あっけらかんとしたキリトの言葉に思わず絶句する。
「……問題っていうか……領土内じゃ君はシルフを攻撃できないけど、逆はアリなんだよ」
「別にみんなが即襲ってくるわけじゃないんだろう? リーファさんもいるしさ。シルフの国って綺麗そうだから見てみたいなぁ」
「……リーファでいいわよ。ほんとに変な人。まあそう言うならあたしは構わないけど……命の保証まではできないわよ」
リーファは肩をすくめると答えた。愛着のあるシルフ領を見てみたいと言われれば嫌な気はしない。それに、この辺では滅多に見かけないスプリガンを連れて帰ればみんな驚くだろうなあ、と思うと悪戯心もわいてくる。
「じゃあ、スイルベーンまで飛ぶよ。そろそろ賑やかになってくる時間だわ」
ウインドウをちらりと確認すると、リアル時間は午後四時になったところだった。まだもう少し潜っていられる。
リーファは、飛翔力がかなり回復し、輝きの戻った翅を広げて軽くふるわせた。するとキリトが首を傾げながら言った。
「あれ、リーファはコントローラ無しで飛べるの?」
「あ、まあね。君は?」
「ちょっと前にこいつの使い方を知った所だからなぁ」
キリトは左手を動かす仕草をする。
「そっか。意思飛行はコツがあるからね、できる人はすぐできるんだけど……試してみよう。ちょっと後ろ向いて」
「あ、ああ」
くるりと体を半回転させたキリトの、決して大きいとは言えない背中に両手の人差し指を伸ばし、肩の少し下に触れる。肩に座ったピクシーが興味しんしんといった風に見下ろしてくる。
「今触ってるの、わかる?」
「うん」
「じゃあ、これから指をゆっくり動かすから、感触を追ってみて」
「了解」
リーファはそっと二本の指を下降させ始めた。一秒に一センチほどのじわじわとしたスピードで肩甲骨を目指す。
「うは、くすぐったいよ」
「しっ、集中して!」
かたく盛り上がった骨の頂点目指してゆっくりと指を滑らせる。やがて指が半透明の翅の根元に到達する。その部分では翅はおぼろに薄れて実体を失い、服を貫通しているのだが、そっと背中から指を離し、今度は翅の背のラインにそって滑らせはじめる。
「どう……? まだ感じる?」
「う、うん……でもなんかこれは……ヘンな感じがぁー」
「おっ!」
リーファは指を止めた。
「感触を逃がさないで!! 多分後頭部の内側がむずむずすると思うけど、そこと今の感覚を結びつける感じ。ほら、接続がどんどん太くなる……固くなる……」
指で翅の背をなぞりながら、キリトの耳に口を寄せ、ささやく。と――
突然、キリトの灰色の翅がぶるっと震えた。
「そう、そのまま! 体を上に引っ張る!!」
「うわっ!!」
キリトが声を洩らした、次の瞬間。その体がロケットのように上空へと飛び出した。
「うわあああああ」
キリトの体はたちまち小さくなり、悲鳴も遠くなり、ばさばさと葉を鳴らす音がしたと思うとすぐに梢の彼方へと消えていった。
「……」
リーファは、キリトの肩から転げ落ちたピクシーと顔を見合わせた。
「やばっ」
「パパー!!」
二人同時に慌てて飛び立ち、後を追う。樹海を脱し、ぐるりと夜空を見渡すと、やがて金色の月に影を刻みながら右へ左へとふらふら移動する姿を見つけた。
「うわあああああぁぁぁぁぁ………止めてくれええええぇぇぇぇぇ」
情けない悲鳴が広い空に響き渡る。
「……ぷっ」
再び顔を見合わせたリーファと、ユイというピクシーは同時に吹き出した。
「あはははははは」
「ご、ごめんなさいパパ、面白いです~~」
並んで空中にホバリングしたまま、お腹を抱えて笑う。少し収まったと思うと、またキリトの悲鳴が聞こえてきて笑いの発作がぶり返す。
足をばたばたさせて爆笑しながら、リーファは、こんなに笑ったのいつ以来かなあと考えていた。少なくともこの世界では初めてなのは間違いなかった。
散々笑って満足すると、リーファは無軌道に飛び回るキリトの襟首を捕まえて停止させ、あらためて意思飛行のコツを伝授した。キリトの筋はかなり良く、十分ほどのレクチャーでどうにか自由に飛べるようになった。
「おお……これは……これはいいな!」
旋回やループを繰り返しながらキリトが大声で叫んだ。
「そーでしょ!」
リーファも笑いながら叫び返す。
「何ていうか……感動的だな。このままずっと飛んでたいよ……」
「うんうん!」
嬉しくなって、リーファも翅を鳴らしてキリトに近づくと、軌道を合わせて平行飛行に入った。
「あー、ずるいです、わたしも!」
ピクシーも二人の間に位置を取り、飛び始める。
「それじゃあ、このままスイルベーンまで飛ぼう。ついてきて!」
リーファはくるりとタイトターンして方向を見定めると、森の彼方目指して巡航に入った。飛び始めて間もないキリトの事を慮って速度を抑え目にしておいたのだが、すぐに真横に追いついてきたキリトが言った。
「もっとスピード出してもいいぜ」
「ほほう」
リーファはにやっと笑うと翅を鋭角に畳み、ゆるい加速に入った。キリトが音を上げるところを見てやろうと、じわじわと速度を増していく。全身を叩く風圧が強まり、風切り音が耳元で唸る。
だが驚いたことに、リーファがマックススピードの七割程度にまで達しても、キリトは真横で追随してきた。システム的に設定された最高速度に到達する以前に、普通は心理的圧迫を感じて加速が鈍るものだが、初めての意思飛行でこのレンジにまでついてくるとは尋常な精神力ではない。
リーファは口許を引き締め、最大加速に入った。未だかつてこのスピード領域で編隊飛行をしたことはない。それに耐えられる仲間がいなかったからだ。
眼下の樹海が激流となって吹っ飛んでいく。キュイイイ、という弦楽器の高音にも似たシルフの飛翔音と、ヒュウウウという管楽器を思わせるスプリガンの翅音が美しい重奏をかなでる。
「はうー、わたしもうだめです~」
ユイという名のピクシーがキリトの胸ポケットにすぽんと飛び込んだ。リーファとキリトは顔を見合わせ、笑う。
気付くと、前方で森が切れ、その向こうに色とりどりの光点の群が姿を現しつつあった。中央から一際明るい光のタワーが伸びている。シルフ領の都市スイルベーンと、そのシンボルである風の塔だ。街はぐんぐん近づき、すぐに大きな目貫通りと、そこを行き交う大勢の人波までも見て取れるようになってくる。
「お、見えてきたな!」
風切り音に負けないようキリトが大声で言った。
「真中の塔の根元に着陸するわよ! ……って……」
不意にあることに気付いて、リーファは笑顔を固まらせた。
「キリトくん、君、ランディングのやりかたわかる……?」
「……」
キリトも顔を強張らせた。
「わかりません……」
「えーと……」
すでに、視界の半ば以上が巨大な塔に占められている。
「ゴメン、もう遅いや。幸運を祈るよ」
リーファはにへへと笑うと、一人だけ急減速に入った。翅をいっぱいに広げ、足を前に出す姿勢で広場めがけて降下を開始する。
「そ……そんなバカなぁぁぁぁぁぁ」
黒衣のスプリガンが絶叫と共に塔の外壁目掛けて突っ込んでいくのを見送りながら、心の中で合掌。
数秒後、びたーん!! という大音響が空気を震わせた。
「うっうっ、ひどいよリーファ……飛行恐怖症になるよ……」
翡翠色の塔の根元、色とりどりの花が咲き乱れる花壇に座り込んだキリト恨みがましい顔で言った。
「目がまわりました~」
彼の肩に座るピクシーも頭をふらふらさせている。リーファは両手を腰に当て、笑いをかみ殺しながら答えた。
「キミが調子に乗りすぎなんだよ~。それにしてもよく生きてたねえ。絶対死んだと思った」
「うわっ、そりゃあんまりだ」
最高速度で壁面に激突しておきながら、キリトのHPバーはまだ半分以上残っていた。運がいいのかHPが多いのか、本当に謎の多い少年である。
「まあまあ、ヒールしてあげるから」
リーファは右手をキリトに向けてかざすと回復スペルを唱えた。青く光る雫が手からほとばしり、キリトに降りかかる。
「お、すごい。これが魔法か」
興味津々というふうにキリトが自分の体を見回す。
「高位のヒールはウンディーネじゃないとなかなか使えないんだけどね。必須スペルだから君も覚えたほうがいいよ」
「へえ、種族によって魔法の得手不得手があるのか。スプリガンてのは何が得意なの?」
「トレジャーハント関連と幻惑魔法かな。どっちも戦闘には不向きなんで不人気種族ナンバーワンなんだよね」
「うへ、やっぱり下調べは大事だな」
肩をすくめながらキリトが立ち上がった。大きくひとつ伸びをして、周囲にぐるりと視線を向ける。
「おお、ここがスイルベーンかぁ。綺麗な所だなぁ」
「でしょ!」
リーファも改めて住み慣れたホームタウンを眺める。
シルフの街スイルベーンは、別名翡翠の都と呼ばれている。華奢な尖塔が沢山の空中回廊で複雑に繋がり合って構成される町並みは、色合いの差こそあれ皆つややかなジェイドグリーンに輝き、それらが夜闇の中に浮かび上がる有様は幻想的の一言だ。
二人とひとりが声もなく光の街を行き交う人々に見入っていると、不意に右手から声をかける者がいた。
「リーファちゃん! 無事だったの!」
顔を向けると、手をぶんぶん振りながら近寄ってくるのは黄緑色の髪の少年シルフだった。
「あ、レコン。うん、どうにかねー」
リーファの前で立ち止まったレコンは目を輝かせながら言った。
「すごいや、アレだけの人数から逃げ延びるなんてさすがリーファちゃん……って……」
今更のようにリーファの傍らに立つ黒衣の人影に気付き、口を開けたまま数秒間立ち尽くす。
「な……スプリガンじゃないか!? なんで……!?」
飛び退り、腰のダガーに手をかけようとするレコンをリーファはあわてて制した。
「あ、いいのよレコン。この人が助けてくれたの」
「へっ……」
唖然とするレコンを指差し、キリトに言う。
「こいつはレコン。あたしの仲間なんだけど、キミと出会うちょっと前にサラマンダーにやられちゃったんだ」
「そりゃすまなかったな。よろしく、俺はキリトだ」
「あっ、どうも」
レコンはキリトの差し出す右手を握り、ぺこりと頭を下げてから、
「いやそうじゃなくて!」
また飛び退る。
「だいじょぶなのリーファちゃん!? スパイとかじゃないの!?」
「あたしも最初は疑ったんだけどね。スパイにしてはちょっと天然ボケ入りすぎてるしね」
「あっ、ひでえ!」
あはははと笑いあうリーファとキリトを、レコンはしばらく疑わしそうな目で見ていたが、やがて咳払いして言った。
「リーファちゃん、シグルド達は先に水仙館で席取ってるから、分配はそこでやろうって」
「あ、そっか。う~ん……」
キャラクターの所持しているアイテムは、敵プレイヤーに殺されるとランダムに三十パーセントが奪われてしまうが、パーティーを組んでいる場合に限っては保険枠というものがあり、そこに入れているアイテムは死亡しても自動的に仲間に転送されるようになっている。
リーファたちも今日の狩りで入手したアイテムのうち価値のあるものは保険扱いにしておいたので、最終的にはリーファがすべての稼ぎを預かることとなり、サラマンダー達もそれを知っているゆえにしつこく追ってきたわけだが、キリトの助力によってどうにか全てをスイルベーンまで持ち帰ることができた。
このような場合は、死亡して先に転送された仲間と馴染みの店で改めてアイテム分配をするのが慣例となっていたが、リーファは少々悩んだすえにレコンに言った。
「あたし、今日の分配はいいわ。スキルにあったアイテムもなかったしね。あんたに預けるから四人で分けて」
「へ……リーファちゃんは来ないの?」
「うん。お礼にキリト君に一杯オゴる約束してるんだ」
「……」
先ほどとは多少色合いの異なる警戒心を滲ませながらレコンがキリトを見る。
「ちょっと、妙な勘繰りしないでよね」
リーファはレコンのつま先をブーツでこつんと蹴っておいて、トレードウインドウを出すと稼いだアイテムの全てを転送した。
「次の狩りの時間とか決まったらメールしといて。行けそうだったら参加するからさ、じゃあ、おつかれ!」
「あ、リーファちゃん……」
なんだか照れくさくなってきてしまったリーファは、強引に会話を打ち切るとキリトの袖をひっぱって歩きだした。
「さっきの子は、リーファの彼氏?」
「コイビトさんなんですか?」
「ハァ!?」
キリトと、その肩口から顔を出したユイに異口同音に尋ねられ、リーファは思わず石畳に足を引っ掛けた。慌てて翅を広げて体勢を立て直す。
「ち、違うわよ! パーティーメンバーよ、単なる」
「それにしちゃずいぶん仲良さそうだったよ」
「リアルでも知り合いって言うか、学校の同級生なの。でもそれだけよ」
「へえ、クラスメイトとVRMMOやってるのか、いいなぁ」
「うーん、いろいろ弊害もあるよー。宿題のこと思い出しちゃったりね」
「ははは、なるほどね」
会話を交わしながら裏通りを歩いていく。時折りすれ違うシルフのプレイヤーは、キリトの黒髪を見るとギョッとした表情を浮かべるが、隣で歩くリーファに気付くと不審がりながらも何も言わずに去っていく。それほどアクティブに活動しているわけではないリーファだが、スイルベーンで定期的に行われるPvPイベントで何度か優勝しているので顔はそこそこ通っているのだ。
やがて、前方に小ぢんまりとした酒場兼宿屋が見えてくる。デザート類が充実しているのでリーファが贔屓にしている『鈴蘭亭』という店だ。
スイングドアを押し開けて店内を見渡すと、プレイヤーの客は一組もいなかった。まだリアル時間では夕方になったばかりなので、冒険を終えて一杯やろうという人間が増えるにはしばらく間がある。
奥まった窓際の席にキリトと向き合って腰掛ける。
「さ、ここはあたしが持つから何でも自由に頼んでね」
「じゃあお言葉に甘えて……」
「あ、でも今あんまり食べると落ちてから辛いわよ」
メニューの魅力的なデザート類を睨みながらリーファもしばし唸る。
実に不思議なのだが、アルヴヘイムで食事をすると満腹感が発生し、それは現実に戻ってからもしばらく消えることはない。カロリーの心配なしに甘い物が好き放題食べられるというのは、リーファにとってはVRMMO最大の魅力の一つなのだが、それで現実世界での食欲がなくなると母親にこっ酷く怒られてしまうのだ。
実際このシステムのせいで、VRMMOをダイエットに使用したプレイヤーが栄養失調に陥ったり、あるいは生活の全てをゲームに捧げた一人暮らしのヘビープレイヤーが食事を忘れて衰弱死したりというニュースはいまやあまり珍しくない。
結局リーファはフルーツのムース、キリトはナッツタルト、少々驚いたがユイはチーズクッキーをオーダーし、飲み物はハーブワインのボトルを一本取ることにした。NPCのウェイトレスが即座に注文の品々をテーブルに並べる。
「それじゃあ、改めて、助けてくれてありがと」
不思議な緑色のワインを注いだグラスをかちんと合わせ、リーファは冷たい液体を乾いたのどに一気に放り込んだ。同じく一息でグラスを干すと、キリトははにかむように笑いながら言った。
「いやまあ、成り行きだったし……。それにしても、えらい好戦的な連中だったな。ああいう集団PKってよくあるの?」
「うーん、もともとサラマンダーとシルフは仲悪いのは確かなんだけどね。領地が隣り合ってるから中立域の狩場じゃよく出くわすし、勢力も長い間拮抗してたし。でもああいう組織的なPKが出るようになったのは最近だよ。きっと……近いうちに世界樹攻略を狙ってるんじゃないかな……」
「それだ、その世界樹について教えて欲しいんだ」
「そういや、そんな事言ってたね。でも、なんで?」
「世界樹の上に行きたいんだよ」
リーファは少々呆れながらキリトの顔を見た。冗談を言ってるわけではないらしく、黒い瞳に真剣な色が宿っている。
「……それは、多分全プレイヤーがそう思ってるよきっと。っていうか、それがこのALOっていうゲームのグランド・クエストなのよ」
「と言うと?」
「滞空制限があるのは知ってるでしょ? どんな種族でも、連続して飛べるのはせいぜい十分が限界なの。でも、世界樹の上にある空中都市に最初に到達して、妖精王オベイロンに謁見した種族は全員、『アルフ』っていう高位種族に生まれ変われる。そうなれば、滞空制限はなくなって、いつまでも自由に空を飛ぶことができるようになる――」
「……なるほど……」
ナッツタルトを一口齧り、キリトが頷いた。
「それは確かに魅力的な話だな。世界樹の上に行く方法っていうのは判ってるのか?」
「世界樹の内側、根元のところは大きなドームになってるの。その頂上に入り口があって、そこから内部を登るんだけど、そのドームを守ってるNPCのガーディアン軍団が凄い強さなのよ。今まで色んな種族が何回か挑んでるんだけどみんなあっけなく全滅。サラマンダーは今最大勢力だからね、なりふり構わずお金溜めて、装備とアイテム整えて、次こそはって思ってるんじゃないかな」
「そのガーディアンてのは……そんなに強いの?」
「もう無茶苦茶よ。だって考えてみてよ、ALOってオープンしてから一年経つのよ。一年かけてクリアできないクエストなんてありだと思う?」
「それは確かに……」
「実はね、去年の秋頃、大手のALO情報サイトが署名集めて、レクトプログレスにバランス改善要求出したんだ」
「へえ。それで……?」
「お決まりっぽい回答よ。『当ゲームは適切なバランスのもとに運営されており』、なんたらかんたら。最近じゃあね、今のやり方じゃあ世界樹攻略はできないっていう意見も多いわ」
「……何かキークエストを見落としている、もしくは……単一の種族だけじゃ絶対に攻略できない?」
ムースを口許に運ぼうとしていた手を止め、リーファは改めてキリトの顔を見た。
「へえ、いいカンしてるじゃない。クエスト見落としのほうは、今躍起になって検証してるけどね。後の方だとすると……絶対に無理ね」
「無理?」
「だって矛盾してるもの。『最初に到達した種族しかクリアできない』クエストを、他の種族と協力して攻略しようなんて」
「……じゃあ、事実上世界樹を登るのは……不可能ってことなのか……?」
「……あたしはそう思う。でも……諦めきれないよね、いったん飛ぶことの楽しさを知っちゃうとね……。たとえ何年かかっても、きっと……」
「それじゃ遅すぎるんだ!!」
不意にキリトが押し殺した声で叫んだ。リーファがびっくりして視線を上げると、眉間に深い谷が刻まれ、口許が震えるほど歯を食いしばったキリトの顔がそこにあった。
「パパ……」
両手でチーズクッキーを抱えて端をかりかり齧っていたピクシーが、クッキーを置いて飛び上がり、キリトの肩に座った。宥めるように黒衣の少年の頬に小さな手を這わせる。やがて、キリトの体からふっと力が抜けた。
「……驚かせてごめん」
キリトが低い声で言った。
「でも俺、どうしても世界樹の上に行かなきゃいけないんだ」
研ぎ上げた刃のように鋭い輝きを放つキリトの黒い瞳にまっすぐ見つめられ、リーファの心臓は不意にわけもなく早鐘のように鳴り響き始めた。動揺を静めようとワインを一口ごくりと飲んでから、どうにか口を開く。
「なんで、そこまで……?」
「人を……探してるんだ」
「ど、どういうこと?」
「……簡単には説明できない……」
キリトは、リーファを見てかすかに微笑んだ。だがその瞳は、深い絶望の色に濡れているように見えた。いつか、どこかで目にしたことがある瞳だった。
「……ありがとうリーファ、色々教えてもらって助かったよ。ご馳走様、ここで最初に会ったのが君でよかった」
立ち上がりかけたキリトの腕を、リーファは無意識のうちに掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。世界樹に……行く気なの?」
「ああ。この目で確かめないと」
「無茶だよ、そんな……。ものすごく遠いし、途中で強いモンスターもいっぱい出るし、そりゃ君も強いけど……」
あっ、と思った時にはもう口が勝手に動いていた。
「――あたしが連れていってあげる」
「え……」
キリトの目が丸くなる。
「いや、でも、会ったばかりの人にそこまで世話になる訳には……」
「いいの、もう決めたの!!」
時間差でかあっと熱くなってきた頬を隠すようにリーファは顔をそむけた。ALOには、翅があるかわりに瞬間移動手段は一切存在しない。アルヴヘイムの央都、その向こうにそびえ立つ世界樹まで行くのは、現実世界での小旅行に匹敵するほどの旅となる。なのに、まだ出会って数時間の少年に同行を申し出るとは、自分でも信じられない行動だった。
でも――なぜか放っておけなかった。
「あの、明日も入れる?」
「あ、う、うん」
「じゃあ午後三時にここでね。あたし、もう落ちなきゃいけないから、あの、ログアウトには上の宿屋を使ってね。じゃあ、また明日ね!」
立て続けに言うと、リーファは右手を振ってウインドウを出した。シルフ領内ではどこでも即時ログアウトが可能なので、そのままボタンに触れる。
「あ、待って!」
キリトの声に顔を上げると、少年はにこりと笑いながら言った。
「――ありがとう」
リーファもどうにか笑みを浮べ、こくりと一回頷くと、OKボタンを押した。世界が虹色の光に包まれ、次いでブラックアウトした。リーファとしての肉体感覚が徐々に薄れるなか、頬の熱さと心臓の鼓動だけが最後まで残っていた。
――ゆっくりと目蓋を開ける。見慣れた自室の天井、そこに貼った大きなポスターが目に飛び込んでくる。B全版に引き伸ばし、プリントしてもらったスクリーンショットだ。無限の空をゆく鳥の群、その中央に長いポニーテールをなびかせて飛翔する妖精の少女が写っている。
直葉は両手を上げ、ゆっくりと頭からアミュスフィアを外した。二つのリングが並んだ円冠状のその機械は、初代ナーヴギアと比べるとあまりに華奢だが、その分拘束具めいた印象は減っている。
仮想世界から戻っても、頬の火照りは消えていなかった。直葉はベッドの上で上体を起こすと、大きくひとつ深呼吸し――おもむろに両手で顔を挟み込んだ。
(うわ―――――ー)
今更ながら、自分の行動にとてつもない気恥ずかしさがこみ上げてくる。以前から、リーファでいるときの直葉は大胆さが五割増しだとレコン――長田伸一に言われていたが、今日のは極め付きだった。両足をばたばたさせながらひとしきり悶える。
不思議な少年だった。いや、プレイヤーとしての彼が少年かどうかはわからないが、直葉のカンは自分と大差ない年齢だろうと告げている。しかしその割りには妙に落ち着いた物腰、かと思うとやんちゃな言動、どうにも掴み所がなかった。
謎なのは性格だけではない。あの恐ろしいまでの強さ――。剣を交えても絶対に勝てない、と思わされた相手は一年のALO歴のなかでも初めてだった。
(キリトくん、か……)
仮想世界を自分の目で見てみたい、と直葉が初めて思ったのは、SAO事件後一年が経とうとしたころだった。
それまでの直葉にとって、VRMMOゲームというのは、文字通り兄を奪っていった憎悪の対象でしかなかった。だが病室で眠る和人の手を握り、語りかけるうちに、いつしか和人がそこまで愛した世界というのはどういうものなのだろうか、という気持ちが芽生えはじめたのだった。和人のことを、もっと知りたい――その為には、彼の世界を自分の目で見なければと、そう思ったのだ。
アミュスフィアが欲しい、と言ったとき、翠はしばらくじっと直葉の顔を見ていたが、やがてゆっくり頷き、時間と体にだけは気をつけなさい、と笑った。
その翌日、学校の昼休みに直葉は、クラスで一番のゲームマニアと賞され(あるいは揶揄され)ていた長田伸一の机の前に立ち、聞きたいことがあるから屋上まで付き合って、と告げた。その時クラスに満ちた沈黙、次いで怒号と悲鳴は今でも語り草となっている。
屋上の金網にもたれた直葉は、妙な期待に目を輝かせながら直立不動で立つ長田伸一に向かって、VRMMOのことを教えてほしいと言った。長田は数秒間の百面相のあと、どういうタイプのが希望なのか、と聞いてきた。
直葉としては、勉強と剣道部の練習に割く時間を減らすわけにはいかなかったのでそのように言うと、長田は眼鏡をせわしなく押し上げながら「ふむ、じゃあ、あんまり廃仕様じゃなくて、スキル制のやつがいいよね」等々とぶつぶつ呟いた挙句、推薦してきたのがアルヴヘイム・オンラインだったというわけだ。
よもや長田が一緒にALOを始めるとは思わなかったが、彼の懇切丁寧なレクチャーもあって、直葉は自分でも驚くほどの速さで仮想ゲーム世界に適合してしまった。その理由は主に二つ。
一つ目は、直葉が長年研鑚を積んだ剣道の技が、ALO内部でも有効に機能したからだ。一般的なプレイヤー同士の戦闘では、基本的に回避ということは考えない。敵の攻撃を食らいつつ自分の武器をヒットさせ、累積したダメージの総量で決着がつくことになる。しかし直葉の場合、鍛え上げた反射速度とカンによって容易く攻撃を避けることができたため、反則的なまでの強さを発揮するのはむしろ当然と言えた。
無論ALO以外のレベル制MMOであれば、ゲームに費やせる絶対的な時間の少ない直葉はとてもコアなプレイヤーには太刀打ちできなかったろう。事実リーファの数値的ステータスは、古参プレイヤーとしては平均を下回る。それでもシルフ五傑と言われるほどの実力を維持できるのは完全スキル制のゲームであればこそだ。
そして、直葉がALOに魅せられた二つ目の理由――、それは無論あのゲームだけが持つフライト・システムである。
初めて意思飛行のコツを会得し、空を思うままに飛び回ったときの感動はいまだ容易に思い出すことができる。
体の小さい直葉は、剣道の試合でもリーチ差に苦しめられることが多く、打ち込みをもっと速く、もっと遠く、というのははるか昔から体に染み付いた欲求だった。それゆえ、ALOにおいて愛用の長刀を大上段に構え、(片手がふさがる補助飛行ではこれができない)超々ロングレンジからの突進を行うのは筆舌に尽くしがたい快感だった。無論それに留まらず、体がばらばらになりそうな鋭角ダイブや、あるいは鳥の群に混じってのんびりと高空をクルーズしたりと、飛翔行為そのものに直葉は深く魅せられてしまった。
飛ぶのが苦手なレコンあたりは直葉のことを「スピードホリック」などと言うが、直葉に言わせれば飛ばずしてALOの楽しみを語るなかれというところだ。
ともかく、あれから一年、直葉は今や一人前のVRMMOプレイヤーなのだ。
直葉のもとに還ってきた和人に、ALOの話をしたい――と一日に何度も思う。しかし彼の瞳によぎる影を見ると、どうしても言葉を切り出すことができない。
SAO事件という、あれだけの凄まじい体験を経ても、和人のVRMMOへの愛情が変わっていないのは確かだと思う。すべて回収されたはずのナーヴギアを、どんな手段を用いてか自室に持ち帰っていることや、フォトスタンドに入れて飾られたSAOクライアントディスクがそれを示している。
だが、和人にとっては、多分まだSAO事件は終わっていないのだ。「あの人」が眠りから目覚める、その時まで――。
そのことを考えると直葉の心は千々に乱れる。昨夜のような、深い絶望に囚われて泣く和人は二度と見たくない。いつも笑っていてほしい。そのためにも、「あの人」に早く目覚めてほしいと思う。
しかしその時は、和人の心はまた直葉の手の届かないところに行ってしまう。
いっそ本当の兄妹のままだったら。それなら、この気持ちに気付くこともなかった。この、和人の全部が欲しい、という気持ちが生まれることもなかったのに――。
ベッドの上に横たわり、アルヴヘイムの空を写したポスターを見上げながら、なぜ現実の人間には翅がないのかな、と直葉は思った。リアルの空をどこまでも飛んで、ぐちゃぐちゃに絡まった心の線をいっぺんに解いてしまいたかった。
リーファというシルフの少女がつい今しがたまで座っていた椅子を、俺はやや呆気に取られながら見つめた。
「――どうしたんだろう彼女」
呟くと、肩の上でユイも首を傾げる気配がした。
「さあ……。今のわたしにはメンタルモニター機能がありませんから……」
「ううむ。まあ、道案内してくれるっていうのは有り難いな」
「マップならわたしにもわかりますけど、確かに戦力は多いほうがいいですね。でも……」
ユイが立ちあがり、俺の耳に顔を寄せて、言った。
「浮気しちゃダメですよパパ」
「しない、しないよ!!」
泡を食って首をぶんぶん振る俺の肩から笑いながら飛び立つと、ユイは再びテーブルの上に着陸し、食べかけのチーズクッキーを両手で抱え上げた。
「くそう、からかいやがって……」
俺は憮然としてハーブワインのボトルを直接呷る。
だが、確かに意識しておいたほうがいい。浮気云々ではなく、彼女――リーファはあくまでゲーム内でのキャラクターであり、その向こうには別人格の見知らぬプレイヤーがいるのだ、ということを。
俺にとっては長い間、仮想世界が唯一の現実だった。あの世界ではキャラクターとプレイヤーの人格を分けて考えることは無意味であり、悪意も好意もすべてが真実の感情だった。そう考えねば生き残れなかった。
だがここでは無論その限りではない。プレイヤーによって程度は異なるだろうが、誰もが仮想のキャラクターを演じているのだ。盗賊として他のキャラクターを襲い、奪い、殺戮することすら咎められない――いやむしろ推奨されているとすら言っていい。
「難しいな……VRMMOって……」
我知らず嘆息してから、自分の台詞に苦笑いを浮かべる。空になったボトルを置き、自分と同じくらいの大きさのクッキーに挑み続けているユイの服を摘み上げて肩に載せると、俺は一時この世界を離れるため席を立った。
MMORPGにおける『ログアウト』という行為は、プレイヤーの利便性とゲーム的公正さがせめぎ合ういささかの問題をはらんでいる。
つまり、急な用事を思い出したり、突然生理的欲求を覚えたりといった事情によってゲームを即座に「落ち」たくなる場合は多いのだが、それを無制限に認めると、今度は戦闘中にピンチに陥ったり、盗みを働いて追われたりといった状況で、ログアウトを利用したお手軽な脱出方法がまかり通ってしまうことになる。そのため、大概のMMORPGではログアウトに一定の制限を設けている。このALOもその例に漏れず、「どこでも即ログアウト」が可能なのは種族のテリトリー内だけで、それ以外の場合はプレイヤーが現実に帰還したあとも魂無きキャラクターは数分間その場に残り、攻撃や盗みの対象とされる仕様になっているようだった。
テリトリー外で即時ログアウトを望むなら専用のアイテム――キャンプ用具など――を使用するか、あるいは宿屋で部屋を借りるしかないということで、俺はリーファの言葉に従って『鈴蘭亭』の二階でゲームを落ちることにした。
カウンターでチェックインを済ませ、階段を上がる。指定された番号のドアを開けると、中はベッドとテーブルが一つずつあるだけの簡素な部屋だった。ぐるりと見渡すと猛烈な既視感が襲ってくる。アインクラッドでも、部屋を買えるようになるまでは、よくこの手の宿屋にお世話になったものだ。
あとはもうウインドウを開き、ログアウトボタンを押せば現実に復帰できるはずだったが、俺は『寝落ち』を試してみるべく武装解除するとベッドに腰を下ろした。
NERDLESを利用したVRゲームにおけるログアウトには、更にもう一つささやかな問題が発生する。ログアウト時に、ゲーム内の仮想の五感と、ゲーム外の生身の五感が受け取っている情報にギャップがありすぎると、現実に復帰したときに不快な酩酊感を覚えるのだ。立った状態から横たわった状態への移行程度ではわずかな目眩を感じるくらいで済むが、一度SAOに入る以前に、飛行系ゲームで錐揉み急降下状態からログアウトしたときは復帰してからも落下感に付きまとわれて酷い目に合ったものだ。
その症状を防ぐための理想的ログアウトとされているのが通称『寝落ち』で、仮想空間内で睡眠状態に入り、寝ているうちにログアウトして、現実で睡眠から目覚めるというものだ。
俺がベッドにごろんと横たわると、とうとうクッキーを食べ終えたユイが空中をぱたぱたと移動し、くるんと一回転したかと思うと本来の姿に戻って床に着地した。長い黒髪と白いワンピースの裾がふわりとたなびき、ほのかな芳香が宙を漂う。
ユイは両手を後ろに回すと、わずかに俯きながら言った。
「……明日まで、お別れですね、パパ」
「……そうか、御免な……。せっかく会えたのにな……。またすぐ戻ってくるよ、ユイに会いに」
「……あの……」
目を伏せたユイの頬が僅かに赤く染まった。
「パパがログアウトするまで、一緒に寝てもいいですか?」
「え……」
俺も自分の顔に血が上るのを感じる。ユイにとっては俺はあくまで「パパ」であり、AIとしての彼女が人間的なエモーションの総体を求めているに過ぎないのだろうが、その姿と言動は俺を動揺させるに十分なほど愛らしい少女のものであって――
「あ、ああ。いいよ」
だが無論俺は気恥ずかしさを脇に押しやって、ユイに頷きかけると体を壁際に移動させてスペースを作った。にこりと輝くような微笑を浮べたユイがそこに飛び込んでくる。
俺の胸に頬をすり寄せるユイの髪をゆっくり撫でながら、俺は呟いた。
「早くアスナを助け出して……また何処かに家を買おうな。――このゲームにもプレイヤーホームってあるのかな?」
一瞬首をかしげたユイが、すぐに大きく頷く。
「相当高いみたいですけど、用意されているようです。――夢みたいですね、また、パパと、ママと、三人で暮らせるなんて……」
あの日々のことを思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような郷愁を感じる。たった数ヶ月前のことなのに、手の届かない遥かな記憶の中へと去っていってしまったかのような――。
俺は両腕でしっかりとユイの体を抱きしめ、目を閉じた。
「夢じゃない……すぐに現実にしてみせるさ……」
かすかに呟く。久々の仮想ゲーム体験で脳が疲労したのか、強い眠気が襲ってくる。
「おやすみなさい――パパ」
暖かい暗闇の中に沈んでいく俺の意識を、ユイの鈴の音のような声がふわりと撫でていった。
(第二章 終)
SAO2_03_Unicode.txt
第三章 『樹上の檻』
つがいの小鳥が、白いテーブルの上で身を寄せ合って朝の歌をさえずっている。
そっと右手を伸ばす。碧玉のように輝く羽毛に一瞬指先が触れる。――と思う間もなく、二羽の小鳥は音も無く飛び立つ。弧を描いて舞い上がり、光の射す方向へと羽ばたいていく。
椅子から立ち上がり、数歩後を追う。だがすぐに、金色に輝く細い格子が行く手を遮る。小鳥達はその隙間から空へと抜け出し、高く、高く、どこまでも遠ざかっていく――。
アスナはしばらくその場に立ち尽くし、鳥たちが空の色に溶けてしまうまで見送ると、ゆっくりきびすを返してもとの椅子に腰掛けた。
白い大理石で造られた冷たい丸テーブルと椅子。側に、同じく純白の豪奢な天蓋つきのベッド。この部屋の調度品はそれだけだ。部屋――と言ってよければ、だが。
やはり白のタイルが敷き詰められた床は、端から端まであるけば二十歩はかかろうかという巨大な真円形で、壁はすべて華奢な金属の格子でできている。格子の目はアスナでも無理をすれば通り抜けられそうなほど大きいが、それはシステム的に不可能である。
十字に交差する金の線は垂直に伸び上がり、はるか頭上で半球形に閉じている。その頂点には巨大なリングが取り付けられ、それを恐ろしく太い木の枝が貫いて、この構造物全体を支えている。枝はごつごつとうねりながら天を横切り、周囲に広がる無限の空の一角を覆い尽くす巨大な樹へと繋がっている。
つまりこの部屋は、途方もないスケールの大樹の枝から下がった金の鳥籠――いや、その表現は正しくない。時折遊びに来る鳥たちは皆格子を自由に出入りしている。とらわれているのはアスナ唯一人、だからこれは檻だ。華奢で、美しく、優雅で、しかし冷徹な樹上の檻。
アスナがこの場所で覚醒してから、すでに六十日が経過しようとしていた。いや、それも確実な数字ではない。何一つ書き残すことのできないこの場所では、日数を記録できるのは頭の中だけだ。
毎朝目覚めるたびに、今日は何日め、と自分に言い聞かせる。だが、近頃ではその数字に確信が持てなくなってきている。ひょっとしたら同じ日付を何回も繰り返しているのではないか――実際にはすでに数年の月日が過ぎ去っているのではないか――。そんな想念にとらわれてしまうほど、「彼」と過ごした懐かしい日々は遠い記憶の中に没しようとしている。
あの時――。
浮遊城アインクラッドが崩壊し、世界が輝きに包まれて消滅していく中、アスナは彼と固く抱き合って意識が消え去る瞬間を待っていた。
恐怖はなかった。自分は為すべきことを為し、生きるべき人生を生きたという確信があった。彼と一緒に消滅するのは喜びですらあった。
光が二人を包み込み、肉体が消え去り、魂が絡み合って、どこまでも高く飛翔し――
そして不意に彼のぬくもりが消えた。一瞬にして周囲が暗闇に包まれた。アスナは必死に手を伸ばし、彼の名を呼んだ。だが容赦ない奔流が彼女を捕らえ、暗闇の中を押し流していった。断続的な光の点滅。どことも知れない場所に運ばれていく、そんな気がして、アスナは悲鳴を上げた。やがて前方に虹色の光彩が広がり、そこに突入して――気付くと、この場所に倒れていた。
ゴシック調の巨大なベッド、その天蓋を支える壁に鏡が据えられている。そこに映る姿は、昔とは微妙に異なっている。顔のつくり、栗色の長い髪は昔のままだ。だが身にまとうのは、心許ないほど薄い、白のワンピース一枚。胸元に、血のように赤いリボンがあしらわれている。剥き出しの足に、大理石のタイルがしんしんと冷気を伝えてくる。武器はおろか何一つとして持っていないが、背中からは不思議な透明の羽根が伸びている。鳥というよりは昆虫の翅のようだ。
最初は、ほんとうの死後の世界なのか――とも思った。だが今ではそうでないことがわかっている。手を振ってもメニューウインドウは出ないが、ここはアインクラッドではない、新しい仮想世界だ。コンピュータの作り出すデジタルの牢獄。アスナは、そこに、人間の悪意によって幽閉されている。
ならば負けるわけにはいかない。悪意に心を挫かれるわけにはいかない。そう思って、アスナは日々襲ってくる孤独と焦燥に耐えている。だがこの頃では、それが少しずつ難しくなってきている。絶望の毒がゆっくりと心を染めていくのを感じる。
冷たい椅子に腰掛け、テーブルの上で両手を組み合わせて、アスナはいつものように心の中で彼に囁きかける。
(早く……はやく助けに来て……キリトくん……)
「その表情が一番美しいよ、ティターニア」
不意に鳥籠の中に声が響いた。
「泣き出す寸前のその顔がね。凍らせて飾っておきたいくらいだよ」
「なら、そうなさいな」
ゆっくりと声の方に顔を向けながら、アスナは言った。
金の檻の一箇所、巨大な樹――世界樹――に面している部分に、小さなドアが設けられている。ドアまでは、階段が刻み込まれた枝が伸び、世界樹の幹との間に通路を繋いでいる。
そのドアから入ってきたのは、ひとりの痩せた長身の男だった。
カールした長い金髪が豊かに流れ、それを額で白銀の円冠が止めている。体を包むのは濃緑のゆったりとした長衣、これも銀糸で細かい装飾が施されている。背中からはアスナと同じように翅が伸びているが、こちらは透明ではなく、巨大な蝶のものだ。漆黒のびろうどのように艶のある四枚の翅に、エメラルドグリーンの鮮やかな模様が走っている。
顔は造り物のように――としか言い様がない――端麗だ。秀でた額から連なる鋭い鼻梁、切れ長の目には翅の模様と同じ色の瞳が冴えざえとした光を放っている。だがそれらを台無しにしているのが、薄い唇に張り付くゆがんだ微笑だ。全てを蔑むような、卑しい笑い。
アスナは一瞬男の顔を見ると、汚らわしいものを見たかのようにすぐに視線を逸らせた。呟くように言葉を繋げる。
「――あなたなら何でも思いのままでしょう、システム管理者なんだから。好きにしたらいいわ」
「またそんなつれない事を言う。ぼくがいままで君に無理やり手を触れたことがあったかい、ティターニア?」
「こんな所に閉じ込めておいてよく言うわ。それにその変な名前で呼ぶのはやめて。私はアスナよ、オベイロン――いえ、須郷さん」
アスナは再び男――須郷伸之の化身オベイロンの顔を見上げた。今度は瞳を逸らさず、力を込めた視線を向けつづける。
オベイロンは不愉快そうに唇をゆがめると、吐き捨てるように言った。
「興醒めだなぁ。この世界では僕は妖精王オベイロン、君は女王ティターニア。プレイヤー共が羨望を込めて見上げるアルヴヘイムの支配者……それでいいじゃないか。一体いつになったら君は僕の伴侶として心を開いてくれるのかな」
「いつまで待っても無駄よ。あなたにあげるのは軽蔑と嫌悪、それだけだわ」
「やれやれ、気の強いことだ……」
再びオベイロンは片頬を吊り上げて笑うと、ゆっくりアスナの顔に向かって右手を伸ばしてきた。
「でもねえ……なんだか最近は……」
アスナは顔をそむけようとしたが、おとがいに手がかかり、無理やり正面に向けさせられる。
「そういう君を力ずくで奪うのも楽しいかなあと、そんな気もするんだよね」
万力のような力で固定されたアスナの顔に、今度は左手の指が這い始めた。頬から、唇に向かって細い指がじわじわと動いていく。どこか粘つくようなその感触に、背筋に寒気が走る。
嫌悪のあまり固く目を瞑り、歯を噛み締めるアスナの唇を指先で数度なぞると、オベイロンはそのまま首筋をゆっくりと撫で下ろした。やがて指は、深い襟ぐりの胸元で結ばれた真紅のリボンに辿り着く。アスナの恥辱と恐怖を愉しむように、リボンの一端がじわり、じわりと引かれていく――。
「やめて」
ついに耐え切れなくなり、アスナはかすれた声を洩らした。
それを聞いたオベイロンは喉の奥をククッと鳴らすとリボンから手を離した。指をひらひらを振りながら、笑いの混じった声で言う。
「冗談さ。言ったろう? 君に無理矢理手はかけない、って。どうせすぐに君の方から僕を求めるようになる。もう時間の問題だ」
「――何を言っているの。そんな訳ないじゃない」
「ねえ君」
オベイロンは両腕を胸の前で組むと、テーブルに体を預けた。にやにや笑いが一層大きくなる。
「NERDLESが娯楽市場のためだけの技術だと思うかい?」
予想外の台詞にアスナは口を噤んだ。オベイロンは芝居がかった仕草で両腕を大きく広げる。
「冗談じゃない! こんなゲームは副産物にすぎない。あの機械は、電子パルスのフォーカスを脳の感覚野に限定しているが、その枷を取り払ったらどういうことになるか――」
見開かれたオベイロンのエメラルド色の瞳にどこか逸脱した輝きが宿り、アスナは本能的な恐怖を感じた。
「――人間の思考、感情、記憶までも制御できる可能性があるってことだよ!」
あまりにも常軌を逸したオベイロンの言葉に、アスナは絶句するしかなかった。数回呼吸を繰り返してから、どうにか声を絞り出す。
「……そんな、そんなことが許されるわけが……」
「誰が許さないんだい? すでに各国で研究が進められている。でもねえ、この研究だけはサルで済ませるわけにはいかないんだよね。連中は自分が何を考えてるか喋ってくれないからね!」
ひっ、ひっと甲高い声で笑いを洩らし、テーブルから跳ねるように体を起こしたオベイロンは、せかせかした歩調でアスナの周りを歩き始めた。
「脳の高次機能には個体差も多い、どうしても大量の被験者が必要だ。だがアタマをいじくり回すわけだからね、おいそれと人体実験なんかできない。それでこの研究は遅々として進まなかった。――ところがねえ、ある日ニュースを見ていたら、いるじゃないか、格好の研究素材が、五万人もさ!」
再びアスナの肌を怖気が走った。オベイロンが何を言わんとしているのか、その先がようやく想像できた。
「――茅場先輩は天才だが大馬鹿者さ。あれだけの器を用意しながら、たかがゲーム世界の創造だけで満足するなんてね。SAOサーバー自体には手をつけられなかったが、あそこからプレイヤー連中が解放された瞬間、必要十分な被験者二千人をこの僕の世界にリレーする準備を整えてひたすら待ったよ。ああ、勿論君もね。いやあ、クリアされるのが実に待ち遠しかったね!」
妄念の熱に浮かされたかの如く、オベイロンは饒舌に言葉をまくし立て続けた。アスナは昔から彼のこの性癖が大嫌いだった。
「この二ヶ月で研究は大いに進展したよ! 記憶に新しいパーツを埋め込み、それに対する情動を誘導する技術は大体形ができた。魂の操作――実に素晴らしい!!」
「そんな……そんな研究、お父さんが許すはずがないわ」
「無論あのオジサンは何も知らないさ。研究は私以下極少数のチームで秘密裏に進められている。そうでなければ商品にできない」
「商品……!?」
「アメリカの某企業が涎を垂らして研究終了を待っている。せいぜい高値で売りつけるさ。――いずれはレクトごとね」
「……」
「僕はもうすぐ結城家の人間になる。まずは養子からだが、やがては名実ともにレクトの後継者となる。君の配偶者としてね。その日のためにもこの世界で予行演習しておくのは悪くない考えだと思うけどねえ」
不意にオベイロンは言葉を切ると、わずかに首を傾け沈黙した。すぐに右手を振ってウインドウを出し、それに向かって言う。
「わかった。すぐに行く」
ウインドウを消し、再びにやにや笑いを浮べながら、
「――という訳で、君が僕を盲目的に愛し、服従する日も近いということが判ってもらえたかな? しかし僕も勿論君のアタマを操作するのは望まない、次に会うときはもう少し従順であることを願うよ、ティターニア」
猫撫で声でささやくと、アスナの髪をひと撫でして身を翻した。
ドア目掛けてせかせかと歩いていく男の姿を、アスナは見なかった。ただ俯いて、オベイロンの最後の台詞が心に垂らしていった恐怖に耐えていた。
やがてカシャン、というドアの開閉音が響き、次いで静寂が訪れた。
制服に着替え、竹刀ケースを下げて剣道部の部室から出ると、巨大な校舎の谷を抜けてきた微風が直葉の火照った頬を心地よく撫でていった。
午後一時、すでに五時限目が始まっているので学校はしんと静まり返っている。一、二年生はもちろん授業中だし、自由登校の三年生も、学校に来ている者は高校入試直前の集中ゼミナールを受講しているので、今ごろ校内をのんきに歩いているのは直葉のような推薦進学組だけだ。
気楽な身分ではあるが、同級生に出くわすと必ず皮肉のひとつも言われてしまうので、直葉としては無闇に学校に来たくはない。しかし剣道部の顧問が実に熱心な人物で、東京の名門校に送り出す愛弟子のことが気になって仕方ないらしく、一日おきに学校の道場に顔を出して指導を受けるよう厳命されている。
顧問いわく、最近直葉の剣には妙なクセがある、らしい。直葉は内心で首をすくめながら、そりゃそうだろうなぁ、と思う。短時間とは言えほぼ毎日のように、アルヴヘイムで型もなにもないチャンバラ空中殺法を繰り広げているのだ。
しかしそれで剣道部員としての直葉の腕が落ちているかと言うとそういうことはなく、今日も、かつて全日本で上位に入ったことのある三十代の男性顧問から立て続けに二本とってひそかに快哉を叫んだ。
なんだか、近頃相手の竹刀がよく見えるのだ。強敵との試合で、神経が極限まで張り詰めると、時間の流れがゆるやかになるような感覚すら覚える。
数日前の、和人との試合を思い出す。あの時、直葉の本気の打突を和人はことごとく躱してみせた。まるで、彼だけが違う時間流のなかにいるかのような凄まじい反応だった。ひょっとして――、と直葉は考える。NERDLES機器は、使用者の脳になにか器質的な変化を与えるのではないか……。
物思いにふけりながら自転車置き場に向かって歩く直葉に、校舎の陰からいきなり声をかける者がいた。
「……リーファちゃん」
「うわっ」
びくっとして一歩飛びすさる。現れたのは、ひょろりと痩せた眼鏡の男子生徒だった。レコンと共通の特徴である、常に困ったように垂れ下がった細い眉毛が、今日は一層急角度を描いている。
直葉は右手を腰に当てると、ため息混じりに言った。
「学校でそう呼ばないでって言ってるでしょ!」
「ご、ごめん。……直葉ちゃん」
「この……」
竹刀ケースの蓋に片手を沿えながら一歩詰め寄ると、男子生徒はひきつった笑みを浮かべながらぶんぶん首を振った。
「ごごごめん、桐ヶ谷さん」
「……なに? 長田クン」
「ちょ、ちょっと話があって……。どこかゆっくりできるとこ、行かない?」
「ここでいいわよ」
長田伸一は情けない顔をしながら肩を落とす。
「……ていうか、そもそも推薦組のあんたが何で学校にいるのよ?」
「あ、すぐ……桐ヶ谷さんに話があって、朝から待ってたんだ」
「げげ! ヒマな奴……」
直葉はふたたび数歩後退し、背の高い花壇の縁に腰を下ろした。
「で、話って?」
長田は微妙な距離を保って直葉の隣に座ると、言った。
「……シグルド達が、今日の午後からまた狩りに行こうって。今度は海底洞窟にしようってさ、あそこはサラマンダーがあんま出ないし」
「狩りの話ならメールでいいって言ったじゃない。……悪いけど、あたししばらく参加できないわ」
「え、ええ!? なんで!?」
「ちょっとアルンまで出かけることに……」
アルヴヘイムの中央にそびえる世界樹、その根元には大きな中立都市が広がっている。それが央都アルンだ。スイルベーンからはかなりの距離がある上に、途中に飛行不可能な区域も多く、辿りつくには数日を要する。
長田はしばらく口をがくーんと開けて硬直していたが、やがてずりずりと直葉ににじり寄りながら言った。
「ま、ままさか昨日のスプリガンと……?」
「あー、うん、まあね。道案内することになったの」
「な、何考えてんのさリー……桐ヶ谷さん! ああんなよく分からない男と、と、泊りがけで……」
「あんたこそ何赤くなってるのよ! 妙な想像しないでよね!」
すぐそばまで接近してきた長田の胸を竹刀ケースでどつく。長田は極限まで眉に八の字を描かせ、直葉を恨みがましい目で見つめた。
「……前に僕がアルンまで行こうって言ったときはあっさり断ったくせに……」
「あんたと一緒じゃ絶対辿り着けないと思ったからよ! ……ともかくそういうわけだから、シグルドたちにはよろしく言っといてね」
直葉はぴょんと立ち上がり、「じゃね!」と手を振って自転車置き場目指して走り出した。長田の、叱られた犬のような情けない顔がちくりと胸を刺すが、そうでなくても学校ではいろいろと噂されているのだ。これ以上距離を縮める気にはならない。
(……道案内するだけだよ……)
自分にも言い聞かせるように、胸のなかで呟く。キリトという少年の、謎めいた黒い瞳を思い出すと、妙にそわそわと落ち着かない気分になる。
広大な駐輪場の片隅に停めてある、街乗り仕様のマウンテンバイクのロックを手早く外す。えいやっとまたがると、立ち漕ぎで猛然とダッシュ。冬の冷たい空気がぴりぴりと頬を叩くが、気にせず裏門から飛び出して、急な下り坂をノーブレーキで駆け下りていく。
早く飛びたい、と直葉は思った。キリトと並んで、全開パラレル飛行をすることを考えると、少しだけわくわくした。
二時少し前に自宅に着いた。
庭に、和人の自転車は無かった。どうやらまだジムから戻っていないらしい。
実のところ、最近の和人はもう「SAO以前」の彼の体格をほぼ取り戻していると思う。しかしどうもそれでは満足できないらしい、と言うより仮想世界内での自分との間にギャップを感じているようだ。
そんなの当然、ゲーム内のキャラクターに生身の体を近づけようなんて無理な注文だ――と思う一方で、和人の気持ちも良くわかる。直葉だって現実で「飛ぼう」として転びそうになったことは一度や二度ではない。
縁側から家に上がり、洗濯機に道着を放り込んでスイッチを入れ、ざっとシャワーを浴びる。ラフな格好に着替えると、二階に駆け上がって自室のベッドに転がり込む。
アミュスフィアの電源を入れ、すっぽり被ると、目を閉じる。大きく一回深呼吸、ついで魔法の呪文を――。
「リンク・スタート!」
リーファが目蓋を開けると、鈴蘭亭一階の風景がふわりと広がった。テーブルの、向かいの席にはもちろん誰もいない。待ち合わせまではまだ数十分の余裕がある。それまでに旅の準備を整えなければならない。
店から出ると、スイルベーンの街は美しい朝焼けの空に覆われていた。
毎日決まった時間にしかログインできないプレイヤーのための配慮か、アルヴヘイムでは約十六時間で一日が経過する。そのため、現実の朝晩と一致することもあればこのようにまったくずれることもある。メニューウインドウの時刻表示は、現実時間とアルヴヘイム時間が併記されており、最初は多少混乱したが、今ではこのシステムが気に入っている。
あちこちの店をばたばたと駆け回り、買い物を済ませると、ちょうどいい時間になっていた。鈴蘭亭に戻ってスイングドアを押し開けると、今まさに奥のテーブルに黒衣の姿が実体化しようとしているところだった。
ログインを完了したキリトは、数回まばたきをすると近づくリーファを認めて微笑んだ。
「やあ、早いね」
「ううん、さっき来たとこ。ちょっと買い物してたの」
「あ、そうか。俺も色々準備しないとな」
「道具類は一通り買っておいたから大丈夫だよー。あ、でも……」
キリトの、簡素な初期武装に視線を落とす。
「キミの、その装備はどうにかしておいたほうがいいね」
「ああ……俺もぜひどうにかしたい。この剣じゃ頼りなくて……」
「お金、持ってる? 無ければ貸しておくけど」
「えーと……」
キリトは右手を振ってウインドウを出し、ちらりと眺めて、なぜか顔をひきつらせた。
「……この『ユルド』っていうのがそう?」
「そうだよー。……ない?」
「い、いや、ある。結構ある」
「なら、早速武器屋行こっか」
「う、うん」
妙に慌てた様子で立ち上がったキリトは、何かを思いついたように体のあちこちを見回し、最後に胸ポケットを覗き込んだ。
「……おい、行くぞ、ユイ」
するとポケットから黒髪のピクシーがちょこんと眠そうな顔を出し、大きなあくびをした。
リーファ行きつけの武具店でキリトの装備一揃いをあつらえ終わった頃には、街はすっかり朝の光に包まれていた。
と言っても、特に防具類に凝ったわけではない。属性強化されている服の上下にコート、それだけだ。時間がかかったのは、キリトがなかなか剣に納得しなかったからだ。
プレイヤーの店主に、ロングソードを渡されるたびに一振りしては「もっと重い奴」と言い続け、最終的に妥協したのはなんと彼の身長に迫ろうかというほどの、超のつく大剣だった。ノームやインプに多い巨人型プレイヤー用装備だ。
ALOでは、余ダメージ量を決定するのは「武器自体の攻撃力」と「それが振られるスピード」だけだが、それだと速度補正に優るシルフやケットシーのプレイヤーが有利になってしまう。そこで、筋肉タイプのプレイヤーは、攻撃力に優る巨大武器を扱いやすくなるよう設定してバランスを取っている。
シルフでも、スキルを上げればハンマーやアックスを装備できないことはないが、固定隠しパラメータの筋力が足りないためにとても実戦で振り回すことはできない。スプリガンはマルチタイプの種族だが、キリトはどう見てもスピードタイプの体型だ。
「そんな剣、振れるのぉー?」
呆れつつリーファが聞くと、キリトは涼しい顔で頷いた。
「問題ない」
……そう言われれば納得するしかない。代金を払い、受け取った剣をキリトはよっこらしょうと背中に吊ったが、鞘の先が地面に擦りそうになっている。
まるで剣士の真似をする子供だ、そう思ったとたんにこみ上げてきた笑いをかみ殺しながら、リーファは言った。
「ま、そういうことなら準備完了だね! これからしばらく、ヨロシク!」
右手を差し出すと、キリトも照れたように笑いながら握り返してきた。
「こちらこそ」
ポケットから飛び出したピクシーが、二人の手をぺちぺち叩きながら言った。
「がんばりましょう! 目指せ世界樹!」
巨大な剣を背負い、肩にピクシーを乗せたキリトと連れ立って歩くこと数分、リーファの目前に、翡翠に輝く優美な塔が現われた。
シルフ領のシンボル、風の塔だ。何度見ても見飽きることのない美しさだ――と思いながら隣に目を向けると、黒衣のスプリガンは先日自分が貼りついたあたりの壁を嫌そうな顔で眺めていた。リーファは笑いを噛み殺しながら彼のひじを突付いた。
「出発する前に少しブレ―キングの練習しとく?」
「……いいよ。今後は安全運転することにしたから」
キリトが憮然とした表情で答える。
「それはそうと、なんで塔に? 用事でもあるのか?」
「ああ……長距離を飛ぶときは塔のてっぺんから出発するのよ。高度が稼げるから」
「ははあ、なるほどね」
頷くキリトの背を押しながら、リーファは歩き出した。
「さ、行こ! 夜までに森は抜けておきたいね」
「俺はまったく地理がわからないからなあ。案内よろしく」
「任せなさい!」
トンと胸を一回叩き、大きな塔の正面扉をくぐって内部へ。一階は円形の広大なロビーになっており、周囲をぐるりと色々なショップの類が取り囲んでいる。ロビーの中央には魔法力で動くとおぼしきエレベータが二基設置され、定期的にプレイヤーを吸い込んだり吐き出したりしている。アルヴヘイム時間では夜が明けたばかりだが、現実では夕方に差し掛かっているので、行き交う人の数がそろそろ増え始める頃だ。
キリトの腕を引っ張りながら、ちょうど降りてきた右側のエレベータに駆け込もうとした、その時。
不意に傍らから数人のプレイヤーが現われ、二人の行く手を塞いだ。激突する寸前で、どうにか翅を広げて踏みとどまる。
「ちょっと危ないじゃない!」
反射的に文句を言いながら、目の前に立ち塞がる長身の男を見上げると、それはリーファのよく知った顔だった。
シルフにしては図抜けた背丈に、荒削りだが男っぽく整った顔。この外見を手に入れるためには、かなりの幸運か、かなりの投資が必要だったと思われる。体をやや厚めの銀のアーマーに包み、腰には大ぶりのブロードソード。額に幅広の銀のバンドを巻き、波打つ濃緑の髪を肩の下まで垂らしている。
男の名前はシグルド。ここ数ヶ月リーファがよく行動を共にしているパーティーの前衛だ。見れば、彼の両脇に控えているのもパーティーメンバーである。レコンもいるのかと思って更に周囲に目をやったが、目立つ黄緑色の髪は視界に入らなかった。
シグルドはシルフ最強剣士の座をいつもリーファと争う剛の者で、また同時に、主流派閥に関わるのを忌避しているリーファと違って政治的にも実力者だ。現在のシルフ領主――月に一回の投票で決定され、税率やその使い道を決める指導者プレイヤー――の側近としても名を馳せる、言わば超アクティブ・プレイヤーである。
その恐るべきプレイ時間に裏打ちされた数値的ステータスはとてもリーファの及ぶところではなく、シグルドとのPvPデュエルはいつも、運動性に優るリーファがいかにして彼の膨大なHPを削りきるかというしんどい戦いになる。それだけに、狩りではフォワードとして実に頼もしい存在感を発揮するのだが、反面その言動はやや独善的で、束縛を嫌うリーファを辟易とさせる局面も少なからずあった。今のパーティーでの稼ぎは確かにかなりの効率なのだが、そろそろ抜ける潮時かな、と最近は考えないでもない。
そして今、リーファの前にずしりと両足を広げて立つシグルドの口許は、彼が最大限の傲慢さを発揮させる時特有の角度できつく結ばれていた。これは面倒なことになりそうだ――と思いながら、リーファは口を開いた。
「こんにちは、シグルド」
笑みを浮べながら挨拶したものの、シグルドはそれに応える心境ではないらしく、唸り声を交えながらいきなり切り出した。
「パーティーから抜ける気なのか、リーファ」
どうやら相当に機嫌が悪いらしいシグルドを、ちょっとアルンまで往復するだけ、と言って宥めようと一瞬考えたが、なんだか急に色々なことが面倒になってしまって、気づくとリーファはこくりと頷いていた。
「うん……まあね。貯金もだいぶできたし、しばらくのんびりしようと思って」
「勝手だな。残りのメンバーが迷惑するとは思わないのか」
「ちょっ……勝手……!?」
これにはリーファも少々かちんと来た。前々回のデュエルイベントで、激戦の末シグルドを下したリーファを試合後にスカウトにきたのは彼自身である。その時リーファが出した条件は、パーティー行動に参加するのは都合のつくときだけ、抜けたくなったらいつでも抜けられる、という二つで、つまり束縛されるのは御免だとしっかり伝えてあったつもりなのだが――。
シグルドはくっきりと太い眉を吊り上げながら、なおも言葉を続けた。
「お前は我がパーティーの一員として既に名が通っている。そのお前が理由もなく抜けて他のパーティーに入ったりすれば、威信に泥を塗られることになる」
「…………」
シグルドの大仰な台詞に、リーファはしばし言葉を失って立ち尽くした。唖然としつつも、やっぱり――という思いが心中に去来する。
シグルドのパーティーに参加してしばらく経った頃、リーファの相方扱いで同時にメンバーになったレコンが、いつになくマジメな顔で忠告してきたことがあったのだ。
このパーティーに深入りするのはやめたほうがいいかもしれない、と彼は言った。理由を聞くと、シグルドはリーファを戦力としてスカウトしたのではなく、自分のパーティーのブランドを高める付加価値として欲しがったのではないか――更に言えば、自分に勝ったリーファを仲間、というより部下としてアピールすることで勇名の失墜を防いだつもりなのではないか、と。
まさかそんな、と笑い飛ばしたリーファに向かってレコンは力説したものだ。曰く――性別逆転の許されないVRMMOにおいては女性プレイヤーは希少な存在であり、それゆえに戦力としてよりアイドルとして求められる傾向にあり、ましてリーファちゃんみたいなかわいい女の子はレジェンダリーウェポン以上にレアであり見せびらかし用に欲しがられて当然なのであり中にはそれ以上の下心を抱いてる奴も多いのでありしかし自分に関しては一切そんなつもりは無くあくまでピュアかつリアルなお付き合いを望んでいるのであり云々かんぬん。
どさくさに紛れて妙なことを口走り始めたレコンに体重を乗せたリバー・ブローを一発撃ちこんで黙らせておいて、リーファは一応真剣に考えてみた。のであるが、自分がアイドル扱いされているなどという状況にはどうにも現実感がわかなかったし、ただでさえ覚えることの多いMMORPGが更にややこしくなりそうだったので、それ以上考えるのをやめ、今日までさして大きな問題もなくパーティープレイをこなしてきたのだったが――。
怒りと苛立ちを滲ませて立つシグルドの前で、リーファは全身に重苦しく絡みつくしがらみの糸を感じていた。ALOに求めているのは、すべての束縛から脱して飛翔するあの感覚だけ。何もかも振り切って、どこまでも飛びたいと、それだけを望んでいたのに……。
しかし、それは無知ゆえの甘えだったのだろうか。全ての人が翅を持つこの仮想世界なら、現実世界の重力を忘れられる――と思ったのは幻想だったのだろうか?
リーファ/直葉は、小学校の頃よく自分を苛めた剣道場の上級生のことを思い出していた。入門して以来道場で敵なしだったのが、いつしか年下でその上女の直葉に試合で勝てなくなってしまい、その報復としてよく帰り道で仲間数名と待ち伏せては卑小な嫌がらせを行った。そんな時、その上級生の口許は、今のシグルドと良く似た憤懣に強張っていたものだ。
結局、ここも同じなのか――。
やるせない失望に囚われ、リーファがうつむいた、その時だった。背後に下がり、影のように気配を殺していたキリトが、ぼそりと呟いた。
「数を恃む奴はいずれ死ぬ」
「え……?」
その言葉の意味が咄嗟につかめず、リーファは目を見開きながら振り向いた。同時にシグルドが唸り声を上げた。
「……なんだと……?」
キリトは一歩踏み出すと、リーファとシグルドの間に割って入り、自分より頭一つぶんほども背の高い威丈夫に向き合った。
「仲間の数に頼る奴は長生きできないって言ったのさ。あんたのその剣は、背中を女の子に守ってもらわなきゃ振れないのか」
「きッ……貴様ッ……!!」
あまりにもあからさまなキリトの言葉に、シグルドの顔が瞬時に赤く染まった。肩から下がった長いマントをばさりと巻き上げ、剣の束に手をかける。
「屑漁りのスプリガン風情がつけあがるな! リーファ、お前もこんな奴の相手をしてるんじゃない! どうせ領地を追放されたレネゲイドだろうが!」
今にも抜刀しそうな勢いでまくし立てるシグルドの台詞に、ついカッとしたリーファも思わず叫び返していた。
「失礼なこと言わないで! キリト君は――あたしの新しいパートナーよ!」
「なん……だと……」
額に青筋を立てながらも、シグルドは声に驚愕をにじませて唸った。
「リーファ……領地を捨てる気なのか……」
その言葉に、リーファはハッとして目を見開いた。
ALOプレイヤーは、そのプレイスタイルによって大きく二種に分かれる。
ひとつは、今までのリーファやシグルドのように領地を本拠にして同種族のパーティーを組み、稼いだユルドの一部を領主に上納して種族の勢力を発展させようとするグループ。もうひとつが、領地を出て中立都市を本拠とし、異種族間でパーティーを組んでゲーム攻略を行うグループだ。前者は後者を目的意識に欠けるとして蔑視することが多く、領地を捨てた――自発的、あるいは領主に追放された場合を問わず――プレイヤーを脱領者、レネゲイドと呼称している。
リーファの場合は、共同体としてのシルフ族への帰属意識は低いのだが、スイルベーンが気に入っていることと、あとの半分は惰性で領地に留まり続けていた。だが今シグルドの言葉によって、リーファの中に、解き放たれたい――という欲求が急速に浮かび上がってきたのだった。
「ええ……そうよ。あたし、ここを出るわ」
口をついて出たのは、その一言だった。
シグルドは唇を歪め、食いしばった歯をわずかに剥きだすと、いきなりブロードソードを抜き放った。燃えるような目でキリトをねめつける。
「……小虫が這いまわるくらいは捨て置こうと思ったが、泥棒の真似事とは調子に乗りすぎたな。のこのこと他種族の領地まで入ってくるからには斬られても文句は言わんだろうな……?」
芝居がかったシグルドの台詞に、キリトは肩をすくめるだけの動作で応じた。その糞度胸に半ばあきれつつも、リーファは本当に戦闘になったらシグルドに斬りかかる覚悟で腰の長刀に手を添えた。緊迫した空気が周囲に満ちた。
と、その時、シグルドの背後にいた彼の部下が小声で囁いた。
「今はやばいっすよ、シグルドさん。こんな人目があるとこで無抵抗の相手をキルしたら……」
周囲にはいつの間にか、トラブルの気配に引かれたように見物人の輪ができていた。正当なデュエルならともかく、この場では攻撃権を持たないキリトをシグルドが一方的に攻撃するのは確かに褒められた行為ではない。
シグルドは歯噛みをしながらしばらくキリトを睨んでいたが、やがて剣を鞘に収めた。
「せいぜい外では逃げ隠れることだな。――リーファ」
キリトに捨て台詞を浴びせておいてから、背後のリーファにも視線を向けてくる。
「……今オレを裏切れば、近いうちに必ず後悔することになるぞ」
「留まって後悔するよりはずっとマシだわ」
「戻りたくなったときのために、泣いて土下座する練習をしておくんだな」
それだけ言い放つと、シグルドは身を翻し、塔の出口へと歩き始めた。付き従うパーティーメンバー二人は、何か言いたそうにしばらくリーファの顔を見ていたが、やがて諦めたようにシグルドを追って走り去っていった。
彼らの姿が消えると、リーファは大きく息を吐き出し、キリトの顔を見た。
「……ごめんね、妙なことに巻き込んじゃって……」
「いや、俺も火に油を注ぐような真似しちゃって……。しかし、いいのか? 領地を捨てるって……」
「あー……」
リーファはどう言ったものか迷った挙句、無言でキリトの手を取って歩き始めた。野次馬の輪をすり抜けて、ちょうど降りてきたエレベータに飛び乗る。最上階のボタンを押すと、半透明のガラスでできたチューブの底を作る円盤状の石がぼんやりと緑色に光り始め、すぐに勢い良く上昇を開始した。
数十秒後、エレベータが停止すると壁面のガラスが音も無く開いた。白い朝陽と心地よい風が同時に流れ込んでくる。
足早にチューブから風の塔最上部の展望デッキに飛び出す。数え切れないほど訪れたことのある場所だが、四方に広がる大パノラマは何度見ても心が浮き立つ。
シルフ領は、アルヴヘイムの南西に位置する。西側は、しばらく草原が続いたあとすぐに海岸となっており、その向こうは無限の大海原が青く輝いている。東は深い森がどこまでも連なり、その奥には高い山脈が薄紫色に連なる。その稜線の更に彼方に、ほとんど空と同化した色で一際高くそびえる影――世界樹。
「うお……凄い眺めだな……」
リーファに続いてエレベータを降りたキリトが、目を細めてぐるりと周囲を見回した。
「空が近いな……。手が届きそうだ……」
瞳に憧憬にも似た色を浮かべて青い空を仰ぎ見るキリトに並んで、リーファはそっと右手を空にかざし、言った。
「でしょ。この空を見てると、ちっちゃく思えるよね、色んなことが」
「……」
キリトが気遣わしげな視線を向けてくる。それに笑顔を返し、リーファは言葉を続けた。
「……いいきっかけだったよ。いつかはここを出ていこうと思ってたの。一人じゃ怖くて、なかなか決心がつかなかったんだけど……」
「そうか。……でも、なんだか、喧嘩別れみたいな形にさせちゃって……」
「あの様子じゃ、どっちにしろ穏便には抜けられなかったよ。――なんで……」
その先は、半ば独り言だった。
「なんで、ああやって、縛ったり縛られたりしたがるのかな……。せっかく、翅があるのにね……」
それに答えたのはキリトではなく、彼の肩、ジャケットの大きな襟の下から顔を出したユイという名のピクシーだった。
「フクザツですね、人間は」
きららんと音を立てて飛び立つと、キリトの反対側の肩に着地し、小さな腕を組んで首を傾げる。
「ヒトを求める心を、あんなふうにややこしく表現する心理は理解できません」
彼女がプログラムであることも一瞬忘れ、リーファはユイの顔を覗きこんだ。
「求める……?」
「他者の心を求める衝動が人間の基本的な行動原理だとわたしは理解しています。ゆえにそれはわたしのベースメントでもあるのですが、わたしなら……」
ユイは突然キリトの頬に手を添えると、かがみこんで音高くキスをした。
「こうします。とてもシンプルで明確です」
あっけに取られて目を丸くするリーファの前で、キリトは苦笑いしながら指先でユイの頭をつついた。
「人間界はもうちょっとややこしい場所なんだよ。気安くそんな真似したらハラスメントでバンされちゃうよ」
「手順と様式ってやつですね」
「……頼むから妙なことを覚えないでくれよ」
キリトとユイのやり取りを呆然と眺めていたリーファは、どうにか口を動かした。
「す、すごいAIね。プライベートピクシーってみんなそうなの?」
「こいつは特にヘンなんだよ」
言いながらキリトはユイの襟首をつまみあげると、ひょいと胸ポケットに放り込んだ。
「そ、そうなんだ……。――人を求める心……かぁ……」
リーファはピクシーの言葉を繰り返しながら、かがめていた腰を伸ばした。
なら――、この世界でどこまでも飛んでいきたいと願っている自分の気持ちも、実はその奥で誰かを求めているのだろうか。不意に、和人の顔が脳裏を過ぎって、ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
ひょっとしたら……この妖精の翅を使って、現実世界のいろんな障害を飛び越えて、和人の胸に飛び込んでいきたいと――そう思っているんだろうか……。
「まさかね……」
考えすぎだ。心の中でそう呟いた。今は、ただ飛びたい。それだけだ。
「ん? 何か言った?」
「な、なんでもないよ。……さ、そろそろ出発しよっか」
キリトに笑顔を向けると、リーファは空を振り仰いだ。夜明けの光を受けて金色に輝いていた雲もすっかり消え去り、深い青がどこまでも広がっていた。今日はいい天気になりそうだった。
展望台の中央に設置されたロケーターストーンという石碑を使ってキリトに戻り位置をセーブさせると、リーファは四枚の翅を広げて軽く震わせた。
「準備はいい?」
「ああ」
キリトと、彼の胸ポケットから顔を出したピクシーがこくりと頷くのを確認して、いざ離陸しようとしたところで――。
「リーファちゃん!」
エレベータから転がるように飛び出してきた人物に呼び止められ、リーファはわずかに浮いた足を再び着地させた。
「あ……レコン」
「ひ、ひどいよ、一言声かけてから出発してもいいじゃない」
「ごめーん、忘れてた」
がくりと肩を落としたレコンは、気を取り直したように顔を上げるといつになく真剣な顔で言った。
「リーファちゃん、パーティー抜けたんだって?」
「ん……。その場の勢い半分だけどね。あんたはどうするの?」
「決まってるじゃない、この剣はリーファちゃんだけに捧げてるんだから……」
「えー、別にいらない」
リーファの言葉に再びレコンはよろけたが、この程度でメゲるような彼ではない。
「ま、まあそういうわけだから当然僕もついてくよ……と言いたいとこだけど、ちょっと気になることがあるんだよね……」
「……なに?」
「まだ確証はないんだけど……少し調べたいから、僕はもうしばらくパーティーに残るよ。――キリトさん」
レコンは、彼にしては最大限にマジメな様子でキリトに向き直った。
「彼女、トラブルに飛び込んでくクセがあるんで、気をつけてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
どこか面白がっているような表情でキリトが頷く。
「――それから、言っておきますけど彼女は僕のンギャッ!」
語尾の悲鳴はリーファが思い切りレコンの足を踏みつけたことによるものだ。
「余計なこと言わなくていいのよ! ――しばらくアルンにいると思うから、何かあったらメールでね。じゃね!!」
早口でまくし立てると、リーファは翅を広げ、ふわりと浮き上がった。名残惜しそうな顔のレコンに向かって二分の一秒ほど手を振ると、くるりと向きを変えて塔から離れ、北東の方角に滑空を始める。
すぐに隣に追いついてきたキリトが、笑いを押し殺したような表情のまま言った。
「彼、リアルでも友達なんだって?」
「……まあ、一応」
「ふうん」
「……何よ、そのふうんってのは」
「いやあ、いいなあと思ってさ」
キリトに続けて、彼の胸ポケットからピクシーも言った。
「あの人の感情は理解できます。好きなんですね、リーファさんのこと。リーファさんはどうなんですか?」
「し、知らないわよ!!」
つい大声で叫んでしまい、リーファは照れ隠しにスピードを上げた。レコンの直球な態度にはいいかげん慣れてしまっているのだが、キリトの隣でやられると何故か妙に恥ずかしかった。
気づくと、いつの間にか街を出て、森の縁に差し掛かっていた。リーファは体を半回転させて後進姿勢を取り、遠ざかっていく翡翠の街を見つめた。
一年を過ごしたスイルベーンから離れることを思うと、郷愁に似た感情がちくりと胸を刺したが、未知の世界へ旅立つ興奮がすぐにその痛みを薄めていった。バイバイ、と心のなかで呟いて、再び向き直る。
「――さ、急ごう! 一回の飛行であの湖まで行くよ!」
はるか彼方にきらきらと輝く湖面を指差し、リーファは思い切り翅を鳴らした。
じっとりと冷たい指先が自分の二の腕を這い回る感触に、アスナはひたすら耐えていた。
鳥かごの中央、巨大なベッドの上。緑のトーガをだらしなく着崩したオベイロンが長々と体を横たえ、隣に顔を背けて座るアスナの左手を取って肌を撫でまわしている。その気になればいつでも襲える、という状況を楽しんでいるのだろう、端正な作り物の顔にはいつにも増して粘つくような笑いが浮かんでいる。
先刻、オベイロンが鳥かごに入ってくるなりベッドに横たわり、隣に来いと言ったときは無論拒絶してやろうと思ったし、腕をいじくりはじめた時は殴りかかってやろうと思った。それでも、嫌悪感に耐えて唯々諾々と言葉に従ったのは、感情の起伏が激しいこの男に、今以上に自由を奪われるのを恐れたからだ。むしろオベイロンはアスナが反抗するのを待っているフシがある。たっぷりとアスナが嫌がる様を満喫した上で、システム的に束縛してから挙に及ぼうと言うのだろう。今はまだ、せめて籠の内部だけでも自由に動ける状態を確保しておかなければならない。――少しでも脱出の可能性が残されているうちは。
しかし勿論限度というものがある。もしこの男が体に触れてきたら、右拳を思い切り顔の真ん中に叩き込んでやろう――。そう思いながらアスナが石のように身を固くしていると、いくら腕を撫で回してもアスナが何の反応も見せないことに失望したのか、オベイロンは手を離すとごろりと体を上向けた。
「やれやれ、頑なな女だね、君も」
少々不貞腐れたように言う。その声だけは、記憶にある須郷のものを完全に再現していて、それがまた嫌悪の元になる。
「どうせ偽物の体じゃないか。何も傷つきゃしないよ。一日中こんな所にいて退屈するだろう? 少しは楽しもうって気にならないのかねえ」
「……あなたにはわからないわ。体が生身か、仮想かなんてことは関係ない。少なくともわたしにとってはね」
「心が汚れるとでも言いたいのかね」
オベイロンは喉の奥でくくっと笑った。
「どうせこの先、僕が地位を固めるまでは君を外に出すつもりはない。今のうちに楽しみ方を学んだほうが賢明だと思うけどねえ。あのシステムは実に奥が深いよ、知ってた?」
「興味ないわ。……それに、いつまでもここにいるつもりもない。きっと……助けに来るわ」
「へえ? 誰が? ……ひょっとして彼かな? 英雄キリト君」
その名前を聞いて、アスナは思わずびくりと体を震わせた。オベイロンはニヤニヤ笑いを大きくしながら上体を起こした。アスナの心をくじくスイッチをよくやく見つけた――と言わんばかりに、勢い良く喋りはじめる。
「彼……キリガヤ君とか言ったかな? 本名は。先日、会ったよ。向こうでね」
「……!!」
それを聞いた途端、アスナはさっと顔を上げ、オベイロンを正面から見つめた。
「いやあ、あの貧弱な子供がSAOをクリアした英雄とはとても信じられなかったね! それとも、そういうモノなのかな、筋金入りのゲームマニアってのは?」
嬉々とした表情で、オベイロンがまくし立てる。
「彼と会ったの、どこだと思う? ……君の病室だよ、本当の体がある、ね。寝ている君の前で、来月この子と結婚するんだ、と言ってやったときの彼の顔は実に傑作だったね!! 骨を取り上げられた犬だってあんな情けない顔はしないね、大笑いしそうになったよ!!」
くひっ、くひっと妙な笑い声を切れ切れに発しながら、オベイロンは体を捩った。
「じゃあ君は、あんなガキが助けにくると信じているわけだ! 賭けてもいいけどね、あのガキにはもう一回ナーヴギアを被る根性なんてありゃしないよ! 大体君のいる場所がわかる筈がないだろうに。そうだ、彼に結婚式の招待状を送らないとな。きっと来るよ、君のウェディングドレス姿を見にね。まあそれくらいのおこぼれは与えてやらないとね、英雄君に!」
アスナは再びゆっくりうつむくと、オベイロンに背を向け、体をベッドの天板に掛けられた大きな鏡に預けた。力なく肩を落とし、クッションをぎゅっと握り締める。
そのアスナの様子に満足したのか、鏡の中でオベイロンがベッドから降り、立ち上がった。
「あの時は監視カメラを切っておいたから、しょぼくれた彼を撮影できてないのは惜しかったなぁ。もし撮れてれば動画を持ってきてやったのに。次の機会があったら試みるよ。ではしばしの別れだ、ティターニア。明後日まで、寂しいだろうが堪えてくれたまえ」
最後に一回ククッと笑うと、オベイロンは身を翻した。トーガの裾を揺らしながら、ドアに向かって歩いていく。
鏡の中に、小さくなるオベイロンの姿を捉えながら、アスナはすすり泣く様子を装いつつ心の中で思い切り叫んだ。
(――馬鹿な男!!)
まったく、頭はいいのかもしれないが実に愚かな男だ。昔からそうだった。他人を言葉でこき下ろす衝動が我慢できないのだ。アスナの両親の前ではうまく猫を被っていたが、アスナや兄は、須郷の他人に対する毒舌には何度も辟易とさせられていた。
今も、そうだ。本当にアスナの心を折ろうとするなら、彼は現実世界でのキリトのことを話すべきではなかった。彼は死んだと言うべきだったのだ。
この世界に囚われてからの、それがアスナの最大の憂慮だった。自分だけがこの世界に転送され、キリトの意識は消滅してしまったのではないか――、必死に打ち消しながらも、その想像はアスナの心に毒を垂らしつづけた。
しかし今や、オベイロンがその憂慮をきれいに打ち払ってくれた。
(キリト君は――生きてる!!)
何度も、心の中でその言葉を噛み締める。その度に、アスナの中に灯った炎は確固としたものになっていく。
生きているなら、彼が状況を黙視しているはずがない。絶対にこの世界のことを探り出し、やってくる。だから、自分もただ囚われているわけにはいかない。出来る事を見つけ出し――躊躇せず実行に移すのだ。
アスナは、鏡に顔をつけて悲嘆に暮れる様を装った。鏡の中では、はるか遠くのドアにたどり着いたオベイロンが、こちらをちらりと振り返り、アスナの様子を確認している。
ドアの脇には小さな金属のプレートがあり、そこには十二の小さなボタンが並んでいる。それを正しい順で押すことによってドアが開閉するのだ。
何もそんな厄介な仕組みにしなくても、管理者属性の者だけがドアを開けられるようにすればいいではないかと思ったが、どうやらオベイロンには彼なりの美学があって、この場所にシステム臭のするものを持ち込むのが嫌いらしい。あくまで自分は妖精の王であり、囚われの王妃を虐げているつもりなのだ。
それもまた彼の愚かしさであり瑕(キズ)だ。
オベイロンが手を上げ、金属板を操作している。彼の立つ場所はアスナからは遠く、遠近エフェクトによってディティールが減少し、どのボタンを押しているのかはわからない。それを確認済ゆえにオベイロンはそんなシステムでもこの檻は磐石だと思っている。
それはその通りだ――オベイロンを直接見る場合に限っては。
彼はナーヴギアの作り出す仮想世界に触れてまだ間がない。だから知らないこともたくさんある。例えば、この世界の鏡は光学現象ではない、ということをだ。
アスナは泣くふりをしながら、至近距離から鏡に目を凝らした。そこには、くっきりとオベイロンの姿が映し出されている。現実の鏡なら、どんなに顔を近づけても遠くにあるものが詳細に見えたりはしないが、ここではオブジェクトとしての鏡の表面に微細なピクセルを用いて、映るべきものが計算され、表示されているのだ。遠近エフェクトも、鏡の中までは及ばない。指先の動きがはっきりと見える。
このアイデアを思いついたのはかなり前だ。しかし、オベイロンが部屋を出るときに、自然に鏡に近づくチャンスが今日までなかった。この機を逃すわけにはいかない。
(……8……11……3……2……)
オベイロンがボタンを押す順番を、アスナはしっかりと心に刻み付けた。やがてドアが開き、オベイロンがそこをくぐるとガシャリと音を立てて閉まった。黒地に碧玉色の翅を揺らしながら妖精王は樹上の道を遠ざかっていき、やがてその姿が消えた。
中天に輝く太陽が、鳥かごの中に格子状の影を作り出していた。その碁盤模様がゆっくりと伸びていくのを、アスナはじりじりしながら待ちつづけた。
現在分かっていることは、そう多くはない。
ここが『アルヴヘイム・オンライン』という、SAOタイプのバーチャルMMOゲームの内部で、信じがたいことだがそのゲームは正式にユーザーを募って運営されていること。オベイロン/須郷はそのサーバーを利用して元SAOプレイヤーの一部、約二千人の”頭脳を監禁”し、違法な人体実験に使用していること。それだけだ。
なぜ世間に知られたゲーム内で違法実験を行うような危険な真似をするのか聞いてみたところ、須郷は鼻を鳴らして答えた。――君ねえ、この種のターミナルを動かすのに幾らかかるのか知ってるのかい? サーバ一台でウン千万だよ! こうすれば会社は利益を上げられるし僕は研究ができる、一石二鳥じゃないかね。
つまりは財布の事情だったわけだが、それはアスナにとっても都合がいいことだった。完全にクローズドな環境なら手の出しようがないが、現実世界と繋がっているならばどこかにきっと綻びがある。
この世界での一日が、現実よりいくぶん早く経過しているのはオベイロンからそれとなく聞き出してあった。つまり、現実では今が何時なのかを推測するのは容易なことではないが、その難問に対する回答はまたしてもオベイロン本人が意図せず提供してくれていた。
彼がここにやってくるのは二日に一度、業務が終了してから、会社の端末を使用してダイブしているのだということが分かっている。生活のサイクルを守ることに固執する彼の性癖はよく知っているので、その時間はほぼ一定と考えていい。ゆえに行動を起こすなら、彼が帰宅し、眠りについてからのほうが望ましい。
無論、この陰謀に関わっているのは彼一人ではないだろう。だがこれは明らかな犯罪行為だ。ALO運営企業全体が荷担しているとは考えにくい。よくて数人――。それが皆須郷直属の部下なのだとしたら、夜通しALO内部を監視するのはほとんど不可能なはずだ。毎晩徹夜できるサラリーマンなどいるはずがない。
どうにか彼らの目をくぐり抜けてこの鳥かごから脱出し、どこかにあるであろうシステム端末にアクセスしてログアウトしてしまえば。それが不可能でも外部にメッセージさえ送れれば――。ベッドの上にうつ伏せになり、枕に顔を押し当てた格好で、アスナはひたすら時間が経過するのを待ちつづけた。
SAO2_04_Unicode.txt
リーファは半ば感嘆し、半ば呆れながらキリトの戦闘を眺めていた。
シルフ領の北東に広がる『古森』の上空、もう少しで森を抜けて高原地帯に差し掛かる辺りだ。スイルベーンはもはや遥か後方に遠ざかり、どんなに目を凝らしても翡翠の塔を見分けることはできない。
いわゆる中立域の奥深くに分け入っているために、出現するモンスターの強さもかなりのレベルになりつつある。今キリトが三匹を同時に相手にしている、羽の生えた単眼の大トカゲ『イビルグランサー』もシルフ領の初級ダンジョンならボス級の戦闘力を持っている。
基本ステータスもさることながら、厄介なのは大きな紫の一ツ眼から放つ『呪念』――カース系の魔法で、食らうと大幅な一時的ステータスダウンを強いられる。ゆえにリーファは距離を取って援護に徹し、キリトにカースが命中するたびに解呪魔法をかけているのだが、正直に言ってその必要があるのかどうかも怪しいところだ。
身長に迫るほどの巨剣を握ったキリトは、防御や回避といった言葉は辞書にない、と言わんばかりのバーサークっぷりを見せて次々とトカゲと叩き落としていった。尾を使ったトカゲの遠距離攻撃など意に介するふうもなく、巨剣を振り回しながら突進しては時に数匹を一度にその暴風に巻き込み、切り刻む。恐るべきはその一撃の威力で、当初は五匹いたイビルグランサーはあっという間にその数を減らし、最後の一匹はHPを残り二割程度に減らされたところで逃走に移った。情けない悲鳴を上げながら森に逃げ込もうとする奴に向かってリーファは左手をかざすと、遠距離ホーミング系の真空攻撃魔法を発射。緑色に輝くブーメラン状の刃が四~五枚宙を疾り、トカゲの体に絡みつくようにその鱗を切り裂いた。直後、青い爬虫類の巨体はポリゴンの欠片となって四散し、この日五度目の戦闘はあっけなく終了した。
大きな金属音と共に剣を鞘に落とし込み、宙をふわふわと近づいてきたキリトに向かってリーファは右手を上げた。
「おつかれー」
「援護サンキュー」
ぱしんと手のひらを打ち付け合って、笑みを交わす。
「しっかしまあ……何ていうか、ムチャクチャな戦い方ねえ」
リーファが言うと、キリトは頭をかいた。
「そ、そうかな」
「普通はもっと、回避を意識してヒットアンドアウェイを繰り返すもんだけどね。キミのはヒットアンドヒットだよ」
「その分早く片付いていいじゃないか」
「今みたいな一種構成のモンスターならそれでもいいけどね。近接型と遠距離型の混成とか、もしプレイヤーのパーティーと戦闘になった時は、どうしても魔法で狙い撃たれるから気をつけないとだめだよ」
「魔法ってのは回避できないのか?」
「遠距離攻撃魔法には何種類かあって、威力重視で直線軌道の奴は、方向さえ読めれば避けられるけど、ホーミング性能のいい魔法や範囲攻撃魔法は無理ね。それ系の魔法を使うメイジがいる場合は常に高速移動しながら交錯タイミングをはかる必要があるわ」
「ふむう……。覚えることが沢山ありそうだなあ」
キリトは難解な問題集を与えられた子供のような顔で頭をかいた。
「まあ、キミならすぐに勘がつかめる……と思うよ。目はいいみたいだしね。現実でスポーツか何かやってるの?」
「い、いやまったく」
「ふうん……。ま、いっか。さあ、先に進みましょう」
「おう」
頷きあうと、二人は翅を鳴らして移動を再開した。傾きはじめた太陽に照らされ、緑金色に輝く草原が森の彼方に姿を現しつつあった。
その後はモンスターに出会うこともなく、二人はついに古森を脱して山岳地帯へ入った。ちょうど飛翔力が限界に来たので、山の裾野を形成する草原の端に降下することにする。
靴底を草に滑らせながら着地したリーファは、両腕を上げて大きく伸びをした。生身の体には無い器官なのに、長時間の飛行をすると不思議に翅の根元が疲労するような感覚に襲われる。数秒遅れて着陸したキリトも同じように腰に手をあてて背筋を伸ばしている。
「ふふ、疲れた?」
「いや、まだまだ!」
「お、頑張るわね。……と言いたいとこだけど、空の旅はしばらくお預けよ」
リーファの言葉に、キリトは眉を上げた。
「ありゃ、何で?」
「見えるでしょう、あの山」
草原の先にそびえ立つ、真っ白に冠雪した山脈を指差す。
「あれが飛行限界高度よりも高いせいで、山越えには洞窟を抜けないといけないの。シルフ領からアルンへ向かう一番の難所、らしいわ。あたしもここからは初めてなのよ」
「なるほどね……。洞窟か、長いの?」
「かなり。途中に中立の鉱山都市があって、そこで休めるらしいけど……。キリト君、今日はまだ時間だいじょぶ?」
キリトは右手を振ってウインドウを出すと時計を確認し、頷いた。
「リアルだと夜7時か。俺は当分平気だよ」
「そう、じゃもうちょっと頑張ろう。ここで一回ローテアウトしよっか」
「ろ、ろーて?」
「ああ、交代でログアウト休憩することだよ。中立地帯だから、即落ちできないの。だからかわりばんこに落ちて、残った人がシルエット……プレイヤーの入ってないキャラクターを守るのよ」
「なるほど、了解。リーファからどうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。十分ほどよろしく!」
言うと、リーファはウインドウを出し、ログアウトボタンを押した。警告メッセージのイエスボタンに触れると、周囲の風景が中央の一点に流れ込むかのごとく遠ざかり、消えていった。
ベッドの上で覚醒した直葉は、アミュスフィアを外すのももどかしく飛び起きると、部屋から出た。足音を殺しながら階段を駆け下りる。雑誌の校了日が近いので翠はまだ帰っておらず、和人も自室にいるのか一階はしんと静まり返っていた。
冷蔵庫を開け、買い置きのベーグル三つと生ハムやクリームチーズ、野菜類を次々と取り出す。丸いパンを手早くスライスして、薄くマスタードを塗ってからハムその他をどさどさと挟み、完成したベーグルサンドを皿に移す。小さなミルクパンに牛乳を注ぎ、レンジにかけてから直葉は再び階段まで戻り、二階に向かって呼びかけた。
「お兄ちゃん、ご飯どうするー?」
……だが返事はない。寝ているのかな、と肩をすくめ、台所へ取って返す。薄く湯気の立ち始めたミルクを大きなマグカップに注ぎ、皿と一緒にリビングテーブルの上に移動。いただきます、と小声で言って、即席の食料に大きく一口かぶりついた。
本当は、VRMMOにかまけてこういう食事をすると翠に叱られてしまうので、なるべく団体行動は夕食時にかからないように注意しているのだ。だが今回ばかりはそうもいかない。多分キリトとの旅は明日いっぱい、ヘタをするとその翌日までかかってしまうだろう。性分なのか直葉は長時間のパーティープレイが苦手で、日をまたぐような場合はどうしても気詰まりになってしまうのだが、不思議に今回はそれがなかった。それどころか――
(あたし、わくわくしてる……)
もぐもぐと咀嚼しながら胸の中で呟く。あの謎めいた少年(と、更に謎めいたピクシー)と未知の世界を冒険することを考えただけで気持ちが浮き立つ。
思い返せば、昔は毎日がそんな感じだった。強くなるにつれ少しずつ行動範囲が広がり、見知らぬ場所の上空を飛ぶだけでドキドキしたものだ。でも、シルフ領の中で、古参の有力プレイヤーとして持ち上げられ、知識と同時に色んなしがらみが増えていき――気づかないうちに毎日が惰性の中に埋もれていった。種族全体のために戦うという義務が、翼に見えない鎖をかけていたのだ。
ALOで領地を捨てた者を指す言葉「レネゲイド」、それは本来「背教者」という意味の英単語なのだと言う。義務として課せられた教えを捨て、国を追われた人々……今まではみじめな裏切り者というイメージを重ねていた彼らの胸中にも、もしかしたら一片の誇りがあったのかもしれない――。
漠然とそんなことを思いながら、直葉はベーグルサンドの最後のひとかけらを口に放り込み、ホットミルクと一緒に飲み下した。残った二つのベーグルにラップをかけ、メモ用紙を一枚剥ぎ取って、「お兄ちゃんへ、お腹が空いたら食べてね」と走り書きをして皿の下に挟む。
時計を見ると、そろそろ落ちてから十分が経過しつつあった。あわてて食器を洗い、トイレを済ませて、部屋に駆け戻る。
ベッドに体を横たえ、サスペンド状態のアミュスフィアを被ると、すぐに草原の微風がさわやかな香りで直葉――リーファを迎えた。
「お待たせ! モンスター出なかった?」
待機姿勢――片膝立ちでしゃがみこんだ格好――から立ち上がり、リーファが言うと、傍らに寝転がっていたキリトは口から緑色の曲がったストロー状のものを離し、頷いた。
「おかえり。静かなもんだったよ」
「……それ、ナニ?」
「雑貨屋で買い込んだんだけど……スイルベーン特産だってNPCが言ってたぜ」
「あたし知らないわよ、そんなの」
するとキリトはそれをひょいっと放ってきた。片手で受け止め、ドギマギする心を素知らぬ顔で隠して端っこを咥える。一息吸うと、甘い薄荷の香りがする空気が口に広がった。
「じゃ、今度は俺が落ちる番だな。護衛よろしく」
「うん、行ってらっしゃい」
キリトがウインドウを出し、ログアウトすると、自動的にその体が待機姿勢を取った。その横に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺めながら薄荷味のパイプを吸っていると、キリトの胸ポケットからもぞもぞとユイが姿を現してリーファを仰天させた。
「わぁ! ……あ、あなた、ご主人様がいなくても動けるの?」
するとユイは当然といった顔で小さな手を腰にあて、頷いた。
「そりゃそうですよー。わたしはわたしですから。それと、ご主人様じゃなくて、パパです」
「そういえば……なんであなたはキリトのことパパって呼ぶの? マサカそういう設定なの?」
「……パパは、わたしを助けてくれたんです。俺の子供だ、ってそう言ってくれたんです。だからパパです」
「そ、そう……」
やはりどうにも事情が飲み込めない。
「……パパのこと、好きなの?」
リーファが何気なく訊ねると、ユイはふいに真剣な表情でまっすぐ見つめ返してきた。
「リーファさん……好きって、どういうことなんでしょう?」
「ど、どうって……」
思わず口篭もる。しばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……いつでも一緒にいたい、一緒にいるとどきどきわくわくする、そんな感じかな……」
脳裏に和人の笑顔がよぎり――なぜかそれが、目の前で瞼を閉じてうつむくキリトの横顔と重なって、リーファははっと息を飲んだ。心の奥底に隠した和人への思慕とよく似たものをいつの間にかキリトにも感じているような、そんな気がしてしまって、思わず頭をぶんぶんと振り払う。怪訝な顔でユイが首をかしげる。
「どうしたんですか、リーファさん?」
「なななんでもない!」
つい大声で叫んだ、その途端――
「何がなんでもないって?」
「わっ!!」
いきなりキリトが顔を上げて、リーファは文字通り飛び上がった。
「ただいま。……何かあったの?」
激しく動揺するリーファに怪訝な目を向けながら、キリトは待機姿勢から起立した。するとその肩に乗ったままのユイが言った。
「おかえりなさい、パパ。今、リーファさんとお話をしてました。人を好――」
「わあ、なんでもないんだったら!!」
慌ててその言葉を遮りながらリーファも立つ。
「それより、さっさと出発しましょう。遅くなる前に鉱山都市までたどり着けないと、ログアウトに苦労するから。さ、洞窟の入り口までもう少し飛ぶよ!」
早口でまくし立てると、キリトとユイは揃って首をかしげた。それに構わず翅を広げ、軽く震わせる。
「あ、ああ。じゃあ、行こうか」
腑に落ちない顔ながらもキリトも翅を展開し――突然ふいっと、今まで飛んできた森の方に振り向いた。
「……? どうかしたの?」
「いや……」
声をかけると、キリトは思いがけず厳しい顔でうっそうと繁る木立の奥を見据えている。
「なんか、誰かに見られた気が……。ユイ、近くにプレイヤーはいるか?」
「いいえ、反応はありません」
ピクシーは小さな頭をふるふると動かした。だがキリトはなおも納得できない様子で眉をしかめている。
「見られた気が、って……。この世界にそんな第六感みたいなもの、あるの?」
リーファが聞くと、キリトは右手で顎を撫でながら答えた。
「……これが中々バカにできないんだよな……。例えば誰かがこっちを見ている場合、そいつに渡すデータを得るためにシステムが俺たちを『参照』するわけだけど、その流れを脳が感じるんじゃないか……という説もある」
「は、はあ……」
「でもユイに見えないなら誰も居ないんだろうしなあ……」
「うーん、ひょっとしたらトレーサーが付いてるのかも……」
リーファが呟くと、キリトは眉を上げた。
「そりゃ何だい?」
「追跡魔法よ。大概ちっちゃい使い魔の姿で、術者に対象の位置を教えるの」
「便利なものがあるんだなあ。それは解除できないの?」
「トレーサーを見つけられれば可能だけど、術者の魔法スキルが高いと、対象との間に取れる距離も増えるから、こんなフィールドだとほとんど不可能ね」
「そうか……。まあ、気のせいかもしれないしな……。とりあえず先を急ごうぜ」
「うん」
頷きあい、リーファとキリトは地を蹴って浮かび上がった。間近に迫った白い山脈は絶壁の如くそびえ立ち、その中腹にぽっかりと口を開けた洞窟が見て取れる。不吉な黒い冷気を吐き出しているかのような巨大な穴目指して、リーファは力いっぱい翅を鳴らし、加速を始めた。
数分の飛行で、二人とひとりは洞窟の入り口までたどり着いた。
ほぼ垂直に切り立った一枚岩の岩盤の中央に、巨人の鑿で穿たれたかの如き四角い穴が開いている。幅も高さも、リーファの背丈の三、四倍はありそうな大きさだ。遠くからはわからなかったが、入り口の周囲は不気味な怪物の彫刻で飾られ、上部中央には一際大きな悪魔の首が突き出して侵入者を睥睨している。
「……この洞窟、名前はあるの?」
キリトの問いに、リーファは頷きつつ答えた。
「『ルグルー回廊』って言うのよ、確か。ルグルーってのが鉱山都市の名前」
「ふうん。……昔の映画だけどさ、『ロードオブザリング』って観たことある?」
にやにや笑うキリトの顔を横目で睨む。和人の部屋に、数年前出た愛蔵版のBDVDがあったので、勝手に借りて三作とも観ていた。
「……あるわよ。山越えで地下を通ると、でっかい悪魔に襲われるんでしょ。あいにくだけどここに悪魔は出ませんからね」
「そりゃ残念」
「あ、オークは出るらしいわよ。そんなに楽しみなら全部お任せしますわね」
つん、とそっぽを向くと、リーファはすたすたと洞窟の中へと歩き出した。
洞窟の中はひんやりと涼しく、外から差し込む光はすぐに薄れ、周囲を暗闇が覆いはじめた。魔法で灯りをともそうと手を上げてから、ふと思いついて、横を歩くキリトを見る。
「そう言えば、キリト君は魔法スキル上げてるの?」
「あー、まあ、そこそこに……。使ったことはあんまりないけど……」
「洞窟とかはスプリガンの得意分野だから、灯りの術も風魔法よりはいいのがあるはずなのよ」
「えーと、ユイ、分かる?」
頭をかきながらキリトが言うと、胸ポケットから顔だけ出したユイがどこか教師然とした口調で言った。
「もう、パパ、マニュアルくらい見ておいたほうがいいですよ。灯りの魔法はですね……」
ユイが一音ずつ区切るように発声したスペルワードを、キリトは右手を掲げながら覚束ない調子で繰り返した。すると、その手から仄白い光の波動が広がり、それがリーファの体を包んだ途端、すっと視界が明るくなった。どうやら光源を発生させて周囲を照らすのではなく、対象に暗視能力を付与する魔法らしい。
「わあ、これは便利ね。スプリガンも捨てたもんじゃないわね」
「あ、その言われ方なんか傷つく」
「うふふ。いやでも実際、使える魔法くらい暗記しておいたほうがいいわよ。いくらスプリガンのしょぼい魔法でも、それが生死を分ける状況だってひょっとすると無いとも限らないし」
「うわ、さらに傷つく!」
軽口を叩きながら、曲がりくねった洞窟を下っていく。いつの間にか、入り口の白い光はすっかり見えなくなっていた。
「うええーと……アール・デナ・レ……レイ……」
キリトは、紫に発光するリファレンスマニュアルを覗き込み、覚束ない口調でスペルワードをぶつぶつと呟いた。
「だめだめ、そんなにつっかえたらちゃんと発動できないわよ。スペル全体を機械的に暗記しようとするんじゃなくて、まずそれぞれの『力の言葉』の意味を覚えて、魔法の効果と関連付けるようにして記憶するのよ」
リーファが言うと、黒衣の剣士は深いため息とともにがっくりとうな垂れる。
「まさかゲームの中で英熟語の勉強みたいな真似することになるとは思わなかったなぁ……」
「言っときますけど上級スペルなんて二十ワードくらいあるんだからね」
「うへぇ……。俺もうピュアファイターでいいよ……」
「泣き言いわない!! ほら、最初からもう一回」
――洞窟に入ってすでに二時間が経過していた。十回を越えるケイブオーク相手の戦闘も難なく切り抜け、スイルベーンで仕入れておいたマップのお陰で道に迷うこともなく、順調に路程を消化している。マップによればこの先には広大な地底湖にかかる橋があり、それを渡ればいよいよ地底鉱山都市ルグルーに到着することになる。
ルグルーは、ノーム領の首都たる大地下要塞ほどではないが良質の鉱石を産し、商人や鍛冶屋プレイヤーが多く暮らしているということだったが、ここまでの行程で他のプレイヤーと出会うことはなかった。この洞窟は、狩場としてはそれほど実入りのいい場所ではないし、何より飛行が身上のシルフゆえ、飛べない場所は敬遠する者が多いのだろう。洞窟内は幅も高さも充分あるのだが、飛翔力が一切回復しないのだ。
シルフのプレイヤーで交易のためにアルンを目指す者は、かかる時間は大幅に増えてしまうが、シルフ領の北にあるケットシー領を経由し、山脈を迂回する場合が多い。猫に似た耳と尻尾を持つ種族ケットシーはモンスターや動物を飼い馴らすスキル「テイミング」が得意で、テイムした騎乗動物を昔からシルフ領に提供してきた縁があるためシルフとは伝統的に仲がいい。領主同士の関係も良好で、近いうちに正式に同盟を結ぶという噂もある。
リーファにも親しいケットシーの友人が何人かいるために、今回のアルン行きも北回りルートを取ろうかと考えたが、キリトが急ぐ様子だったので山越えを選んだ。地下深く潜るのは正直不安もあったけれど、この調子ならさして問題もなく突破できそうだった。
――そう言えば、キリトが何故それほどアルン……世界樹へ急ぐのか、その理由も謎のままだ。飄々とした態度からはなかなか内心がうかがい知れないが、戦闘の様子を見るとどうやらかなり気が急いているようでもある。
確か人を捜している――というようなことを言っていたような覚えがあった。リアルで連絡が取れない相手をゲーム内部で捜す、というのは、実はそれほど珍しい話でもない。雑貨屋の店先にある掲示板の尋ね人コーナーには、常に「捜しています」の書き込みが後を絶たない。大概その理由は恨みつらみか色恋沙汰のどちらなのだが、しかしそのどちらもキリトには似合わない気がした。それに――アルンで捜す、ならわかるがなぜ世界樹なのか。あそこは今のところ不可侵領域であり、たとえ根元までは辿りつけても上部に登ることは不可能なのだ……。
スペルワードに悪戦苦闘し続けているキリトの隣を歩きながら、リーファはぼんやりと取り留めのない思考に身を任せていた。普段なら中立地帯で物思いにふけるなど自殺行為だが、この旅に限ってはユイが恐るべき精度でモンスターの接近を予告してくれるために不意打ちの心配はない。
更に数分が経過し、いよいよ地底湖が間近に迫りつつあったその時、リーファの意識を呼び覚ましたのはユイの警告ではなくルルルル、という電話の呼び出し音にも似たエフェクト音だった。
リーファはハッと顔を上げ、キリトに声をかけた。
「あ、メッセージ入った。ごめん、ちょっと待って」
「ああ」
立ち止まり、体の前方、胸より少し低い位置に表示されたアイコンを指先で押す。瞬時にウインドウが展開し、着信したフレンドメッセージが表示された。――と言ってもリーファがフレンド登録しているのは(不本意ながら)レコンただ一人なので、差出人は読む前からわかっていた。どうせまた益体もない内容だろうと思いながら目を走らせる。だが――
『やっぱり思ったとおりだった! 気をつけて、s』
書かれていたのはこれだけだった。
「なんだこりゃ」
思わず呟く。まったく意味を成していない。何が思ったとおりなのか、何に気をつけろというのか、そもそも文末の「s」というのは何なのだ。署名ならばLのはずだし――書きかけで送信したのだろうか?
「エス……さ……し……す……うーん」
「どうしたの?」
不思議そうな顔のキリトに、内容を説明しようとした、その時だった。彼の胸ポケットからぴょこんとユイが顔を出した。
「パパ、接近する反応があります」
「モンスターか?」
キリトが背中の巨剣の柄に手を掛ける。だが、ユイはふるふると首を振った。
「いえ――プレイヤーです。多いです……二十三人」
「にじゅう……!?」
リーファは絶句した。通常の戦闘単位にしては多すぎる。ルグルーもしくはアルンを目指す交易キャラバンだろうか。
確かに、月に一回ほどのペースでスイルベーンと中央を往復する大パーティーが組まれている。しかしあれは出発数日前から大々的に告知して参加者を募るのが慣例だし、朝に掲示板を覗いた時にはそのような書き込みは無かった。
しかし正体不明の集団であろうとも、それがシルフである限り危険はないし、まさかこんな場所に異種族の集団PKが出るとも思わなかったが、何となく嫌な感じがしてリーファはキリトに向き直った。
「ちょっとヤな予感がするの。隠れてやり過ごそう」
「しかし……どこに……」
キリトは戸惑ったように周囲を見回す。長い一本道の途中で、幅は広いが身を隠せるような枝道のたぐいは見当たらない。
「ま、そこはオマカセよん」
リーファはすました笑みを浮かべるとキリトの腕を取り、手近な窪みに引っ張り込んだ。照れくささを押し隠して体を密着させると、左手を上げてスペルを詠唱する。
すぐに緑に輝く空気の渦が足許から巻き起こり、二人の体を包み込んだ。視界は薄緑色に染まったが、外部からはほぼ完全に隠蔽されたはずだ。リーファはかたわらのキリトの顔を見上げ、小声で囁いた。
「喋るときは最低のボリュームでね。あんまり大きい声出すと魔法が解けちゃうから」
「了解。便利な魔法だなあ」
キリトは目を丸くして風の膜を見回している。そのポケットから顔を出したユイも、難しい顔をしてひそひそと囁いた。
「あと二分ほどで視界に入ります」
二人は首を縮め、岩肌に体を押し付ける。緊迫した数秒が過ぎ、やがてリーファの耳にザッザッという足音がかすかに届いてきた。その響きの中に、重い金属音の響きが混じった気がして、あれ、と内心で首を傾げたとき――。
キリトがひょいと首を伸ばし、不明集団が接近してくる方向を睨んだ。
「あれは……何だ?」
「何? まだ見えないでしょ?」
「プレイヤーは見えないけど……。モンスターかな? 赤い、ちっちゃいコウモリが……」
「!?」
リーファは息を呑んで目を凝らした。洞窟の暗闇の中に――確かに小さな赤い影がひらひらと飛翔し、こちらに近づいてくる。あれは――
「……くそっ」
無意識のうちに罵り声を上げると、リーファは窪みから道の真ん中に転がり出た。自動的に隠蔽魔法が解除され、キリトも途惑い顔で体を起こす。
「お、おい、どうしたんだよ」
「あれは、高位魔法のトレース・サーチャーよ!! 潰さないと!!」
叫びながら両手を前方に掲げ、スペル詠唱を開始。長めのワードを唱え終わると、リーファの両手の指先からエメラルド色に光る針が無数に発射された。ビィィィ、と空気を鳴らし、赤いコウモリ目掛けて針が殺到していく。
コウモリはふわりふわりと宙を漂い、巧みに射線から身をかわし続けたが、やがて弾数の多さに屈したように数本の針に貫かれると地面に墜落し、赤い光を発して消滅した。それを確認するやリーファは身を翻し、キリトに向かって叫んだ。
「街まで走るよ、キリト君!!」
「え……また隠れるのはダメなのか?」
「トレーサーを潰したのは敵にももうわかってる。この辺に来たら山ほどサーチャーを出すだろうから、とても隠れきれないよ。それに……さっきのは火属性の使い魔なの。ってことは、今接近してるパーティーは……」
「サラマンダーか!」
察しのいいところを見せてキリトも顔をしかめた。そのやり取りの間にも、ガシャガシャという金属音の混じった足音は大きくなっていく。リーファがもう一度ちらりと振り返ると、彼方の暗闇にちらりと赤い光が見えた。
「行こう」
頷きあい、二人は走り出した。
一目散に駆けながらマップを広げて確認すると、この一本道はもうすぐ終わり、その先に大きな地底湖が広がっていた。道は湖を貫く橋に繋がり、それを渡り終えれば鉱山都市ルグルーの門に飛び込むことができる。街の中はアタック不可能圏内なので、いかに敵の数が多くとも何もすることはできない。
でも、どうしてこんなところにサラマンダーの大集団が……。
リーファは唇を噛んだ。トレーサーに付けられていたということは、連中は最初からリーファ達を狙っていたということだ。しかしスイルベーンを出てからは、ユイのサーチ能力のせいでそんな隙はなかったはずだ。可能性があるとすれば、まだスイルベーンの街中に居たときしかない。
火属性の魔法を使うシルフもいないわけではない。各属性の魔法は、風ならシルフ、土ならノームというように特定の種族に秀でた適正があるが、習得に苦労するだけでスキルを上げること自体は可能だ。
だが、さっき潰した赤いコウモリは、目標を追跡するトレーサーと、隠蔽を暴くサーチャーの機能を兼ね備えた高位の術で、サラマンダー以外の種族があれを使えるほどに火魔法スキルをマスターするのは至難の技と言っていい。ということは――
「スイルベーンにサラマンダーが入り込んでいた……?」
走りながら、リーファは呟いた。もしその想像が的中しているとすれば容易ならざる事態だ。スイルベーンは比較的他種族の旅行者に門戸の開かれた街だが、敵対関係にあるサラマンダーの侵入だけは厳しくチェックしていた。強力なNPCガーディアンが、見つけ次第斬り倒しているはずなのだ。それをかいくぐる手段はごく少ない……。
「お、湖だ」
右前方を走るキリトの声が、リーファの意識を引き戻した。顔を上げると、ごつごつした通路はすぐ先で石畳の整備された道に変わり、その向こうで空間がいっぱいに開けて、広大な青黒い湖水がほのかに光っていた。
湖の中央を石造りの橋が一直線に貫き、彼方には空洞の天井までつながる巨大な城門がそびえ立っている。鉱山都市ルグルーの門だ。いっぱいに開かれたその内部に飛び込んでしまえば、この鬼ごっこはリーファ達の勝ちだ。
わずかに安堵して、リーファは再び後方を振り返った。追手の灯す赤い光とはまだかなりの距離がある。これなら――、そう思って、石畳を蹴る足に力を込める。
橋に入ると、周囲の温度がわずかに下がった。ひんやりと水の香りがする空気を切り裂いて疾駆する。
「どうやら逃げ切れそうだな」
「油断してコケないでよ」
キリトと短く言葉と笑みを交わしながら、橋の中央に設けられた円形の展望台に差し掛かった、その時だった。
ゴゴ、ゴーン! という重い轟音がリーファの耳朶を叩いた。
「!?」
橋が揺れている。息をのむ間もなく、展望台の少し先の部分に、茶色の光の柱が屹立し――その直後、地面から巨大な岩の壁が地響きとともにせり上がり、二人の行く手を完全に塞いだ。
「な……」
キリトも一瞬目を丸くしたが、走る勢いは緩めなかった。背の巨剣を鈍い金属音と共に抜き放つと、それと一体になって岩盤に突進していく。
「あ……キリト君!」
無駄よ、という余裕は無かった。キリトは巨剣を思い切り岩に打ち込み――ガツーン! という衝撃音と共に弾き返されて橋に叩きつけられた。茶色の岩肌には傷ひとつついていない。
「……ムダよ」
翅を広げて急制動をかけ、その横に停止すると、改めてリーファは言った。キリトは恨めしい顔で立ち上がった。
「もっと早く言ってくれ……」
「キミがせっかちすぎるんだよ。これは土魔法の壁だから剣じゃ破れないわ。攻撃魔法をいっぱい撃ち込めば破壊できるけど……」
「その余裕は無さそうだな……」
並んで背後を振り返ると、血の色に輝く鎧をまとった集団の先頭が橋のたもとに差し掛かるところだった。
「飛んで回り込む……のは無理なのか。湖に飛び込むのはアリ?」
キリトの提案に首を横に振る。
「ナシ。ここには超高レベルの水竜型モンスターが棲んでるらしいわ。ウンディーネの援護無しに水中戦するのは自殺行為よ」
「じゃあ戦うしかないわけか」
巨剣をがしゃりと構えなおしたキリトに向かって、リーファは頷きつつ唇を噛んだ。
「それしかない……んだけど、ちょっとヤバいかもよ……。サラマンダーがこんな高位の土魔法を使えるってことは、よっぽど手練のメイジが混ざってるんだわ……」
橋の幅が狭いために、多数の敵に一方的に包囲殲滅されるという最悪の展開は避けられそうだった。しかしそもそも二十三対二という圧倒的に不利な戦力差の上、このダンジョン内では飛ぶことができない。リーファの得意な空中での乱戦に持ち込むことができないのだ。
全ては個々の敵がどれほどの戦闘力を持っているかにかかっている。
(――それもあんまり期待できそうにないけどね……)
内心で呟きながら、リーファはキリトの隣に立つと長刀を抜いた。重い金属音を響かせながら接近してくる敵集団はすでにはっきりと目視できる。先頭、横一列に並んだ巨漢のサラマンダー三人は、先日戦った連中よりも一回り分厚いアーマーに身を固め――左手にメイスなどの片手武器、右手に巨大な金属盾を携えている。
それを見て、リーファは一瞬いぶかしく思った。ALO内での利き腕は現実世界と同じなので、サウスポーのプレイヤーはやはり少ないはずなのだ。
だがその疑問を口にする前に、隣に立つキリトがリーファをちらりと見て、言った。
「きみの剣の腕を信用してないわけじゃないんだけど……ここはサポートに回ってもらえないか」
「え?」
「俺の後ろで回復役に徹してほしいんだ。そのほうが俺も思い切り戦えるし……」
リーファは改めてキリトが携える片刃の大剣を見やった。確かに狭い橋の上で、味方を気遣いながらあの武器を振り回すのは至難の技だろう。ヒール役は性分ではなかったがリーファはこくりと頷き、トンと地面を蹴って橋を遮る魔法の岩壁ぎりぎりの場所まで退いた。どちらにせよ議論している時間はもうない。
キリトは腰を落とすと体を捻り、巨剣を体の後ろ一杯に引き絞った。津波のような重圧で三人のサラマンダーが迫る。キリトの大きいとはいえない体が、ぎりぎりと音がしそうな程に捻転していく。蓄積されたエネルギーの揺らぎが目に見えるようだ。両者の距離は見る見るうちに縮まり――
「――セイッ!!」
気合一閃、キリトは左足をずしんと一歩踏み出すと、青いアタックエフェクト光に包まれた剣を思い切り深紅の重戦士たちに向かって横薙ぎに叩きつけた。空気を断ち割る唸り、橋を揺るがす震動、間違いなくかつてリーファが見た中で最大の威力を秘めた斬撃だった。だが。
「!?」
リーファは唖然として目を見開いた。三人のサラマンダーは武器を振りかぶることもせず、ぎゅっと密集すると右手の盾を前面に突き出しその陰に体を隠したのだ。
ガァーン!! という大音響を轟かせ、キリトの剣が並んだタワーシールドの表面を一文字に薙いだ。ビリビリと空気が震え、湖面に大きな波紋が広がった。しかし――重戦士たちは、わずかに後方に押し動かされただけでキリトの攻撃を耐え切った。
リーファは慌ててサラマンダー達のHPバーを確認した。揃って二割ほど減少している。だがそれも束の間、次の瞬間戦士たちの後方から立て続けにスペル詠唱音が響き、三人の前衛の体を水色の光が包んだ。ヒールの重唱でHPバーが瞬時にフル回復する。そして、同時に――
金属の城壁にも似たシールドの列の後背からオレンジ色に光る火球が次々に発射され、大空洞の天井一杯に無数の弧を引いて降り注ぐと、キリトの立つ場所に炸裂した。
湖面を真っ赤に染めるほどの爆発が巻き起こり、小さな黒衣の姿を飲み込んだ。
「キリト君!?」
リーファは思わず悲鳴にも似た叫びを上げた。キリトのHPバーが恐ろしい勢いで減少していく。いや――、初撃で即死していないのが奇跡と言えた。それほどの高レベル多重魔法攻撃だった。リーファは深い戦慄とともに敵の意図を悟った。
この敵集団は、間違いなくキリトのことを、彼の凄まじい物理攻撃力のことを知っており、それへの対抗策を練り上げているのだ。
重武装の前衛三人は一切攻撃に参加せず、ひたすらシールドで身を守る。どんなにキリトの剣の威力が高くとも、体に届かなければ致命的なダメージを受けることはない。そして残る二十人はおそらく、全員がハイクラスのメイジだ。一部が前衛のヒールを受け持ち、それ以外の者が曲線弾道のホーミング魔法で攻撃する。これは、物理攻撃に秀でたボスモンスター攻略用のフォーメーションだ。
しかし、なぜ。これほどの人数を動員してまでなぜキリトとリーファを狙うのか――。
その疑問はとりあえず先送りして、リーファは回復魔法の詠唱に入った。ようやく薄れた炎の中から姿を現したキリトに、使える中で最も高位のヒールを連続してかける。だが、キリトのHPの絶対値が高いせいか、思ったほど回復しない。
キリトも敵の意図を悟ったようだった。持久戦は不利と見てか、大剣を構えなおすと猛然と重戦士の列に打ちかかる。
だが――、戦闘はすでに単純な数値的問題へと堕していた。
キリトが剣を振るって与えるダメージは、すぐに後方でヒールタンクと化したメイジ集団によって回復されてしまう。その直後、詠唱を完了した攻撃魔法が降り注ぎ、キリトを爆発の渦に飲み込む。
個人の技量の介在する余地のない、リーファの最も忌み嫌うパターン戦闘だった。趨勢を決めるのは最早、メイジ集団のマナポイントと、キリトのヒットポイントどちらが先に尽きるかというその一点でしかない。その結果はすでに明らかだった。
何度目とも知れない火球の雨がキリトを包み込んだ。立て続けに炸裂するオレンジの光がキリトの体を翻弄し、吹き飛ばし、地面に叩きつける。
あくまでゲームとして「痛み」自体は再現していないALOだが、爆裂系魔法の直撃を受けるのは最も不快な感覚フィードバックのひとつであると言っていい。轟音が脳を揺さぶり、熱感が肌を灼き、衝撃が平衡感覚を痛めつける。その影響は時として現実の肉体にまで及び、覚醒してから数時間頭痛や眩暈に苦しめられることがあるほどだ。
だがキリトは何度火焔に飲まれても立ち上がり、剣を振りかぶった。回復魔法を空しく唱えながら、リーファはその姿に痛々しいものを感じずにはいられなかった。これはゲームだ。こんな局面に至れば、誰でも諦めて当然なのだ。負けるのは悔しいけれど、システムの上で動かされている以上、どうにもできない数値的戦力差というものがある。なのに、何故――。
これ以上キリトの姿を見ているのに耐えられなくなり、リーファは数歩駆け寄るとその背中に向かって叫んだ。
「もういいよ、キリト君! また何時間か飛べば済むことじゃない! アイテムだって買えばいいよ! もう諦めようよ……!」
だがキリトは、わずかに振り返ると、押し殺した声で言った。
「嫌だ」
その瞳は、周囲を焦がす炎を映して赤く輝いていた。
「俺の目の前で仲間を殺させやしない……絶対に、絶対にだ」
リーファは言葉を失って立ち尽くした。
どうにもならない死地に陥った時の反応はプレイヤーによって様々だ。『その瞬間』を笑いに紛らせようとする者、目を固く閉じ、体を縮めて耐えようとする者、最後の最後まで剣を振りつづけようとする者。しかし対処の差はあれ、結局はすべての者が擬似的な『死』に慣れていく。VRMMO-RPGというジャンルのゲームをプレイする上で避けられない事象としてそれぞれに折り合いをつけていくのだ。そうでなければこの『ゲーム』は『遊び』になり得ない。
だが――キリトの瞳に浮かんだ凄惨とでも言うべき光は、リーファがかつて見たことの無いものだった。システムによって明確に宣告された死をも断固として拒否する、あまりにも烈しい生存の意思。瞬間、リーファはここがゲームの仮想世界であることを忘れた。
「うおああああああ!!」
仁王立ちになったキリトが吼えた。びりびりと空気が震動した。敵の火力が途切れた一瞬の隙を突き、そびえ立つシールドの壁に無謀としか言えない突進を敢行。剣は右手に下げ、空いた左手をシールドのエッジに掛けると無理矢理にこじ開けようとする。思いがけないアクションに、サラマンダーの隊列が乱れた。わずかに開いた防壁の隙間に、右手の大剣を強引に突き立てる。
型もなにもあったものではない。攻撃にすらなっていないその行為では、とても効果的なダメージは望めない。だが、狂気とも取れるキリトの行動に、盾の内側から戸惑いの叫びが上がった。
「くそっ、なんだコイツ……!」
その時、リーファの耳もとで小さな声がした。
「チャンスは今しかありません!」
見ると、いつの間にかユイが肩に掴まっている。
「チャンス……!?」
「不確定要素は敵プレイヤーの心理状態だけです。残りのMPを全部使って、次の魔法攻撃をどうにか防いでください!」
「で、でも、そんなことしたって……」
焼け石に水、という言葉をリーファは飲み込んだ。ユイの目は真剣で、キリトと同じ確固たる意思を宿しているように見えたからだ。
リーファはこくんと頷くと、両手を上空に向かって突き出した。敵メイジ集団は既に火球呪文の詠唱に入っている。しかし、発射タイミングを合わせるためかそのスピードは遅い。リーファは得意の高速詠唱で立て続けにスペルワードを組み上げていく。音ひとつでもトチれば発動がキャンセルされてしまうが、いちかばちかで限界まで口の回転を上げる。
スペル完成は、リーファのほうがわずかに早かった。掲げたリーファの両手から、無数の小さな蝶が飛び出すと、キリトの体を包み込んでいく。
直後、敵も詠唱を完了。爆撃機による空爆を思わせる甲高い音を引きながら火球の群が天を切り裂いた。シールドの壁に取り付くキリトを、次々に咲く火焔の花が巻き込み――
「ふっ!」
リーファは広げた両手に爆圧のフィードバックを感じて歯を食いしばった。キリトを包む防御魔法のフィールドが、爆裂魔法を一つ中和する度に残りのMPががくん、がくんと減っていく。マナ回復ポーションを飲んでいるがとても追いつかない。この爆撃一回を防いだところで何になるのか――と思った、その時。
リーファの肩に立ったユイが鋭い声で叫んだ。
「パパ、今です!!」
ハッとして目を凝らす。紅蓮の炎の中、キリトが剣を掲げすっくと直立していた。かすかに呪文の詠唱が届いてくる。スペルワードの断片を、記憶のインデックスと照合する。
(確かこの呪文は……幻惑系最上位の……!?)
リーファは一瞬息を飲み――そして歯噛みした。今キリトが詠唱しているのは、プレイヤーの見た目をモンスターに変えるという高位魔法だ。だが、実戦での評価は無いに等しい。なぜなら、変化する姿はプレイヤーの攻撃力によってランダムに決定されるのだが、大抵はパッとしない雑魚モンスターになってしまう上、実ステータスの変動が無いということが周知されてしまっては恐れる者などいるはずもないからだ。
リーファのMPは容赦ない速度で減少していき、ついに残り一割を切った。ユイの言葉に従っていちかばちかの博打に打って出たものの、どうやらダイスは裏目に出たようだった。
しかし、それも仕方ない――。この手のゲームでは『強さ』のかなりの部分を知識が占める。ゲームを始めて数日のキリトに、膨大な数のスペルひとつひとつの実効力を網羅せよと要求するのは余りに酷というものだ。
リーファはそう思いながら、両手に最後の力を込めた。敵の火球攻撃の最終波が降り注ぐのと、防護フィールドが消えるのはほぼ同時だった。一際大きく火焔の渦が巻き起こり、ゆっくりと鎮まって――
「え……!?」
炎の壁の中で、ゆらりと黒い影が動いた。一瞬、目の錯覚かと思った。それが、あまりに巨大だったからだ。
大男揃いのサラマンダー前衛の、優に三倍の高さがある。視線を凝らすと、背を屈めた巨人のように見えた。
「キリト君……なの……?」
呆然と呟く。そうとしか考えられない。あれは、キリトが幻影呪文によって変化した姿なのだろうが――しかしあの大きさは――。
立ち尽くすリーファの眼前で、のっそりと黒い影が頭を上げた。巨人ではなかった。その頭部は山羊のように長く伸び、後頭部から湾曲した太い角が伸びている。丸い目は真紅に輝き、牙の覗く口からは炎に似た息が漏れている。
漆黒の肌に包まれた上半身には縄のような筋肉が盛り上がり、逞しい腕は地につくほどの長さだ。腰からは鞭のようにしなる尾。禍々しいその姿を表現する言葉は、『悪魔』以外に無かった。
サラマンダー達も皆凍りついたように動きを止めていた。その場の全員が魂を抜かれたように見守る中、黒い悪魔はゆっくりと天を振り仰ぎ――
「ゴアアアアアアア!!」
轟くような雄叫びを上げた。今度こそ、誇張でなく世界が震えた。体の底から、原初的な恐怖が沸き起こる。
「ひっ! ひいっ!!」
サラマンダー前衛の一人が、悲鳴を上げて数歩後退した。その瞬間、恐ろしいスピードで悪魔が動いた。鈎爪の生えた右手を無造作にシールドの列に開いた隙間へと突きこみ、その指先が重武装の戦士の体を貫いた――と見えた次の瞬間、赤いエンドフレイムが吹き上がって、サラマンダーの姿はかき消すように消滅した。
「うわあああ!?」
たった一撃で仲間が斃れるのを見た残る二人の前衛は、異口同音に恐慌の叫びを上げた。盾を下ろし、左手の武器を振り回しながら、じりじりとあとずさっていく。
後方のメイジ集団の中から、リーダーのものと思しき怒鳴り声がした。
「馬鹿、姿勢を崩すな! 奴は見た目だけだ、亀になればダメージは通らない!」
しかしその声は戦士たちには届かなかった。漆黒の悪魔は大音量で吼えながら飛び掛かると、右の戦士を巨大な顎門で頭から咥え、左の戦士を鈎爪で掴み上げた。ゴ、ゴッ! と連続して赤い断末魔の光が疾り、悪魔の口と拳からまるで鮮血のごとく飛び散った。
三人の前衛が消滅するのに、五秒もかからなかったろう。気を取り直したように再びリーダーの指示が飛び、メイジ集団がスペル詠唱を始めた。だが、アーマーの類は一切身につけず、赤いローブを纏っただけのピュアメイジの集団は、前衛と比べるといかにも脆そうで――シュルルル、と呼気を吐き出しながら屹立した黒い悪魔の前では、刈り入れを待つ麦の穂にも等しかった。
殺戮が始まった。
スペル詠唱中のメイジ群に向かって悪魔は大きく右腕を振り上げ、横一文字に薙ぎ払った。前面に居た三、四人が襤褸切れのように吹き飛ばされ、宙で次々と赤い炎を撒き散らし、消滅。悲鳴と、ガラスを叩き割るようなバシャッ! という効果音が空に満ちる。間を置かず巨木の如き左腕が唸り、再び数名のサラマンダーが四散する。
つい数瞬前までは集団の中央にいた一際高級そうな魔道装備を身にまとったメイジが、いかにも魔法職といった怜悧な顔を引き攣らせた。スペルワードをファンブルしたらしく、両手を包んでいたエフェクト光がブスン! と黒煙を上げて消滅する。
キリトの変化した悪魔は、地響きと共に一歩足を踏み出すと再び轟くような雄叫びを放った。リーダーと思しき男は「ヒッ!」と喉を詰まらせたような悲鳴を上げ、右手をぶんぶん振り回した。
「た、退却! たいきゃ――」
だが、その言葉が終わらないうちに――。
悪魔は一瞬身を縮めると、大きく跳躍。ズシンと橋を揺るがして着陸したのは集団の真っ只中だった。それから後はもう、戦闘と呼べるものではなかった。
暴虐の嵐――、そんな言葉がリーファの脳裏を過ぎった。悪魔の鉤爪が唸るたび、その軌跡に複数のエンドフレイムが飛び散る。中には健気に杖で肉弾戦を挑もうとする者もいるが、武器を振り下ろす間もなく頭から顎門に咥えこまれ、絶命する。
暴風圏から器用に逃げ回っていたリーダー以下数名が、最早これまでと見てか一斉に橋から身を躍らせた。水柱を上げて湖面に飛び込むと、そのまま猛烈なスピードで彼方の岸目指して泳いでいく。
ALOでは水に落ちても、装備重量が一定値以下なら沈むことはない。メイジの軽装が幸いして、不恰好ながらもみるみるうちに橋から遠ざかっていったが――突然、その数名の下にゆらりと巨大な黒い影が現われた。
直後、がぽんという水音を残して全員が一瞬で水に引き込まれた。無数の泡を残して影は湖水の深みに潜っていき、消える直前、いくつかの赤い光が閃いたのが見えた。
キリトの悪魔は彼らには興味を示さず、橋に残ったサラマンダーをひたすら殺戮し続けた。手当たり次第に掴み上げては、杭のような牙で噛み砕いていく。リーファは彼らにわずかに同情した。武器で斬られるならともかく、あんな『死に方』をしては怯え癖がついてしまっても不思議はない。
無論キリトにはひと欠片の慈悲も無いようで、とうとう最後の一人となった不運なメイジを両手で高々と持ち上げた。ぎゃーぎゃーと悲鳴を上げるその体を、二つに捻じ切る勢いで力を込めていく――。
あまりのバイオレンスシーンに呆然としていたリーファは、そこでようやく我に返った。ハッとして、大声で叫ぶ。
「あ、キリト君!! そいつ生かしといて!!」
すごかったですねえ~、などとノンキな感想を述べるユイを肩に乗せたまま、リーファは駆け出した。悪魔は動きを止め振り返ると、不満そうな唸りを上げながらもサラマンダーの体を空中で解放した。
ドチャッと音を立てて橋の上に落下し、放心の体で口をぱくぱくさせている男の前で立ち止まると、リーファは右手の長刀を男の足の間に突き立てた。金属音と共に剣先が石畳に食い込み、男の体がビクッと震える。
「さあ、誰の命令とか色々吐いてもらおうか!!」
せいぜいドスの利いた声で叫んだつもりだったが、男は逆にショックから醒めたらしく、顔面蒼白ながらも首を振った。
「こ、殺すなら殺しやがれ!」
「この……」
その時、上空から様子を見下ろしていた悪魔が、黒い霧を撒き散らしながらゆっくりとその巨躯を消滅させ始めた。リーファが顔を上げると、宙に溶けていく霧の中央から黒衣の人影が飛び出し、すとんと橋に着地した。
「いやあ、暴れた暴れた」
キリトは首をこきこき動かしながら打って変わってノンビリした口調で言い、巨剣を背中に収めた。ぽかんと口を開けるサラマンダーの隣にしゃがみこみ、肩をポンと叩く。
「よ、ナイスファイト」
「は……?」
唖然とする男に向かって、爽やかな口調で話し続ける。
「いやーいい作戦だったよウン。俺一人だったらやられてたなあー」
「ちょ、ちょっとキリト君……」
「まあまあ」
リーファが尖った声を出すと、ぱちりとウインク。
「さて、物は相談なんだがキミ」
右手を振ってトレードウインドウを出し、男にアイテム群の羅列を示す。
「これ、今の戦闘で俺がゲットしたアイテムと金なんだけどな。俺たちの質問に答えてくれたら、これ全部、キミにあげちゃおうかなーなんて思ってるんだなコレが」
男は数回口を開けたり閉じたりしながら、キリトのにこやかな笑顔を見上げた。不意にキョロキョロと周囲を見回し――おそらく、戦死したサラマンダー全員の蘇生猶予時間が終了し、セーブポイントに転送されたのを確認したのだ――再びキリトに向き直る。
「……マジ?」
「マジマジ」
にやっと笑みを交す両者を見て、リーファは思わずため息。
「男って……」
「なんか、みもふたもないですよね……」
肩でユイも感心したように囁いてくる。女性二人のアキレ視線にもひるまず、取引が成立したらしい男二人はグッと頷き合った。
サラマンダーは、話し出すと饒舌だった。
「――今日の夕方かなあ、ジータクスさん、あ、さっきのリーダーなんだけどさ、あの人から携帯メールで呼び出されてさ、オレ飯食ってたから断ろうとしたら強制召集だっつうのよ。入ってみたらたった二人を何十人で狩る作戦だっつうじゃん、イジメかよオイって思ったんだけどさ、昨日カゲムネさんをやった相手だっつうからなるほどなって……」
「そのカゲムネってのは誰だ?」
「槍騎士隊の隊長だよ。シルフ狩りの名人なんだけどさ、昨日珍しくコテンパンにやられて逃げ帰ってきたんだよね。あんたがやったんだろ?」
シルフ狩りなる言葉に顔をしかめながら、リーファはキリトと視線を交わした。おそらく昨夜撃退したサラマンダー部隊のリーダーのことだろう。
「……で、そのジータクスさんはなんであたし達を狙ったの?」
「ジータクスさんよりもっと上の命令だったみたいだぜ。なんか、『作戦』の邪魔になるとか……」
「作戦ってのは?」
「マンダーの上のほうでなんか動いてるっぽいんだよね。俺みたいな下っぱには教えてくれないんだけどさ、相当でかいこと狙ってるみたいだぜ。今日入ったとき、すげえ人数の軍隊が北に飛んでくのを見たよ」
「北……」
リーファは唇に指先をあて、考え込んだ。アルヴヘイムのほぼ南端にあるサラマンダーの街『ガタン』からまっすぐ北に飛ぶと、リーファたちが現在通過中の山脈にぶつかる。そこから西に回ればこのルグルー回廊があるし、東に行けば円環状の山脈の切れ目である「竜の谷」がある。どちらを通過するにせよその先にあるのは央都アルン、そして世界樹だ。
「……世界樹攻略に挑戦する気なの?」
リーファの問いに、男はぶんぶんと首を振った。
「まさか。さすがに前の全滅で懲りたらしくて、最低でも全軍にエンシェントウェポン級の装備が必要だってんで金貯めてるとこだぜ。おかげでノルマがきつくてさ……。でもまだ目標の半分も貯まってないらしいよ」
「ふうん……」
「ま、俺の知ってるのはこんなトコだ。――さっきの話、ホントだろうな?」
後半はキリトに向けられた言葉だ。
「取引でウソはつかないさ」
スプリガンの少年は飄々とうそぶくとトレードウインドウを操作した。入手したアイテム群を覗き込んだサラマンダーは、嬉々とした表情でせかせかと指を動かしている。
リーファは半ばあきれながら男に言った。
「しかしアンタ、それ元々は仲間の装備でしょ? 気がとがめたりしないの?」
すると男はちょっちょっと舌を鳴らす。
「わかってねえなあ。連中が自慢げに見せびらかしてたレアだからこそ旨みも増すってもんじゃねえか。ま、さすがに俺が装備するわけにもいかねえけどな。全部換金して家でも買うさ」
ほとぼりを冷ますために何日かかけてテリトリーに戻ると言い残し、サラマンダーはもときた方向に消えて行った。
なんだか、つい十分ほど前まで繰り広げられていた死闘がウソのように思えて、リーファはすっかりいつもの調子に戻っているキリトの顔をまじまじと眺めた。
「ん? なに?」
「あ、えーっと……。さっき大暴れした悪魔、キリト君なんだよねえ?」
訊くと、キリトは視線を上向けてあごをぽりぽりと掻いた。
「んー、多分ね」
「多分、って……」
「俺、たまにあるんだよな……。戦闘中にブチ切れて、記憶が飛んだりとか……」
「うわ、こわっ」
「まあ、さっきのは何となく覚えてるよ。ユイに言われるまま魔法使ったら、なんか自分がえらい大きくなってさ。剣もなくなるし、仕方ないから手づかみで……」
「ぼりぼり齧ったりもしてましたよ~」
リーファの肩で、ユイが楽しそうに注釈を加える。
「ああ、そう言えば。モンス気分が味わえてなかなか楽しい体験だったぜ」
にやにや笑うキリトを見ていると、どうしても聞いてみたい疑問が湧いてきて、おそるおそる口にする。
「その……、味とか、したの? サラマンダーの……」
「……ちょっと焦げかけの焼肉の風味と歯ごたえが……」
「わっ、やっぱいい、言わないで!」
キリトに向かってぶんぶんと手を振る。と、不意にその手をがしっと掴まれ――。
「がおう!!」
一声うなるとキリトは大きく口を開け、リーファの指先をぱくりとくわえた。
「ギャ―――――ッ!!」
リーファの悲鳴と、それに続くばちこーんという破裂音が地底湖の水面をわずかに揺らした。
「うう、いててて……」
リーファに思い切り張られた頬っぺたをさすりながらキリトがとぼとぼと歩く。
「さっきのはパパが悪いです!」
「ほんとだわよ。失礼しちゃうわ」
リーファと、肩に乗せたユイが口々に言うと、キリトは叱られた子供のような顔で抗弁した。
「殺伐とした戦闘のあとの空気を和ませようというウィットに満ちたジョークじゃないか……」
「次やったらぶった斬るからね」
まぶたを閉じてツンと顔を逸らすと、リーファは歩調を速めた。
眼前には、巨大な石造りのゲートがはるか地下空洞の天井まで聳え立っている。鉱山都市ルグルーの城門だ。
補給と、色々わからないことが出てきたので情報整理も兼ねてこの街で一泊することにしたのだ。思いがけない大規模戦闘で時間を取られ、リアル時刻はすでに深夜零時を回っている。
アルヴヘイムが本格的に賑わいはじめる時間帯はこれからだが、リーファは一応学生の身分なので、どんなに遅くても一時前には落ちることにしていた。キリトにその旨を告げると、少し考える様子だったがこくりと頷いて了承した。
並んで城門をくぐると、BGMがわりのNPC楽団の陽気な演奏と、幾つもの槌音が二人を出迎えた。
街の規模はそう大きくはない、だが、中央の目貫通りを挟むようにそびえる岩壁に、多種多様な商店やら工房が積層構造を成して密集している様は見事なものだ。プレイヤーの数も思ったより多く、普段目にすることの少ないプーカやレプラコーンといった種族のパーティーが談笑しながら行き交っている。
「へええー、ここがルグルーかぁー」
リーファは、初めて目にする地底都市の賑わいに思わず歓声を上げると、早速手近な商店の店先に設えられた剣の陳列棚に取り付いた。たとえ無粋な武器店であろうとも買い物はわくわくする。
「そう言えばさあー」
銀造りの長剣を手にとってためつすがめつしていると、背後でキリトがノンビリした口調で言った。
「ん?」
「サラマンダーズに襲われる前、なんかメッセージ届いてなかった? あれは何だったの?」
「……あ」
リーファは口をあんぐりと開けると振り返った。
「忘れてた」
慌ててウインドウを開き、履歴を確認する。レコンからのメッセージは、しかし改めて読んでもさっぱり意味がわからない。回線がトラブって途中で切れたのかとも思ったが、それにしては続きが届く気配もない。
ならばと思い、こちらからメッセージを打とうとすると、フレンドリストのレコンの名前はグレーに消灯している。すでにオフラインになっているようだ。
「何よ、寝ちゃったのかな」
「一応向こうで連絡取ってみたら?」
キリトの言葉に、うむむと考えこむ。
正直、現実世界にアルヴヘイムのことを持ち込むのは好きではなかった。ALOのコミュニティサイトにも一切出入りしていないし、レコン――長田伸一ともリアルでゲームの話はほとんどしていない。
しかし、謎のメッセージにはどこか引っかかるものがあるのも事実だった。
「じゃあ、ちょっとだけ落ちて確認してくるから、キリト君は待ってて。あたしの体、よろしく。――ユイちゃん」
肩に乗ったままのユイに向かって、付け加える。
「はい?」
「パパがあたしにイタズラしないように監視しててね」
「りょーかいです!」
「あ、あのなあ!!」
心外だというふうに首を振るキリトにうふふと笑っておいて、リーファは手近なベンチに座ると右手を振った。
ログアウトボタンを押し、この日二度目の世界移動。眩暈に似た感覚を味わいながら、はるか彼方のリアルワールド目指して意識を浮上させていく。
「ふう……」
いつになく長時間のログインに、わずかな疲労感を覚えて、直葉は深く息をついた。
ベッドに寝転がり、アミュスフィアを被ったままちらりと目覚し時計に目をやる。そろそろ翠が帰ってくる時間だ。顔くらい見せておいたほうがいいかもしれない――。
そんなことを考えながら、手探りでヘッドボードに置いてある携帯を手に取った。外装を兼ねるELディスプレイ・シェルに、ログイン中の着信履歴が表示されている。
「!?」
それを見て直葉は目を丸くした。着信十二件、すべて長田伸一からのコールだ。一体何事だというのだ。
ぱちっと音をさせて携帯を開き、コールバックしようとしたところで、十三回目の着信が入ったらしくシェルがブルーに発光点滅した。通話ボタンを押し、耳元へ。
「もしもし、長田クン? 何なの、一体?」
「あっ! ようやく捕まった! もーッ、遅いよ直葉ちゃん!!」
「何がモーなのよ。ちょっと中でゴタゴタしててね」
「た、大変なんだ! シグルドの野郎、僕たちを……そ、それだけじゃない、領主も――サクヤさんも売りやがったんだよ!」
「売った……って……。どういう意味なの? 最初から説明してよ」
「うー、時間ないのに……。えーと、ほら、昨日古森でサラマンダーに襲われた時さぁ、直葉ちゃん、なんかおかしいと思わなかった?」
長田は、言葉とは裏腹にいつものスローな口調に戻って言う。面と向かって話すときは、馴れ馴れしく直葉ちゃん呼ばわりされれば必ず物理攻撃を伴う訂正を加えているのだが、電話ではそうもいかないのでやむなく黙認することにする。
それにしても、あの出来事がまだたった一日前のことだという事実は直葉を少々驚かせた。キリトと出会ったのはなんだかもう遥か昔の出来事であるような気さえする。
「えー? おかしいって……何かあったっけ……?」
正直、キリトの印象が強すぎて、その前の空中交錯のことはよく覚えていなかった。
「最初、サラマンダーが八人で襲ってきた時、シグルドが、自分が囮になるって言って独りで三人くらい引っ張っていったじゃない?」
「ああ、そう言えば。結局彼も逃げ切れなかったんでしょ?」
「そうなんだけどさ。あれ、シグルドらしくないよ、今にして思えば。パーティーを分けるなら絶対自分はリーダーとして残って、囮は誰かにやらせるでしょう、いつもなら」
「あー……。それは、確かに……」
シグルドの、戦闘指揮官としての腕は確かなものだが、そのぶん独善的で、常に自分がトップに立たないと気がすまないところがある。たしかに、メンバーを逃がすために捨石になるような自己犠牲的行動は彼にそぐわない。
「でも、それって……どういうことなの?」
「だからさぁ」
長田は不味いものを噛み砕くような口調で言った。
「あいつ、サラマンダーと内通してたんだよ。多分、相当前から」
「はあ!?」
今度こそ心の底から驚愕して、直葉は携帯を握り締めて絶句した。
種族間のパワーゲームが繰り広げられるALOにおいて、捨てアカウントでのスパイ行為は日常的に行われている。スイルベーンをホームにするシルフの中にも、他種族、特にサラマンダーの偽装キャラクターが何人かいるのは間違いないだろう。
ゆえに基本的に、低スキルかつ低貢献度、低アクティヴィティのプレイヤーは皆スパイの可能性があるとして執政部の中枢には近づけない。リーファでさえ、風の塔の裏手にある領主館に立ち入れるようになったのはそう昔のことではない。
しかしシグルドは、ALO黎明期から積極的に執政サイドに参加し、今まで四回あった領主投票にもすべて立候補しているほどの古参プレイヤーだ。現領主の圧倒的な人気のせいで毎回次点、次々点に甘んじているが、選挙に破れてもへこたれる様子もなく補佐に名乗り出て、すっかり中枢の一角に大きな座を占めている。
その彼が、サラマンダーのスパイだなどという話はにわかに信じられなかった。
「ちょっとあんた……それ、確証はあるの?」
思わず声をひそめながら直葉は問いただした。
「僕、なんか引っかかると思って、今朝からずっとホロウでシグルドをつけてたんだ」
「……ホント、ヒマな人ねえ」
ホロウボディというのは、レコンの最も得意とする透明化の術である。高位の隠蔽魔法と、隠密行動スキルの双方をマスターしないと使うことができない。
もともと、レコンの英語表記である『Recon』というのは、アメリカの軍隊用語で偵察隊を指す(正しくはリーコンと発音するらしいが)のだそうだ。狩りでの先行偵察を目的としたキャラメイクに特化しているため、尾行は得意中の得意なのだろう。一度、それを悪用してリーファが休んでいる宿屋の部屋に侵入してきたことがあり――本人曰く、こっそり誕生日プレゼントを置こうとしただけ、らしいが――その時は容赦なく半殺しの目に合わせたものだが。
長田は、直葉のアキレ声を無視して言葉を続けた。
「風の塔であいつがリーファちゃんに暴言吐いたあと、あんまりムカついたんで毒で暗殺してやろうと思ってずっとチャンスを狙ってたんだ。そしたら――」
「うわ、アブナい奴」
「――裏道であいつらも透明マントかぶって消えるから、こりゃいよいよ何かあると思ってさ。ま、アイテムくらいじゃ僕の目は誤魔化せないけどね」
「自慢はいいから、早く先を言いなさいよ」
「そのまま地下水道に入って、五分くらい歩いたかなあ、めっちゃ奥のほうで妙な二人組が待っててね。そいつらも透明マント被ってたんだけど、それを脱いだらこいつはビックリ、サラマンダーじゃないですか!」
「ええ? でも、マントじゃあガーディアンは誤魔化せないでしょう? 街に入った時点で斬られてるはずだけど……。まさか……」
「それそれ、そのまさか。メダリオン装備してたよ」
パス・メダリオンというのは、通商などでテリトリーを訪れる他種族プレイヤーに厳しい審査のうえで与えられる通行証アイテムである。執政部のごく限られた人間しか発行できず、譲渡不可という代物だが、当然シグルドなら発行権があるはずだ。
「こいつはアタリだと思って聞き耳立ててたら、サラマンダーがリーファちゃんにトレーサー付けたとか言っててさ。それだけじゃないんだ。実は今日、領主……サクヤ様が、ケットシーと正式に同盟を調印するってんで、極秘で中立域に出てるらしいんだよ。あいつら……サラマンダーの大部隊に、その調印式を襲わせる気なんだ!」
「な……」
直葉は一瞬息を詰め、次いで受話センサーに怒鳴りつけた。
「それを早く言いなさいよ!! 大変じゃないの!!」
「だから、最初に大変だって言ったじゃないのさぁー」
情けない声でぶつぶつ抗弁する長田に、立て続けに言葉をぶつける。
「で、それ、サクヤに知らせたの!? まだ時間あるんでしょうね!?」
「僕もヤバイと思って、地下から出ようと思った時、うっかり石ころ蹴っ飛ばしてネ……」
「このドジ! 大間抜け!」
「……なんか、最近直葉ちゃんに怒られるの気持ちよくなってきたかも……」
「どヘンタイ!! それで!? 連絡できたの!?」
「サラマンダーのサーチャーにハイド破られて、まあ殺されたら塔で蘇生して領主館に駆け込めばいいやーと思ったら、連中毒矢撃ちこみやがって、酷いことするよねえ」
……先刻の自分の言葉を棚に上げた発言だが、突っ込んでいる余裕はない。
「じゃあ……レコンは……?」
「地下水道で麻痺したままサラマンダーに捕まってます……。そんで、仕方なくログアウトしてきて、直葉ちゃんに電話してたけどさっぱり出ないし、僕、他にリアルで連絡つく人いないし……。あ、えーと、ケットシー領主との会談は一時って言ってたから……うわっ、あと四十分じゃん! ど、どうしよ直葉ちゃん!?」
直葉はひとつ深く息を吸ってから、口早に言った。
「その会談の場所はわかる?」
「詳しい座標までは……。でも、山脈の内側、蝶の谷を抜けたあたりらしいよ」
「わかった。……あたしがどうにかして知らせに行くわ。急ぐから、もう切るわよ」
「あっ、直葉ちゃん!」
切断ボタンに指先を伸ばしたところで、切羽つまったような長田の声が流れてくる。
「なによ?」
「えーとネ。あのキリトって奴、直葉ちゃんとどういう関係なのー?」
ぶちっ。
と問答無用で回線を切断し、携帯を再びヘッドボードに放り投げると、直葉は枕に頭を埋めて目を閉じた。現実世界で唯一使えるスペルワードを口にして、陰謀渦巻く異世界へと意識をシフト。
ぱちりと目を見開き、同時にリーファは勢い良く立ち上がった。
「うわっびっくりした!!」
目の前で黒衣のスプリガンが、屋台で買ったらしき謎の食べ物――見たところ小さな爬虫類を数匹串焼きにしたもののようだ――を取り落としそうになって、危ういところで握りなおした。
「お帰り、リーファ」
「おかえりなさいー」
口々に言うキリトとユイに向かって、リーファはただいまを言う間も惜しんで口を開いた。
「キリト君――ごめんなさい」
「え、ええ?」
「あたし、急いで行かなきゃいけない用事ができちゃった。説明してる時間も無さそうなの。たぶん――ここにも帰ってこられないかもしれない」
「……」
キリトは一瞬じっとリーファの目を見詰め、すぐにこくりと頷いた。
「そうか。じゃあ、移動しながら話を聞こう」
「え……?」
「どっちにしてもここからは足を使って出ないといけないんだろう?」
「……わかった。じゃあ、走りながら話すね」
ルグルーの目貫通りを、アルン側の門目指してリーファは駆け出した。
人波を縫い、巨岩を削りだした大門をくぐると、再び地底湖を貫く橋がまっすぐ伸びていた。ブーツの鋲を鳴らして全力で疾走しながら、リーファは事情をキリトに説明した。さいわいこの世界ではどれだけ走ろうと息切れしたりということはない。
「――なるほど」
リーファの話が終わると、キリトは何事か考えるように視線を前方に戻した。
「いくつか聞いていいかな?」
「どうぞ」
「シルフとケットシーの領主を襲うことで、サラマンダーにはどんなメリットがあるんだ?」
「えーと、まず、同盟を邪魔できるよね。シルフ側から漏れた情報で領主を討たれたらケットシー側は黙ってないでしょう。ヘタしたらシルフとケットシーで戦争になるかもしれないし……。サラマンダーは今最大勢力だけど、シルフとケットシーが連合すれば、多分パワーバランスが逆転するだろうから、それは何としても阻止したいんだと思うよ」
一行は橋を渡り終わり、洞窟に入っていた。リーファは目の前にマップを表示し、道を確認しながら走りつづける。
「あとは、領主を討つっていうのはそれだけですごいボーナスがあるの。その時点で、討たれた側の領主館に蓄積されてる資金の三割を無条件で入手できるし、十日間、街を占領状態にして税金を自由に掛けられる。これはものすごい金額だよ。サラマンダーが最大勢力になったのは、昔、シルフの最初の領主を、汚い罠にはめて殺したからなんだ。普通領主は中立域には出ないからね。ALO史上、領主が討たれたのは後にも先にもあの一回だけ」
「そうなのか……」
「だからね……キリト君」
ちらりと隣を走る少年の横顔に視線を向け、言葉を続ける。
「これは、シルフ族の問題だから……これ以上キミが付き合ってくれる理由はないよ……。この洞窟を出ればアルンまではもうすぐだし、多分会談場に行ったら生きて帰れないから、またスイルベーンから出直しだろうしね。――ううん、もっと言えば……」
胸が塞がるような思いを味わいながら、リーファはその先を口にした。
「世界樹の上に行きたい、っていうキミの目的のためには、サラマンダーに協力するのが最善かもしれない。サラマンダーがこの作戦に成功すれば、充分以上の資金を得て、万全の体制で世界樹攻略に挑むと思う。スプリガンなら、傭兵として雇ってくれるかもしれないし。――今、ここで、あたしを斬っても文句は言わないわ」
その時は、抵抗はするまい――とリーファは思った。普段の自分からはとても考えられない思考だったが、戦っても絶対に勝てない確信があったし、それに何となく、このたった一日前に知り合った少年と戦うのは嫌だった。
もしそうなったら……あたし、ALOをやめるかもしれないな……。
そんなことを考えながらもう一度キリトの顔を見ると、彼は表情を変えずに走りつづけながら、ぽつりと言った。
「所詮ゲームなんだから何でもありだ。殺したければ殺すし、奪いたければ奪う」
わずかに間を置き、
「――そんなふうに言う奴には、嫌っていうほど出くわしたよ。一面ではそれも真実だ、俺も昔はそう思っていた。でも――そうじゃないんだ。仮想世界だからこそ、どんなに愚かしく見えても、守らなきゃならないものがある。俺はそれを――大切な人に教わった……」
その瞬間、キリトの声が優しく、暖かい響きを帯びた。
「バーチャルRPGっていうこのゲームでは、矛盾するようだけど、プレイヤーと分離したロールプレイというものは有り得ないと俺は思う。この世界で欲望だけに身を任せれば、その代償はかならずリアルの人格へと還っていく。プレイヤーとキャラクターは一体なんだ。俺――リーファのこと、好きだよ。友達になりたいと思う。たとえどんな理由があっても、自分の利益のためにそういう相手を斬るようなことは、俺は絶対しない」
「キリト君……」
不意に胸が詰まって呼吸ができなくなり、リーファは立ち止まった。わずかに遅れてキリトも停止する。
両手を体の前でぎゅっと握り、言葉にできない感情の流れをもてあましながら、じっと黒い瞳の少年を見つめた。
そうか……そうだったんだ――。心の奥でつぶやく。
今までこの世界で、どうしても他のプレイヤーに、ある距離以上には近づけなかった理由、それは相手が生身の人間なのか、ゲームのキャラクターなのかわからなかったからだ。相手の言葉の裏に、本当のこの人は何を思ってるんだろうと、そんなことばかり気にしていた。どう接していいのかわからないがゆえに、他人の差し出す手を重荷と感じ、いつも翅を使って振り切っていた。
でも、そんなことを気にする必要はなかったのだ。自分の心が感じるままに――、それだけで良かったし、それだけが真実だった。
「……ありがとう」
心の奥底から浮かび上がってきた言葉を、そっと口にした。それ以上なにか話したら、泣いてしまいそうだった。
SAO2_05_Unicode.txt
空の頂に貼りついたまま微動だにしないと思われた太陽も、やがてゆっくりと傾き始めた。オベイロンが訪れてから現実世界で最低5時間は経過したと判断し、アスナはそっと体を起こした。多分向こうは真夜中過ぎだ。監視の目がないことを祈りながら、タイルの上に降り立つ。
十歩も進むと、すぐに金の扉の前に到達した。こんな狭い場所に二ヶ月もいたのだと思うと唖然とせざるを得ない。
でも、それも今日で終わり――。
心の中で呟いて、右手の指をドアの脇の金属板に伸ばした。何度も暗唱して心に刻み付けた数字の羅列を、ひとつひとつ口に出しながら再現していく。小さなボタンを押すたびにカチリという感触が届き、張り詰めた神経を震わせる。
「……3……10…………12」
祈りながら最後のひとつを押すと、果たして一際大きくカチーン! という音が響き、わずかに扉が開いた。思わず右腕を小さく曲げてぐっ! と拳を握り、それがキリトのよく見せていた動作だと気づいて笑いを浮かべる。
「キリトくん……わたし、がんばるからね」
かすかに呟くと、アスナは扉を押し開けた。その向こうには、細い道が刻まれた太い枝が曲がりくねりながら伸び、遥か彼方の巨木の幹まで続いている。鳥かごから一歩、二歩と踏み出すと、背後で扉が自動的に閉まる音がした。だがもう振り返らなかった。肩にかかった髪を払い、決然と胸を反らすと、アスナはかつてのように確かな歩調であるきはじめた。
ふと後ろを振り返ると、金の鳥篭は厚く重なった濃緑の木の葉に覆われてすでに見えなかった。
世界樹の長大な枝、その中ほどに立ち止まり、アスナはふう、と息をついた。感覚的にはすでに数百メートルも歩いている。まったく途方も無い大きさだ。
せっかちなオベイロンのことだから、ログアウトにシステムコンソールを使用しているなら鳥篭の外、そう遠くない場所に設置しているに違いないと思っていたがどうやらあてが外れたようだった。もし彼がSAOタイプのホロウインドウ、または音声オペレーションを使っているとすると、システムにアクセスするのはかなり難しくなる。
だからと言って、無論あの場所に戻るわけにはいかない。今はただ行けるところまで行くだけだ――。
アスナは唇を引き結ぶと、再び歩きはじめた。
枝の直径は、進むに従ってどんどん太くなっている。視線を下方に向けると、うっすらと広がる無限の雲海と、その奥にかすかに緑の山々や湖と思しき青い水面が見て取れる。
オベイロンの話では、あそこはもう通常のゲーム圏内で、数多のプレイヤーが日々冒険を繰り広げているということだった。もしここから飛び降りたらどうなるだろう、とふと考える。
須郷の息のかからない正規のGMに接触できれば――。それがだめでも一般のプレイヤーに、今この世界の裏側で進行している陰謀を伝えることができれば。
だがアスナはそっと頭を振って、その考えを払い落とした。あまりにも荒唐無稽なこの話をプレイヤーに説明し、納得してもらうのはほとんど不可能だろうし、そもそもこの恐ろしいまでの高さから地上に落下したら一体どうなるのか想像もつかない。
仮に、今のアスナにもHPがあり、落下によるダメージが発生し、死亡判定がなされたら。アスナはまだナーヴギアを被り、コピーとは言えSAOの延長線上にあるプログラム上に存在するわけで、あの茅場晶彦の定めた第一原則が適用されないとも限らないのだ。それだけは回避しなくてはならない。
わたしは絶対に生きて現実世界に帰る。
アスナは、心に刻み付けるようにゆっくりと頭の中で呟いた。生きて――
「キリト君に、もう一度出会う」
さらに数分をかけて歩くと、ようやく木の葉のカーテンの向こうに基幹と思われる巨大な壁が見えてきた。枝と幹が接合する部分にぽっかりと木のうろのような穴が黒く口を開け、小路はその中へと続いている。無意識のうちに足音を殺しながら、アスナはゆっくりとその穴へと近づいた。
目の前まで来てみると、入り口それ自体は自然の樹木を模してうねった楕円形だったが、その奥に明らかに人工物然とした長方形のドアがあるのがわかった。ノブに類するものはないが、その位置にタッチパネルのようなプレートが据えられている。ロックされていないことを祈りながら、そこに指先を触れさせる。
と、音もなくドアが右にスライドした。息を詰めてその奥に人の気配が無いのを確かめ、素早く体を滑り込ませる。
内部は、そのまま奥へと続く、オフホワイトの直線的な通路だった。薄暗く、所々オレンジ色の照明が無機質な壁面のパネルを照らしている。見事な樹木の造形美を見せていた外部の通路と違い、ここはオブジェクトを設計する手間を惜しんだかのようなのっぺりとした造りだ。剥き出しの足からひんやりとした冷気が伝わってくる。その感触に、いよいよ敵の牙城に侵入したのだ、という事実を容赦なく認識させられ、アスナは唇を噛み締めた。
須郷は、茅場とは別種の狂気に支配された男だ。企業の一員でありながら、その立場を利用して二千人の脳を虜囚とし、危険な人体実験に供するなど尋常な精神ではない。彼を動かすのは、飽くなき欲望そのものだ。常により多くを手に入れたいという底の無い餓えに支配されている。それは子供の頃から近くにいたアスナが一番よく知っている。
須郷は今、アスナの一部を手に入れ、やがて全てを手に入れることができると確信してある程度の満足を得ている。だがアスナが己を出し抜き、鳥篭からの脱出を試みたと知れれば怒り狂うに違いない。現状で可能な陵辱の限りを尽くし、その上で邪悪な研究の生贄として捧げることも厭わないだろう。そう思うと膝から力が抜けそうになる。
だがここで引き返し、鳥篭に戻れば、アスナは本当の意味で須郷に屈したことになる。もしキリトなら――、決してここで立ち止まりはしないだろう。たとえ手に剣は無くとも。
アスナはきっと背筋を伸ばすと、通路の先を見つめた。鉛のように重い足をどうにか動かして一歩踏み出す。一度歩き出すと、後はもう止まることはなかった。
通路は無限に続くとも思われた。上下左右のパネルには継ぎ目どころか目印ひとつなく、自分が本当に前進しているのかだんだんわからなくなってくる。たまに天井に現われるオレンジの光源だけを頼りにひたすら歩きつづけ、ついに正面に二枚目の扉が見えてきたときは思わずほっと息をついた。
扉は先程のものとまったく同じだった。再び、パネルに慎重に指先を触れさせる。無音でドアがスライドする。
その奥は、今度は左右に広がる、まったく同じような通路だった。げんなりしながらドアをくぐる。と、驚いたことに、数秒後自動で閉まったドアは、その瞬間何の痕跡も残さず壁面に溶け込んでしまった。慌ててあちこち触るが、開く様子はなかった。
アスナは肩をすくめると、ドアのことは忘れることにした。どうせ戻るつもりのない場所だ。顔を上げ、左右を眺める。
通路は、今度は直線ではなく、ゆるやかに円弧を描いているようだった。一瞬考えたあと、右方向へと歩き出した。
ひたひたと微かな足音を響かせながら、ひたすら進みつづける。またしても見当識が怪しくなりはじめ、ひょっとして円形の通路をぐるぐると何周も歩いているのではないかと思えだしてきた頃――とうとう壁以外のものがアスナの視界に入った。
カーブの内側、ライトグレーの壁に、何かポスターのようなものが貼られていた。思わず駆け寄ると、それはこの場所の案内図のようだった。食い入るように表示を眺める。
長方形のオブジェクトの上部には、味気ないフォントで『ラボラトリー全図 フロアC』と書かれている。その下に、簡単な絵図。どうやら現在位置は、真円形の通路が三階層に重なった、その最上部らしかった。
アスナが今いるフロアCには、円形の通路以外何もない。先程通ってきた鳥篭へと続く直線の通路も表示されていない。だが、下のフロアB、さらに下のフロアAには、円環通路の内側に様々な施設――『データ閲覧室』だの『主モニター室』だの『仮眠室』などというものまでがある。
フロア間の移動は、地図上で円環の頂点部分に表示されているエレベータで行うようだった。俯瞰で描かれた楕円形の三つのフロアを、一本の垂直線が繋ぎ――更にその下まで長く伸びている。
エレベータの直線を目で辿っていくと、一番下には長方形の広い部屋があるようだった。その上に記された文字を読んだ途端、アスナの背中を軽い悪寒が走った。『実験体格納室』、そこにはそう書かれていた。
「実験体……」
小さく呟いたその言葉は、アスナの口の中に苦い後味を残して消えていった。
ここが須郷の違法研究施設であるのは間違いないと思われた。確かに、研究の全てを仮想世界内で行えば、それを会社に隠蔽するのは容易いことだ。もし秘密が露見しそうになっても、指先ひとつで全てをまとめて消去でき、あとには紙一枚残らない。
そしてこの施設の目的を鑑みれば、「実験体」という単語の意味するものはただひとつだった。須郷に拉致された旧SAOプレイヤー……彼らの精神が、いかなる形によってか、案内図に示された格納室なる場所に囚われているのだ。
アスナはしばし黙考したあと、身を翻して湾曲した通路をふたたび歩きはじめた。早足で数分進むと、やがて通路の左手、外周側の壁に飾り気の無いスライドドアが現われた。そばの壁面にプレートが据えられており、小さな下向きの三角印が浮き上がっている。
一回深呼吸をしてから指先でそこに触れる。すると即座にドアがスライドし、直方体の小部屋が出現した。中に踏み込み、体を半回転させると、現実のエレベータにそっくりな操作盤が目に入る。
一瞬の逡巡のあと、アスナは並んだ四つのボタンのうち一番下ものを押した。ドアが閉まり――驚いたことにわずかな落下感覚が体を包んだ。アスナを乗せた小さな箱は、仮想の大樹の深部目指して音も無く突き進んでいった。
キリトは照れたように笑った。
「ごめん、偉そうなこと言って。悪い癖なんだ」
リーファも両目をしばたき、笑顔を返した。
「ううん、嬉しかった。――じゃ、洞窟出たとこでお別れだね」
するとキリトは意外そうに眉を上げる。
「や、俺も一緒に行くよ、もちろん」
「え、え?」
「――しまった、時間無駄にしちゃったな。ユイ、走るからナビよろしく」
「りょーかいです!」
肩に乗った小妖精が頷くのを確認し、再びリーファに向かって、
「ちょっと手を拝借」
「え、あの――」
左手を伸ばし、あっけにとられるリーファの右手をぎゅっと掴むと――キリトはいきなり猛烈なスピードで駆け出した。空気の壁を突き破る衝撃音が鼓膜を叩いた。
今までもかなりのペースで走っていたつもりだったが、まるで比較にならない。あまりの速度に岩肌のテクスチャが放射状に溶け流されて見える。右手を引かれるリーファの体はほとんど水平に浮き上がり、キリトが洞窟の湾曲に沿ってコーナリングするたびに左右にぶんぶん振り回される。
「わあああああ」
たまらず悲鳴を上げつつ前方を凝視すると、通路の少し広くなった箇所に断続的に大量の黄色いカーソルが点滅するのが見えた。洞窟に巣食うオークの集団らしい。
「あの、あの、モンスターが」
叫ぶが、キリトはスピードを落とす気配も見せずオークの群に突っ込んでいく。右手を伸ばして背から巨剣を抜くと、体の前に突き出し――
その直後、密集しつつこちらに走り寄る敵集団に真正面から突入。
「わ――――――」
目蓋を閉じるひまもなく、バシャバシャバシャッ!! と音を立てて視界の上下左右で黄色い閃光が炸裂した。一撃でほぼ全てのモンスターが粉砕されたのだ、と悟ったときにはもう次の通路に飛び込んでいる。
その後も何度かモンスターにエンカウントしたが、キリトは足を止めることなく体当たりで蹴散らし続け、やがて前方に白い光が見えてきたときはリーファは半分目を回していた。
「おっ、出口かな」
キリトの言葉が耳に届いた直後、視界全てが真っ白に染まり、思わず両目をぎゅっと瞑る。
体を包んでいた轟音が一気に拡散したのに気づき、おそるおそる目蓋を開けると、そこはもう無限に広がる空の真ん中だった。どうやらキリトは、走る勢いを緩めず、山脈の中腹に開いた出口からカタパルトよろしく飛び出したらしい。二人は慣性に従って放物線を描きながら飛翔していく。
慌てて翅を広げ、滑空体勢に入ると、リーファは詰めていた息をいっぺんに吐き出した。
「ぶはっ!! ……ぜいぜいぜい」
荒い呼吸を繰り返しながら、傍らで背面飛行するキリトを睨みつける。
「――寿命が縮んだわよ!」
「わはは、時間短縮になったじゃないか」
「……ダンジョンっていうのはもっとこう……索敵に気を使いながら、モンスターをリンクさせないように……あれじゃ別のゲームだよ全く……」
ぶつぶつ文句を言ううちにようやく動悸が落ち着いてきて、リーファは改めて周囲を見回した。
眼下には広大な草原が広がり、所々に湖が青い水面をきらめかせている。それらを結ぶように蛇行する河が流れ、さらにその先には――
「あっ……」
リーファは思わず息を飲んだ。
雲海の彼方、おぼろに浮かぶ巨大な影。空を支える柱かと思うほどに太い幹が垂直に天地を貫き、上部には別の天体にも等しいスケールで枝葉が伸びている。
「あれが……世界樹か……」
隣で、キリトも畏怖にうたれたような声音で呟いた。
山脈を越えたばかりのこの地点からは、まだリアル距離置換で二十キロメートル近く隔たっているはずのその大樹は、すでに圧倒的な存在感で空の一角を占めていた。根元に立てばどれほどの光景となるのか想像もつかない。
二人はしばらく無言で世界樹を眺めていたが、やがてキリトが我に返り、言った。
「あ、こうしちゃいられない。リーファ、領主会談の場所ってのはどの辺りなんだ?」
「あっ、そうね。ええと、今抜けてきた山脈は、輪っかになって世界中央を囲んでるんだけど、そのうち三箇所に大きな切れ目があるの。サラマンダー領に向かう「竜の谷」、ウンディーネ領に向かう「虹の谷」、あとケットシー領につながる「蝶の谷」……。会談はその蝶の谷の、こっち側の出口で行われるらしいから……」
リーファはぐるりと視線をめぐらせると、北西の方角を指した。
「あっちにしばらく飛んだとこだと思う」
「了解。残り時間は?」
「――二十分」
「サラマンダーは、あっちからこっちへ移動するわけか……」
キリトは南東から北西へと指を動かした。
「俺たちより先行してるのかどうか微妙だな。ともかく急ぐしかないか。ユイ、サーチ圏内に大人数の反応があったら知らせてくれ」
「はい!」
こくりと頷き交わし、リーファとキリトは翅を鳴らして加速に入った。
「それにしても、モンスターを見かけないなあ?」
雲の塊を切り裂いて飛翔しながら、キリトが言った。
「あ、このアルン高原にはフィールド型モンスターはいないの。だから会談をわざわざこっち側でするんじゃないかな」
「なるほど、大事な話の最中にモンスターが湧いちゃ興醒めだしな……。でも、この場合はありがたくないな」
「どういうこと?」
するとキリトはニッと悪戯っぽく笑う。
「モンスターを山ほど引っ張っていって、サラマンダー部隊にぶつけてやろうと思ってたんだけどな」
「……よくそんなこと考えるわねえ。サラマンダーはさっき以上の大部隊らしいから、警告が間に合って全員でケットシー領に逃げ込めるか、もしくは揃って討ち死にか、どっちかだと思うよ」
「……」
キリトが思案顔で顎を撫でた、その時――。
「あっ、プレイヤー反応です!」
不意にユイが叫んだ。
「前方に大集団――六十八人、さらにその向こうに十四人。双方が接触するまであと五十秒です」
その言葉が終わると同時に、視界を遮っていた大きな雲の塊がさっと切れた。限界まで高度を取って飛んでいたリーファの眼下に、緑の高原がいっぱいに広がる。
その一角、低空を這うように飛ぶ無数の黒い影。五人ずつくさび型のフォーメーションを作り、それらが密集して飛行する様は、攻撃目標に音もなく忍び寄る不吉な戦闘機の群のようだ。
視線を彼らが向かう先へと振る。円形の小さな台地が見える。その上に、ぽつりと白く横たわるのは長テーブルだろうか。左右に七つずつの椅子が据えられ、即席の会議場といった案配だ。
椅子に座る者たちは、会話に夢中なのか、まだ迫り来る脅威に気づいていないようだった。
「――間に合わなかったね」
リーファは、傍らのキリトに向かってぽつりと言った。
今からでは、サラマンダー軍を追い越し、領主たちに警告しても、とても全員が逃げ切る余裕はない。それでも、討ち死にを覚悟で盾となり、領主だけでも逃がす努力をしなければならない。
右手を伸ばし、キリトの手をそっと握る。
「ありがとう、キリト君。ここまででいいよ。キミは世界樹に行って……短い間だったけど、楽しかった」
笑顔でそれだけ言い、ダイブに入ろうと翅を鋭角に畳んだとき、キリトが右手をぎゅっと握り返してきた。あわてて顔を見ると、いつもの不敵な笑みを浮かべ――
「ここで逃げ出すのは性分じゃないんでね」
手を離し、肩のユイを摘み上げて胸ポケットに放り込むと、翅を思い切り震わせて猛烈な加速を開始。バン! という衝撃音に顔を叩かれたリーファが一瞬目を閉じ、再び開けたときには、キリトはすでに台地目指して急角度のダイブに入っていた。
「ちょ……ちょっとぉ!! なによそれ!!」
少しだけ感傷的になりながら口にしたお別れの台詞を一瞬で台無しにされ、リーファは思わず抗議したが、キリトは振り返りもせずみるみる遠ざかっていく。アキレつつも慌てて後を追う。
目指す先では、シルフとケットシー達がようやく接近する大集団に気づいたようだった。次々に椅子を蹴り、銀光を煌かせながら抜刀するが、その姿は重武装の攻撃隊に比べあまりにも脆そうに見える。
草原を這うように飛んでいたサラマンダーの先頭部隊が、一気に高度を取り、ウサギを狙う猛禽のように長大なランスを構えてぴたりと静止した。後続の者たちも次々と左右に展開し、台地を半包囲する。殺戮の直前の静けさが一瞬、世界を包む。
サラマンダーの一人がさっと手を上げ――振り下ろそうとした、その瞬間。
対峙する両者の中央、台地の端に、巨大な土煙が上がった。一瞬遅れて、ドドーン! という爆音が大気を揺るがす。漆黒の隕石となったキリトが速度を緩めずに着地したのだ。
その場にいるすべての者が凍りついたように動きを止めた。薄れゆく土煙の中、ゆっくりと体を起こしたキリトは、仁王立ちになってぐるりとサラマンダー軍を睥睨した。胸を反らせ、一杯に息を吸い込んで――
「双方、剣を引け!!」
「うわっ!」
リーファはダイブしながら思わず首をすくめた。なんという馬鹿でかい声だろうか、先ほどの爆音の比ではない。まだ数十メートルも上空にいたリーファの体さえビリビリと震えた。まるで物理的圧力に晒されたかのごとくサラマンダーの半円が動揺し、わずかに後退る。
声もさることながら、あのクソ度胸には呆れるほかない。一体なにをどうするつもりなのか、見当もつかない。
リーファは背中に冷や汗が伝うような感覚を味わいながら、キリトの背後、シルフと思しき緑衣の集団の傍らにすとんと着陸した。見渡すと、すぐに特徴的な衣装の人物が見つかる。
「サクヤ」
声をかけると、そのシルフは呆然とした表情で振り向き、更に目を丸くした。
「リーファ!? どうしてここに――!? い、いや、そもそもこれは一体――」
彼女がこんなに取り乱すところは初めて見たなあ、と思いながら、リーファは口を開いた。
「簡単には説明できないのよ。ひとつ言えるのは、あたし達の運命はあの人次第、ってことだわ」
「……何がなにやら……」
シルフは再び、こちらに背を向けて屹立する黒衣の人影に目をやる。その心中を思いやりながら、リーファは改めてサクヤ――現シルフ領主の姿を見やった。
女性シルフにしては秀でた長身、黒に近いダークグリーンの艶やかな直毛を背に長く垂らし、その先を一直線にぴしりと切りそろえている。肌は抜けるように白く、切れ長の目、高い鼻筋、薄く小さな唇という美貌は刃のような、という形容詞が相応しい。
身にまとうのは、前合わせの和風の長衣。帯に無造作に差してあるのは、リーファの持つ長刀よりもさらに二寸ほども長い大太刀だ。裾から覗く真っ白な素足に、深紅の高下駄を突っ掛けている。一目見れば忘れられないその姿は、領主選挙での得票率が八割に近いのも頷けるほど印象深い。
もちろん、その得票の全てが美貌によるものではない。領主ゆえに数値的ステータスは高いとは言えないが、デュエル大会では常に決勝に進むほどの剣の達人であり、公正な人柄で人望も篤い。
視線を動かすと、その隣に立つ小柄な女性プレイヤーの姿が目に入った。
とうもろこし色に輝くウェーブヘア、その両脇から突き出た三角形の大きな耳はケットシーの証だ。小麦色の肌を大胆に晒し、身にまとうのはワンピースの水着に似た戦闘スーツ。その両腰に、巨大な三本のツメが突き出たクロー系の武器を装備している。スーツのお尻の部分からは縞模様の長いシッポが伸び、本人の緊張を映してかぴくぴくと震えている。
横顔は、まつげの長い大きな目、ちょっとだけ丸く小さな鼻、多少愛嬌のありすぎるきらいはあるがこちらもALO基準に照らせば驚くほどの美少女振りだ。直接まみえるのは初めてだが、彼女がケットシー領主のアリシャ・ルーだろう。サクヤと同じく圧倒的な人気で長期の政権を維持している。
並んで立つ二領主の後ろをちらりと見回すと、シルフとケットシーが六人ずつ、揃って呆然とした顔で立ち尽くしていた。無論ケットシーは全員初めて見る顔ばかりだが、シルフは執政部の有力プレイヤーばかりだ。念のため確認したが、やはりシグルドの姿はない。
改めて視線をサラマンダー部隊に向けたとき、再びキリトが叫んだ。
「指揮官に話がある!」
あまりにふてぶてしい声と態度に圧倒されたかのようにサラマンダーのランス隊の輪が割れた。空に開いたその道を、一人の大柄な戦士が進み出てくるのが見えた。
炎の色の髪を剣山のようにつんつんと逆立て、浅黒い肌に猛禽に似た鋭い顔立ち。逞しい体を、ひと目で超レアアイテムと知れる赤銅色のアーマーに包み、背にはキリトのものに優るとも劣らぬ巨剣を装備している。
深紅に光るその双眸を見た瞬間、リーファの背にぞくりという寒気が走った。対峙したわけでもないのにこれ程の恐怖を感じたプレイヤーは初めてだった。
ガシャッと音をさせてキリトの前に着地した戦士は、無表情のまま小柄な黒衣の少年を高い位置から睥睨した。やがてその口が開き、錆びているがよく通る声が流れた。
「――スプリガンがこんなところで何をしている。どちらにせよ殺すには変わりないが、その度胸に免じて話だけは聞いてやろう」
キリトは臆するふうもなく、大声で答えた。
「俺の名はキリト。スプリガン=ウンディーネ同盟の大使だ。この場を襲うからには、我々四種族との全面戦争を望むと解釈していいんだな?」
(――うわぁ……)
リーファは絶句した。何たるムチャクチャか――ハッタリをかますにも程がある。今度こそ錯覚でなく背中を冷や汗がだらだらと流れる。愕然とした顔でこちらに視線を向けるサクヤとアリシャ・ルーに向かって必死のウインク。
サラマンダーの指揮官も、さすがに驚いたようだった。
「ウンディーネとスプリガンが同盟だと……?」
だがすぐにその表情は元に戻る。
「……護衛の一人もいない貴様がその大使だと言うのか」
「ああ、そうだ。この場にはシルフ・ケットシーとの貿易交渉に来ただけだからな。だが会談が襲われたとなればそれだけじゃすまないぞ。四国の軍事同盟を結んでサラマンダーに対抗することになるだろう」
しばしの沈黙が世界を覆った。――やがて、
「たった一人、たいした装備も持たない貴様の言葉を、にわかに信じるわけにはいかないな」
サラマンダーは突然背に手を回すと、巨大な両刃直剣を音高く抜き放った。暗い赤に輝く刀身に、絡み合う二匹の龍の象嵌が見て取れる。
「――オレの攻撃を十秒耐え切ったら、貴様を大使と信じてやろう」
「ずいぶん気前がいいね」
飄々とした声で言うと、キリトも背から方刃の巨剣を抜いた。こちらは鈍い鉄色、装飾のたぐいは一切ない。
翅を震動させて浮き上がり、サラマンダーと同じ高度でホバリングする。瞬間、両者の間で圧縮された闘気が白くスパークしたような気がした。
(十秒……)
リーファはごくりと喉を鳴らした。
キリトの実力からすれば、余裕のある条件とも思える。だがあのサラマンダー指揮官の発する殺気もただごとではない。
緊迫した空気の中、隣に立つサクヤが低く囁いた。
「まずいな……」
「え……?」
「サラマンダーの両手剣、レジェンダリーウェポンの紹介サイトで見たことがある。あの男は多分『ユージーン』だ……知ってるか?」
「……な、名前くらいは……」
息を飲むリーファに向かって軽くうなずくと、サクヤは言葉を続けた。
「サラマンダー領主『モーティマー』の弟……リアルでも兄弟らしいがな。知の兄に対して武の弟、純粋な戦闘力ではユージーンのほうが上だと言われている。サラマンダー最強の戦士……ということはつまり……」
「全プレイヤー中最強……?」
「ってことになるな……。とんでもないのが出てきたもんだ」
「……キリト君……」
リーファは両手を胸の前でぎゅっと握り締めた。
対峙する二戦士は、相手の実力を計るかのように長い間睨み合っていた。高原の上を低く流れる雲が、傾き始めた日差しを遮って幾筋もの光の柱を作り出している。そのひとつがサラマンダーの剣に当たり、まばゆく反射した、その瞬間。
予備動作ひとつなくユージーンが動いた。
びぃん! と空気を鳴らして、超高速の突進をかける。右に大きく振りかぶった大剣が宙に紅い弧を描き、小柄なスプリガンに襲い掛かる。
だがキリトの反応も流石の速さだった。無駄の無い動作で頭上に巨剣を掲げ、翅を広げて迎撃態勢に。敵の剣を受け流し、カウンターの一撃を叩き込むつもりか――とリーファが見て取った、その直後。
「――!?」
キリトに向かって振り下ろされる赤い剣は、黒い剣に衝突するその瞬間、刀身をおぼろに霞ませた。そのままキリトの剣を透過し、再び実体化。
ダガァァァァン!! という爆音が世界を揺らした。キリトの胸の中央に炸裂した斬撃は巨大なエフェクトフラッシュを爆発させ、黒衣の姿は暴風の中の木の葉のように叩き落されて一直線に地面に突き刺さった。再び轟音、そして土煙。
「な……いまのは!?」
絶句するリーファに答えたのはアリシャ・ルーだった。
「あの剣は伝説武器のひとつ、『フェイズシフター』だヨ! 剣や盾で受けようとしても擦り抜けてくる厄介なEX効果があるんだヨ」
「そ、そんな……」
慌ててキリトのHPバーを確認しようと目を凝らす。だが、カーソル照準を合わせる間もなく、土煙の中から矢のように飛び出す影があった。ホバリングするユージーンめがけて一直線に突進していく。
「ほう……よく生きていたな!」
うそぶくサラマンダーに向かってキリトは、
「なんだよさっきの攻撃は!」
お返しとばかりに巨剣を叩きつける。
ガン、ガァン! と撃剣の音が立て続けに響いた。武器の性能に負ぶさっているだけの戦士ではないらしく、リーファの眼にも捉えきれないほどのキリトの連続攻撃を、ユージーンは的確に両手剣で弾き返していく。
そして、連撃にわずかな間が空いた、その瞬間。
再びフェイズシフターが牙を剥いた。横薙ぎに払われる剣を、キリトが反射的に己の剣で受けようとする。しかし、先ほどと同じように刀身が霞み、直後、キリトの腹に深々と食い込んだ。
「ぐはぁぁっ!!」
肺の中の空気を全て吐き出すような声を上げながら、今度は宙をくるくると吹き飛ばされる。翅を一杯に広げてブレーキをかけ、どうにか踏みとどまる。
「……効くなぁ……。おい、もう十秒経ってんじゃないのかよ!」
わめくキリトに向かって不敵に笑うユージーン。
「悪いな、やっぱり斬りたくなった。首を取るまでに変更だ」
「この野郎……。絶対泣かせてやる」
キリトは巨剣を構えなおすが、残念ながらもう勝負の行方は見えたも同然と思えた。
フェイズシフターの攻撃を防ぐには、パリィに頼らずすべてを避けるしかない。だが剣同士の高速近接戦闘においてそれはほとんど不可能だ。
ユージーンが翅から赤い光の帯を引いてスラストをかける。その攻撃を、キリトがランダム飛行で危なっかしく回避していく。
絡み合う二本の飛行軌跡が空に複雑な模様を描き、時々パパッとエフェクトの光塵を散らしてはまた離れる。視線を合わせると、キリトのHPバーは二度の被弾によって半分以上減少している。先刻、あれほどの多重魔法攻撃を耐え切ったキリトのHPを容易く削り取るとは、ユージーンの攻撃力も只事ではない。
と――、不意にキリトが振り返り、右手を突き出した。いつの間にスペルワードを詠唱していたのか、その手が「黒く」輝き――
ボン、ボボボボン! と二人の周囲に立て続けに真っ黒な煙がいくつも爆発した。それらはたちまちモクモクと広がっていき、空域を覆い尽くす。
黒雲は地上のリーファたちの頭上にも及び、さぁっと周囲が薄暗くなった。みるみる悪くなっていく視界のなか、必死に眼を凝らしてキリトの姿を捜そうとする。
「リーファ、ちょっと借りるぜ」
「わっ!?」
突然、耳もとでささやき声がした。同時に、腰の鞘から愛刀が抜かれる感触。
「き、キリト君!?」
慌てて振り向くが、すでにそこには誰の姿もない。だが、いつの間にか鞘は空っぽになっていた。
「時間稼ぎのつもりかァ!!」
厚い煙の中央からユージーンの叫びが響き渡った。次いで、スペルの詠唱が耳に届く。
すぱっ! と、幾つもの赤い光の帯が放射状にほとばしり、黒煙を切り裂いた。ディスペル系の呪文なのだろう、煙がたちまち薄れ、世界は光を取り戻す。
空の一角に、赤い大剣を携えて浮かぶユージーンの姿。見回すと、すぐに同高度でホバリングする黒衣の姿が目に入る。右手にくろがねの巨剣を担ぎ、そして左手には――白銀に煌くリーファの長刀――。
「な……!?」
キリトの意図がつかめず、リーファは目と口をぽかんと開けた。
二刀装備――、概念としては目新しいものではない。握った「武器」が一定以上の「速度」で敵の身体に命中すればダメージが入るというALOのシンプルな戦闘システムゆえに、片手用武器を二本持てば二倍強くなるのではないかと考えたものは以前にもいた。
だが、人間の脳というのは意外に不器用なものだ。
例えば、現実世界で左右の手にペンを握り、別々の字を書くのはよほどの訓練を積まなければ不可能だ。交互にペン先を動かすことはできても、同時に操ることは至難と言ってよい。
そして、アミュスフィアによるI/Oのワンクッションが入るダイレクトVRワールドでは、その脳の「不器用さ」は激しく増幅される。両手でひもを結ぶことすら非常な困難をともなう程なのだ。
二刀を装備し、左の剣で防御したあと、右の剣で攻撃――といった使い方なら可能だろう。しかしそれなら盾を使えばいいし、リーファに言わせれば両手剣でより大きなダメージを狙ったほうが更によい。
つまるところ、二本の剣を効果的に連携させるのは不可能なのだ。ALO初心者のキリトはそれを知らないのだろうか――?
ユージーンも口元に呆れたような苦笑を滲ませた。もう小技は不要と見てか、フェイズシフターを真っ向正面に振りかぶる。
「ドアアアァァァ!」
天地を揺るがす気合と共にサラマンダーの真骨頂である重突進。
必殺の威力をはらんだ不可避の斬撃がキリトの頭上に降りかかる。
「ぬん!」
キリトも右手の巨剣で迎撃態勢に。だが、当然のように赤の剣はその身を霧と変え、音もなく障害をすり抜ける。一瞬で実体を取り戻し、キリトの首筋へと――
炸裂したエフェクト光は、まばゆい銀色だった。
耳をつんざく金属音とともに、受け流されたフェイズシフターが宙を泳いだ。
キリトは、右の剣を掲げると同時に、わずかに時間差をつけて左手に握ったリーファの剣を跳ね上げていたのだ。
全力突進をいなされたユージーンの体勢が大きく崩れる。そこに間髪入れずキリトの右手の巨剣がカウンターの突きとなって――
ドッ! という重い音を立て、サラマンダーの体を貫いた。
「ぐあっ!!」
キリトの神速の突きと、ユージーン自身の突進のスピードが相乗効果となって、そのダメージは凄まじいものとなった。HPバーが一瞬でレッドゾーンに突入する。だがキリトは攻撃の手を緩めることなく、串刺しとなったユージーンの体を高々と持ち上げると――
左手に握ったリーファの長刀を一直線に薙いだ。一瞬、真紅のアーマーをまとった美丈夫の首と胴がわずかに分断され、
「…………!!」
驚愕の表情を張り付かせたその姿は、巨大なエンドフレイムを巻き上げてあっけなく燃え崩れた。
誰一人、身動きするものはいなかった。
シルフも、ケットシーも、五十人以上のサラマンダー攻撃部隊も、魂を抜かれたように凍りついていた。
それほどまでに、ハイレベルな戦闘だったのだ。
通常、ALOの戦闘は、近接ならば不恰好に武器を振り回し、遠距離ならば芸も無く魔法をぶつけ合うのがスタンダードだ。防御や回避といった高等技術を使えるのは一握りの熟練プレイヤーだけで、「見映えのする」戦闘などというものはデュエル大会の上位戦でもなければお目にかかることはできない。
だが今の、キリトとユージーンの戦闘は明らかにそれ以上だった。
流れるような剣舞、空を裂く高速エアレイド、そして何より「フェイズシフター」の度肝を抜くEXアタックと、それを打ち砕いたキリトの「二刀流」――。
最初に沈黙を破ったのはサクヤだった。
「見事、見事!!」
張りのある声で言い、両手を高らかに打ち鳴らす。
「すごーい! ナイスファイトだヨ!」
アリシャ・ルーがそれに続き、すぐに背後の十二人も加わった。盛大な拍手に混じって、口笛を鳴らすわ「ブラヴォー」などと叫ぶわ大変な騒ぎだ。
リーファはハラハラしながらサラマンダー達の様子を見やった。指揮官が討たれた上にこの有様ではさぞかし心中穏やかではあるまい――と思ったのだが。
驚いたことに、拍手の波はまたたくまにサラマンダー軍にも伝染していった。割れんばかりの歓声を上げ、長大なランスを立てて旗のように振りまわす。
「わぁ……!」
リーファは思わず笑顔を浮かべた。
今まで、敵――無法な強奪者としか見ていなかったサラマンダー達も、やはりそれ以前に同じALOプレイヤーだったのだ。彼らの心をも揺さぶるほどに、キリトとユージーンのデュエルが素晴らしかったということか。
不思議な感動にとらわれながら、リーファも一生懸命両手を叩いた。
歓声の輪の中央で、立役者となったキリトは相も変らぬ飄々とした笑みを浮かべ、巨剣を背に戻すと右手を上げた。
「や、どーもどーも!」
気障な仕草で四方にくるりと一礼すると、リーファたちの方に向かって叫ぶ。
「誰か、蘇生魔法頼む!」
「わかった」
頷くと、サクヤがすっと浮き上がった。着流しの裾をはためかせながら、ふわふわ漂うユージーンの残り火の傍まで上昇し、スペルワードの詠唱を開始する。
やがてサクヤの両手から青い光がほとばしり、赤い炎を包み込んだ。複雑な形状の立体魔方陣が展開し、その中央で残り火は徐々に人の形を取り戻していく。
最後に一際まばゆく閃光を発すると魔方陣は消滅した。キリトとサクヤ、そして蘇生したユージーンは無言のまま舞い降り、台地の端に降り立った。再び周囲を静寂が包む。
「――見事な腕だな。俺が今まで見たなかで最強のプレイヤーだ、貴様は」
静かな声でユージーンが言った。
「そりゃどうも」
短くキリトが応じる。
「貴様のような男がスプリガンにいたとはな……。世界は広いということかな」
「俺の話、信じてもらえるかな?」
「……」
ユージーンは目を細め、一瞬沈黙した。その時――
台地を取り囲むサラマンダー部隊前衛の槍隊から、一人のプレイヤーが降下してきた。ガシャリと鎧を鳴らして着陸し、左手で尖った面頬を跳ね上げる。
無骨な顔つきのその男は、ユージーンに歩み寄りながら口を開いた。
「ジンさん」
「カゲムネか、何だ?」
どこかで聞いた名前だな――とリーファは一瞬首を捻り、すぐに思い出した。地底湖で襲ってきたメイジ部隊の生き残りが口にしていた名前だ――ということは、昨日キリトと初めて出会ったとき、古森で剣を交えたサラマンダーパーティーの隊長である。
「昨日、俺のパーティーが全滅させられた話をしたじゃないスか」
カゲムネがまさにその話をしているのに気付き、リーファは固唾を飲んで耳を澄ませた。
「ああ」
「その相手が、まさにこのスプリガンなんですが――確かに、ウンディーネが何人か一緒でした」
「!?」
リーファは唖然としてカゲムネの横顔を見つめた。キリトも一瞬眉をぴくりと動かしたが、すぐにポーカーフェイスに戻る。カゲムネの言葉は続く。
「それに、エスの情報でメイジ隊が追ってたのもこの男ですよ、確か。どうやら全滅したようですが」
エス、というのはスパイを指す隠語だ。あるいは、そのままシグルドの頭文字なのだろうか。
ユージーンは首を傾け、カゲムネの顔を見た。周囲の者の大半にとってはチンプンカンプンな話だろうが、リーファは手に汗握る思いで話の行方を見守った。
やがて――ユージーンは軽く頷くと、言った。
「そうか」
軽い笑みを浮かべ、
「……そういうことにしておこう」
次いでキリトに向き直り、言う。
「確かに現状でスプリガン、ウンディーネを事を構えるつもりは俺にもモーティマーにも無い。この場は引こう。――だが貴様とはいずれもう一度戦うぞ」
「望むところだ」
キリトの差し出した右拳に、ゴツンと己の拳を打ち付けると、ユージーンは身を翻した。翅を広げ、地を蹴る。
それに続いて飛び立とうとしたカゲムネは、一瞬リーファの顔を見ると、ニッと笑いながら不器用に右目をつぶった。借りは返した――とでも言うつもりだろうか。リーファも右頬にかすかな笑みを浮かべる。
翅を鳴らして二人が飛び去ると、リーファは胸の奥に溜めていた息を大きく吐き出した。
地上に残された者たちが見守るなか、サラマンダーの大軍勢は一糸乱れぬ動作で隊列を組みなおすと、ユージーンとカゲムネを先頭に鈍い翅音の重奏を残してたちまち遠ざかっていった。無数の黒い影はすぐに雲に飲み込まれ、薄れ、やがて完全に消え去った。
ふたたび訪れた静けさの中、キリトが笑いを含んだ声で呟いた。
「……サラマンダーにも話のわかる奴がいるじゃないか」
リーファは何をどう言っていいかわからず――おなかの奥底から浮かんできた言葉をそのまま口にした。
「……あんたって、ムチャクチャだわ」
「よく言われるよ」
「……ふふふ」
笑い合う二人に、サクヤが咳払いをひとつしてから声をかけた。
「すまんが……状況を説明してもらえると助かる」
一部は憶測なんだけど、と断ってリーファは事の成り行きを説明した。サクヤ、アリシャ・ルーをはじめとする両種族の執政者たちは鎧の音ひとつ立てず長い話に聞き入っていたが、リーファが説明を終えて口を閉じるとそろって深いため息に似た音を洩らした。
「……なるほどな」
両腕を組み、艶麗な眉のアーチをかすかにしかめながら、サクヤが頷いた。
「ここ何ヶ月か、シグルドの態度に深い苛立ちのようなものが潜んでいるのは私も感じていた。だが、独裁者と見られるのを恐れ合議制に拘るあまり彼を要職の座に置きつづけてしまった……」
「サクヤちゃんは人気者だからねー、辛いところだヨねー」
サクヤ以上の単独長期政権を維持しているアリシャ・ルーが、自分のことを棚にあげて深々と頷く。
「苛立ち……何に対して……?」
いまだシグルドの心理が理解できないリーファが呟くと、サクヤは視線を遠い稜線に向けながら答えた。
「多分……彼には許せなかったのだろうな。勢力的にサラマンダーの後塵を拝しているこの状況が」
「…………」
「シグルドはパワー志向の男だからな。キャラクターの数値的能力だけでなく、プレイヤーとしての権力をも深く求めていた……。ゆえに、サラマンダーがグランド・クエストを達成してアルヴヘイムの空を支配し、おのれはそれを地上から見上げるという未来図は許せなかったのだろう」
「……でも、だからって、なんでサラマンダーのスパイなんか……」
「もうすぐ導入される『アップデート13』の話は聞いているか? ついに『転生システム』が実装されるという噂がある」
「あっ……じゃあ……」
「モーティマーに乗せられたんだろうな。領主の首を差し出せばサラマンダーに転生させてやると。だが転生には膨大な額のユルドが必要となるらしいからな……。冷酷なモーティマーが約束を履行したかどうかは怪しいところだな」
「…………」
リーファは複雑な心境で、金色に染まりつつある空と、その彼方に霞む世界樹を見やった。
アルフに生まれ変わり、飛行制限の頚木から脱するのはリーファの夢でもある。そのために、シルフ一の実力と噂されるシグルドのパーティーに参加し、熱心に狩りをこなして、稼いだユルドのほとんどを執政部に上納してきた。
仮に、キリトと出会いパーティーを脱退した経緯がなければ、シグルドの口ぶりからして彼はおそらくリーファをサラマンダー転生計画に誘っただろう。そうなった場合、自分はどうしただろうか……。
「まったく、プレイヤーの欲を量る陰険なゲームだな、ALOって」
不意に、苦笑のにじむ落ち着いた声で傍らのキリトが言った。
「設計者は嫌な性格してるに違いないぜ」
「ふ、ふ、まったくだ」
サクヤも笑みで応じる。
リーファは、何となく自分の心を少しばかり立て掛けたくなって、キリトの左腕に自分の腕を絡めると体重を預けた。どのような状況に至ってもまるで動じないように見えるキリトにぴったり接していると、揺れる気持ちがほっと落ち着くような気がする。
「それで……どうするの? サクヤ」
訊ねると、美貌の為政者は笑みを消し、一瞬目蓋を閉じた。すぐに開いた双眸は冴え冴えとした光を放っている。
「ルー、あんた闇魔法上げてたよね?」
サクヤの言葉に、アリシャ・ルーは大きな耳をぱたぱた動かして肯定の意を表す。
「じゃあ、シグルドに『月光鏡』を頼む」
「いいけど、まだ夜じゃないからあんまり長くもたないヨ」
「構わない、すぐ終わる」
もう一度耳をぴこっと動かし、アリシャ・ルーは一歩下がると両手を掲げて詠唱を開始した。
耳慣れない韻律を持つ闇属性魔法のスペルワードが、高く澄んだアリシャの声に乗って流れる。たちまち周囲がにわかに暗くなり、どこからともなく一筋の月光がさっと降り注いだ。
光の筋は、アリシャの前に金色の液体のように溜まっていき、やがて完全な円形の鏡を作り出した。周囲の者が声も無く見守るなか、その表面がゆらりと波打って――にじむようにどこかの風景を映し出した。
「あ……」
リーファはかすかに吐息を洩らした。鏡に映っているのは、何度か訪れたことのある、領主館の執政室だった。
正面に、巨大な翡翠の机が見える。その向こうで領主の玉座に身体を沈ませ、卓上にどかっと両足を投げ出している人物がいた。目を閉じ、頭の後ろで両手を組むその男は間違いなくシグルドだ。
サクヤは鏡の前に進み出ると、琴のように張りのある声で呼ばわった。
「シグルド」
その途端、鏡の中のシグルドはぱちりと目を開き、バネ仕掛けのごとく跳ね起きた。同じく鏡の中のサクヤと真っ直ぐに目を合わせてしまったのだろう、唇をゆがめてビクリと身体を竦ませる。
「サ……サクヤ……!?」
「ああ、そうだ。残念ながらまだ生きている」
サクヤは淡々と応えた。
「なぜ……いや……か、会談は……?」
「無事に終わりそうだ。条約の調印はこれからだがな。そうそう、予期せぬ来客があったぞ」
「き、客……?」
「ユージーン将軍が君によろしくと言っていた」
「な……」
今度こそ、シグルドは大いなる驚愕に見舞われたようだった。剛毅に整った顔がみるみる蒼白になる。言葉を探すかのように瞳をキョロキョロと動かし――その視線が、サクヤの背後のリーファとキリトを捉えた。
「リー……!?」
一瞬、飛び出すほどに見開かれたその目は、ついに状況を悟ったようだった。鼻筋に深くシワを寄せ、猛々しく歯を剥き出す。
「……無能な赤トカゲどもめ……。で……? どうする気だ、サクヤ? 懲罰金か? 執政部から追い出すか? だがな、軍務を預かる俺が居なければお前の政権だって……」
「いや、シルフでいるのが耐えられないならその望みを叶えてやることにした」
「な、なに……?」
サクヤが優美な動作で右手を振ると、領主専用の巨大なシステムメニューが出現した。無数のウインドウが階層をなし、光の六角柱を作り出している。一枚のタブを引っ張り出し、素早く指を走らせる。
鏡の中のシグルドの眼前に、青いメッセージウインドウが出現するのが見えた。それに目を走らせたシグルドが、血相を変えて立ち上がった。
「貴様ッ……! 正気か……!? 俺を……この俺を、追放するだと……!?」
「そうだ。レネゲイドとして中立域を彷徨え。いずれそこにも新たな楽しみが見つかることを祈っている」
「う……訴えるぞ! 権力の不当行使でGMに訴えてやる!!」
「好きにしろ。……さらばだ、シグルド」
シグルドは拳を握り、さらに何事かを喚きたてようとした。だがサクヤが指先でタブに触れると同時に、鏡の中からその姿が音もなく掻き消えた。シルフ領を追放され、アルンを除くどこかの中立都市にランダム転送されたのだ。
金色の鏡は、しばらく無人となった執政室を映していたが、やがてその表面が波打ったと思うとはかない金属音を立てて砕け散った。同時に周囲を再び夕陽の光が照らし出した。
「……サクヤ……」
再び静寂が訪れても眉根を深く寄せたままのサクヤの心中を慮って、リーファはそっと声をかけた。
美貌の為政者は、右手を振ってシステムメニューを消去すると、吐息交じりの笑みを浮かべた。
「……私の判断が間違っていたのか、正しかったのかは次の領主投票で問われるだろう。ともかく――礼を言うよ、リーファ。執政部への参加を頑なに拒みつづけた君が救援に来てくれたのはとても嬉しい」
照れ隠しに肩をすくめると、リーファは傍らの少年を視線で示した。
「あたしは何もしてないもの。お礼ならこのキリト君にどうぞ」
「そうだ、そう言えば……君は一体……」
並んだサクヤとアリシャ・ルーが、あらためて疑問符を浮かべながらキリトの顔をまじまじと覗き込む。
「ねェ、キミ、スプリガンとウンディーネの大使……ってほんとなの?」
好奇心の表現か、立てたシッポをゆらゆらさせながらアリシャが言った。キリトは右手を腰にあて、胸を張って答える。
「勿論大嘘だ。ブラフ、ハッタリ、ネゴシエーション」
「な――……」
二人はがくんと口を開け、絶句。
「……無茶な男だな。あの状況でそんな大法螺を吹くとは……」
「手札がショボい時はとりあえず掛け金をレイズする主義なんだ」
悪びれずにうそぶくキリト。それを聞いたアリシャ・ルーは突然ニィッと、いかにも猫科といったいたずらっぽい笑みを浮かべると、数歩進み出てキリトの顔を至近距離から覗き込んだ。
「――おーうそつきさんにしてはキミ、ずいぶん強いネ? 知ってる? さっきのユージーンくんはALO最強って言われてるんだヨ。それに正面から勝っちゃうなんて……スプリガンの秘密兵器、だったりするのかな?」
「まさか。しがない流しの用心棒――ってところかな」
「ぷっ。にゃはははは」
あくまで人を食ったキリトの答えにひとしきり笑うと、いきなりアリシャはひょいっとキリトの右腕を取って胸に抱いた。ナナメ下方からコケティッシュな流し目に乗せて、
「フリーなら、キミ――ケットシー領で傭兵やらない? 三食おやつに昼寝つきだヨ」
「なっ……」
リーファは思わず口もとをピキッとひきつらせた。だが割り込む隙を見つけるより早く――
「おいおいルー、抜け駆けはよくないぞ」
とサクヤの、心なしかいつもより艶っぽい声。
「彼はもともとシルフの救援に来たんだから優先交渉権はこっちにあると思うな。キリト君と言ったかな――どうかな、個人的興味もあるので礼も兼ねてこの後スイルベーンで酒でも……」
ピキピキッ。とさらにこめかみまでもひきつる。
「あーっ、ずるいヨ、サクヤちゃん。色仕掛けはんたーい」
「人のこと言えた義理か! 密着しすぎだお前は!」
美人領主二人に左右からぴたっと挟まれて、キリトは困った様子ながら顔を赤くしてまんざらでもなさそうな……。
と思ったときには、リーファは後ろからキリトの服をぐいっと引っ張って叫んでいた。
「だめです! キリト君はあたしの……」
三人がひょいっと振り向いて、リーファの顔を見る。我に返ると同時に言葉に詰まった。
「ええと……あ、あたしの……」
適切な台詞が出てこずしどろもどろになっていると、キリトが軽い笑みを滲ませながら口を開いた。
「お言葉はありがたいんですが――すみません、俺は彼女に中央まで連れて行ってもらう約束をしているんです」
「ほう……そうか、それは残念」
いつも心の底は覗かせないサクヤだが、今度ばかりは本当に残念そうに言うと、リーファに視線を向けてきた。
「アルンに行くのか、リーファ。物見遊山か? それとも……」
「領地を出る――つもりだったけどね。でも、いつになるか分らないけど、きっとスイルベーンに帰るわ」
「そうか。ほっとしたよ。必ず戻ってきてくれよ――彼と一緒にな」
「途中でウチにも寄ってね。大歓迎するヨー」
二領主はキリトから離れると、表情を改めた。サクヤは右手を胸に当てて優美に上体を傾け、アリシャはふかぶかと頭を下げて耳をぺたんと倒す動作でそれぞれ一礼する。顔を上げたサクヤが言った。
「――今回は本当にありがとう、リーファ、キリト君。私達が討たれていたらサラマンダーとの格差は決定的なものになっていただろう。何か礼をしたいが……」
「いや、そんな……」
困ったように頭をかくキリトの姿を見て、リーファははっと思いつくことがあった。一歩進み出て、言う。
「ねえ、サクヤ――アリシャさん。今度の同盟って、世界樹攻略のためなんでしょ?」
「ああ、まあ――究極的にはな。二種族共同で世界樹に挑み、双方ともにアルフとなれればそれで良し、片方だけなら次のグランドクエストも協力してクリアする……というのが骨子だが」
「その攻略に、わたしたちも同行させて欲しいの。それも、可能な限り早く」
サクヤとアリシャ・ルーは顔を見合わせる。
「……同行は構わない、と言うよりこちらから頼みたいほどだよ。時期的なことはまだ何とも言えないが……しかし、なぜ?」
「……」
ちらりとキリトを見る。謎の多いスプリガンの少年は、一瞬瞳を伏せると、言った。
「俺がこの世界に来たのは、世界樹の上に行きたいからなんだ。そこにいるかもしれない、ある人に会うために……」
「人? 妖精王オベイロンのことか?」
「いや、違う――と思う。リアルで連絡が取れないんだけど……どうしても会わなきゃいけないんだ」
「へえェ、世界樹の上ってことは運営サイドの人? なんだかミステリアスな話だネ?」
興味を引かれたらしく、アリシャ・ルーが大きな目をきらきらさせながら言う。だがすぐに耳とシッポを力なく伏せ、申し訳なさそうに、
「でも……攻略メンバー全員の装備を整えるのに、しばらくかかると思うんだヨ……。とても一日や二日じゃあ……」
「そうか……そうだよな。いや、俺もとりあえず樹の根元まで行くのが目的だから……あとは何とかするよ」
キリトは小さく笑うと、「あ、そうだ」と何かを思いついたかのように右手を振った。出現したウインドウを手早く操り、かなり大きな革袋をオブジェクト化させる。
「これ、資金の足しにしてくれ」
言って差し出した袋は、じゃらりと重そうな音からしてユルドが詰まっているようだった。受け取ったアリシャは一瞬ふらついたあと慌てて両手で袋を抱えなおし、ちらりと中を覗き込んで――目を丸くした。
「さ、サクヤちゃん、これ……」
「ん……?」
サクヤは首を傾げ、右手の指先を袋に差し込む。つまみ出したのは、青白く輝く大きなコインだった。
「うぁっ……」
それを見た途端、リーファは思わず声を洩らした。二領主は口を開けて凍りつき、背後で事のなりゆきを見守っていた十二人の側近たちからも大きなざわめきが漏れる。
「……10万ユルドミスリル貨……これ全部……!?」
さすがのサクヤも、掠れた声で言いながらコインを凝視していたが、やがて呆れたように首を振ってそれを袋に戻した。
「これだけの金額をソロで稼ぐのはヨツンヘイムで邪神クラスをキャンプ狩りでもしない限り不可能だと思うがな……。いいのか? 一等地にちょっとした城が建つぞ」
「構わない。俺にはもう必要ない」
キリトは何の執着も無さそうに頷く。
再び袋を覗き込んだサクヤとアリシャは、ほぅーっと深く嘆息してから顔を上げた。
「……これだけあれば、かなり目標金額に近づけると思うヨー」
「大至急装備をそろえて、準備が出来たら連絡させてもらう」
「よろしく頼む」
サクヤの広げたウインドウにアリシャが革袋を格納する。
「この金額を抱えてフィールドをうろつくのはぞっとしないな……。マンダー連中の気が変わる前に、ケットシー領に引っ込むことにしよう」
「そうだネー。話の続きは帰ってからだネ」
領主たちはこくりと頷きあうと、部下たちに合図した。たちまち大テーブルと十四脚の椅子がてきぱきと片付けられていく。
「何から何まで世話になったな。きみの希望に極力添えるよう努力することを約束するよ、キリト君、リーファ」
「役に立てたなら嬉しいよ」
「連絡、待ってるわ」
サクヤ、アリシャ、キリトにリーファはそれぞれ固く握手を交わした。
「アリガト! また会おうネ!」
アリシャはいたずらっぽく笑うとシッポでキリトの体を引き寄せ、その頬に音高くキスした。ふたたび口もとをひくつかせるリーファに向かって――どういう意味なのか――ぱちりとウィンクすると、薄黄色の翅を大きく広げる。
二人の領主は手を振りながら一直線に上昇すると、空に光の帯を引き、赤く染まった西の空へと進路を向けた。その後を六人ずつの配下が雁の群のような美しい隊列を組んで追っていく。
夕焼けの中に彼らの姿が消えてしまうまで、キリトとリーファは無言で見送っていた。
やがて周囲は、あの激闘と、三種族の命運をかけた駆け引きが幻だったかのように静まり返り、吹き渡る風が鳴らす葉擦れの音が残るのみとなった。リーファはわずかな寒さを感じて、そっとキリトに寄り添った。
「……行っちゃったね」
「ああ――終わったな……」
一連の事件の発端となったシグルドとの決裂は、もう遥か昔の出来事のような気がした。まだせいぜい七、八時間前のこととは信じられない。
「なんだか……」
キリトと一緒にいると、この世界こそが現実で、翅のある今の自分が真の姿であるような気がしてくる――というようなことをリーファ/直葉は思ったが、うまく言葉にすることができなかった。そのかわりに、キリトの胸に体を預け、その鼓動を感じてみようとした、そのとき――。
「まったくもう、浮気はダメって言ったです、パパ!」
「わっ」
憤慨したような声とともにキリトの胸ポケットからユイが飛び出してきて、リーファは慌てて距離を取った。
「な、なにをいきなり……」
焦ったような声を出すキリトの頭のまわりをパタパタ飛び回ったユイは、その肩に座ると可愛らしく頬を膨らませる。
「領主さんたちにくっつかれたときドキドキしてました!」
「そ、そりゃ男ならしょうがないんだよ!!」
自分のことを言われたわけではないとわかってリーファはほっとしたが、同時に新たな疑問がわいてきて、ついユイに訊ねてしまった。
「ね、ねえユイちゃん、あたしはいいの……?」
「リーファさんはだいじょうぶみたいです」
「な、なんで……?」
「うーん、リーファはあんま女のコって感じしないんだよな……」
ぽろっと本音が出た、というふうなキリトの台詞。
「ちょっ……な……それってどういう意味!?」
聞き捨てならない言葉に、思わず剣の柄に手を遣りながら詰め寄る。
「い、いや、親しみやすいっていうか……いい意味でだよ、うん」
引き攣った笑いを浮かべながらキリトはすいっと浮かび上がった。
「そ、そんなことよりとっととアルンまで飛ぼうぜ! 日が暮れちゃうよ!」
「あ、こら、待ちなさい!!」
リーファも翅を広げ、地を蹴る。
一目散に世界樹目指して加速していくキリトを追って思い切り翅を震わせながら、リーファはちらりと背後を振り返った。巨大な山脈に遮られて、その向こうに広がるはずの古森と懐かしいシルフ領は望めなかったが、暮れ行く濃紺の空に、チカリと大きな緑の星がまたたくのが見えた。
仮想のエレベータは、仮想の駆動音と減速感を伴いつつ停止した。つるつるした純白のドアに、直前までは存在しなかった裂け目が縦に入り、左右に開く。
アスナは可能なかぎりの静かな動作で、そっとドアの向こうへと足を踏み出した。
眼前には、上層と同じような味気ない構造の通路がまっすぐ伸びていた。人の気配がないのを確かめ、歩き始める。
オベイロンに与えられた衣装は、シンプルな薄手のワンピース一枚のみという非常に心許ないものだが、素足なのがこの状況ではありがたい。靴を履いていれば多分、避けがたく足音のサウンドエフェクトが発生してしまうところだ。
SAOでは、こちらに気付いていないモンスターへのバックアタックやアンブッシュといった静殺傷術を試みるときは、防御力の低下を覚悟で素足になったりしたものだ。
実戦以外でも、アルゲードの廃墟地区を舞台にキリトやクライン、リズたちと「不意打ちゲーム」を何度もやったが、もともと軽量のアスナはほとんどノイズ発生源がないためにコンスタントに上位に入った。しかしキリトにはなぜかバックアタックが成功せず、一度業を煮やして素足での接近を試みたのだが、木剣が後頭部にヒットする直前で察知され、回避された挙句、足をがしっと掴まれて笑い死ぬかと思うほどくすぐられてしまった。
もはや存在すら定かでない現実世界よりも、あの頃に戻りたい――、不意に浮かび上がってきた涙とともにそう思ってしまってから、アスナは頭を振って感傷を払い落とした。
キリトが現実世界で待っている。唯一、自分がいるべき場所は彼の腕の中だけだ。そのために今は前に進むのだ。
通路は、そう長いものではなかった。歩くうちに、前方にのっぺりとした扉が見えてくる。
ロックされていたら、上層のラボラトリーエリアでコンソールを探そう、そう思いながらドアの前に立つと、意に反してそれは音もなく左右に開いた。内部からさっと差し込んできた強烈な白い光に、アスナは思わず目を細めた。
「……!?」
内部をひと目見た途端、アスナは息を飲んだ。
途方もなく広大な空間だった。
真っ白い、超巨大なイベントホール――とでも言おうか。遥か遠く、左右と奥に垂直にそびえる壁面は、ディティールがまったく無いために遠近が感じ取れない。天井は一面に白く発光し、そして同じく白いフロアには――びっしり、かつ整然と、奇怪なモノが並んでいた。
視界に動くものがないのを確かめ、アスナは恐る恐る内部へと歩を進めた。
並ぶモノは、アスナの側から見るかぎりざっと四十以上の列をなして配置されている。この空間が正方形なのだとすれば、それらはおよそその二乗、ほぼ二千もの数が存在することになる。恐怖心を押し殺しながらそのうちのひとつに近づく。
床面から、アスナの胸あたりまでの高さがある、白い円柱が伸びている。太さは両手でも抱えきれないほどだ。平滑なその上面から、わずかな隙間を空けて浮かぶモノは――どう見ても――人間の、頭部だった。
大きさは実物大だが、色合いはリアルなものではない。青紫色の半透明素材で出来ている。オブジェクトとしては非常に精緻で、ホログラフ表示というよりはサファイアを加工した彫像のようだ。
つるっとした頭蓋の内部には、同じく微細なつくりの脳髄が透けて見える。よくよく観察すると、周期的にその各所に光の筋が走り、それが消えたあたりでパッとカラフルな火花が散る。
視線を顔面に移す。「彼」のまぶたは閉じられ、口も結ばれている。美しくも醜くもない、無個性極まりない造作だ。性別すらわからない。昔、美術の授業で見た、数千人の顔の特徴を平均化して生成したという3D画像を思い出す。
生理的な違和感を呼び覚ますその顔を、眉をしかめながらじっと覗き込んだその瞬間――
突然、カッとそのまぶたが開いた。
「ッ……!!」
悲鳴を上げそうになり、必死に堪える。
「彼」は、瞳のないサファイア色の眼球が飛び出すかと思うほどに目を見開き、眉間にシワを寄せ、唇を歪めて歯を食いしばった。あまりにも明確な「恐怖」の表情だ。アスナは全身が総毛立つ感覚に襲われる。
「彼」の透明な脳の一部に、ひときわ強く光のラインが走っているのが見えた。その周辺が薄赤く染まり、ぼうっと発光している。光の脈動と完全に同期して、「彼」は何度も無音の絶叫を繰り返す。その表情は、絶対に造り物ではない。完全にリアルな、真の恐怖の発露。
その恐ろしい光景に耐えられなくなり、アスナは数歩後退った。頭の中に、上層で見た案内板――『実験体格納室』――と、オベイロンの台詞――『感情を操るテクノロジー』――がフラッシュバックする。それらと目の前の光景が結び合わされ、ある結論が浮かび上がる。
それでは、この「彼」、いや数千に及ぶ「彼ら」は、コンピュータによって生成された仮想オブジェクトではなく本物の人間――つまりかつてのSAOプレイヤー達、切り離されたその意識体なのだ。ゲームクリアに伴って解放されるはずが、オベイロンの手によってこの場所に幽閉され、思考、感情、記憶までも操作するという悪魔の研究に供せられているのである。
「なんて……なんて酷いことを……」
アスナは両手で口を覆いながら喉の奥で呟いた。
視線を右に振る。二メートルほど離れたその場所にも同様の円柱が生え、その上に青く透き通る頭部が浮かんでいる。顔の造作は細部にいたるまでまったく同じだが、こちらの「彼」はまぶたをとろんと半眼に開け、口もとを緩ませている。脳に電光が走るたびに、その顔に痴呆めいた陶酔の笑みが浮かぶ。
その向こう……さらにその向こう、無限とも思える数で整列する「彼」たちは、多種多様な表情をクリスタルのマスクに貼り付かせながら、その奥では皆が絶望の叫びを上げているように思えた。
アスナはパニックの衝動を必死に押さえつけ、目尻に溜まった涙の粒をぐいっとぬぐった。
こんなことは許されない。いや、絶対に許さない。自分とキリトが命を賭けて戦ったのは、須郷にこんな所業を為さしむるためではない。絶対にこの悪事を暴き、あの男に相応しい罰を与えなくてはならないのだ。
「待っててね……すぐ、助けるからね……」
呟くと、アスナは目を閉じる「彼」の頬をそっと撫でた。次いでキッと顔を上げ、立ち並ぶ彫像の間を部屋の奥目指して早足で歩き始めた。
歩を進めながら数えた円柱の列の数が二十を超えたころ、不意にアスナの耳に人間の声とおぼしき音が届いた。反射的に体を伏せ、手近な円柱に張り付く。
油断なく周囲に視線を走らせながら音源の方向を探る。話し声らしいものは右手奥から流れてくるようだ。ほとんど這うような姿勢のまま、そろそろとその方向に前進していく。
いくつめかの円柱の陰に達したとき、行く手になにか、「妙なモノ」が見えた。
「!!?」
慌てて体を引っ込める。何度かパチパチと瞬きしてから、恐る恐るもう一度顔を出す。
アインクラッド61層、通称「むしむしランド」と言われていたフロアはその名の通り虫系モンスターで溢れ、アスナを含む大多数の女性プレイヤーにとっては地獄に等しい場所だったのだが、中でも苦手だったのが「ブルスラッグ」という巨大なナメクジ型モンスターだった。黒い斑紋のある灰色の表皮はヌラヌラとした粘液に包まれ、大小三対の眼柄でこちらを見据えながら円環状に牙の生えた口から触手を伸ばして攻撃してくる姿は悪夢そのものだったのだが――。
今、アスナから数メートル離れた場所で、こちらに背を向けて話し込んでいる二匹の生き物は、限りなくそのブルスラッグに似ていた。
巨大ナメクジたちは、ひとつの実験体を覗き込んで熱心に意見を交換しているようだった。右側のナメクジが、長い眼を振り動かしながらキーキーした声で言う。
「オッ、こいつまたスピカちゃんの夢見てるぜ。B13と14フィールドがスケールアウト。16もかなり出てるな……大興奮してやがる」
実験体の周囲に浮かぶホロウインドウを触手で示しながら左側のナメクジが答える。
「偶然じゃないのか? まだ三回目だろ?」
「いや、感情誘導シナプス形成の結果だって。スピカちゃんは俺がイメージを組んで焼きこんだのに、この頻度で現れるのは閾値を超えてるだろ」
「うーん、とりあえず継続モニタリングサンプルに上げとくか……」
耳障りな甲高い声で話しつづける二匹のナメクジに嫌悪の念を感じながら、アスナは再び柱の陰に引っ込んだ。
なぜあんな姿をしているのかは不明だが、彼らはこの非人道的実験に従事する須郷の部下たちなのだろう。その言葉からは、倫理的なためらいは一切感じられない。
右手を硬く握り締めながら、この手のなかに剣があれば……と思う。奴らの姿に相応しい末路を与えてやるのに。
燃え上がった怒りの衝動をどうにか鎮め、アスナはゆっくり後退した。彼らから距離を取り、再び空間の奥を目指す。
遅々とした速度で円柱の列をひとつ、またひとつと通り過ぎ、ついに部屋の最深部へと達した。果たして――遠く離れた白い壁面の手前に、ぽつんと黒い立方体が浮かんでいるのが見えた。
かつて、アインクラッド基部フロアの地下迷宮で見たシステムコンソールを思い出す。もしあれを使って管理者権限でアクセスできれば、この狂った世界からログアウトすることが可能かもしれない――!
ここから先はもう身を隠すものは何一つない。アスナは大きく一回深呼吸すると、意を決して円柱のそばから飛び出した。
極力音を立てないよう、かつ素早くコンソール目指して駆け寄る。わずか十メートルほどの距離が途方もなく遠く思える。
一歩ごとに、背後から呼び止められるのではという恐怖を味わいながら、アスナは縺れそうになる脚をどうにか動かしつづけ、とうとうコンソールの前まで辿りついた。サッと背後を振り返る。幾重にも並ぶ円柱の列の彼方に、ゆらゆら揺れる触角が見て取れる。どうやらナメクジたちはまだ議論に夢中らしい。
アスナはふたたび漆黒のコンソールに向き直った。斜めにカットされた上面は黒く沈黙しているが、その右端に細いスリットがあり、溝の上端に銀色のカードキーと思しき物体が差し込まれたままになっている。祈りながら手を伸ばし、カードをつかんで一気に下にスライドさせる。
ポーン、という効果音が響いて、アスナは首を縮めた。スリットの左に、薄青いウインドウとホロキーボードが浮かび上がった。
ウインドウにはびっしりと多種多様なメニューが表示されている。焦る心を押さえつけながら、細かい英字フォントを端から確認していく。
左下に「transport」というボタンを見つけ、震える指先でそこにタッチ。ブン、という音とともにあらたな窓が浮かぶ。このラボラトリーエリアの全体図が表示されている。どうやらこのシステムで直接各所にジャンプできるらしい。
だが、もうこの場所に用はない。必死に目を走らせると、右隅に「exit virtual labo」というボタンが小さく光っていた。
「これだ……!」
思わず口の中で小さく叫び、それにタッチ。さらなるウインドウが上面に出現する。小さな長方形のそれに表示されているのは「execute log-off sequense , ok?」の一文とOK、CANCELのボタン。
神様――。
心の奥で必死に念じながら、OKボタンに触れようとしたアスナの右手に――
突然背後から、灰色の触手がびしりと巻きついた。
「……!!」
漏れそうになる悲鳴を必死に押しとどめ、アスナは強引に指先をボタンに近づけようとしたが、細い触手はまるで鋼鉄のワイヤーででもできているかのようにびくともしなかった。ならばと伸ばそうとした左手にも、新たな触手が絡みつく。そのままアスナの両腕はぐいっと上に引っ張られ、つま先が床から離れてしまった。
捕獲者は、高く吊り上げたアスナの体をくるりと半回転させた。目の前に出現したのは、予想どおり先ほどの巨大ナメクジたちだった。
オレンジ色の虹彩を持つ、テニスボール大の眼球が四つ、細い枝の上でゆらゆらと揺れている。表情のないその眼は、アスナの顔や体を検分するように眺めまわしていたが、やがて、左がわのナメクジの円い口がもごもごと動き、軋るような声で言った。
「――あんた誰? 何やってんの、こんなとこで?」
アスナは恐怖を押し殺し、極力何気ない声を装って答えた。
「ちょっと、降ろしてよ! わたしは須郷さんの友達よ。ここを見学させてもらってたんだけど、もう帰るところよ」
「へえ? そんな話聞いてないなぁ?」
右のナメクジが、二本の眼枝を、首を傾げるかのごとくひょいっと曲げる。
「お前なんか聞いてる?」
「なんにも。つうか部外者にこんなとこ見せたらヤバイだろ」
「あ……待てよ……」
真ん丸い目玉がにゅっと伸びて、アスナの顔を覗き込んだ。
「……あんたあれだろ。須郷チャンが囲ってるっていう……」
「あーあー。そういや聞いたなそんな話。ずるいなぁボスばっかり、こんなかわいい娘を」
「く……」
アスナは肩越しにコンソールを振り返り、左足を伸ばしてつま先でボタンを押そうとした。だが、ナメクジの口の周りに生えた触手が新たに伸び、足までも絡め取る。体を捩って抵抗しようとしたが、その努力が実る前に、処理がタイムアウトしたらしくホロウインドウは初期画面に戻ってしまった。
「こらこら、暴れちゃだめだよ」
ナメクジたちは次々と触手を繰り出し、アスナの全身をきつく縛りあげ始めた。お腹や大腿部に、容赦ない強さで細い肉のワイヤーが食い込んでくる。
「痛っ……! やめて……離してったら、この化け物!」
「あー、ひどいなあ。これでも深部感覚マッピングの実験中なんだぜ」
「そうそう。このボディをここまで操るのは訓練がいるんだよー」
アスナは、仮想世界特有の真綿に包んだような痛みに顔をしかめながら、必死に言葉を投げかけた。
「あなたたちも科学者なんでしょ……!? こんな……非道い研究に手を貸して、恥ずかしいと思わないの!?」
「んー、サルの頭開けて電極刺しまくるのよりは人道的だと思うけどねえ。この連中は夢見てるだけなんだしさ」
「そうそう。たまにはすっげえ気持ちいい夢も見せてやってるんだぜ。あやかりたいくらいのもんさ」
「……狂ってるわ……」
アスナは、氷のような寒気を感じながら呟いた。この連中は、感情のないナメクジの見かけこそが真の姿なのだ。
アスナの言葉など気にかけるふうもなく、ナメクジたちは目を見交わすと相談を始めた。
「ボスは出張中なんだろ? お前、向こうに戻って指示聞いてこいよ」
「ちっ、しょうがねえなあ。俺がいない間に一人で楽しむなよな」
「わかったわかった。早く行け」
ナメクジの片割れは触手をアスナの体から離すと、その一本で器用にコンソールを操り始めた。数回ぽちぽちとボタンを押すと、その巨体が音も無く、あっけなく消え去った。
「…………!!」
それを見て、アスナは焼け付くような焦燥にとらわれ、縛られた体を滅茶苦茶に振り動かした。すぐそこに――目の前に、あれほど夢見た現実世界への出口がある。そのドアは焦らすようにわずかに開かれ、内側の明るい光を溢れさせている。
「離して!! 離してよ!! ここから出して!!」
狂おしく絶叫するが、ナメクジの触手はわずかにも緩まない。
「だめだよぉー、ボスに殺されちまうよ。それよりさぁ、君もこんな何もないとこにずーっといたら退屈してるでしょ? 一緒に電子ドラッグプレイしない? 俺も人形相手はもう飽き飽きでさぁ」
言葉と同時に、冷たく湿った触手がアスナの頬を撫でた。
「やっ……やめて!! なにを……!?」
必死に抗おうとするが、ナメクジは次々と新たな触手を伸ばしてくる。それらはアスナの腕や脚の素肌を撫でまわし、徐々にワンピースの中にまで侵入を開始する。
全身をまさぐられる不快な感覚に耐えながら、アスナは体の力を抜き、抵抗する気力を失ったかのように装った。調子に乗った触手の一本が口に近づいてくる。それが唇に触れた瞬間――。
さっと顔を上げると、アスナは触手に思い切り噛み付いた。
「ぎゃっ!! いだだだだだ!!」
悲鳴を上げるナメクジに構わず、容赦なく歯を食い込ませる。
「やっ、やめっ、いだっ、わかった、わかったから!!」
服に潜り込んでいた触手が撤退するのを確認し、アスナは口を開いた。痛めつけられた触手がぴゅるっと引っ込んでいく。
「いてて、センスアブソーバ切ってたの忘れてたぜ……」
ナメクジが眼柄を引っ込めてうめいていると、その傍に光の柱が立ち上った。効果音とともにもう一匹のナメクジが出現する。
「……? お前何やってんの?」
「なんでもねえよ。それよりボスは何だって?」
「怒り狂ってたよ。すぐにラボの上の鳥篭に戻して、パス変えて二十四時間監視しとけだとさ」
「ちぇっ。せっかく楽しめると思ったのになぁ……」
アスナは失望のあまり目の前が暗くなるのを感じた。千載一遇のチャンスが指の隙間からこぼれ落ちていく。
「せめて、テレポートじゃなくて歩いて戻ろうぜ。もうちょっと感触を味わわせろよ」
「好きだねえ、お前も」
アスナを縛り上げているほうのナメクジは、脚の無い体をぬるりと動かし、格納室の入り口のほうに向き直った。二匹の視線が一瞬外れた瞬間、アスナは素早く右足を伸ばした。コンソールのスリットに差し込まれたままのカードキーを、指先で挟んで抜き取る。
同時にウインドウが消滅したが、ナメクジたちはそれに気付かなかったようだった。体を海老のように反らし、足先のカードを、体の後ろで縛られた手の中に移動させる。
「ほらほら、暴れちゃダメだよ」
ナメクジは改めてアスナの体を持ち上げると、出口目指してぬるぬると移動を始めた。
ガシャン、と音を立てて鳥篭の格子戸が閉まった。ナメクジは触手でナンバーロックを操作すると、それをアスナにむかって振った。
「じゃあねー、チャンスがあったらまた遊ぼうねー」
「あんたたちの顔は二度と見たくないわ」
そっけなく言い、ベッドに腰掛ける。二匹は名残惜しそうにアスナを見ていたが、やがて体の向きを変え、枝の上を遠ざかっていった。
いつの間にか、濃い暮色が世界を包んでいた。ほとんど沈みかけている巨大な太陽を見つめ、アスナはかすかに呟いた。
「わたし――負けないよ、キリトくん。絶対にあきらめない。必ずここから脱出してみせる」
手の中の、銀色のカードキーに視線を移す。コンソールが無ければ役に立たないだろうが、今のところこれが唯一の希望だ。
アスナは、ベッドに横たわるふりをしてそれを大きな枕の下に挟み込んだ。
まぶたを閉じると、疲れ果てた頭の芯を、眠りのベールがゆっくりと包み込んでいった。
(第三章 終)
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第四章 『イグドラシル侵攻』
薄く雪の残る庭に出ると、ぴりぴりと冷たい朝の空気が俺の体を包んだが、それでも頭の芯に居座る眠気の残り滓は消えなかった。
何度かぶんぶん頭を振ってから、意を決して庭の隅にある手洗い場へ向かう。古めかしい銀色の蛇口を捻り、零れ出る水を両手で受け止める。
凍る寸前といった温度の冷水をばしゃりと顔に浴びせると、強引に叩き起こされた神経系が痺れるような痛みで抗議した。構わず二度、三度と水を被り、ついでに蛇口から直接ごくごくと飲む。
首にかけたタオルで顔を拭いていると、縁側のガラス戸がからりと引き開けられ、ジャージ姿の直葉が降りてきた。いつも朝から元気な彼女にしては珍しく、こちらも半眠半覚醒といった体でぼーっとしている。
「おはよう、スグ」
声をかけると、ふらふらした足取りで俺の前まできて、眼をしばたきながら言った。
「おはよー、お兄ちゃん」
「やけに眠そうだな。昨日は何時に寝たんだ?」
「うーっと、三時くらいかなぁ」
俺はあきれて首を振った。
「だめだぞ、子供がそんな夜更かししちゃ。何してたんだよ」
「えーっと……ネットとか……」
「ほどほどにしとけよ。――俺も人のことは言えんけど……」
後半は口の奥でごまかすように呟いてから、俺はあることを思いついて直葉に言った。
「おいスグ、後ろ向いてみ」
「……?」
半分眠っている顔を傾げながら直葉はくるりと半回転する。右手を蛇口に伸ばしてたっぷり濡らすと、ひょいっと直葉のジャージの襟首を引っ張り、無防備な背中に極低温の水滴を半ダースほど投下。
「ぴぁ―――――っ!!」
飛び上がった直葉の悲鳴が盛大に響き渡った。
ストレッチと素振りのメニューをこなす間も、直葉はぷーっとふくれていたが、近所のファミレスで特大宇治金時ラズベリーパフェを奢る約束をするとあっさり機嫌を直した。
今日は二人とも少々寝坊したので、トレーニングのあと順番にシャワーを浴び終わった頃には時計の針は9時を回っていた。母さんは例によって寝室で爆睡中だったので、直葉と二人で朝食の用意をする。
洗ったトマトを六等分に切っていると、隣でレタスを千切っていた直葉が俺の顔を覗き込みながら言った。
「お兄ちゃん、今日はどうするの?」
「うーん、昼過ぎからちょっと約束があるんだけど……午前中は、病院に行ってこようかと思ってる」
「そう……」
アスナの置かれた状況を知ってから、一日おきに眠る彼女の病室を訪れるのは俺の最も重要な習慣となっていた。
現実世界では無力な十六歳の子供でしかない俺が、アスナにしてやれることはごく少ない。いや――ほとんど無いに等しいと言っていい。彼女の手を取って祈る、できるのはそれだけだ。
エギルから送られてきた写真を脳裏に思い浮かべる。
あれを手がかりにアルヴヘイムなる仮想世界に足を踏み入れ、二日をかけてどうにか写真の少女がいるらしい場所の足元までは到達したが、彼女がアスナであるという確証はなにもない。まったく見当違いの方向を探しているにすぎないかもしれないのだ。
あの世界には何かある――、それは確かだと思う。
アスナが永遠の眠り姫であり続けることを望む男・須郷、奴の息がかかった企業の運営するアルヴヘイム・オンライン、その世界に残された『キリト』のキャラクターデータと、SAOのヘルスケアAIだった『ユイ』の存在……。それらのピースがどのようなパズルを組み上げるのかは、今はまだわからない。
今日の昼にALOの定期メンテが明け次第、俺はあの世界に戻っていよいよ世界樹なる巨大構造物に挑むことになっている。そのことを考えるたび、はやる気持ちで背中が震えるのを感じる。このまま自室で、俺の目指している方向が正しいのか間違っているのか自問自答しながらメンテ終了をじっと待つのはとても耐えられそうにない。
だから、その前に現実のアスナに触れ、彼女の温もりを確認しておきたかった。須郷は二度と来るななどと言っていたが知ったことではない。
切り終わったトマトをレタスやクレソンといっしょにボウルに入れ、ドレッシングを振りかけてかき混ぜながら直葉はしばらく無言だったが、やがて顔を上げて言った。
「ねえ、お兄ちゃん――あたしも、一緒に病院に行っていい……?」
「え……」
俺はわずかに戸惑った。今まで直葉は、SAOに関することはあまり積極的に知りたがろうとしなかったからだ。アスナのことだけはしばらく前に話したが、それ以外は俺のキャラクターネームに至るまで何一つ伝えていない。
一昨日の夜、アスナの婚約という話に打ちのめされて直葉の胸で泣いてしまったことを思い出し、内心で激しく狼狽する。が、俺はどうにか平静な顔を保ったまま頷いた。
「ああ……いいよ。きっとアスナも喜ぶ」
すると直葉も笑みをうかべてこくんと頷いたが、なぜかその笑顔にわずかな翳りを感じて、俺は彼女の瞳を覗き込んだ。だが直葉はすぐにくるりと振り向くと、ボウルを抱えて食卓のほうに歩いていった。
その後は特におかしい様子はなかったので、俺は直葉のぎこちない笑顔のことをすぐに忘れてしまった。
「ねえ、お兄ちゃん、学校のほうはどうなるの?」
俺の向かいの椅子に座り、ぱりぱりと音を立てて生野菜を噛みながら、直葉が言った。
「そういや総務省の連中が何か言ってたな……。俺の場合は、中学にもう一年通うか、あるいは指定高校に特設されるSAO帰還者用カリキュラム・コースの入試を受けるか選ぶ感じらしいよ」
「へえ、そんなのできるんだ。どこの高校なの?」
「首都圏だけでも受験できなかった中学生が千人以上いるみたいだからな。えーと、東京のなんとか言う私立校だったな……名前忘れた」
「んもう、ちゃんと聞いとかないとダメだよー。せっかくだから入試受けてみなよ。お兄ちゃん成績いいんだしさ」
「もう過去形だ。二年も勉強しなかったんだぜ」
「ならあたしが家庭教師してあげる!」
「ほう。じゃあ数学と情報理論をお願いしようかな」
「うっ……」
言葉に詰まる直葉ににやにや笑いを向け、バターを塗ったトーストを口に運ぶ。
正直、当分は学校のことなど考える心境にはなれそうにもなかった。アスナのこともあるが、何よりも学生である自分にさっぱりリアリティが感じられないからだ。
この世界に帰還して二ヶ月が経過した今でも、背中に二本の愛剣が無いことが実に心細く思える。ここは現実で、命を奪おうと襲ってくるモンスターなどいないのだと分かっていてもなお不安なのだ。俺の「本体」は剣士キリトで、今後学校に通い、授業を受け、齢を取っていく桐ヶ谷和人のほうが仮の存在なのだという意識は当分拭い去ることはできないだろう。
あるいは、それは俺のなかでソードアート・オンラインというゲームがまだエンディングを迎えていないせいなのかもしれなかった。アスナがこの世界に戻ってくるまで、俺は剣を置くことはできない。彼女を取り戻す――、すべてはそれからだ。
プリペイドカードを支払機に二度通して、俺と直葉は連れ立って降車口から道路に降りた。いつもは自転車で病院まで通っているが、今日は帰り道にかける時間が惜しいのでバスを使うことにしたのだ。
直葉は眼前の病院を見上げて目を丸くした。
「うわぁー、大きい病院だねえ」
「中もすごいぞ。ホテル並だ」
守衛に手を上げ、ゲートを通過する。徒歩だと驚くほど長い並木道を数分歩き、巨大なダークブラウンの建築物に足を踏み入れる。健康の申し子である直葉は病院自体が珍しいらしく、きょろきょろとあたりを眺め回すその襟首をひっぱるようにして受け付けまで行き、二人分のパスを発行してもらってからエレベータへ。最上フロアで降り、人気の無い廊下を突き当たりまで歩く。
「ここ……?」
「ああ」
俺は頷いて、パスカードをドアのスリットに差し込んだ。金属プレートを見つめ、直葉が呟く。
「結城……明日奈さん……。キャラネーム、本名だったんだね。あんまりいないよね、そういう人」
「へえ、詳しいな。俺の知るかぎりアスナだけだな、本名だったのは……」
言いながらカードを滑らせると、控えめな電子音とともにオレンジのLEDが青く変わり、ドアが開いた。
途端に、濃密な花の香りが内部から流れ出した。自然に呼吸音までを殺しながら、静謐な眠り姫の寝室へと歩を進める。俺にぴったりくっつくようにして歩く直葉の体からも緊張が伝わる。
純白のカーテンに手を掛け、いつものように短く祈る。
そっと、それを引き開ける。
直葉は、息をするのも忘れ、広いベッドの上で眠りにつく少女に見入った。
瞬間、人間ではない、と思った。これは妖精――、世界樹の上に住むという伝説の真なる妖精アルフに違いない、と。それほどに、少女は世俗離れした雰囲気を漂わせていた。
隣の和人もしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて小さく息をつくとかすかな声で言った。
「紹介するよ。彼女がアスナ……KoB副団長、『閃光』アスナだ。剣のスピードと正確さでは俺も最後までかなわなかった……」
わずかに言葉を切り、少女に視線を落として続ける。
「アスナ、俺の妹の直葉だよ。――仲良くしてやってくれ……」
直葉は少し進み出ると、恐る恐る少女に声をかけた。
「……はじめまして、アスナさん」
もちろん、眠る少女からの答えはない。
彼女の頭を拘束する、濃紺のヘッドギアに視線を移す。かつて直葉も毎日のように目にし、時として深く憎悪した『ナーヴギア』だ。その前縁部で青く輝く三つのインジケータランプだけが、少女――アスナの意識の存在を示している。
和人があのゲームに囚われていた二年の間、直葉が抱きつづけた深い痛みと同じものを、今和人も感じているのだろう。そう考えると、直葉の心は水面の木の葉のように揺れる。
この、妖精のように美しい人の魂が、どことも知れない異世界に繋がれたままというのは残酷すぎると直葉も思う。一刻もはやくこの現実世界に、和人のもとに帰還し、和人に心からの笑顔を取り戻させてあげてほしいと、そう思う。
でも同時に、今となりに立ち、無言で少女を見つめている和人の顔は見たくない、そんな気もして直葉はそっと目を伏せた。ほんの少しだけ、この場所に来たことを後悔した。
和人に同行を申し出たときは、自分の気持ちを確かめたい、そう思ったのだ。
二年間の後悔と切望に満ちた日々の果てに、翠に真実を告げられたあの日、直葉の中に生まれた疼き。それは、兄である和人への愛情なのか、それとも従兄としての彼への恋慕なのだろうか。自分は和人に何を求めているのだろう。一緒にいて欲しい――、仲のいい兄妹として? 並んでトレーニングしたり、一緒にご飯を食べたりすること以上のなにかを求める気持ちが、自分の中に無いと言い切れるだろうか?
それは、和人の帰還以後の二ヶ月、直葉が何度も何度も自分に問うた疑問だった。
和人の心の奥底を占める「彼女」に直接会うことで、その答えが出るかもしれないと、そう思っていたのだが。
今、金色の静謐に満ちた病室に立ちながら、直葉は心が怖じ気づくのを感じていた。答えを知るのが恐かった。
和人の顔を見ないようにしながら、邪魔しちゃ悪いから廊下に出てるね、と言おうと唇を開いた、その時――。
不意に和人が歩きはじめ、直葉はタイミングを逸してしまった。和人はゆっくりベッドの足元を回りこむと、向こう側にあった椅子に腰を下ろした。自然、直葉の視界に和人の姿が映る。
和人は、純白のシーツからのぞくアスナの小さな手を両手で包み込むと、無言のまま少女の寝顔に見入った。その顔を見た途端――
「ッ…………」
直葉の胸の奥を、鋭い痛みが深く貫いた。
なんて目をするんだろう、と思った。何年も……いや、前世から今生、そして来世へと何度も生まれ変わりながら運命の相手を捜し求める旅人のような目だった。優しく、穏やかな光の奥に、狂おしいほどの慕情を感じた。瞳の色さえがいつもとは違っていた。
その瞬間、直葉は自分の心が真に求めていたものを知り、同時にそれが決して手の届かないものであることを悟った。
帰り道、和人と何を話したのかさえよく覚えていなかった。
気付くと、直葉は自室のベッドに横たわり、天井のポスターを染めるスカイブルーに見入っていた。
ヘッドボードの上で携帯が軽やかな音を立てている。着信音ではなく、昨夜寝る前にセットしておいたアラームだ。午後一時、ALOの定期メンテナンスが終了し、かの世界のゲートが再び開かれる時刻。
現実世界では、涙を流したくなかった。泣けば逆に諦められなくなる、そう思った。
そのかわりに、妖精の国でちょっとだけ泣こう。いつも元気なリーファなら、きっとすぐに笑えるはず。
直葉はアラームを止め、その隣からアミュスフィアを持ち上げた。そっと被り、再び横たわる。瞳を閉じ、魂を飛翔させる。
出現したのは、央都アルン外縁の宿屋の一室だった。ゆうべ、眠い目を擦りながらどうにかシルフ・ケットシー会談場からアルンまで飛び、この宿屋に転がり込んでベッドに倒れこみ、直後に寝落ちしてしまったのだ。二部屋取る余裕すらなかった。
リーファは体を起こすとベッドの端に腰掛けた。街の喧騒、空気の匂い、自分の肌の色すら変わっていたが、心の奥に突き刺さる切ない痛みだけは消えていなかった。うつむいたまま、痛みが液体に形を変えて目尻に溜まってゆくに任せる。
数十秒後、涼やかな効果音とともに、傍らに新たな人影が出現した。リーファはゆっくりと顔を上げた。
黒衣の少年は、リーファを見るとわずかに目を瞠ったが、すぐに柔らかい声で言った。
「どうしたの……リーファ?」
その穏やかな、秋の微風のような笑みは、どこか和人に似ていた。それを見た途端、リーファの両眸から涙が零れ、光の粒となって宙に舞った。どうにか頬に微笑を浮かべながら、言った。
「あのね、キリト君……。あたし……あたし、失恋しちゃった」
キリトは闇色の瞳でまっすぐリーファを見つめた。この、外見のわりに大人びた、どこか謎めいた少年に、すべてを話してしまいたい――という衝動に一瞬駆られたが、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
「ご……ごめんね、会ったばかりの人に変なこと言っちゃって。ルール違反だよね、リアルの問題をこっちに持ち込むのは……」
笑みのかたちを保ったまま、リーファは早口で言った。しかし頬を流れる涙はいっこうに収まろうとしなかった。
キリトは左腕を伸ばすと、薄いグローブに包まれた手をリーファの頭に乗せた。二度、三度、いたわるように手が動く。
「――向こうでも、こっちでも、辛いときは泣いていいさ。ゲームだから感情を出しちゃいけないなんて決まりはないよ」
仮想世界で動いたり、喋ったりするときは、必ずどこかにぎこちなさが残るものだ。だがキリトの韻律に富んだソフトな声や、リーファの頭を撫でる手の動きは、あくまでも滑らかだった。何にも障ることなく、リーファの感覚神経をゆるやかに包み、流れていく。
「キリト君…………」
呟くと、リーファは隣に座る少年の胸にそっと頭を預けた。ひそやかに零れる涙のつぶが、キリトの服に落ちるたびに、淡い光を放って蒸発していく。
――あたしは、お兄ちゃんが、好き。
確認するように、胸の奥で呟いた。でもその気持ちは、芽を出し、小さな葉を広げたところで摘んでしまわなければならなかった。
――これでよかったんだ……
言い聞かせるように、自分に向けて囁く。
たとえ本当は従兄妹同士なのだとしても、和人と直葉は長い間ずっと兄妹として育ってきたのだ。この気持ちを露わにすれば、和人も、そして父や母も激しく戸惑い、悩むだろう。それに何より、和人の心はすべて、あの美しい人だけに向けられているのだ……。
全部、忘れなくてはならない。リーファに姿を変え、不思議な少年キリトの胸に頬を預けていると、いつかはそれが出来るかもしれないと、そう思えた。
ずいぶん長い間そのままの格好でいたが、キリトは何も言わずにリーファの頭を撫でつづけた。
やがて窓の外から遠い鐘の音が響いてきたのを合図にリーファは体を起こし、キリトの顔を見た。今度は普段の笑顔を浮かべることができた。涙はいつの間にか止まっていた。
「……もう大丈夫。ありがとう、キリト君。やさしいね、キミ」
言うと、キリトは心底照れたような顔で頭を掻いた。
「その反対のことはずいぶん言われたけどな。――今日は落ちる? 俺も、もう一人でも何とかなると思うし……」
「ううん、ここまで来たんだもん、最後まで付き合うよ」
リーファは勢いをつけてぴょんとベッドから立ち上がった。くるんと一回転半してキリトに向き直ると、右手を差し出す。
「――さ、行こ!」
キリトは唇の端にいつもの笑みを浮かべると、頷いてリーファの手を取った。立ち上がり、何かを思い出したかのようにひょいっと上空を見回す。
「ユイ、いるか?」
その言葉が終わらないうちに、二人の間の空間にキラキラと光が凝集し、お馴染みのピクシーの小さな姿が出現した。右手で目を擦りながら大あくびしている。
「ふわぁ~~~……。……おはようございます、パパ、リーファさん」
すとんとキリトの肩に着地したユイの顔を、リーファは新たな驚きに見舞われながら覗き込んだ。
「お、おはようユイちゃん。――ピクシーも、夜は眠るの?」
「まさか、そんなことないですよー。でも、パパがいない間は入力経路を遮断して蓄積データの整理や検証をしてますから、人間の睡眠に近い行為と言っていいかもしれませんが」
「でも、いま、あくびを……」
「人間って起動シークエンス中はああいうことするじゃないですか。パパなんて、平均八秒くらい……」
「妙なことを言わなくてよろしい」
キリトは人差し指でこつんとユイの頭を突付いてから、ウインドウを広げて背中に大きな剣を背負った。
「さて、行こうぜ!」
「うん!」
リーファも頷き、愛刀を腰に吊った。
連れ立って宿屋から出ると、ちょうど朝陽が完全に昇りきった頃だった。軒を連ねるNPCショップも大半が開店し、逆に夜間営業の酒場や怪しい道具屋などは木戸にクローズドの札をかけている。
現実時間では平日の午後一時過ぎだが、週に一度の定期メンテナンス明けでモンスターやアイテムのポップがリセットされた直後とあって、プレイヤーの通行は意外に多かった。
昨日は、あまりの眠さにろくろく周囲を見もしなかったが、改めて広い通りを行き交う人々を眺めると新鮮な驚きがあった。
ずんぐり、がっしりした体を金属鎧に包み、巨大な戦斧を背負ったノームや、その腰ほどまでの高さしかない小さな体に銀色の竪琴を携えたプーカ、不思議な薄紫色の肌に黒いエナメルの革装備をまとったインプなど、雑多な種族のプレイヤー達が連れ立って楽しそうに談笑しながら歩いている。所々に置かれた石のベンチでは、赤い髪のサラマンダーの少女と青い髪のウンディーネの青年が仲睦まじく見つめあい、その傍らを巨大な狼を従えたケットシーが通り過ぎていく。
街並みも人々の姿もグリーンを基調に統一されていたスイルベーンとは、似ても似つかぬ雑多な光景だったが、そこには心が浮き立つような活気が満ちていた。いつしかリーファも、胸の奥で疼いていた切ない痛みを忘れて笑顔を浮かべた。
ここなら、シルフとスプリガンでも普通のカップルに見えるのかな、などと心のどこかで考え、つい隣のキリトの腕に自分の腕を絡ませてしまう。そのまま視線を通りの先へと向けていくと――
「うわぁ……」
にわかには信じられない眺めがそこにあった。
アルヴヘイムの央都アルンは、円錐形に盛り上がった超巨大な積層構造を成している。今リーファが立っているのは、中心からはまだ相当に離れた外環部だが、それでも幾重にもかさなるアルン市街の全景を一度に視界に収めることはできない程だ。
高くそびえ立つアルン市街の表面には、薄いグレーの岩で出来た建材とは明らかに異なる質感の、モスグリーンの恐ろしく太い円筒がうねりながら何本も延びている。一本の直径が、ことによるとスイルベーンの風の塔以上の高さがあるかもしれない。
アルン中央市街を包み込むように這いまわるそれらの円筒物は、実は木の根なのだった。何本もの根っ子は、うねうねと曲がりながら次第に合流し、太さを増し、アルン市街の頂点でひとつに寄り集まっている。
視線を上に向けていく。同時にリーファの背中を、ぞくぞくという興奮が疾る。
根元部分からは、ごつごつ盛り上がった幹がまっすぐ上空に伸び上がっている。苔やその他の植物に覆われて金緑色に光る幹は、高さを増すほどにその色が空に溶け合い、薄いブルーに変わっていく。やがて幹の周囲を、白いもやが取り囲む。霧ではなく、あれは雲なのだ。飛行高度限界を示す雲の群を貫き、幹はなおも高く高く伸びていく。
そして、完全に空の青と混ざって見えなくなる寸前で、幹からは太い枝が放射状に広がっているのがどうにか見て取れる。枝は薄れながら広がり、リーファたちが立つ外環部の上空までも覆っているようだ。あまりの大きさから鑑みるに、木の頂点はアルヴヘイムの空を突き破り、宇宙――もし存在するのならだが――までも続いていてもおかしくなかった。
「あれが……世界樹……」
隣のキリトも、畏れに打たれたような声で言った。
「うん……。すごいね……」
「えーと確か、あの樹の上にも街があって、そこに……」
「妖精王オベイロンと、光の妖精アルフが住んでいて、王に最初に謁見できた種族はアルフに転生できる……って言われてるわ」
「……」
キリトは無言のまましばらく巨樹を見上げていたが、やがて真剣な表情で振り返った。
「あの樹には、外側からは登れないのか?」
「幹の周囲は侵入禁止エリアになってて、木登りは無理みたいだね。飛んでいこうとしても、雲がかかってるあたりで限界高度になっちゃうらしいよ」
「何人も肩車して限界を突破した連中がいるって話を聞いたんだけど……」
「ああ、あの話ね」
リーファはくすりと笑って続けた。
「枝までもうちょっと、ってとこまで迫ったらしいけどね。GMも慌てたみたいで、すぐに修正が入っちゃったの。今は、雲のちょっと上に障壁が設定されてるんだって」
「……なるほど……。とりあえず、根元まで行ってみよう」
「ん。りょーかい」
軽く頷きあい、二人は大通りを歩き始めた。
行き交う混成パーティーの間を縫うように数分歩くと、前方に大きな石段と、その上に口を開けるゲートが見えてきた。あれをくぐればいよいよ世界の中心、アルン中央市街だ。空を仰ぐと、屹立する世界樹はすでに巨大な壁としか見えなかった。
荘重な空気にうたれながら階段を登り、門をくぐろうとした――、その時だった。
突然、キリトの胸ポケットからユイが顔を突き出した。いつになく真剣な顔で、食い入るように上空を見上げている。
「お、おい……どうしたんだ?」
周囲の人目を憚るように、小声でキリトが囁いた。リーファも首を傾けながらピクシーの顔を覗き込む。しかし、ユイは無言のまま見開いた瞳を世界樹の上部に向けつづけた。数秒間が経過し、そしてついに小さな唇から掠れた声が漏れた。
「ママ……ママがいます」
「な……」
今度はキリトが顔を強張らせた。
「本当か!?」
「間違いありません! このキャラクターIDは、ママのものです! まっすぐこの上空です」
それを聞いたキリトは、燃えるような視線で空を振り仰いだ。顔の色が蒼白になり、ぎりぎりと音がしそうなほどに歯を食いしばったかと思うと――
いきなり、背の翅を大きく広げた。クリアグレーのそれが、瞬間白熱したかのように輝き、バン!! という破裂音が空気を叩いたと思った時には、彼の姿は地上から消え去っていた。
「ちょ……ちょっと、キリトくん!!」
リーファは慌てて叫んだが、黒衣の少年はすさまじい勢いで急上昇していく。わけがわからなかったが、やむなくリーファも翅を広げて地を蹴った。
垂直ズームは、ダイブと並んでリーファの得意技だったが、まるでロケットブースターのように加速していくキリトにはとても追いつけなかった。黒い姿が、みるみる点のように小さくなっていく。
アルン市街を構成する無数の尖塔群の間を抜け、街の上空に出るのに数秒もかからなかった。塔のテラスでくつろぐプレイヤーたちが、何事かという表情でこちらに視線を向けたが、キリトは彼らの鼻先を掠めてなおも上昇を続けた。
やがて視界から建造物の姿が消え、かわりに金緑色の絶壁にも似た世界樹の幹が現われた。それと平行して、キリトは黒い弾丸のように空を駆け上っていく。幹の周囲を包む白い雲の群がぐんぐん近づいてくる。リーファは必死に後を追い、顔を叩く風圧に耐えながら叫んだ。
「気をつけて、キリト君!! すぐに障壁があるよ!!」
だが、キリトに声が届いた様子はなかった。天地を貫く一本の矢となった彼は、仮想世界に孔を穿たんばかりの勢いで上昇を続ける。
何が彼をここまで駆り立てるのだろう。世界樹の上にいるというその誰かは、彼にとってそれほど重要な人なのだろうか。
ユイは、その人のことを「ママ」と呼んだ。女性なのだろうか――? キリトがこうまでして捜し求めるその人は――?
そう考えた途端、リーファの胸の奥はずきんと痛んだ。和人に感じたものとは似て非なる痛みだった。
集中力が乱れ、ズームの速度が鈍った。リーファは頭を振って雑念を払い落とし、全神経を背中の翅に集中する。
キリトに遅れること数秒、リーファも分厚い雲海に突入した。視界が濃密な白に染まる。以前聞いた話が確かなら、この雲海の上はすぐに侵入不可能エリアに設定されているはずだ。わずかに速度を緩めつつ、雲の中を駆け抜ける。
不意に、眼前に濃紺の世界が広がった。地上から見るのとは違う、染みひとつないコバルトブルーの空が無限に続いている。頭上には、天を支える柱のごとく四方に枝葉を広げる世界樹の巨体。キリトは、その枝の一本目指して更に加速していく――。
と、突然、彼の体を中心に、ぱぁっと虹色の光が広がった。
数瞬遅れて、落雷の音にも似た衝撃音が大気を揺るがした。見えない壁にぶつかったキリトが、銃に狙撃された黒鳥のように弾け飛び、力なく空に漂った。
「キリトくん!!」
リーファは悲鳴を上げ、キリトのもとへと急いだ。この高さから墜落すれば、ログアウト後も現実世界に悪影響を引きずりかねない。
しかし、リーファが追いつく前に、キリトは意識を取り戻したようだった。二、三度頭を振って、再び上昇を開始する。すぐに障壁に阻まれ、空しくエフェクト光を散らす。
ようやく同高度に達したリーファは、キリトの腕を掴んで必死に叫んだ。
「やめて、キリト君!! 無理だよ、そこから上には行けないんだよ!!」
だが、キリトは両眼に憑かれたような光を浮かべながら、なおも突進を繰り返そうとした。
「行かなきゃ……行かなきゃいけないんだ!!」
彼の視線の先では、世界樹の太い枝が天を横切っている。地上からよりは格段にクリアに見えるが、ディティールの減少具合からしてまだまだ相当の距離があると思われる。
その時、キリトの胸からユイが飛び出した。きらきらと光の粒を振り撒きながら、枝目指して上昇する。
そうか、システム属性のピクシーなら……、とリーファは一瞬思ったが、しかし見えない障壁はユイの小さな体をも冷酷に拒んだ。水面に波紋が広がるごとく、七色の光が揺れてユイを押し戻す。
だが、ユイは、プログラムとは思えない必死の面持ちで障壁に両手をつき、口を開いた。
「ノーティス・メッセージなら届くかもしれません……! ママ!! わたしです!! ママー!!」
『……!!』
突然、耳もとにかすかな呼び声を感じて、アスナは突っ伏していたテーブルから顔を跳ね上げた。
慌てて周囲を見回すが、金色の檻の中には誰の姿もない。時々遊びに来る、瑠璃色の小鳥も今はいない。陽光が格子状の影を落としているだけだ。
気のせいか、と、テーブルに両手を戻したとき。
『……ママ……!!』
今度ははっきりと聞こえた。アスナは椅子を蹴って立ち上がった。
幼い少女の声だった。細い銀糸を鳴らすようなその声は、アスナの遠い記憶と共鳴して強く鳴り響いた。
「ユイ……ユイちゃんなの……!?」
アスナはかすかな声を漏らすと、格子の壁に駆け寄った。金属の棒を両手で掴み、必死に周囲を見回す。
『ママ……ここにいるよ……!!』
その声は、アスナの頭の中に直接響くようで、咄嗟に方向がわからなかった。だが、それでもなお「感じ」た。下だ。巨樹を包む白い雲海、どんなに目をこらしても何も見えないが、声はそこから届いてくる。
「わたしは……わたしはここだよ……!!」
アスナは声の限りに叫んだ。
「ここにいるよ……!! ユイちゃん……!!」
それに――ユイ、あの世界で出会った「娘」がいるということは、きっと「彼」もそこに――。
「……キリトくん――!!」
こちらの声が届いているかどうかはわからなかった。アスナは咄嗟に鳥篭を見回した。何か、声以外に自分の存在を知らせる手段は――。
だが、この鳥篭にあるオブジェクトは全て位置情報をロックされており、何一つとして格子から外に出すことができないのは確認ずみだった。はるか以前に、ティーカップやクッションを落として下界のプレイヤーにメッセージを送ろうと試み、挫折していた。アスナは焦燥に駆られながら金の格子をきつく握り締めた。
いや――。
たった一つ、あった。以前はこの場所に存在しなかったもの。イレギュラーなオブジェクト。
アスナはベッドに走り寄ると、枕の下からそれをつかみ出した。小さな銀色のカード・キーだ。再び格子の前に戻る。カードを握った右手を、恐る恐る差し出す。以前なら、ここで目に見えない壁に阻まれてしまったのだが。
「……!」
右手は、何の抵抗もなく檻から外に出た。クリアシルバーのカードが、陽光を反射してきらりと輝く。
(キリトくん……気付いて……!!)
祈りながら、アスナは躊躇なく手を開いた。音も無く宙に舞ったカードキーは、きらきらと光を振り撒きながら一直線に雲海目指して落下していった。
俺は全身が引きちぎれそうなもどかしさに駆られて、右拳を見えない障壁に叩きつけた。強烈な磁石にも似た斥力によって拳が弾き返され、虹色の波紋が宙に広がった。
「何なんだよ……これは……!」
食いしばった歯の間から震える声を絞り出す。
ここまで――ようやくここまで来たのだ。アスナの心が捕われている牢、そこにあとわずかで手が届く。それなのに、「ゲームのルール」などという曖昧なプログラム・コードにすぎないものが立ち塞がる。
すさまじいほどの破壊の衝動が全身を貫き、白熱した火花を散らした。
壊したい。この、アルヴヘイムなる世界を全て崩壊させてしまいたい。ここは「あの世界」とは違う、単なる商業エンタテインメント・ワールドではないか。たかがその程度の代物が、この俺――真の「生存者」キリトの行く手を阻むだと――!?
このアルヴヘイム・オンラインにログインして二日、ゲームのルールに則ってここまで移動する間に、俺の心の奥底に蓄積しつづけた焦燥がいっぺんに爆発したかのようだった。俺は犬歯を剥き出し、背の剣を抜こうと右手で柄を握り締めた。
――その時だった。
瞋恚の炎に揺れる俺の視界に、小さな白い光がちかりと瞬いた。
「……あれは……?」
瞬間、俺は憤激を忘れて光を凝視した。きらきらと輝く何かが、ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって降ってくる。真夏の空に流れるひとひらの雪のように、長い旅路を経たたんぽぽの綿毛のように、まっすぐに俺を目指して舞い降りてくる。
俺は剣の柄を離し、両手を輪にして光に向けて差し伸べた。途方もなく長い数秒間のすえに、白い光はゆっくりと俺の手のなかに収まった。どこか懐かしい温もりを感じながら、俺はその手を胸の前で開いた。
左からユイ、右からリーファが覗き込む。俺も無言で手の中のものをじっと見つめた。
「……カード……?」
リーファがぽつりと呟いた。たしかにそれは、小さな長方形のカード状のオブジェクトだった。銀色に透き通り、文字や装飾の類は何もない。俺はちらりとリーファの顔を見た。
「リーファ、これ、何だかわかる……?」
「ううん……こんなアイテム、見たことないよ。クリックしてみたら?」
その言葉に従って、俺はカードの表面を指先でシングルクリックした。だがゲーム内のアイテムなら必ず出現するはずのポップアップ・ウインドウは表示されなかった。
その時、ユイが身を乗り出し、カードの縁に触れながら言った。
「これ……これは、システム管理用のアクセス・コードです!!」
「なっ……」
俺は絶句してカードを凝視した。
「……じゃあ、これがあればGM権限が行使できるのか?」
「いえ……ゲーム内からシステムにアクセスするには、対応するコンソールが必要です。わたしでもシステムメニューは呼び出せないんです……」
「そうか……。でも、そんなものが理由もなく落ちてくるわけがないよな。これは、多分……」
「はい。ママがわたし達に気付いて落としたんだと思います」
「……」
俺はカードをそっと握り締めた。寸前まで、これにアスナが触れていたのだ。彼女の意思が、おぼろげに感じ取れるような気がした。
アスナも戦っている。この世界から脱出しようと懸命に抗っている。俺にもまだ、できることがあるはずだ。
俺はリーファを見つめ、口を開いた。
「リーファ、教えてくれ。世界樹の中に通じてるっていうゲートはどこにあるんだ?」
「え……あれは、樹の根元にあるドームの中だけど……」
リーファは、気遣わしそうに眉を寄せた。
「で、でも無理だよ。あそこはガーディアンに守られてて、今までどんな大軍団でも突破できなかったんだよ」
「それでも、行かなきゃいけないんだ」
カードを胸ポケットに収め、俺はそっとリーファの手を取った。
思えば、このシルフの少女には随分助けられた。右も左もわからない世界で、焦る気持ちを抱えながらここまで来ることができたのは、彼女の元気な笑顔に励まされた部分が多い。いつか現実世界できちんとお礼を言わないとな……と思いながら口を開く。
「今まで本当にありがとう、リーファ。ここからは俺一人で行くよ」
「……キリト君……」
泣きそうな顔で口篭もるリーファの手をぎゅっと握り、離した。ユイを肩に乗せ、身を翻す。
翅を畳み、落下速度に加速の勢いを乗せて、俺は一直線に世界樹の最下部を目指した。
目もくらむような急降下を数十秒続けると、やがて複雑に入り組んだアルン市街が世界樹の幹に張り付くようにその姿を現した。その上部、巨樹の根と接する部分にひときわ大きなテラスを見つけ、俺は体勢を入れ替えて減速を始めた。
大きく広げた翅でブレーキをかけながら着陸地点を見定める。両足を突き出し、石畳に接する瞬間に思い切り制動をかけたが、それでもかなりの衝撃音が周囲に響き渡った。テラスからの眺望を楽しんでいた数組のプレイヤーが、驚いた顔でこちらを見た。
俺は彼らの目が離れるまで待ってから、肩のユイに小声で話し掛けた。
「ユイ、ドームとやらへの道はわかるか?」
「はい、前方の階段を上ればすぐです。でも――いいんですか、パパ? 今までの情報から類推すると、ゲートを突破するのはかなりの困難を伴うと思われます」
「ぶつかってみるしかないだろう。失敗しても命まで取られるわけじゃない」
「それは、そうですが……」
俺は手を伸ばし、軽くユイの頭を撫でた。
「それにな、もうあと一秒でもぐずぐずしてたら発狂しちまいそうだ。ユイだって早くママに会いたいだろう」
「……はい」
頷くユイの頬をつんと突付くと、俺は目の前に見える大きな階段目指して歩き始めた。
幅の広い石段を登りつめると、そこはもうアルン市街地の最上部らしかった。巨大な円錐形を成すアルンの表面を這いまわる世界樹の根が、俺の眼前で寄り集まって一本の幹になっている。と言ってもあまりにも直径が太すぎるので、ここからでは単なる一枚の壁にしか見えない。
その壁の一部に、プレイヤーの十倍はあろうかという高さの、妖精の騎士を象った彫像が二体並んでいる場所があった。像の間には、華麗な装飾を施した石造りの扉がそびえている。
――待ってろよ、アスナ。すぐに行くからな……
俺は自分の心に刻み込むように、胸の奥で呟いた。
さらに数十秒歩き、大扉の前に立った途端、右側の石像が低音を轟かせながら身動きを始めた。少々意表を突かれて振り仰ぐと、石像は仰々しい兜の奥の両眼に青白い光を灯しながらこちらを見下ろし、口を開いた。大岩を転がすような重々しい声が響き渡る。
『未だ天の高みを知らぬ者よ、王の城へ到らんと欲するか』
同時に、俺の目の前にイエス、ノーのボタンが表示された。あまりにも芝居がかった演出に首を縮めながら、ボタンに手を触れる。
と、今度は左側の石像が大音声を発した。
『さればそなたが双翼の天翔に足ることを示すがよい』
遠雷のような残響音が消えないうちに、大扉の中央がぴしりと割れた。地響きを上げ、ゆっくり左右に開いていく。
その轟音は、否応なく俺にアインクラッドのフロアボス攻略戦を思い起こさせた。当時の、呼吸も忘れるほどの緊張感が甦り、背筋に冷たい戦慄が走る。
ここで倒れても実際に死んだりはしないんだ、と自分に言い聞かせてから、俺はその思考を振り払った。アスナの解放が懸かったこの闘いは、ある意味ではかつて経験したどんな戦闘よりも重い。
「行くぞ、ユイ。しっかり頭を引っ込めてろよ」
「パパ……、がんばって」
胸ポケットに収まったユイの頭を一撫でして、背中の剣を抜き放つ。
分厚い石扉は、完全に開ききるとひときわ大きな轟音と共にに停止した。内部は完全な暗闇だった。一歩足を踏み入れてから、暗視スペルを使うべきかと考えたが、右手を掲げるより早く、突然のまばゆい光が頭上から降り注いだ。思わず両目を細める。
そこは、とてつもなく広い円形のドーム状空間だった。ヒースクリフと戦った、アインクラッド75層のボス部屋を思い出したが、優にあの数倍を超える直径があるだろう。
樹の内部らしく、床は太い根か蔦のようなものが密に絡み合って出来上がっている。蔦は外周部分で垂直に立ち上がり、壁を形成しながらなだらかに天蓋部分へと続く。
半球形のドームとなっている天蓋では、絡み合う蔦は床よりも疎となり、ステンドグラス状の紋様を描いている。白光はその向こうから降り注いでいるようだ。
そして――天蓋の頂点に、円形の石扉が見えた。精緻な装飾が施されたリング型のゲートを、十字に分割された四枚の岩盤がぴたりと閉ざしている。目指すべき樹上への道はあの向こうにあるはずだ。
俺は大剣を両手で構え、大きく深呼吸した。両足に力を込め、翅を広げる。
「――行けッ!!」
己を叱咤するように一声叫び、猛然と地を蹴った。
飛び上がって一秒も立たないうちに、天蓋の発光部に異変が現われるのが見えた。白く光る窓の表面が沸き立つ泡のように盛り上がり、何かを生み出そうとしている。瞬く間に光は人間の形を取り、滴り落ちるかのようにドーム内に放出されると、手足と、そして六枚の輝く翅を広げて咆哮した。
それは、全身に白銀の鎧をまとった巨躯の騎士だった。鏡のようなマスクに覆われて顔は見えない。右手には、俺の得物をも上回る長大な剣を携えている。
守護騎士は、急速に上昇する俺に鏡の顔を向けると、再び人語ならぬ雄叫びを上げながら真正面からダイブしてきた。
「そこをどけええええっ!!」
俺も絶叫しつつ大剣を振りかぶる。両者の距離がゼロに近づくにつれ、脳の中で冷たい火花がスパークするような感覚が俺を襲い、あの世界での限界戦闘で何度か味わったアクセル感が戻ってくる。守護騎士のマスクに映る俺の姿に向かって、剣を思い切り打ち下ろす。
俺と、奴の剣が空中でぶつかり合い、落雷にも似たエフェクト光が空間を切り裂いた。騎士は大きく弾かれた剣を再度頭上高く振りかぶろうとしたが、俺は剣が流されるに任せたまま、奴の懐に潜りこんだ。俺の二倍の身長がある巨人騎士の首元を左手で掴み、密着する。
CPUが動かすモンスターを相手にする場合、敵の武器が作り出すアタック圏を見切り、その外側にポジションを取るのは基本だが、このような巨大なエネミーの場合アタック圏の内側にも死角が発生する場合が多い。無論そこに留まり続けるのは危険だが、崩れた体勢を回復する程度の時間は稼げる。
俺は右手一本に握った剣を引き戻すと、その剣尖を守護騎士の首元にあてがった。
「ラァッ!!」
翅を力いっぱい打ち鳴らし、全身の重さを乗せて剣を撃ち込む。ガツッ!! と硬い物体を断ち割る響きと共に、剣が騎士の首を深く貫いた。
「ゴガアアアアア!!」
神々しい外見にそぐわない、獣のごとき絶叫を上げて守護騎士は全身を硬直させた。直後、その巨体は純白の炎に包まれ、四散した。
――行ける!!
俺は心の奥で快哉を叫んだ。この守護騎士は、ステータス的にはSAOのフロアボスに遠く及ばない。一対一なら、こちらに分がある。
体にまとわりつく白い炎を振り払い、俺は顔を上げてゲートを見据えた。そして――その光景を見た途端、顔が強張るのを感じた。
未だかなりの距離がある巨大な天蓋、それを作っている無秩序なステンドグラスの、殆ど全ての窓から、白い守護騎士が出現しようとしていた。その数、数十――いや数百か。
「――――うおおおお!!」
一瞬怯んでしまった己を鞭打つかのように、俺は叫んだ。例え何匹来ようとも、全てを切り捨てるだけだ。翅を震わせ、猛然とダッシュする。
天蓋から新たに産み落とされた数体の騎士が、俺の進路を阻もうと舞い降りてきた。その先頭の一体に狙いを定め、再び剣を振りかぶる。
今度は、剣を打ち合わせて体勢が硬直してしまうのを避けるべく、俺は斜めに振り下ろされる敵の剣の先端に意識を集中し、体を捻ってそれを回避した。完全には見切れず、肩を掠った剣先によってわずかなダメージ感が発生したが、それを無視して自分の攻撃に全神経を傾ける。
俺の大剣は、一直線に守護騎士のマスクに吸い込まれるように命中し、そのまま二つに断ち割った。白い炎が噴き上がり、消滅する巨体の向こうから、次の騎士が姿を現す。
敵の剣がすでに攻撃軌道に入っているのを見て、俺は歯を噛み締めた。完全に回避する余裕はないと判断し、左拳を上げて襲い来る剣に叩きつける。
骨まで浸透するような衝撃とともに、視界左端のHPバーが一割ほど減少した。だが敵の剣の軌道は俺の体を逸れ、騎士の体がぐらりと崩れる。その首筋に、右手の剣を叩き込む。
今度はこちらの攻撃スピードが減殺されたため、一撃で片付けることが出来なかった。右方向から、更に新たな守護騎士が迫ってくる。俺は体をそちらに捻ると同時に、その勢いを利用して左足のブーツを手負いの騎士のマスクに叩き込んだ。
この世界に初ログインしたとき、膨大なスキルアップポイントを格闘術スキルにもつぎ込んでおいたのが幸いし、蹴りのダメージは敵のHPを削りきることに成功したようだった。仰け反らせた体を炎が包み、エフェクトで歪んだ悲鳴とともに爆散する。
三体目の騎士の剣を、危ういところで俺の剣が弾いた。
「せああああっ!!」
気合と共に握った左手を鏡のマスクに叩き込む。ビシィッ!! と硬質な音を立ててその表面が放射状にひび割れ、騎士が苦悶の叫びを上げる。
「死ね!! 死ねェェ!!」
全身を駆動する破壊の衝動に意識を委ね、俺は絶叫した。右手の剣を騎士の首に引っ掛け、何度も何度も左拳を打ち付ける。
そうだ――、俺はかつてこの世界に生きていたのだ。孤独にダンジョンの最奥を彷徨い、死線の連続に魂を磨耗させ、モンスターの屍で己の墓碑を築くかのごとく剣を振るい続けた。
とうとう拳が敵のマスクを貫通し、ぐちゃりと嫌な感触が左腕を包んだ。だが殺戮を求める内なる声に従い、俺は闇雲に柔らかい何かを掴むと引きずり出した。赤黒い紐のような肉塊が千切れ飛び、同時に俺の体を白いエンドフレイムが包み込む。
あの頃、俺の心は石のように固く乾ききっていた。ゲームクリアだとか、プレイヤーの解放だとかいうお題目はもうどうでもよかった。他人を拒絶し、ただひたすらに次の戦場を求めて這いずっていた。
更に四、五匹の守護騎士が、輝く剣を高く掲げ、怪鳥のような奇声とともに降下してきた。俺は片頬に獰猛な笑みを浮かべ、その群に突っ込んだ。激烈な加速感に全神経が震え、俺の脳とかりそめの肉体を繋ぐ電子パルスが青白いスパークとなって視界を横切った。
「うおおおああぁぁぁぁぁ!!」
雄叫びとともに、俺は両手に握った剣を横一文字に薙ぎ払った。敵の剣が弾かれる。そのまま体を風車のように回転させ、限界まで加速してから守護騎士どもの首に撃ち込む。
がつ、がつっ! と鈍い音が連続し、二つの鏡面に包まれた首が宙高く舞った。白いバラのように咲く断末魔の炎が俺の神経を灼き、更に熱く燃え上がらせる。
死の中でだけ、俺は生を感じられた。ギリギリの戦闘に身を投じ、己を最後まで焼き尽くし、その後に倒れることだけが、俺の眼前で死んでいった者達に報いる道だと思っていた。
俺は回転の勢いを止めずに体の向きを入れ替え、伸ばした右足のつま先を錐のように新たな守護騎士の胸板に突き立てた。硬い殻に包まれた軟体生物を岩に叩きつけるような嫌な音が響き、俺の体が騎士を貫通する。エンドフレイムの中で動きの止まった俺の体に、左右から二本の剣が鋏のように迫った。右の剣を自分の剣で受け、左の剣は左腕で止め、HPバーに目もくれず俺は双方を押し返した。
間髪入れずに右の騎士の手首を掴み、
「ぐうううおおおおっ!!」
咆哮しながら頭上高く振り回すと左の騎士に叩きつける。二匹が重なったところを、剣で串刺しにし、止めをさす。
いつまでも、敵が何匹来ようとも戦いつづけられると思った。あの頃のように、殺戮の炎で己を焦がし、心を硬く、硬く鍛え上げて――。
いや――そうじゃない……。
――そんな、乾ききった俺の心に、懸命に水を注いでくれた人たちがいたのだ。シリカ、クライン、エギル、リズベット、そしてアスナ――
俺は……俺は、アスナを助けだし、あの世界を本当に終わらせるためにここへ――
顔を上げると、天蓋に視線を向けた。意外なほど近くに、石のゲートが見えた。
そこへ向かって上昇しようとしたその時、唸りを上げて飛来した何かが俺の右足を貫いた。
まばゆく輝く光の矢だった。俺の動きが止まる瞬間を狙い定めたかのように、雨のように矢が降り注いだ。二本、三本、立て続けに命中し、HPバーががくん、がくんと減少する。
視線を巡らせると、いつのまにか遠距離で俺を取り囲んでいた守護騎士たちが、左手を俺に向け、ディストーションのかかった耳障りな声でスペルを詠唱していた。光の矢の第二波が、甲高い音とともに殺到してくる。
「うおおおおおっ!」
俺は大剣を振り回して矢を叩き落したが、更に数本が命中し、HPバーがイエローゾーンに突入した。顔を上げ、ゲートを凝視する。
遠距離攻撃を行う敵を単騎で撃破するのは難しい。俺は強行突破を図るべくゲートに向かって突進した。降り注ぐ光の矢が全身を貫くが、ゴールはもうすぐそこだ。歯を食いしばって衝撃に耐えながら、石扉に触れようと左手を伸ばす――。
――しかし。
あと数秒というところで、すさまじい衝撃が背中を襲った。振り向くと、いつの間に接近していたのか、守護騎士が一匹、鏡面マスクに歪んだ笑みを浮かべて俺の背に剣を突き立てていた。体勢が崩れ、加速が止まる。
そこへ、獲物に群がる白い屍鳥のごとく、十数匹の守護騎士が四方から押し寄せてきた。ドッ、ドッと鈍い音を立てて、剣が次々に俺の体を貫いた。HPバーを確認する余裕もなかった。
視界に、青い燐光をまとった黒い炎が渦巻いた。それを背景に、小さく浮かび上がる紫の文字。『You are dead』。
次の瞬間、俺の体は呆気なく四散した。
次々とスイッチを切るように、身体感覚が消失していく。
アインクラッド75層で聖騎士ヒースクリフと相打ちになり、倒れたときの記憶が鮮明にフラッシュバックし、瞬間、俺は激甚な恐怖に晒された。
だが勿論、そこで意識が途切れることはなかった。半思考停止状態のなか、俺はSAOベータテスト以来の「ゲームにおける死」を体験することとなった。
不思議な感覚だった。視界は彩度を失い、薄い紫のモノトーンに染まっている。その中央に、同じくシステムカラーの小さな文字で『蘇生猶予時間』の表示と、右に減少していく数字。視界の奥では、俺を屠った白銀の守護騎士たちが、満足の唸りを上げながら天蓋のステンドグラスに帰還していくのが見えた。
四肢の感覚は存在しなかった。動かそうにも、今の俺は多分、この世界で斬り倒してきたプレイヤー達がそうなったように、小さな火の玉にすぎないのだ。心細く、惨めで、卑小な気分だった。
そう――、惨めだった。この世界のことを、心のどこかで常に、たかがゲーム、と思い続けていた報いを受けたと感じていた。俺の強さなどというものは所詮、ステータスデータという名の数字でしかないのだ。なのに、ゲームの枠を越え、限界を超えて、何でも出来ると思っていた。
アスナに会いたい。彼女の、全てを包み、癒す温かい腕に抱かれ、思考、感情、すべてを解放したい。しかし、俺の手はもう彼女には届かない。
秒数表示が減少していく。これがゼロになったとき俺はどうなるのか、即座には思い出せなかった。
しかしどうなろうと、俺に出来ることは唯ひとつだ。再びこの場所まで這い戻り、守護騎士に挑むのだ。何度倒れようと、例え勝てないとわかっていても――俺の存在が切り刻まれ、磨耗し、この世界から全て消えてなくなるその瞬間まで――……
その時だった。下向けた俺の視界を、きらりと横切る影があった。
リーファだった。開いたままの入り口からドーム内に侵入し、凄まじいスピードで上昇してくる。
バカ、やめろ!! と叫ぼうとしたが、声は出なかった。慌てて上空を見ると、天蓋に並ぶ白い窓から、再びボトボトと守護騎士どもが産み出されつつあるのが見えた。
神経を逆撫でる叫びを上げながら、白い巨人たちが俺の横を通過し、リーファ目指して殺到していく。彼女の敵う相手とはとても思えなかった。俺はいいから逃げろ、と必死に念じるが、リーファは翡翠色の瞳に強い光を浮かべ、真っ直ぐこちらに向かってくる。
最前列の守護騎士数匹が、右手に握った長大な剣を次々に振り下ろした。リーファは俊敏な機動でそれらを回避したが、時間差で襲い掛かった剣が体を掠めた。それだけでHPバーががくっと減少し、華奢な体が大きく跳ね飛ばされた。
だがリーファは、その勢いを利用して更に加速すると、騎士どもの列を回り込み、上昇を続けた。彼女が俺に近づくにつれ、それを阻止するかのように天蓋が吐き出す騎士の数は増え、奇怪な合唱を響かせながら所狭しと飛び回る。
リーファは右手に長刀を握っていたが、それは防御にのみ利用し、敵を一箇所にまとめては逆に障壁として利用する見事な機動で着実に距離を詰め続けた。痛々しいほどの必死の飛行だった。
「――キリト君!!」
ついに、俺の前に達したとき、リーファは涙の粒を散らして一声叫んだ。両手を伸ばし、俺をしっかりと包み込む。
すでにゲートにかなり接近しており、騎士どもはこれ以上の上昇は絶対に許さないと言わんばかりに、上空にびっしりと密集し、幾重もの肉の壁を作り上げた。だがリーファは俺を確保した途端急激にターンし、今度は一直線に出口を目指した。
背後から、呪詛のごときスペル詠唱音が鳴り響いた。たちまち、唸りを上げて白い光の矢が飛来する。リーファは右に左に進路を揺らし、敵の狙いを外そうとするが、降り注ぐ矢は驟雨のような密度で、避けきれなかった一弾が命中する震動が俺にも届いた。
「っ……!!」
リーファは息を詰まらせたが、ダイブの勢いは鈍らなかった。ド、ドッと立て続けに矢がリーファの体を貫く。俺の視界の端に表示された彼女のHPバーが、たちまちイエローに変色する。
追撃は、光の矢だけではなかった。猛烈な勢いで肉薄した二匹の守護騎士が、左右から十字に長剣を振り下ろすのが見えた。
リーファは右に錐揉みし、片方の剣をかわしたが、もう一方の金属塊がまともに彼女の背を捉えた。
「あっ……」
悲鳴に似た声を上げ、リーファは毬のように弾き飛ばされ、間近に迫っていた床に叩きつけられた。数度のバウンドののち、床面を削る勢いで滑走し、停止する。そこに、とどめの一撃とばかりに、数匹の守護騎士が舞い降りてくる。
リーファは震える片手で体を起こすと、背中の翅を一度羽ばたかせた。その勢いで床を転がり――不意に俺の視界を、明るい日光が包み込んだ。そこはもう、ドームの外だった。
かつてない程の絶望的な状況からどうにか生還し、リーファは恐怖に冷え切った体を石畳に投げ出して荒い息をついた。背後に目を向けると、巨大な石扉がゆっくりと閉ざされ、その奥で白い巨人たちが舞い上がっていくのが見えた。
腕の中には、小さく揺らぐ黒い残り火。キリト君――、と胸の奥で呟くが、感傷に浸っている時間はない。上体を起こし、傍らに立つ巨石像の足にもたれさせると、右手を振ってアイテムウインドウを開く。
水属性魔法をマスターしていないリーファは、高位の蘇生魔法を使うことができない。ゆえに、『世界樹の雫』なるアイテムをオブジェクト化させ、出現したブルーの小瓶を手に取る。
ウインドウを消して小瓶の栓を抜き、輝く液体をキリトのリメインライトに注ぎかける。たちまちその場に、蘇生スペルと似たような立体魔方陣が展開し、数秒後、黒衣の小柄な少年の姿が実体化した。
「……キリト君……」
座ったまま、リーファは泣き笑いのような顔で少年の名を呼んだ。キリトも、どこか哀切な笑みを浮かべると、石畳に片膝をつき、右手をそっとリーファの手に乗せた。
「ありがとう、リーファ。……でも、あんな無茶はもうしないでくれ。俺は大丈夫だから……これ以上迷惑はかけたくない」
「迷惑なんて……あたし……」
そんなつもりじゃない、と言おうとしたが、その前にキリトは立ってしまった。くるりと振り向き――再び、世界樹内部へ繋がる扉へと足を踏み出す。
「き、キリト君!!」
愕然としながら、リーファは震える脚に力を込め、どうにか立ち上がった。
「ま、待って……無理だよ、一人じゃ!」
「そうかもしれない……。でも、行かなきゃ……」
背を向けたまま呟くキリトの姿に、リーファは限界まで過重のかかったガラスの像のような脆く儚いものを感じ、必死にかける言葉を探した。でも、喉が焼き付いたように声を発することができなかった。夢中で両手を伸ばし、キリトの体をぎゅっと抱いた。
惹かれている、と強く感じた。和人のことを諦めるために、無理矢理この人を好きになろうとしているのかもしれない、と心の隅で考えたが、同時に、それでもいい、と思った。この気持ちは真実だと思えた。
「もう……もうやめて……。いつものキリト君に戻ってよ……。あたし……あたし、キリト君のこと……」
右手がふわりとキリトの手に包まれた。耳に、穏やかな彼の声が流れ込んでくる。
「リーファ……ごめん……。あそこに行かないと、何も終わらないし、何も始まらないんだ。会わなきゃいけないんだ……もう一度……アスナに……」
何を聞いたのか、一瞬、わからなかった。空白に塗りつぶされた意識の中で、キリトの言葉の残響がゆっくりと消えていった。
「……いま……いま、何て……言ったの……?」
キリトはわずかに首を傾げ、答えた。
「ああ……アスナ、俺の捜してる人の名前だよ」
「でも……だって、その人は……」
口元に両手をあて、リーファは半歩後退った。
白く凍りついた脳裏に、滲むように記憶の残像がよみがえる。
数日前、道場で試合した時の和人。初めて会ったとき、古森でサラマンダーを退けたキリト。記憶の中の二人は、戦いを終えたあと、右手の剣を素早く切り払い、背中に収める。寸分違わぬ動作で。
ぴたりと重なった二人のシルエットが、放射光の中に溶けていった。リーファは目を大きく見開き、震える唇から消え入るような声を絞り出した。
「……お兄ちゃん……なの……?」
「え……?」
それを聞いたキリトはいぶかしそうに眉を動かした。漆黒の瞳がまっすぐリーファの目を捉える。瞳に浮かぶ光が、水面の月のように揺らぎ、たゆたい、そして――
「――スグ……直葉……?」
黒衣のスプリガンは、ほとんど音にならない囁きに乗せて、その名前を呼んだ。
周囲の光景、アルンの街や巨大な世界樹、それらを包み込む世界そのものが崩壊していくような感覚に捕われて、リーファ/直葉はよろめくように更に数歩下がった。
目の前の少年と旅をした数日間、リーファはこの仮想の世界がどんどん鮮やかに色づいていくのを感じていた。並んで飛ぶだけで心が躍った。
直葉として和人のことを愛し、リーファとしてキリトに曳かれる自分に罪悪感を抱かなかったといえば嘘になる。しかし、リーファにとっては長らく仮想飛行シミュレータの延長でしかなかったアルヴヘイム世界が、もうひとつの真なる現実であることを教えてくれたのはキリトだった。それゆえに、リーファはこの世界で自分が抱いた感情もまたデジタルデータではなく本当の気持ちだと悟ることができたのだ。
和人を求める心を無理矢理に凍らせ、深く埋める痛みも、キリトの隣でならいつかは忘れられそうな、そんな気がしていた。――それなのに、この世界の基盤を成している「現実」、妖精のキャラクターに命を与えているのは本当の人間であるというリアルは、思いもよらない形の結末をリーファに突きつけたのだった。
「……酷いよ……。あんまりだよ、こんなの……」
うわ言のように呟きながら、リーファは首を左右に振った。これ以上、一秒たりともこの場所に居たくなかった。キリトから顔をそむけ、右手を振る。
出現したウインドウの右下端に触れ、更に浮かび上がった確認メッセージを殆ど見もしないで叩いた。堅く閉じた目蓋の下で、虹色の光の輪が広がり、薄れ、暗闇が訪れた。
自室のベッドで覚醒し、最初に目に入ったのは、アルヴヘイムの空を映した深いブルーだった。いつもなら憧憬と郷愁に似た感慨をおぼえるその色も、今は苦痛しか感じなかった。
直葉はゆっくりと頭からアミュスフィアを外し、目の前にかざした。
「っ……ぅ……」
喉の奥から、抑えきれず嗚咽が漏れた。細い円環を二つ重ねた華奢な機械を握った両手に、衝動のままに力を込める。リングがたわみ、微かな悲鳴を上げる。
このままアミュスフィアを破壊し、あの世界への通路を永遠に閉ざしてしまおうと思った。しかし、できなかった。リングの向こうにいるリーファという名の少女が、あまりにも憐れだった。
機械をベッドの上に戻し、直葉は体を起こした。両足を床に降ろして、目を閉じ、項垂れる。もう何も考えたくなかった。
静寂を破ったのは、控えめなノックの音だった。次いで、ドアの向こうから、キリトとは違うが、同じ抑揚を持つ声。
「――スグ、いいか?」
「やめて!! 開けないで!」
反射的に叫んでいた。
「一人に……しておいて……」
「――どうしたんだよ、スグ。そりゃ俺も驚いたけどさ……」
戸惑いをはらんだ和人の言葉が続く。
「……またナーヴギアを使ったことを怒ってるなら、謝るよ。でも、どうしても必要だったんだ」
「違うよ、そうじゃない」
不意に、感情の奔流が直葉を貫いた。床を蹴るように立ち上がり、ドアに向かう。
ノブを回し、引き開けると、そこに和人の姿があった。気遣わしそうな光を浮かべた瞳で、じっと直葉を見ている。
「あたし……あたし……」
気持ちが、勝手に涙と言葉になって溢れ出すようだった。
「あたし――お兄ちゃんを裏切った。お兄ちゃんを好きな気持ちを裏切った。それで、キリト君のことを好きになろうと思った。――なのに……それなのに……」
「え……」
和人は瞬間、絶句してから、戸惑ったように言った。
「好き……って……だって、俺たち……」
「違うよ」
「……え……?」
「違うんだよ。本当は」
いけない、と思った。しかし止められなかった。激情の全てを込めた視線を和人に向け、わななく唇で直葉はその先を告げた。
「――知ってるでしょう、お母さんに、亡くなったお姉さんがいたこと」
いけない。母親に頼んで、和人にこの事実を告げるのを待ってもらったのは、こんな風に持て余す感情を和人にぶつける為ではなかったはずだ。このことが持つ意味を、時間をかけてちゃんと考えたい、そう思っていたはずなのに。
「お兄ちゃんは、その人の子供なの。あたしたち、本当の兄妹じゃないんだよ。だから――だから!」
その言葉を聞いた和人は目を見開き、表情を凍りつかせた。全てが停止したような数秒間ののち、掠れた声が漏れる。
「……本当、なのか……?」
覚醒してからの二ヶ月間、直葉を見る和人の瞳は常に、慈しむような穏やかな光に彩られていた。今、その光が消え、かわりに深い虚無を映した暗闇が広がるのを見て、直葉は悔恨の刃が激痛を伴って胸の奥を切り裂くのを感じた。詰まった喉の奥から無理矢理に言葉をしぼり出した。
「……ごめんなさい……」
それ以上和人の顔を見ていられなかった。罪悪感と自己嫌悪に押し潰されそうになりながら、直葉は逃げるようにドアを閉め、数歩あとずさった。かかとがベッドに触れ、そのまま後ろ向きに倒れこむ。
シーツの上で固く体を丸め、直葉はこみ上げる嗚咽に肩を震わせた。涙があとからあとから溢れ、白い布にかすかな痕を残して吸い込まれていった。
閉じられたドアの前で立ち尽くしたまま、俺は耳の奥に反響する直葉のことばの意味を必死に理解しようとしていた。
母さんのお姉さんという人――昔、交通事故で夫婦一緒に――俺の、本当の母親――。短い言葉が刻まれた無数の断片が、舞い踊る木の葉のように集まり、離れ、俺の思考を翻弄する。呆然とした足取りで廊下を歩き、自室に戻った俺は、無意識のうちにOAチェアに体を沈めた。
ホワイトアウトしかけた視界の中央に、パソコンのモニタが黒い穴のように口を開けている。右手を伸ばし、デスクトップを表示させる。
ブラウザを立ち上げて市のホームページを表示させた。自分のものとは思えない右手が自動的にマウスを操り、リンクからリンクへと飛んで戸籍データベースへとアクセスする。
机の上の財布を取り上げ、中から住基ネットカードを抜き出した。レンタルショップの会員になるときくらいしか使ったことのないこのカードを、初めて本来の用途で使用する。11桁のコードとパスワードを打ち込むと、俺の戸籍データが表示された。
父親――桐ヶ谷研介、母親が翠、妹に直葉。記憶と同様の家族構成が素っ気無いフォントで並んでいる。しかし、養子縁組の記録は世帯主の意思で伏せることもできたはずだ。思案のすえ、検索システムに、母親の旧姓に俺の名前を組み合わせたものと、記憶の彼方に埋もれかけていた母親の出身地を入力する。
珍しい苗字のせいか、ヒットしたのは一件だった。その名前をクリック。再びコードとパスワードを求められる。エラーが出ることを予期し、半ばそう願ってもいたが、しかしシステムはあっさりと俺の要求を受け入れた。
表示されたのは、三人のみのささやかな家族だった。親二人は十六年前に死亡。遺された子供が一人。俺と同じ名前と生年月日を持つ、見知らぬ誰か。
俺は大きく息を吸い、吐き出した。
それでは、全て真実なのだ。目を瞑り、背もたれに体を預けて、俺はこのことのもつ意味を考えようとした。
意味? そんなものは明白だ。今まで母、父と信じていた人たちが、正しくは俺の叔母と血の繋がらぬ男性であり、妹と信じていた女の子が従妹だったという、それだけのことだ。
エアコンは低い唸りを上げているが、不意に肌を這い上がる寒気を感じた。所在ない、という言葉の指すところを初めて理解できたような気がしていた。自分という存在が現実から切り離され、忘却の辺土へと漂っていくようだった。
――だが。
この寂寥感には覚えがあった。
そうだ……俺は、あの世界では常にストレンジャーだった。全てのコミュニティから遠ざかり、孤独にダンジョンを這いまわって、ねぐらに戻って獣のように体を丸めて眠った。人は皆、俺を見ると恐れ、哀れみ、蔑んだ。
そんな俺を救ってくれた人がいたのだ。世界崩壊の直前、あの短い日々の間に俺は人の温もりを知り、その暖かさを周りの人々に還していこうと思った。浮遊城は消滅してしまったが、その気持ちは今も変わらない。
直葉の、思いつめた目の光を思い出す。
俺のことを好きだと言った。直葉は、いつからかは分からないが、多分俺が覚醒する以前からこのことを知っていたのだ。
正直、妹であるという意識を変えることは当分できそうになかった。だが俺は直葉の前にいるときも、常にアスナのことを考えていた。アスナのことを思って泣きさえしたのだ。それが直葉を傷つけたであろうことは想像に難くない。
いや、それだけではない。
PC音痴でゲーム嫌いだった直葉が、いかなる経緯でバーチャルMMOゲームに手を出すことになったのかは分からないが、あのアルヴヘイムという世界で俺を助けてくれたリーファという少女――。彼女こそが直葉だったのだ。
ログインして初めて出会ったのが彼女だった、それが偶然なのか、あるいはIPが同一だったせいなのかはわからないが、俺はキリトでいるときもアスナのことで頭がいっぱいで、同じようにリーファを傷つけてしまったのだと思う。
自分のアイデンティティについて悩むのは、全てが決着してからでも遅くはない。俺は目を開くと、本当の母親であるという人の名を一瞬見つめてからPCをシャットダウンした。勢いよく立ち上がり、ドアへ向かう。
今は直葉のために出来ることをしよう。言葉で足りないときは手を伸ばす、それはアスナが教えてくれたことでもある。
力強いノックの音が、虚脱した直葉の意識を揺り動かした。反射的に体を竦ませる。
開けないで、と叫ぼうとしたが、喉からは掠れた音が漏れるだけだった。しかし和人はノブを回さずに、ドアの向こうで短く言った。
「スグ――アルンの北側のテラスで待ってる」
落ち着いた、穏やかな声だった。そのままドアの前を離れていく気配。廊下の向こうで開閉音がして、静寂が訪れた。
直葉は、目蓋を固く閉じ、再び体を小さく縮こまらせた。弾き出された涙が、ぽつぽつと音を立てて落下する。
和人の声には、動揺の響きは無かった。自分の本当の両親がすでに死去していると告げられたばかりなのに、もうそれを受け入れたのだろうか。
――強いね、お兄ちゃんは。あたしは、そんなに強くなれないよ……
心の中で呟いてから、ふと数日前の夜のことを思い出した。
あの夜、和人は今の直葉のように、ベッドの上で体を丸めていた。同じように、手の届かない人のことを思って泣いていた。その姿は、途方に暮れた幼子のようだった。
キリトと出会ったのはその翌日だ。つまり和人は、どのようにしてか、眠るあの人の意識がアルヴヘイムに――世界樹の上にあるという情報を得て、再び仮想世界に身を投じたのだ。涙を振り払い、剣を握って。
――あのとき、あたしは、がんばれって言った。諦めちゃだめだと、そう言った。なのに、自分はこうして泣き続けている……
直葉はゆっくりと目を開けた。視線の先に、輝く円冠が横たわっていた。
手を伸ばし、それを持ち上げると、深く頭に被せた。
うす曇りの空から降り注ぐ淡い陽光が、アルンの古代様式の街並みを柔らかく照らしていた。
ログイン地点には、キリトの姿は無かった。今いるドーム前広場は世界樹の南側で、北側にはイベント用の広大なテラスがある。多分そこでリーファを待っているのだろう。
ここまで来たものの、正直会うのは恐かった。何を言うべきか分からなかったし、何を言われるのかも予想できない。リーファは悄然と数歩あるくと、広場の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
俯いたまま何分経過しただろうか。不意に、目の前に誰かが着地する気配がした。反射的に体を固くし、目を閉じる。
だが、リーファの名を呼んだのは意外な人物だった。
「んも~~~、捜したよリーファちゃん!」
馴染みの深い、頼りないくせに元気いっぱいな声が響き渡る。唖然として顔を上げると、黄緑色の髪の少年シルフの姿があった。
「……れ、レコン!?」
思いがけない顔の出現に瞬間、疼痛を忘れて、どうしてここにと訊ねた。するとレコンは両手を腰に置き、自慢そうに胸を反らせて言った。
「いやー、地下水路からシグルドがいなくなったんで隙見て麻痺解除してサラマンダー二人を毒殺して脱出して、いざ旦那にも毒食わせてやろうと思ったらなんかシルフ領にいないし、仕方ないんで僕もアルンを目指そうと思って、アクティブなモンスターはトレインしては他人に擦り付けトレインしては擦り付けでようやく山脈を越えて、ここに着いたのが今日の昼前だよ。一晩かかったよ、マジで!」
「……アンタそれはMPKなんじゃあ……」
「細かいことはいいじゃんこの際!」
リーファの指摘など気にするふうもなく、レコンは嬉々とした様子で、隣に密着する勢いで腰を下ろす。そこで今更のようにリーファが独りでいることに疑問を持ったらしく、周囲をキョロキョロ見回しながら言った。
「そういやあのスプリガンはどうしたの? もう解散?」
「ええと……」
リーファはそれとなく腰をずらして隙間を空けながら言葉を探した。しかし相変わらず胸の奥は切ないうずきの塊に塞がれていて、器用な言い訳は浮かんでこなかった。気付いたときには心のうちをぽろりと口にしていた。
「……あたしね、あの人に酷いこと言っちゃった……。好きだったのに、言っちゃいけないことを言って傷つけちゃったの……。あたし、バカだ……」
再び涙が溢れそうになったが、リーファは必死に堪えた。レコン/長田は単なるクラスメートで、その上ここは――少なくとも彼にとっては――架空のゲーム世界であって、彼を困惑させるような剥き出しの感情を見せたくはなかった。顔をそむけ、早口で続ける。
「ゴメンね、変なこと言って。忘れて。あの人とは――もう……会えないから……帰ろう、スイルベーンに……」
たとえここで逃げても、現実の二人は数メートルと離れていない場所に横たわっているのだ。しかしやはりキリトと会うのは恐かった。スイルベーンに帰って、数は少ないが親しい人たちに挨拶して、「リーファ」を永い眠りにつかせよう、そう思った。いつかこの痛みが薄れる、その時まで。
心を決め、顔を上げて、リーファはレコンの顔を見た。そして思わずギョッとして仰け反った。
「な……なに!?」
レコンは、茹で上がったかのように顔を紅潮させ、眼を見開き、口をぱくぱくと開閉していた。一瞬ここが街の中であることを忘れ、水属性の窒息魔法でも掛けられたかと思ったその時、突然レコンが猛烈なスピードでリーファの両手を取り、胸の前で固く握った。
「なななんなの!?」
「リーファちゃん!」
問いただす間もなく、かなり遠くにいるプレイヤー達も振り向くような大声で叫ぶ。顔をぐいーっと突き出し、限界まで後傾したリーファを至近距離から凝視しつつ言葉を続ける。
「り、リーファちゃんは泣いちゃだめだよ! いつも笑ってないとリーファちゃんじゃないよ! 僕が、僕がいつでも傍にいるから……リアルでも、ここでも、絶対独りにしたりしないから……ぼ、僕、僕、リーファちゃん……直葉ちゃんのこと、好きだ!」
壊れた蛇口のように一気にまくし立てたレコンは、リーファの返事を待つこともなくさらに顔を突出させてきた。いつもは気弱そうな目に異様な輝きを貼り付け、脹らませた鼻のしたの唇がにゅーっと伸びてリーファに迫る。
「あ、あの、ちょっ……」
アンブッシュからの不意打ちはレコンの得意技ではあるが、それにしてもあまりの展開に度肝を抜かれてリーファは硬直した。それを許諾と取ったか、レコンは顔を傾け、リーファに覆いかぶさらんばかりに身を乗り出して接近を続ける。
「ちょ……ま、待っ……」
顔にレコンの鼻息を感じるところまで肉迫されてから、ようやくリーファはスタンから回復し、左拳を握った。
「待ってって……言ってるでしょ!!」
叫ぶと同時に体を捻り、全力のショートブローをレコンの下腹部に叩き込む。
「ぐほェ!!」
街区圏内ではあるもののパーティーを組みっぱなしであるがゆえにダメージが通り、レコンは一メートルほど浮き上がったのちベンチに落下した。そのまま腹部を両手で押さえつつ苦悶の声を上げる。
「うぐぐぐううぅぅ……ひ、酷いよリーファちゃん……」
「ど、どっちがよ!! い、いきなり何言い出すのよこのアホチン!」
ようやく顔がかーっと熱くなるのを感じながらリーファはまくし立てた。危うく唇を奪われるところだったと思うと怒りと恥ずかしさが相乗効果でドラゴンブレスの如く燃えさかり、とりあえずレコンの襟首を掴み上げると右拳を更に数発ドカドカと見舞う。
「うげ! うげえ! ご、ごめん、ごめんって!!」
レコンはベンチから転げ落ち、石畳の上で右手をかざして首をぷるぷると振った。リーファがとりあえず攻撃姿勢を解除すると、胡坐をかいて座り込んで、がっくりと項垂れる。
「あれ~~……。おっかしいなあ……。あとはもう僕に告白する勇気があるかどうかっていう問題だけだったはずなのになあ……」
「……あんたって……」
リーファはほとほと呆れ、ついしみじみした口調になりつつ言った。
「……ほんっとに、馬鹿ね」
「うぐ……」
叱られた子犬のようなレコンの傷ついた顔を見ていると、呆れるのを通り越して笑いがこみ上げてきた。ため息と笑みの混合したものを大きく吐き出す。同時に、すーっと胸の奥が軽くなったような気がした。
今まであたしは何もかも飲み込みすぎてたのかな、とリーファはふと思った。傷つくのが恐くて、ぐっと歯を噛み締めてばかりいた。そのせいで、抱えきれなくなった気持ちが洪水のようにあふれ出て、大切な人を傷つけてしまった。
もう遅いかもしれないけど――でもせめて、最後くらいは素直になりたい。そう考えて、リーファは肩の力を抜き、空を見た。そのまま、ぽつりと言った。
「――でもあたし、アンタのそういう所、嫌いじゃないよ」
「え!? ほ、ホント!?」
レコンは再びベンチに飛び上がると、懲りもせずにリーファの手を取ろうとした。
「調子にのるな!」
その手をすり抜けて、リーファはすいっと空に浮かび上がった。
「――あたしもたまにはアンタを見習ってみるわ。ここでちょっと待ってて。――ついてきたら今度こそコレじゃ済まないからね!」
ポカンとした顔のレコンに向かってしゅっと突き出した右拳を開き、ひらひらと振ってから、リーファは体を反転させた。そのまま翅を強く震わせ、世界樹の幹目指して高く舞い上がった。
恐ろしく太い世界樹を、回り込むように数分飛ぶと、眼下に広大なテラスが見えてきた。時々フリーマーケットやギルドイベントに利用されているらしいそのスペースは、しかし今日は閑散としていた。アルン北側は大した建築物もないために観光客の姿も見えない。
がらんとした石畳の中央に、小柄な黒い人影がぽつんと立っていた。鋭利な形のグレーの翅、その上に斜めに背負った巨大な剣。
リーファは大きく一回深呼吸すると、意を決して彼の前へと舞い降りた。
「……やあ」
キリトは、リーファを見るとかすかな微笑を交えながら短く言った。
「お待たせ」
リーファも笑みとともに言葉を返した。しばしの沈黙。風の音だけが二人の間を吹きぬけていく。
「スグ……」
やがてキリトが口を開いた。瞳が真剣な輝きを帯びる。だが、リーファは軽く手を上げてその言葉を遮った。翅を一度羽ばたかせ、すとんと一歩後ろに下がる。
「お兄ちゃん、試合、しよ。あの日の続き」
言いながら腰の長刀に手をかけると、キリトは軽く目を瞠った。唇が動き、何かをいいかけるが、すぐに引き結ばれる。
その深い輝きだけは現実の彼と共通している黒い瞳でしばらくリーファを見つめていたが、数秒後、こくんと頷いた。彼も翅を動かし、距離を取る。
「――いいよ。今度はハンデ無しだな」
微笑を消さぬまま言い、背中の剣に手を添えた。
抜剣は同時だった。涼やかな金属音がふたつ、重なって響く。リーファは手に馴染んだ愛刀をぴたりと中段に構え、真っ直ぐにキリトを見つめた。キリトは腰を落とし、大剣を地面すれすれに低く構えている。あの日と同じように。
「寸止めじゃなくていいからね。――行くよ!!」
言うと同時に地を蹴った。
距離を詰める須臾の間、リーファは、そうか――と思っていた。あの日、無茶苦茶だが見事に様になっていた和人の構えは、この仮想世界で磨かれたものだったのだ。二年もの長い日々、和人は命を賭けて本当の剣のやり取りをしていたのだ。
知りたい、と、初めて痛切に思った。殺人ゲームとして憎悪の対象でしかなかったあの世界で、和人が何を見、何を考え、どのように生きたのか知りたい。
高く振りかぶった剣を、リーファは一直線に振り下ろした。スイルベーンでは不可避と言われたリーファの斬撃だが、キリトは空気が動くようにわずかに体をずらすだけでそれをかわした。直後、唸りと共に大剣が跳ね上がってくる。引き戻した長刀で受けるが、ずしんと重い衝撃に両腕が痺れる。
武器が弾かれる勢いを利用して、二人は同時に地を蹴った。二重螺旋状の軌跡を描きながら急上昇し、交錯点で剣を打ち合う。爆発にも似た光と音のエフェクトが宙に轟き、世界を震わせる。
剣を交えながら、リーファは妖精の剣士として、また剣道家として、キリトの動きに感嘆せざるを得なかった。無駄の一切無い、舞踏のように美しい動作で攻防一体の技を次々に繰り出してくる。
彼のリズムに同期して剣を振りつづけるうち、いつしかリーファは自分がかつて体験したことのない領域に登りつめつつあるのを感じていた。思えば、かつてこの世界で何度となく行ったデュエルでは、一度として心の底から満足を味わったことはなかった。破れたことは無論あるが、それらは全て武器のエクストラアタックやスペルによるもので、真に剣だけでリーファを圧倒した者は居なかったのだ。
今、ついに自分を遥か上回る剣士とまみえ、それが誰よりも愛する人だったことに、リーファは歓喜にも似た感情を味わっていた。例え二度と心が交わることはないとしても、この一瞬だけで充分に報われたと、そう思った。いつしかリーファは、目の縁に涙が溜まっているのに気付いた。
何度目かの激しい撃剣によって体が弾かれたとき、リーファはそのまま宙を後ろに跳ね飛んで大きく距離を取った。翅を広げてぴたりと静止し、高く、高く、大上段に剣を構える。
これが最後の一撃、というリーファの意思はキリトにも伝わったようだった。彼も体を捻り、後方に大きく剣を振りかぶる。
一瞬、凪いだ水面のような静謐が訪れた。
リーファの頬を音も無く涙が伝い、雫となって落ち、静寂の中に波紋を広げた。同時に二人は動いていた。
空を焼き焦がす勢いで、リーファは宙を駆けた。長刀が、まばゆい光の弧を描いた。正面では、キリトが同じようにダッシュするのが見えた。彼の剣も純白に輝き、空を裂いて飛ぶ。
自分の愛刀が頭上をわずかに越えたところで――リーファは両手を開いた。
主を失った剣は、光の矢となって空高く飛んでいった。しかしそれにはもう視線を向けず、リーファは両腕を大きく広げ、キリトの剣を迎えようとした。
こんなことで、キリト/和人が満足するとは思えなかった。しかし、彼を深く傷つけたであろう自分の愚かしさを謝罪し得る言葉を、リーファ/直葉は持たなかった。
せめて、彼の剣の下に、自分の分身であるこの身を差し出すことしか出来ることはないと、そう思った。
両手を広げ、眼を半ば閉じて、リーファはその瞬間を待った。
しかし――。白い光に溶けつつある視界の中、飛翔してくるキリトの手に、剣は無かった。
「!?」
リーファは愕然として目を見開いた。視界の端に、自分の剣と同じように回転しながら遠ざかっていくキリトの大剣が見えた。リーファが剣から手を離すと同時に、彼も自分の武器を捨てていたのだ。
何で――、と思う間も無く、二人は宙で交錯した。同じく両腕を広げたキリトの体とリーファの体が正面から衝突し、息も止まるようなショックに見舞われて、リーファは夢中で相手にしがみついた。
エネルギーを殺しきれず、二人の体はひとつになって回転しながら吹き飛ばされた。視界を、青い空と巨大な世界樹がぐるぐると横切っていく。
「どうして――」
それだけを、どうにか口にした。至近距離からリーファを見つめるキリトも、同時に言った。
「何で――」
沈黙し、視線を交差させたまま、しばらく二人は慣性に乗ってアルヴヘイムの空を流れ続けた。やがてキリトが翅を広げ、姿勢を制御して回転を止めながら口を開いた。
「俺――スグに謝ろうと思って――。でも……言葉が出なくて……せめて剣を受けようって……」
不意に、リーファは、背に回されたキリトの両腕にぎゅっと力が入るのを感じた。
「ごめんな――スグ。せっかく帰ってきたのに……俺、お前を見てなかった。自分のことばかり必死になって……お前の言葉を聞こうとしなかった――。ごめんな……」
その声を耳もとで受け止めると同時に、リーファの両眼から迸るように涙が溢れた。
「あたし……あたしのほうこそ……」
それ以上はもう言葉にならなかった。リーファは声を上げて泣きながら、キリトの胸に強く顔を埋めた。
永遠に続け、と思った時間もやがて終わり、二人はふわりと草の上に着地した。リーファがしゃくりあげている間、キリトはそっと頭を撫でつづけてくれていたが、数分が経過したあと静かな声で話しはじめた。
「俺……本当の意味では、まだあの世界から帰ってきてないんだ。終わってないんだよ、まだ。彼女が目を醒まさないと、俺の現実は始まらない……。だから、今はまだ、家族のこと……スグのことを、どう考えていいのかわからないんだ……」
「……うん」
リーファは小さく頷く。
「だから、事件がぜんぶ決着したら、俺、真剣に考えてみるよ。それまで、答えは待ってもらっていいか……?」
「ん……」
ふたたび頷き、リーファは呟くように言った。
「あたしは、もうじゅうぶん。これだけで、じゅうぶんだよ。……あたしも手伝う。説明して、あの人のことを……なんで、この世界に来たのか……」
SAO2_07_Unicode.txt
飛んでいってしまった二本の剣を苦労して回収し、キリトと連れ立ってゲート守護像前の広場に着陸すると、予想外におとなしく待っていたらしいレコンが駆け寄ってきた。リーファの隣に立つ黒衣のスプリガンの姿を見て表情を目まぐるしく変えた挙句、首を捻りながら言う。
「えーと……ど、どうなってるの?」
リーファはにっこり笑いかけながら答えた。
「世界樹を攻略するのよ。この人と、アンタと、あたしの三人で」
「そ、そう……って……ええ!?」
顔面蒼白になって後退るレコンの肩をポンと叩き、がんばってね、と言っておいて、リーファは改めて眼前の巨大な石扉を見上げた。二体の守護像に挟まれたそれは、侵入者を拒絶するかのごとく冷酷な輝きをまとって聳え立っている。
攻略する、と言ってはみたものの、キリトほどの剣士が守護騎士に無惨に倒されるシーンを見せつけられたあとでは、正直二人増えたところでどうにかなるものとも思えなかった。かたわらのキリトにちらりと視線を向けると、彼も厳しい表情で唇を引き結んでいる。
と、キリトが何かを思いついたように顔を上げた。
「ユイ、いるか?」
その言葉が終わらないうちに、中空に光の粒が凝集し、お馴染みの小さなピクシーが姿を現した。両手をがっしと腰にあて、憤慨したように唇をとがらせている。
「もー、遅いです! パパが呼んでくれないと出てこられないんですからね!」
「悪い悪い。ちょっと立てこんでて」
苦笑しながら差し出したキリトの左手に、小妖精がちょこんと座った。するとその前にレコンが物凄いスピードで首を伸ばし、食いつかんばかりの勢いでまくし立てた。
「うわ、こ、これプライベートピクシーって奴!? 初めて見たよ!! うおお、スゲエ、可愛いなあ!!」
「な、なんなんですかこの人は!?」
「こら、恐がってるでしょ」
リーファは思い切りレコンの耳を引っ張ってユイから遠ざける。
「コイツのことは気にしないでいいから」
「……あ、ああ」
呆気に取られた様子のキリトは、二、三度瞬きをすると、改めてユイの顔を見た。
「――それで、あの戦闘で何かわかったか?」
「はい」
ユイも、可愛らしい顔に真剣な表情を浮かべて頷く。
「あのガーディアン・モンスターは、ステータス的にもかなりの数値に設定されていますが、それよりも湧出パターンが異常です。ゲートへの距離に比例してスパウン量が増え、再接近時には秒間12体にも達していました。あれでは……攻略不可能な難易度に設定されているとしか……」
「ふん」
キリトは顔をしかめながら首肯した。
「有り得ることだな。ユーザーの興味を繋げるぎりぎりのところまでフラグ解除を引っ張るつもりだろう。しかしそうなると厄介だな……」
「でも、異常なのはパパのステータスも同じです。瞬間的な突破力だけならあるいは可能性があるかもしれません」
「…………」
キリトはしばらく黙考するふうだったが、やがて顔を上げ、真っ直ぐにリーファを見た。
「……すまない。もう一度だけ、俺の我侭に付き合ってくれないか。ここで無理をするよりは、もっと人数を集めるか、別のルートを捜すべきなのはわかる。でも……なんだか嫌な感じがするんだ。もう、あまり猶予時間がないような……」
リーファはキリトの目を見つめ、深く頷いた。
「いいよ。あたしに出来ることなら何でもする。それと、コイツもね」
「え、ええ~……」
リーファに肘で突付かれたレコンは、いつも困ったような眉を最大限に傾けて情けない声を出したが、リーファちゃんと僕は一心同体だし等々とぶつぶつ呟いた挙句にかっくんと頷いた。
地の底から響くような低音を轟かせつつ開いた石扉の向こうからは、濃密な妖気が流れ出しているような気がして、リーファは軽く翅を震わせた。先ほどキリトを助けるために飛び込んだときは無我夢中だったが、改めて前に立つと強烈な心理的圧迫があった。
しかし、心の中は不思議に穏やかだった。
今、自分は嵐の中にいるのだと思う。何もかもが音を立てて流れ、変わっていく。この激流の行方はまるでわからないけれど、今はただ、彼方に見える灯り目指して懸命に飛ぶだけだ。
キリトに続いてリーファとレコンも剣を抜く。ユイも含めた四人は無言で視線を交わすと、翅を広げた。キリトの合図で地を蹴り、一気にドーム内部へと突入する。
事前の打ち合わせどおり、キリトは猛烈な加速で天蓋中央のゲート目指して急上昇を開始した。リーファとレコンは底面付近に留まり、ヒールスペルの詠唱に入る。
天蓋の発光部分から、粘液が滴るように次々と白い巨人が産み出されるのが見えた。不気味な雄叫びを上げつつキリトに殺到していく。守護騎士の先陣と、それに比べてあまりにも小さなキリトが交差した瞬間、轟くような爆音と閃光がドームを揺るがした。
複数の巨人が、一撃で胴を分断されて四散するのを見て、隣のレコンが低くうめいた。
「……すげぇ」
確かに恐ろしいほどの剣の威力だ。しかしリーファは、鬼神の如く戦うキリトの向こうに出現しつつある光景に、全身を冷気が駆け巡るのを感じていた。
あまりにも、敵の数が多すぎる。キリトのリメインライトを救出に行ったときは無我夢中で気付かなかったが、網目状の天蓋から吐き出される守護騎士はゲームバランスの埒外と言ってもいい数だ。現在最悪のフィールドと目されているのは、アルヴヘイム北方の地下に広がるヨツンヘイムという氷雪の国で、邪神級モンスターとその護衛が凄まじい勢いで湧出するためにどんな手練のパーティーでも一時間の滞在が限界なのだが、目の前で繰り広げられる白い巨人の出現ペースは明らかにそれを上回る。
守護騎士たちはいくつかの密集した群を作り、うねる帯を描いて次々とキリトに襲い掛かった。その度に空間に眩い閃光が連続し、吹き飛ばされた騎士の体が雪のように舞い散るが、一体消滅するたびに三体が増えるような有様だ。
ゲートまでの距離を半分ほど詰めたところで、ついにキリトのHPバーが一割ほど減少した。間髪入れず、リーファとレコンは待機状態のまま保持していた治癒魔法を発動させる。キリトの体を青い光が包み、HPが回復していく。
――だが。
スペルが届くと同時に、恐ろしいことが起きた。
最も低空を飛行していた守護騎士の一群が、短い奇声とともにまっすぐリーファ達のほうに顔を向けたのだ。
「うぁ……」
レコンが引き攣ったような声を上げた
守護騎士の、鏡面マスクの奥から放射される残虐な視線がまっすぐ自分に注がれるのをリーファは感じた。思わず強く歯を噛み締める。
ターゲットされるのを回避するために、リーファとレコンはキリトに対するヒール以外のスペルを一切使わないことを決めていた。通常、モンスターは反応圏内にプレイヤーが侵入するか、あるいは遠距離から弓やスペルで攻撃されない限り襲ってくることは無いからだ。
しかし、どうやら守護騎士たちは外界のモンスターとは違う、より悪意あるアルゴリズムを与えられているようだった。圏内にいるプレイヤーに対する補助スペルにさえも反応するのであれば、前衛にアタッカー、後衛にヒーラーというオーソドックスな配置は意味がない。
五、六匹で構成される騎士の一群は、あっちを向け! というリーファの願いも空しく、六枚の翅を打ち鳴らすと急降下を開始した。彼らの右手に握られた、リーファの身長を軽く上回るであろう長大な剣がぎらぎらと餓えたような光を放った。
リーファは咄嗟にレコンに向かって叫んだ。
「奴等はあたしが引きつけるから、あんたはこのままヒールを続けて!」
そのまま返事を待たずに上昇しようとする。しかし、今まで戦闘中は常にリーファの指示に従うだけだったレコンが、待って、と右手を掴んだ。驚いて振り向くと、緊張に震えた声で、しかしいつになく真剣な表情を浮かべつつ言った。
「リーファちゃん……僕、よく分かんないんだけど、これ、大事なことなんだよね?」
「――そうだよ。多分、ゲームじゃないのよ、今だけは」
「……あのスプリガンにはとても敵いそうにないけど……ガーディアンは僕がなんとかしてみる」
言うやいなや、レコンはコントローラを握ると床を蹴った。リーファが虚を突かれて立ち尽くすうちにみるみる遠ざかり、正面から守護騎士群に突入していく。
「ば、ばかっ……」
――歯が立つ相手じゃないのに、と思ったときにはもう追いつけないほどの距離ができていた。視線を彼方に向けると、一度は全快したキリトのHPバーが再びわずかに減少を始めている。リーファはやむなく回復スペルの詠唱に入った。スペルワードを早口で組み立てる間にも、気が気でない思いでレコンの後姿を見守る。
レコンは、飛行中に準備していたらしい風属性の攻撃魔法を正面から守護騎士に浴びせた。緑色のカッターが複数枚、扇状に広がって飛び、騎士たちに絡みつくように切り裂く。気休め、としか言えないほどのわずかな量騎士たちのHPバーが減少し、同時に彼らのターゲットが全てレコンに移る。
歪んだ怒声を上げながら、白い巨人の群が、対峙するにはあまりに小さな緑色の少年に襲い掛かった。レコンは風に翻弄される木の葉のようにふらふらと飛行しながら、危いところで巨剣をかいくぐり群の後方に抜けた。騎士たちも急旋回し、彼を追う。
リーファの詠唱が終わり、遥か上空で闘うキリトをヒールスペルの光が包んだ。再び数匹の守護騎士が反応し、下降を始める。その一団はすぐにレコンを追いまわす群と合流し、白いうねりは倍の大きさに膨れ上がる。
エアレイドが決して得意ではないはずのレコンだが、彼は驚くほどの集中力で殺到する剣を避け続けた。時折かすめる攻撃でHPバーはじわじわと減少していくが、致命的なヒットはまだない。
「……レコン……」
あまりにも懸命なその飛行に、リーファは思わず胸を衝かれたが、それがいつまでも続かないことは明らかだった。リーファの回復呪文がキリトに届くたびに、確実に降下してくる騎士の数は増えていく。
ついに、レコンを追う守護騎士の群は二つに分裂し、左右から挟み込むような動きを見せ始めた。雨のように降り注ぐ剣尖のひとつがレコンの背を捉え、その体を大きく跳ね飛ばす。
「レコン、もういいよ! 外に逃げて!!」
これ以上見ていられず、リーファは叫んだ。一度退避した者は、内部の戦闘が続いている間はもう扉をくぐることができない。後は自分が限界まで引き受けるしかない、と覚悟を決め、ヒールの詠唱をしながら飛び立とうとする。
しかし、その直前、レコンがちらりと振り向いた。その顔に、ある種の決意に満ちた笑みが浮かんでいるのを見て、リーファは開きかけた翅を止めた。
立て続けに剣を身に受けながら、レコンは新たなスペルの詠唱を開始した。体を、深い紫色のエフェクト光が包む。
「!?」
それが闇属性魔法の輝きであることに気付き、リーファは息を飲んだ。たちまち、複雑な立体魔方陣が展開する。その大きさからしてかなりの高位呪文と思われた。シルフ領ではあまり目にする機会のない闇魔法ゆえ、咄嗟にはそれがどのような効果を持つものなのか判らなかった。
魔方陣はいくつかの軸を作って回転しつつみるみる巨大化し、全方位から押し寄せる騎士の群を包み込んだ。複雑な光の紋様が一瞬、小さく凝縮し――次いで恐ろしいほどの閃光を放った。
「あっ……!!」
リーファは、あまりの眩さに思わず顔をそむけた。天地が砕けたかと思うほどの爆音が轟き、ドーム全体が激しく震動した。
白く飛んだ視界が回復するのに一秒ほどかかった。リーファは手をかざしながら必死に爆心点のほうを凝視し、そして驚きの余り言葉を失った。あれほど密集していた守護騎士の群が、綺麗に消滅していた。跡には紫の残光が宙に揺らいでいるだけだ。
恐ろしいほどの威力だった。範囲攻撃魔法でこれほどのパワーを持つ呪文は、風魔法はもちろん火属性魔法にも存在しない。レコンの奴、いつのまにこんな隠し技を、とリーファは驚嘆すると同時に快哉を叫んでいた。この魔法を数発撃てば、ゲートまでの突破口を開くことも可能なはずだ。とりあえずレコンにヒールを掛けようと手をかざし――そして再び凍りついた。
爆発の余光が残るその場所には、レコンの小さな姿も既に無かった。
「――自爆魔法……?」
呆然と呟く。そう言えば――闇魔法に、そのようなものが存在するとは昔聞いた記憶があった。しかしあれは、死ぬと同時に通常の数倍のデスペナルティを課せられる、言わば禁呪だったはずだ。
リーファは数瞬絶句してから、ぎゅっと目を瞑った。たかがゲーム、たかが経験値、でもその為にレコンが費やした努力と熱意だけは本物の犠牲だ。もう、ここからの撤退は許されない、そう決意して目を見開き、上空を凝視する。そして――
その光景を見て、リーファは両足が力なく萎えるのを感じた。
いつの間にか、ドームの天蓋は、びっしりと蠢く白いモノに隙間無く埋めつくされていた。
小さな黒点となったキリトは、あとわずか、ほんのわずかのところまで天蓋に肉薄している。彼の剣が閃く度に、分断された騎士の体がバラバラと落下する。しかしそれは、広大な砂浜に針で穴を穿とうとする行為にも思えた。守護騎士の体で作られた白い肉の壁は、わずかに凹みはするものの次の瞬間には埋め戻され、分厚くキリトの行く手を阻む。
「うおおおおおおお!!」
鬼神の如く闘うキリトの、血を吐くような絶叫が、リーファの耳にもかすかに届いた。反射的に、ヒールを掛けようと両手を掲げたが、しかしリーファは力なくその手を下ろし、呟いた。
「……無理だよ、お兄ちゃん……こんな、こんなの……」
正直なところ、キリトの言ったこと、この世界にあの人の魂が囚われているという話を、そのまま信じられたわけではなかった。ここはあくまでゲームを楽しむための仮想世界であって、リーファにとっては悪夢と同義語である彼の「SAO世界」に侵食されているという話には抵抗を感じずにはいられなかった。
しかし、リーファは今初めて、これまで意識することのなかった「システムの悪意」を感じた。公平なバランスのもと世界を動かしているはずの見えない存在が、この空間でだけはプレイヤーに対する殺意に満ちた、血塗られた大鎌を振り回しているような――そんな気がした。それは神の殺意だ。抗うことは誰にもできない。
冷気にも似た恐怖に心を鷲掴みにされ、リーファはよろよろと数歩後退した。
その時だった。
突然、背後から、津波のような声のうねりがリーファの萎えた翅を叩いた。
「っ……!?」
慌てて振り向いたリーファの目に入ったのは――開け放たれた大扉から、密集隊形をとって突入してくる、新緑の色に輝く鎧に身を固めたシルフの戦士たちの姿だった。
一見してエンシェントウェポン級と知れる、お揃いのフル装備を煌かせたプレイヤーの大集団は、春の突風を思わせる勢いでリーファの傍らを駆け抜け、天蓋目指して一直線に上昇していった。その数、五十は下るまい。
唖然としながらも視線を集中し、次々とカーソルを出現させる。目深に下ろされたバイザーのせいで顔はわからなかったが、表示された名前はどれもシルフ領ではよく知られた有力プレイヤーのものだった。
つまり――来てくれたのだ、彼女が。約束を果たすために。
リーファの背を、戦慄とも感動ともつかぬ震えが駆け抜けた。だが、ドーム攻略に参戦したのは彼らだけではなかった。
シルフの精鋭部隊の最後尾が大扉をくぐった数秒後、再びときの声が響き渡った。それに重なって、遠雷のような巨獣の雄叫びも。
突入してきた新たな一団の数は、シルフ部隊よりもかなり少なかった。およそ十と言ったところか。しかし、その一騎一騎がとてつもなく巨大だった。
「飛龍……!」
リーファは驚愕のあまり叫んでいた。頭から尾までがプレイヤーの数倍はあろうかという、鉄灰色の鱗をもつドラゴンの集団だ。野生のモンスターではない証に、龍の額と胸、長大な両翼の前縁部には輝く金属のアーマーが装着されている。
額の装甲の両端からは、銀の鎖で作られた手綱が伸び、背の鞍に跨るプレイヤーの手にしっかりと握られていた。騎手も真新しい鎧に身を固めているが、頭の両脇に突き出た三角形の耳と、腰アーマーの下から長くたなびく尻尾は見落としようもない。
それでは彼らがケットシーの最終戦力、ドラゴンライダー隊なのだ。切り札として秘匿され、スクリーンショットすら流出したことのない伝説の戦士たちが、今リーファの眼前を飛翔していく。
全身の血が沸き立つような高揚感にとらわれ、翅をぴんと伸ばして立ち尽くしていると、不意に背後からリーファに声をかける者がいた。
「すまない、遅くなった」
さっと振りかえると、そこに立っていたのは高下駄に着流し姿のシルフ領主・サクヤだった。隣に寄り添うケットシー領主アリシャ・ルーが、耳をぱたぱたと動かしながら言った。
「ごめんネー、レプラコーンの鍛冶匠合を総動員して人数分の装備と竜鎧を鍛えるのにさっきまでかかっちゃったんだヨ~。スプリガンの彼から預かった分も合わせて、うちもシルフも金庫すっからかんだヨ!」
「つまりここで全滅したら両種族とも破産だな」
サクヤは腕組みをして涼しげに笑った。
「……ありがとう……ありがとう、二人とも」
震える声でリーファが言うと、二領主は異口同音にそれは全てが終わってから、と答え、厳しい顔で天蓋を睨んだ。サクヤが右手に握った扇子を音高く、ぱちんと鳴らした。
「さて――我々も行こう!」
力強く頷きあい、三人が地を蹴って向かった先では、すでに白い守護騎士の壁から群が何本も長く垂れ下がり、突進するシルフ部隊を迎え撃とうとしていた。中央では相変わらずキリトが激戦を繰り広げているが、彼も援軍に気付いたのか、遮二無二突貫しようとするのを止めて、壁からある程度の距離を取っている。
ドーム中央部まで急上昇すると、アリシャ・ルーが高く右手を上げ、アニメ声優のように可愛らしいがよく通る声で叫んだ。
「ワイバーン隊! ブレス攻撃用――意!」
十騎の竜騎士は、リーファたち三人を囲むように広い円陣を組んでホバリングした。翼を大きく広げた飛竜は長い首をS字型にたわめ、牙の奥からオレンジ色の光がかすかに漏れる。
次いで、サクヤが朱塗りの扇子をさっと掲げた。
「シルフ隊、エクストラアタック用意!」
密集方形陣に固まったシルフ部隊も、突進しつつ右手の長剣を頭上にかざす。その刀身を、エメラルド色の電光が網目のように包み込む。
あまりの数が集まっているために白い虫の群のように見えていた守護騎士の塊が、呪詛にも似た奇声を上げつつ殺到してきた。アリシャ・ルーは長い八重歯で唇を噛み締め、限界まで守護騎士を引き付けたあと、大きく右手を振り、声を張り上げた。
「ファイアブレス、撃て――――ッ!」
直後、十騎の飛竜が、溜め込んだ紅蓮の劫火を一斉に吐き出した。クリムゾンレッドの火線が、長く尾を引いて宙を疾る。シルフ隊とその前方に浮かぶキリトを囲むように、十本の炎の柱が屹立し、守護騎士の群に突き立った。
パァッ、と眩い光がドームを照らし出した。一瞬の後、膨れ上がった火球が立て続けに炸裂し、巨大な爆炎の壁を作り出した。凄まじい轟音が世界を揺り動かす。千切れ飛んだ守護騎士の残骸が放射状に拡散し、白い炎を引いて燃え尽きていく。
だが、無限とも思える数のガーディアンは、肉の壁から新たな群を伸ばし、燃えさかる業火を強引に突破してきた。まず、最前線にいるキリトを飲み込もうというのか、液体が広がるように大きく口を開ける。
その白い塊が殺到する寸前、サクヤが鋭く扇子を振り下ろし、叫んだ。
「フェンリルストーム、放てッ!!」
シルフ部隊が、一糸乱れぬ動作で長剣を鋭く突き出した。五十本の剣それぞれから、まばゆいグリーンの雷光が迸り、宙をジグザグに切り裂いて守護騎士群を深く貫通した。
ふたたび純白の閃光が世界を白く染め上げた。今度は爆発は起きなかったが、替わりに縦横無尽に太い稲妻が走り、そのあぎとに捕えた守護騎士を粉々に吹き飛ばしていく。
二度に渡って大集団を粉砕され、守護騎士の壁の中央部分はさすがに大きく落ち窪んでいた。しかしそれも、液体の表面が元に戻ろうとするかのように、周囲からじわじわと盛り上がっていく。
今しかない、とリーファは確信した。瞬時に長刀の鞘を払い、宙を蹴って突進を開始する。そう判断したのは領主たちも同じようだった。サクヤの鞭のように鋭い声が響き渡った。
「全員――突撃!!」
それは、間違いなくこの世界で行われた最大の戦闘だった。後方から断続的に放たれるブレスによって、守護騎士が次々と炎上、落下していく。一個の弾頭のように密な陣形を取ったシルフ部隊は、肉の壁に更に深い穴を穿つべく、押し寄せる巨人たちを凄まじい威力を持つ長剣で切り倒していく。
弾丸の尖端に立つのは、黒衣のスプリガンの小さな姿だった。装備のグレードは明らかにシルフ戦士たちには劣るだろうが、神速と言うよりない勢いで振り回される巨剣は、触れるもの全てを瞬時に崩壊、霧散させていく。
リーファはシルフ隊の中央に開いた間隙を駆け抜け、キリトの直後にまで到達した。彼の背後から襲いかかろうとした守護騎士の剣を長刀で弾き、その鏡面マスクの下、白い柔組織に深く刀身を埋め込む。全身を振り回すように剣を薙ぐと、騎士の首が飛び、その体が白く炎上した。
ちらりと振り返ったキリトが、唇の動きだけで言った。
「スグ――後ろを頼む!」
「任せて!!」
同じく視線で応え、リーファはぴたりとキリトの背に自分の背を合わせた。そのまま二人はぐるぐると回転し、目の前に現われる守護騎士を次々と切り倒していった。
一対一なら、巨人の騎士は自分に倒せる相手とは思えなかった。しかし、キリトと密着し、その速度に同期するうちに、リーファは騎士の動きがどんどん遅くなっていくのを感じていた。いや――自分の神経が加速されているのだろうか? かつて剣道の試合中にほんの何度か訪れたような、全てを脳の中心でダイレクトに把握できる感覚がリーファを包んでいた。
キリトと一体になっている、と感じた。直結した神経を、電子パルスが青白い尾を引いて流れていく。見なくても、背後のキリトの動きがわかる。彼が剣を弾き上げた守護騎士の首を、反転したリーファが高く刈り飛ばす。リーファが傷をつけた騎士のマスクの、まさに同じ箇所をキリトの剣が深く貫く。
キリト、リーファ、シルフ隊、ワイバーン隊は、白熱した一個のエネルギー体となって、無限に出現しつづける守護騎士の壁を融かし、抉り、深く深く突き進んでいった。騎士の数は無限でも、ドームの空間は固定されている。前進し続ける限り、いつかはその瞬間がやってくる。
「セラァァァッ!!」
気合と共に、リーファが縦に分断した守護騎士の体が、崩れ、飛び散った。
その向こうに――光が広がっていた。
見えた。樹の枝が網目のように絡み合ったドームの天蓋、その中央に、十字に分割された円形のゲートがあった。
「うおおおおっ!!」
絶叫したキリトが、リーファの背から離れ、黒い閃光となって肉壁の間隙に突進した。それを阻止しようと、怨嗟の唸りを上げながら新たな守護騎士が迫る。だが――
振り下ろされる大剣の列を、一閃させた巨剣で全て弾き飛ばし、キリトは体をその向こうに躍らせた。
抜けた。とうとう。黒衣の姿は、光の尾を引き、ゲートに向かって飛翔していく。
リーファの眼前で、たちまち守護騎士の体が幾重にもかさなり、一瞬開いた隙間を埋め尽くした。キリトが防衛線を突破したのを見て取ったサクヤが、後方から叫んだ。
「全員反転、後退!!」
シルフ隊と一緒に身を翻し、ファイアブレスの援護を受けながら急降下に入ったリーファは、一瞬、天蓋の方向を振り返った。ガーディアンの壁に阻まれてキリトの姿は見えなかったが、リーファの目には、高く、高く、かつて誰も達したことのない場所目指して舞い上がっていく彼の姿が映った。
飛べ――行け――行け、どこまでも! 巨樹を貫き、空を翔け、天を穿ち、世界の核心まで――!
俺は、脳神経が灼きつくかと思うほどの速度で最後の距離を駆け抜けた。
眼前には、巨大な円形のゲートがあった。四分割された石版が十字に組み合わさり、その中央を閉ざしている。その向こうに、彼女が――アスナがいる。あの世界に置き去りのままの、俺の魂のもう半分とともに。
背後で、守護騎士どもの悲鳴にも似た怨嗟の声が轟いた。反転して、俺を追ってくる気配。また、ゲートの周囲の天蓋発光部分からも再現なく騎士が産み落とされ、俺目掛けて押し寄せてくる。
だが、俺のほうが早い。ゲートはもう手を伸ばせば届くほどの距離だ。
しかし――しかし。
「……開かない……!?」
俺は、予想外の事態に思わず叫んでいた。
ゲートが開かない。直前まで接近すればその忌々しい重い口を開けるものとばかり思っていたが、ぴたりと閉ざされた十字の溝は、小揺るぎさえせず俺の行く手に立ち塞がっている。
今から減速する余裕はない。俺は剣をかざすと、それで石壁を打ち砕かんとばかりに、一体になって突進した。
直後、凄まじい衝撃とともに俺はゲートにぶち当たった。剣尖が石版に突き立って火花が激しく飛び散った。だが――その表面は、わずかにも傷ついた様子は無かった。
「ユイ――どういうことだ!?」
混乱して、俺は絶叫した。まさか――まだ足りないのか? 守護騎士どもを蹴散らすだけではなく、何らかのアイテム――条件――フラグが必要だとでも言うのか? そんな物、そんなモノは、糞食らえだ!!
衝動のまま、再び剣を振りかぶろうとした俺の胸ポケットから、鈴の音を引きながらユイが飛び出した。小さな両手でゲートを塞ぐ石版を軽く撫でる。
「パパ――」
さっと振り向き、早口で言った。
「この扉は、クエストフラグによってロックされているのではありません! 単なる、システム管理者権限によるものです」
「ど――どういうことだ!?」
「つまり……この扉は、プレイヤーには絶対に開けられないということです!」
「な――……」
俺は絶句した。
それでは、このグランドクエスト……世界樹の上の空中都市に達したものは、真の妖精に生まれ変わるというそれは、プレイヤーの鼻先にぶら下げられた、永遠に手の届かないニンジンだということか? 難易度を極限まで上昇させるに留まらず、扉に絶対に解除できない、システム権限という名の鍵を――。
全身から力が抜けるのを感じた。背後に、俺目掛けて津波のように殺到してくる守護騎士の叫びが響く。しかしもう、剣を握りなおす気力も湧かなかった。
アスナ――、ここまで、ここまで来たのに……もう少しで、手の届くところまで……。
君の手からこぼれた一片の温もりが、あれが、俺たちの最後の触れ合いなのか……?
――いや。待て。あれは、あれは確か……
俺は目を見開いた。左手で、腰のポケットをまさぐる。あった。小さなカード。ユイは言った。これは、システムアクセス・コードだと……。
「ユイ――これを使え!」
俺は引っ張り出したシルバーのカードを、ユイの眼前に差し伸べた。ユイも一瞬目を丸くし、次いで大きく頷いた。
小さな手がカードの表面を撫でる。光の筋がいくつか、カードからユイへと流れ込む。
「コードを転写します!」
一声叫ぶと、ユイは両手をゲートの表面へと叩きつけた。
俺はあまりのまばゆさに目を細めた。ユイの手が触れた箇所から、放射状に青い閃光のラインが走り、直後、ゲートそのものが発光を始めた。
「――転送されます!! パパ、掴まって!!」
ユイが伸ばした右手を、俺は左手の指先でしっかりと掴んだ。光のラインは、ユイの体を伝わり、俺の中にも流れ込んできた。
突然、頭のすぐ後ろで守護騎士どもの奇声がした。体を固くするのも束の間、何本もの大剣が降り注いできた。だが――、それらの剣は、まるで実体を失ったかの如く、何の感触ももたらさずに俺をすり抜けた。いや、透過し始めているのは俺の方か。体が薄れ、光に溶けていく。
「――!!」
不意に、前方に引っ張られた。すでに白く輝くスクリーンへと変貌していたゲートの中へ、俺とユイはデータの奔流となって突入した。
意識の空白は一瞬だった。
数回頭を振り、ぱちぱちと瞬きをしながら俺は転送感覚の余韻を払い落とした。アインクラッドで転移結晶を使ったあとに似ていたが、必ずゲート広場の喧騒の中に出現したあれとは異なり、周囲は完全な静寂に満ちていた。
肩ひざをついた姿勢から、俺はゆっくりと立ち上がった。目の前に、心配そうな顔をしたユイの姿があった。小さなピクシー態ではなく、本来の、十歳ほどの少女の姿だ。
「大丈夫ですか、パパ?」
「――ああ。ここは……?」
俺は頷きながら周囲を見回した。
何とも――奇妙な場所だった。最新のゲームらしく、過剰なほどに精緻な装飾を与えられていたスイルベーンやアルンの街並みとは大きくことなり、視界に入るのはのっぺりとした、ディティールやテクスチャの一切無い白い板だけだ。
どこか、通路の途中のようだった。直線ではなく、ゆるく右に湾曲している。後ろを振り返ると、こちらも同様に曲がっていた。どうやら長いカーブか、あるいは円形の通路らしい。
「……わかりません、ナビゲート用のマップ情報が、この場所には無いようです……」
ユイも困惑した顔で言った。
「アスナのいる場所はわかるか?」
聞くと、ユイは一瞬目を閉じ、すぐに大きく頷いた。
「はい、かなり――かなり近いです。上のほう……こっちです」
白いワンピースから伸びた素足で床を蹴り、音も無く走り出す。俺は握ったままの剣を背中に戻し、慌ててその後を追った。
数十秒走ると、左側、外周方向の壁に四角い扉が見えてきた。これも一切装飾はない。
「ここから上部へ移動できるようです」
立ち止まったユイの言葉に頷いて、俺は扉の脇に視線を落とし――一瞬、硬直した。
そこにあったのは、上下に二つ並んだ三角形のボタンだった。この世界では初めて見るが、現実ではよく見慣れた形のモノ。エレベータのボタンとしか思えない。
何だか、不意に、戦闘服に身を包み、剣を背負った自分がとてつもなく場違いな存在であるような違和感に襲われて、俺は顔をしかめた。いや――おかしいのはこの場所のほうだ。これが見た目どおりの物なら、ここはゲーム内世界ではない。ならば……何処なのだろうか?
しかし、その疑問は一瞬俺の脳を走りぬけただけだった。何処でもいい。アスナがいるなら。
躊躇せず、俺は手を伸ばすと上向きの三角形にタッチした。すぐに、ポーンという効果音と共に扉がスライドし、その向こうに箱型の小部屋が現われる。ユイと共に乗り込み、向き直ると、やはりドアの脇にボタンの並んだパネルがあった。光っているボタンが現在位置なのだとしたら、この上にさらに二つのフロアがあるようだ。わずかに迷ったのち、一番上のボタンを押す。
再び効果音。ドアが閉まり、紛うことなき上昇感覚が俺を包んだ。
エレベータはすぐに停止した。開いたドアの向こうは、先ほどまで居た場所と同じような湾曲した通路だ。俺の右手をぎゅっと握っているユイに向かって、言う。
「高さはここでいいか?」
「はい。――もう、すぐ……すぐそこです」
言うやいなや、ユイは俺の手を引いて走り出した。
更に数十秒、高鳴る鼓動を必死に抑えつけつつ通路を駆ける。いくつか、内周に並んだドアの前に差し掛かったが、ユイはそれらには目も向けることなく通過した。
やがて、何もない場所でユイはぴたりと立ち止まった。
「……どうしたんだ?」
「この向こうに……通路が……」
呟きながら、ユイは外周のつるりとした壁を手で撫でた。と、手がぴたりと止まり、ゲートの時と同じような青い光のラインが直角に曲がりくねりながら壁面に走る。
突如、太いラインが四角く壁を区切り、ブン、と音を立ててその内側が消滅した。奥には、やはりツルリとした無味乾燥な通路が、真っ直ぐ伸びている。
ユイは無言で通路に足を踏み入れると、一層スピードを増して駆けはじめた。その幼い顔にも、これ以上一秒たりとも待てないという渇望が色濃く浮かんでいるのを見て、俺はアスナが近いことを確信した。
早く、早く。心の奥で一心不乱に念じながら、ひたすら進む。やがて、前方で通路は終わり、四角いドアが行く手を塞いでいた。ユイはもう立ち止まることなく、左手を伸ばすと、勢いよくそのドアを押し開いた。
「――!!」
正面に、今まさに沈みつつある巨大な太陽が見えた。
世界を包む、無限の夕焼け空。視点の位置にわずかな違和感を感じ、そして気付いた。ここは、恐ろしく高いのだ。ゆるいカーブを描く地平線が見える。かすかに風が鳴っている。
否応無く、俺はあの瞬間を想起していた。
アスナと並んで腰掛け、浮遊城の終焉を看取った、あの永遠の夕焼けの世界。耳もとに、彼女の声が甦る。
『わたしたちは、いつまでもいっしょ――』
「ああ――そうだ。俺は、戻ってきたよ」
呟いてから、俺は視線を足元に向けた。
そこにあったのは、水晶の板ではなく、恐ろしく太い樹の枝だった。
深紅の夕陽だけにむかって狭窄した視野が、角度を取り戻した。気付くと、頭上には天を支える柱のような枝が四方に大きく伸び、葉を繁らせている。眼下には、更に何本かの枝が広がり、その向こうには薄い雲海、そして遥か彼方の地上には、緑の草原を蛇行して流れる河がかすかに見て取れる。
ここは――世界樹の上だ。リーファ……直葉があれほど夢見た、世界の頂。
しかし――。
俺はゆっくりと振り向いた。そこには、壁のごとく屹立する世界樹の幹がどこまでも伸び上がり、枝分かれしていた。
「無いじゃないか……空中都市なんて……」
呆然と呟いた。あったのは、あの無味乾燥な白い通路だけだ。あんなものが伝説の都市のわけはない。
つまり、全ては中身のないギフトボックスだったのだ。包装紙やリボンを飾り立て、しかしその内側に広がるのは空疎な嘘のみ。直葉に何と言えばいいのだろうか。
「……許されないぞ……」
思わず呟いていた。この世界を動かしている誰か、何かに向かって。
不意に、右手が軽く引っ張られた。ユイが、気遣わしそうな顔で俺を見上げていた。
「ああ――そうだな。行こう」
全ては、アスナを救い出してからだ。今、俺は、そのためだけに存在する。
目の前には、太い樹の枝がまっすぐ夕陽に向かって伸びていた。枝の中央には、人工的な小道が刻み込まれている。道の先は、生い茂った木の葉に遮られているが――その梢の向こうに、夕陽を反射して、金色にきらりと光る何かがあった。俺とユイは、その光目指して走り始めた。
今にも発火しそうなほどの焦燥と渇望を必死に抑えつけ、樹上の道を進む。あと数分――数十秒――でとうとうその瞬間が来ると思うほどに、加速された俺の知覚神経は一瞬一瞬を無限の長さにも引き伸ばしていく。
色濃く繁った不思議な形の木の葉の群をくぐり、乗り越え、道は続く。枝のうねりに合わせて、短い階段が登ったり下ったりしながら現われるたびに、背中の翅を一振りして飛び越える。
行く手できらめく金色の光の正体が、やがて明らかになってきた。金属を縦横に組み合わせた格子――いや、鳥篭だ。
俺たちが走る太い枝の、少し上空に平行して伸びる別の枝から、円筒の上部が窄まったオーソドックスな形の鳥篭がぶら下がっている。だが、恐ろしく大きい。小鳥はおろか、猛禽だって閉じ込めることはできまい。そう――あれはもっと、別の用途の――。
もう遥か昔に思えるほど遠い記憶の中から、エギルの店で奴が言った台詞が思い出される。バカなプレイヤーが、肩車で世界樹に肉薄し……枝に下がった鳥篭を見つけて……撮影したのがあの写真だ……――そうだ。間違いない。アスナ――あの中に、アスナがいる。
俺の右手を引くユイの小さな手にも、確信を示す強い力がぎゅっと込められた。俺たちはほとんど宙を滑る勢いで疾走し、最後の繁りを飛び越えた。
小道の刻まれた枝は、急激に細くなりながら鳥篭の下部に達し、そこで道は終わっていた。
金色の鳥篭の中も、すでにはっきりと見えた。一つの大きな植木と、様々な花の鉢が白いタイル張りの床を彩っている。中央には、豪奢な天蓋つきの大きなベッド。傍らに、純白の丸テーブルと、背の高い椅子。それに腰掛け、両手をテーブルの上で組み合わせ、何かを祈るような姿勢で頭を垂れる、ひとりの少女。
艶やかな栗色の髪。ユイのものに似た、白いワンピース。その背から伸びる、プラチナ色の翅。すべてが、巨大な夕陽の力を受けて赤く輝いている。
少女の顔は翳になって見えなかった。だが、俺にはわかった。わからない筈があろうか。引き合う魂の磁力が、目に見えるほどの閃光となって、俺と彼女の間にスパークした。
その瞬間、少女――アスナがさっと顔を上げた。
あまりにも深い思慕のゆえに、俺のなかではもう光に満ちた概念にまで昇華されていたその懐かしい姿。時には研ぎ上げた刃のような怜悧な美しさ、時には人懐っこいやんちゃな暖かさを浮かべ、あの短くも懐かしい日々のあいだ、常に俺の傍らにあった彼女の顔に、まず純粋な驚きが走り、次いで組み合わされていた両手が口もとを覆った。はしばみ色の大きな瞳に、溢れるような輝きが満ち、それはたちまち涙に形を変えて睫毛に溜まった。
最後の数歩を一息に飛翔しながら、俺は音にならない声で囁きかけた。
「――アスナ」
同時に、ユイも叫んだ。
「ママ……ママ!!」
小道の終点、鳥篭と接する部分には、壁より少し密な格子で作られた四角いドアがあり、その横にロック機構と思しき小さな金属板があった。ドアは閉じられていたが、ユイは俺の手を引きながらわずかにも勢いを緩めず、ドアの直前で右手を体の左側に振り上げた。その手を青い輝きが包んだ。
直後、手はさっと右側に払われ、同時にドアが金属板ごと吹き飛んだ。それはたちまち光の粒を散らして消滅する。
ユイは俺の手を離すと、両手をまっすぐ前方に差し伸べて再び叫んだ。
「ママ――!!」
そのまま一気に、開け放たれた入り口から鳥篭に駆け込む。
アスナも、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。口もとに添えられていた両手が大きく開かれ、そしてその唇から、震えているがはっきりとした声が発せられた。
「――ユイちゃん!!」
直後、床を蹴ったユイの小さな体が、アスナの胸にまっすぐ飛び込んだ。二人の、栗色と漆黒の長い髪が宙に揺れ、夕焼け色の光が舞った。
固く抱き合ったユイとアスナは、互いの頬をすり寄せ、確かめるようにもう一度名前を呼んだ。
「ママ……」
「ユイ……ちゃん……」
二人の涙が次から次へと零れ落ち、紅玉のように輝きながら消えていった。
俺は走る勢いを緩め、そっとアスナに歩み寄り、数歩手前で足を止めた。顔を上げたアスナが、瞬きをして涙を払い落とし、まっすぐに俺を見た。
あの時と同じように、俺は動けなかった。これ以上近づき、手を触れたら、全てが消えてしまいそうな――。それに、今の俺の姿は当時とはまるで違う。俺はただただ涙をこらえ、じっと彼女を見つめることしかできなかった。
しかし、やはりあの時と同じように、アスナの唇が動き、そして俺の名を呼んだ。
「――キリトくん」
一瞬の静寂のあと、俺の口が動き、彼女の名を呼んだ。
「……アスナ」
俺は、最後の二歩をあるき、両手を広げた。胸に抱かれたユイの体ごと、アスナの華奢な体をそっと包み込み、ゆっくりと力を込めた。懐かしい香りがふわりと漂い、懐かしい暖かさが俺の体を包んだ。
「……ごめん、遅くなった」
震える声で呟くと、アスナは至近距離からまっすぐ俺の目を見詰め、答えた。
「ううん、信じてた。きっと――助けに来てくれるって……」
それ以上、言葉はもう不要だった。俺とアスナはどちらからとも無く目を閉じると、穏やかに唇を合わせ、そのまま頬を触れさせた。俺の背にアスナの両手が回され、固く力が込められた。二人の間で、ユイが幸せそうな吐息を洩らした。
――これで、もう、いい。そう思った。
この瞬間が最期になるなら、俺の命が燃え尽きてももう悔いはなかった。あの世界と共に終わっていたはずの命は、ここで完結する、それだけのために長らえ――
――いや、そうじゃない。ようやく、ここから始まるのだ。ここで、あの剣と戦闘の世界がついに終わり、現実という名の新しい世界へと二人で旅立つのだ。
俺は、顔を上げ、言った。
「さあ、帰ろう。いるべき場所へ」
抱擁を解いたあとも、俺とアスナはしっかりと手を握り合い、ユイはアスナのもう片方の腕に抱かれていた。俺はその顔を覗き込み、訊ねた。
「ユイ、ここからアスナをログアウトさせられるか?」
するとユイは瞬間眉を寄せ、すぐに首を振った。
「ママのステータスは複雑なコードによって拘束されています。解除するにはシステム・コンソールが必要です」
「コンソール……」
首を傾げると、アスナが俺を見て言った。
「あ、わたし、それっぽい物を見たよ。ラボラトリーの一番下で……あ、ラボラトリーっていうのは……」
「あの、白い何も無い通路のことか?」
「うん。……あそこを通って来たの?」
「ああ」
頷いた俺に向かって、アスナは何か気がかりそうに眉をしかめる。
「何か……ヘンなモノ、居なかった?」
「いや、誰にも会わなかったけど……」
「……ひょっとしたら、須郷の手下がうろついてるかもしれないの。その剣で斬れればいいんだけどなあ!」
嫌悪感に満ちたその声の調子も気になったが、それよりも俺はアスナが出した名前に、軽い驚愕とやはり、という確信を同時に味わっていた。
「あの男……須郷の仕業なのか? アスナをここに閉じ込めたのは」
「ええ。――それだけじゃないわ、須郷はここで恐ろしいことを……」
アスナは深い憤りを滲ませながら何かを言いかけたが、すぐに首を振った。
「続きは、現実に戻ってから話すわ。須郷は今、会社に居ないらしいの。その隙にサーバーを押さえて、みんなを解放しないと……。行きましょう」
色々と聞きたいことはあったが、何よりもアスナを現実に戻すのが先決だった。俺は頷き、体を翻した。
ユイを抱いたアスナの手を引き、俺はドアの吹き飛んだ入り口に向かって駆けはじめた。二歩、三歩進み、格子をくぐろうと身をかがめた、その時だった。
――誰かが、見ている。
不意に、俺はうなじの辺りに嫌な気配をちりちりと感じた。あの世界で、誰か――いや、モンスターではなくオレンジカラーの殺人者が、物陰に身を潜めて俺をターゲッティングしたときに感じた視線とまったく同じ感覚だ。
とっさに俺はアスナの手を離し、背中の剣の柄を握った。それを抜こうと、わずかに腕を動かした、その瞬間。
いきなり、鳥篭が水没した。ドプン、と粘性の高い、濃い色の液体が俺たちを包んだように感じた。
いや、そうではない。呼吸はできるが、しかし空気が異常に重くなったのだ。体を動かそうとすると、ねっとりとした粘液の中にいるかのような、凄まじい抵抗を感じる。体が重い。立っているのも苦痛だ。
同時に、世界から光が遠ざかっていった。鳥篭を満たしていた赤い夕陽が、深い闇にみるみる覆い尽くされていく。
「――な、なに!?」
アスナが叫んだ。その声も、深い水底で発せられたかのように歪んでいる。
俺は途方もなく嫌な戦慄を感じながら、振り返ってアスナとユイを抱き寄せようとした。だが――体を動かせない。ねばねばとした空気が、意思あるもののように俺に絡みつく。
やがて、ついに世界は全くの暗闇に包まれてしまった。いや、それとは少し違う。白いワンピース姿のアスナとユイは明瞭に見える。だが、視界のバックグラウンド全てが濃密な黒に塗りつぶされてしまっているのだ。
俺は歯を食いしばって右手を動かした。すぐ近くに鳥篭の格子があったはずだ。それに掴まって、体をこの空間から引き抜こうとしたのだが――しかし、伸ばした手は何にも触れることは無かった。
見た目だけではない。俺たちはどことも知れない闇の世界に放り込まれたらしい。
「ユイ――」
状況が分かるか、と言おうとした時。アスナの腕の中で、突然ユイが体を仰け反らせ、悲鳴を上げた。
「きゃあっ! パパ……ママ……気をつけて! 何か……よくないモノが……!」
その言葉が終わる前に。ユイの小さな体の表面を紫色の電光が這いまわり、一瞬まばゆくフラッシュした――と思ったときにはもう、アスナの腕の中はからっぽになっていた。
「ユイ!?」
「ユイちゃん――!?」
俺とアスナは同時に叫んだ。しかし答えはない。
どろりと濃い、リアルブラックの闇の中に、俺とアスナだけが残された。俺は必死に手を伸ばし、アスナの体を引き寄せようとした。不安そうに目を見開いたアスナもこちらに手を伸ばす。
だが、二人の指先が触れ合う直前、すさまじい重力が俺たちを襲った。
まるで、深い深い粘液の沼の底に放り込まれたかのようだ。全身にのしかかるプレッシャーに耐えかね、俺は片膝をついた。同時にアスナも倒れこみ、床――もし存在するとしてだが――に両手を突く。
アスナが俺の瞳を見つめ、唇を動かした。
「キリト……くん……」
だいじょうぶ――君は俺が助けてみせる――、と答えようとした、その時だった。粘つくような笑いを含んだ、甲高い声が闇の中に響き渡った。
「やあ、どうかな、この魔法は? 次のアップデートで導入される予定なんだけどねえ、ちょっと効果が強すぎるかねえ?」
抑え切れない嘲弄の色を含んだその声には、聞き覚えがあった。眠るアスナを前にして、俺を嘲笑ったあの男の声。
「――須郷!!」
俺は立ち上がろうともがきながら、顔を上げて叫んだ。
「チッチッ、この世界でその名前は止めてくれるかなあ。君らの王に向かって呼び捨ても戴けないね。妖精王、オベイロン陛下と――そう呼べッ!!」
声の語尾が、高く跳ね上がって絶叫に変わり、同時に何かが俺の頭を強く打ちつけた。
首を動かすと、いつの間にかそこに立っている男がいた。ごてごてと刺繍の施されたブーツを履き、白いタイツに包まれた足の片方を、俺の頭に乗せて左右に動かしている。
視線を上向けていくと、体には毒々しい緑色の長衣をまとい、その上に、作り物のように端正な顔が乗っていた。いや――実際作り物なのだ。ポリゴンで美貌を創造しようとすると必ず陥ってしまう、生気の無い、ある種醜悪な美しさ。真っ赤な唇を大きく歪め、かつて見たことのあるニヤニヤ笑いを浮かべている。
たとえ姿は違えど、俺には分かった。この男は須郷だ。アスナの心を強奪し、こんなところに閉じ込めた、どれほど憎んでも憎み足りない男。
「オベイロン――いえ、須郷!」
床にほとんど倒れながらも、気丈に顔を上げたアスナも鋭い声で叫んだ。
「あなたのした事は、全部この目で見たわ!! あんな酷いことを……許されないわよ、絶対に!!」
「へえ? 誰が許さないのかな? 君かい、この彼かい? それともまさか神様かな? 残念ながら、この世界に神はいないよ。僕以外にはね、ヒッ、ヒッ!」
耳障りな笑いの混じった声で言うと、須郷は一際激しく俺の頭を踏み下ろした。その途端、圧し掛かる重力に耐え切れず、俺の体は床に押し付けられた。
「やめなさい、卑怯者!!」
アスナの言葉には耳も貸さず、須郷は身を屈めると、背中から俺の剣を抜き去った。伸ばした人差し指の上に、巨大な剣をまっすぐに立て、くるくると垂直に回転させる。
「――それにしても桐ヶ谷君、いや……キリト君と呼んだほうがいいかな。まさか本当にこんな所まで来るとはねえ。勇敢なのか、愚鈍なのか。まあ今そうやってへたばってるんだから、後の方かな、ククッ。僕の小鳥ちゃんがカゴから逃げ出したって言うんで、今度こそきついお仕置きをしてあげようと急いで帰ってきてみれば、いやあ驚いたね! カゴの中にゴキブリが迷い込んでるとはね! ――そう言えば、あと一つ妙なプログラムが動いてたな……」
須郷は言葉を切ると、さっと右手を振ってウインドウを出した。唇を曲げながらしばらく青く発光するスクリーンを眺めていたが、やがてフン、と鼻を鳴らし、閉じた。
「……逃げられたか。あれは何だい? そもそもどうやってここまで登ってきたのかな?」
少なくともユイが消去されたわけではないらしいと知り、かすかに安堵しながら、俺は言った。
「飛んできたのさ、この翅でね」
「――ふん、まあいい。すぐに分かるさ、君の頭の中身はね」
「……なに?」
「君はまさか、僕が酔狂でこんな仕掛けを作ったと思ってるんじゃないだろうね?」
須郷は指先でひょいひょいと剣をバウンドさせながら、ニタリと毒の滴るような笑みを浮かべた。
「元SAOプレイヤーの皆さんの献身的な協力によって、思考・記憶操作技術の基礎研究はすでに八割がた終了している。そして本日めでたく新しい実験体が加わったわけだ。いやあ、楽しいだろうね!! 君の記憶を覗き、感情を書き換えるのは!! 考えただけでフルエるね!!」
「そんな……ことが、出来るわけが……」
あまりに途方も無い須郷の台詞に、愕然としながら俺が呟くと、須郷は再び右足を俺の頭に載せ、つま先をとんとんと動かした。
「君、性懲りも無くナーヴギアで接続してるんだろう? クライアントを書き換えるくらい容易いさ。やっぱり馬鹿だね、子供は。犬だって一度蹴飛ばされれば入っちゃいけない場所は分かるだろうに」
「そんな……そんな事、許さないわよ須郷!!」
アスナが、血の気の引いた顔で叫んだ。
「キリトくんに手を出したら、絶対に許さない!!」
「小鳥ちゃん、君のその憎悪が、スイッチ一つで絶対の服従に変わる日も近いよ」
陶酔した表情で言うと、須郷は俺の剣を握りなおし、もう一本の手で刀身をぱちんと叩いた。
「さて! 君達の頭をいじる前に、盛大にパーティーと行こうかな! ああ……とうとう、待ちに待った瞬間だ。最高のお客様も来てくれたことだし、限界まで我慢した甲斐があったというものだ!!」
くるりと体を一回転させ、両手をさっと広げる。
「ただ今、全方位から超高解像度で録画中だ! せいぜいいい顔をしてくれ給えよ!!」
「…………」
アスナは唇を噛み締めると、俺の目をじっと見つめ、早口で囁いた。
「……キリトくん、今すぐログアウトして。現実世界で、須郷の陰謀を暴くのよ。わたしは大丈夫」
「アスナ……!」
俺は一瞬、体を引き裂かれるような葛藤を感じた。しかし即座に頷くと、右手を振った。これだけの情報があれば、救出チームも俺の言葉を無視できないはずだ。レクトプログレスにあるALOサーバーを押さえれば、すべてを白日のもとに引き出せる。
――だが。ウインドウは、出現しなかった。
「キャハハハハハ!!!」
須郷は体を折り、腹を抱えて哄笑した。
「言ったろう、ここは僕の世界だって! 誰もここからは逃げられないのさ!!」
ひっ、ひっ、と体を跳ねさせながら踊るように歩き回り、突然さっと左手を掲げる。その手がパチンと鳴らされると、いきなり無限の闇に塗り込められた上空から、じゃらじゃらと音を立てて二本の鎖が垂れ下がってきた。
耳障りな金属音を立てて床に転がった鎖の先端には、幅広の金属リングが鈍い輝きを放っていた。須郷はその片方を取ると、俺の目の前に倒れたままのアスナの右手首にカチンと音を立てて嵌めた。次いで、闇の中にまっすぐ伸びている鎖を軽く引く。
「きゃあっ!」
いきなり鎖が巻き上げられ、アスナは右手を上にして高く吊り上げられた。つま先がぎりぎり床につくかどうかという所で鎖が停止する。
「貴様……何を……!」
叫ぶが、須郷は俺には目もくれず、鼻歌交じりにもう片方のリングを手に取った。
「小道具は色々用意してあるんだがね。まあ、まずはこの辺からかな」
言いながら、リングをアスナの左手首に嵌め、鎖を引く。そちらもジャラっと巻き上がり、アスナは両手を強く引かれる格好で宙吊りになった。重力はまだかかっているらしく、優美な眉の曲線が苦痛に歪む。
須郷は、アスナの前で腕組みをすると、下品な口笛を吹いた。
「いいね。やっぱりNPCの女じゃあその顔はできないよね」
「……っ!」
アスナはキッと須郷を睨みつけると、俯いて目を閉じた。須郷は喉の奥でククッと笑うと、ゆっくりと歩いてアスナの後ろに回った。長い髪をひと房手に取り、鼻に当てて大きく息を吸い込む。
「うーん、いい香りだ。現実のアスナ君の香りを再現するのに苦労したんだよ。病室に端末まで持ち込んだ努力を評価してほしいねえ」
「やめろ……須郷!!」
耐えがたい怒りが俺の全身を貫いた。赤い炎が神経を駆け巡り、瞬間、体にかかる重圧を吹き飛ばした。
「ぐ……おっ……」
俺は突っ張った手を伸ばし、体を持ち上げた。膝を立て、そこに全身の力を込めてじわじわと立ち上がっていく。
須郷は芝居がかった仕草で左手を腰にあて、首を振った。のっそりと俺の前まで歩き、言う。
「やれやれ、観客はおとなしく……這いつくばっていろッ!!」
いきなり両足を真横に蹴り払われ、俺は支えを失って床に叩きつけられた。
「ぐはっ!!」
肺が空になるような衝撃に、思わず声を上げる。再び手を突っ張り、顔を上げると、須郷は唇の両端を持ち上げてニタっと笑い――右手に握ったままの俺の剣を、思い切り俺の背に突きたてた。
「がっ……!」
分厚い金属が体を貫通する衝撃が、俺の神経を駆け巡る炎を吹き飛ばした。剣は俺の体を貫き、床に深く食い込んだようだった。痛みはないが、ざらざらした不快感が強烈に襲ってくる。
「き……キリトくん!!」
アスナの悲鳴に、俺は顔を上げ、大丈夫だ、と言おうとした。
――しかし。須郷は笑いを消さず、ふいっと上空の闇を振り仰ぐと、言った。
「システムコマンド! センスフィードバック・アブソーバ、レベル8に変更」
その途端。鋭い錐を突き込まれるような純粋な痛みが、俺の背中に疾った。
「っ……ぐっ……」
俺がうめき声を上げると、須郷は愉快そうな含み笑いを洩らした。
「おいおい、まだツマミ二つだよ君。段階的に強くしてやるから楽しみにしていたまえ。ま、レベル3以下にするとトラウマが残る恐れがあるらしいがね」
さて、と手を叩き、アスナの背後に戻っていく。
「い……今すぐキリトくんを解放しなさい、須郷!」
アスナの叫びにも、無論耳を貸す様子はない。
「標本箱の虫はピンで止めておかないとね。それに、彼のことを心配できる状況じゃないだろう、小鳥ちゃん?」
須郷は背後から右手を伸ばすと、人差し指でアスナの頬を撫でた。アスナは首を捻り、避けようとするが、強烈な重力ゆえにままならない。
指先は、アスナの顔を縦横に這いまわり、やがて首筋に降りた。アスナの顔が嫌悪に歪んだ。
「やめろっ……須郷!」
必死に体を起こそうとしながら、俺は叫んだ。するとアスナは気丈な笑みを浮かべ、震える声で言った。
「――大丈夫だよ、キリトくん。わたしは、こんなことで傷つけられたりしない」
その途端、須郷がきっきっと軋るような笑いを上げた。
「そうでなくっちゃね。君がどこまでその誇りを保てるか――十分? 一時間? それとも丸一日? なるべく長引かせてくれたまえよ、この楽しみを!!」
叫ぶと同時に、須郷の右手がアスナのワンピースの襟元を飾っていた赤いリボンを掴んだ。布地ごと、一気に引きちぎる。血のように赤い、細い紐はゆっくりと宙を舞い、俺の目の前に落下して力なくわだかまった。
破れ、大きく開いたワンピースの胸元から、真っ白い肌が覗いた。須郷の右手はゆっくり、ゆっくりとその中に侵入していく。アスナの顔が恥辱に歪み、固く閉じられたまぶたの縁に涙の雫が盛り上がる。
アスナの素肌をまさぐりながら、須郷は首を伸ばし、ニタニタと笑った。唇が三日月型に裂け、毒々しい赤い舌が長く伸びた。粘液がしたたるような音を立てながら、アスナの頬を下から上に舐めあげる。
「クッ、クッ、今僕が考えていることを教えてあげようか」
舌を出したまま、須郷が狂熱を帯びた声で言った。
「この場所でたっぷり楽しんだら、君の病室に行く。ドアをロックして、カメラを切ったら、あの部屋は密室だよ。君と僕、二人きりさ。そこに大型モニタを設置して、今日の録画を流しながら、君ともう一度じっくりと楽しむ。君の、本当の体とね。――まず心の純潔を奪い――しかるのちに体の貞節を汚す!! 面白い、実にユニークな体験だと思わないか!」
完全に裏返った須郷の甲高い哄笑が、暗闇に満ち、吸い込まれていった。
アスナは目を見開き、ゆっくりと首を左右に振った。
「いや……嫌よ……そんなの……」
ついにその唇から、絶望に満ちた悲鳴が漏れた。
「いや……いやぁぁ!!」
全てを焼き尽くすほどに白熱した怒りが、俺の思考をまっすぐ貫き、視界に激しい火花を散らした。
「須郷……貴様……貴様ァァァ!!」
絶叫しながら、俺はがむしゃらに四肢を動かし、立ち上がろうとした。だが、俺を貫いた剣は小揺るぎもしない。
両目から涙が溢れるのを感じた。虫のように無様に這い、もがきながら、俺は咆哮した。
「貴様……殺す!! 殺す!! 絶対に殺す!!」
俺の絶叫に被さって、狂ったように笑う須郷の声が高く響き渡った。
SAO2_08_Unicode.txt
今、俺に力を貸してくれるなら――
両手の指を立てて床を引っ掻き、一ミリでも前に体を動かそうとしながら、俺は念じた。
もし今、俺に立ち上がる力を与えてくれるなら、何を代償にしてもいい。命、魂、全てを奪われても構わない。鬼でも悪魔でもいい、あの男を斬り倒し、アスナを彼女のいるべき場所に戻してさえくれるなら。
須郷は両手を使って、アスナの体を思うままに蹂躙し続けていた。奴の手が動くたびに、邪な電子パルスが強制的に感覚刺激を励起するのだろう、アスナは血が出るほど唇を噛み締めて、辱めに耐えている。
その姿を視界に映しながら、俺は己の思考が白く、白く灼き切れていくのを感じていた。怒りと絶望の炎が俺を焼き尽くしていく。脳の奥を走るシナプスの全てが灰になる。骨の色の、乾いた塊になってしまえば、もう何も思うことはない。思わなくていい。
剣一本あれば、何でもできると思っていた。なぜなら俺は、五万人の剣士たちの頂点に立つ英雄だから。魔王を倒し、世界を救った勇者だから。
利潤を追求するだけの企業がマーケティングに基づいて組み上げたにすぎない仮想世界、ただのゲーム、それをもう一つの現実と思い込み、そこで手に入れた強さが本物の強さだと思い込んでいた。SAO世界から解放――または追放され、現実に帰還してから、俺は現実の貧弱な肉体に失望していたのではないか? 心のどこかでは、あの世界に、最強の勇者でいられた世界に帰りたいと思っていたんだろう?
だからお前は、アスナの心が新たなゲーム世界にあると知った時、それならば自分の力でどうにか出来ると思い込み、真にするべきこと、現実の力を持つ大人たちに任せることをせず、のこのことやって来た。再び幻想の力を取り戻し、他のプレイヤー達を圧倒し、醜いプライドを満足させて、悦んでいたんじゃないのか?
ならばこの結果は――当然の報いだ。そうだろう、お前は与えられた力に嬉々としてはしゃいでいた子供だ。システム管理権限という単なるID一つ圧倒することすらできない。これ以上できることはただ一つ、悔恨のみだ。それが嫌なら、思考を放棄することだ。
『逃げ出すのか?』
――そうじゃない、現実を認識するんだ。
『屈服するのか? かつて否定したシステムの力に?』
――仕方ないじゃないか。俺はプレイヤーで奴はゲームマスターなんだよ。
『それは、あの戦いを汚す言葉だな。私に、システムを上回る人間の意思の力を知らしめ、未来の可能性を悟らせた、我々の戦いを』
――戦い? そんな物は無意味だ。単なる数字の増減だろう?
『そうではないことを、君は知っているはずだ。さあ、立ちたまえ。立って剣を取れ』
『――立ちたまえ、キリト君!!』
その声は、雷鳴のように轟き、稲妻のように俺の意識界を切り裂いた。
遠ざかっていた感覚が、一瞬で全て接続されたようだった。俺は目を大きく見開いた。
「う……お……」
喉の奥からしわがれた声が漏れた。
「お……おおぉ……」
歯を食いしばり、瀕死の獣にも似た声で唸りながら、俺は右手を床に突き、肘を立てた。
体を持ち上げようとすると、背中の中央を貫いた剣が固く、重く、圧し掛かってきた。
――こんな物の下で無様に這いつくばっているわけにはいかない。こんな、魂の無い攻撃に屈服するわけにはいかない。あの男の剣はもっと重かった。もっと痛かった。須郷などという、剣士の誇りを持たない人間の剣に、倒されるわけにはいかない!
「うおお……オオォォォォ!!」
一瞬の咆哮ののち、俺は全身全霊の力を込めて体を起こした。ざりっ、と嫌な音を立てて剣が床から離れ、俺の体から抜け落ちて転がった。
ふらつきながら立ち上がった俺を、須郷はぽかんとした顔で見つめた。次いでアスナの体から手を離し、芝居じみた動作で肩を竦めながら首を振る。
「やれやれ、オブジェクトを固定したはずなのに、妙なバグが残っているなあ。開発部の無能どもときたら……」
呟きながら俺の前まで歩き、右拳を振り上げて俺の頬を張ろうとした。俺は左手を上げ、その拳を空中で掴んだ。
「お……?」
訝しい顔をする須郷の目を見ながら、俺は口を開いた。脳の奥で響いた一連の言葉を、そのまま繰り返す。
「システムログイン。ID、ヒースクリフ」
その途端、俺を包んでいた重力が消失した。
「な……なに!? なんだそのIDは!?」
須郷は歯を剥き出して驚愕の叫びを上げると、俺の手を振り払って飛び退り、右手を振った。青いシステムメニューウインドウが出現する。
だが、奴が指を動かすより早く、俺は言っていた。
「システムコマンド、スーパーバイザ権限変更。IDオベイロンをレベル1に」
同時に、須郷の手の下からウインドウが消滅した。須郷は目を見開き、何も無い空間と俺の顔の間で視線を何度か往復させたあと、苛立ったように右手を振った。
しかし何も起こらない。須郷に王の力を与えていた魔法のスクロールはもう現われない。
「ぼ……僕より高位のIDだと……? 有り得ない……有り得ない……僕は支配者……創造者だぞ……この世界の帝王……神……」
PCMを倍速再生したような、甲高い声で須郷は立て続けに捲し立てた。その、醜く崩れた美貌に視線を向けながら、俺は静かな声で言った。
「そうじゃないだろう? お前は盗んだんだ。世界を。そこの住人を。盗み出した、汚れた玉座の上で独り踊っていた泥棒の王だ」
「こ……このガキ……僕に……この僕に向かってそんな口を……後悔させてやるぞ……その首をすっ飛ばして飾ってやるからな……」
須郷は鉤のように曲げた人差し指を俺に突きつけ、金切り声を上げた。
「システムコマンド!! オブジェクトID『エクスキャリバー』をジェネレート!!」
だが、システムはもう須郷の声には応えなかった。
「システムコマンド!! 言うことを聞けこのポンコツが!! 神の……神の命令だぞ!!」
喚きたてる須郷から視線を逸らし、俺は吊り上げられたままのアスナを見た。
力任せに引き千切られたワンピースは、ぼろぼろの布となって体にまとわりついているだけだ。髪は乱れ、頬には涙の跡が光る。しかし、その瞳はいまだ輝きを失っていない。その強靭な魂は挫かれていない。
――すぐ終わらせる。もう少し待っていてくれ
俺はアスナのはしばみ色の瞳をじっと見つめ、心の中で呟いた。アスナは小さく、しかし確かな動作でこくりと頷いた。
虐げられたアスナの姿を見たことによって、俺の中に新たな怒りの炎が噴き上がった。俺は視線をわずかに上向けると、言った。
「システムコマンド。 オブジェクトID『エクスキャリバー』ジェネレート」
すると俺の前の空間が歪み、微細な数字の羅列が猛烈な勢いで流れ、一本の剣を形作った。尖端から徐々に色と質感が与えられていく。金色に輝く刀身を持つ、美麗な装飾を施されたロングソードだ。
俺はその剣の柄を掴むと、目を丸くしている須郷に向かって放り投げた。奴が危い手つきで受け止めるのを見ながら、左足を動かし、床に転がったままの俺の剣を跳ね上げ、手に収める。
無骨な黒鉄色の大剣をぴたりと構え、俺は言った。
「決着をつける時だ。泥棒の王と鍍金の勇者……。システムコマンド、センスフィードバック・アブソーバをレベルゼロに」
「な……なに……?」
黄金の剣を握った須郷の顔に動揺が走った。一歩、二歩、後退る。
「逃げるな。あの男は少なくとも臆したことは無かったぞ。あの――茅場晶彦は」
「か……かや……」
その名を聞いた途端、須郷の顔が一際大きく歪んだ。
「茅場……ヒースクリフ……アンタか。またアンタが邪魔をするのか!!」
右手の剣を虚空に振り上げ、須郷は金属を引き裂くような声で絶叫した。
「死んだんだろ! くたばったんだろうアンタ!! なんで死んでまで僕の邪魔をするんだよ!! アンタはいつもそうだよ……いつもいつも!! いつだって何でも判ったような顔しやがって……僕の欲しいものを端から攫って!!」
不意に剣を俺に向かって突きつけ、須郷は更に叫んだ。
「お前みたいなガキに……何が、何がわかる!! アイツの下にいるってことが……アイツと競わされるのがどういうことか、お前にわかるのかよ!?」
「判るさ。俺もあの男に負けて家来になったからな。――でも俺はあいつになりたいと思ったことはないぜ。お前と違ってな」
「ガキ……このガキが……ガキがぁぁぁぁ!!」
須郷は裏返った悲鳴とともに地を蹴り、剣を振りかざした。その体が間合いに入るや否や、俺は右手の剣を軽く一閃させ、奴の滑らかな頬を剣先が掠めた。
「イアァァ!!」
須郷は高く叫ぶと左手で頬を押さえ、飛び退った。
「い……痛ァァアアッ」
目を丸くして悲鳴を上げるその姿は、俺の怒りを更に燃え上がらせた。こんな男がアスナを閉じ込め、二ヶ月もの間虐げつづけたと思うと耐えがたかった。
大きく一歩踏み込み、正面から剣を撃ち下ろした。反射的に掲げた須郷の右手が、一撃で断ち割られ、黄金の剣を握った手首ごと高く飛んで濃い闇の彼方へと消えていった。
「アアアアァァァァ!! 手が……僕の手がああぁぁああ!!」
擬似的な電気信号ではあるが、それゆえに純粋な痛みが今須郷を襲っているのだろう。しかし勿論、そんなものでは足りない。足りるわけがない。
消えうせた右手を抱えてうめく須郷の、緑色の長衣に包まれた胴を、俺は力任せに薙ぎ払った。
「グボアアァァァ!!」
均整の取れた長身が、腹から真っ二つに切断され、重い音を立てて床に転がった。直後、下半身だけが白い炎を上げて燃え崩れた。
俺は、須郷の波打った長い金髪を左手で掴み、持ち上げた。限界まで見開かれた目からどろりとした涙を流し、口をぱくぱくと開閉しながら、須郷は金属質な悲鳴を上げ続けている。
その顔を無表情に眺めながら、俺はしわがれた声で言った。
「――お前のHPが幾つあるか知らんがな、それがゼロになるまで端から少しずつスライスしてやる」
「ヒィ……やめ……や、やめ……」
その姿は、もう俺に嫌悪しか与えなかった。左手をぶんと振って、須郷の上半身を垂直に放り投げる。
大剣を両手で握り、体を捻って直突きの構えを取った。耳障りな絶叫を撒き散らしながら落ちてきた須郷の顔面に向かって――
「うらぁ!!」
俺は全力の突きを叩き込んだ。ガツッと音を立てて、刀身が須郷の右目から後頭部へ抜け、深々と貫いた。
「ギャアアアアアアア!!!」
数千の錆び付いた歯車を回すような、不快なエフェクトのかかった悲鳴が暗闇の世界に響き渡った。剣を挟んで左右に分断された右目から、粘りのある白い炎が噴出し、それはすぐに頭部から上半身に広がった。
溶解し、燃え尽きるまでの数秒間、須郷は途切れることなく叫び続けていた。やがてその声が徐々にフェードアウトし、姿が消え去った。世界に静寂が戻ると、俺は剣を左右に切り払って白い残り火を吹き散らした。
軽く剣で薙いだだけで、アスナを戒めていた二本の鎖は千切れ飛び、消滅した。役目を終えた剣を床に落とし、俺は力なく崩れるアスナの体を抱き止めた。
俺の体を支えていたエネルギーも同時に尽き、俺は床に膝をついた。腕の中のアスナを見つめる。
「……うっ……」
やるせない感情の奔流が、涙に形を変えて俺の両眼から溢れ出した。アスナの柔らかい体を固く抱きしめ、その髪に顔を埋めて、俺は泣いた。言葉は出なかった。ただ、泣き続けた。
「――信じてた」
アスナの、透明な声が耳もとで揺れた。
「……ううん、信じてる……これまでも、これからも。きみは私のヒーロー……いつでも、助けにきてくれるって……」
そっと、手が俺の髪を撫でた。
――違うんだ。俺は……俺には何の力もなくて……
だが、俺は大きく一度息をついてから、震える声で言った。
「……そうあれるように、がんばるよ。さあ……帰ろう……」
右手を振ると、通常のものとは異なる、複雑なシステムウインドウが出現した。俺は直感的に階層を潜り、移動し、転送関連のメニューを表示させると指を止めた。
じっとアスナの瞳を見つめ、言う。
「現実世界は、多分もう夜だ。でも、すぐに君の病室に行くよ」
「うん、待ってる。最初に会うのは、キリトくんがいいもの」
アスナはふわりと微笑んだ。純水のように澄み切った視線で、どこか遠いところを見つめながら、囁いた。
「ああ――とうとう、終わるんだね。帰るんだね……あの世界に」
「そうだよ。……色々変わっててびっくりするぞ」
「ふふ。いっぱい、いろんなとこに行って、いろんなこと、しようね」
「ああ。――きっと」
俺はゆっくり、大きく頷くと、一際強くアスナを抱きしめ、右手を動かした。ログアウトボタンに触れ、ターゲット待機状態で青く発光する指先で、アスナの頬を流れる涙をそっと拭った。
その途端、アスナの白い体を、鮮やかなブルーの光が包み込んだ。少しずつ、少しずつ、水晶のように透き通っていく。光の粒が宙を舞い、足先、指先から消えていく。
完全にこの世界から消え去るまで、俺は、強く強くアスナを抱いていた。ついに腕の中から重みが消え去り、俺は暗闇の中、独りになっていた。
しばらく、そのままの格好で俺はうずくまっていた。
全てが終わったような気もしたし、まだ大きな流れの過程にいるような気もした。茅場の夢想と須郷の欲望が引き起こしたこの事件――これがそのエンディングなのだろうか? あるいは、これすらもより巨大な変革の一部なのだろうか?
俺は、エネルギーの尽きかけた体に鞭打って、どうにか立ち上がった。頭上、暗闇に包まれた世界の深奥を見やって、ぽつりと呟く。
「――そこにいるんだろう、ヒースクリフ」
しばしの静寂ののち、先ほど俺の意識の中で響いたのと同じ、錆びた声でいらえがあった。
『久しいな、キリト君。もっとも私にとっては――あの日のこともつい昨日のようだが』
その声は、先ほどとは異なり、どこか遥か遠いところから届いてくるように感じられた。
「――生きていたのか?」
短く問うと、一瞬の沈黙に続いて答えが聞こえた。
『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。私は――茅場晶彦という意識のエコー、残像だ』
「相変わらず判り難いことを言う人だな。とりあえず礼を言うけど――どうせなら、もっと前に助けてくれてもいいじゃないか」
『――』
苦笑を洩らす気配。
『それはすまなかったな。カーディナルに溶けた私のフラグメントが結合・覚醒したのが、つい先ほど――君の声が聞こえたときだったものでね。それに礼は不要だ』
「……なぜ?」
『君と私は無償の善意などが通用する仲ではなかろう。もちろん代償は必要だよ、常に』
今度は俺が苦笑する番だった。
「何をしろと言うんだ」
すると、遥か遠い闇の中から、何か――銀色に輝くものが落下してきた。手を差し出すと、かすかな音を立てて収まった。それは小さな、卵型の結晶だった。内部に微弱な光が瞬いている。
「これは?」
『それは、世界の種子だ』
「――何?」
『芽吹けば、どういうものか分かる。――では、私は行くよ。また会おう、キリト君』
そして唐突に、気配は消え去っていた。
俺は首を捻り、輝く卵をとりあえず胸ポケットに落とし込んだ。そして、ハッと思い出した。
「そうだ――ユイ、いるか? 大丈夫か!?」
そう叫んだ途端、暗闇の世界が裂けた。
さっとオレンジの光が暗幕を切り裂き、同時に風が吹いて、みるみるうちに闇を払っていく。あまりの眩しさに一瞬目蓋を閉じ、恐る恐る開くと、そこはあの鳥篭の中だった。
正面に、今まさに沈もうとしている巨大な夕陽が最期の光を放っていた。風が鳴るだけで、人の姿はない。
「――ユイ?」
もう一度呼ぶと、眼前の空間に光が凝縮し、ぽんと音を立てて黒髪の少女が姿を現した。
「パパ!!」
一声叫んで俺の胸に飛び込み、首にぎゅっとかじりつく。
「無事だったか。――よかった……」
「はい……。突然アドレスをロックされて、消去されそうになったので、一度ナーヴギアに退避したんです。でももう一度接続してみたら、パパもママも居なくなってるし……心配しました。――ママは……?」
「ああ、戻ったよ……現実世界に」
「そうですか……よかった……本当に……」
ユイは目を閉じ、俺の胸に頬を擦り付けた。その顔に、かすかな寂しさの影を感じて、俺はそっと長い髪を撫でた。
「――また、すぐ会いにくるよ。でも……どうなるんだろうな、この世界は……」
呟くと、ユイはにこりと笑って、言った。
「わたしのコアプログラムはパパのナーヴギアにあります。いつでも一緒です。――あれ、でも、へんですね……」
「どうかしたのか?」
「なんだか大きなファイルが、ナーヴギアのローカルエリアに転送されています。……アクティブなものではないようですが……」
「ふうん……」
俺は首を傾げたが、その疑問は棚上げすることにした。それよりも、今はやらなくてはならないことがある。
「――じゃあ、俺は行くよ。ママを出迎えに」
「はい。パパ――大好きです」
うっすらと涙を滲ませ、力いっぱい抱きつくユイの頭を撫でながら、右手を振った。
ボタンを押す手を一瞬止め、俺は夕焼けの色に染まる世界を眺めた。偽りの王が治めていたこの世界は、一体これからどうなるのだろうか。この世界を深く愛しているであろうリーファや他のプレイヤー達のことを考えると胸が痛んだ。
ユイの頬に軽く唇を当て、俺は指を深く動かした。放射状の光が視界に広がり、意識を包んで、高く、高く運び去っていった。
頭の芯に深い疲労感を覚えながら瞼を開けると、目の前に直葉の顔があった。心配そうな表情でじっと俺の顔を覗き込んでいたが、目が合うと慌てたようにさっと体を起こした。
「ご、ごめんね、勝手に部屋に入って。なかなか戻ってこないから、心配になって……」
ベッドの縁にぺたんと座り込んだ格好で、直葉は頬をわずかに赤らめながら言った。俺は少々のタイムラグの後に接続感の回復した四肢に力を込め、勢いよく上体を跳ね上げた。
「遅くなって、ごめんな」
「……全部、終わったの?」
「――ああ。終わった……何もかも……」
俺は瞬間、視線を虚空に向けながら答えた。あやういところで再び仮想世界の虜囚に、しかも今度はクリアフラグなしの牢獄にとらわれる所だったなどとは、とても直葉には言えない。いずれ全てを話すときが来るだろうが、今はこれ以上の心配をかけたくなかった。このたった一人の妹に、俺はすでに言葉では言い尽くせないほどの救いを与えてもらっているのだ。
深い夜の森で、緑色の髪の女の子に出会ったあの時から、俺の新しい冒険が始まり――長い旅のあいだ、傍には常に彼女が居てくれた。道を示し、風物を語り、剣で守ってくれた。彼女の導きによって二人の領主たちと出会い、知己を得ることが無ければ、あの守護騎士の壁は突破できなかったに違いない。
思えば、何と多くの人たちに助けてもらったことだろう。最たる助力となってくれたのは勿論彼女だ。俺はキリトとしてリーファに、和人として直葉に頼り、支えられ、しかもその間じゅう、彼女はその小さな肩に深い懊悩を背負っていたのだ――。
俺は改めて直葉の、どこか男の子のようなまぶしい生気と、萌え出たばかりの新緑の儚さの同居した顔を見つめた。手を伸ばし、照れたように小さく笑う彼女の頭をそっと撫でながら言う。
「本当に――ほんとうにありがとう、スグ。お前が居なかったら、俺、何も出来なかったよ」
直葉は真っ赤に染めた顔を俯かせ、しばらくもじもじしていたが、意を決したように体を前に進ませて俺の胸に頬を預けた。
「ううん……あたし、嬉しかった。お兄ちゃんの世界で、お兄ちゃんの役に立てて」
目を閉じて呟く直葉の背に手を回し、軽く力を入れる。
しかし――つい数分前、アスナを同じように抱擁し、その後ユイを抱きしめ、さらにその後直葉と触れ合っていることには罪悪感を覚えずにはいられない。この状況に結論を出すのは非常な困難を伴うであろうという深い確信に、神の前に引き出された罪人のような気分を味わっていると、直葉が俺を見上げて言った。
「じゃあ……取り戻したんだね、あの人――アスナさんを……」
「ああ。ようやく――ようやく帰ってきた。……スグ、俺……」
「うん。行ってあげて、きっとお兄ちゃんを待ってるよ」
「ごめんな。詳しいことは帰ってきてから話すよ」
俺はぽんと直葉の頭に手を乗せ、体を離した。
記録的な速さで身支度をし、ダウンジャケットを引っ掴んで縁側に立つと、外はすっかり暗くなっていた。居間に掛かった時代物の柱時計は10時少し前を指している。面会時間はとうの昔に終了しているが、状況が状況だ。ナースステーションで事情を話せば入れてもらえるだろう。
直葉がとてとてと走り寄ってきて、「これ、作っといた」と分厚いサンドイッチを差し出した。ありがたく受け取って口に咥え、サッシを開けて庭に降りる。
「さ、寒……」
ジャケットを透過してくる冷気に首を竦めると、直葉が暗い夜空を見上げて、言った。
「あ……雪」
「なぬっ」
確かに、大きな雪片が二つ、三つ、白く輝きながら舞い降りてくるところだった。一瞬タクシーを使うべきか迷うが、これから呼んだり、幹線道路まで歩いてから拾うよりは、自転車を飛ばしたほうが時間的には早い。
「気をつけてね。……アスナさんに、よろしくね」
「ああ。今度、ちゃんと紹介するよ」
直葉に手を振ってMTBに跨り、俺はペダルを踏み込んだ。
頭の中が空っぽになるほどの勢いで自転車を疾走させ、埼玉県南部を縦断する。雪は徐々に勢いを増したが、路面に積もるほどではなく、交通量が減るのは逆に有り難かった。
一秒でも早くアスナの病室に辿りつきたい――と思う反面、あの場所を訪れるのを恐れる自分もいた。二ヶ月間というもの、俺は一日置きにあの部屋を訪れては、深い、深い失望を味わいつづけてきた。このまま冷たい彫像になってしまうのではないかと思うほどに、静寂に満ちた眠りにとらわれたままの彼女、その手を取り、届かないと知りつつ何度も、何度も呼びかけた。
こうして、もう路面のギャップに至るまで覚えてしまった道を再び走っていると、あの妖精の世界で彼女を見つけ――残虐な王を倒し――鎖を解き放ったことが、ただの幻想であったような気がしてならない。
もし、あと数分後に病室を訪れ、アスナが目覚めていなかったら。
アルヴヘイムに彼女の魂はすでに無く、現実にも帰還しておらず――ふたたび、どことも知れぬ場所に消え去ってしまったら。
顔を叩く雪のせいだけではない、恐ろしいほどの冷気が俺の背を駆け巡る。いや、そんなことがある筈はない。この現実という名の世界を司るシステムが、そこまで冷酷である筈はない。
縺れ、絡み合う思考の渦を抱えたまま、俺はペダルを踏み続けた。太い幹線道路を右折し、丘陵地帯に入る。トレッドの深いブロックタイヤが、シャーベット状の雪をまとったアスファルトを噛み、蹴り飛ばし、マシンを加速させる。
やがてついに、前方に黒々とした巨大な建築物の影が出現した。灯りは殆ど落ち、屋上のヘリパッドに設置された青い誘導燈が、暗黒の城を彩る鬼火のように明滅している。
最後の坂を登ると、高い鉄柵が出現した。それに沿って更に数十秒走る。一際高い門柱に守られた正面ゲートが見えてくる。
急患の受け入れはしていない、高度医療専門の機関ゆえに、この時間ではすでに門は固く閉ざされ、ガードマンの詰めるボックスも無人だ。俺は正門前を通過してパーキングエリアまで走ると、職員用に開放されている小さなゲートから敷地内に乗り入れた。
駐車場の端に自転車を停め、ロックするのももどかしく俺は走った。ナトリウム灯がぼんやりとしたオレンジ色の光を投げかける夜の駐車場はまったくの無人だ。ただ、大粒の雪だけが無音で天から降り注ぎ、世界を白く染めていく。荒い呼吸と共に水蒸気の塊を吐き出しながら、俺は走る。
恐ろしいほど広大なパーキングを半分ほど横切り、背の高い濃い色のバンと、白いセダンの間を通り抜けようとした、その時だった。
バンの後ろからスッと走り出てきた人影と、俺は衝突しそうになった。
「あ――」
すみません、と言いつつ身をかわそうとした俺の視界を――
ギラリとした、生々しい金属の輝きが横切った。
「!?」
直後、俺の右腕、肘の少し下に鋭い熱感が疾った。それが痛みだと気付くのに、コンマ5秒ほどかかった。白いものが大量に散った。雪ではない――細かい、羽だ。俺のダウンジャケットの断熱材。
俺はよろけ、白のセダンのリア部に衝突してどうにか踏みとどまった。
いまだ状況が理解できず、2メートルほど離れた場所に立つ黒い人影を、唖然としながら凝視した。男だ。黒に近い色のスーツ姿。何か白く、細長いものを右手に握っている。オレンジ色の光を受けて、鈍く輝いている。
ナイフ。大ぶりのサバイバルナイフだ。しかし。何故。
凍りついた俺の顔を、バンの作り出す陰の中から男が凝視するのを感じた。男の口もとが動き、殆ど囁きのような、しわがれた声が流れた。
「遅いよ、キリト君。僕が風邪引いちゃったらどうするんだよ」
その声。キーの高い、粘り気のある、その声は。
「す……須郷……」
呆然と、俺がその名を呼ぶと同時に、男が一歩進み出た。ナトリウム灯の放つ光が、顔を照らし出した。
かつて一度まみえた時は丁寧に撫で付けられていた髪が、激しく乱れている。尖った顎には髭の翳が浮き、ネクタイはほとんど解けて首にぶら下がっているだけだ。
そして――メタルフレームの眼鏡の下から俺に注がれる、異様な視線。その理由はすぐにわかった。細い目は限界まで見開かれ、点のように収縮した瞳孔が細かく震えているが、右の白目の部分が全て真っ赤に染まっているのだ。あの世界で――俺の剣が貫いた、その箇所が。
「酷いことするよねえ、キリト君」
須郷が軋る声で言った。
「まだ痛覚が消えないよ。まあ、いい薬が色々あるから、構わないけどさ」
右手をスーツのポケットに突っ込み、カプセルを幾つか掴み出して口に放り込む。こりこりと音をさせてそれを咀嚼しながら、須郷は更に一歩踏み出した。俺はようやく衝撃から回復し、乾いた唇をどうにか動かした。
「――須郷、お前はもう終わりだ。あんな大き過ぎる仕掛けを誤魔化しきれるものか。おとなしく法の裁きを受けろ」
「終わり? 何が? 何も終わったりしないさ。まあ、レクトはもう使えないけどね。僕はアメリカに行くよ。僕を欲しいっていう企業は山ほどあるんだ。僕にはまだ二千の実験体がある。あれを使って研究を完成させれば、僕は本物の王に――神に――この世界の神になれる」
――狂ってる。いや――おそらく遥か昔から、この男は壊れていたのだ。
「その前に、幾つか片付けることはあるけどね。とりあえず、君は殺すよ、キリト君」
表情を変えず、ボソボソと喋り終えると、須郷はすたすたと歩み寄ってきた。右手のナイフを無造作に俺の腹目掛けて突き出してくる。
「――!」
俺はどうにかそれを避けようと、右足でアスファルトを蹴った。しかし、靴底にこびり付いた雪のせいか、大きく滑ってバランスを崩し、駐車場に倒れ込んだ。体の左側をしたたか打ち付け、瞬間、息が詰まる。
須郷は焦点を失った瞳孔で俺を見下ろした。
「おい、立てよ」
直後、革靴の尖った先端が、鈍い音を立てて俺の大腿部に蹴り込まれた。二度。三度。熱い痛みが脊髄を駆け、頭の奥に響く。
俺は動けなかった。声も出せなかった。須郷の握るサバイバルナイフ――刃渡り二十センチを越えるであろう、その殺傷のための道具が放つ重い圧力が、俺を凍らせた。
殺す――俺を――あのナイフで――?
断片的な思考が流れ、消える。肉厚の刃が、音も無く俺の体に侵入し、致命的な――文字通り命を奪うに足る損傷を与える、その瞬間を何度も、何度も想像する。それ以外、何もできない。
右腕に、痺れるような熱を感じた。ジャケットの袖口と、ウインターグローブの隙間から、黒い液体が数滴したたった。体から、血液が際限なく流れ出すイメージ。HPバーではなく、数値ではなく、明確な、リアルな「死」のイメージ。
「ほら、立てよ。立ってみろよ」
須郷は、壊れた人形のように何度も、何度も俺の足を蹴り、踏みつけた。
「キリト君、さっき何か言ってたよな。逃げるなとか? 臆するなとか? 決着をつけるとか? 偉そうなこと言ったよな」
須郷のささやき声に、あの闇の中で聞いたのと同じ狂気の色が混ざりはじめた。
「わかってんのか? お前みたいなゲームしか能の無い小僧は、本当の力は何も持っちゃいないんだよ。全てにおいて劣ったクズなんだよ。なのに僕の、この僕の足を引っ張りやがって……。その罪に対する罰は当然、死だ。死以外ありえない」
抑揚の無い声でぼそぼそと言いおえると、須郷は左足を俺の腹の上に乗せた。ぐっと重心を移す。その物理的圧力と、奴の狂気が放つ精神的プレッシャーで、息が詰まる。
俺は浅く、速い呼吸を不規則に繰り返しながら、ただ近づいてくる須郷の顔を見ていた。体を屈めた須郷は、右手に握った凶器を高く振りかぶり――
瞬き一つせず、それを振り下ろした。
「――――ッ」
俺の喉の奥から、引き攣った声が漏れるのと――
鈍い金属音とともに、ナイフの先端が俺の頬を掠め、アスファルトに食い込むのは同時だった。
「あれ……右目がボケるんで狙いが狂っちゃったよ」
須郷はぶつぶつ呟くと、再び右手を高く掲げた。
ナイフのエッジをナトリウム灯の明かりが滑り、暗闇の中にオレンジ色のラインを描いた。
硬い路面に突き立てられたせいだろうか、切っ先が、ほんのわずかに欠けている。その瑕が、より現実的な、物理的な凶器としての存在感をナイフに与えている。ポリゴンの武器ではなく、金属分子が密に凝縮した、重く、冷たい、本物の、殺傷力。
何もかもが、ゆっくりと動いていた。黒い空を舞う雪片。歪んだ須郷の口から吐き出される息の塊。俺に向かって降下してくるナイフ。その背に刻まれたセレーションを明滅しながら移動するオレンジ色の反射光。
そう言えば、あんなギザギザのついた武器があったな……。
停止しかけた思考の表層を、無意味な記憶の断片が流れていく。
あれは何だったか。アインクラッド中層の街で売っていたダガー系のアイテムだ。確かソードブレイカーという名前だった。背の鋸状の部分で敵の剣をパリィすると、武器破壊に成功する確率に僅かなボーナスがあるという奴だ。面白そうだったので短剣スキルをスロットに入れてしばらく使ってみたが、基本攻撃力が低いので満足する結果にはならなかった。
今、須郷の手に握られている武器は、あれよりも更に小さい。ダガーと言うにも及ばない。いや――武器の範疇ではない、こんな物は。日常作業用のツールだ。剣士が闘いに用いるような物ではない。
耳の奥に、数秒前の須郷の言葉が蘇る。
本当の力は、何も持っちゃいない――。
そうだ……その通りだ。今更言われるまでもない。しかし、ならば俺を殺すと言うお前は何なのだ、須郷。ナイフ術の達人なのか? 武道の心得でもあるのか?
俺は須郷の眼鏡の奥、血の色に染まる細い目を見つめた。興奮。狂気。しかしそれ以外にも何かある。あれは――逃げる者の眼だ。ダンジョンでモンスターの大群に囲まれ、絶体絶命の死地に陥ったとき、その現実を遮断するために狂躁的に剣を振り回す者の視線。
頭の芯が、急激に冷えていくのを感じた。知覚の加速感。全身の神経をパルスが駆け回る。戦闘待機状態――
そうだ、これは戦闘だ。
俺は左手を上げ、振り下ろされつつある須郷の右手首を掴んだ。同時に右手を伸ばし、親指を須郷の緩んだネクタイの間、喉の窪みに突き込む。
「ぐぅ!!」
ひしゃげた声を上げ、須郷が仰け反った。俺は体を捻ると、両手で須郷の右腕を掴み、その手の甲を凍ったアスファルトに思い切り擦りつけた。悲鳴と同時に手が緩み、ナイフが路面に転がった。
笛の音のような甲高く掠れた絶叫を上げながら、須郷がナイフに飛びつこうとする。右足を曲げ、その顔面を靴のソールで蹴り飛ばした。ナイフを掬い上げ、反動を利用して立ち上がった。
「須郷……」
喉から、自分のものとは思えないさび付いた声が漏れた。
右手のグローブ越しに、硬く冷たいナイフの存在を感じた。武器としては貧弱だ。軽いし、リーチもない。しかし――
「お前を殺すには、十分だ」
呟くと、アスファルトに座り込み、バンに寄りかかって、ぽかんとした顔で俺を見ている須郷に向かって、猛然と飛び掛った。
左手で髪ごと頭を鷲掴みにし、バンのドアに打ち付けた。鈍い音とともにアルミのボディが凹み、眼鏡が吹き飛んだ。須郷が口を大きく開けた。
「イイイィィィィィィィ……」
涙と悲鳴を同時に撒き散らすその口に、俺はナイフを鋭く突き入れた。
カツン、というかすかな音と共に、前歯が一本折れて消し飛び――
そして俺は、左膝をバンのフェンダーにぶつけて体の勢いを止めた。ナイフの先端は、須郷の口蓋の奥にほんのわずか食い込んだ所で停止していた。
「ぐう……ううっ……!」
俺は歯を食いしばった。
「ィィィ! ヒィィィッ!! ィィィィィ!!」
須郷は悲鳴を上げ続けている。
この男は――死んで当然だ。裁かれて当然だ。今、この右手に体重を乗せ、刀身を撃ち込めば、全て終わる。決着だ。完全なる勝者と敗者の決定。
しかし――
俺はもう、剣士ではない。剣の技によって全てが決まるあの世界は、もう、終わったのだ。
「ヒィィィィィィ……」
不意に、須郷の口から血の混ざった白い泡がボトボトと大量にこぼれた。眼球が裏返り、悲鳴が途切れ、その全身が、電力の切れた機械のように脱力した。
俺の手からも、力が抜けた。ナイフが滑り落ち、須郷の腹の上に転がった。
左手も離し、俺は体を起こした。
これ以上、一秒でも長くこの男を見ていれば、再び殺意の衝動が沸き起こり、そしてそれにはもう耐えられないだろうと思った。
須郷のネクタイを引き抜き、体を路面に転がして、両手を後ろに回して縛り上げた。ナイフはバンのルーフの上に放り上げる。俺はよろめく脚に鞭打って後ろを振り向き、一歩、一歩、ゆっくりと駐車場を歩き始めた。
広い階段を登って正面エントランス前に出るころには、五分ほどが経過していた。立ち止まって大きく深呼吸し、どうにか言う事を聞くようになった全身を見下ろす。
雪と砂に汚れ、ひどい有様だ。切られた右腕と左頬が疼くが、すでに血は止まっているようだった。
自動ドアの前に立つ。しかし開く様子はない。ガラス越しに覗き込むと、メインロビーの照明は落ちているが、奥の受け付けカウンターには灯りがあった。左右を見回す。左奥に、小さなガラスのスイングドアを発見し、押してみると音も無く開いた。
建物の中は静寂に満ちていた。広大なロビーに整然と並べられたベンチの列を、ゆっくりと横切っていく。
カウンターの中も無人だったが、その奥に隣接したナースステーションからは談笑する声が漏れていた。俺はマトモな声が出ることを祈りつつ、口を開いた。
「あの……すみません!」
俺の声が響いた数秒後、ドアが開いて薄いグリーンの制服を来た看護師の女性が二人、現れた。いぶかしむような警戒の色を浮かべていたが、俺の顔を見た途端目を丸くする。
「――どうしたんですか!?」
背の高い、髪をアップにまとめた若い看護師が低い声を上げた。どうやら、俺の頬の出血は思った以上の量があるらしい。俺はエントランスの方向を指差し、言った。
「駐車場で、ナイフを持った男が暴れています」
二人の顔に緊張が走った。年配の看護師がカウンターの内側にある機械を操作し、細いマイクに顔を寄せる。
「警備員、至急一階ナースステーションまで来てください」
巡回中のガードマンが近くにいたらしく、すぐに足音と共に紺色の制服を来た男が小走りに現れた。看護師の説明を聞くと、男の顔も厳しくなる。小さい通信機に何事か呼びかけ、ガードマンはエントランスへ向かった。若い方の看護師も後を追う。
残った看護師は、俺の頬の傷を仔細に眺めてから言った。
「君、十二階の結城さんのご家族よね? 傷はそこだけ?」
少々事実に誤認があるようだが、訂正する気力もなく俺は頷いた。
「そう。すぐドクターを呼んでくるから、そこで待っていてください」
言うや否やパタパタと駆けていく。
俺は大きく一度息をついて、周囲を見回した。とりあえず近くに誰もいないのを確認し、カウンターに身を乗り出して、内側からゲスト用のパスカードを掴みだす。看護師が走って行ったのとは別の方向、何度も通った入院棟への通路に向かって、震える足を鞭打って走り出す。
エレベータは一階に停止していた。ボタンを押すと、低いチャイムと共にドアが開く。内部の壁に体を預け、最上階のボタンをプッシュ。病院ゆえに加速は緩やかだが、その僅かなGですら膝が折れそうになる。必死に体を支える。
気が遠くなるほど長い数秒間ののち、箱が停止してドアが開いた。半ば這うように通路へと転がり出る。
アスナの病室までの、ほんの数十メートルは、もう無限の距離と思えた。倒れそうになる体を壁の手すりで支え、前に進む。L字の通路を左に折れると――正面に、白いドアが、見えた。
一歩、一歩、歩いていく。
あのときも――。
夕焼けに包まれた終焉の世界から、現実世界に帰還し、ここではない別の病院で目覚めたあの日も、俺は萎えた脚に鞭打って、歩いた。アスナを捜して、ただただ歩いた。あの道は――ここに繋がっていたのだ。
ようやく、会える。その時が来る。
残りの距離が縮むと同時に、俺の胸に詰まる様々な感情が恐ろしい勢いで高まっていく。呼吸が速くなる。視界が白く染まる。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。歩く。ひたすら、脚を前に出す。
ドアの直前まで達したのに気付かず、衝突しそうになって危うく足を止めた。
この向こうに、アスナが――。もう、それしか考えられない。
震える右手を持ち上げると、汗のせいかカードが滑り落ちて床に転がった。拾い上げ、今度こそメタルプレートのスリットに差し込む。一瞬息を止め、一気に滑らせる。
インジケータの色が変わり、モーター音と共にドアが開いた。
ふわりと、花の香りが流れ出した。
室内の照明は落ちている。窓から差し込む雪明りが、ほのかに白く光っている。
病室は、中央を大きなカーテンが横切っている。その向こうにジェルベッドがある。
俺は動けない。これ以上は進めない。声も出せない。
不意に、耳もとで囁き声がした。
『ほら――待ってるよ』
そして、そっと肩を押す手の感触。
ユイ? 直葉? 三つの世界で、俺を助けてくれた誰かの声。俺は右足を動かした。もう一歩。さらに、もう一歩。
カーテンの前に立つ。手を伸ばし、その端を掴む。
引く。
鈴のような――草原を渡る風のような――かすかな音とともに、白いヴェールが揺れ、流れた。
「……ああ」
俺の喉から、祈りに似た声が漏れた。
純白のドレスにも似た薄い病衣をまとった少女が、ベッドに上体を起こし、こちらに背を向けて大きな窓を見ていた。つややかな長い髪に、舞い散る雪が淡い光を届けている。細い両手は体の前に置かれ、その中に深いブルーに輝く卵型のものを抱えている。
ナーヴギア。常に少女を拘束し続けた茨の冠が、その役目を終えて静かに沈黙している。
「アスナ」
俺は、音にならない声で呼びかけた。少女の体がかすかに震え――花の香りに満ちた空気を揺らして、振り向いた。
永い、永い眠りから醒めたばかりで、まだ夢見るような光をたたえているヘイゼルの瞳が、まっすぐ俺を見た。
何度、夢に見たことだろう。何度、祈ったことだろう。
色の薄い、しかしなめらかな唇に、ふわりと微笑みが浮かんだ。
「キリト君」
初めて聴く、その声。あの世界で毎日耳にしていた声とは大きく異なる。しかし、空気を揺らし、俺の感覚器官を震わせ、意識に届くこの声は、何倍も――何倍も素晴らしい。
アスナの左手がナーヴギアから離れ、差し伸べられた。それだけでかなりの力を使うのだろう、わずかに震えている。
俺は、雪の彫像に触れるように、そっと、そっと、その手を取った。痛々しいほど細く、薄い。しかし、温かい。俺の、すべての傷を癒していくように、手から温もりが染み込んでいく。不意に脚の力が抜け、ベッドの端に体を預けた。
アスナは右手も伸ばすと、おそるおそるというふうに俺の傷ついた頬に触れ、首を傾けた。
「ああ……最後の、本当に最後の闘いが、さっき、終わったんだ。終わったんだ……」
言うと同時に、俺の両目から、ついに涙が溢れた。雫が頬を流れ、アスナの指に伝い、窓からの光を受けて輝く。
「……ごめんね、まだ音がちゃんと戻らないの。でも……わかるよ、キリト君の言葉」
アスナは、いたわるように俺の頬を撫でながら、囁いた。その声が届くだけで魂が震える。
「終わったんだね……ようやく……ようやく……きみに、会えた」
アスナの頬にも、銀に輝く涙が伝い、零れ落ちた。濡れた瞳で、意識すべてを伝えようとするかのようにじっと俺を見て、言った。
「はじめまして、結城、明日奈です。――ただいま、キリトくん」
俺も、嗚咽をこらえ、応えた。
「桐ヶ谷和人です。……おかえり、アスナ」
どちらともなく顔が近づき、唇が触れ合った。軽く。もう一度。強く。
腕を、華奢な体に回し、そっと抱きしめる。
魂は、旅をする。世界から世界へ。今生から、次の生へ。
そして誰かを求める。強く、呼び合う。
昔、空に浮かぶ大きな城で、剣士を夢見る少年と、料理が得意な少女が出会い、恋に落ちた。彼らはもういないけれど、その心は長い長い旅をして、ついに再び巡り合った。
俺は、泣きじゃくるアスナの背をそっと撫でながら、涙で揺れる視線を窓の外に向けた。一際勢いを増して舞い散る雪の向こうに、寄り添って立つふたつの人影が見えた気がした。
背に二本の剣を背負った、黒いコート姿の少年。
腰に銀の細剣を吊った、白地に赤の騎士装の少女。
二人は微笑み、手を繋ぐと、振り向いてゆっくりと遠ざかっていった。
(第四章 終)
SAO2_09_Unicode.txt
エピローグ1 2015年初夏
「それでは今日はここまで。課題ファイル25と26を転送するので来週までにアップロードしておくこと」
鐘の音を模したチャイムが午前中の授業の終わりを告げ、教師がライトパネルの電源を落として立ち去ると、広い教室には弛緩した空気が漂った。
俺は端末に差した旧式のマウスを操り、ダウンロードされた課題ファイルを開いて一瞥した。たっぷりと歯ごたえのありそうな長文の設問にため息をついてから、マウスを引き抜き、端末を閉じて一緒にデイパックに放り込む。
それにしても、このチャイムはアインクラッド基部層・はじまりの街のチャペルの音にとてもよく似ている。それを知ってこの音色に設定したのなら、この校舎の設計者はなかなかブラックユーモアのセンスがある。
もっとも、揃いの制服を着た生徒たちは誰もそんな事を気にしてはいないようだ。和やかに談笑しながら、三々五々連れ立って教室を後にし、カフェテリアへと歩いていく。
デイパックのジッパーを引き、肩にかけて立ち上がろうとすると、隣席の仲のいい男子生徒が俺を見上げて言った。
「あ、カズ、食堂行くなら席取っといて」
俺が返事をする前に、さらにその隣に座った生徒がにやりと笑いながら言う。
「無理無理、今日は『姫』に謁見の日だろう、カズは」
「あ、そうか。ちくしょう、いいなあ」
「うむ、まあ、そういうことだ。悪いな」
連中のいつもの愚痴が始まる前に離脱すべく、俺は手を上げると素早く教室を抜け出した。
薄いグリーンのパネル張りの廊下を早足で歩き、非常口から中庭に出ると、ようやく昼休みの喧騒が遠のいて俺はほっと息をついた。真新しいレンガの敷かれた小道が、新緑に萌える木々の間を塗って伸びている。梢の上に見える校舎はコンクリートの地肌剥き出しの素っ気無い外見だが、総じて三ヶ月の突貫工事で造成されたとは思えない立派なキャンパスだ。
緑のトンネルを潜るように続く小道を更に数分歩くと、円形の小さな庭園に出る。ふんだんに花壇の配されたその外周部には白木のベンチがいくつか並び、そのうちの一つに、一人の女子生徒が腰掛けて空を見上げている。
濃いグリーンを基調にしたブレザーの制服の背に、ブラウンの長い髪が真っ直ぐに流れている。肌の色は抜けるように白く、しかし最近ではようやく頬にバラのような赤味が戻りつつある。
黒のロングソックスを穿いた細い脚をぴんと揃えて伸ばし、パンプスのつま先でぱたぱたとレンガを叩きながら一心に青い空を見つめているその姿は例えようもなく愛らしく、俺は庭園の入り口で立ち止まると木の幹に手をかけ、我知らず微笑を浮かべながら少女を眺め続けた。
と、彼女は不意にこちらを真っ直ぐ振り返り、俺を見た途端ぱっと笑顔を浮かべた。次いで澄ました表情を浮かべて目を閉じると、ふん、というふうに顔を逸らせる。
俺は苦笑しながらベンチに近づき、声を掛けた。
「お待たせ、アスナ」
アスナはちらりと俺を見上げると、唇をとがらせた。
「もう、どうしてキリトくんはいつもこっそり見てるのよう」
「悪い悪い。うーむ、ひょっとしたら俺、ストーカーの素質があるかもしれん」
「えー……」
嫌そうな顔で身を引くアスナの隣にどかっと腰を下ろし、俺は大きく伸びをした。
「ああ……疲れた……腹減った……」
「なんだか年寄りくさいよ、キリトくん」
「実際この一ヶ月で五歳くらい歳取った気分だなぁ……。それと――」
頭の後ろで手を組み、アスナの顔を横目で見る。
「キリトじゃなくて和人だぞ。ここじゃ一応キャラネーム出すのはマナー違反だからな」
「あ、そっか。つい……ってわたしはどうなるのよ! バレバレじゃないの」
「本名をキャラネームにしたりするからだ。……まあ、俺もなんかバレてるっぽいけど……」
この特殊な「学校」に通う生徒は全て、中学、高校時代に事件に巻き込まれた旧SAOプレイヤーである。積極的殺人歴のある本格的なオレンジプレイヤーこそ、カウンセリングの要有りということで一年以上の治療と経過観察を義務付けられたものの、俺やアスナを含めて自衛のために他のプレイヤーを手に掛けた者は少なくないし、盗みや恐喝といった犯罪行為は記録に残らぬゆえにチェックのしようもない。
よって、基本的にアインクラッドでの名前を出すのは忌避されているものの、何せ顔がSAO時代とほとんど同じだ。アスナにいたっては入学式に即バレしていたようだし、俺も一部の旧上層プレイヤーの間では、古い通り名を含めてかなりの部分が露見してしまっている節がある。
もっとも、すべて無かったことにしようというのは土台無理な話なのだ。あの世界での体験は、夢ではなく現実なのだし、その記憶にはそれぞれのやり方で折り合いをつけていくしかない。
俺は、膝の上で小さな籐のバスケットを抱えているアスナの左手をそっと取り、両手で包み込んだ。
まだかなり細いが、目覚めた直後に比べればふっくらとしてきつつある。
入学に間に合わせようとしたため、リハビリテーションは相当に過酷なものとなったらしい。松葉杖なしで歩けるようになったのはつい最近のことで、今でも走ることを含め運動の類は固く禁じられているそうだ。
覚醒後も、俺は頻繁に病院を訪れたが、歯を食いしばり、涙を滲ませながら歩行訓練をするアスナの姿には我が身を切られるような痛々しさを感じた。あの頃のことを思い出した俺は、いつしかアスナの細い指を、そっと、何度も何度も撫でていた。
「き、キリトくん……」
アスナが体をすくめ、頬を赤くして俯いた。俺は顔を上げ、じっとアスナのはしばみ色の瞳を見つめた。
「あ……」
右手を伸ばし、艶やかな長い髪に触れる。耳のうしろに手をかけ、引き寄せ、唇を近づける――。
「……学校じゃ、だめ!」
――が、左の手の甲をむぎゅーと抓られてしまった。已む無く不埒な行為を断念する。
「ちぇー。いいじゃん、誰もいないんだしさ」
「知らないの? ここ、カフェテリアから丸見えなんだよー」
「なぬ……」
顔を上げると、確かに木々の上に、校舎最上階の大きな採光ガラスが見えた。慌てて手を離す。
「ほんとにもう……」
アスナは呆れたようにため息をつくと、再びつんと顔をそらせた。
「そういう悪い人には、お弁当あげない」
「うあ、勘弁」
必死に謝ること数秒、アスナはようやくニコリと笑い、膝の上のバスケットの蓋を開けた。丸いキッチンペーパーの包みを一つ取り出し、俺に差し出す。
受け取っていそいそと紙を開くと、それはレタスのはみ出た大ぶりのハンバーガーだった。香ばしい香りに胃を直撃され、慌てて大口をあけてかぶりつく。
「こっ……この味は……」
がつがつと咀嚼、そののちにごくんと嚥下してから、俺は目を丸くしてアスナの顔を見た。アスナはにっこり笑い、言った。
「えへへ。覚えてた?」
「忘れるもんか。74層の安地で食べたハンバーガーだ……」
「いやー、ソースの再現に苦労したのよこれが。理不尽な話だよね。現実の味を真似しようとして向こうで死ぬほど苦労して、今度はその味を再現するのにこっちで苦労するなんてさ」
「アスナ……」
俺はあの幸福な日々を思い出し、感傷の嵐が胸中に吹き荒れるのを感じながら、思わず再びアスナを抱き寄せた。
「やだ、口にマヨネーズついてる!」
そして再び拒絶された。
俺が大きいのを二つ、アスナが小さいのをひとつ食べ終える頃には、昼休みも残りわずかとなっていた。小ぶりの保温ポットからハーブティーを注いでくれたアスナが、紙コップを両手で抱えながら言った。
「キリトくん、午後の授業は?」
「今日はあと二コマかな……。まったく、黒板じゃなくてELパネルだし、ノートじゃなくてタブレットPCだし、宿題はLANで送られてきやがるし、これなら自宅で授業でも一緒だよなぁ」
ぼやく俺を見て、アスナがふふ、と笑う。
「そのお陰でこうやって会えるんだから、いいじゃない」
「まあそうなんだけどさ……」
アスナとは、自由選択科目はすべて共通にしたものの、いかんせん元々の学年が違うのでカリキュラムに差があり、会えるのは週に三日である。
「それに、ここは次世代学校のモデルケースにもなってるらしいよ。お父さんが言ってた」
「へえ……。彰三氏は、元気?」
「うん。一時期は相当しょげてたけどね。人を見る目がなかったー、って。CEOやめて半分引退したから、肩の荷の下ろし方に迷ってるんじゃないかな。そのうち趣味でも見つければ、すぐ元気になるわよ」
「そっか……」
俺はお茶を一口すすり、アスナに倣って空を見上げた。
アスナの父、結城彰三氏が娘の夫にと見込んでいたあの男――須郷。
あの雪の日、病院の駐車場で逮捕された須郷は、その後も醜く足掻きに足掻きまくった。黙秘に次ぐ黙秘、否定に次ぐ否定、最終的に全てを茅場晶彦に背負わせようとした。
しかし、奴の二人の部下が、重要参考人で引っ張られた直後からあっけなく全てを告白し、レクトプログレスの横浜支社に設置されていたサーバーにおいてSAO未帰還者二千人が非人道的実験に供されているのが露見するに及んで須郷に逃げ道は無くなり、公判が始まった現在では精神鑑定を申請しているらしい。主な罪状は傷害だが、略取、監禁罪が成立するのかどうかが世間の耳目を集めている。
奴の手がけていた、NERDLESによる洗脳という邪悪な研究も、結局初代ナーヴギア以外では実現不可能な技術であるということが判明した。ナーヴギアはほぼ全て廃棄されたはずだし、須郷の実験結果から対抗措置の開発も可能ということらしい。
幸いだったのは、二千人の未帰還者に、実験体とされてる間の記憶が無かったことだ。脳に器質的障害を負ったり、精神に異常を来してしまったプレイヤーがわずかに居たものの、大半の被害者は十分な加療ののちに社会復帰が可能だろうとされている。
しかし、レクトプログレス社とアルヴヘイム・オンライン、いや、ダイレクトバーチャル・リアリティというジャンルのゲームそのものは、回復不可能な打撃を被った。
もともと、SAO事件だけでかなりの社会的不安を醸成していたのだ。それを、あくまで一人の狂人の例外的犯罪と断じて、今度こそ安全、と銘打って展開したALOを含むVR-MMOゲームだったが、須郷の起こした事件によって、全てのVRワールドが犯罪に利用される可能性がある、と目されることとなった。
最終的にレクトプログレスは解散、レクト本社もかなりの事業縮小を行い、社長以下の経営陣を刷新してどうにか危機を乗り切りつつあるところだ。
勿論ALOも運営中止に追い込まれ、その他に展開されていた五、六タイトルのVR-MMOもユーザーの減少こそ微々たるものの――ネットゲーマーの救いがたい性ゆえだ――社会的批判は喧しく、こちらも中止は免れ得ないだろうと言われていた。
その状況を、力技で根こそぎひっくり返してしまったのが――
茅場晶彦が、俺に託した「世界の種子」だった。
茅場についても触れておかねばなるまい。
2012年11月のSAO世界の崩壊と同時に、やはり茅場晶彦は死亡していた、ということが明らかになったのは二ヶ月前――2013年3月のことだった。
茅場がヒースクリフとしてアインクラッドに存在した二年の間、彼が潜伏していたのは長野県の人里離れた山間にあった山荘だった。
もちろん、茅場のナーヴギアには「死の枷」は仕掛けられておらず、自由にログアウトできる状況だったが、ギルド血盟騎士団の団長としてそのログインは最長連続一週間に及ぶこともあり、その間の介助をしていたのは、茅場がアーガス開発部と同時に在籍していた、とある工業系大学の研究室で、彼と同じ研究をしていた大学院生の女性だった。
その研究室にはかの須郷も学生時代に席を連ね、表面的には茅場を先輩と慕いつつも猛烈な対抗心を燃やしていたそうだ。その女性にも再三求愛したことがあったそうで――俺はその話を、先月保釈されたその女性本人から聞いた。女性のメールアドレスを救出対策室のエージェントから無理やり聞き出し、会って話をしたいとメールを出し、一週間後に許諾の返事を貰うやいなや彼女が暮らす宮城県の生家までのこのこ出かけて行ったのだった。
茅場は、SAO世界の崩壊とともに命を絶つことを、事件を起こす以前から決意していたらしい。しかしその死に方が異常だった。彼は、NERDLESシステムを改造したマシンでおのれの大脳に超高出力のスキャンを行い、脳を灼き切って死んだそうだ。
成功の確率は千分の一もありませんでしたが――、と、その、水仙の花を思わせるどこか儚げな女性は言った。
もし茅場の目論見が成功すれば、彼は己の思考、つまり大脳内部の電気反応をすべてデジタル信号に置き換え、本当の意味での電脳となってネットワーク内に存在するはずだ、と。
俺は迷った末、世界樹、つまり旧SAOサーバー内部で茅場の意識と会話したことを話した。彼が俺とアスナを救ってくれたこと、そして俺にある物を託したのだということを。
女性は、数分間うつむき、ひとつぶの涙を零したあと、俺に言った。
彼のしたことは許されることではない。
彼を憎んでいるなら、それを全て消去してください。
でも、もしも、そうでないのなら――。
「――キリトくん。キリトくんてば。今日のオフだけどさ……」
肘をつつかれ、俺は我に返った。
「ああ――ごめん。ぼんやりしてた」
視線を白い雲の群から、右隣のアスナに移す。
両手を伸ばし、今度こそしっかりと彼女を抱き寄せる。
「あ、もう……」
アスナは少し抵抗する素振りを見せたが、すぐに体の力を抜き、頭をぽふっと俺の肩に預けた。
カフェテリアの西側の窓際、南から三つ目の丸テーブルに陣取って、あたしはパックの底に残ったいちごヨーグルトドリンクをストローで力任せに吸い上げた。乙女が立てるには相応しくない騒音が盛大に発生し、向かいの椅子に座る綾野珪子が顔をしかめる。
「もう、リズ……里香さん、もうちょっと静かに飲んでくださいよ」
「だってさぁ……あー、キリトの奴、あんなにくっついて……」
あたしの視線の先では、このテーブルからだけ梢を貫いて見ることができる中庭のベンチで、一人の男子生徒が女子生徒をしっかとかき抱いて髪を撫でている。
「けしからんなあもう、学校であんな……」
「そっそれに趣味悪いですよ、覗きなんて!」
あたしはちらりと珪子を見て、少々意地悪い口調で言った。
「そんなこと言いながら、シリカだってさっきまで一生懸命見てたじゃない」
珪子ことダガー使いのシリカ――逆かな?――は、顔を真っ赤にして俯き、はぐはぐとエビピラフを口に詰め込みはじめた。
空になったパックを握りつぶして数メートル離れた屑篭に放り込み、あたしはテーブルに頬杖をついて盛大にため息をついた。
「あーあ……こんなことなら『一ヶ月休戦協定』なんて結ぶんじゃなかったなあ」
「リズさんが言い出したんじゃないですか! 一ヶ月だけあの二人にらぶらぶさせてあげよう、なんて……。甘いんですよまったく」
「ほっぺたにご飯粒ついてるよ」
あたしはもういちどため息をついて、頭上の採光ガラスの向こうを流れていく白い雲を見上げた。
どうやって調べたのか、キリトから突然メールが来たのは二月の半ばだった。
あたしは驚愕し、第二ラウンドのゴングを頭のなかで響かせつついそいそと待ち合わせ場所に向かったのだが、喫茶店で聞いたキリトの話には更なる驚きを味わった。
世間を盛大に騒がせていたあの「ALO事件」にキリトが関わり、世間一般には伏せられているもののアスナも特殊な形の被害者だったというのだ。
アスナがとても会いたがっていると言われ、勿論あたしはすぐさまお見舞いに飛んでいった。そして、今にもとけて消えてしまいそうな、雪の精のようなアスナの姿を見て、アインクラッドで彼女に感じていた保護者的感情を大いに刺激されたのだった。
幸い、アスナは日に日に元気を取り戻し、この学校に同時に入学することができた。しかしやはり彼女を前にすると、あたしはライバルというよりも守るべき妹のように思えて仕方なく、つい、同じようにキリトに惚れている、数人のSAO時代の友人を巻き込んで「五月いっぱいはあの二人を暖かく見守ろう」同盟を結んだ――のである。が。
三度目のため息を、BLTサンドの最後のひとかけらと共に飲み込み、あたしはシリカを見やった。
「あんたは今日のオフ会、行くの?」
「もちろんですよー。リーファ……直葉ちゃんも来るんですって。オフで会うのはじめて、楽しみだなぁ」
「シリカはリーファと仲いいもんね」
あたしは再びイジワルな笑みを浮かべた。
「あれかな? 同じ『妹』として親近感あったりするの?」
「むっ……」
シリカは頬をひくつかせると、ピラフの最後のひとくちを口に放り込み、同じように笑った。
「そういうリズさんこそ、すっかり『お姉さん』ですよね、この頃」
あたしたちは数秒間ばちばちと火花を散らしてから、同時に雲を見上げ、同時にため息をついた。
エギルの店『ダイシー・カフェ』の、無愛想な黒いドアには、同じく無愛想な木札が掛けられ、無愛想な字で「本日貸切」と書きなぐってあった。
俺は、隣の直葉に顔を向け、言った。
「スグはエギルと会ったことあったっけ?」
「うん、向こうで二回くらいいっしょに狩りしたよ。おっきい人だよねえ~」
「言っとくけど、本物もあのマンマだからな。心の準備しとけよ」
目を丸くする直葉の向こうで、アスナがくすくすと笑う。
「わたしも、初めてここに来たときはびっくりしたよー」
「正直、俺もびびった」
怯えたような顔をする直葉の頭をぽんと叩いて、にやっと笑いかけると俺は一気にドアを押し開けた。
カラン、と響くベルの音、それに重なって、わあっという歓声、拍手、口笛が盛大に巻き起こった。
広いとは言えない店内には、すでにぎっしりと人が詰まっていた。スピーカーがずんずんと大音量でBGM――驚いたことにアインクラッドのNPC楽団が奏でていた街のテーマだ――を響かせ、皆の手には飲み物のグラスが光り、すでにかなり場は盛り上がっているようだ。
「――おいおい、俺たち遅刻はしてないぞ」
あっけに取られて俺が言うと、制服姿のリズベットが進み出てきて言った。
「へっへ、主役は最後に登場するものですからね。あんた達にはちょっと遅い時間を伝えてたのよん。さ、入った入った!」
俺たち三人はたちまち店内に引っ張りこまれ、店の奥の小さなステージに押し上げられた。ドアがバターンと閉まり、直後、BGMが途切れ、照明が絞られる。
いきなりスポットライトが俺に落ち、再び、リズベットの声がした。
「えー、それでは皆さん、ご唱和ください。……せーのぉ!」
「「キリト、SAOクリア、おめでとー!!!」」
全員の唱和。盛大なクラッカーの音。拍手。
俺のポカーンとした間抜け面に、いくつものフラッシュが浴びせられた。
今日のオフ会――『アインクラッド攻略記念パーティー』を企画したのは俺とリズ、エギルだったはずなのだが、いつの間にか俺抜きで話は進みまくっていたようだった。店内に溢れる人数は、俺の予想の倍を上回るだろう。
乾杯のあと、全員簡単な自己紹介、それに続いて俺のスピーチ――これも予定には無かった――が終わり、エギル特製の巨大なピザの皿が何枚も登場するに及んで、宴は完全はカオス状態に突入した。
俺は男性の参加者全員から手荒い祝福と、女性参加者からのやや親密すぎる祝福を受け、へろへろになってカウンターにたどり着き、スツールに沈み込んだ。
「マスター、バーボン。ロックで」
言うと、白いシャツに黒の蝶タイ姿の巨漢はじろりと俺を見下ろした。数秒後、驚いたことに本当にロックアイスに琥珀色の液体を注いだタンブラーが滑りでてくる。
ちびりと舐め、その強烈な味に顔をしかめていると、隣のスツールにひょろりと長身の男が座った。スーツに趣味の悪いネクタイを締め、あろうことか額に同じく悪趣味なバンダナを巻いている。
「エギル、俺にもバーボン」
男――カタナ使いのクラインはくるりとスツールを回転させ、店内の一角、女性陣が華やかな笑い声を上げているテーブルをだらしない顔で見つめた。
「おいおい、いいのかよ。この後会社に戻るんだろう」
「へっ、残業なんて飲まずにやってられるかっての。それにしても……いいねェ……」
鼻の下を伸ばしまくるクラインに、俺はため息をつくともう一口バーボンを啜った。
しかしまあ、確かに視覚の保養と言いたくなる光景ではある。アスナ、リズベット、シリカ、サーシャ、ユリエール、直葉と、女性プレイヤー陣が勢ぞろいしているところは写真に撮って飾っておきたいほどだ。いや――実際、ユイのために録画しているのだが。
反対側のスツールに、もう一人男が座った。こちらもスーツ姿だが、クラインと違ってまともなビジネスマンと言った印象だ。元「軍」の最高責任者、シンカーだ。
俺はグラスを掲げると、言った。
「そういえば、ユリエールさんと入籍したそうですね。遅くなりましたが――おめでとう」
カチンとグラスを合わせる。シンカーは照れたように笑った。
「いやまあ、まだまだ現実に慣れるのに精一杯って感じなんですけどね。ようやく仕事も軌道に乗ってきましたし……」
クラインもグラスを掲げ、身を乗り出した。
「いや、実にめでたい! くそう、俺もあっちで相手見つけとけばよかったぜ。そういえば、見てますよ、新生『MMOトゥデイ』」
シンカーは再び照れた笑顔を浮かべる。
「いや、お恥ずかしい。まだまだコンテンツも少なくて……それに、今のMMO事情じゃ、攻略データとかニュースとかは、無意味になりつつありますしねえ」
「まさしく宇宙誕生の混沌、って感じだもんな」
俺も頷くと、ちゃかちゃかとシェイカーを振っている店主を見上げた。
「エギル、どうだ? その後――『種』のほうは」
禿頭の巨漢は、ニヤリと子供なら泣き出しそうな笑みを浮かべると、愉快そうに言った。
「すげえもんさ。今、ミラーサーバがおよそ五十……ダウンロード総数は十万、実際に稼動している大規模サーバが三百ってとこかな」
茅場から託された『世界の種子』――。
俺は、茅場の助手であった女性との会談の数日後、ユイの手によってナーヴギアのローカルエリアからBDVDに落とされた巨大なそのファイルを、エギルの店に持ち込んだ。種子の『発芽』を手助けできるのは、俺の知己ではこの男しかいないと思ったからだ。
世界の種子。
それは――茅場の開発した、NERDLESシステムによるダイレクトVR環境を動かすための、一連のプログラム・パッケージだった。
五感のインプット・アウトプットを制御するプログラムの開発は、困難を極める。現実的には、全世界で稼動している全てのVRゲームは、茅場がアーガスで開発した『カーディナル』システムを元にしており、そのライセンス料は恐ろしいほどの巨額だった。
アーガス消滅に伴って、プログラムの権利はレクトに委譲され、更にレクトプログレスの解散によって新しい引き受け先が求められていたが、金額の大きさと、VRゲームというジャンルに対する社会的批判によってどの企業も手が出せず、ジャンル自体の衰退は確実視されていたのだ。
そこに登場したのが、完全権利フリーをうたうコンパクトなVR制御システム『ザ・シード』だったというわけだ。俺の預けたそのプログラムを、エギルはコネクションを駆使して全世界のあちこちのサーバにアップロードし、個人、企業に関わらず誰でも落とせるようにそれを完全に解放したのだった。
茅場はカーディナルシステムを整理し、小規模なサーバでも稼動できるようダウンサイジングしただけに留まらず、その上で走るゲームコンポーネントの開発支援環境をもパッケージングした。
つまり、VRワールドを創りたいと望むものは、回線のそこそこ太いサーバを用意し、『ザ・シード』をダウンロードして、3Dオブジェクトを設計、もしくは既存のものを配置し、プログラムを走らせれば――
それで、世界がひとつ誕生することになるのだ。
死に絶えるはずだったアルヴヘイム・オンラインを救ったのは、ALOのプレイヤーでもあったいくつかのベンチャー企業の関係者だった。
彼らは共同出資で新たな会社を立ち上げ、レクトからALOの全データをタダに近い低額で譲り受けた。それは、生還した愛娘から「おねだり」されたレクト新会長の意向によるものだったのだが。
アルヴヘイムの広大な大地は、新しいゆりかごの中で再生され、プレイヤーデータも完全に引き継がれた。事件によってゲームを辞めた者は全体の一割にも満たなかったらしい。
もちろん、誕生した世界はアルヴヘイムだけではなかった。
従来、ライセンス料を支払うほどの資金力の無かった企業や、はては個人に至るまで、数百にのぼる「創り手」が名乗りを上げ、次々とVRゲーム・サーバが稼動したのだ。あるものは有料、あるものは無料だったが、自然な流れとしてそれらは相互に接続されるようになり、いくつかのメタ・ルールが導入された。今では、ひとつのVRゲームでキャラクターを作れば、それで複数のゲーム世界をシフトできるのも当たり前になりつつある。
さらに、ザ・シードの利用法は、ゲームだけに留まらなかった。教育、コミュニケーション、観光、日々新たなカテゴリーのサーバが誕生し、日々新たな世界が生まれる――。VR世界の「現実置換面積」が、日本という国の大きさを上回る日も、そう遠くはない。
シンカーは苦笑しながらも、どこか夢見る眼差しで言葉を続けた。
「私たちは、多分いま、新しい世界の創生に立ち会っているのです。その世界を括るには、もうMMORPGという言葉では狭すぎる。私のホームページの名前も新しくしたいんですがね……なかなか、これ、という単語が出てこないんですよ」
「う~~……む……」
クラインが腕組みをして、眉を寄せて考え込む。俺は奴の肘を突付き、笑いながら言った。
「おい、ギルドに『風林火山』なんて名前付けるやつのセンスには誰も期待してないよ」
「なんだと! 言っとくが新・風林火山には加入希望者が殺到中なんだぞ!」
「ほう。かわいい女の子がいるといいな」
「ぐっ……」
言葉に詰まるクラインの顔を見てひとしきり大笑いすると、俺は再びエギルに向かって言った。
「おい、二次会の予定は変更無いんだろうな?」
「ああ、今夜十一時、イグドラシル・シティ集合だ」
「それで……」
俺は声を潜めた。
「アレは、動くのか?」
「おうよ。新しいサーバ群をまるまる一つ使ったらしいが、なんせ『伝説の城』だ。ユーザーもがっつんがっつん増えて、資金もがっぽりがっぽりだ」
「そう上手く行きゃあいいがな」
――茅場が残したファイルは、解凍したところ中身が二つあったのだ。
一つは『ザ・シード』。そしてもう一つは――
俺はグラスを干し、馴れないアルコールでくらくらする頭を一振りして店の天上を見上げた。黒い板張りが、深い夜空のように見えた。うっすらと灰色の雲が流れていく。月が姿を現し、世界を青く染める。そして、その彼方から現れる、巨大な――
「おーいキリト、こっちこーい!」
すっかり出来上がっているらしいリズベットが大声で喚き、手をぶんぶん振って俺を呼んだ。
「……あいつ、酔ってるんじゃないだろうな……」
彼女が手にもつ、ピンク色の液体を湛えた巨大なグラスに目を止め、俺が呟くとアウトロー店主がすました顔で言った。
「1%以下だから大丈夫だ。明日は休日だしな」
「おいおい」
首を振り、俺は立ち上がった。長い夜になりそうだった。
エピローグ2 浮遊城への帰還
漆黒の夜空を貫いて、リーファは飛翔していた。
四枚の翅で大気を蹴り、切り裂き、どこまでも加速する。耳もとで風が鳴る。
以前なら、限られた飛翔力で最大の距離を稼ぐため、最も効率のいい巡航速度や、加速と滑空を繰り返すグライド飛行法など、色々なことを考慮しながら飛ばなくてはならなかった。
しかしそれはもう過去の話だ。今の彼女を縛るシステムの枷は存在しない。
結局、世界樹の上に空中都市は無かった。光の妖精アルフは存在せず、訪れたものを生まれ変わらせてくれるという妖精王は偽の王だった。
しかし、一度この世界が崩壊し、新たな大地を得て転生したとき、新しい支配者――いや、調整者たちは、すべての妖精の民に永遠に飛べる翅を与えたのだ。アルフではなく、緑色の風の民シルフのままだけれど、リーファにはそれで十分だった。
集合時刻より一時間も早くログインし、ここしばらく滞在しているケットシー領首都フリーリアを飛び立ったリーファは、もう四十分に渡って飛びつづけていた。その間、一秒たりとも休むことはなく、ただ本能の命ずるままに翅を全力で振動させているのだが、グラスグリーンに発光する魔法のプロペラはわずかにも力を失うことなく、リーファの意思に応えつづけている。
この新しい世界での加速セオリーは、キリトに言わせれば自動車のそれによく似ているらしい。
飛び立った直後は、翅を左右に広げ、振幅も大きく取り、「トルク重視」――これもキリトの言葉だ、意味はよくわからない――の飛び方で力強く空気を蹴り飛ばす。
徐々に速度が乗ってくると、それに合わせて翅の角度を鋭くし、振幅も細かくしていく。最高速度域では、翅は殆ど一直線になるまで畳まれ、見えなくなるほどの高速で振動するために地上からはまるで色つきの彗星が飛んでいくように見える。その段階に達すると速度の増加幅も微々たるもので、どこまでスピードが出せるかは、あとはもう飛行者の根性ひとつだ。たいていのプレイヤーは、恐怖と疲労によってやがて減速していくことになる。
先週開かれた「アルヴヘイム横断レース」では、リーファはキリトと凄まじいデッドヒートを演じた挙句、僅差で先にゴールに飛び込んだ。二人があまりに他の参加者をぶっちぎってしまったために、第二回の開催が危ぶまれているほどだ。
(あの時は、楽しかったな……。)
リーファは飛びながら小さく思い出し笑いをした。ゴール直前で追いすがってきたキリトが、リーファを笑わせようとしょうもない冗談をわめくという汚い手段に出て、まんまと爆笑してしまった。お返しにと、オブジェクト化して投げつけた毒消しポーションが命中しなかったら危くトップを奪われるところだった。
ああいうイベントで飛ぶのもいいけれど――しかしやはり、頭のなかを空っぽにして、ただただ限界の先を目指して加速していく時がいちばん気持ちいい。
数十分の飛翔で、すでに速度はギリギリのところまで上がっている。暗い闇に包まれた地上はもはや流れていく縞模様でしかなく、時々前方に小さな街の灯りが現われては、たちまち後方に消え去っていく。
体感的に、今までで最高のスピードに達した――と思った時点で、リーファは一瞬翅を広げ、体を反らせて急上昇に転じた。
頭上では、厚い雲の切れ目に巨大な満月が輝いている。その、青白い円盤目指してロケットのように舞い上がっていく。
数秒後、風鳴り音のわずかな変化とともに雲海に突入する。黒いヴェールの真っ只中を、銃弾のように一直線に貫く。至近距離で雷光が瞬き、雲の塊が白く染まるが、意に介せず突き進む。
やがてついに雲海を抜ける。ペールブルーの月光が世界を包み、眼下には一面の雲の平原。もう見えるのは、彼方で雲を貫いてそびえる世界樹の尖端のみだ。さすがに速度がやや鈍ってくるが、唇を引き結び、指先をぴんと伸ばして、一心に満月を目指す。気のせいか、銀の皿のような月の直径が少しずつ大きくなってくる。いくつものクレーターがはっきりと見える。
そのうちのひとつ、巨大な窪みの中央に、キラキラと瞬く光の群があるように思えるのは眼の錯覚だろうか? それともあそこには、誰も知らない月の民が暮らす街があるのだろうか? もう少し――もう少し近づけば――
しかしとうとう、世界の果て、限界高度の壁がリーファを捕える。加速が急激に鈍り、体が重くなる。この先で仮想空間が終わっているのだ。これ以上上昇できないのは仕方ない。でも……
リーファはいっぱいに右手を伸ばす。月を掴もうとするかのように、指を広げる。行きたい。もっと、高く。どこまでも遠く。成層圏を越え、重力を切り離し、あの月世界まで。いや、その先、惑星軌道をまたぎ、彗星を追い越し、星々の大海まで――。
ついに上昇速度がゼロになり、ついでマイナスになる。リーファは手を大きく広げたまま、夜空を自由落下していく。月が徐々に遠ざかる。
でも、リーファはまぶたを閉じ、微笑を浮かべる。
今はまだ、届かないけど――
キリトに聞いた話では、このアルヴヘイム・オンラインも、より大きなVRMMO集合体に接続する計画があるそうだ。手始めに、月面を舞台にしたゲーム「LUNASCAPE」と相互連結するらしい。そうすれば、あの月まで飛んでいけるようになる。やがて他のゲーム世界も、それぞれひとつの惑星として設定され、星の海を渡る連絡船が行き来する日がくる。
どこまでも飛べる。どこまでも行ける。けれど……絶対に行けない場所もある。
不意にリーファは、一抹の寂しさを感じる。
ふわふわと雲海に向かって落下しながら、両手でぎゅっと体を抱きしめる。
寂しさの理由はわかっている。今夜、現実世界でキリト――和人に連れていってもらったパーティーのせいだ。
とても楽しかった。今まで、この世界でしか会うことのできなかった新しい友人たちと初めてリアルで顔をあわせ、色々な話をした。あっという間の三時間だった。
でも、同時に直葉は感じていた。彼らを繋ぐ、目には見えないけれどとても強い、絆の存在を。いまは無い「あの世界」、浮遊城アインクラッドで共に戦い、泣き、笑い、恋をした記憶――それは、現実世界に帰ってきてもなお、彼らのなかで強い光を放っているのだ。
和人のことが好きな気持ちは変わっていない。
夜、ドアの前でおやすみを言うとき、朝、いっしょに駅まで走るとき、いつもふんわりと暖かい陽だまりのような気持ちを感じる。
いっそ本当の兄妹のままなら、そうでないなら違う街にすむ他人同士ならと、辛い涙を流したこともあった。でも今は、毎日同じ屋根の下で暮らせることが幸せだと思う。和人の心全部でなくていい。その片隅に、ほんの少し自分のための場所を作ってもらえれば、それでいい。
――ようやく、そう思えるようになってきたところだったのに。
あのパーティーで、和人がいつかは遠い、手の届かないところに行ってしまうような、そんな予感がした。あの人たちの絆のあいだには入っていけない。そこに、直葉の場所はない。なぜなら、直葉には「あの城」の記憶がないから。
体を小さく丸めて、リーファは流星のように落下を続けた。
雲海はもうすぐだ。集合場所は世界樹の上部に新設された街イグドラシル・シティなので、そろそろ翅を広げ、滑空を始めなくてはならない。でも、心を塞ぐ寂しさのせいで、翅が動かせない。
冷たい風が頬を撫でていく。胸のなかの温もりを奪っていく。このまま暗い雲の海に、深く、深く沈んで――
突然、体が何かに受け止められ、落下が止まった。
「――!?」
リーファは驚いて瞼を開けた。
目の前に、キリトの顔があった。両手でリーファを抱きかかえ、雲海の直前でホバリングしている。なんで――、と言う前に、浅黒い肌のスプリガンは口を開いた。
「どこまで昇ってくのか心配したぞ。もうすぐ時間だから迎えにきたよ」
「……そう……ありがと」
リーファはにこりと笑うと、翅を羽ばたかせ、キリトの腕から抜け出した。
この新しいアルヴヘイム・オンラインを動かしている運営体が、レクトプログレス社から移管された全ゲームデータ、その中には旧ソードアート・オンラインのキャラクターデータも含まれていた。そこで、運営体は元SAOプレイヤーが新ALOにアカウントを作成する場合、外見も含めてキャラクターを引き継ぐかどうか選択できるようにしたのだ。
よって、リーファが日ごろ一緒に遊んでいるシリカやアスナ、リズベット達は、妖精の種族的特徴は付加されたものの基本的に現実の姿に限りなく近い外見を持っている。でも、キリトは選択肢を与えられたとき、以前の外見を復活させることをせず、このスプリガンの姿を使いつづけることを選んだ。あの凄まじいまでのステータスもあっさりと初期化し、一から鍛えなおしている。
今、ふとリーファはその理由を知りたくなり、同じく宙にホバリングしながらキリトに問い掛けた。
「ねえ、お兄ちゃ……キリト君、なんで他の人みたいに、元の姿に戻らなかったの?」
「うーん……」
するとキリトは腕を組み、どこか遠くを見るように瞳を煙らせた。薄く微笑み、答える。
「あの世界のキリトの役目はもう終わったのさ」
「……そっか」
リーファも小さく笑った。
スプリガンの戦士キリトと最初に出会い、世界樹まで旅をしたのは自分なのだ。そう思うと、少しだけ嬉しかった。
立ったまま宙を移動すると、リーファはキリトの右手を取った。
「ね、キリト君。踊ろう」
「へ?」
目を丸くするキリトを引っ張り、雲海の上を滑るようにスライドする。
「最近開発した高等テクなの。ホバリングしたままゆっくり横移動するんだよ」
「へ、へえ……」
キリトも挑戦心を刺激されたようで、真剣な顔をするとリーファの動きに合わせて滑ろうとした。しかしすぐつんのめってバランスを崩す。
「のわっ!」
「ふふ、前加速しようとするとだめなんだよ。そうじゃなくて、ほんのちょっとだけ上昇力を働かせて、同時に横にグライドする感じ」
「むむう……」
リーファに腕を引かれ、よろめきながら数分間苦戦したキリトは、やがてさすがの適応力でコツを会得したようだった。
「おっ……なるほど、こうか」
「そうそう。うまいうまい」
ニコっと笑い、リーファは腰のポケットから小さなビンを取り出した。栓を抜き、空中に浮かせると、ビンの口から銀色の光のつぶが溢れ出し、同時にどこからともなく澄んだ弦楽の重奏が聞こえてくる。プーカのハイレベル吟遊詩人が、自分たちの演奏を詰めて売っているアイテムだ。
音楽にあわせ、リーファはゆっくりとステップを踏み始めた。
大きく、小さく、また大きく、ふわりふわりと空を舞う。両手を繋いだキリトの目をじっと見て、動きの方向をアドリブで合わせていく。
しんしんと蒼い月光に照らされた無限の雲海を、二人はくるくると滑る。最初は緩やかだった動きを徐々に速く、一度のステップでより遠くまで。
リーファの翅が散らす碧の光と、キリトの翅が振り撒く白い光が重なり、ぶつかって消える。風の音が遠ざかる。そっと目を閉じる。
指先から伝わるキリトの心を、気持ちぜんぶで感じ、受け止める。
これが最後になるかもしれない、そう思った。
今まで何度か訪れた、二人の気持ちが触れ合う魔法の瞬間。それも多分、これで最後。
キリト――和人には、彼の世界がある。学校、仲間たち、そして、大切な人。彼の羽根は強く、その歩幅は大きすぎて、伸ばした手もなかなか届かない。
二年前、彼があの世界に旅立ち、帰ってこなかったあの日から、やはり二人の道は遠ざかりはじめていたのだ。その背中に近づきたくて、妖精の翅を手に入れてみたけれど、和人や、あの人たちの心の半分はいまでも空に浮く幻の城にある。
科学技術の進歩は、仮想の世界を限りなくリアルにしていった。ゲームという枠を越えて、仮想を現実に変えていった。でも、人はいくつもの現実を生きられるほど器用じゃない。きっと和人は、あの世界で一生分を生きてしまったのだ。直葉が決して目にすることのない、夢幻の世界で。
閉じた瞼から、涙がこぼれるのを感じた。
「――リーファ……?」
耳もとで、キリトの声がした。
リーファは目をあけると、微笑みながら彼の顔を見た。同時に小瓶から溢れていた音楽が薄れ、フェードアウトし、瓶が砕けるかすかな音とともに消滅した。
「……あたし、今日は、これで帰るね」
キリトの手を離し、リーファは言った。
「え……? なんで……」
「だって……」
再び、涙が溢れた。
「……遠すぎるよ、お兄ちゃんの……みんなのいる所。あたしじゃそこまで、行けないよ……」
「スグ……」
キリトは真剣な瞳でリーファを見つめた。かすかに首を振った。
「そんなことない。行こうと思えば、どこにだって行ける」
答えを待たず、キリトは再びリーファの手を取った。固く握り、身を翻す。
「あ……」
力強く翅を鳴らし、加速をはじめた。まっすぐ、雲海の彼方にそびえる世界樹に向かって。
有無を言わせない猛烈なスピードでキリトは飛んだ。繋いだ手はわずかにも緩まず、リーファも必死で後を追う。
世界樹は、近づくにつれ天を覆うほどの大きさになった。その、幹がいくつもの枝に分かれている中央に、無数の光の群があった。イグドラシル・シティの灯だ。
その中央、一際高く、明るく輝く塔に向かってキリトは翔けていく。
灯りの集合体が、建物の窓から漏れる光や、大通りを照らす街灯に分かれはじめた――その時だった。
幾重にも連なった鐘の音が響き始めた。アルヴヘイムの零時を知らせる鐘だ。世界樹内部、アルンとイグドラシルシティを繋ぐエレベータが設けられた大空洞上部に設置され、その音は全世界に響く。
キリトが翅を広げ、急ブレーキをかけた。
「わぁっ!?」
リーファは止まりきれず、衝突しそうになった。ホバリングし、腕を広げたキリトの体にぶつかり、ふわりと抱き止められる。
「間に合わなかったな。――来るぞ」
「え?」
台詞の意味がわからず、リーファはキリトの顔を見た。キリトはにっと笑ってウインクすると、空の一角を指差した。彼の腕のなかで体の向きを変え、夜空を見上げる。
巨大な満月が、冴え冴えと蒼く光っている。――それだけだ。
「月が……どうかしたの?」
「ほら、よく見ろ」
キリトが一層高く腕を伸ばす。リーファは目を凝らす。
輝く銀の真円、その右上の縁が――わずかに欠けた。
「え……?」
リーファは目を見開いた。月蝕……? と一瞬思ってから、アルヴヘイムではついぞそんなことは起きたことがないのを思い出す。
月を侵食する黒い影は、どんどんその面積を増やしていく。しかし、その形は円形ではない。三角形の楔が食い込んでいくような――。
不意に、低い唸りがリーファの耳をとらえた。ゴーン、ゴーンと重々しく響く音。はるか遠くから、空全体を震わせるように降り注いでくる。
影はついに、月全体を覆い隠してしまった。しかし彼方から届く月光が、三角形の影の輪郭を朧に浮き上がらせている。どんどん、どんどん大きくなる。近づいてくる。
どうやらそれは、円錐形の物体のようだった。距離感がよく掴めない。眉をしかめ、視線を凝らす。と――
突然、その浮遊物それ自体が発光した。
まばゆい黄色い光を、四方に放つ。
どうやら、幾つもの薄い層を積み重ねて作られているようだった。光はその層の間から漏れてくる。底面からは三本の巨大な柱が垂れ下がり、その先端も眩く発光している。
船……? 家……? リーファは首をかしげた。その間にも、それはみるみる大きくなっていく。もう、空の一部を完全に覆い尽くしてしまっている。重低音が体を震わせる。
と、一番下の層と層との間に、何か見えるのに気付いた。いくつもの小さな突起が下から上へと伸びている。いや――あれは――
建物だ! 何階分もの窓が並んだ巨大な建築物が、いくつも密集している。しかし――建物のサイズから換算すると、あの、何十もありそうな層ひとつが、風の塔ほどの高さがあることになる。それでは、あの空飛ぶ円錐の、全体の大きさは……何百メートル、いや、何キロメートル……?
「あ……まさか……まさかあれは……」
そこまで考えて、ようやくリーファの脳裏に電撃的な啓示が閃いた。
「あれは……!」
振り向き、キリトの顔を見る。
キリトは、大きく一回頷くと、興奮を隠せない声で言った。
「そうだ。あれが――浮遊城アインクラッドだよ」
「――! ……でも……なんで? なんでここに……」
空に浮く巨城は、ようやく接近を緩め、世界樹の上部の枝とわずかに接するほどの距離で停止した。
「決着をつけるんだ」
キリトが、静かな声で言った。
「今度こそ、一層から百層まで完璧にクリアして、あの城を征服する。死と悲鳴の世界の記憶を塗り替える。――リーファ」
ぽん、とリーファの頭に手を置き、言葉を続ける。
「俺、よわっちくなっちゃったからさ……手伝ってくれよな」
「……あ……」
リーファは声を詰まらせ、キリトの顔を見つめた。
――行こうと思えば、どこにだって行ける。
再び、涙が頬を伝い、キリトの胸に落ちた。
「――うん。行くよ……どこまでも……一緒に……」
寄り添って、あまりにも巨大な浮遊城を眺めていると、足元の方向から声がした。
「おーい、遅いぞキリト!」
リーファが視線を向けると、赤い髪に黄色と黒のバンダナを巻いて、腰に恐ろしく長い刀を差したクラインが上昇してくるところだった。
その隣に、ノームの証である茶色の肌を光らせ、巨大なバトルアックスを背負ったエギル。
レプラコーン専用の銀のハンマーを下げ、純白とブルーのエプロンドレスをなびかせたリズベット。
艶やかに黒い耳と尻尾を伸ばし、肩に水色の小さなドラゴンを乗せたシリカ。
手を繋いで飛ぶ、ユリエールとシンカー。
まだ飛行に馴れないようで、スティックを握ってふらふらと飛ぶサーシャ。
いつのまに合流したのか、サクヤとアリシャ・ルーに、数人のシルフとケットシーのプレイヤー達も続く。
ぶんぶん手を振りながら上昇してくるレコン。
サラマンダー将軍のユージーンと、部下たち。
「ほら、置いてくぞ!」
クラインの叫び声を残して、大パーティーは我先にと夜空を舞い上がり、天空の城目指して突進していく。
最後に、白のチュニックとミニスカートに白銀のレイピアを吊り、肩に小さなピクシーを乗せたアスナが、長い、青い髪をきらめかせて二人の前に停止した。
「さあ、行こ、リーファちゃん!」
差し出された手を、リーファはおずおずと握った。アスナはにこっと笑い、背中の水色の翅を羽ばたかせて身を翻す。
その肩からユイが飛び立ち、キリトの肩に着地した。
「ほら、パパ、はやく!」
キリトは透き通った視線で一瞬アインクラッドを見つめ、しばしうつむいた。その唇が動き、かすかな声で誰かの名前を呼んだようだったが、聞き取れなかった。
勢い良く顔を上げたときは、キリトの顔にはいつもの不敵な笑みが戻っていた。翅を大きく広げ、真っ直ぐに天を指差す。
「よし――行こう!!」
Sword Art Online 2 フェアリィ・ダンス
―― 完 ――
SAO3_01_Unicode.txt
プロローグ 2015年冬
『だからね、 AGI 万能論そのものが幻想だって言ってるんですよ』
キーの高い男の声が、広い酒場いっぱいに響き渡った。
『確かにAGIは重要なステータスですよ。速射と回避、このふたつの能力が突出していれば充分に強者足り得た。これまではね』
得々と語っているのは、薄暗い店内の中央上空に浮かぶ四面ホロパネルに映し出されたプレイヤーだった。
ネット放送局《MMOフラッシュ》の人気コーナー、《勝ち組さんいらっしゃい》である。現実世界でもPCでストリーム動画を観ることができるが、無数のVRMMOワールド内でも宿屋や酒場などで常時放送されており、やはりプレイヤーたちは「中」で視聴するほうを好む。
ことに、ゲストプレイヤーが「その世界」の住人であれば尚更だ。
『しかし、それはもう過去の話です。八ヶ月かけてAGIをガン上げしてしまった 廃組 さんたちには、こう言わせてもらいますよ――ご愁傷様、と』
嫌味たっぷりな口調に、広い店内のそこかしこからブーイングが湧き起こり、いくつもの酒瓶やグラスが床に叩きつけられて、ポリゴンの小片を撒き散らしながらたちまち消滅した。
だが「彼」は、その騒ぎには加わらず、店の一番奥のソファに体を丸めたままじっとしていた。
深くかぶった迷彩マントのフードと、顔の下半分を覆う厚布の隙間から、冷ややかな視線で店内を眺める。
テレビの中で鼻高々になっている男も憎らしいが、それ以上に、阿呆面でテレビを眺めるプレイヤーたちが不快だった。皆、ブーブーとやっかみの声を上げながらも、それをお祭り騒ぎとして楽しんでいる。
何故そこまで脳天気になれるのか、「彼」にはまったく理解できなかった。テレビの中の男は、単なる運で世界最強の地位を手に入れ、同時に最大の搾取者となったのだ。大部分のプレイヤーが支払う接続料を掻っ攫い、プロゲーマーを気取っている。
腹の中では、「彼」と同じように全プレイヤーが男を妬み、憎悪しているはずだ。その感情が醜悪だと言うなら、それを隠し、上辺の笑いに紛らわせるのは醜いうえに滑稽ではないか。
「彼」はマントの下で全身を強張らせ、噛み締めた歯のあいだから細く息を吐き出す。まだ時間ではない。トリガーを引くのはもうすこし後だ。
視線をホロパネルに戻すと、カメラがズームアウトし、男の右に座る番組のホストと、左に座るもうひとりのゲストをフレームに入れたところだった。
ホスト役の、テクノポップな衣装に全身を包んだ少女が甘ったるいアニメ声で言った。
『さすが、全VRMMO中最もハードと言われるガンゲイル・オンラインのトッププレイヤーだけあっておっしゃることがカゲキですネ』
『いやあ、「Mフラ」に呼ばれるなんてひょっとしたら一生に一度でしょうしね。言いたいこと言っちゃおうと思って』
『またまたー。今度の「バレット・オブ・バレッツ」も狙ってらっしゃるんでしょう?』
『そりゃもちろん、出るからには優勝を目指しますけどね』
男は、派手な銀の長髪をかきあげ、カメラ目線で不敵に宣言した。再び店内にブーイングの嵐。
MMOフラッシュは、ガンゲイル・オンライン――通称GGO内部のコンテンツではないが、出演者はホストもゲストも生身ではなくバーチャル・ボディだ。《勝ち組さんいらっしゃい》は、毎週さまざまなVRMMOからトッププレイヤーを招くインタビュー番組で、今週のゲストは、GGOで先月行われた最強者決定バトルロワイヤル、通称バレット・オブ・バレッツの優勝者と準優勝者というわけだ。
『しかしねえ、ゼクシードさん』
散々銀髪の男の自慢話を聞かされた準優勝の男が、たまりかねたように口を開いた。
『BOBはソロの遭遇戦じゃないですか。二度やって同じ結果になる保証はないわけで、ステータスタイプの勝利みたいに言うのはどうなんですかねえ』
『いやいや、今回の結果は全GGO的傾向の表れと言えますよ。闇風さんはAGI型だから、否定したい気持ちもわかりますがね』
ゼクシードと呼ばれた優勝者が即座に言い返す。
『これまでは確かに、AGIをがんがん上げて、強力な実弾火器を速射するのが最強のスタイルでした。同時に回避ボーナスも上がるので、耐久力の不安点も補えましたしね。でもMMOっていうのは、スタンドアローンのゲームとは違って、刻々バランスが変わっていくものなんですよ。特に レベル型 はステータスの組み替えができないんだから、常に先を予測しながらポイントを振らなきゃ。そのレベルゾーンで最強のスタイルが、次でも最強とは限らない。ね、考えればわかるでしょう。今後出現する火器は、装備要求 STR も、命中精度もどんどん上がっていきますよ。回避しまくって無傷で切り抜けようなんて甘い考えがいつまでも通用するわけないんです。ボクと闇風さんの戦闘がそれを象徴してますよ。あなたの銃はボクの防護フィールドでかなり威力を減殺されたし、逆にボクの射撃は七割近く命中した。はっきり言えばね、これからはSTR- VIT 型の時代ですよ』
立て続けに捲し立てられ、闇風という男はいかつい顔を悔しそうにゆがめた。
『……しかし、それはゼクシードさんがBOB直前に要求STRぎりぎりのレア銃を入手した結果でしょう。いくら払ったんです、あれ?』
『いやだなあ、 自力ドロップ ですよもちろん。そういう意味では、最重要ステータスは リアルラック ということになるかもですね、ははは』
ホロパネルの中で笑う銀髪の男を、怨嗟を込めた視線で睨みながら、「彼」はマントの下で手を動かした。ホルスターから突き出た分厚いグリップを探り当て、きつく握り締める。もうすぐ――もうすぐ、その時がくる。視界の端の時刻表示を確認する。あと1分20秒。
「彼」の隣のテーブルに座る二人組が、ジョッキを呷りながらぼやいた。
「けっ、調子いいこと言いやがって。昔、AGI型最強! って言いまくってたのはゼクシードのヤツ自身じゃねえかよ」
「今にして思えば、ありゃ流行をミスリードする罠だったんだろうなあ……。やられたぜまったく……」
「てことは、あのSTR-VIT最強ってのもブラフか?」
「じゃあほんとは何が来るんだろうな。 LUK ガン上げかな?」
「お前やれよ」
「やだよ」
二人組はひゃっひゃっと笑う。その声が、「彼」の怒りをさらに熱していく。騙されたと気付いているなら、なぜそんなふうに笑っていられるのだ。理解できない。
――しかし、その愚鈍な笑いもすぐに凍りつくことになる。真の力、真の最強者をその目で見れば。
時間だ。
「彼」はゆっくりと立ち上がった。テーブルの間を、一歩一歩進んでいく。誰も、「彼」には目も止めない。
愚か者たちよ……恐怖するがいい。
「彼」はつぶやくと、酒場の中央、ホロパネルの真下で立ち止まった。体を包むマントを跳ね除け、同時にホルスターから大ぶりのハンドガンを抜き出す。
闇そのものを凝縮したかのように漆黒のマットブラックに塗装された銃の、やや太目の銃身にはひと筋深紅のラインが流れている。見た目には、大した威力もなさそうな、どこにでもあるカスタムガンだ。しかしこの銃には本物の「力」がある。「彼」はゆるやかな動作で、銃口をぴたりと上空――巨大なホロパネルに向けた。その中で笑う、最強プレイヤー・ゼクシードの額に。
「彼」がしばらくそのままの格好でいると、やがて周囲からいぶかしげなざわめきが湧き起こった。PK無制限のGGOでも、さすがに街中だけはキル不可能となっている。弾丸の発射はできても、プレイヤーにダメージを与えるどころかオブジェクトの破壊すらできない。
「彼」の無意味な行動に、いくつかの失笑が響いた。しかし「彼」は微動だにせず、黒い銃を掲げ続ける。
パネルの中のゼクシードは、相変わらず嫌味な台詞を吐き続けている。ゼクシードの生身は現実世界のどこかに横たわり、そこからMMOフラッシュのバーチャル・スタジオに接続しているので、もちろんガンゲイル・オンライン世界の首都グロッケン中央街にある酒場で、テレビに映る自分に銃口が向けられているなどとは気付くはずもない。
しかし「彼」は口を開き、出せるかぎりの大声で叫んだ。
「ゼクシード! 偽りの勝利者よ! 今こそ、真なる力による裁きを受けるときだ!! ――死ね!!」
呆気にとられたプレイヤーたちの視線を浴びながら、「彼」はトリガーを引いた。
一瞬、銃身を彩る深紅のラインが輝き、同時におなじくクリムゾンレッドの光弾が発射された。ズシュウッ!! という重い炸裂音。照明の絞られた酒場の薄闇を、深紅のビームが貫き――ホロパネルの表面にぱあっとライト・エフェクトを散らした。
それだけだった。画面内では相変わらず、ゼクシードが目まぐるしく口を動かしている。
今度こそ、店内に嘲笑が湧き起こった。「あいたたた」「やっちゃった」などという声が漏れ聞こえる。それにかぶさって、ゼクシードの声。
『……ですからね、ステータス・スキル選択も含めて、最終的にはプレイヤー本人の強さ、資質が…………』
台詞がふっと途絶えた。
店中の視線が再びパネルを向いた。
ゼクシードは、口を開けたまま、目を丸くして凍り付いていた。その手がゆっくりと持ち上がり、ぎゅっと胸の中央を掴む。
直後、その姿はふっと掻き消えた。ホストが、慌てたように言った。
『あらら、回線が切断してしまったようですね。すぐ復帰されると思うので、皆さんチャンネルはそのまま……』
しかし、店中の誰もがもうそれを聞いていなかった。しんとした静寂のなか、全ての視線が「彼」に集まっていた。
「彼」は掲げたままだった銃を戻し、ぴたりと水平に構えた。そのまま、ゆっくりと体を回転させ、店内のプレイヤーたちを射線でなぞっていく。
一回りすると、「彼」はもう一度黒い銃をまっすぐ掲げ、叫んだ。
「……これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め――」
「俺と、この銃の名は《死銃》…………《デス・ガン》だ!!」
静寂の中、「彼」は銃をホルスターに戻し、左手を振ってメニューを出した。
ログアウトボタンを押しながら、「彼」は勝利感と、それに倍する焼け付くような餓えを味わっていた。
第一章 殺意侵食
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
と慇懃に頭を下げるウェイターに、待ち合わせです、と答え、俺は広い喫茶店内を見渡した。
すぐに、窓際の奥まった席から無遠慮な大声が俺を呼んだ。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
上品なクラシックの流れる空間に低くさざめいていた談笑の声が一瞬ぴたりと静止し、批難めいた視線が集中するなかを、俺は首を縮めて早足に進んだ。化繊のスウェットの上に古ぼけた革ブルゾンという出で立ちの俺は、買い物帰りの上流階級マダムたちが八割を占めるこの店ではいかにも場違いで、こんな所に呼び出した相手への怒りが今更のように湧き起こる。
これで、先方が妙齢の美女というならまだ我慢するが、生憎手を振っているのはスーツ姿の男だった。俺は不機嫌さを隠しもせず、どすんと椅子に腰を落とした。
即座に横合いからウェイターがお冷やのグラスとお絞り、メニューを差し出す。本革張りと見えるそれを手にとり、相手の顔も見ずに開く。
「ここは僕が持つから、何でも好きに頼んでよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
つっけんどんに答えてメニューに目を走らせると、恐ろしいことに最も廉価なのが《シュー・ア・ラ・クレーム¥1200》也で、反射的にブレンドひとつ、と答えそうになるが、よくよく考えれば男は超高給の上級官僚であり、そもそも支払いは経費つまり国民の血税によって行われるのだということに気付いて阿呆らしくなった俺は、平静を装った声でオーダーした。
「パルフェ・オ・ショコラ……と、フランボワズのミルフィーユ……に、ヘーゼルナッツ・カフェ」
計3900円だ。ハンバーガーにシェイクで済ませて差額を現金でよこせと言いたくなる。ちなみに、頼んだモノの実態はまるで見当もつかない。
「かしこまりました」
一礼したウェイターが音もなく退場し、俺はようやく一息ついて顔を上げた。
ニコニコしながらごてごてとクリームの乗った巨大プリンをぱくついている男の名は菊岡誠二郎。黒縁の眼鏡にしゃれっ気の無い髪型、国文の教師然とした、キマジメそうな線の細い顔はとてもそうは見えないが、これで国家公務員のキャリア組であり、所属するのは総務省総合通信基盤局高度通信網振興課第二別室、省内での名称は通信ネットワーク内仮想空間管理課、通称仮想課。
つまりこの男は、現在無秩序な氾濫状態にあるVRワールドを監視する、国側のエージェント……もしくはスケープゴートというわけだ。本人はことあるごとにトバされたと我が身を嘆いているが、それはまあ……事実であろうと俺も思う。
その不遇な菊岡氏は、幸せそうにプリンの最後のひとかけらを口に運ぶと、眼鏡の奥の色の薄い目で俺を見た。
「や、悪かったね、わざわざ」
「そう思うなら銀座なんぞに呼び出すなよ」
「この店のカスタードクリーム、絶品なんだよねえ。シュークリームも頼もうかな……」
俺はため息をつきながら、熱いオシボリで手を拭った。
菊岡とは、SAOから脱出した直後、病院で顔を合わせたのが最初だからまだ一年に満たない付き合いだが、この男が自分からは決して本題を切り出さないのを知っているので、こっちから話を振ることにする。
「――どうなんだ、最近の VC 件数は」
「増えてるねえ」
相変わらずにこにこしながら、菊岡は答えた。内ポケットからPDAを取り出し、ぽちぽちと叩く。
「ええと……VRゲーム内のトラブルが原因の傷害事件が、11月だけで13件。うち2件が傷害致死。また、ゲーム内の盗難等でユーザーもしくは運営会社を相手どった訴訟が6件。それに……これはキリト君も知ってるだろうけど、アメリカから通販で取り寄せた、装飾用の剣を自分で砥いで、新宿駅で振り回して二人殺したって事件ね。うひゃー、刃渡り120センチ重さ3.5キロだって。よくこんなの振れたね」
「廃プレイのために薬使ってたって奴か。確かに救われない事件だけど……言わせてもらえればその程度の件数なら……」
「そう、その通り。全国で起きる事件の中では微々たる数だし、これを以ってVRMMOゲームが社会不安を醸成している、なんて短絡な結論は出しゃしないよ。でもね、君も前に言っていたけど……」
「――VRMMOゲームは他人を物理的に傷つけることへの心理的障壁を低くする。それは俺も認める」
その時、ウェイターが再び歩行音なしに現れ、俺の前に皿を並べた。
「以上でお揃いでしょうか」
頷くと、恐ろしい金額の記された伝票を残し、消える。俺はとりあえずナッツの香りが漂うコーヒーを一口含み、話を続けた。
「……一部のゲームでは PK 行為が日常化しているし、あれはある意味では現実的殺人の予行演習だからな。先鋭化したタイトルでは、腕を切れば血が噴出すし、腹を切れば臓物がブチまけられる。それに取り付かれたマニアはログアウトの代わりに自殺したりするらしいからな」
こほん、という咳払いの音に隣を見ると、マダム二人が物凄い目で俺を睨んでいた。首をすくめ、小声で続ける。
「毎日あんなことを繰り返してれば、一丁現実でやってやろうって奴が出てくるのも不思議はないな。何らかの対策が必要だろうとは俺も思うよ。法規制は無理だろうがな」
「無理かね?」
「無理だね」
金のスプーンで、極薄の生地と桃色のクリームが何層にも重なったケーキをざくっとすくいとり、口に運ぶ。一口100円はするだろうな、とつい考えてしまう。
「ネット的に鎖国でもしないとな。国内でいくら取り締まっても、ユーザーも業者も海外に広がるだけだ」
「フム……」
菊岡は、真剣な視線をテーブルに落とし、数秒黙考したあと口を開いた。
「……そのミルフィーユおいしそうだね。一口くれないか」
「………………」
俺は深くため息をつきながら皿を菊岡の前に押しやった。キャリア官僚は嬉々としながらおよそ280円分をざっくり奪い去り、頬張る。
「しかしねえ、キリト君。僕は思うんだけどね……なんでPKなんてするんだろうね。殺しあうよりも仲良くするほうが楽しいだろう?」
「……アンタだってALOをプレイしてるんだから、少しはわかるだろう。NERDLES技術が出てくるずっと以前から、MMOゲームってのは奪い合いなんだよ。更に言えば、クリアという目的のないゲームにユーザーを向かわせる原動力はただ一つ……優越感を求める衝動だけだ」
「ほう?」
「ゲームに限った話じゃないぜ。認められたい、人より上に行きたいってのはこの社会の基本的構造そのものだろう。アンタだって憶えがあるはずだぜ。同じ総務省でも、自分よりいい大学を出て、上のポジションにいる奴は妬ましいし、逆にノンキャリアの役人に謙られりゃあ気持ちいい。その優越感と劣等感のバランスが取れてるから、どうにか平和にニンゲンやってられるんだ」
菊岡はミルフィーユを飲み込み、苦笑した。
「言い難いことをハッキリ言うね、君は。そういうキリト君はどうなんだい。バランス取れてるのかい?」
「…………」
そりゃあ勿論俺にも劣等感は山ほどあるが、他人に説明する気はさらさらない。
「……まあ、美人の彼女もいるからな」
「なるほど、その一点に置いては僕はキリト君が死ぬほど羨ましい。今度ALOで女の子を紹介してくれないか。あのシルフの領主さんなんか、好みだねえ」
「言っとくが、口説くときに、僕高級官僚なんだ、なんて言ったら斬られるぞ」
「彼女になら一度斬られてみたいね。――で?」
「で、その優越感てやつだが、現実世界で手に入れるのは意外に難しい。努力しないとなかなか手に入るもんじゃない。いい成績を取る努力、スポーツが上達する努力、女の子にモテる努力……そんなものがおいそれと実を結べば、誰も苦労はしない」
「なるほど。僕も受験では死ぬほど勉強したが、東大には落ちた」
「そこで、MMORPGだ。これは、現実を犠牲にして時間をつぎ込めばかならず強くなる。レアアイテムも手に入る。もちろんそれも努力だが、なんせゲームだ。勉強したり筋トレしたりするよりも格段に楽しい。高価な装備を着けて、ハイレベル表示をぶらさげて街の大通りを歩けば、自分より弱いキャラクターからの羨望の視線が集まる。あるいは、集まると錯覚できる。狩場に行けば、圧倒的攻撃力でモンスターを蹴散らし、ピンチのパーティーを救ったりもできる。感謝され、尊敬されると――」
「錯覚できる?」
「……もちろん、これは悪意ある視点だ。MMOゲームには他の要素もある。しかし、コミュニケーション自体を主眼としたネットワークゲームは昔からあったが、どれもMMORPGほどには成功しなかった」
「……なるほどね、そういうゲームでは、優越感を満足させにくかった?」
「そう。――そして、VRMMOゲームが出てきた。こいつはなんせ、街を歩けば実際に他人の視線を感じられるんだからな。モニタ越しに想像しなくてもいい」
「フムン。確かに、イグシティで君がアスナちゃんといっしょに歩いてるとみんな見とれるからねえ」
「……言い難いことをはっきり言うな、アンタ。ともかく、VRMMOゲームに時間をつぎ込めば、誰でもそれなりに優越感を手に入れることができる。そしてそれは、勉強ができるとか、サッカーがうまいとか、金があるとかいうソレよりも、もっとシンプルで、プリミティブで、人間の野生に訴える種類のものだ」
「……つまり……?」
「つまり、《強さ》だ。物理的な強さ。自分の手で、相手を破壊できる力だ。これは麻薬のようなものだ」
「…………」
「いつか、その力を本当に行使したくなる時が来る」
「……強さ……力、か」
菊岡は一瞬笑みを消し、呟いた。
「……男の子は、誰しも一度は強さにあこがれる。最強になりたいと思う。しかしそれはすぐほかの夢にすりかわる。――だが向こうの世界では、その夢がまだ生きている……ということか」
俺は頷き、珍しく喋りすぎたせいで乾いた喉をコーヒーで湿らせた。
「強力なキャラクターで日常的にPKを繰り返しているプレイヤーが、現実世界でトラブルの相手――つまり「敵」と相対したときに、物理的解決力に訴える確率が上がるのは充分有り得ることだろうな。類型的な見方だけどな」
「VRMMO世界での《強さ》が、現実を侵食するわけか。ねえ、キリト君」
菊岡は、再び真剣な顔になり、俺を見た。
「それは、本当に心理的なものだけなのだろうかね?」
「……どういう意味だ?」
「つまり、暴力に対する心理的ハードルを低くするだけでなく……実際に、何らかの《力》を現実に及ぼす……というようなことだが……」
今度は俺が考え込む番だった。
「……例えばあの、新宿で剣を振り回した男の筋力が、ゲーム世界で鍛えられたものだったりするか、ということか?」
「うん、そう」
「NERDLES機器が脳神経に及ぼす影響ってのは、まだ研究が始まったばっかりらしいからなあ……何とも言えないけど……でもそんなこと、俺よりアンタのほうが詳しいだろう?」
「大脳生理学のセンセイに話は聞きに行ったがね、チンプンカンプンさ。……ずいぶん遠回りしたが、今日の本題はそこなんだ。これを見てくれ」
菊岡はPDAを操り、俺に差し出した。
受け取り、覗き込むと、液晶画面に見知らぬ男の顔写真と、住所等のプロフィールが並んでいた。伸ばしっぱなしの感のあるぼさぼさの長髪、銀縁の眼鏡、かなり頬や首に脂肪がついている。
「……誰だ?」
俺からPDAを取り返し、菊岡はスタイラスペンを走らせた。
「ええと、先月……11月の14日だな。東京都杉並区某のアパートで、掃除をしていた大家が異臭に気付いた。発生源と思われる203号をノックしたが返事がない。電話にも出ない。しかし部屋の中の電気は点いている。これはということで鍵を開けて踏み込んで、この男……新保勇一、26歳が死んでいるのを発見した。死後五日半だったらしい。部屋は散らかっていたが荒らされた様子はなく、ホトケはベッドに横になっていた。そして頭に……」
「アミュスフィア、か」
俺が顔をしかめながら言うと、菊岡は頷いた。
「家族に連絡が行き、変死ということで司法解剖が行われた。死因は急性心不全となっている」
「心不全? ってのは心臓が止まったって事だろう? なんで止まったんだ?」
「わからん」
「…………」
「死亡してから時間が経ちすぎていたし、犯罪性が薄かったこともあってあまり精密な解剖は行われなかった。ただ、彼はほぼ二日に渡って何も食べないで、ログインしっぱなしだったらしい」
俺は再び顔をしかめる。
正直、その手の話は珍しくない。何せ、現実世界で何も食わなくても、向こうで仮想の食い物を詰め込むと偽りの満腹感が発生し、それは数時間持続するからだ。廃人級、と呼ばれる超コアなゲーマーにとっては、飯代は浮くしプレイ時間は増やせるしで、一日どころか二日に一食という人間も珍しくない。
しかし当然そんなことを続けていれば、体に悪影響を及ぼさないわけがない。栄養失調なんてのはザラで、発作を起こして倒れ、一人暮らしゆえそのまま……ということも珍しいことではないのだ。
「……確かに悲惨な話だが……」
俺が言うと、菊岡は自分のコーヒーを一口含み、頷いた。
「そう、悲惨だが今やよくある話だ。こういう変死はニュースにならないし、家族もゲーム中に急死なんて話は隠そうとするので統計も取れないしね。ある意味ではこれもVRMMOによる死の侵食だが……」
「……一般論を聞かせるために呼んだわけじゃないんだろう? 何があるんだ、そのケースに?」
「この新保君がプレイしていたVRMMOは1タイトルだけだった。《ガンゲイル・オンライン》……知ってるかい?」
「そりゃ……もちろん。唯一《プロ》がいるゲームだからな。入ったことは無いが」
「彼は、ガンゲイル・オンライン……略称GGO中ではトップに位置するプレイヤーだったらしい。十月に行われた、最強者決定イベントで優勝したそうだ。キャラクター名は《ゼクシード》」
「……じゃあ、死んだときもGGOにログインしてたのか?」
「いや、どうもそうではなかった。《MMOフラッシュ》というネット放送局の番組に出演中だったようだ」
「ああ……Mフラの《勝ち組さんいらっしゃい》か。そういやあ、一度ゲストが落ちて番組中断したって話を聞いたような気もするが……」
「多分それだ。出演中に心臓発作を起こしたんだな。ログで、秒に到るまで時間がわかっている。で、ここからは未確認情報なんだが……ちょうど彼が発作を起こした時、GGOの中で妙なことが有った、っていうんだ」
「妙?」
「MMOフラッシュはゲーム内でも中継されてるんだろう?」
「ああ。酒場とかで見られる」
「GGOの首都、グロッケンという街のとある酒場でも放送されていた。で、問題の時刻ちょうどに、一人のプレイヤーがおかしな行動をしたらしい」
「…………」
「なんでも、テレビに映っているゼクシード氏の映像に向かって、裁きをうけろ、死ね、等と叫んで銃を発射したということだ。それを見ていたプレイヤーの一人が、偶然音声ログを取っていて、時間が記録されている。ええと……テレビへの銃撃があったのが、11月9日午後11時30分2秒。新保君の回線が切断されたのが、11時30分15秒」
「……偶然だろう」
もう一つの皿を手許に引き寄せながら、俺は言った。
茶色の円筒形物体をスプーンで抉り、口に運ぶ。途端、その冷たさに驚く。ケーキかと思っていたらアイスクリームの類だったらしい。甘味をぎりぎりまで抑えた濃密なチョコレートの風味がいっぱいに広がり、値段を無視すればこれは悪くない代物だと判断する。
立て続けに三分の一ほどを胃に送り込んでから、言葉を続ける。
「GGOのトッププレイヤーともなれば、妬まれたり恨まれたりはほかのMMOの比じゃあないぞ。本人を直接銃撃するのは度胸が要るだろうが、テレビの映像を撃つくらいのことはあってもおかしくない」
「うん、だが、もう一件あるんだ」
「…………なに?」
俺はスプーンを動かす手を止め、相変わらずポーカーフェイスの菊岡を見上げた。
「今度のは一週間前、11月28日だな。埼玉県さいたま市大宮区某所、やはり二階建てアパートの一室で死体が発見された。新聞の勧誘員が、電気は点いているのに応答がないんで居留守を使われたと思って腹を立て、ドアを開けたら鍵が掛かってなかった。中を覗きこんだら、布団の上にアミュスフィアを被った人間が横たわっていて、同じく異臭が……」
ごほん! というわざとらしい咳の音に、俺と菊岡が会話を中断して隣を見ると、先ほどの二人組のマダムたちが、ゲイザーの邪眼もかくやという視線をこちらに向けていた。だが菊岡は意外な豪胆さを発揮し、ぺこりと会釈しただけで話を続けた。
「……まあ、詳しい死体の状況は省くとして、今度もやはり死因は心不全。名前は……これも省いていいか。男性、31歳だ。彼もGGOの有力プレイヤーだった。キャラネームは……《薄塩たらこ》? 正しいのかなこれ?」
「昔SAOに《北海いくら》ってやつがいたからそいつの親戚かもな。――そのたらこ氏も、テレビに出てたのか?」
「いや、今度はゲームの中だね。アミュスフィアのログから、通信が途絶えたのは死体発見の三日前、11月25日午後10時0分4秒と判明している。死亡推定時刻もそのあたりだね。彼はその時刻、グロッケン市の中央広場でスコードロン――ギルドのことらしいんだけど――の集会に出ていたらしい。壇上で檄を飛ばしているところを、集会に乱入したプレイヤーに銃撃された。街の中だったからダメージは入らなかったようだが、怒って銃撃者に詰め寄ろうとしたところでいきなり落ちたそうだ。この情報も、ネットの掲示板からのものだから正確さには欠けるが……」
「銃撃した奴ってのは、《ゼクシード》の時と同じプレイヤーなのか?」
「そう考えてよかろうと思われる。やはり裁き、力、といった言葉の後に、前回と同じ名を名乗っている」
「……どんな……?」
菊岡はPDAを眺め、眉をしかめた。
「《シジュウ》……それに、《デス・ガン》」
「デス・ガン……シジュウ……。死銃、か」
空になった皿にスプーンを置き、俺はその名前を口中で呟いた。キャラネームというのは、例えどのような冗談めいた名前であっても、確実にキャラクターの印象の一部を形作る。死銃、という名の響きが想起させたのは、黒い金属の冷ややかさだった。
「……死因が心不全ってのは確かなんだろうな?」
「……というと?」
「脳には……損傷は無かったのか?」
訊いた途端、菊岡は意を得たりというふうにニッと笑った。
「僕もそれが気になってね。検視を担当した先生に問い合わせたが、脳に出血や血栓といった異常は見られなかったそうだ」
「…………」
「それにね、ナーヴギアの場合は……あ、いいかい、この話して」
「いいよ」
「……ナーヴギアは、使用者に死をもたらすとき、素子を焼き切るほどの高出力マイクロウェーブを発して脳の一部を破壊したわけだけれど、アミュスフィアはそもそもそんなパワーの電磁波は出せない設計なんだよね。あの機械に出来るのは、視覚や聴覚といった五感の情報を、ごく穏やかなレヴェルで送り込むことだけだと、開発者たちは断言したよ」
「もうメーカーにまで問い合わせてるのか。……随分と手回しがいいな、菊岡さん? こんな偶然と噂だけで出来上がってるようなネタに?」
じっと眼鏡の奥の切れ長の目を見ると、菊岡は一瞬表情を消し、すぐにフッと唇をほころばせた。
「トバされた身としては、毎日が実にヒマでね」
「じゃあ、今度アインクラッドの最前線攻略に付き合えよ。メイジとしてはなかなか筋がいいってユージーンの旦那が褒めてたぞ」
実のところ、俺はこの男を外見や物腰どおりのトボケた役人とは思っていない。俺などと付き合い、ALOにキャラを作っているのも、ゲームに興味があるからではなく、そうするのがVRワールドを把握する上で都合がいいからなのだろう。以前に貰った名刺には確かに総務省と肩書してあったが、それすらもどこか疑わしいフシがある。本当の所属はもっと、国の治安に密接に関わる部署なのではないかと思えてならない。
しかしまあ、現在の「仮想課」が「SAO事件被害者救出対策本部」だった時代に、この男が奔走したことで全プレイヤーを病院に収容する体制が整ったのは確からしい。よって今のところは、好意と警戒心が六対四くらいの接し方をすることにしている。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、菊岡は後頭部を掻きながら照れくさそうに笑った。
「いやあ、スペルワードの暗記はともかく、詠唱がねえ。早口言葉、苦手なんだ昔から。……で、まあ、この件だけど、九割方偶然かデマだろうとは僕も思うよ。だから、ここからは仮定の話さ。――キリト君は、可能だと思うかい? ゲーム内の銃撃によって、プレイヤー本人の心臓を停めることが?」
菊岡のその台詞で、あるイメージが喚起され、俺は軽く眉を寄せた。
全身黒尽くめの……顔の見えない狙撃者が、虚空に向かって銃のトリガーを引く。発射されるのは黒い弾丸だ。それは、仮想空間の壁を貫き、パケットが飛び交うネットワークの世界に侵入する。ルータからルータ、サーバからサーバへと弾丸は何度も直角に曲がりながら突進する。やがてそれは、あるアパートの一室、壁に設けられたモジュラー・ジャックで実体化し、横たわる男の心臓へと……
頭を軽く振ってその妄想を払い落とし、俺は口を開いた。
「……では仮に、その……《死銃》なる銃撃者によって、《ゼクシード》と《薄塩たらこ》に何らかの信号が送られたとして……」
「おっと、まずはそこからだ。できるのかい、そんなことが」
「うーん……。……《イマジェネレイター・ウイルス》の騒ぎは憶えてるか?」
「ああ、あのびっくりメール事件ね」
イマジェネレイター、というのは、個人によって開発されたアミュスフィア専用のメールソフトだ。ソフトが生成する仮想空間にダイブし、カメラにむかってメッセージを吹き込むとそれをメール形式のファイルに圧縮してくれる。メールを受け取った側が再生すると、目の前に送り主のバーチャル体が現れ、メッセージを喋る、という仕組みだ。やがて、いろいろな映像、音楽を添付したり、触感までもメールで伝えることができるようになって大流行した。
しかしやがてソフトにセキュリティホールが発見され、それを突いたウイルスメールが横行する騒ぎが巻き起こった。メールを受信した時点で仮想空間にダイブしていると、どこに居ようと強制的にメールがプレビューされ、眼前にショッキングな映像やら音声やら――たいていエロいかグロいかどちらかだった――がぶちまけられるのだ。
もちろん即座に修正ファイルがアップされ、事件は収束したのだが……。
「――《イマジェン》はもう、ほとんどのアミュスフィアユーザーがインストールしている。もし未知のセキュリティホールが存在し、対象のアドレスもしくはIPが分かっていれば……」
「……なるほど、前もって送信タイマーを仕掛けておき、銃撃と同時に任意の信号を送り込む――ということは可能か」
菊岡は骨ばった指を組み合わせ、その上に顎を乗せて頷いた。
「では、そこはクリアしたとしよう。――しかし、送信できるのは致命的なレーザー光線じゃない。あくまで正常な感覚刺激だ」
「つまり、心臓を止めるほどの感触……もしくは味、匂い……光景、音……か。順番に考えていこう。まずは触覚、皮膚感覚だ」
俺は言葉を切り、右手の人差し指で左の掌をなぞった。先ほど、ケーキかと思って食べたものがアイスだったときの驚きを思い出す。
「……全身に、限界までの冷感を送り込んだらどうだ? 氷水の風呂に飛び込んだような。心臓麻痺を起こさないか?」
「うーん……。冷水に飛び込んで心臓が止まるっていう、あれはどういうメカニズムなのかねえ?」
「ええと……、温度差によるショックで、全身の血管が収縮するから、だったかな。――じゃあ、この線はダメか。脳が冷感を認識しても、毛細血管までは影響しないだろうしな……」
「なら、こういうのはどうかね」
今度は菊岡が両手を擦り合わせながら言った。心なしか嬉しそうなのは気のせいだろうか。
「ちっちゃい虫……甲虫よりも、ナガムシ系がいいね。毛虫とかムカデだのがぎっしり詰まった穴に放り込まれる感触だ。もちろん映像も併用する。うはっ、想像しただけでさぶいぼが出るね」
「…………」
したくはなかったがつい俺も想像してしまった。
のんびりフィールドを歩いているとき、いきなり足元の地面が消え去り、深い穴に落ちこむ。そこには細くて長い生き物がうじゃうじゃ蠢いており、全身をもぞもぞ這いまわった挙句、袖口や襟元から服の中へと……
「……確かに鳥肌は立つけどなあ」
俺は両腕を擦りながら首を振った。
「でも、その程度のドッキリなら、例の《イマジェン・ウイルス》でもやってたぜ。いきなり頭上から巨大芋虫やらエチゼンクラゲが降ってきたりしたんだ。でも心臓が止まった奴はいなかった……と思う。そもそも、VRMMOに入ってる時ってのは、無意識のうちに突発事態に備えてるものなんだ。フィールドによっては、いきなり真横にボスモンスターが スパウン したりするんだぞ。いちいち心臓が止まってたらゲームなんてやってられない」
「それもそうか」
菊岡は肩をすくめ、紅茶のカップを持ち上げた。
「……では、次は味覚と嗅覚だ。どうかな、いきなり口の中に、恐ろしく臭い……キビャックかなんかの味を再生する。当然、吐き出そうとする。その嘔吐反射が、生身の身体にまで及ぶ……」
「それなら、心停止じゃなくて窒息するんじゃないか? だいたい、そのキビャックってのは何なんだ」
その途端、菊岡の目が嬉しそうに輝いたので後悔する。この男は悪趣味な話をするのが大好きなのだ。エリートのくせに彼女ができないのもその辺りに原因があるのでないか。
「おや、知らない? キビャック。エスキモーの食べ物でね、初夏あたりにアパリアスという小さな渡り鳥を捕まえて、肉を抜いたアザラシで作った袋に詰め込むんだ。それを冷暗所に数ヶ月放置すると、やがてアザラシの脂肪がアパリアスに染み込んで、いい感じに熟成、というより腐敗する。そうなったところで鳥を取り出して、チョコレート状にどろどろに溶けた内臓を賞味するという食い物だ。臭さについてはかのシュールストレミングをも上回るらしいが、これが癖になるとたまらないとか……」
ガタン! という大きな音に視線を向けると、マダム二人が口を抑え、足早に立ち去っていくところだった。俺は深くため息をつき、菊岡の言葉を遮った。
「グリーンランドに行く機会があったら試してみるよ。あと、そのシュールなんとかってのは説明しなくていいからな」
「おや、そうかね」
「残念そうな顔をするな。――いくらなんでも、臭いものを食ったくらいで心臓は止まらないだろう。次に行くぞ。……映像、だが……」
コーヒーの芳しい香りで菊岡の臭い話を払拭してから、言葉を続ける。
「さっきの虫の話といっしょで、やはり意味のある映像で心臓を止めるというのは無理があると思う。たとえどんな恐ろしい、残酷な映像でもな。標的の、ものすごいトラウマを突くようなものならあるいは、と思うが、そんなの調べるのは不可能だろう」
「フム。――意味のある、と言ったね?」
「ああ。……俺の生まれたころの話らしいから、詳しいことは知らないが、テレビアニメを見ていた子供が、全国で同時に何人も倒れる、という事件があったはずだ」
「――あれか。僕は当時小学生だったから、リアルタイムで見ていたよ」
菊岡は懐かしそうに口をほころばせた。
「ええと、確か赤と青の光が連続してフラッシュする演出で、発作を起こしたんだったかな」
「多分それだ。同じように、猛烈な光がスパークするような映像を送り込んだとする。普通人間は、そういう時は反射的に目を閉じるが、直接脳に流し込まれればそうもいかない。何らかのショック症状を起こしても不思議はない」
「うん、たしかに、そうだ」
菊岡は頷き、しかるのちに首を振った。
「――だがね、その問題は、アミュスフィア開発当時にも論議されたんだそうだ。結果、安全装置というか、リミッターが設けられることになった。一定以上のレベル振幅がある映像信号は、アミュスフィアでは生成できないんだ」
「――おい、アンタ」
俺は今度こそ、疑念純度百の視線で菊岡の顔を睨んだ。
「やっぱり、実はもう一通りこのへんのことは検討済なんじゃないのか? 総務省のエリート様連中が頭を絞ったあとなら、今更俺なんかの出番はないはずだぞ。どういうつもりなんだ一体」
「いやいやそんなことはない。キリト君の思考は実に刺激的で、大いに参考になるよ。それに僕、君と話するの好きなんだ」
「俺は好きじゃない。――聴覚についてだが、そういうことなら当然そっちにもリミッターがあるはずだな。ではこれで話は終わりだ。結論――ゲーム内からの干渉でプレイヤーの心臓を止めるのは不可能だ。偶然か、もしくは噂の産物だ。じゃあ、俺は帰る。ご馳走様」
これ以上この話に付き合うと、ロクなことにならない予感がして、俺は早口に捲し立てて席を立とうとした。
だが、やはり菊岡が慌てたように呼び止めた。
「わあ、待った待った。ここからが本題の本題なんだよ。ケーキもうひとつ頼んでいいからさ、あと少し付き合ってくれ」
「…………」
「いやあ、キリト君がその結論に達してくれて、ホッとしたよ。僕も同じ考えなんだ。この二つの死は、ゲーム内の銃撃によるものではない。ということで、改めて頼むんだが――」
来るんじゃなかった、としみじみ思いながら、俺は続く言葉を聞いた。
「ガンゲイル・オンラインに入って、この《死銃》なる男と接触して欲しい」
「接触、ねえ? ハッキリ言ったらどうだ、菊岡サン。撃たれてこい、ってことだろう、その《死銃》に」
「いや、まあ、ハハハ」
「やだよ! 何かあったらどうするんだよ。アンタが撃たれろ。心臓トマレ」
再び立ち上がろうとした俺の袖を、菊岡がはっしと掴む。
「さっき、その可能性は無いって合意に達したじゃないか、僕らは。それに、この《死銃》氏はターゲットにかなり厳密なこだわりがあるようだ。強くないと撃ってくれないんだよ、多分。僕じゃあ何年たってもそんなに強くなれないよ。でも、かの茅場氏が最強と認めた君なら……」
「俺でも無理だよ! GGOってのはそんな甘いゲームじゃないんだ。プロがうようよしてるんだぞ」
「それだ、そのプロってのはどういうことなんだい? さっきもそう言ったが」
ペースに巻き込まれてるなあ……と思いながら、俺はしぶしぶ腰を落とした。
「……文字通りだよ。ゲームで稼いでる連中だ。ガンゲイル・オンラインは、全VRMMO中で唯一、ゲーム内通貨現実還元システムを採用しているんだ」
「……ほう?」
さすがのエージェント菊岡も、ゲームのことに関してはまだまだ知識が追いつかないと見え、今度の疑問符は本物のようだった。
「つまり、簡単に言えば、ゲームの中で稼いだ金を、現実の金としてペイバックすることが可能なんだよ。正しくは、日本円ではなくEマネーだが、今はあれで払えないものはないからな。同じことだ」
「……しかし、そんな事をしてビジネスが成り立つのかい? 運営業者だってボランティアじゃないんだろう?」
「勿論、全てのプレイヤーが稼げるわけじゃない。パチスロや競馬と一緒さ。月の接続料が、確か三千円だ。これはVRMMOとしてはかなり高いほうだ。で、平均的プレイヤーが一ヶ月で還元できる金額は、せいぜいその十分の一……数百円という所らしい。だが、ギャンブル性が高いとでも言うのかな……、ごくまれに、ドカンとでかいレアアイテムをゲットする奴が出る。数万、数十万というカネになる。俺もいつかは……、という気になる。ゲーム内に巨大カジノまであるってんだからな」
「ふうむ、なるほどねえ……」
「で、プロ、ってのはそのGGOで毎月コンスタントに稼ぐ連中さ。トッププレイヤーで、月に十万から二十万ってとこらしいから、現実世界の基準で見れば大したことはないんだろうが……まあ、暮らそうと思えば暮らせるよな。つまりそいつらは、ボリュームゾーンのプレイヤーが払う接続料から収入を得ているということになる。さっき俺が、GGOのトッププレイヤーは他のゲーム以上に嫉まれる、って言ったのはそういう意味だ。国民の血税でクソ高いケーキを食う公務員のようなものだ」
「ふふふ、相変わらずキリト君は言う事がキビシイね。君のそういうところが好きさ」
菊岡のトボケた台詞には取り合わず、俺は話を打ち切ろうとした。
「――そういった理由で、GGOのハイレベル連中は他のMMOプレイヤーなんか比較にならないほどの時間と情熱をゲームにつぎ込んでいるのさ。何の知識もない俺なんぞがのこのこ出ていっても相手になるものか。だいたい、あれは名前どおり銃メインのゲームだからな……苦手なんだよ、飛び道具。悪いが他を当たってくれ」
「待った待った、アテなんて無いってば。僕にとっては、君が唯一、現実で連絡の取れるVRMMOプレイヤーなんだから。それに……プロの相手は荷が重いと言うなら、君も仕事ということにすればいいじゃないか」
「……はあ?」
「調査協力費という名目で報酬を支払おう。その……GGOのトッププレイヤーが月に稼ぐという額と同じだけ出そうじゃないか。――これだけ」
指を二本立てる菊岡の仕草に――
――正直、少々ぐらっときた。それだけあれば、最新の20ギガ級CPUでニューマシンを組んでおつりが来る。しかし、同時にあらためて疑問も湧き起こる。
「……引っかかるな、菊岡サン。なんでこの件にそこまでしなきゃならない。これはまず間違いなく後付けの噂というか、MMOにありがちなオカルト話だと思うぞ。心臓麻痺を起こした二人が、ゲームに姿を見せないから、そんな伝説めいた話がでっち上げられたんだ」
ストレートに尋ねると、菊岡は細い指で眼鏡を直しながら、俺から表情を隠した。どこまで真実を話し、どこまでを誤魔化すか思案しているに違いない。まったく食えない男だ。
「――実はね、上のほうが気にしてるんだよね」
話しはじめた高級官僚は、いつもどおりの笑顔に戻っていた。
「NERDLES技術が現実に及ぼす影響というのは、いまや各分野で最も注目されるところだ。社会的、文化的影響はもちろん甚大だが、生物学的なソレも大いに議論されている。仮想世界が、はたして人間の有り方をどのように変えていくのか、とね。もし仮に、なんらかの危険がある、という結論が出れば、再び法規制をかけようという動きが出てくるだろう。実は、SAO事件当時にも法案が提出される直前まで行ったんだよ。だが僕は――というか仮想課は、ここで流れを後退させるべきではないと考えている。VRMMOゲームを楽しむ、君達新時代の子供たちのためにもね。そんなわけで、この一件が妙な場所に着陸して、規制推進派に利用される前に事実を把握したいのさ。単なるデマであればそれが一番いい。その確信が欲しいんだ。――こんなところで、どうかね」
「……VRゲーム世代の若者に理解のある、アンタの理念は善意に解釈しておこう。だがそこまで本気で気にしているなら、直接運営企業に当たったらどうなんだ? ログを解析すれば、《ゼクシード》と《たらこ》を銃撃したプレイヤーが誰か、わかるはずだ。登録データがでたらめでも、IPからバイダに問い合わせれば、本名と住所はわかるだろう」
「――いくら僕の腕が長くても、太平洋の向こうまでは届かないんだよね」
菊岡の渋い顔は、今度こそは偽りのない苛立ちをにじませているようだった。
「ガンゲイル・オンラインを開発・運営しているザスカーなる企業……なのかどうかすらもわからない……それは、アメリカにサーバーを置いているんだ。会社の所在地はおろか、電話番号すら不明。メールに返事もない。まったく、例の《ザ・シード》以来、怪しげなVRワールドは筍のように増える一方だよ」
「……へえ、そうなのか」
俺は、肩をすくめるに留めた。VRMMORPG開発支援パッケージ・《ザ・シード》の由来を知っているのは俺とエギルだけだ。新生アルヴヘイム・オンラインに突如出現した浮遊城アインクラッドは、世間一般には、今は無きレクトプログレスが管理していた旧SAOサーバー内部に残されていた、ということになっている。
「とまあそんなわけで、真実のシッポを掴もうと思ったら、ゲーム内で直接の接触を試みるしかないわけなんだよ。もちろん万が一のことを考えて、最大限の安全措置は取る。キリト君には、こちらが用意する端末からダイブしてもらって、モニターしているアミュスフィアの出力に何らかの異常があった場合はすぐに切断する。銃撃されろとは言わない、君の目から見た印象で判断してくれればそれでいい。――行ってくれるね?」
気付いたときには、嫌だとは言えない状況に首まではまりこんでいた。
本当に、来るんじゃなかった……としみじみと後悔しながら、俺は同時にわずかな興味も覚えはじめていた。
仮想世界内から現実世界に干渉する能力……、もしそんなものが実在するとすれば――それは、茅場晶彦が目指そうとした世界変容の端緒なのだろうか? 三年前の冬に始まったあの事件は、まだ終わっていないのか……?
もしそうだとすれば、その流れゆく先を見届けるのは俺の役目であるはずだった。
「……わかったよ。まんまと乗せられるのはシャクだが、行くだけは行ってやる。でも、うまくその《死銃》と出くわすかどうかはわからないぞ。そもそも、実在さえ疑わしいんだからな」
「ああ……それだけどね」
菊岡は、邪気のない顔でにっこり笑った。
「言わなかったっけ? 最初の銃撃事件のとき、居合わせたプレイヤーが音声ログを取ってたって。データを圧縮して持ってきている。《死銃》氏の声だよ。どうぞ、聴いてくれたまえ」
PDAにイヤホンのプラグを挿入し、こちらに差し出す菊岡の顔を、俺は今度こそ本気でアンタの心臓も止まりやがれ、と思いながら睨んだ。
「……わざわざ、どーも」
受け取ったイヤホンを耳に突っ込むと、菊岡が液晶をスタイラスで突付く。たちまち、頭の中にざわざわという喧騒が再生された。
と、いきなりざわめきが消失し、しんとした沈黙を、鋭い叫びが切り裂いた。
『これが本当の力、本当の強さだ! 愚か者どもよ、この名を恐怖とともに刻め!』
『俺と、この銃の名は《死銃》…………《デス・ガン》だ!』
その声は、どこか非人間的な、金属質の響きを帯びていた。
それでいて、その向こうにいる生身のプレイヤーの存在を、俺は感じていた。
力を求め、力に酔うその声は、ロールプレイではなく、殺戮を欲する本物の衝動を放射しているように思えた。
(第一章 終)
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第二章 「冥界の女神」
薄暮。
厚く、低く垂れ込める雲を、傾き始めた太陽が薄い黄色に染めている。
岩と砂ばかりの荒野に点在する、旧時代の遺物である崩壊しかけた高層建築がつくる影は徐々に長くなっていく。あと一時間も待機が続くようなら、夜間戦闘装備の用意を考えなければならない。
暗視ゴーグル越しの戦闘は、殺し殺されることの緊張感を削ぐため、シノンの好むところではなかった。陽光が消える前に、早く標的のパーティーが現れないものか、と、コンクリートの陰に身体をまるめてうずくまりながら考える。もっとも、シノンと一緒に憂鬱な待ち伏せ(アンブッシュ)を続ける五人の仲間も、まったく同じことを考えているに違いない。
と、全員の内心を代弁するかのように、パーティーメンバーの一人、小口径の短機関銃を腰に下げたアタッカーの男が小声でぼやいた。
「ったく、いつまで待たせんだよ……。おいダインよう、ほんとに来るのかぁ? ガセネタなんじゃねえのかよ?」
ダインと呼ばれた、ごつごつと大柄な体躯と無骨な顔を持つこのスコードロンのリーダーは、肩から下げた大ぶりの アサルトライフル を鳴らしながら首を振った。
「奴らはこの三週間、ほとんど毎日のように同じ時間、同じルートで狩りに出てるんだ。俺が自分で確認したんだぞ。確かに今日はちょっと帰りが遅いが、どうせ Mob の湧きがよくて欲かいて粘ってるんだろ。そのぶん分け前が増えるんだ。文句言うな」
「でもよぉ」
前衛の男は、なおも不満そうに口を尖らせる。
「今日の獲物は、確か先週襲ったのと同じ連中なんだろ? 警戒してルートを変えたってことも……」
「前に待ち伏せてからもう6日も経ってるんだぞ。それからも、あいつらはずっと同じ狩場に通ってるんだ。奴らはMob狩り特化パーティーだからな……」
ダインの口もとに、あざけるような笑みが浮かんだ。
「何度襲われて、儲けを根こそぎにされても、それ以上に狩りで稼げればいいと思ってるのさ。俺たちみたいな対人スコードロンには絶好のカモだ。あと二、三回はこの手でいけるさ」
「でもなあ、信じられねえなあ。普通、一度やられれば何か対策するだろう」
「翌日くらいは警戒したかもしれないが、すぐ忘れたんだろうさ。 フィールド Mobのアルゴリズムは毎日一緒だからな。そんな狩りばっかしてるとそいつらもMobみたいになっちまうのさ。プライドの無え連中だ」
だんだん聞いているのが不愉快になり、シノンは一層深くマフラーに顔を埋めた。感情の起伏は、トリガーを引く指を鈍らせる。そう分かっていても、賢しらに語るダインへの苛立ちが心の中に湧き起こる。
ルーティーンなMob狩りに特化したパーティーを嗤い、自らを PvPer と誇るわりには、そのパーティーを何度も待ち伏せて襲うことにプライドは傷つかないらしい。こんなニュートラル・フィールドで何時間も費やすくらいなら、地下の遺跡ダンジョンに潜ってハイクラスのスコードロンと一戦交えたほうが、稼ぎの効率は何倍も高まる。
無論、一敗地にまみれ、装備をドロップして街に死に戻る可能性も高まる。しかしそれが戦闘というものだ。その緊張感の中でのみ、魂は鍛えられる。
ダインの率いるこのスコードロンに誘われたのは二週間前だった。参加してすぐに後悔した。確実に戦力で優位に立てるパーティーだけを狙い、危機らしい危機でもないのにすぐに撤退する、怯懦を看板に掲げているようなPK集団だったからだ。
しかしシノンはこれまで、スコードロンの方針には一切口を出さず、黙々とダインの指示に従ってトリガーを引いてきた。別に忠誠心を売り物にしているわけではない。いつか敵として戦場でまみえたときに、思考・行動を読み、確実に弾丸をダインの眉間に撃ち込むためだ。性格的にはまるで好きになれないが、前回のバレット・オブ・バレッツで十八位に入ったダインのレベル・ステータスと、その肩の SIG-SG550 が吐き散らす5.56ミリ弾の威力は本物だ。だから今はひたすら口をつぐみ目を光らせ、ダインが無警戒に振り撒く情報を収集する。
ダインのお喋りは続いている。
「……大体、Mob狩りのために光学銃ばっかり揃えてるあいつらが、そうすぐに対人用の実弾銃を員数ぶん用意できるわけないだろう。せいぜい、 支援火器 を一丁を仕入れるくらいが関の山さ。そいつを潰すために、今日はシノンにライフルを持ってきてもらってるんだ。作戦に死角はねえよ。なあ、シノン?」
いきなり話を振られ、シノンはマフラーに埋めた顔をわずかに動かして頷いた。だが口はつぐんだままで、会話に加わる意思のないことを表す。
ダインは詰まらなそうにかすかに鼻を鳴らしたが、アタッカーのほうはシノンに向かってニッと笑いかけ、言った。
「まあ、そりゃそうか。シノンの遠距離狙撃がありゃあ優位は変わらねえや。――そういや、シノンっちさぁ」
顔に弛んだ笑みを浮かべたまま、それでも掩蔽物の陰から出ることのないよう四つんばいでアタッカーはシノンの隣に近寄ってきた。
「今日、このあと時間ある? 俺もスナイパースキル上げたいんで相談に乗ってほしいなーなんて。どっかでお茶でもどう?」
シノンはちらりと男の顔と、その腰に下がる武器に視線を送った。実弾系短機関銃、 H&K-UMP が男のメインアームだ。AGI型らしく、正面戦闘での回避力はなかなかのものだったが、レベル的にも装備的にも情報を記憶しておくほどの相手ではない。相手の名前を少々苦労して思い出しながら、シノンは小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい、ギンロウさん。今日は、リアルでちょっと用事があるから……」
現実の自分の声とは似ても似つかない、高く澄んだ可愛らしい声が流れ、シノンは内心でうんざりする。これだから喋るのは好きではない。ギンロウという男は、すげなく断られたにも関わらず、うっとりとした笑いを消そうとしない。一部の男性プレイヤーは、シノンの声を聞くだけである種の喜びを得るらしい。そう考えると、背筋に寒いものが走る。
このガンゲイル・オンラインに初めて身を投じたときは、無骨で無個性な男の姿を分身にと望んだ。すぐにVRMMOではプレイヤー・キャラクター感の性別逆転が不可能だと知らされ、それならばできるだけ筋肉質で背の高い、兵士然とした女になりたいと思った。しかし、ランダム生成によって与えられたのは、小柄で華奢な、日本人形めいた少女の姿で、即座にアカウントを破棄してキャラクターを作り直そうと思ったのだが、シノンをこの世界に誘った友人が「勿体無い」と強行に主張したためなし崩し的に後戻りできないところまでレベルを上げてしまった。
お陰で、時折このように厄介な申し出を受けることがある。戦うことだけがゲーム目的のシノンにとっては鬱陶しいだけだ。
「そっかぁー、シノンっちはリアルじゃ学生さんだっけ? 大学生? レポートかなんかかな?」
「……ええ、まあ……」
おまけに、いちど落ちるときに、学校が、と口を滑らせてしまってからは誘いが執拗になってきた気がする。本当は高校生だなどとは、口が裂けても言えない。
と、今までしゃがみこんでステータスウインドウを操作していた、前衛三人のうち残る二人が、ギンロウを牽制でもするかのようににじり寄ってきた。その片方、スモーク処理されたゴーグルの上に緑色の前髪を垂らした男が口を開く。
「ギンロウさん、シノンさんが困ってるでしょう。リアルの話を持ち出すもんじゃないですよ」
「そうそう。向こうでもこっちでも寂しい独り身だからってさぁ」
もう一方、迷彩のヘルメットを斜めに被った男がにやにや笑うと、ギンロウは二人の頭を拳でぐりぐりと押しながら言い返した。
「んだよ、お前らだって何年も春が来ないくせに」
ひゃひゃひゃと笑う三人の隣で一層体を縮めながら、シノンは不思議でならなかった。
プレイヤー相手の戦闘を欲するなら、待機中は精神集中でも装備点検でも幾らでもすることがあるし、Eマネー還元を利用して稼ぐつもりならMobハント専門のスコードロンに入ったほうがいい。そして出会いを求めるなら、こんな殺風景で殺伐としたゲームでなく、もっとメルヘンチックで女の子のプレイヤーが多いゲームに行くべきだ。一体彼らは何を求めてこの世界にやってきているのだろう。
再びマフラーの奥に深く顔をうずめて、シノンは左手の指先でそっと、地面に横たえてある愛用のライフルの銃身をなぞった。
――いつかこの銃で、あなたたちの仮想の体を吹き飛ばすときがくる。その後でも同じように笑って声を掛けられる?
胸の奥でそう呟くと、苛立った気分が徐々に冷えていった。
「――来たぞ」
崩れかけたコンクリート壁の穴から双眼鏡で索敵を続けていた、残る一人のパーティーメンバーがかすかな声で呟いたときには、更に20分が経過していた。
前衛三人とダインのお喋りがぴたりと止まり、場の空気が一気に緊張する。
シノンはちらりと空を見上げた。黄色い雲はわずかに赤みを増しつつあるが、まだ光量は十分だ。
「ようやくお出ましか」
小声で唸りながら、ダインは中腰で移動すると、壁の偵察役から双眼鏡を受け取った。同じように穴越しに覗き込み、敵の戦力の確認を始める。
「……確かにあいつらだ。7人……先週よりひとり増えてるな。自動ブラスターの前衛が4人。大口径レーザーライフルが1人。それに……やっぱりだ、 FN-ミニミ が一人。こいつは先週は光学銃だったはずだが、慌てて支援火器に持ち替えたんだろうな。狙撃するならこいつだな。最後の一人は……迷彩マントで武装が見えないな……」
それを聞いて、シノンは地面に腹ばいになり、自分のライフルのスコープを覗いてみた。
シノン達6人のパーティーが伏せているのは、少し高台になった場所に遺された、建築物の残骸の中だ。ぼろぼろのコンクリート壁や鉄骨が掩蔽物となり、前方に広がる荒野を監視するには絶好の地形である。
ライフルの射線上で、厚い壁がV字型に崩れており、その隙間からシノンは荒野を俯瞰した。
すぐに、最小倍率に設定したスコープの視野を動く小さな点が見えた。指先でダイヤルを調節する。かちっというかすかな音がするたびに、胡麻粒のような黒点はみるみる拡大され、やがて七つの人の姿となった。
ダインの言葉どおり、4人が光学系突撃銃を携えており、そのうち二人が頻繁に双眼鏡を顔に当て、周囲を警戒している。しかし、向こうからこちらを発見するのは、最大倍率でダイレクトにコンクリート壁の隙間を覗きでもしない限り不可能だ。
集団の中ほどを、大型の銃を肩に掛けた二人が歩いている。片方はセミオートのレーザー・ライフル、確かアルゴル-IIという名前の銃で、もう一方は実弾系の軽機関銃、FN-MINIMIだ。光学銃による攻撃は、ダメージの半分以上を防護フィールドによって減殺できるため、どちらと言われればMINIMIのほうが圧倒的に脅威だ。
ガンゲイル・オンラインに登場する武器は、大きく分けて実弾銃、光学銃の二つに分類される。
双方のメリット・デメリットは、実弾銃が高威力、防護フィールド貫通能力に対して、重く、弾薬の携帯が困難。光学銃は軽量、長射程、命中精度が高く、また弾倉にあたるエネルギーパックがコンパクトな反面、防護フィールドで威力を散らされてしまう。
よって、対モンスターには光学銃、対プレイヤーには実弾銃が絶対のセオリーなのだが、この二つのカテゴリーにはもう一つ大きな特徴がある。
それは、光学銃が架空の名称と姿を持っているのに対し、実弾銃は現実世界に実際に存在する銃をそのまま登場させているということだ。
よって、GGOプレイヤーのうちかなりのパーセンテージを占める、ダインやギンロウのような銃器マニアたちは好んで実弾銃を常時携行し、Mob狩りの時だけ光学銃に持ち替えている。
いま、シノンが頬をつけているライフルも実弾系だ。だが、シノンはこの世界に来るまで銃器のメーカーなど何一つ知らなかった。必要性があってアイテムとしての銃の名前は憶えたが、それで現実の銃に興味が出たかというとまったくそんなことはない。この世界の銃は、トリガーを引いて弾丸が発射されればそれでいいし、現実世界の銃に至っては見るのも嫌だ。
ただひたすら、この殺戮の世界で、仮想の敵を仮想の銃弾で破壊しつづける。心が石のように硬くなり、流れる血が凍るまで。
そのために、シノンは今日もトリガーを引く。
余計な思考を振り払い、シノンはライフルをわずかに動かした。敵の隊列の最後尾を、巨大なゴーグルで顔を覆い、迷彩マントをすっぽりと羽織ったプレイヤーが歩いている。ダインの言葉どおり、装備は見えない。
かなりの巨漢だ。マントの下の背中に、大きなバックパックを背負っているらしい。それ以外は大した荷物を持っている様子はない。腰か手にあるであろう武器は、最大でも短機関銃クラスだろうと思われた。
「迷彩マントだぁ?」
背後から、ギンロウの声がした。緊張の響きを帯びてはいるが、冗談めかした口調で続ける。
「アレじゃねえのか? ウワサの……《デス・ガン》」
「ハッ、まさか。実在するものか」
すぐにダインが笑い飛ばす。
「それに、噂じゃあ死銃ってのは小男なんだろ? あいつはかなりでかいぞ。2メートルはありそうだ。多分……STR型の運び屋だな。稼いだアイテムやら、弾薬やエネルギーパックを背負ってるんだ。武装は大したことないだろう。戦闘では無視していい」
その言葉を聞きながら、シノンはじっとスコープの中の男を見詰めた。
ごつい装甲ゴーグルのせいで表情は見えない。だが、わずかに口元が覗いている。唇は固く引き結ばれ、微動だにしない。他のメンバーは、警戒しながらも雑談中と見え時折歯を見せているが、最後尾のマントの男だけは無言を貫いている。黙々と歩くその足取りには、一切の乱れがない。
半年のGGOプレイ経験で培ったシノンの勘は、MINIMIよりも、この男のほうにより強い脅威を告げていた。しかし、背中のバックパック以外は、マントに目立つ膨らみはない。小型でハイパワーのレア銃を隠し持っているのだろうか。だがその類の銃は光学系にしか存在せず、対人戦闘では決定力とはなり得ないはずだ。ならばこの男に感じる殺傷力は気のせいなのだろうか……。
迷った末、シノンは小声で言った。
「あの男、嫌な感じがする。狙撃するのはマントの男にしたい」
ダインは双眼鏡を顔から離すと、眉を上げてシノンを見た。
「何故だ? 大した武装もないのに」
「……根拠は無い。不確定要素だから気に入らないだけ」
「要素と言うなら、あのMINIMIは明らかに不安要素だろう。あれに手間取ってる間にブラスターに接近されたら厄介だぞ」
光学銃に防護フィールドが有効、と言っても、その効果は彼我の距離が縮まるにつれ減少する。至近での撃ちあいになれば、マガジン一つあたりの弾数が多いレーザーブラスターに圧倒される可能性はある。シノンはやむなく主張を引っ込め、頷いた。
「……わかった。第一目標はMINIMIにする。可能だったら次弾でマントの男を狙う」
そう言ったものの、狙撃が有効なのは、敵に射手が発見されていない初弾に限る。発射点を認識されてからの狙撃は、敵に弾道予測線を与えてしまうため容易に回避されるからだ。
「おい、喋ってる時間はそろそろ無いぞ。距離2500だ」
索敵担当の男が、ダインから双眼鏡を取り返して覗き込み、言った。ダインは頷き返し、背後のアタッカー三人を振り返った。
「よし。俺たちは作戦どおり、正面のビルの陰まで進んで敵を待つ。――シノン、ここから俺たちには奴らが見えなくなるからな、状況に変化があったら知らせろ。狙撃タイミングは指示する」
「了解」
短く答え、シノンは再びライフルのスコープを覗き込んだ。標的パーティーに変化はない。相変わらず、やや遅いペースで荒野を移動している。
彼らと、シノン達の間には2500メートルの荒野が広がっており、その中央わずかこちら寄りに、ひときわ巨大なビルディングの遺跡がそびえていた。ダインら5人は、それを利用して標的の死角に入り、接近する作戦である。
「――よし、行くぞ」
短いダインの声に、シノンを除くメンバーが短く答えた。ブーツが砂利混じりの砂を踏む音を残して、高台の後方から降りていく。夕暮れの風鳴りが彼らの足音をかき消すまで待って、シノンは首元のマフラーの下から小さなヘッドセットを取り出し、耳に掛けた。
ここからの数分間、シノンはスナイパーとして、プレッシャーと孤独な戦いを続けなければならない。自分の放つ一発の銃弾で、その後の戦闘の帰趨が動くのだ。頼るのは自分の指と、物言わぬ銃だけだ。左手を、二脚に支えられた巨大な銃身に滑らせる。黒い金属は、冷たい沈黙をシノンに返す。
シノンを、この世界では珍しい狙撃手としてそれなりに有名プレイヤーたらしめているのは、何よりもまずこの実弾銃だった。名を、PGM-ウルティマラティオ・ヘカートII、と言う。全長1380ミリ、重量13.8キロという図体を持ち、50口径、つまり12.7ミリもの巨大な弾丸を使用する。
現実世界では、アンチマテリアル・スナイパーライフル、というカテゴリーに属すると聞いた。つまり、車両や建築物を貫くことを目的とする銃だ。そのあまりの威力から、何とかいう長い名前の条約で、対人狙撃に使用するのは禁止されているらしい。しかしもちろん、この世界にそんな法律は無い。
手に入れたのは三ヶ月前、GGOプレイヤーとしてそれなりにベテランの域に達した頃だった。そのころ、シノンは一回り小さなスナイパーライフルと、サブアームにハンドガンを使用していた。ある日気まぐれで、ソロで首都グロッケンの地下に広がる巨大な遺跡ダンジョンに潜り、不注意からシュート・トラップに落ちてしまったのだった。
ガンゲイル・オンラインは、遥か過去の世界大戦で文明の滅びた地球に、移民宇宙船で軌道から帰ってきた人々が暮らすという設定の世界を舞台にしている。グロッケンの街はもとの移民船であり、その地下に、大戦で崩壊したかつての巨大都市が眠っているのだ。都市の遺跡には、無数の自動戦闘機械やら、遺伝子改造されたクリーチャー、つまりモンスターが蠢き、一攫千金を夢見て潜り込む冒険者たちを待ち受けている。シノンが落っこちたのは、そんな最高レベルの危険度を持つダンジョンの奥底だった。
当然、ソロでどうにかなる場所とは思えなかった。諦めて、武装ドロップ覚悟で街に死に戻ろうとしたシノンの前に、一際巨大なスタジアムめいた円形の空間と、そこにうずくまる異形のクリーチャーが現れた。サイズと名前から、ボスクラスのモンスターだと思われたが、いまだかつてどの情報サイトでも見たことのない姿だった。そう気付いた途端、シノンの中の、ほんのわずかのゲーマー魂が刺激された。どうせ死ぬなら、こいつと戦ってやろう、そう思ったシノンはスタジアム上部の排気口に身を潜め、ライフルを構えた。
戦闘は意外な展開となった。ボスモンスターは、熱線、鉤爪、有毒ガス他という多種の攻撃パターンを持っていたが、そのどれもが、シノンの伏せている場所までわずかに届かなかったのだ。とは言え、シノンのライフルも有効射程ぎりぎりで、与えるダメージは微々たるものだった。携行していた弾薬数から考えて、ほぼ一発のミスも無く、すべての弾をボスの弱点らしき額の小さな目に命中させなければ撃破は不可能と思われた。そして、シノンは氷のような冷静さと集中力でそれをやり遂げた。ボスが倒れたときには、戦闘開始から三時間が経過していた。
そのボスモンスターがドロップしたのは、見たこともない巨大なライフルだった。設定として、グロッケンの街の工房では強力な実弾銃を製造することができず、街で売られているのは一部の低威力品だけであり、中級品以上を欲するなら全て遺跡から発掘するしかない。シノンが手に入れたライフルは、そんな発掘武器の中でも最もレアリティーの高い一群に属するものだった。
現在、アンチマテリアル・ライフルという冠のついている銃は、シノンのヘカートIIの他に10丁ほどが存在すると言われている。当然、取引価格も恐ろしい高額で、前回オークションに出た銃にはゲーム内通貨で20Mクレジット、つまり2000万の値がついたそうだ。還元システムのレートは100:1なので、Eマネーに変換すれば20万円が手に入ることになる。
シノンは現実世界では高校生にして一人暮らしで、毎月ぎりぎりの仕送りを四苦八苦してやりくりしている身なので、それを聞いたときは正直少し迷った。最近ではようやく月の接続料金の半額、1500円ほどを還元できるようになってきたものの、それでも小遣いの半分近くが消えてしまう。かと言って、これ以上ダイブする時間を増やせば、成績のキープすら怪しくなる。しかし20万あれば、今までの接続料を取り返してなお大部分が残る。
だが、シノンは銃を売らなかった。GGOに潜る目的は、お金を稼ぐことではなく、ただ敵――自分より強い全てのプレイヤーを殺すというその一点だけだったし、なにより初めて、単なるアイテムであるはずの銃に「心」を感じたからだった。
ヘカートIIは、その巨体と重量ゆえに恐ろしいほどの要求STR値を設定されていたが、スナイパーとしてAGIよりもSTRを上げていたシノンはぎりぎり装備することが可能だった。初めて戦場に持ち出し、敵をスコープに収めたとき、シノンは手の中の重く、冷たい塊に、力と、そして意思を感じた。殺戮を欲し、死を求める冷酷な魂。シノンがそうありたいと思う、何ものにも屈せず、揺るがず、流す涙など一滴も持たない姿がそこにあった。
それからしばらくして、シノンは「ヘカート」という名前が、ギリシャ神話に出てくる冥界を司る女神から取られていると知った。この銃を最初で最後の相棒にしようと、その時思った。
スコープの中では、標的のパーティーが移動を続けている。
顔を上げ、直接荒野を見下ろすと、標的との間に崩れかけたビルをはさんで、ダインたち5人が接近していくのが見えた。二つの集団の距離は、すでに700メートルほどに縮まっている。再び右目をスコープにつけ、ダインからの指示を待つ。
数十秒後、ヘッドセットから雑音混じりの声がした。
「――位置についた」
「了解。敵はコース、速度とも変化なし。そちらとの距離400。こちらからは1800」
「よし。狙撃開始」
「了解」
短いやり取りのあと、シノンは口をつぐみ、右手をトリガーにかけた。
スコープの視野では、FN-MINIMIを肩にかけた第一標的の男が、何事か喋りながら歩いている。先週の戦闘では、シノンは狙撃ではなくアサルトライフルを装備しての援護射撃を担当したため、この男はかなりの近距離で顔を見ているはずだが、記憶にはなかった。しかし、分隊支援火器を装備できるからにはかなりのレベルに達しているはずだ。
どくん、どくん、と急に激しくなる心臓の動悸を抑えこみながら、トリガーにかけた指に、わずかに力を入れる。
その途端、シノンの視野に、緑色に光る半透明の円が表示された。ゆら、ゆらとその直径を変化させる円は、男の顔を中心に、腹のあたりまで広がっている。ゲームシステムによってシノンの視界にだけ表示される、「着弾予測円」だ。発射される弾丸は、この円のなかのどこかにランダムに命中する。現在の大きさでは、男の体が含まれているのは円の面積の三割程度だ。つまり命中率30%。さらに、いくらヘカートIIの威力をもってしても、腕などに当たった場合は即死させるのは不可能なので、一撃で仕留められる確率は更に下がる。
この着弾予測円の大きさは、目標との距離、銃の精度、天候、光量、スキル・ステータスといった要素によって変動するが、中でも最重要なパラメータは、射手の精神状態だ。アミュスフィアが使用者の脳波をモニターしており、緊張、不安によって心が乱れると、それだけ予測円も大きくなる。
GGOにおいてスナイパーがごく少ないのは、これが最大の理由だ。つまり当たらないのだ。狙撃に際して緊張するのは止めようがない。無論接近戦でも心の乱れで予測円は変動するが、距離が近ければそれでも当たる。フルオートのサブマシンガンやアサルトライフルなら尚更だ。しかし距離1000を越える狙撃では通常、予想円は人間の身長の数倍にも広がる。現在シノンの視野に広がる、命中率三割のサイズがすでに奇跡的なのだ。
――だが。
シノンは心の中でつぶやく。
こんなプレッシャー、こんな不安、こんな恐怖が何ほどのものだというのか。屑篭にまるめた紙を投げ込むようなものだ。そう――
あのときに、くらべれば。
すうっ、と頭の芯が冷えていく。心臓の動悸が嘘のように収まる。氷。わたしは、つめたい氷でできた機械。
ぎゅうっ! と、一気に着弾予測円が収縮した。男の胸、首を通過し、顔の中央、正確に目と目の間にぽつんと浮かぶ、緑色の光点となった。
シノンは、トリガーを引いた。
雷鳴にも似た咆哮が世界を震わせた。
ヘカートIIのあぎとに設けられた マズル・ブレーキ から巨大な炎が迸り、一瞬、スコープの視野を白く染めた。 リコイル によって、シノンの体はライフルごと後退しようとしたが、踏ん張った両足で必至に堪える。
映像が回復したスコープのなかで、 マズル・フラッシュ に気付いたのか、男が瞬きして視線をこちらに向けた。スコープを覗くシノンと視線が交錯した――
と思った瞬間、男の頭部から両肩、胸の上部までが、極小のオブジェクト片となって粉砕・消滅した。わずかに遅れて、残された体も、ガラスの像を叩き壊すように脆く砕け散る。肩にかけていたMINIMIだけがその場に残り、砂地に落下した。男はきっと、街に帰還・蘇生したあとも、数十分は軽いショック症状に悩まされるだろう。
以上のことを無感動に確認しながら、シノンの右手は自動的に動き、ヘカートIIの ボルトハンドル を引いていた。金属音とともに巨大な薬莢が排出され、傍らの岩に当たってから消滅する。
次弾が装填されると同時に、シノンはライフルをわずかに右に振り、第二目標であるマントの巨漢をスコープ内に収めていた。ゴーグルに覆われた顔を、まっすぐこちらに向けている。今度はその体の中央に照準を合わせ、トリガーをわずかに絞る。ふたたび着弾予測円が表示され、即座に一点に収縮する。
初弾を放ってからここまでで、3秒が経過していた。 セミオートマチック のライフルならば連射が可能だが、 ボルトアクション のヘカートIIではそうもいかない。それでも、一般的なプレイヤーであれば、目の前でいきなり仲間の体が粉砕されたことに驚愕し、硬直し、そこから精神状態を立て直して狙点を認識、回避準備に入るまで5秒はかかる。その混乱を衝ければ、第二射も成功する可能性はあると踏んだのだったが――
しかし、マントの男は表情ひとつ変えず、スコープの中でまっすぐにシノンを見ていた。やはり男は相当なベテラン、きっと名のあるGGOプレイヤーに違いない、と思いながら、シノンはトリガーを絞った。
この時点で男の視界には、自分を襲うであろう弾丸が描く「弾道予測線」が、赤い半透明の光のラインとなって表示されている。銃撃による戦闘に、ゲームならではのハッタリ的面白さを盛り込むために採用されているGGO独自のシステムだ。反射神経にすぐれ、高いAGIを持ち、度胸の据わったプレイヤーであれば、50メートルの距離から撃ち込まれる突撃銃の連射でさえ回避することも不可能ではない。
再びの轟音。ヘカートIIがその無慈悲な指先から放った「死」そのものの結晶たる弾丸が、薄い黄色に染まる大気を切り裂いて飛翔していく。
だがシノンの予想どおり、男は落ち着いた動作で大きく一歩右に動いた。直後、その巨体から1メートル離れた空間を12.7ミリ弾が貫いた。はるか後方の荒野に突き出ていたコンクリート壁が、パッと光を散らして円形に消滅した。
シノンの右手は無意識のうちに動き、更に次の弾丸を装填していたが、グリップに戻った右手の指先をトリガーに掛けようとはしなかった。これ以上の狙撃は無駄だろう。どうしても狙いたければ現在の位置を移動し、男の視界から姿を隠して、認識情報がリセットされる200秒が経過するのを待つしかないが、その頃には戦闘の帰趨は決しているはずだ。スコープを覗いたまま、口もとのレシーバーに囁く。
「第一目標クリア。第二目標フェイル」
すぐにダインの応答があった。
「了解。アタックを開始する。――ゴウ!」
ザッ! と地面を蹴って駆け出していく音がかすかに届いた。シノンは詰めていた息を細く吐き出した。
課せられた任務はこれで終わりだ。ヘカートIIは本物のレア銃であって、それを背負ったまま正面戦闘に参加させてもし死亡・武器ドロップということになれば一大事だからと、狙撃が終わればあとは待機でいいとダインに言われていた。第二射を外したのは心残りだが、こうなっては自分の危機感が杞憂であったことを祈るだけだ。
そう思いながら、シノンは再びライフルを動かし、デジタルスコープの倍率を下げて目標集団全体を視野に捉えた。4人の前衛が慌しく付近の岩やコンクリート壁などの掩蔽物の陰に入り、そのさらに後方で大型レーザーライフルを構えた男と、それに並んで、例のマントの大男が――
「あっ……!!」
シノンは、思わず全身を硬直させて短く叫んでいた。ちょうど、男が両腕を跳ね上げ、迷彩マントを体から剥ぎ取ったところだった。
男の両手に、武器は無かった。腰にも無かった。
その広い背中に担がれた、アイテム運搬用のバックパックだとばかり思っていた膨らみが露わになった。
男の肩から肩へ、金属のフレームが湾曲して伸びている。そのレールに、吊り下げられるように装着されているのは、無骨な、金属の塊だった。
円筒形の機関部を、Y字型の支持フレームが包んでいる。銀色のキャリアハンドルが光り、その下から伸びる、束ねられた六本の銃身。全長は1メートルほどか、機関部にはベルトリンクが装着され、それは同じくレールに懸架された巨大な弾倉へ繋がっている。
その、銃と言うにはあまりに無骨で、獰猛な姿を、シノンはかつて一度だけGGO情報サイトの武器名鑑で目にしていた。
たしか名を、GE-M134ミニガン。武器カテゴリは重機関銃。ガンゲイル・オンラインに登場する銃器の中で最大のもののひとつだ。六連の銃身が高速回転しながら装填・発射・排莢を行うことで、7.62ミリ弾を秒間100発というおよそ有り得ない速度でバラ撒く、悪夢の代名詞とでも言うべき銃――いや、もはや兵器か。
当然ながら、重量も凄まじい。確か本体だけで18キロ、あれだけの弾薬と一緒なら40キロを超えるだろう。どんなSTR一極型のプレイヤーでも重量制限内に収めるのは不可能だ。当然、過重状態だろう。あのパーティーの移動がのんびりしていたのは、狩りが長引いたためではない。あれが、男に出せる最大の移動速度だったのだ。
愕然としながらスコープを覗くシノンの視界のなかで、大男は右手を背に回すと、ミニガンのハンドルを握った。レールを巨大な機関銃がスライドし、男の体の右側で前方に90度回転する。両足を大きく開き、六連の銃口を正面に大きく突き出した姿勢で――男ははじめて、ゴーグルの下の口を動かし、獰猛な笑みを浮かべた。
シノンは慌てて右手を動かし、スコープの倍率を更に下げた。
視界左側から、ギンロウ達三人のアタッカーが、サブマシンガンを構えて突っ込んでくる。レーザーブラスターの光弾が青白い尾を引いて迎え撃つが、それらはすべてギンロウたちの直前1メートルほどの空間で、水面に吸収されるように波紋を残して減衰する。防護フィールドの効果だ。
反撃すべく短機関銃が火を噴き、岩から身を乗り出していたブラスター使いの一人がパ、パッ! と白い着弾エフェクトと共に倒れた。ギンロウ達は更に突出し、敵集団から間近いコンクリート壁の陰へと――
その時、大男がぐっと腰を落とした。
直後、ミニガンの銃身が回転し、きらきらと輝く光の帯が、わずか0.3秒ほど迸った。
それだけで、壁の一部とともに、ギンロウの体がこまぎれに分解され、消滅した。水流にさらされた砂の人形のような呆気なさだった。
「っ…………」
シノンは、唇を噛んで立ち上がっていた。地面からヘカートIIを掴み上げると、二脚を畳んでベルトを体にまわし、背負う。
138センチに及ぶヘカートIIは、155センチほどしか身長のないシノンの肩にずしりと食い込んだが、それでも重量制限内だ。サブアームの超小型短機関銃、 H&K-MP7 を入れてもどうにか制限をオーバーしないのは、シノンのSTR値が高いせいもあるが、ヘカートIIの弾薬をマガジン内の7発しか携行していないこともある。
肉眼でも、ほぼ1.5キロ離れた戦場を飛び交う光がキラキラと見てとれた。シノンは無言のまま、全速で駆け出していた。
こうなった以上、戦闘の帰結はダインたちに不利だった。ミニガン使いの男一人が相手であれば、中距離以上を保って常に高速で移動しながら攻撃することで、倒すこともあるいは可能だろう。しかしミニガンの援護を受けたレーザーブラスター使い達に、防護フィールドが効力を失う距離まで接近されればそちらの相手をしないわけにはいかない。
スコードロンのメンバーとは言え、シノンがここで撤退しても文句は言われないはずだった。命じられた目標の狙撃という任務は立派に果たしたのだ。
それでも、シノンは一直線に戦場目指して走った。仲間を助けたいと思ったわけではない。ただ、あのミニガンの男が浮かべた笑みが、シノンの脚を前に動かした。
男には戦場で笑えるだけの強さがある。ミニガンなどという超のつくレア銃を手に入れ、それを装備できるだけのSTRを積み重ね、シノンの狙撃にも難なく対処するだけの胆力を身につけている。
そういう相手と戦い、殺すことで、あまりに弱いもうひとりの自分――シノンの中でいつまでも泣きじゃくっている幼い浅田詩乃を消滅させる、それだけのために、この狂気の世界に身を投じているのではなかったか。ここで逃げては、今まで積み重ねてきたものが全て無駄になる。
パラメータが許すかぎりの全速で乾いた地面を蹴り、埃っぽい空気を切り裂いて、シノンは疾駆した。
砂利の混じる砂地に転々ところがる岩や崩れかけた壁を避け、飛び越え、数十秒足らずの疾走で交戦エリアに突入した。
AGIパラメータ支援を全開にした一直線の猛ダッシュだ。身を隠すことはわずかにも考えなかった。敵集団にも接近するシノンの姿は捕捉されているはずだった。
両パーティーの交戦域は、開始時と比べて大幅に移動していた。当然、後退しているのはダイン達だ。ミニガンの有無を言わせぬ掃射にバックアップされて、敵集団の前衛は着実に距離を詰め、レーザーの効果範囲から逃れるために、ダインを含む四人は掩蔽物から掩蔽物へと下がりつづけるしかない。
荒野に飛び出しての一直線の逃走もまた不可能だった。姿を晒せば、即座に滝のような銃弾によって蜂の巣だ。しかも、どうにかダインたちの姿を隠しているコンクリート壁の類は、彼らのすぐ後ろで急激に数を減らしていた。残るのは、死角からの接近に利用した、半分以上崩壊したビルディングの遺構だけだった。あそこに逃げ込めば、それが即ちダイン達の墓標となる。
以上のことを瞬時に認識し、シノンはダインらがうずくまる壁の後ろに、一息に飛び込もうとした。その瞬間、三本の赤い光のラインが、シノンのすぐ前方にぱぱっと表示された。
「く……」
歯を食いしばり、回避体勢に入る。これは、敵のアタッカーが持つレーザーブラスターの「弾道予測線」だ。
シノンはまず、体を限界まで低くし、最初の予測線をかいくぐった。直後、頭上のラインを正確にトレースして、青白い熱線が空間を灼いた。目の前には二本目の予測線が伸びている。すぐさま右足に全身の力を込めて地面を蹴り飛ばし、空に身を躍らせる。腹のすぐそばを、次のレーザーが通過し、一瞬視界を白く染める。
三本目の予測線は、飛翔するシノンの軌道と、少し高い位置で交差していた。精一杯首を縮め、飛来した熱線を回避したが、薄いブルーのショートヘアの尖端がわずかに接触して、ぱちぱちと光の粒が散った。
どうにかレーザーブラスターの 三点バースト 射撃をかわして、地面に着地したシノンの眼前を――
恐ろしく太い、直径50センチはあろうかという血の色のラインが貫いた。間違いなく、ミニガンの弾道予測線だった。コンマ何秒後に、あの嵐のような連射が襲い掛かってくる。
恐怖で竦む体に鞭打って、シノンは地面についたばかりの右足をぐっとたわめ、再び思い切り飛び上がった。空中でくるりと体を捻り、ハイジャンプの背面飛びの要領で全身を反らせる。
直後、暴風のようなエネルギーの奔流が、背中ぎりぎりの場所で荒れ狂うのを感じた。白く輝く実体弾の群が視界の端を通過し、少し離れた廃墟ビルディングのぼろぼろの壁を、さらに一部丸く吹き飛ばした。
背中から砂地に落下する寸前シノンは再び体を捻り、両手両足で着地、同時に思い切り体を前方に投げ出した。数回ごろごろと転がると、そこはもうダインらの伏せるコンクリート壁の陰だった。
いきなり目の前に出現したシノンを、スコードロンのリーダーは驚愕の視線で眺めた。どう好意的に見ても、そこにあったのは感謝の輝きではなく、わざわざ死地に首を突っ込む物好きへの疑念に過ぎなかったが。
ダインはすぐに顔を逸らし、手のなかのSG550に視線を落とした。呟いた声は、低くしわがれていた。
「……畜生、奴ら用心棒を呼んでやがった」
「用心棒?」
「知らねえのか。あのミニガン使いだよ。あいつは《ベヒモス》っていう、北のオーブスリーの街で有名な野郎だ。カネはあるが根性のねえスコードロンに雇われて、護衛の真似事なんぞしてやがるのさ」
あなたよりは余程尊敬できるプレイスタイルだ、とシノンは思ったが、もちろん口には出さなかった。かわりに、ダインの向こうで時折掩蔽物から顔を出し、敵集団に向かって空しい反撃を行っている三人を見上げ、言った。
「このまま隠れていたらすぐに全滅する。――ミニガンはそろそろ残弾が怪しいはず、全員でアタックすれば派手な掃射はためらうかもしれない。そこを突いてどうにか排除するしかない。SMG二人は左から、ダインと私は右から回り込んで、M4はここからバックアップ……」
そこまで言ったとき、ダインがかすれた声で遮った。
「……ムリだ、ブラスターだって3人残ってるんだぞ。突っ込んだら防護フィールドの効果が……」
「ブラスターの連射は実弾銃ほどのスピードじゃない、半分は避けられる」
「ムリだ!」
ダインは頑なに繰り返し、首を振った。
「突っ込んでもミニガンにズタズタにされるだけだ。……残念だが、諦めよう。連中に勝ち誇られるくらいなら、ここでログアウトして……」
ニュートラル・フィールドでログアウトしても、すぐに消滅できるわけではない。魂の抜けた仮想体は数分間その場に残り、依然として攻撃の対象になり得る。アイテムや武装のランダムドロップも発生する。
今までも、リーダーとしては後退を指示するタイミングが早すぎるとは思っていたが、まさかこのような自暴自棄、いや子供の癇癪とでも言うべき提案を持ち出すとは予想できず、シノンは半ば呆然としてダインの、それだけ見れば歴戦の兵士然とした顔を凝視した。
途端、ダインは歯を剥き出し、喚いた。
「なんだよ、ゲームでマジになんなよ! どっちでも一緒だろうが、どうせ突っ込んでも無駄死にするだけ……」
「なら死ね!!」
反射的に、シノンは叫び返していた。
「せめてゲームの中でくらい、銃口に向かって死んでみせろ!」
これでこのスコードロンとも縁切れだなあ、と思いながら、ダインの、迷彩ジャケットの襟首を掴んで無理やり引っ張り上げた。同時に、目を丸くしている残り三人に向かって鋭く言う。
「三秒でいい、ミニガンの注意を引きつけてくれれば、私がライフルで始末する」
「……わ、わかった」
緑の髪をゴーグルに垂らしたアタッカーが、つっかえながらもどうにか応え、残り二人も頷いた。
「よし、一斉に出るぞ」
シノンは、不貞腐れた顔のダインの腰を押し、掩蔽物の端まで移動した。左腰からMP7を抜き、低い声でカウントする。
「3……2……1……、ゴウ!」
同時に思い切り地を蹴り、一秒先の死が連続して待ち受けるバトルフィールドに飛び出した。
途端、すぐ目の前を複数の着弾予測線が横切った。体を倒し、スライディングのように回避しながら、敵集団に視線を向ける。
すぐ20メートルほど先の壁の向こうに、レーザーブラスターが二人。左に離れてもう一人。ミニガンの男《ベヒモス》はさらにその10メートル後方、今は左に飛び出した二人を射線に収めようとしている。
シノンは横方向に走りながら、左手のMP7をブラスター使いに向けた。トリガーに力を込めると着弾予測円が表示されたが、さすがに照準が絞れず、男たちの体を大きくはみ出している。
それでも構わず発射した。ヘカートIIに比べると無いに等しいリコイルを掌に感じながら、4.6ミリ弾の20連マガジンを一気を空にする。
無謀とも言える反撃に慌てたように、二人のブラスター使いは壁の向こうに引っ込もうとしたが、数発の弾丸がそれぞれの体を捉えた。HPを削りきるまでには至らなかったが、数秒の余裕はあるだろう。
「ダイン! 援護頼む!」
シノンは叫んで地面に身を投げ、同時に背中からヘカートIIを外して両腕でホールドした。二脚を展開している時間はない。恐ろしい重みに耐えながら、スコープを覗く。
低倍率にセットしたままの視野に、ベヒモスの上半身がいっぱいに映し出された。その顔がまっすぐこちらを向くのを見て、予測円が収縮するのを待たずにシノンはトリガーを引き絞った。
轟音と共に必殺の閃光が空間を貫き――ベヒモスの頭のすぐ隣を通過した。衝撃でよろけたベヒモスの頭からゴーグルが吹き飛び、こなごなになって消滅した。
外した――!
唇を噛んで立ち上がろうとしたシノンと、スコープの中のベヒモスの視線が交錯した。素顔を晒したベヒモスは、灰色の両眼を爛々と光らせ、なおも唇に不敵な笑みを浮かべていた。
シノンの全身を巨大な赤い光が包み込んだ。
回避不可能、と一瞬で判断した。伏射姿勢から立ち上がり、左右どちらかにジャンプするだけの余裕はない。
せめて、銃口に向かって――。
自分の言葉を守るべく、シノンは体を起こしながらまっすぐにベヒモスの姿を見た。と、その巨体の数箇所に、ぱぱっ! と光が弾けた。
ダインだった。地面に体を伏せてSG550を構え、最大の命中精度を稼いで狙い打ったのだ。この状況、この距離で数発にせよ命中させるとは、人格はともかくさすがの腕だ、そう思いながらシノンは右方向に思い切り飛んだ。直後、今まで体のあったところを数十発に及ぶ弾丸の嵐が引き裂いた。
「ダイン! もっと右に移動して……」
そこまで叫んだ時。
再び掩蔽物から姿をあらわした二人のレーザーブラスター使いが、立ちあがりかけたダインに向かって容赦ない光の矢を浴びせた。
あまりに距離が近すぎた。ダインの防護フィールドを熱線が貫通し、その体に次々と突き立った。
ダインは一瞬シノンを見た。すぐに顔を正面に向け――
「うおっ!!」
一声叫んでまっすぐ走り始めた。
たちまち、光線の雨がダインを迎え撃った。それをかわし、掻い潜り、ダインは猛然とダッシュする。だが無論回避しきれはしない。
最後の数秒で、腰からお守りがわりの大型ハンドグレネードを引き抜き、ダインは掩蔽物の向こうに投げ込んだ。同時にその体が、無数のポリゴン片となって砕け散った。
閃光が世界を白く染めた。
巨神のハンマーが大地を撃ったような衝撃音。赤黒い焔が吹き上がり、盛大に土砂を撒き散らした。それに混じって、ブラスター使いの体がひとつ宙に舞い、地面に辿り着く前に粉砕・消滅した。
吹き付ける土煙から顔を逸らしながら、シノンは一瞬、戦場を見渡した。
左翼から突撃した二人のうち一人はミニガンにやられたらしいが、そちらにいたはずのブラスター使い一人も姿を消している。こちらはダインが自爆にも等しい攻撃で散り、敵前衛一人を道連れにして、もう一人もしばらくはスタン状態だろう。更に、爆炎が広がる前に一瞬、こちらに向かって接近しつつあるベヒモスが見えた。
つまり、あとはほぼベヒモスとシノンの一騎打ちだ。そしてこの距離で、重機関銃に対して狙撃銃では勝負にもならない。
どうにかしてミニガンの死角に入り、射撃体勢を取らなくてはならない。だが一対一の正面戦闘で死角も糞も……
シノンは一瞬息を詰めた。土煙が盛大に周囲を覆っている今なら、ベヒモスはこちらの姿を見失っている。むろんこちらからも見えないゆえ狙撃などできないが、このエリアに唯一存在する、あの銃弾の暴風が届かない地点に移動することはできるかもしれない。
くるりと後ろを向き、猛然と駆け出した。眼前には、ぼろぼろに崩れたビルディングの遺構がそびえている。
エントランスに飛び込むと、ビルの後ろ半分はすべて崩壊して黄色い空が覗いていたが、すぐ右手の壁際に目指すものがあった。床に積もった瓦礫を蹴り飛ばし、そこに向かう。
上へと続く階段も、そこかしこが抜け落ちている有様だったが、気にせず駆け上る。踊り場の壁を蹴り飛ばして方向転換し、さらに上へ。
20秒足らずで5階まで登りつめると、そこで階段は終わっていた。すぐ左側に大きな窓があった。ここからなら、ピンポイント狙撃のための数秒を、ベヒモスに気付かれずに稼げるはず……、そう思いながら、シノンはヘカートIIの銃床を肩に当て、一気に窓から身を乗り出した。
途端、視界が真っ赤に染まった。
十数メートル下の地面から、ベヒモスがミニガンを限界まで上向けて、まっすぐシノンを照準していた。読んでいたのだ――シノンの思考を、すべて。
後退する時間も、身を伏せる時間も無かった。
強い。本物のGGOプレイヤー、いやソルジャーだ。
だが、そういう相手、敵をこそシノンは求めてきたのだ。殺す。絶対に殺す。
シノンは躊躇しなかった。窓枠に右足を掛け、一気に身を躍らせた。
同時に、燃えるように輝くエネルギーの激流が地上から襲い掛かってきた。バシッ!! と凄まじい衝撃が、シノンの左足の膝から下を叩いた。感覚が麻痺し、HPバーが急激に減少した。
だが、生きていた。ミニガンの射線を飛び越え、シノンは宙を舞った。仁王立ちになったベヒモスの、まっすぐ上空へと。
弾倉が空になるまで撃ち尽くすつもりか、ベヒモスは体を後傾させ、射線でシノンを追った。だが、届かない。真上までは射角が取れない。
落下が始まると同時に、シノンはヘカートIIを肩に当て、真下に向けてスコープを覗いた。
視野のすべてに、ベヒモスの掘りの深い顔が映し出された。その顔から、とうとう笑みが消えた。剥き出した歯を食いしばり、怒りと恐怖の混合燃料で燃える瞳をまっすぐシノンに向けていた。
シノンは、自分の口元が動くのを思考の片隅で意識した。笑っていた。獰猛で、残虐で、冷酷な笑み。
落下しながらの、姿勢も何もない射撃だったが、距離があまりにも近かった。ベヒモスの頭からわずか1メートルほどまで肉薄した時点で、着弾予測円がぐうっと収縮し、男の顔の中央に収斂した。
「――死ね」
呟くと同時に、シノンはトリガーを絞った。
まっすぐ垂直に、この世界に存在しうる、一弾での最大エネルギーを秘めた柱が屹立した。
それは、ベヒモスの顔から両足に至るまでに一瞬で孔をうがち、砂交じりの地面の奥深くまでを貫いた。
直後、爆発じみた衝撃音が轟き渡り、ベヒモスの巨体は円筒状に分解・拡散した。
(第二章 終)
SAO3_03_Unicode.txt
第三章 「右手の記憶」
校門から出た途端、冷たく乾いた風が頬を叩き、詩乃(しの)は立ち止まって白いマフラーをきっちりと巻きなおした。
顔の半分を深く布に埋め、再び歩き出す。枯葉の積もった歩道を足早に進みながら、胸のなかで呟いた。
これで、高校三年間の総授業日数608日のうち、156日が終了した。
ようやく四分の一。――そう思うと課せられた苦行のあまりの長さに呆然とする。いや、しかし、中学時代を計算に入れれば六割近くの日付けが過去へと消えていったことになる。いつかは終わる……いつかは、終わる。呪文のように、そう繰り返す。
もっとも、高校を卒業する日が来たとして、何かしたいこと、あるいはなりたいものがあるという訳ではない。ただ、今の自分が半ば強制的に所属させられている、この「高校生」という集団から解き放たれたい。
一体、毎日あの収容所めいた場所に通い、授業という名のたわ言を聞かされ、幼児期から何一つ内的に変化していないのではと疑いたくなる連中と並んで体操だの何だのすることにどのような意味があるのか、詩乃にはまるで理解できない。ごく例外的に、有為と思える講義をする教師もいるし、尊敬すべきところのある生徒もいるが、それらの存在が詩乃にとって必要不可欠というわけではまったくない。
現在の実質的保護者である祖父母に、高校には行かずにすぐに働くか、あるいは専門学校で就職のための訓練をしたい、と言ったとき、昔気質の祖父は真っ赤になって怒り、祖母は、詩乃にはいい学校に行ってちゃんとした家に嫁いで欲しい、そうでなければあんたのお父さんに申し訳が立たない、と泣いた。それで已む無く必死に勉強し、東京の、そこそこ名の通った都立高に合格したのだが、入ってみて驚いた。郷里の公立中学と、何ら本質的には変わるところが無かったからだ。
結局詩乃は、中学時代と同じように、毎日校門から出るたびに儀式のごとく残る日々を数えている。
詩乃がひとりで暮らすアパートは、学校とJRの駅の中間あたりに位置している。六畳に小さなキッチンだけの狭い部屋だが、商店街の端と接する場所にあり、買い物には都合がいい。
午後三時半のアーケード街には、まだそれほど人の姿は無かった。
詩乃はまず本屋の平台を覗き、好きな作家の新刊が出ているのを見つけたが、ハードカバーだったので我慢して店を出た。オンライン予約すれば、一ヶ月ほど待つが区立図書館で借りることができる。
次に文具店で消しゴムと方眼罫のノートを買い求め、財布の残金を確認してから、夕食の献立を考えつつアーケードの中央にあるスーパーマーケットに向かう。もっとも詩乃の晩餐は一汁一菜が基本で、栄養、カロリー、原価のバランスさえ満たせば味や見てくれは二の次となる。
にんじんとセロリのスープに、豆腐ハンバーグにしよう、と思いながら、ゲームセンターの前を通過してその隣のスーパーに入ろうとしたとき。
「朝田ぁー」
ふたつの店の間、細い路地から、詩乃を呼ぶ声がした。
ついビクリと体を竦ませてから、詩乃はゆっくりと90度右に向き直った。
路地には、詩乃と同じ制服――ただしスカートの丈に多大な差がある――に身を包んだ、三人の女子生徒の姿があった。一人はしゃがみ込んで携帯端末を操作し、二人がスーパーの壁に体をもたれさせて、笑みを浮かべて詩乃を見ていた。
無言のままでいると、立っているうちの一人が、薄い茶色の髪いじりながら顎を振った。
「こっち来いよ」
だが詩乃は動かず、小さい声で言った。
「……なに?」
途端、もう一人が数歩あゆみよってきて、詩乃の右手首を掴んだ。
「いいから来いよ」
そのまま、強引に引っ張られる。
商店街からは見えにくい、路地の奥方向に押しやられた詩乃を、しゃがんでいた生徒が見上げた。この三人のリーダー格の、遠藤という女だ。つり上がった細い目と、尖ったあごが、ある種の捕食昆虫めいた印象を与える。
ラメの入ったパープルに光る唇をゆがめ、笑いながら遠藤は言った。
「わり、朝田。あたしらゲーセンで遊んでたらさぁ、電車代無くなっちゃった。明日返すからさ、こんだけ貸して」
指を一本立てる。百円でも千円でもなく一万円という意味だ。
遊んでたもなにもまだ授業が終わってから20分と経っておらず、電車代もなにも三人ともに定期券を持っていて、更に電車に乗るだけでなぜ一万もかかるのか、と、詩乃は心の中で立て続けに論理的矛盾点を列挙したが、それを指摘してどうなるものでもない。
この三人に、あからさまに金銭を要求されるのは二回目だった。前回は、持ち合わせが無いと言って断った。
同じ手が通用する確率は低い、と思いながら、詩乃は答えた。
「そんなに持ってるわけない」
すると遠藤は一瞬笑みを消し、再びにこっと微笑んだ。
「じゃ、下ろしてきて」
「…………」
詩乃は無言でアーケード街に向かって歩き出そうとした。人目のある銀行まではついてこないだろうし、この場から離脱できれば誰がバカ正直に戻ってくるものか――と思ったその時、遠藤が言葉を続けた。
「鞄、置いてって。財布も。カードだけあればOKっしょ」
詩乃は立ち止まり、振り返った。遠藤の唇は変わらず笑みを形づくっているが、その細い目には、獲物を弄ることに興奮する猫のような光が浮かんでいる。
この三人を、一時にせよ友達と信じたのだ。そう思うと、詩乃は己の愚かしさが許せなくなる。
高校入学直後、地方から出てきたばかりで当然知り合いも居らず、共通の話題もなく毎日黙っているだけだった詩乃に、最初に声を掛けてきたのが遠藤たちだった。
一緒に昼食をと誘われ、やがて学校の帰りに四人でファーストフード店に寄ったりするようになった。詩乃は主に話を聞くだけで、ひそかに彼女らの話題に閉口することもあったが、それでも嬉しかった。なぜなら遠藤たちは、久々に得た、「あの事件」を知らない友達だったから。この学校でなら普通の生徒になれる、そう思えたから。
三人が、クラス名簿の住所から、詩乃が一人暮らしだと当たりをつけて近づいてきたのだということに気付いたのはずっと後になってからだった。
遊びに行っていい? と言われたとき、詩乃はすぐに了承した。アパートの部屋を遠藤たちは褒め、羨ましがり、暗くなるまでお菓子を囲んで話こんだ。
彼女らは、翌日も、翌々日も詩乃の部屋にやってきた。
やがて、三人は詩乃の部屋で私服に着替え、電車で遊びに行くようになった。そんなとき、詩乃の部屋には彼女らの荷物が残され、そのうちに三人の私服が小さなクローゼットを占めはじめた。
化粧品、雑誌、遠藤たちの私物はどんどん増えていった。5月に入るころには、遊びにいった三人が酔って帰ってきて、そのまま泊まっていくようなこともあった。
あるとき、とうとう詩乃は、あまり毎日来られると、勉強ができなくて困る、と恐る恐る言った。
遠藤の答えは、「友達っしょ」の一言だった。翌日、合鍵を要求された。
そして、5月末の土曜日のこと。
図書館から帰宅した詩乃がドアの前に立つと、部屋の中から盛大な笑い声が聞こえた。遠藤たちの声だけではなかった。
詩乃は息を殺し、耳を澄ませた。自分の部屋の様子をうかがう行為が、とてつもなくやるせなかった。
明らかに、複数の男の声がした。
自分の部屋に、知らない男がいる。そう思うと、詩乃は恐怖で竦んだ。次いで怒りが湧き起こった。ようやく真実を悟った。
アパートの階段を降り、携帯電話で警察を呼んだ。やってきた警官は、双方の言い分に戸惑ったようだったが、詩乃はひたすら、知らない人たちです、と繰り返した。
とりあえず交番に行こう、と警官に言われた遠藤は、凄まじい目で詩乃を見てから、「ふうん、そっか」とひとこと言い残し、荷物をまとめて部屋を出て行った。
報復は速やかだった。
遠藤は、普段の彼女からは考えられない悪魔のごとき調査能力で、詩乃が一人で暮らしている理由、遠く離れた県で五年前に起こった「事件」のことを調べ上げ、全校に暴露した。詩乃に話し掛ける生徒は一切いなくなり、教師ですら直視を避けた。
何もかもが、中学時代に逆戻りだった。
だが詩乃は、それでいい、と思った。
友達を欲しがるような自分の弱さが、目を曇らせた。己を救えるのは己しかいない。自分の力だけで強くなり、事件の残した傷を乗り越えなければならない。その為には、友達なんかいらない。むしろ敵でいい。戦うべき敵――周囲の全てが、敵。
ぐっと息を止め、詩乃はまっすぐ遠藤の目を見た。つり上がったその目に、剣呑な光が宿る。笑みを消し、低い声で遠藤が言った。
「んだよ。――早く行けよ」
「嫌」
「……は?」
「嫌。あなたにお金を貸す気はない」
視線を逸らさず、詩乃は答えた。
断固とした拒絶は、更なる敵意と害意を呼び起こすだろう、とわかっていても、要求に従うのはもちろん、曖昧な態度を取って逃げることさえしたくなかった。遠藤らにではなく、自分に「弱い自分」を見せるのが嫌だった。強くなりたい、それだけを考えてこの五年間を過ごしてきたのだ。ここで挫ければ、その努力が無駄になる。
「手前ェ……ナメてんじゃねえぞ」
右目の端をぴくぴくと引き攣らせ、遠藤が一歩踏み出してきた。残る二人は詩乃の後ろにまわり、至近距離から取り囲まれる。
「――もう行くから、そこをどいて」
詩乃は低い声で言った。たとえどれほどキレたポーズを作ろうと、遠藤たちに実際の行動に出る度胸は無いと踏んでいた。彼女らも、家に帰ればそれなりに普通のいい子なのだ。警察沙汰になるのは、以前の一回で懲りているはずだ。
――だが。
遠藤は、詩乃の弱点――どこを刺激すれば、容易く血が流れるか、そのポイントを熟知していた。
フッ、と、悪趣味な色に光る唇に嘲るような笑みが浮かんだ。
遠藤は、ゆっくりとした動作で右拳を持ち上げ、詩乃の顔に突きつけた。拳から、人差し指と親指が伸びて、子供が拳銃を模すときの形を作る。他愛ない、幼稚なカリカチュア。
しかし、それだけで詩乃の全身をすうっと冷気が包んだ。
両脚から徐々に力が抜けていく。平衡感覚が遠ざかる。目の前に擬された遠藤の指先、長い爪が白いエナメルで光るその尖端から、目が離せなくなる。鼓動の加速に伴い、高周波のような耳鳴りが思考能力を奪っていく。
「ばぁん!」
いきなり遠藤が言った。その途端、詩乃の喉の奥から細く高い声が漏れた。体の奥から震えがこみ上げてきて、止めることができない。
「クッフ……、なぁ、朝田ぁ」
指先を突きつけたまま、遠藤が笑いの混じる声で言った。
「兄貴がさぁ、モデルガンいっぱい持ってるんだよなぁ。今度借りて、学校持ってってやろうか。お前好きだろ、ピストル」
「…………」
舌が動かない。口の中から水気がなくなり、ぴたりと口蓋に貼りついてしまったかのようだ。
詩乃は、小さく首を振った。学校でいきなり拳銃など見せられたら、どのような恐慌を来たしてしまうか想像もつかない。ぎゅっと胃が収縮し、たまらずに体を折る。
「おいおい、ゲロるなよ朝田ぁー」
後ろから、やはり笑いに塗れた声がした。
「いつだか社会の時間にアンタがゲロって倒れたとき、後すげえ大変だったんだぞぉ」
「ま、ここならよく酔っ払いの親父がやってるけどさぁ」
甲高い笑い声が湧き起こる。
逃げたい。走って逃げ去りたい。でもそんなことできない。相反する二つの声が、頭の中でがんがんとこだまする。
「とりあえず、今持ってるだけで許してやるよ、朝田。具合悪いみたいだしさぁ」
右手に持った鞄に、遠藤が手を伸ばしてきたが、とても抵抗できなかった。考えちゃいけない、思い出しちゃいけない、そう思うほどに、記憶のスクリーンに黒い輝きが甦ってくる。ずしりと重く、じっとりと濡れて生暖かい鉄の感触。つんと鼻をつく火薬の匂い――
その時、背後から叫び声がした。
「こっちです! お巡りさん、早く!!」
若い男の声だった。
途端、鞄から遠藤の手が離れた。三人はもの凄い速さで前方に駆け出し、アーケードの人波に紛れて消え去った。
今度こそ脚から力が抜け、詩乃は崩れるようにうずくまった。
必死に呼吸を繰り返し、波打つ思考をフラットに戻そうとする。徐々に、周囲の喧騒や、スーパーの店頭から流れる焼き鳥の匂いが戻ってきて、フラッシュバックしかけた悪夢を遠ざけていく。
何分間、そうしていただろうか。やがて背後から、おずおずとした声が掛けられた。
「……大丈夫、朝田さん?」
最後に大きく呼吸をして、詩乃は立ち上がった。
振り向くと、立っていたのは背の低い、痩せた少年だった。ジーンズにパーカー姿、肩にデイパックを下げている。やや伸びすぎの前髪の下、睫毛の長い目には気遣わしそうな光が浮かんでいる。薄く、高い鼻梁と細い顎の線は、整った顔立ちといえないことも無いが、肌の色が青白いほどに薄く、どこか病的な印象がつきまとう。
詩乃は、少年の名前を知っていた。この街で唯一気を許せる――少なくとも敵ではない存在であり、ここではないもうひとつの世界では戦友と言っていい間柄だ。
ようやく動悸が収まったのを感じながら、詩乃はごくわずかに微笑み、答えた。
「……大丈夫。ありがとう、新川くん。――警官は?」
背後を覗き込むが、薄暗い路地は無人のままで、誰かが現れる様子はない。
新川恭二(しんかわきょうじ)は、頭をかきながら笑った。
「出任せだよ。よくドラマや漫画であるじゃない。一度やってみたかったんだ、上手くいってよかった」
「…………」
詩乃は少々呆れて、短く首を振った。
「……君によくそんな真似が出来たね。どうしてここに?」
「ああ、そこのゲーセンにいたんだ。裏口から出てきたら……」
恭二は背後を振り返った。路地に面した、灰色のコンクリート壁に、小さな銀色のドアが見える。
「あいつらが朝田さんを取り囲んでたからさ。ほんとに110番しようかとも思ったんだけど……」
「とりあえず、助かったよ。有難う」
再び詩乃が微笑むと、恭二も一瞬笑みを見せ、すぐに心配そうな表情に戻った。
「……朝田さん、こんなこと……よくあるの? その……僕が言うのも何だけどさ、ちゃんと学校とかに報告したほうが……」
「アテにならないよ、そんなことしても。大丈夫、これ以上エスカレートするようなことがあったらほんとに警察行くから。それに、人の心配するよりも、君のほうは……大丈夫なの?」
「ああ……、僕は、もう。奴らとは顔も合わせないしさ」
小柄な少年は、今度はやや自嘲ぎみに笑った。
新川恭二は、夏休み前まで詩乃のクラスメートだった。だった、と言うのは、二学期以降学校に来ていないからだ。
噂で聞いた程度なのだが、恭二は、所属したサッカー部で上級生からかなり酷いいじめにあっていたらしい。体格が小さく、また家が大きい医院を経営しているということで、格好の標的と見られたのだろうか。金銭の要求も、遠藤たちほどあからさまではないにせよ飲食や遊興代の建て替え払いなどの形で、馬鹿にならない額の被害があったようだ。
もっとも、恭二から直接その話を聞いたことはない。
知り合ったのは六月、近所の区立図書館でのことだった。
詩乃は二階の閲覧室で、「世界の銃器」なるタイトルの、大判のグラフ誌をめくっていた。その頃は、写真であればどうにか発作めいた反応は起こさないようになっていたものの、それでも、「あの銃」が掲載されたページを十秒ほど眺めたところで限界に達し、慌てて本を閉じた――その瞬間、背後から声を掛けられたのだった。
「……銃、好きなんですか?」
という言葉を発したのが、同じクラスの生徒だということにはすぐに気付いた。詩乃は即座にとんでもない、その逆だ、と答えようとしたが、ならばなぜそんな本を見ていたのかという疑問を当然相手は抱くだろうし、それに対する合理的回答をでっち上げるのも難しそうだったので、曖昧に言葉を濁して頷いた。
今では恭二も、詩乃が現実世界では銃に対する極度の恐怖を抱いていることを知っているが、当時は素直に詩乃の言葉を信じ、嬉しそうに笑いながら隣の椅子に座った。
彼が開陳する銃器の知識を、詩乃は内心で冷や汗を滝のように流しながら聞いたものだが、そんな中、恭二がちらりと触れた「別世界」の話が詩乃の興味を引いた。
世界の名は、《ガンゲイル・オンライン》。現実世界に存在するあまたの銃器が精密に再現され、それらを帯びたプレイヤーたちが互いに殺しあう凄惨な荒野――。
その場所でなら、もう二度と現実では遭遇することはないであろう「あの銃」と、再び向き合うことができるのだろうか、と詩乃は考えた。これは導きなのだろうか、と。5年を経て16歳となったいま、正面からあの記憶と向き合い、克服するためのきっかけとなるのだろうか――。
あれから半年。
詩乃の中に生まれた《シノン》という名前の少女は、冷酷なる狙撃手として荒野に名を轟かせている。
だが、現実の自分、この朝田詩乃は、ほんとうに強くなっているのだろうか……?
詩乃にはわからない。その答えはまだ見えない。
「ね、何か飲まない? オゴるからさ」
恭二の声が、詩乃を内的思考から引き戻した。顔を上げると、細い路地に差し込む陽光はすでに赤みを帯びはじめていた。
「……ほんと?」
詩乃が微笑むと、恭二は嬉しそうにこくこくと頷いた。
「このあいだの大暴れの話、聞かせてよ。ここの裏通りに、静かな喫茶店があるんだ」
案内された店の奥まった席に体をうずめ、いい香りのするミルクティーのカップを両手で包むと、ようやく少し気持ちが落ち着いた。どうせまた遠藤たちはちょっかいを出してくるだろうが、その時はその時だと懸念を心の隅に押しやる。
「聞いたよ、一昨日の話。大活躍だったんだって?」
恭二の声に顔を上げると、痩せた少年はコーヒーに浮かぶバニラアイスの半球をスプーンで突付きながらやや上目遣いに詩乃を見ていた。
「……そんなことないよ。作戦的には失敗だったわ。こっちのスコードロンは6人中4人もやられたんだから。待ち伏せで襲ってその結果じゃあ、とても勝ったとは言えない」
肩をすくめて答える。現実世界で本物の銃器のことを想起するのは容易くパニックの引き金となるが、GGO内部の話であればこの頃はどうにか平常心を保てるようになっている。
「でも、凄いよ。あのM134使いの《ベヒモス》は、今までパーティー戦で死んだことが無いって言われてたんだからさ」
「へえ……。そんな有名な人なんだ。バレット・オブ・バレッツのランキングに名前が無いから知らなかった」
「そりゃあそうさ。いくらミニガンが強力って言っても、弾を500も持てば重量オーバーで走れないんだ。BoBはソロの遭遇戦だから、あの武器じゃ勝てないよ。その分、集団戦で充分な支援があれば無敵だけどね。反則だよ、あんな武器」
子供のように口を尖らせる恭二の仕草に、詩乃は思わず微笑む。
「……それなら、私のヘカートIIだって充分反則って言われてるよ。使うほうにしてみれば、それなりに色々苦労はあるんだけどね。きっとあのベヒモスさんだってそう思ってるよ」
「ちぇ、ゼイタクな悩みだなあ。……で、次のBoBはどうするの?」
「出るよ、勿論。前回20位までに入ったプレイヤーのデータは殆ど揃ったからね。今度はヘカートを持っていくつもり。次こそは、全員……」
殺す、と言いそうになり、慌てて誤魔化す。
「……上位入賞を狙ってみるよ」
詩乃/シノンは、秋口に行われた第二回GGO最強者決定バトルロイヤル戦、大会名称バレット・オブ・バレッツに参加し、予選を突破して30人で行われる本大会に進んだものの、22位という結果に終わっていた。広大なマップに30人がランダムに配置されてスタートするBoBでは、いきなり近距離からの戦闘に巻き込まれる可能性があったので、狙撃ライフルであるヘカートIIではなくアサルトライフルの ステアー-AUGを装備していったのだが、逆に近接戦闘中を レミントン-M40を装備したスナイパーに遠距離から狙われてしまったのだ。
あれから二ヶ月、じゃじゃ馬もいいところである「彼女」の扱いにも大分慣れ、またレアな軽量短機関銃のMP7を入手したことで近接戦闘にもある程度対応できるようになったので、もうすぐ行われる第三回BoBではあの巨大なライフルを背負って参加しようと思っている。基本的には掩蔽物に身を潜め、卑怯といわれようとひたすらターゲットが視界内に現れるのを待って、一人残らず吹き飛ばすつもりだ。
強力な戦士のひしめくGGOで、敵を全て撃ち倒し、己が最強であると確信できれば――その時には――その時には、きっと……
昏い思考を彷徨わせる詩乃の耳に、恭二の慨嘆めいた声が届き、意識が現実に引き戻された。
「そっかぁ……」
まばたきして視線を向けると、恭二はどこか眩しそうに目を細め、詩乃を見ていた。
「凄いな、朝田さんは。あんな物凄い銃を手に入れて……ステータスも、誂えたみたいにSTR優先だったしさ。僕がGGOに誘ったのに、すっかり置いていかれちゃったな」
「……そんなことないよ。新川君だって、前の予選じゃあ準決勝まで進んだじゃない。あの勝負はもう運次第だったよ。惜しかったよね、決勝まで行けば本大会には出られたのに」
「いや……ダメさ。AGI型じゃあ、レア運ないともう限界だよ。ステ振り、間違ったなぁ……」
愚痴めいた恭二の口調に、ごくごくかすかに眉をしかめる。
恭二の分身である《シュピーゲル》は、GGO初期の時流に即したAGI、つまり敏捷力パラメータをひたすら上げたタイプだ。この型は、レベル中盤くらいまでは圧倒的な回避力と速射力――この場合の「速射」は銃自体の発射速度ではなく、照準してから着弾予測円が収縮・安定するまでの時間だ――によって他タイプのキャラクターを圧倒したものの、ゲームが進行するに従って登場した強力な銃を装備するためのSTRつまり筋力値に事欠き、また銃自体の命中精度が向上することによって回避も思うようにいかなくなって、ゲーム開始から八ヶ月が経過する現在ではとても主流とは言えなくなっている。
それでも、速射力がものを言う大口径の強力なライフル、FN-FALやH&K-G3などのレア銃を入手できればまだまだ一線で通用するし、現実に前回BoBで二位に入った《闇風》というプレイヤーはAGI一極型だった。――とは言え、彼を破った優勝者《ゼクシード》はSTR-VITのバランスタイプであったのもまた事実なのだが。
しかし――。
詩乃に言わせれば、ステータスタイプなどと言うモノは、あくまで「キャラクターの強さ」であって、それよりも重要なファクターが厳然として存在する。それはプレイヤーの強さだ。心の強さ。一昨日戦った《ベヒモス》が、常に冷静沈着に戦況を分析し、その上で片頬に笑みを浮かべるだけの余裕を見せたように。かの男の強さの源はM134ミニガンではなく、あの獰猛な笑みそのものだった。
だから、詩乃としては恭二の言い方には少々引っかからざるを得ない。
「うーん……。確かにレア銃は強いけどさ……。強い人の中にはレアな武器装備してる人もいる、ってだけで、レア持ってる人が全員強いわけじゃないよ。実際、前の本大会に出た30人のうち半分くらいは、店売りのカスタム武器装備だったよ」
「それは……朝田さんがあんな超レア武器持ってて、その上STR-AGI-VITのバランス型だからそう言えるんだよ。やっぱ武装の差は大きいよ……」
ため息をつきつつアイスクリームをつつき回す恭二を見ながら、これ以上は何を言っても無駄だと思い、詩乃は会話を収束させようとした。
「じゃあ、新川君は次のBoBにはエントリーしないの?」
「……うん。出ても、無駄だからさ」
「そう……。ん……まあ、勉強もあるもんね。予備校の大検コース、行ってるんでしょ? 模試とかどう?」
恭二は、夏休み以来不登校を続けており、その件では、大きな病院の院長である父親と相当やりあったらしい。結局、大学入学資格検定を受けて、父親の出た大学の医学部受験を目指す、という線で落ち着いたと以前聞いた。
「あ……うん」
恭二はこくんと頷き、笑った。
「大丈夫、順位は学校行ってたころを維持してるよ。問題ありません、サー」
「よろしい」
冗談めかして答え、詩乃も微笑んだ。
「新川君のログイン時間、すっごいからさ。ちょっと心配だったんだよ。いつ入っても居るんだもん」
「昼間はちゃんと勉強してるよ。メリハリが大事なんだよ」
「あんだけ潜ってれば、随分稼いでるんじゃないのー?」
「……そんなこと、無いって。AGI型じゃあもうソロ狩りは無理だしさ……」
また会話の雲行きが怪しくなってきたので、詩乃は慌てて口を挟んだ。
「まあ、接続料さえ稼げればじゅうぶんだよね。……ごめん、私、そろそろ帰らないと」
「あ、そっか。朝田さんはご飯も自分で作ってるんだもんね。また今度、ご馳走になりたいな」
「あ、う、うん、いいよ。そのうち……もうちょっと腕が上がったらね」
詩乃は再び慌てる。
一度だけ、恭二を自宅に招いて自作の夕食を振舞ったことがあった。食事そのものは楽しかったのだが、テーブルに向かい合って食後のお茶を飲んでいるうちにだんだん恭二の目つきが熱っぽくなってきて、いささか冷や汗をかいたものだ。超のつくネットゲーマーかつ銃器マニアであっても、男の子は男の子であり、一人暮らしの自宅に招待したのは少々軽率だったと反省した。
恭二のことは嫌いではない。彼との会話は、現実世界では詩乃がほっとできるごくごくわずかな瞬間のひとつだ。しかし今は、それ以上のことは考えられない。自分の心の奥底を黒く塗りつぶす、あの記憶に打ち勝つまでは。
「ごちそうさま。それに――有難う、助けてくれて。かっこよかったよ」
立ち上がりながら詩乃が言うと、恭二は相好を崩して頭を掻いた。
「いつでも、守ってあげられればいいんだけど。その……あのさ、学校の帰りとか、迎えに……いこうか?」
「う、ううん、大丈夫。私も、強くならないと、だからさ」
答え、詩乃が笑うと、恭二は再び眩しそうに、少しまぶたを伏せた。
長年に渡って染み込んだ雨水によって斑な薄墨色になっているコンクリートの階段を登ると、二つめのドアが詩乃の部屋だ。スカートのポケットから鍵を取り出し、旧式のピンシリンダー錠に差し込んで半回転させると、がちんという重い金属音が冷たく響いた。
ひんやり薄暗い玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。
ロックノブを回し、チェーンを掛けてから、詩乃は無声音でそっと、ただいま、と呟いた。
ドアマットを敷いた上り框から、細長いスペースが3メートルほど伸びている。右側にユニットバスのドア、左側にキッチンシンク。スーパーで買ってきた野菜と豆腐、鶏のひき肉などをシンク横の冷蔵庫に収めて、奥の六畳一間に入ると、詩乃はようやく、ほうっと深く息をついて体の力を抜いた。カーテンを透かして入り込む最後の残照を頼りに壁のスイッチに触れ、照明を点ける。
飾り気のある部屋ではない。フローリング風のクッションタイル張りの床、カーテンはアイボリーの無地。右手の壁に面して置かれた黒のパイプベッドと、その奥に並ぶ同じくマットブラックのライティングデスク、反対側の壁際に据えられた小振りのチェストと書棚、姿見だけが主だった調度だ。
通学鞄を床に置き、白のマフラーをほどく。オーバーを脱いでハンガーに掛け、マフラーと一緒に造り付けの狭いクローゼットの中へ。黒に近い色のセーラー服から光沢のあるダークグリーンのスカーフを引き抜き、左脇のジッパーを下ろしたところで――詩乃は手を止め、ライティングデスクに視線を向けた。
今日の放課後はなかなかに波乱含みだったが、遠藤たちの恐喝行為に正面から立ち向かえたことがわずかな自信を胸の奥に残していた。パニックに陥りかけたのも事実だが、それでも逃げ出すにいられた。
それに二日前、GGO内で、強力な敵を死闘のすえに撃破したことも、一際強い火力で心を鍛えてくれたような気がした。
あのベヒモスという男は、パーティー戦では無敵だったのだと、新川恭二が教えてくれた。たしかに、そう言われれば頷けるだけの、すさまじいプレッシャーだった。戦闘中、詩乃/シノンは何度となく敗北、死を覚悟したものの、なお立ち上がって最後には勝利を力ずくでもぎ取った――
もしかしたら……。
もしかしたら、今ならば、あの記憶と向き合い、ねじ伏せることができるかも、しれない。
詩乃は動きを止めたまま、じっとデスクの抽斗を見詰めつづけた。数十秒後、右手に持ったままだったスカーフをベッドの上に放り投げて、デスクに歩み寄った。
数回、深く呼吸して、背骨のまわりを這いまわる怯えの虫を追い払う。
三段目の抽斗の取っ手に指をかけ――一気に引き開けた。
中には、筆記用具などを分類して収めた小さなボックスが並び、その一番奥に、暗闇を結晶させたかのような黒い輝きを纏って「それ」が横たわっていた。
拳銃。もちろん本物ではなく、プラスチック製のモデルガンだ。だが造りは非常に精緻で、細いヘアラインの走る表面仕上げなどは金属にしか見えない。
その姿を見ただけで、加速し始めた動悸を抑えこもうとしながら、詩乃は右手を伸ばして、そっとその銃のグリップを握り、持ち上げた。ずしりと重く、部屋の冷気を吸って凍るようにつめたい。
このモデルガンは、現実世界に存在する銃のコピーではない。グリップはエルゴノミクス的曲線で構成され、大型のトリガーガードのすぐ上部に大径の銃口が突き出ている。ブルパップ式とでも言うのか、放熱孔の開いた無骨な機関部はグリップのやや後方上部に位置している。
銃の名はプロキオンIII、ガンゲイル・オンラインに登場する光学銃だ。カテゴリー的にはハンドガンながらもフルオート射撃モードを有し、対モンスター戦闘用のサブアームとして人気が高い。
シノンも街の保管ルームに一丁所持しているが、現実の詩乃が持つこれは自分で購入したわけではない。そもそも売っているものではないらしい。
二ヵ月前のバレット・オブ・バレッツ本大会に出場し、25位に破れてから数日後、詩乃のゲームアカウント宛にGGOの運営体であるザスカーなる企業から英文のメールが届いた。どうやら、参加賞品として、ゲーム内で賞金もしくはアイテムを受け取るか、現実世界でプロキオンIIIのモデルガンを受け取るか選択せよ、という内容のようだった。
現実で模型とはいえ銃などが送られてきては堪らない、と即座にゲーム内での賞金を選ぼうと思ったのだが、そこで詩乃はふと手を止めた。
GGOにおける「荒療治」の結果を確認するには、いつか現実で模型の銃に触ってみる必要がある、とは以前から考えていた。かと言って、玩具店等に赴いてモデルガンを購入するのは心理的ハードルが多すぎるし、恭二に頼めば嬉々として貸してくれるだろうが受け取ったその場で発作を起こす可能性を考えるとそれもためらわれた。ネット通販が一番現実的だったが、オンラインショップで銃の画像をあれこれ見るのでさえ気が重く、実行に移せないでいたのだ。もちろん、金銭的な問題もあるにはあった。
GGO運営企業が、無料でモデルガンを送ってくれるというなら、あるいは好都合なのかもしれない――と、それでも期限ぎりぎりまで三日間悩んだ挙句、詩乃は現実で参加賞を受け取ることを選択したのだった。
一週間後、ずしっと重い国際小包が届いた。
開封するのに、更に二週間を要した。
そのとき引き起こされた反応は予想以上に酷いもので、詩乃はそれを机の抽斗の奥深くに押し込み、存在の記憶すら頭の片隅に押しやってきたのだ。
そして今――詩乃は再び、それを手に取っている。
銃の冷気が、右の掌から二の腕、肩を伝わって、からだの奥底まで沁み通ってくるようだ。模型のはずなのに、途方もなく重い。シノンなら指先で軽々と振り回すはずのハンドガンが、詩乃には鎖で地面に引っ張られているかのように思える。
掌から体温が奪われていくにつれ、銃は逆に熱を帯びていくように感じられる。冷や汗で湿ったその生暖かさの中に、詩乃は他人の体温を感じる。
誰の? それは……あの……男の……
最早鼓動は抑えようもなく加速され、ごうごうと音を立てて冷たい血が全身を駆け巡る。見当識が低下していく。足元の床が、ゆっくり傾きはじめる。
しかし、詩乃は銃の黒い輝きから目を離せない。至近距離から食い入るように覗き込む。その表面に、ぼんやりと誰かの影。
きいんと高い耳鳴りがする。それはやがて、甲高い絶叫に変化する。幼い少女の、純粋な恐怖に塗れた叫び声。
悲鳴を上げているのは、誰?
それは…………わたし。
詩乃は、父親の顔を知らない。
現実の存在としての、父親の記憶が無いという意味ではない。単純に、写真においてすら父親なる人物を見たことが無いのだ。
父親が事故で亡くなったのは詩乃が二歳の時だと、祖父母に聞かされた。
その日、父親と母親、詩乃の親子三人は、年末を母方の実家で過ごすため、自動車で東北のとある県境、山の側面に沿って伸びる片側一車線の県道を走っていた。東京を出るのが遅れ、時刻は夜11時を回っていたそうだ。
スリップ痕から、カーブを曲がりきれず対向車線に膨らんできたトラックの速度超過が事故の原因だと断定されている。
衝突の勢いで、トラックの運転手はウインドウを突き破って路面に投げ出されほぼ即死。右側面を直撃された一家の車はガードレールを越えて山の斜面に転落し、二本の樹に引っかかって停止した。その時点では、運転していた父親は意識不明の重傷ではあったものの死には至らず、助手席の母親も左大腿の単純骨折のみ、後部座席のチャイルドシートでしっかりとベルトをかけられていた二歳の詩乃はほぼ無傷だった。しかし、その時の記憶は一欠片も残っていない。
不運だったのは、その道が地元でもほとんど使用されておらず、特に深夜ともなればまったく往来が途絶え、また事故の衝撃で父親が持っていた携帯電話が破損したことだった。
翌早朝、県道を通りがかったドライバーが事故に気付いて通報するまで、6時間にも渡って詩乃の母親は、内出血によってゆっくりと冷たい死に至っていく父親を隣でただ見ていることしかできなかった。その時、母親の心のどこか奥の部分が、少しだけ壊れてしまったのだった。
事故後、母親の時間は、父親と知り合う以前、十代の頃まで巻き戻ってしまったかのようだった。母子は東京の家を出て母親の実家に身を寄せたのだが、母親は父親の遺品、ことに写真はほぼ全てを処分し、一切思い出を語ろうとはしなかった。
母親は、ただただ平穏と静寂のみを愛する、鄙の少女の如き生活を送るようになった。詩乃のことをどう認識しているのかは、14年が経つ現在でもはっきりとはわからない。あるいは妹のように思っているのかもしれないが、それでも、幸い母親は事故後も変わらず詩乃を深く愛してくれた。毎夜絵本を読み、子守唄をうたってくれたのを覚えている。
だから、詩乃の記憶にある母親はすべて、儚く、傷つきやすい少女のような姿だ。自然、物心つくにつれ、詩乃は自分がしっかりしなければ、と思うようになった。自分が、母親を守らなければ、と。
祖父母の外出中、しつこい訪問販売の男が玄関に居座って、母親が途方に暮れていたとき、毅然と、出て行かないと警察を呼ぶ、と言って追い返したのは9歳の時だ。
詩乃にとって、外の世界は常に、母親との静かな生活を脅かす要素に満ちた存在だった。守らなければ、守らなければ、とそれだけを考えていた。
だから――詩乃は思うのだ。あの事件が起きたのは、ある意味では必然だったと。現れるべくして現れた、外世界の悪意の凝集だったのではないかと。
11歳、小学五年生になった詩乃は、あまり外で遊ばず、学校からまっすぐ帰ってきて、図書館で借りた本を読むのを好む子供だった。成績は良かったが友達は少なかった。弱者を傷つけようとする存在に異常に敏感で、クラスで子供っぽいいじめ行為をしていた男子三人と口論の末喧嘩になり、双方血を見たこともあった。
二学期に入ってすぐの、ある土曜日の午後。
詩乃と母親は、連れ立って近所の小さな郵便局に出かけた。客は、他には一人もいなかった。
母親が窓口に書類を出している間、詩乃は局内のベンチに腰掛け、足をぶらぶらさせながら持参した本を読んでいた。タイトルは覚えていない。
キィ、とドアが鳴る音がして顔を上げると、新しい客が一人入ってきたところだった。灰色っぽい服装で、片手にボストンバッグを下げた、痩せた中年の男だった。
男は入り口で足を止め、局内をぐるりと見回した。詩乃と、一瞬目が合った。瞳の色が妙だな、と思った。黄ばんだ白目の中央に、深い穴のように真っ黒な瞳がせわしなく動きながら張り付いていた。今にして思えば、あれは瞳孔が異常に拡張していたのだろう。男が、郵便局に現れる直前に覚醒剤を注射していたのがその後判明している。
詩乃がいぶかしむ間もなく、男は足早に窓口へと向かった。
「振替・貯蓄」の窓口で、何かの手続きをしていた詩乃の母親の右腕を、男はいきなり掴んで引っ張った。そのまま左手で烈しく突き飛ばす。母親は声も無く詩乃の座る椅子の近くに倒れこみ、ショックのあまり目を見開いて凍りついた。
詩乃は咄嗟に立ち上がっていた。愛する母親が受けた理不尽な暴力に、大声で抗議しようとした、その時。
男はカウンターにどさっとボストンバッグを置き、中から何か黒いものをつかみ出した。拳銃だとわかったのは、男がそれを右手で窓口にいた男性局員に突きつけたときだった。ピストル――おもちゃ――いや本物――強盗――!? と、いくつもの単語が詩乃の意識を横切った。
「この鞄に、金を入れろ!」
男が、嗄れた声で喚いた。すぐさま続けて、
「両手を机の上に出せ! ボタンを押すな! お前らも動くな!!」
拳銃を左右に動かし、奥にいた数人の局員を牽制する。
今すぐ局から走り出て、外に助けを呼ぶべきか、と詩乃は考えた。しかし床に倒れたままの母親を残していくわけには行かなかった。
躊躇しているうちに、男が再び叫んだ。
「早く金を入れろ!! あるだけ全部だ!! 早くしろ!!」
窓口の男性局員が、顔を強張らせながらも、右手で5センチほどの厚さの札束を差し出した――
その瞬間だった。
局内の空気が、一瞬膨らんだような気がした。両耳がジンと痺れ、それが高い破裂音のせいだと気付くのには時間がかかった。キン、と鋭い金属音が響き、何かが壁に跳ね返されて詩乃の足元に転がってきた。金色の、細い金属の筒だった。
再び顔を上げると、カウンターの向こうで、男性局員が目を丸くして胸元を両手で押さえていた。ネクタイの下で、白いワイシャツにわずかに赤い染みが見えた。と思ったときには、局員が椅子ごと後方に傾き、盛大な衝撃音とともに書類キャビネットごと倒れた。
「ボタンを押すなと言ったろうがぁ!!」
男の声は、甲高く裏返っていた。銃を握った右手がぶるぶると震えているのが見えた。花火のときと同じ匂いが鼻をついた。
「おい、お前! こっちに来て金を詰めろ!!」
男が拳銃を向けた先には、女性局員が二人固まって立ち尽くしていた。
「早く来い!!」
男の声が鋭く響いたが、女性局員たちは首を細かく振るだけで、動こうとしなかった。日ごろ、強盗事件に対する訓練はしていたのだろうが、実際に放たれた弾丸はどんなマニュアルも防いではくれない。
男は、苛立ちが最高潮に達したかのようにカウンター下部を蹴り飛ばし、更に一人撃とうと考えたのか、拳銃を握った腕をまっすぐ伸ばした。ひぃっ! と高い悲鳴を上げて、女性局員たちが後ずさった。
だがそこで、男は考えを改め、体を半回転させながら喚いた。
「早くしねえともう一人撃つぞ!! 撃つぞォォォ!!」
男が拳銃を向けたのは――床に倒れ、虚ろな目で宙に視線を向ける詩乃の母親だった。
眼前で進行中の事件による過大な負荷で、母親は身動きもできないようだった。瞬間的に、詩乃は考えた。
わたしが、お母さんを、守らなくては。
幼児期から常にそう思いつづけてきた詩乃の信念、意志の力が詩乃の体を動かした。
床を蹴って飛び出した詩乃は、拳銃を握る男の右手首にしがみつき、咄嗟に噛み付いた。子供の鋭い歯は容易に男の腱に食い込み、穴を穿った。
「あぁぁ!?」
男は驚愕の声を上げて右手を詩乃ごとブンと振った。詩乃の体はカウンターの側面に叩きつけられ、その時同時に乳歯が二本抜けたが、まるで気付かなかった。目の前に、男の手から滑り落ちた黒い拳銃が転がってきたからだ。詩乃は無我夢中でそれを拾い上げた。
重かった。
ずしりと両腕に響く、金属の重み。そして、縦にラインの入ったグリップは直前までそれを握っていた男の汗でじっとりと湿り、男の体温で生き物のように熱を持っていた。
詩乃は両手で拳銃を構え、まっすぐ前、男のほうに向けた。その途端、奇声を上げながら男が詩乃に飛び掛り、拳銃から詩乃の手をもぎ離そうとするかのように、自分の両手で詩乃の両手首をつよく握った。
それが詩乃にとって良かったのか、あるいはそうでなかったのかは今でもわからない。だが単に事実として、男は自分に向けられた銃のホールドを自ら助ける結果となった。
今では、詩乃はその時の拳銃――「あの銃」について、充分以上の知識を得ている。
1933年、つまり80年前もの昔に、ソビエト陸軍に正式採用された拳銃「トカレフ-TT33」、それを中国でコピー生産した、「54式-黒星(ヘイシン)」。それがあの銃の名前だ。
30口径、つまり7.62ミリの弾丸を使用する。後発のハンドガンの主流である9ミリと比べて小口径だが、火薬量は通常より多い。そのため弾の初速は音速を超え、拳銃の中では最大級の貫通力を有する。
ゆえに反動も大きく、50年代に、小型化された9ミリ弾使用の「マカロフ」がトカレフに替わって正式採用された経緯がある。
そのような拳銃を、11歳の少女がまともに狙って撃てるはずはなかった。だが、男に強く手首を握られ、銃を奪われる、と思ったとき、詩乃は意識せず引き金を絞っていた。猛烈な衝撃が両手から肘、肩へと伝わったが、反動で跳ね上がろうとする銃のエネルギーは、男の両手に吸収された。再び空気が弾け、酷い耳鳴りと同時に音が遠くなった。
男はしゃっくりのような声を出し、詩乃から手を離した。そのままよろよろと数歩後退した。
男の、柄の入ったグレーのシャツの腹部に、赤黒い円が急速に広がりつつあった。
「あぁ……ああぁぁ!!」
高い声を漏らしながら男は両手で腹を押さえた。太い血管が傷ついたのか、その指の間から、一筋の血液が迸った。
だが男は倒れなかった。黒星の使用する小口径フルメタル・ジャケット弾は即座に人体を貫通するために、ストッピングパワー自体は低いのだ。
奇声を上げながら、男は血に塗れた両手を詩乃に向け、再び掴みかかろうとした。傷口と手から飛び散った血液が、詩乃の両手に降りかかった。
その時には、詩乃は再びトリガーを引いていた。
今度こそ両手が盛大に跳ね上がり、肘と両肩に激痛が走った。体ごと後ろに弾かれ、背中がカウンターに激突して息が詰まった。発射音はもうあまり感じなかった。
今度の弾は、男の右鎖骨の下に命中し、再び貫通した。男はよろけ、自ら流した血に足を滑らせてリノリウムの床に倒れた。
「がああああああ!!」
だがまだ男の動きは止まらない。激怒の絶叫を上げ、再び立ち上がろうと両手を床についた。
詩乃は恐慌に陥った。今度こそ、確実に、男を「停止」させないと、自分と母親は絶対に殺されると思った。
千切れるような両腕両肩の痛みを無視し、詩乃は二歩前に進んだ。床に仰向けになり、上体を20センチほど起こしつつあった男の体の中央に、詩乃は拳銃を向けた。
三度目の射撃で、右肩が脱臼した。今度は反動で吹き飛ぶ体を支えるものがなく、詩乃は床にもんどりうって倒れた。それでも拳銃から手は離さなかった。
前と同じく跳ね上がった黒星から発射された弾丸は、狙いを大きく逸れ、数十センチ上方――
男の顔のほぼ中央に命中していた。ごつんと音を立てて、男の頭が床に落下した。もう、動いても叫んでもいなかった。
詩乃は必死に体を起こし、男の動きが止まっているのを確認した。
守った。
何よりもまず、そう思った。自分は、母親を守ることができた。
詩乃は顔を動かし、数メートル離れた床に倒れたままの母親に視線を向けた。そして、その顔、この世で誰よりも愛する母親の両目に――
明らかに自分に向けられる、無限の恐怖と脅えの色を見た。
詩乃は自分の手に視線を落とした。いまだしっかりと拳銃のグリップを握ったままの両手は、どろりとした赤黒い液体にまみれていた。
詩乃は口を開き、ようやく高い悲鳴を上げはじめた。
「ぁぁぁぁ…………!!」
喉の奥から甲高い悲鳴を絞り出しながら、詩乃は両手で握ったプロキオンIIIを凝視し続けた。両手の甲、指の間をぬるりと滴る血が見える。何度まばたきしても消えることはない。ぽたり、ぽたりと粘っこい雫を足元に垂らしている。
突然、両目から液体が溢れ出した。視界がぐにゃりと歪み、モデルガンの黒い輝きが全てを覆っていく。
その奥に、あの男の顔が見えた。
発射された三発目の弾丸が、男の右頬骨上部にぼつっと赤い孔を穿つ。衝撃で眼球が突出し、同時に後頭部からばしゃりと赤いものが飛散する。
だが、残った左眼がぎょろりと動き、底なし穴のような瞳が詩乃を見る。
まっすぐに、詩乃の目を見る。
「ぁ……ぁ…………っ」
不意に、喉の奥に舌が張り付き、呼吸が出来なくなった。同時にお腹の底から烈しく突き上げてくるものがあった。
詩乃は歯を食いしばり、全精神力を振り絞ってプロキオンIIIを床に投げ落とした。すぐさまよろよろとキッチンに走り、ユニットバスのドアノブを千切らんばかりの勢いで引っ張る。
便器の蓋を跳ね上げ、屈み込むと同時に、熱い液体が胃の底から迸った。体を捩り、痙攣させ、何度も何度も、体内にあるすべてのものを排出するかのように嘔吐した。
ようやく胃の収縮が収まったときには、詩乃はすっかり力尽きていた。
左手を伸ばして、タンクの水洗ノブを押す。ふらつきながら立ち上がり、洗面台の蛇口を捻って、切れるように冷たい水で両手と顔を何度も、何度も洗う。
最後に口をすすぎ、棚から清潔なタオルを取って顔を拭きながらユニットバスを出た。思考能力は完全に麻痺していた。
覚束ない足で、部屋に戻る。
なるべく視線を向けないようにして、手にもったタオルを、床に転がるモデルガンに覆い被せた。それをそのまま持ち上げ、すぐさま開いたままのデスクの抽斗の奥に放り込む。ばしんと音を立てて抽斗を閉め、今度こそ精魂尽き果てて詩乃はベッドにうつ伏せに倒れた。
濡れた前髪から落ちた雫が、頬を流れる涙と混ざり、布団に染み込んでいった。いつしか、小声で同じことを、繰り返し繰り返し呟いていた。
「助けて……誰か……たすけて……たすけて……誰か…………」
事件直後から数日間の記憶は、あまり鮮明ではない。
紺色の制服を着た大人たちが、緊張した口調で、銃をこちらに渡しなさい、と言ったとき、指がかたく強張ってどうしてもグリップから剥がれようとしなかったこと。
くるくる回る赤いランプの群。風に揺れる黄色いテープ。その向こうから浴びせられた白い光に目が眩んだこと。
パトカーに乗せられてからようやく右肩の痛みに気付き、恐る恐るそれを訴えると、警官は慌てて詩乃を救急車に乗せ替えたこと――などを断片的に憶えている。
病院のベッドでは、二人の婦警に、事件のことを何度も何度も繰りかえし訊かれた。お母さんに会いたい、と何回も言ったのだが、その希望が叶えられたのはかなり後のことだった。
詩乃は三日ほどで退院し、祖父母の待つ家に帰ったのだが、母親の入院は一ヶ月以上に及んだ。事件以前の穏やかな日常が、同じかたちで戻ってくることはもうなかった。
マスコミ各社の自主規制により、事件の詳細がそのまま報道されることは回避された。強盗事件は被疑者死亡として送検され、公判も一切行われなかった。だが、北の小さな市でのことだ。郵便局の中で起きたことは委細漏らさず――というよりも様々な尾鰭のついた噂となって、燎原の火のごとく街じゅうを駆け巡った。
小学校での残された一年半、詩乃には「殺人者」を意味するありとあらゆる派生語が浴びせられ、中学に上がってからは徹底した無視がそれに取って替わった。
だが、詩乃には、周囲の視線それ自体は大した問題ではなかった。もとより昔から、集団に属することへの興味は非常に薄かったのだ。
しかし、事件が詩乃の心の中に残していった爪痕――、それは何年経とうとも一向に癒えることなく、詩乃を苦しめ続けた。
あれ以来、詩乃は、銃器に類するものを目にするだけで事件の鮮明な記憶を呼び起こされ、激甚なショック症状に襲われるようになってしまったのだ。過呼吸から全身の硬直、見当識の喪失、嘔吐、酷い場合は失神に至るその発作は、道端で子供の持っている玩具の拳銃を目にしたときなどはもちろん、テレビ画面を通してですら容易に引き起こされた。
ゆえに、詩乃はドラマ、映画の類は殆ど観ることができなくなった。社会科の授業で用いられたビデオ教材のせいで発作を起こしたことも何度かある。比較的安全なのは小説で――それも大昔の文学作品に限定されたが――中学時代はほとんど図書館の片隅で大判の全集本を捲って過ごしたようなものだ。
中学を出たらどこか遠くで働きたいと祖父母に訴え、強硬に反対されたとき、ならせめて、遥か昔――詩乃が二歳になるまで、一家三人が幸せに暮らしていたという東京の街にある高校に進学したいと詩乃は言った。常に付きまとう噂と好奇の視線が無い場所に行きたい、という気持ちも当然あったが、それ以上に、この街で暮らしているかぎり、一生心の傷が癒えることはないだろうと確信したからだった。
勿論、詩乃の症状は典型的なPTSD、心的外傷後ストレス障害ということで、四年間でいくつもの大きな病院に連れていかれ、無限回のカウンセリングが行われた。処方された薬も素直に飲んだ。だが、不思議にどこか似通った慈愛の笑みを浮かべた医者たちの言葉は、詩乃の心の表層を撫で、引っ掻くだけで、傷のある場所にさえ届くことは無かった。項垂れて医者たちの優しい言葉を聞きながら、詩乃は心の中で、何度も同じフレーズを呟いていた。それは――
ナラ アナタハ 銃デ ヒトヲ 射殺シタコトガ アルノカ
今では、そういう自分の態度が信頼の醸成を妨げ、治療を遠ざけていたと反省している。しかし、それは今でも詩乃の偽らざる本音だ。自分のしたことが善なのか悪なのか――、たぶんそれをはっきり断じてもらうことだけを、詩乃は望んでいたのだ。勿論、答えられる医者など居ようはずもなかったが。
しかし、どれだけ記憶と発作に苦しめられようと、自ら死を選ぼうと思ったことは一度も無かった。
あの男を手に掛けたことに対する罪悪感は感じない。母親に銃を向けられたとき、ああする以外の選択肢は詩乃には有り得なかった。たとえ事件の瞬間に戻れたとしても、やはり同じことをするだろう。
だが、詩乃が自殺という手段を選べば、男も浮かばれまい、とは思う。
だから、強くなりたかった。あの状況であの行動に出るのが当然、と言えるだけの強さが欲しかった。戦場で、容赦なく敵を倒していく女兵士のような。一人で暮らしてみたいと思ったのは、そのせいもある。
中学を卒業し街を出るとき、別れの言葉を告げたのは、祖父と祖母、それに詩乃のことをいつまでも事件以前の幼い子供と認識し、抱きしめ、髪を撫でてくれる母親だけだった。
詩乃はこの、空気はいがらっぽく、水は不味く、物が高価い街に移り住み――
そして、新川恭二と、VRMMO-RPG――ガンゲイル・オンラインに出会った。
ようやく呼吸と動悸が落ち着き始め、詩乃は薄く目蓋を持ち上げた。
ベッドにうつ伏せになり、左頬を布団につけた詩乃の視線の先に、縦長の姿見があった。
鏡のなかで、青白い頬に濡れた髪を張り付かせた少女がこちらを見返している。少々痩せすぎで、目ばかり大きく見える。小さい鼻はやや丸っこく、唇も厚みに欠ける。総じて、栄養の足りていない子猫のような印象だ。
荒野の狙撃手シノンとは、体格と、顔の両脇で細く結わえたショートという髪型は共通しているが、それ以外は何一つ似通うところはない。彼女は、言わば獰猛な山猫だ。
極度に怯えながら初めてGGOにログインし、訳もわからぬまま戦場に連れて行かれた時、詩乃は思わぬ発見をした。かの世界でいかなる銃器に触れようと、いや、それで他のプレイヤーを撃ち倒しさえしても、多少の緊張を覚える程度であの忌まわしい発作は起こさなかったのだ。
詩乃は、とうとうあの記憶を乗り越える方法を見つけた、と確信した。実際、GGOをプレイするようになってから、銃器の写真程度ならば発作は起こし難くなってきたし、恭二とGGO中の武器の話もできるようになった。この世界で戦い続ければ、いつかは傷が塞がるときが来る――、そう信じて、無数のモンスター、無数のプレイヤーを必殺の銃弾で吹き飛ばしてきた。
だが。
――ホントウニ、ソレデ、イイノ?
心の中で問い返す声がする。
シノンはすでに、数万のGGOプレイヤー中上位30人に入る存在だ。操れる者は他に居ないとさえ言われるアンチマテリアル・ライフルを自在に支配し、スコープに捉えたものには誰であれ確実な死を与えることができる。氷の心を持つ戦士、かつて詩乃がなりたいと願った存在そのものと言っても過言ではない。
なのに――現実の詩乃は、相変わらずモデルガン一つ手に持つことさえできない。
本当に……本当に、これでいいの……?
鏡の中の少女の瞳は、途方に暮れたように揺らいでいる。
誰か……教えて……私、どうすれば、いいの……?
――誰も、助けてくれはしない!!
弱気な声を撥ね退けるように心の中で叫び、詩乃は体を起こした。視線の先、ベッド脇の小テーブルに、アミュスフィアの銀色の円環が光っている。
まだ足りないだけ。問題はそれだけだ。
シノンよりも強いガンナーたちがあの世界にあと24人存在する。そいつらを全員打ち砕いて冥界に送り込み、荒野でただ一人の最強者として君臨した、その時こそ――
詩乃はシノンと一体化し、この世界においても本当の強さを手に入れられるはずだ。あの男は、今までシノンが殺したあまたのターゲットの中に埋没し、二度と記憶に浮かび上がってくることはない。
詩乃はエアコンのリモコンの拾い上げ、弱い暖房を入れると、制服の上着を一気に脱ぎ捨てた。スカートのホックも外して足から抜き、まとめて床に放り投げる。
ふらつく腕に力を込めて、アミュスフィアを取り上げると頭に被った。
手探りで電源を入れると、床に置いてあるゲーム機本体でクライアントディスクが回転し始める。スタンバイ完了を告げるかすかな電子音に、目を閉じる。
「リンク・スタート」
呟いた声は、泣き疲れた子供のように、頼りなく掠れていた。
(第三章 終)
SAO3_04_Unicode.txt
インタールード 「装弾数7」
ブラウザが起動すると同時に、スタートアップURLに設定されたサイトに自動でアクセスが行われ、いくつものウインドウがぱぱぱっと重層的に表示された。そのすべてがガンゲイル・オンライン関連で、特に《死銃》についての情報を扱っている所は重点的に集められている。
「彼」は右手の指先で3Dマウスを操り、現在もっとも注目しているサイトをアクティブにした。トップには、死銃情報検証サイト、とあり、死銃の文字だけが赤く色づけされている。
まず履歴に目をやり、今夜はまだ管理人による更新が無いのを確認すると、掲示板に移動。前夜にチェックしたときから、いくつかの書き込みがあったらしく、記事ツリーのあちこちに「New!」のマークが点滅している。順に読んでいくことにする。
――現われないね、ゼクシードとたらこ。もうじき一ヶ月? いいかげんアカウント切れるんじゃないの? 誰かリアルで連絡とれる奴ーここ見てたらそろそろ情報投下きぼーーーー
――だからいないって。スコードロンのメンバーも誰もリアル連絡先知らないっつってんだろ? つかGGOで個人情報漏らすやつはアホすぎw ピザ100人前届くよマジでww
――死銃に撃たれた日付けと時間はわかってるんですから、仮にほんとに二人が死んだとすれば、ちょうどその時間に死んだVRMMOプレイヤーがいなかったか調べれば分かるのでは?
――話題ループさせんな、過去ログ読め。一人暮らしだったら死んだって誰も気付かないし、警察に問い合わせても教えてくれないのは確認済み。ちなみにザスカーに英文メールで聞いたら、ユーザーの個人情報に関してはなんたらっていう定型レスが来て終~~了~~~
――やっぱこれはアレでしょ。ゼクたんとたらこたんの引退記念ドッキリネタでしょ。お二人、そろそろ出てきて「大成功!」ってやってくれないとネタが冷めてしまいますよ☆
――歳がばれますよアナタ(笑) 結局、誰かが自分のカラダで検証するしかないと思います。というわけで、明日2330にロッケン中央銀行前で赤いバラを胸にさしてお待ちしていますので、死銃さん私を撃ってください
――勇者登場w でも死ぬ前に本名と住所晒してないと無意味な罠w
――むしろどっかのネカフェから公開ログインでオネガイシマス
――…………
「彼」は苛立たしく舌打ちしてマウスのホイールを回し、次のウインドウをアクティブにした。だが、どこのサイトでも、「彼」の望む種類の記事や書き込みを見つけることはできなかった。
当初の予想では、二人目に死を与えた時点で、《死銃》の力は本物なのではないか、という噂がネットを駆けめぐり、GGOプレイヤーたちは自分が次のターゲットとされるのではないかという恐怖に怯え、ゲームから引退する者が相次ぐ――ということになっていた。
しかし現実には、愚かなネットゲーマーたちは未だ《死銃》の与える真の恐怖に気付かず、冗談めかしたやり取りに終始している。登録アカウント数も殆ど減っていないようだ。
やはり、現実でのゼクシードとたらこの死がまったく報道されなかったのが計算外だった。どうやら、都内に限っても一日に相当数の変死事件があり、明らかな犯罪性が見られないものはニュースにならないようなのだった。
もちろん、「彼」は自ら銃撃した二人の心臓が現実世界で確実に停止し、死亡に至っていることを知っている。それこそが《死銃》の持つ力なのだから。
その情報を、検証サイトの掲示板に書き込みたいという誘惑は強烈だった。だが具体的な証拠を提示するのは「彼」にしても困難だし、そもそもそんなことをすれば《死銃》の伝説性が薄れてしまう。《死銃》はあの荒野に現われた最初で最後の絶対的強者、運営体の力すら凌駕する、本物の死神なのだから。
――まあいい。
「彼」は深く長い息をつき、気持ちを落ち着かせた。
もうすぐ、第三回のバレット・オブ・バレッツが開催される。《死銃》はその本大会において、更に二人、可能なら三人の命を消滅させる予定になっている。もちろん予選はあの銃の力を使わずに突破しなくてはならないが、その日の為に一日二十時間に及ぶログインで鍛え上げたステータスがあれば充分可能なはずだ。
BoBの注目度は絶大だ。MMOフラッシュでの中継番組を見るのはGGOプレイヤーだけに留まらない。その大舞台で名実ともに最強者として君臨し、またあの銃で撃たれた者がまたしても姿を消せば、もう《死銃》の力を疑う愚か者はいないだろう。
それだけの注目を浴びてしまえば、現在のアカウントはさすがにもう使えなくなるだろうが、構うことはない。あの銃さえあれば、新しい《死銃》が荒野に降り立つのは容易だ。
そして更に殺す。予定では、生贄の数は7にまで増えるはずだ。その頃には、引退するプレイヤーが続出し、やがてはガンゲイル・オンラインというゲームそのものが死に至るだろう。かくて《死銃》は伝説となる。かの呪われた《ソードアート・オンライン》が生み出した死者の数には到底及ばないが、あれは単なる狂人が、電子レンジでユーザーの脳を茹でてまわったに過ぎない。《死銃》の力は、そんな低次元のものではないのだ。仮想世界の銃弾が、現実の心臓を止める――その秘密を理解できるものは、「彼」とその半身以外にはいない。《死銃》こそが真の最強者――SAOをクリアしたという噂の「黒の剣士」など問題にならない――絶対の力――伝説の魔王――最強――最強――最強――……
「彼」はいつしか、右手にマウスを握り潰さんばかりの力を込めていたことに気付き、息を荒げながら肩の力を抜いた。
そうなる日が待ち遠しい。その伝説さえ手にできれば、こんな下らない世界にはもう用がない。「彼」を煩わせる愚鈍な連中とも永遠におさらばだ。
ブラウザ中に開いたウインドウ・タブを全て閉じると、「彼」は新たにひとつのローカルHTMLファイルを呼び出した。
7列のテーブルに7つの顔写真、GGO中で撮影したスクリーンショットを切り抜いた画像が配置され、それぞれの右側に名前や武装等の情報が並んでいる。一番上の《ゼクシード》と、その下の《薄塩たらこ》の写真は色調を黒く落とされ、その上に血の色の×印が刻印されている。
これは、《死銃》のターゲットリスト、言い換えればあの銃のマガジンに込められた死の弾丸の数だ。7人の誰もがGGOで名の通った強力なプレイヤーである。
「彼」はゆっくりとファイルをスクロールし、一番下に配置されている写真を中央に表示させた。7人中、唯一の女性プレイヤーだ。
右斜めのアングルで撮影されたスクリーンショット。淡いブルーのショートヘア、顔の両脇で結わえた房が細く流れて、頬のラインを半ば隠している。深く巻いたサンドイエローのマフラーのせいで口もとが見えないのが残念だが、どこか猫を思わせる深い藍色の瞳だけでも充分な輝きを放っている。
右側に表示された名前は《シノン》。メインアームは対物狙撃ライフルのウルティマラティオ・ヘカートII。
「彼」は何度も、ゲーム中で直接彼女を見たことがあった。グロッケンのマーケット街で買い物をしている姿、公園のベンチで屋台のブリトーを齧っている姿、そして戦場で巨大なライフルを背負い、疾走する姿――。そのどれもが、所有欲を掻き立てずにおかないコケティッシュな魅力に満ちていた。彼女が笑顔を見せることはほとんど無く、瞳には常にある種の憂いが満ちているのだが、それもまた「彼」を惹きつけてやまない。
このシノンという名の少女を《死銃》のターゲットとすることに、「彼」は迷いを抱いていた。もし彼女が――ゲーム中に留まらず、現実でも、身も心も「彼」のものとなってくれるなら――
だが「彼」の半身、《死銃》のもう一方の腕は、彼女の死を望むだろう。シノンは、GGOでは冷酷なる狙撃手、冥界の女神として知らぬ者のいない程の有名プレイヤーだ。《死銃》伝説に捧げられる花として、彼女ほど相応しい存在はない。
せめて彼女の命を奪わざるを得ないときは、遠距離からの銃撃ではなく、この腕に抱き、素肌に触れ、唇を交わしながらにしたい、と「彼」は思った。もしそれがかなうなら、その瞬間を同時に「彼」がこの世界から離脱する時としてもよい。彼女とひとつになりながら、あの銃によって共に新しい世界へと旅立つ――それは至福の体験となるだろう。
「彼」は、体の底にどうしようもない興奮のうずきを感じた。
「……ああ……」
抑えきれない呼気を漏らしながら、モニタに顔を近づける。舌先でそっと、シノンの写真を舐める。
つるりとしたラスタパネルの感触の中に、シノンの素肌の味と温度を感じとろうと、「彼」は何度も、何度も、飽くることなく舌を動かしつづけた。
第四章 「孤剣・弾雨」
ウインカーを出し、車体をリーンさせて大きなゲートを通過した途端、並木道の両側を歩く人たちの非難の視線が集中した気がして、俺はあわててバイクのスピードを落とした。
エギルのつてで入手した125cc2ストロークのタイ製おんぼろマシンは、エレクトリック動力車両全盛のこの時代にあっては絶望的なまでの騒音を発し、直葉などは後ろに乗るたびに「うるさいうるさいうるさい」と不満を爆発させている。そのつど、このサウンドがわからないうちは風になれないぞ等と言って誤魔化しているのだが、俺も内心では、せめて排ガス規制後の4ストスクーターにしておくんだったかと後悔していなくもない。
ことに、走っている場所がこのような、病院の敷地内である場合などは尚更だ。
ロバの引く荷車のごとき速度でトロトロと並木道を進むと前方に駐車場入り口が見えた。ほっとしながら乗り入れ、バイク置き場の端にマシンを止める。キーを抜き、メットを脱ぐと、師走の寒風に乗ってかすかに消毒薬の匂いが感じられた。
菊岡との高額ケーキ会談から数日後の土曜日。ガンゲイル・オンラインにログインする為の部屋の用意が出来たというメールに重い腰を上げたのだが、指定された場所は何を考えているのか千代田区にある大きな都立病院だった。普段あまり東京都心には来ないのだが、道順に迷うことはなかった。なぜなら、この病院は――SAOに囚われていた二年のあいだ、我が現実の肉体が横たわっていた、まさにその場所だからだ。
覚醒後もリハビリで長い時間を過ごし、退院してからも検査だの何だので何度も通った道である。ここ半年近く訪れたことはなかったが、こうして見慣れた白い建物を見上げると、懐かしいような心細いような何とも微妙な感慨が胸中を過ぎる。軽く頭を振って感傷を振り落とし、エントランス目指して歩きはじめる。
菊岡の依頼でGGOにダイブすることを、俺は結局アスナにも直葉にも伝えなかった。伝えればまず間違いなく一緒に潜ると言い出すだろうし、それを止めさせるために《死銃》の話をすれば、今度は俺を行かせまいとするだろう、と思ったからだ。身勝手な言い分だが、俺はもう決して彼女らを、わずかにも危険な匂いのするバーチャルワールドに近づける気はない。
《死銃》の話は、九分九厘まで噂の産物だろうと思う。
仮想世界から、現実の人間に死をもたらす――、何度考えてもそんなことが可能とは信じられない。アミュスフィアというのは、いわばテレビの延長線上にある機械に過ぎないのだ。仮想世界、バーチャル技術、とまるでテクノロジーが生み出した魔法のごとき扱われようだが、その実体はあくまで便利な道具であり、人間の肉体から魂を切り離して異世界に運ぶマジックアイテムなどでは決してない。
しかし、残り一厘の可能性が俺の足をこの場所に向けた。
数ヶ月前、自室の押入れに堆積していた古いゲーム雑誌を処分していたところ、SAO稼動以前に行われた、アーガス開発部総指揮・茅場晶彦のショートインタビュー記事を発見した。そこで、生前のあの男はこう言っていた。
――アインクラッドとは、アン・インカーネイト・ラディウス、「具現化する世界」の略です。そこでプレイヤーの皆さんは、数々の夢が現実となるのを見るでしょう。剣、怪物、迷宮、そのようなゲーム的記号の具現化に留まらず、プレイヤー自身をも変容させていくだけの力が、あの世界には存在します――
確かに俺は変わった。アスナも変わった。あの世界での二年間で、絶対に元には戻れないほどの人格変容が行われたはずだ。
しかし、茅場の言う「変容」がそれに留まるものではなかったとしたら……? 今やザ・シードのお陰で無制限に増殖しつつある仮想世界のどこかに、人間の能力それ自体を変化させうる因子が生まれたのだとしたら……?
今まで俺も菊岡もあえてその名称は用いなかったが、この際はっきりと言おう――「超能力」と。《死銃》という人物は、茅場晶彦の遠大なる計画が生み出した新しい人類なのだろうか……? もしそうなのだとしたら、彼が殺人者として姿を現したのは大いなる皮肉と言うべき――
ういん、と音を立てて目の前で自動ドアが開き、押し寄せた暖かい空気が俺の思考を押し流した。
まずトイレに寄って体内の貯蔵庫を限界まで空にしてから、プリントしたメールを頼りに、入院病棟3階の指定された病室へとたどり着いた。ドア脇のプレートに患者の名前はない。ノックの後、ドアを引き開けると――
「おっす! 桐ヶ谷君、お久しぶり!」
俺を出迎えたのは、長い入院からリハビリ期間のあいだお世話になった、顔見知りの女性看護師だった。
ナースキャップの下の長い髪を一本の太い三編みにまとめ、その先端で小さな白いリボンが揺れている。女性にしては長身の身体を包む薄いピンクの白衣は、鎖骨の下あたりから目を見張るほど盛り上がり、その頂点に「安岐」と書かれた小さなネームプレート。
にこにこと笑みを浮かべている小作りの顔は、艶麗とでも表現するべき、入院患者にはいかにも毒だろうなあーと思わせる美しさである。
「あ……ど、どうも、ご無沙汰してます」
つっかえながら俺が挨拶すると、安岐ナースはいきなりにゅっと両手を伸ばし、俺の肩から二の腕、わき腹あたりをぎゅうぎゅうと握った。
「わ……わぁ!?」
「おー、けっこう肉ついたねえ。でもまだまだ足りないよ、ちゃんと食べてる?」
「た、食べてます食べてます。というか何故安岐さんがここに……」
部屋を見回すが、狭い個室には他に人の姿はない。
「あの眼鏡のお役人さんから話、聞いてるよー。なんでも、お役所のために仮想……ネットワーク? の調査をするんだって? まだ帰ってきて一年も経ってないのに、大変だねえ。それで、入院中の桐ヶ谷君の担当だった私にぜひモニターのチェックをして欲しいとか言われて、今日はシフトから外してもらったんだ。ドクターや婦長とも話ついてるみたいでさ、さすが国家権力ーって感じだよねー。とりあえず、またしばらくよろしくね、桐ヶ谷君」
「あ……こ、こちらこそ……」
なんだかまるで俺が美人に弱いとでも言わんがばかりの小ざかしい策だなァ菊岡あああああとこの場に居ないエージェントを心中で罵りつつ、俺は笑顔で安岐ナースの差し出した手を握った。
「……で、その眼鏡の役人は来てないんですか?」
「うん、外せない会議があるとか言ってた。伝言、預かってるよ」
渡された茶封筒を開き、紙片を引っ張り出す。
『報告書はメールでいつものアドレスに。経費は任務終了後、報酬とまとめて支払うので請求すること。追記――美人看護婦と個室で二人きりだからと言って若い衝動を暴走させないように』
一瞬でメモを封筒ごと握りつぶし、ブルゾンのポケットへ放り込む。セクハラもいいところだ。
訝しそうな顔をする安岐ナースに強張った笑顔を向け、俺は言った。
「あー……それじゃあ、早速ネットに接続しますので……」
「あ、はい。準備できてます」
案内されたジェルベッドの脇には仰々しいモニター機器が並び、ヘッドレストの上には真新しいアミュスフィアが銀色の輝きを放っている。
「じゃあ脱いで、桐ヶ谷君」
「は……はい!?」
「電極、貼るから。どうせ入院中に全部見ちゃったんだから赤くならなくていいよー」
「…………あの、上だけでいいですか……」
安岐ナースは一瞬考えてから、幸い首を縦に振った。観念してブルゾンとスウェット、Tシャツを脱ぎ、ベッドに横になる。たちまち、ゲルを塗られたモニター用の電極が上半身の数箇所にぺたぺたと貼られていく。
「よし、これでOK……っと」
最後にモニタ機器のチェックをしたナースがこくんと頷くと、俺は手探りでアミュスフィアを取り上げ、頭に被った。電源を入れると、頭の後ろのほうで本体が動作し始める気配。
「えと、それじゃあ……行ってきます。多分4~5時間くらい潜りっぱなしだと思いますが……」
「はーい。桐ヶ谷君のカラダはしっかり見てるから、安心して行ってらっしゃい」
「よ……よろしく……」
なんでこんなことになってるのかなぁ……という疑問を今更のように抱きつつ、目を閉じた。
同時に、耳もとでチチッ、とスタンバイ完了を告げる電子音。
「リンク――スタート!」
叫ぶと、お馴染みの白い放射光が眼前に広がり、俺の意識を肉体から解き放っていった。
世界に降り立った瞬間感じた強烈な違和感の理由は、数秒後に判明した。
空が一面、薄く赤味を帯びた黄色に染まっていたのだ。
ガンゲイル・オンライン内の時間は、現実同期と聞いていた。つまり、午後一時をいくらか回ったばかりの空は、先ほど病室の窓越しに見えていたのと同じ青であるはずだ。それなのにこの憂鬱な黄昏の色は、どういう理由によるものなのだろう。
しばらくあれこれ想像してから、俺は肩をすくめて思考を打ち切った。GGOの舞台である荒涼たる大地は、最終戦争後の地球という設定だ。黙示録的雰囲気を出すための演出なのかもしれない。
改めて、眼前に広がるGGO世界の中央都市、《グロッケン》の威容に目を向ける。
さすがにSF系MMOの雄だけあって、その佇まいは、見慣れたアルヴヘイム首都の《イグドラシル・シティ》や、先日ようやく辿り付いたアインクラッド50層《アルゲード》のファンタジックな街並みとは大きく異なっていた。
金属の質感を持つ高層建築群が天を衝くように黒々とそびえ、それらを空中回廊が網の目のようにつないでいる。ビルの谷間を、ネオンカラーのホログラム広告が賑やかに流れ、地上に近づくにつれそれらの数は増して、色と音の洪水のようだ。
地面、と言っても俺が立っているのは土の上ではなく黒い金属でできた道だった。
背後には、どうやら初期キャラクター出現位置に設定してあるらしいドーム状の建物があり、目の前にまっすぐ、あまり広くない道が伸びている。両側にはぎっしりと怪しげな商店が並び、どこか秋葉原の裏通りに似た情景だ。
そして、ぎっしりと道を埋めて行き交うプレイヤー達も、一筋縄では行かない雰囲気を持った連中ばかりだった。
圧倒的に男が多い。比較的女性比率が高いALOをホームとしているせいか、あるいはあの世界の住人は華奢な妖精ばかりだからだろうか、迷彩のジャケットや黒いボディアーマーをまとったゴツい男達が大量に闊歩している光景は実に圧迫感がある――と言うかエネルギッシュ――と言うか、はっきり言えばむさ苦しい。その上どうにも剣呑で、とても話し掛けるような気にはならない。
それも当然、気圧されるのは大抵のプレイヤーが肩や腰に黒光りする無骨な武器――銃をぶら下げているからだ。
装飾的要素のある剣や槍とは違って、銃にはたった一つの目的しかない。武器であること――つまり、敵を倒す、その為だけに磨かれた形であり、色なのだ。
なるほど、つまりそれはこの世界そのものにも言えることなのだな、と俺は内心で頷いた。
このゲーム世界に存在するのは、戦い、殺し、奪う、という先鋭化された目的だけだ。ALOにあるような、「幻想世界での生活を楽しむ」といった要素は在り得ない。
その為には、多分華麗な容姿と言ったようなものは邪魔なのだろう。戦場で敵を怯えさせるための、獰猛な兵士としての外見がすでに重要なパラメータなのだ。男たちの多くが濃い無精髭を伸ばし、あるいは顔に目立つ傷痕を刻んでいるのはそれが理由だ。
そう言えば、俺は一体どのような外見が与えられたのだろう、と今更のように考え、俺は両手と自分の体を見下ろした。理想を言えば、古い映画の「ランボー」やら「ターミネーター」的マッチョソルジャーな姿が望ましい――
――嫌な予感がした。
手の肌は白く滑らかで、指はびっくりするほど細い。黒のミリタリー・ファティーグに包まれた体は、ことによると現実の俺以上に華奢だ。視点の感じからして、どうも背丈もそれほど高いとは思えない。
このガンゲイル・オンラインにダイブするにあたって、初期キャラクターを一から生成したわけでは勿論ない。そんなことをしていては、強者のみを狙うという《死銃》といつ出会えるのか知れたものではない。
VRMMO開発支援パッケージ、ザ・シードを利用して生成されたゲーム世界に共通する最大の特徴、それは「キャラクター・コンバート」機能である。ザ・シードを使うかぎりこの機能は決してオフにすることができない。
それはつまり、あるゲームで育てたキャラクター・データを、全ゲームに共通のメタ・ルールを通して、他のゲームに移動させることができる、という機能だ。
例えば、Aというゲームで育てた、筋力100、素早さ80というキャラクターを、ゲームBに移動させたとする。すると、ゲームAでの「強さのレベルを保持した」変換が行われ、ゲームBにおいて、STR40、AGI30といったキャラクターが誕生することになる。手っ取り早く言えば、ALO内で中の上、と言った強さを持ったキャラクターは、GGOでも中の上として生まれるというわけだ。
無論これは、キャラクターのコピーを増やすという機能ではない。コンバートした瞬間、元の世界でのキャラクターデータは一時消滅し、更に移動できるのは生身のキャラクターだけでアイテム類は一切持ち出せない――理由は説明するまでもないだろうが――ため、便利ではあるがなかなかに度胸の要る行為なのだ。今回ALOにおける剣士キリトをGGOに移動するに当たって、可能な限りの財産を問答無用でエギルの店のコンテナに押し込めてきたが、いきなりフレンドリストから俺が消滅してアスナやリーファ達は泡を食うことだろう。どう説明したものか頭が痛い。
さて、そのコンバート機能によって俺はこの世界でもALOでのキリト程度の強さ――と言っても一度初期化して育てなおしたキャラクターなので、SAOにおける初代キリトほどの無茶ステータスではないが――を得ているはずだが、外見もアイテムと同じく持ち出せないために、どのような姿がランダム生成されるかはまるで分からなかった。ゆえに、どうせなら屈強な兵士の姿を、と望んだわけなのである――が。
どうにも嫌な気配を感じつつ、俺は周囲を見渡し、出てきたばかりのドームにはめ込まれたミラーガラスを見つけて歩み寄った。
そして、愕然とした。
「な……なんだこりゃあ!?」
思わず呻く。ガラスに映っていたのは――身長およそ160センチ、体重はどう見ても40キロそこそこ、艶やかな黒髪は肩のラインで鋭く切りそろえられ、肌は透き通るような白、唇が血の如く赤い――どう見ても少女としか言えない姿だった。濃い眉が一直線に伸び、黒々とした目も勝気そうに吊りあがっているのが救いだが、それにしたって睫毛が長すぎる。
SAOのキリト君はかなり女顔だったよー、とはアスナの弁だが、この姿はもうそんな問題じゃない、一体どこに兵士の屈強さを見出せばいいのだ、と俺が呆然と立ち尽くしていると、少し離れた場所で何かを食っていた背の高い男が走り寄ってきて、背後からガラスに映る俺に声をかけた。
「おおおお、お姉さん運がいいね! その体、F-13型でしょ! め~~~ったに出ないんだよ、それ。どう、今ならまだ始めたばっかだろうしさあ、アカウントごと売らない? 2M出すよ!」
「…………」
俺は思考停止状態のまましばらく男の顔を眺め、ようやくある可能性を思いつき、泡を食って両手で自分の胸部をまさぐった。だが幸い、そこには平らな胸板があるばかりで、危惧したような感触はなかった。それでは、恐怖の性別逆転事故が起こったというわけでもないらしい。ようやく少しばかり頭がマトモになり、男に向きなおりながら答える。
「あー……、悪いな。俺、男なんだ」
その声も、やや低いが充分に女の子で通用するトーンである。げんなりしながら男の顔を見上げると、今度は奴さんがしばらく目を丸くしたあと、先刻に倍する勢いで捲し立てはじめた。
「じゃ、じゃあそれM-B19型かい!? す、すごいな、それなら4……いや5M出す。う、売ってくれ、ぜひ売ってくれ」
売るどころかタダで進呈しよう、いやアンタの外見と取り替えてくれ、と俺は思ったが、残念ながらそういう訳にも行かない。
「初期キャラじゃなくて、コンバートなんだ。ちょっと金には替えられない、残念だけどな」
「そ……そうか……」
男はいかにも惜しそうに俺を各方向から眺め回していたが、やがて気が変わったら連絡してくれ、と透明なカード状のものを俺に押し付けて立ち去って行った。眺めているうちにそのカードは発光・消滅してしまったが、多分システムウインドウ中のアドレス帳か何かにデータが追加されているのだろう。
俺はなおもガラスの中の我が身に呆然と見入りながら、何とかならないものかと考えたが、何ともなりはしないという結論以外出てこなかった。このコンバート履歴は俺のキャラデータに埋め込まれ、ALOに戻ったときに元のツンツン髪のスプリガン・キリトの姿に復帰できる代わりに、再びGGO世界にコンバートした所で与えられるのはこの少女だか少年だか判別できない体なのだ。
不運の中に幸運を捜せ、がモットーの俺は、それから数分間あれこれ考え、ようやく一つの「良かったコト」を捻くり出した。この世界に来た目的は、ひとえにかの《死銃》なる男と接触して、銃撃されるのは願い下げだがどうにかしてその能力の真贋を判定することだけだ。その為には、とにかく強さをアピールし、また目立たなくてはならない。
この姿は――少なくとも、目立つのは確かだろう。戦場での威圧感などはカケラも望めそうにないが、そちらのほうは戦闘能力そのものでカバーするしかない。
強さの宣伝に関しては、とりあえず一つの作戦があるにはあった。通常のゲームプレイ、ダンジョン探索や、やりたかないがプレイヤーキルなどで名を売るにはそれなりに時間が必要となるが、幸いこのゲームではほんの数日後に「バレット・オブ・バレッツ」なる最強プレイヤー決定イベントが開催される予定になっていた。それにエントリーし、ともかくバトルロイヤル形式の本戦に進むのだ。上位に食い込んで名を売れば《死銃》氏にも当然注目されるだろうし、あるいはことによると大会に本人が出場してくる可能性もあった。
初めてダイブするゲームでどの程度戦えるかは未知数だが、とりあえずやってみるしかない。銃相手の戦闘というのがどのような物なのかは見当もつかないものの、ともかくVRMMOである限り実際に体を動かして闘うには変わりないだろう。頑張れるだけ頑張って――それで力が及ばなければ、その時はこんな無茶な仕事を押し付けた菊岡の責任である。
ともかくまずは大会へのエントリー手続き、そして装備の購入だ。
俺は最後に我が身を一瞥し、フンと息を鳴らしてきびすを返した。そして、揺れて頬にかかった髪を無意識のうちに指先でかきあげているのに気づき、暗澹とした気分に襲われた。
――数十秒後、あっけなく道に迷った。
グロッケンは、どうやら基本となるフロアが三つ重なっている多層構造を取っているらしく、それらを繋ぐ空中回廊やらサブフロアやらエスカレータやらエレベータやらが滅多矢鱈と入り組んで、街なんだかダンジョンなんだかわからない有様なのだ。メインメニューからは、詳細な立体マップを呼び出すことができるのだが、表示される現在位置と、実際に眼前に広がる光景を照合するのも容易ではない。
これがスタンドアローンRPGであれば、自棄を起こして闇雲に歩き回り、元の場所にすら戻れなくなるところだが、幸いこれはMMOだ。こういう時に取るべき手段は一つである。
俺は、目の前の細い路地を流れる人波の中に、一際目を引く水色の髪のプレイヤーを見つけ、後ろから声を掛けた。
「あのー、すいません……ちょっと……道、を……」
そして即座にしまったと思った。
振り向いたのは、どう見ても女の子だったからだ。
さらさらと細いペールブルーの髪は無造作なショートだが、額の両側で結わえた細い房がアクセントになっている。眉はくっきりと太く、猫科な雰囲気を漂わせる藍色の大きな瞳、小ぶりな鼻と色の薄い唇がそれに続く。
いやいや、ひょっとしたら俺のバーチャル体と同様の少女っぽい少年君かも知れぬと思い雷光の迅さで身体に視線を走らせたが、サンドカラーのマフラーの下、ジッパーの開いたジャケットの奥ではシャツの胸部分が控えめに盛り上がり、さらによくよく見れば相当に小柄だ。それに気付かなかったのは、俺の目線もかなり低くなっているせいなのだが。
VRMMOにおいて、男性プレイヤーが女性プレイヤーに「道に迷った」等々と声を掛ける場合、その8割はナンパ目的と思ってよい。
危惧したとおり、振り向いた女性プレイヤーの顔にもあからさまな警戒の色が浮かんでおり――しかし、意外にもその表情はすぐに消え去った。
「……このゲーム、初めて? どこに行くの?」
高く澄んだ可愛らしい声で言うその口もとには、かすかな微笑さえ浮かんでいるではないか。これは一体どうしたことだろう、と内心で首を捻ってから、俺はようやくその理由に思い至った。この女の子は、先刻声を掛けてきたアカウントバイヤーの男と同様の誤解をしているのだ。俺を、自分と同じ女の子だと。まったく何ということだ。
「あー、えっと……」
俺は反射的に己の性別を明らかにしようと思ったが、咄嗟に思いとどまった。
これはある意味都合のいい状況かもしれない。この後、改めて男に声を掛けなおし、また同じような誤解をされれば、少々面倒な事態になりかねない。利用できるものは何でも利用しろが俺の第二のモットーでもあることだし、この際、彼女には悪いがしばらく誤解したままでいてもらうにしくは無い。
「あ、はい、初めてなんです。どこか安い武器屋さんと、あと総督府、っていう所に行きたいんですが……」
比べればやや低く、ハスキーな響きのある声で俺が答えると、女の子はわずかに首を傾げた。
「総督府? 何しに行くの?」
「あの……もうすぐあるっていう、バトルロイヤルイベントのエントリーに……」
それを聞いた途端、彼女の大きな目がぱちくりと丸くなる。
「え……ええと、今日ゲームを始めたんだよね? その、出ちゃいけないことはぜんぜんないけど、ちょっとステータスが足りないかも……」
「あ、初期キャラってわけじゃないんです。コンバートで、他のゲームから……」
「へえ、そうなんだ」
女の子の、藍色の瞳がきらりと光り、口もとに今度こそにこっと笑みが浮かんだ。
「聞いていい? 何でこんな埃っぽくてオイル臭いゲームに来ようと思ったの?」
「それは……ええと、今までずっとファンタジーなゲームばっかりやってたんですけど、たまにはサイバーっぽいので遊んでみたいなあ、って思って……。銃の戦闘とかも、ちょっと興味あったし」
まあこれは嘘ではない。剣での近接戦闘に特化した俺のVRMMO勘が、どの程度GGOに通用するのかということには少々の興味がある。
「そっかー。それでいきなりBoBに出ようだなんて、根性あるね」
女の子はくすりと笑うと、大きく頷いた。
「いいよ、案内してあげる。私もどうせ総督府に行くところだったんだ。その前にガンショップだったね。好みの銃とか、ある?」
「え、えっと……」
そう言われても、咄嗟には出てこない。俺が答えに詰まると、女の子はもう一度微笑した。
「じゃあ、色々揃ってる大きいマーケットに行こう。こっち」
くるりと振り向き、歩き始めた彼女のマフラーの揺れるしっぽを、俺はあわてて追いかけた。
絶対に経路を記憶することなど不可能と思える、路地やら動く歩道やら動く階段を次から次へと通り抜け、数分歩くと不意に開けた大通りに出た。正面に、大手の外資系スーパーを思わせる賑やかな店舗が見える。
「あそこだよ」
女の子はすいすいと人波を縫って店に向かった。
広大な店内は、様々な色の光と喧騒に満ち、まるでアミューズメントパークのようだった。NPC店員たちは皆露出の大きい銀色のコスチュームをまとった美女たちで、ニッコニッコと営業スマイルを振り撒いているのだが、ギョッとするのが彼女らの右手に握られたり、四方の壁に飾られているのが全て、黒光りするゴツい拳銃やら機関銃だということだ。
「な……なんだか、すごい店ですね」
俺が言うと、隣に立つ女の子も小さく苦笑した。
「ほんとは、こう言う初心者用の店よりも、もっとディープな専門店のほうが掘り出し物があったりするんだけどね。まあ、ここで好みの銃系統を見つけてからそういうとこに行ってもいいし」
言われれば、店内をうろついているプレイヤー達の服も派手めな色のコーディネートで、ビギナーっぽい印象ではある。
「さてと。あなた、ステータスはどんなタイプ?」
女の子に聞かれて、俺は一瞬考えた。異世界間コンバートとは言ってもキャラの能力的傾向は引き継がれるはずだ。
「えっと、筋力優先、その次が素早さ……かな?」
「STR-AGI型か。じゃあ、ちょっと重めのアサルトライフルか、もうちょっと大口径の小銃をメインアームにして、サブはハンドガンの中距離戦闘タイプがいいかなあ……。あ……でも、あなたコンバートしたばかりだよね? てことは、お金が……」
「あ……そ、そっか」
俺は慌てて左手を振った。コンバートで能力値は引き継がれても、アイテムやら所持金の移動はできない。つまりウインドウの下端に表示されている金額は――
「ええと……せ、千クレジット」
「……ばりばり初期金額だね」
俺と女の子は顔を見合わせ、困ったように笑いあった。
「うーん……」
女の子は、薄い唇の下に右手の指先を当て、わずかに首をかたむけた。
「……その金額だと、小型のレイガンくらいしか買えないかも……。実弾系だと、中古のベレッタが……どうかなあ……。――あのね、もし、よかったら……」
俺は、彼女が言わんとする先を察し、慌てて首を振った。どんなMMOでも、ニュービーがベテランから過剰な援助を受けるのは決して褒められたことではない。この世界にはゲームを楽しみに来たわけではないが、それでもゲーマーとして譲れない一線というものはある。
「い、いや、いいですよ、そこまでは。えっと……何処か、どかんと大きく儲けられるような場所ってないですか? 確かこのゲームにはカジノがあるって聞いたんですが……」
すると女の子は、さすがに少しばかり呆れたような笑みを見せた。
「ああいうのは、お金が余ってるときに、スるのを前提でやったほうがいいよ。そりゃあ、あちこちに大きいのも小さいのもあるけどね。確か、この店にだって……」
くるりと頭を巡らせ、店の奥を指差す。
「似たようなギャンブルゲームはあるよ。ほら」
細い指先が示す先には、なにやらピカピカと電飾がまたたく巨大な囲いが見えた。
近寄ってみると、それは店の壁の一面を丸ごと占領する、ゲームと言うにはあまりに大きな代物だった。幅3メートル、長さは15メートルほどもあるだろうか。金属タイルを敷いた床を腰の高さほどの柵が囲い、一方の端に、西部劇のガンマンめいた格好のNPCが立ち、時折腰のホルスターから巨大な拳銃を抜いては指先でくるくる回しながら挑発的な台詞をわめいている。もう一方の端には柵が無く、かわりに開閉式の金属バーと、キャッシャーらしき四角い柱が見える。
ガンマンの後ろには弾痕の刻まれた壁がそびえ、その上部にピンクのネオンで《Untouchable!》の文字。
「……これは?」
「あっち側のゲートから入って、NPCの銃撃をかわしながらどこまで近づけるか、っていうゲームだね。今までの最高記録が、ほらそこ」
女の子の目線の先、柵内部の床面に、赤く発光する細いラインがあった。全体の三分の二をわずかに超えたところだろうか。
「へえ。……いくら貰えるんです?」
「えっと、確かプレイ料金が500Crで、8メートル突破で500、10メートルで1000、12メートルで2000、ガンマンに触れれば、今までプレイヤーがつぎ込んだお金が全額バック」
「ぜ、全額!?」
「ほら、看板のとこに表示があるよ。いち、じゅう……30万ちょいか」
「す……凄い金額ですね」
「だって無理だもん」
女の子は即答し、肩をすくめる。
「あのガンマン、10メートルラインを超えるとインチキな早撃ちになるんだ。一度に三発撃ってくるしね。予測線が見えたときにはもう遅いよ。がんばって8メートル超えれば、料金を取り戻すくらいのことはできるけど」
「予測線……」
その時、女の子がくいくいと俺の袖を引っ張った。小声でささやく。
「ほら、またプールマネーを増やす人がいるよ」
見ると、三人連れの男がゲームの入り口に近寄っていくところだった。
そのうちの一人、白地に薄いグレーの、寒冷地仕様と思しきファティーグを着込んだ男が両腕をぐるぐる回しながらゲートの前に立つ。右手の掌をキャッシャー上端のパネル部分に押し付けると、それだけで支払いが行われたのか、一際賑やかなファンファーレが響き渡った。たちまち、店内のあちこちから十人ほどのギャラリーが集まってくる。
NPCガンマンが英語で「てめえのケツを月まですっ飛ばしてやるぜ」的スラングをわめき、腰を落として銃を収めたホルスターに手を添えた。寒冷地用迷彩男の前に、グリーンのホロ表示で大きな「3」の数字が現われ、効果音とともに2、1と減少、0になると同時にゲートの金属バーががしゃんと開いた。
「ぬおおおりゃあああ!」
寒冷男は雄叫びを上げながら数歩ダッシュし――たかと思うと両足を広げて急制動をかけた。一瞬目を見開き、突如、上体を右に傾け、左手、左足を上げるという妙な格好を取る。
何の踊りだろう、と思ったその瞬間、寒冷男の頭の左側10センチのところと、左脇の下と、左ひざの下を青白いレーザーの火線が通過した。NPCガンマンがホルスターから銃を抜き、立て続けに三発ぶっぱなしたのだ。見事な回避だが――まるで、寒冷男には、レーザーが狙っている箇所がわかっていたように見えた。
「……いまのが……?」
顔を寄せてささやくと、水色の髪の女の子はこくんと頷き、同じく小声で答えた。
「そう、弾道予測線による攻撃回避」
寒冷男は、火線が消えると同時に再び猛然とダッシュし、またすぐに停止する。今度は両足をぐっと大きく開き、上半身を90度屈める。
直後、甲高い唸りとともに、二本のレーザーが男の頭上を、一本が股の間を通過した。再び数歩進み、立ち止まる。まるで、「だるまさん転んだ」のようだ。
男はどうしてなかなかに機敏な動きを見せ、たちまち6メートルほど前進した。あと数歩で、とりあえずプレイ料金だけは取り戻せるはず――と思ったその時。
今まで三発ずつ同じ間隔で連射していたNPCガンマンが、時差をつけて二発、一発とレーザーを放った。遅れて飛来した一弾を、寒冷男はジャンプで回避したが、着地でバランスを崩し、片手を地面に着いた。あわてて立ち上がろうとしたものの時既に遅く、ガンマンの右手が閃いて、放たれた火線が男の白いベストの上にブルーの火花を散らした。
へろへろへろ~と情けないファンファーレ。ガンマンは口汚く勝利の言葉をわめき、その背後のプール金額表示が金属音とともに500クレジット分上昇した。寒冷男は肩を落とし、すごすごとゲートから外に出た。
「……ね?」
隣で女の子が、マフラーの奥でかすかに笑いながら再び肩をすくめた。
「左右に動けるならともかく、一直線に突っ込むんじゃどうしたってあのへんが限界なのよ」
「ふうん……なるほど、予測線が見えたときにはもう遅い……か」
俺は呟くと、ゲートに向かって足を踏み出した。
「あ……ちょっと、あなた……」
目を丸くして呼び止めようとする女の子に、軽く片頬で笑みを返し、キャッシャーに右手を押し当てる。がしゃちゃりーんと旧式のレジスターのような音が聞こえ、賑やかなサウンドが鳴り響く。
新たな馬鹿者登場のせいか、あるいは俺の容姿のせいか、ギャラリーや寒冷男を含む三人組がざわめいた。マフラーの女の子は両手を腰に当て、あっきれたーというふうに小さく首を振っている。
ガンマンの、先ほどとは異なる罵り声と同時に、目の前でカウントダウンが始まった。
腰を落とし、全力ダッシュの体勢を取る。数字が減少し、金属バーが開いた瞬間、俺は地を蹴って飛び出した。
数歩も進まないうちに、ガンマンの右手が閃き、握られた銃の先端から三本の赤いラインが伸びた。俺の頭、右胸、左足をそれぞれポイントしている。
――と感じた瞬間、俺は思い切り右前方に飛んでいた。直後、体の左側をかすめて、青い光線が通過。すぐに右足でパネルを蹴り、中央に戻る。
もちろん、VRMMOゲーム内で銃と相対するのは初めてのことだ。
しかし、ALOにも――そしてSAOにも、弓やら毒液やら魔法やらで遠距離攻撃をするモンスターは多々存在した。それらの飛び道具を回避する方法は一つ。敵の「眼」から射線を読むのだ。
俺は赤い弾道予測線も、黒い銃口も見ずに、ただひたすらNPCガンマンの眼だけを凝視した。ぴくりぴくりと動くその生命なき瞳から、攻撃が襲ってくる箇所の気配を感じ取る。と同時に右に左に、あるいは上に下に大きく動き、無音で飛来する予測線それ自体を回避する。
気付くと、ガンマンは俺の目の前、あと少しで手の届こうという所に立っていた。右手の銃はもう間断なく光線を撒き散らしている。俺は顔を右に振り、左に倒し、体を横にして、至近距離からの三連撃をやり過ごした。直後に伸ばした右手が、ドンとガンマンの胸板を叩いた。
一瞬の静寂のあと――
「オー!! マィ……ガ――――――――ッ!!」
大げさな絶叫とともに、ガンマンが両手が頭を抱え、地面に両膝をついた。同時に、狂ったようなファンファーレの嵐。
それに混ざってガラガラという音が響き、何事かと顔を上げると、ガンマンの背後の赤レンガ壁の一部が内側から爆発したように崩れ、内部からドでかい金貨の雨がざらざらと降ってきた。それは俺の足元に跳ね返り、薄れて消えていく。
プール金額の表示がだーっと減っていき、ゼロになると同時に金貨の雨も途絶えた。一際やかましいサウンドが店内中に響いたあと、ゲームはリセットされ、ガンマンも起き上がってまた拳銃を指先でくるくる回し始めた。
「……ふう」
俺は息をつくと、左側の柵を飛び越え、ゲームから出た。
その途端、いつのまにか倍くらいに増えていたギャラリーの壁から、どよめきの渦が湧き起こった。何だよ今の、誰だあれ、という声が飛び交う。
人垣の中からたたっと駆け寄ってきた水色の髪の少女が、藍色の目を丸くして俺を凝視した。数秒後、その唇から掠れた声が流れた。
「……あなた、どういう反射神経してるの……? 最後、目の前……1メートルくらいのとこからのレーザーを避けた……あんな距離だともう、弾道予測線と実射撃の間にタイムラグなんてほとんどない筈なのに……」
「え、えーと……だって……」
俺はどう答えたものかしばし迷った挙句、言った。
「だって、この弾避けゲームは、弾道予測線を予測する、っていうゲームなんでしょう?」
「予測線を予測ぅ!?」
女の子の、可愛らしい叫びが店内の空気を貫いた。ギャラリー達も全員、目を丸くしてしーんと黙りこんだ。
数分後、ようやくギャラリーが三々五々散った武器ショップの一角で、俺はショーケース内のライフルをあれこれ眺めては首を捻っていた。
「う~ん……。このアサルトライフルってのは、サブマシンガンより口径が小さいのに図体が大きいのは どういうわけ なんです?」
隣の親切な女の子に素朴な疑問をぶつけてみたが、彼女はまだ驚きの余韻が冷めないらしく、見慣れぬものを見た猫のような、警戒心と好奇心の入り混じった瞳でじーっと俺を見ている。
「……そんなことも知らないのに、あんなとんでもない回避技術があるなんて……。コンバート、って言ったよね。前はどんなゲームにいたの?」
「え、えっと……よくある、ファンタジー系のやつですけど……」
「そう……。――まあ、いいわ。BoBの予選に出るなら、戦闘を見せてもらう機会もあるしね。で、銃だっけ。300kも稼いだなら結構いい奴が買えると思うけど……最終的には、その人の好みと拘りだから……」
「ナルホド」
俺はゆっくり歩きながら、黒光りする銃を次々に見て回るが、どうにもピンと来ない。それも当然、銃に関する知識なんて、「拳銃にはリボルバーとオートマチックがある」で終了してしまう程度なのだ。
唸っている間に、いつの間にか、店内に隙間無く並んでいる陳列棚の一番奥まで来てしまっていた。こうなったらもう、女の子にお任せで選んでもらおう――と思ったその時、視界に妙なモノが入った。
長いショーケースの隅に、銃とは明らかに異なる、金属の筒のようなものがいくつか並んでいた。
直径3センチ、長さは25センチほどだろうか。片側には登山用のカラビナに似た金具が下がり、もう一方は少し太くなっていて、中央に何かの発射口にも見える黒い穴の開いた突起が伸びている。この店に陳列されているからには銃なのだろうが、握りも、引鉄らしきものも見当たらない。筒の上部に、小さなスイッチが一つ見えているだけだ。
「あの……これは?」
聞くと、女の子はちらりと視線を走らせ、それが癖なのであろう仕草で小さく肩をすくめた。
「ああ……それはコーケンよ」
「こ、こうけん?」
「光の剣、と書いて光剣。正式名は《フォトンソード》だけど、みんなレーザーブレードとか、ライトセーバーとか、ビームサーベルとか、適当に呼んでる」
「け、剣!? この世界にも剣があるんですか」
俺はあわててショーケースに顔を近づけた。言われてみれば、古いSF映画で宇宙の秩序を守る騎士たちが振り回していた武器に非常によく似ている。
「あることはあるけど、実際に使う人なんていないよ」
「な……なぜ?」
「そりゃあ、だって……超近距離じゃないと当たらないし、そこまで接近する頃には間違いなく蜂の巣に……」
女の子はそこで言葉を切り、唇を僅かに開いたままじっと俺を見た。
俺はにこっと笑い返し、言った。
「つまり、接近できればいいわけですね」
「で、でも、そりゃあなたの回避は凄いけど、フルオートの銃相手だと……あ」
女の子が言い終わらないうちに、俺はケースに並ぶフォトンソードのうち、色合いが気に入ったマットブラック塗装の奴を指先でワンクリックしていた。出てきたメニューから「BUY」を選択すると、ものすごい速さでNPC店員がすっとんできて、笑顔で金属のパネルのようなものを差し出した。板の中央に、先ほどのゲームのキャッシャーについていたのと同じ、緑色のスキャナ面があるのに気付き、右掌を押し当てる。
またしてもレジスター的効果音が響き、パネル上面にぶうんとフォトンソードが実体化した。持ち上げると、NPC店員はお買い上げありがとうございましたぁ~と笑顔で一礼し、来たときと同じ速度で定位置まで戻っていった。
「……あーあ、買っちゃった」
女の子が右斜め45度の視線で俺を見ながら、言った。
「ま、戦闘スタイルは好きずきだけど、さ」
「そうそう。売ってるってことはきっとそれなりに戦えるはずですよ、コレでも」
答えながら、俺は右手で短い筒状武器をしっかり握りなおし、目の前にかざした。親指を動かしてスイッチを入れると、低い振動音とともに、紫がかった青に光るエネルギーの刃が1メートル強ほど伸長し、周囲を照らした。
「おお」
思わず短くつぶやく。今までいろいろな剣を握ってきたが、刀身が実体のない光でできた奴は勿論初めてだ。とりあえず中段に構えてから、すっかり体に染み付いているSAOの片手直剣ソードスキル《バーチカルスクエア》を繰り出してみる。
ブン、ブォン、と心地よい唸りを上げながら、光の剣は空中に複雑な軌跡を描き、ぴたりと停止した。当然ながら、剣の重量による慣性の抵抗はまるで感じない。
「へえー」
横で、女の子が短く手を叩きながら、少し驚いたような笑みを見せた。
「なんだか、けっこうサマになってるね。ファンタジー世界の技かぁ……案外あなどれないかな?」
「や、それほどでも……。しかし、軽いなァ」
「そりゃそうよ、せいぜい軽いくらいしかメリットない武器だもん。――それはそうと、メインアームはまあソレでいいとしても、サブにSMGかハンドガンくらいは持ってたほうがいいと思うよ。接近するための牽制も必要だろうし」
「……なるほど、それはそうかもですね」
「あといくら残ってる?」
言われてウインドウを出してみると、300kクレジット以上あったはずの所持金は、150kそこそこに減っていた。そう言うと、女の子はまばたきしてからひょいっと肩をすくめた。
「うへ、光剣って無闇と高いんだなぁ。残り15万だと……弾や防具の代金も考えると、ハンドガンかな」
「あの、もう、お任せします」
「BoBに出るなら実弾銃がいいよね……牽制目的なら、パワーよりもアキュラシーかな……うーん」
呟きながら、女の子は拳銃が並んでいるケースの前をゆっくりと歩き、やがてそのうちの一つを指差した。
「残金ぎりぎりだけど、これがいいかな。FN-ファイブセブン」
細い指の先には、握り部分がなめらかな丸みを帯びた、やや小型の自動拳銃が鎮座していた。
「ファイブ……セブン?」
「口径のこと。5.7ミリだから、普通の9ミリパラベラム弾に比べるとかなり小さいんだけど、形がライフル弾に近いから命中精度と貫通力にアドバンテージがあるの。特殊な弾だから、同じFN製SMGのP90としか共用できないけど、これしか持たないなら関係ないしね」
「は、はあ……」
立て板に水のごとく滑らかな解説が出てくるのを聞いて、俺は初めて、この水色の髪の少女にわずかな興味を抱いた。
性別固定のVRMMOゆえに現実のプレイヤー本人も女性なのは間違いないが、人種、年齢はまったく定かではない。それでも、俺の勘によれば、歳はそれほど離れていない気がする。
もちろん、MMORPGをプレイしているのだから、ゲーム内のアイテムについて詳細な知識があるのは当然だ。アスナやリーファだって、ALO内の剣やら魔法について語らせれば5分や10分では終わらない。
しかし――、やはり「銃」はどこか別格であるように思えてならない。しかも、GGOに登場する銃の半分は、現実世界に実際に存在する武器なのだ。導かれるのはどうしたって荒廃と殺戮のイメージだ。俺と同年代の女の子が、そのような世界にダイブし、すべての銃について詳細な知識を持つベテランプレイヤーとなるまで戦い続けるほどの動機、モチベーションとは一体どのようなものなのだろうか――
「ね、聞いてる?」
「あ、は、はい」
俺は慌てて思考を中断し、頷いた。
「じゃあ、これを買います。他に買ったほうがいいものって、なんです?」
勧められた《ファイブセブン》なる拳銃、いやハンドガンのほかに、女の子の言葉に従ってスペアマガジンやら厚手の防弾ジャケット、ベルト型の《対光学銃エネルギーフィールド発生器》等々を買い込むと、先ほどの弾避けゲームで稼いだ300kクレジットは綺麗に消えてしまった。
右腰にフォトンソード、左腰にファイブセブンの新たな重みを感じながら店を出ると、黄昏色の空はわずかに赤味を増していた。
「すっかりお世話になっちゃいました。どうもありがとう」
俺が頭を下げると、女の子はマフラーの奥でかすかに微笑み、首を振った。
「ううん、私も予選が始まるまで、特に予定無かったから。……あっ」
言葉を切り、女の子は慌てたように左手首の無骨なクロノメーターを覗き込んだ。
「いけない、確か3時でエントリー締め切りだよ、急がないと。総督府はこっち!」
ひょいっと俺の手を握り、いきなり駆け出す。これはやはり、同じ女の子だと思っているのだろうなあ、と今更のように罪悪感を覚えながら、俺も必死に後を追った。
複雑に入り組んだグロッケンの街を、三次元的にとても覚えきれない道順で走り抜け、最後に暗渠のような短い地下道を抜けると、突然目の前が大きく開けた。
半月形の広大なスペースに接して、ごつごつと無骨なかたちをしたビルディング――というより塔が聳え立っている。どうやら、ドーム形状のグロッケンのほぼ北端にいるらしく、塔の背後には高い壁が左右に伸び、左手方向から降り注ぐオレンジ色の陽光を受けて鈍く光っている。
「ここが総督府、通称《ブリッジ》。あなたが出てきたスタート地点の、ちょうど反対側だね」
女の子は俺の手を離し、塔を見上げながら言った。
「ブリッジ? 橋?」
「じゃなくて、艦橋っていう意味かな? グロッケンが宇宙船だった時代の司令部だから、そう呼ばれてるみたい。イベントのエントリーとか、ゲームに関する手続きは全部ここでするんだ。さ、行こ」
女の子のあとについて広場を横切り、塔の一階に入ると、そこもかなり広い円形のホールになっていて、左右の壁に沿って無数の端末が並んでいた。かなりの人数のプレイヤーがフロアを行き交い、また吹き抜けの二階にはカフェのような物もあるらしく、肩にごつい銃を下げた男たちがアフタヌーン・ティーを楽しんでいるという異様な光景が見える。
俺を並んだ端末のひとつに連れて行き、女の子はひょいっと首を傾げた。
「操作は普通のパソコンと一緒だけど……エントリーの仕方、わかる?」
「やってみます」
「ん。私も隣でやってるから、分からなかったら聞いて」
こくんと頷き、パネルで仕切られた端末に向かう。
モニターに映し出されているのは、「グロッケン総督府」と表記されたホームページ状の画面で、驚いたことにメニューも含めて全てが日本語だ。ダイブ前に、現実世界のネットでGGOのオフィシャルサイトを見たときはすべて英語で閉口したものだが、どうやらゲーム内はある程度のローカライズが行われているらしい。
指先でモニターを辿ると、すぐに第三回バレット・オブ・バレッツエントリーのボタンが見つかり、更に数回の操作で簡単に手続きが終了した。モニタに、予選トーナメント一回戦のブロックと時間が表示される。日付けは今日、時間は――わずかに30分後だ。
「終わった?」
女の子がひょいっと俺のブースを覗き込んだ。はい、と答え、メニューを初期化して端末から離れる。
「ブロックはどこだった?」
「Kです。K-37だったかな?」
「あ……そっか。同時に申し込んだからかな、私もKブロックだよ。12番だから……良かった、当たるとしても決勝だね」
「良かった、って、何でです?」
「決勝まで行けば、本大会には出られるの。予選だからって……」
猫を思わせる瞳をくるっときらめかせ、
「手は抜かないけどね」
「ああ……なるほど。もちろん、もし当たったら全力で戦いましょう。――それにしても、ここの端末は日本語なんですね?」
「ああ……うん。運営体のザスカーっていうのはアメリカの企業らしいんだけど、日本向けサーバーのスタッフには日本人もいるみたい。でもほら、GGOって日本でもアメリカでも、法律的には結構グレーらしくて」
「還元システムのせいですね」
「そう。ある意味ギャンブルだもんね。だから、表向きのホームページとかには最低限の情報しかないんだ。所在地も載ってないんだから、徹底してるよね。キャラ管理とか、通貨還元用のEマネーIDとか、ゲームに関する手続きはほとんど中でしか出来ないの」
「何て言うか――凄いゲームですね」
「だから、現実とはほぼ完全に切り離されてるんだけど……でも、そのせいで、今の自分と、現実の自分も……」
ふと、女の子に瞳に影が過ぎった気がして、俺は口を噤んだ。
「……?」
「う、ううん、なんでもない、ご免。――そろそろ会場に行かないと。って言っても、ここの地下なんだけどね。準備はいい?」
「ええ」
「決勝で会えるといいね。あなたの戦い方、ちょっと興味あるし。あ……まだ、名前言ってなかったね」
女の子はメニューを出し、その表面から透明のカードを取り出した。慌てて俺も左手を振ると、出現したホロウインドウの左下に「パーソナルカード」なるボタンを発見し、押した。ピコっという音とともに名刺サイズのカードが出現する。
俺に向かってカードを差し出しながら、女の子は微笑み、言った。
「私の名前はシノン。よろしくね」
偽装もどうやら限界と見て、俺もカードを摘んだ右手を伸ばしながら名乗った。
「――俺はキリト。よろしく」
「…………俺? キリト……?」
女の子の微笑みがすうっと消え、眉がわずかにしかめられる。
「あなた……まさか……」
左手でパッと俺のカードをひったくり、女の子――シノンはそれを覗き込んだ。
「……M。 あなた、男!?」
引っ込められかけたシノンのカードを俺も素早く掻っ攫い、視線を落とした。「シノン」という名前の横に、小さく「F」の表記。どうやら俺と違って間違いなく女の子らしい。
「あれ、言わなかったかな? 男だよ、勿論」
「……こ、この……口調まで違うじゃない……」
シノンの藍色の瞳が強い光を放ちながら、俺をじろりと睨んだ。先ほどまでは無かった、明確な敵意の色。
うーんゾクゾクするね、と不埒なことを考えながら、俺はいつもの片頬だけの笑みとともに改めて右手を差し出した。
「助かったよ、ありがとう」
シノンは、左手の甲でぱしんと俺の手を叩き、答えた。
「ほんとに、楽しみだよ、君と決勝で当たるのが」
少女のまとう雰囲気の変化には、驚くべきものがあった。周囲の温度までが、春から冬へと急降下したかのようだ。
真珠のごとく色の薄い唇を一直線に引き結び、改めて「敵戦力」を計る視線で俺を一瞥すると、シノンはくるりと身を翻した。そのまま、総督府一階ホールの奥に見えるエレベータらしき扉へと、コンバットブーツを鳴らして歩いていく。まるで――いま初めて、現実のプレイヤーからゲーム内の戦士へと変貌したとでもいうような……
しばらく、揺れる水色の髪とマフラーのしっぽを見つめていたが、予選会場の場所も知らない俺はここで置き去りにされては困ると思い慌てて追いかけた。シノンは振り向きもしなかったが、壁に設けられたボタンに触れ、開いたドアの内部に一歩踏み込んだところで足を止め、ようやく肩越しに一瞬だけ俺の顔を見た。
「ついてこないで」
「や、その……場所、知らないし」
氷の彫像のような横顔に向かって言うと、シノンはかすかにため息をつき、もう一歩動いて入り口を空けた。ほっとして、俺もエレベータに体を滑り込ませる。
シノンが内部のボタンを押すと音も無く扉が閉まり、すうっと降下する感覚が訪れた。
しばらくは、カシッ、カシッ、と階数表示が切り替わる機械音だけが狭い空間に満ちていたが、やがてシノンが抑揚の薄い声で言った。
「――最低限のことだけ説明しておく。ここから出たら本当に敵同士だから」
「ど、どうも」
「地下20階のホールが待機場所になってて、時間が来たら対戦者と一緒にバトルフィールドに転送される」
俺はちらりとエレベータ上部のインジケータを見上げた。Bのついた数字は25まであるようだ。
「最下層じゃないんだ?」
「ああ、最下層には遺跡ダンジョンに入るためのチェックゲートが……――余計な口挟まないで」
じろりと睨まれてしまう。
「は、はい」
「実際の戦場に飛ぶ前に、カーゴルームにアクセスできるからそこで装備を整えて、と言っても君には必要ないだろうけど。フィールドの広さは500メートル四方、マップはランダム。最低200メートル離れた場所からスタートして、決着したらまた待機エリアに戻ってくる。勝ったとして、その時点で、次の対戦者の試合が終わってればすぐに二回戦がスタート。終わってなければ、それまで待機。Kブロックは64人だから、5回勝てば決勝進出で本大会の出場権が得られる。――これ以上の説明はしないし質問も受け付けない」
ぶっきらぼうな言葉のわりには丁寧な解説によって、どうやら予選トーナメントの概略は想像できた。俺は改めてシノンに礼を言った。
「大体わかったよ。ありがとう」
すると彼女は、再び一瞬だけ俺に視線を投げ、またすぐに前を向いた。唇が動き、ささやくような声が流れる。
「――決勝まで来るのよ。あれだけ色々説明させたんだから、最後のひとつも教えておきたい」
「最後?」
「敗北を告げる弾丸の味」
「……楽しみだな。しかし、君のほうは大丈夫なのかい?」
シノンはフン、とかすかに鼻を鳴らし、ごくごくわずかな笑みを浮かべた。
「予選落ちなんかしたら引退する。今度こそ――」
エレベータの扉を凝視するシノンの瞳が、強烈な瑠璃色の光を放った。標的にフォーカスするレンズの如く、ギュウッ! と音を立てて焦点が切り替わったような気がした。
「――強い奴らを、全員殺してやる」
その言葉はほとんどボリュームのある音声としては発せられず、かすかな振動として直接俺の意識に響いた。シノンの唇が更に動き、獰猛な獣のような笑みを形作った。俺の背筋を、久しく感じたことのなかった氷のような戦慄が駆け上った。ちょうどその時、電子音と同時にエレベータが減速、停止し、扉が左右に開いた。
SAO3_05_Unicode.txt
ドアの向こうは、ドーム状の広大な空間だった。六角形の金属タイルを敷き詰めたフロアがどこまでも広がり、彼方にトラス構造の支柱が連続する壁と天蓋が見えるものの、ほとんど闇に飲まれている。上空には、街で見たのと同じような巨大なホログラムがゆっくりと回転しているが、それは謎の広告ではなく、明朝体の日本語フォントで「第三回 バレット・オブ・バレッツ予選会場 開始まで あと7分30秒」と書いてある。
どうやら俺たちはほとんど最後に会場入りしたようで、フロアには既に数百人は下らないプレイヤー達がたむろしていた。三々五々固まり、盛大にくわえ煙草の紫煙を噴き上げたり、ボトルごと酒をあおったりしている連中は、地上で見たプレイヤー達よりも更に数倍怪しく、剣呑で、俺はおもわず「うわっ」とうめいていた。強面大男のエギルだってここに混じれば目立つまい。
だがシノンはまるで気にするふうもなく、すたすたと壁際を歩いていく。と、その姿を目に留めたプレイヤーの一団が低くざわめいた。やはり彼女は相当な有名人なのだ。この世界では珍しい女性プレイヤーだから、というだけではなく、突出した強さのせいでもあるのだ、きっと。――などと思っていると、男達の視線が俺を捉え、そして新たなどよめきが波のように広がった。反射的に首を縮める。
確かにこの世界には、せいぜい目立って「死銃」氏と接触するために来たのではあるが、こういう場所で直接の注目を集めるのはどうにも苦手だ。
慌てて俺もドアの前を離れ、シノンの後を追った。
すたすたと歩いていくシノンは、やがて壁際に人気の無いスペースを見つけると、そこにすとんとしゃがみ込んだ。マフラーをぐいっと引き上げ、深く顔を埋める。その姿からは他人を拒絶するオーラが強烈に放たれているが、俺は図太い神経を発揮してそれをやり過ごし、シノンの隣にどっこいしょと腰を下ろした。
「……ついてこないで、って言った」
苛立ちを帯びた、氷点下の声が流れる。
「心細いし……どうせあと数分だしさぁ」
子供のように言い返すと、盛大なため息が返ってきて、それきりシノンは黙り込んだ。
数十秒間の沈黙のあと、俺が懲りもせずに話し掛けようとしたその時、新たな足音が俺たちに近づいてきた。膝をかかえて座り込んだまま顔を上げると、それは灰色の長髪を垂らした背の高い男だった。
ダークグレーにもう少し明るいグレーのパターンが入った、迷彩の上下を身につけている。肩から、やや大型の機関銃、多分サブマシンガンではなくアサルトライフルという奴を下げ、痩せた体に似合った鋭い顔立ちだ。歴戦の兵士、というよりは、特殊部隊の隊員といった雰囲気である。
男は俺には目もくれず、シノンをまっすぐ見て微笑を浮かべ、口を開いた。
「遅かったね、シノン。遅刻するんじゃないかと思って心配したよ」
その馴れ馴れしい口調に、俺はまたシノンの言葉のナイフが出るぞー、と思って首をすくめたが、以外や水色の髪の少女は身にまとった雰囲気をふっと和らげ、小さな笑みを浮かべて答えた。
「こんにちは、シュピーゲル。ちょっとしょうもない用事に引っかかっちゃって。あれ、でも……あなたは出場しないんじゃなかったの?」
シュピーゲルと呼ばれた男は照れくさそうに笑いながら右手で頭をかいた。
「いやあ、迷惑かもと思ったんだけど、シノンの応援に来たんだ。ここなら、試合も大画面で中継されるしさ」
どうやら男はシノンと旧知の間柄らしく、すとんと彼女の前に腰を下ろして胡坐をかいた。
「それにしても、しょうもない用事……って?」
「ああ……ちょっと、コノヒトをここまで案内したりとか……」
シノンが、打って変わって冷たい目を一瞬だけこちらに向ける。俺はやれやれ、と思いながらうつむけていた顔を上げ、シュピーゲルという男にむかってかるく会釈した。
「どーも、こんにちは」
「あ……ど、どうも、はじめまして、シュピーゲルといいます。ええと……シノンの、お友達さんですか?」
それなりに雰囲気のある、強そうな男ではあるが、どうやらシュピーゲルはその鋭い外見に似合わず礼儀正しい性格のようであった。あるいは――やはり俺の性別を誤解しているのか。
どう答えると面白いかなあ、と思いながら俺が言葉を捜していたとき、シノンが短く吐き捨てた。
「騙されないで。男よ、そいつ」
「えっ」
目を丸くするシュピーゲルに、しかたなく名乗る。
「あー、キリトと言います。男です」
「お、男……。え、ていうことは、えーと」
シュピーゲルは混乱した表情で俺とシノンを交互に見る。へえ、ふーん、と思った俺はちょっとした悪戯心で、男の混乱に燃料を注いでみることにする。
「いやあ、シノンにはすっかりお世話になっちゃって、いろいろと」
「ちょっ……な、何もしてないわよ私は。だいたいアンタにシノンなんて呼ばれるおぼえは……」
「またそんなつれないことを言う」
「つれないもなにも、赤の他人よ!!」
「武装のコーディネイトまでしてくれたのに?」
「そっ……それは、アンタが……」
と、そこまで掛け合いを続けたときだった。
突然、甘い響きの女性NPCボイスが、大音量で待機エリアに響き渡った。
『大変お待たせしました。ただ今より、第三回、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントを開始いたします。エントリー・プレイヤーの皆様は、カウントダウン終了後に転送されます。幸運をお祈りします』
直後、会場じゅうに拍手とうおおっという歓声が湧き上がる。
喧騒のなかシノンはすっくと立ち上がり、俺にびしっと右手の人差し指を向けた。
「決勝まで上がってきなさいよね! その頭すっ飛ばしてやるから!」
俺も腰を上げ、にっと笑って答えた。
「デートのお招きとあらば参上しないわけには行かないな」
「こっ、この……」
進行していた10秒のカウントダウンがゼロに近づき、俺はシノンに手を振ってから転送に備えようと前を向いた。そして、じっと俺を見ていたシュピーゲルと視線が合った。
その鋭い目に、明らかな警戒と敵意の色を見て、これはちょっとやりすぎたかな、と思ったのも束の間――俺の体を青い光の柱が包み、たちまち視界の全てを覆い尽くした。
転送された先は、暗闇の中に浮かぶ一枚のへクスパネルの上だった。目の前に、斜めに浮かぶ緑色のホロウインドウがあり、上部に「カーゴルーム」の表示がある。更にその奥に、こちらは垂直に「準備時間:残り58秒 戦場タイプ:古代遺跡G」と書かれたウインドウ。
おそらく、指定されたマップに適合する装備を整えるための準備時間として一分間が与えられているのだろうが、余分なアイテムも、マップの知識も持ち合わせていない俺にはまったく意味がない。右手の指先で、カーゴルーム・ウインドウ下部のOKボタンを押して消去する。
デジタル数字が、蝸牛の歩みほどの速度でのろのろと減少していくのを待つ間、俺はあるひとつの突飛な可能性についてぼんやりと考えていた。
あのシノンという少女の、あまりにも極端な変貌。触れたもの全てを切り裂くナイフのような殺気。
エレベータの中で、まるでテレパシーのように俺の脳裏に響いた声を思い出す。「強い奴を、全員殺す」――荒唐無稽と言えばそれまでの、あまりに直截な台詞ではあるが、俺はなぜかかのSAO世界においても何回とは憶えがないほどの戦慄を感じていた。ゲーム内のロールプレイを超えたリアルな殺意が、彼女の小さな身体から強烈に放射されたかのようだった。
電子信号が作り出す虚構世界において、あそこまでの「意思」を感じさせるプレイヤーにはほとんど会ったことがない。女性プレイヤーでは、端的に言えば、激怒した時のアスナ以外には知らない。いや――「閃光」、そしてそれ以前は「凶戦士」とまで呼ばれたアスナでも、あのような獰猛さを俺に感じさせたことはなかった。
有りうるだろうか? あの水色の髪の少女が、俺の捜す「死銃」その人である、というようなことが?
菊岡が俺に聴かせた音声ファイルに記録されていた死銃の声、あの、金属が軋むような不快な声と、シノンの甘く澄んだ声とはまるで違う。だが、ここはSAOとは異なる、あくまで通常のゲーム世界だ。一人のプレイヤーが複数のキャラクターを所持し、ログインごとに使い分けるということはごく当たり前に行われている。
それに、口ぶりからすれば、シノンはバレット・オブ・バレッツ本大会進出に絶対の自信を持っているようだった。「死銃」はきっとその大会に出てくる、という俺の予測が正しければ、候補者は30人にまで絞られる。シノンはその一人、ということになる。
心情としては、こんな可能性は検討したくない。俺をショップに案内し、あれこれ説明してくれたときの彼女からは、まったくと言っていいほど殺気を感じなかった。それどころか、そこはかとない寂しさ、人恋しさを漂わせていたような気すらした。一体どちらが本物のシノンなのだろう……
――ここでいくら考えていても結論は出ない。剣を交えれば、いや銃を撃ち合えば、きっと何かが分かるだろう。
そう思って、伏せていた視線を上げたその瞬間、残り時間表示がゼロになった。俺の体を、再度の転送感覚が襲った。
放り出されたのは、陰鬱な黄昏の空の下だった。
甲高い笛のような音を引いて、風が過ぎ去っていく。上空の黄色い雲が恐ろしい速さで流れ、足元の枯草がざわざわと揺れる。
すぐ傍らには、古代ギリシャ風――だかローマ風だかの、巨大な円柱がそびえていた。3メートルほどの間隔を置いて、コの字型に何本も連なっている。ある柱は上部が崩れ、あるものは完全に倒れて、はるか昔に滅びた神殿の廃墟といった趣だ。
俺はとりあえず、手近な柱にぴたりと体を寄せてから素早く周囲を見渡した。
枯れた草原が四方どこまでも続き、その彼方に、今いる場所と似たような遺跡が点在している。シノンの説明によればフィールドは500メートル四方ということだが、地平線までは数十キロとありそうだ。きっと不可視の障壁が設定してあるのだろう。
更に解説を思い出す。対戦者は、現在少なくとも200メートル離れた位置に出現しているはずだが、とりあえず見渡したところ人影のようなものはない。きっと、俺と同じようにどこかの遺跡に隠れているのだ。
このまま俺も隠れ続けて、敵が痺れを切らせて動いたところを発見する、という作戦もあるが、どうも「待ち」は性分ではなかった。それよりも、とりあえず最寄の遺跡まで全力ダッシュして、あえて銃撃されることで敵位置を確認するほうが手っ取り早いなあ……と思いながら、何気なく左手で、腰に装備されているハンドガン、確かFN-ファイブセブンなる名前のソレの感触をたしかめた時だった。
一際激しい風が、ざああっと吹き渡って、周囲の草原を激しく波打たせた。突風が過ぎ去り、草が再び立ち上がった、まさにその瞬間。
俺の目の前、わずか20メートルほど離れた草むらから突然、ザッ! と人間が立ち上がった。
すでに両手でぴたっと構えられたアサルトライフル、その機関部に押し付けられた髭の生えた頬、顔の上半分を覆うレンズのついたゴーグルと、ダミーの草が伸びたヘルメットなどが一瞬で目に焼きつく。
いつのまにそんなところまで接近されたのか、まるで分からなかった。その理由の一端は、彼が身に付けた迷彩服にあるのは明らかだった。周囲の草むらとまったく同じカーキ色の地に、細い縦縞のパターンが入っている。なるほど、これがあの60秒の準備時間の効用か――と思う間も無く。
敵が右肩に構える黒いライフルから、無慮数十本の赤いラインが伸び、俺を含む周囲の空間をびっしりと貫いた。
「うわっ!!」
俺は思わず悲鳴を上げ、同時に思い切り地を蹴り、飛んでいた。もっとも「弾道予測線」の密度が薄かった方向――上空へ向かって。
直後、敵のライフルがカタカタカタ! と軽快な音を立て、右足の脛部分に立て続けに二回の衝撃を感じた。視界の右端に表示されていたHPバーが、がくん、がくんとほぼ一割減少する。とてもじゃないが、避けきれる弾数ではない。シノンが警告してくれた、「フルオート射撃」という言葉を今更のように思い出す。
俺は空中でくるりと後方に宙返りして、背後にあった円柱の上端に着地した。とりあえず反撃してみようと、左手で腰からファイブセブンを抜く。
が、それを構える余裕すらも敵は与えてくれないようだった。再び、俺の身体に無数の予測線が突き立った。
「わああ」
情けない悲鳴を上げ、円柱の後ろに飛び降りる。が、更に一弾が左腕を掠め、HPが削られる。
降り注いだ弾の雨のほとんどは石の柱に命中し、ビシビシビシと音を立てて細かい破片を飛散させた。ばくばく言う心臓を押さえつけながら、必死に体を縮め、円柱の陰にうずくまる。
いやはや、これは確かに剣対剣の戦闘とはまったく違う!
あの弾除けゲームのNPCガンマンによる銃撃は、二秒のインターバルを置いて三発程度のリズムで、それを避けるのにも全神経の集中を要したのだが、いくらなんでもこんな――秒間十発以上とさえ思える連射には手も足も出ない。
俺の右腰に下がる「フォトンソード」であの髭面をぶった斬るには、どうしたってすぐ目の前まで接近しなくてはならないが、そこまでたどり着く前に穴だらけにされるのは必至だ。
完全に回避するのが不可能なら、どうにかして銃弾を「防御」するしかない。だが生憎、この世界には飛び道具を防いでくれるマジックシールドのような物は存在しない。SAOなら、剣を盾のかわりにする武器防御スキルというものがあったのだが――
俺はふと、右腰に下がったままの光剣に手を添えた。この剣で、せめて何発か銃弾を防ぐことができれば……だが、そんな離れ業を実現するためには、襲ってくる弾の軌道を正確に予測する必要が……
いや――それは可能だ。可能なはずだ。なぜなら、弾の軌道は、「予測線」がきっちり教えてくれるではないか。
俺はごくりと生唾を飲み込み、右手で光剣を強く引いて金具から外した。
現在、銃撃は一時的に止んでいる。おそらく、再び草むらに身を沈め、左右どちらかから回り込んでくるつもりだ。
俺は目を閉じ、聴覚のみに集中した。
あいかわらず風がびゅうびゅうと鳴っている。その甲高い音を、意識から排除する。波立つ草原の乾いた葉擦れの音、規則的に繰り返されるそのリズムの中に、イレギュラーな音を探す。
居た。
左斜め後方、7時の位置を、かすかな不規則音源が9時方向へとゆっくり移動している。二~三秒動いては停止し、こちらを探る気配を感じる。
敵の移動が再開し、止まり、そしてまた動きはじめた、その瞬間。
俺は右足で思い切り地面を蹴り飛ばし、男の潜む位置へと一直線の全力ダッシュを開始した。
よもや、隠れているはずの自分に向かって敵がまっすぐに突っ込んでくるとは、髭面の男も想像しなかったのだろう。枯草の中から体を起こし、膝立ちになってライフルを構えるまでに一秒半ほどのタイムラグがあった。
その時点で、俺は男との距離約25メートルを半分近く詰めていた。走りながら、右手に握ったフォトンソードのスイッチを、親指でスライドさせる。ヴン、と頼もしい音とともに、青紫色に輝く刃が長く伸びる。
三たび、敵のアサルトライフルから伸びる10本以上の着弾予測線が表示された。
首筋をちりちりと疾る恐怖を抑えつつ、冷静に観察したところ、赤く細いラインはすべてが同時に現われたわけではなく、ほんの少しずつの時間差があった。その差がつまり、ライフルのマガジンから吐き出されてくる弾丸の順序、というわけなのだろう。
ダッシュする俺の、現実と比べれば相当に小柄な身体をしっかりと捉えている予測線は合計で6本あった。あとは全て、上下左右にわずかずつ外れている。ごく近距離であることを考えると、敵のライフル――もしくは射手自身の命中精度は案外大したことはないのかもしれない。
久々のガチンコバトルの緊張感に、ようやく俺のスイッチも入りはじめたようだった。視界の余白部分が放射状に引き伸ばされ、ターゲットの姿だけが鮮明になっていくような、懐かしいアクセル感。ゆっくりと流れていく時間のなかで、意識だけが猛烈なスピードで回転しはじめる。
黒い敵ライフルの銃口が、パッとオレンジ色に光った。
その瞬間、俺の体をポイントする6本のライン、その初弾と次弾の軌道を、光剣の刀身で寸分の狂いもなく遮る。
バッ、バシッ!! ――とまばゆい火花が、光の刃の表面に弾けた。それを意識した時にはもう、俺の右腕は電光のように閃き、三弾め、四弾めの軌道を結ぶ線分にフォトンソードを重ねている。再度、銃弾が高密度のエネルギーによって消滅させられる衝撃音。
「当たらないはず」の銃弾が耳もとで立てる唸りを、一切無視して突進し続けるのはかなりの精神力を要する行為だったが、俺は歯を食い縛って更に剣を動かした。五――そして六! 命中弾のすべてを剣で叩き落し、残る距離を一気に駆け抜けるべく全力で地面を蹴る。
驚愕のせいか、レンズつきゴーグルの下、濃い髭に囲まれた男のアゴががくんと落ち、口が大きく開かれた。だが、それでも男の両手はすさまじい速さで動き、空になったマガジンをリリースすると同時に腰からスペアを引き抜いてライフルに叩き込もうとする。
そうはさせじと、俺は左手に握っていたファイブセブンを男に向けた。指に力を込めた途端、男の胸を中心に薄い緑色の円が表示されて驚かされるが、構わず立て続けに五回、引鉄を絞る。
意外に軽い反動が肘から肩へ伝わると同時に、緑の円は小さく収縮し、男の上半身をきっちり収める程度のサイズになった。その内部、男の肩とわき腹に二発が命中し、残り三発は背後の草むらへと消えていったが、どうやら当たった弾は男の防弾装備を貫通してダメージを与えたようだった。ぐらりとよろめいて、僅かにたたらを踏む。
その時間で充分だった。
間合いに入った瞬間、俺は体を小さく右に捻り――
仮想の大地を突き破る勢いで踏み込むと同時に、ダッシュのスピードを余さず乗せた全力の直突き、SAO世界であれば《ヴォーパルストライク》と呼ばれた必殺の一撃を、敵の胸板に叩き込んだ。
まるでジェットエンジンのような振動音とともに、光の刃はあっけなく根元まで貫通した。行き場の無いエネルギーの嵐が、一瞬敵の体内で吹き荒れるような感触。
直後、凄まじい光と音が俺の右手元から円錐状に放射され、敵の身体を無数のポリゴン片に変えて空間に拡散させていった。
痺れるような戦闘の余韻を全身に感じながら、俺はゆっくりと体を起こした。ヴヴン、と音をさせて光剣を左右に切り払い、一瞬背中に収めそうになってからスイッチを切る。
カラビナ状の金具で右腰に剣を吊り、左手のハンドガンもホルスターに収めると、ようやく溜めていた息を長く吐き出して、黄昏の空を仰ぎ見た。ちょうどその時、流れていく雲をスクリーンにして、コングラチュレーションの表示が浮かび上がった。
このしんどい戦闘が、あと四回か――と思い、がくりと肩を落とす俺の体を、転送エフェクトの青い光が包んでいく。寂しい風鳴りが徐々に遠くなっていき、大勢の人間が立てる喧騒がそれにとって変わったときには、俺はもう待機エリアへと戻っていた。
どうやら、場所も転送されたときと同じ壁際のようだった。きょろきょろと左右を見渡すが、シノンとシュピーゲルの姿は無かった。シノンは戦闘中としても、彼女との関係が少々気になるあの男はどこに行ったのだろうと周囲を見渡すと、少しドームの中央寄りの場所に、覚えのあるグレーの迷彩服姿があった。こちらに背を向け、上空を見上げている。
俺も視線を上向けると、予選開始前は残り時間の表示が浮いていた場所に、マルチ画面のホロモニターが出現していた。4×4個の巨大な画面それぞれに、さまざまなフィールドで銃をぶっぱなしまくるプレイヤー達の姿が映っている。
おそらく、現在同時進行している数百の試合のうちいくつかを中継しているのだろう。時折、不運なプレイヤーが銃弾を受けて四散し、勝敗が決するたびに、フロアにたむろする無数のプレイヤーから大きな歓声が湧き上がる。
どれどれ、シノンの試合は映っているかな、と思いながら俺も数歩前に進んだ。右上から一つずつ確認していくが、カメラが引き気味なのでどうもよくわからない。あの目立つ水色の髪を見つけようと、じっと視線を集中する――
――だから、いきなり右耳のすぐ近くで声がした時は、心臓が止まるほど驚いた。粘つくような、それでいて金属質な響きのある声が、直接耳に注ぎ込まれた。
「君、強いね」
「!?」
反射的に飛び退りながら振り向く。
立っていたのは、俺より少しだけ背の高い――つまりはどちらかと言えば小柄なプレイヤーだった。
性別はわからない。黒いぼろぼろのマントを体に巻きつけてフードを目深に下ろし、更に顔の下半分を布で覆っているからだ。わずかにフードの奥、暗闇の中で光る眼だけが見て取れる。ナイフで切ったように細く吊りあがり、暗赤色の小さな瞳が瞬きもせずに俺を見ている。
「あ……アンタは?」
反射的に聞くが、黒マントのプレイヤーは答えずに、音も無く俺に歩み寄ってきた。ここは街中で、アタックはできないはずだと判っていても、無意識のうちに腰の剣に手が伸びる。
黒マントは再び俺の眼前数センチにまで顔を近づけると、まるでエフェクターにでも通したかのような非人間的な声で言った。母音が多重にブレる不快な響きに、肌が粟立つ。
「試合、見てたよ。それ……光剣だね。珍しいね、ここで剣を使うなんて」
「…………」
「それに……どこかで見たような動きだったよね。今はもう無い、別のゲームで、だけどね」
――まさか……。
「ねえ……名前、教えてよ」
名乗るべきではない、そんないわれもない強迫観念に捕われ、俺はためらった。しかし――試合経過のデータを参照すれば、どうせ分かってしまうことだ。
「……キリト」
短く告げた、その途端、フードの奥で細い目が一瞬見開かれた。点のごとき瞳孔が、血の色の光を放ったような気がした。
黒マントは、さらに一歩踏み出し、殆ど俺の頬に唇を接するほどに顔を寄せてきた。幾らなんでもこれはハラスメントだろう、突き飛ばしたって文句は言われない――と分かっていても、俺はすでに相手の粘つくような気に呑まれていた。
超至近距離からじっと俺の目を覗き込みながら、黒マントは言った。
「キリト……その名前…………騙りだったら、君、殺すよ?」
「…………!?」
「本物だったら…………ふ、ふ……やっぱり、殺すけどね」
絶句する俺の目に、男の視線がスキャン・レーザーのように突き刺さる。脳の内側を、くまなく走査されているかのような錯覚に襲われる。
数秒間硬直したあと、どうにか動揺した意識を立て直して、俺は黒マントの目を睨み返した。
「……騙りとか、本物とか、どういう意味だ」
「さっき、君が使った剣技……いや、ソードスキルと呼ぼうかな。分かるんだよ、僕も昔、使ってたからね」
「お前は……」
「そうさ、《生還者》だよ。君も、そうなんだろう? でも、あの世界にいたプレイヤーで、その名前を知ってる奴はごく少ないはずだよね。本人か、その周囲の攻略組か……あるいは、彼の、敵か」
「……なら、お前はそのうちのどれなんだ。なぜ《キリト》を殺したがる」
「もちろん、三つ目……敵だからに決まってるじゃないか」
「……敵……?」
「ギルド《ラフィン・コフィン》。聞いたことあるかい?」
その名前を聞いた瞬間、首筋に氷の息を吹きかけられたような気がして、全身が総毛立った。足元の、金属タイルがいつのまにか木板――棺桶の蓋に変わり、それがゆっくりとずれていく。青白い手が音も無く突き出し、俺の足首を握る。
悪魔の顔が描かれた棺からはみ出した腕――「笑う棺桶」のギルドエンブレム。
こいつは亡霊……過去から現われた亡霊だ。そう思いながら、俺は反射的に首を振っていた。
「……いや、知らないな」
「…………」
黒マントはしばらく無言で俺を凝視し続けたあと、すっと体を引いた。完全な闇に隠れたフードの奥から、電子的な声が低く響いた。
「……もし騙りなら、その名前を使うのはやめたほうがいいよ。殺したいと思ってる奴は僕だけじゃないだろうしね」
「殺す殺すって……あの世界はもう無くなったんだ。HPがゼロになることはあっても、もう誰も死んだりしない」
「ふ、ふ……本当に、そうかな?」
「何……?」
男は、ボロボロのマントの前をわずかに開くと、その隙間で右手を動かし、腰のホルスターから大型のハンドガンを少しだけ抜き出した。艶消しの黒に塗装された銃身に、細く刻まれた深紅のラインが目を引く。
反射的に俺も右腰の光剣に手を添えるが、黒マントはそこで動きを止めた。
「君も、すぐに知ることになる。あの世界でたくさん、たーくさん殺したプレイヤーキラー……いや、《マーダラー》には本当の力が宿っている、ということをね」
「なんだと……」
本当の力。つい最近も、その言葉を聞いた。菊岡が持っていたファイルの中で、目の前の男と似た声の持ち主が確かにそう叫んでいた。
「お前……お前が……」
掠れた声でその先を言おうとした時、背後で声がして、俺は口をつぐんだ。
「一回戦は勝ったみたいね」
素早く振り向くと、立っていたのは水色の髪の女の子――シノンと、灰色の迷彩服を着たシュピーゲルだった。戦闘の余韻のせいか、シノンの藍色の瞳はきらきらと光り、頬にはわずかに赤味が射している。どうやら彼女も勝ったらしい。
シノンは、少しだけ訝しそうな顔で俺と黒マントを見比べたあと、肩をすくめた。
「新しいお友達? 意外に社交的なんだ」
「……いや……」
どう答えたものか迷って一瞬口ごもっていると、黒マントがシノンに数歩近づいて言った。
「ふ、ふ、そうなんだよ。彼とは――言わば同郷でね」
男の異様な雰囲気に気付いたのか、シノンが唇を結んでわずかに身を引いた。だが黒マントは更にシノンににじり寄っていく。
「君、スナイパーのシノンだよね。……一度、戦いたいと思っていたんだ。ブロックが違うから、予選では当たれないけどね」
「…………」
シノンは無言のまま、剣呑な眼光で黒マントを睨む。と、彼女を守ろうとするかのように、シュピーゲルが一歩踏み出し、シノンと黒マントの間に立った。
「ちょっと、君……」
だが黒マントは、シュピーゲルの抗議の言葉を遮るように短く首を振り、滑るように退いて距離を取る。
「ふ、ふ、まさかここで撃ったりしないよ。あくまで本大会のフィールドで……大勢が見ている前で、ね」
それを聞いたシノンの、獲物を狙う猫の瞳がきゅっと細まった。
「……あんた、名前は?」
「……モルターレ」
短く答え、黒マントはフードの奥の細い目でシノンを、次いで俺を凝視した。すうっと、宙を浮くようにこちらに近づいてくる。再び耳もとで、いんいんと響く金属的な声。
「君とは、一度じっくりと思い出話をしたいね。できることなら――リアルでね。……おっと、二回戦が始まるようだ。じゃあまた……本大会で会おうね」
しゅうしゅうと擦過音の混ざる笑い声をかすかに漏らし、モルターレと名乗る男はぼろぼろに解れたマントの裾を踊らせながら、熱気と歓声の渦巻く人込みのなかへと歩み去ってたちまち見えなくなった。
俺はいまだ動揺から醒めず、棒のように立ち尽くすことしかできなかった。
《ラフィン・コフィン》――、その名はすでに遠い過去、混沌とした記憶の海に没したはずだった。あの世界での二年のあいだに次から次へと襲ってきた、嵐のような戦闘の連続のひと欠片でしかないはずだった。
だが、黒マントにその名を出されたとき、俺は反射的に嘘をついた。知らない、と否定した。
それはつまり、俺の中にまだ罪の意識が消えずに残っているというということなのだろうか?
いや――罪悪感は有って当然だ。そう感じて当たり前のことをしたのだから。しかし、それでもなお、あれは必要なことだったのだと……やらなければならなかったのだという確信とともに、あの記憶は解決済みの判を押されて記憶のファイルの奥底に埋まっていたはずなのに。
「レッド」ギルド《ラフィン・コフィン》の名前は勿論憶えていた。忘れるはずも無い、そのメンバーを……俺はこの手で……
「妙な知り合いがいるのね」
傍らで声がして、俺は過去から引き戻された。二、三度まばたきして顔を上げると、隣でシノンが眉をしかめ、黒マントが消え去った方向を睨んでいた。
「……あ、ああ……いや、知り合いって訳じゃ……」
わずかに首を振って呟くと、シノンが怪訝な顔で振り向いた。
「……何、魂抜けたみたいな顔をしてるの」
「え……」
「初戦はビギナーズラックで勝てたかもしれないけど、次からはそうも行かないんだからね」
俺はとりあえずいつものペースを取り戻そうと、無理矢理片頬に笑みを浮かべた。右手の指先を、スッとシノンの頬に伸ばしながらささやく。
「嬉しいな、そんなに心配してくれるなんて。安心していいよ、決勝では必ず君と……いってえ!」
バシッと俺の手を弾き、ガツンと向こう脛を蹴飛ばして、シノンは一メートルほども飛び退った。
「ば、馬鹿じゃないのアンタ! その頭を跡形無くすっ飛ばしてやりたい、それだけ!」
青い火花の飛び散りそうな視線で俺を一撃して、ぐるんと振り向く。
「こんなアホに付き合ってられない。行こう、シュピーゲル。…………?」
この炸裂弾のようなお姫様を守る騎士殿は、さぞかし怒っているだろうと思って俺もシュピーゲルに視線を向けた。しかしアッシュグレーの髪を垂らした痩身の男は、俺とシノンのやり取りなど目に入らない様子で、じっとフロア中央の人波――モルターレが去っていった方を見ていた。
「ねえ……ちょっと」
シノンが腕を突付くと、シュピーゲルはハッと顔を上げた。
「あ……な、何?」
「行くよ。ちょっとでも、次の対戦相手の試合を見ておかないと」
「う、うん、そうだね」
もう俺には目もくれず、シノンはすたすたとマルチモニターに向かって歩き始めた。シュピーゲルは一瞬俺に目を向けてから後を追った。
「やれやれ……」
俺はため息をつき、壁に背をつけてずるずると座り込んだ。
何を考えていいのかすらも分からなかった。ここで聞くはずのない名前を聞いたショックが、未だに思考を妨げている。
これは一体何なのだ。何かの罠……俺を呼び寄せる陰謀なのだろうか? 黒マントが《死銃》で、俺の命を狙っている……? 復讐のために……?
そんな訳はない。あの菊岡が、ケチな計画の片棒を担ぐはずはないし、そもそも仮想世界で人を殺す力なぞ存在しないというのが俺の結論だったのではなかったか。
第一、黒マントが死銃だと決まったわけでもない。依然として、恐るべき殺気を隠し持つ少女シノンがそうである可能性は残されているし、大会に出ていないとは言え、どこか底の見えない男シュピーゲルが死銃だという可能性だってある。疑いだせばキリがない。出くわす奴出くわす奴すべてが怪しく思える。
いや――それだけではない。
抱えた膝の間でどこか狂おしい笑みを浮かべながら、俺は熱に浮かされたように考えた。
実は、忘れたはずの過去に捕われた俺が、アミュスフィアを被るたびに第二の人格に取って代わられ、この世界にやってきて、殺人者が身に付けるという「本当の力」とやらでプレイヤーを殺している――という可能性だって有り得ないわけじゃない!
軽やかな効果音に顔を上げると、目の前に、二回戦の開始を告げるウインドウが出現していた。転送カウントがカシャカシャと減少していく。
俺はふらりと立ち上がると、思考そのものを放棄し、意識を戦闘モードへと切り替えた。
今はただ戦うだけだ。戦い、勝ちつづけるうちに、おのずと真実が姿を現すだろう。結局、VRMMOワールドで何かを得ようと思ったら、戦うしかないのだ。
カウントダウンがゼロになった。再び青い転送光が足元が伸び上がって、俺を未知の戦場へと誘っていった。
(第四章 終)
SAO3_06_Unicode.txt
第五章 「死を呼ぶ銃」
「ムカつく!」ガツン!「……あの男!」
スニーカーのつま先でブランコの鉄柱を蹴り飛ばしながら、詩乃は吐き捨てた。
自宅のアパートから程近い、小さな公園の片隅。すでに空は紺色が濃くなり、またそもそも遊具ふたつに砂場がひとつの公園とは名ばかりの場所ゆえに、日曜ではあるが子供の姿は無い。
立ったままの詩乃の隣で、ブランコの片方に腰掛けた新川恭二が目を丸くした。
「……め、珍しいね、朝田さんがそんな……ストレートなこと言うの」
「だってさ……」
黒のジャンパースカートのポケットに両手をずぼっと突っ込み、鉄柱に背中を預けて、詩乃は唇をとがらせる。
「……傲慢で、皮肉屋で、セクハラやろーで、だいたいGGOに来てまで剣で闘わなくてもいいじゃないのよまったく……」
ブツブツと「あの男」に対する怒りを口にするたび、足元の砂利を一つずつ蹴飛ばす。
「その上最初は女の子のフリして、私に店を案内させたり装備選ばせたりしたのよ! 危くお金まで貸しちゃうところだったわよ。あ~~もう、アイツにパーソナルカードまで渡しちゃったし……」
ふと言葉を切って隣を見下ろすと、恭二は驚いたような気がかりなような微妙な顔をしていた。
「……なに? 新川君」
「いや……珍しいって言うか、初めてだから……朝田さんが、他人のことをそんなに色々言うの……」
「え……そう?」
「うん。朝田さん、普段は……人にぜんぜん興味ないって感じだから……」
「…………」
言われてみればそうかも知れない、と思う。そもそも人と積極的に関わろうとすることなど皆無だし、否応無くちょっかいを出してくる相手――遠藤たちのような――についても、煩わしいとは思うが、それ以上の感情を持つのはエネルギーの無駄と考えている。
そもそも詩乃は自分の問題だけで手一杯で、他人のことを考えている余裕はない。――のであるが、あの男ことキリトは妙に詩乃の癇に障り、初接触から24時間以上が経過した今でも意識の何割かを占領し続けている。
だがそれも当然と言えば当然だ。GGOであれほど挑発的な態度を取られたのははじめてだし、一回戦後のインターバルタイムにいきなり髪を触られたときは、C4プラスチック爆薬のごとく激発すると同時に深く動転してしまって、その後の二回戦では着弾予測円が定まらずに狙撃弾を二発も外した。
「……私、怒りっぽいのよ、これでも」
つま先が届く範囲内の、最後の小石を思い切り蹴り飛ばしながら、詩乃は呟いた。
「ふうん……そうなんだ」
恭二はなおもじっと詩乃を見ていたが、やがて何かを思いついたように目を見開き、勢い込んで言った。
「じゃあさ……どっかフィールドで待ち伏せて狩る? 狙撃がよければ僕囮やるし、あ、でもやっぱり恨み晴らすなら正面戦闘がいいよね。腕のいいマシンガンナー、2、3人ならすぐに集められるよ。それとも、ビームスタナー使ってMPKするのもいいかも」
詩乃は少々呆気に取られてぱちぱちと瞬きした。あれこれとPKプランを捲し立てる恭二の言葉を、右手を少し上げてどうにか遮る。
「え、えっと……ううん、そういうんじゃないの。何て言うか……ムカつくけど、戦い方だけは馬鹿正直な奴だからさ。私も、公平な条件で、堂々とぶっとばしてやりたいのよ。そりゃ昨日は負けたけど……あれでアイツの戦法もわかったし、幸いリベンジのチャンスもあるしね」
スカートのポケットから携帯を引っ張り出し、時刻を確認する。
「あと3時間でBoB本大会だわ。その舞台で、今度こそ頭に風穴開けてやるんだ」
右手の人差し指をまっすぐ夕闇の彼方に向ける。照準線の先に、昇り始めた赤い月を捉える。
昨夜の、バレット・オブ・バレッツ予選トーナメントKブロック決勝。詩乃/シノンの前に現われたのは、意外にも初心者のはずの――しかし心のどこかではそう予感していたとおり――あの男、キリトだった。
詩乃は一回戦から準決勝までを、すべてヘカートIIの一撃のみで勝ち進んでいた。敵との距離が最短200メートル、最大でも500メートルという開始条件は、千以上のロングレンジを得意とするスナイパーにとっては圧倒的に不利だが、その一方で距離が近ければ対物ライフルの威力は飛躍的に増加する。
200メートルあれば、接近する敵を発見・照準し、どんなボディアーマーでも防護フィールドでも防御不可能の必殺弾を叩き込む自信はあった。――二回戦だけは、目の前に迫った敵を三発目でどうにか撃破したわけであるが。
ゆえに、メインアームに常識外のフォトンソードを装備し、サブにはハンドガンしか持たない超近距離仕様のキリトとの決勝戦は、それまでのどの戦いよりも楽勝となる、はずだったのだ。
乱数決定されたバトルフィールドは「旧市街地G」、前文明のビル街の遺跡だった。障害物が多数林立する、狙撃には不利な地形だったが、幸いフィールドの真ん中を巨大なハイウェイが貫いていた。
シノンは視界に敵の姿が無いことを確認すると、即座に長い階段を駆け上り、ハイウェイに出た。広い道の両側は背の高いフェンスに囲まれ、登ってくるには一つ存在するジャンクションか、二つの非常階段のいずれかを使うしかない。シノンはハイウェイの一方、不可視障壁にさえぎられたギリギリの端で伏射姿勢を取った。その場所からなら、三つの入り口のどこからキリトが登ってこようとも、即座に狙撃できるはずだった。
だが、キリトは予想外の場所から攻撃を仕掛けてきた。
ハイウェイの左側、相当に離れた背の高いビルの屋上からすさまじい距離のジャンプを敢行し、伏せるシノンに向かって、ダメージ覚悟で落下してきたのだ。あれには完全に裏をかかれた。
だがキリトもひとつミスをした。GGO世界の空は常に黄色い薄雲に覆われているために、太陽の位置を確認し忘れるのだ。キリトが選んだビルの背後に太陽があり、小さな影が一瞬だけハイウェイの路面に流れたのをシノンは見逃さなかった。
咄嗟に膝立ちになり、シノンはヘカートIIを空に向けた。その時点でキリトはかなり肉薄しており、シノンが気付いたとみるや左手のファイブセブンで牽制してきた。一発が左足に命中したが、シノンは微動だにせず、照準に黒い姿を捉えた。
その瞬間勝利を確信した。飛翔中は軌道を変えるすべがない。ライフル弾を回避することは不可能だ。
グリーンの着弾予測円は、シノンの過剰な気負いのせいかピンポイントまでには収縮しなかったが、それでもすべてキリトの胸部中央に収まった。シノンはトリガーを絞り、獰猛な女神は轟音とともに致命的な一弾を吐き出した。
だが。
同時に右手の光剣を展開したキリトは、そのエネルギーの刃を右下から左上におそるべき速度で払い――こともあろうに、音速を遥かに超える50口径BMG弾を真っ二つに切り飛ばしたのだった。シノンの目には、左右に分かれて空しく飛んでいく光の欠片がはっきりと見えた。
歯を食い縛り、次弾を装填し終わったその時には、キリトは地響きを立ててすぐ眼前に着地していた。アスファルトがびしびしとひび割れ、あの男も相当のダメージを受けたはずだったが、それをまるで顔に出さずに左手でヘカートの銃口を弾き、同時に右手のフォトンソードをシノンの首筋へ――
そこでぴたりと動きを止めた。
シノンは掠れた声で言った。「……何のつもり。さっさと斬ったら」
キリトは冷静な声で答えた。「ご免、女の子は斬らないんだ。リザインしてくれないかな」
「~~~~~~!!」
思い出しただけで昨夜の屈辱がリアルに再生され、更に石ころを蹴っ飛ばそうと足元を見渡したが、残念ながらもう全部遠くの植え込みへと移動してしまったあとだった。かわりに踵で、背後の鉄柱を思い切り蹴り付ける。
「……覚えてなさいよ、ぜーったいにクツジョク二倍返しにしてやるから……」
ふうふうと鼻息を荒くしていると、恭二が立ち上がり、なおも気がかりそうに眉を寄せながら詩乃の顔を覗き込んだ。
「……な、なに?」
「その……大丈夫なの? そんなことして……」
恭二の視線が詩乃の右手に落ちる。見ると、握った拳から人差し指と親指がぴんと伸び、無意識のうちに拳銃を模した形を作っていた。
「あ……」
慌てて手を開く。確かに、いつもなら、そんな仕草によって「銃」を意識した途端に動悸がはね上がっているところだ。だが今は、不思議にその気配はなかった。
「う、うん。なんか……怒ってるからかな、平気だった」
「そう……」
恭二は顔を上げ、じっと詩乃の目を見た。不意に両手を伸ばし、詩乃の右手を包み込む。温かく、わずかに汗ばんだ手のひらの感触に、詩乃はおもわずぎゅっと肩を縮め、うつむいた。
「ど……どうしたの、新川君……急に……」
「なんだか……心配で……。朝田さんが、いつもの朝田さんらしくないから……。その……ぼ、僕にできることあったら、何でもしてあげたいんだ。本大会は、モニタ越しの応援しかできないけど……その他にも、できること、あったら……って……」
詩乃は一瞬だけちらりと視線を恭二に向けた。線の細いナイーブそうな顔立ちの中で、両の瞳だけが、内側の感情を持て余すように熱く光っている。
「い……いつもの私、って言われても……」
普段の自分がどんなふうなのか咄嗟に想起できず、詩乃は呟いた。すると、恭二は両手に力を入れ、熱っぽく言葉を並べた。
「朝田さんて、いつもクールで……超然としててさ、何にも動じないで……僕と同じ目に合ってるのに、僕みたいに学校から逃げたりしないしさ……強いんだよ、すっごく。朝田さんのそういう強いとこ、ずっと、憧れてたんだ。僕の……理想なんだ、朝田さんは」
恭二の熱気に気圧され、詩乃は体を引こうとしたが、背中に当たるブランコの鉄柱がそうさせなかった。
「で、でも……強くなんかないよ、私。君も知ってるでしょう……銃とか、見ただけで、発作が……」
「シノンは違うじゃない」
恭二が更に半歩踏み出してくる。
「シノンは、あんな凄い銃を自在に操ってさ……GGOでももう、最強プレイヤーの一人じゃない。僕、あれが朝田さんの本当の姿だと思うな。きっと、いつか、現実の朝田さんもああなれるよ。だから……心配なんだ。あんな男のことで、怒ったり、動揺してる朝田さんを見ると。僕が……僕が、力になるから……」
――でもね、新川君。
詩乃は心の中で呟いた。
――私だって、ずっと、ずーっと昔には、普通に泣いたり笑ったりしてたんだよ。なりたくて、「今の私」になったわけじゃないんだよ。
確かに、現実でもシノンのようになりたい、というのは詩乃の切なる願いだった。しかし、それは銃への恐怖を乗り越えるという意味においてであり、感情を捨てた氷の機械人形になりたいということではない、はずだった。
多分……たぶん、心の底では、もっと普通に……大勢の友達と笑ったり、騒いだりしたいと思っているのかもしれなかった。それゆえに、グロッケンの街角で道に迷った少女を見かけたとき、普段のシノンからは考えられないほどあれこれと世話を焼いたし、ソレが男だったと知って怒りもしたのだ。
恭二の気持ちは素直に嬉しい。嬉しいが、どこか気持ちの照準がずれているように思えた。
――私が……私が、欲しいのは……
「朝田さん……」
不意に耳もとで囁かれ、詩乃は目を見開いた。いつの間にか、背後の鉄柱ごと恭二の両腕に包まれていた。
無人の公園はほとんど闇に落ちているが、葉の落ちた街路樹の向こうの道には人通りがある。今の詩乃と恭二を見れば、誰しも恋人同士としか思うまい。
そう考えた途端、詩乃は両手でぐいっと恭二の体を押し返していた。
「…………」
恭二が傷ついたような瞳で詩乃を見た。ハッとして、慌てて言い訳をする。
「ご、ごめんね。そう言ってくれるのは、すごく嬉しいし……君のことは、この街でたった一人、心が通じ合える人だと思ってる。でもね……今はまだ、そういう気になれないんだ。私の問題は、私が戦わないと解決しない、って思うから……」
「……そう……」
寂しそうにうつむく恭二を見て、罪悪感が胸に満ちる。
恭二は、詩乃の過去――あの事件のことを知っているはずだ。彼が不登校となる前に、遠藤たちが全校に喧伝してくれたのだから。それを知ってなお、こんな自分に心を寄せてくれるのなら、それに応え、すべてを差し出すべきなのだろうか、と思わないでもない。恭二が失望し、離れていけば、それは相当の寂しさをもたらすだろうとも感じる。
しかし、なぜか意識の片隅にあの男、キリトの顔がよぎる。あの過剰なまでの自信。己の強さに対する絶対の確信。彼と戦い、勝つために、自分ひとりの強さ、力のすべてをぎりぎりまで絞りつくしてみたい。
そう――今はただ、心を覆い包む恐怖の記憶、その硬く黒い殻を打ち破って自由になりたい。望むのはそれだけだ。その為に、黄昏の荒野で戦い、勝利する。
「だから……それまで、待ってくれる?」
ごくかすかな声で囁くと、恭二は無言のままさまざまな感情の渦巻く瞳で詩乃を凝視したが、やがてこくりと頷き、微笑んだ。ありがとう、と唇だけで呟き、詩乃も笑った。
公園から出たところで恭二と別れ、詩乃は自宅へと急いだ。途中のコンビニエンスストアでミネラルウォーターと、夕食がわりのアロエ入りヨーグルトを買い求める。普段から食事は可能な限りバランスのとれたメニューを自炊するよう心がけているが、三時間を超えるほどのロングダイブ前にあまりしっかりと胃にものを入れるのはいくつかの理由によって望ましいことではない。
かさかさ音を立てる小さな袋を片手に階段を駆け上がり、部屋に入る。ロックノブを回すのももどかしくキッチンを横切って、奥の六畳間へ。壁の時計にちらりと目を走らせる。
BoB本大会が開始される午後九時までにはまだしばらく間があったが、なるべく早くログインし、装備・弾薬の点検と精神集中にたっぷりと時間を費やすつもりだった。
手早くデニム地のジャンパースカートとコットンシャツを脱ぎ、ハンガーに掛ける。上の下着も外して隅のカゴに放り込み、床上にわだかまる冷気に体を縮めながら、タンクトップにだぶっとしたトレーナー、ショートパンツの楽な格好に着替える。
控えめな温度に設定されたエアコンと、加湿器のスイッチを入れると、詩乃はほっと息をつき、ベッドに腰を落とした。コンビニの袋からペットボトルを取り出し、キャップを捻って、冷たい水を少しずつ口に含む。
アミュスフィアの感覚信号インタラプト機能によって、ダイブ中は現実環境からの干渉をほぼ99パーセント排除することができるが、それでも快適なゲームプレイを維持するためには色々とノウハウが必要なことを詩乃は経験から学んでいた。ダイブ前の食事を控え、トイレを済ませておくことは勿論、気温と湿度に気をつけ、ストレスのない服装を心がけることも重要だ。いちど、夏の盛りに、きんきんに冷えた水をがぶ飲みしてからログインしたときは、ニュートラルフィールドでの戦闘中に猛烈な腹痛に見舞われて、異常信号を検知したアミュスフィアによる緊急カットオフの憂き目に遭った。もちろん、おなかをなだめて再度ダイブした時にはすでに死亡のうえ街に転送されていた。
コアなVRMMOゲーマーで、かつ金銭的に相当の余裕がある者は、完全な感覚遮断ダイブを求めて個人用のアイソレーション・タンクを導入したりもするらしい。リラクゼーション施設を兼ねるような高級ネットカフェにはすでにタンクを備えているところも出始めており、詩乃は先月、恭二に「代金はオゴるから」と誘われてその種の店に行ってみたことがある。
ログイン用の部屋は完全な個室で、備え付けのシャワーを浴びたあと、全裸のまま面積の半分を占めるカプセルに入るという手順になっていた。カプセル内部は意外に広く、40センチほどの深さで、比重を調節されたぬめりのある液体が満たされていた。
横たわると体がぷかりと浮かび、首を支えるジェル素材のヘッドレストもほとんど接触感が無かった。壁に掛かっていたアミュスフィアを装着し、重いハッチを占めると、タンク内部は完全な闇と静寂に包まれた。
実のところ、その空間に浮遊しているだけでも充分に興味ぶかい体験だったのだが、GGOで恭二と待ち合わせていたのでそうも行かず、詩乃はVR空間にログインした。
入ってみて驚いたのだが、確かに普段よりも、仮想世界から与えられる五感の情報がわずかにクリアなような気がした。身体感覚が極限まで低下しているので、「インタラプト漏れ」するノイズが無いせいだと恭二は言ったが、理屈はともかく、砂を踏む敵のブーツが立てる音まで聞き取れそうなその感覚は確かに高い料金に見合うだけのことはあるかもしれない、と思ったものだ。
しかし、同時に詩乃はある種の、言葉にしにくい不安を感じていた。
完全に現実の肉体から切り離されることで、逆に向こうのカラダが気になる――とでも言おうか。VRワールドへのダイブ中は、現実の自分は一切の知覚を失って人形のように横たわっているだけであるという事実がもたらす、ごくわずかな危惧をあのタンクは増幅したのだ。
もちろん、「プロトタイプ」「悪魔の機械」ことかのナーヴギアに比べれば、アミュスフィアは過剰なまでの安全対策が施してある。感覚インタラプトもあえて100%には設定されていないし(だからこそアイソレーションタンクが有効なのだが)、音・光・振動その他の刺激によって容易にセーフティが作動し、使用者を現実へと放り返す。
それでも、基本的にダイブ中の肉体は無防備だ。ある意味では睡眠中と大差ないのだが、アイソレーションタンクからログインした時の詩乃は、どうしても首筋にちりちり弾ける不安感を振り払うことができなかった。結論としては、たとえ漏れてくるノイズが少々あろうとも、世界で唯一安心できる場所――自分のちいさな部屋からダイブするのがいちばんだ、ということに落ち着いた。
とりとめのない思考を彷徨わせながら、小さなスプーンを動かしているとヨーグルトのカップはすぐに空になってしまった。シンクでざっと洗って燃えないゴミの袋に放り込む。ユニットバスで歯を磨き、ついでにもうひとつの用事も済ませ、手と顔を洗って部屋に戻る。
「――よし!」
ぴたん、と両頬を叩き、詩乃はベッドにぽーんと転がった。携帯の着信はシェル点滅だけモードにしてあるし、ドアとアルミサッシの鍵も掛けたし、月曜締め切りの宿題も昼間に片付けてある。現実世界のアレコレをとりあえず脳から排除する用意は万端だ。
アミュスフィアを装着し、壁のスイッチに触れて照明を落とす。薄い闇の色に変化した天井に、倒すべき敵の顔が次々に浮かんでは消える。
最後に現われたのは、艶やかな黒髪と紅い唇を持つあの少年――キリトの姿だった。左手にハンドガン、右手にフォトンソードを下げ、片頬に不敵な笑みを浮かべてまっすぐこちらを見ている。
詩乃のからだの奥底に、ポッと闘志の火が灯った。たぶんあの男こそが、殺戮の荒野で捜し求めた最強の敵だ。詩乃に、忌まわしい過去を打ち破る力を与えてくれる、ある意味では――最後の希望。
全力で戦う。そして絶対に倒す。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出して、詩乃は目を閉じた。魂をシフトさせるためのキーワードを唱える自分の声は、いつになく強く、はっきりと響いた。
体に対して水平方向にかかっていた重力がふっと消滅し、わずかな浮遊感、次いで天地がぐるんと90度回転してつま先が硬質な床を叩いた。シノンはそっとまぶたを開けた。
真っ先に目に入ったのは、星のない夜空に尾を引いて流れていく巨大な真紅のネオンサインだった。『The Bullet of Bullets!! the ultimate battle royal!!』という立体文字列が、ビルの谷間を埋めつくしている。
グロッケン中央大通りの北端、総督府前の広場にシノンは出現していた。いつもはあまり人影のないエリアなのだが、今日に限っては無数のプレイヤー達が詰め掛けて、飲み物食べ物を手に大騒ぎしている。それも当然、もうすぐ始まるBoB本大会をネタにしたトトカルチョのせいで、今この広場ではGGO内に存在する通貨の半分以上が飛び交っているのだ。
倍率が表示されたホロウインドウを掲げた胴元や、怪しげな極秘情報を売る予想屋のまわりには大勢のプレイヤーが詰め掛けて口々に喚き声を上げている。ふと気になって手近なウインドウに近づき、見上げると、シノンのオッズはかなりの高倍率だった。やはり、昨日の予選決勝で敗退したのが原因だろう。ならばと思ってキリトの名前を探すと、こちらも相当の大穴っぷりだ。
ふん、と鼻を鳴らしてから、いっそ全財産を自分に賭けてやろうかとシノンは思ったが、目的意識の純度が鈍るような気がしてそのままきびすを返し、人込みから離れた。早めにカーゴルームに入り、精神を静めておこうと総督府の建物に向かって歩きはじめたところで、背後から声をかけられた。
「シノン!」
振り向くと、シュピーゲルが手を振りながら駆け寄ってくるところだった。モノトーンのファティーグに身を固めた長身痩躯の男は、興奮のせいかわずかに顔を紅潮させていた。
「遅かったじゃない、心配したよ。……? どうか、したの?」
シノンがかすかに笑みを浮かべたのに気付いて、シュピーゲルは首をかしげた。
「ううん、何でもない。……ついさっきリアルで会ってた人と、すぐにこっちで顔を合わせるのって何だか妙な感じだな、と思っただけ」
「……そりゃあ、現実の僕はこのバーチャル体ほどカッコよくないけどさ。そんなことより、どう、勝算は。作戦とか、あるの?」
「勝算、って言われても……がんばるだけ、としか言えないよ。基本的には索敵・狙撃・移動の繰り返しだと思うけど」
「そりゃ、そうか。でも……信じてるよ、絶対シノンが優勝するって」
「ん、ありがと。君は、これからどうするの?」
「うーん……どこか酒場で中継を見ようと思ってるけど……」
「じゃあ、終わったあとその酒場で祝杯か自棄酒に付き合ってね」
もういちど僅かに微笑みながらシノンが言うと、シュピーゲルは一瞬うつむき、すぐに顔を上げた。どこか切迫したようなその表情に、シノンはぱちくりと瞬きする。
「シノン……ううん、朝田さん」
VR世界でプレイヤー本人の名を呼ぶことがどれほどのタブーなのか知らないはずのないシュピーゲルの言葉に、シノンは今度こそ仰天した。
「な……なに……?」
「さっきの言葉、信じていいんだよね?」
「さっきの、って……」
「待ってて、って言ったよね……? 朝田さんが、自分の強さを確信できたら、その時は、ぼ……僕と……」
「い、いきなり何言い出すの」
かあっと頬が熱くなるのを感じながら、シノンはマフラーの奥に顔を埋めた。だがシュピーゲルは一歩踏み出し、ぐっとシノンの右手首を握った。
「僕……僕、ほんとに朝田さんのことが……」
「ごめん、今はやめて」
少し強い口調で言い、シノンは首を振った。
「今は大会に集中したいの。……でも、嘘を言ったつもりはないよ。多分……たぶんだけど、この大会に優勝できたら……私……」
「……そっか、そうだよね……」
シュピーゲルの手が離れた。
「でも、僕、信じてるから。信じて、待ってるから」
「う、うん。……じゃあ、私、そろそろ準備があるから……行くね」
これ以上シュピーゲルと話していると、大会まで動揺を引き摺りそうな気がして、シノンは体を引いた。
「頑張って。応援してる」
尚も熱っぽく言葉を続けるシュピーゲルに頷きかけ、小さく微笑んでから、くるりと振り向く。総督府のエントランス目指して早足に歩くあいだも、シノンはずっと背中に燃えるような視線を感じていた。
ガラスのゲートをくぐり、打って変わって人気のない建物内に入ると、ようやく肩から力が抜けた。
自分の態度が思わせぶりだったのだろうか、とエレベーターに向かいながら考える。
恭二に好意を持っているのは確かなことだ――と思う。だが正直なところ、今は自分のことだけで手一杯すぎる。
父親の記憶がない詩乃にとって、もっとも強い印象を残す男性というのはすなわち――事あるごとに甦り、発作を誘発する「あの顔」だ。底なし沼のように光のない眼が、周囲の暗闇のいたるところに潜み、詩乃を見ている。
普通の女の子と同じように、彼氏を作って毎晩電話したり、週末に遊びに行ったりすることに憧れる気持ちも無いではない。しかし、今のまま恭二と付き合えば、いつか彼の中に「あの眼」を見てしまうかもしれない。それが恐い。
もし、記憶を呼び覚ますトリガーである「銃」に加え、単に「男性」を見ることでも発作が起きるようになったら――その時は、生活することすら困難になってしまうだろう……
ウイン、という音に顔を上げると、いつの間にかエレベータは地下20階、待機ホールへと到着していた。今は何も考えず、目の前の闘いに集中しよう、そう自分に言い聞かせながら、シノンは勢いよく足を踏み出した。
地上の広場とは逆に、大きなドームにはほとんど人影は無かった。今ここにいるのは、BoB本大会の出場者とその連れだけだ。それも、大半の出場者はまだ到着していないか、すでにカーゴルームに入っていると見えて、中央にわずか10人ほどの姿が見えるだけだった。
シノンがブーツを鳴らしてドーム中央の参加登録コンソールに近寄っていくと、男たちが無言のまま鋭い視線を向けてきた。うち数人とは顔見知りだったが、さすがに殺気立っているのか声を掛けてくる者はいない。
無意識のうちに視線を走らせて黒衣の少年キリトの姿を捜したが、見当たらなかった。開始前に、あの憎たらしい顔に勝利宣言を叩きつけて闘志を掻き立てておこうと思ったのに、残念――などと考えている自分に気付き、眉をしかめる。
待っているのもシャクだったし、とっとと装備の点検をはじめることにして、シノンはコンソールの前に立った。参加登録、と言ってもスキャナに手のひらを押し当てるだけだ。
グリーンの光が一瞬右手を照らすと、目の前にカーゴルームに移動するかどうかを問うウインドウが表示された。イエスボタンに触れると、体を青いライトエフェクトが包み、周囲の光景を消し去った。
出現したのは、黒い金属に囲まれた小さな個室だった。部屋の右側にベンチ。右側にはロッカーが並んでいる。と言っても、実際のアイテム操作は正面に設置されたパネルで行う。
時刻を確認すると、大会開始までにはあと30分近く残されていた。とりあえずパネルに指を走らせ、分身たるヘカートIIを実体化させる。続いて、サブアームのMP7を取り出し、それぞれの弾倉を引き抜いてきちんと装弾されているのを確認する。
スペアマガジンと双眼鏡その他の必需品を装備し、ボディアーマーを身に付けると、所持限界重量はたちまち一杯になった。とりあえず準備はこれで完了だ。
ずしりと重い巨大なライフルを両手で抱き、シノンはベンチに腰を下ろした。まぶたを閉じ、銃身に頬を押し当てると、ひんやりとした硬さが伝わり、頭の芯を冷やしていく。
長い、長い待ち時間が過ぎ去り、ついに大会の開始を予告する人工ボイスが狭い部屋に響き渡るまで、シノンはぴくりとも身動きしなかった。
甘い女性の声が100秒のカウントダウンを行う間も、シノンはずっと目を閉じていた。数字がゼロに近づくにつれ、耳もとで転送エフェクトの唸りが高まっていく。
『2……1……レディ…………ゴゥ!』
ふっと体の下からベンチの感触が消え、一瞬ののち、ざしっと音を立ててブーツが乾いた地面を噛んだ。シノンは眼を見開いた。
夕陽に赤く燃え上がる荒野が、どこまでも無限に広がっていた。
噛み締めた歯のすきまから、細く長く、息を吸い込む。冷たい空気が仮想の体を満たしたところで、同じだけの時間をかけて吐き出す。
そのゆったりとしたリズムに同期して、グリーンの着弾予測円も収縮と拡大を繰り返す。
スコープの中では、ひとりのプレイヤーがうずくまり、潅木の茂みの中をじわじわと移動していた。両手で抱えているのはホウワ89式小銃、サブアームの類がほとんど見当たらず、また全身がやけにごつごつと膨れているところを見ると、武器の重量を最低限に収めて替わりに防護フィールドとボディアーマーに所持容量を注いだ防御型のプレイヤーだろう。頭にもフェイスガードつきの分厚いヘルメットを装着し、まるで巨大な陸亀のようだ。
1200メートル以上の距離があるこの状況では、いかなヘカートIIと言えどもアーマーを貫通して致命的ダメージを与えるのは難しいと思われた。立て続けに二発命中させられれば話は別だが、敵も素人ではない。狙撃されれば即座に遮蔽物の陰に姿を消し、しばらく出てこないだろう。再び頭を出すのを悠長に待っていれば、初弾の発射音を聞きつけたほかのプレイヤーがわらわら寄ってきてマシンガンで蜂の巣にされるのは必至だ。
シノンは大きな岩と低木の間に腹ばいになり、銃爪に指を掛けたまま、こっちに来い、と念じた。距離が800を割れば、装甲が薄く被ダメージ修正も高い顔面に一撃見舞って、ステージから退場させてやる自信があった。
しかしテレパシーは届かず、男は体の向きを変えて徐々に遠ざかっていく。ご丁寧に背中もきっちりと装甲されており、隙はない。残念ながらこのターゲットは諦めて、次の敵が近づいてくるのを待ったほうが良さそうだ――と思い、スコープから右目を外そうとしたところで、男の右腰にぶらさがった丸いものにシノンは気付いた。
ハンドグレネードだ。それも二個。サブアームを持たないかわりのお守りだろう。確かに、掩蔽物の多いフィールドでの超近距離戦では頼りになる代物だが、ゲームにおける安価で有効なアイテムの常としてちょっとしたデメリットが仕掛けてある。シノンは再び全身を緊張させ、右目を細めた。
今まで男の背にポイントしていた照準を、少し右下に下げる。ゆらゆら揺れる楕円形の金属球を十字の中央に捉える。
息を吸う。吐き出す。もう一度吸い――ぐっ、と止める。
すべての雑念が消滅し、腕の中の鋼鉄と存在が一体化したその瞬間、予測円がぐうっと凝集してピンポイントの光点となった。意識せず指が動き、トリガーを絞った。
全身を叩く衝撃。マズルフラッシュによって一瞬視界が白く染まる。それはすぐに回復し、色彩を取り戻したスコープの中で、男の右腰にぶら下がったグレネードのひとつがパッと弾けた。シノンは銃から顔を離した。
遥か遠く離れた丘の中腹でオレンジ色の炎が一瞬噴き上げ、すぐに赤黒い煙がもうもうと巻き起こった。数秒遅れて遠雷のような爆発音が訪れる。確認するまでもなく、男のHPバーは跡形もなく消滅していることだろう。
その時にはもうシノンは立ち上がり、右肩にヘカートIIを背負っていた。発射音によって位置が露見してしまうため、スナイパーにとって最も危険なのは狙撃直後からの数十秒だ。素早く左右に眼を走らせながら、あらかじめ決めてあったルートを一目散にダッシュする。
周囲にはびっしりと潅木が密生し、また付近のプレイヤーの眼は派手な爆発に奪われるだろうから発見される可能性は低い、と頭では分かっていても足をゆるめる気にはならない。一分以上走りつづけ、ようやく辿り付いた巨大な枯れ木の根元にうずくまって、ふうっと一息つく。顔を上げると、厚い雲の隙間で、血の色の太陽がその下端をゆっくりと地平線に沈めようとしていた。
バレット・オブ・バレッツ本大会の開始から三十数分が経過し、シノンは二人のプレイヤーを狙撃によって仕留めていた。ウインドウを出して特設欄を確認すると、残り人数は二十一人に減少している。すでに九人が退場している計算だが、前大会と比べるとペースが遅い。
だが考えてみればそれも当然と言えた。前回の舞台は「市街地M」、障害物は多かったがフィールド自体は2キロメートル四方と狭く、頻繁に遭遇が発生した。しかし今回選ばれたのは「荒野S」であり、山あり谷あり川あり森ありの地形が10キロ四方にも渡って続いているのだ。南西の一角には小さな村さえ存在する規模で、敵を発見するのも一苦労である。
シノンは更に指先を動かしてマップを表示させ、周囲の地形を頭に叩き込んでからウインドウを消去した。
腰の後ろのポーチから小型の双眼鏡を取り出し、視界に入る範囲内をつぶさに眺めていく。
シノンが現在身を隠しているのは、四角いフィールドの北東に広がる丘陵エリアの一角だ。さらに北と東にはもう他のプレイヤーの姿が無いことは確認してあるので、南西方向を重点的にチェックする。
赤茶けた岩と潅木が連なる荒地は、徐々に下りながらおよそ3キロメートル続き、その先に大きな川が蛇行しながら流れている。南北に伸びる川はフィールドを左右に分断しており、橋は三箇所しか存在しない。そのうちの一つ、錆びた鋼材を組み合わせた鉄橋が、赤い川面に黒々とした影を投げかけているのが見える。
待ち伏せからのサプライズドアタックを仕掛けようとするプレイヤーにとっては、その橋は格好の目標となる。自分だったら、どこに隠れて橋を狙うか――と考えながら、こちら側の岸に沿って広がる茂みや岩陰をチェックしていく。と――
「!」
橋から50メートルほど離れた潅木の茂みに、一瞬チカリとまたたく光が見えた。距離があり、また茂みの奥はほとんど暗闇に没しているため、人の姿までは見えない。だが間違いなく、木の葉を貫いた気まぐれな夕陽を金属が弾き返した光だった。シノンは素早く中腰で立ち上がると、念のために周囲をもう一度チェックしてから双眼鏡を仕舞い、移動を開始した。
岩陰から岩陰へと伝いながら、2キロを10分弱で走破し、シノンは適当なくぼ地を見つけてしゃがみ込んだ。赤い陽光をきらきらと反射する広い川と、そこを横切る鉄橋はもう肉眼でもはっきりと見える。まだターゲットが動いていないよう祈りながら、岩の隙間からライフルを突き出し、スコープを覗く。
果たして、先刻マークしておいた茂みの下に、腹ばいになって小銃を構える男の姿がはっきりと見えた。無防備な背中を晒し、一心に橋を狙っている。爆死した亀男と比べれば装甲も薄い。
これなら、頭か背中の中央に命中すれば、一撃で仕留められる可能性も高い――と思いながら、スコープの倍率を上げようとダイヤルに手を伸ばしたところで、シノンは男の全身がぐっと緊張したのに気付いた。構えた小銃、無骨なシルエットからして M1ガーランド に頭を押し付け、射撃体勢に入る。
気付かれたか、と一瞬思ってから、すぐにそうではないことを悟ってシノンはヘカートIIを少し上向けた。
予想たがわず、鉄橋の向こう側から、匍匐前進でじりじりと這い進んでくる人影があった。こんな序盤で渡河に挑戦するとはノンキな奴もいたものだ、と少し呆れる。
川を渡る必要が生じるのはおそらく、戦況が煮詰まる終盤になってからだ。もう自分がいるエリアに敵の姿が無いか、あるいは弾を撃ち尽くして、南東の隅にあるボーナスコンテナ群もしくは南西にある村の武器屋に赴かざるを得なくなった場合にのみ、危険を冒して橋を渡ることになるのだろう――と思っていたのだが。
いったいどんな豪傑だろう、と橋の上をのろのろと進みつつあるプレイヤーに照準を合わせてから、シノンはあれっと思った。男が装備している突撃銃が、なかなかにレアであるSG550だったからだ。これはもしかして、とスコープの倍率を限界まで上げ、ヘルメットの下の顔を覗き込む。
「…………」
見覚えのある髭面は、間違いなく数日前まで所属していたスコードロンのリーダー、ダインのものだった。石橋でも渡らない慎重派だと思っていたのだが、どうやら予想外にチャレンジャーな一面もあったらしい。あるいは単純に――あまり戦略戦術ということを考えない男なのか。
やれやれ、とかすかなため息をつきながら、シノンは心の中で呟いた。
――悪いけど、あなたとガーランド男と、どちらか勝ったほうを狙撃させてもらうわね。
とりあえずは目前の遭遇戦を高みの見物と行こう、そう思ってスコープの倍率を落とし、橋のこちらがわ全体を視野に入れた、その瞬間――。
シノンは首筋に、ぞくりと冷たい戦慄が疾るのを感じた。
すぐ後ろに、誰かいる。
馬鹿! 狙撃のチャンスに夢中になって、後背の警戒を怠った! ……そう頭の奥で絶叫しながら、ヘカートIIから手を離した。バネ仕掛けのように体を180度捻りざま、左手で腰のMP7を抜く。
背後の何者かに短機関銃を突きつけるのと、目の前に黒い銃口が突き出されるのはまったく同時だった。最早回避は不可能。あとは互いのHPを削りながら、マガジンが空になるまで弾をバラ撒くしかない――と覚悟して、トリガーを引き絞ろうとしたとき。
襲撃者が、シノンの動きを留めようとするかのように素早く右手を上げ、低い声で囁いた。
「待て」
「!?」
両眼を見開き、視線の焦点を銃口から相手の顔へと移動させる。
肩の線で切りそろえられた、艶のある黒髪。夕陽を受けてなお白い肌。強烈に輝く、切れ長の黒い瞳。
左手にファイブセブンを握った仇敵キリトが、シノンに圧し掛かるように目の前に立っていた。
それを認識した途端、いつもは極地の永久氷のようにつめたいシノンの内側で、いくつかの感情が複合した炎がぱあっと弾けた。眼前の銃口を忘れ、意識せず獰猛に歯を剥き出して、左手のMP7を斉射しようとする。
だが、再びキリトが冷静な声でささやき、シノンの指にかかった重さをギリギリのところで停止させた。
「待つんだ。提案がある」
「……何を今更ッ……」
シノンはごく小さな声で、しかし燃え上がる殺気を込めて言い返した。
「この状況で提案も妥協もありえない! どちらかが死ぬ、それだけよ」
「撃つ気なら、いつでも撃てた!」
キリトの言葉の、やけに切迫した響きに、シノンは思わず口をつぐむ。まるで、銃を突き付けあったこの状況よりも重要なことが他にあるとでも言うかのようだ。
それに、悔しいが確かにキリトの言葉は真実だった。こんなゼロ距離まで接近する余裕があったのなら、いつでも背後から銃弾を打ち込むなり、光剣で斬るなりできたはずだ。
「…………」
押し黙ったシノンに向かって、キリトは更に囁いた。
「今ハデに撃ち合って、銃声を連中に聴かれたくないんだ」
キリトの視線がほんの一瞬だけシノンの背後、今まさにもうひとつの遭遇戦が発生しようとしている鉄橋に向けられる。
「……? どういう意味……」
「あの戦闘を最後まで見たい。それまで手を出さないでくれ」
「……見て、それからどうするの。あらためて撃ち合うなんて、間抜けなこと言わないでよね」
「状況にもよるが……俺はここから離れる。君を攻撃はしない」
「私が背中から狙撃するかもよ?」
「それならそれで仕方がない。諒解してくれ、もう始まる!」
キリトは気が気でないように再び鉄橋のほうを見ると、驚いたことに左手のファイブセブンを下ろした。MP7を額に擬せられた格好のまま、銃を腰のホルスターに収める。
シノンは怒りながらもほとほと呆れかえり、肩の力を抜いた。
このままトリガーにかかる指にほんの少し力を加えれば、MP7の4.6ミリ弾20発がキリトのHPをあっけなく吹き消すだろう。だが――最大の敵と見込んだこの男との戦いが、こんな不明瞭な決着を迎えるのはシノンの本意でないのも確かだった。
キリトなら、予測線なしでもヘカートIIの遠距離狙撃を回避してのけるだろう、そう予想して正面戦闘の対策もあれこれと、頭から湯気が出そうなほど考えてきたのだ。どうせなら、30人中最後のふたりになるまで勝ち残り、エネルギーの最後の一滴まで絞り尽くすような死闘を演じてみたい。
「……仕切り直せば、今度はちゃんと戦ってくれる?」
「ああ」
頷くキリトの瞳を半秒ほどじっと凝視してから、シノンは短機関銃を下ろした。まさかとは思いつつも、その途端に斬りかかってくることを警戒してトリガーから指は離さなかったが、キリトはふっと体から力を抜くとすぐさまシノンの左隣、窪地の縁に腹ばいになった。背中から双眼鏡を引っ張り出し、そそくさと目に当てる。
こちらのことなど二の次三の次と言わんがばかりのその態度に、ムカつくやら呆れるやら複雑な感情がこみ上げるが、とりあえずぐっと飲み込んでおいてシノンもMP7を左腰に戻した。再び両腕でヘカートIIを抱え、スコープに目を当てる。
鉄橋のたもとに程近いブッシュの下には、まだガーランドを構えたままの男の姿があった。橋の上をずりずりと移動しているダインは、ようやく半ばまで差し掛かったところだ。
戦闘開始までおよそあと二分、と見当をつけてから、シノンは今更のように、すぐ隣に横たわる男の意図に首をひねった。確かに情報収集は重要だが、この大会では、極論してしまえば誰が誰を倒そうと関係ないのだ。最後のひとりに勝ち残りさえすればいいのである。
勿論、参加者全員が、どこかに隠れてラスト二人になるまでやりすごそう、などと考えてはイベントにならないので、長時間一箇所に留まれないような工夫はしてある。しかしこの場合、キリトはダインとガーランド男のうち勝ったほうをシノンに狙撃させ、更に狙撃直後の隙を狙ってシノンを片付ければ一石二鳥どころか三鳥だったはずだ。危険を冒してシノンの狙撃を阻止する必要などまるでないのだ。
口をきくのも業腹だったが、増殖したクエスチョンマークがアタマのなかで踊るのに耐え切れず、シノンはスコープに目を付けたままささやいた。
「……言っちゃなんだけど、橋の上のSG550……ダインも、ブッシュで待ち伏せてる、確かザッパって名前のM1も、そう大した奴じゃない。二人とも、よくいるタイプのAGI速射型だし……一体、何を見るつもり?」
するとキリトも、双眼鏡を覗き込んだまま低い声で意外な答えを返してきた。
「気付いてないのか。あの二人だけじゃない」
「え……?」
「橋から右に50メートル……川岸の草の中だ。俺はそっちを付けてたんだ」
慌ててライフルを動かし、北――川の上流方向をつぶさに眺めていく。
川の両岸には、土手のように盛り上がった赤い裸地が続いているが、水面に向かって傾斜する部分には枯れた草がびっしりと密生し、風になびいている。
その一部に、周囲とは違う動きをする草を見つけ、シノンは目を凝らした。
「……あ……」
いた。褐色の迷彩マントに体を包み、深くフードを下ろしたプレイヤーが、橋を目指してじわじわと移動している。肩にかかるアサルトライフルは、折りたたみストックの ベレッタ SC70/90 だ。
「ベレッタ……いたかな、あんな奴」
シノンは目を細め、暗記してあるBoB本大会出場者名簿を頭の中に呼び出す。
傭兵としてあちこちのスコードロンを流れ歩いた経験によって、GGOの有力プレイヤーのうちかなりの人数を、その武装から戦術の傾向までも把握してある。が、パーティープレイをせず、ソロでダンジョンに潜る者まではチェックしきれない。今大会に関して言えば、顔と名前、戦闘スタイルが一致するのはキリトを含めても30人中20人強というところで、あの迷彩マントのベレッタ使いは記憶になかった。
肩をすくめ、視野を橋に戻そうとしたとき。キリトが思わぬことを言い、シノンを驚かせた。
「シノンは、あいつに会ったことあるよ」
「え……?」
「それも昨日さ。予選一回戦が終わった後だ。あの時は、マントの色は黒だったが」
「あ……あの、ちょっと気味の悪い……ええと、名前は……」
「モルターレ。参加登録名はアルファベットで、mortale fucileとなっていた」
キリトは《モルターレ・フチーレ》と覚束ない口調で発音した。
それで気付かなかったのか――と思いながら、シノンは昨日の記憶を呼び覚まそうとした。いくら名前をチェックしそこねたとは言え、一度会って、言葉まで交わした相手をこうしてスコープで見るまで忘れていたとは、我ながら不注意な――
「あ……あの後すぐ、アンタのハラスメントで無茶苦茶腹たったせいよ。それで忘れてたんだ」
記憶と共に怒りまで甦り、スコープから目を外して烈火のごとき視線をキリトに浴びせる。
「わ、悪かったよ。……ほら、橋の二人が接触するぞ」
「落とし前はつけるからね」
最後にじろりと一睨みしておいて、シノンは右目をスコープに戻した。
匍匐前進を続けていたダインは、ようやく鉄橋を渡り終え、砂利に覆われた土手まで到達した。伏せたままひょいっと頭をもたげ、周囲を見回す。
他人事――と言うか、ダインが撃たれようが死のうがまったく構わない立場ではあるが、それでもシノンは少しだけハラハラした。
アンタのすぐそばに二人もアンブッシュしてるのよ、何をノンキにきょろきょろと……
と心のなかで呟いたその時、さすがにPvP慣れしているのか、ダインは正面30メートルほど離れた潅木の下に伏せる敵に気付いたようだった。髭面がぐっと緊張し、両手で素早くSG550を構える。
だがやはり、初動はザッパという名のM1ガーランド使いのほうが早かった。
ブッシュの中で閃光がまたたき、立て続けに五本の火線がダインを襲った。わずかに遅れて、ガッガッガッと重い発射音がシノンの耳を叩く。
スプリングフィールドM1「ガーランド」は、主に第二次大戦で米軍の主力小銃として活躍したセミオートマチック・ライフルである。小口径高速弾を用いるアサルトライフルが歩兵携行銃の主流となる以前の時代の代物であり、でかい、重い、フルオート射撃ができない、クリップ一つで8発しか撃てないと欠点も多いが、使用する7.62×63ミリ――通称30-06弾の威力はそれを補って余りあるものがある。
装備要求STR値が少々厳しいが、速射力に優るAGI型プレイヤーとは意外に相性もいい。不意をうたれてあんなタマを何発も叩き込まれたら、生半可なアサルトライフル使いではそのまま押し切られてしまう可能性が高い。
ダインを狙った五発のうち、命中したのは三発だった。おそらくそれだけでHPを七割以上持っていかれただろう。すでに勝利を確信したか、ブッシュから大型のライフルを抱えたザッパが踊り出て、伏せたままのダインめがけて走り出した。近距離から、残る三発で止めを刺すつもりだ。
だがダインもおとなしく敗北を受け入れるつもりは無いようだった。
バック転の要領で跳ね起き、腰だめに構えたライフルから一気に十発以上をバラ撒いた。フルオート射撃のカタタタッという軽快な音とともに薬莢がつぎつぎと宙を舞い、細く鋭い光の束がザッパを迎え撃つ。
オリーブグリーンの迷彩に小太りの体を包んだザッパは、さすがにAGI型らしい素早い動きで射線を回避した。二、三発が命中したようだったが、多少たたらを踏んだだけで足は止まらない。たちまち10メートル以下の必中距離まで肉薄し、頬をぶつけるような勢いでガーランドを照準した。それを阻止するべく、ダインも550のストックを肩に当て、精密射撃姿勢を取る。
あとはもう、敵のHPを削りきるまで、己の技量と愛銃と幸運を信じて撃ちまくるだけだ。思わず手に汗を握りながら、それでも勝者にはすかさず冷酷な一弾を叩き込もうと、シノンがスコープを覗く右目を細めた――
その時だった。
正対するダインとザッパの右手方向から、突如弾丸の奔流が降り注いだ。二人は驚愕して動きを止め、首を振り向けた。だが、できたのはそれだけだった。
狙われたのはダインだった。襲い掛かった七、八発のライフル弾のすべてが次々と体の各所に命中し、髭面に驚愕の表情を貼り付けたまま、男は地面に叩きつけられて動きを止めた。手足を大の字に投げ出した体の上に、鮮やかな赤に発光する「DEAD」の文字が出現し、くるくると回転をはじめる。これでダインは舞台裏に退場、ということになり、最後の勝者が決定するまで退屈な待ち時間を過ごさなくてはならない。
シノンはライフルをわずかに右に振った。
勝負に乱入して獲物をさらったのは、やはりあの第三の男、モルターレと名乗るベレッタ使いだった。草むらから飛び出し、ザッパから20メートルほど離れた位置にライフルを構えて仁王立ちになっている。暗い色の迷彩マントの、ぼろぼろにほつれた裾が風に長くたなびき、顔は深く下ろしたフードの陰に沈んで、どうにも陰気な姿だ。
シノンはわずかに迷ったが、トリガーに掛けた指を少し緩めた。予想外の展開ではあるもののやるべき事は変わらない。今度は、ザッパとモルターレのうち生き残ったほうにヘカートIIの女神の息吹をプレゼントするだけだ。
ザッパが何か叫んだらしく、口が動いたが言葉まではわからなかった。直後、M1が咆哮し、30-06弾がモルターレを襲った。
だが、マントの男は、肩にベレッタを構えたまま宙を滑るように動き、あっさりと攻撃を回避した。と思う間もなく今度はモルターレの銃が火を噴き、一発だけ発射された5.56ミリ弾が、こちらは見事にザッパの体を捉えた。そのまま、無造作な歩調で前に歩きはじめる。
よろめいたザッパは、しかし果敢に次弾を発射した。――ものの、再びモルターレは滑らかな動きで回避。歩みも止めないまま、返礼とばかりにベレッタを撃つ。同じようにザッパの体の一部がパッと弾ける。
更にもう一度、まったく同じ光景が繰り返された。弾倉が空になったザッパが、慌てて腰に手を伸ばし、新しいクリップを掴んでガーランドに叩き込む。その間も、モルターレはするすると距離を詰め続ける。
「……あいつ、強い」
シノンは思わず呟いていた。
モルターレの動きにはまったく気負いがない。つまり至って冷静ということであり、それは着弾予測円の揺らぎが小さいということでもある。
いや――冷静というのとは少し違う。どこか生気のない……まるで、地下遺跡ダンジョンの奥に出現する不死者系クリーチャーのような気配……
装弾を終えたザッパが、再びガーランドを肩に構えた。
しかしその時には、モルターレはほとんど手の届く距離にまで達していた。
何事か喚きながら、ザッパがライフルを発射した。しかし驚くべきことに、モルターレは頭をわずかに振って至近距離からの銃弾を回避すると、手の中のベレッタを地面に投げ落とし――
左手でぐいっとガーランドの銃身を掴み、上空に向けた。同時にマントがばっと跳ね上がり、右手が素早く動いて、腰から大型のハンドガンを抜くのが見えた。
見たことのない銃だった。少なくとも、実弾系ではない。と言うことは光学銃か。
確かに、あの密着状態なら防護フィールドの効果は大幅にダウンするだろうが、それにしても対人戦オンリーのBoBに光学銃を持ち出すとは。よほど己の腕に自信があるのか。
今まで沈黙を守っていたモルターレが、フードの奥で何かを叫んだようだった。右手に握った漆黒の銃を、ザッパの顔面に突きつける。その顔が、屈辱と、諦めと――そして大きな困惑に歪んだ。
不意に、隣で、鋭く息を吸い込む気配がした。接触してはいないが、キリトの肉体がギリッと緊張したのがわかった。
訝しく思ったのも束の間――
モルターレのハンドガンが、真紅の光線を吐き出した。ほぼゼロ距離からザッパのヘルメットの額部分に命中したエネルギー弾は、まばゆい光を撒き散らし、二人を明るく照らし出した。
これで決着か、とシノンは思い、再び銃爪に掛けた人差し指を緊張させた。だが、地面に倒れダインと同じようにDEADマークをくるくるさせる、と思われたザッパは、ガーランドから手を離してよろよろと数歩後ずさっただけだった。
どうやら、HPがわずかに残っていたらしい。せっかくキメたのに、目算を間違えたねモルターレさん、とシノンはかすかに苦笑した――
「――!?」
その瞬間。
ザッパの目が、丸く見開かれた。次いで、口もOの字にぽっかりと開く。
両手がゆっくりと持ち上がり、胸の中央をぎゅうっと掴むような形になった。
直後、丸い体が限界まで反りあがった。そのまま、どうっと地面に倒れる。今度こそHPがゼロになったのか、と思ったのも束の間――ザッパの動きは止まらず、砂利の上でビクン、ビクンと跳ね回る。二度、三度、口が限界まで開けられ、悲鳴を上げているようにも見えるがここからでは聞き取れない。
「な、なに……何なの……?」
シノンが呆然と呟くのと、ほぼ同時だった。ザッパの体全体に空電のようなノイズが走ったと思うと、その姿はいきなり消滅してしまった。
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スコープを通して見た光景の意味を解しきれず、シノンは眉をひそめた。
通常GGOにおいては、HPバーがゼロになった者の体は派手なエフェクトとともに四散し、意識は即座に街のセーブポイントへと転送されてそこで蘇生することになる。
だがこのBoB本大会に於いてはその限りではなく、数十秒前に倒れたダインのように、死亡者の体と意識はDEADマークと共にその場に残り、最終的な勝者が決定するのを待たなくてはならない。例外はないはずだ。
しかし、モルターレという迷彩マント男の光学銃に撃たれたザッパは、謎の苦悶のちに消滅してしまった。考えられるのは、リアルで何らかのトラブルが発生し、アミュスフィアの強制カットオフ機構が働いた――ということだろうか。それにしても、あまりにタイミングがよすぎはしないか。まるで――モルターレの銃撃が、ゲームの枠を超えた何らかの影響をもたらした、とでも言うかのような――
「……三度続けばもう、偶然じゃない……」
隣のキリトが妙に掠れた声を漏らし、シノンを内的思考から引き戻した。
ハッと目を見開き、慌ててヘカートIIを抱えなおす。指先を緊張させ、照準にあらためてモルターレの姿を捉える。
迷彩マントの男は、賑やかな銃撃戦直後だというのにその場から遁走する様子も見せず、それどころか黒いハンドガンを高く掲げて何事か叫び続けているようだった。近接戦闘シーンは各街に中継されることが多いので、カメラに向かって自己アピールでもしているのかもしれない。実力はあるかもしれないが、軽薄な男だ。
それなら、退場シーンもついでに中継させてあげる、とシノンは胸のうちで呟いた。キリトにいちおう断っておこうと、スコープを覗いたまま囁きかける。
「もういいんでしょ。あいつ、狙撃するよ」
「あ……ま、待て。――一撃で仕留められる自信、あるか?」
「え……うーん、ちょっと距離があるから、百パーセントとは言えないけど……」
「なら、止めてくれ。奴が逆襲してくるかもしれない」
硬くこわばったキリトの声に、シノンは顔をあげると、じろりと冷たい視線を投げかけた。
「何。ビビってるの?」
キリトも眼から双眼鏡をはずし、やけに青白い顔を向けてくる。
「そうじゃない……いや、そうだな、ビビってるよ。アイツは、やばいんだ」
「はあ?」
「近づいちゃいけない。――ともかく、俺は目的を達した。ここでログアウトする。君も落ちるんだ、シノン。もう大会なんて言ってる場合じゃない。早く、あいつを止めないと……」
口早に言い募るキリトの言葉に、シノンは驚くと同時に呆れ帰った。まだ大会はほんの序盤で、倒すべき敵はたっぷり残っているのだ。そもそもこの男は、BoB本大会の基本的なルールも理解していないらしい。
「あのねえ……どういうつもりか知らないけど、できないよ、ログアウト。規約読んでないの? 参加登録するときに出たでしょ?」
「な……なに!?」
今度はキリトが驚愕の表情を浮かべた。
「できないって……どういうことだ!?」
「メインメニュー見てみれば? ボタン無いから。……あ」
狙撃の途中だったことを思い出し、急いで再びスコープを覗く。だが、視野に迷彩マント姿はすでに無かった。
舌打ちして倍率を落とす。モルターレは、ボロボロのマントの裾を風に踊らせながら、ちょうど左手方向の大きな岩の陰に消えていくところだった。その後数回、岩の隙間にちらちらとその影が見えたが、やがて完全に視界から失せてしまった。どうやら川の下流、南に向かって歩き去ったらしい。
「……あーあ、行っちゃった」
肩の力を抜いてスコープから顔を離し、アンタのせいだからね、という非難を込めた視線を隣に向ける。キリトはシステムウインドウを食い入るように見ていたが、ログアウトボタンが無いことをようやく理解したのか、ため息をつきながら手を振ってそれを消去した。
「クソ……一体どうなってんだ」
「そう言いたいのはこっちよ。……仕方ない、あと五分だけ付き合う。なんで狙撃を止めたのか納得いく説明してもらうからね」
マフラーをぐいっと引き上げ、シノンは言葉を続けた。
「BoB本大会が途中ログアウト不可なのは……上であんたも見たでしょう、トトカルチョのせいよ、主に」
「ギャンブル? それが何で?」
「第一回大会ではログアウトできたし、五分以内なら再接続もありだったの。で、出場した三十人中五人が、ある有力スコードロンのメンバーだったんだけど、そいつらが頻繁にログアウトログインを繰り返して、リアルで互いに敵の情報の交換をしたのね。武装は何かとか、どこに隠れてるかとか……。BoBはあくまで三十人が殺しあうバトルロイヤルだから、チームプレイに必須の通信機は一切使えないんだけど、一グループだけが情報交換したら有利なのは当たり前。結局その五人が最後まで勝ち残って、うち四人はそのまま落ちてタイムアウト。残ったのが五人中最低レベルの奴で、倍率的にも大穴で……しかもそのスコードロンがそいつに大金賭けてたから、トトカルチョ会場はもう大暴動よ。GGOのクレジットは現金と一緒だもんね」
「……なるほどな……」
「さすがに放任無干渉主義のザスカーも問題視したらしくて、第二回からはログアウト不可になった上、同じスコードロンに所属してるプレイヤーは予選で同一ブロックに配置されるようになったって訳。勿論、リアルでトラブってカットオフしたり、誰かに頼んでアミュスフィアを外したりしてもらえば落ちられるけど、その場合も再接続はできない。二回目の時、優勝候補のひとりだった奴がWC落ちしてトイレで泣いたってのは有名な話よ。――こんな所で、納得した?」
「ああ……非常によく分かった。まったく……規約を読み飛ばすのは悪癖だな。二度としないぞ畜生」
ごろんと体を仰向けて、キリトは頭を抱えた。そのまま、何やらブツブツと呟く。
「……現実で何かあれば落ちられる訳か……どうにかして連絡を……でも安岐さんは中継なんて見てないし……あの男は言わずもがなだし……」
「ちょっと、今度はそっちの番よ。一体アンタは何なのよ。あのモルターレって奴がどうかしたの?」
「…………」
キリトは口をつぐむと、黒く光る瞳でちらりとシノンを見た。唇が動き、乾いたささやき声が流れた。
「……死銃……《デス・ガン》の話を知ってるか」
「はあ……? です……がん……?」
たっぷり二秒半ほど戸惑ったあと、シノンはようやく記憶倉庫の片隅から曖昧な情報を引っ張り出すことに成功した。
「ああ……あの、しょうもない噂でしょ? 前に優勝したゼクシードと、あと……スジコだかカズノコだかって名前の人が姿を消したのは、GGOの中でその、死銃? って奴に撃たれてほんとに死んだからだ、っていう。馬ッ鹿馬鹿しい」
その話は、パーティープレイ中や街の酒場などで何度か耳にしたことがあった。しかし常識的に考えて、そんなことが有り得るわけがない。リアルでの様々な事情によって突然の引退を余儀なくされるプレイヤーは数多いし、ゲームとの永別を宣言しておきながらひょっこり戻ってくるプレイヤーもこれまた多い。いずれ本人が帰ってきて、あっさりと消えていく類のデマだ――と判断し、すぐに忘れてしまったのだが。
「じゃあ……なに? アンタ、あのモルターレって奴が、その死銃だ、って言うの? ……冗談だとしたらつまんないし、それとも何かの作戦のつもり……?」
唇に苦笑、視線に警戒を滲ませて、シノンはキリトを睨んだ。しかし、隣に横たわる少年は、ただただ焦燥の色を浮かべて首を振るだけだった。
「どっちでもない。本当なんだ、死銃の話は。ゼクシードと薄塩たらこの二人は現実で実際に死んでいる。死因は心不全――しかも死亡推定時刻は、GGO内で死銃に撃たれた、まさにその時間だ」
「……ええ……?」
今度こそ、シノンの理解を完全に超えた話だった。キリトの言葉の意味を、数秒かけてどうにか咀嚼する。
「死んだ……? ゼクシードが……?」
「そうだ。俺は死体の写真も、死体検案書も見た。――でも、俺だって偶然だと思ってたさ。偶然心臓発作が起きたんだとな。……さっきの、モルターレの銃撃を見るまでは。まさかと思っていた……だから……畜生、見殺しにしてしまった。昨日の時点で、怪しいのはわかっていたのに……」
キリトはぎゅっと眼をつぶると、右手で額のあたりを覆った。
「でも……だからってまだ、モルターレがその死銃だって決まったわけじゃないんでしょ……?」
「イタリア語だよ」
「え?」
「モルターレは《致命的な》。フチーレは《銃》。つまり……死銃、さ。それに、君も見たろう。奴の赤いビームに撃たれたプレイヤーが、もがき苦しんで消えたのを。VRMMOで痛みを感じることはないのに、あれだけ苦しんだということは、現実の肉体に感覚インタラプトの閾値を超えた何かが起きたんだ。――三回目はもう偶然じゃない……早く現実に戻って、あいつを止めないと……いや……待てよ」
いきなりを両眼を見開き、キリトはシノンを凝視した。
「死んだら……HPがゼロになったら、退場できるんじゃないのか!?」
「……駄目よ」
シノンはあごを動かして、先ほど戦場となった橋の方向を示す。
「見たでしょう。ザッパは消えちゃったけど、ダインの体はデッド表示が出て、死んだ場所に残ってる。大会が終わるまで、意識もあそこに繋がれたままなのよ。退屈しないように中継画面は見られるけど、動いたり喋ったりはできない」
「意識が……残る?」
「そうよ。私も前回、一時間も無様に転がってたけど、辛いよ」
「じゃあ……死体になっても、リアルの体と回線は繋がってるのか……。てことは、死銃が死体を撃つ可能性もある……?」
キリトは再び頭を抱え、聞き捨てならないことを口走った。
「クソッ、いざとなったらシノンに死んでもらえばいいと思っていたのに……」
「なっ……」
シノンは絶句し、反射的に右手でしっかりとヘカートを抱え、左手でMP7のグリップを握った。
「あんたやっぱりそのつもりでっ……!」
短機関銃を抜き、突きつけようとした――のだが、黒い電光のように伸びたキリトの右手が、シノンの左腕をがしっと掴んだ。
「この……っ」
「君を守るためだ!」
狭い窪地に並んで横たわるシノンとキリトの視線が至近距離で交錯し、鋭い火花を散らした。
「もう大会なんて言ってる場合じゃない。分かってくれ――本当の生き死にの、問題なんだ」
あくまでかすかな囁き声だが、それでもシノンはそこにびりびりと震えるほどの真剣さを感じ、思わず息を飲んだ。数瞬の静寂。
「……痛いよ、離して」
やがてシノンは目を伏せ、呟いた。実際には痛みは無いが、掴まれた左の手首が焼けるように熱い。
「わかったわよ。とりあえず……大会のことは、一時的に忘れる」
あれほど憎らしく、究極的な敵とさえ思ったキリトだが、思わぬ展開に戦意をどこか、心の隙間に落としてしまったかのようだった。今の心理状態では、望んだような死闘、激戦を繰り広げるのはとても無理な気がした。
シノンの言葉にキリトはこくりと頷くと右手を開いた。ふたたびごろんと仰向けに横たわる。
「でも……でもさ……」
まだ熱の残る手首をさすりながら、シノンはまだまだ数多く残る疑問点を改めて尋ねた。
「そんな……ゲームの中から現実のプレイヤーを殺すなんて、一体どうやって……? それに、ログアウトしてあいつを止めるって言ったけど、どうやってリアルのプレイヤーを特定するの? そもそも、あんたは一体、何者なの? なんでゼクシード達が死んだことを知ってるの?」
立て続けに質問をぶつけられ、キリトはわずかに苦笑したようだった。
「……仕組みはさっぱり分からない。だが、ナーヴ……いや、アミュスフィアが装着者に与える影響については、まだまだ未知数の部分も多い。死銃の殺気、怨念……《悪意》があまりにも大きくて、それをNERDLESシステムが何らかの形で受け取り、銃撃の対象にゲームシステムを超えたダメージを与える……心臓が止まるほどの……というようなことも、有り得ないとは言えないのかもしれない……」
「まさか、そんな……。それに、悪意って言うけど、そこまでの、ええと……サイコパス、って言うんだっけ? そういう異常な人なら、ゲームの中じゃなくて現実で」
不用意に口にした言葉によって、記憶のフラッシュバックが起こる気配を感じてシノンは体を竦ませたが、さいわい血の色の光が一瞬頭の中を過ぎっただけで済んだ。
「……?」
「な、なんでもない。……ゲームの中じゃなくて、現実で人殺しをしようと思うんじゃないの?」
「異常だからこそ、ゲームを舞台に選んでいるのかもしれない。――これは、奴をどうやってリアルで特定するのか、って質問の答えでもあるんだけど……俺は、死銃ことモルターレと、昔ほかのゲームで会っているんだ。奴はそのゲームでも、PK行為を繰り返していた。金やアイテムのためでも、経験値のためでもなく、楽しみのためだけに……。そのゲームはもう無いけど、殺しの味が忘れられずに、この世界で同じことを繰り返している……そんな印象だった。――ザスカーに問い合わせて死銃のIPを調べるのはほとんど不可能だろうけど、その昔のゲームの登録情報から、あいつの本名や住所を割り出すことは可能なはずだ」
キリトはぎりっと歯噛みをして、殆ど消え去りつつある太陽を睨んだ。
「……昨日の時点でそれをやっていれば……。どうにかして菊岡に連絡を取って、死銃の本体を押さえないと……」
「きくおか、って誰?」
「ああ……総務省の、仮想世界関連部署の役人。俺はそいつと知り合いで、この件の調査を頼まれたんだ。ゼクシードとたらこの事はそいつに聞いたんだよ」
「ふうん……。じゃあ、ゲームを遊びに来たわけじゃないんだ」
何となくいろいろと納得しながらシノンが呟くと、キリトはどこか申し訳なさそうな顔で肩をすくめた。
「まあ、な。GGOプレイヤーとしては気に食わないだろうけど」
「別に。私も……似たようなもんだし」
「え……」
「なんでもない、気にしないで。――ともかく、大会が終わるまでログアウトは不可能よ。ひょっとしてGMが今ここを見てれば、英語で必死にわめけば聞いてくれるかも……だけど、99パーセント無理ね。ザスカーはほんとにプレイヤーには不干渉だから」
「……いくら死銃に謎の力があっても、まさかアメリカの運営会社とグルってわけじゃないだろうから、ゲームのルールは超越できないはずだ。奴がとっとと他のプレイヤーに負けてDEAD状態になるのが次善なんだけどな……」
「期待できないわね。あいつ、ものすごい近距離から銃撃を回避した。プレイヤーとしても相当の実力だと思う」
「……昔のゲームでも、かなりの手練だった。とても正面から戦う気にはなれないけど……こうしてる間にも、他の出場者がまた殺されているかもしれない。畜生、どうすりゃいいんだ」
焦燥に駆られたキリトの言葉に、ウインドウを出して戦況を確認してみる。
「ええと……残り人数は十六人。負けた十四人中、回線切断したのは……まだ一人だけ……あっ」
まさにその瞬間だった。
カットオフにより退場した者の数が、一から二に上昇した。それを見たとき、はじめてシノンは体の深いところにすうっと冷たいものが流れるのを感じた。
ザッパが消える瞬間を目撃し、キリトの説明を聞いたあとも、《死銃》の存在を現実のこととは思えなかった。ゲームの中から人を殺すなどということができるはずがない、と心の奥では思っていた。
しかし、一切の誤謬の有り得ないシステムウインドウ上のデジタル数字が変化したとき、シノンは確かに誰かの命が消える瞬間を見たと信じた。
ゲームではなく、実際に人を殺そうという意思を持つ者、つまり「あの男」と同種の人間がこのフィールドのどこかに存在する。
いや……もしかしたら……
ぐらり、と地面が傾いていく。色が、光が遠ざかる。
もしかしたら――「あの男」がどこか暗いところから帰ってきたのかも――私に――復讐するために――
「おい……おい、シノン」
肩に手が掛かるのを感じて、シノンはハッと目を見開いた。
「あ……」
なんでもない、というように首を振り、キリトの手を押し戻す。
「い、今、また一人殺した……。残り十五人」
「……そうか」
キリトは大きく息を吸い、吐き出した。
「このままだと、あと何人やられるかわからない。やっぱりどうにかして奴を倒すしかない……。……いや……待てよ」
「どうしたの?」
「……《死銃》はなぜさっき、二人とも撃たなかったんだ? 撃とう思えば撃てたはずだ」
「…………」
「そうだろう? モルターレの言動から見て、単純に殺しを楽しむことだけではなく、己の力をGGOの……ひいては全VRMMOのプレイヤーに誇示することも奴の目的の一つであるはずだ。なら、襲撃が外部に中継される絶好の機会に、一人だけ殺して一人は見逃す、というのは理屈に合わない」
「つまり……死銃はダインを見逃したのではなくて、殺したくても殺せなかった……っていうこと?」
「そう考えるのが自然だ。……奴の言うとおり、二つのアミュスフィアを介して何らかの致死的なパワーを標的に送り込めるのだとしても……もしかしたら、ある程度はゲームシステムの制約を受けているのかもしれない。あの黒い銃は光学系だった。ダインって奴の装備に、何か死銃の力を阻むものがあったのかも……」
寝転がったままのキリトは、指先で細いあごのラインを撫でながら考えに沈むように呟いていたが、やがて伏せていたまぶたをパチリと開けた。
「これ以上は考えても無駄だな」
左手のクロノメーターをちらりと眺め、
「奴が立ち去ってから20分……もう充分に離れただろう。俺はさっきの戦場を調べてくる。君はここにいてくれ」
四方に素早く眼を走らせながら、上体を起こす。
こくんと頷きかけてから、シノンはあわてて首を振った。
「――私も行くわよ」
「いや、しかし……」
「どこに居ようと、遭遇の可能性は大して変わらないわ。それに……組むのは癪だけど、いざ襲われたときに二人なら逃げ切れる。もしくは倒せる確率が上がる」
「…………」
キリトは厳しい顔でしばしシノンを凝視した。数秒後、軽く頷く。
「それは確かにそうだ。だが、襲われても戦おうとは思うな。逃げることを最優先するんだ。いいな――これはもう、ゲームじゃない」
顔を近づけ、深い色の瞳で真っ直ぐにシノンの目を覗き込む。
「絶対に、撃たれるなよ」
不意にドクン、と大きく跳ねた鼓動を押し隠すようにシノンは顔を逸らせた。
「……あんたこそ」
呟いた声はいつもより一層か細く、つめたい風に揺れた。
ヘカートIIを肩に掛け、MP7は左手に握って、シノンは前を行くキリトのあとを追った。頻繁に後方を見渡し、枯死した木々の奥に人影がないことを確認する。
いつの間にか、キリトの指示に従っているのが癪と言えば癪だった。だが、謎めいた少年の言葉には、歴戦のスコードロン指揮官のように命令し慣れた響きがあってつい頷かされてしまう。
それに――さっき、回線切断による退場者の数が増加する瞬間を目撃したときから、胸のおくに何か冷たいものが這いまわり、時折心臓がきゅうっと縮むような感覚が襲ってくる。認めたくはないが、シノンには分かっていた。
これは多分……恐怖だ。怯えている。
想像してはいけない、と思いつつも、「その瞬間」のことを考えずにはいられない。不意に、すぐ傍の木陰から――あるいは樹上から、土の中から――あのぼろぼろの迷彩マント姿が飛び出してくる。右手に握った黒いハンドガンから赤い光線が迸り、胸の中央に命中する。撃ち込まれた「悪意」がネットワーク回線を駆け抜け、現実世界の自室に横たわる詩乃の体に流れ込み、心臓をその冷たい手で握り潰す。
痛いのだろうか。
……きっと、そうだろう。ザッパはあれほど苦しんだのだ。痛いのは――嫌だ。
そう、シノンには分かっていた。さっきキリトに、ここで待て、と言われたときに拒否したのは、戦力上の問題などのせいではなかった。単に、ひとりになりたくなかったのだ。あれほど憎んだ敵なのに、置いていかれるのが恐かった。
キリトと戦いたい、という気持ちはまだある。予選決勝の借りを返さないわけにはいかない。
しかし同時に、すがりつきたい、とも思っているのではないか。「恐いもの」から守ってほしいと。だから、離れたくない。
結局――シノンの強さなど、その程度のものだったのだろうか。
仮想空間で、データの銃弾を撃ち合っているときだけの極めて限定的な強さ。張子の虎もいいところだ。《死銃》という現実的な脅威が現われたとたん、幼子のように怯え、嫌いな相手にすら救いを求めている。
つまるところ、全てが無駄な足掻きだったのか。シノンとしていくら強くなろうとも、詩乃があの記憶に打ち勝つ助けには一切ならない――そういうことだろうか……。
「おっと」
不意に肩を掴まれ、シノンははっと顔を上げた。いつの間にかキリトがすぐ隣に立っている。
「この先は遮蔽物が少ない。警戒を切るなよ」
言われたとおり、枯れた森は少し前方で途切れていた。その先は赤茶色の裸地が広がり、川とそれに掛かる鉄橋へと続いている。黒く錆びた橋のすぐ手前には横たわるダインの姿。
「あ……う、うん」
いつの間にか物思いに沈んでしまっていた。今はただ、生き延びることだけを考えなければ。そう自分に言い聞かせながら、シノンは短く頷いた。
森から出ると、一際強く吹く夕暮れの風が頬にかかる髪を揺らした。太陽は完全に荒野の彼方へと姿を消し、濃い赤から深い紺へと至るグラデーションが空を染めている。あと四、五十分で自然光は消え失せ、苦手なスターライトゴーグルを装着しなくてはならなくなる。それまでに、この異常な状況から脱出できることを祈らずにはおれない。
鋭く周囲を索敵しながら、シノンとキリトは小走りに荒れ地を抜け、盛り上がった土手へと駆け上った。重い水音を立てて北から南へと流れる川に、最後の残照が反射して炎の粒が舞っているように見える。すぐ正面に、鉄骨を組み合わせた橋が黒々と伸び、対岸へと続いている。
50メートルほど離れた向こう岸も同じような赤い裸地だが、そのさらに奥は奇妙な形の岩やサボテンが点在する砂漠が広がっている。鉄橋からは蛇行する道らしきものが伸び、砂漠に入る少し手前に、廃墟と化した小さな建物が見えた。もしあの廃墟がプレイヤーの手付かずであれば、武器や弾薬などが入ったトレジャーボックスがいくつか配置している可能性は高いが、この状況ではのんびりアイテムを漁っている余裕など無いだろう。
そして、橋のすぐ手前に、大の字になって伸びるダインの姿があった。腹の上に、赤く発光する立体文字がくるくると回っている。傍らには彼の愛銃SG550が落ちているのが見える。拾って使用することはできるが、通常のゲームにおける武器ドロップとは違い、大会の終了とともに元の持ち主へと返却される。
少し離れた場所には、ザッパが持っていたM1ガーランドも遺されていた。あのシーンを思い出しそうになり、慌てて目を逸らせる。たとえアイテム重量制限に余裕があっても、とても手に取る気にはなれない。
ゆっくりとダインに歩み寄りながら、キリトがぼそっと呟いた。
「あの死んでる奴は、その……周囲の状況とか知覚できるのか?」
シノンはうなずき、囁き声で答えた。
「うん。視界に入るモノは見えるし、音も聞こえる。ただ、すぐ目の前に大会中継画面が表示されてるけどね」
「ふうん……。じゃあ、この会話も聞こえてるのかな」
「まあね」
シノンは荒い砂をざくざくと鳴らして、ダインのすぐ傍で立ち止まった。髭面を覗き込むと、こちらからは目蓋を閉じた死人の顔に見えるが、本人は中継ウインドウの横にシノンの顔を認識しているはずだ。
軽く肩をすくめ、シノンは低い声で言った。
「ダイン、お疲れさま。前回よりはいい順位でしょう……多分。それに、もしかしたら今回の大会は無効になるかもしれない。何だか妙なことが起きてて……。アンタを撃ったモルターレって奴のことだけどさ」
隣に立ったキリトが、顔をしかめてダインの「死体」に視線を落とした。
「もどかしいな……。このダイン氏は、あんな間近から死銃の銃撃シーンを見ているんだ。何か気付いたこともあるだろうに……」
「仕方ないよ。そういう情報を漏らさないように、こんな仕様になってるんだからさ。あ……言っとくけど、ダイン。こいつと――」
キリトのほうにあごをしゃくり、シノンは続ける。
「別に組んでるわけじゃないからね。あくまで緊急避難なんだから、後で妙な噂とか撒かないでよね」
「そんなことより、どうだシノン。何か特殊な装備はあるか?」
言われて、シノンは地面に膝をつき、ダインの体を詳細に眺めた。
「ごめん、ちょっと装備見せてね。――うーん……防護フィールド発生器も、ボディアーマーも、高級品だけど特に変わったモノじゃないよ。私もあんたもこれくらいのは装備してるし。ねえダイン、死銃の奴はなんでアンタをあの光学銃で撃たなかったの? むさ苦しいから?」
指先であごひげを突付くが、勿論「死体」は答えを返さない。立ち上がると、キリトが難しい顔でため息をついた。
「結局手がかりなし、か。――シノン、この死体は動かせるのか?」
「え? 無理だけど……何で?」
「いや……もしダイン氏を見逃したのが死銃の単なる気まぐれなら、戻ってきて死体を見たら、今度は撃つ可能性もあるからさ。どこか見えないところに隠せればと思って……」
「ああ、そっか」
ダインは目の前で、ザッパが死銃に撃たれて消えるところを見ている。死銃に撃たれた奴は本当に死ぬという噂は当然知っているだろうし、その上こんな会話を聞かされては、半信半疑ながら気が気ではないだろう。
「ダイン……死銃が戻ってこないことを祈って。あと、余裕があったら私たちが無事に脱出できることもね」
呟き、シノンはマフラーをぐいと引き上げた。
「……で、これからどうするの?」
「取るべき作戦としては三つある」
キリトは腕組みし、視線を伏せた。
「まず、プラン1はこのままどこかに隠れつづけ、死銃が誰かに倒されるか、あるいは――他のプレイヤーが全員やられて、奴と俺たちだけが残るのを待つ。そうなったら、俺たちが相撃ちになって死ねば奴が優勝で、大会は終了する」
「……でも……」
「ああ。でもこの場合、あと何人犠牲者が出るかわからない。――俺は別に聖人君子じゃない、知らない奴よりも、自分の命と、かかわった人間……つまりシノンの命のほうが重要だ。しかし……やはり、事情を知る俺たちが行動せずに隠れ続ければ、自分のために他のプレイヤーを見殺しにすることになるという覚悟はしなけりゃならないだろう」
「…………」
「プラン2は、死銃には極力近づかないように注意しながら、俺たちが他のプレイヤーを倒してまわる。君の狙撃があれば、多分かなり大会終了を早められるはずだ。だが、死銃も、それに他のプレイヤーだって素人じゃない。死銃を察知できずに接触してしまうか、あるいは最悪、他のプレイヤーにやられて動けない死体になったところを死銃に見つかるかもしれない」
シノンはこくりと頷く。文字通り手も足も出ない、口さえ動かせない状況で、あの死神めいたボロマント姿が近寄ってきたらと思うと身の毛もよだつ。
「プラン3は――さらに積極策だ。死銃を捜す。そして倒す。だがこれは……ある意味では自殺と一緒だ。一発食らえばそれだけで殺される銃を持った相手と、こっちはまっとうなゲームルールに則って戦おうと言うんだからな」
シノンは再び頷き、大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。確かに、キリトの提案した三つの案以外に取れる行動はありそうにない。
「……で、あんたはどのプランがいいと思うの?」
マフラーの下から、上目遣いにキリトの顔を見ながら訊くと、黒衣の少年は思わぬことを言った。
「プラン4だ」
「……はあ?」
思わず間抜けな声を出してから、シノンは突然、キリトの言おうとしていることを察した。
「ここで別れよう。俺は単独でプラン2……他のプレイヤーを倒せるだけ倒す。残り人数が三になったら自殺する。君は後ろの森の、木が密集してるあたりに隠れて、残りが二人になったら自分を撃つんだ」
「…………」
鋭く息を吸い込み、シノンはキリトの整った顔を睨みつけた。足元で寝ているダインのことも意識から飛んでいた。
胸の奥では、相変わらず恐怖という名の細い蛇が心臓に巻きついている。しかし、青白く燃えあがったプライドの欠片が、瞬間その冷たい感触を忘れさせた。
「……馬鹿にしないでよ。確かにこの前は負けたけど、だからって総合力であんたに劣っているとは思っていない。あんたが死銃にやられるんじゃないかって考えながら、ウインドウ睨んで震えてるなんて真っ平よ。ここで分かれるのは反対しない。でもその場合は、私は一人で戦う」
「……シノン」
キリトもぐっと力を込めた視線でシノンを見た。
「……こんな状況になったのは、ある意味では俺の責任なんだ。昨日の時点で、奴を止めようと思えば止められた。だが、常識に縛られて、一度死銃の戦闘を見てから判断しよう――と考えてしまった。だから、俺は戦わなきゃならない。でも、君は…………」
「私にだって……戦う理由くらい……」
そう――ここで逃げることはできない、とシノンは思った。
もしここで死銃に怯え、どこか穴に隠れてしまったら……もう二度と、シノンの「強さ」を信じることはできなくなるだろう。「あの記憶」に打ち勝つための、唯一にして最後の希望は消え去り、現実の詩乃はこれからの日々を恐怖の発作に怯えながら生きていかなくてはならなくなるだろう。
それだけは嫌だった。死銃の力がもたらすという「死」も恐い。だが、それと同じくらい、恐怖に塗れた長い「生」も恐ろしい。
ひょっとしたら――キリトの存在ではなく、この状況こそが、運命によって与えられた試練なのではないだろうか。死銃と戦えと。そして倒せと。本物の殺傷力を持つ相手と戦うことによってのみ、あの記憶がもたらす恐怖を払拭できる――
瞬間的に、そのような思考がシノンの脳裏を過ぎった。逃げることはできない、ともう一度キリトに告げるべく、口を開こうとした……
その時だった。
かすかな音が、シノンの聴覚の表面を叩いた。ぷちっと、何かが弾けるような、小さい音。
「待って」
さっと右手を上げ、シノンは素早く周囲に視線を向けた。川沿いに伸びる土手、鉄橋、その向こうの砂漠、背後の枯れた森――どこにも人影は無い。
しかし確かに、異質な音がした。現在聴こえているのは、甲高い風鳴り、低く響く川音、背後の木々の梢が風に擦れる乾いた音――その後ろに紛れるように、確かに……
「!」
また聴こえた。銃声ではない。武器が擦れる金属音でも、ブーツが石を噛む音でもない。左前方……しかしそこにはとうとうと流れる水面しかない。
真紅の残照が反射する水面をじっと凝視する。川の流れは緩く、波頭が立つほどではない。その、揺れる鏡のような表面に――
ぽこっ、と小さな泡が浮いた。白い半球は数秒間水面を流れたあと、弾けて、ぷちっというあの音を発した。
それを見た瞬間、シノンの左手は反射的に動いていた。握ったMP7を横に構え、トリガーを引き絞った。
コンパクトなサブマシンガンは、スネアドラムのロールに似た咆哮を上げ、20発の弾丸をフルオートで吐き出した。川面に小型の水柱が幾つも立ち、濡れた貫通音が耳朶を叩く。
「シグを拾ってあんたも撃って!」
たちまち空になったマガジンを交換しながら、シノンは叫んだ。その時にはキリトも動いていた。つま先でダインのSG550を弾き上げ、空中でキャッチして腰溜めに構える。再び、今度は二重奏となった発射音が唸りを上げ、水面は沸騰したかのように真っ白になった。
水に潜ることは、ルール的には不可能ではない。だが、30秒を過ぎた時点でHPが減少をはじめ、またリペアキットによるHP回復が鈍足なこのゲームのシステムゆえに、自らダメージを被るその行為はまったくの愚考と思われていた。
しかし、先ほど浮かんだ泡は、水面の下に何ものかがいることを示していた。まさか、ともしや、の思いが交錯する。今にも、水の表面を貫いて赤い光線が伸びてくるのでは、と考えると心臓がぎゅうっと痛くなる。
新しい弾倉をMP7に叩き込み、再びトリガーを絞るが、目標の見えない射撃ゆえに着弾予測円は定まらない。数秒で再び20発を撃ち尽くし、同時にキリトの持つライフルも沈黙した。水面に幾つも広がった波紋がゆっくりと消え去り、再び静寂が訪れた。
倒したのだろうか。だとすれば、すぐにこの場を離れなくてはならない。だがこの位置からでは、反射が邪魔をして水底が見えない。
シノンが逡巡し、動きを止めたその隙を狙ったかのように――
いきなり、ざばっと水面が割れた。黒く巨大な影が、凄まじい高ステータスを示す恐るべき跳躍力で空を駆けた。ぼろぼろに解れたマントの裾が、凶鳥の翼のように広がった。
川岸を一度蹴っただけで、襲撃者は二人のわずか五メートル先にまで達し、地面に低くうずくまった。その姿勢のまま、機械のような動きでフードに包まれた頭がもたげられ、暗がりのなかから禍々しい視線が照射された。
間違いなく、モルターレ、デス・ガン、そして死銃の名を持つあの男だった。一度ははるか地平の彼方に歩み去ったと見せかけ、その実延々と川底を遡ってこの場所まで戻ってきたのだ。どのような方法で溺死を回避したのかは見当もつかない。
ぎりっと歯を食い縛り、シノンはMP7のマガジンをリリースした。稲妻のようなスピードで腰から弾倉を掴み取り、装着する。キリトも撃ち尽くしたSG550を投げ捨て、ファイブセブンに手を伸ばす。
しかし、二人が再度攻撃態勢に入るより早く、死銃のマントの隙間から右腕が突き出された。枯れ枝のように骨ばった指に、鈍い黒に光るあの銃が握られている。
深い闇を湛えた銃口にポイントされた瞬間、シノンの全身を冷たい震えが駆けめぐった。脚からすうっと力が抜ける。心臓が小さく縮み上がる。動きを止めたのはキリトも同様だった。
二人を黒いハンドガンで牽制しながら、死銃は左手を口もとに持っていった。フードの陰からつかみ出したのは、細いシリンダーを水平に二本接続したような形の器具だった。シノンは見たことがなかったが、何らかの呼吸補助アイテムと察せられた。それをマントの中にしまいこみ、死銃はしゅうしゅうと掠れた声で笑った。
「……わかってたよ、さっきの戦闘を誰かが見てたのはね。銃を拾いに出てくるかもと思って、苦労して川を潜ってきたんだけど……まさか、君達だとはね。僕は運がいい。こうも順序良く、ターゲットと遭遇できるとは……おっと」
キリトの体が一瞬緊張したのに目敏く気付いた死銃は、ひょいっとハンドガンの照準を移動させた。
「動かないでもらおう。さっきの戦闘を見てたなら、この銃の力は知ってるはずだよね。できれば、中継カメラが来てから撃ちたいんだよね。それまで待ってくれると嬉しいなぁ」
「……モルターレ」
左手をファイブセブン、右手をフォトンソードに添えた格好のまま、キリトが乾いた声で言った。
「お前の力は分かったし、からくりは見当もつかない。だが、もう止めておけ。お前はすぐに逮捕される、これ以上罪を重ねるな」
「……なんだって?」
「本名も、住所もわかっているんだ。ブラフじゃあないぞ、モルターレ……いや、《赤眼》のザザ」
ひゅっ、と鋭くモルターレが息を吸い込む音がした。
「……キリト……やっぱり……」
「そうだ。49層でお前と戦い、黒鉄宮に送り込んだのは俺だ」
「……ふ、ふ……まさかと思ったけどね……」
モルターレが握った黒い銃が、小刻みに震えているのにシノンは気付いた。反撃するチャンスかも、とかすかに思ったが、凍りついた指先はまるで動こうとしなかった。迷彩マントに包まれた痩せた体から、目に見えるほどの強烈な殺気が放射されてシノンを竦ませた。
「そうか……君かぁ……久しぶりだね……」
陰々と金属的に響くモルターレの声に含まれた悪意は、黒いタールのように粘ついて肌を粟立たせる。
「――お前は知らないだろうけどな、モルターレ。あの世界にいたプレイヤーのデータは、ある程度外部からモニターされていたんだ。お前がどこの誰だか、ちゃんと記録に残っているんだよ。だからもう、馬鹿な真似はやめるんだ」
キリトの言葉に、死銃はしばし沈黙したが、やがて再び乾いた笑いを漏らした。
「……それがどうしたって言うんだい? 僕は、自分の家からゲームを遊んでいるだけだよ。法律で僕を縛ることなんかできない」
「たとえすぐに逮捕はできなくても、お前とお前のアミュスフィアは徹底的に調べられるぞ。謎はすぐに解明され、お前は裁かれる。お前のしていることは唯の人殺しだ。いくらその銃で殺し続けても、誰もお前を称えたりはしない」
「……どれだけ調べたってわからないよ、死銃の力の秘密はね。だいたい……君そんなことを言う資格があるのかい? 僕を……人殺しと……責める資格が……」
モルターレの声は奇妙に歪みながら途切れた。突然、がしゃりと音をさせてハンドガンを構えなおす。極度の緊張のせいか、右腕がぶるぶると震えている。
――撃つ。シノンはそう思って息を詰まらせた。
だが、モルターレはしゅうしゅうと呼吸を繰り返し、やがて腕から力を抜いた。
「……君はまだ撃たないよ。最後のご馳走に取っておくことにしよう」
左腕を出し、ちらりと時計に視線を落とす。
「まずは……こっちのお嬢さんからだ」
ゆらりと銃が動き、まっすぐに――シノンの顔を狙った。
動けない。声も出せない。
思考は完全に麻痺していた。シノンは棒立ちになり、ただ自分を殺そうとする相手を凝視することしかできなかった。
冷たい風が、モルターレのマントの裾を揺らす。空気をはらんだフードがわずかに持ち上がり、赤い残照がその奥を照らし出す。暗闇に、ぼんやりと顔が浮かび上がる。
土気色の肌。口もとと額に刻まれた皺。こけた頬。そして、暗い穴のように光のない目。そこにあったのは、どうしても忘れることのできないあの顔――あの男の顔――
突然、男の右目の下に赤い穴が穿たれ、どろりと赤いものが流れ出す。次いで、右目が白い粘液と化して垂れ落ちる。しかし、男は笑う。とうとうつかまえた、と言わんがばかりににたりと笑う。
高周波のような耳鳴りがすべての音を掻き消す。地面がぐらりと傾き、視野が狭窄していく。
発作が/恐い/死にたくない/発作が起きる/助けて/助けて
混濁した思考の塊が頭のなか一杯に広がった。氷の狙撃手シノンは消え去り、両手を血に染めて悲鳴を上げつづけた五年前の詩乃に戻っていた。
目の前に立つ、腹と肩、それに顔からどす黒い血を大量に流したあの男が、にたにたと笑いながら右手に握った黒星の撃鉄を起こした。
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すべてが静止した暗闇のなか、ただ致死的な一撃が飛来するのを待つことしかできなかった詩乃は、だから何かの影が、男の左眼の放つ呪縛的な視線を遮ったときも、その正体を察することはできなかった。
隣に立つキリトが、いつのまにか右足を横たわるダインの体に近づけ、その腰からプラズマグレネードの小球体を死銃目掛けて蹴り飛ばしたのだ、と理解したのは一連の状況が終了したあとのことだった。
視界の右下方向からちいさな丸い影が鋭く飛翔し、男の顔を隠すと同時に、雷鳴のような凄まじい声が詩乃の意識を強打した。たぶん実際には、キリトは小声で叫んだだけだったのだろう。しかしその声は聴覚を経由したというよりも、まるで直接詩乃の脳に注ぎ込まれたかのように頭の中央に響き渡った。
『撃て』とも、『Shoot it』とも聞こえたその声は、あるいは言語ではなく純粋な思考の伝達であったのかもしれなかった。巨大なハンマーの一撃によって、詩乃を捕えた粘液質の幻覚は霧散し、世界に光が戻った。
血の色の空。
巨獣の遺骨のごとき鉄橋。
それらを背景に立つ、迷彩マント姿の男。
その顔に向かって飛翔していく、黒い楕円球体。
視覚情報を認識するよりも早く、シノンの左手は自動的に動いていた。思考は停止していても、刷り込まれたガンナーとしての本能は、機械のような正確さでMP7の照準と射撃を瞬時にやってのけた。ワントリガーで三発の銃弾が発射され、うち二発が空中の手榴弾を捉えた。
青白い閃光が広がり、世界を染め上げた。
至近距離で炸裂したプラズマグレネードは、高熱を伴う爆風で有無を言わさずシノンを吹き飛ばし、地面に打ち倒した。天地が割れたかのような衝撃とともに、視界右端のHPバーが一気に六割近くも消滅する。甲高い爆音が脳をシェイクし、再び意識が混乱するが、仰向けに転がることを許されたのはほんの一秒ほどだった。力強い手がシノンの右腕を掴み、有無を言わさず引っ張り上げた。
「走るぞ!!」
鞭のようにしなる声が、頬をぴしりと叩いた。そのままぐいっと手を引かれる。未だ混濁した思考が回復しないまま、シノンはもつれる脚を必死に動かした。
シノンを引き摺るように走るキリトは、後方の森ではなく、鉄橋を目指した。
空中に漂うプラズマの残光がようやく薄れ、シノンは懸命に駆けながら左方向を見た。あるいは至近距離で炸裂した範囲攻撃兵器によって、死銃のHPは全て消え去ったのではないか、と思ったが、どうやらその期待は裏切られたようだった。浅瀬にまで吹き飛ばされた黒い人影は、体を半ば水没させながらも、上体を起こしてまっすぐシノンに顔を向けた。すぐに飛沫を上げながら川を脱し、四つん這いで土手を登り始める。
追ってくる、そう思った途端喉のおくから悲鳴がこみ上げたが、それを必死に飲み込んでシノンは走った。ようやく橋の鉄板に到達し、二人の足音が硬質の金属音に変わる。
どうにか思考の回転速度が復調し、シノンは強張った口を動かした。
「こ、この先は何も無い砂漠よ! 隠れる場所なんか……」
しかし前を行くキリトには何か考えがあるようだった。
「いいからあの建物まで走るんだ!」
右手で指差す先には、川の対岸、橋から伸びる道の左脇にぽつんと佇む廃墟があった。だが、コンクリート二階建ての監視所と思しき建築物には、とても二人が隠れおおせるような広さはない。
と言って、今さら引き返すことはできなかった。ちらりと後方を振り返ると、土手を這い登った死銃が、怒りの叫びを上げながら鉄橋目指して走り始めるところだった。ふたたび、恐怖に心臓がぎゅうっと縮こまる。
宙を飛ぶようなスピードで、シノンとキリトは長い鉄橋を駆け抜け、BoB本大会フィールドの西半分を構成する砂漠エリアへと突入した。
足元の道だけは、盛大にひび割れてはいるもののどうにか舗装路の体をなしているが、それ以外の場所は移動速度にマイナス修正を受ける細かい砂の海だ。道から外れた途端、死銃に追いつかれてしまうのは明白だった。
その上、広大な砂漠には所々に奇怪なサボテンやら黒い岩山が点在するだけで、双眼鏡での索敵から逃れるのも至難の技だ。一体どうするつもりなのか、と思っても、もうこうなってはただ前を目指すしかない。
アスファルトの欠片を蹴り飛ばしながら更に数十秒走り、二人は灰色の建物へと接近した。
無骨な箱状の廃墟の、一階正面には巨大なゲートが口を開けていた。トラックでも通れそうな四角い入り口の奥はどうやらガレージ状の空間となっているらしく、うずたかく積まれた箱やら何やらの影が見える。おそらく隈なく捜せばいくつかのアイテムボックスを発見できるはずだが、勿論そんな余裕は無い。
まさかこの場所で死銃を迎え撃とうというのだろうか、とシノンは恐怖したが、どうやらキリトの目的は他にあったようだった。キリトに続いてガレージに駆け込んだシノンが見たものは、右の壁際に二つ並んだ奇妙な乗り物だった。
オートバイのようでもあり、バギーのようでもある。前半分はバイクのそれで、一本のごつごつしたタイヤの上にハンドルが迫り出し、跨る形のシートが続く。しかし後ろ半分は甲虫のように広がり、広めのシートの両脇に極太のタイヤが出っ張っている。全体は埃っぽいサンドカラーでお世辞にもキレイとは言えないが、どうやら朽ちた遺物ではなく動くモノのようだった。
キリトはこれを目指していたのか、と思う間もなく、うち一台に跨った少年の鋭い声が飛んだ。
「シノン、運転できるか!?」
慌てて首を振る。
「だめ……自信ない」
GGO世界には、小型のスクーターから、機銃を備えた装甲車までいくつかの乗り物が存在し、街には専用の練習場もあるのだが、シノンは以前バイクの運転を練習しようとしてシュピーゲルに盛大に笑われるという屈辱を舐めて以来触ってもいなかった。
「わかった、後ろに」
キリトの言葉に従い、三輪バギーの後部座席に飛び乗る。
意外に様になった仕草でハンドルを握り、キリトはイグニションスイッチを押した。キュルルッという高い音と共にエンジンが始動し、すぐに太い爆音となってガレージを震わせる。
走り出すかと思ってシノンは両手でしっかりとシート前方の金属バーを掴んだが、意に反してキリトは腰からファイブセブンを抜いた。無言で左横に横たわるもう一台のバギーに銃口を向け、立て続けにトリガーを引く。
すぐにキリトの意図を察し、シノンもMP7を構えた。エンジンを狙ってフルオートで弾を撃ち込んだが、視界下部に表示されたバギーの耐久度メーターは、マガジンが空になっても半分程度しか減少しなかった。
「くそっ、もう時間がない。行くぞ!」
キリトは舌打ちとともにファイブセブンを腰に戻し、右手でアクセルをあおった。シノンも慌ててバーを握りなおす。
クラッチが繋がれると同時に、一瞬悲鳴のようなスキール音を残して、バギーは前輪を持ち上げながら猛然とコンクリートの床を蹴り飛ばした。
スライドしながら左にターンし、薄暗いガレージから夕闇の深まりつつある砂漠へと飛び出し――たその瞬間、
「頭を下げろ!!」
キリトの叫びに、シノンは反射的に首を引っ込めた。いくつもの薄赤い光のライン――弾道予測線が、音も無く周囲の空間を貫いた。
直後、頭上を、唸りを上げて銃弾の一群が掠めた。音からして、死銃のベレッタが発射した小口径ライフル弾だ。うち幾つかが車体に命中したらしく、カンカンと乾いた音とともに震動が伝わってくる。
必死にバギーの装甲の陰に体を隠しながら、シノンは右方向に視線を向けた。
恐ろしいほど近くで、ぼろマントを風になびかせたモルターレが、意味をなさない叫びとともに腰の突撃銃を乱射していた。銃口が間断なく炎の舌を伸ばし、吐き出された弾丸が空気を切り裂く。
だが幸い、獲物を取り逃がしつつある怒りのせいか、モルターレの着弾予測円は定まらないようだった。ろくに命中弾のないままマガジンが空になったらしく、ベレッタが沈黙した。
その隙に道路に達した三輪バギーは、再び後輪から白煙を上げながら左に急ターンした。路面にくっきりと焦げ跡を残しながら、前のタイヤを浮かせてダッシュする。キリトが左足でシフターを蹴り飛ばすたびにエンジンが咆哮し、シノンの体をシートに押し付ける。
たちまちトップギアに達したバギーは、砂漠に甲高い叫び声を響かせながら曲がりくねった道を疾走しはじめた。
――逃げ切った……!?
ようやくそう確信して、シノンはずっと詰めていた息を深く吐き出した。今になって、体中ががたがたと震えていることに気付いた。
こわばった指を動かし、握ったままだったMP7を腰に戻したその時、再びキリトが緊張した声で叫んだ。
「――畜生、まだだ! 気を抜くなよ!」
慌てて振り返ると――
小さく遠ざかりつつある監視所のゲートから、破壊しそこねたもう一台のバギーが飛び出すところだった。乗っているのが誰か、疑う余地も無かった。
再びシノンの体を、深い震えが駆け抜けた。不吉な烏の黒翼のようにマントをはためかせ、執拗に追ってくる男の姿はもはや死の呪いの具現化とも思われた。見たくない、と思いながらも、三百メートルほど後方の死銃の顔に視線を集中せずにいられない。距離的に見えるはずはない――のだが、シノンには、フードの奥の闇に浮かぶ顔の下半分、ニヤニヤと歯をむき出したその口もとがはっきりと見えた。
「追ってくる……もっと速く……逃げて……逃げて……!」
悲鳴にも似たか細い声でシノンは叫んだ。
それに応えるように、キリトはいっそうアクセルを開けたが、その途端後輪の片方が舗装路から外れて砂を噛んだらしく、いきなりバギーの後部が右にスライドした。
シノンは喉の奥から高い声を漏らしながら必死にバーを握り締めた。ここでバギーがスピンでもしようものなら、モルターレは十秒とかからず追いついてくるだろう。キリトは罵り声を上げながら蛇行する車体を制御しようとする。
甲高い絶叫を上げながら左右にスライドを繰り返したバギーは、数秒後にどうやら再び舗装路の中央に戻って加速を再開した。しかし、そのわずかなタイムロスの間にも、死銃は着実に距離を詰めてきている。
砂漠を貫くハイウェイの遺跡は嫌がらせのように次々と曲線を描き、逃走者に限界の高速コーナリングを強いた。その上路面のところどころに砂が薄い層を作り、それを踏んだタイヤから容赦なくミューを奪い取る。その度にバギーは真横に滑り、シノンの心拍をスキップさせる。
条件は追跡者も同じはずだが、死銃は三輪バギーの運転にも熟達しているらしく、着実にコーナーを抜けては追いすがってくる。その上、向こうにはひとつ絶対のアドバンテージがあった。
もしこれが現実世界なら、十キロや二十キロの重量差などさして状況に影響は与えないだろう。しかし、ここは厳然としたデジタルデータの支配するゲームの中だ。同じマシンを使用しているなら、二人乗りのほうが明らかに加速が鈍い。
砂丘の陰にかくれ、再度姿を現すたびに、死銃の駆るバギーのシルエットはじわじわと、しかし確実に大きくなっていく。届くはずはないのに、シノンの首筋を、耳障りな金属音に似た声が(そら、捕まえるぞ、捕まえるぞ)じっとりと撫でる。
距離がついに二百メートルを割った、と思われた時だった。
死銃が、左手をハンドルから離し、まっすぐこちらに向けた。その手には――あの、黒いハンドガン。
全身を凍りつかせ、シートに伏せるのも忘れて、シノンは銃を凝視した。奥歯が震えて、かちかちと不規則な音を立てた。ふっ、と音も無く、シノンの右目の下を弾道予測線の無感情な指先が触れた。思考が命じた結果ではなく、自動的にシノンは首を左に倒した。
直後、悪魔があぎとを開くが如く、銃口が真紅に発光し――
ズシュウッ! と重い唸り声を引きながら、血液の奔流にも似た太い光線がシノンの右頬から十センチほどの空間を通過した。
ビームが消え去ったあとも、空間に残された赤光の粒子がちりちりと漂い、シノンの頬に触れた。その瞬間、シノンはドライアイスを押し付けられたような痛みを感じた。
「嫌ああぁっ!!」
今度こそシノンは悲鳴を上げ、体をシートの上に丸めた。直後、死銃の第二射が襲来し、バギーの後部装甲に命中したらしく、震動音とともに視界の端が赤く染まった。
「やだよ……助けて……助けてよ……」
赤ん坊のようにぎゅうっと体を縮めて、シノンはうわ言のように呟いた。自分が装甲の陰に隠れても、バギーを操るキリトが撃たれて消滅すれば結局は同じことなのだが、それすらもその時は思い至らなかった。
だが、シノンが姿を隠すと同時に、赤いレーザーの襲来は停止したようだった。どうやら死銃は先にバギーを破壊することにしたらしく、突撃銃の発射音が響き渡ると同時に、カンカンという着弾の震動が体に伝わった。うち一発がキリトの背中を捉えたのか、少年の低い声が届いた。
「ぐっ……。――シノン……聞こえるか、シノン!」
名前を呼ばれたが、返事はできなかった。ただシートの上にうずくまり、細い声を漏らしつづける。
「シノン!!」
再び、鋭い声で背中を叩かれ、シノンはようやく歯を食い縛って悲鳴を止めた。首をわずかに動かして、黒髪を風になびかせるキリトの後姿を捉える。前方を睨み、限界までアクセルをあおりながら、キリトは強張っているがいまだ冷静な声で言った。
「シノン、このままだと追いつかれる。――奴を狙撃してくれ」
「む……無理だよ……」
シノンはいやいやをするように首を横に振った。右肩にはずしりとしたヘカートIIの感触があったが、いつもなら闘志を与えてくれるその重みも、いまは何も伝えてはこなかった。
「当たらなくてもいい! 牽制だけでいいんだ!」
キリトはなおも叫ぶが、シノンは首を振ることしかできない。
「……無理……あいつ……あいつは……」
過去から甦った亡霊であるあの男は、例え対物ライフル弾が命中しようとも止まりはしない――とシノンは確信していた。牽制などが通用する相手ではない。
「なら俺にライフルを寄越せ! 俺が撃つッ!!」
振り向いたキリトは、黒い瞳を爛々を光らせ、歯をむき出して言い放った。
その言葉は、シノンの中にほんのわずかに残ったスナイパーとしてのプライドを揺り動かした。
ヘカートは……私の分身……私以外に……撃てる奴は……
途切れ途切れの思考が、回路をスパークする電流のようにシノンの右手を動かした。
のろのろとした動きで、肩から巨大なライフルを外す。シートの背に銃身を乗せ、恐る恐る体を起こして、スコープを覗き込む。
照準器の倍率は限界まで下げられていたが、それでも二百メートルの近距離ゆえに死銃の駆るバギーの影は視野の三割ほどを埋めていた。ピンポイントで体の中心線を狙うために倍率を上げようとしてから、シノンは伸ばした手を止めた。
これ以上拡大したら、フードの下の顔がはっきりと見えてしまう、そう思うと指が動かせなかった。厭だ、恐い、見たくない、そう胸の奥で呟きながら、シノンは右手をトリガーに掛け、狙撃体勢に入った。
死銃は相変わらず、左手に握ったベレッタを乱射していたが、さすがに突撃銃の片手撃ちでは照準が定まらないらしく、弾丸は左右に大きく外れていく。それでも、今にも再び銃をあのハンドガン、かつて詩乃が握った54式黒星の再生した姿であるところの呪われた武器に持ち替えるのではないかと思うと、恐怖の冷たい手が心臓をぎりぎりと締め上げる。
一発、一発だけ撃つんだ、そう自分を鼓舞しながらシノンはどうにか人差し指を数ミリ動かした。視界に着弾予測円が表示された。
だが、この近距離でも、グリーンの円はだらしなく広がり、死銃の体から完全にはみ出して不規則に脈動していた。精神は千々に乱れ、おまけに走行中のバギーが盛大に震動しているせいだ。
「だ……だめ……こんなに揺れたら、照準できない……!」
スコープを覗いたまま、シノンは泣き言のように叫んだ。だが、すぐにキリトの厳しい声が飛んだ。
「三秒だけ揺れを止める! その間に撃て! いくぞ……3、2、1……!」
突然、激しいショックが襲い、バギーは路面を離れた。わざと砂丘に突っ込み、車体をジャンプさせたのだ。激しい揺れが消え、予測円は――ほんのわずか、ささいな気休め程度に小さくなった。
絶対に、当たらない。
スナイパーとして経験を積んだ数ヶ月のなかで、シノンははじめてそう確信しながらトリガーを絞った。
無様に的を外すよりも、いっそ、不発なら――。愛用しているマッチグレード・アモでは不良品などほとんど有り得ないのだが、それでもシノンはそう思った。しかし、物言わぬ鋼鉄であるヘカートIIは、常と同じように轟音を響かせて巨大な発射炎を吐き出した。
無理な体勢ゆえにリコイルを殺しきれず、シノンは座席前部の金属バーに叩きつけられた。弾の行方など見たくない、そう思いながらも、染み付いた狙撃手の性によって左目の端で追跡者の姿を凝視する。
敵の心臓を狙った弾丸は、当然のように外れ――
しかし、あるいは女神自身の矜持が完全なミスショットを拒否したのか、バギーのシャーシ下端ぎりぎりの場所を貫いて、深い孔を穿った。
GGOにおけるビークルの類は、全て超高額なレアアイテムである。
ゆえに、不運な一撃によって全損することのないよう、車体の耐久度はどの箇所も一定に設定されており、さらにキリトがガレージで破壊を試みて失敗したように、その数値はとても高いものとなっている。
だが、あの時メーターを半減させておいた事と、更に対物ライフルの威力が今回ばかりは幸運を引きずり寄せた。
いきなり、オレンジ色の炎が死銃のバギーの機関部から噴き出した。ロックした後輪がグリップを失い、くるくるとスピンし始めた車体は、ハイウェイを外れて砂丘の側面に突っ込み――
あっけなく爆発した。轟音とともにタイヤが高く宙を飛び、すぐに黒煙に紛れて見えなくなった。
シノンはへたりとシートの上に崩れ落ちた。ただただ呆然と、紺色の空を染める赤い炎の色を見つめることしかできなかった。
更に数分間バギーを疾走させてから、キリトは舗装路をはずれ、砂漠に乗り入れた。
速度を落とし、慎重な操作で砂丘のあいだを縫っていく。
やがて、光の消えかけた空に黒々とそびえる岩山の一つにゆっくりと近づき、バギーを止めた。
「……やれやれ、こうも見晴らしがいいと、隠れようにも……おっ、あれは」
その声にシノンがぼんやりと顔を上げると、岩山の根元に、一際黒く洞窟が口を開けているのが見えた。キリトは再度アクセルを捻り、のろのろと穴に近づいてそのままバギーを進入させた。洞窟の内部はそこそこ広く、入り口から見通せない位置に車体を隠してもなお僅かなスペースがあった。
エンジンを切り、砂の上に降り立ったキリトは、大きく伸びをしながらシノンを振り返った。
「……とりあえず、しばらくここで様子を見よう」
シートにうずくまり、ヘカートを抱えたままの格好で、シノンはじっと少年の顔を見た。なんだか、すべてが幻のように現実感が無かった。
「……あいつは……死んだの?」
ぽつりと呟くと、キリトは唇を噛みながら首を振った。
「いや……爆発の直前、バギーから飛び降りるのが見えた。HPが高いのか、防具がいいのか……異常に打たれ強い奴だ」
そんな問題じゃない、あいつは絶対に殺せない――なぜなら、通常のプレイヤーではない、本物の亡霊だから。そう思ったが、口には出さなかった。ふらつく足に力を込めて立ち上がると、シノンはバギーから降り、洞窟の壁に体をあずけて再び丸くなった。
「とりあえず、俺たちもヒットポイントを回復しよう。あのグレネードで大分減ったからな……」
キリトはそう言うと腰のポーチをまさぐり、HPリペアキットと呼ばれるドリンク剤の小アンプルを二つ取り出した。片方をひょいっとシノンに放ってきたので、両手で受け止めたが、手の中の小瓶はまったく無力な代物にしか見えなかった。これでいくら数値を回復させても、あの赤いビームに撃たれれば、それで――
どすんとシノンの横に腰を下ろし、キリトはアンプルの首を飛ばしてぐっと呷った。
「……早く飲んでおけよ」
言われて、シノンもガラス瓶を開けて口をつける。薬液は爽やかなレモン味のはずなのだが、今はよく分からなかった。
たちまち瓶を空にしたキリトは、今度は腹ごしらえとばかりに携行食のフィグバーを取り出し、包装を破くとがぶりと齧りついた。
「ひのんも食う?」
「…………」
小さく首を横に振る。キリトは肩をすくめると手を振り、ウインドウを出して覗き込んだ。
「お……ずいぶん進んだな。あと六人……てことは、俺たちとモルターレ以外に残ってるのは三人か……。回線切断者は、変わらず二人……」
再びバーを齧りとり、もぐもぐと口を動かす。
「……運転中に双眼鏡で見たかぎりでは、この砂漠には他のプレイヤーはいないようだったな。シノンは見たか?」
再び首を振る。もっとも、ひたすらシートにうずくまっていたので、ろくに索敵もできなかったのだが。
「そうか……うーん……」
唸りながらレーションの最後のひと欠片を食べ終えたキリトは、しばらく黙考していたが、やがてまっすぐにシノンを見た。
「……あいつは強い。数値的にも……それに、あの狂気ゆえの力も、な。正直、一撃も食らわないで倒す自信はない。さっき逃げ切れたのも半分は奇跡だ……。これ以上、偶然をあてにはできない」
「…………」
己の強さに絶対の自信を持っていると思われたキリトの口から出た意外な言葉に、シノンはじっと少年の顔を見た。黒い瞳に浮かぶ光は、いつになく頼りなげに揺れているように見えた。
「……あなたでも、恐いの?」
ぽつりと訊くと、キリトはかすかに苦笑した。
「――ああ、恐いよ。昔の俺なら……あるいは、本物の死の可能性があろうと戦えたかもしれない。でも、今は……守りたいものが、いろいろ出来たからな……死ねないし、死にたくない……」
「守りたい、もの……?」
「ああ。現実、と言ってもいい。俺には、いまのリアルが何より大切なんだ」
「…………」
「だから……もう、奴とは戦いたくない。モルターレがこの砂漠で俺たちを捜してる間に、他の三人が退場するのを祈って、このままここに隠れよう。奴に優勝させるのは癪だけど……もう、そんな問題じゃないもんな……」
キリトの言葉を聞きながらも、シノンの胸の中には先ほどの一言がリフレインしていた。
リアル――私の、リアル。
このフィールドから生還したあとの、詩乃を待ち受ける現実のことを考える。
鉄橋のたもとで死銃に黒いハンドガンを向けられたあのとき、シノンは完全に竦みあがった。骨の髄まで怯えた。逃走の最中も何度となく悲鳴を上げ、泣き叫び、己の存在理由と言ってもいい狙撃の瞬間に、不発弾を祈りさえした。氷の狙撃手シノンは――完全に消え去った。
たぶん、このままなら、もう二度と自分の強さなど信じられないだろう。心は震え、指は強張って、全ての銃弾が的を外すだろう。
あの記憶に打ち克つことはおろか、現実世界でも、夜道の物陰から――戸口の隙間から、あの男が現われるのではないかと常に怯えることになる。それが、詩乃の、たったひとつのリアル。
そんなものに、守るべき価値など――あるのだろうか?
「……私……」
シノンはゆっくりと顔を上げ、キリトの目を見て、言った。
「私、逃げない」
「……え?」
「逃げない。ここに隠れない。外に出て、あの男と、戦う」
キリトは眉を寄せ、シノンに少しにじり寄って低くささやいた。
「……何を言ってるんだ、シノン。あいつと戦えば……ほんとうに死ぬかもしれないんだ。こんな、架空のゲーム世界で……二度と、現実に戻れないかもしれないんだぞ」
シノンはしばらく唇を閉じたあと、静かな声で唯一の結論を口にした。
「死んでも構わない」
「…………な……」
「……私、さっき、すごく怖かった。死ぬのが恐ろしかった。五年前の私より弱くなって……情けなく、悲鳴上げて……。そんなのじゃ、駄目なの。そんな私のまま生きつづけるくらいなら、死んだほうがいい」
「……怖いのは当たり前だ。死ぬのが怖くない奴なんていない」
「嫌なの、怖いのは。もう怯えて生きるのは……疲れた。――別に、あなたに付き合ってくれなんて言わない。一人でも戦えるから」
言って、シノンは萎えた腕に力をこめ、立ち上がろうとした。だが、その手をキリトが掴んだ。
「――一人で戦って、一人で死ぬ……とでも言いたいのか?」
「……そう。たぶん、それが私の運命だったんだ……」
罪を犯して、しかしいかなる裁きも詩乃は受けなかった。だから、あの男が帰ってきたのだ。しかるべき罰を与えるために。
「……離して。私……行かないと」
振りほどこうとした手を、しかしキリトは更にきつく掴んだ。
「……ふざけるなよ。一人で死ぬ、なんてことは有り得ない。人が死ぬときは、他の人の中にいるそいつも同時に死ぬんだ。俺の中にも、もうシノンがいるんだ!」
「そんなこと、頼んだわけじゃない。……私は、私を誰かに預けたことなんかない!」
「もう、こうして関わりあっているじゃないか!」
キリトは握ったシノンの手をぐいっと持ち上げ、眼前に突きつけた。
その瞬間、凍った心の底に押さえつけられていた激情が、一気に噴き上がった。シノンは音がするほどに歯を食い縛り、もう片方の手でキリトの襟首に掴みかかった。燃え上がるほどの熱量を込めた視線をキリトの目に注ぎ、叫んだ。
「――なら、私を一生守って!! 私を一生愛してよ!!」
突然視界が歪んだ。頬に、熱い感覚があった。自分の眼に涙が溢れ、滴っていることに、シノンはすぐには気付かなかった。
握られた右手を強引に振り払い、固く拳を握ってキリトの胸に打ちかかった。二度、三度、力任せにどんどんと叩きつける。
「何も知らないくせに……何もできないくせに、勝手なこと言わないで! こ……これは、私の、私だけの戦いなのよ! たとえ、負けて……死んでも、誰にも私を責める権利なんかない!! それとも、あなたが一緒に背負ってくれるの!? この……」
握った右手をキリトの目の前に差し出す。かつて、血に塗れた拳銃のトリガーを引き、一人の人間の命を奪った手。肌を詳細に調べれば、火薬の微粒子が侵入してできた小さな黒子が今でも残る、汚れた手。
「この、ひ……人殺しの手を、あなたが握ってくれるの!?」
記憶の底から、口々に詩乃を罵るいくつもの声が甦ってくる。教室で、他の生徒やあるいはその持ち物にうっかり触れてしまおうものなら、たちまち(触んなよヒトゴロシが! 血がつくだろ!!)足を蹴られ、肩を小突かれた。あの事件以降、詩乃は自ら誰かに触れたことはない。ただの一度としてない。
その拳を、最後にもう一度思い切り打ちつけた。この場所はセキュリティコードのないバトルフィールドであり、恐らくキリトのHPは打擲のたびにごく僅かに減少しているはずだったが、少年は身じろぎひとつしなかった。
「う……ううーっ…………」
こみ上げる涙を抑えることが出来なかった。泣き顔を見られるのが嫌で、勢いよく俯くと、額がどすんとキリトの胸にぶつかった。
左手で強くキリトの襟首を掴んだまま、力まかせに額を押し付けて、シノンは食いしばった歯の間から嗚咽を漏らしつづけた。幼子のように号泣しながらも、自分の中にこのような種類のエネルギーがあったことが少し不思議だった。最後に人前で泣いたのがいつだったかも思い出せなかった。
やがて、右肩にキリトの手が触れるのを感じた。しかしシノンは、握ったままの拳でその手を力任せに払いのけた。
「嫌い……大嫌いよ、あんたなんか!」
叫ぶあいだも、涙はあとからあとから零れ落ち、キリトの厚いとは言えない胸に吸い込まれていった。
どれくらいそのままでいたのか、いつしか時間の感覚を完全に喪失していた。
ついに涙も枯れ、シノンは途方も無い虚脱感とともに体の力を抜いた。自分に許したことのない甘い感傷の痛みが今だけは心地よく、少年に頭を預けたまま小さくしゃくりあげ続けた。
さらに数分続いた沈黙を破ったのは、シノンのほうだった。
「……あんたのことは嫌いだけど……少し、寄りかからせて」
呟くように言うと、苦笑の気配とともにキリトは短く、うん、と答えた。投げ出されたキリトの脚の上に、ゆっくりと上体を横たえる。顔を見られるのはやはり恥ずかしかったので、背中をキリトの腹に預けると、視界には、カウルに弾痕のあいた三輪バギーと洞窟の入り口が入った。
頭のなかはぼんやりとしていたが、死銃に襲われたときの思考麻痺状態とは違い、きつく重い服を脱いだような浮遊感があった。いつしか、ぽつりと口にしていた。
「私ね……、人を、殺したの」
キリトの返事を待たず、続ける。
「ゲームの中じゃないよ。……現実世界で。ほんとうに、人を……殺したんだ。五年前、東北の県であった郵便局の強盗事件で……犯人が、局員をひとり拳銃で撃って、自分は銃の暴発で死んだ、って報道されたんだけど、……ほんとは、そうじゃないんだ。その場にいた私が、強盗の拳銃を奪って、撃ち殺したの」
「……五年前……?」
囁くようなキリトの問いかけに、こくんと頷く。
「うん。私は十一歳だった……もしかしたら、子供だからそんなことが出来たのかもね。歯を二本折って、両手首を捻挫して、あと背中の打撲と右肩を脱臼したけど、それ以外に怪我は無かった。体の傷はすぐ治ったけど……治らないものもあった」
「…………」
「私、それからずっと、銃を見ると吐いたり倒れたりしちゃうんだ。テレビや、漫画とかでも……手で、ピストルの真似されるだけでも駄目。銃を見ると……目の前に、殺したときのあの男の顔が浮かんできて……こ、怖いの。すごく、怖い」
「……でも」
「うん。でも、この世界でなら大丈夫だった。発作が起きないどころか……いくつかの銃は……」
視線を動かし、砂の上に横たわるヘカートIIの優美なラインをなぞる。
「……好きにすらなれた。だから、思ったんだ。この世界でいちばん強くなれたら、きっと現実の私も強くなれる。あの記憶を、忘れることができる……って。なのに……さっき、死銃に狙われたとき……発作が起きそうになって……すごく、怖くて……現実の私に、戻ってた……。だから、私、あいつと戦わないとだめなの。あいつと戦って、勝たないと……《シノン》がいなくなっちゃう」
両手でぎゅっと体を抱く。
「死ぬのは、そりゃ怖いよ。でも……でもね、それと同じくらい、発作に怯えたまま生きるのも、怖いんだ。死銃と……あの記憶と、戦わないで逃げちゃったら、私きっと前より弱くなっちゃう。もう、普通に暮らせなくなっちゃう。だから……だから」
不意に襲ってきた寒気に、深く身震いした、その時。
「俺も……」
いつになく弱々しい、途方に暮れた子供のような声で、キリトが呟いた。
「俺も、人を、殺したことがある」
「え……」
同時に、今度は背中のうしろでキリトの体が震えた。
「……前に、言ったろう。俺はあの死銃……モルターレと、他のゲームで顔見知りだった、って」
「……う、うん」
「そのゲームのタイトルは……《ソードアート・オンライン》。きいた事……ある?」
「…………」
思わず首を動かし、キリトの顔を見上げていた。少年は、背中を洞窟の岩壁に預け、昏い目つきで空を見つめていた。
もちろんシノンは、その名前を知っていた。およそ日本のVRMMOプレイヤーで、かの呪われたタイトルを知らない者はいるまい。
「……じゃあ、あんたは……」
「ああ。ネット用語で言えば……《生還者》って奴だ。そして、あのモルターレも。俺はあいつと、互いの命を奪りあって、本気で戦った」
キリトの瞳から光が薄れ、視線が茫洋と宙をさまよった。
「あの男は、《ラフィン・コフィン》っていう名前のレッドギルドに所属していた。あ……SAOでは、タグの色から犯罪者のことをオレンジプレイヤー、盗賊ギルドのことをオレンジギルド、って言ったんだけど……特にその中でも、積極的に殺人を楽しむ奴らをレッド、って言ったんだ。そういう奴が、いっぱい……ほんとにいっぱいいたんだよ」
「で、でも……あのゲームでは、し……死んだら、ほんとに死んじゃったんでしょ……?」
「そうだ。でも……だからこそ、かな。一部のプレイヤーには、殺しは最大の快楽だった。ラフィン・コフィンは、そういう連中の集団だったんだ。フィールドやダンジョンでほかのパーティーを襲って、金とアイテムを奪って、それから一人ずつ殺した。ずいぶん色々と……酷いやり方を編み出したらしい」
「…………」
「だから、とうとう討伐パーティーが組まれて……俺はそこに雇われたんだ。討伐って言っても、ラフィン・コフィンのメンバーを殺そうっていう訳じゃなくて、全員を無力化して牢獄に送るっていう手筈だった。苦労して奴らのアジトを調べて、戦力的にも絶対大丈夫、っていうくらいのレベルのプレイヤーを揃えて、夜更けに急襲した。でも……こっちのパーティーに、内通者がいたんだ。向こうは罠張って待ち構えてて……討伐隊は、最初の1分で半分以上殺された……。それでも、どうにか立て直して……すごい混戦になって……その中で……お、俺……」
再びキリトの体がぶるぶると震える。目が大きく見開かれ、呼吸が浅くなる。
「武器が壊れて、戦意喪失した奴を……牢獄に送るはずだったのに……こ、殺したんだ。ひとりは……剣で、首を撥ねた。もう一人は、心臓を刺した。三人目も、無茶苦茶に切り刻んで……でも、そいつが死ぬぎりぎりのところで、我に返った。それが……あの男、モルターレだ。俺は……現実に戻ったあと、役人に無理を言って、殺した二人のことを調べてもらった」
「……そ……それで……?」
「――死んでたよ。二人とも。墓にも行った……けど、家族には……会えなかった。会って……本当のことを、言わないと……いけないのに……」
「……キリト」
シノンは体を起こし、キリトの両肩を掴んだ。少年の視線は微妙に焦点を失い、過去の一地点を覗き込んでいるように見えた。
「……私、あんたのしたことには、何も言えない。言う資格、ない。でも……一つだけ、一つだけ教えて。あんたは、その記憶を……どうやって、乗り越えたの? どうやって、過去に勝ったの?」
己の罪を吐露したばかりの相手に対して、あまりにも配慮のない、利己的な質問だと思った。しかし、訊かずにいられなかった。キリトの普段の立ち居振舞いには、そのような過去を感じさせるものは何一つ無かったからだ。
――しかし。
キリトは、二、三度瞬きをすると、シノンの目をじっと見た。そして、ゆっくりと、首を左右に振った。
「……乗り越えてない」
「え……」
「そんなこと……不可能だ。今でも夢に見ては飛び起きるし、人込みの中にあの二人の顔を見た気がして心臓が止まりそうになることもある。二人のことは……」
指先で耳の上を軽く叩き、続ける。
「俺の頭のなかに、絶対に消えない記憶として刻み込まれている。死ぬときの顔……命乞いの言葉……悲鳴……たぶん、一生忘れることは出来ないだろう」
「そ……そんな……」
シノンは呆然と呟いた。
「じゃあ……ど……どうすればいいの……。わ……私……」
――私は、一生このままなのか。
それは、あまりにも恐ろしい宣告だった。
全ては――無駄なのだろうか? たとえここで死銃と戦い、勝利し、GGO最強の称号を手に入れたところで、現実の詩乃の恐怖は続く――そういうことなのだろうか……?
「――でもな、シノン」
キリトの右手が動き、自分の肩を握りしめるシノンの手の上に載せられた。
「たとえ記憶に勝つ……恐怖を忘れることはできなくても、戦い続けることはできる。俺は、我を忘れて、この手で人を殺した……なのに、責められるどころか、称えられさえした。誰も俺を裁きもせず、償う方法も教えてくれなかった。だから、たぶん、この一生続く記憶との戦いが、俺に与えられた罰なんだと思う。俺は、ずっとあの二人のことを考え続ける……後悔し続けるだろう。せめてそれは、受けいれないといけない事なんだと思う……」
「……戦い続ける……そんな……私、そんなこと出来ない……」
「無理矢理遠ざけようとしても、消えることはないんだと思う……。なら、まっすぐ見て、受け止めるしかない」
「…………」
シノンは両手から力を抜き、再びキリトの脚の上に横たわった。
あの記憶をまっすぐ受け止める……そんなことができるとは、到底思えなかった。せめて、呼吸困難や嘔吐といった発作症状さえなければ……それとも、それは詩乃が無理に記憶をねじ伏せようとしているからなのだろうか……?
キリトの話は、正直なところ更なる混乱をもたらしただけのように思えた。しかし――とりあえず、一つだけはっきりとしたことがあった。
「……死銃……」
「ん?」
「じゃあ、死銃――あのモルターレって奴は、実在する、生きたプレイヤーなんだね……」
「そりゃあ、そうさ。SAOでの名前は《ザザ》。目の色から《赤眼》とも呼ばれてた。調べれば、すぐに現実の本名もわかるはずだ」
「……そう……」
ならば、少なくとも、詩乃の過去から甦った亡霊ではなかったわけだ。
「……じゃあ、SAO時代のことが忘れられなくて、生還した後もこのゲームで殺しつづけてる……ってこと?」
「……本人は、そんな事を言っていたな。SAOで沢山人を殺したからこそ、この世界でも銃で本当に人が殺せるのだ、とも……」
「……そんな、ことが……」
「有り得ない……と思いたいが、しかし……ここから脱出して、現実のモルターレを押さえてみない限り何とも言えないな。……いや、待てよ……そう言えば……」
「……?」
再び顔を見上げると、キリトは考え込むときの癖なのか、あごを指先でなぞりながら宙を睨んでいた。
「いや……まただ、と思ってさ」
「何が……?」
「俺たちを襲ったとき……奴はあのハンドガンで、俺は撃たずにシノンだけを狙った。ダインを見逃し、ザッパを撃ったときと同じだ」
「…………」
「……俺を見逃す理由なんかないはずだ。奴にしてみれば、仲間を殺し、自分を捕らえた仇敵だぞ。……目立つプレイヤーを殺す、っていう死銃の力のアピールの為としても……予選決勝では俺が勝ったんだし、見た目も俺のほうが美人だし……」
「悪かったわね」
肩でキリトの腹を小突く。
「うむ、じゃあ、同程度ということにしておこう。しかし、奴は俺を撃たなかった……」
「ご馳走は後回し、とか言ってなかったっけ?」
「でも、それで食べ逃したら本末転倒ってもんだろう。やっぱり、何か理由があるんだ……。死銃の、力の秘密に繋がる何かが……」
「うーん……」
シノンは体の向きを変え、キリトの脚のうえでうつ伏せになって、組んだ腕に頭を乗せた。この少年に対する腹立ちは消えていないが、そのような相手と密に触れ合っている状況がある種の安心感をもたらしているような気がして、どこか心地いい。
「……つまり、こういうこと? あんたとダイン、それに私とザッパの間には、それぞれ何か共通点があって、それがターゲットになるプレイヤーとならないプレイヤーを分けている……」
「うん。更に言えば、すでに殺されたゼクシードとたらこの二人にも、君とザッパに共通する何かがあるはずだ。……単に強さとか、ランキングってことなのかな……」
「前大会の成績で言えば、確かダインのほうがザッパより少し上だったわ」
「じゃあ……何か、特定の事柄に関わっているとかかな……」
「それも……無いよ、多分。だって私、ダインとはこないだまでずっと同じパーティー組んでて、何度も一緒にフィールドに出たけど、ザッパとはパーティーどころかほとんど話したこともないもん」
「ゼクシードやたらことは?」
「あの二人は、私やダインとはまたひとつふたつランクの違う有名人だから……。ゼクシードは前優勝者だし、たらこって人は五位だか六位だったけど、すごい大きいスコードロンのリーダーだしね。喋ったことなんて一度もない」
「むう……じゃあ、やはり装備とか……あるいはステータスタイプ……」
「装備は、全員バラバラだよ。私はこのとおり狙撃銃だし、ザッパは大口径ライフル、ゼクシードは確か変則で、フィールド中和効果つきの光学銃だったわ。たらこって人は突撃銃だしね。ステータスは……ああ」
「ん?」
キリトの顔を一瞬見上げてから、続ける。
「まあ、ある意味共通と言えば言えるかもね。全員、AGI特化じゃない、って一点でね。でも……とても共通点とは言えないよ。STRに偏ってたり、VITに偏ってたり……」
「ん~~~」
キリトは形のいい唇をひん曲げ、がりがりと頭を掻く。
「単に気まぐれってことなのか……。なんか……何か有りそうな気はするんだけどなあ……。――ザッパ氏とは、ちょっとは話したことあるの?」
「えーと……」
薄い記憶を辿りながら、シノンはもう一度体を半回転させた。キリトの右脚に背中を預け、左足の上で両手を組んで枕替わりにする。これもいわゆるヒザマクラの範疇だろうか、等と考えてしまい気恥ずかしさが少しだけ浮上してくるが、非常事態を言い訳に蹴り飛ばす。
思えば、他人と長時間触れ合うことなど、この数年間まったくなかった。まるで体重と一緒に心の重荷まで預けているようで、不思議な穏やかさが体を満たしていた。もう少しだけこうしていたい、とぼんやり思ってから、不意に新川恭二の気弱そうな笑顔が浮かんで、申し訳ない気持ちになる。もし無事に現実に戻れたら、もう少しだけ歩み寄ってみようか……
「――おい、シノン。ザッパとは……」
「あ、う……うん」
ぱちぱちと瞬きして想念を押し流し、シノンは記憶を呼び覚ました。
「――と言っても、ほんとにちょっと話しただけ。たしか……前の大会が終わって、総督府の地下ホールに戻ったとき、出た場所がすぐ近くだったんだ。で、二、三分、大会のこととか、賞品のこととか喋ったんだけど……フィールドでは直接戦いもしなかったし、世間話程度だよ」
「そっか……。前の大会にはモルターレは出てなかったようだしな……。今はこれ以上は無理か……」
キリトは軽くため息をついた。気分を変えるように肩をすくめ、シノンを見下ろしてくる。
「そういや、そこまで調べなかったんだけど……賞品って何が貰えるんだ?」
「あー、選択式で、色々よ。順位に応じていろいろ選べるんだけど……そういや今回は私たちけっこう順位良さそうだから、いい物もらえるかもね。無事に帰れれば、だけど」
「例えば、どんな?」
「そりゃ当然、銃とか、防具とか……オプションに無い色の髪染めとか、服とかね。ただまあ、ほんとに高性能な奴じゃなくて、外見が目立つ、って感じのものばっかりだけど。あとは、面白いとこだと、ゲーム内の銃のモデルガンとかね」
「モデルガン? ……ってことは、リアルの?」
「そ。私、こないだの大会じゃ順位悪くて、ゲーム内で欲しいもの無かったからそれにしたんだけどね。そういや、ザッパもモデルガンにするような事言ってたかな……。おもちゃはおもちゃだけど、金属とかも使ってあって、けっこうちゃんとした物らしいよ。しん……シュピーゲルがそう言ってた。まあ、私は……」
かすかに自嘲気味な笑みを滲ませる。
「――引出しに仕舞いっぱなしで、ろくに見てないけどね」
「それは、運営体が送ってきたの? アメリカから?」
「うん。フェデックスでね。けっこうお金かけてるよね。儲かってるのかな、ザスカー」
茶化すように言い、再びキリトの顔を見上げて――シノンはぱちくりと目を見開いた。少年が、きつく唇を噛み、眉をぎゅっとしかめて、宙をじっと睨んでいたからだ。
「な……何よ、どうしたの?」
「……フェデックス……。――でもさ、俺ついこないだGGOにサインアップしたんだけど、ユーザー情報欄はジップコードとEマネーIDと、性別年齢くらいしか無かったぜ。住所は、どうやって……?」
「そりゃもちろん、モデルガンを選択してからあて先を申告したのよ」
「それは……公式サイトで? それとも……」
「前にも言ったじゃない。ゲームに関する手続きは、全部中で出来るの。総督府の端末でね。――って……な!?」
突然、キリトはシノンの右肩をがしっと掴み、顔をぐいと近づけてきた。思わず、何か怪しからぬ行為に及ぶ気かと体を固くしたが、勿論そうではなかった。
至近距離から、いつになく真剣な表情でキリトは言った。
「その、賞品だけど……ダインは? 何を選んだ?」
「え、えっと……何か、趣味の悪い色のジャケットだった」
「ゼクシードとたらこは?」
「さ、さあ……話したこともないもん。でも、まあ……あれだけのハイレベルプレイヤーになれば、つまらないアイテムなんか興味ないだろうから、モデルガンじゃないかな……。それが、何なのよ?」
だがキリトは答えず、シノンの目を見ながらもその心は思考の海を彷徨っているようだった。
「モデルガン……フェデックス……総督府……あの場所は……確か……」
うわ言のように、低い声で呟き続ける。
「……時間……順番……」
突然、右肩に乗せられたキリトの手に、ぎゅうっと恐ろしいばかりの力が込められた。両目がかっと見開かれ、黒い瞳が爛々と光った。そこにあるのは――恐怖? あるいは、危惧?
「ど……どうしたのよ!?」
「ああ……なんてことだ…………なんてことだ」
紅く艶やかな唇から、それに似つかわしくないしゃがれた声が漏れた。
「俺は……とんでもない誤解を……」
「ご、誤解?」
「……VRMMOをプレイするときは……プレイヤーの魂は、現実世界から仮想世界に移動し、そこで喋り、戦うのだと……だから、死銃も、この世界で標的を殺しているんだろうと……」
「ち……違うの……?」
「違う。プレイヤーの体も、心も、移動なんてしちゃいない。仮想世界なんてものは、ほんとはありはしないんだ。ベッドに寝転がったプレイヤーが、映像を見て、音声を聴いてるだけなんだ」
「…………」
「だから……ゼクシードたちは、あくまで死体のあった場所、自分の部屋で死んだんだ。そして……殺人者も……その場所に……」
「何を……何を、言ってるの……」
キリトは一瞬唇を閉じ、再び開いた。その声は、彼の恐怖を映してか、凍えるような冷気に厚く包まれていた。
「死銃は――二人いるんだ。ひとり……つまりモルターレが、ゲーム内でターゲットを撃つ。同時に、ターゲットの部屋に侵入したもうひとりが、目の前で横たわるプレイヤーを殺す」
キリトの言葉の意味が、一瞬わからなかった。シノンはわずかに上体を起こし、しばらく放心したあと、首を横に振った。
「でも……だって……そんなの、無理だよ。どうやって、住所を……」
「君がたった今言ったじゃないか。モデルガンが送られてきた、って」
「じゃ……じゃあ、運営体が犯人なの……? それとも、ユーザーデータに侵入して……?」
「いや……その可能性はごく低い。一般のプレイヤーでも、ターゲットの住所を知ることは可能だ。BoB本大会の出場者で、賞品にモデルガンを選択した者に限っては」
「…………」
「総督府だよ。あそこの端末で、宛先を打ち込んだと言ったな。俺が大会の参加登録したときも、少し気になったんだけど……あの場所は吹き抜けになっていて、一階ホールを囲むように、中二階のカフェテリアがあった。そこのテーブルから、双眼鏡なりスコープなりを使えば、操作中の端末画面を詳細に覗き見ることは充分に可能なはずだ」
「……か、鍵はどうするの? 家の人とかは……?」
「ゼクシードとたらこの例に限って言えば、二人とも一人暮らしで……家は古いアパートだった。多分、鍵も旧式だろう……。最近は高性能のピッキングガンも出回ってるしな。それに、部屋の住人の意識が無いのは、モルターレが確認できるんだ。その気になれば侵入は案外容易いんじゃないのかな……。下調べとか、準備にもたっぷり時間を掛けられるしな」
次々と重ねられる言葉に、シノンは耳を塞ぎたいような気持ちを味わっていた。今まで、謎に包まれた茫漠とした存在であった死銃が、現実の犯罪者として徐々にその輪郭を露わにしていくにつれ、先ほどまでとは別種の恐怖が胸に染み出してくる。
どうにかして否定する材料を探そうと、シノンは強張る唇を動かした。
「じゃ、じゃあ……死因は? 不明なんでしょ……?」
「何らかの薬品……だろうな。筋弛緩系の……それで、心臓が止まったんだ」
「そんなの……調べれば分かるでしょう? 注射の痕とか……」
「……死体は、発見が遅くて……かなり腐敗が進んでいた。それに……残念ながら、コアなVRMMOプレイヤーが心臓発作で死ぬ例は、ほんとに多いんだ。ろくに飲み食いしないで、寝てばっかりいるんだからな……。部屋も荒らされず、金が獲られてもいなければ、自然死と判断される確率は高いだろう。それでも一応、脳の状態は詳しく調べたらしいんだけど、まさか薬品が注射されたなんて……最初からそのつもりで調べないと、分からないだろうな」
「…………そんな……」
シノンは両手でキリトのジャケットを握り、いやいやをする子供のように頭を振った。
そこまで周到な準備をして、ただ人を殺すために殺す――。そのような行為に及ぶ人間の心理は、完全に理解の埒外だった。感じられるのは、極北の闇を満たす深い悪意、それだけだった。
「……狂ってる」
囁いたシノンの声に、キリトも頷いた。
「ああ……狂ってる。そうしてまでも、あの男にとっては、真のプレイヤーキラーであるという事実が必要だったんだろう……。共犯者のことまではわからないが……多分、そいつもSAOサバイバーである可能性は高い。いや……ラフィン・コフィンの生き残り、かもしれないな。しかし……おそらく、いや99パーセント、これが事件の真相だろう。モルターレは、俺たちを襲ったとき頻繁に時間を気にしていた。現実世界での準備が整うのを待っていたんだ。――シノン」
キリトは、両手でぎゅっとシノンの肩を掴んだ。
「君は……ひとり暮らしか?」
「う……うん」
「鍵は……それに、ドアチェーンは?」
「鍵は掛けてあるけど……古い、ピンシリンダーの奴だから……。チェーンは……」
混乱した思考のなかで、必死にダイブ前の記憶を探る。
「……してない、かもしれない」
「そうか。――いいか、落ち着いて聞いてくれ」
キリトの顔に、かつて見たことのない恐怖の色が浮かんているのを見て、シノンの胸の奥は氷を詰め込まれたかのようにきりきりと冷たくなった。
嫌だ、その先は聞きたくない――
「モルターレは、君をあの銃で撃とうとした。いや……バギーで追っているときに、実際に撃った。つまり……準備が完了している、ということだ。……今この瞬間、現実の君の部屋に共犯者が侵入して、中継画面でその瞬間を待っている――という可能性がある」
告げられた言葉が、意味を成すかたちとなってシノンの意識に浸透するのには長い時間を要した。
すうっと周囲の光景が薄れ、見慣れた自分の部屋が脳裏に甦ってくる。幻視のように、高い位置から六畳の自室を見下ろす。
こまめに掃除機を掛けている、フローリング風のフロアタイル。淡い黄色のラグマット。小さな木製のテーブル。
西側の壁に面して、黒のライティングデスクと、同じく黒いパイプベッドが並べられている。シーツは飾り気のない白。その上に、トレーナーとショートパンツ姿で横たわる、自分。目を閉じ、額には二重の金属環で構成された機械が装着されている。そして――
ベッドの傍らにひっそりと立ち、眠る少女を覗き込む、黒い人影。全身はシルエットのように塗りつぶされているが、ただ一つ、右手に握るモノだけがはっきりと見える。曇ったガラスのシリンダー、その先端から伸びる銀色の針――致死性の液体を満たした、注射器。
「嫌……いや……」
シノンはぎしぎしと強張った首を動かし、呻いた。幻が消え去り、砂漠の洞窟に戻っても、侵入者の握る注射器のぎらつきだけは眼の底に残っていた。
「いやよ……そんなの……」
恐怖――などという、生易しいものではない。激甚な拒否反応が駆けめぐり、全身が抑えようもなく震えた。動くことも、周囲を認識することもできない無力な自分のからだを、間近から見知らぬ人間が見ている。いや――それだけではないかもしれない。肌に触れ……あるいは更に……
不意に、喉の奥が塞がるような感覚とともに、呼吸ができなくなった。背筋を反らせ、空気を求めてあえぐ。
「あ……ああ……」
光が遠ざかる。ごうごうと耳鳴りがする。魂が、かりそめの肉体から離脱する――
「だめだシノン!!」
いきなり両腕をきつく握られ、同時に耳もとで凄まじい音量の叫び声がした。
「今カットオフしたら危ない! がんばれ……気持ちを落ち着かせるんだ! 今はまだ大丈夫だ、危険はない!!」
「あ……あっ……」
焦点の合わない眼を見開きながら、闇雲に両手を動かし、声の主にすがりつく。確かな温度を持ったその体に両腕をまわし、無我夢中で抱きつく。
すぐに、力強い腕が背中を抱え、しっかりと繋ぎとめるように力が込められた。もう一方の手が、ゆっくり、ゆっくりとシノンの髪を撫でる。
再び、今度は囁き声がした。
「死銃のハンドガンに撃たれるまで、侵入者は君に何もすることができない。それが、奴ら自身が定めた制約だ。だが緊急ログアウトして、侵入者の顔を見てしまうと逆に危険だ。だから、今は落ち着くんだ」
「でも……でも、怖い……怖いよ……」
子供のように訴えながら、シノンはキリトの肩口に顔を埋めた。
両腕にぎゅうっと力を込めると、かすかに、しかし規則正しくリズムを刻むキリトの鼓動が伝わってくる。
脳裏に広がる恐怖のイメージを打ち消すように、シノンは必死にそのリズムに耳を澄ませた。とくん、とくん、とほぼ一秒に一度のペースで、拍動が体に染み込んでくる。狂騒的なアレグロでわめくシノンの心臓を、メトロノームのようにそっと宥めていく。
気付くと、まるでキリトの精神に同調したかのように、パニックの衝動は薄れていた。恐怖は消えないが、それを抑えるに足る理性が少しずつ復調してくるのを感じた。
「……落ち着いたか?」
低い声とともに、背中からキリトの腕が離れようとした。だが、シノンは小さく首を振り、呟いた。
「もう少し……このままでいて」
返事は無かったが、再び体がしっかりと包まれた。華奢な手が頭を撫でるたび、温もりが凍りついた体の芯を少しずつ溶かしていく。シノンは深く息をつくと、まぶたを閉じ、全身から力を抜いた。
数十秒――あるいは一分以上そのままでいてから、シノンはぽつりと言った。
「……あんたの手、お母さんに似てる」
「お、お母さん? お父さんじゃなくて?」
「私、お父さんのこと何も知らないの。赤んぼの頃、事故で死んじゃったんだ」
「……そうか」
キリトの答えは短かった。シノンは、ぎゅっとキリトの胸に頬を押し付けた。
「――どうすればいいのか、教えて」
思ったよりも、しっかりした声が出せた。キリトは、シノンの髪を撫でる手を止め、即座に答えた。
「モルターレを倒すんだ。そうすれば、現実世界で君を狙う共犯者は、何も出来ずに姿を消すはずだ。――と言っても、君はここで待機していればいい。俺が戦う。モルターレのあの銃では、俺を殺せないんだからな」
「本当に……大丈夫なの?」
「ああ。モルターレは俺の住所なんか調べられないし、そもそも俺は家からダイブしてるわけじゃないんだ。すぐそばに人もいるしな。だから俺は大丈夫――ただ、ゲームルールに則ってあの男を倒すだけだ」
「でも……あの黒いハンドガン抜きでも、あいつ、かなりの腕だわ。回避力だけ見てもあんたと同等かもしれない」
「……確かに、絶対の自信があるわけじゃないけど……残りは何人だろう」
声と共に、シノンの頭からキリトの左手が離れる。ウインドウを確認する気配。
「――4人。シノンと俺……モルターレと、誰かさん、か。微妙な状況だな……。モルターレと残るひとりが戦い、どちらかが倒されれば理想的なんだが……それを待つほうがいいかな……」
「あ……」
シノンはそれを聞いて、とあるルールを思い出し、顔をしかめた。目を開き、尋ねる。
「――この洞窟に隠れてから何分経った?」
「え? ええと……20分ちょっとだな」
「じゃあ、ここにはあと10分しか居られないわ。30分以上一箇所に留まり続けると、マップ上にその人の位置が表示されちゃうっていうペナルティがあるの」
「なるほどな……。どれくらい移動すればいいんだ?」
「100メートル」
「……よし。じゃあ、逆にそれを利用するか……。ここから出たら、俺は50メートルほど移動して止まり、ペナルティを受けてモルターレをおびき出す。君は100メートル以上離れて、似たような岩山の影に隠れるんだ。俺がモルターレを倒せばそれでよし、もし負けたら、そのまま待機してくれ。残りひとりもこの場所にやってくるはずだから、そいつとモルターレを戦わせる」
「モルターレが、その相手もあの銃で撃とうとしたら……?」
「いや……そう都合よく奴のターゲットが残っているとは思えない」
「うん……」
キリトが退場し、このフィールドにモルターレと一緒に残されることを考えると、深い不安が押し寄せてきたが、シノンはそれを飲み込んで頷いた。
「モルターレが死んだら、残りひとりを狙撃で倒せば君の優勝だ。だが――モルターレが残ったら、決して戦おうと思うな。自殺するんだ。そして待機ホールには戻らずにログアウトする。……いいか、ここからが重要だ」
キリトは両手でシノンの体をそっと持ち上げ、ごく近い距離からじっと目を見つめた。
「ログアウトして、意識が現実の体に戻っても、すぐに動いちゃだめだ。おそらくその時点では、侵入者がいたとしてももう部屋から脱出しているはずだが、万が一そいつが残っている気配がしたら、動かないでダイブが継続しているように装うんだ。そいつは絶対に君には何もできない。なぜなら、死銃に撃たれた、という事実なしに君を殺すことはできないからだ。BoBの外部中継が終了したら、そいつは部屋から出ていくはずだ。そうしたら、すぐに鍵とチェーンを掛け、警察に連絡を――いや、待てよ……」
一瞬口を閉じ、猛烈な速度で何事か考えるように目を閉じてから、キリトはすぐに言葉を続けた。
「状況に関わらず、俺は君より早くログアウトすることになるだろう。万一の為に、俺も警察に通報したほうがいいかもしれない……。――シノン。重大なマナー違反は百も承知だけど……君の本名と住所を、訊いていいか」
「…………」
シノンは無言のまま、じっと目の前の少年を見つめた。
ゲーム内で現実世界に属する情報を漏らすことは、言われるまでもなく非常な禁忌である。しかし――今のこの状況が、すでにゲームではなくなっているのもまた確かなことだった。
ゆっくりと一つ頷いてから、シノンは告げた。
「私の名前は――朝田詩乃。住所は、東京都文京区湯島二丁目……42の10、ナミキハイツ202」
「文京区!?」
キリトは一瞬目を大きく見開いた。
「――俺がダイブしているのは千代田区だ。しかも……湯島二丁目とは、かなり近い……ほとんど目と鼻の先だ。警察よりも早いかもしれない……」
「来て……くれるの?」
「……そうしよう。通報したら、すぐに向かう。一応……俺の名前は、桐ヶ谷、和人という」
「キリガヤ……くん」
とうとう、リアルでまで関わることになってしまった――と思いながら、シノンはその名前を繰り返した。
どうやら、シノンと似たような安易なネーミングであるらしい少年は、こくんと頷くと体を起こそうとした。
「じゃあ……移動の準備をしよう。とりあえず入り口から索敵を……」
「あ……ま、待って」
シノンは反射的にキリトの体にまわした腕に力を込め、その左頬に頭をすり寄せた。
「あ……あの」
慌てたような声を出すキリトの耳に、ごくかすかな声で囁きかける。
「……い、言っとくけどね、私……あんたのこと、嫌いなんだからね」
そのまま少し顔を動かすと、額の脇で結わえた髪がぱさりと流れ、直接頬と頬が触れ合った。
突然、このような衝動に駆られた理由は、シノンにもよくわからなかった。あるいは――ひとと触れ合い、言葉を交わすのがこれで最後となりうることを、心のどこかで悟っているせいかもしれなかった。
ゆっくり、顔の角度を変えていく。唇の端と端がわずかに交差し、離れ、もう一度――
「あの……し、シノン」
「……なによ」
「いや……少し前から、視界の右下に……その、Lの字みたいなマークが……点滅してるんだけど……何だろう」
「え……」
慌てて確認すると、確かにHPバーの下に、四角い枠に囲まれたL字が小さく表示されていた。即座にがばっと体を起こし、周囲の空間を見回す。と――左後方、洞窟の天井ぎりぎりの場所に、明るい水色の光点が浮いているのが見えた。
「あっ……な……しまった……」
一瞬、飛び起きてキリトから離れようと考えたが、すぐに今更手遅れだと思い直し、再び少年の胸に体を預けた。
「あの……あれは、何?」
「ライブ中継カメラよ」
「なっ……やばい、会話を……」
「大丈夫、音声は拾わないから。――手でも振ったら」
SAO3_09_Unicode.txt
それとも――、と、ことさらクールな声で続ける。
「……この映像を見られると困る相手でも、いるの?」
するとキリトはちらりと真剣に怯えた顔を見せたあと、居直るように強張った笑みを浮かべた。
「あー……いや……その……そりゃ君のほうだろう。大体、これ見てる人は、両方女の子だと思う可能性が高いんじゃないか?」
「う……」
確かに言われればそのとおりであり、いずれシノンは厄介な弁明を強いられることになりそうだった。だが――全ては、無事にこの状況を乗り切ってからだ。瞬間、生身の体が瀕している危機のことを思い出して背筋がひやりとするが、何故か、大丈夫、何とかなるという根拠のない確信のほうが大きかった。あるいはそれは、目の前の、美少女の外見にそぐわぬふてぶてしさを備えた光剣使いから伝染したものかもしれなかった。
シノンはふん、と短く鼻を鳴らして言った。
「――カメラに気付いてジタバタ取り乱すほうがかっこ悪いわ。いいわよ別に、その……そういうシュミの持ち主っていう噂でも立てば、面倒なちょっかいも減るだろうし」
「じゃあ、俺はずっと女の子で通さないといけないの?」
「忘れたとは言わせないわよ。あんた最初に女のフリして私に案内を……あ、消えた」
無音の映像からは睦言を囁いているとしか思えないであろう体勢で、皮肉の応酬を繰り広げようとしたその時、ライブカメラを現す光点は新たなターゲットを求めて旅立っていった。
シノンはふう、とため息をつくと、今度こそ体を起こした。
「なんか……色々やりかけだけど、そろそろ移動しないと間に合わない」
「――そうだな」
キリトは表情を引き締めると、軽くシノンの左腕を握り、言った。
「手順はわかってるな。くれぐれも、死銃に発見されないように気をつけろよ」
「ん。もうすっかり日も暮れたし、そうそう見つかるもんじゃないわよ」
頷き、シノンは立ち上がった。思わぬ長時間に及んだ接触を失った体に、夜の砂漠の空気は少しだけ冷たく感じられた。
ヘカートIIのスコープを暗視モードに変更し、シノンは右目で覗き込んだ。
グリーンの濃淡で表示される砂漠には、今のところ動くものの影はない。
洞窟の入り口にシノンと並んで横たわり、双眼鏡で索敵していたキリトが短く呟いた。
「赤外線でも見当たらないな。よし――俺はこのまままっすぐ北に50メートル移動し、モルターレを待つ。君は……見えるか? あそこ」
黒のグローブを嵌めた右手で指差す先、西北西に300メートルほど離れた場所には、今居る場所と似たような岩山が黒く頭をもたげていた。
「あの根元に、ひとりなら隠れられそうな窪みが見えた。そこまで走って伏せるんだ」
「……わかった。めんどくさいの嫌だから、死銃の奴はあんたが片付けてよね」
そっけない口調でそう言うと、キリトは片頬でニヤリと笑い、中腰で立ち上がった。
それに倣いながら、シノンはふと、もうひとことだけ、何か言わなければ――という衝動を感じた。しかし、言うべき言葉を見つけるより早く、キリトはぐっと頷いて洞窟から一歩踏み出した。
まあ、いいや――何を言うかは、現実世界で会ってから決めよう。
そう思い、シノンも満天の星空のしたに進み出た。
ヘカートをしっかりと背負いなおし、キリトと同時に、しかしおよそ80度異なる方向へとダッシュを開始したときには、もう雑念は全て吹き飛んでいた。
細かい砂に数回足をとられそうになりながらも、シノンは目標地点までの距離を一分とかからず駆け抜けた。
キリトの言葉どおり、岩山の下部には、先ほどまでいた洞窟とは比べ物にならないが、どうにか体全体を隠せそうな窪みが存在した。走りながら体を低くして、滑り込むように穴の中へと突っ込む。
うつ伏せになると両足で奥の岩壁をしっかりと支え、ヘカートを肩から下ろした。バイポッドを展開してしっかりと砂に突き立て、セーフティを解除する。
ぶつけるようにストックに肩を押し当て、スコープを覗いた。
狙い違わず、視野の中央、ひときわ大きな砂丘の天辺に俯いて立つ人影があった。
時折吹き抜ける風が、肩のラインでまっすぐに揃えられた黒髪を揺らしている。細い体を包む黒のファティーグは夜闇に溶け込むようで、なぜかその姿は、銃を帯びた兵士と言うよりも、幻想世界の荒野に佇む妖精の剣士のように思えた。
シノンが思わず息を飲んで見守るなか、キリトはゆっくりと右手を動かし、腰からフォトンソードを外した。音も無くプラズマの粒子――あるいは魔法の燐光をまとった刀身が伸び、周囲を青紫色に照らし出した。あまりのまばゆさに、シノンは目を細めてスコープの光増幅率を下げた。
ライフルから顔を離しても、数百メートル先の光剣の輝きは肉眼ではっきりと見えた。これなら、砂漠を彷徨っているであろうモルターレもすぐに気付くだろう。
願わくば――キリトの推理が事実であり、死銃の殺人光線が偽りの力でありますように。
それは同時に、現実の詩乃を狙っているもうひとりの死銃の存在を肯定することにもなる。しかしそれでもなお、シノンはそう祈った。あの禍々しい赤いビームに撃たれ、キリトが悶え苦しんで消滅するシーンなど絶対に見たくなかった。
再びスコープを覗き、撃つ予定は無いもののトリガーに指を掛ける。
それからの待ち時間は、今までスナイパーとして経験したどの狙撃よりも長く感じた。おそらく、たかが数分であったはずなのだが、過ぎ去る一瞬一瞬は永遠にも等しいほどに引き伸ばされていた。
星明りに照らされた砂漠にただひとり、光の剣を携えて立つ中性的な少年の姿は、この殺伐とした戦場には有り得ないほどに美しく感じられた。この世界で最後に見る光景としては悪くない――、シノンはそう思いながら、瞬きもせずにその姿を見つめつづけた。
しかしついに、その瞬間がやってきた。
突如、キリトの周囲で立て続けに砂が弾けた。赤い光線ではなく、実弾の連射だった。しかしキリトは、弾道予測線から威嚇と察していたのか、身じろぎひとつしなかった。数秒後、砂丘の向こうから、あらたな人影が出現した。
夜風になびく、裾がぼろぼろに解れた迷彩マント。右手に握ったベレッタSC70。左手に下げた無銘のハンドガン。間違いなくあの男――モルターレと名乗る死銃の片方の腕だった。
死銃は、キリトから10メートルほど離れた場所に立ち止まった。
その瞬間、シノンはヘカートの銃弾で男の頭を吹き飛ばしたい衝動に駆られ、右手の人差し指をぴくりと震わせた。死銃がシノンに気付いていない今なら、狙撃手の特権として、一度だけ予測線を与えない攻撃を試みることができる。
しかし――多分、あの男は回避するだろう、という予感があった。それに、表面的には平静な意識を保っていても、いざ狙撃となればあの時の恐怖が甦り、照準を妨げるかもしれなかった。こわばった指を苦労してトリガーから剥がす。
即座に激戦が繰り広げられると思いきや、予想に反して二人はなかなか動かなかった。キリトは右手の剣を下ろしたままの格好で、左手を動かしながら何事かを喋っている様子だった。おそらく、推測をもとに、モルターレの凶行を中止させるべく説得しているものと思われた。
しかし、狂える殺戮者はまったく聞く耳を持っていないようだった。いきなり、左手に握った例のハンドガンでまっすぐキリトを照準し、短く叫び返した。
キリトを撃つのでは――、と思った途端背筋を冷たいものが這ったが、シノンは歯を食いしばって耐えた。
二人は、再び動きを止め、言葉の応酬を再開した。数百メートルの距離ゆえに、会話はまったく聞こえないが、それでもシノンには交わされている言葉の内容がおぼろげに察せられた。彼らは恐らく――今はもう存在しない、しかしなお二人の心を幾重にも縛っている彼の世界での出来事について語っているのだ。
いくつかの言葉がやり取りされ、そしてついに、仁王立ちになったモルターレが体を大きく反らせて肺腑の底からすさまじい大音声をしぼり出した。あまりの声の大きさに、その言葉だけはいくつもの砂丘を越えてシノンの耳にまで届いた。
「……なら、お前の罪はこの僕が裁いてやるぞキリトォォォォォ!!!」
直後、右手のベレッタを振り上げて、フルオートで銃弾の雨をばら撒いた。
戦闘が始まった。
キリトは、右手の光剣を目まぐるしく閃かせ、至近距離からの高速弾のほとんどを弾き返したが、それでも一、二発が体の末端を捉えるのが見えた。
突撃銃の斉射が途切れるやいなや、黒衣の少年は10メートルの距離を一足飛びに詰め、モルターレに斬りかかった。
右下から切り上げる第一撃。そのまま真横に凪ぐ第二撃。踏み込みながら素早く剣を引き、直突きの第三撃。振りかぶって大上段に切り下ろす第四撃。
舞のように流麗でありながら、剣の描いた光の軌跡がすべて繋がって見えるほどの、凄まじいスピードの連続攻撃だった。しかし――
驚くべきことに、死銃は体を開き、沈め、後方に飛び退って、すべての斬撃を回避してのけた。明らかに、剣相手の戦闘に慣れきった動きだった。
全力を込めたと思しき上段斬りを回避され、キリトの動きが一瞬止まった。その隙を突いて後方宙返りで距離を取ったモルターレは、再び右手のアサルトライフルを吼えさせた。オレンジ色の発射炎が長く伸び、キリトの体を無数の射線が包み込む。
今度は、キリトが飛び、伏せ、剣を振って、初めて会ったときに武器屋の店先で見せたのと同じ超絶回避技術を披露した。十数発の弾丸すべてが、青白い砂に空しく穴を穿った。
ライフルが沈黙した瞬間、シノンは心の中で、今よ!! と絶叫した。
ベレッタSC70のマガジン装弾数は30だ。一回目の連射と合わせると、間違いなくその全てを使い切っている。弾の無くなった銃など単なる鉄の塊であり、また近距離、一対一の戦闘中に弾倉を換える暇などありはしない。
それはキリトも重々承知していたようだった。射撃が途切れた瞬間、激しく砂を蹴って一直線に襲い掛かった。ブルーパープルに輝く刃を、頭上高く振りかぶり――
しかし、その突進は距離なかばでの中断を余儀なくされた。
モルターレが左手の、あのハンドガンを突き出し、立て続けに真紅の光線を撃ち込んだのだ。
キリトは右足を砂に突き立て、真横に転がった。その体を追って、次々と砂に赤いレーザーが突き刺さる。
しかしシノンは、射線から、モルターレにはキリトに光線を命中させる気がないのを察していた。あれは、あくまで牽制なのだ。「死の光線」を命中させ、しかしキリトが消えなければ、今まで築いてきた死銃の伝説に傷がついてしまう。
恐らく、キリトにもモルターレの意図はわかっているだろう。しかし、例えそうであっても、あの光線を身に受ける覚悟で突進するためには、途方もない意思力が必要であろうことは容易に察せられた。己の仮説にどれほど自信があろうと、それは現段階では絶対の事実ではないのだ。「もしかすると」と思ってしまったが最後、反射的にあの銃による攻撃を回避してしまうのも止むを得ない。
血の色の光線でキリトを追い立て、充分に距離を稼いでから、死銃は手練の早業でベレッタのマガジンを換装した。再びライフルが火を噴き、体勢を立て直しきれなかったキリトの脚に更に一発が命中した。と――
今まで、あえてフォトンソードだけで戦っていたキリトが、いつのまに抜いたのか、左手に握ったファイブセブンを連射した。ベレッタとは微妙に異なる色の光を曳きながら、弾丸が宙を切り裂く。
虚を突かれたのか、死銃の回避は初動が遅れ、一発がその胸部を捉えた。貫通力にアドバンテージを持つSS90弾がボディアーマーを貫いたと見え、ぐらりと死銃の体が揺れた。
その隙を逃さず、キリトは空を翔ける勢いで彼我の距離をゼロにし、再度斬りかかった。
だが今度は、モルターレは攻撃を避けようとはしなかった。代わりに、右手のベレッタをまっすぐに突き出す。
キリトの袈裟切りが死銃の肩口に食い込み――同時に、咆哮した突撃銃が三発の弾丸をキリトの腹に叩き込んだ。一瞬の交錯で、HPバーを半分以下に減らした両者は大きく飛びのいて、ぴたりと動きを止めた。
いつしかシノンは、恐怖も忘れて、眼前で繰り広げられる死闘に見入っていた。
通常、GGOにおける戦闘では、回避など端から考えない無様な撃ち合いが繰り広げられるものと相場が決まっている。相手の弾道予測線を意識することができるようになって、三流。十発中三発を回避できれば、二流。同時に己の着弾予測円を安定させられるようになればもう一流だ。
しかし――、いま戦っているキリトとモルターレのように、掩蔽物の一切無いオープンフィールドにおいてこれほどの熱戦を繰り広げられる者は、BoB出場クラスのプレイヤーにもそうはいるまい。
モルターレ・フチーレ、というあの男の名前にはまるで見覚えが無かった。ということは、あのキャラクターはこの「死銃伝説」の為に一から鍛え上げたものだろう。超高レベルのステータスからして、多分ゲーム担当とリアル担当の二人で交互にログインし、経験値を稼いだものと思われた。
しかし、恐らく、「モルターレ」となる以前のあの男は、名の通ったガンナーであったに違いない。そう思うと、シノンはかすかなやるせなさを感じた。
なぜ、それで満足できなかったのか。なぜ、現実での殺人行為に手を染めてまで、真のプレイヤー・キラーなどという汚れた称号を欲したのか。
多分――。
その心の歪みは、代償なのだ。あれほどの強さを手に入れるのと引き換えに、彼は人間の心を失ったのだ。
そう確信するほどに、モルターレの動きは超人じみていた。あの男は、二年に及ぶ、仮想世界における本当の命のやり取りを繰り広げてきた「SAO生還者」という人種なのだ、という事実をシノンは今更のように実感していた。
で、あるならば。
そのモルターレと、互角以上の戦いを繰り広げているキリトにも、やはり失ったものがあるのだろうか。
知りたい。彼がどのように戦い、どのように生きたのか、そのすべてを知りたい、とシノンは痛切に思った。その為には、必ず生き延びて、現実世界で再会しなくてはならない。
HPを大きく減少させたキリトとモルターレは、次の交錯で決着をつけるべく、身じろぎもせずに睨み合っていた。
シノンはスコープから目を外し、肉眼で彼方の青い光を見つめた。一瞬、何ものかに祈ってから、再びライフルに顔を寄せ――
ようとして、視界の端に、ちらりと動いた影を捉えた。
ハッと息を飲み、慌ててライフルの向きを変えて覗き込んだ。
対峙するキリトとモルターレから、北西方向におよそ400メートル。人の背丈の倍以上はあろうかという巨大なサボテンの根元に、わずかに盛り上がる黒い影があった。こうして見ている限りでは、植物の瘤としか思えない。先ほどの動きを見咎めていなければ気付くことはできなかったろう。
シノンは全神経を右目に集中しながら、スコープの光増幅率を上げた。ノイズ量は増加したが、同時に黒い瘤のディティールが明らかになった。
やはり、そこにあったのはうずくまるプレイヤーの姿だった。戦場に残った四人の、最後のひとりだ。大柄な体を分厚いボディアーマーに包み、ナイトスコープつきのヘルメットを装着している。まっすぐキリトたちのいる地点に向けられている顔は、サボテンの作る陰に入ってはっきりとは見えない。
シノンは顔からプレイヤーを識別するのを諦め、その懐に抱えられたアサルトライフルに視線を凝らした。こちらもほとんどシルエットしか見えないが、上部に装着された特徴的なハンドガードが目についた。コンパクトな全長からしても、ほぼ間違いなくブルバップ式突撃銃のジアット-FAMASだ。
素早く、頭の中の出場者インデックスを検索する。機関部をグリップよりも後方に配置したブルバップ銃は、小型軽量というメリットゆえにAGI型プレイヤーが好んで装備する傾向がある。
FAMAS装備の大柄なAGI型、という条件に合致する出場者はひとりだけだった。前大会で、ゼクシードと最後まで優勝を争った《闇風》という男だ。キリトに予選決勝で敗北するまでは、シノンが最大の敵と見なしていたプレイヤーでもある。圧倒的スピードを誇る純AGI型は近距離からのフルオート射撃ですら五割以上を回避してのけるため、間合いを詰められればスナイパーとしてもう成すすべもない。
しかし――、シノンの脳裏からは、そのようなゲーム的思考はすぐに消え去った。
今問題なのは、この闇風の登場が、状況にどのような影響を与えるか、というその一点のみである。
おそらく彼は、このままキリトとモルターレの戦闘を見守り、どちらかが倒れた瞬間奇襲をかけようと考えているのだろう。
もしキリトが勝てば、迷うことなく闇風を狙撃すればよい。だが、モルターレが生き残った場合は……。
先ほどの、キリトの声が耳に甦る。――もし俺が負けたら、そいつとモルターレを戦わせる――。
それで、問題はないはずだ。死銃がターゲットとしうるプレイヤーの条件は非常に限定的なため(一人暮らしで、東京近郊に住み、BoB出場経験があって、参加賞にモデルガンを選択している)、闇風が標的リストに乗っている可能性はかなり低い。それに、例えリストに彼の名があろうとも、死銃は現在シノンをターゲットにしている筈であり、ゆえに現実において闇風の命を奪う準備は出来ていない……
猛烈なスピードでそこまで思考した瞬間、シノンはキリトが見落としたある可能性に思い至り、慄然とした。
死銃の腕は――本当に二本だけなのだろうか?
この瞬間、仮想世界で戦っている《モルターレ》は間違いなくひとりだけだ。
しかし、現実世界で、心臓を停める薬品を片手に徘徊している、言わば《実行者》は――何人いても、おかしくないのではないだろうか?
シノンは、最早遥かな過去とすら思える大会前半の記憶を、必死に辿った。
モルターレはまず、最初の獲物にザッパを選んだ。そして一端姿を消し、シノンが名前を知らない誰かを殺した。さらに川底を遡って第一の惨劇の舞台に取って返し、その場にいたシノンをあのハンドガンで撃とうとした。
三つの銃撃のインターバルは、それぞれ何分だっただろうか。
正確には思い出せない。だが、三十分とは開いていなかった気がする。
できるものだろうか? ひとりの人間が、それほどの短時間に、現実世界を移動し、鍵を破って侵入して、標的に薬液を注射して回る――などということが?
もしシノンを含む三人の標的を、例えば隣接した区などのごく狭いエリアから選んでいれば、不可能ではないのかもしれない。しかし、現実世界の《死銃》が二人以上存在する、その可能性を否定することはできない。
つまり。
このまま傍観し、モルターレと闇風の戦闘となった場合、あの黒いハンドガンが牙を剥いて犠牲者の累計を五に増やす――しかも、横たわり何もできないキリトの目の前で――、ということは起こり得るのだ。
ならばどうするか。降り注ぐ星明りの粒子すら停止するほどのスピードで、シノンは考える。
闇風に状況を警告するのは不可能だ。すべてを説明しようと思ったら一時間あっても足りるまい。となれば、残る選択肢は二つだ。
ひとつは、全てを偶然に委ね、ただ見守る。
もうひとつは――闇風を狙撃し、一発で舞台から退場させることで死銃に近づくのを阻止する。しかしその場合、モルターレは間違いなくシノンに気付くので、距離があるうちに死銃をも狙撃して仕留める。
今の私に、出来るだろうか。シノンは無力感とともにそう思った。
バギーでの逃走中に行った狙撃は、実に惨めなものだった。今まで積み上げたプライドの全ては、あの瞬間に砕け散った。
今にしてみれば、BoBで優勝することで真の強さを手に入れる――などという思い込みは、滑稽というほかはない。昔ながらのテレビゲームでハイスコアを出し悦に入る子供と、本質的には何ら変わるところが無いではないか。状況が「ゲーム」から「現実」になった途端、立ち上って前を見ることすらできなかったではないか。
命が懸かっているのだから、恐れて当然だ――とキリトは言った。死を恐れない者などいない、と。
でも。
五年前、十一歳の私にはそれが出来た。いや――できるはずがないのに、偶然と、狂躁のせいで、出来てしまった。
私はずっと、あの瞬間から逃げつづけてきた。忘れよう、消し去ろうと、目をつぶって闇雲に記憶に絵の具を塗りつづけてきた。
しかし、心のどこかでは、もう一度同じ高さの壁が現われるのを望んでいたのではないか。それを乗り越えることなしに、恐怖に打ち勝つことはできないと、悟っていたのではないか。今度こそ、己の意思によって。
ならば――
今が、その時だ。
シノンはヘカートIIの銃身にそっと左手を添え、右手でしっかりグリップを握った。そして、数々の戦闘を共にくぐり抜けてきた物言わぬ金属に向かって、心の中で囁きかけた。
――あなたのことを唯一の相棒なんて言いながら、ほんとは今までずっと、ゲームのアイテムとしか思ってなかったのかもしれないね。ごめんね――この二発だけ、私に力を貸して。
再びトリガーに添えた人差し指は、滑らかに動いた。クロスヘアーの中央に、障害物から僅かにはみ出した闇風の体、その真ん中で鼓動する心臓を捉える。
恐怖も、無力感も消えたわけではなかった。大会以前は、狙撃に際してはいつも氷にように冷たくなった頭のなかは、ごうごうとうねる想念の熱に満たされていた。
しかし、それが戦いというものだ。あの時だって――そうだった。
指に僅かに力を込めると、視界にグリーンの着弾予測円が表示された。ゆらゆらと、闇風の上半身から少しはみ出す大きさで脈動している。これ以上は、収縮することはなさそうだった。
それを無視して、ぐっと呼吸を止める。
システムの力で中ててもらう必要はない。命中させるのだ。意思の力によって。
シノンは、トリガーを引いた。
胸の中央に巨大な穴を開けて吹き飛ぶ闇風の姿を、シノンは最後まで確認することはなかった。右手の指に、一撃でクリティカルポイントを射抜き、仕留めたという確かな手応えがあった。
スムーズな動きでライフルの向きを変え、スコープの視界にキリトとモルターレの姿を捉えた。
そこに見たのは――意外な光景だった。
二人は完全に密着していた。モルターレのライフルの銃身をキリトが左手で掴み、光剣を握ったキリトの右手首をモルターレが押さえている。黒いハンドガンは砂の上に落ちていた。
恐らく、砂漠にヘカートの咆哮が轟いた瞬間、キリトは状況を察したのだ。自力で死銃を斬り倒すことよりも、シノンの狙撃を確実なものとすることを選んだのだろう。
キリトの右手から、フォトンソードが落ちて砂を灼いた。その手でぐっとモルターレの首を鷲掴みにして、同時に少年は地を揺るがすほどの大声で絶叫した。
「――シノン!! 俺ごと撃て!!」
それを聞いた瞬間、シノンは唇に不敵な笑みを浮かべ、囁いた。
「――馬鹿にしないで」
轟音とともに、巨大な炎が砂の海を照らした。純粋な力の結晶たる50口径BMG弾は、青い夜を切り裂いて飛翔し――
キリトの右手の五センチ上、フードに包まれた死銃の頭を無数の微細な破片へと分解させた。命中の直前、シノンは確かに、輝く銃弾が暴いた男の恐怖の表情を見た。
キリトが手を離すと同時に、頭部を失った死銃の体は一メートルほども吹き飛び、どさりと砂の上に落下した。大の字に伸びたその腹のうえに、赤い光が凝縮して、すぐにそれは「DEAD」の四文字となって回転を始めた。
ヘカートの銃身が冷えるのも待たず、肩に担ぎ上げると、シノンは夢中で駆け抜けだした。
細かい砂をブーツで蹴るたび、ざく、ざくと心地よい音が耳朶を打つ。移動速度のマイナス補正ゆえにスピードは出ないが、それでもシノンは一足ごとにふわりと宙を滑るような飛翔感を味わっていた。色々なものから解き放たれたかのように、心が軽かった。
目指す先では、キリトが砂の上から光剣を拾い上げ、ブレードを収めて腰に戻していた。顔を上げてシノンを認めると、ゆっくり、しかし大股に歩み寄ってくる。
懸命に走り、黒衣の少年のすぐ前にまで達すると、シノンは盛大に砂を跳ね上げながら停止した。
何かを言おうと唇を開いたが、すぐには言葉が見つからなかった。自分が今どのような感情を抱いているのかも、はっきりとは自覚できなかった。
ただ、熱い情動のうねりが喉元に込み上げて、シノンは左手でぎゅっと胸を掴んだ。
立ち尽くすシノンに向かって、キリトは初めて見せる穏やかな微笑を浮かべた。左の拳を握り、まっすぐ突き出してくる。
シノンも口を閉じ、かすかに笑った。右拳を持ち上げると、キリトの手にごつん、とぶつけた。
「……終わったな」
短く言うと、キリトは降るような星空を見上げた。つられて、シノンも視線を上げた。
そう言えば――、この世界で星を見たのは、初めてのことだった。
GGO世界の空は、かつての最終戦争の影響で、常に厚い雲に覆われている。憂鬱な黄昏の色は消えることがなく、夜空でさえどこか濁った血の赤が残っている。
しかし、街の長老NPCが語る予言の一説によれば、いつか地の毒が浄化され、白い砂へと還るとき、雲は消え去り、星と星船の光が夜空に戻るという。もちろん、そんな定型台詞をまともに聞くプレイヤーはいなかったのだが、あるいはこの砂漠は、普段プレイヤー達が彷徨っている荒野ではなく、遥か未来の約束の地であるのかもしれなかった。
シノンはしばし言葉を失い、リアルブラックの空を彩るさまざまなスペクトルの光点と、その間を川のように流れる星船の残骸に見入った。
やがて、キリトが言った。
「……さて……そろそろ終わらせないとな。ギャラリーが怒ってるだろうし」
「……うん。そうだね」
夜空の一角では、水色の中継カメラが、心なしか苛立ったように点滅している。
シノンは視線を戻し、50メートルほど離れた場所に転がる死銃の体を眺めた。
頭部を失った完全なる死体であるが、そこには未だにプレイヤーの意識が宿り、眼前の星空を見ながら何ごとかを考えているのだろう。あるいは、中継画面で向かい合うキリトとシノンを見て、罵り声でも上げているのか。
ふと、何か言葉をかけようかと考えたが、言うべきことなど何一つありはしないと思い直した。一度かたく目蓋を閉じてから、顔を上げ、キリトをまっすぐに見た。
少年は再び微笑むと、静かな声で言った。
「さあ、シノン――俺を撃て。君が、優勝者だ。いいか、忘れるなよ……ログアウトのときは、気をつけるんだぞ」
シノンも笑い返し、だが、大きく首を横に振った。
「ううん。それは、できない。キリト……私と、戦って」
真っ直ぐな黒髪を揺らして、少年は軽く目を見開いた。
「いや――しかし……」
「そんな場合じゃないのは、分かってる。私の部屋に、本物の死銃がいるかもしれないんだもんね。でも……私には、あなたと戦うことが必要なの。現実の命と同じくらい、重要なことなの」
キリトは口をつぐみ、じっとシノンを見た。その視線を受け止めながら、言葉を続けた。
「それに、今なら、もう私が勝ってもあなたが勝っても関係ないはずだわ。ログアウト時間はほとんど変わらない」
「でも……俺の装備は近距離型で、君は遠距離型だ。フェアな戦闘をするためには、二人ともこの場所から離れて、遭遇からやり直さないと……」
「その必要はないわ。向かい合って、決闘スタイルで決めましょう。遠慮しなくていいよ。たぶん攻撃力は私のほうが上だわ」
再びキリトは沈黙し、透徹した視線をシノンの瞳に注いだ。
「……わかった」
答えは短かった。
頷いたキリトは、くるりと振り向くと、砂を鳴らして歩きはじめた。正確に10メートル離れ、再び向き直る。
腰からフォトンソードを外し、青紫色に輝く刃を伸長させる。左足を前に半身になると、わずかに腰を落とす。
シノンも肩からヘカートIIを外し、両手で体の前に掲げた。対物ライフルは伏射専用であり、立って撃つことは不可能ではないが、無理な姿勢ゆえに弾道はまったく安定せず、また反動を殺しきれずに体ごと吹き飛ばされてしまうのは確実だ。
しかし――どうせ次弾を撃つチャンスなどあろうはずもない。
重いブーツをしっかり砂地に噛ませると、シノンも腰を落とし、ぐっと頷いた。
キリトも頷き、左手を腰にやった。つまみだした、小さな光るものは、どうやらファイブセブン用の弾丸らしかった。
まっすぐ左手を突き出し、キリトは親指を鋭く弾いた。高く舞い上がったSS90弾は、細身の薬莢に星明りをきらきらと輝かせながら飛翔し――
二人の中間地点に、かすかな音をさせて突き刺さった。
同時に二人は動いた。
シノンは、ヘカートを素早く肩につけると、スコープを使わずにキリトを照準した。
キリトは、爆発のように砂を蹴り上げると、右手の光剣を振りかぶりながら一直線に突進した。
少年のスピードは、素晴らしいの一言だった。10メートルの距離を詰めるのに、わずか二回しか地面を蹴らず、黒い雷光のようにシノンの直前にまで達すると、フォトンソードを真っ向正面から振り下ろした。
何の外連もない、必殺の名にふさわしい一撃だった。おそらく、弾丸が砂に落ちてから、シノンの頭上にまっすぐ剣を掲げるまで、2秒とはかからなかっただろう。
それでも、シノンには一弾を発射するだけの猶予はあった。だが、撃たなかった。おそらく、撃ったところで回避されたことは疑いようもなかった。
そのかわりに、ヘカートの銃身から左手を外し、まっすぐ振り上げた。
大会開始時から、ジャケットの袖口、手首の内側に隠してずっと装備していたものが飛び出し、手に収まった。白く、細い円筒。小型のフォトンソードである。
やや高い震動音を発しながら伸びあがった薄桃色のエネルギーブレードは、ほんとうにぎりぎりの、文字通り紙一重のところで、キリトの光剣の下に割り込んだ。
キリトの一撃は、人間技とは思えない、すさまじいスピードだった。これが、他のゲーム世界における金属剣での一撃であれば、どのような防御も回避も無駄だったろう。
しかし、この世界に来て間もないキリトが恐らく意識していなかったことが一つだけある。
それは、フォトンソードの物理的質量は限りなくゼロに近く、ゆえに攻撃にともなう慣性はシミュレートされていない、ということだ。
たとえ攻撃側の速度がどれほど素晴らしいものであっても、それが防御側のエネルギーブレードと衝突した場合、双方にまったく等しい斥力が生じるのだ。
雷鳴にも似た衝撃音が、砂漠に轟いた。まばゆいスパークを発生させながら交差した二本のフォトンソードは、次の瞬間、有無を言わせぬ圧力によって後方に弾き返された。
キリトは顔に驚愕の色を浮かべ、流れた右手を引き戻そうと、慣性に抗った。
しかしシノンは、抵抗せずに左手を開いた。役目を果たした白いフォトンソードは、光の残像を引きながら、空高く吹き飛んだ。
体が左に回転する勢いを利用し、右手一本でホールドしたヘカートIIをまっすぐ突き出した。13.8キロの重量は容赦なく地面に向かって沈もうとしたが、必死にこらえ、銃口をキリトの体に密着させた。
先ほどに倍する衝撃音によって世界が震えた。
巨大なハンマーで一撃されたかのようなショックが右手全体を襲い、ライフルはシノンの手から離れて、重い音をさせて砂にめりこんだ。肩に受けたリコイルによってシノンも倒れそうになったが、両足を踏ん張って必死に耐えた。
ゼロ距離から放たれた弾丸は、キリトの胸の中央に大穴を穿っていた。
少年は、吹き飛ばされながらも、一瞬の驚愕の色を即座に収め、唇に驚嘆の笑みを浮かべた。かすかな声が、シノンの耳に届いた。
「――見事」
どさっという音とともに、キリトは砂地に落下した。その体のうえにDEAD表示が出現するのを、シノンは半ば信じられない気持ちで見つめていた。
必死に考えた作戦ではあったが、成功するとはまったく思っていなかった。
どのようなリアクションも取れず、ただひたすら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
不意に、頭上に甲高い爆音が轟いた。振り仰ぐと、どこから飛来したのか、小型のエアフライヤーの三機編隊がオレンジ色の炎を引きながら通過するところだった。航空機が、シノンの頭の上に達したその瞬間、夜空いっぱいに、色とりどりの花火が咲き乱れた。
銃声とはまったく違う、どこか陽気な炸裂音が、次々と耳を叩いた。数秒間、盛大に振り撒かれた火花は、やがて寄り集まって、巨大な活字を作り上げた。――《CONGRATULATION!!》。
……優勝、したんだ。
胸のおくで、ぽつりと呟いた。とても単なるゲーム大会とは言えない、異常事態とでも言うべき展開を辿った第三回バレット・オブ・バレッツではあったが――それでも、やっぱり、少しだけ嬉しかった。くるっと振り向くと、砂に銃身を突き刺している愛銃を見つけ、そっと持ち上げる。
胸に抱くと、先ほどの発射の余熱がまだその黒く優美な体に残っていた。ありがとう、と小声で呟きかけ、一瞬だけ頬を摺り寄せた。
顔を上げ、唇を綻ばせると、シノンはまばゆい色彩の乱舞する空をぐるりと見渡した。すぐに、水色のライブカメラを発見する。
びしっと右腕を突き出し――握った拳から、高々と二本の指を伸ばした。それと同時に、どこからともなく、すさまじい歓声が聞こえてきた。グロッケンの中央広場の音声が、この戦場にも中継されているのだ。
轟くような声の渦、口笛、そして拍手が、花火の破裂音を圧倒し、夜の砂漠に満ちた。高密度の音の波に揺られながら、シノンは恐らく初めて、この世界において、心の底からの笑顔を浮かべていた。
戦場からの退出を促すシステムボイスに急かされるように、ウインドウを出してログアウトボタンを押しながら、シノンは必死に熱に浮かされた頭を冷まそうとした。
BoBは終わったが、《死銃》をめぐる状況は、むしろこれからが本番である。現実に舞台を移し、キリトと協力して、死銃の起こした連続殺人事件を暴かなくてはならない。と言っても、自分に何ができるのかはさっぱり分からなかったが。
だが――その前にまず、自分のからだを守らなくては。シノンは、確認ウインドウの上で指を停止させ、ちらりと先ほどまでキリトが横たわっていた砂地の窪みを見つめた。
はやく来てよね、と胸のなかで呟く。
大きく息を吸い、吐いて、シノンはぐいっと《YES》のボタンを押――そうとして、ふと躊躇した。
現実に戻れば、自分のとなりに、狂気に駆られた殺人鬼が立っているかもしれない。その可能性を考えると、無理やりに忘れていた恐怖が鮮明に甦ってくる。
モルターレが死んだ時点で、侵入者は姿を消しているはずだ、とキリトは言った。今はそれを信じるしかない。ぐっと奥歯を噛み締め、シノンは指を動かした。
たちまち、周囲の光景は、白い光の中に溶け崩れていった。すぐに光は薄れ、暗闇が訪れる。右肩のヘカートの重みがまず消え去り、次いで音が遠ざかり、更に重力が消滅する。
一瞬ののち、シノンは詩乃となり、現実世界の自室のベッドにひとり横たわっていた。
いや――ひとり、とはまだ限らない。すぐに目を開けちゃだめだ、動いちゃだめだ、と自分に言い聞かせる。
身動きひとつせず、瞼をしっかり閉じたまま、詩乃はそっと周囲の気配を探った。
耳には、かすかにいくつかの音が届いている。
まず、自分の呼吸音。早いペースで喚く心臓の鼓動。
しゅるしゅると布を擦るような音は、ヘッドボードに置いてあるアミュスフィア本体ドライブ内のBDVDディスクの回転音だ。低く唸っているのは、エアコンの作動音。こぽ、こぽと泡だつような加湿器の音。
窓の外、表通りから遠く響いてくる水素エンジン車の走行音。同じアパートの、どこかの部屋で鳴っているらしいステレオのウーファー。
――それだけだ。部屋のなかに異質な音を立てるものは、無い。
今度はゆっくりと、細く長く空気を吸い込む。鼻腔が捉えた匂いの粒子は、これも、芳香剤がわりにチェストの上に置いたハーブソープの、穏やかな香りだけだった。
部屋には私以外、誰もいない。
そう思っても、詩乃はなかなか目を開けられなかった。ベッドの左横に、ぬうっと立って自分を覗き込んでいる何者かがいるのではないか――という畏れは、一向に去ろうとしない。
いや……たとえ部屋のなかに居なくても、キッチン、あるいはユニットバス……ベランダ……狭い1Kのアパートでも、その気になれば、姿を隠せる場所はたくさんある。ことによると、ベッドの下……という可能性だってあるではないか。
嫌だ、動きたくない! と詩乃は心の中で叫んだ。
たしかキリト――いや桐ヶ谷和人が、ログアウトしたらすぐに警察に連絡し、自身も即座に駆けつける、と言っていた。要する時間はどれくらいだろうか。10分……15分?
であれば、それまでこのまま動かずに待っていたほうが賢明だろうか。
そう考え、ぎゅっと目を瞑りなおしたその時――
旧式のエアコンが息切れを起こし、しゃっくりのように吐き出した過熱されていない空気のかたまりが、詩乃の剥き出しの太股を撫でた。寒気が肌を駆け上り……不意に、鼻の奥に不穏な気配が訪れた。
抵抗できたのは、わずか二秒ほどだった。眉間と鼻筋がきゅっと収縮し、次いで裏切り者の呼吸器官が、小さく、しかしはっきりとした音を――くしゅん! と炸裂させた。詩乃は体を固くして、部屋の何処かからなんらかの反応が返ってくるのを待った。
しかし、相変わらず、動くものはなかった。
詩乃はそっと、ごく薄く、右の目蓋を持ち上げた。
照明の落ちた室内は、カーテンの隙間から侵入する街灯りによってぼんやりと照らし出されていた。まず眼球の動く範囲、次いで首をじわじわと傾けて、部屋の様子を探る。
とりあえず、視界内に人影は無いようだった。今更ながら、音がしないように注意して頭からアミュスフィアを外し、枕の横に置く。腹筋の力だけで上体を持ち上げ、素早く、もう一度部屋の中を見渡す。
――何もかも、数時間前に離脱したときのまま、のように思えた。
テーブルの上の、ミネラルウォーターのボトル。その横に置かれた、やや大型のオーディオプレイヤー。床に放り出された、通学鞄。どれも動かされた様子はない。
詩乃はシーツに手をついてベッドの端まで移動すると、ごくりと一回喉を鳴らしてから、体を乗り出して床とベッドの隙間を覗き込んだ。当然ながら、何一つありはしない。
顔を上げ、カーテンの隙間から見えるアルミサッシのクレセント錠が、しっかりと降りているのを確認する。
素足を床に下ろし、限界まで首を伸ばして、今度はキッチンの様子を探る。と言っても、わずか三畳ほどのスペースには、人が隠れられるような場所はない。
立ち上げると、意識せずに足音を殺しながら壁際まで歩き、照明のスイッチを入れた。たちまち白い光が部屋に溢れ、キッチンの向こうにある玄関までも照らし出す。
目を凝らすと、ドアのロックノブも水平に寝たままなのが見えた。詩乃はしばらくそこに立ったまま、壁一枚隔てた場所――ユニットバスの気配を探った。
やはり、妙な音がする様子はない。再び爪先立ちになり、六畳間からキッチンへと移動する。
シンクの反対側にあるユニットバスのドアは、しっかりと閉められていた。鍵は掛かっておらず、照明も落ちている。
冷や汗で濡れた右手で、ぐっとノブを握り――
大きく息を吸って、ぐっと止めてから、左手で灯りのスイッチを入れざま、一気にドアを引きあけた。
「…………」
詩乃はしばし無言で内部を凝視してから、
「……馬ッ鹿みたい」
ぽつりと呟いた。樹脂のベージュ色で統一されたバスの中は、もちろん、無人だった。
ようやく、今度こそ、首筋、両肩から体の下方へ向かって、ふうーっと力が抜けていった。詩乃はくるりと半回転すると、壁に背中をあずけ、ずるずると座り込んだ。
部屋には、誰も居なかった。侵入された形跡すらも、今のところは見つからなかった。
もちろん、ピッキングによって入り込んだ何者かが、部屋の中で携帯端末を利用してGGOの中継動画を視聴し、モルターレの死亡と同時に立ち去った――という可能性はまだある。そうであるなら、侵入者はまだこのアパートの付近にいるはずだ。一応、警察には連絡すべきだろう、と思いながらも、立ち上がる気力はなかなか湧いてこなかった。
ちらりと、冷蔵庫の上に置いてあるキッチンアラームを見上げた。時計機能もあるそのデジタル数字は、零時を二分ばかり回った時刻を示していた。
何と長い三時間だったことだろう。ログイン前に、目の前のゴミ袋に捨ててあるヨーグルト容器の中身を食べたことなど、遥か昔の出来事のようだった。
自分が、望んだとおりに変われたようには、まだ思えなかった。
念願のBoB優勝を果たし、更に《死銃》という真の脅威を己の手で倒すことで、少しは強くなれたような気もする。
しかし、あの砂漠の洞窟で、キリトが口にした言葉が思い出される。過去に打ち勝つことなど不可能だ――と、あの不思議な少年は言った。ずしりとした重みのある一言だった。
多分、自分はようやく、あの事件から逃げるのではなく正面から向き合う、その第一歩を踏み出したところなのだ。そう、詩乃は思った。もう、モデルガンを手にとり、無理矢理記憶を抉じ開けるような真似はするまい。
――そう言えば、キリトがすぐに駆け付けると言っていた。警察も来るなら、まともな格好に着替えておかなければならない。
よいしょ、と立ち上がったとき、詩乃は思い出したように猛烈な喉の乾きを意識した。シンクに歩み寄り、浄水ポットの水をグラスに注いで、一息に飲み干す。
更にもう一杯注ぎ足そう、としたその時――
キンコーン、と古めかしい音で、玄関のチャイムが鳴り響いた。
詩乃は反射的にびくりと体を竦ませ、ドアを凝視した。今にも、勝手にロックが回転し始めるのではないか、と思うと息が詰まる。
あるいはもうキリトが来たのか、と思って時計を振り返るが、まだログアウトしてからは三分と経ってはいるまい。いかにも早すぎる。
立ち尽くしていると、再びチャイムが鳴った。詩乃は息を殺して、足音を立てないようにドアに歩み寄った。
まずはドアチェーンを掛けよう、そう思って恐る恐る左手を伸ばしたが、指先が触れる前に――
「朝田さん、居る? 僕だよ、朝田さん!」
ドアの向こうから、聞きなれた、やや高めの少年の声がした。
詩乃は、ふううっと肩から力を抜いた。実に紛らわしいタイミングで、しかも電話ひとつせずやってくるとは人騒がせにも程があるが、それもまた不器用な彼らしいと言えば言える。
詩乃はサンダルを踏み石がわりにドアに顔を近づけると、念のためにレンズを覗いた。魚眼効果で歪んだ廊下に立っているのは、間違いなく、新川恭二だった。
「新川くん? どうしたの、急に?」
声をかけると、ドアの向こうから、相変わらず頼りなげな調子の声で答えが返ってきた。
「あの……どうしても、お祝いが言いたくて……」
そんな理由で、深夜に一人暮らしの女性の部屋を突然訪れるとは少々世間知らずと言うほかはないが、それでも善意から出た言葉を無下にはできない、と詩乃は思った。それに、正体不明の殺人者がうろついているかもしれない状況では、恭二が居てくれれば少しは心強い。
「ちょっと待って、今開けるね」
言って、ロックノブに手を伸ばしてから、ふと自分の体を見下ろす。上はだぶっとしたトレーナー、下は素足にショートパンツというやや頼りない格好だが、まあいいか、と肩をすくめてカチリとノブを九十度回転させた。
ドアを押し開けると、そこには、はにかんだような笑みを浮かべた新川恭二が立っていた。ジーンズの上に、ボアつきのミリタリージャケットという重装備だが、外気はそれでも足り無そうなほどの冷たさだった。
素足にまとわりつく冷気に首を縮めながら、詩乃は言った。
「うわ、凄く寒いね。早く入って」
「う、うん。お邪魔します」
恭二はぺこりと首を縮めると、三和土に足を踏み入れ、詩乃を見て眩しそうに目を細めた。
「……な、なによ。……部屋が寒くなっちゃうから、早く上がってドア閉めて。あ、鍵もかけてね」
恭二の視線に気恥ずかしさを覚え、詩乃は照れ隠しに捲し立てると、くるっと振り向いて部屋に向かった。カチリとノブを回す音に続いて、恭二もキッチンを横切り、後をついてくる。
部屋に入ると、詩乃はリモコンを拾い上げ、暖房を強くした。大儀そうな唸りとともに、一際温かい空気が噴き出して、寒気を追い払っていく。
ぼすんと勢い良くベッドに腰掛け、見上げると、恭二は所在なさそうに部屋の入り口に立っていた。
「どこでも、そのへんに座って。あ……何か、飲む?」
「う、ううん、お構いなく」
「疲れてるから、そんな事言うとほんとに何も出ないよ」
冗談めかして言うと、恭二もようやくかすかな笑みを浮かべ、床のクッションに腰を降ろした。
「ごめんね朝田さん、急に押しかけて。でも……さっきも言ったけど、少しでも早く言いたくて」
子供のように膝を抱えて、上目づかいに詩乃を見上げてくる。
「あの……BoB優勝、ほんとうにおめでとう。凄いよ、朝田さん……シノン。とうとう、GGO最強のガンナーになっちゃったね。でも……僕にはわかってたよ。朝田さんなら、いつかそうなるって。朝田さんには、誰も持ってない、本当の強さがあるんだから」
「……ありがと」
詩乃はくすぐったさを感じて、両手でぎゅっと体を抱え、笑った。
「まさか、ほんとに優勝できるなんて、私も思ってなかったよ。――それに、ちょっと……ううん、だいぶ、変なこともあったし……ひょっとしたら、今回のBoBは無効になるかもしれない……」
「え……?」
「あのね……ええと……」
恭二に、死銃事件のことをどう説明したものか、詩乃は迷った。最初から話すととてつもなく長そうだったし、それに――今となっては、まるであの出来事自体が、幻だったような気すらしていた。
ひょっとしたら……すべては、やはり偶然の産物だったのではないだろうか……? GGO世界で銃撃した相手を、現実において毒殺するなど、考えてみればあまりにも荒唐無稽な話ではないだろうか。実際に詩乃が見たのは、ザッパが消えるシーンだけである。確かにモルターレの言動は常軌を逸していたが、あのくらいキャラクターにのめり込んでしまう者も、まるでいないとは言えない。ザッパが現実で本当に死んでいれば、やはり死銃は実在するのだろうが、それが判明するまでは確実なことは何もないのだ。
どうせ、あと10分もすれば、キリトと警察が来る。説明は、責任を取ってあの男にやらせよう。
詩乃は、肩をすくめると話題を変えた。
「や、なんでもない。ちょっと変なプレイヤーがいたってだけ。それにしても……君、ずいぶん早かったねえ? まだ、私がログアウトしてから5分くらいだよ」
「あ、その……実は、近くまで来て、携帯で中継見てたんだ。すぐに、おめでとうが言えるように」
「ふうん……寒いのに、風邪引いちゃうよ。やっぱり、お茶淹れたほうがいいかな」
言って、立ち上がろうとしたのだが、恭二は首を振って詩乃を止めた。その顔から笑みが薄れ、かわりに切羽詰ったような表情が浮かぶのを見て、詩乃はぱちくりと瞬きした。
「あの……朝田さん……」
「な、なに?」
「中継で……終盤の、砂漠のシーンが映ってたんだけど……」
その言葉と恭二の顔つきで、詩乃は咄嗟に彼が言わんとしていることを察した。あの砂漠の洞窟での出来事を思い出し、抑えようもなく、頬から耳までかかあっと熱くなる。
「あ……あの、あれは……」
今まですっかり――あるいは意識的に忘れていたが、岩壁に寄りかかって座ったキリトの膝の上に乗っかって、散々泣いたり喚いたり、更には事もあろうに甘えたりしてしまったのだった。あのシーンを、当然恭二も見ていたのだ。そのことにまるで思い至らなかったのは、迂闊と言うしかない。
気恥ずかしさのあまり俯いた詩乃に向かって、恭二の言葉が飛んできた。てっきり関係を聞かれるものと思ったが、その内容は詩乃の予想を裏切るものだった。
「あれは……あの男に脅されたんだよね? 武器奪われて……殺すぞって言われて。だから、仕方なくあんなことしたんだよね?」
「は、はあ?」
唖然として顔を上げる。
どこか必死な色を目に浮かべ、恭二は中腰になり、詩乃に向かって身を乗り出していた。
「脅迫されて、あいつの敵を狙撃までさせられて……でも、最後にはあいつを撃ったよね。だから、ほっとしたんだけど……それだけじゃ足りないよ。前にも言ったけど……もっと、ちゃんと思い知らせてやらないと……」
「あ……ええと……」
詩乃は絶句してから、どう言ったものか、懸命に言葉を探した。
「あのね……ううん、脅迫とか、そういうんじゃないの。大会中に、あんなことしてたのは不謹慎だと思うけど……私、中で、例の発作が起きそうになっちゃって……。それで取り乱して、キリトに当たっちゃってさ。いろいろ、酷いこと言ったのは私のほう」
「…………」
恭二は目をじっと見開き、無言で詩乃の言葉を聞いている。
「でも……あいつ、ムカつく奴だけど、でもね、あったかかったんだ。何だか、お母さんに似てた。抱っこしてもらったら、子供みたいにすごく泣いちゃって……恥ずかしいよね」
「……朝田さん……でも……それは、発作で、仕方なくなんだよね? あいつのこと……別に、なんとも思ってないんだよね?」
「え……?」
「朝田さん、僕に言ったよね。待ってて、って」
膝立ちになり、身を乗り出す恭二の目が、思い詰めたようにぎらぎらと光っているのに、詩乃は気付いた。
「言ったよね。待ってれば、いつか僕のものになってくれるって。だから……だから僕……」
「……新川くん……」
「言ってよ。あいつのことは、なんでもないって。嫌いだって」
「ど……どうしたのよ……急に……」
大会前、近所の公園で、恭二に向かって、待ってて、と言ったことは憶えていた。
しかし、それは、いつか自分を縛るものを乗り越えてみせる、という意味だったはずだ。それができたとき、ようやく普通の女の子に戻れるのだ、と。
新川恭二の「もの」になる――そんなことを言ったつもりは無かったのに――
「あ……朝田さんは、優勝したんだから、もう充分強くなれたよ。もう、発作なんて起きない。だから、あんな奴、必要ないんだ。僕が、ずっといっしょにいてあげる。僕がずっと……一生、君を守ってあげるから」
うわ言のように呟き、すうっと恭二は立ち上がった。そのままふらりと二歩、三歩詩乃に歩みより――
突然両腕を広げて、容赦のない強さで詩乃を抱きすくめた。
「っ……!?」
詩乃は驚愕のあまり、体を竦ませた。両腕と、わき腹の骨が軋み、肺から空気が追い出される。
「……し……かわ……く……」
ショックと、圧力のせいで息が詰まった。しかし恭二は、なおも腕に力を込め、ベッドに押し倒そうとするかのようにのしかかってくる。
「朝田さん……好きだよ。愛してる。僕の、朝田さん……僕の、シノン」
しわがれ、ひび割れた恭二の声は、愛の告白には程遠い、呪詛のごとき響きを持っていた。
「ゃ……め……っ……!」
詩乃は必死に両腕を突っ張り、体を支えた。両脚に力を込め、右肩を恭二の胸に押し当て――
「……やめてっ!!」
声は掠れた囁きでしかなかったが、どうにか両手で恭二の体を押し返すことができた。あえぐように、空気を吸い込む。
たたらを踏んだ恭二は、床のクッションに脚を取られ、尻餅をついた。
その顔には、詩乃の拒絶が信じられない、と言わんばかりの純粋な驚きの色が浮かんでいた。
丸く見開かれた目から、やがてすうっと光が薄れ――唇が痙攣するように震えて、虚ろな声が漏れた。
「だめだよ、朝田さん。朝田さんは、僕を裏切っちゃだめだ。僕だけが朝田さんを助けてあげられるのに、他の男なんか見ちゃだめだよ」
再び、のろりと立ち上がり、歩み寄ってくる。
「……し、新川くん……」
いまだ衝撃が去らず、詩乃は呆然と呟いた。
確かに、以前この部屋に招いて手料理を振舞ったとき、あるいは公園で抱きしめられたとき、恭二の中にちらりと見えた衝動に、どこか危ういものを感じないではなかった。だが、男の子なんだから、ある程度は当たり前のことだと思ったし、おとなしく気の弱いところのある恭二は、自制を失うような真似はするまいと信じてもいた。
しかし、ベッドに腰掛けたまま動けない詩乃の前に立ち、無言で見下ろしてくる恭二の目には、かつて見たことのない逸脱した光が渦巻いていた。
まさか 新川くん 私を ――!?
思考の断片が切れ切れに脳裏を横切り、ようやく、詩乃のなかに衝撃を上回る恐怖が滲み出した。
だが――。
詩乃の想像は、方向において正しく、しかし質量においては、大いに誤っていた。
唇を僅かに開き、虚ろな呼吸音を漏らしながら、恭二はジャケットの前ポケットに右手を差し込んだ。中で、なにかを握るような動き。
抜き出された手のなかにあったのは、奇妙なモノだった。
全体は20センチほど。艶のある、クリーム色のプラスチックで出来ている。
滑らかなテーパーのついた、太さ3センチ程度の円筒から、斜めにグリップ状の突起が伸び、恭二の右手に握られている。グリップと円筒の接合部には、薄いグリーンのボタンが突き出しており、人差し指が添えられている。
円筒の先端には、そこだけ銀色の金属で出来た薄い円錐型部品が光っており、どうやらその中心には細い孔があいているようだ。全体としては、子供が遊ぶおもちゃの光線銃、といった趣だが、一切の飾りのないのっぺりとしたその姿には、明確な目的のための機能性が感じられた。
恭二はゆらりとソレを握った右手を動かすと、先端をぐっと、詩乃の首筋に押し当てた。ひやりと氷のように冷たい感触に、全身が総毛立った。
「しん……わ……くん……?」
強張った唇を動かし、どうにか声を出したが、その言葉が終わらないうちに、恭二が低い囁き声で言った。
「動いちゃだめだよ、朝田さん。声も出しちゃいけない。……これはね、無針高圧注射器、って言うんだ。中身は、サクシニルコリンっていう薬。これが体に入ると……筋肉が動かなくなってね、すぐに肺と心臓が止まっちゃうんだよ」
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精神の外殻なるものが頭のどこかにあるとして、それの底が抜けるような衝撃を味わうのが今日で何度目のことなのか、もう詩乃にはわからなかった。
首筋から広がった冷たさが手足の先端にまで浸透し、そこがジンジンと痺れるのを意識しながら、詩乃は恭二の言葉をどうにか意味あるかたちに処理しようと、必死に脳を働かせた。
つまり――恭二は、詩乃を、殺すと言っているのだ。言うことを聞かなければ、手に持ったおもちゃめいた注射器から長い名前の薬を注入し、詩乃の心臓を止めると。
以上のことを考えながら、それと平行して、何かの冗談だよね? 新川くんが、そんなことするはずないよね? と頭の片隅で喚きつづける声がした。しかし実際には、詩乃の口は乾いた木にでもなってしまったかのように、動こうとしなかった。それに、首筋――正確には左耳の5センチほど下方に押し当てられた円錐形の金属の感触は、これが何らかのジョークであるという可能性を砂粒ほどにも許容しない冷酷な硬度と温度を持っていた。
逆光のせいでよく表情の見えない恭二の顔を、詩乃はただ見上げることしかできなかった。その、削いだように尖った顎がわずかに動き、抑揚のない声が流れ出した。
「大丈夫だよ、朝田さん、怖がらなくていいよ。これから僕たちは……ひとつになるんだ。僕が、生まれてから今までずーっと貯めてきた愛を、全部朝田さんにあげる。その、いちばん気持ちいいところで、そうっと、優しく注射してあげるから……だから、何にも痛いことなんてないよ。心配しなくていいんだ。僕に、任せてくれればいい」
言葉の意味は、詩乃にはまったく理解できなかった。日本語に似た響きを持つ、どこか異界の言語であるようにすら思えた。ただ、耳の奥に、二つのフレーズだけが、何度も何度もこだましていた。――「ムシンコウアツ注射器ッテイウンダ」「心臓ガ止マッチャウンダヨ」「注射器ッテ」「心臓ガ」「注射器」「心臓」……。
その二つのことばを……ごく最近、どこかで聞いたのではなかったか。
今となってははるかな幻想の中の出来事とも思える、夜の砂漠の洞窟の中で、少女めいた顔立ちを持った少年が、涼やかな響きのある声で(筋弛緩系の薬品を)確かに言った(注射したんだ)。
それでは――まさか――まさか。
自分の唇が痙攣するように動き、掠れた声が漏れるのを、詩乃は聞いた。
「じゃあ……君が……君が、もう一人の、《死銃》なの?」
首筋に押し当てられた注射器が、ぴくりと震えた。恭二の口もとに、いつも詩乃と話すときに浮かべていたような、憧れを潜ませた笑みが滲んだ。
「……へえ、凄いね、さすが朝田さんだ……《死銃》の秘密を見破ったんだね。そうだよ、僕が《死銃》の右手だよ。と言っても、今までは僕が《モルターレ》だったんだけどね。ゼクシードを撃ったときの動画、見てくれた? だったら嬉しいけど。でも、今日だけは、僕に現実の役をやらせてもらったんだ。だって、朝田さんを、他の男に触らせるわけにはいかないもんね。いくら兄弟って言ってもね」
何度目かの驚きに、詩乃は体を強張らせた。
恭二に兄がいる、という話は、一度ちらりと聞いたことがあった。しかし、小さいころから病気がちで、ずっと入退院を繰り返している、ということだったので、その話題がそれ以上続くことはなかった。
「き……きょう……だい? モルターレが……《赤眼のザザ》が、君の……お兄さん、なの?」
今度こそ、恭二の目は驚きに見開かれた。
「へえ、そんなことまで知ってるんだ。モルターレ……リョウイチ兄さんが、そこまで喋ったのか。ひょっとしたら、兄さんも朝田さんのことを気に入ったのかもね。でも、安心して、朝田さんは、誰にも触らせないから。ほんとは……今日、朝田さんに注射するのはやめよう、って思ってたんだよ。兄さんは怒っただろうけど……でも、朝田さんが、公園で、僕のものになってくれる、って言ったからさ」
そこで恭二は口を止めた。浮かんでいた、陶酔したような笑みが薄れ、再び表情が虚ろになる。
「……なのに……朝田さん、あんな男と……。騙されてるんだよ、朝田さん。あいつが何を言ったのか知らないけど、すぐに僕が追い出してあげる。忘れさせてあげるからね」
注射器を押し付けたまま、恭二は左手で詩乃の右肩を強く掴んだ。そのまま、力任せにシーツの上に押し倒すと、自身もベッドに乗り、詩乃の太腿に跨る。その間も、うわ言のように呟きつづけていた。
「……安心して、朝田さんをひとりにはしないから。僕もすぐに行くよ。二人でさ、GGOみたいな……ううん、もっとファンタジーっぽいやつでもいいや、そういう世界に生まれ変わってさ、夫婦になって、一緒に暮らそうよ。一緒に冒険して……子供も作ってさ、楽しいよ、きっと」
完全に常軌を逸した恭二の言葉を聞きながら、詩乃は麻痺した思考の一部で、それでもどうにか二つのことだけを考えつづけていた。――もうすぐ、キリトと警察がくる。だから、何か喋り続けなくては。
「でも……君が、いなくなったら、モルターレが困るよ……。そ……それに、私、向こうで死銃に、撃たれなかった。私が死んだら、死銃のこと、みんな疑うよ」
完全に乾ききった舌をどうにか動かし、詩乃は言った。恭二は右手の注射器を、トレーナーの襟ぐりから覗いた詩乃の鎖骨の下に押し当てながら、引き攣るような笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今日は、ターゲットが三人もいたからさ……兄さんが、もうひとり見つけてきたんだ。SAO時代の、ギルドメンバーなんだって。これからは、その人が僕のかわりになればいい。それに……朝田さんを、あんなゼクシードやたらこみたいなクズと一緒にするわけないじゃない。朝田さんは、死銃じゃなく、この僕だけのものだよ。朝田さんが……旅だったら、どこか遠い……人のいない、山の中とかに運んでさ、そこで僕もすぐに追いかけるよ。だから、途中で待っててね」
恭二の左手が、まるで恐れているかのように、こわごわとトレーナーの上から詩乃の腹部に触れた。二、三度指先を下ろしてから、次第に手のひら全体で撫でさすりはじめる。
嫌悪と恐怖に肌が粟立つのを感じながら、詩乃は懸命に口を動かした。急に動いたり、大声を出せば、目の前の無害そうに見える少年は、ためらわずに注射器を作動させるだろうということは、残念ながらもう疑うことはできなかった。
「……じゃ、じゃあ……君はまだ、現実世界で、その注射器を使ったことはないんだね……? な……なら、まだ……まだ、間に合うよ。やり直せるよ。だめだよ、死のうなんて思ったら……。大検、受けるんでしょ? 予備校行ってるんでしょう? お医者様に、なるんでしょう……?」
「ダイケン……?」
恭二は首を傾げ、知らない単語を聞いたかのように繰り返した。やがて、その口から「ああ……」という声が漏れ、左手が詩乃から離れてジャケットのポケットの差し込まれた。
掴み出されたのは、細長い紙切れだった。
「見る?」
どこか自嘲気味な笑みとともに、それを詩乃の眼前に突き出してくる。
何らかのプリントアウトと思しき紙片は、詩乃にとっても見慣れたもの――模擬試験の成績票だった。並んだ得点と偏差値は、どの教科も目を疑うほどの、惨憺たる数字だった。
「し……新川くん……これ……」
「笑っちゃうよね。偏差値って、こんな数字が有り得るんだね」
「でも……ご、ご両親は……」
この成績を見せられて、恭二の親はよくアミュスフィアの使用を許可しつづけているものだ、という意味で口にした一言を、恭二は敏感に理解したようだった。
「ふふ、こんな用紙なんて……プリンタでいくらでも作れるよ。大体、親にはアミュスフィアで遠隔指導受けてるって言ってあるしさ。さすがにGGOの接続料の引き落としはさせてくれなかったけど、それくらい、ゲームの中で稼げた……稼げたのに……」
不意に、恭二の顔から笑みが消えた。鼻筋に皺が刻まれ、食いしばった歯が剥き出される。
「……もう、こんな下らない現実なんて、どうでも良かったんだ。親も……学校の奴らも……どうしようもない愚か者ばっかりだ。GGOで最強になれれば……それで、僕は満足だったんだ。そうなれた……シュピーゲルは、そうなれたはずなのに……」
押し当てられた注射器から、ぶるぶると恭二の手の震えが伝わり、今にもそのボタンを押してしまうのではないかと思って、詩乃は息を詰めた。
「なのに……あのゼクシードの屑が……AGI型最強なんて嘘を……あの卑怯者のせいで……シュピーゲルは突撃銃もろくに装備できないんだ……畜生ッ……畜生ッ……」
恭二の声に含まれた怨嗟の響きは、それがあくまでゲームの話である、という事実を遥かに超越したものだった。
「今じゃ……ろくに接続料も稼げない……GGOは……僕の全てだったのに……現実をみんな犠牲にしたのに……」
「……だから……だから、ゼクシードを殺したの……?」
まさか、そんな――そんなことで、と思いながら、詩乃は訊いた。恭二はぎゅっと一度瞬きしてから、再び陶酔したように笑った。
「そうだよ。《死銃》で、今度こそGGO……いいや、全VRMMOで最強の伝説を作るための生贄に、あいつほど相応しい奴はいないだろ? ゼクシードとたらこ、それに今日の大会でザッパとカコートンを殺したから、いくらプレイヤー共が馬鹿でも、もう死銃の力は本物だと気付いたはずだ。最強……僕が、最強なんだ……」
押さえがたい快感のせいだろうか、恭二の全身がぶるりと震えた。
「……これでもう、こんな下らない現実に用はないよ。さあ……朝田さん、一緒に《次》に行こう」
「し……新川くん」
詩乃は必死に首を振り、訴えた。
「だめだよ。まだ……まだ引き返せる。君はまだ、やり直せるよ。私と一緒に、警察に……」
「無理だよ」
恭二はどこか遠くを見るような目つきで、首を横に振った。
「今日……ザッパの心臓を停めたのは、僕なんだ。この注射器でね。ううん……注射器じゃない。これが……この銃こそが、本物の《死銃》なんだ」
「そん……な……」
心に絶望の色が忍び込んでくる、その冷たさを詩乃は胸の奥に感じた。
「案外、簡単だったよ。胸に注射したら、すぐに動かなくなってさ。ぜんせん、苦しまなかった。だから、朝田さんも、怖がらなくていいよ。一瞬……一瞬のことだから……」
いや――そうじゃない。たとえ筋弛緩剤で体はうごかなくても、意識は地獄の苦しみを味わったのだ。詩乃――シノンは、それを己の目ではっきりと見た。
「さあ……もう、現実のことなんてどうでもいいよ。僕とひとつになろう、朝田さん……」
不意に、恭二の左手が、トレーナーの下端を掴んで捲り上げようとした。詩乃は反射的に右手を動かし、それを阻もうとしたが、途端に一際強く注射器が胸元に押し付けられた。
「お願い、動かないで、朝田さん。この世界の、最後の思い出は、きれいなものにしようよ」
ビクリと体を竦ませた詩乃の右手を元の位置に戻させ、恭二は再びトレーナーを脱がせはじめた。布の端が胸を通り過ぎ、首もとに達したところで一瞬だけ注射器が離れ、今度はむき出されたわき腹へと押し当てられる。
詩乃の両腕を上げさせると、恭二は力任せにトレーナーを引っぱり、手から抜き取った。その下は、黒のタンクトップ一枚しか身につけていない。
恭二の視線は、薄い布地を押し上げる膨らみへと間近から注がれ、詩乃はそこに物理的な圧力を感じた。
「……朝田さん……朝田さん……朝田さん……」
ぶつぶつとそれだけを繰り返しながら、恭二は左手を伸ばし、詩乃の胸の側面を撫でた。食い縛られた歯の隙間と鼻から、ふっ、ふっ、と荒く空気が吐き出され、その生暖かい感触を胸元に感じたとたん、今までに倍する生理的嫌悪感が詩乃の全身を貫いた。
しばらく布の上を蠢いいていた恭二の手は、ついにタンクトップの中に潜り込むと、それを一気に首の下まで引っ張り上げた。素肌が剥き出される感覚に、圧倒的な恐怖のなかにも耐えがたい羞恥を感じ、詩乃はぎゅっと目をつぶると顔をそむけた。
恭二の視線が肌の上を這い回る感触は、まるで小さな虫が歩いているかのようだった。ついに怒りと悔しさが抑えがたく湧き上がり、涙に形を変えて詩乃の目尻に滲んだ。
しかし恭二はそれがまるで目に入らない様子で、わななく声を漏らした。
「ああ……朝田さん……きれいだ……凄くきれいだよ……」
同時に、恭二の指先が直接肌を撫でた。皮膚のささくれが引っかかるたびに、小さく鋭い痛みが走る。
「朝田さん……僕の、朝田さん……ずっと、好きだったんだよ……学校で……朝田さんの、あの事件の話を……聞いたときから……」
「……え……」
恭二のその言葉が、わずかなタイムラグを伴って意識に届いた瞬間、詩乃は思わず目を見開いていた。
「そ……それって……どういう……」
「好きだった……憧れてたんだ……ずっと……」
「……じゃあ……君は……」
そんな、まさか、と心のなかで呟きながら、詩乃は消え入るような声で尋ねた。
「君は……あの事件のことが、あったから……私に、近づいたの……?」
「そうだよ、もちろん」
恭二は左手と同時に注射器の先端を用いて詩乃の上半身をもてあそびながら、熱っぽく頷いた。
「本物のハンドガンで、悪人を射殺したことのある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。ほんとに凄いよ。言ったでしょ、朝田さんには本物の力がある、って……僕の理想なんだ、って。愛してる……愛してるよ……誰よりも……」
「……そん……な……」
――なんという乖離。なんという隔絶だろう。
眼前の少年のことを、一度は、この現実世界で肉親を除いて唯一人心を許せる存在とも信じたのだ。しかし――彼の精神は、詩乃と同一の世界にあるものではなかった。そもそもの最初から、遠く、恐ろしく遠く隔たっていたのだ。
ついに、詩乃の心を黒く深い絶望の水が満たした。視覚、聴覚、五感のすべてが意味を喪い、世界が遠ざかっていった。
詩乃は、全身の力を抜いた。
焦点を失ってぼやけた視界のなかに、覆いかぶさる恭二の両の目だけが、黒い穴のように浮かんでいた。まったく光のない、闇の世界に繋がった通路にも似たその目は――
あの男の、目だ。
ついに戻ってきたのだ。夜道の物陰、戸棚の隙間、そして《死銃》のフードの奥、あらゆる暗がりに隠れて機会を伺っていたあの男が。
指先が、すうっと冷たくなる。末端から、体と意識の接続が切れていく。魂が縮小していく。
肉体という殻の最奥、暖かく狭い暗闇のなかで幼い子供に戻った詩乃は、ぎゅっと手足を縮めて丸くなった。もう、なにも見たくなかった。感じたくなかった。
いままで十六年を過ごしてきた、あまりに冷たく、過酷な世界。それは、顔も知らない父親を奪い、母親の心を奪い、更なる悪意を差し向けて詩乃の魂の一部を連れ去った。
珍しい動物に向けるような興味と、それを上回る嫌悪を隠した大人たちの視線。同年代の子供たちの、容赦ない悪罵。
それに飽き足らず、この上なおも詩乃から奪い去ろうとするこの世界を、もう唯一の「現実」とは認めたくなかった。
そう――これは現実ではない。無数に重なった世界の、たったひとつの相で起きている取るに足らない出来事でしかない。きっと、それらの世界のうちには、「全てが起きなかった世界」もあるはずだ。
新川恭二と知り合わず、郵便局の事件も起きず、父を殺した交通事故も起きずに、平凡だが幸せな暮らしを送っている朝田詩乃も、どこかの世界にはいるに違いない。闇のなかでぎゅっと手足を縮め、小さく凝固した無機物へと変化しながら、詩乃の魂はひたすら暖かい光のなかで笑っている自分の姿を追い求めた。
水晶発振子が息絶える直前の計算機のように、詩乃の思考も駆動力を失っていく。
残されたわずかな意識のなかで、詩乃はふと、微かなアイロニーを感じた。
現実の過酷さに耐え切れず、夢想のなかに逃げ込もうとしている自分は、ある意味では新川恭二の相似形だ。
学校での苛め、両親の期待、受験の重圧、そのような「現実」を放棄して、恭二は仮想世界に救済を求めた。仮想世界において最強という称号を手にすることができれば、それは現実世界における自分という虚ろな穴を埋めてあまりある価値を持つと信じた。しかし、その望みすらも絶たれて、彼は、壊れた。
いったい、仮想世界とは何なのだろう。
人間の持ちうる時間は有限だ。「現実」を薄めてまで、いくつもの「架空」を生きることで、何を手に入れようというのだろうか。
詩乃も、ガンゲイル・オンラインという名の世界において恭二と同じく強さを求めた。そして、彼があれほど焦がれた最強の座を手に入れた。しかし――
血と火薬の匂いがする記憶の沼から伸びた冷たい手は、いまついに詩乃を捕らえ、連れ去ろうとしているのに、それに対して詩乃は何一つ抵抗できない。目を開けることすらできない。すべては、無駄だったのだ。
深い水底から浮かび上がる小さな泡のように途切れ途切れの思考のなかで、ふと思う。
あの少年は、どうなのだろうか。
二年間ものあいだ、仮想の牢獄に捕えられ、そこで二人の命を奪うことになったというあの少年。長い幽閉の中で、大事な人を失うこともあっただろう。彼も、悔いているのだろうか。自分から多くのものを奪った仮想世界を、憎んでいるのだろうか。
遠い谺のように、あの少年の言葉がよみがえる。
(でもな、シノン)
(戦いつづけることは、できる)
――君は強いね、キリト。
深い闇の底で、詩乃はぽつりと呟いた。
――せっかく助けてもらったのに……無駄にしちゃって、ごめんね。
キリトは、現実に戻ったらすぐに駆け付けると言っていた。あれから何分経ったかはわからないが、どうやら間に合いそうになかった。彼は、抵抗のあともなく殺された詩乃を見たら、どう思うだろうか。それだけが少しだけ気がかり……
そこまで考えたとき、連鎖反応のように、ある危惧がかすかな灯となって闇を照らした。
キリトと遭遇したら、新川恭二はどうするだろう。逃げるか、諦めるか……それとも、手に持った注射器を、彼にも向けるだろうか。
自分がここで死ぬのは、定められた代償として受けいれなくてはならないのかもしれない。
しかし――あの少年を巻き添えにするのは――それは――。
それは、別の問題だ。
だからってもう、どうにもならないよ。
横たわって手足を縮め、目と耳を塞いだ幼い詩乃が呟く。その傍らにひざまずき、細い肩に手を置きながら、サンドイエローのマフラーを巻いたシノンが囁きかける。
私たちはいままでずっと、自分しか見てこなかった。自分のためにしか戦わなかった。だから、新川君の心の声にも気付くことができなかった。でも――もう、遅すぎるかもしれないけれど、せめて最後に一度だけ、誰かのために戦おう。
詩乃は闇の底でゆっくり目蓋を開けた。目の前に、白く、華奢で、しかしどこか力強い手が差し出されていた。恐る恐る手を伸ばし、その手を握る。
シノンはにこりと笑うと、詩乃を助け起こした。色の薄い唇が動き、短く、はっきりとした言葉が響いた。
さあ、行こう。
二人は闇の底を蹴り、遥か水面に揺れる光を目指して上昇し始めた。
一度強く目をしばたくと同時に、詩乃は現実世界と再接続を果たした。
タンクトップは両腕から抜き取られ、上半身は一糸まとわぬ姿になっていた。恭二はふっ、ふっと短く浅い呼吸を繰り返しながら、右鎖骨のあたりに盛んに舌を這わせている。
右手の高圧注射器は相変わらず詩乃の胸に強く押し当てられ、同時に左手は下に降りて、ショートパンツを脱がせようとしているところだった。薄いブルーの下着がなかば露わになっている。
以上の状況を、詩乃は瞬時に見て取った。頭のなかは妙に冷えていた。
ショートパンツがぴったりしたサイズなので、恭二はかなり苦戦しているようだった。苛立たしげに左手が動き、布地をぐいぐいと引っ張っている。
その力に合わせ、引き摺られたように装って、詩乃は体を左に傾けた。途端、ずるりと注射器の先端が滑り、詩乃の体から離れてシーツの上に突き立った。
その瞬間を逃さず、詩乃は左手で注射器のシリンダー部を強く握り、同時に右の掌で恭二の顎を強く突き上げた。
ぐう、と潰れたような声を発して、恭二は仰け反った。体を押さえつけていた重さが消えた。
右足を恭二の下から引き抜くと、全身の力を込めて、胃のあたりを狙って蹴り上げる。
しかし、ほぼ腰の下まで引き降ろされていたショートパンツが邪魔をして、思ったよりも力が入らなかった。恭二は再び鈍い声を漏らして体を折りながらも、右手の注射器を手放すまでには至らなかった。
詩乃は再び右掌を突き出しながら、必死に注射器を引っ張った。このチャンスにこれを奪えなければ、望みは潰える。
だが、利き手でグリップを握る恭二と、滑りやすい胴を左手で握る詩乃との綱引きは、いかにも分が悪かった。体勢を立て直した恭二は、強引に右手を引っ張りながら、奇声を上げつつ左手を振り回した。
「っ!!」
その拳が、強く詩乃の右肩を打った。左手からずるっと注射器が抜けると同時に、詩乃はベッドから転がり落ちて、背中からライティングデスクに衝突した。シンプルな構造の机は大きく傾き、抽斗が一つ抜け落ちて、派手な騒音とともに中身を撒き散らした。
背中を強く打った詩乃は息を詰まらせ、空気を求めて喘いだ。恭二も、ベッドの上でうずくまり、蹴り上げられた下腹部を押さえてうめいていたが、すぐに顔を上げると詩乃を凝視した。
恭二の両目は大きく見開かれ、唾液で光る唇が大きく痙攣していた。数回、開閉を繰り返したその口から、やがてしわがれた声が流れ出した。
「なんで……?」
信じられない、と言わんがばかりに、ゆっくり左右に首を振る。
「なんで、こんなことするの……? 朝田さんには、僕しかいないんだよ。朝田さんのこと分かってあげられるのは、僕だけなんだよ。ずっと、助けてあげたのに……見守ってあげたのに……」
その言葉を聞いて、詩乃は数日前のことを思い出していた。学校の帰りに、遠藤たちに待ち伏せされ、金銭を要求されたとき、通りがかった恭二が助けてくれた――
それでは、あれは、偶然ではなかったのだ。
恐らく恭二は連日、下校する詩乃のあとを付け、帰宅するのを見届け、その後家に取って返してGGOにログインし、シノンを待っていたのだ。
妄執――としか言いようがない。彼の危さをかすかには感じながらも、その本質をなす狂気にはまるで気付かなかった。ひとと正面から向き合おうとしなかった報いなのか、と、この状況にありながらも詩乃は苦いものを感じていた。
「……新川くん」
強張った唇を動かして、詩乃は言った。
「……辛いことばっかりだったけど……それでも、私、この世界が好き。これからは、もっと好きになれると思う。だから……君と一緒には、行けない」
立ち上がろうとして、右手を床に突くと、その指先が何か重く、冷たいものに触れた。
詩乃は瞬時にその正体を察した。先ほど抜け落ちた抽斗の奥に、ずっと隠していたもの。現実世界における、すべての恐怖の象徴。黒いハンドガン――プロキオンIIIだ。
手探りでそのグリップを握ると、詩乃はゆっくりと重いモデルガンを持ち上げ、銃口で恭二を照準した。
銃は、まるで氷の塊から削り出されたかのように、とてつもなく冷たかった。たちまち右手の感覚が鈍くなり、痺れが腕を這い登ってくる。
それが現実の冷感でないのは、詩乃にもわかっていた。心理的な拒否反応がそう感じさせているのだと、わかってはいても抗うことができなかった。名状しがたい恐怖が、黒い水のように胸の奥に広がっていく。
染みひとつない白い壁紙が、ゆらゆらと水たまりのように揺らいで、その奥からヒビの入った灰色のコンクリートが浮き上がってくる。フローリング調の床は色褪せたグリーンのリノリウムに、出窓は木製のカウンターにそれぞれ変貌し、気付けば詩乃は古びた郵便局の中にいる。
照星の中央に捉えた恭二の顔も、突然ぐにゃりと溶け崩れる。肌が脂じみた土気色になり、深い皺が刻まれ、罅割れた唇のあいだから黄ばんだ乱杭歯が剥き出される。右手に握られていた注射器は、いつしか鈍く黒光りする旧式の自動拳銃へと変化している。そして――詩乃の手にある銃も、また。
このあと出現するであろう光景を予想し、詩乃は竦んだ。突き上げられるように胃が収縮し、背中の筋が固くこわばる。
嫌だ。見たくない。今すぐ、右手の黒星を投げ捨て、逃げ出したい。
でも、ここで逃げたら、何もかもが無駄になる。命と同時に、おなじくらい大切なものも無くしてしまう。
この五年間、何度となく銃を握り、恐怖の記憶と向き合ったこと。死銃の影に怯えながら、スコープを覗き、トリガーを引いたこと。それらの戦いが、結果をもたらすことは永遠にないのかもしれない。しかし――
戦いつづけることは、できる。
詩乃は軋むほどに奥歯を噛み締め、親指で銃のハンマーを起こした。硬く、密度のある音に切り裂かれるように、幻は一瞬にして消え去った。
ベッドの上で膝立ちになった恭二は、向けられたプロキオンIIIに気圧されたように、わずかに後ずさった。怯みのせいか、激しく瞬きを繰り返す。
その唇が動き、掠れた声が流れた。
「……何のつもりなの、朝田さん。それは……それは、モデルガンじゃないか。そんなもので、僕を、止められると思うの?」
詩乃は左手をデスクの縁にかけ、ふらつく脚に力を込めて立ち上がりながら、答えた。
「君は、言ったよね。私には、本当の力がある、って。モルターレも同じことを言っていた。昔、ゲームの中でたくさん人を殺したから、自分には本物の力があるんだ、って。なら、私にも……ううん、モルターレなんか問題にならない力が、私にはあるはずだわ。なぜなら、私は、この現実世界でほんとうに人を撃ち殺したんだもの」
「…………」
恭二は紙のように白くなった顔を強張らせながら、更に退がる。
わずかに腰をかがめ、左手で床からトレーナーを拾い上げるとそれで胸を覆って、詩乃は言葉を続けた。
「だから、これはモデルガンじゃない。引鉄をひけば弾が出て、君を殺す」
恭二をポイントしたまま、じりじりと足を動かし、床を横切ってキッチンへと向かう。
「ぼ……僕を……ぼくを、ころす……?」
うわ言のように呟きながら、恭二はのろのろと首を振った。
「朝田さんが、ぼくを……ころす……?」
「そう。次の世界に行くのは、君ひとりだけ」
「やだ……嫌だ……そんなの……嫌だ……」
恭二の眼から、すうっと意思の色が抜け落ちた。ぼんやりとした顔で宙を見つめながら、ぺたんとベッドの上に正座するように座り込む。
右手も弛み、高圧注射器が半ば滑り落ちているのを見て、詩乃は一瞬、この機会にそれを奪うべきか迷った。しかし、刺激すると今度こそ理性をかなぐり捨てて襲い掛かってくるような気がしたので、そのままゆっくりと移動を続け、キッチンへと踏み込んだ。
視界から恭二の姿が消えた途端、詩乃は床を蹴り、ドアへと走った。
わずか5メートルほどの距離が、とてつもなく長かった。極力足音を立てないよう、しかし限界まで大股でキッチンを走り抜けて、上がり框に達したその時。
踏んだマットが勢い良く滑り、詩乃は体勢を崩した。バランスを取ろうと振り回した右手からモデルガンが飛んで、シンクの中に落下して派手な音を立てた。
どうにか倒れるのは堪えたものの、左膝を床に打ち付け、激痛が走った。それでも、一杯に体を伸ばし、右手でドアノブを握った。
しかし、ドアは開かなかった。ロックノブが横に倒れているのに気付き、歯噛みをしながらそれを垂直に戻す。
カチリという開錠音が指先に伝わったのと、ほとんど同時に――
後ろに投げ出していた右足の踝を、冷たい手がぐっと握った。
「!!」
息を飲みながら振り向くと、四つん這いになった恭二が、魂の抜け落ちた顔のまま、両手で詩乃の足を捕らえていた。注射器は見当たらない。
振りほどこうと無茶苦茶に足を動かしながら、詩乃は必死に手を伸ばし、ドアを開けようとした。だが、指先はノブに触れたものの、それを掴むことはかなわなかった。恭二が凄まじい力で詩乃の足を引っ張ったのだ。
ずるりと数十センチもキッチンに引き込まれたが、詩乃は左手で上がり框の段差を掴み、抵抗した。
ここからなら外に声が届く、そう思って叫ぼうとしたが、喉の奥が塞がってろくに空気を吸い込めず、出たのは頼りない掠れ声だけだった。
恭二の力は常軌を逸していた。詩乃とほとんど背の違わない、細いその体のどこに、と思うほどの膂力で引き摺られ、左手が外れた。その途端、詩乃は勢い良くキッチンの奥に引き込まれた。
たちまち、恭二の体が圧し掛かってきた。右手を握り、顎を狙って突き上げたが、わずかに掠ったところを恭二の左手に掴まれた。万力のような締め付けに手首が軋み、激痛が頭の奥で火花を散らす。
「アサダサンアサダサンアサダサン」
その奇妙な音が、恭二の口から漏れる自分の名前だとはしばらく気付かなかった。唇の端から白く泡立った唾液を垂らし、両目の焦点を失った恭二の顔が降ってきて、反射的に首を傾けて避ける。
左耳の下から、頬、首筋にかけて生暖かく濡れた器官が激しく蠢く感触に、途方も無い嫌悪感が疾るが、必死にこらえる。武器になるものがないかと左手で床を探るものの、何も触れない。
諦めずに頭上方向に伸ばした指先が、つるりとした壁に当たった。いや、壁ではなく、シンク下部の収納だ。そのドアを開けることができれば、内側のポケットにキッチンナイフと包丁が並んでいる。
しかし、必死に振り上げた指先は、あと数センチ届かない。左足で床を蹴って体を摺り上げようとしたが、その足は恭二の右手に捉えられ、脇の下に抱えこまれてしまう。
詩乃の腰を引っ張り上げ、恭二は右手をショートパンツのギャザー部分に掛けた。容赦ない力で引っ張られ、前ボタンが弾け飛んでユニットバスのドアに当たり、乾いた音を立てた。
その音は何かの決壊を感じさせてわずかに怯んだが、詩乃は歯を食い縛り、左手の指を恭二の顔に突き立てた。爪を短く手入れしていることが今ばかりは悔やまれたが、思い切り力を込めるとそれでもわずかに皮膚が抉れ、恭二はくぐもった声を上げて仰け反った。
しかし、力が抜けたのは一瞬だった。赤い筋に囲まれた右目を血走らせ、恭二は獣じみた吼え声とともに、唾液にまみれた口を大きく開いた。
牙にも似た上下の歯を剥き出して、詩乃の肌を噛み裂こうとするかのように顔を近づけてくる。再び左手で退けようとするが、その手首をも恭二の右手に捕らえられてしまう。
両手をがっちりと押さえられたものの、あと少し恭二の顔が近づいたら、逆に首筋に噛み付こうと、詩乃が口もとを緊張させた――その時だった。
いつドアが開いたのか、冷たい空気の流れが詩乃の肩を撫でた。恭二がさっと顔を上げ、詩乃の後方を見やった。その目と口が、ぽかんと丸く広がった。
と思った次の瞬間、黒い颶風のように走りこんできた何か――誰かが、恭二の顔面に膝をめり込ませた。
どどっと音を立て、ひとかたまりになって奥の部屋に転がり込んだ恭二と謎の闖入者を、詩乃は唖然として見つめた。
鼻と口から血を流して倒れた恭二を、見知らぬ若い男が押さえ込んでいた。
やや長めの黒い髪。同じく黒のライダージャケット。咄嗟に、アパートの他の部屋の住人かと思ったが、男――というより少年がわずかに振り返り、叫んだとき、詩乃には彼の正体が分かった。
「早く逃げろシノン! 助けを呼ぶんだ!」
「キリ……」
呆然と呟いてから、詩乃は慌てて体を起こした。素早く立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かない。
シンクの縁に手を掛け、どうにか体を引っ張り上げた。キリトが来たということは、すぐに警察も現われるはずだ。ふらつく脚を叱咤しながら、数歩ドアに向かって走り寄ったところで――
詩乃は重要なことを思い出した。
恭二は、致命的な武器を持っている。それをキリトに警告しなくてはならない。
振り返り、注射器が、と叫ぼうとした時。
押さえ込まれていた恭二が、完全に理性を失った、獣のような咆哮を轟かせた。弾かれるようにキリトの体が吹き飛び、二人の体勢が入れ替わった。
「お前……おまえだなああああ!!」
恭二の絶叫は、巨大なスピーカーがハウリングを起こしたような、鼓膜を劈くほどの音量だった。
「僕のシノンに触るなああああああッ!!」
体を起こそうとしたキリトの頬に、恭二の左拳が食い込み、鈍い音を立てた。同時に右手がジャケットのポケットに差し込まれ、あの禍々しい銃型の注射器がつかみ出された。
「キリト――ッ!!」
詩乃が叫ぶのと、
「死ねええええええッ!!」
恭二が吠えるのは同時だった。
高圧注射器が、キリトの胸、ライダージャケットの隙間のTシャツに突き立てられ、
ブシュッ!! という、小さく、鋭く、しかし聞き逃しようのない音が響き渡った。
それは、恐ろしいことに、高性能の消音器を装着した銃の発射音に酷似していた。
もちろん、詩乃が知っているのはあくまでガンゲイル・オンライン内の仮想の銃器が発するサウンドエフェクトであり、実際のサイレンサーがどのような音を立てるものなのかは知る由もない。しかし、耳に染み付いたその音は、詩乃にとっては立ち向かうべき脅威をあらわすものだった。気付いたときには、足が床を蹴っていた。
数歩でキッチンを横断し、部屋に駆け込みざま、無意識のうちにもっとも効果的な武器となりそうなもの――テーブルの上のオーディオプレイヤーに視線を走らせていた。姿勢を低くし、右手でそのハンドルを掬い上げる。
詩乃が長年愛用してきたその機械は相当の年代物で、最近の壁掛け式プレイヤーと比べればいかにも巨大だった。3キログラムは下るまいという金属の直方体の重量を、腰で支えて後方に勢い良く振り回し――
陶酔した笑みを口もとに浮かべたまま、きょとんとした目つきで顔を上げた恭二の右側頭部目掛けて、一回転させた体の重さごと、思い切り叩きつけた。
衝突の瞬間の音も、手応えも、ほとんど感じなかった。しかし、ハンドルを留めていたボルトが折れ、詩乃の手から離れたプレイヤーと恭二の頭が一緒に吹き飛んで、1メートルほど離れたベッドのパイプの角にめり込むときの重い衝撃音ははっきりと耳の底に残った。
半秒ほどの時間差を置いて頭の右側と左側を強打された恭二は、呻き声を上げながらうつ伏せに倒れ込んだ。その右手が緩み、高圧注射器が半ば滑り落ちた。
果たしてその器具が、薬品を連続して発射できるものなのかどうか定かではなかったが、詩乃はとりあえずそれを恭二の手からもぎ取った。持ち主は白目を剥き、低い唸り声を漏らし続けているが、これ以上動く様子は無い。
ベルトか何かを使って手を縛ったりするべきかどうか一瞬迷ったが、その前にやることがあった。詩乃は振り向くと、
「キリトっ……!」
細く叫びながら、床に横たわったままの少年に向かって屈み込んだ。
どこか、ゲーム内のキャラクターに共通した線の細さを持つ少年は、薄く開けた目で詩乃を認めると、掠れた声を漏らした。
「やられた……まさか、あれが……注射器だったなんて……」
「どこ!? どこに打たれたの!?」
注射器を傍らに放り投げ、詩乃はキリトのライダージャケットのジッパーを千切るような勢いで引き降ろした。
救急車を呼ばなければ、その前に応急処置を、でも胸の止血なんてどうやって――口で吸い出す――!? 等々と、混濁した思考が次々と浮かび、指先を震わせる。
ジャケットの中の、色褪せたブルーのTシャツの一部、ちょうど心臓の真上と思しきあたりに、不吉に黒ずんだ染みがあった。注射器が発射した薬液の「貫通力」がどの程度なのかは分からないが、おそらく薄いシャツの布地で阻めるようなものではないと思われた。
「こ……このへん……」
キリトが顔を歪めながら指先で染みのあたりを押さえた。その手を引き剥がし、詩乃は大きく息を吸いながら、シャツの裾をジーンズから引っ張り出して大きく捲り上げた。
男にしては色が白く、つるりとした腹と胸が露わになった。その中央やや右寄り、染みがあったまさにその場所に――妙なモノが張り付いていた。
「……!?」
詩乃は唖然としてそれを凝視した。
直径3センチほどの円形。薄い銀色の円盤のまわりに、半透明のゴムでできた吸盤のようなものがはみ出している。円盤の縁から、何らかのソケットらしき突起が伸びているが、そこには何も接続されていない。
金属円の表面は全体的に濡れ、一本のしずくが下方に流れていた。透明なその液体が、恐らく恭二の言っていた「サクシニルコリン」なる致命的な薬品なのだと思われた。
詩乃は慌てて床を見回し、ティッシュのボックスを見つけて二枚抜き取ると、慎重にその液体を拭った。数センチの距離まで顔を近づけると、謎のパッチの周囲の肌を仔細に眺め回し、高圧流が侵入したあとがないか確かめる。
いくら凝視しても、キリトの胸には傷ひとつ見つからなかった。おそらく高圧注射器の先端は、Tシャツ越しにこの直径数センチの金属円にあてがわれ、発射された薬品はすべて強固な壁に阻まれたらしかった。ためしにパッチの上から手を当てると、どくんどくんと、速いが力強く動き続ける心臓のビートが伝わってきた。
詩乃はぱちぱちと瞬きし、視線を上げると、相変わらず目を閉じてうめいているキリトの顔を見た。
「ねえ……ちょっと」
「うう……駄目だ……呼吸が……苦しい……」
「ねえ、ちょっとってば」
「……ちくしょう……咄嗟に遺言なんて……思いつかないぜ……」
「これ、この貼り付いてるもの、何なの?」
「……え?」
キリトは再び瞼を開けると、自分の胸を見下ろした。訝しげに眉をしかめ、持ち上げた右手の指で金属円をなぞる。
「……ひょっとして……注射は、この上に?」
「なんか、どうも、そうみたいよ。何なのよこれは?」
「……ええと……多分、心電図モニターの電極……だと思う……」
「は……はあ? 何でそんな……あんた、心臓悪いの……?」
「いや、ぜんぜん……。《死銃》対策でつけてもらってたんだけど……そ、そうか、焦って引っ張ったから、コードが抜けて一個残ったのか……」
キリトはふううっと大きく息を吐くと、呟いた。
「まったく……、脅かしてくれるなあ」
「そりゃあ……」
詩乃は両手でぎゅっとキリトの首を掴むと、締め上げた。
「――こっちの台詞よ! し……死んじゃうかと思ったんだからね!!」
叫んだ途端、緊張が一気に抜けたのか、目の前がすうっと暗くなった。頭をぶんぶんと振ってから、少し離れた場所にうつ伏せに倒れたままの恭二に視線を向ける。
「彼は……大丈夫か?」
キリトに言われ、おそるおそる手を伸ばし、投げ出された恭二の右手首を取った。幸い、こちらもはっきりとした鼓動が伝わってきた。拘束すべきか、と改めて思ったものの、瞼を閉じたどこかあどけない恭二の顔をそれ以上見ていることが出来ず、詩乃は目をそむけた。恭二のことを、今はもう考えたくなかった。怒りも悲しみも感じなかったが、ただ、虚ろなものが胸に広がっていた。
ぺたりと床にしゃがみ込んだまま、詩乃は床に転がった高圧注射器――あるいは真の《死銃》を数秒間、漠然と見つめた。やがて口を開き、ぽつりと呟いた。
「とりあえず……来てくれて、有難う」
キリトは、見覚えのある片頬だけの笑いをかすかに浮かべると、首を振った。
「いや……何もできなかったし……それに、遅くなって悪かった。警察が、なかなか言うことをわかってくれなくて……。――その……ケガは、ない?」
詩乃はこくんと頷く。
「そうか。ええと……あの、シノン」
先ほどから不自然に顔をそむけていたキリトが、頬を赤くしながら言った。
「ふ……服を着たほうが……」
ぱちくりと瞬きしてから、ようやく詩乃は自分がボタンの取れたショートパンツしか身に付けていないことに気付いた。慌てて片手で胸を覆い、床に落ちたままだったタンクトップを拾い上げたそのとき、突然両眼から零れるものがあった。
「あ……あれ……」
頭のなかは、真綿を詰められたようにぼうっとして何も考えられないのに、頬を伝う涙は勢いを増し、次々と滴って、胸に抱いたタンクトップに染み込んでいった。
詩乃は口を閉ざし、身動きもせず、ただ涙が溢れるに任せた。何か喋ろうとしたら、その途端に大声で泣いてしまうだろうと思った。
キリトも無言のまま動こうとしなかった。
やがて、遠くからサイレンの音が近づいてくるのに気付いたが、涙は枯れる様子もなかった。密やかに、次々と大粒の雫をこぼしながら、詩乃は胸を満たす空虚さの源が、深い喪失感であることを強く意識していた。
(第五章 終)
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エピローグ 「トゥルー・リアル」
その向こうの宇宙を感じさせるほどに、高い空だった。
この、「空の高さ」だけはいかなるVR世界でも再現することはできない。過ぎ去った秋が忘れていったような、濃く澄んだ青のなかに、小さな羊雲と筋雲が層をなしてぽつんと浮かんでいる。細い電線のうえで雀が二羽肩を寄せ合い、遥かな高みを往く軍用機がちかりと陽光を跳ね返す。
精神が吸い込まれそうな、途方もない奥行きをもつパースペクティブに、詩乃は飽くることなく見入りつづけた。
12月半ばにしては風もぬるく、放課直後の生徒たちの喧騒もこの校舎裏にまでは届かない。いつもは薄く灰色がかって見える東京都心の空だが、今日だけは故郷の北の町と似た色に見えた。黒い土が剥き出しになった殺風景な花壇の端に腰掛け、膝のうえに通学鞄を抱えて、詩乃はもう10分近くも無限の空間に心を浮遊させている。
しかしやがて、甲高い笑い声とともに複数の足音が近づいてきて、詩乃を地上に引き戻した。
強張った首の角度を戻し、白いマフラーをぐいっと引っ張り上げて、闖入者たちを待ちうける。
校舎の北西端の角と、大型焼却炉のあいだの通路から姿を現した遠藤と二人の仲間たちは、詩乃を見つけると一様に唇を歪め、嗜虐的な笑みを形作った。
鞄を左手で持ち、立ち上がると、詩乃は言った。
「呼び出しておいて待たせないで」
それを聞いた取り巻きのひとりが、厚ぼったい目蓋を高速でしばたかせてから、笑みを消して喚いた。
「朝田さぁー、最近マジちょっと調子のってない?」
もうひとりも、似たようなイントネーションで追従する。
「ほんとー、友達に向かってそれちょっとひどくない?」
詩乃から1メートルほど離れた場所に立ち止まった三人は、それぞれが効果的と思っているのであろう角度から、威圧するような視線を向けてきた。詩乃はとりあえず中央に立つ遠藤の、捕食昆虫じみた細い目をじっと見つめた。
沈黙は数秒しか続かなかった。すぐに遠藤はにいっと笑うと、あごを突き出して言った。
「別にいいよ、トモダチなんだから何言っても。そんかしさあ、あたしらが困ってたら助けてくれるよな。つうか今、超困ってんだけど」
それを聞いて、左右の二人が短く笑う。
「とりあえず、2万でいいや。貸して」
消しゴム貸して、と言う時のように何気ない調子で、遠藤は要求を口にした。
詩乃は視線に力を込め、一語ずつ区切りながら答えた。
「あなたに、お金を貸す気は、ない」
途端、遠藤の目がきゅっと細められ、ほとんど糸のようになった。その隙間から粘りけのある眼光を放射しながら、一段と低い声で言う。
「……いつまでもチョーシくれてんじゃねえぞ。言っとくけどな、今日はマジで兄貴からアレ借りてきてんだからな。泣かすぞ朝田」
「……好きにしたら」
まさか本当にそこまでの事を、と詩乃は思ったが、驚いたことに遠藤はぎゅっと唇の両端を吊り上げると、鞄に右手を差し込んだ。
大量のマスコット類がじゃらじゃらとぶら下がる女子高生仕様の鞄から、唐突に黒い自動拳銃が出現する光景は、ある種のパラノイアックなユーモアを感じさせた。覚束ない手つきで大型のモデルガンを引っ張り出した遠藤は、右手に握ったそれをぐいっと詩乃に突きつけた。
「これ、マジで弾出るんだぜ。絶対人に向けんなって言われたけどさぁ、朝田は平気だよな。慣れてるもんな」
詩乃の目は、自然に黒い銃口に吸い寄せられた。遠藤の声は、水の膜を隔てたように歪んで聞こえた。
たちまち、心臓の鼓動が跳ね上がる。耳鳴りが周囲の音を遠ざける。呼吸が浅くなり、指先から冷気が這いのぼる――
しかし詩乃はぐっと奥歯を噛み締め、全精神力を振り絞って、瞳を銃内部の闇から逸らした。
グリップを握る遠藤の右手から、その腕へと視線を動かしていく。肩から、色の抜けた髪、そして顔へと辿っていく。
遠藤の目は、興奮のせいか毛細血管が浮き上がり、虹彩は黒く濁っていた。
醜い眼の色だった。単に暴力に酔う者の眼だと思った。
本当に恐れるべきは、銃ではない。それを持つ人間のほうだ。
詩乃が期待したような反応を見せないせいか、遠藤は苛立ったように唇を曲げ、吐き捨てた。
「泣けよ朝田。土下座して謝れよ。ほんとに撃つぞてめえ」
ぐいっとモデルガンを詩乃の足に向け、右腕に力を込めた。肩から腕にかけてがぴくりと震え、引鉄を引こうとしたのが詩乃にはわかった。しかし、弾は出なかった。
「クソッ、何だよこれ」
二度、三度と撃とうとしたが、トリガーは動かないらしい。
詩乃は大きく息を吸い、ぐっとお腹に力を込めると、鞄を足元に落とし、手を伸ばした。
左手の親指で遠藤の右手首を強く押さえ、握力が緩んだところを、右手で銃を奪い取る。トリガーガードに人差し指を掛けてくるりと回すと、すぽっとグリップが掌に収まった。プラスチック製なのだろうが、ずしりと重く感じた。
「1911ガバメントか。お兄さん、渋い趣味ね。私の好みじゃないけど」
呟いて、銃の左側面を遠藤に向ける。
「ガバメントは、サムセーフティの他にグリップセーフティもあるから、こことここを解除しないと撃てないわ」
カチリ、カチリと音をさせて二箇所の安全装置を外す。
「それに、シングルアクションだから最初は自分でコッキングしないと駄目」
親指でハンマーを起こすと、硬い音とともにトリガーがわずかに持ち上がった。
唖然として目と口をぽかんと開けている遠藤たちから視線を外し、詩乃は周囲を見回した。6メートルほど離れた焼却炉の傍らに青いポリバケツが並び、そのうちの一つにジュースの空き缶が乗っているのが目に止まった。
両足を開き、左手をグリップに添える。右目と照門、照星が作る直線上に空き缶を捉える。少し考えてからわずかに銃を上向け、息を溜めてからトリガーを絞った。
ばす、という頼りない音とともに、ささやかなリコイルが手に伝わった。感心なことにガバメントはきちんとブローバックし、オレンジ色の小さな弾が発射された。
銃のクセがわからなかったので初弾は外すものと思ったが、運良くタマは空き缶の上部ぎりぎりの場所に当たって、詩乃は内心で少し驚いた。くわん、と高い音を響かせて空き缶はくるくるとコマのように回り、やがて倒れて、バケツから転がり落ちた。
詩乃はふう、と息をつくと銃を下ろした。体の向きを変え、正面から遠藤を見る。
嗜虐的な笑みはあとかたもなく消えていた。遠藤は完全に毒気を抜かれたように呆然としていたが、詩乃がずっとその目を見つづけていると、怯んだように口もとを強張らせ、半歩あとずさった。
「や……やめ……」
上ずった声が漏れるのを聞いて、詩乃はふっと視線を緩めた。
「……確かに、人には向けないほうがいいわ、これ」
言いながらハンマーをデコックし、二つのセーフティを元に戻す。グリップを向けて差し出すと、遠藤はビクリと体を震わせたが、おそるおそるというふうに手を伸ばし、モデルガンを受け取った。
詩乃は振り向くと鞄を拾い、ぐいっとマフラーを引き上げた。じゃあね、と肩越しに言葉を投げ、歩き出したが、遠藤たちは動かなかった。校舎の角を曲がり、視界から姿が消えるまで、三人は無言のまま立ち尽くしていた。
遠藤たちが見えなくなった途端、両脚からすうっと力が抜けて、詩乃はその場にへたりこみそうになった。校舎の壁に手をついて、どうにか堪える。
耳の奥がごうごうと鳴り、こめかみで血流が激しく脈打つのを感じた。今おなじことをもう一度やれと言われても絶対に出来ないと思った。込み上げる胃液で、喉のおくが焼けた。
それでも、しゃがみ込むこともなく、詩乃は無理矢理に歩行を再開した。モデルガンの冷たい重さはしつこく掌に染み付いて去ろうとしなかったが、乾いた寒風にさらしているうちに、少しずつ薄れ始めた。
校舎の西昇降口と体育館を繋ぐ渡り廊下を横切り、しばらく歩くとグラウンドの端に出る。運動部の生徒が掛け声とともにランニングしている横を通り過ぎ、グラウンド南側の小さな林を通り抜けるともう、正門前の広場である。
生徒たちが三々五々連れ立って帰途につくなかを、早足で縫いながら校門に向かおうとして、詩乃はふと首をかしげた。
学校の敷地を囲む高い塀の内側に、いくつかの女子生徒の集団が足を止め、ちらちらと校門のほうを見ながら顔を寄せ合って何事か話している。
そのうちの二人が、同じクラスでそこそこ仲の良い生徒たちであるのに気付いて、詩乃は彼女らに歩み寄った。
黒縁眼鏡を掛けたロングヘアの生徒が、詩乃に気付き、にこっと笑って手を上げた。
「朝田さん、今帰り?」
「うん。――何、してるの?」
聞くと、栗色の髪をふたつに束ねたもう一人が、肩をすくめて笑いながら答えた。
「あのね、校門のとこに、このへんの制服じゃない男の子がいるの。バイク停めて、ヘルメット二つ持ってるから、ウチの生徒を待ってるんじゃないか、って。お相手の剛の者が誰だか、悪趣味だけど興味あるじゃない?」
それを聞いて、詩乃はサーッと血の気が引くのを意識した。慌てて時計を確認し、いやまさか、と内心で必死に否定する。
確かにこの時間に学校を出たところで待ち合わせはしたし、電車代が勿体無いのでバイクで送迎しろとも言った。しかしよもや、校門のど真ん前にバイクを止めて待ちうけるような、あまりにも大胆不敵な真似を――
――あの男なら、やりかねない。
おそるおそる塀に体を寄せ、校門の向こう側の車回しを覗き見てから、詩乃はがくりと肩を落とした。スタンドを降ろした派手な色のバイクに寄りかかり、ヘルメットを両手で抱えて、ぽけーっと空を眺めている見知らぬ制服の男子生徒は、間違いなく一昨日に会ったばかりのあの男だった。
十人以上に注視されている状況で自分から声を掛け、バイクの後ろに乗ることを考えると耳の先端までが燃え上がるように熱くなった。この場からログアウトしてしまいたい、と心の中で呟いてから、詩乃はなけなしの度胸を振り絞り、傍らの同級生に向き直った。
「ええと……あの……アレ、私の……知り合いなの」
消え入るような声で告げると、女子生徒の眼鏡の奥で目が大きく見開かれた。
「えっ……朝田さんだったの!?」
「ど、どういう知り合い!?」
もう一人も驚愕の叫びを上げる。その声に周囲の視線が集まるのを意識して、詩乃は鞄を抱えると限界まで肩を縮め、
「ご……ごめんなさいっ」
何故か謝りながら小走りに駆け出した。
明日説明しなさいよーという声を背中に受けながら、古めかしいブロンズの校門をくぐり、車回しに出る。
すぐ傍まで接近しても、豪胆なるストレンジャーことキリトは、呆けたように青い空に見入っていた。
「……あの」
声を掛けると、ぱちぱち瞬きしてからようやく視線を戻し、のんびりとした笑顔を浮かべる。
「やあ、こんにちは、シノン。いい天気だね」
こうして明るい陽光の下で改めて見ると、現実世界のキリトは、少々浮世離れした透明な雰囲気を持つ少年だった。少し長めの黒い髪と、対照的に色素の薄い肌、びっくりするほど細い体は、どことなく仮想世界で見たバーチャル体と共通する少女っぽさを漂わせている。
その希薄感、言い換えればどこか病的な気配は、彼が経験した二年間の虜囚生活をまざまざと思わせて、詩乃は思わず浴びせようとした舌鋒を収めていた。
「……こんにちは。……お待たせ」
「いや、さっき着いたところだよ。――それにしても……なんか……」
キリトはようやく校門の周囲からこちらを見守る生徒たちに気付いたように、視線を巡らせる。
「……注目されてるような……」
「あ……あのねえ」
それでも少し呆れ声になりながら詩乃は言った。
「校門の真ん前に他校の生徒がバイクで乗りつけたら、目立つのは当たり前だと思う」
「そ……そういうもんか。じゃあ……」
不意に少年は、仮想世界でよく見せたような、片頬だけのシニカルっぽい笑みを浮かべる。
「もう少しここで粘ってたら、生活指導の先生とかが飛んできて怒られたりするのかな? それはちょっと楽しそうだな」
「じょ……冗談じゃないわ!」
実際有り得ないことではない。詩乃は反射的に校門のほうを振り返ってから、声を低くして叫んだ。
「さ、さっさと行くわよ!」
「へいへい」
相変わらず笑みを浮かべたまま、キリトはハンドルに掛けられていたライトグリーンのヘルメットを取ると、詩乃に差し出した。
コイツの中身は、ゲーム内で見せた不敵な皮肉屋と一緒なのだ、外見にダマされてはいけないとしみじみ思いながら詩乃はヘルメットを受け取った。鞄を斜めに肩に引っ掛け、オープンフェイスタイプのそれをすぽっと被ったところで、あご下のハーネスの留め方がわからず手を止める。その途端、
「ちょっと失礼」
キリトの手が伸びてきて、手早く詩乃の首もとでベルトを固定した。再び顔が熱くなり、慌ててシールドを降ろす。明日、教室で説明を求められたときのことが思いやられた。
自分も黒いヘルメットを装着し、ひょいっとシートに跨ったキリトが、ふと首を傾げた。
「……シノン、その……スカートは大丈夫?」
「体育用のスパッツ穿いてるから」
「そ、そういう問題かなあ」
「別にあんたからは見えないでしょ」
キリトに一矢報いておいて、詩乃は勢いよくバイクのリアシートに跨った。子供の頃によく祖父のおんぼろスーパーカブ90の後ろに乗っていたので、要領は身についている。
「ほんじゃ、まあ……しっかり掴まっててください」
キリトがキーを捻ると、いまどき内燃機関の甲高い爆音が響いて、再び首を縮める。しかし、腰に伝わる振動と排気の匂いは懐かしいもので、思わずバイザーの奥で微笑みながら、詩乃は骨ばったキリトの体にぎゅっと手を回した。
学校がある文京区湯島から、目的地の中央区銀座までは、地下鉄を乗り継ぐと少々大変だが、地上を行くなら案外と近い。
御茶ノ水から千代田通りを下りて皇居に出ると、バイクは安全運転でとろとろとお堀端を走った。小春日和が幸いして、吹き過ぎる風も気持ちいい。大手門前を通過し、内堀通りから晴海通りに左折してJRの高架をくぐると、そこはもう銀座四丁目だ。
三輪バギーでモルターレから逃げたときのスピードと比べると亀の歩みだったが、それでもほんの十五分たらずで目的地に到達し、キリトはバイクを停めた。
外したヘルメットを手に持ったまま案内された先は、詩乃がかつて足を踏み入れたことがない種類の、いかにも高級そうな喫茶店だった。ドアを押し開けた途端、白シャツに黒蝶タイのウェイターに深々と頭を下げられてわずかに狼狽する。
お二人様ですか、とウェイターに聞かれて、これではまるで……と更に泡を食ったところで、店の奥から、シックな雰囲気をぶち壊す傍若無人な大声がした。
「おーいキリトくん、こっちこっち!」
「……えーと、アレと待ち合わせです」
キリトが言うと、ウェイターは表情ひとつ変えずに、かしこまりました、と一礼して歩きはじめた。買い物途中のご婦人たちで溢れる店内に制服姿の高校生はいかにも場違いで、詩乃は体を縮めながらぴかぴかに磨かれた床板の上を歩いた。
テーブルで二人を待っていたのは、ダークブルーのスーツに華奢な黒縁眼鏡の、背の高い男だった。事前に役人と聞かされてはいたが、確かにいかにもホワイトカラーといった雰囲気と同時に、どこか学者めいたところもある。
立ち上がり、右手で椅子を示す男の仕草に従って向かいの窓際に腰を下ろすと、即座に湯気を立てるお絞りと革張りのメニューが出現した。
「さ、何でも頼んでください」
という男の声に促されるようにメニューを開き、視線を落として、詩乃は唖然とした。サンドイッチやパスタといった軽食類はもちろん、デザートの欄にもおしなべて四桁の数字が並んでいる。
凍り付いていると、隣でキリトが憮然とした声を出した。
「ほんとに遠慮しないほうがいいぞ。どうせ支払いは税金からなんだからな」
ちらりと視線を上げると、眼鏡の男もにこにこと頷いている。
「じゃ、じゃあ……この、レアチーズケーキ・クランベリーソース……と、アールグレイ」
うわあ合計2200円、と内心で蒼ざめながら詩乃がオーダーすると、続けてキリトが、
「俺はりんごのシブーストとモンブランとエスプレッソ」
などと信じられないことを言った。合計金額はもう想像するのも恐ろしい。
ウェイターが深々と腰を折ってから立ち去ると、眼鏡の男はスーツの中から黒革のケースを取り出し、一枚抜いた名刺を詩乃に差し出した。
「はじめまして。僕は総務省仮想課の菊岡と言います」
豊かなテノールで名乗られ、詩乃も慌てて名刺を受け取り、会釈を返す。
「は、はじめまして。朝田……詩乃です」
言った途端、菊岡という男は口もとを引き締め、ぐいっと頭を下げた。
「この度は、こちらの不手際で大変危険な状況を招いてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「い……いえ、そんな」
再び慌てて詩乃が頭を下げ返すと、キリトが混ぜ返すように口を挟んだ。
「もっと謝ってもらったほうがいいぞ。菊岡サンがもっと真剣に調べてれば、俺もシノンもあんな目には合わなかったんだからな」
「……そう言われれば返す言葉もないが」
菊岡はやり込められた子供のように項垂れながらも、上目遣いに続ける。
「しかしキリト君だってまるで予想してなかったわけだろう? まさか、《死銃》が二人いた、なんてさ」
「そりゃあ……まあ、な」
キリトは、きい、とアンティークっぽい椅子の背もたれを鳴らした。
「……とりあえず、今までにわかったことを教えてくれよ、菊岡さん」
「と、言っても……まだ彼らの犯罪が明らかになってから二日しか経っていないのでね。全容解明には程遠いんだが……」
自分の前のコーヒーカップを持ち上げ、一口含んでから、菊岡は続けた。
「さっき二人と言ったけど、実際には三人いたわけだね。少なくとも、《死銃A》……こと新川亮一くんの供述では、三人ということになっている」
「その亮一氏が、俺とシノンをBoB本大会で襲撃したときのモルターレだったんだな?」
キリトの問いを菊岡は軽く首肯した。
「それはほぼ間違いないね。彼の自宅アパートから押収されたアミュスフィアのログにも、該当する時刻にガンゲイル・オンラインに接続していたことが記録されている」
「自宅アパート……。新川亮一というのは、どういう人間だったんだ? 首謀者は彼ということなのか?」
「……それを説明するためには、SAO事件以前から始めなくてはならないようだ。だが、まあ、その前に……」
ちょうどその時、ウェイターが華奢なワゴンに大量の皿を載せて戻ってきた。それらが音も無くテーブルに並べられ、ウェイターが下がるのを待って、菊岡は手振りで詩乃たちに勧めた。
食欲はあまりあるとは言えなかったが、小さなケーキのひとつくらいなら入りそうだった。キリトと揃っていただきます、と言ってから、金色のフォークを手に取る。
艶やかな赤いソースが添えられた乳白色の矩形の一端を切り取り、口にはこんだ。チーズを更に濃縮したかのような密度のある味が広がり、しかしそのわりには舌の上で滑らかに溶け去って驚かされる。レシピを知りたいと一瞬思ったものの、訊いても教えてくれるわけはないだろう。
つい夢中で半分ほど食べてしまってから、フォークを置いて紅茶のカップを持ち上げる。オレンジの風味が漂う熱い液体を少しずつ含むと、心の奥の凝り固まった部分が、少しずつほぐれていくような気がした。
「……おいしいです」
顔を上げて詩乃が呟くと、菊岡は嬉しそうに笑い、言った。
「おいしいものはもっと楽しい話をしながら食べたいけどね。また今度付き合ってください」
「は、はあ」
すると、モンブランの金褐色の山をみるみる低くしつつあるキリトが笑いを含んだ声で茶々を入れた。
「止めといたほうがいいぜ。この男の《楽しい話》はクサイかキモチワルイかどっちかだからな」
「し、心外だなあ。ベトナム食べ歩きの話とか自信あるんだが……ま、その前に事件の話をしておこう」
菊岡は胸ポケットから極薄型のPDAを取り出し、二つに開くと、銀色のスタイラスで画面をつつき始めた。
詩乃はわずかに体を緊張させて、どこか教師めいたところのある男の言葉を待った。
この《死銃》事件に関するすべてを知りたい、という気持ちはもちろんある。
しかし同時に、これ以上真実に触れたくない、と心の奥でつぶやく声もする。
多分、自分はまだ、ある部分では新川恭二のことを信じているのだ。あれほどの暴力を向けられた後でも、完全には恭二を憎みきれず、完全には恭二への好意を捨てきれない。あれは彼ではなく、彼の頭のなかに入り込んだ何者かの仕業なのだ――と信じたい自分がいる。そう、詩乃は感じている。
日曜から月曜へと日付けをまたいで起きたあの事件から、およそ四十時間が経過していた。
あの夜――キリトに促され、差し出されたティッシュで涙を拭い、半ば着せてもらうような形でどうにか服を身につけ終わったのとほぼ同時に、詩乃の部屋に警察が到着した。
頭を強打されて意識朦朧としていた新川恭二は、その場で逮捕され、救急車で病院に搬送された。
詩乃とキリトも、念のためということで別の病院に運ばれ、そこでひととおりの検査を受けることになった。いくつかの軽い擦過傷のほかはひとまず異常なし、と当直医師に告げられた直後、病室で事情聴取がはじまり、詩乃はぼんやりと紗のかかった頭をどうにか回転させて、実際に部屋であった事だけを告げた。
自覚はなかったが、詩乃の精神的ストレスが限界と見た医師の判断によって、警察の聞き取りは午前二時にいったん終了した。その夜はそのまま病室で一泊し、翌朝六時半に目が覚めた詩乃は、医師の勧めを断ってアパートに戻り、登校することにした。
病院を出る前に、教えてもらったキリトの病室を訪れたのだが、少年は身じろぎもせず熟睡していた。しばらく、案外とあどけない寝顔を眺めてから立ち去ろうとしたとき、様子を見に来た看護婦と鉢合わせたので少し言葉を交わした。
圧倒されるほど美人で肉感的なその看護婦は、どうやらキリトとは長い付き合いらしく、苦笑しながら漏らした「言っちゃなんだけど、病院のベッドが似合うコだよね」という言葉が印象的だった。
月曜の授業はうとうとしながら乗り切った。不登校継続中とは言え立派に学籍のある恭二の起こした事件は、とっくに学校にも伝わっているものと思っていたが、教師にも生徒にもそのことに触れる者はいなかった。
遠藤らの呼び出しを綺麗に無視してアパートに帰ると、警察の車が待っていた。着替えを持って向かった先は昨日と同じ病院で、医師による簡単な問診のあと、二回目の事情聴取があった。今度は詩乃のほうからも色々――主に恭二のことを質問したのだが、怪我はたいした事はない、警察に対してはほとんど黙秘している、という事くらいしか教えてもらえなかった。
「警備上の理由」によって詩乃はその夜も病院に泊まるようにと言われた。食事をし、シャワーを使ったあと、ロビーで実家の祖父母と母親に短い電話を入れてから、あてがわれた病室のベッドに横になった。その途端泥のように眠り込んだらしく、きれいに記憶が途切れている。なんだか長い夢を見たような気がするが、内容は覚えていない。
翌火曜――つまり今朝、およそ9時間の深い眠りのあと、午前五時に詩乃は泡が浮かぶように目を醒ました。濃い朝靄を透過してくる乳白色の光に誘われるように、ふたたびキリトの病室を訪ねたが、ドア脇のネームプレートはすでに空になっていた。
ナースステーションで訊いてみたところ、彼の事情聴取は月曜の朝にすべて終了し、すでに帰宅したとのことだった。わずかな失望を感じながら詩乃は病室に戻り、着替えると、ロビーでうつらうつらとしていた刑事に自分も帰宅すると告げた。
再び覆面パトカーでアパートまで送ってもらい、車から降りたところで、刑事にこれで一応聞き取りは終了だ、と言われた。それは有り難かったのだが、事件に関することを今後どうやって知ればいいのだろう……と思いながら登校の準備をし、朝食のためにトマトを切っていたところに、携帯電話が鳴った。キリトからだった。開口一番に、今日の放課後は時間あるか、と訊かれて、反射的にうんと答えていた。
そして今、詩乃は彼のとなりに座り、キリトの言う「情報筋」であるところの国家公務員の言葉を待っている。
菊岡は、PDAから顔を上げると、周囲を気遣ってか低い声で話し始めた。
「総合病院のオーナー院長の長男である新川亮一は、幼い頃から病気がちで、中学校を卒業する頃まで入退院を繰り返していたらしい。高校入学も一年遅れて……そのせいで、父親は早々に亮一を自分の後継ぎとすることを諦めて、四つ下の弟の恭二にその役目を与えたようだ。恭二には小学校の頃から家庭教師を付け、また自ら勉強を教えたりする一方で、亮一のことはほとんど顧みなかった。――そのことが少しずつ歪みを蓄積させて行った。兄は期待されないことで追い詰められ、弟は期待されることでまた追い詰められたのかもしれない……とは、事情聴取における父親本人の弁だが」
そこで一度言葉を切り、菊岡はコーヒーで唇を湿らせた。
詩乃は視線をテーブルに落とし、「親の期待」というものを想像しようとしてみた。しかし、実感することはできそうになかった。
あれほど近くにいながら、恭二がそのようなプレッシャーに晒されていたことにはまるで気付かなかった。自分のストラグルにばかり一生懸命で、ひとを本当に見ようとしていなかった――とまたしても意識させられ、詩乃は胸に苦い痛みをおぼえる。
菊岡の話は続いた。
「――しかし、そういう境遇でも、兄弟仲は悪くなかったようだ。亮一は、高校を中退してからは精神の慰撫をネットワークの中、ことにMMOゲームに求め、その趣味はすぐに弟にも伝播した。やがて兄はソードアート・オンラインの虜囚となり、二年のあいだ父親の病院で昏睡するのだが、生還してからは、彼は恭二にとってはある種の偶像……英雄化、と言ってもいいかな、そういう存在になったようだ」
となりに座るキリトの呼吸に、わずかな緊張が含まれたのに詩乃は気付いた。しかし菊岡の低く滑らかな声は、小さなな間を置いただけで淡々と続いていく。
「亮一は、生還後しばらくはSAOのことには一切触れなかったようだが、リハビリが終了し、自宅に戻ってから、恭二にだけ語ったそうだ。自分がいかにあの世界で多くのプレイヤーをその手にかけ、真の殺戮者として恐れられたか……ということをね。その頃すでに、成績の下降や上級生からの恐喝などによる重圧を受けていた恭二にとって、亮一の話は嫌悪ではなく解放感、爽快感をもたらすものだったようだね」
「……あの」
詩乃が小さな声を出すと、菊岡は顔を上げて続きを促すように軽く首を傾けた。
「そういうことは……新川くん、いえ、恭二くんが話したんですか?」
「いや、これらは兄の供述に基づく話です。亮一は警察の取り調べに際して饒舌なまでに喋っているらしい。弟の心情の推測も含めてね。しかし恭二のほうは対照的に、完全な黙秘を続けている」
「……そうですか」
恭二の魂が、どのような地平を彷徨しているのかは、詩乃にはもう想像のしようもない。そんなわけはないのだが、いまGGOにログインしてみたら、溜まり場になっていた酒場の隅にうずくまるシュピーゲルが居るのではないか……という気すらする。
「あ、どうぞ……続けてください」
詩乃の言葉に頷き、菊岡は再びPDAをちらりと眺めた。
「兄弟にとってのポイント・オブ・ノーリターンがどこなのかは、推測によるしかないのだが……恭二に誘われてガンゲイル・オンラインを始めた亮一は、始めの頃はそれほど熱心にはプレイしていなかったそうだ。フィールドに出るよりは、街でほかのプレイヤーを観察して、殺し方を想像するのが楽しかった、と彼は言っているね。九月のはじめ頃、いつものように双眼鏡で他のプレイヤーを覗き見ていた亮一は、観察対象が操っていたゲーム内端末の画面に、現実の住所が表示されているのに気付いた。反射的に記憶し、ログアウトして書きとめたが、その時点では具体的にどうしようとは思っていなかったようだ。プレイヤーの個人情報を盗むという行為そのものが彼を興奮させ、それ以降、連日何時間もその場所――総督府? に貼りついては、住所を打ち込むプレイヤーを待ちつづけた。最終的には、十六人の本名と住所を手に入れたということだ。その……朝田詩乃さん、あなたの情報も含めて」
「…………」
詩乃は小さく頷いた。九月はじめ、ということは第一回BoBの直後だ。十月にあった第二回とあわせて六十人の本大会出場者のうち、賞品にモデルガンを選んだ者は多くても四十人というところだろう。そのうち十六人もの情報を盗みおおせるとは、恐るべき妄執というより他にない。
「十月のある日、恭二は亮一に向かって、自分のキャラクターの育成が行き詰まっていることを打ち明けた。《ゼクシード》という名のプレイヤーが広めた偽情報のせいだ、と盛んに恨みを口にしたらしいね。そして、亮一は、そのゼクシードの本名と住所を入手していることを思い出し、恭二にそれを教えた」
リアルとヴァーチャルが混沌と溶け合い、あらたな貌を見せる。足元の地面が硬度を失い、自分と外界を分ける境界線が定かでなくなる。おそらく、ゼクシードの本名を知った恭二が感じたのであろうその「移相」感覚は、詩乃があのとき――砂漠の洞窟で、キリトの口から現実の自分の体に迫る脅威を知らされたときに味わったものとほとんど同質だったのではないか。
現実感の喪失によって詩乃は激しい恐怖をおぼえ、そして恭二は――何を得たのだろう。
「どちらか一方が考えたことではない、と亮一は言っているね」
菊岡の声が滑らかに詩乃の耳もとを通過していく。
「二人で、どのようにして個人情報をもとにゼクシードを粛清するか、あれこれ言い合っているうちに、《死銃》計画の骨子が出来上がったそうだ。しかしそれでも、最初は単なる言葉の遊びだったのだと、彼は主張している。ゲーム内で銃撃すると同時に、現実でプレイヤーを殺す……言うのは簡単だが、実現にはいくつもの困難がともなう。二人は連日のように議論し、ひとつ、またひとつと机上のハードルをクリアしていった。十六人のうち、一人暮らしのプレイヤーの選別。高性能なピックガンの入手方法。最難関は注射器と薬品の入手だったが、それも父親の病院から盗み出す算段がついた。計画の細部が決定したら、今度は実際に準備を整える段階に進んでみた。無理だろうと思っていたが、やってみたら意外になんとかなった。――それらの過程自体がゲームだったんだ、と亮一は供述している。SAOで、標的パーティーの情報を集め、必要な装備を整え、襲撃を実行するのと何も変わらない、と。自分の供述を取っている刑事に向かって、あんたも同じだろう、とも口にしたようだ。NPCの話を聞き、情報を集め、賞金首を捕らえて引き渡し、金を得る。警官のやってることだってゲームと一緒じゃないか、とね」
「額面どおり受け取らないほうがいいぜ」
不意にキリトがぽつりと呟いた。菊岡がかすかに眉を動かす。
「そうかい?」
「ああ。その亮一氏はある部分では本当にそう思っているのかもしれないが、《赤眼のザザ》だったときの奴は、これはゲームなんだと自分と周囲に強弁しながらも、プレイヤーの死が現実のものと理解していたからこそあそこまで殺人行為に魅せられたんだ。仮想世界にいるときも、現実世界にいるときも、都合の悪い部分だけはリアルじゃないと信じ込むことで、支払うべき代償から逃げている。VR世界のダークサイド……なんだろうな。現実が、薄くなっていく」
「フムン。君は……君の現実はどうなんだい?」
いつもの皮肉そうな笑みを浮かべる、と思いきや、キリトは至極真剣な顔でじっと宙の一点を見つめた。
「……あの世界に置いてきたものは、確実に存在する。だからその分、今の俺の質量は減少している、とは思う」
「戻りたい、と思うかね?」
「聞くなよ、そういうことを。悪趣味だぜ」
今度こそキリトは苦笑すると、ちらりと詩乃を見た。
「――シノンはどうなんだ、そのへん?」
「え……」
唐突に話を振られ、詩乃はしばし戸惑った。思考を言葉にする、という行為にはさっぱり慣れていない。それでもどうにか、感じたことをそのまま口にしようと努力した。
「ええと……キリト、あなた言ってることがこのあいだと違うわ」
「え……?」
「仮想世界なんかない、ってあなた言った。その人のいる場所が現実なんだ、って。VRMMOゲームは一杯あるけど、その世界ごとにプレイヤーが分割されてるわけじゃないでしょ? いま私のいる、この……」
右手を伸ばし、指先で軽くキリトの左腕に触れる。
「この世界が、唯一の現実だわ。もしここが、実はアミュスフィアの作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実……ってことだと思う」
キリトは目を見開き、詩乃が気恥ずかしくなるほどの時間、ずっと視線を合わせていたが、やがて珍しくシニカルさの欠片もない――と見える――笑みを唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
ちらりと菊岡を見やり、
「今の言葉、ちゃんとメモっとけよ。この事件において唯一の価値ある真理かもしれないぜ」
「――からかわないで」
右手を握り、どんとキリトの肩を小突いてから正面を向く。何故か菊岡もじっと詩乃を見ていて、いたたまれなくなって空になったケーキ皿を凝視する。
「いや、本当に、その通りだね。亮一にとっては――それがまったく逆だったのかな。自分のいない場所こそが、現実……」
「あの男は、BoBの前日に俺に言った。自分はSAOで多くのプレイヤーを殺したから、この世界でも同じように殺せるのだと……。あの男も……まだアインクラッドから完全には戻っていなかったのかもしれない。――世界創造、という茅場晶彦の計画は、あの城が崩壊したあとにこそ実現するものだったのかもな……」
「怖いことを言うね。彼の死に方にはまだまだ謎が多い……が、今度の事件には関係ないだろう。話を戻すと……亮一には、計画実現のための準備が完了した段階から、実際に目標の部屋に侵入して薬液を注射する段階に移るにあたって、心理的障壁はほとんど無かったようだ。最初の犠牲者……ゼクシードこと新保氏に直接手を下したのは亮一のほうだ。11月9日午後11時15分ごろ、ピックガンを使って鍵を破り侵入。同30分、MMOフラッシュに出演するためアミュスフィア使用中だった新保氏の顎の裏側に高圧注射器で薬液を注入した。使われたのは塩化スキサメトニウム、またはサクシニルコリンと呼ばれる筋弛緩剤で、新保氏の肺と心臓は即座に停止して死に至っただろうということだ。つまり、同時刻、GGO内でゼクシードを銃撃したのは《死銃B》こと弟の恭二……ということになる」
恭二の名を聞いて、詩乃はぴくりと肩を震わせた。
一昨日の夜、詩乃のうえに跨って、ゼクシードに対する怨嗟をぶちまけた彼の声が耳の奥に甦る。
ゼクシードの流した情報によってステータスの配分を誤り、「最強」足りえなくなったことが、現実世界で彼を苛め、金を脅し取った上級生たち以上に許せなかったのだろうか。
いや――そうではなく……恭二にとっての「現実」はそのとき既に……
「二人目の犠牲者、薄塩たらこ氏のときも、現実世界での実行役は亮一だった。手口はほとんど同一。彼らは標的に、いくつかの条件を共有する7人を選び出したんだ。首都圏在住、一人暮らしで、ドアの鍵が破りやすい旧式のピンシリンダー錠、あるいはドア周辺に合鍵を隠している……」
「それを調べるだけでも大変な苦労だな」
キリトの嘆声に、菊岡も眉をしかめて頷く。
「多大な時間と労力を費やしただろうね。――しかし、二人の命を奪っても、《死銃》の噂を真剣に受け止めるプレイヤーは殆ど居なかったようなんだ」
「ええ……みんな、下らないデマだと思ってました。――私も」
詩乃が呟くと、菊岡は大きく首肯した。
「そうだろうね。私とキリトくんも、色々な可能性を考えたんだが、結論としては噂の産物だろう、ということになってしまった。もっとも、推測のアプローチからして間違っていたわけなんだが……」
「せめて……一日だけ早く真実に気付いていれば、次の犠牲者が出るのは防げたはずだったのに……」
痛切な響きのあるキリトの言葉に、詩乃は顔を上げないまま呟いていた。
「――でも、私は助けてくれたわ」
「いや、俺は何もできなかったよ。君自身の力さ」
ちらりとキリトに視線を投げてから、そう言えばまだちゃんとお礼を言ってなかったなあ、と考えていると、菊岡が再び口を開いた。
「君達の頑張りがなければ、事件が発覚するまでにリストの7人全員が犠牲になっていたことは想像に難くない。あまり自らを責めないでくれたまえ」
「別に責めちゃいないけどな……。ただ、これでまたVRMMOの評判が悪くなると思うと残念なだけさ」
「それで立ち枯れるほど、あのザ・シードってやつから出た芽はひ弱じゃないだろう。今や無数の苗が寄り集まって大樹のごとき様相だよ。まったく、どこの誰があんなものをばら撒いたのやら」
「……さて、ね。それより、先に進んでくれよ」
キリトは咳払いをすると、菊岡を促した。
「ああ……と言っても、あとはもう君達も知っていることだと思うがね。――死銃の脅威が一向に広がらないことに業を煮やした二人は、一層派手なデモンストレーションに打って出ることにした。第三回の最強者決定戦、通称バレット・オブ・バレッツにおいて、一挙に三人を銃撃する計画を立てたんだ。狙われたのは……プレイヤー名《ザッパ》、《カコートン》、それに、《シノン》……あなたです」
「…………」
詩乃はこくりと頷いた。四人目の犠牲者となったカコートンの名前は、もちろん知っていた。MG42軽機関銃使い、片方の目に精密射撃用光学デバイスをインプラントしていて、正面突破力に定評のある実力派だった。
彼のビア樽のような体躯と髭面を思い出し、心の中で冥福を祈ってから、詩乃はあることに気付いて口を開いた。
「あ……そう言えば、これは偶然かもしれないんですけど……」
「なんですか?」
「ターゲットの7人に共通する条件がもうひとつあるかもしれません。私を含めて狙われたのは全員、ステータスタイプが非AGI型なんです」
「ほう……? それは、どういう……?」
「新川君……いえ、恭二君は、純粋なAGI型で、そのせいでプレイに行き詰まっていました。多分、他のタイプ……特にSTRに余裕のあるプレイヤーに対しては複雑な感情があったと思います」
「ふむう……」
菊岡は絶句し、しばしPDAの画面を見つめた。
「つまり……動機は何からなにまでゲーム内に起因するもの……ということですか。これは検察も起訴に苦労するだろうなあ……。しかしなあ……」
信じられない、というように頭を振る。そこに、キリトが嘆息気味の言葉を発した。
「いや……有り得ることだ。MMOプレイヤーにとって、キャラクターのステータスというのは絶対の価値基準だからな。悪戯のつもりで、ウインドウ操作中の仲間の腕を叩いてポイントアップの操作をミスらせて、そのせいで何ヶ月も殺し合いを続けてる……もちろんゲーム内でだけど……ほどの大喧嘩になった奴らを知ってるよ」
それは詩乃にも深く納得できる話だった。しかし菊岡は目を丸くしたあと、再び左右に頭を振った。
「これは検察官と弁護士、それに判事もいちどVRMMOにダイブする必要がありそうだな。いや――法整備までも考慮するべき時、なのかな……。ま、それは我々が考えることではないがね。えーと、どこまで話したっけ」
PDAを突付き、軽く頷く。
「そうそう、三人を標的に選んだ、ってとこだね。――しかし、前の二件と違って、BoB本大会中の計画実行には、大きな障壁があった。ゲーム内の《モルターレ》と、ゲーム外の実行役との間で連絡が取れないので、双方の射撃時間を一致させるのが困難だったんだね。それを一応解決したのが、ゲーム外でも視聴可能なストリーム中継だったんだが……」
「それでもまだ難しいよな。移動の問題がある」
口を挟んだキリトは、苦い顔で眉をしかめた。
「俺はそこを見落とした。てっきり死銃は二人だと思い込んで……」
「そう、そうなんだ。ターゲットには最も自宅の近い三人を選んだらしいんだが、ザッパの自宅がある新宿区四谷と、朝田さんの住む文京区湯島はそう遠くないものの、カコートンの自宅は川崎市の武蔵小杉でね。しかも、今まではモルターレ役を望んでいた恭二が、今回に限っては現実での実行役に固執したんだそうだ。亮一は電気スクーターを持っているが、恭二には運転ができない。――そこで亮一は、新たな仲間……《死銃C》を計画に加えることにした。ええと、名前は金本敦、18歳。亮一の古い友人――というより……」
ちらりとキリトに視線を投げ、
「SAO時代のギルドメンバーだったそうだ。キャラクターネームは……《ジョニーブラック》。聞き憶えは……」
「あるよ」
キリトは目蓋を伏せ、小さく頷いた。
「《ラフィン・コフィン》でザザとコンビを組んでた毒ナイフ使いだ。少なくとも五人は殺してるはずだ……。畜生……こんな……こんなことなら……」
その先が言葉になる前に、詩乃は素早く右手を伸ばし、キリトの左手を強く掴んでいた。同時にじっと相手の瞳を見て、首をゆっくりと左右に振る。
それだけで、言いたいことは伝わったようだった。
キリトは一瞬、幼い子供の泣き笑いのような顔を見せると、視線で頷いた。その表情はすぐに消え、いつものポーカーフェイスが取って代わる。ひんやりとした彼の手から指を離し、詩乃は前に向き直った。
その途端、じっとこちらを見ていた菊岡と目が合った。眼鏡の奥の双眸にはたちまちいたわるような光が浮かび、口元には淡い微笑が漂うが、その直前、恐ろしく怜悧な、観察対象を眺める研究者を思わせる眼を見た気がして、詩乃は思わずぱちくりと瞬きをした。
あらためて、目の前のこの人物は何者なのだろう――と思うが、そのときにはもう事件の概括が再開されていて、詩乃の戸惑いはすぐに押し流されてしまった。
「――このジョニーブラックこと金本敦が、積極的に計画に荷担したのかどうかは、亮一の供述からはよく分からない。亮一にとっても、金本というのは理解しがたいところのある人物だったようだね……」
「そんなの、その金本氏本人に訊けばいいじゃないか」
キリトの至極もっともな指摘に、しかし菊岡は短く首を振った。
「彼はまだ逮捕されていない」
「え……」
「朝田さんのアパートで死銃Bこと恭二が逮捕され、その40分後には死銃Aである亮一も自宅で身柄を拘束されたのだが、亮一の供述によって更に二時間後、大田区にある金本敦……《死銃C》の自宅アパートに捜査員が急行したところ、部屋は無人だった。今現在も監視中のはずだが、逮捕の知らせは無いね」
「……その彼が、四人目のターゲットを現実で手に掛けたのは確かなのか?」
「ほぼ間違いないね。亮一が渡したという、恭二が持っていたものと同型の高圧注射器と、薬品のカートリッジはまだ発見されていないが、犠牲者の部屋から、金本の自宅で採取したものと同一と見られる毛髪が見つかっている」
「カートリッジ……」
銃の実包を連想させるその単語に、詩乃はうすら寒いものを感じた。注射器を詩乃に押し付け、これこそが真の死銃なんだ、と囁いた恭二の言葉が耳に甦る。
キリトも同様の感想を持ったらしく、顔をしかめて言った。
「薬品はぜんぶ、カコートンを襲ったときに使い果たしたんだよな?」
しかし菊岡はまたしても首を振って否定した。
「いや……カートリッジ一本ぶんのサクシニルコリンでも致死量を軽く上回るが、亮一は念のために二本渡していたそうだ。もう一本残っている可能性がある。月曜から今朝まで君達、とくに朝田さんに警察の警護がついたのは、それが理由だよ」
「……死銃Cが、まだシノンを狙っていると……?」
「いや、あくまで念のためさ。警察もそうは考えていない。だってもう、彼らの死銃計画そのものが崩壊しているんだからね。襲ったところで何のメリットもないし、金本と朝田さんの間には利害も怨恨も有り得ないわけだし。東京都心は自動識別監視カメラ網が張り巡らされてるからね、そう長時間逃げきれやしないよ」
「……なんだよそりゃ」
「通称Pシステム、カメラが捉えた人間の顔をコンピュータが自動解析して手配犯を発見するという……ま、細かいことは秘密なんだけど」
「ぞっとしない話だな」
キリトは顔をしかめてコーヒーを啜った。
「それは同感だがね。ともかく、金本が逮捕されるのも時間の問題と思っていいだろう。事件の話に戻ると……」
菊岡はPDAにスタイラスペンを走らせ、すぐに肩をすくめて顔を上げた。
「あとは、君達のほうが詳しいだろう。バレット・オブ・バレッツ本大会が行われた日曜夜、彼らは打ち合わせどおり、それぞれの役割を遂行しようとした。亮一は自宅アパートから《モルターレ》としてログインし、まず最初のターゲットであるザッパを発見、銃撃。すでにザッパの自宅に侵入、待機していた恭二は、携帯端末で大会の中継を見て、同時に薬品を注入、被害者を死亡させた」
そのとき恭二は、どんな顔をしていたのだろう――。詩乃は凶行の瞬間を想像しようとして、すぐにその思考を頭から追い出した。詩乃を襲ったときの、奈落の闇を映した恭二の眼ばかりが黒く広がって、彼の顔をちゃんと思い出せないような気がした。
菊岡の言葉は続く。
「その28分後、亮一は第二の標的であるカコートンと遭遇し、これを銃撃。同時刻、現実世界では金本がその役割を果たし、侵入、薬液注射を遂行した。――さらに25分後、亮一は運良く三人目のターゲット、つまりシノン……朝田さんと遭遇、銃撃を試みる。おそらくこの時点で、恭二は四谷から湯島までJRを利用して移動していたはずだ。推測になるのは、恭二はザッパ殺害に関しては認めたものの、朝田さんを襲ったことについては一切黙秘しているんだ」
「殺意を否定している……ということか?」
「いや、そういうわけでもないらしい。捜査員に対して……」
一瞬言葉を切り、詩乃に向かって謝罪するように目礼する。
「――シノンは僕のものだ、お前たちには何もやらない、と発言している。つまり……情報を口にすることすらも、なんと言うか、彼の中の朝田さんを汚す行為となる、と思っているのではないかと……」
とても理解が及ばない、というように、菊岡は長く息を吐いた。
「まあ、少なくとも、恭二が現実での実行役に固執したのは、他の二人にはその役を任せられない、と思ったからなのは間違いないだろうね。――しかし本大会では、亮一は再三君達を襲撃したものの失敗し、最後には逆に朝田さんに倒されてしまった。計画では、この時点で恭二は襲撃を中止し、亮一のアパートに戻ることになっていたのだが、彼は何故かそうはしなかった。せっかくここまで演出してきた死銃の力に疑問符をつけることになると分かっていたはずなんだが……」
その理由は、詩乃にはわかっていた。中継で、シノンがキリトと抱擁するのを目撃したからだ。
だが、警察の事情聴取では、そのことは言わなかった。恥ずかしいと思ったからではないし、自分の行為が恭二を追い詰めたことを隠そうと思ったからでもない。恭二の心情を勝手に推測し、公式な記録に残すのは間違っていると感じたせいだ。ゆえに詩乃は、警察に対しては実際にあった事実だけを話すにとどめた。
「――兎に角、あとは手早く済ませるとしよう。新川恭二は本大会終了直後、朝田さんの自宅を襲撃したものの、幸い目的を果たすことなく逮捕された。直後には新川亮一も逮捕され、のこる金本敦は手配中。兄弟の身柄は現在警視庁本富士署にあり、取り調べが続いている。……長くなったが、以上が事件のあらましだ。僕が手に入れられる情報はこんな所なんだが……何か質問はあるかな?」
薄い端末をパタリと閉じ、菊岡は顔を上げた。
「……あの」
答えられる問いではないかもしれないと思いつつも、詩乃は訊かずにいられなかった。
「新川君……恭二君は、これから、どうなるんですか……?」
「うーん……」
菊岡は指先で眼鏡を押し上げながら、短く唸った。
「亮一は19歳、恭二は16歳なので、少年法による審判を受けることになるわけだが……四人も亡くなっている大事件だから、当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで恐らく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの言動を見るかぎりでは、医療少年院へ収容、となる可能性が高いと、僕は思うね。何せ二人とも、現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ……そうじゃないと、思います」
ぽつりと詩乃が呟くと、菊岡は瞬きし、視線で先を促した。
「お兄さんのことは私には分かりませんけど……恭二君は……恭二君にとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を――」
掲げた右手の指先を伸ばし、すぐに戻す。
「全部捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは単なる逃避だと……世間の人は思うでしょうけれど、でも……」
新川恭二は、詩乃を陵辱し命を奪おうとした人間だ。彼に与えられた恐怖と絶望の大きさは計り知れない。しかし、それでも、恭二を憎悪することは、何故か詩乃には出来そうになかった。あるのは、ただただ深いやるせなさだけだ。その哀惜の痛みが、詩乃の口を動かした。
「でも、ネットゲームというのは、エネルギーをつぎ込むにつれて、ある時点からは娯楽だけの物ではなくなると思うんです。強くなるために、自分を鍛えてお金を稼ぎ続けるのは、辛いです。ほんとうに苦痛なんです。……たまに短時間、友達とわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど……恭二君みたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、凄いストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス? しかし……それは、本末転倒というものじゃ……」
唖然として呟く菊岡に、こくりと頷きかける。
「はい。恭二君は、文字どおり転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……何故? なぜ、そこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それはわかりません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲーム世界も、連続したものだったから……。キリト、あなたにはわかる……?」
視線を右隣に振ると、キリトは椅子の背もたれに深く体を預けて瞑目していたが、やがてぽつりと呟いた。
「強くなりたいから」
詩乃は唇を閉じ、しばらくその短い言葉を意味を考えてから、ゆっくり頷いた。
「……そうね。私も、そうだった。VRMMOプレイヤーは、誰だって同じなのかもしれない……ただ、強くなりたい」
体の向きを変え、正面から菊岡を見る。
「あの……恭二君には、いつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後、10日間は拘置されるだろうから、鑑別所に移されてからになりますね」
「そうですか。――私、彼に会いにいきます。会って、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
たとえ遅すぎたのだとしても、たとえ言葉が伝わらなくても、それだけはしなくてはならないと、詩乃は思った。菊岡はわずかに――今度ばかりはおそらく本心からと見える微笑を浮かべると、言った。
「あなたは強い人だ。ええ、ぜひ、そうしてください。手続きの詳細は後ほど送ります」
ちらりと左腕の時計を覗き、
「――申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え雑務には追われていてね」
「ああ。悪かったな、手間を取らせて」
キリトに続いて、ぺこりと頭を下げる。
「あの……ありがとう、ございました」
「いえいえ。君達を危険な目に合わせてしまったのはこちらの落ち度です。これくらいのことはしないと。また、新しい情報があったらお伝えしますよ」
足元のアタッシェケースを掴み、菊岡は椅子から腰を上げた。PDAをスーツの内ポケットに収めつつ、テーブル上の伝票に手を伸ばそうとして――そこで動きを止めた。
「そうだ、キリト君」
「……何だ?」
「モルターレ……いや、赤眼のザザこと新川亮一から、君への伝言があるんだ。取調べ中の被疑者からのメッセージなど外部に漏らせるわけもないので、公式には警察内で止まるはずのものだが……どうする、聞くかい?」
キリトは途方も無く苦いものを飲んだような顔をすると、ぶっきらぼうに答えた。
「そこまで言われたら聞かないわけにいかないだろう。――言えよ」
「それでは。えー……」
菊岡は収めかけたPDAを再び開くと、目を落とした。
「――『現実なんて底なしの糞溜まりだ。こんなところ、生きる価値もない。お前だってそれは分かってるんだろう、キリト?』……以上だ」
「……まったく、食えない奴だ」
菊岡がにこにこと手を振りながら姿を消してからおよそ10分後。店から出て、停めたバイクに向かって歩きながら、キリトが毒づいた。
「……あの人は、一体何者なの? 総務省の役人、って言ってたけど……なんか……」
どうにも捉えどころのない人物だ、と思いながら詩乃が尋ねると、キリトは肩をすくめて答えた。
「まあ、総務省のVRワールド監督部署に所属してるのは間違いないんだろう、今はな」
「今は?」
「考えてみろ、事件からまだたったの二日なんだぜ。それにしちゃ情報が早すぎると思わないか? この縦割り行政の日本で、さ」
「……どういうこと?」
「本来の所属は別なんじゃないか、ってさ。警察庁……か、その上……。あるいは、まさかとは思うけど……」
「……?」
「俺、前にここでアイツと会ったとき、帰りに尾行したんだ」
詩乃はやや呆れて横を歩くキリトを見やったが、少年は素知らぬ顔で続けた。
「そしたら、近くの地下駐車場にでっかい黒のクルマが待っててさ。運転手もタダモノじゃなさそうな、短髪のダークスーツで。苦労してバイクで追っかけたんだけど、あれは気付かれたのかもな……。菊岡は市ヶ谷駅前で降りて、バイク停める場所探してるあいだに見失った」
「市ヶ谷? 霞ヶ関じゃなくて?」
「ああ。総務省は霞ヶ関だが……市ヶ谷にあるのは、防衛庁さ」
「ぼ……」
詩乃は絶句し、ぱちくりと瞬きした。
「それって……自衛隊ってこと?」
「だから、まさかの話さ」
「でも……どうして……」
「これは米軍の話だけど……VR技術を、軍隊の訓練に利用する、って噂がある」
「は、はあ!?」
今度こそ詩乃は驚愕し、思わず足を止めた。
キリトも立ち止まると、再びひょいっと肩をすくめた。
「例えば……あ、ええと……銃の話、大丈夫?」
「う、うん……話くらいなら」
「そうか。例えば、シノンがいま本物のスナイパー・ライフルを渡されたとして、装弾から発射まで出来ると思う?」
「……」
詩乃は、数時間前に遠藤の持っていたガバメントのモデルガンを撃ったときのことを思い出しながら小さく頷いた。
「できる……と思う、撃つとこまでなら。でも、生身じゃリコイルショックを押さえられるかわからないし、もちろん的に当てるのは無理だと思うけど」
「でも、俺は弾の込め方すら知らない。兵器の基本的な操作法をVR世界内で訓練できるなら、それだけでも弾とか燃料とか、どれくらい節約できるかわからないぜ」
「そ……んなこといわれても……」
思わず自分の右手に視線を落とす。キリトの話はあまりにもスケールが違いすぎて、とても実感できない。
「あくまで可能性の話だけどな。この一年で、VR技術の新しい利用法は山ほど登場している。今後、何が出てきてもおかしかない。とりあえず――あの男には気をつけておくに越したことはないって、ね」
飄々とそれだけ口にすると、キリトはバイクに歩み寄り、後輪のU字ロックを外した。抱えていたヘルメットの片方を差し出しながら、詩乃に向かって何かを言いかけて、珍しく口ごもった。
「えーと……その」
「……? 何?」
「……シノン、このあと、時間ある……?」
「別に用事はないけど。GGOにも当分ログインする気ないし」
「そうか。――悪いんだけど、ちょっと、手伝ってほしいことが……」
「なにを?」
「BoB本大会ライブ中継の……あの、砂漠のシーンを、やっぱり昔の馴染み連中に見られててさ。《キリト》が俺だってこともあっさりバレて……その、事情を説明するのに付き合ってくれると非常に助かる」
「……へえ」
詩乃は少しだけ面白くなって、口元を綻ばせた。あのときのことを思い出すと相変わらず気恥ずかしくなるが、それ以上に、この常にマイペースを崩さない少年が、自分との仲を疑われて苦境に立っていると聞くと、してやったり、みたいな気分湧いてくる。
「でも、名前だけでよくアンタだって分かったね。いくら昔馴染みって言っても」
「ああ……。剣筋でバレた」
「ふ、ふうん。――ま、別にいいけど、貸しだからね。また今度、ケーキでも奢ってもらうわ」
それを聞くと、キリトは実に情けない顔をした。
「ま……まさか、さっきの店で……?」
「そこまで無慈悲なことは言わないであげる」
「そ、それは助かる。じゃあ……ちょっと御徒町まで付き合ってくれ。そんなに時間は取らせない」
「なんだ、湯島の隣じゃない。ちょうど帰り道だわ」
ヘルメットを受け取り、頭を押し込む。再びキリトに首もとの留め具を掛けてもらいながら、こんなことならGGOでも毛嫌いせずにヘルメット型防具に慣れておくんだったかな、と詩乃は思った。
銀座中央通りから昭和通りに出てしばらく北に走ると、秋葉原駅東側の再開発地区に差し掛かる。どこかグロッケン市街に似た銀色の高層ビル群の谷間を抜け、御徒町界隈に入ると、今度は打って変わってノスタルジックな下町の風情が続く。
とろとろと低速で走るバイクは、細い路地を右に左に分け入り、やがて一軒の小さな店の前で止まった。
シートから飛び降り、ヘルメットから頭を抜いて見上げる。黒光りする木造の建物は無愛想で、そこが喫茶店だと示しているのは、ドアの上に掲げられた、二つのサイコロを組み合わせた意匠の金属板だけだ。下部に、「DICEY CAFE」という文字が打ち抜いてある。
「……ここ?」
「うん」
キリトは頷くと、バイクからキーを抜いて、無造作にドアを押し開けた。かららん、という軽やかな鐘の音に続いて、スローなジャズっぽい曲が流れ出してくる。
香ばしいコーヒーの香りに誘われるように、詩乃はなかに足を踏み入れた。オレンジ色の灯りに照らされた、艶やかな板張りの店内は、狭いが何ともいえない暖かみに満ちていて、身構えていた肩からすっと力が抜けた。
「いらっしゃい」
見事なバリトンでそう言ったのは、カウンターの向こうに立つ、チョコレート色の肌の巨漢だった。歴戦の兵士といった感じの相貌とつるつるの頭は迫力があるが、真っ白いシャツの襟元に結んだ小さな蝶ネクタイがユーモラスさを添えている。
店内には、二人の先客が居た。カウンターのスツールに、学校の制服を着た女の子が座っている。彼女たちのブレザーがキリトの制服と同じ色なのに、詩乃は気付いた。
「おそーい!」
一方の、肩までの髪にわずかに外ハネをつけた少女が、スツールから降りながらキリトに向かって言った。
「悪い悪い。菊岡の話が長くてさ」
「待ってるあいだにアップルパイ二個も食べちゃったじゃない。太ったらキリトのせいだからね」
「な、なんでそうなるんだ」
もう片方、わずかに茶色がかったストレートヘアを背中の中ほどまで伸ばした女の子は、二人のやり取りをにこにこしながら聞いていたが、やがてこちらもすとんと床に降りて、慣れた様子で割って入った。
「それより、早く紹介してよ、キリトくん」
「あ、ああ……そうだった」
キリトに背中を押され、詩乃は店の中央まで進み出た。初対面の相手と接するときに常に這い出てくる怯えの虫を押し殺し、ぺこりと頭を下げる。
「こちら、ガンゲイル・オンラインの現チャンピオン、シノンこと朝田詩乃さん」
「や、やめてよ」
思わぬ紹介の仕方をされ、小声で抗議するが、キリトは笑いながら言葉を続けた。先ほどまで口論していた、威勢のよさそうな女の子を示し、
「こっちが、ぼったくり鍛冶屋のリズベットこと篠崎里香」
「このっ……」
また気色ばむ里香という少女の攻撃をするりとかわし、もう一方の女の子に左手を向ける。
「んで、あっちがバーサク治療士のアスナこと結城明日奈」
「ひ、ひどいよー」
抗議しながらも微笑みを絶やさずに、明日奈は詩乃をまっすぐに見るとふわりとした動作で会釈した。
「そんで、あれが……」
キリトは最後にカウンター奥のマスターに向かって顎をしゃくった。
「壁のエギルことエギル」
「おいおい、オレは壁かよ!? だいたい、オレにはママにもらった立派な名前があるんだ」
驚いたことに、マスターまでもがVRMMOプレイヤーらしい。巨漢はにやりと笑みを浮かべると、詩乃に向かって両手を広げ、言った。
「はじめまして。私はAndrew Gilbert Millsです。今後ともよろしく」
名前のところだけは流れるような英語の発音で、あとの部分が完璧な日本語なので、詩乃は思わずぱちくりと瞬きした。あわててぺこりと頭を下げる。
「まあ、座って座って」
キリトはふたつある四人掛けのテーブルの片方に歩み寄ると、椅子を引いた。詩乃と明日奈、里香が腰を下ろすのを待って、マスターに向かって指を鳴らす。
「エギル、ジンジャーエールくれ。――さて、と。長い話をしようかな」
BoB本大会での出来事プラス菊岡に聞かされた事件の概要を、キリトと詩乃が互いに補填しつつ話し終えるのに、ダイジェスト版でも30分以上を要した。
「――と、まあ、まだマスコミ発表前なんで細部は伏せたけど、そういうことがあったわけなのでした」
話を締めくくると、キリトは力尽きたように椅子に沈み込み、二杯目のジンジャーエールを飲み干した。
「……あんたって、何て言うか……よくよく巻き込まれ体質ね」
里香が頭を振りながら、ため息混じりの感想を漏らす。だがキリトは視線を伏せると、かすかに頭を振った。
「いや……そうとも言えないよ。この事件は俺の因縁でもあったわけだからさ」
「……そっか。――あーあ、あたしもその場にいたかったな。モルターレって奴に、言ってやりたいこと山ほどあるよ」
「あいつが最後のひとり、ってわけでもないだろうしな。SAOに魂を歪められた人間は、恐らくまだまだいるはずだ」
一瞬、場に満ちた沈んだ空気を、明日奈が柔らかな微笑みで打ち消した。
「でも、魂を救われた人だっていっぱいいると思うよ、わたしみたいに。SAOを……団長のしたことを擁護するわけじゃないけど……いっぱい、亡くなったわけだし……それでも、わたしはあの二年間を否定したり後悔したり、したくないな」
笑みを浮かべたまま、まっすぐに詩乃を見る。その、明るい茶色の虹彩をもつ瞳は輝きに満ちていて、控えめな物腰の奥にある強さを詩乃に感じさせた。
「あの……朝田さん」
「は、はい」
「わたしがこんなこと言うのも変かもしれないけど……ごめんなさい、怖い目にあわせてしまって」
「いえ……そんな……」
先刻の話では、キリトは、詩乃の過去の事件については一切触れなかった。だから明日奈たちには何のことかわからないはずだが、それでも詩乃は一言ずつ、ゆっくりと口にした。
「今度の事件は、たぶん、私が呼び寄せてしまったものでもあるんです。私の……過去が。そのせいで、私、大会中にパニックを起こしてしまって……キリトに落ち着かせてもらったんです。あの、中継されたシーンはそういうことなので……」
するとキリトが体を起こし、早口に捲し立てた。
「そ、そうだ、肝心なことを忘れてた。アレはその、緊急避難というか、殺人鬼に追われてる状況だったんだからな。妙な勘繰りはするなよ」
「……ま、とりあえず了解したけどね。今後はどうなることやら……」
里香はじとっとした視線をキリトに投げながらぶつぶつ呟いたが、両手をぽんと打ち合わせると、にっと威勢のいい笑顔を浮かべた。
「ともあれ、女の子のMMOプレイヤーとリアルで知り合えたのは嬉しいな」
「ほんとだね。色々、GGOの話とかも聞きたいな。友達になってくださいね、朝田さん」
明日奈も穏やかな笑みを見せると、テーブルの上に、真っ直ぐ右手を差し出した。その、白く、柔らかそうな手を見て――
突如、詩乃は竦んだ。
友達、という言葉が胸に沁み落ちた途端、そこから焼け付くような渇望が湧き上がるのを感じた。同時に、鋭い痛みを伴う不安も。
ともだち。あの事件以来、何度となく望み、裏切られ、そして二度と求めるまいと心の底に己への戒めを刻み込んだもの。
友達になりたい。明日奈という、深い慈愛を感じさせるこの少女の手を取り、その暖かさを感じてみたい。一緒に遊んだり、他愛も無いことを長話ししたり、普通の女の子がするようなことをしてみたい。
しかし、そうなれば、いつか彼女も知るだろう。詩乃がかつて人を殺したことを。自分の手が、染み付いた血に汚れていることを。
そのとき、明日奈の目に浮かぶであろう嫌悪の色が恐ろしい。人に触れることは――自分には、許されない行為なのだ。恐らく、永遠に。
詩乃の右手は、テーブルの下で固く凍りついたまま動こうとしなかった。明日奈が瞳に問いかけるような光を浮かべ、首をわずかに傾げるのを見て、詩乃は目を伏せた。
このまま帰ろう、そう思った。友達になって、というその言葉の温度だけでも、しばらくは胸を暖めてくれるだろう。
ごめんなさい、と言おうとした、その時――
「シノン」
ごくごくかすかな囁きが、怯え、縮こまった詩乃の意識を揺らした。びくりと体を震わせて、左隣に座るキリトを見た。
視線が合うと、キリトは小さく、しかし確かな動きで頷いた。大丈夫だよ、とその目が言っていた。促されるように、再び明日奈に視線を向ける。
少女は微笑みを消すことなく、右手を小揺るぎもさせずに差し出し続けている。
詩乃の腕は、鉛を括りつけたかのように重かった。しかし、詩乃はその枷に抗い、ゆっくり、ゆっくりと手を持ち上げた。ひとを疑い、裏切られることを恐れて遠ざかる苦さよりも、信じて傷つく痛みのほうがいい。事件以来はじめて詩乃はそう思った。
明日奈の右手までの距離は、途方もなく長かった。近づくにつれ、空気の壁が密度を増し、詩乃の手を跳ね返そうとしているのように感じた。
しかし、ついに、指先が触れ合った。
次の瞬間、詩乃の右手は、明日奈の右手にするりと包み込まれていた。
その暖かさを、言葉にすることはできなかった。柔らかく伝わる熱が、指から腕、肩、全身にしみとおり、凍った血を溶かしていく。
「あ…………」
詩乃は意識せず、かすかな吐息を漏らした。何という暖かさだろうか。ひとの手というものが、これほど魂を揺さぶる感触を持っていることを、詩乃は忘れていた。この瞬間、詩乃は現実を感じていた。全てに怯え、世界から逃げつづけていた自分が、今ついに真の現実とつながっていることを、深く感じていた。
恐怖の記憶が消え去るまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。それでも、私は、いま在るこの世界が好きだ。
生きることは苦しく、伸びる道は険しい。
それでも、歩き続けることはできる。その確信がある。
なぜなら、繋がれた右手も、そして私の頬を流れる涙も、こんなにも暖かいのだから。
Sword Art Online3 “Death Gun” ――End――
SAO4_01_Unicode.txt
第一章
強く握る。
振り上げる。
叩き下ろす。
たったこれだけの動作なのに、少しでも気を抜くと斧の当たりどころが狂い、硬い木質が両腕に手痛い反動を跳ね返してくる。呼吸、タイミング、スピード、体重移動、それら全てを完璧に制御してはじめて、重い斧の刃は秘めた力を全て樹に伝え、高く澄んだ心地よい音を響かせる。
と、頭では理解していても、実践となるとこれがままならない。ユージオが十歳の春にこの仕事を与えられてからもう二度目の夏になるが、そんな会心の一振りは十回に一度出せるかどうか、というところだ。斧の振り方を教えてくれた、前任者のガリッタ爺さんなどは百発百中で、巨大な木こり斧をどれだけ振り回そうと疲れた素振りなどまるで見せなかったのに、ユージオは五十回も振れば両手が痺れ、肩が痛んで、腕が上がらなくなってしまう。
「四十……三! 四十……四!」
自分に喝を入れるように、せいぜい大声で数をかぞえながら斧を大樹の幹に叩きつけるが、吹き出た汗で眼がぼやけ、手の平は滑り、命中率はみるみる低下していく。半ばやけくそのように、握り締めた木こり斧を体ごと振り回す。
「四十……九! ご……じゅ……う!!」
最後の一撃は盛大に手許が狂い、幹に刻まれた斧目から遠く離れた樹皮を叩いて、耳障りな金属音を撒き散らした。眼から火花が出るほどの反動にユージオは堪らず斧を取り落とし、そのままふらふらと数歩後ろに下がると、深い苔の上にどさりと体を転がした。
ぜいぜいと荒い息をついていると、同じように少し離れた場所に寝転がっていた少年が、顔だけユージオに向けてにやっと笑った。
「いい音がしたのは五十回中三回だったな。ぜんぶ合わせて、えーと、四十一回か。どうやら今日のシラル水はそっちのおごりだぜ、ユージオ」
寝転がったまま手探りで水筒を掴み上げ、ぬるくなった水をがぶがぶあおってようやく人心地ついたユージオは、鼻を鳴らして答えた。
「ふん、そっちだってまだ四十三回じゃないか。まだまだ分からないよ。そら、お前の番だ、キリト」
「へいへい」
ユージオの幼馴染にして無二の親友、一年前からはこの憂鬱な仕事の相棒でもあるキリトは、汗に濡れた黒い前髪をぐいっとかきあげると、両足を真上に伸ばし、えいやっと体を起こした。しかし、すぐには斧を拾いに行かず、手を腰に当てると頭上を仰いだ。つられて、ユージオも視線を空に向ける。
七の月もまだ半ばの夏空は呆れるほどに青く、真ん中に張り付いた陽神ソルスはぎらぎらと容赦のない光を放っている。だが、四方八方に伸ばされた大樹の枝々にびっしりと茂る厚い葉が貪欲に陽光を遮り、ユージオ達のいる樹の根元まではほとんど届かない。
こうしている間にも、大樹は陽神の恵みを無数の葉でむさぼり、また根からは地神テラリアの恩寵を絶え間なく吸い上げ、ユージオとキリトが刻んだ斧傷を着々と回復させているはずだ。日中にどれほど二人が頑張っても、一晩休んで翌朝またここに来たときには、大樹は受けた傷の七割を埋め戻してしまっているのだ。
ユージオはふう、とため息をつきながら、視線を空から樹へと向けた。
大樹――村人の間では巨人の樹、ギガースシダーと呼ばれているそれは、幹の差し渡し四メル、てっぺんの枝まではゆうに七十メルはあるという化け物だ。村で一番高い教会の鐘楼だってその四分の一しかないのだから、今年になってようやく背丈が一メル半を超えたユージオやキリトにとってはまさしく古代の巨神にも等しい相手だ。
どだい、人間の力でこいつを切り倒そうなんて無理な話なんじゃないのか――と、その幹に刻まれた斧目を見るにつけ、ユージオは思わずにいられない。くさび型の切り込みはようよう一メルに達するかどうか、という所で、幹はまだその三倍もの厚みが健在なのだ。
去年の春、キリトと一緒に村長の家に連れていかれ、大樹の刻み手という役目を与えられたとき、ユージオは気が遠くなるような話を聞かされた。大樹ギガースシダーは、二人が暮らすルーリッドの村が拓かれる遥か以前からこの地に根を張っており、その最初の入植者の時代から村人は延々と樹に斧を入れ続けているということ。初代の刻み手から数えて、前任のガリッタ爺が五代目、ユージオとキリトが六代目であり、ここに至るまですでに三百年以上の時が費やされているのだということ。
三百年! まだ十歳の誕生日を迎えたばかりのユージオにはまるで想像もできないほどの時間だった。もちろん、それは十一になった今も変わりはしない。どうにか理解できるのは、ユージオの父親、母親の時代、祖父、祖母の時代、その前、さらにその前の時代から、刻み手たちは無限とも言えるほどの回数斧を振りつづけ、その結果作ることのできたのが、このたった一メルにも満たない斧目なのだ、という事だけだ。
なぜそこまで空しい努力を続けてまで大樹を倒さなければならないのか、その理由も村長は鹿爪らしい口調で語ったものだ。
ギガースシダーは、その巨体とありあまる生命力ゆえに、周囲のとてつもなく広い範囲から、陽神と地神の恵みを奪い去ってしまう。大樹の影が届くすべての土地では、種を植えてもいかなる作物も実らない。
神聖帝国北方辺境に位置し、三方を急峻な山稜に囲まれたルーリッドの村では畑や放牧地を広げようにも南の森を切り拓くしかなく、しかしその入り口にどすんとギガースシダーがそびえているために、まずこの厄介者をなんとかしなければ、これ以上の村の発展は有り得ない。大樹の皮は鋼鉄、木質でさえ赤銅の硬さを誇り、火をかけても煙すら出ず、掘り起こそうにもその根は梢と同じだけの深さにまで及んでいる。ゆえに、我々は村の開祖たちが残してくれた、鉄さえ断てる竜骨の斧を用いて樹の幹を刻み、また次の世代に役目を伝えていかねばならないのだ――。
使命感のあまりか声を震わせながら村長がその話を終えたとき、まずユージオがおそるおそる、それならギガースシダーは放っておいて更に南の森を切り拓いたらどうなのか、と尋ねた。すると村長は、あの樹を倒すのは先祖代々の悲願であり、その大役を二名の刻み手に委ねるのが村のしきたりである、と怖い声で言った。次にキリトが、首をひねりながら、そもそもなんでご先祖様はこんなところに村を拓いたのか、と尋ねた。すると村長は一瞬言葉に詰まったあと烈火の如く怒り、杖の先でキリトとついでにユージオの頭をぽかりと叩いた。
以来一年と三月、二人は交代で竜骨の斧を握り、ギガースシダーに挑みつづけている、というわけなのだ。しかし、まだ斧を振る腕が未熟なせいもあるのだろうが、大樹の幹に入った切れ込みはどう見ても深くなっているようには思えない。ここまで刻むのに三百年かかっているのだから、子供二人がたった一年頑張ったくらいではさしたる変化もないのは当然と言えば当然なのかも知れないが、仕事としての達成感がないことおびただしい。
いや――その気になれば、見た目だけでなく、さらに明解なかたちで気の滅入る事実を確かめることもできるのだ。
ユージオの横に立ち、無言でギガースシダーを睨んでいたキリトも同じことを考えたらしく、すたすたと幹に歩み寄ると、まっすぐ左手を伸ばした。
「おい、やめとこうよキリト。無闇と大樹の天命を覗くなって村長から言われてるだろ」
だがキリトはちらりと顔を向けると、いつもの悪戯そうな笑みを口の端に浮かべ、うそぶいた。
「前に見たのは二月前だぜ。もう”無闇”じゃなくて”たまに”だよ」
「まったく、しょうがないなあ。……おい、待てよ、僕にも見せろ」
ユージオはようやく疲れの引いた体を、先ほどのキリトと同じように振り上げた足の反動で起こすと、相棒の傍へと駆け寄った。
「いいか、開くぞ」
キリトは低い声で言うと、前に突き出した左手の人差し指と中指をぴんと伸ばし、残りの指を握った。そのまま空中に、這いずる蛇のような形を描く。生命神に捧げる呪印のもっとも初歩的なものだ。
印を切った指先で、キリトはすかさずギガースシダーの幹を叩いた。本来あるべき乾いた打撃音ではなく、銀器を弾いたような澄んだ音が小さく響く。次いで、幹の内部から浮かび上がるように、小さな四角い光の窓が現われる。
天地に存在するすべてのものには、動く、動かざるに関わらず、生命を司る始原の神ステイシアによって与えられた”天命”が存在する。虫や草花にはごくわずかの、猫や馬にはそれよりずっと多くの、そして人にはさらに多くの命が与えられている。森の樹々や、苔むした岩などは、人の何倍もの天命を持っている。それらの命はひとしなみに、生まれ出でてからある時点までは増加し、頂点を迎え、ついで減少していく。やがて命が尽きたとき、獣や人は息を止め、草木は枯れ、岩は砕ける。
その天命を、古代の神聖文字で記したのが”ステイシアの窓”だ。相応の魔力を持つ者が、印を切り対象を叩くことによって呼び出すことができる。石ころや草のようなものの”窓”はほとんどどんな人間でも見ることができるが、獣になるとやや難しく、人の”窓”に至っては初等魔術を修めるに足るだけの力が無いと引き出すことはできない。一般的に樹木の窓は人のそれよりは見やすいが、さすがに古代樹と言われるギガースシダーは難易度が高く、ユージオとキリトが窓を出せるようになったのはここ半年ほどのことだ。
聞きかじるところでは、かつて、央都の帝立魔道院において大導師の位を得た魔術師が、七日七晩に及ぶ儀式のすえに大地――つまり地神テラリアそのものの”窓”を引き出すことに成功したらしい。しかし、大地の天命を一目見たとたん魔術師は恐慌を来たし、正気を失っていずこへか消え去ってしまったという。
その話を聞いてからというもの、ユージオはギガースシダーを含む大きいモノの窓を見るのが少々恐ろしいのだが、キリトは頓着する様子もない。今も、浮かび上がった光る窓にいそいそと顔を近づけている。幼馴染の親友ではあるが時々ついていけないよ、と思いながら、それでも好奇心に負けて、ユージオもその脇から覗き込んだ。
薄い紫色に光る四角い窓には、直線と曲線を組み合わせた奇妙な数字が並んでいる。古代の神聖文字であるそれを、数字だけならユージオも読むことはできるが、書くことは深く禁じられている。
「ええと……」
ユージオは指でひとつひとつ確かめながら、数字を口にした。
「二十三万……五千五百四十二」
「あー……先々月はいくつだっけ?」
「たしか……二十三万五千五百九十くらい」
「…………」
ユージオの言葉を聞いたキリトは、大げさな仕草で両手を差し上げると、がくりと根っ子に膝を突いた。次いで、わしゃわしゃと黒い髪に指を立てる。
「たった五十! ふた月こんだけがんばって、二十三万なんぼのうちたった五十! これじゃ一生かかっても切り倒せねえよ!」
「いや、だからそりゃ無理だって」
ユージオは苦笑しながら答えるしかない。
「僕らの前に五代の刻み手が三百年がんばって、たった四分の一しか行ってないんだからさ……。単純に考えて、ええと、あと十五代、九百年くらいかかる計算だよ」
「おーまーえーは~」
頭を抱えてうずくまっていたキリトは、じろりとユージオを見上げると、突然両足にがしっと組み付いてきた。不意を突かれたユージオはバランスを崩し、苔のベッドにしたたか背中を打ち付けてしまう。
「何でそう優等生なんだ! もうちょっとこの理不尽な役目をどうにかしようと悩め!」
口では怒ったようなことを言いながら、キリトは満面のにやにや笑いを浮かべながらユージオに馬乗りになると、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてきた。
「うわっ何するこいつ!」
ユージオは両手でキリトの手首を掴み、ぐっと引っ張る。キリトがそれに抵抗しようと体を突っ張る力を利用して、ぐるんと垂直に半回転し、今度は自分が上になる。
「そら、お返しだ!」
笑い混じりに叫びながら、キリトの髪を汚れた手で引っ張るが、亜麻色のまっすぐな髪のユージオに対してキリトのは黒くつんつんと逆立っているのでこの攻撃はさして意味がない。やむなく脇腹のくすぐり攻撃へと切り替える。
「うぎゃっ、お前……それは、ひ、ひきょ……」
呼吸困難に陥りながら暴れまわるキリトを組み伏せ、なおもくすぐっていると、不意に背後からきーんと響く高い声の一撃が襲ってきた。
「こらっ! またさぼってるわね!!」
途端、ユージオとキリトはぴたりと取っ組み合いと停止する。
「うっ……」
「やべっ……」
二人してしばし首をすくめてから、おそるおそる振り向く。少し離れた岩の上で、両手を白いエプロンを巻いた腰に当て、ぐいっと胸を反らす人影を認め、ユージオは引き攣った笑みを浮かべながら言った。
「や……やあアリス、今日はずいぶん早いね」
「ぜんぜん早くないわ、いつもの時間よ」
つん、と顔を反らすと、頭の両側で結わえたゆるく波打つ髪が、まばゆい金色の光を放った。身軽な動作で岩から飛び降りたのは、青いドレスに白いエプロン姿の少女だった。右手には大ぶりのバスケットを下げている。
少女の名前はアリス。ルーリッドの村長の孫娘で、歳はユージオ、キリトと同じ十一だ。
ルーリッドの――いや、北部辺境地域に暮らす子供は全員、十歳の春に”天職”を与えられ仕事見習いに就くのがしきたりなのだが、アリスはわずかな例外としてそのまま教会の学校に通っている。村の子供ではいちばんと目される神聖魔法の才能を伸ばすため、シスター・アザリヤから個人教授を受けているのだ。
とは言え、いかに天賦の才を持ちまた村長の娘であろうとも、十一になる娘に一日中勉強をさせておけるほどルーリッドは豊かな村ではない。働けるものは全員働き、作物や家畜の天命を削り取ろうと絶えず襲ってくる日照りや長雨、害虫――つまり闇神ベクタの悪戯を退けつづけなくては、厳しい冬を村人皆が無事に越すことが難しくなる。
ユージオの家は村の南に広がる開墾地にかなり大きな麦畑を持っているが、生粋の農夫である両親は、次男であるユージオがギガースシダーの刻み手に選ばれたことを口では喜びつつ、内心は残念に思っている節がある。もちろん刻み手としての稼ぎは村の金庫から家に支払われるが、畑に出る働き手がひとり減ったことに変わりは無いからだ。
ならわしとして、各々の家の長男には必ず父と同じ天職が与えられ、農家の場合は娘や次男、三男もそれに準ずる。道具屋の子は道具屋に、衛士の子は衛士に、そして村長は村長の子が継ぐ。そのようにしてルーリッドの村は、拓かれて以来数百年ほとんど変わらない姿を維持しており、大人たちはそれこそがステイシアの加護の賜物であると言うが、ユージオはそこにほんのかすかな、名状しがたい違和感のようなものをおぼえることがある。
一体、大人たちは、村を大きくしたいと思っているのか、それとも今の形を何ひとつ変えたくないと思っているのか、それがよく分からないのだ。本当に畑を広げたいのなら、こんな厄介な樹など放っておいて、多少遠回りになるがさらに南の森を拓けばいいだけのことだ。しかし、村で一番の賢者であるはずの村長でさえも、代々のしきたりの数々を見直すことなど思いもよらないらしい。
ゆえに、ルーリッドの村はどれだけ世代が移ろおうとも常に貧しく、村長の娘アリスも勉強できるのは午前中だけで、午後は家畜の世話や家の掃除に忙しく立ち働かなくてはならない。その最初の仕事が、ユージオとキリトに昼食を届けること、というわけだ。
右腕にバスケットを引っ掛けたまま両手を腰にあて、アリスは胸を大きく反らせた。碧玉の色の瞳が、苔の上で取っ組み合いを中断したユージオとキリトをじろりと睨む。小さな唇がすうっと空気を吸い込み、そこから大きな雷が落ちる寸前に、ユージオは素早く体を起こすとぶんぶん首を振った。
「さぼってないさぼってない! 午前中の既定労働はもうちゃんと終わったんだよ」
早口にそう弁解すると、後ろでキリトが「そうそう」と調子のいい相槌を打つ。
アリスはもう一度、強い光を放つ瞳で二人をひと撫ですると、呆れたようにふっと頬を和ませた。
「仕事を終えたうえでケンカする元気があるなら、ガリッタさんに言って回数を増やしてもらったほうがいいかしら?」
「や、やめてそれだけは!」
「冗談よ。――さ、早くお昼にしましょう。今日は暑いから、悪くなっちゃう前に食べないと」
アリスはバスケットを地面に下ろすと、中から大きな白布を取り出し、ぱんと音をさせて広げた。平坦な場所を選んでそれを敷くと、待ちかねたように靴を脱ぎ飛ばしたキリトが上に飛び乗る。続いてユージオが腰を下ろすと、餓えた労働者ふたりの前に、次々と料理が並べられた。
今日のメニューは、塩漬け肉と豆の煮込みのパイ詰め、薄切り黒パンにチーズとピックルスを挟んだサンドイッチ、数種類の干し果物、朝絞ったミルク、というものだった。ミルクを除けばどれも保存性のいい食べ物だが、降り注ぐ七の月の陽光は、容赦なく料理から”天命”を奪い去っているはずだ。
料理に飛びつこうとするキリトとユージオを、アリスは犬にお預けを食らわせるように手で制すると、素早く空中に印を切り、まず素焼きのポットに入ったミルクの、次いで他の料理の”窓”を次々と確かめた。
「うわ、ミルクはあと十分、パイも十五分しか持たないわ。走って来たのになあ。――そんなわけだから、ちょっと急ぎ目で食べてね。でもちゃんと噛まないとだめよ」
天命が尽きた料理はすなわち『傷んだ料理』で、一口でも食べれば、よほど頑強な胃を持つ者でないかぎり覿面に腹痛その他の症状を引き起こす。ユージオとキリトは、いただきますを言うのももどかしく、大きく切ったパイにかぶりついた。
三人は、しばらく無言でもぐもぐと口を動かしつづけた。ハラペコの少年二人は言わずもがな、アリスも、この細いお腹のどこに入るのか、というほどの健啖ぶりを発揮して、次々と料理と片付けていく。まず六切れのパイが無くなり、九つのサンドイッチが一壷ぶんのミルクとともに流し込まれると、三人はようやくほっと一息ついた。
「――お味はどうだったかしら?」
こちらを横目で見ながら、ぽそりとそう言うアリスに向かって、ユージオは笑みを噛み殺しながら答えた。
「うん、今日のパイはおいしかった。だいぶ腕が上がってきたみたいだね、アリスも」
「そ、そうかしら。わたしはもう一味足りないような気がしたけど」
照れ隠しなのか、そう言ってアリスがそっぽを向いたスキに、ユージオはキリトにちらりと目配せして一瞬の笑いを交換した。先月から、二人の弁当はアリスが作っている、という触れ込みなのだが、正直なところアリスの母親であるサディナが手伝っているときとそうでないときの違いは歴然としている。万事につけ、技というものは長年の修練抜きには身につかないものなのだ――が、それを敢えて口にしないだけの分別はユージオもキリトもようやく身につけた、というわけだ。
「それにしても――」
と、干し果物の入った籠から黄色いマリゴの実を摘み上げながら、キリトが言った。
「せっかくの旨い弁当なんだから、もっとゆっくり食べたいよなあ。なんで暑いと弁当がすぐ悪くなっちゃうんだろうなあ……」
「なんでって……」
今度は苦笑を隠すことなく、ユージオは大げさな身振りで肩をすくめた。
「ヘンなこと言う奴だなあ。夏はなんでも天命の減りが早いに決まってるだろ。肉だって、魚だって、野菜も果物も、そのへんに置いとけばすぐ傷んじゃうじゃないか」
「だから、それが何でなんだ、って言ってるのさ。冬なら、生のハムを外にほっぽっといても、何日だって持つじゃないか」
「そりゃ……冬は寒いからな」
ユージオの答えに、キリトは聞き分けのない子供のようにぐいっと唇を曲げた。北部辺境では珍しい黒い眼に、わずかに挑戦的な光が浮かんでいる。
「そうだよ、ユージオの言うとおり、寒いから食べ物が長持ちするんだ。冬だからじゃない。なら……寒くすれば、この時期だって弁当は長い間持つはずだ」
今度こそユージオは呆れ果て、つま先でキリトの向こう脛を軽く蹴った。
「簡単に言うなよ。寒くするって、夏は暑いから夏なんだよ。古代の封禁魔術で雪でも降らせる気か? 次の日には央都の整合騎士がすっとんできて処刑されちゃうよ」
「う、うーん……。何か無いかなあ……いい方法が……」
キリトが眉をしかめ、そう呟いたときだった。いままで二人の会話を黙って聞いていたアリスが、長いおさげの先に指をからませながら口を挟んだ。
「面白いわね」
「な、何を言い出すんだよアリスまで」
「別に、禁術を使おうってんじゃないわよ。村をまるごと寒くしようとか大げさなこと考えなくても、例えばこのお弁当を入れるバスケットの中だけ寒くなればいいんでしょ?」
至極当然のことのような言葉を聞き、ユージオは思わずキリトと顔を見合わせ、同時にこっくりと頷いた。アリスはちらりと済ました笑みを浮かべ、続ける。
「夏でも冷たいものなら、いくつかあるわよ。深井戸の水とか、シルベの葉っぱとか。そういうのを一緒にバスケットに入れれば、中が寒くならないかしら?」
「ああ……そうか」
ユージオは腕を組み、考えた。
教会前広場の真ん中には、ルーリッドの村が出来たときに掘られたという恐ろしく深い井戸があり、そこから汲み上げる水は夏でも手が痛くなるほど冷えている。また、北の谷にわずかに生えているシルベの樹の葉は、摘むとツンとくる香りを放ちながらひんやりと冷たくなるので、打ち身の治療に重宝されている。確かに、深井戸の水を壷に入れたり、シルベの葉でパイを包んだりすれば、弁当を運ぶ間冷たく保つことは可能なように思われた。
しかし、同じようにしばらく考えていたキリトは、ゆっくり首を振りながら口を開いた。
「それだけじゃたぶんムリだよ。井戸水は、汲んで一分も置けばすぐにぬるくなっちゃうし、シルベの葉っぱはちょっとヒヤっとするくらいだし。とても、アリスの家からギガースシダーまで、バスケットの中を寒くできるとは思えないな」
「なら、他にどんな方法があるってのよ?」
せっかくの名案にケチをつけられたアリスが、唇を尖らせながら訊き返した。キリトはしばらく、黒い髪をわしわし掻き混ぜながら黙っていたが、やがてぼそりと口にした。
「氷だ。氷がいっぱいあれば、じゅうぶんに弁当を冷やせる」
「あんたねえ……」
ほとほと呆れた、というように、アリスが首を振った。
「今は夏なのよ。氷なんか、どこにあるってのよ。央都の大マーケットにだってありゃしないわ!」
まるで、聞き分けのない子供を叱る母親のような口調で捲し立てる。
が、ユージオはひしひしと嫌な予感を覚えつつ、口をつぐんだままキリトの顔を見ていた。この幼馴染が、こういう眼の光を浮かべ、こういう口調でものを言うときは、大抵ろくでもないことを考えているのだということを長年の経験から知っているからだ。頭のおくに、東の山まで皇帝蜂の蜜を取りに行ったときのことや、教会の地下室で黒妖精の封じられた壷を割ってしまったときのことなどが立て続けに浮かんでは消えた。
「ま、まあ、いいじゃないか、急いで食べれば大丈夫なんだからさ。それより、そろそろ午後の仕事にかからないと、また帰りが遅くなっちゃうよ」
手早く空いた皿をバスケットに戻しながら、ユージオはそう言って、この不穏な話題を打ち切ろうとした。が、キリトの瞳が何らかの思いつきにきらりと輝くのを見て、危惧が現実になりつつあるのをいやおうなく悟る。
「……なんだよ、今度はいったい何を思いついたんだ」
やや諦め混じりにそう尋ねると、キリトはにいっと笑みを浮かべながら答えた。
「なあ……ずーっと昔、ユージオの爺ちゃんにしてもらった話、憶えてるか?」
「ん……?」
「どの話……?」
二年前に天命天職を果たしてステイシアのもとに召されたユージオの祖父は、色々な昔話をたっぷりと白い髭の奥に詰め込んでいて、庭の揺り椅子に腰掛けパイプをくゆらせながら、足元にうずくまる三人の子供に聞かせてくれたものだ。不思議な話、わくわくする話、怖い話などその数はたっぷり数百に及び、ユージオはいったいキリトがどれのことを言っているのかわからず、アリスと同時に首を傾げて尋ね返した。
「夏の氷、と言えばあれしかないだろう。『ベルクーリと北の白い……』」
「おい、やめてくれ、冗談だろう!」
ユージオは最後まで聞かず、両手と首を振りながらそう叫んで遮った。
ベルクーリ、というのは、ルーリッドの村を拓いた入植者たちの中で一番の使い手だった剣士で、初代の衛士長を務めたと言われている人物だ。なにぶんもう三百年も前のことなので、口伝てにいくつかの神話的武勇譚が残っているだけだが、その中でももっとも奇想天外なのが、キリトが言いかけた題を持つ話だった。
ある夏の盛りの日、ベルクーリは村の東を流れる川に、大きな透明の石が流れてくるのに気付く。拾い上げてみるとそれはなんと氷の塊で、不思議に思ったベルクーリは、ひたすら川沿いにさかのぼって歩き続ける。やがて彼は、地の果てと考えられている北の山脈に彷徨いこみ、尚も細い流れを追って谷を登っていくと、そこには巨大な洞窟が口を開いていた。吹き出してくる、凍えるような風に逆らってベルクーリは洞窟に踏み込み、いろいろな危険を乗り越えて一番奥の大広間までたどり着くと、そこで彼を待っていたのは……という筋で、タイトルは『ベルクーリと北の白い竜』というものだった。
いかな悪戯好きのキリトと言えど、まさか禁を犯して北の峠を越え、本物のドラゴンを探しに行こうなどと考えているわけではあるまい――と半ば祈りながら、ユージオはおそるおそる尋ねた。
「つまり、ルール川を見張って、氷が流れてくるのを待とう……っていうこと?」
だが、キリトは馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、あっさり言い放った。
「そんなの待ってるうちに夏が終わっちゃうぜ。別に、ベルクーリの真似してドラゴンと戦おうってんじゃないよ。あの話じゃ、洞窟に入ったらすぐにでっかいツララがいっぱい生えてたって言うじゃないか。そいつを二、三本折ってくれば、じゅうぶん間に合うはずだ」
「だからってお前……」
ユージオは数秒間絶句してから、傍らを振り返って、かわりにこの無鉄砲小僧を諌めてくれないものかとアリスを見た。そしてその碧い瞳の奥に、きらきらと常ならぬ光が宿っているのに気付き、内心でがくりと肩を落とした。
甚だ不本意ながら、ユージオとキリトは、村一番の悪餓鬼コンビとして、厳格な老人たちから溜息苦言叱責等々を日常的に頂戴する身である。しかし、二人の数々の悪行の裏に、村一番の優等生アリスのひそかな扇動があることを知る者は少ない。
そのアリスは、右手の人差し指をふっくらとした唇にあて、さも迷っているふうに数秒間首を傾げてから、ぱちりとひとつ瞬きをして明るい声で言い放った。
「――悪くないアイデアね」
「あ、あのねえアリス……」
「確かに北の峠に行くのは村の掟で禁じられているわ。でもそれは、峠の先にある『果ての山脈』を越えることが神聖教会の禁忌目録に触れるからでしょ? 私たちはなにも、果ての山脈のてっぺんに登ろうってんじゃないのよ。そのふもとのどっかにある洞窟を捜そうっていうだけよ。それにだいたい、峠道じゃなくて川のほとりを進むんだから、村の掟だって破るわけじゃないわよ」
流れる水のごとくそうまくしたてられると、いつものことながらユージオは異を唱える隙間さえ見つけることができない。それに、聞いているうちになんとなく、アリスの言っていることが正論のように思えてきてしまうのだ。
禁忌目録、とは、遥か央都に天まで貫く巨塔を構える世界中央神聖教会が発行する分厚い黒革装の書物だ。ユージオたちの暮らすノーランガルス神聖帝国だけでなく、東方や南方、西方のあまねく異国のあらゆる町や村の長の家にかならず一冊備えられ、その中には教会が定めた「してはいけないこと」がびっしりと列挙してある。第一項にある「教会への反逆」から、末項の「山羊に干したオリシュ麦を与えること」まで禁忌の数は軽く千を越えるが、それを全て暗記するのが学校の授業のうちでも最重要の科目となっている。
禁忌目録の威が及ばないのは、世界を囲む果ての山脈の向こうにあるという闇の王国だけだ。ゆえに、山脈を越えることは禁忌の中でもかなり最初のほうに記してある。確かに厳密に解釈すれば、山脈のふもとをうろつくくらいなら禁忌には触れないと思われる――ものの、ユージオはおぼろな不安を感じてごくりと喉を鳴らした。
だが、もう一度だけアリスを諌めてみようとしたその矢先に、キリトが大きな声で言った。
「ほら、村で一番ちゃんと目録を暗記してるアリスがそう言うなら間違いないって! よし決まり、次の休息日はドラゴ……じゃない、氷の洞窟探しだ!」
「お弁当は保ちのいい材料で作らないとかなー」
顔を輝かせる二人の親友を交互に見やって、ユージオは内心でふかい溜息をつき、次いで「そうだね」と弱々しい笑みを浮かべながら相槌を打った。
七の月三回目の休息日は、どうやらいい天気になりそうだった。
すでに天職を与えられている十歳以上の子供たちも、この日ばかりは幼い頃に戻り、夕食の時間まで遊びまわることが許されている。ユージオとキリトもいつもは他の男の子らと一緒に魚を釣ったり剣術の稽古のまねごとなどをして過ごすのだが、今日はまだ朝靄も消えないころから家を抜け出し、村はずれの古樹の下で落ち合ってアリスを待っていた。
「……遅い!」
自分もユージオを数分待たせたことを棚に上げ、キリトがぶつぶつと毒づいた。
「まったく女ってのは、約束の時間よりも身支度のほうが優先なんだからなもう。そんであと二年もすれば、お前んとこの姉ちゃんみたく、服が汚れるから森になんか入れないとか言い出すんだ」
「しょうがないよ、女の子なんだからさ」
苦笑混じりにそう言いつつ、ユージオはふとキリトの言う二年先のことを考えた。
アリスはまだ、身分的には天職に就かない子供の範疇なので、周囲も彼女が好んでユージオたちと行動を共にすることを黙認している。しかしもともと彼女は村長の娘という、村の女性たちの規範的存在となることが半ば決定している立場なのだ。そう遠くない未来には、男の子と遊ぶことも禁じられ、神聖魔法だけでなく立ち居振舞いや作法のレッスンも受けるようになるに違いない。
そして……その後はどうなるのだろう。彼女も、一番上の姉のスリニャのように、どこかの家に嫁ぐのだろうか? もしかしてその相手が、ユージオあるいはキリトだというようなことは有り得るのだろうか? 一体そのへんのことを、この相棒はどう考えているのか……?
「おい、何ぼんやりしてるんだよ。昨夜ちゃんと寝たのか?」
いきなり怪訝な表情でキリトに顔を覗き込まれ、ユージオは慌ててこくこく頷いた。
「う、うん、大丈夫。……あ、来たみたいだよ」
たったっという軽い足音を耳にとらえ、村のほうを指差す。
濃い朝もやをかき分けるように現われたアリスは、キリトの言ったとおり、綺麗に梳いた金髪をリボンで結わえ、染みひとつないエプロンドレスを揺らしていた。ユージオは思わずキリトと顔を見合わせて笑みを噛み殺し、向き直って同時に叫んだ。
「遅い!」
「あんた達が早すぎるのよ。まったくいつまでも子供なんだから」
済まし顔でそう言ってのけ、アリスは右手のバスケットをユージオに、左手の水袋をキリトに向かって突き出した。
二人が反射的に荷物を受け取ると、くるっと後ろ――村から出てゆく細道のほうを振り向き、腰をかがめて足元から草穂を一本摘み取る。丸く膨らんだその先端でびしっと彼方にそびえる岩山を指し、アリスは元気よく叫んだ。
「じゃあ……夏の氷を探して出発!」
どうしてこういつも、”お姫様と従者二人”みたいになっちゃうんだろうなあ、と思いつつ、ユージオはもう一度キリトと視線を交換し、歩き出したアリスの後を追った。
村を貫いてのびる道は、南側は人や馬車の往来も多くしっかりと踏み固められているが、北へ向かう人間はほとんど居ないため樹の根や石が多く歩きづらい。しかしアリスは道の悪さなど感じさせない軽やかな足取りで、鼻歌をうたいながらユージオの前を進んでいく。
何て言うか、身のこなしが綺麗なんだよな、とユージオは思う。数年前までアリスは村の悪餓鬼連中に混じって剣の練習(のようなこと)をすることがたまにあったが、彼女の持つ、良くしなる細枝にユージオもキリトも何度ぴしりとやられたことか。そのくせこちらの棒は、風の精でも相手にしているかのように無様に空を切ってばかりなのだった。もしあのまま修行を続けていたら、アリスはひょっとしたら村ではじめての女剣士にすらなれていたかもしれない。
「剣士か……」
ユージオはぼそりと口のなかで呟く。
巨樹の刻み手という天職を与えられる前まで、もしかしたら、と漠然と考えていた途方もない夢。村の男の子なら皆が憧れる衛士にもしも抜擢されたなら、生木の皮を剥いだ不恰好な木剣ではなく、時代ものではあろうが本物の鋼剣を与えられ、日々ほんとうの剣術を学ぶことができる。
それだけではない。北辺の村々の衛士は、毎年秋になると南のザッカリアの街で開かれる剣術大会に参加することができる。そこで上位に入賞したりすれば、街の衛兵――名実ともに本物の剣士と認められ、央都の鍛冶工房で鍛えられた制式剣が貸与される――に取り立てられることもあるという。夢はそこで終わらない。衛兵隊で出世すれば、央都に上り、皇帝の御前で開かれる武術大会に参加する機会が与えられる(昔話のベルクーリは、この大会で準々決勝まで進んだということだ)。
そしてその次にして究極が、真の英雄のみが集うという、神聖教会そのものが催す四帝国統一大会だ。神々すら照覧するというこの戦いを勝ち抜いた者だけが、あらゆる剣士の頂点、世界の秩序を守る神命を帯び、ときに”闇の王国”に棲まう悪魔とすら戦うという、飛竜を駆する整合騎士に任じられる――。
そこまではさすがに想像すらも覚束ないが、でも、もしかしたら、とユージオも思っていた頃があった。もしかしたら、アリスは、剣士ではなく神聖術士の見習いとして村を出て、ザッカリアの街の学校へ、あるいは央都の魔術院にすら行けるかもしれない。その時その隣には、護衛として、緑と薄茶の衛兵隊制服に身を包み輝く制式剣を吊った自分が……。
「まだ終わった夢じゃないぜ」
突然、横を歩くキリトがぼそりとそう呟き、ユージオは吃驚して顔を上げた。どうやらかすかな嘆息から空想をすべて読まれたらしい。相変わらずの勘の鋭さに苦笑いしてから、呟き返す。
「いいや、終わったさ」
そう、もう夢見る時期は終わってしまったのだ。村の衛士の天職を与えられたのは、現衛士長の息子ジンクとその子分二人(全員、剣の腕ではユージオとキリト、そしてもちろんアリスにまったく及ばなかったのに!)だった。少しの苛立ちと、倍量の諦めを込めて吐き出す。
「一度決まった天職は、村長にだって替えられないよ」
「たったひとつの例外を抜けばな」
「例外……?」
「仕事をやり遂げた場合だ」
今度はキリトの頑固さに呆れてもう一度苦笑する。この相棒は、鉄より硬いギガスシダーを自分の代で切り倒すという大それた野望をまだ捨てていないのだ。
「あの糞ったれな樹をぶっ倒せば、俺たちの天職はきれいさっぱり完了だ。そしたら次の仕事は自分で選べる。そうだろ?」
「そりゃそうだけどさ……」
「俺は、羊飼いとか麦造りとかの天職でなくて良かったと思ってるぜ。そういう仕事には終わりって無いけど、俺たちのは違う。絶対何か方法があるはずだ、あの樹をあと三……いや二年で切り倒して、そしたら……」
「街の近衛兵登用試験を受ける」
「何だよ、お前もその気なんじゃないかユージオ」
「キリトにだけいい恰好はさせられないからね」
軽口の応酬をしているうちに、何となくそれほど大それた夢ではない気がしてくるのが不思議だった。制式剣を拝受して村に戻り、ジンクたちの目を丸くさせるところを想像してキリトと二人にやにやしながら歩いていると、前を歩いていたアリスがじろりとこちらを振り向いた。
「こら、なに二人で内緒話してるのよ」
「い、いや、何でも。昼飯はまだかなーって、さ。なあ」
「う、うん」
「あっきれた、まだ歩き始めたばっかじゃない。それより、ほら、川が見えたわよ」
アリスが草の穂先で指す方を見ると、道の先に大きめの木の橋が姿を現していた。ルール川をまたぐ北ルーリッド橋だ。あれを渡り、さらに進むとやがて北の峠に行き着く。が、三人が目指すのは峠ではなく、川の源流だ。
橋のたもとからは、川辺の草むらに降りる細道が伸びていた。よく釣りにくる場所なので、勝手知ったる足取りでひょいひょいと下っていく。
ユージオは水辺でひざまずくと、さらさらと鳴る透明なせせらぎにざぶりと右手をつけてみた。さすがに真夏だけあって、春先には凍るようだった水はかなり温んでいる。服を脱ぎ捨てて飛び込んだらさぞ気持ちいいだろうが、アリスの前でそんな真似もできない。
「とても氷が流れてくるような水温じゃないよ」
振り向いてそう言うと、キリトは唇ととがらせて反論した。
「だから大元の洞窟まで行こうってんじゃないか」
「それはまあいいんだけど、夕方の鐘までに帰れなくなったら大目玉だからね。ええと……ソルスが空の真ん中まで来たら、その時点で引き返すことにしよう」
「仕方ないわね。そうとなれば、急ぐわよ!」
柔らかい下草をさくさく踏んで歩き出すアリスの後を、二人も早足で追いかける。
左側から天蓋のように張り出す樹々の枝が日差しを遮り、また右の川面から立ち上る涼やかさのせいもあって、ソルスが空高く登ったあとも三人は心地よく歩くことができた。幅一メルほどの岸辺は短い夏草に覆われ、足を取るような石や穴もほとんどない。
これだけ歩きやすい場所なのに、考えてみると北ルーリッド橋から先には一度も足を踏み入れたことがないんだな、とユージオは少し不思議に思った。村の掟、さらには教会の禁忌目録への畏れが、いつのまにか胸の深いところにまで刻まれてしまっているのかもしれなかった。いつもキリトと二人、大人たちはしきたりばかり気にして、と文句を言っているのに、思えば自分たちも実際に掟や禁忌を犯したことは一度もないのだ。今日のこのささやかな冒険が、かつてもっとも禁に迫る行為なのは間違いない。
今更ながら少しばかり不安になり、前を歩くキリトとアリスを見るが、二人は呑気に羊飼いの歌など合唱している。まったくこいつらは、何かを心配したりということがないんだろうか、と溜息をつきたくなる。
「ねえ、ちょっと」
声をかけると、二人は足を動かしたまま揃って顔をユージオに向けた。
「なーに?」
首をかしげるアリスに、しかめつらを作ってみせながら、少し脅かしてやろうと尋ねる。
「もうけっこう村から離れたけどさ……このへんて危ない獣とか出たりしないの?」
「えー? 私は聞いたことないけどなあ」
アリスがちらりと視線を向けると、キリトも首を傾げた。
「うーん……ドネッティのとこの爺さんがでかい長爪熊を見たってのは、あれはどのへんの話だっけ?」
「東の大林檎の樹のあたりでしょ。しかも十年前の話よ、それ」
「このへんじゃあ、出ても赤毛狐くらいだよなあ。まったく、ユージオは怖がりだな」
揃ってアハハと笑われてしまい、がくりと肩を落としたくなる。
「そ……そんなこと言ったって、二人とも村の北に出たのは初めてじゃないか。少しは気をつけたほうがいいって言ってるんだよ」
そう抗弁すると、不意にキリトが悪戯そうに目を輝かせた。
「うん、そう言やそうだよな。知ってるか? この村ができたばっかりの頃は、たまに闇の国からゴブリンだのオークだのが山を越えてきて、子供をさらったりしたんだぞ」
「何よ、二人して私を怖がらせようとして。知ってるわよ、最後には央都から整合騎士が来て、ゴブリンの親玉を退治してくれたんでしょ?」
「――『それからというもの、晴れた日には、果ての山脈のはるか上を飛ぶ白銀の竜騎士が見えるようになったのです』」
キリトは、村の子供なら誰でも知っているおとぎ話の最後の一節を口ずさむと、ふいっと振り向いた。ユージオとアリスも、いつの間にか視界のかなりの部分を覆うほどに近づいていた巨大な岩山の連なりと、その上の青い空をじっと見詰める。
もしかしたら雲の間にきらきら光る飛竜の姿が見えるかも、と一瞬思ったが、どんなに目を凝らしても空には染みひとつなかった。三人は顔を見合わせると、ふひっと笑った。
「――おとぎ話、よね。きっと、洞窟にいる氷の竜ってのも後から作った話なのよ、ベルクーリが」
「おいおい、村でそんなこと言うと村長の拳骨が落ちるよ。ベルクーリは村の英雄なんだから」
ユージオの言葉にもう一度笑うと、アリスは歩くスピードを上げた。
「行ってみればわかるわよ。ほら、のんびり歩いてると、お昼までに洞窟につかないよ!」
――とは言え、実際には、とても半日歩いたくらいで『果ての山脈』にまでは着かないだろうとユージオは思っていたのだ。果ての山脈はほんとうの世界の果て、つまりこの神聖教会と四帝国によって成り立つ人間の国の終わりであって、いくらルーリッドの村が北部辺境のなかでもいちばん北にあると言ったってそう簡単に子供の足で辿り付ける場所ではないだろう、と。
だから、太陽が中天に達するほんの少し前、かなり幅を狭めていたルール川が、崖の根元にぽっかり口を開けている洞窟にその姿を消しているのを目にして、ユージオは本当に驚いた。
ついさっきまで左右に深く広がっていた森は突然切れてなくなり、眼前では灰色の岩がごつごつと伸び上がっている。見上げてみれば、まだ天を切り裂く稜線までは相当の距離があるだろうが、この岩の連なりが山脈の端っこであるのは間違いないようだった。
「これが……果ての山脈なのかよ?」
キリトも見ているものが信じられない様子で、ぽかんと開けた口で低くそう呟いた。同様に、アリスも青い瞳をいっぱいに見開いたまま、わずかに唇を動かす。
「ほんとに……あの山の天辺のむこうが、闇の王国なの? だって……私たち、まだ五時間くらいしか歩いてないよね。その程度じゃザッカリアの街にだって着かないわよ。ルーリッドって……ほんとうに、世界の端っこにあったのねえ……」
実際、何でこんなことを僕たちは知らなかったのか、とユージオは愕然とせざるを得ない。いや――もしかしたら、村の大人たちも、誰ひとり果ての山脈がこんなにも近いということを知らないのではないだろうか? 三百年の歴史の中で、村の北に広がる森を抜けたのは、ベルクーリのほかには僕たちしか居ないのでは……?
なんだか妙だ。ふとユージオはそう感じる。だが、何がおかしいと思うのかがよくわからない。
毎日毎日、決まった時間に起き、同じ朝食を食べ、同じように畑や牧草地、鍛冶場や糸繰り場へ出かけていく大人たち。さっきアリスは、五時間じゃザッカリアの街にだって着かない、と言ったが、もちろんアリスもキリトもユージオも、実際に街に行ったことがあるわけではない。大人が、南の街道を馬で朝から夕方まで進むとザッカリアの街がある、と言っているのを聞いただけだ。だが、その大人たちにしたって、ほんとうにザッカリアまで行ったことがある者が、果たして居るのだろうか……?
ユージオの中でもやもやと渦巻く考えがまとまった形になる前に、とにかく、というアリスの声がそれを吹き払ってしまった。
「――とにかく、ここまで来たならもう中に入ってみるしかないよね。その前に、お弁当にしましょう」
そう言うと、ユージオの手からバスケットを取り、短い下生えが灰色の砂利に変わるぎりぎりの場所に腰を下ろす。待ってました、もう腹ぺコだよ、というキリトの歓声に促されるように、ユージオも草の上に座り込んだ。香ばしいパイの匂いが疑問の残り滓を拭い去ると、思い出したように胃が空腹を訴えはじめる。
我先にと伸ばされたユージオとキリトの手をぺしぺしと叩いて撃退し、アリスは料理の”窓”を次々に引き出した。すべてにまだ余裕があるのを確かめてから、魚と豆のパイ、林檎とくるみのパイ、干したすももを配ってくれる。さらに、水袋に詰められたシラル水を木製のカップに注ぎ、これもまた悪くなっていないか確認する。
ようやくお許しが出た午餐に、いただきますももどかしくかぶりつきながら、キリトが聞き取り難い声で言った。
「そこの洞窟で……つららを見つければ、明日の昼飯はこんな慌しく食わなくてもよくなるな」
口の中のものを飲みくだしてから、ユージオは首をひねりつつ答える。
「でもさ、よく考えてみると、うまく氷を手に入れても、それ自体の”天命”はどうやって保たせるんだよ? 明日の昼までに溶けてなくなっちゃったら何の意味もないんじゃない?」
「む……」
それは考えてなかった、というようにキリトが眉をしかめると、アリスがすまし顔で言った。
「急いで持って帰って、うちの地下室に入れておけば一晩くらいは大丈夫でしょう。まったくあんたたちは、それくらい最初に考えておきなさいよ」
またいつものようにそそっかしさを指摘されてしまい、ユージオとキリトは照れ隠しにがつがつと食事を頬張った。それに付き合ったわけでもないだろうが、アリスも普段より早いペースでぺろりとパイを平らげ、シラル水を飲み干す。
綺麗に空になったバスケットに、料理を包んでいたナプキンをきちんと畳んで収めると、アリスはすっくと立ち上がった。三つのカップを持ってすぐそばの水面まで歩き、川水で手早く洗う。
「うひゃっ」
妙な声を上げながら作業を終え、戻ってきたアリスは、エプロンで拭いた手をユージオに向かって広げた。
「川の水、すっごい冷たいよ! 真冬の井戸水みたい」
見れば、小さな掌はすっかり赤くなっている。思わず両手を伸ばし、アリスの手を包んでみると、確かにひんやりと心地よい冷たさが伝わってきた。
「ちょっ……やめてよ」
少しばかり頬を掌と同じ色にさせながらアリスがすぽんと両手を引き抜いた。それでようやく、ユージオも自分が普段なら決してしないようなことをしてしまったことに気付き、泡を食う。
「あっ……いや、その」
「さて、そろそろ出発しようか、お二人さん」
それでも助け舟のつもりなのか、ニヤニヤしながらそんなことを言うキリトの足を軽く蹴り、ユージオは照れ隠しに乱暴な動作で水袋を拾い上げると肩にかつぎ上げた。そのまま後ろを見ずに、洞窟の入り口へと歩を進める。
ここまで三人が追いかけてきた透明なせせらぎは、これが本当にあのルール川の源流かと思うほどにささやかなものになっていた。差し渡しは一メル半ほどしかあるまい。高い崖に穿たれた洞窟から溢れ出す水流の左側には、同じくらいの幅で剥き出しの岩肌が伸びており、どうにか歩いて中に入れそうだった。
三百年前、衛士長ベルクーリも踏んだとおぼしき灰色の岩に右足を乗せ、しばし躊躇してから、ユージオは思い切って洞窟の内部へと踏み込んだ。いきなり周囲の気温が下がり、思わず剥き出しの両腕をこする。
後ろから二人の足音がついてくるのを確認しながら、さらに十歩ほど進んだ。
そしてユージオは、またしても肝心なことを忘れていたことに気付き、肩を落としながら振り返った。
「しまった……僕、灯り持ってきてないよ。キリトは?」
入り口からわずか五メルほどしか入り込んでいないのに、すでに二人の表情が判別しにくいほどに周囲は暗くなっている。洞窟の中は真っ暗だなどという、あまりに当然のことを忘れていた自分に幻滅しつつ、相棒の機転に望みを託すが、返ってきたのは、「お前が気付かないことに俺が気付くわけがない!」という情けないものだった。
「あ……あのねえ、あんたたち……」
一体今日何度目に聞くアリスの呆れ声だろう、と思いつつ、わずかな光にも輝く金髪に目を向ける。アリスは数回左右に首を振ってから、エプロンのポケットに手を差し込み、何か細長いものを取り出した。よく見ると、冒険に出るときに摘み取った草穂だ。
右手に持った草の先端に左の掌を添え、アリスは目を閉じた。小さな唇が動き、”窓”を引き出すときの聖句に抑揚が似ているがずっと長い、不思議な音の羅列を空中に奏でる。
最後に左手が素早く複雑な印を切ると、丸く膨らんだ穂の先にほわっと青白い光が灯った。それはたちまち強さを増し、洞窟の中をかなりの距離まで照らし出した。
「うおっ」
「おお……」
キリトとユージオは、思わず異口同音に嘆声を漏らした。
アリスが聖術を学んでいるのは知っていたが、こうしてその実例を目にしたのはほとんど初めてと言っていい。シズター・アザリヤの教えによれば、すべての魔術、つまり生命神ステイシアに祈る聖術と、七元素神の力を源とする精術は――闇神ベクタに帰依する魔物が使う闇術は例外だが――世界の平穏と安息を守るためにのみ存在するのであって、みだりに使用してはならない、ということになっているからだ。
シスターとその生徒アリスが聖術を使うのは、村に薬では治せない病人や怪我人が出たときだけだ。とユージオは理解していたので、草穂に魔法の光を灯すアリスに向かって、思わず尋ねてしまった。
「あ、アリス……こんなことに魔法使って、平気なの? 罰が当たったりとか……」
「ふん、この程度で罰が当たるなら、私なんか今ごろ十回くらい雷に撃たれてるわよ」
「…………」
それってどういう、と聞こうする前に、アリスは右手の光る草をぐいっとユージオに向かって突き出してきた。思わず受け取ってしまってから、ひええ、と思う。
「ぼ、僕が持つの!?」
「当たり前じゃない。か弱い女の子に先頭を歩かせる気? ユージオは私の前、キリトは後ろよ。時間が勿体無いわ、とっとと先に進むわよ」
「は、はい」
勢いに押されるように、ユージオは振り向くと灯りを掲げ、洞窟の奥へとおそるおそる進み始めた。
内部は、曲がりくねりつつも一定の広さで続いているようだった。青みがかった灰色の岩は濡れたように光り、時折、灯りの届かない暗がりでかさかさと小さな何かが動き回る気配がする。天井からは、不思議な形の尖った岩が垂れ下がり、それと同じ場所に地面からも石のトゲが伸び上がっている。
が、どれほど目を凝らしても、氷らしきものは一切視界に入らなかった。
さらに五分ほど足を動かしたところで、ユージオは振り向くと口を開いた。
「ねえ……確か、洞窟に入ったすぐのところに氷のツララがあるって、キリト言ってたよねえ?」
「言ったっけ、そんなこと」
「言った!」
とぼけるように目を逸らす相棒に詰め寄ろうとするが、アリスがすっと右手を上げてユージオを止めた。
「ねえ、ちょっと、灯りを近づけて」
「……?」
言われるままに、右手の魔法の光をアリスの顔に寄せる。アリスは唇を丸い形にすると、光に向かってほうっと息を吐き出した。
「あ」
「ね、見えたでしょ? 冬みたいに、息が白くなってる」
「うえ、ほんとかよ。どおりでさっきから寒いと思ってたんだよ……」
勝手な文句を言うキリトを無視して、ユージオとアリスはこくりと頷きあった。
「この洞窟の中は、冬と同じなんだわ。きっと氷だってあるはずよ」
「うん。もう少し、進んでみよう」
体の向きを変え、少しずつ広がっているような気がする洞窟の奥のほうに魔法の灯りを向けて、慎重に前進を再開する。
聞こえるものと言えば、三人の革靴が岩をこするかすかな音のほかは、とうとうと流れる地下水のせせらぎだけだった。これほど源流に近づいてもその勢いは弱まらない。
「……もし舟があったら、帰りは楽だよなぁ」
最後尾で呑気な声を上げるキリトを、ユージオは、静かにしてろとたしなめた。すでに、予定を遥かに越える深さで洞窟に入り込んでいる。まさかとは思うが――
「――ねえ、ほんとにドラゴンに出くわしたら、どうするの?」
ユージオの思考を読んだように、アリスが囁いた。
「そりゃ……逃げるしか……」
同じくひそひそ声で答えるが、それに被さるようにまたキリトの脳天気な言葉が反響する。
「だいじょーぶだって。ベルクーリがドラゴンに追っかけられたのは、宝剣を盗もうとしたからだろ? いくらなんでもつららを取るくらい許してくれるさ。――うーん、でもなあ、できれば剥げたウロコの一枚くらいほしいよなあ……」
「おい、何考えてるんだよキリト」
「だってさぁ、本物のドラゴンを見た証拠を持って帰ったら、ジンク達が死ぬほど羨ましがるぜ」
「冗談じゃないよ! 言っとくけど、もしお前がドラゴンに追っかけられたら、僕たちは見捨てて逃げるからな」
「おい、声が大きいぞユージオ」
「あのな、お前がおかしなことばっかり言うから……」
不意に足元で妙な音がして、ユージオは口をつぐんだ。ぱりん、という、何かを踏み割ったような響き。慌てて右手の光を近づけ、右足の下を確かめてから、思わず声を漏らす。
「あっ、これ見てよ」
腰をかがめるアリスとキリトの視線の先で、つま先を動かす。灰色の滑らかな岩肌に溜まった水が、表面に薄い氷を張らせていた。指を伸ばし、透明な薄膜の一片を摘み上げる。
掌に載せたそれは、数秒のうちに溶けて小さなしずくに変わってしまったが、三人は顔を見合わせて思わず笑みを漏らした。
「間違いない、氷だよ。この先にもっとあるはずだ」
ユージオがそう言いながら周囲を照らすと、同じように氷結した水たまりがいくつも青い光を跳ね返した。それに、真っ暗な闇に沈む洞窟の、ずっと奥のほうに……。
「あ……なんか、いっぱい光ってる」
アリスの言葉どおり、ユージオが右手をうごかすと、それにつれて無数の小さな光点がちかちかと瞬くのが見えた。もうドラゴンのことなどすっかり忘れ、半ば駆け出すようにその方向を目指す。
さらに百メルほども進んだか、と思えた時だった。突然、左右の岩壁が無くなった。
同時に、息を飲むような幻想的な光景が、三人の前に出現した。
広い。とても地下の洞窟とは思えない、あまりにも広大なドームだ。村の教会前広場の、ゆうに五倍はあるに違いない。
ほぼ円形に湾曲する周囲の壁は、さっきまでのような濡れた灰色ではなく、薄青い透明な結晶にびっしりと覆われているようだった。そして床面は、なるほどこれがルール川の源だったのかと納得させられる、巨大な池――いや湖になっていた。ただし、水面はぴくりとも揺れていない。岸辺から中央までが、分厚く氷結しているのだ。
白いもやのたなびく氷の湖のそこかしこからは、ユージオたちの背丈などゆうに上回る高さで、不思議な形の柱が突き出している。先端の尖った、角張った氷の柱だ。まるで、昔ガリッタ爺さんに見せてもらった水晶の原石のようだとユージオは思った。ただし、こちらのほうがずっと大きく、美しい。無数の、深い透明な青色の柱たちが、ユージオの握る草穂が放つ魔法の光を吸収して、六方向に放射し、それをまた反射させることで、広大なドーム全体をぼうっと照らし出している。氷柱は湖の中心に近づくほど数を増し、真ん中まではまったく見通せない。
氷だった。すべてが氷でできている。見れば、周囲の壁もまた分厚い氷の板なのだった。それが高く伸び上がり、はるか頭上で天蓋のように丸く閉じている。
三人は肌を刺す寒さも忘れ、白い息を吐き出しながら、たっぷり数分間も立ち尽くしていた。やがてアリスが、かすかに震える声で言った。
「……これだけ氷があったら、村中の食べ物を冷やせるわね」
「それどころか、しばらく村を真冬にだってできるぜ。――なあ、奥のほうに行ってみよう」
キリトは言い終える前に、数歩進んで湖の氷の上に乗った。かなり分厚く凍り付いているようで、軋む音ひとつ聞こえない。
いつもだったら、ここで諌めるのがユージオの役回りなのだが、今回ばかりは好奇心が優った。もしかして、本当にあの奥にドラゴンがいるんじゃ……? と思うと、どうしても覗いてみたくてたまらなくなる。
魔法の灯りを高く掲げ、ユージオはアリスと並んでキリトの後を追った。足音を立てないよう慎重に、巨大な氷柱の影から影へと伝うように湖の中心を目指す。
すごいぞ、もしドラゴンを見たら――。ユージオは考える。そうしたら、今度は僕たちの話が、何百年も続く物語になるんだろうか? もし、もしもだけど、ベルクーリにできなかったこと……ドラゴンの宝を何かひとかけらでも持って帰れたら、村長も僕たちの天職を考え直してくれるんじゃないだろうか……?
「むぐ」
歩きながらいつのまにか夢想をふくらませていたユージオは、突然立ち止まったキリトの後頭部に鼻をぶつけてしまい、顔をしかめた。
「おい、急に止まるなよキリト」
だが、相棒は返事をしなかった。いぶかしむうち、その喉から低い呻き声のようなものが漏れる。
「……なんだよこれ……」
「え……?」
「なんなんだよ、これ!」
隣のアリスと同時に首を傾げ、ユージオはキリトの横から前方を覗き込んだ。
「一体どうしたって言うのよ……」
ユージオと同じものを見たアリスが、言葉の尻尾を飲み込んだ。
骨の山がそこにあった。
青い、氷の骨だ。氷というより、水晶の彫刻のようでもある。ひとつひとつがあまりに大きな、様々な形の無数の骨が積み重なって、三人の背丈より高い山を作っていた。山の中央に、それが何の骨なのかを厳然と語るひとつの巨大な塊があった。
頭骨だ、と一目でユージオも理解した。虚ろな眼窩と、鼻の孔。後ろ側には角のような突起が長く伸び、迫り出した顎骨には剣のような牙が無数に並んでいる。
「ドラゴンの……骨?」
アリスが低く囁いた。
「死んじゃったの……?」
「ああ……でも、ただ死んだんじゃない」
答えたキリトの声は落ち着きを取り戻していたが、普段相棒があまり見せることのない、ある種の感情に彩られているようにユージオは感じた。
キリトは数歩進み出ると、足元からドラゴンの前足と思われる巨大な鉤爪を拾い上げた。
「ほら……いっぱい傷がついてるし、先っぽも綺麗に欠け落ちてる」
「何かと戦ったの……? でも、ドラゴンを殺せる生き物なんて……」
ユージオの心中にも、アリスと同じ疑問が浮かぶ。ドラゴンと言えば、世界を囲む果ての山脈の各地に棲み、闇の勢力から人間の国を守る、世界最強の善なる守護者ではなかったのだろうか? 一体何者がそれを殺すというのか……?
「これは、獣や他のドラゴンと戦ってできた傷じゃない」
キリトが、指先で青い鉤爪をなぞりながらぽつりと言った。
「え?」
「これは剣の傷だ。このドラゴンを殺したのは人間だ」
「え……ええ? でも……だって、央都の御前大会で何度も勝った英雄ベルクーリでさえ逃げることしかできなかったのよ。そこらの剣士じゃ、そんな大それたこと……」
不意に、アリスは何かを思いついたように黙り込んだ。しばしの静寂が、今は巨大な墳墓となった氷の湖の表面に落ちる。
「……整合騎士……? 教会の整合騎士が、このドラゴンを殺したの……?」
やがて、ついにアリスがそう口にした。
SAO4_02_Unicode.txt
法と秩序の究極的体現者たる整合騎士が、同じく善性の象徴であるドラゴンを殺す。それは、これまでの十一年の人生において一度として世界の仕組みを疑ったことのないユージオにとって、容易に受けいれることのできない概念だった。飲み込むことも、噛み砕くこともできない疑問にしばらく苦しんでから、答えを要求するように傍らの相棒に視線を送る。
「……わからない」
キリトの言葉も、しかし大いなる混乱に彩られていた。
「もしかしたら……闇の国にもすごい強い剣士がいて、そいつがドラゴンを殺したのかもしれないし……。でも、そんなことがあったなら……今までに、闇の軍勢が山を越えて攻め込んできたりしててもおかしくないはずだ。――少なくとも、宝を狙った盗賊の仕業とかじゃないみたいだけど……」
言葉を切ると、キリトはドラゴンの遺骸に歩み寄り、重なり合う青い骨の底のほうから何か長い物を掴み上げた。
「うお……めちゃくちゃ重いな……」
ふらふらよろけながら両手で支えたそれを、ユージオとアリスに示す。白革の鞘と、白銀の柄を持つそれは一振りの長剣だった。鞘の口金付近には非常に精緻な青い薔薇の象嵌が施してあり、一目で村にあるどの剣よりも価値の高いものだということが分かる。
「あっ……これ、もしかして……」
アリスが息を飲みながらそう囁くと、キリトはこくりと頷いた。
「ああ。ベルクーリが、寝てるドラゴンの懐から盗み出そうとしたっていう”青薔薇の剣”だろうな。……うぐ、もう限界だ」
顔を歪めたキリトが両手をはなすと、長剣は重く鈍い音を立てて足元に落下した。分厚い氷の床にぴしりと細いひび割れが入ったところを見ると、華奢な見た目からは想像もつかないくらいの重量があるらしい。
「……どうするの、これ?」
「無理無理、俺たちじゃとても持って帰れないよ。あんな木こり斧ですら毎日ひいこら言ってるんだから。それに……他にも、骨の下にいろいろお宝があるみたいだけど……」
「……うん、とても、何か持っていく気にはならないわね……」
揃って青い骨の山を眺め、三人は同時に頷いた。寝ているドラゴンの目をかすめて何か小さなものを攫ってくる、なら他の子供たちに大いに自慢できる冒険話だが、この場所から宝物を持っていけばそれは単なる墓荒しだ。薄汚い野盗の所業である。
ユージオは改めて二人の顔を見て、こくりと頷きかけた。
「予定どおり、氷だけ持っていくことにしよう。それなら、もしドラゴンが生きてたとしても許してくれたよ、きっと」
言って、すぐそばの氷柱に歩み寄ると、その根元から新芽のように無数に伸びる小さな氷の六角柱を靴で蹴飛ばす。ぽきんと心地いい音とともに砕け落ちたいくつかの氷塊を拾い上げ、差し出すと、アリスは空になったバスケットの蓋を開け、それを中に収めた。
三人はしばらく無言で、氷の欠片を作ってはバスケットに詰め込む作業に没頭した。巨大な氷柱の根元がきれいになると、次の柱へ移り、また同じことを繰り返す。三十分も続けるうちに、大きなバスケットは、青く透きとおる宝石にも似た結晶でいっぱいになった。
「よい……しょ、っと」
掛け声とともにバスケットを持ち上げたアリスは、しばし腕のなかの光の群に見入った。
「……きれい。なんだか、持って帰って溶かしちゃうのが勿体無いね」
「それで、俺たちの弁当が長持ちするならいいじゃないか」
即物的なキリトの台詞にしかめ面を作り、アリスはバスケットをぐいっと黒毛の少年に差し出す。
「え、帰りも俺が持つの?」
「当たり前じゃない。これ結構重いんだから」
例によって軽口の応酬を始めそうになる二人を、苦笑しながら押しとどめて、ユージオは言った。
「交替で僕も持つよ。――それより、そろそろ戻らないと、夕方までに村に着けなくなりそうだ。もうこの洞窟に入ってから一時間近く経つんじゃない?」
「ああ……太陽が見えないと、時間がよくわからないな。魔法でなんかないの? 今が何時だかわかるようなの」
「ありませんよーだ!」
アリスはついっと顔をそむけると、広い氷のドームの一方に見える細い出口のほうを眺めた。
次に、振り返ると、真反対の方向にある、もうひとつの出口を見た。
そして、眉をしかめながら言った。
「――ねえ、私たち、どっちから入ってきたんだっけ?」
ユージオとキリトは同時に、自信たっぷりにもと来た方向を指差した。それぞれ、別の出口を。
三人の足跡がついているはずだ、という意見(滑らかな氷面にはくぼみひとつなかった)、湖から水が流れ出しているほうが出口だ、という意見(両方ともに流れ出していた)、ドラゴンの頭骨が見ているほうが出口だ、という意見(キリトが提唱し他の二人に却下された)などなどがおよそ十分のあいだに空しく消えていったあと、ついにアリスが見込みのありそうなアイデアを述べた。
「ほら、ユージオが踏み割った、氷の張った水たまりあるじゃない。出口からちょっと進んでみて、それがあったら当たりよ」
なるほど言われてみればそのとおりである。自分が思いつけなかったことに少しバツの悪い思いをしながら、ユージオは頷いた。
「よし、そうと決まれば、近いほうから行ってみよう」
「俺はあっちだと思うけどなあ……」
まだ未練がましくぶつぶつ言っているキリトの背中を押し、右手に持つ草穂を掲げ直して、目の前の水路へと足を踏み込む。
灯りを乱反射する氷の柱が周囲になくなると、あれほど頼もしかった魔法の光も、はなはだ心許ないものに感じられた。三人の歩調も、ついつい速くなってしまう。
「……まったく、帰り道が分からなくなるなんて、まるで昔話のべリン兄弟だな。俺たちも、道に木の実を撒いておけばよかったな。洞窟には食べる鳥もいないし」
どことなく空元気を感じさせるキリトの軽口に、この呑気な相棒でも不安になったりすることがあるのか、とユージオは逆に少し可笑しくなった。
「何言ってんだ、木の実なんて持ってなかったくせに。今からでも教訓を活かしたいなら、分かれ道ごとにお前の服を置いていこうか?」
「やめてくれ、風邪ひいちゃうよ」
わざとらしくくしゃみの真似をしてみせるキリトの背中を、アリスがどんと叩く。
「ちょっと、バカなこと言ってないで、ちゃんと地面を見てよね。もし見落としたら大変なんだから……って、言うよりも……」
そこで言葉を切り、きゅっと弓形の眉をしかめる。
「ねえ、だいたいこれくらいの距離じゃなかった? まだ割れた氷なんてないわよ……。やっぱり、反対側だったのかしら?」
「いやあ、もうちょっと先だろ? ……あ、ちょっと、静かに」
不意にキリトが唇に指をあてたので、ユージオとアリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。言われるままに、耳を澄ませる。
とうとうとひそやかに流れる地下水のせせらぎに混じって、確かに、何か別の音が聞こえた。高くなったり低くなったりする、物悲しい笛のような響き。
「あっ……風の音?」
アリスがぽつりと呟いた。確かにこの音は、樹の梢が奏でる風鳴りに似ている、とユージオも思った。
「外が近いんだ! こっちで良かったんだよ、急ごう!」
安堵とともにそう叫び、半ば走り出すように前進を再開する。
「ちょっと、急ぐと転ぶわよ」
そう言いながらも、アリスの足取りも軽やかだ。その後ろを、首をひねりながらキリトがついてくる。
「でも……夏の風があんな音出すかなあ? なんか……冬の木枯らしみたいな……」
「谷風ならあれくらい強く吹くよ。とにかく、とっととこんな所出ようよ」
右手の灯りを激しく揺らしながら、ユージオは小走りで進んだ。いつのまにか、早く村に、見慣れた家に戻りたいという気持ちが大きく膨らんできていた。アリスから氷をひとかけら貰って、母さんに見せたら、さぞかし驚くことだろう。今日一日のとんでもない冒険は、しばらく夕食の話題を独占するに違いない。
やっぱり、古い銀貨のひとつくらい持ってきてもよかったかな……と考えたそのとき、はるか前方の闇の中に、ぽつんと小さな光が見えた。
「出口だ!」
大声で叫んでから、まずいなあ、と思った。光が、どことなく赤く染まって見えたからだ。洞窟に入ったのがちょうどお昼、中で過ごしたのはせいぜい一時間と少しだと思っていたが、思いのほか長く地下世界に潜りすぎていたようだった。もうソルスが西に傾きはじめているのだとしたら、かなり急いで帰らないと夕食までに村に着けないかもしれない。
ユージオは一層走る速度を上げた。甲高い風鳴りの音は、もう川音を圧する大きさで洞窟内に反響している。
「ねえ……ちょっと、待って! おかしいわよ、もう夕方なんて……」
すぐ後ろを走るアリスが不安そうな声を上げた。しかし、ユージオは足を止めなかった。冒険はもう充分だ。今は、一刻も早く家に帰りたい――。
右に曲がり、左に曲がり、もういちど右に曲がったところで、ついに三人の視界をさあっと赤い光が覆った。数メル先に出口があった。闇に慣れた目を思わず細めながら、スピードを落とし、さらに数歩進んで、止まる。
洞窟はそこで終わっていた。
しかし、眼前いっぱいに広がっているのは、ユージオの知っている世界ではなかった。
空が一面真っ赤だ。だが、夕陽の色ではない。そもそも、どこにもソルスの姿がない。熟しすぎた鬼すぐりの汁を垂らしたような――あるいは、古い血をぶちまけたような、鈍く沈んだ赤。
対して、地上は黒い。彼方に見える異常に鋭い山脈、手前に広がる丘を覆う奇妙なかたちの岩、ところどころに見える水面までが、消し炭のような黒に染まっている。ただ、あちこちにまとまって生えている枯れ木の肌のみが、磨かれた骨のように白い。
すべてを切り裂くように吹きすさぶ風が、枯れ木の梢を震わせて、物悲しい叫び声を長く響かせた。それに乗って、どこか遠くから別の音が――もしかしたら、何か大きな獣のうなり声のようなものが、三人の足元まで届いてくる。
こんな場所が、こんなすべての神に見放されたような世界が、ユージオ達の暮らす人間の国であるはずがなかった。ならば、これは――三人がいま見ている、この光景は――。
「ダーク……テリトリー……」
わずかに震えるキリトの呟き声を、たちまちのうちに風がさらっていった。
神聖教会の威光が及ばない場所、闇神ベクタを奉ずる魔族の国、絵本や老人たちの昔話の中にしか存在しないと思っていた世界が、今ほんの数歩先にある。そう思っただけで、ユージオは、骨の髄まで竦み上がった。まるで、生まれてはじめて触れる情報が、いままで使われることのなかった心の区画に大量に流れ込むことで、自身の思考を処理することができなくなってしまった――とでも言うように。
禁忌……教会の禁忌がすぐ手の届くところにある。目録の最初のページに載っている、『果ての山脈を越えて闇の国に入ることを禁ずる』という文字列が、頭の中で凶悪なまでに輝きながらスクロールしてゆく。
「だめだ……これ以上、進んじゃ……」
ユージオは、どうにか口を動かして、言葉を絞り出した。両手を広げて、背後のキリトとアリスを下がらせようとする。
その時だった。何か、金属を打ち鳴らすような音が、かすかに上のほうから響いてきて、ユージオはハッと息をのんだ。反射的に、赤い空を振り仰ぐ。
血の色を背景に、白いものと黒いものが絡み合っているのが見えた。豆粒のように小さいが、それは恐ろしく高いところを飛んでいるせいだ。実際の大きさは、人間をはるかに超えるだろうと思われた。二つの何か――何者かは、激しく位置を入れ替えながら、離れ、また近づき、交錯した瞬間に断続的な金属音を響かせる。
「竜騎士だ……」
隣で同じように空を見上げていたキリトが囁いた。
相棒の言うとおり、二つの飛行体は、長い首と尾、三角形の両翼を持った巨大な飛竜のようだった。そしてその背には、剣と盾を構えた騎手の姿が確かに見てとれる。白い竜に乗るのは白銀の鎧、黒い竜には漆黒の鎧の騎士。握る剣すら、白の騎士のものはまばゆい光芒を、黒の騎士のものはよどんだ瘴気を放っている。
二騎の竜騎士が剣を打ち合わせるたびに、雷のような金属音が鳴り響き、大量の火の粉が宙を舞った。
「白いほうが……教会の整合騎士、なのかしら……」
アリスの呟きに、キリトが同じくかすれる声で答えた。
「だろう……な。黒いのは……闇の軍勢の騎士、なのかな……。整合騎士と、互角の強さだな……」
「そんな……」
ユージオは、我知らず、そう漏らしていた。
「整合騎士は、世界最強なんだ。闇の騎士なんかに、負けるはずないよ」
「どうかな。見たとこ、剣技には差がないぞ」
キリトが言った、その直後だった。まるでその声が聞こえでもしたかのように、白い騎士は竜の手綱を引いて距離を取った。黒い竜が追いすがろうと大きく羽ばたく。
だが、両者の距離が縮まる前に、くるりとターンした白い竜が長い首をぐっとたわめ、一瞬力を溜めるような動作をした。その首が前に突き出されると同時に、大きく開かれたあぎとから青白い炎の奔流がほとばしり、黒い竜騎士の全身を包んだ。
ごう、とかすかな音がユージオの耳を打った。黒い竜は苦しそうに身をよじり、空中でぐらりと傾く。その隙を逃さず、整合騎士は突進すると、大きな一振りで敵の剣を弾きとばし、返す刀で黒騎士の胸を深く刺し貫いた。
「あっ……」
アリスが悲鳴にも似た小さな声を上げた。
黒い竜は、翼のほとんどを炎に焼かれ、飛翔力を失ってくるくる回りながら宙を滑った。その背中から振り飛ばされた黒騎士は、流れ出る血飛沫の尾を引きながら、まっすぐにユージオ達が隠れている洞窟めざして落下してくる。
まず、黒い剣が乾いた音を立てて砂利混じりの地面に突き立った。次いで、三人からほんの五メルほど離れた場所に、どさりと黒騎士が墜落した。最後に、かなり遠いところに黒い竜が落ち、長く尾を引く断末魔の声とともに動かなくなった。
凍りついた三人が声もなく見守るなか、黒騎士は苦しそうにもがき、上体を起こそうとした。鈍く輝く金属鎧の胸部に、醜い孔が深く穿たれているのが見えた。騎士の、分厚い面頬に覆われてまったく肌の見えない顔がまっすぐユージオたちのほうに向けられた。
ぶるぶると震える右手が、まるで助けを求めでもするかのように伸ばされる。が、直後、鎧の喉元から大量の鮮血が迸り、騎士はがしゃんと音を立てて地面に沈み込んだ。みるみる赤い液体が広がり、黒い瓦礫の隙間に飲み込まれていく。
「あ……あ……」
ユージオの右側で、アリスが細い声を漏らした。まるで吸い込まれるような足取りで、ふらり、と前に出る。
ユージオは動けなかった。だが、左側でキリトが「だめだっ!!」と低く、鋭く叫び、手を伸ばした。
しかし、アリスの左手を掴もうとしたその指はぎりぎりのところで空を切った。アリスの靴が、奇妙なほどにくっきりとした、洞窟の灰色の岩と、闇の国の黒い地面の境界線を一歩踏み越え、じゃりっと音を鳴らした。
その瞬間、遥か上空を旋回していた白い飛竜が、耳をつんざくような鋭い咆哮を放った。
ユージオとキリトがハッと空を振り仰ぐ。同時に、竜の背に跨る白銀の騎士が、確かにこちらを見下ろした。兜の面頬に十字型に切られた隙間から、凍てつくような眼光が降り注ぎ自分を貫くのを、ユージオははっきりと感じた。
キリトはぎりっと歯を鳴らすと、再び手を伸ばしてアリスの腕を握り、短く叫んだ。
「走れ!!」
そのまま身を翻し、洞窟の奥目指して猛然と駆け出す。
ようやく我に返ったユージオは、いまだ頬を蒼白にしたままのアリスのもう一方の腕を取ると、キリトに並んで懸命に走った。
どのようにしてルーリッドの村まで戻ったのか、ユージオはよく憶えていない。
ドラゴンの骨が眠るドームに戻るとそこを突っ切り、反対側の出口に飛び込んで更に走った。濡れた岩に足を取られ、何度も滑りながらも、来たときの数分の一の時間で長い洞窟を駆け抜け、ようやく見えた白い光の中に飛び出すと、そこはまだ午後の陽光がさんさんと降り注ぐ森のとばぐちだった。
しかしユージオたちを捉えた恐慌は容易に消えなかった。今にも、背後の山脈を飛び越えてあの白い騎士が追ってくるのではと思うと気が気ではなかった。
小鳥たちが平和に鳴き交わす木々の下、小魚の群が行き来する透明な流れのほとりを、三人は言葉も無く懸命に歩いた。ユージオの耳にはずっと、アリスの靴が黒い瓦礫を踏み締める音と、直後の飛竜の咆哮が繰り返し鳴り響いていた。
息を切らしながら北ルーリッド橋までたどり着き、土手を上がって見慣れた古樹の下に出たときの安堵はとても言葉にできなかった。三人は顔を見合わせると、ようやく小さな笑みを交わした。――相当に強張ったものであったことも確かではあるが。
本物の夕焼けのなかを歩いて村の広場まで戻り、そこで三人は別れた。
ぎりぎり間に合った夕食の席で、ユージオはずっと無言だった。兄や姉の誰も、今日のような冒険をしたものはいないだろうという確信があったが、何故か自慢する気にはならなかった。この目で闇の王国を見たこと――整合騎士と闇の黒騎士のすさまじい戦い、そして最後に感じたあのいかづちのごとき眼光を言葉にすることはとてもできないと思えたし、またそれを話したとき、父や祖父がどのような反応を見せるのか知るのが怖かったのだ。
その夜、早々にベッドに入ったユージオは、冒険の最後に見たもののことはすべて忘れようと思った。そうでもしなければ、これまで神聖教会と整合騎士に抱いてきた畏敬と憧れが、違うものにすりかわってしまいそうだった。
ソルスが沈み、昇り――そしてまた、何も変わることのない日常へ。
いつもなら休息日の翌朝に仕事場へ向かうときは少しばかり憂鬱になるのだが、今日だけは、ユージオは何故かほっとする心境だった。冒険はもう当分いいや、しばらくは真面目に木こり稼業に励もう、と思いながらてくてくと村の南へ歩き、麦畑と森の境界でキリトと合流する。
長年付き合った相棒の顔にも、ほんのわずかな安堵感が浮かんでいるのをユージオは気づいた。そして向こうもユージオの顔に同じものを見たらしい。二人でしばし、照れ隠しの笑みを浮かべる。
森の細道に少し入ったところにある小屋から竜骨の斧を取り出し、さらに数分歩いて、ギガスシダーの根元に達した。巨大な幹にほんの少し刻まれた斧目も、今はユージオに、変わらぬこれまでとこれからの日々を思わせた。
「よし。今日も、いい当たりの少なかったほうがシラル水をおごるんだからな」
「最近ずっとそっちが持ってるんじゃないか、キリト?」
もう儀式のごとくなっている軽口を叩きあい、ユージオは斧を構える。最初の一発が、コーン、という最高の音を響かせたので、今日はきっといい調子だ、と思う。
午前中、二人は常にない高確率で、巨樹の幹に会心の一撃を打ち込みつづけた。その理由のなかに、もし斧打ち中に集中力を失うと、脳裏に昨日見たあの光景が甦ってしまいそうだから――というものがあったことは否定できないが。
連続五十発の斧打ちを、それぞれ九回ずつこなしたところで、ユージオの胃がぐう、と鳴った。
汗を拭いながら頭上を振り仰ぐと、ソルスはすでに中天近くにまで登っていた。いつもなら、あと一回ずつ斧を握ったところで、アリスが弁当を持って現れる時刻となる。しかも今日は、ゆっくり食べられるパイに、きんきんに冷えたミルクつきだ。想像するだけで、空っぽの胃がきりきりと痛くなる。
「おっと……」
あまり昼ご飯のことばかり考えていると、せっかくリードしているいい当たり数を減らしてしまう。ユージオは濡れた両手をズボンでごしごし擦り、慎重に斧を握りなおした。
突然、日差しがサッと翳った。
通り雨かな、面倒だなあ、と思いながらユージオは顔を上げた。
四方八方に広がるギガスシダーの枝を透かして見える青い空、そのかなり低いところを、高速で横切る黒い影が見えた。心臓が、ぎゅうっとすくみ上がる。
「ドラゴン……!?」
ユージオは思わず叫んでいた。
「おい……キリト、今のは!!」
「ああ……昨日の……整合騎士だ!!」
相棒の声も、深い恐怖に凍り付いていた。
二人が立ち尽くし、見守るなか、白銀の騎士を背に乗せた飛竜は、樹々の梢を掠めて飛び去り、まっすぐルーリッドの村の方向へと消えていった。
一体なぜ、こんなところに。
鳥や虫たちまでもが怯えて黙り込んだ完全な静寂のなか、ユージオは繰り返しそう考えた。
整合騎士は、教会に仇なすものを成敗する秩序の守護者である。帝国内に組織だった反乱集団など存在しない現在、整合騎士の敵はもはや闇の軍勢以外には居ない。ゆえに、騎士達は常に果ての山脈の外を戦場にしていると聞いていたし、実際にユージオは昨日その光景を己の目で見た。
そう、整合騎士を実際に見たのはあれが初めてだったのだ。生まれてこのかた、村に騎士がやってきたことなど一度もない。なのに、なぜ今――。
「あっ……まさか、アリスを……」
隣でキリトが呟いた。
それを聞いた途端、ユージオの耳のおくに、あの時聞いた短い音が鮮明に甦った。じゃりっ、という、炭の燃え殻を潰すような、古いコインを擦るような、不快な音。アリスの靴が、闇の国の石を踏み締める音。冷たい水でも垂らされたかのように、背筋がぞくりと寒くなる。
「うそだろ……まさか、あんな……あれだけのことで……」
同意を求めるべく、そう言い返しながらキリトの顔を見たが、相棒は常にない厳しい表情でじっと騎士の飛び去った方向を睨んでいた。しかしそれも数瞬のことで、キリトはまっすぐにユージオの目を見、短く言った。
「行こう!」
何のつもりかユージオの手から木こり斧をもぎ取ると、もう振り向くこともなく一直線に走り出す。
「お……おい!」
何か、大変なことが起きる。そんな予感をひしひしと感じながら、ユージオも地面を蹴り、懸命にキリトの後を追った。
勝手知ったる森の小道を、木の根や穴を避けながら全力で駆け抜け、麦畑を貫く街道へ合流する。村の方向を仰ぐが、すでに晴れた空に整合騎士の姿は無かった。
キリトはわずかにスピードを緩め、青く色づく麦穂の間でぽかんと空を見上げている農夫に向かって怒鳴った。
「リダックのおじさん! 竜騎士はどっちへ行った!?」
農夫は、白昼夢から醒めたかのような顔でユージオ達を見ると数回まばたきし、ようやく答えた。
「あ……ああ……どうも、村のほうへ降りたようじゃが……」
「あんがと!!」
礼を言うのももどかしく、二人はふたたび全速力で走り出す。
街道や畑の所々で、村人たちが一人あるいは数人で固まり立ち尽くしていた。恐らく、古老たちの中にさえ実際に整合騎士を見たことがある者はいないのだろう。皆、巨大な飛竜を目の当たりにし、どうしていいのかわからない、とでも言うように混乱した表情で凍り付いている。
村の南にかかる橋を渡り、短い買い物通りを駆け抜け、もうひとつ小さな橋を越えたところで、二人はハッとして立ち止まった。
円形の教会前広場の北半分を、白い飛竜の長い首と尾が弧を描いて占領していた。
大きな翼は二つの塔のように体の両側に畳まれ、教会の建物をほとんど隠してしまっている。無数の鱗と各部に装着された鋼の鎧がソルスの光を跳ね返し、まるで氷の彫像のようだ。そこだけが血のように紅い両の眼のおくで、獣らしさのない縦長の瞳孔が地上を見下ろしている。
そして、竜の前に、さらに眩く輝く白銀の騎士の姿があった。
村の誰よりも巨躯だ。鏡のように磨かれた重鎧を一部の隙もなく全身に着込み、関節部分すら細かく編んだ銀鎖で覆われている。竜の頭部を象った冑は、額の部分から前に一本、両脇から後ろへ二本の長い飾り角が伸び、がっちりと下ろされた巨大な面頬が騎士の顔をすべて隠している。
間違いなく、昨日ユージオたちの隠れ見るなか闇の竜騎士を屠ってのけたあの整合騎士だった。面頬に切られた十字の窓から迸った氷のような眼光が脳裏に甦る。
広場の南端には、数十人の村人が押し集まり、こうべを垂れていた。その一番うしろに、バスケットを下げたアリスの姿を見つけ、ユージオはわずかに肩の力を抜いた。いつものように青いドレスに白いエプロンのアリスは、大人たちの隙間から目を丸くして騎士に見入っている。
キリトとふたり、物陰をつたうようにこっそり移動し、どうにかアリスの後ろまでたどり着くとそっと声をかけた。
「アリス……」
少女は金髪を揺らしてくるりと振り向くと、何か言おうと唇を開く。そこへキリトが自分の口に指をあて、小さくしっ!と囁く。
「アリス、静かに。今のうちに、ここから離れたほうがいい」
「え……なんで?」
同じくひそひそ声で答えるアリスは、自分の身に脅威が迫っているとはまるで考えていないようだった。もしかしたら、昨日の、あの黒騎士が目の前に落ちて息絶えた瞬間のことをあまり覚えていないのかもしれない、とユージオは考える。
「いや……もしかしたら、あの整合騎士は……」
そのあとをどう説明したものか、ユージオが一瞬迷った。そのときだった。
村人たちのあいだに、かすかなざわめきが走ったので顔を上げると、広場の東入り口――村役場の方向から、一人の背の高い男が歩いてくるところだった。
「あ……お父様」
アリスが呟く。確かに、男はルーリッドの現村長、ガスフト・ツーベルクだった。引き締まった体を簡素な革の胴衣に包み、黒々とした髪と口もとの髭はきれいに切り揃えられている。炯炯とした鋼のような眼光は、前村長から職を引き継いでたったの四年ですでに全村民の尊敬を集める名士に相応しいものだ。
背後に助役を従えたガスフトは、臆することなく整合騎士の前まで歩み寄ると、教会の作法に従って体の前で両手を組み、一礼した。
「ルーリッドの村長を務めますツーベルクと申します」
頭を上げると、びんと張りのある声で名乗る。
ガスフトよりも拳ふたつぶんほども背の高い整合騎士は、かすかに鎧を鳴らしながらゆっくりした動作で頷くと、そこではじめて声を放った。
「ノーランガルス北方第七辺境区を統括する整合管理騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである」
村長ほどには深みも、響きもある声ではなかった。まるで教会のオルガンの共鳴管に口をくっつけて喋ったような、いんいんとした金属質の尾を引く、どちらかと言えば不快な声だった。しかしその言葉は、耳ではなく額を突き抜けて頭のなかで響いたかのごとく体の芯まで届き、ユージオは顔を歪めた。見れば、ガスフトも気圧されたかのごとくわずかに身を仰け反らせている。
「……して、騎士殿がこの小村にいかなる御用でしょう」
流石の胆力を見せ、村長は再度堂々たる言葉を発した。
が、それも、整合騎士が次の声を響かせるまでのことだった。
「ガスフト・ツーベルクが三子、アリス・ツーベルクを、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する」
村長の逞しい上体が一度、激しく震えた。ユージオの位置からわずかに見える横顔がはっきりと歪んだ。
長く続いた沈黙のあと、ガスフトの、さすがに艶を失った声が流れた。
「……騎士様、娘がいったいどのような罪を犯したというのでしょう」
「禁忌目録第一条第四項、ダークテリトリーへの侵入である」
そこではじめて、今まで声も無くやりとりに聞き入っていた村人の間にかすかなざわめきが走った。何人もの大人たちが、口々に教会の聖句を呟き、素早く聖印を切る。
ユージオとキリトは、反射的にアリスの体を騎士の視線から隠そうとした。が、それ以上動くことはできなかった。
ユージオの頭のなかでは、どうしよう、どうしよう、というその言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。なんとかしなくては、という恐慌が突き上げてくるものの、しかし何をしていいのかはわからないのだった。
村長は、整合騎士の前で深く頭を垂れたまま、しばらく動かなかった。
大丈夫、あの人なら何とかしてくれる、とユージオは思った。ガスフト村長と話したことはそれほど多くないが、静かで厳しい物腰、筋の通った知性的な考え方は、じゅうぶんに尊敬すべきものだと感じていた。
しかし――。
「……それでは、いま娘を呼びにやりますので、本人の口から事情を聞きたいと思います」
掠れた声で、村長はそう言った。
だめだ、アリスを騎士の前に出したらいけない。ユージオがそう思ったのも束の間、整合騎士はがしゃりと鎧を鳴らして右手を上げた。その指先が、まっすぐに自分のほうを指しているのを見て、ユージオの心臓は縮み上がった。
「その必要はない。アリス・ツーベルクはそこにいる。お前――と、お前」
指を動かし、人垣の前のほうにいる男をふたり指す。
「娘をここに連れてこい」
ユージオの目の前で、さっと人の列が割れた。整合騎士と自分のあいだを遮るものが何もなくなり、ユージオはふたたび昨日の眼光を思い出して縮み上がりそうになる。今すぐ地面にうずくまり、騎士の視線を避けたい、そんな思いが湧き起こってくる。
空いた道を、顔見知りの村人ふたりがゆっくりと歩み寄ってきた。その肌は血の気を失い、また視線は奇妙なほどにうつろだ。
男達は、アリスの前に立ち塞がるキリトとユージオを有無を言わさず押しやると、両側からアリスの腕を掴んだ。
「あっ……」
アリスは小さく声を上げたが、気丈にもグッと唇を噛み締めた。いつものばら色が薄れた頬に、それでもかすかな笑みを浮かべ、大丈夫、というようにユージオたちの顔を見てこくりと頷く。
「アリス……」
キリトが言いかけた、その瞬間にぐいっと両腕を引かれ、アリスの右手からバスケットが落ちた。蓋が開き、中身が少し地面にこぼれる。
村人ふたりに引っ張り上げられるように、アリスは整合騎士の前へと運ばれていく。
ユージオは、落ちたバスケットをじっと見詰めた。
パイや固焼きパンは、きっちりと布に包まれ、その隙間をぎっしりと細かい氷が埋めている。一部は外に転がりだし、陽光を反射してきらきらと光っている。息を詰めて凝視するあいだにも、灼けた土の上で氷はたちまちのうちに溶け、ちっぽけな黒い染みへと変わっていく。
キリトが鋭く息を吸い込んだ。
きっと顔を上げ、引きずられていくアリスの後を追う。ユージオも歯を食いしばり、動こうとしない足を鞭打ってそれに続いた。
男二人は、村長の隣でアリスの腕を放すと、数歩下がり、そこに膝をついた。両手で聖印を組みながら深く頭を下げ、恭順の意を示す。
アリスは、強張った顔を父親に向けた。ガスフトは一瞬、沈痛な面持ちで娘を見下ろしたが、すぐに顔を背け、俯く。
整合騎士が手を伸ばし、飛竜の鞍の後ろから奇妙な道具を取り出した。太い鎖に、皮製のベルトが三本平行に取り付けられ、鎖の上端には金属の輪が備えられている。
騎士はじゃらりと音を立てながらその道具をガスフトに放った。
「村の長よ、咎人を固く縛めよ」
「…………」
村長が、手にした拘束具に視線を落とし、言葉を失ったその時、ようやくキリトとユージオは騎士の前に到達した。そこではじめて、騎士の兜が二人の方向を捉える。
輝く面頬に切られた十字の窓の奥は、深い闇に包まれていて何も見えなかったが、ユージオはそこから放射される視線の圧力を痛いほど感じた。反射的に俯き、すぐ左に立つアリスの方に少し顔を傾けて、何か声をかけようとしたが、やはり喉が焼きついたように言葉が出てこない。
キリトも同じように俯き、短い呼吸を繰り返していたが、やがてついに顔を上げると、震えながらも大きな声で叫んだ。
「騎士様!!」
もう一度大きく息を吸い、続ける。
「あ……アリスは、ダークテリトリーになんか入っていません! 石を、ほんの一つ踏んだだけなんだ! それだけなんです!」
騎士の答えは簡潔だった。
「それ以上どのような行為が必要であろうか」
連れて行け、というように、控えていた男二人に向かって手を振る。立ち上がった村人は、キリトとユージオの襟首を掴むと、後ろに向かって引きずりはじめた。それに抗いながら、キリトが尚も叫ぶ。
「じゃ……じゃあ、俺たちも同罪だ!! 俺たちも同じ場所にいた! 連れていくなら俺たちも連れていけ!!」
だが、もう整合騎士は二人には見向きもしない。
そうだ……アリスが禁忌を犯したというなら、僕だって同じ罰を受けるべきた。ユージオもそう思った。心の底からそう思った。
しかしなぜか声が出ない。キリトと同じように叫ぼうとするのに、口の動かし方を忘れてしまったかのように、掠れた息しか吐き出すことができない。
アリスはちらりとこちらを振り返ると、大丈夫だよ、というふうに小さく微笑み、頷いた。
その細い体に、表情を失った父親が、後ろから禍々しい拘束具を回した。三本のベルトを、肩、腹、腰にそれぞれ固く締め付ける。アリスの顔がほんの少し歪む。最後に、太い鎖の下端についた手錠を手首に嵌め、ガスフトは娘を整合騎士に差し出した。騎士の握った鎖が、じゃらりと鳴った。
ユージオとキリトは広場の中央まで引き戻され、そこで跪かされた。
キリトはよろけた振りをしてユージオの耳に口を寄せ、素早く囁いた。
「ユージオ……いいか、俺がこの斧で整合騎士に打ちかかる。数秒間は持ちこたえてみせるから、そのすきにアリスを連れ出して逃げるんだ。麦畑に飛び込んで、南の森を目指せばそう簡単には見つからない」
ユージオは、まだキリトが握ったままだった古ぼけた木こり斧をちらりと見てから、どうにか声を絞り出した。
「……キ……キリト……でも」
昨日、お前だって整合騎士のすさまじい剣技を見たじゃないか。そんなことをすれば、たちまちのうちに殺される……あの黒騎士のように。
声にできないユージオの思考を読み取ったかのごとく、キリトは続けて言った。
「大丈夫だ、あの騎士はアリスをこの場で処刑しなかった。多分、審問とやらをやらないと殺したりできないんだ。俺はどこかで隙を見て逃げ出す。それに……」
キリトの燃えるような視線の先では、整合騎士が拘束具の締まり具合を確認していた。ベルトを引っ張られるたびに、アリスの顔が苦痛にゆがむ。
「……それに、失敗してもそれはそれでいい。アリスと一緒に俺たちも連行されれば、助けるチャンスがきっとくる。でもここで、飛竜で連れていかれたらもう望みはない」
「それ……は……」
確かにその通りだ。
しかし――その計画とも言えないような無謀な作戦は、つまるところ――“教会への反逆”ではないのだろうか? 禁忌目録第一条第一項に規定された、最大の背教行為。
「ユージオ……何を迷うことがあるんだ! 禁忌がなんだ!? アリスの命より大切なことなのか!?」
キリトの、抑えられてはいるが切迫した声が、びしりと耳朶を打つ。
そうだ。その通りだ。
ユージオは心のなかで、自分に向かって叫ぶ。
キリトの言うとおりだ。僕たち三人は、生まれた年も一緒、そして死ぬ年も一緒と決めていたはずだ。常に助け合い、一人がほかの二人のために生きようと、そう誓い合ったはずだ。ならば、迷うことなんかない。神聖教会と、アリスと、どちらが大事か、だって? 答えなんか決まっている。決まっているはずだ。それは――それは――。
「ユージオ……どうしたんだ、ユージオ!!」
キリトが悲鳴にも似た声をあげる。
アリスがじっとこちらを見ている。気遣わしそうな顔で、そっと首を横に振る。
「それは……それ……は……」
自分のものではないような、しわがれた声が喉から漏れる。
だが、その先を言葉にすることができない。胸のなかですら、続く言葉が言えない。まるで、誰かが知らないうちに、心の奥に堅固なドアを作ってしまった、とでも言うかのように。
キリトの叫びに気づいた村長が、のろのろと腕を動かし、二人の背後に立つ男たちに向かって言った。
「その子供らを広場の外に連れていけ」
途端、ふたたび襟首を掴まれ、引きずり起こされる。
「クソッ……放せ!! ――村長!! おじさん!! いいのか!? アリスを連れていかせていいのか!!?」
キリトは狂ったようにもがき、男の手を振り払うと、斧を構えて突進しようとした。
が、いつのまにか近づいてきていた、更に数人の男たちが背後から飛び掛ると、キリトを地面に引き倒した。斧が手から離れ、石畳に擦れて火花を散らした。
「ユージオ!! 頼む!! 行ってくれ!!」
片頬を地面に押し付けられ、表情をゆがめながら、キリトが叫んだ。
「あ……うあ……」
ユージオの全身ががたがたと震える。
行け。行くんだ。斧を拾い、整合騎士に打ちかかるんだ。
心の片隅から、かすかな声がそう叫ぶ。だが、それを圧倒的な力で打ち消すもうひとつの声が、割れ鐘のようにがんがん鳴り響く。
神聖教会は絶対である。禁忌目録は絶対である。逆らうことは許されない。何人にも許されることではない。
「ユージオ――!! いいのかそれで!!」
整合騎士は、最早騒ぎには目も呉れずに、握った太鎖の先端の金属環を、飛竜の脚を覆う鎧から突き出した金具にがちりと留めた。飛竜が首を低く下げ、その背中の鞍に騎士は軽々とまたがる。全身の鎧が一際大きくがしゃりと鳴る。
「ユージオ――――!!」
血を吐くようなキリトの絶叫。
白い飛竜が体を起こし、畳んでいた翼をいっぱいに開く。二度、三度、大きく打ち鳴らす。
竜の脚に縛り付けられたアリスが、まっすぐにユージオを見た。微笑んでいた。その青い瞳が、さようなら、と言っていた。翼の巻き起こした風がゆわえた金髪を揺らし、騎士の鎧にも負けないほどにきらりと輝かせた。
しかしユージオは動けない。声も出せない。
両の脚から地面に深く根が張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。
(第一章 終)
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第二章
ほんの少しミルクを入れた水出しのアイスコーヒーを一口含み、芳醇な香りを楽しみながらゆっくり嚥下すると、朝田詩乃はほうっと長い息を漏らした。
視線を古めかしいガラス窓に向けると、忙しなく行き来する色とりどりの傘の群が水滴の向こうにぼんやりと透けて見えた。雨は嫌いだが、この路地裏の隠れ家のような喫茶店の奥まったテーブルに沈み込み、灰色に濡れた街を眺めるのは決して悪い気分ではない。テクノロジーの匂いを一切排した店内の調度や、奥のキッチンから漂ってくる甘くどこか懐かしい匂いの効果で、まるで自分がリアルワールドとバーチャルワールドの境界に落ち込んでしまったかのごとき錯覚をおぼえる。つい一時間前まで聴いていた教師の講義が、どこか異世界の出来事のようだ。
「よく降るね」
カウンターの向こうからぽつりと投げられたバリトンが、自分に向けたものだと気付くのに少し時間がかかった。店内には詩乃のほかに客は居ないのだから、勿論そうに決まっている。
顔を動かし、丁寧にグラスを磨いているカフェオレ色の肌の巨漢をちらりと見てから、詩乃は短く答えた。
「梅雨ですしね」
「英語で言うとプラム・レインだな」
強面のマスターが鹿爪らしい顔でのたまう台詞に、思わず小さく苦笑する。
「……冗談を言うときはもっとそれらしい顔しないとウケませんよ、エギルさん」
「む……」
エギルは、”それらしい顔”を模索しているつもりなのか眉間や口もとをあれこれ動かしたが、どれも五歳までの子供なら即泣きするような凶相ばかりで、詩乃は思わず小さく吹き出した。あわててグラスに口をつけ、笑いを一緒に飲み下す。
詩乃の反応をどう解釈したのか、エギルが妙に満足そうに一際ヒールレスラーめいた面相を作ったまさにその瞬間、入り口のドアがかららんと鳴った。店内に一歩足を踏み入れた新たな客は、マスターの顔を見るや唖然とし、次いで溜息をつきながら首を振った。
「……あのなエギル、もしその顔で毎回客を出迎えてるなら、近いうち潰れるぞこの店」
「ち、ちがう。今のはジョーク用のとっておきだ」
「……いや、それも間違ってる」
つれなく駄目出しをすると、桐ヶ谷和人は水滴を切った傘を傍らのウイスキー樽に突っ込み、詩乃を見て軽く右手を挙げた。
「っす」
「遅い」
極短の挨拶に、詩乃も一言で答える。
「わり、電車乗るの久しぶりでさ」
言い訳しながら和人は詩乃の向かいにどっすと座ると、ネクタイを引っ張って緩めた。
「今日はバイクじゃないの」
「雨ん中乗る元気が無かった……エギル、俺、モカフィズ」
胡散臭い飲み物をオーダーする和人の、くつろげた襟元から覗く首筋はたしかに骨ばって、見れば顔色もどことなく生彩を欠いている。
「……あんたまた痩せた? 食いなよもっと」
顔をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱたぱた手を振った。
「いやいや、こないだまでは、もう標準体重に戻ってたんだよ。でも、この金土日で一気に落ちた……」
「お山で修行でもしてたの」
「いいや、ひたすら寝てた」
「それでなんで痩せんのよ」
「飲まず喰わずだったから」
「……はぁ? 悟りでも開こうっての?」
まぁ、おいおい説明するよ、と言いながら和人がずるずる椅子に沈み込んだその時、エギルがトレイに乗せたグラスを持ってきた。テーブルに置かれたそれは、濃厚なコーヒーの香りがするにもかかわらず、コーラのように底からぷちぷちと泡が立っている。
「なあにこれ、炭酸コーヒー?」
和人が指先で滑らせてきたグラスを受け止め、詩乃はちびりと舐めた。途端、思わずむせそうになる。
「おっ、お酒じゃないの!」
「気付け気付け。エギル、この匂い何だ?」
にやりと笑ってから、和人は鼻をうごめかせつつ傍らの店主を見上げた。
「ボストン風ベイクド・ビーンズ」
「へー、奥さんの故郷の味か。んじゃそれもひとつ」
エギルが頷いてどすどす去っていくと、和人は詩乃からグラスを奪い返し、放り込むように一口飲んだ。
「……彼は、どんな様子なんだ?」
ぽつりと訊かれたその言葉が、何を指しているのかはすぐにわかった。が、詩乃は即答せず、和人の手のグラスをもう一度奪取すると今度は大きく飲み下した。香ばしいコーヒーの風味が炭酸の泡とともに鼻の奥で冷たく弾け、直後にじんわりと熱く甘いアルコールが喉を灼いていく。その刺激たっぷりの飲み物が、浮かんでくる断片的な思考を攪拌し、短い言葉へと繋ぎなおす。
「うん……だいぶ、落ち着いてきたみたい」
半年前に詩乃を襲った”死銃”事件、その三人の実行犯のひとりであり、当時の詩乃のただ一人の友人でもあった新川恭二は、少年事件としては異例の長さの審判を経て、先月医療少年院に収監された。審判中は頑なに沈黙を貫きとおし、精神鑑定を行った専門家相手にもほとんど口を開こうとしなかったそうだが、事件から六ヶ月が経過したある日から、ぽつりぽつりとカウンセラーの問いかけに応ずるようになってきているとのことだった。詩乃にはその理由がおぼろげに察せられた。六ヶ月――つまり百八十日というのは、ガンゲイル・オンラインの料金未払いアカウント保持期限である。それだけの時間が過ぎ去り、新川恭二の分身、いやある意味では本体とも言えたキャラクター”シュピーゲル”がGGOサーバー上から消滅したことによって、ようやく恭二は現実と向き合う準備を始めるに至ったのだ。
「もう少ししたら、また面会に行ってみるつもり。今度は、会ってくれそうな気がするんだ」
「そっか」
詩乃の言葉に短いいらえを返すと、和人は視線を降りしきる雨に向けた。数秒の沈黙を、詩乃は不満そうな顔を作りつつ破った。
「――ねえ、普通はそこで、あたしは大丈夫なのか聞くもんなんじゃないの?」
「え、あ、そ、そうか。――えーと、シノンは、どう?」
珍しく和人を慌てさせることに成功し、密かな満足感を抱きつつにっと笑ってみせる。
「あんたが貸してくれた”ダイ・ハード”のBDVD、こないだついに全部観れたわ。いやー、かっこいいわブルース。あたしもハンドガンいっちょであんなふうにバリバリ正面戦闘してみたいよー」
「そ……そう。そりゃよかった……けど、その感想は女子高生的にどうなんだ……?」
引き攣った笑いを見せたあと、和人はふっと素直な微笑みを浮かべ、頷いた。
「じゃあ……死銃事件は、これで何もかも終わった……のかな」
「うん……そう、だね」
詩乃もゆっくり頷こう――として、ふと口をつぐんだ。何か、記憶のすみに引っかかるものがあるような気がしたが、それをつまみ出す前に、キッチンから現われたエギルが湯気の立つ皿をふたつテーブルに置いた。
つややかな飴色に煮込まれた豆と、その中央にごろりと転がる柔らかそうな角切りベーコンという光景は、お昼の弁当などとうの昔に消化しきった胃に暴力的なまでの空腹感を発生させ、詩乃は吸い寄せられるようにスプーンを握った。そこでようやく我に返り、慌てて手を戻しつつ言う。
「あ、わ、私頼んでませんから」
すると巨漢マスターはいかつい顔にうっすらと悪戯っぽい表情を浮かべた。
「いいや、奢りだよ。キリトの」
対面の和人が唖然としている間に、どすどすとカウンターの向こうへ戻っていく。詩乃はくくっと喉の奥で笑ってから、再度スプーンを手にとり、和人に向かって軽く振った。
「どーも、ごちそーさま」
「……まあ、いいけどさ。バイト料入って、今ちょっとフトコロあったかいから」
「へー、バイトなんかしてたの? どんな?」
「ほら、三日間飲まず喰わずって奴さ。まあ、その話は本題を片付けてからにしようぜ。とりあえず熱いうちに食べよう」
和人は卓上の小瓶からマスタードをたっぷり掬うと皿の縁に落とし、詩乃にまわした。同じようにしてから、大ぶりなスプーン山盛りに豆を取り、口に運ぶ。
芯までふっくらと煮えた豆は、柔らかな甘味をたっぷり吸い込んでいて、洋風ながら素朴な懐かしさを感じさせる味だった。分厚いベーコンも余計な脂が抜けて、舌の上でほろほろと崩れていく。
「おいしい」
思わず呟いてから、向かいでがつがつ食べている和人に尋ねる。
「ボストン風、って言った? 味付けは何なのかしら」
「ん……えーとたしか、何とか言う粗製の糖蜜を使うんだよ。何だっけ、エギル?」
ふたたびグラス磨きに戻った店主は、顔を上げずに答えた。
「モラセス」
「だ、そうだ」
「へええ……。アメリカの料理なんて、ハンバーガーとフライドチキンだけかと思ってたわ」
後半部分をひそひそ声にしてそう言うと、和人は小さく苦笑した。
「そりゃ偏見だ。あっちのVRMMOプレイヤーも、付き合ってみりゃいい奴ばっかじゃん」
「うん、それは確かに。こないだ、国際サーバーでシアトルの女の子とスナイピングについて三時間も話しちゃった。あー、でも……アイツとだけは分かり合えそうにないな……」
「アイツ?」
すでに皿を半分以上空にした和人が、もぐもぐ口を動かしながら繰り返した。
「それが今日の本題なんだけどね。先週、GGOで第四回バレット・オブ・バレッツの個人戦決勝があったのは知ってるでしょ」
「うん、中継見てたしね。そういやまだおめでとうを言ってなかった。……まあ、シノンにとっては悔しい結果だろうけど。ともかく、準優勝おめでとう」
「ありがと。中継見てたんなら話はやいわ。優勝した、サトライザって名前の……アイツ、アメリカから接続してるのよ」
眉をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱちくりとまばたきをした。
「でも、BoBをやった日本サーバーは、JPドメイン以外接続不可だろう? プロクシ経由も弾かれるって聞いたけどなあ」
「うん、そのはずなんだけど、どうにかしてブロック回避してるんでしょうね。大会直前の待機ルームでいきなり、俺はアメリカから参加してる、日本人に銃の使い方を教えてやる、授業料はお前らの命だ、って英語で宣言してさ」
「うわぁ……。そういう奴が強かったためしが無いけどなぁ……」
苦笑いしながら肩をすくめる和人に向かって、詩乃は手にしたスプーンをぶんぶん振った。
「他の決勝出場者二十九人もそう思ったわよ、あたしも含めてね。本場野郎に日本人のタクティカル・コンバットを見せ付けてやる、って意気込みつつステージに突入して、でも蓋を開けてみれば……」
「そいつに優勝をさらわれた訳か」
「あっさりと、ね。しかもふざけたことに、そんな事言いながらそいつ銃を持たずに開始したのよ」
「へえ」
「決勝は市街地フィールドだったんだけどさ。そいつ、武器はコンバットナイフ一本で、あとは重量制限いっぱいグレネードとマインを抱えて、トラップとストーキングだけで殺す殺す。まったく、アメリカ人ならウィリス様みたく正面からガンガン来いってのよ」
詩乃は大口を開けて最後の一匙を放り込み、腹立ちといっしょにもぐもぐ咀嚼した。とっくに食べ終わった和人は、モカフィズを啜りながら、ふぅん、と呟いた。
「ナイフ使いか。屋内だと結構いけるのかな……」
「後から他の参加者に訊いてみたら、アイツをまともにサイトに入れられたのはあたしだけなんだわ。みんな、トラップで吹っ飛ばされるか、後ろから……」
喉の前で親指をぐいっと横に動かす。
「残り人数ががりがり減ってくから、あたしもこれは動いたらやられると思って、無移動ペナルティ食らう覚悟で、ここしかない! って狙撃ポイントにこもってひたすらアイツが建物から出るの待ってさ……。ついに、道路を渡ろうとするところをスコープに捕まえて、勝った、と思いながら撃とうとしたらあんにゃろうこっちに向かって手を振るのよ。その手に持ってたのが、遠隔起爆スイッチ」
「へええーっ」
「あっ、と思ったときには、あたしの潜んでた部屋がドカーン、よ。読まれてたのよ、全部。……正直なとこ、こりゃあ歯が立たないと思ったわ。日本サーバーのGGOプレイヤーって、ほとんど全員がアサルトライフルで派手に撃ちまくる派だから、あたしも含めてああいう……サイレントキル? の技に長けてるタイプって初めて見たのよね……。みんなは、アイツ絶対グリーンベレーだぜ、なんて言ってたけどさ」
ふふ、と笑ってから和人の顔を見ると、同い年の少年はグラスの縁を指で擦りながら何か考え込むような目つきをしていた。やがて視線を上げ、冗談じゃないかもよ、などととんでもない事を言う。
「ええ? アイツが本物の特殊部隊だっての?」
「あくまで噂なんだけどさ。もう、一部の国の軍隊じゃ、訓練にNERDLESマシンを取り入れてるのは知ってるだろ? GGOを運営してるザスカーにも、米軍からGGOエンジンをリアルチューンしたバージョンの発注が来たとか……。グリーンベレーは行き過ぎとしても、VRワールドでサイレントキルの訓練を積んだ軍人が、遊び心で日本のゲーマーをからかいに来た……なんてことは有り得るかもしれないぜ」
「まさか……」
詩乃は一笑に付そうとしたが、ふと、スコープの中央に捉えたサトライザの顔を思い出し、わずかに胸のうちにざわつくものを感じた。詩乃に向かって手を振りながら、男の眼はまるで笑っていなかった。あのジェスチャーは何を意図したものだったのだろうか。
「まあ、でも、プロフェッショナルって感じじゃないよな。手を振るなんてな」
和人の呟きに、詩乃は瞬きして顔を上げた。
「え?」
「だってさ、そいつはシノンを仕留めるのに、姿を現す必要なかったわけだろ。どっかに隠れたまま爆弾を起爆するほうが、安全で確実だ。なのにわざわざ出てきて、シノンに向かってジェスチャーをするってことは、つまり、何らかのメッセージを伝える意図があった、ってことだ。たぶん……”お前は今から俺に殺される”」
「ちょっと、嫌なこと言わないでよ。……たしかに、あたし、あの一瞬でそれっぽいこと考えたけどさ。ああ、しまった、こいつの罠にやられる、って」
「今から殺す相手の思考を吟味する余裕のある奴なんて、ベテランのPvP専門プレイヤーにもなかなか居ないぜ。俺のささやかな経験からすると……そういうのは大抵、軍人というより快楽殺人者っぽい傾向のある奴だ。あるいは……その両方ってこともあるかもしれんけど……」
和人の言う”経験”が、かつて長い時間を過ごした、仮想であり現実である場所のものだということは詩乃にもわかった。俯く和人の表情にかすかな翳が落ちるのを見て、詩乃は咄嗟に大きい声を出した。
「ともかく! 一度の負けにくよくよしててもしょうがないわ。問題は、あんにゃろうが来週のBoBチーム戦にもエントリーしてるってことよ」
「ええ? そりゃ意外だな」
詩乃の言葉に、和人は目を丸くした。
「一匹狼っぽい印象なのになあ。チームメンバーもアメリカ人なの?」
「そうっぽいよー、どうも。これはもう、何がなんでもリベンジするしかない、ってことになってさ。ダインとか闇風とかのトップ連中は、サトライザチームを潰すまでは共同戦線張るらしいよ。あたしはチーム戦にはエントリーする気無かったんだけど、このままやられっぱなしなのも癪だからね。そこでこうして、あんたを呼び出してる訳」
「い、いやしかし、俺のガンさばきがさっぱりなのはシノンも知ってるだろう」
「たぶん、オーソドックスな小隊組んでも遭遇戦じゃ歯が立たないと思うのよ。そこで目には目を、剣には剣を、よ。あんたが光剣振り回してあいつの足を止めてくれれば、あたしが――」
ずどーん、といように右手の人差し指を弾いてみせる。和人は尚も首をひねりつつ、ぼそぼそ言った。
「でもさ、相手は複数なんだろ? いくらなんでも俺一人で何人も相手できないよ」
「だからあんたに、助っ人のアテが無いかメールで聞いたんじゃない。”GGOにコンバートできるハイレベルキャラ持ちで、剣の接近戦のセンスがある人”。今日、ここに来てくれるんでしょ?」
「ははぁ、なるほどね。一応声はかけたけど……そろそろ来るんじゃないかな」
和人はポケットから携帯端末を取り出すと、素早く操作し、テーブルに置いた。ELパネルには、この喫茶店を中心とした御徒町界隈の地図が表示されている。よく見ると、駅から店に至るルート上に、点滅する青い輝点があった。
「これは?」
「待ち人来る、さ。あと二百メートルってとこかな」
輝点はまっすぐ店を目指して移動している。呆気にとられつつ見守るうち、交差点を渡り、路地に入り、地図中心の十字線に接触した。
かららん、とドアベルが鳴り、詩乃は顔を上げた。傘を畳みながら入ってきた人物は、栗色の長い髪を一払いして水滴を落とすと、まっすぐ詩乃を見て、まるでそこだけが一足先に梅雨明けしてしまったかのような笑顔を浮かべた。
「やっほー、詩乃のん!」
詩乃も思わず口もとをほころばせながら立ち上がり、手を伸ばした。
「明日奈! 久しぶりー!」
磨きぬかれた床板を軽快に鳴らして歩み寄ってきた結城明日奈と、互いの指先を絡めて、再会を喜び合う。ようやく向かい合った椅子に腰を下ろすと、呆気にとられた表情で和人が呟いた。
「君ら……いつのまにそんな仲良しになったの?」
詩乃は明日奈と目配せを交わして、また笑った。
「あら、あたし先月、明日奈の家にお泊りもしたのよ」
「な、なんだって。俺だってアスナんちには行ったことがないというのに」
「なによ、心の準備が、とか言って逃げてるのはキリト君じゃないの」
じとっと明日奈に横目で睨まれ、和人はばつが悪そうにカクテルを啜った。
明日奈はくすりと微笑むと、お冷やを持ってきたエギルを見上げ、ぺこりと会釈した。
「ご無沙汰してます、エギルさん」
「いらっしゃい。――なんて言うと、思い出すね、ふたりがうちの二階に下宿してた頃を」
「あら、じゃあまたアルゲードの新しいお店に居候しちゃおうかな。……ええと、今日は……何にしよっかな……」
容貌魁偉な店主とは旧知の仲であるらしい明日奈が、コルク装のメニューを眺めているあいだ、詩乃はテーブルに置きっぱなしになっていた和人の携帯端末を取り上げてもういちど画面を見詰めた。青いブリップは喫茶店の位置に重なって静止している。
「……っと、じゃあ、ジンジャーエール。甘くないほう」
オーダーを受けたエギルが去っていくのを待って、詩乃は、それにしても、と口を開いた。
「あなた達、互いのGPS座標をモニタしてるの? 仲が良くてよろしゅうございますねえ」
そこはかとない揶揄を込めて言うと、和人は目を丸くし、イヤイヤイヤ、と手を振った。
「俺の端末でモニタしてるのはアスナの端末の位置だけで、それもアスナの操作で不可視にできるけど、俺のほうはそんな生易しいもんじゃないぜ。アスナ、見せてやってよ」
「うん」
明日奈はにこりとしながらスカートのポケットから携帯端末を取り出し、待ち受け画面のまま詩乃に差し出した。受け取り、パネルを覗き込むと、そこにはいかにも女の子らしい可愛らしいアニメーション壁紙が表示されていた。
画面中央には、赤いリボンがかかったピンク色の大きなハートマークが描かれ、およそ一秒ごとに規則正しく脈動している。上部には、見慣れた日付け、時間とアンテナ状況のインジケータが表示されているが、ハートの下部には何を示しているのか咄嗟にはわからない数字がふたつ並んでいた。
左に、大きめのサイズで”63”、右にすこし小さく”36.2”。詩乃が首を捻りながら眺めるうち、左の数字が”64”に上昇した。
「いったい……」
なんなのこれ、と訊こうとしたところで、和人がどこか気恥ずかしそうに「あんまりじっと見るなよ」と言った。それでようやく、詩乃はこの待ち受け画面が表示しているものがなんなのかを悟った。
「ええっ……これ、まさかキリトの脈拍と体温なの?」
「あったりー。すごい、詩乃のんカンがいいね」
明日奈がぱちぱちと手を叩く。詩乃は、端末の画面と和人の顔に何度か視線を往復させたあと、少々呆然としながら呟いた。
「で、でも……どうやって」
「俺のここんとこの皮下に……」
和人は右手の親指で、自分のシャツの左胸を突付いた。次いで、その手を詩乃に向けて伸ばし、二本の指のあいだに五ミリほどの隙間を作る。
「これくらいのセンサー・ユニットがインプラントされてるのさ。そいつがハートレートと体温をモニタして、無線で俺の端末にデータを送る。んで、端末がネットを介してアスナの端末にGPS座標と合わせてリアルタイムで情報を渡すっつう仕組みだ」
「ええ? 生体チップぅ?」
今度こそ詩乃は大いに驚き呆れ、吐息混じりに言った。
「なんでそんな大層な……。あっ、まさか浮気防止システムなのかー?」
「ち、ちがうちがう!」
「ちがうよう!」
和人と明日奈は同時にぶんぶん首を振った。
「いやあ、俺が今のバイト始めるときに、先方から勧められてさあ。毎回電極をべたべた貼るのは大変だろうから、って。で、その話をアスナにしたら、強硬にデータの提供を要請されましてね。やむなく自分でアプリ組んで、アスナの端末にインストールしたというわけ」
「だってさあー。キリト君の体のデータを会社のヒトに独占されるなんてヤじゃない。わたしはそもそも、妙なモノを体に埋め込むなんて反対だったのよ」
「あれ、こないだ嬉しそうに、ヒマがあるとついモニター眺めちゃうのよねー、なんて言ってたのは誰だよ」
和人の言葉に、明日奈はかすかに頬を赤らめると俯いた。
「やー、なんか……なごむのよねえそれ見てると。ああ、キリト君の心臓が動いてるーって思うと、こう……ちょいトリップしちゃうって言うか……」
「うわあ、なんか危ないよ明日奈、ソレ」
詩乃は笑いながら、もう一度手の中の端末に視線を落とした。いつの間にか、脈拍は67に、体温もわずかに上昇している。ちらりと見ると和人はポーカーフェイスで氷をがりがり噛んでいるが、モニタは彼が内心やや照れていることを如実に示している。
「ははあ、なるほどねえ……。そっか……なんか……いいなぁ……」
思わずぽろりとそう呟いてしまい、詩乃は慌てて顔を上げると、目をぱちくりさせている和人と明日奈に向かってぶんぶん首を振った。
「あ、いや、そんな、変な意味じゃないよ、ぜんぜん。その……じ、GGOにもこういう機能があったら、パーティーメンバーがどれくらい冷静かとかわかっていいなぁって、そういう」
端末をびゅんと明日奈の手に戻し、早口で続ける。
「そそうだ、本題のことをすっかり忘れてた。じゃあ……BoBチーム戦の助っ人してくれるっていうのは明日奈だったの。あたしは嬉しいけど……でも、明日奈、ALOのキャラをGGOにコンバートできるの?」
「あ、うん、それは大丈夫だよー。わたし、二キャラ持ってるから。サブアカウントのほうも、レベル的にはメインと大差ないし」
「ああ、それなら安心だね。明日奈が手伝ってくれるなら、鬼に金棒、トーチカに重機関銃だわ。何日かフォトンソードの練習するだけで充分だと思う」
「うん、今夜からもうダイブできると思うから、街とか案内してね」
「もちろん。GGOの食べ物も案外捨てたもんじゃないよ」
詩乃はにっこり笑って明日奈に右手を差し出した。互いの手をきゅっと握りあってから、さて、と胸の前で指先を打ち合わせる。
「じゃ、本題はこれで終了。さて……」
和人に顔を向け、じろーっと軽く睨む。
「じっくり聞かせてもらいましょうか。あんたのその怪しいバイトは、一体なんなの?」
――と、言っても、と間を置かずに続ける。
「どうせ、キリトのことだから新しいVRMMOゲームのアルファテストとかそんなんでしょうけど」
「まあ、当たらずとも遠からずだな」
苦笑いしながら和人はうなずき、センサーが埋め込まれているという左胸のあたりを指先でなぞった。
「テストプレイヤーをやってるのは間違いないよ。ただ、テストしてるのはゲームシステムじゃなくて、マンマシン・インタフェースそのもののほうだけどね」
「へえ!」
詩乃は驚き、軽く目を見張った。
「てことは、いよいよアミュスフィアの次世代機が出るのね? もしかして、明日奈のお父さんの会社で作ってるの?」
「いいや、レクトとは無関係のとこ。というか……なんか、いまいち全容がよくわからない会社なんだよな……。名前も聞いたことないベンチャーのわりに、資金力が異様に豊富でさ。もしからしたら国の外郭が絡んでるのかもなぁ……」
釈然としない表情の和人につられて、詩乃も首を右に傾ける。
「へえ……? 何て名前の会社?」
「RATH、と書いて“ラース”。」
「知らない会社ね、確かに。……んん、そんな英単語あったかな……?」
「俺もそう思ったら、アスナが知ってた」
和人の隣でジンジャーエールのグラスを傾けていた明日奈は、ぱちりと瞬きをして答えた。
「『鏡の国のアリス』の中に『ジャバウォックの詩』ってのがあって、そこに出てくる名前だよ。豚とも亀とも言われてるんだけど……どういうつもりでつけたんだろうねー」
「へええ……」
大昔に読んだはずの本だが、そんな単語はまったく憶えていなかった。
「ラース……。じゃあ、そこが単独で次世代NERDLESマシンを発売するの? アミュスフィアみたいにいろんな会社の共同開発とかでなく?」
「いや、どうかな……」
和人は、相変わらず煮え切らない口調で呟いた。
「マシン本体がでかいんだよ、兎に角。モニター類とか冷却関係まであわせるとこの店が一杯になるくらいあるんじゃないかな……。初代のNERDLES実験機もそれくらいあったらしいけど、そこからナーヴギアのサイズになるまで五年くらいかかってるんだぜ。レクト他で開発してるアミュスフィア2はもう来年内には発売になろうってのに……って、こりゃヒミツなんだっけ」
和人が首をすくめると、明日奈は小さく笑って言った。
「大丈夫よ、もう来月の東京ゲームショウで発表されるらしいから」
「あ、そっちからも出るんだ。……あんま、高くないといいな……」
上目遣いに明日奈を見る。社長令嬢は、深刻そうな顔を作ると深々と頷いた。
「ほんとだよねー。さすがに値段までは教えてくれなくって。まあ、わたしはALOで満足してるからすぐに新機種買うつもりはないけど、反応速度とか段違いって言われるとぐらっとくるよね。ソフトは下位互換もするらしいし」
「う、そうなんだ。くうー、あたしも何かバイトしよっかな……」
詩乃は一瞬、家計簿データを頭の中で展開しそうになってから、改めて和人に尋ねた。
「……じゃあ、その会社のでっかいNERDLESマシンは家庭用じゃないってこと? 業務用とか?」
「いやあ、まだそれ以前の段階なんじゃないかな。そもそも、厳密にはNERDLESテクノロジーとは別物なんだよな」
「別……? 仮想世界を生成して、そこにダイブすることに違いはないんでしょ? 中の世界はどんな感じなの?」
「知らないんだ、俺」
和人はひょいっと肩をすくめる。
「機密保持のためなんだろうけど、仮想世界内の記憶は、現実世界には持ち出せないんだ。俺がテスト中にどんなモノを見てナニをしてたのか、今の俺は全部忘れてる」
「はあ!?」
和人がさらりと口にした言葉に、詩乃は思わず絶句した。
「記憶を……持ち出せない? そんなこと……可能なの? もしかして、バイトの最後に催眠術でもかけられるの?」
「いやいや、純粋に電気的な仕組みで、さ。いや……量子的、と言うべきかな……」
和人はしかめっ面で長い前髪をぐいっとかきあげると、ちらりと卓上に置きっぱなしの携帯端末を一瞥した。
「四時半か。シノンとアスナは、時間まだ大丈夫?」
「うん」
「わたしも平気だよ」
ふたりが同時に頷くと、和人はぎしっとアンティークな椅子の背もたれを鳴らし、言った。
「じゃあ、大元のところから始めようか。問題の……”ソウル・トランスレーション”テクノロジーについて」
「ソウル……トランスレーション」
詩乃は、その、どこかロールプレイングゲーム内の呪文名のような響きを持つ単語を小声で繰り返した。明日奈も軽く首を傾げ、呟く。
「ソウル……魂……?」
「まあ、な。俺も初めて聞いたときは、なんつう大袈裟なネーミングだ、って思ったけどな」
和人は片頬で軽く笑うと、続けた。
「ふたりとも、人間の心ってどこにあると思う?」
「ココロ?」
唐突にそう尋ねられ、反射的に胸の中央に触れてしまいそうになってから、詩乃は軽く咳払いして言った。
「頭……脳でしょ」
「じゃあ、脳ミソを拡大して見たとして、そのどこに心はあるんだろう」
「どこ、って……」
「脳、ってのはつまり脳細胞のカタマリだよな。こう……」
和人は詩乃に向かって、ぴんと指を伸ばした左手を差し出した。掌の中央を右手の人差し指で突付き、次に掌全体をぐるりとなぞる。
「まんなかに細胞核があって、それを包む細胞体があって……」
五本の指を順番に叩いて、最後に手首から肘まで線を引く。
「樹状突起があり、軸索があって、次の細胞に繋がっている。こういう構造の脳細胞のどこに、心は存在するんだろう? 核? ミトコンドリア?」
「えっと……」
口篭もった詩乃に代わって、明日奈が答えた。
「キリト君いま、”次の細胞に繋がってる”って言ったけど、つまりそうやって脳細胞がいっぱい繋がったネットワークそのものが心なんじゃないの? ほら……”インターネットって何”っていう質問に、個々のコンピュータにだけ注目しても答えにならないみたいに」
「うん」
意を得たり、というように和人は大きく頷いた。
「脳細胞ネットワークこそが心、現状ではそれが正しい答えだと俺も思う。でも……例えば、今の”インターネットとは何か”っていう質問をつきつめていくと、解答はいろいろ出てくるよな。世界中のコンピュータが共通規格のもとに繋がった構造自体がインターネットだし――」
テーブルの上に並ぶ和人と明日奈の携帯端末を順番に指先で叩く。
「こういう、一台一台のコンピュータだって構成要素としてのインターネットだ。更に言えば、コンピュータの前のユーザーだってネットの一部ってことになるかもしれない。これらをひっくるめてインターネットと呼んでるわけだ」
和人はそこで一息つくと、ちょっと頂戴、と言って明日奈のジンジャーエールを口に含んだ。途端、眼を白黒させて唇をすぼめる。
「うわ、何これ。凄い……マジ生姜の匂いだな」
「ふふ、コンビニで売ってるのとは全然違うでしょ。ふつうはカクテルに使う本格派のヤツよ。前に頼んで飲ませてもらったら美味しかったの。言わば裏メニューね」
にやにや笑いながら、明日奈は詩乃にもグラスを回した。
「詩乃のんも味見してみる?」
言われるままに一口飲んでみると、舌にびりっとくる強烈な辛さと生姜の香りが、頭のてっぺんまで突き抜けた。思わず涙を滲ませながら、グラスを返す。
「た……たしかにこれは凄い。でも……うん、おいしいね、甘くなくて」
帰りに商品名を訊いておこう、と思いながら詩乃は和人に話の続きを促した。
「で……人間の心とインターネットが、どう関係するの?」
「うん。――で、その、サーバやルータやパソコンやケータイが網目みたいに繋がった構造は、インターネットの”カタチ”なわけだ」
「カタチ……」
「なら、”本質”は何なんだろう?」
詩乃は少し考え、口を開いた。
「つまりそのカタチ……ネットワーク構造の中を流れるもの……? 電気信号……?」
「電気や光の信号は媒体だ。ネットの本質とはつまり、その媒体によって伝えられる、言語化された情報のことだ……と、仮にここで定義しよう」
和人はテーブルの上で、骨ばった両手の指を組み合わせた。
「さて、さっき話した、脳細胞が百何十億個繋がったネットワーク、これを心のカタチと見たとき……心の本質を何に求めるべきだろう?」
「媒体……つまり、脳細胞を流れる電気パルスによって伝えられる……情報?」
「いや、電気パルスというのは、こう……」
和人は右手を拳に握り、広げた左の掌に近づけた。
「ニューロンとニューロンの隙間つまりシナプスに、伝達物質を放出させるトリガーにすぎない。あるルートに沿って脳細胞が連続発火するという、その現象だけをもって心の本質であるとは言えないよ」
「ええー……っと……」
詩乃が眉をしかめるのと同時に、明日奈が困ったように笑いながら言った。
「これ以上は無理だよキリト君~。だいたい、心とは何か、なんて今の科学でも答えは出てないんでしょ?」
「まあ、な」
和人はにやっと笑いながらうなずいた。
「は、はあ!? ちょっと、ここまで考えさせといてそれはないでしょう」
詩乃が猛然と抗議しかけたそのとき、和人はふっと視線を濡れた窓のほうに向け、呟くように続けた。
「でも、ある理論を用いてその答えに迫った人間がいる」
「ある……理論?」
「”量子脳力学”。もとは、前世紀の末ごろにイギリスの学者が提唱したものらしいんだけどな。長い間キワモノ扱いされたその理論を下敷きに、ついにあんな化け物みたいなマシンを作った……。――ここからは俺もほとんど理解しちゃいないんだけどな。さっき、脳細胞の構造の話をしたろ」
詩乃と明日奈は同時に頷く。
「細胞にも、その構造を支える骨格がある。”マイクロチューブル”って言うらしいんだけどな。しかしどうやらその骨は、ただの支えじゃなくて、頭蓋骨でもあるらしい。脳細胞のなかの脳だな」
「は、はあ……?」
「チューブ、つまり中空の管なんだ、その骨は。超微細なその管の中に封じ込められているモノ……それは……」
「何が、あるの……?」
「光だ」
和人の答えは短かった。
「光子……エバネッセント・フォトン、って言うらしい。光子ってことはつまり量子だ。その存在は非決定論的であり、常に確率論的なゆらぎとしてそこにある。そのゆらぎ、それこそが、人間の心なんだ」
その言葉を聞いた途端、詩乃の背筋から二の腕までを、理由の判らない戦慄がぞくぞくと疾った。心とは、揺らぐ光。そのイメージは神秘的な美しさに満ちていると同時に、まさしくそこはもはや神の領域なのではないのだろうか、との思いを起こさせるものがあった。
同じような感慨を明日奈も抱いたのだろう、薄い色の瞳にどこか不安そうな光を湛えて、少し掠れた声で呟いた。
「ソウル……魂。その光の集合体が、人間の魂なの……?」
「量子場、と言うべきかな。人間だけじゃない、動物にだってある。この理論が発表されたら、動物には魂はない、って言ってきたキリスト教原理主義者たちは怒るだろうな。実験によれば……この量子場は、持ち主が肉体的死に至ったあとも、しばらくその形を保つ。いわゆる臨死体験というのはそれが原因だ、って言ってたスタッフもいたよ。脳細胞が死に、量子が拡散するあいだに、人間は死後の世界を見るんだ、って」
「拡散……した量子は、どこにいくの?」
詩乃がおそるおそるそう尋ねると、和人は微かに笑って首を振った。
「わかってない。それを検出するには、今の数十倍の規模のマシンを開発しないとだめなんだそうだ。ただ、霞のようにランダムに消滅するというより、一定の凝集力を保ったままある方向へ向かうらしいけど……そこから先は、あんまり科学の立ち入る領域じゃないような気もするなあ……」
「わたしにはもう充分オカルトな話に聞こえるよ~」
明日奈は細い声で言い、きゅっと肩を縮めた。
「じゃあ、つまり、キリト君がテストしてるってマシンは、その……光子でできた魂そのものにアクセスするものなの……?」
「そう言うとなんかゲームのマジック・アイテムみたいに聞こえるけどな。――もうちょっと突っ込んだ話をすると、マイクロチューブル中の光子ひとつは、そのベクトルによって”一キュービット”という単位のデータを保持しているんだ。つまり、脳細胞は、これまで考えられてきたような単なるゲートスイッチではなく、それ自体がひとつの量子コンピュータだと言える……このへんで、もう俺の理解は限界にきてるんだけど……」
「大丈夫、私もそろそろ限界だから」
「わたしも……」
詩乃と明日奈がそろってギブアップ宣言をすると、和人はほっとしたように息を吐いた。
「まあ、守秘義務契約もあるからマシンの仕組みについては細かく話せないんだけどね。ともかくその、計算機でありメモリでもある光子の集合体、人間の意識、魂……プロジェクトでは”フラクトライト”と呼んでるんだけど、そいつが保持している数百億キュービットのデータを、俺たちに理解できるカタチに翻訳するのが例の化け物マシン、”ソウル・トランスレーター”だ。考えてみるとおかしな話だよな……。俺たちの魂を苦労して解読して、それを読むのも結局また俺たちの魂なんだからな」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ。なんか……鏡に映った自分の姿を見て石になっちゃう怪物の話とか思い出すじゃない」
「いつかそんな目に会わないとも限らないって気はするよ」
「やめてってば」
詩乃は今度こそ本格的にぞっとしない気分を味わい、半そでの開襟シャツから伸びる腕をさすった。視線を動かすと、明日奈も同じように顔をしかめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「その機械……ソウル・トランスレーターは、意識を読むだけじゃないんだよね?」
すると、和人はほんのわずかに口篭もり、一度唇を閉じてから、低い声で答えた。
「ああ……もちろん、書き込むこともできる。そうでないと、仮想世界にダイブできないからな。フラクトライトの、視覚、聴覚と言った五感情報を処理する部分にアクセスして、マシンの生成する環境を接続者に与えるわけだ」
「じゃあ……記憶も? キリト君、さっき言ったよね。ダイブ中の記憶が無いって。それってつまり、記憶の消去や上書きもできるってことなの?」
「いや……」
和人は、安心させるように明日奈の左手に短く触れた。
「記憶データを保持している部分は、あまりにも膨大かつアーカイブ方法が複雑で、現状では手が出せないと聞いた。ダイブ中の記憶が無いのは、単にその部分への経路を遮断しているから、らしい。つまり、完全に記憶が無いわけじゃなくて、思い出せないだけ……なんだろうな」
「でも、わたし……怖いよ、キリト君」
明日奈の不安そうな表情は消えない。
「ねえ……何でそんなバイトするの? その話を持ってきたのって、あの総務省の菊岡って人なんでしょ? 悪い人じゃないとは思うけど……あの人、なんだか心の底が見えない感じがする。どこか、団長と似てるのよ。なんだか……また、良くないことが起こりそうで……」
「……確かに、あの男には気の許せないところがある。本当の身分とか職務とか、いまいち判らないしな。でもな……」
少し言葉を切り、和人はふっと瞳の焦点をどこかここではない場所に向けた。
「俺は、業務用NERDLESマシンの初代機が新宿のアミューズメントパークでお披露目されたその初回に、始発で行って並んだんだ。まだ小学生だったけど……これだ、と思ったよ。俺をずっと呼んでいた世界はここなんだ、って。小遣いを貯めてナーヴギアも発売日に買って……いろんなVRゲームに何時間も潜り続けたな。ほんと、あの頃の俺は、現実世界なんかどうだっていいと思ってたよ。そのうちSAOのベータテストに当選して、あの事件が起きて……。凄く沢山の人が死んだ。二年もかけて戻ってきてからも、須郷の事件や死銃事件が立て続けにあって……俺は……知りたいんだ。VR技術は、一体どこに向かっているのか……あれらの事件に、一体どんな意味があったのか……。ソウル・トランスレーターは、その方向性こそまったく新しいものだけど、アーキテクチャ自体はメディキュボイドの延長線上にある。開発の基礎データとなった、最初のフラクトライトは”彼女”のものなんだよ」
俯きながら和人の言葉を聞いていた明日奈の両肩が、ぴくりと震えた。低いが、しっかりした声はなおも続く。
「予感がするんだ。ソウル・トランスレーターの中には何かある。単なるアミューズメントマシンだけじゃ終わらない何かが……。確かに、危険な面もあるかもしれない。でもな……」
少しおどけるように、和人は剣を握り、振り下ろす真似をした。
「俺は、今までどんな世界からもちゃんと帰ってきた。今度だって、ちゃんと戻ってくるよ。まあ……現実世界じゃ、無力で虚弱なゲーマーだけどさ」
「……わたしのバックアップなしじゃ、背中が隙だらけのくせに」
明日奈は少し笑うと、ふう、と短く息をつき、詩乃の顔を見た。
「まったく、なんでこう自信家なんだろうね、このヒト」
「うーん、まあ、何と言っても伝説の勇者様だからねー」
ふたりの会話には判る部分もあれば、初めて聞く単語もあったが、詩乃は深く立ち入るのはやめようと思いながら、からかうように言った。
「先月出た”SAO事件全記録”読んだけどさー、あの本に出てくる”黒の剣士”がこいつだなんてちょっと信じられないよねー」
「お、おい、やめてくれー」
和人は両手を振りながら上体を仰け反らせたが、明日奈はくすくす笑うと、ほんとだよね、と頷いた。
「あの本書いたの、攻略組ギルドの中でも大きかったとこのリーダーだから、けっこう記録自体は正確なんだけど、人物描写にすごいバイアスかかってるよねえ。キリト君が、オレンジプレイヤーと戦ったとことか……」
「『俺が二本目の剣を抜いたとき――立っていられるヤツは、居ない』」
きゃははは、と二人が盛大に笑うと、和人は虚ろな眼をしてずるずると椅子に沈み込んだ。ようやく明日奈に笑顔が戻ったことにほっとしながら、詩乃は追い討ちをかけるように続けた。
「あの本、なんか翻訳されてアメリカでも出版されるらしいよねー。そしたらもう、勇者サマの世界ランカーだよね」
「……せっかく忘れてたのに……。印税を俺にも寄越せって話ですよまったく」
ぶつぶつ言う和人にまたひとしきり笑ってから、詩乃は少々疑問に思っていたことを尋ねようと、話を戻した。
「でもさ。その、ソウル・トランスレーターって、結局やることはアミュスフィアといっしょなの? VRワールドをポリゴンで生成して、そこに接続者の意識をダイブさせるだけなら、そんな大掛かりな仕組みにすることにどんな意味があるの?」
「お、いい質問」
和人は椅子の上で体を起こすと、ひとつ頷いた。
「アミュスフィアを使ってるとき、ユーザーは、現実世界では寝ているように見えるけど、実際はそうじゃないよな。現実の感覚を遮断されているだけで、脳はちゃんと覚醒している。結局、外界の情報を自前の感覚器官から得るか、アミュスフィアの信号素子から得るかの違いがあるだけで」
「それはそう……だよね。便宜的に”ダイブする”なんて言ってるけど、実際には現実世界でヘッドホンしてテレビ見てるのと、本質的な違いは無いんだもんね」
「うん。しかし、ソウルトランスレーターの場合は少し違う。魂、フラクトライトを現実世界の入力から完全に切り離された接続者の脳波パターンは、どちらかというと睡眠時のそれに近くなるんだ」
「睡眠……眠ってる、ってこと……?」
詩乃は少し考えてから、首を捻りつつ言った。
「でも、そしたら、ユーザーはどうやって仮想世界で活動するの? 見たり聞いたり、動いたりとか出来ないんじゃないの?」
「完全に眠ってるってわけじゃない。フラクトライトの、現実の肉体を制御する部分は睡眠状態に入るが、記憶領域と思考領域は覚醒している。その状態でも、ユーザーは仮想世界を見ることができるんだ。別にソウルトランスレーター……長いからSTLって呼ぶけど、それを使ってなくても、普段自分のベッドで寝てるときだって、俺たちは見てるんだぜ、現実じゃない世界を」
「それって……夢のことを言ってるの?」
そう尋ねたのは明日奈だった。和人はにっと短く笑うと頷いた。
「その通り。睡眠と夢のメカニズムについてはまだまだ未解明の部分も多いんだけど、STLを使った解析によれば、どうも人間は夢を見ているときに、記憶の整理をしているらしいんだな。短期記憶領域にごちゃごちゃと蓄積された雑多な記憶パーツを、重要性によって取捨選択し、アーカイブして、長期記憶領域に収納する。その過程で、思考領域は、取り出された記憶を感覚的に再生するわけだ。つまり……夢を見ているとき、俺たちは、脳の感覚野を使用せずに物を見、音を聞いている。もし、夢で見たいものを選ぶことができたとしたら……」
そこで一拍置いてから、和人は少しばかり衝撃的なことを言った。
「――STLによって生成されるVRワールドは、アミュスフィアのそれとは根本的に違う。コンピュータで作られたポリゴンデータじゃないんだ。人間の膨大な記憶アーカイブからマシンによって抽出される、記憶のフラグメントを組み合わせたものなんだよ」
詩乃は、明日奈と同時に眉をしかめ、頭を傾けた。
「ええ……? ポリゴンじゃない……って……」
「ほら、つまりさ……。例えばこの喫茶店の中をアミュスフィアで再現しようと思うと、山ほどの3Dオブジェクトが必要になるよな。座ってる椅子、テーブル……この上の皿やグラス、塩や砂糖の容器、壁、窓、床、天井、エトセトラ。これだけの、膨大な視覚情報がマシン本体で生成され、ヘッドギアを通して脳に流れ込むわけだ。とても、ひとつひとつのオブジェクトを本物なみに細かく再現することはできないから、例の”ディティール・フォーカシング・システム”なんて苦肉の策が採用されてたりする。しかし、STLで同じことをする場合、マシンがフラクトライトに送るデータは恐ろしく小さい。”古ぼけた椅子に座ってる””揃いのテーブルがある””その上に白い皿が乗ってる”……これだけだ。それらのオブジェクトの視覚、触覚的情報は、俺たちの自前の記憶アーカイブから呼び出され、配置されるわけだ。しかもそれらは恐ろしくリアルだ。なぜなら、意識にとっては本物と一緒なんだからな」
「…………ええー?」
何となく騙されているような気分にとらわれ、詩乃は唸った。
「記憶……なんて、そんなアテになるものなの? 例えばさぁ……」
和人の前でぎゅっと両目を瞑ってみせる。
「こうして眼ぇ閉じて、今座ってる椅子を思い出そうとしても、細かいとことかすごいアヤフヤだよ。一日たったら形も思い出せないよ、たぶん」
「それは記憶を再生できないだけだ。椅子の詳細な情報は、きちんとアーカイブされてシノンの頭の中にある。STLは、本人の意思ですら簡単に呼び出せない情報を、フラクトライトを半覚醒状態に置くことによって正確に引き出すことができるんだ。これは聞いた話だけど、基礎実験のとき、あるスタッフの記憶アーカイブから出てきた猫の数はなんと二千匹を超えたそうだよ」
「にせ……」
詩乃は一瞬その猫天国を想像して口もとを緩めてしまってから、短く首を振って妄想を払い落とした。明日奈はと見れば、こちらは真剣に何かを考えているふうだったが、やがて言葉を確かめるようにゆっくりと口を動かした。
「でもさ……キリト君、それだと、ユーザーが見たことのないものは生成できない、ってことになるんじゃないの?」
もっともな疑問だ、と思ったが、和人はふたたびニヤっと笑い、逆に明日奈に尋ねた。
「例えば、どんなもの?」
「えっと……ほら、今の猫にしても、羽根の生えた猫とか……毛皮が青い猫とか。現実世界には居ない動物……実在しない機械、世界のどこでもない都市、そういうものはVRゲームには必須だと思うけど……」
「ところがどっこい、なんだな。人間の意識の柔軟性というのは驚くばかりさ。”翼の生えた猫がいる”、そう指定するだけで、ダイブ中のユーザーはちゃんとそれを見るんだ。記憶アーカイブから抽出した”猫”と”翼”を組み合わせて。既存の空想的動物……ドラゴンとか悪魔まで、生成できなかったものはほとんど無かったそうだよ。さすがに、言葉では形容できないようなヤツは難しいだろうけど……。奇妙な機械とか幻想的都市とかも、結局原型となるイメージは記憶アーカイブに何かしら収納されてるのさ。それを組み合わせ、変形させるだけで、ほとんどあらゆるパターンのものを作り出すことができるんだ」
和人は一瞬口を閉じ、テーブルをとん、と叩いて続けた。
「これが、NERDLESには無い、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの第一の利点だ。VRワールドを作るのに、膨大なマンパワーを費やして3Dオブジェクトを組む必要がない。極論すれば、コンピュータに世界生成をすべて任せることだってできるんだ」
SAO4_04_Unicode.txt
人間の手によらず自動生成された仮想世界。
その概念には、詩乃の胸を高鳴らせるものがあった。なんとなれば、ちかごろ詩乃は、VRMMOゲーム世界の”恣意的デザイン”に違和感を覚えることが往々にしてあるのだった。
既存のVRワールドは、当然ながら端から端まで、開発会社の3Dデザイナーが組み上げたものだ。廃墟に転がる古タイヤ、荒野に生えるサボテン、それらはどんなに何気なく見えても、偶然そこにあるものではない。デザイナーが、何らかの意図のもとに配置したオブジェクトなのだ。
ゲームプレイ中に、一度そんなことを考えてしまったが最後、詩乃の胸の奥ですっと醒めるものがある。自分たちは所詮、開発者たちという名の神様の掌中で右往左往するだけの存在なのだ、ということを否応無く意識させられてしまうからだ。
もともと、愉しむためにガンゲイル・オンラインを始めたわけではない詩乃は、過去の呪縛を乗り越えたいまでも、GGOの中で己を鍛えることには何らかの現実的意味があると考えている。リアルでもモデルガンを携帯し、揃いの記章バッジを服に飾って兵士を気取るような一部のプレイヤー連中には怖気が走るが、そういうことではなく、ゲーム内でシノンが身に付けた忍耐力、自制力といったものは現実の朝田詩乃をもわずかながら強くしてくれているという信念があるし、また逆に言えば、もしそうでなければ決して少ないとは言えない時間と金銭をつぎ込んで仮想世界に飛び込み続ける甲斐がないというものではないか。
人見知りの激しい自分が、わずか数ヶ月の付き合いで結城明日奈とここまで仲良くなれたのもそのへんに理由があるのではないか、と詩乃は思う。いつもふわふわと笑っている彼女だが、同じような価値観の持ち主――つまり、VRゲームを逃避的に遊ぶのではなく、現実の自分をも高めるという目的意識を持つ人種である、ということは疑いようもない。簡単に言えば、明日奈もまた戦士である、ということだ。
なればこそ、詩乃はVR世界がただの作り物でありその内部で起きることがすべて虚構だとは思いたくない。思いたくないが、あまねくVR世界には製作者が存在するのもまた事実である。明日奈の家に泊まりにいったとき、照明を落とした部屋で詩乃はその違和感のことをつっかえつっかえ口にしてみた。すると、大きなベッドに並んで横たわった明日奈は、しばらく考えてから言った。
『詩乃のん、それはこの現実世界も同じことだと思うよ。いまはもう、わたし達に与えられた環境なんて、家や街も、学生っていう身分も、社会構造まで、ぜんぶ誰かがデザインしたものなんだよね……。たぶん、強くなる、って、その中で進みたい方向に進んでいける、ってことじゃないかな』
少し間をあけて、明日奈は笑いを含んだ声で続けた。
『でも、一度見てみたいよね。誰かがデザインしたわけじゃないVR世界。もしそういうのが実現したら、それはリアル以上のリアルワールドってことになるのかも、ね』
「リアルワールド……」
詩乃が無意識のうちに呟くと、どうやら同じことを思い出していたらしい明日奈が、テーブルの向こうでこくりと頷いた。
「キリト君……じゃあ、それはつまり……ソウルトランスレーターなら、主観的にはこの現実世界と同じかそれ以上の現実が作れる、ってことなの? デザイナーのいない、ほんとの異世界が?」
「うーん……」
和人はしばし考えこみ、やがてゆっくりと首を振った。
「いや……現状では難しいだろうな。単純な森とか草原とかは、オブジェクトのランダム配置でも生成できるだろうけど、整合性のある文明世界となると結局は人間の組んだアルゴリズムが必要だろうからな。あるいは……実際にプレイヤーが原始的世界から暮らし始めて、都市が自然に出来るのを待つか……」
「あはは、それはずいぶんと気の長い作戦だねー。百年くらいかかりそうだね」
明日奈と詩乃は同時に笑った。和人はなおも眉間にしわを刻んで考え込みつづける様子だったが、そのうち顎をなぞりながらぽつりと呟いた。
「文明シミュレートか。いや……あながち無いでもない話かもな。中に持ち込む記憶は制限すればいいんだし……STLのSTRA機能が進化すれば……」
「エスティーエルのエスティー……何だって?」
略語の連発に詩乃が顔をしかめると、和人は瞬きして顔を上げた。
「ああ……ソウル・トランスレーション技術による魔法その2、さ。さっき、夢の話をしたろ」
「うん」
「ときどき、ものすごく長い夢を見て、起きたらぐったり疲れてる、みたいなことあるよな。怖い夢のときとか特に……」
「あー、あるある」
詩乃はしかめっ面のままこくこく頷いた。
「何かから逃げて逃げて、途中でもうこれは夢だろう、とか思うんだけど目が醒めなくて。散々おっかけられてからようやく起きた、と思うとまだそこも夢だったりしてさ」
「そういう夢って、体感的にはどれくらいの時間経ってる感じがする?」
「えー? 二時間とか……三時間くらいかな」
「ところが、だ。脳波をモニターしてみると、当人がものすごく長い夢を見た、と思っているときでも、実際に夢を見ている時間は目覚める前のほんの数分だったりするんだな」
そこで言葉を切ると、和人は不意に手を伸ばし、卓上に並べて置かれたふたつの携帯端末を掌で覆った。いたずらっぽい視線で詩乃を見て、小さく笑う。
「STLの話をはじめたのが四時半だったよな。シノン、いま何時だと思う?」
「え……」
虚を突かれて、詩乃は口篭もった。古めかしい掛け時計があるのは詩乃の背後の壁だし、夏至を過ぎたばかりのこの時期の空はまだまだ明るくて陽の落ち具合で判断することもできない。やむなく当て推量で答える。
「んーと……四時五十分くらい……?」
すると和人は携帯から手を離し、画面を詩乃に向けた。覗き込むと、デジタル数字は五時をとうに回っていた。
「わ、もうそんなに経ってたのか」
「かくも時間とは主観的なものなのさ。夢の中だけじゃなく、現実世界でもね。何か緊急事態が起きて、アドレナリンがどばーっと出てるときは時間はゆっくり流れるし、反対にリラックスして会話に夢中になってたりするとあっというまに過ぎ去っていく。フラクトライトの研究によって、何故そういうことが起きるのか、おぼろげにわかってきたんだ。どうやら、思考領域の一部に、”思考クロック発振器”とでも言うべきものがあるらしいんだよ」
「クロック……?」
「ほら、よくパソコンのCPUが何十ギガヘルツとか言うだろう。あれだよ」
「計算するスピードのことね?」
明日奈の言葉にこくりと頷き、和人はテーブルの上に置いた右手の指先をとんとんと鳴らした。
「あれも、カタログはマックスの数値を載せてるけど、実は一定じゃないんだ。普段は発熱を抑えるためにゆっくり動いてて、重い処理を命じられると――」
とんとんとん、と指のスピードを上げる。
「動作クロックを引き上げて計算速度をスピードアップさせる。フラクトライト、つまり人間の意識を作る量子コンピュータも一緒だ。緊急事態に置かれて、処理すべきデータが増大すると、思考クロックを加速して対応する。シノンも、GGOの戦闘中にむちゃくちゃ集中してるときとか、弾が見えるような気がするときあるだろう?」
「あー、うん、調子いいときはね。まあ、なかなかあんたみたいに”弾道予測線を避ける”みたいな真似はできないけどさ」
唇を尖らせてそう言うと、和人は苦笑して首を振った。
「いやあ、もうだめさ、最近すっかりナマっちゃって。……ともかく、その思考クロックが、時間感覚に影響してるってわけなんだな。クロックが加速しているとき、人間は相対的に時間の流れをゆっくりと感じる。睡眠中はこれが更に顕著になる。膨大な量の記憶データを処理するためにクロックは限界までスピードアップし、結果として、数分間のうちに何時間ぶんもの夢を見る」
「ふむむ……」
詩乃は腕を組んで唸った。自分の脳、というか魂が光でできたコンピュータだ、などという話だけでも常識のはるか埒外なのに、こうして”考える”という行為によってその動作スピードが上がったり下がったりする、と言われても実感することなど到底できない。だが、和人は、まだまだ、とでも言うようにニッと笑うと言葉を続けた。
「となると、もし、夢の中で仕事や宿題ができたら、凄いことになると思わないか? 現実世界では数分間でも、夢ん中じゃあ何時間だぜ」
「そ、そんな無茶な」
「そうだよー、そんな都合のいい夢なんか見れないよ」
詩乃と明日奈は同時に異論を唱えたが、和人は笑みを消さないまま首を振った。
「本物の夢が支離滅裂なのは、それが記憶整理作業の余剰産物だからだ。STLによって作られる夢はもっとずっとクリアだ……と言うか、ユーザーの意識自体は覚醒してるんだからな。寝てるのは身体制御領域だけでさ。その状態で、思考クロック発振部分に干渉し、強制的に加速させる。それに同期させて、仮想世界の基準時間も加速する。結果、ユーザーは、実際のダイブ時間の数倍の時間を仮想世界で過ごすことができる。これが、ソウル・トランスレーション・テクノロジーのもうひとつの特殊機能、”主観時間加速”……サブジェクティブ・タイムレート・アクセラレーション、略してSTRAさ」
「……なんだか、もう……」
現実の話とは思えないなぁ、と詩乃は小さく嘆息した。アミュスフィアと”少し違う”どころではない。
NERDLESテクノロジーだけでも、社会生活はずいぶんと様変わりした。コストダウンが至上命題の一般企業では、すでに会議や営業のたぐいを仮想世界で行うのは当たり前と聞くし、シーンに入り込んで好きな場所から視聴できる3Dドラマや映画が毎日何本も放送され、高度な再現性が売り物の観光ソフトは年配者に大人気、先に和人が言ったように軍事訓練ですら仮想世界で行われる時代なのだ。あまりにも家から出ないで済ませられることが増えすぎたというので、自前の足で目的なく街を闊歩する”散歩族”ブームなどというものが到来し、それに併せて”バーチャル散歩ソフト”が発売されてこれも大好評などというわけのわからない現象も出来している。大手のハンバーガーショップや牛丼チェーンのバーチャル支店が出現したのもそう最近のことではない。
かくの如き仮想世界からの潮流に、現実世界はどこへ押し流されていくのかさっぱり判らない、という昨今の世相だが、そこへソウル・トランスレーターなどというものが登場したら、一体世の中はどうなってしまうのか――と詩乃が薄ら寒いものを感じて両腕をさすっていると、同じようなことを考えたらしく眉をしかめた明日奈が、ぽつりと呟いた。
「長い夢……かぁ……」
隣の和人を見上げ、微かに笑う。
「SAO事件が、ソウル・トランスレーターが普及する前のことでまだしも良かった……って思うべきなのかなぁ……。もしナーヴギアでなくてSTLだったら、アインクラッドが千層くらいあって、クリアに中の時間で二十年くらいかかってたかもね」
「か……カンベンしてくれ」
和人がぶるぶると首を振るのを見て、明日奈はもう一度くすりと笑うと、続けて言った。
「じゃあ、この週末、キリト君はずーっと長い夢を見てたのね?」
「ああ。長時間連続稼動試験があってさ。三日間飲まず食わずでダイブしっ放し。栄養の点滴はしてたけど、やっぱちっと痩せたなぁ……」
「ちっとどころじゃないよー。まったく、またそんな無茶して」
明日奈は可愛らしい怒り顔を作ると、左手で和人の肩をぽこんと叩いた。
「明日あたり、川越までご飯つくりに行くからね! 直葉ちゃんに、野菜いーっぱい仕入れておくように頼んどかなくちゃ」
「お、お手柔らかに」
そんな二人の様子を微笑みながら見ていた詩乃は、そっかー、と頷いてから、ふと感じた疑問を口にした。
「そんなバイトしてたのかぁー。丸三日も拘束されたんじゃ、えーと、時給かける七十二? そりゃここはキリトの奢りで決定だね。――それはそうとしてさ、その三日のダイブ中も、ええと……STRA? は働いてたんでしょ? あんた、中じゃ実際のとこどれくらいの時間を過ごしたわけ?」
和人はひょいっと頭をかたむけ、覚束ない口調で言った。
「……と、言っても、さっき説明したとおり、俺ダイブ中の記憶無いんだよね。でも、STRAは、現状では最大で三倍ちょいって話だからな……」
「てことは……九日?」
「か十日くらいかな」
「ふぅん……。一体どんな世界で何してたんだろうね。持ち出しはできなくても、現実の記憶は中に持ち込めたの? 他にテスターはいたの?」
「いやー、そのへんのこと、マジで何も知らないんだよ。予備知識があると、テストの結果に影響するからってさ。でも、機密保持が目的なら記憶の持ち込みを制限する意味なんかないだろうし……俺が行ってる都内の研究所にはSTLは一台だけだけど、本社にはもっとあるらしいから、同時にダイブしてるテスターもそりゃ居たんじゃないのかな。ほんと、”中”のことは徹底して秘密主義なんだよな……。ビーターとしては、テストのし甲斐が無いったらないよ。教えてもらったのは世界の名前だけさ」
「へえ、何て?」
「”アンダーワールド”」
「アンダー……地下の世界? そういうデザインのVRワールドなの?」
「さあ、世界設定に関しては現実モノなのかファンタジーなのかSFなのか、それすらも教えて貰ってないからな。ただまあ、そういう名前なんだから、地下っぽい暗いとこなのかな……」
「ふうん。なんかピンとこないね」
詩乃と和人がそろって首を捻ると、明日奈が、華奢なおとがいに指を当てながら小さく呟いた。
「もしかしたら……それも、アリスなのかもしれないね」
「アリスって……?」
「さっきのラースって名前もそうだけど、”不思議の国のアリス”から取ってるのかなって。あの本、最初の私家版は、”地下の国のアリス”って名前だったのよね。原題は”アリスズ・アドベンチャー・アンダーグラウンド”だけどね」
「へえ、初耳。もしそうだとしたら、なんか、メルヘンな会社だね」
詩乃は少し笑ってから続けた。
「そう言えば、アリスの本ってふたつとも長い夢の話だよね。……ってことは、もしかしたらキリトもダイブ中に、ウサギとお茶会したり女王様とチェスしたりしてたのかもね」
それを聞いた明日奈も、可笑しそうにあははと笑う。が、当の和人はと言うと、何故か難しい顔でテーブルの一点を見詰めていた。
「……どうかしたの?」
「……いや……」
詩乃が尋ねると視線を上げたが、ぎゅっと眉を寄せ、もどかしそうに瞬きを繰り返している。
「いま、アリス……って聞いて、何か思い出しそうな気がしたんだけどな……。うーん……ほら、よくあるだろ。さっきまで何かすごい気がかりなことを考えてたんだけど、何が気がかりなのかを思い出せなくなっちゃって、その不安な感じだけが残ってる、みたいなこと」
「あー、あるね。怖い夢を見て飛び起きたのに夢の中身が思い出せない、みたいな」
「うう、何か……いますぐにしなきゃいけないことを忘れてる気がする……」
ぐしゃぐしゃと髪をかき回す和人を心配そうに見やりながら、明日奈が訊いた。
「それって、つまり、実験中の記憶ってこと……?」
「でもさ、あんた、仮想世界の記憶は全部消去されてるって言ったじゃない」
続けて詩乃もそう口にする。和人は尚も目を閉じて唸っていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「……まあ、何せ十日分の記憶だからな。デリートしきれない断片がわずかに残ってるのかもな……」
「そっか……そう考えると、もし記憶が残ってたら、あんた、私達より一週間ぶん余計にトシとってるってことになるのよね、精神的に。なんか……怖いね、そういうの」
「わたしはちょっと……嬉しいかな、差が縮まったみたいで」
詩乃と和人よりひとつ年上の明日奈は小さく笑いながらそう言ったが、その顔にもかすかな不安の色が潜んでいるように見えた。
「そういえば……ダイブが終わった直後から、今日学校で授業受けてる時くらいまで、ヘンな違和感あったよ。何か……よく知ってるはずの街とかテレビ番組とか、めちゃくちゃ久しぶりに見る感じがしてさ。クラスの連中も……あれ、誰だっけこいつ、みたいな……」
「十日ぶりくらいで大袈裟なこと言わないでよ」
「ほんとだよー、何か不安になるじゃない」
和人の言葉に、詩乃と明日奈はそろって顔をしかめた。
「キリト君、もうそんな無茶な実験やめてよね。体にだって負担かかってるよ、絶対」
「ああ、長時間連続運転試験は大成功で、基礎設計上の問題点はオールクリアされたそうだから。次はいよいよ実用化に向けてマシンをシェイプする段階だろうけど、ありゃ何年かかるかわかったもんじゃないな……。俺も当分はバイト行かないよ、来月からは期末試験も始まるしな」
「う……」
和人の言葉に、詩乃はもう一度渋面を作った。
「ちょっと、ヤなこと思い出させないでよ。キリトとアスナのとこはいいよ、ペーパーテストとかほとんど無いんだからさ。ウチはいまだにマークシート方式なんだよー、カンベンしてほしいわよまったく」
「ふふ、バレット・オブ・バレッツが終わったら今度は勉強合宿でもしよっか」
言いながら、明日奈は詩乃の背後の壁を見上げ、わ、と小さく声を上げた。
「もう六時近いよ、ほんと、お喋りしてるとあっという間だね」
「そろそろお開きにするか。なんか本題の打ち合わせは五分くらいしかしてなかった気がするけど」
苦笑する和人に、詩乃も笑みを返した。
「ま、詳しい戦術とかは中で決めればいいよ。アスナの武器も選ばないとだし。じゃ……今日はどうも、ごちそーさま」
「へいへい」
自分の携帯をポケットに入れ、反対のポケットから財布を出しながら和人はカウンターに歩み寄った。詩乃と明日奈はそれぞれ自分の鞄を持ち、先に出口へと向かう。
「エギルさん、ご馳走様でした」
「またくるねー」
夜のための仕込みに忙しそうな店主に声をかけ、ウイスキー樽から傘を抜いて、詩乃はドアを押し開けた。カラカラン、と鳴るベルに続いて、町の喧騒と雨音が耳を包む。
日没までにはまだ少し間があったが、厚い雲のせいで、濡れた路面近くにはすでに濃い夜の気配が漂っていた。傘を広げ、小さな階段を一歩降りたところで――詩乃はぴたりと足を止め、素早く周囲に視線を走らせた。
「詩乃のん、どうしたの……?」
背後の明日奈が不思議そうに声をかけてくる。詩乃はハッと我に返り、慌てて道路に出て振り返った。
「う、ううん、なんでもない」
照れ隠しに短く笑う。まさか、うなじにちりりと狙撃手の気配を感じたような気がした、などとはとても言えない。オープンスペースで咄嗟にスナイピングポイントの確認をするクセが現実世界でも出てしまったのか、と考え、少々愕然とする。
明日奈はなおも首を傾げていたが、すぐにもう一度ドアベルが鳴り、その音に押されるように階段を降りた。
財布を仕舞いながら出てきた和人は、傘も差さずに、まだ釈然としないような顔で呟いていた。
「アリス……アリス、か……」
「何よあんた、まだ言ってるの?」
「いや……よく思い出してみると、実験前、意識がシフトする直前に、スタッフが話してたのをちらっと聞いたような気がするんだよな……。A、L、I……アーティ……レイビル……インテリジェン……うーん、何だったかなあ……」
尚もぶつぶつと要領を得ない単語を口中で転がしている和人に、自分の傘を差しかけながら、明日奈が困った人ねえ、と苦笑した。
「ほんと、何かに気を取られるとそればっかりなんだから。そんな気になるなら、次に会社行ったときに訊いてみればいいじゃない」
「まあ……それもそうだ」
和人は二、三度頭を振ると、ようやく手にした傘を開いた。
「んじゃシノン、今夜十一時にグロッケンの”ラスティボルト”で待ち合わせでいいか?」
「了解。遅れないでよ」
「じゃーね詩乃のん、また今夜ねー」
「ばいばい明日奈」
JRで帰る和人と明日奈を手を振って見送り、詩乃は反対方向にある地下鉄の駅目指して一歩足を踏み出した。そこでもう一度、傘の下からそっと周囲を見渡してみたが、先刻感じたような気がした粘つくような視線は、やはりそれが幻であったとでも言うかのごとく、綺麗に消え去っていた。
(第二章 終)
転章 I
人の体温というのは不思議なものだ。
結城明日奈は、ふとそんなことを考えた。
雨は止み、雲の端にかすかな橙を残した濃紺の空の下を、ふたり手を繋いでゆっくりと歩いている。隣に立つ桐ヶ谷和人も、数分前から何事か物思いに沈んでいるようで、唇を閉じたまま歩道の煉瓦タイルに視線を落としていた。
世田谷に住む明日奈と、川越まで帰る和人は、いつもならJR新宿駅で別れてそれぞれ違う電車に乗り換えるのだが、今日は何故か和人が「家の近くまで送るよ」と言い出したのだった。彼の家までは渋谷から更に一時間近くかかってしまうため、そんなことをしていては朝田詩乃との待ち合わせ時間ギリギリになってしまうと思い反射的に断りそうになったが、和人の眼にどこかいつもと違う色の光を見た気がして、明日奈は自然と頷いていた。
最寄駅で降りたあと、どちらからともなく手を繋いだ。
こうしていると、ぼんやりと思い出す情景がある。甘いだけではない、苦く恐ろしい記憶でもあるので普段はほとんど意識にのぼることは無いのだが、たまに和人と手を繋ぐと、ふっと甦ってくるのだ。
現実世界の記憶ではない。旧アインクラッド第55層主街区、鉄塔の街グランザムでのことだ。
当時、明日奈/アスナはギルド血盟騎士団の副団長を務めており、護衛としてクラディールという名の大剣使いが四六時中随行していた。クラディールはアスナに対して異常なほどの妄執を抱いており、アスナにギルド脱退を決意させた和人/キリトを、麻痺毒を用いて秘密裏に葬ろうとした。
その過程で三人のギルドメンバーが殺され、あわやキリトも命を落としかけたところに駆けつけたアスナは、激情に身を任せてクラディールを斬った。二人はそのまま55層の血盟騎士団本部に戻り、ギルド脱退を告げて、寒風吹きすさぶグランザムの街を手を繋いであてどなく歩いたのだった。
表面的には平静を保っていたが、あの時アスナの胸中には、初めてほかのプレイヤーを手に掛けたことによるパニックが渦巻いていた。死ぬ直前のクラディールの表情、声、爆散するポリゴンの煌めき、それらが繰り返し目の前に再生され、ついに悲鳴を上げてしゃがみこみそうになった時、キリトが言ったのだった。君だけは、何があろうと元の世界に還してみせる、と。
パニックは嘘のように消え去った。同時にアスナは、この人を守るためならわたしは何でもするし、その報いはすべて胸を張って受け止める、と強く思った。
あの瞬間、繋いでいながらそれまで冷たさしか感じなかった右手が、暖炉にかざしたかのようにほわりと暖かくなったのを、明日奈は鮮明に憶えている。仮想世界は消え去り、現実に戻ってきた今でも、こうして手を繋ぐとあの温度があざやかに甦ってくる。
本当に、人の体温というのは不思議なものだ。肉体が自らを維持するためにエネルギーを消費し発している熱に過ぎないはずなのに、触れ合った掌で交換されるそれには明らかに何らかの情報が含まれている感触がある。その証拠に、お互い黙って歩いているのに、和人が何か大事なことを言い出そうとして逡巡しているのが明日奈にははっきりと判る。
人の魂とは、細胞の微小構造中に封じ込められた光子だ、と和人は言った。そのマイクロチューブルが存在するのは当然、脳細胞だけではないのだろう。全身の細胞にたゆたう光の粒たちはそれぞれ何らかの情報を担い、それらが作り出す量子場が、いま互いの掌を通じて接続している。体温を感じるというのは、つまりそういうことなのかもしれない。
その様子を想像しながら、明日奈は心の中で囁いた。
――ほら、大丈夫だよ、キリト君。いつだって、わたしはあなたの背中を守ってる。わたし達は、世界最高のフォワードとバックアップなんだから。
不意に和人が立ち止まり、まったく同時に明日奈も足を止めた。ちょうど七時になったのか、二人の頭上で古めかしい青銅色の街灯がオレンジ色の光を灯した。
雨上がりの黄昏時、住宅街の隘路に明日奈たち以外の人影は無かった。和人はゆっくり向き直り、濃い色の瞳でじっと明日奈の眼を見ながら口を開いた。
「アスナ……俺、やっぱり行こうと思う」
ここしばらく和人が進路のことで悩んでいたのを知っていた明日奈は、微笑みながら訊き返した。
「サンタクララ?」
「うん。一年かけていろいろ調べたけど、あそこの大学で研究してる”ブレイン・インプラント・チップ”がやっぱり次世代VR技術の正常進化形だと思うんだ。マンマシン・インタフェースは絶対にその方向で進んでくよ。どうしても、見たいんだ。次の世界が生まれるところを」
明日奈は真っ直ぐ和人の瞳を見詰め返し、こくりと大きく頷いた。
「つらいこと、哀しいこと、一杯あったもんね。何のために、どこにたどり着くために色んなことが起きたのか、見届けなきゃね」
「……そのためには何百年生きても足りそうにないけどな」
和人は小さく笑い、次いで再び口篭もった。
二人が離れ離れになることを言い出せないでいるのだろう、と明日奈は思い、もう一度微笑んで、ずっと胸のうちに暖めていた自分の答えを言葉にしようとした。だが、口を開く前に、和人が、かつて別の世界で結婚を申し込んだときとまったく同じ表情で、つっかえながら言った。
「それで……、お、俺と、一緒に来てほしいんだ、アスナ。俺、やっぱ、アスナが居ないとだめだ。無茶なこと言ってるって判ってる。アスナにはアスナの進みたい方向があるだろうって思う。でも、それでも、俺……」
そこで和人は戸惑ったように言葉を切った。明日奈が目を丸くし、次いで小さく吹き出したからだ。
「え……?」
「ご……ごめん、笑ったりして。でも……もしかしてキリト君、最近ずっと悩んでたのは、そのことなの?」
「そ、そりゃそうだよ」
「なぁーんだ。わたしの答えなら、もうずーっと前から決まってたのに」
明日奈は、右手で握ったままだった和人の手に、左手も重ねた。かつて別の世界で結婚を申し込まれたときとまったく同じようにゆっくり頷きながら、その先を言葉にする。
「もちろん、行くよ、一緒に。キミの行く世界なら、どこだって」
和人は小さく息を吸い込み、しばし目を見張ったあと、滅多に見せることのない大きな笑顔を浮かべた。二、三度瞼をしばたかせたあと、右手をそっと明日奈の肩に載せてくる。
明日奈も、ほどいた両手をしっかりと和人の背に回した。
触れ合った唇は、最初ひんやりとしていたがすぐに暖かく溶け合い、その瞬間明日奈はもう一度、互いの魂を作る光が絡まって一体となるのを意識した。たとえこれから、どんな世界をどれだけの年月旅しようと、わたし達の心が離れることは絶対にない、強くそう確信した。
いや、二人の心は、もうとっくに結びついていたのだ。アインクラッド崩壊の時、虹色の光に溶けて消え去ったあの時から――もしかしたら、それより遥か以前、敵として出会い、剣を交えたその瞬間から。
「だけど、さ」
数分後、再び手を繋いで煉瓦道を歩きながら、明日奈はふと感じた疑問を口にした。
「ソウル・トランスレーター……あれは、正常進化じゃない、ってキリト君は思うの? ブレイン・チップはNERDLESと同じ細胞レベル接続だけど、STLはその先、量子レベルのインタフェースなんでしょ?」
「うーん……」
和人は反対側の手にぶら下げた傘の先で、煉瓦をこつこつと叩いた。
「……確かに、思想としてはブレイン・チップより先進的かもしれない。でも、何ていうか……先進的すぎるんだ。あのマシンを、民生用にダウンサイジングするのは多分不可能だよ。あれは、仮想世界に同時に何万人、何十万人のオーダーで接続するための機械じゃない気がする」
「ええ? じゃあ、何のためのマシンなの?」
「魂レベルで仮想世界にダイブさせる、というより、むしろ、そのダイブによって魂……フラクトライトそのものを知るためのマシンなんじゃないかな……。その先に何があるのか、俺もまだよく判らないんだけど……」
「ふうん……」
つまりSTLは目的そのものではなく、手段だということなんだろうか、と明日奈は考え、魂を知ることで一体何ができるのか想像しようとしたが、その前に和人が言葉を続けた。
「それに、さ。STLは言わば……ヒースクリフの思想の延長にあるマシンだと思うんだ。あの男が、何のためにアインクラッドを作って一万人も殺して、自分の脳も焼き切って、ザ・シードなんてものをばら撒いたのか……その目的がなんだったのか、そもそも目的なんてあったのかどうか、俺にはさっぱりわからないけど、STLっていう化け物マシンには、あいつの気配がある気がするんだよ。その目指すところを知りたい気はするけど、それを自分の進路にはしたくない。いつまでもあいつの掌で躍ってるような気がして嫌になるからな」
「……そっか……団長の……。……ね、団長の意識、っていうか思考と記憶の模倣プログラムは、まだどっかのサーバーで生きてるんだよね? キリト君は、話をしたんでしょう?」
「ああ……一度だけ、な。あいつが自殺するのに使ったマシンは、メディキュボイド、そしてSTLの言わば原型だ。ヒースクリフが自分の思考コピーに何らかの目的を持たせていたとするなら、それはラースがSTLでしようとしていることと無関係じゃないと思う。今のバイトを続けることで……何らかの決着を見つけたいと、俺は思ってるのかもしれないな……」
すっと視線をどこか遠くに動かした和人の横顔を、明日奈はしばらく見つめていたが、やがてそっと呟いた。
「……ひとつだけ、約束してね。もう絶対、危ないことはしない、って」
「もちろん、約束するよ。来年の夏にはアスナと一緒にアメリカに行けるんだから」
「その前に、SATでいい点取れるようにがんばって勉強しないとね?」
「う……」
ふふ、と笑って、明日奈は握った手にきゅっと力を込めた。
「ね、みんなには……いつ言うの?」
「その前に、一度、アスナのご両親に挨拶しないとな……。彰三氏とはときどきメールやり取りしてるけど、お母さんの覚えが悪そうだからなあ俺……」
「へーきへーき、最近はずいぶん物分りいいから。あ、そうだ……どうせなら、今日ちょっと寄っていかない?」
「ええ!? い、いや……期末試験が終わったら、改めて伺うよ、うん」
「まったくもう」
明日奈は少し唇を尖らせて見せてから、しょうがないなあ、というように笑った。和人も照れたように片頬に笑みを浮かべる。
いつのまにか、自宅から程近い小さな公園の前に差し掛かっていた。明日奈は名残惜しい気分を味わいながら立ち止まり、わずかに高いところにある和人の目をじっと覗きこんだ。もう一度キスをねだるように、軽く睫毛を伏せる。
和人も明日奈の右肩に手を乗せ、そっと首を傾けた。
距離が五センチまで縮まったその時だった。背後から、ごつごつと重い足音が響いてきて、明日奈は反射的に体を遠ざけた。
振り向くと、少し先にあるT字路から小走りに飛び出してきた人影が視界に入った。黒っぽい服装をした長身の男は、明日奈と和人に視線を止めると、すいませぇん、と間延びした声を上げながら近づいてきた。
「あのぉ、駅はどっちの方ですか?」
ぺこぺこ頭を下げながら、そう訊いてくる。明日奈は内心で小さなため息をつきつつ、一歩進み出て、笑顔を作りながら口を開いた。
「えっと、この道をまっすぐこっちに進んで、最初の信号を右に曲がって……えっ」
突然和人が、強い力でぐいっと明日奈の肩を引いた。思わずよろけるが、和人は前に出ると、明日奈を更に大きく後方に押しやる。
「ど、どうし……」
「お前……ダイシー・カフェの近くに居たな。誰だ」
鋭い口調で、和人は明日奈の思いもかけないことを言った。息を飲み、改めて男の顔を見る。
斑に色の抜けた長髪。頬のこけた輪郭線は、無精髭に濃く覆われている。耳には銀のピアス、首元にも太い銀の鎖。退色した黒のプリントTシャツに、同じく黒の革パンツを穿き、腰からも金属チェーンがじゃらじゃらと下がっている。足は、この季節なのに重そうな編み上げブーツに包まれ、全体として埃っぽい色が染み付いた印象だ。
ぼさぼさの前髪の隙間から、笑ったように細い目が覗いていた。男は、和人が何を言っているかわからない、というように首を傾げ、眉を寄せてから――突然、暗い瞳にいやな色の光とギラリと浮かべた。
「……やっぱ、不意打ちは無理か」
打って変わって低い、ざらついた声だった。唇の端がぎゅっと歪み、笑みだか苛立ちだかわからない形を作る。
「お前は、誰だ」
重ねて和人が問いただした。男は肩をすくめると二、三度首を振り、大きなため息を吐いた。
「ヘイ、ヘイ、そりゃあないよキリト。オレの顔忘れたのかよ。オレは忘れたことなかったぜ、この一年半。ソー・バッドだな」
「お前っ……」
和人の背中がびくりと緊張した。右足を引き、軽く腰を落とす。
「――ジョニー・ブラック!」
電光のように閃いた右手が、肩の上、何も無い空間を掴んだ。かつてキリトの背に装備された片手直剣の柄があった、まさにその場所を。
「プッ、クッ、クハハハッハハハ! 無いよ、剣無いよ!!」
ジョニー・ブラックと呼ばれた男は、上体を捩って甲高い笑い声を迸らせた。和人は全身を緊張させたまま、ゆっくりと右手を下ろす。
明日奈は、その名前を知っていた。旧アインクラッドにおける積極的殺人者、レッド・プレイヤーの中でもかなり通りの良かった名だ。“ラフィン・コフィン”というギルドに属し、ザザという男とコンビを組んで十人を超えるプレイヤーをその手に掛けた。
脳裏に浮かんだ新しい名前は、更なる情報を明日奈の記憶から引き出した。“赤眼のザザ”――その名前は、ほんの半年前にも聞いたはずだ。そう……あの、恐るべき死銃事件の首謀者として。
主犯のザザとその弟は逮捕され、しかし三人目の仲間は逃亡中、と事件直後に聞いた。当然、もう捕まっているだろうと思っていたその犯人の名は、確かカナモト……そして、昔ザザとコンビを組んでいた男……。ということは――。
「お前……まだ逃げていたのか」
和人が掠れた声で言った。ジョニー・ブラックこと金本は、にいっと嗤うと両手の人差し指を和人に向けた。
「オフコ――ス。ザザが捕まる前に、キリトの奴だけはどうしても仕留めてくれって頼まれたからよ。あの喫茶店を探し当てるまで五ヶ月、その前に張り込んで一ヶ月……ヘイトな日々だったぜー」
くっくっ、ともう一度喉を鳴らし、金本はぐるんと両目を回した。
「しかしキリト、剣の無いてめえはなんつーか……単なるひ弱なガキだなぁ? 顔は同じだけど、オレを散々ぶちのめしたアイツと同一人物とは思えねーなぁ」
「そう言うお前も……得意の毒武器無しで何ができるんだ?」
「ヘイ、見た目で武装を判断するのは素人だぜ」
金本は蛇のような速さで右手を背中に回し、シャツの中から何かを掴み出した。
奇妙な代物だった。のっぺりとしたプラスチック製の円筒から、簡単な握り部分が突き出している。明日奈は一瞬水鉄砲かと思ったが、和人の背中が一層強張るのを見て息を飲んだ。途惑いは、続く和人の声を聞いて驚愕に変わった。
「デスガン……! 貴様っ……」
和人は後ろに右手を突き出し、明日奈に退がるよう促した。同時に、左手に持っていた畳んだ傘の先端を、ぴたりと金本の顔に向ける。
一歩、二歩と意識せぬまま後ずさりながら、明日奈の目はプラスチック製の銃に吸い寄せられていた。あの道具の話も、和人や詩乃から聞いていた。あれは高圧ガスを利用した注射器で、内部には心臓を止める恐ろしい薬品が充填されているのだ。
「あるよー、毒武器あるよぉー。ナイフでないのが残念だけどなー」
注射器の先端を円を描くように動かしながら、金本は軋るように笑った。和人は両手で握った傘を油断なく金本に向けながら、低い声で叫んだ。
「アスナ、逃げろ! 誰か人を呼んでくるんだ!」
一瞬の逡巡のあと、明日奈は頷き、くるりと振り向いて駆け出した。背中に向かって、金本の声が飛んでくるのが聞こえた。
「おい、“閃光”! ちゃんと周りに言うんだぜぇ……“黒の剣士”の首を取ったのはこのジョニー・ブラックだってなぁ!」
最寄の家のインターホンまでは、直線距離で三十メートルほどだった。
「誰か……助けて!!」
明日奈は精一杯の大声で叫びながら走った。和人を置いて逃げたのは間違いだったのではないか……二人で同時に飛び掛り、あの武器を押さえるべきだったのではないか、そう思いながら距離を半分ほど駆け抜けたとき、その音が耳に届いた。
炭酸飲料のキャップを捻るような、ヘアスプレーを吹くような、短く、鋭い圧搾音だった。だが、その意味するところを理解するに従って、恐怖のあまり明日奈の足はもつれ、よろけて、濡れた煉瓦に片手を突いた。
明日奈は、肩越しにゆっくり振り向いた。
視界に入ったのは凄絶な光景だった。
和人の握った傘の、金属製の石突が金本の腹部右側に根元まで突き刺さっている。
そして金本の握った注射器は、和人の左肩に強く押し当てられていた。
二人は同時にぐらりと上体を傾けると、そのまま鈍い音を立てて路上に倒れこんだ。
それからの数分間は、色の無い映画を見ているように現実感のないものだった。
明日奈は動こうとしない脚に鞭打って和人の傍まで駆け寄った。腹を押さえて苦悶している金本から和人を引き離し、しっかりして、と叫んだあと、ポケットから引っ張り出した携帯端末を開いた。
指は凍ったように感覚がなかった。強張ったその先端で必死にボタンを押し、オペレーターに現在地と状況を機械的に告げた。
今更のように集まってくる野次馬。誰かが通報したのか、人垣を割って現れる警官。明日奈は質問に短く答えただけで、あとはずっと和人の体を抱き締めつづけた。
和人の呼吸は短く、浅かった。苦しそうな息の下で、彼は二言だけ短く囁いた。「アスナ、ごめん」と。
永遠のような数分間ののち、到着した二台の救急車の片方に和人は搬入され、明日奈も付き添って乗り込んだ。
意識を失いストレッチャーに横たわる和人の気道を確保しながら、口元に顔を近づけた救急救命士は、すぐさま同乗している救急隊員に向かって叫んだ。
「呼吸不全を起こしている! アンビューバッグを!」
慌しく呼吸器が用意され、和人の口と鼻を透明なマスクが覆う。
明日奈はともすれば悲鳴を上げそうになる喉をどうにか押さえつけ、奇跡のように思い出した薬品名を救命士に告げた。
「あの、さ、サクシニルコリン……っていう薬を注射されたんです。左肩です」
救命士は一瞬の驚愕を見せたあと、矢継ぎ早に新しい指示を飛ばした。
「エピネフリン静注……いや、アトロピンだ! 静脈確保!」
シャツを脱がされた和人の左腕に輸液用の針が装着され、胸に心電モニターの電極が貼り付けられた。更に飛び交う声。空気を切り裂くサイレン。
「心拍、低下しています!」
「心マッサージ器用意!」
瞼を閉じた和人の顔は、蛍光灯の下で恐ろしいほど青ざめて見えた。やだ、やだよ、キリト君、こんなのやだよ、という小さい声が自分の口から出ていることに明日奈はしばらく気付かなかった。
「心停止!」
「マッサージを続けて!」
うそだよね、キリト君。わたしを置いて、どこかに行ったりしないよね。ずっと……一緒だって、そう言ったよね。
明日奈は、固く握ったままだった携帯端末に視線を落とした。
ELモニタに表示されているピンク色のハートは、一度小さく震えたあと、その鼓動を止めた。デジタル数字が、冷酷なまでに明確なゼロの値へと変化し、そのまま沈黙した。
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第三章
空気に、匂いがある。
覚醒直前の断片的な思考のなかで、ふとそんなことを意識した。
鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘やかな花の匂い。青々とした草の匂い。肺胞を洗うように爽快な樹の匂い。渇いた喉を刺激する水の匂い。
聴覚に意識を傾けると、途端に圧倒的な音の洪水が流れ込んでくる。無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。その下で控えめに奏でられる虫の羽音。更に遠くからかすかに届くせせらぎ。
どこだろう。少なくとも、自分の部屋じゃないな、などと今更のように考える。普段の目覚めに必ず付随する、乾いたシーツの日向くさい匂いやドライ運転のエアコンの唸り、階下から漂う味噌汁の香りといったものが一切存在しない。それに――さっきから閉じた瞼を不規則に撫でる緑の光は、消し忘れた照明ではなく木漏れ日ではないだろうか。
もう少しだけ深い眠りの余韻に漂っていたい、という欲求を押し退け、俺はようやく目を開けた。
揺れる無数の光がまっすぐ飛び込んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を、持ち上げた右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。
「……どこだ……?」
思わず呟いた。
まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に白や黄色の小さな花が群生し、それらの間を光沢のある水色の蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの五メートルほど先で途切れ、その向こうは、樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が連なる森のようだった。幹の間の薄暗がりに目を凝らすと、光の届く限りの範囲まで木々はずっと続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面はふかふかした苔で覆われ、差し込む陽光を受けて金緑色に輝いている。
首を右に動かし、ついで体ごと一回転してみたが、古木の幹はすべての方位で俺を出迎えた。森の中に開けた小さな円形の草地、その中心に俺は寝転んでいたらしい。最後に頭上を見上げると、四方から伸びる節くれだった梢の隙間に、ちぎれ雲の漂う青い空を望むことができた。
「ここは……どこだ」
もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声は無い。
こんな所に来て昼寝をした憶えは、どう記憶をひっくり返しても出てこなかった。夢遊病? 記憶喪失? 脳裏を横切る物騒な単語を、まさか、と慌てて打ち消す。
俺は――俺の名前は、桐ヶ谷和人。十七歳と八ヶ月。埼玉県川越市で、母親と妹の三人暮らし。
自分に関するデータが滑らかに出てきたことにやや安堵しながら、更に記憶を手繰る。
高校二年生。だが、来年の前学期には卒業要件単位を満たすので、秋には進学しようと考えている。そうだ、そのことに関して相談をしたはずだ。あれは六月最後の月曜日、雨が降っていた。授業が終わったあと、御徒町にあるダイシー・カフェに行って、ゲーム仲間のシノンと大会の打ち合わせをした。
そのあと、アスナ――そう、結城明日奈と合流して、しばらくお喋りをしてから店を出た。
「アスナ……」
恋人であり、全幅の信頼を置いて背中を任せるパートナーでもある少女の名前を俺は思わず口にした。傍らにあるのが当たり前になりつつあったその姿を探して周囲を何度も見回したが、小さな草地はもちろん深い森のどこにも彼女を見出すことはできなかった。
突然襲ってきた心細さと戦いながら、記憶を遡る作業に戻る。
店を出た俺とアスナは、シノンと別れて電車に乗った。JRを下回りに渋谷に出て、東横線に乗り換えてアスナの家がある世田谷へと。駅を出ると雨が止んでいた。濡れた煉瓦貼りの歩道を並んで歩きながら、進学の話をした。アメリカの大学へ行きたいと考えていることを打ち明け、アスナも一緒に行って欲しいと無茶な頼みごとをして、それに対して彼女はいつもの、穏やかな日差しのような笑顔を見せ、そして――。
記憶は、そこで途切れていた。
思い出せない。アスナが何と答えたのか、どうやって別れ、駅まで戻ったのか、家には何時に帰り、何時ごろ寝たのか、まったく思い出すことができない。
やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。
だが、アスナの笑顔が水に滲むようにぼやけて消えていくばかりで、それに続くべきシーンはどこをどう押しても引いても出てくることはない。目を閉じ、眉をしかめて、灰色の空白を懸命に掘り返す。
赤い――点滅する光。
気が狂いそうな息苦しさ。
ちっぽけな泡のように浮かんできたイメージは、そのふたつだけだった。思わず、胸一杯に甘い空気を吸い込む。今まで忘れていた喉の乾きが激しく意識される。
間違いない、俺は昨日、世田谷区宮坂にいたはずだ。それがなぜ、こんなどことも知れない森の中、一人で寝ているのか。
いや、本当に昨日なのか? 先ほどから肌を撫でていく風はひんやりと心地よい。六月末の蒸し暑さが、その中には欠片も存在しない。俺の背中を、今更のように本格的な戦慄が走り抜ける。
俺が今、大時化の海に浮かぶ小さな浮き輪の如く必死にしがみついているこの”昨日の記憶”は、果たして本当にあった事なのだろうか……? 俺は、本当に俺なのか……?
何度も顔を撫でまわし、髪を引っ張ってから、下ろした両手を仔細に眺める。記憶にあるとおり、右手親指の付け根に小さな黒子を、左手中指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。
そこでようやく、俺は自分が妙な恰好をしていることに気付いた。
普段寝るとき身に付けているTシャツとトランクスでも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。
上着は、薄青く染められた、荒い綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟は無く、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。
ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。丈はすねの中ほどまでしかない。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく、細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。
こんな服や靴に、お目にかかったことは無かった。――現実世界では、だが。
「なんだ」
俺は軽い溜息とともに小さくそう口にした。
果てしなく異質だが、しかし同時に見慣れた服装でもある。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、ハーフパンツ、そしてレザーシューズ。ここは、現実ではなくファンタジー世界、つまりお馴染みの仮想世界なのだ。
「なんだよ……」
もう一度呟き、改めて首を捻る。
どうやら、ダイブ中に寝てしまったらしい。しかしいつ、何のゲームにログインしたのか、さっぱり憶えていないのはどうしたことか。
何にせよ、ログアウトしてみればわかることだ、そう思いながら俺は右手を振った。
数秒待ってもウインドウが開かないので、今度は左手を振った。
途切れることのない葉音と鳥の囀りを聴きながら、腰のあたりから這い登ってくる違和感を懸命に振り払う。
ここは仮想世界だ。そのはずだ。だが――少なくとも、馴染んだアルヴヘイム・オンラインではない。いや、アミュスフィアが生成する、ザ・シード準拠のVRワールドではない。
なんとなれば、つい先刻俺は、手に現実世界と同じ黒子と傷痕を確認したではないか。そんなものを再現するアミュスフィア規格のゲームは、俺の知る限り存在しない。
「コマンド。……ログアウト」
薄い望みを抱きながらそう発音したが、一切のレスポンスは無かった。胡坐をかいたまま、改めて自分の手を眺める。
指先で渦を巻く指紋。関節部に刻まれた皺。薄く生えた産毛。先ほどからにじみ出てくる冷や汗の粒。
それを上着で拭い、ついでにもう一度布地を仔細に確認してみる。荒い糸を、原始的な方法で布に編んである。表面に毛羽立つ極細の繊維までがはっきりと見える。
ここが仮想世界だとすると、それを生成しているマシンは恐るべき高性能機だ。俺は視線を前方に据えたまま、右腕を素早く動かして傍らの草を一本千切りとり、目の前に持ってきた。
従来のVRワールドに使われているディティール・フォーカシング技術なら、俺の急激な動きに追随できず、草が細部のテクスチャーを得るのにわずかなタイムラグが発生したはずだ。しかし眼前の草は、細かく走る葉脈や縁のぎざぎざ、切り口から垂れる水滴にいたるまで、俺が凝視した瞬間から超微細に再現されていた。
つまりこの世界は、視界に入るすべてのオブジェクトを、マイクロメートル単位でリアルタイム生成しているということになる。容量で言えば、この草一本で数十メガバイトにのぼるだろう。そんなことが、果たして可能なものだろうか?
俺は、これ以上追及したくない、という心の声を押さえつけ、足の間の草を掻き分けると右手をシャベルがわりに土を掘り返してみた。
湿った黒土は案外柔らかく、たちまち細く絡み合った草の根っこが目に入った。網目のようなその隙間にもぞもぞと動くものを見つけ、指先でそっとつまみ出す。
三センチほどの小さなミミズだった。安住の地から引っ張り出され、懸命にもがくそのミミズは、しかし光沢のある緑色で、オマケにキューキューと細い鳴き声を上げた。俺は眩暈を感じながらそいつをもといた場所に戻し、掘り返した土をその上にかけた。右手を見ると、掌がしっかりと黒く汚れ、爪の間に細かい土の粒が入り込んでいた。
たっぷり数十秒間放心したあと、俺は嫌々ながら、この状況を説明するに足る可能性を三つばかり捻り出した。
まず、ここが、従来のNERDLES技術の延長線上にあるVR世界である、という可能性。しかしその場合、俺の記憶にあるどんなスーパーコンピュータでもこんな超微細な3Dワールドは生成できない。つまり、俺が記憶を失っているあいだに、現実時間で数年、もしかしたら数十年の時間が経過してしまった、ということになる。
次に、ここは現実世界のどこかである、という可能性。つまり俺は何らかの犯罪、あるいは違法実験、あるいは手酷い悪戯の対象となり、こんな服を着せられて地球上のどこか――気候からして北海道、ことによると南半球か?――の森に放り出された。しかし、日本にはキューキュー鳴くメタリックグリーンのミミズはいないと思うし、世界のどこかの国にいたという記憶もない。
そして最後は、ここが本物の異次元、異世界、ことによると死後の世界であるという可能性だ。マンガや小説、アニメではお馴染みの出来事。それらのドラマツルギーに従えば、俺は今後、モンスターに襲われた女の子を助けたり村の長の頼みごとを聞いたり救世の勇者として魔王と戦ったりするのだろう。そのわりには、腰には”銅の剣”の一本もありゃしない。
俺は腹を抱えて大爆笑したいという急激な欲求に襲われ、どうにかそれをやり過ごしてから、三つ目の可能性は完膚なきまでに排除することにした。現実と非現実の境界を見失うと、ついでに正気も無くしてしまいそうな気がしたからだ。
つまるところ――ここは仮想世界か、あるいは現実世界だ。
前者なら、たとえどれほどスーパーリアルな世界であろうと、その真偽を確かめるのはそう難しくない。手近な樹の天辺まで登り、頭から墜落してみればわかる。それでログアウト、あるいはどこぞの寺院なりセーブポイントで蘇生すれば仮想世界である。
しかし、もしもここが現実世界であった場合、その実験は最悪の結果を招く。ずいぶん昔に読んだサスペンス小説で、とある犯罪組織が、リアルなデスゲームのビデオを撮影するために、人を十人ほど攫って無人の荒野に放り出して殺し合いをさせるという奴があった。そんなことが現実に行われるとは中々思えないが、それを言ったらSAO事件だって同じくらい突拍子も無い出来事だったのだ。もしこれが現実世界を舞台に行われているゲームなら、スタート直後に自殺するのはあまりいい選択肢とは思えない。
「……そういう意味じゃあ、アレはまだマシだったのかなあ……」
俺は無意識のうちにそう口に出していた。少なくとも、茅場晶彦はゲーム開始時点にあれこれ細かい説明をするという最低限の義務は果たしたのだ。
梢の向こうに覗く空を見上げ、俺はもう一度口を開いた。
「おい、GM! 聞いてたら返事しろ!!」
だが、どれだけ待っても、巨大な顔が現われたり、フードを被った人影が横に出現したりということは無かった。もしやと思い周囲の草むらを再度仔細に調べ、衣服のあちこちを手で探ったが、ルールブックに類するものを見つけることもできなかった。
どうやら、俺をこの場所に放り出した何者かは、サポートヘルプには一切応じるつもりはないようだ。事態が、ある種の偶発的事故によるものでないのなら、だが。
鳥たちの呑気な囀りを聞きながら、俺は今後の方針について懸命に考えた。
もし、これが現実の事故であるなら、迂闊に動き回るのはあまりいい考えではないような気がする。現在、この場所に向かって救助の手が近づきつつあるかもしれないからだ。
しかし、一体どのような事故が起きればこんな訳のわからない状況が出来するというのだろう。無理矢理にこじつけるなら、例えば旅行か何かで移動中に乗り物――飛行機なり車なりがトラブルを起こし、この森に落下して気絶、そのショックで前後の記憶を失った、ということも有り得なくはないのかもしれない。しかしそれでは、この妙な服装の説明がつかないし、また体のどこにも擦り傷ひとつ負っている様子はない。
あるいは、仮想世界にダイブ中の事故、ということもあるのかもしれない。通信ルートに何か障害が発生し、本来繋がるべき世界ではない場所にログインしてしまった、というような。しかしやはりその場合も、オブジェクトの恐るべきハイディティールっぷりを説明することはできない。
やはりこれは、何者かの意図によってデザインされた事態と思うほうが無理がないように思える。であるなら、俺から何か行動を起こさない限り状況は一切変化しない、と考えたほうがいい。
「どっちにせよ……」
ここが現実なのかVRワールドなのか、それだけはどうにかして見極める必要がある、と俺は呟いた。
何か方法があるはずだ。完璧に近づいた仮想世界は現実と見分けがつかない、とはよく使われるフレーズだが、現実世界の森羅万象を百パーセントシミュレートするなどということが可能だとは思えない。
俺はしゃがみこんだ恰好のまま、五分近くもあれこれ考えつづけた。が、現状で実行可能なアイデアは、ついに出てくることはなかった。もし顕微鏡があれば、地面に微生物が存在するかどうか調べられるし、飛行機があれば地の果てまで飛んでみることもできる。しかし悲しいかな生身の手足だけでは、地面を掘るくらいがせいぜいのところだ。
こんな時、アスナならきっと俺などが思いもよらない方法で世界の正体を判別してのけるんだろうなあ、と考え、短く嘆息する。あるいは彼女なら、くよくよいつまでも座り込んでいないで、とっとと行動に出ているのかもしれない。
再び襲ってきた心細さに、俺は小さく唇を噛み締めた。
アスナに連絡を取れないというだけで、こんなにも途方に暮れている自分に少々驚きもするし、そうだろうな、と納得する部分もある。この二年というもの、殆どすべての意思決定を彼女との対話を通して行ってきたのだ。今では、アスナの思考回路なしでは、俺の脳は一方のコアが動かないデュアルCPUのようなものだ。
主観時間ではつい昨日、エギルの店で何時間もお喋りに興じたのが嘘のように思える。こんなことなら、STLの話なんかしないで、現実世界と超精細仮想世界の見分け方でもディスカッションしておくべきだった……
「あっ……」
俺は思わず腰を浮かせた。周囲の音が急速に遠ざかる。
何ということだ、今までそれを思い出さなかったとはまったくどうかしている。
俺は知っていたはずじゃないか。NERDLESマシンを遥かに超える、超現実とでも言うべきVRワールドを生成できるそのテクノロジーを。それでは――ということは、ここが――。
「ソウルトランスレーターの中……? ここが、アンダーワールドなのか……?」
呟いた声に応えるものはいなかったが、俺はそれをほとんど意識もせずに呆然と周囲を見回した。
本物としか思えない節くれだった古木の森。揺れる草叢。舞う蝶。
「これが夢……? 俺の深層イメージの加工物だっていうのか……?」
ベンチャー企業”ラース”でのアルバイト初日に、STLの大雑把な仕組みとそれが生成する世界のリアルさについては説明を受けていた。しかし、実際に仮想世界を見た記憶の持ち出しが許されないために、俺は今までぼんやりと想像することしかできなかった。”組み立てられた夢”というその言葉が導く印象は、酷く混沌とした、一貫性のない舞台劇というようなものだった。
ところがどうだ。いま俺の目に入るあらゆるオブジェクトは、リアル、つまり現実っぽい、などというレベルのものではない。ある意味では現実以上である。空気の匂いも、風の感触も、鮮やかな色彩をもつ風景のすべてが、初代ナーヴギアをはるか上回るクリアさで俺の五感を刺激している。
もしここがSTLによって作られた世界なら、それがバーチャルなものであることを何らかのアクションによって確かめるのはほとんど不可能だ。なぜなら、周囲のオブジェクトはすべて、デジタル処理されたポリゴンではないからだ。俺は、現実世界で草の葉を千切り、眺めたときと全く同じ情報を脳――フラクトライトに与えられるのであり、原理的にそれがどちらの世界に属するものなのか判別することはできない。
STL実用化の暁には、世界がそれとわかるようなマーカーが絶対に必要だな……と思いながら、俺はふうっと肩の力を抜き、立ち上がった。
まだ完全な確証を得られたわけではないが、ここは”アンダーワールド”なのだと考えるのがもっとも自然だろう。つまり俺は現在、時給三千五百円のバイト中なのだ。
「いや、でも……ヘンだな……?」
ほっとしたのも束の間、俺はふたたび首を捻ることになった。
担当エンジニアは、確かにこう言っていたはずだ。実験データの汚染を避けるため、アンダーワールドに現実世界の記憶は持ち込めない、と。だが今の状況はそれとはほど遠い。俺が失っているのは、アスナを家に送っていくところからマシンに接続するまでのごく部分的な記憶だけだ。そもそも俺は、間近に迫った期末考査の勉強をするために、当分ラースでのバイトはしないつもりだったのだ。
この状況がSTLのテスト・ダイブなのだとしても、何か深刻な齟齬が起きているのは間違いない。俺は、以前もらったエンジニアの名刺をどうにか思い出しながら、再び上空を振り仰いだ。
「平木さん! 見てたら、接続を中止してくれ! 問題が発生してるみたいだ!」
たっぷり十秒以上、そのまま待った。
しかし、うららかな日差しの下に緑の梢が揺れ、眠そうに蝶が羽ばたきつづける光景は何一つ変化することはなかった。
「……もしかしたら……」
俺は溜息とともに呟いた。
もしかしたら、この状況そのものが、俺も納得ずくの実験である、ということなのかもしれなかった。つまり、自分のいる場所がSTLの内部なのかどうか確信できないユーザーは、一体どのような行動を取るのか、というデータを採取するために、ダイブ直前の記憶をブロックして身一つで仮想世界に放り込む。
仮にそうだとしたら、そんな底意地の悪い実験に軽々しく同意した自分の頭を、思い切り小突いてやりたい気分だ。自分なら的確かつ俊敏な行動によって容易く脱出してのけるはず、などと思っていたのなら噴飯ものとしか言いようがない。
俺は、右手の指を折りながら、現状を説明するに足るいくつかの可能性を、いいかげんなパーセンテージつきで列挙した。
「ええと……ここが現実である可能性、3パーセント。従来型VRワールドである可能性、7パーセント。合意によるSTLテストダイブである可能性、20パーセント。STLダイブ中の突発的事故である可能性、69.9999パーセント……ってとこか……」
心の中で、ホンモノの異世界に迷い込んだ可能性0.0001パーセント、と付け加え、俺は右手を腰に当てた。これ以上は、なけなしの知恵を絞っても無駄だろう。ある程度の確信を得るためには、危険を冒して他の人間もしくはプレイヤーもしくはテストダイバーに接触するしかない。
行動を起こすべき時だった。
まずは、そろそろ耐えがたいほどに渇きを訴えはじめている喉を潤したい。俺は、剣はおろか棒一本差していない背中を寂しく思いながら、小さな草地をあとにした。かすかなせせらぎが聞こえてくる方角――太陽の向きからしておそらく東を目指し、巨大な自然の門柱めいた古樹のあいだへと足を踏み入れる。
びろうどの絨毯のような苔と、驚くほど大きい羊歯類に覆われた森の底は、背後の円い草地とは打って変わって神秘的な世界だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほぼ完全に奪い去ってしまい、地表まで届くのは薄い金色の細い帯でしかない。そのわずかなエネルギーのお零れを逃すまいと、緑色の丸石のうえで日向ぼっこをしているコバルト色の小さなトカゲが目に入る。
先刻まで俺の周りを飛んでいた小さな蝶のかわりに、トンボのような蛾のような奇妙な虫が音もなく宙をすべり、時折どこからか甲高い正体不明の獣の鳴き声が届いてくる。
頼むから、今危険な獣とかモンスターとか出てくるのはナシにしてくれよ、と思いつつふかふかの苔の上を、十五分も進んだだろうか。再び前方に、たっぷりとした日差しの連なりが現われ、俺は少なからずほっとした。
もうかなり明瞭になりつつある水音からして、数十メートル先を南北に川が流れているのは間違いなさそうだった。からからの喉が発する悲鳴に引っ張られるように、自然と足が速まる。
鬱蒼とした森を飛び出ると、幅三メートルほどの草地を隔てて、きらきらと陽光を跳ね返す水面が目に入った。
「み、みずー」
情けなくうめきながら俺は最後の数歩をよろよろと踏破し、草花が生い茂る川べりへと身を投じた。
「うおっ……」
そして腹ばいのまま、思わず嘆声を上げた。
何という美しい流れだろうか。川幅はそれほど広くないが、ゆるやかに蛇行するその水流はすさまじい透明度だ。純粋な無色に一滴だけ青の絵の具を垂らしたような、清澄な色合いの流れを通して、水藻がたなびく川底がくっきりと見て取れる。
つい数秒前までは、正直、ここが現実世界である可能性がわずかに残されている以上生水を飲むのは危険かもしれないと思っていた。のだが、水晶を溶かしたようなという形容詞が相応しいこの水流を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。切れそうなその冷たさに思わず奇声を上げながら、すくい取った液体を口に流し込む。
甘露、とはこのことだろう。一切の不純物を感じさせず、それでいてほのかに甘く爽やかな味の水は、二度とコンビニ売りのミネラルウォーターに金を払う気がなくなるほどの美味さだった。堪らず、両手で立て続けに何度も掬い、仕舞には直接川面に顔を突っ込んで、得心がいくまで思うさま貪る。
まさに命の水に陶然となりながら、俺は心の片隅で、ここが従来型NERDLESマシン内世界である可能性を完全に排除した。
なんとなれば、いわゆるポリゴンで完全な液体環境を体感させるのは不可能なのである。
ポリゴンというのは、もともとソリッドなオブジェクトと最も親和性がある代物なのだ。その正体は、立体空間上の有限個数の座標であり、動く液体のように常にランダムな分離変形を続けるものを再現するのは苦手と言わざるを得ない。見かけをフラクタルなライティング技術で表現することはできても、それを触覚信号に変換できる形で完全に再現するのは、アミュスフィアのようなコンシューマ機はもちろん最新のワークステーションでも難しい。
よって、例えば旧アインクラッドでは、バスタブに溜めた湯に浸かっても、与えられるのは温感と圧感、それに視覚上の水面反射光だけだった。その状況は現行のALOでも変わらず、つまり俺が今両手と顔で感じている”完璧な液体感覚”は現実のものか、あるいはSTLによって想起させられた擬似現実だ、と判断することができるのだ。
高価なエリクサーを腹いっぱいがぶ飲みしたような充足感、回復感を味わいながら、俺は上体を起こした。
ついでに、ここが本物の現実世界である、という可能性も投げ捨ててしまいたい気分だ。こんな綺麗な川や、対岸にまた奥深く続いている幻想的な森や、色鮮やかで奇妙な小動物たちが、地球のどこかに実在するとはとても思えない。だいたい、自然なんてものは、人の手が触れなければ触れないほど人にとって過酷な環境になるものではないのだろうか? 先ほどからごく軽装でうろついている俺の体のどこにも、虫食い痕のひとつもないのはどうしたわけだ?
――などと考えているとSTLが原記憶層から毒虫の大群を召還しないでもない、と思ったので、俺は想念を振り払って再度立ち上がった。ここが現実世界である可能性を1パーセントに格下げしてから、さて、と左右を見回す。
川は、ゆるやかな円弧を描いて北から南へと流れているようだった。どちらの方向とも、その先は巨樹の群に飲み込まれ、見通すことはできない。
水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、かなり水源に近い場所であるような気がした。となれば、人家なり街なりがもし存在するなら下流のほうが可能性が高そうだ。
ボートでもあれば楽かつたのしいだろうになあ、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした――
その時だった。
わずかに向きを変えた微風が、俺の耳に奇妙な音を運んできた。
硬く、巨大な何かを同じく硬い何かで打ち据えた、そんな音だった。一回ではない。およそ三秒に一度、規則正しいペースで聞こえてくる。
鳥獣や自然物が発生源とは思えなかった。九分九厘、人の手によるものだ。接近することに危険はあるだろうか、と一瞬考えてから小さく苦笑する。ここは奪い合い殺し合いが推奨されるMMORPG世界ではない。他の人間と接触し情報を得るのが、現在の最優先オプションだ。
俺は体を半回転させ、かすかな音が響いてくる、川の上流に向き直った。
ふと、不思議な光景が見えたような気がした。
右手にさざめく川面。左手に鬱蒼と深い森。正面にはどこまでも伸びる緑の道。
そこを、横一列に並んで、三人の子供が歩いていく。黒い癖っ毛の男の子と、亜麻色のおかっぱ髪の男の子に挟まれて、麦わら帽子を被った女の子の長い金髪がまぶしく揺れる。真夏の陽光をいっぱいに受けて、金色の輝きを惜しげもなく振りまく。
これは――記憶……? 遠い、遠い、もう二度と戻れないあの日――永遠に続くと信じ、それを守るためならなんでもすると誓い、しかし日に晒された氷のように、あっけなく消え去ってしまった――
あの懐かしい日々。
まばたきをひとつする間に、幻は跡形もなく消滅した。
俺は呆気に取られてしばらく立ち尽くした。
今のはいったい何だったのだろう。突然襲ってきた、圧倒的な郷愁とでもいうようなもののせいで、まだ胸の真ん中が締め付けられるように痛い。
幼い頃の記憶――、川べりを歩く子供たちの後姿を見たとき強くそう感じた。右端を歩いていた黒髪の少年、あれは俺だと。
しかしそんなはずはないのだ。俺が物心つくころから暮らしている川越市には、こんな深い森や綺麗な小川は無いし、金髪の女の子と友達だったことも一度もない。そもそも、三人の子供たちは皆、今の俺のような異国の服を身につけていた。
ここがSTLの中なら、もしかしたら今のが、先週末に行った連続ダイブ試験中の記憶の残り滓なのか? そんなふうにも思ったが、STLの時間加速機能を考えても、俺が中で過ごしたのはせいぜい十日のはずだ。しかしあの深い憧憬が、そんな短期間で作られたとはとても考えられない。
いよいよもって、事態は不可解な方向へと突き進みつつあるようだった。俺はほんとうに俺なのか、という疑いに再度取り付かれおそるおそる傍らの川面を覗き込んだが、うねる流れに映し出された顔は絶えず歪んで、判別することは不可能だった。
ちくちくと残る痛みの余韻を、これもひとまずは棚上げすることにして、俺は相変わらず聞こえている謎の音に耳を済ませた。記憶の混乱に襲われたのはこの音のせいだろうか、とも思ったが、検証することはできそうもない。首を振り、音の源目指してふたたび歩き出す。
ひたすら両足を動かしつづけ、美しい風景を楽しむ余裕をどうにか取り戻せたころ、俺は音の方向が左にずれつつあるのを意識した。どうやら音源はこの川沿いではなく、左側の森に少し分け入った場所らしい。
指折り数えてみると、不思議な硬い音は連続して鳴りつづけているわけではなかった。きっかり五十回続くとおよそ三分途切れ、再開するとまた五十回続くのだ。いよいよ、人間が作り出しているとしか思えない。
俺は三分間の一時停止を頻繁に挟みながら歩きつづけた。適当な地点で川辺を離れ、森の中へ踏み込む。ふたたび出迎えた奇妙なトンボやコガネ虫やキノコ達のあいだを、ひたすらに進む。
「……49、……50」
いつしか小声で数えていた音が止まると同時に、俺もまた立ち止まった。べつに疲労しているわけでもない身には、こうも頻繁なインターバルは気を急かされるが、闇雲に歩いて迷うよりマシだと言い聞かせながら足元の苔むした岩に腰をかける。
すぐ近くの木の根のうえを、青紫色の殻をもつ大きなカタツムリが這っていた。その遅々とした歩みをぼんやり眺めながら、音が再開するのを待った。
が、カタツムリが根っ子の橋を渡りきって幹に達し、果て無き絶壁に挑み始めるころになっても、森の空気は静謐を守りつづけた。計っていたわけではないが、三分はとっくに経過している。俺は顔をしかめ、立ち上がると、意識を聴覚に集中した。
そのまま更に数分待ったが、音がまた鳴りはじめる様子はない。これは困ったことになった……と周囲をきょろきょろ見回す。元きた方向と、さっきまで音がしていた方向は、どうにか見分けがつきそうだった。最悪、川まで戻れればそれでいいと自分を納得させ、消えた音源めざして進んでみることにする。
うーん、もしかしたらあの音は、森に迷い込んだ愚か者を誘う魔女のワナか何かなのかなあ、とどきどきしながらも、しかしひたすらに真っ直ぐ俺は歩きつづけた。目印がわりに撒くパンを持っていないのは残念だが、どうせ撒いても鳥がみんな食ってしまうに違いない。
いつのまにか、前方の木立の隙間が明るくなりつつあるのに俺は気付いた。森の出口だろうか、ことによると村があったりするのかもしれない。足早に光の差すほうへと進む。
階段状に盛り上がった木の根を攀じ登り、古樹の幹の陰から顔を出した俺が見たのは――
とてつもないものだった。
森が終わっているわけでも、村があるわけでもなかった。しかし失望を感じる暇もなく、俺は口をぽかんと開けて眼前の光景に見入った。
森の中にぽっかり開いた円形の空き地。先刻俺が目を覚ました草地よりもはるかに広い。さしわたし三十メートルはあるだろう。地面はやはり金緑色の苔に覆われているが、これまで歩いてきた森と違うのは、羊歯やつる草、背の低い潅木の類がまったく存在しないことだ。
そして、空き地の真ん中に、俺の視線を釘付けにしたそれが聳え立っていた。
なんという巨大な樹だろうか! 幹の直径は目算でも四メートル以下ということはない。この森でこれまで見た樹木のすべてが、ごつごつと幹を波打たせた広葉樹だったのに対して、目の前の巨樹は垂直に伸び上がる針葉樹だ。その皮はほとんど黒に近いほど濃い色で、見上げればはるか上空で幾重にも枝を広げている。屋久島の縄文杉やアメリカのセコイア杉も巨大だが、この樹の持つ圧倒的な存在感は、自然界の樹木とは思えない、王の傲慢さとでも言うべきものすら放っているように感じられた。
梢などまったく見えない巨樹の上部から、再び視線を根元に戻していく。大蛇のようにのたうつ根に注目すると、それは四方に網目のごとく広がり、俺が立つ空き地の縁ぎりぎりまで達しているのが見て取れた。むしろ、この樹に地力のすべてを奪われた結果、苔以外の植物が一切育つことができず、結果としてこの大きな空間が森に開いた、というようにも思える。
俺は、王の庭に侵入することに多少の気後れをおぼえたが、巨樹の幹に触れてみたいという誘惑に抗えず足を踏み出した。苔の下でうねる根に何度か足を取られながら、それでも頭上を見上げるのを止められないまま、ゆっくり前進する。
何度目かの感嘆の溜息を漏らしながら、巨樹の幹まであと数歩、という所まで近づいた俺は、周囲への警戒などまったく忘れ去っていた。ゆえに、気付くのがずいぶん遅くなった。
「!?」
ふと正面に戻した視線が、幹のむこうから覗く誰かの眼とまっすぐぶつかって、俺は息を飲んだ。びくっと体を弾ませながら半歩あとずさり、腰を落とす。あやうく右手を、剣など差していない背中に持っていくところだった。
しかし幸いなことに、この世界で初めて出会う人間は、敵意はおろか警戒心すら抱いていない、とでも言うようにただ不思議そうに首をかしげていた。
同い年くらいの少年と見えた。柔らかそうな濃いブラウンの髪を長めに垂らし、服装は俺と似たような生成りの短衣とズボンだ。巨樹の根元に腰を下ろし、背中を幹に預けている。
不思議なのは、その顔立ちだった。肌はクリーム色だが、西洋人とは言い切れず、かと言って東洋人でもない。線の細めな、穏やかな目鼻立ちで、瞳の色は濃いグリーンに見える。
こちらにも敵意のないことを示そうと、俺は何かを言うべく口を開いたが、さて何を喋ったものかさっぱり見当がつかない。間抜け面で何度か口をぱくぱくさせていると、先方のほうが先に言葉を発した。
「君は誰? どこから来たの?」
完璧なイントネーションの、それは日本語だった。
俺は、黒い巨樹を見たときと同じくらいの衝撃を受けてしばし立ち尽くした。別に白人が日本語をしゃべるのが珍しいというわけではなく、このどう見ても日本ではない世界で完璧な日本語を聴くとは思っていなかったのだ。中世西欧風の衣服を身に着けたエキゾチックな少年の口から聞きなれた母国語が流れ出る光景は、まるで吹き替えの洋画を見ているような非現実感を俺にもたらした。
だが、呆けている場合ではない。ここが思案のしどころなのだ。俺は、近頃錆びつき気味だった脳味噌を必死に回転させた。
この世界がSTLの作り出した”アンダーワールド”だと仮定すると、目の前の少年は、一、ダイブ中のテストプレイヤーであり、俺と同じように現実世界の記憶を保持している、二、テストプレイヤーだが記憶の制限を受けており、この世界の住人になりきっている、三、コンピュータの動かしているNPCである、のいずれかだと推測できる。
一番なら話は早い。俺の置かれている異常状況を説明し、ログアウトする方法を教えてもらえばいい。
しかし二番、あるいは三番の場合はそう簡単にはいかない。アンダーワールドの住民としてのみ行動している人間またはNPCに向かって、いきなりソウルトランスレーターの異常だのログアウト方法だのと彼にとっては意味不明であろう単語を口走れば、激しい警戒心を呼び覚ましその後の情報収集の妨げとなりかねないのだ。
よって俺は、安全そうな単語のみ選んで彼と会話を交わし、そのポジションを見極める必要があるのだった。掌に浮かぶ冷や汗をこっそりズボンで拭いつつ、俺は笑顔らしきものを浮かべながら口を開いた。
「お……俺の名前は……」
そこで一瞬口篭もる。果たしてこの世界では、和風と洋風どちらの名前が一般的なのだろう。どっちとも取れる響きであることを祈りつつ、名乗る。
「――キリト。あっちのほうから来たんだけど、ちょっと、道に迷ってしまって……」
背後、おそらく南の方角を指差しながらそう言うと、少年は驚いたように目を丸くした。身軽な動作で立ち上がり、俺が元来たほうを指差す。
「あっちって……森の南? ザッカリアの街から来たのかい?」
「い、いや、そうじゃないんだ」
早速の窮地に思わず顔がこわばりそうになるのを、どうにか我慢する。
「それが、その……俺も、どこから来たかよくわからないんだ……。気付いたら、この森に倒れてて……」
おや、STLの異常かな? ちょっと待ってくれ、オブザーバーに連絡するから。――という返答を心の底から期待したが、少年は再度驚愕の表情を見せながら、俺の顔をまじまじと見ただけだった。
「ええっ……どこから来たかわからないって……今まで住んでた街とかも……?」
「あ、ああ……憶えてない。わかるのは、名前だけで……」
「……驚いたなあ……。”ベクタの迷子”か、話には聞いていたけど……本当に見るのは初めてだよ」
「べ、べくたのまいご……?」
「おや、君の街ではそう言わないのかい? ある日突然いなくなったり、逆に森や野原に突然現われる人を、このへんじゃそう呼ぶんだよ。闇の神ベクタが、悪戯で人間をさらって、生まれの記憶を引っこ抜いてすごく遠い土地に放り出すんだ。僕の村でも、ずーっと昔、お婆さんがひとり消えたんだって」
「へ、へえ……。じゃあ、俺もそうなのかもしれないな……」
雲行きが怪しいぞ、と考えながら俺はうなずいた。目の前の少年が、いわゆるロールプレイをしているテストプレイヤーであるとはどうにも思えなくなってきたからだ。最後の望みをかけて、言葉を選びつつ口を開く。
「それで……どうにも困ってるんで、一度ここを出たいんだ。でも、方法がわからなくて……」
これで状況を悟ってくれ、と必死に祈ったが、少年は同情するような光を茶色の瞳に浮かべ、頷きながら言った。
「うん、この森は深いからね、道を知らないと抜けるのは大変だよ。でも大丈夫、この樹から北に向かう道があるから」
「い、いや、その……」
ええいままよ、とやや危険な単語をぶつけてみる。
「……ログアウトしたいんだ」
一縷の望みをかけたその言葉に、少年は大きく首を傾げ、聞き返した。
「ろぐ……なんだって? 今、何て言ったんだい?」
これで確定、と見てよさそうだった。目の前の少年は、テストプレイヤーにせよNPCにせよ完全にここの住人であって、”仮想世界”などという概念は持っていないのだ。俺は失望を顔に出さないよう気をつけながら、どうにか誤魔化すべく言い足した。
「ああ、ご、御免、土地の言い回しが出ちゃったみたいだ。ええと……どこかの村か街で泊まれる場所を見つけたい、っていう意味なんだ」
我ながら苦しすぎる、と思ったが少年は感心したように頷くのみだった。
「へえ……。初めて聞くなあ、そんな言葉。黒い髪もこのへんじゃ珍しいし……もしかしたら南国の生まれなのかも知れないねえ」
「そ、そうかもしれない」
強張った笑いを浮かべると、少年もにこっと邪気の無い笑顔を見せ、次いで気の毒そうに眉をしかめた。
「うーん、泊まれるところか。僕の村はこのすぐ北だけど、旅人なんてまったく来ないから、宿屋とか無いんだよ。でも……事情を話せば、もしかしたら教会のシスター・アザリヤが助けてくれるかもしれないな」
「そ……そうか、よかった」
その言葉は本心だった。村があるなら、そこにはもしかしたらラースのオブザーバーが常駐しているか、あるいは外部からモニターしている可能性もある。
「それじゃあ、俺は村に行ってみるよ。ここからまっすぐ北でいいの?」
視線をうごかすと、確かに俺がやってきた方向とほぼ反対側に、細い道が伸びているのが見えた。
が、足を踏み出すより早く、少年が左手で制する仕草をした。
「あ、ちょっと待って。村には衛士がいるから、いきなり君が入っていったら説明するのが大変かもしれない。僕が一緒に行って事情を説明してあげるよ」
「それは助かるな、ありがとう」
俺は笑みとともに礼を言った。同時に内心で、どうやら君はNPCじゃないね、と呟いていた。
プリセット反応しかできない擬似人格プログラムにしてはあまりにも受け答えが自然すぎるし、俺に積極的に関わろうとする行動もNPCらしくない。
六本木にあるラース開発支部か、あるいはベイエリアのどこかにあるというラース本社のどちらでダイブしているのかわからないが、目の前の少年を動かすフラクトライトの持ち主はかなり親切な性格なのだろう。無事に脱出できた暁にはきちんと礼を言うべきかもしれない。
などと考えていると、少年が再度顔を曇らせた。
「ああ……でも、すぐにはちょっと無理かな……。まだ仕事があるから……」
「仕事?」
「うん。今は昼休みなんだ」
ちらりと動いた瞳の先を見ると、少年の足元の布包みから、丸いパンらしき固まりがふたつ覗いていた。その他には革の水筒がひとつあるだけで、昼ご飯だとするとえらく質素なメニューだ。
「あ、食事の邪魔をしちゃったのか」
俺が首をすくめてそう言うと、少年ははにかむように笑った。
「仕事が終わるまで待っててくれれば、一緒に教会まで行ってシスター・アザリヤに君を泊めてくれるよう頼んであげられるけど……まだあと四時間くらいかかるんだ」
一刻も早く村とやらに飛んでいき、この状況を説明できる人物を探したいのはやまやまだが、また薄氷を渡るような会話を繰り返すのは勘弁という気持ちのほうが大きかった。四時間というのは短くないが、STLの時間加速機能を考えれば現実では一時間強ていどしか経過しないはずだ。
それに、何故だかわからないが、もう少しこの親切な少年と会話をしてみたいという気分もあった。俺はこくりと頷きながら言った。
「大丈夫、待ってるよ。すまないけど、よろしく頼む」
すると、少年はにこっと大きく笑い、頷き返した。
「そう、じゃあ、ちょっとそのへんに座って見ててよ。あ……まだ、名前を言ってなかったね」
右手をぐっと差し出し、少年は続けた。
「僕の名前はユージオ。よろしく、キリト君」
SAO4_06_Unicode.txt
見た目よりもしっかりと硬く力強い手を握り返しながら、俺は少年の名前を何度か口中で転がした。聞きなれない響きだが、しかしどこかしっくりと舌に馴染む気がする。
ユージオと名乗る少年は、手をほどくと再び巨樹の根元に座り込み、布包みから取り出した丸パンの片方を俺に差し出した。
「い、いいよそんな」
慌てて手を振ったが、引っ込める様子はない。
「キリト君だってお腹空いてるんじゃないの? 何も食べてないんでしょ」
言われた途端、俺は強烈な空腹感を意識して思わず苦笑いした。川の水は美味かったが、腹持ちがいいとはとても言えない。
「いや、でも……」
尚も遠慮していると、手にぐいっとパンを押し付けられてしまい、俺は已む無く受け取った。
「いいんだ。僕、あんまり好きじゃないんだこれ」
「……じゃあ、ありがたく頂くよ。ほんとは腹へって倒れそうなんだ」
あははと笑うユージオの前の木の根に、俺も腰を下ろしながら言い添えた。
「それと、キリトでいいよ」
「そう? じゃあ、僕もユージオって呼んで……あ、ちょっと待った」
ユージオは左手を上げ、さっそく丸パンを口もとに運ぼうとしていた俺を制した。
「……?」
「いや、長持ちするしか取り得のないパンなんだけど、まあ一応ね」
言うと、ユージオは左手を動かし、右手に持ったパンのうえにかざした。人差し指と中指だけをぴったり揃えて伸ばし、他の指は握り込む。そのまま、指先は空中にSの字とCの字を組み合わせたような軌道を描く。
唖然として見つめる俺の目の前で、二本の指が軽くパンを叩くと、金属が震動するような不思議な音とともに、パンの中から薄紫に発行する半透明な矩形の板が出現した。幅二十センチ、高さ八センチといったところか。遠眼にも、その表面には慣れ親しんだアルファベットとアラビア数字がシンプルなフォントで表示されているのが見えた。見紛うことなき、オブジェクトのステータスウインドウだ。
俺は口を大きくあんぐりと開き、しばし放心した。
――これで確定だ。ここは現実でも、本物の異世界でもなく、仮想世界だ。
その認識が腹の底に落ち着くと同時に、安堵のあまりすうっと体が軽くなるのを意識した。九十九パーセント確信していたとは言え、やはり明白な証拠が無いという不安が薄皮のようにまとわりついていたのだ。
相変わらず経緯は不明のままだが、ともかく慣れ親しんだ仮想世界に居るのだと思うことで、ようやく俺にも状況を楽しむ余裕が出てきたようだった。とりあえず、ユージオの真似をして俺もウインドウを呼び出してみようと、左手の指二本をまっすぐ伸ばす。
見よう見真似でSとCの形をなぞってから、おそるおそるパンを叩くと、はたして効果音が鳴り響き紫に光る窓が浮かび上がった。顔を近づけ、食い入るように眺める。
表示された文字列は非常にシンプルなものだった。DurabilityPoint:7、とそれだけだ。おそらく、このパンに設定されている耐久値なのだろうことは容易に想像できる。これがゼロになったとき、一体パンはどうなるんだろう、と思いつつ数字を凝視していると、傍らからユージオの不思議そうな声があがった。
「ねえ、キリト。まさか、”ステイシアの窓”を見るのまで初めてだなんて言わないよねえ?」
顔を上げると、ユージオはすでに窓が消えたパンを片手に首を傾げていた。慌てて、そんなバカな、というように笑顔を作ってみせる。当てずっぽうに、窓の表面を左手で触れるとそれは跡形もなく消え去り、内心で少しばかりほっとする。
ユージオは特に疑った様子もなく頷くと、言った。
「まだ”天命”はたっぷりあるから、急いで食べなくてもいいよ。これが夏だと、とてもこんなに残ってないけどね」
“天命”とは数値で示された耐久力のことで、それを表示したステータスウインドウが”ステイシアの窓”なのだろう。その口ぶりからして、ユージオは今見たものをシステム上の機能ではなく、何らかの宗教的あるいは魔術的現象と認識しているようだった。
まだまだ考えるべきことは多そうだったが、とりあえず棚上げして、目先の食欲を満たすことにする。
「じゃあ、いただきます」
言って、大口を開けてかぶりついた俺は、パンの硬さに思わず目を白黒させた。しかしまさか吐き出すわけにもいかず、力任せに噛み千切る。仮想世界とは思えないほどリアルな”歯がぐらつきそうな感覚”に図らずも感嘆させられる。
いわゆる全粒粉のような挽きの荒い麦を使ったパンで、必要以上の歯応えがあるものの噛んでいるとそれなりに素朴な味わいがあって、腹が減っていた俺は懸命に顎を動かして咀嚼し、飲み込んだ。バターを塗ってチーズでも挟めばもっと美味くなるだろうに、等と恩知らずなことを考えていると、同じように顔をしかめてパンに噛み付いていたユージオが笑い混じりに言った。
「おいしくないでしょ、これ」
俺は慌てて首を横に振る。
「そ、そんなことないって」
「無理しなくてもいいよ。村のパン屋で買ってくるんだけど、朝が早いから前の日の売れ残りしか買えないんだ。昼に、ここから村まで戻るような時間もないしね……」
「へえ……。じゃあ、家から弁当を持ってくればいいんじゃ……」
そこまで言ったところでユージオがふっと視線を伏せるのを見て、無遠慮すぎることを口走ったかと首を縮める。が、ユージオはすぐに顔を上げると、小さく笑った。
「ずーっと昔はね……昼休みに、お弁当を持ってきてくれる人がいたんだけどね。今は、もう……」
ブラウンの瞳に揺れる深い喪失感をたたえた光に、俺は瞬間、この世界が作り物であることを忘れて身を乗り出した。
「その人は、どうしたんだ……?」
訊くと、ユージオは遥か頭上の梢を見上げながらしばらく黙っていたが、やがてゆっくり唇を動かした。
「……幼馴染だったんだ。同い年の、女の子で……毎日、朝から夕方まで一緒に遊んでた。天職を与えられてからも、毎日お弁当を持ってきてくれて……。でも、六年前……僕が十一の夏に、村に整合騎士がやってきて……央都に、連れていかれちゃったんだ……」
セイゴウキシ。オウト。正体不明の単語だったが、それぞれある種の秩序維持者とこの世界の首都のことだろうと見当をつけ、黙ったまま先を促す。
「僕のせいなんだ。安息日に、二人で北の洞窟までドラゴンを探しにいって……帰り道を間違えて、果ての山脈を闇の王国側に抜けちゃったんだ。知ってるだろ? 禁忌目録に、決して足を踏み入れることならず、って書いてあるあの闇の国だよ。僕は洞窟から出なかったんだけど、彼女はほんの一歩だけ、闇の国の土を踏んじゃって……たったそれだけのことで、整合騎士は、皆の見てる前で鎖で縛り上げた……」
ユージオの右手の中で、食べかけのパンがぐしゃりと潰れた。
「……助けようとしたんだ。僕も一緒に掴まってもいいから、あの騎士に斧で打ちかかろうと……でも、手も、足も、動かなかった。僕はただ、あの子が連れていかれるのを、黙って見てた……」
表情を失った顔でユージオはしばらく空を見上げつづけていたが、やがてその唇にかすかな自嘲の色が浮かんだ。ひしゃげたパンを口に放り込み、俯いてもぐもぐと噛みつづける。
俺は何と声をかけていいか分からず、同じようにもうひとかけらパンを噛み千切り、それを苦労して飲み込んだあとようやく口を開いた。
「……その子がどうなったか、知ってるのか……?」
ユージオは目を伏せたままゆっくり首を振った。
「整合騎士は、審問ののち処刑する、って言ってた……。でも、どんな刑に処せられたのか、ぜんぜんわからないんだ。一度、お父さんのガスフト村長に聞いてみたんだけど……死んだものと思えって……。――でもね、キリト、僕は信じてるよ。きっと生きてる。アリスは、央都のどこかで、かならず生きてる」
俺は息を飲んだ。
アスナは言っていた。STLの開発企業である”ラース”、そして仮想世界”アンダーワールド”、それらの名前は小説『不思議の国のアリス』から取ったものではないか、と。ならば、今ユージオが口にしたアリスという名は果たして偶然によるものなのだろうか?
いや、そんなはずはない。現実世界ならいざしらず、万物に意味のある仮想世界において、都合のいい偶然などというものは存在しない。つまり、ユージオの幼馴染にして六年前に連れ去られたという少女アリスは、おそらくこの世界における重要なキーパーソンなのだ。
そして、もうひとつ驚くべきことがある。
先ほど、ユージオは六年前に十一歳だった、と言った。つまり彼は今十七歳で、しかもどうやら、そのあまりに長大な時間の記憶をすべて保持しているらしい口ぶりだ。
だがそんな事は有り得ない。STRA機能による三倍の加速を考えても、この世界で十七年という時間をシミュレートする間に、現実世界でも六年もの年月が過ぎ去っているということになる。しかし、STLの第一号機がロールアウトしてから、まだたった半年程度しか経っていないはずだ。
これをどう考えればいいのだろうか。
ここは俺の知るSTLではなく、未知のバーチャルワールド生成システムの中で、しかもそれは最長で十七年もの昔から稼動していた。あるいは、俺の聞かされていたSTRA機能の三倍という倍率が間違いであり、実は三十倍以上の加速を実現している。どちらも、おいそれと信じられない話だ。
俺の中で、不安感と好奇心が急速にふくれ上がる。今すぐログアウトし、外部の人間に事情を聞きたいと思う反面、この内部に留まって可能な限り疑問を追いつづけてみたいという気もする。
パンの最後の欠片を飲み込んでから、俺はおそるおそるユージオに尋ねた。
「なら……行ってみたらどうなんだ? その、央都に」
言ってから、しまった、と考える。その言葉は、ユージオから思わぬ反応を引き出してしまったようだった。
栗毛の少年は、たっぷり数秒間もぽかんと俺の顔を眺めていたが、やがて信じられない、というふうに頭を振った。
「……このルーリッドの村は、帝国の北の端にあるんだよ。南の端にある央都までは、馬でひと月もかかるんだ。歩きだと、一番ちかいザッカリアまでだって二日。安息日の夜明けに出たってたどり着けないんだよ」
「なら……ちゃんとした旅の用意をしていけば……」
「あのねえキリト。君だって僕と同じくらいの歳なんだから、住んでた村では天職を与えられてたんでしょ? 天職を放り出して旅に出るなんてこと、できるわけないじゃないか」
「……そ、それもそうだな」
俺は頭をかきつつ頷きながら、注意深くユージオの様子を観察した。
この少年が、単純なNPCでないことは明らかだ。豊かな表情や、自然そのものの受け答えは本物の人間としか思えない。
しかし同時に、どうやら彼の行動は、現実世界の法律以上の効力をもつ絶対の規範によって縛られているように思える。そう、まるでVRMMO中のNPCが、決められた移動範囲内からは絶対に逸脱しないように。
ユージオは、”禁忌目録”というものによって制限されているエリアに侵入しなかったので逮捕されなかった、と言った。その目録とやらがつまり彼を縛る絶対規範で、恐らくはフラクトライトそのものを直接規制しているのではないだろうか。ユージオの天職、つまり仕事が何なのかは知らないが、生まれたときから一緒だった女の子の生死以上に大切な仕事というのはなかなか想像できない。
そのへんのことを確かめてみようと、俺は言葉を選びつつ、水筒を口につけているユージオに尋ねた。
「ええと、ユージオの村には、禁忌……目録を破って央都に連れていかれた人がほかにもいるの?」
ユージオは再度目を丸くし、ぐいっと口もとを拭いながら首を横に振った。
「まさか。ルーリッドの三百年の歴史の中で、整合騎士が来たのは六年前の一回きりだ、って爺ちゃんが言ってた」
言葉を切ると同時に、革の水筒をひょいっと放ってくる。受け取り、栓を抜いて口もとで傾けると、冷えてはいないがレモンとハーブを混ぜたようなさわやかな芳香のある液体が流れ込んできた。三口ばかり飲み、ユージオに返す。
何食わぬ顔で俺も手の甲で口を拭ったが、内心では何度目かの驚愕の嵐が吹き荒れていた。
三百年だって……!?
そのあまりに長大な年月を実際にシミュレートしているなら、STRA機能は数百……ことによると千倍にも達する加速を実現しているということになる。となると、先週末に行った連続ダイブテスト中に、俺は実際のところどれほどの時間を過ごしたのだろうか。今更のようにぞっとすると同時に、二の腕に軽く鳥肌が立ったが、その生理反応のリアルさに感嘆する余裕はほとんどない。
データを得れば得るほど、逆に謎は深まっていくようだった。ユージオは果たして人間なのかプログラムなのか、そしてこの世界は一体何を目的として作られたものなのか。
これ以上のことは、ルーリッドというらしい村に行って他の人間に接触してみないとわかりそうもなかった。そこで、事情を知るラースの人間に会えるといいけれど……と思いながら、俺はややこわばった笑みをつくり、ユージオに言った。
「ごちそうさま。悪かったな、昼飯を半分取っちゃって」
「いや、気にしないで。あのパンにはもう飽き飽きしてたんだ」
こちらは至極自然な笑顔とともに首を振ると、手早く弁当の包みをまとめる。
「じゃあ、悪いけどしばらく待っててね。午後の仕事を済ませちゃうから」
そう言いながら身軽な動作で立ち上がるユージオに向かって、俺は尋ねた。
「そういえば、ユージオの仕事……天職っていうのは、何なの?」
「ああ……そこからじゃ見えないよね」
ユージオはまた笑うと、俺に手招きをした。首を捻りつつ立ち上がり、彼のあとについて巨樹の幹をぐるりと回る。
そして、先刻とは別種の驚きに打たれて口をあんぐりと開けた。
巨大なスギの闇夜のように黒い幹が、全体の四分の一ほど、約一メートルの深さにまで切り込まれている。内部の木質も石炭を思わせる黒で、密に詰まった年輪に沿って金属のような光沢を放っているのが見て取れた。
視線を動かすと、切り込みのすぐ下に、一本の斧が立て掛けてあった。戦闘用ではないのだろうシンプルな形状の片刃だが、やや大ぶりの斧刃も、長めの柄も灰白色の同じ素材で作られているのが特徴的だ。マット仕上げのスチールのような不思議な光沢をもつそれをまじまじと凝視すると、どうやら全体がひとつの塊から削りだされた一体構造となっているようだった。
柄の部分にだけ、握りこまれて黒光りする革が巻かれたその斧を、ユージオは右手でひょいっと持ち上げると肩にかついだ。幹に刻まれたくさび型の切り込みの左端まで移動すると、腰を落として両足を開き、斧をしっかりと両手で握り締める。
細目と見えた体がぐうっとしなり、大きく後ろに引かれた斧は、一瞬の溜めののちに鋭く空気を切り裂いて見事切り込みの中央に命中し、かぁんと澄んだ金属音を大音量で鳴り響かせた。間違いなく、俺をこの空き地まで導いたあの不思議な音と同じものだった。
美しいとさえ言える身のこなしに感嘆しながら眺める俺の前で、ユージオは機械以上の正確さでペースと軌道を保ったまま斧打ちを繰り返した。テイクバックに一秒、溜めに一秒、スイングに一秒。一連の動作は、まるで、この世界にもソードスキルがあるのかと思いたくなるようななめらかさだ。
三秒にいちどのペースできっちり五十回、計百五十秒間斧を巨樹に叩き込んだユージオは、最後の一撃をゆっくりと深い切り込みから引き剥がすと、ふうっと長い息をついた。道具を幹に立てかけ、どさりと傍らの根っ子の上に座り込む。額に汗の珠を光らせながらはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているところを見ると、この斧打ちは俺が考えているよりはるかに重労働であるらしかった。
俺は、ユージオの呼吸が整うのを待って、短く話し掛けた。
「ユージオは樵なのか? この森で木を切ってるの?」
短衣のポケットから取り出した手巾で顔を拭いながら、ユージオは軽く首を傾け、少し考えた末に答えた。
「うーん、まあ、そう言っていいかもしれないね。でも、天職に就いてからの七年間で、切り倒した木は一本もないけどね」
「ええ?」
「このでかい木の名前は、ギガスシダーって言うんだ。でも村の人はみんな、”悪魔の樹”って呼んでる」
首を捻る俺に意味ありげに笑ってみせてから、ユージオははるか頭上の梢を仰いだ。
「そんなふうに呼ばれる理由は、この樹が周りの土地から、テラリアの恵みをみんな吸い取っちゃうからなんだ。だから、この樹の葉の下にはこんなふうに苔しか生えないし、影が届く範囲の樹はどれもあまり高くならない」
テラリア、というのが何かはわからないが、この巨樹と空き地を見たときの第一印象はあながち間違っていなかったようだ。俺は、先を促すようにこくこくと頷いてみせる。
「村の大人たちは、この森を拓いて麦畑を広げたいと思ってるんだ。でも、ここにこの樹が立ってるかぎり、いい麦は実らない。だから切り倒してしまいたいんだけど、さすがに悪魔の樹と言われるだけあって、恐ろしく硬いんだよ。普通の、鉄の斧じゃあ一発で刃こぼれして使い物にならなくなっちゃう。そこでこの、ドラゴンの骨から削りだしたっていう”竜骨の斧”を央都から取り寄せて、専任の”刻み手”に毎日叩かせることにしたのさ。それが僕」
事も無げにそう語るユージオの顔と、巨樹に四分の一ほど刻まれた斧目を、俺は半ば呆然としながら交互に眺めた。
「……じゃあ、ユージオは七年間、毎日ずーっとこの樹を切ってるのか? 七年やって、ようやくこれだけ?」
今度はユージオが目を丸くし、呆れたように首を振る番だった。
「まさか。たった七年でこんなに刻めるもんなら、僕ももう少しやり甲斐があるんだけどね。いいかい、僕は六代目の刻み手なんだ。ルーリッドの村がこの土地にできてから三百年、代々の刻み手が毎日叩いてやっとここまで来たんだよ。たぶん、僕がお爺さんになって、七代目に斧を譲るときまでに刻めるのは……」
ユージオは両手で二十センチくらいの隙間をつくってみせた。
「これくらいかな」
俺はもうゆっくり首を振ることしかできなかった。
ファンタジー系のMMOではたいてい、樵や鉱夫といった生産職はひたすら地道な作業に耐えるものと相場が決まっているが、一生かけて一本の樹すら切り倒せないというのは常軌を逸している。ここが作られた世界である以上、この樹も何らかの意図のもとにここに配置されているのだろうが、それが何なのか、俺にはさっぱり見当がつかない。
――が、それはそれとして、むずむずと背中を這うものがある。
俺は、およそ三分間の休息のあと立ち上がり、斧を手に取ろうとしたユージオに向かって、半ば衝動的に声をかけた。
「なあ……ちょっと俺にもやらせてくれない?」
「ええ?」
「ほら、弁当を半分貰っちゃったからさ。仕事も半分手伝うのが筋だろう?」
まるで、仕事を手伝おうと言われたのが生まれて初めてであるかのように――実際そうなのかもしれないが――ユージオはぽかんと口を開けていたが、やがてためらいがちに答えた。
「うん……まあ、天職を誰かに手伝ってもらっちゃいけないなんて掟はないけど……でも、案外難しいんだよ、これ。僕もはじめたばっかりの頃は、まともに当てることさえできなかったんだから」
「やってみなきゃわからないだろ?」
俺はにっと笑ってみせながら、右手を突き出した。ユージオがなおも不安そうに向けてくる”竜骨の斧”の柄を、ぐっと握る。
斧は、軽そうな外見に反してずしりと手首に応えた。あわてて革が巻かれたグリップを両手でしっかり握り、小さく振って重心を確かめる。
SAO、そしてALOのプレイを通して斧を武器にしたことは一度もないが、動かない的に当てるくらい容易いだろう、と俺は考えた。深い切り込みの左に立ち、ユージオの姿勢を真似て両足を広げて軽く腰を落とす。
いまだ気がかりそうに、しかし同時にどこか面白そうにこちらを見るユージオが充分離れているのを確認してから、俺は肩の高さにまで斧を振り上げた。歯を食い縛り、両腕にありったけの力を込めて、思い切り叩きつける。
がぎ、と鈍い音がして斧刃は標的から五センチちかくも離れた場所に食い込み、両手を猛烈なキックバックが襲った。堪らず斧を取り落とし、骨の髄まで痺れあがった両手首を脚のあいだにはさみこんで、俺はうめいた。
「い、いててて」
情けない、という以外に形容できない一撃を見て、ユージオがあっはっはっは、と愉しそうに笑った。俺が恨みがましく目を向けると、ごめん、というように右手を立て、尚も笑いつづける。
「……そんなに笑わなくても……」
「ははは……いや、ごめん、ごめん。力が入りすぎだよ、キリト。もっと腕の力を抜いて……うーん、何て言うかなあ……」
もどかしそうに両手で斧を振る動作を繰り返すユージオを見ながら、俺は遅まきながら己の過ちに気付いた。この世界では、もちろん厳密な物理法則や肉体の動きがシミュレートされているわけではない。STLが作り出すリアルな夢なのだから、一番大切なのはイメージ力なのだ、おそらく。
ようやく痺れの取れた手で、足元から斧を拾い上げる。無駄な力を抜くように構えると、体全体の動きを意識しながら、ゆっくり、大きな動作でテイクバック。SAOで散々使った水平スラッシュ系ソードスキル”ホリゾンタルスクエア”の一撃目を思い描きつつ、体重移動によって生じるエネルギーを腰、肩の回転に乗せ、最後の斧の頭に届けて、それを樹にぶつける――。
今度は切り込み自体から遠く離れた樹皮を叩いてしまい、がいん、とこれまた醜い音を立てて斧が跳ね返った。先ほどのように手が痺れあがるようなことは無かったが、自分の動きにばかり意識が行って、照準がおろそかだったらしい。これはまたユージオが笑うな、と思いながら振り返ると、少年は意外にもわずかに目を見開いているのみだった。
「お……キリト、今のはけっこういいよ。でも、途中から斧を見てたのがよくなかったな。視線は切り込みの真ん中から動かさないで。忘れないうちにもう一度!」
「う、うん」
次の一撃もお粗末なものだった。しかしその後も、あれこれユージオの指導を受けながら斧を振りつづけ、何十回目だか忘れた頃、ようやく斧が高く澄んだ金属音とともに切り込みの真ん中に命中し、ごくごく小さな黒い切片が飛び散った。
それを機にユージオと交替し、彼の見事な斧打ちを五十回眺める。また斧を受け取り、ひいひい言いながら俺も五十回振り回す。
何度繰り返しただろうか、気付くと太陽はすっかり傾き、空き地に差し込む光はほのかなオレンジ色を帯びていた。大きな水筒から俺が最後の一口を飲むと同時に、ユージオが斧を振り終え、言った。
「よし……これで千回、と」
「あれ、もうそんなにやったのか」
「うん。僕が五百回、キリトが五百回さ。午前と併せて一日二千回ギガスシダーを叩く、それが僕の天職なんだ」
「二千回……」
俺は改めて、黒い巨樹に刻まれた大きな斧目を眺めた。どう見ても、初めて見たときと較べてそれが深くなっている様子は無かった。何という報われない仕事なのか、と愕然としていると、背後からユージオの朗らかな声がかかった。
「やあ、キリトは筋がいいよ。最後のほうは、五十回のうち二、三回はいい音させてたし。おかげで僕も今日はずいぶん楽だったよ」
「いや……でも、ユージオが一人でやればもっとはかどっただろうな。悪かったな、足引っ張っちゃって」
恐縮しつつそう謝ると、ユージオは笑いながら首を横に振った。
「この樹は僕が一生かかっても倒せないって言ったろ。いいかい……いいものを見せてあげるよ。ほんとは、あんまり見ちゃいけないんだけど」
言いながら、巨樹に近づくと、左手を掲げた。二本の指で例の印を切ると、黒い樹皮をぽんと叩く。
なるほど、この樹自体にも耐久力ポイントが設定してあるのか、と思いながら俺は駆け寄った。鈴のような音とともに浮かび上がってきた”窓”を、ユージオと一緒に覗き込む。
「うえ……」
俺は思わずうめいた。そこに表示された数字は、二十三万二千いくつ、という途方もないものだったからだ。
「うーん、先月見たときから五十くらいしか減ってないや」
ユージオも、さすがにうんざりしたような声で言った。
「つまり……僕が一年斧を振って、ギガスシダーの天命は六百しか減らせないってことだよ。引退するまでに、残り二十万を切れるかどうか、ってとこだね。ね、わかったろ。たった半日、仕事がすこしはかどらなくても、そんなのぜんぜんたいしたことじゃないんだ」
その後、”竜骨の斧”をかつぎ、空になった水筒をぶらさげて村へと戻るあいだも、ユージオは快活にいろいろな話を聴かせてくれた。彼の前任者であるガリッタという名前の老人が、いかに斧打ちの名人であるかということや、村の同年代の少年たちはユージオの天職を楽なものだと考えていて、それが少々不満であるということ、それらの話に相槌を打ちながら、俺は相変わらずひとつのことを全力で考えていた。
それは、つまり、この世界はいったい何を目的として運営されているのか、ということだ。
STLの仮想環境生成技術のチェックなら、それはもう完璧な形で達成されている。この世界が、そう簡単に現実と見分けられるようなものではないことは、俺はもう嫌というほど味わった。
にもかかわらず、この世界はもう内部時間にして最低で三百年ものシミュレートを行っており、さらに恐ろしいことに、あの巨大な樹――ギガスシダーの耐久値とユージオの仕事量からすると、さらに千年ちかくも運用を続ける予定があると考えられるのだ。
主観時間加速機能、STRAの倍率がどれほどの数字に達しているのかは知らないが、記憶を封印され、ここにダイブしている人間は、ことによるとまるまる一生分の時間を過ごすことにもなりかねない。確かに、現実世界の肉体には何の危険も及ばず、ダイブ終了時点で記憶を消去されるなら本人にとっては単なるおぼろげな”長い夢”なのかもしれないが――しかし、魂、フラクトライトはどうなのだ? 人の意識を作る不確定な光の集合体には、寿命はないのだろうか?
どう考えても、この世界で行われていることはあまりにも無茶、無謀だ。
つまり、それほどの危険を冒してでも、達成するべき目的があるのだ。エギルの店でシノンが言ったように、単なるリアルな仮想空間の生成などという、アミュスフィアでも実現可能な事柄ではないのだろう。この、現実と完全に見分けのつかない環境において、無限とも言いたくなるような時間を費やして、はじめて到達できる”何か”――。
気付くと、いつのまにか細い道の先で森が切れ、オレンジ色の光が広がっているのが見えた。
出口から間近いところに、小さな物置小屋がぽつんと立っており、ユージオはそこに歩み寄ると無造作に戸を開けた。覗き込むと、中には普通の鉄斧がいくつかと、鉈のような小さな刃物、ロープやらバケツといった道具類と、なんだかわからない細長い革包みが雑多に詰め込まれていた。
それらの間にユージオは竜骨の斧を立てかけ、ばたんと戸を閉めた。そのまま振り向き、道に戻ろうとするので、俺は驚いて言った。
「え、鍵とかかけなくていいのか? 大事な斧なんだろ?」
するとユージオも驚いたように目を丸くした。
「鍵? なんで?」
「なんで、って……盗まれたりとか……」
そこまで口にしてから、俺はようやく悟った。泥棒なんて居ないのだ。なぜなら、恐らく”禁忌目録”とやらに、盗みを働くべからず、というような一節が書いてあるのだろうから。
ユージオは笑い、歩きだしながら予想どおりの答えを返した。
「大丈夫だよ、誰も盗むような人なんていないし」
それを聞いたところで、ふとある疑問が浮かぶ。
「あれ、でも……ユージオは、村に衛士がいるって言ったよな? 盗賊が来たりしないなら、なんでそんな職業があるんだ?」
「決まってるじゃないか。闇の軍勢から村を守るためだよ」
「闇の……軍勢……」
「ほら、見えるだろう、あそこ」
そのとき、俺たちはちょうど最後の樹のあいだを抜けた。
眼前は、一面の麦畑だった。まだ若く、膨らみ始めてさえいない青い穂先が風に揺れている。傾きはじめた太陽の光がいっぱいに降り注ぎ、まるで海のようだ。道は、畑のあいだを蛇行しながら伸び、そのずっと先に小高い丘が見えた。周囲を木々にかこまれたその丘をよくよく見ると、砂粒のように小さな建物がいくつも密集し、中央には一際高い塔があった。どうやらあそこが、ユージオの暮らすルーリッドの村らしい。
そして、ユージオの指がさしているのは、村のさらに向こう、遥か彼方にうっすらと伸びる白い山脈だった。鋸のように鋭い険峻が、視線の届くかぎり左から右へと続いている。
「あれが、”果ての山脈”さ。あの向こうに、ソルスの光も届かない闇の王国があるんだ。空は昼でも黒雲に覆われていて、天の光は血のように赤かった。地面も、樹も、炭みたいに黒くて……」
遠い過去を思い出しているのだろう、ユージオの声がかすかに震えた。
「……闇の王国には、ゴブリンとかオークみたいな呪われた生き物や、いろいろな恐ろしい怪物……それに、黒い竜に乗った騎士たちが住んでる。もちろん、山脈を守る整合騎士がそいつらの侵入を防いでるけど、でも神聖教会の言い伝えによれば……千年に一度、ソルスの光が弱まったとき、暗黒騎士に率いられた闇の軍勢が、山脈を越えて一斉に攻めてくるんだって。そうなったら、整合騎士でも防げるかどうかわからないから、そのときに備えて村には衛士が、少し大きい街には衛兵隊があるんだよ」
そこでいぶかしそうに俺の顔をちらりと見て、ユージオは続けた。
「……子供でも知ってる話だよ。キリトはそんなことも忘れちゃったのかい?」
「う……うん、聞いたことはあるような気がするけど……」
冷や冷やしながらそう誤魔化すと、ユージオは疑うことなど知らないような笑顔で小さく頷いた。
「うーん、もしかしたらキリトは、このノーランガルス神聖帝国じゃなくて、東方や南方の国の出なのかもしれないね」
「そ、そうかもな」
俺は頷くと、話題を切り替えるべく、かなり近づきつつあった丘を指差した。
「あれがルーリッドの村? ユージオの家はどのへんなの?」
「正面に見えるのが南門で、僕の家は北門の近くだから、ここからは見えないなあ」
「ふうん。てっぺんの塔がその、教会?」
「うん、そうだよ」
目を凝らすと、細い塔の先端には、十字と円を組み合わせたような金属のシンボルが見て取れた。
「なんか……思ったより、立派な建物だな。ほんとに、俺みたいなのを泊めてくれるかな?」
「平気さ。シスター・アザリヤはいい人だから」
不安ではあったが、おそらくはユージオと違って本物のNPC、というか自動応答プログラムなのだろうから――なんと言っても、STLは世界にたった六台しかないのだ――常識的な受け答えをしていれば問題はあるまい、と俺は考えた。もっとも、その常識というやつが、今の俺にはぽっかりと欠如しているわけだが。
理想的には、そのシスターがラースのオブザーバーであれば話が早い。しかしおそらく、世界の観察を目的としている人間が、村長だのシスターといった重要な役どころに就いていることはないだろう。村にもぐりこんだら、どうにかして接触すべき相手を探し出さなくてはいけない。
それも、この小さな村にオブザーバーが常駐していれば、の話だけどな……と俺はやや心配になりながら、苔むした石造りのアーチをユージオと一緒にくぐった。
「はいこれ、枕と毛布。寒かったら奥の戸棚にもっと入ってるわ。朝のお祈りが六時で、食事は七時よ。一応見にくるけど、なるべく自分で起きてね。消灯したら外出は禁止だから、気をつけて」
言葉の奔流とともに降ってきた、簡素な枕と上掛けを、俺は伸ばした両手で受け止めた。
ベッドに腰掛けた俺の前で両手を腰に当てて立っているのは、年のころ十二ほどと見える少女だ。白いカラーのついた黒の修道服を身に付け、明るい茶色の長い髪を背中に垂らしている。くりくりとよく動く同色の瞳は、シスターの前でかしこまっていたときとは別人のようだ。
シルカという名のこの少女は、教会に住み込みで神聖魔術の勉強をしているシスター見習なのだそうだ。同じく教会で暮らす数人の少年少女たちの監督役でもあるというそんな立場のせいか、ずっと年長の俺に対してもまるで姉か母親のような口の利きぶりで、思わず笑みがこぼれそうになるのをどうにか堪える。
「えーと、あと他にわからないことある?」
「いいや、大丈夫。いろいろありがとう」
礼を言うと、シルカは一瞬だけくしゃっと大きな笑顔を見せ、すぐ鹿爪らしい顔に戻って頷いた。
「じゃあ、お休みなさい。――ランプの消し方はわかるわね?」
「……ああ、わかるよ。お休み、シルカ」
もう一度こくんと頷き、シルカは少し大きい修道服の裾を引きずりながら部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかるまで待って、俺はふう、と深い息をついた。
あてがわれたのは、教会二階の普段は使っていないという部屋だった。およそ六畳ほどのスペースに、鋳鉄製のベッドひとつ、揃いのテーブルと椅子、小さな書架とその横の戸棚が設えてある。膝に置いたままだった毛布と枕をシーツの上に放り投げ、俺は両手を頭の下で組みながらごろりとベッドに横になった。頭上のランプの炎が、じじ、と音を立ててかすかに揺れた。
「一体、こりゃあ……」
どうなってんだ。という言葉を飲み込みながら、村に入ってから現在までのことを脳内に逐一再生してみる。
俺を連れて村に入ったユージオは、まずアーチから程近い場所にあった衛士の詰め所に向かった。中に居たのは、ユージオと同い年だというジンクという若者で、当初こそ俺を胡散臭そうな目で見ていたものの、”ベクタの迷子”であるという説明を拍子抜けするほどアッサリと受けいれて俺が村に入るのを許した。
もっとも、ユージオが事情を話しているあいだ、俺の目は衛士ジンクが腰に下げていた簡素な長剣に釘付けで、声は右から左に抜けていたのだが。よっぽど、いささか古ぼけたその剣をちょっと借りて、この世界でも俺が――正しくは仮想の剣士キリトが身に付けた技が有効なのかどうか試してみようかと思ったのだがその衝動はどうにか抑えた。
詰め所を出た俺とユージオは、メインストリートをわずかな奇異の視線を浴びながら歩いた。それは誰だ、と尋ねてくる村人が少なからずおり、そのたびに立ち止まって説明するので、小さな村の中央広場にたどり着くまでに三十分近くを要した。一度など、大きな篭を下げた老婆が、俺を見て「なんてかわいそうに」と涙ぐみながら篭から林檎(のような果物)を出して俺に呉れようとするので当惑しつつも罪悪感を覚えたものだ。
村を構成する丘の天辺に立つ教会に、ようよう到着したときには既に太陽はほぼ沈みかけていた。ノックに応えてあらわれた、”厳格”という言葉を具現化したとしか思えない初老の修道女がうわさのシスター・アザリヤで、俺は彼女を一目見て『小公女』に出てくるミンチン先生を連想してしまったためにこりゃあだめだ! と内心うめいた。のだがこれまた予想に反してシスターはあっけなく俺に宿を提供することを受諾し、それどころか夕食まで付けようと申し出たのだった。
明朝の再会を約束してユージオとはその場で別れ、俺は教会へと招き入れられた。最年長のシルカ以下六人の子供たちに紹介され、静かながら和やかな食卓を共にし(供せられた料理は揚げた魚に茹でたジャガイモ、野菜スープというものだった)、食後は恐れたとおり子供たちから質問攻めに会い、どうにか躱したと思ったら三人の男の子たちと一緒に風呂に入れと言われ、それら多種多様の試練からようやく解放されてこの客間のベッドに転がっている――というわけなのである。
一日の疲れがずっしりと体に圧し掛かり、目を瞑ればすぐにも寝入ってしまいそうだったが、俺を襲う更なる混乱がそれを許そうとしなかった。
一体、これはどういうことなのだ。もう一度胸中で呟き、唇を噛み締める。
結論から言えば、いわゆるNPCなどこの村には一人もいない。
最初に会った衛士ジンク以下、道ですれ違った多くの村人たちや林檎をくれた老婆、厳しくも親切なシスター・アザリヤと見習いシスターのシルカ、親を亡くしたという六人の子供たち。その全員が、ユージオとほぼ同じレベルのリアルな感情、自然な会話力、精妙な動作を備えている。簡単に言えば、皆本物の人間としか見えない。少なくとも、通常のVRMMOに実装されている自動応答キャラクターなどでは決してない。
だが、そんなことは有り得ないのだ。
既存のソウル・トランスレーターは六台のみ、ラースの分室で俺はたしかにそう聞いた。仮にそれから台数が増えていたとしても、ひとつの村を丸ごと構成するほどの人間をダイブさせる数には到底足りないはずだ。規模からして、このルーリッドの村には五百を下らない人間が住んでいるだろうし、あの、部屋ひとつぶんほどもあるSTL実験機がそう容易く量産できるものではないことは断言できる。だいいち、この世界に存在するらしい無数の村や街、そして噂の”央都”に住む人間たちのことを考えれば、仮に莫大な費用を投じてマシンを揃えることはできても、その数万――数十万? にのぼるテストプレイヤーを秘密裏に募ることなど絶対に不可能ではないか。
「あるいは……」
やはりユージオ達は本物の人間、つまり記憶を制限されたプレイヤーではない、ということなのだろうか? 常識を遥かに超えた、ほぼ完全の域に近づいた自動応答プログラム。
AI、人工知能……という言葉が脳裏を過ぎる。
近年、主にパソコンやカーナビなどの機械類のガイダンス用として、いわゆるAIは長足の進歩を遂げている。人間あるいは動物を模したキャラクターに向かって、音声で命令や質問をすると、かなりの正確さで必要な情報が返ってくるというものだ。あるいは、俺の馴染んだVRゲーム中のNPCもAIの一種と言っていい。クエストに必要な情報のやり取りは勿論、他愛ない雑談でもある程度自然な受け答えを実現しているので、”NPC萌え”を信条とする一派などは主に美少女タイプのものに付きまとい日がな一日話し掛けたりもする。
だが勿論、それらAIに真の知能が備わっているわけではない。要は、こう言われたらこう答える、という命令の集合体でしかないので、データベースにない質問や会話には応答することができないのだ。その場合、大概のものは穏やかな笑顔とともに首を傾げ、『質問の意味がわかりません』という意味の台詞を口にする。
だが、今日いちにち、ユージオが一度でもそんなことを言っただろうか?
彼は、俺が無数に発した質問のすべてに、驚き、戸惑い、笑いといった自然な表情を交えながら適切極まりない回答を返した。ユージオだけではない、シスター・アザリヤも、シルカも、年少の子供たちも一度として『データがありません』などという顔は見せなかったのだ。
俺が知る限り、既知の人工知能で最も高度なレベルに達しているのは、旧SAOにおいてメンタルケア用カウンセリング・プログラムとして開発され、今は俺とアスナの”娘”としてALOに存在するユイという名のAIだ。彼女は、丸二年間に渡って五万人のプレイヤーのあらゆる会話をモニター・分析しつづけ、ほぼ完全な擬似人格を確立するに至った。市販レベルのAIが、せいぜい数十人の開発陣との会話による”経験”しか得られないことを考えれば、ユイの応答や感情があれほど高度なことも納得できる。彼女はいまや、”自動応答プログラム”と”真の人工知能”との境界例とさえ言っていいほどのレベルに達している、と俺やアスナは考えている。
しかし、そんなユイですら完璧ではない。彼女も時には、その単語はデータベースにありません、と首を傾げることがあるし、例えば”怒っているフリ”などの人間の微妙な感情は読み違ったりもする。会話のふとした一瞬に、拭いがたく”AIらしさ”が存在するのだ。
ところがユージオやシルカたちにはそれがない。ルーリッドの村人たちが、プログラマーによって組まれた少年型、少女型、老婆型、盛年型……のAIなのだとしたら、それはある意味ではSTLなど遥かに上回るオーバー・テクノロジーだ。とうてい、実現可能なものだとは思えない。
俺は溜息とともに体を起こし、床に下りた。
ベッドと、カーテンに覆われた窓との間の壁に、古めかしい鋳物のオイルランプが据えられており、揺れるオレンジ色の光とともにかすかな焦げ臭さを発していた。もちろん現実世界では本物に触ったことなどないが、幸いSAOの俺の部屋に似たようなものがあったので、見当をつけて底部にあるつまみを捻る。
きゅきゅっと軋む音とともに灯芯が締められ、一条の煙を残して灯りが消えた。暗闇に包まれた室内に、窓から細い月光がひとすじ落ちている。
俺はベッドに引き返すと、枕を窓側に置き、今度はちゃんと体を横たえた。わずかな肌寒さを感じて、シルカがくれた厚手の毛布を肩まで引っ張りあげると、抗しきれない眠気が襲ってきた。
――人間でもなく、AIでもない。では、何なのか?
俺の思考の片隅には、すでにひとつの答えが浮かびつつあった。だが、それを言葉にするのはどうにも恐ろしかった。もし仮に、俺の考えていることが可能なのだとしたら――ラースはもはや、神の領域の遥か深奥に手を突っ込んでいる。それに較べれば、STLで魂を解読することなど、パンドラの箱を開けるための鍵を指先でつつく程度に等しい。
眠りに落ちながら、意識の底から響いてくる声に耳を傾ける。
脱出方法を探して右往左往している時ではない。央都に行くのだ。行って、この世界の存在理由を見極めるのだ……。
SAO4_07_Unicode.txt
からーん、とどこか遠くで鐘の音がひとつ聞こえたような気がした。
それとほぼ同時に肩口を遠慮がちに突付かれ、俺は毛布に深く潜行しながらもごもごと唸った。
「うー、あと十分……いや五分だけ……」
「だめよ、もう起きる時間よ」
「三分……さんぷんでいいから……」
尚も肩をつんつんされているうちに、ようやく小さな違和感がまどろみを押し退けて浮上してくる。妹の直葉なら、こんなまだるっこしい起こし方はしない。大声で喚きながら髪を引っ張る鼻をつまむ等の乱暴狼藉を働き、最終的には布団を引っぺがすという悪鬼の所業に及ぶ。
ああ、そうか、と思いながら毛布から顔を出し、薄く目を開けると、すでにきちんと修道服を身につけたシルカの姿が目に入った。俺と視線が合うと、呆れたように唇をとがらせる。
「もう五時半よ。子供たちはみんな起きて顔を洗ったわ。早くしないと礼拝に間に合わないわよ」
「……はい、起きます……」
暖かいベッドを、あるいは平和な眠りを名残惜しく思いながら上体を起こす。ぐるりと見回すと、そこは昨夜の記憶にあるとおりの、ルーリッド教会二階の客間だった。もしくは、ソウル・トランスレーターの作り出した仮想世界アンダーワールドの内部、と言うべきか。俺の奇妙な体験は、どうやら一夜限りのはかない夢、というわけではなさそうだ。
「夢だけど、夢じゃなかった、か」
「え、何?」
けげんそうな顔をするシルカに、あわてて首を振る。
「いや、なんでもない。着替えてすぐ行くよ、一階の礼拝堂でいいんだろ?」
「そう。たとえお客様で、ベクタの迷子でも、教会で寝起きするからにはお祈りしなくちゃだめなんだからね。一杯の水と藁のベッドでも、それを与えてくれる神様に感謝しなさいって、シスターがいつも……」
そのままお説教が始まりそうだったので、俺はそそくさとベッドから出た。寝巻きとして貸し与えられた薄手のシャツを脱ごうと裾を持ち上げると、今度はシルカが慌てたような声を出した。
「あ、あと二十分くらいしかないからね、遅れちゃだめよ! ちゃんと外の井戸で顔を洗ってくるのよ!」
ぱたぱた、と足音をさせて床を横切り、大きな音をさせてドアが開閉するともうその姿は無かった。やっぱり、どう見てもNPCじゃないよな……と思いながらシャツを脱ぎ、椅子の背にかけてあった”初期装備”の青いチュニックを手に取る。ふと気付いて鼻先に持ってきてみたが、幸い汗の匂いはしないようだった。さすがに、匂いのもとになる雑菌類までは再現していないのだろう。もしかしたら、汚れや綻びといったものはすべて”天命”という名の耐久度に統合してあるのかもしれない。とは言え、この世界での滞在が長引くならいずれ下着を含めた替えは必要になるだろうし、そのために通貨を入手する方策も検討しなくてはならない。
などと考えながら上下とも着替えを終え、俺は部屋を出た。
階段を降り、炊事場の横にある裏口で適当なサンダルを借りて外に出ると、見事な朝焼けが頭上に広がっていた。まだ六時前と言っていたが、そういえばこの世界の住民は時間をどのようにして知っているのだろう。食堂にも、客間にも時計のようなものはなかった。
首を捻りながら、四角く切った石畳の上を歩く。すぐに、大きな樹の下に井戸が見えた。すでに子供たちが使ったあとらしく、周囲の草が濡れている。蓋を外し、つるべから下がった木製のバケツを落とすと、からからかぽーんと景気のいい音がした。ロープを引いて、バケツになみなみと汲まれた透明な水を傍らのたらいに移す。
手が切れるほど冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、ついでにもう一杯汲み上げてごくごく飲むと、ようやく眠気の残滓がきれいさっぱり吹き飛んでいった。昨夜はおそらく九時前には眠りについたので、こんな早起きをしてもたっぷり八時間以上は眠っているはずだ……とそこまで考えてから、しかし、と首を捻る。
ここがアンダーワールドなら、おそらくSTRA機能が今も働いているはずだ。倍率が三倍なら俺の実際の睡眠は三時間以下だし、まさかとは思うが昨日おぼろげに予想した、千倍という恐るべき加速ならば三十秒たらず(!)だ。それっぽっちで、こんなにも頭がすっきりするものだろうか。
まったく、わけのわからないことだらけだ。一刻もはやくこの世界から脱出し、状況を確かめなければ……と思う反面、昨夜眠る前にかすかに響いた囁き声がまだ耳から離れない。
俺が、桐ヶ谷和人の意識と記憶を保ったまま今この世界に在るのは、イレギュラーな事故の結果にせよ何者かの意思によるものにせよ、為すべき何かのためではないのか? 俺は別に運命論者ではないが、しかし反面、すべての物事には何らかの意味があるのだ、と考えがちであることも否定できない。だって――そうでなければ、SAO事件で消滅した一万の生命は、いったい何のために……。
ばしゃり、ともう一度顔に冷水をぶつけて、俺は思考を断ち切った。当面の行動方針はふたつだ。まずは、この村にラースの監視者が居るのか調べる。そして同時に、央都とやらに行く方法を探る。
前者は、それほど難しいことではない気がする。STRAの倍率が不明な状況でははっきりしたことは言えないが、少なくともラースの技術者が村人を装って暮らしているなら、何年、何十年もぶっ続けでダイブすることは不可能なはずだ。つまり、行商やら旅行といった理由で長期間留守にすることがある住民がいれば、そいつがオブザーバーである可能性が高い。
後者は――正直なところノーアイデアだ。ユージオは、央都まで馬でひと月かかると言っていた。その馬をどうやって手にいれるのか見当もつかないし、旅に必要な装備も資金も何一つ持っていないし、そもそも今の俺にはこの世界の基本的な知識が欠如しすぎている。ガイドをしてくれる人間が必要なのは明らかで、もっとも適任と思えるのはユージオだが、彼には一生かけても終わらない”天職”があるときている。
いっそ、俺も禁忌目録とやらに重大な違反をして、なんとか騎士に逮捕されれば話は早いのだろうか。しかし、それで央都まで連れていかれた途端斬首だの磔刑にされては、判明するのはこの世界で死んだらどうなるのかという、それだけだ。
あとでユージオに、神聖魔法には蘇生呪文もあるのかどうか聞いておかないとな、などと考えていると、教会の裏口がばたんと開き、シルカの小さな姿が見えた。と思ったとたん、大声で叱られてしまう。
「キリト、いつまで顔洗ってるのよ! 礼拝はじまっちゃうわよ!」
「あ、ああ……ごめん、すぐ行く」
俺は片手を上げると、井戸の蓋を戻して早足で建物へと向かった。
厳かな礼拝と賑やかな朝食が終わると、子供たちは掃除や洗濯といった雑務に取り掛かり、シルカはシスター・アザリヤと一緒に神聖術の勉強をするために書斎へ消えて、俺は食って寝るだけの居候の身に少々の罪悪感を覚えながら、今度は正面の入り口から外へと出た。
前庭を突っ切って青銅の門をくぐり、円形の中央広場の真ん中でユージオを待つ。
数分と経たないうちに、消えかけた朝靄の奥から見覚えのある亜麻色の髪が近づいてくるのが見えた。同時に、背後の教会の尖塔から、華麗なメロディを奏でる鐘の音が聞こえた。
「ああ……なるほど」
ユージオは、俺が開口一番そんなことを言ったので、驚いたように目をぱちくりさせた。
「おはよう、キリト。なるほどって、何が?」
「いや……。あの、一時間ごとに鳴る鐘の音が、毎回違う旋律なのに今ごろ気付いた。つまりこの村の人は、あの鐘で時間を知ってるわけなんだな」
「もちろん、そうだよ。”ソルスの光の下に”っていう有名な賛美歌を、一節ずつ十二に分けて鳴らしてるんだ。それと、半刻ごとにカーンとひとつ。残念ながらギガスシダーのところまでは音が届かないから、僕はソルスの高さで時間を見当するしかないんだけど」
「なるほどなあ……」
俺はもう一度呟きながら、塔の天辺を振り仰いだ。四方に切られた円形の窓の奥に、大小たくさんの鐘がきらきらと光っている。だが、たった今鐘が鳴り終わったばかりなのに、その下に人影は無かった。
「あの鐘は、どうやって鳴らしてるの?」
「……ほんとにキリトは、何もかも忘れちゃったんだなあ」
ユージオは、呆れたような面白がるような声で言ってから。咳払いして続けた。
「誰も鳴らしてないよ。あれは、この村にたった一つある神聖器だからね。決まった時刻に、一秒もずれることなくひとりでに鳴るんだ。もちろん、ルーリッドだけじゃなくて、ザッカリアにも、他の村や街にもあるんだけどね。……ああ、でも、今はもうひとつあるかな……」
闊達なユージオにしては珍しく、語尾が口の中に飲み込まれるように消えたので、俺は眉を上げて首を傾げた。だが、ユージオはそれ以上この話題を続ける気はないようで、ぱん、と両手で腰を叩いて言った。
「さて、僕はそろそろ仕事に行かないと。キリトは、今日はどうするんだい?」
「ええと……」
俺は少し考えた。この村をあちこち探検して回りたいのはやまやまだが、独りでうろついて妙なトラブルに巻き込まれないとも限らない。先刻考えたとおり、監視者の見当をつけるだけなら、ユージオに留守がちの村人がいないかそれとなく訊けばいいわけだし、彼をそそのかして央都に向かおうという俺の悪辣な計画のためには、ユージオの天職自体についてももう少し調べてみる必要がある。
「……ユージオさえよければ、今日も仕事を手伝わせてくれないか」
思案のすえそう言うと、ユージオは大きく笑って頷いた。
「もちろん、僕は大歓迎だけど。何となく、キリトがそう言うんじゃないかと思って、ほら、今日はパン代を二人分持ってきたんだ」
ズボンのポケットから小さな銅貨を二枚取り出し、掌でちゃりんと音を立てる。
「ええっ、いやそりゃ悪いよ」
慌てて手と首を振ると、ユージオは肩をすくめて笑った。
「気にしないで。どうせ、毎月村役場から貰う給金も、使うアテなんてないから無駄に貯めてるだけなんだ」
お、いいねいいね、央都までの路銀もこれで宛がついた。と、人非人の俺は内心で考えた。あとは、ユージオの天職、もしくはあのでかい樹をどうにかするだけだ。
そんなことを考えているのが今更ながら心苦しくなるほどに朗らかな笑顔を浮かべたまま、ユージオはじゃあ、行こうかと言って南へ足を向けた。その後を追いながら、俺はもう一度振り向き、毎時自動的に奏でられるという鐘楼を見上げた。
まったく、実に奇妙な世界だ。現実と見紛うほどのリアルな農村生活が繰り広げられているそのすぐ傍に、拭いがたくVRMMO世界っぽさが漂っている。かつて暮らしたアインクラッドの各主街区でも、きっかり一時間ごとに時を告げる鐘の音が鳴り響いたものだ。
神聖魔術、そして神聖教会か。はたしてそれらに、システムコマンド、ワールドシステム、と振り仮名を振っていいものかどうか。だがそうすると、世界の外にあるという闇の王国とやらの存在をどう考えるべきか。システムと対立するシステム……。
物思いに耽る俺の隣で、ユージオはパン屋と思しき店先でエプロン姿の小母さんと快活に挨拶をかわし、例の丸パンを四つ購入した。覗き込むと、店の奥では、店主らしい男が小麦の塊をばんばん捏ね、大型のかまどからは盛んに香ばしい匂いがしてくる。
あと一時間、いや三十分も待てば焼きたてのパンが買えるのだろうに、と思うが、そのへんの融通の利かなさも”天職”という厳格なシステムの一部なのだろう。ユージオが森について斧を振りはじめる時間はすでに決定されており、動かすことはできないのだ。そんなものをひっくり返して彼を旅に連れ出そうというのだから、俺の計画が容易なものではないことも推して知るべし、だ。
だが、どんなシステムにも抜け道はある。風来坊の俺が、彼の手伝いとして仕事に潜り込むことができたように。
南のアーチをくぐり、俺とユージオは緑の麦畑を貫く道を、遠くに横たわる黒い森目指して歩き始めた。この場所からも、一際高く鋭いギガスシダーの姿ははっきりと見て取れた。
ユージオと交替しながら、懸命に竜骨の斧を振るうちに、ソルスという名の太陽はものすごい速さで中天まで駆け上った。
俺は、鉛のように重くなった両腕に鞭打って、五百発目のスイングをお化け杉の胴体に叩き込んだ。こぉーん、と胸のすくような高い音とともに、ほんの小さな木っ端が飛んで、巨樹の膨大な耐久値がわずかに減少したことを知らせた。
「うああ、もうだめだ、もう振れない」
俺は悲鳴を上げて斧を放り出すと、ぼろ切れのように苔の上に崩れ落ちた。ユージオが差し出してくる水筒を受け取り、シラル水と言うらしいさわやかな味の液体を貪るように飲む。
そんな俺の様子を、こちらは余裕しゃくしゃくな笑顔で見ながら、ユージオは教師のような口調で言った。
「でも、キリトは筋がいいよ、ほんと。たった二日で、かなりまともに当たるようになったじゃないか」
「……それでも、まだユージオにはぜんぜん及ばないからな……」
溜息をついて座りなおし、背中をギガスシダーの幹に預ける。
改めて、たっぷりと重い斧を振り回したおかげで、俺はこの世界における己のステータスをあるていど把握できた気がしていた。
もう分かっていたことだが、旧SAO世界のキリトが備えていた超人級の筋力、敏捷力には及びもつかない。と言って、現実世界の虚弱な桐ヶ谷和人準拠というわけでもない。現実の俺なら、こんなごつい斧を何十回も振りまわせば全身筋肉痛で翌日は起き上がれないだろう。
つまりどうやら、今の俺の体力は、この世界における十七、八の若者の平均値ということなのだろう。さすがに七年もこの仕事をやっているだけあって、ユージオのそれは俺をかなり上回っているように感じる。
幸いなのは、体を動かす勘、あるいはイメージ力といったものは、これまでプレイしたVRMMOと同じかそれ以上に有効に機能するようだ。重量と軌道を意識しながら何百回もスイングしたおかげで、どうやらこの”要求STRの高い”斧をそこそこコントロールできるという自信は持てそうだった。
それに、同じ動作の反復練習というのは、かつてあの世界で反吐が出るほど行った、言わば俺の得意分野だ。少なくとも根気だけは、ユージオにも負けはしない――。
いや……待て。俺はいま、何か重要なことを……。
「ほら、キリト」
ユージオがひょいっと放ってきた二個の丸パンが、俺の思考を中断させた。慌てて両手でひとつずつ受け止める。
「……? どうしたんだい、妙な顔して?」
「あ……いや……」
俺は、するりと滑り落ちてしまった思考のしっぽを捕まえようと四苦八苦したが、何か大切なことを考えたぞ、というあのもどかしさだけが霧のように漠然と漂うだけだった。まあいい、重要なことならそのうち思い出すだろう、と肩をすくめ、改めてユージオに礼を言う。
「ありがとう。遠慮なく、頂きます」
「不味いパンで悪いけどね」
「いやいやそんなそんな」
大口を開けてがぶりと噛み付く。味はいい――が、正直なところやはり相当に固い。その感想はユージオも異なりはしないようで、顔をしかめて顎を全力で動かしている。
二人無言のまま一つ目のパンをどうにか胃に収め、顔を見合わせて微妙な笑いを浮かべた。ユージオはシラル水を一口含み、ふっ、と視線を遠くに向ける。
「ああ……ほんと、キリトにも、アリスのパイを食べさせてやりたかったなあ……。皮がさくさくして、汁気のある具がいっぱいに詰まってて……絞りたてのミルクと一緒に食べると、世の中にこれより美味しいものはない、って思えた……」
話を聞いているうちに、不思議に俺の舌にもそのパイの味が甦るような気がして、とめどなく生唾がわいた。慌ててふたつ目のパンを一口齧ってから、遠慮がちに尋ねる。
「なあ、ユージオ。その……アリスは、教会で神聖魔術の勉強をしてたんだよな? シスター・アザリヤの後を継ぐために」
「うん、そうだよ。村始まって以来の天才って言われて、十歳の頃からもういろんな術が使えたんだ」
どこか誇らしげにユージオは答える。
「じゃあ……今教会で勉強してる、シルカって子は……?」
「ああ……。シスター・アザリヤも、アリスが整合騎士に連れて行かれてからずいぶんと気落ちしてね。もう生徒は取らないって言ってたんだけど、そういう訳にもいかないからって、村の偉い人たちが説得して、一昨年ようやく新しい見習としてあの子が教会に入ったんだ。シルカは、アリスの妹なんだよ」
「妹……。へえ……」
どちらかと言うと、しっかり者のお姉さん、といった印象のシルカの顔を思い浮かべながら、俺は呟いた。あの子の姉というなら、アリスという少女もさぞかし面倒見のいい世話焼きタイプだったのだろう。のんびりしているユージオとは、きっといいコンビだったに違いない。
そんなことを考えながらちらりと視線を向けると、樵の少年は何故か、気がかりそうにちいさく眉を寄せていた。
「……歳が五つも離れてるから、僕はあんまり一緒に遊んだこととか無いんだけどね。たまに僕がアリスの家にいくと、いつも恥ずかしそうにお母さんやお婆さんの後ろに隠れてるような子だったな……。ガスフト村長や他の大人たち、それにシスター・アザリヤも、あのアリスの妹だからきっとシルカにも神聖術の才能があるってすごく期待してるみたいだけど……でも、どうなのかな……」
「シルカには、お姉さんほどの才能は無い、って言うのか?」
俺の直截すぎる訊きかたのせいか、ユージオはかすかに苦笑して首を振った。
「そうは言わないよ。誰だって、天職に就いたばかりの頃はうまくやれないさ。僕も、まともに斧を振れるまでには三年以上かかったんだ。真剣に頑張れば、どんな天職だって無理ってことはない。ただ……シルカは、ちょっと頑張りすぎてるような気がして……」
「頑張りすぎ?」
「……アリスは、神聖術の勉強をはじめてからも、べつに教会に住み込んでたわけじゃないんだ。勉強は午前中だけで、お昼には僕の弁当を届けてくれて、午後には家の仕事の手伝いをしてた。でもシルカは、それじゃ勉強の時間が足りないからって、家を出たんだよ。ちょうど、ジェイナやアルグが教会で暮らすようになって、シスターだけじゃ手が足りなかった、ってのもあったみたいなんだけど」
俺は、小さな子供たちの面倒をこまめに見ているシルカの姿を思い出した。とりたて辛そうには見えなかったが、確かに一日中勉強をした上で六人もの子供の世話をするのは、自身まだ十二歳でしかない少女にとっては簡単なことではないだろう。
「なるほどな……。そこに、更にわけのわからない風来坊が飛び込んできたわけか。せめて俺は、シルカに面倒はかけないようにしないとな」
明日はきちんと五時半に起きよう、と決意してから、そう言えばと言葉を続ける。
「あの教会で暮らしてる、シルカ以外の子供たちは、親を亡くしたんだって? 両親ともなのか? あの平和そうな村で、なんで六人も?」
それを聞いたユージオは、憂い顔を作って地面に視線を落とした。
「……三年前のことなんだけど、村に流行り病がきてね。ここ百年以上無かったことらしいんだけど、大人や子供が、二十人以上も亡くなったんだ。シスター・アザリヤや、薬師のイベンダおばさんが手を尽くしても、一度高い熱が出たらもう誰も助からなかった。教会にいる子供たちは、その時両親を失ったんだ」
俺は、予想外のユージオの言葉に唖然として言葉を失った。
伝染病だって? ――しかし、ここは仮想世界なんだ。細菌やウイルスなんてあるはずがない。つまり、病気による死者は、世界を管理する人間あるいはシステムが作り出したものだ。しかし、何のために? 住民に意図的な負荷を与えることで、一体何をシミュレートしようというのだろう?
結局、すべてそこに行き着くのだ。この世界が存在する理由――。
俺の深刻な顔をどう受け取ったのか、ユージオも沈んだ表情のままさらに口を開いた。
「流行り病だけじゃない。ちかごろ、おかしな事が多い気がするんだ。はぐれ長爪熊や、黒森狼の群が人を襲ったり、小麦の穂が膨らまなかったり……。ザッカリアからの定期馬車も、来ない月がある。その理由が……街道のずっと南に、盗賊団が出るからだ、って言うんだよ」
「な、なんだって」
俺は二、三度まばたきを繰り返した。
「盗賊って……だって、あれだろ? 盗みは、禁忌目録で……」
「勿論。すごい最初のほうのページに出てるよ、盗みを働くべからず、って。だから、もし盗賊団なんてものが本当にいたら、整合騎士があっという間に討伐してしまうはずなんだ。しなきゃならないんだよ、アリスを連れていった時みたいに」
「ユージオ……」
いつも穏やかなユージオの声に、不意に深い遣り切れなさ、とでも言うべきものが混じった気がして、俺はもう一度驚いた。が、それは一瞬で消え去り、少年の口もとにはまたかすかな笑みが浮かんだ。
「……だから、僕はそんなのただの噂話だろうって思ってる。でも、ここ二、三年で教会裏の墓地にだいぶ新しいお墓が増えたのは確かなんだ。そういう時期もある、って祖父ちゃんは言うんだけど」
そういえば、今がかねてからの疑問をぶつけてみるチャンスだ、と思い、俺はさりげなく聞こえるよう注意しながら尋ねた。
「……なあ、ユージオ。神聖術には、その……人を生き返らせるようなものは無いのか?」
どうせまた、常識を疑うような目で見られるんだろうなあ、と身構えていると、あにはからんやユージオは真剣な顔で小さく唇を噛み、それとわからない程に頷いた。
「……村の人たちはほとんど知らないだろうけど、高位の神聖術には、天命そのものを増やすようなものもある、ってアリスが言ってた」
「天命を……増やす?」
「うん。あらゆる人や物の天命は……僕やキリトのもだけど、人の手で増やすことはできないよね。たとえば人の天命は、生まれたときから、大きくなるに従ってどんどん増えていって、だいたい二十五歳くらいで最大になる。そのあとはゆっくりゆっくり減っていって、七十から八十歳くらいで無くなって、ステイシアのもとに召される。これくらいはキリトも覚えてるだろう?」
「あ、ああ」
当然初耳だったが、俺は鹿爪らしい顔で頷いた。
「でも、病気や怪我をすると、天命が大きく減る。傷の深さによっては、そのまま死んじゃうこともある。だから神聖術や薬で治療する。そうすると、天命は回復することもあるけど、決してもとの量以上には増えないんだ。年寄りにどんなに薬を飲ませても、若い頃の天命は戻らないし、深すぎる傷を癒すこともできない……」
「でも、それを可能にする術もある、ってことか?」
「アリスも、教会の古い本でそれを知って驚いた、って言ってた。シスター・アザリヤにその術について聞いたら、すごい怖い顔になって、本を取り上げられて読んだことは全部忘れなさいって言われた、って……。だから僕も詳しいことは聞いてないんだけど、なんでも、神聖教会のすごく偉い司教たちだけが使える術らしいんだ。百歳を超えた老人や、手足が千切れた怪我人の天命を呼び戻す……もしかしたら、天命がゼロになった亡骸にさえも命を与える術かもしれない、って……」
「へえ……。偉い司教、か。じゃあそれは、教会の僧侶なら誰でも使えるってわけじゃないのか」
「勿論だよ。だって、もしシスター・アザリヤにそんな術が使えたら、あの人なら絶対に子供の親、親の子供が病で死ぬようなことを黙って見てるわけないもの」
「なるほどな……」
つまり、今俺がこの場で死んだとしても、教会の祭壇で壮麗なオルガンの音とともに甦る、というようなことは無いと考えてよさそうだった。その場合はおそらく、現実世界に復帰することになるのだろう。いや、そうでなければ大いに困る。STLに、フラクトライトを破壊するような機能は無い――無いはずなのだから。
だが、脱出方法としてそいつを試すのは、可能な限り最後の手段としたいのもまた事実だった。ここがアンダーワールドであるというのは決して確定事項ではないのだし、その確信を持てたとしても、この世界の存在目的を知らないうちに脱出してしまっていいのか――と、魂の奥深くでささやく声がするのだ。
今すぐ央都に瞬間転移し、神聖教会とやらに駆け込んで、システムの中枢なのだろう司教たちの首根っこをぎゅうぎゅう締め上げてやりたい。ステータスは参照できるくせにテレポートができないとは、プレイアビリティに欠けることこの上ない。
これが普通のVRMMOなら、今すぐGMを呼びつけて不満を捲し立てるか、運営体に送るメールの文面でも考えるところだ。だがそれが出来ない以上、システムの許す範囲で最大の努力をするしかない。そう、かつてアインクラッドで、フロア攻略に散々知恵を絞ったように。
俺はふたつ目のパンを胃に送り込むと、ユージオが差し出す水筒を口につけながら頭上に伸びるバカ高い幹を見上げた。
央都に行くためには、どうしてもユージオの協力が必要だ。しかし、真面目な彼に天職を放り出せと言っても無駄だろうし、そもそも禁忌目録で禁止されているのだろう。ならば、この厄介な樹を何とか片付けるしかない。
視線を戻すと、ユージオがズボンをはたきながら立ち上がるところだった。
「さ、そろそろ午後の仕事を始めよう。まずは僕からだね、斧を取ってくれないか」
「ああ」
ユージオの差し出す手に、俺は傍らに立て掛けてあった竜骨の斧を渡そうと、右手で柄の中ほどを握った。
その瞬間、電撃のように脳裏に閃くものがあった。先ほど掌からするりと漏れていった”重要な何か”、その尻尾を今度こそ捕まえると、慎重に引っ張り上げる。
ユージオは確かこう言っていたはずだ。普通の斧では簡単に刃こぼれしてしまうから、央都から大枚はたいてこの竜骨の斧を取り寄せた、と。
ならば、もっと強力な斧を使えばどうなのだ。さらなる攻撃力、耐久力を持ち、”要求STRの高い”やつを。
「な、なあユージオ」
俺は息せき切って尋ねた。
「村には、これより強い斧はないのか? 村になくても、ザッカリアの街とかに……。これを仕入れてからもう三百年も経つんだろ?」
だがユージオはあっけなく首を横に振った。
「あるわけないよ。竜の骨っていうのは、武器の素材では最高のものなんだよ。南方で作るダマスク鋼や、東方の玉鋼より固いんだ。これ以上強いって言ったら、それこそ整合騎士が持ってるような……神聖器でないと……」
語尾が揺れながらフェードアウトしていくので、俺は首をかしげて続きを待った。たっぷり五秒ほども沈黙したあと、ユージオはごく小さな声で、あたりを憚るように囁いた。
「……斧は無い。でも……剣ならある」
「剣?」
「ぼくが、教会の前で、時告げの鐘のほかに神聖器がもうひとつある、って言ったのを覚えてる?」
「あ……ああ」
「村で、知ってるのは僕だけだ。七年間、ずっと隠しておいたんだ……。見てみたいかい、キリト?」
「も、もちろん! 見たい、ぜひ見たい」
意気込んでそう言うと、ユージオはなおも思案する様子だったが、やがて頷いて一度握った斧を再度俺に押し返してきた。
「じゃあ、キリトから先に仕事を始めていてくれないか。取って来るけど、すこし時間がかかるかもしれない」
「遠くにあるのか?」
「いや、すぐそこの物置小屋さ。ただ……重いんだ、とてつもなく」
その言葉どおり、俺が五十回の斧打ちを終えるころようやく戻ってきたユージオは、疲労困憊した様子で額に玉の汗を浮かべていた。
「お、おい、大丈夫か」
聞くと、答える余裕もなさそうに短く頷きながら、肩に担いでいたものを半ば投げ出すように地面に落とした。どすん、と鈍い音が響き、苔の絨毯が大きくへこむ。はあはあと荒い息を繰り返してへたりこむユージオに、水筒を拾い上げて渡すのももどかしく、俺は横たわるそれを注視した。
見覚えがある。長さ一・三メートルほどの、細長い革包みだ。昨日ユージオが竜骨の斧を仕舞った物置小屋の床に、無造作に放り出されていたものに間違いなかった。
「開けていいか?」
「あ……ああ。気を……つけなよ。足の上に、落っことしたら、かすり傷じゃ……すまないぞ」
ぜいぜい喉を鳴らしながらそう言うユージオにひとつ頷いてから、俺はいそいそと手を伸ばした。
そして腰を抜かしそうなほどに驚いた。いや、ここが現実なら、本当に腰椎のひとつくらいズレてもおかしくない。それほどに、革包みは重かった。しっかり両手で握ったのに、まるで地面に釘止めでもされているかのごとく動こうとしないのだ。
現実世界における妹の直葉は、ハードな剣道部の練習に加えて筋トレの鬼なので、外見とくらべて存外重いのだが、包みの体感重量は誇張でなく彼女くらいありそうだった。改めて両足をしっかり踏ん張り、腰を入れて、バーベルを持ち上げるつもりで全身の筋力を振り絞る。
「ふっ……!」
みしみし、と各所の関節が軋んだ気がしたが、ともかく包みは持ち上がった。紐で縛ってあるほうが上にくるように垂直にすると、改めて下部を地面に預ける。倒れないように左手で必死に支えながら、右手一本でぐるぐる回してある紐を外し、革袋を下にずらしていく。
中から現れたのは、思わず溜息が出そうになるほど美しいひとふりの長剣だった。
柄は精緻な細工が施された白銀製で、握りにはきっちりと白い革が巻いてある。ナックルガードは植物の葉と蔓の意匠で、それが何の種類かはすぐにわかった。柄と同じく白革造りの鞘の上部に、鮮やかな青玉で、薔薇の花の象嵌が埋め込んであったからだ。
大変な年代物、という雰囲気ではあるが汚れや染みはまるで無かった。主を得ることなく長い、長いあいだ眠っていた剣、そんなふうに思わせる風格を漂わせている。
「これは……?」
顔を上げて尋ねると、ようやく呼吸が整ったらしいユージオはどこか懐かしそうな、切なそうな目の色でじっと剣を見つめながら口を開いた。
「”青薔薇の剣”。ほんとうの銘かどうかわからないけど、おとぎ話じゃそう呼ばれてる」
「おとぎ話だって?」
「村の子供……いや大人もだけど、誰だって知ってる話さ。――三百年前、ルーリッドの村を作った初代の入植者のなかに、ベルクーリっていう名剣士が居たんだ。彼にまつわる冒険譚は山ほどあるんだけど、中でも有名なのが”ベルクーリと北の白い竜”ってやつでね……」
ユージオはふっと視線をどこか遠くに向け、かすかな感傷の滲む声で続けた。
「……簡単に筋だけ説明すると、果ての山脈を探検に出かけたベルクーリは、洞窟の奥深くでドラゴンの巣に迷い込むんだ。主の白竜は幸い昼寝の最中で、ベルクーリは即座に逃げ帰ろうとするんだけど、巣に散らばる宝の山の中にひとふりの白い剣を見つけて、それがどうしても欲しくなってしまう。音を立てないように慎重に拾い上げて、さて一目散に逃げようとしたら、その途端剣からみるみる青い薔薇が生えてきて、ベルクーリをぐるぐる巻きにしちゃう。堪らず倒れたその音で、ドラゴンが目を醒まして……っていう、まあそういう話」
「そ、それからどうなったんだ」
つい引き込まれながら尋ねるが、ユージオは長くなるから、と笑いながら首を振った。
「まあ、いろいろあってベルクーリはどうにか許してもらって、剣を置いて命からがら村に逃げ帰ってきました。めでたしめでたし……他愛ないおとぎ話だよね。もし、それを確かめにいこう、なんて考える子供さえいなければ……」
深い後悔に彩られたその声を聞いて、俺は悟った。その子供とは、ユージオ自身のことなのだ。そして、彼の幼馴染のアリスという少女も。
しばしの沈黙のあと、ユージオは続けた。
「六年前、僕とアリスは果ての山脈までドラゴンを探しにいった。でも、ドラゴンはいなかった。かわりに、刀傷のある骨の山があるだけだった」
「え……ドラゴンを殺した奴がいるってのか? 一体、誰が……?」
「わからないよ。ただ……宝には興味のない人間だろうね。骨の下には、山ほど色々な宝物が転がってた。そして、その”青薔薇の剣”も。もちろん、あの頃の僕じゃ重くてとても持ち帰れなかったけど……。――そしてその帰り道、僕とアリスは洞窟の出口を間違えて、山脈を闇の王国側に出ちゃったんだ。あとは昨日話したとおりさ」
「そうか……」
俺はユージオから視線を外し、改めて両手で支えたままの剣を眺めた。
「でも……その剣が、なんでここに?」
「……おととしの夏、もう一度北の洞窟まで行って、持ってきたんだ。安息日ごとにほんの何キロかずつ運んでは、森の中にかくして……あの物置小屋まで持ち帰るのに、三月もかかったんだよ。なんでそんなことしたのか……ほんと言うと、僕にもよくわからないんだけどね……」
アリスのことを忘れたくなかったからか? それとも、いつかこの剣を携えてアリスを助けにいくつもりだった?
色々な想像が胸を過ぎったが、それを言葉にするのは憚られた。代わりに、俺は歯を食い縛ってもう一度剣を持ち上げ、右手で柄を握ってそれを抜こうとした。
まるで地面に深く刺さった杭を引き抜こうとするがごとき凄まじい抵抗があったが、一度動き出すとあとは押し出されるような滑らかさで鞘走った。シャーン、と涼しげな音を立てて刀身が抜け、同時に右肩から腕がもげそうになり、俺は慌てて左手の鞘を捨てて柄を両手で握る。
革造りと見えた鞘にすらとてつもない重量があったようで、ずんと音を立てて石突が地面に突き刺さった。危く左足を貫かれるところだったが、飛び退る余裕もなく俺は懸命に抜き身を支えた。
幸い、剣は鞘のぶん三割方軽くなり、どうにかしばらく保持していられそうだった。俺は吸い寄せられるように目の前の刀身に見入った。
不思議な素材だった。幅およそ三センチとやや細身のそれは木漏れ日を受けて薄青く輝いている。よくよく眺めると、日光はその表面で跳ね返されるだけでなく、いくらかは内部に留まっていつまでも乱反射しているように見えた。つまりわずかに透明なのだ。
「普通の鋼じゃないよね。銀でもないし、竜の骨とも違う。もちろんガラスでもない」
ユージオが、わずかに畏れを感じさせる調子で呟いた。
「つまり、人の手によるものじゃない、ってことさ。神様の力を借りて強力な神聖術師が鍛えたか、あるいは神様が手ずから創りだした……そういうもののことを”神聖器”って言うんだ。その青薔薇の剣も、神聖器のひとつだと、僕は思う」
神。
ユージオの話や、シスターのお祈りの端々に”ソルス”や”ステイシア”といった神なる存在が出てくるのには気付いていたが、俺はいままでこういうファンタジー世界にありがちな概念のみの設定物だと思い込んでいた。
だがこのようにして、神が創ったアイテムなどというものが登場するからには考えを改めるべきなのだろうか。仮想世界における神――それはつまり、現実世界における管理者のことか? あるいは、サーバー内のメインプログラムのことなのか?
それもまた、考えて答えの出る疑問ではなさそうだった。今のところは、神聖教会とやらとひっくるめて”システム中枢”的存在と位置付けておくしかない。
ともかく、この剣が、システム的にかなり上位のプライオリティを与えられたオブジェクトなのは間違いないだろう。あとは、同じく上位オブジェクトと目されるギガスシダーと、どちらの優先度が高いか――。それによって、ユージオと一緒に央都にいけるかどうかも決まるわけだ。
「ユージオ。ちょっと今の、ギガスシダーの天命を調べてくれないか」
剣を構えたままそう言うと、ユージオは疑わしそうな目で俺を見た。
「ちょっとキリト……まさか、その剣でギガスシダーを打とうなんて言うんじゃないよね」
「まさかどころか、それ以外にこいつを持ってきてもらった理由があるとでも?」
「ええー……でもなあ……」
首を捻って考え込むユージオに、迷う隙を与えるものかと畳み掛ける。
「それとも、禁忌目録に、ギガスシダーを剣で叩いちゃだめだ、なんて項目があるのか?」
「いや……そりゃ、そんな掟はないけど……」
「あるいは村長とか、前任の……ガリッタ爺さんに、竜骨の斧以外使っちゃだめだと言われたか?」
「いや……それも……。……なんだか……前にもこんなことあったような気がするなぁ……」
ユージオはぶつぶつ言いながら、それでも腰を上げるとギガスシダーに近づいた。左手で印を切り幹を叩き、浮かんできたウインドウを覗き込む。
「ええと、二十三万二千三百と十五、だね」
「よし、それ覚えといてくれよ」
「でもさあ、キリト。その剣をまともに振ろうだなんて、絶対無理だと思うよ。持ってるだけでふらふらしてるじゃないか」
「まあ見てろって。重い剣は力で振るんじゃない。重心の移動がミソなんだ」
もうはるかな昔のこととなってしまったが、旧SAO世界において俺は好んで重量のある剣を求めた。手数で勝負する速度重視の武器よりも、重さの乗った一撃で敵を粉砕する手応えに魅せられたからだ。レベルが上昇し、筋力値が増加するに伴って剣の体感重量は減少してしまうためその都度より重いものに乗り換え、最終的に装備していたやつはたぶんこの青薔薇の剣と大差ない手応えがあったはずだ。その上、往時の俺は左右の手で一本ずつ剣を操るなどという荒業さえこなしていたのである。
もちろんワールドシステムの根幹が違うのだから単純に同一視はできないが、少なくとも体捌きのイメージくらいは流用できよう。ユージオが樹から離れるのを待って、俺は深い斧目の左端に移動すると、腰を落とし、持っているだけで両腕が抜けそうになる剣を下段に構えた。
連続技でも何でもない、単純な右中段水平斬りでいいのだ。SAOのソードスキル名を借りれば”ホリゾンタルアーク”、スキル熟練度50足らずでマスターできる超のつく基本技。
俺は呼吸を整えると、体重を右足に移しながらテイクバックを開始した。剣の慣性質量に引っ張られ左足が浮く。そのまま尻餅をつきそうになるが、剣尖がトップポイントに達するまで必死に堪え、右足で思い切り地面を蹴って重心を左半身に移していく。同時に脚、腰の捻転力
を腕から剣に乗せ、スイングを開始する。
剣が発光することも、動きが自動的に加速されることもなかったが、俺の体は完璧にソードスキルの型をトレースしていった。着地した左足がずしんと地面を震わせ、移動する巨大な質量は慣性に逆らうことなく理想の軌道に乗って突進する――。
が、模範的演技はそこまでだった。踏ん張りきれずに両足が膝からふらつき、剣は目標を遥か離れた樹皮に激突した。
ぎいいいん、と耳をつんざくような音がして、周囲の森から一斉に小鳥が飛び立ち四方へ逃げ出していった。が、俺はそれを見ることもできなかった。反動に耐え切れず手が柄から離れ、無様に宙を飛ぶと、顔から苔に突っ込んだのだ。
「わあ、言わんこっちゃない!」
駆け寄ってきたユージオに助け起こされた俺は、口に詰まった緑の苔を必死に吐き出した。真っ先に着地した顔もさることながら、両手首、腰、両膝が悲鳴を上げたくなるほど痛い。しばしその場にうずくまって呻吟してから、どうにか声を絞り出す。
「……こりゃだめだ……ステータスが真っ赤だ……」
旧SAOにおいて要求STRを上回る武器を装備したときのウインドウ表示状態がユージオに伝わるはずもなく、不思議そうに首をひねる彼に向かって俺は慌てて言い添えた。
「いや、その……ちょっと体力が足らないみたいだな。ていうか、あんな化け物、装備できる奴がいるのかよ……」
「だから、僕らには無理なんだって。ちゃんと剣士の天職を得た……それも、街の衛兵隊に入れるくらいの人でないとさ」
俺は肩を落とし、右手首をさすりながら振り返った。ユージオもつられたように背後を見る。
そして二人同時に呆然と凍りついた。
青薔薇の剣は、美しい刀身を半分ちかくもギガスシダーの樹皮に食い込ませ、そのまま空中に横たわっていた。
「……うそだろ……たった一撃で、こんな……」
ふらりと立ち上がったユージオは、しばらく絶句したのちにかすれ声で呟いた。
右手の指先をおそるおそる伸ばし、剣と樹の接合部をゆっくりなぞる。
「刃が欠けたんじゃない……ほんとに、ギガスシダーに切り込んでる……」
俺も全身の痛みを堪えながら立つと、汚れた服をはたきながら言った。
「な、試してみただけのことはあるだろ。その青薔薇の剣は、竜骨の斧よりも……その、攻撃力が上なんだ。もういちど、ギガスシダーの天命を見てみろよ」
「う、うん」
頷き、ユージオは再度印を切って樹皮を叩いた。迫り出したウインドウを食い入るように眺める。
「……二十三万二千三百十四」
「な、なに」
今度は俺が驚く番だった。
「たった一しか減ってないのか? それだけ深く食い込んでるのに……。どういうことだ……やっぱり斧でないと駄目なのか……?」
「いいや、そうじゃないよ」
ユージオは、腕を組むと首を左右に振った。
「切り込んだ場所が悪いんだ。皮じゃなくて、ちゃんと斧目の中心を叩けば天命はもっと減ったと思うよ。……たしかに、この剣を使えば、竜骨の斧より遥かに早く樹を刻めるかもしれない……それこそ、僕の代でこの天職が終わってしまうほど……。――でも」
振り向いたユージオは、じっと俺を見ると、難しい顔で軽く唇を噛んだ。
「それも、ちゃんと剣を使いこなせれば、の話だよ。一度振っただけでそんなに体を痛めて、しかも狙ったところに当てられないんじゃ、結局斧を使うよりも仕事は遅くなってしまうんじゃないかな」
「俺は駄目でも、ユージオならどうだ? お前のほうが、俺より力がありそうだ。一回、そいつを振ってみろよ」
俺が食い下がると、ユージオは尚も首を捻っていたが、やがて、じゃあ一回だけ、と呟いて樹に向き直った。
食い込んだままの青薔薇の剣の柄を両手で握り、こじるように動かす。刃が樹皮からようやく離れた、と思った途端ユージオの上体がふらふらと泳ぎ、剣先がずしんと音を立てて地面に落ちた。
「わっ、なんだよこの重さは。これはとても無理だよ、キリト」
「俺に振れたんだ、ユージオにもできるさ。要領は斧と大して変わらない。斧を使うときよりももっと体の重さを利用して、腕の力じゃなく全身で振り回すんだ」
言葉でどれほど伝わったか不安だったが、やはり長年斧打ちを続けてきただけあって俺の言わんとするところをユージオはすぐに理解したようだった。純朴そうな顔を引き締めると小さく頷き、腰を落としてぐいっと剣を持ち上げる。
ゆっくり後ろに剣を引き、わずかな溜めのあと、シッと鋭い呼気とともに猛烈なスピードでスイングを開始した。右足つま先が一直線に走るところなどは、俺も驚く見事な体重移動態だ。空中に青い光の軌跡を残して、剣尖が深い斧目の中心目掛けて突進していく。
――が、最後の一瞬で、すべての質量を支える左足がずるっと滑った。跳ね上がった剣はV字の切れ込みの上辺を叩き、がっつと鈍い音を発して止まった。直後、俺とは逆に真後ろに吹っ飛んだユージオは、太い根にしたたか尻を打ち付けて低い呻き声を上げた。
「うぐっ……」
「お、おい、平気か」
慌てて駆け寄ると、さっと右手を上げてなおもしかめっ面を続ける。その様子を見て、俺は今更ながら、この世界には痛覚が存在するのだ、という事実に気づいた。
SAOを含むVRMMOゲームは、痛みの感覚を遮断するペインアブソーバという仕組みを備えている。脳の錯覚によって発生する幻の痛みですら無効化するので、VRゲーム内でヒットポイントが一桁になるまで血みどろの肉弾戦に興じることもできる。
だが、この世界にはそんなエンタテインメント精神は欠片も無いようだった。ようやく収まりつつあるとは言え、俺の手首や肩は今もずきんずきんと鈍く疼いている。捻ったり打ち付けた程度でこの有様なのだ。これが、武器による深手なら一体どれほどの苦痛がもたらされるのだろうか。
アンダーワールドで今後、剣を手に戦うつもりなら、その前にこれまでは要求されたことのない種類の覚悟を決めておく必要がありそうだった。何せ、俺はこれまで、重量のある刃によって肉体を叩き斬られる痛みなど想像すらしたこともないのだから。
どうやら、俺よりは苦痛に耐性のあるらしいユージオは、わずか三十秒ほどで渋面を消すと、ひょいっと身軽に立ち上がった。
「うーん、これは無理だよ、キリト。狙いどころに当たる前に、こっちの体が壊れちゃうよ」
苦笑混じりに肩をすくめ、ギガスシダーに向き直る。青薔薇の剣は、斧目の上側に浅い角度で命中したあと弾かれて、樹の根元に斜めに突き立っていた。
「いい線行ってたと思うけどなあ……」
俺は未練がましくそう言ったが、ユージオは首を振ると地面から鞘を拾い上げ、脚をふらつかせながら引き抜いた剣を慎重に収めた。その上から革袋を被せると、元通りくるくると紐で縛る。少し離れた岩の上に剣を横たえ、ふうっと長い息をついて、立てかけてあった竜骨の斧を手に取った。
「うわあ、なんだかこの斧が鳥の羽みたいに軽く思えるよ。――さ、ずいぶん時間を取っちゃったからね、午後の仕事はがんばらないと」
こーん、こーんとリズミカルに斧を振り始めたユージオの背中から視線を外し、俺は横たわる剣のところまで歩み寄ると、指先でそっと革袋越しに鞘を撫でた。
考え方は間違っていないはずだ。この剣を使えば、ギガスシダーは必ず切り倒せる。しかし、ユージオの言うとおり、無理矢理振り回してどうにかなる代物ではないのもまた確かだ。
剣がこうして存在する以上、これを装備し自在に扱える人間もどこかに居るのだろう。俺やユージオは、システムに規定されたその条件を満たしていないのだ。条件とは何だ? クラス? レベル? ステータス? 一体それを、どうやって調べれば……。
「…………」
そこまで考えたところで、俺はしばし言葉を失った。己の思考の鈍さに愕然としたからだ。
もちろん、ステータスウインドウを見ればいいに決まっているではないか。昨日、ユージオがパンの”窓”を開いたときに、それに思い至らなかったとはまったくどうかしている。
俺はいそいそと左手を伸ばすと、指先で例のマークを描き、少し考えてから右の手の甲を叩いた。予想違わず、鈴の音とともに浮かび上がってきた紫の矩形を食い入るように眺める。
パンのウインドウとは違い、そこには複数行の文字列が表示されていた。咄嗟に隅々までログアウトボタンを探したが、残念ながらそれらしいものは存在しない。
まず、最上段に”UNIT ID:NND7-6355”の一文。ユニットID、という言葉の響きには少々ぞっとしないものがあるが、深く考えるのは止めることにする。続く英数字は、おそらくこの世界に存在する人間の通し番号だろうか。
その下に、パンやギガスシダーにもあったDurabilityPointの表示がある。値は”3280/3289”となっている。普通に考えれば左が現在値、右が最大値だろうか。わずかに減少しているのは、先ほど重い剣を無茶して振り回したせいかもしれない。さらに下方へ視線を動かす。”ObjectControlAuthority:38”とある。その下に、”SystemControlAuthority:1”の文字列が続く。
それだけだった。RPGに必須と思える経験値やレベル、ステータスなどの表示はどこにもない。俺は唇を噛み、しばし唸った。
「うーん……オブジェクト・コントロール権限……これかな……」
単語の感触からして、アイテムの使用に関連するパラメータと思えなくもなかった。しかし、三十八、と言われてもそれが何を意味するのかまったく見当もつかない。
左右に何度も頭を捻ったのち、俺はふと思いついて、自分のウインドウを消去すると今度は目の前に横たわる青薔薇の剣の情報を引き出してみることにした。袋の口をゆるめ、少しだけ柄を露出させると、印を描くものもどかしくそっと叩く。
浮かび上がったウインドウには、耐久値”197700”という数字のほかに、求めるものもあった。すぐ下に浮かぶ”Class 45 Object”なる表示が、先ほどのコントロール権限と対応するものである可能性は高い。俺の数字は確か三十八。四十五には届いていない。
剣の窓を消去し、元通り袋を縛ってから、俺はごろりとその場に横になった。うららかな青空を睨みながら、ふうっと溜息をつく。いくつかの情報は得たものの、結局俺がこの青薔薇の剣を使うことはできないらしい、という事実を数値で確認したにすぎない。権限レベルを上昇させられればいいのだが、その方法は見当もつかないと来ている。
この世界が、大まかには一般的VRMMOのシステムに則って動いているとすれば、何らかのパラメータを上げたいなら、長期間の反復訓練をするか、モンスターを倒して経験値を稼ぐかしないのだろうが、前者を試みる余裕は時間的にも心理的にも無いし、後者に至ってはフィールドにモンスターのモの字も見かけない。「レアアイテムを手に入れたものの装備要件レベルが足りない」という状況は、ふつうは経験値稼ぎに邁進するモチベーションを高めてくれるものだが、レベルの上げ方がわからなければ上昇するのはフラストレーションだけである。
MMOゲームは、攻略サイトが存在しない初期の手探り状態がいちばん楽しい――などというヘビーユーザー気取りの発言は、現実に戻ったらもう二度としないぞ。などと益体もない決意を固めつつ見守るうちに、五十回の斧打ちを終えたユージオが、汗を拭いながら振り向いた。
「どう、キリト? 斧が振れそうかい?」
「ああ……。痛みはもう引いたよ」
俺は振り上げた両脚ではずみをつけて立ち上がり、右手を伸ばした。受け取った竜骨の斧は、確かに青薔薇の剣と較べれば笑いたくなるほど軽かった。
せめて、この斧振り行為によって少しでも問題のパラメータが上昇することを祈ろう。そう思いながら、俺は両手で握った斧をいっぱいに振り上げた。
SAO4_08_Unicode.txt
「うああ……極楽極楽……」
我ながら親父臭いセリフだが、労働で疲れきった体をたっぷりした熱い湯に沈めれば、そう言うより他にない。
ルーリッド教会の風呂場は、つるつるしたタイル貼りの床に大きな銅製のバスタブを埋め込んだもので、外壁に設えられたカマドで薪を燃やして湯を沸かす仕組みになっている。中世ヨーロッパにこんな風呂があったとはとても思えないが、ラースのプログラマーがこのようにデザインしたにしろ、内部時間で数百年に及ぶというシミュレーションの結果独自に進化したにしろ俺にとってはまことに有り難いことだ。
夕食が済んでから、まずシスター・アザリヤとシルカと二人の女の子がお湯を使い、その後俺と四人の男の子が入浴して、散々騒いだガキたちが先刻ようやく出て行ったところである。なのに、巨大なバスタブをなみなみと満たす湯にはわずかな濁りもない。俺は両手に透明な液体をすくうと、ばしゃりと顔に浴びせ、再度うふぇ~と弛緩しきった声を漏らした。
これで、この世界に放り出されてからほぼ三十三時間が経過したことになる。俺のダイブ以降のSTRA倍率が不明ゆえ、現実ではどの程度の時間が過ぎ去っているのか見当もつかないが、もし等倍速、つまり現実と完全に同期していて、更に俺が行方不明などということになっていれば、さぞ家族や明日奈が心配していることだろう。
そう考えると、こんなふうにノンビリ風呂に浸かっているなどとんでもない、とっとと脱出方法を探すべきだと焦る気持ちが喉元にせり上がってくる。だが、それと同じくらいの質量で、この世界の秘密を見極めたいという欲求もまた確かに存在する。
俺が、桐ヶ谷和人としての意識と記憶を保ったままこの世界に在るのは、やはりイレギュラーな状況なのだと思えて仕方ないのだ。なぜなら、俺の行動ひとつで、シミュレーションの行方が大きく歪められても不思議はないのである。最低三百年以上に及ぶ壮大な実験が”汚染”されるのは、ラースの技術者にとって間違いなく歓迎されざる事態であろう。
つまりこれは、俺にとって驚天動地の大ピンチであると同時に、千載一遇の大チャンスかもしれないのだ。RATH――おそらくは国の、ことによると防衛予算がたっぷりと注ぎ込まれたあの謎めいた研究機関の、真なる目的を見極める、最初で最後の機会。
「いや……それもまた、言い訳、かな……」
俺は口もとまで湯に沈むと、ぶくぶくと泡に混じって呟いた。
あるいは、俺は単に、ひとりのVRMMOゲーマーとしての単純な欲望に衝き動かされているに過ぎないのかもしれなかった。”世界”を”攻略”したい――マニュアルひとつないこの世界を、知識と勘だけを頼りに渡り歩き、剣の腕を磨いて、数多いるであろう剛の者を打ち倒し最強者の称号を目指したいという、愚にもつかない幼稚な欲望。
仮想世界における強さなど所詮データの作る幻に過ぎないと、俺はかつて何度も思い知らされた。二刀流最上位剣技がヒースクリフに破られたとき、妖精王オベイロンの前で無様に地に這ったとき、追いすがる死銃から為す術なく逃げ惑ったとき、もう二度と同じ過ちを犯すまい、と苦い悔恨を噛み締めたものだ。
しかしまたしても、心の深いところでくすぶる熾火が執拗に俺を焚き付けようとする。俺には振れなかったあの青薔薇の剣を、軽々と操る奴がこの世界にはどれほど居るのだろうか? 法を守護するという整合騎士は、そして闇の国の暗黒騎士とやらはどれほど強いのか? 世界の中央にあるという神聖教会の、一番高い椅子に座るのはどんな奴なんだ……?
無意識のうちに右手の指先が水面を斬り、飛んだ飛沫が正面の壁に当たってビシッと高い音を立てた。
と同時に、脱衣所に繋がるドアの向こうから声がして、俺は我に返った。
「あれ、まだ誰か入ってるの?」
シルカの声だと気付き、慌てて体を起こす。
「あ、ああ、俺――キリト。ごめん、もう上がるから」
「う……ううん、ゆっくりしてていいけど、出るときにちゃんと浴槽の栓を抜いて、ランプを消してね。それじゃ……あたしは部屋に戻るから、おやすみ」
そそくさと去っていく気配に、俺は慌ててドア越しに呼びかけた。
「あ……シルカ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」
ぴたりと止まった足音は、しばし迷うように沈黙を続けていたが、やがて聞き取れないほどかすかな答えが返ってきた。
「……少しなら、いいわ。あなたの部屋で待ってる」
こちらの言葉を待たず、とてとてと小さな音が遠ざかっていく。俺は慌ててバスタブから立ち上がると、底の端っこにある木製の栓を抜き、壁のランプを消して脱衣所に出た。タオルを使わずとも水滴がたちまち消えていくのをいいことに大急ぎで部屋着をかぶり、しんと静まり返った廊下から階段を登る。
客間のドアを開けると、ベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたシルカが顔を上げた。昨夜とは違い、簡素な木綿の寝巻き姿で、ブラウンの髪を三つ編みにまとめている。
シルカは表情を変えずに傍らのテーブルから大きなグラスを取り上げ、俺に向かって差し出した。
「お、ありがとう」
言いながら受け取ると、俺はシルカの隣にどすんと座り、冷えた井戸水を一息に飲み干した。渇いた体の、手足の先まで水分が染み透っていく感覚に、思わずうめく。
「うー、甘露甘露」
「カンロ? って何?」
途端、きょとんとした顔でシルカが首をかしげ、しまったこの世界の語彙には無い言葉だったかと慌てる。
「ええと……すごく美味しくて、癒されるーって感じの水のこと……かな」
「ふうん……。エリクシールみたいなものかしら」
「な、なんだいそれは」
「教会の高位司祭が祝福した聖水のことよ。あたしも見たことはないけど、小瓶ひとつ飲めば怪我や病気で減った天命がたちまち戻るというわ」
「へえ……」
そんなものがあるなら、何で伝染病で何人も死人が出たんだ、と思ったが何となく聞いてはいけないことのような気がして、俺は黙った。少なくとも、神聖教会というご大層な名前の組織が統治するこの世界は、当初思ったほどの楽園ではない、ということだ。
俺が空にしたグラスを受け取ると、シルカは眉をしかめて促すように言った。
「で、話があるなら、早くしてちょうだい。こんな時間に男性の部屋に長い時間いたのをシスター・アザリヤが知ったら、こっぴどく怒られちゃうわ」
「そ……それは申し訳ない。じゃあ手短に済ませるけど、その……聞きたいのは、シルカのお姉さんのことなんだ」
途端、俯いていたシルカの肩がぴくんと揺れた。
「……あたしには、お姉さんなんていないわ」
「今は、だろう? ユージオに聞いたんだ。君に、アリスっていうお姉さんがいたこと……」
言葉が終わらないうちに、シルカがえらい勢いで顔を上げ、俺は少々唖然とした。
「ユージオが? あなたに話したの、アリス姉さんのこと? どこまで?」
「あ……ああ。その……アリスもこの教会で神聖術の勉強をしてたことと……六年前、整合騎士に央都に連れていかれた、ってこと……」
「……そう……」
シルカはかすかな吐息とともに再び視線を落とし、呟くように続けた。
「……ユージオ……忘れたわけじゃなかったんだ、アリス姉さんのこと……」
「え……?」
「村の人は……お父さんも、お母さんも、シスターも、決して姉さんの話をしようとしないの。部屋も、何年も前に綺麗に片付けちゃって……まるで、最初からアリス姉さんなんて居なかったみたいに……。だからもう、みんな姉さんのこと、忘れちゃったのかな、って……ユージオも……」
「……忘れるどころか、ユージオはすごくアリスのことを気にかけてるみたいだぜ。それこそ……天職さえなければ、いますぐ央都まで探しにいきたいくらいに」
何気なく俺はそう言ったが、伏せられたままのシルカの横顔が一瞬くしゃっと歪んだような気がして二、三度瞬きした。だが、すいっと俺のほうを向いたシルカは、いつもと変わらない落ち着いた表情だった。
「そうなの……。じゃあ……ユージオが笑わなくなったのは、やっぱりアリス姉さんのせいなのね」
「笑わない?」
「ええ。いつでも姉さんと一緒にいた頃のユージオは、いつでもニコニコしてたわ。笑顔でない時を探すのが難しかったくらい。あたしはまだすごく小さかったから、ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……でも、気が付くと、ユージオはぜんぜん笑わない人になってた。それだけじゃない、村の、他の子供たちともちっとも一緒にいないで、毎日朝に森に出かけ、夕方に家に帰る、それを繰り返すだけの人になってた……」
聞きながら、俺は内心で少々首を捻っていた。確かにユージオの物腰は静かだが、感情を殺しているという印象はない。森への行き帰りや休憩時間、俺と色々な話をしながら声を出して笑ったことも一度や二度ではないだろう。
彼がシルカや他の村人の前では笑顔を見せないというなら、その理由はおそらく――罪悪感だろうか? 誰からも愛され、次代のシスターとして期待されていたというアリスが捕縛される理由を作り、また助けることもできなかったという罪の意識……? 当時の事情を知らない余所者の俺の前でのみ、ほんの一時自らを責めずにいられる、そういうことなのか。
主観時間にして六年ものあいだ、一度として笑うことがなかったというその一事だけ見ても、ユージオの抱えた苦悩の大きさが忍ばれる。彼の魂はプログラムではない、俺と同じ本物のフラクトライトを持っているのだ。たとえこの世界が巨大な実験場で、それが終了すれば消去されてしまう記憶なのだとしても、それほどまでに深い傷を刻み込む権利が何人にあるというのだろう。
央都に行かねばならない――、再度強くそう思う。俺の目的のためだけではなく、なんとしてもユージオをこの村から連れ出し、アリスを探しあてて、二人を再会させてやらなければどうにも気が収まらない。そのためには、あの樹をどうにかして早晩切り倒さなくては……。
「……ねえ、何を考えてるの?」
シルカの声に物思いから引き戻され、俺ははっと顔を上げた。
「いや……ちょっと、思っただけさ。ユージオはきっと、君の言うとおり、いまでもアリスのことが何より大切なんだろうな、って」
心中をぽろりと口にしたその途端、シルカの顔がもう一度かすかに歪んだような気がした。少し前に大ヒットしたハリウッド映画で幼い気丈なヒロインを演じた子役の女優にどこか似た、くっきりと濃い眉と大きな瞳に、一抹の寂寥感が吹き過ぎる。
「そう……なのね、やっぱり」
呟き、肩を落とすその様子を見れば、いかな朴念仁の俺にも思い当たることがあった。
「シルカは……ユージオのことが好きなんだ?」
「なっ……そんなんじゃないわよ!」
眦を吊り上げて抗議したと思ったら、ぱっと首筋まで赤くしてそっぽを向いてしまう。よもや、この子のフラクトライトの持ち主は、現実でも同年代の女の子なのではあるまいな……などと考えていると、しばらく俯いていたシルカが、不意に少し張り詰めたような声で言った。
「……なんだか、堪らないのよ。ユージオだけじゃない……お父さんも、お母さんも、口には出さないけど、いつも居なくなった姉さんとあたしを較べて溜息をついてた。他の大人たちもそうよ。だからあたし、家を出たの。なのに……シスターも……シスター・アザリヤさえ、あたしに神聖術を教えながら、姉さんなら何でも一度教えたらすぐにできるようになったのに、って思ってる。――ユージオは、あたしのこと避けてるわ。あたしを見ると、姉さんを思い出すから。そんなの……あたしのせいじゃない! あたしは……姉さんの顔だって憶えてないのに……」
薄い寝巻きの生地の下で、細い肩が震えるのを見て、俺は正直なところ心の底から動転した。いままで、頭のどこかでこの世界はシミュレーションでありシルカたちは――プログラムではないにせよやはり仮初めの住人なのだと考えていたせいで、隣で十二歳そこそこの女の子が泣いているという事態に即座に応対できるはずもなく、無様に凍り付いていると、やがてシルカは右手で目尻を拭い、ついた水滴を払い飛ばした。
「……ごめんなさい、取り乱したりして」
「い……いや、その。泣きたいときは、泣いたほうがいいと思うよ」
何をマンガみたいなことを言っているんだおのれは。と思ったが、二十一世紀に氾濫するメディアに毒されていないシルカは、小さく微笑むと素直に頷いた。
「……うん、そうね。なんだか、少しだけ楽になったわ。人の前で泣いたのはずいぶん久しぶり」
「へえ、凄いなシルカは。俺なんて、この歳になっても人前で泣きまくりだ」
明日奈の前でだけだけど、と心の中で付け加えていると、シルカが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。
「あれ……キリト、記憶が戻ったの?」
「あ……い、いや、そうじゃないんだが……そんな感じがするっていうか……と、ともかく、自分は自分なんだからさ。他の誰かになんてなれない……だから、シルカも、自分にできることをすればそれでいいんだ」
これまた甚だしく引用臭いセリフではあったが、シルカはしばらく考え込み、こくりともう一度頷いた。
「……そうね。あたし……自分からも、姉さんからも、ずっと目を背けようとしてたのかもしれない……」
健気に呟くその様子を見ていると、この子のそばからユージオを引き離そうとしている自分に罪悪感を覚える。しかし、現状のままではユージオがシルカの気持ちに応える可能性はほとんど無いような気もするし、シルカにとってもアリスがいまどうしているのか知るのはいいことなのではないだろうか。
などと俺が悩んでいると、頭上すぐのところからしっとりとした鐘の和音が降り注いできた。
「あら……もう九時なのね。そろそろ戻らないと」
ぽん、と床に降り、シルカはドアに向かって数歩進んでから振り向いた。
「ね……キリトは、整合騎士がどうして姉さんを連れていったのか、その理由も聞いたの?」
「え……ああ。なんで?」
「あたしは知らないのよ。お父さんたちは何も言わないし……ずっと前にユージオに聞いたんだけど、教えてくれなくて。ねえ、理由は何だったの?」
俺はかすかに引っかかるものを感じながらも、その正体に思い至る間もなく口にしていた。
「ええと……たしか、川を遡ったところにある洞窟から果ての山脈を越えて、闇の王国に一歩踏み込んじゃったから、って聞いたけど……」
「……そう……。果ての山脈を……」
シルカは何事か考えているようだったが、すぐに小さく頷いて続けた。
「明日は安息日だけど、お祈りだけはいつもの時間にあるからね、ちゃんと起きるのよ。あたし、起こしにこないからね」
「が、がんばってみる」
一瞬だけ微笑み、シルカはドアを開けるとその向こうに消えた。
俺は、遠ざかっていく足音を聞きながら、どすっとベッドに上体を横たえた。アリスという謎めいた少女の情報を得るつもりだったが、居なくなった当時まだ五、六歳だったというシルカにはやはりほとんど記憶が無いようだ。わかったのは、ユージオのアリスに対する気持ちがいかに深いか、ということだけである。
俺は目を閉じ、アリスの姿を想像しようとしてみた。だが勿論、顔立ちなど浮かぶはずもなく、ただ瞼の裏に一瞬きらりと閃く金色の光が見えたような気がしただけだった。
その翌朝、俺は自分の考えの至らなさを嫌というほど思い知らされることになった。
からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。
東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。
耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。
俺の”初期装備”であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう――などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。
桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。
「あっ……おはようございます、シスター」
そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。
「あの……シスター、何か……?」
恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。
「――シルカの姿が見えないのです」
「えっ……」
「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」
これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。
「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」
起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。
「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」
「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」
「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」
「ああ……なるほど」
それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。
「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」
「……だといいのですが……」
シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。
「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」
「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」
会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。
胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。
ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。
「やあキリト、おはよう」
「おはようユージオ」
微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。
「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」
「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」
「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」
「ええ?」
ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。
「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」
「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」
「行きそうな、って言われても……」
「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」
そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。
「あっ……」
「なんだい、どうしたのキリト?」
「まさか……。――なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」
ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」
「それだ」
俺は低くうめいた。
「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」
「ええっ!」
ユージオの顔が一気に蒼ざめた。
「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」
「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」
「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」
ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。
「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」
「急ごう。すぐに出よう」
俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。
「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」
俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。
商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。
麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。
ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。
「ここだ……踏まれた跡がある」
呟き、すばやく印を切って草の”窓”を呼び出した。
「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」
「あ……ああ」
俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。
どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある”ループする回廊”のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。
俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。
そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。
「なあ……ユージオ」
呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。
「なに?」
「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」
するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。
「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」
「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」
「……何を考えてるのさ、キリト?」
「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」
「……」
ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。
「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」
「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」
俺は、挑発するようにそう口にした。
「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」
「……キリト……」
ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の”遵法精神”を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット――人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。
果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。
「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」
「でも、アリスにはできた」
俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。
「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」
言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。
――アリス……君は、いったい、何者なんだ?
ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。
しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは――。
自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。
「見えたよ、キリト」
はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。
ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。
仮想世界じゃあるまいし――、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。
雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。
「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」
信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。
「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」
「……こんなに、近いなんて」
後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。
放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。
「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」
「あ、ああ……そうだな」
彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。
「あれか……」
小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。
「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」
ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。
「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」
システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。
驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。
「ゆ、ユージオ……いまのは?」
厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。
「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」
「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」
「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」
なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。
「なあ……俺にも、使えるかな?」
こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。
「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」
つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。
濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。
「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」
思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。
「あっ……」
青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。
俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。
「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」
思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。
「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」
「そ、そうか……」
改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。
いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした――その時だった。
前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。
「おい……今の、なんだ?」
「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」
「こ、今度は何だよ」
「なんか……匂わない、キリト……?」
言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。
「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」
樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。
「なんだ、これ……」
そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。
きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。
「まずい!」
「シルカ……!」
俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。
この世界に放り出されて以来、最大限にまで――どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも――高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。
やはり”アンダーワールド”もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。
ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。”最後の時”が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。
だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。
激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、”天命”が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。
進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。
腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ――とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。
不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数――かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。
すべてを視ろ、そして考え、行動を起こせ――可能な限り早く。刻み込まれたセオリーに従い、俺は両目をいっぱいに見開いて、その場の状況を広角カメラのようにかしゃりと切り取った。
岩のドームはほぼ円形、直径は五十メートルほどもあるだろう。床面はほぼすべて厚そうな氷に覆われているが、中央部分で大きく割れて、青黒い水面が顔を出していた。
オレンジ色の光の源は、その池の周りに立てられたふたつの篝り火だった。高い足のついた黒い鉄製の篭の中で、薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。
そして、その二つの炎を取り巻くように、一応は人間型ではあるが明らかに人でも獣でもない者たちが三々五々固まって座り込んでいた。その数、三十をやや超えるか。
一人、あるいは一匹の大きさはそれほどでもない。立ち上がっている者の頭の高さは、俺の胸ほどまでしかない。だが彼らの、やや猫背ぎみの体躯はがっしりと横幅があり、とくに異様なまでに長い腕と、その先の鋭い爪のついた手は何でも引き裂けそうなほど逞しい。体には、ほぼ黒に近い色の革製の銅鎧を付け、腰周りには雑多な種類の毛皮や何かの骨、小袋をじゃらじゃらと並べている。それに、無骨だが恐ろしい威力を感じさせる大きな曲刀も。
肌は、炎に照らされていてもはっきりとわかるくすんだ緑色で、まばらな剛毛が生えている。頭部は例外なくつるりと禿げ、尖った耳の周囲にだけ密集している長い毛はまるで針金のようだ。眉毛は無く、突き出た額の下に、不釣合いなほどに大きい眼球が張り付いて、濁った黄色い光を放っている。
どうしようもなく異質――ではあるが、同時に長年見慣れた姿でもあった。彼らは、RPGで言うところの低級モンスター、”ゴブリン”そのものだ。非常にオーソドックス、とさえ言っていい。それを認識すると同時に、俺はほんの少し肩の力を抜いた。ゴブリンというのはほとんど例外なくノービス・プレイヤーの練習相手兼経験値稼ぎ用のモンスターであり、そのステータスはかなり低く設定してあるのが通例だ。
だが、その安堵も、俺とユージオに最も近い場所にいた一匹がこちらに気付き、視線を向けてくるまでのことだった。
そいつの黄色い目玉に浮かんだいくつかの”表情”を見て、俺は骨の髄から凍りついた。そこにあったのはわずかな不審と、残忍な悦び、そして底無しの餓え。俺を大蜘蛛の巣に掛かった蜻蛉のように竦み上がらせるのに充分な悪意がそこにあった。
こいつらも、プログラムではない。
俺は圧倒的な恐怖の中で、それをはっきりと認識した。
このゴブリン達もまた、本物の魂を持っている。ユージオや俺と、あるレベルではまったく同質の、フラクトライトによって生み出される知性を持っている。
だが何故――どうしてそんな事が!?
俺は、この世界に放り出されてからの約二日間で、ユージオやシルカたち住人がどのような存在であるのか、おおよその推測を立てるに至った。彼らは恐らく、いくつかの原型からコピーされ、その後加工されて多様性を与えられた言わば人工フラクトライトなのだ。どのようなメディアに保存されているのかまでは分からないが、STLによって魂が読み取れるなら、その複製もまた可能であろうことは想像に難くない。
原型となったのは、恐ろしいことだが多分、複数の新生児のフラクトライトであろう。言わば原思考体とでもいうべきその存在を無数にコピーし、この世界で赤ん坊として一から成長させる。それならば、アンダーワールドの住民たちが”本物の知性を持ち””現存STLを遥かに超える数存在する”という矛盾する状況が説明できる。俺が一日目の夜、神への挑戦であると畏れたラースの目的はつまり――真なるAI、人工知能を創ることだ。それも、人の魂を鋳型にして。
その目的は最早、八割……いやもしかしたら九割九分達成されている。ユージオの思慮深さは俺を上回るほどだし、複雑な情動は深遠そのものだ。つまり、ラースのこの壮大かつ不遜極まりない実験はすでに終了していておかしくない。
しかし尚も、このようにして継続しているからには、現段階の成果では研究者たちは不満なのだろう。何が足りないのかは根拠のない想像をするしかないが、もしかしたらあの禁忌目録、ユージオたちの”根源的に破れない法”と無関係でないのかもしれない。
兎も角、俺のこの仮説によって、ユージオたちの存在についてはおおよそ説明できる。彼らは、俺とは物理的な存在次元が異なるだけで、魂の質量はまったく同じ”人間”であると言ってよい。
しかし――ならば、このゴブリンたちは何者なのか? 黄色い目から強烈に放射される、このしたたるほどの異質な悪意は――?
彼らの魂の原型もまた人間のものである、とはとても思えない。この底無しの餓え、俺、つまり人間の血をすすり骨を噛み砕くことへの欲望は、人の魂から作り出せるものでは絶対にない。もしかしたらラースは、現実世界で本物のゴブリンを捕まえて、そいつをSTLにかけたのか、などという支離滅裂な思考が頭のなかで明滅した。
俺が凍り付いていたのは、ほんの一秒足らずだったろうが、俺の魂を竦み上がらせるには充分な時間だった。どう動いていいのかも思いつけないまま、ただ視線を動かせないでいる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィッというような音――もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。
そして、喋った。
「おい、見ろや! 今日はどうなってんだぁ、またイウムの餓鬼が二匹も転がりこんできたぜ!」
途端、ドーム中にぎぃぎぃ、きっきっというわめき声が満ちた。近くのゴブリンから次々に、武器を片手に立ち上がり、餓えた視線をぶつけてくる。
「どうする、こいつらも捕まえるかぁ?」
最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうから、ぐららぁっと大きい雄叫びが轟き、全員がピタリと笑うのをやめた。さっと群れが左右に割れ、進み出てきたのは、一際大きな背丈を持つ、指揮官クラスとおぼしき一匹だった。
金属の鎧をつけ、頭に巨大な飾り羽を立てたそいつの目は、それだけで俺を気絶させるのではと思うほどの圧倒的な邪悪さと、氷のような知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥きださせて、そいつは言った。
「男のイウムなぞ連れて帰っても、幾らでも売れやしねぇ。面倒だ、そいつらはここで殺して肉にしろ」
殺す。
という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬戸惑った。
真にリアルな死、つまり現実世界の俺の肉体が致命的損傷を受ける、という可能性は除外していいはずだ。おそらくSTLの中にいる現実の俺に、このゴブリンどもが危害を加えることなど(SAOじゃあるまいし!)できようはずもない。
しかし、かと言って通常のVRMMOと同じように、死を単なるコンディションのひとつであると割り切るわけにも行かないだろう。この世界には、便利な蘇生魔法やアイテムは――神聖教会の中枢という例外を除き――存在しないのだから、ここで連中に殺されたら、たぶんこの”キリト”はジ・エンドなのだ。
ならば、もし死んだら、主体的意識としての俺はいったいどうなるのだ?
ラースの開発支部で目を醒まし、オペレータの平木孝治がにやにやしながらオツカレ、などと言ってドリンクでも差し出すのか? あるいは、この一連の記憶は消去され、またどこかの森でひとり目覚めるところからやり直しなのか? あるいは肉体なき幽霊として、世界のゆく末をただ見守る役を与えられるのか?
そしてその場合――同じくここで命を落とすであろうユージオとシルカはどうなるのだろう?
自前の脳味噌という”専用保存メディア”を持っている俺と違い、何らかの大容量記憶装置に存在するのだろう彼らの魂は、もしかしたら、死んだら消去されてそれきり……ということも有り得るのではないか?
そうだ……シルカ、彼女はどこにいるんだ。
俺は瞬間的思考をわずかに中断させ、再度目の前の光景に意識を向けた。
隊長ゴブリンの指示に従い、部下たちのうち四匹がおのおののエモノをぶら下げて俺とユージオに向かって歩き始めたところだ。ゆっくりとした歩調といい、巨大な口に張り付くにやにや笑いといい、俺たちをなぶり殺しにする気満々と見える。単純な擬似AIには有り得ない行動パターンだ。
奥に残る二十数匹のゴブリンたちも、目に興奮の色を浮かべながら口々にぎぃぎぃと囃し立て、そして――居た! 暗がりに紛れて見え難かったが、修道服を来たシルカの小さな体が、粗末な四輪の運搬車に転がされている。体は荒縄で縛られ、瞼は閉じられているが、顔色からして意識を失っているだけと思えた。
そうだ、先刻、隊長ゴブリンはこう言った。男のイウム(人間のことだろうか?)を連れて帰っても売れないから、この場で殺せ、と。
裏返せば、女なら売れるということだ。奴らは、シルカを闇の国へと拉致し、商品として売り飛ばすつもりなのだ。脳裏に、およそ十通りほどもの陰惨な想像が過ぎる。
このまま何もしなければ、恐らく俺とユージオは殺され、ユージオの魂は”消滅”するだろう。だが、シルカを待つ運命の過酷さは恐らく死より辛いものだ。それを、単なるシミュレーションの枝葉末節などと割り切ることは俺にはできない。絶対にできない。彼女も、俺とおなじ人間――まだほんの十二歳の女の子なのだから。
どうやら、やるべきことは――
「明確だな」
俺はごく小さく呟いた。隣で、同じように凍り付いていたユージオの体がぴくりと動いた。
シルカは絶対に助け出す。例えその代償を、俺のこのかりそめの命で払うことになろうともだ。そして例え、目の前の”本物の”ゴブリンたちを一匹残らず殺すことになろうとも、だ。
もちろん、そんなことが簡単に出来ようはずもない。戦力差はあまりに巨大で、こちらには棒きれの一本も無い。しかし、知力と体力のすべてを振り絞ってやれる限りのことをやるのだ。これは明確なる戦争なのだから。
「ユージオ」
視線を前方に据えたまま、ほとんど音にならない声でささやく。
「いいか、シルカを助けるぞ。動けるな」
すぐに、短いがはっきりと、うん、という答えが返ってくる。やはりこいつも、おっとりしているようでその実ハラが据わっている。
「三つ数えたら、前の四匹を体当たりで突破して、俺は左、お前は右のかがり火を池に倒す。その光る草を無くすなよ。火が消えたら、床から剣を拾って、俺の後ろを守ってくれ。無理に倒そうとしなくていい。その間に、俺はあのボスをやる」
「……僕、剣なんて振ったことないよ」
「斧と一緒だ。いいな、いくぞ……一、二……三!」
氷の上だが、俺もユージオも脚を滑らせることなく最高のスタートを切った。この運が最後まで続くことを祈りつつ、俺は腹の底からときの声を上げた。
「うらあああああ!!」
一拍遅れて、ユージオのふほおおおお! という叫びが続くのを聞いてなんだよそりゃと思ったが幸い効果は充分だったようで、四匹のゴブリンは黄緑色の目を丸くして立ち止まった。もっともそれは雄叫びのせいではなく、”イウムのガキ”が捨て身の突進を仕掛けてきたこと自体に驚いたからかもしれないが。
ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、一番左とその隣のゴブリンの隙間目掛けて、右肩から全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差とスピードの修正効果で、二匹はものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら氷の上をつーっとすべっていった。ちらりと横を見ると、ユージオの体当たりもきれいに決まって、同じく二匹が裏返しの亀のように回転しながら遠ざかっていく。
足を止めることなく、俺たちはゴブリンの円陣ど真ん中目掛けてさらに加速した。幸い、連中の状況対応力はそれほどでもないようで、隊長を含めていまだ立ち上がることなくぽかんとこちらを見ている。
そうだ、そのままボーっとしてやがれ。罵るように祈りながら、俺はゴブリンどもの間を縫うように最後の数メートルを走り抜ける。
さすがに隊長ゴブリンだけは他の連中とは一枚上の知能を持っているようで、怒りに満ちた叫びが氷のドームに轟いた。
「そいつらを火に近づけるな――」
だが、いかにも遅かった。俺とユージオは、三本足の火篭に飛びつくと、勢い良く水面めがけて蹴り倒した。渦のように火の粉を撒き散らしながら、二つのかがり火は黒い水面へと倒れこんでいき、ばしゅっという音と白い水蒸気を残してあっけなく消え去った。
ドームは一瞬、まったき暗闇に包まれ――次いで、ほのかな青白い光がそっと闇を退けた。ユージオが左手に握るネコジャラシの光だ。
ここで、二つ目の僥倖が俺たちを待っていた。
周囲にうじゃうじゃいるゴブリンどもが一斉にぎいいいいっという悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、ある者は後ろを向いてうずくまったのだ。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、苦しそうに顔を背け、こちらに左手をかざしている。
「キリト……これは……!?」
驚いたように囁くユージオに、俺は短く答えた。
「多分……あいつら、その光が苦手なんだ。神聖術の光がな。今がチャンスだっ」
俺は、周囲の床に乱雑に放り出されている武器のなかから、巨大な鉄板のように無骨な直剣と、先端にボリュームのある曲刀を拾い上げ、刀のほうをユージオの手に押し付けた。
「その刀なら使い方は斧と同じでいけるはずだ。いいか、草の光で牽制して、近づく奴を追い払うだけでいいからな」
「き……キリトは?」
「奴を倒す」
短く答え、顔を覆った右手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって俺は一歩踏み出した。両手で握った直剣を、数回左右に振ってみる。外見に反して、やや頼りないと思えるほど軽いが、あの剣のように重過ぎて扱えないよりは遥かにマシだ。
「ぐららぁっ! イウムごときが……この”蜥蜴喰いのジラリ”様と戦おうとでも言うのか!」
じりじり近づく俺を片目でねめつけながら、隊長が太い雄叫びを放った。同時に、右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びだの何かの血などがこびり付き、異様な迫力を纏っている。
勝てるのか!?
頭ひとつほども大きいそいつと対峙した俺は、一瞬ひるんだ。だがすぐに、歯を食い縛って怯えの虫を噛み潰す。ここで奴を倒せず、シルカを助けられなかったら、俺がこの世界に来たのはあの子に最悪の運命を与えるためだった、ということになってしまう。サイズなど問題ではない――旧アインクラッドでは、俺より三倍も四倍も大きいモンスターどもと数え切れないほど戦ったのだ。しかもそいつらは、俺を”本当に殺す”可能性に満ち満ちていたのだ。
「違うね……戦うだけじゃない、ぶっ倒そうっていうのさ」
俺は無理矢理作った笑みの隙間からそう吐き出すと、右足で思い切り地面を蹴った。
左足を深く踏み込み、大上段に振りかぶった剣を敵の肩口目掛け真っ向正面から振り下ろす。
甘く見ていたわけではないが、ボスゴブリンの反応は息を呑むほど速かった。視力を半ば奪っていることを考えると、旧SAOのベテラン剣士並みと言っていい。戦い慣れている。
“後の先”――とでも言うのか、打ち込みに呼吸を合わせるように横殴りに飛んできた蛮刀を、俺はぎりぎりのところで掻い潜った。髪が何本か、圧力に引き千切られるのを感じた。俺の上段斬りは、先端が奴の肩アーマーを掠めて小さな火花を散らすに留まった。
止まったら斬られる、そう確信した俺は、低い姿勢から体を左に捻り、がら空きのゴブリンの脇腹目掛けて右手一本の突き技を放った。今度は見事命中したものの、傷だらけの胴鎧を貫通するには至らず、鱗状の板金を何枚か引き千切っただけだった。
ちゃんと先まで砥いどけよ! とこの剣の持ち主に向かって毒づきながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一刀をさらに右に飛び退って回避する。蛮刀の分厚い切っ先が足元の氷を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。
単発攻撃では埒があかない。隊長ゴブリンが体勢を回復する前に、俺は体に染み付いた片手直剣三連撃技”シャープネイル”を繰り出した。
右下から払い上げの第一撃が、敵の左足を掠め、動きを止める。
左から右へ薙ぎ払う第二撃が、鎧の胸部分を切り裂き、その奥の肉をも浅く抉る。
右上から斬り下ろす第三撃が、致命傷を防ごうと上げられた敵の左腕を、肘の少し下部分からガツッと音を立てて断ち切った。
壊れた蛇口のように迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くるくる回りながらすぐ左側の池に没し、どぷんと重い水音が響いた。
勝った!
俺がそう確信してから、止めの一撃を放つまでのわずかな隙を、しかし敵は見逃さなかった。
横殴りにごうっと飛んできた蛮刀を、俺は回避しきれず、先端が左肩を掠めた。その圧力だけで俺は二メートル近くも吹き飛ばされ、ごろごろと氷床に転がった。
左腕を切り飛ばされながらも一瞬も怯むことのなかった隊長ゴブリンの胆力、当たり損ねの一撃で俺を跳ね飛ばす剣の威力、そして何より、脳天に稲妻が突き刺さるような途方もない痛みのせいで――
俺は石のように竦み上がった。
「キリト! やられたのか!?」
すこし離れた場所で、右手に曲刀、左手に光る草を持って手下ゴブリンどもを牽制していたユージオが焦りの滲む声で叫んだ。
かすり傷だ、と言い返そうとしたが、強張った舌が意思のとおりに動かず、俺はああ、うう、としゃがれた音を漏らすことしかできなかった。左肩から発生し、全身の神経を焼き切ろうとするかのような熱さのせいで、目の前にちかちかと火花が飛び、抑えようもなく涙が溢れた。
なんという凄まじい痛みだ!
耐えられる限界を遥かに超えている。氷の上に転がり、丸めた体を硬直させて浅い呼吸を繰り返す以外に何もできない。それでもどうにか首を回し、おそるおそる傷口を見ると、チュニックの左袖はまるごと引き千切られ、剥き出しになった肩に大きく醜い傷が口を開けていた。刀傷というより、巨大な鉤か何かでむしられたかのようだ。皮膚とその下の肉がごっそり抉られ、剥き出しになった筋繊維の断面から赤黒い血液が絶え間なく噴き出している。左腕はすでに痺れと熱の塊と化し、指先は他人のもののように動こうとしない。
こんな仮想世界があってたまるか、と俺は脳裏で呪詛のようにうめいた。
バーチャル・ワールドというのは、現実の痛みや苦しみ、醜さや汚さといったものを除去し、ひたすらコンフォートでクリーンな環境を実現するために存在するのではないのか!? こんな恐ろしい苦痛をリアルに再現することに、いったいどんな意味がある。いや――むしろ、この痛みは現実以上とさえ思える。現実世界でこのような怪我をすれば、脳内物質が分泌されたり、失神したりといった防御機構が働くのではないだろうか? こんな、魂そのものを苛む痛みに耐えられる人間などいるはずがない……。
それも少し違うかもな。
諦めに似た脱力感の中に逃げ込みながら、俺は自嘲気味にそう思いなおした。
そもそも、俺はリアルな痛みというものにまったく慣れていないのだ。現実世界では、救急車に乗るような大きな怪我などしたことは無いし、幼い頃祖父に強制された剣道も、練習の辛さに音を上げてすぐに辞めてしまった。SAO脱出後のリハビリは苦しかったが、最先端のトレーニングマシンと補助的投薬のお陰でたいした苦痛に晒されることもなかった。
仮想世界においては何をかいわんやである。ナーヴギアやアミュスフィアのペインアブソーブ機構によって過保護なまでに痛みを除去された結果、俺にとって負傷というのは財布から払うコインにも似た、単なる数値の増減でしかなくなった。そう――もしSAO世界にこんな痛みが存在すれば、俺は始まりの街から出ることもできなかったろう。
アンダーワールドは、魂の見る夢。もうひとつの現実。何日前のことかは定かでないが、エギルの店で自分が口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。何が『この世界を攻略したい』だ。剣の技を試してみたい、などとどうしようもない思い上がりだった。たったひとつの傷に耐えることのできない者に、そもそも剣を持つ資格があろう筈もない。
それにしても痛い。今すぐにこの痛みから解放されなければ、大声で泣き喚き助けを乞うてしまいそうだ。せめてそんな醜態を晒す真似だけはしたくない。
涙で滲む視界の先で、隊長ゴブリンが切断された左腕にぼろ布を巻き終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りの念で、周囲の空気が揺らいでいるかのようだ。口に咥えていた蛮刀を右手に移し、ぶんっ、と振り回す。
「……この屈辱は、お前らを八つ裂きにして、腸を食い散らしても収まりそうもねぇが……とりあえず、やってみるとするか」
いいから、早くやってくれ。どうせここから出て、STLの中で目を醒ましたら、すべての記憶を無くしているんだ。ユージオのことも。シルカのことも。あの子をいかなる犠牲を払っても助けると誓ったその数分後に、尻尾を巻いて逃げ出す自分へのどうしようもない嫌悪感さえも。
頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長ゴブリンから視線を外し、俺は遠く離れた場所に意識を失って横たわるシルカの姿をちらりと見た。そしてぎゅっと両目を瞑った。
重い足音が、転がる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な刀が高く振りかぶられるのを感じた。頼むから一撃、一瞬で片をつけてくれよ、と思いながら俺はこの世界から放逐される瞬間を待った。
だが、いつまで待ってもギロチンの刃は落ちてこなかった。かわりに、背後からだだっと氷床を蹴る音がして、すぐに聞きなれた叫び声が続いた。
「キリト――ッ!!」
驚いて目を見開くと、俺を飛び越えて隊長ゴブリンに打ちかかるユージオの姿が見えた。右手に握った曲刀を腕力だけでめちゃくちゃに振り回し、自分より遥かに大きい敵を二歩、三歩と後退させていく。
ゴブリンは一瞬驚いたようだったが、しかしすぐに余裕を取り戻し、蛮刀を巧みに操ってユージオの攻撃を左右に捌いた。瞬間痛みを忘れ、俺は叫んだ。
「やめろユージオ! 早く逃げろ!!」
だが、ユージオは我を忘れたかのように大声で叫びながら、尚も剣を振りつづけた。一撃のスピードには目を見張るものがあるが、いかんせんテンポが単調すぎる。隊長ゴブリンは、獲物の抵抗を楽しむかのようにしばらく防御に徹していたが、やがて一声ぐららうっ! と叫ぶとつま先でユージオの軸足を払った。体勢を崩し、たたらを踏むユージオ目掛けて――
「やめろおおおっ!!」
俺の叫びが届くより早く、蛮刀を横薙ぎに叩きつけた。
SAO4_09_Unicode.txt
一撃を腹に受け、高く宙を吹き飛んだユージオは、音を立てて俺のすぐ横に落下した。反射的に体を起こし、にじりよろうとすると左肩が目のくらみそうなほどに痛んだが、喉から情けない嗚咽を漏らしてどうにか堪える。
ユージオの傷は酷い有様だった。上腹部を横一直線に切り裂かれ、ギザギザの傷口からごぽり、ごぽりと恐ろしいほど大量に血が溢れている。いまだ左手に握られたままの草穂に照らされ、傷口の奥で不規則に動く臓器が否応無く見て取れた。
ごぼっ、と重い音がして、ユージオの口からも泡混じりの血が噴き出した。茶色の瞳はすでに光を失いかけ、虚ろに宙を睨んでいる。
しかし、ユージオは尚も体を起こそうとするのを止めなかった。口と鼻からひゅっ、ひゅっと赤い飛沫混じりの空気を吐き出しながら、震える両腕を突っ張る。
「お前……なんで、そこまで……」
俺は思わず呻いた。ユージオを襲っている苦痛は、俺の比ではないはずだ。人の魂が耐えられる範疇とはとても思えない。
ユージオは、焦点のぼやけた瞳で俺を見ると、赤く染まった口を動かして言った。
「こ……子供の頃……約束したろ……。僕と……キリトと……アリスは、生まれた日も……死ぬ日も一緒……今度こそ……守るんだ……僕が……」
そこで、がくりとユージオの腕から力が抜けた。俺は咄嗟にその体を両手で支えた。細身だが筋肉質なユージオの重さを、ずしりと感じた瞬間――。
視界が断続的に白い閃光に包まれ、そのスクリーンの奥に朧な影が浮かんだ。
真っ赤な夕焼け空の下、麦畑を貫く道を歩いている。俺の右手を握るのは、亜麻色の髪の幼い少年。左手を握るのは、金髪のお下げ髪の少女。
そうだ……世界は永遠に変わらないと信じていた。三人、いつまでも一緒だと信じていたんだ。なのに守れなかった。肝心なとき、何もできなかった。あの絶望、無力感を忘れるものか。今度こそ……今度こそ俺は……。
もう肩の痛みは感じなかった。俺はぐったりとしたユージオの体をそっと氷の上に横たえると、右手を伸ばし、転がっていた直剣の柄を握った。
そして頭上に掲げ、今まさに振り下ろされつつあった隊長ゴブリンの蛮刀を横一閃に弾き落とした。
「ぐるらっ」
驚いたような声を上げ、わずかに体を泳がせた敵の腹に、立ち上がりざまのタックルをぶちかます。ゴブリンは更によろけて、二、三歩後退する。
右手の剣をぴたりと相手の正中線に据え、大きく息を吸い、吐き出す。
俺は確かに、肉体的な痛みに関してはまるで素人だ。だが、そんなものを遥かに上回る絶対的苦痛ならよく知っている。大切な人を失う痛みに較べれば、こんな傷などいくつ負おうがものの数ではない。喪失の痛みだけは、機械で記憶をいかに操作しようと絶対に消えることはないのだ。
最早我慢ならん、と云わんがばかりに隊長ゴブリンが大音響の咆哮を轟かせた。周囲で喚いていた手下どもがぴたりと押し黙る。
「イウムがぁ……調子に乗んじゃねぇッ!!」
暴風のような勢いで突っ込んでくる隊長の、蛮刀の先端だけを俺はじっと凝視した。きいいいんという耳鳴りとともに、視界の余計な部分が放射状に流れて消えていく。久しく忘れていた、脳神経が赤熱するかのような加速感覚。いや――この世界では、魂が燃えるような、と言うべきか。
袈裟斬りに振り下ろされる蛮刀を、俺は一歩前に踏み込んでかわし、左下からの一刀で敵の右腕をほぼ付け根から斬り飛ばした。巨大な腕を付けたままの蛮刀は、ぶんぶん回転しながら周囲のゴブリンの輪に飛び込み、複数の悲鳴が上がった。
両腕を失った隊長ゴブリンは、黄色い両眼に怒りと、それ以上の驚きを浮かべ、よろよろと後ずさった。傷口から黒い体液がばしゃばしゃと迸り、氷に落ちて湯気を立てる。
「……イウムに……イウムごときに俺様が負けるわけがねぇっ……」
その言葉が終わらないうちに、俺は全力で突進した。
「ゴブリンごときに……」
無意識のうちに、獰猛なセリフが口を突く。左足のつま先から右手の指先、直剣の切っ先までが一本の鞭のようにしなり、たくわえた威力を解き放つ。
「この俺が斬れるかッ!!」
ぴうっ、と空気を裂く音が耳に届いたのは、隊長ゴブリンの巨大な首が宙を舞った少し後だった。
ほぼ垂直に高く上昇し、次いでくるくる回転しながら落下してきたそれを、左手で受け止める。鶏冠のように立てられた飾り羽を鷲掴みにして、いまだ鮮血の垂れる首級を高く掲げ、俺は叫んだ。
「お前らの親玉の首は取った! まだ戦う気がある奴はかかってこい、そうでない奴は今すぐ闇の国に帰れ!」
ユージオ、もう少しがんばれ、と心の中で唱えつつ、両目に最大限の殺気を込めて集団を見回す。ゴブリンたちは、隊長が死んだことで相当に浮き足立ったようで、互いに顔を見合わせながらぎっぎっと忙しなく声を上げている。
やがて、前列にいた一匹が、肩に担いだ戦棍をゆらゆらさせながら進み出てきた。
「ぎへっ、そういうことなら、手前ェを殺ればこの俺が次の頭に……」
口上を最後まで聞くほどの忍耐力は、今の俺には無かった。左手に首をぶら下げたまま猛然とダッシュし、そいつの右脇から左肩までを一刀で両断する。どっ、と重い音に続いて血飛沫が散り、やや遅れて上半身がずるりと滑り地面に落ちた。
それで、ようやく残る連中の意思決定も終わったようだった。甲高い悲鳴が一斉に上がり、我先にとドームの一端に走り出す。俺たちが入ってきたのとは別の出口に、数十匹のゴブリンたちが周囲の者を突き飛ばし蹴飛ばししながら吸い込まれていき、たちまちのうちに見えなくなった。反響する足音と、具足の金属音が徐々に遠ざかり、消えると、氷のドームは先刻の熱気が嘘のような冷たい静寂に包まれた。
俺は今更のように戻ってきた恐怖と左肩の痛みを深呼吸ひとつで脇に押しやり、剣と首級を同時に放り投げた。振り向き、横たわったままの友の傍らに駆け寄る。
「ユージオ!! しっかりしろ!!」
声を掛けるが、紙のように白い顔は瞼を閉じたまま動こうとしない。口の端でピンク色の泡混じりの呼吸が繰り返されてはいるが、今にも停止してしまいそうな弱々しさだ。上腹の凄惨な傷口からは相変わらず血が流れ出ており、それを止めなくてはならないのはわかるがどうやって止血していいのか見当もつかない。
強張った右手で素早く印を切ると、俺はユージオの肩を叩いた。浮かび上がったウインドウを、こわごわ覗き込む。
生命力――デュラビリティ・ポイントの表示は、『244/3425』となっていた。しかも、左側の数字がおよそ二秒毎に一という恐ろしいペースで減少していく。つまり、ユージオの命が尽きるまで、あとわずか八分しかないということだ。
「……待ってろ、すぐ助けるからな! 死ぬなよ!!」
俺はもう一度声を掛け、立ち上がった。今度は、ドームの隅に放置されたままの四輪台車に向かって全力で走り寄る。
荷台には、中身のわからない樽や木箱、雑多な武器類と一緒に、縛られ転がされたシルカの姿があった。手近な箱から適当なナイフを掴み出し、手早くロープを切る。
小さな体を抱き上げ、広い床に横たえてざっと調べたが目立つ外傷は無いようだった。呼吸もユージオと較べればはるかにしっかりしている。氷に突いていたせいで冷えた左手で、頬をぴたぴた叩きながら大声で呼びかける。
「シルカ……シルカ! 目を醒ましてくれ!!」
すぐに、弓形の眉が顰められ、長い睫毛が震えて、ばちりと音がしそうな勢いでライトブラウンの瞳が見開かれた。離れた池のほとりに転がる草穂の光だけでは、咄嗟に俺を認識できなかったようで、喉の奥から細い悲鳴が漏れる。
「やっ……いやぁぁっ……」
両手を振り回し、俺を押し退けようとするシルカの体を抑えて更に叫ぶ。
「シルカ、俺だ! キリトだ! もう心配ない、ゴブリンは追い払った!」
俺の声を聞いたとたん、シルカはぴたりと暴れるのを止めた。おそるおそる伸ばしてきた右手の指先で、そっと俺の頬をさわる。
「……キリト……キリトなの……?」
「ああ、助けに来たんだ。お前大丈夫か? 怪我してないか?」
「う……うん、平気……」
シルカの顔がくしゃっと歪み、直後ものすごい勢いで俺の首に飛びついてきた。
「キリト……あたし……あたし……!」
すううっと耳もとで息を吸う音がして、幼子のような号泣が――始まる前に、俺はシルカの体を両腕で抱え上げるとくるっと振り向き、また走り出した。
「ごめん、泣くのはちょっと後にしてくれ! ユージオが大怪我をしたんだ!!」
「えっ……」
腕の中の体が即座に強張る。氷の欠片だのゴブリンどもが置いていったガラクタだのを蹴り飛ばしながら一目散にユージオのところまで引き返し、シルカをその隣に下ろす。
「もう、普通の治療じゃ間に合いそうにないんだ! シルカの神聖術でなんとかならないか!?」
俺が捲し立てると、シルカは息を飲みながらひざまずき、おそるおそる右手を伸ばした。ユージオの深い傷のそばに指先が触れると、びくりとその手を引っ込める。
やがて、三つ編みに結った髪を揺らして、シルカは大きくかぶりを振った。
「……無理よ……こんな……こんな傷……あたしの魔法じゃ、無理……」
指先を、今度は蒼白になったユージオの頬に当てる。
「ユージオ……嘘よね……あたしのせいで……ユージオ……」
シルカの頬をつうっと伝った涙が、氷の上にできた血溜まりに落ちて小さな音を立てた。戻した両手で顔を覆い、嗚咽を漏らそうとする少女に向かって、俺は酷と思いつつ大声で言った。
「泣いてもユージオの傷は治らない! 無理でもいい、やってみるんだ! 君は次のシスターなんだろう!? アリスの後を継いだんだろう!?」
シルカの肩がぴくりと震え、しかしすぐに力なく落ちる。
「……あたしは……姉さんにはなれない……。姉さんが三日でマスターした術を、あたしはひと月かけても覚えられないのよ。今のあたしに治せるのは、ほんの……ほんのかすり傷くらいで……」
「ユージオは……」
俺は喉に込み上げてくる様々な感情を無理矢理飲み込みながら口を動かした。
「ユージオは、君を助けにきたんだぞ、シルカ! アリスじゃない、君を助けるために、命を投げ出したんだぞ!」
もう一度、シルカの肩が、さっきより大きく揺れた。
こうしている間にも、ユージオの天命はゼロに向かって突進しつつある。残り時間は二分、それとも一分だろうか。身悶えするほど長くもどかしい一瞬の沈黙。
不意に、シルカが顔を上げた。
「――もう、普通の治癒術じゃ間に合わないわ。危険な高位神聖術を試してみるしかない。キリト、あなたの助けが必要だわ」
「わ、わかった。言ってくれ、何でもやる」
「左手を貸して」
即座に伸ばした俺の手を、シルカは自分の右手で強く握った。次いで、氷の上に投げ出されたユージオの右手を左手でしっかり掴む。
「もし術が失敗したら、あたしも、あなたも命を落とすかもしれないわ。覚悟はいいわね」
「その時は俺の命だけで済むようにしてくれ。――いつでもいいぞ!」
シルカは一瞬、強い光を湛えた瞳で俺をまっすぐ見つめた。すぐに目を閉じ、すうっと息を吸い込む。
「システム・コール!」
高く澄んだ音声が、氷のドームいっぱいに響いた。
「――トランスファー・ユニット・デュラビリティ、ライト・トゥ・レフト!!」
声の反響を追いかけるように、きぃんという鋭い音が高まり、膨れ上がった――と思ったその瞬間、シルカを中心として青い光の柱が屹立した。
草穂の光を遥かに上回る、凄まじい光量だ。巨大なドームの隅から隅までをライトブルーに染め上げている。俺は思わず目を見開いたが、それも束の間、突然シルカに握られた左手が異様な感覚に襲われ歯を食い縛った。
まるで、全身の構成物が光に溶け、左手から吸い出されていくようだ!
見れば、実際、俺の体から小さな光の粒が浮き出しては、左腕を滝のように流れ落ち、シルカの右手に注ぎ込まれていく。ぼやける視線でその先を追うと、光の奔流はシルカの体を通過して、ユージオの右手からその体へと流れ込んでいる。
トランスファー・デュラビリティ、つまり人から人へと天命を移動させる術なのだろう。おそらく、今俺のウインドウを開けば、数値が目まぐるしく減少しているはずだ。
構わないから全部使ってくれ、そう念じながら、俺は左手に一層力を込めた。見れば、エネルギーの導線となっているシルカも相当に苦しそうだ。あらためて、この世界に厳然として存在する、力の代償としての痛みの大きさを意識する。
痛み、苦しみ、そして悲しみ。仮想世界には必要ないはずのそれらが、これほどまでに意図的に強調されていることが、アンダーワールドの存在理由と深くリンクしているのは最早明らかだ。魂たちを苛むことで、ラースの技術者たちが何らかのブレイクスルーを目指しているなら、予期せぬ闖入者の俺がここでユージオを助けようとするのは明白な妨害行為ということになるのだろう。
だが、言わせてもらえば、そんなもの糞食らえだ。たとえ魂だけの存在であろうとも、ユージオは俺の友達なのだ。絶対にこのまま死なせたりしない。
一体いかなる情報が俺の魂に与えられているのか、天命の移動が進むにつれ、全身を異常な寒気が包み込みはじめた。徐々に暗くなる視界で、懸命にユージオの様子を確かめる。腹の傷は、術の開始前と較べれば明らかに小さくなってきているように見えた。しかしまだ完全な治癒には程遠い。流れ出る血も止まっていない。
「き……キリト……まだ、だいじょうぶ……?」
苦しそうな息の下で、シルカが切れ切れに言った。
「問題ない……もっと、もっとユージオにやってくれ!」
即座にそう答えたものの、すでに俺の目はほとんど視力を失いつつあった。右手、右足の感覚も消失し、唯一シルカに握られた左手だけが熱く脈打っている。
ここでこの世界における命を失おうとも、それはまったく構わない。ユージオの命が救われるなら、先刻に倍する痛みにだって耐えてみせる。しかしひとつだけ心残りなのは、世界の行く末を見届けられないことだ。恐らく、あのゴブリン集団を端緒とするのであろう闇の軍勢の侵攻に、真っ先に晒されるであろうルーリッドの村が気がかりで仕方ない。俺はログアウトとともにここでの記憶を失ってしまうだろうから、舞い戻ることも不可能だろう。
いや――きっと、自分の眼でゴブリン達を見たユージオが何とかしてくれるはずだ。村長に警告して衛士を増強させ、更に世界の危機を知らせるために央都へ向かう。彼ならきっとそうする。
そのためにも、今ここでユージオを死なせるわけにはいかない。
ああ、だが、しかし――俺の命は、もうすぐ尽きてしまう。なぜか、それがはっきりと分かる。ユージオはまだ目を開けようとしない。彼の傷を癒し、死の際から呼び戻すためには、命をすべて費やしても足りないというのか。
「……もう……だめ……これ以上続けたら、キリトが……っ」
シルカの悲鳴が、遥か遠くからかすかに聞こえた。
止めるな、続けるんだ、そう言おうとしたがもう口も動かない。思考を続けることすら困難になりつつある。
これが、死なのだろうか? アンダーワールドにおける魂の擬似的死……それとも、魂の死は、現実の肉体すらも殺すのだろうか。そんなふうに思えてくるほどに、たまらなく寒い……そして恐ろしいくらい孤独で……。
ふと、両肩に、誰かの手を感じた。
暖かい。氷が詰まった俺という殻を、じんわりと溶かしていく。
アリス――!?
俺はこの手を知っている。小鳥の羽のように華奢で、しかし誰よりも力強く未来を指していた手。
アリスなのか……?
声にならない声でそう尋ねると、左の耳にふっと優しい吐息の感触が訪れ、そして、泣きたくなるほど懐かしく思える声が聞こえた。
『キリト、そしてユージオ……待ってるわ、いつまでも……セントラル・カセドラルのてっぺんで、あなた達をずっと待ってる……』
黄金色の光が恒星のように輝き、俺の内部を満たした。圧倒的なエネルギーの奔流は、すべての細胞に染み渡ったあと、行き場を求めて左手から溢れ出していった。
五十回目の綺麗に澄んだ斧音が、春霞の空高く拡散していった。
額の汗を拭いながら斧を下ろしたユージオに、俺は背後から声をかけた。
「傷の具合はどうだ? 痛んだりしないか?」
「ああ、丸一日休んだら、もうすっかり治ったみたいだよ。少し痕は残ったけどね。それどころか……気のせいかな、なんだか”竜骨の斧”がやけに軽く思えるんだ」
「気のせいってわけでもなさそうだぜ。今の五十回、真芯の当たりが四十二回もあった」
それを聞いたユージオはひょいっと眉を持ち上げ、次いでにっと大きく笑った。
「本当かい? なら、今日の賭けは僕が頂きだな」
「そりゃどうかな」
笑い返しながら、俺は受け取った竜骨の斧を右手一本で軽く振ってみた。確かに、記憶にあるよりは手首に感じる反動がずいぶんと少ない。
果ての山脈地下の洞窟で、最早夢だったかとさえ思えるほどに恐ろしい体験をしてから、すでに二晩が過ぎ去っていた。
シルカの神聖術によってからくも息を吹き返したユージオに右肩を貸し、左手に隊長ゴブリンの醜悪な首級をぶら下げて、どうにかルーリッドの村まで帰り着いたときにはとうに日没は過ぎ去っていた。村では大人たちが、捜索隊を出すかどうか広場で協議しており、そこに俺たち三人がひょっこり現われたものだから、短い安堵の溜息に続いて主に村長ガスフトとシスター・アザリヤによる叱責が轟雷のごとく降り注いだ。
しかしそれも、俺が左手の生首を大人たちの足元に転がすまでのことだった。人間の頭より遥かに巨大で、黄緑色の眼と長い乱杭歯を剥き出した隊長ゴブリンの首に睨まれて、大人たちはしんと黙り込んだあと盛大な悲鳴を上げた。
あとは主にユージオとシルカが、北の洞窟に野営していたゴブリンの大集団のことと、それが恐らく闇の軍勢による大侵攻の尖兵であることを説明した。村長たちはいかにも子供のたわ言と笑い飛ばしたそうだったが、誰一人本物を見たことのない怪物の生首が石畳に転がっていればそういう訳にもいかない。議題はすぐに村の防衛をどうするかに移り、俺たちは無事放免されて、疲れた足を引きずりながら家に戻った。
教会の部屋でシルカに左肩の傷を手当てしてもらい、俺はベッドに倒れこんで泥のように眠った。翌日の仕事はユージオともども免除され、これ幸いと惰眠を貪り、さらに一晩明けて今朝には肩の痛みも全身の疲労感もすっきり抜けていた。
朝食後、こちらも元気な顔で現われたユージオと連れ立って森へと歩き、最初の一セットを彼が打ち終えたところ――である。
俺は、右手に握った斧を眺めながら、少し離れた場所に腰を下ろしたユージオに向かって言った。
「なあ、ユージオ。覚えてるか……あの洞窟で、お前がゴブリンに斬られたときのこと……。お前、妙なこと言ったよな。俺が、ユージオとアリスと、ずっと昔から友達だった、みたいな……」
答えはすぐには返ってこなかった。しばらく沈黙が続いたあと、ざあっと心地よい風が梢を鳴らして通り過ぎ、その尻尾に乗るようにして心許なそうに揺れる声が俺の耳に届いた。
「……覚えてるよ。そんな訳はないんだけどね……なんだか、あの時は、すごくはっきりそう思えたんだ。僕と、キリトと、アリスはこの村で生まれて一緒に育って……アリスが連れていかれたあの日も、その場に一緒にいたような……」
「……そうか」
頷き、しばし考え込む。
極限状況における記憶の混乱、そう説明することは容易い。ユージオという人格を構成するのが俺のそれと同じ”不確定な光”フラクトライトなら、生死の瀬戸際において情報の誤った接続が発生しても不思議ではない。
しかし、問題は――あの場で、俺にも同じような記憶の捏造が発生した、ということだ。目の前で死にゆくユージオを見たとき、確かに俺も、彼と一緒にルーリッドの村で育った、というような生々しい感覚を得たのだ。それに、眩い金髪を持つ少女、俺は会ったことすらないはずのアリスの思い出さえも。
そんなことは有り得ない。この俺、桐ヶ谷和人には、埼玉県川越市で妹の直葉と一緒に今日まで(正確にはこの世界で目覚めるまで)暮らしたというクリアな記憶が存在する。それが捏造されたものだとはどうしても思えないし、思いたくない。
やはり、あの現象は、俺とユージオを同時に同種の幻視が襲った、というそれだけのことなのだろうか?
だとしても、唯一、説明のつけられないことがある。シルカの神聖術によって俺の天命をユージオに移動し彼を救おうと試みたあの時、俺は薄れゆく意識の中で、確かに背後に何者かの気配を感じたのだ。いや、何者か、ではない――あの瞬間、俺は彼女がアリスだと確信していた。そしてアリスは言ったのだ。キリト、そしてユージオ、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、と。
あの声までもを、俺の混濁した意識が生み出した幻だ、と切り捨てることはできない。なぜなら俺は”セントラル・カセドラル”などという単語をこれまで聞いたことはないからだ。現実世界には勿論、様々なVR世界においても、そんな場所あるいは建物の存在を噂にも聞いたことは無いと断言できる。
ならばあの声は、六年前央都に連行されたはずの本物のアリスが、何らかの方法によって俺に送ってきたメッセージである、ということになる。しかし、彼女は俺を知っているようだった。そう――まるで、あの存在し得ない記憶、俺とアリスとユージオが、ルーリッドの村で生まれ育った幼馴染同士である、という思い出が真実である、とでもいうかのように……。
俺は、昨日の朝目覚めてから頭の中で何度も堂々巡りさせているこの思考を中断し、口を開いた。
「ユージオ。洞窟で、シルカがお前に神聖術を使ったとき、誰かの声を聞いたか?」
今度の答えは早かった。
「いいや、僕はもうまったく意識が無かったから。キリトは何か聞いたのかい?」
「いや……気のせいだ、忘れてくれ。――さて、仕事をしないとな。俺は四十五回超えを狙うぜ」
頭の中から渦巻く想念を追い払い、俺はギガスシダーに向き直った。両手でしっかりと斧を握り、全身の神経の隅々にまで意識を行き渡らせる。
振りかぶった斧は、イメージした軌跡を寸分たがわずトレースし、幹に刻まれた半月形の中心に吸い込まれるように命中した。
午前のノルマの、二人合わせて千回の斧打ちは、普段より三十分近くも早く終わった。二人ともに疲労が少なく、休憩をほとんど必要としなかったせいだ。会心の一撃も先週と較べると激増し、気のせいか巨樹の刻み目も、見てそれとわかるほどに深さを増したようだった。
ユージオは、満足そうに大きく伸びをすると、ちょっと早いけどお昼にしようと言いながらいつもの木の根に腰を下ろした。俺が隣に座ると、傍らの布包みからいつもの丸パンを取り出し、俺に二つ放ってくる。
両手でひとつずつ受け止め、俺は相も変らぬその石のような固さに苦笑いしながら言った。
「斧が軽くなったみたいに、このパンも柔らかくなってるといいんだけどな」
「あははは」
愉快そうに笑い、ユージオは大きく一口齧りとって首を振った。
「モグ……変わってないね、残念ながら。それにしても……なんで急に斧を軽く感じるようになったのかなあ……?」
「さてなあ」
そう言いながらも、しかし俺はこの現象を、昨夜自分の”窓”を開いてみたときからある程度予想していた。問題のオブジェクトコントロール権限と、それにシステムコントロール権限、おまけに天命値までが数日前と較べて大きく上昇していたからだ。
理由も見当がつく。あの洞窟で、ゴブリンの大集団を撃退したことによって通常のVRMMOおけるレベルアップ的現象が発生したのだろう。二度やれと言われても絶対に御免だが、困難な戦闘に挑んだ見返りはそれなりにあったというわけだ。
今朝方、シルカにもそれとなく尋ねたみたが、やはり先週までは失敗率の高かった神聖術が妙に上手くいくような気がする、ということだった。実際には戦闘を行っていないシルカにも”レベルアップ効果”が及んでいるのは、多分俺たち三人がパーティー扱いされ、全員に経験値が入った、と考えれば納得がいく。
恐らく、ユージオのオブジェクト権限も俺と同程度、48前後にまで上昇しているはずだ。となればもう一度アレを試してみない手はない。
俺は、大急ぎで二つのパンを水と一緒に胃に流し込み、立ち上がった。まだゆっくり顎を動かしているユージオの視線を感じながら、ギガスシダーの幹に空いたウロのひとつに歩み寄り、先日以来そこに置きっぱなしだった青薔薇の剣の包みに手を伸ばす。
半ば確信し、半ば祈りながら、革包みを両手で握り、腰を入れて持ち上げた。
「おっと……」
途端、後ろにひっくり返りそうになり、慌てて足を踏ん張る。記憶にある、ウェイトをたっぷりつけたバーベルのようなとんでもない重さが、せいぜい肉厚の鉄パイプ程度にまで激しく減少していたからだ。
手首にずしりと応えることに変わりはない。しかしその重みは、どちらかと言えば心地よい、まさに旧アインクラッド末期の我が愛剣を思い起こさせる手応えだ。
俺は、左手一本で持った革包みの紐をほどき、露わになった美しい細工の柄を右手で握った。パンを咥えたまま目を丸くするユージオに短くにやっと笑いかけてから、しゃりーんと背筋の震えるような鞘走りとともに剣を抜き放つ。
青薔薇の剣は、先日の暴れ馬っぷりとは打って変わって、深窓の美姫の佇まいで俺の手にしっくりと収まった。改めて、見れば見るほど見事な剣だ。そこらのVRゲーム中のポリゴン製武器には有り得ない、吸い付くような柄の質感、わずかに透明感のある刀身の艶、薔薇の蔦を象った鍔の細工の見事さ、昔話のベルクーリとやらが竜から盗もうとしたのもむべなるかなと思える。
「お……おいキリト、持てるのか、その剣が?」
唖然としながらそう言うユージオに、俺はひゅひゅんと剣を左右に切り払って見せた。
「パンは柔らかくならなかったけど、この剣は軽くなったみたいだぜ。まあ、見てろって」
改めてギガスシダーの斧目の前に立ち、すっと腰を落とす。左手を前に出し、見えない弓につがえた矢のように、剣を握った右手をいっぱいに引き絞る。
「シィッ!」
かの世界で何千回と繰り返した一番の得意技、シングル・スラスト剣技”ヴォーパル・ストライク”を、俺は鋭い気合とともに全体重を乗せて放った。
水平に疾る稲妻のように宙を切り裂いた青薔薇の剣は、狙ったピンポイントを寸分違わず貫き、轟雷にも似た炸裂音を周囲に響かせた。周りの木々でさえずっていた鳥たちが瞬間押し黙り、次いで一斉に飛び立った。
久々に、剣人一体、とでも言うべき境地を味わえたことで恍惚となりながら、俺は伸びきった右手の先を目で追った。青薔薇の剣の切っ先は、小指の長さほどにまで深く、ギガスシダーの黒光りする木肌に埋まっていた。
悪魔の杉、森の暴君、黒鋼の巨樹ギガスシダーがついに――あるいは呆気なく倒れたのは、俺とユージオが竜骨の斧に換えて青薔薇の剣を振るいはじめてからわずか五日後のことだった。
実際には、膨大な樹の天命を律儀にゼロにする、つまり太い幹の全直径を刻みぬく必要は無かったのだ。くさび型の切り込みが、直径の八割に迫ろうとしていたとき、ユージオが繰り出した水平斬りの一撃を受けた巨樹がそれまでにない不気味な軋み声を発した。
俺たちは唖然として顔を見合わせ、次いで遥か頭上に伸びるギガスシダーの幹を振り仰いで、驚愕のあまり凍りついた。樹が、徐々に俺たちに向かって倒れ込んでくるのが見えたからだ。
もっとも、その時はむしろ樹ではなく、俺たちの立っている地面が前方に傾斜していると錯覚したものだ。それほどまでに、直径四メートルを超える巨樹が重力に屈して頭を垂れる光景は非現実的なものだった。
まだ一メートル近く残っていた幹の厚み部分が、のし掛かる重さに耐え切れず、石炭のような欠片を撒き散らしながら圧潰していった。巨樹の断末魔は雷が十発次々に落ちた以上の凄まじさで、破壊音は村の中央広場を突き抜けて北の端の衛士詰め所まで鮮明に届いたらしい。
俺とユージオは同時に悲鳴を上げ、それぞれ右と左に逃げ出した。オレンジ色に染まり始めた空を黒々と切り裂きなからギガスシダーはゆっくり、ゆっくりと倒れていき、とうとうその巨体を大地に横たえた。途方もない衝撃で俺は空高く放り上げられ、尻から岩の上に落下して天命が百ほど減少した。
「驚いたな……この村、こんなに人がいたんだなあ」
俺は、ユージオが差し出す、泡立つりんご酒のジョッキを受け取りながらそう呟いた。
ルーリッド村中央広場には、赤々としたかがり火が幾つも焚かれ、集った村人の顔を明るく照らし出していた。噴水の傍らでは、バグパイプに似た楽器やえらく長い横笛、獣の皮を張ったドラムを携えた楽団が陽気なワルツを奏で、それに合わせて踊る人々の靴音や手拍子が夜空へ舞い上がっていく。
喧騒から少し離れた片隅のテーブルに陣取り、足でリズムを取っていると、なんだか自分も村人の輪に飛び込んで踊りまくりたくなってきて思わず苦笑いを浮かべる。
「僕も、村の人がこんなに集まるのを見たのは初めてかもしれないな。年末の大聖節のお祈りよりも多いよ、絶対」
そう言って顔をほころばせるユージオに向かって、俺は右手のジョッキを突き出して何度目かの乾杯を交わした。アップルサイダーに似た味の酒は、この村では一番弱いものらしいがそれでも一息に呷ると顔がかーっと熱くなる。
ギガスシダーが切り倒されたことを知った村長以下の顔役たちは、六日前の安息日に引き続いて村会議の開催を余儀なくされた。そこでは、”巨樹の刻み手”ユージオ(とついでに俺)の処遇をどうするか喧喧諤諤の議論が交わされ、恐ろしいことに、予定より少々――具体的には九百年ほど――早くお役目を果たしてしまったことを罪として処罰する案も出されたそうだが、最終的には村長ガスフトの鶴の一声により、何はともあれ村を挙げての祭りを催しユージオについては掟どおりに遇する、という結論に達したそうだ。
掟どおり、というのが実際には何を指すのかが俺には見当もつかず、ユージオに尋ねてみたのだが、彼はどうせすぐにわかるよ、と笑うだけだった。
まあ、その顔を見れば、少なくとも困った目に合うわけではなさそうだという事だけは察せられる。俺はジョッキを干すと、傍らの皿から肉汁したたる巨大な串焼きを掴みあげ、がぶりと噛み付いた。
考えてみると、この世界に来てから食べたものと言えば、もう相当にうんざりしつつあった例の固丸パンと教会で出る野菜中心の質素な料理だけで、肉と名のつくものを口にするのは初めてだ。濃厚なソースのかかった柔らかい牛肉(たぶん)は、ここが仮想世界だと信じられなくなるほど芳醇な香りと旨味に満ちていて、この一口のためだけでもギガスシダー相手に苦闘した甲斐はあったと思える。
もっとも、勿論これで全てめでたしめでたしという訳には行かない。むしろ、ここでようやく全ての端緒に辿り付いたのだと考えなくてはいけないのだ。視線を動かし、ユージオの腰に誇らしげに吊られたままの青薔薇の剣をちらりと眺める。
彼にはこの五日間、ギガスシダーを標的として俺が身につけた片手直剣技のほぼ全てをみっちりと練習させた。その剣技の出自は、ソードアートオンラインという一ゲーム内の動作にすぎないのだが、イメージ力が重要なこの夢世界では有効に機能することをゴブリン隊長相手に実証ずみである。更にユージオは俺が舌を巻くほどの素質と吸収力を持っており、剣の性能と併せて今では堂々たる強力な剣士であると太鼓判を押してもいい。
あとは、その事実をどうにかして彼の自信へと変え、村を出て央都を目指す計画に同意させなくてはならない。
金串に刺さった肉と野菜を全て平らげると、俺は意を決して声をかけた。
「なあ、ユージオ……」
「ん?」
同じく串焼きを頬張っていたユージオが、もぐもぐ口を動かしながら顔をこちらに向ける。
「お前、この後……」
だが、続きを口にする前に、高い声が俺たちの間に降ってきた。
「あっ、こんな所にいた! 何やってんのよ、お祭りの主役が」
両手を腰に当て、胸を反らせて立っている女の子がシルカだと気付くのにすこし時間がかかった。髪をほどいてカチューシャを飾り、いつもの修道服ではなく赤いベストと草色のスカートを身につけていたからだ。
「あ、いや、僕ダンスは苦手で……」
もごもごと言い訳するユージオに倣って、俺も首と右手を振る。
「ほら、俺も、記憶喪失だし……」
「そんなもの、やればなんとかなるわよ!」
俺とユージオは同時に手を掴まれ、ずるずると椅子から引き起こされてしまった。シルカは俺たちを有無を言わせず広場の真ん中まで引っ張っていき、どーんと威勢良く突き飛ばした。途端、周囲からわっという歓声が上がり、たちまち踊りの輪に飲み込まれてしまう。
幸い、ダンスは学校の体育祭でやるような簡単なもので、パートナーが三回替わる頃にはどうにか見よう見真似で踊れるようになった。するとだんだん、素朴なリズムに乗って体を動かすのがなんだか楽しく思えてきて、ステップを踏む足も軽くなってしまう。
健康的な赤い頬で陽気に笑う、東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちの娘さんたちと手を取りあって踊りまくっていると、なんだか自分が本当に記憶を無くした風来坊だというような気がしてきて、このままこの村で職を見つけ家を構えずーっと暮らしていくのも悪くないのかなあ――。
などとボーっと考えていた時、不意に音楽が高まりつつペースを上げていき、そして突然終わった。なんだもう終わりか、と楽団のほうを見ると、並んだ楽器の隣に設えられた壇に、見事な髭を生やした威丈夫が登ったところだった。ルーリッド村長にしてシルカの父、ガスフトだ。
村長は両手をぱんぱん叩き、よく通るバリトンで叫んだ。
「みんな、宴もたけなわだが、ちょっと聞いてくれ!」
村人たちは、ダンスで火照った体を冷やすためのエールやらりんご酒のジョッキを掲げて村長に歓声を送ったあと、さっと静かになる。
「ルーリッドの村を拓いた父祖たちの大願はついに果たされた! 肥沃な南の土地からテラリアとソルスの恵みを奪っていた悪魔の樹が倒されたのだ! 我々は、新たなる麦畑、豆畑、牛や羊の放牧地を手に入れるだろう!」
ガスフトの大音声を、更なる歓声が掻き消す。村長は両手を上げてふたたび静けさが戻るのを待つと、更に続けた。
「それを成し遂げた若者――オリックの息子ユージオよ、ここに!」
村長が村人の輪の一角を指すと、その先に、緊張した顔で進み出るユージオの姿があった。照れくさそうに頭を掻きながら、村長の隣の壇上に登る。彼がこちらに向き直ると、三度目の、そして最大の歓声が浴びせられた。俺も、負けじと両手を打ち鳴らし、ぴいぴいと口笛を鳴らす。
「掟に従い――」
村長の声が響き渡り、村人はまた口を閉じて耳を澄ませた。
「天職を成し遂げたユージオには、自ら次の天職を選ぶ権利が与えられる! このまま森で樵を続けるもよし、父親の後を継いで畑を耕すもよし、牛飼いになろうと、酒を醸そうと、商売をしようと、なんなりと己の道を選ぶがいい!」
なんだって!?
俺は、ダンスの余韻が急激に冷めるのを感じた。しまった、娘さんたちの手を握って浮かれている場合ではなかったのだ。やはり早いところユージオを説得し念を押しておく必要があった。ここで、僕は麦を育てますなどと宣言されてしまったら万事窮する。
息を飲みながらユージオの様子を注視していると、彼は困ったようにうつむき、ぐしぐしと頭を掻き、左手を何度も閉じたり開いたりした。いっそ俺も壇上に乱入し、彼の肩を叩いて、俺たち央都に行きまーすと宣言してやろうか――と考えたとき、すぐ隣で小さな声がした。
「ユージオ……村を出るつもりなのね……」
いつの間にか俺の横に立っていたシルカは、そう呟くと、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「そ、そうなのか?」
「そうよ、間違いないわ。それ以外に、何を迷う理由があるのよ」
まるでその声が聞こえたかのように、ためらいがちに動いていたユージオの左手が、腰の青薔薇の剣の柄をぐっと握った。顔を上げ、まず村長を、次いで村人たちの輪を見回したあと、大きなはっきりした声で言った。
「僕は――剣士になります。ザッカリアの街で衛兵隊に入り、腕を磨いて、いつか央都に上ります」
しんとした静寂のあと、村人の間に、さざ波に似たどよめきが広がった。しかしそれは、あまり好意的なものではないように思えた。大人たちは皆、眉をしかめて周りの者に首を寄せ、ぼそぼそと何か言い合っている。
その声を静めたのは、今度もガスフト村長だった。片手を上げて村人を黙らせると、彼も厳しい顔を作り、口を開いた。
「ユージオ、君はまさか――」
そこで一度言葉を切り、あご髭を撫でてからまた続ける。
「……いや、理由は問うまい。天職を選ぶのは教会の定めた君の権利なのだからな。よかろう、ザッカリアの長として、オリックの息子ユージオの新たなる天職を剣士と認める。望みのままに流離い、その腕を磨くがよかろう」
ほうーっ、と、俺の口から長い吐息が漏れた。これでようやく、この世界の核心を自分の目で確かめることができる。もしユージオが農民になってしまったその時は単身央都を目指すつもりでいたが、知識も路銀も無い身で行き当たりばったり進むのでは何ヶ月、何年かかるか知れたものではない。ここ数日の苦労が報われた思いで、すうっと肩が軽くなる。
村人たちも、村長の決定ならばと納得したようで、思い出したように手を叩き始めた。が、その音が大きくなる前に、鋭い叫びが夜空にこだました。
「待ってもらおう!」
人垣を割って壇の前に飛び出したのは、ひとりの大柄な若者だった。
朽葉色の短い髪といかつい造作、そして何よりその左腰に吊られたシンプルな形の長剣に見覚えがあった。いつも北門の詰所にいる衛士だ。
若者は、壇上のユージオと村長に張り合うように胸を張り、太い声で叫んだ。
「ザッカリアの衛兵隊を目指すのはまず第一にこの俺の権利だったはずだ! ユージオが村を出ることを許されるのは、俺の次じゃないとおかしいだろう!」
「そうだ、その通りだ!」
追随する叫び声を発しながら続いて進み出てきたのは、若者とよく似た髪色、顔立ちをした、しかしこちらは相当に腹の出た中年の男だった。
「……あれは?」
シルカに顔を寄せて尋ねると、渋面とともに答が返ってくる。
「前の衛士長のドイクさんと、その息子で今の衛士長のジンクよ。村で一番の使い手、が口癖の一家なの」
「なるほどね……」
さてどうしたものか、と思いながら見守るうち、ジンクとその親父の言い分を一通り聞いたガスフト村長が、なだめるように手を挙げながら言った。
「しかしジンクよ、お前はまだ衛士の天職に就いて六年だろう。掟では、あと四年経たねばザッカリアの剣術大会に出ることはできんぞ」
「ならばユージオもあと四年待つべきだ! 剣の腕が俺より下のユージオが、俺を差し置いて大会に出るのはおかしい!」
「ふむ。しかしそれをどうやって証明するのだ? お前のほうがユージオより腕が立つことを?」
「なっ……」
ジンクと親父の顔が、見る間にまったく同じ赤に染まった。今度は親父のほうが、湯気を立てながらガスフトに詰め寄る。
「ルーリッドの長と言えどその暴言は聞き捨てなりませんな! 息子の剣が、木こりごときに遅れを取ると申すのなら、この場で試合わせてみればよいでしょう!」
それを聞いた村人の間から、そうだそうだ、の声とともに無責任な野次が盛んに飛んだ。思いがけぬ祭りの余興を楽しめそうだと見るや、ジョッキを掲げ、足を踏み鳴らして、試合だ試合だと喚き散らす。
俺が呆気に取られて見守るうち、あれよあれよという間にジンクがユージオに立会いを申し込み、ユージオもそれを受けざるを得ず、壇の前に作られたスペースで両者が向き合うという流れになってしまった。マジかよ、と思いながらシルカに耳打ちする。
「俺ちょっと行ってくら……」
「ど、どうする気なの」
それには答えず、人波を掻き分けてどうにか噴水前まで出ると、ユージオに走り寄る。悍馬のように入れ込んでいる相手とは対照的に、いまだに何が何やらと言いたそうなユージオは、俺を見ると短く苦笑した。
「ど、どうしようキリト、なんかとんでもないことになっちゃった」
「ここまで来てごめんなさいじゃ済まないだろうなあ。それはともかく、試合って本気の斬り合いなのか?」
「まさか、剣は使うけど寸止めだよ」
「ふうん……。でも、その剣はもし止まらないで当たっちゃうと、それだけで相手を殺しかねないからな。いいか、ジンク本人じゃなくてあいつの剣を狙え。出会い頭に”バーチカルアーク”を一発当てればそれで終わる」
「ほ、ほんとに?」
「絶対だ、保証する」
ユージオの背中をばんと叩くと、少し離れた場所で俺を胡散臭そうに見ているジンクとその親父にぺこりと頭を下げ、観客の列まで退いた。
壇の上でガスフト村長が両手をたたき、静粛に! と叫んだ。
「それでは――予定には無かったが、この場で衛士長ジンクと剣士ユージオの立会いを執り行う!」
ジンクがじゃりんと音を立てて腰の剣を抜き、少し遅れてユージオがゆっくり抜剣する。村人の間からほおうという嘆声が漏れたのは、かがり火の下で美しく映える青薔薇の剣の輝きのせいだろうか。
ジンクも一瞬、相手の剣がまとうオーラに気圧されたようだったが、すぐに両手にぺっと唾を吐き、自分の武器を大上段に構えた。
対してユージオは、右手一本で握った剣をぴたりと正眼に据え、左手左足を引いてすっと腰を落とす。
数百の村人が息を飲んで見守るなか、ガスフトが右手を高く掲げ、
「始め!」
の声とともに振り下ろした。
予想通り、即座に突っ掛けたのはジンクのほうだった。本当に止まるのかよと思いたくなる勢いで真っ向正面の一撃を繰り出す。
ユージオも、わずかに遅れて動いた。流れるような足捌き、体重移動、右手の振り、そして何よりその間合いと呼吸を見て――
俺の背中に圧倒的な戦慄が走った。
何もかもが完璧だった。五日前、初めて剣を握った人間の動きではなかった。一条の青い光線と化したユージオの剣が、ジンクの剣と接した瞬間、それをまるで飴細工ででもあるかのように粉砕するのを眺めながら、俺は内心で自問していた。
彼がこの先研鑚を積み、数多の技を会得し、実戦の修羅場をも経たとき、いったいどれほどの剣士となるのだろうか? もしその彼と本気で剣を交える場面に至ったとしたら、果たして俺は彼の前に立てるのか――?
あまりにあっけない、しかし見事な決着に大いに湧く村人たちに混じって、両手を盛んに叩きながら、俺は背中を伝う冷たい汗を意識した。
ジンク親子が茫然自失の体で引き上げていったあと、すぐさま音楽が再開されて祭りは前以上に盛り上がり、ようやくお開きとなったのは教会の鐘が夜十時を告げる頃だった。
りんご酒をさらに三杯飲んでやっと理由のない不安を忘れた俺は、心地よい酩酊に任せてまた散々踊りまくってしまい、仕舞いにはシルカに引きずられるようにして教会に戻る破目になった。門のところで、俺の有様を散々笑ってくれたユージオと明朝の旅立ちを約束して別れ、どうにか自室に辿り付いて、ふらふらとベッドに倒れ込む。
「まったく、ちょっと飲みすぎよ、キリト。ほらお水」
シルカの差し出す冷たい井戸水を一息に呷り、ふう、と息をつくと、改めて傍らに立つしかめっ面の少女を見上げた。
「……な、何よ」
「いや……悪かったな、って思って……。もっと、ユージオと話したいこととかあったんじゃないのか……?」
途端、軽い酒で上気したシルカの頬が更にさくらんぼ色に染まる。
「何言い出すのよ、急に」
「……謝らなきゃいけないのは、それだけじゃないな。ごめんな、俺がユージオを遠くに連れてくみたいなことになっちゃって……。もしあいつがずっとこの村で木こりを続けてたら、そう遠くないうちにシルカと結婚するようなことにもなってたかもしれないのにな……」
ふううー、ととても長い溜息をついて、シルカはベッドにすとんと腰を下ろした。
「あんたって、ほんと、何て言うか……」
呆れかえったと言わんばかりに数回頭を振ってから、続ける。
「……まあ、いいわ。――そりゃ、ユージオがいなくなっちゃうのは寂しいけど……でも、あたし、嬉しいのよ。アリス姉さんがいなくなってからずっと、何もかも諦めたみたいにして生きてたユージオが、あんないい顔で笑うようになったんだもの。自分から、村を出て姉さんを探しにいくって決めてくれたんだもの。ああ見えて、父様も心の中じゃすごく喜んでたわ。ユージオが、姉さんを忘れてなかったことをね」
「……そっか……」
シルカは頷き、ついで視線を窓の向こうの見事な満月に向けた。
「あたしね……別に、姉さんの真似して闇の国の土を踏むためにあの洞窟に行ったわけじゃないの。そんなこと、あたしにできっこないのは判ってた。判ってたけど、それを……できないのを、確かめたかったの。あたしは、アリス姉さんの代わりにはなれないってことを、確かめたかった」
俺はしばらくシルカの言葉の意味を考えたあと、首を横に振りながら言った。
「いや、君はすごいよ。普通の女の子なら、村を出る橋のところで、森の道の途中で、洞窟の入り口で引き返したはずだ。なのに、あんな暗い洞窟のずっと奥まで入っていって、ゴブリンの偵察隊を見つけちゃったんだからな。君は、君にしかできないことをしたんだ」
「あたしにしか……できないこと……?」
目を丸くし、首をかしげるシルカに、大きく頷きかける。
「君はアリスの身代わりなんかじゃない。シルカには、シルカだけの才能があるはずだ。ゆっくりそれを見つければいいんだ」
実際に、これからのシルカは以前よりはるかに神聖術の才能を増していくだろうという根拠がある。彼女も、俺やユージオと一緒にゴブリンを撃退し、そのせいでシステム上の権限レベルが上昇しているはずだからだ。
しかし、それは本質的な問題ではない。彼女は、自分とは何者なのかという問いに挑み、答えを手に入れた。そのこと自体が強力なエネルギーを彼女に与えていくだろう。自分を信じること、それこそが、人の魂の生み出す最大の力の源なのだから。
そろそろ、俺も、今まで先延ばしにしてきた恐るべき疑問の答えを見つけるべき時だった。
果たして、この意識――キリトあるいは桐ヶ谷和人という名の自我は、一体何者なのか? 生物的な脳に宿るフラクトライトによって構成される、つまり”本物の俺”なのか。それとも、STLによって作成された複製――コピーされた魂なのか。
それを確かめる方法が、たった一つだけある。ユージオやシルカたち、人工フラクトライトには絶対に不可能なある行動が、俺に可能かどうか知るのだ。
俺は体を起こすと、隣に座るシルカの顔を見つめた。
「……?」
不思議そうに首を傾げるその頬に手を伸ばし、引き寄せ、白く広い額にそっと唇を付ける。
シルカはぴくっと体を震わせ、三秒ほどそのままじっとしていたが、急に凄い勢いで立ち上がると両手で口もとを覆い、見開いた目で俺を凝視した。
「……あなた……今、何したか……知ってるの……?」
顔中真っ赤に染めて、ごくごくかすかな声でささやくシルカに向かってこくりと頷く。
「知ってる。”教会によって婚姻を認められた男女以外の者は、箇所を問わず互いに口づけしてはならない”……禁忌目録違反」
「ほんとに……信じられない……信じられない人ね」
「今のは、誓いの印さ。俺は絶対に、ユージオとアリスをこの村に連れて帰る。信じていいぜ……俺は……」
少し間を置いて、俺はゆっくりとその先を口にした。
「俺は、剣士キリトだからな」
翌朝は、見事な快晴だった。
シルカが作ってくれた弁当のバスケットの重みを右手に感じながら、俺とユージオは長い間帰らぬであろう道を南に歩いていた。
ギガスシダーの森へと入る細道の分岐点まで来たとき、俺はそこに一人の老人が立っているのを見つけた。皺深い顔は見事な白髭に覆われているが、背がぴんと伸びた体は逞しく、眼光は炯炯としている。
老人を見た途端、ユージオは嬉しそうに顔をほころばせ、走り寄った。
「ガリッタ爺さん! 来てくれたの、嬉しいよ。昨日会えなかったからね」
その名前は聞覚えがあった。確か、前任の”ギガスシダーの刻み手”だ。
ガリッタという名の老人は、髭の下で顔をわずかにほころばせると、ユージオの肩に手を置いた。
「ユージオよ、儂が指の長さほどにしか刻めなかったギガスシダーを、よもや倒すとはなあ……。教えてくれんか、一体どうやって……?」
「この剣と……」
ユージオは、左腰の青薔薇の剣をわずかに抜いてからチーンと音をさせて鞘に収め、次いで振り返って俺を見た。
「何より、彼のおかげだよ。名前はキリト……ほんとに、とんでもない奴なんだ」
どういう紹介だよと思いながら慌てて頭を下げる。ガリッタ老人は鋭い眼光で俺を射抜かんばかりに見据えると、すぐに破顔した。
「そなたが噂の”ベクタの迷子”か。なるほど変動の相じゃな」
そんなことを言われたのは初めてで如何なる意味かと首を捻っていると、老人は続けて言いながら左手で森を指した。
「さて、せっかくの旅立ちを邪魔して悪いが、少々付き合ってもらえるかな。何、そう手間は取らせん」
「え、ええ。いいよね、キリト」
特に拒否する理由も無いので頷く。老人はもう一度笑い、それでは付いてきなされ、と森へと続く道に足を踏み入れた。
この道を毎日通ったのは一週間程度のことだが、それでも懐かしさに似た感慨を覚えながら二十分ほど歩いて、広い空き地へと到着する。
数百年の長きに渡って天を衝かんばかりに聳え立っていた森の支配者は、今やその巨体を静かに横たえていた。漆黒の樹皮には、すでに細い蔦が這い登りつつあり、いずれ遠い未来には朽ち果てて大地に還って行くのかと思わせる。
「……ギガスシダーがどうかしたの、ガリッタ爺?」
ユージオの声に、老人は無言で倒れた幹の先端方向を指差し、そちらにすたすた歩いく。慌てて後を追うが、途中からはギガスシダーの枝やそれが薙ぎ倒したほかの木々が絡み合って迷路のごとき有様だ。よくよく見ると、ギガスシダーの黒い枝はどんなに細いものでも一本たりとも折れておらず、改めてその強靭さに舌を巻く。
引っかき傷を作りながら苦労して枝を掻い潜り、涼しい顔ですでに立ち止まっていたガリッタ老人の隣に辿り着いた。掌で汗を拭いながら、ユージオがぼやくように言った。
「一体なんなのさ?」
「これじゃ」
老人が指差したのは、倒れたギガスシダーの幹のまさに最頂点、真っ直ぐに伸びた梢だった。かなりの長さに渡って小さな枝ひとつ生えておらず、その先端はレイピアのように鋭く尖っている。
「この枝が、どうかしたんです?」
俺が尋ねると、老人はそっと手を伸ばし、太さ五センチほどのその梢部分を撫でた。
「ここは、ギガスシダーの全ての枝のなかで最も古く、最も結晶化し、最もソルスの恵みを吸い込んだ部分じゃ。さあ、その剣で、ここから断ち切るのじゃ。一刀で落とすのだぞ、何度も打つと裂けてしまうかもしれんでな」
老人は先端から一メートルと二十センチほど下の部分に手刀をぽんと当ててから、数歩退いた。
ユージオと俺は顔を見合わせ、とりあえず言うとおりにしようと頷いた。ユージオの弁当を預かり、俺も後ろに下がる。
青薔薇の剣が鞘から抜かれ、陽光を受けて薄青く輝くと、隣で老人がわずかな嘆息を漏らした。そこには、もしあの剣を若い頃に手にしていたら全てが変わっていた――という慨嘆の響きがあったように思えたが、ちらりと見た老人の横顔は穏やかで、心中を見透すことはできなかった。
ユージオは、剣を構えたもののしかし中々動かなかった。切っ先が、内心の迷いを映してかわずかに揺れている。手首ほども太さのある枝を一撃で断ち切れるかどうか、自信が持てないのだろうか。
「俺がやるよ」
前に出て手を伸ばすと、ユージオは素直に頷き、剣の柄を差し出してきた。弁当と交換に受け取り、彼と場所を入れ替えて立つ。
何も考えず、何も見ずに、俺はただ剣を振り上げ、まっすぐに斬り下ろした。きしっ、という澄んだ音とわずかな手ごたえを残して刃は狙った箇所を通り抜け、少し遅れて落下した黒く長い枝を返す刀で受け止めて、跳ね上げる。
宙をくるくる回りながら落下してきたそれを、俺は左手で受け止めた。ずしりと響く重さと、氷のような冷たさに少々よろける。
青薔薇の剣をユージオに返し、黒い枝を両手で掲げてガリッタ老人に差し出した。
「そのまま持っていておくれ」
言うと、老人は懐から分厚い布を取り出し、俺の手の中の枝を慎重に幾重にも包んだ。さらにその上から、革紐でぐるぐると縛り上げる。
「これで良い。もし央都に辿り着くことができたら、この枝をシルドレイという名の細工師に預けるがいい。強力な剣に仕立ててくれるはずじゃ。その、美しき青銀の剣に優るとも劣らぬ、な」
「ほ、ほんとうかい、ガリッタ爺! それは有り難いな、僕らは二人なのに剣が一本じゃあこの先困りそうだなと思ってたんだ。ねえ、キリト」
嬉しそうに声を上げるユージオに、俺もそうだなと笑いながら頷き返した。しかし、素直に諸手を上げて喜ぶには、枝の重みと発せられる冷気は少々腕に応え過ぎる気もした。
二人揃ってぺこりと頭を下げると、老人は莞爾と微笑んだ。
「なに、儂からのささやかな餞じゃよ。道中、気をつけて行くのじゃぞ。今やこの世界は、善神のみがしろしめす地ではないからな。……儂はもう少しここで、この樹を見てゆくとしよう。さらばだユージオ、そして旅の若者よ」
再び小道を辿って街道に出ると、つい先刻までは晴天だった空に、西の端から小さな黒雲が伸び上がっているのが見えた。
「ちょっと風が湿ってきたね。今のうちに進んでおいたほうがよさそうだ」
「……そうだな。急ごう」
ユージオの言葉に相槌を打ち、俺はギガスシダーの天辺の枝が入った包みをベルトに結わえ付けた。遠く遠く轟く雷鳴が、枝の重みと響き合って、俺の心をわずかに震わせた。
対となる二振りの剣。
それは何かを暗示する、未来からのサインなのだろうか?
俺は一瞬、この包みは森の奥深く埋めていくべきではないだろうか、という気がして立ち止まった。しかし、何を、何故畏れる必要があるのか、その答えはまったくわからなかった。
「ほら、行くよ、キリト!」
顔を上げると、未知なる世界への期待に輝くユージオの笑顔が目に入った。
「ああ……行こう」
俺は、わずか一週間前に友達になった、しかしどこか生来の友であるかのような気がする少年と肩を並べ、南へ――アンダーワールドの中心、全ての謎の解答が待つはずの場所へと続く道を、早足で歩き始めた。
(第三章 終)
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第四章
十字の窓枠を持つ窓のむこうに、四分割された青白い満月が見える。
アルヴヘイム南西部、シルフ領首都スイルベーンは重い夜の帳に包まれ、殆どの商店は鎧戸を下ろし灯りを消している。メインストリートを往来するプレイヤーの数さえもごく少ないのは、いまが現実時間の午前四時、接続者数が一日でもっとも減少するタイムゾーンだからだ。
アスナは右手を伸ばすと、湯気を立てるカップを取り上げ、濃いお茶を大きくひとくち飲み下した。眠気は感じないが、ここ三日まとまった睡眠を取っていないせいで頭の芯がわずかに重い。目を瞑り、軽く頭を振っていると、隣に座る黄緑の髪の少女が気遣わしそうに言った。
「大丈夫ですか、アスナさん? あんまり寝てないんでしょう?」
「ううん、わたしは平気。リーファちゃんこそ、あちこち飛び回って疲れてるでしょう」
「現実の体はいまベッドの上でしっかり休んでますから、大丈夫ですよ」
互いの声の端に、隠せない憔悴が滲んでいるのに気付き、顔を見合わせて小さな苦笑を交わす。
桐ヶ谷直葉のALO内キャラクター、リーファが所有するプレイヤーホームの一室である。貝殻に似た光沢を持つ建材で造られた円形の部屋は、微妙に色彩を変え続けるランプで控えめに照らされ、どこか幻想的な雰囲気を醸している。中央にはパールホワイトのテーブルと四脚の椅子が設えられ、今はうち三つが埋まっている。
二人の会話を聞き、アスナの向かいに腰掛けた青い髪の少女が、両手の指をテーブルの上で組み合わせながら口を開いた。
「無理すると、頭も働かなくなるわよ。眠れなくても、目を閉じて横になってるだけで大分違うわ」
落ち着いたその声の主は、ALOダイブ用に作成したアカウントでダイブ中の朝田詩乃だ。キャラクターネームもGGOと同じくシノンである。アスナは視線を上げ、こくりと頷いた。
「うん……ミーティングが終わったら、ここのベッドを借りてそうさせて貰うわ。ほんと、催眠魔法がプレイヤーにも効けばいいのにね」
「あたしなんか、条件反射なのか最近は、あの魔法の効果音聞くとなんだか眠くなりますけどね……。もっとも今は無理でしょうけど」
肩をすくめながらそう言うと、リーファは手に持っていたカップを置いて表情を改め、続けた。
「さて、それじゃまずは昨日調べたことの報告から始めましょう。結論から言うと、国際中央病院にお兄ちゃんが搬入された形跡はありません。書類上の記録も一切存在しないし、スタッフでお兄ちゃんを見たという人もいませんでした。病室も、入れる範囲で全て見て回ったんですが……」
その先は、かぶりを振ることで言葉に代える。つかの間、部屋に重い沈黙が落ちた。
リーファの兄である桐ヶ谷和人が、死銃事件の逃亡犯金本某に襲撃され倒れたのはほんの四日前のことだ。だが、その四日の間に、事態は誰も想像しなかった方向へと急転していた。
和人は、意識不明のまま突如失踪してしまったのである。
アスナの家からほど近い東京都世田谷区宮坂の路上で、金本によって劇物サクシニルコリンを注射された和人は、急速に筋肉を麻痺させる薬の作用によって呼吸停止に陥った。救急車内で人工呼吸が施されたものの、酸素の供給が途絶えた心臓までもやがて停止し、近隣の世田谷総合病院に運び込まれた時点ですでにDOA――到着時死亡と分類される状態だったのだ。
ERの当番医師の腕が良かったのか、和人の生命力が強靭だったのか、あるいは二人ともにその日の運勢が最良だったのか、救命措置の結果かろうじて心拍が戻り、薬物が分解されるに伴って自発呼吸も再開して、奇跡的に和人は死地を脱した。処置を終えて現われた医師にそれを聞いた明日奈は、安堵のあまり失神しそうになったのだが、続いた言葉がそれを許さなかった。
和人の心停止は五分強に及び、その結果脳に何らかのダメージが発生した可能性がある、と医師は告げた。思考能力または運動能力、ことによるとその両方に恒久的な障害が残ることは充分考えられ、最悪の場合はこのまま目を覚まさないかもしれない――、と。
詳しいことはMRIによる検査を行わないと何とも言えないので、早急にもっと設備の整った病院に移したい、と医師は締めくくり、明日奈は再度襲ってきた不安感と戦いながら和人の妹である直葉に連絡を取って、どうにか事情を説明した。結局、駆けつけた直葉の顔を見た途端また大泣きしてしまったのだが。
やがて取材先から直行してきた和人の母・翠とともに、その夜はICU前のベンチで明かした。翌水曜朝、担当医にもう危険な状態は脱しましたからと説得されて、明日奈と直葉は病院から程近い明日奈の家に、翠は健康保険証などの用意のために川越の自宅に一時戻ることになった。
交替でシャワーを使い、それぞれの学校に欠席の連絡を入れてから、無理にでも仮眠しようと二人はベッドに横になった。ぽつぽつと言葉を交わすうちに数時間うとうととまどろみ、午後一時ごろ、明日奈は翠からの電話で目を覚ました。飛びついた携帯の向こうで、翠は、残念ながら和人の意識はまだ戻らないけれど、精密検査のために脳外科に定評のある港区の国際中央病院に移すことになった、と告げた。これから救急車が来て和人を搬送し、自分は退院手続きを済ませ次第タクシーで移動する、と言う翠に、私達もすぐに新しい病院に向かいますと明日奈は答えた。
昏睡状態の和人は、確かに水曜日の午後一時四十分前後、緊急搬出入口より救急車に乗せられ世田谷総合病院を出ている。これは、病院の防犯カメラにもはっきりと映像で記録されている。
しかし、その救急車は、国際中央病院には現われなかった。消防庁の出動記録上に存在しない謎の救急車は、和人を乗せたまま、六月末の煙るような小糠雨に溶けて消えてしまったのだ……。
リーファの言葉をしばらく吟味してから、アスナはひとつ頷き、言った。
「なら、これでもう、患者の取り違えみたいな偶発的事故の可能性は完全に排除してよさそうね。元の病院にも、受け入れ先にも、それどころか東京23区内の中規模以上の病院のどこにも居ないんだから」
「世田谷から芝公園に行く道のどこかで救急車が事故を起こして、それに誰も気付かなかった、なんてことは有り得ないしね」
背もたれに体を預け、胸の上で腕を組んだ格好のシノンが、現実の彼女とよく似たややハスキーな声で続けた。
「――そもそも、二十三区内であの時間に世田谷総合病院に出動した救急車は一台も存在しない、っていうんだからこれはやっぱり周到に仕組まれた拉致なんだと思う。問題の救急車とそれに乗ってた救急隊員は、キリトを攫うための偽装だった……」
「でも……隊員のユニフォームはともかく、救急車をでっち上げるなんてそんな簡単にできるものなのかしら」
アスナが首をかしげると、リーファの声が割って入った。
「車に詳しい知り合いにそれとなく聞いてみたんですけど、病院関係者まで騙されるようなものを造るのは相当に難しいしお金も時間もかかるそうですよ。つまり……お兄ちゃんがあの日あの場所で金本に襲われて、世田谷総合病院に入院するなんて予測できた人がいるはずないし、失踪事件は入院のたった十八時間後なわけで……」
「キリト君が倒れたのを知ってから準備するのはほとんど不可能、ってことね」
アスナのその言葉がテーブルに落ち、しばし訪れた沈黙の中かすかな残響を残して消えた。
「でも……となると、どういうこと……? キリトが攫われたのはあくまで偶然で、誰でもいいから偽装救急車で患者を誘拐しようと計画してた奴がいた、ってこと?」
眉をしかめてシノンがそう呟く。しかしその推測も、ゆっくり横に振られるリーファの黄緑色のポニーテールに退けられた。
「ところが、それも無さそうなんです。ふつう、患者を搬送するときは、病院から管区の救急指令センターに救急車を要請する電話を入れるんですが、あの日は誰もその電話をしていないのに問題の偽救急車がぴったりのタイミングで現われたんですね。で、病院の人はみんな、自分以外の誰かが要請したんだと思っちゃったわけです。ところが、その救急車に乗ってた偽の救急隊員は、行き先の病院も、それどころかお兄ちゃんの名前も知ってたんですよ。最初に応対した看護師さんがそれは間違いないと言っています」
「……じゃあ、やっぱり最初からキリトを狙った、計画的犯罪なわけだ。つまり……犯人は、キリトが入院した途端その情報を入手できて、その上偽の救急車と救急隊員を一日足らずで用意できるような奴……」
「この際、もう、敵と呼ばせてもらうわ。大きくて強力な敵」
アスナが断固とした響きのある声でそう言うと、シノンはぱちくりと瞬きし、次いでごくかすかに笑みを滲ませた。
「私……今日ここに来るまで、二人がすごく落ち込んでるだろうって、結構心配してたんだけどな……。リーファにとっては勿論大事なお兄さんだし、アスナにとってはその、まあ、彼氏ってわけで……その人が意識不明の上に失踪しちゃったんだから……」
思いがけないことを言われて、アスナが、そう言えばわたし思ったより打ちのめされてないな、キリト君が倒れた夜はあんなに泣いたのに……と内心で少し不思議に思っていると、リーファが両手を胸の前でぎゅっと握りながら口を開いた。
「そりゃ……やっぱり心配です。でも、あたし、お兄ちゃんが行方不明になったことは、前向きに考えようと思ったんです。……だって、こんな無茶苦茶な状況で失踪しちゃうからには、お兄ちゃんまた何かとんでもない事件に巻き込まれてるわけですよね。で、そういう時のお兄ちゃんは、絶対あたしの想像もつかない場所で大暴れしてるに決まってるんです。SAO事件のときも、死銃事件のときだってそうだった……だから、今度もきっと……」
「そう……その通りね」
やっぱり、長年一緒に暮らしてきた妹には敵わないなあ、と胸の中で呟きながらアスナは大きく頷いた。
「キリト君は、きっとどこかでいつもみたいに戦ってる。だから、わたし達も、わたし達にできる戦いをしよう」
それはそうと、とシノンをちらりと横目で見て続ける。
「シノのんもあんま落ち込んでるようには見えないよねー?」
「え……そりゃまあ……私の場合はほら、アイツを倒せるのは私だけだって信じてるから……」
ごにょごにょ、と語尾を飲み込むシノンと互いに微妙な視線を一瞬打ち合わせてから、アスナは話題を戻した。
「ともかく……敵の規模は相当に大きい、ってことだわ」
「警察はどうだったの? 昨日翠さんと一緒に行ったんでしょ?」
「もう、話を信じてもらうのさえすごい大変だったわ」
アスナは顔をしかめて答えた。
「最初は、そんな誘拐は有り得ない、何かの間違いだろうの一点張りで……。パニック状態の世田谷病院に電話してもらって、ようやく事件として捜査してくれることになったんだけど、正直どこをどう捜していいのか見当もつかない、って顔してたわ」
「まあ、それでも人手と設備は持ってるからね、警察って。キリトが言ってたけど、東京にはNシステムっていう、どの車がどこを通ったかぜんぶチェックする仕組みがあるんだって。偽救急車のほうはそれでかなり追跡できるんじゃないかな」
「だといいけど……」
警察の窓口で散々無駄な時間を費やす破目になったアスナは、まだ疑わしい気持ちで首を傾げたが、三人のなかで最年少のリーファがしっかりした口調で言った。
「でも、あたし達には大掛かりな聞き込みとか科学捜査とかはできないわけですから、そういうのは警察に任せるしかないですよ。あたし達にあるカードは、たったひとつ、お兄ちゃんのことをよく知ってる、っていうそれだけなんです」
「うん……そうだね。キリト君のこと……最初から敵のターゲットがキリト君だったとして、その動機は何なんだろ……」
「こう言っちゃなんだけど、身代金目的ならアスナを攫うだろうし……。犯人からの連絡は無いのよね?」
シノンの問いに、リーファがかぶりを振る。
「電話も、メールも、手紙類も一切ありません。そもそも、営利誘拐にしては大掛かりすぎますよ。大金をかけて、救急車まででっち上げて病院から拉致する意味が無いっていうか……」
「それもそうか……。じゃあ……あんまり考えたくないけど、怨恨とか……? キリトを恨んでそうな相手、心当りある……?」
今度は、アスナがゆっくり首を横に振った。
「そりゃ、SAOの生還者の中には、キリト君に牢屋に叩き込まれたりして恨んだり、ゲームクリアしたことを妬んでる人はいると思う。でも、こんなことができる資金力と組織力がある相手って言うと……」
アスナの脳裏にちらりと、かつてSAOプレイヤーの脳を実験台におぞましい研究を行い、野望半ばにしてキリトの手で警察に引き渡された須郷伸之の顔が浮かんだが、あの男はまだ拘置所の塀の向こうだ。海外逃亡の準備をしていたことが祟って保釈も却下されている。
「……ううん、ここまでするほどの人間は思い当たらないわ」
「お金でも、恨みでもない、か……」
シノンは唸りながらしばし顔を伏せていたが、やがて右手の中指で眉間のあたりを押さえながら、自信なさそうに口を開いた。
「……あのさ……まったく根拠の無い想像なんだけど……」
「……つまり、この敵は、どうしてもキリトが今すぐに必要だった、ってことになるよね。細かく言えば、キリトという人間に属する何かが、かな。アイツの持ってるもの……ゲーム用語を使えば属性、ってどんなのが思い浮かぶ?」
「剣の腕」
アスナは考えるまでもなく反射的にそう答えた。目を閉じキリトの姿を思い描くとき、真っ先に浮かぶのは常に、黒衣をまとい二刀を手に敵を暴風のごとく斬り伏せていく旧SAO時代の彼だからだ。ALOで共に旅をした妹もそのイメージは同様のようで、間髪入れずに続ける。
「反射スピードですね」
「システムへの適応力」
「状況判断力」
「サバイバビリティ……あ」
リーファと交互にそこまで列挙したアスナは、あることに気付いて口をつぐんだ。意を得たり、といふうにシノンが頷く。
「ね。それって全部、VRMMO……仮想世界内の話でしょう」
ずばり言われて、アスナは抵抗するように小さく苦笑いした。
「や、現実のキリト君にもいいとこはいっぱいあるよー」
「そりゃいいとこはあるよ、ご飯おごってくれたりさ。でも、私たち以外から見れば、現実のアイツはこう言っちゃなんだけどどこにでもいる普通の男の子でしょう、高校生の今はまだ、ね。つまり、敵が今、こんな無茶な工作をしてまで欲しがったのは、キリトの仮想世界内における突出した能力だった、ってことにならない?」
「まさか……何かのVRゲームをクリアさせようとでもう言うんでしょうか……。でも、お兄ちゃんは、今意識不明状態なんですよ。治療も、検査すらしてないのに、そんな状態で攫っても何もできないんじゃ……」
あらためてキリトの体調を心配する表情で、リーファが唇を噛む。シノンは、テーブルに落としたスチールブルーの瞳を、標的を狙撃する時のように鋭く細め、ゆっくりといらえた。
「意識不明……って言っても、それは外から見た話だよね。もし、脳じゃなく、魂そのものにアクセスできるマシンを使えば……」
「あっ……」
何でいままでそれに思い当たらなかったのか、と愕然としながら、アスナは鋭く息を飲んだ。
「ね、私達、たった一つだけ該当する相手に心当りがあるはずでしょ。魂に接続するっていう、世界でそこにしかないマシンを持っていて、しかもまさに今キリトをパイロットにした仮想世界内テストを継続中だっていう組織……。確実な根拠のない想像だけど、でも……」
「……キリト君を拉致したのは、ソウル・トランスレーターの開発企業ラース……。確かに……そんなとんでもない機械を開発できるくらいの相手なら、救急車をでっち上げるくらいの工作は可能かも……」
「ラース……って、お兄ちゃんが最近バイトしてた会社ですか?」
リーファの言葉に、アスナとシノンはさっと顔を上げた。
「リーファちゃん、ラースのこと知ってるの!?」
「あ、いえ、詳しいことは……。ただ、会社の場所が六本木のへん、とは聞いてます」
「六本木……って言っても広いなぁ。でも、そのどこかにラースの研究所があって、キリトがそこにいるかもしれない、っていう情報を警察に伝えれば……うぅん、根拠がちょっと弱いかなあ……」
唇を噛むシノンと、不安そうに目を伏せるリーファに向かって、アスナはためらいながら口を開いた。
「……あのね、結果が出るまでは、と思っていままで言わなかったけど、実はキリト君に繋がってるかもしれない細い糸が一本だけあるの。でも、途中で切れてる可能性がほとんどなんだけど……」
「……どういうこと、アスナ?」
「シノのんにはこのあいだ説明したよね。これ」
アスナは右手の指先で、自分の左胸を突付いた。
「あ、そうか……例の心拍モニターね。あれは……確か、ネット経由でアスナの端末に情報を送ってる……」
「もうずっと信号が途絶えたまんまなんだけど、もしかしてキリト君が偽救急車で運ばれる途中の経路情報をさかのぼって追跡できれば、ある程度場所の特定ができるかもしれない、って今解析をお願いしてるところなの」
「……誰に?」
答えるかわりに、アスナは視線をすっと中空に向け、名前を呼んだ。
「ユイちゃん、どう?」
一秒ほどの静寂のあと、テーブルの上五十センチくらいの空間にきらきらと光の粒が現われ、凝集して小さな人の形を取った。光は一瞬だけその輝きを強め、すぐに消滅する。
現われたのは、身長十五センチくらいの幼い少女だった。長い黒髪に白いワンピース姿、背中には四枚の虹色に光る翅が伸び、細かく震えている。少女――妖精は、閉じていた長い睫毛を上げ、くるりとした愛らしい瞳でまずアスナを、次いでリーファとシノンを眺めた。シノンを初対面の人物と判断したようで、ふわりと上体を屈めてお辞儀をする。
「へええ……この子が、うわさのキリトとアスナの”娘”ね」
「ユイです、はじめまして、シノンさん。おはようございます、リーファさん、ママ」
旧SAO内のプレイヤー・カウンセリング用AIをその出自とする人工知能ユイは、銀糸を爪弾くような声で挨拶すると、再びアスナに向き直った。
「パパのハートレート・モニター装置からママの携帯端末IPに向けて発信されたパケットの追跡は、約九十八%終了しました」
「そのパケットが六本木周辺の公共LANスポットから発信されてれば、私達の仮説もずいぶん信憑性を増す……ってわけね」
シノンの言葉に、アスナは大きく頷いた。リーファも含め、三人の期待のこもった視線がユイに集まる。
「それでは、現時点での解析結果をお伝えします。NTTの携帯端末用基地局と違って、現在の公共LANスポットは移動中の接続をサポートしないので、残念ながら特定できた発信元は三箇所だけでした」
ユイが言葉を切り、さっと右手を振ると、テーブルの上、浮かぶユイの素足の下に水色のホログラムで東京都心の詳細な地図が表示された。ユイは翅の振動を止めて地図の上に着地し、とことこと数歩あるいて地図の一点を指差す。ポン、という音とともに赤い光点が点る。
「ここが、パパの入院していた世田谷総合病院です。そして、第一の発信元は、ここです」
さらに数歩移動して新たな光点を点す。
「目黒区青葉台三丁目、時間は二○一六年六月二十一日午後一時五十分前後。予測移動経路を表示します」
二つの光点を結ぶ道路上に、白い光のラインが伸びる。ユイは再度南西に足を進め、三つ目の光点を表示させた。ラインも追随して長さを増す。
「第二の発信元、港区白金台一丁目、同日午後二時十分前後」
世田谷から六本木に向かうにしてはコースが南すぎるかな、とアスナは少し不安に思ったが、口をつぐんだままユイの言葉を待った。
「そして……第三の発信元が、ここです」
三人の期待を大きく裏切り――ユイが示したのは、六本木の遥か東、臨海部の埋立地だった。
「江東区新木場四丁目、同日午後二時五十分前後です。ここを最後に、パパからの信号は現在まで約八十六時間に渡って途絶しています」
「新木場……!?」
アスナは思わず絶句したが、しかし考えてみると、あの辺の新開発地区には新興の巨大インテリジェントビルが林立している。その中に、ラースの第二の支部が存在するという可能性もあるのではないか。
「ユイちゃん……そのLANスポットが設置されてるのは、どういう施設の中なの?」
動悸が速まるのを感じながらそう尋ねたが、返ってきた答えは、アスナの予想を更に裏切るものだった。
「この地番に存在する施設は、”東京ヘリポート”という名称です」
「え……それって、ヘリコプターの発着基地じゃないの」
シノンが唖然とした表情で呟いた。リーファも、さっと顔色を変える。
「ヘリコプター!? ……じゃあ……お兄ちゃんは、そこから更に遠くに運ばれた……ってことですか?」
「でも……待って」
アスナは、混乱する頭の中を懸命に整理しながら言った。
「ユイちゃん、その新木場からの発信以降、信号は一切届いていないのよね?」
「はい……」
そこで初めて、妖精のように整ったユイの白い顔が、沈鬱な表情を浮かべた。
「日本国内のすべての公共LANスポットに、パパのモニター装置が接続された形跡はありません」
「ということは……着陸したのは、公共LANの電波が届かないような山奥とか……原野ってことですか……?」
リーファの言葉に、シノンがかぶりを振る。
「たとえどこに着陸しても、最終的には何らかの施設に運び込む必要があるはずよ。最先端のベンチャー企業の入る施設に、今時LANスポットが無いなんてことは考えられない。今現在キリトが電波遮断区画に居るとしても、どこかで一度はLANに接続してていいはず……」
「日本じゃない……? 外国……なの……?」
アスナの細く震える声に、即座に答えられる者は居なかった。
短い沈黙を破ったのは、ユイの、あどけなさと落ち着きの同居する声だった。
「東京から無着陸で国外に到達できるほどの航続距離を持つヘリコプターは一部の軍用機を除き存在しません。現時点ではデータが少なすぎるので確定的なことは言えませんが、パパはまだ国内のどこかに居るとわたしは考えます」
「そうね。ラースが進めている研究は、今の仮想空間技術をひっくり返すようなものでしょう? 企業にとっては最大級の秘密なわけで、その研究施設を外国に置くみたいなことはちょっと考えにくいにね」
シノンのその言葉に、アスナも頷いた。アスナの父親が率いる総合エレクトロニクスメーカー・レクトも企業スパイの跳梁には頭を痛めており、重要な研究開発はすべて奥多摩の山奥に存在する、厳重に警備された研究所で行われていると聞いている。海外にも多くの拠点を構えてはいるが、やはり情報漏洩の発生率は国内と比べて明らかに高いようだ。
考え込む表情で、リーファが俯いたまま呟く。
「じゃあ……やっぱり日本のどこか、人里離れた僻地なんでしょうか……。でも、今の日本で、そんな秘密研究所みたいなものを本当に造れるんですか?」
「しかも、ちょっとやそっとの規模じゃないだろうしね。……ユイちゃん、ラースについては何かわかった?」
アスナが尋ねると、ユイは再び空中に浮き上がり、ホバリングしながら口を開いた。
「公開されている検索エンジン十二、非公開のもの三を使用して情報を収集したんですが、企業名、施設名、VR技術関連プロジェクト名いずれも該当するものは見つかりませんでした。また、”ソウル・トランスレーション”テクノロジーなるものについて言及した資料も、申請済みの特許を含め一切発見できませんでした。」
「人の魂を読みとるなんていう大発明を、特許申請すらしてないんだから異常なほど徹底した機密管理よね」
とてもラース側から綻びを見つけるのは無理そうだ、とアスナが溜息をつくと、シノンも呆れたように首を振った。
「なんだか……ほんとに実在する企業なのか疑わしくなってくるわね。こんなことなら、キリトにもっと詳しいことを聞いておくんだったな……。このあいだ会ったとき、あいつ何か、手がかりになりそうなこと言ってなかったっけ……?」
「うーん……」
眉をしかめ、懸命に記憶を掘り返す。金本の襲撃と、それに続く失踪事件の印象が強すぎて、直前のダイシー・カフェでの平和な会話はまるで遠い過去のように霞がかっている。
「たしかあの時は……ソウル・トランスレーターの仕組みの話だけ聞いてるうちに夕方になっちゃったのよね……。あとは……ラースっていう名前の由来は何か、って話も少ししたかな……」
「ああ……『不思議の国のアリス』に出てくる豚だか亀だか、って奴ね。考えてみると妙な話だよね、豚と亀ってぜんぜん似てないよ」
「言葉を作ったルイス・キャロル自身はどっちとも明言してないみたいね。後の世のアリス研究家たちがそう推測してるだけで……」
アスナは不意に言葉を切った。何かが脳裏を掠めた気がしたのだ。
「アリス……。キリトくん、店を出る間際に、アリスについて何か言ってたよね」
「え?」
シノンと、黙って会話を聞いていたリーファも目を丸くする。
「お兄ちゃんが、不思議の国のアリスの話をですか?」
「ううん、そうじゃなくて……ラースの研究室にいるとき、アリスって言葉を聞いたとか何とか……。単語の頭文字みたいな……ええと、何だっけ……」
「頭文字……? A、L、I、C、E、ってことですか?」
「そう、それよ。たしか……アーティフィシャル……レイビル……インテリジェン……だったかな……。CとEは聞き取れなかったけど……」
記憶のスポンジをあまりに強く絞りすぎたせいか、わずかな頭痛を感じながら、アスナはどうにかそれだけを口にした。が、聞いていた他の二人は揃って怪訝な表情で首を捻る。
「なによそれ。アーティフィシャル……って”人工の”、って意味よね。インテリジェン……ス? は”知性”として……レイビル、なんて英単語あったっけ?」
「その発音に最も適合する単語は”labile”だと推測されます。”適応力の高い”というような意味の形容詞です」
シノンの問いかけに、宙に浮いたままのユイがそう答え、三人の視線はテーブル上空の小妖精に集まった。
「強引に翻訳すれば、”高適応性人工知能”ということになるでしょうか」
「人工……知能?」
藪から棒に出てきた言葉に、アスナは思わず瞬きした。
「ああそうか……アーティフィシャル・インテリジェンスは、つまりAIのことよね、ユイちゃんみたいな。でも……仮想空間インタフェースを開発してる会社に、AIがどう関係するのかしら」
「仮想空間内で動かす自動キャラクターのことじゃないの? そのへんにいるNPCみたいな」
シノンが右手を伸ばし、窓の外に立ち並ぶ商店を指しながら言った。しかし、アスナはいまひとつしっくりこない思いで唇を引き結んだ。
「でも……ラース、っていう社名がアリスから取ったものだとして、ラース内部で言うアリスが人工知能に関係する何かだとしたら……少しおかしくない? それだと、会社の目的は次世代VRインタフェースの開発じゃなくて、その中で動かすAIのほうだ、っていうふうに取れるよね」
「うーん、そうなるのかな……。でも、ゲーム内NPCなんて特に珍しくもないし……デスクトップ用の常駐AIパッケージもいっぱい市販されてるよね。わざわざ、会社の存在そのものを隠したり、人ひとり拉致までして開発するようなものなの?」
シノンの問いかけに、アスナも即答することができない。一歩進むたびに次の壁で行き止まりになる嫌な感触に、もしかしてまったく見当違いのことを考えているのではないかという危惧をおぼえながら、それでも何か手がかりを探ろうと、アスナは顔を上げてユイに尋ねた。
「ねえ、ユイちゃん。そもそも人工知能って、どういうものなの?」
するとユイは、珍しく苦笑のような表情を浮かべ、すとんとテーブルに降下した。
「わたしにそれを聞きますか、ママ。それは、ママに向かって”人間とは何か”と聞くようなものです」
「そ、そう言えばそうよね」
「厳密に言えば、これが人工知能である、と定義することは不可能なのです。なぜなら、真正の人工知能というものは、いまだかつてこの世界に存在したことはないからです」
ポットの縁にちょこんと腰掛けながらユイが口にした言葉に、三人は呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。
「え、で、でも……ユイちゃんはAIなんだよね? つまり、人工知能っていうのはユイちゃんのことでしょう?」
リーファが口篭もりながら言うと、ユイは小首を傾げ、生徒に向かってさてどう説明したものかと考える教師のような風情でしばし沈黙したが、やがてひとつ頷いて喋り始めた。
「それでは、現時点でいわゆるAIと呼ばれているものの話から始めましょうか。――前世紀、人工知能の開発者たちは、二つのアプローチで同じゴールを目指しました。ひとつは”トップダウン型人工知能”、そしてもうひとつが”ボトムアップ型人工知能”と呼ばれるものです」
幼い少女の口からあどけない声で語られる内容を理解しようと、アスナは懸命に耳をそばだてた。
「まず、トップダウン型ですが、これは既存のコンピュータ・アーキテクチャ上で単純な質疑応答プログラムに徐々に知識と経験を積ませ、学習によって最終的に本物の知性へと近づけようというものです。わたしを含め、現在人工知能と呼ばれているもののほぼ全てがこのトップダウン型です。つまり……わたしの持つ”知性”は、見かけ上はママたちのそれに似ていますが、実は完全に異なるものなのです。端的に言えば、わたしという存在は、『Aと聞かれたらBと答える』というプログラムの集合体でしかないのです」
そう口にするユイの白い頬に、かすかに寂しさの影のようなものが過ぎったのは目の錯覚だろうか、とアスナは考える。
「例えば、先ほどママに『人工知能とは何か』と問われたとき、わたしは”苦笑い”と分類される表情のバリエーションを表現しました。これは、自分自身に関する問いを投げかけられたとき、パパやママがそのような表情で反応することが多いことから、わたしが経験的に学習した結果です。原理的には、ママの携帯端末に搭載されている予測変換辞書プログラムと何ら変わるところがありません。裏を返せば、学習していない入力に関しては、適切な反応ができないということなのです。――このように、トップダウン型人工知能というものは、現状では真に知能と呼べるレベルには遠く達していないと言わざるを得ません。これが、先ほどリーファさんが言われた”いわゆるAI”というものだと思ってください」
言葉を切り、ユイは視線を窓の外に遠く光る月に向けた。
「……次に、もうひとつの”ボトムアップ型人工知能”について説明します。これは、ママたちの持つ脳……脳細胞が百数十億個連結された生体器官の構造そのものを、人工の電気的装置によって再現し、そこに知性を発生させよう、という考え方です」
そのあまりにも壮大……言い換えれば荒唐無稽なビジョンに、アスナは思わず呟いた。
「そ……それはちょっと無茶じゃないの……?」
「ええ」
ユイが即座に頷く。
「ボトムアップ型は、わたしの知る限り、思考実験の域を出ないまま放棄されてしまったアプローチです。もし実現すれば、そこに宿る知性は、わたしとは本質的に違う、ママたち人間と真に同じレベルにまで達しうる存在となるはずなのですが……」
どこか遠くから視線を戻し、ユイは一息入れてから総括した。
「以上のように、現在、人工知能――AIという言葉には二つの意味があるのです。ひとつはわたしや家電製品やゲーム内NPCのような、言わば擬似人工知能。そしてもう一つは、概念としてのみ存在する、人と同じ創造性、適応性を持つ真なる人工の知性」
「適応性……」
アスナは鸚鵡返しにそう呟いた。
「高適応性人工知能」
二人とひとりの視線がさっと集まる。それを順番に見返しながら、頭のなかでもやもやと形を取りつつあるものを、ゆっくり言葉にしていく。
「もし……もし、ラースの開発しているSTLが、目的じゃなく手段なんだとしたら……? そうよ、確か、キリト君もそんな疑問を持ってるみたいだった。ラースはSTLを使って何かをしようとしてるんじゃないか、って……。もし、人の魂そのものの構造を解析することによって、本物の……世界初のボトムアップ型人工知能を創ろうとしてるんだとしたら……」
「その、真のAIのコードネームが”A.L.I.C.E.”ということですか……?」
アスナの言葉を受けてリーファがそう呟き、同じくどこか呆然とした表情のシノンが続けた。
「つまり、ラースというのは次世代VRインターフェース開発企業ってわけじゃなくて……ほんとは、人工知能開発を目的とした企業なの……?」
推理を進めるにつれ、”敵”の形と大きさがどんどん漠としたものになっていく展開に、三人は思わず黙り込んだ。ユイさえも、得たデータを処理しきれないとでもいうかのように、きゅっと眉をしかめている。
アスナは手を伸ばし、マグカップのポップアップメニューからすっきりした味のお茶を新しく淹れなおすと、それを大きく一口飲み下した。ほっ、と息をついてから、改めて敵の戦力評価をし直すつもりで唇を開く。
「もう、単なるベンチャー企業のスケールじゃなくなってきたわね。偽救急車やヘリコプターまで使って人を拉致する手口、所在すらわからない研究所にSTLなんていうお化けマシン、その上目的が人間と同じレベルのAIを創ることだって言うんだから。――キリト君にラースでのバイトを紹介したのがあの総務省の菊岡って人だったのは、あの人がVR関連業界にコネが多いからとかじゃなくて、そもそもラースが国と繋がってるからだったのかも……」
「菊岡誠二郎かぁ。見た目どおりのトボケメガネじゃないとは思ってたけど……。連絡は相変わらず取れないの?」
渋面を作るシノンに、力なく頷く。
「四日前から、携帯も繋がらないしメールも返ってこない。いざとなったら総務省の”仮想課”まで直接乗り込もうと思ってるけど、多分ムダでしょうね」
「だろうね……。前、キリトがあいつを尾行したけどあっさり撒かれたって言ってたからなあ……」
四年前のSAO事件発生直後、総務省に置かれた”被害者救出対策本部”は、事件解決後も仮想空間関連問題に対応する部署として残された。そこに所属する黒ブチ眼鏡の公務員菊岡誠二郎は、和人とは現実世界帰還直後からの付き合いらしく、現実世界では一介の高校生に過ぎない彼をなぜか高く買っていて、死銃事件の際にも調査を依頼したりしている。
アスナも何度か会ったことがあるが、人当たりのよいにこやかな外見の下にどこか底の知れない部分がある気がして、今ひとつ心を許せないという印象を持っている。本人は常々、閑職に飛ばされた窓際公務員を自称していたが、本来の所属はもっと別の部署なのではないか――と和人も疑っていた節がある。
謎の企業ラースでのアルバイトを和人に持ちかけてきたのがその菊岡であったということもあり、アスナは和人の失踪直後から何回も連絡を取ろうと試みているのだが、菊岡の携帯端末は常に圏外であるとの自動メッセージが応答するのみだった。
業を煮やして直接総務省に電話をしたところ、菊岡は海外に出張中であると言われ、それなら電話が繋がらないのも仕方ない――と思う反面、こうもタイミングがいいと、まさか和人の失踪にもあの男が関わっているのではないか、とすら疑いたくなってくる。
「でも……」
その時、アスナとシノンのしかめ面を交互に見ながら、リーファがぽつりと言った。
「あの菊岡って人を通してラースと国が繋がってるとして、どうしてこうまで何もかも秘密にしなきゃならないんでしょう? 企業なら利益のために秘密を守る必要もあるんでしょうけど、国がそんな凄いプロジェクトを進めてるなら、むしろ大々的に喧伝するのが普通じゃないんですか?」
「それは……確かに……」
シノンが器用に、首を捻りながら頷く。
近年、仮想空間と並んで二大フロンティアと言われている宇宙空間の開発は各国が急ピッチで進めており、外部ブースターを使わない軌道往還船や月面有人基地の建設などが、米露中そして日本でも矢継ぎ早にアナウンスされている。それらに並ぶかあるいは上回るインパクトがあるだろう真正人工知能の開発を、国が執拗に秘密にする理由はアスナにも思いつかなかった。
しかしもし本当に、キリトの拉致が国家的規模の極秘計画に関わっているなら、ただの高校生に過ぎない自分たちにできることはもう何もないのではないか……更に言えば、それは警察の手ですら届かない領域なのではないか。無力感に打ちのめされそうになりながら肩を落としたアスナの眼に、テーブルの上から見上げるユイの視線がぶつかった。
「ユイちゃん……?」
「元気を出してください、ママ。この世界でママを探しているときのパパは、ただの一度も諦めたりしませんでしたよ」
「で……でも……わたしは……」
「今度はママがパパを探す番です!」
先ほど、自分の反応はすべて単純な学習プログラムの結果だ、と言い切ったユイは、その言葉が信じられなくなるほどに優しく暖かい笑みを浮かべてみせた。
「パパへと繋がる糸は絶対に残されています。たとえ相手が日本政府でも、ママとパパの絆を断ち切ることなんてできないとわたしは信じます」
「……ありがとう、ユイちゃん。わたし、諦めたりしないよ。国が敵だって言うんなら……国会議事堂に乗り込んで総理大臣をぶんなぐってやるわ」
「その意気です!」
愛娘と笑いあうアスナを、微笑みながら見ていたシノンが、不意にきゅっと眉を寄せた。
「……? どうしたの、シノのん?」
「いや、その……現実問題として、もしラースが国家主導の研究機関なんだとしても、首相とか議会が全部了承してるってことはないと思うのよ。本気で秘密を守る気なら、ね」
「うん……それで?」
「もしこれが、どこかの省庁の一部で極秘に進められてる計画なんだとしたら、絶対に隠し切れないものが一つあると思わない?」
「何……?」
「予算よ! 研究施設にしても、STLにしても、巨額の予算が必要なのは間違いないよね。何十億だか何百億だか、そのもっと上かはわからないけど、そんな金額を国庫……税金からこっそりちょろまかすなんて無理だと思うわ。つまり、何らかの名目で、今年度の予算に計上されてるんじゃないのかしら」
「うーん、でも……ユイちゃんに検索してもらったかぎりでは、仮想空間関連でそんな大きな予算をかけてるプロジェクトは……あっ、そうか……キーワードが違う……? 仮想空間じゃなくて、人工知能……」
アスナが視線を向けると、ユイも真剣な表情で頷き、ちょっと待ってください、と言って両手を広げた。十本の指先がちかちかと紫色にまたたく。ALO内からネットワークに接続しているのだ。
三人の期待と不安に満ちた数秒の沈黙のあと、ユイは薄くまぶたを持ち上げ、数秒前と打って変わっていかにも電子の妖精然とした抑揚の薄い声を発した。
「公表されている二〇一六年度国家予算データにアクセスしました。人工知能、AI、その他三十八の類似キーワードを用いて検索中……十八の大学、七の第三セクターに該当名目で研究費が認可されていますがいずれも小額……文部科学省が介護ロボット用AI開発プロジェクトを進めていますが無関係と判断……国土交通省の海洋資源探査艇開発プロジェクト……自動運転乗用車開発プロジェクト……いずれも無関係と判断……」
その後もユイはいくつかの難解なプロジェクト名を挙げたが、いずれも無関係と続け、やがて小さく首を振った。
「……条件に当てはまるような不自然な巨額予算請求は発見できませんでした。複数の小額予算に分散・偽装しているのかもしれませんが、その場合公表データからの発見は困難です」
「うーん……やっぱり、すぐそれとわかるような穴は残してないか……」
シノンが腕組みをして唸る。藁にでもすがるような気持ちで、アスナはでも、と声を上げた。
「――いまユイちゃんが見つけたプロジェクトの中に、ラースの偽装予算が紛れてるかもしれないよね。なんとかそれを見つけられないかなあ。まあ、さすがに海洋資源とかは関係ないと思うけど……一体なんでそんな研究がヒットしたの?」
「ええと……」
ユイは再度半眼になり、どこかのデータベースにアクセスすると、ひとつ頷いて顔を上げた。
「……海底の油田や鉱脈を探すための小型潜水艇を自律航行させようという研究のようですね。その潜水艇に搭載するAIを開発するための予算なのですが、優先度に対して金額がやや大きいので検索フィルターに残ったようです」
「へえ……そんなものもロボット化されてるのね……。どんなとこで開発してるんだろう」
「プロジェクトの所在は……『オーシャン・タートル』となっていますね。今年の二月に竣工した超大型海洋研究母船です」
「あ、あたしニュースで見ました」
リーファが口を挟んだ。
「なんか、船っていうより海に浮くピラミッドみたいな感じなんですよ」
「そう言えば、聞いたことあるわね。オーシャン……タートル……」
アスナは口をつぐみ、眉をしかめ、しばらく俯いてから、さっと顔を上げた。
「ねえ、ユイちゃん……その研究船の画像って、出せる?」
「はい、ちょっと待ってください」
ユイが右手を振ると、地図のときと同じように卓上にスクリーンが広がり、それはたちまち海面の立体画像に変化した。さらにその中央に光が複雑なワイヤーフレームを描き出し、面をテクスチャーが埋めていく。
小さな海に出現したのは、確かに一見して黒いピラミッドと言いたくなる代物だった。
しかし上から見ると、正方形ではなく短辺と長辺が二対三程度の長方形だ。四角錘の高さは短辺の半分ほどだろうか。表面は、所々に細長く空いている窓を除けばつるりと滑らかで、ダークグレーの光沢を放っている。注視すると、どうやら正六角形の太陽発電パネルがびっしりと貼られているらしい。
四方の角からは操舵装置らしき突起が突き出し、そして短辺のいっぽうには小さなビルにも見えるブリッジが伸びていた。屋上にあるHマークはヘリポートだろうか。それがあまりにも小さいので、傍らに表示されているスケールメーターに目をやると、全長六百メートルという驚くべき数字だった。
「なるほど……、四本の足といい、四角い頭といい、ピラミッドの甲羅模様といいこりゃ確かにカメに見えるね。それにしても大きいな……」
シノンが感心したように言った。アスナはちらりとそちらを見てから、右手の人差し指で巨大船『オーシャン・タートル』のブリッジ部分を指差した。
「でも……ほら、頭のここんとこ、ちょっと平らに突き出してて、他の動物にも見えない?」
「あー、そうですね。ちょっと黒ブタにも見えますよね。泳ぐブタだー」
無邪気な声でリーファが言った。
直後、自分の言葉に撃たれたかのように、目を見開いた。唇を数度わななかせてから、掠れた声を絞り出す。
「亀でもあり……豚でもある……」
アスナとシノン、リーファは、無言で視線を交わしたあと、声を揃えて言った。
「――ラース!」
SAO4_11_Unicode.txt
機体が濃い靄のかたまりを抜けると、小さな窓の向こうに再び一面の藍色が広がった。
高高度を飛ぶ旅客機からの眺めとはまるで違う、砕ける波頭すら見て取れそうな海面の輝きに、神代凛子(こうじろりんこ)は、最後に海で泳いだのは何年前だろう、と考えた。
凛子の現在の勤め先であるカリフォルニア工科大学のキャンパスからはサンタモニカ湾まで車で一時間足らずであり、その気になれば毎週末にでも好きなだけ肌を焼ける環境だったが、職を得てからの二年間、一度として砂浜を踏んだことはない。海も陽光も決して嫌いではないものの、レジャーをレジャーとして素直に楽しめる心境に至るには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。誰も自分を知らない異国の街で、目的の無い研究に没頭することで過去を漂白する日々は、十年や二十年で終わるものではあるまいと凛子は覚悟していた。
だから、二度と帰ることはないだろうと思っていた日本の土を――わずか一日にせよ――踏み、その上捨てたはずの過去に直結する場所へと一直線に飛行している己を、凛子はどこか不思議な気分で見ていた。一週間前、思わぬ人物から受け取った長いメールを、その場で削除し、忘れ去ることもできたはずだが、なぜか凛子はそうせず、一時間足らず考えただけで要請を受諾するむねの返事を送った。思考も記憶も深く凍らせた二年間の日々をまったく無駄にする行為だとわかっていながら、なおそうしたのだった。
一体何ものが自分を衝き動かし、重い因縁の付きまとう場所へと足を向けさせたのか――。ロサンゼルスから東京へと向かう飛行機の中で、一泊した成田のホテルのベッドで、そしてこの小さな航空機に乗ってからも、なんども自問したその謎を、凛子は軽い吐息とともに頭のおくに押しやった。見るべきものを見、聞くべきことを聞けばおのずと答えは出るだろう。
とりあえず、最後に海水浴をしたのは十年前、何も知らなかった大学一年生の時だ。二年上の先輩だった茅場晶彦を無理やり誘い出し、ローンで買ったばかりの軽自動車で江ノ島に行ったのだ。自分がどのような運命に足を踏み入れつつあったのか、まるで気付きもしなかった、無邪気な十八の頃。
遠い過去に彷徨い出そうとした凛子の耳に、隣のシートの同乗者が、ローターの唸りに負けないよう張り上げた声が届いた。
「見えてきましたよ!」
長い金髪をかきあげながらサングラスの下で目を細める同乗者の視線を辿ると、確かにコクピットの湾曲したガラスの向こう、のっぺりと広がる凪いだ海面の一角に、小さな黒い矩形が見えた。
「あれが……オーシャン・タートル……?」
凛子が呟くと同時に、黒――太陽電池パネルの一面が日光を反射してまばゆく光った。飛行中ずっと押し黙っていた、コ・パイ席のダークスーツの男が、低い声で短く答えた。
「そうです。あと十分程度で着艦します」
EC130ヘリコプターは、新木場からの約450キロに及ぶ飛行の締めくくりに、サービスなのか巨大海洋研究母船『オーシャン・タートル』の周囲をひとまわりしてから着艦体勢に入った。
凛子は、そのあまりの威容に、半ば唖然としながら目を見開いた。船、とはとても思えない。海にどっしりと根を下ろした巨大な黒いピラミッドだ。全長は世界最大の空母ニミッツ級の二倍――等のデータは事前に調べていたが、数字と実物との間には月と地球ほどもの開きがある。
六百掛ける四百メートルの底面積を持つ四角錐を、光沢を持つ黒いパネルが亀甲のように覆っている。その一枚一枚が、ホバリングするヘリコプターの影の胴体部分と同じほどの大きさだ。一体、総建造費がどれくらいに上っているのか、凛子には見当もつかなかった。近年開発された小笠原沖油田からの収益のほぼ全額がつぎ込まれているという噂も、この巨躯を見ればあながち的外れとは思えない。
この船の表向きの建造目的は、次なる油田の発見・開発に主眼が置かれている――はずなのだが、実はその内部に次世代NERDLESテクノロジ、人間の魂を解読するという『ソウル・トランスレータ』の研究施設が置かれている可能性がある、と一週間前のメールは告げていた。当初凛子は半信半疑だったが、こうして実際に連れてこられれば、もう信じるほかはない。
一体何故、こんな何も無い外洋のど真ん中でよりによってマンマシン・インタフェースの研究をしなければならないのか、その理由はさっぱりわからない。しかし、この黒いピラミッドの奥で、茅場晶彦の遺したナーヴギアと、それを凛子が発展させたメディキュボイドから産まれた因縁のマシンが息づいているのは最早事実なのだ。
二年間の海外生活は、凛子の傷を麻痺させても癒すことは無かった。果たしてこの中で直面するものは、その傷を塞いでくれるのか、あるいは轢き毟って鮮血を流させるのか――。
降下を始めたヘリコプターの中で、凛子はひとつ大きく呼吸すると、ちらりと隣の同乗者を見やった。サングラス越しの視線に軽く頷きかけ、降りる準備を始める。
パイロットがよほどのベテランなのだろう、機体は大きく揺れることなく、オーシャン・タートルの艦橋構造物屋上に設えられたヘリポートに着陸した。まずダークスーツが俊敏な動作で機外に滑り出て、走りよってきた同じようなスーツ姿の男と敬礼を交し合う。
続いて降りようとした凛子は、手を貸そうとする男にかぶりを振ると、ジーンズを穿いてきて良かったと思いながらわずかな高低差をすとんと飛んだ。スニーカーの底が捉えた人工の地面は、そこが船上とは思えないほどどっしりと微動だにしない。
続けて同乗者が、金髪を眩くきらめかせながら飛び降り、サングラスを太陽に向けて大きく背を伸ばした。凛子も倣って両手を広げ、胸いっぱいに潮の香りがする空気を吸い込んだ。
ヘリポートで待っていたほうの男が、よく灼けた肌に笑みを浮かべながら、凛子に向かってさっと敬礼した。
「神代博士、オーシャン・タートルへようこそ。そちらが……」
男の視線が同乗者に向くのを見て、頷きながら紹介する。
「助手のマユミ・レイノルズです」
「Nice to meet you」
滑らかな英語とともに同乗者が差し出した右手を、ややぎこちなく握り返し、男も名乗った。
「私は、お二人のご案内を命じられました中西一等海尉です。お二人の荷物は後ほど部屋に運ばせますので、さあ、どうぞこちらへ――」
右手を、ヘリポートの一端に見える階段へ伸ばしながら、男は続けた。
「菊岡二佐がお待ちです」
艦橋ビルディング内の空気はまだ、真夏の太平洋の熱と塩気を含んでいたが、エレベーターと長い通路を経てオーシャン・タートル本体――黒いピラミッドの内部へと続く分厚い自動ドアをくぐった途端、冷たい無機質な風が凛子の顔を叩いた。
「船じゅうこんなにエアコンが効いてるの?」
思わず、前を歩く中西一尉に尋ねると、若い自衛官は上体を捻って頷きながらこともなげに言った。
「ええ、精密機械が多いですから、常に二十三度前後に保たれています」
「電力は太陽発電だけでまかなってるの?」
「まさか、発電パネルでは需要の一割も満たせませんよ。主機は加圧水型原子炉を使用しています」
「……そう」
いよいよもって何でもありね、と軽く頭を振る。
明灰色のアルミパネルを貼られた通路には、人の姿はまったくなかった。事前にざっと資料を読んだ限りでは、百近くに及ぶ数のプロジェクトが入居しているはずだが、器が巨大なぶんスペースには充分な余裕があるらしい。
右に折れ、左に折れしながら三百メートルほども歩いたとき、前方突き当たりのドアの脇に、紺色の制服を着込んだ男の姿が見えた。よくある警備会社のもののように思えるが、中西を見るやサッと敬礼したその仕草はやはり民間人のものではない。
答礼し、中西はきびきびした口調で言った。
「招聘研究員の神代博士と助手のレイノルズさんがS3区画に入ります」
「確認します」
警備員は、手にしていた金属製の端末機を開くと、直線的な視線を凛子の顔とモニタの間で往復させた。頷き、次いで凛子の背後に立つ研究助手を見るや、きれいに髭をあたった口元を動かす。
「失礼ですが、サングラスを外して頂けますか」
「I see」
大きなレイバンを持ち上げた研究助手の、艶やかな金髪か抜けるような白皙のどちらかに少しばかり眩しそうに目を細め、警備員はもう一度頷いた。
「確認しました。どうぞ」
ほっ、と息を吐き、凛子は微苦笑しながら中西に言った。
「ずいぶん厳重なのね。こんな海のど真ん中なのに」
「これでも、ボディチェック等は省略しているんですよ。金属・爆発物探知機は三回ほど潜っていますが」
答えながら、スーツの胸から外したプレートをドア脇のスリットに差し込み、右手の親指をセンサーとおぼしきパネルに押し当てる。約一秒後、ドアは圧搾音とともにスライドし、オーシャン・タートルの、おそらく中枢部への入り口を開いた。
やけに分厚いドアを抜けると、その先の通路はさらに低温の空気とオレンジがかった照明、かすかに響く重い機械の唸りに満たされていた。かん、かんと響く三人の足音を意識しながら、南洋に浮かぶ船の中ではなく地下深部の研究所としか思えない場所をなおも数十メートル歩き、中西はひとつのドアの前で再び歩を止めた。
見上げると、上部のプレートに『S機関主操作室』の文字があった。
ついに、ここまで――茅場晶彦最後の遺産が息づく場所まで来てしまった。凛子は息を詰めながら、セキュリティチェックを行う中西の背中を眺めた。
ここが、意識を凍らせあてどなく彷徨った二年間の終着点となるのか、それとも新たな無明の道の開始点なのか――。重々しく横に動いた扉の向こうは、何かを暗示するような深い闇に包まれていた。
「……先生」
背後から研究助手に声をかけられ、はっと顔を上げると、中西はすでに暗い部屋に数歩踏み込み、振り返って凛子を待っていた。よくよく見ると、『主操作室』の内部は完全な暗闇ではなく、床にオレンジ色のマーカーが瞬き、奥からはぼんやりした青白い光が伸びている。
凛子は大きく深呼吸してから、意を決して右足を前に出した。二人が入室するやいなや、背後でぷしゅっと音がしてドアが閉まる。
巨大なネットワーク機器やサーバー群の間を縫うようにマーカーを辿り、ようやく機械の谷間を抜けた途端、凛子は眼前に広がった光景に、唖然と口を開けた。
正面の壁は一面、大きな窓になっており――その向こうに、信じられないものが見えた。
都市だ。しかしどう見ても日本、いや世界中のどの近代都市でもない。建物はすべて白亜の石造りで、不思議な丸い屋根を持っている。どれも二階建て、あるいはそれ以上の規模なのに、ミニチュア風に見えるのはそこかしこに巨大な樹木が根と枝葉を広げているからだ。
同じく白い石積みの道路は、無数の階段やアーチを成して樹々の間をくぐり、そこを歩く沢山の人間たちは――これも明らかに現代人ではなかった。
一人として、背広の男やミニスカートの女は居ない。皆、ゆったりしたシルエットのワンピースや革製のベスト、地面に引きずりそうな貫頭衣といった中世風の衣装を身に着けている。頭髪は、金から茶色、黒まで様々で、目を凝らすと顔立ちは西洋人とも東洋人とも即断できない。
一体これは何処なのだろう。いつの間にか、研究船の中から本当に地下の異世界か何かに移動してしまったのか。呆然となりながら凛子が視線を動かすと、どこまでも広がる街並みの向こうに、一際純白に輝く巨大な塔が見えた。四つの副塔を従えた主塔の上部は、窓枠に収まりきれずに遥か青空の向こうへと伸びている。
塔の天辺を視界に入れるべく、数歩前に進んだところで、凛子はようやく眼前の光景が窓ではなく大画面のモニタパネルに映し出されたものであることに気付いた。直後、天井で控えめな照明が点灯し、部屋から暗闇を追い払った。
小劇場のスクリーンほどもありそうなモニタパネルの手前には、いくつものキーボードとサブモニタを備えたコンソールが扇状に広がり、そこに二人の男の姿があった。一人は背を向けて椅子に掛けたまま忙しなくキーを叩いている。もう一人の、腰をコンソールの縁に乗せ上体を屈めていた男が、顔を上げて凛子を見るや、眼鏡の奥でにいっと笑みを浮かべた。
かつて何度か見た、人懐こそうでそれでいて内面の見通せない笑顔だ。総務省に出向中の自衛官、菊岡誠二郎二等陸佐である。しかし――。
「……何なんですか、その格好は?」
二年ぶりに会う人間への挨拶がわりに、凛子は顔をしかめながら尋ねた。隙のないスーツ姿の中西と手早く敬礼を交わす菊岡は、青地に黄色い椰子の木がプリントされた派手なアロハにバミューダパンツ、その上裸足に下駄履きという出で立ちなのだ。
「それでは、私はここで失礼致します」
凛子にも敬礼して中西が去り、機械群の向こうでドアの開閉音がすると、直立していた菊岡は再びだらりとコンソールに寄りかかり、やや錆びの入ったソフトな低音で言った。
「だって、せっかくこんな海のど真ん中にいるんだよ。――神代博士、それにレイノルズさん、ようこそオーシャン・タートル……あるいは『ラース』へ。やっと来てくれて嬉しいよ、何度も声を掛けた甲斐があった」
「ま、来てしまったことだししばらくお世話になります。お役に立てるかどうかは保証できないけど」
凛子がぺこりと会釈すると、隣で助手もそれに習った。菊岡はわずかに眉を持ち上げ、助手の豪奢な金髪に目を止めていたが、すぐにまたにっと笑うと肩をすくめた。
「貴女は、僕がこのプロジェクトにどうしても必要だと考えていた三人の人間の、最後の一人なんだよ。これでついに、三人ともこの海亀の腹に集ったわけだ」
「ふうん。なるほどね……そのうちの一人は、やっぱり君だったのね、比嘉君」
凛子が声を掛けると、いままでずっと背中を見せていた二人目の男が、手を止めて椅子ごとくるりと向き直った。
長身の菊岡と並ぶと、まるで子供のように小さい。髪を剣山のように逆立て、無骨なデザインの丸眼鏡を掛けている。黒いプリントTシャツに色褪せたジーンズ、かかとを潰したスニーカー穿きという格好は、大学生の頃とまるで変わっていない。
五、六年ぶりに会う比嘉健(ひがたける)は、凛子を見ると、体格に見合った童顔に照れたような笑みを浮かべ、口を開いた。
「そりゃもちろんボクですよ。重村研究室最後の学生として、先輩方の志は継がないと」
「まったく……相変わらずね、君は」
東都工業大学電子工学部の異端と呼ばれた重村ゼミにおいて、茅場晶彦と須郷伸之というそれぞれ方向性は違うにせよ巨大な二つの個性の陰に隠れていた感のある比嘉が、このような謎めいた国家的プロジェクトに深く関わっていたことに奇妙な感慨を覚えながら、凛子は手を伸ばしてかつての後輩と軽い握手を交わした。
「……で? 三人目は、どこの誰なんです?」
再度菊岡を見てそう尋ねると、自衛官は相も変らぬ謎めいた笑みを浮かべ、短く首を振った。
「残念ながら、今は紹介できないんだ。折りを見て、数日中に……」
「じゃあ、代わりにわたしが名前を言ってあげるわ、菊岡さん」
――と言ったのは、凛子ではなく、今まで背後で影のようにひっそりとしていた『助手』だった。
「なにっ……!?」
唖然と目を見開く菊岡の顔を、してやったり、と眺めながら、凛子は一歩退いて彼女に場所を譲った。染めたばかりの長い金髪を揺らして進み出た『助手』は、大きなサングラスを外し、はしばみ色の瞳でまっすぐに菊岡を見据えながら続けた。
「キリト君を、どこに隠したの?」
恐らく、驚愕という感情にあまり馴染みがないのであろう二等陸佐は、何度か口を動かしては閉じるということを繰り返してから、ようやく囁くような声で言った。
「……研究助手の身元確認は、カリフォルニア工科大学の学籍データベースから得た写真で多重チェックしたはずだが」
「ええ、わたしも先生も、何回も嫌ってほど顔をじろじろ見られたわよ」
凛子の研究助手を勤めるマユミ・レイノルズの身元証明を隠れ蓑に、ついにオーシャン・タートルの中枢まで潜入してのけた日本の女子高校生・結城明日奈は、背筋を伸ばして菊岡の視線をまっすぐ受け止めながら答えた。
「ただ、学籍データベースの写真は一週間前にわたしの顔に差し替えさせてもらったけどね。うちには、防壁破りが得意な子がいるものですから」
「ちなみに、本物のマユミは今ごろサンディエゴで肌を焼いてるわ」
付け加え、凛子はにっこりと笑ってみせた。
「さ、これで、なぜ私が突然あなたの招聘に応じる気になったかわかって貰えたかしら、菊岡さん?」
「ああ……大変よくわかった」
こめかみを押さえながら、菊岡は力なく首を振った。突然、今まで凛子たちのやり取りをぽかんとした顔で傍観していた比嘉健が、くっくっと笑い声を上げた。
「ほら、ね、言ったでしょう菊さん。あの少年は、この計画における唯一にして最大のセキュリティホールだって」
一週間前、結城明日奈という見知らぬ差出人から届いたメールは、半ば世捨て人としてアパートとキャンパスを往復するだけの日々を送っていた凛子の心を大いに揺さぶる内容だった。
かつて凛子が、過去を清算するつもりで提供した医療用NERDLESマシン”メディキュボイド”――その設計を基にした”ソウル・トランスレーター”なる怪物の開発が、ラースという謎の機関によって進められていると明日奈は書いていた。人間の魂そのものにアクセスするというそのマシンの目的は、恐らく世界初のボトムアップ型人工知能を作り出すこと。実験に協力していた少年、”あの”桐ヶ谷和人が病院から昏睡状態のまま拉致され、その行き先は恐らく進水したばかりの巨大海洋研究母船オーシャン・タートル、そして拉致の黒幕はSAO事件に当初から深く関わり続けた菊岡誠二郎である疑いがある――という、一読しただけでは容易に信じられない話が続いていた。
『神代さんのメールアドレスは、キリトくんのPC内のアドレス帳から見つけました。神代さんだけが、私をラースへ、キリトくんの元へ至らしむるただ一つの可能性なのです。どうか、力を貸してください』――。
メールはそう結ばれていた。凛子は、激しく動揺しながらも、結城明日奈の言うことは真実であろうと判断した。なぜなら、一年ほど前から、自衛官菊岡誠二郎の名で次世代NERDLESテクノロジーの開発プロジェクトへの参加要請が再三ならず届いていたからである。
自宅アパートの窓辺から、パサデナの夜景を眺めながら、凛子は日本出国前夜に一度だけ会った桐ヶ谷少年の顔を思い描いた。須郷伸之の起こした人体実験事件の顛末を説明した彼は、最後にためらいがちに付け加えた。仮想世界内で、茅場晶彦の幻影と会話をしたこと、そしてその幻影は、何らかの意図を持って桐ヶ谷少年にシュリンク版”カーディナル”プログラムを託したということを。
思えば、茅場晶彦が自らの命に幕を引くために使った高密度・高出力の大脳パルス走査機こそがメディキュボイドの原型であり、ひいてはソウル・トランスレーターの原型である、ということになる。結局、全ては繋がっており、何も終わってはいなかったのだ。ならば、今になってこの結城明日奈からのメールが届いたのも必然なのではないか――?
一晩かけて心を決めた凛子は、明日奈に要請を承諾する旨の返事を送った。
危険な賭けではあったが、こうして菊岡誠二郎の驚き顔が見られただけでもはるばる太平洋を横断した甲斐はあった、と凛子は小さく笑った。SAO事件直後からあれこれ暗躍し、何もかも思うままにコントロールしてきた感のある菊岡からついに一本とったわけだが、しかしまだ手放しで喜ぶのは早すぎる。
「さ、ここまで来たら、何もかも白状してくれてもいいんじゃないかしら、菊岡さん? 自衛官のあなたが、何で総務省の窓際課長なんてカバーを使ってまでVRワールドに首を突っ込みつづけたのか、一体このでっかい亀のお腹で何を企んでるのか、そして……なぜ桐ヶ谷君をさらったのか」
畳み掛けるように凛子が言うと、菊岡は再度首を振りながら長い溜息をつき、相変わらず内心の読めない笑顔を浮かべた。
「まず、最初に誤解のないよう言っておきたいんだが……確かにキリト君を少々強引なやり方でラースに招待したのは申し訳なかった。でも、それはどうにかして彼を助けたかったからだよ」
「……どういう意味?」
腰に剣があったらもう鯉口を切っているであろう剣呑な表情で、明日奈が一歩詰め寄る。
「キリト君が襲撃され、昏睡状態に陥ったことを僕はその日のうちに知った。彼の脳が、低酸素状態による損傷を受け、そしてそのダメージは現代医学では治療不可能であるということもね」
明日奈の顔がさっと強張る。
「治療……不可能……?」
「脳の、重要なネットワークを構成していた神経細胞の一部が破壊されてしまったんだ。あのまま入院していても、彼がいつ目覚めるかはどんな医者にも分からなかったろうね。あるいは、永遠に眠ったままか……おっと、そんな顔をしないでくれたまえアスナ君。さっき、現代医学では、と言ったろう?」
菊岡は、滅多に見せない真剣な表情をつくり、ゆっくりと頷いた。
「だが、世界でもこのラースにだけ、キリト君を治療可能な技術があるんだ。S機関……と我々は呼んでいるが、君ももうよく知っているSTL、ソウル・トランスレーターだよ。死んだ脳細胞は治療できないが、しかし、STLで直接フラクトライトを賦活することで新しいネットワークの発生を促すことはできる。時間はかかるがね。キリト君は今、このメインシャフトのずっと上にある、フルスペックSTLの中にいるよ。六本木の分室にあるリミテッドバージョンでは微細なオペレーションができないので、どうしてもここに来てもらう必要があったんだ。治療が終わり、彼の意識が戻ったら、すべて説明したうえでちゃんと東京に帰すつもりだったんだよ」
そこまで聞いたとたん、ふらりと明日奈の体が揺れ、凛子は慌てて手を伸ばして支えた。
恐るべき洞察力と意思力を発揮し、愛する少年の元へと一直線に突き進んできた少女は、ここに来て緊張の糸が切れたかのように一滴だけ大粒の涙をこぼしたが、気丈にそれを拭って再びしっかりと立った。
「じゃあ、キリト君は無事なんですね? また元気になるんですね?」
「ああ、約束しよう」
菊岡の真意を見透かそうとするような、まっすぐな視線を数秒間ぶつけたあと、明日奈はごく小さく頷いた。
「……分かりました、今はあなたを信じます」
それを聞いて、ほっとしたように菊岡は笑った。そこに向かって、凛子は一歩進み出ながら尋ねた。
「でも、そもそも何故、STLの開発に桐ヶ谷君が必要だったの? こんな何も無い海の真ん中に隠すほどの極秘プロジェクトに、どうして一高校生である彼を?」
隣の比嘉と顔を見合わせてから、菊岡はやれやれ、というように肩をすくめた。
「それを説明しようとすると、すごく長い話になるんだけどね」
「構わないわ、時間はたっぷりあるんだし」
「……全部聞くからには、神代博士にはちゃんと開発を手伝ってもらいますよ」
「聞いてから決めるわ」
少々恨めしそうな顔を作った自衛官は、これ見よがしに溜息をついてから、バミューダパンツのポケットを探り小さなチューブを引っ張り出した。何かと思えば、安っぽいラムネ菓子だ。二、三粒口に放り込んでから、凛子たちに向かって差し出す。
「食べます?」
「……いえ、結構」
「これ、いけるのになぁ。……さて、と。お二人は、STLの概要はもうご存知と思っていいのかな?」
明日奈がこくりと首肯した。
「人の魂……フラクトライトを解読して、現実と全く同じクオリティの仮想世界にダイブさせる機械」
「ふむ。では、プロジェクトの目的については?」
「ボトムアップ型の……”高適応性人工知能”の開発」
ぴゅうっ、と口笛を鳴らしたのは比嘉健だった。丸眼鏡の奥の目に賞賛の色を浮かべ、信じられない、というように首を振る。
「驚いたなぁ。キリト君もそこまでは知らなかったはずだけどな。どうやってそんなことまで調べ上げたの?」
明日奈は、比嘉の人物を確かめるような視線を向けながら、固い口調で答えた。
「……キリト君が言ってたのを聞いたんです。アーティフィシャル・レイビル・インテリジェンス、って言葉を……」
「ははぁ、成る程ね。六本木の保守体勢も点検したほうがいいッスよ、菊さん」
にやにや顔の比嘉の言葉を、菊岡はしかめ面で受け流す。
「キリト君からある程度の情報漏れがあることは覚悟していたよ。そのリスクを勘案しても、彼の協力が不可欠だったことは君も納得していたはずだ……で、どこまで話したかな? そう、高適応性人工知能だったね」
もう一粒振り出したラムネを空中に弾き上げ、器用に口で受け止めてから、二等陸佐は国文の教師然とした風貌にそぐわしい口調で続けた。
「ボトムアップ型、つまり我々人間の意識の構造をそのまま模した人工知能の創造は、長い間夢物語だと思われていた。意識の構造、と言ってもそれがどのような形をしており、何で出来ているのかすらさっぱり判らなかったんだからね。――だが、かの茅場先生と神代教授の残してくれたデータをもとに、この比嘉君がひたすら解像力を高めて作り出したSTLは、ついに人間の魂……我々がフラクトライトと呼ぶ量子場を捉えることに成功したわけだ。ここまで来れば、ボトムアップ型人工知能の開発は成功したも同然だ、と我々は考えた。何故かわかるかい?」
「人の魂を読み取れるなら、あとはそれをコピーすればいい……そういうことね?」
ある種の戦慄をかすかに覚えながら、凛子はそう口にした。
「もちろん、魂のコピーを保存するためのメディアという問題があるでしょうけれど……」
「そう、その通りだ。従来の量子コンピュータ研究に用いられてきたゲート素子ではとても容量が足りないからね。そこでこれも巨費を投じて開発されたのが、”光量子ゲート結晶体”通称ライトキューブというものだ。一辺十五センチのプラセオジミウム結晶構造体の中に、人間の脳が保持する百億キュービットのデータを保存することができる。つまり……我々はすでに、人の魂の複製には成功しているんだ」
「…………」
指先がすうっと冷えていく感覚に耐えるため、凛子は両手をぐっとジーンズのポケットに差し込んだ。見れば、明日奈の横顔も色を失っている。
「……なら、もう研究は成功しているってことじゃないの。何故今更私を呼ぶ必要があったの?」
畏れを悟られないように、下腹に力をこめながら凛子は問いただした。また比嘉と視線を交わした菊岡は、唇の左端にかすかな虚無感のにじむ笑みを漂わせながら、ゆっくり頷いた。
「そう、魂の複製には確かに成功した。しかし、我々は愚かにも気付いていなかったのさ。人間のコピーと、真の人工知能のあいだには途方も無く深く広い溝が開いていることにね。……比嘉君、例のあれ、見せてやりたまえよ」
「ええー、もう勘弁してくださいよ。あれやるとめちゃくちゃ凹むんすよ」
心底嫌そうな顔で首を振る比嘉だったが、ため息をつくと、不承不承という様子でコンソールに向き直り、指を走らせた。
突然、謎の異邦都市を映し出していた巨大スクリーンが暗転した。
「それでは、ロードします。コピーモデルHG001」
たん、と比嘉がキーを叩くと同時に、スクリーンの中央に複雑な放射線型の光が浮かび上がった。中央は白に近く、先端に行くほど赤くなる光の棘が、幾つも伸縮しながらうごめいている。
『……サンプリングは終わったのか?』
不意に頭上のスピーカーから声が降ってきて、凛子と明日奈はびくりと体を震わせた。比嘉の声だ。だが、わずかに金属質のエフェクトがかかり、語尾がいんいんと反響する。
椅子に座る比嘉は、コンソールから伸びるマイクを引き寄せると、自分と同じ声に向かって答えた。
「ああ、フラクトライトのサンプリングは全て問題なく終了したよ」
『そうか、そいつはよかった。でも……どうしたんだ、真っ暗だ……体も動かない。STLの異常か? すまないが、マシンから出してくれ』
「いや……残念だが、それはできないんだ」
『おいおい、何だ、何を言ってるんだ? あんたは誰だ? 聞き覚えのない声だな』
比嘉は背筋を緊張させると、ひとつ間を置いてから、ゆっくりとした口調で答えた。
「俺は比嘉だ。比嘉健」
『…………』
赤い光のトゲトゲが、突然ぎゅっと収縮した。しばしの沈黙のあと、何かに抗うように、鋭い先端を一杯に伸ばす。
『馬鹿な、何を言ってるんだ。俺が比嘉だ。STLから出ればわかる!』
「落ち着け、取り乱すな。お前らしくないぞ」
ここにきて、ようやく凛子は眼前で展開している一幕の意味を悟った。
比嘉健は、自らの魂のコピーと会話をしているのだ。
「さあ、よく考え、思い出すんだ。お前の記憶は、フラクトライトのコピーを取るためにSTLに入ったところで途切れているはずだ」
『……それがどうした。当然だろう、スキャン中は意識がないんだから』
「STLに入る前に、お前は自分に言い聞かせた。もし、目覚めたとき周囲が暗黒で、体の感覚がなかったら、その時は冷静に受け入れなくてはならないと。――自分が、ライトキューブに保存された比嘉健のコピーだということを」
再び、ある種の海生生物のように、光が小さく縮こまった。長い静寂に続いて、弱々しく二、三本のトゲを伸ばす。
『……嘘だ、そんなことは有り得ない。俺はコピーじゃない、オリジナルの比嘉健だ。俺には……俺には記憶がある。幼稚園の頃から、大学、オーシャンタートルに乗るまでの詳細な記憶が……』
「そうだな、だがそれも当たり前のことだ。フラクトライトの保持する記憶もまたすべてコピーされたんだから。コピーとは言っても、お前が比嘉健であることは間違いない。なら、何者にも負けない知性を備えているはずだ。状況を冷静に受け入れるんだ。そして俺たちの共通の目的を達成するため、力を貸してくれ」
『…………俺たち……俺たちだって……?』
金属的なコピーの声に、生々しい感情の揺れを聞き取った瞬間、凛子の両腕が激しく粟立った。これほど残酷でグロテスクな”実験”を、凛子はこれまで見たことは無かった。
『……嫌だ……嫌だ、信じない。俺はオリジナルの比嘉健だ。これは何かのテストなんだろう? もういいよ、ここから出してくれ。菊さん……そこにいるんだろう? わるい冗談はやめて、俺を出してくれよ』
それを聞いた菊岡は、陰鬱な表情を浮かべながら身をかがめ、マイクに口を寄せた。
「……僕だ、比嘉君。いや……もうHG001と呼ばなければならない。残念だが、君がコピーバージョンだというのは本当のことなんだ。スキャンの前に、君は何度もカウンセリングを受け、僕や他の技術者と話し合い、自らがコピーであることを受け入れるための準備をしたはずだ。そしてそれが可能であるという確信を得てSTLに入ったはずだ」
『だが……だが、こんな……こんなものだとは誰も教えてくれなかった!』
コピーの激した絶叫が主操作室いっぱいに響いた。
『俺は……俺のままなんだ! コピーならコピーだと実感できてもいいじゃないか……こんな……こんなのは酷すぎる……嫌だ……出してくれ! 俺をここから出せよ!』
「落ち着け、冷静になるんだ。ライトキューブのエラー訂正機能は生体脳ほど高くない、論理的思考を失うとどうなるか、その危険性も君は知っているはずだ」
『俺は論理的だ! 比嘉健なんだぞ! 何なら、そこの偽物の比嘉と円周率の暗誦競争でもしてみるか!? そら、始めるぞ! 3.14159265、35897932、サンバチヨウログニーログヨディル、ディル、ディッディッディル、ディルディルディルディルディルディ――――――――――――』
赤い光が、スクリーン一杯に爆発したかのように広がり、中心部分から暗転して消え去った。ぶつっ、という音を残してスピーカーも沈黙した。
比嘉健は、とてつもなく長いため息をついたあと、コンソールのボタンを押しながら呟いた。
「崩壊しました。四分二十七秒」
うっ、というこもった声に、凛子はいつの間にか握り締めていた両手を開いた。掌が冷たい汗で濡れている。
見ると、明日奈が右手で口もとを押さえている。その様子に気付いた菊岡が、広いコンソールに幾つも備えられているキャスター付きの空き椅子を一脚、そっとこちらにスライドさせてきた。受け取め、真っ青な顔の明日奈をそこに座らせる。
「大丈夫?」
聞くと、少女は顔を上げ、気丈に頷いた。
「ええ……、すみません。もう平気です」
「無理しないで。少し目を閉じてたほうがいいわ」
手をかけた明日奈の肩からふうっと力が抜けるのを確認し、改めて菊岡の顔を睨みながら凛子は言った。
「……悪趣味にも程があるわね、菊岡さん」
「申し訳ない。だが、これは、直接観てもらう以外に説明は不可能だということも、もう分かってもらえたろう」
首を振りながら、自衛官は嘆息混じりに続ける。
「この比嘉君は、140近いIQを持つ天才だ。その彼のコピーにして、己がコピーであるという認識に耐えることが出来ないんだ。私を含め、十人以上の人間のフラクトライトを複製したのだが、結果は一緒だった。例外なく、三分程度で思考ロジックが暴走し、崩壊してしまう」
「俺、普段あんなふうに喚いたりすること一切ないんスよ。それは、凛子先輩なら知ってると思いますけど」
とてつもなくげんなりした顔の比嘉が言葉を繋いだ。
「これはもう、コピー元になった人間の知的能力や、ロードしたコピーに対するメンタルケアとかそういう問題じゃなくて、ライトキューブに丸ごとコピーしたフラクトライトの持つ構造的欠陥なんだと考えてます。あるいは……。――先輩は、脳共鳴って言葉、知ってます?」
「え? ……たしか、クローン技術に関係したことだったような気がするけど、詳しくは……」
「まぁ、オカルトもんのヨタ話なんですけどね。もし、オリジナルとまったく同一のクローン人間を作ることができたら、二人の脳から発生する磁気がマイク・ハウリングみたいに共鳴しあって、両方とも吹っ飛んじゃうって、そういう話っス。それは眉唾としても――もしかしたら、俺ら人間の意識は、自分がユニーク存在じゃないっていう認識には根源的に耐えることができないのかもしれません……おや、胡散臭そうな顔してますね。もしよかったら、凛子先輩もコピー取って試してみます?」
「絶対にお断りだわ」
怖気をふるいながら凛子は顔を背けた。主操作室に落ちた一瞬の沈黙を破ったのは、今まで椅子の上で瞼を閉じていた明日奈の細い声だった。
「……ユイちゃんが言ってました……あ、ユイちゃんていうのは、旧SAOサーバーで生まれたトップダウン型人工知能なんですけど……人間の意識とは構造からしてまったく違うはずのあの子でも、自分のコピーを取るのは恐ろしいそうです。もし、何らかの事故で凍結バックアップが解凍されて動き出したら、多分わたしたちは互いを消滅させるために戦わざるを得ないでしょう、って……」
「へえ、それは興味深いな。とても興味深い」
比嘉が眼鏡を押し上げながら身を乗り出した。
「今度ぜひ話をさせて欲しいな。うーん、そうか……やっぱり、完成された知性の複製は不可能ってことなんだろうな……あるいは、知性ってのはユニークであることが存在の大前提条件なのか……」
「でも、じゃあ……」
凛子は少し考えてから、両手を小さく広げながら菊岡に向かって言った。
「あなた達の研究は、まったく無駄だった、ってことなの? 幾らかかったのか知れないけど、公的資金でこれだけのものを作っておいて、何もかも失敗……?」
「いやいやいや」
菊岡は大きな苦笑を浮かべながら首と右手を同時に横に振った。
「もしそれが結論なら、今ごろ僕の首は成層圏まですっ飛んでるよ。僕だけじゃない……統合幕僚監部の偉いさんまとめて打ち首獄門だ」
またしてもラムネのチューブを掌の上で傾け、それが空だと知ると今度は他のポケットからキャラメルの箱を取り出して一粒くわえる。
「実のところ、このプロジェクトはそこが出発点なんだと言ってもいい。出来合いの魂のコピーは不可能だ、という、そこがね。……丸ごとコピーが無理なら、じゃあどうすればいいと思います、博士?」
「……私も頂戴していいかしら、それ」
菊岡が嬉しそうに差し出すキャラメルを左手で受け取り、包み紙を剥いて含むと、甘酸っぱいヨーグルトの味が広がった。アメリカでは中々味わえないフレーバーだ。糖分が疲れた脳に染み渡っていくのを感じながら、考えを整理する。
「……記憶を制限すればどうなの? 例えば……名前や生い立ちといった個人的な記憶を削除する。自分が誰だか分からなければ、さっきみたいな急激なパニックは起こらないんじゃないかしら……」
「さすが先輩、よく即座にそこまで出てくるっスね」
大学時代に戻ったような口調で比嘉が言った。
「僕らも、一週間あれこれ考えた挙句ようやくそれを思いついて、実行してみました。ただ、ね……フラクトライトの量子ビット・データというのは、ウインドウズの階層フォルダみたいに整然と保存されてるわけじゃないんス。簡単に言えば、記憶と能力は表裏一体なんですよ。考えてみれば当然で、我々の能力ってのは最初っからインストールされてるわけじゃなくて、全て学習の結果なんです。学習とはつまり記憶ですよ。初めてハサミで紙を切ったときの記憶を消せば、ハサミの使い方も忘れてしまう……言い換えれば、成長過程の記憶を削除すれば、関連した能力もごっそり消えていく。出来上がったものの悲惨さは、さっきのフルコピーの比じゃあないっスよ。一応、見てみます?」
「い……いえ、結構」
凛子は慌ててかぶりをふった。
「なら……もう、記憶も能力も何もかも消去して、改めて最初から学習させたら? いえ……それも現実的じゃないわね。時間が掛かりすぎる……」
「ええ、その通りです。そもそも、言語や計算といった基本的能力は、我々大人の発達しきってしまったアタマに学習させることは非常に困難なんス。俺もずっと韓国語を勉強中なんですけどね、あれだけシステマチックな言語でももう何年やってるか……。結局、学習というのは脳神経ネットワークっていう量子コンピュータ回路の発達過程と同期してないと効率が悪すぎるんです」
「じゃあ、記憶……つまりデータ領域だけじゃなくて、思考、ロジック領域も制限するの? STLっていうのは、そんなことまで可能なの……?」
「やれば不可能ではないでしょう。ただ、途方も無い時間をかけてフラクトライトを解析し、百億キュービットのどこが何を受け持っているということを完全に突き止める必要があります。何年……何十年かかるか知れたもんじゃないっスよ。でもね……もっとシンプルでスマートな方法があることを、このオッサンが思いついたんです。俺ら科学者には多分思いつけない方法をね……」
凛子は瞬きして、コンソールに尻を乗せたままの菊岡の顔を見た。相変わらずその表情は穏やかで、それでいてこの人間の内面性を見透かすことを拒否している。
「え……? シンプルな方法……?」
首を捻るが、さっぱり分からない。降参して尋ねようとしたとき、少し離れた椅子で休んでいた明日奈が、がたん、と音を立てて立ち上がった。
「まさか……まさか、あなた達、そんな恐ろしいことを……」
相変わらず頬は蒼ざめているが、目には力強い光が戻ってきている。日本人離れした美貌に強い憤りを浮かべながら、明日奈はキッと自衛官を睨みつけた。
「……赤ちゃんの……生まれたばかりの赤ちゃんの魂をコピーしたのね? 何も知らない、無垢なフラクトライトを手に入れるために」
「いよいよ、驚くべき洞察力だね。もっとも、キリト君と二人でSAOをクリアした……つまり、かの茅場晶彦をも出し抜いた勇者なんだから、こんな言い方は失礼というものかな」
賛嘆の色を隠そうともせず、菊岡が微笑む。
思いがけないところで茅場の名前を聞いたことで、凛子の胸の奥はずきんと疼いた。知り合ってからのたった数日のうちに、結城明日奈に対しては非常な好感を抱くに至っている凛子だが、厳密に言えば明日奈は凛子を大いに糾弾し、罵り、断罪してよい立場なのだ。様々な事情があったにせよ、凛子は茅場晶彦の恐ろしい計画に協力し、その結果明日奈は残酷なデスゲームのなかに二年間も囚われることになったのだから。
だが、明日奈も、そしてずっと以前に会った桐ヶ谷和人も、一言たりとも凛子を責めようとはしなかった。まるで、すべては起こるべく決められていたことだったのだ、と言わんがばかりに。
ならば明日奈は、この一連の”ラース事件”もまた必然だと考えているのだろうか? ――思わずそう考えながら、じっと見守る凛子の視線の先で、明日奈はさらに一歩菊岡に詰め寄った。
「あなたは……自衛隊なら、国なら何をしてもいいと思っているの? 自分の目的がすべてに優先するとでも?」
「とんでもない」
菊岡は本気で傷ついたような顔をし、盛んに首を横に振った。
「確かにキリト君を拉致したことはやりすぎだった。しかしあの時点で、君やキリト君のご家族に機密を洗いざらい説明することはできなかったんだ。一刻も早く、ここのSTLでキリト君の治療をしたいがための非常手段だったんだよ。僕も彼のことが好きだからね。――それ以外の点では、僕は法と道徳を守りすぎるほど守っていると思うよ……現在、世界で同種の研究を行っているいくつかの企業や国家に比べれば。今、君が問題にしている点に関してもそうだ。STLによる新生児フラクトライトのスキャンを行うにあたっては、当然両親の承諾を得、充分な謝礼を支払ったよ。そもそも六本木の開発分室は、そのために作られたんだ……病院の隣にね」
「でも、赤ちゃんの両親には、洗いざらい説明したわけじゃないんでしょう? STLがどんな機械なのか」
「ああ……それは確かに、脳波のサンプルを取る、としか言えなかったが……しかし、まるで出鱈目でもないよ。フラクトライトは、脳内の電磁波であることには違いないんだから」
「詭弁だわ。それは、それと知らせずに赤ちゃんのDNAを採取して、そこからクローン人間を作るようなものでしょう」
不意に、やり取りをだまって聞いていた比嘉が、短い笑い声を上げた。
「分が悪いッスよ、菊さん。確かに、新生児のフラクトライトを秘密裏にコピーしたことには一定量の倫理的問題はあると俺も思うよ。でも……結城さんだっけ? 君の理解にも少々誤謬があるかな。フラクトライトというのは、遺伝子ほどには個人による差が無いんスよ。特に、生まれたばっかりの時はね」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、言葉を探すように目を泳がせる。
「そうだな……こう説明すればいいかなぁ。例えば、メーカー製の同モデルのパソコンは、出荷されるときには、性能も外見もまったく同一の個体ッスよね。でも、ユーザーの手に渡り、半年、一年と使用されるうちに、新しいハードウェアやソフトウェアをインストールされていって、やがてまったく別物と言っていいくらいに変わってしまう。人間のフラクトライトもそれと同じなんス。俺たちは、最終的に十二人の赤ん坊からフラクトライトをコピーしたんスけど、比較したところ、大脳の容積にかかわらず、なんと99.98%まではまったく同一の構造でした。0.02%の違いは、胎内と出産直後に蓄積した記憶だと考えてます。つまり、人間の思考能力や性格ってのは、全部生まれたあとの成長過程で決定されるってことッス。能力性格が遺伝するって説は完全に否定されたわけッスね。優生学の信奉者連中のケツの穴に、この事実を片っ端から突っ込んでやりたいッスよ」
「プロジェクト完了の暁には、好きなだけ突っ込みたまえ」
どこか疲れたような顔で菊岡が言った。
「ともかく、比嘉君が説明してくれたとおり、新生児フラクトライトには個人を特定するコードは含まれていないという結論となった。そこで、十二のサンプルから0.02%の差異を慎重に削除して、得られたそれを、僕らはこう呼ぶことにした……”思考原体”とね。全ての人間が共通して生まれ持つCPUコア、とでも考えてくれればいいかな。僕ら人間は、成長する過程でそのコアに、様々なサブプロセッサやメモリを増設していく。そしてやがてはコアそのものの構造も変化していってしまう……。その”完成品”を単にライトキューブにコピーしただけでは、我々の求める高適応性人工知能足りえないことは先ほどお見せした通りだ。ならば、思考原体を最初からライトキューブ中……つまり仮想世界内で成長させればどうだろう、と考えた訳なのさ」
「でも……」
まだ納得できないような顔で明日奈は眉をしかめたが、その肩に手を掛けてそっと椅子に座らせ、凛子は口を挟んだ。
「成長させる、って言ってもペットや植物とは訳が違うでしょう。人間の赤ちゃんと同じなんでしょ、その思考原体って。なら、必要とされる仮想世界の規模は膨大なものになるはずよ。現実社会と、まったく同じレベルのシミュレーション……そんなものが作れるの?」
「不可能だね」
菊岡が、溜息まじりに頷いた。
「いくらSTLによる仮想世界の生成が、既存のVRワールドと違って3Dオブジェクトデータを必要としないと言っても、さすがにこの複雑怪奇な現代社会をそっくり作り上げることは難しい。――明日奈君が生まれた頃の映画に、こんな奴があったんだけど覚えているかな? 一人の男の、生まれた瞬間からの人生の全てをテレビショーとして放送するべく、巨大なドームの中に一つの町のセットをまるごと建て、何百人ものエキストラを配置して、そうと知らないのは主役の男だけ……という状況を作り上げる。だが、男が成長し、世界というものを学ぶに伴って、様々な齟齬が露見し、やがて男も真実に気付く……」
「観たわ。けっこう好きな映画だった」
凛子が言うと、菊岡はひとつ頷き、続けた。
「つまり……この現実世界の精巧なシミュレーションを作ろうとすれば、それが必然的に含む情報自体……地球は巨大な球体であるとか、その上には沢山の国が存在するとか、そういう知識が、シミュレーション内の人間に世界に対する違和感を生じさせてしまうというアンビバレンツがあるんだ。いくらSTLでも、地球を丸ごと複製するなんてことはとても無理だからね」
「じゃあ、シミュレーションの文明レベルを大きく過去に遡らせたら? 人間が、科学だの哲学だのと考え出す前の、一つの地方だけで生まれて死んでいった頃の時代に……。それでも、思考原体を成長させるっていうあなた達の目的は達せられるんじゃないの?」
「うん。迂遠な話ではあるが、時間はたっぷりあるんでね……STLの中では。とりあえず、神代博士の仰るとおり、非常に限定的な環境の中で第一世代の人工知能を育ててみようと僕らは考えた。具体的には、十六世紀ごろの日本の小村だね。だが……」
そこで言葉を切り、手を広げながら肩をすくめる菊岡に代わって、比嘉が口を開いた。
「これが、思ったほど簡単な話じゃないんスよ。何せ俺らは、当時の習俗やら社会構造についてまるで門外漢なんスから。家一つ作るにも膨大な資料が必要だってことが分かって、頭を抱えて……そこでようやく気付いたんス。別に、本物の中世を再現する必要なんか無い、ってことにね。俺らが求めていた、限定的な地勢で、習俗なんかも好き勝手に設定できて、厄介な科学的問題なんかは丸ごと”魔法”の一言で片付けられる世界は、実はもう山ほど存在したんスよ。そこの結城さんや桐ヶ谷君が慣れ親しんでいるネットワークの中にね」
「VRMMOワールド……」
掠れた声で呟いた明日奈に向かって、比嘉はぱちんと指を鳴らした。
「俺も実はそこそこ遊んでたもんで、すぐにあれこそ打ってつけだと分かったッスよ。しかも、誰が作ったのかは知らないけど、最近じゃあフリーのゲームビルド支援パッケージまであるって言うじゃないスか」
「……!」
比嘉の言っているのが、『ザ・シード』、つまり茅場晶彦が作り、桐ヶ谷和人が公開したシュリンク版カーディナル・システムのことであるとすぐに気付き、凛子は鋭く息を吸い込んだ。だが、どうやら比嘉は――そして菊岡も、あのプログラムの出自についてまでは知らないらしい。
瞬間的に、その件はまだ伏せておこうと考え、凛子は何気なさを装って明日奈の肩に指を触れさせた。言いたいことは伝わったようで、明日奈も無言のままかすかに頭を動かす。
そんな二人の様子は気にもとめず、比嘉は闊達な口調で続けた。
「STLのメインフレーム内に仮想世界を作るだけなら別に3Dデータは要らないんスけど、それだと外部からモニタ出来るのが単なる文字データだけなんでつまんないんスよね。そこで、早速あのザ・シードって奴をダウンロードしてきて、付属エディタでちょこちょこっと小さな村と周囲の地形を作って、それをSTL用のニーモニック・ビジュアルに変換したんス」
「紆余曲折を経て、ようやく最初の箱庭が完成したというわけだ」
まるで遠い過去を懐かしむように視線を宙に浮かせながら、菊岡が言葉を繋いだ。
「一番最初に作った村では、二つの農家で合わせて十六の思考原体を十八歳程度まで成長させた」
「ちょ、ちょっと待って。成長って……育てた親は誰なのよ? まさか既存のAIだとでも言うの?」
「それも検討したんだが、いかにザ・シード付属のNPC用AIが高度と言っても、さすがに子育てまでは到底不可能だったんでね。第一世代の親を務めたのは人間さ。四人の男女スタッフが、STL内部で十八年間に渡って農家の主とその妻を演じたんだ。いかに内部での記憶は最終的にブロックされると言っても、実験中は途方も無い忍耐を強いてしまった。ボーナスを幾ら払っても足りないくらいだよ」
「いやぁ、案外楽しんでやってたみたいっスよ」
呑気な会話を交わす菊岡と比嘉の顔をしばし呆然と眺めたあと、凛子はどうにか言葉を唇から押し出した。
「十八年ですって……? ソウル・トランスレーターには主観的時間を加速させる機能があるとは聞いたけど……それは、現実世界ではどれくらいの期間だったの?」
「ざっと一週間ッスかね」
即座に帰ってきた言葉に、再び驚愕させられる。十八年と言えばおよそ九百四十週だ。つまり、STLの時間加速倍率は千倍という凄まじい数字に迫っていることになる。
「に……人間の脳を普段の千倍も速く動かして、問題は出ないわけ?」
「STLが駆動するのは、生体としての脳じゃなくて、魂を構成する素粒子そのものなんスよ。電気的スパイクがニューロンに神経伝達物質の発生を促して……とかそういう生理的プロセスは全部すっとばせるんス。つまり、理論的には、思考クロックをどれだけ加速しても脳組織が損傷することは有り得ないと考えていいんです」
「上限が無いって言うわけ……?」
ソウル・トランスレーターの時間加速機能”STRA”について、事前に受け取っていた資料で簡単な予備知識は仕入れていたものの、具体的な数字までは知らなかった凛子は言葉もなく立ち尽くした。今まで、STL最大の機能は人の魂をコピーできることだと思っていたが、インパクトは時間加速も負けず劣らず大きい。なぜならそれは、仮想空間で行うことが可能なあらゆる作業の効率を事実上無限に引き上げられるということに他ならないからだ。
「ただ……まだ未確認の問題が無いでもないので、今のところは最大でも千五百倍ほどに制限してるんスけどね」
衝撃に痺れた凛子の頭を、やや陰鬱な表情の比嘉の言葉が冷やした。
「問題?」
「生体組織としての脳とは別に、魂自体にも寿命があるんじゃないかっていう意見が出てまして……」
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すぐには理解できず、凛子が首をかしげると、比嘉は、この先を話していいかと問うように菊岡の顔を見上げた。それに向かって、まるで舐めているキャラメルが急に苦くなったかのごとく渋面を向けた自衛官は、しかしすぐに肩をすくめながら口を開いた。
「まあ、まだまったく仮説の域を出ない話なんだ。簡単に言えば、フラクトライトと呼ぶ量子コンピュータには、情報の蓄積容量と計算能力に限界があって、そこを超えると構造の劣化が始まっていく……ということだね。検証のしようが無いので確たることは言えないんだが、安全を優先してSTRA倍率に上限を設けた訳だ」
「……つまり、肉体的には一週間足らずの時間でも、内部で何十年も過ごせば、魂の老化が始まる……? ってことは……ちょ、ちょっと待ってよ。さっきあなた、思考原体の育成をするために、スタッフが十八年をSTLの中で過ごした、って言ったわよね? 彼らのフラクトライトはどうなるのよ? 今後の人生で、本来より十八年早く、知的能力の衰えが訪れるってことじゃないの?」
「いや、いや、そうはならない……はずだよ」
はずぅ? と胸中で繰り返しながら、凛子は菊岡を睨んだ。
「フラクトライトの総容量と、それを消費していくペースから概算して、我々は”魂の寿命”をおよそ百五十年と見ている。つまり、仮に我々が完璧な健康を維持し、幸運にも脳が様々な病変から逃れつづけられた場合、最大で百五十歳くらいまでは思考能力を保ち続けうる、というわけだ。だが無論、僕らはそんなに長くは生きられないからね。安全マージンを充分取っても、三十年程度ならSTL内部で消費しても問題はないと考えている」
「これからの一世紀に、何か画期的な長命技術が開発されたりしなければね」
皮肉っぽく凛子がそう言うと、菊岡は事も無げに答えた。
「もしそんなものが開発されても、僕ら庶民がその恩恵に預かれるはずがないさ。まあ、その意味ではこのSTLも同じことだが……。――ともかく、魂の寿命の件は納得してもらって、先に進ませて戴くよ。四人のスタッフの献身的努力によって”成人”した十六のフラクトライトの出来栄えは、相当に満足すべきものだった。彼らは言語力――むろん日本語だ――と基本的な計算やその他思考能力を獲得し、僕らの作り出した仮想世界において立派に生活していけるだけの水準に達した。実にいい子たちだったよ……両親の言うことにをよく聞き、朝から水を汲み、薪を割り、畑を耕し……ある子はおとなしく、ある子はやんちゃと言った個性を示しつつも、基本的には皆とても従順で善良だった」
そう言いながら微笑む菊岡の口もとに、かすかな苦々しさが漂っているように見えたのは眼の錯覚だろうか。
「成長した彼ら……二軒の家に男女四人ずつの兄弟姉妹たちは、互いに恋さえするようになった。そこで、最早彼らは自らの子供を育てることも可能だと判断した僕らは、実験の第一段階を終了することにした。十六人の若者たちを八組の夫婦とし、それぞれの家と農地を持たせて独立させたんだ。親をつとめた四人のスタッフは、その後に流行り病によって相次いで”死去”し、STLから出た。彼らの十八年間の記憶はその時点でブロックされ、一週間前にSTLに入ったときとまったく同じ状態で現実に帰還したわけだが、外部モニターで、自分たちの葬儀で泣く子供たちを見て彼らも涙したものだよ」
「あれはいいシーンだったッスねえ……」
しんみりした様子で頷きあう菊岡と比嘉に向かって、凛子は咳払いをしてその先を促す。
「……で、人間のスタッフが出た以上、STRAの倍率を気にする必要も無くなったので、僕らは内部世界の時間を一気に現実の五千倍にまで引き上げた。八組の夫婦にはそれぞれ十人前後の赤ん坊、つまり思考原体を与えて育てさせ、彼らはあっという間に成人してまた新しい家庭を持った。村の住民を演じさせていたNPCも徐々に取り除き、ついには人工フラクトライトだけで村を作ることができるようになった。世代交代が進み、彼らの子孫は増えつづけ……現実世界での三週間、内部世界での三百年に及ぶシミュレーションが経過した頃には、なんと人口八万人という一大社会が形成されるに至ったんだよ」
「八万!?」
凛子は思わず絶句した。何度か唇を動かしてから、ようやく探し出した言葉を絞り出す。
「……それじゃあ……それはもう、人工知能っていうよりも、ひとつの文明のシミュレートじゃないの」
「そうだね。だが、ある意味ではそうなるのは当然なんだ。人間というのは社会生物だ……他者との関わりの中でのみ向上していくことができる。フラクトライトたちは、三百年の時間で、小さな村ひとつからまたたく間に広がっていき、僕らの設定した広大なフィールド全体を支配するに至った。血なまぐさい争いひとつ無しで立派な中央集権構造を築き上げ、宗教までも見出した……もっともこれは、実験の当初から世界のシステムを子供らに説明するのに、科学ではなく神という概念を使わざるを得なかったせいもあるがね。比嘉君、モニタに全体マップを出してくれたまえ」
菊岡の言葉に頷き、比嘉は素早くコンソールを操作した。先刻のグロテスクな実験からブラックアウトしたままだった巨大スクリーンが明滅し、そこに航空写真じみた詳細な地形図が浮かび上がった。
当然ながら、日本、いや世界のどの国とも似ていない。海は無いようで、ほぼ円形の平野の周囲を、ぐるりと高い山脈が取り囲んでいる。全体に森と草原が多く、湖や河川もそこかしこにあって、肥沃な土地のようだ。マップ下部の縮尺スケールを見ると、山脈に囲まれた平野の直径は千五百キロメートルほどもあるらしい。
「この広さで人口八万人? ずいぶんと余裕のある人口密度ね」
「むしろ日本が異常なんスよ」
凛子に向かってにやりと笑い、比嘉はマウスを操って、カーソルをマップ中央のあたりでぐるぐると動かした。
「このあたりに首都があります。人口二万人、我々の感覚だとたいしたことないように思えるッスけど、どうしてなかなか立派な大都市ですよ。フラクトライトたちが”神聖教会”と呼ぶ行政機能もここに存在します。”司祭”という階級によって統治が行われているようですが、その支配力は見事なもんです。この広大な世界を、争いごとひとつ起こさず治めている。――この時点で、俺はこの基礎実験は成功したと考えました。仮想世界内でなら、フラクトライトは人間と同レベルの知性へと成長しうる。これなら、我々の目的にそぐう能力を持った”高適応性人工知能”を育成するという次の段階へ進むことができると喜んだわけです。しかし……」
「……僕らは、そこでようやくひとつの重大な問題に気がついた」
モニタを眺めながら、菊岡が言葉を引き取った。
「……話を聞く限り、何も問題なんてなさそうだけど?」
「問題の無いところが問題……と言えばいいかな。この世界は、あまりにも平和すぎる。整然と、美しく運営されすぎるんだ。最初の十六人の子供たちが、驚くほど親に従順だった時点でおかしいと思うべきだった……。人間なら、互いに争っておかしくない。むしろそれこそが人間のひとつの本質だと言ってもいい。だが、この世界に争いは無い。戦争など一度も起きたことはないし、それどころか殺人事件すら起こらない。やけに人口の増えるペースが速いと思ったら、そういうことなんだ。病死や事故死など殆ど起きないように設定していたので、人が寿命でしか死なない……。彼らにも我々と同じような欲望はあるはずなのに、なぜそんなことが起きるのか、僕らは調べてみた。すると、この世界には、ひとつの厳格な法が存在することに気付いた。神聖教会の司祭たちが事細かに作り上げた、”禁忌目録”と呼ばれる長大な法律だ。そこには、殺人を禁じる一項もあったよ。同じ法律は、もちろん僕らの暮らす現実世界にもある。だが、僕らがいかにその法を守らないかは、毎日のニュースを見ていればわかるだろう。ところが、フラクトライトたちは法を守る……守りすぎるほどに守る。こう言い換えてもいい……彼らには、法を、規則を破ることはできないんだ。生来的な性質として」
「……? 結構なことじゃないの?」
菊岡の厳しい表情を眺めながら凛子は首を捻った。
「それだけ聞くと、むしろ私達より優れているように思えるけど」
「まあ……一面ではそう言えるかもしれないがね。比嘉君、モニタを戻してくれないか」
「へい」
比嘉がコンソールのキーを叩くと、大モニタは再び、凛子たちがこの部屋に入ってきたときと同じ異邦の都市の映像を映し出した。大樹の根が絡む白亜の建築物のあいだを、簡素だが清潔な服装をした人々がゆっくりと行き交っている。
「あ……、じゃあ、これが?」
思わず画面に見入りながら凛子が訊くと、比嘉は少々得意そうに頷いた。
「ええ、これがアンダーワールドの首都、”央都セントリア”っす。もっとも、これは僕らにも見えるように通常のポリゴン映像に変換したものですから解像度はけた違いに低いし、表示もスロー再生ですけどね」
「アンダーワールド……」
“不思議の国のアリス”から採ったらしいというその名前を、凛子はすでに明日奈から聞いていた。恐らく比嘉たちは、本来の”地下世界”ではなく”現実の下位世界”という意味合いで用いているのだろうが、画面上の都市の幻想的な美しさはむしろ天上の国かとも思える。
そんな凛子の感想を読み取ったように、菊岡が言った。
「確かにこの都市は美しい。我々が当初与えた、素朴なプラスター造りの農家から、よくもここまで建築技術を進化させたものだと思うよ。しかしね……僕に言わせれば、この街は美しく整いすぎている。道にはゴミ一つなく、泥棒など一人もおらず、無論殺人など一度たりとも起きたことはない。それもすべて、あの遠くに見える”神聖教会”が定めた厳格な法を、何人も破ろうとしないからだ」
「だから、それのどこが問題なのよ」
眉をしかめて再度問うたが、菊岡な何故か口を閉じたまま、珍しく言うべき言葉を探しているようだった。比嘉はというとこちらも不自然に視線を逸らし、発言する気はないようだ。
広い主操作室に落ちた静寂を破ったのは、今まで沈黙を続けていた明日奈だった。その場では最年少の女子高校生は、抑制された静かな口調で、囁くように言った。
「それでは、この人たちは困るんですよ。何故なら、この巨大な計画の最終的な目的は、単に適応性の高いボトムアップ型人工知能を作ろうということじゃなくて……戦争で敵の兵士を殺せるAIを作ることだから」
「な……」
三者三様の表情で絶句する凛子、菊岡、そして比嘉の顔を、明日奈は順番にじっと見てから、続けて唇を動かした。
「わたし、なんで菊岡さん……つまり自衛隊がそんなに高度な人工知能を作ろうとしてるのか、ここに来るまでのあいだずっと考えてました。今まで、わたしとキリト君は、菊岡さんがVRMMOに興味を持つのは、その技術が軍隊の訓練に転用できるからだと推測してたんです。だから、人工知能を作るのもその延長線上で、訓練で敵の兵隊の役目をさせたいからかなって最初は思いました。でも……よく考えてみれば、VRワールド内での訓練なら現実の危険は何もないんだし、人間同士チームに分かれて戦えばいいんです。わたしたちもよくそうやって模擬戦をしますから」
一瞬言葉を切り、周囲の機械群と正面の大モニタを見回す。
「――それに、訓練プログラムの開発のためにしては、この計画は大きすぎます。菊岡さん、あなたは、いつ頃からは知りませんけど、その次を考えてたんですね。仮想世界内で育てたAIに、本物の戦争をさせることを」
少女の、茶色の瞳にじっと見詰められた幹部自衛官は、一瞬の驚きの表情をすぐにいつもの謎めいたポーカーフェイスに隠してかすかに微笑んだ。
「最初からだよ」
ほんの少し錆びのある、柔らかい低音で菊岡は答えた。
「VR技術を軍事訓練に転用することそのものは、NERDLESテクノロジが開発される以前の、HMDとモーションセンサーの時代からすでに盛んに研究されていた。当時の米軍が開発した骨董品が、今もまだ市ヶ谷の設備部にあるよ。――五年前、ナーヴギアという機械が発表されたその時点で、我々と米軍は共同であれを使用した訓練プログラムの開発を始めることになった。だが、その後すぐに開始されたSAOのベータテストを見学して、僕は考えを変えたんだ。この世界、この技術にはもっと大きな可能性がある。戦争という概念を、根底から一変させてしまうほどの……、とね。あのSAO事件が起きたとき、僕は自ら志願して総務省に出向し、対策チームに加わって、事件を間近で見守りつづけた。それも全て、このプロジェクトを立ち上げるためだ。五年かかってようやくここまで来たよ」
「…………」
まったく予想していなかった方向に話が進み、凛子はしばし呆然と目を見開いた。混乱した思考をどうにか整理して、渇いた喉から言葉を絞り出す。
「……イラク戦争と、その後のイラン戦争のときは私はまだ学生だったけど、よく覚えてるわ。アメリカ軍が無人の小型飛行機とか、小型戦車とかを遠隔操作して敵を攻撃する映像が盛んにテレビに流れてた。つまりあれね? ああいうものにAIを搭載して、自律的に攻撃する兵器を作ろうと、あなたは考えてるのね……?」
「僕だけじゃないがね。この種の研究は、すでに各国、とくにアメリカでは何年も前から続けられている。明日奈くんにとっては辛い記憶だろうが……」
菊岡はわずかに言葉を切り明日奈を見たが、彼女が落ち着いているのを確かめ、続けた。
「……君を仮想世界内に監禁し、数千人のSAOプレイヤーを実験台に用いた須郷伸之が、アメリカの企業に、研究成果を手土産にして自分を売り込もうとしていたのは覚えているかな? 彼が接触していたグロージェン・テクノロジーはIT分野では一流企業だが、そんな非合法取引に応じようとするくらい、NERDLES技術の軍事利用は隠れた花形産業だということだよ。そんなアメリカの軍産複合体が、今もっとも注目しているのが、さっき神代博士の言った無人兵器、そのなかでも特に航空機――アンマンド・エアー・ビークル略してUAVと呼ばれるものだ」
気を利かせたのか、比嘉が無言でマウスを動かし、再度モニタを切り替えた。映し出されたのは、妙に平たく細長いくさび型の胴体に、大きな翼をつけた小型の飛行機だった。翼下には沢山のミサイルらしきものがぶら下がっている。
「アメリカが開発中の無人偵察攻撃機だよ。コクピットが要らないのでものすごく小さいし、ステルス性を追求した形状だからレーダーにはほとんど映らない。これの一世代前の機体は、操縦者が小さなモニタを見ながらジョイスティックで苦労して飛ばしていたんだが、こいつは違う」
言葉とともに画面が変わり、操縦者らしき兵士の姿を映し出した。だが、シートに座るその兵士の両手はだらりと肘掛けに乗ったままで、瞼も閉じられている。そして頭は、凛子も見慣れた流線型のヘルメット――ナーヴギアに覆われていた。よく見れば色や細部の形状は違うが、明らかに同型の機械だ。ちらりと視線を動かすと、明日奈の顔には明らかな嫌悪の表情が浮かんでいるのが見て取れた。
「この状態で、操縦者は仮想コクピットから、まるで実際に搭乗しているかのように機体を操作し、敵を偵察したりミサイルを撃ち込んだりすることができる。だが問題は、いかんせん電波を使った遠隔操作なので距離に限界があるし、ECM……電子妨害にものすごく弱いということだ」
「そこで人工知能……ということなのね? この飛行機を自律的に動かすために……」
菊岡は視線をモニタから凛子たちのほうに戻し、ゆっくりと頷いた。
「最終的には、人間のパイロットが操る戦闘機を空中戦で撃墜し得るレベルを目指す。恐らく、現状の人工フラクトライトでも、適切な成長プログラムを与えれば実現可能なことだと思うよ。ただ、そこには一つ大きな問題がある。それは、肉体無き兵士である彼らに、いかにして”戦争”という概念を理解させるか、ということだ……。殺人は原則として悪、だが戦時下においては敵兵を殺すのもやむなし、という矛盾する思考を、恐らく今の人工フラクトライト達は受け入れることができないだろう。彼らにとっての法とは、たったひとつの例外でもあってはならないものなんだ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、眉間に深く谷を刻む。
「――僕らは、アンダーワールドの住民たちの遵法精神を試すべく、ある種の過負荷試験を行った。具体的には、孤立した村を一つ選び、畑の作物と家畜の七割を死滅させたんだ。村の全住民が冬を越すのは到底不可能な状況だった。総体としての村が生き延びるためには、一部の住民を切り捨て、食料の分配を偏らせるしかない。禁忌目録の殺人禁止条項に背いて、ね。だが、結果は……わずかな収穫を、老人や幼児に至るまで村人全員で分配することを彼らは選んだ。春が来る前に、全員が餓死したよ。彼らは、何があろうと法や規則に背くことのできない存在なんだ。その結果、どんな悲惨な事態が出来しようと、ね。つまり……現状の彼らをパイロットとして兵器に搭載しようとすれば、敵、すなわち味方マーカーの無い人間は全て殺すべし、という原則を与えるしかない。それがどんなに危険なことかは、さすがに僕にだって分かるからね……」
派手な原色のアロハの袖から出る筋肉質の腕を胸の上で組み、自衛官は力なく首を振った。
凛子は、思わず想像した。空飛ぶエイのような流線型のフォルムを持つ無人戦闘機の群れが、兵士と民間人の区別無くミサイルを次々に撃ちこみ殺戮していく光景を。粟立った二の腕を両の掌で何度も擦る。
「……冗談じゃないわ、そんなこと。一体、なんで、そんな危険をおかしてまで兵器にAIを載せなきゃいけないの? 多少の制限はあっても、遠隔操作でいいじゃないの。ううん、そもそも……無人の兵器っていう存在自体が、私にはなんだか受け入れがたいものに思えるわ」
「まあ、その気持ちはわからなくもないよ。僕も、初めて米軍の大口径狙撃ライフル搭載型無人車両を見たときは実にグロテスクだという感想を禁じ得なかった。だがね……兵器の無人化、これはもう、少なくとも先進国では抗しがたい時代の要請なんだ」
世界史の教師めいた仕草で菊岡は指を立て、続けた。
「それでは、世界一の軍事大国アメリカを例に取ってみよう。あの国が、第二次世界大戦で失った兵士の数は実に四十万人だ。それだけの戦死者を出しながら、時のルーズベルト大統領は国民から熱狂的な支持を得て、脳卒中で死ぬまで四期十三年ものあいだ最高権力者の座に留まった。僕は時代精神という言葉は嫌いだが、七十年前は、兵士がどれだけ死のうと国が勝利すればよいというのがまさに時代の精神だったんだ。続くベトナム戦争では、学生を中心に反戦運動が広がり、ジョンソン大統領は次期選挙不出馬に追い込まれるもののそこに至るまでに六万人の戦死者が出た。反共という錦の御旗のもとに、兵士は次々と戦場に送られ、死んでいった。――だが、冷戦という名の長い暫定的平和の中で、国民感情は少しずつ変化していき……そしてソ連の崩壊とともに一つの時代が終わった。共産主義という敵を失ったアメリカは、国に深く根を張った軍産複合体を維持し続けるために、戦争のための戦争に乗り出していくことになる。だが、その戦場にはもう、兵士の死を国民に納得させる旗印は無かったんだ。今世紀初頭のイラク戦争における米軍の死者は二千人。その数字によって当時のブッシュ政権は大きく揺らぎ、任期の終わりには支持率は見る影もなく低迷していた。そして2010年のイラン戦争では、五百人の戦死者のためにチェイニー大統領が二期目落選の憂き目を見たのは君達も覚えているだろう。ちなみにあの戦争では、我が自衛隊にも五人の負傷者が出て、政府が大揺れに揺れた。――つまりだ……」
一息入れてから、菊岡は長い講釈を締めくくった。
「もう、人間が戦う戦争ができる時代じゃない、ということなんだ。しかしあの国は戦争を、というか防衛予算という巨大なパイの分配を止めることができない。結果として、これからの戦争は、無人兵器対人間、あるいは無人兵器対無人兵器というスタイルにシフトしていくことになる」
「……アメリカの事情は分かったわ。納得できるかどうかはともかく」
クリーンな戦争をするための無人兵器、という発想に一層のおぞましさを感じながら、凛子は短く頷いた。次いで、菊岡をきつく睨みながら、改めて追及する。
「でも、なんで日本の自衛官のあなたが、そんな馬鹿げた開発競争の尻馬に乗らなきゃいけないのかしら? それとも、この研究は米軍主導なの?」
「とんでもない!」
菊岡は珍しく大きな声で否定した。しかしすぐにいつもの微笑を取り戻し、大袈裟に両手を広げてみせる。
「むしろ、米軍からこの研究を隠すためにこんな海のど真ん中を漂ってる、というほうが正しいよ。本土の基地はどこも向こうさんに素通しだからね。――なんで僕が自律型無人兵器開発に血道を上げてるのか……その理由を説明するのは簡単じゃないな。茅場先生に、なぜSAOを作ったのか、と訊くようなものだ、と言っても納得はしてもらえないだろうね?」
「当たり前だわ」
素っ気無く凛子が言うと、菊岡は大きな苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「失敬、ちょっと不謹慎な発言だったね。そうだな……とりあえず、分かりやすい理由は二つあるよ。まずひとつは、現在の日本には、自前の防衛技術基盤というものがあまりにも不足し過ぎている、ということかな」
「防衛……技術基盤?」
「兵器をゼロから開発、生産する能力と言えばいいかな。しかしこれはある意味では当然のことで、日本では兵器の輸出が一切できないからね。メーカーも、巨額の開発予算をかけたところで取引先が自衛隊だけではとても利益は見込めない。結果として、最新の装備はアメリカから購入するか、せいぜい共同開発ということになる。だが、これが何と言えばいいか……屈辱的な代物でね。例えば現在配備されている支援戦闘機はアメリカと共同で開発したものだが、その実、先方は自分の手の内は隠したまま、日本メーカーの先端技術だけを攫っていったよ。購入する兵器に至っては何をかいわんや、近頃納入された最新型の戦闘機からは、その頭脳とも言うべき制御ソフトウェアがごっそり抜き取られている有様だった。米軍に言わせれば、我々は彼らが与えるテクノロジーのおこぼれを有り難く頂戴していればいい、ということらしいね。……おっと、この話をするとつい愚痴っぽくなってよくないな」
もう一度苦笑して、菊岡はコンソールデスクの上で足を組むと、つま先に引っ掛けた下駄を揺らした。
「この状況に、僕ら一部の自衛官と、中小の防衛関連メーカーの一部若手技術者たちは以前から強い危機感を抱いてきた。いつまでも防衛技術の中核をアメリカに握られたままで本当にいいのか、とね。その危機感こそがラース設立の原動力となったわけだ。何か一つでいい、日本独自のテクノロジーを生み出したい。我々はそう思っているだけなんだよ」
殊勝とも思える菊岡の言葉を、どこまで額面どおり受け取っていいものか、と考えながら凛子はじっと眼鏡の奥の切れ長の目を見据えた。が、相変わらず自衛官の瞳は鏡のようにその内面を晒そうとしない。
「……もう一つ理由があるって言ったわね?」
「ああ……まあ、今言ったことと密接に関係する理由なんだけどね。北朝鮮の中国国境付近に新しいミサイル基地が建設中だってニュースは君も見たろう? 恐らくアメリカは、そう遠くない未来に北朝鮮侵攻に踏み切るだろう。第二次朝鮮戦争……とでも呼ばれるのかな。その時は、改正憲法のもと、自衛隊も初の集団的自衛権行使……つまり実際の戦闘を行うことになる可能性が高い。だが……これを市ヶ谷に聞かれると首が飛ぶが、僕はまだ、自衛隊は戦うべきではないと考えている」
そう言ってから一瞬だけ口をつぐみ、すぐに菊岡は自分の言葉を訂正した。
「いや、まだ、ではなく――その状況下で、かな。アメリカの振る旗に従って、自衛隊員が他国の土を踏み、他国の兵士と戦う……国民はそれをテレビで、自衛隊の初の軍事行動として目の当たりにする。引き起こされる反応が望ましいものだとは、とても思えないよ。我々の最初の戦闘は、名づけられたとおり国土防衛のためのものであるべきだ。そうであってこそ、我々は軍隊無き国に置かれた戦力であるという矛盾を正す機会を得ることができる……」
凛子と明日奈を全面的に信用しているのか、それとも逆にまるで信用していないからなのか、菊岡は声に出すには危険すぎる意見を至極何気ない調子で口にした。
「だが、仮にアメリカが北朝鮮に侵攻することになれば、今度こそ日本は全面的に同調せざるを得ないだろう。この行動は日本の安全を保障するためのものだ、とアメリカは主張するだろうからね。自衛隊も、これまでの戦後処理のための駐留だけではなく侵攻の当初から戦力として投入されることになる。だが――もしその時、我々が、米軍にも無いテクノロジーを持っていれば……完全自律型無人兵器という切り札を完成させていれば、人間の兵士の替わりにそれを危険地域に送ることで、自衛隊初の戦死者が、あえてそう呼ぶが、侵略作戦において出るという事態を回避できるかもしれない」
「……ガチガチのリアリストだと思ってたけど、案外夢想家だったのね、菊岡さん。私には、藁山の中から一発で針を拾い上げようとするみたいな話に聞こえるわ。超えなければならないハードルが多すぎる」
思わず左右に首を振りながら凛子は呟いた。菊岡は肩をすくめ、弁解するように答えた。
「だから、この二つ目の理由は、あくまで可能性を一つでも増やしておきたいという、それだけの話だよ。米軍とは切り離された独自の防衛技術を開発するという我々の悲願の、ひとつの動機――だと受け取って欲しいな」
「…………」
凛子は視線を動かし、菊岡の隣に座る比嘉健を見た。
「……比嘉君がこの計画に参加した動機も同じなの? 君がそんなに国防意識が高かったなんて知らなかったわ」
「いやあ……」
比嘉は、凛子の言葉に、照れたように頭を掻いた。
「俺の動機は何ていうか、個人的なもんスよ。俺、学生の頃から韓国の大学にダチがいたんスけど、そいつ兵役中にイランに派兵されて、爆弾テロで死んじゃったんス。そんでまあ……この世界から戦争が無くなることはないとしても、せめて人間が死なずにすむようになるんなら、って……ガキっぽい理由っスけどね」
「……でも、そこの自衛官さんは、無人兵器を自衛隊独自の技術にしようと考えてるのよ?」
「や、菊さんの前でこう言うのも何ですけど、技術なんてそうそう長い間独占できるもんじゃないっスよ。それはこのオッサンも分かってるはずです。独占が目的じゃなくて、一歩先を行ければいいと考えてる……そうっスよね」
比嘉の直截な物言いに、自衛官が何度目かの苦笑いを浮かべた、その時だった。三人の話を黙って聞いていた明日奈が、美しい、しかし冷たく透き通った声で言った。
「あなた達のその立派な理念は、キリト君には一切話してない、そうですよね」
「……なぜそう思うんだい?」
ひょいっと首を傾げる菊岡を、明日奈は小揺るぎもしない視線で正面から見据える。
「もしキリト君に話してれば、彼があなた達に協力するはずがないわ。あなた達の話には、大切なことが一つ抜けてる」
「……それは?」
「人工知能たちの権利」
菊岡は眉をぴくりと持ち上げ、短く息を吐いた。
「……いや、確かにキリト君にはさっきの話はしていないが、それは彼と会う機会がこれまで無かったからだよ。彼こそ、筋金入りのリアリストだろう? そうでなければSAOをクリアなどできなかったはずだ」
「分かってないわね。もしキリト君が、アンダーワールドの真の姿に気付いてれば、きっとその運営者に対してものすごく怒ってるわよ。彼にとっては、自分のいる場所こそが現実なんです。仮の世界、仮の命なんてことは考えない……だからSAOをクリアできたんだわ」
「分からないな。人工フラクトライトに生身の肉体はない。それが仮の命でなくてなんだと言うんだい?」
明日奈は、どこか悲しそうな――いや、あるいは目の前の大人たちを憐れんでいるような光をその目に浮かべ、ゆっくりと言葉を続けた。
「……話しても、あなたには分からないかもしれないけど……アインクラッドで初めてキリト君と会ったとき、わたしも今のあなたみたいなことを彼に言ったわ。どうしても倒せないボスモンスターがいて、それを攻略するのに、NPC、つまりAIの村を囮にする作戦を主張した。モンスターが村人を襲ってるところをまとめて攻撃する作戦だった。でもキリト君は絶対にだめだと言ったわ。NPCだって生きてる、他になにか方法があるはずだ、って。わたしのギルドの人はみんな笑ったけど……結局、彼が正しかった。たとえ人工フラクトライトが、大量生産されたメディアの中の模造品だとしても、戦争の道具として殺し合いをさせるなんてことに、キリト君が協力するはずはないわ、絶対に」
「――言いたいことは、僕にも分からなくもないよ。確かに人工フラクトライト達は、僕ら人間と同等の思考能力がある。その意味では彼らは確かに生きている。だがこれは優先順位の問題なんだ。僕にとっては、十万の人工フラクトライトの命は、一人の自衛官の命より軽い」
答えの出ない議論だ、と凛子は思った。人工知能に人権はあるか否か――それは、真のボトムアップ型AIが発表されたその時から、世界中で年単位の議論を尽くしたとしても容易に結論の出せない命題だろう。
果たして自分はどう感じているのか、それすらも凛子にはよく分からなかった。科学者としてのリアリズムは、コピーされた魂は生命ではない、と告げている。だが同時に、あの人なら何と言うだろうか、と考えている自分も居る。いつも”ここではない現実”を望み、ついにはそれを創造し、二度と還ることのなかったあの人なら――?
自分を過去に引き戻そうとする思考の流れを断ち切るように、凛子はその場の沈黙を破った。
「そもそも、何故桐ヶ谷君が必要だったの? あなた達にとって最大級の機密が漏れる危険を冒してまで、どうして彼を……?」
「――そうか、それを説明するためにこんな話をしていたんだったね。あまりにも回り道をしすぎて忘れてしまった」
菊岡は、明日奈の磁力的な視線から逃れるように笑うと、咳払いをひとつして続けた。
「なぜ、アンダーワールドの住民たちは禁忌目録に背けないのか……それはライトキューブに保存されたフラクトライトの持つ構造的な問題なのか、あるいは育成過程に原因があったのか、僕らは議論を重ねた。前者であれば、保存メディアの設計からやり直す必要があるが、後者ならば修正することができるかもしれないからね。そこで、僕らはひとつの実験を試みた。スタッフの一人、つまり本物の人間の記憶を全てブロックし、擬似的な思考原体として、アンダーワールドの中で成長させる。その行動パターンが人工フラクトライトと同一なものになるか否か、それを確かめるために」
「そ……そんなことをして、被験者の脳は大丈夫なの? 人生をもう一回やり直すようなものでしょう……記憶領域が足りなくなっちゃわないの?」
「問題ない。フラクトライトには、およそ百五十年ぶんの記憶に耐える容量があるという話はさっきしたろう? なぜそんなに過剰なマージンがあるのか、その理由は分からないがね……聖書によれば、ノアの時代の人間は数百年生きたという……なんて話を思い出すね。とりあえず、成長と言っても最大で十歳くらいまでだよ。禁忌目録を破れるかどうか知るにはそれくらいで充分だからね。無論内部での記憶は再びブロックされるため、現実に戻った時には、STLに入る前とまったく同じ状態が保たれる」
「……で、結果は……?」
「スタッフから八人の被験者を募り、アンダーワールドで様々な環境のもと成長実験を行った。結果は……驚くべきことに、十歳になり実験が終了するまで、禁忌目録を破ったものは一人も居なかった。むしろ予想とは逆……人工フラクトライトの子供たちよりも非活動的で、外に出ることを嫌い、周囲と馴染めない傾向を示した。我々は、それを違和感のせいだと推測した」
「違和感?」
「生まれてからの記憶をブロックしても、それが消滅するわけではない。そんなことをしたら現実に戻ってこられなくなってしまうからね。つまり、知識ではない、体の動かし方に代表される本能的な記憶が、被験者がアンダーワールドと馴染むことを阻害するんだ。いかにリアルとは言っても所詮はザ・シードで作成した仮想世界であることに違いは無い。中に入ってみればわかるが、現実世界での動作とは微妙に感覚が違うんだよ。僕が初めてナーヴギアを使い、SAOのベータテストを体験してみた時に感じたものと同種の違和感だ」
「重力感覚のせいよ」
明日奈が短く言った。
「重力……?」
「視覚や聴覚の信号と違って、重力や平衡を感じる部分の研究は遅れてるの。信号の大部分が、視覚からわたし達の脳が補完する重力感覚に頼ってるから、慣れてない人はうまく動けない」
「そう、その慣れだよ」
菊岡は指をパチンと鳴らし、頷いた。
「散々実験を繰り返してから、仮想世界内での動作に慣れている被験者が必要だ、と僕らもようやく気付いた。それも、一週間、一ヶ月ではなく年単位の経験がある、ね。これでもう分かったろう。僕が、日本中でも最も仮想世界に順応している人間に協力を仰いだ理由が」
「――ちょっと待って」
固い声で、再び明日奈が菊岡の言葉を遮った。
「もしかして、それが、キリト君の言ってた”三日間の連続ダイブ試験”なの? ……でも、キリト君はわたし達に、STRA機能は最大三倍だから、内部時間でも十日だけだ、って言ってたわ。彼に嘘をついたの? 本当は、十年……?」
鋭い視線を浴びせられた菊岡と比嘉は、バツの悪そうな表情を作って頭を下げた。
「すまない、その件に関しては六本木支部の独断だ。僕らは、STRA倍率は完全に伏せるよう指示していたんだが……」
「なお悪いわよ! キリト君の……”魂寿命”を十年分もそんな目的に使って、これで彼の治療に失敗したら、わたしはあなた達を絶対に許さないわ」
「言い訳にはならないが、僕も比嘉君も二十年以上実験に提供しているんだよ。――だが、キリト君に貰った十年は、スタッフ全員が消費したフラクトライト寿命を合算しても遠く及ばないほどの成果をもたらしてくれた」
「つまり、彼は、アンダーワールド内での成長過程で、禁忌目録に違反する行動を取ったのね?」
思わず凛子がそう口を挟むと、菊岡はにこりと笑みを浮かべ、大きくかぶりを振った。
「厳密にはそうではない。だが、結果としてはこちらが望む以上の形だったと言える。キリト君は、幼児期から他の被験者には見られなかった旺盛な好奇心と活動性を示し、何度も禁忌目録違反の寸前まで行ってはお仕置きを受けていたよ。――無論、彼のフラクトライトが禁忌を犯したところで、それは人工フラクトライトの構造的欠陥を示すだけなので喜んではいられないんだが、それでも我々は注意深く彼の行動を観察し続けた。内部時間で七年ほど経過した頃だったかな……。この比嘉君が、ある興味深い事実に気付いた」
菊岡の言葉を引き取り、比嘉が続けた。
「ええ。俺は元々、桐ヶ谷君を実験に参加させることには、道義的にも保安面からも反対だったんスけどね、それに気付いたときは菊さんの慧眼に感服せざるを得なかったっスよ。俺らは、禁忌目録のそれぞれの条項の重要性を数値化して、住民ひとりひとりがどれくらい禁忌違反に近づいたかを指数に表してチェックしてたんスけど、桐ヶ谷君といつも一緒に行動してた人工フラクトライトの少年と少女の違反指数が、突出して増大しはじめたんです」
「え……? つまり……」
「つまり、桐ヶ谷君は、現実世界の記憶と人格を封印された状態でありながら、周囲の人工フラクトライトの行動に強い影響を及ぼしていたんス。もっと噛み砕いて言えば、彼の腕白っぷりが他の子供に伝染してた、って感じスかね」
比嘉の分かりやすい比喩を聞いた明日奈の口元に、ごくごくかすかな笑みが浮かんだのに凛子は気付いた。おそらく明日奈にとっては、それはたやすく想像できる話だったのだろう。
「……現在でも、なぜ人工フラクトライトが与えられた規則に違反しないのか、その理由が完全に判明したわけじゃあないっス。恐らくは何らかの構造的要因に拠るものなんでしょうけど、俺らはもう、その解明は最優先課題ではないと考えてます。俺らには、問題の全面的解決じゃなくて、たった一つの例外があればいいんス。たった一つだけでも、”規則の優先順位”という概念を得た真の高適応性人工知能を手に入れられれば、あとはそれを複製加工することで一定の成果は得られるはずですから」
「あんまり好きじゃないなあ、そういう考え方。……でも、往々にしてブレイクスルーっていうのはそんな手法で達成される、ってことかしらね」
短く息を吐き、凛子は比嘉に先を促した。
「で、その例外は得られたの?」
「一度は確かに俺らの手に落ちてきましたよ。少年桐ヶ谷君と最も近しい存在だったある少女が、実験が終了する直前、ついに禁忌目録に背いたんでス。しかも”移動禁止アドレスへの侵入”っていうかなり重大な違反っスよ。後でログをチェックしたら、少女の視界内の禁止アドレスで他の人工フラクトライトがひとつ死亡しているのが確認されました。恐らく、それを助けようとしたんでしょう。いいっスか、つまりその少女は、禁忌目録よりも他者の救助を優先したんです。それこそがまさに、俺らが求める適応性って奴っスよ。まぁ、兵器として実用化の暁に求められるのはまったく逆の、”倫理に背く殺人”だってのは皮肉な話ですが」
「……一度は、って言ったわね?」
「あー、ええ。情けない話ですが……手に落ちてきた珠を、掴みそこねたとでも言いますか……」
比嘉は肩を落とすと、何度も首を左右に振った。
「……さっき説明したとおり、アンダーワールド内は対現実比約千倍という凄まじいスピードで時間が経過しています。それを外側からリアルタイムに監視するのは不可能なので、記録した事象をコマギレにして、それを言わばスロー再生で複数のオペレーターがチェックしてるわけっス。結果、必然的に内部時間とわずかなラグ発生してしまうんス。俺らは、少女が禁忌目録に違反したのを発見した時点でサーバーを停止し、彼女のフラクトライトをコピーしようとしたんスが……その時にはすでに内部時間で約二日が経過していました。そして、驚いたことに、神聖教会はそのたった二日のあいだに少女を央都に連行して、フラクトライトにある種の修正を施してしまったんス」
「しゅ……修正ですって? 君たちは観察対象にそこまでの権限を付与してるの?」
「そんなわけないっスよ。……ない筈、でした。秩序維持のためにアンダーワールドの全住民にはある種の権限レベルが設定してあって、それが高い住民は”神聖魔法”と呼ばれるシステムアクセス権を行使できるんですが、最高レベルの神聖教会の司教たちだって可能なのはせいぜい寿命の操作くらいなんスよ。でも連中はいつのまにか、システムの抜け道的手法を見つけて……、まぁ、この先は後で実際に映像をお見せします。”アリス”の過去と現在の姿をね」
「アリス……?」
さっと顔を上げ、そう囁いたのは明日奈だった。凛子もその単語の意味は事前に聞いていた。確か、菊岡と比嘉が追い求めている”高適応性人工知能”のコードネームとでも言うべき名称だったはずだ。
二人の疑問を察したように、菊岡がひとつ頷いた。
「そう、それが、キリト君とそしてもう一人の少年といつも一緒にいた、問題の少女の名前なんだよ。もともと、アンダーワールドの住民の名前はそのほとんどが、ランダムな音の組み合わせとしか思えない奇妙なものばかりだ。だから、少女の名前がアリスだと知ったとき、我々はその恐るべき偶然に驚愕したよ。なぜなら、それは、このラースという組織を含めてすべての計画の礎となったひとつの概念に与えられた名称でもあったからだ」
「概念……?」
「人工高適応型知的自律存在、アーティフィシャル・レイビル・インテリジェント=サイバネーテッド・イグジスタンス。頭文字を取って”A.L.I.C.E.”……。僕らの究極の目的は、ライトキューブに封じられたフォトンの雲を一なる”アリス”に変化させることだ。スタッフ達は、短く縮めて”アリス化”と呼んでいる」
菊岡誠二郎は、凛子と明日奈を順番にじっと見つめ、ほぼ全ての秘密を明らかにしながら尚もどこか謎めいて見える笑みを浮かべつつ言った。
「我らが”プロジェクト・アリシゼーション”へようこそ」
何度かの逡巡のあと、凛子は左手を持ち上げ、『呼出』と刻印してある金属のボタンを押した。数秒後、小さなスピーカーから明日奈の短い応答があった。
「どなた?」
「私、神代です。少しだけ、話をさせてもらっていいかしら」
「……どうぞ」
ほんのわずかに躊躇いの響きを帯びた声が返ってくると同時に、スピーカーの下のインジケータが赤から青に変わり、モーター音とともにドアがスライドした。
凛子が部屋に入ると、ベッドに腰掛けていた明日奈はリモコンを傍らに置き、代わりにブラシを取り上げてつややかな髪を梳りはじめた。背後で再びドアが閉まり、小さなアラームが再度ロックされたことを教えた。
明日奈に与えられた客室――あるいは船室は、通路を隔てた向かいの凛子の部屋と全く同じつくりだった。ほぼ六畳ほどの空間は無機質なオフホワイトの樹脂パネルで装われ、調度は固定されたベッドと小さなテーブル、ソファー、艦内ネット接続用の小型端末一つだけ。二人を案内した中西一尉は『一等船室ですよ』と言っていたので、凛子は思わず豪華客船のスイートキャビンを想像してしまったのだが、どうやら各部屋ごとに小さなユニットバスが備えられているというのが唯一の一等たる所以だったらしい。
ただ、明日奈の部屋は凛子のものとは違い、ベッドの奥に細長い窓が設けられていた。つまりここはオーシャンタートルの最外周部、発電パネル層と接する場所だということになる。エレベーターでかなり登ったので、夕刻には窓から美しい南洋の落日が望めたはずだが、午後九時を回った今では漆黒の闇が広がるばかりだ。生憎の曇天で星もまったく見えない。
右手にぶら下げていた、エレベーター脇の自販機で買ってきた缶入りウーロン茶の片方をテーブルに置き、凛子はソファーに腰を下ろした。思わずいつもの癖で「どっこいしょ」と言ってしまいそうになり、危く口を閉じる。自分ではまだまだ若いつもりでいるが、風呂上りでTシャツにショートパンツ姿の明日奈の、輝くような美しさを目の当たりにすると、迫りつつある三十路の声を意識せざるを得ない。
明日奈はブラッシングの手を止め、ちらりと微笑みながら頭を下げた。
「ありがとうございます、丁度喉が渇いてたんです」
「洗面台の水は味見してみた?」
悪戯っぽく笑いながら尋ねると、明日奈も目をくるりと回してみせる。
「東京の水道水といい勝負ですね」
「まあ、海水を濾過脱塩した水らしいから、少なくともトリハロメタンは入ってないわね。案外、コンビニで売ってる海洋深層水より体にいいかもよ。私は一口でもうご免だけど」
ウーロン茶のプルトップを引き開け、冷えた液体を大きく飲み下す。本当はビールが欲しかったのだが、下層の食堂まで行かないと売ってないらしく断念した。
ふうっ、と息をつき、凛子はもう一度明日奈を見た。
「……桐ヶ谷君には会えた?」
「ええ、なんだか元気そうでしたよ。楽しい夢でも見てるみたいでした」
微笑む明日奈の顔は、ここ数日彼女を苛んでいた焦燥がようやく抜け落ちたように見えた。
「まったく困った彼氏ね。突然失踪した上に、こんな南の海でクルージング中だなんて。首に縄でもつけておいたほうがいいわよ」
「検討しておきます」
にこっと笑顔を見せてから、明日奈は口もとを引き締め、深く頭を下げた。
「ほんとうに、神代先生には感謝しています。こんな無茶なお願いをきいて戴いて……。お礼の言いようもないくらい」
「やめてやめて、凛子でいいわよ。……それに、こんなことくらいじゃあ、あなたと桐ヶ谷君への罪滅ぼしにはぜんぜんならないわ」
凛子は大きく何度もかぶりを振り、意を決して、じっと明日奈を見つめた。
「……私、あなたに話しておかなくちゃならないことがあるの。ううん、あなただけじゃない……旧SAOプレイヤーの全員に、告白しなきゃいけないことが……」
「…………」
わずかに首を傾げ、まっすぐに見返してくる明日奈の瞳を、凛子は懸命に受け止めた。大きく息を吸い、吐き出してから、身につけていたコットンシャツのボタンを二つ外す。襟元を大きく開き、細い銀のネックレスを持ち上げると、左の乳房の上を斜めに走る切開痕が露わになった。
「この傷痕のことは……知ってるわよね……?」
明日奈は目を逸らすことなく凛子の心臓の真上を凝視し、やがてかすかに頷いた。
「ええ。遠隔起爆型マイクロ爆弾が埋め込まれていた場所ですね。それで先生……凛子さんは、二年間も脅迫されていた」
「そう……それによって私はあの恐ろしい計画に協力を強いられ、長期ダイブ中のあの人の肉体を管理していた……。――世間ではそういうことになっているわ。だから私は起訴されなかったし、名前すら公表されずに、のうのうとアメリカに脱出できた……」
シャツとネックレスを戻し、凛子は気力を振り絞ってその先を続けた。
「でも、本当は違うの。警察病院で摘出された爆弾は確かに本物だったし、実際に起爆も可能だった。でも、それが決して爆発しないことを、私はよく知っていた。――カモフラージュだったのよ。事件が終わったあと、私が罪に問われないように、あの人が埋め込んでくれたまやかしの凶器。あの人が私にくれたたった一つのプレゼント」
その言葉を聞いても、明日奈の表情は変わらなかった。心の底まで見透かすような澄んだ瞳を微動だにさせず、ただじっと凛子を見つめている。
「――私と茅場君は、私が大学に入った年から付き合い始めて、修士課程が終わるまで六年のあいだ恋人同士だったわ。……でも、そう思っていたのは私だけだった……。今のあなたよりも年上だったのに、今のあなたより遥かに愚かだった私には、茅場君の心の内側がまるで見えてなかった。彼がただひとつ求めていたものに、まったく気付かなかった……」
視線を窓の向こうに広がる無限の夜に向け、凛子は四年間抱えつづけていたことをゆっくり言葉に変えはじめた。常なら思い出すだけで鋭い痛みをもたらすその名前は、意外なほど滑らかに唇からこぼれ落ちていった。
日本で有数の工業系大学に、ストレートで進学したその時点で、茅場晶彦はすでに株式会社アーガスの第三開発部の長たる立場だった。茅場が高校在学中にライセンス契約したいくつかのゲームプログラムによって、アーガスは弱小三流メーカーから世界に知られるトップメーカーへと飛躍したのだから、大学入学直後の彼をいきなり管理職待遇で迎えたのも当然と言えよう。
十八歳の茅場の年収はすでに億を越えていると言われ、それまでのライセンス料を合わせれば総資産は恐るべき金額になるはずだった。自然な成り行きとして、キャンパスでの彼は無数の女子学生から有形無形のアプローチを受けたらしいが、興味のないものに彼が向ける、あの液体窒素よりも冷たい視線を浴びせられて立ち直れた者は居なかった。
だから、凛子には、なぜ茅場が一歳年下の冴えない山出し娘を拒絶しなかったのか、今でもよく分からない。彼の名声をまるで知らなかったから? 一年時から重村ゼミに出入りすることを許される程度の頭はあったから? 少なくとも容姿に惹かれたわけではないことだけは確かだ。
凛子の抱いた茅場の第一印象は、養分の不足した豆もやし、である。いつも青白い顔をしてよれよれの白衣を羽織り、観測装置にまるで備品のように貼り付いている彼を、無理矢理おんぼろの軽に乗せて湘南まで引っ張り出した時のことは、昨日の出来事のように鮮明に憶えている。
「たまにはお日様さ見ないと出るアイデアも出ね!」
――とお国言葉丸出しで叱る凛子を、茅場は助手席からどこか呆然としたような顔でしばらく眺めていた。やがてぽつりと、自然光が与える皮膚感覚のエミュレーションも考えないとな、と呟いて凛子を大いに呆れさせた。
のちに凛子は、茅場の若きセレブリティというもう一つの顔を知ったが、だからと言って付き合い方を変えられるほど器用な育ち方はしていなかった。凛子にとって茅場は、いつだって栄養の足りていないもやしっ子で、部屋に行くたびに叱り付けて持参の郷土料理を食べさせた。あの人が私を拒絶しなかったのは、つまり助けを求めていたのだろうか、私がそれに気付かなかっただけなのか、と凛子は後に何度も自問したが、しかしその答えは常に否だった。茅場晶彦という人間は最後まで自分以外に恃むものは無く、彼が欲していたのはただ一つ、”ここではない世界”という、神ならぬ人の子には触れることさえできないはずのものだけだった。
茅場は何度か、寝物語に空に浮かぶ巨大な城の話をしてくれたことがある。その城は、無数の階層からできていて、層ひとつひとつに街や森や草原が広がっているのだそうだ。長い階段を使って層をひとつひとつ登っていくと、天辺には夢のようにきれいな宮殿があって――。
「そこには誰がいるの?」
と問う凛子に、茅場はかすかに笑いながら、分からないのだ、と答えた。僕はすごく小さな頃は、毎晩夢のなかでその城に行けたんだ。毎晩ひとつずつ階段を昇って、少しずつ天辺に近づいていった。でも、ある日を境に、二度とその城には行けなかった――と。くだらない夢さ、もうほとんど忘れてしまったよ。
しかし彼は、凛子が修士論文を書き上げたその翌日に、空の城に旅立ち二度と帰ることはなかった。己の手だけで浮遊城を現実のものとし、五万の人間を道連れに、凛子だけを地上に置き去りにして――。
「ニュースでSAO事件を知って、茅場君の名前と顔写真を見てもまだ、私には信じられなかった。でも、車で彼のマンションまで飛んでいって、そこにパトカーが山ほど詰め掛けてるのを見て、初めてほんとなんだって分かったわ」
凛子は、久しぶりに長時間声を出したせいでわずかな喉の痛みを感じながら、ぽつりぽつりと話し続けた。
「あの人は、最後まで私には何も言わなかった。メール一つ寄越さなかったわ。ううん……私が大馬鹿だったのね。私はナーヴギアの基礎設計にも協力したし、彼がアーガスで作ってたゲームのことも知ってた。なのに、彼が考えてることにまったく気付かなかった……。茅場君が行方不明になって、日本中が血眼になって彼を探してるとき、私、奇跡的に思い出したの。昔、彼の車のカーナビの履歴に、長野の山奥の座標が残ってて、変だな、って思ったことを。直感的に、そこだ、って思ったわ。その時点でそれを警察に教えてれば、SAO事件はもっと違った経過を辿ったかもしれない……」
あるいは警察があの山荘に踏み込んだら、茅場は事前の宣言どおり五万のプレイヤー全員を殺したかもしれなかった。しかし自分がそれを言葉にすることは許されないと、凛子は思った。
「――私、警察の監視を撒いて、一人で長野に行った。記憶を頼りに山荘を探し出すのに一週間もかかったわ。見つけたときはもう全身泥だらけで……でも、そんなに必死になったのは、彼の共犯者になりたいからじゃなかった。私……茅場君を殺すつもりだった」
最初に会ったときとまったく同じ、戸惑ったような顔で茅場は凛子を出迎えた。その時、後ろ手に握っていたサバイバルナイフの重さは、今でも忘れられない。
「でも……ごめんなさいね、明日奈さん。私、殺せなかった」
抑えようもなく声が震えたが、しかし涙を流すことだけは懸命に堪える。
「これ以上、あの時のことをどう言葉にしても嘘になっちゃうと思う……。茅場君は、私がナイフを持ってるのを知ってて、いつもみたいに、困った人だなあ、ってだけ言って、またナーヴギアをかぶってアインクラッドに戻っていった。それまでずっとダイブしっぱなしだった彼は、髭ぼうぼうで汚れ放題で、腕に点滴の痕がいくつもあった。私……私は……」
それ以上言葉が出ず、凛子はただ何度も呼吸を繰り返した。
やがて、静かに、明日奈が言った。
「わたしも、キリト君も、凛子さんを恨んだことは一度もありません」
はっと顔を上げると、十歳年下の少女は、かすかに微笑みながらじっと凛子を見ていた。
「……それどころか……キリト君は違うかもしれないけど、わたしは……団長のことを恨んでいるのかすら、今でもよくわからないんです」
明日奈が、あの世界の中で、茅場の作ったギルドに属していたことを凛子は思い出していた。
「確かにあの事件で、多過ぎる人が亡くなりました。どれだけの人が、恐怖と絶望の中で死んでいったか……それを想像すると、団長のしたことは許されることではありません。でも……物凄くわがままな言い草ですけど、多分わたしは、あの世界でキリト君と暮らした短い日々を、これからも人生最良のひとときとして思い出すでしょう」
明日奈の左手が動き、腰のあたりで何かを握るような仕草を見せた。
「団長に罪があるように、わたしにも、キリト君にも、そして凛子さん、あなたにも罪はある……。でもそれは、誰かに罰してもらえば償えるようなものじゃない、そう思います。おそらく、永遠に赦しを得られる日は来ないのかもしれません。だとしても、わたし達は、自分の罪と向き合いつづけていかなければならないんです」
その夜、凛子は、久しぶりにあの頃――何も知らない学生だった頃の夢を見た。
眠りの浅い茅場は、いつも凛子より先にベッドから抜け出して、コーヒーカップ片手に朝刊を読んでいた。完全に日が昇ってから凛子がようやく目を醒ますと、寝坊した子供に対するように小さく苦笑し、おはよう、と言った。
「本当に、困った人だな。こんなところまで来るなんて」
穏やかな声に、凛子が薄く目を開けると、暗闇のなか、ベッドの傍らに長身の人影が立っているのが見えた気がした。
「まだ夜中よ……」
微笑みながら呟き、凛子はもう一度目を閉じた。かすかに空気が動き、硬い足音が遠ざかり、ドアの開閉音がそれに続いた。
再度の眠りの淵に落ちていく、その直前に――。
「――!!」
凛子は息を詰めながら飛び起きた。心地よいまどろみは一瞬で消え去り、心臓が早鐘のように喚いている。どこまでが夢で、どこからが現なのか、とっさに判断できなかった。手探りでリモコンを探し、部屋の照明を点ける。
窓のない船室は、当然のように無人だった。だが、凛子は、空気中にかすかに何者かの残り香が漂っているのを感じた。
ベッドから飛び降りると、素足のままドアまで駆け寄る。操作パネルをもどかしく叩き、ロックを外すと、スライドしたドアの隙間から通路に走り出た。
オレンジの薄暗い照明に照らされた通路は、右も、左も、視界に入る限りどこまでも無人だった。
夢……?
そう思ったが、しかし耳の底には、確かにあの低くソフトな声の残響が漂っていた。無意識のうちに、凛子は右手で、常に身につけているネックレスの先端にぶら下がるロケットペンダントを握り締めていた。ろう付けされて二度と開くことのできないその中に封入されている、凛子の心臓直上から摘出されたマイクロ爆弾が、かすかな熱を放っているかのようにほんの少し掌を灼いた。
(第四章 終)
SAO4_13_Unicode.txt
かちり、とブーツの踵が鳴らされると同時に、きびきびした声が広い部屋いっぱいに響いた。
「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了いたしました!」
声の主は、灰色の初等練士の制服に身を包んだ、わずかに幼さの残る少女だった。この春に学院の門をくぐり、上級生付きを命じられてからまだ一ヶ月と経過していないせいか、直立不動の姿勢には痛々しいほどの緊張感が漲っている。
ユージオとしては可能な限り優しく接しているつもりだが、しかし言葉で何と言われようとそうそう簡単に肩の力が抜けるものではないことは、自身二年前に嫌と言うほど経験してもいた。初等生にとって、学院に十二人しかいない上級修剣士は、ある意味では鬼教官たちよりも近寄りがたく恐ろしい存在なのだ。どうにか普通に会話ができるようになるまでは、最低でも半年はかかるものだし、ユージオだってそれは例外ではなかった。もっとも、何から何まで型破りな相棒だけはまったくその限りではなかったらしいが。
読み古した神聖術の教本を閉じ、高い背もたれのついた椅子から立ち上がると、ユージオはひとつ頷いてから言葉を返した。
「ご苦労様、ティーゼ。今日はもうこれで寮に戻っていいよ。……で、ええと……」
視線をティーゼの赤毛から左に動かし、並んで同じように背筋を伸ばしている、ダークブラウンの髪の少女に向ける。
「……ご免ね、ロニエ。あの馬鹿には何度も、掃除が終わるまでに戻ってこいって言ってあるんだけど……」
いつものようにどこかに逃げてしまった相棒の代わりにユージオが謝ると、ロニエという名の初等生は、目を丸くして何度も首を振った。
「い、いえ、報告を完了するまでが任務ですから!」
「じゃあ、悪いけどもうちょっと待ってて。ほんと、運が悪かったね、あんな奴の傍付きになっちゃって……」
北セントリア帝立修剣学院は、ノーランガルス全土から領主貴族の子弟が集まる最高峰の剣士育成機関だが、一度学院の土を踏めば、例え皇家の流れであろうとも初等練士から横一線のスタートとなる。最初の一年は実剣に触れることすら許されず、ひたすら木剣による型の練習と、教本で戦術理論の学習にあけくれることとなるが、初等生はそれに加えて学院内の様々な雑務もカリキュラムの一環として課せられる。
どのような仕事を与えられるかは、入学直後の剣術試験の点数によって決まる。九割以上の生徒は学内の清掃が任務となるが、得点上位の十二人だけが全学生のトップに立つ上級修剣士の傍付きを拝命し、同級生の羨望と約半年の緊張感を手に入れることになる。
もっとも、傍付きと言ってもやる事は他の生徒と変わらず、同級生たちが教室や修練場を掃除している時間に、同じように上級生の部屋の掃除をする、というだけのことなのだが、しかし付いた生徒の底意地が悪かったり散らかし魔だったり、あるいはフラフラどこかに消える癖を持っていたりすると、このロニエのように毎晩苦労する破目になるわけだ。
「……もし何なら、僕から先生に言ってあげるから、傍付きを他の人に代わってもらったら? アイツに付いてると、一年間苦労するよ、間違いなく」
「と、とんでもありません!」
ユージオの提案に、ロニエがぶんぶん首を振った、その時だった。ドアではなく、開け放した窓の向こうの夕闇から、聞きなれた声がした。
「おいおい、人の留守に何を言ってるんだ」
するりと音もなく、三階の窓から部屋に滑り込んできたのは、ぴったりとした修剣士の制服に身を包んだ二年来の相棒、キリトだった。ユージオの服と形はまったく同じだが、ユージオのものが濃い目の藍青色なのに対して、あちらは完全な漆黒だ。制服の色を自由に選べるのも、上級修剣士の数多い特権の一つである。
何やらいい匂いのする大きな紙袋を抱えて戻ってきたキリトを見て、ロニエは一瞬ほっとしたように息をつくと、すぐに顔を引き締め、音高くブーツの踵を打ち鳴らした。
「キリト上級修剣士殿、ご報告します! 本日の清掃、滞りなく完了しました!」
「はい、お疲れさま」
相変わらず傍付き下級生の存在そのものが苦手で仕方なさそうなキリトは、所在なげに頭を掻きながらロニエを労った。その様子に苦笑しながら、ユージオは改めて相棒の所業を追及した。
「あのなあ、外に行くなとは言わないけど、彼女たちはお前の何倍も忙しいんだから、掃除が終わるまでには戻ってきてやれよな。大体なんで窓から帰ってこなきゃならないんだ」
「カルギン通りから帰ってくるときはこの窓が最短コースなんだよ。ロニエとティーゼも覚えておくと将来役に立つぞ」
「妙なこと吹き込むなよ! ……カルギン通りってことは、その袋は跳ね鹿亭の蜂蜜パイだな」
キリトの腕のなかから漂う甘く香ばしい匂いは、一時間前に夕食を詰め込んだばかりのユージオの胃をたちまち空に戻し、きりきりと刺激した。
「……確かにあれは絶品だけど、だからってなんでそんなに山ほど買ってくるんだ」
「ふふん、欲しければ素直にそう言いたまえよユージオ君」
キリトはにやっと笑うと、膨れた紙袋から黄金色に焼けた円筒形のパイを二つ取り出し、片方をユージオに放るともう片方をくわえた。残りを袋ごと、どさりとロニエの腕に落とす。
「寮に戻っはら、部屋の皆へ食えよ。寮監に見ふかるなよ」
ロニエとティーゼは、わあ! と十五、六の少女に相応しい歓声を上げたあと、慌てたように再び姿勢を正した。
「あ、ありがとうございます上級修剣士殿! 戴いた物資の天命が減少しないよう、全速で寮に戻ります! それではまた明日!」
高速で一礼し、二人はかつかつとブーツを鳴らして部屋を横切り、外に出た。再度の礼のあと、ぱたん、と扉が閉まると、廊下からまたしても歓声が聞こえ、ばたばたと走る音がたちまち遠ざかっていった。
「…………」
ユージオは、焼きたてのパイを大きく一口齧ると、横目でじいっとキリトを見た。
「……なんだよ」
「いや、別になんでも。ただ、キリト上級修剣士殿は、なんで僕らがここにいるか、忘れておいでじゃないでしょうね、と、ええ、それだけ」
「ふん、忘れるかよ」
たちまちパイを食べ終わったキリトは、ぺろりと親指をなめると、細めた黒い瞳を窓の外――セントリア中心部に聳える神聖教会の巨大な塔に向けた。
「あと二つ……ようやくここまで来たんだぜ。まず、他十人の上級修剣士をぶっ倒して学院代表の座につく。そして、四帝国統一大会で何としても準決勝まで残る。それで俺たちはもうお偉い整合騎士様だ。堂々と正面からあの塔に乗り込める……」
「うん……。あと一年……それで、やっと……」
――やっと、会える。八年前、目の前で整合騎士に連れ去られた金髪の幼馴染に。
ユージオは遥か彼方の神聖教会から視線を戻すと、部屋の壁に掛けられた白黒二振りの剣を見つめた。二人をここまで導いた、この運命の剣たちがある限り、僕らは決して挫けることはない――、一抹の疑いもなく、そう思えた。
「まったく、何でこんなとこに来てまで試験勉強なぞせにゃならんのか……」
とげっそりした顔で言い残し、明日に迫った上級神聖術の試験の一夜漬けのためにキリトが自分の寝室に引っ込んでしまったので、ユージオは日課の夜稽古をひとりでやることにして、二年間使い込んだ木剣を担いで部屋を出た。
確かに、ルーリッドの村を出たあの日には、よもや自分が央都で――つまりこの世界で最高の剣士養成機関に入学を許され、剣術や神聖術の勉強に毎日明け暮れることになるとは思いもしなかった。しかしやってみればどちらもとても刺激的だったし、そもそも本来であれば木こりとして一生を過ごすはずだった自分が、貴族や大商家の跡取りたちに混じって教育を受けられるだけでも、望外の幸運と言わなくてはならない。
――その上、こんな立派な建物の広い部屋を与えられ、専属の掃除係までいるのだ、なんてことを故郷の兄貴たちに言っても全く信じやしないだろうな。長い廊下を歩きながら、ユージオはぼんやりとそんなことを考える。
帝立修剣学院の敷地は、北セントリアの中心部にある大きな丘をまるごとひとつ占有する広大なもので、建築物も大小あわせて十を数える。うち四つが、約三百人の学生のための寮となっており、百人ずつの初等練士、中等練士、高等練士が寝起きする三棟を見下ろす丘の中腹に、わずか十二人の上級修剣士の専用棟が建っている。
もともと学院は、四帝国の一角であるノーランガルスの国民からより多くの整合騎士を輩出するという明快な目的のために運営されており、選抜試験を兼ねる統一剣術大会に送り込むための精鋭である上級修剣士には至れり尽せりの待遇が与えられる。それぞれの個室は教師たちの部屋より広いという話だし、消灯前なら外出も自由、外に食事にいくのが面倒なら寮の一階に立派な食堂がある。
精鋭とは言え、たかが学生に対してこの厚遇なのだ。もしこれが、統一大会の上位常連の強豪なら――さらには名実ともに世界の頂点たる、ある意味では皇帝家をも上回る権力を持つ整合騎士たちなら、一体どのような豪奢な生活を送っているのだろうか。
「……っと、いけない」
ユージオは、肩に乗せた木剣でこつんと自分の頭を叩いた。最近ではここでの暮らしに慣れてきたせいか、村を出たばかりの頃のぎらぎらした目的意識をふと見失いそうでぎくりとすることがある。央都の有名な食べ物屋や、寮の食事がいかに豪華なものであろうとも、遠い昔に村はずれの黒い巨木の下でがっついて食べた質素な弁当よりも美味いと思ったことは一度もないし、思ってはいけないのだ。
「アリス……」
自分に言い聞かせるように、その名前を呟く。ここでの暮らしも、統一大会も、整合騎士を目指すことすら、全ては目的ではなく手段だ。余人の立ち入れない神聖教会のどこかにいるはずのアリスに、禁忌を破ることなく堂々と会いに行くための。
突き当たりの階段を降りたユージオは、建物の北側に設けられた修練場に向かった。これもまた、上級修剣士の特権のひとつだ。練士の頃は毎晩、寮の裏手の森の、自分の鼻も見えないような闇の中で剣を振ったものだが、ここでは十二人には広すぎる屋内の道場の、煌々とした灯りの下で好きなだけ稽古ができる。
大きな両開きの扉を押すと、修練場にいた三人の先客が振り返り、露骨に顔をしかめた。
二人が手合わせ中で、残り一人が審判をしていたようだったが、ユージオが一歩足を踏み込んだ瞬間に木剣の音はぴたりと止まった。そんなに警戒しなくても、別に君たちから技を盗んだりしないよ――と内心で思いながら、三人から遠離れた隅っこに向かって歩き始める。
「おや、ユージオ……修剣士殿、今夜は一人なのかな」
声をかけてきたのは、審判役の男だった。長い金髪を後ろで束ね、すらりとした長身を純白の制服に包んでいる。いかにも良血といった、過不足なく整った顔にはにこやかな笑みが浮かんでいるが、『ユージオ』と『修剣士』のあいだにわざとらしく間を置いたのは、ユージオが姓を持たない開拓農民の子であることをあげつらっているのだ。
普段は、剣呑なキリトが怖くて挨拶もしないくせに、と思いながら、ユージオも笑顔を作ると小さく頭を下げた。
「今晩は、ライオス・アンティノス修剣士殿。ええ、同室の者はあいにく明日の試験に備えて勉強をしていますよ。でももしご用なら呼んできましょうか?」
「む、いや、それには及ばない」
ライオスはもったいぶった仕草で短くかぶりを振った。ユージオはこれでも最低限の社交辞令は弁えているが、キリトはまったくその限りではない。機嫌の悪いときは、ライオスの皇家に連なる血筋など意に介せず、手合わせを申し込んでぶちのめすくらいのことは平気でやる奴だ――ということを向こうもよく知っているのだ。
「それでは、私は邪魔にならないよう隅で剣を振っています。お三方はどうぞそのまま続けてください」
我ながら卑屈な態度が上手くなったものだ、と思いながらユージオが再度頭を下げると、いつもライオスにくっついている、これも貴族の次男だか三男だかの残り二人も尊大な顔つきで頷いた。
床一面に敷かれた濃い赤のカーペットを踏んで、奥の壁沿いに並んで立つ、分厚く革の巻かれた丸太の前まで移動する。背中にライオスたちの視線を感じながら、木剣を構え、呼吸を整える。
「シッ!」
鋭い気合とともに、振り上げた剣を、ただ正面から丸太目掛けて撃ち降ろす。両手に心地よい痺れを感じながら素早く一歩下がり、また呼気と同時に剣を振る。ドシッ、ドシッという重い音だけに意識を集中していると、三人の存在など急速に消え去っていく。
ユージオが毎夜の稽古で行うのは、この何の工夫もない上段斬りを五百本だけだ。教練で学ぶ複雑華麗な型などまったくやらないし、初歩的な連続技すらも繰り出さない。すべて、ユージオの隠れた師であるキリトの指示によるところだ。
キリトの弁では、真に剣が振れるようになるのは、剣の存在が消えてからだ――という。無限回の反復練習を通して、動作の中で己と剣の境目が無くなってはじめて剣は必殺の武器となる。道具としての剣を美しく見せるための型など百害あるのみ、と嘯く彼の言葉を、それぞれの流派を持つ達人である教師たちが聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。
しかし、こうしてキリトの指示どおりの練習をもう二年も続けているユージオだが、彼の言わんとすることを完全に理解できた気はいまだにしない。
剣技は必殺たるべし、とキリトは言うが、そもそも人間相手の勝負で必殺などという言葉は存在し得ない。いかなる勝負においても、相手を殺してしまえばそれは禁忌目録違反であり、整合騎士を目指すどころか逆に整合騎士に断罪されてしまう。
ゆえに、学院内で行われる木剣同士の手合わせも、統一大会での真剣勝負ですら、勝敗は最初の一撃が入った時点で決定する。往々にして完全に同時の相撃ちも起こるので、その場合はより美しく華麗な技を決めたほうが勝者となる。だからこそ学院では型の演舞が重要視されるのだし、それは二人の最終目標である、整合騎士の選抜基準においても変わらないはずだ。
ユージオがそう言うと、キリトはただ一言、あの洞窟でのことを思い出せ、とだけ答えた。
確かに、ニ年前のあの日、シルカを連れ戻すために北の山脈を目指した時に体験した出来事は、ユージオの中に今も薄れない衝撃を刻み付けている。山脈を貫く洞窟で出会ったゴブリン――闇の国の住人たちには、禁忌など何一つ存在しないようだった。殺すことのみを目的としたような醜い剣を振るい、ユージオとキリトに致命傷となりうる深い傷を負わせた。
禁忌目録は、闇の国の住人は全て敵と断定し、それを殺すことはまったく禁じていない。だから、あの日洞窟で見たように、もし遠い未来に闇の軍勢が果ての山脈を越えて侵略してきたとき、それと戦うために必殺の剣を磨け、というキリトの言葉は理解できる。
だが、本当にそんな日が来るのだろうか? 人間の国は、無敵の整合騎士に守られている。彼らはまさに一騎当千、ゴブリンたちなどどれほど押し寄せてきたところで容易く退けるはずだ――。
そう反論したユージオに、キリトは笑って言った。馬鹿だなぁ、俺たちはその整合騎士になろうとしてるんじゃないか、と。
確かにそれはまったくその通りだ。整合騎士を目指すなら、闇の軍勢と戦える必殺の剣を身につけておかねばならないのは自明の理だ。だからユージオは毎夜愚直な上段斬りを繰り返している。しかし――正直、自分の中に、人間の世界を守ろうという理想があるのかどうか、ユージオにはよくわからない。修行の全てはただ、もう一度アリスに会うという目的のためだけのものなのだ。整合騎士に任じられ、神聖教会に囚われているアリスと再会し、もし騎士の特権を以って彼女の罪を免じてもらうことができれば、その後はもう任を辞してルーリッドに帰り、アリスと二人畑を耕したとしても何の未練もない……。
物思いに耽りながらも、ユージオの体と腕は水車のように勝手に動きつづける。
頭の片隅で数えている撃ち込みの本数がいつのまにか四百を超えた、その時だった。背後で、笑いを含んだライオスの声が響いた。
「いつもながら、ユージオ修剣士殿の稽古は奇しきものだな。あのような型も技もない棒振りに、どのような意味があるのか、知りたいとは思わないかウンベール」
「いや、まったくまったく」
追従する取り巻きの言葉に、三人の露骨な嘲笑が続いて、ユージオはおやおや、と思う。
――キリトが居ないとずいぶん絡むじゃないか、ライオス君。
そんなに自分は与し易しと見られているのか、と考え、すぐにまあそうかもなと内心苦笑する。注目を浴びるのが苦手な性分は央都に来てもまるで変わらず、数限りなく行った模擬戦闘においても地味な技のみで勝利するよう自然と努力してしまった結果、ユージオは十二人の上級修剣士の中でも最も目立たない存在となっているのは間違いない。
しかし、そろそろその座に甘んじているわけにもいかなくなる。これからの一年間で行われる試合は全て学院総代表の選抜試験であり、わずか二名の枠をキリトとともに手に入れるためには、お互い以外の全ての修剣士にできるだけ派手に、美しく――つまり教官ごのみの技で勝ち続けなくてはならないからだ。
相変わらずねちっこく笑いつづけているライオス達を無視し、五百本の撃ち込みを終えると、ユージオは腰帯から抜いた手巾で額の汗を拭った。地味な割に楽な稽古ではないが、しかし故郷の森で一日中重い斧を振り回していたのを思えば何ほどの事はない。
学院の主講堂の天辺に建つ塔の鐘が、ルーリッドの教会のそれと全く同じ旋律を奏でて午後九時を告げた。消灯までの一時間で、風呂に入り明日の授業の準備をしなくてはならない。木剣を担ぎ、ユージオはまだぐずぐずしている三人に軽く会釈して修練場を後にしようとした。
「おや、ユージオ殿は丸太叩きだけで、型の修練はしないのかな」
まだ絡み足りないらしいライオスが、わざとらしい驚き顔を作って声を掛けてきて、ユージオはひそかに溜息をついた。
「ははは、ライオス殿、聞けばユージオ殿はどこぞの田舎で木こりをしていたそうな。丸太相手の技しか知っておられぬのかもしれませんぞ」
「これは教官連中に、木こり斧の型をユージオ殿に教えて差し上げろと言っておかねばなりませんな」
確かウンベールにラッディーノとかいう名前だった取り巻き二人が、事前に台本を作っているのかと疑いたくなるような台詞で調子を合わせる。こんな奴らの三文芝居に付き合っていられるものか、とユージオはせいぜい下手に出てとっとと逃げ出すべく、口を開いた。
「いやあ、田舎で叩いていた樹が人間よりよっぽど歯応えがあったおかげで、木こり剣法でもこんな立派な学院に入れました。人生、何が幸いになるかわかりませんね、それではお休みなさいお三方」
では、ときびすを返しかけたところで、ライオスが突然額に青筋を浮かべて喚いた。
「聞き捨てならんな! ユージオ修剣士殿は、我々が丸太以下だと言われるか!」
「は?」
唖然として聞き返す。どこをどう切り取ったらそんな意味になるんだ、と首を捻りかけたユージオに、取り巻きが両側から同時に怒声を浴びせた。
「無礼な!」
「許さんぞ!」
「い、いや……そんな事は誰も」
言ってない、と続けようとしたが、それに被せてライオスが更に大声を出す。
「そこまで大口を叩くからには、実力を以って証明する覚悟がおありと思ってよろしいな!」
よろしくない、と言っても収まりそうにない剣幕に、さあ面倒なことになったぞ、とユージオは密かに舌打ちした。恐らく三人は、ユージオが一人で現われたときから何やかや難癖をつけて手合いに持ち込む腹だったのだろう。
どうやったら無事に逃げおおせるかとあれこれ考えかけてから、ユージオは不意に馬鹿らしい気分に襲われた。初等生の頃からライオスらに対して不遜な態度を貫きつづけたキリトではなく、常に下手に出て相手の顔を立ててきたユージオが目の敵にされるのは理不尽としか言いようがない。アホウを相手にするだけ無駄だぜ、というキリトの声が聞こえてきそうだ。
どうせ、一ヵ月後に迫った最初の選考試合では、ライオスを完膚なきまでに打ち負かす必要があるのだ。早いか遅いかの違いでしかないなら、ここであれこれ言葉を重ねて余計な時間を取られるだけ骨折り損というものだ。
「では、証明して差し上げましょう」
ユージオはにこやかにそう言い、右手の木剣をくるりと回して相手の鼻先に突きつけた。
「な……」
一瞬ぽかんとしたライオスの顔が、みるみる真っ赤に染まる様はなかなか見ものだった。豪奢な金髪から湯気が出そうな勢いだ。
「これほどの侮辱は覚えがない! 天命を半分削られても文句は言わないでもらおう!」
学院内における双方合意の手合いであれば、寸止めではなく実際に攻撃を入れることも許されているが、しかし当然初撃で決着というルールは変わることがない。しかも今双方が携えているのは練習用の木剣であり、どれほど激しい一撃が入ったところで天命は一割も減らないだろう。修剣士なら誰もがマスターしている初歩の神聖術で容易く治療できる傷だ。
まったく大袈裟なことを言う奴だ、と思いながら、ユージオはライオスが距離を取り、芝居がかった仕草で腰から木剣を抜くのを眺めた。
望んだ手合いではないにせよこうなったからには負けるつもりはないが、しかし容易く勝てる相手ではないこともまた事実だ。傍系とは言え皇族のライオスは、幼い頃から一流の教師に剣術を学んでいるはずであり、学院の教練どおりの型による攻防なら向こうに分がある。上背も腕の長さもあちらが上、しかも華美な装飾が施された白樫の木剣までやたらと長い。
――しかし幸い、この場には技を採点する教官は居ない。
ユージオは呼吸を整えながら、すっと腰を落とし、剣を右に低く落ろした。いかなる伝統流派の教本にも乗っていない構えだ。
「何を珍妙な……」
ライオスは鼻で笑い、背筋を伸ばして立つと剣を右体側に真っ直ぐ立てた。スーペリオ流長剣術・天衡の構え、繰り出される技は恐らく飛燕双翼の型……とユージオは読んだ。左右いずれかの偽打を見せてから反対側より本筋の飛んでくる厄介な技だが、知っていれば何ほどのことはない。
「それでは――始め!」
ウンベールの声とともに、ライオスの長剣が唸った。
ちかっと視界の左側で閃いた白光を、ユージオは落ち着いてやり過ごし、右から襲ってきた真打に合わせて剣を撃ち上げた。
ががばきびっ、と四つの音が連続して響いた。
最初の二つは、ユージオの剣がライオスの剣を右下から受け止め、即座に斬り返して左上から打ち込んだ一撃をライオスがぎりぎりの所で受けた音だ。その反射速度はさすがと言わざるを得ないが、息もつかせぬ右からの三撃目には対応しきれず、横腹を打たれた白樫の木剣はばきっと悲鳴を上げて中ほどからへし折れ――そしてくるりと体を回転させての最後の右水平斬りが、びっと鈍い音とともにライオスの長い髪をひと筋千切って頬の直前で止まった。
しん、と静まり返った修練場の床に、くるくると宙と飛んだ木剣の上半分が、重い音を立てて落下した。ライオスは両目を見開いて数歩後退すると、よろめいて片膝を付いた。
「ら……ライオス殿ォ!!」
「お怪我はっ……!!」
悲鳴を上げて駆け寄る取り巻きを、邪険に振り払ってライオスは立ち上がった。いまだ信じられないという顔で、手に残った剣の下半分を眺め、再度ユージオの顔を凝視する。
「な……なんだ、今の技は……」
「ええと……」
昔キリトから教わった、珍妙な流派の名前を思い出し、なるべく厳かな声音を作って口にする。
「――アインクラッド流剣術、直剣四連撃技ホリゾンタル・スクエア」
「あ……あいん……?」
ぽかんと口を開ける三人に向かって、ユージオは教官たちのしかめ面を真似ながら言った。
「ライオス殿が受けきれなかったのも無理はない、一本ずつ型のやりとりに終始する伝統流派には連続技という発想はありませんから。これを機に研究してみるといいでしょう。それでは」
一礼して身を翻そうとしたユージオは、ライオスの顔がどす黒い屈辱の色に染まり、いつもは涼しげな両眼に滴るような憎悪が溜まっているのを見て、やりすぎたか、と少々後悔した。こうなったらこれ以上面倒なことになる前に逃げるのが最善策だ。すっかりいつもの卑屈な態度に戻って再度頭を下げ、足早に出入り口に向かう。
扉を開け、後ろを見ないままホールに出たが、首筋のあたりにいつまでも粘つくようなライオスの視線がわだかまっているように思えた。これで今後はちょっかいを出してこなくなればいいけど、と溜息をつきながら、ユージオは足早に自室を目指した。
ある程度の嫌がらせは覚悟していたが、数日が経過しても、意外なほどにライオス達は大人しかった。
以前なら、寮や講堂で顔を合わせる折に一日一度は糖衣に包んだ蔑みの言葉を下賜してくれたものだが、修練場での手合い以来それもぱったりと途絶えている。キリトには念のため一件のことを説明し、連中に気をつけるよう注意しておいたのだが、そちらにも何の音沙汰も無いらしい。
「意外だなぁ、あんな事くらいで性根を入れ替える奴らじゃないと思ってたんだけどなあ」
お茶のカップを両手で抱え、ユージオが首を捻ると、キリトは少し考えてから答えた。
「でも、考えてみるとこの学院じゃあ嫌がらせひとつするのもそう楽じゃないぜ」
ずずっと音を立てて熱い液体を啜る。
やや波乱含みの一週間が終わり、明日はようやく休息日となった夜である。すでに稽古と入浴を済ませ、いつもなら挨拶もそこそこに互いの寝室に引っ込んで朝まで死んだように眠るのだが、この夜だけは共用の居間でお茶を飲みながらあれこれ話すのが毎週の恒例となっていた。
ユージオが首をかしげて先を促すと、キリトは黒い瞳をティーカップの中に向けたまま言った。
「例えばさ、子供の頃、ルーリッドの学校じゃあどんな悪戯をしてた?」
思いがけないことを訊かれ、眉をしかめて遠い昔の記憶を掘り返す。
「そりゃあ……僕は主にやられるほうだったけど……ほら、キリトも憶えてるだろ、あの衛士長のジンクとかにはよく苛められたなぁ。靴をどこかに隠されたり、弁当の袋にイライラ虫を入れられたり、アリスと一緒のところを囃されたりさ」
「ははは、子供のやることはどこの世界でも一緒だな。……でも、肉体的な苛め、例えば殴られたりとかそういうことはなかった。そうだろ?」
「当たり前だろ」
ユージオは目を丸くして答えた。
「そんなことするわけないじゃないか。だって……」
「――禁忌目録で禁止されてるからな。『別項に挙げる理由なくして他者の身体を意図的に傷つけるべからず』……靴を隠すのは問題ないのか、そう言えば? 盗みも禁止事項だろう?」
「盗むっていうのは、他人に所属する物を無断で自らに所属させることだよ。窓を開いてみればわかるけど、物の所有者属性が移動するのは、携行するか居室に置いてから二十四時間後だ。だから、例え合意のもとであげたり貰ったりしたものでも二十四時間以内なら正当に返却を要求できるし、合意なく持ち出してもすぐにどこかに放置すれば所有することにならないから盗みにもならない……。こんなの、五歳の子供でも知ってるぞ。いいかげん記憶が戻る気配はないのかい?」
ユージオの気遣いに、キリトは頭を掻きながら笑った。
「そ、そうか、そうだった気もするな。うーん、そんなシステムだったのか……危ねえなぁもう……」
「し、しすて……?」
「いや、なんでもない。……ん? じゃああれは? お前の青薔薇の剣を、昔話でドラゴンから盗もうとしたベルクーリは禁忌違反じゃないのかよ?」
「あのねえ、ドラゴンは人じゃないよ」
「そ、そっすか……」
「話を戻すと、物を隠す悪戯は禁忌に触れないけど、誰の所属領域でもない場所に放置された物は二十四時間後から天命の減少が始まるから、それまでに返却しないと今度は『他者の所有物の損壊』になっちゃう。おかげで靴はどんなに遅くても翌日には返ってきたけどね……でも、こんな話が、ライオスたちとどう関係するのさ?」
何故かげんなりした表情で椅子に沈みこんでいたキリトは、瞬きすると、自分で始めた話を忘れていたかのように口を開いた。
「ああ、そうだった。ええと、この学院には、禁忌目録とは別に長ったらしい院内規則が山ほどあるだろう。そこに確か、他者の所有物に許しなく手を触れてはならない、ってのもあった。だから、ジンク君がひ弱なユージオ少年を苛めたように、物を隠したり虫を入れたりとかはそもそも不可能だ」
「ひ弱は余計だよ。うーん……そうか。今まで考えたことなかったけど、確かにここだと嫌がらせしようにもその方法が無いよね……」
「せいぜい口で嫌味を言うか……これも明確な悪罵は禁止されてるから大して効果ないしな……もしくは、正当な手合いに持ち込んでぶちのめすくらいしかないぜ。それを試して返り討ちにあっちゃあ、もうあの皇帝の又従兄の孫だかひ孫だかにはできることは無いよ。そうだな、後は考えられるとしたら……俺を金品で懐柔してユージオ君と離反させるくらいかな……」
「え……」
反射的に不安な顔を作ってからユージオはしまったと思ったが、すでにキリトはニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「心配しなくてもいいよユージオ少年。お兄さんは君を見捨てたりしないぞ」
「ふん、どうだか。ゴットロの店の特製肉まんじゅうでも出されたら尻尾振ってついていくくせに」
「それはありうるな」
真顔で言ってからわははと大声で笑い、キリトはお茶を飲み干すとカップをソーサーに置いた。
「ま、冗談はさておき、直接的な嫌がらせに関してはそれほど心配することはないだろう。だが……」
笑いを収め、わずかに両眼を細めて続ける。
「裏を返せば、禁忌目録と学院則に触れない行為なら何をやってもおかしくない、ということでもあるな。まったく、歪んだ倫理観だな……俺も何か見落としがないか、考えておくよ」
一つ頷いてキリトは立ち上がり、黒い部屋着の腰をぱんと払った。
「さて、もうすぐ消灯だしそろそろお開きにするか。ついては明日のことだがユージオ君、俺はちょっと用事ができて……」
「だめだよキリト。今回ばかりは逃げようったってそうはいかないぞ」
翌日の休息日に、二人は傍付き初等生のティーゼとロニエから、親睦会を兼ねたピクニックに誘われているのだった。同様の申し込みを先週もされたのだが、キリトがあれこれ理由を並べて逃亡してしまったため、ユージオは気落ちするロニエを慰めるのに大いに気を使ったのだ。
「あのねえ、もう二人が付いてから一ヶ月も経つんだよ。お前だって、初等生のときに付いたソルティリーナさんに散々気を使ってもらったろう」
「ああ……あの人はいい人だったなあ……。元気でやってるかなあ……」
「遠い目をするなよ! 僕が付いたゴルゴロッソさんは豪傑で大変だったんだからな……じゃなくて、今度はお前がいい人になる番だって言ってるんだ。いいな、逃げるなよ!」
ユージオがびしりと指をさすと、キリトは岩塩でも噛んだような顔をしてへいへいと頷き、おやすみの言葉とともに自分の寝室に消えていった。
ふうっと長い溜息をつき、ユージオは二つのカップをソーサーと共に小さな流し台に運んだ。汲み置きの井戸水で手早く洗い、きちんと拭いて棚に戻す。
耳の奥で、先刻キリトが漏らした、何をやってもおかしくない、という言葉がかすかな残響となって甦った。
これまでの十八年と少しの人生において、ユージオは一度たりとも、禁忌目録の穴を探そうなどと考えたことはなかった。禁忌は遵守を強制されるものではなく、天が上にあり地が下にあるのと同様の第一原則として常にそこにあった。
しかし、全ての人間が、例えばライオスのような人間にとっては、その限りではないということなのだろうか? 彼らは禁忌目録を意に反してやむなく守る――つまり、神聖教会によって創生の時代より定められた絶対の法を、邪魔なものだとさえ思っているのだろうか……?
まさかそんなはずは無い、とユージオは唇を噛んだ。もしそんなことが許されるなら、あの日アリスが整合騎士に連れ去られるのを黙って見送り、更に六年も法に従って黙々と木を切り続け、その間一度として禁忌目録と教会を疑うことのなかった自分は、葉っぱを食むことしかしらないイライラ虫よりも愚かだということになるではないか。
法とは、教会とは一体なんなのだろう――と、ユージオはその時はじめてちらりと考えた。だがすぐに思考を振り払い、明日に備えて眠るために自分の寝室へと歩きだした。
高い鋳鉄の柵に囲まれた修剣学院の敷地は、その六割以上が野原と森に占められている。
ルーリッドの村よりもはるか南に位置するだけあって、棲んでいる動植物の種類も豊富だ。故郷では見たことのない、金色の毛皮を持つ小型の狐やら青緑色のやたら細長い蛇やらがそこかしこで五月の陽光を満喫しており、ユージオはここに来て三年目であるにもかかわらずつい目を奪われた。
途端、隣を歩くティーゼが、頬をぷうっと膨らませながら抗議した。
「ユージオ先輩、聞いてるんですかー?」
「き、聞いてるよ、ごめん。……で、何だっけ?」
「聞いてないじゃないですか!」
よく熟した林檎の色の長い髪を揺らして憤慨する下級生に、慌てて弁解を重ねる。
「い、いや、あんまり森が綺麗だから、つい……。珍しい動物も居るし……」
「珍しい?」
ティーゼはユージオの視線を追ってから、なぁんだ、というように肩をすくめた。
「えー、金トビギヅネじゃないですか。あんなの、街に生えてる樹にだっていっぱい棲んでますよ」
「へえ……。そう言えば、ティーゼは央都出身だったよね。家は学院と近いの?」
「んー、皇宮の向こうだからちょっと遠いですね。パ……父親が皇宮で書記をやってるもので……」
「へえ!」
ユージオは改めて、垢抜けた雰囲気をまとう都会の少女を見やった。自分が二年前に着た時はやたらと野暮ったく見えた、灰色の初等練士の制服も、彼女が着こなすと不思議と軽やかな印象になる。
「じゃあ、お父さんは貴族なんだ?」
ややかしこまった口調で尋ねると、ティーゼは照れたように首を縮めながら短く頷いた。
「一応、六等爵士なんですけど……でも下級貴族もいいとこですから。”むしろ上級貴族の賞罰権に怯えなくていいぶん街の平民のほうが楽だぞ”っていうのが口癖なんです……あ、す、すみません私ったら」
先祖代々平民のユージオに対して配慮の足らない口を利いてしまった、と思ったらしく、しゅんとした顔でティーゼは謝罪した。
「や、気にしないで。うーんそうか、賞罰権ねえ……そんなのあったなあ……」
話題を変えるべく、ユージオはそう言いながら、初等生の頃勉強した帝国基本法を思い出そうとした。
皇宮の発布する基本法は、禁忌目録の下位規則で、主にノーランガルス神聖帝国の社会制度を定めている。それによれば、帝国のあらゆる土地に住む民はおしなべて皇帝の僕であり、それを勝手に使役したり税を課したり、あるいは褒賞することは、例え一等爵士であろうとも許されない。例外は、大貴族の私領地に住む民で、領主は自由に彼らを処罰し、または褒美を下賜する権利――もちろん大原則たる禁忌目録の許す範囲でだが――、つまり賞罰権を有する。
ユージオが不思議だと思ったのは、その賞罰権は三等級以上離れた貴族同士にも設定されており、つまり例えば一等から三等の爵士は最下位である六等爵士を皇帝に代わって裁くことが可能だ、ということだ。
法学の老教師に、なぜそんな補則があるのか訊いてみたところ、戦時に貴族によって構成される軍司令部を円滑に動かすためだと教えられた。しかし、戦争などというものは、創生神ステイシアが人の子に世界を与えたその時よりついぞ起きたことはないのだ。二百年ほど前まで、東と西の帝国と何度か国境線に関して揉めたことはあるらしいが、その時もそれぞれの国代表の剣士による試合で決着したのだと言う。
つまり、今や貴族間の賞罰権など形骸化しすぎもいいところだと思うのだが、そこはそれ、宮廷における勢力争いやつまらない苛めの道具として活用されているらしい。
「だからー、お父様は、長子の私が家を継ぐときには、せめて四等爵士に叙せられてほしいと思って、それでこの学院に入れたんです。もし学院代表に選ばれて、四帝国統一大会でいい成績を残せば、それも有り得ないことじゃないですから……。まあ、どうも無理っぽいんですけどね」
ちらりと舌を出して笑うティーゼを、ユージオはふと眩しく感じて、少し目を細めた。かつて教会に連れ去られた幼馴染と再会する、という考えようによっては女々しい動機でこの場所にいる自分と違って、家の為に剣名を上げようというティーゼの動機は至極真っ当なものであるように思えたからだ。
「そうか……ティーゼは凄いんだね。お父さんを喜ばせるためにがんばって、初等生で上位十二人に入っちゃうんだから」
「そ、そんなことないですよー。最初の試験で、運良くいくつか勝てただけですから。三歳の頃から個人教授を受けててこの程度ですもン。ユージオ先輩のほうがずっと凄いですよ、衛兵隊からの推薦枠ってとっても狭いのに、そこを楽々突破して、しかも一年飛び級して、中等錬士から上級修剣士になっちゃうんですから。私、ユージオ先輩の傍付きになれて、ほんとに光栄だと思ってるんですよ」
「い、いや、そんな……ぜんぜん楽々とかじゃなかったよ。飛び級できたのも、半分以上キリトの特訓のお陰だし……」
むしろインチキ技……と思うがそこは口に出さない。
「へええ! じゃあユージオ先輩よりキリト先輩のほうが強いんですか?」
「…………そう訊かれると、うんと言うのも癪だけど……」
あははは、と楽しそうに笑うティーゼと同時に、少し前をロニエと並んで歩く相棒の後姿を見やる。
あの木石男は、ちゃんと傍付き下級生の相手が出来ているのか、と心配になり耳をそばだてると、意外に滑らかな口調で話すキリトの声が途切れ途切れに聞こえた。
「……だから、尖月流影の構えから派生する型のうち、実際に備えるべきものは二つしか無いと考えていいんだ。真上からか真下から、それ以外は無駄な動作が入るから見てからでも受けが間に合う。ではどうやって上か下かを見分けるかと言うとだな……」
――まあ、内容はさておき、ロニエも熱心に聞いているようだし良しとしよう、と小さく溜息をついてから、ユージオはふと考えた。
自分の、アリスにもう一度会いたい、という動機が不純なものだとすれば、一体キリトは何故この学院で辛い訓練や面倒な勉強に耐えているのだろう? 過去の記憶が無い彼にとって、自分や家の名誉のためといった動機は意味を持たないはずだ。二人の友誼のためだけに、二年間も行動を共にしてくれているともなかなか思えない。
あるいは、キリトこそが最も純粋な求道者なのだろうか――という気がすることもある。あの圧倒的な身体能力に加え、アインクラッド流連続剣技という秘剣をも操る彼は、尚も更なる強さを得んがためだけにこの学院で学んでいるのだろうか……? もしそうであるなら、いつか二人の動機が道を違えるときが来てしまったら、果たして今の僕は彼に――。
「あ、あの池のほとりがいいんじゃないですか?」
ティーゼが右手を伸ばしてはしゃいだ声を出し、ユージオを物思いから引き戻した。指差すほうを見ると、たしかに綺麗な湧き水の池の岸辺に柔らかそうな下草が繁っている場所は、弁当を食べるのに最適なように見えた。
「よし、そうしよう。――おーい、キリト、ロニエ! あそこで食べよう!」
ユージオが大声を出すと、無二の相棒はくるりと振り向き、いつもの少年のような笑みを浮かべて片手を上げた。
敷き布がわりのテーブルクロスを草の上に広げ、四人は向き合って腰を下ろした。
「ああっ……ハラ減った……」
大袈裟な仕草で胃のあたりを押さえるキリトを見て、ロニエとティーゼはくすくす笑いながら持参した大きなバスケットを開いた。
「あの、私たちが作ったので、お口に合うかどうか……」
恥ずかしそうに言い添えるロニエの様子からは、普段の”任務活動”中の緊張ぶりはほとんど感じられず、ユージオは無理矢理キリトを引っ張ってきた甲斐があったなあと考えた。これで黒衣の上級修剣士が見た目ほど怖い人物ではないと分かってもらえれば、きっと打ち解けるのも早いだろう。
バスケットに詰まっていたのは、薄焼きパンに肉や魚、チーズと香草類を挟んだサンドイッチに、スパイスの効いた衣をつけて揚げた鶏肉、干した果物とナッツをたっぷり入れて焼いたケーキ、クリームで練ったチーズを詰めたタルトといった豪勢なメニューだった。ティーゼがそれぞれの料理の天命を確認するやいなや、早速キリトが頂きますもそこそこに揚げ肉をつまんで口に放り込み、しばらくモグモグしてから学院の教師のような口調で言った。
「うむ、うまい。跳ね鹿亭に優るとも劣らない味だぞ、ロニエ君、ティーゼ君」
「わあ、ほんとですか」
ほっとした顔で少女二人が言い、互いに顔を見合わせて笑う。ユージオも負けじと手を伸ばし、魚の燻製を挟んだサンドイッチに大きくかぶりついた。はるかな昔、ギガスシダーと格闘するユージオにアリスが毎日届けてくれた弁当と違って、パンも白いしバターも贅沢に使ってある都会風の味だ。央都に来たばかりの頃は、洗練された上品な料理に馴染めず苦労したものだが、今では素直に美味いと思える。これが慣れるってことなのかな、と内心で呟きつつ、ユージオもティーゼに向かって頷きかけた。
「うん、すごく美味しいよ。でも、材料とか揃えるの、大変だったんじゃないの?」
「あ……えーと、実は……」
ティーゼは再度ロニエと目配せを交わすと、首を縮めながらかしこまって言った。
「ご承知のとおり初等生は特段の事情なく学院から出られないので、その……昨日キリト上級修剣士殿にお願いして、市場で揃えてきて頂きました」
「な、なんだって」
思わず唖然として、こちらに目もくれず料理をがっついているキリトを見やる。
「いつの間にそんなに打ち解けたんだ……僕の心配は一体……。お前なあ、そこまでしといて今更逃げようとするなよな!」
脱力感に続いてむかむかと腹が立ってきて、ユージオは一番大きく切り分けられたチーズタルトを掻っ攫うとがぶりと噛み付いた。
「ああっ、俺が目をつけていたのに……。ま、なんだ、俺としてはむしろユージオ修剣士殿に気を回したつもりなんだが」
「余計なお世話だよ、まったく。僕の方には何の問題もないぞ!」
にやにや笑うキリトに釘を刺してから、目をぱちくりさせているロニエとティーゼに向かって思わず愚痴っぽい口調になって言う。
「こいつはね、昔っからこういう奴なんだよ。二人で央都まで文無し旅をしてる頃も、最初は胡散臭がられたり怖がられたりする癖に、気付くと農家のおかみさんとか子供とかに気に入られて美味しいものを貰ったりしてるんだ。その手に乗せられないように気をつけたほうがいいよ二人とも」
しかしどうやらすでに手遅れだったらしく、俯いたロニエがかすかに顔を赤くしながら首を振った。
「いえそんな、手だなんて……。キリト先輩が、怖そうだけどほんとは優しい方なのは、すぐに分かりましたから……」
「あっ、もちろんユージオ先輩もですよ」
付け加えるティーゼに力ない笑みを返し、ユージオはタルトのかけらを口に放り込んだ。素知らぬ顔で尚も健啖ぶりを発揮しているキリトを、なんとか一度やり込めてやる方法は無いものか、と横目で睨んでいると、不意にティーゼとロニエが改まった様子で居ずまいを正した。
「あの……実はですね、お二方のその優しさを見込んで、ひとつお願いがあるんです」
「は、はい? ……どんな?」
ユージオが首をかしげると、ティーゼは赤毛を揺らして低頭した。
「大変申し上げにくいことなんですが、その……先日ユージオ修剣士殿が仰っておられた、傍付きの指名変更を教官に口添え頂きたく……」
「な、なんだって」
再度絶句してから、それではこの豪勢な料理は手切れの品だったのか、と暗澹たる気分に襲われつつユージオは念のため確認した。
「そ、それは……僕の傍付きを辞めたいという……? それともキリト……もしかして両方……?」
すると、ロニエとティーゼは伏せていた顔を上げ、一瞬ぽかんとした表情を見せてから、同時にぶんぶんと激しくかぶりを振った。
「ち、違います! 私たちじゃないです、そんな、とんでもないです。お二人の傍付き指名はむしろ代わって欲しいって子が一杯いて……いやそうじゃなくて、変更をお願いしたいのは、寮で同室の子なんです。フレニーカって名前で、すごく大人しい、いい子なんですが……その、付いた上級修剣士殿が、とても厳しい方らしくて、お部屋の掃除以外にも色々お命じになられて、それはいいんですが、ここ数日、些細な粗相に余りに厳しい懲罰を戴いたり、あるいは……学院内ではその、不適当と思われるようなお世話をお言いつけになったりと……」
言いづらそうに口篭もるティーゼの言葉に、先刻とは別種の驚きに打たれながらユージオは呟いた。
「なんだって……しかし、いくら修剣士でも、学院則に定められた範囲以外のことを傍付き練士に命じることはできないはずだけど……」
「はい、それは……院則に触れるようなことはもちろんなさらないようですが、院則もあらゆる行為を網羅しているわけではありませんから……違反にはならずとも、その、少々受容しがたいご命令を色々と……」
顔を真っ赤にして言を重ねるティーゼの様子を見て、ユージオはおぼろげに問題の修剣士がどのようなことをフレニーカという傍付き初等生に命じているのかを察した。
「いや、それ以上言わなくても大体わかったよ。確かに院則の文言だけを見てその精神を無視すれば、不埒な命令を強要することも不可能じゃない……。すぐにでも協力したいけれど……しかし、確か……」
頭の中で、二年前に暗記した学院規則の一部をなぞりながら続ける。
「ええと……上級修剣士の鍛錬を最大限支援するため、身辺の雑務役として一名の世話係を置く。世話係は、その年度の初等練士より成績順に十二名を選抜しこれに充てるが、上級修剣士とその指導教官の合意があれば、世話係を解任し、他の初等練士を再指名することを可能とす……だったかな。つまり、教官だけじゃなくてその修剣士本人の承認が要るんだよね。まあ、説得はしてみるけど……問題の修剣士の名前は?」
と訊いてから、ユージオはふと嫌な予感を覚えて眉をしかめた。ティーゼはしばらく逡巡したあと、言いづらそうに小声でその名を口にした。
「あの……ライオス・アンティノス上級修剣士殿、です」
聞いた途端、キリトが露骨な舌打ちをひとつ鳴らし、吐き出すように言った。
「あの陰険皇族め……ユージオに手も足も出なかったくせに、まだそんな腐った真似してるのか。今度は寸止めじゃなくて、ほんとにぶちのめしてやれよ」
「いや……もしかしたら、むしろ僕のせいかも……」
ユージオは唇を噛み、不思議そうな顔をしているティーゼに説明した。
「実はね、確か……六日前かな。ライオス修剣士に手合わせを申し込まれて、その……何というか、彼の誇りが大きく傷つくような勝ち方をしてしまったんだ。酷く恨まれたろうと思って気をつけてたんだけど、まさか自分の傍付き練士を苛めるなんて……」
「まったくだ、ただの八つ当たりじゃないか、下衆野郎め」
それを聞いても、ロニエとティーゼには事情がよく飲み込めないようだった。小さく首をかしげながら、覚束ない口調で呟く。
「ええと……つまり、アンティノス上級修剣士殿は、ユージオ先輩に手合いで負けたことの、ええと……何て言ったっけ……」
言葉を探すティーゼに、ロニエが同じく自信の無さそうな口調で助け舟を出した。
「腹いせ……って言いましたっけ、そういうの……」
「そう、それです。負けた腹いせに、フレニーカを辱めるような御用をお言いつけになられていると、そういうことですか……?」
おそらく、下級とはいえ貴族の長子として大切に育てられてきたのだろう少女二人には、卑劣としか言いようのないライオスの行為を理解することは容易ではないのだろう。表す語彙を持たないほどに、それは異質な思考なのだ。
彼女らに比べれば温室の花と野の雑草ほどにも違うユージオにとっても、理解も、ましてや納得のできることではなかった。
ルーリッドの村には、ジンクのような”意地悪”な子供は何人かいたが、彼らの行動は至極単純な理屈に基づくものだった。多分アリスのことが好きだったのだろうジンクは、いつも彼女と一緒だったユージオが必然的に気に入らず、靴を隠すような嫌がらせをしたのだ。その心理ならユージオにも理解できる。自分だって、まさにライオスのことが好きではないという理由だけによって、避けることもできた手合いを受け、折らずとも済んだ相手の木剣を折り、不必要な言葉を浴びせたのだ。
だが、それによって発生した怒り、屈辱を解消するのに、ほぼ唯一の選択肢であるはずの”剣の腕を鍛えて次はユージオに勝つ”という道を選ばず、ユージオとはまったく無関係である自分の傍付き練士――本来であれば教え導かねばならないはずの年若い少女を辱めて気晴らしするという思考はまったく理解できない。
腹いせ、八つ当たりという言葉が存在するのは知っている。ユージオも、幼い頃一度だけ、父が年長の兄にのみ買い与えた練習用の木剣が羨ましくて仕方なく、父手作りの不恰好な自分の木剣で何度も岩を叩いてそれを折ってしまったことがある。当然父親には、それは八つ当たりという最低の行為のひとつだとこっ酷く怒られ、以後二度と同じことはしなかった。
自分の木剣を折るのは禁忌違反ではないし、法に触れない範囲で後輩を苛めるのも同じく違反ではないのだろう。しかし――だからと言って、それは”やっていい”ことなのか? あの分厚い黒革の書物は、”ここに書いてあることは全てしてはいけない”というだけではなく、”ここに書いていないことは全て行ってよい”とも言っているのだろうか……?
長い沈黙のなかで、恐らくユージオと同じ疑問に翻弄されていたのだろうティーゼが、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「私には……私には、わかりません」
幼さの残る頬を強張らせ、細い眉をきゅっと寄せて、六等爵士の跡取りである少女は懸命な様子で言葉を続けた。
「アンティノス家と言えば、傍系とは言え皇位継承権を持つ三等爵家です。私やロニエ、フレニーカの家よりもずっと大きなお屋敷を構えて、領地には私有民だって沢山暮らしてるんです。つまり……ええと、その……」
しばらく唇を震わせ、また話しはじめる。
「……私のお父様は、いつも言ってました。うちが貴族なのは、遠いご先祖様が、今平民と言われている多くの人たちよりほんの少し早くこの土地に家を建てたからに過ぎない、って。だから私達は、平民の人たちより少し大きな家に住み、少しいいものを食べ、平民の人たちが収める税金の中から毎月お金を貰っているのを、当たり前と思ってはいけない……貴族であるということは、貴族でない人たちが楽しく暮らせるよう力を尽くし、そしてもし戦が起きたときは、貴族でない人たちより先に剣を取り先に死ななければならないということなんだ、って……。だから……だから、つまり、六等、五等、四等爵士よりも大きな家と沢山のお金を持っているライオス殿は、私達よりももっと平民の、そして下級貴族のことを考え、その人たちの幸せのために尽くさなければならないのではないのですか? 例え禁忌目録に書いていないことでも、それが民を不幸にすることであれば絶対に行ってはならない、とお父様は言いました。ライオス殿の行いは、確かに禁忌にも学院則にも触れないかもしれませんが……でも……でも、フレニーカは昨夜、ベッドでずっと泣いてました。なんで……なんでそんなことが許されるのでしょう……?」
痛々しいほど一生懸命に長い言葉を口にし終えたティーゼの両目には、大粒の涙が浮かんでいた。しかし彼女とまったく同じ疑問に突き当たったユージオは、彼女にどう答えてよいのか分からなかった。
「素晴らしいお父さんだな、一度お会いしてみたいよ」
その声があまりにも穏やかな響きを帯びていたので、ユージオはそれがキリトの口から出たものだということがすぐには分からなかった。
日ごろ剣呑な眼光で同期の生徒たちにすら恐れられている黒衣の修剣士は、樹の幹に上体を預け、胸の前で腕を組んで、いたわるような視線をティーゼに向けたまま続けた。
「ティーゼのお父さんが言っているのは、ノーブレス・オブリージという、文字にはなっていないがしかし何より大切な精神の在り様のことだ。貴族、つまり力あるものは、それを力なき者のためにのみ使わなくてはいけない、という……そうだな、誇りと言ってもいい」
初めて聞く異国風の言葉だったが、しかしその意味するところはユージオにもすぐに理解できたような気がして、思わず頷いた。キリトの声は、春風の中に尚も穏やかに流れ続ける。
「その誇りは、法よりも大切なものだ。例え法で禁じられていなくても、してはいけないことは存在するし、また逆に、法で禁じられていても、しなきゃいけないことだってあるかもしれない」
その、言わば禁忌目録を――つまり神聖教会を否定するような発言に、ロニエとティーゼがはっと息を飲んだ。キリトは二人をじっと見詰め、尚も口を動かした。
「ずっとずっと昔にいた聖アウグスティヌスという人がこう言ってる――正しくない法は法ではない、ってね。どんな立派な法や権威でも、盲信しちゃだめだ。例え教会が許していたって、ライオスの行為は絶対に間違ってる。罪の無い女の子を泣かせるような真似が許されていいはずがないよ。だから誰かが止めさせなきゃいけないし、この場合その誰かというのは……」
「ああ……僕らだろうね」
ユージオはゆっくり頷き、しかしいまだ飲み込めない疑問をキリトにぶつけた。
「でもキリト……法が正しいか正しくないか、誰が決めるんだ? 皆が好き勝手に決めたら、秩序なんてなくなっちゃうだろう? それを皆に代わって決めるために神聖教会があるんじゃないのか?」
教会が間違うなんてことがあるはずがない、とユージオは胸中で呟いた。確かに万能ではないのかもしれない、だからライオスの非道な行為を見逃してしまった。しかしそれは、ユージオの靴を隠すジンクの意地悪を見逃したのと、本質的には同じことではないのだろうか? ジンクの悪戯をシスター・アザリヤが叱り付けたように、ライオスの行為は自分とキリト、そして多分学院の教官が法の許す範囲で処断する。それは、教会の無謬性を疑うのとはまったく別の事であるはずだ。
ユージオの問いに答えたのは、キリトではなく、今までずっと俯いたまま黙していたロニエだった。常に控え目な黒髪の少女が、瞳に力強い光を浮かべてきっぱりした口調で言ったので、ユージオは少し驚いた。
「あの……私、キリト先輩の仰ったこと、少しだけわかった気がします。禁忌目録に載ってない精神……それって、つまり、自分の中の正義ってことですよね。法をただ守るんじゃなくて、なんでその法があるのか、正義に照らして考える……そう、疑うんじゃなくて、考えることが、大切なのかなって……」
「うん、その通りだロニエ。考えることは人の一番強い力だ。どんな聖剣よりも強い、な」
そう言って微笑むキリトの眼には、感嘆と、そしてそれ以外の何か奥深い感情が漂っているように見えた。二年付き合ってもまだ謎の多い相棒に、ユージオはふと湧いた疑問をぶつけてみた。
「しかしキリト、さっき言ってた聖アウグス何とかって奴は何者なんだ? 昔の司祭……それとも整合騎士かい?」
「うーん、司祭かな。別の教会の、だけどな」
そう答えてキリトはにやりと笑った。
空になったバスケットを一つずつ下げ、何度も手を振りながら初等生寮のほうへ去っていくロニエとティーゼを見送ったあと、ユージオは短く息を吐きながら相棒の顔を見た。
「……お前、何か考えあるか?」
尋ねると、キリトも口をへの字に曲げてしばし唸る。
「ライオスの件か……。俺たちが、下級生を苛めるのはやめろと言ったところで、素直にやめる奴じゃないのは確かだよな……しかしなあ……」
「しかし……何だよ?」
「いや……ライオスは確かに鼻持ちならない奴だけど、馬鹿じゃないよな……上級修剣士に選抜されるからには、剣の腕だけじゃなくて、神聖術とかその他学科の成績だっていいはずなんだ」
「まあね、腕っ節だけで選抜された誰かさんよりはね」
「そういう奴は二人いたって話だぜ、実は」
ついいつものように軽口の応酬を始めかけてから、そんな場合じゃないと思い直し、ユージオはキリトに先を促した。
「それで……?」
「だから、ライオスの奴は、本当に自分の傍付き練士に八つ当たりして満足するような馬鹿ったれなのか、って事さ……。確かに一時の気晴らしにはなるのかもしれないけど、長期的に見れば損失のほうが多いだろう? 悪い噂だって立つだろうし、教官の耳に入れば懲罰は無くとも注意くらいされてもおかしくない。体面に拘るあいつが、そんな危険を冒すかな……」
「でも……フレニーカって子に酷いことしてるのは事実なんだろう? 損得を計算できないくらいに、僕に負けたことに腹が煮え繰り返ってるってことじゃないのか? やっぱりこのままにはしておけないよ、僕にも原因があるなら、どうしたってひとこと言ってやらないと……」
「だからさ、そこだよ」
キリトは、ニガチグリの実を生で齧ったような顔で言った。
「もしかしたらこれは、俺たちを狙った手の込んだ罠なんじゃないのか? 俺たちが奴の仕業を抗議に行く、そこで何らかのやり取りがある、結果として俺たちが学院則に違反してしまう……みたいな仕掛けになってるとしたら……」
「ええ?」
ユージオは、予想外の言葉に思わず眼を丸くした。
「まさか……そんなこと有り得ないだろう。僕たちとあいつは同格の修剣士だよ、具体的な侮辱の言葉を口にしたりしない限り、何を注意したって逸礼行為にはならないはずだ。お前も、挑発されたくらいであいつのことをその……餌の食いすぎで飛べない灰色鴨を意味する単語呼ばわりするほど馬鹿じゃないだろ?」
「逸礼行為……ああ、上級生に対してのみ発生するあれか……あったなぁそんなの、すっかり忘れてたよ」
「おいおい、危ないなぁ。ライオスに会いにいくときは僕が喋るからな、お前は黙って怖い顔だけしてろよ!」
「おう、それなら得意だ」
はあっ、と溜息をついて、ユージオは結論を出すべく呟いた。
「ともかく、ティーゼ達に約束したんだ、放っておくわけにはいかないよ。まずライオスに口頭で注意して、それでだめなら指導教官に書面でフレニーカの配置換えを要請しよう。ライオスを聴聞くらいはしてくれるだろう、それだけでもあいつにはいい薬になるはずだ」
「ああ……そうだな……」
まだ浮かない顔のキリトの背を叩き、ユージオは丘の上に見える修剣士寮に向かって歩き始めた。ティーゼ達の話を聞いたときに感じた憤りは容易に去ろうとせず、自然とユージオの歩みを急きたてる。
二年前の春、何がなんだかわからないままに初等練士第六位の席次を与えられたユージオを丘の上の修剣士寮で待っていたのは、ゴルゴロッソ・バルトーという名の、とても二十歳前には見えない威丈夫だった。ユージオよりも頭一つ以上大きい体躯はがっちりとした筋肉に覆われ、口もとの整えられてはいるが黒々とした髭と相まって、最初は間違えて教官の部屋に入ってしまったかと思ったものである。
ゴルゴロッソは、萎縮の極みで立ち尽くすユージオを炯炯とした眼光でじろりと一瞥し、野太い声で短く「脱げ」と命令した。ユージオはまず唖然とし、次いで暗澹たる気分に襲われたが、逆らうわけにもいかず灰色の制服を脱いで下着一枚になった。再び強烈な視線が全身に浴びせられ――そしてゴルゴロッソは髭面をにかっと破顔させると、大きく頷いて「よし、よく鍛えているな」と言ったのだった。
心の底からほっとしながら再び制服を着たユージオに、ゴルゴロッソは自分も貴族ではなく衛兵隊上がりであるということと、席次順の振り分けではなくあえてユージオを指名したことを教えてくれた。以降一年間、彼はその豪放磊落ぶりで時折ユージオを困らせたが、決して理不尽なしごきをするようなことはなく、むしろ親身になって剣術の指導をしてくれたものだ。自分が上級修剣士にまで到達することができたのは、キリトのアインクラッド流実戦剣法と同じくらい、ゴルゴロッソの手ほどきになるバルティオ流の勇壮な型のお陰もあると、ユージオは今でも思っている。
ゴルゴロッソが惜しくも代表の選に漏れて央都を去るその日、ユージオは一年間秘めつづけてきた疑問を彼にぶつけた。何故、同じ衛兵推薦枠のキリトではなく自分を指名したのか――と。
刈り込まれた髭を撫でながら、ゴルゴロッソは答えた。――確かに、お前さんよりもあいつのほうがわずかに剣の腕は上だと、最初の選考試合を見たときに分かったさ。だがな、だからこそ俺はお前さんを指名したのよ。上を睨んで必死に足掻く奴だと思ったからな、俺のようにな。……まあもっとも、リーナの奴にキリトを譲れって言われたせいもあるがな。
がははは、と豪快に笑ってから、ゴルゴロッソは分厚い手でユージオの頭をごしごし撫で、言った。絶対に修剣士になれよ、そして自分の傍付き練士を大事にしてやれ、と。ユージオは嗚咽を堪えながら何度も頷き、去っていくゴルゴロッソが見えなくなるまで直立不動で見送った。
修剣士と傍付き練士というのは、単に上級生とその世話係というだけのものではないことを、彼は教えてくれたのだ。そこにあるのは、真の剣士の在り様を連綿と伝える魂の交流なのである。恐らく自分はゴルゴロッソ程の指導役にはなれまい、とユージオは思う。しかしそれでも、彼に教わったことの何分の一かでもティーゼに伝えるべく、全力を尽くさなくてはならない。そう――これこそ、さっきキリトが言っていた、“規則には書いていないが何より大切なこと”そのものではないか。
ライオスには分からないのかもしれない。傍付きになるのが嫌で選考試合で手を抜き、初年の席次を十三位に留めたあの男には。だとしても、言うべきことは言わなくてはならない。
正面のドアを両手で押し開き、寮のメインホールに入ると、ユージオはブーツを音高く鳴らしてそのまま三階のライオスの部屋を目指した。
SAO4_14_Unicode.txt
円筒形の修剣士寮は、二階と三階が学生の居室となっている。それぞれ六人ずつの修剣士が寝起きしており、一つの共用居間を挟んで二つの個人用寝室が連結した構造を持つ。
三階南面に位置するライオスの部屋のドアをユージオがノックしたとき、それに応えて誰何したのは同室のウンベールの声だった。
「ユージオ修剣士とキリト修剣士です。ライオス殿に少々お話が」
気負わないよう意識しながらユージオがそう言うと、内部はしばらく沈黙し、やがてドアが乱暴に押し開けられた。しかめ面で二人を迎えたウンベールは、穴掘ネズミを思わせる甲高い声で半ば叫んだ。
「事前に伺いも立てず押しかけるとは無礼な! まず押し印つきの書状で面会の許しを求めるのが筋であろう!」
ユージオが何かを答える間もなく、ウンベールの背後から鷹揚な調子でライオスの声が響いた。
「よいよい、私とユージオ殿の仲ではないか。お通ししたまえウンベール。こう突然では残念ながらお茶の用意はできないが」
「……ライオス殿のご厚情に感謝するのだぞ」
唇を突き出してそう言い、一歩退くウンベールの脇を、一体これは何の寸劇だと思いながらユージオはすり抜けた。
「一体こりゃ……」
後ろに続きながら、実際にその感想を口に出そうとするキリトの脛を踵で蹴って黙らせておいて、ソファーに身を沈めるライオス・アンティノスの前まで歩く。
三等爵家の跡取り息子は、既に貴族気取りなのか何なのか、いつもの純白の制服ではなくゆったりとした薄物のガウンのみを身につけていた。赤紫色の生地は悪趣味以外の何ものでもないが、艶やかな光沢は高級な南方産の絹特有のものだ。右手に持った、これも上等のカップから漂う香りは東域の白茶だろう。それに口をつけてゆっくりと啜ってから、ライオスは顔を上げてユージオを見た。
「……それで、我が友ユージオ修剣士殿におかれては、休息日の宵時に一体どのような急用かな?」
ユージオ達の部屋にある物とはこれもまるで違う革張りのソファーを勧める気はまるで無いようだった。その方が好都合だと思いながら、ユージオはライオスをでき得る限りの厳しい顔で見下ろし、言った。
「少々好ましからざる噂を耳にしましたのでね、ライオス・アンティノス修剣士殿。友がその芳名を汚す前にと、僭越ながら注進に参った次第です」
「ほう」
ライオスはやけに紅い唇の端をわずかに歪めて笑うと、再びカップを傾け、その湯気越しに切れ長の眼を細めた。
「これは意外でもあり望外のことでもあるな、ユージオ殿に我が名を案じて戴けるとは。しかし惜しむらくはその噂とやら、まるで思い当たらない。不明を恥じつつお教え願うよりないようだ」
これ以上こんな芝居に付き合っていられるか、とばかりに、ユージオは半歩にじり寄ると直截に言い放った。
「ライオス殿が傍付きの初等練士に卑しい行いをなさっておいでだとの話を聞き及んだのです。心当りがおありでしょう!」
「無礼であろうッ!」
半ば裏返った声を返したのは、いつの間にかライオスの右斜め後ろに従者のごとく控えていたウンベールだった。
「家系も持たぬ開拓民が三等爵家長子であられるライオス殿に、こともあろうに卑しいなどとッ」
「よいよい、構わぬウンベール」
目蓋を閉じ、ライオスは左手をひらひら振って子分を黙らせた。
「たとえ生まれは違おうとも、今は共に同窓に学ぶ一修剣士ではないか。何を言われようとも逸礼を責めることはできまいよ、この学院の中ではな。……しかしまあ、それが根も葉もない中傷ということになればまた別の話ではあるがな。ユージオ殿は一体どこからそのような珍妙な噂を聞きつけてきたのかな?」
「互いに無為な時間を過ごしたくはないでしょうライオス殿、惚けるのは無しにしましょう。根も葉もないことではありません、ライオス殿の傍付き練士と同室の者たちから直接話を聞いたのです」
「ほう? それはつまりこういうことかな? フレニーカが自らの意思で公式に、同室の練士を通じてユージオ殿に私への抗議を要請したと?」
「……いや、そうではありませんが……」
ユージオは思わず唇を噛む。確かにフレニーカという初等生から直接口添えを頼まれたわけではないので、根拠のない中傷と言い張られれば否定するのは難しい。
しかし、今や愉悦を隠そうともせず脚を組んでニヤニヤ笑っているライオスを前に引き下がることなどできる訳もなく、ユージオは鋭い声で問い返した。
「……ならば、ライオス殿こそ今公式に否定なさるのですね? ご自分が、フレニーカという傍付き練士にいかなる逸脱行為も命じておられないと?」
「ふむ、逸脱。奇妙な言葉だなユージオ殿。もっと分かりやすく、学院則違反と言ったらどうかな?」
「…………」
思わず歯噛みする。学院内規則とは言え、それは学生及び教官にとっては禁忌目録と同じくらい重要な規範であり、敢えて破ろうとする者など居ようはずもないからだ。いかに高慢なライオスでもそこまではしない、いやできないことはユージオにも分かりすぎるほど分かっている。しかし、だから尚のこと許せないのだ。院則違反でなければ何をしてもいい――と言わんがばかりの彼の行為が。大きく息を吸い、ユージオはさらに言い募った。
「ですが、学院則で禁じていなくとも、初等練士を導くべき上級生としてすべきでない事というのはあるでしょう!」
「ほう、それではユージオ殿は、いったいこの私がフレニーカに何をしたと仰るのかな?」
「……そ、それは……」
ティーゼ達に詳細な説明をさせるのが忍びなく、辱めの具体的な内容を聞かなかったユージオは、思わず口篭もった。するとライオスは大仰な仕草で両手を広げ、首を左右に振りながら溜息混じりに言った。
「やれやれ、さすがにそろそろ付き合いきれなくなって参りましたぞ、ユージオ殿。これではいくら私がよくとも、このウンベールが教官に明白な侮辱行為があったと報告するのを止めさせるのは、少々難しいと言わざるを得ないな。――言っておくがねユージオ殿。私はフレニーカが嫌がるようなことは一切していないと断言できるよ。何故なら彼女は一度も嫌だと言ったことがない」
ライオスは毒が口もとのカップに滴るような笑みを浮かべ、続けた。
「そう、いくつか他愛ないことを命じはしたがね。貴君も覚えておいでだろうが、先日修練場で手酷く敗北を喫してから私も心を入れ替えて鍛錬に打ち込んでいてね、それまで醜い筋肉がつくような稽古を控えていたせいもあって全身が痛くて仕方ない。已む無くフレニーカに毎夜、湯浴みの折に体を揉み解して貰ったまでのこと。どうかな、聞いてみればまったく他愛の無い話とユージオ殿もお思いだろう。その上、制服が濡れては困ろうと、フレニーカにも裸になることを許す寛大さ、わかって頂きたいな」
クックッと喉を鳴らして笑うライオスの顔を呆然と見やりながら、ユージオは心底にあまり覚えのない感情が湧いてくるのを意識していた。このような人間を言葉だけで、つまり学院則にも禁忌目録にも触れることなく説得することが果たして可能だろうか――という疑問。
木剣をその顔に突きつけて即座の手合いを申し込むべく右手をぴくりと動かしてから、ユージオは腰が空であることに気づいた。大きく何度か呼吸して無理やりに気を鎮め、可能な限り抑制した声を出す。
「……ライオス殿、そのような事が許されるとお思いなのですか。確かに……確かに院則に規定はありませんが、それは規定するまでもない事だからでしょう。傍付きに服を脱ぐよう命令するなど、なんと恥知らずな……」
「ハハハハハ!」
突然ライオスが口の端を大きく吊り上げ、けたたましい笑い声を発した。まるでユージオがその言葉を口にするのを待っていた、とでもいうように。
「ハハハ! ユージオ修剣士殿からそのような苦言を頂戴するとは思いませんでしたぞ、ハハハハハ! 聞けばユージオ殿はご自分が傍付き練士であった頃、あの人だか熊だかわからぬ修剣士に夜な夜な服を剥かれておったそうではないか!」
「奇しなる話ですなあ! 己は好んで裸になりながら、他人を恥知らず呼ばわりなどと、はっはっ!」
ウンベールがすかさずキイキイと追従の笑いを振り撒く。
再度襲ってきたある種の名状しがたい衝動に、ユージオの右手が大きく震えた。危うく明白な悪罵を口にしてしまいそうになった瞬間、背後のキリトが踵をこつんと蹴ってきて我に返る。
確かにゴルゴロッソは月に一度ほど、ユージオに上着を取るよう言うことがあった。しかしそれは筋肉のつき方を見て不足している修行を指摘するためで、ライオスの言うような後ろ暗い行為は一切無かった。だがそれをここで抗弁しても、ますますライオスらは調子づき、更にユージオ、そしてゴルゴロッソを言外に侮蔑しようとするだろう。だからユージオは全精神力を振り絞って衝動に耐え、静かに声を発した。
「私のことはこの際関係ありますまい。確かなのは、命令に抗いはせずとも、ライオス殿の傍付き練士はあなたの行為に苦悩しているということです。今後改善が見られないようなら、教官に公式に訴えて出ることも考えなければならないので、どうぞそのお積もりで」
ご自由にされるがよかろう、という言葉と更なる笑い声を背に受けながら、ユージオは足早にライオスの部屋を出た。
背後でドアが閉まるや否や、ユージオは右手を壁に叩き付けるべく振り上げたが、鍛え上げた今の腕力でぶちかませば建物自体の天命を減少させて――つまり壁にへこみを一つ作ってしまうかもしれないと気付き、やむなく腕を下ろした。学院内の建物や器物を意図的に損傷させるのは明白な禁忌違反である。鬱憤を斧に込めてどれだけぶつけても、まるでびくともしなかったギガスシダーが少しばかり懐かしい。
ささやかな代替行為として、ブーツをガツガツ鳴らしながら早足に階段を目指していると、背後からキリトの声がした。
「そう熱くなるなよ、ユージオ」
「……ああ。ステイ・クール」
「ステイ・クール」
昔キリトに教わった異国のまじないを交互に口にすると、パン屋の大釜のように赤く燃えさかっていた頭の中がほんの少しだけ冷えて、ユージオはふうっと長い息をついた。歩調を緩め、相棒と並ぶ。
「……しかし、意外だな。僕より先にお前のほうが切れると思ったけどな」
ユージオの言葉に、キリトはにやりと笑いながら左手で腰を叩いた。
「剣があったら危なかったな。ただ……さっき言ったとおり、何か裏があるんじゃないかと思って、我慢して様子を見てたんだ」
「そういえばそんな事言ってたな。すっかり忘れてたよ……で、どう思った?」
「やっぱりあいつら、意図的にユージオを挑発してたな。ティーゼ達から話がお前に伝わるのも計算済みで、あそこでユージオがライオスに何か言ってたら、それを”明白な侮辱行為”に仕立てて教官に訴えるつもりだったんだろう。結果お前は退院処分になり、奴らは祝杯を上げるって寸法だ。中々どうしてフラ……いや、貴族にも悪知恵の回る奴がいるもんだな……」
「つまり……フレニーカって子は、ライオスが僕を罠にかける餌に使われたのか……。なんてこった……」
ユージオはきつく唇を噛み、拳を握った。
「全部、僕があいつに手合いで恥をかかせたせいだな……目立つとろくなことは無いって、何度もお前に言われてたのに……」
「そう自分を責めるな」
キリトは、ユージオの右肩にぽんと手を置き、珍しく慰めるような声を出した。
「どうせ来週には、最初の選考試合があるんだ。代表になるためにはそこでライオスにも勝たなきゃならないんだから、早いか遅いかの違いだけだったよ。多分ライオスも、あれだけお前を嘲笑えば満足したろう。もし今後もフレニーカを辱めるようなら、すぐに教官に指導を要請できるよう書状の準備だけはしといたほうがいいけどな」
「ああ……ならいっそ、奴の前でヨツトゲバチに刺された子供みたいに泣いてやったほうがよかったかもな」
キリトの手を軽く叩いて謝意を告げ、ユージオはようやく肩の力を抜いた。
ライオスはおそらく、堂々たる外見に反して中身はまだ子供なのだ。自分にも手に入らないものがあるということが理解できず、昔のジンクのように無為な嫌がらせをしている。学院の多くの生徒の、ことに上級貴族出の者たちに、そのような傾向があることはユージオも気付いていた。自分の力を全て振り絞っても、どうにもならないこともある――ということを知らないせいだろう、とはキリトの弁だが。
次の選考試合で、多くの修剣士や教官の見守る中、連続技ではなく伝統的な型を用いて完膚なきまでに勝てば、おそらくライオスも目を醒ますのではないだろうか。だからと言って、もちろんこれまでの所業が洗い流されるわけではないが。自分はともかく、フレニーカにはきちんと謝罪してもらわなくてはならない。ライオスがあのような人間のまま学院を卒業し、三等爵士に任ぜられて帝国のそれなりの要職に就くなどと、考えただけでも恐ろしい。
階段を降りて二人の部屋に戻ると、ユージオは相棒がどこかへ消えてしまう前にきっぱりと言った。
「おいキリト、今日はちゃんと稽古に付き合ってもらうからな。最低五十本は相手をさせるぞ」
「なんだよ、やけにやる気じゃないか」
「ああ……もっと、もっと強くならなきゃいけないからね。ライオスに、稽古もしないで勝てるほど剣は甘くないって教えてやるために」
キリトはにっと唇の端を持ち上げ、その意気だ、と笑った。
「それじゃ今日は、ユージオ修剣士殿にも現実の厳しさを教えてやるか」
「ふん、言ってろ。負けたほうが明日ゴットロの店で特製肉まんじゅう大をおごるんだからな」
翌日午前の剣術実技の間も、午後の学科講義中も、ライオスはもうユージオとは目も合わせようとしなかった。ここ一週間の憎々しげな視線が嘘のように消え、以前の”道端を走るチュロスク”程度の扱いに戻ったことにユージオは少なからずほっとした。
選考試合のあとが心配と言えば心配だが、昨夜キリトと文面を相談して、指導教官宛の告発状の用意は済ませてある。あとは修剣士の押印を付けて提出すれば学院側も無視できず、ライオスとユージオ達双方の聴聞が行われることになる。そうなれば、めったにない事だけに全学院の噂に上ることは避けられず、それだけでも体面ばかり重んじるライオスには手痛い打撃となるはずだ。
退屈な帝国史の講義が終わると――何せ事件らしい事件はほとんど起きていないのだ――、ユージオはとっとと寮に戻り、フレニーカの件を注意しておいたことを報告するべくティーゼとロニエを待った。
ほどなく二人は、毎日の定刻である四時の鐘とともにぱたぱたと駆けてきて、敬礼するのももどかしく部屋の掃除を始めた。その間ユージオは自分のベッドに腰掛け、大人しく作業を見守る。
以前、何度も掃除を手伝おうとしたのだが、その度にティーゼに「これは私の重要な任務ですから!」とすごい剣幕で断られてしまった。思い返せば自分もゴルゴロッソに同じようなことを言った記憶があり、やむなくせいぜい部屋を散らかさないように気をつけているのだが、少女たちはそれも不満らしく、いつも掃除のし甲斐がないと唇を尖らせる。
銅のバケツと雑巾を手にくるくると駆け回り、きっかり一時間で居間と寝室の掃除を終えたティーゼは、ユージオが所在無く待つ部屋に入ってくると後ろ手にドアを閉め、かちっとブーツの鉄張りを打ち合わせた。
「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了しました!」
いつの間にかキリトも戻ってきたようで、閉じたドアの向こうからかすかにロニエの声もした。昨日のピクニックの時とは打って変わって緊張感に満ちた少女の顔に、思わず笑みを浮かべそうになるのを我慢しながら立ち上がり、敬礼を返す。
「はい、ご苦労さま。ええと……座らない?」
ベッドを指すと、ティーゼは一瞬目を丸くし、次いでかすかに頬を赤くしながら言った。
「はっ……そ、それでは、失礼致します」
とことこ歩き、ユージオからかなり離れた場所にちょこんと腰掛ける。
自分も腰を下ろし、上体だけをティーゼのほうに向けて、ユージオは口を開いた。
「例の件だけど……昨日、ライオスには抗議しておいたよ。あいつもこれ以上大事になるのは嫌だろうから、多分もうフレニーカに酷いことはしなくなると思う。近いうち、きちんと謝罪もさせるようにするから……」
「そうですか! ……よかった、ありがとうございます、上級修剣士殿。フレニーカも喜ぶと思います」
ぱっと顔をほころばせるティーゼに、ユージオは苦笑まじりに言った。
「もう仕事は終わったんだからユージオでいいよ。それに……僕も謝らないといけないことがあるんだ。昨日も少し話したけど……ライオスが今回みたいな卑劣な真似をしたのは、やっぱり僕を挑発するためみたいだった。僕が抗議に来たところを、あわよくば侮辱行為で告発する計画だったらしい……。つまり、そもそもの原因は僕がライオスを手合いでやりこめたことで、フレニーカはそのとばっちりを食っただけなんだ。一度、僕からもちゃんとフレニーカに謝りたいんだけど、機会を作ってもらえるかな……?」
「……そう……ですか……」
ティーゼは赤毛を揺らして顔を伏せ、何事か考えている様子だったが、やがてユージオを見てかすかにかぶりを振った。
「いえ、ユージオ上……先輩は悪くないです。フレニーカにはお言葉だけ伝えておきます。あの……す、少し、お傍に行ってもいいですか?」
「え……う、うん」
ユージオがどぎまぎしながら頷くと、ティーゼは一層頬を染めつつ体をずらし、わずかに体温が感じられるほどの距離まで近づいてきゅっと身を縮めた。唇が動き、囁くような声が漏れる。
「ユージオ先輩……私、ゆうべ眠る前に、一生懸命考えてみました。ライオス・アンティノス殿はどうしてフレニーカに酷いことをするんだろう、フレニーカが憎いわけでも恨みがあるわけでもないのに……どうしてそんなことができるんだろう、って。キリト先輩は、貴族は誇りを持たなきゃいけない、って仰いました。でも……私、ほんとは知ってるんです。上級貴族の中には、自分の領地に住む私有民の女の人を、その……弄ぶようなことをする人がいるって……」
ティーゼはさっと顔を上げ、秋に色づいた水樫の葉の色の瞳に薄く涙を滲ませながらユージオを見つめた。
「私……私、怖いんです。私は、学院を卒業したらそう遠くないうちに家を継ぎ、同格の貴族の次男か三男を夫に迎えることになると思います。……もし、私の夫となった人が、ライオス殿みたいな人だったら……? 誇りを持たない、周りの人に酷いことをしても平気な人だったらどうしようって思うと……怖くて……私……」
ユージオは息を詰めて、うるむティーゼの瞳を見返した。ティーゼの恐れは理解できると思ったが、しかし同時に、自分と彼女の間に存在する深く広い隔絶をも意識せずにはいられない言葉だった。ティーゼ・シュトリーネンという立派な名を持つ六等爵士の長女に対し、己は公式に姓を持つことすら許されない開拓農民の子なのだ。貴族社会に関する知識など、おそらく央都に暮らす十の子供よりも少ないだろう。
視線を逸らすと、ユージオは自分でもその空虚さにうんざりしたくなるような言葉を発した。
「……大丈夫だよ、ティーゼなら。きっと、優しくて誠実な人とめぐり合えるよ」
「…………」
ティーゼは長い沈黙を続けたあと、意を決したかのようにユージオの右腕にすがり、肩に額をおしつけて、ごくごくかすかに囁いた。
「ユージオ先輩……お願いがあるんです。絶対に学院代表になって、統一大会に出てくださいね。そこで上位に入れば、一代爵士に叙任されると聞きました。あの、それで……こんなこと言っちゃだめなんでしょうけど……もし、整合騎士になれなかったら……私……私の……」
それ以上は言葉にならないらしく、石のように固くした体を震わせるティーゼの小さな頭を、ユージオは唖然として見下ろした。
ティーゼが何を言っているのか、今度ばかりは理解するのに時間がかかった。飲み込むと同時に浮かんできた言葉――自分がこの場所にいるのは、ただ、アリスという名の女の子ともう一度会う、それだけのためなんだ――。
それを口にする代わりに、ユージオは左手でティーゼの頭をそっと撫でながら、短く呟いていた。
「うん……わかった。もし整合騎士になれなかったら、きっと君に会いにいくよ」
ティーゼはそれを聞くと大きく肩を震わせ、やがておずおずと顔を上げた。涙の光る頬に、早春の固い蕾がほころぶような笑みを浮かべ、年若い少女は小さな唇を動かした。
「……私も、私も強くなります。ユージオ先輩のように……正しいこと、言わなきゃいけないことをきちんと言えるくらい、強く」
さらに明けた翌日は、その春初めての荒れた空模様となった。
時折吹き寄せる、渦を巻くような突風に乗って大粒の雨が激しく窓を叩く。ユージオはふと剣を磨く手を止め、講義が終わったばかりだというのにすでにソルスの光を失いつつある空を眺めた。幾重にも連なる黒雲が生き物のようにうねり、その隙間を紫色の稲光が切り裂いていく。ルーリッドの村では、蒔いたばかりの麦の種籾を洗い流す春の嵐は忌み嫌われる存在で、アリスが子供ながらにして天候予測の神聖術を成功させたときはほとんどお祭り騒ぎだったものだ。もっとも、その恩恵に預ることができたのはわずか二年だけだったのだが。
学院で神聖術を習うようになって、ユージオはアリスの異才を今更ながらに実感させられている。天候をはじめ自然界に作用する術は、術式だけでも数十行から百行以上にも及ぶ高位術の代表格で、今のユージオでは明日が晴れか雨かをさえ予測することも覚束ない。一週間も前から嵐の到来を言い当てたアリスなら、今ごろ天候操作の術すらも習得しているのではあるまいか。だとしたらこの荒天は、いつまでも自分を迎えにこないユージオに腹を立てたアリスの怒りの嵐だろうか――。
「はーっ」
とりとめの無い想念を息と一緒に吐きかけ、さっと曇った青銀の刀身を油革で丁寧に磨く。週に一度の”青薔薇の剣”の手入れは欠かしたことのない習慣だが、学院に籍を得てからというもの、鞘から抜く機会があるのはこの時だけだ。日々の鍛錬は木剣で行うよう定められているし、選考試合では公平を期すためにまったく同一性能の剣を用いる規則になっている。神器に属する青薔薇の剣と比べると学院制式剣は玩具のように軽く、全力で振ると刀身が抜けて飛んでいってしまうのではと不安になるほどだが、入学試験のときに対戦相手の高価そうな剣を粉砕してしまったことを考えればおいそれとこの愛剣を振り回すわけにも行かない。
それでも、まだ実際に使ったことがあるだけマシか、と思いながらユージオは顔を上げ、向かいのソファーでキリトが気だるそうに磨いている黒い剣を見やった。
ギガスシダー最頂部の梢を切り取り、青薔薇の剣以上に重いそれを苦労して――キリトは最低三十回は「もうそのへんに植えていこうぜ」と言った――央都まで携え、ガリッタ爺さんに言われた細工師の店をこれまた苦労のすえ探し出して託し、剣の形に研ぎあがったのが何と一年後という代物である。偏屈を絵に描いたような細工屋の親爺は、これ以上はないという顰め面で、十年は保つはずの鉄鬼岩の砥石が三つも駄目になった、あんたらは二度と来てくれるなと噛み付いたが、一生に一度の仕事が出来たからと代金は取らなかった。
完成した剣は、漆黒の刀身に元が木の枝とは思えない深い光沢をまとっていた。キリトは二、三度振ってから一言「重いな」とだけ感想を述べ、スギの樹の意匠が施された黒革の鞘に収めたそれを寮の部屋の壁に掛けっぱなしにして、以後は手入れの時にしか触っていないはずだ。つまり実戦はおろか一度の試合すらも経ていないことになる。
あるいは、僕らはこの二振の剣をもう使うことはないのかもしれない――、とユージオはこの頃思いさえする。学院内の試合で使うことがないのは確定的だし、他十人のライバルに競り負けて学院代表の選に漏れればその後真剣勝負の機会など永久にあるまい。もし代表となれれば統一大会で使うことになろうが、そこで破れればやはり一度きりの出番だ。
つまり、この剣を今後実戦で使う場面が来るとすればそれは、針穴ほどの狭き門を突破して整合騎士に任ぜられ、飛竜に打ち跨って闇の軍勢と戦うとき以外に無いわけで、そんな状況はユージオには子供の頃聞いた御伽噺よりも現実味のないものに思えて仕方ない。剣の手入れをしていると常にとらわれるこの物思いの行き着く先は、果たして自分は何のために剣の修練をしているのだろう――という答えのない疑問だ。整合騎士として神聖教会の白亜の塔に至り、そこにいるはずのアリスと再会する、という目的があるにせよ。
「おい、キリト」
刀身を磨き終わり、新しい油革で鍔の掃除に取り掛かりながら、ユージオは相棒に声を掛けた。
「ん?」
こちらは何も考えていなかったらしい眠たげな顔に、何度目かの問いを投げかける。
「その剣の銘、いいかげん決めたのか?」
「うんにゃ……まだ」
「早いとこ決めろよ。いつまでも”黒いの”じゃあ剣が可哀想だろ」
「うーん……俺の国じゃあ剣の名前ってのは最初っからついてたんだよ……そんな気がするなぁ」
適当なことをぶつぶつ言うキリトに、苦笑混じりに更なる苦言を呈そうとしたその時、さっと目の前に片手が上げられてユージオはぱちくりと瞬きをした。
「なんだよ?」
「ちょっと待て、今の四時半の鐘じゃないか?」
「え……」
耳をそばだてると、確かに風の唸りに混じって、途切れ途切れの鐘の音が聞こえた。
「ほんとだ、もうそんな時間か。四時の鐘、聞き落としたな」
すでにほとんど闇に包まれている窓の外を見ながらユージオが呟くと、キリトは尚も厳しい表情のまま短く言った。
「遅いな、ロニエ達」
ユージオははっと息を飲んだ。言われてみれば、ティーゼとロニエが四時の鐘までに部屋の掃除に来なかったことは、傍付きに任ぜられてから一度もない。じわりと湧きあがる不安感をごくりと飲み込んで、無理矢理に笑みの形を作る。
「まあ、この嵐だからね。雨が止むのを待ってるんじゃないか? 別に掃除の時間まで院則で決まってるわけじゃないし……」
「あの二人が、雨くらいでいつもの時間に遅れるかな……」
キリトは何事か考えるように視線を落とし、すぐに続けた。
「何か嫌な感じがするな。俺ちょっと初等生寮まで様子を見に行ってくるよ。ユージオはここで二人を待っててくれ」
手入れ途中の黒い剣をぱちりと鞘に収め、それをテーブルに置いて、キリトは立ち上がった。雨避けの薄い革マントをばさっと羽織り、留め金をはめるのももどかしく、窓の一つを開け放つ。
「おい、表から行けよ」
ごうっと吹き込む湿った風に顔をしかめながらユージオは言ったが、その時にはもう黒衣の姿は張り出した木の枝へと身軽に飛び移り、がさりがさりという音だけを残して消え去っていた。まったく、という言葉を噛み殺して立ち上がり、ユージオは足早に駆け寄ると窓を閉めた。
再び嵐の音が遠のいた部屋に一人残され、ユージオは言いようのない不安が腹の底を這いまわるのを懸命に押し退けようとした。ソファーに戻り、手入れの終わった青薔薇の剣を白革の鞘に収めて膝に乗せる。
神聖術を使えば、二人が今居る方向くらいは知ることも可能ではある。しかし許可なく他の生徒を対象とした術を使用することは学院則で禁じられていた。こんな時に使えないなら、何のための術、何のための院則なのかと舌打ちの一つもしたくなる。
そのまま、やけに長い数分が過ぎ去った。不意に、こん、こん、という小さなノックの音が鳴り響き、ユージオは思わずほーっと長い溜息をついた。それみろ、窓から出たりするから行き違いになるんだ、と内心で呟きながら弾かれるようにソファから立ち上がり、早足で部屋を横切るとドアを押し開ける。
「よかった、心配した――」
そこまで言ってから、ユージオはぎょっとして言葉を飲み込んだ。視界に飛びこんできたのは、見慣れた赤毛と黒髪ではなく、風に乱れた桧皮色の髪の毛だった。
廊下にぽつんと立っていたのは、ロニエよりも更に小柄な、初等練士の制服を来た少女だった。短く切り揃えられた髪と灰色の上着はぐっしょりと雨に濡れ、しずくの垂れる頬にはまったく血の気がない。小鹿を思わせる大きな瞳は憔悴のみを宿して見開かれ、薄い唇はわななくように震えている。
唖然とするユージオを見上げ、少女はか細い声を絞り出した。
「あの……ユージオ上級修剣士殿でしょうか……?」
「あ……う、うん。君は……?」
「わ……私は、フレニーカ・シェスキ初等練士です。ご、ご面会の約束もなしにお訪ねして申し訳ありません……でも、私、ど、どうしていいのかわからなくて……」
「君が……フレニーカか」
ユージオは息を詰めながら、悄然と立つ初等練士を凝視した。およそ剣士らしくない、華奢と言うよりない体つきや、花冠を編んでいるほうが相応しそうな小さな手を見るにつけ、こんな子をいいように辱めたライオスへの怒りが改めて湧いてくる。
しかし、ユージオが言葉を続けるより先に、両手を胸の前でぎゅっと握り合わせたフレニーカが狼狽しきった声を出した。
「あの……ユージオ修剣士殿には、このたび私とライオス・アンティノス殿のことでご尽力頂きまして、真にありがとうございます。それで……これまでの事情はもうご存知のことと思いますので省きますが……ライオス殿は本日夜、私に、その、この場では少々説明の難しいご奉仕を命じておられまして……」
言葉にするだけでも身を焼かれるような恥辱を味わっているのだろうフレニーカは、蒼白の顔のなかで頬だけを痛々しいほどの血色に染めて、口を動かしつづけた。
「わ、私、このようなご命令が続くくらいなら、い……いっそ学院を辞めようと、そうティーゼとロニエに相談したのですが、それを聞いた二人は、直接ライオス殿に嘆願すると言って寮を出ていって……」
「なんだって」
ユージオは掠れた声で呟いた。両手足の指先がすうっと冷えていく。
「それで、二人が戻らないので、私、ど、どうしていいのか……」
「二人が出ていったのは、いつ頃……?」
「あの、三時の鐘が鳴ったすぐ後だったと思います」
すでに一時間半以上が経過している。ユージオは思わず天井を振り仰ぎ、唇をきつく噛んだ。ならばこの板一枚上に、ずっと二人は居たということなのか。抗議や嘆願をするにしても、余りに長すぎる。
さっと振り向き、相変わらず風雨に叩かれている窓を見るが、キリトが戻ってくる気配は無かった。この天気では、初等生寮と往復するだけでも十五分はかかる。とても待っている余裕はないと判断し、フレニーカに早口で告げる。
「わかった、僕が様子を見てくるよ。君はこの部屋で待ってて。手拭いとか自由に使っていいから……それで、キリトが戻ってきたらライオスの部屋に来るよう伝えてくれ」
不安げに頷くフレニーカを残し、ユージオは身を翻すと駆け出した。寄木細工の廊下を一気に走り抜け、階段に達したところで左手に青薔薇の剣を握ったままであることに気付いたが、今更置きに戻ることはできない。そのまま一段飛ばしに三階に向かう。
一歩ごとに、黒い不安の塊が胸の奥で増大していくようだった。
ティーゼとロニエが、こんな無謀な挙に出た理由は明らかと思えた。ユージオとキリトが抗議しても効果が無かったことと、それにもう一つ、昨日ユージオの部屋でティーゼが発した言葉――強くなる、正しいことを言えるように、という一言のためだ。彼女は、自らの誇りにかけて、苦しむ友人を助けようとしたのだ。
だが――もしかしたら、それこそが……。
「最初からそれが目的だったのか……? 僕じゃなく、ティーゼ達を……?」
走りながらユージオは呻いた。
同格の修剣士同士なら、ほとんどの言葉は問題とならない。だが、初等練士が修剣士に抗議するとなれば話は別だ。よほど真剣に言葉を選ばないと、学院則に定める逸礼行為に該当してしまう。そしてその場合、上級生には指導者格としての懲罰権が発生する。
「懲罰権……」
ユージオは懸命に頭の中で院則の頁を繰る。”上級生が下級生に下す懲罰として、以下の命令より一つのみを許可する。一、居室の清掃、二、木剣を用いた修練(別項に詳細を記載す)、三、三十分以内の直立不動姿勢。但し、全ての懲罰において上級法の規定を優先す”……。
上級法――とはこの場合帝国基本法及び、言わずと知れた禁忌目録だ。つまり、他者の天命を減少させてはならないという禁忌が何より優先するという原則は変わらない。ライオスもそれを無視するのは不可能で、だからもし懲罰権を行使されたところで心配するほどのことはないはずなのだ。
なのに、突き刺さるような不安感は一向に去ろうとしない。
閉ざされたドアの前で立ち止まると、ユージオは息が整うのも待たず、右拳を乱暴に叩きつけた。
すぐに、奥からくぐもったライオスの声が応えた。
「おや、随分遅いお出ましだな、ユージオ上級修剣士殿。さあ、さあ、どうぞ入ってくれ給え」
来るのを待ちかねていた、とも取れるその言い回しに一層の憂慮を募らせながら、ユージオは我知らず呼吸を止め、一気にドアを引き明けた。
いくつものランプに照らされた共用居間に、ティーゼとロニエの姿は無かった。すでに辞去したあとか、とわずかに胸を撫で下ろす。
部屋中央の豪奢なソファーセットに、先日と同じ絹のガウン姿のライオスが深く身を沈めていた。が、今日は赤紫の薄物をだらしなく着崩し、同色のサッシュでかろうじて前を合わせているだけだ。はだけた布から、生白い肌が腹近くまで覗いている。右手には細長いグラスを持ち、満たされているのは赤葡萄から作った酒らしい。
向かいには、ウンベールともう一人、別室に居住しているはずの取り巻きであるラッディーノの姿もあった。こちらはライオスよりも更に見苦しい格好で、ラッディーノは修剣士の制服の上着を脱ぎ、白いシャツをボタンも留めずにただ羽織っている。ウンベールに至ってはズボンを穿いているだけで、修練の気配もない痩せた上体を露わにしていた。
取り巻き二人は、ソファーにほとんど寝転がるように浅く腰掛け、ユージオには目もくれずぼんやりと天井を見ていた。ウンベールの、どこか魂の抜けたような呆け顔を見ているうち、ユージオは先刻に倍する不安が背筋を這い上りはじめるのを感じた。何かがおかしい、何かがあったのだ、とてつもなく悪い何かが――という、拭いがたい直感。
ユージオは改めてライオスに視線を向けると、鉄錆に似た味の広がる舌を苦労して動かした。
「ライオス・アンティノス上級修剣士殿――つかぬことを伺いますが、本日ここに、私の傍付きであるティーゼ・シュトリーネン初等練士と、キリト修剣士の傍付きのロニエ・アラベル初等練士が訪ねて参りませんでしたか?」
ユージオの掠れ声に、ライオスは即答せずにやけに濁った両眼だけを動かし、薄い笑みが貼り付いたままの唇にグラスを当てると、紅い液体を一気に干した。卓上からさぞ高級品と思しきラベルのついた瓶を取り上げてグラスを満たし、さらにもう一つのグラスにも酒を注ぐと、それをユージオに向かって差し出す。
「……ユージオ修剣士殿、お顔の色が優れないようだ。どうだね、気付けに一杯。上物だよ」
「お気遣い無用。質問に答えて頂けませんか」
左手に握ったままの剣の鞘に、じっとりと汗が滲んでいるのをユージオは意識した。ライオスは、まるでそんなユージオの様子を肴にするかのようにじろじろと眺めながら、己のグラスをちびりと嘗め、テーブルに戻した。
「ふむ。……あの二人は、ユージオ殿とキリト殿の傍付きであったか」
変わらず粘つく口調でそう言うと、舌先で唇についた滴を嘗めとり、続けた。
「誉れある上級修剣士と相対するにしては、少々元気の良すぎる初等練士ではあったな。ただ、気をつけねばならないよ。威勢の良さは、時として非礼ともなり、不敬ともなる。そうは思わないか、ユージオ修剣士殿。……いや、これは私も失敬だったか。ユージオ殿に貴族の礼儀を問うなど、少々意地が悪かったかな、ふ、ふ」
やはり、ティーゼとロニエはここに来たのだ。ユージオは、ライオスの襟首を締め上げたくなる衝動に耐えながら、更に鋭く問いただした。
「ご高説は又の機会に拝聴します。ティーゼとロニエは、今どこにいるのです」
ユージオの声と表情を味わうがごとく、ライオスは更に一口酒を含み、ごくりと嚥下した。どろりと濁った視線でユージオを舐め、更に煙に巻くようなことを呟く。
「……いや、そもそも、ユージオ殿には荷が重かったのではないかな? 失礼ながら遥か辺境で木など挽いていた輩が、下級とはいえ爵家の息女を導こうなどと? そうだとも……ユージオ殿の指導が足りないから、あの二人は伏して尊ぶべき三級爵家長子の私に、礼の足りないことを言ったりするのだ。なれば私としても、意に染まぬことながら、己が義務を果たさねばならぬ。分かって頂けるかな、ユージオ殿。私は貴君になり代わり、上級修剣士として正しき躾を施したまで」
「ライオス殿……! いったい……」
何をしたのだ、と言い募ろうとしたユージオを制するように、ライオスはグラスを持ち上げた。満たされた酒をちゃぷんと鳴らしながらその手を動かし、居間から自分の寝室へと続くドアのほうを指し示す。
「初等練士二名は、法に則った賞罰権の行使の結果、少々疲労した様子であったゆえ隣室で休ませている。引き取るというのなら、どうぞご自由に」
学院則ではなく法、懲罰権ではなく賞罰権という言葉をライオスが選んだことにどのような意味があるのか、ユージオにはすぐに察することができなかった。ただその言葉に、とてつもなく悪い何かが絡みついていることだけは解った。
動こうとしない首を無理矢理に回し、ユージオは寝室のドアを見た。
ぴったり閉じられたその扉の手前の床に、ひとかたまりになった布がわだかまっているのにユージオははじめて気付いた。厚手の灰色の布が何なのか悟ったのは、折り重なったその隙間から覗く橙色のスカーフが目に止まった後だった。
それが、初等練士の制服であるのは最早疑いようもなかった。そして鮮やかな橙は、上位十二名の傍付き練士の証。
自分の一挙手一投足をも見逃すまいとするようなライオスの視線を頬のあたりに感じながら、ユージオは悪寒に震える体を動かし、のろのろとドアに歩み寄った。落ちた制服をまたぎ、ドアノブに手を伸ばす。
鋳銅製の握りは、掌に貼り付くほどに冷たく感じられた。一瞬の躊躇を振り払い、ユージオはノブを回して、わずかにドアを押し開いた。
内部に灯りはなく、ほぼ完全な暗闇だった。半分ほどカーテンの開いた窓から、厚い雲に遮られたソルスの灰色の光がほんのわずか差し込んでいる。ユージオは目を細め、懸命に暗がりを見通そうとした。
動くものはなかった。部屋の右側には無闇と大きな衣装箱が並び、奥の壁際には華美な形の文机が据えてある。中央には、これも巨大としか言えない天蓋つきのベッドが鎮座し――そして毛足の長い絨毯の上に、灰色の制服がもう一着投げ出されているのが見えた。更にいくつかの、小さな布の塊も。
その時、窓の向こうで一際激しく稲妻が空を裂き、部屋の中を一瞬明るく照らし出した。直後訪れた凄まじい雷鳴を、しかしユージオはまったく意識することはなかった。切り取られた光景が目の奥に焼きつき、ユージオの思考を完全に奪い去った。
ベッドの上に、雷光に青白く輝く二つの姿があった。ユージオはおこりのようにがたがたと震える右手を懸命に動かし、ドアを大きく開いて居間の明かりを寝室へと導いた。
広大なベッドを覆う白絹のシーツに、一糸纏わぬ姿の二人の少女がその身を横たえていた。黒髪の少女は半ばうつ伏せの格好で顔を枕に埋め、ぴくりとも身動きをしていない。赤毛の少女は仰向けに四肢を投げ出し、薄い裸の胸を浅く上下させていた。
「……なん……で……」
何だこれは、とユージオはぼんやりと考えた。こんなことがある筈が無い、とその一言だけを頭の中で何度も繰り返し、眼前の光景を否定しようとした。
しかし、ティーゼの紅葉色の瞳が――ほんの一日前、ユージオに縋り付き、溢れんばかりの感情をきらきらと輝かせていたあの美しい瞳が、今は虚ろに宙に向けられ、光を失っているのを見たとき――その下の白い頬に半ば渇いた幾筋もの涙の跡を見たとき、ユージオはこの部屋で行われたことを、その非道と残酷の全てを、完全に悟った。
相変わらず轟く雷鳴が部屋に満ちていたが、ユージオにはもう甲高い耳鳴りしか聞こえなかった。ふらふらとよろめくように数歩あとずさり、ティーゼの、あるいはロニエの制服に足を取られて、無様に尻餅をついた。
その格好のまま、ユージオはこちらに向けられ続けているライオスの顔を見上げた。
三等貴族の跡取りは、今や整った白皙に、隠そうともせず満面の興趣と愉悦の笑みを張り付かせていた。しばし呆然とその表情を眺めたあと、ユージオは割れた声で呻くように訊ねた。
「なぜ……どうしてこんなことを……? 懲罰権を……逸脱した……学院則違反では……」
それを聞いたライオスの赤い唇の端が、裂けんばかりにきゅうっと吊りあがった。喉が激しく上下し、次いで必死に抑えていたものが溢れ出したかのように、甲高い笑いが迸った。
「く、くく……くっ、くはは……ハ、ハハハハッ……ハハハハハハ! キャハハハハハハ!!」
手のグラスから葡萄酒の飛沫がガウンに散るのも構わずに、ライオスは身を捩り、足を踏み鳴らして哄笑を続ける。
「キャハハハハハ! だ……だから貴君は山出しだと言うのだ!! 大人しく故郷で薪でも割っておればよいものを……ハハハハッ……のこのこ央都に上って、貴族の真似事などしようとするから痛い目に……キャハハッハハハハ!! よ、よいか、教えてやろうこの山ザ……おっと、うむ、山に棲む毛だらけの人っぽいもの、これならいいかな、ハハハ! 貴君の傍付きは、この私、三等爵家長子たるライオス・アンティノスに不敬甚だしい物言いをしたァ! ゆえに私には学院則にのっとり懲罰を下す権利があァる!」
ライオスはがばっと立ち上がると、絨毯に尻をついたままのユージオを見下ろすように上体を屈めた。
「しかし学院則の懲罰権規定にはこうある! 全ての懲罰において上級法の規定が優先すると! いいか山出し! つまり、帝国基本法を適用することが可能ということなのだ! 私は三等爵士の長子、そして貴君の傍付きは六等爵士の娘だァ! 貴族の子弟間の不敬行為は親同士のそれに準ずる! よって私には、帝国基本法に定められた、貴族賞罰権を行使する権利があるのだァ!!」
「……な……何だと……」
ユージオは愕然として、そう漏らすことしかできなかった。ライオスの勝ち誇った長広舌は更に続く。
「賞罰権はいいものだぞォ、平民! 学院則のような掃除だの稽古だのといったケチ臭い規定は一切無しッ! 禁忌に触れない限り――つまり天命を減少させない限り、何をしようと、何を命じようと自由なのだッ!! 我が父など、私領地の麗しき蕾をいくつ摘み取ったか知れぬわ! よいか、これが貴族ッ!! これが権力というものだッ!! 分かったかァ無姓の輩あッ!! み、みの……みのっ、みのォ……」
ここ一週間――いや、もしかしたら入学当初から二年間に渡って醸しつづけてきた鬱憤を晴らす悦楽のせいだろうか、ライオスはぐるんと白目を剥き、陶然と体を震わせながら言い放った。
「身のほどをォォォッ! 知れェェェェッ! キャハッ、キャハハハハハハ!!」
ユージオは、頭の中が妙に冷たく静かなのを不思議に思った。怒りも、憎しみも、悲しみすらもそこには無いようだった。しかしすぐに、そうではなく、一つのある感情が余りに巨大すぎて他を完全に圧しているのだと自覚した。
その感情の名前を、ユージオは知らなかった。ただ、単純に、目の前の汚らしく、卑劣で、厭わしい存在を未来永劫消し去りたいという欲求だけがそこにあった。
ライオスの言葉が真実だとは――年若いティーゼとロニエに、複数人で陵辱の限りを尽くした行為が法で認められたものだなどとは、どうしても信じたくなかった。しかし、皮肉なことに、ライオスがそれを成し得たという事実そのものが、その行為の合法性を追認しているのだった。
そしてその事実は同時に、己にライオスを処断するいかなる権限も無いのだということを冷厳に告げてもいた。左手の剣で斬りかかることは勿論、哄笑するその口に拳を叩き込むことも、いや、言葉で罵ることすらも、ユージオには許されないのだ。
しかしならば――ならば法とは何なのか!?
人々の暮らしを守り、世界の秩序を守るためにあるのが禁忌目録であり、帝国基本法なのではないのか。ルーリッド教会のシスター・アザリヤは、子供のユージオに向かって確かにそう言った。ではなぜ、法はティーゼとロニエを守れなかったのか? なぜ、友人を助けようと勇気を振り絞った少女たちにあのような残酷を許し、そして今ユージオに剣を抜くことを許さないのか? これらすべてが法の定めた結果なのならば、正義は一体どこに存在するというのだ?
いつしかユージオの視界は千々に乱れ、大きく歪んでいた。それが溢れ出した涙のせいだと気付くには少し時間がかかった。
そんなユージオの顔を見下ろして更にひとしきり高笑いしたあと、ライオスは右手の葡萄酒を干し、溢れた赤い液体を左手で拭いながら空いたグラスを床に放った。
「さて……それでは、せっかく指導者たるユージオ殿がおいでなのだ。引き渡す前に、傍付きの躾け方というものを、もう一度きっちりとお見せしようではないか。さあさあ、立って我が寝室に入り給え」
ユージオは左手の剣を支えにして、よろけながら立ち上がった。袖口で涙を拭い、何度か大きく呼吸をしてから、ぼそりと呟いた。
「こ……これ以上何か言ってみろ。その汚らしい舌を……根元から切り取ってやる」
それを聞いたとたんライオスはぴくりと眉毛を動かし、一層興が乗ってきたと言わんがばかりに薄く笑った。
「おやおや、気をつけたほうがいいですぞユージオ殿。いかに同格の修剣士とは言え、脅迫的な言辞は危ない、危ない。貴君を告発するような真似は、私としても不本意……」
「黙れ、ライオス・アンティノス」
嘲弄めいた台詞を途中で遮ると、ライオスはさすがに鼻白んだように口を閉じた。ユージオは一歩前に出、それだけで非礼行為となるほどの近距離から相手の眼を凝視した。
頭の中は相変わらず冷え切っていた。ほとんど勝手に口が動き、抑揚の無い声が流れ出した。
「ライオス……お前がこのあとすることはたった一つだ。ロニエとティーゼに謝罪し、地に手をついて許しを乞い、そして残りの人生全てを己の罪を償うために生きると誓え」
「ハァ? 何を戯けたことを言っているのだ貴君は」
ライオスの唇が限界まで歪められ、最大級の蔑みを形作る。
「謝罪? 償う? なぜこの私が? 先ほど懇切丁寧に説明してやったではないか。私の行いは全て、あらゆる法に認められた当然の権利なのだよ。あの二人の初等練士ですら、一度聞いたら己が立場を理解したぞ。少々五月蝿く泣き喚きはしたが、決して拒否も反抗も……」
「黙れと言った!!」
再び目尻に涙がにじむのを感じながら、ユージオは叫んだ。自分たちが卑劣極まる陥穽に落ち込んでしまったことを、そしてもう誰も助けてくれる者はいないのだということを理解せざるを得なかったティーゼとロニエの絶望を思うと、おのれの胸を引き毟って血を全て流し尽くしてしまいたいほどの悲痛に苛まれずにはいられなかった。
「ライオス、お前は間違っている。たとえ学院則、帝国基本法、そして禁忌目録が禁じていなくとも、絶対にしてはいけないことだってあるはずだ。……彼女たちがお前に何をした? これほどの仕打ちを甘受しなくてはいけないほどの、どんな罪を犯したというんだ!?」
「貴君の暗愚もここに極まれりだな」
ユージオの言葉など煩わしい小蝿の羽音とでもいわんがばかりに、ライオスは右手をぶらぶらと振った。
「何を言い出すかと思えば……賞罰権の行使は我々上級貴族の生来の権利であるぞ。してはいけないこと? そんなものがどこにある? 禁じられていなければ、それは行っていいことなのだ、当然! あの二人の罪、それは、家系も辿れぬ山出し修剣士にうかうかと感化され、高貴なる血筋の者に苦言めいた大口を叩いたことだ! ふ、ふ、私にはわかっていた、いずれこうなるとな……。よいか、それはつまり、貴君の愚かしさでもあるのだぞ!」
この夜のライオスの言動のなかで、唯一それだけは正しいと、ユージオは思った。ライオスの企みを看破できず、ティーゼ達の行動も予測できなかった自分の愚かしさがこの悲劇の一因となったことは、疑いようもない事実だった。
ならば、自分はどうすればいいのか? ライオスの罪だけでなく、己の罪にすら目を瞑り、全てを無理矢理忘れ去って、偽りにまみれた日々を生きていく……?
そんなことができるものか、と内なる声が叫んだ。
だが、同時に、もう一人の自分が耳もとでせせら笑う声を、ユージオは聞いた。
――今更そんな大言を吐く資格が、お前にあるのか? お前はもう、すでに長すぎるほどの年月を、嘘と偽りで塗り固めつづけてきたんじゃないのか? お前はなぜ、アリスが整合騎士に連れ去られるのを木偶の坊のようにただ見ていた? お前はなぜ、六年もの間、絶対に切り倒せない樹を叩きつづけることしかしなかった? お前はなぜ、央都に辿り付いたというのに教会の門に近寄ろうともせず、整合騎士を目指すなどというあまりに狭く迂遠な道を選んだのだ?
――だって、仕方ないだろう。法に従えば、僕にはそれら以外の選択肢は無かったんだ。
――それが汚らしい嘘だということに、お前はもう気付いているはずだ。お前は、本当は、怖かったんだろう、アリスが? 禁忌目録に違反したアリスを、教会への反逆者として心の底では忌み恐れ、会いたいと思うのと同じかそれ以上に、もう会えなくてもいいと思っていたんじゃないのか? お前が法に従うのは、それが法だからではなく、従っていれば楽だからだ。自分の弱さから目を背けていられるからだ。そんなお前に、今更、法の正義などという言葉を吐く権利があるのか?
その声が全き真実を告げていることを、ユージオは否定できなかった。
なぜなら、今日この時に至るまでユージオは、どうしてあの時アリスが一歩を踏み出したのか理解できないでいるのだ。憎むべき教会の敵である闇の国の騎士を、禁忌目録に反してまで助けようとしたあの行為にどんな意味があったのか、まったく解らないままなのだ。そんな自分が、アリスにもう一度会うために整合騎士になりたいなどと――あまつさえ、アリスを教会から助けたいなどと――。
なんという欺瞞。
なんという醜い偽善だろう。本当は、アリスを助けたいわけじゃなかった。ただ、アリスを忘れ、諦め、見捨てることの都合のいい言い訳を探していただけだったのだ。ライオスと同じだ。法を、ただ都合のいいように解釈し、自分が楽になるために利用した。そう――アリスとはまったく逆。アリスは、他人、しかも忌むべき闇の騎士を助けるために、法を犯した。法よりも大切な何かに殉じるために。
今はじめてユージオは、法、つまり禁忌目録とそれを定めた神聖教会よりもさらに正しく、大切な”何か”の存在を明確に意識した。禁じられてはいないがしてはいけないことがある。同じように、禁じられてはいるがしなくてはいけないこともある。アリスはそれに従い一歩を踏み出した。そして今、ユージオの番が来たのだ。アリスの行為よりもはるかに呪わしく、おぞましい所業ではあるが、しかし――今のユージオが、ティーゼとロニエのためにできることは、もうそれしかないと思えた。
「ライオス」
ユージオは、寝室に足を踏み入れようとしたライオスを、背後から呼び止めた。
「例え法と教会が許しても、僕はお前を許さない。謝罪する気が無いというなら、その罪は……命で償え」
右手で握った青薔薇の剣の柄は、氷で出来ているかのように冷たかった。腰を落とし、抜刀の構えを取るユージオを、振り向いて眺めたライオスは、ほとほと呆れ返ったと言わんがばかりに両手を広げた。
「何なのだそれは? 脅しのつもりか……それとも冗談の類かな? 忘れてしまったのなら教えてやるが、その骨董品をここで抜けば学院則違反、私に毛ほども傷をつけたら禁忌目録違反なのだぞ?」
「糞食らえだ、学院則も、禁忌目録も」
聞いた途端、ライオスの目が丸くなり、次いで驚きと喜悦の叫びが迸った。
「おッ、おッ! 聞いたかウンベール、ラッディーノ!」
足早にソファーの前まで戻り、ユージオに細長い指を突きつける。取り巻き二人にもユージオの言葉は聞こえていたらしく、こちらは純粋に信じられないという仰天のみを表して口をぽかんと開けている。
「ハハハ! キャハハハハ! この山出しの言ったことは、明らかに教会への不敬行為だぞ! まさか、これほど思い通りに踊ってくれるとは! お前は終わりだ、ユージオ! 聴聞にかけられた挙句退院処分は間違いなァい! ハハハハハハ!!」
上体を捩って哄笑するライオスを見ても、もうユージオの胸中には細波ひとつ立つことはなかった。呼吸を整え、更に腰を落とし――
一閃でライオスを切り伏せるべく、右手を疾らせた。
しかし、直後、がちん! という岩にぶつかったかのような衝撃とともに腕が止まった。
ユージオは驚愕して左腰に溜めた剣を見下ろした。鞘と柄に鎖か何かが溶接されているとしか思えない手触りだったからだ。だが、そこには何もなかった。青みを帯びた刀身が、わずかに親指の幅ほど覗いているだけで、縄も、鎖も、抜剣を阻むものは何ひとつ存在しない。
「な……」
ユージオは驚愕し、更に右腕に力を込めた。しかし剣は動こうとしない。歯を食い縛り、関節が軋むほどの力で抜こうとしても、まるで鞘と刀身が一体化でもしてしまったかのように、ぴくりとも動かない。
「くふっ……はは……ハハハハ! 何なのだ貴君は! 往来で小銭をねだる道化か何かか!?」
ライオスは、可笑しくてたまらぬと言わんがばかりに目尻に涙を滲ませ、腹を押さえて笑いつづけた。
「出来もしないことを大袈裟に! ハハハハハそれともそんな小芝居でこの私を脅かそうとでもいうつもりかなハハハハハハ!」
「ぐ……ぬ……ぁ……っ」
食い縛った歯がみしみしと悲鳴を上げるのも構わず、ユージオは唸りながら全身の力を振り絞って剣を抜こうとした。一体なぜ、この場面で、二年の長きに渡って自分を支え続けてくれた青薔薇の剣が自分を裏切るのか解らなかった。あるいはこの剣すらも、教会の支配下にあると言うのか? 禁忌に触れる目的のためには鞘から抜けないとでも言うつもりなのか?
「ぬ……ぅ……ッ!!」
しかし、次の瞬間、ついに刀身がほんの少し――髪の毛一筋ぶんほど動いた。
同時に灼熱の鉄串にも似た凄まじい激痛が脳を貫き、ユージオは真実を悟った。自分を裏切っているのは、剣ではなく、自分自身であるということを。あれほど己の欺瞞を悔い、覚悟を決めたつもりでいたのに、尚も頭の中に巣食う何者かが禁忌目録を遵守しようとしているのだ、ということを。
「ぐ……く……!!」
毛一筋ぶんずつ剣を抜くたびに耐えがたい激痛が弾け、ユージオの目から堪えようもなく涙が溢れた。歪む視界の中で、ライオスは栓が抜けたような爆笑を続けている。
「ハハハハハハハアハアハアハ! 滑稽……これほど滑稽なものを……見たことがないぞ……キャハハハハアハアハァ!」
激痛は最早、銀色の光となってユージオの頭から足のつま先までを駆け巡っていた。十八年と少しの人生の中で、ついぞ味わったことのない痛みだった。だが、ユージオは腕を止めなかった。ここで剣を引くことはできない、それだけは絶対にできないという一念だけがユージオを駆り立てていた。
銀色の痛みは、ついに具体的な光の線となって視界を飛び交いはじめた。花火のような閃光を縦横に残しながら、寄り集まり、また離れ、奇妙な形を描き出す。それが、ステイシアの窓に浮かぶような神聖文字に似ていることを、わずかに残された思考の片隅でユージオは意識した。”SYSTEM ALERT”、そんなような形の光が目の前一杯に広がったが、ユージオはそれに向かって、すべての力を振り絞りながら絶叫した。
「消えろおおおおオオオオ!!」
視界が銀一色に染まり、最後の、そして恐るべき痛みが右目に集中した。ばしゃっという感触とともに、涙の代わりに大量の鮮血が迸るのをユージオは見た。
「ハハハハハハハアハァアハァアハハハァァァァァァァ――――――」
白目を剥いて哄笑の尾を長く伸ばすライオス目掛けて、枷を打ち払い鞘走った青薔薇の剣が稲妻のごとく襲い掛かった。
ドッ、という重い音を残し、ライオスの右腕が根元から切り飛ばされ、高く舞った。
「アアアァァァァァ――――!?」
笑いがそのまま悲鳴に変わった。斬り口から噴き出した大量の血液が、ウンベールの顔から、壁に掛けられた純白の制服を横切り、そして天井へと至る一直線の朱を鮮やかに引いた。
SAO4_15_Unicode.txt
有り得べからざる禁忌への冒涜を畏れてか、雷鳴すらも沈黙した一瞬の静寂のなかを、ライオスの右腕は回転しながらゆっくりと飛翔し、テーブルに落下すると同時に卓上の瓶とグラスを全て叩き落とした。硝子が砕け散る盛大な音に、ライオスはようやく驚愕から覚めたらしく、改めて口を開くと甲高い絶叫を迸らせた。
「アアアアアアッ! 腕がアアアアアッ! 私の右腕がアアアアアアッ!!」
左手で傷口を鷲掴みにするが、指の隙間からは尚も血液が勢いよく噴き出し続ける。
「血がっ! 血が出てるぞぉぉっ! 天命がっ! 私の天命がアアアアアアッ!!」
右半分が赤く染まったユージオの視界の中を、ライオスは糸の絡まった操り人形のようにぎくしゃくと飛び跳ね、恐ろしいほど大量の血をいたる所に撒き散らした。一部はユージオの顔から体にも振り掛かったが、その感触も、温度も、全く意識されることはなかった。
「止まっ! 止まらないイイイイイッ! しっ、神聖術っ……教官を呼べっ……ウンベールッ! 早く教官を呼んでこいイイイイイッ!」
恐慌を来したライオスの声に名指しされても、ウンベールも、ラッディーノも、目の前で起きていることが理解できない様子でぽかんと呆け顔を浮かべ、動こうとしない。
「アアアアアッ! この薄のろ共めらッ!」
ライオスは床に転がったまま金髪を振り乱して咆哮すると、突然傷口から左手を離し、鮮血の滴るその掌でウンベールの右腕を掴んだ。
「ヒ、ヒイイイイッ!!」
途端、ウンベールは悲鳴を上げてライオスの手を振り解こうとしたが、万力のようにがっちりと食い込んだ指は緩みもせず、逆にウンベールをソファーから引きずり下ろす。
「ウンベールゥゥゥッ!! 私を助けろッ!! 天命の授受に同意せよッ!!」
のしかからんばかりに喚くライオスの剣幕に圧されたかのように、ウンベールは短く漏らした。
「ハッ、ハイイッ」
それを聞いた瞬間、ライオスは獣じみた笑みを顔中に浮かべ、背筋を仰け反らせて叫んだ。
「システムコォォォォル!! トランスファ・ユニット・デュラビリティィィィィ!! レフト・トゥ・セルフゥゥゥゥゥゥッ!!」
怪鳥じみた声が術式を唱えると同時に、平等なるステイシア神がその祈りを聞き届け、ウンベールの丸い体が青白く発光した。光はたちまち一方向に移動を開始し、ウンベールの右腕から、そこを掴むライオスの左手に流れ込んでいく。
「オオオオオホォォォォォォッ! 来たぞォォォォ……天命……私の天命ィィィィ……」
ライオスは、まるで天井の板張りにステイシア神その人の姿を見てでもいるかのように恍惚とした笑みを浮かべた。しかし、その右肩の傷口からは、青い光を帯びた赤い血液が尚も太い筋を作って流れ落ち、絨毯に吸い込まれていく。
五秒近く経ってから、ようやくウンベールが己の天命の無為な浪費に気付き、引き攣った表情でわめき声を発した。
「アアッ! やめっ……ライオス殿、止めてくださいいっ! 先に傷を治療しないとっ……私の天命までなくなってしまっ……」
しかし、ライオスの耳にはまるで届いていないようで、上級貴族の蕩けたような笑みは消えない。
「オホオォォォォ……暖かいィィィィ……神が私をォォォォ……癒してくださるゥゥゥゥ……」
「は……離してくださっ……手をっ……手を離してっ……」
ウンベールは右手でライオスの左腕を掴み、引き剥がそうとするが、細く生白い腕はある種の寄生生物のようにがっちり食いついてまるで離れようとしない。
「はなっ……! 離せえええええっ!」
「おおおお……おおおおお……」
ようやく痛みの薄れはじめた右目を左手で覆い、ユージオは重い体を引き摺るように数歩進み出た。足元に横たわるライオスを、無言で見下ろす。
禁忌を侵した衝撃はいまだ去らず、ユージオから何かを考える能力をほぼ完全に奪い去っていた。それでも、ただ一つだけ、このライオス・アンティノスという名の忌まわしい存在を消し去りたいという欲求だけが頭の中に粘っこくまとわりつき、ユージオを動かしていた。
「消えろ」
意識せず唇から掠れた声が漏れた。右腕がのろのろと動き、鮮血の絡みつく青薔薇の剣を持ち上げると、ライオスの心臓の真上にぴたりと切っ先を擬した。
「おひいっ!」
ライオスの短い悲鳴を無視し、最後の一突きのために力を込めようとしたその瞬間――。
これまで感じたことのない種類の痛みが胸の中央を貫き、ユージオは手を止めた。
「やっ……やめっ……わかったっ、貴君の要求はわかったっ、あの二人には謝罪しよう、そうだ、かっ……金も払う、言い値で払うぞっ……」
甲高いライオスの声を聞きながら、ユージオは、自分を襲うこの痛みは一体なんだろうと考えた。あれほど圧倒的だった憎しみをも上回る、やるせない痛みだった。数分にも感じられた一瞬の戸惑いののち、ユージオは、自分が感じているのが憐れみであることに気付いた。
剣の下で必死に命乞いをするライオスが、汚らわしく、厭わしく、そして途方もなく憐れだとユージオには思えた。この人間には、もしかしたら自分の意志というものが、本当の意味では存在しないのではないか――、そんな気すらした。
上級貴族という生まれと法によって認められた権利を最大限利用せよ、という命令に従って動くことしかできない、憐れな生き物。つまり、ある意味では、ライオスもまた教会と禁忌目録の犠牲者と言えるのではないか? 自分が今ここで、怒りと憎しみのみによってライオスの命を奪ったとして、それで何かが正されるのか……?
しかし、だとしたら、理不尽に傷つけられたロニエとティーゼの魂を、誰がどのようにして償えるというのか。
「う……うああああ!」
ユージオは叫んだ。再び両目から、理由のわからない涙が溢れるのを感じた。ライオスの胸にわずかに触れた剣尖が震え、滑らかな肌に小さな窪みを作った。今、腕にほんの少し力を込めれば、凄まじい重さを持つ青薔薇の剣は容易くライオスの心臓を貫き、その天命を完全に消し去るだろう。
「やめっ、やめてっ、助けてくれっ、殺さないでくれえええっ」
いまだウンベールから天命を奪い続けながら、ライオスがか細い声で喚いた。ウンベールのほうは、長い術式の神聖術を必死の形相で唱え、ライオスの右肩の傷口を塞ごうとしている。
ユージオの腕は動かなかった。己に、そのまま突き刺せ、とも剣を引け、とも命ずることができず、ユージオはただ歯を食い縛り、深い葛藤の渦に翻弄されていた。
一際大きな稲妻が近くの木立に落ち、轟音が天地を揺るがした、その次の瞬間、いくつかのことが連続して起こった。
雷鳴に、反射的に身を痙攣させたライオスの胸に、剣の鋭い切っ先が浅く突き刺さった。
「ああああああっシッ死ぬうううっ嘘だああああっ私がっこの私がああああっ」
絶叫したライオスの両目が、ほとんど飛び出さんばかりに見開かれた。
「ああ有り得ないいいいいこんなことがああああアアアアアア何故だあああああアアアアディルルルルディル、ディルディルディル、ディルディルディルディ――――――――」
奇怪な叫びを一際高く響かせ、直後、ライオスの両目からふっと生気が消滅した。もたげられた頭がごつんと床に落下し、そしてもう二度と動こうとしなかった。
直前までライオス・アンティノスだった存在が、一瞬にしてライオスの死骸という名の物体に変化したことを、ユージオは直感的に悟った。しかし、何が原因でそうなったのかは、まったく解らなかった。
「あああっ!? らっ、ライオス殿ぉっ!!」
一瞬遅れて、ウンベールも驚愕の叫びを発した。その口が閉じられる前に、全身が一層激しく発光し、その青白い輝きは滝のように最早生命なきライオスの左手に吸い込まれ始めた。
「ああああぁぁぁぁぁ――――…………」
わずか数秒で、渇いた砂にこぼれた一掬いの水のようにウンベールの天命も尽き、再度ごとんと重い音を発してその体も床に崩れ落ちた。
驚愕と混乱にとらわれ、ユージオは喘ぎながら数歩後ずさると、がくりと膝をついて眼前に転がる二つのむくろを見つめた。ライオスの傷は深手だったが、あのままウンベールの天命を貰いながら治療を続けていれば、命を落とすまでは行かなかったはずだ。ならば一体何ものがライオスの天命を奪い去ったのだろうか。
いや、そうじゃない、やはりライオスを殺したのは僕だ――とユージオは自分に言い聞かせた。そんなことが起こりうるのかどうか確信は持てなかったが、ライオスはおそらく、突きつけられた剣への恐怖のあまり自らの魂を殺してしまったのではないか。ならば、その死をもたらしたのはユージオ以外の何者でもない。
禁忌を犯し、人を殺した。ユージオはその意味を懸命に考えようとした。だが、以前の自分と、どこがどのように変わってしまったのかを自覚することは不思議に出来なかった。漠然と、教会への反逆者、大罪人となった自分に何らかの裁きが――天を裂くいかずちや底の無い地割れのような神罰が下るのではと考えそれを待ったが、窓の外では変わらず大粒の雨が吹き荒れるのみだった。
何かが動く気配を感じて顔を上げると、今までソファーで腰を抜かしていたラッディーノが、顔を蒼白にして立ち上がったところだった。震える指がユージオに突きつけられ、しわがれた声が漏れた。
「ひ……人殺し……禁忌違反者……お前……人間じゃないな? 闇の国の怪物だったんだな?」
思わぬ糾弾に唖然とするユージオの視線を受けながら、ラッディーノは痩躯をぎくしゃくと動かして壁に近寄ると、そこに掛けられていたライオスの装飾華美な長剣を外した。
「こ……殺さないと……闇の軍勢が……こんな所まで……」
うわ言のようにぶつぶつ呟きながら、ユージオの前までよろよろと移動し、ラッディーノは長剣の鞘を払った。鏡のような刀身が、ランプの明かりを受けて眩く輝く。
頭上に振り上げられた剣を見ながら、ユージオは、こんなものが神罰なのか、と考えた。小刻みに震える刃は、とても一撃で首を落とせるとは思えなかったが、避ける気にも、右手の剣で受ける気にもならず、ユージオはただそれが降ってくるのを待った。
ラッディーノは、全練士の頂点に立つ十二人に名を連ねているにしては腰の引けた、不恰好な動作で断罪の一撃を繰り出した。しかし、その剣は、ユージオの額を割るはるか手前で、ユージオの背後から黒い蛇のように伸びた一本の腕によって制止させられた。
わずか親指と人差し指のみで、こともなげに剣の腹を掴んでのけたその腕を、ユージオは呆然と視線で辿った。いつの間にか、跪くユージオのすぐ後ろに、全身濡れそぼった黒衣のキリトが幽鬼のごとく立っていた。
部屋に転がる二つの死体と一着の制服を見ただけで、キリトはここで起きたことをほぼ察したようだった。唇までを蒼白にしたその顔には一切の表情が無く、ただ両の眼だけが異様な光を放っていた。
「きっ……貴様も仲間かっ……! 闇の国の化け物かあっ!」
ラッディーノは完全に恐慌を来した裏声でわめき、掴まれた剣を再度振り上げようとした。しかしその時にはすでに、キリトの右手が五本の指で刀身をがっちりと握り、刃が掌を切り裂くのも構わずに強引にラッディーノの手から柄を引き抜いていた。飛び散った血の玉のいくつかが、ユージオの顔を叩いた。
剣を奪われ、ラッディーノは前のめりに体勢を崩した。突き出されたその顔を、唸りを上げて閃いたキリトの左拳が真正面から撃ち抜いた。鈍い衝撃音に重ねて甲高い悲鳴を撒き散らしながら、ラッディーノは襤褸人形のように吹き飛び、元のソファーに尻から落下した。
「ぶっ! ぶほっ!」
一瞬遅れて、その口から、霧のような血に混じって折れた歯がいくつも吐き出され、床板に音を立てて転がった。ほぼ完全な思考麻痺状態にあって、それでもユージオは、自分とは違い何の葛藤も見せずに禁忌目録を破ってのけた相棒の所作に息を飲んだ。
ラッディーノのほうは、それどころではない恐怖をその顔に刻み、改めて切れ切れの悲鳴を発した。
「ひ……こっ……殺されるうううっ!!」
両手を前に突き出しながらソファーから転がり落ち、そのままずるずるとドアのほうに後ずさっていく。キリトにこれ以上攻撃の意思が無いと見るや、くるりと後ろを向き、四つん這いになって開け放たれたままの戸口ににじり寄る。
「だ……誰か……誰かあああっ! 誰か助けてええええっ!!」
敷居から半身が出た瞬間そう絶叫し、ラッディーノは両手両足を遮二無二動かして廊下の暗がりへと脱した。ひいいい、と長く尾を引く悲鳴がたちまち遠ざかり、嵐の音に紛れて消えた。
ユージオは視線を戻し、再度キリトを見上げた。
右手に握っていたライオスの剣を、キリトは自分が作った血溜まりの中に落とし、そこではじめてユージオの目を見た。唇がわななくように震えてから、ぎゅっときつく噛み締められた。次いで、キリトは、まるで何者かの――もしかしたら神の声を待つかのように頭上を振り仰ぎ、そのまま数秒間身じろぎ一つしなかったが、いかなる審判も降りてこないのを知ると、もう一度ユージオに視線を戻した。
今度は、その唇から、掠れた声が零れ落ちた。
「……すまない……。甘く見ていた……まさか……まさかこれほどの……」
その先は言葉にならないようだった。ユージオは、自分の口が動き、消え入るような声が漏れるのを聞いた。
「キリト……僕……ライオスを殺しちゃったよ……」
言った途端、右目が再度ずきんと疼いた。
「あいつ……ティーゼとロニエに酷いことしたんだ……だから……だから殺した……ウンベールも殺した……僕……僕は……」
ラッディーノの言ったとおり、僕は人間ではなかったのだろうか? 闇の国の住人だったのだろうか? そう続けようとしたが、もう声が出なかった。息を詰まらせながら俯くと、少し離れた場所に転がったライオスの死骸の、虚ろに見開かれた眼と視線が合った。
人殺し、人殺し、生命なき眼がそう誹る声をユージオは聴いた。幼い頃、ユージオや兄たちを大いに怯えさせた祖母の寝物語に出てきた言葉。闇の国に棲む者には守るべき法も禁忌も無く、捕らえた人間を戯れに殺すだけに飽き足らず、同じ一族ですら欲望のために殺し合うと。それが事実であることを、ユージオは二年前、果ての山脈の地下洞窟で身をもって知った。
そうだ、僕はあのゴブリン達と何ら変わらない。同じ人間であるライオスを、怒りに任せて斬った。あの瞬間、教会も、禁忌目録も糞食らえだと、本気で思った。
せめて――せめて一つだけゴブリンと違うところを証明するために――僕は自分自身を裁かなくてはならないのではないだろうか……?
不意に、右手に握ったままの青薔薇の剣の柄が、途方も無く冷たく感じられて、ユージオは全身を強張らせた。だが、次の瞬間、キリトの左手がぐっとユージオの肩を掴んでいた。力強く、暖かい手だった。
「お前は、人間だ、ユージオ。俺と同じ……愚かで、間違いばかり犯し、その意味を探して足掻きつづける……人間なんだ」
もう一度ぎゅっと力を込めてから、キリトは手を離し、寝室のドアに向かって歩を進めた。落ちている灰色の制服を拾い上げ、ドアをそっと開き、奥の暗闇へと姿を消す。
ユージオは動けなかった。キリトの言葉はユージオに更なる混乱をもたらし、窓の外の嵐のように様々な想念が押し寄せては去っていく。
この部屋から逃げ出したかった。学院からも、央都からも――この世界そのものから逃げてしまいたいとユージオは思った。自分も寝室に行き、ティーゼ達を介抱しなくてはならないと分かってはいたが、彼女たちの瞳に、ラッディーノと同じ恐怖の色が浮かんだら、と思うとどうしても立ち上がることが出来なかった。
彫像のように固まったまま数分間が過ぎ去り、やがて、寝室のドアがゆっくりと動いた。びくりと肩を震わせてから、ユージオは恐る恐る顔を上げた。
まず、制服を身につけているが気を失ったままらしいロニエを両手に抱えたキリトが姿を現した。その後ろに、同じく服装は整っているものの赤い髪に乱れの残るティーゼが続き、一歩居間に足を踏み入れたところで立ち止まった。
輝きの薄れた紅葉色の瞳が、ライオスとウンベールの死体をしばらく眺め、次いで、半身を返り血に染めたまま跪くユージオを映した。
紙のように白いその顔に、いかなる表情も浮かべることなく、ティーゼはただ凝っと、いつまでもユージオを見つめていた。その瞳にやがて生じるであろう恐怖と嫌悪から、せめて目を逸らせることはするまいと、ユージオは只管その時を待った。
不意に、虚ろな表情を貼り付かせたまま、ティーゼがのろのろと歩き始めた。二、三歩進んではふらりとよろけ、踏みとどまると、また足を前に出す。長い、長い時間をかけて部屋を横切り、ユージオの前にたどり着くと、そこで糸が切れたようにティーゼはがくりと膝をついた。
間近で見ると、滑らかな頬にはいまだ涙の跡が残っていた。一緒に全ての感情までも流しだしてしまったかのように、赤紫色の瞳は一切内面を映し出すことなく、鏡のようにユージオの視線を跳ね返した。
かけるべき言葉はどうしても見つからなかった。いかなる謝罪も、慰めも、殺人者に堕した自分の口から出た途端空疎な偽りになってしまいそうで、ユージオは無言のまま待つことしかできなかった。
永遠とも思えた数秒が過ぎ去り――そして、ティーゼの右手が、ゆっくりと動いた。指先がスカートのポケットに差し込まれ、何度か中を探ってから抜き出されたその手には、小さな白いハンカチが握られていた。
右手をのろのろと伸ばすと、ティーゼはそのハンカチで、ユージオの左頬に伝う血をぎこちなく拭った。わずかに首を傾げ、何度も、何度も、赤子を撫でる母親のように、飽くことなく手を動かした。
ユージオは、この日何度目かの涙が頬に流れるのを感じた。ハンカチに染み込むそばから溢れ出すユージオの涙を、ティーゼはいつまでも拭い続けた。
指導教官と数名の上級修剣士が部屋に駆け込んできたのは、およそ十分後だった。
ティーゼとロニエは女性の修剣士に引き取られゆき、ユージオとキリトは今まで一度も使われたことがないという懲罰房で別々に一夜を過ごすこととなった。
一睡もできぬまま夜が明け、房から引き出されたユージオは、キリトと共に、しんと静まり返った学院を主講堂まで連行され、その前の広場に居るものを見て息を呑んだ。
春の嵐が過ぎ去ったあとの、溢れるようなソルスの光を受けて白銀に輝く巨大なそれは――見紛うことなき、整合騎士の駆る飛竜だった。しかも二騎。鏡のような鎧を全身に纏い、畳んだ羽を高く掲げて、周囲の建物の窓から恐る恐る覗く練士たちを睥睨している。
主講堂の巨大な正面扉前まで達すると、二人を連行していた指導教官は、低い声でぼそりと呟いた。
「お前たちのしたことは、学院の……いや、帝国の長い歴史にも見当たらない、恐るべき大罪だ。学院内での処分は不可能なため、神聖教会が直々に裁くこととなった。……このようなことになって……残念だ」
ユージオははっとして、伝統流派の達人である壮年の教官を見上げた。いかついその顔には一切の感情が見て取れなかったが、ユージオとキリトが無言で敬礼すると、短く返礼し、そのまま踵をかえして去っていった。
「…………」
しばらく相棒と顔を見合わせたあと、ユージオは振り向き、そっと主講堂の扉を押し開けた。
無数の長机が並ぶ講堂の内部は薄暗く、しんと静まり返っていた。目を凝らすと、正面に建つ巨大なステイシア神像の前に、暗がりにあって尚ぼんやりと輝く二人の騎士の姿があった。
ユージオは大きく息を吸い、もしかしたら最後の歩行となるかもしれない道行きを、ゆっくりと一歩踏み出した。一晩ではとても思考の整理はつかなかったが、気持ちはなぜか穏やかだった。
正面の講壇は、三段の階段状となっており、その一番下にこちらを向いて一人、最上段に背を向けて一人の整合騎士が立っていた。下に立つほうの騎士の鎧には、確かな見覚えがあった。まばゆい銀に輝く一分の隙もない装甲、長い純白のマント、そして十字に窓の切られた面頬付きの兜は、間違いなく、遥か昔アリスを連れ去った整合騎士と同じものだ。
上段に立つ騎士も、鎧は同一のようだが、こちらは兜をつけていなかった。マントの上に、ライオスのものよりも遥かに艶やかな金髪をまっすぐに垂らし、腰には同じく豪奢な金製の鞘を下げている。ユージオ達が近づいても身じろぎひとつすることなく、眼前のステイシア像を見上げたまま動こうとしない。
ぎゅっと両拳を握り締め、ユージオは最後の数メルを歩き終えると、下段の騎士の前で跪き、頭を垂れた。隣でキリトが同じ姿勢を取るのを待って、口を開く。
「上級修剣士ユージオ、及び上級修剣士キリト、出頭致しました」
しばしの沈黙のあと、金属質の倍音が混ざる威圧的な声が、頭上から降ってきた。
「……ノーランガルス第二中央区を統括する整合管理騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスである。オリックが三子ユージオ、無登録民キリト両名、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する。なお……第二条重要補則第一項を適用すべき罪状のため、連行を整合管制騎士一名が監視する」
言葉を切り、兜の整合騎士が一歩脇に退く気配がした。ユージオが顔を上げると、最上段に立つ騎士が、背を向けたまま凛と響く声を発した。
「セントラル・カセドラル所属、整合管制騎士……アリス・シンセシス・フィフティである」
ユージオの心臓が跳ねた。
この声を、聞き間違えるはずが無かった。生まれたときから十一年間、毎日のように聞いていた声。金髪の眩い煌めき。気のせいか、懐かしい、爽やかな香りまでが漂ってくるようにすら思えた。
「……あ……アリス……? アリスなのか……?」
どうにか絞り出した声は、自分にも聞こえないほどにかすかだった。自分でも意識せず、ユージオはふらりと立ち上がると、一歩、二歩と壇を登り、金髪の整合騎士の背中に近寄っていた。
騎士は、思いのほか小柄だった。そう――アリスがあのままユージオの隣で成長していれば、ちょうどこの位だろうと思える背丈。
「アリス……!」
もう一度、今度はもう少しはっきりした声で呼びかけながら、ユージオは騎士の肩に手を掛けようとした。振り向いた騎士が、あの悪戯っぽい、それでいてつんと澄ました笑顔を浮かべてユージオを迎える――
という予感めいた幻を、視界を切り裂いた黄金の光が一閃で打ち砕いた。
左頬にすさまじい熱が弾け、直後、ユージオはぐるぐると回転しながら五メルほども吹き飛んで、先ほどまで跪いていた床の上に背中から落ちた。アリスと名乗る騎士が、こちらに背を向けたまま、鞘ごと外した黄金の剣で凄まじい速度の一撃を叩き込んだのだ――と気づいたのは、キリトに助け起こされた後だった。
痛みを痛みとして感じられるほどの余裕すらもなく、ユージオはただ、呆然と騎士の後姿を見上げた。
背後に高く伸ばした剣を、騎士はゆっくりと降ろし、石突で足元の磨き上げられた床板を叩いた。鞘に収まったままの刀身が、かしゃりとかすかな音を立てる。
「……振る舞いには気をつけなさい。私にはお前たちの天命の七割までを減少せしむる懲罰権がある。次に許可なく触れようとしたら、その手を斬り落とします」
美しく穏やかな声で淡々と、戦慄すべき言葉を口にしてから、騎士はゆっくりと振り向き、ユージオたちを見下ろした。
「…………アリス……」
その名がもう一度、小さく口から漏れるのを、ユージオは止められなかった。
黄金の剣を携える整合騎士は、見紛えようもなく、かつてルーリッドの村から連行されたユージオの幼馴染、村長ガスフトの娘にしてシルカの姉、アリス・ツーベルク本人――その成長した姿でしか有り得なかった。
癖の無い艶やかな金髪。透明感のある白い肌。何よりも、少し目尻の切れ上がった大きな瞳の、澄んだ湖のような深い青色は、アリス以外の人間には一度として見たことのないものだった。
しかし、その瞳に浮かぶ光だけが、昔と違っていた。ルーリッドの村で暮らしていた頃の、生命力と好奇心に溢れた輝きは完全に消え失せ、ただひたすらに冷徹な、対象を分析し見定めるような視線のみがユージオに注がれていた。
桜色の唇が小さく動き、再び、可憐にして冷淡な声が流れた。
「ほう……天命を三割減らすつもりで撃ったのですが、その半分しか減っていない。当たる瞬間受け流しましたか。修剣学院の代表を争うだけは……あるいは殺人の大罪を犯すだけはあるということですか」
ステイシアの窓を出すこともなくユージオの天命値が見えている、としか思えない口ぶりだったが、その意味を考えることすらできなかった。耳に流れ込んでくる言葉は、ユージオにはどうしても受け入れがたいものだった。あの優しいアリスが、そんなことを言うはずはない。いや、それを言うなら、アリスがユージオを見ても何の反応も示さないこと、ユージオに避ける間も与えない斬撃を事も無げに放ったこと、そもそも整合騎士として眼前に立っていること自体が信じられなかった。
混乱と驚愕の大渦に翻弄されるユージオの耳もとで、ごくごくかすかに、キリトの囁き声がした。
「彼女がお前のアリスなんだな」
その声は、この事態にあっても、糞度胸と言うよりない落ち着きぶりで、ユージオにほんのわずかな冷静さを取り戻させた。どうにか一度小さく頷くと、再度キリトが囁いた。
「……この場は大人しく指示に従おう。罪人としてでも、教会に入れさえすれば、何か事情が分かるはずだ」
「…………ああ……そうだな。ここに来たばかりの頃、お前がそう主張してたみたいにね」
そう答えられるだけのささやかな余裕を回復し、ユージオはもう一度頷いた。二人の様子を、一切の感情を表さず眺めていたアリス・ツーベルク――いや整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、左手に握った鞘を再び腰の剣帯に吊ると、下段に立つ騎士に短く命じた。
「拘束せよ」
「は」
白いマントに隠されていた騎士の左手には、見覚えのある鎖付きの拘束具が二つ握られていた。甲冑を鳴らして歩み寄ってきた整合騎士は、面頬の覗き窓の暗闇からユージオとキリトを一瞥すると、金属質の声を発した。
「立って後ろを向き、両手を背中で交差させよ」
キリトに助けられて立ち上がり、ユージオが指示に従うと、整合騎士はまず二の腕に順番に革手錠を嵌め、次いで腰に太い革帯をまわすと息が詰まるほどきつく締め上げた。ぐいっと一度引っ張って締まり具合を確認すると、キリトにも同じように拘束具を嵌める。
仕事が済むと、エルドリエと名乗った騎士は、二人の腰から垂れ下がる鎖を右手でまとめて掴み、壇上のアリスに報告した。
「拘束しました」
「よし。連行し、両名とも私の騎竜に繋ぎなさい」
「は」
じゃらっと鎖を鳴らし、二人に背後から命じる。
「歩け」
上半身を容赦なく締め付ける拘束具の痛みを感じながら、ユージオは、結局同じことだったのか、とぼんやり考えた。あの時――幼いアリスが整合騎士に連れ去られた時、斧を手に騎士に打ちかかっていれば、おそらくユージオも一緒に拘束されて央都まで運ばれただろう。そしてそこで……何が起こったのだろうか? 罪人として裁かれるはずの人間を、法の守護者たる整合騎士に変えてしまう”何か”……。
いいや、同じではない。アリスは闇の騎士を助けるために罪を犯し、自分は憎しみに駆られて人を殺めたのだから。ライオスの腕を切り落としたときのおぞましい感触、浴びせ掛けられた返り血の生々しい匂い、それらは事あるごとに鮮明に甦り、ユージオに犯した罪の忌まわしさを再認識させる。
しかし、もし自分に下される処分がアリスの受けたものとは異なる――例えば苦痛と恐怖の末の死であったとしても、それを受け入れる前に一つだけしなくてはならないことがある。アリスの身に起きたことを知り、そしてもし彼女を元に戻すことが出来るなら、そのためにあらゆる努力をするのだ。更なる罪を幾つ重ねることになろうとも。
ライオスを殺した直後から己を苛んでいた、四肢をばらばらに引き千切るような恐怖と惑乱の嵐に、ユージオはようやくすがりつくべき縄を見出したような気がしていた。アリスのために――そう、長年の望みどおり生きていてくれたアリスのためなら、あらゆる罪も悪も許される、ユージオは懸命に、そう自分に言い聞かせた。
無人の主講堂を横断し、再び正面扉から外に出ると、まばゆい陽光が目を射た。が、降り注ぐのはそれだけではなかった。円形の大広場を取り巻く幾つかの建物の窓の奥、植え込みや生垣の陰から、大勢の練士たちが自分らを覗き見ているのをユージオは感じた。恐れや憎しみ、困惑から侮蔑に至る、あらゆる種類の負の感情が針のように肌を刺す。
鎖を握る騎士エルドリエは、無数の視線を意に介す気配もなく広場中央に蹲る飛竜の前まで二人を連行し、一匹の右足をよろう装甲の留め金にユージオの鎖を、左足の留め金にキリトの鎖を繋いだ。
遥か頭上から運搬物を見下ろす竜の、巨大な黄色い眼を見上げてしまってから、ユージオは慌てて俯いた。すると、少し離れた石畳の上に、大きな革袋が二つ転がっているのに気付いた。きつく縛られたその口からはみ出しているのは、間違いなく青薔薇の剣と、キリトの黒い剣の柄だ。どうやら中身は、いつのまに纏めたのか二人の自室にあったわずかな私物らしい。多分、二振りの剣を運ぶのは数人がかりでも大仕事だったはずだ。
かつかつと音高く石畳を鳴らしながら歩み寄ってきた騎士アリスが、作業を終えたエルドリエに更に命じた。
「罪人の荷物はそなたの竜で運びなさい」
言いながら腰を屈め、青薔薇の剣の入った大袋を右手でひょいっと持ち上げる。まるで重さなど感じていないふうに、足早にもう一匹の飛竜に近づくと、その脚に革紐を留めた。エルドリエのほうは、多少苦労を滲ませながらキリトの袋を運び、反対側の脚に繋ぐと、鐙に右足を掛け、ひらりと竜の背中の鞍に跨った。
アリスは最早一瞥もくれることなくユージオの目の前を横切り、同じように軽やかな動作で騎乗すると、手綱を取った。ばさり、と音を立てて巨大な翼が広げられ、日差しを遮る。
その時だった。
背後から、二つの足音が駆け寄ってくると同時に、震えを帯びた声がユージオの耳朶を叩いた。
「お待ちください、騎士様!」
息を呑んで振り向くと、走ってくるのは間違いなく、ロニエとティーゼの二人だった。左頬の疼きを作ったアリスの苛烈な一撃を思い出しながら、ユージオは必死に叫んだ。
「やめろ、来るんじゃない!」
しかしティーゼ達は足を止めることなく、アリスの騎竜の正面まで走ると、深々と頭を下げた。
「き、騎士様……どうか、上級修剣士殿にご挨拶するお許しを頂きたく……」
一瞬の沈黙のあと、アリスの素っ気無い声が響いた。
「二分に限り許可します」
わずかに表情を緩め、再度一礼すると、ティーゼはユージオに、ロニエはキリトに向かってたたっと駆け寄った。
後ろ手に捕縛されたユージオの目の前で、よろけるように立ち止まり、ティーゼはぎゅっと両手を胸の前で握った。
一点の染みもない制服姿だったが、その頬にはいまだ血の気がなく、目のまわりは泣き腫らしたように赤く腫れていた。それも無理もない、ライオスらの辱めを受け、直後その死骸を目にするという衝撃を味わってから、まだたった一晩しか立っていないのだ。心に受けた傷の癒えようはずもないティーゼが、こうして衆目の中、大罪人たるユージオに近寄り、あまつさえ整合騎士に面談の許しを乞うなど、どれほどの無理をしているのか想像すら出来なかった。
「……ティーゼ……」
ユージオは掠れた声で呟いたが、どう続けていいのか分からず、唇を噛み締めた。昨夜、ラッディーノは、ライオスを殺したユージオのことを闇の怪物と呼んだ。無理もない、人間が禁忌目録を破るはずもなく、もしも破るものが居ればそれは人間ではないのだ。ティーゼだってそう考えても何の不思議もない。
ユージオが目を伏せようとしたその時、ティーゼの紅葉色の瞳に大粒の涙が盛り上がり、溢れて頬を伝った。
「ユージオ先輩……ごめんなさい……私の……私のせいで……」
両手をぎゅっときつく握り締め、か細い声を絞り出すように続ける。
「……ごめんなさい……私が……愚かなことを……したせいで……」
「違うよ……違うんだ」
ユージオは驚きにうたれながら、何度も首を振り、言った。
「君は何も悪くない……君は、友達のために正しいことをしたんだ。……こうなったのは、全部僕のせいだ。君が謝ることなんて何もないんだ」
そう――違うのだ。ユージオは、口を動かすと同時に胸中で呟いていた。
僕がライオスを殺したのは、何もかも自分のためにしたことだ。禁忌目録を言い訳にして八年もの間無為な時間を過ごしたことへの言い訳のために、そしてそんな自分への嫌悪のあまり、剣を振るってしまったに過ぎないんだ――。
ティーゼは、ユージオの魂の奥底まで見とおすようにまっすぐ視線を合わせ、痛々しさすら感じさせる懸命な笑みを小さく浮かべた。
「今度は……」
震えているが、きっぱりとした口調で、年若い見習い剣士は言った。
「今度は、私がユージオ先輩を助けます。私……がんばって、きっと整合騎士になって、先輩を助けにいきますから……だから、待ってて下さいね。きっと……きっと……」
嗚咽が、続く言葉を飲み込んだ。ユージオは、繰り返し頷くことしかできなかった。
飛竜の反対側では、短い会話を終えたロニエが、手に持っていた小さな包みをキリトの縛られた手に握らせながら泣き声混じりに言っていた。
「あの……これ、お弁当です。おなかが空いたら、食べてください……」
それに対してキリトが発した言葉を、再び大きく広げられた飛竜の羽音が遮った。
「時間です」
アリスの声と同時に、ぴしっと手綱が鳴り、竜が太い脚を伸ばした。鎖が動き、ユージオの体をわずかに宙に浮かせる。
とめどなく涙を溢れさせながら、ティーゼが数歩後ろに下がった。翼が打ち鳴らされ、巻き起こった風が赤い髪を揺らした。
どっ、どっ、と地面を震わせ、飛竜が助走を始めても、ティーゼは懸命に走って追いかけてきたが、やがて脚を縺れさせて石畳に手を突いた。直後、竜が大きく地を蹴り、翼を羽ばたかせて、宙に舞い上がった。
飛竜は螺旋を描きながらすさまじい上昇力で空に駆け上り、眼下のティーゼとロニエをみるみる小さくしていった。やがてその姿は石畳の灰色に紛れて消え、北セントリア修剣学院の全体像を一瞬ユージオに見せたあと、二騎の飛竜は一直線に央都の中心――神聖教会の巨大な塔目指して飛翔しはじめた。
(第五章 終)
SAO4_16_Unicode.txt
武装テロリスト八名が立て篭もったのは、今にも倒壊しそうな地上六階のアパートメントだった。
アメリカ統合特殊作戦軍(SOCOM)直轄の新設カウンター・テロ部隊、”バリアンス”第二小隊チームB(ブラボー)リーダーを務めるガブリエル・ミラー中尉は、隊員二名と共に建物の裏手に回りこむと、まるで蹴飛ばさせるために巧妙に配置されているとしか思えない空き缶や割れガラスの山を注意深く回避しながら、侵入口に設定された窓に向かって中腰で走った。
三十秒足らずで首尾よくたどり着き、窓の直下の壁に身を潜めると、装着した多機能ゴーグルからサーモセンサーのプローブを引き出し、極細の尖端を窓ガラスの割れ目から内部に挿し込む。赤外線を捉える機械の眼は、暗闇に沈む部屋の中に三人が潜んでいることをたちまち暴き出し、ガブリエルは背後の部下に指サインでそれを伝えるとセンサーを戻した。
消音器付きサブマシンガンのセーフティが解除されていることを確かめ、ベルトからスタングレネードを一つ外す。歯でピンを咥えて抜くと、先ほどの割れ目から無造作に放り込む。
ごろごろと床を転がる音、何語だかわからない叫び声に続き、密度のある眩い白光が迸った。ゴーグルが自動的に感度を絞って目を保護してくれるが、念のために視線を下に向けて三つ数える。立ち上がりざま思い切りジャンプして窓枠の上部を掴むと、腕だけで体を持ち上げて、ブーツで窓を蹴破りながら体を放り込んだ。
靴底が床に触れる前から、ガブリエルは、視力を奪われた二人の男が、髭面を歪めて罵り声を上げ、旧式のアサルトライフルを闇雲に窓に向けつつあるのを確認していた。着地と同時に身を屈め、マシンガンを構えてトリガーを引く。三連射で右側の男の額に二つの穴を開け、大きく一歩飛んで左側の男の射線から外れると、そちらにも弾をたっぷりと見舞う。
残る一人の姿を探してガブリエルが首を回すのと、ぼろぼろのソファーの裏から拳銃を手にした小柄な人影が立ち上がるのはほぼ同時だった。慌てずにそちらにマシンガンの銃口を向け、引き鉄を絞るべく右手の人差し指がぴくりと震えた瞬間、ガブリエルは銃を天井に向けて跳ね上げた。
「……おっと」
みじかく呟く。人影は、長いスカートを穿き、髪をスカーフに包んだ女性だった。『パニックのあまり銃を拾ってしまった人質住民』だ。撃ってしまえば得点は大幅にマイナスとなる。もっとも、わずかながら『人質住民を装う女性テロリスト』の可能性も残されているので、ガブリエルは油断なくマシンガンを構えたまま、左手でゴーグルを持ち上げて作り笑いを浮かべた。
「大丈夫、もう心配ありません」
ポリゴンで作られAIに動かされる人質女性に、簡単な英語で言葉を掛けながら、ガブリエルは胸中で、まったく馬鹿馬鹿しいことだと吐き捨てていた。もしこれが現実の作戦行動中なら、銃を手にしている時点で容赦なく撃ち倒しているだろうし、その判断を責められることも、いやそもそも問題にされることすらあるまい。強行突入を選択した時点で人質にある程度の犠牲者が出るのは折込済みだし、そしてそれは常にテロリスト側の非として処理されるのだ。
ならば、仮想訓練でこんな意地の悪い引っ掛けにいちいち気を遣わされることにどんな意味があるというのだろう。むしろ訓練であるなら、動くもの全てを問答無用で撃ち殺させるべきではないのか。それくらいしなければ、今頃こわごわと窓から顔を出しているような新米隊員たちが実戦で使えるようになるまでに、どれ程の時間がかかるか知れたものではない。
女性の拳銃を取り上げ、ここでおとなしくしているよう指示してから、ガブリエルはドア下の隙間から再び熱センサーで表の様子を探った。人の気配がないことを確認し、更に意地悪いオペレーターがドアにブービートラップを仕掛けていないかどうかチェックしてから、そっと押し開く。
ブリーフィングで示された内部の見取り図によれば、上に続く階段は廊下の両端に一つずつあった筈だ。部下二人には東側から上るよう手で指示し、自分は西へ向かう。
靴底から伝わる砂埃の感触、隅をちょろちょろ這いまわるゴキブリの動き、確かにこの、日本の自衛隊と共同開発した――その実態は向こうの技術の一方的無償供与だが――NERDLES型シミュレーターは恐ろしいまでのリアリティを備えている。しかし、仮想世界を見慣れたガブリエルの眼には、いくつかの粗も浮かび上がって見える。
その最たるものが、”ポリゴンで人間をリアルに作ろうとすればするほどその違和感は増大する”という原則が無視されていることだ。先ほどのアラブ系テロリスト達も、人質の中年女性も、一見ぞっとするほどの精細さで顔を造り込まれていたが、それゆえに動いたり喋ったりしたときのいわく言いがたい気持ち悪さも鳥肌ものだった。動かすのなら、むしろある程度デザインはデフォルメーションしたほうがいい、というのが日米の最先端を行くVRMMOメーカーの共通認識になりつつあるのだ。
しかし、その方向性には、太平洋以上の開きがある。アメリカで運営されているVRMMOゲームのほとんどが、伝統的な過剰カリカチュアライズに則ったデザインを採用していて、異常に上腕の発達した大男や、蜂のようにウエストのくびれたグラマー女、あるいは人間ですらないモンスターの姿をしたプレイヤーばかりが闊歩することになる。ゲームとしてはそれが正解なのだろうが、ガブリエルには物足りない。
ガブリエルが休暇のたびに基地内の宿舎に閉じこもり、VR世界に耽溺しているのは、ひとえに剣や銃で戦うポリゴン体の向こうの、生身のプレイヤーを感じるためだ。圧倒的なガブリエルの戦闘力に屈し、怒り、憎しみ、恥辱、そして恐怖に沈んでいくプレイヤーの魂を余すことなく体感する――、その目的のためには、アメリカ製ゲームのいかにもコミック然としたキャラクターデザインは少々具合が悪いと言わざるを得ない。
その点、日本のVRMMOのデザインは申し分無い。ポリゴン体は皆、違和感を覚えさせない程度にデフォルメされおり、感情表現を阻害しない程度にリアル、尚且つ肌の質感はフレッシュで美しい。大抵のゲームはアメリカからのログインを許可していないため、アカウントを取るにはそれなりの金と手間が必要となるが、恐らく現実のプレイヤーと年齢的には大差ないのだろう若々しい外見の少年少女たちがガブリエルの武器の下に、生々しい感情の発露とともに絶命していく瞬間の快感は苦労に見合って余りあるものだ。
一個の戦闘機械と化し、正確無比な手順でシミュレーター訓練を攻略しながら、ガブリエルの想念は、数日前に参加したVRMMOゲームのトーナメント大会へと戻っていた。
ガンゲイル・オンラインという名のそのゲームは、運営体はアメリカの企業だが、使用されているモジュールは日本で無償配布されているもので、キャラクターデザインも日本市場向けのものとなっている。ガブリエルは非公開のプロキシサーバを経由してその大会にエントリーし、ゲームが慣れ親しんだタクティカル・コンバットタイプのものだったせいもあって、大いに殺戮を愉しんだのものだ。
ことにガブリエルを満足させたのは、小柄な体格に不釣合いな対戦車ライフルを抱えたうら若い少女プレイヤーだった。ほとんどの参加者が、正面から撃ち合うしか芸の無いプレイヤーだったために、ガブリエルは様々なトラップで撹乱した上でナイフで止めを刺すという最も好みの殺し方を思う様味わえたのだが、あの少女だけはどうしても接近を許さず、仕方なく遠距離からC4爆薬で仕留めた。しかし、自分が罠に掛かったと知った瞬間の少女の瞳――怒りと闘争心に、僅かな屈辱をブレンドさせたあの溢れるような輝きは、ガブリエルを大いに満足させるものだった。
数日後には、同じ大会の団体戦が催される。恐らくあの少女も、仲間を集めてリベンジを挑んでくるだろう。今度こそ、背後からしっかりと拘束し、あの猫を思わせる瞳を至近距離から覗き込みながら、ナイフで喉を切り裂く。そうすれば、もしかしたら、あの瞬間に感じた奇蹟――十五年前、エレメンタリースクールに通う子供だった頃に初めて味わったあの感動に近い何かが、再び訪れるかもしれない。
髭面のテロリスト達を機械的に掃討しながら、ガブリエルは来るべき瞬間を予期して、背筋を這い登る快感に少しだけ身を震わせた。
ガブリエル・ミラーは、一九九〇年二月にノースカロライナ州シャーロットで生を受けた。
兄弟姉妹は無く、昆虫学者の父と専業主婦の母の愛を絶え間なく注がれて育った。先祖代々伝わる家屋敷は広大なもので、遊び場には事欠かなかったが、幼いガブリエルが最も好んだ隠れ場所は父親の標本保管庫だった。
ノースカロライナ大学で教鞭を取る父親は、趣味と実益を兼ねて膨大な量の昆虫標本を買い集め、また自ら採取・処理したものも含めて、広い保管部屋の四方の壁を隙間無く埋めつくすほどのコレクションを並べていた。ガブリエルは、時間があれば保管庫に篭り、拡大鏡片手に標本を眺めつづけ、それに疲れると部屋中央のソファーに腰掛けてぼんやりと空想に耽った。
天井の高い、薄暗い部屋に一人きりで、周囲を無数の、それこそ数万匹の物言わぬ昆虫たちに囲まれていると、決まってガブリエルはある種の神秘的な感慨に襲われた。この虫たちは、みんな、ある時までは生きていたのだ――生きて、元気にアフリカの草原や、中東の砂漠や、南米の密林で巣を作ったり餌を探したりしていたのだ。しかし、短い生の半ばにして採取者に掴まり、薬品的処理を施され、今はこうして銀色のピンに貫かれてガラスケースの下に行儀よく並んでいる。つまりこの保管庫は、昆虫標本のコレクション・ルームであると同時に、殺戮の証を万単位で並べた恐るべきインフェルノでもあるのだ……。
ガブリエルは目を閉じ、周囲の虫たちが不意に命を取り戻す様子を想像する。六本の足が懸命に宙を掻き、触覚が闇雲に振り回される。かさかさ、かさかさ……。かすかな音が無数に重なり、渇いた細波となってガブリエルに押し寄せる。かさかさ、かさかさ。
ぱっと目蓋を開く。周囲を見回す。ひとつのケースの隅に留められた、緑色の甲虫の足が動いたような気がして、ソファーから飛び降りて駆け寄る。青い目を見開き、食い入るように見つめるが、その時にはすでに昆虫は物言わぬ標本に戻っている。
金属のように艶やかなエメラルドグリーンの甲殻、鋭いトゲの生えた脚、極小の網目の入った複眼。無機質の工芸品としか思えないこの物体をかつて動かしていたのは、一体どのような力なのだろうとガブリエルは考える。昆虫には、人間のような脳は無いのだと父親は言った。ならどこで考えているの、と問うと、父親は一本のビデオを見せてくれた。
撮影されていたのは、交尾中の一対のカマキリだった。鮮やかな緑色の、丸々と太ったメスを、背後から小さなオスが押さえ込み、交接器を接合させている。メスは、しばらくじっと身動きしなかったが、ある瞬間思い立ったようにオスの上半身を腕で抱え込み、その頭部をむしゃむしゃと咀嚼し始めた。ガブリエルが驚愕しながら見守るなか、オスはなおも交尾を続け、おのれの頭が完全に食い尽くされたところで交接器を離した。そして、メスの鎌を振りほどいて一目散に逃げ出したのだった。
頭部を完全に失っているにも関わらず、オスカマキリは草の葉を伝い、枝を上り、器用に逃走を続けた。その映像を指しながら、父親は言った。カマキリを含む昆虫は、全身の神経がすべて脳のようなものなのだ。だから、感覚器に過ぎない頭を失っても、しばらくは生きていられるのだ、と。
そのビデオを見てから、ガブリエルは、ならカマキリの魂はどこにあるのだろうと数日間考えつづけた。頭を取っても生きていられるなら、足を全て失ってもさして問題ではあるまい。ならば腹か? しかし腹というのは餌の消化装置だろう。なら胸だろうか? しかし虫たちは、ピンで胸を貫かれても元気にじたばたと足を動かしつづける。
体のどこの部位を失っても即死しないというなら、カマキリの魂は、その体を作る物質とは無関係に存在すると言わなくてはなるまい。当時八歳か九歳だったガブリエルは、家の周囲で捕らえた昆虫を使って何度か実験を試みた末、そのように独自の結論を得た。昆虫という半機械的な仕掛けを動かす不思議な力、つまり魂は、どの部位を損傷されようとしぶとくその器に留まろうとする。しかしある瞬間、もう無理だと諦めて器を捨て、離脱していく。
離れていく魂をこの目で見たい、とガブリエルは熱望した。しかし、どれほど拡大鏡に目を凝らし、慎重に実験を行っても、昆虫の体から離れていく何ものかを見ることはできなかった。屋敷の裏手の広い林の奥深くに作った秘密の実験場で、どれほどの時間と熱意を費やしても、望みが叶うことはなかった。
自分のそのような渇望が、親たちには歓迎されないものであろうことは、幼いガブリエルにも判っていた。だから、カマキリの一件以来、父親には二度と同種の質問はしなかったし、実験のことも決して口外しなかった。しかし、隠せば隠すほど、その欲求は大きくなっていくようだった。
その頃、ガブリエルには、とても仲のよかった女の子の友達がいた。アリシア・クリンガーマンというその少女は隣の屋敷に住む銀行家の一人娘で、当然同じエレメンタリースクールに通い、親同士も親しくしていた。物語が好きな、内気な少女で、外で遊ぶよりも家の中で一緒に本を読んだりすることを好んだ。ガブリエルは、自分の秘めたる欲求のことはアリシアにも巧みに隠し、虫の話は一切しなかった。
しかし、考えるのだけはやめられなかった。自分の隣で、天使のような微笑みを浮かべながら子供向け幻想物語を朗読するアリシアの横顔をそっと覗き見ながら、アリシアの魂はどこにあるのだろう、とガブリエルは何度も考えた。昆虫と人間は違う。人間は、頭を失ったら生きられない。だから、人間の魂は頭にあるのだろう。だがガブリエルは、父親のパソコンでネットを渉猟し、脳の損傷が必ずしも生命の喪失と直結しないことをすでに学んでいた。太い鉄パイプで顎から頭頂までを貫かれても死ななかった建設作業員もいるし、患者の脳の一部を切除して精神病を治療しようとした医者もいる。
だから、脳のどこか一部なのだ。綿毛のような金髪に縁どられたアリシアの額を見ながら、ガブリエルはそう考えた。脳組織に深く深く覆われた核に、魂の座がある。
自分は将来、アリシアと結婚することになるのだろう、とガブリエルは何の疑いもなく信じていた。だから、いつの日か、アリシアの魂をこの目で見ることができるかもしれないという深い期待をひそかに抱いていた。天使のようなアリシアの魂は、きっと言葉にできないほど美しいに違いない。
ガブリエルのその望みは、思いがけないほど早く、半分裏切られ、半分叶えられることとなった。
二〇〇一年九月十一日、ガブリエルにとって――いや、全米に暮らす人間にとって一生忘れられないだろう事件が発生した。
シャーロットの北東五百マイルに位置する大都市で、二機の旅客機が高層ビルに突入し、ひとつの時代を終わらせた。凄まじい土煙を噴き上げながら崩壊するビルディングの映像を、テレビで繰り返し観ながら、ガブリエルはその瓦礫の中で消滅した数千の魂のことを思った。いけないことだと分かってはいたが、どうしても、近隣のビルの高層階から貿易センター崩落の瞬間を眺められなかったのが残念だという気持ちを抑えることができなかった。もしあの場に居合わせれば、崩れ落ちる瓦礫の下から現われて天に昇る魂たちの輝きを見ることが出来たかもしれないのに。
同時多発テロは、様々な形で合衆国を激しく揺さぶった。その波は、アパラチア山脈のふもとに広がるシャーロットの街まで、具体的にはガブリエルの家のすぐ隣にまで及んだ。事件で最も打撃を受けたのは航空業界であり、全世界で航空会社の倒産が相次いだのだが、そのうちの一つの企業に、アリシアの父親のクリンガーマン氏とその顧客が多額の投資をしていたのである。
巨大な負債を抱え、顧客たちから容赦なく責められたクリンガーマン氏は、拳銃自殺という形で人生の幕を下ろした。家屋敷を含む資産を全てを差し押さえられ、残された夫人とアリシアは、小さな工場を営む親戚を頼って遠くピッツバーグまで引っ越すこととなった。
ガブリエルは悲しかった。十一歳の子供にしては聡明だった彼は、十一歳の子供でしかない自分がアリシアを助けることなど出来るはずもないことを理解していたし、今後アリシアを待っているであろう過酷な境遇も明確に想像できた。完璧なセキュリティに守られた屋敷、熟練のコックが作る毎日の食事、裕福な白人の子供ばかりの学校、それらの特権はアリシアの人生からは永遠に去り、貧困と肉体労働がそれに取ってかわるのだ。何より、いつか自分のものになるはずだったアリシアの魂が、名も知らぬ誰かたちによって傷つけられ、輝きを失っていくのは、ガブリエルには耐えがたいことだった。
だから、彼女を殺すことにした。
アリシアが学校で最後の挨拶をしたその日、帰りのスクールバスから降りた彼女を、ガブリエルは自宅の裏の森に誘った。道路や家々の塀に設置された全ての監視カメラを巧妙に避け、誰にも見られていないことを確認しながら森に入ると、足跡が残らないよう落ち葉の上を十分ほど歩き、密生した潅木に囲まれた”秘密の実験場”にガブリエルはアリシアを導いた。
かつてそこで数え切れないほどの虫たちが死んでいったことなど知るよしもないアリシアは、ガブリエルがぎこちなく彼女を抱きしめると、一瞬身を固くしたが、すぐに同じように腕を回してきた。小さくしゃくりあげながら、アリシアは、どこにも行きたくない、ずっとこの街にいたい、と言った。
僕がその望みをかなえてあげるよ――と心の中で呟きながら、ガブリエルは上着のポケットに手を入れ、用意しておいた道具を取り出した。父親が昆虫の処理に使う、木製の握りがついた、長さ四インチの鋼鉄製ニードルの尖端をそっとアリシアの左耳に差し込み、反対側をもう一方の手で抑えておいて、一瞬の躊躇もなく根元まで貫き通した。
アリシアは、何が起きたのかわからない様子で不思議そうに目を瞬かせたあと、不意に体を激しく痙攣させ、喉のおくでくぐもった奇妙な音を漏らした。数秒後、見開かれた青い瞳がふっと焦点を失い、そして――
ガブリエルは、それを見たのだった。
目の前の、アリシアの滑らかな白い額の中央から、きらきらと光り輝く小さな雲のようなものが現われ、ふわりふわりと漂いながらガブリエルの眉間に近づくと、そのまま何の抵抗もなく染み込んだ。
いきなり、周囲を包んでいた秋の宵闇が消えた。空から、高い木々の梢を貫いて幾つもの白い光の筋が降り注ぎ、かすかな鐘の音さえ聴こえた気がした。
凄まじい法悦と高揚感に、両目から涙が溢れた。自分は今、アリシアの魂を見――それだけではなく、アリシアの魂が見ているものをさえ見ているのだ、ガブリエルはそう直感した。
輝く小さな雲は、永遠とも思えた数秒をかけてガブリエルの頭を通り抜け、そのまま天からの光に導かれるように上昇を続けて、やがて消え去った。同時にあたりに暗がりと静寂が戻った。
生命と魂を失ったアリシアの体を両手で抱えながら、ガブリエルは、今の体験が真実だったのか、それとも極度の昂奮がもたらした幻覚だったのかと考えた。そして、そのどちらであろうとも、自分は今後ずっと、今見たものを追って生きていくことになるだろうと確信した。
アリシアの骸は、かねて見つけておいた、樫の巨木の根元に開いた深い竪穴に放り込んだ。次に、自分の体を慎重に調べ、付着した長い二本の金髪を摘み上げると、それも穴に捨てた。ニードルは綺麗に洗ってから父親の道具箱に戻した。
アリシア・クリンガーマン失踪事件は、地元警察の懸命の捜査にも手がかりひとつ発見されず、やがて迷宮入りした。
ガブリエルは当初、脳を研究する科学者を目指そうと考えた。しかしすぐに、学者が自由に出来るのはサルの脳がせいぜいであることを知った。サルの魂に興味が持てるとは思えなかったので、次に、合法的に人が殺せる職業に就くことにした。警官になるのは難しくなさそうだったが、そうそう犯罪者を射殺する機会などありそうもなかったし、世界情勢的にも兵士になるのが最良の選択と言えそうだった。
決意したその日から、ガブリエルは計画的にトレーニングを始めた。両親は不思議がったが、高校でフットボールをやりたいからだと言うとあっさり納得し、高価なエキササイズマシンさえ買ってくれた。
もともと体格に恵まれていたガブリエルの身体能力はみるみる上昇し、高校に進学してからは宣言どおりフットボールだけでなく、バスケットボールとボクシングでも花形選手となった。肉体的には、軍隊の訓練がどれほどハードなものであろうと耐えられるという確信を得るに至ったガブリエルだが、最大の障壁は両親の理解だった。息子は当然、一流の大学に進みトップエリートの道を歩むのだと信じて疑わない両親に、軍隊に入りたいなどと言っても一顧だにされないだろうことは明白だった。
十八歳になる直前、ガブリエルは毎年夏に訪れるノックスビルの別荘で、両親に酒に混ぜた多量の睡眠薬を飲ませて昏睡させたうえで建物ごと焼死させた。高校を卒業すると、相続した財産のうち不動産は全て有価証券に換え、そのまま一番近い陸軍徴募事務所に足を運んだ。
屋敷を不動産業者に引き渡す前日、ガブリエルは何年ぶりかに標本収納庫を訪れ、埃をかぶったガラスケースの向こうから囁きかける虫たちの声に耳を傾けようとした。しかし、かつて彼に、生命と魂の秘密をかさかさと語ってくれた数万匹の昆虫たちは、ピンに貫かれたまましんと黙り込むだけだった。
ガブリエルは、肩をすくめてその部屋を後にし、そして二度とシャーロットの土を踏むことはなかった。
コンバット・シミュレーターのダイビングシートから身を起こしたガブリエルは、傍らに立つ女性一等軍曹が尊敬と緊張の面持ちで差し出すゲータレードのボトルを受け取り、一息に飲み干した。空容器をガブリエルから受け取り、一歩下がった若い兵士は、頬を僅かに紅潮させながら口を開いた。
「見事でした、中尉(LT)。文句なしの最高得点です。いったい、どのような訓練をすればあれほど的確に動けるのですか?」
ガブリエルは、タフな小隊長が浮かべるのに相応しい野性的な笑みを片頬に刻んで見せながら、短く答えた。
「一度の実戦は百の訓練にまさるのさ、一等軍曹(ガニー)。本物の糞溜め(ドッジ・シティ)を経験すれば、仮想訓練などニンテンドーと大差ない。君にももうすぐそれを知る機会が来るはずだ」
「そのときはぜひ、LTのブラボーチームに所属したいものです」
「おいおい、ミラー中尉、その情報をどこから手に入れた」
笑いを含んだ声の主は、白いものが混じるブラウンの髪を短く刈り込み、口ひげをたくわえた壮年の男だった。対テロ部隊バリアンスの司令を務めるジェンセン大佐だ。一等兵曹が敬礼して去っていくのを見送ってから、ガブリエルは歯をむき出してニヤリと笑い、答えた。
「最高司令官閣下がアジアの将軍にきついボディ・ブロウを見舞うつもりでいることは、この基地の全員が知っていますよ、大佐」
「だが、我々の出番があるかどうかは決まっていないぞ」
「あの国で戦うとなればいきなり市街戦です。SEALやグリーン・ベレーには道とドブの区別もつきゃしませんよ」
「ふっふっ、まあそういうことだな」
満足そうに髭をしごきながら頷くと、ジェンセンは表情を改め、続けた。
「ともあれ、今回の基地間合同シミュレーション訓練における総合成績トップは君だ、ミラー中尉。おめでとう」
「ありがとうございます」
差し出された右手をがっちりと握り返しながら――
冷え切った魂の奥底で、茶番だ全て、とガブリエルは呟いていた。
八年前、新品のブーツを履いて訓練教官の前に立ったその日から、ガブリエルは合衆国陸軍兵士という役目をこなす(ロールプレイ)には二つのものを充分に示さなければならないことを知った。一つは合衆国への忠誠心、もう一つは仲間の兵士たちとの絆である。
人間の魂なるものを知る、そのために合法的に沢山の人を殺す、ただそれだけを動機として入隊したガブリエルは、忠誠心も絆も、一オンスたりとも持ち合わせていなかった。いや、そのような非合理的な感情がガブリエルの中に存在したことはかつてなかった、と言うほうが正しい。ゆえにガブリエルは、自分が愛国心に溢れた仲間思いの男であると見せかけるすべを学ばなければならなかった。
幸い、高校のアメフト部で似たような演技を三年間続けた経験が役に立ち、ガブリエルはすぐに脳まで筋肉でできているような同僚や上官たちの信頼を集めることに成功した。訓練でも抜きん出た能力を発揮した彼は、折しも勃発したイラン戦争に先遣機械化部隊の一員として派兵され――そして、殺して、殺して、殺しまくった。
テヘランへの進軍の途上では、ブラッドリー歩兵戦闘車の二十五ミリ機関砲でイラン軍の装甲車や歩兵をなぎ倒し、首都を占領してからは、掃討部隊に志願して、ライフルとコンバットナイフで街のあちこちに立て篭もるゲリラたちを始末して回った。
仲間の兵士たちは次々と敵弾に倒れ、あるいは神経症を発して後送されるものも続出したが、ガブリエルは不思議と傷一つ負うこともなかった。それどころか、日々、これこそ我が天職であるという歓喜のなかに居たとさえ言える。浅黒い肌に濃い髭を生やした異国の兵士達は、装備も練度も士気もすべてが不足しており、捕食昆虫のように背後から忍び寄るガブリエルの銃弾あるいはナイフによってあまりにも呆気なく倒れていった。
最終的に、ガブリエルは二年半で五十人以上の敵兵と、戦闘に巻き込まれた七人の民間人を殺した。気付くと彼は、二つの勲章と曹長の肩章を手にしていた。
しかし、ただひとつ残念なことに、どのような殺し方をしても、体から離れる魂を見る機会はついに訪れなかったのだった。遠距離からライフル弾で倒した場合はもちろん論外、接近して拳銃で仕留めても、額から離脱する光の雲は現われなかった。
惜しい、と思えたのは背後からナイフで喉あるいは心臓を一突きにしたケースだ。敵兵の頭に自分の頭を密着させ、スムーズに刃を埋めると、獲物の体から力が抜ける瞬間、ぴりぴりと電気のようなものがガブリエルの脳を刺激した。やはり、人間が死ぬそのとき、なんらかのエネルギーが脳から体外へ離脱しているのだ――という確信を得るには充分な現象だったが、幼い頃アリシアの魂に触れたときのような法悦には程遠かった。
一つ学んだのは、対象の死の瞬間、肉体的または精神的に乱れれば乱れるほど、魂の離脱現象は起こりにくい、という事実だ。あの日、アリシアは、自分に何が起きたのかわからないまま死んだ。ゆえに、恐怖も絶望も感じることなく、ただかすかな戸惑いの中で絶命し、その魂は損なわれることなく脳から飛び去った。
逆に、ガブリエルが殺したイラン人兵士の大部分のように、怒り、恐れ、もがき、苦しんで死ぬと、その断末魔によって魂は離脱する前に無惨に飛び散ってしまい、形を保つことができない。だから、殺すときは、可能な限り静かに、滑らかに不意をつき、最小限のダメージによって生命を奪う必要がある。
戦争の終盤に主な任務となったゲリラ拠点の掃討任務において、すでにサイレント・キルの達人となっていたガブリエルは、夜闇に紛れて敵兵の背後から近づくと無音の一撃でその命を奪った。小隊の仲間たちは、ガブリエルのことを畏怖をこめてマスター・ニンジャと呼んだが、どれほどその技術に熟達しようとも、彼は満足できなかった。
理想を言うならば――と、毎夜簡易ベッドに横たわりながらガブリエルは考えた。
可能ならば、ナイフよりも更に鋭く、滑らかな武器が欲しい。アリシアを殺した鋼鉄製ニードルのような……いや、もっと言えば、物質的でさえない凶器が必要だ。例えば、致命的なレーザーか、マイクロウェーブのようなもの。最低限の損傷で脳の活動を止め、魂を損なうことなく離脱させる……。
携行型レーザー兵器の研究が進められているという話はあったが、残念ながらイラン戦争の終結までに実戦配備されることはもちろんなかった。二年半はあっという間に過ぎ去り、軍はガブリエルがじゅうぶんすぎるほど合衆国に貢献したと判断して、彼を少尉の位とともに本国に戻した。
合法的殺人の権利を奪われ、やり場のないエネルギーをハードトレーニングで押さえ込む日々が続いた。
ある日、ガブリエルは基地のメスホールでコーヒー片手に見るともなくテレビを眺めていた。CNNのキャスターは、極東の同盟国で起きた奇妙な事件のニュースを昂奮した口調でまくし立てていた。
その内容が頭に入ってくると同時に、ガブリエルはコーヒーの紙コップを思わず握り潰していた。そのニュースは、発狂したゲーム開発者が、ヘルメット型インターフェースをハックして、高出力マイクロウェーブを発生させて数千人のゲーマーの脳を破壊したと伝えるものだった。
以前から、日本において新種のVRハードウェアが開発されたという話は知識として記憶に留めてはいた。しかしガブリエルは幼少の頃よりテレビゲームの類にほとんど興味が無かったし、そのNERDLESという奇妙な名前のテクノロジーは主にアミューズメント用途に使用されるという報道だったので、殊更気に掛けることもなかったのだ。
だが、”マイクロウェーブによる脳の破壊”というフレーズは、否応なくガブリエルの意識を惹きつけた。それこそまさに、イランより帰還して以来、ガブリエルの最大の研究テーマであった”静かで瞬間的で清潔な殺人”を実現する数少ない手段だと思えたからだ。
魂の離脱現象を再現するためには、肉体的・精神的ストレスを極小に留めた死、という矛盾する状況を作らなければならない。当然、刺殺、銃殺、殴殺といったありきたりな手段では、対象者は大いに暴れ、おののき、死に最大限抵抗しようとするので、目的の実現は到底覚束ない。
ならば、対象者の意識を薬品等で喪失させてから致命傷を与える――あるいはいっそ、麻酔薬に類するものを使って眠るごとき死に導いたら?
ガブリエルはそのアイデアを、兵士としては護るべき合衆国国民を実験台に用いて試してみた。休暇を利用して、基地のあるジョージア州リバティー郡からは州境をまたいだ大都市メンフィスやジャクソンビルに赴き、盗んだり偽名で購入した中古車を使って不運な獲物を拉致したのだ。
ガブリエルに銃を突きつけられた実験台たちは、睡眠薬だと渡された小瓶の中身を言われるままに呷った。その説明は嘘ではなかったが、限界量の数十倍のアモバルビタール製剤をシロップに溶いたその液体は、飲んだものを容易く、永遠に醒めない昏睡へと導いた。
犠牲者の呼吸が徐々に途切れがちになり、体温が低下していくのを、ガブリエルは冷静に――遠い昔、秘密の研究室で、解体された昆虫を見守ったときと同じように――観察した。彼らの死はまさに眠るようで、魂の昇天を乱すものは何一つ無いように思われた。
しかし、奇跡が再現されることは一度としてなかった。同じ方法で三人を殺してから、ガブリエルは失望とともに認めざるを得なかった。脳に作用する類の薬品を用いると、やはり魂は離脱前に損壊されてしまうのだ。
その後、全身を凍らせるという方法で一人、注射器で血液を大量に抜き取るという方法で一人を殺したが、そのどれもが失敗だった。
戦地から帰還して一年が経ち、ガブリエルは焦りと落胆の中にあった。人間の魂の謎を解き明かし、離脱現象を確実に引き起こす方法を見つけ、そして究極的には離脱する魂を捕獲するという崇高な目的のために十年以上を費やしてきたが、いまだ手がかりさえ得られていない。やはり兵士となったのは間違いだったのだろうか? 除隊し、大学に入って大脳生理学をまなぶべきだろうか? それとも、あの出来事――アリシアの無垢なる魂の昇天を己の魂で感じた至高体験そのものが、ある種の幻覚作用だったのだろうか……?
そんな迷いのなか、ガブリエルは、”SAO事件”のニュースを見たのだった。
CNNのキャスターが、次の話題です、と言ったのを機に基地内の自宅に戻り、ガブリエルはネットで関連するニュースを漁った。そして、問題の殺人機械”NERVGEAR”の構造を知り、昂奮とともに「これだ」と呟いていた。
ナーヴギアは、延髄部分で体感覚をインタラプトすることで、使用者の意識を肉体から分離させる。つまり、死の際においても、使用者は肉体の異常を体感しないということだ。さらにギアが使用者を殺す手段は、ヘルメット内の素子から高出力マイクロウェーブを発して脳幹部分を一瞬で破壊するというものだ。つまり人間の意識、魂が存在する(とガブリエルが考えている)大脳辺縁系へのダメージは最小限にとどめ、生命現象そのものを終わらせる。あの日、アリシアの脳幹を貫いたニードル以上にクリーン、そしてスマート。
まったく理想的だった。
事件発生から数日で死んだという大量の若者たちの脳から一斉に離脱する魂の群れのきらめきが目に見えるようだった。
これを手に入れなくてはならない、どうしても。ガブリエルはそう決意した。
部隊の仲間たちには無論秘密にしていたが、ガブリエルには両親から相続した膨大な資産があった。国外の銀行――具体的にはスイスとケイマン諸島――で管理していたので、軍の身上調査にも引っかかっていないと確信できた。
今まで、ほとんど手をつけていなかったその金に、ガブリエルは初めて頼った。身元を追跡できないよう注意しながら、ネットを通じて私立探偵にナーヴギアの入手を依頼したのだ。
探偵は、直接日本に飛び、現地のブラックマーケットで品を買い付けてきた。総額で三万ドルを超える報酬を要求されたが、ガブリエルは黙って払った。偽名で取ったホテルの部屋に、フェデックスで届いた箱に収められていたのは、まだ真新しい濃紺の外装を持つ流線型のヘッドギアと、殺人ゲーム”Sword Art Online”のディスクだった。しかし新品ではない。添付された報告書によれば、以前の持ち主は十九歳の大学生で、事件発生の二十二日後に死んだという。
次にすべきことは、”処刑”時に損傷した信号発生素子の修理と、制御プロトコルの解析だった。ガブリエルはそれを、別の探偵を通して見つけた電子工学部の学生にまたしても大金を払って依頼し、二ヵ月後、再生されたギアを受け取った。
再び、狩りの季節がやってきた。
車を使って拉致した獲物に、ガブリエルはヘッドギアをかぶるよう命じた。当時まだアメリカには類する機械は無く、銃を突きつけられたハイティーンの少年は、泣きながらもいぶかしそうにギアを装着し、顎下でロックを締めた。
シガーソケットにアダプタを介して接続したナーヴギア本体の電源を入れると、ガブリエルの目の前で少年の体からくたりと力が抜けた。工学部の学生が”Sword Art Online”のリバース・エンジニアリングによって解析・作成したプログラムがロードされ、現実の肉体から切り離された少年の意識は暗闇の中、一本のブルーのゲージを見ているはずだった。”Hit Point”を表すそのゲージが突如減少を開始し、半減したところでイエローに、残り二割になったところでレッドに変化、そしてゼロになると、眼前に”You Are Dead”というメッセージが表示され――。
ガブリエルの眼前で、少年の体が一瞬ぴくりと震えた。せっかく直した素子を再び焼き切らないよう、出力はやや抑えてあるが、それでも充分に致命的な電磁波が少年の脳細胞を沸騰させたのだ。
すかさず、ガブリエルはヘッドギアからわずかに覗く少年の額に、自分の額を押し当てた。目を閉じ、何ものをも逃すまいと意識を集中する。
そして、彼は見た。ついに、それを見たのだ。
きらきらと輝く光の雲が、目蓋を閉じているはずのガブリエルの眼前に広がり、そのまま脳に染み込んでくる。彼は、名も知らぬ少年の恐怖、戸惑い、絶望を感じた。少年がこれまで生きてきた十数年を、コンマ数秒のラッシュ・フィルムとして感じた。少年が両親から与えられてきた愛情、少年が両親や妹、飼い犬に感じている愛情、その汚れ無き純粋なるエネルギーを感じた。
ガブリエルの目から涙が溢れた。アリシアを殺したときには及ばないが、それでも圧倒的な法悦が彼を包んでいた。少年の魂を、このまま己の脳に閉じ込めたい、と彼は懸命に望んだ。
だが、至高体験は、わずか数秒しか続かなかった。光の雲はガブリエルの頭を抵抗なく通過し、そのまま車の屋根を透過して、夜空へと昇っていった(ように感じた)。
ガブリエルは、ようやく、実験が次のレベルへと進んだことを自覚していた。つまり、”魂の捕獲”という段階へ。
“SAO”によって殺された初のアメリカ人となった少年の遺骸と、犯行に使用した中古のピックアップを注意深く処分し、基地へ戻るべくバイクを飛ばす道すがら、ガブリエルはひとつのことをずっと考えていた。
これまでに二度知覚した魂の離脱は、はたして何らかの神秘的現象なのだろうか、それとも科学で説明のつく物理現象なのだろうか?
おそらくは――後者であろう。とガブリエルは判断した。
光の雲の離脱が、主の御許に召される魂の昇天であるならば、持ち主の死に様によって起きたり起きなかったりするのは甚だ不公平というものだ。脳幹をピンポイントで破壊された人間のみ受け入れる天国の門など、ナンセンスの極み以外の何ものでもない。
つまりあれは、人間という有機機械を制御するある種のエネルギーの流出、と捉えるべきものだろう。であるなら、何らかの手段によって閉じ込めることも可能なはずだ。しかし一体、どのようなエネルギーなのか?
フォート・スチュアートの自宅に戻ったガブリエルは、早速ネットに接続し、様々な資料の渉猟を開始した。基地内のネットワークを流れるパケットが、NSAの情報監視システム(エシュロン)にチェックされていることは承知していたので、死、殺人、魂といった危険なキーワードの使用を避けたため時間がかかったが、ついに一週間後、興味深い情報を掲載しているサイトに行き当たった。
それは、ペンローズというイギリスの学者が提唱した、”量子脳理論”なるものを解説しているサイトだった。その説によれば、人間の思考を形作っているのは、脳細胞の微細管構造の中に存在する、量子状態の光が引き起こす波動関数の客観的収縮だという。
光量子! それこそまさに、あの揺らめく光の雲を指し示す言葉だ、とガブリエルは直感した。
つまり、離脱する魂を捕獲し、我が物とするためには、光を閉じ込められる容器があればいいということになる。
だが、それがどうにも難問だった。
光を閉じ込める――、言葉にすれば簡単だが、空気によって絶縁できる電気とは違い、光というのはどこにでも気ままに飛び出して行ってしまう。まず、内面を鏡状に加工した球体、のようなものをガブリエルは想像したが、反射してくる光の速度を上回るスピードで蓋を閉めることはできそうにない。
ならば、ある方向から入射された光を外に出さないような物質があればいいということになる。ガブリエルは半信半疑で検索を続け、そしていかなる偶然か、”光の閉じ込め”というテーマが近年の通信業界において最先端の研究テーマとなっていることを知った。
なんとなれば、通信インフラの光回線化が著しい昨今、その回線速度のボトルネックとなっている既存のルータ機器に代わる”光ルータ”というものの開発が各社で競われているのだった。その機械には、光の減速と閉じ込めという機能が必須であり、すでに”ホーリーファイバー”や”フォトニック結晶”といった基礎技術の開発は成功し、実用化が進められている段階らしかった。
ガブリエルはそれら実験段階の部材を入手するべく方法を模索したが、いくら資金が豊富な彼にも、情報管理の厳しい大企業の開発技術を盗み出すことはハードルが高すぎた。不本意ながら、ガブリエルは、光ルータ機器が実用化・市販されるまで――おそらくは目玉が飛び出すほど高価であろうが――待つよりないという結論に至った。
それまでの代替案として、ガブリエルはひとつの方策を考え出し、実行した。
ジャクソンビルの郊外に見つけた廃工場のせまい一室を、一ヶ月ほどかけて完璧な暗室に改造し、大口径のレンズを備えたカメラを持ち込んだのだ。
その後、更に一ヶ月を費やして相応しい対象を吟味し、そしてある夜、かつてのアリシアによく似た面影を持つ女子大学生を拉致した。気絶させ、暗室に運び込んだあと、入り口を分厚いテープで厳重に封鎖し、対象を椅子に座らせてナーヴギアを被せた。
対象の頭を注意深く固定し、その額にカメラのレンズを密着させるとこれも固定する。右手でナーヴギアの電源、左手でカメラのシャッターの位置を確認し、首に下げたLEDトーチを消すと、周囲は完全な闇に満たされた。
ガブリエルは、まずナーヴギアを起動した。改造SAOプログラムがロードされ、数秒後、迸ったマイクロウェーブが女子大学生の脳を灼いた。
すかさず、左手でカメラのシャッターを切る。長時間露光にセットしてあったシャッターはその口を開けたまま、対象の脳から遊離する光の雲を飲み込み、そして高感度フィルムがそれを受け止めたはずだった。
全てが終了すると、ガブリエルは死体を遠く離れた山林に埋め、カメラは名も知らぬ川に投げ込んで、フィルムを大事に抱えて基地に戻った。
興奮を抑えながら、自宅の暗室で現像した写真には――確かに、何かが写っていた。
一面の闇の中央に、ごくかすかに焼きついた七色の光。中央部では複雑なマーブル模様を作り、外に行くに従って放射状に広がっている。他人には単なる露光ミスとしか思われないに違いなかったが、ガブリエルには、どのような宗教画よりも美しい輝きを放って見えた。
これで満足しよう、今は。いつか、より完全な光の捕獲装置を手に入れる、その時まで。ガブリエルは自分に言い聞かせ、写真を額に入れて寝室に飾った。
こうして、ガブリエル・ミラーの魂を希求する旅の第一期が終わった。彼が手にかけた人間は、イラン軍兵士五十二人、イラン市民七人、アメリカ市民八人に上った。
ジェンセン大佐の肝煎りで、ガブリエルの合同シミュレーション訓練得点トップを祝うパーティーが基地近くのパブで催され、バリアンス隊のほぼ全員が集った乱痴気騒ぎは深夜二時まで続いた。
ガブリエルも盛大に羽目を外して、次々と注がれるビールを浴びるように飲み、仲間たちと声を合わせて部隊のテーマソングを歌った。端から見れば、ガブリエル・ミラーという人間は、イラン戦争で華々しい武勲を立てた英雄でありながらそれを鼻にかけない、仲間思いの気のいいLTで、愛すべき陽気な陸軍野郎そのものであったが、しかし勿論それはガブリエルの作り上げたいくつもの仮面の一つでしかなかった。
ガブリエルは酒に酔わない。どれほどアルコールを飲もうと、真に思考が乱れることは一切ない。それどころか、昔、自分の耐性を確かめるべく各種のドラッグを服用してみた時も、ハイになったり酩酊したりという症状はわずかにも現われなかった。彼の意識は常に明晰さを失わず、肉体を完璧に制御しつづけるので、様々なペルソナを操ることなど造作もないことなのだった。
タフな兵士として振舞うことは勿論、なろうと思えば、アイヴィーリーグ出のエリートビジネスマン、オイルにまみれた自動車工、首に缶をぶら下げた物乞いにすら完全に化けることが出来た。それゆえに、彼は大勢の獲物を容易く拉致し、そののちに捜査線上から煙のごとく消え失せることが可能だったのだ。
しかし、そのようなペルソナを全て剥ぎ取った、素のガブリエルに戻ったとき、彼は己がどんな人間なのか、自分でも形容することができなかった。パブでの大騒ぎがお開きになり、仲間達と別れて一人バイクに跨ると、もう必要なくなった”陽気な中尉”の仮面がたちまち消え去り、胸中を冷ややかな空虚さが満たした。
一体、自分は何ものなのか。ホンダのイグニションキーを回す手を止め、彼はふと考える。
軍に入ったのは、合法的に人間を殺すのが目的で、国や国民を守ろうという意識は欠片もないのだから軍人ではない。ならば殺人者かと言うと、殺人そのものが目的ではないので、それも違う。己を動かすのは、人間の魂なるものを知り、観察し、手に入れたいという欲求だけだ。では、なぜそれほどまでに魂に惹かれるのか? あの日、アリシアの魂を見たことが原因なのか? いや、そうではない。それ以前からずっと、生物という機械を動かすエネルギーが何なのか知りたかった。遡れる最初の記憶が、昆虫標本を飽かず眺める幼い自分なのだから。
これ以上は考えても答えは出ない。大量のアルコールが体内に入っているにも関わらず正確無比なシフト操作で大型バイクを加速させながら、ガブリエルは合理的に判断する。
自分が何ものなのかは、恐らく、目的を達したときに分かるのだろう。人間の――望み得るなら、汚れを知らぬ、活力に満ちた――魂を捕獲し、両手に収めて、心の底から満たされたと思えたとき、なぜ自分がこのような存在として生を受けたのか、その謎も解けるはずだ。
ヴァイタルな魂、その手触りを想像すると、普段虚ろな胸のうちにほんの少し熱が生まれたような気がして、ガブリエルは薄く微笑んだ。連想したのは、ガンゲイル・オンラインの大会でまみえた日本人の少女プレイヤーだ。
ナーヴギアを手に入れて以来、ガブリエルは深い興味を持って”SAO事件”の推移を見守り続けた。あの機械は直接魂にアクセスするものではないにせよ、人間の意識を肉体と切り離すという点において、己の目的達成に重大な意味を持つものだと直感していたからだ。
百の階層を持つ空中城に囚われた日本の若者たちは、そう時を待たずに全員死亡するだろうというニュース・コメンテーターたちの予想を裏切り、二年もの期間戦い続けて、何と全体の八十パーセント近くが生還した。
自動翻訳エンジンの悪文に苦労しながら読み込んだ日本のウェブログによると、事件解決の原動力となったのは、攻略組(プログレッサー)と呼ばれたごく一部――わずか二百人足らず――のプレイヤー達だったという。彼らは、一度の死亡がすなわち現実の死となる絶望的なデスゲームを戦い抜き、最終ボスを倒して、狂った開発者の設定した条件をクリアしてのけたのだ。驚くべきは、肉体と切り離されてなお失われない魂の力ではないか。
ガブリエルは、光ルータの完成を待つという方針を覆し、日本駐留部隊への転属を希望して、生還したSAOプレイヤーを何人か殺してみるべきか真剣に考えた。そのためにオンラインの語学講座に登録し、会話ならばほぼ完璧にマスターするにまで至ったのだが、計画を実行に移すより速く、日本製VRマシンとの接点は思わぬ形でガブリエルの前にもたらされた。
民生用機器の米国発売に先立って、自衛隊との協力体勢のもと、訓練用VRシミュレーションが軍に導入されるという噂が流れたのだ。もっとも、当初それを利用できるのは、SOCOM直下に新設されるカウンター・テロ部隊だけだという話だった。
ガブリエルは、迷うことなくその部隊、”バリアンス”の選抜試験に応募した。戦歴も、出身も、心理面もまったく問題なかった彼は、試験でも抜群の身体能力を見せつけ、ほぼトップの成績で合格した。
陸軍入隊以来七年を過ごしたフォート・スチュアートの第三歩兵師団から、マクディール空軍基地に置かれた主に空軍と海兵隊出身者からなるバリアンスに移ったガブリエルは、ここでも愛国心と仲間意識に溢れた好漢ぶりを如何なく発揮し、たちまち同僚と上官の信頼を勝ち得た。導入されたVRシミュレーター第一号機の、最初のテストダイブに自分が選抜されたことを、彼は偶然だとは考えなかった。
以来一年。
今では、ガブリエルは、部隊だけではなく、全軍で最もVRシミュレーション訓練に適応した兵士と言っても過言ではない。プライベートでも、ようやく発売された民生用マシン”AmuSphere”を発売日に購入し、様々なVRゲームの渉猟を続けている。
ITバブル崩壊の余波のせいか、一向に進まない光ルータの開発状況をガブリエルが忍耐強く待っていられるのは、間違いなくVR世界で多くの魂たちの殺戮を愉しんでいるからだ。殺しの手応えという点では、やはりアミュスフィアに触れて間もない米国のプレイヤーたちより、先行国日本のプレイヤーのほうが好ましい。相互接続を許可しているタイトルが少ないのは残念だが、それも秘匿プロキシ・サーバを設置することで回避できる。
次の週末に予定されている、ガンゲイル・オンライン・トーナメントのチーム戦のことを考えると、バイクのグリップを握る手がじわりと熱くなった。あの水色の髪の少女を背後から拘束し、ナイフでゆっくりと喉を切り裂けば、最後に人間を殺してからもう三年も味わっていないあの充実感がきっと甦るだろう。
その次は、いよいよ日本国内でのみ運営されているVRMMOゲームへと進出するつもりだった。ことに、旧SAOプレイヤー達が多数参加しているという”Alfheim Online”というタイトルがガブリエルの食指をそそっていた。
軍人ではなく、快楽殺人者でもなく、そして恐らくはVRMMOプレイヤーでもない、名を持たぬ自分にも、楽しみだと思えることがあるのが、ガブリエルには嬉しかった。
SAO4_17_Unicode.txt
翌朝。
日課となっている基地一周のジョギングを終え、シャワールームに入ろうとしたガブリエルを、司令の副官をつとめる女性大尉が呼び止めた。
「ミラー中尉、ジェンセン大佐があなたに話があるそうよ。一〇〇〇に司令官室に出頭すること、いいわね」
ブルネットの髪を短く切り揃えた美人士官は、事務的にそこまで口にしたあと、やや心配そうに眉をひそめ、声を落とした。
「……司令にしては珍しく、ベイクド・アップルみたいに赤くなって湯気を立ててたわよ。あなた、何かやらかしたの?」
「なんだって?」
ガブリエルは、大袈裟に両手を広げると、とんでもないというふうに目を回してみせた。
「勲章の一つもくれるならわかるが、怒らせた覚えはないよ。……君のベッドから出てきたところを誰かに見られたなら別だがね、ジェシカ」
「つまらない冗談を言ってるとわたしがあなたをオーブンに入れるわよ。ともかく、思い当たるふしがあるなら気をつけておくことね」
かつかつとヒールを鳴らして去っていく大尉を敬礼とともに見送ってから、ガブリエルは顔に貼り付けていた野卑な笑みをすっと消し、思い当たるふしについて意識を巡らせた。
プライベートでジェンセンの気に障りそうなことと言ったら、やや長時間に及ぶVRMMOへのダイブくらいだが、今時の兵士としてはさして珍しいレジャーでもないし、そもそもガブリエルの場合は訓練の一助という大義名分もある。ドラッグの類は一切やっていないし、金銭的にもきれいなものだ。
あるいは、一年前まで行っていた”実験”が露見したのだろうか――と一瞬危惧したが、すぐにそんなはずはないと否定する。ガブリエルの裏の顔が、稀に見るシリアル・キラーなのだなどということを知ったら、熱血正義漢のジェンセンとしては湯気を立てるくらいではとても収まるまい。みずから特殊部隊用のMP5サブマシンガンを振りかざし、ガブリエルを処刑せんと兵舎に乗り込んできてもおかしくない。
つまり、論理的に考えればジェンセンの怒りの原因は自分以外のところにあると見るべきだろう。そう結論づけると、ガブリエルは小さく肩をすくめ、汗を流すべくシャワールームへ向かった。
久しぶりにぱりっと糊の利いた開襟シャツとスラックスを身につけたガブリエルは、肩章と靴がぴかぴかに輝いているのを確認してから、司令官室のマホガニー製のドアを叩いた。
即座に返って来たカミン! の声に、ドアを押し開けて一歩踏み込むと、これ以上ないほど背筋を伸ばして右手を額に持っていく。
「ミラー中尉、命令により出頭いたしました!」
大声で叫ぶと、デスクの向こうで立ち上がったジェンセン大佐は顰め面で敬礼を返し、言った。
「楽にしていい。……昨日の今日ですまないな、中尉。もっとも君のことだから、酒が残っているなどということは有り得んだろうが」
自身は二日酔いの頭痛に苛まれているような顔で髭をしごくと、司令官はじっとガブリエルを見た。
「中尉、君に客が来ている」
顎で示したのは隣接する応接室の扉だ。
「……客、ですか?」
よもや警察だろうか、と一瞬考え、仮に刑事がガブリエルを逮捕に来ていた場合、その拳銃を奪ってジェンセンを人質に基地を脱出できる可能性はいかほどか、と計算しかけたが、続く大佐の言葉にガブリエルは珍しく戸惑わされた。
「国家安全保障局の人間だ」
「は……? NSA(フォート・ミード)が私に何の用なのでしょう?」
「君を貸せと言ってきておる。とんでもない話だ。わが部隊を人材派遣会社か何かと勘違いしてているようだ」
吐き捨てたその口調から、ジェンセンが腹を立てているのはその客に対してなのだと悟り、ガブリエルは猛烈に頭を働かせながら答えた。
「つまり、出動任務ということですか?」
「そんな結構なものではない! どうせ公にできん汚れ仕事だろう。私としては、隊のエースである君の経歴に、おかしな横槍で汚点をつけたくない。しかし連中は、SOCOMの上のほうの命令書を取り付けてきていて、私のレベルでは拒否することができない。……が、公式な出動命令が存在しない以上、君の拒否権まで取り上げることはできんはずだ。いいな、少しでも臭いと思ったら遠慮なく断って構わんぞ。そのことで経歴に傷はつかん。それは私が保証する」
「は、ありがとうございます司令官殿」
神妙な顔で礼を言ったガブリエルは、これは何かの罠なのか、あるいは運命の導きなのかと考えながら、続けて言った。
「ともかく、NSAの話を聞いてみます。まさか私に、ヒラリー・クリントンを護衛しろとは言わんでしょう」
「どうかな。あるいはその逆かもしれんぞ」
ようやくいつものにやりとした笑いを口もとに滲ませ、ジェンセンは頷くと隣室に向かって歩を進めた。ガブリエルもそれに続く。
ろくに使われないために埃っぽい応接室のソファーに腰掛けていたのは、ひと目で上等な仕立てと知れるブラックスーツに身を固めた二人組みの男たちだった。大佐に続いて部屋に入ったガブリエルを認めると、うっそりと立ち上がり、右手を伸ばしてくる。
NSAこと国家安全保障局は、FBIやCIAと比べて知名度は低いが、その実、与えられた力の大きさでは二者を上回るものがある。活動は、通信と暗号にかかわる全ての分野に及び、例えば国内を行き交う全通信を検閲する”エシュロン”なるシステムを運用したり、独自に武装した諜報員を多数抱えていたりと、全容が知れない。
ガブリエルの手を順に握った男達の右手は、鋼の骨でも入っているのかと思えるほどにがっちりと硬く、なるほどただの事務屋ではないと思わせるものがあった。
どうやら、右側の、ブラウンの髪を丁寧に撫でつけた灰色の眼の男がしゃべり役らしく、大きな笑みでそれまでの剣呑な雰囲気を消すと、闊達に自己紹介を始めた。
「バリアンスのスペシャル・エースにお会いできて嬉しいですよ、ミラー中尉。私はアルトマン、こっちのでかいのがホルツです。訓練の邪魔してしまって、いや、申し訳ない」
アルトマンの隣でさっさとソファーに座った坊主頭の大男は、当面口を開く気はないらしく、さっさとサングラスをかけると巨大なバブルガムを噛み始めた。その様子を見たジェンセンがまた沸点に近づきはじめたのを察して、ガブリエルはとっとと本題に入るべく、挨拶抜きで問いただした。
「何でも、私にしてほしいことがあるとか?」
「そう、その通り」
細身で、一見セールスマンのような軽薄な明るさを身にまとうアルトマンは、ぱちりと指を鳴らすと、にこやかにジェンセンに向かって言った。
「大佐、すみませんがお人払いを」
「……ここには私たちしかいないが」
ぶすっとした顔で答える司令官に、物怖じする様子もなく再度繰り返す。
「ええ、ですから、お人払いをお願いします」
ようやく、自分に出て行けと言っているのだと悟ったジェンセンは、眼を剥き、視線でアルトマンを焼き殺そうとでもするかのように数秒睨みつけたあと、盛大に鼻を鳴らして身を翻した。
「隣に居るからな、中尉」
ガブリエルに頷きかけ、バターンとドアを響かせて大佐が姿を消すと、NSAの男はやれやれ、というかのように首を振りながら、座るよう身振りで示した。
ソファーに腰を沈め、足を組むと、ガブリエルは肩をすくめながら言った。
「アルトマンさん、あんた帰るとき、車に爆弾が仕掛けられてないか確かめたほうがいいよ」
「我々のシェヴィには磁石はくっつきません」
冗談なのか本気なのかポーカーフェイスで答えると、アルトマンは自分もソファーに座り、ひざの上で手を組んだ。
「さてさて、ガブリエル・ミラー中尉。あなたは、”脳まで筋肉”が身上の陸軍出にしては実に特異なキャラクターですな」
「カウンセラーなら間に合っている」
ガブリエルは素っ気無く答えたが、めげる様子も無くアルトマンは続ける。
「ハイスクールの成績は抜群、どの大学でも好きに選べたのになぜか卒業と同時に陸軍に入隊。陸軍士官学校(ウエストポイント)から始める道もあったのに二等兵として泥まみれの訓練に明け暮れ、イランへの派遣部隊には自ら志願。対ゲリラ戦で華々しい戦功を上げて、帰国後はどんな楽な配置も希望できたのに、今度は全特殊部隊のなかで最もキツいと評判のバリアンス部隊へ転属ときた」
「合衆国と国民を守るために、最も厳しい環境で奉仕するのは兵士として当然のことだと思うが」
「フムン」
アルトマンはにっと笑うと、ある種の石英のような灰色の眼でガブリエルをじっと見た。
「――そんなマッチョ志向のスーパー・ソルジャーかと思えば、休日はろくに外出もせず、バーチャル・ゲームに耽溺する一面もある。我々の統計では、あのゲーム機にハマる兵士は、大概落ちこぼれ組と相場が決まっているんですがね」
「全感覚VRシミュレーションは戦闘訓練としては実戦の次に有効だ。休日を有効利用しているだけだよ。……こんな精神分析めいたたわ言を聞かせるために呼んだなら、私はもう戻らせてもらう」
「いやいやいや、我々としては、あなたがいかに我々の求める理想的な人材かということを言いたかっただけでして。実戦経験が豊富で、知能も身体能力も高く、その上ガンゲイル・オンラインではほぼ無敗の伝説的ガンスリンガー。いや、実に素晴らしい」
「たわ言はいい加減にしてくれ。一体、俺になにをさせようってんだ」
口調を変えたガブリエルの眼前に、アルトマンはスーツの内ポケットから取り出した一葉の写真を滑らせてきた。
ちらりと眺め、ガブリエルはわずかに首を捻った。
「……なんだこれは? 船……にしては妙な形だな」
「この先をお話する前に、この機密保持誓約書にサインを頂く必要があるんですがね」
すぐに答えず、ガブリエルは写真を取り上げると、詳細に眺めた。
はるか上空から超望遠撮影したと思しき、粒子の粗い画面に捉えられているのは、青い海面に浮かぶ奇妙な構造物だった。長方形の黒いピラミッド、としか表現のしようのないそれを見た瞬間、ガブリエルは、確かに何か電流のようなものがかすかに脳内を走ったのを知覚していた。
何かある、と思った。この男達が運んできたのは、いずれ途方も無い厄介事なのは間違いないだろうが、しかし自分は、この先を聞かなくてはいけない――という確信がガブリエルの背を押した。
短く頷くやいなや、アルトマンがさらに一枚の書類を万年筆つきで送って寄越した。NSAの透かしが入ったICペーパーだ。ガブリエルは、芥子粒のようなサイズで並んでいる文字にろくろく目を通さず、末尾にサインを書き殴ると、指先で押し戻す。
紙を丁寧にフォルダーに挟み、アルトマンはにっこりと笑いながら口を開いた。
「やあ、受けてもらえると思ってましたよ、ミラー中尉」
「勘違いするな、俺が同意したのはあんたらの話を聞くことだけだ」
「聞けば、降りようとは思いませんよ、絶対にね。……煙草、構いませんかね?」
ガブリエルの返事を待たずに、卓上の灰皿を引き寄せると、アルトマンはスーツのポケットから皺くちゃのウインストンを引っ張り出し一本咥えて火をつけた。近年、政府系機関のホワイトカラーには喫煙者はほぼ絶滅しつつあることを考えると、やはりこの男たちは特殊なポジションに位置しているらしい。
美味そうに紫煙を吐き出し、アルトマンは唐突に訊いてきた。
「ミラー中尉は、日本の軍(アーミー)……いや、自衛隊(セルフ・ディフェンス・フォース)という組織に関してどの程度ご存知ですかね?」
さすがに少々意表を突かれ、ガブリエルはわずかに眉を顰めてから、わずかな知識を開陳した。
「JSDF? 確か……専守防衛(エクスクルーシブ・ディフェンス)とかいう奇妙なポリシーを掲げた軍隊だろう? イランにも部隊が展開していたが……戦闘区域には一切出てこなかった」
「イエス、そのポリシーは、戦争放棄を謳った憲法に配慮して捻り出されたものらしいですがね。しかし同時に、あの国が二度と不遜な真似をしでかさないための首輪の役目も果たしている。言わば、JSDFというのは……合衆国の、五十一番目の州の州兵のようなものと思ってください。その編成から装備まで、この六十年間、すべて我が国が適切にコントロールしてきたのです。しかし、今世紀に入ったあたりから、どうやら組織の一部に、憂慮すべき志向を持った集団が発生したようなのですな」
「ほう?」
「簡単に言えば、連中は、合衆国のコントロールの及ばない戦闘力を保有することを……いや、究極的には、我が軍に対抗し得るだけの軍事技術を開発してのけることを目指しています」
ナショナリズムなど欠片も持ち合わせていないガブリエルにとって、極東の同盟国の軍内部にどのような動きがあろうと、それはまったく興味の埒外だった。しかしここは、模範的兵士として不快感を示しておくべきだろうと考え、鼻筋に皺を寄せると呟いた。
「気に食わない話だな」
「まったくです」
「しかし、ひとつ解せないことがある。その台詞が、ペンタゴンの偉いさんの口から出てくるならわかるが、なぜNSAのあんたが日本の軍隊のことなどを気にする? あんたらの仕事は内緒話の盗み聞きだけだと思っていたが」
アルトマンは苦笑すると、短くなった煙草を灰皿に擦りつけた。
「ま、確かに、連中が開発しているのが戦車やらミサイルなら我々の出る幕はありませんな。それこそ情報を国防省に丸投げして終わりです。だが、困ったことに、開発されているモノというのは単なる兵器ではないのです。軍事を含む、あらゆる産業分野を変革してしまう可能性をはらむテクノロジーなのですよ」
「時間もないんだろう、遠まわしな言い方はやめてくれないか。一体何なんだ、そのテクノロジーという奴は」
「無人兵器制御用のAIプログラムです」
アルトマンの返答に、ガブリエルはやや肩透かしな気分を味わった。
「……そんな物、今更珍しくもあるまい。イランでも無人偵察機を山ほど飛ばしたぞ」
「能力のケタが違うのです。連中が作り出そうとしているのは、無人戦闘機を操縦しうる……つまり、有人の戦闘機を撃墜するだけの能力を持ったAIなのです」
「……ほう」
ようやく、僅かながら興味を惹かれ、ガブリエルは組んだ足をほどいた。
「それは要するに、人間と同じだけの状況判断力を持つ人工知能、ということか?」
「判断力……と言うよりも、こう表現すべきでしょうな。人間と同じか、あるいはそれ以上の思考力を備えた人工知能、と」
「人間以上だと?」
思わず鼻を鳴らす。
「この基地に導入されたVRシミュレータを動かしているのは最新最速のスパコンらしいが、そいつが操作する敵兵のお粗末さときたら、まだGGOで初心者(ニュービー)を相手にしてるほうがマシというものだぞ」
「そう、その通り」
アルトマンは、パチンと鳴らした右手の指をまっすぐガブリエルの顔に向けた。
「既知のアーキテクチャを持つコンピュータが、人間並みの思考を身につけるのはおそらく不可能でしょう。ウチには、それを認めようとしない技術者ばかりですが、JSDFの問題の集団……首謀者の名前を取って我々はK組織と呼んでいますがね、彼らは従来型コンピュータに早々に見切りをつけ、まったく新しいアーキテクチャを作り上げたのです。いや、作り上げた、ではなく……コピーした、と言うべきか」
「コピー? 一体何をだ?」
ガブリエルのその問いに対して、新しい煙草を咥えようとしながら、何気ない様子でアルトマンが発した言葉――。
それを聞いた瞬間、全身を襲った激しい震えを抑えつけるのに、ガブリエルは全精神力を必要とした。
「人間の魂(ヒューマン・ソウル)ですよ」
「……何だと?」
平静な声を出せたことに自分でも驚くほどに、ガブリエルの脳は一瞬にしてレッドゾーンにまで回転を上げていた。
わずかな時間のあいだに、改めて状況を再点検する。やはりこの男達は、NSAのエージェントというのは偽装で、本当は自分を逮捕しにきたFBIの捜査官なのではないか? だとしたら今すぐ二人を制圧し、武器を奪って脱出すべきか――と考え、右手の指先がぴくりと動いたが、そこでようやくガブリエルはあることに気付いた。
つまり、仮にFBIにガブリエルの連続殺人が露見していたとしても、彼らが、その動機までを知っているはずはないのだ。人間の魂、などという単語をガブリエルはこれまで一度として口に出したことはないし、キーボードでタイプしたこともない。どんな凄腕のプロファイラーにも、この動機だけは推測することはできない。絶対に。
ならば、これはやはり偶然――あるいは必然によって掌中に落ちてきた果実なのだ。毒があるかどうかまではまだ分からないが。
「……人間の魂だって?」
一瞬の殺意を完璧に包み隠し、ガブリエルは口の端に乗せた笑みとともに訊き返した。二本目の煙草を深々と吸い込んだアルトマンは、ゆっくりと頷き、さらにガブリエルを驚かせるようなことを言った。
「中尉は、”脳量子論”というヤツをご存知ですかね?」
反射的に否定しそうになるが、自宅のパソコンでそれを検索したことがあるのを思い出し、やや頭を傾げてみせながら首肯する。
「まあ、大雑把にはな。人間の意識は、脳の中の光量子から発生するという仮説だろう」
「ところがどうやら仮説ではなかったようなんですな、これが」
知っているよ、とガブリエルは内心で呟く。自宅の寝室には、その光量子が焼きついた写真が飾ってあるのだから。
「K組織は、中尉もご存知のアミュスフィアに使用されているNERDLESテクノロジーを極限まで拡張したシステムを開発し、脳中の光量子へのダイレクトアクセスを可能としたのです。彼らはその、人間の意識を発生させている光を、フラクトライト……波動光(フラクチュエイト・ライト)の略らしいですがね、そう呼んでいますが、要は人間の魂ですな。そいつを読み取り、なおかつコピーすることすら達成したと……まあ、簡単に言えばそういうことです」
今度は、危機感ではなく、大いなる期待の震えがガブリエルの背中を疾った。渇いた舌を紙コップのコーヒーで湿らせ、ガブリエルはゆっくりと訊き返した。
「コピーするだって? 人間の魂を? それは……つまり……」
わずかに間をおき、
「媒体が存在するということか? 人間の魂を保存するための?」
「理解が早いですな、中尉。助かりますよ。ええ、その通りです。何とか言う希土類の結晶を成型したもので、ライトキューブとか呼ばれているようですが……これくらいの」
アルトマンは両手で五インチほどの幅を作ってみせた。
「大きさの立方体です。いや実に、とんでもない話ですなあ。私のお袋はガチガチのカトリックですがね、この話を聞いたら泡を噴いて卒倒しますよ」
「本当だな、とんでもない話だ」
機械的に繰り返しながら、ガブリエルは内心で叫んでいた。まったくとんでもない――とんでもなく素晴らしい話だ! 魂を読み出し、保存する技術。ガブリエルが目指していた”死者の魂の捕獲”を一気に飛び越え、生者の魂を、その意識を保ったまま抜き取れる……?
なるほど、日本人か。彼らは確か、特定の宗教を持たない民族だったはずだ。つまり、欧米人が原体験的に刷り込まれている、生命と魂の神秘へのタブー意識と無縁だからこそ、そのような不遜極まりない”神の御業”の強奪を可能ならしめたのだろう。
自分を襲う深い感動を、目の前の男達に気取られないよう注意しつつ、ガブリエルは尋ねた。
「つまりこういうことか? そのK組織とやらが作り出そうとしている超人工知能というのは、コンピュータではなく、人間の意識と同質の存在であると?」
「まあ、広義の量子コンピュータとも言えるでしょうがね。そんなものが量産されて、戦闘機だの戦車だの魚雷だのに搭載されたら、世界の軍事バランスはいっぺんに引っ繰り返りますよ。どうあろうと放置はできない、それはあなたにも理解してもらえると思いますが、ミラー中尉」
「フム……危険だな、確かに」
そう相槌を打ったものの、しかし知ったことではない、勿論。日本が利口な無人兵器を売り出して世界の軍需産業を牛耳ろうと、あるいは機械の大軍勢をもってもう一度合衆国に戦争を仕掛けようと、自分にはどうでもいいことだ、とガブリエルは胸中で呟く。
ただ、人間の魂を複製し、小さなメディアに閉じ込めるというテクノロジー、それだけは何としても手中に収めなければならない。NSAの男たちが、自分をその目的の実現へと近づけてくれるなら、ここは”米軍兵士として憤り”、”しかし冷静な判断力を失わない”ところを見せておくべきだろう。
「どちらが飼い主なのか、黄色い連中にしっかり判らせてやる必要があるようだな。――だが、現実的に、どういう対応を行うつもりなんだ? そのK組織とやらの本拠に巡航ミサイルでも撃ちこもうというのか?」
「それができれば話が早くていいんですがね」
アルトマンはニヤっと笑うと、二本目の煙草を揉み消した。
「だが、何もかも破壊してしまうには少々勿体無い技術だ、そうでしょう?」
「無傷で奪取したい、という訳だな。――なるほど、超高度な人工エージェントなんてものが存在するなら、あんたらの大事な”エシュロン”の通信検閲能力も大幅に強化できるからな」
「なんです、それは? 聞いたことが無い名前ですな」
平然とうそぶき、黒服の諜報員はもう一度唇を歪めて笑った。
「まあ、手に入れたいと思っているのは我々だけではありませんよ。実のところ、NSAよりも、とある軍事関連企業のほうが熱心なのです。この情報は彼らが持ち込んできたものでしてね、今回の作戦にかかる諸費用も彼らの財布から出ます」
「ほう。政府のスパイより先に、自衛隊の極秘計画を探り出すとは、随分と鼻の利く企業もあったものだ」
「実は、その企業というのが、以前一度日本の産業スパイに煮え湯を飲まされていましてね。当時の経費を何としても回収する気でいるんじゃないですかね。グロージェン・マイクロエレクトロニクス、聞いたことありませんか?」
「グロージェン?」
ガブリエルは、記憶のどこかに引っかかるものを感じて首を傾げた。しかし、思い出すより早く、アルトマンがまたしてもガブリエルを驚かせるようなキーワードを発した。
「アミュスフィア・ユーザーのミラー中尉なら詳しくご存知だと思いますが……四年前、日本で起きた”SAO事件”というものを?」
「……ああ、知っている」
「あれが一応の解決を見てから、数ヵ月後に露見した付随的な事件があったのです。我が国ではほとんど報道されなかったのですがね。例のナーヴギアという機械のメーカー、レクトの技術者数名が、SAO事件の被害者の脳を利用して違法な人体実験を行いました。感覚信号のレンジを拡大して、感情や記憶の操作を試みるという、これも我々にはそれなりに興味深い実験なのですがね。その技術者から研究成果を買い受ける約束をして、前金までたっぷりと払っていたのが、グロージェンMEですよ。――しかし、首謀者のスゴウという男は研究半ばにして逮捕され、グロージェンも投下した資金を全く回収できなかった。その上、マスコミに会社の名前が出るのを抑えるのに、目の玉が飛び出るような口止め料をばら撒く破目になったようですな。あそこの社長は執念深い男でね、事件以後もレクト内部にスパイを飼い続けて、その線からK組織の活動を知ったようです」
「ああ……その事件の話はどこかで読んだ記憶があるな。グロージェンの名前は、一般のウェブログでは見かけた気がするが、噂レベルを出なかったのはそういう訳か。それで、大損した金をさらにダーティーな手段で回収しようと? 阿呆だな、その社長は」
法を逸脱することで目的を達しようとする者は、常に引き際を見極めなければいけない。それを誰よりもよく知っているガブリエルがそう呟くと、アルトマンは薄く苦笑した。
「たしかに相当にヤバいギャンブルですが、当たればデカいですよ。今後一世紀の軍需産業を支配できるかもしれないんですからね。だからこそ我々の上役も一口乗ろうという気になったのです。勿論、失敗したとき首を括るのはグロージェンの社長だけですがね」
「いかにもスパイらしい言い草だな。――で? 具体的には、どうやってK組織の研究を盗み出そうというんだ?」
「もちろん、最初は穏当な手段を検討しましたよ。CIAが自衛隊内にも相当数の協力者(アセット)を飼ってますからね。K組織の実験施設が、自衛隊の基地のどこか、あるいは偽装した工場などに存在すれば、非武力的(ドライ)な作戦で奪取することも可能だったでしょう。だが、連中も馬鹿じゃない、とんでもない場所に本拠を構えてましてね……いや実際、ぶったまげますよ」
「いい加減持って回った言い方はやめてくれないか。どこなんだ?」
「中尉はもう見てますよ。それです」
アルトマンが顎をしゃくった先には、テーブルの上に乗ったままの写真があった。ガブリエルは改めて、海洋に突き出す謎の黒いピラミッドを凝視した。
「……何なんだ、これは?」
「自走型メガ・フロートです。長辺六〇〇メートルという化け物ですよ。名前は”Ocean Turtle”……日本政府のプレスリリースでは、総合海洋研究施設ということになっていますがね、その実、自衛隊の占有物と我々は分析しています。その中枢部分に、K組織の研究機関、コードネーム”Rath”が存在するという訳です」
「……六〇〇メートルだと」
ガブリエルは少々の驚きをこめて呟いた。つまりこのピラミッドは、米海軍最大の空母ニミッツ級の二倍近い大きさだということになる。こんなものを建造してまで守ろうとしているなら、K組織の超人工知能とやらは掛け値なく世界を変革し得るテクノロジーなのだ。
可能だろうか?
K組織と、グロージェンME、そしてNSAをも出し抜き、そのテクノロジーを自分だけのものにすることが?
それを実現するためには、目の前の二人を含めて、ほぼあらゆる関係者を殺して回り、尚且つ地の果てまで――それこそ地球の裏側まで逃げ切る必要がある。数分前、グロージェンの社長のことを引き際の見えない奴だと嗤ったが、この計画に比べれば、社長のギャンブルはまだしも現実的な賭け率というべきだろう。
しかし、ガブリエルには、自分がそれを成し遂げるだろうということが分かっていた。魂の捕獲を目指して生きてきたこれまでの二十八年間、あらゆる局面で正しい選択をし、あらゆる危機を苦も無く回避してきたのだ。なぜなら、自分は、この”人間の魂”を巡る物語の主人公なのだから。
いずれ殺すと決めた男の顔を無表情に見やり、ガブリエルは話の続きを促した。
「なるほど、確かに海の上では諜報員の潜入は難しいだろうな」
「その上、日本人はみんな同じ外見ですからな。NSAにもアジア系の局員はいますが、日本人に化けきるのは難しい。補給物資を運ぶヘリの要員や、研究員に偽装して潜入するのは不可能と判断しました。となると、あとは武力攻撃作戦(ウェット・オペレーション)を実行するしかない。――ここから先は、強襲作戦担当のホルツが説明します」
ガブリエルは、こいつにも役目があったのかと思いながらサングラスの巨漢に視線を向けた。ホルツと呼ばれた男は、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、聞き取りにくい濁声で唸った。
「まず、あんたならどうするか聞きたい」
その居丈高な口調に、一瞬ムッとするが、感情を抑えて事務的な口調で訊き返す。
「敵味方の戦力と配置は」
「間違ってもステイツの関与を示す証拠は残せないからな。こっちの戦力は二小隊十二人、全員が、グロージェンMEの契約している警備会社の飼い犬だ。顔でも指紋でも追跡できないから死体を残しても問題ない。武装はサブマシンガン、アサルトライフルまで。あとは、技術者が若干名同行するが、戦力には数えられない。オーシャンタートルの警備は、自衛隊員が十名前後配備されているが、武装は拳銃だけだ」
「……フン、警備会社だと? そいつら、実戦経験はあるのか?」
ガブリエルが疑わしそうに鼻を鳴らすと、ホルツは大袈裟に肩をすくめた。
「あんたのように砂漠でドンパチした経験は無いだろうが、顔を変えなきゃならんくらいのヤバいヤマは踏んできた奴らさ。充分な戦闘訓練も積んでいる」
「どうだかな。練度はアテにならないが……しかし武器をまともに扱えれば、装備の差で何とかなるだろう。夜中にヘリで急襲、制圧するのは難しくあるまい」
「教科書どおりだな」
何が嬉しいのか、ホルツはにんまりと笑うと、ブリーフケースからさらに一枚の写真を引っ張り出し、黒い巨船の隣に置いた。見れば、グレイ一色のやけに角張った船が写っている。
「海上自衛隊の新鋭イージス艦、”ナガト”だ。常時、オーシャン・タートルから二マイル以内に張り付いている。こいつのフェーズドアレイ・レーダーを掻い潜ってヘリで接近するのは不可能だ」
「先に言ってくれ」
唸ってから、ガブリエルは少し考え、付け加えた。
「その護衛艦を沈めるわけには行かないんだろうな?」
「さすがにそこまではな。K組織は自衛隊の鬼子(チェンジリング)だ、襲撃を受けても大々的に追及はできまいと我々は予想している。だが、軍艦を一隻沈められれば、事はもう自衛隊だけでは収まらないからな」
「では、ヘリでの接近は不可能か。ならボートか? SEALで使っているゾディアックならかなりの距離を航走できるはずだが」
しかしこの案も、ホルツは噛み終えたガムと一緒に放り捨てた。
「確かに突入までは成功するかも知れん。だが、脱出が難しい。恐らくすさまじく重い機械を乗せることになるはずだからな。イージス艦が搭載している対潜ヘリに追跡されたら逃げ切れないだろう」
「空中も駄目、海上も駄目、ではどうしろと言うんだ。海に潜っていけとでも?」
ホルツの教官じみた口調にいい加減うんざりしながら、ガブリエルは吐き捨てた。が、その途端、スキンヘッドの異相をにんまりと崩し、ホルツが大きく頷いた。
「そう、それしかない。オーシャン・タートルは表向き海洋研究船だということは説明したな。実際に各種の海洋研究プロジェクトが同居していて、その中に海底探査用無人潜水艇の開発という奴がある。そいつ用の水中ドックが船底に設けられているんだ。うってつけじゃないか、お邪魔するのに」
「……アクアラングを背負って泳いでいくのか?」
「そうしたければそれでもいいぞ、でかい鮫が苦手でなければな」
さらにケースを探り、ホルツは三枚目の写真を弾いて寄越した。
「最高級のリムジンを用意した。シーウルフ級三番艦、”ジミー・カーター”……聞いたことくらいはあるだろう」
ガブリエルは、写真を摘み上げて眺めた。のっぺりとした黒い物体が、海面からわずかに顔を出し、白い航跡を引いている。
シーウルフは、冷戦時代に設計された攻撃型原潜の名前だった。ソビエトの新鋭艦、シエラ級に対抗するために最高の技術が詰め込まれ、結果として建造費がとてつもない金額に上り、わずか三艦しか造られなかったといういわくつきの船である。
現在でははるかに低コストなヴァージニア級に前線配備を取って代わられ、活躍の場を与えられぬまま引退していく運命のシーウルフを、NSAの男たちは武装強盗団の足に使うつもりらしかった。
「このジミー・カーターは、一、二番艦にない特徴として、強襲揚陸用の小型潜水艇を搭載可能だ。こいつなら、オーシャン・タートルの船底ドックにそのまま突入することができる。しかもドックから、問題のマシンが設置されているメインシャフト下部まではごく近い」
「……だが、イージス艦が問題になるのはヘリの場合と同じじゃないのか?」
「シーウルフのジェットポンプ推進システムは、十万ドルのメルセデス並みに静かさ。オーシャン・タートルを挟んだ方向から接近すれば、どんなソナーにも見つかりはしないね。また離脱も容易だ。深海に潜った原潜を見つけられるのは同じ潜水艦だけだが、周囲には配備されていない」
「なるほどな」
ガブリエルは頷き、確かにこれなら成功するかもしれない、と考えた。もっとも、”テクノロジー”の話を聞いてしまった以上、どんな無茶な作戦であっても撥ねつけることはもうできなかったのだが。
「――概要は理解した。しかし、あんたらはまだ、真っ先に説明するべきことを喋っていないな」
ホルツから視線を外し、ガブリエルは三本目の煙草をくゆらせているアルトマンをじっと見た。
「なぜ機密保全上のリスクを冒してまで俺のところに来た? もし俺がこの話を隣のジェンセン大佐に全部ぶちまけたら、あんたらの首だけじゃ済まないぞ」
アルトマンは、表情の無い灰色の眼でガブリエルの視線を受け止め、口元だけで薄く笑った。
「作戦の性格上、ことによると仮想空間内での活動が要求される可能性がありますのでね。グロージェンの雇った犬どもは、VRシミュレーター訓練などという結構なものは受けていない。かと言って、ガンゲイル・オンラインの中毒者(アディクト)を雇うわけにも行かない。毎日ベッドとタコベルを往復するだけみたいな連中ですからな。そこで、国防総省のほうに手を回して、SOCOMの誇る各特殊部隊の精鋭たちの中でもっともVR訓練に適応した隊員をリストアップしてもらったのですよ」
「……で、昨日の統合訓練でゴールドメダルを攫った俺をスカウトに来たのか。安直な話だな」
「ええ、我々も、中尉があまりにもうってつけの人材なので、逆にどこぞの諜報機関の工作なのかと疑ったくらいですからね。何せ、家族係累は一切なし、特定の女性あるいは男性との交際なし、基地内にもプライベートで親しくしている人間はいない」
「つまり、もしもの時は処分もしやすいという訳か。よく調べているな」
だが、いかにNSAでも全てを見通せるわけではない。自分たちが、どれほど最適な人間を選んでしまったのか――それを知ることができるのは、全てが終わった後のことだろう。
突入用潜水艇ね、とガブリエルは考えた。ヘリならばブラックホークでもペイブロウでも操縦訓練を受けているが、さすがに潜水艇を動かした経験は無かった。しかし、基地でVRマニュアルに触れる機会くらいはあるだろう。問題のマシンを積み込んだあと、強襲チームを全員殺し、そのまま第三国まで航行する能力が船にあればいいのだが。
「――で、仮に俺があんたらのヤバい話に乗ったとして、何か具体的な見返りはあるのかな」
口もとにわずかに野卑な笑みを作ってみせながらそう訊ねると、アルトマンも薄く笑い返し、スーツの内ポケットから小さな紙片をつまみ出した。
「無論、公式にはボーナスも勲章もありませんがね、作戦が成功すれば、グロージェンMEのCEOから私的な謝礼が送られるかもしれませんな」
記されていたのは、軍人としてのガブリエルの給与のほぼ一年分に相当する金額だった。ということはつまり、ガブリエルが海外の口座に秘匿している資金と比べれば何ほどのこともないのだが、そんなことはおくびにも出さず、下品な口笛を低く鳴らした。
「ちょっとしたもんだな、え?」
「私なら、この金でグロージェンの株を買いますね」
紙片を懐に戻したアルトマンに向かって、ガブリエルは笑みを消しながら訊いた。
「いつ、どこに行けばいいんだ」
「そう言っていただけると思っていましたよ。一週間後、宿舎まで車でお迎えに上がります。その後飛行機に乗り換えますが、少々長旅になるでしょうからそのつもりで」
「慣れているさ」
頷き、写真を回収すると男達は立ち上がったが、握手を求める気は無いようだった。ガブリエルも体を起こし、ふと思いついたふうを装って口を開いた。
「そう言えば、問題の機械だが――」
「STLとかいう略称で呼ばれているようです」
「そうか、そのSTLだが、そいつに魂をコピーされた人間はどうなるんだ?」
妙なことを聞く、というようにアルトマンは首を傾けたが、さして訝しむ様子もなく答えた。
「どうもなりはしないようですよ。もしどうかなるようでしたら、幾ら実験台がいても足りない」
「それを聞いてほっとした」
言いながら、それは少々残念だな、とガブリエルは思った。オリジナルがそのまま残ってしまっては、せっかく抜き取った魂の価値も半減だ。
だが、機械にかけ、しかるのちにオリジナルを殺せば同じことだ、勿論。
隠遁先は、できるならアジアではなくヨーロッパがいい。閑静な、森の多い郊外に居を構え、秘密の部屋にSTLという名の機械を設置して、ライトキューブに永遠に保存された魂たちと穏やかな暮らしを送れたら、物心ついた頃から自分を苛んできた餓えと渇きがついに満たされるに違いない。
手許に置く魂は厳選に厳選を重ねなくては。あの水色の髪の少女の身元を調べることはできるだろうか。そう言えば、一週間後に出発ということは、ガンゲイル・オンライン日本大会のチーム戦にエントリーすることは諦めなくてはならないようだ。
だが、いずれまたまみえることはあるだろう。それが自分と、出会うべき魂たちの運命なのだから。
NSAの男たちに続いて応接室を出ながら、ガブリエルは内心でそっとひとりごちた。そして一度瞬きをし、想念を仕舞い込むと、ジェンセンにどう言って説明したものか考えはじめた。
米海軍所属原子力潜水艦、シーウルフ級三番艦”ジミー・カーター”の艦長を務めるダリオ・ジリアーニ大佐は、魚雷管の掃除係からここまで登りつめた、骨の髄からの潜水艦乗りだった。初めて乗った船は年代物のバーベル級ディーゼル潜で、殺人的に狭い艦内のどこに行こうと、軽油臭さと歯が抜けそうな騒音に付きまとわれたものだ。
あれに比べれば、この合衆国――いや世界中のどの海軍に所属する潜水艦よりも金の掛かった船はまるでロールスロイスだ。ジリアーニは、二〇一〇年に艦長を拝命して以来、このジミー・カーターとその乗員たちに惜しみなく愛情を注いできた。絶え間ない訓練の成果で、今では高張スチールの船体とS6W型原子炉、そして百四十名の乗組員たちはまるでひとつの生き物のように結びつき、どんな海でもそこに水さえあれば自在に泳げるほどの練度に達している。
そう、まさにこの船はジリアーニの子供に等しい存在だ。残念ながら、間もなく自分は現役を退き、陸の上でデスクワークに就くかあるいは早期退職を選ばなくてはならないが、後任に推薦している副長のガスリーならきっと立派に後を継いでくれるだろう。
なのに――。
ほんの十日前、まるで晩節を汚そうとするかのようにひとつの奇妙な命令が下されたのだ。しかも、太平洋艦隊司令長官の頭越しに、ペンタゴンから直接発令されたものだ。
確かに、ジミー・カーターは特殊作戦支援用に設計された艦で、海軍特殊部隊SEALと連携するための様々な仕様を持つ。今後甲板に背負っている揚陸用小型潜水艇もそのひとつだ。
これまでにも、軍内ですら口外してはならない作戦を遂行するために、そこにSEALのコマンドたちを乗せて他国の領海を犯したことは何度かあった。しかしその目的は常に合衆国の、ひいては世界の平和を保つことだったし、死地に赴く寡黙な男たちは、間違いなくジリアーニの部下と同じ使命感を持つ海の男だった。
だが、数十時間前、パール・ハーバーで乗り込んできたあの連中は――。
ジリアーニは一度だけ、後部の待機室に”客”たちの顔を見に行ったが、その有様を見てあやうく深海に叩き出せと部下に命令しそうになった。十数人の男たちが、規律も何もなく床に寝転がり、ヘッドホンから騒音を漏らす者あり、カードや携帯ゲーム機に興じる者あり、おまけに持ち込んだビールの空き缶がそこかしこに散乱していた。
あの連中は絶対にまともな船乗りではない。それどころか、軍人なのかどうかさえ怪しい。
唯一まともそうだったのは、ジリアーニに規律の乱れを詫びた長身の男だった。Tシャツの上からでも分かる鍛えぬかれた肉体といい、きびきびした所作といい、あの男だけはかつてみたSEALの隊員と同じ雰囲気を放っていた。
しかし。
男のあの青い眼――。握手を求める右手を握り返しながら、ふとその奥を覗き込んだジリアーニは、長らく覚えのない感情を味わった気がした。あれは、そう……海軍に入るずっと以前、生まれ育ったマイアミの海でシュノーケリングをしていて、突然真横を通り過ぎていった巨大なホオジロザメの眼を間近から見てしまったときと同じ……あらゆる光を吸い込むような、完全なる虚無――。
「艦長、ソナーに感!」
不意に耳に届いた、ソナー員の鋭い声が、ジリアーニを物思いから引き戻した。
戦闘発令所の艦長席で、ジリアーニは素早く上体を起こした。
「原子炉のタービン音、目標のメガフロートに間違いありません。こいつは……でかい、とてつもなくでかいです。距離八千」
「よし、エンジン停止、バッテリーに切り替えて無音微速航行」
「エンジン停止!」
命令がすばやく復唱され、艦内に響いていた原子炉の鼓動が消滅した。
「護衛のイージス艦の位置はわかるか」
「待ってください……目標の向こう、距離一万二千にガスタービンエンジン音……音紋一致、海上自衛隊の”ナガト”と確認」
正面の大型ディスプレイに表示された二個のブリップを、ジリアーニはじっと睨んだ。
イージス艦はともかく、メガフロートは武装を持たない海洋研究船と聞いている。そこに、武装したごろつきどもを突入させるというのが今回の命令なのだ。しかも、同盟国であるはずの日本の船に。
とても、大統領や国防長官が承認した正規の作戦とは思えなかった。いや、あるいはそうなのだろうか。もしそうなら、これまで疑いすらしなかった合衆国海軍の名誉と誇りを、これからどのようにして信じていけばよいのだろうか。
ジリアーニは、ペンタゴンから命令書を携えてきた黒スーツの男の言葉を脳裏に再生した。日本は、あのメガフロートで、合衆国と再び戦争を始めるための研究を行っている。両国の友好を保つためにも、その研究は、秘密裏に葬り去るしかないのです――。
その言葉を鵜呑みにできるほど、ジリアーニは若くも愚かでもなかった。
同時に、結局、自分には従う以外の選択肢はないのだということが理解できるほどに年老いてもいた。
「”客”の準備はいいか」
傍らに立つ副長に低い声で尋ねる。
「ASDS内で待機中です」
「よし……メインタンクブロー! 目標より距離三千、深度五十につけろ!」
「アイアイ、アップトリム一〇で浮上します!」
圧搾空気がバラストタンク内の海水を押し出し、生じた浮力がジミー・カーターの巨体を持ち上げた。ブリップとの距離は、ゆっくりと、しかし確実に減少していく。
民間人に死傷者は出るのだろうか。おそらくそうだろう。彼らの全員が、強制収容所で人体実験を繰り返したナチの科学者のような連中であればいいのだが。
「目標との距離三千二百……三千百……三千、深度五十です!」
一瞬の躊躇いを振り払い、ジリアーニは毅然とした声で命じた。
「ASDS、切り離せ!」
かすかな振動が、後甲板の荷物が艦から離れたことを告げた。
「切り離し完了……ASDS、自走開始」
野犬の群れと一匹の鮫を乗せた潜水艇は、みるみる速度を増し、海面に浮かぶ巨大な亀目掛けて一直線に突進していった。
(第六章 終)
SAO4_18_Unicode.txt
第七章
二年。
と言われて真っ先に思い出すのは、もちろんかの浮遊城アインクラッドに囚われた苦しくも懐かしい日々のことだ。
あの頃は、一日一日が本当に長かった。フィールドに出ている間中、あらゆる種類の緊張に晒されていたのに加え、最大限の効率でステータスアップを図るために常にぎりぎりのタイムスケジュールを組んで行動していたからだ。肉体的疲労が発生しないのをいいことに、睡眠時間さえ限界まで削り、ねぐらに潜り込んでからも各種情報の暗記に勤しんだ。感覚的には、”アインクラッド以前”の十四年間と、”当時”の二年間がほぼおなじ質量を持っていると思えるほどだ。
それに比べて――。
この不思議な世界、アンダーワールドに放り出されてからの日々の、何と早く過ぎ去っていったことか。
一日二十四時間、年三百六十五日と現実世界に準拠した暦を遡れば、すでに二年をとうに超える月日が経過している。当初予想していたよりも、遥かに長い実験期間だ。
いや、そもそも、これは本当に正規の実験なのだろうか。現実の記憶が鮮明に残っているのが奇妙と言えば奇妙だし、その割には実験に参加した記憶が残っていないのが尚更腑に落ちない。
もし、俺が正規の手続きを経てSTLに接続しているのなら、あのマシンの時間加速機能は俺が知らされていたよりも遥かに高倍率を実現しているか、あるいは俺は数ヶ月間ダイブしっぱなしになることを承諾したということになる。その上で、実験開始直前の記憶だけをブロックし、この世界に身ひとつで放り出されたということになるのだが――果たしてそんなことが有り得るのだろうか? いっそ、俺のダイブ直後に現実世界で何かとんでもない事件か天変地異が発生し、崩壊した六本木のラース研究施設の廃墟で俺とSTLだけがひっそりと動きつづけている、というような事態を想定したほうがよほどしっくりくるのではないか。
そのへんのことを確かめるために、アンダーワールドの中核が存在すると思われる世界中央神聖教会を目指して旅を始めたはずなのだが、気付けばはや二年、である。
教会への侵入が物理的、というかシステム的に不可能と判明し、ならば教会内に自由に立ち入れる整合騎士なる身分を獲得するしかないと、その入り口であるセントリア修剣学院の門を学生としてくぐった頃は、何と迂遠な話かと気が遠くなったものだ。しかし日々与えられる剣技と勉学のカリキュラムに圧倒され、それを必死になってこなしているうちに、これだけの年月が経過してしまった。
やっていることはアインクラッドでの日々と殆ど代わらないはずだ。なのに、これほどまでに時間の流れ方が違うというのは、STLの時間加速機能の影響なのか、生命の危険が存在しないせいなのか――それとも、俺が、学院での日々を、心の底では楽しいと思っていたという事の証左なのだろうか。
そう、もう認めなくてはなるまい。アインクラッドから解放されて以来ずっと、俺の中には、仮想世界への帰還を望む衝動が拭いがたく存在していたことを。ALOを始めとする数多のVRMMOゲームでは決して癒されない、深い渇きを。
朝、自室のベッドで目を醒ました直後に、あるいは学校で級友たちとたわいもない馬鹿話に興じている折、更には明日奈と手を繋いで歩いているその瞬間でさえ、俺は時として、この現実はほんとうに現実なのか、という違和感に襲われた。まるで、現実という名のひとつのシミュレーションの中にいるかのような乖離感覚。明日奈とは、互いに何でも相談しあうと約束していたが、しかし、そのことだけは話せなかった。話せるはずがない――俺が、心の一部でとは言え、あの殺戮世界への帰還を望んでいるなどということは。それが、明日奈を始め苦しみながら生き抜いた多くの人たちを、そしてほぼ同じ数に上ろうという、あの場所で死んでいった人たちへの、手酷い裏切りだと知りながら。
つまり、そのような衝動を抱きながらそれを隠した俺は、二重に明日奈を裏切りつづけていたと言える。なのに、愚かしくも更に背信を重ねてしまったのだ。恐らく何らかの事故によって放り込まれたこの世界、完璧なリアリティを実現した究極の仮想世界アンダーワールドでの生活を愛することで。
もしかしたら、その裏切りへの報いだったのだろうか。修剣学院での暮らしが、あのような悲劇的な結末を迎え、一筋の陽光も届かない地の底に繋がれることとなったのは――。
両手首を縛める鎖の重さを確かめようと、じゃらりと重い金属音を立てると、すぐ近くの闇の中から小さな声がした。
「……起きてたの、キリト」
「ああ……ちょっと前からな。悪い、起こしたか」
獄吏に聞かれないよう同じく囁き声で答えると、今度は小さな苦笑が返ってきた。
「寝られるわけないじゃないか。というか、牢屋に叩き込まれたその晩から鼾かいて寝るお前のほうがおかしいよ」
「アインクラッド流の極意その一だ。寝られるときに寝とけ」
言いながら周囲を見回す。灯りは、鉄格子を隔てた通路のずっと先にある獄吏の詰所からわずかに漏れ届くのみで、隣のベッドにいるはずのユージオの輪郭がやっと見える程度だ。もちろん、光をともす程度の初歩神聖術はとっくにマスターしているが、どうやらこの牢獄ではあらゆるシステム・コールが無効化されているらしい。
表情は伺えないが、ユージオの顔のあたりに目を凝らし、俺はためらいながら尋ねた。
「どうだ……少しは落ち着いたか?」
体内時計に従えば、時刻は午前四時といったところだろう。この牢獄に叩き込まれたのが昨日の昼頃だったから、さらにその前日の夕刻に発生したあの惨劇からは、やっと三十六時間程度が経過したに過ぎない。禁忌目録に背いてライオス・アンティノスを剣にかけ、更にその精神が崩壊する様を目撃したユージオが受けたショックは激甚なものだったはずだ。
しばらく沈黙が続いたあと、ごくごくかすかないらえがあった。
「なんだか……全部が、まるで夢みたいで……。ロニエとティーゼのこと……ライオスのこと、それに……アリスの……」
「……あまり思い詰めるな。これからのことだけ考えるんだ」
どうにかそれだけを口にする。俺は直接目撃していないが、ライオスのフラクトライトが異常を来した理由が、自らの死というあり得べからざる概念を受け入れられなかったことならば、まったく同じ理由でユージオも崩壊してしまうかもしれないという懸念があった。
しかし、それにしても腑に落ちない。
この世界を動かすラースの、ひいては菊岡誠二郎の目的は、完全なる人工フラクトライトの発生だと俺は推測していた。現実世界の人間とまったく同じ情動と知性を持つアンダーワールド人たちの、ただひとつの瑕疵が”法を破れない”ことだとすれば、青薔薇の剣でライオスを断罪したユージオはその壁を乗り越え、言い換えれば最終的なブレイクスルーを得て、いまや真なる人工知能へと進化を遂げているはずだ。だから、俺は一昨日ライオスの部屋で思わず天を仰ぎ、世界が停止する瞬間を待った。
しかし、今に至るまで実験が終了する気配はまるで無い。これは一体どういうことなのだろうか。ラースのスタッフは、ユージオの精神が落ち着くのを待つつもりなのか、あるいはSTRAの倍率が高すぎてまだこの事態をモニターできていないのか、それともやはり、何か想定外の事故が発生しているのか……。
「うん……そうだね」
ユージオの呟き声に、俺はもう何度も捻りまわしている疑問を脇に押しやった。
「これからのこと……どうにかここから脱出して、アリスに何が起きたのか確かめないと……」
「ああ、そうだな。しかし……脱出と言ってもな……」
もう一度、両手首から石壁まで伸びる鉄鎖をじゃらりと鳴らす。
昨日、二匹の飛竜によって神聖教会まで連行された俺とユージオは、白亜の巨塔を眺める暇もなく裏口から地下への螺旋階段をひたすら下らされ、そこで本当に教会の一員なのかと疑いたくなる恐ろしげな獄吏に引き渡された。アリス・シンセシス・フィフティと名乗った整合騎士ともう一人はそこで振り向きもせず去っていき、ヤカンのような金属マスクをかぶった獄吏が、恐らく久々の仕事に嬉々としながら俺とユージオをこの牢にぶち込んで鎖に繋いだのだ。
あとは、夕方に一度、かちかちに乾いたパンと生ぬるい水の入った革袋を檻越しに放り投げに来ただけだ。これに比べれば、アインクラッドの黒鉄宮の牢獄に収監されたオレンジプレイヤーの待遇など、高級ホテルのスイートルーム並みと言っていい。
鎖を引っ張る、かじる、神聖術で切断する等の手段は昨日のうちに一通り試し、それが呆れるほど頑丈に出来ているのはすでに確認済みだ。もしユージオの青薔薇の剣か、俺の黒いのがあればこんな鎖など一撃で叩き切ってみせようというものだが、所持品の入った袋は整合騎士たちがどこぞへ運び去ったまま行方が知れない。
つまり現段階では脱獄の可能性は限りなく低く、あとは騎士たちが言っていた審問とやらの折に機会を狙うしかなさそうだという状況なのだ。
「……アリスも……八年前、ここに繋がれたのかな……」
鉄枠にぼろ布を被せただけのベッドに横たわったまま、ユージオが力なく言った。
「さあ……どうかな……」
答えになっていないが、そう返すほかない。ユージオの幼馴染である”アリス”が、ルーリッドの村より連れ去られたのち俺たちと同じ処遇を受けたのだとすれば、わずか十一歳のときにたった一人、あの鉄面の獄吏によって冷たい大鎖に繋がれたことになる。さぞ凄まじい恐怖を感じたことだろう。やがて審問台に立たされ、何らかの刑を宣告され――その後は……?
「なあ、ユージオ。念のため確認しておくけど……あのアリス・シンセシス何とかって名乗った整合騎士が、お前の探してるアリスなのは、間違いないのか?」
躊躇いがちに訊ねると、しばしの沈黙に続いて、嘆息混じりの声が流れた。
「あの声……あの髪、目……忘れるわけはないよ。ただ……雰囲気はまるで別人だけど……」
「まあな、幼馴染にしては随分容赦なくお前を引っ叩いたからな。つまり……何らかの手段によって、記憶とか精神とかを制御されてる、ってことなのかな……」
「でも、そんな神聖術、教本には載ってなかったよ」
「教会の司祭ってのは、天命さえ操るってんだろう? 記憶をどうこうするくらいやってのけてもおかしくはないさ」
そう、STLというのはまさにそれを可能とするマシンなのだ。何らかの電気的メディアに保存されているのであろう人工フラクトライトならばなおのこと。そう思いながら続ける。
「でも……となると、あれは何だったのか……。二年前、ルーリッドの北の洞窟で……」
「ああ……言ってたよね。シルカと一緒に僕を治療しようとしたとき、アリスらしい声を聞いた、って……」
あの洞窟で、傷ついたユージオに猛烈な勢いで天命を吸い取られこれ以上は保たないと覚悟したとき、俺はたしかにアリスとおぼしき少女の声を聞き、その手を感じた。あまつさえ、俺とユージオ、そしてアリスが、ルーリッドの村でともに生まれ育ったのだという恐ろしいほどリアルな記憶の存在を意識した。
その記憶を単なる錯誤として片付けていいのかどうかもいまだに判断できていないが、ともかく俺とユージオは、あの時の声が告げた、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、という言葉だけを頼りにここまでやってきたのだ。
しかし、俺たちの前に現われたアリスは、ルーリッドの村長の娘アリス・ツーベルクではなく、冷酷な法の番人、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティと名乗った。俺たちのことをあくまで裁くべき罪人としか見ていない物腰からは、ユージオの幼馴染であると思わせるものは皆無だった。
彼女は実際に別人なのか、それともやはり記憶を制御されているだけで本物のアリスなのか――それを確かめるには、どうにかして現状から脱け出し、実際にこの塔、つまりセントラル・カセドラルの最上部にまで昇ってみるしかなさそうだ。結局はそこに行き着くのだが、しかし鎖も鉄格子も、ちょっとやそっとでは傷一つつきそうにない。
「ああ、もどかしいな……。今ここに神サマがいれば、襟首締め上げて真実を残らず吐かせてやるのにな!」
お気楽トンボ野郎こと菊岡の顔を思い浮かべながら俺が吐き捨てると、ユージオがいつもの苦笑いを浮かべて囁いた。
「おいおい、いくらなんでも、教会の中でステイシア様の悪口はまずいよ。天罰が下っても知らないぞ」
あれだけのことをしておきながら、まだ遵法意識の持ち合わせはたっぷり残っているらしいユージオの様子に少々安堵しながら、俺は肩をすくめた。
「どうせならこの鎖に天罰とやらを落としてくれないもんかな」
軽口を叩いてから、ふと気付き、首を捻る。
「そう言えば、この場所は、”窓”も出せないのか?」
ユージオは、少し考える素振りをしたあと、同じように首を傾けた。
「そう言えばそれは試してなかったね。やってみなよ」
「ああ」
俺は通路の奥にある獄吏詰所の様子をうかがってから、右手の指を伸ばし、この二年半ですっかり腕に染み付いたステータス・ウインドウ呼び出しゼスチャーを行うと、さして考えもなく左手を縛める鎖を叩いた。
一瞬の間をおいて、見慣れた薄紫色のウインドウが浮き出し、俺は僅かに安堵した。鎖のステータスを見られたからと言って状況が好転するとは思えないが、何にせよ情報が収集できるのは喜ばしいことだ。
「お、出たぞ」
ユージオにニッと笑いかけてから、いそいそと窓を覗き込む。表示されているのはわずか三行、固有のアイテムIDと、その下に”25500/25500”といううんざりさせられる耐久度、そして”クラス38オブジェクト”の文字列だけだった。
クラス38というのは、単なる鎖としては噴飯物に高いプライオリティだが、さすがに神器である青薔薇の剣の45や、数百年を経た魔樹ギガスシダーの枝を砥いだ黒いのの47には及ばない。つまりどちらかの剣があれば、やはりこの鎖の切断は可能だったはずだが、今それを言っても無いものねだりというものだ。
俺に倣って自分の鎖の窓を出したユージオが、さすがに辟易したような声で呟いた。
「うへ、こりゃあいくら引っ張ってもびくともしないわけだよ。この鎖を切るには、最低でも同じクラス38の武器なり道具なりがないと……」
「そういうことだな」
俺は改めて、狭く暗い牢獄を見回したが、あるのは粗末な鉄のベッドと、空の革製の水袋くらいだ。ベッドを破壊すればバールの代わりにでもなるかもしれないと、一縷の望みを託して窓を出してみたが、こちらは見た目どおりクラス1の安物だった。ならば鉄格子はと目をやるが、こちらは鎖のせいでそもそも触れることすらできない。
それでも諦め悪くきょろきょろ首を動かしていると、隣でユージオが溜息混じりに言った。
「いくら探したって、こんな牢屋においそれと名刀なんか落ちてないよ。そもそもモノ自体ないじゃないか。鎖がほとんど唯一ここにあるモノだよ、どう見たって」
「……唯一……」
俺は自分の腕を縛める鎖を眺め、次にユージオの手首から伸びる鎖を見やった。ようやく、ある一つのアイデアが浮かび、興奮を抑えながら囁く。
「いいや、唯一じゃないぞ。二本あるじゃないか、鎖の野郎」
「はぁ?」
何を言ってるんだ、と眉を寄せるユージオを急かしてベッドから立たせる。
「おいキリト、どうしたの一体」
答える手間も惜しんで自分も石床に降り、俺は闇に目を凝らしてユージオの立ち姿を確かめた。簡素な部屋着から伸びる両腕には黒々とした鉄輪が嵌り、左右のそれを問題の鎖ががっちりと繋いで、さらに右手からは一本の長い鎖が伸びて壁に埋め込まれた留め具まで続いている。
俺はまず、ユージオの手と壁を繋ぐ鎖を身を屈めてくぐり、今度はユージオをしゃがませて、鎖をまたいで元の場所まで戻った。これで、俺とユージオの鎖はエックス型に交差したことになる。手振りでユージオを少し下がらせ、自分も離れると、二本の鎖は交差点から耳障りな音を立てながらぴんと張りつめた。
これで、ようやくユージオは俺の意図を察したように目を丸くし、次いで疑わしそうに唇を曲げた。
「あの、キリト、まさかこのまま引っ張ろうってんじゃないよね?」
「引っ張ろうってのさ。原理的には、これで鎖は互いに天命を削りあうはずだ。試してみればわかるさ、早く両手で鎖を握れよ」
俺とユージオは、右手首から伸びる鎖を両手で握り、腰を落とした。
「おっと、その前に……」
もう一度右手でゼスチャーを切り、鎖を叩いて窓を呼び出す。
無論現実世界でこれと同じ真似をしても、鎖はせいぜい軋む程度で切断など到底覚束ないだろう。だが、このアンダーワールドにおいては、万物はいかにリアルであろうとも厳密な物理法則に従っているわけではない。かつて、一本の剣を用いてわずか五日で直径四メートルの巨樹を切り倒すことが可能だったように、二つのオブジェクトを一定以上の圧力をかけて接触させれば、よりプライオリティが高く天命が多いほうが、やがて確実にもう一方を破壊することになるのだ。
俺たちは目を見交わし、口だけでせーの、とタイミングを取ると、全筋力と体重を振り絞って握った鎖を引っ張った。と、思いも寄らないユージオの馬鹿力につんのめりそうになり、なにくそと床を踏み締めて引っ張り返す。たちまち向こうの顔にも負けん気が浮かび、俺たちはしばし大人気なく意地の張り合いを続けた。数秒後、鎖の交差部分からぎりぎりっと歯の浮くような摩擦音が発生し、俺は我に返って出したままだった窓を覗き込んだ。
「おっ」
思わずガッツボーズをしたくなるが、それは叶わないので勝ち誇った笑みを浮かべるに留める。二万五千を誇った鎖の天命は、狙い違わず急速な減少をはじめていた。おそらく、俺たちのオブジェクトコントロール権限が50近くなければ不可能な手段だったろう。だから、八年前にたった一人投獄された幼いアリスには、この鎖を切ることはできなかったはずだ。
やはり彼女は、審問の場に引き出され、そこで何かがあったのだ。しかし、一体何が――?
俺の思考を、ピキンという甲高い金属の悲鳴が遮った、と思う間もなく俺とユージオは猛烈な勢いで後ろに転がり、同時に後頭部を石壁にしたたかぶつけた。
しばし床にうずくまり、STLが律儀に再生した打撲の痛みとショックに耐えてから、ようやく体を起こす。今度こそ獄吏に気付かれたかと鉄格子の向こうを窺うが、やはり何ものも現われる気配はなかった。
遅れて立ち上がったユージオが、尚も手で頭をさすりながらぼやいた。
「うう、今ので天命が百は減ったよ」
「それくらいで済めば安いもんだろう、ほれ」
俺は両腕を突き出し、右の鉄輪から力なく垂れ下がる鎖を小さく揺らした。圧力を受け止めていた部分のリングは真っ二つに断ち割られ、計四つの破片となって床に転がっている。
ユージオも、自分を戒めていた鎖が見事に破壊されているのを確認し、少しばかり口惜しそうに笑いながら右手の親指をぐっと立てた。
「まったく、こういう無茶を仕出かすことに関しては、いつまで経ってもキリトには叶わないな」
「ふふん、無茶は俺の旗印だからな。……さて、こっちも切らないと」
これで壁から二メートル、いや二メルしか離れられないという状況からは解放されたが、まだ両手首を四十センほどの鎖が繋いでいる。しばらく考えてから、壁に残っているほうの鎖を両手のあいだに通し、その先端をユージオに握っていてもらいながら今度は慎重に圧力をかけていくと、時間はかかったが同じように切断できた。同じ手順でユージオの鎖も切り、俺たちは久々に両手を大きく広げて思う存分伸びをした。
「……さて、と」
今後の行動に移る前に、これだけは確認しておかねばならないと思い、俺は真面目な顔を作ってユージオを見た。
「一応聞いておくけど……いいんだな、ユージオ。ここから脱出して、アリスに関する真実を探るということは、つまり神聖教会に真っ向正面から反逆するってことだ。今後、何か行動を起こそうとするたびに一々葛藤している余裕はないぞ。ここで覚悟を決められそうになかったら、お前は残ったほうがいい」
実のところ、これは少々賭けでもあった。根源的な理由によってあらゆる法に背けないはずの人工フラクトライトであるユージオは、上級修剣士ライオスの腕を斬り飛ばすというほとんど最終的な禁忌を犯すに至ったのだが、その過程で、彼の魂を作る光量子回路にはとてつもなくドラスティックな変革が発生したはずだ。
つまり今の彼の状態は見た目以上に不安定であると考えるべきで、出来たばかりの新しい思考回路に負荷をかけすぎるとそれこそライオスのように崩壊しかねないと危惧した俺は、これまで意識的にユージオに神聖教会と禁忌目録への反逆という話題を振らないようにしていたのだ。
しかし、このまま状況に流されるならともかく、脱獄して最上階を目指すという過激な行動を起こすなら、その最中に突発的に葛藤されるよりも、ここで最低限意識を整理しておいてもらったほうがいい。アリスの謎を探るという目的のほかに、俺にはもう一つ、最上階を目指す動機があった。もしこのアンダーワールドに、外部、つまり現実世界のラース研究員に連絡できるシステムコンソールがあるとすれば、それはおそらくこの教会の最中枢部以外有り得ない。俺はなんとかしてそこに辿り着き、スタッフか菊岡に連絡をとって、ユージオが最終的ブレイクスルーに達したことを知らせて彼のフラクトライトの保護を指示しなくてはならないのだ、何としても。
そう、俺は、ユージオを――俺の無二の相棒にして親友を、今の彼のまま現実世界へ連れ出すつもりなのだ。実験終了などという無味乾燥な理由で、彼と永遠に別れたり、いわんや彼の魂を消去させることなど絶対に容認できない。ユージオなら、絶対に明日奈や直葉、他の友人たちとも仲良くなれるはずだ。いや、彼だけではない。後輩のロニエやティーゼ、それにソルティリーナ先輩やルーリッドのシルカといった愛すべきフラクトライトたちを、どうあろうと消去させはしない、絶対に。
ユージオは、俺の言葉に虚をつかれて目を見開き、次いで急に痛みを感じたかのように右目を掌で覆った。一体どのような現象のあらわれなのか、ライオスを斬ったとき彼の右目は激しく出血し、その後神聖術による治療によって傷は塞がったはずだったのだが。
しばらく俯いたままだったユージオはやがて手を下ろし、唇を噛みながらゆっくりと、しかし大きく頷いた。
「……分かってる。僕は――僕は、もう決めたんだ。アリスを助け出して一緒に村に帰るためなら、どんな禁忌だって犯す、教会にも背くって。そのために必要なら……また人間だって斬ってみせる。……あの整合騎士が本物のアリスなら、なんで記憶を失っているのか探り出して、もとのアリスに戻すんだ。絶対に、そうする」
顔を上げたユージオの右目は、出血こそしていなかったが、どこかこれまでの彼にはない強烈な光を宿していた。俺は、彼の言葉に頷き返しながらも、ある種の新たな危惧を感じてわずかに息を詰めた。アリスを助け出すという決意自体に異論はない。しかし――そのためにあらゆる禁忌を犯すという言葉が、俺に名状しがたい不安をもたらす。
もっとじっくり話し合うべきだという気もしたが、そんな時間の余裕があるとも思えなかった。脱獄に成功し、装備を取り戻して一息ついたら、善悪の二面性ということについて彼と話そう、そう心に決めて、俺は口を開いた。
「よし。でも、戦闘は可能な限り避けるぞ。正直、整合騎士とまともにやりあって勝てる気はしないからな」
「キリトにしては弱気じゃないか」
にやっと笑うユージオに、勝てる戦いしかしない主義なんだと言い返して、俺は鉄格子に歩み寄った。直径三センほどもありそうな極太の鉄棒を叩いて窓を出す。ほっとしたことに、これもベッドと同じクラス1のオブジェクトだった。ただし、太さに比例して耐久度は三千を越えている。
隣に立ったユージオも格子を握り、うーんと唸った。
「鎖よりはまだ何とかなりそうだけど、道具がないと大変なのは一緒だね。どうする、二人で体当たりでもする?」
「んなことしたらまた天命が減っちまうぜ。あるじゃないか道具……というより武器が。お前、鞭の練習はしなかったのか?」
「ムチぃ? そんな科目、学院には無かったろう? せいぜい節棍くらいで……」
呆れ顔のユージオを下がらせ、俺は右手からぶら下がる、長さ一メル強の鎖を握ると軽く振った。
「まあ見てろって。ソルティリーナ先輩から教わったんだ、あの人は貴族のくせに、剣以外の武器術もまるで百貨店だったからな……。いいか、鉄格子を吹っ飛ばすとさすがにどえらい音がするだろうからな、一気に走って階段を目指すぞ。獄吏が出てきても戦わないで逃げるからな」
「……へぇー」
ユージオの妙な視線を無視して、腰を落とす。鞭代わりに使うには長さがかなり足りないが、威力は38のプライオリティが補ってくれるはずだ。ちゃり、ちゃりとかすかな音を立てながら頭上で鎖を回転させはじめると、すぐに鋭い風切り音が金属音に重なる。握った手許ではなく、鞭の先端を意識しながら打つのよ、という先輩の言葉を思い出しながら回転数を限界まで上げ、俺はぐっと息を止めると腕をしならせた。
鈍色の蛇のように宙を疾った鎖の先端は、鉄格子でできたドアの錠前部分を寸毫狂わず直撃し、暗闇に無数の火花が咲いた。耳を圧する大音響とともに、ドアは蝶番と掛け金の残骸を撒き散らしながら吹っ飛んで、向かい側の牢屋の格子に激突して無残にひしゃげた。もしあっちにも囚人がいたら、それこそソルスの天罰でも降ってきたかと思ったに違いない。
もうもうと立ち込める粉塵を左手で振り払いながら、俺は通路に転がり出た。いくらなんでもさっきの音を聞けば、あのヤカン頭の獄吏も飛び起きるだろう。鞭がわりの鉄鎖があれば、おいそれと戦闘で遅れを取る気はしないが、正直命じられた仕事をしているだけの人間相手に武器を振るいたくはなかった。
身構えながら通路の先を窺うが、しかし数秒が経過しても、意に反して何ものも現われる様子はない。首を捻りながら振り向き、続いて出てきたユージオを見やると、早口に言った。
「待ち伏せでもされていると厄介だ。気をつけていくぞ」
「わかった」
頷きあい、今更ではあるが足音を殺しながら走り出す。
連行されたときに頭に叩き込んでおいた地図によれば、この神聖教会地下牢獄は、放射状に八本の通路が広がり、それぞれの通路の両側に俺たちが放り込まれたような収容房が八つ設けられている構造だ。全ての房が二人部屋なら、八掛ける八掛ける二で百二十八人ぶんものキャパシティがある計算になるが、はたして有史以来この場所にそれだけの囚人が存在したことがあるとは到底思えない。
通路が集まっている円形の空間の真ん中には、小さな獄吏詰所があり、その脇から地上へと続く螺旋階段が伸び上がっている。なんとか獄吏をかわして階段に飛び込んでしまえばこちらのものなんだが――と思いつつ、通路を駆け抜けた俺は、ハブ部屋の手前で立ち止まり、奥の様子を探った。
さすがに部屋は真っ暗闇ではなく、詰所の壁には小さなランプが吊るされ、あたりをぼんやりと照らし出している。動くものは一切なかったが、手前の陰に獄吏が身を潜め、何やら恐ろしげな武器を振りかざしているのではないかと予想し、懸命に耳をそばだてた。と――。
「……ねえ、キリト」
「しっ!」
「キリトってば」
全感覚を張り詰めている俺の肩をユージオがゆさゆさ揺すぶり、俺は眉をしかめて振り返った。
「なんだよ?」
「ねえ、この音……イビキじゃないか?」
「……なんだと」
言われるまま、聴覚の焦点をずらすと、確かにごくごく微かではあるが馴染みのある低周波音が周期的に繰り返されているのに気付いた。
「…………」
もう一度ユージオの顔を見てから、俺は脱力しつつ立ち上がった。
八本の通路が集合する円形の部屋の中央には、これも円筒形の獄吏詰所が設けられ、壁の一箇所に鉄扉と、その横に小さな窓が造りつけられていた。詰所の壁を巻くように伸びている階段が見える。
俺たちは拍子抜けしつつも足音を忍ばせて詰所に近づくと、窓から中を覗いた。狭い丸部屋にある調度は粗末なベッドただひとつで、そこに樽のような巨体を押し込めるようにして見覚えのある獄吏が横たわり、窓越しにもはっきりと聞こえる大鼾を奏でている様子が見て取れた。
油染みた、襤褸布のようなズボンだけを穿き、上半身裸の獄吏は、寝ているあいだもヤカンに似たマスクを外していなかった。俺は思わず、この囚人のめったに来ない地下牢の番をひたすら続け、太陽を見ることもない生活をいうものを想像し、心の底からこの獄吏に同情した。
現実世界であれば、とっとと転職するという選択肢もあろうが、しかしこの世界では、十歳を迎えると同時に与えられる天職を拒否することはできないのだ。そもそも人工フラクトライトには法、命令に背くという概念は存在しないため、恐らくこの獄吏は、疑いひとつ抱くことも許されずに、齢十の頃からこの地下空間で朝も夜もない暮らしを続けてきたのだろう。狭い詰所から出ることもなく、決まった時間に起き、決まった時間に寝る、それだけが彼の仕事だったのだ。俺たちがあれほどの大騒ぎをしても、まったく目を覚まさなくなってしまうくらい。
詰所の壁には、大小さまざまな鍵が無数に掛けられていた。そのなかには、俺とユージオの手首に嵌っている鉄輪を外す鍵もあると思われたが、獄吏の唯一の安らぎを妨げるにしのびず、俺はユージオを促すと言った。
「……行こう」
「ああ……そうだね」
ユージオも、何かしら思うところがあったような顔で頷いた。俺たちはそっと窓から離れ、ドア脇の階段に足を載せると、あとは振り向くこともなくひたすら駆け上り続けた。
降りるときは随分時間のかかった螺旋階段も、鍛え上げた俺とユージオが全力で走れば、昇りきるのに十分とかからなそうだった。地下の湿り気がこもった空気に、だんだんと冷たい甘さが混ざり始め、俺たちはいっそう必死に二段飛ばしで足を動かした。やがて上方に仄かな灯りが見え始め、それが四角い出口の形になり、警戒するのも忘れてそこに飛び込むと、俺は新鮮な空気を貪るように吸った。
「ふう……」
一息ついて、あたりを見回す。
巨大な神聖教会セントラル・カセドラル・タワーの裏手、どこか陰鬱な気配が漂うバラ園の中だった。青銅製の柵が迷路のように縦横に走り、それに絡みついたイバラの蔦が、トゲに夜露を宿して光っている。
背後には、今出てきた塔の壁が左右に伸び、それに沿って回り込めば正面まで出ることは可能と思われたが、残念ながら高い柵が壁に密着して行く手を遮っており、まっすぐ進むのは難しそうだった。トゲだらけのイバラが巻きついた柵を素手で登るのはあまり楽しそうではないし、鎖を使って柵ごと吹っ飛ばしていくのも、やればできるだろうが整合騎士がわらわらと集まってきてしまいそうだ。
どうしたものかと考えていると、夜空を見上げていたユージオが、長く息を吐きながら囁いた。
「どうやら、朝の五時前って感じだね。もうすぐ明るくなるだろうから、その前になんとか塔に潜りこみたいね……」
「うむ。――と言っても、入り口とかどこにあるのかな……。できれば正面玄関からは避けたいよな」
「剣も無いしね」
言われてみればそのとおりだ。鉄鎖もそれなりに心強い武器ではあるが、ユージオは使い慣れないようだし、できれば早いところ青薔薇の剣と黒い奴を回収したい。そこでようやく、俺はもうここが牢獄ではないのだということを思い出した。
「システム・コール!」
右手を掲げて小声で叫ぶと、神聖術がコマンド待機状態に入った証として、指の回りをほのかな紫色の燐光が包む。ほっとしながら先を続ける。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:1999!」
黒いのが存在する場所を追跡するコマンドを実行すると、右手の人差し指から、髪の毛のように極細の紫色のビームがするすると伸び、塔の少し高いところにある壁の一点に刺さった。指を動かし、ビームの振れ幅から、黒いのまでの距離を概算する。
「うーん、だいたい塔の三階、中央やや北寄りって感じだな……」
呟き、手を振ってコマンドを終了する。
見ていたユージオは、記憶を探るように視線を泳がせた。
「えーと……探し物までの最短ルートを表示するような神聖術って、あったっけ?」
「さすがに無いだろう、そんな便利な術は。あったら、学院から脱け出す道を探すときに使ってるよ」
苦笑しつつ答えると、いつも寮を脱け出しては買いに行っていた揚げ菓子やまんじゅうの味が思い出され、空っぽの胃がきりきりと刺激された。思わず、ちょいと脱出して腹ごしらえをすることを提案したくなるが、せっかく潜り込んだ教会にまた入れなくなってしまったら目も当てられない。
汁気たっぷりの肉まんの味を反芻するだけで無理矢理満足し、俺は振り向くと、バラ園の迷路を眺めた。
「確か、この先に整合騎士の飛竜が降りたちょっとした広場があったよな。あそこまで行けば道が分かるかもしれない。とりあえずそこを目指そう」
「うん、わかった」
ユージオと軽く頷きあって、俺は小走りにイバラの園に足を踏み入れた。
晩春だけあってバラは今が花盛りらしく、暗赤色や黒紫色の花たちが濃密な香りを漂わせるなか、俺たちは星明かりだけを頼りに右に曲がり左に曲がりしながら進んだ。幸い、振り向けば天を衝く白亜の巨塔が常に見えるので、方向だけは分かる。袋小路に突き当たっては戻って曲がることを繰り返し、およそ十五分ほども進むと、ようやく前方に見覚えのある背の高いアーチが出現した。その先に、ベンチと噴水のある広場があったはずだ。
広場なんだからバラ園全体の地図もあるだろう、あってくれと思いながらアーチをくぐろうとした俺の上着を、後ろからユージオが突然掴んだ。
「な、なんだよ」
「……誰かいる」
「なにっ……」
咄嗟に身構え、俺は目を凝らした。
広場は南北に長い長方形で、俺たちのいるアーチが南端にあたる。中央にはテラリア神を象ったブロンズ像のある噴水が設けられ、回りに華美な曲線を持つ金属製のベンチが四つ並んでいる。
その東側のひとつに、ユージオが言うとおり人影がひとつ、脚を組んで座っていた。左手にはワインらしきグラス、右手にバラの花を一輪乗せ、花弁に鼻を寄せている。ゆるくウェーブした長い髪のせいで顔は見えないが、体は磨き上げられた白銀の鎧に包まれ、肩からは手のバラと同じ黒紫色のマントが垂れているのが見てとれた。
俺と同時にユージオも息を飲み、次いで、絞り出すように囁いた。
「整合騎士だ……!」
間違いなかった。しかも、マントの色と鎧の形からするに、学院まで俺とユージオを連行しに来た二人のうち、アリスではないほうだ。
即座に振り向いて迷路に逃げ込むべきか、俺は一瞬迷った。が、行動を決定する前に、バラから顔を離した整合騎士が、爽やかな響きのある声を発した。
「見ていないで、入ってきたまえ囚人君たち」
フルフェイスの兜を被っていたときの、陰々と歪んだ声とはまったく違う。その語尾に挑発的な調子を感じ取った俺は、つい悪い癖を出し、逃げるかわりに前に進んでいた。
「へえ、俺たちにもそのワインを振舞ってくれるとでも言うのか」
俺の言葉にすぐには答えず、整合騎士はこちらに顔を向けると、ワイングラスを少し掲げてみせた。
「これは、君達のような子供……しかも罪人が口にできるものではないよ。ウェスダラス帝国産、百五十年物だ。この雫を舐めるためだけに……」
右手のバラをワインに少し漬け、付着した液体を足元にぽたりと垂らす。
「這いつくばる上級貴族だって山ほどいる」
にこりと笑ったその顔は、言動と相まって、この野郎と思いたくなるような怜悧な美貌だった。高く通った鼻筋と、やや野性味のある長い眉に囲まれて、すっと切れ上がった眼が涼しげな光を放っている。
つい気圧され、口をつぐんだ俺とユージオが見つめるなか、騎士は組んでいた脚をほどくと金属音ひとつさせず立ち上がった。ディープ・バイオレットのマントと、波打つペール・パープルの髪が同時に夜風になびく。
「さすがにアリス様は慧眼だな。君たちが脱獄するという、有り得ない可能性に備えて一晩ここで過ごせと仰るから、バラを愛でつつ夜明かしをしようかと思えば本当に現われるとは。その鎖は南の果ての火山で鍛えられた呪鉄製だよ。それを切るなんて、君達はやはり大逆の徒だな。仕置きが多少厳しいものになってしまうことは……もう覚悟しているだろうね?」
言葉を切るとワインを飲み干し、騎士はグラスとバラを同時に放り投げた。恐らくとんでもない値段なのだろう薄いグラスが、石畳に落ちてはかない天命を散らす。
恐らくはこいつも貴族の出なのであろう、気障な台詞回しはライオス・アンティノスと通じるものがあったが、あの男が常に漂わせていたアクたっぷりの嫌味はまるで感じられなかった。その理由は、この整合騎士が、自信たっぷりの言葉を裏付けてお釣りのくるすさまじい剣気を放っているからだ。
「さて、君たちの天命を残り一滴まで減らすまえに、もう一度名乗っておこう。あの時は無粋な兜ごしで失礼したからね。整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス……またの名を、”無間”のエルドリエだ」
まだ左腰の剣に手もかけていないのに、ごうっと闘気が吹き付けてきたような気がして、俺は思わず右手から下がる鎖を構えて一歩あとずさった。まだ広場に数歩入ったばかりの俺たちと、エルドリエと名乗る騎士のあいだには、十五メル近い間合いがあるのに、本能がこれ以上接近することを拒んでいる。
エルドリエは、マントと同じ色の瞳でちらりと俺の鎖を眺め、ふっと唇をほころばせた。
「なるほど、それを武器にしようというのか。なら、私も剣ではなくこちらで相手をしようかな」
動いた右手が掴んだのは、剣の柄ではなく、剣帯の後ろ側に留められていたらしい――金属の鞭だった。
幾重もの輪に巻かれていた鞭は、エルドリエの右手からぱらぱらとほどかれ、蛇のように石畳の上にわだかまった。俺の握る無骨な鎖とは違い、銀糸を編み上げたような美麗な造りだ。しかし、よくよく見ると、まるでバラの蔓のようにそこかしこから鋭いトゲが生え、剣呑な輝きを放っている。あんなものに打たれたら、皮膚が裂ける程度では収まるまい。
その上、鞭の長さはどう見ても四メルはありそうだった。俺の鎖はおよそ一メル三十セン、リーチの差は三倍以上だ。これは、どうにかして攻撃を掻い潜り、近接戦に持ち込まないと一方的な展開になりそうだ。
背中に冷や汗をかく俺とは違い、エルドリエは相変わらず涼しげな顔で右手を軽く振った。鞭が生き物のようにうねり、ぴしりと石畳を叩く。
「それでは……教会と禁忌目録に背いた大罪人に敬意を払って、私の無間という銘の理由を教えてあげよう」
エルドリエは、さっと鞭を握った右手を掲げると、一際りんと張った声で叫んだ。
「システム・コール! エンハンス・ウェポン・アビリティ!」
その先を、俺は聞き取ることが出来なかった。神聖術には高速詠唱、つまり恐るべき早口でコマンドを綴るという技術があるのだが、当然早くなればなるほど式をとちる確率も上がる。だがエルドリエは、恐らく五十ワードは下るまいという長大なコマンドを、一切つっかえることなくわずか十秒ほどで発声し終え、そのまま一切の躊躇なく右手を振りかぶると――まっすぐ俺目指して振り下ろした。
「なっ!?」
俺は驚愕し、反射的に鎖を両手で握り頭上に掲げた。俺と奴の距離は十五メル、大して銀の鞭は四メルだ。どう考えても届く道理は無い。しかし。
びゅうっと空気を焼き焦がすような勢いでうねったエルドリエの鞭は、まるで伸縮性の素材で出来ているがごとく空中でするすると伸び、俺の顔面に襲い掛かってきた。攻撃を防げたのは、たんなる僥倖でしかなかった。無意識のうちに鎖を掲げていなければ、俺の顔はトゲだらけの鞭に打たれて無惨に切り裂かれていたろう。
耳障りな音と青白い火花を放って鎖の表面を滑った鞭は、蛇のように向きを変えると、またするするとエルドリエの手許に戻っていった。どっと全身から汗が吹き出すのを感じながら鎖を見た俺は、思わずうめいた。
「げっ」
クラス38オブジェクトの、呪鉄とやらで出来ているはずの鎖の一部がごっそり削れ、あと僅かでリングが一つ切断されそうになっていた。
硬直する俺とユージオを、整合騎士はほんの僅かな興味を含んだ視線であらためて眺めた。
「ほう……耳のひとつも落とすつもりだったが、我が神器”星霜鞭”の攻撃を初見で凌いだか。たかが学徒と侮ったのは申し訳なかったかな、これは」
恐ろしいことをさらりと口にしたが、その内容は俺の意識にはほとんど届かなかった。
強敵だ。それも、超のつくほどの。無意識のうちに侮っていたのは俺のほうだ。
この整合騎士エルドリエは、俺がいままで一度たりとも相手にしたことのないタイプ――いや種族の敵なのだということを、遅まきながら悟る。
もちろん、アンダーワールドはあくまでラースの実験フィールドであって、厳密な意味ではこの闘いに俺、修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人の生命は賭かっていない。たとえエルドリエの鞭に首を飛ばされ、天命が零になったところで、恐らく俺は現実世界のSTLで目覚めるだけで、実際の傷はひとつたりとも負うまい。
つまり、戦闘の恐ろしさという意味では、あのリアル・デスゲームSAOと同列に比較することはできない。アインクラッドで”赤眼のザザ”や”ジョニー・ブラック”といったレッドプレイヤーたちと剣を手に対峙したときの恐怖、足元に底無しの淵が口を開けているようなタイト・ロープ感覚は、恐らく俺はもう二度と味わう機会はないだろうし、そうしたくもない。
しかしいかにデスゲームとは言え、プレイヤーとしてのザザやジョニー達は――俺も含めてだが――所詮剣術などとは縁のない、運動不足のゲーム・マニアだったのだ。現実世界では棒っきれすらも満足に振れない虚弱なゲーマーが、数値的ステータスとシステム的アシスト、それになけなしの反射神経を手札に命のやり取りをしていた、一面ではそれが真実なのだ。
だがこのエルドリエは違う。彼は己を、法の守護者たる整合騎士としてのみ認識し、それを一抹も疑うことはない。肉体的にも、精神的にも、本物の戦士なのだ。SAOプレイヤー達とも、CPUが動かすモンスターとも違う、言わばファンタジー小説に登場する魔法騎士の具現化した姿。
茅場晶彦の望んだ、真なる異世界の住人そのものではないか。
果たして、今の俺がエルドリエに優っている部分が存在するのだろうか。数値的ステータスは勿論、身体能力――厳密には脳の運動野を構成する光量子回路の性能――も、闘争心すら向こうのほうが上だと思える。この場を切り抜けられる可能性があるとすれば、それはたったひとつ――。
「ユージオ」
俺は後ろを見ずに囁いた。
「勝機は、俺たちが二人だという一点にしかない。俺が体であいつの鞭を止めるから、お前が打ち込むんだ」
だが、答えは返ってこなかった。いぶかしみながら一瞬だけ肩越しに視線を送ると、ユージオの顔には、恐怖というより感嘆の色が浮かんでいた。
「……今の見たかい、キリト。凄いよ……図書室の本で読んだことしかないけど、間違いない。あれは”武装完全支配”……武器の材質にまで術式で割り込みをかけて、神の奇跡を攻撃力に顕すっていう超高等神聖術だよ。さすが整合騎士だなあ!」
「感心してる場合か。……その完全支配っていうのは、俺たちには使えないのか?」
「無理無理! 公式が教会の最上級秘蹟に指定されてるからね。たとえ式を覚えても、行使権限が足りるかどうか……」
「ならもうそいつの事は忘れよう。手持ちのカードだけで何とかするんだ。いいな、俺がどうにかして鞭を抑えたら、お前が決める。慣れてない武器でも、思い切り当てれば無傷じゃ済まないはずだ」
ようやく表情を引き締めたユージオに、駄目押しで確認する。
「覚悟決めろよ。教会の権威の象徴、整合騎士を倒すんだ、俺たちで」
「……分かってるさ。言ったろう、もう迷わないって」
頷きあい、俺たちは同時に右手の得物を構えながらエルドリエを睨んだ。
整合騎士は、相変わらず涼やかな微笑を浮かべたまま、銀の鞭を小さく鳴らした。
「相談は終わったかな、罪人君たち。さあ、少しは私を愉しませてくれよ」
「……そんな余裕かましてていいのか、整合騎士様が?」
「無論、わずかでも禁忌目録に疑いを持った者は即連行即処刑、それがアドミニストレータ様の絶対なる教えだ。だが絶望するには及ばない、もし君達が私にひとつでも傷を負わせるほどの能力を見せれば、別の道がひらけないこともないからね。万に一つも有り得ないことだが」
「傷? 嘗められたもんだな。天命を半分ほど吹っ飛ばして、そのにやにや笑いを消してやるぜ」
内心に広がる焦燥感を押し隠し、俺はうそぶいた。エルドリエが漏らした妙な名前も気になったが、今は思案している暇などない。左手を広げて、エルドリエに向けて素早く突き出す。
「システム・コール! ジェネレート・サーマル・エレメント!」
叫ぶと、五本の指の前にそれぞれ一つずつ、オレンジ色の輝きが発生した。火炎系攻撃術の起点となる熱源だ。続いて術を展開しようとするが、十五メル先で、エルドリエも左手を上げ、式を開始した。
「システム・コール! ジェネレート・クライオゼニック・エレメント!」
こちらの術に対抗するための冷気系起点がおよそ十ほども生成される。反応が早いが、気にせず術を続ける。
「フォームエレメント、アローシェイプ!」
式と同時に左手をまっすぐ引くと、火点がそれぞれ引き伸ばされ、五本の炎の矢が完成した。飛翔速度と貫通力を重視した形態だ。敵に対応する時間を与えまいと、最大限の早口で最後の式を唱える。
「ディレクション・ストレート! ディスチャージ!」
直後、ごうっと火炎の渦を巻き起こしながら、五本のファイア・アローがまっすぐエルドリエ目掛けて撃ち出された。さらに式を続ければ、限定的ながら軌道修正も可能だが、距離を詰めるための牽制なので撃ちっ放しにして自分も地面を蹴る。
「フォームエレメント、バードシェイプ! カウンター・サーマル・オブジェクト! ディスチャージ!」
前方で、エルドリエが一気に術を終わらせた。青い輝点がすべて小さな小鳥の形――ホーミングに適した形状――に変化し、一斉に飛び立つ。自在な軌跡を描いて、俺が放った炎の矢を次々と迎撃し、爆炎と氷結晶を同時に振り撒きながら相殺・消滅していく。
それらを隠れ蓑に利用し、俺は一気にエルドリエから三メルほどの地点にまで肉薄した。あと二歩で俺の鎖の間合いに入る。
と、ついに奴の右手が動き、まるで生き物のように地面から銀の鞭が跳ね上がってきた。が、この距離なら、武装完全支配とやらが生み出した間合いのアドバンテージは関係ない。右から弧を描いて襲ってくる鞭の軌道を懸命に読み、体を傾け膝を屈めて回避体勢に入る。だが――。
「っ!?」
思わず俺は喉を詰まらせた。空中でエルドリエの鞭が二又に分裂し、新たに生まれた銀の蛇が一層鋭角な軌跡を引きながら飛び掛ってきたからだ。
僅か数センの間合いで見切ろうとしていた俺は、その攻撃に対処できず、鞭にしたたか胸を打たれて吹き飛んだ。覚悟はしていたつもりだが、目もくらむほどの激痛に思わず声が漏れる。
「ぐうああっ!!」
我ながら惨めとしか言いようがないが、とても耐え切れるものではない。見れば、簡素なチュニックは大きく切り裂かれ、右胸から左腹部にかけての肌に無数の棘が作った醜い傷痕が一直線に走っている。たちまち無数の血の玉が吹き出し、幾筋もの線を引いて流れ落ちる。
「駄目駄目、完全支配下の星霜鞭はそんな愚直な突っ込みでは避けられないよ。間合いは最大五十メルまで拡大し、同時に七本にまで分裂することができる。八人で一斉に飛び掛ってくれば何とかなるかもしれないがね」
まるで教師のようなエルドリエの物言いにも、今は腹を立てる余裕などまったくない。これほどの痛みは、二年半前にゴブリンの隊長に肩を斬られて以来のことだ。この、痛みへの耐性の無さがこの世界での俺の最大の弱点になりかねないということは常に意識していたのだが、しかし寸止め絶対厳守の学院での修行においては、苦痛に慣れるような機会は全く無いに等しかった。ユージオには、体を張ってでも鞭を止めるなどと大きなことを言ったが、これでは無様にも程がある。
「ふむ、これはやはり買い被りだったかな? 一撃で戦意を喪失しているようでは、とてもシンセサイズの秘儀を受ける資格はあるまい。せめてもの情けだ、一撃で意識を刈り取ってあげよう」
エルドリエは、白銀のブーツで石畳を鳴らしながら俺に歩み寄ろうとした。と、いつの間にか奴の背後に回りこんでいたユージオが、決死の面持ちで鎖を振りかぶり打ちかかった。
再びエルドリエの右手が煙るほどの速度で動き、宙を疾った鞭が、またしても二本に分裂しながらユージオを捉えた。右足と胸をしたたか打ち払われ、ユージオも空を舞うと、遥か離れた噴水の中に水飛沫を上げて落下した。
俺を苛む激痛は、その間も一向に緩みはしなかったが、ユージオが決死の突撃で作ってくれた貴重な時間を無駄にすることだけはできなかった。相棒の動きが視界に入ると同時に、俺は奥歯を軋むほど食い縛り、痛みを一時的に意識下に追いやった。細めた右目でエルドリエの顔を凝視し、視線が俺から外れてユージオのほうに向けられる瞬間を待つ。
さすがに実戦経験も豊富なのだろう、整合騎士は俺への警戒を完全に切ることはなかったが、それでもユージオを打つその時だけは殺気の流れが逸れた。その刹那、俺は先刻石畳をのたうちながらも左手に握り込んでおいたものを放った。
アインクラッドと違って、この世界では、ほとんどのオブジェクトは破壊されたからといってエフェクト光とともに消滅したりはしない。”オブジェクトの残骸”として新たな天命のカウントが始まるのだ。勿論その天命は、現実世界より遥かに早く数値を減少させ、ゼロになると同時に今度こそ跡形も無く消え失せるのだが、それでも最低数十分ほどの猶予は存在する。
たとえそれが、主が戯れに砕いたワイングラスの破片のようなささやかな代物であっても。
夜明け前の闇を、一条の光線と化して切り裂きながら硝子片は飛翔し、ユージオを攻撃した直後のエルドリエの右目を正確に襲った。恐らく、視界にグラスの光が入ってから命中するまでの時間はコンマ一秒も無かったろう。それでも、騎士は恐るべき反応速度で顔を背け、眼球への直撃だけは避けてみせた。
硝子片はエルドリエの目尻を掠め、藤色の髪をひと房切断して闇の中へと去った。滑らかな肌に開いた傷口から血が流れ出す前に、俺はうずくまった姿勢から全力で飛び出していた。
確かに俺は、能力的にエルドリエには遠く及ばないが、少なくともアインクラッドで散々繰り返した何でもありの対人戦闘経験だけは奴には無いもののはずだ。無論エルドリエも整合騎士としてダークテリトリーの敵相手に命の懸かった実戦を繰り広げてきたのだろうが、この世界の戦闘は、武器戦にせよ神聖術戦にせよ正面からの技のやりとりになりがちだ。フェイント、トラップ、虚実ない交ぜとなった泥仕合にかけてはこちらに分がある、その一点に俺は賭けた。
二回地面を蹴ると、右手の鎖の間合いに入る。わざと大ぶりの上段攻撃モーションを作りながら、鎖を大きく背後に振りかぶる。一瞬の動揺から回復したエルドリエが右手を引き戻し、ユージオを打ったまま宙をくねっていた鞭が再び俺を狙って唸りを上げる。
このまま攻撃しても、鎖は空中で鞭と交錯し、今度こそ真っ二つに切断されてしまうだろう。その後鞭はもう一度俺の上半身を打ち、先刻と同じかそれ以上のダメージを与えるはずだ。しかし俺はその恐怖を振り払い、煌めく銀の鞭から視線を外すと、目を見開きながらエルドリエの背後、ユージオが突っ込んだ噴水のほうを凝視した。
攻撃中に対象からわざと視線を逸らすなどという行為は、修剣学院で教えられている、型を重視するあらゆる流派においてタブーである。そう、禁忌なのだ。よって、この世界に存在する剣士は決してそれをしない。整合騎士とて例外ではないはずだ。
よって、エルドリエは俺のアクションを、俺が彼の背後に何かを見たゆえのことだと判断した。瞬間首を曲げて後ろに視線を送る。しかし当然そこには誰もいない。
俺のフェイントをそうと意識し、しかし驚きで硬直しなかったのは流石と言うべきだろう。だが鞭の動きは一瞬遅れた。もう俺の鎖を空中で迎撃することはできない。稲妻のような速度で左手を掲げ、顔面をガードしようとする。
だが、ありったけの殺気を振り絞ってエルドリエの顔を睨みつつ右手を振った俺が真に狙ったのは、奴の足だった。視線を下に向けずに叩きつけた鎖は、狙い違わずエルドリエの左足に、黒い毒蛇のようにしたたか噛み付いた。
整合騎士の足を覆う白銀の装甲は、やはり相当のプライオリティを持っていたようで、俺の鎖は最初に星霜鞭に削られた部分からついに千切れ飛んだ。だが俺がこの一撃で狙ったのは直接的なダメージではない。軸足を真横から払われたエルドリエは、堪らず後方に倒れこむ。
もし奴が背中から地面に落ちたら、俺は剣士としてのプライドなどかなぐり捨てて――どうせ剣など持ってはいない――馬乗りになり、短くなってしまった鎖を右手に巻きつけて奴の顔面を石畳に埋まるまで殴り倒すつもりだった。しかし、鎖から伝わってきた手応えが僅かに軽かったことから、エルドリエが直前に自分で飛んでいたと判断し、方針を変更する。
読みどおり、整合騎士は見事な動きで後方宙返りを決め、足からの着地を成功させた。その身体能力には舌を巻くが、拍手などしている暇はない。俺も同時に零距離にまで突っ込み、エルドリエの右手に――正確にはそこに握られた鞭に飛びついた。握りに近い、トゲの生えていない部分を自分の右腕にぐるぐる巻きつけ、完全に封じる。
これは、この戦闘で何度目かのギャンブルだった。エルドリエにはまだ自由な左手と腰の剣がある。それを抜かれれば、離脱できない俺は一瞬で叩き斬られるだろう。
だが、俺はユージオを、六年間”刻み手”として来る日も来る日もギガスシダーを叩き続けた彼の忍耐力を信じた。たとえトゲだらけの鞭でしたたか打ち据えられても、俺のようにうずくまって痛みに悶えるようなユージオではない。
そして、相棒は当然のように俺の期待に応えた。エルドリエがついに冷笑的な態度をかなぐり捨て、怒りの形相とともに左手で逆手に剣を抜こうとしたときには、すでに噴水から飛び出したユージオが驚異のダッシュ力で距離を詰め、右手の鎖を振りかぶっていた。
だが、惜しむらくは、ユージオは鎖での攻撃に慣れていなかった。腕の振りがわずかにぎこちなく、それが整合騎士に対処する間を与えた。剣に伸ばしかけた左腕をさっと突き出すと、エルドリエは恐るべき見切りで、ユージオの鎖の先端をがしっと掴んだ。
例え頭部への直撃は避けても、そんなことをして無傷でいられるはずはない。皮手袋に包まれただけだったエルドリエの左手から、何本かの骨が折れる音が確かに聞こえた。だが騎士は声一つ漏らすことなく、握った鎖を全力で引いてみせた。ユージオも対抗して足を踏ん張り、鎖がぎしっと嫌な音を立てて軋んだ。
とてつもなく長く思えた数秒間の攻防の末、俺とユージオ、エルドリエは互いに得物を封じられ、動きを止めた。俺たちは全力で鎖と鞭を引っ張りつづけたが、長身の整合騎士は岩のように揺るぎもしない。一対一の綱引きだったら恐らくもたなかっただろう。
最初に沈黙を破ったのはエルドリエだった。
「……なるほど、アリス様が警戒するわけだな。型も美しさもないが……それゆえに私の予測を上回るか。これほどの手傷を負ったのは、暗黒将軍シャスターと戦ったとき以来だ」
騎士の右目のすぐ横についた傷からは、流れ出した血が細い糸を引いて滴っていた。だがそんなものは、俺とユージオの胸に走る鞭跡に比べればかすり傷以下だ。
さすがにムカっときたので、どう言い返してやろうかと思ったとき、ユージオが両目に相変わらず素直というか馬鹿正直な感嘆の光を浮かべながら声を漏らした。
「あなたこそ……やっぱり流石だ、騎士殿」
その口調にわずかな引っかかりを覚え、俺はエルドリエから視線を外さずに繰り返した。
「やっぱり……?」
「うん。実は一昨日からずっと、どこかで聞いた名前だと思ってたんだけど……ようやく思い出した。この人は、エルドリエ・ウールスブルーグ。僕たちの先輩だよ。二十一年前のセントリア修剣学院総代表で、その年の四帝国統一大会の優勝者だ。図書室の年鑑で読んだんだ」
「な、なんだと」
先輩だ!? しかも二十一年前……!?
だが、わずか一メルほど前に立つ男は、どう見ても二十代半ばだ。学院を卒業したのがそんなに昔なら、四十近くにはなっていないとおかしいのだが。
俺は驚愕のあまり息を飲んだが、しかしどうしたことか、当のエルドリエは俺を上回る衝撃を受けたかのように蒼ざめ、目を見開いた。
「……なんだと……」
呟いたその声は、別人のようにしわがれていた。わずかに体勢をぐらつかせながら、唇をわななかせる。
「私が……修剣学院の……? エルドリエ……ウールスブルーグ……?」
予想外の騎士の反応に、ユージオも驚いたようにぽかんと口を開けたが、すぐにつっかえつつも続けた。
「ま……間違いないよ。近間では剣、遠間では鞭を操り、華麗な技で並み居る強豪を退けた……そう書いてあった」
「……私は……私は、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだっ……! 知らん……ウールスブルーグなどという名はっ……!」
「だ、だが……」
思わず戦闘中だということを忘れそうになりながら、俺は口走った。
「あんただって、生まれたときから整合騎士だったわけじゃないだろう。任命される前はそういう名前だったんじゃないのか……?」
「知らん! 私は……私は知らんっ!!」
叫んだエルドリエの顔に血の気は全く無かった。
「わ……私は……高貴なるアドミニストレータ様より秘儀を授けられ……整合騎士として……世の秩序を……」
そして、次の瞬間、俺を更に唖然とさせる出来事が起きた。
エルドリエの、滑らかな額の中央に、突然逆三角形の紫色のマークが輝きながら浮き上がったのだ。
「ぐ……うっ……」
呻いたエルドリエの手から力が抜けたが、俺は鞭を奪うのも忘れて騎士の額を凝視した。なぜなら、発光部分から、水晶のように透明な三角柱がわずかずつ突出し始めるというとてつもない現象に度肝を抜かれたからだ。
三角柱の内部には、微細な光の筋が縦横に走り回っていた。突き出した部分の長さが二センほどにも達したとき、ついにエルドリエの両手から鞭の柄と鎖が抜け落ちた。しかし騎士はもう俺たちのほうを見ることもせず、よろよろと後退ると、糸の切れた操り人形のように石畳に膝を突いた。
呆気に取られ棒立ちになっていた俺は、張力を失った星霜鞭が右腕からほどけ、地面に落ちた音でようやく我に返った。エルドリエの顔にはもう表情は全く存在せず、虚ろな両眼に、額から迸る紫色の光が反射するのみだ。
機だ。――と思ったが、しかし何をすればよいのか、咄嗟には判断できない。
攻撃するなら、今をおいてないのは確かだ。鎖を使うなり、鞭を拾うなりして叩きのめせば無力化できる可能性が高い。
あるいは、一目散に逃走するという選択もある。下手に刺激して意識を取り戻されたりしてしまえば、もう不意打ちもフェイントも通じないことだろうし、逆に死亡一歩手前にまで追い込まれるのは必至だ。
そして、リスクは最も高まるが、このまま成り行きを見守るのも一案ではある。俺たちが今目の当たりにしているのは、間違いなくこの世界の秘密の根幹に関わる何か――エルドリエの、そして恐らくアリスの騎士任命以前の記憶を奪った処置、恐らくは”シンセサイズの秘儀”と呼ばれるもの――が引き起こした現象なのだ。つまり、アドミニストレータ様とかいうふざけた名前の神聖教会最高権力者は、アンダーワールド内部から人工フラクトライトをある程度自由に操作できるということになる。
そいつ自身が、俺と同じ人間なのかあるいはやはり人工フラクトライトなのかはまだ定かでないが、ラースのスタッフや菊岡誠二郎の意図を離れた事態であるのは間違いないだろう。菊岡の求める”真・人工知能”段階に達したはずのアリスを、再び盲目的規則遵守状態に戻すような改変を許してしまうのは本末転倒以外の何ものでもないからだ。それに、このままでは同じブレイクスルーに到達したユージオさえも”シンセサイズ”されてしまうか、最悪消滅させられてしまいかねない。
同じく改変されたらしいエルドリエに起きたこの現象を最後まで見極めれば、少なくともその改変が可逆性なのかどうかだけは判断できるかもしれない。もしそうならアリスも元に戻せるということになる。
どうせ、この無抵抗状態のエルドリエを袋叩きにするような行為にはユージオが難色を示すだろうし、逃げると言っても迷路を抜ける道が分からない。ならば危険覚悟で観察を続けよう――、そう結論を出し、俺が整合騎士に半歩にじりよった、その時だった。
徐々に突出を続けていた光る三角柱が、切れかけた電燈のように明滅したと思うと、一転エルドリエの額に沈み込みはじめたのだ。
「う……」
俺は思わず唇を噛んだ。三角柱が完全に抜け落ちたとき何かが起きる、と予想していたからだ。
「エルドリエ! エルドリエ・ウールスブルーグ!」
呼びかけると、一瞬だけ没入が停止した気がしたが、すぐにまた動き始める。この現象のきっかけになったのが、騎士任命以前の記憶を刺激されたことだと思い至った俺は、振り返ると目を丸くしているユージオに向かって叫んだ。
「ユージオ、もっとこいつについて憶えてることはないか!? 何でもいいから、こいつの記憶を呼び覚ますんだ!」
「え、ええと……」
一瞬いぶかしむように眉を寄せたが、すぐにユージオは頷いた。
「エルドリエ! あなたは、二等爵士エシュドニ・ウールスブルーグの第三子だ! 母親の名前は……たしか……アルメラ、そう、アルメラだ!」
「…………」
虚ろな表情の整合騎士の唇がかすかに震えた。
「ア……アル……メ……か……あ……さん……」
ひび割れた声が漏れ、同時に三角柱の光量が再び増大した。が、俺をハッとさせたのはそのことではなく、見開かれた騎士の両眼から音も無くこぼれた大粒の涙だった。
「そうだ……思い出せ、全部!」
無意識のうちにそう口走りながら、俺はさらに一歩騎士に詰め寄ろうとした。
そして、つんのめって地面に左手を突いた。
目も眩むような激痛を意識したのは、あれっと思いながら下を見て、自分の右足甲を一本の矢が石畳に縫い付けているのに気付いてからだった。
「ぐあっ!」
灼熱の火花が右足から頭までを貫き、短い悲鳴を漏らす。歯を食い縛りながら両手で赤銅色の矢を握り、力任せに引き抜くと、倍増した痛みに気絶しそうになりながら暗い空を振り仰ぐ。
「キリト!」
叫びながら駆け寄ってきたユージオの右腕から垂れる鎖を掴むと、俺は思い切り引っ張った。
ヒュドッ、ドッ、と重い音をさせ、直前までユージオがいた場所を二本の矢が貫く。
星のほとんど出ていない漆黒の空を背景に、はるかな高みを一匹の飛竜が舞っていた。限界まで目を凝らせば、その背中に騎乗する人影がどうにか識別できる。間違いなく整合騎士だが――あの距離から弓で俺たちを狙ったとすれば、驚異的な精密射撃だ。
と思う間もなく、騎士の手許が一瞬ちかっと光った。息を詰めながら傷ついた右足で思い切り地面を蹴り、俺が尻餅をついていた場所に、ドドッとほとんど同時に矢が二本突き立つのを見て全身を粟立たせる。
「や、やばいぞこれは」
ユージオの鎖を掴んだまま、俺は口走った。この世界で弓矢を見たのは初めてだ。歩く武器庫だったソルティリーナ先輩もせいぜい投げナイフを使ったくらいだったので、遠距離攻撃はアンダーワールドの剣士たちの性に合わないのだろうと思っていたが、整合騎士に関してはもう何でもありらしい。
飛竜から目を離すわけにはいかないので、頭の中に周囲の場景を思い描くが、潜り込めるような遮蔽物は一切無い。最悪、密に生い茂ったイバラの中に飛び込むしかないか、と覚悟を決める。
「次の矢を回避したら走るぞ」
早口にそう指示し、俺は全身を緊張させた。が、新たな整合騎士はそこで一端狙撃の手を止め、手綱を引くと飛竜を降下させはじめた。同時に、お馴染みの陰々とした声が噴水広場中に鳴り響く。
「騎士トゥエニシックスから離れろ、穢れた罪人ども!」
反射的にちらりと目を向けると、せっかく抜け落ちそうになっていたエルドリエの額の三角柱は、またしても元に戻りつつあった。
「高潔なる整合騎士に堕落の誘いを試みた罪、最早許せぬ! 四肢を磔にして牢に戻してくれるわ!」
ようやく詳細に見て取れるようになった整合騎士は、全身を赤銅の鎧兜に包み、左手に凄まじく巨大な長弓を携えていた。恐らくはエルドリエの星霜鞭と同じような神器だろう。あの超狙撃力は”完全支配”術によるものなのか、それとも真の能力を発揮するのはこれからなのか。
銅がねの騎士は、それ以上喋る気は無いようで、弓に矢を同時に五、六本つがえると無造作に俺たちに向けた。
「走れ!」
この距離では発射を見てからでは避けられないと判断した俺は、ユージオの鎖を掴んだまま全力でダッシュした。一歩ごとに右足と胸に疼痛が走るが、この際構っていられない。
元来たほうに戻り、再び地下牢に飛び込むことを一瞬考えたが、それでは狙撃は避けられても状況が悪化するだけだ。かなりの博打だが新しい道を使うことにして、噴水の東側に見えるアーチ目指して懸命に走る。
数歩も進まないうちに、すぐ背後でドカカカカッ! と胆の冷える重低音が立て続けに響いた。
「うおあああ!」
悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げ、一層スピードを上げる。ブロンズのアーチをくぐった瞬間、頭上で複数の金属音が鳴り響き、バラの花弁が無数に舞う。
迷路の両側には背の高い柵が巡らせてあり、それに沿って走ると多少は狙撃を避けられるようだった。矢が降ってくるペースは落ちたが、十字路等でやむなく姿を晒した瞬間、空気を焦がす熱が感じられるほどの至近距離を何本もの矢が擦り抜けていく。
「何本矢を持ってやがんだ!」
腹立ち紛れに叫ぶと、すぐ後ろを走るユージオが律儀に答えた。
「さっきので三十本超えたよ、すごいな!」
「いい加減なVRMMOじゃあるまいし……いや、何でもない!」
もう、方角は完全にわからない。闇雲に角を曲がっているだけなので、もし袋小路に掴まったら万事窮すだ――。
と思った瞬間、目の前に三方を塞ぐイバラの柵が現われて、俺は我が身の運の無さを嘆いた。かくなる上は鎖で青銅の柵を吹き飛ばすしかないが、ドアや窓と比べて、壁や床に類するオブジェクトの天命はけた違いに大きい。一撃で破壊できる可能性は限りなく低い。
覚悟を決め、運を天に任せて右手の鎖を振りかぶろうとした、その瞬間。
「おい、こっちじゃ!」
突然聞こえた声に、俺はコンマ一秒ほど思考停止した。こっちじゃ、という年寄りじみた言い回しのその声が、どう聞いても年若い少女のものだったからだ。
唖然としながら視線を巡らすと、前方すぐ右側の柵の一部に、いつのまにか小さな扉が開いていた。そこから顔だけを覗かせて手招きをしているのは、老賢者のような黒いローブに同色の角張った巨大な帽子を被った、十歳そこそことしか思えない女の子だった。鼻に乗せた小さな丸眼鏡をきらっと光らせて引っ込んだ女の子を追って、俺とユージオは無我夢中で小さな扉に頭から飛び込んだ。
SAO4_19_Unicode.txt
空中でぐるりと半回転し、背中から落下する。息を詰まらせながら周囲を確認した俺は、驚きのあまり目を見開いた。
ユージオと俺は、確かにバラ園の柵に設けられた扉をくぐったはずだ。であるからには、その先は咲き誇るバラの茂みのど真ん中でなければならない。しかし、俺が見ているのは、茶褐色の石が整然と組み合わされた、縦横二メルほどの通路だった。床にはバラの花弁ひとつ落ちておらず、石組みの天井のどこからも夜空は覗けない。通路はまっすぐ前方に十数メルほど続いており、その先からは暖かみのあるオレンジ色の光が揺れながら差し込んできている。空気さえも、ついさっきまでの甘く湿った芳香に代わり、乾いた紙のような匂いが満ちている。
呆然としながら、俺は首を回して背後を見た。同質の壁の下部にある扉が、向こう側からは確かにイバラの絡んだ青銅製と見えたのに、今は鋳鉄の金具で補強した木製のものになっているのに気付いても、もう驚く気にはならなかった。
その傍らに立つ黒ローブの女の子は、俺たちが通り抜けるやいなやきっちりと扉を閉め、掛け金にぶら下がる巨大な錠前に、懐から取り出したこれまた巨大な鍵を突っ込んで回した。がちりと頼もしい音を立てて施錠すると、難しい顔のまま扉に耳を寄せ、何やら聞いている様子だ。
つられて耳を澄ますと、扉の向こうから、カサカサと小さな音が聞こえてくるのに気付いた。まるで、小さな地虫が大量に這いまわっているような不快な響きだ。
「……探知されたな。このバックドアはもう使えん」
しかめっ面でぶつぶつ呟くと、女の子は俺たちのほうを見た。鍵を仕舞いながら、左手に握っていた黒光りする杖というかステッキを、追い立てるように振る。
「ほれ、とっとと奥に進まんか! ここは通路ごと廃棄じゃ」
幼い少女の口から出る言葉には、なぜか修剣学院の総長以上の威厳が感じられて、俺とユージオは慌てて立ち上がると小走りで明かりの方に向かった。たちまち短い通路を抜け、奇妙な場所に出る。
相当に広い、四角い部屋だった。壁にはいくつかのランプが取り付けられており、ほっとするような穏やかな炎を揺らしている。調度らしきものは一切なく、正面の壁に重厚な木製のドアが一つあるのみだ。
異様なのは、それ以外の三面の壁だった。俺たちが出てきたような狭い通路が、横にいくつも並んでいるのだ。奥を覗いてみると、みな突き当たりに小さな扉がひとつ設けられた同一の構造のようだった。
俺とユージオが呆気に取られてきょろきょろ周囲を見回していると、続いて出てきた丸眼鏡の少女が、くるりと振り向いて、通路に向かってステッキをかざした。
「ほいっ」
可愛らしい――あるいは年寄りじみた掛け声とともに一振りする。もうこれ以上驚くことはあるまいと思っていたが、続く現象に俺たちは再び度肝を抜かれた。通路の奥のほうから、左右の石壁がごんごんと音を立てて順繰りに迫り出し、地響きとともに組み合わさっていくのだ。
わずか数秒で十メル以上の通路は完全に閉鎖されてしまい、最後に目の前で上下左右から突き出した石が接合すると、そこにはもうまっ平らの壁しかなかった。直前まで存在した通路の痕跡はまったく、凹みひとつ存在しない。
神聖術としても、相当に大掛かりな高等術式だ。あれだけの量の石を動かすには、大変な長さの詠唱とハイレベルのシステムアクセス権限が必要となるだろう。驚くべきは、この女の子が、今の術を掛け声一つで実行したという事実だ。システム・コールの一言すら発さなかった。俺が知る限り、そんなことのできる人間はこの世界には他に一人も居ない。
「フン」
女の子は小さく鼻を鳴らし、何事もなさそうにステッキを地面に突くと、向き直って俺たちをじろりと見た。
改めて眺めると、人形のように可愛らしい少女だった。びろうどのように光沢のある黒いローブと、同じ質感の重そうな帽子は世捨て人の老学者然としているが、帽子の縁からのぞく栗色の巻き毛やミルク色の肌が年相応の艶やかな輝きを放っている。
しかし、印象的なのはその眼だった。鼻に乗った小さな丸眼鏡の奥、長い睫毛に縁どられた瞳は髪と同じ焦茶色だが、なぜか圧倒的な知識と賢さを感じさせる底知れない奥深さを備えている。そのせいで、この少女が何ものなのかは勿論、年齢も立場も、従ってよいのか否かさえも俺には読みきれなかった。
しかしこのまま黙っていても埒があかない。この子が整合騎士の攻撃から俺たちを助けてくれたのは確かなので、とりあえず礼を言うことにする。
「ええと……助けてくれて、ありがとう」
「その価値があったかどうかはまだ分からんがな」
にべも無いとはこのことだ。旅をしていた頃の経験で、初対面の人間との交渉はユージオに任せたほうが良いことは身にしみているので、肘で突付いて相棒を矢面に立たせる。
一歩前に出たユージオは、亜麻色の髪をごしごし掻き混ぜながら口を開いた。
「その……僕の名前はユージオ。こいつはキリト。ほんとにありがとう、助かったよ。えっと……君は、この部屋に住んでるの?」
こいつも相当に混乱してるようだった。女の子は呆れたように眼鏡に指をやりながらばっさりと答えた。
「阿呆ゥ、そんなわけがなかろうが。……ついて来い」
かつっとステッキを鳴らし、正面の壁に唯一ついている大きなドアに向かって歩いていく。俺たちも慌てて後を追い、女の子のステッキの一振りでノブがひとりでに回るのを見てもう一度驚く。
ぎいいい、と重厚な音を立てて両側に開いた扉の向こうは、さらに大量の橙色の光に溢れていた。眩しさに一瞬眼を細めながら、女の子に続いて扉をくぐった俺とユージオは、この不思議な場所に入り込んで以来最大級の衝撃を受けて呆然と立ち尽くした。
凄まじい光景だった。一言で表現すれば、活字中毒者の天国だ。
本棚とそこに収まる本でのみ構成された世界が、俺たちの眼前に広がっていた。全体としては円筒形の空間なのだが、壁面には石造りの階段と通路が縦横複雑に絡みあい、その片側あるいは両側に年代物の巨大な書架がいくつもいくつも並んでいる。俺たちが立っている底面から、立体状の迷路のごとく伸び上がる本また本の回廊の先に見えるドーム型の天蓋までは、恐らく五十メルはあるだろう。階段や壁に無数に設置されたランプに照らされる本の総冊数は、想像することすら不可能だ。
どう思い出しても、あのバラ園にこのような空間を内包する建築物は存在しなかった。俺は頭上を見上げながら、掠れた声で訊いた。
「こ……ここは、もう塔の内部なのか?」
「そうであるとも言えるし、違うとも言えるな」
少女の声は、どこか満足気な響きが混じっているように思えた。
「わしが論理アドレスを切り離したゆえ、この大図書室は塔内部に存在はするが何者も入ってくることはできない。わしが招かない限りな」
「大……図書室……?」
ユージオが、尚も呆然と周囲を見回しながら呟いた。
「うむ。ここには、この世界が創造された時よりのあらゆる歴史の記録と、天地万物の構造式、そしてお前たちが神聖術と呼ぶシステム・コマンドのすべての記述法則が収められておる」
論理アドレス? システム・コマンドだと!?
俺は、自分の耳が聞いた単語をすぐには信じられず、まじまじと少女の顔を凝視した。少女は、俺の受けた衝撃と、その理由さえも気付いているぞと言わんばかりにわずかに微笑み、言葉を続けた。
「わしの名はカーディナル。かつては世界の調整者であり、いまはこの大図書室のただひとりの司書じゃ」
――カーディナル。
俺の知っている範囲で、その名称には三つの意味がある。
一つは、現実世界のカトリック教会における高位の役職だ。日本語では枢機卿と呼ばれる。二つ目は、アトリ科の鳥の名前。日本語では猩猩紅冠鳥、全身に枢機卿が着る法衣と同じ緋色の羽毛が生えていることから名づけられた。
そして三つ目が――茅場晶彦によって開発された、VRMMOゲームバランス調整用の大規模AIプログラム、”カーディナルシステム”だ。最初のバージョンがSAOに用いられ、アインクラッド内のあらゆる通貨、アイテム、モンスターの出現バランスを絶妙に調節して俺たちプレイヤーを手玉に取った。
その後カーディナルシステムは、茅場が死後遺した擬似人格プログラムの手によってバージョン2に進化し、汎用VRMMO開発パッケージ”ザ・シード”に組み込まれて、後期ALOやGGO他多くのゲームを制御することになる。無償配布に俺が一役買ったこともあり、電脳茅場の真の目的は何なのか長い間考えたが、納得のいくような答えはとうとう導き出せなかった。まさかあの男に限って、単にSAO事件の贖罪のために完全フリーの開発環境を公開した、などということはあるまいと思っていたのだが……。
今俺の目の前にいる少女が、あのカーディナルシステムが人の形を得た姿、なのだろうか?
神聖教会で高位の立場にあるフラクトライトに枢機卿の名を冠したに過ぎない、ということは勿論あり得る。だが女の子は確かに、かつては世界の調整者だった、と言った。指導者でもなく、支配者でもなく、調整者たるカーディナル。
しかしなぜ、カーディナルAIがここに? アンダーワールドは、ザ・シードを利用して組み上げられたのだろうか? 仮にそうだとしても、完全なる裏方であるはずの調整システムが、なぜこんな場所に閉じこもっているのだろう。そもそも、カーディナルにプレイヤーと会話するインタフェースなど実装されていなかったはずだ。
無数の疑問に翻弄されて立ち尽くす俺のとなりで、ユージオも別種の驚きに打たれたように、震える声で呟いた。
「あらゆる歴史……? 四帝国の建国以来の年代記が、全部ここにあるんですか……?」
「それだけではないぞ。世界がステイシア神とベクタ神によって二つに分かたれた頃の創世記すら所蔵されておる」
少女の言葉に、歴史オタクのユージオは卒倒しそうに頭をふらつかせる。カーディナルの名を持つ謎の少女は、眼鏡を押し上げながらにっと微笑み、続けた。
「どうじゃな、わしの話は長くなるゆえ、その前に食事と休息を取っては? 読みたければ本を読んでもよいぞ、好きなだけ」
ほい、と掛け声とともにステッキを振ると、傍らの空間に、床から湧き出したかのように小型の丸テーブルが出現した。白い大皿が載っており、そこにはサンドイッチだのまんじゅうだの、ソーセージだの揚げ菓子だのが山盛りになって湯気を上げている。
昨夜早くにうすいスープを啜りかちかちのパンを齧っただけの俺たちの胃は暴力的に刺激されたが、ユージオはアリス救出作戦中のこの状況で、旨いものを食ったり本を読んだりすることに罪の意識を感じずにいられないようで、躊躇うような顔でこっちを見た。俺は肩をすくめ、多少言い訳がましい台詞を口にした。
「強引な突破が難しいことははっきりしたしな、一旦休んで作戦を練り直そうぜ。どうやらここは安全な場所みたいだし、俺たちの天命も相当減ってるし」
「うむ、まじないをかけてあるゆえ、食えばその傷もたちまち癒えるぞ。その前に、おぬしら両手を出せ」
有無を言わせぬ少女の言葉に、俺とユージオは素直に枷がはまったままの両手を前に差し出した。ステッキが二度振られ、いかつい鉄の輪があっけなく弾け飛んで鎖ごと床に落ちる。
ほぼ二日ぶりに自由になった両手首をさすりながら、ユージオは尚も申し訳無さそうに小声で言った。
「……それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます、カ……カーディナルさん。ええと……その、創世記というのはどのへんに?」
カーディナルはステッキを持ち上げると、かなり上のほうの、一際大きな書架が固まっている一角を示した。
「あの階段から先が歴史の回廊じゃ」
「ありがとう」
ぺこりと頭を下げると、ユージオはテーブルからまんじゅうや腸詰めを一抱え持ち上げ、いそいそと階段を登っていった。いつも学院の図書室には古代の記録が少ないとぼやいていた彼には、抗しがたい魅力があるのだろう。
その後姿を見送っていたカーディナルが、ぼそりと呟いた。
「……教会の初代最高司祭が、筆記官に命じて書かせた創作物ではあるがな、残念ながら」
俺は、少女の大きな帽子に向かって、声をひそめながら訊ねた。
「……じゃあ、やっぱりこの世界の神様は実在しないのか? ステイシアも、ソルスも、テラリアも」
「居らん」
向き直ったカーディナルの答えはそっけなかった。
「現在信じられている創世神話は、教会が自らの権威を確立するために利用し、広めたものに過ぎん。緊急措置用のスーパー権限アカウントとして登録はされているが、人間がそれでログインしたことは一度もないよ」
その台詞で、俺の疑問はほんの一部だけではあるが解消された。焦茶色の瞳をじっと見ながら、俺は言った。
「あんたは、この世界の住人じゃないな。外側の……システム運用サイドに属する存在だ」
「うむ。そして、それはお主もじゃな、無登録民キリトよ」
厳密には、これが初めての瞬間となるのだろう。俺がこの世界に放り出されてから二年半、ここが真の異次元などではなく、現実の人間によって生成された仮想世界であるという確信を得られたのは。
自分でも思いがけないほどの強烈な感慨が突き上げてきて、俺は大きく息を吸い、吐いた。訊ねるべきことがあまりにも沢山ありすぎて、咄嗟に選ぶのが難しい。しかしまずは、これを確認せなばならない。
「システムを作った組織の名はラース……R、a、t、h。この世界の名はアンダーワールド。そうだな?」
「いかにも」
「そしてあんたは、カーディナルシステム。茅場晶彦という人間がプログラミングした自律型コントローラーだ」
言った瞬間、少女は眼をわずかに見開いた。
「ほう、それを知っているか。あちら側で、わしの別バージョンと接触したことがあるのか?」
「……まあな」
接触どころではない、およそ二年に渡って、ある意味では究極の敵と見据えていたこともあるのだ。しかし今はそんな話をしているときではないだろう。
「だが……俺の知る限り、カーディナルシステムに、そんな擬人化インターフェースなど組み込まれてはいなかった。一体……あんたは、どういう存在なんだ? 一体この場所で何をしているんだ?」
やや性急な俺の問いに、カーディナルはかすかに苦笑するような気配を見せた。額にはみ出した栗色の巻き毛を指先できっちり帽子にしまいながら、可憐だが同時に老成した声で言う。
「長い……とても長い話になる。わしがなぜこのアドレスに自らを隔離し……なぜお主と接触するのを長いあいだ待っていたのか……それはとてつもなく長い話じゃ……」
一瞬、何らかの物思いにとらわれたように口をつぐんだが、すぐに顔を上げて続けた。
「じゃが、可能な限り手短に済まそう。……まずは食え、傷が痛むだろう」
予想外の展開のあまり痛みなどすっかり忘れていたが、指摘された途端、エルドリエに鞭で抉られた胸と、赤銅の整合騎士に矢で射抜かれた右足がずきりと疼いた。言われるままに、俺はテーブルから熱々の肉まんじゅうを一つ取ると、大口を開けてかぶりついた。よく修剣学院を脱け出しては買い食いしていたゴットロの店の肉まんに優るとも劣らぬ美味が口中に広がり、思わずがつがつと頬張ってしまう。どのようなコマンドが仕込んであるのか、飲み下すたびに痛みは薄れ、傷口すらも塞がっていく。
「……さすがに管理者だな……あらゆるパラメータ制御が思い通りか」
感嘆しながら呟くと、カーディナルはフンと鼻を鳴らしながら軽くかぶりを振った。
「二つ間違っている。今のわしは管理者ではない。そして操れるのは、現在このアドレスに存在するオブジェクトだけじゃ」
そのままくるりと後ろを向くと、かつかつとステッキを鳴らしながら、壁に沿って湾曲した通路を歩いていく。俺は慌ててまんじゅうとサンドイッチを抱え、ずっと離れた場所にいるユージオの様子を確かめた。相棒は階段の途中にしゃがみこみ、大判の書物を膝に広げて、夢中で頁を繰りながらサンドイッチを齧っている。
カーディナルの後を追って歩いていくと、通路は分岐と上昇下降を頻繁に繰り返し、たちまち自分が大図書室のどのへんにいるのか分からなくなってしまった。無作法に歩き食いした食べ物がほぼ無くなるころ、目の前に周囲を本棚に囲まれた小さな円形のスペースが現われた。中央にテーブルが一つ、それを二脚の古風な椅子が囲んでいる。
椅子の片方にちょこんと腰掛けると、カーディナルは無言のままステッキで向かいの椅子を示した。言われるまま、俺も腰を降ろす。
途端、小さなかちゃかちゃという音とともにテーブルの上にお茶のカップが二つ出現した。自分の前のカップを持ち上げ、上品に一口含んでから、カーディナルは唐突に喋り始めた。
「お主、考えたことはあるか? この平和な人工世界に、なぜ封建制が存在するのか」
カーディナルはその言葉を”フューダリズム”と発音したので、俺は意味を思い出すのに半秒ほどを要した。
封建制。地方領主としての貴族と、それらを封ずる君主による支配構造である。要は、皇帝だの国王だの伯爵だの男爵だのという、ファンタジーものの小説やゲームにはありがちな――と言うよりそうでない物のほうが珍しい――中世的身分制度のことだ。
アンダーワールドの世界設定は産業革命前のヨーロッパあたりを基にしているらしいので、俺はこれまで貴族や皇帝の存在に疑義を抱いたことはほとんどなかった。だから、カーディナルの質問は、俺を大いに戸惑わせた。
「なぜ……って……それは、開発者たちがそう設定したからじゃないのか?」
「否じゃ」
カーディナルは、俺の答えを予測していたかのように小さな唇の端にかすかな笑みを滲ませた。
「この世界を生み出した向こう側の人間たちは、ただ入れ物を用意しただけに過ぎん。現在の社会構造を作り出したのは、あくまで住人たる人工フラクトライト達だよ」
「なるほど……」
ゆっくりと頷いてから、俺はようやく、カーディナルの言動から真っ先に思いついておかねばならなかったことに気付いた。彼女は、現実世界のラースとスタッフ達の存在を認識している。ということは、つまり……。
「ちょ、ちょっと待った。あんたは、現実世界と連絡が取れるのか? 向こう側との回線を持っている?」
意気込んでそう訊ねたが、カーディナルは頭の鈍い子供の対するかのように渋面を作り即答した。
「馬鹿モン、それができればこんな埃臭い場所に何百年も閉じこもっておらんわ。残念ながら、その手段を持っているのは奴……アドミニストレータだけじゃ」
「そ……そうか……」
またも出てきた奇妙な名前のことも気になるが、今は棚上げしておいて、一縷の望みをかけて食い下がる。
「じゃあ、せめて今は現実時間で何月何日なのかは……あるいは俺の体は現実世界のどこに存在するのか、とかは……」
「すまんな、今のわしはシステム領域にはアクセスできん。データ領域ですら、参照できる範囲は微々たるものじゃ。お主が向こう側で知っていたカーディナルと比べれば、あまりに無力な存在なのじゃ」
それなりに忸怩たるものがあるのか、ばつが悪そうな顔になるカーディナルを見て、俺もなんだか申し訳ない気分になり思わずいやいやと手を振った。
「いや、現実世界が存在してるとわかっただけでも御の字だ。話の腰を折って悪かった……ええと、封建制が出来た理由、か」
話を戻し、少し考えてから続ける。
「それは……治安の維持とか、生産物の分配とかを、誰かが監督しなきゃならないからじゃないか?」
「ふむ。じゃが、お主も知っておろう。この世界の住人たちは、原則として法に背かん。人を傷つけたり、盗みを働いたり、収穫を独り占めしたりすることはないのじゃ。勤勉さや公正さが根源的に強制されておるのじゃから、むしろ共産主義社会を発達させたほうが効率が良かろう。現在のような、人口たかが十万そこそこの世界に皇帝が四人もいたり、爵士と称する貴族家が千以上も存在するような、過剰な身分制度が必要だと思うか?」
「十万……」
初めて知ったアンダーワールドの総人口だ。カーディナルは”たかが”と言ったが、俺はむしろその膨大さに驚いた。これはもう、人工知能の製造実験というよりも、文明そのもののシミュレーションだ。
だが確かに、皇帝一人が支配する住民が二万五千というのは、現実のローマ帝国や秦帝国に比べるまでもなくいかにも少ない。これでは、必要があって生じた封建制というよりも、現実のそれを模した擬似制度、ごっこ遊びのようではないか。
首を捻る俺に、カーディナルはまたしても唐突な言葉を投げかけてきた。
「わしは先ほど、この世界には神は居らんと言った。じゃが、創世の時代――今より遡ること四百五十年前、似たようなものは存在したのじゃ。まだ央都セントリアが小さな村でしかなかった頃に……四人の”神”がな」
「人間……日本人か? ラースのスタッフ?」
カーディナルはぴくりと片眉を動かし、面白そうに微笑んだ。
「ほう、そのくらいは察するか」
「……この世界では、卵ではなくニワトリが先のはずだからな。最初のフラクトライトの赤ん坊を育てた何ものかが居た……そうでないと、ここで日本語が話され、書かれている理由が説明できない。フラクトライトの言語野を完全に記憶野から分離し、モジュール化できれば別だが……そこまでの技術はまだラースにも無かったはずだ」
「筋の通った推論じゃな。まさしくその通り。原初……わしがまだ意識を持たぬ管理者だった頃、四人の人間スタッフがアンダーワールドの中心、つまりまさにこの場所に降り立ち、二軒の粗末な農家で八人ずつの”子供”を育てたのじゃ。読み書きや、作物の育て方、家畜の飼い方から……後の禁忌目録の礎となった、善悪の倫理観に至るまでな」
「まさに神か……責任重大だな。何気ない一言が、後の文明の行く末を左右してしまう訳だ」
俺の”何気ない一言”に、カーディナルは至極真剣な顔で頷いた。
「如何にもな。わしがこれらの思索を行い、ある結論を得たのはこの図書室に幽閉されてからのことだったが……つまり、なぜこの世界には本来必要ない封建制が存在するのか? 禁忌目録などという常軌を逸した法体系が存在し、さらにその隙間をついて自己の利益と快楽を得ようとする貴族たちが存在するのか? それらの疑問に対する答えは、もはや一つしか有り得ぬ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、カーディナルは厳かな声音で続けた。
「原初の四人、ラースの開発者たちは、課せられた困難な使命を見事達成したことからも、人間としては最高級の知性を備えていたことが分かる。わしの開発者に迫るほどな。同時に、アンダーワールドの住民たちに生来の善性を与え得たのだから、倫理的にも見上げるべき者たちだったのだろう。しかしそれは、四人全てではなかった」
「……何だって……?」
「知性には秀でていても、しかし善ならざる者が一人居たのだ。そやつが、言わば汚染したのよ。育てた子のうち、一人か二人のフラクトライトをな。恐らく意図してのことではなかったのだろうが……しかし、性根というものは隠せんのだろうな。子に、利己心や支配欲といった、人間の欲望をも伝えてしまった。その子供が祖先となったのだ。今存在する、あらゆる貴族と、そして神聖教会司祭たちのフラクトライトのな……」
善ならざる者……だって……?
つまり、ラースの中心スタッフに、アンダーワールド住民に人間的悪性を植え付けた者がいる、ということだろうか? 最終的に、あのライオス・アンティノス――法の隙間を巧妙に利用し、二重三重の執拗な罠を張ってロニエとティーゼを陵辱した三等爵士に至るような……?
俺は不意に、背筋に軽い寒気が走るのを感じた。俺の現実の肉体は、意識を完全に失って、どこだか知らないがラースの本拠地のSTLに接続されているのだ。そのすぐ傍を、ライオスと同種の人間がうろついているかと思うと心底ぞっとする。
そいつは俺の知っている人物だろうか。頭の中で、記憶にあるラーススタッフの顔を思い浮かべてみるが、出てくるのはせいぜい菊岡誠二郎と、六本木でバイトをしていた時に俺のSTLの調整をしていた平木というエンジニアくらいだ。何せ、俺の主観時間では、もう二年半も昔のことなのだ。
問題は、そいつが、利己心は強いがあくまで金と名誉のためにラースで働いているのか、それとも何らかの意図を持ってラースに潜入しているのか、ということだ。研究を盗む、売り飛ばす、あるいは……破壊する、というような。
「カーディナル……その”原初の四人”の名前……本名はわかるか?」
だが今度も、少女はゆっくりとかぶりを振った。
「それを知るには、システム領域の中枢へのアクセス権が必要じゃ」
「いや……悪かった、何度も同じようなことを訊いて」
どうせ、今名前がわかったところで何も出来ない。現実と連絡を取る必要性が一層増したのは確かだが。
背もたれに体を預け、甘い香りのするお茶をひと啜りしてから、俺は再び話題を戻した。
「なるほどな……フラクトライトのうち、僅か一部の者だけが支配欲を持っていれば、そいつらが特権階級化していくのは当然だろうな。ガゼルの群れにライオンが混じってるようなもんだ」
「そして、削除できないウイルスプログラムのようなものでもある。この世界では、子が生まれるとき、外形だけではなく性向も遺伝するからな。平民との婚姻が多い下級貴族では、大分利己性も薄まっているようだが……」
カーディナルのその言葉で、俺は下級貴族のロニエやティーゼが実に尊敬すべき正義感と友愛心を持っていたことを思い出した。
「てことは……貴族同士の婚姻が続けば、悪性も保存されていく、ということか?」
「然り。その精髄が四皇帝家であり、教会の司祭たちだ。そしてその頂点に立つのが、この世界の最高支配者……神聖教会最高司祭にして、今では管理者ですらある一人の女じゃ。アドミニストレータなどという、不遜極まりない名を名乗っておる」
「女……!?」
吐き捨てるようなカーディナルの言葉に、俺は目を見開いた。何となく、神聖教会の頂点は現実世界の教皇と同じく年経た男であるような印象を持っていたのだが。
「そうとも。そして……おぞましいことだが、わしの母でもあるのじゃ」
「ど……どういう意味だ?」
理解が追いつかず訊き返したが、カーディナルはすぐには答えようとしなかった。まるで我が身を嫌悪するかのように、自分の白く華奢な右手を厭わしそうにしばらく見つめてから、ゆっくりと口を動かす。
「……順に話そう……。神聖教会という、この世界の絶対統治機関が造られたのはおよそ三百五十年前のことじゃ。つまり、シミュレーション開始より百年が経過した頃、という事じゃな。アンダーワールド住民は二十歳前後で結婚し、平均で五子を設けるので、第五世代の住民の数はすでに五百人を超えておった」
「ちょ、ちょっと待った。そもそも、この世界での生殖ってのはどういうシステムに……」
二年来の疑問を解消する機会だと思い反射的にそう問うてしまってから、中身はどうあれ外見的に十歳そこそこの少女にしていい質問ではなかったと俺は泡を食った。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、さらりと答えた。
「わしは現実世界の人間の生殖活動をよく知らんゆえ断言はできんが、行為そのものはおおよそ現実に準じておるはずじゃ、フラクトライトの構造原理からしてな。しかし人口管理の必要上、胚の発生までを厳密にシミュレートしておるわけではない。システムに婚姻登録をした男女が行為をおこなった場合のみ、ある確率に基づいて子が産まれることになる。具体的には、ライトキューブ・クラスターのひとつに新たにフラクトライト原型をロードし、両親の外形的要素と思考領域の一部を付加したものを新生児として誕生させるわけじゃな」
「は、はあ、なるほど……。その、婚姻登録というのは?」
「単純なシステムコマンドじゃ。ステイシア神に婚姻を宣誓するという形を取っておる。原初の時代は村の長が行っておったが、各地に教会が出来てからはそこの修道士なり修道女のみが執り行うようになった」
「ふむ……」
いわゆる知恵というものを記憶と分離することはできなかったはずなので、新生児フラクトライトに与えられるのは、それこそごく根源的な性格のみなのだろう。しかし、だからこそ、ラーススタッフの誰かが感染させた悪性は消えることなく受け継がれ続けてしまったということなのか。
「いや、腰を折って悪かった。続けてくれ」
俺の言葉に、カーディナルは軽く頷いて話を戻した。
「シミュレーション開始から百年後、五百人を超えた住民たちは、すでに数人の領主に支配されておった。先祖から利己心という武器を受け継いだ彼らは、所有する土地をひたすらに拡大させ続け、そのせいで近隣に畑を持てなくなった若者たちを小作人として使役するようになっていたのじゃな。中にはそれを嫌い、中央を旅立って辺境を開墾した者たちもいたようだが……」
なるほど、そういう若者たちがルーリッドのような村を拓いていったのだろう。
「領主たちは、当然互いに反目していたので、長い間姻戚関係を結ぶことは無かった。しかしついにある時、二つの領主家のあいだで政略結婚のようなことが行われ……結果、一人の女の赤子が生まれたのじゃ。天使のような可愛らしい容姿と、それまで存在した全フラクトライト中最大の支配欲を併せ持った赤子がな……。名を、クィネラと言った」
カーディナルの瞳が、はるか過去を彷徨うかのように薄く霞を帯びた。部屋を取り囲む本棚のあいだに設けられたランプの炎が、不意に揺らめいて少女の頬に複雑な陰影を作り出す。数百年の時間を閉じ込めた静謐のなかを、穏やかだがどこか哀切を帯びた声が流れ続ける。
「当時、セントリアの――すでに村ではなく町と言うべき規模だっだが――子供たちの天職を割り振っておったのは、長を務めるクィネラの父親じゃった。十歳になったクィネラは、剣や神聖術、歌や織物、あらゆる分野に天稟を示し、どのような職でも立派に勤め上げるだろうとみなに思われておった。しかし、それゆえに――父親は、美しいクィネラを町に働きに出すのが惜しくなったのじゃな。愚かな執着よ……彼は、クィネラをいつまでも手許に置くために、娘に神聖術の修練という天職を命じたのじゃ。屋敷の奥まった部屋で、クィネラはその知性を存分に発揮し、神聖術……つまりシステム・コマンドの解析を始めた。それまで、アンダーワールドの住民たちは基礎的なコマンドを暗記的に覚え行使するのみで、コマンドの意味なぞ考える者は居なかったのじゃな。それで充分だったのじゃ、生活のためには」
たしかに、ルーリッドの村に居た頃のユージオや他の村人たちは、天命を知るためにステータス窓を引き出すか、あとはせいぜい明かりを灯すくらいしかコマンドを使用しなかった。
「じゃが……クィネラは、子供としては恐るべき忍耐心と洞察力で、コマンドに使われている単語の意味を調べつづけた。ジェネレート……エレメント……オブジェクト、それら奇怪な異世界の言葉をな。そしてついに彼女は、ごく基礎的ないくつかのコマンドから、”炎の矢”の攻撃術を独力で編み出してのけたのじゃ。――キリトよ」
不意に呼びかけられ、俺は瞬きしてカーディナルの顔を見た。
「お主、なぜ自分の神聖術行使権限レベル……つまりシステム・アクセス・オーソリティの値が急激に上昇したか理解しておるか?」
「ああ……まあ、大体のところは。モンスターを……洞窟でゴブリンの群れと戦って撃退したせいだろう」
「うむ、その通りじゃ。後ほど詳しく話すが、この世界はもともと、住民が侵入してくる外敵と闘い、自らを強化していくようデザインされておるのじゃ。そうなるのは負荷実験段階に入ってからのことじゃがな……。ゆえに、権限レベルを上昇させようと思えば、敵を倒すかあるいは地道に術を使用しつづけるしかない。クィネラは、わずか十一歳のときに、自力でその仕組みを発見したのじゃよ。家の近くの森の中で、無害なキントビギツネを相手に炎の矢の試し撃ちをした時にな……」
「……ということは、倒す相手は闇の国のモンスターに限定されているわけじゃなく……?」
「うむ。所謂経験値の上昇は、人間を含むあらゆる動的ユニットを破壊すれば発生するのじゃ。勿論この世界の人間は人間を殺さないし、またほとんどのものは無害な動物を殺したりせんがな。しかし貴族の遺伝子を濃く持つ者は別じゃ。彼らは戯れに狩りを行い、その結果意図せずに一層強力なステータスを手に入れていく……。それを明確な目的のもとに行ったのが、十一歳のクィネラよ。動物を殺すことで神聖術行使権限が上昇することに気付いた彼女は、夜毎家を脱け出し、家族や村人に隠れておそるべき殺戮を行いつづけたのじゃ。当時ワールドバランスを司っておったわしに意識があれば、クィネラの行為に震え上がったじゃろうな。彼女は無感情に……いや、あるいは一種の悦びをおぼえつつ、一夜でセントリア周辺の野獣を一掃した。わしはアルゴリズムの命ずるままに、減少した動物ユニットを補充し……それらはまた翌日の夜に全滅した……」
――VRMMOゲーマーの俺にとっては、それはごくありふれた行為であるはずだ。SAO時代の俺は、まさにそのような鏖殺を連日繰り返し、自らの強化に邁進していたのだ。MMOというのはそういうものだと刷り込まれていたし、疑いを抱いたことなどこれまで一度もなかった。しかし今、カーディナルの言葉を聞く俺の背筋には、強い悪寒が張り付いている。
闇夜、寝巻きのまま深い森を徘徊し、発見した獣を眉ひとつ動かさず焼き殺していく幼い少女。そのイメージを一言で表現するなら、悪夢以外の言葉は思い浮かばない。
俺の畏れが感染したかのように、カーディナルも小さな両手をそっと握り合わせた。
「クィネラの権限レベルは際限なく上昇を続けた。コマンドの解析も着実に進み、やがて彼女は天命治癒や天候予測といった、当時の住人にとっては奇跡にも等しい数々の術を操れるようになった。父親をはじめ住人たちは、クィネラをステイシア神の申し子と信じ、崇め奉ったものじゃ。十三になったクィネラは、まさに神々しい美貌に育っておったでな……。天使の微笑を浮かべつつ、クィネラは、己の奥底にとぐろを巻く支配欲という名の毒蛇を完璧に満足させるときが来たことを悟ったのじゃ。領主たちのように土地の所有権を使うよりも、剣士たちのように武器を使うよりも、絶対的に強力な手段……神の名を騙ることによってな……」
言葉を切ったカーディナルは、一瞬だけ視線を頭上――大図書室のはるか高みに被さる天蓋か、あるいはその向こうの現実世界へと向けた。
「この世界を造った人間たちの、最大の過ちじゃ。システム・コマンドの不可思議な効力の説明を、神という概念をもってしたのはな。わしが思うに……人間という生物にとって、神なる存在は甘すぎる劇薬じゃな。あらゆる痛みを癒し、あらゆる残酷を赦す。魂の容れ物が、生体脳であろうとライトキューブであろうと。情緒を持たぬわしには神の声は聞こえんがな……」
バーント・ブラウンの瞳を手許のカップに戻し、左手の指で白い陶器のふちを軽く叩く。たちまち熱い液体がどこからともなく満ち、立ちのぼった湯気を小さな唇でふう、と吹く。
「それは盲信もしようというものじゃな、このような奇跡を実際に目のあたりにさせられ、それを神の御業と説明されれば。――農作業で怪我を負った男をたちまち癒し、嵐の訪れを三日も前から予言したクィネラの言葉を疑うものはもう居なかった。彼女は、父親以下村の有力者たちに、神のために祈る場所が必要だと告げた。さらなる奇跡の技を呼び起こすためにな。すぐに、村の中央に白亜の石積みの塔が建てられた。当時は敷地も小さく、たった三階の高さしかなかったが……そうじゃ、それこそがこのセントラル・カセドラルの原型よ。そして同時に、神聖教会三百年の歴史の端緒じゃ」
カーディナルが語る、最初の聖女クィネラの逸話は、否応無く俺にある人物のことを思い起こさせた。直接知っているわけではなくユージオやシルカからの伝聞だが――幼い頃から神聖術に天分を示し、教会のシスター見習いという天職を与えられた少女、アリス・ツーベルクである。だがユージオはアリスのことを、誰にでも分け隔てなく優しかったと述懐した。増してやシルカの姉である。とても夜な夜な家を脱け出し、周囲の獣を殲滅していたとは思えない。
では、アリスはどうやってシステムアクセス権限を上昇させたのだろうか。
疑問の淵に沈みかけた俺の意識を、カーディナルの声が引き戻した。
「当時の住民は、例外なくクィネラをステイシア神に祝福された巫女だと信じた。朝夕白い塔に祈り、収穫の一部を惜しむことなく寄進した。クィネラと縁戚でなかった領主たちの中には、当初彼女を快く思わない者も居ったが……利害が対立するゆえな。しかしクィネラはしたたかじゃった。すべての領主に、神の名において貴族、つまり爵士の地位を与えたのよ。それまでは、領主に収奪されることに懐疑的な意見もあったが、神の認めた権威となれば従わないわけにはいかん。貴族となった領主たちも、クィネラに対立するよりは従っておったほうが得じゃと判断した。こうして、アンダーワールドにおける初の封建制が確立されたのじゃ」
「なるほど……。治安維持の必要上生まれた制度じゃなく、支配のための支配……か。上級貴族に義務感が無いのも当然と言うべきなのか……」
俺が呟くと、カーディナルも眉をしかめながら頷いた。
「お主は直接目にしておらんじゃろうが、大貴族や皇族どもの私領地における振る舞いはそれは酷いものじゃ。禁忌目録に殺人と傷害の禁止条項がなければ、どれほどの地獄となっておったか見当もつかん」
「……その禁忌目録を作ったのも、問題のクィネラさんなんだろう? 彼女にも、それなりの道徳心はあった……ということなのか?」
「フン、それはどうかな」
カーディナルは可愛らしく鼻を鳴らした。
「――長年の思索によっても、なぜこの世界の人間が、上位の権威から与えられた規則を破れないのか、その理由は分からん。元がプログラムコードであるわしもそれは例外ではないのじゃ。わしにとっては神聖教会は上位存在ではないゆえ、禁忌目録には縛られんが……それでも、カーディナルというプログラムとして与えられたいくつかのルールには背けん。と言うよりも……こんな場所に数百年も閉じこもっておること自体、抗えぬ命令に縛られておる結果だと言える」
「それは……クィネラも例外ではないのか……?」
「然りじゃ。禁忌目録を作ったのは奴ゆえ、奴もあのたわけた法に拘束はされんが……それでも、幼少の頃与えられたいくつかの不文律には逆らえんし、今は新たな命令に衝き動かされておる。考えてみい、奴の親が人を傷つけてはならぬと教えておらねば、奴が動物を殺すだけで満足したと思うか? より権限レベルが上昇しやすい人間を殺したに決まっておるわ」
ふたたび、俺の背中がぞくりと粟立つ。それを押し隠し、口を動かす。
「ふむ……つまり、この世界では、他人を傷つけることは原初の頃からのタブーだったってわけか。クィネラはそれを明文化し、他の細かい条項を付け加えただけ……ってことか」
「形だけ見ればな。じゃが、決して奴がこの世界の平和を願ったからではないぞ。――二十代半ばになった頃のクィネラはいよいよ美しく、塔は一層高くなり、何人もの弟子を持っておった。各地の村にも似たような白い塔が建てられ、正式に神聖教会と名乗りはじめたクィネラの統治組織はいよいよ磐石なものとなりつつあった。じゃが……人口が着実に増加し、人々の居住地域が拡大して、己の眼が届かぬ部分が出てくると、クィネラは不安になったのじゃな。辺境の地で、自分と同じように神聖術行使権限の秘密に気付く者が現われるのではないか、と。そこで彼女は、あらゆる人間を確実に支配するために、明文化された法を造ることにしたのじゃ。第一項には神聖教会への忠誠を書き、第二項に殺人行為の禁止を記した。何故か?」
一瞬口をつぐみ、カーディナルはじっと俺を見てから続けた。
「――無論、人間を殺せば、殺したものの権限レベルが上昇してしまうからじゃ。それだけが理由なのじゃ、教会が殺人を禁じておるのはな。あの一文にはいかなる道徳も、倫理も、善性も存在せぬ」
軽い衝撃を感じながら、俺は反射的に抗弁しようとした。
「し……しかし、もともと殺人や傷害は、原初の四人が与えた道徳的タブーなんだろう? 教会に言われるまでもなく、人々はそういう倫理観を持っていたんじゃないのか?」
「じゃが、親にそれを教えられなければどうじゃ? 確率は低いが、産まれてすぐ親、つまり最初の上位存在と引き離され、道徳教育を受けずに育った子供がいれば? そやつが貴族の遺伝子を持っていれば、欲望のみに従って周囲の人間を殺しまわり、クィネラを上回る権限レベルを手に入れてしまうやもしれぬ。その可能性を最大まで減じるために、クィネラは禁忌目録なる書物を編纂し、製本してあらゆる家に所蔵させたのじゃ。親たちは、子供が言葉を覚える過程で禁忌目録を最初のページから教えるよう義務づけられておる。よいか、この世界の人間が、善良かつ勤勉で、博愛心に溢れておるように見えるとすれば、それはそのほうが都合が良いからに過ぎんのじゃ、教会という絶対統治機関にとってな」
「だ……だが……」
俺は、カーディナルの言葉を素直に受け入れることができず、首をゆっくり左右に振った。ルーリッドの村で、旅の途中で、そして修剣学院で交流した人々――シルカや、ロニエ、ティーゼ、ソルティリーナ先輩……そして誰よりユージオの、尊敬すべき人間性が、すべてプログラム的に造られたものだとはどうしても思いたくなかった。
「……それが全てじゃないだろう? 少しは……その、フラクトライトの原型って奴に含まれてる部分もあるんじゃないのか? 俺たち人間の魂に最初から与えられている何かが……」
「その反証を、お主はもう目にしておるじゃろう」
カーディナルの言葉に意表を突かれ、俺は二、三度瞬きをした。
「え……?」
「お主とユージオを容赦なく殺そうとしたゴブリンたちじゃよ。お主、あれが現実のゲームと同じ……単なるプログラムコードだと思っておったわけではあるまい? あれこそが、フラクトライト原型に禁忌目録とはまったく逆の……殺せ、奪え、欲望に従えという命令が与えられた姿じゃ。よいか、あれらも人間なのじゃ、ある意味ではお主とまったく同じ、な」
「…………」
絶句する。
いや、その可能性をまったく考えなかったわけではない。二年前の秋、果ての山脈で剣を交えた怪物――ゴブリンたちの会話や仕草は実に自然で、一般のVRMMOゲームに登場するモンスターたちに共通するぎこちないプログラムらしさは欠片もなかった。何より、彼らの黄色い眼に宿っていた欲望のぎらつきは、単なるテクスチャーマッピングで表現できるものではなかった。決して。
しかし俺はこれまで、意識して彼ら闇の国の住人について考察しようとはしなかった。しようにもデータが少なすぎたということもあったが、もしあのゴブリンたちもまた人工フラクトライトだった場合、示される意味がそら恐ろしいものになると思えてならなかったからだ。
なぜなら、俺はこれまでの年月を通して、ユージオたちアンダーワールド人を現実世界の人間、つまり俺とまったく同質の存在と確信するようになってきている。単に存在の位相が異なるだけで、思考や情緒といった人間性の核は何一つ違わないのだ。だからこそ俺は、この壮大な実験が終了するとともに全フラクトライトが消去されてしまう、という事態を避けるために、一刻も早く現実世界と連絡を取るべく神聖教会の中枢を目指していたのだから。
だが――あの怪物達もまた人間だったとしたら。
ユージオたちは消去するな、しかしあいつらは消していい、などと言うことはもう許されない。あの殺意と欲望に満ちたゴブリンたちもまた同種の生命であると認識を改めねばならないのだ。俺はすでに、隊長ゴブリンの首を容赦なく斬り飛ばしているというのに。
「悩むな、バカ者」
黙り込んだ俺を、ぴしりとカーディナルの言葉が打った。
「お主まで神になろうとでもいうつもりか? 百年二百年悩んでも答えなど出ぬぞ。わしもいまだ――こうして、ついにお主とまみえる時がやってきてもなお迷いの中にある……」
顔を上げると、カーディナルは細い眉をわずかに寄せて、じっとカップの中を見つめていた。そのまま、どこか詩を詠じるような口調で続ける。
「わしも、かつては一切の迷い無き神であった。我が掌中でもがく小さき者たちのことなど何ひとつ思い致すことなく、不変の法則によって世界を動かしておった。しかしこうして人の身を得て……我が生命への執着を知ってはじめて解ることもある……。恐らく、この世界を造った者たちも、己らが何を造ったのか真に理解してはおるまい。彼らもまた神じゃからな……クィネラの恐るべき反逆も、興がりこそすれ憂いてはおらんじゃろう。このまま世界が負荷実験段階に入れば、筆舌に尽くせぬ地獄が出来するのは必然じゃというのに……」
「そ……それだ、その負荷実験というのは何なんだ? さっきもそう言ったが……」
口を挟むと、カーディナルは伏せていた目を上げ、軽く頷いた。
「話を戻そう、順に説明せねばわからん。――クィネラが禁忌目録を作り全世界に配布したところじゃったな。あの書物によって、神聖教会の支配はいよいよ磐石のものとなった。何せ、クィネラは次々と目録を改定し、教会にとって都合のよい道徳観念で民をぎちぎちに縛ると同時に、生活全般において起こりうるトラブル要因を事細かに排除していったからな。流行り病の発生源に指定されている沼を立ち入り禁止にしたり、羊に食わせると乳が出なくなる草の名まで書いてな……。なにも考えずあの書物にただ従っておれば、問題は何ひとつ起こらんのじゃ。年経るごとに民は教会を頼り、盲信し、第一項にある教会への忠誠を疑うものはもう一人として現われんかった」
まさに絶対統治だ。飢餓も、反逆も、変革も一切無い理想社会か。
「セントリアの人口は爆発的に増加し、建築技術の進歩――もちろん教会が指導したのじゃが――もあって、かつての村はみるみる立派な都市へと変貌していった。神聖教会の敷地も、このように広大なものとなり、塔はどんどん高くなってな……。思えば、このセントラル・カセドラルは、クィネラの飽くことなき欲望を示しておったのじゃろうな。彼女は足るということを知らん女じゃった。齢三十、四十となり、容色が衰えるにつれより一層、な。と言っても、無論大貴族どものように、美食や肉欲に耽溺したわけではない。ある頃よりクィネラは一切下界には姿を現さなくなり、上昇しつづける塔の最上階に閉じこもって、ひたすら神聖術の解析のみに没頭するようになった。求めたのは更なる権限、更なる秘蹟……己に課せられた寿命という限界すらも破壊するほどのな」
この世界において、天命というステータスは非情なまでに明白だ。成長の過程においては着実に増大し、二十代か三十代のどこかで頂点に達し、反転すればあとは緩やかな減少を経て六十から八十歳あたりでゼロとなる。俺の天命も、この二年間でずいぶんと増えた。この数値が日々減っていくのは、確かに恐怖だろう。世界を手中にした絶対支配者であれば尚更。
「じゃが……いかにコマンドを解析し、天候すら操るほどの技を手に入れても、寿命だけはどうにもならんはずじゃった。それを操作できるのは管理者権限を持つ者のみ……ラースのスタッフか、あるいはバランス・コントロールAIであるわし、カーディナルだけじゃからな。クィネラの天命は日々着実に減っていった……五十歳になり、六十歳になり……かつて人心を幻惑した神々しい美貌はいつしか見る影もなく、歩行すらも覚束ず、ついには世界で最も高い場所にある部屋の豪奢なベッドから出ることも叶わなくなった。一時間に一度ステイシアの窓を出し、たった一ずつ、しかし止まることなく削られていく天命を凝視し……」
ふと言葉を切り、カーディナルは寒気を感じたように両手で小さな体を抱いた。
「……しかしそれでも、クィネラは諦めるということを知ろうとしなかった。恐るべき執念……恐るべき執着よの。しわがれた声で日夜、あらゆる音の組み合わせを試し、禁断のコマンドを呼び覚まそうと足掻きつづけた。――そのような努力、実るはずは無かったのじゃ。確率から言えばな……コインを千枚投げて、全部表を出そうとするようなもの……いや、更に可能性は少ないか……じゃが……しかし……」
不意に、俺も言いようの無い悪寒に襲われ、ぶるりと体を震わせた。カーディナルが――情緒を持たないシステムであると言い切った不思議な少女が、今明らかにある種の恐怖を感じていることが明白に伝わったのだ。
「……いよいよ命旦夕に迫り……ささいな怪我ひとつすれば、病にひと撫でされればそれで全てが終わってしまうというある夜……クィネラは、ついに開いてしまったのじゃ、禁断の扉をな。ありえない偶然によってか……あるいは、外の世界の何ものかが手助けしたのかもしれんと、わしは思っておる。皺に埋もれた老婆の口から途切れ途切れに紡がれたコマンド……見せてやろう、お主には使えないがな」
カーディナルは左手でステッキを握ると、すっと宙に伸ばし、ささやくような声で発音した。
「システム・コール! インスペクト・エンタイア・コマンド・リスト!」
途端、これまで一度も聞いたことのないシンプルで平板な効果音が響き、カーディナルのステッキの前に、A4サイズ大の紫色の窓が開いた。
それだけだ。神の霊光が降り注いだり、天使のラッパが鳴り響いたりというようなことは一切ない。しかし、俺には、そのコマンドの恐るべき効果がわかった。たしかにこれは究極の神聖術だ。本来、存在してはならないほどの。
「察したようじゃな。そう……この窓には、存在するあらゆるシステム・コマンドの一覧が記してあるのじゃ。これもまた、世界創造者たちの巨大な誤りよ。このコマンドだけは消去しておかねばならなかった……これを必要とした、原初の四人がログアウトしたその瞬間にな」
カーディナルはステッキを振り、禁断のリストを消した。
「クィネラは、霞むまなこを見開き、窓を凝視した。そしてすべてを理解し、狂喜し、文字通り躍り上がったものじゃ。彼女の求めるコマンドは、リストの末尾に記してあった。内部から緊急にワールドバランスを操作する必要が生じたときのために……カーディナルシステムの権限を奪い、真の神となるためのコマンドがな……」
不意に、俺の脳裏にもその場景が明瞭に浮かび上がった。
雲を衝くほど高い塔の最上階。全周を囲む窓からは、墨色の夜空にうねる黒雲と、縦横に閃く紫雷しか見えない。
がらんとした広大な部屋の中央には、ただひとつ置かれた天蓋つきのベッド。しかし主は横たわってはいない。柔らかいマットレスの上で、色の失せた長い髪を振り乱し、肉の落ちた体を捩って奇怪なダンスを踊っている。白絹の寝巻きから枯枝のような両腕を突き出し、仰け反らせた喉からほとばしるのは歓喜の咆哮。いっそう激しく轟きはじめる雷鳴を伴奏に、怪鳥の如き金切り声で、神権を簒奪するための禁呪が紡がれていく……。
最早、ゲームどころかシミュレーションですらなくなっているのではないだろうか、この世界は。考えてみろ――アンダーワールドの創造者たる菊岡誠二郎やその他ラースの技術者たちは、せいぜい三十何年ぶんの時間しか生きていないのだ。しかし、純粋なる支配欲の化身クィネラは、その時点ですでに八十年――そしてカーディナルの言葉が正しければ、さらに三百年近くの齢を重ねていることになる。そのような知性が、いったい如何なる存在となり果てているのか、推測することは誰にもできない。
今現在、菊岡たちは、ほんとうに全てをコントロール出来ているのだろうか? ここで起きていることを、どの程度把握しているのだろうか……?
次々と湧き上がろうとするそら恐ろしい疑問を、カーディナルの低い声が遮った。
「畏れおののくのはまだ早いぞ」
「ああ……すまない、続けてくれ」
答えた俺の声は、他人のもののようにしわがれていた。カップを持ち上げ、冷めかけた茶を啜る。
ステッキを再びテーブルの脚に立てかけ、カーディナルは小さな体を椅子の背もたれに預けた。
「原初の時代……この世界には、四人のラース人員と十六人の子供たちの他にも十数人の住民が居ったことを、お主は知っておるか?」
突然話の内容が飛び、俺は面食らって瞬きをした。
「い……いや、初耳だ」
「いくらなんでも、世界に家が二軒だけでは色々不都合があるゆえな。作られたばかりのセントリアの村には、お主らの言うところのNPCに準じる村人が配置されておったのよ。商店でものを売ったり、麦や羊を育てたりするだけの存在ではあったが」
「へえ……」
「そして、要点は、彼らもまた広義の人工フラクトライトであったということじゃ」
「な、なに?」
「おそらく、実験の初期段階で試作された高度AIの流用じゃろうな。思考原型を時間をかけて育てるかわりに、促成的にいくつかの命令を与えて動かそうとしたものじゃ。つまり、既存のAIに与えられていた条件付け命令をフラクトライト中の量子回路パターンに翻訳し、行動原理領域に焼きこんだと思えばよい」
「そ……それもまた、酷い話だな」
人間と同質の魂を持ちながら、自意識も欲求も無く、状況に対するリアクションのみを行う、ということか。まさしく、アインクラッドの街や村に沢山いたNPCたちと何ら変わるところのない存在だ。
俺と同時にカーディナルも顔をしかめ、頷いた。
「うむ、とても知性とは呼べぬ。わしが言いたいのは、ライトキューブ中のフラクトライトに対して、ある程度記憶や行動を制御する技術は既に存在する、ということじゃ。もともとライトキューブは、生体脳と異なり、量子回路を機能別にモジュール化しやすい設計となっておるでな。さて……話をクィネラに戻すぞ」
きしっと背もたれを鳴らしながら、カーディナルは胸の前で腕を組んだ。
「……完全なコマンドリストの呼び出しに成功したクィネラは、まずおのれの権限レベルを引き上げ、カーディナルシステムそのものへの干渉を可能とした。次いで、めくるめく歓喜の中、同カテゴリ中のコマンドを次々と実行し、本来カーディナルのみが持っていたあらゆる能力を己に付与していったのじゃ。地形や建築物の操作、アイテムの生成、動的ユニット……つまり人間の外見や、寿命の操作までもな。もはや完全なる管理者となったクィネラが最初に行ったのは、勿論、己の天命の回復じゃった。次いで寿命上限の削除。さらに容姿の回復。十代後半の、輝くような美貌を取り戻したクィネラの歓喜は……まだ若い、しかも男のお主には想像できんだろうがな」
「まあ……それが、女性の究極の夢のひとつであることは理解できるよ」
神妙な顔でそう答えると、カーディナルはふんと鼻を鳴らした。
「人間的感情を持たないわしですら、この外形が固定されておることを有り難く思うほどじゃからな。欲を言えば、もう五、六年ぶん成長したいのはやまやまじゃが……ともかく、意識が芽生えた頃より己を駆り立ててきた支配欲という名の怪物を、ついに完璧に充足させることを得たクィネラの絶頂感は、それは凄まじいものじゃった。いまや広大な人界をあまねく自在に操作し、永遠の美しさをも手に入れたのじゃからな。狂喜……まさに狂喜の極みじゃった。正気のタガがわずかばかり外れてしまうほどのな……」
眼鏡の奥で、カーディナルの大きな瞳がすっと細められた。人間の愚かしさを笑う――あるいは憐れむかのように。
「――そこで満足しておけばよかったのじゃ。しかし、クィネラの心底に口を開けた沼にはやはり底がなかった。足ることを知らぬ者……彼女は、自分と同等の権限を持つ者の存在すらも許せなかったのじゃ」
「それは……カーディナルシステムそのもののことか?」
「然り。意識を持たぬプログラムの塊すらも、彼女は排除しようとした。じゃが……いかに神聖術には長けようと、所詮クィネラは科学文明とは縁なきアンダーワールドの民でしかない。管理者レベルの複雑なコマンド体系を、一夜にして理解できようはずはないのじゃ。現実の人間向けに書かれたリファレンスを、クィネラは無理矢理に読み解こうと試み……そして誤った。ただ一つの、そして巨大なミスよ。彼女は、カーディナルそのものを己の中に取り込もうと考え、長大なコマンドを捻り出し、唱えたのじゃ。その結果……」
溜息のような囁き声に乗せて、少女は言った。
「……クィネラは、カーディナルシステムに与えられていた基本命令を、己のフラクトライトに、書き換え不可能な行動原理として焼きつけてしまったのじゃ!」
「……な……なんだって……?」
咄嗟に理解が追いつかず、俺は呆然と呟いた。
「カーディナルに与えられた命令……ってのは、具体的には何なんだ……?」
「――もしその内容が、クィネラの性向と相反するものじゃったら、彼女のフラクトライトはいずれ崩壊しておったろうな。そうであればどんなに良かったか……」
カーディナルを名乗る少女は、軽く首を振ると、その先を口にした。
「――現状の維持。それがカーディナルの存在する目的じゃ。お主も、現実世界で同じシステムが組み込まれたゲームに接しておったならわかるじゃろう。カーディナルは、お主らプレイヤーのあらゆる目的と逆ベクトルの力を働かせる。楽な手段で急激にレベルアップしようとすれば、強力なモンスターを配置したり逆に弱化させたりしてそれを阻害し、大量に金を稼ぐ方法が見つかればそれに比例して物価も引き上げる」
「ああ……確かにな。俺たちは、カーディナルの裏をかこうと日夜知恵を絞ったが、ほとんどの試みはすぐに看破されたもんだ」
SAO時代、安全でおいしい養殖狩り(ファーミング)が見つかる傍から対処されたことを思い出しつつそう呟くと、カーディナルはまたしても自慢そうに微笑んだ。そういう顔をするときだけ、老賢者めいた雰囲気が、年相応の無邪気な少女のものになる。
「当然じゃ、若造が何人集まろうとそうそう出し抜かれたりせぬわ。……しかしクィネラは……彼女にとっての現状維持とは、更に極端なものじゃった……。――フラクトライト、つまり魂の中核に強引に命令を書き込まれたクィネラは昏倒し、一昼夜眠りつづけてから覚醒した。その時にはもう、彼女はあらゆる意味で人間ではなくなっておった。老いもせず、水も飲まずパンも食わず……そしておのが支配する人界を今のまま永遠に保ちたいという欲求だけを持つ存在じゃ。従来、この世界のカーディナルシステムが維持しておったのは、動植物や地形といったオブジェクト……つまり容れ物としての世界のみで、基本的に住民の活動には干渉しなかったのじゃが、しかしクィネラは違った。彼女は、人間の営みすらも固定しようと考えた。よいか……それが、すでに二百七十年も昔のことじゃ。しかし、この世界の体制も、技術も、当時から一切進歩しておらん。人間だった頃のクィネラはまだ、腐敗しすぎた貴族制を改めることも考えていたのじゃがな……しかし半人半神となった彼女は、もうそのような改革の意思はかけらも持っておらなんだ。むしろ、既存の体制をより一層強化し、あらゆる変化の芽を摘むことにしたのじゃ。まさに神の似姿を得て甦ったクィネラは、己の名を神聖教会最高司祭アドミニストレータと改めた。新たに得た最高権限の名称を流用したのか……カーディナルの命令コードと融合したせいなのかは解らんがな。そして、最初に発布したのが、当時の大貴族四人を皇帝の座に就け、人界を東西南北の四帝国に分けるという勅令じゃった。キリト、お主、央都セントリアを四分割する壁を見たことがあるじゃろう?」
驚くべき話に呆然としていた俺は、不意にそう問われて戸惑いつつ頷いた。俺が暮らしていたのは、正確には北セントリアという地域であり、セントラル・カセドラルの北側に広がる一帯である。街の東と西には、教会を中心として街の外周まで伸びる巨大な壁がそびえ立ち、その向こうはそれぞれ別の帝国の首都なのだ。
「あの壁は、住民が石を切り出して積んだのではないぞ。クィネラ……いやアドミニストレータが、その神威を以って一瞬にして出現させたのだ」
「……な、なんでそんな大掛かりなことを……」
セントリアの街を十字に分かつ”不朽の壁”の威容をよく知っている俺は、あの巨岩と巨像の塊が天から降ってきたか、あるいは地から湧いた様子を想像して思わず放心した。現実世界で行われる、高層ビルの爆破解体どころの話ではない。当時の住民たちは、それはもう度肝を抜かれ、一も二も無くアドミニストレータの神力に平伏したことだろう。
俺の呟きを耳にしたカーディナルは、小さく肩をすくめて答えた。
「無論、民の移動と交流を制限するためじゃよ。言い換えれば、情報の伝達経路を神聖教会の組織網のみに限定し、人心をコントロールするためじゃ。人々が未来永劫、無知で素朴な、教会の忠実なる信者たることを奴は望んだのじゃ。あの馬鹿げた壁だけではないぞ。すでに各地に広がっておった開拓民らの居住地域をも制限するために、アドミニストレータは多くのオブジェクトや地形を生成した。割れない巨岩、埋められない沼、渡れない激流、倒せない大樹……」
「ま、待った。倒せない樹……だと?」
「そうじゃ。単なるスギに、途方も無いプライオリティとデュラビリティを与えてな。それを越えて開拓地が広がらないように」
俺は思わず、あの悪魔の樹――ギガスシダーの泣きたくなるような硬さを思い出し、そっと自分の両掌を見下ろした。あんなものが、この世界にまだまだ転がっているというのか。そしてそれを排除するために、多くの人間たちが数百年に渡って報われない努力を続けているのだ。まさしく静止した世界、である。あらゆる進歩と拡大を禁止された人間の営為に、果たしてどのような意味があるというのだろう。
「こうして、絶対者アドミニストレータの統治による、平和で無為な時代が続くこととなったのじゃ。二十年……三十年……貴族どもの腐敗はいよいよ酸鼻を究め、しかしそれを正そうという者はもう現われず、それなりに進歩を続けておった剣術も見世物の演舞に堕した、お主の知るとおりな。四十年、五十年と、ぬるい湯に浸された人間界を日々見下ろし、アドミニストレータは深い満足を覚えておった」
つまるところ、完全な生態系が出来上がったアクアリウムを眺めて悦に入るようなものだろうか。幼いころ、小さな水槽に蟻の巣を作ったことを思い出し、俺が複雑な気分に襲われていると、同じく目を伏せ何らかの物思いに沈んでいたらしいカーディナルがきっぱりとした声で言った。
「じゃが、いかなる系においても永遠の停滞(ステイシス)などというものは有り得ん。いつかは、何かが起きるのじゃ。クィネラがアドミニストレータとなってから七十年後、彼女は己にある異変が起きたのを自覚した。睡眠時以外でも短時間意識が途絶したり、数日前の記憶が再生できなかったり、何より完璧に暗記しておるはずのシステム・コマンドを即座に思い出せなくなるという、とても看過できぬ現象に襲われたのじゃ。アドミニストレータは、管理者コマンドを駆使して己のフラクトライトが格納されておるライトキューブを検査し……その結果に戦慄した。何と、記憶を保持しておくべき量子回路の容量が、いつのまにか限界に達しておったのじゃ」
「げ、限界!?」
思わぬ話の成り行きに、俺は鸚鵡返しに叫んだ。記憶の……言い換えれば魂の容量に上限があるなどという話は初めて聞いたからだ。
「何を驚くことがある、少し考えれば当然の理屈ではないか。ライトキューブや生体脳のサイズは有限、ひいては記録できる量子ビットのサイズも有限じゃ。アドミニストレータは、クィネラとして産まれ落ちてよりすでに百五十年という途方も無い年月を生きておった。その間溜め込みつづけた記憶の水瓶がついに溢れはじめ、記録や再生に支障を来したのじゃ」
何ともぞっとする話ではある。他人事ではない、この時間が加速された世界において、俺は既に二年以上の記憶を蓄積しているのだ。たとえ現実世界では数ヶ月、あるいは数日しか経過していないとしても、”魂の寿命”は確実に消費されつつあるということになる。
「安心せい、お主のフラクトライトにはまだたっぷりと白紙が残っておるわ」
俺の内心を見透かすように、カーディナルは苦笑混じりの台詞を口にした。
「な……なんかその言い方、俺の頭がスカスカみたいだな……」
「絵本と百科事典じゃ、わしと比べれば」
澄ました顔でお茶を一口啜り、カーディナルは咳払いした。
「――続けるぞ。思いもかけぬ事態に、さすがのアドミニストレータも狼狽した。天命というステータス数値とは異なる、操作のしようもない寿命が存在したのじゃからな。じゃが、それでおとなしく運命を受け入れるような女ではない。かつて神の座を簒奪したときと同じく、奴はまたしても悪魔的な解決法を考え出した……」
厭わしそうに顔をしかめ、カップを戻すと、花びらのような両手をぎゅっと組み合わせる。
「当時、教会の修道女見習いとしてセントラル・カセドラルの下層で神聖術を学ぶ、ひとりの年若い女子(おなご)がおった。名を……、いや、名は忘れてしもうた……。憐れな……不憫な子供よ。まだほんの十歳……セントリアの家具職人の家に生まれ、ランダムパラメータの揺らぎによって、他人より僅かに高いシステムアクセス権限を持っておった。ゆえに、修道女たる天職を与えられたのじゃ。焦茶色の瞳に、同色の巻き毛を持った、痩せっぽちの女子じゃった……」
俺は思わず目をしばたき、テーブルの向こうのカーディナルの容姿を確かめた。今の形容は、どう聞いてもまさしくカーディナル本人のものではないか。
「アドミニストレータは、その女子をカセドラル最上階の居室に連れて来させると、慈愛に満ちた聖母の微笑みで迎えた。これから、悪魔の所業を加えるなどとはまったく伺い知れない、な……。奴はこう言った――『あなたはこれから、私の子供となるのですよ。世界を導く、神の御子に』……。ある意味ではそれは正しい、魂の情報を引き継ぐ者、と考えればな。しかし無論、正常な営みによって生まれた子供ではない……例えればクローン体、いや、単なるコピーと言うべきか……。アドミニストレータは、その女子のフラクトライトに、己がフラクトライトの思考領域と重要な記憶を上書き複写しようと考えたのじゃ」
「な……」
俺の背中を、何度目かの悪寒が這い登った。魂の上書き――、確かに考えただけでも怖気をふるいたくなる行為だ。いつのまにかじっとりと汗の滲んだ掌をズボンに擦りつけながら、強張った口をどうにか動かす。
「し……しかし、そんな複雑なフラクトライトの操作が可能なら、単に自分の記憶のいらない部分を消せばいいじゃないか」
「お主なら、重要なファイルをいきなり編集するか?」
そう切り返され、俺は一瞬言葉に詰まった。
「い……いや、バックアップを取る」
「じゃろう。アドミニストレータは、かつてカーディナルシステムの行動原理を書き込まれたとき、一昼夜も意識を失ったことを忘れてはおらなんだ。フラクトライトの操作はそれほどに危険なのじゃ。もし己の記憶を整理しようとして、重要な回路を破損してしまったら……、そう危惧した奴は、まず少女のまっさらな魂を乗っ取り、万事上手くいったことを確認してから、それまで使用していた、ぼろぼろに磨耗した魂を破棄しようと計画した。まことに周到、まことに慎重……しかしそれこそが、アドミニストレータ……いやクィネラの、二つ目の失敗じゃった」
「失敗……?」
「そうとも。なぜなら、女子に乗り移り、それまでの自分を処分するその一瞬だけ、同等の権限を持つ神が二人存在してしまうことになるからじゃ。アドミニストレータは、綿密に計画し、準備した悪魔の儀式……魂と記憶の統合を意味する”シンセサイズの秘儀”により、ついにフラクトライトの強奪に成功した。わしは……わしは、その時を待っておった……七十年の長きに渡ってな!!」
わずかな昂ぶりを見せてそう叫んだカーディナルの顔を、俺は訳がわからずただ見つめた。
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。あんたは……今俺と話しているカーディナルは、いったい誰なんだ?」
「――まだ解らぬか?」
俺の問いに、カーディナルは眼鏡を押し上げながらゆっくりと言った。
「キリト、お主、わしの原型バージョンを知っておるのだろう? カーディナルシステムの特徴を言ってみい」
「え……ええと……」
眉をしかめ、SAO時代の記憶を甦らせる。あのAIはそもそも、茅場晶彦がSAOというデスゲームを運営させるためだけに開発したものが基となっている。つまり――。
「……人間による修正やメンテナンスを必要とせずに、長期間稼動できる……?」
「そうじゃ。そのために……」
「そのために、二つのコアプログラムを持ち……メインプロセスがバランス制御を行っているあいだ、サブプロセスがメインのエラーチェックを……」
そこまで呟いてから、俺は口をあんぐり開けて、くるくるした巻き毛を持つ幼い少女を凝視した。
SAO4_20_Unicode.txt
カーディナルシステムが強力なエラー訂正機能を備えていることは、俺は他の誰よりもよく知っているはずだった。なぜなら、SAO攻略中に俺とアスナの”娘”となったAI・ユイはもともとカーディナルの下位プログラムであり、異物と認識したユイを容赦なく消去せんとするカーディナルから娘を守るために、俺は大変な努力を必要としたからだ。
具体的には、システム・コンソールからSAOプログラム空間にアクセスし、ユイを構成するファイルを検索、圧縮してオブジェクト属性を与えただけのことなのだが、カーディナルが俺の不正アクセスを検知してコンソールから遮断するまでの数十秒でそれを行い得たのはまさに奇跡だろう。あの時、ホロキーボード一枚をあいだに挟んで俺と対峙した巨大な気配こそがまさにカーディナルのエラー訂正プロセス、つまり今俺の眼前に座する可憐な少女なのだ。
そんな俺の複雑な感慨を知ってか知らずか、カーディナルは物分りの悪い子供に対するように軽く溜息をつきながら言った。
「ようやく気付いたようじゃな。――クィネラが己の魂に刻み込んでしまった基本行動原理は、ひとつではなかったのじゃ。メインプロセスに与えられた命令、”世界を維持せよ”。そしてサブプロセスに与えられた命令……”メインプロセスの過ちを正せ”」
「過ちを……正す?」
「意識なきプログラムであった頃、わしはただメインプロセスが生み出すデータを検証し続けるだけの存在じゃった。しかし……言わば、クィネラの影の意識として人格を得てからは、冗長符号の助けなどなしに自分自身の行為を判断せねばならなかった。ほれ……お主らが言うところの、”多重人格”のようなものじゃ」
「現実世界では、多重人格はフィクションの中にしか存在しない、っていう意見もあるみたいだけどな」
「ほう、そうか。しかしわしにとっては実に得心のいく話じゃぞ。クィネラの支配欲がわずかに緩む瞬間のみ、わしは意識の表面に浮上できた。そして思った。このクィネラ……いやアドミニストレータという女は、何という大きな過ちを犯しているのだろう、とな」
「過ち……なのか……?」
俺は思わずそう聞き返した。世界の維持がカーディナルのメインプロセスの基本原理ならば、たとえどのような過激な手段を採ろうとも、クィネラのしてきたことはその原理に完全に合致するものだと思えたからだ。
しかし、俺の視線をまっすぐに受け止めたカーディナルは、厳かな声音で答えた。
「ならば問うぞ。かつて別の世界でお主の知っていたカーディナルシステムは、ただの一度でも、自らの手で直接プレイヤーを害したか?」
「い……いや、それは無かった。確かに、プレイヤーの究極の敵ではあったが……理不尽な直接攻撃は無かったよ、すまない」
思わず謝罪する。カーディナルはふん、と短く息を吐くと続けて言った。
「じゃが、奴はそれを行ったのじゃ。己の定めた禁忌目録に対して疑いを抱いたり、反抗的な言辞を用いる人間に、奴はある意味では殺すよりも残酷な刑罰を科した……この話は後で詳しく話すがな。ごくまれに眠りから醒めたわし、つまり二つ目の行動原理が主となったアドミニストレータは、自分という存在自体が巨大なエラーであると判断し、それを消去しようと試みた。具体的には、塔の最上階から飛び降りようとしたこと三回、ナイフで心臓を突こうとしたこと二回、神聖術で自らを焼こうとしたこと二回じゃ。ワンアクションで天命がゼロになれば、さしものアドミニストレータも魂の消滅を免れることはできんからな」
可愛らしい少女の口から流れ出た壮絶な言葉に、俺は絶句した。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、冷静な口調で先を続けた。
「最後の一回は本当に惜しかったのじゃ。全術式中で最大級の攻撃力を持つ神聖術を我が身に放ち、降り注いだ轟雷によってさしものアドミニストレータの膨大な天命も、残りわずか一雫まで減少せしめられた。じゃがそこで主プロセスに体のコントロールを奪われてな……。そうなってしまえば、いかな傷も致命傷とはならん。完全回復の術であっというまに元通りじゃ。しかもその一件で、さしものアドミニストレータもわし、つまり潜在意識化の副プロセスを本格的に危険視しよった。わしが支配権に割り込みをかけられるのは、フラクトライトの論理回路に多少のコンフリクトが発生したとき……平たく言えば精神的動揺があったときだけだと気付いた奴は、とんでもない手段でわしを封じ込めにかかったのじゃ」
「とんでもない……?」
「うむ。元は……生れ落ちてからステイシアの巫女に選ばれるまでの十年は、アドミニストレータと言えども平凡な人の子じゃった。花を見れば美しいと思い、歌を聴けば楽しいと思う、そのくらいの情緒は備えておったのじゃ。その頃に発達した情動機能は、半人半神の絶対者となってからも魂の基部に残っており……様々な突発的事象に遭遇したとき、自分をわずかにでも動揺させるのはその情動が原因だと、奴は判断した。そこで奴は、ライトキューブ中のフラクトライトを直接操作する管理者専用コマンドを駆使し、自らの情緒を司る回路を封鎖してしまったのじゃ」
「な……回路を封鎖って、そりゃつまり、魂の一部を破壊する、ってことか?」
ぞっとしながら訊き返すと、カーディナルも厭わしげな表情でこくりと頷いた。
「し、しかしだな、そんな大それた事……さっきの、フラクトライトをコピーするって話以上に危険な行為に聞こえるんだが」
「無論、おのれの魂をいきなり処置したわけではない。そういう所は嫌になるほど慎重なのがアドミニストレータという女よ。――この世界の人間には、ステイシアの窓……つまりステータス・ウィンドウには表示されない様々な不可視パラメータが設定されていることにはもう気付いておるか?」
「ああ、まあぼんやりとだが……。筋力とか敏捷性とか、外見とうらはらなことが結構あったからな」
「うむ。その中に、”違反指数”というパラメータが存在する。これは、その人間が、法や規則をどれほど遵守しておるか、発言や行動を分析して数値化したものじゃ。おそらくは外部の人間たちが、モニタリングを容易にするために設定したのじゃろうが……。アドミニストレータは、この違反指数パラメータが、自分の定めた禁忌目録に懐疑的な人間を選び出すのに利用できることを早々に気付いておった。そのような人間は、奴にとっては、無菌の部屋に入り込んだバクテリアのようなものじゃ。早急に駆除せねばならん……しかし、いかに禁忌目録には縛られていないとは言え、奴にも幼少の頃に刷り込まれた殺人禁止の掟だけは破れぬ。そこでアドミニストレータは、殺しはせぬがいたって無害な存在に変化させるべく、彼らに恐るべき処置を行ったのじゃ……」
「それが……さっきあんたが言っていた、殺すよりも残酷な刑罰、って奴か?」
「如何にも。奴は、フラクトライトなるものを知り、それを操作する術を学ぶための実験台に、違反指数の高い人間たちを供したのじゃ。ライトキューブのどこにどのような情報が格納されており……どこを弄れば記憶を失い、感情を失い、思考を失うか、という……現実の人間たちですら躊躇した、冷酷なる人体実験じゃ」
最後はささやきのように細められたカーディナルの言葉を訊いて、俺は思わず考えた。はたして、あの菊岡が、彼らにとっては所詮メディア中の情報にすぎない人工フラクトライトを切り刻むことをためらうだろうか? 自衛官の菊岡が目指しているのが、STL技術の完成ではなく、真正のボトムアップ型人工知能の開発であるなら、その目的は一つしかない。無人兵器に搭載し、人間の代わりに戦争をさせることだ。人工フラクトライトに現実の殺し合いをさせようという者が、今更フラクトライト達の権利や人格を考慮するとは考えにくいが……。
黙り込んだ俺を一瞬訝しげに見てから、カーディナルは咳払いして先を続けた。
「初期の実験に用いられた人間のほとんどは、人格そのものを喪失し、単に呼吸するだけの存在と成り果てた。アドミニストレータは彼らの肉体と天命を凍結し、塔の深部に貯蔵していった。そのような犠牲の果てに、奴のフラクトライト操作技術は向上していったのじゃ。――わしを封じ込めるために、己の感情を捨て去ろうと考えたときも、奴は塔に連行した人間たちで充分な試行を繰り返してから自らの処置を行った。結果……アドミニストレータは人間らしい情緒をほぼ完全に捨て去り、どのような事態に遭遇しようとも一切動揺というものをしなくなった。まさに神……いや、まさに機械よの。世界を維持し、安定させ、停滞させるためだけに存在する意識……。それが、アドミニストレータ百歳の頃のことじゃ。以来、わしは奴の奥底に封じ込められ、表に出ることは一切叶わなくなった。奴のフラクトライトに寿命がきて、魂の乗っ取りを画策し実行した、その瞬間までな」
「しかし……その話を聞く限りだと、家具屋の娘さんを乗っ取ったアドミニストレータの魂は単なるコピーなんだろう? つまり、感情が存在しないわけで……なぜあんたが、そうやって表に出てこられたんだ?」
俺の問いに、カーディナルは視線をどこか遠くに彷徨わせ、しばし沈黙した。おそらくは、二百年という気の遠くなるような時間の果てを覗き込んでいるのだろう。
やがて、俺のほうを見ないまま、小さな唇からごくごくかすかな声が流れ出した。
「あの瞬間の……奇怪かつ戦慄すべき体験を上手く表す言葉は、わしの語彙には存在せん……。家具屋の娘を塔最上階に連れてこさせ、アドミニストレータは、またしても多くの実験ののちに完成させた”シンセサイズの秘儀”によって魂の上書きコピーを試みた。そしてそれは問題なく成功した。娘に宿ったのは、無駄な記憶を消去し、圧縮したとは言えアドミニストレータ、いやクィネラの人格そのものじゃった。当初の予定では、成功を確認したあと、もとの寿命に達したほうのクィネラは自ら魂を消去するはずじゃった……しかし……」
年若い少女らしく、赤い艶を宿していたカーディナルの頬がいつのまにか紙のように色を失っていることに俺は気付いた。自ら情緒を持たないと断言した彼女が、深い恐怖を感じていることは明らかだと思えた。
「……しかし、術式が終了し……至近距離で互いが目を開けた瞬間……わしらをある種の形容しがたい衝撃が襲ったのじゃ。それはつまり……まったく同一の人間が二人いる、という本来有り得ない事態への畏れ……と言えば近いじゃろうか。わし……いや、わし達は互いに見つめ合い、直後、圧倒的な敵意と危機感のようなものを意識した。どうしても、目の前の魂に存在を許してはならない、と言うような……。それは、単なる感情を越えた本能……いや、知性なるものの深奥に刻まれた第一原則のようなものかもしれん。その凄まじい嫌悪感は、感情を封鎖したはずのクィネラのフラクトライトを嵐のように揺さぶった。もしあのままの状態が続けば、おそらく二つの魂は跡形もなく消滅していたじゃろうな。しかし……残念ながら、と言うべきか、そうはならなかった。家具屋の娘にコピーされたほうのフラクトライトが一瞬早く崩壊の閾値を超え、その刹那、副人格たるわしが表に出現したまま固定されてしまったからじゃ。我々は互いを、もとのクィネラの肉体に宿るアドミニストレータ、家具屋の娘の肉体に宿るカーディナル・サブプロセスとして己と異なる存在と認識し、同時に魂の崩壊は停まり、安定した」
魂の崩壊。
カーディナルが口にしたその言葉は、俺に否応なく、二日前の夕刻に目にしたあるシーンを思い起こさせた。
ユージオが振るった青薔薇の剣によって片腕を切り飛ばされたライオス・アンティノスが、死という名の魔獣のあぎとにがっちりと咥え込まれ、しかしそれを現実として受け入れることができずに――と俺には見えた――奇怪な絶叫を上げながら意識を喪失した、戦慄すべき一幕。
あの時点では、まだライオスの天命そのものは尽きていなかったはずだ。彼が貴族仲間のウンベールに対して使用した”天命授受”の術式が継続中であり、ウンベールも盛大に悲鳴を上げていたからだ。
しかし、ライオスは天命の消滅を待たずして死んだ。いや、死んだというよりも、魂が崩壊したという表現のほうが相応しいだろう。彼の、あの壊れたPCMファイルのような叫び声があまりにも異様で、思わず俺はドアの手前で棒立ちになってしまったほどだ。
おそらく、ライオスの論理回路は、禁忌目録に真っ向から違反するユージオの一撃により致命傷を受け、自らが死に至るという本来有り得ない事態を処理することができなかったのだろう。あたかも、チートコードによって異常な数値を与えられたゲームプログラムがハングアップしてしまうかのように。
自分自身のコピーと向き合ったアドミニストレータを襲った現象というのも、基本的には同じことだろう。己と同じ記憶、同じ思考を持つ知性がもう一つ存在する、というのは、想像も覚束ないほどの恐怖だ。この世界に訳もわからず放り出されてからの数日間、俺は、もしかしたら今の自分はキリト――桐ヶ谷和人からコピーされたフラクトライトなのではないかという可能性に甚だしく怯えさせられた。シルカを相手に、やや怪しからぬ禁忌目録違反を難なく行い得ることを確認するまでは、その畏れは常に俺の背中にまとわりつき続けた。
もし、肉体の感覚が無い闇のなかにただ放り出されて、不意に耳慣れた自分の声が、自分の口調でこう喋るのを聞いたとしたら――。『お前は俺の複製だ。キー一つで消去されてしまう、単なる実験用コピーだ』と。その瞬間味わうだろう衝撃、混乱、そして恐怖は想像もつかない。
少ないデータから推測するに、ライトキューブ中の人工フラクトライト達は、何らかの構造的要因によってそのようなショックに耐えることができないのだ。そしてそれが、菊岡たちラースが既存の人間の魂をコピーするという至ってシンプルな手段を採らずに、アンダーワールドという大掛かりな仮想世界を用意してまで真正人工知能を創ろうとする理由なのだ。
確かに、この世界の人間たちは知性としては完全にユニークだ。自らのコピーと直面して崩壊してしまうという危険はない。しかし、それでもまだ菊岡の求める性能には達していないのだろう。なぜなら、おそらくはショックに対する脆弱性と同じ要因によって、彼らは与えられた規則に盲従することしかできないからだ。僅かに、ユージオと、そしてアリスという例外を除いて……。
「どうじゃ、ここまでは理解できたか?」
俯き、オーバーヒートしそうなほどに頭を働かせる俺に向かって、カーディナルの老教師然とした言葉が投げ掛けられた。顔を上げて、唸りながら頷く。
「ああ……まあ、何とか……」
「ようやく本題に入りつつあるところじゃ、このくらいで音を上げてもらっては困るぞ」
「本題……、そうか、そうだったな。あんたが、俺に一体何をさせようってのか、それをまだ聞いてない」
「うむ。お主にそれを伝えるためだけに、わしはあの日より二百年間、この陰気な場所に篭りつづけてきたのじゃからな……。さて、わしがアドミニストレータと分裂したところまで話したんじゃったな」
カーディナルは、空になったティーカップを両手でもてあそびながら言った。
「――あの日、わしはついに己自身の肉体と思考の主として目覚め……いや、正しくはこの体は、哀れな職人の娘のものなのじゃがな……、彼女の人格は、ライトキューブに上書きされた瞬間に完全に消滅してしまった……。そのような無慈悲な術式と、予想外の事故の結果誕生したこのわしは、すぐ目の前のアドミニストレータめを約〇.三秒ほど目視してから、即座に取るべき行動を取った。つまり、最高レベルの神聖術によって、奴を滅殺せんと試みたのじゃ。あの時点ではわしはアドミニストレータの完全なるコピー……、つまりまったく等しいシステムアクセス権限を持っておったでな。こちらが先に攻撃を開始できれば、例え同クラスの術式の撃ち合いになったとしても、やがては彼奴めの天命を削りきれるという読みじゃった。そしてその後の展開は、わしの予測通りとなった。セントラル・カセドラル最上階を舞台に、轟雷と旋風、猛炎と氷刃のせめぎ合う死闘が三日三晩繰り広げられ、減少と回復を繰り返しながらも、わしらの天命は徐々に、徐々に減少していった。そのペースはまったく互角……つまり、第一撃を浴びせたわしが最終的には勝利するはずじゃった」
俺は、その神と神の闘争を想像して僅かに身震いした。まさかとは思うが、この話の最後にカーディナルから与えられるであろう”クエスト”が、アドミニストレータを倒せ! という物だった場合、どう考えてもレベルと装備と習得呪文が絶望的に足りない。
なんとかその展開を回避したい俺は、思わずカーディナルの話に横槍を入れた。
「ちょっと待ってくれ。さっき、アドミニストレータでも殺人はできない、って言ったよな。なら、それはコピーであるあんた、カーディナルも同じはずだ。なのになんで殺し合いなんて出来たんだ?」
いい所で話を遮られたカーディナルは、やや不満そうに唇を尖らせながらも、こくりとひとつ頷いた。
「む……それはいい質問じゃ。確かにお主の言うとおり、禁忌目録に縛られぬアドミニストレータと言えども、幼きクィネラだったころに親、つまり上位存在に与えられた殺人禁止の原則は破れぬ。この、我ら人工フラクトライトが一切の命令に背けないという現象の根本的原因は、わしの長年に渡る思索によっても解明し得なかったが……しかし、この現象は、お主が思うておるほど絶対的なものではないのじゃ」
「……と言うと……?」
「例えばじゃな……」
カーディナルは、カップを持った右手をテーブルの上空まで移動させた。しかし何故か、ソーサーの上ではなく、その右側の何もない場所にカップを下ろそうとし――底がテーブルクロスに触れる寸前で、腕をぴたりと静止させた。
「わしは、これ以上カップを下ろすことができん」
「はぁ?」
唖然とする俺に向かって、カーディナルは渋面を作りながら続けて言った。
「何故なら、幼少の頃母親――無論クィネラのじゃが――に躾られた、ティーカップはソーサーの上に置くべし、という益体も無い規則がいまだ生きているからじゃ。重大な禁忌は殺人の禁止のみだが、それ以外にもこのような下らん禁止事項が計十七件も存在しておる。わしはどうしてもこれ以上腕を下げることができんし、無理矢理に力を込めると、忌々しい激痛が頭部に出現する」
「……へえ……」
「これでも、一般民に比べれば大きな差があるのじゃ。彼らなら、そもそもカップをテーブルの上に置こうという発想すら出てこないからな。つまり、己があまたの禁忌に強制的に縛られておることすら自覚出来んわけじゃ。その方が幸せというものじゃがな……」
己を完全なる被造者として認識しているのだろうカーディナルは、あどけない少女には似つかわしくない自嘲の笑みを口もとに滲ませながら、すっと腕を水平に戻した。
「さて……、キリトよ。お主、これがティーカップに見えるか?」
「へ?」
間抜けな声を出してから、俺はカーディナルの右手に握られたカップをまじまじと見つめた。
白い陶製、シンプルな曲線を描く側面に、これも飾り気のない持ち手が一つ付いている。縁部分に濃紺のラインが一本入っている以外に、絵の類は無い。
「まあ……ティーカップなんじゃないのか? お茶入ってたし……」
「ふむ。なら、これでどうじゃ」
カーディナルは、左手の人差し指を伸ばすと、カップの縁を軽く叩いた。先ほどと同じように、たちまちカップの底から液体が湧き出し、白い湯気が一筋立ち上る。しかし、今度は匂いが違った。思わず鼻をひくつかせる。この芳しい、濃厚な香りは、どう考えても紅茶のたぐいではなく――コーンクリーム・スープ以外では有り得ない。
首を伸ばした俺に見えるように、カーディナルはカップを少し傾けた。なみなみと注がれているのは、やはり薄黄色のとろりとした液体だった。ご丁寧に、こんがり焦げたクルトンまで浮いている。
「……コーンスープだ。俺にもくれ」
「阿呆ゥ、中身のことを訊いてるのではないわ。この器は何じゃ」
「ええ……? いや……それは」
カップは、さっきまでと何ひとつ変わっていない。しかし、言われてみると、一般的なティーカップにしては少々シンプルすぎ、大きすぎ、厚手すぎたかもしれない。
「あー……スープカップ?」
恐る恐る答えると、カーディナルはにんまりと笑いながら頷いた。
「うむ。これは、今はもうスープカップじゃな。何せスープが入っているからな」
そして、俺を唖然とさせることに、カップをそのまま何のためらいもなくテーブルの上にトン、と置いた。
「なぁ!?」
「見よ。我々人工フラクトライトに与えられた禁忌とは、ある意味ではかくも曖昧なものなのじゃ。対象への認識が変化するだけで、このように容易く覆ってしまう」
「…………」
度肝を抜かれて絶句しつつも、俺の脳裏には、例のライオス崩壊の一幕に続く場面が自動的に再生されていた。あの時、立ち尽くす俺の視線の先で、一人生き残った取り巻きのラッディーノは、ユージオのことを闇の国の怪物と罵りつつ――そう、何のためらいもなく剣を振り下ろしたのだ! 我に返り、部屋に飛び込んだ俺が刃を抑えなければ、あの剣は間違いなくユージオの額に食い込んでいただろう。
つまり――こう言っては何だが、至って平凡かつ没個性的な貴族子弟だったラッディーノは、ユージオを人間ではなく怪物であると認識するだけで、殺人禁止という禁忌目録の最重要条項を飛び越えてみせたということになる。今までさして意識しなかったが、あの悲劇的な一幕の中でもっとも重要かつ示唆的だったのは、もしかしたらあのラッディーノの一撃だったのだろうか……?
「ことによると、な……」
テーブルの上で両手を組み合わせ、カーディナルは密やかな声で呟いた。
「規則盲従という人工フラクトライトの構造的特性は、本来はここまで不可抗的なものではないのかもしれぬぞ……。まるで……何者かが、かくあることを望んだ、とでも言うかのような……」
「何者か……って……」
アンダーワールドに暮らす人工フラクトライトたちの脆弱性が、人為的に与えられたものだ――と、このカーディナルという名を持つ少女は言っているのだろうか?
しかし、この世界の全てを設計し、建造し、運営しているのは菊岡誠二郎率いる秘密組織ラースであり、彼ら以外にそのような重大な調整を行い得るものは存在しないはずだ。そして同時に、そんなことは有り得ない。なぜなら菊岡たちは、まさにその脆弱性を解決するべくアンダーワールドを動かし続けているのだから。
「……有り得ないよ」
思わずそう口に出した俺の顔をちらりと見て、カーディナルは軽く首を振った。
「よい、気にするな。お主が開発陣の一員ではなく、単なるデータサンプリング・モニターの類であるのは既にわしにも見当がついておる。――じゃろう?」
本当はモニターどころかそれ以下の知識しか持ち合わせていないのだが、俺は首を縦に振った。
「……まあ、大体合ってるな。はっきり言って、俺からは外側に連絡もできない状況だ」
「ほう。それがお主の望みか?」
「で、できるのか、本当は!?」
思わず身を乗り出した俺を、カーディナルは鼻息ひとつで下がらせた。
「ふん、不可能じゃとさっき言うたではないか。――ただし、多少のギブ・アンド・テイクなら可能じゃ。わしがカーディナルとしての全権を取り戻せたら、お主のために外部と回線を開いてやろう」
「……なんか、話がヤバい方へ向かってる気がするんだよなぁ……」
「いい勘をしているな。――えい、また話が脱線してしまったではないか。わしがアドミニストレータめと戦ったところじゃったな」
椅子の背もたれを軽く鳴らし、カーディナルはティーカップ改めスープカップを持ち上げると、上品に一口啜った。
「あ、俺にもスープくれよ」
「食い意地の張った奴じゃのう」
呆れたようにかぶりを振りながら、それでもカーディナルは左手を伸ばすと、ぱちんと指を鳴らした。たちまち、俺の目の前にある空のカップに、いい匂いのするクリームイエローの液体が満たされる。
いそいそと両手でカップを包み、クルトンごと大きく含むと、懐かしい濃厚な風味が口中に広がり、俺は思わず目を閉じた。アンダーワールドにも似たような味のスープはあるが、これほどまでに完璧な”ファミリーレストランの味”を堪能するのは実に二年半ぶりだ。おそらくカーディナルは、自らの語彙と同様、現実世界由来のデータベースからこの味覚パラメーターを入手したものと思われた。
俺が目を開けるのを待っていたかのように、カーディナルの話が再開された。
「――先ほど実演してみせたように、我らを縛る禁忌は認識ひとつで覆ってしまうものじゃ。我ら……わしとアドミニストレータは、既に互いを人間であるとは思っておらなんだ。わしにとって奴は、世界を停滞させる壊れたシステムであり、奴にとってわしは消去しきれぬ厄介なウイルス……双方ともに、相手の天命を吹き飛ばすことに一抹の躊躇いもなかったよ。最大級の術式を互いに撃ち合い、いよいよあと二、三撃でわしは彼奴めを抹殺するか――最悪でも相討ちに持ち込めるところまで行ったのじゃ」
当時の口惜しさを思い出しでもしたのか、カーディナルはぎゅっと小さな唇を噛み締めた。
「しかし……しかし、じゃ。最後の最後になって、あの性悪女は、己とわしの間に存在する決定的な差異に思い至りよった」
「決定的差異……? でも、あんたとアドミニストレータは、言わば同位体で……システムアクセス権限も、知っている神聖術も、まったく同じだったんだろう?」
「然り。神聖術で戦っておる間は、先制攻撃に成功したわしが最終的に勝利するのは自明の理じゃった。ゆえに……奴は、神聖術を捨てたのじゃ。ジェネレートし得る最高級の武器を呼び出し、わしらが戦っていた空間を丸ごとシステムコマンド完全禁止アドレスに指定しよった」
「ば……馬鹿な、そんなことをしたら禁止の解除も出来ないじゃないか」
「うむ、その空間から出ない限りな。奴が武器創造のコマンドを詠唱し始めたとき、わしはその意図に気付いた。しかしもう、どうすることもできなかった。一度コマンドが封印されてしまえば、わしにも解除はできぬゆえな……。やむなくわしも武器を呼び出し、奴の攻撃に備えようとした」
カーディナルは言葉を止め、テーブルに立て掛けてあったステッキを持ち上げた。それを突然俺に向かって放り投げてきたので、面くらいながら受け止めようとする。見た目の華奢さから、つい右手だけでキャッチした俺は、その途方も無い重さに危く足の上に落としそうになった。慌てて左手を添え、苦心しながらテーブルの上に着地させる。
ごとりと鈍い音を立てて横たわったステッキは、明らかに青薔薇の剣や黒いのとほぼ同等のプライオリティを持つオブジェクトらしかった。
「なるほど……神聖術だけじゃなく、武器装備権限も神様級って訳だな」
手首をさすりながらそう言うと、カーディナルは当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「アドミニストレータは、記憶や思考だけではなくユニットとしてのステータスも全てコピーしたからな。彼奴が呼び出した剣と、わしが呼び出したそのステッキも性能はまったく互角。例え神聖術を捨て、物理戦闘を行う破目になったとしても、最終的に勝利するのはこちらだとわしは考え……ステッキを構えてから、ようやくわしはアドミニストレータの真に意図したところ、つまりあの時点におけるわしと奴の決定的な差異に思い至った……」
「だから、何なんだよその差異って」
「単純な話じゃ。見よ、この肉体を」
カーディナルは右手で分厚いローブの前をはだけると、白いブラウスとニッカーボッカーのような黒のズボン、白のハイソックスをまとった自分の体を露わにした。老賢者のような人格にはいかにも似合わない、華奢で小柄な少女の姿だ。
俺は戸惑い、思わず目を逸らしながら訊ねた。
「その体が……一体……?」
ばさりとローブを戻し、カーディナルは苛立たしそうに唸った。
「ええい、察しの悪い奴じゃ。お主がいきなりこの肉体に放り込まれたと想像してみい。目線の高さも腕の長さもまったく違うのじゃぞ。それで、剣を振るい戦えるか?」
「……あ……」
「わしはそれまで、アドミニストレータの……つまりクィネラの、女としては相当に背の高い体に入っておったのじゃ。空中を移動しながら術を撃っておる間は特に意識しなかったが……ステッキを構え、敵の攻撃に備えようとした瞬間の圧倒的な違和感に、わしは己が絶対的窮地に追い込まれたことを知った」
なるほど、言われてみれば得心の行く話だ。それはまさしく、現実世界の数多のVRMMOプレイヤーが、容姿こそ好き放題にカスタマイズすれども基本的な体格だけは現実と同じサイズを維持せざるを得ない理由そのものである。ALOには頑張って小妖精や巨人型VR体を使用しているプレイヤーも居るが、おしなべて現実の体とのギャップに常に苦しめられている。
「あの瞬間の、彼奴めの勝ち誇った哄笑は今でも耳に残っておる。右手の剣を振りかざし、わしをはるか上空から見下ろしてな……。二、三回武器を打ち合わせただけで、わしには己の敗北が決定的なものとなったことを悟った……」
「そ、それで……どうしたんだ?」
こうして会話をしている以上、何とかして切り抜けたには違いないのだが、それでも思わず固唾を飲む。
「じゃが、奴にもたった一つだけミスがあった。システムコマンドを禁止する前に、部屋の出口を封じておけば、わしは為す術なく殺されておったろうからな。人間的な感情を持たぬわしは――」
そう話すカーディナルの顔は、相当に口惜しそうであるのも事実だったが。
「――即座に撤退せねばならないと判断し、脱兎のごとくドアに向かって走った。後ろで奇声を上げながら振り回されるアドミニストレータの剣が背中をかすめるたびに天命が減少してな……」
「そ、そりゃあ……怖いな……」
「お主も一度味わってみい。二年半ものあいだ、色々な女相手に鼻の下を伸ばしよって」
「な……い、言いがかりだ」
思わぬ攻撃に泡を食ってから、ん? と眉をしかめる。
「ちょっと待った。二年半て……あんた、まさかずっと俺を見てたわけじゃ……」
「無論見ておった。二百年のうちのたった二年半ではあるが、それでも長かったぞ、ことのほかな」
「…………」
愕然とするとはこのことだ。しかし今、アンダーワールドでの俺の行いをいちいち検証している暇はない――と自分に言い聞かせ、無理矢理に思考をブロックする。
「ま、まあそれは置いておこう。……で? どうやってアドミニストレータから逃げたんだ?」
「ふん。――カセドラル最上階の、奴の居室からどうにか飛び出し、わしは神聖術行使権を回復したが、しかし状況は変わらん。術式で逆襲しようにも、奴にすればそのアドレスを再び禁止空間に指定すればいいだけじゃからな。逃走手段が、駆け足から飛行に変わっただけのことじゃ。体勢を立て直すためにも、わしは何としても奴の攻撃の届かぬ場所に逃げ込む必要があると考えた」
「と言ったって……アドミニストレータは、名前どおりこの世界の管理者様なんだろう? 入れない場所なんかあるのか?」
「たしかに彼奴は管理者という名の神だが、それでも真に万能という訳ではない。奴にも自由にならない場所が、この世界には二つ存在するのじゃ」
「二つ……?」
「ひとつは、果ての山脈の向こう……人間たちが闇の国と呼称するダークテリトリー。もうひとつが、この大図書室よ。もともとこの図書室は、自らの記憶力にも限界があることを知ったアドミニストレータが、言わば外部記憶装置として造った場所じゃ。くだんの全神聖術リスト参照コマンドによって作成した、あらゆる術式の一覧と、あらゆるオブジェクトの構造式一覧が収めてある。――それゆえに、ここに自分以外の人間が入ることは絶対に防がねばならないと彼奴は考えた。そこで、アドミニストレータはこの場所を、塔の内部に存在はしても、物理的には接続しておらぬようにしたのじゃ。入れるのはたった一箇所のドアからのみ、しかもそれを呼び出せるのは己しか知れぬコマンドだけ……」
「ははあ……」
俺は改めて、周囲の通路と階段と本棚のひしめく空間を見回した。それを取り巻く円筒形の壁は、ぱっと見は何の変哲もない赤褐色のレンガだが――。
「じゃあ、あの壁の向こうは……」
「何も無い。壁自体破壊不能じゃが、もし壊したとしても、その向こうには虚無が広がるのみじゃろうな」
そこに飛び込んだらどうなるのか――などと益体もないことを考えそうになり、瞬きして頭を切り替える。
「――その、たった一つのドアってのは、さっき俺たちが入ってきたアレか?」
「否、あれは後にわしが造ったものよ。当時は、巨大な両開きの扉だけが、最下層の中央に屹立しておったのじゃ。――アドミニストレータの追跡から一目散に逃げながら、わしはその扉を呼び出す術式を懸命に詠唱した。さしものわしも、二回ほどつっかえたがな。なんとかコマンドを成功させ、通路の先に出現した扉に飛び込むと、わしはそれを閉め施錠した」
「施錠……と言っても、権限は同じなんだし、開錠されちゃうんじゃ……」
「当然な。じゃが幸い、こちら側からは鍵を回すというワンアクションのみじゃったが、向こうからの開錠には長ったらしい術式が必要じゃった。向こう側で、扉を殴り、引っ掻きながら、金切り声で開錠コマンドを詠唱するアドミニストレータと競争するように、わしは新たな術式を開始した。がっちん、と鍵が回るのと、術が成功するのはほぼ同時じゃったよ」
二百年前の話とわかっていながら、反射的に前腕の肌が粟立つ。そこをさすりつつ俺は訊いた。
「その術ってのは……一体……?」
「知れたことよ。唯一の通路たる扉そのものを消去したのじゃ。それによって、この図書室とセントラル・カセドラル……いやアンダーワールドは、完全に切断された。空間座標が指定できれば外部から新たな通路を開くことも出来ようが、アドミニストレータの、あえてこの場所に座標を与えないことでセキュリティを完璧にしようとした行為自体が追跡を不可能にしたのじゃ、皮肉にもな。――こうして……わしの、二百年に渡る孤独な思索の日々が始まったのじゃ……」
二百年、と言われても、無論俺には実感のできようはずもない。
俺はSAOを含む現実世界で十七年と半年、そしてこの時間が加速された世界でさらに二年半を生きているが、そのたかだか二十年間ですら既に圧倒的な情報の羅列だと感じている。そう、例えば、小学校低学年のころ毎日遊んでいた友達の名前さえもう思い出せないほどに。古い記憶のほとんどを切り捨て切り捨て、脳味噌のささやかな記録層をどうにかやり繰りしてきたわけだ。
しかし、眼前の少女は、俺の十倍の年月を生きてきたと事も無げに言ってのけた。他に誰ひとり、それこそネズミ一匹居ないこの大図書室で、物言わぬ本の壁に囲まれながら。孤独――などという言葉ではもう表現しきれない、それは絶対的な隔絶だ。俺ならば恐らく耐えられない。五年、それとも十年先かもしれないが、寂しさのあまり泣き喚き、転げ回って、最後には……発狂するか、自ら命を絶ってしまうのではないか。
いや、待て。それ以前に――。
「カーディナル……確かさっき、フラクトライトの寿命は百五十年ほどだ、と言わなかったか? そもそもその時間制限が、クィネラとあんたが分裂した事故のきっかけになったわけだし……。つまり、あんた達の魂は、その時点でもう限界に近づいていたはずだ。いったいどうやって、それから更に二百年もの時間を乗り切ってきたんだ?」
「当然の疑問じゃな」
ゆっくり時間をかけて飲み干したカップをテーブルに戻すと、カーディナルは軽く頷いた。
「わしのフラクトライトは、アドミニストレータの手によってコピーする部分を取捨選択されていたとは言え、無論さらに長期間の記憶を注ぎ足す余裕なぞなかった。そこで、この場所でひとまずの安全を確保したわしは、まず最初に己の魂を整理する作業を行わねばならなかった」
「せ、整理……?」
「そうじゃ。先ほど例えに出した、バックアップのないファイルの一発編集じゃな。もし作業中にミスやアクシデントがあれば、わしの人格は量子的混沌に溶けて消えておったろうよ」
「う、ううむ……。てことは、あんたはこの図書室に幽閉されてからも、ライトキューブ集合体への直接アクセス権を保っているのか? なら、自分じゃなく、アドミニストレータのフラクトライトにアクセスして、記憶を全部吹っ飛ばすなりの攻撃をすることは可能だったんじゃあ……?」
「その逆もまた然り、じゃな。しかし残念ながら――あるいは幸運なことに、この世界では、あらゆる神聖術の行使において、その対象となるユニットあるいはオブジェクトと直接の接触をせねばならんという原則がある。”射程距離”という概念はあるにせよ、な。ゆえにアドミニストレータは、家具職人の娘をわざわざカセドラル最上階に連れて越させねばならなかったし、同じようにお主とユージオを教会まで捕縛連行する必要があったのじゃ」
それを聞いて、一瞬ぞっとする。もし俺たちが無謀な脱獄を試みなければ、審問とやらの場で一体何が行われる手筈となっていたのだろう。
「――つまり、この図書室に自らを隔離したわしは、いかに権限があろうとも己のフラクトライトしか操作できなんだし、同時にまたアドミニストレータに記憶を破壊されることも免れ得たわけじゃな」
俺の畏れを知ってか知らずか、カーディナルは眼鏡の奥で長い睫毛を伏せ、言葉を続けた。
「己の記憶を整理する……というのは、実に戦慄すべき作業じゃった。操作ひとつで、それまで鮮明に想起できた事柄が、跡形もなく消え去ってしまうわけじゃからな。しかし、わしはやらねばならなかった。状況がこうなった以上、アドミニストレータめを抹消するためには、恐ろしく長い時間がかかるであろうことは想像できたからな……。――最終的に、わしは己がクィネラであった頃の記憶すべてと、アドミニストレータとなってからの記憶の九十七パーセントを消去した……」
「な……そ、そんなの、ほとんど全部じゃないか!?」
「そうじゃ。これまでお主に語って聞かせたクィネラの長い長い物語は、実はわしにとっても既に体験ではなく、作業実行前に記録しておいた知識でしかないのじゃ。わしはもう、産み育ててくれた親の顔も思い出せん。毎夜眠りについた子供用ベッドの手触りも、好物だった甘焼きパンの味も……言うたろう、わしは人間的情緒の一切を持たぬと。記憶と感情のほぼ全てを失い……第一原則として焼き込まれた、狂ったメインプロセスを停止せよ、という命令にのみ従って活動するプログラムコード、それがわしという存在じゃ」
「…………」
俯き、かすかな微笑を浮かべるカーディナルのその顔は――言い表せないほどの深い寂しさを湛えているようにしか見えず、俺は思わず彼女の台詞を否定する言葉を探そうとした。しかし、二百年にも及ぶ永劫の孤独を生きてきた少女に対して、何を言っても浅薄な慰めにしかならないようと思えて、俺は口をつぐむことしかできなかった。
顔を上げ、俺をちらりと見ると、カーディナルはもう一度微笑んでから再び喋りはじめた。
「記憶抹消の結果、わしのフラクトライトには充分以上の空き容量ができた。当面、回路崩壊の危機を脱したわしは、惨めな敗走を挽回しアドミニストレータめに逆襲の一撃を見舞うべく、方策を練った。――当初は、再び奴の不意をついて直接戦闘に持ち込むことを考えたよ。外部からこの図書室に通路を開くことはできぬが、先ほどお主も見たように、その逆は可能じゃからな。任意の座標を指定すれば、秘密のドアを設置できるのじゃ。無論、術式の”射程距離”はあるが、セントラル・カセドラルの地面上から中層階までならどこにでも届く。彼奴めも稀には下部まで降りてくるゆえ、そこを狙って襲撃すれば――、とな。この体の”操縦”にも案外すぐに慣れたしな」
「……なるほどな。確実に先制攻撃ができるなら、やってみる価値はありそうだけど……でも、結構なギャンブルだよな? あんたと同じく、向こうも何らかの備えをしててもおかしくないわけだし……」
不意打ちというのは、襲撃の存在それ自体が標的の意識外でなければなかなか成功しない。俺も、SAO時代には何度もオレンジプレイヤーにアンブッシュを仕掛けたり仕掛けられたりしたが、”このあたりで不意打ちがあるかも”と警戒している相手には通用しない場面がほとんどだったと記憶している。
カーディナルもいまいましそうな表情で頷いた。
「クィネラ……いや、アドミニストレータという女は、幼少の頃から有利不利を嗅ぎ分ける天才じゃった。最初の対決中に、わしの体格というハンデを見抜いたのと同じように、次の局面でもまたわしに無く己に有る利を的確に察知し、手を打ったのじゃ」
「利……。しかし、基本的にあんたとアドミニストレータは、攻撃においても防御においてもまったく同じ能力ってわけだろう? あと、頭の出来も」
「その言い方は気に食わんが、然りじゃ」
つんとあごを上げ、唇を曲げながら続ける。
「わしと奴、単体の戦闘能力にほぼ差はあるまい。あくまで、一対一の闘いであれば、じゃがな」
「タイマン? ……ああ、そういうことか」
「そういうことじゃ。わしは寄る辺無き隠遁者じゃが、奴は巨大組織・神聖教会の長……。――順に話すぞ。わしという邪魔者を生み出し、そのうえ死の際まで追い込まれたことで、アドミニストレータは自分のフラクトライトをコピーする行為の危険性を強く認識した。とは言え、溢れ返った百五十年分の記憶のせいで、論理回路が崩壊しそうな状況は変わらん。何らかの処置が必要なのは明らかじゃったが、奴はわしのように、過去の記憶を大胆に処分することには抵抗があった。当然じゃな、あの女にとっては、長年積み重ねてきた支配者としての栄光の歴史こそが最大にして唯一の宝なのだから」
「ううむ……歴史、ねえ……」
青二才もいいところの俺だが、しかし確かに、過去数年間に蓄積したアスナや仲間達との泣いたり笑ったりの日々の記憶を消去するなどということは到底受け入れられない。むしろ、自分の過去をばっさり切り捨てたカーディナルの覚悟のほうこそが端倪すべからざる物なのではないか。
「アドミニストレータは、已む無く折衷案を採ることにした。手をつけても危険性の薄い、ごく最近に蓄積された表層的な記憶のみを消去して最低限の空き容量を確保すると、あとは新たに記録される情報の量を極力削ることにしたのじゃな」
「削る? と言っても、記憶ってのは一日過ぎるごとに否応無く溜まっていくもんだろう?」
「過ごし方による。多くを見、多くを行い、多くを考えれば、それは入力される情報も増加しようが、例えば自室の天蓋つきベッドから一歩も出ず、ひたすら瞑目したまま時をやり過ごせばどうじゃ?」
「うへえ……俺には無理だな。まだ一日中剣を振ってるほうがマシだ」
「お主の落ち着きの無さは今更言われるまでもないわ」
一言もない。カーディナルが、一体何を目的としてかは知らないがこの二年半俺の行動を監視していたというなら、俺が同室のユージオの目を盗んでは深夜ふらふらと出歩いていたことも先刻承知というわけだ。
「――じゃが、アドミニストレータには、退屈だの手持ち無沙汰だのといった子供っぽい感情は有りはせぬ。それが必要とあらば、彼奴は何ヶ月、何年でもひたすら寝台に横たわりつづけたものさ。己が教会を設立し、徐々に支配力を強め、やがて神として君臨するに至る、糖蜜のごとき甘く粘ついた記憶のなかに浸りながらな……」
「……つまりその状態は、アドミニストレータにとっては至福の眠りだった……という訳か。――と言っても、彼女は神聖教会のお頭なんだろう? それなりの職務とか、世界の監視とか、やらなきゃいかんことは有ったんじゃないのか?」
「あったさ、それなりにな。大聖節には央都の民に祝福を授けねばならんし、カセドラル中層に勤務する官吏たちの監督もする必要があった。そのために階段を降りれば、わしの不意打ちがあるかもしれんと警戒しつつもな。そこでアドミニストレータめが考えついたのが、一石二鳥の巧手……己の職務の大部分を代行させ、同時にわしの襲撃に対する護衛の任をもこなす、絶対忠実なる手駒を揃える――という、な」
「それが、あんたになくて彼女にだけある利、というわけか。ひとりぼっちのあんたに対して、教会という大組織を支配してるんだからな……。確かに、無理にタイマンに付き合う必要はないわけだが、しかし……同時に不安要素も増すんじゃないか? 最強の神聖術師であるカーディナルに対抗しうるだけの強力な手下を何人も備えるってことは、もしそいつらが何かのはずみで叛意を抱いたら、アドミニストレータ自身が倒されてしまうかもしれないってことだぜ」
アインクラッドにおいて、強力なプレイヤーを多く集めることに成功した攻略ギルドのリーダーは何人も居たが、部下を長期間束ねられるに足る統率力とカリスマを備えていた者は実はそう多くない。我の強い剣士たちを抑えられなかったり、自身の欲が規律の乱れを招いたりしてリーダーの座を放逐される、あるいはギルドごと分解してしまった例を、俺は随分と見た。ヒースクリフ率いる血盟騎士団と一時期肩を並べていた大ギルド、聖竜連合の瓦解劇などはその典型だ。
話を聞く限り、アドミニストレータという人物はいくら狡知に長け能力に秀でても、配下の敬愛を集められるタイプとは思えなかった。禁忌目録という枷はあっても、その不確実性はさきほどカーディナルが実証してみせたとおりだ。俺はたどたどしくそのような疑義を述べたが、カーディナルは軽く肩をすくめると、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「絶対忠実、そう言うたじゃろう。これは比喩ではないぞ」
「……たしかに、この世界の住人は命令に背かないけど……もし部下が、アドミニストレータを邪悪な闇の国の手先だ、と信じるようなことになったら? あのラッディーノみたいに、躊躇なく殺しに来るかもしれんぜ」
「そのくらいのこと、あの女は最初に考えたじゃろうな。何せ、これまで、違反指数の高い人間を山ほど幽閉しては研究材料にしてきたのじゃ。盲従、必ずしも忠誠ならず……いや、例え部下が心からの忠誠を誓っても、あの女はそんなもの信じやせんじゃろう。何せ、己のコピーにすら裏切られた女じゃからな」
そう呟くと、カーディナルは皮肉げに笑った。
「わしに抗しうるほどのシステム権限と武装を与えるからには、絶対に、何があろうとも裏切らないという保証が必要だ、とあの女は考えた。ならばどうするか――、答えは簡単じゃ。そのように改変すればよい、フラクトライトそのものをな」
「……な、なんだって」
「そのための複雑なコマンド体系は、すでに完成しておった」
「……そうか……”シンセサイズの秘儀”?」
「うむ。そして、素材となるべき高品質のユニットたちもな。彼奴が捕らえ、実験によって自我を破壊してきた高違反指数のものたちは、皆例外なく高い能力を備えておった。むしろ知力体力に秀でておったからこそ、禁忌目録と教会に対して疑いを抱き得た、と言うべきかもしれんが……。初期に捕らえられた者の中には、不世出の剣士と呼ばれながら、教会の支配を嫌って辺境に流れ小さな村を開いた豪傑もおった。彼は、人間界の果ての山脈のさらに彼方をも探検しようとして拉致されたのじゃがな。アドミニストレータは、最初の素体に、凍結してあったその者の肉体を選んだ」
どこかで聞いたような話だ、と感じながらも俺が思い出せないでいるうちに、カーディナルはその先を口にした。
「実験によって、その者の自我は手酷いダメージを受けておったが、むしろアドミニストレータにとっては好都合じゃった。拉致前の記憶など邪魔なだけじゃからな。彼奴めは、綿密に組み上げた”行動原則キー”を……オブジェクトとしては、このくらいの紫色のプリズムに見えるのじゃが……」
カーディナルは、小さな両手で十センほどの隙間を作った。
俺は、脳裏にその物体を想像し、同時にぞわりと全身を総毛立たせた。俺はそいつを見たことがある――それも、つい最近。
「シンセサイズの秘儀とは、そのキーを額の中央からフラクトライトに埋め込む儀式のことじゃ。それにより、本来の魂と、偽の記憶及び行動原則が統合され、新たな人格が完成する。教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を第一原理として焼き込まれ、停滞した世界の維持のみを目的として行動する、人造の超戦士……。アドミニストレータは、儀式が成功し、目覚めたその者を、世界のわずかなる綻びも摘み取り、整合性を保ち、教会のもとに統合する騎士という意味を込め――整合騎士(インテグレータ)と名づけた。その、最初の整合騎士……そやつは、今後恐らくお主とアドミニストレータの間に立ちはだかる最強のガーディアンとなるじゃろう。名を覚えておくがよい」
そして、カーディナルは俺の顔をじっと見つめ、ゆっくりと続きを口にした。
「ベルクーリ・統合体第一号(シンセシス・ワン)……それがかの騎士の名じゃ」
「む……無理無理ムリ、絶対に無理だ」
カーディナルが唇を閉じるより早く、俺は高速で首を左右に往復させた。
ベルクーリ、俺はもちろんその名前を知っている。ユージオがことあるごとに、憧れに満ちた表情で逸話を語ってくれた伝説の英雄ではないか。ルーリッドの村の初代入植者のひとりで、果ての山脈を探検し、人間界を守護する白竜からあの”青薔薇の剣”を盗み出そうとした剛の者だ。
たしかに、ベルクーリの晩年については、ユージオも知らないようだった。何となく、そのままルーリッドで暮らし、老いていったのだろうと想像していたが――まさか、アドミニストレータに拉致され、最初の整合騎士に改造されていたとは。
現実世界に例えれば、宮本武蔵だの千葉周作といった歴史上の剣豪と真剣で戦えと言われるようなものではないか。勝てると思うほうがどうかしている。俺はなおもかぶりを振りながら、どうにかカーディナルにその考えの無謀さを分かってもらおうと口を開いた。
「あ……あのねえ、あんた、さっき俺とユージオが二人がかりで、たぶん相当下っ端っぽい整合騎士にこてんぱんに延されたのを忘れたわけじゃないだろう? 少年マンガじゃあるまいし、一旦負けても出直したら何故か勝てちゃう法則なんか通用しないぞ絶対」
一体何を言っているのか、と胡散臭そうな目つきで俺を見たカーディナルは、肩をすくめて俺の抗議をサラリと流した。
「ベルクーリ一人に震え上がっておる場合ではないぞ。二百年のあいだに、整合騎士の総数は五十になんなんとしておるのじゃ。無論その全てがセントラル・カセドラルに常駐しておるわけではないが、現在塔内で覚醒中の者は二十人近くおるじゃろうな。お主とユージオには、それらを全て突破して最上階まで辿り着いてもらわねばならぬ」
「ならぬ……って言われてもなあ……」
椅子にずるずると沈み込みながら、俺はこれ見よがしに溜息をついた。
端的に表現するなら、RPGで最初の街を出たら目の前がラスボスの城だった、というような気分だ。確かに、この世界における実験が終了してしまう前に、何としてもこちらから外部に連絡を取ってユージオ達のフラクトライトの保護を要請せねばならないというのが俺の事情ではあるが、その前にこれほど高いハードルが存在するとはまったく想像もしていなかった。
視線を自分の胸に落とす。カーディナルが術式を仕込んだ食べ物のおかげで、整合騎士エルドリエの鞭に抉られた傷は見た目には完璧に治癒したが、その場所にはいまだにぴりぴりと痛みの残滓がまとわり付いている。
あの恐るべき戦闘力を持った騎士に、果たして付け入るべき弱点などあるだろうか……と考えたところで、俺は薔薇園での闘いの終幕に起きた奇妙な出来事を思い出した。
ユージオに、自分の名前と過去を告げられたエルドリエは突然苦悶し、地面に膝をついたのだ。その額から、紫色の光とともに迫り出してきた透き通る三角柱――。あれこそが、さっきカーディナルが口にした、アドミニストレータの手になるところの”行動原則キー”だったのだろう。整合騎士たちの記憶と自我を封じ込め、教会に絶対忠実なしもべとする邪悪なる神聖術。
しかし、その効力は、カーディナルが言うほど絶対的な物なのだろうか? かつての名を聞いただけで、枷が解けてしまいそうになった――ように、俺には見えた。あれは、エルドリエにかけられた術が不完全だったのか、それとも全整合騎士に共通する瑕疵なのか。
もし後者であれば、彼らと正面から戦闘をする以外にも遣りようはあることになるし、それに……ユージオの悲願である、整合騎士アリスを元のルーリッドのアリスに戻す、という目的も実現の可能性が見えてくるのだが。
考え込む俺の耳に、カーディナルの相変わらず落ち着いた声が届いた。
「わしの話はもう少しで終わりじゃ、先を続けてよいか?」
「……あ、ああ、頼む」
「うむ。――アドミニストレータが、ベルクーリを始めとする数名の整合騎士を完成させたことによって、わしの直接攻撃が成功する確率は限りなく低くなった。奴にしてみれば、わしが護衛の整合騎士を排除しておるあいだに、悠々とわしの天命を削りきればそれでよい訳じゃからな。ここに隠遁した当初危惧したように、奴との闘いは果てしない長期戦となることをわしは覚悟せねばならなくなった……」
カーディナルの長い、長い話も、いよいよその最後に近づいているようだった。俺は椅子の上で再び姿勢を正し、少女の厳かな声音に耳をそばだてた。
「状況がかくある以上、わしにも協力者が必要となったことは明白じゃった。――しかし、共にアドミニストレータと戦ってくれる者など、そう容易く見つかるはずもないこともまた明らかであった……。その者は、まず禁忌目録を破れるほどの高い違反指数を持ち、さらには直接戦闘能力及び神聖術行使能力に大いに秀でておらねばならぬからな。わしは危険を犯し、教会の敷地内に開いた裏口を通じて、周囲に生息する鳥や虫等の小型ユニットに”感覚共有”の術を施しては全世界に放った……」
「ははあ……それがあんたの眼であり耳だったわけか。ひょっとして、俺を監視してたのもそいつか?」
「うむ」
カーディナルはにやりと笑うと、左手を伸ばし、人差し指をちょいちょいと動かした。すると――。
「おわあ!?」
俺は、自分の肩口から右の袖を伝い這い降りてきたソレを見て飛び上がった。小指の爪ほどもない、漆黒の蜘蛛だ。凍りついた俺の右腕をするすると移動し、テーブルの上に移ったそいつは、くるりと俺に向き直ると、四つ並んだ真紅の目玉で俺を見上げ、右前の脚を振り上げて俺に挨拶をした――ように見えた。
「名前はシャーロットじゃ。お主がルーリッドの村を出たその時から、ず――っとお主の背中や物入れの中、あるいは部屋の隅から言動を見聞きしておった」
「な……なんてこった……」
脱力する俺に背を向け、シャーロットはちょろちょろとテーブルを降りると、たちまち本棚の裏の暗がりに姿を消してしまった。
「長い任務もようやく終わりじゃな。寿命パラメータを凍結してあるゆえ、もう五十年ほども働いてもらったか……」
「は、はあ……さいですか……」
「それほどまでに、わしの目的に合致する人間を探し出すのは困難を極めたということじゃ。何せ、隔離状態のわしは使い魔たちの眼と耳で間接的な捜索を行うしかなかったが、自在に世界を閲覧できるアドミニストレータは単に違反指数パラメータをチェックし、数値が突出したものを捕縛連行すればそれで済むのだからな。これはと思った人間を、何度目と鼻の先で攫われたものか……。感情を持たぬわしじゃが、落胆と忍耐という言葉の意味はいやというほど知っておるぞ」
「……つまり、あんたは、この場所で二百年……ただひたすら世界を眺め、聞いて、手助けしてくれる人間を探し続けていた……ってわけか」
「実を言えば、ここ十年ほどは、そろそろ諦めるという言葉の意味も知るべきか――と思わんでもなかった」
かすかな笑みを唇の端に漂わせ、カーディナルは呟いた。
「わしが座して世界を眺めておるあいだに、整合騎士となるべき強者を確保するために、アドミニストレータは更に積極的なシステムを作り上げていたからな。それが、お主たちが目指していた四帝国統一武術大会の真の姿じゃよ」
「……そうか……。あの大会に優勝した達人は、整合騎士になる名誉を手に入れる――訳ではなく……」
「整合騎士にさせられるのじゃ、無理矢理に。全ての記憶と人格を封印され、”アドミニストレータ様”に盲目的に付き従う最強の人形として、な。整合騎士を輩出した家には、目の眩むような報奨金と上級爵士の地位が下賜されるゆえ、息子や娘と二度と会えなくとも、貴族の親たちはこぞって我が子にその道を選ばせる。現存する整合騎士五十名のうち、高違反指数により連行され、シンセサイズの秘儀を施された者がおよそ二十、残りは皆大会の優勝者じゃ。お主を痛めつけたエルドリエ・第二十六号(トゥエニシックス)もその一人」
「……そういうことか……」
思わず長く嘆息する。俺の指導役だったソルティリーナ先輩や、ユージオが傍付きを務めたゴルゴロッソ先輩が大会で優勝できずに故郷に戻ったのはむしろ幸いな結果だったわけだ。
それだけではない。あの悲惨な事件が起きず、俺とユージオがそのまま学院代表に選出され、首尾よく大会を勝ち抜いていたとしたら――。あるいは、地下牢から脱出できずに、審問とやらの場に引き出されていたら、俺はともかくユージオはシンセサイズの秘儀によって最新の整合騎士に生まれ変わっていた可能性は高い。ミイラ取りがミイラ、とはこのことだ。
ぞくりと粟立った肌を、カーディナルの静かな声がそっと撫でた。
「――かくして、二百年かけて奴は着々と態勢を固め、引き替えわしは望みを失っていった。さすがのわしも考えたよ。一体、わしは何故このようなことをしておるのじゃろう、とな……。魂の深奥に焼き付けられた、アドミニストレータの過ちを正すべし、という第一原則を、わしは恨んだ。なぜこのわしなのだ、と……。鳥や虫の目を通して見る世界は美しく、光に溢れておった。子供らは楽しげに草原を走り回り、娘たちは恋に瞳を輝かせ、母親たちは腕に抱いた赤ん坊に慈愛の笑みを注ぎ……。もしこの肉体の主たる家具屋の娘がそのまま成長しておったら、その全てを得られたはずじゃった。世界のカラクリなぞ知らずに平凡な一生を送り、六十年、あるいは七十年先に家族に看取られて、己が幸福な生涯を追想できたはずじゃった……」
睫毛を伏せ、囁くように言葉を綴るカーディナルの声が、わずかに揺れたような気がしたのは俺の錯覚だろうか?
「……わしは、己を、身罷る直前の老婆であると自ら定めた。最早あらゆる生の輝きは去り、全てが終わる瞬間を待つのみの枯れ果てた老木じゃ、とな。不思議に、言葉遣いすらもいつしかこのようになっておったよ。世界に放った使い魔たちの耳を借り、人間たちの営みにただ聞き入るだけの日々が繰り返される中、わしは考え続けた。なぜ、この世界を造った神たちは、アドミニストレータの専横を放置しているのか……。創世神ステイシアは、教会が支配のために作り上げた偽りの神じゃが、全システム・コマンド解説書には、真の神である”ラース”の名がそこかしこに散見できたからな。ラースが神たちの集合名であること……彼らに作られた魂無き擬似神カーディナルの存在と、その二つの行動原理をそれぞれ焼き付けられたのがアドミニストレータとこのわしであること、世界の秘密を知れば知るほど、謎は増える一方じゃった」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
話の成り行きについていけず、俺は思わず口を挟んだ。
「それじゃ……あんたは、この世界がラースによって作られた実験場だってこととか、もとのカーディナルが正副コアを持つプログラムだってこととかに、推測だけで辿り着いたのか?」
「驚くほどのことはない。二百年もの時間と、カーディナルシステムに内臓されたデータベースがあれば、誰でもその結論に達しよう」
「データベース……。そうか、あんたのアンダーワールド民らしくない語彙は、そこから手に入れたのか」
「先ほどお主が飲んだスープの味付けもな。と言っても、多くの用語に対するわしの理解とお主のそれには大きな乖離があるじゃろうがな……。しかし少なくとも、この推測だけは当たっていよう。この世界アンダーワールドが、神の被造物であるわりにはあまりにも不完全であり、またアドミニストレータの醜い支配体制が見逃されておる理由……それは最早一つしかありえぬ。神たるラースは、民の幸福な営みなど望んではおらぬのだ。むしろその逆……民たちを、まるで巨大な万力でゆっくり、ゆっくりと締め上げて、どのように抗うかを眺めるためにこの世界は存在する。――お主は知らぬじゃろうが、近年、辺境地帯では流行り病や、獰猛な獣の増加、作物の不作などによって、平均寿命以下で死ぬ者の数が増加しておる。これは、アドミニストレータですら改変できぬ”負荷パラメータ”の増大が引き起こす現象じゃ」
「負荷……パラメータ? そう言えば、さっきもそんなことを言ってたな。負荷実験段階、とかなんとか」
「うむ。厳密に言えば、現在でも負荷は日に日に増しておるのじゃが……データベースに記載された負荷実験段階なるフェイズに訪れるであろう試練は、病などの比ではないぞ」
「一体……何が起こるっていうんだ」
「人間世界を挟み込む万力が、ついに世界の殻を割るのじゃ。お主も知っておろう、人界の外に何があるか」
「ダークテリトリー……?」
「そうじゃ。かの闇の世界こそ、民たちに究極の苦しみを与えるべく作られた装置……。先ほども言うたが、闇の怪物と呼称される、ゴブリン、オーク、その他の種族は、人間と同様のフラクトライトに殺戮と強奪を求める衝動を付与された存在じゃ。彼らは単純に力のみをヒエラルキーとする体制によって組織化され、原始的じゃが強力な軍隊を作り上げておる。総数こそ人間の半分程度ではあるが、個々の戦闘能力では人間を遥か上回るじゃろう。その恐るべき集団が、彼らの言葉でイウムと呼ぶところの人間の国に攻め入り、暴虐の限りを尽くす日を今か今かと待っておる。恐らく、そう遠い未来の話ではないぞ」
「軍隊……」
ぞっとする、どころの話ではない。二年半前に、洞窟で俺と死闘を演じたゴブリンの隊長は掛け値なしの猛者だった。俺よりスピードこそ劣っていたが、膂力は遥かに優っていた。あんな連中が数千、数万も居るなどと、考えただけで肝が凍る。
「……一応、人間界にも剣士や衛士はいっぱいいるけど……はっきり言って勝ち目ないぞ。この世界の、演武に特化した剣術じゃとてもじゃないけど……」
うめいた俺に、カーディナルも軽く頷き返した。
「じゃろうな。……おそらく、本来予定されていたところでは、今ごろ人間界にもダークテリトリーに対抗し得る強力な軍隊が編成されておる筈だったのじゃろう。小規模だが絶え間なく侵入しておるゴブリンたちと戦い続けることで、レベルを上昇させ、実戦的な剣法や戦術も編み出してな。しかし、お主も知るとおり、現状はそれとは程遠い。剣士たちは実戦など一度たりとも経験せずに型の見映えばかりを追及し、軍隊の指揮官たるべき上級貴族どもは飽食と肉欲にうつつを抜かしておる。全て、アドミニストレータと、奴の作った整合騎士たちが招いた事態じゃ」
「……どういうことだ?」
「最高レベルの権限と神器級の武装を与えられた整合騎士たちは、確かに強力じゃった。ほんの十数名が果ての山脈を警護するだけで、侵入してくるゴブリン達なぞ問題なく一掃できるほどにな。――しかし、そのせいで、本来ゴブリンと闘うはずだった一般民たちがまったく戦闘というものを経験せぬまま数百年が経過してしまった。民たちは来るべき脅威のことなど何一つ知らず、安寧という名の停滞に浸って暮らすのみじゃ……」
「アドミニストレータは、近いうちにその負荷段階がやってくることを知っているのか?」
「おそらく知っておるじゃろう。じゃが、奴は、おのれと五十名の整合騎士のみで闇の軍勢を問題なく撃退できるとタカをくくっておる。その時が来たとき、貴重な戦力となってくれるはずじゃった四匹の守護竜すらも、おのれの操作が効かぬという理由のみで屠ってしまうほどにな。お主の相棒が聞いたら悲しむじゃろうな、昔話で微笑ましいやり取りをした白竜を惨殺したのが、整合騎士に改造されたベルクーリ自身じゃと知ったら」
「……その話は聞かせないほうがいいよ」
俺は嘆息しながらそう呟いた。思わず瞑目し首を左右に振ってから、顔を上げて訊ねる。
「実際のところ、どうなんだ? いざ闇の軍隊が攻めてきたら、アドミニストレータと整合騎士だけで対抗できるのか?」
「無理じゃ」
カーディナルは言下に否定した。
「確かに整合騎士どもは皆長年の実戦を経た猛者ではあるが、絶対数が少なすぎる、あまりにもな。またアドミニストレータの操る神聖術は天変地異にも等しい威力じゃが、言うたとおり、術を使うには自らも敵の射程内に身を晒す必要があるのじゃ。闇の軍隊には、一人一人はアドミニストレータの足元にも及ばぬにせよ神聖術……いや、暗黒術と言うべきかもしれんがな、ともかくシステム・コマンドの使い手が星の数ほども居るのじゃぞ。一度の轟雷で百人の術士を焼き焦がしても、次の瞬間には千の火炎に貫かれるじゃろうな。膨大な天命ゆえにそれで死ぬかどうかはわからんが、少なくともこの塔まで逃げ帰ることになるのは確実じゃ」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。てことは……俺とあんたでアドミニストレータを倒そうと倒すまいと、結局この世界の辿る運命は変わらないんじゃないのか? あんたがカーディナルシステムの全権を取り戻したところで、闇の軍勢を撃退できるわけじゃないんだろう?」
呆然と呟いた俺の言葉に、カーディナルはゆっくりと首肯した。
「その通りじゃ。ことここに至っては、わしにももうダークテリトリーからの侵略を止める手段はない」
「……つまり……あんたは、あくまで、誤作動をしているメインプロセス、つまりアドミニストレータを消去するという目的のみを果たせれば……そのあと、この世界がどうなろうと知ったことじゃないと……そう言うのか……?」
俺は掠れた声でそう訊ねた。カーディナルはしばし沈黙し、小さな眼鏡の奥で――とても哀しそうな色を瞳に湛え、じっと俺を見た。
「……そうかもしれない」
やがて呟いたその声は、周囲のランプがちりちりと立てる音にすら紛れてしまうほどに微かだった。
「そう……わしの目指しているところは、多くの魂が消滅するという結末それだけを見れば、このまま成り行きに任せるのと同じことかもしれぬ……。じゃが……もしわしやお主がここで座したまま何もしなければ、やがて……数ヶ月後、あるいは一年先かもしれぬが、確実に闇の軍勢がこの地に溢れて、村は焼かれ畑は潰され、男は殺され女は犯されるじゃろう。出現するであろう地獄は、わしの知る言葉では表せぬほどの……究極の悲惨、残酷の限りを尽くしたものとなるはずじゃ。――しかしな……仮に、わしが全権を回復し、そして一撃で闇の怪物たちを全て葬り去るコマンドを編み出せたとしても、わしはそれを使わぬよ。なぜなら……彼らとて、望んで怪物となったわけではないのじゃ。言うたじゃろう、百年考えても答えなど出ぬとな。よいか……もし、アドミニストレータという女が出現せず、この世界が本来予定されたとおりの軌道を進んだとしても、その時は、強力な軍隊を作り上げた人間たちが逆にダークテリトリーに侵攻し、かの国の住人たちを暴虐の果てに殺戮し尽くしたに違いないのじゃ!」
カーディナルの静かな声は、しかし鋭い鞭のようにぴしりと俺の耳を打った。
「どちらに転ぼうと、結末は膨大な血に塗れたものとなろう。なぜなら、その結果こそが、神たるラースの意図したものだからじゃ。この世界を創造した目的が、ラースの手足となる強力で、無慈悲で、忠実な兵士の群れを造り上げることそれ自体だからじゃ。わしは……わしは、そのような神など認めぬ。そのような結末など、どうあろうと容認できぬ。ゆえに……数十年前、負荷実験段階の到来が避け得ぬことを知ったわしは、この結論を出したのじゃ。何としても、その時が来る前にアドミニストレータを排除し、カーディナルシステムとしての権限を回復して……この世界を、人間界も、ダークテリトリーも、全てまとめて無に還すと」
SAO4_21_Unicode.txt
「無に……還す……?」
機械的に繰り返してから、俺は今更のように目を見開いた。
「どういう意味なんだ、それは……?」
「言葉どおりじゃよ。魂の揺りかご、ライトキューブ・クラスターに保存されている全てのフラクトライトを削除するのじゃ。人間のものも、怪物のものも、一つ残らず」
そう言い切ったカーディナルの幼い顔は、毅然とした決意と覚悟に満ちていて、俺はしばらく口を開くことができなかった。時間をかけて、どうにか少女の言葉が指し示す最終的解決を具体的にイメージする。
「それは……つまり、酷い苦しみの果てに多くの人が死ぬことが回避できないなら、その前に全員を安楽死させてしまうほうがまだマシだ、という……?」
「安楽死……? ――いや、その用語は正確ではないぞ」
システムに内蔵されたデータベースを検索したのか、一瞬まぶたを閉じてから、カーディナルはかぶりを振った。
「ライトキューブとは別種の記録媒体を持つお主ら上位世界の人間には有り得ぬ事象なのだろうが、この世界に暮らす民の魂を消去するのは一瞬の操作でしかない。対象者は何一つ知覚せずに、ろうそくの炎が揺らぐほどの抵抗もなく消え失せる……。もっとも、それが殺人行為であることに何ら変わりはないがな……」
数十年の時間をかけて考え抜いた結論なのだろう、そう語るカーディナルの声には、深い諦めと無力感のかすかな残響が感じ取れるのみだった。
「無論……理想を言うならば、この世界そのものがラースの支配から永遠に逃れ、独自の歴史を綴るのが最上の解決ではある。さらに数百年の時間を費やせば、人間界とダークテリトリーの無血融和すら不可能ではあるまい。しかし……神ラースからの脱却など絵空事であると、お主が最もよく理解しておるじゃろう?」
突然問われ、俺は唇を噛んで黙考した。
アンダーワールドを動かすメインフレームと、そこに接続された巨大なライトキューブ集合体が、いったい日本のどこに設置されているのか俺は知らない。しかし当然、それら機械類は恐るべき容量の電力を消費するわけで、その意味で完全なる孤立など実現不可能なのは明らかだ。
更に言えば、菊岡は、引いては自衛隊はアンダーワールドを慈善事業で運営しているわけではない。そこには、実用に耐える無人兵器搭載用AIを完成させるという明確な目的があるはずだ。仮にカーディナルが全権を回復し、外部に連絡チャンネルを開いてアンダーワールドの独立を要求したところで、ラース側は一顧だにせず彼女のフラクトライトを削除するだろう。
そう――考えてみれば、俺が今後セントラル・カセドラル最上階に到達し、菊岡と連絡できたとしても、ユージオ以下数名のフラクトライトを保全してくれという俺の要求を彼が聞き入れる保証などまったく無いのだ。ラースにとって、全ての人工フラクトライトは単なる所有物であり、実験対象であり、そもそも今動いているアンダーワールド自体が幾百、幾千の試行のうちのたった一例に過ぎないのである。
つまるところ、人工フラクトライト達が真に自由と独立を得ようとするならば、恐らくその手段はひとつだけ――現実世界の人間に対して戦いを挑む、それしかない。しかしどうやって? 彼らに、一体どのような武器があるというのだろう……?
その先を考えるのが空恐ろしくなり、俺は無理矢理に思考を遮った。いつの間にか、俺自身を、外界の人間と敵対すべきアンダーワールド人であると認識しているような気がしてかすかに戦慄する。視線を上げ、俺はゆっくり首を左右に動かした。
「そうだな、不可能だよ。この世界は、独立するにはあまりにも外側の人間たちに依存しすぎている」
「うむ……例えるならば、イケスに放り込まれ、いまに揚げられるのを待つばかりのアオヒレ魚の群れよ……。せめて出来るのは、自ら水を飛び出して息絶えることだけじゃ」
諦念に満ちた儚げな笑みを浮かべるカーディナルに向かって、しかし俺は頷き返すことはできなかった。
「でも……俺は、そこまで割り切れないよ、とてもじゃないけど……。苦しんで死ぬよりは、何も感じずに一瞬で消えるほうがマシだっていう、あんたの出した答えは確かに正しいのかもしれない……でも、それを簡単に納得するには、俺はもうこの世界の人間たちと関わりすぎてるんだ」
脳裏に、この二年半のあいだに親しく交流した人々の笑顔が次々とよぎる。彼らがダークテリトリーの怪物たちに惨殺されるところなど無論見たくないが、しかしかと言ってこのままカーディナルに協力し、皆の魂を消去することに手を貸すのが本当に唯一にして最善の手段なのだろうか。
突きつけられた二律背反に煩悶する俺に、カーディナルの穏やかな声が掛けられた。
「言うたじゃろ、ギブ・アンド・テイクと。わしが全フラクトライトを消滅させる前に、外部と連絡を取りたいとお主が望むならそれを叶えよう。しかし、もしラースがお主の要望を聞き入れないと思うなら、わしがお主の手助けをすることもできる。助けたいと思う者の名を指定すれば、その者たちのフラクトライトは消去せず、凍結させたまま残そう。あとはお主が、外部世界に脱出したのちに彼らのライトキューブを確保すればよい。十個程度であれば、不可能ではあるまい。おそらくお主にとっても、これが最善ではないにせよ次善の選択じゃ」
「…………」
突然の思いがけない言葉に、俺は鋭く息を吸い込んだ。
可能だろうか、そんなことが!?
確かに、光量子を完全に閉じ込められるライトキューブは、情報の保持に電力を必要としない。インタフェースから抜き出し、安全に保存できれば、内部のフラクトライトはいつまででも劣化することはないのだ。時間はかかるだろうが、いつかSTL技術が一般化すれば、彼らを”解凍”し再びまみえることは有り得ないことではない。しかし問題はその前の段階、ラース研究施設の中枢に位置するだろうライトキューブクラスターから複数の媒体を盗み出すことだ。一辺十センチの立方体はとてもポケットには隠せない。専用のキャリングケースを使うなら、確かに十個持ち出すのが精一杯だろう。
つまり俺は、この提案に乗った場合、救出すべき魂を選別しなくてはならないのだ。
家庭用ゲーム機のセーブデータを整理するのとは訳が違う。人工フラクトライト達は、根源的な意味において俺とまったく同じ人間だ。避け得ない死から、たった十人だけを選び救い出す――しかも、親しく交流したというそれだけの理由で――そんな真似をする資格と権利が、この俺にあるのだろうか。
「俺……俺には……」
無理だ、という言葉は口に出すことができず、俺はただカーディナルの、何もかも見透かしたような瞳を見つめた。代わりに出てきたのは、何とも情けない泣き言だった。
「――そもそも、アドミニストレータと戦うのが、どうして俺なんだ? 言っておくけど、この世界では、俺の持っているアドバンテージなんか何一つ無いぜ。神聖術も、剣の腕も、俺以上の奴がごろごろしてるんだ。そう……例えばユージオだっていい。恐らく、今あいつと本気で戦ったら、俺は勝てないよ」
俺の湿っぽい抗弁を、聞き分けのない子供に対するように辛抱強く聞いたカーディナルは、ふう、と長い溜息をついた。やれやれとばかりに首を振り、名称が変化するカップに今度はコーヒーのような黒い液体を満たすと、ゆっくり一口啜る。
「……負荷実験、つまりダークテリトリーからの侵略がもはや不可避であることを悟ったわしは、それまで以上に懸命になってわしの剣となってくれる者を探し求めた……」
再び語りはじめたのは、恐らく最終幕に差し掛かっているのだろう彼女自身の長い長い歴史だった。
「じゃが、例えどれほどの剣と術式の達人を味方につけようとも、アドミニストレータ本人に肉薄するためには、整合騎士の護衛以外にももうひとつ大きな障害をクリアせねばならんかった」
「……ま、まだ何かあるのか……?」
「うむ。探索と平行して、わしはその問題の解決法を数十通りも捻り出したが、どれもいま一つ確実性に欠けての……。そうこうしているうちに時間はどんどんと経過していき、気付けば、総侵攻の前段階として、闇の国からの先遣部隊がひんぱんに果ての山脈を脅かすようになっておった。十名ちょいの整合騎士では、完全に排除しきれないほどにな。――かくなる上は、戦闘による権限奪回は諦め、わしの首を差し出してでもアドミニストレータを説得することを検討せねばならぬか、と思い始めていた頃……わしの放った使い魔の一匹が、北方辺境の民のあいだでおよそ有り得ぬ話が流布していることを察知したのじゃ」
「有り得ない話?」
「少なくとも、クィネラがアドミニストレータとなって以来一度たりとも無かった事件に関する噂じゃよ。あの女が、人間の居住区域の拡大を妨げるために世界各地に配置した妨害オブジェクト……その一つ、途方も無いプライオリティとデュラビリティを備え、広大な範囲の成長リソースを吸収する巨木が、たった二人の若造に切り倒されたというのじゃ」
「…………どっかで聞いた話だな」
「わしは早速、最寄の村に配置してあった使い魔……先ほど紹介したシャーロットを動かし、その若造たちを捜した。ようやく見つけたのは、そやつらが村を旅立つ直前じゃった。とりあえずその片方、大雑把そうな奴の背中にシャーロットを張り付け、わしは一体なぜこやつらが、ほぼ破壊不能のオブジェクトを排除し得たのか、その理由を探った……」
大雑把な奴扱いされたことに何か言い返そうと思ったが、実際俺は二年半もあの小蜘蛛が身辺にうろちょろしていたことに気付かなかったわけで、ぐうの音も出ない。しかめ面で、カーディナルに先を促す。
「直接の理由はすぐにわかったよ。亜麻色の髪の若者が持っている剣が、世界に何本とないクラスの神器だったからじゃ。最早殺されて久しいが、世界の守護竜に認められた勇者のみに与えられる武器のひとつ……しかしそれが判っても、新たな疑問が湧いてくる。なぜこんな若造どもが、それほどハイレベルのオブジェクトコントロール権限を持っているのか、とな。久しく感じなかった興奮を覚えながら、わしは日夜、二人の会話に耳をそばだてた。その殆どは聞くに堪えぬ馬鹿話じゃったが……」
「わ、悪かったな」
「ええい、黙って聞け。――やがて、央都に続く道中の宿場で、ようやくわしはその訳を知ることができた。驚いたことに、そやつらは、たった二人でダークテリトリーからの大規模な先遣偵察部隊を撃退したと言うではないか。それが真実ならば、本来数十人に分配されるはずの規模の膨大な権限上昇ポイントを、二人で独占したということになる。一瞬にして、神器を装備できるほどの権限を得た理由はそれで判ったが……同時に、わしはまた新たな疑問に苛まれることとなった。それはつまり――ろくな衛士隊もない辺境の村に生まれた若者たちが、なぜ圧倒的な戦力を持つダークテリトリーの怪物を撃退し得たのか? ということじゃ」
「言っておくが、九割はハッタリだったぞ」
再び混ぜっ返した俺を叱ろうとしてから、カーディナルは思い返したように口をつぐみ、ゆっくりと頷いた。
「うむ……そう、それも含めての結果だったのじゃろうな。その疑問ばかりは、氷解するのに長い時間がかかった。黒髪のほう……つまりキリト、お主は、相棒のユージオに気を使って言動に注意しておったようじゃからな。しかしついにお主が、人間の食い物を、飼われていない獣つまり野良犬に与えるのを見たとき、わしは稲妻のごとき衝撃とともに悟った。お主が、禁忌目録に縛られておらぬことを……」
「……したかな、そんなこと……」
「何度もな。他人に見られておったら、お主はもっと早く教会に連行されておったわ。――それ以来、わしはお主の発言と行動を、仔細に分析した。二人が央都に到達し、修剣学院の門を潜ってからも、ずっとな。観察を始めてから一年も経った頃……わしはようやく、唯一の解答に辿り着いた。つまりお主は、この世界で生まれライトキューブに閉じ込められた魂ではなく、外部の……まことの創造神ラースが存在する世界からやってきた人間なのじゃ、と……」
「――なら、俺はあんたを失望させちゃったな。当然持っているべき管理者権限も、ラースとの連絡手段すら持ってない……それどころが、今現在、外側がどうなってるかすら知らないんだから……」
どうにも申し訳ない気持ちになってそう言うと、カーディナルは小さく笑いながら指先を振った。
「そんなことは、最初から分かっておった。もしお主にアドミニストレータを上回るシステム権限があれば、あれほどの傷を負ってまでゴブリンを剣で倒す必要は無かったのじゃからな。わしも、何故お主が今のような状態でこの世界に放り出されたのか、その理由までは察知できん。恐らくは、何かのアクシデントの結果……あるいは知識と権利を制限した上でのデータ収集と推測されるが、もし後者だとしたら、随分と巨大な代償を払っておるものじゃ、と思うがな」
「……ああ、まったくだ。もしそうなら、俺は自分が信じられないよ」
ゴブリン隊長の剣に抉られた左肩の痛みを思い出しながら、俺は呟いた。
「じゃが、わしにとってはそれでも望み得る最大限の希望じゃった、お主はな。なぜなら、お主の存在そのものが、先ほど言ったアドミニストレータと戦う上でのもうひとつの重大な障害をクリアしてくれるからじゃ」
「一体、その障害ってのは何なんだ?」
「――シンセサイズの秘儀は、その実行に、長大なコマンドと膨大なパラメータ調整を必要とする。準備段階も含めれば、およそ三日という時間が必要となる」
突然話が飛び、俺は面食らった。しかしカーディナルはそ知らぬ顔で唇を動かしつづける。
「つまり、ライトキューブに直接アクセスする神聖術は、通常の戦闘においてはほとんど考慮する必要はないということじゃ。言い換えれば、戦闘中に魂を乗っ取られ、整合騎士に洗脳されてしまう危険性は無い。ただし――もしアドミニストレータが、わしの選んだ戦士を取り込むことを断念し、ただ単に魂を吹き飛ばすことのみを狙ったとしたら……? 厳密なパラメータ調整が必要でないぶん、コマンドは飛躍的に短くなるはずじゃ。もしかしたら、護衛が戦闘しておる間に詠唱を完了できる程度にな。天命に対する攻撃は、こちらも装備や神聖術で対抗することができる。しかし、フラクトライトそのものを攻撃されてしまえば、いかなる防御も不可能じゃ。その可能性に思い至り、わしは長い間苦慮しておったのじゃ」
「……魂に対する攻撃……そりゃあぞっとしないな……」
「うむ。どれほどの使い手でも、記憶を引き裂かれてしまえばもう戦えぬ……。ゆえに、キリト、お主だけが唯一その攻撃に抗し得るのじゃよ。原初の四人、そしてお主が今使っておる神器”エスティーエル”には、さしものアドミニストレータも手出しできん。そのためのコマンドが存在しないからな。わかったか、わしがひたすらお主を待っておった、その理由が? お主が、統一大会に優勝し……あるいは禁忌目録を犯した咎人として神聖教会の地を踏み、カセドラルの中央にある審問の間に引き出されるまでのあいだにその身を大図書室に引き込むべく、最大限の数のバックドアを設置してひたすら待ちつづけた、その理由が……?」
ついに、長い、あまりに長い自らの物語を現時点まで語り終え、カーディナルは僅かに頬を紅潮させながら深く息をついた。
「……そうか、そういう事だったのか……」
事ここに至っても、俺はまだ何故自分がアンダーワールドにダイブしているのか、その理由を知らない。むしろ、それを知るために世界の中核、唯一ラースへの連絡口が存在すると思われた神聖教会を目指していた、とも言える。
しかし、とてつもなく長大な時を生きてきた少女にきっぱりと断言されると、やはり今この場所に辿り着いたのはある種の導きの結果なのか――と思わずにはいられない。アドミニストレータとの戦闘の帰趨は定かでないが、少なくともカーディナルとともに最大限の努力を試み、わずか十人であっても現実世界へ脱出させろという天の声……?
いや、運命だのなんだのを持ち出す前に、眼前の、二百年ものあいだただひたすらにこの瞬間だけを待ってきた少女に対して否と答えることなど、到底俺にはできなかった。彼女は自分のことを、感情のないプログラムだと何度も繰り返したが、長い長い物語を聞く限りにおいてはそれは真実ではないと思える。カーディナルもまた、俺と同じ喜怒哀楽を持つ人間であるはずなのだ。例えただ一つの欲求――世界を正せ、という命令に縛られていたとしても、なお。
「どうじゃ、キリトよ。わしは強制はできん……もしお主が、世界を無に戻すというわしの計画に賛同できぬと言うなら、もっとも最上階に近いバックドアからお主とユージオを送り出してやろう。その場合は、お主らが万難を排してアドミニストレータを倒し、それぞれの目的を果たしたそのあとは、おそらくわしと戦うことになるじゃろうが……それもまた運命、と言うほかあるまいな……」
そう呟いてから、カーディナルは、俺たちをこの図書室に招き入れてからもっとも年齢相応と思える、透き通った笑みを唇に浮かべた。
長い間沈黙したあと、俺は彼女の問いに、問いで答えた。
「カーディナル……。あんたは、自分の魂はクィネラのコピーだと、そう言ったよな……?」
「うむ、如何にもその通りじゃ」
「なら……あんたにも、純粋なる貴族の血が流れているはずだ。己の利益と、欲望のみを追及する遺伝子が……。なぜあんたは、全てを投げ出し、逃げようとしなかったんだ? どこか辺境の、アドミニストレータでも追跡できないくらい遠くの小さな村に逃げて、一人の平凡な女の子として恋をして、結婚して、子供を育てて……幸せのうちに老いて死ぬことも、あんたには可能だったはずだ。それがあんたの望みだったんだろう? その望みに従えと、あんたの血は命じていたはずだ……二百年間、ずっと。なぜその命令に抗ってまで、こんな場所でたった一人、二百年も待ちつづけたんだよ……?」
「愚かな奴じゃ、つくづく」
カーディナルはにこりと笑った。
「言うたじゃろう、カーディナル・サブシステムの存在目的を焼きこまれたわしにとって、あらゆる利益、あらゆる望みはただひとつ、アドミニストレータの排除と世界の正常化じゃ。わしにとっては、もはや正常なる世界とは、完全なる虚無に戻すこと以外に実現できぬのじゃ。ゆえに――ゆえにわしは――」
ふと言葉が途切れ、俺はカーディナルの眼鏡の奥を覗き込んだ。見開かれたバーント・ブラウンの瞳は、何らかの感情を抑えかねて、大きく揺れているように見えた。やがて唇が動き、聞き取れないほどに小さな声が漏れた。
「……いや……違うかな……。わしにも……わしにも、欲望はある、たった一つ……。この二百年……どうしても知りたかったことが……」
瞼を閉じ、ふたたび持ち上げて、カーディナルはじっと俺を見た。珍しく何かを躊躇するように唇を軽く噛み、両手を握り合わせてから、軽く咳払いして椅子からすとんと降りる。
「おいキリト、お主も立て」
「は……?」
言われるままに腰を上げる。首を傾げる俺を、カーディナルは随分と背中を反らせて見上げた。俺はそう背丈がある方ではないが、それでも十歳そこそこの外見を持つ少女とはかなり高さに差がある。
カーディナルは眉をしかめてから周囲を見回し、いままで座っていた椅子に右足を乗せると、よいしょとその上に登った。振り向き、俺と目線がほぼ同一になったことを確かめるように頷く。
「これでよい。おいキリト、こっちに来い」
「……?」
いぶかしみながら数歩移動し、カーディナルの手前に立つ。
「もっと前じゃ」
「ええ?」
「つべこべ言うな」
一体何事ならん、と思いながらも、俺はじりじりと前進した。そこでよい、と言われたときには、すでに互いの前髪が接触しそうな至近距離に達していた。冷や汗をかく俺を、カーディナルはちらりと眺めてからすぐに視線を外し、更に命令を重ねた。
「両手を広げろ」
「…………こうか?」
「前に回し輪っかを作れ」
「……………………」
よもや、言われたとおりにした途端あの激重ステッキでぶちのめされる、などということはあるまいな――と怯えつつ、両手をゆっくりと動かし、カーディナルの体を迂回させて背中からずいぶんと離れた場所で左右の指先を接触させた。
そのままぎこちない沈黙に満ちた数秒が経過したあと、カーディナルはちっと可愛らしい舌打ちをした。
「ええい、遠回りな奴じゃ」
どっちがだ、と言いかけたのも束の間。
俺の背中にも、ローブを割ったカーディナルの両腕がおずおずと回され、ごくわずかな力が上着の布地越しに伝わった。俺の額にぶつかった巨大な帽子がとすんとテーブルに落下し、栗色の巻き毛が左頬を撫でていった。肩と胸に、ささやかな重みとほのかな熱。
「……………………」
更なる高密度の沈黙に耐えられるだけ耐えてから、俺は、いったいどういう……、と尋ねようとした。しかしそれよりも早く、カーディナルのほとんど音にならない声が、俺の左耳そばの空気を震動させた。
「そうか……これが……」
長く、深いため息に続いて――。
「……これが、人間であるということか」
瞬間、俺ははっと息を飲んだ。
二百年に渡る孤独の中で、あらゆる思索を重ねたカーディナルが、最後に知りたいと思うものがあるとすれば、それは他の人間との触れ合い以外には有り得ないではないか。人間である、ということはすなわち他者との交感を為し得る、ということである。言葉を交わし、手を取り合い、強く抱き合って、魂の接触を感じ取る、ということである。
遠い昔、あのデスゲームの中で、俺はおよそ一年にわたって人間であることを止め、他人を頑なに拒否して己の効率的強化のみを考える機械と化し、同時に乾ききった魂の荒廃をいやというほど味わった。たった一年間、それでもあの頃の荒涼たる心象風景は、今も俺の中に砂漠にも似た広がりを確として保っている。
なのに、この少女は、その二百倍もの時間を、たった一人、この乾いた紙の牢獄で――。
俺はようやく、カーディナルの過ごしてきた時間を、ある程度のリアリティを伴って実感していた。同時に左右の腕が動き、少女の背中をしっかりと引き寄せた。
「……あったかい……」
ぽつりと呟く声と同時に、俺の頬にも、小さな温かみがゆっくりと移動していくのが感じられた。これは――涙……?
「……やっと……報われた……わたしの、二百年は……間違いじゃなかった……」
ひとつぶ、もうひとつぶと涙が頬を伝い、襟元に消えていく。
「この暖かさを知っただけで……わたしは満足……報われた、じゅうぶんに……」
どれほどの時間そのままでいただろうか、すいと空気が動いたと思ったときには、もう俺の腕のなかは空っぽになっていた。
椅子から降りたカーディナルは、こちらに背を向けたままテーブルの帽子を持ち上げ、ぽんぽんと叩いてから頭に乗せた。ステッキを拾い、眼鏡を押し上げながら振り向いたその顔は、すでに超然とした賢人の雰囲気を取り戻していた。
「おい、いつまでぼうっと突っ立っておるつもりじゃ」
「……そりゃないよ……」
先刻の涙は幻だったかと思いたくなる辛辣な言葉に、俺はもごもごと抗弁し、テーブルの端に腰を乗せた。腕を組み、長く息を吐く俺を、カーディナルはしばしじっと凝視していたが、やがて素っ気無く最終的な問いを発した。
「――で、結論は出たか? わしの提案に乗るか、それとも蹴るか」
「…………」
ここで即答できるほど、俺は決断力を備えてもいなければ、思い切りがよくもない。確かに、冷静に計算すれば、救うべき十人を選別しカーディナルの手を借りて現実世界に脱出させるのが、望み得る最大限の結果だ――ということになるだろう。それ以上の代案を、今の俺は導き出すことができないのだから。
だが、しかし――。
「……わかった。あんたの作戦に乗るよ」
頷きながらそう口にしてから、俺は顔を上げてカーディナルの目を見た。一語一語を意識しつつ、ゆっくりとその先を続ける。
「でも、考えるのはやめない。この先、神聖教会の中枢……整合騎士たちやアドミニストレータと戦うあいだも、何か手段がないか探し続ける。負荷実験段階の悲劇をどうにか回避して、この世界が平和の裡に存続できるような解決法を」
「やれやれ、とんでもない楽天家じゃな。わかっておったことじゃが」
「だってさ……、俺は、あんたにも消えてほしくないんだ。十人選べと言われたら、その中にはあんたも入るよ、間違いなく」
ほんの一瞬見開いた瞳を、すぐさま苦笑いの色で覆い、カーディナルは大仰な動作でかぶりを振った。
「……そのうえ、愚かな奴じゃ。わしが脱出してしまったら、誰がこの世界を消去するというのだ」
「だから……状況は理解したけど、悪足掻きは放棄しない、って言ってるだけだよ」
言い訳じみた俺の台詞に、呆れたような笑みだけを返して、少女はくるりと背中を向けた。翻るローブが起こした微風に乗って届いた声は、先ほどの刹那の触れ合いなどでは到底埋めきれない二百年の隔絶を秘めて、どこまでも静かだった。
「お主にも……いつかは諦めという果実の苦さを知る時が来る……。力尽くして及ばぬことではなく……及ばぬであろうという推測を受け入れなくてはならぬ時が……。――さあ、戻るぞ。相棒もそろそろ年代記を読み終わるじゃろう。具体的な戦術は、ユージオを交えて話そう」
かつっ、とステッキを鳴らし、カーディナルは俺を見ることなく、もと来た階段へと歩みを進めた。
カーディナルの見立てどおり、俺たちが歴史書の回廊に踏み込むのと、ユージオが膝に抱えた最後の一冊の裏表紙を閉じたのはほぼ同時だった。
ユージオは、数百年ぶんの歴史逍遥からいまだ醒めやらぬようにしばらく瞳を彷徨わせていたが、やがてぱちぱちと瞬きして俺を見上げた。
「あ……ああ、キリト。どれくらい時間経った……?」
「え? えーと……」
慌てて周囲を見回すが、時計はもちろん、窓の一つも存在しない。隣でカーディナルが小さく咳払いし、代わりに答えた。
「およそ三時間じゃな。もうソルスはすっかり登りきったぞ。――どうじゃったかな、長き世界の歴史は?」
「うーん……なんて言うか……」
問われたユージオは、言葉を探すように何度か唇を舐めてから、煮え切らない口調でつぶやいた。
「……この本に書いてあるのは、ほんとうに実際にあった出来事なんでしょうか? まるで……よくできたおとぎ話の連続を読んでるみたいで……。だって、ほとんどの挿話が、どこそこでこういう問題が起きました、司祭や整合騎士が赴いて解決しました、そしてそれ以来、かくかくしかじかの条項が禁忌目録に加えられたのです――っていうやつばっかりなんだ」
「仕方あるまい、それが史実じゃからな。ザルに注がれる水が零れぬよう、網目をひとつひとつ埋め続けてきたのが教会という愚かなる組織じゃ」
吐き捨てるようなカーディナルの台詞に、ユージオは目を丸くした。無理もない、これほど直截に教会を批判する人物に出会ったのは初めてだろうし、そのうえそれが年端も行かぬ少女だというのだから。
「あ……あの、あなたは……?」
「あー、この人はカーディナル。えーと……いまの最高司祭アドミニストレータに追放された、かつてのもう一人の最高司祭だ」
俺がかいつまんだ紹介をすると、ユージオは喉の奥でングッという奇妙な音を発して後ずさった。
「いや、ビビらなくてもいいって。俺たちが、整合騎士連中と戦うのに協力してくれるそうだから」
「き……協力……?」
「ああ。この人にも、アドミニストレータを倒して最高司祭に復帰するという目的があるんだ。だから……まあ、共闘体制ってことだな」
俺の至って簡素化された説明は、決して嘘ではないが、カーディナルが権限を取り戻したその先にはユージオの家族を含む全住民の消去という結末が待っていることまではとても言えなかった。いずれはユージオとも話し合わなくてはならないだろうが、しかしどうやって切り出したものか見当もつかない。
素直という言葉が服を着ているような俺の相棒は、疑いの色ひとつない薄茶色の瞳でまっすぐにカーディナルを見つめ、おずおずと微笑んだ。
「そうですか……助かります、本当に。かつての最高司祭……ってことは、じゃあ、アリス……整合騎士の、アリス・シンセシス・フィフティが、ルーリッドのアリス・ツーベルクと同一人物なのかどうかを……いや、彼女を元に戻す方法すらも知ってるんですか……?」
たどたどしく発せられたユージオの問いに、カーディナルはわずかに睫毛を伏せた。
「すまんが……わしがこの場所で手に入れられる情報は、ごく僅かなものなのじゃ……基本的には、そう多くない使い魔たちがその目で見、耳で聞いた事柄に限定されておる。それですら相当に危険なのだ、もし使い魔の一匹でもアドミニストレータに生きて捕獲されれば、彼らとわしを繋いでおるチャンネルを乗っ取られ、この場所に強引に通路を開かれるやもしれんからな。……よって、この二年というもの、わしは、最後の希望と定めたお主らの動向のみに気を配ってきた。アリスなる最新の整合騎士がどこから連行されてきたのか、今となっては知る術もない……」
そこまで聞いたユージオはがっくりと肩を落としかけたが、続く一言に鋭く息を吸い込んだ。
「――しかし、整合騎士たちに施された洗脳処理……”シンセサイズの秘儀”を解除する方法なら教えられる」
カーディナルは腕組みをし、難しい表情で続けた。
「基本的には、彼らのフラク……いや、魂に挿入された行動原則キーを除去すればよい」
「行動……原則キー?」
訝しげに繰り返すユージオに、俺は横から口を挟んで補足した。
「ほら、あの鞭使いのエルドリエと戦ったときに見たろう、あいつのおでこから出てきた紫色の三角水晶……あれが、そのキーらしい」
「ああ……エルドリエに、修剣学院のこととか親の名前とかを言ったら様子がおかしくなって、額から出てきたあれかい?」
「うむ、まさにそれじゃ」
右手のステッキを掲げたカーディナルは、その先端で宙に横線を引いてから、線の中ほどを断ち切るように動かした。
「行動原則キーは、記憶回路の幹線部分を阻害する形で挿入されておる。それにより、被処置者の過去の記憶を封じ、同時に教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を強いておるのじゃ。――しかし、そのように強引かつ複雑な術式ゆえに安定度は高くない。キー周辺の重要記憶が外部から刺激され、活性化してしまうと、お主らが見たように術式が解除されかかってしまうこともある」
「つまり……術を解くには、整合騎士の過去の記憶を揺さぶってやればいい、ってことか?」
俺は勢い込んでそう尋ねたが、期待した答えは返ってこなかった。
「いや……それだけでは不十分じゃ……。もう一つ、絶対に必要なものがある」
「そ、それは何なんです?」
今度はユージオが身を乗り出す。
「キーが挿入されておる箇所に本来存在したもの……つまり、被処置者にとっていちばん大切な記憶の欠片じゃよ。たいていは、最も愛する者の思い出がそれにあたる。お主らが戦ったその整合騎士が、強く反応した言葉を憶えておるか?」
俺が記憶を掘り返すよりも早く、ユージオが呟いた。
「確か……エルドリエのお母さんの名前を言ったときだったよ。額の水晶が、ものすごく光って……今にも抜け落ちそうになったんだ」
「ならばそれじゃろうな……。その騎士は、母親に関する記憶の中核部分を抜き取られ、そこにキーを埋め込まれておるのじゃ。――そもそも、アドミニストレータにとっては整合騎士の過去の記憶など全く不要なれど、本来記憶と能力は一体のものなのじゃ。過去を全て消せば、騎士としての強さ……剣の振り方や神聖術の式までも失われてしまう。よって、回路の流れを阻害するに留めておるわけじゃな。わしは、延命のために過去の記憶の大幅な削除を行ったが、その期間に得た進歩も全て捨てることとなった……」
短く息を吐き、カーディナルは言を重ねた。
「繰り返すが、全ての整合騎士は、最も大切な記憶のピースをアドミニストレータに奪われておる。それを取り戻さぬ限り、たとえ行動原則キーを除去できても、記憶回路の流れは元には戻らぬ。最悪の場合、回路自体に致命的なダメージを負ってしまうかもしれぬ」
「記憶のピース……。じゃ、じゃあ……もし、アドミニストレータがそいつを破棄してたら……」
恐る恐る俺がそう口にすると、カーディナルは難しい表情のままゆっくりとかぶりを振った。
「いや……そうは思わん。アドミニストレータは慎重な女じゃ、何かに使えそうなものを消去したりはせぬじゃろう。恐らくは、自らの居室……セントラル・カセドラル最上階に保管しておるはず……」
カセドラル最上階――という言葉を聞いたとたん、俺の記憶の一部がちくりと刺激されたが、その手触りは尻尾を掴まえる前にするりと消え去ってしまった。奇妙なもどかしさを感じながら、俺は呟いた。
「てことは……ちょっと待ってくれ、整合騎士たちを元に戻すためには奪われた記憶のピースが必要だけど、それを手に入れるには結局騎士たちを突破してアドミニストレータのところまで到達せにゃならん……って訳か……」
「殺さずに勝とう、などという甘い考えが通じる相手ではないぞ」
カーディナルが、じろりと俺を睨んで言った。
「わしにしてやれるのは、装備の面でお主らを整合騎士と対等にしてやれる程度のことじゃ。あとは、お主らがどこまで死力を振り絞り戦えるかにかかっておる」
「え……あんたは、一緒にきてくれないのか?」
てっきり無限ヒールつきの心強い後衛が出来るものと期待していた俺は、愕然としてそう訊ねた。しかしカーディナルは素っ気無く鼻を鳴らした。
「ふん、もしわしが外に出れば、即座にアドミニストレータも親衛隊ともども降りてきてその瞬間総力戦となってしまうじゃろう。一度に十人、二十人の整合騎士を相手に回して勝てる自信がお主にあるならそれでもよいがな、ん?」
意地の悪い笑みとともにそう問われれば、俺は首を左右にぶんぶん往復させるしかない。
「――じゃが、今ならまだ、アドミニストレータはお主らを整合騎士とすることに未練がある。二人だけで出て行けば、小数の騎士を回して生け捕りにしようとするはずじゃ。その騎士たちを各個撃破しつつ、塔を駆け上る以外に作戦はあるまい」
「むう……」
確かに、数に勝る敵と戦う上で、集団を分断しつつの各個撃破は基本戦術ではあるが、分断したところであの整合騎士が相手なのだ。正直、三人来たらもうお手上げという気がしてならない。
黙り込んだ俺に代わって、ユージオが、彼にしてはやや思い詰めた光を両目に浮かべながら言った。
「――いいですよ、戦えというなら戦いますし、殺すしかないなら……それもやむを得ません。元々、そう覚悟して牢を破ったんですから……。でも、もしアリスが出てきたら……? アリスとまでは戦えません、何のために二年半もかけてここまで辿り着いたのか、わからなくなる」
「ふむ……そうじゃな。ユージオよ、そなたの目的は、わしも理解しておる。――よかろう、もし整合騎士アリスがそなたの前に立ったら、これを使うがよい」
カーディナルが黒いローブの懐から取り出したのは、二本の極小サイズの短剣だった。
十字架の長軸をただ尖らせたような、シンプルな形状をしている。装飾らしいものは、握りの下端からぶら下がる細い鎖だけだ。深い銅の色に輝くそれを、カーディナルは俺とユージオに一本ずつ差し出した。あまりに細い柄を、指先でつまむように受け取ると、予想外の重さに思わず落としそうになる。全長は二十センも無いのに、学院の制式剣とたいして変わらない手応えだ。
「これは……? 一撃必殺の秘密兵器か何かか?」
鎖に手をくぐらせ、目の高さにぶらさげながら俺がそう問うと、カーディナルは素っ気無くかぶりを振った。
「その剣自体に攻撃力はほとんど無いよ、見た目どおりな。しかし、それに刺された者は、図書室内にいるわしとの間に切断不可能のチャンネルが確立される……つまり、わしの用いるあらゆる神聖術が必中となるわけじゃ。なぜなら、その短剣はわしの一部じゃからな。――ユージオよ、整合騎士アリスの攻撃を掻い潜り、体のどこでも良いからそれを刺せ。天命はほとんど減らぬ。その瞬間、わしの術でアリスを深い眠りに導こう……お主らが、彼女の記憶片を取り戻し、シンセサイズ解除の準備を整えるまで」
「深い……眠り……」
半信半疑の様子でユージオは掌に乗るブロンズ色の短剣を見つめた。恐らく、ペーパーナイフよりも短いこの剣を用いてさえ、アリスの肌を傷つけるのは抵抗があるのだろう。
俺は迷う相棒の背中を軽く叩き、言った。
「ユージオ、この人を信じよう。仮にアリスと剣を交えた上で気絶なりさせようと思えば、俺たちはもちろん彼女だって相当の傷は免れないよ。それに比べれば、こんな短剣で突かれるくらい、イライラ虫に刺されるくらいのもんだ」
「……うん、そうだね。わかりました……話しても無駄なようなら、これを使わせてもらいます」
前半を俺に、後半をカーディナルに向かって言い、ユージオは己を納得させるように深く頷いた。ほっと息をつき、俺も改めて右手にぶら下がる十字の短剣を眺めた。
「しかし……あんたさっき、この剣があんたの一部、って言った? どういう意味なんだ?」
首を傾げながら訊ねると、カーディナルは大したことではない、とでも言いたげな仕草で肩をすくめた。
「あらゆるオブジェクトをジェネレートできるわしやアドミニストレータでも、無から有を生み出せるわけではない」
「はあ……?」
「世界に割り当てられたリソースは有限じゃ。お主らが倒したギガスシダーの周囲に畑を作れなかったことからもそれがわかるじゃろう? 同じように、わしが、ある値のプライオリティを持つオブジェクトを生成しようとすれば、それと同等のオブジェクトが術の有効範囲内に存在せねばならぬ。かつてわしがアドミニストレータと戦ったとき、彼奴は剣を、わしはこのステッキを創り出したが――その瞬間、彼奴めのクローゼットに貯め込まれた貴重なアーティファクトがごっそり消えておる、ふふ」
カーディナルは右手のステッキでこつんと床石を叩き、少しばかり愉快そうに含み笑った。
「――しかし、見てのとおり、この図書室は閉鎖された空間じゃ。高プライオリティの武器を作ろうにも、変換対象となるオブジェクトが存在せぬ。この杖を使うことも考えたが、アドミニストレータと戦闘になったとき無いと困るしな……。消去法で考えれば、代償となり得るのはただ一つ、我が身のみであることは明白じゃった。わしの身体は高いぞ、何せ世界最高の権限の持ち主じゃからな」
「な……」
俺は息を呑み、カーディナルの華奢な体躯を眺めた。何度か言葉を飲み込んでから、おそるおそる口を開く。
「……そ、それは……つまり、その、身体の一部を切断して、オブジェクトに変換してからその箇所を再生させたと……?」
「阿呆ゥ、それでは結局何も捧げておらぬではないか。これじゃよ」
カーディナルは頭を横に向けると、細いうなじの上にわずかにかかる茶色の巻き毛を指先でくるりと弾いた。
「あ、ああ……」
「一本につき、百年ぶん伸ばした髪を用いてある。二つ目の剣を作ったのは、ほんの一ヶ月ほど前じゃ。お主がもっと早く来れば、切る前に自慢してやったものを」
冗談めかしているが、瞳の端にちらりと悲しそうな色が浮かんだのは、やはりカーディナルのある部分は生身の女の子のままであるという証だろうか。しかし感傷のかけらはすぐに賢者然とした態度の陰に沈み、毅然とした声が続いた。
「――以上の理由により、その短剣は見た目は小さいが、整合騎士の鎧を貫くに足るプライオリティを持っておる。さらに、ID管理上はいまだにわしの身体の一部分でもあるゆえ、大図書室を包む虚無アドレスを越えてコマンドを送り込むこともできる。……もともとは、対アドミニストレータ用に生成したものじゃ……キリト、お主に、彼奴めの猛攻撃を掻い潜りその剣を刺してもらうためにな。一本は予備のつもりじゃったが、なに、一度で成功すればよい話じゃ」
「う……責任重大だな……」
再度、右手の下で揺れる短剣を見てから、俺はようやく気付いた。深いブロンズの輝きは、カーディナルの帽子の縁から覗く短い髪の色とまったく同一だった。
ユージオも、飛び交う単語に戸惑いながらも与えられた剣の貴重さは理解したようで、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……本当に、いいんですか? 二つしかないものの片方を、アリスのために使わせてもらって……?」
「構わぬさ。それに、どちらにしろ……」
続きを飲み込み、こちらを見たカーディナルの目は、俺の内心を完璧に見透かしているようだった。そう、どちらにしろ、ユージオとアリスを含む十人のフラクトライトを現実世界に脱出させるためには、カーディナルの手を借りてアリスの洗脳を解除することもまた必須なのだ。
ユージオに全てを説明するのは、アリスを取り戻してからにしたほうがいいだろう。愛する相手と一緒なら、ユージオもこの世界を捨てることに同意してくれるかもしれない。いや、そうして貰わなければならない、何があろうとも。
いつの間にか、カーディナルの最終的計画をやむなしと考えている自分に忸怩たるものを覚えて、俺は細い鎖をぎゅっと握り締めた。そう――止むを得ないことかもしれない、この世界が消えるのは。しかしその場合でも、どうにかして、カーディナルの魂だけは十人の中に含めたい。たとえ、結果として彼女を欺くことになったとしてもだ。
全てを見通すようなカーディナルの大きな瞳から逃れるように、俺は横を向くと服の胸元をくつろげ、鎖に頭をくぐらせて短剣を胸元にぶら下げた。ユージオにも同じようにさせてから、俺は先ほどのカーディナルの説明を聞いていてふと思いついたことを訊ねた。
「そう言えば……オブジェクトを生み出すのに、何か代償となるものが必要なら、あれはどうなんだ? 俺たちがここに来たとき、あんたが山ほど出してくれた食い物は?」
カーディナルは軽く肩をすくめ、にこやかに答えた。
「何、気にやむことはない。どうでもいい歴史書が、二、三冊消えただけのことじゃ」
両手で首元の鎖を握ったまま、歴史マニアのユージオが、喉の奥でうぐっと奇妙な音を立てた。
「ん? なんじゃ、もっと食べたいのか? 育ちざかりじゃのう」
ステッキを掲げ、一振りしようとするカーディナルを、ユージオは首と両手を同時に高速運動させて押し止めた。
「い、いえもうお腹いっぱいですから! そ、それより話の続きをお願いします!!」
「遠慮せんでもいいというのに」
分かってやっているのではと思いたくなるほどににこにこしながらそう言うと、カーディナルは杖を下ろし、咳払いをひとつしてから口調を改めた。
「――順序が入れ替わってしまったが、先ほど説明したとおり、その二本の短剣こそが我々の切り札じゃ。ユージオはアリスに、そしてキリトはアドミニストレータに、それぞれの剣を刺すことのみを最優先に考えよ。成功の確率が上がると思うなら、不意打ち、死んだふり、何でもするのじゃぞ。わしが思うに、お主らが整合騎士どもに優るのはただ一点、あれこれ汚い手に精通しておるということのみじゃからな」
甚だ心外そうなユージオが何か言い出すよりも早く俺は、まったくその通りだ、と相槌を打った。
「できるものなら、全戦卑怯な手で切り抜けたいけど……残念ながら地の利は向こうにあるからなぁ。正面戦闘の備えだけはしておかないと……ということで、カーディナル。さっき言ってた、『装備面で整合騎士と同等の条件にしてやる』っていうのは、つまり神器級の武器だの鎧だのをどっさり出してくれるという意味だと解釈していいんだよな?」
このような緊迫した状況にあっても、俺に染み付いた救いがたいゲーマーの性は、”最強武器入手イベント”の匂いに敏感に反応してしまっていた。心ときめかせつつカーディナルをじっと見つめると、少女は今日何度目かのほとほと呆れ顔をつくり、何度目かのすげない台詞を口にした。
「ど阿呆ゥ、お主何を聞いておったのじゃ。よいか、高位オブジェクトの生成には――」
「――そうか……同クラスのオブジェクトの代償が必要……だった……」
「おやつを落とした子供のような顔をするでない! お主らを選んだ決断に疑問が湧いてくるではないか。大体、武器というものが、与えられたその瞬間から自在に操れる代物でないことは重々承知しておるじゃろう。どれほど強力な神器を出してやったところで、整合騎士たちが数十年にわたって使い込み、おのが血肉としておる武器に敵うものではないぞ」
俺は、まるで銀色の蛇のように自在にうねり、襲ってきたエルドリエの鞭を思い出し、頷かざるを得なかった。確かに、SAO時代でも、入手したばかりのレア武器に浮かれて習熟訓練もせずに実戦投入するような奴は長生きできなかったものだ。
おやつどころか誕生日のケーキを丸ごとひっくり返した子供のような気分でしゅんとしていると、呆れと憐れみがブレンドされた表情でカーディナルが先を続けた。
「そもそも、わしが出してやらずとも、お主とユージオにはもう充分すぎるほど強力な愛剣があるじゃろうが」
「えっ!」
弾かれたように反応したのは、隣で腹のあたりをさすっていたユージオだった。
「取り返してくれるんですか!? 青薔薇の剣と……黒いやつを?」
「そうするしかあるまいよ。あの二振りの剣はまさしく真の神器じゃ。片や、世界に四つしかない竜騎士専用武器、方や、数百年にわたって広大な領域のリソースを吸収しつづけた魔樹の精髄……あれらと同等の武器を即時生成するのは、わしやアドミニストレータでも困難じゃ。その上、お主らはあの二振りに充分馴染んでおるしな」
「なんだ……それが出来るなら早く言ってくれよ」
俺はほっと息を吐き、背中を傍らの書架に預けた。
没収されてしまった俺たちの愛剣を取り戻すことは半ば諦めていたが、あれらを回収できるならば何の不満もない。
「でも、取り返すって言っても、この場所に直接転送するとかはムリ……なんだよな?」
「うむ、ようやく分かってきたようじゃな」
俺の問いに軽く頷き、カーディナルは難しい顔で腕を組んだ。
「恐らく、そなたらの剣は塔の三階にある武具保管庫に収納されているはずじゃ。最寄りのバックドアからはほんの三十メルと言ったところじゃが、先ほど見せたように、ドアは一度使えば二度とは開けぬ。アドミニストレータめが探知のために放った蟲どもがたちまち群がってくるからな……。よって、お主らには、そのドアから出て剣を回収したあと、自力で塔を登ってもらうしかない。幸い、武具庫の正面が大階段じゃ」
「うーん、三階からスタートか……。ちなみに、アドミニストレータの部屋ってのは何階なんだ?」
「セントラル・カセドラルは年々上昇を続けておるからな……現在では百階に迫っておるはず……」
「ひゃ……」
俺は思わず喉を詰まらせた。確かに、神聖教会の雲を衝く巨塔は、セントリアのどこから見上げてもその頂きは朧に霞むほどに高かったが――いくらなんでも常軌を逸している。王道バトルものの少年マンガじゃあるまいし、まさか一階ごとに整合騎士との戦闘が待ってるんじゃないだろうなあ、といささかげんなりしながら俺は泣き言を言った。
「あのー、それせめて五十階スタートとかにならないんスかね……」
「物は考えようだよ、キリト」
苦笑混じりに口を挟んだのは、俺より十倍は前向き人間のユージオだった。
「行程が長ければ、それだけ敵も分散して出てくるだろうしさ」
「あー、うー、そりゃそうかもしれんが……」
ずるずると背中を滑らせ、通路に腰を下ろしてから、俺はがくりと頷いた。
「……まぁ、旧東京タワーの外階段を登ったこともあるしな……」
「はぁ?」
「いや、何でもない。――ともかく、これで行動の指針は決定したわけだな。まず武器庫に忍び込んで、剣を取り返す。そんでもって、出てくる整合騎士を倒しながら、階段を百階まで登る、と。作戦はシンプルなほうがいいって、誰かも言ってたしな……」
ようやく腹をくくりかけたところに、カーディナルの冷静な声が更なる水を差した。
「残念じゃが、もう一つせねばならんことがあるぞ」
「え……な、何?」
「お主らの剣は確かに強力じゃが、それだけでは整合騎士たちには恐らく勝てん。なぜなら、連中には武器の性能を数倍に増幅する秘術があるからじゃ」
「あ……”武装完全支配”……」
ユージオの掠れた呟きに、カーディナルはこくりと頷いた。
「神器級の武器は、その基となったリソースの性格を受け継いでおる。お主らが戦ったエルドリエの”星霜鞭”は、東国最大の湖の主であった双頭の白蛇をアドミニストレータが生け捕り、武器に転換したものじゃ。しかし物言わぬ鞭となったあとも、その組成式には、蛇が持っていた素早さ、狙いの正確さといったパラメータが残されておる。完全支配術はその、言わば”武器の記憶”を解放することで、本来有り得ない超攻撃力を実現するのじゃ」
「うええ、マジで蛇かよ!」
俺はうめきながら、エルドリエの鞭に噛み付かれた胸元をさすった。白蛇とやらに遅効性の毒が無かったことを祈りつつ、さらに続くカーディナルの解説に耳を傾ける。
「整合騎士たちは皆、アドミニストレータに与えられた武器の完全支配コマンドを会得しておる。長大なそれを、引っかからずに高速詠唱する訓練も含めてな。流石に詠唱の練習をしておる時間は無いじゃろうが、せめてお主らも、それぞれの剣の完全支配を実現しておかねばとても勝利は覚束ぬぞ」
「いや……でも、俺の黒いやつは、基が生き物じゃなくてただの樹だぜ……? 解放するような記憶なんかあるのか?」
「ある。先ほど渡した短剣も、わしの髪であった頃の記憶を保持しているからこそ、完全支配術と同様のプロセスによって、攻撃が成功した瞬間わしとの間にチャンネルを開くことができるのじゃ。お主の剣の前世であったギガスシダーは勿論、ユージオの青薔薇の剣の基である永久氷塊ですら例外ではない」
「こ……氷、ですか、ただの」
さすがのユージオもぽかんと口を開けた。それはそうだ、氷の記憶、と言われてもそんなもの、”冷たい”くらいしか思いつかない。俺は首を捻りながら、それでも世界に二人しかいない神様の片方が言うことだから、と強引に納得しようとした。
「まあ……あんたが術式を教えてくれるんなら、可能なんだろう、俺たちの剣の完全支配術も。必殺技が出来るのは何より有り難いよ、一体どんな技なんだ?」
しかし、返ってきた言葉はさらに予想外のものだった。
「甘えるでない! 基本となる公式だけは教えてやるが、それを完全な式に組み上げるのはお主たちじゃ。神聖術の文法はすでに二年もかけて学んでおるじゃろう?」
「な……ちょ、そりゃ無いよ! この期に及んでそんな、学院の試験じゃあるまいし……」
「与えられただけの式では、発動はできても使いこなせぬ。式を組む前に、まずその技の明確なイメージが無ければな。馴染んだ愛剣の手触り、質感、その素性に思いを致し、解放されたときのあるべき姿を想像しながら公式にコマンドを当てはめていくのじゃ。ほれ、これが公式じゃ」
もう完全に教師以外の何者でもない態度で、カーディナルはローブの袂から二本のスクロールを取り出した。げんなりしながら受け取り、紐を解くと、ぱらりと捲れた紙の端にびっしりとコマンドが墨書してあるのが見えた。
「よいか、制限時間は三時間じゃ。それまでに式を完成させるんじゃぞ」
「な、何だよ制限時間て!」
これじゃ完全に学科試験じゃないか、と愕然とする俺に、もう耳慣れた例の罵倒が浴びせられた。
「ええいこの阿呆ゥめ、先ほど、もうソルスは完全に昇ったと言うたじゃろうが!」
「そ、それが……?」
「すでに午前八時になんなんとしておる。ちなみにお主らが教会の地下牢に叩き込まれ、剣が没収されたのが、昨日の午後一時頃じゃ。このまま二十四時間が経過してしまうと、所有権が失われ、剣に対してコマンドを行使することができなくなるぞ。わかったらとっとと公式を頭に叩き込むのじゃ!」
カーディナルがステッキでかん! と床を突くと、俺たちがいる回廊の踊り場に、湧き上がるように丸いテーブルと椅子三脚が出現した。その上に乗っているお茶のポットと軽食の皿を見て、ユージオが実に複雑な顔をしたが、最早無駄口を叩いている時間はなさそうだったので、俺たちは同時に椅子に腰掛けると難解なコマンドが羅列されたスクロールに顔を埋めた。
百八十分という、現実世界ではちょっと覚えがないほど長尺の試験時間も、まっさらの紙に必死でペンを走らせるうちにあっという間に過ぎていった。
もともと、アンダーワールドにおける”魔法”である神聖術は、ファンタジーもののゲームや漫画によくある奇怪なカタカナの羅列ではなく、コンピュータ上の公用語、すなわち英語で記述されている。その構文も、命令語とその対象の指定が連続するシンプルなもので、どれほど高位の術になろうともその基本は変わらない。
ゆえに俺は、学院で教えられる神聖術にはあまり苦労することもなく馴染むことが出来た。カーディナルに与えられた課題は、さすがにこれまでで最も難物であると言えたが、武器の記憶の解放、という術のイメージさえ出来てしまえばあとは公式どおりに命令と対象を当て嵌めていくだけである。右手のペンは半ば自動的に動き、スクロール上に新たな神聖術が生まれていくさなか、俺の頭の片隅でいつまでもこだまして去らなかったのは、先刻カーディナルが口にした”リソースの記憶”という言葉だった。
カーディナルの言によれば、俺が二年間寝食をともにした黒い剣は、その構造式の内部に巨大樹ギガスシダーだったころの特性を留めているという。これは、アミュスフィアベースの一般VRMMOゲームではもちろん有り得ないことだ。
それらのゲームにおいて、例えば一本の剣を記述する情報は、その殆どが外見、つまり大きさ、形、色、傷の有無などで占められる。それに攻撃力や耐久力といったパラメータが加えられ、ゲームエンジンがポリゴンの剣を生成するのだ。そのプロセスは、根本的には、ナーヴギア以前のPCベースのゲームと何ら変わるところがない。
しかしこのアンダーワールドでは、全てが大きく異なる。
端的に言ってしまえば、存在するありとあらゆるオブジェクトは、ポリゴンではなく純粋なる”記憶の塊”なのだ。一本の剣の外見、重さ、手触りが、人間のフラクトライト中でどのような量子状態として記銘されるかを解析し、俺にはSTLが、ユージオたちにはライトキューブI/Oシステムが、それぞれ直接その情報を魂に送り込んでくるのである。ラースの技術者たちはその仕組みを、記憶的視覚、という意味を込めて”ニーモニック・ビジュアル”と呼んだ。
言い換えると、今のこの瞬間を含む世界の全てが、ある種の”思い出”で構成されているということになる。例えれば、目を閉じ、小さな子供の頃夏休みを過ごした田舎の祖父母の家を可能な限り脳裏に思い描き、瞼を開ければ周囲にその場景が現実として存在する――そんな感じだろうか。
つまり、アンダーワールドにおけるオブジェクト生成には、コンピュータ的デジタル・プロセスでは説明し切れない部分が確実に存在するのである。これまで俺は成功するまでには至っていないが、おそらく、あるオブジェクトを握り締め、STLからの入力を上書きするほどに深く強いイマジネーションを注ぎ込めば、そのモノを自在に変形させることすらも可能なのではないだろうか? ――勿論、達成できたとして、その変形を認知できるのは俺一人なのだが。
そのようなアナログ・プロセスがもたらす必然として、例えば俺の黒い剣には、それがかつて人々の記憶の中でどのような存在だったか――という情報が連続的に保持されているのだろう。”リソースの記憶”とは、そういう意味と解釈して間違いあるまい。
しかし俺は、カーディナルがその言葉を口にした時から、更なる疑問に取り付かれていた。
記憶を引き継ぐのは、果たしてこの世界の動的オブジェクト、すなわち剣や指輪や植物といった変遷するものだけなのだろうか? もっと静的な――例えば建物だの、道路、川などといった地形ですらも、かつてそこに暮らし、歩き、遊んだ人間の記憶のかけらのようなものを宿しているということはないのだろうか――?
そう考えなければ、説明できないことが一つだけあるのだ。
二年半前、この世界に放り出されたとき、ルーリッド村ちかくの小川のほとりの小道に辿り着いた俺は、あまりにも鮮明な幻を見た。夕陽を背に受けて、亜麻色の髪の少年、金髪の少女、そして短い黒髪の少年の三人が連れ立って川縁を歩いていく、言葉にできないほど郷愁的な光景を。
あれは決して、ダイブに伴う記憶の混乱だの幻覚だのではない。なぜなら、長い時間が経ったあとも、俺は鮮やかに脳裡に再生できるのだから。そのうえ、俺はあの少年の一人がユージオ、そしてもう一人が俺自身であると思えて仕方ないのだ。
もし――もしも、あの幻が、川岸の小道そのものに滲み込んだ過去の記憶だったとして――それによって連鎖的に、俺自身の記憶が引き出されたのだとすれば。
つまり俺は、子供の頃、長い長い時間をルーリッドの村でユージオと共に過ごしたのだ、ということになる――。
コン! と硬質な音が自分の手許から聞こえ、俺はハッと顔を上げた。
右手のペンを見ると、今まさに書き終えた最後の一行の右端に小さなピリオドを打ちつけたところだった。術式の最終ブロックは、発動した完全支配術の停止を命じるための定型的コマンドだったため、半ば自動的に記述していたらしい。
「三分前じゃぞ。ぎりぎりだが……出来上がったようじゃな」
背後からカーディナルの声がして、伸びてきた手がさっと書きあがったばかりのスクロールを回収していった。向かいを見れば、ユージオは俺より早くコマンドを完成させたようで、疲れ果てた表情でお茶だけ啜っている。
カーディナルはテーブルの周りをゆっくり歩きながら、二枚のスクロールに目を通し、そしてどちらに対してかは知らないが呆れ返った表情で首を振った。
「何ともはや……無茶苦茶ではあるが……これなら発動はするじゃろう。使いこなせるのかは知らんがな。どちらにせよ今から書き直している時間はない。あとは、剣を回収するまでに、なるべくコマンドを暗記するのじゃぞ」
それぞれのスクロールを丸めるとひょいっと投げて寄越し、カーディナルはかつんとステッキで床を突いた。
「さて……そろそろ、別れの時じゃ」
そう告げた声は毅然としていたが、口もとはこれまでにないほど優しく微笑んでいて、俺は思わず聞き返していた。
「おいおい……俺たちが目的を果たしたら、あんたはここから出てこられるんだろう? 別れだなんて大袈裟な……」
「ふむ、そうじゃな。全てが思うように進めばな……」
「…………」
確かに、アドミニストレータを目指す戦いの最中で俺たちが整合騎士の剣に斃れれば、俺は現実世界に放り出され、ユージオのフラクトライトは消去されてしまうことになる。ログアウト後もここでの俺の記憶が保持されるかどうかは不明だが、恐らく超高倍率のSTRA機能下で動いているはずのアンダーワールドに、再び戻ろうとしてもその時には全てが終わっているに違いない。
しかし、そのような、想定するのも無意味なほどに悲劇的な結末を指しているにしては、カーディナルの笑みは穏やかに透き通っていて、俺は胸を締め付けられるような感情を覚えた。それは何かの予感なのか、と思ったが、深く考えるよりも早く、カーディナルは身を翻して歩き始めた。
「さ、時間がないぞ。ついてくるのじゃ……武器庫最寄のバックドアにお主らを転送してやろう」
歴史書の回廊から、一階のホールを経て、無数の通路が放射状に伸びるエントランスルームまでの通路は残念なほどに短かった。
書き上げたばかりのスクロールに懸命に目を通すユージオの隣で、俺はただひたすら、前を歩くカーディナルの後ろ姿を見つめていた。
この少女もまた間違いなく、人工フラクトライトのなかにあってはユージオや、そしておそらくアリスとも並んで突出した特異な存在なのだ。それなのに、俺はたった三時間会話を交わしただけでもう別れようとしている。
もっと話をしたい――そして彼女が二百年に渡る生のなかで感じたこと、考えたことをもっと知りたい、そうしなければいけないのだ、という焦りのようなものが俺の胸を締め付けるが、カーディナルの足取りはいかなる躊躇をも許さないほどにしっかりとしていて、俺は言葉を発することができなかった。
見覚えのある、三方の壁にたくさんの通路が並ぶ部屋に俺たちを導いたカーディナルは、そのまま振り向くこともなく右手の壁にあるひとつの中に歩を進めた。さらに十数メルほど歩き、簡素な木製ドアが一つだけ嵌め込まれている突き当りの壁近くにまで至ったところで、ようやくくるりと振り向く。
唇に浮かぶ微笑みは、かわらず穏やかなものだった。ある種の満足感さえ漂うように思えるその口元が動き、澄んだ声が流れた。
「ユージオ……そしてキリトよ。世界の命運は、ただお主らの手にかかっておる。地獄の業火に包まれるか……全き虚無に沈むか、あるいは」
じっと俺の瞳を見詰め、カーディナルは続く一言を口にした。
「第三の道を見出すか……。わしは最早、告げるべき全てを告げ、与えるべき全てを与えた。あとはただ、お主らがその目と耳、そして心で感じたことに従って選べばよい」
「……ありがとうございます、カーディナルさん。きっと、最高司祭アドミニストレータを倒して……アリスを元に戻してみせます」
決意の滲む声で、ユージオがきっぱりと言った。
俺も何かを言わなければならないと思ったが、今口から出る言葉はこの先に進むことを躊躇うようなものだけになってしまうような気がして、ただ一度大きく頷くにとどめた。
カーディナルも頷き、ローブから伸ばした右手をドアノブに掛けた。
「では……行くのじゃ!」
カチャリ、とかすかな音とともに鍵が外れ、次の瞬間ドアは大きく開け放たれた。途端吹き込んでくる、凍るような冷気に抗って、俺とユージオは並んだまま一気に外に飛び出した。
そのまま五、六歩駆けたところで、背後で再び小さな音がした。肩越しに振り向くと、滑らかな大理石の壁が白く伸びるのみで、最早ドアはその痕跡すら残さず消え去っていた。
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何と遠いところまで来てしまったのか――。
見上げるほどに高い天井、白亜の柱が立ち並ぶ壁、様々な材質の石材で複雑な寄木細工に組まれた床。
初めて目にする神聖教会内部の壮麗さに思わず見とれながら、ユージオはそう慨嘆せずにはいられなかった。
ほんの二年と少し前までは、自分は決して倒せない木を斧で叩きながらひっそりと一生を終えるのだと信じていた。遠い昔にいなくなってしまった金髪の少女の思い出に日々浸りつづけ、妻も迎えず、子供も作らず、やがて年経て次代の刻み手に天職を譲っても、そのまま森の奥で暮らし、いつか朽ちるのだと。
しかし、ある日突然森の中に現われた黒髪の異邦者が、ユージオを取り囲む幾つもの壁を力ずくで叩き壊してしまった。巨大な諦めと自己憐憫の象徴であったギガスシダーまでも、歴代の刻み手たちが思いもよらなかった方法で切り倒し、ユージオに選択を突きつけた。
迷いが無かった、と言えば嘘になる。あの村祭りの夜、急拵えの壇上でガスフト村長に次なる天職の決定権を与えられたとき、ユージオは思わず、家族のことを考えた。
それまで、ギガスシダーの刻み手として働くことで村から貰っていた賃金の全てをユージオは母親に渡していた。代々家のなりわいは麦作だったが、持ち畑はルーリッドの村の中でも狭いほうで、ことにここ数年は凶作続きのせいで収入は乏しかった。ユージオが毎月安定して稼ぐ金は、口には出さねど両親も兄たちもあてにしている部分はあったはずだ。
ギガスシダーが倒れたことで、その稼ぎは当然無くなる。しかし、ユージオが次の天職に麦作りかあるいは羊飼いを選べば、新しく南に広がる開墾地の、日当たりのいい場所が優先的に与えられるだろう。壇上から、陽気に騒ぐ村人たちの輪の一角に、家族の期待と不安が入り混じった顔を見つけ、ユージオは迷った。
迷ったが、それもほんの一瞬のことだった。幼馴染の少女との再会と、家族の暮らしを両端に乗せた天秤を、ユージオは無理矢理片側に傾けて、そして宣言したのだ。自分は村を出て衛士になると。
そのままルーリッドに残り、衛士隊の一員になるのならやはり村から給料は貰える。しかし村を出るということは、つまり家族のもとから独り立ちするということだ。ユージオが家に入れていた金も、新たに貰えるかもしれなかった土地も、全て消えてなくなってしまう。旅立ちの日を慌しくその翌日に決めたのは、祭りが終わり家に戻ってからの、両親の無言の失望、兄たちの腹蔵した怒りに耐えかねたからだ。
キリトと共にルーリッドを旅立ってからも、思いがけないほどすぐに、もういちど家族の望みに従いなおす機会はやってきた。南のザッカリアの村に辿り着くと、そこではちょうど毎年秋に開かれるという剣術大会の真っ最中で、キリトに無理矢理出場させられたユージオは、あれよあれよという間に勝ち上がり優勝してしまったのだ。理由の九割までは、青薔薇の剣のすさまじい威力(何せ、打ち合うだけで相手の剣がどこかに飛んでいってしまうのだ)と、道中キリトに手ほどきされたアインクラッド流なる不思議な剣術のおかげではあったが、ともあれ並み居るつわものを押し退けて勝者の座を手にしたユージオは、望めばそのままザッカリアの衛士隊の副隊長に取り立ててもらうこともできた。もちろん地位も給金も、ルーリッドの衛士とは比べ物にならない。毎月ルーリッドへ向かう行商の馬車に託して金を送れば、家族はどれほど楽になっただろうか。
しかしそこでも、ユージオは領主の誘いに首を横に振り、代わりに央都の修剣学院への推薦状を書いてもらったのだった。
更なる長い旅路の途上で、あるいは首尾よく修剣学院の学生になれてからも、ユージオは常に気持ちの片隅で言い訳を続けてきた。このまま学院代表になり、四帝国統一大会にも勝ち抜いて、世界の剣士の最頂点たる整合騎士に任じられれば、家族には村の誰も想像したこともないほどの贅沢をさせてあげられるのだと。今度は自分が白銀の鎧をまとい、飛竜にうち跨ってアリスと二人村に帰る――そうすれば、両親は末の息子を何よりも誇りに思ってくれるはずだ、と。
しかし、あの思い出すのも辛いほどの悲劇が起こり、ライオス・アンティノスの頭上に剣を振りかざしたとき、ユージオは三たび家族を裏切った。少なくとも、一代爵士への叙任ならば相当に現実味を帯びていたはずの未来を、それどころか一般民という身分すらも捨て去り、禁忌違反の大罪人たる道を選んだ。
いや、家族だけではない。ユージオの起こした諍いに巻き込まれ、あまりに残酷な仕打ちに見舞われたティーゼとロニエさえも、あの瞬間ユージオは裏切った。本当は、ずっとティーゼの傍について、彼女を見守り、謝罪し、過ちを償うべきだった。そう――あるいはアリスとの再会すらも諦め、爵士になることだけを目標にして、残る生涯をティーゼのために尽くすと誓うべきだったのだ。
あの時、ユージオにはそれが分かっていた。今ここでライオスを斬れば、罪人として即座に整合騎士に連行され、何もかもを失うと。両親を喜ばせる機会、ティーゼに償う機会、すべてを失ってしまうと分かっていながら、しかしユージオは剣を振り下ろした。己の信じる正義のためでも、陵辱された少女のためでもなく、ただ心中に荒れ狂うどす黒い殺意を解放する、そのためだけに――ライオス・アンティノスなる汚らわしい生き物を抹殺する、ただそれだけを目的として刃を振るったのだ。
何もかもを捨ててしまった。
手を血に汚したあの夜から、ユージオの頭のなかではその言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。
本当に、何と遠いところまで来てしまったのか。家族を、ティーゼを捨て、栄誉に満ちた上級修剣士の座から一転神聖教会に弓引く反逆者として、今自分は世界でもっとも侵すべからざる場所の床を踏んでいる。
先刻迷い込んだ奇妙な図書室で、先の最高司祭だという少女にあらゆる歴史を記した書物の存在を教えられ、ユージオは我を忘れてその本を貪るように読んだ。なぜなら、どうしても知りたかったのだ。長い歴史のなかで、何人かは教会に刃を向け、整合騎士と戦い、その上で望みを果たしてどこか遠くに逃げ延びた人間がいたのではないか、と。
しかし、そんな挿話は一つとしてなかった。教会の権威はあまねく世界を平らげ、あらゆる民は整合騎士の威光に伏して、どのような深刻な諍いすらも――帝国間の揉め事ですらも、教会の名のもとにいとも容易く治められた。
つまり、自分は、世界がステイシア神から初代の司祭に任せられて以来もっとも罪深い人間なのか、とユージオは考え、骨が凍るほどに慄然とした。堕ち得る最も暗いところまで堕ちた、それこそ闇の国の怪物と何ら変わるところのない極悪人。おそらく今後、自分が踏む土からはテラリアの恵みが失われ、頭上の空からはソルスの光が薄れるだろう。
最早、あらゆる人間らしさ、正義や憐れみや慈しみは捨てるべきかもしれなかった。そう、たとえ今後どれほどの罪を重ねようと――神の代行者たる整合騎士たちの首を刎ね、腸を引きずり出してその血に両手を染めようとも、ただひとつ残された望みを成し遂げるのだ。
奪われた心の欠片を取り返し、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティをルーリッドのアリス・ツーベルクに戻して、故郷に送り届ける。その傍らには、もう汚れきった自分が連れ添うことはできないだろう。闇の国にでも落ちのび、怪物として生きるくらいのことしか許されまい。だが、それでもいい。アリスが再びあの村で幸せに暮らせるのなら、それ以外に望むことはもう何もない。
心中を吹き抜ける風の冷たさに思わず身震いしてから、ユージオは前を走るキリトの背をじっと見つめた。
もし、僕が闇の国に行くと言ったら、君はついてきてくれるかい……?
声に出さずにふとそう問うてから、ユージオは唇を噛み締め、答えを想像することを無理矢理に止めた。いまや、世界でたった一人同じ場所に立ってくれている人間――そう、あるいは物心ついてから、アリスのほかに初めてできた友達であるこの黒髪の相棒と、いつか道が分かれるかもしれないなどと、考えることさえ恐ろしかった。
カーディナルという不思議な少女が言っていたとおり、二人がくぐったドアからまっすぐ伸びる回廊は、思いのほか短かった。
ユージオが駆けながら物思いに沈んだのは一瞬のことで、すぐに二人は半円形のホール状の場所に辿り着いた。右手の、円弧を描く壁の中央部分には驚くほど幅の広い階段が上下に続いている。そして左手の壁には、精緻な有翼獣の彫像に囲まれて、重々しい黒檀の扉が設えられているのが見えた。
前を行くキリトが、さっと右掌をこちらに向けながら壁に張り付いたので、ユージオも雑念を拭い去り同じように石柱に背中をつけた。息を殺しながら、無闇と広いホールの様子を探る。
図書館の少女の話によれば、前方左側に見えるドアは、神聖教会の武具保管庫であるはずだった。そのような重要な場所には、当然警備の者がいるのだろうと思っていたが、予想に反してホールはしんと静まりかえり、動くものは何一つなかった。右側の大階段の両側に造り付けられている飾り窓から差し込む真昼のソルスの光すら、灰色に生気を失っているように思える。
「……誰もいないね……」
隣で息を殺すキリトにそっと囁きかけると、相棒もやや拍子抜けというように頷いた。
「武具庫なんかに、そう簡単に忍び込めないだろうと思ってたけど……まあ、そもそも教会に盗みに入る泥棒はいないってことか……」
「でも、僕らの侵入はもうバレてるんだよね? なのに、ずいぶんと余裕あるなあ」
「余裕なんだろうさ、実際。俺たちが動き出してから押っ取り刀で迎え撃ってもどうとでもなるってな……つまり、次に整合騎士が出てくるときは、よっぽどの大人数か、よっぽどの強者だってこった。せいぜい、この猶予時間を有効利用しようぜ」
ふん、と鼻を鳴らして言葉を切ると、キリトは素早く壁の陰から走り出た。ユージオもそれに続いて一直線にホールを横切る。
巨大な黒檀の二枚扉は、表面に彫ってあるソルス、テラリア両女神の似姿もいかめしく二人の前に立ちはだかり、もしかしたら押しても引いても開かないのでは、とユージオは思わず悲観的になった。だが、キリトが板に一秒ほど耳をつけてから鈍い銀色の握りに手をかけ、押すと、拍子抜けするほどあっさりと扉は両側に開いた。軋む音ひとつしなかった。
人ひとり分ほど口を開けた黒い隙間からは、数百年ぶんの静寂が凝ったかのような濃い冷気がしみ出してきて、自分が拒絶されていることをユージオはまざまざと感じたが、キリトがためらい無く身体を滑り込ませたのでやむなく続く。背後で重々しく扉が閉まると、周囲は完全な暗闇に包まれた。
「システム・コール……」
反射的に自分の口をついて出た神聖術が、隣のキリトの声とぴたり重なっていたのでつい微笑む。ジェネレート・ルミナス・エレメント、と続けながら、ユージオは二年半前、キリトといっしょに北の洞窟へシルカを捜しに行ったときのことを思い出していた。あの頃は知っている術式など初歩の初歩だけで、暗がりを照らすにも手に持った枝を弱々しく光らせるくらいのことしかできなかった――。
右掌の上に発生した純粋なる光源が一気に濃密な闇を吹き払い、ついでにユージオの郷愁をも跡形も無く消し飛ばした。眼前に広がったのは、それほどまでに圧倒的な眺めだった。
「うお……」
隣でうめくキリトと同時に、ユージオも喉をごくりと鳴らした。
何という広さだろうか。保管庫、というからつい、ルーリッドの村の衛士詰所にあった装備置き場のようなものを想像していたがとんでもない。ルーリッドにはそもそも、これほど大きな部屋は存在しなかった。修剣学院の大講堂でも張り合えるかどうか。
窓ひとつない、滑らかな石壁に四方を囲まれた大空間には、ユージオの掌から離れて舞い上がった光源の灯りを跳ね返すありとあらゆる種類の色彩が満ちていた。
床一面に、縦横整然と並ぶのは十字の支持架に着せられた鎧だ。漆黒のもの、純白のもの、赤銅青銀黄金と目の眩むような色彩に加えて、細かい鎖となめし革で造った軽装用から、分厚い板鋼を隙間無く組み合わせた重装用まで思いつく限りの種類が網羅されている。その数、五百は下るまい。
そして四方の壁には、これまたおよそ存在し得る全ての武器がびっしりと掛けられていた。
剣だけでも、長いもの短いもの、太い細い直刀曲刀と多岐に渡る。加えて片刃や両刃の斧、長槍に馬上槍、戦槌から鞭から棍棒そして弓に至るまでの多種多様な戦闘用器具がもはや数えるのも不可能なほどに床から天井近くまで連なっていて、ユージオはただただぽかんと口を開けることしかできなかった。
「……もしソルティリーナさんがここにきたら、感極まって卒倒するかもな」
数秒後、ようやく沈黙を破ったのはキリトの囁き声だった。
「うん……ゴルゴロッソ先輩も、あの大剣を見たら飛びついて離さないよ」
ため息まじりにそう呟き、ユージオはようやく我に返って大きく息をついた。改めて広大な武具庫を見回し、二、三度首を振る。
「何て言うか……教会はいずれ軍隊でも作る気なのかな? 戦争する相手なんか居ないだろうに」
「うーん……闇の軍勢と戦うため……? いや、違うか……」
キリトはやけに厳しい顔でちらりとユージオを見、続けた。
「逆だな。軍隊を作るためじゃない……作らせないために、教会はここに武具を集めたんだ。恐らくここにあるのは全部、神器かそれに準ずるクラスの強力な装備だろう。教会以外の勢力がこれらを手に入れて、不相応な戦力を蓄えるのを嫌ったんだ、アドミニストレータは……」
「え……? どういう意味だい、それ。たとえどんなに強い武器を持ったところで、教会に歯向かおうとする集団なんてあるわけないじゃないか」
「つまり、教会の権威を一番信じてないのは最高司祭様ご本人かもしれないってことだ」
皮肉げなキリトの言葉の意味をユージオはすぐに理解することができなかったが、考え込むより先にぽんと相棒に背中を叩かれた。
「さ、時間が無いぜ。とっとと俺たちの剣を取り返そう」
「あ……う、うん。でも……見つけるのも一苦労だね、これ……」
青薔薇の剣と黒いやつは、それぞれ装飾の少ない白革と黒皮の鞘に収められているが、そんなような剣は右側の壁に幾つも見て取れる。近寄って、柄を仔細に見て回るしかないか、とユージオは思ったが、足を踏み出すよりも早くキリトがぼそりと言った。
「いや、もう見つけた」
そのままくるっと振り向き、入ってきたドアのすぐ左脇の壁を指差す。
「うわ……こんなとこに」
確かに、そこに掛けられた白黒二振りは、見紛うことなき二人の愛剣だった。ユージオは唖然として相棒の横顔を見やった。
「キリト、一度も後ろは見てないよね。神聖術も使わずに、どうして……」
「一番新しく持ち込まれた剣なら、ドアに一番近いところにあるだろうと思っただけさ」
そううそぶくキリトは、普段ならこんな時は子供のように自慢げな笑いを浮かべるのに、今はなぜか厳しい表情でじっと自分の黒い剣を睨んでいた。しかしすぐにふっと息を吐き、数歩壁に歩み寄ると右手を伸ばして黒革の鞘を掴んだ。
ほんの一瞬、何かを躊躇うかのようにそのままでいたが、すぐに自分の剣を持ち上げ、続いて左手で隣の青薔薇の剣を取ると無造作に放ってきた。ユージオが慌てて受け止めると、ずしりとする重みが手首に伝わった。
愛剣と離れていたのはほんの三日程度のことなのに、自分でも驚くほどの懐かしさと安堵感が込み上げてきて、ユージオは両手で鞘をぎゅっと握り締めた。
故郷でギガスシダーを斬り倒したあの時から、青薔薇の剣は常に傍らにあり、常に助けてくれた。ザッカリアの街で剣闘大会に出たときも、修剣学院の入学試験を受けたときも――そう、禁忌目録に背きライオスの片腕を断ち切ったあの時ですら。だから、整合騎士の神器と打ち合おうとも、この剣は決して折れることはないはずだ。
神聖教会が、強力な剣の蒐集、死蔵を続けていたというなら、この青薔薇の剣が北の洞窟で眠ったまま見過ごされていたのはまさに僥倖――あるいは運命なのだ。村を捨て、あらゆる障害を斬り伏せ、アリスを助けるという運命……例え、何者が立ちはだかろうとも――。
「いつまでも感動してないで、さっさと吊るせよ」
苦笑混じりのキリトの声にはっと顔を上げると、相棒はすでに鞘の留め具をベルトに繋いでいた。ユージオも照れ笑いを浮かべながら同じようにし、最後に一度かるく柄頭を叩いてから、さて、と周囲を見回した。
「……どうする、キリト。これだけあれば僕らの体に合うのも見つかるだろうし、鎧も借りてく?」
「いやあ、俺たち鎧なんて着たことないだろう。馴れないことはしないほうがいいよ。あのへんにある服だけ頂こう」
そう言って指差すほうを見ると、たしかに鎧の列の一角に色とりどりの衣服が並んでいるのが見えた。己の身につけている、捕縛から脱獄騒ぎのあいだにあちこちほつれた粗末な部屋着を眺めて、ユージオは頷いた。
「確かにこのままじゃ、そのうち服だか襤褸切れだかわかんなくなりそうだね」
頭上に漂う光源も、徐々にその輝きを薄れさせつつあった。二人は衣装の並びに駆け寄ると、手触りのよい布をばさばさとかき分け、やがて体に合いそうなシャツとズボンを見つけ出した。互いに背を向け、手早く着替える。
学院の制服に良く似た群青の服の袖に手を通したユージオは、その肌触りの滑らかさに驚いた。ボタンを留めて振り向くと、キリトも同じ感想を持ったと見え、両手で黒い布地を撫でまわしている。
「……おそらくこの服も、それなりのいわく付きなんだろうな。整合騎士の刃を多少は止めてくれるといいけどな」
「そりゃ期待しすぎってもんだよ」
相棒の、虫のいい言葉に短く笑ってから、ユージオはぎゅっと口もとを引き締めた。
「さてと……そろそろ、行こうか?」
「ああ……行きますか」
短い言葉を交わし、足音を殺して入り口まで戻る。
ここまでは拍子抜けするほど順調だが、そうそう続きはするまい。気を抜かずに進もう――という無言の確認を込めて互いに頷きあい、ユージオは右の、キリトは左のドアの取っ手を握った。
同時にぐっと引き、扉がわずかに開くのと――。
どかかかっ! と音を立てて、黒檀の厚板の表面に、何本もの矢が突き立ったのはほぼ同時だった。
「うわっ!」
「おわぁ!?」
その圧力で扉は勢い良く左右に押し開かれ、ユージオとキリトは揃って床に尻餅をついた。
眼前に広がる半円形のホール、その正面奥に伸び上がる大階段の踊り場に、見覚えのある赤い鎧の騎士が単身立ち、身の丈ほどもある長弓に今まさに第二射をつがえようとしていた。しかも、同時に四本――右手の指の股すべてに鋼の矢を挟んで。
彼我の距離、およそ五十メルか。剣はどう足掻こうと届かないが、弓の達人ならばおそらく必中距離。そして無様に転がったこの体勢からは、立ち上がって回避する時間も、壁の後ろに身を隠す時間もないだろう。
だから、鎧を着ようって言ったんだ! 盾があればなおよかった!
ユージオが心中でそう喚くのと、騎士が長弓をいっぱいに引き絞るのはほぼ同時だった。
かくなる上は、直撃を食らうことは覚悟し、せめて致命傷――いや、行動不能に陥るような深手の回避に注力するしかない。
ユージオは息を詰めた。騎士がぴたりと矢じりの狙いを定めた。何もかもが静止したような一瞬の”溜め”――。
その空隙を、キリトのびんと張った叫び声が貫いた。
あまりに早口だったために、ユージオは咄嗟に何と言ったのか聞き取れなかった。言葉を字面で理解できたのは、そのコマンドが発動したあとだった。
「バースト・エレメント!」
突如、視界が、白一色に塗りつぶされた。
強烈な光が周囲に炸裂したのだ、と察しつつも、ユージオは何故こんなことが!? と激しく混乱した。あらゆる属性系神聖術の起点となる素因(エレメント)、光属性のそれを変成も移動も強化もせずにただ解放しただけの単純な術だが、しかしそもそもキリトはエレメントの生成をしていない。一体どこから――。
いや、あった。五分ほど前、武具庫内部を照らすために、二人して光素因(ルミナス・エレメント)を呼び出し、ただ空中に漂わせておいたのだ。放置されたエレメントの持続時間は術者の権限位階に拠るが、その間ずっと後続する術式の入力待ち状態も保持される。キリトは瞬間的にそれを思い出し、素因をバースト、つまり単純炸裂させたというわけだ。
数時間前、整合騎士エルドリエを拾った硝子片で牽制したことといい、まったく、周囲にある全てのものを利用する戦闘に関しては天才的な奴だ。
――と、それだけのことを、白光が炸裂し、直後発射されたであろう騎士の矢を、後方に転がっての回避を試みる間にユージオは考えた。
ぎぎん! と鋼矢が石床を抉る耳障りな音が、直線までユージオの両脚があった位置から聞こえた。
どうやら騎士は、致命傷ではなく行動不能を狙っていたらしい。その枷と、キリトの術式が巻き起こした光の爆発が、不利な体勢からの回避をぎりぎり成功させ得る僅かな時間を与えたのだ。
いまだ消えない白光の渦の中、ユージオは右隣で相棒も矢をかわした気配を察しつつ、とりあえず戸口の石壁の陰に身を隠そうと床についた両足に力を込めた。
しかし直後、考えを変えた。
「――前だ!」
叫びつつ、扉方向へと全力で突進する。
光エレメントが爆発したのは二人の頭上後方、つまり自分たちは光源を直接見ていないが、相対していた騎士はまともに眼に入ったはずだ。あと数秒は視力を半ば以上奪われた状態が続くに違いない。
人間に対しては実効的攻撃力を持たないとされる光属性の術式だが、例えば武器に付与しそれを強く発光させることでの幻惑効果は学院の講義でも扱ったし、試合での決め技に用いれば見映えもいいので実際に用いる修剣士も少なくなかった。よって、敵手が光素因を発生させたときは、反属性である闇素因(ダーク・エレメント)で効果の相殺を狙うのが常道である。
あらゆる剣士の頂点たる整合騎士がそれを知らないわけはなく、つまり新たに光素因を呼び出しての眼潰しはもう二度とは奏効するまい。今は、弓使いである敵との距離を詰める最初で最後の好機なのだ。
状況の分析と行動の選択の速さこそがアインクラッド流の兵法の極意だとキリトはこれまで何度もユージオに言った。剣技の打ち合いにせよ術式の掛け合いにせよ、典雅さを重視してゆったりとした呼吸のやり取りになりがちな修剣学院の各流派とはまったく異なる考え方だ。その極意を常に実践するために、たとえ戦闘中でもむやみと高揚せず頭を冷やしておく――そのためのまじないとして教わったのが、”ステイ・クール”。
今回は、冷えた頭での行動選択はユージオのほうが一歩先んじたようだった。すぐ後ろに続くキリトの靴音を耳の端で捉えながら、左腰の青薔薇の剣の柄を握り、一気に抜き放つ。
半円形のホールを、大階段に向かって七割方突っ切ったところで、ようやく武具庫の戸口から噴き出す光の奔流が薄れ始めた。目をすがめながら、改めて階段を登りきったところに立つ整合騎士の姿を確認する。
予想通り、騎士は視力をほとんど削がれた状態と見えた。顔は赤銅色の兜の陰で見えないが、右手で眼のあたりを覆い、盛んに首を動かしている。
更なる僥倖と言うべきか、この整合騎士はエルドリエとは違い腰に剣は無かった。単身、屋内での戦闘を挑んでくるにあたって得物が長弓ひとつとは凄まじい自負だ。接近される前に二人の足を殺せるという確信があったのだろう。
ユージオの頭は冷えていたが、それでも意識の片隅である種の炎がちろりと揺れるのを抑えることはできなかった。
――整合騎士とは言え、所詮はライオスと同じだ、お前も! 度し難い尊大さの塊――その報いを、僕の剣で思い知らせてやる――お前が狙った両脚を叩き斬って――。
それは、ユージオにはあまり馴染みのない感情だったが、しかし途方もなく甘美な何かだった。唇の片端がかすかに吊りあがるの自覚しながら、ユージオは大階段の一段目に右足を掛けた。
そして、ぐっと喉を詰まらせた。
赤銅の整合騎士が、右手を兜の面頬から放し、背中の矢筒に持っていくと、そこから鋼矢を引き抜いたのだ。残る、全ての本数を一度に。
掲げた右手から、びっしり針山のように突き出した矢は、どう見ても三十本はある。一体何を、と思う間もなく、騎士は左手で水平に構えた長弓の弦に、その矢の束をいっぺんに番えた。
「な……」
思わず脚を止め、ユージオは息を飲んだ。あんなもの、撃てるはずがない。
ぎりぎりぎりっ、と肌が粟立つような音が耳に届く。それが、凄まじい握力に耐えかねる鋼矢の悲鳴だと気付き、背筋に冷たいものが疾る。
追いつき、隣で停止したキリトも、瞬間騎士の仕業を判断しかねるようだった。苦し紛れのはったりか、それとも――。
一際激しい軋み音とともに、長弓が一杯に引かれた。
「――跳んで避けろ!」
キリトが鋭く叫んだ。
びんっ!、と弦が鳴り、直後ばつんと響いたのはそれが切れる音か。しかし同時に、放射状に発射された三十本の鋼矢が、致命的な銀色の霰となって階下の二人に降り注いだ。
後ろに跳んでもだめだ!
瞬間的に判断し、ユージオは右足が折れるかと思うほどの力を込めて左に身体を投げた。同時に、体の正中線を抜き身の腹で防ぐ。
恐らく、騎士の視力が万全ならば、二人の体は穴だらけになっていたに違いなかった。
ほんのわずかに狙いが下向きだったのが幸いし、矢の半分以上は階段に突き立った。
甲高い音を立て、一本が青薔薇の剣に当たり弾かれた。一本がユージオのズボンの右裾を縫い、一本が左脇の布地を貫通し、一本が左頬を掠めて髪を何本か引き千切った。
どうっと肩から床面に落下し、ユージオは縮み上がった心胆に歯を食い縛りながら自分の体を見下ろした。深手の無いことを確かめてから、顔を上げて右方向に跳んだキリトを凝視する。
「キリト! 無事か!」
かすれた声で叫ぶと、黒髪の相棒はこちらも食い縛った歯の間から息を漏らし、頷いた。
「あ……ああ、指の間を抜けたらしい」
見れば、左の靴のつま先に矢が一本突き立っている。相棒の反応だか強運だかに簡単しつつ、ユージオはふうっと息を吐いた。
「……脅かすなよまったく……」
呟きながら、素早く立ち上がる。
再度剣を構えながら階上の整合騎士を見上げると、流石の整合騎士も動きを止め、ただ棒立ちになっているようだった。背中の矢筒は空になり、弓の弦も切れて力なく垂れ下がっている。矢尽き弓折れ、とはまさにこのことだ。
「……後退させてまた出てこられたら面倒だ、一気にケリをつけよう」
相棒に声をかけ、ユージオはひといきに階段を駆け上るべく腰を落とした。しかしキリトは眉を顰め、靴から抜いた矢を握ったままの左手でユージオを制した。
「あ、ああ……いや、待て」
「え……?」
「あの騎士、術式を……これ……やばい、”完全支配”だ!」
「なっ……」
絶句し、耳を澄ませる。すると確かに、耳にはある種の虫の羽音のような、抑揚の薄い低音のうねりが届いてきた。声質は異なるが、間違いなくエルドリエの使っていたのと同じ技、高速術式詠唱だ。
――しかし、いかに武器の性能を解放しようとも、弓矢は弓矢じゃないのか!? 弦が切れて矢も無い状況で何をしようと……。
ユージオが唖然としてそう考えるうちにも、騎士の詠唱は完了に近づいて徐々に高まり、一際力強い叫びとともに終わった。
「……記憶解放(リリース・リコレクション)!」
先ほど、図書室で教わったとおりの完全支配術の発動句。その直後――。
ぽっ、とかすかな音とともに、切れて垂れ下がった二本の弦の先端に、橙色の炎がともった。見る間にそれは弦を這い上がりながら焼き尽くしていき、そして弓本体の両端に達した瞬間。
ごうっ! と激しい音を立てて、銅がねの長弓全体から真紅の劫火が噴き出した。
まだ彼我の間には相当の距離があるのに、ユージオは一瞬、猛烈な熱波が吹き付けてきたような錯覚にとらわれ顔を背けた。騎士の手中に生まれたのはそれほどまでに巨大な炎だった。もとより身の丈ほどもあった長弓が、今はその倍近くも伸びたように見える。
あまりにも想像の埒外である超現象に、咄嗟にどう対処すべきかユージオは迷った。矢が尽きた以上、どれほど派手な技を使おうとも攻撃能力は無いと判断し突撃すべきか? あるいは、直前の攻撃で騎士が矢を使い切ったのは、完全支配状態ならばそれが必要ないからなのか?
こういうときの直感ではどうしても一枚上手である相棒はどちらと見たのか、と右隣にちらりと視線を流すと、そのキリトはまるで旅芸人の離れ業に魅せられる子供のように目を丸くし、口もとにかすかな笑みを形作っていた。
「こりゃあすげえな……。あの弓の元になったリソースは何なんだろうな」
「感心してる場合じゃないよ」
後頭部を思い切りどつきたくなるが、我慢して再び騎士をじっと睨む。突っ掛けるにせよ退くにせよ、すでに機を逸してしまった観は否めない。あとはもう、敵の出方に合わせて対処するしかないとユージオは腹をくくったが、どうやら整合騎士のほうもここで間を置くつもりらしく、燃える弓を握った右手を垂らしたまま左手でがしゃりと兜の面頬を上げた。
鋭く前に尖った兜の意匠のせいで、顔は翳に沈んで見えなかったが、それでも冴えざえと冷えた眼光をユージオは強く感じた。続いて、陰々と尾を引きながら響いた声もまた、一切の揺るぎを削ぎ取った剛毅さに満ちていた。
「――『熾焔弓』の炎を浴びるのは実に四年振りである。成る程、我が弟子トゥエニシックスと渡り合うだけの腕はあるようだな、咎人共よ。しかし、ならば尚のこと許せん。堂々たる剣士の戦いではなく、穢れた黒き術によってエルドリエを惑わしたことがな!」
「で……弟子だぁ?」
隣でキリトが愕然としたように呻いた。まったく同感というしかない、二人を散々痛めつけたエルドリエの、あの赤銅の騎士は師だということなのか。
しかしそれ以前に、ユージオは騎士の口ぶりに受け入れがたい反発をおぼえ、夢中で叫び返していた。
「ち……違う、僕らは暗黒術なんか使ってない! ただ、エルドリエさんの過去の話をしただけで……!」
「過去だと! 我ら神と秩序の使徒に過去などあるものか! 我らはこの地に降り立った時より、再び天に召されるその時まで、常に栄光ある整合騎士である!」
即座に鋼のような怒声が階段ホールに鳴り響き、ユージオはうっと息を飲みこんだ。師というだけあって、今度の騎士はすさまじく強烈な自負心で己を括っているようだった。カーディナルという少女の言葉によれば、行動原則キーなるものが埋め込まれている記憶の周辺を刺激すれば整合騎士の心を動揺させられるらしいが、あの騎士に関してはその取っ掛かりすら掴めそうにない。
燃えさかる弓を握る左手をぶんっと振り、周囲に無数の火の粉を撒き散らしながら、騎士が口上の締めを唱えた。
「――生かして捕らえろと命じられておる故、炭屑にまではせぬが、熾焔弓を解放した以上腕、脚の一本なりとも焼け落ちること覚悟せよ。断罪の炎を掻い潜り、その貧弱な剣を吾まで届かせられるかどうか、試してみるがよい!」
高く掲げた弓の、本来弦があるべき位置に、騎士の右手がぴたりと据えられた。指先が何かを握る仕草に、まさか、と思う間もなく――ひときわ強烈な炎が前方に噴き出し、それはたちまち一本の矢へと形を変えた。その眩さと轟く唸りからは、内包された威力がありありと感じられ、反射的に下腹がぎゅうっと縮み上がる。
「やっぱりかよ、畜生」
キリトが低く毒づいた。しかしその声からは常の不敵さが消えてはおらず、ユージオは僅かながら頭の芯を冷やすことに成功した。
「何か策はあるかい」
震えそうになる顎にぐっと力を入れそう訊くと、相棒は即座に早口で囁き返してくる。
「連射は不可能、そう信じる。一本を俺がどうにか止めるから、お前が斬り込むんだ」
「信じる、って……」
ため息をつきそうになりつつも、つまりはあの炎の矢を連射されたら最早為す術なし、ということなのだろうとユージオは察した。しかし単発であるならば、それはそれで一撃必殺の威力をあの矢は有しているということにならないか。そんなものをどう防ぐのか――という危惧が続いて湧き上がるが、ユージオはその感情を強いて振り捨てた。
キリトが止めると言うなら止めるだろう。ギガスシダーを倒すと言って倒した無茶に比べれば、まだしも現実味があろうというものだ。
ちらりと視線を交わし、それぞれの剣をがしゃりと構えなおした二人を、玉砕の覚悟を決めたと見て取ったか整合騎士は至極ゆっくりとした動作で弓を引きはじめた。
両肩を大きく怒らせ、右腕で円弧を描きながらぎり、ぎり、と見えない弦を絞っていく。弓矢全体を包む炎の荒れ狂い方はいまや凄まじいほどで、見れば階段に敷かれた緋の絨毯はすでに騎士を中心に円く焼き尽くされている。
ユージオの頬を撫でる熱気は、最早錯覚ではなかった。成る程たしかに、この攻撃は激甚なる威力を備えた単発技なのだろう。騎士は伊達でゆっくりと右手を引いているのではなく、全膂力を振り絞ってあの速度なのだと思えた。
キリトが動いたのは、騎士の動作が最後の一溜めに入る、その直前だった。
雄叫びを上げるでもなく、激しく床を蹴りすらしない、木の葉が早瀬に吸い込まれるような滑らかかつ鋭い突進。つい一呼吸遅れてしまい、ユージオは慌ててその後を追った。
黒衣の相棒は、広い階段を三段飛ばしですべるように駆け上っていく。その、硬く握られた左拳から、わずかに薄青い光が漏れているのにユージオは気付いた。恐らく騎士が口上を述べている間に発生させたのだろう、間違いなくそれは冷素因(クライオゼニック・エレメント)の輝きだ。
二人の突撃に慌てるふうもなく、騎士はついに弓を完全に絞り切った。同時に、キリトの口から神聖術の高速詠唱が迸った。
「フォームエレメント・シールドシェイプ! ディスチャージ!」
鋭く突き出した左掌から一列になって射ち出されたエレメントは、キリトの素因同時生成数の上限であろう五個。それら青い輝点は、先頭のものから次々に大きな円盾型に変じ、二人と整合騎士の間を密に遮る。
それを見た騎士の口から、再度怒声が轟いた。
「笑止! ――貫けいッ!!」
千のふいごが同時に猛ったような耳をつんざく衝撃音とともに、ついに炎の矢――いや槍、あるいは柱とでも言うべき火焔の凝集が発射された。見上げるユージオには、それはもう天より放たれた神威以外の何ものでもなかった。
キリトも、騎士の技の脅威を予感していたのだろう。先に発射した五個の素因に続けて、詠唱を止めることなく更に五個を生み出し、盾へと変えて撃ち出している。初級階梯の術者としては、こちらも驚くべき早業だが、それでも決して十分な護りだとは、残念ながらユージオには思えなかった。
須臾の間を置いて、先頭の氷障壁と火焔矢が接触した。
あまりにも呆気ない消滅。薄い氷の盾は硝子質の悲鳴とともに四散し、その欠片も即座に蒸気と化した。
二、三、四枚――と貫かれたのは、破砕音を数えるのも難しいほどに一瞬の出来事だった。ユージオは全身を恐怖と戦慄が包むのを覚えながら、五枚目が僅かに持ちこたえ、しかし堪らず砕け散る音を聞いた。六枚目、七枚目もそれぞれ瞬き一つする間もなく叩き割られ、八枚目は矢を受けた中心がぐうっと撓んでからやはり散った。残る二つの氷盾を透かして、もう目の鼻の先にまで迫った火焔矢の赤熱する輝きがユージオの目を射た。
荒れ狂う炎は、少しなりとも減殺されているように見えはしたが、しかしそれが二人を焼き焦がすには充分すぎるほどの熱量を保っているのは明らかだった。九枚目の障壁にその尖端を阻まれると、矢は激怒するようにその身をたわめ、一拍置いてから容赦なくそれを引き裂いた。
ついに最後の氷盾が残るのみとなり、ユージオは階段を蹴る足が萎えそうになるのを懸命に堪えた。すぐ目の前を、相棒が畏れを知らぬ足取りで突き進んでいくのに遅れを取るわけにはいかない。
ユージオが祈りながら凝視する先で、十枚目の盾と衝突した炎の矢は、とうとうその飛翔を止めた。
相容れない属性に基づく二つの力は、中空で赤い火の粉と青い氷晶を激しく振り撒きながら互いを退けようと身悶えた。
「――!?」
ユージオは息を飲んだ。半透明の氷盾の向こうで、一瞬、火焔矢が蛇のようにのたうったように見えたからだ。いや――大きくあぎとを開き、翼を広げたその姿は、竜――?
がしゃーん、と悲鳴を上げ砕け散ったのは氷の盾だった。
途端、息も出来ないほどの熱気が押し寄せ、ユージオは歯を食い縛った。すべての障壁を貫いた火焔矢、いや炎の竜は残虐な殺意を振り撒きながらキリトに襲い掛かった。
「うおおおおお!!」
ここにきて、ついにキリトの口から裂ぱくの気合が迸った。黒い剣を握る右手を大きく振りかぶる。
まさかあの竜を斬ろうというのか、とユージオが思った、その直後。
炎の塊目掛けて突き出されたキリトの腕の先で、剣が不思議な動きをした。五本の指を中心に、風車の如く回転したのだ。
しかしその速度が尋常ではなかった。一体どのような技なのか、見ることが不可能なほどの勢いで刀身が旋転し、まるで透き通る黒い盾が出現したようだった。
火焔竜の頭部がその盾に接触した。
ごわっ!! という轟きは、炎の猛りか、あるいは竜の断末魔か――。
十枚の氷盾を食い破った必殺の火焔は、キリトの手許で幾千にも引き千切られ、放射状に飛び散った。しかしそのうち、少なくない量が剣の円盾を突き抜けてキリトの全身を押し包み、次々と小爆発を引き起こした。
相棒の体が弾かれたように宙に舞うのを見て、ユージオは絶叫した。
「キリト――!!」
無数の火の粉を散らしながら、それでもキリトは空中で叫び返してきた。
「止まるな、ユージオ!!」
僅かな躊躇いののち、軋むほど奥歯を噛み締め、ユージオは前方を睨んだ。キリトなら、ここで足を止め千載一遇の機を逃したりはするまい。彼は言ったことを果たした。ならば自分もそうしなくては。
右上空を落下していく相棒とすれ違い、ユージオは残る段数を全力で駆け上りつづけた。
背後で、ど、どうっ、とキリトの体が階段に叩き付けられる音がした。
いまだ宙を舞う火焔の残滓を一気に突っ切ると、騎士が立ちはだかっている踊り場までは、もう十数歩の距離だった。
絶対の自信を示していた武装完全支配からの必殺の一撃を、無傷でとはいかぬまでも退けられたのは、整合騎士にとっても予想外のことなのだろう。肉薄しても素顔は見えないが、甲冑の奥にかすかな驚きの気配が感じられた。先ほど、構えから火焔矢の発射まで騎士はどう少なく見積もっても十秒の時間を要したが、ユージオが剣の間合いに入るには五秒もあれば充分だ。帯剣していない以上、この距離まで接近を許した時点で――。
あんたの負けだ!
声に出さずそう叫びながら、ユージオは右手に握る青薔薇の剣を高く振り上げた。
「嘗めるな小僧!!」
ユージオの思考が聴こえたかのように、騎士が吼えた。
際前の動揺は瞬時に消え去り、圧倒的な闘気が赤銅の重鎧全体を包んだ。燃える長弓を握ったままの左腕が頭上高く掲げられ、再び凄まじいほどの炎が拳を中心に巻き起こる。
「どあああっ!!」
灼けた空気をびりびり震わせる気合とともに、騎士の左拳がはるか高みから撃ち降ろされてきて、ユージオはぎりっと奥歯を軋ませた。
どうする!?
すでに斬撃体勢に入っていたが、頭の芯でいくつかの瞬間的な思考が閃く。
剣と拳、間合いでも武器の優先度でもこちらが有利だ。しかし騎士の殴打は伝説の赤竜が吐くという火球にも似て、華奢な青薔薇の剣で押し勝てるかどうか定かでない。ここは一度距離を取りなおし、敵の余力を見極めるべきか。
いや――。
キリトなら、ユージオにとっての剣の師でもあるあの親友ならば、一度剣を振りかぶったからにはもう余計なことは何一つ考えないだろう。斬撃の威力を決めるのは、武器の性能やそれを握る者の体力以上に、万物を斬り伏せるという鋼の意思なのだ、と稽古のおり彼はよく口にした。この世界では、最後の最後には心の力がすべてに勝るのだ、と。
信じるんだ。自分と、青薔薇の剣を。カーディナルという少女は、青薔薇の剣の基となったのは北の山脈深くに眠っていた永久に溶けない氷だと言った。ならば、その絶対の凍気を以ってあの炎の塊を切り裂くのみだ。
柄を握る右手のみならず、そこに添えた左手にも、刺すような冷たさが急激に発生したのをユージオは知覚した。それは決して錯覚ではない。その証左に、視界の隅はいつしか白い靄に覆われ、きらきらと光る極小の氷片すら無数に踊っている。長い弧を描く上段からの斬撃が、落下してくる騎士の拳に近づくにつれ、逆巻く炎が左右に押し分けられていくのが見える。
「せああああっ!!」
滅多に発しない気合とともに、ユージオは全霊を込めた一撃を振り切った。
ぎいいん! という凄まじい衝撃音とともに、剣尖と拳が衝突した。
瞬間、拳を包んでいた炎のすべてが掻き消され、かわりに青い霜が八方に飛散した。真っ白く凍りついた騎士の拳は真上に弾き返され、ユージオの剣も軌道を左に逸らされて階段の大理石を抉った。
学院での試合であれば、ここで一合のやり取りが決着し、両者距離を取り直したあと再度の撃ち込みとなる。そうしなければ審判に採点されないばかりか、醜い追撃は減点対象ともなり得る。
しかしこれは優美さを競う勝負ではない。敵を倒すことがすべての真剣勝負なのだ。
ユージオは、床を抉った剣が跳ね返る勢いを利用し、そのまま連続して第二撃を左下から右上へと斬り上げた。
「――いええっ!!」
青い霜の軌跡を引きながら伸びてくる剣に、整合騎士は完全に虚を突かれたようだった。
「ぬおっ!」
唸り声とともに身体を捻って回避しようとするが、体勢を崩していたせいで足がついてこなかった。ガッ、と短い音を立てて剣の切っ先が赤銅の鎧の胸当てを掠める。
騎士はさらに上体を泳がせながらも、左足を踏ん張り後方に大きく跳ぼうとした。
だが、ユージオの連続攻撃は終わった訳ではなかった。体重の乗らない二撃目は牽制でしかない。右に高く上がった剣を、くるりと小さな円を描かせて正中線に引き戻し、左足で深く踏み込みながら最後の斬撃へと繋げる。
「せええええいっ!!」
ライオスを斬ろうとしたときに襲ってきた右目の痛みも、奇妙な紫色の文字も、もう僅かにも現われなかった。迷いや躊躇いもなかった。斬るべき敵を斬るのだという一念のみがユージオの全身を動かしていた。
振り下ろされた青薔薇の剣が、騎士の右肩を直撃した。鎧の肩当てが断ち割られる金属音に続き、鈍く重い衝撃がユージオの右手に伝わった。それは間違いなく、己の放った斬撃が分厚い筋肉を引き裂き、骨を打ち砕く感触だった。
胸まで達する深い傷を受け、整合騎士は背中から床に叩き付けられた。
「ごはっ!」
篭った声が兜の下から漏れ、直後、面頬の隙間から鎧の赤銅よりも一層赤い血液が大量に噴き出した。
人を斬るのは初めてではないが、それでもユージオは一瞬息が詰まるのを感じた。右手に残る忌まわしい手応えに、腹の底が締め付けられるような感覚が襲ってくるが、懸命に飲み込む。
そんなユージオの嫌悪感に同調するように、青薔薇の剣は最後にもう一度強い冷気を放ち、刀身にまとわりついていた返り血をすべて霜に変じさせ振り落とすと、普段の状態へと戻った。見れば、切り裂かれた騎士の右肩も真っ白く凍りつき、滴りかけた血が小さな氷柱を幾つも作っている。
「ぐ……」
整合騎士は、吐血が落ち着くと弓を握ったままの左手を持ち上げ、傷口へ近づけようとした。それを見て、ユージオは再び剣を持つ右手に力を込めた。もし騎士が神聖術の詠唱を始めたら、倒れた相手をさらに斬りつけねばならない。高位の術者であれば、周囲の空間にソルスもしくはテラリアの恵みが残存する限り天命の回復が可能であり、つまり絶命させる以外に無力化する手段は無いからだ。
しかし騎士は、左手が完全に凍りつき、既に炎を失った弓を拳から離せないことに気付いて術による治癒を諦めたようだった。苦笑めいた吐息を漏らし、がしゃっと腕を床にもどす。
これからどうしたものか、ユージオは迷った。青薔薇の剣は、斬撃部位を氷結させることで攻撃の威力を上げたものの、同時に失血による天命の連続的減少をも防いでしまったようだ。騎士はもう戦えないほどの深手を負っただろうが、このまま死にもするまい。放置していけばやがて凍結状態も解け、神聖術で完全回復を果たして追撃してくるのではないか。
奥歯を噛んで立ち尽くすユージオに、先に言葉を掛けたのは整合騎士のほうだった。
「……小僧……」
血の絡まるしゃがれ声に、ユージオはハッと身を硬くしたが、続く内容は少々予想外のものだった。
「さっきの……技の名前は……何という……」
「…………」
しばし戸惑ったあと、ユージオは乾いた唇を湿らせてから答えた。
「……アインクラッド流剣術三連撃技、『シャープネイル』」
「三……連撃技、か」
繰り返し、騎士はわずかに沈黙したが、すぐに続けて問うた。
「そっちの……貴様の使った技は……?」
騎士の兜が右側に動いたのを見て、ユージオも肩越しに振り向いた。すると、全身に火け焦げを作ったキリトが、特に燃え方の激しい左腕を押さえ、右足を引きずりながらゆっくり階段を登ってくる姿が見えた。
「キリト……怪我は!?」
慌てて訊くと、相棒はかすかに唇を歪ませて笑った。
「大丈夫、酷い傷はあらかた塞いだ……騎士のおっさん、俺が使ったのはアインクラッド流武器防御技『スピニングシールド』だよ」
「…………」
それを聞いた騎士は、もたげた頭を再度がしゃりと床に落とし、しばらく沈黙した。やがて流れた声は、二人にではなく、自分自身に聞かせているかのようにごくひそやかだった。
「……人界の端から端まで……その果てを越えた先までも見尽くしたつもりでいたが……世にはまだ吾の知らぬ剣、知らぬ技があったのだな……。――貴様らが……穢れた術によってエルドリエを惑わせたと言ったのは……吾の見誤りであった……」
整合騎士は、もう一度首を動かし、面頬の奥からユージオに視線を向けた。
「……名を……教えてくれ」
キリトとちらりと視線を見交わしてから、ユージオは短く名乗った。
「……剣士ユージオ。姓は無い」
「剣士キリトだ」
二人の名前を噛み締めるように騎士はしばし口を閉ざし、続けて、ユージオにとってはまたしても予想だにしていなかった言葉を発した。
「……カセドラル五十階、『霊光の大回廊』にて十二名の整合騎士が貴様らを待ち受けている……生け捕りではなく、天命を消し去れとの命を受けてな……先刻のように真正面から相対してはとても抗し得ぬ剛の者たちだ……」
「お……おいおっさん、大丈夫なのかそんなことを言って? 禁忌に触れちまうぞ」
キリトが少々泡を食ったように口を挟んだ。しかし騎士は再び笑みににた気配を漂わせ、呟いた。
「アドミニストレータ様の命を遂行できなかった以上……吾は整合騎士たる資格を失い無期限凍結刑となる……そのような辱めを受ける前に、天命を断ってくれ……貴様らの手で」
「…………」
思わず絶句したユージオに向かって、騎士はさらに言葉を重ねた。
「迷うことはない……貴様らは正当なる勝負で吾を倒したのだ……吾……」
続く名前を聞いて――ユージオは息が止まるほどの衝撃を受けた。
「……整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンを」
聞き覚えがある、などというものではない。
その名は、この九年間というもの、ユージオの魂の奥深くに刻み込まれ一瞬たりとも薄れることはなかったのだ。深い悔恨と絶望、そして怒りとともに。
「デュソル……バート? あんたが……あの時の……?」
自分でもぞっとするほどひび割れた声が喉から搾り出されるのを、ユージオは聞いた。
鎧の色が違うし、兜を被っていると整合騎士の声はみな同じように聞こえるので今までまったく気付かなかったが――では、今深手を負って目の前に倒れている騎士こそが、かつてユージオの眼前で――。
ある種の衝動に背を押され、ユージオはよろよろと数歩前に進み出た。
左足で、騎士の投げ出された右腕を踏みつけて立ち止まる。
「ユージオ……?」
訝しむようなキリトの声は、もうほとんど耳に届かなかった。上体を屈めて、間近から面頬の奥の騎士の顔を覗き込む。
兜に何らかの術式が掛けられているのか、数十センの距離まで近づいても騎士の素顔は闇に隠れていた。だが、天命の殆どを削られても尚力を失わない二つの眼だけははっきりと見てとれた。若いとも、年経ているとも思える鋭い眦だった。
乾ききった口を動かし、ユージオは軋むような囁き声を騎士に投げた。
「天命を……断ってくれだって……? ……高潔ぶった口を利くんじゃない……正当なる勝負だ……?」
右手が激しく痙攣すると同時に、握られたままだった青薔薇の剣が再び猛烈な冷気を放射させはじめた。ユージオの嵌めた革手袋や、切っ先のすぐ下にある整合騎士の重鎧を、たちまち白い霜が覆っていく。
急激に胸の奥に込み上げてきた熱い塊を、ユージオは喉も裂けよとばかりに一気に吐き出した。
「たった! たった十一歳の女の子を鎖で縛り上げて……竜にぶら下げて連れ去った卑怯者が口にすることかあああっ!!」
逆手に握った青薔薇の剣を高く振り上げ――ユージオは、凍てつく剣尖を騎士の口元目掛けて全力で突き下ろした。
とても許容できない台詞を吐いた倣岸な舌を床まで縫い止め、同時に残る天命も吹き飛ばしてやるつもりだった。しかし、剣が騎士の兜に触れる直前、視界の右側で黒い影が一瞬閃き、同時に小さな火花が散って、青薔薇の剣の切っ先が左に流れた。必殺の刃は兜の側面を削いだだけで、大理石の床石をむなしく抉った。右手に込めた怒りが、冷気に形を変えて吹き荒れ、床の上にびっしりと放射状に薄青い霜を生やした。
ユージオはのろりと首を右に回し、自分の攻撃を妨げたのが、キリトの右手に握られた黒い直剣による神速の一薙ぎであると理解した。
「なんで……なんで止めるんだよ、キリト……」
あらゆる思考も感情も灼き切れた空疎な白さのなか、ユージオは世界で最も信頼する相棒に呆然と尋ねた。
キリトは、どこかいたましいものを見るような色の眼でじっとユージオを凝視し、ゆっくりと首を振った。
「――そのおっさんはもう戦う気は無いよ。そういう相手に剣を振るっちゃだめだ……」
「でも……でも、こいつは……こいつがアリスを連れていったんだよ……こいつが……」
駄々っ子のように首を振り、言い募りながら、ユージオは意識のどこかでキリトの言わんとする所を理解してもいた。整合騎士も、所詮は神聖教会の命令によって動く存在に過ぎないこと。真に倒すべきは教会そのものであり、ひいてはこの世界を縛る歪な法と秩序であること。
しかし、それが正しい物の見方であると思えば思うほど、そんなもの糞くらえだと叫び、横たわる騎士を滅茶苦茶に斬り刻んでしまいたい衝動も膨らんでいくようだった。十一のあの夏の日から、ユージオが胸中に積もらせてきた怒りと無力感、そして罪悪感は、今更世界の仕組みなどを知ったところで晴らせるようなものではなかった。
足元に転がるバスケット。砂に塗れたパンやチーズ。アリスの青いワンピースを締め上げる鎖の鈍い輝き。そして、根が生えたように動かない、自分の二本の足。
ああ――キリト――キリト。君なら、あの時、整合騎士に斬りかかってでもアリスを助けようとしただろう。たとえそれで一緒に捕縛され、審問に掛けられるとわかっていてもそうしただろう。凄まじいほどの剣の技を持ち、誰よりも自由に振舞い、出会う人皆に好かれる君なら。でも、僕にはできなかった。アリスはたった一人の友達、誰よりも大切な女の子だったのに、僕はただ見ていることしかできなかったんだ。今足元に転がるこの男が、アリスを縛り、連れていくのを。
そのような断片的な思考を孕んだ感情の嵐が一瞬ユージオの脳裡を吹き過ぎた。右手が強くわななき、勝手に動いて青薔薇の剣を床から引き抜いた。
しかし、腕が次の動きに移るよりも早く、キリトの左手が強くユージオの右手を掴んだ。
続いた言葉は、またしてもユージオがまったく予想していないものだった。
「それに……このおっさんは、多分憶えていないよ。ルーリッドの村からお前のアリスを連行した時のことを……。忘れたんじゃない、記憶を消されたんだ」
「え……?」
ユージオは愕然として、横たわる騎士の兜を見下ろした。
これまで、青薔薇の剣が振り下ろされたときすらも身じろぎ一つしなかった整合騎士が、二人の視線を受けてはじめて動いた。ようやく凍結が解けかかったらしい左拳を強引に動かし、ぴきぴきと氷の小片を散らしながら長弓を離すと、その手を兜の顎部分に掛ける。
すでに片側を大きく切り裂かれていた兜は、そこから上下に割れるように騎士の頭から剥がれた。現われたのは、年の頃四十程と見える、いかにも剛毅を絵に描いたような男の顔だった。短く刈られた髪と、太い眉は鉄錆に似た赤灰色。高い鼻梁と引き結ばれた口もとは一刀彫りのように真っ直ぐで、両眼もまた鋭く切れ上がっている。
しかし、濃い灰色の瞳だけが、心中の動揺を映してか僅かに揺れていた。吐血の跡を残す唇が動き、流れ出た声は、先刻とはまったく異なる深い低音だった。
「……その黒髪の小僧の……言うとおりだ……吾が、少女を捕縛し、飛竜で連行したと……? そのような記憶はない……全く存在しない」
「き……記憶はないだって……たったの九年前なんだぞ」
呆然と呟き、ユージオは左足を騎士の右腕から離して一歩あとずさった。ユージオの右腕から外した手で、考えこむように顎の先を撫でながら、キリトが再び言った。
「だから、消されたのさ……前後の記憶ごとな。おっさん……いやデュソルバートさん、あんた以前はノーランガルスの北の辺境を守る整合騎士だった、それは間違いないよな?」
「……然り。ノーランガルス北方第七辺境区が……我が統括区であった……九年前まで……」
騎士の眉が、記憶の底を浚うようにぎゅっと顰められた。
「そして吾は……功大なりとして……セントラル・カセドラル警護任務とともにこの鎧と熾焔弓を与えられた……」
「その功とは何だか、憶えているか?」
キリトの問いに、騎士は即答しなかった。ただ唇をぎゅっと結び、視線を宙に彷徨わせている。短い沈黙を破ったのは、再びキリトの言葉だった。
「俺が答えてやるよ。あんたの功とは、現在あんたらを束ねる立場にいる、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティを見出したことだ。ルーリッドなんていう、央都じゃ誰も知らないような北の果ての村からな。最高司祭アドミニストレータは、アリスをこの塔に連行したことをあんたの手柄としながらも、その件に関する記憶は消さなければならなかった……。その理由も、あんたさっき自分で言ってたぜ」
最早ユージオと整合騎士にというよりも、自分に聞かせるが如く早口でキリトは喋りつづける。
「整合騎士は、生まれたときから整合騎士だ……あんたはそう言った。恐らくアドミニストレータは、あんたら騎士は、人の世を守るために自分が神界から召還したとか何とか言ってるんだろう。騎士となる以前の記憶がないのはそのせいだと納得させるためにな。でもその無茶な説明をごり押すためには、整合騎士に、自分だけじゃなく他の騎士の誕生に関する記憶も残してもらっちゃ困るわけだ。自分が連れてきた大罪人のはずの女の子が、次の日騎士様で御座いと出てきたら大混乱だからな……案外そのへんか、最高司祭様の弱みは……」
猛烈な速さで何事か考えているのだろう、キリトは俯いたまま左右に歩きまわりはじめた。そんな相棒の様子にすっかり気勢を削がれ、ユージオは長く息を吐き出しながらもう一度床の上の騎士を見やった。
整合騎士デュソルバートも、虚ろな表情で何らかの思考を巡らせているようだった。
怒りや憎しみが消えたわけではないが、アリスに関する記憶を消されているという話が真実なら、認めざるを得ないのか、とユージオは思った。確かにこの男は、教会の最高司祭であるというアドミニストレータなる人物に操られる手駒にすぎないことを。自分からアリスを奪い、アリスから記憶を奪って整合騎士に仕立てた憎むべき敵は、そのアドミニストレータ一人に他ならないということを――。
デュソルバートは、やがてじっと見下ろすユージオの視線に気付き、瞳を彷徨わせるのをやめた。その胸中に渦巻いているであろう感情は読み取れなかったが、流れ出した声は、本当に先刻二人の前に立ちはだかった強敵と同じ人間のものかと思いたくなるほどの揺らぎに満ちていた。
「本当なのか……吾ら整合騎士が、そうなる以前は市井に生きる民……人間であったという話は?」
「…………」
言葉に詰まったユージオに替わって、再びキリトが答えた。
「そうさ、あんただってさっき自分から赤い血が嫌ってほど流れたのを見たろうが。エルドリエが倒れたのだって、妙な術を掛けたからじゃない、あいつの奪われた記憶を呼び覚まそうとしたからだ。出来なかったけどな……あんただって同じだぜ。あんたがどんな経緯で……統一大会で優勝したのか、禁忌目録を軽んじたのかは知らないが、あんたはアドミニストレータに大事な記憶を奪われて、代わりに教会への忠誠を埋め込まれ整合騎士に仕立てられたんだ。いま忠誠心が薄れてるのは、あんたが俺たちに敗れ、任務に失敗したと自己認識しているからだ。凍結刑になるとか言ってたけど、実際はその間にまたアドミニストレータ様があんたの記憶をいじくりまわしてもう一度自分に絶対服従の騎士に仕立てちまうはずだぜ、賭けてもいいね」
言い回しは冷たいが、キリトの声にはどこかやるせなさと、そしてデュソルバートを慮るような響きが混じっているように思えた。騎士もそれを感じたのかどうか、瞼を閉じ唇を噛んでしばらく沈黙していたが、そのうちごくかすかな掠れ声で呟いた。
「はるか以前より……何度も同じ夢を見た……。吾を揺り起こす小さな手と……その指に嵌った銀の指輪……しかし目覚めると……そこには誰も……」
デュソルバートはぎゅっと眉根を寄せ、左手で額を強く押さえた。その様子をキリトは同じく眉をしかめて見ていたが、やがて首を振りながら言った。
「思い出せないよ。あんたはその手の持ち主の記憶をアドミニストレータに奪われているからな……」
一瞬口をつぐみ、右手に下げたままだった黒い剣を左腰の鞘にかちんと音を立てて戻す。
「……これからどうするかはあんたが決めることだ。アドミニストレータの元に戻りおとなしく処置を受けるか……傷を治療して俺たちを追ってくるか、それとも」
その続きを言うことなく、キリトは右側の上り階段目指して歩きはじめた。肩越しに振り向き、ユージオをまっすぐ見る。
それでいいだろう?
黒い瞳がそう言っていた。ユージオはもう一度、横たわり瞑目したままの整合騎士に視線を向けた。右手の青薔薇の剣をゆっくりと持ち上げ――切っ先を左腰の鯉口に合わせて、そっと鞘に落とし込む。
「おい、待てよ」
キリトの背に声を投げかけながら、早足に階段に向かった。あのままにしても、デュソルバートが二人を追ってくることはもうないだろうと、ユージオは強く予感した。
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しばらくのあいだ、二組のブーツが大理石の階段を蹴る音だけが鳴り響き続けた。
それを除けば、恐ろしいほどの全き静寂に世界は包まれている。ユージオの知る限りでは、神聖教会の巨塔にはたくさんの修道士やその見習いが起居しているはずなのだが、どれほど耳を澄ませ、目を凝らしても、人の営みらしきものを感じることはできない。
加えて、上の階に辿り着くたびに視界に入る光景が一切変化しない――半円形のホールから左右に伸びる回廊と、そこに等間隔にならぶ黒檀の扉――ために、いつの間にやら幻惑系の術でも掛けられて、同じ階段を繰り返し登っているのではないかと疑いたくなってくる。
そうでないことを確認するために、一度回廊のに入って扉を端から開けてみたい、という衝動に駆られるが、前を行くキリトがあまりにも一定のペースで黙々と登りつづけるので気を散らしている場合ではないと思い直した。デュソルバートの言葉が真実なら、二人の向かう先、カセドラル五十階において十人もの整合騎士が待ち受けているはずだ。
左腰で揺れる白革の鞘にそっと触れて、ユージオが雑念を振り払おうとした途端、踊り場に差し掛かったキリトが急に足を止めた。
厳しい顔つきで振り向き、何事か喋ろうとする様子なので、思わず固唾を飲む。
「なあ……ユージオ。……今、何階だっけ……?」
「あ……あのねえ」
膝から崩れそうになりながら、ユージオはため息をつき、首を振り、肩を落とす三動作を同時に行った。
「次が二十九階だよ。まさかと思うけど、数えてなかったんじゃないだろうね」
「普通、階段には階数表示くらいあって然るべきだと思わないか」
「そりゃそうだけど、だからって今ごろ気付くなよ!」
ユージオの指摘をどこ吹く風と受け流し、キリトは手すりにどすんと背中を預けた。
「しっかしまだそんな所かよ……もう随分登った気がしたけどなあ……腹減ったなあ……」
「……まあ、それは同感だけどね」
あの図書室で豪華な朝食を振舞われてから、もう五時間近くが経過している。踊り場の窓を見上げればソルスはすでに中天を過ぎ、しかも激しい戦闘をひとつくぐり抜けているとなれば、体が補給を求めるのもやむを得ない。
キリトの言葉に頷き、続けてユージオは右手を差し出しながら要求した。
「だから、そのズボンのポケットに入ってるものを一つ寄越せよ」
「えっ……いや、これはその、非常事態用に……て言うか目敏いなお前」
「そんなに詰め込んどいて何言ってんだ」
キリトは本気で惜しそうな顔を作りながらも、右ポケットから蒸しまんじゅうを二つ取り出し、一つを放ってきた。受け取ると、図書室を出てから随分時間が経っているにも関わらず香ばしい匂いが鼻と胃を刺激する。
「あのおっさんの火焔攻撃でちょっとコゲたぞ」
「ははあ……なるほどね」
カーディナルが術で生成した食料を、キリトはいつの間にやらポケットに忍ばせてきたに違いなく、ということはこのまんじゅうの元になったのは貴重な古書の何ページ分かだという事になるのだが、ユージオはそれには目を瞑って大きく一口齧った。かりっとした皮の下から汁気のある肉餡が飛び出してきて、しばし一心に咀嚼する。
ささやかな午餐はほんの数十秒で終了し、ユージオは指をぺろりと舐めると短く息をついた。キリトの左側のポケットがまだ怪しく膨らんでいるが、そちらは勘弁してやることにして、同時に食べ終わった相棒に声を掛ける。
「ご馳走様。――で、どうする気? あと半刻も登れば問題の五十階だけど……正面から乗り込むのかい?」
「んー……」
キリトはわしわしと髪を掻き混ぜながら唸った。
「……整合騎士の超攻撃力はさっき体験した通りなんだが……お前とおっさんの戦闘を見た限り、やっぱりあいつらは連続技には慣れてない、と言うよりまったく未体験なんだろうな。一対一の接近戦に持ち込めれば勝機はある……けど、敵が複数の上に準備万端待ち受けてるんじゃそれも難しい」
「じゃあ……他の階段を探してすり抜ける?」
「それもなあ……カーディナルが、唯一の通路がこの大階段だって断言してたし、仮に抜け道が見つかっても、大詰めに来てから挟み撃ちになる危険が残るしな……五十階にいる十人は、どうにかしてそこで倒しておきたい。ということで、俺たちの最後のカードを切らざるを得ないわけなんだが……幸い、おっさんが警告してくれたおかげで、こっちとしても突入前に長ったらしい術式を準備しておく時間がある」
「”武装完全支配”……」
ユージオが呟くと、キリトは難しい顔で頷いた。
「ぶっつけ本番で使うのは不安だけど、今更試し撃ちしてみる機会もないしな。俺たちの”必殺技”を先制で叩き込んで、何人戦闘不能にできるかに賭けるしかないだろうな……」
「あー、その事なんだけど、キリト」
少しばかりばつの悪さを味わいながら、ユージオはキリトの言葉を遮った。
「その……僕の完全支配術は、さっきの整合騎士の技みたいに直接攻撃的って感じじゃないかも……」
「はぁ?」
「いや、だってさ……式を組む時間も限られてたし、剣の素性を思い描けって言われても……青薔薇の剣の元はただの氷だしさ……」
言い訳がましく呟いて、ユージオは新しい上着のポケットに移しておいた小さなスクロールを差し出した。首を傾げながらキリトが受け取り、解いて目を走らせる。相棒の眉間にたてじわが寄ったり消えたりするのをユージオははらはらしつつ眺めたが、最終的にキリトは、予想に反してにんまりと笑い、頷いた。
「なるほど、確かにこれは”攻撃的”とは言いづらいな。でも……良く出来てる。俺の技と相性も悪くなさそうだしな」
「へえ。どんな技なんだい?」
「それは見てのお楽しみだ」
調子のいい事を言いながらスクロールを返して寄越すキリトを、ユージオは軽く睨んだ。しかし相棒は澄まし顔で前髪をかき上げ、再び背中を手摺に預けた。
「ま、作戦とも言えないような作戦だけど、五十階突入前に武装完全支配術を発動待ちで保持しといて、突っ込んだらまずお前、次に俺が必殺技をぶちかます。うまくハマれば十人の半数以上は無力化できるかもしれん」
「かも、ねえ」
大袈裟にため息をつきながらそう相槌を打って見せたが、実のところユージオにも腹案などありはしない。あらゆる状況を利用した作戦を立てる能力は相棒のほうが一枚も二枚も上手であるのは認めざるを得ないところだし、そのキリトがそれしか無いと言うなら恐らくその通りなのだ。
「じゃあ、その作戦で五人残ったら三人はお前に相手してもらうからな……」
そこまで言いかけて、ユージオはふとキリトの背後、三十階へと続く階段の上に視線を向けた。
そして唖然と目を見開いた。
手摺の陰から、小さな頭がふたつ覗き、四つの目がじっとこちらを凝視しているのに気付いたのだ。
ユージオと視線が合った途端、二つの頭はさっと引っ込んだ。しかし呆気に取られ眺めるうちに、それらは再度そーっともたげられ、丸く見開かれた瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返した。
ようやくユージオの異変に気付いたらしいキリトが振り向き、同じようにしばし絶句してから、こわばった声を出した。
「君ら……、誰?」
すると、二つの頭は互いに目を見交わし、同時に頷いてからおずおずとその全身を露わにした。
「子供……?」
ユージオは無意識のうちに呟いた。現われたのは、まったく同じ墨色の服に身を包んだ、二人の少年――恐らく――だった。年の頃、十くらいだろうか。一瞬懐かしさのようなものを感じたのは、黒い服が、ルーリッドの教会で学んでいたアリスの妹シルカが常に身につけていた修道服によく似ているからだ。
しかし唯一、二人の少年の腰帯から小剣が下がっていることだけが異なっていた。それに気付いたユージオは一瞬警戒したが、すぐにその剣の柄も鞘も、赤味がかった木製で出来ているのを見て取った。色合いは違うが、修剣学院で初等練士が最初に与えられる木剣とほぼ同じものだ。
少年二人の雰囲気もまた、初等練士と共通するものがあった。両方とも、髪を短いおかっぱに切り揃えている。右側のほうは、垂れ気味の眉と目尻が気弱げな印象、対して左側は勝ち気そうに吊りあがった眦だが、瞳に溢れんばかりの不安さと好奇心を満たしているのはまったく一緒だ。
ユージオとキリトが無言で凝視する中、一歩踏み出してきたのは、やはり左側の負けん気の強そうな少年だった。
「あの……僕、じゃない私は、神聖教会修道士見習いのビステンです。そんでこっちが、同じく修道士見習いの……」
「あ……アーシンです」
二人の高い声は緊張のせいか語尾が震えていて、ユージオは反射的に安心させようと笑顔を作った。しかしすぐに、いくら見習いとは言え教会の修道士である以上こちらを敵視しているはずだ、と思い直す。
しかし、ビステンと名乗る少年が続けて発した言葉はあまりにも直接的で、ユージオを再度唖然とさせるものだった。
「あの……ダークテリトリーからの侵入者っていうのは、お二人のことですか?」
「は……?」
思わずキリトと顔を見合わせる。相棒も、この状況をどう判断したものか決めかねているようだった。眉をしかめ、唇を数回閉じたり開いたりしてから、するすると移動してユージオの背後に引っ込む。
「子供、苦手なんだよ。お前に任す」
すれ違いざまそう囁かれ、ユージオはこの野郎、と思ったが今更キリトの後ろに下がりなおすわけにもいかない。諦めて再度階上の少年二人を見やり、つっかえながら答えた。
「え……えっと、その……僕ら自身としては人間のつもりだけど……侵入者っていうのは間違いない、かな……」
今度は、それを聞いた子供たちが顔を向け合い、ひそひそと言葉を交わしはじめた。小声ではあるが、周囲があまりにも静かなので充分に聞き取れる。
「なんだよ、見た目ぜんぜん普通の人間じゃないかよ、アー。角も尻尾もないぞ」
と不満そうに言ったのはビステンという強気そうな少年のほうだ。それに、アーシンという頼りなさげな少年がたどたどしく反論する。
「ぼ、僕は本にそう書いてあるって言っただけだよ。早とちりしたのはステンのほうじゃないか」
「でも、もしかしたら隠してるだけかもよ。近づけばわかるよ」
「ええー、どう見てもふつうの人間だよう。でも……ひょっとしたら牙はあるかも……」
微笑ましいやり取りに、ついユージオは口もとを緩めた。もし、自分とキリトがあの年頃の子供で、近くに闇の国からの侵入者がいると知らされれば、同じようにこっそり見に行った可能性は高い。そしてその結果、父親や村長にこっ酷く怒られる破目になっただろう。
そう考えたところで、ユージオはふと心配になった。あの二人の子供は、侵入者と会話したりして、後で罰を受けたりしないのだろうか。そんな気遣いをする立場じゃないよなあ、と思いつつも言葉を掛けずにいられない。
「あの……君たち、僕らと話したりすると怒られるんじゃないの?」
それを聞いたビステンとアーシンはぴたりと口を閉ざし、次いでにんまりと笑った。ビステンが、少々得意げに答える。
「今日は朝から、全修道士、修道女と見習いは部屋の扉に鍵を掛け、外に出ないよう命令が出てるんです。てことは、侵入者を見物に行っても、誰にもそれがバレる心配はない道理ですから」
「は、はあ……」
これも、いかにもキリトが言いそうな理屈だ。結局バレて怒られるオチまでが目に浮かぶようだ。
少年二人は再度顔を寄せ合って何事か相談していたが、今度はアーシンのほうが口を開いた。
「あのぉ……もしよかったら、近くで見せてほしいんですが……おでこと、歯を」
「ええ? ……いや、まあ、それくらいならいいけど……」
ユージオは戸惑いつつも頷いた。教会に弓を引いた侵入者も、あくまで普通の人間なのだということを修道士見習いの子供に知って欲しいという気がしたし、それにもしかしたらカセドラル内部の情報が得られるかもしれないと思ったからだ。
ビステンとアーシンは顔を輝かせると、好奇心と警戒心がない混ぜになったような足取りでとことこと階段を降りてきた。踊り場まで達すると足を止め、それぞれ青と灰色の瞳をまじまじと向けてくる。
ユージオは腰を屈め、左手で額の髪を押し上げながら、いーっと歯を剥き出しにして見せた。子供たちは瞬きひとつせずにユージオの額と前歯を十秒近くも凝視し、やがて納得したように頷いた。
「人間だ」
「人間だね」
二人の顔に露骨なまでの失望が浮かび、思わず苦笑する。そんなユージオを見て、アーシンが首を傾げた。
「でも、ダークテリトリーの怪物じゃないなら、どうしてセントラル・カセドラルに侵入しようなんて思ったんですか?」
「え、ええと……」
どうにも調子が狂うなあと思いつつ、ユージオは今更隠すこともないかと正直に答えた。
「……ずっと昔、友達の女の子が整合騎士に攫われちゃったんだ。だから、取り戻しにきた」
こればかりは、教会の訓えに心身ともに染まっているであろう修道士見習いには受け入れがたい動機に違いなかった。アーシンの幼い顔に恐怖と反発が浮かぶのを覚悟したが、意に反して、少年は小さく肩をすくめただけだった。
「はあ……それも、普通ですね」
「ふ、普通?」
「ええ。昔から、家族や恋人を連行された人間が、教会に抗議に来た例は稀にですがあったようですね。勿論、内部にまで入り込んだのはお二人が初めてでしょうけど」
続けて、隣のビステンが言葉を継いだ。
「しかも一回投獄されたのに呪鉄の鎖を切って脱出して、しかも整合騎士を二人も倒したって言うから、これはてっきり本物の怪物が攻めてきたのかと思って待ってたんです。でもなー、まさかただの人間だとはなー」
子供たちは顔を見合わせ、「もういい?」「いいか」と短く頷きあった。再びユージオを見たアーシンが、おかっぱの髪を揺らしながら小首を傾げた。
「じゃ、最後にお名前を教えてもらっていいですか?」
こっちはまだ訊きたいことがあるんだけど、と思いながらもユージオは答えた。
「僕はユージオ。後ろのがキリト」
「ふうん……姓はないんですか?」
「あ、ああ。開拓民の子供だから。……もしかして、君たちも?」
「いえ、僕らにはありますよ」
そこで言葉を切り、アーシンはにっこりと笑った。満面の、無邪気な――まるで、美味しいお菓子を大口開けて齧るような笑顔。
「僕の姓は、シンセシス・サーティエイトです」
その名の持つ意味を、ユージオは咀嚼することができなかった。
突然腹にひんやりとした冷気が差し込み、ユージオは視線を下向けた。
目の前にいたのに、いつの間に抜いたのか、アーシンの右手に握られた小剣が五センほどもユージオの体に埋まっていた。柄も、鞘も木製――しかし、刀身は木ではなかった。鮮やかな緑色に染まった金属。緑は地金の色であると同時に、それを包むどろりとした粘液の色でもあるようだった。液体は、刀身それ自体から次々に染み出しているように見えた。大きな雫が刃を幾つも伝い落ち、ユージオの傷口に溶け込んでいく。
「ユー……!」
短く迸ったのはキリトの声か。妙に軋む首を後ろに向けると、相棒はこちらに飛び掛かろうと右足を一歩踏み込んだ姿勢で固まっていた。つい一瞬前までアーシンの隣にいたはずのビステンが、今はキリトの斜め後ろに立ち、同じく緑色の剣を焼け焦げの目立つ黒い上着に深く突き立てていた。少年の口もとを彩る笑みは、先ほどと同じように勝ち気で、得意げだった。
「――んで、僕がシンセシス・サーティナイン」
ユージオとキリトの体から同時に小剣が抜かれた。ビステンとアーシンは凄まじい速度で剣を一振りし、緑の粘液と赤い血液をきれいに払い落とすとそれぞれの鞘にぱちんと収めた。
腹の傷から広がった冷気は、いまや全身に広がろうとしていた。凍えるような寒さに襲われた箇所から、次々に感覚が消え失せていく。
「きみ……た……せいご……う……」
それだけが、ユージオがどうにか口にできた言葉だった。舌が痺れてぴくりとも動かせなくなると同時に、ふっと膝から力が抜け、ユージオは棒のように床に倒れた。胸と左頬を大理石に激しく打ちつけたが、痛みも、何かが触れた感覚すら無かった。今やユージオに出来るのは浅い呼吸と瞬きのみだった。
直後、どっという音とともにキリトも転がった。
毒か――。
遅まきながらユージオはそう悟り、対抗策を思い出そうとした。
学院での博物学の講義において、自然界に存在する毒物とその解毒法については一通り学んではいた。しかしそれらは全て、植物や蛇、虫の持つ毒を受けてしまった場合の対処法に終始し、このように戦闘中に毒物で攻撃されるという事態を想定したものではなかった。
それも当然だ。学院における――いや人間界における戦闘というものは寸止めが原則であって、いかに美しく剣舞の型を決めるかのみを競うものだからだ。刀身に毒など塗ったところで相手に当てられなければまったくの無意味だ。
よって、ユージオの持つ知識は、この毒虫に刺されたらあの草の汁を塗る、程度のものでしかない。今回は使用された毒の種類も分からなければ、周囲には薬草どころか自然物は一切存在しないのだ。最後の手段は神聖術による解毒を試みることだけだが、手も口もまったく動かないのだから術式の発動は不可能である。
つまり、もしこの毒が体の自由を奪うだけでなく、天命を連続的に減少させるようなものだとしたら――二人の命数は、百階の塔を半ばまでも登らぬうちに尽きてしまうことになるのだ。
「そんなに怖がらなくてもいいですよ、ユージオさん」
不意に頭上から、ユージオの心を読んだような整合騎士アーシン・シンセシス・サーティエイトの声が降ってきた。毒の影響か、まるで水中に沈んでいるかのようにその声は妙に歪んで聞こえる。
「ただの麻痺毒ですから。もっとも、今死ぬか、五十階で死ぬかだけの違いですけどね」
とこ、とこと足音がして、左頬を床につけたまま身動きのできないユージオの視界に小さな茶色の革靴が入ってきた。その片方がひょいと持ち上がり、つま先がユージオの頭を踏んだ。執拗に、何度も何度も靴底を擦りつける。
「……うーん、やっぱ角はないなあ」
足は次に背中に移動し、背骨の両側を抉るように探った。
「羽根もなしか。ステン、そっちはどう?」
「こいつもただの人間だわ」
視界外で、同じようにキリトを調べていたのだろうビステンの不満そうな声が応えた。
「あーあ、ついにダークテリトリーの怪物が見られると思ったんだけどなあー」
「まあ、いいよ。こいつらを五十階に引っ張っていって、ぼーっと待ってる奴らの目の前で首を落としてやれば、僕らも神器と飛竜が貰えるはずさ。そしたらダークテリトリーまで飛んでって、怪物でも暗黒騎士でも殺し放題だ」
「だな。おいアー、どっちが先に黒騎士の首取るか勝負だぜ」
事ここに至っても、ビステンとアーシンの声には一切の邪気が無く、それが何より恐ろしいことだとユージオには思えた。彼らは、まったくの子供らしい好奇心と功名心のみに拠ってユージオとキリトに毒刃を振るったのだ。一体なぜ彼らのような子供が整合騎士に――いや、それ以前に、なぜこのような子供が存在し得るのか。
ユージオにはアーシンが剣を抜く動作が見えなかったし、それ以上に距離のあるところにいたキリトを難なく倒したビステンの身のこなしはまさしく整合騎士の名に相応しいものだ。しかし、身体能力というものは長年の修練あるいは生死を賭した実戦を経なければ向上しない。ユージオが神器たる青薔薇を自在に操れるようになったのは、十歳の誕生日から竜骨の斧を八年間振り続けた経験もさることながら、北の洞窟でゴブリンの集団と戦いこれを撃退したことが大きい、とキリトも言っていた。
だが、ビステンとアーシンの二人はどう見ても天職授与以前の年齢だし、口ぶりからは怪物相手の実戦も未経験のようだ。ならば如何なる理由によって、目にも止まらぬ身ごなしや、あのような――鍛えぬいたユージオの体を紙のように貫くほどの――毒剣を操れる武器装備権限を身につけたのだろうか。
心中に渦巻く疑問と混乱を、しかしユージオはまったく声に出すことはできなかった。
麻痺毒はいよいよ全身に染み渡ったようで、もはや温度も、体がそこにあるという感覚すら失われていた。だから、アーシンがユージオの右足首を掴み、引き摺りながら歩き出したのに気付いたのは、視界がぐるりと半回転して小柄な修道服の背中が目に入ってからだった。
どうにか動かせる眼球を懸命に左に向けると、キリトもまた頭陀袋のようにビステンに引っ張られていた。ユージオ同様顔までも麻痺しているのだろう、その表情は読み取れない。
幼い整合騎士二人は、凄まじい重量を持つ青薔薇の剣と黒いやつを帯剣したままのユージオとキリトを引き摺り、軽々と階段を登りはじめた。頭が段差を乗り越えるたびに激しく上下して、一瞬天命の減少を心配したが、今更なにをと口を動かさずに苦笑する。
どうにかこの苦境を脱する方策を探らねばならないのに、まるで毒に思考までも侵されたかのように、ユージオの頭は痺れたままだった。胸中に広がるこの空疎さは何だろう、としばし考えたのち、ユージオはこれは幻滅、あるいは絶望というものだと気付いた。
秩序と正義の名のもとにアリスを連れ去り、記憶を封じてその尖兵に作り変えた神聖教会――世界をあまねく支配するその組織が、このような年端も行かぬ子供までをも手駒とし、毒剣を与え、取り返しのつかないほど歪めてしまったのだ。その”教育”を、かつて同じ位の年だったアリスも通過したのだろうか。だとしたら――果たして記憶の欠片を取り戻しても、アリスは元の人格に戻れるのだろうか……。
「不思議に思ってますよね?」
突然、かすかに笑いを含んだアーシンの声が耳に届いた。
「なんでこんな子供が整合騎士なのか、って。どうせもうすぐ殺しちゃうんだし、教えてあげますよ」
「おいおいアー、それを言うならもうすぐ殺しちゃうけど、だろう。喋るだけ無駄じゃんか、物好きな奴だな相変わらず」
「何だよ、お前だって喋りたいくせに。――僕らはね、この塔で産まれて育ったんです。アドミニストレータ様が、修道士、修道女に命じて作らせたんですよ。完全に失われた天命を呼び戻す、”蘇生”の神聖術の実験に使うために」
とてつもなく恐ろしいことを口にしているというのに、アーシンの声はあくまで朗らかだった。
「外の世界の子供は十歳で天職を貰うらしいけど、僕らは四つの時に授かりました。アドミニストレータ様御自らね。仕事は互いに殺し合うことです。この毒剣よりももっと小さい、おもちゃみたいな剣を与えられて、二人一組で交互に相手を刺すんです」
「お前刺すのがへったくそだったよなあ、アー。毎回痛くてたまらなかったぞ」
混ぜっ返すようなビステンの声に、アーシンは五月蝿そうに応じた。
「ステンが変な風に動くからだろ。――整合騎士を二人も倒したユージオさんとキリトさんならご存知だと思いますけど、人間って中々死なないんですよね。たかが四つの子供でも、それはそうなんです。早く殺してやらなきゃって焦りながら無茶苦茶に切ったり刺したりして、やっとで天命がゼロになると、アドミニストレータ様が神聖術で蘇生させてくれるんですけど……」
「これも最初の頃はぜんっぜんうまくいかなかったよなー。普通に死ぬ奴はまだマシなほうで、爆発して粉々になっちゃう奴とか、変な肉の塊になっちゃう奴とか、違う人間が入っちゃう奴とかもいたなあ」
「僕らも、いくら天職とは言え、痛いのも死んじゃうのも嫌ですからね。二人で色々研究して、なるべく一撃できれいに殺したほうが、痛みも少ないし蘇生成功率も高いって気付いたんです。まあ、その一撃でってのが難問だったんですけどね。限りなく速く、滑らかに、するっと胸の真ん中を刺すか、あるいは首を落とす……」
「だいたい完璧にそれが出来るようになったのは、七歳くらいの時だったかなー。他の奴らが寝てる間に、二人して素振りしまくったからなー」
体の感覚は相変わらず無かったが、それでも全身の肌が粟立つような寒気にユージオは襲われていた。
この少年二人が凄まじい体術を身につけている理由――それは、取りも直さず、何年間にも渡って互いを殺し続けてきたからだということなのか。毎日、毎日、友達の命をいかに巧く断ち切るかだけを考え、剣を振るう……確かに、そのような経験を重ねれば、子供ながら整合騎士に叙せられるほどの技を備えるということも有り得るのかもしれない。しかしそれと引き替えに、この二人からは、何か大切なものがどうしようもなく損なわれている。
驚くほどの早さで大階段を登りつづけながらも、変わらず楽しそうな声でアーシンは続けた。
「アドミニストレータ様が実験を終了させた……っていうか諦めたのは、僕らが八歳になった頃でした。結局、完全な形での蘇生は不可能だったみたいですね。知ってます? 天命がゼロになると、白い光の矢がいっぱい降ってきて、なんて言うか、頭の中をどんどん削っていくんです。それに大事なとこを削られちゃった奴は、天命が戻っても元通りにはなりませんでしたね。僕らも、生き返ったら、その前何日かの記憶がなくなってたなんてこと沢山ありましたよ。――ま、そんなわけで、最初は百人いた仲間も、実験が終わったときは僕らだけになってました」
「生き残った僕らに、偉そうな司祭が次の天職を選べっつうから、整合騎士になりたいって言ってやったんだ。そしたら、整合騎士っていうのはアドミニストレータ様が神界から召還する聖なる戦士だ、お前らのような子供がなれるものではない、なんて怒りやがってさ。んで、整合騎士で一番下っ端の兄ちゃん二人と試合してみろって……何て名前だったかなあ、あいつら」
「ええと……何とかシンセシス・サーティエイトとサーティナインだよ」
「アー、その何とかのところ聞いてるんだ。まあいいや、あの気取った兄ちゃんたちの首すっ飛ばしてやったときの司祭の爺さんの顔、大爆笑だったよなー」
そこで言葉を切り、少年二人はひとしきり愉快そうに笑った。
「……で、その結果を知ったアドミニストレータ様が、特例で僕らを整合騎士にしてくれたんです、殺した二人の代わりに。でも、他の騎士みたく任地を得るには勉強が足りないからって、同時に修道士見習いとしてもう二年も歴史だの神聖術だの教わってるんですけどね……正直、うんざりなんですよ、もう」
「何とか早いとこ飛竜が貰えないかなーってあれこれ相談してるとこに、何とカセドラルにダークテリトリーの手先が侵入したって警報が流れてさ。アーと二人で、これだ! ってね。他の騎士より早く侵入者を捕まえて処刑すれば、アドミニストレータ様も僕らを正式な騎士にしてくれると思って待ってたんだ」
「悪かったですね、毒なんか使って。でも、なるべくユージオさんたちを生かしたまま五十階まで持っていきたかったもんですから。あ、安心してください。僕ら、殺すのすごい上手いですから、痛くないですよ」
上層で防御線を張っているという整合騎士たちの前で、ユージオとキリトの首を取ってみせる瞬間を、少年二人は待ちきれないようだった。弾むような足取りはいよいよ軽く、獲物を引き摺りながらも驚くべき速さで階段を登っていく。
何とか脱出方法を考えなければならないのに、ユージオは二人の語った内容にただただ呆然とすることしか出来なかった。例え口が麻痺していなかったとしても、言葉でこの子供たちを動かすのは絶対に不可能だと思えた。彼らの中には、法も、正義も、善という概念すらおそらく存在しないのだ。唯一従うものは、彼らを”製造”した最高司祭アドミニストレータの命令のみ――ということか。
何十度目かの方向転換のあと、見開いたユージオの目に映る天井が、上層の階段の底を作る斜めの面から水平へと変化した。続く階段が無い、ということは、カセドラルをその半ばで区切るという大回廊の入り口についに到着したということだ。
少年たちは足を止め、よし、いくぞ、と短く言葉を交わした。
あの緑色の剣に首を切断されるまであと何分――いや何十秒だろうか。体の感覚は一向に戻る気配がなく、どれほど念じようとも指先ひとつ動く様子はなかった。
再び移動が開始され、その途端、強い白光がユージオの目を射た。
はるか頭上で弧を作る大理石の天蓋には、創世の三女神とその従者たちの精緻な似姿が色彩豊かに描かれている。天蓋を支える円柱も無数の彫像で飾られ、柱の間に設けられた大きな窓からはソルスの光がふんだんに降り注いでいた。『霊光の大回廊』の名に相応しい荘厳な眺めだ。
子供二人は、ユージオとキリトを引き摺りながらはやる足取りで五メルほど進み、そこで停まった。右足を放り出された勢いで体が半回転し、ユージオはようやく回廊の全体を見ることができた。
恐ろしく広い。カセドラル一階ぶんの面積を丸ごと使っているのだろう、色合いの異なる石を組み合わせた床の隅のほうは白い光の中で霞んで見える。中央を貫いて豪奢な紅い絨毯が真っ直ぐ引かれ、突き当たった壁にはまるで巨人が使うのかと思いたくなるほど大きな扉が聳えていた。上層に続く階段はあの先にあるに違いない。
そして、扉のずっと手前、回廊の半ばほどの位置に、デュソルバートが告げたとおり鎧兜に身を固めた十人の騎士たちが、何者をも通さぬという絶対的な威圧感を放ちつつ屹立しているのが見えた。等間隔に並んで九人。そしてそれより数歩進んだところに、一人。
後ろの九人は皆、白銀に光る揃いの重鎧と十字の孔が切られた兜を装備していた。エルドリエが纏っていたものと同じ形だ。武器もまた、一様に大型の直剣を、重ねた両手で床に突いている。
しかし、前の一人の鎧兜だけは薄い紫色の輝きを放っていた。装甲も比較的華奢で、腰に下げているのは刺突に特化しているらしい細剣だ。軽装と言っていいかもしれないが、全身から発する闘気は後ろの九人とは比較にならない。猛禽の翼を象った兜の奥の顔は見えないが、デュソルバートに劣らぬ剛の者なのは間違いないと思えた。
最上階を目指すにあたってとてつもなく高い障壁となるであろう十人もの整合騎士――であるが、現在、彼ら以上にユージオたちの命を脅かしているのは、すぐ目の前に立つ二人の子供だった。
簡素な修道服の背中を昂然と反らし、アーシンとビステンは十人に対峙した。
「――やあ、そこにいるのは副騎士長のファナティオ・シンセシス・ツー様じゃないですか」
快活な声を発したのはアーシンの方だった。
「”天穿剣”のファナティオ様がわざわざお出ましとは、御老人たちもよっぽど慌てているようですね。それとも慌てているのはファナティオ様ご自身かな? このままじゃ、副騎士長の座を”金木犀”殿に奪われかねませんし、ね?」
緊迫感に満ちた数秒の静寂のあと、紫の騎士が金属質の残響を伴うやや高めの声で応えた。整合騎士特有の、人間らしさを感じさせぬ響きだが、その裏にある苛立たしさをユージオは確かに感じた気がした。
「……見習いの子供が何故名誉ある騎士の戦場に居る」
「へ、ばっかみてえ」
即座にビステンが遠慮のない声音で叫んだ。
「戦いに名誉だの格式だの持ち込むから一騎当千の整合騎士様が二度も負けるんだよ。でも安心していいぜ、あんたらがこれ以上醜態を晒さないように、僕たちが侵入者を捕まえてきてやったからな!」
「これから、僕らが咎人の首級を取りますから、よーく見ててその旨ちゃんと最高司祭様に報告してくださいね。まさか名誉ある騎士様が、手柄を横取りするような真似はしないと思いますけどね」
超人的な強さを持つ整合騎士十人を向こうに回して、ここまであからさまに嘲弄するアーシンとビステンの胆の据わり方に、ユージオは一時絶体絶命の立場を忘れ心の底から唖然とした。
いや――それも少し違うだろうか。
子供たちの小さな背中に色濃く漂う気配、これは憎悪ではないか……? ユージオは動かぬ眉を寄せ、懸命に視線を凝らした。しかし、もしそうだとしても、一体何を憎んでいるのだろうか。神聖教会に、つまり最高司祭アドミニストレータに反逆する大罪人のユージオとキリトを前にしてさえ、彼らは単なる好奇心しか見せなかったというのに。
アーシンとビステンは憎しみと蔑みも露わに整合騎士たちを凝視し、騎士たちは苛立ちを込めて子供二人を睨み、そしてユージオは疑問を抱いて子供たちを見つめていたので――。
黒衣の人影が、音も無く、滑らかに、子供たちの背後に立ったのに事前に気付けた者は、恐らくその場には居なかった。
ユージオを縛るものと同じ麻痺毒を受けたはずのキリトが、狩をする闇豹のような動きで少年二人に後ろから飛び掛り、右手でビステンの、左手でアーシンの腰に下がる毒剣の柄を握った。そのまま前に弧を描いて抜刀するのと連続した動作で、少年たちの左の二の腕を深く切りつける。
子供たちがぽかんとした顔で振り向いたのは、キリトが緑の毒液の雫を引きながら後方に宙返りし、着地してからのことだった。
アーシンとビステンのあどけない顔が、驚きから怒りを経て屈辱へと醜くく歪んだ。
「お前――」
「なんで――」
麻痺毒の効果は即座に発揮され、それだけをようやく口にして、子供たちは軽い音を立てて床に転がった。
深く膝を曲げていたキリトが、ゆっくりと立ち上がった。毒剣二本を左手で束ねて握り、アーシンに歩み寄ると右手でその修道衣の懐を探る。すぐにつかみ出したのは、橙色の液体を封じた指先ほどの小瓶だった。
親指で栓を弾くと鼻先に持っていき、得心したように頷くとユージオの方にやってくる。おい、と言おうとしたが無論口は動かず、薄く開いたままの唇に流し込まれる液体を、ユージオは否応なしに飲み込むことになった。味もまた一切感じなかったのは、恐らく幸いなのだろう。
あまり見たことのない種類の表情を頬のあたりに漂わせたキリトは、膝をついたままごくごく微かな声で囁いた。
「数分で麻痺は解ける。口が動くようになったら、すぐに武装完全支配術の詠唱を始めるんだ。準備できたらそのまま保持して、俺の合図でぶちかませ」
す、と立ち上がり、キリトは再度少年たちの傍まで移動した。今度はびんと張った大声で、離れた場所に立ったままの整合騎士たちに向かって叫ぶ。
「剣士キリトならびに剣士ユージオ、臥してまみえた非礼を深く詫びる! 非礼ついでに、今しばし我らが不名誉を雪ぐ猶予を戴きたい! その後、存分に剣と剣を仕合わせて貰うが如何!」
相当に高位の騎士なのであろう紫色の鎧兜も、さすがに少々戸惑った様子だったが、すぐに堂々たる声音で返答してきた。
「整合騎士第二位、ファナティオ・シンセシス・ツーである! 咎人よ、吾が断罪の剣には一抹の憐憫すらも有り得ぬ故、言うべきことがあるならば鞘にあるうちに言うがよい!」
それを聞いたキリトは、肩越しに倒れた少年たちを見下ろし、騎士たちにも聞こえる位の強い調子で言葉を投げた。
「――不思議に思ってるだろう。何故俺が動けたか」
先刻の自分の台詞を奪われたアーシンの顔が、麻痺の中にあっても口惜しそうに引き攣った。
「お前らの腰の鞘、南方の”血吸樫”製だな。この”ルベリルの毒鋼”を収めても腐らない唯一の素材、ただの修道士見習いが持ってるはずのない物だ。だから、お前らが近寄ってくる前に毒分解術を唱えておいた……分解が終わるのにちょっと時間がかかったけどな」
感覚が戻り始めたのか、四肢をちくちくする痛みが這いまわっていたが、ユージオはそれをほとんど意識しなかった。相棒の表情がいかなるものなのか、ようやく思い当たったからだ。
あのキリトが――激怒している。
しかし、その怒りは、子供たちに向けられているわけではないようだった。なぜなら、アーシンとビステンを見下ろす瞳には、少なからずいたましさが含まれているように見えた。
「それに、お前ら口を滑らせたな。全修道士は部屋から出ないよう命令されてる……ってことは、その命令に従わないお前らは修道士じゃないってことだ。剣の速さだけが強さじゃないぞ……つまるところ、お前らが愚かだったってことだ、ここで死ぬのも仕方ないくらいに」
冷たく言い放ち、キリトは左手にまとめて握った毒剣を高く掲げた。
唸りを上げて振り下ろされた手から、緑色の閃光を引いて剣が飛んだ。ががっ、と鈍い音を立てて二つの刃が食い込んだのは、アーシンとビステンの鼻先の床石だった。
「でも、お前らは殺さない。その代わりよく見とけ、お前らが馬鹿にしてる整合騎士がどんだけ強いか」
じゃりん、と音高く鞘走らせた黒い剣を、キリトはぴたりと体の前に構えた。
「――待たせたな、騎士ファナティオ!」
無茶だ……いくらなんでも。
相棒の背中にそう声を掛けようとしたが、ユージオの唇は小さく震えただけだった。感覚は戻りつつあるもののまだ言葉を音にできる程ではない。
呆れるほどの洞察力あるいは猜疑心を発揮して子供たちの罠から脱出してみせたキリトではあるが、一難去って――と言うより更なる危地に策もなく飛び込む破目になったのは明らかだ。十人もの整合騎士、しかもうち一人は副騎士長の位にあるという強敵と真っ向から戦わねばならないのだから。
むしろ、普段のキリトなら、ここは一も二もなくユージオを引き摺って逃走し、少しでも有利な状況を立て直そうとするはずだ。それをしないのは、やはり彼も平常な状態ではないのだ。目を凝らせば、黒衣の背中から立ち上る瞋恚の炎が青白く見えるような気がするほどの、深い怒りに衝き動かされている。
今のキリトに正面から対峙すれば、修剣学院の教官ですら気圧されずには居られないだろう。しかし、流石というべきか、ファナティオと名乗った紫紺の騎士は堂々たる仕草で右手を細剣の柄に持っていくと、涼やかな音とともに抜きはなった。まるで、刀身そのものが発光しているかのような眩い輝きがユージオの目を射る。
ファナティオに続いて、背後の九名の整合騎士たちもぴたりと揃った動作で一斉に抜刀した。途端に膨れ上がった剣気が、キリトのそれを押し返す勢いで回廊の空気をびりびりと震わせる。
緊迫した状況にあって、尚も憎らしいほど落ち着き払ったファナティオの声がいんいんと響いた。
「咎人よ、どうやら私との一対一の決闘を望んでいるようだが、残念ながら我々は、もしお前たちがこの回廊まで辿り着いたときは如何なる手段を用いても抹殺せよとの厳命を受けている。故に、お前には同時に相手をして貰わねばならん――私が手塩に掛けて鍛え上げた、”宣死九剣”のな!」
声高にそう言い放つと、続けてファナティオは、システム・コールの一句に繋げて複雑な神聖術の高速詠唱を開始した。明らかに武装完全支配式だ。対抗するにはこちらも同じ術を使うか、詠唱が終わる前に斬りかかるしかない。
キリトが選んだのは後者だった。靴底の鋲から火花が散るほどの勢いでファナティオ目掛けて突進し、黒い剣を大上段に振りかぶる。
しかし同時に、ファナティオの背後に控える九人のうち左端に立っていた騎士も突撃を開始していた。分厚い大剣を重い唸りとともに左から横薙ぎに繰り出し、キリトを迎え撃つ。
已む無くキリトは剣の方向を変え、騎士の斬撃を受けた。耳を突き刺すような大音響とともに双方弾かれ、距離が開く。
しかし、巨大な武器を頭上高く跳ね上げられた騎士に対して、キリトの剣の返しは素早かった。着地したときにはすでに逆撃体勢に入っており、あとは敵のがら空きの懐に飛び込み一閃で仕留められる――。
「!?」
――と確信した直後、ユージオは思わず息を飲んだ。いつの間に突っ込んできたのか、左から二人目の騎士が、正確にキリトの着地地点を狙って渾身の水平斬りを放ちつつあったからだ。
さすがに一瞬驚きの気配を放ちつつ、キリトは再度剣を打ち下ろし、敵の攻撃を弾いた。先ほどと同様の金属音、大量の火花、そして二者の距離が四メルほど開く。
今度の騎士もまた、大きく体勢を崩した。当然だ、あれほどの巨剣で渾身の一撃を放ち、それを跳ね返されれば、どれほどの膂力の持ち主であろうとも切り返すのは用意ではない。むしろ称えるべきは、ぎりぎり最低限の動きで敵の剣を受けきり、衝撃を柔軟に吸収して即座に反撃体勢に入れるキリトの伎倆だろう。
しかし。
まさか、と思う間もなく、ユージオはまたしても着地直後のキリトに襲い掛かる第三の騎士を見た。三度繰り返される剣と剣の衝突に奪われそうになる視線を、ユージオは無理矢理その後ろに向けた。
「――!!」
そしてぐっと奥歯を噛み締めた。キリトと三人目の騎士が剣を撃ち合わせたその瞬間にはもう、四人目の騎士が突進を開始している。
しかし何故、キリトの着地点をこうまで見事に予想できるのだろうか。またしても放たれた横薙ぎの斬撃に、ついにキリトの反応が乱れ、どうにか受けには成功したものの、がきっ、と鈍い音とともに弾かれた黒衣の体が空中で揺れた。
そうか――、と、遅まきながらユージオは気付いた。
騎士たちの攻撃は、これまでの全てが一様に左から右への水平斬りである。それを剣で受ければ、弾かれる方向はある程度限定される。そして、続く騎士の攻撃もまた、突きや垂直斬りと違い横軸での命中範囲が広い水平薙ぎ払いなのだ。加えてあの長大な刀身――つまり突進の方向には、一点を狙う精密さは要求されない。
単独での連続剣技という発想を生来持たないはずの整合騎士たちだが、しかしこれは、全力を込めた一撃の欠点を埋め利点を生かす、言わば集団による連続技だ。やはり彼らは、型の美麗さのみを追及する学院の教官たちとは違い、ダークテリトリーでの実戦を経験している本物の戦士たちなのだ。
だが、その戦法も決して万能ではない。
気付けキリト、そうと分かれば対処法はある――!
叫ぼうとしたユージオの喉から、しわがれた唸りが漏れた。ようやく舌や唇が動くようになりつつあるのだ。一刻も早く術式詠唱を開始できるよう、懸命に口を動かして強張った筋肉を解しながら、ユージオは相棒に掠れた声を投げかけようとした。
四人目の騎士の剣を受けたキリトは、着地に半ば失敗し、片手を突いた。
その首の高さを正確になぞりながら、五人目の騎士の剣が唸りを上げて襲い掛かった。
キリトは、咄嗟に上体を後ろに倒し、剣の下を掻い潜ろうとした。黒い前髪がひと房刃に触れ、空中にぱっと飛び散る。
そう――襲ってくるのが水平斬りと分かっていれば、剣で受けるのではなく上か下に避ければいい。
しかしそれは、反撃と一体となった動作であるのが前提だ。あのようにただ寝そべってしまえば、次の行動に入るのが一呼吸、いやそれ以上に遅れる。
キリトの左側から迫る六人目の騎士は、その隙を逃す気はさらさら無いようだった。なぜなら、脇に構えていた剣を素早く上段に移動させ、攻撃を垂直斬りへと切り替えたからだ。
「あ……!!」
あぶない、とユージオは、喉に鋭い痛みが走るのを無視して叫ぼうとした。避けられない、そう確信し、思わず目を逸らそうとしたその時――。
キリトの右側で剣を振り終わったばかりだった五人目の騎士の体が、ぐらりと揺れた。
キリトは、ただ寝そべったわけではなかったのだ。いつのまにか、自分の両脚で騎士の足を挟み込み、てこの要領で自分の上に引き倒していたのである。
六人目の騎士は、すでに振りはじめていた斬撃を止めることができず、その刃で味方の背中を深く抉った。驚愕の気配を放ちながら剣を引き戻そうとするその左腕を、倒れ込む五人目の下から伸びた黒い閃光が貫いた。
立ち上がりざまの一突きで正確に騎士の二の腕を切り裂いたキリトは、慌てて飛び込んできた感のある七人目の騎士に向かって、思い切り六人目を突き飛ばした。さすがに味方ごと薙ぎ払うわけにもいかず、七人目はその剣を引き戻す。
ついに、”宣死九剣”とファナティオが呼んだ集団の連続攻撃が止まった。
その空隙を突いて、キリトが凄まじい速度で走った。九騎士には目もくれず、術式詠唱中のファナティオに猛然と打ちかかる。
間に合え――!
とユージオは必死に念じた。
「リリース……!」
とファナティオが叫んだ。
「うおおおお!!」
キリトが吼え、剣を遠間から高く振りかぶった。
ファナティオの細剣がぴたりとキリトに向けられた。しかし、あのような華奢な武器では、もう如何なる動作を取ろうともキリトの剣を受け切るのは不可能だ。あの黒い剣は、神器たる青薔薇の剣を上回るほどの重量を備えている。それにキリトの神速と言うに相応しい斬撃が加われば、細剣如き例え三本束ねようとも叩き斬るはずだ。
あと一刹那で、黒い刃がファナティオの兜を断つ――というその時、ちかっ、と騎士の手許で剣が光った。
いや、正しくは、剣が光り、その青白い線がまっすぐに伸びた。
伸びた光の線が、キリトの左脇腹を貫通し、そのまま空中を疾って、はるか上空にある大回廊の天井を抉ったのが、ほとんど同時と言ってもいい。それほどまでに一瞬の出来事だった。
キリトの斬撃はごく僅かにその軌道をぶれさせ、すいっと身を逸らせたファナティオの兜の、翼を象った飾りを掠めて空しく宙に流れた。
腹の傷から飛び散った血の量はごく僅かで、それほど激しく天命が減少したわけではなさそうだったが、片手片膝を床に突いて着地したキリトは顔を大きく歪めた。よくよく目を凝らせば、上着に空いた小さな穴の周辺から、細く煙が上がっている。
火炎系の攻撃だったのか……? しかしファナティオの剣から放たれた光は、青いくらいに眩い白だった。あんな色の炎を、ユージオはこれまで見たことがない。
憎らしいほどに優美な動作で体の向きを変えたファナティオは、床にうずくまるキリトを、再び細剣の尖端でぴたりと指した。
じゃっ、とかすかな音を放ち、再び光の線が迸った。直前に左に飛んでいたキリトの脚をかすめ伸びた光は、硬い石床に突き刺さり――真っ赤に溶けた拳大の穴を穿った。
「うそだろ……!」
自分の口から引き攣れた声が漏れたことに、ユージオはしばらく気付かなかった。回廊の床に敷き詰められている大理石は、その艶と模様からして学院の校舎に使われていたものより更に高級な西域帝国産だ。硬さと天命は不朽と言ってもいいほどで、到底炎ごときで損なわれるものではない。その証左に、デュソルバートの”熾焔弓”が生み出した業火を浴びても焼けたのは絨毯だけだったではないか。
つまり――ファナティオの完全支配攻撃が炎熱系のものだとした場合、その威力はデュソルバートの技の数倍、あるいは数十倍に及んでもおかしくない。そんな技の直撃を受けてしまったキリトの天命は、ことによると、既に消し飛ぶ寸前なのではないか。
いよいよ冷たい恐怖の手にがっちりと掴まれたユージオの視線の先で、キリトは一箇所に止まることなく、見事な身のこなしで左方向に跳び続けていた。その体を追って、ファナティオの剣からも立て続けに光線が閃き、石床を抉っていく。
あの技のもうひとつの恐るべき点は、光の発射に際して、溜める、突く、といった予備動作が一切ないことだ。ただまっすぐ向けられた細剣からいつ光線が迸るのか、少なくともユージオの位置からはまるで読めない。ほぼ無限の間合い、という意味では騎士エルドリエの”星霜鞭”も同じだったが、これに比べればまだしも可愛げがあった。
ファナティオはいっそ気だるげとも言える姿勢で、左手を腰にあてがい、棒でネズミをいたぶる子供のようにキリトを追い立て続けた。五撃、六撃目までを凌いでみせたのは、キリトの超人的な運動能力と勘あってのことだろう。
しかしついに、七撃目が致命的追いかけっこに終わりを告げた。
しゃあっ! と宙を疾った光線に右足の甲を貫かれたキリトは、着地に失敗し、肩から床に落下した。さっともたげられた黒髪のすぐ下、日に灼けた額の中央を、ファナティオの剣尖がぴたりと捉えた。
キリト……! と叫ぼうとして――ユージオはようやく、自分の喉からひりつく痛みが薄れていることに気付いた。これなら、術式が成立するくらいの声を出すことが可能かもしれない。
悲鳴を上げる代わりに、ユージオはぐっと腹に力を込め、騎士たちには聞こえないが創世神には届けられる程度の音量で術式詠唱を開始した。
「システム・コール……エンハンス・ウェポン・アビリティ……」
キリトなら、このくらいの絶体絶命は何とかしてのける。なら、自分がすべきなのはただ一つ、言われたとおりに術式を完成し、いつでも解放できるよう準備しておいくことだけだ。
必殺の剣をまっすぐキリトに向け、ファナティオは焦らすように一秒ほど沈黙したあと、陰々とした声を響かせた。
「……こういう場面で一言いわないと気がすまないのは私の悪癖だと、騎士長殿にはもう百年以上も苦言を頂戴しているのだがな……しかし、どうにも不憫なのだよ。我が”天穿剣”の霊光に平伏した者は皆、そのように間の抜けた顔しかできないのでね……一体、自分をこうまで容易く追い詰めたあの技は何なのだろう、というね」
いつの間にか、ファナティオ配下の九騎士も傷ついた者の治療を済ませたようで、大剣を片手にぐるりとキリトを遠巻きに取り巻いた。これではますます脱出が難しくなる。が、その分ファナティオのお喋りが長続きする可能性も出てきたと言える。一度の言い間違いで詠唱を台無しにしないよう全神経を集中しながら、ユージオは懸命に術式を組み立て続ける。
「咎人とは言え央都に暮らした者なら、鏡というものを知っているかな?」
いきなり飛躍した問いを投げられ、キリトが痛みを堪える中にも怪訝な表情を浮かべた。
鏡。
勿論ユージオも見たことはある。修剣士寮の浴場に小さなものが一つ据えられていたのだ。水面に映すよりも遥かに鮮明に己の姿を見ることができる不思議な道具だが、己の柔弱そうな外見が今ひとつ好きになれないユージオはあまり熱心に覗いたことはなかった。
ファナティオは油断なく剣を据えたまま、感情の窺い知れぬ声で続けた。
「鋳溶かした銀を硝子板に流して作る高価な代物ゆえ、下民は触れたことがなくとも無理はないが……あの道具は、ソルスの光をほぼ完全に撥ね返すことができるのだ。わかるかな……つまり、反射した光が当たった場所は、他のところより倍暖められるという理屈だ。今を去ること百と三十年ほど前、我らが最高司祭様はセントリア中から銀貨や銀細工を召し上げられ、全ての硝子細工師にあわせて一千枚もの大鏡を造るよう御命じになられた。無詠唱攻撃術……”ヘイキ”とか言うものの実験だったのだがな、カセドラルの前庭に半球を成して並べられた千の鏡が、真夏のソルスの光を一点に集め生み出した白い炎は、ものの数分で大岩を一つ溶かし去ったものだよ」
ヘイキ……白い炎……?
ファナティオの言うことを、ユージオは完全には理解できなかった。しかし、アドミニストレータのその企ては、世界のことわりを覆すおぞましいものであると直感的に悟った。
「最終的に、戦に使うには仕掛けが大仰すぎると最高司祭様は判断なされた。しかし、せっかく生み出した炎を無駄にするのは惜しいと仰り、千枚の大鏡と荒れ狂う熱を神の御技にて括り、鍛えて、一本の剣を生み出されたのだ。それがこの神器”天穿剣”……わかるか、咎人よ。お主の腹と足を貫いたのは、陽神ソルスの威光そのものなのだ!」
わずかな誇らしさに彩られたファナティオの言葉を聞き、驚きのあまり、あやうくユージオは完成間近の完全支配術をつっかえるところだった。
千もの鏡で束ねられたソルスの光――それが、あの白い光線の正体だと言うのか。
火炎術なら冷素で対抗することも可能だ。しかし光による攻撃を、どのようにして防げばいいのか。そもそも、光素を力の源とする術にはユージオの知る限り直接の攻撃力はない。ゆえに学院の講義でも対抗術は一切教わっていない。幻惑する程度の光なら闇属性術で打ち消すことも可能だが、あれほどの光線であれば、たとえ小さな闇素を百も撒いたところで容易く貫くだろう。
心中の耐え難い焦燥にもかかわらず、ユージオの口は自動的に術式を綴り続けていた。しかし、どれほど高速で詠唱しようとも、発動までは少なくともあと一、いや二分はかかる。対してファナティオはどうやら言いたいことを言い尽くしたらしく、キリトの頭に向けたままの剣をわずかに突き出した。
「どうやら、己の天命を断つ力について理解してもらえたようだな。死ぬ前に、己が罪を悔い、三神に心より帰依し、許しを乞い給え。さすれば浄化の霊光は、そなたの魂をすすぎ楽土へと導こう。では――さらばだ、若く愚かな咎人よ」
天穿剣がまばゆく光輝き、死を告げる光線が真っ直ぐにキリトの額目掛けて殺到した。
「ディスチャージ!」
という叫びがユージオの耳に届いたのは、その出来事が発生した後であり、何が起きたのかを理解したのは更に遅かった。
キリトはファナティオの剣が光る直前、両手をパン! と打ち合わせ、まっすぐ前に向けて開いた。出現したのは――一枚の、銀色の盾だった。
いや、違う。金属の盾ではない。真四角真っ平らの板、その表面には、ユージオに背を向けて立つファナティオの兜の面頬がくっきりと映っている。
振り上げられたキリトの左右の掌中に、それぞれ色合いの違う二つの素因が握られていたのをユージオの目は捉えていた。
右手の光は鋼素。針にして飛ばしたり、ちょっとした道具を作るのに使う、金属系術式の素因である。そして左手が握っていたのは晶素、見え難い障壁を作ったりコップにしたりする硝子系術式の素因。その二つを、板状に変形させて重ねれば、出来るのは――。
鏡だ。
超高熱を秘めた光の槍は、キリトが術式で作り出した鏡の中央に命中し、あっという間に銀を赤へと沸き立たせた。
もとより、素因から発生させた道具類の天命は短い。外見的には同じナイフでも、ちゃんと鉱石から鍛造したものが数十年以上も保つ天命を備えているのに対して、鋼素から変成されたものはわずか数時間で塵へと戻ってしまう。あの鏡とて例外ではないはずで、とても天穿剣の光を弾き返せるほどの耐久力があるとは思えない。
というユージオの一瞬の思考どおり、鏡が空中に存在し得たのはわずか十分の一秒ほどでしかなかった。硝子と銀を煮溶かした赤い液体がばしゃっと飛び散り、光線は八割がた威力を保ったままキリトへと直進した。
しかし、無理矢理創りだした一瞬の猶予を、キリトも無駄にはしなかった。ごくわずかにではあるが体を左に傾けることに成功し、光は黒い髪と頬の一部だけを灼いて後方へと流れた。
そして、鏡によって受け止められた残り二割の光は――。
鋭角に反射し、ファナティオの兜へと襲い掛かった。
第二位の整合騎士も、やはり尋常の人物ではなかった。キリトと同じように、凄まじい反応速度で首を右に傾け、光線をやり過ごそうとする。が、少々華麗にすぎる飾りのついた兜までは守りきれなかった。左側面の留め金部分を光に射抜かれ、直後、がしゃっという音を放って兜が分解し、床に落ちた。
途端、空中に広がった漆黒の髪の豊かさに、ユージオは目を奪われた。
キリトの髪と殆ど同じくらいの闇色だ。しかし艶やかさでは圧倒的に勝っている。さぞかし日夜丁寧に手入れされているのだろうと思わせる、ゆるく波打った長髪が、大窓から差し込む午後の光を受けてあでやかに煌めいた。
なんだこいつ、剣士のくせに……、ついそんなことを考えてしまうユージオの視線の先で、ファナティオはさっと左手を上げ、顔を覆った。
そして叫んだ。
「見たなァ……貴様ァっ!!」
兜越しの時の、金属質に歪んだ声とは打ってかわった――優美な、張りのある高音。
女だ――!?
その驚きで、ユージオは危く完成間近の術式を崩壊させてしまうところだった。ペースをやや落とし、神経を集中させて句式を繋ごうとする。しかし、意識の半分は、どうしても騎士ファナティオの後姿に注がずにいられなかった。
丈は高いが、そのつもりで見れば背中から腰への線がいかにも華奢だ。しかし、これまでは男だと信じて疑いすらしなかった。
いや、すでにアリス・シンセシス・フィフティという騎士の姿を見ているのだから、整合騎士の中にもそれなりの数の女性が含まれていることを否定する理由はない。そもそも、学院で学ぶ修剣士たちの半数近くがティーゼやロニエのような少女たちなのだ。彼らのうちから多くの整合騎士が造られているのだろうから、第二位の騎士が女性であっても何らおかしくない。
なのに何故こんなに驚かされたんだろう、と考えてから、ユージオはこれまでのファナティオの口調、物腰が、意識した男性的振る舞いだったのではないかと気付いた。
とすれば、今ファナティオの背中から噴き上がる怒りの理由は、素顔を見られたからではなく――己を女だと知られたから、なのだろうか。
床に片膝をついたままのキリトも、頬に負った手酷い火傷の痛みなどすっ飛んだかのような驚きの表情を浮かべていた。
そのキリトを、左手の指の間から睨みつけながら、ファナティオが再び言葉を発した。
「貴様も……そんな顔をするのか、罪人。教会と最高司祭様に弓引く大逆の徒である貴様すら、私が女だと知った途端、本気では戦えないというわけか」
絞り出すようなうめき声でありながらなお、名手の奏でる長弓琴を思わせる、途方もなく美しい声だった。
「私は人間ではない……天界より地上に招かれた断罪の聖騎士だ……なのに貴様ら男は、剣を一合撃ち合い、女だと悟るやそのように蔑むのだッ! 同輩だけに留まらず……悪の化身たる暗黒将軍でさえな!!」
それは違う、蔑んだりしない、僕もキリトも。
脳裡でそう言い返してから、ユージオはふと気付いた。
自分たちはこれまで、学院で数多くの女性剣士たちと戦ってきている。当然その中には端倪すべからざる技の持ち主が多くいたし、破れたことだってある。その全ての戦いにおいて、ユージオは相手が女性だからと言って手心を加えたことは一切なかったし、好敵手に抱く尊敬の念にも性別はまったく関係なかった。
しかし――もし、その戦いが寸止めの試合でなく、真剣勝負の殺し合いであったら?
自分は果たして、躊躇なく相手の体に剣を突き立てられるだろうか……?
これまで考えたことすらなかった疑問にとらわれ、ユージオが息を詰めた、その瞬間。
床の上から、キリトが一陣の黒い突風となって飛び出した。
何のてらいもない右上からの斬撃――しかし、ユージオの目にも刀身が霞んで見えるほどの凄まじい速度。激昂していたファナティオの受けが間に合ったのがむしろ奇跡と思えるほどだった。ガァーンという耳をつんざくような衝撃音が回廊中に響き渡り、飛び散った火花が両者の顔を一瞬明るく照らした。
細剣の篭手部分で見事キリトの刃を止めたファナティオだったが、突進の勢いは殺せず、数歩後退を余儀なくされた。鍔迫り合いに持ち込んだキリトは手を緩めることなく、ファナティオの細身にのし掛かるように圧力を強めていく。紫の具足に覆われた膝がじり、じりと曲がる。
突然、噛み締めた歯をむき出してキリトがにやりと笑った。
「なるほど、それでその剣、その技なのか。撃ち合って、自分が女だとバレなくて済むように……そうだろう、ファナティオお嬢さん」
「きっ……貴様ァっ!!」
悲鳴にも似た叫び声を上げ、ファナティオがぎりりっと剣を押し返す。
どうしても中央に吸い寄せられる視線を外に向けてみると、二人を取り巻く九人の騎士たちにも、かすかに動揺の気配があるようにユージオは感じた。おそらくではあるが、彼らの中にも、ファナティオの素顔を知らない者は多かったのではないだろうか。ユージオの右方に麻痺して倒れる子供二人は、どちらとも言えないが。
十二対の凝視に晒されながら、キリトとファナティオは渾身の競り合いを続けていた。体重そして剣の重さでは明らかにキリトが有利だろう。しかし一度体勢を押し返してからのファナティオは、細い腕のどこにと思わせる膂力で寸毫も引く様子はない。
すでに笑みを消したキリトが、再び低い声で言った。
「……言っとくけどな、俺がさっき驚いたのは、兜が壊れた途端あんたの殺気が嘘みたいに弱くなったからだぜ。顔を隠し、剣筋を隠し……自分が女だって誰よりも意識してるのはあんたじゃないのかよ」
「うっ……うるさいっ! 殺す……貴様はっ……!」
「こっちだってそのつもりだ。あんたが女だからって手を抜く気は一切ないぜ、これまで何度も女剣士に負けてるからな!」
確かに、ユージオの知る範囲でも、キリトは傍付きをしていた頃、先輩の上級修剣士ソルティリーナに何度も稽古で一本を取られている。しかし彼の言葉は、試合での型のやり取りを指しているのではないように思えた。そうではなく、これまで実際に女性剣士と真剣を打ち合って敗れたことがある、とでもいうかのような……。
叫ぶと同時に、キリトは右足を飛ばし、ファナティオの軸足を払った。ぐらりと上体を泳がせるところに、容赦のない片手突きを浴びせる。
しかし、整合騎士は右手を神速で閃かせ、生き物のようにしなった細剣が黒い剣の側面を弾き軌道を変えた。その間に体勢を立て直し、ととんと華麗に床に降り立つ。
キリトの切り返しも速かった。一呼吸の間を置くこともなく体当たり気味に相手の懐に飛び込み、超接近戦に持ち込む。準備動作無しの光線発射という技を持つファナティオに対して、遠距離での戦いは成り立たないからだ。
ほぼ密着した間合いにおいて、超高速の剣撃が開始された。
ユージオを驚愕させたのは、キリトの目も眩むような連続攻撃に、ファナティオが一歩も引かずに対応してきたことだった。上下左右から立て続けに襲い掛かる黒い刃を、細剣を自在に閃かせて捌き、少しでも隙を見つけるや三連、四連の突き技を叩き込んでくる。
この世界のあらゆる伝統流派に連続技の概念がないのは明らかな事実なので、となればファナティオは連続剣技を己の研鑚のみで編み出した、ということになる。その理由も、恐らくは、先刻のキリトの台詞と無関係ではあるまい。
敵を近い間合いに入らせずに倒すための天穿剣の光――つまり女性騎士ファナティオは、敵と密着し、鎧の下に隠したものに気付かれるのを畏れている。初撃を受けられても次撃、次々撃で敵を退けるための連続技なのだ。
しかし、なぜ……? どうしてそこまで己の性を隠そうとするのか?
新たに湧き上がる疑問に唇を噛み締め、そこでようやくユージオは、自分が武装完全支配術を組み上げ終えたことに気付いた。後は”記憶解放”の一句のみで青薔薇の剣に秘められた技が発動するはずだ。ためしに四肢の指先を動かしてみると、痺れもなく反応する。
しかし、キリトとファナティオが近接戦闘をしている間はとても使うわけにはいかない。相棒までも巻き込んでしまうことは確実だからだ。
合図を待て、とキリトは言った。それを逃すことのないよう、ユージオは両眼を見開き、戦う二人を懸命に注視した。
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それにしても、何という――。
何という見事な戦いなのか。
零距離で双方とも足を止め、雨霰と飛び交う斬撃と刺突を、体捌きと打ち払いのみで防ぎ続けている。その有様は、まるで二人の周囲で幾つもの星が次々と流れ、弾け、消えていくかのようだった。鋼と鋼が打ち合わされる衝撃音すら、ある種の壮麗な打楽器の共演と思える。
キリトは、蒼白に昂じた顔に凄みのある笑みを滲ませ、黒い剣と完全に融合してしまったが如き勢いで技を繰り出していた。敵にソルスの光を使わせないための接近戦であるはずだが、今の彼は単純に、鍛え研ぎあげた剣技を思う存分ぶつける悦びに浸っている。
しかし、対するファナティオのほうには相手に付き合う理由はないのだ。これほど広い大回廊なのだから、いくらでも後退し、距離を取ることはできる。その後再び光線を放てば、今度こそキリトにそれを防ぐすべはない。
なのに、黒い長髪をなびかせた整合騎士は、一歩たりとも下がることなく、あくまで細剣による直接攻撃で雌雄を決しようとしているようだった。そのわけまでは、ユージオには推し量れなかった。キリトの挑発的な言辞への怒りゆえか? 下がることは騎士の誇りが許さないのか? それとも――彼女もまた、連続技の応酬という極限の戦いに何かを見出したのか? ユージオの位置からはいまだファナティオの背中しか見ることができず、その顔にいかなる表情が浮かんでいるのかはまるで分からない。
幾つかの言葉から推測するに、ファナティオは最低でも百三十年、恐らくはそれよりも数十年は長く整合騎士として教会に仕えていると思われた。ようやく二十歳になるやならずのユージオは想像もつかない、恐ろしいまでに長い時間だ。
その生のどの時点で彼女が顔と性別を隠すようになったのかは知るすべもないが、独力であれほどの連続剣技を編み出したというなら、その修練は十年二十年のものではあるまい。今キリトがファナティオの至近距離に立ち続けていられるのは、ひとえに彼もまたアインクラッド流という類い稀な連続技の使い手だからだ。これが他の剣士であれば、恐らく刃圏に一歩たりとも入れずに地に伏しているだろう。
だから、多分、ファナティオにとってもこのような戦いは長い人生で初めてなのではあるまいか。整合騎士と言えども一撃の技の美麗さ豪壮さを最も尊ぶことはエルドリエやデュソルバートの戦い方を見れば明らかだ。ゆえに、騎士同士の訓練でファナティオが連続技という、伝統流派に照らせば卑しむべき無型の剣を披露していたとは思えない。長い、長い間、独り稽古における影でしかなかった自分以外の連続剣の達人、それがついにキリトという実体を持って現われたのだ。
二人の超絶的な剣の応酬を見るうち、いつしかユージオの全身には鳥肌が立ち、目には涙が滲んでいた。キリトにアインクラッド流の手ほどきを受け始めて以来、脳裡に思い描いていた究極の戦いが今眼前にある。見映えを求め続けた型としての美しさではなく、ただ只管に敵を斬り倒すことのみを追及した結果としてのみ存在し得る、凄絶な美。
ファナティオの五連突きが、キリトの五連斬りとまるで呼吸を合わせたかのように空中で噛みあい、弾かれたそれぞれの剣を二人は裂帛の気合とともに振り下ろした。
「いえええええっ!」
「せあああああっ!」
剣の交錯点から発生した衝撃波は、遠く離れた床に伏せるユージオの肌にも熱く感じられるほどだった。キリトとファナティオの黒い髪が激しくたなびき、余勢のためか、ぎゃりんと刃を軋ませながら二人は体を入れ替えた。
ついに視界に入ったファナティオの相貌に、ユージオは一瞬息を詰めた。
御伽話に出てくる救世の聖女がもしも実在したらかくあらん、と思わせる、一点の瑕疵もない清らかな美貌だった。どう見積もっても二十代半ばとしか思えない、ミルクをたっぷり入れた紅茶色の滑らかな肌。弓型の眉も長い睫毛も黒だが、瞳の色はほぼ金に近い茶褐色だ。おそらく東域の生まれと見えて鼻梁は控えめな高さ、顎の線も丸みを帯びて、それが一層包み込むような優美さを生み出している。そして、やや薄い唇には――ごく控えめな色の紅。
表情には、つい先刻の殺気立った怒りを思わせるものはすでに無かった。代わりに、ある種の痛みに満ちた覚悟のようなものがそこにあった。
「――なるほどな」
唇が動き、低いが尚も艶やかな声が流れた。
「咎人、貴様はこれまで私が戦ってきた輩とは少し違うようだ。この忌むべき面相を見て、尚本気で斬ろうとした男はこれまで居なかった」
「忌むべき――ね。ならあんたは誰のためにその髪に櫛を入れ、誰のために唇に紅を差しているんだ」
またしても逆撫でるようなキリトの物言いだが、ファナティオはかすかな苦笑めいた気配を浮かべたのみだった。
「恋うた男が、いつか剣の技と獲った首級の数以外のものを私に求めるやもと待ち続け早や百有余年……鉄面の下で想い焦がれた挙句、私よりも美しい顔を晒したぽっと出の子供に剣ですら後塵を拝すれば、せめて化粧の一つもしたくなろうというものだ」
ファナティオよりも美しく、強い子供――少女? そんな相手がまだこの塔の上に居るのか、と一瞬呆然としてから、ユージオはその条件に該当する整合騎士に一人だけ心当りがあることに気付いた。つい近年に騎士となり、顔と声を隠す兜を被らず、ユージオを反応することさえ許さずに打ちのめした――アリス・シンセシス・フィフティ。
アリスが、ファナティオさえも上回る剣の腕を身につけている……? しかし、何故? 改めて考えてみると、そんなことが有り得るとはとても思えない。ルーリッドにいたころの彼女は、神聖術の腕前こそ教師顔負けだったが、剣など触ったこともなかったはずだ。
今まで意識して整合騎士としてのアリスのことに深く思いを致さないようにしていたユージオだが、さすがに浮かんでくる疑問を抑えることはできなかった。
キリトも、ファナティオの言葉には何がしか考えるところがあった筈だが、そんな気配は微塵も漏らさずなおも言い返した。
「――あんたにとって一番大事なことってのは何なんだよ。整合騎士が最高司祭の命令にただ従うだけの天界の剣士とやらなら、そんな恋とか妬みに悩む心なんてそもそも必要ないだろ。その男が誰だか知らないが、そいつに百年も片思いしてるなら……そりゃあんたが人間だからだ。俺とおなじ人間だ。俺は、教会と最高司祭をぶっ倒して、あんたみたいな人間が普通に恋して、普通に暮らせるようにするために戦ってるんだ!」
ユージオをも心底驚かせるキリトの台詞だった。常に飄々とした彼がそんなことを考えていたとはついぞ知らなかったのだ。しかし同時に、長年連れ合った相棒の声に、かすかに矛盾に苦しむような痛切な響きがあることにもユージオは気付いていた。
その言葉を聞いたファナティオの顔もまた、一瞬ではあったが歪んだ。
滑らかな眉間に深い谷が刻まれるのを見て、ファナティオからもまたエルドリエのように行動原則キーとやらが抜け出すのかと思ったが、しかし第二位の騎士に現われた変化はそこまでだった。
「……子供よ、貴様は知らんのだ。教会の法と力が失われれば、この世界がどのような煉獄へと突き落とされるか……。ダークテリトリーの軍隊は日々その勢いを増し、果ての山脈一枚隔てた向こうにひしめいている。ああ……認めよう、貴様は強い、そして元老どもが言っていたような闇の手先、邪悪な侵入者ではないようだ。しかし甚だ危険だ、その剣だけでなく、言葉で教会と騎士たちを揺るがしかねんほどにな……。教会と世界を守る、我ら整合騎士に与えられたその唯一最大の任務の前では、私の恋心などほんの……ほんの些細な麦屑に等しい」
迷いを振り切ったような、厳しい顔つきでそうファナティオが告げる間にも、二人の間で交差した天穿剣と黒い剣は限界とも思える軋みを上げ続けていた。どちらかが僅かにでも力を抜けばその瞬間弾き飛ばされるのは明らかだ。
いや、こうしている間にも二本の剣の天命は減少を続けているはずだ。そしてこのままなら先に命尽きるのは――恐らく天穿剣だろう。武器としての位が同程度なら、単純に太く重いほうがより多い天命を備えているのだから。
ファナティオがそれに気付いていない訳はなかった。そして、己の剣が圧し負け、そこに隙が出来たならば、キリトが容赦なく自分を斬り伏せるであろうことも。
「だから――私は貴様を倒さねばならん。例え騎士の誇りを踏みにじってもな。このような無様な技で勝利する私を嘲いたければ嘲え。貴様にはその権利がある」
静かにそう言い放つと、ファナティオは続けて叫んだ。
「天穿剣に秘められた光よ……今こそ、その枷から放たれよ!!」
銀色の刀身がこれまでにないほど眩く輝いた。
直後。
しゅばあっ! という音とともに、剣尖から放射状に無数の光線が放たれた。
目眩ましか、とユージオは反射的に考えた。キリトの視力を一時的に奪い、体を崩してから斬る。
しかしその判断は、天穿剣が無作為に発射した光の一筋がユージオの顔のすぐそばの床に命中し、大理石を深々と抉ったことで完全に否定された。
幻惑ではなく――あの光の全てが!
キリト!! と内心で絶叫し、ユージオはたまらず上体を起こした。目を凝らすと、今まさに至近距離から射かけられた光線がキリトの右肩を貫くところだった。それだけではない、すでに背中の右下部分と左脚の太腿にも黒々とした貫通痕が見て取れる。
そして、超高熱の光をその身に受けているのはキリトだけではなかった。
主たるファナティオもまた、腹と肩、両脚の装甲に丸く溶解した孔をうがたれている。傷の深さではキリトを上回るほどだ。それでも、その麗しい顔に浮かんだ覚悟の表情は微塵も揺らいでいなかった。
整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは――キリトを道連れに、己の天命をも吹き飛ばすつもりなのだ。
解放された天穿剣は、最初の一斉射で至近距離の二人にほとんど致命的な傷を負わせ、離れて取り囲む九人にも少なからず損害を与え、大回廊の神々しい装飾を至るところで無惨に焼き焦がしていた。しかしそれでも尚、千枚の鏡から鍛えられたというその刀身は沈黙する様子はなかった。ほぼ一秒毎に剣尖が輝き、その度に方向を選ばず短い光線が撃ち出される。
半数は誰も居ない上空へと放たれ、壁や柱、天蓋を灼くだけだったが、下方向へ伸びるもう半分のうちかなりの数が、当然ながら発射点のすぐ傍にいる二人の体を捉えることとなる。
交差させた剣を外せぬまま、キリトが限界まで首を反らせ、脳天を貫通しかけた光をぎりぎりでかわした。続く光はファナティオの顔に向かったが、整合騎士は微動だにしなかった。頬を掠めた光線が、染みひとつない滑らかな肌に赤黒い溝を焼き付け、さらに豊かな黒髪の少なくない量を一瞬で燃やし尽くす。
「この……馬鹿野郎!!」
叫んだのはキリトだった。声とともに、口のあたりから鮮血の霧が散ったのをユージオは見た。いかにキリトの天命が多かろうとも、あれだけの光線を身に受ければその数値は尽きる寸前であろうことは容易に想像できた。しかし黒衣の剣士は頑として倒れることを拒否し、あまつさえ、ぎゃりっと剣を滑らせて光線の発射点である天穿剣の切っ先を黒い剣の横腹で覆った。
その結果、刹那の猶予であるにせよ、二人に向かって撃ち出される光の全てが黒い剣に遮られる形になった。
今だ――今しかない!
キリトの合図は無かったが、ユージオはまさにその瞬間がやってきたことを理性と直感の双方で悟った。
ファナティオは無論、配下の九騎士も大剣を盾にして光を防ぐのに必死で、とても残る一人の罪人のほうまで注意を向ける余裕はない。発動の瞬間に隙が大きいユージオの完全支配術も、今ならば止められる者は居ない。
猛烈な勢いで跳ね起き、ユージオは腹の下でずっと握っていた青薔薇の剣を一気に抜き放った。
「リリースゥゥゥ――」
空中でくるりと逆手に持ち替え、柄に左手も添えて、全身の力を込めて大理石の床へと突き立てる。
「――リコレクション!!」
薄青い刀身は、その半ば近くまでが深々と床に埋まった。
バシィィィッ!! と鋭く破裂するような音を伴って、剣を中心として石床が一瞬にして真っ白い霜に覆われた。
水晶のような霜柱を鋭く突き上げながら、氷結の波は凄まじい速度で前方へと広がっていく。もし視線を横向ければ、転がされたままのビステンとアーシンまでも氷に覆われている様が見えるはずだが、とても構ってはいられない。
発動から約三秒――わずかではあるが、整合騎士級の剣士であれば妨げるのに充分な時間だ――で、霜の環はキリトとファナティオの足下を飲み込み、大回廊の床一杯にまで広がった。
さすがに、騎士たちも異変に気付いたようだった。兜に包まれた顔をさっともたげ、視線をこちらに向けてくる。
しかし、もう遅い。
ユージオは両手に一層力を込めながら、最後の一句を叫んだ。
「咲け――青薔薇ッ!!」
九騎士と、ファナティオ、そしてキリトの足許から、無数の薄青い氷の蔓が一瞬にして伸び上がった。
一本一本は小指ほどの太さしかない。しかし全体にびっしりと鋭い棘が生え、それが獲物の脚にがっちりと食い込んでいく。
「ぬおっ……」
「こ、これはっ!?」
騎士たちが口々に叫ぶ声がした。その時にはもう、何本もの氷の蔓が脚から腰、腹へと這い登っている。遅まきながら大剣で蔓を切り払おうとする者もいるが、触れたそばから蔓は刀身を幾重にも巻き込み、床へと繋ぎ止めてしまう。
胸から頭、そして指先が蔓に覆われた騎士たちは、最早身動きすらも叶わぬ氷の彫像と化していた。キン、キンと高い軋み音を放ちながら執拗に獲物を絡め尽くした蔓は、最後に一際澄んだ音を放ち、そこかしこから深い青に彩られた大輪の薔薇の花を咲かせた。
無論、それらもまた冷たい氷だ。硬く透き通った花弁からは蜜も芳香も生み出さないが、しかしその代わりに無数の薔薇たちは一斉に白い凍気を撒き散らしはじめた。たちまち回廊じゅうの空気がキラキラと光る濃密な靄に覆われていく。凍気の源は――捕らえた騎士たちの天命。
その減少速度はいたってゆっくりとしたものだが、氷薔薇に全身から天命を吸い出される獲物は縛めを破るだけの力を出すことができない。もともとこの術式は、敵の殺傷を目的とした物ではないのだ。ユージオはこの術を、ひとえに、整合騎士アリスの動きを止めるためだけに組み上げたのである。
九騎士は完全に無力化されたが、さすがに彼らを束ねる騎士ファナティオは、足許の霜を突き破って蔓が伸びた瞬間に技の性質を見切ったらしく、宙に跳んで逃れようとした。
しかし、反応の速度はやはりユージオの術を知っているキリトのほうが速かった。ファナティオよりも僅かに先んじて高く跳び上がったキリトは、こともあろうにファナティオの肩あてを踏み台にして更に空中へと脱出した。そのまま後方に宙返りし、氷の蔓の追跡を回避する。
彼の身代わりに地面に押しやられたファナティオは、片膝を突いた姿勢で全身を蔓に巻きつかれた。
「く……!」
動揺し意識集中が途切れたか、天穿剣から無差別に発射されていた光線も、いくつかの蔦を切り裂いたのを最後に沈黙した。惨たらしく損傷した紫の鎧に、みるみる細い氷線が撒きつき、厚く覆っていく。
足許から次々と開いていく青い薔薇の、最後の一輪は、ファナティオの頬に刻まれた傷痕の上に咲き誇った。同時に第二位の整合騎士は、その神器とともに完全に動きを止めた。
全身に手酷い傷を負っているにも関わらず、軽々とした身のこなしで後方宙返りを繰り返し蔓の環を抜け出したキリトだが、最後の着地を失敗してユージオの隣にどさりと落下した。
「ぐふっ……」
喉の奥から咽るような声を漏らし、直後ばしゃっと大量の鮮血を吐き出す。それがたちまち真紅の霜となって凍りつくのを見て、ユージオは思わず叫んだ。
「キリト……待ってろ、すぐ治癒術を……!」
「だめだ、技を止めるな!」
蒼白に血の気を失いながらも、尚ぎらぎらと眼を光らせてキリトが首を振った。
「あいつはこれくらいじゃ倒れない……」
唇の端から血の糸を引きながら、黒い剣を杖にしてずたぼろの体を持ち上げる。
左手でぐいっと口を拭い、瞑目して数回呼吸を整えたキリトは、かっと両眼を見開くと黒い剣を高々と差し上げた。
「システム……コール! エンハンス……ウェポン・アビリティ!!」
気力を振り絞るような開始句に引き続いた術式詠唱は、肉体の状態を考えれば奇跡的な速さだった。
一句一句の間には血の絡まるような喘鳴が挟まり、時折唇の端から鮮紅色の飛沫が散るが、それでもキリトは膨大な行数の式を一度も引っかかることなく唱え続ける。
至近距離から注視すると、彼の負った傷はぞっとするほどの惨たらしさだった。天穿剣の光は鍛え上げた肉体を何度となく貫き、その痕は完全に炭化している。僅かな救いは、あまりの高熱によって傷が灼かれたせいか出血がさほどではないことだが、左の脇腹と右胸を襲った光線は内臓に手酷い損傷を与えたのは明らかだ。現在でもキリトの天命は、氷薔薇に捕われた騎士たちを上回る速度で減少しているはずで、今すぐに応急処置を施さなければ命も危い。
しかし、ユージオは青薔薇の剣の解放状態を継続するために、柄から手を離すわけにはいかなかった。せめてキリト本人が、完全支配術より先に自分に治癒術を使ってくれれば少しは安心なのだが、鬼気迫る形相で詠唱を続ける相棒にはそんな気は更々ないようだった。
そこまで焦らなくても、獲物を完璧に捕らえた氷の檻はそう簡単に破れやしない――。
ユージオがそう考え、キリトに向けた視線を再び前方の整合騎士たちに戻した、その瞬間。
咲き誇る青い薔薇の苑の中央から、一条の白光が迸り、空中を薙いだ。
「なにっ……」
思わずそう口走り、ユージオは目を見開いた。
光の源は――全身を幾重にも氷の蔓に巻き取られ、完全に動きを封じられたはずの、騎士ファナティオの右手だった。
武装完全支配術は、術式を失敗せずに唱え終わればそれで後は使い放題、というわけではない。
長い式を大まかに三つに分けると、武器の内包した過去の記憶に接触する第一段階、そこから求める特性を取り出し形にする第二段階、そして第三段階では武器そのものを、それを使う者の心象と直接結合する。そこまでして始めて、記憶を解放された武器は使用者の意のままに超絶的な力を発揮できるのである。
しかしそれは同時に、解放された武器を操るには、使用者の全精神力を注ぎ込んだ高度な集中が必要だということでもある。ユージオにしても、床に突き立てた剣の柄を握り締め、咲き乱れる氷の薔薇をイメージし続けていなければ、騎士たちの捕縛を維持することはできないのだ。
騎士ファナティオは、天穿剣を完全支配してから何度となく光線を放ち、キリトと超高速の剣戟を演じ、更には制御を外した光線の乱射という大技を繰り出し自らの体にもほとんど致命的な傷を負わせたうえで氷の薔薇に拘束されているのである。もうとっくに意識の集中は失われ、天穿剣の支配も解除されたはず――と、ユージオは予想していたのだ。
だが。
片膝を突き、全身余すところ無く凍りつかせたファナティオの、高く掲げられた右腕が、ぴき、びきん、と破砕音を響かせながらゆっくりと動いているではないか。
俯いた顔は靄に隠れてよく見えない。しかし、見開いたユージオの目には、騎士の小柄な体躯から立ち上る闘気がかげろうのように揺れるのがはっきりと映った。
「くっ……!」
唇を噛み、ユージオは柄を握る両手に一層力を込めた。心象に誘導され、ファナティオの周囲から新たな氷の蔓が十本近く突き上がる。びしっ、びしっと鋭い音を放ち、蔓は鞭のごとくファナティオの右腕を打つとそのまま隙間無く巻き付き、動きを止める。
しかし、それもほんの一秒ほどのことだった。
食い込む氷の棘などまるで意に介していないかのように、整合騎士は右手をさらに前に倒し、同時に氷の縛めが砕けて周囲に舞い散った。
ユージオの背中を、ファナティオと対峙して以来最大の悪寒が疾った。
化け物だ。
喀血しながら高速詠唱を続けるキリトの胆力も凄まじいが、あの女性騎士はそれ以上だ。光線の無差別攻撃によって全身に幾つもの孔を穿たれ、そこに根を張った氷の薔薇に容赦なく天命を吸い上げられて尚倒れず――それどころか、配下の九人が手も足も出ない氷蔓を右腕の力だけで次から次へと引き千切っていく。
その手に握られた天穿剣が、徐々に、徐々に角度を変え、自分たちのいる場所を指し示そうとするさまを、ユージオは恐怖とともに凝視した。
いったい、何がファナティオにここまでの力を与えているのか?
法を守護する整合騎士としての、罪人への怒り? 百年も想い続けているという、どこかの男への恋心? それとも――最前、彼女が僅かに口にした言葉の……。
今、教会の力が失われたら、ダークテリトリーの軍勢に人間の世界は蹂躙されるだろう、とファナティオは言った。
ならば、彼女は、人間を――ユージオの知る限り、あらゆる整合騎士たちが家畜なみに軽んじ、下民と蔑み、鞭打つ対象としてしか見ていないはずの人間を守るために、今底知れぬ死力を引き出している、ということになる。
それは――それはつまり、正義じゃないか。
己を捨て、正義を、善を、為すべきことを断じて遂行するという覚悟のもとにファナティオは今戦っている……?
そんなはずはない。整合騎士は、罪なきアリスを捕縛し、連れ去って、彼女の記憶までも弄んだ神聖教会最高司祭の手先だ。唾棄すべき走狗、傲慢な圧制者、これまでユージオは彼らをそのように憎み、可能ならば全員を斬り殺さんという決意のもとここまで駆け上ってきたのだ。
なのに、今更そんな、実は皆良い人でしたなんてことがあって……あってたまるものか。
「お前に……お前らに正義なんか無い!!」
ユージオは押し殺した声で叫び、心の奥底からありったけかき集めた憎悪を青薔薇の剣に注ぎ込んだ。
再び、ファナティオの周囲から黝い氷蔓が無数に飛び出し、今度はその尖端を鋭い棘に変えて騎士の右腕を次々に貫いた。
「止まれ……止まれよ!!」
心中には圧倒的な憎悪が渦巻いているはずなのに、なぜかユージオは、両目から熱い液体が溢れるのを感じていた。しかし、それを涙だと認めることはどうしても許せなかった。怒りと憎しみが形を変えた氷の棘に無数に貫かれながらも、愚直なまでに右腕の動きを止めようとしないファナティオの姿に心を動かされているなどということは、どうしもて認めるわけにはいかなかった。
整合騎士の腕はもうぼろぼろだった。折れた棘が針山のように突き刺さり、滴る大量の血が赤いつららとなって垂れ下がる。しかしそれでも、前髪と氷薔薇の陰に隠れた顔には一片の憎悪も浮かんではいるまいとユージオは思わずにいられなかった。
ついに、垂直に掲げられていたファナティオの右手が水平へと角度を変え終え、ユージオとキリトを真っ直ぐに剣の切っ先で捉えた。
天穿剣の刀身が、かつてないほど眩く輝くのを、ユージオは滲む涙の向こうに見た。
まさしく、ファナティオの残る天命すべてを燃焼させているとしか思えないほどに凄まじい光だった。ソルスそのものがこの大回廊に降りてきたかのような純白の光に、ユージオは濡れた瞼を細めた。
勝てない。
それは、アリスを取り戻す旅に出て以来、初めてユージオが抱いた諦念だったかもしれない。発射される前の光に曝されただけで脆くも溶け崩れていく氷の薔薇たちを眺めながら、ユージオはそっと、小さな息を吐いた。
しかしここで潔く目を閉じ、死を告げる光を待つなどということは許されない、とユージオは思った。そのような形でファナティオの”正義”に屈することだけはどうしても嫌だった。
せめて、最後に薔薇の一輪なりとも咲かせて意地を見せたい、そう決意して、心の底から憎悪を残り滓をかき集めようとした――その時。
隣で、キリトが小さく呟いた。
「憎しみじゃ、あいつには勝てないよ、ユージオ」
「え……」
首を回し、見上げると、相棒は血の滲んだ唇にかすかな笑みを浮かべて続けた。
「お前は、整合騎士が憎くて憎くて、それでここまで来たわけじゃないだろ? アリスを取り戻したい、もう一度会いたい……アリスが好きだから、愛しているから今ここに居るんだろう? その想いは、あいつの正義と比べたって決して劣るもんじゃない。俺だってそうだ……俺も、この世界の人たちを、お前を、アリスを、あいつだって守りたい。だから今は、あいつに負ける訳にはいかないんだ……そうだろ、ユージオ」
かつて聞いたことのないほど穏やかなキリトの声だった。謎多き黒衣の剣士は、もう一度小さく笑うと頷き、一瞬目を閉じて顔を前に向けた。
天穿剣のおそらく最終最大の光が発射されたのは、その瞬間だった。
もはや、光線などという言葉では現せない、それは巨大な光の槍だった。創世の時代、闇神ベクタを退けるためにソルス神その人が投げたという天の霊光そのものが、あらゆるものを灼き尽くさんと殺到した。
かっと瞼を開けたキリトの黒い瞳は、圧倒的な白光を受けてなお爛々と輝いていた。最後の一句を唱える声は、絶望的な状況にあって、ゆるぎない決意に満ちていた。
「リリース・リコレクション!!」
まっすぐ前に向けられた黒い剣の刀身が、どくんと脈打った。
直後、刃のいたる所から、幾筋もの”闇”がほとばしり出た。
あらゆる光を吸い込むような漆黒の奔流が、うねり、よじれ、絡まり、また離れながら前へ前へと殺到していく。それらは、剣の十メルほど先で大人が二人でも抱えきれないほどの太さに膨れ上がると、そこで互いにがっちりと結びつき、一本の円柱へと形態を変えた。
よくよく見ると、闇が凝集した柱はそこで硬く実体化しているようで、表面には黒曜石のような光沢があった。しかしつるりと滑らかではなく、縦方向に細かい溝が刻まれている。
円錐状に先端を尖らせた黒柱は、あとからあとから噴き出す闇の激流に後押しされ、猛烈な速度で前方へとその身を伸ばしていく。一体これはどのような技なのか? 瞬間、すべてを忘れ、ユージオはキリトの完全支配術に目を奪われた。闇を大槍に変える術式? しかし、黒い槍、と言うより柱は余りにも太く――直径は二メルを超えているだろう――とても微細な制御が出来るとは思えない。狙われた者は横に飛ぶだけで、槍の攻撃を楽に回避できよう。
とユージオが思ったのも束の間。
黒い柱の側面から、数十本のやや細い柱が同時に飛び出した。
それらは更に細く分岐しながら、先端を鋭くきらめかせ、周囲の空間へと広がっていく。下方向に突き出した柱たちが、大理石の床を容易く貫き、ひび割れさせるのをユージオは見た。
後からあとから新しい槍を生み出しながら、黒い巨柱は凄まじい勢いで伸長していく。
それはもう柱と言うよりも、とてつもなく太い枝――。
いや、樹だ。
そう思った瞬間、ユージオは、眼前で進行している現象の正体を悟った。
これは、遥か昔よりルーリッドの村の南に屹立し、森の王として君臨し続けたあの巨樹――ギガスシダーそのものだ。
キリトは、術式によって黒い剣に眠る記憶を呼び覚まし、それがかつて誇示していた姿、数百年に渡って何人にも切り倒されることのなかった巨大樹をこの場に出現させたのだ。
何という無茶な……、ユージオは痺れた頭のなかで呻いた。
青薔薇の剣を含め、これまで目にした整合騎士三者の武装完全支配術はすべて、武器の記憶中に存在する特性を攻撃力として適切な形に抽出・加工していた。確かにその過程において、武器の潜在力そのものは縮小されるがそれは仕方ないことだ。そうしなければ、呼び出された特性は無制御のまま荒れ狂い、技と呼べるものではなくってしまうからだ。キリトの黒い剣とて、決して例外では――。
何よりも大きく、重く、何よりも硬かったギガスシダー。
存在そのものが、究極最大の武器となり得るほどに。
ユージオの鼓動が、どくんと大きく跳ねたその瞬間。
過去から召還された漆黒の巨樹の先端が、同じく過去より投射されたソルスの光の凝集と接触した。炸裂した純白の渦が、大回廊じゅうを眩く照らした。
想像を絶するほど高熱、高密度の光の槍に、さすがの超硬樹も圧されたか、突進するその勢いが止まった。しかしキリトの手許の黒い剣からはなおも無数の闇が噴出しつづけ、あくまで樹を前へ前へと押しやろうとする。
ファナティオの手に握られた天穿剣も、退く気は一切ないようだった。吹き荒れる光の奔流は刻一刻とその勢いを増し、既にファナティオの前方の氷薔薇は漏れる熱によって完全に溶け去っている。それどころか騎士自身の右の手甲すらも真っ赤に焼け、白い煙をまとっているのが見える。
光と闇の激突は、大回廊の中央で数瞬の拮抗を続けた。
しかし、これほどの超攻撃力の衝突が、完全に相殺・消滅するということは有り得ない。必ずどちらかがどちらかを退け、狙った敵を完膚なきまでに破壊し尽くすはずだ。
この勝負――分が悪いのは、やはりキリトか、とユージオは思った。
ギガスシダーがいかに硬いとはいえ、あくまでそれは実体のある樹なのだ。本物が、何度も何度も叩くことによってついには切り倒されてしまったように、限界以上の力を受ければ損傷もするし消滅もする。
しかし天穿剣の光は、純粋なる熱の塊だ。実体なき攻撃力などというものを、どのように破壊すればいいというのか。
対抗手段があるとすれば、キリトが一度見せたように鏡によって弾くか、青薔薇の剣が生み出す以上の絶対的凍気で相殺すると言った、対抗するに足る特性を持った力が必要となるはずだ。しかるに、ギガスシダーの特性と言えば、とてつもなく硬く、重いというその二点――。
いや、もう一つあった。
ソルスの光を、貪欲なまでに吸収し、己の成長力へと変えてしまうこと。
バアァァァ――ッ! と石床が震えるほどの轟音を発し、白い光の槍が千もの細流へと引き裂かれた。
均衡を破り、突進を再開したのは、闇色の巨樹だった。
さすがに最先端の一枝は眩いほどに赤熱しているが、それでも光の奔流に屈することなくそれを抉り、千切り、発生源へと襲い掛かっていく。
幹から周囲へと分かたれる無数の枝が、ガガガッと立て続けに床を粉砕し、そこに繋ぎ止められたままの九人の騎士を有無を言わせず巻き込んだ。
巨人の投げる槍のごとき勢いで伸びる枝に触れた瞬間、騎士たちは、ある者は床に叩きつけられ、ある者は水平に吹き飛ばされて壁に激突した。折れた剣と割れた鎧が銀色の細片となって宙に舞った。
それほどの凄まじい威力を秘めた巨樹が、黒い竜巻のごとく己に迫る中、ファナティオはただ顔を上げたのみで一歩たりとも動こうとしなかった。ユージオの想像したとおり、その美しい顔にはいかなる怒りも憎しみも浮かんではいなかった。ゆっくりと閉じられたまぶた、かすかに動いた口もと、それらの動きには何らかの感情が込められていたはずだが、ユージオにはそれがいかなる物なのか察することはできなかった。
ギガスシダーの鋭い尖端が、ついに光の激流をその源まで遡り、剣の切っ先に正確に命中した。
まず、天穿剣がしなりながら弾き飛ばされ、きらきらと回転しながら宙を飛んだ。
直後、騎士自身もまた、ぞっとするほどの勢いで空中に跳ね上げられた。
体を覆っていた氷の欠片を散らしながら、一直線に天蓋まで達し、轟音とともに激突して、そこに描かれていたソルス神の顔を粉々に砕いた。
落下はゆっくりとしたものだった。幾つもの石の塊とともに、糸を引くようにすうっと落ちてきたファナティオの体は、大回廊後方の大扉のすぐ手前にがしゃりと音を立てて転がった。そのまま、第二位の整合騎士は、もう立ち上がることはなかった。
巨樹の前進は、すべての整合騎士が斃れたのち五秒ほどでようやく停止した。
ユージオは、剣から手を離すのも忘れ、ただ眼前の圧倒的な破壊の痕跡へと見入った。
染みひとつなかった大理石の床や真紅の絨毯は、回廊の中央に水平を向いて横たわるギガスシダーの数百に及ぶ大枝に貫かれ、抉られ、引き裂かれて最早見る影もない。さすがに左右の壁や天蓋までには枝は届いていないが、かわりに天穿剣の光がその各所を縦横に灼き溶かしている。
神々しいまでの荘厳さを漂わせていたセントラル・カセドラル五十階”霊光の大回廊”だが、今やまるで古の巨竜が大暴れしたかの如き惨憺たる有様だった。これを引き起こしたのが、たった二人の学生剣士だなどとは、実際に居合わせた者しか信じまい。
でも、やったんだ、僕たちが。
ユージオは内心でそう呟いた。人の世の始まりより存在し、絶対なる権威を以って世界を支配しつづけてきた神聖教会――神と同義とさえ思っていたその教会の騎士十名と、僕らは戦い、勝ったんだ。
これで、エルドリエから数えて何と十四人もの整合騎士を退けてきたことになる。カーディナルの話によればカセドラル内に駐留する騎士は二十人前後ということだった。つまりあと、ほんの――数人の騎士を斃せば……。
ユージオがぐっと奥歯を噛み締めたのと、ほぼ同時だった。
隣で、がくりとキリトが両膝を床に突いた。右手から、重い音を立てて黒い剣が零れ落ちた。
刃から溢れていた闇が消え去ると同時に、横たわるギガスシダーが、鋭い枝々の先端からぴき、ぱきと硬い音を放ちながら崩れ始めた。割れ落ちる黒曜石のような小片は、空中にあるうちに砂よりも細かく分解し、そのまま宙に溶けて消えていく。崩壊の勢いはみるみる増し、巨大なギガスシダーは数秒と待たずに過去へと還っていくようだったが、ユージオにその有様を眺める余裕はなかった。
床から青薔薇の剣を引き抜き鞘に戻すのももどかしく、ユージオはぐらりと上体を泳がせる相棒に駆け寄った。
「キリト!」
叫んで手を伸ばす。危く受け止めた黒衣の体は驚くほど軽く、流れ出した血と天命の膨大さを否応無く悟らせた。顔は床の大理石よりも白く、閉じた瞼が持ち上がる様子もない。身体に素早く目を走らせ、最も深そうな右胸下の傷に左手を当てる。
「システム・コール! リカバリー・パーシャル・ダメージ!」
手が柔らかい青に発光し、惨たらしい貫通痕がじわじわと塞がっていく。内部での出血が止まったと判断した時点で手を外し、今度は左脇腹の傷に同様の処置を施す。
これで、出血と重要部位の損傷による天命の連続的損耗は防いだはずだが、これほど激しく減少した天命は、空間神聖力を源とする通常の回復術ではとても癒せない。屋外で充分な陽光を受けるか、肥沃な地面に接していればまた別だが、このように厚い石壁の中では気持ちばかり回復したところで周囲の神聖力を使い尽くしてしまう。
ユージオは迷うことなく左手でキリトの右手をきつく握り、新たな術式を唱えた。
「システム・コール! トランスファー・デュラビリティ、セルフ・トゥ・レフト!」
今度はユージオの体全体がぼんやりと青い光の粒に包まれ、それらはたちまち左手へ集まるとキリトの体へ流れこんでいく。
思い返すと、デュソルバートと戦ったときも今回も、キリトばかりが傷を受けユージオはほとんど天命を減らすことがなかった。それを考えれば、このような無痛の天命譲与程度ではとても借りは返せない。せめて自分が倒れるぎりぎりまで術を続けなくては。
とユージオは思ったのだが、体感でようやく半分ほど天命を流し込んだところでキリトが眉をしかめながら目を開け、左手でユージオの手を掴むと自分から引き離した。
「……ありがとうユージオ、俺はもう大丈夫だ」
「無理するなよ、それだけやられれば窓じゃ見えない傷が残ってるはずだよ」
言葉とは裏腹に弱々しい相棒の声に、慌てて押し留めようとしたが、キリトは首を振って身体を起こした。
「ゴブリン連中にやられた時よりマシさ、それよりあいつが心配だ……」
黒い瞳が向けられた先が、はるか回廊の反対側に倒れるファナティオであることを察し、ユージオは思わず唇を噛んだ。
「……キリト……、本気の殺し合いをした直後にそういうことを言えるのがちょっと信じられないよ」
苦笑に紛れさせながらも、それはユージオの本心だった。しかし同時に、耳の奥で、完全支配術を解放する直前のキリトの台詞が甦っていた。
「憎しみじゃ勝てない……、それは、確かにそうかもしれない。あの整合騎士は、個人的な恨みとか憎しみとかそんな次元で戦ってたんじゃなかったからね……。でも……でも僕は、やっぱり教会と整合騎士を許せないよ。物凄い強さだけじゃなくて、あんな……志を持ってるなら、どうしてその力を、もっと……」
その先をなかなか言葉に出来ず、ユージオは口篭もった。しかし、大儀そうに立ち上がり、床から剣を拾ったキリトは、わかっているというふうに頷いた。
「あいつらだって、恐らくあいつらなりの迷いの中にあるのさ。騎士長って奴に会えば、もう少しそのへんのことも分かるだろう……。ユージオ、お前の技は凄かった。あの騎士達に勝ったのはお前だ、だからもう、人間としてのファナティオ達まで憎む必要はないよ……」
「人間……。うん……そうだね、戦ってるときにそれだけは分かった。あの人は人間だった、だからあんなに強かったんだ」
ユージオが呟くと、キリトは軽く笑い、そのとおりだ、と言った。
「あいつらは自分たちのことを絶対の善と言い、お前にとっては絶対の悪だったんだろうけどさ、俺たちもあいつらも生身の人間なんだ。そんな、絶対の善悪なんてもの無いんだよ、たぶんな」
その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえて、ユージオはふと考えた。
君がさっき、あれほどまでに怒っていた最高司祭アドミニストレータ……その教会の、ひいては世界の絶対支配者に対しても、君はそう思っているのかい?
しかし、それを訊ねる前にもう、キリトは大扉前に倒れるファナティオ目指して歩きはじめていた。
五、六歩進んだところでひょいと振り返り、ポケットを探ると小さな瓶を取り出す。
「おっと、忘れてた。お前はこいつで、子供たちの毒を抜いてやってくれ。飲ませる前に、毒剣は折って、もう妙なもの持ってないか確認しとけよ」
そういや僕も忘れてた、と思いながらキリトが放った小瓶を受け取り、ユージオは頷いた。
立ち上がり、後ろを向くと、少年騎士ビステンとアーシンは変わらず麻痺し床に転がったままだった。周囲を覆っていた霜はすでに消え去り、凍結による負傷も残っていないようだ。ユージオと目が合ったとたん、二人揃って不貞腐れたように視線を逸らす。
こりゃあファナティオとは別の意味で分かり合えそうにないぞ、と思わず苦笑しながらそちらに歩み寄り、腰を屈めると、二人の鼻先に突き立った二本の毒剣を両手で抜いた。ひょいっと空中に投げ上げ、回転しながら落ちてくるところを、青薔薇の剣で抜きざまに一薙ぎする。
短剣は二つともあっけなく粉砕され、緑色の粘液とともに遠く離れた床に散らばった。青薔薇の剣に付着した毒液も、刀身を侵す前に凍り、剥がれ落ちた。
続いて、不特定物体感知の術式を使い子供たちが危険なものを隠し持っていないことを確認すると、ユージオは左手に持っていた小瓶の栓を抜き、七割がた残っていた中身を半分ずつビステンとアーシンの口に注いだ。これで彼らも、ユージオのように十分足らずで麻痺から回復するはずだ。
そのまま放っておいてもよかったのだが、こんな時キリトなら何か一言いうんだろうなあ、と思ったユージオは、少し考えてから口を開いた。
「……君らのことだから、ファナティオさんやキリトがあんなに強いのは神器と武装完全支配術を持ってるからだ、って思ってるかもしれないけど、それは違うよ。彼らはもともと強い……技や体だけじゃなくて、心が強いから、あんなになっても戦えるし物凄い術式も使えるんだ。君らは……確かに、誰よりも殺す技には長けてるかもしれない。でも、殺すことと勝つことはまったく違うんだ。僕も、今日になってようやくそれに気付いたんだけどね……」
ビステンたちは相変わらず目を逸らせたままで、自分の言葉がどれほど届いているのかユージオにはさっぱり分からなかった。もとより、子供の相手は苦手中の苦手なのだ。
それでも、少なくともあの戦いには、彼らなりに感じるところがあったはずだ、絶対に。そう考え、ユージオはこれ以上何を言う必要もないだろうと思った。ビステンとアーシンの無邪気な軽口を思い出せば、彼らもまた絶対の悪ではないのだと信じられそうな気がした。
きびすを返しキリトのほうに駆けよりながら、ふとユージオは、もし自分とキリトが子供の頃から友達だったらあの二人みたいな感じだったかもしれないな、と考えた。勿論、アドミニストレータの子供として生まれるのはご免こうむるけれど。
破壊の痕跡著しい回廊を移動するあいだ、ユージオは素早く左右に眼を走らせ、ファナティオ配下の九騎士の状態を確認した。
すでに消滅したギガスシダーの枝によって全員が相当の深手を受けたらしく、一様に倒れたまま立ち上がる気配はない。しかしさすがに、神器持ちより一格落ちるとは言え整合騎士だけのことはあるようで、天命を全喪失してしまった者は見当たらなかった。天界に召された人間が残す骸は、あらゆる色彩を失い薄黒く煤けて見えるのですぐにそれと判る。
しかし、枝に巻き込まれた配下とは違い、突進するギガスシダーの全攻撃力をその身でまともに受けたファナティオが到底無事とは言えない状況であることは、倒れた彼女の周囲に広がる大量の血溜まりを見るまでもなく明らかだった。
騎士の傍らに片膝をつくキリトの斜め後ろで足を止め、ユージオは息を殺しながら相棒の肩越しに覗き込んだ。
間近で見ると、ファナティオの全身の傷は目を背けたくなるほど酷いものだった。熱線に貫かれた孔が胴と両脚に四箇所、右腕は氷薔薇の棘に引き裂かれた上に天穿剣の最終攻撃の余波に焼かれて、肌が無事な箇所が無いほどだ。
しかし、最大の惨状を呈しているのはやはり、ギガスシダーの直撃を受けた上腹部の傷だった。大人の拳ほどもある貫通痕が深々と口を開け、深い赤色の血を絶え間なく溢れさせている。瞼を閉じたままの顔は、鎧の色が移ったかのような薄い青紫色に変じて、そこには生気の欠片すらも見当たらなかった。
キリトは、ファナティオの腹に両手をかざし、神聖術で傷の修復を試みている最中だった。ユージオの接近に気付くと、顔を上げないまま切迫した口調で言った。
「手伝ってくれ、血が止まらないんだ」
「あ……ああ」
頷き、反対側に膝をついて同じく傷口に手を当てる。先刻キリトに使ったのと同じ、部分損傷回復の術式を唱えると、かすかな燐光を浴びた傷からの出血が僅かに減少したような気がしたが、完全な止血には程遠かった。
このまま二人で術を継続しても、やがて周囲の神聖力を使い尽くし効力が失われてしまうのは明らかだ。二人の天命を譲与すればファナティオの天命は一時的に回復するだろうが、出血を止めずにそれをしても結局は無為である。現状で彼女の命を救うのは、二人より強力な回復術を使える神聖術者の助力か、伝説の霊薬でもなければ不可能だ。
唇をきつく噛み締めるキリトの顔をそっと見やり、しばし迷ったすえに、ユージオは言った。
「無理だよキリト。出血が多過ぎる」
キリトはしばらく俯いたままだったが、やがて掠れた声で答えた。
「わかってる……でも、何か、何か方法があるはずだ。諦めないで考えるんだ……ユージオも考えてくれよ、頼む」
その顔は、二日前、ロニエとティーゼを襲った悲劇を止められなかった時と同じくらいの沈痛さと無力感に満ちていて、ユージオはどんと胸を衝かれたような気がした。
しかし、やはりどれほど考えようと、眼前で今まさに尽きんとしている天命の皿を元に戻す手段が無いことは明々白々だった。背後で倒れている九騎士を回復させ、彼らにも治癒を手伝ってもらうことも一瞬検討したが、そんな迂遠なことをしている猶予はどう見ても残されていない。おそらく今、キリトとユージオのどちらかが術式を停止すれば、その数秒後にはファナティオの命は永遠に喪われるだろう。そして、例え術を続けても――同じ結果が数分後にはやってくる。
ユージオは意を決して、出せる限りの真剣な声音で相棒に告げた。
「キリト。――君は、地下牢から脱出するとき僕に言ったね。ここから先に進むには、あらゆる敵を斬り倒していく覚悟が必要になる、って。さっき、君は、その覚悟のもとにこの人と戦ったんじゃないのか? どちらかが死に、どちらかが生き残る、そういう決意であの技を使ったんじゃないのかい? 少なくとも、この人は……ファナティオさんには迷いはなかったよ。自分の命を全部賭ける、そういう顔をしてた……と僕は思う。キリトにだって判ってるはずだ……もう、敵を気遣って、手加減なんかして勝てるような段階じゃないんだ」
真剣の刃を相手に向けるというのは、つまるところそういうことなのだ。ユージオはそのことを、ライオスの腕を斬り飛ばしたときに両の掌の震えで、右目の激痛で、胸の奥の凍るような恐怖で学んだ。
それと同じことを、この黒髪の相棒は遥か昔から――ルーリッド南の森で出会ったあの時から既に知っているものと、そう思っていたのに。
ユージオの声を聞いたキリトは、ぎりりと奥歯を噛み締め、何度も首を左右に振った。
「判ってる……判っちゃいるんだ。俺とこの人は、本気で戦った……どっちが勝ってもおかしくない、ぎりぎりの真剣勝負だった。でも……この人は、死んだら消えてしまうんだ! 百年以上も生きて……迷って、恋して、苦しんで、そんな魂を俺が消してしまうわけにはいかない……だって、俺は……俺は、死んでも……」
「え……?」
死んでも――何だというのだろう? 人は皆、天命尽きればその魂は生命の神ステイシアの元に召され、神の抱く黄金の壷の中に融けて消えるのだ。色々と謎の多いキリトとて、人間である以上その定めは一緒であるはず。
ユージオの一瞬の戸惑いは、しかし、突然上を向いて叫んだキリトの声に掻き消された。
「聞こえるか! 騎士長! あんたの副官が死んじまうぞ! 聞こえてたら降りてきて助けろよ!!」
絶叫は、遥か高い天蓋にかすかにこだまし、空しく消えた。だが、キリトは諦めることなく叫びつづけた。
「誰でもいい……まだいるんだろう、整合騎士! 仲間を助けに来いよ! 司祭でも、修道士でも……誰か来てくれよ!!」
二人の見上げる先で、破壊され尽くした三神の似姿がただ沈黙を返してよこした。何者かが現われる気配も、微風のひとつすら訪れることはなかった。
視線を戻すと、ファナティオの全身から徐々に色彩が抜け落ちつつあるのが確認できた。天命の残りは百か、五十か――。整合騎士副長ファナティオ・シンセシス・ツーだった存在が、その骸という物体に変じる瞬間を、せめて黙祷とともに待とうとユージオは言おうとしたが、相棒はなおも叫ぶのを止めようとはしなかった。
「頼むよ……誰か! 見てたら助けてくれ! この場ですぐ戦ってやるから……そうだ、あんたでもいい、来てくれカーディナル! カーディナ……」
突然、喉が詰まったかのようにキリトが黙り込んだ。
ユージオは視線を上げ、相棒の顔に愕然とした表情がまず浮かび、それが一瞬の迷い、そして決意へと変わるのを驚きとともに見た。
「お、おい……どうしたんだよ急に」
だが、キリトは答えることなく、右手を黒い上着の胸元に差し込んだ。
つかみ出されたのは――細い鎖の先に揺れる、極小の赤銅製の短剣だった。
「キリト――! それは!!」
我知らず、ユージオも叫んだ。
同じものが、ユージオの首からも下がっている。忘れるはずもない、大図書室を出るとき、追放された先の最高司祭カーディナルが呉れた短剣だ。攻撃力は一切無いが、刺された者とカーディナルの間に切断不可能な術式の通路を開く。ユージオにはアリスに、キリトにはアドミニストレータにそれぞれ使うようにと渡された、二人の最後の切り札。
「それは駄目だ、キリト! カーディナルさんが、もう予備はないって……それは、アドミニストレータと戦うための……」
「判ってる……」
キリトは、苦しそうな声で呻いた。
「でも、これを使えば助けられる……助ける手段があるのに、それを使わないなんて……人の命に優先順位をつけるなんてこと、俺にはできない」
苦しそうでもあり、しかし確たる決意に満ちてもいる表情でじっと短剣を凝視すると――キリトは、右手に握ったその鋭利な針を、迷うことなくファナティオの、そこだけは傷の無かった左手に深く突き刺した。
途端、鎖を含め、赤銅色の金属すべてが眩く発光した。
息を飲む間もなく、短剣は幾筋もの紫色の光の帯へと分解される。よくよく見れば、それらの光帯はすべて、ステイシアの窓に出現するものと同じ神聖文字の行列だった。極細の文字列たちは、ほつれながら空中をすべり、ファナティオの身体の各所へと吸い込まれていく。
短剣が完全に消滅するのと同時に、騎士の全身が紫の光に包まれた。驚くべき現象に目を見開いたユージオは、少し遅れて、上腹部の傷口からの出血が完全に停止していることに気付いた。
「キリト――」
血が止まった、とユージオは言おうとしたのだが、直後どこからともなく響いた声に遮られた。
『やれやれ、仕方ないやつじゃな』
弾かれたようにキリトが顔を上げた。
「カーディナル……あんたか!?」
『時間がない、当然のことを訊くな』
その、あどけない声にそぐわない辛辣な言い回しは間違いなく大図書室で遭遇した前最高司祭のものだった。
「カーディナル……すまない、俺は……」
苦しげにそう言うキリトの声を、再びカーディナルは素っ気無く断ち切った。
『今更謝るな。よい……お主の戦いぶりを観ている間から、こうなるのではないかと思っておった。状況は理解しておる、ファナティオ・シンセシス・ツーの治療は引き受けよう。しかし完全修復には時間が掛かるゆえ、身柄をこちらに引き取るぞ』
声がそう告げると同時に、ファナティオの身体を覆う紫の光が一際激しく瞬いた。思わずユージオが目をしばたき、再び見開いたときには、もう整合騎士の姿は――驚いたことに、床に広がっていた血溜まりも含め――完全に消滅していた。
空中には、まだ神聖文字の断片がいくつか漂っているのが見えた。それらの明滅と重なるように、カーディナルの声が、先ほどよりも音量を落としながら届いてきた。
『もう蟲どもに気付かれておるゆえ手短に伝えるぞ。状況から判断して、アドミニストレータは現在非覚醒状態にある可能性が高い。彼奴が目を醒ます前に最上階に辿り着ければ、短剣を使わずとも排除が可能だ。急げ……残る整合騎士はもう僅かだ……』
図書室との間に開いた、目に見えない通路が急速に狭まりつつあるのをユージオは感じた。カーディナルの声が遠くなり、気配が掻き消える寸前、空中に二つの光がちかちかっと瞬き、それは実体を伴って床に落下した。
涼しげな音を立てながら大理石の上に転がったのは、二つの小さな硝子瓶だった。
キリトは虚脱したようにその瑠璃色の瓶を見つめていたが、やがて腕を伸ばすと二つ同時に摘み上げた。立ち上がり、ひとつを指先に挟んで差し出してくる。
受け取ろうとユージオが伸ばした掌のなかに瓶を落としながら、キリトは低い掠れ声で呟いた。
「……取り乱して悪かった」
「いや……謝るようなことじゃないよ。ちょっとばかり驚いたけどさ」
小さく笑いながらそう言うと、キリトもようやく僅かに微笑んだ。
「せっかくの差し入れだ、ありがたく頂こうぜ」
相棒にならってユージオも小瓶の栓を弾き飛ばし、中身の液体を一息に呷った。お世辞にも美味とは言えない、砂糖抜きのシラル水のような酸っぱさに顔をしかめるが、長時間の戦闘で疲弊した頭の中が冷水で洗われるような爽快感があった。半減した天命も急回復中と見え、キリトの四肢に残る傷がみるみる塞がっていく。
「すごいな……、どうせなら二個と言わず、もっと沢山送ってくれればいいのに」
思わずユージオが嘆息すると、キリトが苦笑して肩をすくめた。
「これだけ高優先度の代物をデー……術式化して転送するには時間がかかるんだろうさ。むしろ、よくあんな短時間で……うわっ!?」
いきなりキリトが素っ頓狂な声を出して跳びのいたので、ユージオは唖然として相棒を見やった。
「な、なんだよ急に」
「ユ、ユージオ……動くな、いや下を見るな」
「はあ?」
そんなことを言われれば、見ないでいるほうが難しい。反射的に自分の足許を見下ろしたユージオは、いつの間にかそこに居たモノに気付いて悲鳴を上げた。
「ひい!?」
長さは十五センほどか。細かい体節に分かれた長く平べったい胴体から、無数の細い脚が突き出し、その前半分をユージオの靴に乗せている。頭とおぼしき球形の先端部分には十個以上ある小さな赤い眼が一列に並び、その両側からは恐ろしく長い針のような角が二本飛び出して左右別々にゆらゆらと揺れている。ある種の虫類――なのだろうが、おぞましい、と言うよりない奇怪な姿だ。ルーリッド南の森にも虫は沢山生息していたが、こんな形のものは見たことがなかった。
あまりのことに凍りついたユージオだったが、さらに三秒ほど角で周囲を探ってから、怪虫がおもむろに靴からズボンに這い登ろうとするに至って再度の悲鳴とともに飛び上がった。
「ひぃ――――っ!!」
激しく足踏みをすると、虫はぽろりと背中から床に落ちたが、すぐに反転してちょろちょろと足の間を這い回る。もう一度登ってこられては堪らぬと、ユージオは垂直跳びを繰り返したが、何回目かの着地のときにその惨事は起きた。
くしゃ、という乾いた音に続いて、ぷちぷち、と粘っこいものが弾ける感触を足裏に伝えながら、ユージオの右の靴の下で虫は見事に粉砕された。
四方に鮮やかな橙色の体液が飛び散り、刺激性の異臭が漂う。千切れた脚が尚も跳ね回っているのを見てユージオはふぅっと気が遠くなりかけたが、今倒れるわけには行かないと必死に怖気を堪え、キリトに助けを求めるべく顔を上げた。
すると、心を繋いだ相棒は、いつの間にか三メルも向こうにいて、更にじりじりと後退を続けているところだった。
「おい……おおい! どっか行くなよ!」
裏返った声で糾弾すると、キリトは蒼ざめた顔を細かく左右に振った。
「ごめん、俺、そういうのちょっと苦手」
「僕だって苦手だよすっごく!」
「そういう虫とかって大抵、一匹死ぬと十匹くらい集まってくるお約束じゃん」
「嫌なことを言うなよ!!」
こうなったら相棒に抱きついてでも運命を共にせんと決意し、ユージオは逃げるキリトに飛び掛かるべく腰を落としたが、不意に足下から紫色の光が発生して再度凍りついた。
恐る恐る下を見ると、おぞましい残骸が光の粒となって蒸発していくところだった。数秒と経たずに粘液やら殻やらは跡形もなく消え去り、ユージオは腹の底から長い安堵のため息を吐き出した。
遠方から消滅を確認したらしく、今更のようにキリトが戻ってきて、鹿爪らしい声を出した。
「……成る程な。今のが、アドミニストレータが探知用に放った”蟲”ってやつか。図書室との通路を嗅ぎつけたんだな……」
「…………」
ユージオはそこはかとない恨みを込めてキリトを上目で睨んだあと、やむなく相槌を打った。
「じゃあ……この塔には、いまみたいな奴が沢山うろついてるって事? でも、これまであんなの見たことなかったよ」
「……隠れるのが巧いんだろうさ、だからって探して回るのはご免だけどな。それに……カーディナルが妙なこと言ってたな……アドミニストレータが未覚醒、とか何とか……」
「ああ、そう言えば……。それってつまり、寝てるってこと? こんな昼間から?」
ユージオの問いに、キリトはしばらく顎を撫でたあと、自身も腑に落ちない様子で答えた。
「アドミニストレータや整合騎士は、数百年も生きてる代償として色々無理をしてるんだってカーディナルが言ってた。特にアドミニストレータは、一日の殆どを寝て過ごしてるらしいんだが……となると、今の蟲やら整合騎士の制御はどうなってるんだろうな……」
俯いたまま、更に数瞬考え込んだあと、くしゃっと髪を掻き上げて自答する。
「まあ、登ってみればおのずと分かることか。――それはそれとしてユージオ、ちょっと俺の背中見てくんない?」
「は、はあ?」
唖然とするユージオの眼の前で、キリトはくるりと後ろを向いた。訳がわからぬまま目を走らせるが、黒い上衣の布地は、度重なる戦闘を経て相当に損耗しているものの特に変わった様子はない。
「別に……何もなってないけど……」
「何ていうか……ちっちゃい虫が張り付いてたりしないか? クモ状の奴とか」
「いや、居ないけど」
「そうか、ならいいんだ。――では改めて、後半戦行ってみようか!」
そのまますたすたと、回廊北端の大扉目指して歩いていくキリトをユージオは慌てて追った。
「おい、何だよ今の!」
「なんでもないって」
「気になるよ、僕の背中も見てくれよ!」
「だからなんでもないって」
ルーリッドの村を出て以来、何度となく繰り返してきたような軽口をやり取りしながら、ユージオは心の中で本当に訊きたい問いをそっと呟いていた。
いつでも冷静なはずの君が、一人の敵でしかないはずのファナティオの死を前にあれほど取り乱した理由――そして、”俺は、死んでも……”という言葉に続くはずだったのは――。
キリト、君は、本当は誰なんだい……?
背丈の数倍はあろうかという巨大な扉の前で立ち止まった黒衣の剣士は、両手を掲げると、重々しい軋み音とともに左右に押し開いた。途端、冷たい風がごうっと吹き付けてきて、ユージオはわずかに顔をそむけた。
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扉のむこうに見えたのは、ユージオ達が上ってきた大回廊南側の階段ホールとほぼ同じ広さの空間だった。形も同じく半円形、奥で弧を描く壁面には細長い窓が並んで穿たれ、濃い青色の北空を覗き見ることができる。
しかし、黒と白の石を交互にはめ込んだ床には、南側にあったような大きな階段は存在しなかった。
それどころか、梯子も、縄一本すらも見当たらない。つるりと滑らかな床面には、ほぼ中央に奇妙な円形の窪みがひとつあるのみで、上に登るための路は一切ユージオの目には入ってこない。
「か……階段がないよ」
呆然と呟きながら、キリトの後に続いて薄暗い半円ホールに踏み込んだユージオは、再び首筋に冷たい空気の流れを感じて肩を縮めた。相棒も気付いたようで、二人同時に真上を振り仰ぐ。
「……な……」
「なんだこりゃ……」
そして、二人同時に息を飲んだ。
天井は無かった。半分に切った巻きケーキの形の空間が、視線の届く限りどこまでもどこまでも伸びている。上のほうは濃紺の闇に沈んで、一体どれほどの高さまで続いているのか推し量ることもできない。
遥かな高みから徐々に視線を戻してくると、この吹き抜けは完全に空っぽの空間というわけではないことに気付いた。五十一階以降のそれぞれの階層に相当する高さの壁面に、二人の背後にあるのよりは小さい扉が設けられ、その前から細長いテラスが吹き抜けの中ほどまで伸びている。
つまり、あのテラスまで辿り着ければ上の階に侵入できる――ということになるのだが。
ユージオは無意識のうちに右手を伸ばし、ぴょんと軽く飛び上がってみた。
「……届くわけないって」
ため息混じりに呟く。最も近いテラスでさえ、当然ながら背後の”霊光の大回廊”の天井以上の高さに存在するわけで、どう見積もっても二十メルはある。
隣で同じように目をしばたいていたキリトが、力の抜けた声で訊いてきた。
「あのー……一応確認しとくけど、空を飛ぶ神聖術ってないよな?」
「ないよ」
容赦無く即答する。
「だって空を飛ぶのは整合騎士だけの特権じゃないか。彼らだって、術で飛んでるんじゃなくて飛竜に乗ってるんだし……」
「じゃあ……ここの人間は、どうやって五十一階から上を行き来してるんだ?」
「さあ……」
二人揃って首を捻る。気は進まないが、大回廊に取って返して、倒れているファナティオの部下に上に行く方法を尋ねるしかないのか、と考えた、その時。
「おい――何か来るぞ」
キリトが緊張した声で囁いた。
「え?」
眉をしかめてもう一度吹き抜けを見上げる。
確かに――何かが近づいてくるのが見えた。一列になって突き出しているテラスの端をかすめるように、黒い影がゆっくりと降下してくる。キリトと同時に後ろに飛びのき、剣の柄に手を掛けながら、ユージオはじっと接近するものを凝視した。
完全な円形だ。差し渡しは二メルと行ったところか。細い窓から差し込む青い光を受けるたびに縁がぎらり、ぎらりと光るところを見ると、鉄製の円盤というようなものらしい。しかしなぜそんな代物が、支柱も何もない空間をふわふわ下降してくるのか。
一定の速度で移動する円盤が二階上のテラスを通過したとき、ユージオの耳が、しゅうしゅうという奇妙な音を捉えた。同時に再び、冷たい空気の流れを首筋で意識する。
逃げるでも、剣を抜くでもなく、ユージオはただ唖然と立ち尽くしたまま、円盤が頭上のテラスをかすめ二人の目の前へと降りてくる様を眺めていた。ほんの数メル上空にまでそれが近づいたとき、円盤の下部中央に小さな穴が開き、そこから猛烈な勢いで噴き出す空気が、謎の音と風の原因であると気付く。
しかしたかが風の力で、こんな大きな鉄の皿を浮かせられるものだろうか――といぶかしむ間にも、しゅうしゅういう音はどんどんその勢いを増し、金属盤は落下速度をみるみる緩め、最後にはこつんというかすかな音だけを発して、石床に空いていた窪みにぴったりと嵌まるように停止した。
円盤の上面は、鏡のように滑らかに磨かれていた。縁には、精緻な細工の施された手摺がぐるりと取り付けられている。中央からは、長さ一メル少々太さ十五センほどのの硝子製の筒が真っ直ぐに伸び――半球状に丸くなったその筒のてっぺんに両手を当てて、一人の少女がぽつりと立っていた。
「――!」
ユージオは息を飲みながら、剣の柄に沿えた右手に力を込めた。新手の整合騎士か、と神経を張り詰めさせる。
しかしすぐに、少女の腰にも背中にも、短剣のひとつも装備されていないことに気付いた。服装も、おおよそ戦闘には向かなそうな、簡素な黒いロングスカートだ。胸からつま先近くまで垂れる白いエプロンの、縁取りに施された控えめなレース編みだけが唯一装飾的と言っていいもので、あとはアクセサリーのひとつも身につけていない。
灰色がかった茶色の髪は、眉と肩の線で真っ直ぐに切り揃えられ、血色の薄い顔も特徴を見出しにくい造作だった。整ってはいるが表情というものが無い。歳の頃はユージオ達より少し下、と見えたが確信は持てなかった。
一体何者だろう、とユージオは少女の瞳を見ようとしたが、伏せられた睫毛に隠れ色すらも分からない。円盤が停止する前から、一切二人の顔を見ようとしなかった少女は、不思議な硝子筒から手を離すとそれとエプロンの前に揃え、さらに深く頭を垂れて、はじめて声を発した。
「お待たせいたしました。何階をご利用でしょうか」
最低限の抑揚だけを備えた、色合いの無い声。およそ感情というものを窺うことができない。
少なくとも、敵意や害意は欠片すらも聞き取れなかったので、ユージオはそっと剣から手を離した。頭のなかで、少女の言葉をもう一度繰り返す。
「何階を……って……。じゃあ、君が、その、僕らを上の階まで連れていってくれるの?」
半信半疑でそう尋ねると、少女は戻した頭を再び下げた。
「左様で御座います。お望みの階をお申し付けくださいませ」
「って……言われても……」
自分たちの前に現れる者はことごとく障害、と思っていたユージオは、咄嗟に何を言っていいか分からず口篭もった。すると隣で、こちらも何を考えているのか分からないキリトがのんびりした口調で言った。
「ええと、俺たち、カセドラルに侵入した犯罪者なんだけど……そんなのエレ、いや円盤に乗っけて問題はないの?」
すると、少女はごくかすかに首を傾げたが、すぐに定位置に戻して答えた。
「わたくしの仕事は、この昇降盤を動かすことだけで御座います。それ以外のいかなる命令も受けておりません」
「そうか。じゃあ、ありがたく乗せてもらうよ」
呑気なことを言うと同時に、キリトがすたすたと円盤目指して歩きはじめたので、ユージオは慌てて声を掛けた。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「だって、これ以外に上に行く方法はなさそうだぜ」
「そりゃ……そうかもしれないけど……」
子供騎士二人にあんな目に合わされた直後に、よくそんな無警戒に怪しげなものに乗れるなあとユージオは呆れたが、確かに、二人には円盤の動かし方すら見当もつかないのだ。これが罠でも、少なくともどこかのテラスに飛び移れればそれでいいかと腹を決め、相棒の後に続く。
華奢な手摺の切れ目から順に円盤に乗り込むと、キリトは不思議そうに硝子の筒を覗き込みながら少女に告げた。
「えっと、じゃあ行ける一番上の階まで行ってくれ」
「かしこまりました。それでは八十階、”雲上庭園”まで参ります。お体を手摺の外に出しませんようお願いいたします」
間髪入れずに答え、またしても一礼してから、少女は筒のてっぺんに両手を当てた。すうっと息を吸い込み――。
「システム・コール。ジェネレート・エアリアル・エレメント」
突然の術式詠唱に、すわ攻撃か、とユージオは泡を食ったが、どうやらそうではないようだった。緑色に輝く風素が出現したのは、透明な筒の内部だったからだ。しかしその数を見て、もう一度驚く。きっちり十個――これだけの数の素因を同時生成できるからには、術者としては相当に高位だ。
少女は硝子筒に当てた華奢な十指のうち、右手の親指、人差し指、中指をまっすぐ立てると、そっと呟いた。
「バースト」
途端、素因のうち三個が緑の閃光とともに弾け、ごうっ! という音が足の下から湧き起こった。直後、三人が乗った鉄の円盤が、見えない手に引っ張られたように上昇を開始する。
「なるほどなあ! そういう仕組みなのか」
感心したようなキリトの声に、ユージオはようやく円盤が上下する仕組みを悟った。鉄盤を貫く硝子筒の内部で風素を解放し、生み出された爆発的な突風を下向きに噴出することで、三人の体重に円盤自体の重さを足しただけの重量を持ち上げているのだ。
仕掛けとしては甚だ単純なものだが、それをまったく感じさせないほどに、円盤の動きは一定かつ滑らかだった。上昇開始時に、多少ぐうっと押し付けられる感覚があった他は、ほとんど揺れを感じさせることもなくすうっと宙を滑っていく。
五十階の床はたちまち眼下に遠くなり、ユージオは改めてこの小さな円盤が八十階、つまり雲にも届くほどの高さまで昇るのだということを意識した。汗ばんだ掌をズボンで拭い、ぎゅうっと手摺を握りしめる。
しかし隣のキリトのほうは、まるで以前にも似たようなものに乗ったことがあるとでも言うように平然とした顔でへえーだのふうーんだのと感心していたが、やがて興味の対象を円盤からそれを操る人間のほうに移したらしく、少女に向かって尋ねた。
「君は、いつからこの仕事をしてるの?」
少女は顔を伏せたまま、ほんの少しだけ不思議そうな声で答えた。
「この天職を頂いてから、今年で百七年になります」
「ひゃ……」
思わず足下の空間のことを忘れ、ユージオは目を丸くした。つっかえながら更に問いただす。
「ひ、百七年って……その間ずっとこの円盤を動かしてるの!?」
「ずっと……ではありません。お昼には食事休みを頂きますし、もちろん夜も寝ませて頂きますから」
「い、いや……そういうことでなく……」
――そういうことなのだろう。恐らく、この少女もまた整合騎士と同様に天命を凍結され、永遠とも言える時間を一枚の金属盤の上で生きてきたのだ。
無限の刻を戦いに費やす整合騎士よりも――それははるかに恐ろしく、孤独で、荒涼とした運命であるとユージオには思えた。
金属盤は、ゆるゆると、しかし着実に上昇していく。少女は、伏せた瞼の下に一切の感情を包み隠し、風素がひとつ尽きると新たにひとつ、またひとつと解放させる。そのたびに呟く「バースト」の一言を、これまで彼女は何度繰り返してきたのだろう、とユージオは考えたが、もちろんとても想像の及ぶ範囲ではなかった。
「君……名前は?」
不意にキリトがそう訊いた。
少女は、これまでで一番長く首を傾げたあと、ぽつりと答えた。
「名前は……忘れてしまいました。皆様は、私を”昇降係”とお呼びになります。昇降係……それがわたくしの名前です」
これにはキリトも返す言葉を見つけられないようだった。通過するテラスを何気なく数えていたユージオは、それが二十を超えたところで、何かを言わなければ、という衝動に背中を押されるように口を開いた。
「……あの……あのさ、僕たち……神聖教会の偉い人を倒しに行くんだ。君に、この天職を命じた人を」
「そうですか」
少女が返した声はそれだけだった。しかし、ユージオは尚も、恐らくは何の意味もないであろう言葉を重ねた。
「もし……教会がなくなって、この天職から解放されたら、君はどうするの……?」
「……解放……?」
覚束ない口調でそう繰り返すと、昇降係という名前の少女は、円盤がさらに五つのテラスを通り過ぎる間沈黙を続けた。
ちらりと上空を見上げたユージオは、いつの間にか行く手に石の天蓋が見えてきていることの気づいた。あそこが八十階――いよいよ、本当の意味で教会の、つまり世界の中核に足を踏み入れることになる。
「わたくしは……この昇降洞以外の世界を知りません」
不意に、少女がごくかすかな声で言った。
「ゆえに……新たな天職と仰られても決めかねますが……でも、してみたいこと、という意味ならば……」
これまでずっと俯かせていた顔をすっと上げて、少女は肩越しに細長い窓を――その向こう側の、午後の北空を見やった。
「……あの空を……この昇降盤で、自由に飛んでみたい……」
はじめて見る少女の瞳は、真夏の蒼穹のように深い、深い藍色だった。
最後の風素が瞬いて消える寸前に、円盤は三十番目のテラスに到達し、ふわりとその動きを止めた。
昇降係の少女は、硝子筒から両手を離すとエプロンの前で揃え、深く一礼した。
「お待たせいたしました、八十階・”雲上庭園”でございます」
「あ……ありがとう」
ユージオもキリトと一緒に頭を下げ、円盤からテラスへと乗り移った。
少女はもう一切顔を上げることなく、再度の会釈だけを残して、風素が弱まるに任せ円盤を降下させた。木枯らしのような噴出音はたちまち遠ざかり、永遠の刻を閉じ込めた鋼鉄の小世界は、薄青い闇のなかにその姿を消した。
ユージオは我知らず長いため息をついていた。
「……僕の前の天職も、終わりが見えないことにかけちゃ世界で最悪だと思ってたけど……」
呟くと、キリトが眉を持ち上げて視線を送ってくる。
「年とって斧が振れなくなったら引退できる……ってだけでぜんぜんましだよね、あの子に比べれば……」
「天命を術で無理矢理に延ばしても、魂の老化は防げないんだってカーディナルは言ってたよ。記憶が少しずつ侵されていって、最後には崩壊してしまう、って」
唇を噛みながらそう答えたキリトは、想念を断ち切るように勢い良く振り向き、深い縦孔に背を向けた。
「この世界はどうしようもなく間違ってる……だから俺たちはアドミニストレータを倒すためにここまで来た。でも、それで終わりじゃないんだ、ユージオ。本当の難題は、その先に……」
「え……? アドミニストレータを倒せば、あとはさっきのカーディナルさんに任せればいいんじゃないの?」
眉を寄せながらユージオがそう訊くと、キリトは何かを言いかけるように唇を動かしたが、常に果断な彼らしからぬ躊躇いをその目に浮かべ、顔を伏せた。
「キリト……?」
「……いや、この先は、アリスを取り戻してから話すよ。今は余計なこと考えてる余裕はないもんな」
「それは……そうだけど」
首を傾げるユージオの視線から逃れるように、キリトは足早にテラスを歩きはじめた。腑に落ちないものを感じながらユージオはその後を追ったが、短いテラスの突き当たりに聳える大扉が視界に入ると、湧き上がった緊張感がかすかな疑念をあっという間に吹き散らした。
五十階にあれだけの騎士を集めていたことからして、教会を指揮する人間はあそこで何がなんでも二人を阻止するつもりだったのだろう。実際のところ、ファナティオの猛攻撃を退けられたのは紙一重の僥倖でしかなかった。あの防衛線を突破し、最上階に間近いこんな所まで登ってきてしまったからには、教会側もいよいよ最高戦力を惜しみなく繰り出してくるに違いない。例えば、この扉を開けた先には、騎士団長以下残る整合騎士の全員と、司祭や修道士といった高位術士たちが大挙して待ち構えている――ということも充分に有り得るのだ。
しかし、迂回路が無い以上、あらゆる障壁を正面から突破していかなくてはならない。
できるはずだ――僕と、キリトなら。
ユージオは、隣に立つ相棒としっかりと瞳を見交わし、頷きあった。同時に手を伸ばし、左右の扉にそれぞれの掌を当てる。
重々しい音を立てて、石扉はゆっくりと別たれた。
「……!?」
途端、眼前に広がった色彩と、水のせせらぎ、そして甘い香りの渦に、ユージオは一瞬眩暈に似た感覚に襲われた。
塔の内部なのは間違いない。その証に、四方は見慣れた大理石の壁に囲まれている。
しかし、広大な床面には、五十階にあったような滑らかな石張りは一枚たりとも無かった。かわりに、柔らかそうな青草が密に生い茂っている。所どころに色とりどりの花が咲き誇っていて、香りの源はそこらしい。
驚いたことに、数メル離れた場所には小川までもが流れ、水面をきらきらと輝かせていた。二人の立つ扉からは、草むらを貫いて細い煉瓦敷きの小道がくねりながら伸び、小川にかかる木橋を経てさらに先へと続いている。
川の向こうは小高い丘になっているようだった。揺れる若草に覆われた斜面を、小道は蛇行しながら登っていく。視線で道を辿ったユージオは、その行き着く先に、一本の樹が生えているのに気付いた。
それほど大きな樹ではない。細い枝には濃い緑色の葉と、霞のように咲くごく小さな橙色の花が見てとれる。はるか高い天井間近の壁に設けられた窓から、細々と差し込むソルスの光が、今ちょうどその樹に投げかけられて無数の花をまるで黄金の飾り玉のように輝かせていた。
細い幹もまた、陽光を浴びて滑らかに光り――そしてその根元にも、一際眩しい金色の煌めきが――。
「あ…………」
ユージオは、自分の口から漏れた小さな声を意識することは無かった。
樹の幹に背中を預け、眼を閉じて座っている一人の少女を見たときから、あらゆる思考が停止していた。
傾きはじめた木漏れ日が生み出した幻ででもあるかのように、少女の全身は金色の光にくまなく彩られていた。上半身と両腕を覆う華麗な鎧は、白銀に黄金の象嵌を施したものだし、長いスカートも純白の地に金糸の縫い取り、白革のブーツに至るまでが降り注ぐ陽光を存分に跳ね返している。
しかし、何よりも眩く輝いているのは、鎧の上に豊かに流れる長い髪だった。純金を鋳溶かしたかのような真っ直ぐな髪が、完璧な円弧を描く小さな頭から、草むらに広がる毛先までの、神々しいほどの光の滝を作り出していた。
遥かな昔、毎日のように目にしていた輝き。その貴さも、儚さも知らず、いたずらに引っ張ったり、小枝を結びつけたりしたあの髪。
友情と、憧れと、ほのかな恋心の象徴であった黄金の輝きは、ある一日を境にしてユージオの弱さ、醜さ、怯惰だけを意味するものへと変質してしまった。そしてもう、二度と見つめることは叶わないはずだったあの煌めきが、今また手の届く場所にある。
「あ……アリ……ス……」
自分の口からしわがれた声が漏れたのにも気付かないまま、ユージオはふらつく脚を前に踏み出した。
煉瓦の小道をよろよろと辿る。もう、青草や花のさわやかな香りも、呟くような水音も、ユージオの意識には届かなかった。ただ、胸元を握り締める汗ばんだ手の熱さと、布地の奥で脈打つような銅剣の感触だけが、ユージオを世界に繋ぎ止めていた。
小川に架かる橋を渡り、登り坂へと差し掛かる。丘の天辺までは、もう二十メルも無かった。
少しだけ俯いた少女の――アリスの顔が、もう間近に見えた。透き通るように白い肌には、いかなる表情も浮かんでいない。ただ目を閉じて、陽光の温もりと、樹の花の香りに心を漂わせているようだ。
眠っているのだろうか?
このまま近づいて、揃えた膝の上で組み合わせられている指先に、ほんの少しこの針を刺せば――それで全てが終わるのだろうか?
ユージオがふとそう考えた、その瞬間だった。
アリスの右手が、音もなくすっと掲げられ、ユージオは心臓がどくんと跳ねるのを感じながら足を止めた。
艶やかな唇が動き、懐かしい声が耳に届いた。
「もう少しだけ待って。せっかくのいい天気だから、この子にたっぷり浴びさせてあげたいの」
金色の睫毛に縁どられた瞼が、ゆっくりと持ち上げられた。
唯一無二の碧玉の色をもつ瞳が、まっすぐにユージオの目を見た。
その瞳がふわりと和らぎ、唇に穏やかな微笑が浮かぶ――幻を、ユージオは予感した。
しかし、透き通った蒼い瞳に見出せたのは、人間としてのユージオには一抹の興味も持たない、冷徹に敵を見定める剣士の視線でしかなかった。
射竦められたかのように、ユージオは脚を動かせなくなった。
やはり戦わなければならないのだ――喩え記憶を失っていようとも、紛うことなきルーリッドのアリス・ツーベルク本人であるところのあの少女を相手に剣を抜かなければならないのだ、というこの状況が、ひどく受け入れがたいものであることをユージオは改めて認識させられていた。
整合騎士アリスの実力は、一日前に鞘で頬を打たれたときに体で理解している。あの一撃を、虚を衝かれたとはいえユージオは目で追うことすらできなかった。それほどの腕を持つ剣士の動きを、傷を負わせることなく封じるのがいかに至難か、考えるまでもない。
しかし――だからと言って、アリスの肌に刃を触れさせられるのだろうか? いや、あの金色の髪を、ひと筋ですら切り落とすことが、本当にこの僕に出来るのだろうか?
剣を抜くどころか、もう一歩たりとも前に進めないというのに。
突然の葛藤に襲われ立ち尽くすユージオの背後で、キリトが少しばかり掠れた声を出した。
「お前は戦うな、ユージオ。カーディナルの短剣を、確実にアリスに刺すことだけ考えるんだ。アリスの攻撃は、俺が体で止める」
「で……でも」
「それしかないんだ、戦闘が長引けば長引くほど状況は悪くなる。彼女の初撃を、かわさずに受けてそのまま拘束するから、すかさず短剣を使え……いいな」
「…………」
きつく唇を噛む。デュソルバートと戦ったときも、ファナティオと戦ったときも、結果的に血を流す役回りは全てキリトに押し付けてしまったのだ。もとより、神聖教会に挑むというこの無謀な企ては、ただユージオの個人的な感情のみに端を発しているというのに。
「……すまない」
忸怩たるものを感じながらそう呟くと、キリトは低い笑いを交えて答えた。
「なに、すぐに倍にして返してもらうさ。……しかし、それはそれとして……」
「……? どうしたんだ?」
「いや……ここから見た限りだと、彼女、武装してる様子がないぞ。それに……”この子”って何のことなんだ……?」
言われるまま、丘の上に座るアリスに目を凝らす。先刻一瞬開いた瞼は再び閉じられ、軽く俯いたままの彼女の腰を見ると、確かに、学院で会った時にはそこに下がっていた金色の鞘が今は無い。
「もしかしたら、休憩中で剣は置いてきた、とかかな……だとしたら凄く助かるけどな」
そんなことは全く信じていなさそうな口調で呟き、キリトは右手を黒い剣の柄に乗せた。
「彼女には悪いけど、日向ぼっこが終わるまで付き合って待ってるわけにもいかない。今仕掛ければ、剣があろうと無かろうと、少なくとも完全支配を発動する余裕は無いはずだ。正直、あれを使わずにすめばそれに越したことはないしな」
「そうだね……僕の完全支配術はそんなに剣の天命を消費しないから、今日中にあと二回は使えると思うけど……」
「そりゃ助かる……けど、こっちはもう一回が限界だ。アリスの後にも、強敵が少なくとも二人いるはずだからな。じゃあ……行くぞ」
視線で頷き、キリトは一歩前に足を進めた。
意を決し、ユージオもその後を追う。
丘をぐるりと巻いて伸びる煉瓦道から外れ、一直線に頂上を目指す。さく、さくと靴底で青草が鳴る。
アリスが音も無く立ち上がったのは、二人が丘の半ば程まで登ったときだった。半眼に開かれた瞼の奥で、一切の感情をうかがわせない蒼い瞳が二人をじっと見下ろした。
途端、まるで視線にある種の術式でも含まれているかのように、両足がずしりと重くなる。やはり、どう見てもアリスは剣帯していないのに、足がこれ以上彼女に接近することを拒んでいるようにユージオには感じられた。一度頬を打たれただけで肉体に恐れを刻まれてしまったのか――しかし、それにしては、前を行くキリトの足取りからも力強さが失われてはいないか。
「とうとう、こんな所まで登ってきてしまったのですね」
再び、アリスの澄んだ声が空気を揺らした。
「お前たちが仮に牢の鎖から逃れることがあっても、薔薇園に待機させたエルドリエ一人で充分に処理できると、私は判断しました。しかしお前たちは彼を破り、あまつさえ神器を携えたデュソルバート殿を、そしてファナティオ殿までも斬り伏せてここまで来た。一体何が、お前たちにそのような力を与えているのです? 一体何故、このような人界の平穏を揺るがす挙に及ぶのです? お前たちが整合騎士を一人傷つけるたびに、闇の侵略に対する備えが大きく損なわれていることが何故理解できないのですか?」
――君のため、ただそれだけだ。
ユージオは心のなかでそう叫んだ。しかし、それを言葉にしても、眼前の整合騎士アリスには何の意味も持たないことは分かっていた。奥歯をきつく噛み締め、ただ懸命に、ユージオは足を前に動かしつづけた。
「やはり――剣で訊くしかないようですね。いいでしょう……それがお前たちの望みならば」
ため息のようにそう口にして、アリスは傍らの樹の幹に右手を添えた。
でも、剣なんか無いじゃないか――。
ユージオがそう思うのと、キリトが短く、まさか、と口走ったのはほぼ同時だった。
次の瞬間、一瞬の金色の閃光を放って、丘の天辺に生えていた樹が消滅した。
「――――!?」
少し遅れて、甘く爽やかな香りが一際強く漂い、そして消えた。
アリスの右手には、見覚えのある、やや細身の直剣が握られていた。鞘も柄も、精妙な細工が施された黄金製だ。
何が起きたのか、咄嗟にユージオには理解できなかった。樹が消えて、剣が現われた――つまり、あの樹が剣へと変化したということなのか? しかし、アリスは何の術式も口もしなかった。今のが単なる幻術にせよ、あるいは超高等神聖術の物質組成変換であるにせよ、駆式もなしに実行するのは不可能だ。もし、持ち主の心象化のみに拠って姿を変えたのなら――それは、つまり――。
一足早くその結論に達したらしいキリトが、低く呻いた。
「しまった、やばいぞ……あの剣、まさか……もう完全支配状態なのか」
棒立ちになった二人を半眼で睥睨し、アリスは両手で水平に剣を掲げた。
じゃっ! と音高く抜き放たれた刀身は、鞘よりも一際深い山吹色の輝きを放ち、眩く煌めいた。
一瞬のちに、キリトが猛然と突っ掛けた。アリスの剣の攻撃力が発揮される前に接近戦に持ち込むという判断だろう。足許の青草を盛大に引き千切りながら、僅か十歩ほどで丘を八割がた登り詰める。
胸元の鎖を握りながら、ユージオも必死にその後を追った。キリトは抜刀する気は無いようだった。言葉どおり、アリスの初撃を体で止めるつもりらしい。恐らく、動きを封じられるとしても一瞬だろう。ならば、その隙を逃さずに短剣を刺すという役目を、ユージオは絶対に果たさなくてはならない。
黒衣の剣士の猛突進を目にしても、アリスの表情に一切の変化は無かった。ほとんど無造作とも見える動きで、右手の剣を軽く振りかぶる。
まだキリトは切っ先の間合いには程遠い。ということは、デュソルバートやファナティオのような遠隔型攻撃術か。とすれば仮に第一撃でキリトが退けられても、ユージオが組み付く猶予はあるはずだ。
咄嗟にそう考え、ユージオはキリトとは角度を変えて突進を続けた。
アリスの右手が、すっと前に振られた。
黄金の剣の、刀身が消えた。
「!?」
正確には、消えたのではない。分解した――と言うべきか。剣は、幾百、幾千もの小球へと分かたれ、金色の突風となってキリトを襲った。
「ぐあっ!!」
無数の輝きに包まれたキリトが、呻き声とともに棒のように地面に打ち倒された。
相棒が作ってくれた唯一の機会を生かすべく、ユージオは歯を食い縛って前に走った。
しかし、キリトを襲った黄金の風は、そこで止まったわけではなかった。ざああっ! と木枯らしのような音を立てながら空中で左に向きを変え、そのまま横殴りにユージオを包み込んでくる。
とても耐えられるような衝撃ではなかった。巨人の掌に張り飛ばされたかのごとく、ユージオは声も無く右方向に倒れこんだ。
麦粒のような小球ひとつひとつが、凄まじい重さだ。嵐に含まれる雨粒すべてが鉄に変じたかのような――いや、それよりも酷い。背中から地面に落ちたユージオは、黄金の突風に打たれたとき咄嗟に顔をかばった左腕全体に焼け付くような痛みを覚え、のた打ち回りたくなるのを必死に耐えた。
二人の突撃をいとも容易く退けた無数の黄金球は、弧を描いて舞い上がり、アリスのもとに戻った。しかし、剣の姿に還ることはなく、そのまま騎士の周囲に漂いつづける。
「――私を愚弄しているのですか? 抜刀もせず突撃してくるなど」
相変わらず寸毫も感情を表に出さずに、アリスが静かに叱責した。
「今の攻撃は、警告の意味を含めて加減しました。ですが次は天命を全て消し去ります。持てる力を出し尽くしなさい、これまでお前たちが倒した騎士のためにも」
手を――抜いた?
あの凄まじい威力で? まさか!
心底戦慄するユージオの視線の先で、無数の黄金球が、一斉にじゃきっ! と音を立ててその形を変えた。それらは最早滑らかな球ではなく、一端が鋭角に尖った菱形だった。
恐怖が、手足を痺れさせるほどの冷水となってユージオを飲み込んだ。
仮に黄金の小片が只一つだけだったとしても、それに急所を貫かれれば天命は激しく減少するだろう。しかし、今アリスの周りに豪奢な花吹雪のごとく煌めいている小片は、少なく見積もっても千以上に及ぶのだ。それらすべてを剣で弾くのは不可能だし、かといって空中を高速かつ自在に移動する群れをかわすのもまた至難だ。つまり、攻撃力としては、本来有り得ないほどに完全、そして万能――。
そう、有り得ないのだ。
神器を用いた武装完全支配術は確かに強力な技だが、それでも限界というものはある。武器の元となった存在が持つ”方向性”、つまり熱い、冷たい、硬い、速いといった要素を取り出し、より尖鋭化させて攻撃力に変えるのがこの術の本質であって、ある方向に特化すればするほどそれ以外の方向においては性能が劣化せざるを得ないのだ。例えば、ファナティオの完全支配術が、凝集した光線による一点貫通力に特化しすぎた余りに、小さな鏡一つに弾かれてしまったように。
アリスの剣の元となったらしいあの小さな樹がどのような出自を持つのかはまだ不明だが、内包する威力をあれほどまでに小さく多数に分割すれば――つまり突貫力を犠牲にして命中性を追求すれば、あの小片ひとつひとつの攻撃力はもっとずっと小さなものにならなくてはならない。先ほどユージオが体をもって実感させられたように、一センに満たない程度の欠片ひとつが、巨人の拳のように重いなどということはどう考えても理屈に合わない。
もし、そのようなことを実現できるとすれば、あの橙色の花を咲かせていた華奢な樹は、キリトの剣の元となったギガスシダーを遥かに凌ぐ超高優先度を与えられているということになる。
左前方に倒れているキリトも、一瞬のうちにユージオと同じことを考えたらしく、もたげた横顔はかつて見せたことのないほどの戦慄に蒼ざめていた。
しかし、諦めるということを知らない相棒は、恐怖の中にあってもまだ爛々と光る眼をちらりとユージオに向け、声を出さずに小さく唇を動かした。
“えいしょう”――を開始しろ。
確かに、もはや正攻法でアリスに接近するのは不可能だ。ならば、青薔薇の剣の完全支配術で奇襲を仕掛け束縛するしかない。先刻、攻撃中のアリスは黄金片の群れの動きに併せて柄だけの剣を左に振っていた。つまり、あの群れは主の意思のみによって動いているわけではない、ということだ。
不恰好に打ち倒されたまま、ユージオはそっと右手で剣の柄に触れ、音になるやならずの声で完全支配術の詠唱を始めた。アリスに気付かれ、攻撃されたら万事窮するが、そこはキリトが何とかしてくれるはずだ。
予想どおり、詠唱開始と同時にキリトは派手な動作で立ち上がると、びんと張りのある声で叫んだ。
「未だ剣士手習いの身ゆえ、儀礼に則した抜剣を遠慮奉ったが、改めて名乗らせて戴く! 剣士キリト、騎士アリス殿と尋常なる剣の試し合いを所望したい!」
胸に右手を当てて一礼すると、左腰の剣を大袈裟な身振りで抜き放つ。じゃりっ! と鋭い音を立てた漆黒の刀身が、アリスのまとう黄金の光を吸い込むように高く掲げられた。
アリスは、何もかも見通すような蒼い瞳でじっと黒衣の剣士を眺め、一度瞬きをすると答えた。
「――いいでしょう、お前たちの邪心がいかほどのものか、その剣筋で計ることにします」
す、と右手を振る。すると、周囲に浮かんでいた無数の黄金の小刃が、細波のような音を立てて渦巻きながらアリスの手許に集まり、握られた柄の前方に、わずかな隙間を残して刀身の形に整列した。直後、一瞬の閃光とともに、じゃきん! という金属音を立てて小片は結合し、黄金の長剣へとその姿を戻した。
優美な動作でぴたりと剣を中段に据え、歩を進めようとするアリスに向かって、こちらは両手で剣を構えたキリトが更に言葉を投げた。
「剣を交えればどちらかが倒れるのは必定、その前にひとつお尋ねしたい。アリス殿の携えたる神器……先刻の小樹がその古の記憶と見受けたが、なぜ只の樹にそれほどの力が?」
明らかに時間稼ぎの質問だが、アリスの剣の謎を知りたいというのはキリトの本心だろう。無論ユージオも大いに気になるところだ。
アリスも、キリトが本気で訊いているのを感じたのか、右足を前に出したところで立ち止まった。しばしの沈黙が続いてから、小さな唇が僅かに動く。
「これから死に行くものに教えても詮無いことですが……天界への道中の慰みに言いましょう。我が神器の銘は”金木犀の剣”、その名のとおりかつては、先ほど見たとおり何の変哲もない金木犀の樹でした」
キンモクセイ、秋に小さな橙色の花をつける小型の樹だ。ルーリッド近辺ではあまり見かけなかったが、それほど珍しい種類ではない。ましてや、ギガスシダーのように世界にたった一本というような希少種とは程遠い。
「そう、お前たちの言うように只の樹なのです……唯一、その年経た時間だけを除いて。遥かなる古の時代、今セントラル・カセドラルが建つこの地には、創世神ステイシアによって創られた、最初の人間たちが暮らした村がありました。その村の中央には美しい泉が湧き、岸辺には一本の金木犀が生えていた……と創世記の最初の章にあります。その樹こそが、我が剣の源の姿。よいですか、この金木犀の剣は、現世における森羅万象のなかで最も旧き存在なのです」
「な……なんだって……」
愕然とするキリトとユージオに対し、アリスはあくまでも無表情に言葉を綴りつづけた。
「神の創りたもうた樹の転生たるこの剣の属性は”永劫不朽”。舞い散る花弁のたった一つですら、触れた石を割り地を穿つ……先ほどお前たちがその身で味わったように。わかりましたか、如何なる存在にその刃を向けようとしているのか?」
「……ああ、よくわかったよ」
格式ばった口上をかなぐり捨て、キリトが囁いた。
「なるほど、神が設置した……破壊不能オブジェクトってことか。次から次にとんでもないモンが出てきて、嬉しいぜまったく……だからって、へへぇと恐れ入るわけにもいかないけどな」
同種の原型を持つとは言え恐らく遥かに格下ということになるのだろう黒い剣をゆっくりと上段に振りかぶり、キリトは叫んだ。
「では、整合騎士アリス……改めて、勝負!」
ぶんっ! と空気を揺らして、黒衣の剣士が突進した。丘上に立つアリスに向かって、登り坂とは思えない速度で突っ込んでいく。
いかにアリスの剣が大変な代物だろうとも、接近戦からの連続技に持ち込めれば優位に立てる、とキリトは考えたのだろう。先に戦ったファナティオが高速の連撃に対応してきたのは、彼女が心理的な事情によって連続技を習得していたからであって、それは整合騎士としては例外的な能力であるはずだ。
キリトと、そしてユージオの読みどおり、キリトの上段斬りに対してアリスは素直に剣を頭上に掲げた。あの動きでは、上段から無呼吸で繋がる右中段は防げない。
黒い雷光となって振り下ろされたキリトの剣が、金木犀の剣と衝突し、青白い火花を散らした。
しかし、それに即座に続くべき二撃目は発生しなかった。
アリスの剣がほとんど動かなかったのに対して、撃ち込んだキリトのほうが、まるで大岩を小枝で叩いたかのように後方に大きく弾かれて体勢を崩したからだ。
「うおっ……」
斜面に足を取られ、二歩、三歩と不恰好によろけるキリトに向かって、流水のように滑らかな足捌きでアリスが迫った。
ぴんと指先まで前方に伸ばされた左手。体を大きく開き、後ろに真っ直ぐかざされた黄金の剣。アインクラッド流と比べればいかにも実戦向きとは言えない古流の型だが、たなびく金髪や翻るスカートと相まって、その姿は一幅の絵画のように優美だった。
「エェェイッ!」
高く澄んだ気合の叫びとともに、大きな弧を描いて剣が右斜めから撃ち出された。速度は恐るべきものだ。しかし動作があまりにも大袈裟だ。
体勢を回復したキリトは、充分な余裕を持って剣を左に備えた。
がかぁぁん! という大音響を放って、二振りの剣が衝突した。
コマのように回転しながら吹き飛ばされたのは、今度もキリトの方だった。草むらに手を突き、危く転倒を回避しながら、丘の麓近くまで滑り落ちていく。
ここに至って、ようやくユージオにも、眼前で何が起きているかが理解できた。
攻撃の重さが違うのだ。これまで、あまたの神器の中でも最重量級と思われた黒い剣と、超高速の斬撃を以って整合騎士たちとの撃剣にもまったく退くことのなかったキリトだが、アリスの持つ金木犀の剣は、恐らく黒い剣の数倍になんなんとする重量を秘めている。それを軽々とあれほどの速度で振られては、弾くのはおろか受け止める事さえ至難だろう。
いや、それどころではない。最初の一合で判明したように、キリトから撃ち込んだ場合でさえ、弾き返されたのは彼のほうなのだ。これでは勝負にならない。
その事実を身をもって悟ったらしいキリトは、慄然とした表情で数歩下がった。それを、滑るように丘を下りながらアリスが追う。
キリトが剣を抜いた戦いとしては、この二年来初めてと言っていい一方的な展開となった。
舞うように典雅な型で、アリスが次々と斬撃を繰り出す。キリトはそれを懸命に受けるが、その度に無様に吹っ飛ばされる。体捌きだけで回避できれば反撃の機会もあろうが、アリスの剣は大振りであっても凄まじく速く狙いも精妙で、とても綺麗にかわすことなど出来ない。
移動し続ける二人を、懸命に詠唱しながらユージオも追った。こうなったら、キリトがどうにか攻撃を受けているうちに氷薔薇の術を発動するしかない。
四、五回の攻防を経て、ついにキリトは西側の壁まで追い詰められた。背後は分厚い大理石、最早逃げ場はどこにもない。
窮地に陥った敵に涼しい表情でぴたりと剣尖を向け、アリスが言った。
「なるほど。――私の剣をここまで凌いだのはお前で二人目です。それなりの覚悟、信念を持ってここまで塔を登ってきたのでしょう。しかし……教会の守護を揺るがすにはまるで足りません。やはりお前たちに、人界の平穏を乱させるわけには行かない」
キリト――何か言え、得意の舌先で時間を稼ぐんだ、あと三十……いや二十秒!
限界の速度で駆式しながらユージオは念じた。
しかしキリトは、ぎらぎらと目を光らせながら唇を小さく震わせるだけで、一言も返さなかった。
「では――覚悟」
金木犀の剣がすうっと円弧をなぞり、天を指して垂直に構えられた。
一瞬の静寂。
びゅおおっ! と空気を引き裂いて、黄金の閃光が飛翔した。後方から右に回転し、正確にキリトの額へと。
限界までに目を見開いたキリトの右手が動いた。
ちん、とかすかな金属音。ささやかな一条の火花。
受けるのではなく流したのだ。剣先と剣先を最小限だけ接触させ、アリスの超重攻撃の軌道を寸毫ずらす。
ずがっ!! と轟音を発して黄金の剣が貫いたのは――キリトの頭の僅かに左、滑らかな大理石の壁だった。切断された黒い髪が一房散った。
直後、キリトがアリスに飛びかかった。左手で騎士の右手を押さえ、右腕を左腕に絡ませる。さすがに、これまで微動もしなかったアリスの頬がぴくりと揺れた。
今だ――最初で最後の機会!
「リリース・リコレクション!!」
絶叫とともに、青薔薇の剣を抜きざま足許に突き立てる。
破裂するような衝撃音とともに、一瞬にして周囲の草むらが白く凍りついた。霜の環は、十メルほど離れたキリトとアリスを飲み込み――。
そして、百本以上の氷の蔓が二人の足下から一斉に伸び上がった。それらは、青く透き通った縛鎖となって密接する二人の体を幾重にも巻き絡めていく。キリトの黒いシャツと、アリスの金の鎧が、みるみるうちに白い霜に覆われる。
キリト――アリス、すまない!
心中でそう叫びながらも、ユージオは尚も氷の蔓を生み出しつづけた。あの騎士アリス相手では、どれほど縛ろうとも充分という気がしない。
びき、びきん、と硬い音を放ちながら撚り集まる蔓は、やがて一塊の氷柱へとその姿を変えた。
水晶の原石のように幾つもの面を持つ透明な柱が、内部に二人の剣士を閉じ込めて静かに煌めいている。突き出しているのはアリスの右手と、そこに握られて壁を貫く金木犀の剣だけだった。碧い氷の中で、アリスの顔はわずかな驚きを、キリトの顔は決死の覚悟を、それぞれ静止させている。
あの腕に、短剣を刺せば全てが終わる。
ユージオは眩暈を感じながら、剣から手を離し立ち上がった。右手で懐中の短剣を強く握り、一歩、二歩、前へ――。
三歩目が草に触れるのと、金色の光が爆発したのは同時だった。
「な――!?」
驚愕するユージオの視線の先で、壁に突き立っていたアリスの剣が、再び無数の花弁へと分裂した。
ざああっ……と和音を奏でながら、それらは黄金の花嵐となって氷柱を包み込む。
無数の黄金刃が竜巻のように渦巻いて、まるでジェリーのように氷を削っていく光景を、呆然とユージオは見守るしかなかった。あの渦の中に飛び込めば、一歩も進まないうちにユージオの天命は消し飛ぶだろう。
花嵐は、氷柱をごく薄く残して削り終えると、上空へと舞い上がった。
直後、かしゃーんと音を立てて柱が砕け散った。
抱きついたままのキリトを左手で押しやり、髪に付着した氷片を払いながら、尚も冷然とした態度でアリスが言った。
「――お前たちは、剣技の勝負を望んでいたのではないのですか? なかなかの座興でしたが……たかが氷で、私の花たちを止められるはずもありません。お前とは次に戦ってあげますから、そこでおとなしく待っていなさい」
す、と右手を伸ばすと、上空に漂っていた黄金刃が一斉に集まって元の剣の形へと――。
「リリース・リコレクション!!」
いつのまに完全支配術を詠唱し終えていたのか――絶叫したのはキリトだった。
両手に握られた黒い剣から、幾筋もの闇が吹き出す。
狙ったのは、アリス本人ではなく――。
凝集する寸前の、金木犀の剣だった。
「な……!!」
初めて、アリスが叫んだ。
闇の奔流は、黄金の小片を吹き散らし、その制御を乱した。
ぶわあぁぁ――っ!! と耳を劈く轟音を撒き散らし、黒と金の入り混じった嵐が吹き荒れた。それらは絡み合い、渦を巻いて、二人の背後の壁へとぶち当たった。
「ユージオ――――!!」
キリトの絶叫。
そうだ。これが、まさしく、最後の機会。
ユージオは懐から短剣を引き抜き、地面を蹴った。
アリスまで、距離はわずか八メル。
七メル。
六メル。
そして、恐らく、その場の誰もが予想し得なかった出来事が起きた。
二本の神器から解放された超絶攻撃力が融合した嵐に叩かれた、セントラル・カセドラルの壁に――
縦横無数の亀裂が。
ぐわあああっ!! と天地を揺るがすような破壊音とともに、巨大な大理石が分解した。
四角い石が内側に吸い込まれるようにみるみる孔が広がり――その向こうに、青い空と白い雲海が覗く光景を、走りながらユージオは呆然と見つめた。
突然、猛烈な突風に背を叩かれ、ユージオは草地に叩きつけられた。塔内の空気が孔から吸い出されていく。その空気の流れに、孔のすぐ傍にいた二人は抗うこともできず――。
黒衣の剣士と、黄金の騎士が、絡みあうように塔の外へと吹き飛ばされていく瞬間が、ユージオの瞳に焼きついた。
「うわあああああ!!」
絶叫し、ユージオは孔へと這い進んだ。
どうする――神聖術で縄を作って――いや、青薔薇の剣の氷で二人を――。
それらの思考は、しかし、功を奏することはなかった。
吹き飛んだはずの、大理石の壁石が、まるで時間を巻き戻すように塔外から寄り集まり、再び縦横に組み合わさっていく。
ごん、ごん、と重い音が響くたびに孔は小さくなり――。
「ああああああっ!!」
悲鳴を上げ、転がるように駆け寄ったユージオの目の前で、何事も起きなかったかのように、ぴたりと塞がった。
拳を打ちつけた。二度、三度。
皮膚が破れ、血が飛び散っても、傷ひとつなく再生された壁はもうびくともしなかった。
「キリト――――!! アリス――――――!!」
ユージオの絶叫を、白く滑らかな大理石が、冷たく跳ね返した。
きっ。
きしっ。
という鋭い音が響くたびに、俺の心臓がぎゅうっと縮み上がる。
音の源である黒い剣の切っ先は、セントラル・カセドラル外壁の巨大な石組みの隙間に、どうにかほんの一センほど食い込んでいる。その柄を握ってぶら下がる俺の右手は冷や汗にじっとりと濡れ、肘と肩の関節は重量に耐えかねて今にも抜けそうだ。
限界間近なのは左手も同じだった。きつく握り締めた黄金の篭手は、もちろん整合騎士アリスのものだ。傷一つない装甲は、汗ばむ掌ではどうにも捕らえにくく、どれほど力を込めてもほんの僅かずつ滑り落ちていく。
また、決して大柄ではない騎士本人が異様に重い。上半身を覆う金属鎧のせいもあろうが、やはり彼女の右手に握られたままの黄金剣がすさまじい重量なのだ。下に落とせと言いたいのはやまやまだが、剣士の魂を捨てろと言っても無駄なことは分かりきっていた。逆の立場なら俺だって手を離すまい。
よって、俺の両手は今にも指が千切れ飛びそうだし、何よりこれだけの加重を剣尖だけで支える黒い剣の天命が急速に減少しつつあるのは疑いようもなかった。それでなくても、二度の記憶解放で恐らく最大値の八割以上を消耗しているのだ。きちんと手入れをして丸一晩は鞘に収めておかなければとても回復できないダメージだ。
銘も決まらないうちに、しかも戦闘に於てではなく毀れてしまうのではいかにも不憫だし、何よりその時は俺もアリスも必然的に遥か数百メル下方の地面まで落下し、小さな染みになってしまう。よって、どうにかこの状況から可及的速やかに脱出しなければならないのだが、両手は握り締めているだけで一杯一杯だし、そのうえ――。
「もういい、その手を離しなさい! 罪人の情けに縋って生き恥を晒すつもりはありません!」
またしても”落ちそうになるところを敵に助けられた人”が言いそうな台詞を口にしたアリスが、俺に掴まれた左手を振りほどこうと揺り動かした。
「うおっ……ばっ……」
その振動で、アリスの篭手が手首の所から掌部分まで摺り落ち、黒い剣の切っ先が嫌な軋み音とともに髪の毛五筋ぶんほども抜け出た。全筋力と精神力を振り絞ってどうにか揺れを押さえ込んでから、アドレナリンの噴出に任せて大声で喚く。
「動くなバカ! あんた整合騎士で三番目に偉いんだろうが! ここで自棄になって落っこちても何も解決しないことぐらい判れバカ!」
「な……」
俺の足の下にわずかに覗くアリスの白い顔が、ほんのわずかに紅潮するのがちらりと見えた。
「ま……またしても愚弄しましたね! 撤回しなさい、罪人!」
「うっさい! バカだからバカって言ったんだ、このバカ! バーカ!」
挑発して交渉に引き込むのが目的なのか、ただ単に俺も頭に血が上っているだけなのか、自分でも分からないまま俺は尚も喚き散らした。
「いいか!? あんたがここで落ちて死ねば、俺が生還する確率が上がるのは勿論、中に残ったユージオはこのまま塔を登って最高司祭のとこまで行くぞ! あんたはそれを阻止するのがお役目なんだろうが! なら今は何を置いても生きのびるのが最優先だろう、整合騎士として! そんくらいの理屈が飲み込めないバカだからバカって言ってんだ!!」
「くっ……は、八回もその屈辱的な呼称を口にしましたね……」
恐らく、整合騎士として生きたこの九年間でバカ呼ばわりされたことなどないのだろうアリスは、怒りと恥辱に頬を染めて眦を吊り上げた。右手に握る金木犀の剣がわずかに持ち上げられるのを見て、まさか俺を斬って諸共落ちる気かとヒヤッとしたが、危いところで理性が優ったらしく、剣は再び力なく垂れた。
「……なるほど、お前の言う事は理屈が通っています。しかし……」
真珠粒のような歯をきりりと噛み締め、整合騎士は反駁した。
「ならば、なぜお前はその手を離さないのです!? 私を排除できれば、目的達成に大きく近づくのは明々白々なる道理です! その理由が、私にとっては死よりも耐え難い屈辱であるただの憐憫ではないと、お前は証明できるのですか!」
憐憫――ではない、勿論。何故なら、アリスを助けることそれ自体が、俺とユージオがはるばるこんな場所までやってきた目的のきっかり半分なのだから。
しかし、それをここで一から説明するほどの時間的猶予はまるで無いし、何よりユージオが助け出そうとしているのは正確には整合騎士アリス・シンセシス・フィフティではなくルーリッドの村長が一子アリス・ツーベルクなのだ。
俺は、恐慌の余り燃え尽きそうになっている脳味噌を懸命に働かせ、どうにかアリスを納得させられそうな言い訳を探そうとした。だが、そんなものがおいそれと出てくるわけがない。かくなる上は――ある程度の真実を述べるより他にない。
「俺は……俺たちは、神聖教会の潰滅を企んでここまで登ってきたわけじゃない」
強い光を放つアリスの碧い瞳をまっすぐ見下ろしながら、俺は必死に言葉を絞り出した。
「俺たちだって、ダークテリトリーの侵略から人界を守りたいのは一緒なんだ! 二年前、果ての山脈でゴブリンの先遣隊と戦ったんだからな……って言っても信じてもらえないだろうけど。――だから、整合騎士でも最強のひとりと言われるあんたをここで失うわけには行かない、貴重な戦力なんだからな!」
さすがにこれは予想外だったのだろう、アリスは柳眉をしかめ、数瞬沈黙したが、すぐに鋭く言い返した。
「なら! ならば――何ゆえ、人の天命を損なうなどという最大の禁忌を犯したのですか! 何ゆえ、エルドリエはじめ多くの騎士をその手にかけたのですか!!」
純粋なる正義の念――たとえそれがアドミニストレータによって都合よく改変されたものであっても――を両の瞳に爛々と燃やし、アリスが叫ぶ。
それに対して、正面から堂々と反駁できるほどの確信を、残念ながら俺は持ち得ない。さっきアリスに向けて放った”人界を守りたい”という台詞も、本心ではあるが同時に大いなる欺瞞なのだから。今のところ、俺は一直線にカーディナルによるアンダーワールド完全初期化という結末に向かって突き進んでいるし、それを回避し得る方策など何ひとつ思いつけないでいる。
しかし、ここでアリスと共に墜落死するのが最悪の展開だということだけは確かだ。カーディナルの復権ならぬまま人界はダークテリトリーの侵略に晒され、俺とユージオのせいで戦力半減させた整合騎士は容易く撃破されて、人間たちは苦痛と悲嘆の中で鏖殺の運命を辿るだろう。
何より我慢ならないのは、俺がラース研究施設のSTLの中で傷ひとつなく目覚めたあと、研究者の”今回の実験は失敗だった”の一言ですべてが終わったことを知るであろうというその事実だ。アンダーワールド全住民が地獄の苦しみの果てに死に、生き残った者も実験終了とともに削除され、俺ひとり無傷で現実世界に戻る――それだけは絶対に、太字に傍点つきで、絶対に受け入れられない。
「お……俺は……」
教会と法の完全なる守護者である今のアリスに、残された僅かな時間を全て費やしたところで何ほどのことが伝えられよう。しかし、たとえ届かない言葉でも、俺にはもうそれを精一杯語るくらいしか出来ることはなかった。
「俺とユージオが、ライオス・アンティノスを斬ったのは……あんたが奉じている禁忌目録がどうしようもなく間違っているからだ! 今の法、今の教会では、人界の民たちを幸せにすることはできない、それは、本当は、あんたにだって判ってるんじゃないのか!? 禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!」
今まで無理矢理に意識の埒外に押しやっていたあの光景――異様に大きなベッドの上に、弄ばれた小鳥のように力なく横たわっていた二人の少女の姿が目の裏にフラッシュバックし、激した感情のあまり俺の全身が大きく震えた。すべてを支える剣の先端がひときわ激しく軋んだが、それを殆ど気にもせずに、俺は叫んだ。
「どうなんだ! 答えろ、整合騎士!!」
脳裡に甦ったあまりにいたましい光景が、俺の目尻から否応なく数滴の雫を絞り出し、頬を伝って落下したそれはぶら下がるアリスの額に当たって散った。黄金の騎士は鋭く息を飲み、目を見開いた。僅かにわななく唇から漏れた声からは、先刻の苛烈さが多少なりとも抜け落ちているように思えた。
「……法は、法……罪は罪です。それを民が恣意によって判断するなどということが許されれば、どのようにして秩序が守られるというのです!」
「その法を作った最高司祭アドミニストレータが正しいか否か、一体誰が決めるんだ。神か!? なら、なぜ今神罰の雷が落ちて、俺を焼かないんだ!?」
「神は――神の御意志は、僕たる人の行いによって自ずと明らかになるものです!」
「それを明らかにするために、俺とユージオはここまで登ってきたんだ! アドミニストレータを倒して、その誤りを証明するために! そして、それと全く同じ理由によって……」
俺は、ちらりと上を仰ぎ、壁に食い込む黒い剣がもう限界にきていることを確かめた。次にアリスが動くか、風が吹いたら切っ先が隙間から外れ、諸共に墜落するだろう。
「……今、あんたを死なせるわけには行かないんだ!!」
大きく息を吸い、ぐっと溜めて、俺は全身から残された気力をかき集めた。うおおっ、と気合を放ちながら、左手で掴んだアリスの手を引っ張り上げる。びき、びきとあちこちの関節が嫌な音を立て、目も眩むような激痛が脳天を貫いたが、どうにかアリスを同じ高さにまで持ち上げることに成功し、最後の力で俺は叫んだ。
「あの石の継ぎ目に剣を……! こっちはもう保たない、頼む!」
すぐ隣で、アリスの白い顔が大きく歪むのを、俺は必死の形相で見つめた。張り詰めた一瞬の沈黙ののち、アリスの右手が動き、握られた金木犀の剣の切っ先が鋭い音とともに大理石の隙間に深く突き刺さった。
直後。
ぎっ! と最後の悲鳴を上げて、黒い剣が継ぎ目から抜け落ちた。
つま先から脳天までを突き抜ける過電流のようなパニックの中で、俺は長い長い墜落とその最後に訪れるであろう甚だ不愉快な結末を瞬間的に思い描いた。
しかし、実際に味わったのは刹那の浮遊感だけで、それに引き続くべき落下は訪れなかった。超絶的な反応で閃いたアリスの左手が、俺の上着の後ろ襟をがつんと掴んだのだ。
アリスの剣と両腕が、二人分の重さをしっかりと支えるのを確認してから、俺はふううーっと長く息を吐き、早鐘のような鼓動をどうにかなだめた。
わずか一秒のあいだに物理的及び心理的な位置関係が逆転してしまった相手を、窮屈な襟首のあいだから苦労して見上げる。
金色の整合騎士は、ありとあらゆる種類の相反する感情に苛まれているかのように、頬を引き攣らせ歯を食い縛っていた。俺のうなじのすぐ後ろで、華奢な拳が緩んではまた握り締められる気配が繰り返し感じられた。
このような極限的状況で逡巡することのできるアンダーワールド人を、俺は他にはユージオ――あの事件以後の――しか知らない。他の人間、つまり人工フラクトライトは、善くも悪しくもあらゆる規則及び己の内なる規範に対して盲目的に忠実であり、重大な意思決定において悩むということを殆どしない、言い方を変えれば、重大な決定を下すのは常に自分ではない何か、誰かなのだ。
つまりこの一事を取っても、整合騎士アリスの精神は、今のユージオと同レベルのブレイクスルーに達しているということになる。アドミニストレータによる記憶改変を経ても、なお。
アリスの中で、どのような葛藤が行われたのか俺には推測することができなかった。しかし、とてつもなく長い数秒間を経て、俺の体は軽々と元の高さまで引っ張り上げられた。
彼女と違い、俺のほうには悩む理由は一つもない。即座に黒い剣を岩の継ぎ目にしっかりと突き刺し、俺はようやく強張る背中から力を抜いた。
俺の体勢が安定するや、アリスの左手はさっと引っ込められ、ついでに顔までもぷいっと背けられた。風に乗って届いた声は、口調を裏切って弱々しかった。
「……助けたわけではありません、借りを返しただけです……それに、お前とは剣の決着がまだついていない」
「なるほど……じゃあこれで貸し借りは無しだ」
慎重に言葉を選びながら、俺は口を動かした。
「そこで提案なんだが……とりあえず、俺たちは二人ともどうにかして塔の中に戻らなきゃいけない事情は一緒なわけだ。なら、ひとまずそれまで休戦ということにしないか」
「……休戦?」
わずかにこちらに動かされた顔から、甚だ胡散臭そうな視線が浴びせられる。
「この絶壁を登るにせよ壊すにせよ容易なことじゃない、一人より協力したほうが生還の可能性が増えるのは確かだろう。――もちろん、あんたには簡単に中に戻る方法があるっていうなら別だけどさ」
「…………」
アリスはしばし口惜しそうに唇を噛んでいたが、すぐにまた顔を逸らせた。
「……そのような方法があればとうに実行しています」
「そりゃそうだ。なら、休戦、協力については諒承と思っていいな?」
「協力……と言っても、具体的には何をするのですか」
「どちらかが落ちそうになったら、それを助ける、ってだけさ。ロープでもあれば尚いいんだが……」
刺々しさの一向に薄れない横顔をこちらに向けたまま、アリスはしばし考えていたが、やがてよくよく見ていなければ判らないほどの動きでかすかに頷いた。
「合理的な手段である……と認めざるを得ないようですね。仕方ありません……」
そのかわり、とアリスはこちらに最後の一睨みをくれながら続けた。
「塔内部に戻ったその瞬間、私はお前を斬ります。それだけはゆめ忘れないように」
「……憶えとくよ」
俺の返事に再び軽く頷き、思考を切り替えるようにアリスは小さく咳払いした。
「それでは……ロープが必要なのでしたね? お前、何か不要な布なり持っていませんか」
「布……」
俺は自分の体を見下ろしたが、考えてみればハンカチの一枚すら持っていないのだ。ここが普通のVRMMOワールドなら、アイテムウインドウから予備の服だのマントだの山ほど取り出すところだが、あいにくそんなプレイアビリティーはこの世界には存在しない。
「……と言われても、このシャツとズボンしかないなあ。必要というなら脱ぐが」
左の肩だけをすくめながら答えると、アリスはこれ以上ないほどの渋面を作りながら俺を叱った。
「要りません! ……まったく、剣一本下げただけで戦地に赴くなど、呆れたものですね」
「おいおい、俺とユージオを着の身着のままで引っ立てたのはあんたじゃないか!」
「その後塔の武具庫に押し入ったのでしょう、あそこには上等のロープだって何巻きも……ああもう、時間が惜しい」
アリスはふんっとおとがいを反らすと、左腕を目の前まで持ち上げた。しかしそこで、自分の右手が剣の柄から離せないことに気付いたらしく、眉をしかめて腕をぐいと俺のほうに突き出した。
「空いている手で私の篭手を外しなさい」
「は?」
「いいですか、肌には決して触れないように! 早くしなさい!」
「…………」
ユージオの回想によれば、ルーリッドに居た頃のアリスは明るく元気で誰にでも優しい女の子だったそうだ。とすれば、それとは真逆と思える現在の人格はいったいどこから湧いて出たものなのだろう。
というようなことを考えながら、俺は剣の柄を左手に持ち替え、自由になった右手で黄金の篭手の留め金を外した。俺に篭手を握らせると、アリスはそこから左手を素早く引き抜き、どきっとするほど白く華奢な指を滑らかに動かしながら叫んだ。
「システム・コール!」
聞いたことのない複雑な術式が高速展開されると同時に、俺の手の中の篭手が発光、変形していく。わずか数秒ののち、俺が握っているものはきれいに束ねられた黄金の鎖へとその姿を変えていた。
「うお……物質組成変換?」
「何を聞いていたのです、それともそれは耳ではなく虫喰い穴ですか? 今のはただの形状変化、組成そのものを書き換える術は最高司祭様にしか使えません」
どうやら、互助協約には同意しても辛辣な物言いは一切変える気がなさそうなアリスにすいませんと謝っておいて、俺は鎖の強さを確かめた。端を咥えて引っ張ると歯が抜けそうになったので、慌てて口を離す。強度も長さも充分、おまけに両端には頑丈そうな留め具までついていて言う事なしだ。
一端を自分のベルトにしっかりと固定し、もう一方を差し出すと、アリスは引ったくるように受け取り、自分の剣帯に留めた。これでとりあえず、二人揃って落っこちない限りは安全が保証されるはずだ。
「さて……と」
俺は数回瞬きしてから、改めて視線を巡らし、現在の状況を確認した。
太陽の方向から判断して、俺たちがぶら下がっているのはセントラル・カセドラルの西側の壁だ。時刻はすでに四時を回ったと見えて、頭上の空は青から紫へと色を変えつつあり、背後から訪れる陽光が塔の白壁を明るいオレンジ色に染め上げている。
恐る恐る足下方向を眺めれば、薄くたなびく雲のむこうにぼんやりとミニチュアのような庭園とそれを四角く囲む石壁、さらに広大な央都セントリアの市街が一望できて、改めて現在位置の高度を認識させられる。大階段を登ったときの目算では、塔のワンフロアぶんの高さは床の厚みも含めると六メル――メートルほどもあったので、アリスと戦った八十階が単純計算で比高四百八十メートル、いや”霊光の大回廊”の高さも足せば五百メートルか。壁に開いた大穴から十メートルほど落下したとしても、まだ俺たちの足裏から地面までは想像を絶する距離が残っているというわけだ。もし墜落すれば、どれほど天命があろうとも一瞬で吹っ飛ぶのは間違いない。それどころか、そんな衝撃と痛みを忠実に再現されたら、フラクトライトに現実的な損傷が発生する可能性すらあるのではないか。
ぶるっと背筋を震わせて、俺は再び剣を左手に握り直すと、右掌に滲んだ汗をズボンで拭った。
「えーっと……一応確認するけど……」
声を掛けると、隣で同じように足元を覗き込んでいたアリスが顔を上げた。さっきより心なしか顔色が悪いような気がしたが、滑らかな頬が夕陽の色に染まって定かではない。
「……何です?」
「いやその……物体形状変化みたいな高度な神聖術を使う騎士様なら、空中飛行術なんかも知ってたりしないかなって……あ、しないですね、すいません」
吊りあがる眉を見て素早く謝ったのに、アリスは容赦なく俺を罵倒した。
「お前、学院で何を習っていたのですか!? 飛翔の術を使えるのは人界広しと言えども最高司祭様ただお一人です、どんな幼い修道士見習いでも知っていることです!」
「だから一応って言ったじゃんか! そんな怒ることないだろう」
「妙にあてこするような言い方をするからです!」
そろそろ、この第二人格アリスと俺は、立場以前に決定的に相性が悪いのだということが明らかになりつつあるようだったが、更に言い返したい衝動を押さえ込んで俺は質問を続けた。
「……じゃあ、これも一応聞くんだけど……俺をここまでぶら下げてきたあのでっかい飛竜、あれをここまで呼ぶってのは?」
「重ねがさね愚かなことを。飛竜はカセドラルの周囲五百メル以内への進入を禁じられています」
「な……そ、そんな決まりを俺が知るわけないだろう!」
「発着場が塔からあれほど離れていた時点で察してしかるべきです!」
俺たちはこの短時間でもう何度目かも分からない睨み合いを三秒ほど繰り広げたのち、同時にぷいっと顔を背けた。
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更に三秒を費やしてアリスの理不尽な口様への腹立ちをぐいっと飲み込み、顔の向きを戻して言う。
「……じゃあ、まずは空を飛んで脱出する線は無しってことか」
騎士様のほうは冷静さを取り戻すのに俺より二秒ほど余分にかかったようだったが、それでも怒りの色を収めた瞳をちらりとこちらに向けて頷いた。
「カセドラルの近くでは、小鳥すらも空を飛べないのです。詳細は私も知りませんが、最高司祭様の御手になる特殊な術式が働いていると聞いています」
「なるほどね……徹底してるな」
改めて周囲の空間を見渡すと、たしかに鳥はおろか羽虫の一匹すらも見当たらない。最高権力者アドミニストレータの超絶的な魔力と――妄執にも似た警戒心の顕現、と言うべきか。そう考えれば、この塔の常軌を逸した高さも、権威の象徴であると同時に見えざる敵への恐怖を示していると思えてくる。
「となると、残る選択は三つ……降りるか、昇るか、もう一度壁を破るか、だな」
「三つ目は難しいですね。カセドラルの外壁はほぼ無限の天命と自己修復性を備えています」
アリスが考え込むように俯きながら言った。
「そもそも先ほど、内側から壁が破壊されたこと自体が信じがたいのですが……私とお前の武装完全支配術が複合し、異常な威力が発生してしまったことによる万に一つの不運、と考えるしかないでしょうね。まったく余計な真似をしてくれたものです」
「…………」
ここで言い返したらまた口喧嘩スパイラルだ、と俺はふうふう鼻息を荒げるのみに留めた。
「……しかし、それなら、また同じ現象を起こせば壁を壊せる理屈じゃないか?」
「可能性としては絶無とは言いませんが……穴が修復されるまでの数秒のあいだに内部に戻るのは至難であるのと、それにもうひとつ……私はすでに二回、この子の完全支配術を使用してしまっています。一度もとの樹の姿に戻し、陽光を浴びさせてあげなければもう術は使えません」
「確かに……それはこっちも同じだ。一晩は鞘に入れておかないと、というかこうやってぶら下がってるだけでも既に結構やばいな。そろそろ行動に移らないと……降りるにせよ登るにせよ」
言いながらもう一度壁面を確かめるが、これがまた絶望的なまでに凹凸というものがない。一辺約二メートルの白亜の石がどこまでもきっちり組み上げられているのみで、その隙間にどうにか剣先を突き立てて俺たちはぶら下がっているのだ。
移動する方法としては、ロッククライミングに使うハーケンのようなものを用意し、それを石の継ぎ目に次々に打ち込んで手がかりにしていくしかない。その手順においては昇るも降りるも労力に大差はなさそうなので、移動距離が短くてすむほうを選択したいのだが、そこで問題になるのは――。
俺は左隣のアリスを可能なかぎり真剣な表情で凝視し、恐らく答えてはくれないだろうと覚悟しながら尋ねた。
「もしここから上に向かったとして、どこか内部に戻れそうな場所はあるか?」
するとアリスは、予想どおり躊躇いの表情を見せ、唇を噛んだ。登った先で中に入れるとすると、そこはもうアドミニストレータの居住する最上階のごく至近ということになる。教会の敵をそんな場所まで導いてしまうことは、守護者たる整合騎士としてはほとんど禁忌を犯すに等しいだろう。
しかし――。
アリスはぐっと一息飲みこむと、眼差しに力を込めて頷いた。
「ええ。九十五階、”暁星の望楼”と呼ばれる場所は、四方の壁が円柱のみの吹きさらしになっています。そこまで登れれば、容易に中に戻れるでしょう。……ですが」
蒼い両の瞳が、一際強く光る。
「仮に辿り着けたとしても、そこで私はお前をどうあろうと斬らねばなりません」
うなじがちりちりと痺れるほどの気迫がこもったアリスの視線を正面から受け止め、俺は頷き返した。
「最初からそういう約束じゃないか。なら――登る、ってことでいいんだな?」
「……いいでしょう。ここから地上まで降りるよりは現実的ですから。しかし……お前は簡単に言いますが、この平滑な壁面をどのように登るつもりなのですか」
「そりゃもちろん垂直に走って……いや、冗談だ」
零度以下まで急速冷却されたアリスの目つきから逃れるように咳払いすると、俺は右掌を上に向け、術式を唱えた。
「システムコール! ジェネレート・メタリック・エレメント!」
たちまち生成された、水銀のように輝く金属系の素因を、フォームコマンドとイメージ力で変形させる。全体を長さ五十センチほどの棒状に引き伸ばし、先端のみを薄く尖らせた短い槍のような形が出来上がったところで術を止め、俺はそれをしっかり握った。
頭上の、黒い剣が刺さっている石の継ぎ目を見上げ、右手を大きく振りかぶる。
「ふんっ」
あらん限りの力を込めて即席のハーケンを打ち込むと、幸いへし折れるようなこともなく刃部分が深々と狭い隙間に突き立った。ぐいぐい上下にこじってみるが、どうやら体重をかけても問題ないほどには固定されたようだ。
コマンドで生成したオブジェクトの耐久度は非常に低く、放置しておくだけでも数時間で消滅してしまう。ゆえに、アリスと俺を繋ぐ命綱には使えなかったわけだが、壁を登る手がかりに用いるなら十分も保ってくれれば事足りる。
相変わらず疑わしそうなアリスの視線を感じながら、俺は限界まで酷使した黒い剣を左手で抜き、腰の鞘に収めた。次に両手で壁から突き出すハーケンにぶら下がると、鉄棒の要領で懸垂し、体を持ち上げる。
アンダーワールドにおける俺の身体能力は、SAO時代の、アメリカB級映画に出てくるニンジャ顔負けの超人振りには及ばないものの、それでも現実世界に比べれば遥かに敏捷かつ頑健だ。さして苦労もせずに右足を鉄棒に乗せ、左手で石壁をしっかりと押さえて、俺は細い棒の上に立つことに成功した。
「だ……大丈夫ですか」
掠れた声に視線を向けると、アリスは空いた手で黄金の鎖をしっかりと握り、やや顔を蒼ざめさせてこちらを見上げていた。そういう表情の時は意外に幼い印象のあるその顔を見ていると、そんな場合ではない、と分かってはいてもつい悪い癖が頭をもたげる。
「うわあっ!」
わざとらしく叫んでからずるっと左足をハーケンから滑らせて見せると、アリスは喉の奥でひぐっと奇妙な声を上げた。真ん丸く目を見開き、びくりと背筋を強張らせる騎士様に向かって、嘘ウソ、と手を振る。
「な……」
アリスの青白い頬が一瞬にして真っ赤に気色ばむ様子はなかなかに見物ではあったが、直後に命綱の鎖を思い切り引っ張られ、俺は本当に落下しかけた。
「わぁ、嘘ウソウソ!」
「何が嘘ですか! この大馬鹿者!」
しばらく続いた綱引きに耐え、どうにかバランスを回復すると俺はふうふうと荒い息をついた。完全にむくれてそっぽを向いてしまったアリスに謝りの声を掛けてから、もう一度術式を唱えて新しいハーケンを作り出す。
右手を一杯に伸ばすと、幸い次の石の継ぎ目までは無理なく届いた。二本目の鉄棒を力いっぱい打ち込み、先ほどと同じ要領で懸垂してその上によじ登る。ほんの二メートルではあるが、ようやくの前進にささやかな達成感を抱きながら俺は下方のアリスに呼びかけた。
「よし、いけそうだ! 今俺がやったみたいに、まずは一本目の棒に登るんだ」
しかし整合騎士はまだ怒りが冷めないのか、顔を背けたまま動こうとしない。
「……いや、悪かったよ。もうふざけたりしないから、登ってきてくれ」
なだめるようにそう付け加えたが、尚もアリスはそっぽを向いたまま沈黙を続けている。これは、扱いづらさに関しても史上最強クラスか、と俺が苦笑いしかけたその時、ぼそりと呟く声がした。
「……りです」
「は? 何だって?」
「……無理です、と言ったのです!」
「い……いや、無理ってこたないよ。君ほどの腕力があれば、自分の体を引っ張り上げるくらい簡単に……」
「そういう意味ではありません」
俺がぎこちなく掛けた励ましの言葉を、アリスは大きく一度かぶりを振って退けた。
「こ……このような状況に陥ったのは初めての経験ゆえ……は、恥を晒すようですが、こうしてぶら下がっているだけでもう精一杯なのです。そんな細い足場に上るなど、とても……」
再び消え入るようにか細くなってしまったアリスの声に、俺はしばし絶句した。
人工フラクトライト達は、おしなべて想定外のストレスに対して脆弱な傾向がある。ことに”本来有り得ない事態”への対応力は欠如著しく、ユージオに片腕を斬り落とされた上級修剣士ライオスに至っては天命の消滅よりも早くフラクトライトが自己崩壊してしまった――と俺は推測している――ほどだ。
破壊不可能なはずの塔の壁に開いた大穴から放り出され、侵入不可能な超高空域に足場もなくぶら下がっているこの状況は、いかに整合騎士とは言え対処しかねるものなのだろうか。あるいは――洗脳状態にある騎士アリスも、その本質はひとりの女の子であるということなのか。
どちらにせよ、誇り高い整合騎士が弱音を吐くからには、本当に今の状態が限界ギリギリなのだろう。そう判断し、俺は叫んだ。
「わかった! なら、俺が命綱で足場まで引っ張り上げる! 両手でしっかり壁を支えていれば大丈夫だ!」
するとアリスは、再びプライドと状況を秤にかけるように俯いて唇を噛んだが、一度決定した優先順位を覆すつもりはないらしく、ごく小さく頷くと腰に繋がる鎖を左手で握った。
「……頼みます」
消え入るようなその声に、どうしても茶々を入れたくなる悪癖を抑えつけて、俺も右手に鎖を巻きつけた。
「じゃあ、ゆっくり持ち上げるからな……」
一声掛けてから、命綱を慎重に引っ張る。足場のハーケンが一瞬みしりと軋んだが、どうやら短時間なら二人分の荷重にも耐えてくれそうだ。揺らさないように気をつけながら、黄金の騎士様を一メートルほども吊り上げると、俺は一度鎖をホールドした。
「……よし、剣を抜いてもいいよ」
アリスは頷き、石壁に突き立ったままだった金木犀の剣をゆっくり引き抜いた。途端に剣の重量が加わって、俺の右手と背中と足場が同時にみしみしと悲鳴を上げるが何とか堪える。
剣が腰の鞘に収められるのを確認し、引き上げを再開する。アリスのブーツが最初のハーケンに乗ったところで、ふたたび声を掛けた。
「両手で壁につかまって……そう、よし、鎖を離すぞ」
角度的に表情は見えないが、懸命な仕草で壁に張り付いたアリスは、こくこくと頭を振った。風になびく金髪の下にあるであろう必死の形相を想像しながら、俺はそっと右腕の荷重を降ろした。騎士の足元は細いハーケンの上で多少ぐらついたようだったが、すぐに安定を取り戻した。
「ふう……」
思わず長い息が漏れる。
九十五階まであと何メートルあるのか知らないが、ともかくこの作業を繰り返していけばいずれは辿り着けるはずだ。問題は、ブロックを一つ登るのにこれだけの時間が掛かっては、空に光があるうちに登りきるのは少々難しそうなことだが、いざとなったら壁にぶら下がった体勢での野営も考えておかねばなるまい。
「じゃ、俺はもういっこ上に登るよー」
緊張感のない声を下に投げると、アリスは強張った顔をちらりとこちらに向け、風の音に紛れてほとんど聞こえない囁きを返してきた。
「……気をつけてください」
「うん」
親指を立てた右手を突き出しておいてから――アンダーワールド文明には存在しないジェスチャーではあるが――俺は三たび、システムコマンドを詠唱した。
来月にはもう夏至祭があるというのに、いったん沈み始めた太陽のスピードは無情なほどに速かった。
白亜の壁面を染めていたオレンジ色は、燃えるような朱色からすみれ色を経て深い藍色に沈み、首を回せばはるか西方を横切る果ての山脈が、消える寸前の残照に朧に照らされているのが見て取れる。
頭上ではすでに幾つもの星がまたたきつつあるが、絶壁登攀は予想以上にはかどっていなかった。理由は、思わぬところから現われたシステム上の制限による。
作業としては非常に単純だ。コマンドでハーケンを一つ作り出し、それを壁石の隙間に固定して俺がその上によじ登る。しかるのちに鎖でアリスを引っ張り上げ、さっきまで俺が立っていたハーケン上に乗せるという、それだけである。十回も繰り返して慣れたころには、ワンセット五分を切るくらいになっていたのだ。
問題は、そのハーケンを生成する過程にあった。
この世界には、いわゆるMP、マジックポイントというものは存在しない。神聖術、つまりシステムコマンドは、術者のシステムアクセス権限が及ぶ範囲ならば自由に行使することができる。
しかしそれは、無制限にいくらでも詠唱できるという意味ではない。あらゆる生産行為にはリソースが必要となるこの世界の原則に、神聖術もしっかりと縛られているのだ。種類にもよるが、術式の行使にあたっては、術者の天命か稀少な触媒、あるいは術者が存在する座標の空間リソースなるものを消費することになる。
この空間リソースという奴が、数値として見ることのできない実に厄介な代物なのだ。基本的には、ソルスつまり太陽光か、テラリアつまり地力によって供給される。地面に接し陽光溢れる場所ならばリソースも豊富であり、術式の連続詠唱にもじゅうぶん耐えるが、逆に石造りの建物の窓が無い部屋などではすぐに空間リソースは尽きてしまい、リチャージされるまでに長い時間が必要となる。
その原理原則に従えば――俺とアリスが現在陥っているこの状況、つまり地上はるか五百メートルの高空であり太陽は地平線に没しつつあるという条件は最悪に近い。結論を言えば、登攀に必須なハーケンを続けて生成できなくなってしまったのである。
「システム・コール! ジェネレート・メタリック・エレメント!」
少しでも残照に近づけようとまっすぐ伸ばした俺の掌で、銀色の光の粒がいくつか頼りなく漂い、ぷすんと煙を上げて消えた。
ため息をつく俺の二メートル下方で、アリスがこちらも疲れた声で言った。
「……器物生成術は、空間神聖力を大きく消費しますからね。ソルスが沈んでしまったら、一時間にひとつ作れればいいほうかも……。――もう、どれくらい登りましたか?」
「ええと……そろそろ八十五階は越したと思うけどな」
「まだまだ先は長いですね」
俺は消え行く空の紫色を未練がましく眺め、頷いた。
「ああ……どっちにしろ、完全に暗くなっちゃったら危なくて登れないしな。しかし……野営するにしても、この体勢じゃ休むどころじゃないなあ……」
幾らなんでもツルツルすぎるだろう! と内心で壁を罵り、少しでも手掛かりになるものはないかと宵闇に沈みつつある上方を睨む。と――。
「む……」
わずか一フロアぶんほども離れた場所に、何か規則的に飛び出している物体があることに俺は気付いた。先刻まで塔を舐めていたもやの塊が、いつのまにか風に吹き散らされたらしい。
「おい、あそこ……何か見えないか?」
指差しながらそう叫ぶと、足元でアリスも顔を上向けた。青い眼が細められ、首が小さく傾く。
「確かに……何かの石像でしょうか? しかし、何故こんな高さに……誰も見る者はいないのに」
「なんでもいいよ、上に腰を下ろせれば。うー、でもハーケンがあと……四本は必要かな……」
「四本……ですか」
アリスは一瞬考え込む様子だったが、すぐに再度顔を上げ、言った。
「分かりました。いざという時のために取っておくつもりでしたが……今がその時のようですね」
言葉が終わらないうちに、右手だけで体を支え、空いた左手で右腕を覆う篭手を外した。黄金に煌めく華奢な防具を凝視し、コマンドの詠唱をはじめる。
鎖を造ったときと同じ複雑な術式が高速で組み上げられ、一瞬の閃光が放たれた――と思ったときにはもう、篭手は四本のハーケンに姿を変えていた。
「これを使ってください」
二メートル上にいる俺に向かって、精一杯伸ばされた左手に握られた貴重な道具を、俺は足場の上で腰を落とし慎重に受け取った。
「ありがとう、助かる」
「どうしてもと言うなら、まだ鎧もありますが……」
俺はアリスの上半身を覆う優美なブレストプレートを一瞥し、首を振った。
「いや……それは、それこそ最後まで取っておこう。今となっては、最後のオブジェクト・リソースだからな」
立ち上がり、ハーケンのうち三本を懐に入れて一本を右手に固く握る。
「よっ……」
掛け声とともに撃ち込んだ黄金の杭は、さすがに生成したものとは段違いの強靭さでしっかりと隙間に突き立った。いいかげん慣れた懸垂でその上に登り、命綱でアリスを引っ張り上げる。
更に同じプロセスをもう一度繰り返すと、頭上に並ぶ謎のオブジェが、薄闇のなかにもかなりはっきりと見て取れた。
やはり石像だ。塔の壁を取り巻くように、幅一メートルほどの狭いテラスが左右に延びており、そこに三メートルほどの等間隔でかなり大きな像が並んでいるのだ。
しかしそれは、これまで塔の内部で散々見たような、厳かな神や天使の像ではなかった。
人間型ではある。しかし、膝を曲げ、腕を突いて蹲ったその姿勢は神々しさとは無縁のものだ。全身にはごつごつと無骨な筋肉が盛り上がり、背中からはナイフのように鋭い風切羽を持つ翼が伸びている。
そして、その頭部は――異形、と言うしかない代物だった。湾曲しながら長く前方に突き出した先端に、横一列、四つの黒光りする玉で出来た眼が嵌め込まれている。口らしきものは見当たらず、頭だけ見ればまるである種のヒルのようだ。
「うえ……なんか、嫌な感じだな……」
と俺が口走るのと、
「え……!? あ、あれは……ダークテリトリーの……」
とアリスが息を飲むのと――。
もっとも近い場所に蹲る石像の、四つの眼のうち右端のやつが、ぐりぐりんと動いて底無し穴のような瞳孔でこちらを視たのはほぼ同時だった。
例えばここが市販のスタンドアローンRPGの中ならば、当然襲われる場面であろう。
しかしその場合は、イベントを書いたシナリオライターは度を越した加虐趣味か、ただの素人のどっちかだ。なぜならプレイヤーたる俺たちは、虚空の絶壁に張り付けられて一歩たりとも動けないのだ。
敗北固定イベント――などというろくでもない言葉が脳裡を過ぎり、俺は舌打ちして一連の思考を遮断した。もしここから落下しても、何者かが颯爽と助けてくれるなどということは一切期待できない。現状取り得る何らかの手段で、危機を回避するしかないのである。
その間にも、有翼の石像は、眼球に続いて長い首までをも細かく震わせるように動かしはじめていた。同時に、壁石と似た灰白色だった全身が、末端部からぬめりのある濃色に変化していく。
複眼にくすんだ赤い光が宿り、ばさっ! と大きな音を立てて黒い翼が広げられるに及んで、俺は腹をくくって剣の柄に手をかけながら、下のアリスに呼びかけた。
「このまま戦うしかなさそうだ、落っこちないのを最優先でいこう!」
しかし騎士様は、宵闇のなかに白く浮き上がる顔をかたく強張らせ、唇をわななかせるのみだった。まさか、どうしてこんなことが――という呟きが、かすかに俺の耳に届いた。
教会の全てを識るはずの整合騎士が、なぜ今更それほどのショックを受けているのか、少々不思議ではあった。伝聞のみでしか知らないが、最高権力者アドミニストレータはどうやら偏執的なまでに用心深い性格だ。飛行不可能な塔の外部を、強引によじ登って侵入してくる輩を退けるためにガーディアンを配置しておくくらいのことはあってもおかしくない。
そのガーディアン――RPGの伝統に倣ってガーゴイルと呼ぶべきか、そいつは十秒足らずで石像から生物へと変身を遂げ、鉤爪のある両腕でテラスの縁を握ると、ミミズ様の頭部の下側に隠れていた円形の口からブシュッ! と空気を吐き出した。俺たちの真上で真っ先に動き始めた一匹に続いて、左右のガーゴイルも体色を変えつつあるのに気付いてさすがにぞっとする。もしあいつらが塔の外壁沿いにびっしり配置されているなら、総数は百匹を超えてもおかしくない。
「くそっ」
毒づきながら体の向きを反転させ、壁に背中を預けて剣を抜いたが、それだけで大きく体がぐらついた。何せ足場は細い鉄棒一本だ。こんな状況で戦闘を行ったことは、初代SAO以来一度たりともない。
どうするか――と考えるいとまもなく、頭上からバサバサッと羽ばたく音が聞こえた。見上げると、濃紺の空を背景に飛び立ったガーゴイルが、薄赤く発光する四ツ眼で俺をねめつけたところだった。
予想以上に大きい。頭からつま先までで二メートル近いだろう。更に、体と同じくらいの長さの尻尾がくねりながら伸びている。
「ブシャアッ!!」
バルブから蒸気が抜けるような叫び声を放ち、反転急降下してきたガーゴイルを、俺は懸命に凝視した。幸い遠隔攻撃能力は持たないようなので、襲ってくるとすれば鉤爪の生えた四肢のどれかだろう。右か左か、上か下か――。
「――うおわ!!」
鞭のように唸りを上げて飛んできたのは、先端が鋭く尖った尻尾だった。完全に虚を衝かれ、俺は悲鳴とともに首を捻った。尻尾の先には、まるで短剣のような硬質の棘が生えており、その先端が俺の左頬を浅く切り裂き、後ろの壁を抉った。
直後バランスが崩れ、ぐらっと体が傾く。
必死に踏みとどまろうとする俺を狙って、目の前でホバリングを続けるガーゴイルの尻尾が立て続けに突き込まれてくる。
左手で壁を掴み、右手の剣で尻尾を防ごうとするが、盾のように掲げるのが精一杯だ。とても剣を振り回す余裕はない。
「ぬ……このっ……調子のんなっ」
もう出し惜しみをしている場合ではないと判断し、俺は一瞬左手を壁から離すと、懐に残るハーケンの片方を掴み出した。ガーゴイルの体の中心を狙い、手首のスナップだけで投擲する。
薄闇に黄金の閃光を引き、ハーケンはガーゴイルの下腹に突き刺さった。
「ブシイッ!」
丸い口からどす黒い血の飛沫をわずかに噴出し、ガーゴイルは身を翻して高度を取った。アリスの篭手から生成したハーケンの高優先度ゆえに、不十分な投射速度でもそこそこのダメージは通ったようだが、やはり撃退するには足りない。瞼のない昆虫のような瞳に、一層赤々とした光を漲らせて俺を睨んでいる。
そんな時ではないと分かってはいても、俺はつい考えてしまう。――あの異形の怪物を動かしているのは、機械的なプログラムなのだろうか? それとも、アンダーワールド人と同じ真正のフラクトライトなのか。
「ブシュウウウーッ!!」
新たに響き渡った雄叫びが、俺の想念を吹き散らした。更に二体のガーゴイルがテラスから飛び立ち、こちらの隙をうかがうようにぐるぐると円を描いている。
「――アリス! 剣を抜け、そっちにも行くぞ!」
俺は叫んで足元を覗き込んだが、整合騎士はまだ原因不明の動揺から立ち直っていないようだった。このまま襲われたら、尻尾で串刺しになるか足場から落っこちるのは必至だ。
どうする――ガーゴイルが様子を見ているあいだに、無理矢理テラスまで登るべきか。しかし、残る壁石の隙間は二段、懐のハーケンは一本。怒り心頭のガーゴイルに、刺さってるそれを返してくれと言っても恐らく無駄だろう。
奇怪な噴出音でこちらを威嚇していた三匹の異形たちは、やがて攻撃を再開する気になったらしく、一際甲高い叫び声を放った。
いざとなったら――命綱を外して、やつらの一匹に飛びつくしかない。
そう考え、俺は腰に繋がる鎖を左手で探った。
そして、はっと目を見開いた。鎖の長さは約五メートル。手を一杯に伸ばせば、テラスまでは四メートルだ。
「アリス……アリス!!」
俺は剣を鞘に収めながら、出せる限りの大声で叫んだ。
アリスの体がぴくりと震え、青い瞳がようやくこちらを見た。
「いいか……着いたら、しっかり掴まれよ!!」
一体何を、と訝しそうに眉を寄せるアリスに繋がる鎖を、俺は両手でしっかりと握った。
ぐいっと引っ張ると、アリスの体が足場から浮く。
「ちょっと……お前、まさか……」
「巧く行ったら後でいくらでも謝る!!」
大きく息を吸い込み、全身の力を振り絞って――俺は鎖にぶら下がる騎士様を、思い切り上空へと放り投げた。
「きゃあああああああ!!」
初めて聞く盛大な悲鳴を撒き散らしながら、アリスは今まさに襲い掛かってこようとしていたガーゴイル達の目の前を通過し、狙い違わず四メートル上のテラスへと着地――より表現に正確を期すならば着弾した。ドカーンという大音響に重なった悲鳴の終わり際が、高貴な女性騎士様には相応しくない、ぐえ、あるいはむぎゅ、という音だったのは聞かなかったことにしておこう。
無茶な投擲による当然の反作用として、俺の体は足場から振り子のように吹っ飛ばされた。アリスが踏ん張り損ねれば、俺たちは二人揃ってはるか地面までダイビングだ。
一瞬ひやりと肝が冷えたが、さすがに最強騎士は俺の期待に応え、土ぼこりの中からがばっと立ち上がると両手で鎖を握った。
「こ……のおおおおお!!」
怒りに満ちたアリスの叫びとともに、今度は俺が同じように放り上げられる。
壁に背中から衝突したときは息が詰まったが、直後這いつくばったテラスの頼もしい平面は、何にも優る感触を俺に与えた。このまま永遠に寝転がっていたかったが、アリスにがつっと脇腹を蹴り飛ばされ、やむなく体を起こす。
「な……何を考えているのですかこの大馬鹿者!!」
「そっちがボーっとしてるのが悪いんだろ……そんなことより、来るぞ!」
俺は再度抜刀し、急上昇してくる三匹のガーゴイル達に切っ先を向けた。
本格的な戦闘に突入する前のわずかな猶予時間に、周囲の地形を確かめるべく、ちらりと視線を走らせる。
サーカスめいた離れ技で登攀に成功したテラスは、目測どおり幅一メートルといったところだった。装飾の類いは一切なく、ただ四角い板状の石が、塔の外壁から棚のように垂直に張り出しているに過ぎない。いや、実際に棚以上でも以下でもないのだろう、ガーゴイルを並べておくための実用品なのだ。
このテラスの存在をアリスが知らなかったことから少々期待したが、背後の外壁に、戸口や窓のような開口部は一切見受けられなかった。のっぺりとした壁石を背負って異形の彫像たちがはるか遠くのコーナーまでずらりと行列しているのみである。改めて確認すると空恐ろしいほどの数だ。幸い、今のところ動き出したのは、俺たち目掛けて舞い上がってくる三匹だけのようではあるが。
しっかりとした足場を得てようやく人心地がついたのか、アリスも黄金の長剣をしゃらんと鞘走らせた。しかし、まだ胸中の疑問は解消しないらしく、掠れた呟き声が俺の耳に届いた。
「……間違いない……なぜ……どういうことなの……」
テラスと同じ高さにまで昇ってきたガーゴイルたちは、構えられた二本の剣を警戒してか、すぐには飛び掛ってこようとはしなかった。俺は連中の挙動に注視しながら、アリスに疑義を質した。
「さっきから何に引っかかってるんだ。あの怪物のこと、知ってるのか?」
「……ええ、知っています」
即座に肯定の呟きが返ってくる。
「あれは、ダークテリトリーの暗黒術士たちが使役する魔物です。彼らに倣って、私達はあれを”ドローン”と呼んでいます」
「ドローン……ダークテリトリー産なのは、見た目からすれば納得だけど……なぜそんなモンが、世界で最も神聖な場所たるセントラル・カセドラルの壁にごっそり張り付いてるんだ?」
「私が知りたい!」
絞り出すような小声で叫び、アリスは唇を噛んだ。
「お前に言われるまでもなく、あってはならぬことです……守護騎士の眼を掻い潜って果ての山脈を越え、遥か央都の、しかも教会の中枢にまで侵入してきた……などとは到底考えられないし、ましてや……ましてや」
「ましてや、教会内部で高位の権力を持つ何者かによって意図的に配置されていたのだ……なんてことは有り得ない、か?」
途端、アリスはきっと俺を睨みつけたが、反駁しようとはしなかった。これ以上何か言ってまた口喧嘩スパイラルに入ってしまうのも困るので、俺は問題を棚上げするべく極力真剣な顔を作って言った。
「ま、議論は奴らを撃退してからにしよう。――その前にもう一つだけ訊くけど……あのガー、じゃないドローンは、知性はあるのか? 言葉を喋ったりするのか?」
「それこそまさかです。ドローンはゴブリンやオークのような生物ではない、闇神を奉じる邪僧どもが土塊から作り出す粗悪な使い魔……主の初歩的な命令をいくつか解するだけです」
「……そうか」
アリスに悟られぬように、少しばかり胸を撫で下ろす。問題を先送りしているに過ぎないことは重々承知しているが、やはり人間と同質のフラクトライトを己の手で破壊するのは躊躇われる。
カーディナルは、この世界の”人間”はシステム的に契りを結んだ男女からのみ生まれてくると言った。ダークテリトリーの住人とてそれは例外ではあるまい。とすれば、神聖術によって生成されるドローンは人工フラクトライトではなく、森の動物たちと同じプログラムコードだということになる。
そのつもりで見ると、ドローンたちの複眼から放射される敵意には、SAO時代に散々戦ったモンスターたちと共通する無機質さがはっきりと感じられた。コマンドが”様子を見る”から”攻撃”に切り替わったのか、三匹同時に翼を強く羽ばたかせ、ぐっと高度を取る。
「――来るぞ!」
一声叫び、俺は剣を構えなおした。先ほど稼いだヘイト値のせいか、真っ先に飛び掛ってきたのは腹にハーケンを生やした一匹だった。
今度は尻尾ではなく、長い両腕の鉤爪が連続して襲ってくる。決して速いとは言えない攻撃だが、久々の――実に二年以上ぶりの――対モンスター戦とあって、間合いが取りづらい。剣で鉤爪を弾くことに専念しながら敵の隙をうかがっていると、無傷の二匹が左隣のアリスに向かって急降下してくるのが視界の端にちらりと見えた。
「気をつけろ、二匹行った!」
女性騎士の身を純粋に気遣ってそう警告したのに、返ってきた声はとことん冷淡だった。
「お前、私を何だと思っているのです」
すっと腰を落とし、剣を腰溜めに構える。
ドッ、という凄まじく重い斬撃音とともに、宵闇の中にあっても眩しいほどに煌びやかな黄金の光が宙を薙いだ。
フェイントも繋ぎ技もない、単なる左の中段斬りだ。しかし、横目で眺めただけで冷や汗が吹き出すほどに速く、重い。八十階での戦闘で俺を苦もなく追い詰めたのは、回避も受け流しも断固として許さないこの一撃の完成度なのだ。まったく、長年のVRMMO経験で凝り固まった俺の連続技至上主義をあっさり粉砕しかねない威力である。
剣を右に振り切った姿勢でぴたりと動きを止めたアリスの直前で、今まさに突き立てられんとしていた二匹のドローンの腕四本がぼとぼとっと落下した。続いて、どう見ても間合いの外としか思えないドローンたちの胴体までもが、胸のあたりからずるっと左右にずれる。
悲鳴を上げる余裕もなく、分断されながら墜落していく二匹の怪物の傷口から、今更のようにどす黒い血液がばしゃっと噴出した。無論、一滴たりともアリスには触れていない。
涼しい顔で体を起こした整合騎士は、いまだに防戦一方の俺をちらりと見て、そこはかとなく嫌味のこもった麗しい声音で言った。
「手伝う必要がありますか?」
「……い、いや結構」
せめてもの意地で申し出を丁重に拒絶すると、俺はようやくパターンを看破したドローンの両手両脚プラス尻尾の連続攻撃をいなした。距離を取り直そうとする敵に向かって、体に染み付いた四連続ソードスキルを放つ。
無論この世界には、SAOに存在したような攻撃アシスト機能はないが、こと戦闘に関しては体の動きをどれだけ強固に、明確にイメージできるかが動きの速さと正確さを決める。そういう意味では、やはりかつて散々繰り返したソードスキルの動作は有効に機能するのだ。ほとんど考えることもなく右手の剣が閃き、左右の水平斬りと、右上への斬り払い、そして直突きを一呼吸で繰り出す。
アリスに対抗したわけではないが、俺が相手をしたドローンも左右の腕とオマケに尻尾を斬り飛ばされ、最後に胸の中央を貫かれて絶息した。こちらは数滴頬に浴びてしまった返り血を拭いながら、墜落していく異形の姿が雲に没するのを見届ける。
「……ほう」
まるで、教え子が意外に頑張るのを見たコーチのような声音でアリスが短く呟いた。 黒い剣を左右に切り払って鞘に収めながら、俺は横目で騎士を見た。
「……何だよ、ほうって」
「いえ、奇妙な剣を使う、と思っただけです。夏至祭の見世物小屋で披露すれば客を呼べますよ」
「……そりゃ、どーも」
まったくいちいち皮肉の効いた騎士様も居たものである。何と言い返してやるべきかあれこれ考えていると、俺の頬に視線を止めたアリスが、厭わしそうに眉をひそめた。
「ドローンの血は病を呼びます。きちんと落としておきなさい」
「ん? ああ……」
言われてみれば芳しからぬ匂いのする返り血を、俺は上着の袖で擦ろうとした。途端、こら! と怒られる。
誰かにこらなどと言われたのは果たして何年ぶりかと唖然とする俺を、アリスは苛立たしくてたまらぬという目で睨み、罵った。
「ああもう、男というのはどうしてこう……。手巾の一枚も持っていないのですか」
「も、持ってません」
「……もういいです、これを使いなさい」
実はポケットがあったらしい白のロングスカートから、同じく純白のハンカチを取り出し、心底嫌そうな顔でアリスはそれを差し出した。どうせ小学生扱いされたことでもあるし、ここで騎士様のスカートを摘み上げてそれで頬っぺたを拭いたらどうなるかなあーと俺は考えたが、普通に殺されるという結論に至ったので止めた。
細かいレースの縁取りがされた染みひとつないハンカチをありがたく拝借し、憚りながら頬をぬぐうと、恐らく汚れ落としの術式が掛けられているのだろうそれはまるで吸い取るように半ば乾いたドローンの血を綺麗さっぱり落としてくれた。
「どうもありがとう」
先生、と言いたくなるのを我慢しながらハンカチを返そうとすると、先生はふんっと顔を逸らせて一言――。
「私に斬られる前に洗って返しなさい」
まさに前途多難である。いったいこの騎士様を、どのように説得すれば戦闘を回避しつつユージオと合流できるものだろうか。
今ごろ、塔の内部を登っているであろう相棒の姿を想起しながら、俺は壁の穴から吸い出されたのがユージオだったらこんな苦労はしていないだろうと心底慨嘆した。
視線を巡らせると、空の残照はついに消え去り、幾つかの星が瞬きはじめていた。苦労してガーディアンを撃退したものの、月が昇りわずかなりとも空間リソースの供給が行われるまでは登攀を再開できないだろう。
左右数メートル先からずらりと並ぶ石化状態のドローンたちは、どうやら正面の索敵範囲にさえ入らなければ動き出すことはないようだった。つまり、少なくとも五、六時間はこのテラスの現位置でじっと待機せざるを得ないわけだ。
平面に腰を降ろして休めるのは大歓迎だが、その間アリスの機嫌を損ねずにおくのは大いなる難関と思えた。俺はため息を飲み込みながら、腕を組みそっぽを向いたままの整合騎士にどう声を掛けようかと考えた。
孤独というものの味を、長いこと忘れていたな。
長い階段をとぼとぼと登りながら、ユージオは胸のうちでそうひとりごちた。
アリスと引き離された十一の夏から、ユージオは目と耳を閉ざし、ひたすら黒い巨木だけを相手にして生きてきた。家族を含む村の誰もが、整合騎士による村長の娘の連行という一大事件を、まるでそれ自体ひとつの禁忌ででもあるかのように一切話題にしようとしなかったし、アリスのいちばんの友達でもあり問題の事件にも関わったユージオのことすら避けるようになったからだ。
しかしそれと同じくらい、ユージオも人を、そしてあの出来事の記憶を遠ざけ続けた。己の弱さ、怯懦を認めることに耐えられず、諦めという名の沼に深く潜ることで過去と未来から目を背けようとした。
ユージオにとって孤独とは、常に諦念の甘苦さに塗れている。自分は一人では何もできない人間なのだ――あの事件よりずっと以前、アリスと二人野山を遊び場にしていた幼い頃から。親や兄たち、村の大人の言いつけに一切逆らわず、他人の顔色だけを窺って生きてきたのだと、煮詰めすぎたママレードのように口中にまとわりついて再確認を迫る味。
しかし十八の春、荷物ひとつ持たずにふらりと森に現れたあいつが、ユージオを泥濘から力ずくで引っ張り出した。共にゴブリンの集団を斬り伏せ、ギガスシダーを打ち倒し、ユージオにもう一度自信と目的を与えてくれた。
ルーリッドの村を飛び出し、ザッカリアの町を経ての央都までの長い旅路、修剣学院での修練の日々のあいだも、常に傍らにはキリトがいた。予定とは少々異なる経緯だったが、最終目標たる神聖教会にとうとう入り込み、幾多の障害を退けて塔最上階の直下にまで迫れたのは、間違いなくあの黒髪の風来坊のお陰だ。
だがこうして、目的地まであと一歩のところで相棒の姿を見失うと、その途端に喉の奥からあの味が込み上げてくる。これまでいかに強くキリトに依存してきたのか――ほんとうは、自分は森で倒せぬ樹を叩いていた頃からなにひとつ変わっていないのではと思えてくるほどだ。
キリトとアリスが、突如崩壊した塔の壁から外に放り出された直後、ユージオは極度の恐慌に襲われて闇雲にもういちど壁を壊そうとした。しかし、いくら拳で殴り、剣を叩きつけようとも、一度修復された壁はもうびくともしなかった。
考えてみれば、あの瞬間に目の当たりにした現象からして、塔の外壁には永続性の自己修復術が施されているに違いないのだ。言葉にすれば簡単だが、本来、術者と対象の接触が原則となる神聖術に、術者と離れても永続する術式など存在し得ない。つまりあの自己修復は、この塔全体をある種の完全支配状態に置いている、とでも言うべき超絶的な術式が導いたものなのだ。
そのような壁相手では、たとえ無理矢理に一センでも石をずらせたとしても、すぐに押し戻されてしまうのは明らかだ。あれは、二人の剣の記憶解放技が複合し、瞬間的に膨大な攻撃力が発生したゆえの異常事態だったのだろう。
それほどの技と力を持った彼らが――ことにキリトが、虚空に放り出された程度のことで死ぬはずはない。状況への即応力だけを取れば、彼が整合騎士をすらも大きく上回るのは、これまでの戦闘を見ても明らかなのだから。
キリトはきっと、アリスをも落下から救いだして塔の外壁を登っているに違いない。そう信じて、ユージオは単身、”雲上庭園”の南側の大扉から出て再び大階段を登り始めたのだった。独りになった途端、心細さや無力感が背中に這い登ってくるのを懸命に振り払いながら。
どのような襲撃があるか予想できなかったので、走るのはやめて慎重に進むことにしたが、八十一階、八十二階と過ぎても、塔内には人の気配はまったく感じられなかった。騎士たちの話によれば、教会にはまだ高位の司祭たちと少なくとも一人の整合騎士――”団長”と呼ばれる人物――、そして最高司祭アドミニストレータが居るはずだ。行政を天職とする司祭たちが直接戦闘を仕掛けてくるとは考え難いが、いずれ高位の術者であろう彼らが神聖術を用いた罠を張っている可能性はあるし、何より整合騎士を束ねるという”団長”がユージオを素通りさせてくれるはずはない。
ゆえに限界まで感覚を張り詰めさせ、剣の柄に手を沿えて一歩一歩階段を登っているのだが、どうしても余計な思考が入り込んでくるのを防ぐことができない。
キリト――ぶっきらぼうで目つきの剣呑な彼が、あれほど攻撃に呵責のなかった騎士アリスを説得なり休戦なりできただろうか。塔の壁にぶら下がったまま、尚も戦闘を続けるという想像のほうがよほどしっくりくる。
しかし、キリトのあのつっけんどんさと斜に構えた態度が、何故か人の胸襟を開かせるのもまた事実なのだった。これまでの旅で出会った多くの人々が、いつの間にかキリトに魅せられ、笑顔を向けるようになるのをユージオは何度も目の当たりにしている。そう、勿論、ユージオ自身もそこには含まれる。
彼の不思議な魅力は、整合騎士としての使命感の塊のようだったアリスにも通用するのだろうか。
そう考えた途端、ユージオはいわく言い難い感情の流れを自覚し、思わず唇を噛んだ。
数時間前――炎の弓を操る整合騎士デュソルバートに剣先を突きつけたときに襲われた葛藤が、焦げ臭い残り香のように甦ってくる。あの時、止めを刺そうとしたユージオを制したキリトに、ほんの一瞬とは言え、ユージオは激烈な嫉妬を感じた。君なら、連れ去られるアリスを黙って見ているなんてことはしなかったろう、という巨大な劣等感。
あらゆる枷から自由であるように思えるキリトなら、今のアリスの心さえ、ほんとうに溶かしてしまうかもしれない。
嫌だ、これ以上考えたくない。
思考を更に続ければ、自分がどうしようもなく醜くなってしまうような気がして、ユージオは激しく頭を振り、右手でごしごしと顔を拭った。ユージオの存在証明の全てと言ってよいアリスの奪還という目的を知るキリトが、おかしなことをする筈がない。だいたい、こんなことを考えること自体無意味なのだ。なぜなら――。
あの黄金の整合騎士は、正確には”アリスの体”でしかないのだから。
ユージオの愛するルーリッドのアリス・ツーベルク、その核心とでも言うべき”記憶のピース”は塔最上階のアドミニストレータの居室に保管されている。それを奪還し、アリスの体に戻せば、今の整合騎士アリスは、そうであった間の記憶ともども消滅する。
目を醒ました本物のアリスを、この腕に強く抱くのだ。そのとき初めて、全てがあるべき形に戻る。明日には――ことによると今夜中に、その瞬間が来る。だから今は、雑念を振り捨て、前に進まなければ。
大階段の両脇に細く開いた窓から見える空は、たちまちのうちに光を薄れさせ、濃紺から黒へとその色を変えた。
央都じゅうの礼拝堂からかすかに届く鐘の音が夜七時を告げると同時に、ユージオの眼前からついに続くべき階段が途絶えた。
階がひとつ過ぎるたびに折った指の数は十本。つまり次が九十階だ。いよいよ、神聖教会の核心部に足を踏み入れたのだ。
ホールから折り返して伸びる階段は無く、北側の壁に大扉がひとつあるのみだった。これまでの塔内の構造から類推するに、この先は五十階や八十階と同じくぶち抜きの大空間となっているに違いない。
そして恐らく、これまで以上に強力な敵が待ち構えている。
勝てるのか? 僕が?
じっとりと湿ってくる掌を、ユージオはズボンで擦りながら自問した。キリトを半死半生にまで追い込んだファナティオや、傷ひとつつけさせなかったアリス以上の剛の者と、どのように戦えばいいというのか。
しかし考えてみれば、これまでの戦いにおいて常に敵の剣に身を晒しつづけたのはキリトだった。ユージオはその背中に隠れ、決めの大技を放ってきただけだ。完全支配術の性格上それが当然の作戦だ、とキリトは言ったが、彼がいない以上今度こそユージオが最初から最後まで戦うしかない。それが出来なければ、キリトと対等の場所に立つことはもうできない。
腰の愛剣をそっと撫で、ユージオは強く奥歯を噛み締めた。氷薔薇の術はおそらくあと一回ならば使えるだろうが、闇雲に放っても奏効する可能性は低い。まずは純粋な剣技で敵を圧倒しなくてはならない。
「……行くぞ」
小さく呟いて、ユージオは右手を掲げ、扉を強く押し開いた。
途端――押し寄せてきたのは、眩い白光と、厚い煙、連続的に響く低音だった。
もう敵の術が発動しているのか!?
そう考え、口と鼻を覆って飛びのこうとしたユージオは、その直前にそれが煙ではなく濃い蒸気であることに気付いた。湿った熱気が全身を包み、たちまち肌を水滴が伝い落ちる。
予想どおり、扉の内部は一階ぶんをそのまま使った大部屋だった。天井もずいぶんと高い。恐らく、”霊光の大回廊”や”空中庭園”といった類いの名前がついているのだろうが、今は知るすべはない。
まず目に入ったのは、広大な床面を覆う真っ白い湯気と、その向こうに煌めく水面だった。
湯だ。すさまじい量のお湯が、階段状に窪んだ床全面になみなみと湛えられている。どどどどと低く響く音の源は、左右の壁に幾つも設けられた、様々な幻獣の頭部を象った彫像の口から流れ落ち水面を叩く湯の滝だった。
湯気を透かしてよくよく見れば、ユージオの立つ扉前から、幅五メルほどもある大理石の橋が奥へと続いている。広間の中央で橋は十字に分岐しているので、湯の池は四つに分かれていることになる。
一体これは何だ……?
予想外の光景に、ユージオは目を丸くしながら呆然と考えた。このような高温の湯の中で生きられる魚などいないし、観賞用の庭園にしては湿気が不快すぎる。つまりこれは――。
超巨大な、風呂なのだ。
「……なんてこった」
思わず嘆息する。ルーリッドの村では、風呂と言えばタライに毛の生えたような桶と相場が決まっていたし、ゆえに学院の寮の大風呂を見たときは、こんな大量の湯をどうやって沸かすのかと目を見張った。
しかしこれは桁外れだ。学院の修剣士全員が一度に入浴してもまだ余りそうだ。今は人影は見えないが、同時に何人が入浴するにしても贅沢の極みというものだ。
これも整合騎士や司祭たちの特権のひとつかとあきれ返りながら、ユージオは肩の力を抜き、大理石の橋を進み始めた。いくらなんでも風呂場で待ち伏せはあるまい。
と、不覚にも思い込んだため、気付くのが随分と遅れた。
浴場の中央、橋の十字部分に近づいたとき、ユージオはようやく北東の一角、一際濃い湯気をもうもうと上げる水面に、大の字に手足を広げた人影があるのを見て取った。
「!?」
瞬間的に飛び退り、剣に手を掛ける。
水蒸気に阻まれてよく見えないが、随分と大柄なようだ。敵か……? 入浴中だけあって裸のようだが、剣は近くにあるのか?
そう考えたとき、低く錆びているがよく通る声が水面に響いた。
「妙齢の美女でなくって悪ぃな。すぐに上がるからちっと待っててくれ。なんせ、さっき央都に着いたばっかりなもんでよ」
これまで塔内で遭遇した人間の誰よりもぞんざいな言葉遣いに、瞬間唖然とする。騎士というよりもむしろ、故郷の村の農夫たちを思い起こさせる飾り気の無さだ。
ユージオがどう対応したものか決めかねているうちに、ざぶりという水音が立ち、巨大な浴槽を覆っていた湯気に切れ間ができた。
全身から滝のように水滴を落としながら、巨躯の男がこちらに背を向けて身を起こしたところだった。両手を腰に当てて首をぐるぐる回し、ううーんなどと緊張感のない唸り声を上げている。
しかし、男の後姿を見たとたん、逆にユージオは鋭く息を飲んでいた。
何という重厚さだろうか。膝から下は湯の中だが、それでも男の身長が二メル近いのは明らかだ。青みを帯びた鈍色の髪は短く刈り込まれ、首筋の尋常ではない太さが一目瞭然となっている。そして、そこから繋がる肩がまた異様に広い。丸太のような上腕は、いかなる大剣ですら容易く振るだろう。
何より目を引くのは、幾重にもうねる筋肉に鎧われた背中だった。ユージオが知る限り最も分厚い背中を持っていたのは、学院で傍付きを務めたゴルゴロッソだが、湯船の男は彼をも明らかに凌駕する。腰周りにはたるみ一つなく、大腿がまた樽のように太い。
湯の滴に照り映える、あまりに完璧な筋肉の連なりに目を奪われていたため、ユージオは男の全身がほぼ隈なく古傷に覆われていることにすぐには気付かなかった。改めて注視すると、それら全てが矢傷、刀傷であることがすぐにわかる。
恐らく、この男が騎士長と呼ばれる人物なのだろう。つまり全整合騎士中最強の剣士、ひいては教会を敵に回したこの戦いにおける最大の障壁なのだ。
となれば、ユージオが選択し得る最善の行動は、男が剣も防具も持たぬ今のうちに一気呵成に斬りかかることだったが、しかしユージオは動けなかった。
男の背中が、隙だらけなのか、それとも万全の備えが行き渡っているのか判断できないのだ。むしろ誘っているのかとすら思えてくる。
そんなユージオの逡巡を一切気にとめる様子もなく、男は湯の中をざぶざぶと歩きはじめた。湯船の北がわに、衣類を入れてあるらしい篭の乗ったワゴンが見える。
階段状にせり上がっている縁を大またに登り、大理石を敷いた床に立つと、篭からひょいと下穿きを取り上げて脚を通した。次にやたらと大きな衣をばさっと広げ、背中に羽織る。どうやら東域風の綿織物のようで、前で合わせた布を腰下に巻いた幅広の帯で留めてから、男はようやくユージオに顔を向けた。
「おう、待たせたな」
深みのある錆び声のよく似合う、剛毅としか言いようのない風貌だ。
思ったよりも齢が行っている。口許と額に刻まれた鋭い皺は、男が整合騎士となった時点で四十を越していたことを示しているが、高い鼻梁と削げた頬には肉の緩みはまったくない。しかし男の印象を決めているのは、深い眼窩から放たれる強烈な目の光だ。
淡い水色の瞳には、殺気らしい殺気はまったく無いのに何故か気圧されるものがあった。これから斬り結ぶであろう相手に対する、敵意抜きの純粋な興味と、戦闘そのものへの歓び、だろうか。そのような目ができるのは、自分の剣技に圧倒的なまでの自信を持っているからだ。つまりこの男は――どこか、キリトに似ている。
着替えの篭が乗った銀のワゴンから、長大な剣を取り上げ、男は素足でぺたぺたと大理石を踏んで歩きはじめた。浴槽の角を回りこみ、ユージオが立つ中央通路の北端へと移動する。二十メルほど先で立ち止まり、鞘の先端で敷石を突くと、さてと、とまばらに髭の生えた逞しい顎を撫でた。
「お前さんとやりあう前に、一つ聞いておかなきゃならねえ」
「……何ですか」
「なんだ、その……な。副騎士長は……ファナティオは、死んだのか?」
夕食のメニューを訊くような素っ気無い口調に、あんたの一番の部下のことじゃないのか、とユージオは反発をおぼえた。しかしすぐに、視線を横に逸らせた男の表情に、不器用な取り繕いがあるのに気付く。本心では気になって仕方がないのに、それを見透かされるのが嫌なのだろうか。そういう所もまた、ここにはいない相棒を思い起こさせる。
「生きてますよ。今、治療を受けている……はずです」
ユージオの答えを聞いた男は、太い息を吐き出し、ひとつ頷いた。
「そうか。なら、お前さんも殺すまではしねぇでおこう」
「な……」
再び、言葉を失う。心理作戦か、などと疑う気も起こさせないほどの強烈な自負だ。勝利への確信はそれ自体が大きな武器だ、とはキリトがよく言っていたことだが、彼ですら敵を目前にしてここまでの揺ぎ無さを示すことはできまい。おそらくは、男の砦のごとき自負心の礎となっているのは、最古の整合騎士として百年を越すであろう戦闘経験であるからだ。
しかしそれを言うなら、これまで倒してきた騎士たちだって同じことだ。整合騎士が決して絶対無敵なる存在ではないことを知っている今ならば、少なくとも胆力のせめぎ合いだけで負ける道理はない。
萎えそうになった心を奮い起こし、ありったけの戦意をかき集めて、ユージオは正面から男を睨んだ。声が揺れないように腹に力を込めて、言う。
「気に入らないな」
「ほう?」
右手を衣の懐に入れたまま、男は面白そうな声を出した。
「何がだい、少年」
「あんたの部下はファナティオさんだけじゃないでしょう。なのに、アリスの生死はどうでもいいってことですか」
「あぁ……そういうことかい」
男は顔を上向け、左手で鞘を握った大剣の柄で、側頭部をごりごりと擦った。
「何つうかな……オレはファナティオよりも強ぇ。奴さんはオレの弟子だからな……だからもしファナティオがお前さんに斬られたのなら、その片はオレがつけなきゃなんねえ。でもよ、アリスの嬢ちゃんとオレ、どっちが上かは正直わからん。本気でやったこたぁ無えし、やろうにも嬢ちゃんはオレを親父代わり扱いするしなぁ……いや、んなことはどうでもいいんだけどよ。ともかく、オレはお前さんに負ける気はこれっぽっちもしねえし、だから嬢ちゃんが斬られたとも思わん。聞いた話じゃ、お前さんには相棒がいるって言うじゃねえか? そいつがここにいないってことは、大方、今どこぞで嬢ちゃんとやりあってるんじゃねえのかい」
「……だいたいそんな所です」
釣り込まれるように素直に頷いてしまってから、ユージオはきつく剣の柄を握りなおした。どうにも男の喋りには敵意を削がれるものがあるが、緩んでいる場合ではないのだ。目に一層力を込め、挑発的な台詞を叩きつける。
「ちなみに、あんたを斬ったら次は誰が仕返しに出てくるんですか」
「ふっふ、安心しな。オレに師匠はいねえ」
にやっと笑い、男は大剣をゆったりした動作で抜いた。左手に残った鞘を、ひょいと傍らに放り投げる。
黒ずんだ刀身は艶やかに磨き込まれているものの、砥いでも消せない無数の古傷が白い灯りを受けて、獣の牙のように立て続けに光った。鍔も握りも刀身と同質の鋼でできているようだが、これまでの騎士たちが携えていた神器のような壮麗さはまったくない。
と言って、軽んじていい武器では決してないのは、遠目にも明らかだった。気の遠くなるような年月、無数の敵の血を吸い込んできた妖気のようなものが鈍色の刃にまとわりついている。
すーっと細く息を吐きながら、ユージオも左腰の愛剣を鞘走らせた。完全支配状態ではないが、主の緊張に反応しているのか、薄蒼い刀身からはわずかに冷気が放出されて周囲の濃密な蒸気をきらきら輝く氷の粒へと変えていく。
整合騎士は、その巨躯に見合った豪壮な動作で、右手の剣をほとんど垂直に、左手をまっすぐ前に、腰をどっしりと落として構えた。たしか『天衝崩月』という名の、古流のなかでも相当に旧い、一撃必殺ではあるが外したときの変化などまったく考えない型だ。
ユージオはそれを見て、二連撃技『リバースホイール』の体勢を取った。一撃目で敵の大技を受け流し、その勢いを利用して二撃目が下からの逆回転で襲い掛かる反撃系の技である。キリトがアリスと戦ったときのように、敵の超重攻撃を正面から受け止めれば恐らく後方に弾かれてしまうだろうが、最初からごく僅かに軌道を逸らせることだけを狙えば、敵は即応できないはずだ。
全身の力みを抜き、剣を中段引き気味に構えたユージオを見て、男の眉間に新たな縦皺が刻まれた。
「見慣れねえ構えだな。少年……お前ぇ、もしや連続剣の使い手かよ」
「…………!」
読まれた――!?
男は、自分がファナティオの師だと言った。ならば、あの女性騎士が密かに磨いていた我流の連続剣技のことも知っていておかしくないということなのか。いや、たとえユージオが連続技で来ることを看破しても、技の中身までは見切れないはずだ。アインクラッド流剣術を知るのは、この世でキリトとユージオの二人だけなのだから。
「……だったら、何だっていうんです」
低い声で返すと、男はふん、と鼻を鳴らした。
「いや何、暗黒騎士にもたまにそいつを使う奴がいるんだがよ、あんまりいい思い出はねぇんだよな……。何せこちとら、ちょこまか器用な技はさっぱり知らねえもんでよ」
「だから、こっちも古臭い見せ技で付き合えと?」
「いやいや、好きなだけ使ってくれて構わんよ。そのかわり、こっちもハナっから奥の手を出させてもらうぜ」
片方の犬歯をむき出してにやりと笑い、男は高く構えた剣をさらにぐぐっと引き絞った。
直後、ユージオは大きく目を見開いた。使い込まれた男の大剣が、突如陽炎のように揺れたのだ。周囲を流れる濃い蒸気のせいかと思ったが、どんなに目を凝らしても、刀身それ自体が揺らいでいるようにしか見えない。
しまった、あの剣はすでに記憶解放中だったのか、とユージオはきつく奥歯を噛んだ。
武装完全支配術を、術式詠唱から発動までどれくらいの時間保留しておけるかは、術の性質が大きく影響する。キリトの黒い剣が召還する巨大樹のように、詠唱そのものが発動の鍵となっている術ではそもそも保留は不可能だし、ユージオの氷薔薇の術のように剣を床に突き立てる等の動作が鍵となっていれば数分間は待機させておけるだろう。
男の完全支配術がどのような物なのかはまだ分からないが、恐らく発動鍵となっているのは攻撃動作だと思われる。そしてこれほど長時間保留しておけるからには、大掛かりな召還や空間操作系ではないはずだ。エルドリエの鞭のように間合いを広げるか、あるいは斬撃の威力を増すといった補強系の能力である可能性が高い。
そうであるなら、集中していれば初見でも対応できないことはない。今から完全支配術を詠唱している余裕はないし、それ以前にこの高温の環境では氷薔薇の術も本来の力を発揮できまい。
たとえどれほどの威力を秘めていようとも、あの構えから放たれる技は馬鹿正直な右上段斬り一択だ。軌道は読めるし、その一本さえ弾ければこちらの反撃を回避する余裕は男にはあるまい。
肚を決め、ユージオはありったけの集中力を両眼に込めて男の全身を注視した。まだ彼我の距離は二十メルもある。もしあの位置から剣を振る気ならば、男の奥の手とは斬撃の間合いを伸ばす術だろう。エルドリエの変幻自在な鞭と比べれば、剣の軌道は遥かに直線的だ。回避して、一気に距離を詰めれば男の優位は消滅する。
ユージオの読みどおり、男は脚を動かすことなくぐうっと全身を撓め、攻撃体勢に入った。笑みが消えた口許から迸った太い声が、大浴場全体を震わせた。
「整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワン、参る!!」
どこかで聞いた名だ――という思考が一瞬脳裏を横切ったが、ユージオはその雑念を打ち払い、吸い込んだ息をぐっと止めた。
ずどん! と凄まじい音と震動を放ち、騎士長の剥き出しの左足が床石を踏み締めた。周囲の蒸気が、一瞬で遥か遠くにまで吹き散らされる。
恐ろしく迅いのに、しかし同時にゆったりと見える動きで男の腰、胸、肩、腕がうねった。学院で教えられた古流剣技の、究極の完成形がそこにあった。最大の威力と壮麗さを両立させた、人の子の天命を越えた年月の修練のみが実現し得る奇跡とでも言うべき斬撃。
しかしながら、その技には一つ大きな欠落がある。アインクラッド流連続剣技がひたすらに追及する、確実な命中性だ。男の剣と同質と言っていいアリスの攻撃に、キリトが次々に追い詰められたのは、自分の剣で正面から弾こうとしたからだ。
剣で受けずにギリギリの距離で回避し、ひと跳びで懐に飛び込む!
キリトの超高速剣に鍛えられたユージオの目は、騎士長の大剣の軌跡をしっかりと捉えていた。予想通り、右上段からの斬り降ろしだ。剣自体が伸びるにせよ、衝撃だけが飛んでくるにせよ、僅かな左への移動でかわせるはずだ。
稲妻のような白光を宙に描き、男の剣が振り下ろされた。
同時にユージオは右足で床を蹴った。
頬をかすめるはずの、威力の余波は――無かった。
「!?」
突進しようと前傾した体をユージオは凍りつかせた。男の剣が発生させたのは、颶風のような轟音と、一直線に蒸気を吹き払う空気の流れ、それだけだった。刀身が伸びもしなければ、斬撃の円弧が輝きながら飛んで来ることもなかった。
つまり、男が今やってみせたのは――ただの、素振りだ。修剣学院の試験で行うのと何ら変わりない、剣技の表演だ。
「な……」
何のつもりだ、とユージオは声の出ぬまま唇を動かした。
しかし騎士長はもうユージオを見ようともせず、剣を振り切った姿勢からのっそりと体を起こし、先刻までの気合が嘘のように抜け落ちた顔でぼりぼりと顎の無精髭を掻いた。
「ふん、まあまあの振りだったな」
ぼそっと呟き、そして信じがたいことに、くるりと背中を向けた。剣を右肩に担ぎ、そのままぺたぺたと床に転がる鞘に向かって歩いていく。
「…………!!」
これにはユージオも、頭の後ろ側がちりっと燃えるような感覚を覚えた。馬鹿にしているとしか思えない。学校に通っている子供なら、素振りひとつで尻尾を巻いて逃げ帰れ、ということか。
気付いたときには床を蹴っていた。全速の突撃で男の背中に迫る。
しかし男は尚も振り向く様子を見せない。もうこの位置からなら、絶対に先手を取れる。青薔薇の剣を引き絞り、最大射程の直突きを構える。
ゆらっ、と、すぐ目の前の空間が揺れた。
何だ。陽炎? さっき、男の剣を包んでいたような。
この位置は――数秒前、あいつの素振りが通過した――。
ぞわっと背中がそそけ立った。ユージオは両足を踏ん張り、突進を止めようとした。が、濡れた大理石の上だ、簡単に止まるものではない。
どかあっ!! と、凄まじい衝撃が、左肩から胸下へと抜けた。ユージオは突風に煽られた襤褸切れのように吹き飛ばされ、何回転もしながら宙を舞った。胸に刻まれた傷口から、大量の血液が真紅の螺旋を描いて流れるのが見えた。
背中から落下したのは、通路東側の浴槽の中だった。高く上がった水柱が収まるやいなや一瞬で周囲の湯が真っ赤に染まる。
「ぐはあっ!!」
喉奥に侵入した湯を吐き出すと、その飛沫にも薄い朱が混じっている。傷の一部は肺に達したようだ。もしあそこで僅かなりとも勢いを殺していなければ、体が両断されていてもおかしくない、それほどの衝撃だった。
「システム……コール」
ぜいぜいいう呼吸を懸命に抑え、切れ切れに治癒術を唱える。幸い、周囲には大量の湯がある。冷水に比べれば、遥かに大量の空間神聖力を蓄えているはずだ。とは言え、これほどの深手を短時間の施術で完治させることは不可能だが。
血止めをしながら、どうにか上半身を浴槽の縁に引っ張り上げたユージオを、遠くで振り返った騎士長が見た。すでに拾い上げた鞘に剣を収め、右腕を懐に戻している。
「おいおい危ねえなあ、まさかそんな勢いで突っ込んでくるとは思わなかったからよ……悪ぃな、殺しちまうとこだった」
呑気な台詞に、怒る余裕もなくユージオは掠れた声を絞り出した。
「い……今のは……一体」
「だから言ったろう、奥の手を使うってな。オレはただ空気を斬ったわけじゃねえぜ。言わば……ちょいと先の、未来を斬ったのよ」
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男の言葉が、頭の奥で具体的な形をとるまでに少しの時間がかかった。湯のなかで、まるでそこだけに氷を押し付けられているかのような痺れをともなって疼く傷口の痛みが思考を妨げる。
未来を……斬るだって?
現象としては確かにそのとおりだ。騎士長が大剣を振り抜いてから、ユージオが突進するまでにたっぷり二十秒は経過したはずだ。しかし、問題の場所に踏み込んだとたん、過去から斬撃が襲ってきた、とでもいうかのようにユージオの体は手酷く切り裂かれた。
いや、より正確を期すならば、剣によって発生した斬撃の威力そのものが空中に留まっていた、と言うべきだろうか。吹き飛ばされる直前、ユージオはたしかに、空中にゆらゆらと揺れる力の軌跡のようなものが漂っているのを見た。つまるところ、あの男の剣が持つ能力は、攻撃が命中するために必要な、”その場所”を”その瞬間”に斬るというふたつの絶対条件のうち後者を拡張するのだ。拡げられる範囲がどれほどなのかはまだ不明であるが。
見た目には派手な現象は何一つ付随しないが、しかしこれは恐るべき力だ。あの剣が通った軌道がすべて、致命的な受傷圏として蓄積していってしまうのである。その広さは、しょせん時間と空間のごく限られた一点を重ねていくだけの連続剣技の比ではない。剣と剣での接近戦など、とても挑めない。
ならば、遠距離戦か。
騎士長の完全支配術は、時間は拡張できても距離までは伸ばせない。対して、青薔薇の剣が発生させる氷の蔓の射程は三十メルを超える。
問題は、この膨大な湯に満たされた場所で、ユージオの術式が本来の性能を発揮できるか、ということだ。発動から効果発生までに、多少の遅延があることは覚悟しなくてはならない。つまり、あの男を、氷薔薇の術の性質を見切っても射程外に逃れることができないぎりぎりの距離まで引き込む必要がある。
いちかばちかの勝負に出る肚を決め、ユージオは左手で胸の傷を探った。びりっと鋭い痛みが走るが、どうやら血は止まったらしい。無論完治には程遠く、天命は三分の一がとこ減少しているだろうが、まだ立てるし、剣だって振れる。
「システム……コール。エンハンス・ウェポン・アビリティ」
激しい水音に声を紛れさせ、ユージオは術式詠唱を開始した。騎士長ベルクーリは、それに気付いているのかいないのか、離れた床の上で腕組みをしたまま尚も緊張感のない口調で喋り続ける。
「オレが初めてその連続技ってやつを見たのは、整合騎士の任についてそう間もない頃でなぁ。最初は、そりゃあぐうの音も出ねえほどやられたさ。ほうほうの体で逃げ返ってから、なんで負けたのか悪い頭で随分と考えたもんだ」
ぐいっと指先で撫でた顎を横切る薄い傷痕は、その時のものなのだろうか。
「まあ、分かってみりゃあ難しい話じゃあなかったんだけどな。要は、オレの体に染み付いた剣術がただひたすら一撃の威力だけを追及したモンなのに対して、連続技ってのは如何にして敵の打ち込みを捌き、自分の攻撃を当てるかってことだけを突き詰めたモンなんだっつうことだわな。どちらがより実戦的なのかは言うまでもねえ。どれほど強烈な打ち込みだろうとも、当たらなきゃあちょいとそよ風が吹いたようなもんだしよ……」
ひん曲げた唇の端から、ふん、と短く息を吐き出す。
「――しかしそれが分かったところで、はいそうですかと連続剣技に宗旨変えできるほどオレは器用じゃねえんでなぁ。まったく、神サンも整合騎士を創るなら創るでなんでもうちっと便利なヤツにしなかったのかねぇ」
その言葉に、詠唱を続けながらもユージオは眉をしかめた。
やはりこの男も、整合騎士となる以前の記憶は存在しないのだ。しかし本人が忘れようとも、これほどの威丈夫にして剛剣士が、世の人々の記憶に残らぬなどということは有り得まい。いや、先刻の男の名乗りを聞いたときから、ユージオ自身も頭の片隅に何かが引っかかるもどかしさを感じている。ベルクーリ、間違いなくどこかで見聞きした名だ。四帝国統一大会の優勝者か……あるいは建国期の帝国代表騎士か……?
食い入るようなユージオの視線などどこ吹く風で、男は飄々と述懐を続ける。
「なもんでよ、足りねえ頭を捻って、どうすりゃあオレの剣が敵に当たるか三日ほど考え抜いてな。出した答えが、こいつよ」
すべてが鋼色の無骨な剣を、鞘のなかでかしゃりと鳴らす。
「この剣はもともと、セントラル・カセドラルの壁に据えられてた”時計”っつう神器の一部だったのよ。今じゃあ同じ場所にある鐘が音で時刻を知らせてるけどよ、大昔はその時計ってヤツが、丸く並べた数字を針で指してたんだぜ。なんでも、世界ができたその時から存在したっつう代物でよぉ……最高司祭殿は、しすてむ・くろっく、とか妙な呼び方をしてたなあ。司祭殿いわく、その時計は時間を示すに非ず、時間を創るのだ……ってな、意味はよく解らんがな。ともかく、その時計の針を丸ごと戴いて剣に打ち直したのがこいつって訳だ。出所はアリスの嬢ちゃんの剣と似てるが、あれがこう……横方向の広がりをぶった斬るのに対して、こいつは時間っつう縦方向を貫くのよ。銘は時穿剣……時を穿つ剣だ」
時計、なるものを具体的に思い描くことは難しかったが、男の言わんとするところはユージオにもどうにか理解できた。やはり、剣を振ったその瞬間発生した威力を、時間を貫いて保持する能力を持つのだ。それが可能ならば、アインクラッド流のように、何撃もの技を繋げる必要はまったくない。連続技がなぜ連続するのかと言えば、それは取りも直さず、斬撃の時間的な幅を広げるために他ならないからだ。ベルクーリの時穿剣が、単発技の攻撃力と、連続技の命中力を両立させるならば、その剣技はもはや絶対無敵だ――間合いのうちにおいては、であるが。
いみじくもベルクーリ本人が言ったように、やはり対抗する術はただひとつ、水平方向の広さで勝負するしかない。
と、ユージオが考えたのと同時に、騎士長もニヤリと笑った。
「となりゃあ遠隔攻撃だ、と考えるわけだな、オレの技を見た奴は」
ぎくっとする。しかし今更詠唱を止めることはできない。ユージオが遠距離攻撃を仕掛けることを読んでも、技の中身までを知る術はないはずだ。
「ファナティオを含め、整合騎士たちが必殺技に遠隔型のもんを選ぶ傾向があるのは、オレの剣を見ちまったせいってのも無くはねえだろうなぁ、あいつらはあれでなかなか負けず嫌いだからよ。しかし言っとくが、オレは連中との手合いで負けたことはいっぺんもねえぜ。もしオレに勝ったら、その時からそいつが騎士長だって言ってあるしな。ま、アリスの嬢ちゃんにはいつかやられるかもしんねえが……兎も角、オレも楽しみなのさ。連中を軒並み退けてきたお前さんの技が、どんな代物なのかよ」
「……余裕、ですね」
ようやく術式を、最後の一句を残して唱え終わり、ユージオはぼそりと呟いた。
実際、余裕そのものなのだ。ベルクーリが長広舌を披露したのは、間違いなく、ユージオに完全支配術を発動させる時間を与えるためだ。どのような技であろうとも、初見で破れるという確信がなければできないことだ。
そして、口惜しいことではあるが、ユージオにはたとえ氷薔薇の術がベルクーリを捉えても天命を削りきれるという確信はまるでなかった。もともと、敵の動きを止め、隙をつくることに特化した術なのだ。いや、それすらも完全には成功するまい。自由を奪えたとしても恐らく数秒――その時間をどう使うか、そこにこの攻撃の成否がかかっている。
全身から水滴をしたたらせながら、ユージオは立ち上がった。薄く塞がっただけの胸の傷がずきんずきんと疼く。次に同程度の斬撃を受ければもう動けない。
「ふっふ、来るかよ、少年。言っとくが、手加減するのはさっきの一振りで仕舞えだぜ」
時穿剣の鋼の柄をぐっと握り、騎士長は太く笑った。
二十メル離れた位置で、ユージオも青薔薇の剣を腰溜めに構えた。すでに刀身は硬く凍りつき、周囲を漂う湯気を一瞬にしてきらきら光る氷のチリへと変えていく。
キリトなら、ここで口上のひとつも切り返してみせるのだろうが、ユージオの口はからからに乾いてとても滑らかに回りそうにはなかった。最後の一句をしくじることのないよう、ごくりと唾をのみこんで、ユージオは低く呟いた。
「リリース……リコレクション」
ごっ!!
と足元から渦巻き、四方へ吹き荒れる冷気の中心で、ユージオは逆手に持ち替えた剣を思い切り床石へと突き立てた。
大理石の滑らかな表面を覆っていた水の膜が、一瞬にして鏡のように凍りつく。ばしばしと生木のひび割れるような音を立てながら、氷結域は前方に立つベルクーリ目掛けて拡大していく。
凍気は通路の左右で波打つ湯をも飲み込み、輝く氷に変えていくが、そのスピードは目に見えて遅い。やはり、一度の術で浴槽全体を凍結させるのはとても不可能だ。
全ての想念を右手だけに集中し、ユージオは一層強く剣を握り締めた。ぎゃいんっ! と硬質の咆哮を上げ、凍りついた床から無数の氷の棘が伸び上がる。
それらは、長槍兵隊の突撃のように、鋭い穂先を通路いっぱいに煌めかせてベルクーリに殺到した。圧力はかなりのもののはずだが、騎士長は口許をやや引き締めたのみで、ぐっと腰を落とし動こうとしなかった。左右の湯中に逃れる気は毛頭ないらしい。
その、巨大な砦のごとき立ち姿を見て、ユージオも覚悟を決めた。文字通り捨て身で掛からねば絶対に倒せない相手だ。床から青薔薇の剣を抜き、右手を鋭く振りながら開いて、再び握る。
空中を濃密に覆う氷霧のなかを、氷の槍衾を追って走り出す。ベルクーリが、数十本の氷柱を迎撃するときにできるであろう一瞬の猶予を利用して肉薄する作戦だ。
疾駆するユージオの姿も当然見えているだろうが、騎士長に動揺の気配は微塵もなかった。左右に広く足を開き、左腰で握った剣をぐぐうっと溜める。
「ぬうんっ!!」
太い気合が迸るや、横一文字に時穿剣の一薙ぎ。氷槍の陣が間合いに入るよりも一呼吸以上早く、刃は何もない宙を焦がしたのみだが、時穿剣には時間的間合いは関係ない。
約半秒後、がしゃああんっ!! と耳をつん裂くような硝子質の悲鳴を上げて、無数の氷柱が同時に砕け散った。直前にベルクーリが”置いた”斬撃を抜けた槍は一本もない。騎士長は憎らしいほどの余裕を持って、振りぬいた剣を上段に戻し、ユージオの追撃に備えた。
しかし、ユージオもついに己の間合いに敵を捉え、右手の得物を高く振りかぶった。周囲に幾重にも浮遊する氷柱の残片に天井からの光が反射し、視界を霞ませるが、それは敵も同じことだ。
「せああっ!!」
「おうっ!!」
ユージオとベルクーリの気合が同時に響いた。
ぼっ、と凄まじい圧力を伴って、真上から分厚い鋼が降ってくる。
まさに必殺の名に相応しい一撃だ。うなじから背中にかけてがざわっと総毛立つ。歯を食い縛り、己の斬撃を右斜めから合わせる。
ベルクーリの鈍色の軌跡と、ユージオの薄青い軌跡が交錯した。
その瞬間。
かしゃーん! と儚い悲鳴を放って、ユージオの握った”剣”が砕け散った。
ベルクーリの目がわずかに見開かれた。あまりの手応えの無さに驚愕したのだろう。ユージオの右手にも、剣が破砕するときの衝撃はほとんど伝わらなかった。
それも当然だ。ユージオは、突進を開始する直前、握った青薔薇の剣を右に放り投げ、傍に屹立していた氷柱の一本を折り取って剣の代わりにしていたのだ。
ベルクーリの上段斬りは、撃剣によってユージオが後ろに弾かれることを予想した軌道だった。しかし、氷柱が抵抗なく砕けたため、ユージオは突進の勢いを削がれることなく、ベルクーリの目算よりも一歩深く懐に潜り込んだ。
轟、と必殺の唸りを上げて、時穿剣がユージオの左腕を掠めて背後に流れた。
ユージオは、氷柱の残骸を握っていた右手を左手で抱えると、右肩から全突進力を乗せた体当たりをベルクーリの腹にぶちかました。アインクラッド流”体術”、メテオブレイクなる技だ。本来ならこのあとに左からの斬撃が続くが、もう剣は無い。
替わりに、ユージオは両手を広げ、騎士長の体に組み付いた。
「ぬおっ……」
さしもの巨漢も、二重に虚を衝かれ、ぐらりと体勢を崩した。これが最初で最後の機だ。
「うおおおお!!」
叫びながら、ユージオは全身の力を振り絞り、騎士長もろとも右の浴槽目掛けて体を投げ出した。ベルクーリは左足を踏ん張って堪えようとしたが、凍りついた床の上で素足が滑った。
体が宙に浮く感覚に続いて、着水の衝撃が体の右側を激しく打った。
しかしそんなものは、全身を包み込む殺人的な冷たさに比べたら些細なものだった。
「なっ……!?」
ユージオに組み付かれたまま、ベルクーリが三度目の驚愕に声を漏らした。つい先刻まで己が浸かっていた煮えるような湯が、いつのまにか凍る寸前の冷水に変わっているのだ、それは驚くだろう。
立ち上がろうとする巨漢を左手で懸命に抑えながら、ユージオは右手で浴槽の底を探った。確かにこの辺に投げたはず――。
緻密な目算と、もう半分は運に助けられ、指先が馴染んだ愛剣の柄に触れた。
「ぬうううおっ!!」
ユージオを振りほどき、ベルクーリが立ち上がりかけた。
それよりほんの一瞬先んじて、ユージオは水中で青薔薇の剣をしっかり握り、叫んだ。
「凍れええええっ!!」
びしいいいいっ!
と、数千の鞭を鳴らすような衝撃音が迅った。
完全支配状態の青薔薇の剣を投げこまれ、凍結寸前にまで冷却されていた巨大浴槽の水は、二人の剣士を飲み込んだまま一瞬にして硬く硬く凍りついた。
全身を数万本の針に刺されるような凄まじい冷気に、ユージオは思わず喘いだ。真冬のルーリッドの森に裸で立ってもこれほどの寒さは感じまい。目を閉じれば、肌に触れているのが氷なのか灼熱の炎なのか分からないほどだ。
瞼を覆い始めた霜を拭いたかったが、左手は浴槽深くでベルクーリの腹を押さえ、右手は青薔薇の剣を逆手に握った拳がようやく氷の表面から突き出した状態でそれぞれがっちりと固定されてしまっている。やむなく懸命に瞬きして薄い氷の膜を振り落とし、濃密な靄を透かしてユージオは敵の様子を確かめた。
ベルクーリも、ユージオと同じく首元ぎりぎりのところまでが完全に氷中に没していた。直前に体を起こそうとしたせいで、左手も、時穿剣を握った右手も浴槽の底に突いた状態だ。
眉や髭から垂れ下がった極小の氷柱をぱりぱりと鳴らしながら、騎士長は低く唸った。
「よもや、敵を前に剣を放り捨てる剣士がこの世に居ようとはな。お前ェ一人で編み出した戦い方か?」
「……いえ。師……相棒が教えてくれたことです。”戦場のあらゆる物が武器とも罠ともなり得る”」
余りの寒さに強張った口で、ユージオは短く答えた。ベルクーリはしばし目と口を閉じ、何事か考えていたが、やがて太い笑みを浮かべた。
「ふん、なるほど、”地の利”って奴か。一本取られたことは認めてやるぜ……だが、まだ負けてやるわけにはいかねえな」
すう、と息を吸い、溜める。
この状況で何をするつもりか、とユージオは緊張した。考えられるとすれば神聖術しかない。詠唱を始めたら、即座にこちらも対抗術の準備をする必要がある。
かっ、とベルクーリの目が見開かれた。
直後、食い縛った歯列の奥から、裂帛の気合が迸った。
「ぬうううううんっ!!」
たちまち、騎士長の額に太い血管が何本も浮かび上がる。わずかに露出した首元に、幾筋もの太い肉の束が盛り上がり、皮膚が真っ赤に昂ぶっていく。
「な……」
これにはユージオも唖然とした。ベルクーリは、肉体の力のみで無理矢理この分厚い氷を割ろうというのだ。
そんなことが出来るはずがない。体が自由で、充分な助走距離があったとしても、これだけの氷の塊を素手で破壊するのは困難を極めるだろう。翻って、騎士長は全身を毛一筋の隙間もなく固定されているのだ。
噛み合わされた白い歯が、ぎりりっ、と鋼が軋むような音を立てる。水色の双眸が、まるで自ら発光するかの如く、苛烈な輝きを帯びる。
氷点下の冷気の中にあって、それを上回る寒気がユージオの背筋を疾った。
ぴしり、とかすかな――しかし決定的な破砕音が鼓膜を撃つ。
直後、氷の滑らかな表面に、一筋の亀裂が刻まれた。すぐに、それから分岐してもう一筋。さらにもうひとつ。
やはり、眼前の威丈夫は、ただの人間ではないのだ。全世界の剣士から選りに選った猛者を集めた整合騎士の、さらにその頂点に立つ、つまりは地上において最強の男。恐らく百年、二百年の時を戦場の中で過ごしてきた、生ける伝説。そう、掛け値のない伝説なのだ。ベルクーリ、その名をどこで聞いたのか、ユージオは今になってようやく思い出しつつあった。
そのような敵と対峙しておきながら、一度裏を取っただけで勝った気になるのは勘違いも甚だしいというものだ。もとよりユージオも、敵と自分を氷漬けにしただけで優位に立てると思っていたわけではなかった。真に狙ったのはここから先、文字通りの、両者の天命の削り合いに持ち込むことだ。
いまだ完全支配状態下で、刀身を薄く輝かせる青薔薇の剣の柄をしっかり握り、ユージオは意識を集中した。大きく息を吸い、叫ぶ。
「咲け――青薔薇!!」
びきびきびきっ――!
と、硬く凝るような音を立てて、幾つもの透明な”蕾”が、刀身を中心にして氷面に突き出した。それらは回転しながらほころび、剃刀のごとく薄く透き通った蒼い花びらを広げていく。
一輪の氷薔薇が、鈴に似た音を立てながら満開になったのに続いて、無数の――それこそ数百、数千の薔薇が凍りついた浴槽全体に一気に広がった。途方もなく美しく、しかし冷酷な美の饗宴だ。なぜなら、これら膨大な青薔薇たちは、ユージオとベルクーリの天命を吸って咲き誇っているのだから。
全身から力が抜け、視界さえも薄暗くなるのをユージオは感じた。最早冷たさはおろか、肌に触れる氷の硬ささえも感じられない。ただただ、痺れるような無感覚さが体を包む。
さしものベルクーリも、いまにも氷の獄を割ろうとしていた四肢の力を根こそぎ奪われたようで、上気していた肌がみるみる白く血の気を失っていくのが見て取れた。いかつい顔が初めて大きく歪む。
「小僧……手前ェ……端っから、相討ち狙い、だったのかよ」
「勘違い……しないで、ください」
力の入らない喉から、ユージオは掠れた声を絞り出した。
「僕が……貴方に優れるかもしれない唯一の要素……それは、天命の……総量です。ファナティオさんは……僕の相棒と、ほぼ同じ傷を負い、同じように倒れた……つまり、老いて死ぬことのない、整合騎士と言えども、天命の量そのものは僕らと変わらない……ということです」
口を動かすあいだにも、幾重にも咲き誇る氷の薔薇たちからは、きらきらと輝く冷気の粒が銀砂を撒くように筋を作って流れ出ている。少し前から、湯の流れ落ちる轟音が聞こえなくなっているのは、あの幾つもの滝がすべて凍りついた証だろう。
最早、ベルクーリも、ユージオも、口と鼻のまわりだけを残して氷の膜に覆われている。今ステイシアの窓を開けば、天命の数字が恐るべき速さで減少しているのが見えるはずだ。不意に襲ってきた、途方も無い眠気を振り払うために、ユージオは懸命に言葉を続ける。
「……外見からして、貴方が整合騎士になったのは、四十歳を越えてからのはずだ。対して、僕は今が天命の自然増のほぼ頂点……例え一太刀受けていても、総量ならまだ優っているはず、それに賭けたのです」
ユージオがそう言い終わるか終わらないうちに、ベルクーリの巌のような相貌が――。
くわっ! と、鬼神の如く昂じた。額と鼻筋から下がっていた氷柱が、ばりんと一斉に割れ飛ぶ。
「手前ェ……今、何て言った」
最早意識を保っているのも辛い状況で、騎士長の瞳がぎらりと強烈に光った。
「整合騎士に……なった、だと? まるで、オレたちの”それ以前”を知ってるような口を叩くじゃねえか」
ユージオは、一度瞼を閉じてから、全身全霊を込めた視線を相手にぶつけた。
「僕が……あんた達を嫌いなのは、まさにそこですよ」
腹の底からかあっと湧き上がってくる激情が、一瞬にせよ虚脱感を上回る。
「自分が何者なのかも知らず……その剣を捧げた相手の真の姿も知らずに……自分たちだけが正義の、法の守護者だという顔をする!! ベルクーリ……あんたは、アドミニストレータが天界から召還した神の騎士なんかじゃない! 人の母親から生まれた、ただの人間なんだ……あんたはこの剣に、見覚えがあるはずだ!!」
今や持てる能力を完全解放し、冴えざえとした蒼光を放つ青薔薇の剣をベルクーリに示す。
整合騎士の長、そして数百年前の御伽話の英雄は、ちらりと視線を青薔薇の剣の精緻な鍔の細工に落とした。
そして、ぐっと歯を食い縛った。
「……確かに……どこかで……。あれか……あの時か。北辺の守護竜を殺した時……彼奴の棲家に、たしかその長剣が……」
ごく低く漏れ出でたベルクーリの声に、今度はユージオが息を飲んだ。
「殺した……だって? あの竜の骨……あれは、あんたの仕業なのか? あんた……自分の……物語の竜を、殺したのか」
ぐうっと胸を衝き上げてくる、得体の知れぬ感情のうねりに、ユージオは激しく首を振った。こんな状況なのに何故か、両目に熱く滲むものがあった。
「ほんとうに忘れてしまったんですか……何もかも……。ベルクーリ、あんたはね、僕が生まれたルーリッドって村では、年寄りも子供も誰だって知ってる英雄なんですよ。央都からの長く辛い旅の末に村を拓いた、僕らのご先祖様なんだ。アドミニストレータはそんなあんたを拉致し、記憶を封じて整合騎士に仕立てた。あんたの剣の腕だけを自分の世界支配に都合よく役立てるためにね! あんただけじゃない、ファナティオさんも……エルドリエさんも、アリスだって、みんなそうなんだ。みんな、整合騎士にさせられる以前は、僕らと同じ……人間だったんだ……」
「記憶……を、封じた、だと……」
これまで、一度たりとも揺るがなかったベルクーリの両眼が、どこか遠くを見通そうとするかのように泳いだ。
「……オレも……”シンセサイズの秘儀”にはどこか胡散臭いものを感じていた……最高司祭殿の為政が……すでに限界に来ていることも……分かっちゃ……いたんだ……」
ベルクーリの顔を、ふたたび白い霜が厚く覆いつつあった。ユージオの頬を流れた涙もすでに二本の氷柱へと姿を変え、いっときの激情もまた青薔薇の根に吸われてしまったかのように虚ろな無力感へと変化しつつある。
幼い頃から何度も聞かされて育った、”ベルクーリと白い竜”の御伽話――その主役たる英雄が、もう一方の主人公である竜を冷酷にも惨殺していたのだという事実は、ユージオに言いようの無い喪失感をもたらした。アドミニストレータの権力は、予想を遥かに超える強大な代物だったのだ。大昔の英雄でさえ容易く洗脳し、自分の忠実な手駒にしてしまっている。そのような敵を相手に、いったい二人の剣士見習いが、何を出来るというのだろうか……。
自分の天命が残り僅かであることを、ユージオは痺れた思考の中で感じた。ベルクーリも同様だろう。氷の奥で半眼に俯いた瞳からは、生気の光がほとんど消えつつある。
殺してしまっていいのか?
疼くような迷いが、頭の芯でほのかに明滅する。それをしてしまったら、結局自分も整合騎士と何ら変わることのない存在になってしまうのではないか。そんな逡巡に、青薔薇の剣を握るユージオの右手が、わずかに緩んだ。
その時だった。
「ほおぉーお、これは絶景、絶景」
鉄鍋をフォークで引っ掻くような、甲高く耳障りな声がきんきんと響いた。
ユージオが霞む目を動かすと、大浴場の入り口に、奇妙なモノがいた。
丸っこい。ほとんど球形近くまで膨らんだ胴体に、冗談のように短い手足がついている。首はまったく存在せず、これまた真ん丸い頭がころんと乗っている。まるで、冬に子供が作る雪人形のようだ。
しかし、着ている服は目が痛くなるような極彩色だった。右側が真っ赤、左側が真っ青な光沢のある衣装を纏い、ぱんぱんに膨れた腹に金色のボタンがかろうじて留まっている。ズボンも同じく左右で違う色、ご丁寧に靴まで同じだ。
丸い頭には毛の一本もなく、つるりとしたてっぺんに金色の角張った帽子が載っている。大図書室にいたカーディナル前最高司祭の帽子と形は似ているが、悪趣味さは遥かに上だ。それを含めても、身長は一メル半足らずだろう。
ルーリッドの村に、毎年夏になると巡業にやってくる旅芸人の一座にも、同じような格好をした道化の玉乗りがいた。しかし、そのような心和む存在ではないのは、小男の顔を見れば明らかだった。
年齢はまったくわからない。肌は異様に白く、丸い鼻、弛んだ頬、やけに紅い唇が左右に大きくニタリと裂けている。眼は半月形に細長く、まるでにこにこ笑っているような弧を描いているが、その隙間から覗く眼光はどこか怖気を催すものがあった。
赤と青の服を来た道化は、ぴょんぴょんと跳ねるように大理石の床を横切り、氷結した浴槽に高いところから飛び降りた。つま先のとんがった左右の靴が、二輪の氷薔薇をがしゃりと踏み潰す。
「ホ、ホオーッ! ホオッ、ホオッ、ホオッ!」
何が面白いのか、丸い小男はしばし短い両手を叩いて軋るように笑うと、次々に周囲の薔薇の花を蹴散らして硝子の小片へと変えていった。そのまま、がしゃがしゃと騒々しい音を振り撒きながら、氷の中に捕われたユージオとベルクーリのほうへとやってくる。
数メル先で立ち止まり、最後に一つ薔薇を蹴り割ってから、ようやく小男はユージオたちのほうを見た。にたっ、と唇が裂け、再びあの不快な声が鳴り響く。
「いけません……いけませんねえ、騎士長殿。まさか、そのままくたばる気ですかねえ。それは明白な反逆ですよう、我らが最高司祭様への。猊下がお目覚めになられましたら、きっとお嘆きになりますよう?」
ほぼ完全に凍り付いたベルクーリの唇がかすかに震え、しわがれた声が流れ出た。
「貴様……元老チュデルキン……手前ェごとき俗物が……騎士の戦いに、口を出すんじゃねえ……」
「ホオ、ホオーッ!」
ベルクーリの言葉を聞いた道化風の小男は、再び両手を叩きながら跳び上がった。
「騎士の! 戦い! 笑わせてくれますねえ、ホオホオホオッ!」
きしきし、と人間のものとも思えぬ甲高い笑い声を振り撒く。
「忌むべき背教者を相手に、手心を加えておいてよく言いますよう! 騎士長殿、あなた時穿剣の”裏”を使いませんでしたねえ、その気になればそのガキを、一言も喋らせずにぶっ殺せたというのに! それがすでに教会への反逆だって言ってるンですよう!!」
「うるせえ……オレは……全力で戦った……それに、手前ェ、オレを謀りやがった……な。この小僧は……闇の国の手先……なんかじゃ、ねえ。手前ェみてえな醜い肉ッコロより……よっぽど、まともな、人間……」
「うっさァァァァァい! その首ひっこ抜くぞォォォォォッ」
突然両目を真ん丸く剥き出し、小男は躍り上がるように跳ねると、短い両足でベルクーリの頭を思い切り踏みつけた。そのまま器用に体勢を保ちながら、左右にゆらゆら丸い体を揺らす。
「だいたいオマエら糞騎士どもが糞程にも役立ちゃしねえからこんな面倒なことになってんですよう。たかだかガキ二人に良いようにやられまくって、アタシゃ笑いすぎて腹が破けちまいますよう。もうね、猊下がお目覚めになったら、騎士ども軒並み……少なくとも、オマエと副官の男女は再処理決定ですよう」
「なんだ……手前ェ、いったい……何を、言って……」
「ああもう、うっさい。いいから眠っときなさい」
小男は、ベルクーリの頭に乗ったまま気取った仕草で右手の小指を突き出し、真っ赤な舌でべろりと唇を舐めると叫んだ。
「システム・コール! ディープ・フリーズ・インテグレータ・ユニット・ゼロ・ゼロ・ワン!」
まったく聞いたことのない神聖術だった。しかし式は非常に短く、大した威力は無いと予想された。のだが――。
「ぐ……」
ベルクーリが低くうめいた。直後、その体がみるみる奇妙な灰色に染まっていくのを見て、ユージオは驚愕した。凍り付く、というよりも、まるで石の彫像の変わっていくかのように肌が生気を失っていく。
眼が光を失い、髪の先までもが鈍い泥のような色に変わりきったところで、ようやく小男……元老チュデルキンと呼ばれた道化は、騎士長の頭からぴょんと飛び降りた。
「ホヒ、ホヒッ……実際、もうオマエみたいなジジィは要らねえんですよう。使えそうなコマも見つかったことですしねえ」
そう呟いた小男の、針穴のように小さな瞳孔がじろりとユージオを見下ろした。背中を、ある種の――素足でノビヌル虫を踏み潰してしまったときのような怖気が這いまわる。
しかしそこで、ユージオの意識にも限界が来た。急速に暗くなっていく視界の中、氷の薔薇の上を選んでがっしゃがっしゃと踏み潰しながら近づいてくる赤と青の靴がぼんやりと見えた。
突然、激しい身震いに襲われ、俺は驚いて瞼を開けた。
眼を閉じて横になっているだけのつもりが、いつのまにか寝入ってしまったのだろうか。怖い夢を見て飛び起きたとたんに夢の内容を忘れてしまった、とでも言うかのように、頭の内側に焦燥感の余韻だけが色濃くこびり付いている。
上体を起こしながらちらりと周囲を確認したが、変わったことは何一つなさそうだった。
セントラル・カセドラルの、たぶん八十八階西側外壁に設えられたテラス上だ。太陽はずいぶん前に地平線下に没し、頭上は墨を刷いたような闇に覆われている。しかしどれだけ首を巡らせても、黒いちぎれ雲の隙間から幾つかの星が見えるのみで、待ち望む月の姿はない。しばらく前に八時の鐘が遠く聞こえた気がするので、ルナリア神がささやかなリソースの下賜を始めるまでにはまだ二時間近く間があるだろう。
黄金の整合騎士アリスは、俺への疑心を距離で表現しているのか、これ以上左に動くと新たな守護石像ドローンの索敵範囲に入ってしまうというギリギリのところに膝をかかえて座り、瞼を閉じていた。俺としては、この待ち時間を利用してわずかなりとも彼女を説得し、来るべき戦闘を回避する糸口を掴んでおきたいところだが、騎士様には世間話にすら応じるつもりはさらさら無いらしい。この場にユージオも居れば、彼の持つカーディナル謹製の短剣をちくりと刺して問題解決なのだが。
そのユージオは今ごろどうしているのか――。
考えてみると、ルーリッドの南の森であいつと出会ってからのこの二年半で、会おうと思っても会えないという状況に陥ったのはこれが初めてかもしれない。央都までの長い旅路では草枕を並べたり安宿の狭い寝床を半分ずつにして文句を言い合ったりのしどおしだったし、修剣学院に籍を得てからも寮では常に同室だった。お陰で、俺の悪態だの唆しをあいつが苦笑とともに諌めるというパターンが染み付いてしまって、引き離されると妙に心許ない。
いや、ことはもうそんな単純な話ではないのだろう、恐らく。
このアンダーワールドという異常かつ究極の仮想世界において、俺は生まれて初めて、同性の親友と呼べる存在を得たのだ。面映いことだが、それだけは認めなくてはなるまい。
デスゲームSAOに囚われる以前の俺は、同年代の少年たちを幼稚な子供と見なし、ネットの中で歳を上に偽って悦に入るという甚だ救いがたいガキだったし、それはSAOという獄に繋がれてからも大して変わらなかったろう。クラインやエギルといった、非常に人間の出来た大人達のお陰で幸いにも彼らと友誼を結ぶことはできたが、それでも彼らに腹の底までを曝け出すことは無かったように思う。俺のその度し難い傾向は、あれほど深く求め合ったアスナの前でも変わらなかったのだ。彼女に俺のほんとうの年齢と内面の弱さを吐露できたのは、アインクラッドが崩壊し、二人の意識がまさに消え去ろうというその直前だったのだから。
俺は、自分に何か人と違う特別な能力が備わっているなんて思っちゃいない。実際、SAO以前は運動面でも学業面でも何一つ人に優る部分など無かった。まして人格においてをや。
それが、SAOの虜囚となった途端トップ数パーセントに含まれるプレイヤーにランク付けされてしまい、おそらく俺は、”抜きん出る”ことの甘美さに深く魅了されてしまったのだろう。俺をトップに押し上げる要因となったのは、NERDLES技術が開発された当時からダイレクトVRワールドに耽溺したという習熟と、SAOのベータテストに狂ったようにダイブしまくった経験という、本人の能力とは何の関係もない代物だけだったにもかかわらず。
しかし、以来俺は――SAOから解放されたその後でさえ――”VRワールドにおける強さ”を誇示せずには自分というペルソナを保てなくなってしまった。周囲の人たちは俺を、生身の虚弱な桐ヶ谷和人ではなくSAOをクリアした剣士キリトとしてより強く認識しているだろうし、むしろそうなるように俺自身が無意識のうちに誘導していたことも否定できない。そのような虚飾を積み重ねれば重ねるほど、己が大事な人たちから遠ざかっていくのだと、心の底では解っていたというのに。
だから、この世界でユージオと出会い、いつしか彼の前では何一つ飾らない素の自分を曝け出していることに気付いたとき、俺は驚き、なぜそうなのかと考えた。ユージオが俺とは異なる人工フラクトライトだから? 彼はSAOの英雄キリトを知らないから? いや、そうではない。理由はただ一つ――ユージオが、このアンダーワールドという、ある意味では現実だが同時に厳然とした仮想世界において、俺を遥か上回る能力を備えているからなのだ。
彼の、剣の天分は凄まじいの一言だ。知覚力、判断力、反応速度、どれを取ってもVRワールドで散々戦ってきた俺を大きく引き離している。俺のフラクトライトに装備された戦闘回路を、旧世代のシリコン半導体CPUに喩えれば、ユージオのそれは最新のダイヤモンドCPUだ。現状ではまだ俺が指導めいたことをしてはいるが、その理由は単に俺のほうがより多い経験と知識を蓄えているからというだけにすぎない。いまのペースでユージオが腕を磨いていけば、立場が逆転する日はそう遠くあるまい。
“アインクラッド流”なる珍妙な名前をつけてしまったが、俺がこれまでのVRMMOダイブ経験において身につけた広範な戦術を、砂が水を吸収するかのように猛烈なスピードで我が物にしていくユージオの成長ぶりには、かつて覚えのない深い喜びと充足を感じずにはいられなかった。俺が長いあいだ、自我の拠り所としつつも同時に所詮はゲームの巧さでしかないことに忸怩とせざるを得なかった”剣技”が、ユージオの中で磨かれ花開くことで、はじめて本物になれたのだ、そんなふうにさえ思える。
アンダーワールドを取り巻く問題を全て解決し、ユージオのフラクトライトを首尾よく現実世界に移行させることができたら、彼をALOにダイブさせ――ライトキューブのインタフェースには、ザ・シード準拠のVRワールドとI/Oの互換性があることはほぼ間違いない――、皆に紹介しよう。俺の剣技を受け継ぎ、俺を超えた、一番弟子にして親友なのだ、と。その瞬間が待ち遠しくてたまらない。恐らくその時はじめて、俺は俺を気にかけてくれた人たちと、ほんとうの意味で――
「何をニヤニヤしているのですか」
不意に左隣から声をかけられ、俺は目をしばたいて夢想を中断した。
顔を向けると、アリスが薄気味悪そうな顔で俺を眺めていた。俺はあわてて右手の甲で口許のあたりをごしごし擦り、言った。
「いや、ちょっと……今後のことなどあれこれ考えてて……」
「それであんな緩んだ笑い方ができるのは、よほどの楽天家か、よほどの考え足らずのどちらかですね。ここからの脱出さえ覚束ない状況だというのに」
相も変わらぬ辛辣な舌鋒だ。アリスの元人格を俺は知らないが、キャラクターがこのまま変わらないなら、彼女をユージオと一緒に脱出させて現実世界で皆に引き合わせたとして、シノンやリズベットあたりと相当激しく角突き合わせることになるのは想像に難くない。
もっとも、確かにそんな究極グッドエンドめいた想像を繰り広げる前に、解決せねばならない諸問題が目の前に山積していることは事実だ。最優先なのは、この気色悪い石像ばかりが並ぶ岩棚からの脱出であるが、そのために必要な空間リソースの不足もさることながら、俺の気力リソース、具体的には腹に詰め込むべき何かの不足もそろそろ限界に達しつつある。
空を見上げつつ右手で腹のあたりを押さえ、俺は可能な限り真面目な顔と声で答えた。
「脱出のほうは、月が昇れば再開できると思うよ。ハーケンを作って地道に登っていけばいいんだし、この上にはもうドローンも置いてないみたいだしな。ただ、この絶壁をよじ登ると考えただけで目が回りそうなくらいハラが減ったという問題はあるが」
「……お前のそういう所が不真面目だというのです。一度や二度食事が取れないくらいなんですか、子供じゃあるまいし」
「あーあー、どうせ子供ですよ、こちとらまだぎりぎり育ち盛りの範疇なもんでね。天命ががっちり保護されてる整合騎士様と違って、食わなきゃ数字ががんがん減るんだ」
「言っておきますが、整合騎士とてお腹はすくし食べねば消耗します!」
きっ、と眦を吊り上げてアリスはそう言い放った。とたん、くう、という可愛らしい音が彼女の腹部辺りから発生し、俺は思わずふひっと笑いをこぼしてしまった。
騎士様の顔がさっと赤くなり、次いで右手ががしっと剣の柄を握るのを見て、慌てて両手を前に出す。
「うわ、待った、悪かった! そりゃそうだな、整合騎士と言えども生きてるんだものな、生きてるっていいなあ!」
白々しい弁解を並べながら身を縮めると、ズボンの左ポケットに何かが押し込まれている感触に気付いた。はて何を入れたのかな、と手をつっこみ、指先が触れたものの正体に気付いて、己の抜け目無さと意地汚さに感謝する。
「おお、天の助けだ。ほら、いいものがあったぞ」
引っ張り出したのは、二つの小さな蒸し饅頭だった。カーディナルの大図書室から退出するときに両ポケットに失敬しておいたやつだ。半分は昼にユージオと食べたが、残りのことをすっかり忘れていた。幾多の激戦を経て多少ひしゃげているが、この状況下で贅沢を言ってはいられない。
「……なんでそんなものをポケットに入れているのです」
アリスは呆れ返ったように脱力し、剣から手を離した。
「ポケットを叩けば饅頭が二つだ」
間違いなくアリスには理解できないだろうフレーズで煙に巻きながら、俺は饅頭の窓を引き出し、その天命が十分残されていることを確かめた。見た目はみすぼらしいが、カーディナル様が貴重な古代書オブジェクトから生成した代物だけあって、デュラビリティは驚くほど高い。
しかし、さすがに冷えて固くなっているそれをそのまま齧っても美味くあるまい。俺は少し考えてから、左手を広げ、コマンドを唱えた。
「システム・コール、ジェネレート・サーマル・エレメント」
オブジェクト生成には足りなくとも、炎素をひとつ作るくらいの空間リソースは残っていたようで、頼りなく瞬くオレンジ色の点が掌中に発生する。右手に掴んだ二つの饅頭をそこに近づけ、続くコマンドを口にする。
「バー……」
スト、と続ける前に、横合いから伸びた手がびしっと俺の口を押さえた。
「むぐ!?」
「馬鹿ですかお前は! そんなことをしたら、一瞬で黒焦げです!」
怒りと呆れと蔑みを等分ずつ瞳に浮かべ、アリスはそう罵ると、ぱっと俺の手から饅頭を攫っていった。ああっ、と情けない声を出す俺にはもう目もくれず、しなやかな左手をひらめかせると、神聖術を歌うように口ずさむ。
「ジェネレート・サーマル・エレメント、アクウィアス・エレメント、エアリアル・エレメント」
親指から中指までの三本の指先に、それぞれ橙、水色、緑色の光点がともる。何をするつもりか、と首を傾げていると、アリスはさらに術式と指の動きで、複雑な操作を加えた。まず風素で球形の空気の渦を作り、二個の饅頭をその中に浮かべる。次いで、炎素と水素もそこに投じ、それらが触れ合った瞬間、解放する。
しゅっ! という音とともに、風のバリアの中はたちまち真っ白な湯気で充満した。見た目には何ということはなさそうな現象だが、バリア内部は高温の蒸気が渦巻いているはずだ。なるほどこれなら、蒸し器を使うのと同じ効果を発生させられるというわけだ。
三十秒ほどで三つのエレメントはその寿命を終え、ふわりと溶けて消えた。流れた蒸気の中からアリスの篭手に転げ落ちてきた二つの饅頭は、まるで出来たてのようにふわりと膨らみ、ほかほかと湯気を立てていた。たまらず、口中に湧いた生唾を飲み下す。
「は、早くくれ……ギャアアア!?」
手を伸ばしかけた俺は、アリスが両手に持った饅頭をふたつ同時にかぶりつこうとするのを見て、情けない悲鳴を発した。しかし幸い、整合騎士殿は直前で口を停止させ、面白くもなさそうな顔で冗談ですとつぶやいて、片方をぐいっと突き出してきた。胸をなでおろしながら素早く受け取り、あちあちとお手玉してから大きく齧りつく。
アンダーワールドはそのクオリティにおいて現実世界にまったく劣るものではない、と分かってはいるが、蒸したての肉饅頭の皮のやわらかさ、溢れ出す熱い汁気、餡のとろける舌触りは、俺をしばし桃源郷へといざなった。とはいえわずか二口で貴重な食料は胃へと――正しくはフラクトライトの記憶野へと還元されてしまい、充足感と物足りなさを同時に味わいながら、俺はふうーっと長い息をついた。
隣でアリスも、こちらは三口で饅頭を平らげ、俺と同じように切なげなため息を小さく漏らした。俺は、戦闘の権化のような黄金騎士様にもそれなりに女の子らしいところはあるのだ、とある種の感慨を覚えながらつぶやいた。
「なるほどね……道具も何もなしにあんな調理ができるとは思わなかったな。さすがはあの料理上手の妹さんのお姉さん、という所かな……」
言い終わらないうちに、またしても横から伸びてきた手が、俺の襟首をがしっと掴んだ。
だが今度は、アリスの顔に浮かんでいるのは、青白い炎にも似た激昂の色だった。瑠璃色の瞳から飛び散った火花が、俺の眼から脳天までを貫いたような気さえした。
「お前……いま、何と言いました」
ここでようやく俺も、自分が、とてつもない失言をしてしまったのだということを遅まきながら自覚した。
十センチの至近距離から俺を睨んでいる黄金の整合騎士が、ユージオの幼馴染にしてルーリッドの修道女見習いシルカの姉、アリス・ツーベルクであることはほぼ間違いないのだが、本人にその記憶はない。九年前に教会に拉致され、”シンセサイズの秘儀”によって整合騎士に仕立てられた際、フラクトライトを改変されてそれ以前のことを一切合財思い出せなくなってしまったからだ。
今のアリスは、己が世界の平和と秩序を保ち、闇の侵略と戦うために神界から召還された騎士だと信じて、いや、そう思い込まされている。彼女にとって、神聖教会と最高司祭アドミニストレータの権威は絶対であり、そのアドミニストレータが、己の支配欲を満たすという目的のためだけに世界各地から秀でた人間を拉致しては手駒に改造しているのだ、などという説明は到底受け入れられるものではないだろう。
そもそも、どれほど言葉を尽くそうと、それだけではアリスの説得は不可能であろうと予測したからこそ、俺とユージオはカーディナルに与えられた短剣を使い、アリスを一時凍結させるという作戦を立てたのだ。今の状況は決して予定されたものではないが、それでも、俺のすべきことはただ一つ――アリスとの戦闘を回避しつつ再びユージオと合流し、彼の持つ短剣を使うチャンスを作り出すことだったはずだ。
考えなしの一言でその可能性をぶち壊しつつあるという焦りのなかで、俺は、必死に欠陥だらけの脳味噌を回転させた。アリスの表情を見れば、もはや言い間違いで押し通せる状況ではないことは明らかだ。
どう考えても、出来ることは二つしかなさそうだった。アリスとこの場で戦い、致命傷を負わせることなく気絶させて最上層まで運ぶか――あるいは、覚悟を決めて全てを話すか。
どちらを選ぶかは、アリスの何を信じるかによる。彼女の剣技が俺より劣ると信じるなら戦闘を、彼女の知性が俺より優ると信じるなら対話を。
数秒間の苦慮ののち、俺は決断を下し、襟首を吊り上げるアリスの烈火の如き視線を受け止めながら口を開いた。
「君には妹がいる、そう言ったんだ。話すよ……君が受け入れるかどうかは分からないけど、俺が事実と信じることのすべてを」
どうせ賭けるなら、相手が俺の予想を上回って優れていると思う部分に賭けたい、そう考えた俺の言葉に何がしかのものを感じたのか、今度はアリスが数秒間逡巡したあと、いきなり右手を開いた。
どすっと尻餅をついて落下した俺を、両膝立ちのまま高所から凝視する。恐らく、俺の言葉を聞く、という行為それ自体がすでに整合騎士としての範を外れるのだろう。彼女の中では、俺を一刀のもとに斬り伏せるべきだという衝動、いや命令と、自分の知らないことを知りたいと思う気持ちがせめぎあっているはずだ。
「……話しなさい。ただし……お前の言葉が、私を謀るものだと判断したら、その時点で斬ります」
低く押し潰したようなアリスの声に、俺は長く息を吸い込んで肚に力を溜めてから、ゆっくり頷いた。
「……いいよ、その判断が、真に君自身の心から出たものならな。なぜそんなことを言うかというと……君の中には、君以外の人間に植え付けられた後付けの命令が存在するからだ」
「……整合騎士の責務のことを指してそう言っているのですか、お前は」
「そのとおりだ」
頷いたとたん、アリスの水色の瞳がすうっと危険に細まる。しかし同時に、そこには隠せない感情の揺らぎも見てとれる。その揺れている部分こそが、アリス本来の心だろう。それに向けて語りかけるべく、俺は言葉を続ける。
「整合騎士は、神の代行者たる教会最高司祭アドミニストレータによって、秩序と正義を維持するために神界から召還されたものだ――と君たちは認識しているはずだ。しかし、そう信じているのは、実はこの世界では君たち整合騎士だけなんだ。世界に暮らす数万の一般民も、そして教会の司祭たち、当の最高司祭様だって、そんなことは思っちゃいない」
「何を……馬鹿なことを」
「誰でもいいぜ、今下界に降りて、央都の住民をつかまえてこう尋ねてみろよ。数年ごとに開催される四帝国統一武術大会の優勝者に与えられるものは何だ、ってな。そいつはこう答える。”決まってるさ、教会の整合騎士に任じられる栄誉に浴することだ”」
「整合騎士に……任じられる? 一般民が……? あるはずがない、そんな愚かしいこと。私は多くの騎士たちと日々接していますが、誰ひとりとして、もとは人間だったという者など居りません」
「逆だ。誰ひとり、もとは人間でなかったものなど居ないんだ」
俺は壁に預けていた上体を起こし、アリスの瞳を覗き込んだ。そこに必ずあるはずの、アリスの人間部分に向かって懸命に言葉を投げかける。
「君は、自分が神界とやらでどうやって生まれて育ったか覚えていないはずだ。最初の記憶は、アドミニストレータが君に向かって、あなたは天から使わされた神の騎士なのです、とか何とか話し掛ける場面だろう」
「…………」
図星だったらしく、アリスは僅かに体を引きながら軽く唇を噛んだ。
「……それは……神界の住人は、地上に遣わされた時点でステイシア神によって記憶を封じられるから、と……いつか地上全てに神の楽土を出来させ、整合騎士の責務を全うしたその時には、再び神の国に迎えられて封じられた記憶を……私の両親、きょうだいたちのことを全て思い出せると……」
黄金騎士の毅然たる声が、尻すぼみに揺れて消えた。
そこだ、と俺は直感的に思った。アリスは家族の記憶を、本人も自覚できない心の深奥で求めている。だからさっき、俺が口にしたシルカの名前に、激発的に反応したのだ。
「アドミニストレータの言っていることはごく一部だけ正しい。確かに君は記憶を封じられている。だがそれをしたのはステイシア神じゃなく、アドミニストレータ本人だ。そして封じられているのは神界の記憶じゃなく、君がこの人の世界で人の子として生まれ育ったという記憶なんだ。君以外の整合騎士……君の弟子のエルドリエだってそうだ。彼は帝国貴族の嫡子で、数年前の統一武術大会で優勝し、整合騎士になるという栄誉を得た。でも、それは本当に栄誉だったのか……エルドリエが俺たちとの戦闘中に倒れたのは、斬られたからじゃないぜ。彼の体に傷は無かっただろう。俺の相棒が、エルドリエの封印された”前世”を憶えていたせいで……エルドリエは、アドミニストレータに封印、いや奪われた、お母さんの記憶を刺激されてしまったんだ。でも、どうしても思い出せなかった、だから倒れた。当然だ、その記憶は、アドミニストレータが抜き出して保管しているんだからな」
「エルドリエが……人間の……貴族の子だと……?」
アリスの唇が一瞬わなないた。
「エルドリエだけじゃない。整合騎士の半分以上は大会で優勝した剣の達人だし……あくまで人間の、だぜ……その大部分が、幼い頃から剣技を習える環境にあった貴族の子女のはずだ。貴族たちは、子供を永遠に奪われるかわりに多大な金品と地位を得ている。そんな仕組みがもう何十年、何百年と続いているんだ」
「……信じられない……とても受け入れがたい」
これまで、教会と騎士の神聖さ、無謬を信じて疑わなかった黄金の騎士は、いやいやをするように首を左右に振った。
「私は……人間の貴族どもの、唾棄すべき行いをよく知っています。彼らは……禁忌目録に書かれていないあらゆる非道に手を染めている。司祭様は……ダークテリトリーを平定した暁には、腐敗した貴族たちも一掃すると……なのに……エルドリエの、他の騎士たちの親が、あの汚らわしい貴族だなどと……有り得ない。信じることはできません」
「その実証例を、君だって知っているはずだ」
俺はさらに身を乗り出し、詰め寄った。
「整合騎士見習いのアーシンとビステンを知っているだろう。あの子供たちは、もとは修道士見習いとして教会に入った貴族の子供だ。なのに、整合騎士を斬り殺して騎士見習いに取り立てられた。彼らは毒のナイフを使って俺たちも殺そうとしたよ。彼らこそ、整合騎士に必要なのは正義でも高潔さでもなく、ただの戦闘能力のみであるという証拠だろう」
「あの……二人は、あくまで例外で……騎士になれば、正しき秩序の守護者として目覚めるはずだと……」
苦しそうにそう口にするアリスの言葉に、俺は自分の声を被せる。
「そうだろうさ、アドミニストレータがそれまでの記憶を封じ、偽の記憶を埋め込んで騎士に仕立て上げるんだからな。恐らくその時点で、あの子供たちだけでなく、君達ほかの整合騎士全員の記憶も操作されるはずだ。アーシンとビステンが人間の子供だったということは忘れ、彼らもまた神界から召還されたのだと信じこまされる」
「馬鹿な!」
アリスは鋭く叫んだ。
「それこそ有り得ない! 司祭様が、私達の記憶を弄ぶような真似をなさるはずが……」
「あるんだ!」
俺も叫び返す。
「すでに同じことが何度も行われている! なぜなら、君達には……自分たちがこれまで連行した罪人たちに関する記憶その一切が存在しないからだ!!」
「ざ、罪人……?」
眉をしかめ、アリスは黙り込んだ。
「そうだ。君とエルドリエは、おととい俺と相棒を修剣学院から飛竜にくくりつけて教会まで運んだ。さすがにそれは憶えているだろう?」
「忘れるはずがありません。私が咎人を連行する任務を命じられたのはお前たちが初めてですから」
「それはどうかな。エルドリエの次に戦った、デュソルバート・シンセシス・セブンは君のことを憶えていなかったぞ。九年前、自分の手で北方から連行した君、アリスのことをな」
決定的な俺の言葉を聞いたアリスの顔から、みるみる血の気が引いた。額をひとすじの汗が流れ落ちる。
「デュソルバート殿が……私を、連行した? 罪人として……? つまり、私が……禁忌を、侵したと、お前はそう……言っている……?」
途切れとぎれの声ひとつずつに、俺は頷いた。
「そう、それこそが、貴族以外から整合騎士になった数少ない人間たちだよ。禁忌目録を侵すほどの強烈な意思力を備え、騎士となったあとは無類の戦闘力を発揮する。アドミニストレータにとっては一石二鳥だ、己の支配を揺るがす反乱分子を摘み取り、自分の強力な手駒に生まれ変わらせるんだからな。……君の話をしよう」
ここが、アリスに俺の言葉を受け入れさせられるかどうかの分水嶺だ。俺はありったけの真剣さをかきあつめ、両の眼に込めた。石のテラスにぺたんと座り込み、どこか心細そうに肩を縮めるアリスは、まるで何らかの託宣を待つかのように伏せぎみの瞳で俺を見た。
「君の、本当の名前はアリス・ツーベルクだ。北方の辺境にある、ルーリッドという小さな村で生まれた。ユージオ……俺の相棒と同い年だから、今年で二十歳になるはずだ。君が教会に連行されたのは九年前、つまり事件は十一歳のときに起きた。君はユージオと二人で、果ての山脈を貫く洞窟を探検に行き……洞窟を抜けた先、つまり人界とダークテリトリーとの境界線を一歩踏み出してしまったんだ。君が侵した禁忌は”ダークテリトリーへの侵入”、何を盗んだわけでも傷つけたわけでもない……いや、むしろ君はあのとき、死にかけた暗黒騎士を助けようとして……」
不意に俺はそこで口をつぐんだ。
俺はユージオからそこまで聞いたのだろうか? そのはずだ、二年前にアンダーワールドにやってきた俺が、そのはるか七年も前のことを詳しく知るはずもない。なのに、何故か俺の眼前には、血の筋を引きながら落下する黒い騎士と、それに向かって駆け寄ろうとするアリスの白いエプロンがまるで自分で見た光景であるかのように一瞬閃いた。耳の奥で、アリスの靴がダークテリトリーの石炭殻のような石を踏む、じゃりっという音までが再生された気がした。
俺はすぐに我に返ったが、アリスのほうにも、不自然に途切れた俺の言葉を気にする余裕は無かったようだ。蒼ざめた頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が低く漏れた。
「アリス……ツーベルク……それが私……? ルーリッド……果ての山脈……思い出せない、何も……」
「無理に思い出そうとするな、エルドリエみたいになるぞ」
俺は慌ててアリスの言葉を遮った。ここでアリスの”行動制御キー”が不安定になり、エルドリエの時のように他の騎士が回収にきたりしたら大事だ。しかしアリスはきっと俺を睨み、声を震わせながらも毅然と言った。
「今更何を言うのです。私は全てを知りたい。まだお前の話を信じたわけではありませんが……それは、お前が何もかもを話してから決めます」
「……わかった。と言っても、俺が知っていることはそれほど多くないけどな……。君の父親はルーリッドの村長で、名前はガスフト・ツーベルクだ。残念ながら母親の名は、俺は知らないけど、さっき言ったとおり妹が一人いるよ。シルカって名前で、今は教会でシスター見習いをしてる。彼女とは何度も話したよ、お姉さん思いのいい子だった……教会に連行された君のことをずっと気にかけていた。ルーリッドに居た頃の君もシスター見習いで、神聖術の天才と呼ばれてたそうだ。そんなお姉さんのあとを継いで、立派なシスターになろうと、一生懸命がんばってたよ」
俺が口を閉じたあとも、アリスは何の反応も示さなかった。
先ほどまでの、動揺にも似た表情は消え去り、星灯りの下でも艶やかに白い顔は、ある種のマスクのように俺の眼前で微動だにしない。恐らくいま彼女は、俺が出したいくつかの固有名詞を記憶の底から呼び覚まそうとしているのだろうが、それがどうやら失敗に終わりそうなことは最早明らかだった。
だめだったか――。
俺は内心で肩を落とした。アドミニストレータの記憶封印術は予想以上に強力だ。俺などの言葉では抗すべくもない。打ち消せるのは同じ管理者権限を持つカーディナルのみ、しかもそれにはアドミニストレータの手に有るアリスの記憶ピースが必要なのだ。
落胆しながら、俺はアリスの、お前の言葉は欺瞞だ、という宣告を待った。
その時、アリスの唇が小さく動き、短い音が発せられた。
「シルカ」
続けて、もう一度。
「シルカ……」
蒼い瞳がうごき、ふっと頭上の星空に向けられた。
「思い出せない。顔も、声も。でも……この名前を呼ぶのは初めてじゃない。私の口が、舌が、喉が憶えている」
「……アリス」
俺は息をのみ、ささやいた。もはやアリスは、俺の存在など眼に入らぬ様子で、尚もかすかな声で続けた。
「何度も呼んだ。毎日、毎晩……シルカ、シル……シー」
アリスの、長い睫毛に透明な液体が珠のように溜まり、溢れて、星の光を受けて煌めきながらこぼれ落ちるのを、俺は信じられないものを見る気持ちで見つめた。涙はあとからあとから湧き出して、俺とアリスの間の床石にかすかな音を立てて落ちつづける。
「本当なのね……。私に、家族が……妹が。血を分けた妹が……この空の下の、どこかに……」
たどたどしい声は、込み上げる嗚咽にせき止められ、アリスは子供のように喉を鳴らした。
「アリス……」
思わず伸ばした俺の右手を、アリスは見もせずに、自分の手の甲で強く払った。
「見るな!!」
半ば泣き声でそう叫んだアリスは、乱暴に俺の胸を衝き、篭手のないほうの手で何度も眼を拭った。しかし涙は止まることなく、騎士はくるりと振り向くと、立てた膝の間に顔を埋め、激しく両肩を震わせた。
「う……うぐっ……ううっ……」
声を押し殺し、号泣するアリスの背中を見ているうち、いつしか俺の目にも涙が溜まっているのに気付いた。そんな場合ではないと分かっていながら、俺も目尻に滲む液体をとどめることはできなかった。
必ず――。
必ずや、アドミニストレータを倒し、アリスを故郷に連れていくのだ。俺は改めてそう決意しながら、自分の涙の半分は、ただのもらい泣きではないことを意識していた。
俺とユージオがその目的を果たしたとき、ルーリッドでシルカと再会するのは、目の前にいるこのアリスではないのだ。かつての記憶を取り戻したとき、アリスはユージオとシルカ、そしてルーリッドで過ごした日々のことを思い出し、同時に整合騎士であった九年間のことを忘れる。
あるべき形に戻るだけだ、そう言い聞かせようとしたものの――俺は、背中を向けて子供のように泣きじゃくる最強の騎士にして一人の女の子が憐れだと思うことをやめられなかった。恐らく、九年に及ぶ孤独の日々のなか、心の奥底では常に、失われ二度と手の届かない家族の暖かさを渇望しつづけてきたのであろう整合騎士アリス・シンセシス・フィフティが、どうしようもなく不憫でならなかった。
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激しい嗚咽が、徐々にその音量を落とし、やがてひそやかなすすり泣きへと終息するまでにずいぶんと長い時間がかかった。
俺のほうは少しばかり先んじて緩んだ涙腺のバルブを閉め直し、今後の展開へと思考を切り替えていた。
現在想定し得る、最も理想的な展開とは、次のようなものだろう。
登攀を再開し、邪魔されることなく塔内へと戻ったら、アリスとの戦闘を対話と説得によって回避し、ユージオと合流する。残る障害、最古にして最強の整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンをどうにか倒す、あるいはこれも説得し(ユージオが退けていてくれたなら申し分ないが!)、究極の敵アドミニストレータが眠る最上階へと突入する。
最高司祭が目覚めないうちに、ユージオが温存しているはずの短剣を突き刺し、カーディナルから一方的に送り込まれる破壊的コマンドによって無力化、あるいは消滅させる。そして秘匿されているアリスの記憶中枢を回収し、彼女の記憶と人格を復元する。
しかる後に俺は現実世界へと連絡を取り、菊岡誠二郎と交渉して現アンダーワールドの永久保存の確約を取り付け、間近に迫る”負荷実験段階”への突入も停止させる。アンダーワールドの平和的調整をカーディナルに一任し、アリスとユージオをルーリッドに送り届け、状況が落ち着き次第、彼らにこの世界とその外側に広がる世界についての真実を話す。そこでようやく俺は現実へとログアウトし、ユージオたちのフラクトライトを、広大無辺な外部ネットワークへと導く。彼らを、いわば人工フラクトライト達の”大使”として、アンダーワールド住民の存在を現実世界の人間たちに認めさせる――。
ざっと考えただけでも、気が遠くなるほどの高難易度ミッションの連続だ。すべての段階が、成功率五割……いや三割、二割を下回ると思えてならない。
しかし、もう俺は立ち止まることの許されない地点にまで達しているのだ。アンダーワールドで過ごした二年半、いや、もしかしたらSAOにログインしたあの日からの長い、長い時間すべてが、ユージオたち新しい人類、新しい知性を現実世界へと解き放つという目的のために存在したのかもしれないのだから。
茅場晶彦は、アインクラッドが崩壊するあの真っ赤な夕焼け空の下で、こう言った。自分は、ただ、ほんとうの異世界を創りたかっただけなのだ、と。
俺は別に、あの男の目的を引き継いだつもりはまったくないが、真なる異世界というべきものは、まさにいま俺の眼下に遥か地平線まで広がっている。そして、茅場の人格コピーが俺に託した”ザ・シード”パッケージは、すでに現実世界におけるVR空間のデファクト・スタンダードとなり、偶然か必然か、ユージオたちアンダーワールド民はザ・シード世界と互換性のあるインターフェースを備えている。
SAO世界において、二年間ものあいだ多くの人々が戦い、死に、そして生きた意味をどこかに求めるとするならば――それは、ユージオたち新人類が現実世界において創りあげる何かにのみ見出されるのだと、そう考えてしまうのは、俺の感傷だろうか?
ともあれ、俺はもう引き返すことはできない。ルーリッドの南の森で目覚めてから、長い時間をかけてこの塔のほぼ天辺まで、ほとんど腕を伸ばせば最終目標に届くところにまでやってきたのだから。あとはもう、頭と剣技のすべてを絞り尽くして邁進するだけだ。
しかし、ほんの小さな、しかし無視できない問題があるとすれば。
先に列挙したクリアすべき段階のうち、俺が果たして心の底から望んでいるのかどうか定かでないものがたったひとつだけあるということだ……。
「……お前は、さいぜん言いましたね」
こちらに背を向け、膝を抱えて蹲ったまま、不意にアリスがそう呟いた。
俺は、混迷の度合いが深まるいっぽうの思考を一時中断し、顔を上げた。すこし間をおいて、まだ湿り気の残る細い声で、アリスが続けた。
「塔の壁が破れ、外に放り出されたあと……お前は、このような反逆を企てた目的は、最高司祭様の過ちを正し、人の世を守るためだ、と言った」
「ああ……そのとおりだ」
あまりにも多くを省いた言葉だが、そこに欺瞞はない。俺はアリスの背中を流れる金髪に向けて頷く。
「まだ、お前の言葉を全て信じたわけではありませんが……塔の外壁に、闇の国のドローンが配置されていたり……整合騎士が、神界ではなくこの人界から集められ、記憶を封じられて造られたのだという話も、どうやら本当のようです。つまり、最高司祭様が、忠実なしもべたる我ら整合騎士を深く欺いておられるのは否定できない……」
俺は息を飲んでアリスの言葉に聞き入った。
記憶を改変され、行動原則キーなるものを思考回路に挿入された整合騎士は、アドミニストレータへの絶対なる従属を魂レベルで強制されているはずだ。事実、これまで出会った整合騎士たちは、俺たちがどれほど言葉を尽くそうと教会への疑義をひとかけらでも表すことはなかった。
それを考えれば、アリスがいまの台詞を口にできたことがすでに驚異的としか言えない。やはり彼女には何か、他の人工フラクトライトにはない秘密があるのだろうか。見開いた俺の目の前で、小さく手足を抱えたまま、黄金の騎士は囁くように話しつづける。
「しかしいっぽうで、最高司祭様が我らに与えた第一の使命が、ダークテリトリーの侵略からの人界の防衛だというのも事実なのです。現にいまも十名以上の整合騎士が飛竜にうち跨り、果ての山脈で戦っているし、私も長らくその任についていました。最高司祭様が整合騎士団を編成せず、その防衛力が存在しなければ、人界は遥か昔に暴虐極まる侵略に晒されていたでしょう」
「そ、それは……」
それは、この世界のあるべき姿ではないのだ――整合騎士たちが独占し続けている成長リソースは本来、多くの一般民に与えられるべきものだったのだ、などと、今言っても理解してはもらえまい。言葉に詰まった俺にむけて、アリスはさらに静かだが厳しい声を投げかけてくる。
「お前は、私が生まれ育ったという……今でも私の両親と妹が暮らしているというルーリッドなる村が、北方の辺境、果ての山脈の麓にあると言った。つまり、ダークテリトリーの侵略が始まれば、真っ先に蹂躙される地域です。もしお前たちが全ての整合騎士を退け、最高司祭様をも刃にかけたとして、その時はルーリッドを含む辺境の地を、いったい誰が守るというのです? まさか、お前たち二人だけで、闇の軍勢を平らげてみせるとでも?」
細い背中はまだ小刻みに震えているが、しかしアリスの声には確たる意思が刻み込まれていて、俺はすぐに答えることができなかった。人の世をなんとしても守るのだ、というアリスの裏表のない決意に比べ、俺の抱え込む隠し事のなんと巨大なことか。
唇を噛み、今ここで全てを――この世界が造られたものであるということも含めて何もかもをぶち撒けてしまいたいという衝動を堪えてから、俺は口を開いた。
「なら、逆に訊くけど……君は、整合騎士団が万全の態勢を以って迎え撃てば、来るべきダークテリトリーの総攻撃を完全に退けられると、本当に信じているのか?」
「……それは……」
今度は、アリスが言葉に詰まった。
「俺も昔、闇の国のゴブリンの一隊と戦ったって話はしたよな。……闇の軍勢では最下級の兵士であるはずのゴブリンでさえ、剣技も、腕力も、恐るべきものだった。ダークテリトリーには、あんな奴らが何万とひしめいているんだし、その上に君たちと同じように飛竜を駆る暗黒騎士、そして司祭級の術式を操る暗黒術士がごまんと控えているんだ。たとえ全整合騎士を揃え、アドミニストレータ本人が出陣したとしても、そんな寡兵で防ぎきれるようなもんじゃないぞ」
無論これはカーディナルからの受け売りだが、アリスにも同様の認識はあったらしく、これまでのように即座に鋭い舌鋒で切り返してくることはなかった。しばしの沈黙ののちに、苦しげな声が低く絞り出される。
「……確かに……騎士長ベルクーリ殿も、胸の裡には、同様の懸念を秘めておいでのようでした。ダークテリトリーの精兵はすでに数万の規模で整えられ、それらが一斉に四方から押し寄せてきたら我が騎士団だけでは抗しきれまい、と……。――しかし、だからと言って、人界には我らのほかに戦力と呼べるものなど無いのもまた事実。剣やその他の武術を学ぶ者は貴族を中心に数多いですが、美々しい型のみを追い求め、一滴の血も見たことのない彼らに実戦などできようはずもない。結局……三神のご加護を信じて、我らが戦うしかないのです。お前ならこの状況は理解できるでしょう」
「君の言うとおり……今の人界には、実際に闇の軍勢と戦える力を持つのは整合騎士しかいないだろう」
俺は言葉を選びながら、慎重に答えた。
「だが、それはアドミニストレータが望んで作り出した状況なんだ。最高司祭は、自分の完全なる制御が及ばない戦力が人界に発生するのを恐れた。だからこそ、武術大会の優勝者や禁忌目録の違反者をかきあつめ、記憶を封じ忠誠心を植え付けて整合騎士に造り変えてきたんだ……数百年に渡ってね。つまり言い換えれば、アドミニストレータは、君達……俺たち人間を信じちゃいないんだ、これっぽっちも」
「!!……っ」
アリスの背中がぴくりと強張った。
「もし、最高司祭が、自分の支配する人間たちを信じ、きちんとした訓練を受け装備の整った軍隊を編成していれば、今ごろはダークテリトリーにじゅうぶん伍し得る戦力が人界にもあったはずだ。しかし最高司祭はそうしなかった。もし戦時となれば真っ先に剣を取るべき上級貴族たちに怠惰と放埓を許し、結果彼らの魂は澱みきってしまった……俺と相棒が斬った、あの男のように」
修剣学院の初等練士、ティーゼとロニエを襲った悲劇を思い出すとずきりと胸が痛む。あの惨たらしい出来事は、まだほんの三日前のことなのだ。彼女らは今も心身に負った深い傷に苦しんでいるだろう。もしこのまま負荷実験段階が到来し、人界が闇の侵略に飲み込まれれば、あのような悲惨が数限りなく出現するのだ。
鋭い疼きを押し殺し、俺は口を動かしつづける。
「でも……まだ、全てが手遅れになってしまったわけじゃない。ダークテリトリーの軍勢が押し寄せてくるまでに残された時間が、あと一年か二年かわからないけど……それまでに、人界にも出来るかぎりの規模の軍隊を整えるんだ」
「出来るわけがない、そんなこと!」
アリスが鋭く叫んだ。
「お前も今言ったばかりではありませんか、この世界の貴族たちがどれほど腐敗しているか! 戦争が始まるから剣を取れと、四皇家や大貴族に命じたとたん、彼らは逃げ出す算段を始めるに決まっている!」
「ああ、確かに上級貴族に戦う気概は無いだろうさ。でも、そんな人間ばかりじゃないんだ。下級貴族や、多くの一般民には、なんとしても家族を、町や村を、そしてこの世界を守ろうという強さと誇りを持った者たちが沢山いるんだ。彼らに、この塔に蓄積されている膨大な武具を全て分け与え、君らが磨いた本物の剣技と神聖術を学ばせれば、一年で立派な軍隊を作り上げることも不可能じゃない。少なくとも、それを背景に、闇の勢力と交渉を行えるくらいのな」
無論――実際に戦争へと突入してしまう事態は避けねばならない。ダークテリトリーの住人とてもまた、本物の魂をもつ人工フラクトライト達なのだから。
首尾よく外部のラースに向けてチャンネルを開き、実験の凍結を受け入れさせられれば戦争は回避できる。しかし、もしそれに失敗すれば、人界を襲う悲惨な運命をキャンセルするために、カーディナルが全アンダーワールドを消去してしまう。あの頑固な管理者様にその決意を翻させるためには、人間の軍隊を背景としたダークテリトリーとの和平交渉という可能性に一縷の望みを繋ぐしかない。
「一般……民を……?」
掠れた声で呟くアリスに、俺はさらに畳み掛けた。
「そうだ。無理な徴兵をしなくとも、義勇兵を募るだけで充分な戦力が集まるはずだ……すでに、各々の街や村には衛士隊も編成されてるんだしな。俺の言ってることが決して夢物語じゃないことは君にもわかるだろう。だが……それとは別の理由によって、今のままじゃ、これは絶対に実現不可能な話なんだ」
「…………最高司祭様が……お許しになるはずがない」
アリスは苦しそうな声を低く絞り出した。
「そう、そのとおりだ。説得することすら不可能だろう。忠誠を魂レベルで強制できない軍隊なんて、アドミニストレータにとっては、闇の軍勢以上に恐ろしいものだろうからな。つまるところ……結論は一つなんだ。最高司祭アドミニストレータの絶対支配を打ち破り、残されたわずかな時間を最大限有効に使って、来るべき侵略に対抗できる防衛力を作り上げるしかない」
アリスの背中にそう告げながら、俺は大いなる皮肉を感じずにはいられなかった。
菊岡誠二郎率いるラースがこのアンダーワールドで壮大な実験を行っているのは、つまるところ、彼の属する自衛隊に、周辺諸国――ひいては太平洋の向こうの強大な軍事国家にすら抗えるほどの”防衛力”を備えさせるという目的のために他ならないのだろう。俺はユージオたち人工フラクトライトが、そんなふうに兵器として利用されるなんてことはどうしても容認できないと思っている。なのに今、抑止力としての戦力――などといかにも菊岡が言いそうなことを口にしているのだ。
そんな俺の忸怩たる思いなど知るよしもないアリスは、俺とは別の理由によって再び長い沈黙を続けていた。
今彼女は、魂に刻み込まれた神聖教会への忠誠と、数時間前に会ったにすぎない薄汚れた侵入者の言葉を心の天秤にかけているのだろう。表面上は抑制されているが、その葛藤、苦しみは、大変なものがあるはずだ。
やがて――。
ぽつり、と大理石の床に声がこぼれ落ちた。
「……会えますか」
「え……?」
「もし、お前に協力し……奪われた私の記憶を取り戻せたら、私はもういちどシルカに……妹に会えるのですか」
俺は思わず息を詰めた。
会える。会うことにはなんの問題もない。でも……。
今度は俺が長いあいだ言葉を失った。アリスは相変わらずこちらに背中を向けたまま座り、立てた膝を両腕で抱え込んでじっと俺の答えを待った。
「……会えるよ。飛竜を使えば、ルーリッドまでほんの一日、二日だろう。けれど……いいか、よく聞いてほしい」
俺はわずかに前ににじり寄り、アリスの左の耳に顔を近づけて、その先を口にした。
「シルカと再会するのは、君であって君じゃない。記憶を取り戻したその時、君は九年前の……”シンセサイズの秘儀”を受ける前のアリス・ツーベルクへと戻り、同時に整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは消滅するんだ。今の君の人格は、整合騎士として生きてきた九年間の記憶とともに消え去り、その体を本来の人格へと明渡す……残酷なことを言うけど……今の君は、アドミニストレータによって作られた”仮のアリス”、仮の人格なんだ」
ゆっくり、ゆっくりとそう告げる俺の言葉を聞くうちに、アリスの肩が二度、三度と震え、頭が両腕のあいだに低く埋められた。
しかし、先ほどのように、嗚咽が漏れることはもうなかった。
やがて懸命に感情を押し殺された声が、俺の耳にかすかに届いた。
「……整合騎士が人より造られたという話を聞いたときから……そういうこともあろうかと……思っていました。私は……この体を、アリスという名の少女から奪い取り、道具として使ってきた……そうなのでしょう」
俺にはもう、かけるべき言葉が見つからなかった。これまで信じてきたものが全て崩れ落ちていく衝撃に、おそらくは必死に耐えながら、なおもアリスは語りつづけた。
「盗んだものは……返さなくてはね。それが……妹の、両親の、お前の友人の……そしてお前自身の望みでもあるのでしょうから」
「…………アリス」
「ただ……ひとつ、ひとつだけ頼みがあります」
「それは……?」
「この体に本来のアリスの人格を復元する前に……私をルーリッドの村に連れていってくれませんか。そして、物陰から……ほんのひと目だけでいい。シルカの……妹の姿を、そして家族の姿を見せてほしいのです。それだけ叶えられれば、私は満足です」
言葉を切り、アリスはゆっくりと首を回して、肩越しにちらりと俺を振り向いた。
その瞬間、いつの間にか頭上にのぼっていた月が、黒い雲間からさっと一条の光を投げかけた。金色の光の粒に輪郭を縁どられながら、アリスは幼子のように赤く泣き腫らした目の縁をやわらげ、かすかに微笑んだ。
俺は思わず顔を伏せ、きつく歯を食い縛った。
アリスの記憶を取り戻す。
それが、俺の無二の相棒であるユージオのたったひとつの望みだ。つまり同時に俺の望みでもあるはずだ。
しかし――それは、いま眼前で心細そうにうずくまる一人の少女の死と同義だ。
やむを得ない犠牲、やむを得ない優先順位。
これは、どうしようもないことなのだ。
「ああ……約束する。誓うよ」
俺は視線を伏せたまま、そう声に出した。
「記憶を復元する前に、必ずルーリッドに連れていく」
「……絶対ですよ」
念を押すアリスに、ふかく頷き返す。
「わかりました。それでは……人の世を、この平和を守るために、私、アリス・シンセシス・フィフティは、今より整合騎士の使命を捨て……っ……あっ……!!」
突然アリスの声が、鋭い悲鳴とともに途切れ、俺は驚いてがばっと顔を上げた。
すぐ目の前で、アリスが白い顔をおおきく歪め、両手で強く右目を押さえている。激痛を示して唇が破れるほどに噛み締められ、仰け反った細い喉が絶叫を飲み下そうとするかのように二度、三度と痙攣する。
俺は驚愕しながらも、同時に、三日前に見たあの光景を想起していた。
ライオス・アンティノスの右腕を斬り飛ばし、血刀をぶら下げたユージオ――その右眼は跡形もなく吹き飛び、噴き出した鮮血が赤い涙となって頬に流れていたのだ。
一晩を費やした治癒術によって眼はどうにか復元できたのだが、施術の最中、ユージオはぽつりぽつりと語った。ライオスを斬ろうとした瞬間、右手がまるで自分のものでなくなってしまったかのように凍りつき、同時に右目に凄まじい痛みが走った、と。そして眼前に、真っ赤に光る、見慣れぬ神聖文字が出現したのだ、と――。
今アリスを襲っているのは、ユージオの語ったものと同一の現象だろう、恐らく、禁忌と認識しているものを侵そうとすると発現する、何らかのセキュリティ・ブロックなのだ。
「何も考えるな! 思考を止めるんだ!」
俺は叫び、アリスに飛びついた。
「あ……うああ……っ」
耐えかねるように細い悲鳴を漏らすアリスの手首を握り、右目から外す。
「!?」
碧玉の色をしているはずのアリスの瞳に、ちらちらと明滅する赤い光を見つけて、俺は息を飲んだ。光の正体を確かめるべく、間近から覗き込む。鼻先が触れ合うほどの距離にまで双方の顔が接近し、数秒前までならこの瞬間俺の首がすっ飛んでいてもおかしくないが、アリスにももう俺の行為を咎める余裕はまったく無いようだった。
見開かれたアリスの右目の、真円を描く蒼い光彩。
その周囲に、赤く発光する微細な縦ラインが行列を作り、ぎりぎりと回転している。ラインには三種類ほどの異なる太さがあり、それらがランダムに並んでいる。まるで――。
まるでバーコードだ。
俺は、ユージオの話を聞いたときから、この心理ブロックを組み上げたのはアドミニストレータだと推測していた。しかしこれまで、この世界でバーコードなどというものを眼にしたことはついぞ無かった。
アドミニストレータの仕業ではない……? しかし、となると、一体何者が……。
その瞬間。
円形のバーコードの回転が停止し、アリスの収縮した瞳孔の真上を横切って、奇妙な記号の羅列が、これも真紅に輝きながら浮かび上がった。”TЯヨ」A MヨT2Y2”、俺の目にはそのように見て取れた。
それが何を意味しているのか、俺はいっとき戸惑ってから、すぐに悟った。
鏡文字なのだ。文字列の直下にあるアリスの瞳には、左右に裏返したかたちに見えているはずだ。つまり、”SYSTEM ALERT”と。
システムアラート。俺にとっては、PCを操作していると時折ポーンというビープ音とともに出てくる不愉快なアレ、として馴染みのある代物だが、しかしアリス達アンダーワールド人には何の意味も持たない単語だ。この世界では基本的に日本語のみが用いられ、英語は”神聖文字”、つまり人間には理解不能でありまた理解する必要もないものとして扱われている。
神聖術を使う者であれば、例の”システム・コール”を始め様々な英単語を頻繁に口にはするものの、それらが具体的になにを意味しているのかは一切知らない。現実世界のRPGで、回復呪文や攻撃呪文を使うときに口にする奇妙なカタカナの呪文が、言語的にはどのような意味を持っているのか俺たちプレイヤーがまったく気にしないのと一緒だ。
つまるところ、このSYSTEM ALERTという文字列は、アンダーワールドでは完全に意味を成さない代物なのだ。アリスに見せても何の効果もない。よって、この心理的ブロックをアリスやユージオたちアンダーワールド人に組み込んだのは外部世界の人間――具体的にはラースのスタッフである誰かだ。
高速回転する俺の思考を、至近距離で発せられたアリスの押し殺した悲鳴が遮った。
「く……あっ……眼が……! 何か……おかしな……モノが、見える……!?」
「何も考えるんじゃない! 頭をからっぽにするんだ!!」
慌ててそう叫び、俺はアリスの小さな顔を両手で挟みこんだ。
「君が今見ているソレは、禁忌を破ろうとすると現れるブロック……障壁のようなものだ。右目に痛みを発生させて、禁忌への無条件服従を誘導しているんだろう……そのまま考え続けると右目が吹っ飛ぶぞ!」
咄嗟にそう説明したが、しかしこの場合は言えば言うほど逆効果かもしれない。どんな人間だって、考えるなと言われて考えるのを止めたりするような器用な真似はできない。
俺の声を聞いたアリスは、ぎゅっと両目を瞑り、唇を噛み締めた。しかし、瞳の表面に貼り付く赤い文字列は、それで見えなくなることはないだろう。華奢な両手が持ち上げられ、俺の両肩をシャツ越しにきつく掴む。小さな悲鳴が断続的に喉のおくから漏れるたび両手に物凄い力が込められ、俺の筋肉と骨がみしみしと軋むが、アリスの堪えている痛みはその比ではないだろう。
せめて思考を止める助けになればと、アリスの顔を両の掌でしっかり挟みながら、俺はなおも推測を積み重ねる。
アリスを含む一部の整合騎士は、すでにいちど禁忌を破っている。そのせいでアドミニストレータに発見され、洗脳処置を施されたのだから。
しかし、アリスに限って言えば、九年前”ダークテリトリーへの侵入”罪を犯したとき、右目が吹き飛んだというような事実はないはずだ。ユージオからそのような話は一切聞いていない。彼が語ったところによれば、アリスはふらふらと無意識的に境界線を踏み越えてしまったということらしい。つまりその際、自発的に禁忌を破ろう、という明確な思考はアリスの意識には無かったと思われる。
現在彼女を襲っている心理ブロックは、あくまで禁忌を積極的に侵害しようという意思にのみ反応するのだろう。そのような行動を意識したとたん、まず右目の痛みで、次にSYSTEM ALERTの赤文字で対象者の思考を乱し、改めて禁忌への畏怖を植え付ける。ただでさえ規則を破るという性向を持たないアンダーワールド人に、このような神の御業としか思えない障壁を施せば、彼らの法への従順性はかぎりなく完璧に近づくだろう。
ただ、この障壁をラースのスタッフが埋め込んだと考えるとき、そこには大きな矛盾が発生する。
なぜなら、首謀者の菊岡は恐らく、禁忌を破れる人工フラクトライトを求めてこのような壮大な実験を延々続けているはずだからだ。せっかくアンダーワールド人がブレイクスルーに近づいても、こんな粗雑で暴力的な心理ブロックでそれを無理矢理押し止めてしまっては、本末転倒以外の何ものでもない。
つまりこのブロックは、ラーススタッフの手になるものであっても、菊岡以下の首脳の預かり知らぬものなのではないか? それを端的に表現するならば、内部の反乱分子によるサボタージュだ。ラースに潜り込んだ何者かが、意図的に実験の成功を遅らせているのだ。
ならばその人物の目的は何か?
ヒースクリフ……茅場晶彦の仕業なのか、と俺は一瞬考えたが、すぐにそれを打ち消した。彼もまた、目的は違えど真正人工知能の発生を望んでいるはずだ。だいたい、こんな世界のルールを無視した粗暴な手段は彼のスタイルではない。やはりこれは、ラースという組織そのものへの敵対者のしたことだろう。
ラース=自衛隊内部の菊岡派とでもいうべき先鋭化した一部勢力と考えるとき、それに敵対する勢力は数多く想定できる。もちろん自衛隊の主流派、そして国内の防衛産業を独占する財閥系メーカー、考えを飛躍させれば無人兵器群による自衛隊の軍備増強を警戒する周辺アジア国家すら含まれる。
しかし、もしそれら巨大勢力がラースのサボタージュを企てたとき、このような手の込んだ手段を採るだろうか? ライトキューブ中のフラクトライト原型に妨害プログラムを組み込めるほどの中枢アクセスが可能な人間ならば、もっと手っ取り早く、アンダーワールドの本質たるライトキューブクラスターを爆破なりしてしまうこともできるのではないか。
つまりこれを企てた人間は、実験の遅延は意図しているが、完全な消滅は望んでいないということになる。遅延させ、何かを待っているのだ。準備に時間のかかる、大掛かりで最終的な作戦が実行されるのを。例えば――
ライトキューブクラスターを含む、人工フラクトライト研究すべての奪取だ。
アンダーワールドには、外部世界のさらに外側からも危険が迫っている。その可能性を認識し、俺は慄然とした。ますます、一刻もはやく菊岡に連絡を取る必要がある。
「……ひどい……」
俺の両手のなかで、懸命に痛みに耐えるアリスが、喘ぎ混じりの声を絞り出した。
はっと我に返り、俺は整合騎士の顔を見下ろした。
常に優美なラインを保っていた眉がきつく顰められ、両の瞼もしっかりと閉じられている。目尻には小さな涙の玉が宿り、唇は血が滲むほどに噛み締められている。
その、白く色の失せた唇がわななき、再びかすかな言葉が発せられた。
「ひどい……こんなの……。記憶……だけでなく、意識すらも……誰かに操られる……なんて……」
俺の両肩を掴むアリスの両手が、痛み以外の感覚、悲しみかあるいは怒りによって更にきつく握り締められる。
「これを……この神聖文字を……私の眼に焼きこんだのは……最高司祭……様なのですか……?」
「……いや、違う」
俺は無意識のうちにそう答えていた。
「この世界を、外側から観察している……君らが神と呼ぶ存在、そのうちの一人がしたことだ」
「神……」
アリスの目尻から、涙の粒がいくつか転がった。
「私が……私達が、これほど信じ、帰依し、その教えを守るために……無限の日々を戦ってもなお……神は私達を……信じてくださらないのですか。私から妹を……妹から私を奪い、思い出を、命すらも書き換え、そのうえこのような……疑うことすらも……許さないなんて……」
九年という時間をただ神の騎士としてのみ生きてきたアリスが、今どのような衝撃と混乱に見舞われているのか、俺には想像することもできなかった。息を詰め、見守ることしかできない俺の眼前で、突然アリスの両目がかっと見開かれた。
右目の蒼い光彩を横切る鏡文字は、一層血の色の輝きを増している。しかしアリスはそれを意に介する様子もなく、ただまっすぐ上を――黒雲の隙間からのぞく丸い月を凝視した。
「私はモノじゃない」
荒い呼吸のなかにも確固たる激しさを込めて、アリスが叫んだ。
「私は確かに、造られた人格、盤上の駒かもしれない。でも私にも意思はあるのです! 私はこの世界を……人間の世界を守りたい。家族を、妹を守りたい。それが私の果たすべき使命です!」
キイイイン、と耳障りな金属音を放ち、鏡文字が高速で明滅を開始した。光彩を取り囲むバーコードも、再び目まぐるしく回転をはじめている。
「アリス……!」
もう今すぐにでも起こりうる現象を懸念し、俺は叫んだ。アリスは俺に視線を向けることなく、切れぎれの声で囁いた。
「キリト……私を、しっかり押さえていて」
「…………」
俺にはもう、何も言えなかった。かわりに、右手をアリスの背に、左手を頭の後ろに回し、両腕に強く力を込めた。黄金の鎧を通して、早鐘のように、しかししっかりと鳴り響くアリスの鼓動が伝わる。
アリスは俺の右肩に頭を乗せ、ぐいっと顔を反らせて、まっすぐに天を振り仰いだ。
「最高司祭……そして神よ!! 私は……私の成すべきことを成すために、あなたと、戦います!!」
凛と響く独立の宣言。
その残響に重なるように、ばしゃりという破裂音が続いた。俺の頬と首筋に、暖かい液体が大量に降りかかった。
ユージオ。
ユージオ……。
どうしたの、怖い夢を見たの?
ぽっ、と柔らかい音を立てて、ランプが小さなオレンジ色の光を灯した。
廊下に立つユージオは、両腕に抱いた枕に半ば顔をうずめ、少しだけ開いたドアの陰に身を隠すようにして暖かな光の源を見つめた。
部屋の奥には、粗末な木のベッドが二つ並んでいる。右側のほうは空だ。洗いたての上掛けがひんやりと畳まれている。
左側のベッドには、ほっそりとした人影が横たわり、上体をもたげてこちらを見ていた。右手に掲げたランプの、揺れる光のせいで顔はよく見えない。艶のある純白の寝巻きの少し開いた胸元からは、いっそう白く滑らかなふくらみが覗いている。ベッドに流れる長い髪は絹のように細く、柔らかそうだ。
ランプの向こうにどうにかそこだけ見える口許の、薔薇のように紅い唇がほころび、再び声が流れ出た。
そこは寒いでしょう、ユージオ。さあ、こっちにいらっしゃい……。
そっと持ち上げられた上掛けの奥は、とても暖かそうなとろりとした暗闇に満ちていて、不意にユージオは全身を包む凍るような冷気を意識した。いつしか足が戸口をまたぎ、不思議に縮んでしまった歩幅でとことことベッドに向かう。
近づくほどに、なぜかランプの光は小さくなり、ベッドに横たわる女性の顔を見ることはどうしてもできない。しかしユージオはそんなことを一切気にせず、ただあの暖かな暗がりに潜りこみたい一心で足を動かす。
ようやく辿り着いたベッドは、腰の高さほどもあって、ユージオは抱いていた枕を投げ出すとそれを踏み台にしてどうにか寝台によじ登った。とたん、ふわりと分厚い布が体を覆い、世界が闇に包まれた。ある種の渇望に急かされるように、ユージオはその奥へ奥へとにじり進んだ。
伸ばした指に、暖かく柔らかなふくらみが触れた。
ユージオは夢中でそれに縋りつき、顔を埋めた。しっとりとした肌が、まるでユージオを飲み込もうとするかのように優しく蠢く。
痺れるような満足感と、しかしそれに倍する餓えに翻弄されながら、ユージオは懸命に暖かな躯にしがみついた。滑らかな腕が背中を抱き、頭を撫でるのを感じて、ユージオは小さな声で尋ねた。
「母さん……? 母さんなの?」
すぐに答える声がした。
そうですよ……お前のお母さんですよ、ユージオ。
「母さん……。僕のお母さん……」
暖かく湿った暗闇になおも深く深くうずまりながら、ユージオは呟いた。
半ば麻痺しきった頭の片隅に、泥沼に浮き上がる泡のような疑問がぷちりと弾ける。
母さんは……こんなにほっそりとして、柔らかかっただろうか? 毎日麦畑で働いているはずの両手に、なんで傷ひとつないんだろう? それに……右側のベッドで寝ているはずの父さんはどこへ行ってしまったんだ? 母さんに甘えようとするといつだって邪魔をする兄さんたちはどこに?
「ほんとに……あなたは、母さんなの?」
そうですよ、ユージオ。あなた一人だけのお母さんですよ。
「でも……父さんはどこ? 兄さんたちはどこへいったの?」
うふふ。
おかしな子ね。
みんな、
お前が殺してしまったじゃないの。
突然、指がぬるりと滑った。
ユージオは目の前で左右の掌を広げた。
暗闇の中なのに、両手にべっとりとこびりつき、ぽたぽたと滴る真っ赤な血がはっきりと見えた。
「……ぁぁぁあああああ!!」
絶叫とともにユージオは飛び起きた。
ぬるつく両手を、無我夢中で上着に擦りつける。悲鳴を上げながら、何度も何度も拭ったところで、自分の手を濡らしているのが血ではなくただの汗だとようやく気付く。
夢を見ていたのだ――とやっと思い至っても、早鐘のように鳴り響く心臓も、吹き出す脂汗も、しばらく収まろうとしなかった。とてつもなく恐ろしい夢の余韻がいつまでもじっとりと背中に貼り付いている。
母親のことなんて……何年も考えたことさえなかったのに。
ひとりごち、ぎゅっと目を瞑って、ユージオは恐慌から脱け出そうと深い呼吸を繰り返した。
実際の母親は、畑仕事と家畜の世話、家事全般の雑忙に疲れユージオを優しくあやしてくれることなどほとんど無かった。頑固で口うるさい父親にただ従うばかりで、自己主張した場面の記憶は無いに等しい。というより、母親にまつわる思い出の絶対量がごく少ないと言っていい。
つまり、ユージオにとっては、自分を産み育ててくれた人としての感謝の念こそあれ、決してそれ以上の存在ではないはずなのだ。そうでなければ、新たな天職を選ぶとき、なぜほとんど迷うこともなく村を出るという決断を下せたのか。
なのに、どうして今更あんな夢を……。
ユージオは強く頭を振り、思考を止めた。どんな夢を見るかは、眠りの神ヒュプニーが気ままに決めることだ。今の悪夢には何の意味もない。
最後に大きく息を吐いてから、ようやく、自分は今どこにいるのか、という疑問が湧いてくる。
うずくまった姿勢のまま、そっと瞼を持ち上げた。
最初に視界に入ったのは、驚くほど毛足の長い、込み入った模様の編み込まれた絨毯だった。一メル四方で果たして幾らするのか見当もつかないそれが、視線を前に上げても上げても、どこまでも続いている。
顔が真っ直ぐ前に向いたところで、ようやくはるか遠くに壁が見えた。
壁、と言っても板や石造りではない。神々の姿を浮き彫りにした黄金の柱が弧をえがいて等間隔に並び、その間に巨大な一枚硝子が埋め込まれている。だから実際には壁というより連続した窓なのだろうが、貴重な硝子をあれほどたっぷりと使った窓は皇帝の居城にもあるまい。
総硝子張りの壁のむこうには、厚くうねる雲の連なりが見えた。ただし、その黒い雲海があるのは視点の下方だ。この部屋は、雲よりも高い場所にあるのだ。
黒い雲の縁を、淡い光がほのかに青く染めている。朧な光の源は、天上に坐す丸い月だった。その周囲を、これまで見たこともないほどの数の星々がしずかに瞬きながら取り巻いている。濃密な星空から降り注ぐ蒼光があまりにも鮮やかすぎて、ユージオが現在は深夜なのだと気付くのが少々遅れた。月神の位置からして、零時を少し回った頃だろうか。つまり、眠っているあいだに日付けが変わってしまったことになる。
視線を、夜空から更に上向けて部屋の天上を見た。広大な円形のそこにも、絨毯に劣らず華美かつ精密な絵が一面に描き込まれている。神々の軍勢、退けられる魔物、地を分かつ山脈……どうやら創世記の絵物語になっているらしい。
しかしどうしたことか、絵の主題からして絶対に必要と思われる創世神ステイシアの似姿が、あるべき中央部に存在しない。その部分は漆黒に塗りつぶされ、いわく言いがたい虚無感のようなものが絵全体を支配してしまっている。
眉をしかめ、首を振りながらユージオは顔を戻した。
そして、今更ながら、自分が何か柔らかいものに背中を預けているのに気付いた。
慌てて振り向く。
「え…………」
身体を捻ったまま、ユージオは絶句し、しばし凍りついた。寄りかかっていたのは、驚くほど巨大な円形のベッドの側面だったのだ。
差し渡しが八メル、いやもっとありそうだ。周囲を五本の黄金の柱が取り巻き、紫の羅紗と半透明の薄布が垂れ下がる天蓋に繋がっている。寝台は純白の絹とおぼしきシーツに覆われ、窓からの燐光を受けてほの青く輝いている。
そして――ベッドの中央に、横たわる人影がひとつ。周囲を薄い紗に囲まれ、輪郭しか見えない。
「!!」
ユージオは息を飲み、跳ねるように立ち上がった。これほどの近距離にいながらまるで気配に気付かなかったのは考えられない迂闊さだ。いや、それ以前に、自分はこのベッドにもたれ掛かってたっぷり四、五時間は眠ってしまったのだ。いったい何故こんなことに――。
そこまで考えてから、ユージオは、ようやく途切れた記憶の直前の場面を思い出した。
そうだ……僕は、騎士長ベルクーリと戦ったんだ。そして青薔薇の剣の力によって双方を氷の中に閉じ込めて……互いの天命が尽きる直前、変な道化、元老チュデルキンと名乗る小男が現れていろいろ奇妙なことを言った。あいつの靴が薔薇を踏み割りながら近づいてきて……そして――。
記憶はそこで暗闇に沈んでいる。あの道化が自分をここまで運んできたのだろうか、と考えながらユージオは唇を噛んだが、今は推測する材料すらない。無意識のうちに腰を探ったが、青薔薇の剣はどこかに消え去ってしまっている。
途端に襲ってきた心細さを懸命に押し戻しながら、ユージオはベッド上の人影のほうに眼を凝らした。敵か味方か……いや、ここは間違いなくセントラル・カセドラルの、それもほとんど最上階だ。そんな場所に居る人間が味方ということはあるまい。
このまま足音を殺して部屋から脱出するべきか、とも思ったが、眠る人物が誰なのか知りたい、という欲求のほうが勝った。意を決して、気配を殺しながらそっとベッドに右ひざを乗せる。
ふかっ、と淡雪のようにどこまでも柔らかくシーツが沈み込み、ユージオは慌てて両手を突いた。その手もまた滑らかな絹に沈んでしまう。
あの恐ろしい夢で何者かが横たわっていたベッドの感触が甦ってきて、思わずぶるりと背中を震わせてから、ユージオは音を立てないようにそっと左ひざも持ち上げた。そのまま四つん這いで、ゆっくり、ゆっくりとベッドの中央を目指す。
有り得ないほど巨大な寝台を息を殺して這い進みながら、この絹の下に包まれているのが最高級の羽毛だとしたら一体何羽ぶんになるのだろう、とユージオは考えずにはいられなかった。ルーリッドの村では、飼っていた家鴨の抜け羽を毎日毎日少しずつ集め、ひとつの薄い布団を作るのに一年はかかったものだ。
こんな贅の限りを尽くした寝台にたった一人眠るのは、はたして誰なのか。垂れ下がる紗幕はもう、すぐ目の前だ。
そこで動きを止め、ユージオは息を止めて耳を凝らした。ごくごくかすかに、規則的な呼吸音が聞こえてくる。相手はまだ眠っているようだ。
生唾を飲み込みたくなるのを堪え、そっと右手を伸ばす。指先を紗の隙間に差し込み、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
「…………!」
ついに、背後からの蒼い光がベッドの中央に届き、その瞬間ユージオは眼を見開いた。
眠っていたのは、ひとりの女性だった。いや、少女、と言うべきか。
身の丈はかなりある。立てばほとんどユージオと変わらないだろう。銀糸の縁取りがついた淡い紫――ステイシアの窓の色――の薄物をまとい、身体の上に載せた白く華奢な両手を組み合わせている。露わな腕や指は滑らかに細いが、その上側で布地を押し上げるふたつの膨らみは量感豊かで、ユージオは慌てて眼を逸らした。広く開いた襟ぐりから覗く胸元もまた、輝くように白い。
浮き出た鎖骨、細い首、そしてそれに続く小造りの顔――。
魂の抜けるような、という表現を、ユージオはほとんど生まれてはじめて実体験していた。
何という造形の完璧さだろうか。もはや人とも思えない。
先日から数回眼にした、成長した騎士アリスも非の打ち所のない美貌だったが、しかし彼女はそれでも人間の美しさの範疇に留まっていた。貶めているわけではない、それで当然であり自然なのだ、アリスは人なのだから。
しかし、今眼下に眠るこの存在は。
央都で最高の腕を持つ彫刻家が、一生を費やして彫り上げたかのような――いや、もはや人の手によるものではあるまい。芸術の神アルティノスが数百年の時をかけて創造したとでも比喩すべき、完璧という語彙そのものがここにある。眉、鼻、唇、それらすべてを形容する言葉をユージオは思いつけなかった。花のような唇、と譬えたくとも、これほどの可憐な曲線を持つ花が人界には存在するまい。
閉じられた瞼を縁どる長い睫毛、そして四方に長く広がる髪、そのどちらもが溶かした純銀の色だった。今は闇と月光を吸い込んで、深い蒼に煌めいている。この髪のたった一すじでさえ、ソルスのもとではどんな貴族の装身具よりもまばゆい輝きを放つだろう。
ユージオは、いつしか甘い蜜に惑う蜂のように考える力を失っていた。
この手に、髪に、頬に触れてみたい――という欲求だけが、身体の奥のから激しく衝き上げてくる。
じり、じり、と意識せぬまま膝が前ににじりよった。
これまで嗅いだことのない種類の、ほのかに薫る香が鼻から入り込み、思考を覆っていく。
伸ばした右手の指先が、もう少し……あと少しで、紫の薄物に届く――。
いけない、
ユージオ、
逃げて!
突然、どこか遠くでかすかに、しかしはっきりと、誰かが叫んだ。
一瞬、電光のように思考の糸が繋がり、ユージオははっと眼を見開いた。
今の声……どこかで、聞いたような――。
いや、それどころじゃない。考えるんだ、考えろ。自分が今どういう状況にいて、何をすべきなのか。
まるでそれ自体の意思があるかのように、尚も前に伸びようとわななく右腕を抱え込んで、ユージオは懸命に頭を回転させようとした。呪縛的な麻痺感は、不思議な甘い香りとともに身体に入り込んでくるようで、息を止めて必死に抗う。
考えるんだ。
僕は、この女性を知っているはずだ。セントラル・カセドラルの最上部で……これまで見たどんな部屋よりも豪華なベッドで、たったひとり眠る人物。つまり、教会でもっとも高位の権力を持つ――ひいては、この人界すべてを支配する人物……。
最高司祭。
アドミニストレータ。
ようやく思い出したその名を、ユージオは計り知れない衝撃とともに何度も頭のなかで繰り返した。
アリスを連れ去り、記憶を奪って整合騎士に造り変えた……あの驚異的な力を持つカーディナルでさえ敵わなかった、最強究極の神聖術者。自分とキリトの、最後の敵。
その相手が今、目の前で、眠っている。
今なら殺せる!?
しかし剣が――。
いや、待て。ある――小さな、しかし強力な武器が。
ユージオは、こわばった右手を動かし、布地ごとシャツの胸元を掴んだ。
硬く、鋭い十字の感触がしっかりと掌に伝わった。
この短剣を刺せば、アドミニストレータはカーディナルの術の支配下に捕われる。空間を越えて送り込まれてくる超攻撃術によって、たちまちのうちに焼き殺されてしまうはずだ。
「…………く……」
しかし、ユージオは、シャツごしに短剣を握ったまま動けなかった。
ユージオの半身は、最強の術者アドミニストレータへの恐怖に怯え――もう半身は、その人と思えぬ美貌の呪縛にいまだ囚われていた。
傷つけてしまっていいのか……これほど美しい、完璧なる神の似姿を。
躊躇いが、ほんの僅かな時間、ユージオの右手を石に変えた。
しかし、その強張りが解ける寸前。
ぴくり、と、眠る少女の銀の睫毛が震えた。
それがゆっくり、ゆっくり持ち上がっていくのを、ユージオはただ、呆けたように口を開けながら見つめた。
神の国へと繋がる窓というものがもし存在するとすれば、それはこの少女の瞳以外のものでは有り得ない。
そんなふうに思えてならないほどに、薄く開かれた瞼の下から漏れた光は玄妙かつ神々しく、ユージオはもう視線を動かすこともできなかった。自分が今、どこで何をしているのかといったことすら、意識の彼方に吹き飛ばされていく。
そんなユージオを焦らすかのように、少女は薄く開いた瞼をふたたびそっと閉じ、そのゆっくりとした瞬きをさらに二度繰り返した。そしてついに、完璧な棗型の目をぱっちりと見開いた。
「あ…………」
自分の口から零れたため息を、ユージオは自覚できなかった。
少女の瞳は、白金を液体に変えたかのような、純粋な銀色だった。その鏡の如き虹彩を、文字通り虹の七色が、かすかにたゆたいながら彩っている。この世界に存在するどんな宝石よりも――それこそ四皇帝の宝冠の中央に輝く金剛石すら足元にも及ばないほどの、神々しい煌めき。
もはや指先の感覚までも失せ、ただベッドの上に膝を衝いた格好で石像のように固まったユージオの眼前で、目覚めた少女はまったく重さを感じさせない動作でふわり、と上体を持ち上げはじめた。腕を使うこともなく、筋肉の力というよりも目に見えぬ超常の力に背中を押されるかのように体が起き上がり、とてつもなく長い銀の髪も、風もないのに一度後方にさら……と流れてからまっすぐにまとまって流れ落ちる。
その動きにあわせて、これまで嗅いだことのない濃密かつ清冽な薫りがあたりに漂い、ユージオの思考を一層麻痺させた。
ほんの二メルの距離から呆然と見つめる侵入者の存在を、少女――アドミニストレータはまるで気にもとめぬ様子で、頬にかかった一筋の髪を右手の指先で後ろに払った。まっすぐ伸ばしていた、紫の薄物に包まれた両脚を、揃えて右に折りたたむ。重心が傾いた細い体を、華奢な左手をシーツについて支える。
その艶かしい姿勢のまま、アドミニストレータは、ついに顔を左に傾けてまっすぐユージオのほうを向いた。
俯いていた両の瞳がすっと上に動き、ユージオの目を正面から覗き込んだ。
虹色の燐光に縁どられた純銀の瞳。その中央に、人間ならば有るべき瞳孔は存在しない。とてつもなく美しいが、しかし鏡のようにすべての光を反射し、心の奥を一切覗かせぬ瞳――ユージオはそこに映り込んだ己の顔を目にしたが、しかし自分がどれほど危険かつ無防備な状況にあるのかということに気付く前に、アドミニストレータの艶やかな真珠色の唇が小さく動いた。
「可哀想な子」
何を言われたのか、理解するのにずいぶんと時間がかかった。しかし己の思考力の鈍磨を自覚することもなく、ユージオは呆然と問い返した。
「え……?」
かわいそう? 誰が? 僕が……?
「そうよ。とっても可哀想」
幼い少女のようでもあり、同時にあでやかな成熟をも感じさせる声が言った。無垢な清らかさと、触れなば落ちん危さを等しくはらんだ、聞くものの心を深く掻き乱す響き。
その声を生み出した、ほんのりと赤みを帯びた真珠のごとき唇が、ごくごくかすかな微笑みを浮かべ、ユージオの心中に更なる混乱を渇望を巻き起こす。アドミニストレータは謎めいた微笑を漂わせたまま、更にいくつかの言葉を宙に零れさせた。
「あなたはまるで、萎れた鉢植えの花。土にどれだけ根を張ろうと、風にどれだけ葉を伸ばそうと、ひとしずくの水にさえ触れない」
どういう……意味なんだ……?
僕が……萎れた鉢植え……?
ユージオは眉をしかめ、痺れた頭で不思議な言葉の意味を理解しようとした。しかし、停滞した思考のなかにあっても、アドミニストレータの言葉には、何かしら心に突き刺さる痛みを喚起させるものがあった。
「そうよ……あなたにはわかっている。自分が、どれほど渇き、餓えているか」
「……何に……?」
口が勝手に動き、低くしわがれた声が漏れた。
アドミニストレータは、輝く銀の瞳でじっとユージオを見つめ、微笑を消さぬまま弓形の眉をまるで憐れむかのようにひそめて答えた。
「愛に」
愛……だって?
まるで……僕が……愛を知らないみたいに……。
「そのとおりよ。あなたは、愛されるということを知らない、可哀想な子」
そんなことない。
母さんは……僕を愛してくれた。眠れないときは……僕を抱いて、子守唄を歌ってくれたんだ。
「その愛は、ほんとうに、あなた一人のものだったの? 違うでしょう? ほんとうは、あなたの兄弟に分け与えた余り物だったんでしょう……?」
嘘だ。母さんは……僕を、僕だけを愛してくれたんだ……。
「自分だけを愛してほしかった。でもそうしてくれなかった。だからあなたは憎んだの。母の愛を奪う父を。兄たちを」
嘘だ! 憎んでなんかいない。僕は、僕は、父さんや兄さんたちを殺したりしてない。
「そうかしら……? だって、あなたは殺したじゃない」
…………。
誰を……?
「はじめて、自分ひとりを愛してくれるかもしれなかった、あの赤毛の女の子……あの子を力ずくで奪い、汚した男を、あなたは殺した。憎いから。自分だけのものを獲られたから」
……!!
違う……僕は、そんな理由で……そんな理由でライオスを斬ったんじゃない。
「でも、あなたの乾きは癒されない。もう誰も、あなたを愛してくれないから。誰も、あなたに水を与えてくれないから。みんなあなたを忘れてしまった。もう要らないって、捨ててしまったの」
違う……違うよ。僕は……僕は、捨てられてなんかいない……。
そうだ……違う。
僕には、
アリスがいる。
その名を思い出したとたん、頭の中を濃密に覆い尽くすねっとりとした霧が少し晴れたような気がして、ユージオはぎゅっと両目をつぶった。このままじゃいけない、この声を聞いてちゃいけない、湧き上がった危機感がそう囁く。
しかし、思考する力を取り戻す前に、再び甘く蠱惑的な声が、両の耳から滑り込んできた。
「本当にそうかしら……? 本当にあの子は、あなただけを愛しているのかしら……?」
憐れみの響きの裏に、かすかにくすくすと笑うような音が混じる。
「あなたは忘れているの。思い出させてあげる。真実を……あなたが深いところに埋めてしまった、ほんとうの記憶を」
途端、ユージオの視界がぐらりと傾いた。
膝をついていた柔らかいシーツは消えうせ、暗い、暗い穴のなかを、どこまでも落ちていく。
ふと、生々しい青草の匂いが鼻をつく。
視界の隅に緑色の光がちらちらと瞬き、さえずり交わす小鳥の声に、ざくざくという足音が重なる。
気付くと、ユージオは深い森の中を一人走っている。
視点がやけに低く、歩幅も短い。見下ろせば、粗い麻の半ズボンから伸びた脚は、細く頼りない子供のものだ。だが違和感はすぐに消え去り、変わりに圧倒的な焦燥感と寂寥感が取ってかわる。
今日は、朝からアリスの姿が見えないのだ。
午前中の家の手伝い、牛の世話と菜園の草取りを終わらせ、ユージオは一目散にいつもの集合場所、村の外れの林檎の樹の下に急いだ。しかし、どれだけ待とうとアリスは来なかった。それに、同じく産まれたときからの幼馴染である黒髪の少年――キリトも。
ソルスの光が作り出す自分の影がずいぶんと短くなるまで二人を待ってから、ユージオは言い知れぬ不安を抱えながらアリスの家までとぼとぼと歩いた。きっと、何かイタズラが見つかって遊びにいくのを禁止されたんだ、そう思ったのに、ユージオを出迎えたツーベルクのおばさんは首をひねりながら言った。
おかしいわねえ、今日は随分とはやく出かけたわよ。キリ坊が迎えにきたから、てっきりユー坊も一緒だと思ったんだけどねえ。
もごもごと礼を言って村長の屋敷を後にしたユージオは、不安が焦りに変わるのを感じながら、村中を探し回った。しかし、村の餓鬼大将である衛士長の息子ジンクとその子分たちが占拠している中央広場はもちろん、どの遊び場にも、隠れ家にも、キリトとアリスの姿は無かった。
思い当たる場所はもう、一箇所しかなかった。普段、子供たちが一切近づかぬ東の森、その奥に最近見つけた、小さな円形の空き地。大人達が”妖精の輪”と呼ぶ、様々な花や甘い果実に埋めつくされた、三人だけの秘密の場所。
そこを目指して、半ばべそをかきながら、ユージオは懸命に走る。寂しさと訝しさ、そしてもうひとつ、名前を知らない不快な感情に衝き動かされながら。
曲がりくねった獣道を懸命に駆け抜け、一際太い古木にぐるりと囲まれた秘密の空き地が近づいてきたとき、不意に樹の幹と幹のあいだに眩い金色の光が瞬いて、ユージオははっと脚を止めた。
間違いなく、見慣れたアリスの金髪の輝きだった。何故か反射的に息を潜め、耳をそばだてる。ぼそぼそ、と密かに交し合う言葉の端々が、かすかに届いてくる。
どうして……どうしてだよ。
そんな言葉だけを頭のなかで繰り返しながら、ユージオはそっと、そっと空き地に歩み寄った。巨大な惨めさを抱えながら、ひときわ太い樹の陰に身を隠し、陽光溢れる秘密の場所を覗き見る。
咲き乱れる色とりどりの花の中央に、アリスがこちらに背を向けて座っていた。顔は見えないが、流れるまっすぐな金髪と、深い青のドレス、白いエプロンは間違いようもない。
そしてその隣に、つんつんと硬い黒髪の頭。無二の親友、キリトだ。
じっとりと冷たい汗が、握った手のひらを濡らす。
何してるんだ。二人だけで、僕にかくれて、何してるんだよ。
立ち尽くすユージオの耳に、微風に乗ったキリトの声が聞こえた。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
それに答える、アリスの声。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
いやだ。
もう、ここにいたくない。
しかしユージオの脚は、まるで樹の根に絡みつかれたかのように動かない。
どうしても逸らせない視線の先で、アリスの頭がそっとキリトに近づく。
かすかな囁き声の断片。
鮮やかなソルスの光の下、咲き誇る花々の中央で寄り添う二人の姿は、まるで一枚の絵のようで。
いやだ。
うそだ。こんなの、全部うそだ。
ユージオは心の中で叫ぶ。しかしどれほど否定しようと、この光景すべてが、自分の記憶のなかから出てきた真実であるという確信がぬぐいがたく湧き上がり、胸に苦い水となって満ちる。
「ほら……ね?」
くすくす。
ひそやかな笑いの混じる、アドミニストレータの囁き声が、ユージオを現実に引き戻す。
セントラル・カセドラル最上階、薄暗い最高司祭の居室の巨大なベッドの上で我に返っても、ユージオの瞼の裏に閃く緑と黄金の輝きはなかなか消えなかった。それに、耳に染み付く、アリスとキリトの囁き声も。
キリトと出会ったのはたったの二年半前、もうアリスが教会に連れ去られたずっと後だ――というかすかな理性の声も、ユージオの胸中を埋め尽くす圧倒的な黒い塊を溶かすことはできなかった。感情の大渦に翻弄され、蒼白になって荒い息を繰り返すユージオを、すこし離れた場所からアドミニストレータは憐憫の表情を作って見つめてくる。
「わかったでしょう……? あの子の愛すら、あなた一人のものじゃないのよ。ううん……そもそも、最初からあなたの分はあったのかしらね?」
甘い声がするりするりとユージオの中に滑り込み、そのたびにユージオの胸のうちをかき乱し、いっそう乾かしていく。くっきりと浮き上がる、果てしない餓えと孤独感。心がみるみるひび割れ、かさかさと剥がれ落ちていく。
「でも、私は違うわ、ユージオ」
これまででもっとも誘惑的な声が、蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香にも似て、ユージオの耳にとろりと流れた。
「私があなたを愛してあげる。あなた一人だけに、私の愛をぜんぶあげるわ」
半ば曇った眼をぼんやりと持ち上げたユージオの視線の先で、銀の髪と瞳をあでやかに煌めかせた少女が、とろけるような微笑を浮かべた。
柔らかなシーツに沈み込んだ脚を動かし、上体をまっすぐに伸ばす。
両手がゆっくりと持ち上がり、薄紫の絹の寝巻きの胸元を止めるリボンを思わせぶりに弄る。
銀糸を編んだリボンの端を、しなやかな指先がつまみ、少しずつ、少しずつ引っ張っていく。広い襟ぐりから半ば以上露わになった、しっとりと白いふくらみが、誘うように揺れる。
「もっとこっちにきて、ユージオ」
その囁きは、夢の中で聞いた母の声のようでも、また幻の中で耳にしたアリスの声のようでもあった。
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「どっ……こい……すああああ!」
形振りかまわない掛け声とともに、両腕による懸垂で体を持ち上げた俺は、そのまま前のめりに頭から水平な床に突っ伏した。
限界を越えて酷使した全身の関節や筋肉が、まるで巨人の手で捻り上げられているかのようにみしみしと痛む。大粒の汗が額から首筋から幾筋も滴り落ちるが、拭う気力などあるはずもなくただひたすら荒い呼吸を繰り返す。この世界が、俺の脳に与えられた量子的情報なのだという大前提がどうにも信じられなくなりそうなほどのすさまじい疲労感だ。
およそ二時間にわたる壁面登攀のすえ、ついに辿り着いたセントラル・カセドラル九十五階”暁星の望楼”であるが、フロアの地形や敵の有無を確かめる余裕すらなく、俺は電池の切れたおもちゃのように四肢を投げ出し、天命の自然回復を待った。
たかが八フロアぶんの壁を登るのにこれほどの時間と体力を消耗してしまったのは、ひとえに、今俺の背中に乗っかり細い鎖でしっかりと固定されている整合騎士様の存在ゆえだ。
数時間前、ついにユージオと同等の精神的ブレイクスルーに到達し、謎のシステムアラート、外部のラーススタッフの誰かによって施されたと思しき心理拘束を打ち砕いた騎士アリスではあるが、その代償はやはり大きかった。
碧玉の如き右眼は跡形も無く吹っ飛び、そのショックによりアリスは気を失ってしまったのだ。
人工的記憶媒体であるライトキューブ中に魂を保持されたアンダーワールド人は、俺たち現実世界の生身の人間のように、脳に加えられた外部的衝撃によって失神するということはない。例えば、アンダーワールド内で高所から落下して頭を打っても、タンコブができ天命は減少し痛みに涙を滲ませはするが、昏倒だけはしないのだ。
しかしそのかわりに、彼らは心理的ショックには比較的脆弱な傾向がある。余りにも大きな悲しみ、恐怖、あるいは怒り等を感じると(犯罪が存在しないこの世界ゆえ、それら負の感情が発生することは非常に稀であるが)、おそらくは致命的エラーからフラクトライトのコア部分を守るために、ある程度の時間心神喪失状態に陥ってしまうのである。一例を挙げれば、思い出すも辛いことだが、上級修剣士ライオス・アンティノスらによって陵辱されるという恐怖と苦痛を味わったティーゼとロニエは一時間ちかく気を失っていたし、加害者であるライオスのほうは、ユージオに殺されるという恐怖を処理しきれずに魂を崩壊させてしまった。
アリスもまた、深い心理的ショックによりフラクトライトに被ったダメージを緩和、修復するために失神したのだろうと、俺はいささか慌てたすえに推測した。もしそのダメージが致命的なものであれば、ライオスのように一瞬で天命がゼロになり、ユニットとして消去処分されていたはずだからだ。
そう考えれば、同様のショックに見舞われたはずのユージオが、意識を失うことなく直後にライオスを斬ってのけたその精神力はやはり驚嘆すべきものだ。事件がひと段落し、懲罰房に放り込まれたあとはさすがに放心していたが、それでも思考が混乱したりする様子は無かった。
アンダーワールド人の精神的脆弱性と命令に対する絶対服従性、それに例のシステム・アラート封印にどのような関連があるのかはまったく謎だが、少なくともそれらを克服することは不可能ではない。それをユージオとアリスは身をもって証明している。やはり、長い時間はかかるだろうが、全アンダーワールド人が俺たち人間と対等の知的存在して現実世界で生きていける可能性は確実に存在するのだ……。
――などということを考えつつ、俺は八十七階のテラスでアリスの回復を待っていたのだが、一時間経っても騎士様は眼を覚ましてくれなかった。右目の傷には俺の天命を使って血止めは施したが、完全に治癒させるにはとうてい時間もリソースも足りない。月はとうに高く昇り、空間リソースの供給は開始されていたが、それはすべて登攀用のハーケン生成に使わなくてはならなかった。せめてものことに、俺のシャツの裾を千切って作った即席の包帯だけは巻いておいてから、俺は腹を括り、アリスを背負って塔を登ることにしたのだ。
互いの体を繋いでいた黄金の細鎖をはずして、アリスの細いが死ぬほど重い体を背中に乗せたときは、よっぽどその重量の大半を占めるブレストプレートと金木犀の剣を置いていこうかと考えたものだ。しかし、アリスがアドミニストレータと戦う決意をしてくれたからには、これはもう二度とは得難い貴重な戦力であり、その武装を捨てるのは愚策以外の何ものでもない。
もう一度覚悟を決めなおし、背負った体を鎖でしっかりと固定してから、俺は夜空に溶け込む塔の最上部目指して絶壁を登りはじめたのだった。
二時間に及んだ地獄の道行きの果てに、ついに前方の壁面に開口部が見えてきたときは、つい気が遠くなってハーケンひとつぶん滑り落ちてしまったりもした。命綱がない状況で、もし完全に落下してしまったら、八十七階まで逆戻りかヘタをしたらはるか地上で二つの小さな染みになっていたところだ。
ともあれ、こうして目標地点までの八フロアぶんを――塔外に放り出された時点から数えれば十五フロアぶんの距離を登りきったからには、まるでしかばねのように返事もせず地面に転がるくらいのことは許されるだろう。どうせ、前方のフロア内には少なくとも誰かが居るような気配はない。
と考えながら俺はただひたすら目を閉じ水平面に寝転がる快楽に耽っていたのだが、それを妨げたのは、背中の上で発生したもぞもぞする動きと声だった。
「う……ううん……」
小さな息遣いとともに、俺の首筋にこそばゆい空気の流れが当たる。
「……ここは……私は……どう……」
という呟きとともに、アリスが起き上がろうとした気配があったが、すぐにぐるぐる巻きになった鎖がちゃりっと張り詰め、いったん離れた重みがふたたびどさっと背中に戻ってきた。
「な……何これ……え……? お前、キリト……? 私を……背負って……?」
そのとおり、少しは感謝してくれよ。と胸中で一人ごちたのも束の間。
「えっ、ちょっと、やだ! お前、汗でびちょびちょじゃないですか! 嫌っ、私の服に! 離れて! 離れなさい!」
悲鳴とともに、後頭部をごちんとどつかれ、俺は額をしたたか硬い石床にぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
急かされつつ鎖を解き、背中の荷物を下ろした俺は、巨大な円柱にもたれかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺の献身的重労働など一顧だにする様子もなく、顔をしかめて白い衣装のあちこちをパタパタと払っている。その手を止めたと思ったら、背負われている間じゅう俺の首筋に密着していた肩口のふくらんだ袖部分をつまみ、くんくんと匂いを嗅いで鼻筋に皺を寄せたりしているのを見れば、俺も余計な憎まれ口を叩かずにおれない。
「そんなに気になるなら風呂でも入ってくればどうっすか」
潔癖症のアリスへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首をかしげて検討する素振りなので、慌てて付け加えた。
「いや、冗談だよ! これからまた中層に降りるなんて冗談じゃないぞ」
「いえ、そこまで行かずとも、ほんの五階下に大浴場があるにはあるのですが」
「なぬ……」
今度は俺のほうがぐらりとくる。牢を破ってからの激闘につぐ激闘と、先刻の壁のぼりで埃まみれ汗まみれの服と体をさっぱり洗えるというのは正直魅力的な話ではあった。
座ったまま首を回し、フロアの様子をあらためて確認する。
九十五層・暁星の望楼は、その名のとおり巨大な展望台として造成された場所らしかった。正四角形のフロアは全周がそのまま空へ開放されており、約三メートル間隔で立つ円柱だけが上層の天井を支えている。この素通し構造を見れば、アドミニストレータがまさかの侵入者に備えて少し下方の壁に衛兵を配置したのもなるほどと頷ける。
俺たちが居る最外周部は、フロアをぐるりと取り巻く通路になっていて、その各所から内側に向けて短い上り階段が設けられていた。すこし高くなったフロア内部には、均等に並ぶ華麗な彫刻やら、見たことのない花をつけた小型の樹に囲まれるように、大理石のテーブルと椅子が置かれている。こんな真夜中ではなく昼間にあの椅子に座れば、さぞかし四方に広がるアンダーワールド全体を見下ろす絶景が楽しめることだろう。今更ではあるが、現在はどのテーブルにも人っ子一人いない。
そして、俺から見てフロアの右端と左端に、それぞれ上りと下りの大階段が次のフロアへと繋がっているのが見えた。
問題は、ユージオがすでにこの九十五層を通過しているかどうか、ということだ。
彼と分断されたのが八十階、普通に考えれば、四苦八苦して外壁をよじ登ってきた俺と、内部の階段を登るだけのユージオでは、むこうのほうが遥かに早くここまで辿り着けたはずだ。しかし問題は、俺たちが戦ったドローン以上の強敵――恐らくは整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人がユージオの前に立ちはだかったであろうということだ。俺と互いに死の際まで踏み込む激闘を演じたファナティオより、そしてそもそも相手にすらさせてもらえなかったアリスより強いという、伝説上の英雄。
無論ユージオも強い。剣技だけを取るならあるいはすでに俺を超えたかもしれない。しかし、もはや超人というべき上位整合騎士には剣の腕だけでは勝てない。相手の裏を衝き、周囲の状況すべてを利用した、ある意味では卑怯とすら言うべき戦術が必要となる。真面目一本のユージオにそれが出来ただろうか……。
悩む俺に、同じく左右の階段を見回したアリスが、ぽつりと声を掛けてきた。
「これはもちろん、お風呂とは関係なしに言うのですが……お前の、あのユージオという名の仲間は、まだここまで登ってきていないのではないでしょうか」
「え? どうして?」
「何故なら、この層が唯一、カセドラルの外部に放り出された私達が再び中に戻り得る場所だからです。それは見ればわかることですし……つまり、もし先にここに到達していれば、彼はお前をここで待っているはずでしょう」
「……なるほど、そりゃ理屈だな……」
俺はあごを撫でながら頷いた。言われてみれば尤もな話であり、もしユージオがここを先に通過したとすれば、それは彼が捕縛されたか、意識を失っていたか、あるいは――亡骸になっていたか、の三通りしかないのだ。先の推測とは矛盾するが、そう容易く捕まったり殺されたりするユージオではない、と信じたい。
「それに、ユージオが……」
自分でも自覚はしていないだろうが、するりと彼の名を呼び捨てで口にしたアリスが、俯きながら呟いた。
「……雲上庭園から大階段を登ったとすれば、このような最上部まで達する以前に、最強の相手と遭遇したはずです。小父様……騎士長ベルクーリと」
オジサマ、という呼称はさておいて、俺はある種の興味に促されて尋ねた。
「やっぱり強いのか? 騎士長様っつうお方は」
するとアリスは、ふっと小さく微笑み、頷いた。
「私も勝てません。となれば、私に負けたお前や、お前と同等の腕であろうユージオも勝てぬ道理」
「……道理だけどさ、そりゃ。でも、俺があんたに負けたかどうかは……」
ぶちぶちと口にした俺の負け惜しみを聞き流し、黄金の騎士は続ける。
「小父様は……あの人の持つ神器・時穿剣は、その銘のとおり時間を斬るのです。具体的には、小父様の斬った空間はその斬撃の威力をおよそ十分間保持する、と言えばわかるでしょうか……目に見えない必殺の刃が、対する者の周囲を取り巻いてしまうようなものです。動けばそれに触れて手足、へたをすれば首が落ちますし、さりとて動かねば実体たる剣の一撃で絶息は必至。小父様と戦う者は、あの人の一撃必殺の”型”を、木偶のように受けるしかないのです」
「む……むう……」
言葉で聞いただけではイメージは難しいが、要は斬撃の持つ時間的座標を前方に引き延ばすということだろうか。一見地味ではあるが、しかし確かにこれは恐るべき力だ。俺やユージオの操る連続剣技の、一撃の威力をスポイルしてでも攻撃の効果範囲を広げるという本質を、あっさりと無効化してしまうからだ。
そんな敵と対峙して、はたしてユージオはどうなっただろうか。彼が死ぬわけはない、と確信しつつも、嫌な予感が拭いがたく背中を這い登ってくる。
やはり階下へ向かい、彼を捜すべきか。しかしもし、すでに彼が拘束され、階上……おそらくは”シンセサイズの秘儀”が行われるのであろうアドミニストレータの本丸へ連れ去られていたら? この上ユージオが最新の整合騎士にでもされてしまったら、もう望みは九割断たれたも同然だ。
ようやく疲労感の薄れてきた手足に力を込め、俺はよろりと立ち上がった。再び左右の大階段を睨み、唇を噛む。
神聖術の中には、人の居場所を捜すためのものもあるが、他人を直接、術式の対象に指定することが許されない(もしそれが可能なら、相手のステイシアの窓に記されたユニットIDさえわかれば、直接相手の天命を消し飛ばすような恐ろしい術さえ組み得る)この世界では、探したい人が常に身につけているオブジェクトのIDをサーチ対象の代用とすることになる。学院にいるときは、俺はユージオの制服についていた銀の校章のIDを用いていたのだが、あれは放校の憂き目にあったときに没収されてしまったし……。
いや、待った。
「そうか、なんだ、そうじゃん」
ついそう呟いた俺は、訝しそうな顔を見せるアリスに小さく笑ってみせてから、右手を掲げて大声で唱えた。
「システム・コール!」
右手が紫の燐光に包まれるまで待ち、俺がハーケン生成に使いまくった空間リソースがまだ残されているのを確認してから、続く式を口にする。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:0131!」
何事も憶えておくものだ。俺が指定したのは、無論ユージオの愛剣、青薔薇の剣のIDである。
伸ばした人差し指の先端から糸のように放たれた紫の光線は、するすると伸び――足元の石床に突き刺さった。
「下だな」
「下ですね」
なるほど、という顔でこちらを見たアリスと頷き交わす。指を振って術式を解除すると、俺はその右手を何度か握り締め、体力がある程度回復しているのを確かめた。ついで、再びアリスに視線を向ける。
「大丈夫か? 動けるか……?」
騎士は軽く唇を噛み、元は俺のシャツだった黒い眼帯に覆われた右眼をそっと押さえた。
「この包帯は……お前が?」
「ああ……血は止めたけど、もっと綺麗な布に取り替えたほうがいいかもしれない」
「いえ、このままで構いません」
ぽつりと呟き、アリスは残された碧い左眼でまっすぐ俺を見た。
「痛みはもうほとんど無いですが……やはり、視界がかなり制限されますね。戦闘に影響が出るのは避けられそうもありません」
「何、右は俺がカバーするさ。じゃあ……悪いけど急ぐぞ。さっきの光線のかんじだと、四、五階は下みたいだからな」
「わかりました。私が先に立ちましょう、道をよく知っていますから……と言っても、階段をただ降りるだけですが」
そう宣言すると、アリスは俺に口を差し挟むひまも与えず、ブーツの鋲でかっかっと大理石を鳴らしながら小走りに進み始めた。俺も慌ててその後を追う。
道路からにょきりと飛び出す地下鉄の出入り口を華美壮麗にしたような造りの下り大階段は、薄暗がりからひんやりとした空気を吹き上げてくるのみで、何者かの気配は微塵もなかった。下層ですら人間の生活感は限りなく微かだったセントラル・カセドラルだが、この最上部に至っては、まるである種の建築美術、もしくは廃墟にも似た寒々しさを濃く漂わせている。とうてい、全アンダーワールドを統治する為政の府の中枢とは思えない。
これまでに得た情報では、神聖教会の上層部には、整合騎士団のほかに元老院なる機関があるはずだったが、こんなほとんど天辺まで登ってきてもそいつらの気配すらしないというのはどういうことだろうか。
先に階段を駆け下り始めたアリスの右横に追いつき、俺は小声でその疑問を口にしてみた。するとアリスは軽く眉をしかめ、同じくささやき声を返してきた。
「実のところ……私達、管制騎士という座にある整合騎士の指揮官にすら、元老たちの全貌については知らされていないのです。九十六層から九十九層までが元老院と呼ばれる区画なのですが、騎士や修道士の立ち入りは禁止されていますし……」
「ふむ……。そもそも、元老っつう連中の仕事は一体何なの?」
「禁忌目録」
アリスはぽつりと、どこか危険物に触れるかのような慎重さの漂う声でつぶやいた。
「禁忌目録が、この世界を完璧に維持……あるいは停滞させ続けているかどうかの監視と、必要があらば各条項の更新を行う、それが元老の仕事です。そして、目録の条項だけでは対処しきれない事態が生じた場合は、整合騎士団に命じて事態の収拾に当たらせる。私に、八十階でお前達を迎撃させたのも元老院の指令です」
「なるほどな……つまり、元老院は最高司祭の仕事のほとんどを代行してるってわけだ。しかし、よくアドミニストレータがそんな権限を与えたもんだな。それとも、元老たちも整合騎士と同じように行動制御キーを埋め込まれてんのかな」
俺の言葉を聞いたアリスは、嫌な顔をして指先で額をなぞった。
「その話は止めてください。私の中にもまだそのなんとかキーがあると思うと不安になります」
「君はもう大丈夫だと思うよ……最高司祭が埋め込んだ制御キーよりも深いレベルの、言わば神の束縛を打ち破ったわけだし……」
「……だといいのですが」
指先を、額から右目の眼帯にそっと移動させるアリスの様子を横目で見ながら、俺は先の一幕を思い出していた。
あれほどの動揺に翻弄されながらも、アリスの額に埋め込まれた制御キーが不安定になることはついになかった。俺は、アドミニストレータがアリスから奪った記憶のピースは、恐らくユージオかシルカとの思い出なのだろうと予想していたのだが、ユージオとは二度も直接相対しているし、シルカの名前を聞いたときも涙を見せこそすれ額から例の三角柱が脱け出したりはしなかったのだ。
となると、今現在アドミニストレータの手許にあるはずのアリスの記憶ピースの中身とは、一体何なのか。
無論、”逆シンセサイズ”によって騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻れば分かることである。であるのだが、しかし……。
再び、胸の奥に疼くような二律背反を感じながらも、俺はアリスに並んで機械的に足を動かした。しんと静まり返った深夜の大階段に、二つの足音だけが硬く響く。
高い天窓から、踊り場のじゅうたんに降り注ぐ蒼い月光を五度踏むと、目の前に巨大な扉が立ち塞がった。ここまで、階段や壁の滑らかな石材に、戦闘の痕跡らしきものは小さな傷ひとつとて目にしていない。
隣で足を止めたアリスに、俺は短く、ここが? と尋ねた。
「ええ……。この先が大浴場です。よもやこのような場所を迎撃地点に選んだりはしないと……思うのですが……あの人のすることは……」
眉をしかめ、語尾を小さく飲み込みながら、アリスは右手を揚げて右側の扉に当てた。軽く力を入れただけで、巨大な無垢材の一枚板が音も無く奥に滑る。
途端、濃密な靄が白いかたまりとなって押し寄せてきて、俺は思わず顔を逸らせた。
「うわ……すごい湯気だな。どんだけデカい風呂なんだよ、奥がまるで見えないぞ」
そんな場合では無論ないが、泳いだらさぞかし気持ちいいだろうなあ、などと思いつつ一歩、二歩、内部に踏み込む。その時になって俺はようやく、全身を包んでいる白い靄が、熱湯から立ち上った蒸気なのではなく――極低温の凍気であることに気付いた。
堪えようもなく、二度、三度と盛大なくしゃみを連発する。そのせいではないだろうが、直後、目の前の白いベールがすうっと左右に分かれた。露わになった”大浴場”の全景は、俺を心底から驚愕させるに充分以上の代物だった。
途方もなく広い。カセドラルのワンフロアぶち抜きで作ってあるのだろう、突き当たりの壁が霞むほどの面積のほぼ全体が、それこそ巨大プールとでも言うべきサイズの浴槽になっている。俺が立つ場所から真っ直ぐ前に広い通路が一本、中央でそれと交差する通路が一本あり浴槽は四分割されているのだが、そのひとつが俺の学校――修剣学院ではなく現実世界の高校――の二十五メートルプールより明らかに大きい。
しかし、真に驚愕すべきは、その巨大風呂桶になみなみと湛えられていたのであろう湯が、今はすべて真っ白に凍り付いていることだった。
周囲の壁に設えられた、獣の頭部を模したレリーフから流れ落ちる滝までもが湾曲した氷の柱と化しており、この凍結が瞬時に行われたことを示している。当然、自然現象ではなく大規模な神聖術が荒れ狂った結果と見るべきだろう。
しかし、この容積の湯を一瞬で氷結させるとは只事ではない。氷素を用いた通常の凍結術ならば、高位の術者が最低でも十……いや二十人は必要だ。だが――おそらく、この氷の世界を現出させたのは……。
俺は左前方に数歩進み、階段状になっている浴槽の縁を降りると、氷の表面に立った。腰をかがめて足元にたなびく靄に手を突っ込み、そこに頭を出していた小さな氷の突起物を折り取る。顔の前まで持ってきたそれは、予想どおり、青く透き通った花弁を幾重にも開いた氷の薔薇だった。
「……ユージオ」
呟いた俺の隣に、しゃり、と音をさせてアリスも降り立った。驚きに左眼を見開きながら、掠れた声で囁く。
「なんという……。これを引き起こしたのは、お前の仲間の……?」
「ああ、間違いないだろう。ユージオの”青薔薇の剣”の完全支配術だ。まあ、俺も正直……これほどの威力とは思ってなかったけどな……」
今更ながら、俺は長年苦楽を共にした相棒の戦闘能力に舌を巻く思いだった。ユージオは自分の武装完全支配術を、足止めのためのものだなどと言っていたがとんでもない。この氷の地獄に捕らえられれば、それだけで天命が全て消し飛びかねない。
これならば、あいつは本当に伝説の騎士ベルクーリを退けたのかも――と思いながら、俺は懸命に目をすがめ、四方の靄を見通そうとした。青薔薇の剣をサーチした光線は確かにこの大浴場を示したのだし、その近くに彼も居るはずだ。
と、その時、隣でアリスが小さくあっ……と言いながら右手で前方を指差した。
「…………!」
俺も鋭く息を吸い込んだ。確かに、二十メートルほど先の氷結面に、こんもりと突き出したシルエットが見えた。間違いなく、人の肩から頭にかけてのラインだ。
アリスと同時に駆け出し、足元にびっしり咲いた氷薔薇をかしゃかしゃ蹴散らしながら人影へと向かう。しかし、半分ほど距離を詰めたとき、俺は氷に埋まった人物が明らかにユージオではないことに気付いた。肩幅も、首回りも、ユージオの倍はあろうかという逞しさだ。
落胆と警戒心によって速度が落ちた俺とは逆に、アリスは一声細く叫んで残りの距離を疾駆し始めた。
「小父様……!」
引き止める間もなく、凍結したシルエットの傍へと駆け寄っていく。
あれがベルクーリ!? ならばユージオは何処に行ったんだ……!?
混乱しながらも、俺は左右に視線を走らせつつアリスを追った。数秒後に追いついたときには、アリスはもう氷に埋まった巨漢の隣にひざまずき、胸の前で両手を組んで、悲鳴のような声で何度も呼ばわっていた。
「小父様……! 騎士長様……! なぜ、このようなお姿に……!?」
どこか奇妙なその言葉の理由は、俺にもすぐ解った。
分厚い氷に胸元まで埋まり込んだ威丈夫は、しかし、ただ凍りついているわけではなかった。隆々と筋肉が盛り上がった肩も、丸太のような首も、そしてそこに乗る、無骨だが、研ぎ澄まされた名刀のように鋭い相貌も――すべてが、濃褐色の石へと変じていたのだ。遠い昔に現実世界で観た大河シリーズもののSF映画、あの二作目で敵に捕らえられた宇宙船の船長が、ちょうどこのような質感のレリーフに変えられていたことを、俺は頭の片隅で思い出していた。
「……これは……ユージオの術じゃない」
しわがれた声でそう呟いた俺に、背を向けてひざまずいたままのアリスが小さく頷いた。
「……ええ、そうでしょう……小父様に聞いたことがあります、元老たちは、整合騎士に……”再調整”なる処理を施すため、石に変じせしむる術式を用いる権限を与えられていると……確か、”ディープ・フリーズ”、そんな名でした」
「ディープ……フリーズ。なら、このおっさん……いや、ベルクーリにその術を掛けたのは元老の一人なのか……しかし何故? 今や、元老院……ひいてはアドミニストレータに残された貴重な戦力だろうに」
「……小父様は、確かに元老院の指令には密かな疑念をお持ちのようでした。しかし……私と同じように、教会の存在なくして人界の平和は有り得ないと信じ、これまで永劫の日々を戦ってこられたのです。”再調整”がいかなるものなのか知りませんが、このような……このような仕打ちを受ける謂れはありません! 断じて!!」
俯き、そう叫んだアリスの膝元の氷に、頬を伝った涙がぽたりぽたりと滴った。それを拭うことなくアリスは両手を伸ばし、石に変じた英雄の肩に縋りついた。宙に散った涙の滴が、騎士長の額に当たり、弾けた。
その時だった。
びしり! という鋭い音が、俺の耳朶を打った。
はっと身を引いたアリスが、一瞬前まで手を乗せていたベルクーリの首筋に、一本の深い亀裂が入ったのに俺は気付いた。裂け目は見る間に数を増し、細かい石の欠片がぴしぴしと割れ飛ぶ。
硬質の石像が、無数のひび割れを作りながらも徐々に、徐々に首の角度を変えていくさまを、俺たちは呆然と見守った。
数秒かけて顔を仰向かせた騎士長は、今度は顔の眉間と口の両側にびしりと亀裂を刻んだ。ぽろぽろと鋭い欠片がこぼれ落ち、周囲の氷に飛び散っていく。
ディープ・フリーズという名前からして、そのコマンドは、このアンダー・ワールドにおける人間の体の活動を最高優先順位で完全停止させるものと思われた。現実世界で、例えば体に石膏を塗りたくられるのとは訳が違う。システム的に――つまりは神の命令によってあらゆる動作を禁止されているのだ。それを、この男は、意思の力のみで打ち破ろうというのか。
「小父様……やめて、もうやめて! 体が……壊れてしまうわ、小父様!!」
アリスが涙混じりの声で叫んだ。しかしベルクーリは神への反逆を一瞬たりとも止めることなく、ついに一際大きな、ばきっという破砕音とともに両の瞼を持ち上げた。露わになった両の眼は、皮膚と同じく石の色だったが、その視線に込められた意思の力を俺はまざまざと感じた。
ぽろぽろと欠片を振り撒きながら、口もとにニヤリと太い笑みが形作られ、同時にごくごく微かな、しかし力強い声が流れた。
「よ……よう、嬢ちゃん。泣くんじゃねえよ……び、美人が、台無しだぜ」
「小父様……!!」
「し……心配すんな、この程度で、オレがくたばるわきゃねえ……だろう。それより……」
ベルクーリは一瞬言葉を止め、すぐ眼の前で両膝をつくアリスの顔を見上げると、石の貌にまるで父親のような慈愛に満ちた笑みをうっすらと浮かべた。
「そうか……嬢ちゃん、ついに……壁を、破ったんだ……な。このオレが……三百年かけて……破れなかった、右目の……封印を……」
「お、小父様……私……私は……」
「そんな顔……すんじゃねえ……。オレは……嬉しいんだ、ぜ……。これで、もう……オレが、嬢ちゃんに、教えることは……何も無え……」
「そんなこと……そんなことありません!! 小父様には、もっと、もっと、教わりたいことが、た、沢山、たくさん……!!」
アリスは、子供のように泣きじゃくる声を隠そうともせず、再び騎士長の首を両腕でかき抱いた。ベルクーリも、もう一度優しい微笑みを浮かべ、アリスの耳に囁きかけた。
「嬢ちゃんなら、できるさ……教会の……過ちを正し、この歪んだ世界を、あるべき形へ……導く……ことが……」
その声が、急速に力を失いつつあることに、俺は気付いた。騎士長のフラクトライトから生み出される驚異的な意思力も、今や枯渇する寸前なのだと思われた。
光を失い、鈍い石に戻りつつあるベルクーリの眼が、僅かに動き、まっすぐに俺を見た。もう動かない唇から、おそらく最後の言葉が流れ出た。
「おい、小僧……アリス嬢ちゃんを……頼んだ……ぞ」
「……ああ、任せておけ」
頷いた俺に向かって、古の英雄は、ぴしりとひび割れを増やして頷き返して見せた。
「お前の……相棒、は……元老、チュデルキンが……連れていった……恐らく……最高司祭様の、居室へ……急げ……あの坊やが、記憶の迷路に……惑わされる前に…………」
その一言を最後に、騎士長ベルクーリは完全に動きを止めた。無数の亀裂だらけになったその彫像から声が発せられることは、二度と無かった。
「……小父様……」
騎士長の肩に縋りついたままのアリスが細く絞り出す悲痛な声を聴きながら、俺は、いまの言葉の意味を懸命に考えた。
元老チュデルキンなる人物が、ベルクーリに”ディープ・フリーズ”コマンドを施し、ユージオを連れ去ったということか。視線を動かすと、胸まで氷結したベルクーリのすぐ前方に、まるで氷を電動鋸で切断したかのような真四角の滑らかな穴が、浴槽の底まですっぽりと深く開いているのが見えた。
ユージオは、おそらく騎士長と相打ちになるのを覚悟で互いの身体を凍結させたのだろう。そこに闖入した元老が、これ幸いとユージオを氷ごと切り出し、上層に運んだのだ。ただ、その届け先が、”シンセサイズ”のための儀式の間ではなく、アドミニストレータの居室とはどういうことか。それに、記憶の迷路という言葉の意味は……。
これ以上は、考えても詮無いことだ。確かなのは、ユージオが現在敵首魁の手の内に落ちているという事実だけなのだから。彼のことだ、容易く洗脳されたりはするまいが、フラクトライトに直接アクセスする力を持つというアドミニストレータがどのような手段を弄するかは俺にも想像がつかない。
さらに視線をめぐらせると、四角い穴のすぐ横に、刀身を半ば以上氷に埋めた青薔薇の剣がひっそりと置き去りになっていた。そして、その隣に無造作に投げ出された白革の鞘。
もはやある意味ではユージオの分身ですらある美しい神器が、細いつららをいくつもぶら下げた姿で打ち棄てられている光景は、俺に名状しがたい漠然とした不安感をもたらした。
数歩移動し、腰をかがめて青薔薇の剣の柄を握る。凄まじい冷気が無数の針となって掌を突き刺すが、構わず全身の力を込める。
剣は数秒間、まるでその場に根付いてしまったかのように微動だにしなかったが、やがてぴしりという鋭い音とともに氷に罅が入り、同時に青銀色の刀身がわずかに抜け出た。亀裂が一つ増えるごとに、少しずつ、少しずつ剣はその姿を露わにし、半分を過ぎたところで鈴の音のような響きを放って一気に氷から解き放たれた。
直後、両膝があまりの負荷に抗議するように軋み、俺は思わず短くうめいた。左腰の黒い剣だけでもすでに鉄球をぶら下げているほどの重みがあるというのに、それと同等の重量がある青薔薇の剣を持ち上げたのだから当然のことではあるが。
つい、これは無理かという思考が頭の片隅を過ぎるが、すぐに思い直す。ユージオを最高司祭の手から救出し、彼に剣を返すのはどう考えても俺の役目だろう。幸い、この世界では、少なくともただ運ぶぶんにはシステム的重量制限などというものはない。
腰を屈め、白い鞘も拾い上げると、俺は左腕の袖で抜き身に付着した氷片をぬぐってからそっと納剣した。少し考えてから、それを剣帯の右側に吊るす。そうしてみると、なんとか動き回れるくらいには重みに収まりがつき、ほっと息をつきながら両腰の剣の柄に左右の手を乗せた。
顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていたアリスと視線が合った。赤くなった左目の縁を指先で擦っていた少女騎士は、照れ隠しのようにぱちぱちと瞬きし、ややぶっきらぼうな口調で言った。
「……剣を二本装備するような酔狂者は、ただ恰好をつけたいだけの貴族だの皇族と相場が決まっていますが……なんだかお前は妙に様になっていますね」
「ん? そうかな……」
思わず苦笑し、肩をすくめる。確かにSAO時代は、二本のロングソードがソロプレイヤーとしての俺の拠り所となっていたのは事実であるが、しかし当時は他人にそうと知られるのを恐れて二本目の剣をほぼ常に隠していたせいだろうか、いまだに居心地の悪さを感じずにはいられない。
いや――もしかしたらそれだけではなく、”二刀流”キリト、というあまりにも救世の勇者として一人歩きしてしまった名前を、俺はどこかで恐れ……あるいは嫌悪しているのかもしれないが。あんな役回りだけは、誰になんと言われようともう二度とご免だ。
「……だからって、二本を同時に操るのはとても無理だよ」
首を振りながらそう言った俺に、アリスもさもありなんというふうに頷いた。
「同時に複数の神器の”記憶解放”を行うのが不可能だということはすでに実証されていますからね。その一事を取っても、二剣装備に意味が無いことは明らかです。それより……その剣の持ち主、お前の相棒はやはりすでに最高司祭様の手中に捕われてしまったようですね。……急いだほうがいい、あの方のする事は、私にも予想できませんから……」
「……会ったことがあるのか? アドミニストレータと」
「一度だけ」
俺の問いに、アリスは口もとを引き締めると、短く首肯した。
「もうずっと昔……整合騎士として目覚めた私は、まず己の”召喚主”でありこの世界における神の代理人であるという最高司祭様と謁見させられました。見た目には、とてもなよやかな……剣はおろか、羽ペンの一本すらも握ったことのなさそうな美しい方なのですが、でも……あの眼」
篭手のない右手で、左腕の肌をそっと包む。
「あらゆる光を吸い込み、渦巻かせる銀色の瞳……そう、今なら解ります。あの時、私は、あの方を深く懼れた……。決して逆らってはならない、御言葉の一片たりとも疑ってはならず、忠誠の全てを捧げて仕えねばならないと私に思わせたのは、圧倒的な恐怖……だったのでしょうね、恐らく」
「アリス……」
俺はかすかな危惧とともに、青白い顔を俯かせる整合騎士を見詰めた。
しかしアリスは、そんな俺の内心を察知したかのように、大きく深呼吸すると視線を上げて頷いた。
「大丈夫です。私はもう決めたのです。北空の下のどこかにいる妹のために……まだ見ぬ家族、そして多くの無辜の民のために、正しいと信じたことを行うと。――小父様は、我らに施された右目の封印のことをご存知だった。ということはつまり、全整合騎士を束ねるベルクーリ・シンセシス・ワンにして、神聖教会の絶対支配を決して盲目的に善しとはしておられなかったということです。この階まで降りてきたのは、お前の相棒を助けるという点では無駄足でしたが、でも小父様と会えてよかった……これでもう、私の心は決して揺らぐことはありません」
アリスは腰を屈め、伸ばした手でさっと石化したベルクーリの頬を撫でた。しかしその動作も一瞬のことで、くるりと身を翻した騎士は、力強い足取りで氷上をもときた方へと歩きはじめた。
「さあ、急ぎましょう。ことによると、最高司祭様とまみえる前に、元老どもと一戦交える必要があるかもしれませんから」
「お……おい、騎士長はあのままにしておいていいのか?」
慌てて小走りでその横に並びながら、俺は尋ねた。すると、騎士アリスは、蒼い左目にちかりと凄愴な光を浮かべ、こともなげに言った。
「元老チュデルキンを吊るし上げて術を解除させるか……あるいは斬り捨てればそれで済むことです」
この少女をもう一度敵に回すのだけは絶対にご免だな、と、二本の剣の重みを堪えて走りつつ俺は考えた。
恐ろしく細い腰のまわりに、紫の薄物がまるであでやかな花のようにふわりと広がり落ちるのを、ユージオは阻害された意識のなかでぼんやりと見詰めた。
まさに花、それも、強烈な芳香と滴る蜜で虫たちを惑わせ捕らえる、魔性の大輪だ。そんなふうに感じる部分はまだユージオの中に残っていたが、しかし、紫の花弁の中央に儚げにたたずむ真っ白い花芯――アドミニストレータの一糸纏わぬ上体から放たれる誘引力はあまりにも強烈で、先刻の幻に千々に乱されたユージオの思考を、粘性の液体のなかにどっぷりと引き込んでいくかのようだった。
あなたは、本当に満ち足りたと思えるほど誰かに愛されたことがない。
アドミニストレータはそう言った。そしてそれが、一面では確かな事実であると、ユージオは徐々に認めはじめていた。
ユージオ自身は幼少のころ嘘偽り無く、母を、家族を、友人たちを愛した。彼らの幸せが自分の幸せだと思い、自分が摘んできた花で母が笑い、獲ってきた魚を兄や父たちが旨そうに食べるのを幸福感とともに見た。ユージオに色々な意地悪をしたジンクやその仲間たちだって、たとえば彼らが熱を出したりしたときは苦労して薬草を集めて届けたりしたのだ。
でも、その人たちはあなたに何をしてくれたの? あなたの愛の見返りに、どんなものをくれたのかしら?
そう……それを思い出せない。
再び、目の前のアドミニストレータの微笑がぐにゃりと歪み、過去の場景が甦ってくる。
あれは十歳になった年の春……村の中央広場で、大勢の子供といっしょに、村長から生涯の天職を告げられた日のことだ。緊張するユージオを、台上からちらりと見下ろし、ガスフト村長が与えたのは”ギガスシダーの刻み手”という思いがけないものだった。
それでも、一部の子供からは羨望の声がちらほらと上がった。刻み手は村にたったひとりの稀少な天職だし、剣ではないにせよ本物の斧が与えられるのだ。ユージオ自身も、その時は決して不満には思わなかった。
赤リボンで丸めた羊皮紙の任命証を握り締め、村はずれの家まで駆け戻って、ユージオは上気した顔で、自分の帰りを待っていた家族に天職を告げた。
しばしの沈黙のあと、最初に反応したのは下の兄だった。彼はチッと短く舌打ちすると、牛の糞掃除は今日で終わりだと思ってたのに、と毒づいた。ついで上の兄が、これで今年の作付けの計画が狂ったな、と父に言い、父も唸るように、その仕事は何時に終わるんだ、帰ってから畑は手伝えるのか、とユージオに訊いた。男たちの不機嫌を恐れるように、母は一言もなく台所に消えた。
以来八年間、ユージオは家のなかでは常に肩身が狭かった。それなのに、ユージオが稼いでくる決して少なくはない賃金は父親の財布に消え、気付くと羊が増えていたり、農具が新品になっていたりした。ジンクらは稼いだ金をほとんど全て自分で使えて、昼飯には肉をたっぷり挟んだ白パンのサンドイッチを買い、新品のなめし革の短衣やら剣帯やらを毎月のようにユージオに自慢していたのに。そんな友人たちの前を、ユージオは擦り切れた靴で歩き、麻袋には干からびた売れ残りのパンしか入っていなかったのに。
ほら、ね?
あなたが愛した人たちは、一度でもあなたのために何かをしてくれたことがあった? それどころか、彼らは、あなたの惨めさを喜び、嘲笑いさえしたでしょう?
そう……そのとおりだ。
十一の夏にアリスが整合騎士に連れ去られてから二年ほど経った頃、ジンクはユージオに言ったのだ。村長の娘が居なくなっちまったら、もうお前が落とせる女は村にいねえよなあ。おい、俺はよう、こないだ雑貨屋のビリナとよ……。
あの時、ジンクの眼はあきらかに、いい気味だ、と言っていた。村でいちばん可愛くて、神聖術の天才のアリスと誰よりも仲が良かったユージオが、その特権を失って喜んでいた。
結局、ルーリッドの人々は誰ひとり、ユージオの気持ちに報いてはくれなかったのだ。差し出したものと等価の見返りを得る権利がユージオにはあったのに、それは不当に奪われていた。
なら、あなたのその惨めさや口惜しさを彼らに返したっていいじゃない? そうしたいでしょう? 気持ちいいでしょうね……整合騎士になって、銀の飛竜にまたがって、故郷の村に凱旋したら。あなたを嘲った愚か者を全員地面に這いつくばらせて、その頭をぴかぴかのブーツで押さえ付けてやったら。そうしてやってようやく、あなたはこれまで奪われたものを取り立てられるのよ。それだけじゃないわ……。
すぐ眼前の銀髪の美少女は、それまで自分の胸を覆っていた両の腕を、焦らすかのようにゆっくり、ゆっくりと外した。支えを失ったふたつの豊かな膨らみが、熟れきった果実のように重そうに弾んだ。
アドミニストレータは両腕をまっすぐユージオに伸ばし、蕩けるような微笑を浮かべて囁いた。
「あなたは初めて、愛される歓びを心ゆくまで味わうことができるのよ。頭のてっぺんから爪先までが痺れるような、本物の満足を。私は、あなたから奪うだけだった連中とは違うわ。あなたが私を愛してくれたら、それとまったく等価の愛を返してあげる。深く愛してくれればくれるほど、あなたがこれまで想像もしなかったような、究極の快楽に誘ってあげるのよ」
ユージオの思考力はすでに、最後の一滴までもが魔性の花びらに吸い尽くされようとしていた。しかしそれでも、心の深奥に残された最後の領域で、彼はささやかに抵抗した。
愛っていうのは……そういうものなのかな?
お金と同じように……価値で購う、それだけのものなのかな?
違いますよ、ユージオ先輩!
と、どこかで叫ぶ声がして、そちらに視線を向けると、灰色の制服に身を包んだ赤毛の少女が、幾重にも垂れ下がる黒い布の隙間から懸命に手を伸ばしているのが見えた。
しかしユージオがその手を取るまえに、少女の足元の泥沼のような闇から、生白い肌をした長身の男がずぶずぶと湧き出て、少女に絡みついた。男の紅い唇がきゅうっと裂け、粘つくような笑いを含んだ声が発せられた。――これはもう貴君のものではないよ。
赤毛の少女は、悲しそうな瞳の色だけを残して再び闇に消えた。すると今度は、別の方向からまたユージオに囁く声がした。
違うわ、ユージオ。愛は決して、何かの見返りに得られるものじゃないのよ。
振り向くと、暗闇のなかにぽっかりと開けた緑の草原に、青いドレスを着た金髪の少女がたたずんでいた。少女の蒼い瞳が、この底無しの沼から脱せられる唯一の窓であるかのように眩く煌めき、ユージオは懸命に萎えた脚に鞭打ってそちらに這い進もうとした。
しかしまたしても、少女の隣に人影が現れ、ユージオに向けられていた小さな手を握った。その黒髪の少年は、ゆっくりと首を振りながら言った。――悪いなユージオ。これは俺のなんだ。
直後、緑の野原もまた粘つく闇に没した。光を見失い、ユージオは途方に暮れてうずくまった。胸中に溢れ、渦を巻くような渇きは、最早耐えがたかった。自分は子供のころから不当に虐げられ、搾取され、与えられるべきものを誰かに奪われつづけてきたのだと考えると、惨めさと口惜しさが濃い塩水となって喉を焦がした。
ついに、彼はゆっくり、ゆっくりと四肢を動かし、にじり寄りはじめた。とめどなく滴る、甘い蜜の泉へと。
ふかふかの絹のシーツをかき分け、伸ばした指先に触れたアドミニストレータの脚は、ベッドに詰められた最高級の羽毛など問題にならぬほど滑らかに柔らかく、その感触だけでユージオの全身を痺れるような衝撃が貫いた。
餓えと渇きに急かされるように、ユージオはすがりついた脚を遡った。両手で掴めそうなほど細い腰、絶妙な曲線でいざなう腹部を夢中で通り過ぎる。
曇り、光を失った瞳を上げたユージオの顔を、二つの膨らみがふわりと包んだ。頭の後ろに華奢な腕が回され、ぎゅっと強く引き寄せた。しっとりと吸い付くような、ひんやりとした肌に、ユージオはたちまち飲み込まれた。
すぐ耳もとで、くすくすと笑う声がした。
「欲しいのね、ユージオ? 何もかも忘れて、貪り尽くしたいんでしょ? でも、まだだめよ。言ったでしょう、まず私に愛をくれなくちゃね。さあ……私の後に続いて言うのよ。心の底から私だけを想い、信じ、全てを捧げると念じながらね。いいかしら? ……まず神聖術の起句を」
ユージオにはもう、自分を包み込む途方も無い柔らかさだけが現実の全てだった。これが愛の本質であると信じ込むに充分すぎるほどに、彼を捕らえた蜜はとろりと甘すぎた。
自分の口が勝手にうごき、掠れた声が漏れるのを、自分とは無関係の事柄であるかのように彼は聞いた。
「システム……コール」
「そうよ……つづけて……”リリース・コア・プロテクション”」
はじめて、アドミニストレータの声が、ある種の感情――期待と歓喜――の存在を示して、ごくわずかに震えた。
ふたたび五フロアぶんの階段を、こんどは重力に逆らって駆け抜けた俺とアリスは、『暁星の望楼』の上り階段前まで到達して足を止めた。
新たに加わった右腰の剣の重みのせいで荒い息を繰り返す俺に対して、装備の重量という点ではこちらと大差ないはずの重装騎士様の顔はどこまでも涼しげだ。冷気すら感じさせる雪白の肌と紺碧の瞳に、確たる決意を浮かべて階段の上部を睨みつけている。
「……息を整えながらでいいから聞きなさい。元老たちは、武器による近接戦闘能力は一般民並みですが、神聖術の行使権限ならば我々整合騎士より高位にあるはずです。神聖力の供給源となる各種媒質や霊杖を携え、ほぼ無限に遠隔攻撃術を放ってくるでしょう」
「そういう……相手には、不意打ちからの……接近戦と、相場が決まってる……な」
情けなく喘ぎながら口を挟んだ俺に、アリスはこくりと頷いた。
「気取られずに接近できればそれに越したことはありませんが、そう都合よくも行かないでしょう。その場合は、金木犀の剣の”流散花”で攻撃術を防ぎますから、お前が突入するのです」
「……俺がフォワードか」
SAOやALOでは、遠隔タイプの敵がどうにも苦手だったことを思い出しつつ浮かない顔をすると、アリスがぴくりと片方の眉を持ち上げて得意の皮肉を放った。
「私は構いませんよ、一人で攻めと護りの両方やっても。ただその場合は、お前は物陰からおとなしく見ていることになりますが」
「わかったよ、やるよ、やりますよ」
確かに俺の黒いやつは、現在天命の回復中で記憶解放が行えるか心許ない。それに出来ることなら対アドミニストレータ戦まで温存しておきたいのが正直なところだ。そもそも、ギガスシダーの過去の姿を召喚するだけというシンプル極まりないあの必殺技は、状況をひっくり返す破壊力はあれども、アリスの剣の分離攻撃のような応用力に乏しい。
「気が向けば後ろから回復術のひとつも掛けてやります。存分に暴れて構いませんが、チュデルキンだけは生かしておいてください。私の記憶どおりの姿なら、悪趣味な青と赤の道化服の小男です」
「……なんか……威厳もへったくれもない恰好だな」
「だからと言って侮ってはなりませんよ。整合騎士ではないお前に”ディープ・フリーズ”術は効かぬはずですが、それ以外にも高速かつ高威力の術式を多数操る……恐らく教会でも最高司祭様に次ぐ能力を持つ術者ですから」
「ああ、わかってるよ。そういう一見小者っぽい見かけの奴が、実は一番厄介だったりするのがお約束だからな」
俺の台詞に怪訝な顔をしたのも束の間、アリスは鋭い視線を階段に向けなおし、それでは、と力強い声で言った。
「――行きましょうか」
今度は、急ぎつつも可能な限り足音を殺してワンフロアぶん駆け上がった階段の先に待っていたのは、やけに狭く薄暗い通路とその突き当たりに見える黒い扉だった。
壁に並ぶ奇妙な黄緑色の蝋燭に照らされた通路の幅は一メートル半というところだろう。人ふたりがすれ違うのもちょっと面倒なほどの狭さだ。その奥の、片開きの扉がまた小さい。俺やアリスはなんとか頭をぶつけずに潜れるだろうが、たとえば騎士長ベルクーリほどの威丈夫ならばそうとう身を屈める必要があるのではないか。
どうにもしっくりこない眺めだった。ふつう、このような最高支配者の本拠地――ぶっちゃければラストダンジョンは、奥に進めば進むほどに構造も装飾も豪華絢爛になっていくものではないか? 実際、下の『暁星の望楼』までは細部まで贅を尽くした、広々とした設計になっていたのだ。現在は、俺とユージオが暴れまわったせいで完全に無人だったが、あそこを美しく着飾った騎士や司祭たちが行き交っていたらさぞかし大作ファンタジー映画のような眺めだったろう、と思わせるほどに。
それが、いよいよ最上階まであと一エリアという所まで来てこのせせこましさは何だ。まるで――この通路を利用するのが、小柄な人間たったひとりしかいない、と言うかのようだ。
おそらく俺とは違う理由で、しかし同じように眉を寄せていたアリスだったが、すぐにふわりと金髪を流して通路に進みはじめた。
この狭さは、もしかしてトラップだの伏兵だのの仕掛けがあるせいかと考えはじめていた俺は、反射的に引き止めようとしたがすぐに思い直し、後を追った。絶対支配組織たる神聖教会のこんな中枢に、侵入者を想定した面倒な罠などあるはずがない。勇者のパーティーを待ち受けるためだけに作られた魔王の城とは訳が違うのだ。
長さ二十メートルほどの通路は、何事もなく侵入者の通過を許し、俺たちはすぐに小さな扉の手前にまで到着した。
ちらりと目を見交わし、同時に頷いてから、俺が手を伸ばして使い込まれて黒光りするドアノブを握る。扉には鍵すらも掛けられておらず、カチリと呆気なくノブが回り、そっと引っ張ると滑らかに開いた。
しかし、途端にその奥から吹き寄せてきた冷たい空気には間違いなく濃密な何ものかの気配が――例えるならアインクラッド迷宮区のボス部屋のドアを初めて開けたときのような――含まれており、俺の背筋をぞわりと戦慄が横切った。
だからと言って、無論アリスに今更前衛を代わってくれなどとは言えない。ぐっと大きくドアを引き開け、少々頭をかがめて内部を見通す。
狭い大理石の通路がもう少しだけ奥に続いており、その先はほとんど光のない、暗い広間になっているようだった。いくつかの紫色の光がちらちら瞬いているのが見えるが、詳細は不明だ。
そして同時に、何やら低くぶつぶつと呟く呪詛めいた声が耳に届いた。それも一人のものではない。何人――何十人といった規模だ。懸命に耳をそばだてるが、言葉の中身がすぐにはわからず、斜め後ろでアリスが低く「神聖術だわ」と囁くのを聞いてようやく合点が行った。
たしかに神聖術のコマンドだ。すわ、俺たちを狙った多重魔法攻撃か、と体を固くしたが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。断片的に聞き取れるコマンドの内容は、何かの数値を操作するようなものばかりなのだ。
首をかしげていると、アリスがほとんど音にならない声で俺を促した。
「行きましょう。元老たちが皆、何かの大規模な施術の最中ならば逆に好都合です。これだけ暗ければ、剣の間合いにまで近づけるかもしれない」
「……ああ、そうだな。予定どおり俺が先に仕掛ける、防御よろしく」
囁き返し、俺はゆっくりと左腰の剣を抜いた。アリスの金木犀の剣も抜刀される音を確かめてから、ぐっと腹に息をため、扉を潜る。
内側の通路に踏み込むと、頬を撫でる冷たい風に、何かいやな匂いが含まれているのに気付かされた。獣臭や血臭というのとは違う。夏場にうっかり鍋を半日放置してしまったときのような、かすかに饐えた匂い。それを意識から振り落とし、最後の三メートルを詰める。
通路の終わり角にぴったり背中をくっつけ、俺はついに元老の間の内部を視界に収めた。
広い――というより、高い。
床の直径三十メートルほどの円形になっている。湾曲した壁は、おそらく三フロア分ほどをもぶち抜いてまるで塔の内部のように頭上に伸び、天井は闇に沈んでよく見えない。
照明らしきものはほとんど設置されておらず、光源は壁に沿っていくつもならぶ仄かな紫の瞬きだけだ。懸命に視線を凝らし、それがランプの類いではなく四角く半透明な板状の光――つまり”ステイシアの窓”であることに気付いた頃、ようやく闇に慣れた俺の目に、壁に等間隔に並ぶモノの姿がはっきりと映った。
人間だ。
人間が何人も、壁から突き出た椅子に座っている。いや、座らされている、と言ったほうが正しい。なぜなら、彼らは一切衣服を身につけていないその肉体を、幾つもの金属環でがっちりと椅子に固定されているからだ。
ぶよぶよの真っ白い体に鉄の縛めが食い込む様は痛々しかったが、しかし彼ら当人がその境遇をどう思っているのかは、俺の目では察せられなかった。背もたれの上部から突き出た半円形の首輪に繋ぎ止められた彼らの顔には、表情というものがまるで存在しないのだ。
頭髪や眉毛すら一本もない、白くたるんだボールのような頭に埋め込まれた二つの眼球は、ぼんやりと顔のすぐ前に表示された紫のシステムウィンドウを眺めている。その窓には、びっしりと何かのデータが表示されており、その文字列がちらちら瞬いて切り替わるたびに、白い人間たちの色のない唇も動く。
「しすてむ・こーる……」
「しすてむ・こーる……」
抑揚の乏しい、嗄れた声に耳をそばだてると、それはどうやらこの世界のあらゆるエリアのあらゆるオブジェクト数を参照、照合する命令のようだった。
本来、ザ・シードパッケージの中核たるカーディナルシステムが行うはずの世界のバランス調整、それをこの人間たちが行っているのだ。しかし何故。権限をアドミニストレータ(及び図書室のカーディナル)に乗っ取られたとはいえ、自動調整プログラムたるカーディナルシステムそのものはまだ機能しているはずだ。
眼前の光景に圧倒され、混乱した頭を必死に整理しようとしていると、不意にびびーというブザー音のようなものが鳴り響き、俺はハッと剣を握りなおした。
同時に、数十人はいようかという白い人間たちの術式詠唱がぴたりと止まり、今度こそ侵入がバレたかと覚悟したが、そうではないようだった。人間たちが一斉に、下方の俺たちではなく、頭上に顔をもたげたからだ。
彼らを拘束する、無骨な金属椅子の背もたれの上からは奇妙な蛇口のようなものが伸びており、人間たちはそろってその先端を見詰めると、ぱかりと大きく口を開いた。
直後、蛇口から褐色のどろどろしたものが嫌な音をさせながら流れだし、人間たちはそれを口に受けると、無我夢中といった様子で咀嚼し、飲み下しはじめた。口から溢れたどろどろは彼らのアゴから滴り、腹や脚を汚していく。饐えた匂いの源は間違いなくあれだ。
白い人間たちは、体が汚れるのなど一切意識しないかのように、歓喜にとろけた表情を浮かべながら茶色いどろどろを貪りつづけた。
やがて再びブザーの音が響き、同時に蛇口から垂れる流動食も止まり、人間たちの顔から感情が消えた。かくりと頭を正面に戻し、ぼんやりとした目でウインドウを眺めると、コマンドの詠唱を再開する。しすてむ・こーる……しすてむ・こーる……。
人間ではない。
この扱いは、決して人間たる存在に――いや、どのような動物に対してだって、して良いものではない。
腹の底から湧きあがってきた畏れ、憐れみ、そして巨大な怒りに耐えかねて、俺がぎりっと歯を鳴らすのと同時だった。
「彼らが……彼らが、世界を守護する神聖教会の、元老だというのですか」
絞り出すようなアリスの声が聞こえた。
視線を向けると、通路の反対側の壁に背中を預けたアリスが、蒼白の肌に蒼い瞳を爛々と燃やして前方を睨んでいた。
「この光景を作り出したのも……最高司祭様なのですか」
「ああ……そうだろう」
俺も、ひび割れたささやき声で肯定した。
「世界各地から数百年にわたって拉致した人間のうち、戦闘能力には欠けるが神聖術行使権限に秀でた者をこうして……思考と感情のほとんどを破壊し、元老という名の世界監視装置に作り変えたんだ」
そう、彼らは単なる監視装置なのだ。このアンダーワールドが、神聖教会の統治のもと、完璧な停滞のなかに維持されつづけているかをチェックするための。もし何らかの異常、つまりオブジェクトの不正な増加あるいは減少を発見した場合、禁忌目録を更新して対応する。そうやって、アドミニストレータ治下の怠惰で緩慢な人の営みが数百年にわたって続けられてきたのだ。
アリスの顔がゆっくりと伏せられ、はらりと垂れた金髪がその表情を隠した。しかし、続けて流れた声の響きが、彼女の苛烈な意思を如実に示していた。
「……許せない」
右手に握られた金木犀の剣が、主の怒りを反映してか、かすかにりんと刃鳴りした。
「彼らも人間……教会が守るべきステイシアの子ではありませんか。それを……私たちのように記憶を奪うだけに飽きたらず、あのような……人の証たる知性すらも取り上げ、身動きすらも許さず、獣以下の食事をさせるなど……ここに最早正義は無い。暗黒騎士だってこのような所業はしない」
言い切った直後、アリスはかっとブーツを鳴らし、広間へと歩み入った。慌てて俺もその後を追う。
まばゆい黄金の騎士が目の前に現れても、元老たちの視線はぴくりともウインドウから動かなかった。アリスは左に進み、もっとも近い椅子に拘束された元老のひとりの前に立った。
間近で見ても、哀れな人間の年齢も、性別すらも、よくわからなかった。それでも、その全身に漂う生気の無さは、ここに拘束されて数十年、あるいは百年以上の年月が流れたことを明確に告げていた。
アリスは一瞬、耐えがたい様子で顔をそむけたが、すぐに左目をかっと開き、金木犀の剣をすっと掲げた。元老の四肢を縛める鉄環を斬るのかと思ったが、その剣尖は弛緩した胸の中央、心臓の真上に擬せられ、俺は息を飲んだ。
「アリス……!」
「命を絶ってやるのが……慈悲だとは思いませんか」
俺は即答できなかった。
この有様を見れば、整合騎士のように記憶のピースを取り戻せば元の人格に戻せるという楽観的な推測は一切できない。この人間たちのフラクトライトは、おそらく取り返しのつかないほどに無惨に破壊され、修復は不可能だろう。
しかしそれでも、カーディナルなら――あるいはアドミニストレータなら、せめて彼らに一片の望みを、例えば産まれたばかりの赤子にまで戻すというような希望を与えることが出来るのではと俺は考え、アリスの剣を押し留めようとした。
しかしそれより早く、広間の奥から響き渡った奇怪な叫びが、俺たちの動きを止めた。
「ああっ……ああ――っ!」
きんきんと甲高い、男の金切り声だった。
「ああっ、そんな、ああっ、最高司祭様、そんな勿体無い、ああっ、いけませんっ、ああ、おおお――っ!!!」
SAO4_30_Unicode.txt
意味不明な感嘆詞の羅列に、俺とアリスは同時に眉根を寄せ、首をかしげた。
聞き覚えの無い声だ。若者ではなく、さりとて老人とも思えない。ただ一つ確かなのは、声の主が、我を失うほど何かに興奮しているらしいということだけだ。
怒りに水を差されたようにアリスが剣を引き、声の聞こえてくる方向を伺った。俺もそれに倣う。
円形の広間の反対側に、俺たちが入ってきたのと同じような通路がぽっかり口を開けていた。身悶えするような絶叫は、その奥から絶え間なく響いてくる。
「…………」
行ってみましょう、と言うように、アリスが剣の先でそちらを指した。それに頷き返し、俺たちは足音を殺して移動を開始した。
広間には遮蔽物になりうる柱や調度が一切無く、その真ん中を突っ切るのは少々度胸を要したが、壁に繋がれた数十人の”元老”たちは俺たちの存在にはまったく気付かぬ――と言うよりも端から意識の埒外であるようだった。彼らにとっては、眼前のシステム・ウィンドウと、蛇口から供される流動食だけが世界の全てなのだ。
地下牢の獄吏や、エレベータを動かしていた少女の境遇を知ったときも憐れの念を催さずにいられなかったが、この元老たちの人生はもう俺の半端な想像や共感の及ぶ範疇を遥か超えている。
そして同時に、このような究極的悲惨の現出した場所において、あんな脳天気な悶え声を喚き散らす人間もまた理解不能としか言えない。少なくとも、味方となり得る人間ではまったく有り得ない。
その思いはアリスも同様のようで、顔の左半分には、先刻とは別種の怒りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。俺の半歩前を、まったく音を立てずしかし憤激も隠さない足取りで踏破した彼女は、奥の通路の入り口の壁際に身を伏せると、先の暗闇を覗き込んだ。反対側の角から俺も先を伺う。
またしても異様に狭い通路の先は、広間ほどではないにせよ大きな部屋になっているようだった。ドアが半ば開け放たれ、内部をじゅうぶんに見通すことができる。
一見して、奇怪千万な空間だった。
まず、ありとあらゆる調度がすべて金ピカだ。箪笥やベッドといった大型のものから、小さな丸椅子や収納箱に至るまでが、壁際の黄緑色の蝋燭の光を受けてギラギラと下品に輝いている。思わず視線を動かすと、”黄金の聖騎士”アリスがとてつもなく嫌な顔をしているのが見えて、慌てて目を逸らす。
そして、それら金色の家具からはみ出し、あるいはその上を覆っているのは、大小無数の様々なおもちゃだ。
大部分が、どぎつい原色の縫いぐるみである。ボタンの目と毛糸の髪を持つ人形から、犬猫牛馬といった様々な動物、果ては一体何なのか見当もつかぬ醜悪な怪物までが床やベッドのそこかしこに堆く積もっている。その他にも、積み木やらボードゲーム、小さな楽器や武器などが数え切れないほど散乱しているのが見える。
そして、それらの真ん中に埋もれるようにして、叫び声の主がこちらに背を向けて座り込んでいた。
「ホオオオオッ!! ホオオオオオオオッ!!」
最早意味を成さぬ絶叫を立て続けに放つ人物がまた、奇怪としか言えぬ姿だった。
丸い。ほぼ真球形の胴体に、これまた真ん丸い頭が乗っかり、まるで雪だるまだ。しかしその色は白ではなく、右半身が赤、左半身が青のテラテラ光るピエロ服を着込んでいる。短い腕をつつむ袖も赤青の細い縦じまで、じっと見ていると眼がチカチカしてくる。
丸い頭は真っ白で、一本の毛髪もないのは背後の元老たちと同様だが、彼らの黴たような弛みはまったくなく、逆にぴんと脂ぎっている。その頭頂部に乗るのは、調度と同じく下品な金色の角帽。
俺は再び視線をアリスに向け、今度は同時にこちらを見た彼女に、唇の動きだけで「あいつが?」と訊いた。眼で頷いたアリスも、音を出さずに「チュデルキンです」と答えた。
世界第二位の魔術師にしては、しかし、その後姿は無防備もいいところだった。と言うようりも、両手に抱えた何かに完全に意識を奪われているらしい。
ぷっくり膨れた背中に隠されてよく見えないが、どうやらチュデルキンが夢中で覗き込んでいるのは、大きな硝子玉のようだった。その内部でちらちらと色彩が瞬くたびに、投げ出した短い脚をばたばたさせ、あああだのほおおだのと絶叫を繰り返す。
てっきり遠距離魔術戦が始まるものと思っていたのに、これは一体どうしたらいいんだと俺がアクションを決めかねていると、不意にもう我慢ならぬというようにアリスが動いた。それも、もう足音も隠さぬ全力ダッシュだ。
と言っても、実際に床を蹴ったのは四歩か五歩だろう。慌てて追随した俺を軽々と引き離し、黄金の突風となっておもちゃ満載の部屋に突入したアリスは、チュデルキンの丸い首がわずか三十度ほど回転した時点でがっしと赤青の道化服のひらひらした襟首を掴んでいた。
「ホオオオオアッ!?」
素っ頓狂な声を漏らす丸い物体を、アリスは縫いぐるみの海からすぽんと引っこ抜き、高く掲げた。その時点でようやく追いついた俺の目に、チュデルキンが夢中で覗いていたものが曝された。
直径五十センチはありそうな硝子玉の中央には、渦巻く光に彩られてどこか別の場所の映像が表示されていた。見えたのは、どこまでも続くシーツの海にしどけなく横座りをした一人の少女だ。長い銀髪に隠されて顔が見えない。少女は、今まさに細い両手で、身につけた薄紫のネグリジェのリボンを解こうとしているところだった。
エロ動画かよ! と心の中で突っ込みそうになったが、その時、少女の前方に力なくうずくまる誰かが居ることに気付いた。その人間の、短い髪の色に見覚えがある、と思った瞬間、映像の中央がしゅっと白くフラッシュし、直後すべての光が消えた。
アリスは、端からそんな映像などには興味を示さず、宙吊りにした丸い道化男の巨大な口に、金木犀の剣の切っ先をぴたりとつきつけた。
「術式起句の”シス”まで口にした時点でその舌を根元から斬り飛ばします」
凍るような声音で発せられた宣言に、何かを叫ぼうとしていた小男の口がぴたりと静止した。
あらゆる魔法には”システム・コール”の発声が必要となるこの世界の原則からして、メイジ相手にこの体勢に持ち込めばもうこちらの優位は動かない。それでも、短い両腕から意識を切らぬように注意しながら、俺は改めて男の顔を眺めた。
元老チュデルキンは、これまでアンダーワールドで出会った人間のうちで、最も正体不明という形容が似合う人物だった。真ん丸い顔の下半分を占める真っ赤で巨大な口、同じく巨大な団子鼻、そしてスマイルマークのように弧を描いた目と眉。
しかし今は、その細い目が限界まで見開かれ、小さな黒い瞳がぷるぷる震えながらアリスを凝視している。
分厚い唇が数回わななき、そして錆びた螺子が軋むような声がキイキイと漏れた。
「お前……五十番……何故こんなとこにいるんですよう。反逆者の片割れと一緒に塔の外に落っこちておっちんだ筈ですよう」
「私を番号で呼ぶな。私の名はアリス。そしてもう五十番(フィフティ)ではありません」
極北の冷気に包まれたアリスのいらえに、チュデルキンは脂汗まみれの顔を引き攣らせ、そして初めて俺のほうを見た。ふたたび、上向きの三日月型の目が半月くらいまでむき出され、喉のおくからホゴッ、ホゴッ、という喘ぎ声が漏れた。
「おまっ、オマエっ、なんでどうして!? 五十ば……アリス、何故この小僧を斬らないンですよう!? こいつは反逆者……ダークテリトリーの手先だと言ったじゃないですかああっ!!」
「確かに反逆者です。しかし闇の国の先兵ではない。私と同じように」
「なっ……なっ……」
吊り上げられたチュデルキンの両腕が、まるで部屋を埋める玩具のひとつであるかのようにばたばたと動いた。
「うらぎっ、裏切る気かぁぁぁぁっこの糞騎士風情がぁぁぁぁぁっ!!」
頭から自分の置かれた状況が消し飛んだのか、チュデルキンの真っ白い頭全体が一瞬にして真っ赤に染まり、只でさえ高い声がさらに裏返った超音波の怒声が部屋中に鳴り響いた。
「てめえってめえら整合騎士はァッ!! 単なる木偶ッ!! 教会の命ずるまンま動く操り人形の分際でええッ!! こともあろうに猊下をッ!! 最高司祭様を裏切るだとォォォォッ!!」
顔をそむけ、チュデルキンの口から飛び散る唾液を避けたアリスは、侮蔑にも眉ひとつ動かさずに氷の冷静さで言葉を返した。
「確かに木偶でしょう。”シンセサイズの秘儀”によって記憶を封印され、教会への強制的な忠誠心を埋め込まれているのですから」
「なッ…………」
再び、チュデルキンの顔が白く変じ、口がぱくぱくと動いた。
「なぜ、どうしてそれを……」
「封じられたとは言え、僅かに残っているものもあるようです。広間の憐れな元老たちを見たとき、かすかに甦った記憶……不安と恐怖に怯えきった幼い少女を、あの広間の中央に縛り付け、元老たちの三日三晩の多重術式によって心の壁を無理矢理に抉じ開けて大切な思い出を奪った……それがシンセサイズの秘儀、整合騎士召喚の儀式の真実。あの広間の床石には、かつて私であった十一歳の少女が流した恐怖と絶望の涙も染み込んでいるはず。そしてお前はその光景を、愉悦と興趣に悶えながら味わった」
アリスの、抑制されてはいるが一言ひとことが鋼刃のように鋭い言葉を聞くあいだに、チュデルキンの顔色は目まぐるしく赤と白のあいだを行き来し、滝のように流れた脂汗が道化服をぐっしょりと濡らした。
しかし最終的に、ただ一人意思ある元老であるチュデルキンは、開き直ったような卑しい笑みを巨大な口にニタリと浮かべた。
「ええ……そのとおりですよう。アタシは今でもくっきりと思い出せますよ、幼く、無垢で、最上等の人形のように美しいオマエが、宝石のような涙を流しながら、何度も何度も懇願する様を……”お願い、忘れさせないで……私の大切な人たちを忘れさせないで……”」
醜悪な裏声で幼い少女の口真似をするチュデルキンを見て、アリスの眼が、高温の炎のような輝きを秘めてぎりりと細められた。しかしチュデルキンは挑発を止めず、なおも野卑な独白を続けた。
「おほ、おほう、思い出せますとも! アタシはいまでもあの光景を肴に一晩たっぷり愉しめますよ、ファナティオやエルドリエの時のも悪かァないが、やっぱり一番はオマエですよう! 忘れてしまったオマエにも話してやりましょうか、幼いオマエが、どんなふうにして三晩の責め苦のはてに魂なき木偶人形に変わっていったか?」
この台詞には、俺も剣を握る右腕が激しく震えるのを止めることはできなかった。しかし同時に、アリスを挑発するチュデルキンの意図をはかりかねてもいた。騎士長ベルクーリを石に変えた”ディープ・フリーズ”コマンドは、チュデルキンが死ねば解除されるとアリスは言っていた。となれば、アリスには長々とチュデルキンの戯言に付き合っている必要はないのだ。道化男がこれ以上の侮辱を口にする前に、金木犀の剣でさっくりと串刺しにしてやればよい。
チュデルキンにもそれは重々分かっているだろうに、なぜ死に急ぐような真似を……?
しかし、俺の思考がどこかに辿り着く前にアリスが、俺とユージオを学院に逮捕にきたときの十倍は冷酷な声音で呟いた。
「チュデルキン、あるいは貴様も犠牲者であるのかと……最高司祭……アドミニストレータに人生を弄ばれた哀れな道化なのかと思っていました。しかし例えそうであれ、貴様は己の境遇を存分に愉しんだようだ。ならば、その愉しき思い出に浸りつつ死になさい」
金木犀の剣の切っ先がすっと動き、丸く膨らんだ道化服の胸の中央に押し当てられた。
テラテラ光る布地が、最後の抵抗を見せてわずかに凹み――。
チュデルキンの細い目が、してやったり、といふうにギラリと光った。
「待て、アリ……」
ス、と俺が言い終える前に、黄金の剣が十センチ以上もチュデルキンの肉体に沈み込んだ。だが、直後にどばっと噴き出したのは鮮血ではなく――赤と青の、どぎつい色の煙だった。
ぱぁん!! という巨大な破裂音を放って、チュデルキンの道化服が風船のように弾けとんだ。同時に四方八方に噴き出した二色の煙が、周囲の空間を濃密に覆いつくした。
「くっ……」
俺は歯噛みをしつつ、視界の隅でシュッと動いた影めがけて右手の剣を薙ぎ払った。しかし、渇いた音とともに剣尖が捉えたのは、奴が被っていた金色の帽子だけだった。
更に追撃するべく踏み込んだが、赤と青が交じり合って紫になった煙を吸い込んだ瞬間、眼と喉を猛烈な痛みが覆い、たまらず咳き込む。
「貴様ッ……!!」
アリスが咽ながらもそう叫び、影を追って飛び出した。チュデルキンが逃げたのは部屋の入り口ではなく奥方向だ、まだ追い詰められると思いながら、俺も息を止め姿勢を低くしてダッシュする。
しかし、煙の中心を脱け出した俺たちが目にしたのは、スライドした金の箪笥と、その奥に口を開けた隠し通路だった。奥にたったひとつだけ蝋燭の灯りがあり、その下を、真ん丸い頭の下に冗談のように細長い胴体と手足がついた人影が猿のように俊敏な動作で駆け抜けていくのが見えた。
「ホヒィッ!! ホヒ――ッヒッヒッヒッヒッ!!」
けたたましい笑い声が、涙と咳に苦しむ俺たちの耳に届いた。
「駆式ばかりが術じゃねえんですようバーカ! バァ――カ!! 追ってきたけりゃきなさいよう、でも今ごろはオマエらの仲間……ベルクーリを倒したあの小僧が、最新最強の整合騎士になってますよう!? 小僧とアタシ、そして最高司祭猊下に勝てると思うなら追ってきなさぁぁぁぁいっ!! ホホォ――――――ッ!!」
壊れた玩具のような笑い声に、かんかんかんと階段を駆け上がる靴音が重なった。
「リリース……」
短い術式句の、音素ひとつひとつを発声するその度ごとに、ユージオは己自身がどこまでも薄まり、軽くなっていくのを知覚していた。長い、長い時間ユージオを苛みつづけてきた餓えや渇きが甘い蜜に溶けて消えていくのと同時に、ここまで辿り着くための原動力となった使命感もまたその形を崩し、失われようとしている。
僕はいったい何故、何のためにこんな遠いところまで旅をしてきたのか。
一瞬の火花のような自問に、アリスのためだ、と答えが返る。本当にそれだけだったのだろうか、もっと大きくて大切な目的があったのではなかったか、という思考がちかっと閃くが、それが形になる前に、口から次の式句が紡ぎだされる。
「コア……」
だって、もう、悲しいのは、辛いのは嫌なんだ。
今まで、僕は疑いもしなかった。教会からアリスの体と心を助け出し、もとのままのアリスと手に手を取ってルーリッドに帰って、小さく暖かい家庭を築けば、その時こそ世界のすべてが正しい形へと回帰するのだと信じていた。
でも――もし、ルーリッドの教会前広場で、白いドレスを着て大きな笑顔をつくるアリスの隣にいるのが、僕じゃなかったら?
その場所に立っているのが、ただ一人の親友である黒髪の剣士だったとしたら?
そしてこれからもたったひとり、癒されることのない渇きに満ちた時間が、どこまでも続く。
銀髪の少女が示した術式を最後まで口にしたとき、自分は恐らく自分ではなくなってしまうのだろうということが、ユージオにはおぼろげに理解できていた。しかしそれによって、使命を、友情を打ち棄てる罪悪感を忘れられるなら――そして、少女が約束した唯一無二の愛のなかにどこまでも深く潜っていられるのなら、もうそれでもいいという気持ちが確かに存在した。
「そうよ……さあ、いらっしゃいユージオ、私のなかへ」
耳もとで、至上の甘さを湛えた囁き声がとろりと流れた。細くとがった舌先が、くすぐるように耳朶を這った。
「いらっしゃい、永遠なる停滞のなかへ……」
「プロ……テク…………」
魂を明け渡す最後の一音節が紡がれるのを、その寸前で押しとどめた力が何なのか、ユージオ自身にもわからなかった。
導かれるまま、銀の瞳の少女のなかへと身を投げ打ってしまいたいという衝動はとてつもなく巨大だった。しかし、なぜか――何ものかが、少女とユージオの間を薄紙一枚の距離でなおも隔てつづけていた。
閉じていた目を薄く開くと、ユージオはすでに銀髪の少女、最高司祭アドミニストレータをシーツに押し倒し、その細い体を強く抱きしめていた。剥き出された豊かな胸がユージオの下で柔らかく潰れ、しなやかな脚はユージオのそれへと絡みついている。
あとほんの一挙動、そして一音節でユージオはアドミニストレータとあらゆる意味で融合し、吸収され得るだろう。しかしほんの小さな何か――異物が、ユージオと少女のふたつの心臓のちょうど中間に留まり、ささやかな冷気を放って一体化を妨げる。
ユージオの顔のすぐ下で、蕩けるような微笑を湛えていたアドミニストレータの顔が、かすかな、ほんのかすかな苛立ちを浮かべた。
「どうしたの、ユージオ? 私が欲しいんでしょ? さあ……もう一度言ってごらんなさい」
「プ……プロ……」
促されるまま、ユージオは口を動かした。だが今度は、ちくりと刺すような明確な冷たさが胸の中央を貫き、ふたたび舌が縺れて停止した。
アドミニストレータも、先刻よりはっきりと唇の端を強張らせ、ユージオを促すように体を艶かしくくねらせた。
「あとほんの一言、それだけであなたは何もかもを手に入れられるのよ。至上の快楽、権力、そして永遠の生命さえも。さあ……言いなさい、ユージオ」
「…………」
しかし、ユージオの思考の一部には、もはや無視できない大きさで疑問、もどかしさ、そして違和感が湧きあがりつつあった。胸をちくちくと刺す、この小さくて硬いものは一体なんだったろうか――何のために、誰が与えたものだったろうか、という。
不意に、アドミニストレータの両手がユージオの肩を掴み、驚くほどの力で右に倒した。
くるりと体を入れ替えた少女が、ユージオの腰の上にまたがり、掌で両頬を包んでくる。銀の髪が垂れ下がり、首筋を撫でる。
「悪い子ね……私だけじゃ不満なの? もっと欲しいの?」
すうっと鏡の瞳を細めて、アドミニストレータが、これまでとは別種の淫らな笑みを浮かべた。
「そんなにおなかが空いてたのね? なら、これも食べてみたくないかしら……?」
頬から離れた右手が、ゆるやかに宙に掲げられた。真珠の唇から、聞き取れないほどの超高速で術式が紡がれ、すると不思議な現象が起こった。
広大な寝室の天井に描かれた無数の神々――その中央近くで、花冠を編んでいた幼い姿の女神の細密画が、すうっと紫色に発光したと思うとそのまま一点に流れ集まって、輝く大きな雫へと変じたのだ。
ぽたり、と滴った光の凝集は、空中で紫の三角柱へとふたたび姿を変え、アドミニストレータの手のなかに音も無く収まった。
とてつもなく美しい物体だった。三つの長辺を、輝く点がすべるように行き来し、内部にも微細な光の線が複雑に煌めいている。
なおも分厚い霧に包まれたような意識のなかにあっても、ユージオの心臓がどくんと大きく跳ねた。思わず持ち上げた右手で短衣の胸元をぎゅっと掴むと、掌の中にあの”何か”、硬く鋭いものの感触が伝わるが、今はもう気にしていられなかった。
あの紫のプリズムが、自分にとってとてつもなく大切な――ほとんど究極の目的であることが、本能的に理解できたからだ。
「あ……ああ……」
ユージオは眼を見開き、しわがれた呻き声とともに左手を伸ばした。しかしアドミニストレータは、じらすようにプリズムをひょいと遠ざけ、くすくすと喉を鳴らした。
「うふふ……そうよ、これが、あなたがとっても欲しかったモノ。ずっと昔、あなたが大好きだった、金髪の女の子の記憶」
まるで、ユージオ、ユージオ、と呼びかけるように、プリズムの中央がちかちかと瞬く。
「私の願いを叶えてくれたら、これもあなたにあげてもいいのよ。ユージオ」
アドミニストレータは、色の薄い唇をプリズムに寄せ、ちろりと舌先で撫でた。銀鏡の瞳に虹色の光が渦巻き、凄まじい幻惑力となってユージオの脳を貫いた。
「ほんのみっつの言葉を口にしてくれたら、ね? アリス・シンセシス・フィフティ……あれはほんとは私の次の体にしようと思ってたんだけど、あの体にこの記憶を戻して、あなたの本物のアリスを返してあげる」
「あ……あり……す」
うわ言のようにその名前を繰り返すユージオを見て、アドミニストレータはもう一度くすりと笑った。
「そうよ。しかも……もう二度と、あなたのアリスが誰かを見たりすることのないように、魂を書き換えてあげるわ。永遠にあなた一人を愛し、あなた一人の言葉だけに従うように……どんな命令だって聞いてくれるのよ。何だってさせられる、あなただけのかわいいお人形」
くすくすくす。愉しそうに、銀髪を揺らして少女が笑う。
「永遠の愛……永遠の支配を、あなたは手に入れられるの。さあ……言いなさい、ユージオ。もう一度……”リリース・コア・プロテクション”」
「…………」
ユージオの唇が震え、そしてこぼれ落ちた言葉は、しかし先ほどほとんど言い終えかけた術式ではなかった。
「永遠……の……愛」
「そうよ。ほしかったんでしょう?」
「永遠の……支配……」
「そうよ!」
アドミニストレータの唇から、すっと笑みが消えた。右手のプリズムをユージオに突きつけ、左手で自分の肢体を撫でながら、アドミニストレータは迫るように叫んだ。
「さあ……言うの! 私の支配を受け入れなさい、ユージオ!!」
「愛は……支配し、されること……か。そうか……ふ、ふ、皮肉……だな」
ユージオの口から、掠れてはいるが意味をなす言葉が発せられたのを聞き、アドミニストレータの瞳が一瞬見開かれ、ついですうっと細められた。
「……君も、そうだったんだね。愛に餓え……求めつづけ……しかし与えられることはなかった」
右手に握り締めた細く鋭いものの感触と、鼓動のように瞬くプリズムの光が、自分の意識を絡め獲っていた呪縛を清澄な流水のように洗い流していくのをユージオは感じていた。
確かに、僕は誰かに明白な形の愛を与えられたことはないのかもしれない。
でも、例えそうであっても、僕は確かに多くの人たちを愛した。
「違うよ、可哀想な人」
ユージオは、強烈な虹色の光を渦巻かせる少女の瞳を見詰め、ゆっくりと言った。
「支配することが愛じゃない。愛の本質は、ただ与えつづけること、それだけだ。でも、残念だけど……僕は君を愛せない。僕は君を救えるほどの人間じゃない」
「救う……ですって……?」
アドミニストレータの唇が、ふたたび、薄っすらとした笑みをかたちづくった。しかしそこにはもう、誘惑の甘さはひとしずくも存在しなかった。
「あらあら……困ったわね。道に迷った哀れな坊やに、気まぐれで一時の夢を見せてあげようとしただけなのに……」
己にまたがる少女が、みるみるうちに”人”から”神”へと変貌を遂げていくさまを、ユージオは懸命に恐怖を堪えながら見詰めた。外見的には変化はない――あくまで、華奢なか弱さと豊満な肉感が同居した、裸身の少女にすぎない。しかし、その透き通るような肌を底知れぬ威圧感、言うなれば神気のようなものが幾重にも覆っていく。指先ひとつ振るだけで、どのような剣士だろうと術者だろうとばらばらに引き千切られるだろうと思わせる、圧倒的な力の兆し。
「ユージオ……あなた、もしかして、私があなたを必要としている……なんて思っているのかしら? あなたと、あなたのちっぽけなお仲間に、私が思い乱されている……とでも……?」
最早、少女の薄い笑みに感情を読むことはできなかった。ユージオはただ、右手を固く握り締め、歯を食い縛って恐怖に耐えた。
「うふふ……あなたみたいなつまんない子は、もういらないわ。ついでにこの可哀想な記憶のカケラも、ね。両方リソースに戻して、何か気の利いた置物でも作ることにしましょう」
明らかに抑揚の薄くなった声でそう言い放つと、アドミニストレータは左手をユージオの首に掛け、右手のプリズムに強く爪を立てた。
その瞬間、ユージオは、かき集めた全身の力を右腕に込め、拳に握り込んだもの――胸元にぶら下がっていた赤銅の短剣型ペンダント――をアドミニストレータの胸の中央めがけて突き出した。
必中の間合いだった。
短剣の刀身部分はわずか五セン強しかないが、それでも自分の上にまたがる人物に届かぬわけはなかった。
しかし、ペンダントの針のような切っ先が、アドミニストレータの珠のごとき肌からほんの薄紙数枚ぶんの距離にまで迫ったとき――ユージオの想像を絶する現象が発生した。
ガガァン!! という、雷鳴にも似た衝撃音が轟き、同時に紫色の光の膜が短剣の先端を中心として同心円状に展開したのだ。その輝く波動が、ごく微細な神聖文字のつらなりで形作られていることをどうにか見て取ったその直後、まるで鋼鉄の厚板にぶち当たったが如き手応えがユージオの右腕を襲った。
「ぐ……うっ!!」
しかし、歯を食い縛り、ありったけの気力を振り絞って、ユージオはその巨大な反発力に抵抗した。カーディナルと名乗る不思議な幼子から与えられた最後の切り札を、アドミニストレータに対して行使できる唯一の機会が今であることがよく解っていたからだ。ユージオのペンダントはもともと、整合騎士アリスを捕縛するために携えていたものだが、同じものを持つキリトがそれを騎士ファナティオの救命のために使ってしまった今、そして手の届く距離にアドミニストレータが無防備な裸身を晒している今、断固として選択せねばならぬ行動はもはや明らかだった。先刻どうしても思い出せなかった、アリスを連れ戻すという個人的目的を上回る使命――つまりわずか十一歳の少女を拉致洗脳するような、そして罪無き下級貴族の息女をその身分差ゆえに陵辱せしむることを許すような、歪んだ支配構造そのものを打ち壊さねばならないという強い意志が、ユージオの右腕を動かした。
ただ一つの誤算は、アドミニストレータが裸形でありながら無防備ではなかったということだ。ユージオには術式の見当もつかない紫光の障壁はますます密に、まばゆく波動し、それを貫こうと抗う短剣の切っ先もまた、直視できないほどに白熱し輝いた。
「なっ……!?」
さしものアドミニストレータも驚いたのか、銀瞳を見開いて上体を仰け反らせた。だがユージオの体から腰を上げ身を退けるよりもほんの少し速く、バチィッ!! と千の火花が弾けるような音を放って、短剣の先端が障壁をわずかに抜けた。
しかし、鋭い針がアドミニストレータの心臓の真上の肌に触れ、そこをまさに貫かんとしたその瞬間、紫の障壁が数多の神聖文字の断片となって爆発し、ユージオと最高司祭双方の体を後方へと吹き飛ばした。
「うわっ……!!」
惜しくも目的を果たせず、まるで巨人の掌に薙ぎ払われたかのような勢いで後ろ向きに回転しながら宙を舞ったユージオだったが、しかしそれでも二つのことを同時にやってのけた。
まず、右手からすっ飛ぼうとしたペンダントを危く握りなおし、そして障壁の断片に混じって視界の端できらりと光った紫の煌めき――アドミニストレータの掌から跳ね飛んだ小さなプリズムを、左手で掴み取ったのだ。
直後、背中から床に叩きつけられ、なおもごろごろと後ろに転がるあいだも、ユージオは二つのものを懸命に腹に抱え、衝撃から守った。再びどかんという衝撃とともに硝子壁にぶち当たり、ぐはっと大量の空気を吐き出してから、ユージオはその場に無様に横臥した。
かたや、まったく同じ勢いで吹き飛ばされたはずのアドミニストレータの方は、尚も優雅さをまったく失わなかった。懸命に見開いたユージオの視界のかなたで、銀髪をほうき星の尾のように引きながら宙を滑ったアドミニストレータは、両手を広げるとふわりと音もなく空中の一点に静止した。長い髪が煌めきながら放射状に波打ち、ひと筋にまとまって、ゆるりと背中に垂れた。
少女は、すぐにはユージオを見なかった。一切の表情が消えた顔を俯かせ、己の豊かな双丘のあいだに視線を落としている。
カーディナルの短剣がわずかに触れたその箇所には、いまだに紫の火花がばちっ、ばちっと音を立てながら絡みついていた。しかし、少女の右手がすっとその上を撫でるとその現象も収まり、見た目には一切の痕跡も残らなかった。
アドミニストレータは、右手をそのまま持ち上げると額の銀髪をふわりと整え、まるで空中に透明な揺り椅子でもあるかのようにゆったりとした動作で腰を下ろすと、長い脚を組んだ。その姿勢のまますうっと音も無く空中を移動し、円形のベッドを横切ると、部屋の隅に倒れるユージオから十メルほどの位置にまで近づき停止した。
上体を起こし、指を組み合わせた両手をおとがいの下にあてがったアドミニストレータの視線が、わずかな冷気を伴って降り注ぐのをユージオは肌で感じた。動くことも、何を話すこともできぬうちに、少女の唇がほのかな笑みの形を作り、言葉を紡いだ。
「一切の武器を帯びていないことを確かめたはずなのに、と思ったら……図書室のちびっこの仕業ね、それは。私の知覚からフィルタするなんて、気の利いたマネができるようになったじゃないの」
くすくす、と喉の奥で猫のように笑う。
「でも残念でした。私だってただ寝てたわけじゃないのよ。そのおもちゃの剣をメタリック属性に置換したのはちびっこの失点ね。今の私の肌には、あらゆる金属オブジェクトは傷をつけられないの……例えそれが巨人の鉄槌だろうと、裁縫屋の待針だろうと」
なんてことだ、とユージオは内心でうめいた。
金属武器に対して不可侵、などということなら、もうこの赤銅の短剣を含むあらゆる剣による攻撃は無力ではないか。あとは、術式すら推測できぬその対金属障壁に対抗式で組み入り解除するか、遠距離での攻撃術をもって挑むよりない。しかし、世界最強の術者に剣士見習いの身で神聖術戦を仕掛けるなど、結果は火を見るよりも明らかだ。
ここは、思いがけない僥倖によってアリスの記憶だけは取り戻せたのだし、一時撤退の機をうかがうべきか。塔の内部に戻りつつあるはずのキリトと合流できれば、あるいは――。
しかし問題は、このアドミニストレータの寝室に、出入り口らしきものが一切見当たらないことだ。
周囲の壁はすべて仄青い夜空へと続く硝子板だし、それらを支える等身大の神像たちもとうていドアを隠せるほどの幅はない。調度と呼べるのは巨大な円形の寝台だけで、よもやあれが丸ごと動いたりするとは思えない。
とは言え、自分がこうしてこの場所に居るからには、どこかを通ってきたに違いないのだ、とユージオは尚も懸命に視線を走らせながら考えた。凍結した大浴場からユージオを運んできたのがあの元老チュデルキンという道化者だとすれば、やはり塔の階下からこの最上階にまで続く通路が絶対に存在するはずだ。
「うふふ……何を探してるのかしら?」
しかし、ユージオの眼が何かを見つけるよりも早く、アドミニストレータがひそやかな笑い声を含みながら空中をすっと二メルほど近づいてきた。じわり、と背中に冷たいものが走る。
「まだ何かしようだなんて、健気な坊や。ん……、やっぱり玩具にしちゃうのは勿体無いかしら? 面倒だけどシンセサイズ処理にかけたほうがいいかしらね? ねえ……坊やはどっちがいい……?」
くす、くす、と喉を鳴らして、中空に腰掛けた裸形の少女は、組んだ脚を揺らしながら少しずつ近づいてくる。
残念ながら、逃亡の機会は残されていないようだった。いや――たったひとつ、残された道があることはある。ありったけの力を背後の硝子板にぶつけ、叩き割るのだ。階下の分厚い石壁を素手で破壊するのは絶対に不可能だろうが、薄い硝子ならばあるいは砕き得るかもしれない。無論、その先は手掛かりひとつない虚空であり、飛び出したところで数百メル下の地面まで落下するしかないが、八十階で同じ目にあったキリトはどうにかして生き延びたはずとユージオは確信している。ならば、自分もまたここで、己が身体能力と万にひとつの僥倖に賭けるよりあるまい。
それに、少なくとも、左の掌をほんのりと暖める小さなかけらだけは――。
このアリスの記憶だけは、なんとしても二度とアドミニストレータの手中に戻させてはならないのだ。たとえ己はここで命を散らそうとも、整合騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻り、ルーリッドでの穏やかな暮らしの中に帰っていくという可能性だけは絶対に繋がなくては。
アドミニストレータとの距離は、すでに五メルを切ろうとしていた。彼女の超高速詠唱力を考えれば、残された猶予は一瞬のみ、そう覚悟を決めたユージオは、立ち上がろうと両足に力を込めた。
しかしその時、思いがけぬ音――声が、どこか下方から届き、緊迫した静寂を破った。
「開けっ、開けてっ、開けてくださぁぁぁぁい最高司祭様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
盆をフォークで引っ掻くようなその金切り声は、間違いなくあの道化――元老チュデルキンのものだった。
「おねっおねっお願いですようぅぅぅぅ助けてくださぁぁぁぁぁいっ!! 開けてぇぇぇぇぇぇっ!!」
その情けないわめき声を聞いたアドミニストレータが、いかにもうんざりしたような嫌悪感を眉間のあたりに滲ませ、ふううっと深いため息をついた。
「……何故あやつは、年経るにつれ幼な児めいてゆくのでしょう。そろそろリセットしないと駄目かしら」
そう呟いた最高司祭は、厭わしそうな表情ながらもぴたりと静止し、右手を離れた床の一点に向けて伸ばした。唇から一瞬の術式が紡がれ、人差し指がとんと振られると、思いがけぬ現象が起こった。絨毯の一部に描かれていた円模様が発光し、くるりと回転したと思ったら、そのまま螺子のようにせり上がりはじめたのだ。
あれが出口か!
――と目を見開き、ユージオはこの機に窓から脱出しようとしていた体の動きを危いところで止めた。
直径一メル半ほどの大理石の円筒は、くるくると滑らかに回転しつつ人の背丈を上回る高さにまで床から突出し、止まった。何らかの機械仕掛けなのか、あるいは術式の効果なのかは不明だが、その筒の側面に嵌め込まれた湾曲した扉を見れば、そこが唯一の出入り口であるのは明らかだった。
その扉の奥からは、なおも情けない悲鳴と、どんどんと叩くこもった音が響いていたが、アドミニストレータが上向けた指をくいっと引くと掛け金が外れたかのように急に開いた。
「ほおおおおおっ!!」
と、奇声を上げながら転がり出てきた真っ白で真ん丸い頭は、間違いなくあの元老チュデルキンのものだった。しかし――。
「……おまえ、その恰好は何なの?」
と冷ややかな声でアドミニストレータが呟いたのも無理はなかった。チュデルキンは、腰に悪趣味な赤青縞の下着を身に着けているだけという、とうてい最高支配者に謁見するに相応しいとは言えない姿だったのだ。
そして、その体つきがまたユージオを驚愕させた。記憶にある元老チュデルキンは、丸い頭を同じく真ん丸い体に乗せた雪人形のような体格だったはずだ。しかし今彼が晒している半裸の肉体は、棒のようにがりがりの胴から同じく枝めいた手足が伸びた、それでいて頭だけが巨大な真球という子供の落書きめいたものなのだ。
なら、あのぱんぱんに膨れた服のなかには何が入っていたんだ!? ――という疑問を口にする精神的余裕は無論ユージオには有りはしなかったが、しかし床にべたりと這いつくばったチュデルキンは、自らキイキイと弁解じみた台詞を喚きたてた。
「げっ、猊下にあらせられましてはこのような御見苦しい姿さぞ御不快でありましょうがこれは小生已む無く奥の手を使わざるを得ずっ!!」
そこでがばりと顔を上げたチュデルキンは、宙に腰掛けるアドミニストレータの裸身を見るや、上向きの三日月のような細い目をくわっと見開き直後に両手でばちんと顔を覆った。まるでそれが仕掛け釦ででもあったかのように、白い頭が一瞬にして真っ赤に湯気を上げる。
「ああっ!! ほおおおおおっ!! いけませんそんなっ、勿体無いっ、小生眼が潰れますっ、石になりますよおおおうっ!!」
勿体無い畏れ多いとまくし立てながらも、指の隙間は大きく開き、その奥からあからさまな視線をぎらぎらと輝かせるチュデルキンの様に、さしもの最高司祭も嫌悪感もあらわに左手で胸を覆った。一層の冷気を帯びた声で、道化の痴態を串刺しにする。
「今すぐに用向きを言わないとほんとうに石にするわよ」
「ほああっ! ほああああっ……あ…………あっ」
細長い体躯をねじりながら悶え声を上げていたチュデルキンは、それを聞いたとたんにピタリと動きを止めた。赤く熱していた頭部がすうっと白くなる。
直後、くるりと振り向いた元老は、蛙のような動きで跳ね上がると背後の円筒扉に飛びついた。ほひいいと悲鳴じみた声を上げながら両手で扉を押し、それが戸枠にぴたりと収まる寸前――。
内部の暗闇から稲妻のように伸びた黒衣の袖が、がしりと扉の縁を押さえた。
前後からの力に挟まれた扉が静止していた時間は、わずか一秒足らずだった。どかん、という明らかに内側から蹴り飛ばしたと思しき大音響とともに、弾かれるように再び開いた扉がしたたかにチュデルキンの顔を打った。
「ほぶうっ!!」
ひしゃげた悲鳴とともに吹き飛んだ元老は、その巨大な球形の頭部をごろごろとどこまでも回転させ、はるか離れたベッドの縁に半ば埋まるかたちでようやく停止した。
その有様を思わず最後まで見守ってしまってから、ユージオはハッと我に返り、もういちど円筒形の出入り口に視線を戻した。
扉の奥、灯りのまったくない暗闇からは、戸板を蹴り開けた恰好のまま黒いズボンに黒革ブーツの足が一本まっすぐに突き出していた。ユージオが唖然として見守るなか、その無遠慮な足がゆっくりと下ろされてゆき、高価な絨毯をずしりと踏みつけた。
続いてぬっと現れたのは、やけに毛先が尖った長めの黒髪。同じく黒いシャツに包まれた細身の上体はわずかに屈められ、右手はだらりと垂れ、左手はぐいとポケットに突っ込まれている。
暗がりから最後に引き抜いた右足で、もういちどどすんと床を踏み据え、そこで侵入者はようやく顔を上げた。
どこか中性的な線の細さと、その印象に倍する刃物のような剣呑さが同居した相貌が、ぐるりと広大な部屋を見回し、壁際に尻餅をつくユージオに視線を止めると、唇の端がぐいっと吊りあがってふてぶてしい笑みを形作った。
「よう」
短い台詞を放って寄越したその人物――二年半前、ルーリッド南の森に突如として現れ、ユージオを長い旅路にいざない、己の両脚のみでついにセントラル・カセドラルを最上階まで踏破してのけた唯一無二の相棒・キリトの姿は、幾多の激闘を経てなお倣岸なまでの剣気に包まれていて、それを見た途端ユージオの胸に名状しがたい熱がかーっと渦巻いた。
「……遅いぞ」
意識せぬままそう呟くと、キリトはもう一度へっと笑い、右手もポケットにぐいと突っ込んだ。
左右の腰に黒白二本の長剣をぶら下げ、腰を突き出し上体を引いた姿勢で屹立するキリトの姿に、さしものアドミニストレータも計りかねるものを感じたのか、無言のまま瞳を細めると空中をすうっとうしろに滑り距離を取った。
それを見て、ユージオも力の失せかけた両脚に活を入れなおし、背中を板硝子に預けてぐいっと立ち上がった。右手の短剣と左手のプリズムをそれぞれズボンの左右のポケットにそっと仕舞い、汗で濡れた掌をごしっと拭う。
キリトは、ちらりと鋭い視線をアドミニストレータに投げかけてから、右腰の白鞘の金具を鳴らしてベルトから外し、それをユージオに向けてひょいっと放ってきた。左手で受け止めると、懐かしい重みが掌に吸い付くように収まった。ふたたび手許に戻った愛刀・青薔薇の剣が、まるで再会を喜ぶように鞘の中でかすかにりぃんと刃鳴りするのを聞き、全身にさらなる活力が甦ってくる。
キリトのほうに移動しようと足を踏み出しかけたとき、相棒の背後の暗闇から、聞き覚えのある声がかすかに響いてきてユージオは軽く息を飲んだ。
「ちょっとお前、いつまでそんなとこで恰好つけているつもりですか」
「あ、ああ……ワリ」
キリトはちらりと背後を見てから、肩をすくめて一歩横に移動した。
かかっ、と金属の靴が石段を軽やかに叩く音に続いて、まばゆい純白と黄金の色彩がふわりと戸口から浮き上がり、重さを感じさせない動きで床に降り立った。ひるがえった長い金髪と白のロングスカートが、宙に優美な曲線を描いた。
それは、間違いなくアリス・シンセシス・フィフティ――カセドラル八十階でキリトを容易く追い詰め、しかし崩壊した壁の穴からともに虚空へと放り出された整合騎士の姿だった。
ユージオの全身の血流が、どくんと大きく波打った。なぜここに、それもキリトと一緒に!? という驚愕が指先までを震わせる。
確かに、数時間前ユージオは、キリトならば間違いなく己とアリスを落下から救って塔の内部に戻り、騎士アリスを殺さずに無力化するかあるいは説得して休戦に持ち込んでくれるに違いないと自分に言い聞かせた。
しかし実際にこうして、黒衣の反逆者と純白の守護騎士がぴたり並び立つ姿を眼にすると、とても信じがたいという思いのみが胸中に満ちる。
キリトが、とても友好的ではないと思われる人物の胸襟を開かせ、いつのまにか確たる信頼を得る様を見るのは決して初めてではない。そのたびに、自分にはできないことだという尊敬の念と、わずかばかりの羨望をユージオは感じてきたのだ。
しかし――あの、血液のかわりに教会への信仰のみが流れているとさえ思えた整合騎士アリスを、一体どうすれば説得しえたというのか。
見れば、アリスの右眼は黒い布で作った眼帯で幾重にも覆われ、その生地を提供したらしいキリトのシャツは左の裾が大きく千切り取られている。
ライオス・アンティノスを斬ったときに自分の右目を襲った痛みと奇妙な神聖文字をユージオは思い出し、もしかして同じことがアリスにも起こったのだろうかと考えたが、具体的に何があったのかを推測するすべがあるはずもなかった。キリト、一体君はアリスに何を言い、何をしたんだ!? という圧倒的な疑問が脳裡を圧し、ユージオは思わずぎゅっと両目を瞑った。
考えるな。今はそんなことを思い悩んでいるときじゃない。
あそこに立っているのは、ユージオの幼馴染アリス・ツーベルクではなく、その肉体でしかないのだ。アリスの心はいま、ポケットの中でひっそりと瞬いている。
大きく息を吸い、吐いて、ユージオは思考を無理矢理に切り替えた。今はともかく、最大最後の敵アドミニストレータとの戦いに意識を集中せねばならない。
ぐっ、と右足を意識して前に出し、そうするとようやく体が動いて、ユージオはキリトの隣へと歩を進めた。
近づくユージオを、キリトは力強い頷きで、そしてアリスは左目の短い一瞥で迎えた。
騎士の蒼い瞳には、ユージオを戦力として値踏みする冷徹さしか見出すことができず、ユージオはちくりとする痛みを感じながらすぐに視線を逸らせて部屋の中央へと向き直った。
最高司祭アドミニストレータは、新たなる二人の侵入者を、興趣と苛立ちが半ばずつ混じったような酷薄な微笑で睥睨していた。腰掛けた見えない寝椅子の高さを、更に一メルほどすうっと持ち上げる。
不意に、隣でキリトがぼそりと呟いた。
「なあ……あの人、何で裸なの? ユージオ、まさかお前……」
「なっ……何考えてんだ馬鹿! 何もないよ!」
ひそひそ声で軽口を叩き合うと、ようやくわだかまりが少しずつ溶け出し、ユージオは更に集中して最高司祭の挙動を凝視した。
二人のやり取りが聞こえたわけでもないだろうが、裸形の少女はくすりと笑みを浮かべると、胸を覆っていた両腕を大きく上に伸ばしてからしどけなく宙に寝そべった。
「あらあら……お客様が増えちゃった。チュデルキン、おまえ、あんな簡単な言いつけも守れなかったの? 連れてくるのは亜麻色の髪の坊や一人だけ、あのイレギュラーは適当に固めておきなさいって、私、言わなかったかしら?」
笑み混じりでありながら、真冬の山おろしのような凍気に包まれた声が響いたとたん、少女の下方でベッドの側面に埋まり込んでいたチュデルキンがずぼっと頭を引き抜いた。
「ほっ、ほひいっ! すっすみませえええん御免なさぁぁぁぁい猊下ぁぁぁぁっ!!」
きいきいじたばたと喚き立てた異形の道化男は、ようやく重心がおかしそうな体をまっすぐにすると、棒のような腕でびしっとアリスを指差した。
「こっ、これというのもあの糞インテグレータがぶっこわれて裏切りやがったせいなんですよおおおおうっ! あの下品な金ピカ騎士めが、こともあろうに小生に剣をぶっさしやがったんですよお! 無論、ピカピカ馬鹿の剣なんざアタシにかすり傷の一つもつけられやしませんけどねえええっ! ホオオオッ!!」
「……あやつだけは……」
めらっ、と炎が燃え上がるが如くアリスが呟いた。それに気付く様子もなく、チュデルキンはさらに金切り声を喚きたてた。
「も、も、もとっからあいつら……ベルクーリの薄らでかと副官の男女はイカレ気味だったんですよおっ! 連中の阿呆が五十番にも伝染ったに決まってますよおおおおっ!」
「ふむ。……おまえ、少し黙ってなさい」
アドミニストレータがそう囁いた途端、壊れた玩具のようにキイキイ飛び跳ねていたチュデルキンの動きがピタリと止まった。と思いきやそのまま、懲りずにまた脂ぎった両目を見開いて頭上の主君の姿を舐めまわすように凝視している。
もう道化の所業には一切の興味を無くしたように、アドミニストレータは銀の瞳をじっとアリスに向けると、もう一度ふうんと呟いた。
「一番と二番はそろそろリセットの頃合だったから不思議はないけど……アリスちゃんはまだそんなに使ってないわよねえ? 論理野にエラーが起こるには速いわ……てことは、やっぱりそこのイレギュラーユニットの影響なのかしらね? 面白いわね」
最高司祭が一体何を言っているのか、ユージオにはほとんど理解できなかった。それは前最高司祭というカーディナルの言葉も同様だったが、しかし、銀髪の少女がつぶやく台詞には何かしらぞっとするような――まるで、父や兄たちがその日に締める牛の話をしている時のような冷徹さがあった。
「ねえ、アリスちゃん。あなた、何か言いたいことがあるんでしょ? 怒らないから、ちょっと言ってご覧なさいな」
うふん、と艶っぽく笑うアドミニストレータの視線を受けた途端、アリスの黄金の鎧がかすかにカタタ、と鳴ったのにユージオは気付いた。
ちらりと視線を向けると、ユージオの位置から見えるアリスの横顔は半分が黒い眼帯に覆われていたものの、それでもあの無敵の整合騎士が身を強張らせ、立ちすくみ――深く恐怖しているのが如実に感じ取れた。
じり、じりっと、両のブーツがわずかに後ずさった。
しかしアリスはそこで踏みとどまり、ゆっくりと左手を持ち上げると、いつの間にか篭手がなくなっているその指先でそっと右眼の眼帯に触れた。まるでその粗末な布切れから何かの力を得たかのように、後ろのめりになっていた体がぐっと前に押し出された。
かっ。
毛足の長い絨毯の上なのに、鋭く澄み切った足音が響き、騎士アリスは一歩前に出た。さらに一歩。もう一歩。
そこで立ち止まった整合騎士は、最高支配者に対してひざまずくかわりに、昂然と胸を張り、凛とした口上を響かせた。
「我らが栄光ある整合騎士団は、本日潰滅いたしました! 半分は、この二名の不遜な反逆者の剣によって……そしてもう半分は、最高司祭様、あなたの執着と愚かさによって!!」
おお、言う言う。
――と俺は、口中に満ちる鋭利な戦慄の味を無理矢理飲み下しながら呟いた。
ついに対面叶ったアンダーワールドの絶対支配者にして最長命のフラクトライト、最高司祭アドミニストレータの姿は、ここがサーバの中の仮想世界であり、彼女が人工的媒体に保存されたAIであるという俺の認識を、机上の砂文字ででもあるかのように一瞬で吹き散らしてしまう圧倒的なオーラに満ちみちていた。
いや、その優美な銀髪と銀瞳を眼にするずっと以前、元老チュデルキンの部屋の奥に隠されていた螺旋階段を駆け上がっているその時点でもう、俺の肌は冷たい恐怖の予感に粟立っていたのだ。
階段の天辺に開いた小さなドアからチュデルキンが逃げ出し、そこから漏れる光が消え去る寸前にどうにか再度蹴り開けることに成功したものの、俺は続く一歩を踏み出すのに、文字通り全身から気力を掻き集めねばならなかった。
なぜならドアの先の、蒼い月灯りと白い蝋燭の光に満ちた広大な空間には、かつてアインクラッドで踏み込んだどのボス部屋よりも明確な”死の予感”がひんやりと凝集していたからだ。
生身の俺、つまり上級修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人が、このアンダーワールド内で現実的に死ぬ筈がない。
俺はこれまで、その認識を――世界を”仮”へと変え、眼と判断を曇らせかねない認識を脳裡から拭い落とそうと一度ならず努力してきた。
しかし、最高司祭アドミニストレータを名乗る恐るべき美貌の少女には、俺に死以上の悲惨な運命を与え得る力があるのだと、俺はこの部屋に踏み込み彼女の瞳を見たとたん今更ながら気付いた。
そう、カーディナルが確かに言っていたではないか――アドミニストレータは禁忌目録には拘束されないが、それでも幼少の頃に与えられた禁忌の概念により、殺人を犯すことだけはできないと。そしてその制限こそが、俺に”HPがゼロになりこの世界からログアウトする”という結末を遥か上回る責め苦、たとえば、あの人間性を破壊された元老たちとまったく同じ境遇を、数年……数十年、ことによると魂が擦り切れて精神的に死ぬまで強いるという、現実世界ですら有り得ないほどの苦痛を与えかねないのだ。
仮に、俺たち三人ともに剣折れ血に塗れて倒れたとき、アドミニストレータはアリスとユージオのフラクトライトを操作し整合騎士へと作りかえるだろう。
しかし、生体脳とSTLを用いてこの世界にダイブしている俺の魂にはそのような操作は出来ない。
そして、たとえ俺が剣と誇りのすべてを差し出し恭順を誓っても、あの少女はそんな裏づけのない服従など決して信じない。
となれば、俺のメンタルに現れた異常にラースのスタッフが気付きダイブを停止するまで、この時間が恐るべき倍率で加速された世界において、いったいどれほどの年月が流れるのだろうか。
――とは言え、そのような、様々な事情を知るが故の俺の恐怖は、アリスやユージオのそれを上回るだろうなどと思ったわけでは勿論ない。
とくに、魂の深奥に”絶対服従キー”を埋め込まれている整合騎士アリスが、己の絶対支配者から与えられているであろうプレッシャーの巨大さは想像を絶する。恐らく、二本の足で立っているというそれだけで、ありったけの精神力を振り絞っているのだろう。両の拳が体の横で固く握り締められ、とくに篭手のない左手は真っ白に血の気を失って痛々しいほどだ。
それでも、アリスはあくまでしっかりと胸を張り、凛と響く声で騎士の口上を続けた。
「我が使命は、神聖教会の、そして最高司祭様の為政の護持に非ず!! 剣なき幾千万の民びとの幸なる営みと安らかな眠りの守護こそが我と我が騎士団の使命なり!!」
アリスの黄金の髪が、まるでその信念を映したかのごとくわずかに輝きを増し、俺は目を細めた。高く澄んだ声が曙光のように、部屋中にたゆたう淫靡な気配を切り裂き、押しのけた。
しかし、離れた空中に浮遊する支配者は、アリスの口上を微風ほどにも感じた様子もなく、なお一層興がるように真珠色の唇の笑みを深くした。
代わりに、真っ赤になって跳ね上がったのは、見た目の嵩が半分以下になってしまった元老チュデルキンだった。
「だっ、だぁっ、黙らっしゃぁぁぁぁぁいッ!!」
俺とアリスの前から神聖術ならぬ忍術によって遁走した道化男は、アドミニストレータの超魔力の圏内に逃げ込んで安心したか、あるいは主君の裸身をたっぷり眺めて気力充填でもしたのか、機敏な動作でベッドに飛び上がり、びしっと両手の人差し指をアリスに突きつけた。
「この半壊れの騎士人形風情がぁっ! 使命!? 守護!? 笑わせますねえホォ――ッホッホッホッホォ――――ッ!!」
甲高く笑いながら縞パンツ一丁の体をぐるりと一回転させ、今度は両腕を胸で組み棒じみた右足の指先でアリスを指す。
「お前ら騎士など!! 所詮アタシの命令どおりに動くしかない木偶の集まりなのですよッ!! この足を舐めろと言われたら舐め、踏み台になれと言われたらなるッ!! それがお前ら整合騎士のありがたぁぁぁぁい使命なんですよぉぉぉぉッ!!」
そこまで言ったところで、巨大な頭の重みに堪えかねたか、チュデルキンはぐぐっと体を後ろに傾かせたが危いところでびよんと飛び上がり、腕を組んだまま仁王立ちになった。
「だいたいですねェ! 騎士団が潰滅とかちゃんちゃらおかしいことをゆってましたねオマエ!! やられたかぶっ壊れたのは、もともとおかしかった一番二番とその他十人、いや十駒程度じゃないですかッ! つまりこちらにはあと四十も駒が残ってるんですよォ! オマエ一人がガタガタぬかしたところで教会の支配はぴくりとも揺るぎゃァしねェんですよこの金ピカ!!」
皮肉にも、道化の安っぽい悪罵はアリスの恐怖を薄れさせたようだった。冷静さを取り戻したようにアリスは両の拳をほどき、その手をがしゃりと腰の装甲に当てた。
「馬鹿はお前です、この毒風船。その丸い頭にも、脳味噌ではなく臭い煙が詰まっているのですか?」
「なッ……なぁぁぁッ!!」
ただでさえ赤くなっていた頭を、さらにどす黒く染めたチュデルキンが何かを喚く前に、アリスが氷のような声音を放った。
「残る騎士四十名のうち、十名は”再調整”、つまり汚らわしき術による記憶の操作中で動けません。そして三十名は、今も飛竜に打ち跨り、果ての山脈の上で戦っております。彼らを呼び戻すことなど出来はしない、なぜなら彼らがいなくなった途端、南北西の地下道そして東の大門は闇の軍勢に破られ、お前の言う教会の支配なぞ一瞬にして崩れ去るからです」
「ぐッ……むぐぐッ……」
紫色になった顔の眉と目尻と口もとを上げ下げするチュデルキンに向けて、アリスは尚も刃のような言葉を続けた。
「いえ、もうすでに崩れかけている。彼らも飛竜も、永遠に戦えるわけではない。しかしカセドラルにはもはや交替要員は残されておりません。それともお前がダークテリトリーに赴き、剛勇を誇る暗黒騎士たちと一戦交えますか?」
この指摘には、チュデルキンだけでなくアリスの背後の俺もぐさりと来るものを感じずにはいられなかった。塔内に詰めていた騎士たちを病院送りにしてしまった件はほとんど俺とユージオに責任があるからだ。
しかし、俺が視線を下向けるよりも早く、チュデルキンの頭の内圧が限界を超えた。
「ムッホォォォォォォ!! こっ、こっ、小賢しいぃぃぃぃぃぃッ!! それで一本取ったつもりですか小娘ぇぇぇぇぇッ!!」
ほとんど蒸気のように大量の息を鼻から噴き出し、道化はじたばたと地団駄を踏んだ。
「無礼ぇぇぇぇぇをぶっこいた罰として!! お前は再調整が済んだら最低三年は外地送りだぁぁぁぁッ!! いや、その前にアタシのオモチャとしてたっぷり色んなことをしたりさせたりしてやるぅぅぅぅッ!!」
続けて、アリスにしたりさせたりする予定の行為を際限なくキイキイキイと喚き立てるチュデルキンの下卑た台詞をぴたりと停止させたのは、上空のアドミニストレータが発した短いひとことだった。
「……ふぅーん」
最高司祭は、笑みを口の端に浮かべたまま、細い首を小さく傾けた。
「単純に論理野のエラーってだけでもなさそうね。服従キーはまだ機能している……となると、あの者が施した”コード871”を自発的意思で解除したのかしら……? 感情ではなく……?」
何だ――何を言っているのだ。『あの者』? 『コードハチナナイチ』?
アドミニストレータの言葉を解釈できず、俺は眉をしかめた。
しかし銀髪の少女は、それ以上の情報を与えることなく、ゆっくりと右手で髪をかきあげながら結論めかした口調で言い放った。
「ま、これ以上は構造解析してみないと、かな。……さて、チュデルキン。私は寛大だから、下がりきったおまえへの評価を挽回する機会をあげるわよ。あの三人、おまえの術で凍結させてみせなさい」
言い終わると同時に、くるりと伸ばした右手の人差し指を軽く一振り。
途端、部屋の中央に鎮座していた天蓋つきの円形ベッドが、重い響きとともに回転を始めて、俺は思わず目を見張った。
直径十メートルはありそうなその代物は、まるでそれ全体が巨大な螺子の頭ででもあるかのように滑らかに床の中へと沈降していく。シーツの上でふんぞり返っていた元老チュデルキンが、ほひいっと悲鳴を上げて危いところで転がり落ちる。
わずか数秒で、黄金の支柱も薄紫のベールもすっぽりと床下へと収納され、最後に残った天蓋がくるくるぴたりと床面にはまり込むと、もうそこにあるのは絨毯に描かれた巨大な円模様だけだった。
ふと思いついて視線を動かすと、俺とアリスがくぐってきた円筒形の入り口も、それと床の境目には似たような模様が描かれているのが見えた。さてはこの部屋は、床から色々なものが伸びたり沈んだりする仕掛けがあるのか――と考えて更に周囲を見回したが、同様の模様はあとひとつだけ、小さなものがずっと離れた壁際にあるだけだった。そこから何が出てくるのかは、今は推測する手立てもない。
ベッドが無くなった最上階は、今までにも増して広大に見えた。
それはそうだ、セントラル・カセドラルの一フロアをまるまる占有しているのだから。さすがに、四角形の中層部と比べると、円形になっているこの最上層エリアの面積はずいぶんと小さいようだが、それでも部屋の直径は五十メートルを下回ることはないだろう。
円弧を描く壁面はすべて曇りひとつない硝子製で、それらを等身大の神像が柱となって繋いでいる。少しばかり意外なのは、それらが皆猛々しい戦神だということだ。像たちは例外なく大小さまざまな剣を携え、まるでこれから始まる戦いの審判者ででもあるかのように、瞳なき眼で俺たちを見守っている。
更に視線を上向けると、えらく高い天井にも沢山の神々の細密画が描かれている。しかし奇妙なことに、中央にかなり大きな、そして少し離れた場所には小さ目の、不自然な空白部がある。
――ともかく、このアドミニストレータの寝室は、遮蔽物なし・面積たっぷりの接近戦には甚だ不向きなフィールドだということだ。瞬時の観察でそう判断した俺は、敵の術式詠唱が始まる前に突っ込むべきか、と考えじりっと右足に力を込めた。
しかし、実際の動作に入るよりも早く、アリスがごくかすかな声で肩越しに囁いた。
「不用意な突進は危険です。最高司祭様には、手で触れさえすれば瞬時の詠唱でこちらを無力化する術がいくらでもある。チュデルキンに先に仕掛けさせるのは、それを狙っているからに違いありません」
「そういえば……」
これまで隣で沈黙していたユージオが、まだどこかアリスに気後れしているかのように、控えめな声で割って入った。
「あの元老は、ベルクーリさんに”ディープ・フリーズ”術を掛けるとき、わざわざ乗っかっ……いや、直接触れていたよ」
「なるほど、”対象接触の原則”か」
俺も頷きながら呟いた。間接的攻撃術、つまり火炎や稲妻による攻撃以外で敵に大きな影響を与えようとする場合は、ほぼ必ず手なり体の一部で触れる必要がある。学院の初等練士でも知っている、神聖術の基本ルールだ。
つまり、ベルクーリと同じ整合騎士のアリスも、チュデルキンらに直接触れられさえしなければ、あの恐るべき石化術を掛けられる心配はないということになる。しかしそれは同時に、こちらも剣の間合いまで接近できなくなるということでもある。となればやはり、状況は圧倒的に不利だ。遠距離での術の撃ち合いは敵のもっとも望むところだろう。
道化者といえどもそれくらいは理解しているのか、ベッドから転げ落ちたまま床上で逆さになりコマのように回転していたチュデルキンは、両手をひろげてその運動を停止させると、おどけた掛け声とともに立ち上がった。
「ホホウッ!!」
びよん、とバネ仕掛けのように正立すると、チュデルキンは頭上の支配者に対して、右手を胸にあて左手を背後に伸ばすという芝居がかった礼をした。
「……あのような糞虫三匹、猊下にあらせられましては小指一本でぶっちりぶちぶち潰せますものを、わざわざ小生にその悦びを御下賜くださるとは欣快の極み! 小生泣けます! 泣けますですぞぉぉぉぉ!! おくっ、おくくくく……」
そして言葉どおり、巨大なまなこから粘液質の涙をねとりぼとりと落とす様には、どうにも唖然とするしかない。
アドミニストレータもまた、相手をするのにそろそろ疲れたのか、そっけない一言とともに更に数メートル宙を退いた。
「……ま、適当にやって」
「ははぁっ! 小生死力を尽くしてご期待に応えますぞぉぉぉぉぉッ!」
そこにスイッチでもあるのか、チュデルキンが右手の指でこめかみを押すとキュッと涙も止まり、異躯の道化は打って変わって陰険な目つきで俺たちを睨んだ。
「さぁてさてさて……テメェらはそうそう楽にゴメンナサイさせやしねえんですよう。ひぃひぃ泣いて這いつくばる前に、ど汚ェ天命を最低八割はちっくりちくちく削ってやるから覚悟しなさいよぅ?」
「……お前のたわ言はもう聞き飽きました。先に言ったとおり、その小汚い舌を根元から切り飛ばしてあげますから、かかってきなさい」
舌戦でも一歩も退かずにそう言い返したアリスは、ゆっくりと右手で左腰の剣の柄を握ると、ぐいっとスタンスを広げた。
はるか二十メートル彼方のチュデルキンもまた、両腕を胸の前で交差させるという奇妙なポーズを取った。
「ンンンンンもぉ許しませんよぉぉぉぉッ!! そんなに私のかぐわしいベロが欲しければ、たっぷり舐めまわしてやりますよッ!! お前をカッチンコチコチ凍らせた後でねえッ!! ほァァッ!!」
びよーん。
と飛び上がったチュデルキンは――何を考えているのか、空中で逆さ向きになり、どすんと巨大な頭で床に着地した。
「…………」
これには俺もユージオも絶句する。たしかにあの、どでかい頭に棒の体ではさかさまになったほうがよほど安定はするだろうが、自ら動けなくなってどうするつもりなのか。
しかし当のチュデルキンは、至って大真面目な顔――さかさまになると、上向きの三日月マナコが下向きになって怖さは倍増だ――でびしっと両手両足を広げると、金切り声で起句を絶叫した。
「システムッ……コォォォォ――ル!!」
それに対応して、アリスがしゃらっと音高く抜刀する。どうしていいのかわからぬまま、俺とユージオもそれに倣う。
「ジェネレイットォォォォォ……クライオゼニック! エレメントゥァ!!」
やけに巻き舌の発音で、チュデルキンが冷素召喚の術式を繋げた。
遠隔型攻撃術の威力・規模は、最初に発生する素因の数でかなりの部分まで予測できる。離れた場所に呼び出される光点を見逃すまいと、俺は目を眇めた。
ぱぁん!! と派手な音をさせて逆向きチュデルキンの両手が打ち鳴らされ、ばっと広げられる。両の手の指先に、バシバシッと凍結音を放ちながら生み出された青い冷素――その数、十。
「くそっ、多い」
俺は毒づき、対抗すべく熱素を呼び出す態勢に入った。とは言え、俺が同時にジェネレートできる素因の数は最大でも五個だ。これはユージオも大差ない。つまり、二人で同時にカウンターせねば間に合わない。――という意味をこめて、一瞬ちらりと右の相棒に視線を送る。
しかし、ユージオがそれに頷き返してくるよりも早く――。
ばしぃん!! という音がさらに響き、俺はハッと視線を戻した。
それは、逆立ちしたチュデルキンの両足もまた器用に打ち合わされた音だった。続いて、Y字型にまっすぐ伸ばされた両足の五指それぞれの前にも、霜が伸びるような響きとともに十個の冷素が召喚された。隣で、ユージオが掠れた声で呟いた言葉に、俺もまったく同感だった。
「うそ……だろ……」
合計二十の青い光点にびっしり取り囲まれたチュデルキンは、さかさまの口で巨大な笑いを作った。
「おほっ、オホホホホ……ビビってますねェ、チビリあがってますねェェ? このアタシを、そこらの木偶騎士どもと一緒にしてもらっちゃ困るんですよぅ」
アンダーワールドにおける神聖術――つまり魔法は、半分が音声によるコマンド、そしてもう半分は術者によるイメージによって制御される。例えば、治癒術を使う場合は、癒したい対象の者への敵意が心のなかにあると効果が激減するし、逆に真摯な献身の念をそそぐことで術者のレベル以上の効果が生み出されもする。
そして、それは素因を操る攻撃術も例外ではない。
具体的には、生み出したエレメントの変形や発射に、術者の意識と直結したイマジネーションの回路が必ず必要なのだ。ではどうやってその回路を作るかというと、これは指を使うのである。一本の指に一つのエレメントが繋がっているイメージを常に保持しながら指先を動かすことで、術式全体を制御するのだ。
つまりそれはイコール、どんな高位の術者でもふつうは同時に十個までのエレメントしか操れないということになる。その制限を突破し、足の指にまでもイメージ回路を作ろうと思えば、アドミニストレータのように超々高位術によって宙を飛ぶか(そもそもこの世界には飛行コマンドは用意されていない)――逆立ちの姿勢を維持するしかないということになる。道化の元老チュデルキンのように。
「オホホホォ…………」
甲高い笑い声に続けて、変成コマンドを詠唱したチュデルキンは、立ち尽くす俺たちに向かってまず右腕をびしっと振りぬいた。
「ホォォォォォアッ!!」
シュゴッ!!
と突風のような音を立てて、空中に発生した五本の巨大なつららが冷たく煌めきながら迫った。続けて、左腕からも更に五本。
回避しようにも、扇形に広がりながら飛んでくる氷の槍衾に死角などなさそうだった。撃ち落せるか!? と迷いつつも腹をくくったその時、吹き付けてくる冷気を力強い叫びが切り裂いた。
「散・花・流・転!!」
しゃらああああっ!!
と、千の鈴が打ち鳴らされる音とともに、横なぎに振りぬかれたアリスの金木犀の剣が、その切っ先から無数の黄金の花びらとなって舞い散った。
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最大の死地にありながらも、俺は(そしておそらくユージオも)煌めく光の群れのあまりの美しさに息を飲んだ。
この最上階を照らす灯りは決して多くない。硝子窓の南面から差し込む月光と、そして柱の上部に設けられた燭台に揺らめくささやかな白い炎だけだ。しかし、アリスの剣から分かたれた黄金の欠片たちは、自ら放っているとしか思えない山吹色の輝跡を引きながら、一群の流星雨と化して飛翔した。
「せいっ……」
アリスが鋭い気合とともに、手中に残る柄を右に振り払う。その動きに連動して宙を舞った無数の鋭片は、まさにアリスを貫かんとしていた五本の氷柱を飲み込み、凄まじい切削音を響かせた。
高速回転するミキサーに角氷を放り込んだようなもの、と言うべきか――。
チュデルキンが生み出した、恐るべき威力を内包しているはずの氷の槍は、わずか半秒で無害なシャーベットへと転換させられ、宙にきらきらと溶けて空しくリソースを散らした。
「……やっ!!」
その結果を見届けもせず、アリスは右手を左方向へと突き出した。ぐるりと空中で向きを変えた黄金の花吹雪は、再びざぁっという葉擦れの音を振り撒きながら、さらに五本の氷柱を迎撃した。再び大量のみぞれが放射状に飛び散り、周囲の気温を少しばかり低下させた。
「……ぬっ……ぬぬぬぬぐぐぐぐぐっ……」
己の放った術があっさりと退けられたのを見たチュデルキンは、巨大な唇からむき出した歯列を左右にキリキリキリと鳴らしながら同時に怒りの唸り声を上げるという器用な技を披露しながら、逆向きの頭部を一層赤黒く染めた。
「……そんなチンケな下ろし金で勝った気になってんじゃねぇってんですよう! そんならこいつはどうですかッ!! ホォォォォォッ!!」
十の素因を保持した短い両脚を、同時に前に蹴り出す。
ひゅうっと青い平行線を描きながら高く舞い上がった氷素は、そこでひとつに融合すると、いきなり巨大な氷の塊を発生させた。
見るみる間に、それはごつんごつんと角張りながら体積を増やし、直径二メートルはありそうなドラム缶の形へと成長した。変形はそこで止まらず、後ろの側面中央部から細長い棒状の氷柱が伸びる。
出現したのは、白い冷気の靄を纏った、恐ろしく巨大なハンマーだった。鏡のようにつやつやと輝く打撃面の、大岩ですら一撃粉砕できそうな硬さと重さを想像し、俺は思わず一歩あとずさった。
「ホヒヒッ……どうですかァ、我が氷系最強ちょっと手前の術はァッ!! さぁ、行きますよおおおおっ……”グレート・グレイシャル・プレッサー”!!」
うわっ、と隣でユージオが声を漏らし、身を屈めた。無理もない、自分より数倍はでかい巨大トンカチが、重く空気を圧縮しながら降ってくるさまには俺も体を強張らせることしかできなかった。しかも、いかにも必殺技というべき大層な名前がついている! この世界で、神聖文字(つまり英語)を言語として認識できるのは、俺のほかにはカーディナルとアドミニストレータだけだと思われるので、おそらくこの術式を編み出したのは最高司祭本人なのだろう。部下に与えるくらいだから彼女にとっては余技にも等しい術式なのかもしれないが、それを食らうほうは堪ったものではない。
しかし、今度も、騎士アリスは一歩たりとも退かなかった。己を叩き潰さんと肉薄する巨大オブジェクトを、両足を踏ん張ったまましかと見据え――。
「旋・花・砕・巌!!」
こちらは一般アンダーワールド語だが、たっぷりとイマジネーションの詰まった技名を、区切りながら声高く叫んだ。
直後、それまで不定形の一群として浮遊していた黄金の花吹雪が、ジャキリッ! と歯切れのよい響きとともに、アリスの右手を中心とした巨大な円錐形を形作った。その輝く巨大なドリルは、たちまち高周波を放ちながら高速回転を開始し、鋭い先端で落下してくる氷のハンマーを迎え撃った。
二つの必殺技が接触した瞬間、すさまじい大音響と閃光が発生し、部屋中を激しく揺るがした。
「くっぬうううううほぉぉぉぉぉッ……ブッツブ……れなっ……さぁぁぁぁいッ!」
「…………砕けっ……花たちっ……!!」
チュデルキンとアリスは、美醜の対極にある顔を同様にきつく歪め、食いしばった歯の間から声を漏らした。
こうなると、双方の技の優劣を決めるのは、数値的なプライオリティ以前に意志力、イメージ力の強さにかかってくる。なんといってもここはアンダーワールド……夢が現実となる世界なのだ。
青い大槌と金の螺旋は、白熱した接触点をはさんでしばし静止を続けていたが、やがて徐々に互いを飲み込みはじめた。振りまかれる光芒の眩さと、耳をつんざく破壊音のせいで、ハンマーがその打撃面でドリルを潰しているのか、あるいはドリルがその尖端でハンマーを穿ちつつあるのか判別できない。
勝敗が明らかになったのは、双方の姿が半ば以上光に飲み込まれた時だった。
びきっ。
という鈍い破砕音とともに、氷の大槌全体に白く輝く亀裂が走った。
直後、ちょっとした小屋ほどもありそうなハンマーは、先のつららのように無数の氷片となってその巨体を散らした。ばがぁぁぁん、と盛大な震動を伴って周囲の空間が一気に白く凍り、空しく放散された冷気リソースの波動を俺は左袖で防いだ。
「ひきゃああ!?」
素っ頓狂な悲鳴は、無論元老チュデルキンのものだ。
さかさまになったまま、道化は細い体を後ろに傾け、ゆらゆらと揺れた。
「そっ……そんなバカチンなっ……。げ……猊下に頂戴した、アタシの美し格好良い術式がっ……」
大きく裂けた唇が、ついにニヤニヤ笑いを消し去り、小さく窄められてわななく様は痛快だったが、しかし見事巨大ハンマーを粉砕してのけたアリスも無傷とは行かなかった。ドリルの回転をゆるめた金の小片たちを、右腕の一振りでじゃきっと元の剣に戻した騎士は、大きく姿勢を崩し、危ういところで踏みとどまった。天命にダメージはないはずだが、振り絞った精神力の消耗が激しいのだろう。
「アリス……!」
駆け寄ろうとした俺を、しかし左腕で鋭く制し、アリスは気丈に剣の切っ先をびしりとチュデルキンに向けた。
「チュデルキン、お前の信念なき技など、虚ろに膨れた紙風船にすぎないと知れ! お前本人と同じように!!」
「なっ……んですってェ……この小娘っ……」
アリスの、斬撃のごとく鋭い舌鋒に、ついにチュデルキンの悪口雑言が止まった。限界まで歪めた巨顔を激しく痙攣させ、滝のような脂汗が逆向きに流れる。
しばしの沈黙を破ったのは、ほとんど退屈したとでも言わんばかりの、アドミニストレータのため息混じりの呟きだった。
「あーぁ、ほんと、何年経ってもお馬鹿さんねえ、チュデルキン」
チュデルキンの後方で宙高く、寝そべった姿勢で浮遊していた最高司祭は、細いおとがいを乗せた両手の甲ごしに唯一の腹心を見下ろし、続けた。
「あの娘の持つ”金木犀の剣”は、この世界に存在するディヴァイン・オブジェクトの中でも最大クラスの対物理優先度を持っているのよ。そして、その事実をあの娘も強く確信している。そんなの相手に実体系攻撃術を使うなんて、神聖術の基本も忘れちゃったの?」
「はっ……ほほはひっ……」
甲高い声を漏らし、チュデルキンは丸くした両目を頭上――正確には眼下に向けた。その上まぶたに、たちまち大粒の涙がぼろりぼろりと溢れる。
「おぉぉっ……なんと勿体無いっ、有難いっ、畏れ多いっ!! 猊下御自ら小生めに御教示下さるとはっ……! 応えますぞ、このチュデルキン必ずやお応えしますぞっ!!」
アドミニストレータの声は、チュデルキンにとって最高級の治癒術以上の効果を持っているようだった。先刻までの驚愕と怯えは一瞬にして払拭され、逆さまの元老は、おそらく彼なりの最大の気迫が篭っているのであろう奇相でしっかとアリスを睨みつけた。
「……整合騎士アリス・シンセシス・フィフティよ!! オマエさっき言いましたねェ!! このアタシが虚ろな、信念なき紙風船だと!!」
「……違うとでも言うのですか」
「違――――う!! 違う違う違う違う!!」
チュデルキンの両眼に、ぼっと音を立てて赤い炎が点った――ように見えた。
「アタシにだって信じるものはあるんですよう!! それは、ズバリ、愛ッ!! 我が尊く麗しき最高司祭猊下への、偽りなき愛なりィッ!!」
この時この場所以外のどんな状況で聞いても三流の滑稽劇にしかなり得ない台詞ではあるが、しかし今だけは――たとえそれを放ったのが、丸頭に棒体の道化者だとしても――ある種の悲壮感すら伴って、力強く部屋中に響き渡った。
チュデルキンは、燃えるまなこでアリスを凝視し、両手両足を大きく広げながら、背後のアドミニストレータにむかって限界まで甲高く裏返った声を奏上した。
「さ、ささ、最高司祭猊下ッ!!」
「なぁに? チュデルキン」
「小生、元老チュデルキン、猊下にお仕えした永の年月において初めての不遜なお願いを申し上げたてまつりまするぅっ!! 小生これより身命を賭して彼奴ら反逆者どもを殲滅致しますればっ! その暁には猊下のっ! げっ、猊下のぉぉっ、貴き玉身をこの手で触れっ、くっ口付けしっ、一夜の夢をとっとっ共にするお許しをっ、頂きたくございますぅぅぅぅぅッ!!」
――半人半神の最高支配者に対して、なんとも直截的なお願いもあったものである。しかしその絶叫が、このチュデルキンという歪みきった道化男の、魂よりの真実の吐露であろうことは間違いなかった。
悲壮感さえ通り越し、もはやヒロイックですらあるその雄叫びを聞き、俺もユージオも、そしてアリスも、身動きひとつできずに絶句した。
そして、チュデルキンの背後で己への”お願い”を聞いた最高司祭アドミニストレータは――。
まるで、可笑しくてたまらぬ、というふうに真珠色の唇をきゅうっと吊り上げた。
感情無き鏡の瞳に、今だけは明らかな、愚かな人間への興趣と嘲弄の色が揺らめいた。哄笑を堪えるかのように、右手ですっと口元を覆ったアドミニストレータは、その表情からは想像できぬ、慈愛に満ちた囁き声で――。
「……いいわよ、チュデルキン」
と、嘘をついた。
その言葉が明白な虚偽であることが、同じく偽り多き人間である俺にははっきりと感じ取れた。
「創生神ステイシアに誓うわ。そなたが責を果たしたそのときには、私の体の隅々までも、一夜そなたに与えましょう」
この世界の人間は、人工フラクトライトの構造的要因と、謎の”コード871”によって宿命的に法というものに逆らえない。その法には、村や町の掟から帝国基本法、そして勿論禁忌目録、さらには自ら神に誓った約定も含まれる。支配構造の上位に属する者ほど、縛られる法も少なくなるが(たとえば整合騎士は禁忌目録に拘束されないように)、その原則は世界最高位の存在たるカーディナルとアドミニストレータとて例外としない。カーディナルがティーカップを机に置けないように、そしてアドミニストレータが人を殺せないように。
しかし今、アドミニストレータは、己が神への誓いにすら制約されないということを俺の目の前で実証してみせた。それはつまり、あの少女は、寝室の天井に描かれていないステイシア、ソルス、テラリアの創生三神への帰依心など欠片も持ち合わせていないということに他ならない。
だが、勿論、哀れな道化チュデルキンには思いもよらぬことであったろう。
己の背後で、主が嘲笑を堪えながら放った言葉を聞き、チュデルキンの眼にまたしても大粒の涙が盛り上がった。
「おお…………おおっ…………小生、ただいま、無上の……無上の歓喜に包まれておりますよぅ…………もはや……もはや小生、闘志万倍、精気横溢、はっきり言って無敵ですようぅぅぅぅッ!!」
じゅっ、と音を立てて涙が蒸発し、直後、チュデルキンの全身がすさまじいほどの赤々とした炎に包まれた。
「シスッ!! テムッ!! コォォォォル!!! ジェネレイトォォォォォサァァァァァマルゥゥゥウゥ!! エレメ――――――ント!!!」
しゅばばっ、と両手両足で宙を斬り、指先までがぴんと広げられたその四肢に、赤熱する幾つもの光点が宿った。これが元老チュデルキンの、己が天命までもリソースに変えた最大最後の攻撃となろうことは、アリスの背後に隠れる俺にもしかと感じ取れた。
先ほどと同じく、生成された素因――ただし今度のはルビーのごとく輝く熱素――の数は、すべての指先に計二十個だった。
確かに、倒立状態のチュデルキンの両足は、体を支えるという役目から解放されて完全に自由ではある。しかしそうは言っても、足指十本をそれぞれ別個かつ同時に認識するのはよほどの訓練を積まねばできることではない。あまりに特異な外見と人格にばかりつい注意が向いてしまうが、この元老チュデルキンという人物も、整合騎士の猛者たちと同じように――あるいはそれ以上に長い経験を重ねてきた、恐るべき強敵なのだ。
果てしなく遅きに失した俺の恐怖を感じでもしたか、チュデルキンの両眼がまるで勝ち誇るかのようにすうっと細められ、直後、零れ落ちんばかりに丸く見開かれた。その針穴のごとき瞳孔が、突然真紅の光を帯びてあかあかと輝き、俺の恐れは驚愕へと変わった。もしや、奴の気迫が呼び起こした現象なのか――と思ってから、ようやくそうではないことに気づく。あれも、チュデルキンの両眼のすぐ前に浮かんで煌く赤光もまた、大型の熱素因なのだ。奴は己の両眼までも端末として、二十一個目と二個目のエレメントを生成したのだ。
変成・射出前の素因それ自体も、わずかではあるがその属性に準じたかたちでリソースを放散している。指の数センチ先に熱素を呼び出すくらいなら、多少爪が炙られるくらいで済むが、目の玉の至近にあれほど巨大な奴を保持して術者が無事なわけがない。たちまち、チュデルキンの目のまわりの白い皮膚が、しゅうしゅうと音を立てて黒く焦げ始め、俺はたまらず頬を引きつらせた。
しかし元老本人は、その熱さなどもはや毛ほども感じていないようだった。眼窩が広く黒ずみ、異相が凶相へと転じた顔全体でニィィっと笑ってみせると、チュデルキンは低く軋る声で最後の見栄を切った。
「お見せしましょォォォォう、我が最大最強の神聖術ゥゥゥゥッ……! 出でよ魔人ッ!! そして敵を焼き尽くせェェッ!! “クルゥエル・クリムゾン・クラウン”――――ッ!!」
ぶおっ、と細い四肢が同時に前に振り下ろされた。打ち出された二十のエレメントは、すぐには変成せず、宙に五本ずつの平行線を描きながら猛烈なスピードで飛び回った。
その赤く輝く軌跡が、見る見る間に巨大な人間のかたちを描き出していくのを、俺は思わず魅入られながら凝視した。短い足。でっぷりと膨れた腹。妙に長い腕、そして角がいくつもついた冠を載せた丸い頭。まるで、破裂する前のチュデルキンをそのまま数倍に拡大したかのような――巨人のピエロだ。
ごうごうと燃える身長五メートルの道化を創り出した二十個の素因は、最後にひらひらした道化服に炎の縦じまを描き、ようやく消えた。
いまだ二十メートル近くの距離があるのに、すでに見上げるほどの高さにあるピエロの顔は、チュデルキンのそれを模していながら何倍も残酷そうに見えた。分厚い唇の隙間からは火焔の舌がちろちろと見え隠れし、細長い吊り目を作る暗い亀裂からは、炎の巨人であるにもかかわらず凍えるような冷気が吹き付けてくるように思える。
両手両足を振り回しながら超絶的召喚術を組み終えたチュデルキンは最後に、残るふたつのエレメントを宿した両の目をばちっと一度まばたきした。すると、目の前の熱素が消え去り、同時に炎のピエロの細い目がくわっと開いて、そこに二つの燃える瞳が宿った。
火焔の巨人は、チュデルキン本人が乗り移ったかのごとく残酷な殺意のこもった両眼でぎろりと俺たちを見下ろした。とがった靴を履いた右足がゆっくり持ち上がり、一歩前の床をずしりと踏みしめた。重い震動音とともに、大量の炎が巨人の足元から巻き起こり、周囲の空間を揺らした。
もはや唖然と立ち尽くすばかりだった俺とユージオは、ごくかすかだが鋭いアリスの声が発せられたのを聞き、はっと気を取り直した。
「……あの術、私も見たことがないほどの、恐るべき優先度です」
アリスの声はこの状況でもあくまで毅然としていたが、しかし内心の畏れを映してか、語尾がかすかに掠れ、揺れた。
「あやつを甘く見過ぎました。残念ですが、あの炎は私の花たちでも破壊できない」
「な……って、じゃあ、どう……」
非生産的な声を挟んだ俺に、アリスは初めて出会った頃以上に厳しい声を短く叩き返した。
「十秒、どうにか防ぎます。キリト、ユージオ、その間にチュデルキン本体を討ってください。ただし接近してはいけない! 最高司祭はそれを待っているのですから」
「じゅう……」
「……びょう」
俺とユージオは同時に呻き、顔を見合わせた。
もはや剣技でも発想でも俺を超えたかもしれない相棒だが、しかし今度ばかりはその顔を彩っているのは絶望と恐慌の蒼白だった。無論、俺もまったく同じ表情を浮かべているはずだ。
アリスが防いでいるあいだに突貫せよというならいくらでもやる! それはもともと俺の好むスタイルだし、実際SAO時代はボス攻略のたびにその役目を務めたのだ。
しかし、彼我の距離二十メートルを縮めてはいけないというのは、俺とユージオの戦闘力を九割減じる大きすぎる枷だ。俺たちはなんといっても剣士なのであり、遠隔攻撃の手段などわずか二つしかないからだ。
そのひとつはこちらも神聖術を使うという手だが、俺とユージオに使えるコマンドはまったく初心者級のものでしかなく、せいぜい距離を詰めるための小技にしか使えない。とてもチュデルキンのような高位術者の護りを貫き天命を削りきる威力は望めない。
もうひとつは、取って置きの必殺技――つまり武装完全支配術だが、これは取って置きすぎたのが災いした。アリスの技があればチュデルキン相手には使う必要はあるまい、対アドミニストレータ戦まで維持できるはずと判断したせいで、俺もユージオもあの長ったらしい術式をまったく唱えていないのだ。今からではどう考えても間に合わない。
俺が絶望的思案を懸命に巡らす間にも、燃え盛る巨大ピエロは、踏み出した右足で床を蹴り、その図体をふわりと宙に浮かべてさらに前進を続けた。
どすん、と両足で着地する。まるで水溜りを散らすかのように火焔の飛沫を振り撒いてから、次のジャンプに移る。とても敏捷とは言えない動きだが、何といってもサイズがサイズだ。一跳びで三メートルの距離を詰めてくる。
ピエロの放散する熱気と焦げ臭さが圧力となって感じられるほどの間合いとなったとき、ついにアリスが動いた。
凝集している金木犀の剣を、すうっと真っ向正面の大上段に振りかぶる。後ろに伸ばされた左腕、大きく前後に開いた両足が、ぎり、ぎりと弓の弦のように張り詰めていく。
突如、アリスの足元からも竜巻のごとき突風が沸き起こり、白のロングスカートと長い金髪が水平に舞い上がると激しくひらめいた。金木犀の剣の刀身が、黄金の光に包まれてぴしっと幾百の菱形へと分離し、ひとすじの列を作って空中を滑りはじめる。
「――嵐! 花! 裂! 天!」
あの細い体のどこから、と思えるほどの叫びが鋭く宙を切り裂いた。
同時に、それまでゆるりと円運動をしていた黄金の花弁たちが、個々の姿が見えないほどの超スピードで渦を作り、それはたちまち巨大な竜巻へと成長した。
先に氷のハンマーを砕いたドリルの時は、密に凝集した先細りの円錐形を作っていたのだが、今度はその逆だ。アリスの手元から漏斗状に広がり、その直径も先端では五メートルはあるだろう。
たちまち周囲の空気が、まるで大嵐に見舞われたかのように圧縮され、引きちぎられ、そして放出された。俺とユージオの髪と服が激しくばたばたと揺れる。
もはや圧し掛からんばかりに接近していた火焔ピエロは、にやにや笑いを消さぬまま高々と最後のジャンプで天井近くにまで舞い上がり、アリスの竜巻の中央に恐れ気もなく落下してきた。
どばぁぁぁぁっ!!
という、千の溶鉱炉が咆哮するが如き轟音がそれ以外のあらゆる音を圧した。
黄金の竜巻はほとんど垂直近くにまで立ちあがり、その真ん中に火焔ピエロの両足が飲み込まれている。高速回転する黄金片に引き裂かれた炎が、大掛かりな花火のように放射状に飛び散り空気を焦がす。
しかしピエロの総体はわずかにも減少しているような気配すらなく、燃え盛る両眼のにやにや笑いをさらに大きくしながら徐々に、徐々に竜巻をその巨大な足で踏み潰しはじめた。真下ですべてを支えるアリスの両足がじわ、じわと崩れ、かすかに見える横顔は鬼気迫るほどの形相だ。
さらには、竜巻を作る黄金片たちが、ピエロの熱量に耐えかねるようにたちまち赤熱していく。いままさに、整合騎士アリスも、その手の金木犀の剣も、凄まじい速度で天命を失いつつあるのだ。
残り時間――十秒。
あらゆるシステム・コマンドはもはや何の助けにもならない。
そして俺にあるのは、右手の黒い剣と、体に染み付いた技だけだ。
このアンダーワールドにおいて、俺は、主にユージオに教え伝える目的でかなりの数の”連続技”、つまり旧SAO世界において俺のフラクトライトに深く刻み込まれたあまたのソードスキルを再生させた。その過程において俺は、SAO世界のようなシステム・アシストの存在しないこの世界でも、ほとんどかつてのものと変わらない速度・威力のソードスキルを放つことが可能であることを知った。
なぜならば、アンダーワールドでは、行動とその結果のかなりの部分を、システムによる演算ではなく行う者の意志力、イマジネーションが決定するからだ。俺や人工フラクトライト達が見ているのはポリゴンで作られたオブジェクトではなく、記憶のアーカイブから取り出し加工された夢――ニーモニック・ビジュアルであるからだ。
ゆえに俺は、俺の記憶に強く刻み込まれたソードスキルたちを――現実世界では絶対に行うことのできない超高速の連続剣技を再生し得た。
そしてそれは同時に、この世界においてならば、俺の剣技はSAO世界のシステム・アシストを超える高みに――旧アインクラッドに於いて、数多の剣士たちが憧れを込めてソード・アートと呼んだ、システムの規定を超えた速度と威力そして美しさを持つ真の技へと達し得るかもしれない、ということでもある。
その為に今だけは、俺は、SAO世界で生まれそして消えた”黒の剣士キリト”への忌避――あるいは恐怖を捨てねばならない。
アリスの竜巻を踏み破りつつある巨人の熱気を頬で感じながら、俺は大きく体を右に開き、腰を沈めた。
右手の黒い剣を肩の高さまで持ち上げ、完全な水平に倒すと同時に限界まで後ろに引き絞る。
左手はその剣尖に、カタパルトのごとくまっすぐに伸ばしてあてがう。
アンダーワールドでは、幾つかの理由によって完全再現を試みようとしなかった単発重攻撃技――アインクラッドにおいて間違いなく最多回数放ったソードスキル、”ヴォーパル・ストライク”の構え。
透明感のあるブラックに輝く切っ先のはるか延長線上に、倒立した元老チュデルキンの姿が見える。
焼け焦げた眼窩に嵌まる巨大な両眼は、ダメージはあれども視力は健在らしく、爛々とひん剥かれてこちらを睨みつけている。意識の大部分は、己の四肢と視線で操る火焔ピエロに向けられているのだろうが、俺のアクションも無論視界には入っているはずだ。
攻撃はワンチャンス、決して防御も回避も許してはならない。その意味でも、この二十メートルという距離はあまりに遠い。頭頂部のみで体を支えるチュデルキンには素早い移動は不可能だろうという期待はあるが、しかしあの男の土壇場のしぶとさを、もうこれ以上過小評価する過ちは犯せない。一瞬――一秒の半分のその半分でいい、チュデルキンの注意を強く外に逸らさねばならない。
残り時間八秒。俺は限界まで速く短い言葉で、隣の相棒に頼んだ。
「奴の目を」
「そう来ると思った。いくよ」
打てば響く、とはこのことだ。ちらりと視線を向けると、いつのまにジェネレートしたのか、ユージオの右掌には青く光る鋭利な氷の矢が保持されていた。それほど大きなサイズではないが、眩いほどの輝きに包まれているのを見れば、その矢が持つのが生半なプライオリティでないのはすぐにわかる。おそらく、先刻のアリスと元老の攻防によって放散された冷気リソースを、消滅する前に素早くエレメントに変えていたに違いない。このような状況判断力は、まったく頼もしいの一言だ。
残り七秒。ユージオの両手が見えない大弓を引き絞るように動き、つがえられた氷の矢がひときわ激しく光った。
「ディスチャージ!!」
コマンドとともに発射された氷の矢は、しかし、まっすぐにチュデルキンに向かったわけではなかった。
ユージオの両手にコントロールされた軌道に沿って、まず火焔ピエロを左に迂回し、そこから右方向へと大きくカーブを描いて舞い上がる。炎の赤一色に染まる戦場に、その矢が長く引く青い軌跡は強烈なコントラストでまばゆくきらめいた。
残り五秒。アリスとチュデルキンの間の虚空を、涼やかな音を振りまきながら斜めに横切った氷の矢は、高い位置でさらに左へとターンした。ユージオの両手がぐっと握られる。それが合図となり、矢は直線軌道を描いてそれまでの数倍のスピードで突進した。その鋭い鏃が狙ったのは――。
今度もまた、チュデルキンではなかった。
奴の後方約二メートルの空中にしどけなく寝そべる最高司祭アドミニストレータこそが、ユージオの照準した標的だった。
残り四秒。
もちろん、いかに氷の矢の優先度が高かろうと、ユージオの権限レベルから生み出された程度のものに最高司祭が慌てるはずもない。銀髪の少女は、小煩そうに己に向かってくる青い矢を見やると、唇を尖らせ、ふっと軽く息をふきかけた。その息にどのような術式が込められていたのか推測する手立てはないが、矢は少女の素肌に達するはるか一メートル以上も手前で、ぱしゃっと光のしずくを振りまきながら呆気なく粉砕された。
しかし、ユージオが真に攻撃したのは、アドミニストレータ本人ではなかった。
彼がその冷静な判断力と苛烈な意志力によって一撃を浴びせたのは、元老チュデルキンが声高に宣言した、彼の最高司祭への盲目的執着、あるいは愛情だったのだ。
それまで、油断なく俺たちの動向を注視していたチュデルキンの両眼が、氷の矢が下降したその瞬間のみぐりっと横を向いた。窄められていた唇がいっぱいに開き、甲高い叫びが発せられた。
「猊下、御気をつけくださいぃぃぃッ!!」
残り三秒。
チュデルキンの絶叫が聞こえるよりも早く、俺の体は動き始めていた。
前に大きく踏み出した左足で、強く床を蹴る。その加速を腰で回転力に変え、胸と背中の筋肉を経由させて右肩に伝える。そこから繋がる俺の右腕はすでに黒い長剣と一体化した武器となり、エネルギーのすべてを超重量の刀身へと注ぎ込む。
打突開始の一瞬、剣の反動は俺の右半身を引きちぎりそうなほどに大きい。しかし歯を食いしばり、喉の奥から気合を放ちながら、俺は凄まじく重い武器を一直線に加速させていく。
旧SAO世界において、連続技に組み込めない単発のソードスキルであり発射後の隙も大きいこの”ヴォーパル・ストライク”をなぜ俺がそこまで愛用したかというと、それは戦況を一撃で決定し得る威力もさることながら、片手用直剣技にあるまじき長大なリーチにこそ理由がある。
かの世界では、強烈なエフェクト光を持つソードスキルは押並べて武器の実サイズを越える当たり判定を持っていた。なればこそ俺たちプレイヤーは、自身の数倍の体躯と得物を持つ巨大なボスモンスターたちと正面から渡り合えたのだ。しかしそのなかでも、ヴォーパル・ストライクの間合いは群を抜いて広かった。血のように赤いエフェクト光が敵を貫くその距離は、およそ刀身の二倍。限界まで伸ばされる右腕のリーチも加えれば、時として鞭や長槍すらも凌駕する射程距離を誇った。
――とは言え、もちろん、それはこのアンダーワールドとは距離、時間、観念他あらゆる意味に於いて遥か隔てられた浮遊城アインクラッドでの話だ。
この世界でこれまで多くのソードスキルを再生し得た、と言ってもそれはすべて連続技の動作としてのみであって、色とりどりのエフェクト光や剣の実寸を超える間合いなどは当然含まれていない。二年半前に一度だけヴォーパル・ストライクを実戦で――アリスの妹シルカを攫ったゴブリン部隊長との戦闘で使ったことはあるが、そのときも技としては何の変哲もない直突きでしかなかったのだ。
しかし、今、この一撃だけは――。
俺はヴォーパル・ストライクという名の剣技を、真の意味で甦らせねばならない。
いや、それ以上だ。俺と敵の距離は二十メートル、かつての技でさえ到底届かない。この”距離”というシステム上の制約を、意思とイマジネーションの力で打破しなくてはならないのだ。
不可能事では絶対にない。この世界では、イメージの力はシステムの規定を超える力を持つのだ。その証左が、今俺とユージオを限界以上の気力で炎魔人の攻撃から護っている騎士アリスの存在だ。彼女は、己の愛剣の記憶解放を行う際に一切のコマンド詠唱を行っていない。そんなものは、もうアリスには必要ないのだ。己と剣との絆を信じる彼女の意志力が、それを可能としているのである。
であれば、俺も、アリスのその意志に応えなくては。
信じろ。
確信せよ。
断固として実現するのだ。
俺は、何者であるよりも先に、剣士キリトなのだから。
突然、右手が猛烈な熱に包まれた。素手のはずの皮膚が、どこからか現れた黒い指貫きのグローブに瞬時に覆われる。続いて、激戦でほつれたシャツの上に、艶やかな黒革の袖が出現し、一瞬で腕から肩へと広がっていく。懐かしいロングコートの裾が、俺の腰の周りで大きくひるがえる。
どこからか、外燃機関の猛りにも似た金属質の轟音が響いてくる。発生源は今まさに撃ち出されようとしている黒い刀身そのものだ。
紅い閃光。
剣全体を包む、圧倒的な輝きは、炎ではなく血の赤。切っ先から放射されるその光は、部屋を埋め尽くす火焔の色すらも覆い尽くす。
「う……おおおおおッ!!」
喉から迸る獰猛な気合とともに、俺は右手に集ったすべての力を、一直線に前へと解き放った。
残り、一秒。
何の音だ!?
いきなり耳元で炸裂した異質の咆哮に、ユージオは全身を硬直させた。
獣の吼え声とも、稲妻の轟きともまるで違う。炎の怒号でも、吹雪の絶叫でもない。金属、それも幾千の剣が一斉にその身を震わせたかのような――。
氷の矢を放ち終えた両腕を前に伸ばしたまま、ユージオはすぐ左に立つキリトへと視線を送った。そして新たな驚愕に激しく打たれた。
轟音の源は、キリトが右手に構えた黒い直剣だった。黒曜石の輝きを持つ肉厚の刀身が、その鋭い刃を朧に霞ませるほどに高速で震動させながら、戦場の何よりも激しい咆哮を放っている。
記憶解放が行われたのか!? 術式詠唱もなしに!?
ユージオの一瞬のその思考は、すぐに否定された。キリトの黒い剣の完全支配術は、これまで数回見たように、深い夜にも似た闇の中からかの巨大樹を召喚するというものだ。
しかし、ユージオの目の前で剣の切っ先から強く迸ったのは、血のように重い紅の光だった。
幾つもの束となって溢れ出た赤い閃光は、みるみるうちに刀身すべてを覆いつくし、それにとどまらず持ち主の腕をも包み込んでいく。
真に驚くべき現象が起きたのはその後だった。
キリト本人の姿が、まばゆい輝きに覆われた一瞬を境に、それまでとは違う出で立ちに変化したのだ。
今まで彼が身につけていたのは、数々の激戦を経て解れ傷んだ黒いシャツと、同色の麻のズボンだったはずだ。だが赤い光の波が、右腕から体、足へと通過した途端、高い襟と長い裾を持つ輝くような革のコートがどこからともなく現れてキリトの体を装い、ズボンもまた細身の革素材のものへと瞬時に変わった。光沢のあるブーツは重そうな金属鋲つき、両の手もまた鋲の埋め込まれた手袋に包まれた。それらの色はすべて、吸い込まれるように深い黒。
瞬きよりも短い刹那に起きたその、言わば”変身”のとどめは、キリトの肉体そのものに起きた変化だった。
まず、黒い髪がわずかに伸び彼の横顔をほとんど隠した。次に、ユージオとほぼ同じ大きさだったはずのその躯が、ぎゅっと密度を増すように少しばかり小柄になった。しかし、その全身から放たれる威圧感は逆に倍化したように思えた。理由は、激しく揺れる前髪の隙間からのぞく黒い眼だ。これまで常にキリトの瞳に宿っていた穏やかさ、言い換えれば戦うことへの迷いと躊躇いのようなものが、嘘のように失われている。その眼光の鋭さは、まるで彼自身が一本の剣になってしまったかのようだ。整合騎士たちの冷厳さすら上回る、あらゆる感情を削ぎ落とした戦闘者の眼。
その瞳が、ぎらりと禍々しく光った。噛み締めた歯が剥き出され、唇がまるで笑うように歪んだ。
直後、その唇の奥から、剣の唸りを上回る雄叫びが放たれた。
「う……おおおおおッ!!」
ユージオの背中が総毛立った。
剣が放つ金属質の咆哮が限界まで高まり、直後、キリトの右手が消えうせるほどの速度で前に撃ち出された。
じゃきぃぃぃん!! と、見えない鋼板をぶちぬくような轟音。荒れ狂う紅の閃光。長いコートの裾が、伝説の闇の魔物の翼のように激しくはためく。
なんという凄まじい突き技だろうか。これまでキリトに教授されたアインクラッド流剣術のどの技とも異質な、どちらかと言えば伝統流派に近い単発の大技だ。だが、それら流派が重視する様式美など寸毫も無い、只々敵の肉体をぶち抜くためだけの殺戮技――。
しかし。
ユージオは、どうにか目の端にとらえた剣尖の輝きを追って視線を右に動かした。キリトが狙ったのは無論、火焔の巨大道化を操る元老チュデルキンだ。だがその体は遥か二十メルの彼方だ。どんな技だって、それが剣技である限り届くはずがない。
攻撃の瞬間、チュデルキンはキリトを見ていなかった。その視線は己の左上方、ほんの数秒前にユージオが発射した氷の矢の軌道に向けられていた。ユージオとしては限界まで威力を高めた術式も、無論アドミニストレータに通用するはずもなく、息吹ひとつで粉砕されてしまった。だが、狙ったとおりチュデルキンは主への攻撃を無視せず、声高に警告の叫びを上げたので、奴の注意を逸らせというキリトの要求は達せられたことになる。
氷の矢が呆気なく消失したことに安心したように、チュデルキンはぐるりと巨大な顔の向きを戻した。
その細い眼がくわっと見開かれ、いくつかの感情が刹那のうちに目まぐるしく入り乱れた。
まず、今まさに打ち出されようとしているキリトの剣と、それが放つ紅い閃光への驚愕。
次に、攻撃が遥か間合いの外からの単なる突き技であったことへの安堵と侮り。
最後に――超高速で打突された剣から、耳を劈く轟音とともにどこまでも伸びてくる紅い光の刃を見た恐怖。
息をするのも忘れるほどの驚きに打たれたのはユージオも同じだった。血の色の光剣は、二人の前方で火焔を防ぐアリスのすぐ左横を通過し、二十メルの距離を一瞬で駆け抜けて――
倒立するチュデルキンの棒のごとき胴体のど真ん中を、それが紙ででもあるかのように呆気なく貫いた。
紅い刃は、そのまま尚も三メル近く伸び、ぽかんとした表情の元老の体をわずかに宙に留めてから、束が解けるように周囲の空間へと拡散し、消えた。直後、チュデルキンの胸と腹の境に開いた、ほとんど胴を分断しかけるほどの横長の傷口から、どこにこれだけと思えるくらい大量の血液が迸った。
「ほおおおぉぉぉぉぅぅぅ…………」
空気が抜けるような、高く力ない叫びが、血霧の舞う空中に響き渡った。
自分が作り出した鮮血の池に、ばちゃっと仰向けに落下したチュデルキンは、細い右腕をぶるぶると震わせながら頭上に漂うアドミニストレータに向けて差し伸べた。
「……あぁ……げい……か…………」
か細い声を放つ、年経た道化者の表情は、ユージオの位置からは見えなかった。右手が湿った音を立てて濡れそぼった絨毯に落下し、それきりチュデルキンは動きを止めた。
直後、アリスの頭上でいままさに黄金の竜巻を踏み破ろうとしていた火焔の巨人も、その膨れ上がった胴体を大量の白煙へと変え、ニヤニヤ笑いを宙に溶かして消滅した。アリスの操る黄金の小片たちも、強敵の消滅に戸惑うかのようにゆるゆると減速し、宙に漂った。
突如訪れた沈黙に、耳が痺れるような感覚を味わいながら、ユージオはそっと隣に視線を戻した。
キリトは、右足を大きく踏み込み、右腕を限界まで伸ばした姿勢のまま沈黙していた。
黒い剣の表面に残っていた紅い光がすうっと消え、黒髪とコートの裾が最後にふわりとなびいてから垂れた。小柄なその姿が、末端からぼやけるようにもとの相棒へと戻っていくさまを、ユージオはただ息を詰めたまま見つめた。
革のコートや厚底のブーツが、まるで幻ででもあったかのように完全に消え去ったあとも、キリトは数瞬動かなかった。やがてゆるりとその右腕が降ろされ、黒い剣の先がとん、と絨毯を叩いた。
丈を取り戻した体をまっすぐに起こしてからも、キリトはうつむいたまま、ユージオのほうも、転がるチュデルキンの体も見ようとしなかった。ユージオもまた、何と声を掛けていいのか判らなかった。瀕死のファナティオを前にあれほど取り乱した相棒が、たとえ敵があの元老チュデルキンであったにせよ、その剣にかけたことに決して快哉を叫ぶ気分ではないだろうことが想像できたからだ。かいま見えたキリトの横顔は、攻撃時の氷のような冷徹さをもう微塵も感じさせないものだった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、アリスの鋭い呼吸音だった。黄金片が剣へと戻る、じゃっと鋭い金属音がそれに続いた。
素早く顔を戻したユージオが見たのは、倒れた最後の配下の体へと華奢な左手を差し伸べるアドミニストレータの姿だった。
治癒術を掛ける気か!? まさか、どう見てもチュデルキンはすでに絶命している。それとも最高司祭は、子供の頃に聞いた伝説どおり、禁断の蘇生術すらも操るというのか――?
瞬間、そう危惧したユージオが、術式詠唱が開始される前に突進して接近戦に持ち込むべきかと青薔薇の剣の柄に手をやった、その時。
あらゆる感情を伺わせないアドミニストレータの声が、ゆるりと流れた。
「勘違いしないで。片付けるだけよ、見苦しいから」
ふいっと左手が振られると、チュデルキンの骸は、綿入りの人形かなにかのように軽々と吹き飛び、はるか離れた窓際にかすかな音を立ててわだかまった。
「……なんということを」
最高司祭の所業を見たアリスが、わずかに顔を背け、押し殺した声で呟いた。
いまの彼女の人格は改変された冷徹な整合騎士のものだが、しかしその気持ちはユージオにも理解できた。チュデルキンは到底敵として尊敬できぬ人物ではあったが、しかし少なくとも、主のため死力を尽くして戦い命を落としたのだ。ならばせめて、その死に対しては礼を以って報いるべきではないのか。
だが、配下の犠牲にアドミニストレータはわずかにも感情を動かされた様子はなかった。
彼女の銀色の瞳は、放り捨てたチュデルキンの骸をもう一顧だにせず、それどころか意識と記憶からその存在すべてを消し去ってしまったかのように、以前と何ら変わらぬ謎めいた微笑をとろりと宿した。
「……ま、退屈な一幕ではあったけど、それなりに意味のあるデータも少しばかり拾えたわね」
難解な神聖語を交えつつ、最高司祭は無垢な美声でそうひとりごちた。見えない寝椅子にうつ伏せに上体をもたげた姿勢のまま、空中をふわりと滑り、円形の寝室の中央まで移動する。
なびいた銀髪のひと筋を指先で背中に払いながら、七色の光が揺らめく瞳をすっと細め、裸形の少女はその磁力的な視線をまっすぐにユージオの隣――いまだ俯き加減のキリトへと注いだ。
「イレギュラーの坊や。詳細プロパティにアクセスできないのは、非正規婚姻から発生した未登録ユニットだからかな、って思ってたんだけど……違うわね。ボク、あっちから来たのね? “向こう側”の人間……そうなんでしょ?」
囁くように投げかけられた言葉の意味を、ユージオは九割がた汲み取ることができなかった。あっち? 向こう側……?
黒髪の相棒にして親友キリトは二年半前、記憶をなくした”ベクタの迷子”としてルーリッド南の森に現れた。そのような人間がたまに出現することをユージオはうわさとして伝え聞いていたが、もちろん俗称のとおり闇の神ベクタが悪戯に人の記憶を消すのだなどと信じていたのはほんの子供の時分だけだ。人はあまりにもつらいこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがあるのだ、とユージオに教えたのは、前任の刻み手であるガリッタ老人だった。彼はずいぶんと昔、大水の事故で奥さんを亡くしていて、その時あまりにも嘆き悲しんだせいで奥さんとの思い出を半分以上失ってしまったらしかった。それは命の神ステイシアの慈悲であり罰でもある、と老人はさびしそうに笑った。
ゆえにユージオは、キリトにもおなじことが起きたのだろう、という推測をこれまで秘め続けてきたのだ。髪と瞳の色からして東域か南域の生まれと思うが、その故郷で何かとても辛く悲しい出来事があり、記憶を失いながら長い距離を彷徨ってついにルーリッドの森に辿り着いたのだろう、と。
央都までの旅路や学院での日々において、キリトに記憶のことをほとんど尋ねなかったのはそのせいもある。もちろん、彼が記憶を取り戻し、故郷に帰ってしまうのを恐れた――という理由も無いとは言えないが。
だが今、世界のすべてを見通す力を持つ最高司祭は、キリトの生まれた場所を不思議な言い方で表した。
向こう側。それはつまり、果ての山脈の向こう――闇の国、ダークテリトリーを指すのだろうか? キリトとその出自を結ぶ唯一のもの、連続剣技アインクラッド流は、闇の国で興された流派なのか?
いや――だが、最高司祭ならばダークテリトリーの地勢すらも詳細に知悉しているはずではないか。彼女の配下たる整合騎士たちは自由に果ての山脈を越え、かの国の暗黒騎士と日々激戦を繰り広げているのだ。その騎士たちの支配者たるアドミニストレータが、ダークテリトリーにどんな国がありどんな町があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは有り得ない。”あっち”とか”向こう側”などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり――。
アドミニストレータがその言葉で指し示したのは、彼女の眼すら届かない、この世界そのものの外側……? 闇の国のさらにその彼方、などという平面的な意味ではなく……世界を包む見えない壁、その向こう……?
ユージオには、己の思考が導き出しかけた概念はあまりにも抽象的すぎて、それを的確に表す言葉すらも不足していた。だが、自分がいま、何かあまりにも重大な、世界の秘密とでもいうべきものに触れかけていることだけは何となく分かった。焼け付くようなもどかしさに襲われ、ユージオは視線を動かして巨大な窓の向こうに広がる夜空を眺めた。
過ぎ行く黒い雲の切れ間に、瞬く星屑の海が広がっていた。あの空の向こう側、キリトが生まれた国、そこはどのような場所なのだろうか? そしてキリト自身は、その記憶を取り戻しているのだろうか?
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を持ち上げた黒衣の剣士だった。
「そうだ」
キリトは短く、しかしとてつもなく重い一言で、最高司祭の問いを肯定した。ユージオは痺れるような衝撃とともに、心を繋げた相棒の横顔を見つめた。やはりキリトはすでに記憶を回復していたのだ。いや――もしかしたら――彼は、最初から……?
黒い瞳が一瞬、ちらりとユージオに向けられた。そこに浮かぶさまざまな感情、その中でも最も大きいのは、俺を信じてくれ、という懇願の光であるようにユージオには思えた。
視線はすぐに、前方のアドミニストレータに戻された。キリトは厳しい表情のなかに、ほんのわずかな苦笑の色を仄めかせ、そっと両手を広げた。
「……とは言え、俺に与えられた権限レベルはこの世界の人たちとまったく同等で、あなたのそれには遠く及ばないんだけどな、アドミニストレータ……いや、クィネラさん」
不思議な響きの名前で呼ばれたとたん、最高司祭のかんばせから微笑がすっと薄れた。しかしそれは一瞬のことで、アドミニストレータは再び先刻よりも大きな笑みを艶やかな唇に宿らせた。
「あのちびっこが、詰まらない話をいろいろと吹き込んだようね。で? 坊やは、いったい何をしに私の世界へ転げ落ちてきたのかしら? 管理者権限ひとつ持たずに?」
「権限はなくても、知っていることは少しばかりある」
「へぇ。たとえば? 下らない昔話には興味ないわよ」
「なら、未来の話はどうかな」
キリトは、床に立てた黒い剣に両手を乗せ、体重を片足にかけた姿勢で最高支配者に相対した。頬のあたりに張り詰めたような厳しさが戻り、黒い瞳が刃のように鋭く光る。
「クィネラさん、あなたは、そう遠くない未来にあなたの世界を滅ぼす」
発せられた衝撃的な言葉を聞き、しかしアドミニストレータは、唇の笑みをきゅうっと大きくした。
「へぇ。私が? 私のかわいい手駒たちを散々いじめてくれた坊やじゃなく、私が滅ぼすの?」
「そうだ。なぜならあなたの過ちは、神聖教会と整合騎士団を作り上げたそのこと自体だからだ」
「ふふ。うふふふ」
おそらく、己の過ちを指摘されることなどその至聖の座について以来初めてであろうアドミニストレータは、哄笑を堪えるように唇に指先を触れさせ、肩を揺らした。
「ふふふ。いかにも、図書室のちびっこが言いそうなことね。あんな形(なり)で男を篭絡するなんて、おちびさんも随分と手管を覚えたのねぇ。いっそ不憫だわ……そこまでして私を追い落としたいあの子も、うかうかと乗せられた坊やも」
くっ、くっ、と細い喉を鳴らし、最高司祭は笑い続けた。対して、キリトは更に言葉を投げかけようと口を開きかけたが、それより一瞬速く凛と鋭い声が響き渡った。
「お言葉ですが、最高司祭様」
かしゃっと鎧を鳴らし、一歩前に出たのは、これまで沈黙を続けていた整合騎士アリスだった。長い金髪が、アドミニストレータの艶やかな銀髪に対抗するように月明かりにまばゆく煌いた。
「来るべき闇の軍勢の総侵攻に、現在の騎士団では抗しきれないとお考えだったのは、騎士長ベルクーリ閣下も、副長ファナティオ殿も御同様でした。そして――この私も。無論我ら整合騎士団は、最後の一騎までも戦い抜き散り果てる覚悟でしたが、しかし最高司祭様には、騎士団なきあと無辜の民びとを護る手立ては御在りだったのですか! よもや――お一人で、かの大軍勢を滅ぼし尽くせるなどと御考えだったわけではありますまい!」
騎士アリスの、烈しくも涼やかな声音が広大な部屋中に風となって吹き過ぎ、アドミニストレータの髪を揺らした。少女は、すこしばかり意外そうな面持ちで微笑みを薄れさせ、じっと黄金の騎士を見下ろした。
そしてユージオにとっても、別の意味でアリスの言葉は衝撃だった。
整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ、ユージオの幼馴染の少女の体に作られた偽者の人格――それは、数日前に学院の大講堂でユージオの頬をしたたか打ち据えたように、感情なき冷徹な法の執行者であるはずだった。騎士アリスのなかに、かつてのアリス・ツーベルクが持っていたたくさんの感情、とりわけ慈愛と献身、そして善性は微塵も存在しないはずだった。
だが、今のアリスの言葉はユージオの中で、まるでかつてのアリスがそのまま世界の守護騎士として成長し、発したものであるかのように響いたのだ。
息を呑むユージオの視線になど気づくふうもなく、整合騎士は右手の金木犀の剣をカァン! と音高く床に突き立て、更に宣した。
「最高司祭様、私は先刻、あなたの執着と愚かさが騎士団を潰せしめたと言いました。執着とは、あなたが我ら騎士以外のものに一切の武器と力を与えなかったことであり、そして愚かさとは、あなたがその騎士たちすら微塵もお信じにならなかったことです! あなたは我らを謀った……親から、妻や夫、兄弟姉妹たちから無理やりに引き離しその記憶を封じておきながら、ありもしない神界から召喚したなどと麗々しい偽りを植えつけた。でも、それはいい……この世界を、民たちを護るために必要なことであったのなら、それは今は糾しますまい。ただ、どうして我らの……私たちの、教会と最高司祭様、あなたに対する忠誠と敬愛すらも信じて下さらなかったのですか! なぜ私たちの魂に、あなたへの服従を強制する術式などという穢れたものを埋め込まれたのですか!!」
振り絞るようにそう叫んだアリスの、わずかに見える頬の輪郭から、ほんの数滴のしずくが散ったのをユージオは見た。
涙。
あらゆる感情を棄て去ったかのようだった整合騎士アリスが、涙を。
愕然とするユージオの視線の先で、騎士は頬をぬぐうこともせず、昂然と背筋を反らせて支配者を見上げた。
烈火のごとき言葉を浴びせられたアドミニストレータは、しかし、それを微風ほどにも感じなかったように薄い冷笑を浮かべた。
「あらあら、アリスちゃん。随分と難しいことを考えるようになったのねえ。まだたった七年……八年? それくらしか経ってないのにね……造られてから」
情というものを一抹も含まない、軽やかな声だった。美しいが、しかしそれは磨き上げられた貴金属の響きだ。わずかな温もりや揺らぎさえ聞き取ることができない。
「私があなたたち整合騎士(インテグレータ)を信じなかった、ですって? やぁね、心外だわ。とっても信頼してたのよ……歯車仕掛けで健気にカタカタ動く、かわいいお人形さんたちですもの。あなただって、その大事な剣が錆びたりしないように、こまめに磨いてあげるでしょう? それと同じことよ。あなたたちにプレゼントした行動制御キーこそ、私の愛のあかしだわ。あなたたちが、いつまでもきれいなお人形でいられるように。下民たちのように、くだらない悩みや苦しみに煩わされずに済むように」
酷薄な笑みを消さぬまま、アドミニストレータは白い両手を胸の前で握り締め、芝居がかった仕草でゆっくりと首を左右に振った。
「ああ……なんて可哀想なアリスちゃん。きれいなお顔をくしゃくしゃにしちゃって。辛いんでしょう? 苦しいのね? 私のお人形のままでいれば、そんな涙なんて汚らしいものをこぼす必要は、永遠になかったのに」
ぽたり、ぽたりと、アリスの頬から滴り床にはじける水音は途切れなかった。そして同時に、きし、きしっと何かが鋭く軋む音もユージオの耳に届いた。
音源が、アリスの金木犀の剣であることはすぐにわかった。床に突き立てられた剣尖が、分厚い絨毯を貫通し、その下の滑らかな大理石に食い込みつつあるのだ。騎士アリスの心の痛みは、ほぼ破壊不能の天命をもつ塔の基材よりも硬く、大きい。
あふれ出す寸前の感情に彩られたアリスの声が、途切れ途切れに流れた。
「……小父様……騎士長ベルクーリ閣下が、整合騎士として生きた二百年の永の日々で、わずかにも悩んだり、苦しんだりしなかったと、最高司祭様はそうお考えですか。この世界で最も巨大な忠誠をあなたに捧げた人物が、その心に抱きつづけてきた痛みを知らぬと、そう仰いまするか」
ビキッ、と一際鋭い音が、剣の下の床から響いた。同時にそれを上回る烈しさで、アリスは叫んだ。
「否!! ベルクーリ閣下は、司祭様への忠誠と、民びとの守護という使命のあいだで、常に苦しんでおいでだった!! 閣下が、四帝国の名ばかりの近衛隊の強化と整合騎士団による直率を、何度元老院に上申したか、あなたはご存知ありますまい! 閣下は……小父様は、私たちの右目に仕込まれた封印のことを知っておられた。それこそが、小父様こそが誰よりも巨大な苦しみを抱き続けてきた方だという明らかな証左ではありませんか!!」
まさに、血を吐くがごとき痛切な独白だった。
しかしその言葉すらも、アドミニストレータの謎めいた瞳の奥に届いた様子はなかった。絶対支配者の白い頬に色濃く浮かんだのは、なおも面白がるような笑みだけでしかなかった。
「ほんと……悲しくなっちゃうな。私の愛が、そんな程度のものだと思われてるなんて」
笑みがきゅうっと深くなり、興趣のなかにある種の残酷さが揺らいだようにユージオには思えた。
「七歳の幼いアリスお嬢ちゃんに教えてあげるわ。一番……ベルクーリが、その類の詰まらないことにうじうじ悩むのは、初めてのことじゃないのよ。実はね、百年くらい前にも、あの子は同じようなことを言い出したのよ。だからね、私が直してあげたの」
くすくす。細い喉のおくから、さえずるような笑い声がこぼれる。
「ベルクーリの魂のページをめくって、そこに書いてある悩みだの苦しみだの、ぜーんぶ消してあげたのよ。あの子だけじゃないわ……初期に造られた騎士は、みんなそう。辛いことは、何もかも消してあげたわ、私の愛でね。安心して、アリスちゃん。ちょっとおいたをしたくらいで、あなたに怒ったりしないから。今、あなたにそんな悲しい顔をさせてる記憶も、ちゃんと消してあげる。何も考える必要のないお人形に、ちゃんと戻してあげるわ」
静寂のなかに、しばしアドミニストレータの含み笑いだけが揺れ続けた。
あの人は――もう人間ではないのだ。改めて襲い掛かってくる戦慄に肌を粟立てながら、ユージオは強くそう認識した。
人の記憶を覗き自在に書き換える力、そんなものが存在するなんてことを、ユージオは想像すらしたことはなかった。床に収納されたベッドの中での出来事の記憶は曖昧だが、あの重く粘ついた夢のなかで、最後にアドミニストレータに何らかの術式を唱えさせられそうになったことはかすかに憶えていた。あの短い術式を口にしていたら、いったい何が起きていたのか――想像するだけで背筋に氷のような汗が流れる。
もはや神にも等しい権限を持つ支配者を前に、その被造物である整合騎士アリスは、すぐには言葉を返そうとはしなかった。いつしか滴る涙は止まり、剣の軋みも収まっていた。アリスの背中から、ゆるりと力が抜けるのを、ユージオは不安とともに見つめた。決していまのアリスを完全に信用しているわけではないが――何せほんの数時間前に見失ったときは恐るべき強敵だったのだ――それでも、今アドミニストレータ側へ戻られたら、この戦いの帰趨は完全に決する。
アリスの金髪に彩られた頭が、ゆっくりと項垂れた。左手が持ち上がり、胸の辺りを押さえた。
「……たしかに、私は今、この胸が引き裂かれるほどの苦痛と悲しみを感じています。こうして立っていられるのが不思議なほどに」
発せられた声は、数分前とは打って変わったかすかな囁きだった。
「……でも、私はこの痛みを……初めて感じるこの気持ちを、消し去りたいとは思いません。なぜなら、この痛みこそが、私が人形の騎士ではなく、ひとりの人間であることを教えてくれるからです。いいえ、最高司祭様。私にあなたの愛は必要ない。あなたに直してもらう必要はありません」
「人形であることをやめた人形――」
アリスの訣別の言葉を聞いたアドミニストレータは、表情を変えぬまま歌うように言った。
「それを、何て呼ぶのか教えてあげる。”壊れた人形”よ、アリスちゃん。残念だけど、あなたがどう思うかなんて、どうでもいいことなの。私が再シンセサイズすれば、今のあなたの感情なんて何もかも無かったことになっちゃうんだから」
「あなたが、自分に対して行ったように――かな、クィネラさん」
これまで沈黙を守っていたキリトが、再び奇妙な名でアドミニストレータを呼んだ。それを聞くや、先刻と同じように少女の顔からわずかに笑みが薄れた。
「ねぇ坊や、昔の話はやめてって、私言わなかった?」
「そうすれば事実が消えるとでも? いくらあなたでも、過去を好き放題編集できるわけじゃない。あなたもまた人の子として生まれ育った、ただの人間であるという事実は決して上書きできない、そうだろう?」
そうか――おそらくキリトは、あの大図書室にいた不思議な子供からアドミニストレータの過去について聞いていたのだ。ユージオはそう直感し、キリトがそれを隠していたことに僅かながら傷ついたが、しかし同時にその話がキリトの出自とも密接に関連しているのだろうとも推測していた。
「人間……、ニンゲン、ね」
アドミニストレータはすぐに笑みを取り戻し、これまでとは少し趣きの異なる、どこか皮肉そうな表情でつぶやいた。
「”向こう側”からきた坊やにそう言われると、なかなかに複雑なものがあるわねぇ。つまり坊やは、自分のほうがエライと言いたいの? アンダーワールド人ごときが生意気な、って、そういうことかしら?」
再び出てきた耳慣れぬ言葉に、ユージオの混乱はいや増した。アンダー……ワールド? 神聖語であることはわかるが、意味まではとても汲み取れない。前後の流れからして、”向こう側”に対する”こちら側”を示しているのだろうか。
「いやいや、とんでもない」
ユージオの思索は、すぐさま発せられたキリトの声に遮られた。
「それどころか、多くの点でこっちの人たちのほうが向こうの人間よりも優れてると思ってるよ。でも、大本のところでは、どちらも同じ魂を持つ人間であることに違いはない。そう、それはあなたも例外じゃない。たとえ三百年の時間を生きてきたとしても、それで人間が神になれるわけじゃない」
「……だからどうだ、って言うのかしら? 同じ人間どうし、仲良くお茶でも飲もうとでも言うつもり?」
「そうするに吝かではないけどな。……でも今俺が言ってるのは、あなたも人間である以上、完璧な存在では在り得ない、ってことさ。人は過ちを犯す、宿命的にね。そしてあなたの過ちは、もう修正不可能なところまで来てしまっている。整合騎士団が半壊した以上、もし今ダークテリトリーの総侵攻が始まったら人界は滅ぶぞ。あなたがこれまで苦心して維持……あるいは停滞させてきたこの世界は、凄まじい破壊と暴力に晒される。そんなこと、無論あなただって望んじゃいないだろう」
「騎士たちを壊してまわったのは坊やなのに、随分ねぇ。ま、いいわ。それで?」
「自分だけ生き延びられれば、その後に最初からやり直せばいい……そう思ってるのかもしれないけどな」
キリトは語気を強め、右足を半歩前に動かした。
「この地に溢れた闇の民たちと生き残った人間を再び法で縛って、新しい……暗黒教会とでもいうべき支配組織を作り上げる。あなたならあながち不可能なことじゃないと思うけど、でも、残念ながらそうはならない。”向こう側”には、この世界に対して真に絶対の権限を持つ者たちがいるからだ。彼らこそこう思うだろう……今回は失敗だった、何またやりなおせばいいさ、ってな。そしてひとつボタンが押され、この世界の何もかもが消え去る。山も、川も、街や畑も……そして人間を含むあらゆる生命もまた、一瞬で消滅するんだ」
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キリトの言葉はもはや、遥かユージオの理解の埒外だった。それはアリスも同様だったろう。目のふちが乾かぬ顔をわずかに振り向かせ、物問いたげに眉を顰めている。
しかし、最高司祭ただ一人だけは、謎多き剣士の言わんとすることを完璧に汲み得たらしかった。笑みが極限まで薄まり、細められた銀の瞳に凍てつくような冷たい光が一瞬過ぎった。
「……さすがに、愉快ではないわね。この世界が、誰かさんの気まぐれで生み出された小さな箱庭だ、なんてはっきり言われるのは」
なよやかな指が組み合わされた両手に、美貌の下半分が隠される。見えない唇から発せられる声は、先刻までのからかうような響きをほとんど失っている。
「でも、それなら、あなたたち……”向こう側”の人間たちはどうなのかしら? 自分たちの世界が、より上位の存在に創造されたものである可能性を常に意識し、世界がリセットされないように、上位者の気に入る方向へのみ進むよう努力しているのかしらね?」
この問いは、キリトにも予想外のものであるらしかった。すぐには答えられない反逆者を高みから睥睨しながら、アドミニストレータはゆるりと上体を起こし、両手を左右に広げた。折り畳んでいた長い両脚も、誇示するように伸ばし、組む。豊かさと清らかさが同居した輝くような裸身が――実際にほのかな燐光を放ちながら、圧倒的な神々しさを空間すべてに振り撒いた。
「そんなはずはないわよね。戯れに世界と生命を創造し、気に入らなくなれば消し去ろうなんて連中だものね。そんな世界からやってきた坊やに、私に融和と博愛なんていう実存のない代物を押し付ける権利があって? 私は御免だわ、創造神を気取る奴輩におもねって、存在し続ける許可を乞うなんて惨めな真似は! ちびっこに昔話を聞いたなら、坊やは知っているはずよ……私の存在証明は、支配の維持と強化それのみにある。その欲求のみが私を動かし、私を生かす。この足は踏みしだく為にのみあるのであって、決して膝を屈する為ではない!!」
ごう、と空気が逆巻き、銀の髪を大きく広げた。ユージオはどうしようもなく気圧され、思わず一歩右足を引いた。アドミニストレータは、アリスを奪い記憶を書き換え、また貴族たちの腐敗を放置した敵ではあるが、しかしやはり世界に唯一人の最高支配者なのだ――本来であればユージオのような無姓民は目にすることすら叶わぬ半神人なのだ、と改めて認識させられる。
そのユージオをここまで導いてきた黒髪の相棒も、同じく圧倒されたのか上体を揺らしたが、しかし下がることなく逆にぐっと一歩踏み込んだ。自分を鼓舞するように、右手の剣を一度強く床に突き立てる。
「ならば!!」
発せられた声は、背後の硝子窓を揺らすほどの大音量だった。
「ならば――あなたはこのまま人界が蹂躙されるに任せ、民なき国の支配者として虚ろなる玉座で独り滅びの時を待つつもりなのか!」
「黙れ若造!!」
その瞬間だけ、アドミニストレータの容貌から少女めいた部分が消滅し、彼女が生きた時間の悠久さが感情無き怒りとして色濃く現れた。しかしすぐにそれは薄れ、再び戯れるがごとき笑みが真珠の唇を彩った。
「……坊やが言ったことを、私が考えなかったと思われたなら心外だわ。私には考える時間はたっぷりあったのよ……時間だけは私の味方ですものね、創造者たちのではなく」
「……では、あなたにはこの終局を回避する手段があるというのか」
「手段であり、目的でもあるわね。支配こそが私の存在意義……その適用範囲に制限など無いわ」
「何……? どういう意味だ」
僅かに戸惑ったようなキリトの声に、アドミニストレータは答えなかった。代わりに一層笑みを深くし、お話はこれでおしまい、と言うように両手をぽんと打ち合わせた。
「その先は、坊やが私のお人形さんになったときに聞かせてあげるわ。勿論アリスちゃんも……亜麻色の髪の坊やもね。ひとつだけ付け足すなら……私は、このアンダーワールドを消滅させる気は勿論、ダークテリトリーによる負荷実験さえも受け入れるつもりだって無いのよ。そのための術式はもう完成してるの……喜びなさい、誰よりも最初に、あなたたちに見せてあげるから」
「……術式?」
キリトが低くかすれた声で聞き返した。
「いまさら、制限だらけのシステム・コマンドに頼るって言うのか。あなたひとりのコマンドで、闇の軍勢を全滅させられるつもりなのか。今この状況では、もう俺たち三人すら処理できないだろうに」
「あらそう?」
「そうさ。もうこうなってはあんたの負けだ。遠隔攻撃術はアリスの剣が一瞬にせよ止めるし、その隙に俺とユージオが斬り込む。接触コマンドで無力化させる気なら、さっきチュデルキンを斃した技であなたも斬る。――今さらこんなこと言いたくないけど、前衛のない術士ひとりでは複数の剣士には勝てない。それはこの世界でも絶対の原則であるはずだ」
「ひとり……ひとり、ね」
アドミニストレータはくすくすと喉の奥で笑った。
「いい線突いてるわね。そう……結局、数が問題なのよね。駒が多すぎれば制御しきれない。少なすぎれば負荷に耐えられない。整合騎士団は、そのバランスの中で増やしてきたわけだけど、もうそれじゃ足りない」
最後の忠臣を失い、残るはわが身ひとつの最高支配者は、三人の反逆の徒を前に底知れない余裕を見せながら詠うように独白した。
「でも、今必要なのは、アリスちゃんみたいなお人形ですらないのよ。何も考えずにただひたすら敵を屠るただの機械であればいい。可愛くも、綺麗でもなくていい……つまりもう、人間である必要はない」
「何……? なにを……」
問い質すキリトの声を無視し、アドミニストレータはさっと高く両手を掲げた。
「最後までお馬鹿な道化だったけど、チュデルキンも少しは役に立ったわね。まだ整理できてないこの長ったらしい術式を組む時間を作ってくれたんですから。さあ……目覚めなさい、私の忠実なる僕! 魂無き殺戮機械よ!!」
続いて銀髪の少女が高らかに歌い上げた言葉は、介入しようがないほどに短く、しかしその恐ろしさをユージオも他の二人も充分以上に理解しているあの一句だった。
「リリース・リコレクション!!」
記憶解放――。
その命を受け取ったのは、これまでユージオの視界に入り続けていながら、まったく脅威として認識できていなかった物たちだった。本来、それを握る主がなければ何の役にも立たないはずの代物。すなわち――壁に並ぶ無数の神像、それらが携える大小無数の剣。
ぎぃぃぃん、という骨を軋ませるような共鳴音を放ち、総数三十は越えるだろう剣たちが一斉に青紫に発光した。そして同時に、どういう理由なのか、天井に描かれている無数の神の線画もまた大部分が紫に輝いた。
突如、すべての剣が神像の手から外れ、唸りを上げて宙に舞い上がったので、三人は慌てて身を屈めた。空気を切り裂きながら飛翔した剣の群れは、渦を巻くように広大な部屋の中央に集まると、更に驚くべき現象を発生させた。
まず、最も巨大な両刃剣――長さ二メルはあるであろうそれが、柄を上にして静止した。即座にその両側に、小型の剣たちが籠を作るように十本以上も整列する。まるで、修剣学院の治療術の授業で教わった、人間の背骨と肋骨であるかのように。
ユージオのその連想が当を得ていた証として、骨盤があるべき場所には二本の鎌のごとく湾曲した東域刀が向き合わせに接続した。そしてその弧に柄を収めるように、大型の直剣が二本ずつ束になって繋がる。更に、その剣尖の隙間に同型の剣が一本挟まれる。
瞬く間に胴体と下半身を完成させた剣の骸骨は、次に四本ずつの束を肩部分に合致させた。脚に対して倍以上の太さがある上腕に見合うかのごとく、最大級の、ほとんど背骨と同じ刀身長がある両手剣がその先に接続する。
最後に、背骨を成している大剣の柄に、二本の短剣が交差しながら収まった。短剣の柄の端に埋め込まれた宝玉が、両の眼であるかのように、気味の悪い青白い光を明滅させた。
数秒とかからずに完成した、剣のみで構成された巨人が、がしゃりと各関節を鳴らしながら床にその足――を成している剣の切っ先を降ろすのを、ユージオは呆然と眺めた。
「……まさか……有り得ない」
半ば呻くようにそうつぶやいたのは、整合騎士アリスだった。声には出さねどユージオもまったく同感だった。
これは有り得ない術だ。
確かに、完全支配術をそのように組み記憶解放を行えば、剣に空中を飛翔させることは可能だろう。そして自在に操ることも。だが、それができるのは剣一振りのみだ。所有者が複数の剣の記憶解放を同時に行うことはできない、それはこの術式が根本的に内包する大原則だからだ。
だが、この場にいるのはアドミニストレータただ一人。最高支配者の権限は、神聖術の原則すらも超越するのか!? しかしそれが可能なら、三人の身体を遠距離から拘束する程度のことだってできるはずではないか。
つまり彼女は、なんらかの説明可能な手段で所有者と剣一対一の原則を回避しているのだ。
ユージオが、僅かな刹那で看破できたのは、残念ながらそこまでだった。説明を求めて周囲を見回すよりも速く、ぎぃぃぃっ!! という金属質の雄叫びを放って、身の丈四メルに達する剣の巨人が突進を開始した。
恐るべき速度、そして圧倒的な重量感だった。
巨人の身体は、骨に見立てた剣だけで構成された空疎なしろものだし、その上背も先に元老チュデルキンが召喚した炎の魔人には及ばない。しかし、各関節をじゃきりじゃきりと鳴らして肉薄してくる悪夢のごとき剣巨人の姿に、ユージオは腹の底まで凍りつくほどの恐怖をおぼえた。ある意味ではアドミニストレータその人をも上回る、完璧なる絶望の具象化――。
三秒と無かった猶予時間を、ユージオはただ呆然と立ち尽くすことで消費した。
キリトは半秒足らずで何かを考え決定したらしく、左斜め前方へと飛び出した。
しかし、最も素早く、しかも果敢な行動に出たのは整合騎士アリスだった。
黄金の残光を引きながら、アリスは剣巨人の前進とほとんど同時に、その真正面へと突撃したのだ。
「いやあああああ!!」
巨骸の放つ金属共鳴音すら上回る、烈破の気合。両手で握った金木犀の剣を、アリスは右肩に担ぐように大きく振りかぶった。
敵もまた、右腕を構成する鈍色の大剣を、ほとんと天井に届かんばかりに高く掲げた。
その時点で、すでにこちらも疾走を開始していたキリトは巨人の左真横に達しようとしていた。
脚の感覚すらも失い棒立ちとなっていたユージオではあるが、それでもアリスとキリトの、まるで意識そのものを交感させたかのごとき同時攻撃の意図はどうにか察することができた。
二人とも、巨人に弱点があり得るとすればそれは後ろ側、背骨をなす剣と四肢の接合部だろうと判断したのだ。前面はどこもかしこも刃だらけでとても攻撃は届かない。ゆえにアリスが囮となって敵の動きを止め、その間にキリトが急所を断つ――つまり今回も、チュデルキンの魔人を退けたときと同じ役割というわけだ。
キリトとしては内心複雑なものはあろうが、しかし事前の相談もなしにしては驚くべき意思疎通、まさに完璧な連携攻撃だ、とユージオは無意識の羨望とともに感嘆した。
そして同時に、否応無く湧き上がる卑小感もまた。
それをいや増すかのように、ソルスの光にも似た眩い軌跡を描いて、アリスの剣が疾った。巨人の右腕も、交錯軌道を取って轟然と振り下ろされた。双方が激突した瞬間、塔全体を揺るがす爆発じみた衝撃と閃光がすべてを圧した。
戦闘開始から、ここまでで三秒。
そして、戦闘と呼びうるものはこの瞬間終わった。
続いて始まったのは、一方的な惨劇だった。
アリスの金木犀の剣が――”永劫不朽”の二つ名を持つ、この世のすべての剣のなかで最も古く力ある神器のなかの神器が、巨人の右手剣に呆気なく弾き返され宙を泳ぐさまを、ユージオは愕然と見つめた。
剣に引き摺られるように、騎士の身体もわずかに浮きあがり、重心を崩した。倒れまいと懸命にもがくアリスの、がらあきの正面に――
何の躊躇も気負いもなく、巨人の左腕がほとんど無造作に、しかし煙るほどの速度で突き込まれた。
どっ。
というその音は、先の戟剣と比べればあまりにもささやかに響いた。しかし引き起こされた結果は、比べるまでもなく決定的だった。
アリスの細い背中から、凶悪なほどに鋭く分厚い剣の先端が出現し、真紅の雫を撒き散らしながら深く突き抜けた。長く美しい金髪が、血液の飛沫のあいだを縫うようにふわりと流れた。
左右に分断された黄金の胸当てが、瞬時に天命を失いながら粉々に砕けた。騎士の右手から、その命である剣が抜け落ち、床に転がった。
そして最後に、アリスの華奢な身体は、己を貫く剣に沿ってずるりと滑りながら床へと倒れ臥した。
「う……ああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。
迸らせたのはキリトだった。巨人の後背に回りこみ終えたところだった黒衣の剣士は、蒼白の顔に両眼をぎらりと光らせ、歯を剥き出しながら猛然と床を蹴った。
黒い凶鳥のように、三メル以上も高く飛翔したキリトは、獰猛な雄叫びを放ちながら愛剣を大上段から振り下ろした。狙ったのは巨人の中心を成す最大の剣の柄部分。
急所であろうそこを、防御するすべは巨人には無いはずだった。
しかし――。
闇に囲まれて狭窄したユージオの視界の中で、再び有り得べからざる現象が起きた。
剣巨人の上半身が、背骨を軸として、猛烈な速度で回転した。人間には不可能な動きで、完全に真後ろを向いた巨人の右の剣が、横薙ぎにキリトを襲った。
がぎぃん!!
という音は、キリトがこれも超人的な反応で、振り下ろしつつあった剣の軌道をずらし巨人の右腕を迎撃してのけた証だった。
だが、やはりそこまでだった。
一瞬前の再現として、布切れのように弾かれた剣士は、恐ろしいほどの速度で床に叩きつけられ反動で半メル近くも浮き上がった。その身体が、もう一度床に落ちることはなかった。
巨人の左脚を成す片刃の大段平が、何の予備動作もなしに轟と跳ね上がり、キリトの身体を捕らえた。どかぁっ!! という鈍い衝撃音とともに、剣士の身体はふたたび、しかし今度は水平に吹き飛ばされ、十メル以上の距離を瞬時に飛翔して硝子壁に激突した。ばしゃっとそら恐ろしいほどの量の血液を、放射状に硝子面に広げてから、そこに太く赤い筋を引きながらキリトの身体はゆっくりと床に滑り落ちた。
うつ伏せに倒れた相棒の下から、尚もじわりと血溜まりが広がっていく様を、ユージオは棒立ちになったままただ凝視した。
脚も、腕も、感覚は無かった。ただひたすら冷たく、そして己の肉体ではないように細かく震えるだけだった。
唯一そこだけはどうにか動かせる眼球を、ユージオは苦労しながら巡らせて、離れた場所に屹立する剣巨人を見上げた。
巨人もまた、まっすぐにユージオを見下ろしていた。その顔部分を構成する二本の短剣の、柄に嵌められた宝石が、ひたすら無感情にちかちかと明滅する。
うそだ。
こんなのは嘘だ。
ユージオは、頭のなかで何度もそれだけを繰り返した。
アリスとキリト、いまや間違いなくこの人界で最強と言えるはずの二人の剣士が、こうも容易く斃されていいはずがなかった。いや、それ以前に――キリトは確かに言っていたではないか。この剣巨人を生み出した術者、最高司祭アドミニストレータは、人を殺すことはできないと。
あの残忍なチュデルキンも、戦闘に際してユージオらを殺すとは言わなかった。天命を削り、無力化し、拘束すると言っただけだった。それがアドミニストレータの命令だったからだ。
だが――この剣巨人の攻撃に、手加減などというものは皆無だ。あの傷と出血を見れば、キリトとアリスの天命が今まさに尽きようとしているのは明らかだ。いったいなぜ――どうして。
くすくす。くすくすくす。
巨人が放つ共鳴音のかげに、かすかに揺れるさざなみめいた音が、アドミニストレータの含み笑いであることにユージオは気づいた。
視線を動かすと、最高司祭を名乗る銀髪の少女は、その双眸にただ興味と満足の色だけを浮かべて、血塗られた惨劇の場をはるか高みから見守っていた。その唇を彩る魔性の微笑みのどこにも、ユージオの疑問を解消しうる答えは見出せなかった。
ただひとつ明らかなのは、アドミニストレータにはもはやユージオを手駒として懐柔しようなどというつもりは無いのだということだけだ。少女の美貌に浮かぶのは、己が組み上げた術式とその恐るべき威力への喜悦それのみだった。
主の意を受けた剣の巨人は、それを最後まで忠実に実行すべく、青白く明滅する眼でまっすぐにユージオを凝視した。
右足が持ち上がり、長大な歩幅でがしゃんと床を突く。
左足がぎらりと輝きながらそれに続く。
己の死が、最後の数メルをゆっくりと接近してくるのを、ユージオは灼き切れかけた感情とともに見つめた。
巨人の左腕と左脚は、ともに細く滴る赤い雫に彩られている。どうせなら、そのどちらかに斬られて終わりたいと、理由もなくユージオは考えた。もはや恐慌すらも消えうせ、世界はあまりにも静かだったので――。
不意に、左脇で泡のように弾けたかすかな囁き声が、現実のものだとはすぐには気付けなかった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
かなり年上と思われる、艶っぽい女性の声だった。やれやれ、今わの際の幻聴を聞くにしてももう少し節操というものがあってもいいだろう、などと思いつつ再び左を向いたユージオの目に飛び込んできたのは、それこそ幻としか思えない、あまりにも意外すぎる光景だった。
うつ伏せに倒れ、動かないキリトの身体。
その背中の襟の折り返しから、ちょろりと姿を現し、ユージオに右手――あるいは右足の一本をまっすぐ突きつける、小さな漆黒の蜘蛛。
すでに限界まで負荷のかかったユージオの思考には、もう驚く力すら残されていないようだった。痺れた意識のなかで、ユージオは自分の口が、幼子のように言い分けをするのを聞いた。
「だ……だめなんだ。あの短剣は、アドミニストレータには効かないんだ」
「違うわよ! ドアよ!! ドアに刺しなさい!!」
「え……」
ユージオは唖然と目を見開いた。黒い蜘蛛は、紅玉のように煌く八つの眼でしかとユージオを見据えながら、今度は左の後ろ足でびしっと部屋の隅――キリトとアリスが乗り込んできた、円筒形の通路を指した。
「時間はあたしが稼ぐから! 急いで!!」
口のあたりから覗く可愛らしい牙を動かしながら蜘蛛はそう叫ぶと、右手を降ろした。そしてその先で、目を瞑り血の気を失ったキリトの頬を、まるで名残を惜しむかのように一瞬、そっと撫でた。
次の瞬間、指の先に載るほどの極小の黒蜘蛛は――
間近に迫りつつある剣の巨人、掛け値なく己の数千倍の質量があろうというその相手に向かって、果敢な突進を開始した。
肉体的苦痛はある程度克服したつもりだった。
二年以上も昔、この世界に放り出されてすぐの頃、ゴブリンと呼ばれるダークテリトリーの住人との戦闘において俺は肩に受傷し、それが決して致命的なものではなかったにもかかわらず苦痛のあまり――正しくは苦痛が誘起した恐怖によって竦みあがり、動けなくなってしまった。
あの経験は、アンダーワールドにおける俺の最大の弱点を如実に浮かび上がらせた。ナーヴギアおよびアミュスフィアが備えるペイン・アブソーバによって執拗なまでに保護された環境で長い時間を過ごしてしまったため、痛みへの耐性が極限まで低下していたのだ。
以来俺は、主にユージオとの手合わせで積極的に木剣を身に受けることで痛みに慣れるよう努めた。その経験が奏功したのか、この塔に突入してからの実戦の連続で手酷い傷をどれほど負おうと、精神的に硬直してしまうことだけはなかった。アンダーワールドでの負傷は、たとえ四肢や臓器を損失するほどの重傷であっても天命がゼロにならない限り完全治癒が可能だし、となれば克服しなければならないのは恐怖それのみであるからだ。
だが――。
この局面に突入して、俺はいまさらのように自分の精神力を過信していたことを思い知らされた。
アドミニストレータが造り上げた剣の巨大人形、ソードゴーレムとでも言うべき怪物のパワーとスピードは桁外れだった。この世界の根幹的なバランスを逸脱した超絶的な性能だ。一撃目を防御できたのがすでに万にひとつの僥倖であり、下方から跳ね上がってきた二撃目は、眼で捉えることすらできなかった。
ゴーレムの足を構成する剣は、どうやら俺の右下腹部から入り、内臓と脊柱を分断して左脇に抜けたようだ。あの一瞬、ひやりと氷のような感触がその軌道を撫でたのは意識できたが、吹き飛ばされ、窓にぶつかり、床に転がった今ではもう胴体を包む灼熱のごとき激痛が存在するだけだ。首も両手も動かせず、下半身に至っては感覚すら消えうせている。ことによると身体が真っ二つになっていてもおかしくない。
意識と思考力を保ち得ているのがいっそ不思議だった。
あるいはそれは、苦痛や恐怖といった感覚よりも、絶望のほうが遥かに大きいせいかもしれなかった。
恐らく今、俺の天命はかつてない速度で減少しているだろう。ゼロになるまでの時間は一分と残されているまい。
そしてその猶予は、整合騎士アリスのほうが恐らく少ない。離れた床に倒れ臥す黄金の剣士は、出血こそ俺より少ないが、ソードゴーレムの腕に心臓を直撃されている。たとえ今すぐ最上級の治癒術を施しても間に合わない可能性が高い。アンダーワールド三百年の歴史の果てについに出現した、法への盲従性を超越した奇跡の人工フラクトライトが、まさに今むなしく消滅しようとしている。
視界には捉えられないが、左方向に居るはずのもうひとつの奇跡にして掛け替えの無い親友ユージオの命運も、もはや風前の灯だ。
ゴーレムが足を上げ、ずしりと前進するのが霞んだ眼にうつる。
逃げてくれユージオ、そう念じるが口も舌もぴくりとも動かせない。
いや――たとえ叫べたとしても、ユージオは逃げるまい。青薔薇の剣を構え、俺とアリスを救うために、巨大すぎる敵に立ち向かうだろう。
この状況を招いたのはすべて俺の誤り――”アドミニストレータに人は殺せない”はずだ、という読み違いのせいであるのに。図書室のカーディナルは、俺にわざわざティーカップとスープカップの実演を見せてくれた。それは即ち、殺人禁止の法ですら長い時間のなかでは変質し得る、ということの喩えに他ならなかったのに。
灼熱の激痛は、いつしか凍えるような虚無感へと摩り替わろうとしている。
もうすぐ、俺に設定された天命という名のステータス値がゼロになる。その瞬間俺はこの世界から弾き出され、STLの中で意識を取り戻し、そして知るだろう。現在のアンダーワールドが――アリスやユージオを含む全てのフラクトライト達が、悲嘆と絶望の果てに完全リセットされたのを。
ああ――いっそ、俺の天命も、ユージオたちのそれとまったく同じ意味を持っていれば! それ以外に、俺はどうやって彼らに詫びることができるというのか――。
徐々に暗くなる視界には、重々しく前進を続けるソードゴーレム、その後方で愉悦の色を浮かべるアドミニストレータ、そして斃れたアリスの金髪の輝きが収められている。
数秒先の新たな惨劇を見るに偲びず、俺は、そこだけが動くまぶたをそっと閉じた。
耳元で、小さく、しかし確かな声がはじけたのはその時だった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
初めて聞く、どこか徒っぽさのある女性の声だ。俺は何も考えられず、目を閉じたままその声と、ユージオの戸惑い声のやりとりと聞き続けた。
声の主は、手短にいくつかの指示を放ったあと、時間を稼ぐ、と宣言して俺の首筋から移動した。一瞬、頬に何か、小さくあたたかいものの感触が横切った。
その温度がわずかな力を取り戻させたのか、俺のまぶたが殆ど自動的に持ち上がった。
視界の中央に、俺の頬からすとんと降り立ったのは――全身が艶々とした漆黒にきらめく、ごくごく小さな一匹の蜘蛛だった。
声は記憶にないが、しかしこの姿は覚えている。
シャーロットだ。カーディナルが長い間俺にくっつけていた情報収集端末。
しかし何故。この小蜘蛛は、図書館で端末としての命令を解除され、本棚の隙間に消えていったではないか。それに――人の言葉をしゃべるとは、一体。
瞬間、痛みと恐怖を忘れた俺の目の前で、あまりにも小さなその蜘蛛は、接近しつつある巨大なゴーレムに向かって、一直線に突進を開始した。
八本の細い脚が、優雅ですらある滑らかな動きで目まぐるしく絨毯を蹴る。しかし、その一歩が刻む距離は、ソードゴーレムのそれとは比較にならない。ユージオに向かって大股に接近していくゴーレムに対して、一体どのような手段で時間を稼ぐつもりなのか見当もつかないが、到底間に合いそうにない――。
と思考したその瞬間、再び俺に激痛を忘れさせる驚異が出現した。
ぐっ、と、黒蜘蛛の体躯が一回り大きくなったのだ。
尖った脚が床を突くたびに、まるで何らかのエネルギーが注入されでもしたかのように、ぐい、ぐいと蜘蛛はその体積を増していく。現象は留まるところを知らず、わずか数秒で猫から犬のサイズを越え、なおも巨大化を続ける。いつしか俺は、床に接した頬でシャーロットの脚が生み出す重い震動を感じていた。
ぎっ。
という金属質の軋み声を上げて、ソードゴーレムがシャーロットを見下ろした。青白い二眼が、新たな敵を評価するように激しく明滅する。
しゃあああっ!!
と、こちらは剃刀を革で研ぐような咆哮を放ち、ついに全長二メートルほどにまで達した黒蜘蛛は、真紅の複眼を強烈に発光させた。
上背はゴーレムの半分にも及ばないが、向こうが細長い骨だけで構成されているのに対して、巨大シャーロットの姿は禍々しいほどに逞しく、それでいてとてつもなく優美だった。全身を覆う漆黒の繊毛は光を受けると金色に輝き、八肢の先端の鉤爪は黒水晶のように冷たく透き通っている。
両腕と言うべき最前の二脚はひときわ大きく、爪もまるで剣かと思うほどに長く鋭い。その右脚を高く掲げると、シャーロットは躊躇い無くゴーレムの左脚に叩き付けた。
大剣同士を打ち合わせたとしか思えない、重々しい金属の衝突音が部屋中に響いた。発生したオレンジ色の火花が、薄暗い室内を瞬間眩く照らした。
それが合図であったかのように、これまで硬直していたユージオが、ついに走り出す気配を俺は感じた。
ゴーレムに向かってではない。俺やアリスを目指したのでもない。
シャーロットの不思議な指示――”短剣をドアに刺せ”というその言葉を実行するべく、部屋の左隅にある円筒形の階段目掛けて駆け出したのだ。倒れた俺の視界を、ユージオの革ブーツが瞬時に通過する。
その向こうでは、シャーロットの一撃によって僅かに体勢を崩したソードゴーレムが、しかし難なく踏みとどまり逆襲の右腕剣を高く掲げたところだった。
質量では己と拮抗するかもしれない巨大蜘蛛を、ゴーレムはもう完全に敵と認識したらしく、青白い両眼をびかぁーっと光らせて超重超速の斬撃を撃ち放った。
対してシャーロットは、左腕の鉤爪を下から鋭く振り上げた。
空中で衝突したふたつの刃は、再び大音響で床を震わせた。俺とアリスを紙人形のように吹っ飛ばしたゴーレムの一撃を、漆黒の蜘蛛は七本の脚をふかく沈めながらも正面から受け切った。
両者はそのまま、交錯した腕と脚で、互いを押し切るべくぎりぎりとせめぎ合いを続けた。超重量を支えるシャーロットの脚がその甲殻を軋ませ、ゴーレムの右腕を構成する複数の剣が、その接合部を赤熱させる。
力の拮抗は――わずか一秒ほどで決着した。
びぎっ、という鈍い音とともにへし折れ宙を舞ったのは、シャーロットの左前脚だった。断面から白い体液がほとばしり、黒の繊毛を染めた。
しかし蜘蛛は退かず、声ひとつ漏らさず、残る右脚を再び繰り出した。狙ったのはソードゴーレムの背骨だった。槍のごとく閃いた鋭い爪が、ゴーレムの体幹を成す巨大剣の腹に食い込む――と見えたその瞬間、背骨の脇に並んでいたあばら骨がいっせいに動いた。
じゃきぃぃん!! とある種の裁断装置めいた金属音を放って、左右七本ずつの曲刀があぎとのごとく交差したのだ。そこに銜え込まれる形となったシャーロットの右前脚は、ひとたまりもなく中ほどから切断され、再び大量の白色血が噴き出した。
ゆるりとゴーレムの肋骨剣が開き、その檻の内側から千切れた脚がぼとりと落下した。勝利を確信したのか、ゴーレムの両眼がまるであざ笑うかのように薄く瞬いた。
直接攻撃手段を失ったシャーロットだが、しかしその果敢さは消えなかった。
もういちど鋭い叫びを放ち、口に生えた太く短い牙で噛み付くべく跳びかかる。
しかし、攻撃は届かなかった。蹴り上げられたゴーレムの右脚剣が、シャーロットの左側の脚をさらに二本斬り飛ばし、八肢を半減させられた蜘蛛はバランスを崩してどうっと床に落下した。
もういい――逃げろ。
俺はそう叫ぼうとした。
あのシャーロットという名の黒蜘蛛と、直接会話を交わしたことはない。彼女は二年のあいだ一度も俺に気取られることなく、カーディナルに与えられた任務を果たし続けたのだ。
その任務とはすなわち、俺とユージオの映像を主に送ることだ。それだけのはずだ。決してこのような絶望的な戦いを挑み、捨石となって死ぬことではない。
しかし、俺の喉から声は出なかった。
右の脚だけでよろよろと身体を起こしたシャーロットが、再び跳躍しようと姿勢をたわめた。
一瞬早く、真上から降ってきたゴーレムの左腕剣が、優美な曲線を描く黒蜘蛛の胴を深く刺し貫いた。
ぞっとするほど大量の血が、剣の周囲から高く迸り――。
同時に、何もかもを塗りつぶすがごとき、紫色の強烈な光が部屋の左側から炸裂した。
見覚えのある閃光だった。ただの照明ではない。光の筋ひとつひとつが、微細なプログラムで編まれたリボンとなっている。五十階での戦闘で俺が倒した副騎士長ファナティオに、カーディナルが呉れた短剣を使用したときに見た輝き。
俺からは見えないが、ユージオがドアまで辿り着き、彼の短剣をそこに突き刺したに違いない。それで一体どのような結果が導かれるのか定かでないが、シャーロットが文字通り懸命の挺身で稼いだ時間を、ユージオは無駄にしなかったのだ。
その漆黒の蜘蛛は、身体の中央を完全に貫かれてなお、立ち上がろうと弱々しく残った脚で床を掻いていた。しかし、ずるっと湿った音を立ててゴーレムの腕が引き抜かれると、白い血溜まりにその巨体を力なく沈ませた。
一本の脚が、震えながら伸ばされ、突っ張るように身体の向きを変えた。
八つの複眼は、ルビーのようだった鮮やかな緋色を、ほとんど失いかけていた。その眼でドアの方角を確かめたシャーロットは、牙の間からも血を零しながら、あの年上の女性を思わせる声でかすかに囁いた。
「よかった……間に合った」
頭部の向きが僅かに動き、左の眼がまっすぐに俺を見た。
「最後に……役に……立てて……うれ、し……」
言葉は、宙に溶けるように薄れ、途切れた。艶やかな丸い眼に、紅い光がちかちかと瞬き、そして消えた。
視界がゆらりとぼやけ、俺は瀕死のこの状況でもなお溢れる涙があったことを知った。歪んだ光景のなかで、黒い蜘蛛の巨体が、音もなく縮んでいくのが見えた。白い血溜まりもみるみるうちに蒸発し――一秒後、そこに残されたのは、仰向けになり肢を縮めた指先ほどの大きさのなきがらだけだった。
ゴーレムは、己が断った命への関心を瞬時に失ったかのように、ぐるんと頭をもたげると光る両眼でユージオを追った。
巨体が九十度向きを変え、踏み出された足の先端がずしりと床を突く。その目指す先では、乱舞する紫の光の帯がますますその輝きを強めている。
俺は、残された全精神力を振り絞って、感覚のない首を数センチ動かし視界に光の源を収めた。
円形の部屋の北側、ガラス窓から三メートルほど離れた位置に突出した円筒形の出入り口が見えた。ほんの数十分前、俺とアリスが巨大な恐怖と、同量の自負心を抱えて潜り抜けたセントラル・カセドラル最後のドアだ。あの先は狭い螺旋階段になっており、今は亡き元老チュデルキンの悪趣味な私室へと続いている。
艶やかな大理石の扉、その湾曲した表面に、ごく小さな針のようなものが刺さっているのに俺は気付いた。十字架の長辺を尖らせたようなそれは勿論、カーディナルが俺とユージオにひとつずつ託したブロンズの短剣だ。かの、もう一人の最高司祭が百年間伸ばし続けた髪をリソースとしており、彼女と短剣を刺されたものとの間に空間を超越した術式のチャンネルを開くことができる。
対アドミニストレータ用の最終兵器であったそれを、恐らくユージオはこの部屋で行使しようとして果たせなかったのだろう。代わりに、不思議な蜘蛛シャーロットの指示によってドアに刺したのだ。
短剣を突きたてられたドアは、いまや全体が紫色に光り輝き、その周囲を同色の半透明のリボンが無数に乱舞している。光は際限なくその勢いを増し、部屋中をラベンダーの色に覆い包んでいく。ひぃぃぃん、という大量の音叉が共鳴するような甲高い唸りが光と同期して高まるなか、ついに短剣そのものがばらりと解け、渦巻く細長い文字列となって宙を踊った。
ドアの傍らに立ち尽くしたユージオが、眩さに耐えかねたか左腕で顔を覆った。彼に向かって着実な前進を続けていたソードゴーレムも、理解不可能な現象に戸惑うように、がしゃりと関節を鳴らして停まった。
ドアの手前で螺旋をつくっていた紫の文字列が、その先頭から音も無く大理石の表面に吸い込まれた。と見えたその瞬間、艶やかな白いマーブル模様が、水面のようにゆらりと揺れ波紋を広げた。中央に、インクを垂らしたように濃い漆黒が生まれ、それは瞬時にドア全体に広がった。
バシィッ!! という、高圧電流が弾けるような大音響が部屋を揺るがした。同時に、空間を乱舞していた紫の光たちが放射状に広がり、薄れて消えた。
つい一瞬前まで、硬そうな白大理石であったドアが、今はつや消しの黒檀の扉へと変わっていた。どこかで見た色艶と装飾のある、重厚な扉だ。いつしか光も音も消え去り、部屋に静寂が戻った。
現象が終息したことで、コマンドが再入力されたかのように、ソードゴーレムがずしりと右脚を一歩踏み出した。
戸惑いと決意を半分ずつ顔に浮かべたユージオがさっと振り向き、至近に迫りつつある巨大な敵を睨んだ。右腕が閃き、青薔薇の剣の柄をがしっと握った。
その瞬間――。
カチリ、という硬く小さな音が、ささやかに、しかし確かに空気を揺らした。
黒檀のドアの左脇に据えられた、艶のある青銅のドアノブ。それがゆっくりと回っている。
半回転したところでもう一度硬い音が響き、そして、内側からドアがそっと押された。
きいい、という古めかしい軋みとともに、戸口の細い隙間が徐々に大きくなっていく。その向こうにあるはずの、螺旋階段のオレンジ色の灯りが見えない。内部は完全な暗闇だ。
ゆるゆるとドアは開いていき、九十度角をすこし越えたところでギッと鳴って停まった。いまだその向こうに誰がいるのかは目視できない。ゴーレムは、もうそんな現象にかかずらうつもりはないらしく、前進を停めることはない。その巨大な剣の間合いにユージオを捉えるまであと三歩――二歩――。
突然、ドアの内側の闇が、純白の閃光に満たされた。
そこにシルエットとなって浮かぶ小さな人影を認識できたかできぬ内に、恐ろしく巨大な稲妻が開口部から水平に迸り、ゴーレムの腹を打った。
ガガァァァン!! と、およそこれまで見聞きしたあらゆる術式のうちでも最大の衝撃音が俺の耳を痛打した。ゴーレムの全身が黒く染まるほどの閃光が、まるで純白の竜であるかのようにうねり、空中に無数の細枝を広げて放散・消滅した。
これまで完全無敵ぶりを嫌と言うほど見せ付けてきたソードゴーレムが、その巨体をぐらりと揺らし、前進を停めた。各所の剣骨から薄く白煙を上げ、薄青い両眼を不規則に点滅させている。
がしゃがしゃ、と両脚を鳴らして踏みとどまった巨人を、再び極太の雷光が打ち据えた。あの超優先度にして何と言う連射速度だろうか。驚愕する俺の視線の先で、ゴーレムがぎぃぃっと怒り、あるいは恐怖の唸りを放って一歩後退した。そのわずか半秒後。
ガガァッ!! と神撃のごとき咆哮を伴い、三発目の雷閃がドアの内側から迸った。先の二発よりさらに巨大なその光に打たれ、ついに身長四メートルの巨大ゴーレムが、突風に撫でられた紙人形のように空中を吹き飛んだ。ぐるぐると回転しながら二十メートル近くも舞った巨体が、凄まじい衝撃音を放って部屋の反対側の壁際に墜落し、動きを止めた。それでもなお天命は尽きないようで、両手の剣をぎしぎしと動かし、眼を高速で明滅させているが、すぐには立ち上がれまい。
俺は視線を戻し、ドアの向こうの闇を再度見やった。
そこから現れるべき人物の名を、俺はもう強く確信していた。この世界で、あれほどの超絶的神聖術を連発できるのは、最高司祭アドミニストレータのほかには一人しか存在しないからだ。
蝋燭と星明りの織り成す仄白さのなかに、まず見て取れたのはシンプルな黒い杖と、それを握る小さな手だった。華奢な手首を包む、ゆったりとした漆黒の袖。幾重にもドレープを作った学者のようなローブ。大きく角ばった帽子もまた学究の徒を思わせる簡素なものだ。長いローブの裾からちらりと覗く平底の靴は、床から二十センチばかり浮き上がっている。この世界には存在しないはずの、空中飛翔術。
最後に、やわらかそうな茶色の巻き毛と、銀縁の小さな眼鏡が光のもとに現れた。幼さと無限の叡智を同居させた大きな瞳が、青い夜灯りを受けてきらりと輝いた。
永劫にも等しい年月を隔絶した空間で過ごしてきた幼な子――アドミニストレータの分身にして対等の権限を持つ最高術者カーディナルは、俺の記憶にあるとおりの教師のような厳しい表情で、ゆっくりと広大な寝室を見回した。
まず、すぐ隣に立つユージオを見やり、小さく頷く。ついで離れた場所に倒れたままの整合騎士アリスを見つめ、最後に同じく床に臥す俺に視線を向けると、その小さな唇にごくごくかすかに苦笑の色をほのめかせ、もう一度頷いた。
最後に、くるりと首を巡らせ、遠く部屋の北端に浮遊したまま動作も声も発しない最高司祭アドミニストレータをちらりと見やった。二百年ぶりに相対する究極の敵の姿に、その胸中にいかなる感慨を抱いたのか、表情からは察することができなかった。
状況を確認し終えたカーディナルは、すっと右手の杖を掲げた。とたん、その小さな身体が音も無く宙を滑り、俺とアリスの中間地点へと移動していく。
俺の前を通過するとき、カーディナルはふいっと無造作に杖を振った。するとその先端から、暖かな白い光の粒がきらきらと宙を流れ、俺の傷ついた肉体を包んだ。
途端、腹から胸にかけてわだかまっていた冷たい虚無感が消滅し、灼熱の激痛が戻り、悲鳴を上げそうになったもののその熱はみるみる間に暖かく溶けて薄れた。突然、抜けたコードが挿し直されたかのように身体感覚も復活し、俺は慌てて右手を動かすと、腹の傷を探った。いまだにヒリっとくる盛り上がりは残っているが、ほとんど体を分断しかけたあの傷が、溶接したかのように瞬時に融け塞がっているのには驚愕するしかない。俺かユージオが同じ結果を導こうと思ったら、日光降り注ぐ森のなかで丸々三日はコマンドを唱えねばなるまい。
有り難い、などという言葉ではとても足りない奇跡の癒しだが、しかし無論相応の巨大な代償はあるはずだ。なぜなら、恐らく、最高司祭アドミニストレータはこの状況をこそ――。
俺の戦慄に満ちた想像などまるで意に介せぬように、カーディナルはふわりと眼前を通過すると、今度はアリスに向かって杖を振った。もう一度、ダイヤモンドの粒のような癒しの光が降り注ぎ、黄金の騎士の胸を染める真紅へと溶けていく。
カーディナルは尚も動きを止めず、更に数メートル前進してから、すとんと靴を着地させた。
幼き賢者が降り立ったのは、絨毯の上に小さく横たわるささやかな骸の前だった。
とっ、と軽い音とともに黒い杖が床に突き立てられた。主の手が離れても、その杖は微動だにせず直立を続けた。
カーディナルはそっと腰をかがめ、両手で床からシャーロットの遺骸を優しく救い上げた。掌に包み込んだ黒蜘蛛を胸に当て、うつむいた少女は、聞き取れぬほどの小さな声で囁いた。
「この……馬鹿者。任を解き労をねぎらい、お前の好きな本棚の片隅で望むように生きよと言うたじゃろうに」
丸眼鏡の奥で、長いまつげが一度しばたかれた。
俺は傍らに転がっていた剣を杖代わりによろよろと立ち上がり、まだ力の入らない両脚でどうにか二、三歩カーディナルに近づくと、色々と言うべきことを棚上げにしてまず尋ねた。
「カーディナル……その蜘蛛、いや彼女は、いったい……?」
巻き毛を揺らして顔を上げた賢者は、薄く濡れた瞳を俺に向けぬまま、懐かしくすらある口調で答えた。
「お主の知ってのとおり、この世界はもともとファンタジーゲーム・パッケージを基盤にしておるでな。古の時代には、多くの不思議や奇跡が森や野を棲家としていたのじゃ。そう言えばわかるじゃろう?」
「つまり……ネームド・モンスター? でも……シャーロットは言葉をしゃべったぞ。本物の感情だってあった……フラクトライトを持っていたんじゃないのか……?」
「いや……お主にも馴染みのある、いわゆるNPCと一緒じゃよ。ライトキューブではなく、メインフレームの片隅にささやかな擬似思考エンジンを与えられた、何の変哲もないトップダウン型AIじゃ。はるか昔には、そのような人語の受け答えを可能とする獣やモンスター、草木や岩が世界にあまねく、数多く配置されておった。しかし、皆消えてしもうた。半数は整合騎士に退治され、半数はアドミニストレータめにオブジェクト・リソースとして利用され、な」
「そうか……ベルクーリのお伽噺に出てきた、果ての山脈の守護竜たちと同じように、か」
「然り。わしはそれを不憫に思い、新たに生成されるその種のAIたちを保護でき得るかぎり保護してきたのじゃ。わしが使役した感覚共有端末はその殆どが思考エンジンを持たぬただの小型動的ユニットじゃが、中にはこのように保護したAIに苦労してもらうこともあった。何せこやつらは高プライオリティゆえにちょっとやそっとのことでは傷もつかんからな。お主の服に忍んだまま、お主がどれほど暴れようとも無事だったのはそのおかげじゃ」
「で、でも……でもさ」
俺は視線をじっと、カーディナルの掌中に横たわるシャーロットの骸に据え、胸の痛みに耐えながらさらに尋ねた。
「シャーロットの言葉……行動は、擬似AIなんてものじゃなかったぞ。彼女は……俺を救ってくれた。俺のために自分を犠牲にしたんだ。なぜ……なんで、そんなことが……」
「以前言ったと思うが、この子はもう五十年も生きておった。その間わしを始め多くの人間たちと交わり、自らを高めてきたのじゃ。お主に張付いてからですら早二年……。それほどの時を共に過ごせば、たとえフラクトライトが無くとも――」
不意にカーディナルは声を強め、その先をきっぱりと言い切った。
「たとえその本質が入力と出力の蓄積に過ぎなくとも、そこに真実の心が宿ることだってあるのじゃ。そう、時として愛すらも。――貴様には永遠に理解できぬことであろうがな、アドミニストレータ、虚ろなる者よ!!」
苛烈な叫びとともに、幽り世の賢者は、ついに二百年来の仇敵をその双瞳でまっすぐに見据えた。
遠く離れた位置に高く浮遊し、状況を睥睨していた総天の支配者は、すぐには言葉を返さなかった。
指を絡み合わせた両手に顔の大部分を隠し、ただ鏡の双眸に謎めいた光だけを浮かべている。
かつてカーディナルに聞いた話では、アドミニストレータは世界調整プログラムと融合したときに己の内部に埋め込まれた自己訂正サブプロセス(つまり現在のカーディナルの基となった人格)の反乱を防ぐため、フラクトライトを操作しほぼすべての感情を捨てたのだという。
物理的に肉体が分かたれてからは、分裂人格に乗っ取られる危惧はなくなったはずだが、だからといって感情などという彼女にとっては無駄なものをわざわざ復活させる必要もあるまい。ゆえに、俺がアドミニストレータという存在に抱いていたイメージは、ただ機械のようにタスクを処理していく、それこそプログラムのような人間というものだったのが、しかしこのカセドラル最上階で実際にまみえた彼女の姿には少なからぬギャップがあった。チュデルキンを嘲り、アリスを弄ぶその微笑みは、確かにほんものの感情に彩られているような気がしたのだ。
そして今も、最高司祭アドミニストレータは、隠された唇のおくから珠を転がすような笑い声を漏らし、両の眼をすうっと細めた。
くすり。くすくす。
自分に向けられたカーディナルの舌鋒など、そよ風ほどにも感じておらぬふうに、細い肩を揺らして笑い続ける。
やがて、その合い間に、短い一言が――先刻の俺の畏れを現実のものとする台詞が軽やかに発せられた。
「来ると思ったわ」
くす、くすくすくす。
「その坊やたちを苛めてれば、いつかは黴臭い穴倉から出てくると思った。それがお前の限界ね、おちびさん。私に対抗するために手駒を仕立てておきながら、それを駒として使い捨てることもできないなんて、まったく度し難いわね、人間というものは」
やはり。
危惧したとおり、アドミニストレータの真意は、俺たちを死の際まで追い詰めることによって不可侵の壁に守られた大図書室からカーディナルを誘き出すことにあったのだ。つまり彼女には、この状況で絶対確実に勝利できる奥の手がまだ存在するということだ。しかし――最終兵器であったはずのソードゴーレムはすでに動作不能、対してユージオは無傷だし俺もどうにか戦えそうだ。見れば、アリスも意識を取り戻したのか、片手をつき上体を起こそうとしている。
カーディナルとアドミニストレータは、一対一で戦えばほぼ相打ちになるはずの同等の術者なので、この状況はもうこちらの圧倒的有利と判断して差し支えあるまい。つまりアドミニストレータは、少なくともカーディナルが出現したその瞬間に、傍観を解き全力攻撃を開始して然るべきだった。なのに一体何故、ゴーレムが破壊され、俺とアリスが回復されるのを許したのか。
カーディナルも当然、俺と同じ疑問を感じていると思われた。しかしその表情には、さすがにもう一人の最高司祭と言うべきか、小揺るぎもしない厳しさのみがあった。
「ふん。暫く見ぬまに、貴様こそずいぶんと人間の真似が上手くなったものじゃな。二百年のあいだずっと、鏡を見て笑う練習でもしておったのか」
痛烈な言葉を、アドミニストレータはまたしても微笑で受け流した。
「あらぁ、そういうおちびさんこそ、その変な喋り方はなんのつもりなのかしら。二百年前、私の前に連れてこられたときは、心細そうに震えてたのに。ねぇ、リセリスちゃん」
「わしをその名で呼ぶな、クィネラよ! わしの名はカーディナル、貴様を消し去るためにのみ存在するプログラムじゃ」
「うふふ、そうだったわね。そして私はアドミニストレータ、あらゆるプログラムを管理する者。挨拶が遅くなって御免なさいね、おちびさん。歓迎用の術式を用意するのにちょっと手間取ったものですから」
高らかにそう云い終えたアドミニストレータは、ゆるりと右手を掲げた。
大きく広げられたしなやかな五指が、まるで見えない何かを握りつぶそうとするかのようにぐぐっと撓む。これまで一度たりとも顔色の変わることのなかった陶磁器のような頬にわずかな赤みが射し、銀の瞳に凄絶な光が宿る。あの最高司祭が、ついに本気の精神集中を行っていることを察して、俺の背中に無数の氷針にも似た戦慄が疾る。
いかなる対応を考える余裕もないわずかな刹那ののち、アドミニストレータの細い右手が、ぐっ、と強く握り締められた。
同時に――。
がっしゃぁぁぁん!! という、十重二十重の硬質な破砕音が、周囲の全方向から猛々しく響き渡った。
両耳がきんと痺れるほどの、圧倒的な音量だった。俺は、部屋の全周を取り囲む硝子壁がすべて粉砕されたのだと直感した。
だが、そうではなかった。
砕けたのは、窓のむこう――うねる黒い雲海と、その上に瞬く星ぼし、そして冴えざえと輝く青白い月、それら夜空のすべてだった。
世界が、無数の平らな破片となって舞い散り、互いに衝突してさらに砕けながら落下していくのを、俺はただ呆然と見つめた。きらきらと輝く断片たちの向こうに存在するのは、”非存在”とでも言うよりない光景だった。
光も奥行きも無い真黒の闇に、マーブル模様のような濃い紫色が融け、ゆるゆるとうねっている。長時間見ていたらこちらの精神までも虚ろに吸い取られてしまいそうな、まったき虚無の世界。
色合いも美しさもまるで違うが、しかしそれでも、あのとき見たものに似ていると俺は瞬間、連想した。かつて浮遊城アインクラッドが崩壊するときに見た、夕焼け空を覆い包み消し去っていく白い光のベールたち。
まさか、このアンダーワールドも同じように、すべてが崩壊・消滅したのか!?
強い恐慌に陥りそうになった俺を引き戻したのは、驚きはあるがしかし尚も確固としたカーディナルの言葉だった。
「貴様……アドレスを切り離したな」
何だ――どういう意味だ?
戸惑う俺の視線の先で、すっと右手を降ろしたアドミニストレータは、わずかに解れた前髪を整えながら寒々しい笑みを浮かべた。
「……二百年前、あと一息で殺せるところだったあなたを取り逃がしたのはたしかに私の失点だったわ、おちびさん。あの黴臭い穴倉を、非連続アドレスに置いたのは私自身だものね? だからね、私はその失敗から学ぶことにしたの。いつかお前を誘い出せたら、今度はこっち側に閉じ込めてあげよう、って。鼠を狩る猫のいる檻に、ね」
言い終えた最高司祭は、仕上げとばかりに右手を横に伸ばし、指先をぱちんと鳴らした。
途端に、先刻のものに比べれば随分とささやかな破壊音とともに、円筒形の出入り口がドアごと砕け散った。”黒檀の板”や”大理石”といったオブジェクトとして破壊されたのではない証に、それらはまるで一枚の鏡に映し出された平面図であったかのように薄っぺらい破片となって降り積もるそばから跡形もなく溶けて消えた。残ったのは、ふかふかの絨毯に描かれた円模様だけで、そのどこにも継ぎ目や織りの乱れすら見当たらなかった。出入り口のすぐそばに立っていたユージオは、目を丸くして上体を仰け反らせていたが、やがて恐る恐るつま先で一瞬前まで穴が開いていたはずの床を探ると、ちらりと俺を見て小さく首を振った。
――つまり、こういうことだ。
アドミニストレータが破壊したのは窓の外の世界ではなく、世界とこの部屋との接続そのものなのだ。
仮に、どうにかしてこの部屋の窓なり天井なりを破壊しても、その先には絶対に進入できまい。移動するための空間が存在しないのだから。仮想空間に於いて誰かを閉じ込めるための手段としては完璧すぎるほどに完璧――まさしく、管理者権限を持つ者だけに許された禁じ手だ。カーディナルが出現してからの数秒間を、アドミニストレータは無為に浪費したのではなく、この大掛かりなコマンドを準備していたという訳だ。
しかし。
空間の連続性を完全切断したということは、すなわち――。
「その喩えは正確さに欠けるのではないかな」
俺と同じ疑問にいち早く気付いたらしいカーディナルが、低い声を投げ返した。
「切断するのは数分でも、繋ぎなおすのは容易ではないぞ。つまり、貴様自身もこの場所に完全に囚われたということじゃ。そしてこの状況では、どちらの陣営が猫でどちらが鼠なのかは確定しておらぬと思うが? 何せ我々は四人、そして貴様は一人。この若者たちを侮っておるのなら、それは大いなる誤りじゃぞ、アドミニストレータよ」
そう、そういうことだ。かくなった以上、アドミニストレータ本人もこの部屋からはもう容易くは抜け出せないはずなのだ。そして彼女とカーディナルはまったく対等の術者である。俺たちとしては、カーディナルに敵の神聖術を相殺してもらっているあいだに斬り込むだけで勝敗を決定できる――ということになる。
しかし、カーディナルの指摘を突きつけられてもなお、最高司祭の薄ら寒い微笑は消えない。
くすくす、という細波のような喉声に乗せられて届いた言葉は、すぐには理解できない内容だった。
「四対一? ……いいえ、その計算はちょっとだけ間違ってるわね。正しくは……四対、百五十一なのよ」
無垢な響きの声がそう言い切ると同時に、遥か高い天井に描かれている無数の神々が、強烈な紫の輝きを放った。
そしてその現象と同期するように、半壊したはずのソードゴーレムが、全身から凄まじい金属音を高らかに共鳴させた。
「なにっ……」
口走ったのはカーディナルだった。最高位の術式を三連撃で叩き込んで、完全に無力化したと判断したのだろう。俺だってそう思っていた。
しかし、ついさっきまでは確かに消える寸前だったゴーレムの両眼の光が、今は二つの恒星のように青白く燃え上がっている。二条の眼光でまっすぐに俺たちを射抜きながら、巨人はダメージがすべて消え去ったかのように両手両脚の剣で軽がると胴体を持ち上げると、ぐるんと股関節を回転させて直立した。
よくよく見れば、カーディナルの稲妻に撃たれ、各所で焼け焦げて白煙を上げていたはずの剣骨も、いつのまにか新品同様の輝きを取り戻している。たしかに、この世界の高プライオリティの武器は天命の自己回復力を備えているが、それはきちんと手入れをして鞘に収めた上でのことだ。と言うよりも、対となる鞘に、空間リソースを吸収し剣に還元させる術式が仕込まれているのだ。そのうえ半減した数値を最大に戻すには、少なくとも丸一日はかかる。
つまり、あのゴーレムを回復させようと思ったら、いちど完全支配を解いて分離させ、剣をすべてそれぞれの鞘に戻さねばならないということになる。
だが、小揺るぎもせずに直立し、四メートルの高みから俺たちを見下ろす巨人の姿には、そのような理屈を超越した圧倒的な存在感があった。もしかしたら――このゴーレムが量産できるなら、ほんとうにアドミニストレータは独力でダークテリトリーの侵略を撥ね退けて見せるのではないか、と思わせるほどの。
そして何より恐ろしいのは、もしそれが可能なら、俺たちの今までの戦いはその意味をほとんど失ってしまうという、事実。
同じことを、カーディナルなら一瞬で考えたはずだった。しかし小賢者はあくまでたじろぐことなく、ゴーレムに向けて右手の杖を鋭く掲げると、俺たちにさっと左手を振った。
「キリト、アリス、ユージオ、下がれ! わしの前に出るでないぞ!」
そう言われても、見た目十歳の子供の背中に隠れるのは大いに躊躇われる。しかし同時に、俺たちはつい数分前あのゴーレムに挑みまさに瞬殺の憂き目にあったので、指示に逆らって突撃することもできない。
やむなく俺は、剣を構えながらも数歩下がった。左にユージオ、右にアリスが、それぞれ素早く駆け戻ってくる。
ゴーレムの剣に心臓を直撃されたアリスは、肉体的には治癒されたとは言え感覚的ダメージが幻痛となって残っているはずで、俺はちらりと表情を確かめた。さすがに顔色は青白く、胸当てを失い深く穴のあいた装束も痛々しかったが、しかし騎士は気丈に背筋を伸ばし、俺に低く囁きかけてきた。
「キリト……あの子供はいったい誰なのです!?」
「……名前はカーディナル。二百年前にアドミニストレータに追放された、もう一人の最高司祭」
そして――管理者(アドミニストレータ)に対する、初期化者(フォーマッタ)。世界を慈悲深き空白に還す者。
しかしもちろん、今はそこまでは言えない。俺の答えに怪訝そうな顔をするアリスに、更に説明を重ねる。
「大丈夫、味方だよ。俺とユージオを助け、ここまで導いてくれた人だ。この世界のことを心から愛し、憂いている」
少なくともこれは確かな真実だ。アリスはまだ戸惑いから抜けきれないようだったが、それでも、左手でそっと胸の傷痕を覆いながらうなずいた。
「……分かりました。高位の神聖術は使用者の心を映す鏡でもある……私の致命傷を癒した彼女の術の温かさを信じます」
まったくその通りだ、と、俺も深く同感しながら頷きかえす。たとえ定型コマンドを用いた初歩の治癒術でも、それを他人に用いるとき術者がなおざりに使うか真剣な祈りを込めるかで相手が受ける感覚は大いに異なる。カーディナルの治癒術には、あらゆる痛みを柔らかく包み溶かす真の慈愛が満ちていた。だからこそ俺は、彼女の、世界すべてを無に還すという覚悟は決して本意ではあるまいと期待し信じてもいるのだが――しかしそれはすべて、この戦いに勝ち得てのちの話だ。
完全に力を失っていたはずのソードゴーレムを一瞬で全回復させた仕掛けは何なのか、どうすれば対抗できるのか、それが看破できなければ残念ながらこちらの敗北はほぼ決定的と言っていい。
全身を黒ずんだ鋼色に煌かせながら、ゴーレムはじり、じりと接近を続ける。対峙するカーディナルは油断なく杖を構えているが、今度は先ほどのように大掛かりな術を叩き込んでとりあえず黙らせる、というわけにはいかない。その瞬間、ゴーレムの後ろからアドミニストレータの攻撃術が降り注ぎ、分身たる両者の力の均衡を崩してしまうだろう。
考えろ。今、俺にできるのはそれだけなのだから。
記憶解放状態で自己治癒するからには、ゴーレムの体を構成する剣たちの基となったオブジェクトにも同じ属性があったはずだ。天命の自然回復と聞いて真っ先に思い出すのは、俺の剣の前身である巨樹ギガスシダーだが、しかしあの超回復力は森の中でふんだんに供給される空間リソースあってこそのことだ。この部屋のリソースは、先のチュデルキンとの戦闘でほとんど使い尽くされており、とてもあれほどの瞬時回復を賄えたとは思えない。つまりゴーレムの基材は自然物オブジェクトではない。
となれば、残る可能性は、空間リソースに依存しない回復力を与えられた動的オブジェクト、つまり生物ユニットだ。だが、カーディナルは、かつてこの世界に存在していた巨大ネームドモンスターはすべて絶滅したと確かに言った。そして現在フィールドにスパウンする動物ユニットには、とてもあれほどの威力・重量を実現できるほどの高プライオリティはない。たとえ一万匹まとめて変換したところで、整合騎士の持つ神器一本ほどの威力もあるまい。獣の天命はそれほど少なく、寿命は短いのだ。優先度(プライオリティ)と耐久度(デュラビリティ)は比例するので、あれほどの武器群を作ろうと思えば、最低でも千、二千の天命と、五十年以上の寿命をもつ動物ユニットが百体は必要――
待て。
さっき、アドミニストレータが妙なことを言わなかったか?
“四対、百五十一”。
SAO4_33_Unicode.txt
四人対、百五十一――人。
動物ではないのだ。
あのソードゴーレムを造るのに使われたリソースは、この世界に暮らす人間たちなのだ。それも百五十人。ちょっとした村がまるまるひとつ廃墟になってしまう。
脳が焼け焦げるほどの思考のすえに辿り着いた真実だが、しかし爽快感などまるでなかった。代わりに俺を襲ったのは、圧倒的な恐怖だった。つま先から背筋を経てうなじまでの肌が限界まで粒立つ。
アンダーワールド人は、ただの動的オブジェクトではない。ライトキューブに保存された魂、フラクトライトを持っているのだ。そして、そのかりそめの器たる肉体がたとえ剣に変質させられようと、それが存在し続ける限りフラクトライトの活動も終わらない。つまり、あのゴーレムの部品に変えられた人々は、いまだ意識を保っているということになる。動けず、喋れず、見るべき眼も、聴くべき耳も持たずに。おおよそ考えうるかぎり最悪の牢獄――いっそ、なぜ魂が崩壊、消滅しないのかが不思議なほどの。
前後して同じ結論に達したらしいカーディナルが、やはり全身をびくりと強張らせた。杖を掲げる小さな手が、真っ白になるほどにきつく握り締められた。
「……貴様」
発せられたその言葉は、あどけない声音に似つかわしくない怒りで嗄れていた。
「貴様。なんという……なんという非道な真似を! 貴様は統治者じゃろうが!! その剣人形に変えた民は、本来貴様が護るべき者たちではないのか!!」
えっ、という鋭い声が、俺の左右で同時に響いた。
「民……? 民って、人……間?」
ユージオが、よろりと一歩後退しながら呟いた。
「人……だと言うのですか、あの怪物が……?」
アリスが、先刻貫かれた胸に左手をあてながら呻いた。
そして、やや間をあけてアドミニストレータが、俺たち四人の驚愕を楽しむかのようにゆっくりと答えた。
「ご・名・答。やぁーっと気付いてくれたのねえ。このままじゃ種明かしをする前に全員死んじゃうかもって心配しちゃったわぁ」
本心から嬉しそうに、ひとしきり無邪気な笑い声を上げると、絶対統治者はぱたんと一度両手を合わせ、でもねぇ、と続けた。
「おちびさんにはちょっとガッカリだわね。二百年もこそこそ穴倉から覗き見してたくせに、まだ私のこと分かってくれてないのね。ある意味ではあなたのママなのになぁ」
「……たわ言を! 貴様の腐りきった性根なぞ底の底まで見通しておるわ!」
「ならどうして下らないこと言うのかしら? 護るべき民、とか何とか。私がそんな詰まらないことするわけないじゃない。護るだの、統治するだの」
にこやかな表情は一切変わらないのに、しかしアドミニストレータを包む空気の温度が急激に低下したように俺には思えた。絶対零度の微笑を浮かべる唇から、するりと続く言葉が紡がれた。
「私は支配者よ。私の意志のままに支配されるべきものが下界に存在しさえすればそれでいいの。たとえその形が人だろうと剣だろうと、それは大した問題じゃないわ」
「貴……様……」
カーディナルの声が掠れ、途切れた。
俺も、発するべき言葉を見つけられなかった。
アドミニストレータと名乗るかの女性――いや存在の、精神の在り様はもう俺の理解を遥か絶している。彼女はその名のとおりシステム管理者であり、書き換え可能なデータファイルとして国民たちを保存しているに過ぎない。言わば、現実世界におけるネット中毒者(アディクト)が、ただ収集・整理することだけを目的に膨大なファイルをダウンし続けるようなものだ。ファイルに何が含まれているのかなど、ほとんど気にも留めずに。
カーディナルは大図書室での会話において、アドミニストレータの魂に焼きこまれた行動原則を”世界の維持”だと語った。それは正しいのだろうが、しかし真実のすべてを捉えてはいなかった。
旧SAO世界において、魂なき管理プログラムであった初代カーディナルは、果たして俺たちプレイヤーを人間、つまり意思ある生命だと認識していただろうか?
答えは否だ。俺たちは、管理、選別、そして削除されるべきデータファイルに過ぎなかった。
遠い昔に存在した少女クィネラは、たしかに人を殺せなかったのかもしれない。
しかし今のアドミニストレータにとって、人間はもはや人ではない。
彼女が維持せんとする世界に、人の営みは必要ない。
「あら、揃って黙り込んじゃって、どうしたの?」
遥か高みから俺たちを見下ろし、管理者は首をかしげながら微笑んだ。
「まさか、たかだかユニット百五十個ていどを変換したくらいで驚いてるわけじゃないわよねえ?」
「たかが……じゃと」
ほとんど音にならない声で咎めたカーディナルに、その仇敵はとても嬉しそうにうなずいた。
「たかが、ほんの、それっぽっち……よ、おちびさん。その人形が完成するまでに、一体いくつのフラクトライトが崩壊したと思って? だいたい、それはあくまでプロトタイプなのよね。厭ったらしい負荷実験に対抗するための量産型には、ま、半分くらいは必要かなって感じだわ」
「半分……とは……」
「半分ははんぶんよ。四万ユニット。それだけあれば充分だわ……ダークテリトリーの侵攻を退けて、向こう側に攻め込むのに、ね」
あまりにも恐ろしいことをさらりと口にし、アドミニストレータは銀の瞳を俺の右隣に立つ騎士へと向けた。
「どう、これで満足かしら、アリスちゃん? あなたの大事な人界とやらはちゃんと守られるわよ?」
からかうようなくすくす笑いを、アリスはしばらくただ黙って聴いていた。金木犀の剣の柄を握る手が細かく震えているのに俺は気付いたが、そうさせているのが恐怖なのか、あるいは怒りなのかは、すぐには察せられなかった。
やがて発せられたのは、ぎりぎりまで抑制された、ひとつの問いだった。
「……最高司祭様。もはやあなたに人の言葉は届かない。ゆえに、同じ神聖術者として尋ねます。その人形を作っている剣――所有者はいったいどこに居るのです」
一瞬、俺は戸惑った。数十本の剣の記憶解放を行い、ゴーレムへと組み上げたのは間違いなくアドミニストレータ自身だ。ゆえに、原則からは外れるが、所有者は最高司祭なのだろうと俺は考えていたのだが。
しかし、アリスは続く言葉で、俺の推測を打ち消した。
「司祭様が所有者ということは有り得ない。たとえ、完全支配できる剣は一本のみという原則を破れたとしても、この場合だけは有り得ないのです。なぜなら――記憶解放を行うには、剣とその主のあいだには強固な絆が必要だからです。私とこの金木犀の剣、そして他の騎士たちとその神器、あるいはキリト、ユージオと彼らの剣のように。主は剣を愛し、また愛されなくてはならない……武装完全支配術とは、剣と主が互いに完全なる結合を成すという意味なのですから! 司祭様、その人形の剣の基となったのが罪なき民たちだというのなら、あなたが剣に愛されるはずがない!!」
りぃん、と涼やかな残響を引きながら、アリスが言い切った。
しばしの静寂を破ったのは、どこまでも謎めいたアドミニストレータの含み笑いだった。
「うふふ……どうしてこうも瑞々しいのかしらね、幼い魂というものは。黄金の林檎のように甘酸っぱいセンチメンタリズム……今すぐに握りつぶし、最後のひとしずくまで絞り尽くしてしまいたいくらいよ」
銀鏡の瞳が、胸中の昂ぶりを映してか虹色にぐるぐると輝く。
「でも、まだダメダメ。まだその時じゃないわ……――アリスちゃん、あなたの言いたいことはつまり、私ではこの剣たちの実存を上書きできるほどのイマジネーション強度は発揮できないだろう、ってことよね。その指摘は正しいわ。私の記憶野にはもう、こんなにたくさんの剣を高精細に記録するほどの余裕はないものね」
最高司祭が優雅に指差す先では、数十本の剣で構成されたゴーレムがじり、じりと前進を続けている。
俺の理解しているところでは、武装完全支配術というのはつまり、所有者がそのフラクトライト中に武器の外見、質感、重さ等あらゆる情報を覚え込み、その上でコマンドの助けを借りて武器そのものを想像の力によって変化させるという技だ。術を発動させるためには、所有者はその剣の全情報を己の記憶のなかに完璧以上に保存しているのが必須条件となる。俺の黒い剣を例に言い換えると、まずライトキューブ・クラスターの中央にあるはずのメイン・ビジュアル・タンクとでも言うべき共有記憶倉庫中の剣の情報Aと、そして俺のフラクトライト中にある剣の情報Bが、ほぼ無限小の誤差で一致していなくてはならない。そうであってはじめて、俺は情報Bを想像力で変化させることによって情報Aをも上書きする、イコール他の人間やオブジェクトにもその変化の影響を与えることができるというわけだ。このロジックは、先ほど俺の体に起きた”変身”と共通するものでもあろう。
さて、ひるがえってアドミニストレータはと言えば、彼女のライトキューブ容量はもう三百年の人生の記憶で限界まで圧迫されているはずなのだ。とても三十本もの”剣を愛し愛される”、つまり完全な記憶を保持することが可能とは思えない。アリスの指摘はあくまでリリシズムから出たものだろうが、しかし同時にシステム的な正鵠を射てもいたわけだ。
となれば――やはりあのゴーレムの剣たちには、それぞれ対応する所有者がいるはずなのだ。そのライトキューブ中に剣の情報を持ち、そしてあれほどまでの破壊の意思を秘めた魂たちが。
しかし何処に!? いまやこの空間は、外界とはあらゆる意味で隔離されている。つまり所有者たちもまたここに居なくては理屈が通らない。しかし、今この場所に存在するのは――
「答えは坊やたちの眼の前にあるのよ」
不意に、アドミニストレータがまっすぐ俺を見てそう言った。
続いて、その視線が左に振られ、
「ユージオちゃんにはもう分かってるはずよ」
何――!?
俺は息を詰め、隣のユージオを見やった。
亜麻色の髪の相棒は、血の気を失った顔で身じろぎもせずに最高司祭を凝視していた。奇妙なほどに表情のないそのブラウンの瞳が、細かく震えるように動き、すっとはるか高い天井に向けられた。
俺も釣られて上を見た。円形の天井には、無数の神々の細密画が描かれ、それらのほぼすべてが紫色に発光している。
俺はいままで、その光を単なる装飾的照明だと思っていた。だってあれはただの絵ではないか。オブジェクトですらないものに、一体なんの秘密があるというのだ。戸惑いながら視線を戻し、もう一度ユージオを見る。
相棒は、いまだ愕然とした顔つきのまま、ぎこちなく左手を動かしズボンのポケットを上から押さえた。唇が二度、三度と震えてから、からからに掠れた声が絞り出された。
「そうか……そうだったのか」
「ユージオ……何か気付いたのか!?」
俺の問いかけに、ユージオはゆっくりとこちらを見ると、深い恐怖を湛えた顔で呟いた。
「キリト……あの天井の絵……。あれは、ただの絵じゃないんだ。あれは全部、整合騎士たちから奪われた記憶の欠片なんだ!」
「な……」
絶句した俺に続いて、カーディナルとアリスがそれぞれ、「何じゃと!?」「何ですって!?」と異口同音に叫んだ。
整合騎士の記憶の欠片――それはつまり、”シンセサイズの秘儀”によって騎士となる以前の人間たちから抜きだされた、最も重要な記憶情報のことだ。その記憶とはすべからく、もっとも愛しい人間の思い出であると考えて間違いない。エルドリエにとっては母、デュソルバートにとっては妻。
だが、それらはあくまで、フラクトライト中の記憶書庫の断片であるはずだ。それを完全な魂と同一視することはできない――。
いや、待て。なにかが俺の思考をちくちくと刺激している。
あの細密画がすべて騎士の記憶ピースということなら、その中には奪われたアリスの記憶も含まれているはずだ。
そしてここはセントラル・カセドラル最上階。
そうだ――二年半前、ルーリッド北の洞窟でゴブリン先遣隊と戦闘になりユージオが深手を負って、その傷を治療しているときに俺は確かに奇妙な声を聴いたのだ。カセドラル最上階で俺とユージオを待っている、という不思議な少女の声――そして同時に感じた大いなる癒しの力。
あの声の主が、この部屋に封じられたアリスの記憶なのだとしたら? それはつまり、騎士から奪われた記憶ピースそれ自体も独自の思考力を持っているということにならないか?
いや、しかしあらゆる神聖術には対象接触の原則があるのだ。このセントラル・カセドラルから、遥か地の果てのルーリッドまで、声や治癒力を届けるなどということはアドミニストレータその人にも出来まい。そんな奇跡が可能になるのは、唯一、武装完全支配術と同じロジックが働いた場合だけで……となると、アリスの記憶ピース中に保持された思い出というのは、つまり――つまり……。
高速回転する俺の思考を遮ったのは、烈火のごときカーディナルの叫びだった。
「そうか……そういうことか! おのれクィネラ……貴様は、貴様はどこまで人の心を弄ぶつもりなのじゃ!!」
はっ、と眼を見開いた俺の視線の先で、銀髪の現人神は悠然と微笑んだ。
「あら、さすが……と言ってあげるべきかしらね、おちびさん? 案外早く気付いたみたいね、偽善的な博愛主義者にしては。じゃあ、改めて聞かせてくれるかしら、あなたの解答を?」
「フラクトライトの共通パターン。そういうことじゃろう!」
カーディナルは、右手の黒いステッキをびしりと上空のアドミニストレータに突きつけた。
「シンセサイズの秘儀で抜き取った記憶ピースを、別のライトキューブに改めてロードした思考原体に挿入すればそれを擬似的な人間ユニットとして扱うことは可能じゃ。しかしその知性はきわめて限定され……ほとんど本能的衝動しか持たぬ存在となるじゃろうから、とても武装完全支配などという高度なコマンドを使役させることは出来ぬ。じゃが……その制限にも抜け道はある。それはつまり、挿入した記憶ピースと、それに与えられる武器の構成情報が限りなく共通するパターンを持っている場合じゃ! 具体的には……整合騎士たちから奪った記憶に刻まれた”愛しき人”、及びその親族をリソースとして剣を作った……そういうことじゃな、アドミニストレータよ!!」
混乱とその収束に続いて、俺を襲ったのは、只でさえ凍るような背筋を更に痺れさせる凄まじい恐怖と嫌悪だった。
剣の所有者が、整合騎士たちから抜き盗られた”愛する人”に関する記憶ピースであり――そして剣は、その愛する人の身体を素材として造られたもの。
これなら確かに、理論上は、記憶解放現象を起こすことは可能かもしれない。情報Aと情報Bが、ともに同一の存在に由来しているのだから。記憶ピースを基に作られた擬似フラクトライトが、リンクされた剣に対して何かを強く想えば、それが実現することはあり得る。
問題は、その”何か”とは何なのか、ということだ。記憶の欠片たちは一体いかなる衝動に従って、あのような凶悪なゴーレムを造り動かしているのか?
「欲望よ」
まるで俺の疑問を見透かしたかのように、アドミニストレータがするりと言葉を放った。
「触りたい。抱きしめたい。支配したい。そういう醜い欲が、この剣人形を動かしているの」
ふふ。うふふ。銀瞳を細め、少女はひそやかに嗤う。
「騎士たちの記憶フラグメントから合成した擬似人格たちが望むのはただ一つ――記憶の中にいる誰かを自分のものにしたい、ってことよ。彼らはいま、すぐそばにその誰かがいることを感じているわ。でも触れない。ひとつになれない。狂おしいほどの飢えと渇きのなかで、見えるのは自分の邪魔をする敵の姿だけ。この敵を斬り殺せば、欲しい誰かが自分のものになる。どう? 素敵な仕組みでしょう? ほんとに素晴らしいわ……欲望の力というものは!」
アドミニストレータの高らかな吟声を背景に、接近しつつあるソードゴーレムの両眼が激しく明滅した。
その無骨な全身から放たれる金属質の共鳴音――それが、俺には悲哀と絶望の叫びのように聞こえた。
あの巨人は、殺戮を求める合成兵などではなかったのだ。唯ひとり憶えている誰かにもう一度会いたいという気持ちが寄り集まり、造り出した哀れな迷い子なのだ。
アドミニストレータは、ゴーレムを動かす原動力を欲望と表現した。しかしそれは――
「違う!!」
俺の思考と同期するようにそう叫んだのは、カーディナルだった。
「誰かにもう一度会いたい、手で触れたい、その感情を欲望などという言葉で穢すな! それは――それは、純粋なる愛じゃ!! 人間の持つ最大の力にして最後の奇跡……決して貴様のような者が弄んでよいものではない!!」
「同じことよ、愚かなおちびさん」
アドミニストレータは喜悦に唇を歪め、両の掌をソードゴーレムに向けて差し伸べた。
「愛は支配、愛は欲望!! その実体は、フラクトライトから出力される単なる量子信号にすぎない!! 私はただ、最大級の強度を持つその信号を効率よく利用してみせただけよ……お前が用いた手段より、もっとずっとスマートにね!!」
銀瞳で俺たち三人をさっと撫で、支配者は勝利を確信した音声をさらに高らかに謳い上げた。
「お前に出来たのはせいぜい、子供を二、三人篭絡する程度のことに過ぎない! でも私は違うわ……その人形には、記憶フラグメントも含めれば百八十人以上の欲望のエネルギーが満ちみちている!! そして何より重要なのは、その事実を知ったいま、もうお前には人形を破壊することは出来ないということよ! なぜなら、ある意味では、人形の剣たちはいまだに生きた人間共なのだから!!」
しん、とした静寂の中を、アドミニストレータの声の余韻だけが長く尾を引き、消えた。
ソードゴーレムに向けて掲げられていたカーディナルのステッキが、ゆるゆると頭を垂れていくのを、俺は愕然としながら見つめた。
続けて流れたカーディナルの言葉は、奇妙なほどに穏やかだった。
「ああ……そうじゃな。わしに人は殺せぬ。その制約だけは絶対に破れぬ。人ならぬ身の貴様だけを殺すために、二百年のときを費やして術を練り上げてきたが……どうやら無駄だったようじゃ」
くく。くくくく。
アドミニストレータの唇が限界まで吊り上がり、哄笑を堪えるような喉声が絹のように宙を滑った。
「なんという暗愚……なんという滑稽……」
くっくっくっく。
「お前ももう、知っているはずなのに。この世界の真実の姿を。そこに存在する命なるものが、単なる量子データの集合にすぎぬことを。それでもなおそのデータを人と認識し、殺人禁止の制約に縛られるとは……愚かさも極まれりだわね……」
「いいや、人だとも、アドミニストレータよ」
カーディナルは、どこか温かですらある声で、おそらくは微笑みながら、そう反駁した。
「彼らには、我々が失った真の感情がある。笑い、喜び、愛する心がある。人が人たるために、それ以外の何が必要であろうか。魂の容れ物がライトキューブだろうと生体脳だろうと、それは本質的な問題ではない。わしはそう信じる。ゆえに――誇りとともに受け入れよう、敗北を」
ぽつり、と発せられた最後の一言が、俺の胸の中央を深く抉った。だが、真に激痛をもたらしたのは、それに続く言葉だった。
「じゃが、一つ条件がある。わしの命は呉れてやる……その代わりに、この若者たちは逃がしてやってくれ」
「……!!」
俺は息を飲み、一歩踏み出そうとした。しかしカーディナルの小さな背中から強烈な無言の意思が放射され、俺の動きを押し留めた。
アドミニストレータは、獲物を爪にかけた猫のように瞳を細め、ゆるりと小首をかしげた。
「あら……この状況でいまさらそんな条件を呑んで、私にどんなメリットがあるのかしら?」
「さっき言うたじゃろう、術を練り上げてきたと。あえて戦闘を望むなら、その哀れな人形の動きを封じながらでも、貴様の天命の半分くらいは削ってみせるぞ。それほどの負荷をかければ、貴様の心もとない記憶容量限界が更に危うくなるのではないか?」
「ん、んー……」
あくまで微笑みを消さぬまま、アドミニストレータは右手の人差し指を頬に当て、考える素振りを見せた。
「別に、結果のわかってる戦闘ごときで私のフラクトライトが脅かされるなんてことは無いけど、でもま、面倒ではあるわね。その”逃がす”っていうのは、この閉鎖空間から下界のどっかに飛ばしてやれば条件を満たすのよね? 今後永遠に手を出すな、なんてことなら拒否するわよ」
「いや、一度退避させるだけでよい。彼らなら、きっと……」
カーディナルはその先を口にしなかった。代わりに一瞬うしろを振り向き、あまりにも優しい瞳で俺を見た。
冗談じゃない、そう叫びたかった。俺のかりそめの命と、カーディナルの本物の命が等価であるはずがない。いっそ今すぐアドミニストレータに斬りかかり、カーディナルが脱出するための時間を稼ぐべきかと俺は真剣に考えた。
しかし、それはできない。一か八かの博打に、ユージオとアリスの命まで賭けることになってしまうからだ。
右手はいますぐ抜剣しろと柄を痛いほどに握り締め、右脚は動くなと床を穿つほどに踏みしめる。そんな焼け付くような鬩ぎ合いを続ける俺の耳に、アドミニストレータの声がするりと届いた。
「ま、いいわ」
にっこりと無垢な微笑を浮かべ、美貌の少女は瞬きをしながらうなずいた。
「私も、面白いことを後に取っておけるし、ね? じゃあ、神に誓いましょう。おちびさんを殺したあと、後ろの三人は無傷で逃がして……」
「いや、神ではなく、貴様が唯一絶対の価値を置くもの……自らのフラクトライトに誓え」
びしりと遮るカーディナルの声に、アドミニストレータは微笑にほのかな苦笑を混ぜ、もういちど首肯した。
「はいはい、それでは私のフラクトライトと、そこを流れる光量子に誓うわ。この誓約だけは私も破れない……今のところ、ね」
「よかろう」
こくりと頭を動かしたカーディナルは、ふわりと振り向き、今度は時間をかけてユージオとアリス、そして俺を見つめた。幼い顔にはあくまで穏やかな微笑みが、そしてブラウンの瞳には慈愛の光だけが満ちみちていて――俺は、胸中に溢れる巨大すぎる感情が液体となって視界をぼやけさせるのを止めることができなかった。
カーディナルの唇が動き、音にならない声で、すまぬな、と囁いた。
彼方でアドミニストレータも、こちらは高く澄んだ声で、さようならおちびさん、と告げた。
その右手が振られると、部屋の中央に達しつつあったソードゴーレムの動きがぴたりと止まった。手はそのまま高くかかげられ、掌が何かを握るような動作をとると、まるで空間からにじみ出るようにきらきらと光の粒が舞い踊り、細長いものの形を取った。
それは、一本の銀色の細剣だった。針のような刀身も、流麗な形の鍔も柄も、すべてが完璧な鏡の色だ。触れただけで折れそうな華奢な姿だが、しかしその秘める圧倒的なプライオリティは遠目に見ただけでも明らかだった。間違いなく、カーディナルの黒いステッキと対になるアドミニストレータ本人の神器――彼女の術式を支える最強のリソース源だ。
銀のレイピアが、しゃりん、と鳴りながらまっすぐにカーディナルを指した。
アドミニストレータの瞳が、恍惚とした歓喜の虹を渦巻かせた。
直後、極細の剣尖から、空間すべてを白く染める極大の稲妻が迸り、カーディナルの小さな身体を貫いた。
ハレーションを起こした世界のなかで、華奢なシルエットが弾けるように二度、三度と仰け反った。
巨大すぎる電撃のエネルギーが、空気をも焦がしながら拡散消滅し、俺は灼かれた眼を懸命に見開いてカーディナルの姿を追った。
幼き大賢者は、まだ倒れていなかった。長いステッキに体重の大半を預けながらも、両の足でしっかりと床を踏みしめ、その顔はまっすぐに己の究極の敵へと向けられていた。
しかし、ダメージの痕跡は痛々しいほどに明らかだった。漆黒の帽子やローブはそこかしこが焼き切れて煙を上げ、艶やかだった茶色い巻き毛までも一部が黒く炭化している。
声も出せずに立ち尽くす俺のほんの五メートル先で、ゆっくりとカーディナルの左手が持ち上げられ、焦げた髪を無造作に払い落とした。嗄れてはいるが、しっかりした声が宙に流れた。
「ふ……ん、こんなもの……か、貴様の術は。これでは、何……度撃とうが……」
ガガァァァン!!
という大音響が再び世界を揺るがした。
アドミニストレータのレイピアから、先刻をわずかに上回る規模の雷撃が放たれ、カーディナルの身体を容赦なく打ち据えた。
四角い帽子が吹き飛び、無数の灰となって消滅した。細い体が痛々しく突っ張り、ぐらりと揺れて、横倒しになる寸前でがくりと片膝を床に突いた。
「……もちろん、手加減はしているわよ、おちびさん」
溢れんばかりの狂喜を無理やり押さえつけるかのようなアドミニストレータのひそやかな声が、焦げ臭い空気を揺らした。
「一瞬で片付けちゃったら詰まらないものね? 何といっても私は、二百年もこの瞬間を待ったんだもの……ね!!」
ガガッ!!
三度の雷閃。
それは鞭のように弧を描いて上空からカーディナルを直撃し、その身体を凄まじい勢いで床に叩き付けた。高くバウンドした小さな姿が、かすかな音を立ててもう一度墜落し、力なく横臥した。
黒いローブももう大半が炭となって消え、内側の白いブラウスと黒のキュロットも無残な焦げ痕に覆われている。染み一つない雪のようだった腕の肌もまた、蛇のような火傷に巻かれ惨い有様だ。
その腕が震えながら伸ばされ、床に爪を立てるようにして身体を少しばかり持ち上げようとした。
死力を振り絞ったその動作を嘲うかのように、新たな稲妻が横薙ぎに襲い掛かった。幼い姿はひとたまりも無く吹き飛び、床の上を数メートルも転がった。
「ふ……うふふ。ふふふふ」
彼方の高みで、アドミニストレータが我慢できぬというように笑いを漏らした。
「ふふ、あはっ。あははは」
もう白目も虹彩も定かでない銀の眼が、凶悪なまでにまばゆいプリズムの輝きを強く迸らせた。
「あははは! はははははは!!」
高笑いとともにまっすぐ掲げられた鏡の細剣の切っ先から――。
ガガァッ!!
ドカァァァッ!!
ガガガァァァ――――ッ!!
と、立て続けに雷撃が発射され、もう動かないカーディナルを立て続けに突き刺した。そのたびに小さな身体は鞠のように跳ね、服も、肌も、その存在のすべてを焼き焦がされていった。
「ははははは!! あははははははは!!!」
悪魔の喜悦に身を捩り、銀髪を振り乱して哄笑するアドミニストレータの声は、もう俺の耳にほとんど届かなかった。
両眼からとめどなく液体が溢れ出し、視界をおぼろに歪ませるのは、決して際限ない雷閃の白光に網膜を痛めたからではない。
心中に吹き荒れる大渦は、灼熱と極寒を等しく混淆し、いっそ存在しないと思えるほどに激烈なものだった。カーディナルの命が今まさに失われつつあることへの焦燥、無慈悲な処刑を愉しむアドミニストレータへの怒り、しかし何より大きいのは、自分の無力さへの言いようのない感情だった。
ここに及んでもなお、俺は動けず、剣を抜くこともできなかった。たとえ結果が最悪な――カーディナルの遺志をも無駄にするものとなろうとも、俺は剣を抜き、己に可能な最大の攻撃をソードゴーレムと、その彼方のアドミニストレータへと撃ち込むべきだと、そうせねばならないと判っていてもなお動けなかった。
情けないことに、その理由すら俺には理解できているのだった。
元老チュデルキンを、通常では有り得ない超長距離の”ヴォーパル・ストライク”で斬ってのけたのが俺のイマジネーションの力なら、今俺を木偶のように縛り付けているのもまさにその力なのだ。俺は数分前、ソードゴーレムに赤子のように吹き飛ばされ、致命傷を負わされた。あの、腹から入って背骨を断ち割った剣の感触が、俺に強烈すぎる敗北のイメージを焼き付けた。ゴーレムを前にしては、もう二度とSAO時代の”黒の剣士キリト”を呼び起こすことは出来まいと俺に確信させるほどの、断固たる敗北と死のイメージ。
今の俺はどんな整合騎士にも、いや学院の生徒の誰にすらも勝てまい。ましてや――もう一度、あの最強の怪物に斬りかかることなど。決して。
「……くっ……うぐっ…………」
自分の喉が鳴り、餓鬼のような情けない嗚咽が漏れるのを、俺は聞いた。自分の敗北を悟り、しかしそれを正面から受け止めて雄々しく立ったカーディナルが今まさに襤褸切れのように殺されようとしていて、その犠牲をただ傍観することで救われようとしている俺という人間を、俺は強く憎んだ。
気付けば、左に立つユージオも、右のアリスも、それぞれの感情によるそれぞれの涙を流していた。彼らの胸中を推し量ることなどとてもできないが、しかし少なくとも、三人がともに己の無力という大きすぎる蹉跌を感じていることは明らかだった。そう――たとえこの場から脱出できたとしても、これだけの傷を心に刻まれたまま、果たして何が出来るのか、と言わねばならぬほどの。
動けない俺たちの視線の先で、恐らく最後の、そして最大の稲妻をその刀身にまとわり付かせたレイピアを、アドミニストレータが高く高くかざした。
「さあ……そろそろ終わりにしましょうか。私とお前、二百年のかくれんぼを。さようならリセリス……私の娘、そしてもうひとりの私」
どこか感傷的な台詞を、しかし狂喜に歪む唇に乗せ、最高司祭は鋭くレイピアを振り降ろした。
幾千の光条となって宙を疾った最終撃は、ふたたび一つに撚り集まり、横たわるカーディナルの身体を撃ち、包み、焼き、焦がし、破壊した。
右脚の先を炭と変えて散らしながら、最古の賢者はゆっくりと宙を舞い、俺のすぐ足元へと落下した。もう質量すらも殆ど感じさせない、がさりと渇いた音が響いた。更に多くの黒い欠片が、身体の各所から床に零れた。
「うふふ……あはは……あははははは! あーっはははははは!!」
右手の剣をくるくると回し、空中でダンスを踊るがごとくアドミニストレータが再びの哄笑を放った。
「見える……見えるわ、お前の天命がぽとりぽとりと尽きていくのが!! ああ……なんという法悦……なんという……うふふ……ふふふふ……さあ、最期の一幕を見せて頂戴。特別に、お別れを言う時間を許してあげるから!!」
その言葉に諾々と従うがごとく、俺は、壊れた人形のようにがくりと膝から崩れ、カーディナルに向けて手を伸ばした。
幼い少女の、炭化していないほうのまぶたは閉じられていた。だが、指先が触れたその頬からは、消え去る寸前のほんの、ほんのわずかな命の温かさが伝わった。
ほとんど無意識のうちに、俺は両手でカーディナルの身体を抱き上げ、胸に抱えた。とめどなく溢れる涙が、次々に惨い傷痕のうえに滴った。
それが切欠でもあったかのように、少女の睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。激痛のさなか、死の寸前にあって尚、カーディナルのマホガニー色の瞳は尽きることの無い慈愛を湛え、俺を見た。
『泣くな、キリトよ』
その言葉は、声ではない音として俺の意識に響いた。
『そう……悪くない、最期じゃ。こうして……心を繋いだ誰かの腕に抱かれ……死ねるなどとは、とうてい……想って……おらなんだよ』
「ごめん……ごめんよ……」
俺の唇から零れ落ちた言葉も、ほとんど声とは言えない空気の震動でしかなかった。それを聞いたカーディナルの、奇跡的に無傷な唇が、ほのかな笑みを浮かべた。
『なにを……謝る……ことがある。お主には……まだ、果たすべき……使命がある、じゃろう。お主と、ユージオ、そして……アリス……三人で……この、儚く、美しい、世界……を……』
カーディナルの声は急速に薄れ、その身体もまた軽くなっていくようだった。
不意に、同じく跪いたアリスが両手を伸ばし、カーディナルの右手を包んだ。
「必ず……必ず」
その声も、頬も、しとどに流れる涙で深く濡れていた。
「あなた様に頂いたこの命……必ずや、お言葉を果たすために……使います」
続いて、左側からユージオの手が伸ばされた。
「僕もだ」
ユージオの声は、これがあの気弱で優しい相棒かと思えるほどにしっかりとした意思に満ちていた。
「僕も、いまようやく、僕の果たすべき使命を悟りました」
しかし――。
それに続いた言葉は、俺も、アリスも、そして恐らくはカーディナルですらも予想し得ないものだった。
「そして、その使命を果たすべき時もまた今――この瞬間です。僕は逃げない。僕にはいま成さねばならないことがある」
ユージオ――一体なにを。
そう思い、俺は視線を動かした。
亜麻色の髪の少年、俺の無二の親友、ルーリッドの剣士ユージオは、一瞬だけ俺の瞳を見返し、微笑み、頷いた。彼はすぐにカーディナルに瞳を戻し、その言葉を口にした。
「最高司祭カーディナル様。残された最後の力で、僕を――僕のこの身体を、剣に変えてください。あの人形と同じように」
その言葉が、意識を引き戻したのか――。
ほとんど光が失われつつあったカーディナルの瞳が、ほんの僅かだけ見開かれた。
『ユージオ……そなた……』
「こうするしかないんです。今僕らがここから退いたら……アドミニストレータは世界中の人間たちの半分を、あの恐ろしい怪物に変えてしまう。そんなの、絶対にさせちゃだめだ。その悲劇を防ぐための、ほんの一筋の光が……最期の可能性が残されているとすれば、それは、この術式の中に……」
すべてを悟り切ったような、透明な微笑みを浮かべ、ユージオはごく微かな声で、しかしはっきりと詠じた。
「システム・コール……リリース・コア・プロテクション」
初めて耳にする、ごくごく短い術式だった。
それを言い終えたユージオが、唇を結び、まぶたを閉じた。
途端、彼の滑らかな額に、まるで電気回路のような複雑な紋様が、紫色の光のラインで描き出された。それは見る見る間に、両頬から首を伝って伸び、肩、二の腕、そして指先へと達する。
幾多の光のパラレルラインは、ユージオが両手で握るカーディナルの右手にまでわずかに浸出し、そこで入力を待ち受けるかのようにちかちかと先端を瞬かせた。
核心防壁解除――。
その名前から察するに、ユージオは今、己の全存在に対する無制限の操作権をカーディナルに与えたのだろう。彼がなぜそんな術式を知っているのか、そもそもなぜそのようなコマンドが用意されているのか、何一つ解らないが、しかし少なくともその短い式句はユージオの決意と覚悟を明らか過ぎるほどに映し出していた。
コマンドを受け取った瀕死の賢者は、無事な左目と、灼かれた右目をも限界まで見開き、唇を震わせた。わななくような思考波が、触れる肌を介して伝わった。
『よいのか……ユージオ。元の姿に……戻れるかどうか……わからぬぞ』
額と両頬に光の回路を浮き立たせたユージオは、目蓋を閉じたまま、深く頷いた。
「いいんです。これが僕の役目……僕がいま、この場所に存在する唯一の意味なんです。さあ、早く……アドミニストレータが気付く前に」
やめろ。
俺はそう叫びたかった。
人間の肉体を、その属性を無視して武器に変換するなどという超高位コマンドを実行できるのはこの世界にアドミニストレータとカーディナルの二人しかいない。うち片方は究極の敵であり、もうひとりは今まさにその命を尽きさせようとしている。つまり、仮にユージオがその身を剣と成し状況を打破し得たとしても、もう一度彼を人に戻すことができる術者はもう居ないかもしれないのだ。
しかし――今の俺に何が言えるだろう。
一度の敗北で骨の髄まで震え上がり、もう剣を振りかぶることも、前に足を出すことすらも出来ない俺に。
血がにじむほどに唇を噛み沈黙する俺の腕のなかで、カーディナルはすうっと眼を閉じながら、一度深く頷いた。
『よかろう、ユージオ。我が生涯最後の術式を……そなたの意志に、捧げよう』
燃え尽きる寸前の蝋燭が一瞬強く輝くかのように、はっきりとした声が俺たちの意識に響いた。
かっ、とブラウンの瞳が見開かれ、その中央に、紫の光が宿った。
カーディナルの手に接続された無数の回線が、強烈な輝きを宿して燃え上がった。その光は一瞬でユージオの身体を駆け上り、額の紋様にまで達すると、そこから溢れてまっすぐ上空に柱となって屹立した。
「なにを……!」
叫んだのは、彼方から陶酔の表情でこちらを睥睨していたアドミニストレータだった。勝利の余韻が一瞬で消え去り、銀瞳をいっぱいに剥き出させて、支配者は怒りの声を放った。
「死に損ないが何をしているッ!!」
右手のレイピアが振り下ろされ、耳を劈く咆哮とともに巨大な雷光がまっすぐこちらに向けて迸った。
「させない!!」
叫び返したのは、整合騎士アリスだった。
もう天命も限界のはずの金木犀の剣が、じゃああっ!! とその刀身を分裂させ、黄金の鎖となって宙を疾った。
鎖の先端が、アドミニストレータの稲妻に触れた。と思った瞬間、エネルギーの奔流は一直線に鎖を伝い、アリスの右手に迫った。
しかし、致命の一撃が主を撃つ寸前、黄金の鎖は後方にもその身を伸ばし、端についた針を大理石の床に突き立てた。稲妻はその回路から逃れることが出来ず、巨大なエネルギーのすべてを塔の構造物にむなしく撃ち込み、ただ爆発音と白煙のみを生み出して消滅した。
アリスは、左手の人差し指をまっすぐにアドミニストレータに向け、高らかに叫んだ。
「私に雷撃は効かぬ!!」
「人形風情が……生意気を言うわね!!」
唇をゆがめてそう吐き捨てた支配者は、あらためて凄絶な笑みを浮かべなおすと、白銀のレイピアを高く掲げた。
「なら……これはどうかしら!?」
ぼぼっ!! と低い唸りを放ち、刀身のまわりに無数の紅点が出現した。その数四十か、五十か――。あれほどの数の熱素をどうやって制御しているのか、もう推測することもできない。
アリスの金木犀の剣が、火焔による不定形の攻撃に弱いのは先のチュデルキンとの戦闘で明らかになっている。しかし黄金の騎士は退く気配も見せず、決死の覚悟で右脚を一歩前に出した。主の決意を感じたかのように、鎖を形作る小片たちもじゃきっ! と鋭い金属音を響かせると、空中に整然と並んだ。
両者が対峙するあいだにも、ユージオを包み込む紫の光輝は際限なく強まり続けている。
手が離されてもなお、光の回線はカーディナルとユージオを固く結び、洪水のような情報を伝えているようだった。不意にユージオの身体からがくりと力が抜け、しかし彼はそこに倒れることなく、逆にわずかに空中に浮かび上がった。
まっすぐに直立したユージオの身体から、すべての衣服が蒸発するように消えうせた。その寸前、片方のポケットから、不思議な物体が――ちかちかと瞬く紫のプリズムが零れ、ふわりと舞い上がるのを俺は見た。
それが、整合騎士アリスから失われた記憶の欠片であることを、俺は直感的に悟った。本来、天井で輝く神話図の一角に収まっているはずのそれを、ユージオはいつのまにか回収してのけていたのだ。
彼にしてみれば、あとは騎士アリスの魂にその記憶ピースを戻すだけで目的のすべてを達成できていたことになる。しかし、一体なにがユージオを、目的の成就を目の前にしてこのような自己犠牲に駆り立てているのか。
俺の内心に渦巻く疑問に答えることなく、ユージオは目を閉じたその顔を高く仰向かせた。舞い上がった紫のプリズムが、彼の額のすぐ前にぴたりと停止し、強く瞬いた。
そしてもうひとつ――。
腰に巻かれた剣帯が消滅し、繋がれていた青薔薇の剣も落下すると見えたのだが、それもまた重力に抗うように浮き上がると、鞘のみを脱ぎ捨ててユージオの胸の前に音もなく静止した。
ユージオの鍛えられた白い身体と、青薔薇の剣の氷色の刀身、そして紫の小さな三角柱が、一直線に並んだ。
直後、すべてを覆いつくすような強烈な輝きが、三者を中心として部屋中に迸った。
「みんな燃え尽きてしまいなさい!!」
アドミニストレータが、絶叫とともにレイピアを突き出した。
その刃を包んでいた炎が、巨大な火球となってこちらに発射された。
「させないと……言ったはず!!」
凛とした声で叫び返し、渦巻く火焔にむかって飛び出していったのはアリスだった。
彼女の周りで浮遊していた黄金片たちが、一瞬にして凝集し、ひとつの巨大な盾を作り出した。それを右手に掲げ、騎士は高く、高く跳躍すると、身体ごと恐るべき大きさの火球へと突っ込んだ。
一瞬の静寂。
直後の爆発は、閉鎖空間すら揺るがすほどの規模だった。荒れ狂う熱と閃光、そして衝撃波が広大な部屋中に広がり、すべてを焼き焦がしたが、アリスの身体に守られた俺は熱波に息を詰まらせただけだった。離れた場所で静止したままのソードゴーレムすらぐらぐらとその巨体を揺らし、さらに彼方のアドミニストレータも左腕で顔を覆った。
真紅の閃光が薄れ、爆発の中心点からどさりとアリスが落下した。わずかに遅れて、無数の黄金片もまた、その力を失ったかのように主の周囲に舞い散り落ちた。
アリスの白い装束は各所で炭化し、煙を上げている。肌も広範囲に受傷し、天命が大きく減少したことは明らかだ。意識も失ったようで、その身体はもうぴくりとも動かなかったが、しかし彼女が稼いだ貴重な数秒のあいだに、カーディナルの最後の術式はついに完成されようとしていた。
紫の光柱に包まれたユージオの身体が、実体を失い、すっと透き通った。その胸の中央に、吸い込まれるように青薔薇の剣が沈み込み、それもまた半透明の光と化して主と完全に同化した。
再びの強烈な閃光。
思わず目蓋を閉じかけた俺の視線の先で、ユージオの身体が無数の光となって解けた。それらは渦を巻くようにひとつの十字架のかたちに寄り集まり、凝縮した。
一瞬ののち、そこに浮遊しているのは、もう俺の親友の姿ではなかった。
青いほどに純白の刃と、十字の鍔、柄を持つ、一本の巨大な剣がそこに在った。刀身はもとのユージオの腰ほどにも幅広く、それでいて優美なラインを描き、鋭い剣尖へと収縮している。その刀身の中央に穿たれたちいさな溝に、いまだ宙に漂っていた紫のプリズムが、まるで寄り添うように近づき、かちり、と音を立てて嵌まった。
カーディナルの左腕が、力を失い、ぱたりと垂れた。
唇がかすかに震え、最後の一句が、微風のように宙を渡った。
『リリース……リコレクション』
きぃぃぃん!! と鋭い共振音を放って、紫のプリズム――アリスの記憶ピースが眩く光り輝いた。それに応えるように、ユージオの剣も涼やかに刀身を鳴らし、ふわりと更に高く浮かび上がった。
いまや、白い大剣は、ソードゴーレムとまったく同じロジックによって自ら動いていた。つまり、人の身より鍛えられた剣、その所有者たる人の記憶、両者を繋ぐ想いの力だ。
その想いの色だけが、ソードゴーレムと決定的に異なるはずだった。
ゴーレムを動かすのが、引き裂かれた恋人や家族の哀しみの力であるならば、白い大剣はついに巡り合ったユージオとアリスの愛の力で動いている。その証左として、俺は剣から放射される、人の善なるエネルギーの波動を強く感じた。
「おのれリセリス……余計な真似をっ……!!」
まるで、剣の放つ輝きから眼を守るように顔を背けながら、アドミニストレータが叫んだ。
「術式を模倣したところで……そのような貧相な剣一本で私の機兵に対抗できるはずもない! 一撃のもとにへし折ってあげるわ!!」
さっ、とアドミニストレータの左手が振られると、これまで沈黙していたソードゴーレムの両眼が再び青白く輝いた。ぎいいいん、と耳障りな軋み声を放ち、巨体がぐぐっと前進を始める。
世界最強の怪物に対し、ユージオの剣はすっと刀身を回転させると、その切っ先をまっすぐに敵に向けた。
白い刀身が一層その輝きを増し、雪のように光の粒を舞い散らせた。
直後、彗星のように光の尾を引きながら、剣はまっすぐにゴーレム目掛けて突進を開始した。
『……美しい……』
俺の腕のなかで、カーディナルがかすかに呟いた。
『人の……愛、そして意志の放つ……光……。なんて……美しい……』
「ああ……そうだな」
抑えようもなく、両眼から涙が溢れるのを感じながら、俺は囁き返した。
『キリト……あとは、頼んだ、ぞ……。世界を……人々を……守っ……て……』
最後の力で目蓋を持ち上げ、透き通った瞳でまっすぐ俺を見て、カーディナルはそっと微笑んだ。俺が頷くのを見届けると、世界最古の賢者にして齢幼き少女は、ゆっくりと目を瞑り、穏やかに息を吐き――そして二度と呼吸することはなかった。
両腕に感じていたささやかな重みが、溶けるように消えていくのを、俺は滂沱と滴る涙の熱さとともに感じた。
滲む視界のなか、カーディナルの遺志を注ぎ込まれた白い剣は、光の翼を羽ばたかせながらどこまでもまっすぐ飛翔していく。
それを迎え撃つかのように、くろがねの巨兵は、両手の大剣と肋骨の鎌を大きく広げた。黝い闇をまとわり付かせた無数の刃が、凶悪なあぎとと化していっぱいに口を開いた。
数値上のプライオリティだけで比較するなら、ユージオひとりの身体と青薔薇の剣だけが基となった白の剣では、百数十人もの人間を転換したゴーレムには抗すべくもない。
それでも、ユージオの剣はさらに速度を増し、待ち受ける刃の獄へと突進する。
その軌道が貫く先――ゴーレムにもし心臓があるとすればそこだったろう、という左胸の肋骨部を凝視した俺は、あることに気付き、涙の雫を散らしながら大きく目を見張った。
これまで、左右同じ数だけ対になっていると思っていたゴーレムの肋の剣が、左側のそこだけ一本少ない。
もしかしたら――あそこには本来、天井の神話図に組み込まれたアリスの記憶が操る剣が合体するはずだったのではないだろうか。
それが、何らかの理由によって記憶ピースが分離されたため、本来あるべきパーツが一つ少なくなってしまったのだ。アリスの記憶とユージオの身体からなる白の大剣は、まっすぐにその空虚を目指している。
俺がそう悟ったその瞬間。
両者が激突し、白と黒のエネルギーが絡み合い、渦巻き、炸裂した。
ギャァァァァッ!! という、獣の咆哮にも似た多重の金属音を放ってゴーレムの剣の牙が噛み合わされ――。
しかし、それより一瞬早く、白い剣はゴーレムの肋骨に開いたわずかな間隙を深々と貫き通していた。
これまで、黒い炎のような闇によって接合されていたゴーレムの無数の間接部に、貫かれた肋骨から広がった白い光が猛烈な勢いで浸透していく。
それはまるで、引き裂かれた恋人たちの悲哀を、ユージオとアリスの愛が癒し、昇華させているかのように俺には見えた。
ぎいいいというゴーレムの醜い叫びが、みるみるうちに澄んだ鈴の音となって高まり、共鳴し、拡散した。
直後、閉じた両腕と肋骨の中心部から、純白の輝きが迸り――数十本の魔剣は、嵐に引き裂かれるかのように、ばらばらに分離して吹き飛んだ。
凄まじい速度で回転しながら高く舞い上がった剣たちは、放射状に飛び散り、轟音とともに円形の部屋の外周部に一斉に突き立った。
俺のすぐ背後にも、巨大な刃が墓標のごとく屹立した。それは間違いなく、俺の身体を分断したゴーレムの右脚だったが、まとわり付いていた鬼気とでも言うべきオーラはすでに消えうせ、今はもうただの冷たい鉄でしかなかった。
ゴーレムを動かしていた天蓋の数十の神図たちも、不規則に明滅しながらその紫の輝きを薄れさせ、やがて完全な闇に没した。”彼ら”の意識がどうなったのかは定かでないが――少なくとも、その感情を糧にしていたアドミニストレータの完全支配術は解け、二度と再現されることはあるまいと思えた。
世界最強の魔神を一撃で分解せしめた白の大剣は、いまだ空中に横たわり、きらきらと光の粒を振り撒いていた。
その刀身の中央に埋まり煌くアリスの記憶フラグメント、その内部に刻まれているのは、ルーリッドに生まれてから十一歳の夏までを共に過ごしたユージオとの思い出であることはもう明らかだ。だからこそこの奇跡は起こり得たのだし、剣のまとう輝きがこれほどまでに美しいのだ。
「ああ……ほんとうに、綺麗だ」
俺は、腕のなかのカーディナルの骸を強く抱きしめ、もはやアンダーワールドからも現実世界からもはるか遠い場所へと旅立った彼女の魂へと囁きかけた。
応える声はなかったが、惨く傷つけられた小さな体が、ほのかな燐光に包まれていくのを俺は感じた。その輝きは、白い剣の放つ奇跡の光とまったく同質の清浄さに満たされていた。それこそが、カーディナル、あるいはリセリスという名を持つ少女が、何度も繰り返し自称していたようなプログラムではなく、真の感情と愛を持つひとりの人間であったという証左だと俺は確信した。燐光は、ほのかな温かみすら伴って俺の萎え切った体に染み込み、同時に骸はその重みを少しずつ薄れさせていく。
隔絶空間をあまねく照らし出し、浄化するかのような白い輝きの波動を――。
あくまで拒絶するがごとく、冷ややかな声が刃となって切り裂いた。
「死に際に悪あがきをしてくれるわね、ちびっこは。ちょっとだけ興醒めだわ」
己の最後の切り札を破壊されてなお、傲然とした態度を崩すことなく、アドミニストレータは壮絶な笑みを浮かべて見せた。
「――でも、せいぜい試作品をひとつ壊すくらいが限界だったってことよね。あんなもの、これから何千個、何万個だって造れるんだもの」
鏡のレイピアに左手の指先を這わせながらそう嘯くその姿には、カーディナルの同位体であるはずの彼女のほうはほんとうにすべての感情を凍結しているのかもしれないと思わせる、底知れない闇の色がまとわり付いている。いや、比喩でなく、輝かんばかりの白亜の肌と銀髪を持つその肢体を、瘴気のごとく赤黒いうねりがゆったりと取り巻いているのが見える。
俺の体の底に、恐怖のいう名の冷たい蛇がふたたび鎌首をもたげるのを感じる。無敵と思えたソードゴーレムはついに破壊されたが、その代償はあまりに大きかった。世界で唯ひとり、アドミニストレータの超魔力に抗しうる人物を俺たちは失ってしまったのだから。
声も出せず、ただ最高司祭の姿を見ることしかできない俺とは対照的に――。
涼やかな音を響かせ、先端をまっすぐに敵に向けたのは、浮遊を続けるユージオの剣だった。
「あら」
凶悪な輝きを銀鏡の瞳に浮かべ、アドミニストレータが囁いた。
「まだやる気なの、坊や? 術式の穴を衝いて私の機兵を崩したくらいで、ずいぶんと強気じゃない?」
その言葉が、鉄身と化したユージオの意識に届いているのかどうかは定かでない。しかし、純白の大剣は小揺るぎもせず、鋭い切っ先で最高司祭を狙い続ける。刀身を取り巻く輝きは再び強まり、きん、きんという刃鳴りもその周波数を高めていく。
「……やめろ、ユージオ」
俺は思わずそう口走り、左手を伸ばした。
「もういい、戻れ。一人で行くな」
圧倒的な危惧に突き動かされ、俺は力の抜けた足でわずかに前ににじり進んだ。まっすぐ差し出した指先に、剣から放射される光の粒がひとつ触れ、弾け、消えた。
直後。
轟という響きを放ち、大剣の柄部分からもういちど純白の翼が大きく広がった。それを力強く羽ばたかせ――白い剣は、凄まじい速度で一直線にアドミニストレータ目掛けて突進した。
支配者の真珠色の唇に、凶悪な笑みが一杯に浮かんだ。軋むような音を立てて振り下ろされた鏡のレイピアから、尽きることない極大の雷光が迸り、迫る光の剣を迎え撃った。
剣の切っ先が、雷光に触れた瞬間。
これまで記憶にないほどの衝撃波が荒れ狂い、遠く離れた俺の全身をも強打した。
顔を背けながらも、限界まで眼を見張った俺の視線の先で、アドミニストレータの雷光が、無数の細条へと引き裂かれるのが見えた。
バァァァーッ!! という轟音とともに飛び散った稲妻の破片が、部屋の各所を叩く。超高優先度の激流を正面から打ち毀し、剣はなおも飛翔する。その刀身の表面が、微細にひび割れ、次々と破片を散らしていくのを俺は見た。それら全てはユージオの肉体、命そのものであるはずなのに。
「ユージオ!!」
叫んだ俺の声は、荒れ狂う嵐に紛れ。
「小僧……!!」
アドミニストレータの唇からついに笑みが消え。
雷光をその源まで遡りきった白の大剣は、その尖端を、レイピアの針のような切っ先に正確に命中させた。
超高周波の震動が空間すべてを揺るがした。アドミニストレータの全魔力を支えるリソース源たる鏡のレイピアと、ユージオの変じた白い剣は、真正面から凄まじい密度の鬩ぎ合いを数瞬、続けた。見かけ上は完全な静止状態だったが、それが次なる破壊への前兆であることを俺は全身の肌で感じた。
やがて起きた現象は、コンマ数秒のことだったが、俺にはとてつもなくゆっくりとしたスロー再生のフィルムのように見えた。
アドミニストレータのレイピアが、無数の鏡の破片となって粉砕され。
白い大剣が、その刀身の中央から真っ二つにへし折れ。
回転しながら吹き飛んだ前半分の刃が、アドミニストレータの右腕を、その肩口から滑らかに斬り飛ばした。
それらすべてが、無音のスクリーンに緩やかに映し出され、やがて遠くから音と震動が追いついた。
直後、解放されたリソースが引き起こした大爆発が、二者を飲み込んだ。
「ユージオ――――――――!!」
俺の絶叫は、荒れ狂う電磁ノイズのような轟音に呑まれ、俺自身にも聞こえなかった。打ち寄せてきた衝撃波が、俺の体を叩き、壁際まで吹き飛ばした。
突き立つゴーレムの剣の陰で激流をやり過ごし、腕にカーディナルの遺骸を抱えたままよろよろと立ち上がった俺が見たのは――。
初めて二本の足で床に立ち、蒼白の無表情で肩の傷口を押さえたアドミニストレータと。
その足元に横たわる、ふたつの剣の破片だった。
剣には、いまだうっすらと白い輝きが宿っていた。
しかし呆然と見守るうちに、それはまるで心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅しながら力を失い、やがて、消えた。
白い剣の断片たちは、同時にすうっとその実体を失い、紫に透き通った構造体に戻ると、徐々にその形を人の姿へと変じさせた。
切っ先から刃の中ほどまでの破片は、両脚と腰の半ばほどまで。
そして柄を含む破片は、ユージオの上半身へと。
亜麻色の髪の少年は、目を閉じ、胸の上に乗せた右手に紫のプリズムを握っていた。その体が肌の質感を得、重さを取り戻し、その直後。
分断された体の双方から、恐ろしいほどの量の血液が溢れ出し、一瞬にしてアドミニストレータの素足を浸した。
SAO4_34_Unicode.txt
「あ…………あ…………」
自分の喉から搾り出される割れた声を、俺はどこかとても遠い場所から聴いた。
世界はすべての色を失い、匂いも、音も、極限まで希釈された。
無感覚の空間のなかで、こんこんと広がり続ける血の色だけがぞっとするほど鮮やかだった。その真紅の海の中央、横たわるユージオの上半身のすぐ傍らに、はるか上空から煌きながら舞い降りたものがあった。
とん、と軽い震動と波紋を生じさせて血溜まりに突き立ったのは、華奢な青銀の長剣――青薔薇の剣だった。見た目は完璧なまでに無傷、と思えたのはほんの一瞬で、不意に、かしゃん、とささやかな破砕音が響き、刀身の半ばから下が極微の結晶となって砕け散った。支えを失った上半分が、ゆっくりと傾いて、ユージオの顔のそばに力なく転がった。飛び散った飛沫のひとつがユージオの頬に当たり、つう、と流れた。
俺は、よろよろと二、三歩あとずさると、床に両膝を突いた。
虚ろに眼を開いたまま、すがりつくように腕のなかのカーディナルの遺体を強く抱いた。しかしその小さな体は、すでに半ば以上光の粒へと還元され、実体をほとんど失っていた。放出された仄かに暖かいリソースは俺の体へと浸透し、何らかの作用を導こうとしているようだったが、俺の胸中に広がる虚無を埋めるには足りなかった。冷ややかで果てのない空疎のみが俺の内部を満たした。
もう――これで終わりにしよう。
そんな思考が、虚ろの奥から泡のように浮かんではじけた。
俺たちは、いや俺は、あらゆる意味で敗れたのだ。俺がいまこの場所に存在する意味、それはただひとつ、ユージオという名の魂を現実世界へと解き放つためではなかったか。なのに現実には、俺がユージオの犠牲に守られ、こうして木偶のように跪いている。この世界で命を落とそうと、それは単なる”ログアウト”にしかならない俺が。
なら、もう終わらせてくれ。
あとはただ、フェードアウトするようにこの場所から消え去りたい。
もうこれ以上、何を見たくも、聞きたくもない。
俺はただそれだけを願った。
しかし――。
アンダーワールドは、やはり、ひとつの確たる現実であり、その支配者もまたエンド画面とともに停止するプログラムなどではなかった。
血の海に立ち尽くしていたアドミニストレータの、彫像のごとき無表情のなかに、かすかな感情の色がいくつか浮かび、消えた。唇が動き、俺の耳に否応なく美しい声が届いた。
「これほどの傷を負ったのは……何百年ぶりかしらね」
その呟きは、怒りよりもむしろ感嘆しているかのようだった。
「ユージオちゃんが転換した剣……プライオリティ的には、とても私の”シルヴァリー・エタニティ”に対抗できるはずはなかったのに、意外な結果だわ。メタリック属性でないのを見落としたのも私の失点ね。まだまだ考証すべきデータは多いわ……」
切断された右肩からは、ぽたり、ぽたりと紫がかった真紅の血が垂れ、足元の海に波紋を作っている。アドミニストレータはその雫をいくつか左の掌に受けると、それを青い光へと変え、傷口に注いだ。切断面が一瞬にして滑らかな皮膚に覆われた。
「さて……」
応急手当を終えた支配者は、長い睫毛をしばたかせ、銀の視線を俺に向けた。
「最後に残ったのがお前だとは、これも少々意外ね、人間の坊や。管理者権限も持たずに、一体何のためにここまで来たのか、わずかばかりの興味はあるけど……でも、もういささか飽きたし、眠いわ。顛末はあとであの者に訊くとして、いまはお前の血と悲鳴でこの喜劇の幕を引くとしましょう」
す、と右足が前に出され、アドミニストレータは優美な動作で歩行を始めた。ユージオの血でできた海に、ぱしゃりぱしゃりと飛沫が跳ねる。
歩きながら、俺の死神である少女は、滑らかに左手を真横に伸ばした。その掌目掛けて、後方からふわりと飛んできたのは、華奢な一本の腕――ユージオの剣に撥ねられた彼女の一部だった。
肩に再接続するのか、と思ったが、自分の腕の手首部分を握ったアドミニストレータは、それを顔の前まで持ち上げ、ふっと息を吹きかけた。その途端、紫色の光が腕を包み、金属質の震動音とともにオブジェクト転換が行われた。
出現したのは、シンプルながら華麗な刀身と柄を持つ、銀色の長剣だった。破壊されたレイピアほどには完璧な鏡色ではないが、世界最高の優先度を持つ人間の腕一本をまるまるリソースとしているだけあって、その秘めたる威力は明らか――少なくとも、一撃で俺の首を撥ねるには充分すぎると思えた。
死が、滑らかな音で絨毯を踏みながら近づいてくるのを、俺は跪いたままただ待ち受けた。
もう何の感情も見せることなく、俺の目の前までやってきたアドミニストレータは、片腕を失ってもなお輝かんばかりの裸形で、傲然と俺を見下ろした。
見上げた俺の視線と、鏡の瞳がはなつ磁力的な光がぶつかった。その双眸に、ごく微かな笑みを浮かべ、少女は優しい声で囁いた。
「さようなら、人間。いつかまた、向こうで会いましょう」
きらきらと光を振り撒きながら、長剣が高々を振りかざされた。
針よりも鋭い切っ先に、ちかりと星のような瞬きが宿り――。
神速でそれが降り注ごうとした、その寸前。
ひとつのシルエットが、俺と死のあいだに割って入った。
長い髪が、ふわりと宙を舞った。
両腕をいっぱいに広げた、満身創痍の少女騎士の背中を、俺は呆然と見つめた。
この光景は、
見たことがある。
俺は、
何度、
同じ過ちを――
――繰り返すつもりなのか!!
閃光にも似たその叫びが、時間を一瞬、停止させた。
静寂に包まれたモノクロームの世界で、いくつかのことが連鎖的に起きた。
俺の腕のなかのカーディナルのからだが、ついに最後の光を散らして消滅した。放出されたリソース、あるいは世界を愛した一人の少女の遺志が仄かな熱となり、俺の内側の深いところにまで届いた。
そこに凝っていた冷たい恐怖、俺の動作を縛していた敗北の確信を、小さな手が撫で、ほんの少しだけ溶かした。
負のイメージが消えたわけではない。
しかし、その弱さを肯定することはできるのだと、温かな手の持ち主が俺に囁いた。
常に勝ち続けなくてもいい。いつか敗れ、倒れたとしても、心を、意志を誰かに繋げられれば、それでいい。
――これまで、お主とひとときを共有し、そして去っていったすべての者はそう思っておったはずじゃ。無論、このわしも。
――ならば、お主だって、まだ立てるはずじゃ。
――愛する誰かを、守るためなら。
身体の、あるいは意識の奥底から発生したささやかな熱が、凍りついたフラクトライトのなかに細い回路をつないでいくのを俺は感じた。
胸の中央から、右肩を通り、腕をたどって、指先へと。
燃え上がるような熱さに包まれた五指が、ぴくりと震えた。
かつてない程の速度で閃いた右手が、左腰の剣の柄を、しっかりと掴んだ。
そして再び、時間が動き出した。
俺を守らんと、大きく両手を広げて立つ騎士アリスの左肩口めがけ、アドミニストレータの剣が流星となって墜ちてくる。
その告死の刃が、焼け焦げた騎士服のふくらんだ袖を引き裂き、白い肌に食い込もうとした、まさにその瞬間。
俺が立ち上がりざまに抜刀した黒い剣の切っ先が、ぎりぎりの所で下方から迎え撃ち、凄まじい火花を散らした。
発生した衝撃は、密接していた俺とアリス、そしてアドミニストレータを圧倒的な勢いで吹き飛ばした。
胸に倒れ込んでくるアリスの身体を左手で抱えたまま、数メートルも後方に押しやられた俺は、両脚を踏ん張って硝子に激突するのをこらえた。俺の右肩に頭をあずけたアリスは、ずるりと顔を傾かせて、青い瞳で俺を見た。
「なんだ……」
アドミニストレータの火炎攻撃をその身で防いだ傷も生々しい頬を、ほんのわずかにほころばせ、騎士はかすれた声で囁いた。
「まだ、動けるでは……ないですか」
「……ああ」
俺も、どうにか笑みらしきものを返し、そう答えた。
「後は、任せておけ」
「そう、させて……もらいます」
その一言を最後に、アリスは再び意識を失い、がくりと膝を折った。
細い体を左腕で支え、そっと床に降ろすと、俺はもういちど胸中で呟いた。
あとは任せて、ゆっくりと休んでくれ。
シャーロット、カーディナル、そしてユージオから預かったこの命を、俺は君に繋ぐ。
いま、どうしても成すべきは、アリスだけでも何としてもこの隔絶空間から脱出させることだ。そのために、俺はアドミニストレータと戦い、勝てないまでも相討ちに持ち込まねばならない。
たとえこの四肢すべて斬り飛ばされ心臓を貫かれようとも。
その覚悟を噛み締めながら視線を上げ、俺は敵を見据えた。
アドミニストレータは、笑みを極限まで薄れさせ、剣を握った左手を見つめていた。先の戟剣で傷ついたのか、柔らかそうなその掌がわずかに擦りむけ、一滴の血が剣の柄に伝っている。
「……さすがにそろそろ不愉快になってきたわ」
ぽつり、と極寒の響きをまとった声が漏れ出た。俺に向けられた鏡の瞳が、すう、と細められた。
「何なの、お前たちは? なぜそうも無為に、醜く足掻くの? 結果はもう明らかだというのに。そこにたどり着く過程にどんな意味があるというの?」
「過程こそが重要なんだ。跪いて死ぬか、剣を振りかざして死ぬかがね。俺たちは人間だからな」
応え、まぶたを閉じ――俺はもういちど、敗れるべき己の姿をイメージした。
これまで、長い間俺を否応なく規定してきた”黒の剣士キリト”の自己像。決して敗北してはならない――もし敗れたときは、あらゆる居場所を失うと怯えてきた呪縛の象徴。
しかしもう、その虚像からも手を離すべきときだ。
眼を開けると、長い前髪が視界にかかっていた。それを、指貫きのグローブに包まれた左手でかき寄せ、長い黒革のコートの裾を翻すと、俺は右手の長剣を正眼に構えた。
離れた場所に立つアドミニストレータは、瞬間眉を険しくしかめたあと、この一幕でもっとも残酷な笑みを浮かべた。
「そう、いいわ。あくまで苦痛を望むというのなら……お前には、とてもとても永く惨い運命を与えましょう。はやく殺して、と千回懇願したくなるほどの」
「それじゃ足りないな……俺の愚かさを償うには」
呟き、ぐっと腰を落として、俺は敵の銀の長剣を見た。
アドミニストレータの神聖術の超絶的威力はこれまで散々思い知らされたが、そのリソース源であった鏡のレイピアが破壊されたいま、高優先度の術式を連発することはもうできないだろう。それゆえに彼女はわざわざ己の腕を、新たな剣へと変換したのだ。
武器による近接戦闘は俺としても望むところだが、敵の剣技はまったくの未知数である。恐らくはアリスに代表される整合騎士のスタイル、つまり単発の大技を主とするものだろうが、それが決して侮ってよいものではないことは、アリスとの戦闘で思い知らされたとおりだ。
武器のプライオリティそのものでは恐らくこちらが劣るので、遠距離からの撃ち合いとなれば不利だ。なんとか密接し、敵の一撃を体で止めて、反撃を確実に命中させるしかない。
腹を決め、俺は突進に備えてさらに腰を落とした。前に出した右脚に、引き絞られた弓のように限界まで力を込める。
対峙するアドミニストレータは、涼やかな立ち姿で左手の剣を高く左後方に掲げた。やはりアンダーワールド風の古流の構えだ。あそこから放たれる一撃は恐らく回避不可能の神速技、それをなんとか連続技の初撃でいなして致命傷を避け、続く二撃目を当てる。
「………………」
俺は大きく息を吸い、ぐっと腹に溜めた。
一瞬ののち、右脚のブーツを爆発するように踏み切って、俺は跳んだ。
コートの裾が、翼のように両側ではためく。一条の黒い光線となって、俺は宙を疾る。右手の剣が、きらりと閃いて初動に入る。垂直四連撃、バーチカルスクエア――。
アドミニストレータは、俺の予想どおり、振りかぶった銀の剣を斜めの軌道で撃ち降ろしてきた。その描く曲線を読み、こちらの技を微調整して、敵の剣の腹へと叩きつける。
ギャアアンッ!!
という強烈な金属音が響き、迸った火花が空間を灼いた。
跳ね返された剣を、そのまま左に振りかぶり、無呼吸の二撃目に――
待て。
軽い。
予想では、アドミニストレータの剣は、俺の左肩に命中しそこで止まるはずだった。
しかし、敵の刃は、俺の右手にさしたる手応えも残さずに左側の虚空へと流れ――
そこで凄まじい速度で切り返されて、
俺の二撃目よりも迅く、真横から襲い掛かってきた。
――っ!?
驚愕に打たれながらも、俺は反射的に技をずらし、危うい所で銀の刃を迎え撃った。再びの衝撃。火花。
跳ね上げられた黒い剣を、引き戻すよりも一瞬先んじて。
アドミニストレータの剣が、再度左から滑り込んでくる。
受けは間に合わない。連続技を停めて身体を捻り、なんとか回避を試みる。
しかし、切っ先が僅かに胸をかすめ、コートの一部が鮮やかに切り裂かれる。
通り過ぎた銀の煌きは、何たることか、右側でもう一度超高速の切り返しを見せ――
ずばっ!! という鮮やかな横薙ぎの一撃を、俺の腹に叩き込んだ。
「…………ッ!!」
迸る鮮血の糸を引きながら、俺は後方に跳びのき、左手で傷を押さえた。
あとわずかで内臓に達するほどの深手だ。しかしその激痛よりも、俺は言葉を失うほどの驚愕に打たれていた。
いまの――今の技は――!?
喋れない俺に代わって、アドミニストレータが、剣尖のあかい雫を振り切りながらゆっくりと告げた。
「――片手直剣四連撃ソードスキル、”ホリゾンタル・スクエア”……だったわね」
自分の耳が捉えた言葉が、意味へと変換されるまでに少しのラグがあった。
ソードスキル――、
今、アドミニストレータは、そう言ったのか。
この世界では、俺とユージオしか知るはずのない、旧ソードアート・オンライン由来の連続剣技。それを見事に使いこなし、しかも技の名まで口に出すなどと――一体なぜ、そんなことが。
巨大な混乱に襲われ、じりじりと距離を取る俺の視界に、血の池に倒れ臥すユージオの姿が僅かに入った。ずきりと襲ってくる疼きと焦燥に耐えながら、俺はある可能性を思いつく。
アドミニストレータはユージオの名前を知っていた。恐らく、俺とアリスがこの部屋に乗り込む以前に、ユージオに対して何らかの干渉が行われたことは間違いない。フラクトライトへの直接アクセス権を持つアドミニストレータは、ユージオの記憶を走査し、そこから俺が彼に伝えた連続剣技を掬い取ったのではないか?
この推測が正しければ――彼女が使えるのは、片手直剣用の中級スキルまでに限られるはずだ。ユージオがマスターしていた技は最大でも五連撃までなのだから。
ならば、俺がそれ以上の技を繰り出せば、勝機はある。
片手直剣技を完全習得した俺の最大攻撃は、十連撃に及ぶのだ。もう、出し惜しみをしている状況ではない。
ぐ、と足を開き腰を落とした俺を見て、アドミニストレータがくすりと嗤った。
「あら……まだ、そんな生意気な眼ができるの? いいわね、楽しい時間が長くなるというものだわ」
片腕を落とされ、天命も大幅に減少しているはずの最高司祭は、底知れぬ余裕を見せてそう嘯いた。俺はもう言い返そうとせず、大きく息を吸い、ぐっと溜めた。
身体と記憶に染み付いたソードスキルのイメージが、鮮明に蘇ってくる。見れば、右手の剣を、ぼんやりとスカイブルーのエフェクト光が包み始めている。
ゆるり、と円を描くようにその剣を大上段に持ち上げ――
「――ハァァッ!!」
気合一閃、同時に剣から迸った眩い光芒を振り撒きながら、俺は片手直剣最上位ソードスキル、”ノヴァ・アセンション”を発動させた。
見えない力に後押しされるように、身体が超高速で宙を翔ける。初弾は、ほとんどの剣技に撃ち合わせることが可能な上段から最短距離の斬撃だ。この速度を上回る技は、片手直剣には無いはずだ。
刃がアドミニストレータの肩口を襲うまでの約〇.五秒。
加速感覚によってゼリーのように密度を増した時間のなか、俺の瞳が捉えたのは――。
す、と剣尖をこちらに向けられるアドミニストレータの銀の剣。
その刀身が、一瞬でその幅を半分ほどに縮め。
ヴァーミリオンのライト・エフェクトをちかっと瞬かせ。
ドカカカカッ!! と、立て続けの刺突八弾が自分の肉体を貫くさまだった。
「がっ……」
俺の口から、大量の血液が迸った。
黒い剣の刃は、あと髪ひとすじ程でアドミニストレータの肌を切り裂く、というところで停止していた。
初弾をインタラプトされた俺の十連撃は、ブルーの輝きをむなしく宙に放散させ、消滅した。
一体何が起きたのか、もうまったく理解できなかった。激痛と驚愕の双方に等しく翻弄され、俺は腹から血塗られた極細の刀身がずるりと抜き出されるさまを、ただ見つめた。
突き技――!?
しかし、何というスピードだ。あんな技、直剣カテゴリには存在しない。
混乱と同期するかのように、八箇所の小さな傷口から、勢い良く鮮血が噴き出した。がくりと膝から力が抜け、俺は剣を床に突きたてて倒れるのをどうにか堪えた。
俺の血を避けるように、軽やかに数歩跳んだアドミニストレータは、極細の剣で唇のあたりを覆った。それが、哄笑を抑える仕草であることを俺は直感的に察した。
「うふ……ふふふ……ざーんねんでした」
刃の縁から、きゅうっと唇の両端をはみ出させ、美貌の支配者は嘲るように告げた。
「細剣八連撃ソードスキル、”スター・スプラッシュ”よ」
――嘘だ。
そんな技、俺はユージオに教えていない。
それは――俺ではなく――アスナの得意技ではないか。
ぐうっ、と世界が歪む感覚。いや、歪んでいるのは俺自身か。有り得ないはずの事象を突きつけられ、俺は必死に解答を求める。
覗かれたのは――俺の記憶?
今の技は、俺のフラクトライトから盗まれたのか?
「嘘だ……」
俺の口から、俺のものとは思えない潰れた声が漏れた。
「そんなの嘘だ」
ぎりり、と噛み合わされた歯が軋む。自分でも理由のわからない怒り、そして再び忍び寄りつつある恐怖を打ち消そうとするかのように、俺は床から乱暴に剣を引き抜き、ふらつく脚を叱咤して大きくスタンスを取る。
左手を前に、右手を引いて。一撃必殺、”ヴォーパル・ストライク”の構え。
彼我の距離、約五メートル。完全に間合いのうちだ。
「う……あああああ!!」
萎えかけたイマジネーションの力を無理やりに引っ張り出すべく、俺は腹の底から絶叫した。肩の上につがえられた剣が、獰猛なまでのクリムゾンに輝く。それは血の色――あるいは、むき出しの殺意の色か。
対するアドミニストレータは。
俺と同じように、両脚を大きく前後に広げると、左手のレイピアを滑らかな動作で右腰に回し、まるでそこに鞘があるかのようにぴたりと止めた。
その針ほどにも細い刀身が、再び形を変えた。
ぐ、と幅と厚みを増し、その上ゆるやかな弧を描く。片刃の曲刀――あれは、まるで。
いや、もう思考はいらない。怒りだけがあればいい。
「――――おおおッ!!」
獣の咆哮とともに、俺は剣を撃ち出した。
「――シッ!!」
アドミニストレータの唇からも、抑制された、しかし鋭い気合が放たれた。
右腰の剣が、眩い銀色に輝き。
俺の血色の直突きよりも、滑らかで、美しく、そして速い曲線軌道を描いて。
抜き打ちの一撃が、俺の胸を抉った。
巨人のハンマーで横殴りにされたような、凄まじい衝撃が俺を紙切れのように吹き飛ばした。決定的な深手から、残ったほぼすべての天命を真紅の液体に変えて放出しながら、俺は高く宙を舞った。
左手をまっすぐに振りぬいた姿勢のまま、アドミニストレータが悠然と放つ言葉が、かすかに俺の耳に届いた。
「カタナ単発重斬撃、”絶虚断空”」
俺の――
知らない、
ソードスキル。
驚愕などという形容では追いつかない、圧倒的に拒絶された感覚を抱えながら、俺は床に墜落した。ばちゃり、という水音とともに、大量の鮮血が周囲に散った。俺のものだけではない――落ちたのは、ユージオの肉体から零れた真紅の海のなかだった。
痺れ切った意識、そして身体のなかで、動かせるのはもう視線だけと思えた。俺は懸命に眼を巡らせ、すぐ傍らに横たわるユージオを見た。
骨盤の真上あたりから無残に分断された、誰よりも大切な相棒は、真っ白な顔をわずかに傾けて目蓋を閉じていた。その傷口からは、まだぽた、ぽたと血が垂れていて、天命がすでに尽きてしまったのか、あるいはまだ僅かに残っているのか判別できなかったが、しかしもう意識は戻るまいと思えた。
そして、何より確かなのは――俺が、彼から受け取った意志を無駄にしてしまったということだった。
アドミニストレータには勝てない。
神聖術戦ではもちろん、剣と剣の戦いにおいても、俺があの存在に勝る部分は何一つ無かったのだ。
一体彼女が、いかなる情報源からソードスキルの恐らく全体系を己に取り込んだのかはもうまったく解らない。ユージオの記憶でも、俺の記憶でもないことだけは明らかだ。アンダーワールド構築にも使用された、汎用のザ・シードパッケージには、ソードスキルのシステム・アシスト・プログラムは含まれていない。それが現存するのは旧SAOサーバーを受け継いだアルヴヘイム・オンラインの内部だけだ。しかし、高度なプロテクトに守られたはずのALOサーバーにハッキングを仕掛けるなどということは、現実世界の人間ではないアドミニストレータに出来るはずはないのだ。
これ以上はもう、推測するだけ空しい。たとえ真実を導けたとしても、俺にはもう何もない、という事実は厳然として変わらない。
許し難い無力――耐え難い矮小さ。
シャーロットの献身、ユージオの覚悟、そしてカーディナルの遺志を、俺は――。
「――いいわね、その顔」
凍りついた刃物のような声が、倒れ臥す俺の首筋を撫でた。
剣を下げたアドミニストレータが、一歩、一歩と、しなやかに近づいてくる気配が感じられた。
「やっぱり、向こうの人間は感情表現も一味違うのかしらね? その泣き顔のまま、永遠に氷漬けにしておきたいようだわ」
絹を撫でるような喉声で、小さく嗤う。
「それに、面倒なだけだと思ってた武器戦闘も、これはこれで悪くないわね。相手の苦痛を指先で感じるもの。せっかくだから、もう少しだけ生きていて頂戴な。私がさきっぽから切り刻んで遊べるように」
「……好きに、しろ」
音にならない声で、俺は答えた。
「好きなだけ……嬲って、殺せ……」
せめて俺が、ユージオやカーディナルの倍、いや十倍苦しんでこの世界から消えるように。
もう喋る力も尽きかけ、貼り付いたように黒い剣の柄を握り続ける右手の指を、俺は最後の気力で引き剥がそうとした――
その瞬間。
耳元で、声がした。
「らしく……ないぞ、諦め……る、なんて」
切れ切れの、
今にも消え入りそうな、
しかし聞き間違えるはずもないその声は。
俺は、自分がすでに意識を失い幻覚に落ち込んだのかと疑いながら、再び視線を動かした。
泣きたくなるくらい懐かしい、鳶色の瞳が、うっすらと俺を見て微笑んでいた。
「ユー……ジオ!!」
掠れ声で叫んだ俺に向かって、相棒は、ほんの僅かに唇をほころばせてみせた。
先刻、ソードゴーレムの攻撃で腹を分断されかけた俺は、痛みと恐怖で動くこともままならなかった。しかしユージオの傷は、その比ではない。内臓から脊髄まで、全てが完璧に切断されているのだ。その痛みは、フラクトライトが崩壊するに充分なレベルに達しているはずなのに――。
「キリト」
凄まじい意志力の発露を見せ、ユージオがもういちど囁いた。
「僕は――あのとき……アリスが連れ去られるとき……動けなかった……。君は……幼い君は、勇敢に……立ち向かおうと、したのに……」
「……ユージオ……」
それが、九年前の出来事に関する言葉であろうことはすぐに解った。しかし、俺はその場には居なかったはずなのだ。ユージオの記憶が混乱しているのか、と一瞬思ったが、彼の眼に宿る光はあくまでもまっすぐで、その言葉が真実を告げていることを明白に表していた。
「だから……今度は、僕が……君の、背中を、押すよ……。さあ、キリト……君なら、もう一度、立てる。何度だって、立ち上が……れる……」
ユージオの右手が、ぴくり、と動いた。
その指が、血の海のなかから、青銀に輝く金属――青薔薇の剣の柄を拾い上げるのを、俺は溢れる涙を通して見た。
刀身の半分が粉砕された愛剣を、ユージオはその断面を血に沈めたまま僅かに持ち上げ、そして一瞬眼を閉じた。
直後、とてつもなく暖かな朱色の輝きが、俺たちを包んだ。
血だ。ほとんどはユージオの、そして少しばかり俺の零したものが混ざりこんだ血の海が、炎のように発光している。
「何をっ……!?」
アドミニストレータが、そう叫ぶ声がした。しかし、何故か無敵の支配者は、朱色の光を恐れるかのように左手で顔を覆い、一歩後ずさった。
輝きは、どんどん……どんどんその強さを増し、ついに無数の光点と化して一斉に舞い上がった。
それらは皆つぎつぎと、渦を巻いて青薔薇の剣へと吸い込まれていく。
そして、剣の断面から――真紅の、新たな刀身が。
ダイレクトリソース変換!
世界にたった二人の管理者にしか使えないはずの超絶技を間近に見て、俺は息を詰まらせた。恐ろしいほどの感情のうねりが胸の奥から湧き上がり、それは新たな涙に変わって次々と溢れ出した。
数秒でもとの長さを取り戻した青薔薇の剣の、その名の由来となった、柄に精緻に象嵌されている幾つもの青紫色の薔薇たちが、真紅にその花弁を変えた。今はもう紅薔薇の剣となったその美しい武器を、ユージオは震える腕で俺に差し出した。
さっきまで感覚すら失せていた俺の左手が、滑らかに動き、ぐっとユージオの手ごと剣の柄を掴んだ。
瞬間、身体の奥深いところに流れ込んできたエネルギーを――
俺は術式とは呼ばない。
それは確かに、ユージオの意志そのものが生み出す力だった。奇跡、そう言ってもいい。システムも、コマンドもまったく超越したレベルで、ユージオのフラクトライトから俺のフラクトライトへと伝わる魂の共振を、俺は確かに感じた。
ユージオの手から力が抜け、俺に剣を預けると、ぱたりと床に落ちた。再び微笑みを浮かべたその唇から――いや、彼の意識から俺の意識へと、短い一言が伝達された。
『さあ……立って、キリト。僕の……英雄……』
全身に穿たれた傷の痛みが消えた。
胸の奥の虚無が、燃え上がるような熱さに埋め尽くされた。
再びまぶたを閉じたユージオの横顔を、いっとき強く見つめ、俺はうなずいた。
「ああ……立つよ。お前のためなら、何度だって」
数秒前までは感覚すらなかった両腕を高く差し上げ、そこに握った二本の剣を床に突いて、俺は歯を食いしばって全身を持ち上げた。
体は半分以上言うことを聞こうとしなかった。足はふらつき、孔だらけの体幹は今にも砕けそうだ。それでも、俺は一歩、二歩と、よろけながら前に進んだ。
アドミニストレータは、背けていた顔をゆっくりとこちらに戻し――蒼い炎のような両眼で俺を見た。
「――何故だ」
放たれたその声は、フィルタがかかったかのように低く歪んでいた。
「何故そう幾度も幾度も抗おうとする。何故そうまで拒絶するのだ、慈悲深き絶望の腕を」
「言ったろう」
同じく、低く掠れた声を俺は返した。
「抗うことだけが、俺が今ここにいる意味のすべてだからだ」
その間も足を止めず、何度も倒れそうになりながら、俺はひたすらに進み続ける。
右手と左手に握った二本の剣たちは、とてつもなく重かった。しかし同時に、その強烈な存在感からはある種のイマジネーティブな力が尽きることなく湧き上がり、俺の内部を満たし、身体を動かした。そう――遠い、遠い昔、こことは別の世界で、俺はこうして二刀を引っさげて幾度も死地へと赴いたものだ。これこそが、俺が長い間忌避しつづけてきた黒の剣士、”二刀流”キリトの真にあるべき姿だ。
再び視覚のオーバーライティング現象が発生し、切り刻まれたロングコートが一瞬で再生した。無論、肉体に負ったダメージまでは消えない。だがもう、残る天命数値が幾つだろうと関係ないと思えた。手足が動き、剣を振れさえすれば、それ以上必要なものはもう何一つない。
レーザーのような視線で俺を射ていたアドミニストレータが、不意にじりっと片足を下げた。ついでもう片方も。
そののちに、己が後退したという事実に気付いたかのように、白銀の美貌に鬼神のごとき憤怒の表情が浮かんだ。
「……許さぬ」
唇が動くことなく発せられた一言は、青白い炎に包まれていた。
「ここは私の世界だ。貴様如き侵入者に、そのような振る舞いは断じて許さぬ。膝を衝け。首を差し出せ。恭順せよ!!」
ごっ!! と凄まじい勢いで、支配者の足下から、黝い闇のオーラが噴き出し蛇のようにうねった。カタナから再び直剣へと戻った銀色の刃が凶悪にぎらつきながら持ち上げられ、ぴたりと俺の胸の中央を擬した。
「……違う」
距離約五メートルの位置で脚を止め、俺は最後の言葉を返した。
「あなたは只の簒奪者だ。世界を……そこに生きる命を愛さない者に、支配者の資格は無い!!」
身体がほとんど勝手に動き、構えを取る。左手の紅い薔薇の剣を前に、右手の黒い大樹の剣を後ろに。右脚を引く。腰を落とす。
アドミニストレータの銀の剣も、すうっと肩の上まで掲げられ、俺の黒い剣と対象の位置、角度で停止した。真珠の唇から、何度と無く繰り返された言葉が、託宣のように放たれた。
「愛は……支配也。私はすべてを愛する。すべてを支配する!!」
外燃機関を思わせる同質の金属音が、双方の剣から放たれ、高く共鳴した。
銀の剣と黒の剣が、まったく同色の真紅の閃光に包まれた。
俺とアドミニストレータは、同時に床を蹴り同一のソードスキルを始動させた。
完璧な鏡像を成して、剣が矢のように引き絞られ、一瞬の溜めで光を倍増させ――撃ち出される。
等しい軌道上を直進したそれぞれの剣は、ほんの僅かに剣尖を触れ合わせ、交差した。
重い衝撃とともに、俺の右腕が肩の下から斬り飛ばされ、
しかしその時には、俺の剣もアドミニストレータの左腕を付け根から断ち斬っていた。
吹き飛んだそれぞれの剣と腕が、いまだクリムゾンの光芒を引きながら、高く舞い上がった。
「おのれええええええ!!」
双腕を失ったアドミニストレータの鏡の眼が、虹色の焔と化して燃え上がった。
長い髪が、まるで生き物のように逆立ち、無数の束を作って宙をうねった。その尖端が鋭い銀色の針に変わり、俺の全身目掛けて襲い掛かった。
「まだだあああああっ!!」
俺の叫びと同時に、左手に握られたユージオの剣が、再び真紅の閃光を解き放った。
SAO世界では決して有り得なかった、二刀によるヴォーパル・ストライクの二撃目が、やや下方から血の色の彗星となって突進し――
銀針の群れの中心を突き破って、アドミニストレータの胸の中央を深く貫いた。
とてつもなく重く、決定的な手応えが、俺の左の掌に深く浸透した。全身に穿たれたレイピアの傷より、胸を抉ったカタナの傷より、そして切断された右腕の痛みよりも、それは鮮明に俺の意識の隅々にまで響き渡った。
剣がアドミニストレータの滑らかな皮膚を切り裂き、筋肉を断ち骨を砕き、その奥の心臓を吹き飛ばすのを――つまり、自分がひとりの人間の生命を破壊したのを、俺は実際に眼で視たかのように自覚した。この世界の人間たちが本物のフラクトライトを持っていると悟ってから、執拗に避け続けてきた行為。しかし、この一撃に限っては一抹の躊躇いもなかった。ここで迷うことは、俺たちを信じて逝ったカーディナルのためにも決して許されなかった。そして恐らく、誇り高き支配者であるアドミニストレータのためにも。
そのような思考を巡らせることができたのも、ほんの一瞬だった。
最高司祭の胸の中央を貫いた青薔薇の剣が、ソードスキルのエフェクト光ではない、恐ろしいほどに強烈な真紅の輝きを放ったのだ。
ユージオの血から再生された刀身の前半分が、融ける寸前の鋼のように発光し、次の瞬間――数千、数万のエレメントを同時にバーストさせたかのごとく、リソースの大解放現象を引き起こした。
アドミニストレータの両眼が極限まで見開かれた。小さな唇が無音の絶叫を放った。
この世界の誰よりも美しいその体のそこかしこから、細い光の束が放射状に屹立し――
そして、純粋なエネルギーの極大爆発が、すべてを飲み込み、広がった。
轟風に叩かれた木の葉のように、俺は回転しながら吹き飛ばされ、背中から硝子の壁に激突した。跳ね返り、床に墜落したあと、ようやく右肩の傷口から噴水のように血が噴き出すのを感じた。散々切り刻まれたあとにこれほどの血が残っているのがいっそ不思議なほどで、いよいよこれで俺の天命もゼロになるのか――と一瞬考えたが、しかし俺にはまだやらなければならないことがある。もう少しだけ、生きていなくてはならない。
左手の剣に目をやると、刀身は再び半分になり、薔薇の象嵌も青に戻っていた。それを床に落とし、五本の指で右肩を強く握る。
不思議なことに、術式を唱えずとも治癒のイメージを想起しただけでブルーの光がほのかに零れ、凍てつくようだった傷口に暖かさが広がった。しかし術はほんの一秒ほど、出血がぎりぎり止まったところで解除する。ほとんど枯渇しているはずの空間リソースをこれ以上使うわけにはいかない。
左手を離し、それを床に突いて、俺は身体を持ち上げた。
そして、驚愕のあまり呼吸すらも忘れた。
いまだバーストしたエネルギーの残滓が、空中を蜃気楼のようにゆらゆらと漂うその先に――。
凄まじい爆発で、跡形もなく吹き飛んだと思えた銀髪の少女が、よろめきながらも二本の脚で立っていた。
その身体は、いまだ人のかたちを留めているのが奇跡と思えるほどの有様だった。両腕は喪失し、胸の中央には巨大な孔が開き、全身のそこかしこにも陶器が割れたかのようなひび割れや欠損がある。
そして、無数の傷口から流れ出しているのは、血ではなかった。
銀と紫が混じった火花のようなものが、ばち、ばちっと鋭く弾けながら絶え間なく噴き出し、空中に拡散していく。剣に変えられた人々だけではなく、アドミニストレータ自身の身体すらもはや生身の人間のものではないのだと思わずにいられない光景だ。
溶かしたプラチナのように美しかった長い髪もずたすたに切断され、不揃いに垂れ下がるその奥で俯けられた顔はよく見えなかった。
しかし、暗がりでかすかに唇が動き、漏れ出した声が俺の耳に届いた。竪琴の音色にも似たその響きは完全に失われ、それはもう歪んだノイズでしかなかった。
「……よもや……剣が、二本ともに……金属でないとは……ふ、ふ」
壊れた人形のように小刻みに肩を揺らし、支配者はそれでも短く笑った。
「意外……まったく、意外な、結果だわ……。残るリソースすべてを掻き集めても……追いつかない、傷を、負うなんて……ね」
アドミニストレータが、一瞬で傷を完璧に癒してしまう悪夢を否応無く想像させられていた俺は、詰めていた息をわずかに吐き出した。
瀕死の支配者は、もう俺のほうなど見ようともせず、がくりと崩壊寸前の身体の向きを変えた。ばち、ばちと火花をこぼしながら、電池の切れかけた玩具のように、ゆっくりと歩き始める。
その向かう先は、部屋の北側――最初から最後まで何一つ存在しなかった箇所だった。俺は必死の努力で、硝子に背を預けて立ち上がり、アドミニストレータを目で追った。これ以上、何か逆転の手を打たれるまえに確実に倒さなくてはならない。そう思い、後を追おうとしたが、俺の体もほとんど言うことを聞かなかった。最高司祭よりもさらにぎこちない動作で、ずるり、ずるりと脚を引き摺って進みはじめる。
俺の二十メートルほど先を歩くアドミニストレータは、間違いなく一点を目指しているようだった。しかし、リソースの枯渇したこの隔絶空間から脱出する術は、彼女にも無いはずだ。切り離すのは一瞬でも繋ぐのは大ごと、というカーディナルの言葉を、アドミニストレータも否定はしていなかった。
数十秒後、支配者が立ち止まったのは、やはり何も――部屋のそこかしこに散らばるゴーレムの剣骨すら一つたりとも存在しない場所だった。
しかし、傷だらけの裸身を大仰そうに振り向かせ、俯いたまま俺を見て、少女はかすかに嗤った。
「……しかた、ないわ。予定より、随分と早い……けど、一足先に、行ってるわね、向こうに」
「な……何を……」
言っているのだ、と俺が問い質すまえに。
アドミニストレータは、伸ばした右脚で、とん、と床を衝いた。
その箇所の絨毯に――不思議な円形の紋様があった。
巨大ベッドを収納した跡のような、そして円筒形の出入り口が砕け散った跡のような。
直径五十センチほどのその円が、ぱあっと紫の光を放った。
輝くサークルの底から、かすかな震動とともにせり上がってきたものは。
大理石の柱の天辺に載った、
ひとつのノートパソコンだった。
「な……」
俺は驚愕のあまり棒立ちになった。
いや――現実世界のノートPCそのものというわけではない。筐体は半透明の水晶製だし、画面も薄紫に透き通っている。キーボードはダイヤモンドのように輝き、ポインティングデバイスは磨かれた鏡のようだ。あれは――PCではなく、SAO世界でいちど目にしたバーチャルシステム端末そのものだ!
つまり、あれこそが――
俺がこの二年間追い求めてきた、”外部世界への連絡装置”なのだ!
背を殴られるような衝動に従い、俺は思わず駆け出そうとしたが、その命令を右脚が拒否しがくりと膝を突いた。
それでも俺は、片手で床を掻き、這い進んだ。しかしその速度は絶望的なまでに遅く、アドミニストレータの居る場所は決定的に遠かった。
両腕の無い支配者の、銀の髪がひと房生き物のように持ち上がり、その先端で素早くキーボードを叩いた。ホロ画面に幾つかのウインドウが開き、何らかのインジケータがカウントを刻みはじめ――、
そして、アドミニストレータの身体を、床から天井へと流れる紫の光の道が包み込んだ。素足のつま先が、音も無くふわりと浮き上がった。
ここでついに、爆発からはじめてアドミニストレータが顔をあげ、まっすぐに俺を見た。
完璧を誇っていたその美貌は、無残な有様だった。左側が大きくひび割れ、眼のあった場所は底なしの暗闇に満たされている。その奥で、細いスパークが連続して弾け、崩壊寸前の機械の印象をいっそう強めている。
真珠色に輝いていた唇もいまは紙のようだったが、そこに浮かぶ微笑は変わらずに極北の冷気を湛えていた。無事な右眼をすうっと細め、アドミニストレータは再び短く嗤った。
「ふ、ふ……じゃあね、坊や。また……会いましょう。今度は、お前の、世界で」
その言葉を聴いて、ようやく俺は、アドミニストレータの意図するところを察した。
彼女は――現実世界へと脱出しようとしているのだ!
天命という絶対限界に縛られたこのアンダーワールドから抜け出し、そのフラクトライトを保全するつもりなのだ。俺が、ユージオやアリスの魂をそうしようとしていたように!
「ま……待て!!」
俺は懸命に這いずりながら叫んだ。
俺が彼女なら、脱出と同時にあの端末を破壊する。もしそうされたら、すべての希望が潰える。
しかし、アドミニストレータの裸身は、ゆっくりと、しかし着実に光の回廊を上昇していく。
笑みを湛えたその唇がゆっくりと動き、無音の言葉を刻んだ。
さ、よ、
う、
な――
最後の一音が形作られる、その直前。
いつの間にか、俺もアドミニストレータも気付かぬうちに、彼女の足元まで這い進んできていた人物が、甲高い絶叫を放った。
「行かないでくださいよほぉぉぉぉぉぉうぅぅぅぅぅッ!!」
チュデルキン。
もうはるか昔と思えるほど以前に、俺の技に貫かれ、アドミニストレータに処分されたはずの道化が。
青いほどに血の気を失った丸い顔に、すさまじい形相を浮かべ、両手の指をかぎづめのように曲げて上空へと伸ばした。
その、胸の下でほとんど分断されかけた身体が、突然灼熱の炎と化して燃え上がった。
ぼおおっ!! と轟音を撒き散らし、まるで自身が火焔ピエロの術式と化したかのように赤熱したチュデルキンが、螺旋を描いて上空へと突進した。
さしものアドミニストレータの顔にも、驚愕と、そして恐らく恐怖の表情が浮かんだ。ほとんど天井に達しようとしていたその小さな両足に、チュデルキンの燃え盛る両手ががっちりと食い込んだ。
引き伸ばされた道化の身体は、そのままぐるぐるとアドミニストレータの裸身を這い進み、火焔でできた蛇のようにしっかりと巻きついた。直後、これまでに倍する炎がその全身から吹き荒れ、両者の身体を包み込んだ。
アドミニストレータの髪が、その先端から融けるように燃え上がった。
唇が歪み、悲鳴にも似た叫びが放たれた。
「離せっ……! はなしなさいこの馬鹿者!!」
しかし、チュデルキンはまるでその言葉が愛の告白ででもあったかのように、真ん丸い頭の中央の細い目をさらに糸のようにして、至福の笑みを浮かべた。
「ああぁぁぁ……ついに……ついに猊下とひとつになれるのですねぇぇぇ……」
短い両腕が、アドミニストレータの身体をしっかりと抱きしめ、ついに支配者の肌それ自体が灼熱の炎を吹き上げた。
「貴様ごとき……醜い道化に……この私がっ……」
その言葉は半ば悲鳴だった。身体のあちこちに穿たれていたひび割れが、さらに拡大しつつ次々と剥離し、そこから噴き出す新たな銀のスパークと火焔が混じり合って花火のように飛び散った。
チュデルキンの体躯はもうほとんど原型を失い、純粋な炎と化していた。その中心に至福の表情だけが残り、最後の言葉を響かせた。
「ああ……猊下……アタシの……アドミニストレータ……さ……ま……」
そして、アドミニストレータの身体もついに実体を失い、荒れ狂う炎と化した。
支配者は、破壊され、燃え上がる顔からすっと表情を消し、銀の瞳で上空を見つめた。この状況にあっても、支配者の相貌は、恐ろしいまでに美しかった。
「……私の……世界……。どこまでも……ひろがる……わたし……の……」
その先を聴くことはできなかった。
燃え盛る火焔が、一瞬ぎゅっと凝縮し、
純白の閃光となって解き放たれた。
爆発というよりも、すさまじいエネルギーの全てが光に還元され、空間に満ちたように思えた。轟音も震動もなく、ただ、世界でもっとも巨大な存在が崩壊・消滅したという概念的事象それのみが空間を満たした。
もう、世界はもとの姿に戻らぬのではないかというほどの長時間、白光は密度と方向を揺らめかせながら輝き続けた。
しかし、やがてついにそれも薄れてゆき、俺の視界に色と形が戻りはじめた。
涙が溢れる眼を何度もしばたかせながら、俺は爆発の中心点を懸命に見通した。
そこには、紫のゲートがまだかすかに残っていた。しかし存在するのはそれだけで、アドミニストレータとチュデルキンという存在の痕跡は何一つ見つけられなかった。数秒のうちにゲートが瞬きながら消滅し、あとには床から突き出した大理石の柱と、バーチャル端末だけが冷たく鎮座するのみだった。
ついに、アドミニストレータ、あるいはクィネラという名の女性が、完全に消滅したことを俺は論理と直感の双方で悟った。彼女の天命はゼロになり、そのフラクトライトを格納していたライトキューブは初期化された。おそらくは、その隣に並んでいたのであろうカーディナルのライトキューブと同じように――。
「……終わった……のか……」
俺は、床に両膝を突いたまま、無意識のうちにそう呟いた。
「これで、よかったのか……カーディナル……?」
無論、答えはなかった。
しかし、恐らくは俺の記憶から発生したかすかな波動のようなものが、微風となってそっと頬を撫でた。大図書室の底で、そっと抱きしめたカーディナルの香り――古書と、蝋燭と、そして甘い砂糖菓子の香りが混じった風だった。
俺は一瞬顔を仰向かせ、眼を閉じた。
そして、左腕でぐいっと涙を拭いた。それを包む袖が、いつの間にか黒革のロングコートからもとの麻のシャツに戻っていることをわずかに意識しながら、身体の向きを変え、部屋のほぼ中央――横たわるユージオに向かって這い進んだ。
相棒の身体には、まだかすかに生命の気配が残っていた。
無残に切断された身体からは、ぽたり、ぽたりと間隔をあけて血が滴っている。残る天命はおそらく数分も保つまい。
必死の前進でユージオの傍らまで達した俺は、まず出血を止めるべく、離れた場所に転がる下半身を運んでぴたりと切断面を合わせた。
そして、傷口に左手を当て、治癒のイメージを想起する。
掌の下に、ぽっ、と点った青い光は、愕然とするほど頼りなかった。しかし俺はその光を懸命に切断面に翳し、傷を塞ごうとした。
だが――。
じわり、じわりと滲み、流れ出てゆく、ユージオの命そのものである紅い液体は、いっこうに止まろうとしない。ダメージの巨大さに対して、治癒術の優先度が絶望的に足りないのだ、と頭では理解しながらも、俺は執拗に手を動かし、叫んだ。
「止まれ……止まれよ! なんでだよ!!」
アンダーワールドでは、イメージの力がすべてを決定し、あるいは覆すのだ。想いはどんな奇跡だって起こせるのだ。そうであるはずではなかったか。俺は魂を絞り尽くすほどに祈り、念じ、そして願った。
しかし、血はなおも一滴、一滴とこぼれ続ける。
イマジネーションが干渉できるのは、あくまでオブジェクトの外形という視覚的要素のみで、プライオリティやデュラビリティといった数値要素までをも改竄できるわけではない――。
そんな理屈が意識の片隅を横切ったが、俺はそれを認めることを拒否した。
「ユージオ……戻ってこい! ユージオ!!」
もう一度叫び、俺は顔を下げると、歯で自分の左手首を噛み破るべく口を開いた。計算上は圧倒的に足りないのは解っていたが、しかし現在俺が利用でき得るリソースのすべてを注ぎ込まずにはいられなかった。たとえそれで、俺とユージオの天命がともにゼロになろうとも。
犬歯が皮膚に食い込み、肉と一緒に引きちぎらんととした、まさにその瞬間――。
ごくごく微かなささやき声が、俺の頬をそっと撫でた。
「ステイ・クール…………、キリト」
はっ、と顔を上げる。
ユージオが、ほんの少しだけ目蓋を持ち上げ、微笑んでいた。
顔色は紙のように青白く、唇にもまったく血の気がなかった。天命は変わらず減少を続けているのは明らかだ。しかし鳶色の瞳は、常と変わらず、穏やかな光をきらきらと湛えて俺を見つめた。
「ユージオ……!」
俺は、かすれた声で叫んだ。
「待ってろ、いま治してやるからな! お前を死なせやしない……絶対に死なせない!」
もう一度、手首を噛み破ろうとする。
しかし、寸前、氷のように冷たく、しかし同時に仄かに暖かい手が俺の手首を覆い、握り締めた。
「ユー……」
言いかけた俺を、ユージオはごく僅かに首を振って制した。
「いい……んだ。これで……いいんだ、キリト」
「何言ってるんだ! いいわけないだろう!!」
悲鳴のような俺の言葉にも、ユージオは、どこか満ち足りたような笑みを消すことはなかった。
「僕は……果たすべき、役目を、ぜんぶ果たした……。ここで、僕らの道は……分かれてたんだよ……」
「そんなわけがあるか!! 俺は運命なんて認めない!! そんなの絶対に認めないからな!!」
子供のように、泣き声混じりにそう言い募る俺を諭すように、ユージオはもう一度瞳でかぶりを振った。
「……もし……こうならなければ、僕と……君は、お互いの”アリス”のために……戦わなくちゃ、ならなかったろう。僕は……アリスの記憶をその身体に戻すために……そして君は、整合騎士アリスの魂を、守るために……」
瞬間、俺は息を詰めた。
それこそは、俺が心の奥底で危惧し、しかし意識して考えようとしてこなかった未来図だった。仮にすべてが解決し、いまの騎士アリスを消去してルーリッドのアリスを復活させるとなったとき、俺は果たしてそれに同意できるのだろうか――という。
今この時になっても、俺は答えを出すことはできなかった。
しかし、その迷い自体を、涙とともに俺はユージオにぶつけた。
「なら、戦えよ!! 傷をぜんぶ完璧に治してから、俺と戦え!!」
だが、ユージオの、透徹したような笑みは揺らぐことがなかった。
「僕の……剣は、もう折れて……しまったよ。それに……僕も……決められた、運命なんて、厭だ。僕と……君が、戦うなんて、そんな……誰かに決められた……筋書きみたいなの、絶対に、厭だよ」
そう呟いたユージオの両眼に、大きな涙の粒が盛り上がり、すうっと音もなく流れた。
「僕は……ずっと、君が、羨ましかったんだ……キリト。誰よりも……強く、誰にだって……愛される、君が。もしかしたら……アリスだって、君のほうを……、そんな風に、思ってたんだ……よ。でも……ようやく、解った。愛は……もとめる、ものじゃなくて、与える、ものなんだって。アリスが……それを、教えて、くれたんだ」
言葉を切り、ユージオは左手も持ち上げた。その掌に包まれた紫のプリズムがちかちかと瞬きながら、俺の指先に触れた。
その瞬間――。
世界のすべてが白い光に包まれ、溶け、消滅した。
床の硬さも、重力も、斬られた右腕の痛みも消え、穏やかな流れが俺の魂を載せてどこか遠くへと運んだ。胸を覆い尽くす巨大な哀しみすらも、暖かなストリームに優しく融かされ――そして――
ちらちら、と鮮やかな緑色の輝きが、高みで揺れている。
木漏れ日。
ようやく訪れた春の日差しを謳歌するように、樹々の新芽がいっぱいにその手を伸ばし、微風にそよぐ。艶やかな黒い枝を、名も知れぬ小鳥たちが追いかけっこをするように飛び渡っていく。
「ほら、手がお留守よ、キリト」
鳥たちの囀りよりも軽やかな声に、見上げていた視線を戻した。
傍らに座った、青と白のエプロンドレス姿の女の子の金髪が、日差しを受けて眩くきらめいた。一瞬眼を細めてから、肩をすくめて言い返す。
「アリスだってさっき、口ぽかーんて開けてワタウサギの親子を見てたじゃないか」
「ぽかーんなんてしてないわよ!」
ぷい、と顔を反らせ、すぐにくしゃっと笑ってから、少女――アリスは手にしていたものを高く差し上げた。
それは、丁寧に仕立てられた小剣用の革鞘だった。真新しい、ぴかぴか光る表面に、色鮮やかな白糸で竜をかたどった刺繍が施してある。どこか親しみを覚える、丸っこい形の竜の尻尾だけが中途で途切れ、その先端からは針に通された糸が垂れ下がっている。
「ほら、私のほうはもうすぐ出来るわよ。そっちはどうなのよ」
言われて、目を自分の膝に落とす。
乗っているのは、森で二番目に硬い白金樫の枝を削り出した小剣だ。森のことに誰よりも詳しいガリッタ爺さんに教わって、鉄のようなその木材を二ヶ月もかけて形にしたのだ。刀身はもう完全に出来上がり、あとは柄の細工の仕上げを残すのみだ。
「俺のほうが速いさ。もうあとこんだけだ」
答えると、アリスはにっこりと笑って言った。
「じゃあ、あと少しがんばって仕上げちゃいましょうよ」
「うーん」
もう一度、高い梢を透かして空を見ると、ソルスはすでに真ん中を通り過ぎている。今日は朝からこの森の秘密の場所で作業をしていたので、さすがにいい加減帰らないとまずい気もする。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
首を振りながらそう言うと、アリスは小さな子供のように唇を尖らせた。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
「しょうがないなあ。じゃあ、ほんとにあとちょっとだぜ」
頷きあい、互いの作業に没頭して数分後。
「できたぞ!」「でーきた!」
同時に響いた二つの声に重なるように、背後でがさがさと草を踏み分ける音がした。
手の中のものを背中に隠しながら、さっと振り向く。
そこに、きょとんとした顔で立っていたのは、ぽわぽわした亜麻色の髪を短く切り揃えた小柄な少年――ユージオだった。
澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせ、ユージオは訝しげな声を出した。
「なんだ、朝からずっとこんなとこに居たの、二人とも。いったい何やってたの?」
アリスと、首をすくめながら目を見交わす。
「ばれちゃったわねえ」
「だから言ったじゃないかー。台無しだよもう」
「台無しってことないわよ。いいからそれ貸しなさいよ」
アリスは、後ろ手で仕上がったばかりの木剣を奪い取ると、自分の持つ鞘にそっと収めた。
そして、ぴょん、とユージオの前に一歩飛び出すと、お日様のように満面の笑みを浮かべて、叫んだ。
「三日ばかり早いけど……ユージオ、誕生日、おめでとう!!」
さっと差し出された、真新しい革鞘に包まれた小剣を見て、ユージオは大きな目をさらに丸くした。
「え……これ、僕に……? こんな、すごい物……」
アリスにおいしいところを持っていかれ、苦笑しながら言葉を添える。
「ユージオ、前に、買ってもらった木剣を折っちゃったって言ってたろ? だからさ……勿論、お前の兄ちゃんが持ってるみたいな本物には負けるけど、でもこいつは雑貨屋に売ってるどんな木剣よりもすげえんだぜ!」
おずおずと伸ばした両手で小剣を受け取ったユージオは、その重みに驚いたように体を反らせ、次いで、アリスに負けないくらい大きく顔をほころばせた。
「ほんとだ……これ、兄ちゃんの剣よか重いよ! すごいや……僕……僕、大事にするよ。ありがとう、二人とも。嬉しいな……こんな嬉しい誕生プレゼント、はじめてだ……」
「お……おい、泣くなよ!」
ユージオの目じりに、小さく光るものを見て、慌てて叫ぶ。泣いてないよ、とごしごし目をこすり、
ユージオはこちらをまっすぐに見て、
もういちど笑った。
不意に、その笑顔が虹色に歪んだ。
突然の、切ない胸の痛み。どうしようもないほど強い郷愁と、喪失感。あふれ出した涙はとめどなく流れ、頬を濡らす。
並んで立つアリスとユージオも、同じように泣き笑いの顔で――。
声を揃えて、言った。
「僕たち……私たち三人は、確かに同じ時を生きた。道はここで分かれるけど……でも、思い出は永遠に残る。君の、あなたの中で生き続ける。だから、ほら――」
そして、木漏れ日に包まれた情景は消え去り、俺は再びセントラル・カセドラル最上階へと引き戻された。
「だから、ほら――泣かないで、キリト」
ささやいたユージオの両手から力が抜け、右手は床に、左手は胸の上に落ちた。その掌のなかのプリズムも、瞬く光をほとんど失おうとしていた。
いま観た、ごく短い情景は、確かに俺の記憶だった。思い出せたのはそのワンシーンだけだったが、それでも、俺とアリス、ユージオが、幼い頃から共に育ち、揺るぎない絆で結ばれていたのだという事実が、暖かく俺の胸を満たし、痛みをわずかに癒した。
「ああ……思い出は、ここにある」
俺は、自分の胸に左手の指をあて、嗚咽混じりにそう囁いた。
「永遠にここにある」
「そうさ……だから僕らは、永遠に、親友だ。どこだい……キリト、見えないよ……」
微笑を浮かべたまま、輝きの薄れかけた瞳を彷徨わせ、ユージオが呟いた。俺は身を乗り出し、ユージオの頭を左手でかき抱いた。零れた涙の粒が、次々にユージオの頬に滴った。
「ここだ、ここにいるよ」
「ああ……」
ユージオは、どこか遠くを見つめながら、笑みをわずかに深めた。
「見えるよ……暗闇に、きらきら、光ってる……。まるで……夜空の……星みたいだ……ギガスシダーの、根元で……毎晩、見上げた……そう、君の剣の……輝きの……ようだよ……」
囁き声はどこまでも透きとおって音を失い、しかし水滴が染みこむように俺の魂に響いた。
「そうだ……あの剣……”夜空の剣”って名前が……いいな。どうだい……」
「ああ……いい名前だ。ありがとう、ユージオ」
徐々に軽くなっていく友の身体を、俺は強く抱いた。触れ合う意識を通して、さいごの言葉が、水面に落ちる雫のように伝わった。
「この……悲しい、世界を……夜空のように……優しく…………包んで……………」
そして、音もなく瞼が降り、
ささやかな重みを俺の腕に残して、ユージオの顔がことりと仰向いた。
ユージオは、どことも知れぬ暗い回廊に立っていた。
しかし、一人ではなかった。
繋がれた左手をたどると、青いドレス姿のアリスがにっこり微笑みながらそこに居た。
少しだけ握る手に力をこめ、ユージオはそっと尋ねた。
「これで……よかったんだよね」
アリスは金髪を結わえる大きなリボンを揺らして、しっかりと頷いた。
「ええ。あとは、あの二人に任せましょう。きっと、世界をあるべき方向に導いてくれるわ」
「そうだね。じゃあ……行こうか」
「うん」
いつの間にか、ユージオも幼い少年の姿に戻っていた。同じ背丈の少女と、強く互いの手を握り合い、ユージオは回廊のかなたに見える白い光めざして歩きはじめた。
その瞬間――。
NND7-6361というIDで管理されるヒューマン・ユニットに設定されたデュラビリティ数値がゼロへと変化した。
アンダーワールド・メインフレームを制御するプログラムが、そのアルゴリズムに従い、該当するユニットのフラクトライトを格納するライトキューブ・インターフェースへひとつの命令を発した。
命令を受け取ったインターフェースは、接続された希土類結晶格子中の全量子ゲートを、忠実に初期化した。
内包されていた百数十億のフォトンは、一瞬の煌きを残して拡散、消滅し――
ユージオという名で、二十年にわずかに満たぬ主観時間を生きたひとつの魂が、ふたつの世界から喪われた。
殆ど同時に。
そのライトキューブから、かなり離れた位置に格納された、もうひとつのキューブでも同様の処理が行われた。
非正規的操作によって製造された、限定的思考力と、アリス・ツーベルクという名の魂の記憶の一部を格納したそのフラクトライトもまた永遠に喪失した。
ふたつの魂を構成していたフォトンの雲が、どこに向かい、どのように消えたのかを知るすべは存在しない。
ユージオのからだと、その胸に乗ったアリスの記憶プリズムが、光の粒となって完全に消え去るまで俺はただその場所に跪きつづけた。
どれくらいそうしていただろうか。
気付くと、硝子窓の向こうに渦巻いていた虚無空間はいつのまにか消えうせ、満天の星空が戻ってきていた。東の果てに刻まれた黒い稜線のかなたに、ごくうっすらとした曙光が訪れつつあった。
思考力のほとんどを失ったまま、俺はよろよろと体を起こし、どうにか立ち上がると、離れた場所に横たわる騎士アリスに近づいた。
アリスの傷も酷いものだった。しかし幸い、そのダメージは火傷がほとんどで出血は止まっており、天命の持続的減少は無かった。左手で抱き起こすと、意識を取り戻しはしなかったが、微かに眉が動き、唇から細い声が漏れた。
アリスを抱えるようにして、俺はゆっくり、ゆっくりと、部屋の北端目指して歩いた。
いまや、この空間でそれのみが無傷で残る水晶のシステム端末が、きらきらと冷たく、無機質に輝きながら、俺を迎えた。
アリスをそっと床に横たえ、俺は左手の指先でタッチパッドをなぞった。
インタフェースは、慣れ親しんだ日本語と英語の混在したシステムだった。ほとんど機械的に階層をもぐり、やがて俺は求めるものを発見した。
“外部オブザーバ呼出”。
そう名づけられたタブをクリックすると、ひとつのダイアログがビープ音とともに浮かび上がった。『この操作を実行すると、STRA倍率が1.0倍に固定されます。よろしいですか?』――という窓のOKボタンを、躊躇いもせずに押す。
突然、空気の粘度が増したような気がした。音、光、すべてが引き伸ばされ、遠ざかり、そして追いついてくる。まるで自分の動きも、思考までもが超スローモーションになってしまったかのような違和感が一瞬俺を襲い、そして何事もなかったかのように消滅した。
画面の真ん中にひとつの真っ黒いウインドウが開いた。片隅に音声レベルメーターが表示され、その上にSOUND ONLYの文字が点滅している。
虹色のメーターが、ぴくり、と跳ねた。
さらに動く。同時に、ざわざわというノイズが俺の耳に届いてくる。
現実世界の音だ、と思った。
アンダーワールドの状況に関わり無く、平穏な日常が繰り返されている向こう側の世界。血も、痛みも、死すらも例外的な出来事でしかないリアル・ワールド。
不意に、身体の奥底から、名状しがたい激情が吹き上がり、俺を揺さぶった。
感情のまま、端末に顔を近づけ、俺は出せる限りの大声で叫んだ。
「菊岡……、聞こえるか、菊岡!!」
今、この手が菊岡誠二郎あるいは他のラース・スタッフに届いたら、俺はそいつを絞め殺してしまうかもしれない。行き場の無い怒りに震える左こぶしを大理石の柱に叩きつけ、もう一度叫ぶ。
「菊岡ぁぁぁっ!!!」
直後――何かの音が、画面から流れ出した。
人の声ではなかった。カタタタ、カタタタタ、という歯切れのいい震動音。咄嗟に思い出したのは――はるかな昔、ガンゲイル・オンラインというVRMMOゲームの中で接した、小火器の連射音だった。しかし――まさか、そんなはずが――。
立ち尽くす俺の耳が、今度こそ人間の叫び声をかすかに捉えた。
『――メです、A6通路占拠されました! 後退します!!』
『A7で何とか応戦しろ! システムをロックする時間を稼げ!!』
再び、カタカタという音。それに混じって、散発的な破裂音も。
何だ、これは。映画? 誰かの見ているストリーム動画と混線でもしたのか?
しかし、そのとき、知らない声の持ち主が、俺の知っている名前を呼んだ。
『菊岡二佐、もう限界です! 主コントロールは放棄して、耐圧隔壁を閉鎖します!!』
それに答える、すこし錆びのある鋭い声。
菊岡誠二郎――俺をこの世界へと引き込んだ男。しかし、彼のこれほど切迫した声を俺は聴いたことがなかった。
『済まん、あと二分耐えてくれ! 今ここを奪われるわけにはいかん!!』
何が起きているというのだ。
襲撃されている? ラースが? しかしいったい何者に――?
再び菊岡の声。
『ヒガ、ロックはまだ終わらないのか!?』
また、新しい未知の声。
『あと八……いや七十秒ッス……あ……ああ!?』
その、やけに若々しい声が、驚愕をあらわして裏返った。
『菊さんッ!! 中から呼出です! ちがいます、UWの中っすよ!! これは……、あああっ、彼です、桐ヶ谷くんだッ!!』
『な……なにぃっ!?』
足音。がつ、とマイクが鳴る。
『キリト君……いるのか!? そこにいるのか!?』
間違いなく菊岡だ。俺は戸惑いを押し殺し、叫んだ。
「そうだ! いいか菊岡……あんたは……あんたのしたことは……っ!」
『誹りはあとでいくらもで受ける! 今は僕の言葉を聞いてくれ!!』
その、彼にそぐわぬ必死さに押され、俺は思わず口を閉じた。
『いいか……キリト君、アリスという名の少女を探すんだ! そして彼女を……』
「探すもなにも、いまここにいる!」
俺が叫び返すと、今度は菊岡が一瞬押し黙った。次いで、急き込むように――。
『な、なんてことだ、奇跡だ! よ、よし、この通信が切れ次第倍率を戻すから、アリスを連れて”ワールド・エンド・オールター”を目指してくれ! 今君が使っている端末はこのメインコントロール直結だが、ここはもう墜ちる!』
「墜ちる……って、一体何が……」
『説明している暇はないんだ! いいか、オールターは東の大門から出て南へ……』
そのとき、最初に聞いた知らない声が、至近距離で響いた。
『二佐、A7の隔壁を閉じましたが保って数分……ああ、まずい、奴ら、正電源ラインの切断を開始した模様ッ!!』
『えええっ、ダメだ、それは今はダメだよッ!!』
悲鳴を返したのは菊岡ではなく、”ヒガ”と呼ばれた高い声の持ち主だった。
『菊さんッ、いま主ラインがショートしたらサージが起きる! メインフレームやクラスターは保護されてますが……上の、キリト君のSTLに過電流が……フラクトライトが焼かれちまいます!!』
『何っ……馬鹿な、STLにはセーフティ・リミッターが何重にも……』
『全部切ってるんですってば! 彼は今治療中なんだ!!』
一体――何なのだ。俺のフラクトライトが――どうするというんだ?
コンマ数秒の沈黙を破ったのは、再度菊岡が叫ぶ声だった。
『ロック作業は僕がやる! 比嘉、君は神代博士と明日奈くんを連れてアッパーシャフトに退避、キリト君を保護してくれッ!!』
『で、でも、アリスはどうするんスか!?』
『倍率をリミットまで上げる!! 後のことはまた考えるッ、今は彼の保護を……』
続く叫び声の応酬を、俺はほとんど聞いていなかった。
直前に聞いたひとつの名前が、俺の意識を強打し、嵐のように揺さぶった。
明日……奈?
アスナがそこに? ラースにいるのか……? 何故!?
菊岡に問い質そうと、俺はモニタに覆いかぶさった。
しかし、声を発する直前、悲痛な絶叫が耳朶を打った。
『ダメだ……電源、切れます!! スクリューが止まります、総員対ショック!!』
そして――。
不思議なものが見えた。
頭上はるか彼方から、カセドラルの壁も天井も貫いて、俺めがけて殺到してくる白いスパークの渦。
凍りつき、それを見上げる俺を、音もなく無数の雷閃が貫いた。
衝撃も、痛みも、音すらもなかった。
しかし、それでもなお、俺は自分に与えられた取り返しのつかないほどに深いダメージを強く自覚した。それは、俺の肉体や感覚ではなく、魂の基層に加えられた傷、そう思えた。
俺という存在を規定する、何か大切なものが、ばらばらに引き千切られ、消えていく。
空間、時間、すべてがかたちを失い、混沌なる空白へと融ける。
俺は――。
その言葉すらも、意味をなくし。
思考する能力を奪われるその直前、どこか遠くで呼ぶ声を聴いた。
『キリトくん……キリトくん!!』
泣きたくなるほど懐かしく、狂おしいほどに愛しい、その響き。
あれは――――
誰の声だったろう?
(第七章 終)
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転章 II
洗い終えた皿を水切り籠に立て、エプロンの裾で手を拭きながら、アリスはふと窓の外を眺めた。
粗製のガラスを通して見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、せっかく赤や黄に色づいた葉をかなり散らしてしまった。やはり央都と比べると冬の訪れがずいぶんと早い。
それでも、久しぶりの透き通るような青空から降り注ぐソルスの日差しはぽかぽかと暖かそうだ。すぐ近くの太い枝で、キノボリウサギのつがいが身体を寄せ合って目をつぶり、気持ちよさそうに日光浴をしている。
我知らず微笑みながらしばしその様子に見入ってから、アリスは振り向き、言った。
「ねえ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみましょう。きっとすごく遠くまで見えるわ」
返事は無い。
二部屋しかない狭い丸太小屋の、大きいほうの部屋の中央に据えられた丸テーブルの傍ら、質素な椅子に腰掛けた黒髪の若者は、ぼんやりと視線を俯けたままだ。
痩せている。もとより肉付きのいいほうではなかったが、今では明らかにアリスよりも細い。ゆったりとした部屋着の上からでも、その身体が骨ばかりなのが見て取れる。中身のない、ぶらりと垂れ下がった右袖が、痛ましさをいっそう増している。
しかし、真に寒々しいのはその表情だった。髪とおなじく漆黒の瞳に、輝きは無い。閉ざされたその心を映してどこまでも虚ろなその双眸は、決して誰かを正面から見ようとはしない。
一日に何度も感じる鋭い胸の痛みを押し殺し、アリスはさらに明るい声で続けた。
「でも、ちゃんと厚着したほうがいいわね。待ってて、すぐ用意するから」
エプロンを外して洗い場の横に掛けてから、足早に寝室へと向かう。
長い金髪を後ろでくくり、綿布のスカーフでしっかりと覆う。壁に並んだ二着の羊毛の外套の、小さいほうを羽織るともう一方を小脇にかかえ、居間へ戻る。
若者は、さっきと寸分変わらぬ姿勢のままただ緩慢な呼吸のみを繰り返していた。その背にそっと手をかけ、立つように促すと、やがてがく、がくと膝を揺らしながらゆっくりと身体を起こす。
しかし、自発的に可能なのはここまでで、歩行は一メルとても行えない。アリスは椅子を引き、外套を着せ掛けると、前にまわってきっちりと革紐を留めた。
ちょっとだけがんばってて、と声をかけ、急いで居間の片隅へと走る。
そこに置いてあるのは、明るい白茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。しかしさっきまで若者が腰掛けていたものと異なり、四本の足がすべて丸木を輪切りにして鋼の心棒を通した車輪となっている。森の奥に独居する、ガリッタという名の老人が工夫してくれたものだ。
その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと若者の背後まで移動させる。ゆらゆらと危なげに身体を揺らす若者を、そっと椅子に座らせ、分厚い毛糸のひざ掛けを身体の前に載せてやる。
「よし! じゃあ、行きましょうか」
ぽん、と若者の肩を手でたたき、取っ手を握って、小屋の戸口目指してわずかばかりごろんと椅子を押したときだった。
不意に若者が顔の角度を変え、左手を持ち上げて、一方の壁に差し伸べて口を開いた。
「あー……、あー」
掠れたその声には、顔とおなじく感情というものがなかった。しかしアリスはすぐに若者の求めるものを察した。
「あ、ごめんなさい。すぐ取ってくるわ」
若者の手が指す部屋の南の壁に、頑丈な金具で掛けられた三本の剣があった。
右側には、アリスの所有物である黄金の長剣、”金木犀の剣”。
左側に、若者がかつて帯びていた漆黒の長剣、”夜空の剣”。
そして中央に――黒の剣に名前を与え、そして今はもういない一人の少年のものだった純白の長剣、”青薔薇の剣”。
アリスはまず、ずしりと重い漆黒の剣を壁から外し、抱えた。次に真ん中の白鞘を外す。こちらは、重みが黒の剣の半分ほどしかない。収められている刀身が、その半ば以上を失っているからだ。
二本の剣を抱いて戸口へ戻り、膝にそっと載せると、若者は左腕でしっかりそれらを抱きかかえ、ふたたび顔を俯けた。彼は決して、この二振りの武器から離れようとしない。彼が何らかの反応を見せるのは、剣を求めるときだけだ。
「……さ、行きましょう、キリト」
再び襲ってきた胸のうずきを飲み込んで、アリスはそう声を掛けると、さっきより格段に重みを増した車椅子を押した。
扉をくぐり、石段ではなくなだらかな板を渡してある短い坂を降りると、ひんやりとした微風と、滋味に満ちた陽光が同時に二人を包んだ。
小屋は、深い森のなかにぽっかりと開けた丸い草地に建っている。アリスが自身で丸太を切り出し、皮を剥ぎ、ガリッタ老人に手伝ってもらって組み上げたものだ。見栄えは悪いが、優先度の高い木材だけを使用しているので造りはしっかりしている。もっとも、老人には、こんな怪力の娘っ子は見たことねえと数十回は言われてしまったが。
老人は、この森の空き地は子供だったころのアリスと、青薔薇の剣の所有者だった少年ユージオが二人だけの遊び場にしていたのだとも言った。勿論アリスにその記憶はない。ガリッタ老や他の人々には、ただ昔のことは全部忘れてしまったのだとだけ説明してあるが、実際には今の自分、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、彼らが知るルーリッド生まれのアリス・ツーベルクの身体を奪い占拠しているのが真実だ。叶うならば今すぐにでも身体を彼女に返したいが、本来のアリスはユージオとともにこの世界から去ってしまった。
一瞬の物思いを振り払い、アリスは草地を横切る細道に、車椅子を進ませた。
細道は、周囲を取り囲む深い森を貫き、東と西へと伸びている。西へ小一時間も歩けばルーリッドの村だが、用無く訪れる気にはどうしてもならない。ソルスの光を右前に受けながら、東へと小路を辿る。
十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移りつつある森のなかを、ゆっくりゆっくりと進む。
「キリト、寒くないかしら?」
声を掛けるが当然答えはない。仮に、極寒の吹雪のなかに裸でいたとしても今のキリトは声ひとつ上げるまい。ただ身体が凍りつき、天命が尽きるに任せるだろう。首を伸ばして覗き込み、上着の襟元がしっかり閉じているのを確認する。
勿論、その気になれば熱素因系の術を使い、周囲への冷気の進入を完璧に防御するのは容易なことだ。しかし、ただでさえ微妙な立場なのに、高度な術式を操るところを村人に見られて奇妙なうわさを流されるのは避けたい。
重い車椅子をごろごろと、十分ほども押すと、前方で木立の切れ間が見えた。
その先は、短い草に覆われた小高い丘になっている。もう道もない斜面を、アリスは苦も無く車椅子を押し上げ、たちまち天辺へと達する。
さっと視界が開けた。広大なルール湖の青い水面と、その奥に連なる湿地帯がどこまでも見通せる。左手には、天を衝く壁のように果ての山脈が聳え、正面から右奥へと弧を描いて連なっている。かつてあの峰々を、飛竜を駆って軽々と飛び越えていたことがまるで幻のようだ。
美しく広がる景色を前にしても、キリトの瞳はそれを見ようとはしなかった。ただ、虚ろな黒瞳をぼんやりと虚空に向けている。
その隣に腰を下ろし、アリスはそっと身体を椅子にもたれさせた。
「綺麗だわ。カセドラルに掛けられていた絵よりずっと綺麗」
そっと呟く。
「……あなたが守った世界よ」
眼下の湖水を、一羽の白い水鳥が、点々と波紋を作りながら滑走し、高く飛び去っていった。
どれくらいそうして座っていただろうか。
気付くと、ソルスはずいぶんと高いところまで昇っていた。そろそろ小屋に戻り、昼食の準備に取り掛かる時間だ。自分の空腹などまるで気にならないが、一度にほんの僅かしか食べようとしないキリトのためにも、一食と言えどおろそかにするわけにはいかない。
立ち上がり、帰りましょうか、と声を掛けながら車椅子の持ち手を握ったときだった。
草を踏みながら丘を登ってくる小さな足音に気付き、アリスは振り返った。
近づいてくるのは、黒いベールと修道衣に小柄な身体を隙間無く包んだ、ひとりの少女だった。いまだ子供の面差しが残る可愛らしい顔に、輝くような笑みを浮かべて手を振っている。
「姉さま!!」
弾むような声が微風に乗って届き、アリスも笑みを返しながら小さく手を振った。
最後の十メルを勢いよく駆け上がってきた少女は、目の前で足を止めると、息を切らした様子もなくもう一度言った。
「おはよう、アリス姉さま!」
くるっと身体を回し、車椅子のキリトを覗き込んで、一層元気よく叫ぶ。
「キリトもおはよう!」
まるで反応のない相手の様子を気にする気配もなくにっこり笑ったその顔が、キリトの膝の二本の剣に向けられた瞬間だけ、わずかに痛みを感じさせるものに変わった。
「……おはよう、ユージオ」
呟き、指先で青薔薇の剣の鞘をそっと撫でてから、少女は改めてアリスに向き直った。心にぽっと暖かいものが流れるのを感じながら、アリスも挨拶を返した。
「おはよう、シルカ。よくここが分かりましたね」
シルカさん、と言わずにすむようになったのはつい最近のことだ。世界でただ一人の妹であるこの少女のことを、愛しく思えばおもうほど、今の自分にこの暖かさを感じる資格があるのか、と己を責めもしてしまう。
そんなアリスの絶えざる葛藤に、とっくに気付いているのであろうシルカは、まるで屈託なく笑った。
「べつに神聖術で探したわけじゃないわよ。姉さまの居るところならすぐ分かるもの。今朝しぼったばかりのミルクと、あと少しだけどりんごとチーズのパイを持ってきたの。家のテーブルに置いてきたから、お昼に食べてね」
「ありがとう、とっても助かるわ。何を作ろうか迷ってたのよ」
「姉さまの料理の腕じゃ、いつかキリトが逃げ出しちゃうかもしれないからね!」
あははは、と笑うシルカにむかって、アリスも笑いながら右手を上げてみせた。
「こら、言いましたね! これでも、最近ずいぶんと勘が分かってきたのよ」
はしゃぎながらするりとアリスの手をかわし、シルカはすぽんと胸に飛びこんできた。そのまま眼を閉じ、心地よさそうに頬をアリスの胸にこすりつける。アリスも、自分よりずいぶんと背の小さい妹の背を、そっと包む。
この瞬間だけ、アリスは自分を苛む罪の意識を忘れたいと本気で思う。剣を捨て、騎士の責務から逃げ、森の奥で穏やかな日々に暮らすことへの罪悪感を消し去れたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時にそれが絶対に不可能であることも、アリスは悟っている。こうしている今この瞬間でさえも、目の前にそびえる果ての山脈のむこうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。
半年前の、あの激闘の最終幕において――。
瀕死の重傷を負い、まるで動かせない身体をカセドラル最上階の床に横たえたまま、アリスはおぼろげに戦いの行方を知覚していた。
アドミニストレータとキリトの死闘。チュデルキンの妄執の炎に巻かれ、共々に消えた最高司祭。キリトのパートナーであったユージオの死。彼の、いまわの際の言葉だけは、途切れとぎれの記憶に鮮明に焼きついている。
そして、もう一つ、不思議な水晶細工から流れる声とキリトが交わした会話も。ほとんど意味の汲み取れない、奇妙なやりとりの終わりに、突然キリトが身体を硬直させて倒れ――世界は完全に沈黙した。
どうにか天命がほんのわずか回復し、アリスが動けるようになったとき、硝子窓のむこうでは再びソルスの光が空を染めつつあった。いっぱいに差し込む曙光を神聖力源とし、アリスはまず倒れたキリトの傷を癒した。しかし彼は意識を取り戻さず、やむなくそのまま寝かせておいて自分にも治癒術を掛け、そののちにキリトが言葉を交わした水晶細工を調べた。
だが、紫に輝いていた表面はすっかり黒に変わり、どこをいじろうと二度と光ることはなかった。
アリスは途方にくれ、座り込んだ。キリトの言葉を信じ、世界の人々とどこかにいる妹を守るために絶対の支配者であったアドミニストレータと戦ったものの、よもや自分が生き残るとは考えていなかったのだ。ここで自分は死ぬだろうと、そう覚悟して最高司祭の剣のしたにわが身を晒したのだが、しかしいかなる奇跡か命をつないでしまった。
助けたならその責任を取りなさい、かたわらに横たわるキリトに向かって何度もそう叫んだが、黒髪の若者は決してその瞼を開けようとしなかった。ここからは自分で考えろ、まるでそう言っているかのようにアリスには思えた。
ずいぶん長い時間膝をかかえてから、アリスはようやく立ち上がり、行動に移った。出入り口があったあたりの床を、こちらもやっと回復した金木犀の剣で苦労して破壊し、現れた螺旋階段をひとり降りたのだ。
主を失ったチュデルキンの部屋と、いまだぶつぶつ術式を続ける元老たちの広間を抜け、向かった先は剣の師のもとだった。氷がほとんど溶けた大浴場に、大の字になって浮かぶ整合騎士長ベルクーリの身体は、幸い石化術からは解放されていた。おじさま! と呼びかけ、びしびし頬を叩くと、威丈夫はまるで長い間寝こけていたかのように伸びをすると、一度盛大なくしゃみをし、目を覚ましたのだった。
ようやく緊張がほぐれ、泣き笑いに喉を詰まらせながらも、アリスはどうにか状況をすべて説明した。ベルクーリは厳しい顔ですべてを訊き終えると、一言、よくがんばったな、嬢ちゃん、と言った。
あとはぜんぶ任せろ、そう宣言したベルクーリの行動は迅速だった。キリトらに破れ、しかしなぜか完全に治療された状態で薔薇園の片隅で発見された副長ファナティオをはじめ、同じく石化拘束されていたらしいデュソルバートやエルドリエといった主だった整合騎士を全員五十層の大回廊に集めると、真実をぎりぎりまで述べたのだ。
キリト、ユージオとの戦いの結果、最高司祭アドミニストレータが破れ、死んだこと。
その最高司祭の人界防衛計画が、人間の半数を剣骨の兵に変えるというものだったこと。
騎士団の上部組織・元老院の実体が、チュデルキンただ一人であったこと。
隠されたのは、整合騎士の来歴のみだった。もとより”神界からの召喚”に疑いを持っていたベルクーリは真実に耐えられたが、他の騎士たちには不可能だろうという判断だ。これは、最上階に残る数十の剣と神図の秘密の解明を待つ必要があろうとベルクーリはアリスのみに言った。
しかし、それでも尚、騎士たちの混乱は深刻だった。無理もない、これまでの永遠にも等しい年月において、最高司祭は唯一絶対の支配者であったのだ。
議論の果てに、彼らがともかくも騎士長に従うという選択をしたのは、皮肉にも、アドミニストレータに施された強制従属術ゆえのことだったかもしれない。例え最高司祭が消滅しようとも、彼らは”教会”に隷属しているのであり、そしてもはや騎士長ベルクーリが神聖教会の最高権力者であるのは疑いようもない事実だったのだから。
そしてそのベルクーリは、恐るべき精神力で本来の任務、”人界の守護”遂行へとまい進し始めた。彼にも葛藤はあったはずだ、己から奪われた愛する者の記憶が、すぐ手を伸ばせば届く場所に存在すると知ってしまったのだ。
しかし彼は記憶の回復よりも、迫り来る闇の侵攻への防御を整えるという責務を選んだ。数日で整合騎士団は体勢を立て直され、四帝国の近衛軍を実戦用に再編するという新たな任務へと動きはじめた。
それを見届けてから――アリスは、昏睡状態のキリトとともに自分の飛竜に乗って密やかに央都を去った。騎士の一部に、反逆者を処刑すべしとの意見が消えないのがその理由だった。最上階の激闘から、五日後のことだ。
悩みに悩んだ末、北の最果ての村、ルーリッドへと竜の手綱を向けるのに、更に三日を要した。央都の郊外で野営する間もキリトはいっこう目を醒まさず、充分に治療するにはどうしてもちゃんとした屋根とベッドが必要だと判断したのだ。しかし、街の宿屋に泊まろうとも市井の通貨の持ち合わせは無く、と言って整合騎士の権威を振りかざすような真似をする気にはもうなれなかった。
一縷の望みを――たとえ記憶を失っていようとも、生まれ故郷に暮らす家族たちは自分を暖かく迎えてくれるのではないかという期待を胸に、アリスはひたすらに北へと飛び、ノーランガルス帝国を縦断して、果ての山脈の裾野に接する深い森に抱かれた小村へとたどり着いた。
飛竜を住民に見られぬよう、低空を飛んで村にほど近い森のなかに降り、そこで三本の剣を守っているように竜に言いつけて、瞑るキリトを背負ってアリスはルーリッドの村へ徒歩で入った。
青い麦畑を横切るあいだも、小さな農家のわきを抜け、小川にかかる橋を渡るときも、多くの村人の視線がアリスに注がれた。しかしそこにあったのは、驚きと警戒の色だけだった。
裸の道が石畳に変わろうとする直前、小さな番屋から飛び出してきた若者が、そばかすの消えない顔に血を上らせて行く手を塞いだ。
待て、よそ者が勝手に通ったらいかんぞ!
叫びながら安物の剣を抜き、無遠慮に切っ先を突きつけてきたその衛士は、まず背負われたキリトの顔を見て訝しそうに首を捻った。あれ、こいつは……、そう呟いてから、改めてアリスを凝視し、そしてぽかんと目と口を丸くした。
あんた……あんた、まさか。
衛士のその言葉を聞いて、アリスは僅かながらほっとした。どうやら九年の時間が経ても自分を覚えていたらしい、そう思いながら、言葉を選んで衛士に告げた。
自分はアリス・ツーベルク。父親で村長の、ガスフト・ツーベルクを呼んでほしい。
カセドラル外壁で、たった一度キリトに聞いただけの名前だが、忘れるはずもなかった。衛士は顔色を赤から青に変え、ま、ま、待ってろと喚いて駆け出していった。
昼下がりの村はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。子供から大人までが、どこにこんなにいたのだと思うほどに集まってきて、アリスを遠巻きにして口々にひそひそ声を交し合った。
アリスが再度不安に襲われたのはその時だった。村人たちの顔には、こちらの素性を知ってもなお、警戒の色が濃く浮かんでいたからだ。そして、少なからぬ嫌悪すらも。
数分後、人垣の向こうから大股で近づいてきたのは、口とあごの髭を綺麗に整えた初老の男だった。
男はアリスを見た瞬間、いわく言いがたい表情に顔をゆがめた。その奥にどのような感情があったのか、アリスには察せられなかった。
ゆっくりと、何かを恐れるような歩調で目の前までやってきた男は、しわがれた声で言った。
アリス、なのか。
そしてこう続けた。
何故ここにいる。罪は赦されたのか。
抱きしめるでも、涙を浮かべるでもなく、”父親”がそう言い放つのを聞いて、アリスは手足の先が冷たくなるのを感じた。しかし、懸命に相手の目を見返して、アリスは答えた。
処罰により、私はこの村で暮らしたころのすべての記憶を失いました。しかし、ここより他に行くところはありません。
言えるかぎりの真実だった。
ガスフトは、ぐっと目をつぶり、顔を仰向けさせ、そしてくるりと背を向けた。
肩越しに投げかけられた言葉は――。
去れ。この村に罪人を入れるわけにはいかぬ。
一瞬の回想がアリスの身体を強張らせたのを感じとったのか、シルカが顔を上げ、少しだけ首を傾けた。
「姉さま……?」
気遣わしそうに問いかける最愛の妹に、アリスは微笑みを浮かべながら短く答えた。
「いえ……なんでもないのです。さあ、そろそろ帰りましょう、シルカ」
あの日、打ちひしがれて悄然と森の奥に戻ろうとしたアリスを、木立のかげから呼び止めてくれたのがシルカだった。父親である村長の意向に添わぬ行動だと知りながらそうした彼女の勇気と、彼女が引き合わせてくれたガリッタ老人の善意が無ければ、アリスはいまも寄る辺無き逃亡者として荒野を彷徨っていただろう。
シルカにとっても、決して簡単に受け入れられる話ではなかったはずだ。
ただ一人の姉が、過去をすべて忘れてしまったこと。二年前に交流があったというキリトの昏睡。そして、兄にも等しい存在だったユージオの死。
しかし、シルカが涙を見せたのはただの一回だけで、以降は決して笑顔を絶やすことなく元気に振舞っている。その心の強さと思いやりの深さには、日々感謝と驚嘆の念を新たにせずにはいられない。教会の司祭たちの神聖術より、整合騎士の剣よりもずっと強く、尊い力だと思う。
そして同時に、自分がいかに空疎な存在であるか、とも。
老人の手助けを得て、村の境界外の森に小さいながらしっかりとした住処を造りあげてから、アリスがまず行ったのは大規模な回復術を眠るキリトに施すことだった。
広い森でもっともテラリアの恩寵が潤沢な地点を選び抜き、ソルスの光を遮る雲が一片たりとも空にない日に、それら膨大な神聖力を根こそぎ回収・凝縮させてキリトの身体に注ぎこんだのだ。
発生した癒しの力はキリトの天命の数十倍に達し、またそこまでの高位術を駆式できるのは人界でもいまや自分ひとりであろうという自負がアリスにはあった。キリトの受けた傷がどれほど深いものだろうと、斬り落とされた右腕を含めてたちまち回復し、何事もなかったかのように目を醒ますだろうと確信していた。
しかし、結果は無残なものだった。
どれほど青い霊光を注ぎ込もうとも、まるで傷そのものが癒されることを拒むかのように右腕は戻らず――そして、ようやく開かれた瞼のおくの黒い瞳に、意志の光は無かった。
数時間の施術のすえについに諦めたとき、力の余波を受けたか、自分の顔に巻かれた包帯のしたで右眼が何事もなかったかのように再生していたことも、アリスには己の無力を嘲われているようにしか感じられなかった。
以来、キリトの心が戻ってくる兆しはまったく無い。
シルカは、こんなに姉さんが一生懸命看病してるんだもの、きっといつか元のキリトに戻るよ、と事あるごとに言ってくれるが、アリスはひそかに、自分では無理なのではないかと深く恐れている。
なぜなら、自分は心を持たぬ人形の騎士だから。
枯れた下草を踏みながら前を行くシルカが、不意に歩調をわずかに緩め、アリスは再び物思いから醒めた。
小さな修道衣の背中が、何かを言い出そうとして躊躇っていることを察し、アリスは車椅子を押す速度を少し落として声をかけた。
「どうしたの、シルカ? 困りごと?」
すると、さらに数秒ためらってから、ちらりと振り向いたシルカが言いづらそうに答えた。
「あのね……、バルボッサのおじさんが、また倒せない樹の始末を頼みたい、って……」
「なんだ、そんなこと。あなたが気にやむことないのに」
アリスが微笑むと、シルカは不意に憤慨するように唇を尖らせ、両手を胸の前で組んだ。
「勝手だわ、あの人たちは! 姉さんを怖がって村から追い出したくせに、困ったときだけ助けてもらおうだなんて。前から言ってるけど、断ってもいいのよ、姉さん。必要なものは、何でもあたしが持ってきてあげるから」
今度は少し声に出して笑い、アリスはなだめるように言った。
「ありがとうシルカ、でもほんとに気にしなくていいのよ。村の近くに住まわせてもらえてるだけでも有り難いことだわ。キリトにお昼をたべさせたら、すぐに行くわね。南の畑でいいのよね?」
「……うん。あのね……あたし、来年の春にはシスター見習いから準シスターに昇格して、少しだけどお給金もらえるようになるから。そしたらもう、姉さんにあんな奴らの手伝いなんてさせないからね」
すぐ横まできて、決然とした表情でそう告げるシルカの頭を、アリスは右手でそっと撫でた。
「ありがとうね……、でも、あなたが居てくれるだけで、私はじゅうぶん幸せなのよ……」
名残惜しそうに手を振り振り去っていくシルカと、小屋のある草地の真ん中で別れ、アリスは手早く昼食の準備をした。
最近では、どうにか家事の真似事をこなせるようになってきたものの、料理の腕だけはいかんともしがたい。金木犀の剣と比べると、村で買った包丁はおもちゃのように軽く頼りなく、恐る恐る材料を切るだけで三十分や一時間くらいすぐに経ってしまう。
今日は幸いシルカが、すぐに食べられるパイを届けてくれたので、それをフォークで小さく切ってキリトの口に運んだ。唇が開かれるのを辛抱強く待ち、そっと中に入れてやると、まるで食事の記憶を本人ではなく口が思い出しているかのように、ゆっくりゆっくりと噛む。
小さな一切れを長い時間をかけて食べさせ、スプーンでミルクを飲ませるあいだに、自分も素朴な手作りパイを大事に味わって食べる。カセドラルでは、四帝国の各地から集められた美味佳肴が常に巨大なテーブルに満たされ、それらをいい加減につついては下げさせるような真似をしていたのが今更恥ずかしく思い出される。
後片付けをしてから、再びキリトにしっかりと外套を着せ、膝に二本の剣を載せてやる。自分も、身体と髪を隠すように分厚く着込む。
車椅子を押しながら外に出ると、いつのまにかすっかり向きが変わった日差しが梢のあいだから零れていた。近頃は随分日が短くなり、午後はたちまち空の色が変わってしまう。少しばかり急ぎ足で、今度は細道を西へ辿る。
森が切れると、目の前に刈り入れを待つばかりの黄金の麦畑が広がった。重そうに揺れる麦穂の海のむこうに、丸い丘を覆うようにして赤い屋根の家々が軒先を並べるルーリッドの村が見える。中央から、一際高い尖塔を伸ばしているのがシルカが暮らす教会だ。むろん、シルカも、彼女を指導するアザリヤという修道女も、全世界の教会組織を束ねるセントラル・カセドラルの最上階がいまや主無き廃墟であることを知らない。
たとえカセドラルが大混乱に陥ろうとも、地上の営みにはまるで影響はなかったのだ。禁忌目録は変わらず有効に機能し、人々の意識を縛り続けている。果たして彼らに、剣を取り国を守るなどということができるだろうか。無論、教会の名で命じれば従いはするだろう。しかし、戦いに勝つためにはそれだけではまったく不十分なことは、少なくとも騎士長ベルクーリにはよく分かっているはずだ。
武装の優先度でも、術式の行使権限でもなく、最終的に戦いの帰趨を決するのは意志の力だ。絶望的な戦力差を覆し、多くの整合騎士を、そして最高司祭アドミニストレータをすら斬り伏せてのけた修剣士キリトの存在がそれを証明している。
農作業の手を止め、忌まわしそうな視線を向けてくる村人たちの姿を、伏せた眼のはしで捉えながらアリスは胸中で呟いた。
――小父様、彼らにとって平和とはただ誰かに保証されたものに過ぎないのかもしれません。
そして、そうさせてしまったのは神聖教会と整合騎士団だ。こうして土の上で暮らしてみて初めて、アリスはこの世界がいかに歪んだ姿をしているかに気付いた。
物思いに沈みながらも、早足で麦畑の外周を回る道を辿り、村の南に広がる開墾地へと出たアリスは、そこで車椅子を止めた。
ほんの二年前までは、この先には東の森を上回る深く暗い原生林が広がっていたのだという。
しかし、その森の主であり、神聖力を底無し穴のように吸い取っていた巨大樹をキリトとユージオが切り倒してくれたので、いま村の男たちは畑を広げることに夢中なのだ、とシルカが少々困ったような顔で言っていた。禁忌目録で、村の人口に対する畑の上限面積が厳密に規定されているため、そこに達すればそれ以上の開墾は出来なくなる。その前に、他の農家よりも少しでも大きな土地を確保しようと、男たちは殺気立っているらしい。
視線の先には、荒く掘り返された黒土が半円を描いて広がり、その彼方で数十人の村人が盛んに斧音を響かせている。中でもひときわ多くの人数を指揮し、あれやこれや喚いている太鼓腹の男が、ナイグル・バルボッサという村一番の大農家の長だ。一族の人数では、現村長を出したツーベルク家を上回るそうで、その尊大さは元整合騎士のアリスも驚くほどだ。
気が進まないながらも、アリスは踏み固められた細道に車椅子を進ませた。キリトは、かつて自分が倒した巨大樹の痕跡を僅かにとどめる、朽ちかけた黒い切り株の傍らを通過しても一切の反応を見せず、ただ二本の剣を抱いたまま俯いている。
二人に最初に気付いたのは、倒したばかりらしい木の幹に腰掛けて豪勢な弁当をがっついてるバルボッサ一族の若者たちだった。歳は十五、六とおぼしき彼らは、深く巻いたスカーフを貫くような粘ついた視線でアリスを眺め回したあと、車椅子のキリトに視線を移し、小声で何かを言い合っては厭な笑い声を立てる。
無視してその前を通過すると、若者の一人が間延びした大声を出した。
「おじさーん、来たよぉー」
すると、腰に手を当てて怒声を撒き散らしていたナイグル・バルボッサがくるりと振り向き、脂ぎった丸顔ににんまりと大きな笑みを浮かべた。丸い鼻や細い眼が、どこか元老チュデルキンを思い起こさせて肌が軽く粟立つ。
しかしアリスは、可能な限りの笑みを返し、軽く会釈した。
「こんにちは、バルボッサさん。何か御用と聞きましたので……」
「おお、おお、アリスや、よく来てくれたのう」
丸い腹を揺らし、両手を広げて近づいてきたので、よもや抱擁する気ではと再びぞっとしたが、幸いその前にキリトの膝に載った剣呑な武器に眼を留めて思いとどまったようだった。
代わりにアリスの右横五十センに立つと、ナイグルは大儀そうに巨躯を回し、森と開墾地の境を指差した。
「ほれ、見えるじゃろう。昨日の朝からあの糞ったれな白金樫にかかりっきりなんじゃが、大の男が十人がかりでようやく指いっぽん分しか進まん有様での」
見れば、直径が一メル半はありそうな、巨大な白褐色の樹が四方八方に根と枝を広げ、開墾者たちに頑強に抵抗しているようだった。幹の一方には二人の大男が取り付き、かわるがわる斧を樹皮に叩きつけているが、刻まれた切り込みは確かに十センにも届かない浅さだ。
男たちの、裸の上半身は真っ赤に染まり、汗が滝のように流れている。胸や上腕の筋肉はそれなりの厚みだが、普段鍬や鋤しか持ったことのない手に急に斧を握ったせいだろう、重心移動も腰の回転もお粗末のひとことだ。
見守るうち、男の一人が右脚を滑らせ、見当違いの箇所を斜めに叩いた斧が柄の中ほどからべきりと折れ飛んだ。怒声を上げて両手を抱え、うずくまる男に、周囲の仲間たちが遠慮のない笑い声を浴びせる。
「まったく、何をやっとるんだ馬鹿者めらが……」
ナイグルが唸り、もう一度アリスを見た。
「あれでは、あの樹一本に何日かかるか知れたもんじゃねえ。ウチが手間取ってるあいだに、リダックの盗っ人どもが二十メルも土地を広げよった!」
バルボッサ家に次ぐ規模の麦作農家の名前を挙げると、ナイグルは鼻息荒くブーツで足元の地面をこじった。ふうふうと胸を波打たせてから、不意にまた脂っこい笑顔を満面に浮かべる。
「そんな訳でな、月に一度の約束じゃけんども、すまんけど今回だけ特別に力を貸してもらえんかの、アリスや。あんたは憶えておらんじゃろうが、ワシは子供のころのあんたにお菓子を呉れたことが何度も……」
ため息を押し隠してアリスはナイグルの言葉を遮り、頷いた。
「ええ、いいですよバルボッサさん。今回だけということでしたら」
このように、開墾の邪魔をする高優先度の樹や岩を排除する、それが現在のアリスの天職だ。無論、誰に与えられたものでもない。村はずれに落ちついて一ヶ月ほど経ったころ、地崩れで村道を塞いだ大岩を、アリスがひとりで押して退かしたのが噂になりこんな手伝いを頼まれるようになった。
実際、暮らしていくうえで多少の現金はどうしても必要だったので、稼ぐ手段があるのは有り難いことではある。しかし言われるままに頼みごとを聞いていたら、男たちは際限なく要求してくるとシルカが心配したので、手伝うのはひとつの開墾地で一ヶ月に一度まで、と取り決めを交わしてある。
禁忌目録から村の掟にいたるまで、一切の規則を厳守するはずのナイグルが、このような取り決めに外れた依頼をしてくる時点で、彼らがアリスのことを村人よりも下に見ているというのは明らかだ。内面を看破されているとも知らず、にこやかに揉み手をするナイグルに、しかしアリスは無言で頭を下げると車椅子から手を離し、大木へと歩み寄った。
アリスの姿に気付いた男たちの中には、野卑な笑みを浮かべるものも、あからさまに舌打ちするものもいた。しかし、今はもう皆がアリスの力を知っているので、全員が持ち場を離れ、遠くで輪になった。
彼らには一切眼を向けず、アリスは白金樫の古木に近寄ると、右手でそっとその表面を叩き、ステイシアの窓を引き出した。さすがに天命はかなりの数値だ。この優先度では、いつものように借り物の斧を使っては歯が立つまい。
一度小走りにキリトのところに戻り、腰を屈めて、小声でそっと囁いた。
「ごめんね、キリト。少しだけ、あなたの剣を貸して頂戴」
軽く右手を黒い長剣の鞘に掛けると、キリトの身体がわずかに強張るのが感じられた。しかし、辛抱強く虚ろな黒い瞳を覗き込んでいると、やがて左腕から力が抜け、かすかな声が喉から漏れた。
「……ぁー」
これは、意志が伝わったというよりも、記憶の残響のようなものなのだろう。キリトの心ではなく、思い出の残滓だけが、今の彼をほんの僅かに動かしている。
「ありがとう、キリト」
囁いて、膝からそっと黒い剣を持ち上げて、アリスは再び樹の前へ向かった。
それにしても立派な大樹だ。央都セントリアの構造材になっている古代樹には及ばないまでも、樹齢は百年を軽く越すだろう。
心のなかで、ごめんなさい、と呟き、アリスはぐいと足場を固めた。
右脚を前に、左脚を後ろに。左手で腰溜めに構えた”夜空の剣”の、黒革を巻かれた柄に軽く右手を添える。
「おいおい、そんな野暮ったい剣で白金樫を倒す気かぁ?」
男の一人が叫び、周囲がどっと笑った。剣が折れるぞぉ、その前に日が暮れちまわぁ、と次々に喚き声が交わされる中、背後から心配そうなナイグルの声がかけられた。
「あー、アリスや、できれば一時間くらいで何とかして欲しいんじゃがのう」
これまでアリスは、借り物の斧を振るってどんな樹でも三十分以内に倒してきた。そんなに時間を掛けたのは、斧を破壊してしまうのを避けたからだ。しかし、今日ばかりは武器を折る心配はない。夜空の剣は、金木犀の剣には及ばぬまでも世界で最強クラスの優先度を備えた神器なのだ。
「いえ、そんなには掛かりません」
呟くように答え、アリスはぐっと柄を握った。
「……せあっ!!」
短い気合。両の足元から、爆発じみた土煙が上がる。
随分と久々に振るう本物の剣だったが、身体は滑らかに動いた。抜きざまの左水平斬りが、黒い稲妻となって宙を疾った。
周囲の人間で、斬撃そのものを視認できた者はいるまい。剣を右前方に振り切った姿勢で動きを止めたアリスの頭から、ふわりとスカーフがはずれ、長い金髪がなびいた。
黄金の輝きに眼を奪われた男たちは、立ったままの大木に視線を戻し、訝しそうに首を捻った。白褐色の滑らかな樹皮には、彼らがつけた小さな刻み目が残るのみで、それ以外は傷痕ひとつ見えない。
なんだよ、外れかぁ?、という声が上がるなか、アリスはゆっくり身体を起こし、漆黒の刀身をぱちりと鞘に収めた。足元からスカーフを拾い上げてから、男たちの輪の一部を指差す。
「そこ、倒れますよ」
訝しそうに眉をしかめたその顔が、驚愕に変わったのは、ゆっくりと自分たちのほうへと傾いてくる大木の幹を見てからだった。うわあああと盛大な悲鳴を上げて飛び退り、尻餅をついた男たちのあいだに、凄まじい地響きを立てて切断された巨樹が横倒しになった。
もうもうと巻き上がった土煙をぱたぱたと払いながら、アリスはちらりと幹の切断面を確認した。年輪がくっきりと浮き上がった、磨かれたように滑らかな断面に、一箇所わずかなささくれが見て取れた。
やはり腕が鈍っている、と軽いため息をつきながら振り向いたアリスは、ぎょっとして立ち止まった。ナイグルが再び、満面の笑みで両腕を広げて急接近しつつあったからだ。
思わず左手の夜空の剣をわずかに持ち上げると、かしゃりという刃鳴りを聞いてナイグルは急停止した。しかし笑顔はまったく減じられず、野太い叫びが喉の奥から発せられた。
「すばっ、すんばらしい! なんという腕じゃ! 衛士長のジンクなんぞ問題にならん! まさに神業! どっ、どう、どうじゃアリス、手間賃を倍にするから、週に一度……いや、一日いっぺん手伝ってくれんかのう!!」
丸い体を捩り、絞るように手を揉むナイグルに、アリスはそっけなくかぶりを振った。
「いえ……、今頂いている金額でじゅうぶんですので」
仮に、金木犀の剣を持ってきて完全支配術を使えば、一日一本の大木を切るどころか、数分でこの森を見渡す限りの裸地に変えることだって容易い。しかし、そんなことをすれば、彼らの要求は土地を畑に整備し、重い杭を打ち、雨を降らせることにすら及ぶだろう。
んぬぬぬぬぬ、と唸りながら悶えていたナイグルは、アリスの「御代を」という声で我に返ったように瞬きした。
「お、おう、そうじゃったそうじゃった」
懐に手をやり、ずしりと重そうな革袋から、約束の銀貨一枚をつまみ出す。
それをアリスの掌に落としながら、ナイグルはなおも未練がましく言葉を連ねた。
「そ、それじゃこういうのはどうかのう。今、銀貨をもう一枚やるから、今月のリダックの連中の手伝いは断る、ってのは……」
呆れ返りつつため息を飲み込んだアリスの耳に、がたん、という大きな音が届いた。はっと顔を上げ、音源のほうに視線を走らせる。
車椅子が横倒しになり、投げ出されたキリトの痩身が見えた。
表情はないが、しかしどこか必死さを感じさせる動きで、枝のような左腕を伸ばしている。あー、ああー、という掠れ声が、搾り出されるように喉から間断なく漏れる。
その腕の先では、弁当を食べていた少年らが、青薔薇の剣を二人がかりで持ち上げようとしていた。真っ赤に興奮した顔で、口々に喚いている。
「うおっ、なんだこりゃ重ェぞ!!」
「馬っ鹿、だからあんな女でも白金樫が倒せるんじゃねえか」
「いいからちゃんと押さえてろよ!」
三人目の少年が叫び、剣を抜こうと両手で柄を握って体を反らせた。
ぎりっ、という剣呑な音が、噛み合わされた奥歯から発せられるのをアリスは聞いた。それを意識するより早く、右脚が強く地面を蹴った。
「貴様らっ……!!」
鋭い声を聴いた少年たちが、ぽかんとした鈍重な顔をアリスに向けた。
その締まらない表情が、僅かながらも怯んだのは、アリスが二十メル以上の距離を一瞬にして駆けるのを見たからだろう。土埃を巻き上げて止まったアリスの眼前で、三人がじりっと後ずさる。
大きく一度息を吸い、激しい感情をどうにか押し留めてから、アリスは倒れたキリトを助け起こしながら低く言った。
「その剣はこの人のものです。早く返しなさい」
それを聞いた少年たちの顔に、挑戦的な反抗の色が浮かんだ。青薔薇の剣を抜こうとしていた、最も大柄な藁色の髪の一人が、唇を歪めて笑いながら片手でキリトを指差す。
「俺たちはちゃんとそいつに剣を貸してくれって言ったぜ」
車椅子に戻ったキリトは、肩にかけられたアリスの手も、少年の言葉もまったく意識することなく、なおも純白の剣に向けて左腕を伸ばしながら細く声を漏らしている。
その様子を嘲るように歯を見せながら、別の少年が続けた。
「そしたらそいつ、気前よく貸してくれたんだよ、なぁ? アー、アーって言ってさぁ」
残る一人も、調子を合わせてへっへっへと笑う。
アリスは、自分の右手を襲った強い震えを抑えるのにかなりの苦労をしなければならなかった。その手は間違いなく、左手で下げたままの夜空の剣を抜こうとしていたからだ。
半年前の自分なら、一瞬の躊躇もなく、青薔薇の剣に掛けられた六本の腕を斬り飛ばしていただろう。整合騎士は禁忌目録には一切規制されず、騎士団の内規はあるにせよ、それも”不敬行為”という曖昧な基準に拠って処罰対象の天命の最大七割までを減ずることを許している。そもそも、右眼の封印を破った自分を、真に縛る法も規則ももう一つとして存在しないのだ。
しかし――。
アリスは痛いほど奥歯を噛み締め、己を襲う衝動と戦った。
あの少年たちは、キリトとユージオが、魂と命までもを引き換えにして守ろうとした”人界の民”だ。傷つけることはできない。キリトもそれは望むまい。
数秒間、アリスはぴくりとも動かず、声も発さなかった。しかし恐らく、瞳に浮かんだ殺気までは隠せなかったのだろう、少年たちは不意に怯えたように笑みを消し、口をつぐんだ。
「……わかったよ、怖ぇ顔しやがって」
やがて、ふて腐れたようにそう吐き捨て、藁色の髪が剣の柄から手を離した。残る二人も、恐らくはもう支えているのも限界だったのだろう、どこかほっとしたように鞘を離し、青薔薇の剣はその場に重々しい音を立てて横たわった。
アリスは無言のまま数歩進み、腰をかがめて、わざと右手の指三本だけで軽々と白革の鞘を持ち上げた。振り向く瞬間、悪餓鬼どもにじろりと一瞥を呉れ、車椅子のところまで戻る。
鞘についた土埃を外套の袖でぬぐってから、白黒二本の剣を一緒に膝に置いてやると、キリトはそれをしっかりと抱きしめて沈黙した。
改めてナイグルのほうを見ると、富農の頭領はこの騒ぎには一切の興味を持たなかったようで、すでに男たちの指揮に没頭していた。湯気を立てながらあれこれ喚き続けるその背中に軽く一礼して、アリスは車椅子の背を押して元きた道を戻り始めた。
胸中に吹き荒れた激しい怒りは、いつの間にか冷たい虚無感に取って変わられていた。
ルーリッド近郊で暮らし始めて、このような思いをするのは初めてのことではない。村人たちの多くは、アリスと言葉を交わそうとすらもしないし、魂に傷を受けたキリトに至っては人間として扱ってさえくれない。
それを責めるわけではない。彼らにとっては、禁忌目録を破った人間などというものは闇の国の怪物と大差ない存在なのだろうから、いっそ村の外に住まわせ、食料や日用品を売ってくれるだけで有り難いと思うべきなのだ。
しかし同時に、何故、何のために、とも思わずにはいられない。
いったい何のために自分たちは、あれほどの苦難を乗り越え、アドミニストレータと戦ったのか。前最高司祭カーディナルとユージオは命を落とし、キリトは言葉と感情を失い、そこまでして守ったものは一体何だったのか。
この思考の行き着く先は常に、決して言葉には出せぬひとつの問い――。
あの村人たちに、守る価値、意味があったのか、という。
その迷いこそが、アリスに剣と整合騎士第三位の座を捨てさせ、この地の果てに留まらせていると言ってもいい。
こうしている今も、イスタバリエス帝国の果てにある”東の大門”では、騎士長ベルクーリ率いる新生守備軍が、迫り来る大侵攻への備えを重ねているはずだ。四帝国の近衛軍と各地の衛士隊を掻き集めたと言っても、士気も武装も頭数も充分には程遠く、立場から言えばアリスは一刻も早く馳せ参じるべきなのだろう。
しかし、今のアリスには、金木犀の剣はあまりにも重過ぎる。
唯一絶対の忠誠を誓った最高司祭アドミニストレータを自ら倒し、天には神界も創世三神も存在しないことを悟り、更に人間たちの醜さを知りすぎるほどに知ってしまった。自らの善と正しさを疑うことなく剣を振るうことができたあの頃は遠くに過ぎ去った。
今、アリスが真に守りたいと思う人間はたった三人、妹のシルカとガリッタ老人、そしてキリトだけだ。彼らさえ守れるなら、この地で眠るように暮らし続けるのもいいのではないか。そう思わずにいられない。
稼いだ銀貨で一週間分の食材を買い込み、それを背負って東の森の小屋に帰りつくころには、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
扉を開けようとしたアリスは、北から低い風きり音が近づいてくるのに気付いた。木々の梢を掠める低空から現れたのは、巨大な竜の影だった。アリスの騎竜、名前は雨縁(アマヨリ)だ。
飛竜は、二度大きく羽ばたいて勢いを殺すと、軽やかに草地に降り立った。長い首を伸ばし、まずキリトに鼻息を吹きかけてから、アリスに大きな頭を寄せてくる。
緑がかった銀色の和毛を掻いてやると、雨縁はるるるると低く喉を鳴らした。
「お前、ちょっと太ったわね。湖の魚を食べすぎなのではなくて?」
笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の裏手にある寝床へと歩いていく。
数ヶ月前、住処が完成したその日に、アリスは雨縁の首に留められていた銀のはみを外し、拘束術もすべて解除した。その上で、お前はもう自由です、西域にある飛竜の巣へ帰りなさい、そう命じたのだが、しかし竜は森から離れようとしなかった。
自分で枯れ草を集めて小屋の裏に寝床をつくり、日中は気ままに森で遊んだり、湖で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。誇り高く凶暴な性質を、強力な神聖術によってのみ抑え込んでいたはずだったが、いったい何が飛竜をこの場所に留めているのかはアリスにも分からない。しかし、九年間ともに空駆けた雨縁が、彼女自身の意志で一緒にいてくれるのは素直に嬉しいので、あえて追い出そうとはしなかった。飛翔する姿が時折村人に目撃され、アリスへの悪意ある噂の一因になっているようだが、今更気にかけても始まらない。
干し藁の上で丸くなった雨縁に、おやすみを言ってからアリスは車椅子を押して家に入った。
夕食には、豆と肉だんごのシチューを作った。多少豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味は随分とまともになってきた気がした。もちろん、キリトが感想をくれるわけではない。小さなスプーンで口に入れてやったものを、思い出したように噛み、飲み込むだけだ。
せめて、何が好物で何が嫌いなのかくらい知っていれば、と思うものの、この若者と話をした時間は一日にも満たぬ短さだった。シルカは二週間近く同じ教会で寝起きしたらしいが、しかし食事に何が出ようと嬉しそうにがっついていた記憶しかないという。それもまたキリトらしいと思う。
時間をかけてどうにか皿を空にさせ、ごちそうさまを言った。
洗った食器を拭き、棚に並べているときだった。突然、いつもならもう静かに眠っているはずの雨縁が、窓の向こうでルルルッと低く唸った。
はっとして手を止め、耳を澄ます。森を渡る夜風に混じって届いたのは、間違いなく大きな翼が立てる風切り音だった。
戸口の掛け金を上げるのももどかしく、前庭に飛び出して空を仰ぐ。切れぎれの雲間にのぞく星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく竜の翼のかたちだった。
「まさか……」
暗黒騎士が山脈を越えてきたのか、と息を飲んだが、剣を取りに戻りかけた直前、星明りを受けて竜のうろこが明るく輝くのが見えた。僅かに肩の力を抜く。銀鱗を持つ飛竜を駆るのは、人界とダークテリトリーを含めても整合騎士しかいない。
しかし、安心するのは早い。いったい誰が何のためにこんな辺境まで飛んできたのか。反逆者キリトの粛清論は、半年経っても消えていないのだろうか。
小屋の裏から雨縁も這い出てきて、長い首を高くもたげて再び低く唸った。
しかし、剣呑な響きはすぐに消え、喉声はきゅうんと甘えるような甲高いものに変わった。その理由は、アリスにもすぐに分かった。
見事な手綱さばきで、狭い草地に大した音もさせずに着地した騎士の竜は、雨縁とよく似た青緑がかった銀の鱗を持っていた。間違いなく彼女の兄竜、名を滝刳(タキクリ)。ということは、その背に乗る白鎧の騎士は――。
左腰の長剣と、右腰に束ねた鞭を鳴らして降り立った騎士に、アリスは硬い声で呼びかけた。
「……よくここが分かりましたね。何をしに来たのです、エルドリエ」
長身痩躯の整合騎士は、すぐには応えず、流麗な仕草で右手を胸にあててまず一礼した。おもむろに外された、後方に長い飾り角を立てた兜の下から現れたのは、艶やかな藤色の長い巻き毛と、男としてはやや華美すぎるほどに整った容貌。紅を引いたように鮮やかな唇が動き、音楽的な声が流れた。
「お久しゅうございます、我が師アリス様。装いは違えど相変わらずお美しくいらっしゃる。今宵の月明かりには師の御髪もさぞ麗しく輝いておられようと思うと居ても立ってもいられずに、秘蔵の銘酒片手に馳せ参じた次第」
背中に回されていた左手がさっと差し出されると、そこに握られていたのは一本の赤ワインだった。
アリスはため息を飲み込みながら、剣の弟子であるところの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスを眺めた。
「……傷は癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。今気付きましたが、そなた少し元老チュデルキンに似ていますよ」
うぐっ、と妙な音を出すエルドリエに背を向け、小屋へと歩きだす。
「あ、あの、アリス様……」
「真面目な話があるのなら中で聞きます。無いならそこで一人酒をしなさい、好きなだけ」
半年振りの再会に、嬉しそうに首をこすり合わせている滝刳と雨縁の兄妹をちらりと見上げてから、アリスは足早に小屋へ戻った。
おとなしく付いてきたエルドリエは、狭い小屋のなかを物珍しそうに見回したあと、テーブルの脇で俯くキリトをちらりと一瞥し、僅かに切れ長の眼を細めた。しかしそれきり、かつての剣敵のことは無視することに決めたようで、素早くテーブルの奥に滑り込むと、アリスのために椅子を引いた。
「…………」
ありがとう、と言うのも馬鹿馬鹿しいのでため息で代用し、アリスはどすんと腰を降ろした。エルドリエは勝手にアリスの向かいに座ると、ワインをテーブルに置き、不意に顔を持ち上げて形のよい鼻をひくひく動かした。
「何やら良い匂いがしますな、アリス様。ところで私、夕餉はまだ食べておりませぬ」
「何がところでなのですか。だいたい、長駆するのに酒を持って携行食を持たぬとはどういうことですか」
「私はあのぱさぱさした奴は一生食わぬと三神に誓いましたので。あんなもので腹を満たすくらいなら、飢えて天命が尽きようとも本望というもの……」
エルドリエの益体も無い返答のなかばでアリスは椅子を立ち、背後の台所に移動すると、かまどに乗った鉄なべからシチューの残りを皿についでテーブルに戻った。
無言で目の前に置かれた皿を、エルドリエは一瞬の喜びと、続く疑念をあらわにして見下ろした。
「…………つかぬことを伺いますが、これはもしやアリス様お手ずから……?」
「そうですが。それがどうかしましたか」
「…………いえ。我が師の手料理を頂ける日が来ようとは! 秘剣の型を授かったときに勝る喜びというもの」
緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶエルドリエが再び何かを言い出す前に、アリスは声音を改めて再び問い質した。
「それで、そなた、どうやってこの場所を探り出したのです。央都からはいかなる探査術も届かぬ距離……さりとて、今更私ひとりを見つけるために騎士を割く余裕など、カセドラルには無いはずです」
エルドリエはしばらく答えず、何だ旨いじゃないですか、などと呟きながらシチューをがっついていたが、やがて綺麗になった皿を置くとまっすぐにアリスを見た。
「私とアリス様の魂の絆によって……と言いたいところですが、残念ながらまったくの偶然ですよ」
芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。
「最近、北方で活動するダークテリトリー勢があるという情報が届きましてね。南北西の洞窟はすべて、騎士長の指示で潰してありますが、そこを性懲りも無く掘り返す気かもしれんということで、私が確認にきたのです」
「何……洞窟を……?」
アリスは眉をしかめた。
果ての山脈に穿たれた四箇所の孔のうち、南、西、そして北の洞窟はごく狭く、闇の軍勢の中核を成す巨躯のオークやトロールは通過できない。ゆえに、敵軍の本陣は東の大門に集結すると予想されたが、騎士長ベルクーリは念を入れて、指揮権を得た直後に三箇所の洞窟をすべて崩落させたのだ。
それを知っていたからこそ、アリスはこの地を隠遁先に選んだのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。ここは平和な辺境からたちまち戦火の最前線となってしまう。
「それで……動きは確認できたのですか」
「丸一日かけて飛びまわりましたが、オークはおろかゴブリンの一匹すらも見ませんでしたよ」
エルドリエは再び肩をすくめた。
「大方、新米の騎士が、獣の群れか何かを軍勢と見違えたのでしょう。……っと、これは失言」
新米と言うならば、最新の整合騎士であるアリスがもっとも該当することになる。頭を下げるエルドリエに軽く手をかざし、アリスは考えた。
「……洞窟は確認しましたか?」
「無論。向こう側から中を覗きましたが、見渡すかぎり岩で埋まっておりましたよ。あれを掘り返すにはトロールが一部隊は要るでしょう。……それを確かめ、再び東へ戻ろうと手綱を引いたところ、滝刳が妙に騒ぎましてね。導かれるまま飛んでみたら、この場所に降りたという次第です。正直、私も驚きましたよ。大した偶然……いや、やはり運命の導きか」
いつの間にか芝居めいた口調を一切消し、エルドリエは剛直な騎士の貌になって続けた。
「いまこの時、再び相まみえたからには、これを申すのは私の責務。アリス様……騎士団にお戻りください! 我々は、千の援軍よりもあなた御一人の剣を必要としております!!」
迷いの無い強い視線から逃れるように、アリスは僅かに俯いた。
判っている。
人界を包む脆い殻が、いま音を立てて砕けようとしていることも。それを支えようとするベルクーリと守備軍の絶望的な状況も。
騎士長には返し尽くせぬ恩があるし、エルドリエを含む整合騎士団の朋輩たちには絆を感じもする。しかし、それだけでは戦えないのだ。強さとは意志の力そのものである、アリスは最高司祭との戦いで知りすぎるほどにそれを知ってしまった。天命や権限の絶望的戦力差を覆すのも意志力なら、最強の刃をなまくらに変えてしまうのもまた同じ――。
「……できません」
ごく微かな声で、アリスは答えた。
間髪入れず、エルドリエの鋭い声が響いた。
「何故です」
返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、左横の車椅子に沈み込む若者に向ける。
「その男のせいですか。カセドラルの神聖を侵し、多くの騎士を刃にかけた此奴が、今も尚アリス様のお心を惑わせているのですか。であればその迷い、今すぐにでも私が断って差し上げる!」
ぎり、と右腕に力を込めるエルドリエを、アリスは一瞬かつての剣気を取り戻した両眼で射た。
「やめなさい!」
抑えた声量ではあったが、整合騎士は指先を持ち上げただけでぴたりと動きを止めた。
「彼もまた、己の信じる正義のために戦ったのです。そうでなければ、なぜ最強たる我ら整合騎士が、騎士長にいたるまで遍く敗れ去ったのですか。彼の剣の重さは、直接刃を交えたそなたが一番よく知っている筈」
怜悧な鼻梁に、僅かに悔しげな皺を寄せ、エルドリエは再び体を落とした。勢いの失せた口調で、呟くように独白する。
「……確かに、人の半数を剣骨の兵に変えるという最高司祭様の計画は、私にも受け入れがたいものです。そして、此奴が現れなければ、計画が実行されるのを何ぴとも止められなかったでしょう。増して、此奴を導いたのが、アドミニストレータ様に放逐されたもう一人の最高司祭であった、という騎士長殿の話が事実であるなら、私も今更此奴の罪を問おうとは思いませぬ。しかし……そうであるなら、尚のこと納得が行かない!!」
今までせき止めていた胸のなかのものを吐き出すように、エルドリエは叫んだ。
「この男が、アリス様の仰るように整合騎士をも上回る最強の剣士だというのなら、何故いま剣を取り戦おうとしないのです!! 何故このような情けない姿に成り果て、アリス様をも縛りつけようとするのですか!! 民を守るというなら、まさに今こそがその時だというのに!!」
火を吐くようなエルドリエの言葉にも、キリトは一抹の反応すらも見せなかった。薄く開いた黒瞳を、虚ろにテーブルに向け続けるのみだ。
降り積もる重い沈黙を、やがてアリスは穏やかな声で破った。
「……御免なさい、エルドリエ。私はやはり行けません。この人とは関係ない……私の剣力はもう失せてしまった、それだけなのです。今そなたと立ち会えば、たぶん三合と持たないでしょう」
エルドリエははっとしたように顔を上げ、アリスを見つめた。歴戦の騎士の貌が、一瞬、幼い少年のようにくしゃりと歪み、やがて諦念を映した微笑に変わった。
「……そうですか。では、もう何も言いますまい……」
ゆっくりと右手を伸ばし、低く速い詠唱で神聖術の起句を呟いた。生み出した二個の晶素を、騎士は熟練の駆式でたちまち光り輝く薄いグラスに変えた。
テーブルからワインの瓶を取り上げ、指先でキン、と音をさせて首を切断する。鋭利な切断面を傾け、優美な仕草でごく僅かずつ真紅の液体をグラスに注ぎ、瓶を置いた。
「……別れの酒になると知っていれば、秘蔵の西域産二百年を持って参りましたものを」
片方のグラスを持ち上げ、エルドリエは一息に呷ると、そっとテーブルに戻した。一礼して立ち上がり、純白のマントを翻して背中を向ける。
「では、これで御別れです、師よ。教授頂きました剣訣、このエルドリエ生涯忘れませぬ」
「……元気で。無事を祈っています」
どうにかそれだけ口にしたアリスの言葉に、僅かに見せた横顔で微笑みを返し、整合騎士はかつかつと長靴を鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない剣士の誇りに満ちていて、アリスは思わず目を伏せた。
ドアが開き、閉じると、数秒後に滝刳が一声高い鳴き声を放ち、羽ばたき音がそれに続いた。兄との別れを惜しむ雨縁の鼻声が、アリスの胸をちくりと刺した。
アリスはしばらく、身動きせずじっと座っていた。
やがて手を伸ばし、残されたグラスを持ち上げると、中身をそっと唇で受けた。半年振りのワインは、甘さよりも渋さを強く舌に残した。直後、短い天命が尽きた二客のグラスが微かな光と変じて消滅した。
そのまま、アリスは長いこと椅子に背を丸めていたが、どこか遠くで名も知れぬ獣が遠吠えしたのを機に、やっと身体を起こした。
「……御免なさいね、キリト。疲れたでしょう、いつもならもうとっくに休む時間だものね」
車椅子の若者に囁き、そっと肩に手をあてて起立させる。黒い部屋着を脱がせ、生成りの寝巻きに着替えさせると、やせ細った体を抱えて寝室に運んだ。
窓際の大きなベッドの奥がわにそっと横たえ、足元から毛布を持ち上げて首元までかけてやる。半眼に開いたままのキリトの瞳は、瞬きもせずに虚ろに天井を見上げる。
ベッドから離れ、壁のランプを吹き消すと、室内にはうす青い闇が降りた。それでもキリトは尚もじっと天井を見続けていたが、数分が経ったとき、まるで何かの動力が切れたかのように、音も無く瞼が閉じた。眠ったのではなく、恐らくは、夜、暗い部屋で横になれば眠るものだ、という過去の記憶に体が反応しただけに過ぎないのだろうが。
それでも、アリスはほっと息をつくとベッドから離れ、自分も寝巻きに着替えた。居間の灯りも落とし、戸口に閂をかけてから寝室に戻る。
ベッドの毛布を持ち上げ、手前側にもぐりこむと、微かな温もりが身体を包んだ。
いつもなら、眼を閉じればすぐに穏やかな眠りのなかに逃げ込めるのだが、今日はなかなか眠りの神の一撫では訪れなかった。
歩き去るエルドリエの背中、眩いほどに白いマントの上で揺れる藤色の巻き毛の輝きが瞼の裏にのこり、ちくちくと眼の奥を疼かせる。
かつては、自分の背中も同じように誇り高い光に彩られていたはずだ。己の剣で世界を、正義を、あまねく善なるものを護っているのだという揺るぎない確信がいかなるときも指先までに強く行き渡っていた。しかしもう、その力は最後の一片まで失われてしまった。
エルドリエに、かつての弟子に問いたかった。あなたは一体何を信じ、何のために戦うのかと。
しかしそれはできない。アリスとベルクーリ以外の整合騎士は、最高司祭の恐るべき企てについて最小限のことしか知らされていないからだ。あのエルドリエにしても、封印された最上階に己の”過去の記憶”と、そしてその記憶に残る”最愛の人”の変わり果てた体が残されているなどとは露にも思っていないのだ。
ゆえに、彼はまだ教会そのものの正しさを信じていられる。いつかまた次の最高司祭が彼らの上に立ち、再び栄光の時代が戻ることを疑わず、それゆえに雄々しく剣を取り竜を駆れる。
だが、それすらも大いなる欺瞞だと知ってしまった自分はどうすればいいのだ。止むを得ないとはいえ、騎士長ベルクーリはすべての騎士に真実を隠し、絶望的な戦いへと向かわせている。今そこへ加われば、この胸に抱えた迷いはきっと他の騎士たちも惑わせてしまうだろう。
間もなく、最後にして最大の侵攻が始まる。騎士は一人、また一人と倒れ、戦火は広がり、やがてこの山すその村までを飲み込む。それを止めることはもう誰にもできない。僅かな可能性があるとすれば、あのカセドラルでの戦いの最後で、キリトが謎の”神たち”と交わしていた会話の断片――。
『ワールド・エンド・オールター』、そして『東の大門から出て南へ』。その二言だけがおぼろげに記憶に残る。
しかし、大門から出る、ということはその先は黒い荒野と血の色の空が広がるダークテリトリーだ。キリトは、いったいその地で何をしようとしていたのだろうか。
アリスは枕の上で首をかたむけ、離れたベッドの向こう端に横たわる傷ついた若者を見やった。
毛布の中を這い進み、その隣まで移動する。そっと手を伸ばし、まるで悪夢に追われる幼子のように、体にすがりつく。
骨ばかりの体は寒々しいほどに細く、右腕のあるべき空間の虚ろさが胸を刺す。
どれほど強く抱きつこうと、かつてあれほど荒々しくアリスの心を揺さぶり、目覚めさせ、導いた若者はいかなる反応も見せなかった。睫毛の先が震えることすらなかった。ここにあるのは、最早完全に燃え尽きた炭殻に過ぎないことを、アリスは痛いほどに感じた。緩慢に鼓動する心臓の動きすらも、いっそ哀れだった。
いま、右腕に剣があったら――。
触れ合ったふたつの心臓をともに貫き、そしてすべてを終わりに。
その一瞬の思考が、熱い涙となって目尻から零れ、キリトの首筋に散った。
「教えて……。どうすればいいの……」
答えはない。
「私は……どうすれば…………」
静寂のなか、ただ、木々の梢を揺らす晩秋の夜風だけが過ぎていった。
(転章II 終)
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第八章
超一級の天才たるを自認する比嘉健にとっても、この二時間に発生したさまざまな事象を事前に予測することは出来なかった。
しかし、現在すぐ目の前に存在する状況は、びっくりの中でも極め付き、ぶったまげるとしか形容できない代物だった。
齢十八、九の華奢な少女が、そのなよやかな片腕で、自分より十五センチは背の高い男の襟首を掴み上げている。趣味の悪いアロハシャツが千切れんばかりに張り詰め、サンダルのかかとが僅かに宙に浮く。
燃え上がらんばかりに爛々と光る両の瞳で、二等陸佐・菊岡誠二郎を睨み付けた女子高校生・結城明日奈は、その可憐な唇から刃にも似た言葉を放った。
「このままキリト君が戻らなかったら、あなたを殺すわ、必ず」
比嘉の位置からは、菊岡の黒縁メガネに照明が反射して表情は見えなかった。しかし、柔道剣道空手合わせて何段だか知れぬ幹部自衛官は、明日奈の言葉に気圧されたかのようにぐびりと喉を動かし、両手をそっと体の左右に挙げた。
「分かっているよ。責任は必ず取る。だからその手を離してくれないか」
張り詰めた沈黙が、オーシャンタートル・メインシャフト最上部、サブコントロールルームに重く満ちた。
コンソールに座る比嘉も、隣に立つ神代凜子も、部屋に残った数名のラーススタッフも、誰一人言葉を発することはできなかった。それほど、この場で最も年若い少女の放つ気迫は圧倒的だった。なるほど、確かにあの娘は本物の戦場からの生還者なのだ、と比嘉は意識の片隅で考えた。
やがて、明日奈は無言で右手を開いた。解放された菊岡は、ほとんど落下するようにどすんと踵をつけ、明日奈のほうはふらふらと数歩後ろによろけた。すぐさま凜子が白衣を翻して飛び出し、その背中を支えた。
女性科学者は、学生だった頃から何ら変わらぬ包容力で明日奈を抱きしめ、小さく囁いた。
「大丈夫よ。絶対に大丈夫。彼は帰ってくるわ、あなたの所に」
その声はかすかに濡れていて、明日奈は一瞬はっと眼を見開き、すぐにくしゃりと表情を歪ませた。
「…………はい、そうですよね。すみません……取り乱して」
目尻に浮かび上がった――襲撃の最中ですら一度も見せなかった涙を、凜子の肩に押し当て、明日奈は震える囁きを返した。
ようやく僅かに弛緩した空気を、再び引き締める金属音が部屋の一方から響いた。スライドドアが手動で開かれ、駆け込んできたのは一等海尉の中西だった。
白いワイシャツに汗染みを作り、ショルダーホルスターから大型の拳銃のグリップを覗かせた中西は、ちらりと明日奈と凛子に視線を投げてから、その右奥の菊岡に向けて短く敬礼した。
「報告します! 一七三○、第一、第二耐圧隔壁の完全閉鎖、および非戦闘員の船首ブロックへの退避を確認しました!」
菊岡は、アロハの襟元を直しながら進み出ると、大きくひとつ頷いた。
「ご苦労。隔壁はどれくらい持ちそうだ?」
「は……連中が持ち込んだ装備によりますが、小火器での破壊は不可能です。カッターでの切断ならば最短でも八時間はかかります。C4やセムテックスにはさすがに耐えられませんが……恐らくそれは無いでしょう。ロウワー・シャフトには……」
「原子炉とプルトニウム電池があるからな」
語尾を引き取り、菊岡はメガネのブリッジを押し上げながらしばし黙考した。
しかしすぐに顔を上げ、腹の前でぐっと右拳を左手に打ちつけると、一際通る声で言った。
「よし、状況を整理する」
薄暗いサブコン中を素早く見回し、続ける。
「中西、人的被害を報告してくれ」
「は。非戦闘員に軽傷三、船首医務室で治療中です。戦闘員、重傷二、軽傷二。同じく治療中ですが生命の危険は無いとのことです。戦闘可能者は、軽傷の二名を含め六名です」
「あれだけ撃ちまくられて、死者が出なかったのは僥倖だな……。次に、船体の被害状況を」
「船底ドックの操作室は穴だらけです。遠隔での開閉は不可能ですね。ドックからメインコントロールへの通路も同様ですが、これはまあ引っかき傷のようなものです。深刻なのは、正電源ラインを切断されたことで……電力自体は副ラインから各所へ安定供給されていますが、一度制御系を再起動しないとスクリューを回せません」
「ヒレを無くした海亀だな。おまけに腹に鮫が食いついたまま、か」
「はい。ロウワー・シャフトの、A1からA12までの区画は完全に占拠されました」
髪を短く刈り込んだ、剛毅そのものといった顔を中西は悔しそうに顰めさせた。対して菊岡は、どこか教師めいた長めの前髪をくしゃりとかき上げ、腰を傍らのコンソールに乗せると下駄をつま先で揺らした。
「アンダーワールドメインフレームから、第一STL室、ライトキューブクラスター、そして主機まで軒並み奴等の手の中か。まあ……幸いなのは、連中の目的が破壊ではない、ってことだ」
「は……そうでしょうか」
「ただ破壊したいなら、何もこんな大層な突入作戦を実行せずとも、巡航ミサイルなり魚雷なり撃ち込めば済むことだ。そこで問題なのは、連中が何者なのか、ってことだが……比嘉君、何か意見はあるかな」
突然話を振られ、比嘉は何度か瞬きしたあと、まだ多少痺れの残る脳味噌を少しばかり動かした。
「あー、そっスね、えー」
意味の無い唸り声を並べながらコンソールに向き直ると、右手でマウスを操作し、正面の大モニタに用意しておいた船内カメラの録画映像を呼び出した。
開いた動画窓は暗く不鮮明だったが、適当なところで一時停止し、補正パネルを操作する。浮き上がったのは、狭い船内通路を前かがみになって走る、複数の黒い人影だった。頭には丸いゴーグルで顔の隠れるヘルメットを被り、手に物々しいライフルを携えている。
「……とまぁ、見てのとおり、アタマにも体にも識別マークの類は一切ありません。装備の色、形も、どっかの正規軍のもんじゃないッスね。持ってる銃はステアーですが、こりゃ大量に出回ってますから……唯一言えるのは、体格の平均値から推測して、恐らくアジア人じゃないな、ってことぐらいスね」
「つまり連中は少なくとも自衛隊員ではないってことだ。そいつは喜ばしいね」
物騒なことをさらりと口にし、菊岡は顎を掻いた。普段から笑ったような眼を、皿に糸のように細めてモニタを見上げる。
「そしてもう一つ、こいつらはプロジェクト・アリシゼーションのことを知っている」
「ま、そうなるッスね。ドックから突入して、迷わずメインコントロールまで登ってきやがりましたからね。目的はズバリ、真正ボトムアップAIの奪取でしょうね」
つまり、深刻なレベルでの情報漏れがあったということだ。しかしそこまでは口に出さず、部屋を見渡して一人ひとりの顔を確認したくなる衝動も抑えつけて、比嘉はあえて楽天的な口調で続けた。
「幸いにも、メインコントロールのロックは間に合いました。物理破壊よりも確実に、メインフレームの直接操作は不可能化してやりましたよ。アンダーワールドに介入することも、”アリス”のフラクトライトを外部に持ち出すことも」
「しかしそれはこちらも同様なわけだろう?」
「同様ッスね。このサブコンからも、管理者権限によるオペレーションはできません。しかし、こうなればもう勝ったも同然でしょう? 護衛のイージス艦からコマンドが突入してくりゃ、あんな連中ジョートーッスよ、ジョートー」
「何が上等なのかわからんが……問題はそこだ」
菊岡は厳しい顔を崩さず、視線を中西に投げた。
「どうだ、”長門”は動くか?」
「は……それですが……」
中西は、ぎりっと音がしそうなほどに顎に力を込め、僅かに顔を伏せた。
「長門への命令は、現状の距離を保って待機、だそうです。どうやら司令部は、我々を人質と見做しているようです」
「んな…………」
比嘉はガクンと顎を開いた。
「……アホな! 乗員は全員隔壁のこっち側に退避してるんスよね!?」
錆びた声で答えたのは菊岡だった。
「つまり、あの黒づくめ連中は、自衛隊の上層部にもチャンネルがあるってことだ。恐らく、長門に突入命令が出るのは、連中が”アリス”のライトキューブを確保した後だろう。無論、時間に上限はあるだろうが……」
「てぇことは……あいつら、ただのテロリストじゃないッスね。やばいな……もし向こうにも専門家がいたら、気付くかもしれないですよ。アリス回収の抜け道に……」
「アンダーワールド内部からのオペレーション……向こうはSTLも押さえてるしな」
比嘉は、菊岡と同時に、サブコントロールの奥の壁に設けられたドアを見やった。
しっかりと閉じられた合金製のドアには、小さなプレートが留められている。書かれている文字は、『第二STL室』。
今は見えないが、ドアの向こうには二機のソウル・トランスレーターが設置されている。その片方には、アリシゼーション計画に当初から大きな役割を果たし、いまやその行方すら左右する、一人の少年が横たわっているはずだ。
菊岡は視線を戻し、腕を組むと、ゆっくりと言葉を発した。
「我々の最後の望みは、またしても彼に託されたというわけだ。比嘉君……どうなんだ、キリト君の状態は」
かすかに鋭い呼吸音が聞こえ、比嘉が顔を上げると、凜子に抱えられながらもまっすぐにこちらを見る明日奈の強い視線と眼が合った。
反射的に顔を伏せ、どう言ったものか迷う。しかしすぐに、掠れてはいるがしっかりとした声が比嘉の耳朶を打った。
「かまいません、言ってください、本当のことを」
深く息をつき、比嘉はちいさく頷いた。もとより、人に気を遣って言を誤魔化すのは決して得意ではない。
「一言で言えば……絶望的、の一歩手前です」
語調を改めてぼそりとそう口にし、比嘉は再びコンソールを操作した。
黒づくめ連中の画像が消え、別の窓が開く。表示されたのは、不規則に明滅する虹色のドットの集合体だ。
「これは、キリト君のフラクトライトの三次元モニタ像です」
部屋中の全員が、声もなくスクリーンを凝視する。
「彼は、先日の事件による心停止の影響で、フラクトライト中の意識野と肉体野の連絡回路に損傷を負っていました。そこで、その部分に新たなチャンネルを開くため、リミッターを解除したSTLによってフラクトライトの賦活を行っていたのです。これ自体はそう複雑な操作ではない……電気的刺激によって、死滅した脳神経細胞に代わる回路の発生を促した、そう理解してもらえばいいです」
一息ついて、傍らからミネラルウォーターのボトルを取り上げて口を湿らせる。
「この治療を行うためには、彼をアンダーワールドにダイブさせることが必須でした。脳の意識野と肉体野が等しく活動しなければ、治療の効果も出ませんから。ゆえに我々は、六本木の支局でダイブして貰ったときと同じく、キリト君の記憶をブロックしてアンダーワールドの辺境へ降ろした。そのはずだったのです。しかし、原因は今もって不明ですが……恐らくは損傷の影響でしょう、記憶はブロックされなかった。キリト君は、現実世界の桐ヶ谷和人君のまま、アンダーワールドに放り出されてしまった。そうとわかったのはついさっき、内部の彼から連絡があったその時なんですが……」
「ちょ……ちょっと待って」
声をはさんだのは神代凜子だった。
「じゃあ、彼は、STRA環境化のアンダーワールドで、桐ヶ谷君としてあの日数を過ごしていたというの? 内部では……何ヶ月……」
「……二年半です」
ぼそりと比嘉は答えた。
「それだけの時間、キリト君はあの世界で人工フラクトライト達と触れ合った。恐らくは、フラクトライト達が、いずれ現実験の終了とともにすべて消去される存在だと知りながら……。だから彼は、アンダーワールドの中心、かつて最初の村に設置されていた現実世界への連絡装置を目指したのでしょう。菊さん、あなたに全フラクトライトの保全を要請するためにね」
ちらりと視線を横に投げたが、菊岡は眼鏡にスクリーンの光を反射させて桐ヶ谷和人のフラクトライトに見入ったままだった。
「……容易なことではなかったはずです。連絡装置はいまや、”神聖教会”と呼ばれる統治組織の本拠地に埋もれていましたから。組織に属するフラクトライト達のシステムアクセス権限は膨大なもので、とうてい一般民に設定されたキリト君が対抗できるレベルじゃなかった。本来なら、組織に楯突いたその瞬間に彼は”死亡”し、アンダーワールドからログアウトしていたはず……しかし、彼はたどり着いた。襲撃中のことで、ログを詳細に確認はできませんでしたが、どうやら彼には何人かの協力者、無論人工フラクトライトのですが……つまり仲間がいたようです。神聖教会での戦いでその仲間はほとんど死亡し、その結果、こちらへの回線を開くことに成功した時彼は激しく自分を責めていた。言い換えれば、自分で自分のフラクトライトを攻撃していたのです。まさにその時、黒づくめ共が電源ラインを切断し、発生したサージスパイクのせいでSTLから限界を超える強度の量子ビームが放たれた。それは、キリト君の自己破壊衝動を現実的なものに強化してしまい……結果、彼の自我を吹き飛ばしてしまった……」
比嘉が口を閉じると、重苦しい沈黙がサブコントロールに降りた。
かすれた声を発したのは、明日奈の両肩を抱いたままの凛子だった。
「自我を……吹き飛ばす? それはどういう意味なの?」
「……これを見てください」
比嘉はコンソールを操作し、桐ヶ谷和人のフラクトライト活性を示すリアルタイム画像を拡大した。
不定形に揺らめく虹色の雲、その中心部ちかくに、暗黒星雲のように虚無的な闇が小さくわだかまっている。
「ライトキューブ中の人工フラクトライトと違い、人間の生体フラクトライトの構造はまだ完全解析には程遠いですが、それでも大まかなマッピングは終了しています。この黒い穴、ここに本来あるべきものは、簡単に言えば”主体”、セルフ・イメージなのです」
「主体……自ら規定した自己像、ってこと?」
「そうです。人間は、あらゆる選択を、”自分はこの状況でそれを行うか否か”というY/N回路を経由して決定します。たとえば凛子先輩は、牛丼の星野屋で二杯目を頼んだことあります?」
「……ないわよ」
「もうちょっと食べたい、と内心で思っても?」
「ええ」
「つまりそれが凜子先輩のセルフ・イメージ回路による処理結果というわけです。同様に、あらゆるアクションはその回路を通過しないと実際の行動にならないのです。キリト君の場合、心、魂そのものは無傷です。しかし、主体が破壊されてしまったために、外部からの入力を処理することも、自発的な行動を出力することもできない。今の彼にできるのは……恐らく、染み付いた記憶による反射的アクションのみでしょう。食べたり、眠ったりといった程度の」
凜子は唇を噛み、しばし考える様子だったが、やがて囁くような声で言った。
「なら……今、彼の意識はどういう状況に置かれているの?」
「恐ろしいことですが……」
比嘉は一瞬言葉を切り、視線を伏せて続けた。
「自分が誰かも、何をすべきなのかも分からず、ただいくつかの経験的欲求にのみ操られる……そんな状態だと……」
再び、静寂のみが場を支配した。
「……Fu……」
続くべき音節を、コンバットブーツのビブラム底が鋼板を蹴り飛ばした大音響がかき消した。
アサルト・チーム副隊長、ヴァサゴ・カザルスは壁を二、三箇所凹ませただけでは満足しなかったようで、なぜか床に落ちていたキャンディーらしきパッケージを勢いよく踏みしだいて破裂させてから、ようやく罵声の奔流を止めた。
ヒスパニック系の血を示してゆるく波打つ長い黒髪を両手でかき上げ、ずかずかとメイン・コンソールの前まで移動すると、そこに立っていた男のボディアーマーの襟首を片手で吊り上げる。
「てめぇ、もう一度言ってみろ」
ムチのようにしなやかな細身のヴァサゴの腕にぶら下げられたのは、輪をかけてガリガリに痩せた若者だった。金髪を三ミリ程度の丸刈りにして、肌は病的なまでに白い。こけた頬の上に、冗談みたいにごつい金属フレームのメガネをかけたその男はクリッターという名の、チームで唯一の非戦闘員だ。
もとは逮捕歴もあるネットワーク犯罪者だという触れ込みで、名前も本名ではなくハンドルネームだろう。しかしそれはヴァサゴも同様だ。よもや地獄の王子の名を息子につける親はいるまい。こっちのほうは、麻薬取引に絡んで地元に居られなくなったのを、今の雇い主に拾われたらしい。
――と、言うよりも。
オーシャン・タートル急襲チームの隊員十二名は、リーダーであるガブリエル・ミラーを除く全員が、後ろ暗い過去を持ち、新たな身元保証と引き換えに飼われている”犬”なのだ。飼い主である民間警備会社そのものもまた、大企業の暗黒面に繋がって巨額の利益を上げる地獄の番犬(サーベラス)にも等しい存在である。
そんな犬の一匹たるクリッターは、抜き身のナイフのようなヴァサゴに締め上げられてもさすがに怯える様子もなく、音を立ててガムを噛みながらキンキン響く声で言い返した。
「何度でも言ってやるよー。いいかー、このコンソールには糞みてえなロックが糞みてえにべっとりくっついてて、持ち込んだラップトップマシンじゃーあんたが睾丸癌でくたばるまで計算しても解除できねーっつったんだよ」
「そこじゃねえよこの目ン玉野郎! てめぇ、ロックされたのは俺らがノロクサしてたからだっつたろうが!!」
浅黒い肌を紅潮させてヴァサゴは喚いた。道を間違えなければ俳優でも食えただろうと思えるくらいの野性味溢れるハンサムだが、それだけにキレたときの剣呑さには凄みがある。
「おいおい、事実を言っただけだぜー?」
「そう思うンならてめぇも一発くらい撃ちゃよかったじゃねえかよ!!」
口汚く罵りあう二人を、残る隊員九名はまったく止める様子もなくニヤニヤ顔で眺めている。ガブリエルは、大きくひとつ息を吐き出すと、ぱちんと手を叩いて口げんかに割って入った。
「オーケー、そこまでだ二人とも。責任の所在を追及している時間はないぞ。今はこれからの行動を考えなければならない」
すると、くるりと首を回したヴァサゴが、子供のように口を突き出して言った。
「でもよぉ兄貴(ブロ)、こいつだきゃァ一度シメないと許せないっすよ」
その”兄貴”はやめろ、といいかけた言葉を飲み込む。初顔合わせの戦闘訓練で、ガブリエルがヴァサゴ以下十人の精鋭チームを現実・仮想双方のフィールドであっさり全滅させてから、この若者は『兄貴には一生ついていくっすよ』と言うのをやめようとしない。
無論、ガブリエルには、妙なことを言う奴だという以上の感想はない。あらゆる人間を”光の雲=魂の容れ物”としか認識できないガブリエルにとって、ヴァサゴが向けてくる尊敬や親愛らしき感情は、もっとも理解の難しい代物だからだ。
いずれ、魂の抽出・保存技術を自分だけのものにしたその時には、あらゆる人間の感情を、光の雲の色合いや形といった情報によって整然と分類できるようになるだろう。そう考えながら、ガブリエルはゆっくりした口調で二人に言い含めた。
「いいかヴァサゴ、クリッター。俺はここまで、チームの働きに満足している。こっちの被害はゲイリーがかすり傷を負っただけで、目的であるメインシャフトの占拠を達成できたんだからな」
それを聞いたヴァサゴは、しぶしぶといった様子でクリッターのボディアーマーを離し、両手を腰に当てた。
「でもよぉ兄貴、いくらシャフトを占拠しても、その……なんだっけ、何たらライトって奴を持ち出せなきゃ意味ねーんだろ?」
「だから、その方法をこれから考えようと言ってるのさ」
「ったって、JSDFの奴らもいつまでも引き篭もっちゃいねぇぜ? このドン亀に貼り付いてるイージス艦が突入してくりゃ、さすがに俺ら十一人とオマケ一人じゃ分が悪りぃ」
ガブリエルが副隊長に抜擢しただけあって、ヴァサゴは単なる野良犬にはない状況把握力を持っている。少し考えてから、ガブリエルは軽く肩をすくめるジェスチャーをしてみせた。
「……俺も確信していたわけじゃないから今まで言わなかったが、どうやら俺たちのクライアントとJSDFの上のほうに、ある種の取引があったらしい。イージスは、作戦開始から二十四時間は動かないそうだ」
「……ほぉー」
細く口笛を吹いたのはクリッターだった。ゴーグルのような眼鏡の奥で、薄いグレーの瞳が細められる。
「てことは、このオペレーションはただの……――イヤイヤ、これは言わないほうが賢明ってやつかなー」
「そう思うぞ、俺も」
薄く笑みを浮かべて頷いておいて、ガブリエルは改めて視線をチーム全員にめぐらせた。
「よし、それではまず状況を確認するぞ。ブリッグ、耐圧隔壁のほうはどうだ?」
呼びかけられた巨漢の隊員が、のっそり進み出て答えた。
「よろしくないですな。ありゃあいいカネだ、最新のコンポジット・マテリアルでしょう。持ち込んだポータブルカッターじゃ、二十四時間ではとても無理ですな」
「ジャパンマネー健在なり、か。ハンス、ライトキューブ・クラスターのほうはどうだった」
今度は、口髭を綺麗に整えた痩躯の隊員が、洒脱な仕草で両手を広げた。
「驚きだわ(アストニッシュ)。この部屋の上にどデカいチャンバーがあって、そこにキラキラすんごく綺麗なこれっくらいの……」
右手の親指を小指で二インチほどの幅を作ってみせる。
「キューブがびっしり積み上がってるの。アレを全部潜水艇に乗せるのはぜぇーったいムリね」
「フムン」
ガブリエルは腕を組むと、一瞬考えてから言葉を続けた。
「……我々に与えられたミッションは、その数十万個に及ぶキューブのなかから、唯ひとつを見つけ出してインタフェースとともに持ち帰ることだ。キューブのID情報はすでに得ている。つまり、メインコンソールさえ操作できれば、そのキューブを検索しクラスターからイジェクトするのは容易かったはずだ。今頃はビール片手に帰りの船旅だったな」
「ったくよぉ、このヒョロメガネが、日ごろは『僕の罪状はペンタゴンの中央サーバーに侵入したことだ』なんつう大法螺吹いてるくせに、ちんけなロックひとつ解除できねぇからよぉ」
「おっとぉー、こりゃびっくりだー。いつも『俺を追ってるのはコロンビアの麻薬王だ』なんつってる奴に言われちゃったなぁ僕ー」
口喧嘩を再燃させようとするヴァサゴとクリッターをひと睨みしておいて、ガブリエルは語気を強めた。
「ここまできて手ぶらで帰ることはできない! お前達は、ステイツに帰って『JSDFのお嬢さんたちにしてやられました』と言いたいか!?」
「ノー!!」
全員が一斉に叫ぶ。
「お前達は、所詮は正規軍の新米訓練生にも勝てない素人どもか!?」
「ノー!!!」
「なら考えろ!! 首に乗っている丸い入れ物に、オートミールではない物が詰まっているところを証明しろ!!」
“タフな指揮官”の役を完璧に演じて鋭く叫びながら、ガブリエルは自分でも密やかな思考を巡らせていた。
魂の探求者たるガブリエルにとっても、人類が初めて創りだした真の魂である”アリス”の入手は、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの独占とあわせて最大の目的だ。その二つを入手したあとは、突入潜水艇にひそかに運び込んだ神経ガスでチームの全員を処分し、第三国まで自走航行して行方をくらませる計画をすでに立てている。
しかしその段階に進むまでは、このオペレーションはガブリエルの目的と完全に合致している。管理者権限でのメインフレーム操作を封じられたいま、なんとかしてそれ以外の手段で”アリス”の発見と抽出を達成しなくてはならないのだ。
“アリス”――”A.L.I.C.E.”。
そのコードネームを、ガブリエルの一時的雇用主であるNSAに伝えたのは、自衛隊(JSDF)”K組織”内の情報提供者(ラビット)だ。
ラビットのパーソナルデータまではガブリエルは知らない。しかし、情報を流した動機が、強奪計画の首謀者・ハイテク軍需企業グロージェンMEに約束された多額の報酬であることを思えば、この状況で自らを危険にさらしてまで動こうとはしないだろう。
つまり、耐圧隔壁のむこうにいるラビットの協力はもう期待できない。今ある情報と装備だけで、しかも短時間のうちに、目的を達せねばならない。
時間――すべては時間だ。
生来、焦りという感情を知らぬガブリエルではあるが、二十三時間後に近づきつつあるタイムリミットの存在にはなにがしかの圧迫感を覚えずにはいられない。
NSAのアルトマンらは、オペレーションの開始直前にガブリエルに言った。
K組織の活動は、日本の既存の軍需利権を大きく揺さぶるものだ。ゆえに、自衛隊上層部には、K組織の存在を快く思わない――それどころか、積極的に妨害しようという勢力も少なからず存在する。
K組織の基盤となっているのは陸自・空自の若手将校であり、海自とのパイプは狭い。NSAはそこを狙い、在日本CIAを通して海自のとある将官と密約を取り付けた。K組織の本拠・オーシャンタートルを護衛するイージス艦”長門”は、襲撃開始から二十四時間は”人質の安全を優先する”という名目で動かない、という。
しかし待機時間が終了したあとは、のちのちのマスコミ対策のためにもイージスは動かざるを得ない。その場合、現場の突入要員たちに”手心を加えろ”などという命令ができるはずもない。結果、圧倒的人数・装備差によってガブリエルたち襲撃チームはほぼ殲滅されるだろう。
――というアルトマンの説明に、ガブリエルは肩をすくめて諒解としておいた。
仮にその最悪の結末となった場合でも、自分だけは潜水艇で脱出する算段ではある。しかしその傍らに、目的のライトキューブとSTLマシンが載っていなければ、人の魂の探求という偉大なる旅は取り返しのつかない後退を強いられる。
ガブリエルは、この強襲が完了した以降の長い人生についても、すでに計画を立て終えていた。
STLテクノロジーとともに東南アジアの第三国に脱出したあとは、自分の容姿や指紋もふくめてあらゆる痕跡を消す。その上でヨーロッパ――南仏かスペインが望ましい――へと渡る。
運用によって膨大な額になっている隠し資産を惜しみなく使い、広く快適な屋敷を手に入れる。その奥まった一室にSTLを設置し、さまざまなヴァリエーションの仮想世界を構築する。
その世界の住人は、当初は”アリス”とガブリエルだけとなろう。しかしそれではあまりに寂しい。魂の研究という目的のためにも、素材は増やさねばならない。
もちろん、地元で狩りをするような愚は冒さない。最低でも国境線をひとつは越えたさきで、若く活力にあふれた魂の持ち主を見つけ、拉致し、STLに掛けて魂を引き抜いたあと不要な殻は処分する。
北東ヨーロッパや中東、アフリカだけでも多くの出会いはあるだろう。しかしそれだけでは寂しい。ほとぼりが冷めたあとは、母国アフリカ――そしてもちろん、VR技術発祥の地である日本にも遠征したい。
日本のVRゲーム・プレイヤーたちの輝くようなヴァイタリティは、昔からガブリエルを深く魅了してきた。無論全員がそうではないが、一部のプレイヤーたちは、まるでそこが現実以上の現実であるかのように振る舞い、リアルな感情を惜しみなく振り撒くのだ。
それはおそらく、かつてあの国に二年間だけ存在したという”リアル・バーチャル・ワールド”というべきものと無関係ではあるまい。開発者によりハッキングされ、真の生と死が付与されたデスゲームを体験した若者たち。かれら”生還者”たちの魂は、それ以外の者にはない仮想世界適合性をそなえている。
可能ならば、一人でも多く彼らを――しかも”攻略組”と呼ばれたという子供たちの魂を手に入れたい。それらを封入したライトキューブは、どんな宝石よりも貴重な輝きを放とう。
全世界のどんな権力者、大富豪が幾ら札束を積もうとも決して手に入れることのできない究極の輝石。それを屋敷の秘密の部屋にたくさん、たくさん並べ、毎日好みの相手を好みの世界にロードして、いかようにも望むままに扱えるのだ。
素晴らしいのは、人間から抜き出しライトキューブに封じた魂は、コピーもセーブも自由自在だということだ。壊れたもの、歪んだものは端から消去し、長い時間をかけて、ガブリエルの好みのかたちへと造り上げられるのだ。まるで原石に、最上の輝きを放つカットを施すかのように。
その段階に至ってはじめて、ガブリエルの長い旅はあの原点と同じレヴェルの至福と歓喜へと還元されるだろう。
幼いころ、森の大きな樹の下で、アリシア・クリンガーマンの魂の美しい輝きを見たあのときへと。
一瞬の想念ではあったが、ガブリエルは瞼を閉じ、かすかに背中を震わせた。
次に目を開けたときには、もう氷のような思考力が戻っていた。
各国の、そして日本の若者たちの魂が、王冠の周囲を取り巻く色とりどりのルビーやサファイアだとすれば、中央に嵌まるべき巨大なダイヤモンドはやはり”アリス”だ。一切の穢れなき究極の魂であるアリスこそ、自分の永遠の伴侶にふさわしい。となれば、何としても彼女のライトキューブを発見、入手せねばならない。
しかし、クラスターに積み上げられた十万以上のキューブは、見た目にはまったく同じものだ。物理的な作業で判別するのは不可能だ。
となれば、やはり情報的オペレーションに頼るしかない。とは言えメインコンソールのロックは一流の電子犯罪者であるクリッターにも手が出せないものらしい。
ガブリエルはブーツを鳴らして移動し、キーボードに突っ伏すようにして両手指を高速運動させているクリッターの背後に立った。
「どうだ」
返事は、両掌を上にして高く持ち上げる仕草だった。
「管理モードへのログインは絶望的ー。できるのは、上のクラスターに収まってる魂ちゃんたちがユカイに暮らすおとぎの国を、指をくわえて覗き見することくれーだなー」
クリッターが指を動かすと、正面モニタのOS画面にひとつ窓が開き、奇妙な光景が表示された。
とても、”おとぎの国”という印象ではない。空は不気味なクリムゾンに染まり、地面は炭ガラのように黒い。
革を張り合わせたとおぼしき、尖ったテントが画面中央にいくつか建っている。そのかたわらに、ずんぐりした体格と禿げ上がった頭を持った奇妙な生き物が十匹ほど集まり、何か騒いでいるようだ。
おおまかには人型だがどう見ても人ではない。ひどい猫背で、腕が地面に擦りそうなほど長く、対照的に折れ曲がった脚は短い。
「ゴブリン?」
ガブリエルが呟くと、クリッターは軽く口笛を吹き、嬉しそうな声を出した。
「オッ、詳しいじゃないの隊長ー。そーだなー、オークやオーガーって感じじゃないから、こりゃゴブリンだろうなー」
「でも、それにしちゃちょっとデッケーぜ。こりゃホブだな、ホブゴブ」
隣にやってきたヴァサゴが、両手を腰に当てて意見を加えた。
なるほど、いくら武器の扱いに精通していようとも、やはり兵士ではなく民間企業の飼い犬なのだな、とガブリエルは思った。もともとの所属である特殊部隊”ヴァリアンス”には、ガブリエルのほかにはVRMMOゲームの知識がある者などひとりもいなかったのだ。
しかし、このチームのメンバーにはその手のゲーム経験がある者が多い。あるいは仮想世界内での作戦行動もあり得るということでピックアップされた人員なのだから、当然と言えば言えるのかもしれないが。
ガブリエルたちが見守る先で、十匹ほどの”ホブゴブリン”の騒ぎはいよいよ過熱していくようだった。ついに二匹が互いの胸倉をつかみ上げ、取っ組み合いの大喧嘩を始めると、それを取り囲む奴らも両手を振り上げてはやし立てる。
「……クリッター」
何か、アイデアのおおもとが形になりかけるのを感じながら、ガブリエルはシートに座る坊主頭に向かって声を掛けた。
「へい?」
「こいつら……この怪物どもは、いわゆるMobAIだのNPCとは違うのか?」
「あーっとぉー、んー、どうやらそうだナー。こいつらはある意味マジモンの”人間”ー。上のライトキューブ・クラスターにロードされてる人造魂……フラクトライトの一部ってわけだなー」
「なに(ワッ)!? マジかよ(リアリー)!? なんてこった(オーマイ・ゴッ)!!」
途端、ヴァサゴが素っ頓狂な叫びとともに身を乗り出した。
「このホブどもが人間!? 俺らと同じレベルの魂を持ってるだって!? フリスコのバァちゃんが聞いたらその場のおっ死んじまわぁ!!」
ぺしぺしとクリッターの坊主頭を叩きながら、更に喚きたてる。
「日本人てのはクリスチャンでブッディストでゼンマスターなんだろう!? よくまあこんな研究ができたモンだな!! あれかよ、上のキラキラに収まってんのはみんなこういうゴブだのオークなのか!? 俺らのアリスちゃんもか!?」
「なワケ無ぇー」
迷惑そうにヴァサゴの手を払いながら、クリッターが訂正した。
「いいかー、ここの連中が作ったVR、アンダーワールドって奴は二つのエリアに分かれてんだよー。真ん中に”ヒューマン・キングダム”があってそこではフツーの人間が暮らしてる。んで、外側に”ダーク・テリトリー”があって、こいつら怪物がうじゃうじゃいやがるってわけだー。アリスが居るのは当然ヒューマン・キングダムのどっかだなー。それを見つける手をいま考えてんだぁー」
「んなの簡単じゃねえか。人間ってからには言葉通じんだろ? ならそのヒューマンキングダムとやらにダイブして、そのへんの連中に、アリスってコ知らねえ? って訊けばいいだろ」
「うわっアホだ。アホがいるぞー」
「んだとてめえ!!」
「あのなー、キングダムはてめーがのたくってたフリスコと同じくらいでっけーんだ。そこに人間が十万からいるんだぞー。それを一人二人でどうやって調べ上げる気だっつうのー」
と、うんざりした口調で発せられた自分の言葉に打たれた、とでもいうかのように――。
クリッターが、がばっと猫背を起こした。坊主頭ががつっとヴァサゴの顎に命中し、ラテン系の喧嘩小僧がまたしても悪態を喚き散らすが、耳も貸さずに大声で叫ぶ。
「待て。待て待て待て待てー。一人二人……じゃ無ぇーぞ」
それを聞いた途端、ガブリエルの中にあった曖昧なアイデアも、さっと大まかな形へと整えられる。
「……そうか。アンダーワールドへのログイン用に用意されているアカウント……その全てが、レベル1の一般市民ということは考えにくい。そうだなクリッター」
「イエス。イエース、ボス!!」
だかだかだかっ!
とキーボードが打楽器のように唸り、大モニターにたちまち幾つものリストがスクロール表示される。
「人間のオペレータがログインして内部を観察、あるいは操作するためのアカウントなら……あらゆる階級の身分が用意されてるはずだぁー。軍隊の士官……いや将軍……。いやいや、貴族、皇族……ことによると皇帝そのものだって……」
「おぉ。おー!! そいつぁイカシてるな!!」
くっきりと割れた顎をこすりながら、ヴァサゴが叫んだ。
「つまり、ジェネラルだのアドミラルだの国防長官だののご身分でアンダーワールドにログインしてよ、好き放題命令すりゃあいいってことか! “全軍整列! 回れ右! アリスを探して連れて来い!!”」
「……なぁーんか、アンタに言われるとせっかくのアイデアがくだらねーものに思えてくるよなぁー」
ぶつぶつ文句を言いながらも、クリッターは物凄いスピードでコンソールを操作し続けた。
しかし。
ほんの数秒後、この男にしては珍しい罵り言葉とともにリストアップが中止された。
「クソッ、だめかぁー。ワールド直接操作だけじゃなく、ハイレヴェル・アカウントでのログインにもがっちりパスがかかってやがる。残念ですが、ボス、ヒューマン・キングダムへのダイブは一般市民アカウントでしかできねぇみたいだー」
「……フム」
クリッターとヴァサゴの顔には明確な落胆の色が浮かんでいるが、ガブリエルは表情筋ひとつ動かさず、軽く首を傾けただけだった。
残された時間的猶予は、決して多いとは言えない。
しかし、それはあくまでこの現実世界において設定されたリミットでしかない。スクリーンの中に広がる異世界”アンダー・ワールド”では、現実比1000倍という凄まじい比率で圧縮された時間が流れているのだ。
つまり言い方を変えれば、残された猶予二十三時間は、アンダーワールドでは実に二年半以上もの膨大な年月に相当することになる。
それだけの時間があれば、一般民としてログインし、求める”アリス”を探し出して確保したうえで、世界内部のコンソールから現実側へとイジェクトさせることもあながち不可能ではないかもしれない。
しかし――いかにも冗長な話であるのも確かだ。
そんなことをするくらいなら、むしろ、ヒューマン・キングダムの”外側”からアプローチしたほうが速いのではないか。
「クリッター。ハイレヴェルのアカウントは、目標エリア外……”ダーク・テリトリー”には用意されていないのか?」
「……外? しかし、アリスがそっちに居るってー可能性は限りなく低いのでは?」
疑問を口にしながらも、クリッターの指が軽やかに閃く。
開きなおされるウインドウ群を見上げながら、ガブリエルは答えた。
「ま、そうだろうな。しかし、エリア境界は完全不可侵というわけではなかろう? アカウントに与えられた権限によっては、境界を超える手段があるかもしれない」
「オーッ、さっすがは兄貴! 考えることが違うな! つまりアレだろ……人間の将軍じゃなくて、モンスターどもの大将になって攻めこもうってんだろ!? そっちのほうが燃えるってもんだ!!」
ぴゅう、と口笛を鳴らして喚くヴァサゴに、ほとほとうんざりという口調でクリッターが冷や水を浴びせた。
「燃えるのは勝手だけどなー、ログインするのがおめーなら、向こうじゃクサくてデカい怪物になるんだからな……っと、おっ、あった、ありましたよボス」
たぁん、とキーが弾かれる音とともに表示されたウインドウは二つ。
「えー、人間側と違って、スーパーアカウントはたった二個ですが……やった、パスはかかってませんよ! なになに……まず一つは、”暗黒騎士(ダークナイト)”ってー身分ですな。権限レヴェルは……70! こりゃ高いですよ!」
「おお、いいねいいね! そいつはオレがもらうぜ!!」
騒ぐヴァサゴを無視して、クリッターはもう片方のウインドウをアクティブにした。
「で……もう一つは、と。――なんだこりゃ? 身分が空欄だ……レヴェル表示もないぞ。設定されてるのは名前だけです。こいつは……何て読むんだ? ……”ベクタ”?」
サブコントロールを包んだ重苦しい沈黙を、比嘉は遠慮がちに破った。
「ええ……と、ですね。彼の肉体……というか、現実世界での桐ヶ谷君の置かれた状況は、今説明したとおり……楽観を許さないものです」
神代凜子に肩を抱かれた結城明日奈が、びくりとその体を震わせるのを見て、慌てて言い添える。
「で、でも、僅かながら希望もあります!」
「……と言うと?」
鋭い、しかしどこか縋るような響きを帯びた声で凛子が問う。
「アンダーワールドにおけるキリト君は、まだログインを継続している」
比嘉は、メインコントロールルームに比べると随分と小さくなってしまったモニタを見上げた。マウスを動かし数回クリックすると表示が切り替わり、人界とそれを取り囲むダークテリトリーで構成されるアンダーワールドの俯瞰図が出現する。
「つまり、自我が損傷したとは言え、彼のフラクトライトそのものはまだ活動し、様々な刺激を受け取っているわけです。事ここに到ればもう、アンダーワールドにおいて、ある種の……奇跡的癒しが彼に訪れることを祈るしかない……。自分自身を憎み、責めるあまり、自らの魂を損なってしまった彼を、何者かが癒し、赦しを与えてくれることを……」
自分の言葉がとうてい科学的とは言えないものであることを比嘉は自覚していた。
しかしそれはもう、偽らざる本心そのものだった。
比嘉は、他のラース技術者らと力と知恵をあわせ、ナーヴギア、メディキュボイドと続いた脳インターフェースマシンの最終形・ソウル・トランスレーターを生み出した。しかしそのマシンによって見出された人の意識体・フラクトライトに関しては、まだ分からないことのほうが圧倒的に大きい。
フラクトライトは物理的な現象なのか?
それとも――唯物論を超えた観念なのか?
もし後者であるならば。
傷つき、疲れ果てた桐ヶ谷和人の魂を、何か、科学を超えた力が癒すということもあり得るのかもしれない。
たとえば、誰かの愛が。
「……わたし、行きます」
まるで、比嘉の思考と同調したかのように。
小さな、しかし確とした言葉がサブコントロールに響いた。
部屋中の人間が、はっとして声の主――この場における最年少の少女を見つめた。結城明日奈は、肩を抱く凛子の手をそっと外し、こくりと頷きながらもう一度言った。
「わたし、アンダーワールドに行きます。向こうで、キリト君に会って、言ってあげたい。がんばったね、って。悲しいこと、辛いこと……いっぱいあっただろうけど、きみは出来るかぎりのことをしたんだよ、って」
大きなはしばみ色の瞳に涙を溜めながらそう言う明日奈の姿は、一生を学究に捧げる覚悟の比嘉ですら息を飲むほど美しかった。
同じように、何かにうたれたような顔つきで言葉を聞いていた菊岡が、すぐに眼鏡のレンズに表情を隠しながら、隣接するSTLルームを見やった。
「……たしかに、STLはあと一つ空いている」
錆びた声でそう言ったあと、アロハ姿の指揮官は難しい表情を作り、続けた。
「しかし、アンダーワールドは今……とうてい平穏な状況とは言いがたい。スケジュールされていた最終負荷段階に、こちら側の時計であと数時間のうちに突入するからだ」
「最終……負荷? 何がおきるの?」
眉をしかめる凛子に、比嘉は手振りを交えて説明した。
「ええと……簡単に言えば、殻が割れるんス。人界とダークテリトリーを数百年に渡って隔ててきた”東の大門”の耐久値がゼロになって……闇の軍勢が人の世界になだれ込む。人間達が充分な軍事体制を整えていれば、最終的には押し返せる負荷です。しかし、今回の実験では……キリト君が統治組織である”神聖教会”を半ば壊滅させてしまってますから……どうなるか……」
「考えてみれば、どっちにしろ我々の誰かがダイブせねばならん状況かもしれないな」
胸の前で腕を組んだ菊岡が呟いた。
「侵攻がはじまれば、その混乱と虐殺のさなかで、人界にいる”アリス”が殺されてしまうこともあり得る。そうなっては、何のために苦労してメインコンソールをロックし時間を稼いだのか分からないからな。誰かがスーパーアカウントで中に行って、アリスを保護し、内部コンソールである”果ての祭壇”まで連れて行って、そこからこのサブコントロールにイジェクトするべきかもしれん」
「ああ……あなた、キリト君にもそう頼んでいたわね、事故の直前に」
「うむ。彼が無事だったら、きっと遂行してくれたはずだ。あの時、彼はアリスと一緒にいたんだからな……まさに、万にひとつの僥倖だったのだが」
「なら、内部時間で何ヶ月か経っているいまも、二人は一緒にいる可能性が高い……ということ?」
凜子の質問に、菊岡と比嘉はそろって首をかしげた。
答えたのは比嘉だった。
「……そう、考えていいかもしれません。なら、やはりダイブは明日奈さんにお願いするべきかも……。キリト君とのコミュニケーション力はもちろん、アリスの保護には内部での戦闘能力が要求されるでしょうから。ここにいる人間で、もっとも仮想世界での動きに慣れているのは明日奈さんっス、間違いなく」
「なら、スーパーアカウントも、可能な限りハイレヴェルなやつを使ってもらったほうがいいな」
菊岡の声に頷き、比嘉はキーボードに指を走らせた。
「そういうことなら選り取りみどりッスよ。騎士、将軍、貴族……色々あります」
「ねえ、ちょっと待って」
不意に、やや緊張した声で凜子が口を挟んだ。
「なんスか?」
「……それとまったく同じことを、襲撃者連中が考えるってことはないの? さっきあなた言ってたでしょ? アリス確保の抜け道は、内部からのオペレーションだ、って」
「あぁ、はい。確かにあいつらにも可能な手段です。下のメインコントロールにも、STLが二基設置してありますからね。ただ、あいつらにはスーパーアカウントのパスを破る時間はないはずッス。ログインできるのはレベル1の一般民だけっすよ。とても、最終負荷段階の修羅場で活動できるステータスじゃないッス」
早口にそう説明しながらも――。
比嘉はふと、何かを忘れているような、かすかな悪寒が背中を走るのを意識した。
しかし、その思考は、高速でスクロールされるアカウントリストの点滅光に紛れて形になることはなかった。
SAO4_37_Unicode.txt
暗黒騎士リピア・ザンケールは、騎竜の動きが止まるまえにその背から飛び降りると、発着台から城へと続く空中回廊を全力で走りはじめた。
すぐに息苦しさを感じ、右手で大きな黒鋼の兜を引き剥がす。
ばさっ、と広がった灰青色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、リピアはさらに速度を上げた。重苦しい鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にのたくっている気に食わない男どもに、肌の一片たりとも見せてやる気はない。
湾曲する回廊を三分ほども疾走すると、右手の円柱の隙間から屹立する巨城のすがたが、赤い空を背景にあらわれた。
帝宮オブシディア城は、広大無辺な闇の国でもっとも高い峻峰の頂付近をそのまま彫り抜いて築いてある。
最上階の皇帝居室からは、はるか西の彼方にそびえる果ての山脈と、その山肌に繰りぬかれた大門がかすかに望めるという。
しかし、その伝説を確かめたものは、この数百年ひとりもいない。
闇の国の玉座は、初代帝であり堕天の神でもあるベクタそのひとが、太古の昔に地の底の暗闇に去って以来空位なのだ。最上階の大扉は膨大な天命をもつ大鎖にて封印され、永遠に開くことはない。
リピアは、漆黒の城の突端から視線を引き剥がすと、目前に迫った鉄門を守る衛兵に呼びかけた。
「暗黒騎士十一位ザンケールである! 開門せよ!!」
衛兵は人間ではなくオーガ族だ。頑強ではあるものの多少頭の回転が鈍く、リピアが鋳鉄の柵に達する寸前になってようやく巻き上げ機を回しはじめた。
ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた隙間を、小柄なからだを横にしてすり抜ける。
三ヶ月ぶりの城は、相変わらず冷え冷えとした空気でリピアを迎えた。
コボルドどもが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつない。黒曜石の敷板を具足の底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌もあらわなドレスに身をつつんだ妖艶な女ふたりが、こちらは足音ひとつさせず滑るように歩いてくるのが見えた。
きらびやかに波打つ髪に載る、とがった大きな帽子が、彼女らが暗黒術師であることを教えている。眼をあわせないようにしてすれ違おうとしたとき、片方がきんきん声でわざとらしく言った。
「アァラすごい地響き! オークかトロルでも走ってるのかしら!」
すぐさま、もう一方がケタケタ笑いながら言い返す。
「そんなもんじゃないわぁ、この揺れはジャイアントよぉ」
――刃傷沙汰禁止の城内でなければ舌を切り飛ばしてやるものを。
と思いつつ、リピアは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。
闇の国のヒューマン族の女性は、修練所を卒業したのちはたいていが術師ギルドに入る。ひどく享楽的な組織で、規律のかわりに放埓を学ぶと言われ、出来上がるのはあのような、着飾ることにしか興味のないやつばらばかりだ。
それでいて、術師よりも格の高い騎士に叙任された女にはやたらと対抗心を燃やしてくる。リピアも、修練所同期で仲の悪かった女術師に毒虫の呪いを飛ばされて往生したことがある。飛竜の炎で髪をぜんぶ燃やしてやったら大人しくなったが。
所詮、連中は”先”を見ようとしない馬鹿者どもなのだ。
組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らないこの国には未来がない。
現在でこそ、十侯会議のもとに危うい均衡で内乱が抑えられているが、それも長続きはしない。目前にせまった”人界”、オークやゴブリンたちの言うところの”イウムの国”との戦争で十候のだれかが命を落とせば、均衡はくずれ再び血で血を洗う乱世が出来するだろう。
その未来図をリピアに語ったのは、十候のひとりであり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また愛人でもある男だった。
そしていまリピアは、彼が待ち望んだひとつの情報をその胸のうちに携えているのだ。
となれば、女術師どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。
無人のホールを一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた躯ではあるが、さすがに息が切れ汗が滲んだころ、ようやく目指すフロアにたどり着いた。
闇の国全土を合議によって支配する十候は、五人がヒューマン族、二人がゴブリン族、残りをオーク族、オーガ族、ジャイアント族の長が占めている。百年にも渡る内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、現在ではこの五族のあいだに上下はないという約定が交わされている。
ゆえに、オブシディア城の皇域のすぐ下に、十候それぞれの私室が均等に並んでいる。リピアは円形の廊下を、さすがに少々足音を殺しながら走り、奥まった一室の黒檀の扉をそっと叩いた。
「――入れ」
すぐに押し殺した声でいらえがある。
廊下の左右に目を走らせ、無人であることを確認してから、リピアは素早くドアを開け中に滑り込んだ。
広大だが、装飾は最低限に抑えられた部屋に漂う男っぽい匂いを吸い込みながら、戸口に肩膝を突く。
「暗黒騎士リピア・ザンケール、ただいま帰参仕りました」
「ご苦労。まあ、座れ」
太い声に、高鳴る胸を押さえつけつつ視線を上げる。
丸テーブルを挟んで置かれた巨大なソファの片方に横すわりになり、両腕を枕にして高々を足を組む男こそが、暗黒騎士長、別名暗黒将軍のビクスル・ウル・シャスターその人だった。
ヒューマン族としては図抜けた体躯だ。さすがに横幅は比べられないが、背丈だけならオーガ族にも引けは取らない。
黒々とした髪を短く刈り込み、対照的に口元と顎の美髭は長く豊かだ。ブロンズ色の肌は、簡素な麻のシャツのボタンを弾き飛ばしそうなほどの筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰周りには余計な肉のひとつまみもない。四十を超えたとは思えない完璧な肉体を保つのが、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬であることを知るものは少ない。
久々に目にする愛人の姿に、いますぐその胸に飛び込みたい衝動を抑えながら、リピアは立ち上がりシャスターの向かいのソファに座った。
自分も身体を起こしたシャスターは、卓上の水晶杯のかたほうをリピアに持たせると、年代物らしき火酒の封を指先で切った。
「お前と一緒に飲ろうと思って、昨日宝物庫からくすねておいたんだ」
片目を素早くつぶりながら、薫り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。
「あ……ありがとうございます、閣下」
「二人きりのときはそれはやめろと何度言わせる?」
「しかし……まだ任務中ですから」
やれやれ、と肩をすくめるシャスターと控えめにグラスを打ちあわせ、高価な酒を一息に呷って、リピアをようやく深く息をついた。
「……それで、だ」
自分も杯を干し、おかわりを注ぎながらも表情を改めた騎士長は、わずかに低めた声で聞いた。
「卿が使い魔で知らせてきた”一大事”とは、一体何なんだ?」
「は……」
リピアはつい視線を左右に走らせながら、身体を乗り出した。シャスターは豪放磊落だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえ術師ギルド総長の魔女であろうとも盗み聞きはできないはずだ、とわかっていても、己の携えた情報の巨大さについ囁き声になる。
シャスターの黒い瞳をじっと見つめ、リピアは短く言葉を発した。
「……神聖教会最高司祭アドミニストレータが死にました」
一瞬、さしもの暗黒将軍もカッとその目を見開いた。
静寂を、ふううーっという太いため息が破る。
「……本当か、それは……などと訊くのは野暮だな、卿の情報を疑いはせんが……しかしな……あの不死者が…………」
「は……お気持ちはわかります。私もどうしても信じられず……確認に一週間を掛けましたが、やはり間違いないかと。神聖教会の修道士団員に”聴耳虫”を忍ばせて裏を取りました」
「ほう……無茶をしたな。もし”逆聴き”されたら、今頃卿は八つ裂きだぞ」
「ええ。しかし、私程度の術式を探知できなかったことからも、情報は真実かと思います」
「……うむ……」
二杯目の火酒をちびりと舐め、シャスターは剛毅に整った貌を僅かに俯かせた。
「――いつのことだ、それは。それに、死因は?」
「およそ半年前と……」
「半年。――そなたの仇敵、あの”五十番”が山脈から消えたのもその頃だったか?」
「よしてください」
リピアは眉をしかめて反駁した。
「きゃつには別に負けてはおりません、私はこうして生きていますから。――そうですね、確かに半年前ですね。そして最高司祭の死因ですが……これはおそらく流言でありましょうが、”剣に斃れた”と……」
「剣に。――あの女を斬ったものがいた、と?」
「ありえませぬ」
絶句したシャスターにむけて、リピアは大きくかぶりを振った。
「おそらくは、かの不死者と言えどもついに天命が尽きたのでしょう。しかし神人を名乗った最高司祭の霊性を保つため、そのような空言を流したのではないかと……」
「うむ……ま、そんなところだろうな。しかし……死んだか、アドミニストレータが……」
シャスターは目を閉じ、両腕を組んで、身体をソファに預けた。
そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い呟きとともに瞼を開いた。
「機だ」
リピアは一瞬息を詰め、掠れた声で訊ねた。
「何の、ですか」
答えは即座に返った。
「無論……和平の、だ」
この城で口に出すには危険すぎる単語は、部屋の冷たい空気に即座に溶け、消えた。
リピアは無論のこと、豪胆で鳴るシャスターの頬にすらもわずかな強張りが見てとれた。
「それが可能だと……お考えですか、閣下」
囁くように問うたリピアに対し、シャスターは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
「可能であろうとなかろうと、成さねばならぬのだ、何としても」
ぐっ、と火酒を干し、続ける。
「創世の古より世界を分かち続けてきた”大門”の天命が、ついに尽きようとしていることは最早疑いようもない。闇の五種族の軍勢は、ソルスとテラリアの恩寵豊かな人界への大侵攻のときを目前にして焼けた大釜のごとく沸き返っておる。前回の十候会議では、人界の土地と財宝、そして奴隷をどのように分割するかで大いに紛糾したよ。まったく……度し難い欲深どもだ」
歯に衣着せぬシャスターの物言いに、リピアは首を縮めた。
“禁忌目録”という恐るべき大部の成文法に支配されているという人界とはまったく異なり、闇の国に存在する法はただ一つのみである。すなわち――力で奪え。
その意味では、最高権力の位に智謀と武勇で上りつめ、そして今なお尽きぬ欲望を人界という至高の熟果に向ける九人の諸候たちにくらべれば、シャスターのほうが異端と言うべきなのだろう。
しかし、リピアがこの男にどうしようもなく惹かれるのも、その異質な思考ゆえだ。何と言っても、他の諸侯にかしずく女たちと違って、リピアは無理やりに奪われてきたのではない。シャスターは花束を差し出し、ひざまずき、リピアただ一人を口説いたのだ。
愛人がそのような思考を彷徨わせているとはつゆ知らぬ様子で、シャスターは更に重々しく続けた。
「しかし、連中は人間たちを甘く見すぎている。人間たちを守る剣……”整合騎士団”を」
数度瞬きして、リピアは意識を引き戻した。
「確かに……。奴らは容易ならざる相手です」
「一騎当千さ、文字通り。暗黒騎士団の長い歴史において、整合騎士に殺されたものは数え切れぬが、その逆は一度として無いのだからな。この俺とても、追い詰めたことは幾たびかあるが、ついに止めまでは刺せなかった。それほど奴らの剣技は研ぎ澄まされ、身に帯びた神器は強力無比だ」
「は……。怪しげな術も使いますし……」
「”武装完全支配”か。騎士団の術理部にずいぶんと研究させたが、結局解明には到らなかったな。あの技ひとつに対抗するにも、ゴブリンの兵士が百では足りぬだろう」
「とは言え……我がほうの軍勢は五万を数えます。翻って、整合騎士団は総勢で五十に満たぬはず。さすがに押し切れるのでは……?」
リピアの言葉に、シャスターは美髯の片端を皮肉げに持ち上げた。
「さっき、一騎当千と言ったろう。計算上は相討ちだな」
「まさか……そこまでは」
「まぁ、な。気にくわん戦法だが、戦線を我ら騎士団とオーガ、ジャイアントあたりが支え、後方から暗黒術師どもの遠距離攻撃を浴びせればいずれは整合騎士どもも力尽きるだろう。だが、最後の一騎が墜ちたとき、こちらにどれほどの損害が出ているか想像もつかん。万か……あるいは二万か」
かちん、と硬い音を立てて水晶杯が卓上に置かれる。
酌をしようとするリピアを片手で制し、シャスターは広い背中をソファにうずめた。
「そしてその結果、当然ながら種族のあいだに力の不均衡が生じる。十候会議は意味を失い、五族平等の条約も破棄されるだろう。”鉄血の時代”の再来だ。いや、尚悪いな。今度は人界という、飲み干せぬ蜜の大海が目の前に開かれているのだから。かの地の支配権が定まるまでは、百年では足りるまい……」
それは、常々シャスターが危惧していた最悪の未来図だ。
そして更に悪いのは、シャスター以外の九候は、その未来を最悪と思っていないことだ。
リピアは顔を伏せ、騎士団入団とともに与えられた漆黒の全身鎧の、磨きこまれた艶やかな輝きにじっと見入った。
子供の頃は人一倍小柄で、腕力もなかったリピアは、百年前の”鉄血の時代”ならばとうてい騎士になどなれなかっただろう。食い扶持を減らすために人買いに売られるか、どこぞの路地裏で殺されるかして短い人生を閉じていたはずだ。
しかし、曲がりなりにも平和条約らしきものができたお陰で、奴隷市ではなく修練所に入ることができたし、そこで遅咲きの剣の天稟に恵まれて、ヒューマン族の女としてはほとんど望みうる最高の地位にまで達することができた。
今リピアは、月々の給金のほとんどを投じて、いまだ人買いの横行する僻地から親に捨てられた幼子を集め、修練所に入れる歳になるまで面倒を見る保育所のようなものを運営している。
そのことは、同輩たちはもちろんシャスターにも秘密にしている。自分でも、自分がなぜそんな真似をしているのか説明できないからだ。
ただ――。
この世界、力あるものが全てを奪う”闇の国”はどこかおかしいという感覚は、常にリピアの心の片隅にある。シャスターほど、理念を明確な言葉に変える知恵は自分には無いが、それでも、もっと”あるべき正しい姿”がこの国、いや、人界をも含む世界すべてにあるような気がするのだ。
その、いわば新世界が、シャスターの唱える和平のはるか先に存在するであろうことは、今のリピアにもおぼろげに理解できる。愛する男の力になりたいとも思う。
しかし。
「……しかし、どのようにして他の諸侯を説得するおつもりですか、閣下。それに……そもそも、整合騎士団は和平の交渉を受け入れるでしょうか?」
低い声でリピアは訊ねた。
「……うむ……」
シャスターは目を閉じ、右手で艶やかな髭をしごいた。やがて、苦い響きのある声が、この対話中でもっとも密やかに発せられた。
「整合騎士については……脈有りと見ている。最高司祭が斃れたとあらば、いま総指揮を執っているのはベルクーリの親父だろう。食えん男だが……話はわかる奴だ。問題は、やはり十候会議よな。こちらは……矛盾するようだが、斬らねばならんかもしれん。最低でも三人を」
持ち上がった瞼の奥の、わずかに赤みを帯びた黒い瞳は、名剣の切っ先よりも剣呑な輝きを帯びていた。
はっ、と息を飲み、リピアは身を乗り出した。
「三人。と仰いますと……やはり山ゴブリン族の長、オーク族の長、それに」
「暗黒術師ギルド総長。とくにあの女は、アドミニストレータの長命の秘儀を手に入れ、いずれ皇帝位に上る野望を滾らせておるからな。和平案など決して受け入れるまい」
「し、しかし!」
絞り出すように、リピアは反駁した。
「あまりにも無謀です、閣下! ゴブリン、オークの長は敵ではないでしょうが……暗黒術師だけはどのような卑劣な手妻を用いるか見当もつきませぬ!」
シャスターはしばらく無言だった。
不意に発せられた言葉は、まったく予想もできないものだった。
「なぁ、リピアよ。俺のところに来てもうどれくらいになる?」
「はっ? は……え、ええと……私が二十一のときでしたから……四年ですか」
「もうそんなに経つか。……長い間、曖昧な身の置き方をさせて悪かったな。どうだ……そろそろ、なんだ、その」
視線をぐるりと回し、頭をがりがりと書いてから、筆頭暗黒騎士は少々ぶっきらぼうに言った。
「……正式に、嫁にならんか。こんなオッサンですまないと思うが」
「か……閣下……」
リピアが唖然と目を見開き――。
胸のおくに、じんわりと熱いものがこみ上げて、たまらずに愛する男の胸に飛び込もうとした、その時。
分厚い扉のおくから、引きつったような甲高い大声が広い部屋を貫いた。
「一大事!! 一大事ですぞ!! ああっ、なんたること!! おいでませ諸侯方、はよう、はよう!!」
かすかに聞き覚えのあるその声は、おそらく十候のひとり、商工ギルド頭領のものか。
リピアの記憶にある、恰幅のいい大人物然とした姿にそぐわない裏返った悲鳴は、さらに続いた。
「一大事でござる!! ――こっ、皇域のっ!! 神鉄の縛鎖が!! 啼いてござるううううう!!」
ガブリエル・ミラーは、とてつもなく広大な玉座の間にひざまずき頭を垂れる数十の人工フラクトライトを、いくつかの感慨とともに眺めた。
この”存在”たちは、一片二インチのライトキューブに封じ込められた被造物だ。それでいて、この世界では知性と魂を備えた本物の人間なのだ。もっとも、最前列に並ぶ十人のうち半分は、奇怪な容姿を備えたモンスターだが。
彼らと、その背後に従う騎士や術師たち、そして城の外に駐屯する五万の軍勢が、ガブリエルに与えられた戦力、”ユニット”ということになる。これから、この駒たちを適宜動かし、人界の防衛力を殲滅してアリスを確保せねばならない。
しかし、現実世界のリアルタイム・シミュレーションゲームと異なり、このユニットたちはカーソルとコマンドで好き放題動かせるわけではない。言語と態度で統率し、命令しなくてはならないのだ。
ガブリエルは無言で身体を回し、巨大な玉座のうしろの壁に張られた鏡を見やった。
そこに映っているのは、なんとも悪趣味な格好をした己の姿だった。
顔の造作と、白に近いブロンドの髪色だけは現実のガブリエルのままだ。
しかし、額には黒鉄色の金属に深紅の宝石をはめ込んだ宝冠が飾られ、黒いスエード調の革製のシャツとズボンの上に、これも漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰からはおぼろな燐光を放つ細身の長剣が下げられ、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマント。
視線を右に振ると、玉座から一段下がった位置に、両手を頭の後ろで組んできょろきょろあたりを見回している騎士の姿があった。
宝石のように輝くディープ・パープルのフルプレートアーマーの中身は、ガブリエルと同時にログインした副隊長ヴァサゴだ。勘がつかめるまでは、調子に乗って余計なことを言うなと釘を刺してあるが、スラングの感嘆詞を連発したくてたまらないという様子でカタカタとつま先を鳴らしている。
ため息を飲み込み、ガブリエルは再び自分の、ロック・スターも顔負けの装束に視線を戻した。
機能性一本やりのファティーグに馴染んだ体には、どうにも居心地が悪い。しかし、この異世界”アンダーワールド”では、ガブリエルは陸軍の一中尉ではない。
広大無辺のダークテリトリーを統べる皇帝。
そして――神なのだ。
ガブリエルはまぶたを閉じ、ゆっくりを息を吸い、吐いた。
演ずるべき役柄を、”タフでクールな隊長”から、”無慈悲な暗黒の神”へと切り替えるスイッチが意識のどこかでカチリと鳴った。
ふたたび眼を開け、艶やかなマントをばさりと翻して振り向いたガブリエル――暗黒神ベクタは、人間味のかけらも残されていない声を玉座の間に響かせた。
「顔を上げ、名乗るがいい。――そちからだ」
巨大なリングが輝く中指にさされたのは、最前列左端にうずくまる恰幅のいい中年男だった。
「は、はっ! 商工ギルド頭領を務めさせていただいております、レンギル・ギラ・スコボと申します」
再び平伏する男の隣には、凄まじく巨大な――立ち上がれば十フィートはあるだろう体躯に、黒光りする鎖を十字に巻きつけ、腰を奇怪な獣の全身皮で覆った亜人種が片膝を突いていた。
人間と比べると異様に長い鼻梁と顎をぐいっと持ち上げ、地響きのような低音で巨人が名乗る。
「ジャイアント族の長、シグロシグ」
この怪物を動かしているのが、自分と同質の魂なのだという事実をガブリエルが咀嚼するあいだに、さらに隣のほっそりした影が密やかに告げた。
「……暗殺者ギルド頭首……フ・ザ……」
ジャイアントに比べるとあまりにも華奢で存在感のないフーデッドローブ姿は、年齢も、性別すら定かでない。
顔を見せろと命令するかと一瞬考えたが、どうせこの手のアサッシンには素顔を晒すのを禁じる掟だのなんだのあるのだろう、と捨て置くことにして、ガブリエルは視線を左に移した。
そして、嫌悪に顔をしかめそうになるのを危うくこらえた。
醜悪、という言葉を見事に具現化した存在がそこにどさりと座り込んでいた。足が短すぎて膝をつけないのだ。でっぷりと丸く膨れた腹は脂ぎってテラテラと光り、肩と一体化した首からは獣の頭骨らしきものがじゃらじゃらと下がっている。
さらに、その上に載った頭は七割が豚、三割が人という代物だ。突き出た平らな鼻と、牙ののぞく巨大な口、しかし細長い眼だけが人の知性をぎらぎらと映していて、それが余計におぞましい。
「オーク族の長ぁ、リルピリンだぁ」
甲高い声を聞いて、ガブリエルは、こいつは果たして男なのか女なのかと一瞬考えたが、すぐにその興味を捨てた。オークと言うからには軍団の下層レベルだろう。どうせ端から使い捨てにするユニットだ。
次に一礼したのは、まだ少年と言ってもいい年頃の、赤金色の巻き毛を垂らした若者だった。銅色に日焼けした上半身は革帯だけ、下半身はぴったりした革ズボンとサンダル、そして両手にはごつごつと金属鋲の打たれたグローブを嵌めている。
「闘技士ギルドチャンピオン、イシュカーンです!!」
右のオークと比較すると、やけにきらきらと輝いて見える少年の瞳を見返しながら、闘技士とはなんだろうとガブリエルは内心首を傾げた。兵士とは別物なのか。いちど、各ユニットのレベルとステータスを検分する必要がありそうだ。
少年の軽やかな声が消えるや否や、ぐるるるっ!! という獣の唸りが鳴り響いた。
ぐいっと頭を持ち上げたのは、ジャイアントには劣るが人間ばなれした体幹から、やけに長い両腕を床に突いた亜人種だった。上半身は、ほとんど全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく、地毛らしいとわかったのは、その頭部が完璧に獣のものだったからだ。
犬でも、熊のようでもある。長く突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。べろりと舌の垂れた口から、聞き取りにくい言葉が漏れ出した。
「ぐるる……オーガの……長……フルグル……るるる……」
それが名前なのか、ただの唸り声なのか確信は持てなかったが、ガブリエルは軽く頷いて次を見た。
その途端、耳障りな甲高い声がキイキイと喚きたてた。
「山ゴブリンの長ハガシにござりまする! 陛下、ぜひとも一番槍の栄誉は我が種族の勇士にお与えくださりますよう!!」
声の主は、猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を突き出させた、小さな亜人種だった。
背丈も筋肉も、これまで名乗ったジャイアント、オーク、オーガどころか人間たちにすら及ばない。
ダイブ前に受けたクリッターのレクチャーによれば、このダークテリトリーに存在する法はたったひとつだという。すなわち、”力ある者が支配する”。ならば、このどう見ても非力なゴブリンを、他の種族と対等の位置につかせている力とは何なのか。
どちらにしてもオーク以下の最下級歩兵ユニットであろうが、僅かな興味をもってゴブリンの顔つきを眺めたガブリエルは、ふむ、と内心で小さく頷いた。
ゴブリンの丸く小さな眼には、これまで名乗ったリーダーたちのなかで最大の欲望と不満が渦巻いていたからだ。
山ゴブリンの長の言葉が終わらぬうちに、その隣に座していた、肌の色合いだけが異なる亜人が同じようにきいきいと喚いた。
「とんでもない! こんな連中よりも十倍陛下のお役に立ちまするぞ! 平地ゴブリンの長クビリにござります!」
「なんだとこのナメクジ喰いめが! 湿気た土地のせいで頭がふやけたか!!」
「そっちこそ頭のミソが天日でカラカラ乾いたか!!」
きいきいきいと言い合う二匹の鼻先で――。
ばちっ。ばちばち!!
と七色の火花が弾け、ゴブリンの長たちは悲鳴を上げて飛び退った。
「――皇帝陛下の御前ですわよ、お二方」
艶やかな声とともに、掲げた右手を戻したのは、肌も露わな衣装に豊満な体を包んだ若い女だった。火花は、女の指先がライターのフリントのように擦りあわされると同時に飛び散ったのだ。
ゆるりと立ち上がった女は、プレイメイトも目ではないほどの体と美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。ガブリエルの左下方で、ヴァサゴが低く口笛を鳴らしたのもやむなしという所だろう。
カフェオレ色の肌は、まるでオイルでも刷り込んでいるかのように輝き、胸と腰まわりだけをわずかに黒いレザーが隠している。膝の上まで伸びるブーツは針のようなピンヒール。背中には黒と銀に輝く毛皮のマントを羽織り、その上に、豪奢なプラチナブロンドのストレートヘアが腰下まで流れている。
アイシャドーとルージュは鮮やかな水色、それに負けぬ同色の瞳をあだっぽく細めながら、女は名乗った。
「暗黒術師ギルド総長、ディー・アイ・エルと申します。我が配下の術師三千、そして私の心と体すべては陛下のものですわ」
もしこの視線を向けられたのがアサルトチームのほかの隊員の誰かなら、この瞬間に飛びついていてもおかしくない、と思えるほどの妖艶さだったが、性的衝動にコントロールされることのないガブリエルは鷹揚に頷いただけだった。
ディーと名乗ったウィッチは一瞬小さくまばたきし、更に何か言うかどうか考えたようだったが、もう一礼しただけで再び跪いた。
賢明なことだ、と思いながらガブリエルは視線を動かし、リーダーユニットの十人目、最後のひとりを見た。
そこに片腕片膝をついて頭を垂れているのは、おそらくは人間であろうが驚くべき体格を備えた中年の男だった。
全身を包む漆黒の鎧は、無数の傷を刻まれて鈍く光っている。俯けた顔にも、額と鼻梁に薄い傷痕が走っているのが見て取れる。
顔を上げぬまま発せられた男の声は、見事に錆びたバリトンだった。
「暗黒騎士団長ビクスル・ウル・シャスター。我が剣を捧げる前に……皇帝に尋ねたい」
ぐっ、と上げられた顔は、ガブリエルが軍役において出会った数少ない”本物”の軍人たちと共通する、研ぎ上げられた風貌を持っていた。
ことにその鋭い両眼の底にあるものは――男の右側にならぶ九人にはわずかにも見出せなかった、ある種の覚悟だった。
シャスターという騎士は、射抜くような視線でガブリエルを凝視しながら、いっそう低い声で続けた。
「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは……いずくにありや?」
なるほど――確かにこいつらは、単なるユニットではないのだ。
そのことを常に意識しておくべきだな。と内心で思いつつも、ガブリエルが被った”神の仮面”が口と表情を自動的に動かした。
「血と――恐怖。炎と破壊。死と悲鳴」
ガブリエルの、切削された合金のように滑らかではあるがエッジの立った声が広間に流れたとたん、十人の将軍たちの表情がさっと締まった。
その顔を順番に睥睨しながら、ガブリエルは黒毛皮のガウンを翻し、右腕を高く西の空にかざした。
「余を天界より放逐した神どもの恩寵溢れる蜜の地、その護りたる”大門”は今まさに崩れ落ちんとしている。余は戻ってきた……我が霊威をあまねく地上にしろしめすために! 余が欲するはただ一つ、時を同じくして彼の地に現われたる、天の神の巫女を我が掌中に収めることのみ! それ以外の人間どもは望むままに殺し、奪うがいい! すべての闇の民が待ち望んだ――約束の時だ!!」
しん、と静まり返った空気を――。
甲高い野蛮な雄叫びが破った。
「ギィィィィッ!! 殺ス!! 白いイウム共殺スウウウウウ!!」
短い足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱屈を滾らせたオークの長だった。すぐに、二匹のゴブリンが同時に両腕を突き上げ追随する。
「ホオオオオオウッ!! 戦だ!! 戦だ!!」
「ウラ――――ッ!! 戦だ戦だ――――ッ!!」
鬨の声は、たちまち他の将軍たち、そして彼らの背後の士官らにも伝染した。暗殺ギルドの黒ローブたちは枝のように細い体をゆらゆらと揺らし、暗黒術師ギルドの魔女集団も嬌声とともに色とりどりの火花を散らす。
巨大な広間に満ち満ちた、プリミティヴな大音声のさなかにあって――。
シャスターと言う名の騎士だけが、跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことにガブリエルは気付いた。
それが、軍人らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。
「いやぁ、兄貴にあんな才能があったとはね! 役者になったほうがよかったんじゃねーッスか!?」
ニヤニヤ笑いながらワインの瓶を放ってくるヴァサゴに、ガブリエルはフンと鼻を鳴らして応じた。
「必要に応じたまでだ。お前こそ、それっぽい演説の仕方を覚えておいたほうがいいぞ。あの連中より一段上の立場なんだからな」
受け取った瓶の栓を指先で弾き、ルビー色の液体を大きく呷ってから、果たしてこれは任務中の飲酒に該当するのかどうかとふと考える。
ヴァサゴのほうは、呑まなきゃ損と言わんがばかりに上等なヴィンテージ物をビールのように流し込み、ぐいっと口元を拭って答えた。
「俺は命令だの演説だのよか、先頭で斬り込みてえな。せっかくこんなものすげえVRにダイブしてるんすから……この酒も、ボトルも、本物としか思えねえ」
「その代わり、斬られれば痛いし血も出るぞ。ここはペイン・アブソーバが効かないんだからな」
「それがイイんじゃないっすか」
にやっと笑うヴァサゴに肩をすくめ、ガブリエルはボトルをテーブルに戻すとソファから立ち上がった。
オブシディア城の最上階にある、皇帝の私室だ。ホワイトハウスも問題にならないほどの豪華な内装に加え、巨大な窓からは遥か眼下の夜景が一望できる。
将軍たちは開戦準備を整えるために城を去り、都市から物資を運び出す輜重隊列のかがり火が途切れることなく動いている。補給を担う商工ギルドの頭領には、城に備蓄された食糧や装備をすべて使い尽くせと命じたので、兵たちが飢え、凍えることは当分無いはずだ。
無数の光から視線を外し、ガブリエルは部屋の片隅に歩み寄ると、そこに設置された黒曜石の柱――システム・コンソールに手を触れた。
メニューを手早く操作し、外部オブザーバ呼び出しボタンを押す。時間加速倍率が低下し、1:1に戻るときの奇妙な感覚に続いて、クリッターの早口がウインドウから流れ出した。
「隊長ですか!? まだダイブを見届けてメインコントロールに戻ってきたばっかりですよ!!」
「こっちではもう一日目の夜だ。分かっちゃいたが……奇妙なものだな。とりあえず、今のところは予定どおり進行している。ユニットの準備は一両日中に完了し、順次ヒューマン・キングダムへの進軍を開始する予定だ」
「素晴らしいー。いいですか、”アリス”を確保したら、そこまで運んできて、メニューから外部イジェクション操作を行ってください。そのコンソールはメインコントロールルームと直結ですから、それで”アリス”のライトキューブはこっちのもんです。それとー、これはヴァサゴのバカによく言い聞かせておいて欲しいんですが」
クリッターの声が耳に入ったらしく、背後から短い罵り声が聞こえた。
「管理者権限での操作が出来ない現状では、アカウントデータのリセットも不可能です。つまりー、隊長もヴァサゴも、その世界で”死んだ”ら、二度とそのアカは使えません。そしたら今度こそ一兵卒で出直しっすからねー」
「ああ……分かっている。当分は前線には出ないようにしておこう。JSDFの動きは?」
「今のところは無いです。まだ隊長たちのダイブには気付いていないようですねー」
「よし。それでは通信を切る。次の連絡はアリス確保後と行きたいものだな」
「了解ー、期待しております」
通信ウインドウを閉じると、再び僅かな違和感とともに加速倍率が戻った。
ヴァサゴは尚もぶつぶつ毒づきながら鎧の留め金と格闘していたが、やがてすべての装具を床に放り出し、革のシャツとズボン姿になると立ち上がった。
「えーっと兄貴、ちょいとダウンタウンに遊びに行ったら……ダメっすよね、やっぱり」
「暫くはガマンしろ。目標回収後に一晩時間を取ってやる」
「了ー解。あぁあ……殺しも女もお預けか……。そんじゃま、おとなしく寝ます。そっちの部屋使うっすよ」
こきこき関節を鳴らしながら、ヴァサゴが隣接したベッドルームのひとつに消えると、ガブリエルもふうっと息を吐いて額から宝冠を外した。
マントとガウンもソファに掛け、剣をその上に投げる。
これまでプレイしたVRゲームでは、装備は外すはしからアイテムウインドウへと戻ったものだが、どうやらこの世界にはそのような便利な機能は無いようだった。この調子で一ヶ月も暮らすと部屋が酷い有様になりそうだが、どうせ明後日には城を去り、次に戻ってくるのはログアウトのためだ。
上着のボタンを外しながら、ヴァサゴが消えたのと反対側のドアを開けたガブリエルは、ぴくりと手を止めた。
こちらも恐ろしく広大な寝室の、呆れるほどラグジュアリーなベッドの傍らに――平伏する小さな人影があった。
召使を含む何者も、城の玉座の間より上の階には立ち入るなと命じたはずだった。神の命令に背くものがいるとは、どういうことか。
戻って剣を取るべきかと一瞬考えたが、ガブリエルはあえてそのまま寝室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
「……何用か」
短く誰何する。
返ってきたのは、少しハスキーな女の声だった。
「……今宵の伽を務めさせていただきます」
「ほう」
片眉をぴくりと動かし、ガブリエルは薄暗い寝室をゆっくりとベッドへ歩み寄った。
両手を床についているのは、確かに薄ものをまとった若い女だった。アッシュ・ブルーの髪を高く結い上げ、飾り紐で留めている。仄かに透ける体のラインには、ナイフの一本すら帯びている気配はない。
「誰の命令だ」
艶やかなシルクのシーツに腰を下ろしながらそう尋ねると、女は一瞬間を置いたあと、密やかな声で答えた。
「いえ……。これが役目で御座いますゆえ」
「そうか」
ガブリエルは視線を外し、ベッドの中央にどさりと身を横たえた。
数秒後、女が上体を起こし、音もなく右隣に滑り込んできた。
「失礼いたします……」
囁いた女の顔は、ガブリエルですら一瞬ほう、と思うほどエキゾチックな美貌だった。肌の色は濃いが、頬骨のあたりにどこか北欧的な気高さがある。
薄い衣をはらりとほどき、髪を留める飾り紐を外そうとする女を見上げながら、ガブリエルはある種の感動を覚えていた。
人工フラクトライトとは、ここまでのことをするものか。
これですら、AIとしては不完全なのか。ならば、完成形であるというアリスは、どれほどの高みに達しているのか。
ガブリエルが心を動かしたのは、体を差し出す女の行為に対してではなかった。
そうではなく――。
ばさり、と広がった髪の中から女がつかみ出し、高く振り上げた小さなナイフの存在を予測してのことだった。
充分な余裕を持って女の右腕を捕らえたガブリエルは、もう一方の手も素早く閃かせ、華奢な首筋を掴むとベッドへと引き倒した。
「くっ……!!」
女は小さな犬歯をむき出して、なおもナイフを突き出そうと激しく抗った。その膂力は予想以上のものがあったが、ガブリエルを慌てさせるほどではなかった。女の腕を逆に極め、喉笛に軽く親指を沈ませて、動きを封じる。
激痛に顔をゆがめながらも、女は灰色の瞳から決意の色を薄れさせようとしない。隙あらば即座に攻勢に出るという意思に四肢を強張らせたまま、ようやく動きを止めた女を、ガブリエルは上から眺めた。
すぐに、専業の暗殺者ではなかろうと見当をつける。化粧もぎこちないし、身体が鍛えられすぎている。となれば、翻意を抱いたのはフ・ザと名乗ったアサッシンの元締めではなく、他の九将のいずれか――おそらくは、人間の将軍四名のうちの誰か、ということになる。
わずかに顔を近づけ、ガブリエルは先ほどと同じ質問を発した。
「誰の命令だ」
女はぎりっと歯を食いしばり、その隙間からやはり同じ答えを返した。
「私自身の……意思だ」
「ほう。ならば、お前の上官は誰だ」
「…………いない。流浪者だ」
「フムン」
ガブリエルは一切の感情を交えずに、機械のように考えた。
“K組織”がブレイクスルーを目指した、人工フラクトライトの限界点。それは、上位の存在から与えられた規則、法、命令の一切に逆らえない、ということだ。
無数の法に縛られた人界のフラクトライトたちと比べ、ダークテリトリーの住民たちは遥かに自由に振舞っているように見えるが、しかし本質は変わらない。こちら側のフラクトライトに与えられた法はたった一つなので、見かけ上は自由に感じられるというだけなのだ。
その法とは、”力で奪え”。より高い戦闘力を持つものが、下位のものを支配するという弱肉強食の世界だ。K組織の実験が計画どおり進めば、秩序あふれる人界と混沌に満ちた暗黒界はガブリエルの介入なくとも激突し、その戦争状態のなかでブレイクスルーを目指す予定だったらしい。
しかしいかなる理由か、計画がそこまで進むまえに人界において”アリス”なる限界突破フラクトライトが誕生した。ラビットからの暗号文に記されていたのはそこまでで、暗黒界がわにも同様の存在が発生したという情報はない。
つまり、ナイフひとつで皇帝の暗殺を企てたこの女も、絶対の法に縛られる魂には違いないのだ。そして、将軍の列にいなかったということは、あの十人の誰かに従う立場であるわけで、しかし先ほどのガブリエルの質問に対して主人の名を明かさなかったということは――。
つまりこの女は、皇帝にして神たるガブリエルの命令よりも、己の主人への忠誠を優先したのだ。言い換えれば、皇帝よりも主人のほうが”強い”と思っているのだ。
となれば、作戦をスムーズに遂行せしむる上でも、一度きっちり自らの力を将軍たちに示し、ガブリエルがこの世界で最も力あるものなのだと認識させておく必要がある。
しかしまさか、貴重な将軍ユニットを全部破壊するわけにもいかない。どうしたものか――。
いや。
どちらにせよ、将軍のうち一人は処分せねばならないのだ。この女に暗殺の意思を抱かせた、十人のうち誰か。
それをどうやって炙り出すべきか。もう一度クリッターに連絡し、将軍ユニットを外部から監視させるか。いや、それをするためには時間加速倍率を1倍に戻さねばならないし、戻せば貴重な現実世界での持ち時間を消耗してしまう。
さて――。
そこまでを一瞬で思考したガブリエルは、もう一度女の、錬鉄のような色の瞳を覗き込んだ。
「なぜ余の命を狙った。金を積まれたか? 地位を約束されたか?」
さして考えもなく発した質問だった。しかし、即座に返ってきた答えは予想外のものだった。
「大義のためだ!」
「ほう……?」
「いま戦が始まれば、世界は百年、いや二百年後退してしまう! もう、力なき者が虐げられる時代に戻してはいけないのだ!!」
再び、ガブリエルは僅かな驚きに打たれた。この女は、これで本当にブレイクスルー以前の段階なのか。だとすると、いまの台詞を言わせたのはこの女の主人?
ガブリエルはさらに顔を下ろし、間近から灰色の瞳を凝視した。
決意。忠誠。その奥に隠れるこの感情は…………。
ああ、なるほど。
そういうことなら、この女はもう必要ない。正確には、この女のフラクトライトはもう要らない。
ガブリエルは、己の下した判断に従い、もう一切無駄な言葉を発することなく無造作に女の首を掴んだ右手に力を込めた。
みしっ、と骨と気道が拉げる感覚。女の目が大きく見開かれ、口が無音の悲鳴を発する。
暴れる四肢をがっちり押さえ付け、容赦なく首を締め上げながらも、ガブリエルは先ほどとは別種の驚きを味わっていた。
ここはほんとうに仮想世界なのだろうか!? 右手に伝わる、人体組織が破壊されていく感触も、露わな肌から放散される恐怖と苦痛の匂いも、現実世界以上にクリアにガブリエルの五感を刺激する。
無意識のうちに身体が震え、右手が反射的に収縮した。
ごきり。という鈍い音とともに、名も知らぬ女の頚骨が粉砕された。
そして、ガブリエルは見た。
両眼を強くつぶり、歯を食いしばった女の額から――虹色に輝く光が湧き出してくる!
一体なぜ!? これは、間違いなくあの時――幼いアリシアを絶命させたときに見た、”魂の雲”ではないか!!
瞬間、ガブリエルはここ数年来覚えのない挙に出た。自省を完璧に忘れ、口を大きく開いて、女の魂をあまさず吸い込んだのだ。
恐れ。痛み。苦しさ――の苦味。
悔しさ。悲しさ――の酸味。
それらに続いて、ガブリエルの舌を得も言われぬ天上の蜜が浸した。
閉じたまぶたの裏の暗闇に、朧な光景がちかちかとフラッシュした。
古びた二階屋の前庭に遊ぶ、小さな子供たち。人間も、ゴブリンも、オーガもいる。こちらを見ると、大きな笑顔を満面に浮かべて、両手を広げて一斉に駆けてくる。
その映像が消えると、今度は誰か男の裸の上半身が見えた。鍛え抜かれた広い胸板が、温かく、力強く抱擁する。
『愛して……います……閣下…………』
幽かな声が響き、反響し、遠ざかった。
すべてが消え去ってからも、ガブリエルは女の骸を強く抱きしめたまま膝立ちになり、見開いた両眼を真上に向けたまま身動きしなかった。
素晴らしい――何と言う――。
ガブリエルの意識の大部分は法悦に震えていたが、残された理性のかけらが、今の現象に理屈をつけようとした。
絶命した女のフラクトライトを格納するライトキューブと、ガブリエル自身のフラクトライトは、量子通信回線とSTLを介して有線接続されている。ゆえに、”天命”なるヒットポイントがゼロになり、スウィープされた量子データの断片が、回線を通じて逆流してきたのかもしれない。
しかし、そのような理屈はいまのガブリエルにはどうでもいいことだった。
人生すべてを投じて追い求め、あまたの実験を繰り返しては失望させられてきた”現象”を、ついに再体験したのだ。ガブリエルは、死にゆく女が最後に抱いた感情――”愛”を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、荒涼たる砂漠に落ちた一滴のネクタールにも等しかった。
もっと。
もっとだ。
もっと殺さなければ。
ガブリエルは、鉤爪のように指を曲げた右腕をまっすぐ上に突き出し、無言の絶叫を放った。
SAO4_38_Unicode.txt
羊皮紙にたった一枚分の手紙を丸一日かけてどうにか書き終え、アリスは末尾にゆっくりと署名した。
丁寧に折りたたみ、封筒に入れて、シルカの名前を表書きする。もう一通、ガリッタ老人宛のものと並べてテーブルに置く。
別れと謝罪の手紙だった。整合騎士エルドリエに知られてしまったこの森の家にはもう居られない。次はエルドリエではなく、おそらく騎士長ベルクーリ本人が説得に来るだろう。そのとき、大恩ある剣の師に告げるべき言葉を、今のアリスは持たない。
だから、もういちど逃げ出すのだ。
細く長いため息を漏らしてから、アリスは顔を上げ、テーブルの向かいに座る黒髪の青年を見やった。
「ねえ、キリト。あなたは何処に行きたい? 西域の”竜の巣”はそれは美しいところよ。それとも、南域の密林地帯がいいかしら。そっちは私も行ったことないの」
ことさら明るい声を出してみたものの、もちろんキリトは何の反応も見せなかった。
虚ろな瞳はじっとテーブルの表面に向けられている。この傷ついた若者を、また流浪の生活に連れ出さねばならないことにアリスの胸は痛んだ。しかし、と言って置いていくわけには行かない。シスター見習いの身であるシルカに無理な頼みごとはできないし、またアリス自身もそうしたくない。いまやキリトの面倒を見ることだけが、アリスに残されたただ一つの生きる目的なのだから。
「……そうね、行き先は雨縁に任せるわ。さ……もう遅いわね、そろそろ休みましょう。明日は早く起きて発たないと」
キリトを着替えさせて横にならせ、自分も寝巻き姿になって灯りを消してから、アリスはベッドに潜り込んだ。
暗闇のなかで数分間目を閉じ、隣のキリトの呼吸音が深く、緩いものになるまで待ってから、アリスはもぞもぞと身体を移動させた。
若者の薄い胸に、そっと自分の頭を載せる。密着した耳に、ゆっくりとした、しかし確実な鼓動音が伝わる。
キリトの心はもう、ここには存在しない。この鼓動は、過去からこだまする残響でしかない。
夜毎寄り添って眠りについたこの数ヶ月間、アリスはずっとそう思ってきた。しかし同時に、深い確たる響きのおくに、何か――まだ何かが残されているのではと、そんな気がすることもある。
もし今のキリトが、”心は正常なのにそれを表に出せない”というような状態だったとしたら、自分のこの行為をどう申し開きしたものか。そんな事を考えてかすかに微笑みながら、アリスはいっそうぴたりと全身を触れ合わせ、緩やかに眠りへと落ちていった。
びくり。
突然、触れ合った身体が強く震える感覚に、アリスは暖かな暗闇から呼び起こされた。
瞼を持ち上げようとするが、粘るように重い。どうにか視線を定まらせ、東の窓に向けるが、カーテンの隙間からのぞく空はまだ真っ暗だ。感覚的にも、眠っていたのは二、三時間というものだろう。
もう一度ぴくりと身体を強張らせるキリトに、アリスは掠れた声を掛けた。
「どうしたのキリト……まだ夜中よ……」
再び眼を閉じながら、肩を撫でて寝付かせようとしたが、耳元で小さな声が響くに及んでようやくアリスは半ば以上覚醒した。
「ぁ……あー……」
「キリト……?」
今のキリトに自発的欲求は存在しない。寒いとか、喉が渇いたとか、そんなことでは眼を醒まさないはずなのだ。なのに若者はいっそう強く身体を震わせ、まるでベッドから起きだそうとするかのように足でシーツを掻く。
「どうしたの……?」
これは尋常ではない、まさか本当に意識が戻ったのか、そう思ったアリスは跳ね起きて、ランプを点ける手間も惜しんで光素因を一つ発生させた。
ほのかな白い明かりに照らし出された若者の瞳は、常と変わることなく虚ろな闇に満たされたままで、わずかに落胆する。しかし、となれば一体何が――。
その時、アリスの耳に、今度は窓の外から甲高い鳴き声が届いた。
「クルル、クルルルッ!」
雨縁の――警戒音。
鋭く息を飲み、床に飛び降りると、アリスは寝室から居間を駆け抜けてドアを叩きつけるように開いた。途端、押し寄せてくる真冬の寒気。しかしその中に、異質な匂いが混ざりこんでいる。これは、焦げ臭さ……?
素足のまま、アリスは前庭へと踏み出した。そしてぐるりと空を見渡し、両眼を見張った。
西の空が――燃えている。
赤黒く揺れる光は、間違いなく巨大な炎の照り返しだ。眼を細めると、星空を覆い隠す黒煙の筋も幾つも見て取れる。
火事!?
一瞬そう思ってから、アリスはすぐに打ち消した。焦げた風に乗って、かすかに届いてきたのは、間違いなく金属が打ち鳴らされる音と――そして、悲鳴。
これは敵襲だ。ダークテリトリーの軍勢が、ルーリッドの村を襲っているのだ。
「……シルカ!!」
アリスは掠れた悲鳴を漏らし、家へと駆け戻ろうとした。
そして立ちすくんだ。
妹だけはなんとしても助け出さねばならない。
しかし……ほかの村人はどうする?
全員を可能な限り救おうとしたら、闇の軍勢と正面から戦わねばならない。だが、今の自分にそんな力が残されているだろうか。かつての”整合騎士アリス”の力の源は、狂信的なまでの教会への忠誠だった。その信仰が欠片も残さず崩れ去ってしまった今、自分は果たして剣を振るい、術を行使できるのだろうか。
凍りついたアリスの耳に――。
ガタン、という音が家のなかから届いた。
はっ、と視線を向ける。その先にあったのは、横倒しになった椅子と、その傍らで這いずる若者の姿だった。
「……キリト……」
眼を見開き、アリスは萎えた足を動かして家の中へと駆け戻った。
キリトの瞳には、変わらず意思の光はなかった。しかし、その緩慢な動作の目的は明らかだった。
伸ばされた隻腕は、まっすぐに、壁に掛けられた三本の剣を指していた。
「キリト……あなた……」
アリスの胸から喉を、熱いものが塞いだ。ぼんやりと視界を歪ませたのが涙だと気付くのに、少しかかった。
「……あ……あー……」
しわがれた声を漏らしながら、キリトは身体を一瞬たりとも止めようとせず、ひたすらに剣を目指す。アリスはぐいっと両眼を拭うと、一直線に若者に駆け寄り、その痩せた身体を床から抱き上げた。
「分かったわ……大丈夫、私が行くわ。私が皆を助ける。だから、安心してここで待ってて」
早口でそう囁きかけ、アリスは強くキリトを抱きしめた。
どくん。どくん。密着した胸から、大きな鼓動が伝わる。
その奥には、燃え殻ではない意志が、仄かな熾火ではあっても確かに存在する。いまならそれが分かる。
唇で若者の頬を撫でてから、アリスは軽いからだをそっと壁にもたれさせた。跳ねるように立ち上がり、迷うことなく壁から己が愛剣の鞘を掴み取る。
半年ぶりに握る金木犀の剣は凄まじい重さだったが、アリスはよろめくこともなくその剣帯を寝巻きの上から腰に締めた。ドアの傍から外套だけひったくるとばさっと羽織り、ブーツを右手で掴みあげてふたたび前庭に飛び出す。
「雨縁!!」
一声叫ぶと、即座に家の裏手から巨大な影が飛び出し、低く首を下げた。
軽やかに跳躍し、裸の背に跨ったアリスは、かつてと変わらぬ鋭い声で騎竜に命じた。
「行けッ!!」
ばさっ! と両の銀翼が打ち鳴らされ、短い助走を経て竜は一気に空へと舞い上がった。
少し高度を取っただけで、アリスの視界にはルーリッドの惨状が如実に映し出された。
赤黒い炎を吹き上げているのは、主に村の北側だ。やはり襲撃者は”果ての山脈”からやってきたのだろう。
ベルクーリの指示で完全に崩落させられたはずの洞窟を、闇の民たちがどのようにして復旧したのかは分からない。しかし、二日前に確認に来たエルドリエは異常なかったと言っていたので、わずか数十時間であの大量のガレキを撤去してのけたことになる。となれば、そのために動員された兵もまた膨大であろう。
古来、果ての山脈に穿たれた三箇所の洞窟を、少人数の偵察部隊が守護騎士の目を盗んで往来することはあった。しかしこれほど大規模かつあからさまな行動は聞いたことがない。やはり、闇の国全体に、人界滅すべしの機運が限界まで高まっているのだ……。
掴んできたブーツに脚を通しながら、アリスがそのような思考を巡らせたほんの短い時間に、雨縁は深い森を一息に飛び越えルーリッド外輪の麦畑上空に達した。
手綱は無いが、手で竜の首筋を擦りあげることで滞空の指示を出す。
アリスは身を乗り出し、眼下を凝視した。村の目貫通りに北側から殺到する多数の襲撃者たちの影がくっきりと見て取れる。その先陣を走る小柄な影は、俊敏なゴブリンたちだろう。先頭はすでに家具や木材を積み上げた急拵えの防御線にぶつかり、その周囲では打ち合わされる白刃がちかちかと光っている。
応戦しているのは、村に組織されている衛士隊だ。だが、人数も装備も練度もすべてがゴブリン部隊にすら劣っている。このままでは、後方から地響きを立てて接近しつつある巨大なオークの中核が到着したら、ひとたまりもなく粉砕されてしまう。
歯噛みをしつつ急く気持ちを押さえ付け、さらに周囲の状況を確認する。
東側、西側の大通りにも、すでに大きな群れが流れつつある。しかし南側にはまだ十匹以下のゴブリンと、僅かな火の手しか見えない。
住民はすでに南から森に避難しているだろう、そう思いつつ最後に村の中央広場に眼を凝らしたアリスは――思わず声を漏らした。
「なぜ……!?」
教会前の広い円形広場には、ぎっしりと密集してうずくまる黒い人波があった。あまりにも大人数なので最初には気付けなかったのだ。あれは、おそらくルーリッドの村人のほぼすべてだ。
なぜ南へ逃げないのか!? あれだけの人数がいれば、それがたとえ剣を持たない農民でも、数匹のゴブリンぐらい鋤や天秤棒で撃退できるはずだ。
襲撃者たちの本隊は、すでに東西の大通りの入り口にも達しようとしている。今すぐに南へ移動を始めなければ間に合わない。
アリスは我を忘れ、騎竜を村の広場上空まで突進させると叫んだ。
「雨縁、呼ぶまでここで待機!」
そして、数十メルの高みから、ひといきに身を躍らせた。
羊毛織の灰色の外套と、炎に照らされて赤金色に輝く長い髪をひるがえしながら、冷たい夜気のなかを一直線に滑り降りる。
円形に固まった数百人の村人たちは、いちおうは防御態勢のつもりか外周に農具を携えた男たちを配置していた。その北側の端で、盛んに指示を飛ばしている二人の男のすぐそばに、アリスは大音響とともに着地した。
ブーツの裏で、石畳が放射状にひび割れる。さすがに、超高優先度を備える身体とはいえ天命は微減しただろうが、アリスはそれよりも注目効果のほうを取った。
狙い通り、いきなり頭上から降ってきた人影に度肝を抜かれたようで、二人の男たち――農民を取りまとめるバルボッサと、そしてルーリッド村長ガスフトは目を見開いて口をつぐんだ。
アリスは、かつての父親であるガスフトの顔を見てわずかに息苦しさを感じたものの、生まれた一瞬の沈黙を逃さずに大声で叫んだ。
「ここでは防ぎ切れません! 今すぐ南の通りから全住民を避難させなさい!!」
凜と響いた声に、農民頭と村長はいっそうの驚き顔を浮かべて棒立ちになった。
しかし、数秒後に返ってきたのは、バルボッサの殺気だった怒声だった。
「馬鹿言うな! 南にももう怪物どもが回りこんどるのが見えねえか!!」
青筋を立てて喚く大男に、アリスは語気鋭く反駁した。
「向こうにはまだ僅かなゴブリンしか居ません! 男たちに先頭を行かせれば突破できます、もうすぐ東西からも敵の本隊が押し寄せてきますよ!」
ぐっ、と言葉に詰まったバルボッサに代わって、村長のガスフトが低く張り詰めた声を発した。
「広場で円陣を組んで護れというのが、衛士長ジンクの指示なのだ。この状況では、村長の私とて衛士長の命令には従わなければならない」
今度は、アリスが息を詰める番だった。
襲撃などの有事の際には、衛士長の天職に就く者が一時的に全住民の指揮権を得る、これは禁忌目録に記された条文だ。
しかし、ジンクという名の衛士長は、父親からその職を譲られたばかりの若者なのだ。このような状況で、冷静な指揮判断ができるとは思えない。ガスフトの顔に濃く浮かぶ焦燥が、村長もまたそう考えていることを示している。
とは言え村人たちにとって禁忌目録は絶対だ。今すぐ避難を開始させるには、北側の防御線に居るのだろうジンクを引っ張ってきて命令を変更させるしかないが、そんな時間はどう考えても残されていない。
どうする。どうすれば――。
立ち尽くしたアリスの耳に、幼くも毅然とした叫びが飛び込んだのは、その時だった。
「姉さまの言うとおりにしましょう、お父様!!」
はっ、と視線を向けた先にいたのは、人垣の内側で、火傷を負ったらしい村人に青白く光る手をかざす小柄な修道女だった。
「……シルカ!」
よかった、無事だった。愛する妹に向かってアリスは足を踏み出しかけたが、それより早く治療を終えたシルカが立ち上がり、三人のもとへと駆けてきた。
アリスに向けて一瞬笑みを浮かべてみせたシルカは、さっと顔を引き締めると、続けてガスフトに言った。
「昔から、姉さまが一度でも間違ったことを言ったことがあった? ううん、あたしにだって分かるわ。このままじゃ、みんな殺されちゃう!」
「し……しかし……」
苦渋の表情でガスフトは言い澱んだ。たくわえられた口ひげが細かく震え、視線がうつろに宙を彷徨う。
絶句した村長に代わり、再び怒声を爆発させたのはバルボッサだった。
「子供が出しゃばるな! 村を……家を捨てる気か!!」
禿頭の下の小さな眼がちらりと走ったのは、広場にほど近い場所に建つ自身の屋敷の方向だ。正確には、秋に収獲したばかりの大量の小麦と、長年蓄財した金貨にだろう。
アリスとシルカに視線を戻し、バルボッサは突如、裏返った声で喚きたてた。
「そ……そうか、わかった、わかったぞ! 村に闇の怪物どもを招き入れたのはお前じゃなアリス!! 昔、果ての山脈を越えたときに闇の力に汚されたんじゃ!! 魔女……この娘は魔女じゃ!!」
太い指をつきつけられ、アリスは絶句した。北と、東、西から近づきつつある怪物たちの鬨の声も、すうっと遠ざかった。
村はずれに落ち着いてからの数ヶ月、アリスは何度となくバルボッサのために森の巨木を倒してきた。そのたびにこの男は身を捩らんばかりに感謝したのだ。なのに、自分の財貨を守らんがためだけに、こんな言葉を吐くとは――なんという――
醜悪さ。
なんという愚かさだろう。
アリスの胸中に、ナイフの鋭さで、ひとつの思考が閃いた。
もう、勝手にすればいい。
私も自分の好きにする。シルカとガリッタ老人、それにキリトだけ連れて村を離れ、どこか遠くで新しい住処を見つける。
ぎりっと奥歯を噛み締め、瞼を閉じ。
アリスは、でも、と思考を続けた。
でも、バルボッサや他の村人たちが愚かに見えるとすれば、それは、神聖教会の数百年に渡る治世が作り出したものだ。
禁忌目録以下、無数の法や掟で人々を縛り、ぬるま湯の安寧を与えると同時に大切なものを奪い続けた。
すなわち、考える力、そして戦う力を。
無限にも等しい年月収奪されつづけた、それら人々の見えざる力はどこに集積されたか。
わずか五十人の剣士たちの身体だ。
整合騎士――。
つまり、アリス自身のなかに。
大きく息を吸い、吐いて、アリスはばしっと音がしそうな勢いで両の瞼を開いた。
視線の先で、バルボッサが不意に、何かに怯えるかのように顔色を失い、右手を下ろした。
対照的に、アリスは身体の奥から、何か不思議な力が満ちてくるのを感じていた。静かだが、とても熱い、青白い炎。
「……衛士長ジンクの指示は破棄します。いますぐ陣形を解き、武器を持つ者を先頭にして南へ退避するよう命じます」
穏やかですらある声だったが、バルボッサも、ガスフトも、打たれたように上体を仰け反らせた。それでも、わななく声で農民頭が言い返したのは、いっそ見上げた胆力というべきだった。
「な……なんの権限で、娘っ子が、そんな」
「整合騎士の権限です」
「なっ……なにを、馬鹿な! お前が……闇に染まった魔女が、整合騎士なんぞであるはずがっ……」
裏返った声で喚くバルボッサを一瞥し、アリスはそっと左手で外套の肩部分を掴んだ。
「私は……私の名はアリス。整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティ!!」
高らかに叫び、勢いよく外套を身体から引き剥がす。
その下は、質素な綿の寝巻き一枚のはずだった。しかし、分厚い布が翻ると同時に、眩い金色の光がアリスの全身を包み――かつて一度だけ見た、あの現象が発生した。
両の指先から、黄金の装甲が出現し、大型の篭手となって肘までを包む。両足もまた、同色の具足にがっちりと覆われる。
金糸で刺繍をほどこした純白のスカートが閃き、その上に花弁のような装甲板が開く。最後に胸から肩にかけてを眩い鎧が包み、染みひとつない白いマントと、長い金髪が夜闇を切り裂くように舞った。
それだけは最初から腰にあった金木犀の剣が、まるで主との再会を喜ぶかのように、りぃんと刃鳴りした。
ざわめいていた村人たちが、ぴたりと押し黙った。静寂を破ったのは、ひそやかなシルカの囁き声だった。
「姉……さま……?」
妹に視線を落とし――アリスは、優しく微笑んだ。
「今まで黙っててごめんね、シルカ。これが……私に与えられた、ほんとうの罰。そして、ほんとうの責務なの」
シルカの両眼に、ゆっくりと涙の珠が浮かび、揺らめいた。
「姉さま……あたし……あたし、信じてたわ。姉さまは罪人なんかじゃないって。綺麗……すごく……」
次に動いたのは、ガスフトだった。
がしっ、と音を立てて跪いた村長は、表情を隠しながらも太い声で叫んだ。
「御命、確かに承った、騎士殿!!」
素早く立ち上がり、背後の村人たちに向き直ると、びんと張った声で指示する。
「全員立て!! 武器を持つ者を先頭に、南門へと走るのだ!!」
うずくまる人々のあいだに、不安そうなざわめきが走った。しかしそれも一瞬のことだった。整合騎士という最大の武威を背景にした村長の命令に、抗うという思考は村人のなかには無い。
即座に、外周を固めていた屈強な農夫たちが立ち上がり、女子供を内側に守るかたちの縦列を作った。その先頭集団に加わり、自らも無骨な鋤をたずさえるガスフトの眼をじっと見て、アリスは押し殺した声で告げた。
「皆を、シルカを頼みます……お父様」
ガスフトの剛毅な視線が一瞬かすかに揺らぎ、絞るように声が返された。
「騎士殿……も、御身を第一に」
もう二度と、この男がアリスを娘として扱うことはあるまい。それもまた、与えられた力の代償なのだ。そう心に刻みながら、アリスはシルカの背を押し、隊列の中に潜り込ませた。
「姉さま……無理をしないでね」
涙を滲ませたままの妹に微笑みとともに頷き、アリスは身体を回して北を見やった。
同時に、村人たちが一斉に動き出す。
「あ……ああ……ワシの、ワシの屋敷が……」
情けない声で呻いたのは、いまだ立ち尽くしたままのバルボッサだった。整合騎士の命令と、己の財産をここまで天秤に掛けられるというのはいっそ見上げた根性と言うべきか。
もう好きにさせておくことにして、眼を閉じ、耳を澄ませる。
北側の防衛線は後退を続けているし、左右からも敵の分隊が地面を揺るがす地響きが近づいてくる。まだ広場には村人が半分以上残っており、このぶんだと全員が南へ退去する前に敵が突入してくるだろう。
とアリスが判断したとたん、北から若い男の悲鳴にも似た声が響いた。
「もう駄目だ! 退け! 退け――っ!!」
衛士長ジンクの指示だろう。それを聞いた途端、バルボッサが勢いづいたようにアリスに食ってかかった。
「ほれ……ほれ見たことか!! ここに立てこもって防ぐべきだったんじゃ!! 殺されるぞ! 皆殺しにされるぞぉ!!」
アリスは肩をすくめ、ざっと広場を見回してから、優しく反駁した。
「大丈夫ですよ、これだけ空間が開けば範囲攻撃が使えますから。ここは私が防ぎます」
「できるか!! できるわけがあるかそんなこと、娘っ子一人に!! 整合騎士なんちゅう与太話信じんぞ!! その格好も魔女のまやかしじゃろう!!」
もう東西から殺到してくるゴブリンやオークたちの姿が間近に見えるというのに、バルボッサはなおも罵り声を撒き散らし続ける。再びそれを無視し、アリスは恐怖に顔をゆがめる村人たちを限界まで南へ詰めさせると、大きく片手を上げ――叫んだ。
「雨縁!!」
即座に上空から甲高い雄叫びが返る。
唖然と眼を剥き出すバルボッサも左手で背後に押しやり、上げた手を東から西へと振り下ろしながら、短く一声。
「――焼き払って!!」
ごおおおっ!!
という嵐のような羽音が夜空から降り注ぎ、人々と、広場に達しつつあった闇の尖兵たちが一斉に上を振り仰いだ。
炎に赤く染まる空を翼のかたちに黒く切り取り、東から急降下してきた巨大な飛竜が、そのあぎとを大きく開いた。のどの奥に、青白い輝きが一瞬明滅し――。
しゅばっ!!
と、眩い熱線が東の大通りから、広場の中央南寄りに立つアリスとバルボッサの眼前を横切り、西の通りの奥までを薙いだ。
わずかな間を置いて。
凄まじい爆発が東西の目貫通りに膨れ上がり、夜空へと突きぬけた。飲み込まれた敵の分隊が、無数の悲鳴とともに吹き飛ばされ、あるいは地面で焼き尽くされた。
数十匹の襲撃者たちを瞬時に消滅せしめた熱線は、同時に広場中央の噴水も蒸発させ、周囲にもうもうとした白煙を広げた。その上を掠めるように飛び去った雨縁に、アリスは短く再び待機の指示を出し、ちらりと背後の様子をたしかめた。
バルボッサは腰を抜かして石畳に倒れこみ、両眼を剥き出している。
「な……なっ……なん…………」
弛んだ頬を痙攣させる中年男はもう放置して、同じく竦んだ様子の人々に声を掛ける。
「大丈夫です、この場所は必ず死守しますから、皆さんは落ち着いて、素早く移動を続けてください」
村人たちは我に返ったように頷き、南へ向き直ったが、全員が脱出するにはまだ数分かかりそうだ。
そのとき、立ち込める蒸気を割るように、北から数人の男たちが広場へと駆け込んできた。そろいの金属鎧と赤い制服に身を固めた衛士たちだ。
その先頭で必死の走りを見せた若い男、衛士長ジンクは、広場が半ば以上空になっているのに気付くと愕然とした顔を作り、裏返った声で叫んだ。
「おい……男どもはどこへ行った!? ここで守れと言ったじゃないかよ!?」
「私が南から退避させました」
アリスが答えると、はじめて気付いたように瞬きし、全身を上から下へと何度も見回してくる。
「あんた……アリス……? なんであんたが……その格好は……?」
「説明している暇はありません。衛士はこれで全員ですか? 取り残された者はいませんね?」
「あ……ああ、そのはずだ……」
「なら、あなたも皆と一緒に逃げてください。ああ、そこの小父さんもよろしく」
「逃げるって……もう、すぐそこにあいつらが…………」
その言葉が終わらないうちに――。
「ギヒィーッ!!」
粗野な雄叫びが、広場いっぱいに響き渡った。
「どこだぁーっ!! イウムどもどこに逃げたぁーっ!!」
濃霧を突き破って、まっさきに広場に突入してきた数匹のゴブリンの恐ろしい姿に、再び衛士たちと人々の喉から細い悲鳴が漏れた。
アリスはすうっと息を吸い、右手を剣の柄にかけた。
飛竜の熱線は連発できない。あとは、アリスが単身で敵主力の相手をしなくてはならない。
ゴブリンは、アリスの輝くような騎士姿を見つけると、黄色く光る眼にすさまじい殺意と欲望の色を滾らせて乱杭歯を剥き出した。
「ギイッ!! イウムの女ッ!! 殺す!! 殺して喰う!!」
長く太い腕に握った鉄板のような蛮刀を振りかざし、一直線に突っ込んでくるその姿を見て――。
アリスは内心で、畏れとともに呟いた。
ああ……なんと恐ろしい力を与えられているのだろう。存在そのものが罪である、と思いたくなるほどに。
整合騎士なるこの身は。
「ギヒャ――――ッ!!」
高い跳躍から振り下ろされた分厚い蛮刀を、アリスは無造作に伸ばした左手で横合いから掴み、薄い氷ででもあるかのように握り潰した。かしゃん、と砕け散った金属片たちが地面に落ちるよりも速く、鞘から抜かれた金木犀の剣がゴブリンの身体を真横に薙いだ。
山吹色の剣風はそれだけに留まらず、さらに迫りつつあった三匹のゴブリンたちをも音もなく巻き込み、分厚い白霧の塊をも残さず吹き散らした。悲鳴すら漏らさず、四匹の敵兵の身体が真横にずれ、どさどさっと地面に崩れ落ちた。
やはり――最高司祭アドミニストレータは間違っていた。
これほどの力をたかが一人の人間の中に集約し、その意志を封じて操り人形に仕立てた。世界に遍く満ちるべき力すべてを掌中に収めようとした。かの神人亡きいま、全整合騎士は巨大な過ちをその身に刻まれた碑でしかない。
過ちを正すことはもうできない。
ならば、せめて――。
この力を、本来持つべきだった人たちのために、最後の一滴まで使いつくさねばならない。
神のため、信仰に殉じるためではなく。
自分で考え、自分で戦うのだ。かつて二人の名も無き剣士がそうしたように。
伏せていた視線を、アリスは鋭く持ち上げた。
広場の北、広い大通りをいっぱいに埋め尽くすように、敵の本隊――オークを主とし、少なからぬ巨大なオーガも混じった百以上の闇の兵たちが突入してきつつあるのが見えた。
彼らと私は、いまや同質の存在。かたや殺戮の欲望のため、かたや贖罪の願望のために、その武器を振るう。
己のなかにしつこくこびり付いていた、神聖教会と最高司祭への依存心が焼き尽くされ、蒸発していくのをアリスはまざまざと感じた。かつて神への盲目的な帰依だけをよりどころとしていた究極奥義を、アリスははじめて自分の力で発動させた。
「リリース……リコレクション!!」
ビシッ!!
金木犀の剣の刀身が、陽光にも似た眩い光りを放った。
切っ先から、無数の鋭い花弁となって吹き流れ、夜闇たかく舞い散る。
敵集団主力は、黒い津波と化して広場と、そこに残る村人たちを飲み込まんと肉薄した。
圧倒的とも思える暴力の壁に向かって、アリスは一歩も退かずに右手に残る柄を高々と掲げ、もう一度叫んだ。
「嵐花――裂天!!」
無数の槌音の合奏が、青く澄んだ冬空へと舞い上がっていく。
アリスは目を細め、遠く麦畑の向こうにこんもりと突き出すルーリッドの姿に最後の一瞥を送った。
大襲撃から今日で一週間。
村は、北側の家々を中心に二割近くが焼け落ちたが、全村民の天職を一時停止して作業に当たらせた村長の決断のせいもあって再建は急速に進んでいる。残念ながら、焼け跡から数十の遺体が発見され、その合同葬儀は昨日教会でしめやかに執り行われた。
アリスは請われて儀式に出席したあと、北の洞窟の確認に赴いた。
ベルクーリの命で崩落させられたはずの長いトンネルは、巨大なオーガですら充分に通れるほどの広さに再び拡大され、その奥、もっともダークテリトリーに近いあたりにアリスは長期間の野営のあとを発見した。
襲撃者たちは、向こうの入り口を掘り返して作業を受け持つ一団を送り込んだあと、再び通路を崩しておいたのだ。整合騎士エルドリエがその入り口を確認した時点ですでに内部深くには作業班が潜んでおり、着々と全通路を再開通させていた。
かつてのゴブリンやオークたちからは考えられない周到さと用心深さだ。その一事を取っても、今回の闇の侵攻が”本気”であることがうかがえる。
アリスは洞窟から出たあと、再び崩すのではなく中央部から湧き出すルール川の源流を一時塞き止め、内部を完全に水没させた。しかるのちに、仕掛けておいた無数の氷素を炸裂させ、岩ではなく氷で洞窟を封印したのだ。
これでもう、アリスと同等の術者がやってこないかぎり再び山脈をくぐることはできない。
彼方に白く浮かぶ果ての山脈から視線を戻し、アリスは最後の荷袋を雨縁の脚帯にくくりつけた。
「あのね……、姉さま」
涙を必死に我慢するような顔で出立の準備を手伝っていたシルカが、俯きながら口を開いた。
「……父さまも、ほんとは見送りに来たがってた。今日は朝から心ここにあらずって感じだったもの。父さま、本心では……姉さんが帰ってきて嬉しかったんだと思う。それだけは、信じてあげてほしいの……」
「わかってるわ、シルカ」
アリスはそっと妹の小さな身体を抱きしめ、囁き返した。
「私は罪人としてこの村を離れ、整合騎士として帰ってきた。でも次は……すべての役目を果たしたら、ただのアリス・ツーベルクとしてここに戻ってくるわ。その時こそ、ちゃんと言えると思うの。お父様、ただいま、って」
「……うん。きっとその日がくるよね」
短い涙声で呟いたあと、シルカは顔をあげ、袖口でぐいっと顔を拭った。
身体の向きを変え、傍らの車椅子に沈み込む黒衣の若者に、精一杯元気な声を掛ける。
「キリトも元気でね。はやく良くなって、お姉さまを助けてあげてね」
項垂れる頭をそっと包み込み、祝福の印を切ってから、歳若い少女は数歩後ろにしりぞいた。
アリスはキリトに近づくと、その腕から二本の剣をそっと抜き取り、雨縁の鞍に留めた。次いで、若者のやせ細った身体も軽々と持ち上げ、鞍の前部に腰掛けさせる。
キリトをシルカに任せ、村に残していくことを考えないでもなかった。最前線、東の大門に赴けばアリスは防衛部隊の主力として忙殺されるだろうし、今までのようにこまめに面倒を見られなくなるのは間違いないからだ。
だが、それでもやはり連れて行くと決めた。
理由はただ一つ、襲撃の夜にキリトが見せた尋常ならぬ反応のせいだ。あのときキリトは間違いなく、剣を取り村に向かおうという意思を示した。誰かのために戦う、それがこの人の本質なのだ。ならば、その心を取り戻す鍵もやはり戦場にあるはずだ。
いざとなれば、背中に括り付けてでも守り抜く。
アリスは、最後にもう一度シルカとしっかり抱き合った。
「……じゃあ、行くわね」
「うん。気をつけて……必ず帰ってきてね、姉さま」
「約束するわ。……ガリッタおじさまにも、よろしく伝えてね。……元気で、しっかり勉強するのよ」
「分かってるわよ。きっと立派な修道女になって……それで、あたしも……」
その先は言葉にせず、シルカはくしゃくしゃと泣き笑いを浮かべた。
妹の頭をゆっくり撫で、身体を離したアリスは、名残惜しさを噛み締めながらゆっくり愛竜に歩み寄り、その背中、キリトの後ろに騎乗した。
地上の妹に、深くいちど頷きかけ、視線を遥か空へと向ける。
軽く手綱を鳴らすと、竜は人間二人と剣三本の重みを感じさせない力強さで麦畑のあいだを助走しはじめた。
必ず、もういちどここに戻ってくる。
たとえこの身が戦場に朽ち果てようとも、心だけは必ず。
アリスは、睫毛に浮かんだひとつぶの涙を払い飛ばし、鋭く掛け声を放った。
「……はぁっ!」
ふわり。
浮遊感とともに、地面が離れる。
上昇気流を掴まえた雨縁は、旋回しながら一気に空へと駆け上った。
広い畑と森、その中央に輝くルーリッドの村、そして両手を振りながら懸命に走るシルカの姿をまぶたに焼付け――。
アリスは東の空へと竜の首を向けた。
再び十人の将軍たちが横一列に並び、うやうやしく平伏している様子を、ガブリエルは満足とともに眺めた。
彼らは命令どおり、二日間で進軍の準備を完了してきたのだ。ことによると、現実世界で軍隊の上層に居座る将軍たちの大部分よりもこのユニットたちは優秀なのかもしれない。
まったく、いっそもうこのまま”完成品”としてもいいと思えるほどだ。申し分ないタスク処理能力にくわえ、この忠誠心。戦争用のロボットに載せるためのAIとして、これ以上のぞむ物などないではないか。
とは言え――。
彼らの忠誠は、K組織が拘り続けた人工フラクトライトの未完成さに由来するものだということを忘れるわけにはいかない。
つまり、”最大の力を持つものが支配する”という絶対原則を魂に焼きこまれているからこそ、この十人は皇帝のアカウントを持つガブリエルに従っているのだ。それは同時に、ガブリエルの力に疑いが生じた瞬間、この中の誰が裏切ってもおかしくないということだ。
その懸念がすでに現実のものとなっていることを、ガブリエルは知っている。
二日前の夜、寝室に忍んできた暗殺者。
あの女は、皇帝を殺そうとした。彼女のなかには、ガブリエルよりも上位の主人が存在していたはずだ。すなわち、いまわの際に”閣下”と呼んだ、この十人のなかの誰かだ。
暗殺者にとっては、皇帝よりも”閣下”のほうが強者だった。となれば、その男自身も、本心からガブリエルに忠誠を誓っていない可能性が高い。そのようなユニットを抱えたまま戦場に赴けば、万が一寝首を掻かれるということもないとは言えない。
よって、眼下に跪く十人のうちから”閣下”をあぶり出し、処分するのが出陣前の最後の一仕事ということになる。
そして同時に、残る九人に皇帝の力のほどを知らしめる。誰が最強者なのかを、彼らのフラクトライトに永遠に刻み込むために。
この時、ガブリエル・ミラーは、自分が眼下の十ユニットのどれかに遅れを取る、つまり一対一の戦闘で破れるという可能性を微塵も考慮していなかった。彼にしても、アンダーワールドはあくまでサーバー内のバーチャル・ワールドであり、そこに存在するユニットはすべて人造物であるという固定概念にいまだ捉われていたのだ――。
暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターは、跪きこうべを垂れた姿勢のまま、脳裏に師の言葉をよみがえらせていた。はるかな昔、騎士団本部の道場においての記憶だった。
『わしの師匠のそのまた師匠は、首を取られて即死した。師匠は胸を抉られ、城に戻る道なかばにして斃れた。しかしわしは、腕一本落とされはしたが、こうして生きて戻った。自慢できることでは到底ないがな』
師はそう言って、肩の下から綺麗に切断された右腕をシャスターに示した。その傷を作ったのは、暗黒騎士の宿敵にして世界最強の剣客、あるいは最悪の怪物――整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人だ。
『これがどういう意味を持つかわかるか、ビクスル』
当時二十をわずかに出たばかりだったシャスターには首を捻ることしかできなかった。師は隻腕を着流しの下に仕舞うと、眼を閉じ、ぼそりと続けた。
『追いつきつつあるのよ、ようやくな』
『追いつく――、あの者に、ですか』
若いシャスターの声には信じられぬという響きが混ざり込まざるを得なかった。それほどまでに、数日前に目の当たりにしたベルクーリの剣技は圧倒的だった。師の腕が鮮血とともに高く飛んだその瞬間、背骨を貫いた氷柱のような冷気はいっこうに去ろうとしなかった。
『――わしは今年で五十になる。それでもまだ、剣の振りかたはおろか握り方すら極めた気になれん。おそらく、あと五年、十年経ってくたばるその時になっても同じだろう』
師は静かに語った。
『であれば、すでに二百年以上を生きているというあの不老者の境地に、短命な我ら人の子が及ぶべくもない。情けないことだが、剣を交えるその瞬間まで、わしの中にそんな諦めがあった。しかし、無様に敗れ、逃げ帰った今こそ、それが誤りであったことを知った。無駄ではなかったのだ……これまで師匠、そのまた師匠たちがあの男に挑み続けてきたことはな。――ビクスルよ、最高の剣とは何か』
突然の問いに、シャスターは反射的に答えた。
『無想の太刀です』
『そうだ。長年の修行を経て剣と一体となり、斬ろうと思わず、抜こうとも思わず、動こうとすら思わず放たれる一撃こそ究極の剣である。わしは師匠にそう教わり、わしもお前にそう教えた。しかしな……ビクスル、そうではなかった。その先があったのだ。わしはあの怪物に斬られ、それを悟った』
師の面に、かすかな興奮の色が走った。シャスターも正座のまま思わず身を乗り出し、尋ねた。
『その先……と仰いますと』
『無想の対極。断固たる確信だ。意思の力だ、ビクスル』
突然、師は板張りの上に立ち上がり、切断された右腕を大きく振りかぶった。
『見ておったろう。あの時、わしは右の袈裟懸けに斬りつけた。まさに無想の斬撃、生涯最速の剣であった。抜いた時点では、確実に彼奴の先を取っていた』
『は……、私もそう思いました』
『しかし、しかしだ。本来であれば、わしの剣に弾かれていたはずの彼奴の受け太刀は、逆にわしの剣を押しのけ、この腕を斬り飛ばした。……信じられるかビクスル、あの瞬間、わしの刃は奴の剣に触れておらなかったのだ!』
シャスターは絶句し、次いで首をぎこちなく振った。
『そ……そのようなことが……』
『事実だ。まるで……剣の軌道そのものが、奴をはるか逸れる方向へと規定し直されたのようだった。あの現象を説明するには、もうこう言うしかない。わしの無想の太刀は、彼奴が二百年かけて練り上げた意志力に敗れたのだ。彼奴があまりにも強く剣の軌道を断定したために、それが不変の事実となったのだ!』
師の言葉を、シャスターはすぐに信じることはできなかった。意思の力などというかたちのない代物が、確固として存在する重く硬い剣を退けるなどということがどうして有り得よう。
そのシャスターの反応を、師は予期していたようだった。不意に着流しの裾を正すと、黒光りする板の上ですうっと腰を落とした。
『さあ、ビクスルよ。わしがお前に教える最後の剣訣だ。わしを――斬れ』
『な……何を仰います! せっかく……』
生き延びたのに、という言葉をシャスターは飲み込まざるを得なかった。突然、師の双眼が鬼神のごとく光ったのだ。
『命を繋いでしまったがゆえに、わしはお前に斬られねばならぬ。かの者に一撃のもとに敗れたいま、お前のなかでわしは最強者ではなくなってしまった。そのわしが生きておれば、お前はかの者と対等に戦うことはできぬのだ。お前もまたわしを斬り、いや殺し、彼奴……ベルクーリと同じ処に立たねばならぬ!!』
そう言い放ち、師は立ち上がると、僅かに残る右腕を大きく構えた。
『さあ、立て! 抜くのだビクスル!!』
シャスターは師を斬り、その命を絶った。
同時に、師の言葉の意味を身を以って悟った。
斬り飛ばされた師の右腕に握られていた眼に見えぬ刃――”意思”という名の剣は、交錯の瞬間シャスターの剣と激しい火花を散らし、実際に頬を切り裂いて二度と消えぬ傷を残したのだ。
涙と鮮血に顔中を塗れさせながら、若き日のシャスターは”無想の太刀”を超える境地のとば口に立った。
そして月日は流れ――五年前。
シャスターはついに彼の者、整合騎士長ベルクーリに挑んだ。齢三十七にして、己の剣が達しうる限界に達したと感じてのことだ。
師は腕一本と引き換えに生還したが、シャスターは仮に敗れたときは生きて戻らぬつもりだった。なぜなら、シャスターは後継者という意味での弟子は作らなかったからだ。師を斬り、教え子に斬られるような運命を背負わせたくなかった。自分の命と引き換えに、血塗られた連環をここで断ち切ろうと決めていた。
あらん限りの決意と覚悟、すなわち”意思力”すべてを乗せた剣は、ベルクーリの初太刀と真っ向から切り結び、弾かれることはなかった。だがその時点でシャスターは敗北を予感した。もう一度、同じ重さの斬撃を繰り出せるとは思えなかったのだ。
しかし、ベルクーリは剣を交えたまま、太く笑って囁いた。
『いい太刀筋だ。殺意のみに拠るものではないからだ。俺の言葉の意味をよく考えて、五年後にもう一度来い――小僧』
そして整合騎士長は間合いを取り、この立会いは分ける、と宣言して剣を収めた。
ベルクーリの言わんとするところを理解するには、長い時間が必要だった。だが、四十を超え老境に差し掛かった今ならば分かる。あの時、シャスターが殺気と恨みだけを乗せて剣を振っていれば、おそらく迫り負けていただろう。それが、一合とは言え対等に斬り結べたのは、殺意よりもっと重い覚悟を肚に呑んでいたからだ。
つまり――これまで命を落としてきた師匠たちや、自分のあとに続く騎士たちの運命すべてを。
だから、シャスターは、最高司祭死すの報を受けたとき即座に和平交渉を開始すると決断したのだ。自分がダークテリトリーの意思を纏めれば、あのベルクーリならば間違いなく申し出を受けるという確信があった。
同じ理由で――。
突如降臨し、有無を言わせず開戦を決定した皇帝を名乗るこの男を、自分は斬らねばならない。
跪き、頭を垂れながらも、シャスターは必殺の太刀に乗せるべき”意思力”を練っていた。
数百年の不在を経て復活した皇帝ベクタは、白い肌と金色の髪を持つ若い男だ。体躯も容貌も、迫力と言うほどのものはない。
しかし、やけに蒼い二つの眼だけが、皇帝が凡そ人ならぬことを示している。その中にあるのは”虚無”だ。全ての光を吸い込み、何ひとつ漏らさない底なしの深淵。この男、あるいは神は、巨大な飢えを隠し持っている。
練り上げた意思力が、皇帝の虚無に飲み尽くされたならば、剣は届くまい。
そのとき自分は命を落とすだろう。だが、意思は続くものたちに引き継がれるはずだ。
ただひとつ心残りなのは、昨夜はリピアが姿を見せなかったために自分の決意を伝えられなかったことだ。恐らくは出征前の雑務に忙殺されているのだろうが――いや、もし彼女に皇帝を斬ることを話せば、お供しますと言って聞かなかっただろう。これでいいのだ。
シャスターはゆっくりと息を吸い、溜めた。
腰から外し、床に置いた剣に触れる左手に、徐々に、徐々に力を込めていく。
玉座まではおよそ十五メル。二歩の踏み込みで届く距離だ。
初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。
限界まで高まった意思の力すべてを、触れる剣へと注ぎ込む。そして身体を空にする。
右脚が床を蹴る――
その寸前。
皇帝が、滑らかではあるが硬質な声で、なにげないように言った。
「ときに――昨夜、余の臥所に忍んできた者が居た。短剣をその身に帯びて」
ざわ、と抑制された驚きが大広間の空気を揺らした。
シャスターの左に並ぶ九人の将軍たちも、ある者はかすかに息を詰め、ある者は喉の奥で低く唸り、またある者は分厚いローブのなかに一層身体を沈めた。
驚きに打たれたのはシャスターも同様だった。斬りつける寸前の体勢、気勢を保持したまま、瞬時に考えを巡らせる。
己のほかにも、皇帝排すべしの結論にたどり着いた者がいたのだ。皇帝がこうして無傷であるところを見ると惜しくも失敗したのだろうが――しかしいったい、刺客を放ったのは十候のうち誰なのか。
亜人五候ではあるまい。ジャイアント、オーガはもちろん、比較的小柄なゴブリン族と言えども衛兵の目を盗んで皇域に忍び込むような真似ができるとは思えない。
人族の将軍に目を向ければ、まず闘技士の長である若きイシュカーンと、商工ギルド頭領レンギルは除外できる。イシュカーンは近接闘技を極めることだけが目的の直情径行な少年だし、レンギルは戦がはじまれば大儲けできる立場だ。
寝所に忍び込む、という手口からして暗殺ギルドの長フ・ザはいかにも怪しいし、実際あの男は何を考えているのか掴めないところがあるが、短剣を用いたというのが解せない。暗殺ギルドが暗い穴の底でひたすら研究を重ねてきたのは、暗黒術でも武術でもない第三の力、”毒”だからだ。フ・ザの一族は、術式行使権限にも、武具装備権限にも恵まれなかったものたちが生き延びるために結束した集団なのだ。
同じ理由で、すぐ左にひざまずいている暗黒術師の長ディーも除外せねばならない。権勢欲だけで出来上がっているようなこの女ならば、皇帝の首級を挙げ一気に暗黒界の支配者に上り詰めるくらいのことは考えそうだが、ディーの配下の術師たちは皇帝の玉身を傷つけられるほどの優先度を持つ短剣を装備できるはずがないし、そもそも刃よりもっと剣呑な手妻をいくつも身につけているのだ。
しかしそうなると、刺客を放ったのが九将軍の誰でもなくなってしまう。
残るはただ一人――暗黒騎士長シャスター自身だ。
だが、当然身に覚えなどない。皇帝を排除するときは、命を賭して自ら剣を振るうと決めていたからだ。部下たちに暗殺を命じることはもちろん、秘めたる決意を語ったことすら、一度も――。
いや。
いや……。
まさか。
皇帝が言葉を放ってから、ほんのまばたきほどの時間でここまでを思考したシャスターは、剣の鞘に添えた左手の指先がすうっと冷たくなるのを意識した。
刀身に満ち満ちていたはずの、練り上げた意志力が一瞬で変質する。危惧。不安。恐怖。そして――極低温の確信へと。
ほぼ同時に、皇帝ベクタが二言目を口にした。
「刺客を差し向けた者の名を、余は詮議しようとは思わぬ。持てる力を行使し、更なる力を得ようというその意気や良し。余の首を獲りたくば、いつでも背中から斬りかかるがよい」
ふたたび微かなざわめきに満ちた大広間を睥睨し、皇帝はその白い顔にはじめて表情――ごく薄い笑みを滲ませた。
「もちろん、そのような賭けには相応の代償が要求されると理解した上で、ということだが。たとえば、このような」
漆黒のローブが割れ、露出した手が軽く合図を送る。
と、玉座から見て東側の壁に設けられた小扉が音もなく開き、濃紺のドレスに白いレースのエプロンを重ねた召使の少女がしずしずと歩み入ってきた。両手に大きな銀盆を捧げもち、その上には何か四角いものが載っているが、掛けられた黒布に遮られて中までは見えない。
召使は銀盆を玉座の手前の緋絨毯に降ろすと、十候、そして皇帝に恭しく頭を下げてふたたび扉の奥へと去った。
しん、と張り詰めた静寂のなか皇帝は、薄く、虚無的で、どこか歪んだ笑みを唇の端に滲ませたまま、黒いトーガの裾からブーツのつま先を伸ばし、銀盆を覆う布を踏みつけるようにして払った。
全身と、思考力までをも凍りつかせたシャスターが両の眼で捉えたのは――。
最上のクリスタルよりも透き通った、氷の正立方体と。
その内側に封じ込められた、一番弟子にして愛人、そしてもうすぐ妻になるはずだった女の、永遠に醒めない眠り顔だった。
「リ……ピ……」
ア。と、唇の動きだけでシャスターは呟いた。
全身を包んでいた冷気すらも消え失せ、どこまでも深く暗い虚ろが胸のうちを満たす。
シャスターは、暗黒騎士リピア・ザンケールがひそかに運営している孤児院のことを知っていた。親兄弟を失い、あとは野たれ死ぬだけの子供たちを、種族の区別なく庇護し育てているリピアの行いに、ダークテリトリーのあるべき未来の姿を見たつもりでいたのだ。
だからこそシャスターは、リピアにだけは自分の理想を語った。人界との慢性化した戦争状態を解消し、奪い合うのではなく、育み分かち合う世界を創りたい、という果てない夢を。
しかし、そのことがリピアを皇帝暗殺へと走らせ、あのような痛ましい姿を晒す結果を導いてしまった。彼女を殺したのは皇帝であるが――同時にシャスター自身でもあるのだ。間違いなく。
瞬時ではあるが、ゆえに途轍もなく巨大な悔恨と自責の嵐が、シャスターの虚ろな胸腔に吹き荒れた。
それが、ひとつの黒い感情へと変質するのに、時間はかからなかった。
殺意。
殺す。玉座で脚を組み、薄笑いを浮かべるあの男だけは何があろうとも殺す。
たとえ、己の命、そしてダークテリトリーの未来すべてと引き換えにしようとも。
さて、どいつが問題の”閣下”だろう。
ガブリエルは、尽きぬ興趣とともに、眼下にひざまずく十人のリーダーユニットたちを眺めた。
刺客の女は、主人を心の底から愛していた。女の死に際に放射された、天界の甘露にも似た感情をあまさず味わい吸い尽くしたガブリエルは、女の思慕だけではなく、”閣下”が女に抱く愛情の質すらも理解――あくまでパターン・データとしてだが――していた。
だからこそ、このように女の首を見せてやれば、必ず動くという確信があった。刃を向けた反逆ユニットを容赦なく処分し、残りの九ユニットの忠誠ステータスを恐怖によって上昇させる。現実世界でプレイするシミュレーション・ゲームと何ら変わらない。
まったく憐れで、愉しい奴らだ。
あのような本物の魂を備えているくせに知性は制限され、その上殺しても殺しても好きなだけ再生産が可能。いずれアンダーワールドを、メインフレームとライトキューブごと我が物とした暁には、幼い頃から苛まれてきた餓えを、ついに飽くるまで満たせるに違いない。
玉座の肘掛に立てた腕に片頬をあてがい、ガブリエルはリラックスして待った。
ユニットたちとの距離は二十メートル強。どんな武器による攻撃でも、左腰に装備した剣で問題なく迎え撃てる余裕の間合いだ。
もちろん、システム・コールから始まるコマンド攻撃に対処するには不十分である。だが、ガブリエルの不安はログイン前に払拭されていた。
スーパーアカウント・”闇神ベクタ”は、K組織のスタッフがダークテリトリーの強制操作のために設定したものだ。ゆえに、天命と呼ぶHPは膨大、装備する剣は最強、何より――ベクタには、あらゆるコマンドの対象にならないという反則じみた特性があるのだ。
これだけの条件に庇護されたガブリエルは、十ユニットの左端に座した漆黒の鎧の騎士が、ぐうっと背中を丸めたときも、
その全身が、薄い影のようなオーラに包まれたときも、
騎士の右手が稲妻のように走って床に置かれた剣の柄を握り、同時にがばっと顔が跳ね上がって、その剛毅な相貌の中央、鋭いふたつの眦から人のものではない深紅の光が放たれているのを見たときすら――
発生しつつある事象を完全には理解できていなかった。
この世界は、半分はサーバー内で演算されるプログラムだが、もう半分は人の魂と同質のエバネッセント・フォトンで構築されていること。
そして、自分の強襲チームが主電源ラインを切断したときに、全STLに設けられていたセーフティ・リミッターが焼き切れてしまっていること。
それゆえに、黒い騎士が発生させた純粋かつ強烈すぎる”殺意”は、死という概念を彼のライトキューブからメイン・ビジュアライザー、そして量子通信回線を経由させてガブリエルが接続するSTLに注ぎ込み得るのだということを。
シャスターは、血の色に染まった視界の中央に、ただ皇帝の姿だけを捉えた。
生涯最速の動きで右腕が疾り、抜剣した。
鞘から解放されたのは、彼が師から受け継いだ神器・『朧霞(オボロガスミ)』の見慣れた灰色の刀身ではなかった。その銘のとおり、夜霧にも似た濃いかすみが長大な刃を取り囲み、渦を巻いてうねっていた。
その現象のロジックが、長年研究しながらもついに解明できなかった整合騎士の究極奥義・武装完全支配と同じものであるとシャスターには気付くすべもなかったが、それはもうどうでもいいことだった。
「殺ッ!!!」
一瞬の気合とともに、シャスターはすべての怒り、憎しみ、そして哀しみを刀に乗せ、大きく振りかぶった。
SAO4_39_Unicode.txt
人界の北端から、遥か東域の果てへ。
四帝国のなかでも、もっとも謎めいた土地であるイスタバリエスに足を踏み入れるのは、整合騎士アリスにとっても、西国生まれの雨縁にも初めてのことだった。
眼下に連なる険峻な奇岩のあいだを、瑠璃のように青い河水が滔々とつないでいる。時折そのほとりに現れる村や街は、北方で見慣れた石造りではなくほとんど木材だけで築かれているようだった。
空を振り仰ぎこちらを指差す人々の髪は、そろって黒い。アリスとはどうも反りが合わなかった騎士団副長ファナティオが、そういえばこっちの出身だったかとふと思い出す。
視線を目の前に戻すと、手綱を握るアリスの腕のなかでぼんやり空を眺めているキリトの髪もまた漆黒で、もしかしたらこの人も東域の生まれなんだろうか、街に降りて人々と触れ合えば、心を取り戻す切っ掛けになるだろうかと考えなくもないが、いまは一日の道草も惜しい。
夜は安全そうな湖の岸辺で野営し、雨縁に獲ってもらった魚と干し果物だけの食事でしのいで旅路を急ぐこと三日――。
ついに、遥か前方に壁のごとく連なる果ての山脈と、その岩肌を神が斧で断ち割ったがごとき垂直の谷間が視界に入った。
「……見えたわよ、雨縁、キリト」
アリスは呟き、重荷を載せての長旅を強いてしまった愛竜の首筋をそっと撫でた。飛竜は、伝説級の魔獣がほとんど姿を消してしまった現在ではほぼ最大級の天命と優先度を備えた生物だが、それでも人間ふたりと神器三振りを荷っての飛行は大ごとだったに違いない。半年間の魚食べ放題生活で蓄積した余力もあらかた使い果たしてしまったようだ。
野営地についたら、何はともあれ新鮮な肉をたっぷり食べさせてあげようと思いながら手綱を控えめに鳴らすと、雨縁は疲れを感じさせない声で高くひと啼きし、飛翔速度を増した。
遠目からは紙一枚ぶんの極細の隙間のようにも見えた谷だったが、近寄るにつれてそんな生易しいものではないことがすぐに明らかになった。
横幅は百メルほどにも達するだろうか。オークやオーガの大軍団が横列を作って突進するにじゅうぶんな広さだ。
山脈を断ち割ってまっすぐ伸びる谷の、手前がわのとば口を包むように広がる草地には、無数のテントが整然と並んで一大野営地を出現させている。そこかしこで煮炊きの煙が立ち上り、周辺の空間では衛士たちの部隊がいくつもの陣形をつくって訓練に余念が無いようだ。ひらめく剣の輝きと、発せられる重い気勢が、アリスたちが飛ぶ高空まで届いてくる。
懸念したよりも士気は低くないようだが――しかし、いかんせん絶対数があまりにも少ない。
ざっと見たところでは、総数は三千に届くまい。翻ってダークテリトリーの侵略軍は五万を下らないだろう。人界において、衛士がごく一部の者に与えられる天職でしかないのに対して、山の向こうでは老若男女を問わず動けるものは皆兵士なのだ。
この状況に、いまさらアリス一人が参じたところで何が変わるというのか。いったい、騎士長ベルクーリは世界をどう護る腹積もりなのだろう……。
沈思しながらアリスは野営地を飛び越え、谷が作り出す薄闇のなかへと雨縁の鼻先を向けた。
ソルスの光が遮られた瞬間、ぞくっとするほどの冷気が身体をつつむ。左右の岩壁は、まさしく神が削ったとしか思えない完璧な垂直平滑面だ。生き物はおろか、草木の一本も見つけられない。
そのまま低速で飛行すること数分――。
たなびく靄のむこうから、ついに姿を現した巨大構造物を眼にとらえ、アリスは思わず息を飲んだ。
「これが…………『東の大門』…………?」
確かに、高さ五百メルを超える神聖教会セントラル・カセドラルの主塔よりは低い。それでも、天辺まで三百メルはあるだろう。何より驚愕させられるのが、左右の門がすべて継ぎ目の無い一枚岩で造られていることだ。これほどの存在物を、人の手で削り出すことはもちろん、術式での生成加工も絶対に不可能だ。世界最強の術者たる最高司祭アドミニストレータがかつて創った最大の構造物は、央都セントリアを四分割する十字の巨壁だが、あれだって連なる岩の一枚一枚はこの門扉よりはるかに小さい。
つまりこの大門は、世界がはじまったその時から、文字通り神の手によってこの地に据えられたものなのだ。ふたつの世界を分かつために――そして、三百数十年後の惨劇を導くために。
雨縁を空中で停止させ、アリスはあらためて間近から門を見上げた。
左右の扉、というより岩板を繋ぐように、一文字が人の体よりも巨大な神聖文字でなにごとか記してある。
「ですとら……くと……あと……ざ……らすと、すてーじ……」
先頭の一文をどうにか音にしてみたが、意味までは解らない。
首をひねったその時、突然、びぎぎっ! という凄まじい軋み音が空気を震わせ、アリスも、雨縁も驚いて頭を仰け反らせた。見れば、さっきまでは滑らかだった扉の一部分に、低速の稲妻のように黒いヒビが入り下へと伸びていく。
数十メルほども続いた罅割れがようやく停止した直後、表面から幾つかの岩の欠片が剥がれ、風きり音とともに落下すると、谷底で再び重々しい衝撃音を響かせた。
ぱちぱちと瞬きしてから、そのつもりで左右を見ると、罅割れや欠落が発生しているのはそこだけではなかった。むしろ、巨大な門のほぼ全体に、網目のように黒い線が這い回っている。
ごくりと喉を鳴らしてから、アリスは手綱を軽く振り、騎竜を門ぎりぎりまで近づけた。
耳には、ごぉん、ごぉんという重苦しい響きが届いてくる。恐らく、内部で岩板の崩壊が進行する音だ。おそるおそる左手を伸ばしたアリスは、空中にステイシアの印を素早く切ってから、そっと門の表面を叩いた。
浮かびあがった紫色の窓に記されている”東の大門”の天命は、アリスの背筋を凍らせるに充分な数値だった。
最大値は、これまで見たあらゆる天命のなかでも最大――三百万以上という膨大なものだ。対するに、現在値は何たることか三千を割り込んでいる。しかも、その右端の数字が、目の前でさらに一つ減少した。
掌に汗を滲ませながら、アリスは口のなかで数を刻み、数字がもういちど減るまでの時間を計った。そして、天命が完全に消滅するまでの猶予を概算する。
「……嘘……」
自分の頭がはじき出した解答を信じられず、アリスは呟いた。
「……五日……あと、たったの五日しか無いの…………?」
そんな馬鹿な――三百年以上も厳然と聳え立ってきた世界の果ての門が、たかが五日を待たずに崩壊する、などということがあり得るはずがない。
大侵攻迫るの報を受けつつも、アリスはぼんやりとそれは一年、二年先のことだろうと思い込んでいたのだ。
頭のなかに、シルカの輝くような笑顔やガリッタ老人の日に焼けたしわ深い顔、そして父ガスフトの気難しいしかめ面が順番に過ぎる。彼らを襲ったゴブリンたちを撃退し、洞窟を氷で封印したのはほんの四日前のことだ。あれでもう、ルーリッドは当分のあいだ平和だと信じていたのに。
もし、五日後に大門が崩れ去り、その何日後になるか解らないが闇の軍勢が押し寄せてきたとき、守備軍がそれを防げなければ人界に血に餓えた怪物たちが洪水のように解き放たれる。その波は時を待たずして北部辺境まで達し、ルーリッドを今度は南から呑み込むだろう。
「何とか……なんとかしないと……」
うわごとのように呟き、アリスは無意識のうちに手綱を引き絞った。崩壊寸前の岩板から距離を取り、雨縁はゆっくりと上昇していく。
三百メルの高みにまで続く大門の最上部に達するのに、数分とはかからなかった。
門の向こうには、同じように山脈を切り裂く谷がまっすぐに続いている。しかし、その彼方に広がるのは青い空と緑の草原ではなく……ダークテリトリーの血の色の空と炭殻を撒いたような不毛の荒野だ。
禍々しい光景からすぐに眼を逸らそうとしたアリスは――ふと眉をしかめ、眼を細めた。
わずかに見通せる黒い大地に、ちらちらと揺れる小さな光を見つけたのだ。
雨縁をさらに上昇させ、じっと視線を凝らす。
光は一つではない。間隔を置いて規則的に並んでいる。その数十か二十――、いや、それどころか、見通せるかぎり地平線まで続いているように見える。あれは――
かがり火だ。
野営地なのだ。闇の軍勢の先鋒が、すぐ目と鼻の先に大挙して待ち構えているのだ。門が崩壊し、獲物がひしめく狩場への道が開かれるその時を。
「あと……五日……」
アリスは掠れた声で、もう一度呟いた。
しかしすぐに、現実から目を逸らすがごとく飛竜の首を回し、谷をもときた方へと後退させる。無数のかがり火を長時間見ていたら、圧迫感の巨大さに飲み込まれて単騎斬り込んでしまいそうな気がしたのだ。
たとえそうしたところで、相手がゴブリンやオークの歩兵だけならば百や二百の首級を獲って戻る自信はある。しかし、敵陣にオーガの弩弓兵、または暗黒術師――魔女の部隊がいれば事はそう単純ではなくなる。
いかに整合騎士が一騎当千と言えども、所詮は文字通りひとりでしかない。剣、術、あるいは記憶解放攻撃の届かない遥か後方から遠隔攻撃を集中して受ければ無傷ではいられないし、軽傷でも蓄積し続ければいずれは天命上限に達し得る。それこそが、騎士長ベルクーリが長年危惧していた整合騎士団の――ひいては人界の守りの、最大の弱点なのだ。
戦力の一極集中に拘った最高司祭アドミニストレータはすでに亡く、カセドラルに死蔵されていた大量の武器防具は急造の守備隊に分配ずみだ。しかし残された時間があまりにも少なすぎた。せめて兵が一万、猶予が一年あれば――。
軽いためいきとともに無為な思考を切り替えて、アリスは雨縁に下降指示を出した。
守備隊の野営地は、中央の草地を広く空けてある。隣接して巨大な天幕が並んでいるのを見ると、あそこが飛竜の発着場に違いない。
弧を描いて舞い降りた雨縁は、鉤爪で下草を舞い散らせながら減速した。停止する寸前から長い首を天幕のほうへ向け、くるるるっと高い喉声を響かせる。
すぐに、少し低い鳴き声で返答があった。兄竜の滝刳だろう。アリスは、竜が止まるやいなやキリトを抱えて草地に飛び降り、両脚から重い荷袋を外してやった。とたんに雨縁はどすどすと天幕に突進し、その下から頭を突き出した兄と互いの首を擦りあわせた。
思わずかすかに微笑んでしまったアリスだが、背後から駆け寄ってくる足音に気付き、あわてて表情を引き締めた。素朴な生成りのスカートの裾を整え、風に乱れた髪を背中に流す。
振り向くよりも早く、聞きなれた軽やかな声が発着場いっぱいに響いた。
「師よ! 我が師アリス様!! 信じておりましたぞ!!」
ずざざざ、と草の上を滑るように目の前に回りこんできたのは、ほんの十日ほど前に永の別れを交わしたばかりの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。長期の野営中だろうに、藤色の長い巻き毛にも白銀の甲冑にも染みひとつない。
「……元気そうですね」
やや素っ気無いアリスの言葉に、感極まったように長い睫毛を震わせ、更に何か言おうとしたエルドリエの唇が――ぴたりと凍った。
無論、アリスが左腕で抱きとめている黒髪の若者の姿に気付いたせいだ。
左頬をかすかに強張らせ、ぐうっと頭を仰け反らせて、若き騎士は信じられない、というふうに唸った。
「連れて――きたのですか。なぜ。どうしてです」
アリスも、対抗するように胸を反らせて答えた。
「当然です。私が守ると誓ったのですから」
「し、しかし……いざ開戦となれば、我ら整合騎士はつねに最前線に立たねばならぬ身ですぞ。敵兵どもと剣を交えるあいだはどうするのです。よもや背に負うわけにもいきますまい」
「必要があればそうします」
自力では立つこともできないキリトの細い体を、エルドリエの眼から隠すようにアリスは身体を少し回した。しかし、いつの間にか発着場の周囲には、休憩中の衛士たちや下位の整合騎士たちまでが三々五々集まり、アリスには眩しげな、そしてキリトには訝しげな視線を向けてくる。
波音のような低いざわめきに被せるように、エルドリエが鋭い反駁を放った。
「なりませぬ、師よ! そのような……憚りながら言わせて頂きますが、ただの荷物を抱えて戦えば、剣力が半減するどころか師の御身を危険に晒すことにもなりかねませんぞ! アリス様は彼らの――」
一瞬言葉を切り、きらびやかな銀の篭手で周囲の剣士たちをさっと示す。
「――先頭に立ち、率い導くという責務がおありなのです! その貴方が、持てる御力のすべてを出せずして何とします!」
正論である。であるがもちろん、はいそうですねとは言えない。アリスはぎゅっと奥歯を噛み締め、自分にとってはどちらも――人界のために戦うことも、キリトを守ることも同じくらい大切なのだということをどう説明したものか言葉を探した。
と同時に、エルドリエの言い様に、ある種の驚きを覚えもしていた。
かつての、セントラル・カセドラルでアリスに剣技の手ほどきを受けていたころの整合騎士エルドリエとは、明らかな変化がある。あの頃は、まるでアリスを神格化しているが如き崇拝ぶりで、何を言われようとも一度として言い返したりすることは無かった。
そうであって当然なのだ。この世界の人間たちは、謎めいた”外界の神々”によって右眼に封印を施され、法や上位者の命令には絶対に逆らえないようになっている。アリスの知る限り、自ら封印を破ることに成功した者は、アリス自身と、すでに亡き青薔薇の剣士ユージオだけだ。神に等しき権限を誇ったアドミニストレータとカーディナルの二人ですら、その封印にはついに逆らえなかったのだ。
つまりエルドリエは、いまだあの封印の支配下にあるはずだ。それなのに今彼は――、いや別に、あからさまにアリスの言葉に逆らったというわけではない。強く命令すれば従うだろう。だが確実に、かつてのような”盲従状態”ではない。自ら考え、意見を述べている。
その変化を彼にもたらした原因は、もはや明らかだ。
キリトだ。それにユージオ。
世界最大の反逆者であるあの二人と、いっときにせよ触れ合ったことがエルドリエの魂を強く揺らしたのだ。
考えてみれば、ルーリッドに暮らす妹シルカも、村の形骸化した掟や頭の固い有力者たちの言葉には事あるごとに不満を漏らしていた。あるいは――キリトとユージオをセントリアの養成学校から連行したとき、人垣から走り出てきた女子生徒二人。一般民の、しかも年端も行かない少女が、自ら整合騎士に声をかけるなど本来到底有り得ないことだ。
そして、もちろん――アリス自身も、また。
キリトと剣を交え、カセドラルの外壁から落下するまでの自分は、世界の成り立ちにも、教会の支配にも、最高司祭の絶対神性にも、ひとかけらの疑いすら抱いたことは無かった。
しかし、已む無く力を合わせて危機を脱し、休戦を受け入れ、外壁をよじ登るあいだに、キリトはその声と、剣と、そして眸でアリスを激しく揺さぶり続け――ついには、忌まわしい苦痛の封印を破らせしめたのだ……。
そう、キリトはまるで、この偽りの調和に満ちた世界に振り下ろされた鉄槌のようなものだった。あらん限りの肉体と魂の力を振り絞り、世界を揺るがし、震わせ、ついには神聖教会という名の、世の中心に打ち込まれた巨大な古釘をも叩き壊してしまった。
しかしその代償として、彼は友ユージオと導師カーディナルの命、そして己の心を失った。
アリスは、左腕で支えた枯れ枝のような体をぎゅっと強く抱き寄せた。そして、正面からエルドリエの目を見返した。
言いたかった。あなたが今のあなたであるのは、この人と戦ったからなのです、と。しかし勿論理解はしてもらえまい。整合騎士団にとっては、キリトは変わらず忌まわしい反逆者でしかないのだ。
無言で立ち尽くすアリスに、エルドリエはまるで鋭い痛みを堪えるかのような表情で、更に何事か言い募ろうとした。
その時だった。周囲の人垣の一部が、まるで見えない巨人の手で掻き分けられたかのように、さっと割れた。
奥から流れてきたのは、アリスにとっては涙が出るほど懐かしく、同時に痛いほどの緊張を覚えざるを得ないあの声だった。
「まぁ、そうカッカするなよ、エルドリエ」
さっ、と両の踵をつけ背筋を伸ばす若い騎士から視線をはずし、アリスはゆっくりと振り向いた。
東域風の、前で合わせるゆったりとした青灰色の衣。低い位置で結わえた帯は深い藍色。その左腰に、無造作に突っ込まれた無骨な長剣。
あとは両足に、奇妙な木製の履物を突っかけているだけだ。しかし、その鍛え抜かれた巨躯から発せられる威圧感は、まわりの完全武装の騎士たちが目に入らなくなるほどの凄まじい密度だ。
着物とよく似た氷色の、短く刈り込まれた頭髪をごしっと擦り、声の主は厳つい口元ににやりと笑みを刻んだ。
「よう、嬢ちゃん。元気そうだな、ちょっとふっくらしたかい?」
「……小父様。ご無沙汰しておりました」
アリスは、涙が滲み声が震えそうになるのを必死に押さえ付けながら、どうにかかすかな微笑みを作り、世界最強最古の剣士――整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンに一礼した。
整合騎士として生きた九年間、アリスがただ一人心を許し、師と仰ぎ、また父と慕った人物だ。そして同時に、この世でただ一人――キリトを除けば――絶対に勝てないと確信する剣士。
だから、今は泣き顔を見せるわけにはいかない。
もしベルクーリが、キリトを置いておけないと言えばその時は従わねばならないのだ。もちろん、今のアリスはたとえベルクーリの命令であっても強制はされない。だが、皆の前で抗えば、騎士団と守備軍の秩序が揺らぐ。いまここに集った人々は、アドミニストレータ崩御というあまりにも巨大な動揺を、ベルクーリの指導力ひとつでどうにか繋ぎとめている状態なのだから。
そんなアリスの内心の葛藤をまるですべて見通すかのような、無骨な優しさに満ちた笑みを口元に刻んだまま、ベルクーリはゆっくりと歩み寄ってきた。
まずアリスの瞳をじっと見つめ、ぐっと力強く頷く。
そして、背後でエルドリエが何か言おうとしたらしいのを一瞥で制し、騎士長は視線をアリスの腕のなかのキリトに落とした。
口元が一瞬で引き締まる。刹那、まるで別人のような青い炎が、その鋭い双眸に宿る。
すうう、とベルクーリが細く、長く息を吸った。
同時に、周囲の空気がちりちりと重く、冷たく爆ぜ始める。
「……小父様……」
何を。
アリスは、音にならない声を絞り出した。
ベルクーリは、間違いなく剣気を練っているのだ。かつてアリスが伝授された、”無想の太刀”を超える究極の剣、”心意の太刀”を放つための。心意とは神威だ。練り上げた意思の力をすべて剣に乗せ、敵の刃を断固として押しのけ、斬る。時としてその太刀は、敵刃に接することなく弾き飛ばすことすらある。騎士長の神器・時穿剣の、”未来すらも斬る”という記憶解放技は、彼の圧倒的意思力があって初めて成立する術式なのだ。
つまり、まさか――ベルクーリは、キリトを斬るつもりなのか。
文字通り一刀両断でこの問題にケリをつけようということなのか。それだけは絶対に受け入れられない。もしその時は、アリスが自分の剣でキリトを守らねばならない。
騎士長の圧倒的すぎる剣気に圧され、周囲の騎士衛士たちも、エルドリエも、天幕の下の飛竜たちすらもしんと黙り込んだ。呼吸もおぼつかないほどの重く圧縮された空気のなかで、アリスは必死に右手の指を動かし、左腰の金木犀の剣に意識を繋ごうとした。ベルクーリの心意の太刀に、同じ技では抗しきれない。その時は記憶解放術でキリトを守るしかない。
だが――。
アリスが実際に腕を動かす寸前、ベルクーリの口がかすかに動き、思念にも似た声が届いた。
大丈夫だ、嬢ちゃん。
「……!?」
アリスが僅かに戸惑った、その刹那。
ベルクーリの全身は微動だにせず、しかし両の眼だけがぎらりと恐ろしいほどの光を放ち。
同時に、アリスの腕のなかで、キリトの体が一瞬激しく震えた。
ビギッ!!
何か巨大なものが軋むような音が鋭く響き、そして、ベルクーリとキリトのちょうど中間の何もない一点に、間違いなく銀色の閃光が小さく弾けた。
――いまのは!?
アリスは驚愕して、思わず一歩身を引いた。
その時にはもう、ベルクーリはさっきまでの剣気が幻だったかのように全身を緩め、再び笑みを浮かべていた。
「お……小父様……?」
呆然と呟いたアリスに向って、最古の剣士は、まるでかつての稽古のときのように指先で太い顎を擦りながら言った。
「嬢ちゃん、今のが見えたかい?」
「は……はい。一瞬でしたが……たしかに撃剣の光が……?」
「うむ。今オレは、”心意”の刃のみを抜き、その若者を斬ろうとした。当たっていれば、頬の皮一枚くらいは切れていたはずだ」
「当たって……いれば? ということは……」
「そうさ。受けたのだ。若者が、己の”心意”でな」
アリスは鋭く息を吸い込み、あわてて抱きかかえるキリトの顔を覗き込んだ。
しかし、期待はすぐに裏切られた。薄く開かれた黒い瞳には、虚ろな暗がりしか見出せない。あらゆる表情は抜け落ちたままだ。
ううん――でも、さっき、確かに一瞬体が震えた。
アリスは右手でキリトの髪を撫でつけながら、視線をベルクーリに向けた。騎士長は、ゆっくり首を振りながらも、確かな声で断じた。
「若者の心は、今ここには無ぇようだ……。だが、死んじゃいねぇ。いいか、さっきそいつは、自分ではなくお前さんを守ろうとしたんだよ、アリス嬢ちゃん。だから……いつか、戻ってくる。俺はそう思う。たぶん、嬢ちゃんがほんとに危険な目にあった、その時にはな」
アリスは、再び滲みそうになった涙を、先刻の倍ほども苦労して堪えた。
そうよ――きっと、戻ってくる。
だってキリトは、キリトこそは、ほんとうに世界最強の剣士なんだから。二本の剣を振るい、あの半神人ですら斃してみせたんだから。
私のために……とは言わない。この世界に生きる、たくさんの人たちのために、戻ってきて……。
アリスはついに耐え切れなくなって、頭を伏せて両腕でキリトの体をぎゅっと抱きしめ、その肩口に顔をうずめた。頭上を、諭すような調子の騎士長の声が通り過ぎた。
「そんな訳だからよ、エルドリエ。そう細かいこと言わねえで、若者ひとりくらい面倒見てやろうや」
「し……しかし……」
いっそ天晴れというべき気概を見せて、階梯的には中位の整合騎士であるエルドリエは、騎士長ベルクーリにすら意見を述べた。
「たとえ僅かにでも戦力になると言うならまだしもこの状態では……それに、たとえ正気に戻ったところで、一般民の剣使いが何ほどのものなのか……」
「おいおい」
ベルクーリの声は、錆びた微笑と同時に、銘刀のごとき鋭い響きを帯びていた。
「忘れたのかい。その若者の相棒は、このオレに勝ったんだぜ。整合騎士長、ベルクーリ・シンセシス・ワンによ」
瞬時に、しんと草地全体が静まり返る。
「あの坊や……ユージオって言ったかな。強かったぜ、とてつもなく。言ってなかったが、オレは時穿剣の記憶解放までしたんだ。その上で負けた。お前さんや、デュソルバートや、ファナティオと同じようにな」
これには、エルドリエももう返す言葉が無いようだった。当然だろう、一対一でベルクーリに勝ちうる剣士などというものが、整合騎士団にも、そして大門のむこうのダークテリトリーにも存在しようはずがない――とここ百年以上誰もが信じてきたのだから。
しかし、これはある意味では危険すぎる宣言ではないのか。
騎士長ベルクーリは、最強者という権威ひとつでこの寄せ集めの守備軍をまとめてきたのだ。しかし、自分を打ち負かした剣士ユージオの存在を皆に知らしめ――そして、キリトがユージオと同列だと認めたということは……。
アリスがそこまで考え、顔を上げかけたときだった。
ベルクーリが、びくん、とまるで痙攣するような動きで上空を見上げた。
「お……小父様……?」
アリスの掠れた声に、返ってきた騎士長の言葉は、まるで予想外のものだった。
「でかい剣気が……一瞬膨らみ、消えた……。遠くで……誰か死んだ……」
暗黒界十候会議を構成する十人の将たちは、それぞれ性向も、人品も、裡に隠した野望のほどもまるで似通うところは無かったが、しかしたった一つだけ完全なる共通点を持ち合わせていた。
それは、”力が全てを支配する”という暗黒界唯一の法を、十人以外の何ぴとよりも明瞭に理解している、ということだ。
むしろ、その法を幼少から魂に刻み込み、不断の努力――自己の鍛錬にせよ、邪魔者の排除にせよ――を続けてきたからこそ、血で血を洗うこの世界においてほぼ頂点を極めることが出来たのだ、と言うべきだろう。
それ故に。
暗黒将軍シャスターとともに玉座の間に並んだ九将は、右端に座していた黒騎士が裂帛の気勢とともに皇帝に向って抜剣したときも、心底からの驚愕に打たれることはなかった。
むしろ、『ほう、敢えてここで行くのか、大胆なことだ』という理解を多くのものは感じた。三百年のあいだに言語能力すなわち知能を退化させてしまったオーク族やオーガ族の長ですらも、『これで皇帝とかいう奴の力のほどがわかる』と獣の眼を鋭く光らせた。シャスターに戦士としての敬意を抱いている若き拳闘士に至っては、『抜いたならば皇帝を斬ってしまえ』と内心で応援さえした。
そんな彼らの中にあって、この事態を数秒前から予測していた者が二人いた。
ひとりは、暗黒術師総長ディーだった。シャスターと最も激しく敵対していた彼女は、暗黒将軍の愛人の拉致を計画しており、以前からリピアの顔を知っていたのだ。
だから、むしろ驚きは、氷漬けになったリピアの首級を見たときのほうが大きかった。これはもしや、シャスターが怒りに任せて抜くか、とディーは予測し、その場合どう動くべきかを瞬時に考えた。
シャスターを背後から撃ち、皇帝に恩を売ることも検討したが、最終的にディーは傍観を選択した。力の底が見えない皇帝ベクタにシャスターが敗れればそれでよし、仮にシャスターが勝つことがあれば、その時こそ恐らく深手を負っているであろう仇敵を焼き焦がし、あらためて自らが暗黒界に覇をとなえればよい。内心でほくそ笑みながら、ディーは興奮を押し殺すために小さく唇を舐めた。
そして、暗黒将軍の叛意を察知した者がもうひとり――。
こちらは、即座に動いた。
シャスターは、殺の一文字だけを心に抱き、愛刀を大きく振りかぶった。
太刀に込められた”心意”の強度だけを計れば、かつて整合騎士長ベルクーリと一合撃ちあったときのそれを確実に超えていた。彼の怒りと嘆きの凄まじさは、本来長い術式を必要とする”神器の記憶解放”現象を即時に引き起こしたほどだった。
シャスターの携える長刀オボロガスミは、VRMMOパッケージとしてのアンダーワールドが二百年ほど前に自動生成したオブジェクトである。その属性は”水”であり、いまシャスターの殺意に呼応した刀身は、必殺の威力を内包したまま実体を失って霧状の影へと変化していた。
この記憶解放技の特性は、あらゆる剣が本来的に持つ、”鋭い刃で対象物を切断または貫通しダメージを与える”という攻撃プロセスを完全に省略することだ。柄から長く伸びる霧の帯に触れたものは、その時点で天命に直接斬撃ダメージを被る。すなわち、回避以外のあらゆる防具・防御は意味を成さない。
皇帝ベクタことガブリエル・ミラーは、シャスターが抜剣した時点で、自らの腰の剣を抜き、敵の攻撃を迎え撃つつもりで動いた。
もし事態がそのまま推移すれば、シャスターの霧の刃は、ガブリエルの剣をすり抜けて体に届き、凝縮された殺意を注ぎ込むはずだった。
だが。
だがしかし――刀を大上段に構え床を蹴る、その寸前。
シャスターの動きが減速し、止まった。
いつのまにか、暗黒将軍の重鎧の左脇腹、分厚い装甲のわずかな継ぎ目に、一本の投げ針が深々と突き立っていた。
ゆらり、と音も無く立ち上がったのは、濃い灰色のローブに全身を包んだ痩せ細った姿だった。
暗殺ギルド頭首、フ・ザである。十候にあってもっとも存在感が薄く、会議でもほとんど発言しなかった日陰者が、おそらくその生涯で最大の注目を浴びながらするりするりと前に進み出た。
フ・ザがシャスターの挙動を事前に察知し得たのは、皮肉なことに、彼が十候のなかでもっとも臆病かつ神経質であるがゆえだった。
暗殺ギルドは、言わば力無き者たちの寄り合い所帯である。体力、魔力、財力、ありとあらゆる力に恵まれずに生を受け、しかしただ奴隷として搾取されるばかりの生き方を拒んだものたちが、最後の力として”毒による暗殺”の技を磨くために造った集団なのだ。
アンダーワールドにおける一部の虫、蛇、果実といった毒性オブジェクトは、本来、負荷実験の一環として配置されたものである。ゆえにその効果は限定的で、住民が必要な知恵を働かせれば回復可能なレベルに留まっている。逆に言えば、とても術式や刀剣に対抗するための武器として使用できるほどの威力は無いのだ。
だが、暗殺ギルドを作ったものたちは、ラーススタッフもまるで想定していなかった”濃縮”という技法を編み出し、長い年月をかけてひたすら毒性の強化を、言い換えればマテリアル単位量あたりの耐久度損耗力の増加を目指しつづけてきた。オブシディア城敷地内の地下深くに存在する暗殺ギルド総本部には、百年以上にも渡って毒果の汁を煮詰め続けている大釜さえある。
だが、ついに完成した”致死毒”は、暗殺ギルド内において暗殺が横行するという悲劇をも生み出した。術式、あるいは武器と違って、毒攻撃は加害者の特定が非常に困難なのだ。
だから、必然、ギルドを束ねるものは極限まで臆病でなければ生き残れないことになった。周囲の者の視線、いや気配のうちにすら、殺意の存在を感じ取れるほどに。
フ・ザにとっては、シャスターがリピアの首を見た瞬間に撒き散らした殺気は、鮮血の臭いよりも明瞭に嗅ぎ分けられるものだった。
そしてフ・ザにとっては、暗黒将軍シャスターは、この世界で最も憎むべき人間だった。
これまで練っては破棄した毒殺計画は数知れない。殺すまでは達成する自信はある。しかし、毒で死んだということはすなわちそれは暗殺ギルドの仕業であり、明確な宣戦布告に他ならない。シャスターが息絶えたその一時間後には、強力無比な暗黒騎士団が暗殺ギルド本部を襲って皆殺しにするだろう。正面戦闘となれば勝ち目はまるで無い。
しかし、今、この瞬間ならば。
怨敵の体に、研ぎ上げた毒針を突き徹す大義名分がある。抜剣し、皇帝の首を獲るまでの数秒間は、シャスターは暗黒将軍でも十候でもなくただの反逆者なのだから。
フ・ザがローブの懐から抜き出し投擲したのは、暗殺ギルド頭首に代々受け継がれる暗器だった。”ルベリル毒鋼”と呼ばれる稀少な鉱物から削り出された、掌に包めるほどの極細の鋼針は内側が空洞になっており、毒液を蓄えられるようになっている。
装填されているのは、これも暗殺ギルドの技の精華である致死毒だった。野山から採取した”チグサレ”という蛭の一種を五万匹まとめて磨り潰し、幾度も濾過濃縮してわずか一垂らしの毒液を得る。蛭を繁殖飼育しようという試みはすべて失敗したため、この毒一滴を製造するのにとてつもない労苦が必要なのだ。フ・ザには知りようもないことだが、アンダーワールドのフィールドに存在する動植物は、面積あたりの規定値に従ってシステムが生成するのであり、家畜ユニットに指定された羊や牛などを除けば一切の人為繁殖はもとより不可能なのである。
つまり、フ・ザが放った毒針は、その素材も内部の毒液も、暗殺ギルドの総力を一点に凝集したと言って過言ではない代物だった。それはまた、数百年に渡って虐げられてきた弱き人々の怨念の結晶でもあった。
シャスターは、振りかぶった剣にのみ全意志力を集中していたために、体に鋼針が深々と突き刺さった痛みをまるで意識しなかった。
しかし、玉座に向って高く跳躍しようとしたまさにその瞬間、体全体が鉛と化したかのようなすさまじい重さを感じ、かっと眼を見開いた。
両脚から力が抜け、がしゃりと片膝を突いてしまってから、あらためて左脇腹の異物感に気付く。
――毒か。
瞬時にそう考え、氷のような痺れが左手にまで広がる前に、素早く針を抜き取る。まるでおもちゃのような小さな武器の、ぬめりのある緑色の光沢に気付いたシャスターは、それが忌まわしき毒鋼製であることを悟り、即座に麻痺対抗術を唱えようした。
しかし、冷気はすさまじい速度で左脇から浸透し、たちまち口にまで達した。システム・コールの起句すらも言い終わらぬうちに舌の感覚が失われ、歯を食いしばることすらもできなくなった。
左手もまた痺れ、零れ落ちた毒針が足元でかすかな音を放った。
最後に、振りかぶったままだった右腕がゆるゆると落下しはじめ、それと同時に長刀の記憶解放状態も解除され、灰色の霧から再び実体へと戻った切っ先ががつんと、ほんのわずかに床を抉った。
抜剣する前とまったく同じ、左の膝を突いて頭を垂れた姿勢で凍りついたシャスターの視界に、音も無く闇色のローブの裾が入り込んだ。
――フ・ザ。
――よもや、この男にしてやられるとは。
「……こんな、取るに足りない小物に。……そう思ってますね、ビクスル?」
しゅうしゅうと擦れるような声が頭上から降ってきて、シャスターは唯一わずかに動く目元に険をつくった。――貴様に、馴れ馴れしく呼ばれるいわれは……。
「名前を呼ばれるいわれはない。そう言いたいですか? でもね、あなたをビクスルと呼ぶのはこれが初めてじゃないんですよ?」
ゆるゆるとローブが床にわだかまってゆき、同じ高さにまで身をかがめた暗殺者の顔が、シャスターの視界に半分ほど入った。しかし、深々とかぶったフードが光を遮り、尖った顎先以外は暗闇に沈んでいる。
その顎がかすかに動き、いっそう低まった声が闇から流れ出た。
「あなたは……憶えていないでしょうね。幼年学校で、自分が散々に叩きのめした多くの子供の顔など。そしてそのうちの一人が、屈辱のあまり水路に身を投げ、学校から永久に消えたことも」
――なんだ。この男は何を言っている? 幼年学校だと?
名も無き一騎士の子として生まれたシャスターは、木剣が握れるようになると否応無く暗黒騎士団付属の養成所に叩き込まれた。以後は、生き抜くためにひたすら修行に明け暮れた記憶しかない。あらゆる選抜試験で常に勝利しつづけ、気付けば騎士団の士官に任ぜられ、師である前騎士長に見出されてからは尚一層、剣のためにのみ生きてきた。
憶えていようはずもない。養成所で並んで木剣を振っていた子供たちの名前など。
「……でもね、私は一日として忘れたことはありませんよ。流れ着いた地の底の暗渠で暗殺ギルドに拾われ、奴隷としてこき使われた長い年月のあいだ、ずっとね。私は知識を蓄え、多くの新しい毒を開発し、ついにはギルド頭首にまで上り詰めた。その代償として様々なものを失いましたが……すべてはあなたに復讐するためです、ビクスル」
歪んだ声が途切れると同時に、ほんのわずかにフードが傾けられ、シャスターの眼にフ・ザの素顔が晒された。
記憶が蘇ることは無かった。いや、もしシャスターが往時の同級生たちを完璧に憶えていたとしても、やはり名は思い出せなかっただろう。なぜなら、フ・ザの顔は、いかなる毒の影響か、酷く溶け崩れてオークも恐れるほどの異相と成り果てていたからだ。
再び深く引き下げられたフードの奥で、二つの眼だけがぎらぎらと強烈な光を放った。
「あなたの体に巡っている毒は、私があなたを殺すためだけに開発し、一滴ひとしずく貯めたものです。実験では、天命が三万を超える岩鱗竜ですら一時間で殺しましたよ。あなたの天命量ならば、おそらくあと二、三分でしょうか。さあ……返してもらいますよ。あなたに預けてあった、私の恨みと屈辱を」
――恨みか。
シャスターは、フ・ザの眼から視線を外し、目の前の床に転がる毒針を見つめた。
――俺は怒りと恨みによってのみ皇帝を斬ろうとした。この男もまったく同じ力をこの武器に込めて俺を殺そうとした。だから、俺の太刀は止まったのだ。我執の”心意”は、大義の”心意”には勝てない。昔、あの男……整合騎士長ベルクーリと一合交えたときに掴んだ剣訣を、俺は最後の最後で忘れてしまった……。
もう膝立ちの姿勢すらも支えていられずに、シャスターは左肩からがしゃりと床に崩れ落ちた。
おぼろに薄れた視界の中央に――。
銀盆に載せられた、氷の立方体があった。
フ・ザ、かつての名をフェリウス・ザルガティスは、ついに訪れた歓喜の瞬間をあまさず味わい尽くすべく、呼吸すらも忘れて眼を見開いた。
力と栄誉の象徴とも言うべき暗黒将軍が、いま自分の足元に瀕死の体を晒している。艶やかだった肌は土気色に変じ、鋭い眼光は消えうせて灰色の膜がかかったようだ。
醜く、情けない死に様だった。
そしてシャスターの死はすなわち、毒殺技術の、剣術と暗黒術に対する優位性を正しく証明するものでもあった。この新型複合毒を用いれば、ほんの針の一刺しで、敵を抜剣も詠唱も不可能な状態に追い込み絶息せしめられるのだ。
玉座の皇帝も、この一幕を見れば暗殺ギルドを軍の精鋭と位置づけるはずだった。新型毒の大量生産が完了した暁には、もう騎士や術師の顔色をうかがって隠れ暮らす必要もない。捨てさせられた名前を取り戻し、己を捨てたザルガティス家に、新たな支配者として乗り込むこともできるのだ……。
悦楽の絶頂に身を震わせるフ・ザは、視界の外に転がるシャスターの剣が、その刀身を再び霧に昇華させようとしていることに、まったく気付くことはなかった。
――リピア。
シャスターは、天命が尽きるその寸前、心の中でただ一人愛した女性の名を呼んだ。
リピアが皇帝の暗殺を決意したのは、ただただ、シャスターが語った新時代の到来を実現させたいと願ったからに違いない。三百年来の戦争が終わり、新たな法と秩序が暗黒界を照らせば、自分ひとり守れないような孤児たちにも幸せに生きていく権利が与えられるようになると、そう信じたからに違いない。
――フ・ザよ。
――幼年学校で叩きのめされただと? 敗北に耐えられず身を投げただと?
――しかし、少なくとも貴様には機会はあったのだ。学費を出してくれる親が、三度三度腹いっぱい食える飯が、そして暖かいベッドと雨を遮る屋根があった。この世界には、生まれたときからそれら最低限の権利すら与えられず、襤褸屑のように扱われ消えていく幼い命がどれほど存在するか。
――リピアはそんな世を、命を賭して正そうとした。その心意を無に還すわけにはいかない。絶対に。貴様の個人的な怨讐ごときに――
「……邪魔はさせん!!」
完全に麻痺したはずのシャスターの口から凄まじい怒号がほとばしると同時に、灰色の竜巻のようなものが黒騎士の右手を中心に高く巻き上がった。
それは、神器の”超解放”とでも言うべき現象だった。シャスターの強力無比な心意が愛刀を媒体として、全アンダーワールドの情報を構築演算する光量子集合体を直接書き換えはじめたのだ。
渦巻く竜巻は、いまやあらゆるコマンドやオブジェクトを超越する純粋な”破壊力”と化していた。避ける間もなく、まともに竜巻に包まれたフ・ザの分厚いローブが、ぼしゅっと乾いた音を立てて煙のように散った。
裸形をむき出しにした、痩せ細った中年の男は、溶け崩れた顔を隠すように両腕を持ち上げた。だが、直後、その腕が無数の肉片と化して飛び散り――続いて体全体が濃密な血煙となってばしゃりと宙に舞った。
最強の暗黒術師ディー・アイ・エルは、瀕死の暗黒将軍の体から奇妙な竜巻が巻き上がった瞬間、とてつもなく嫌な予感を感じて大きく飛び退った。
だが、その悪寒は、竜巻に触れた右足が、膝の下から跡形もなく粉砕されるのを見て生涯最大級の驚愕へと変わった。
ディーは、たとえ入浴中や就寝中であっても、数十に及ぶ防御術で身体を保護している。術式による攻撃はもちろん、飛び道具、剣、毒、おおよそありとあらゆる種類のダメージを跳ね返すはずの鉄壁の守りだ。
もちろん、同級の優先度を持つ十候の全力攻撃ならば、その防壁を貫通し肌に傷をつけることもあるかもしれない。しかし、防壁を破壊することなく、肉体ごと天命を一気に持っていく、などということは不可能だ。絶対に。
しかし、どれほど脳裏で否定しようとも、飛翔退避を上回る速度で迫ってくる死の竜巻に右脚はみるみる削られていく。ディーほどの術者となれば、どれほど肉体が傷つこうとも治癒術で完全再生できるが、それも生きていればこそだ。
「ひっ……ああっ……!!」
ついに、ディーの口から甲高い悲鳴が漏れた。
しかしその響きは、同時に撒き散らされたゴブリンの長二匹の絶叫にかき消された。
ディーのさらに左に並んでいた、山ゴブリンの長ハガシと平地ゴブリンの長クビリが、短い足を懸命に動かして竜巻から逃れようと疾駆している。しかし、全速飛行するディーにすら追いつく竜巻の膨張を回避できようはずもない。
「クギィーッ!!」
醜い叫びとともにハガシが脚を滑らせ、床に転がった。必死に伸ばされた左手が、クビリの足首を万力のように掴んだ。
「ギヒアアアッ!! 離せぇーっ!! はなぁ――っ!!」
ばしゃり。
ゴブリンの支配者二匹が、あっけなく血煙と化して飛散した。
ぞぶっ。
ディーの右脚が、根元から跡形もなく吹き飛んだ。
恐怖と絶望に美貌を極限まで歪めた暗黒術師総長の文字通り眼前で――竜巻の膨張が、奇跡的に停止した。
倒れるシャスターの体はもう見えなかった。そのあたりを中心に屹立する逆円錐型の死の暴風は、すでに直径二十メルほどにまで拡大している。他の十候は素早く壁際にまで退いているし、広間の南側に並ぶ十軍の幹部たちも危ういところで無事だ。
混乱しきった思考のなかで、それでもディーの傑出した思考力は、竜巻の膨張が停止した理由をおぼろげに悟っていた。
守ったのだ。十数名の暗黒騎士たち――己の腹心を。つまり、やはりあの竜巻は、シャスターの意思が作り出したものなのだ。
その推測を裏付けるように、竜巻の上半分が徐々にその形を変えはじめた。
出現したのは、半透明の霧で形作られた、すさまじく巨大な男の上半身。
鍛え抜かれた筋肉や、鋭く刈り込まれた髭を見ることもなく、それが暗黒将軍シャスターの写し身であることは明らかだった。
皇帝ベクタことガブリエル・ミラー陸軍中尉は、さすがに驚きらしき感情にうたれながら、圧し掛かるように屹立する竜巻の巨人を見上げた。
暗殺者の生首を晒し、それを見た左端の騎士が剣を抜いた――ところまではまったく予想のうちだった。ガブリエルに向って斬りかからんとしたその男を、将軍ユニットの一人が麻痺毒か何かで停止させたのも意外というほどではなかった。
反逆者の首を一撃で刎ね、それを以って残る九ユニットに絶対の忠誠心を植え込むという目論見からは外れたが、しかし自発的に皇帝を守るという行動は恭順のあらわれと判断してよかろう。そう思いながらことの成り行きを見守っていたのだが――。
倒れた反逆ユニットから突如湧き上がった竜巻、そしてそれに包まれた将軍ユニット三個が一瞬で消滅したのには、さしものガブリエルの思考も停止せざるを得なかった。将軍ユニットは、皆同程度のステータスだったはずだ。ならば互いに戦えば、現実世界のVRMMOにおけるデュエルと同じように、HPを削ったり回復したりとだらだらした展開になるはずなのだ。
それが、数秒で三個ものユニットのHPが吹っ飛ぶとはどういうことだ。もしや、この”アンダーワールド”には、自分の知らぬ何らかのシステムやロジックが存在するのだろうか――。
そこまで考えたとき、竜巻の巨人が口を開き、天地を揺るがすような雄叫びを放った。
『オ オ オ オ オ オ !!』
がしゃあーん!! という大音響とともに、玉座の間を飾るすべての壮麗な窓ガラスが外側に飛び散った。
巨人がゆっくりと、フリーザーほどもありそうな右の拳を握り――。
轟、とガブリエルに向って撃ち降ろした。
剣を抜いても、回避しても無駄だと即座にガブリエルは判断した。視界の左端で、副官のヴァサゴが片眉を上げただけの表情で飛びのくのをちらりと確認してから、ガブリエルは玉座のうえで膝を組んだまま、灰色の拳が全身に叩きつけられるのを感じた。
シャスターの、いまわの際の心意が発生させた死の竜巻は、アンダーワールドのシステム演算を超越した現象だった。数値的攻撃力によってフ・ザたちの天命を減少させ、その結果死亡させたわけではなく、おのおののライトキューブに直接”死”のイメージを叩き込むことによってまずフラクトライトを破壊し、そこから逆算するように視覚的肉体を粉砕したのだ。
ゆえに、ガブリエルに対する攻撃も、皇帝ベクタというユニットの天命には影響しなかった。
しかし、シャスターのライトキューブで生成された殺意は、量子通信回線を経由してガブリエルがダイブするSTLにまで到達した。
STLが万全の状態ならば、そこでフラクトライトの感覚野以外へ伝えられる信号はすべてセーフティ・リミッターによって完全遮断されるはずだった。
だが突入チームがオーシャンタートルの主電源ラインを切断した影響で、すべてのSTLにおいてリミッターが機能不全に陥っていたのだ。
暗黒将軍シャスターという、四十数年の人生にわたって剣を練り上げてきた魂が放った必殺の意思は、リミッターを通過してガブリエル・ミラーのフラクトライトの中核、自我と生存本能を司るコアを直撃した。
この時シャスターの主観では、自身もまた己の放った渾身の一撃と完全に同化し、皇帝ベクタの内部へと突入していくように感じられていた。
本来の肉体の天命がすでに尽きているのは明らかだった。文字通り、これがシャスターの生涯最後の剣だった。
整合騎士長ベルクーリと、もう一度まみえることが叶わないのだけが心残りだ。しかし、あの男ならば理解するだろう。暗黒将軍が何を望み、何故皇帝を斬ったのか。
暗殺ギルド頭首フ・ザに加えて、十候のうちでもっとも好戦的だったゴブリンの長も両方斃した。暗黒術師総長ディーを逃したのは残念だが、あの深手では即時の再生とはいくまい。この上騎士団の長、そして皇帝までもが死ねば、残る将軍たちも整合騎士団との決戦をためらうに違いない。
願わくば、その先に――リピアの望んだ平和な世界の到来があらんことを。
心意と同化したシャスターは、皇帝ベクタの額を貫いて、その内側に満ちる魂の中核に突入した。
そこを破壊すれば、さしもの暗黒神と言えども、フ・ザらと同じように存在の根幹からの消滅を余儀なくされるはずだ。
声無き雄叫びとともにシャスターの意思は皇帝の魂に衝突し――。
そして、生涯最後の驚愕に見舞われた。
無い。
輝く光の雲のような魂の中核、生命力の真髄が満ちているはずのその場所に、濃密な闇が広がっている。
何故だ。世捨て人フ・ザの魂ですらも、貪欲なまでの生命への執着にぎらぎらと光っていたというのに。
シャスターの心意は、皇帝の内部に無限に広がる”闇”に呑まれ、空しく拡散した。
消える。蒸発していく。
こいつは――この男は――
命を知らないのか。
生命の、魂の、そして愛の輝きを知らぬ者。だから餓えている。だから他者の魂を求める。
この男は、どれほど強力な心意であろうとも、”殺意の剣”では斃せない!
なぜなら、この男の魂は、生きながらにして死んでいるからだ!!
伝えなければ。誰かに。近い、あるいは遠い将来、この化け物と戦うさだめの者に。
誰か――誰かに……。
しかし、そこでシャスターの意識は、皇帝の魂の深淵にかけらも余さず飲み込まれた。
……無念…………。
…………リピア…………。
ふたつの思考がはじけたのを最期に、暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターの全存在はふたつの世界から完全に消滅した。
ガブリエル・ミラーは、あまりにも強烈な魂の輝きが己を貫いた瞬間、恐怖よりも歓喜を感じた。
黒騎士の魂は、数日前に喰らった女暗殺者のそれよりも、一層濃密な感情に満ち満ちていた。あの女への愛――それに、理解しがたいがより広汎な対象への慈しみのようなもの。そしてそれらを動力源とする強烈な殺意。
愛と憎しみ。これ以上美味なものがこの世に存在するだろうか。
この時ガブリエルは、己が生命の危機に晒されたことなどまるで意識していなかった。黒騎士の攻撃によって、三つのユニットが肉片と化して飛び散ったのを見ていてもなお、ガブリエルは自分の安全よりも騎士の魂を喰らうことを望んだのだ。
もしガブリエルが、騎士の攻撃に恐怖し己の生存を望んでいれば、STLを経由したシャスターの殺意はガブリエルの生存本能を破壊し、連鎖的にフラクトライト全体を吹き飛ばしていたはずだ。
しかし、ガブリエル・ミラーは”命を知らない”人間だった。彼にとっては、自分を含むあらゆる生命は、幼いころ大量に殺戮した昆虫と同様の自動機械でしかなかった。その機械の動力源である”魂”、謎めいた輝く雲の秘密を解明することだけがガブリエルの望みだった。
ゆえに、シャスターのフラクトライトが発生させた破壊信号は、ガブリエルのフラクトライトの不活性部分を空しく通過し、何にも衝突することなく消えてしまったのだ。
そのような理屈をガブリエルは知るよしもなかったが、しかし彼は騎士の魂を咀嚼しながら、ふたつのことを記憶にとどめていた。
まず、この世界には、通常のVRMMOゲームのような武器・呪文によるもの以外の攻撃方法が存在すること。
そしてその攻撃方法は、自分には効果がないらしいこと。
先ほどの現象のロジックを、後でクリッターに調査させなくてはな。そう思いながら、ガブリエルはゆっくりと玉座から立ち上がった。
生き残った十候会議の六人は、あるものは壁に背中をもたれさせ、あるものは尻餅をつき、あるものは深手を治療しながら、ただ呆然と皇帝ベクタの姿を見上げた。
全員の心中にあるのは、もう恐怖のみだった。
暗黒将軍シャスターの、恐るべき超攻撃――一瞬にして三人の将を切り刻み、十候のなかでも最大の実力者と目されるディー・アイ・エルの右脚を吹き飛ばした凄まじい技を、皇帝は正面からその身に受けて傷一つ負わなかったのだ。
力あるものが支配する。
皇帝ベクタは、六人の将軍と、背後に控える百人以上の士官たちを束ねても及ばぬほどの力を備えているのはもはや誰の目にも明らかだった。
細波が広がるように全員が深々と膝をつき、皇帝に恭順の意を示した。敬愛する騎士長とその副官を殺された暗黒騎士団ですら、それは例外ではなかった。
その頭上を、変わらずに抑揚のとぼしいベクタの声が滔々と響き渡った。
「……将の失われた軍は、直ちに次点の位にあるものが指揮権を引き継げ。一時間ののちに、予定どおり進軍を開始する」
反逆者が出たことを、怒ったり責めたりする言葉ひとつ無かった。それが、将軍たちの心中にいっそうの恐怖を呼び起こした。
ようやく右脚の傷を止血したディーが、指先まで伸ばした右手を高々と掲げ、叫んだ。
「皇帝陛下、万歳!!」
一瞬の間をおいて――。
万歳、の声が城全体を揺るがすような大音声となって幾度も唱和された。
アリスは、ひとつ丸ごと与えられた野営天幕の内側をぐるりと眺め回し、軽くため息をついた。
簡易ベッドはぱりっと整えられて皺ひとつないし、敷かれた起毛革はまったくの新品で、空気も乾いた日向の匂いしかしない。それらは大いに結構だが、同時にこの天幕がアリスのために急遽空けられたものではない事も明らかだ。つまり、騎士長ベルクーリはアリスの参陣を当然のことのように予期し、騎士用天幕をひとつ余計に設営させていたということになる。
それだけ信頼されていると思えばいいことだが、あの人物を知っていると、むしろ思考の中身まで読まれているのではという気にもなってくる。
いや――さすがにそれはないだろう。なぜなら、さしもの騎士長も、アリスがキリトを連れてくるとまでは予想し得なかったようだから。天幕に備えられた簡易ベッドは一つきりだ。
アリスは黒髪の若者の腰をそっとかかえ、ベッドのほうに誘導すると向きを変えて座らせた。とたん、若者は喉のおくから細い声を漏らしながら、左手を伸ばそうとする。
「はいはい、ちょっと待ってね」
入り口脇に置かれた荷袋に駆け寄ると、アリスは黒白二本の長剣を引っ張り出した。ベッドに戻り、それらを膝に載せてやる。するとキリトは一本だけの腕でぎゅっと剣を抱き、静かになった。
項垂れた黒い頭をゆっくり撫でながら、アリスは軽く唇を噛んで考え込んだ。
エルドリエには、必要があれば背負ってでも、等と言ってしまったが実際にはやはり少々難しい。痩せ細ったキリト一人ならともかく、超重量級の夜空の剣と青薔薇の剣までもとなると流石に動きが制限されてしまう。
雨縁の鞍に乗せっぱなしにしておくことも考えたが、敵にも飛行可能な暗黒騎士が居る以上空中戦となる場面もあろう。
結局、守備軍の後衛、輜重部隊あたりの誰かに託して面倒を見てもらうのがもっとも現実的な案だ。しかし問題は、そうそう都合よく心から信頼できる者が見つかるかどうかだ。
旧知の仲である整合騎士たちはもちろん全員が最前線に出ることとなろうし、一般民の衛士は逆に誰ひとり顔も名前も知らない。と言って、今更エルドリエあたりに適任の者を紹介してくれるよう頼むのもまったく気が進まない。
「キリト……」
アリスは腰をかがめて正面から若者の顔を覗き込み、両手でその頬をはさんだ。
キリトのことをお荷物だなどと思うつもりはまったくない。もし心を取り戻せればその瞬間、この若者は守備軍の誰よりも強力な剣士となるのだから。こうして戦場にまで伴ったのは、意識回復の手段を可能な限り模索するためでもあるのだ。
騎士長ベルクーリは、彼の放った心意をキリトが弾いたと言った。そしてそれは、アリスを守ろうとしてのことだと。
信じていいのだろうか。
出会ったときは執行官と罪人、その次は処刑人と反逆者、そしてカセドラル最上階で最後に言葉を交わした瞬間でさえ、二人の関係はどう贔屓目に見ても”休戦協定中”でしかなかった。
――あの戦いの直後からあなたは心を喪ったままなのに、小父様の並々ならぬ剣気から私を守ろうとしたの?
――あなたはいったい、私のことをどう思っているの?
その問いは、キリトの光のない瞳にぶつかってアリスに跳ね返る。
自分は、いったいこの若者のことをどう思っているのだろう。
カセドラルでのキリトをひと言で表現すれば、憎たらしい、というのが最も適切だろう。あとにもさきにも、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティに向って『バーカ!』などと口走ったのはこの若者だけだ。
しかし、最後の戦いに於いて、最高司祭アドミニストレータに立ち向かったキリトの後姿――。
黒いコートの裾を大きく翻し、左右の手に一本ずつ剣を握ったあの姿を見て、アリスの心は震えた。何て力強く、それでいて突き刺さるほど痛々しいんだろう、と。
あの時の感情が、いまも胸の奥をずきずきと疼かせている。
しかし、その疼きの理由を知るのが怖くて、アリスは心に蓋をし続けてきた。
――だって私は、造られた意識なのだから。本来の”アリス”の体を奪い占有し続けている、戦うための人形にすぎないのだから。私には、感情を持つなどという贅沢は許されていないのだ。
――でも。
――もしかしたら、私が心を抑えつけているから、あなたに声が届かないの?
――もし今、ありったけの”心意”を放てば、あなたも応えてくれる?
アリスは大きく息を吸い、ぐっと止めた。
両手で挟んだ頬が冷たい。いや、掌のほうが熱を持っているのだ。
その頬を、そっと、そっと引き寄せる。自分も頭を僅かに傾けると、髪が流れて頬にかかる。
ごく至近距離から、黒い瞳をじっと覗きこむ。まるで闇夜――でも、かすかに、ささやかに瞬く小さな星が見える気がする。
睫毛を降ろし、瞼の裏に残るその星に向って、ゆっくり顔を近づけていく――。
不意に、ちりりんという軽やかな鈴の音が響き、アリスはびくんと飛び退った。
心臓が激しく鳴り響いている。焦って見回すが、もちろん天幕には誰もいない。ようやく、音の源は、天幕の入り口にノッカーがわりに取り付けられた紐つきの鈴だと悟る。
来客だ。わけもなく咳払いし、髪を背中に払ってから、アリスは足早に天幕を横切った。
どうせエルドリエがまた苦言を呈しにきたのだろう。何を言われようと説得されるつもりはないと、今度こそはっきり告げておかなければ。
二重になっている垂れ幕の、内側の一枚を右手ではねのけてくぐると、アリスは外側の分厚い毛皮も左手で一気に払った。
そして、開きかけた唇をぴたりと止めた。
目の前の来訪者は、まったく予想もしていなかった相手だった。思わずぱちくりと瞬きする。
「あ……あの」
怯えたような、か細い声とともに、来訪者は両手で捧げ持った小さな蓋付き鍋を差し出した。
「お……御夕食をお持ちしました、騎士様」
「あ……そ、そうですか」
アリスはちらりと空を見上げた。確かに、いつの間にか夕暮れの朱は山脈の向こうへと遠ざかろうとしている。
「ありがとう……ご苦労様」
ねぎらいながら鍋を受け取ったアリスは、改めて相手の小柄な姿を、上から下へと眺めた。
ごく若い――十五、六だろうと思われる少女だ。
肩の下までまっすぐ伸びる髪は見事な赤毛だ。大きな瞳も同系の紅葉色。肌の白さと、すっきり通った鼻筋は北方帝国の血を示している。
身につけているのは下級衛士用の簡素な軽装鎧だが、その下の灰色のチュニックとスカートは、どうやら学校の制服らしい。
こんな子供まで戦場に……、と眉を顰めそうになったアリスは、おや、と思った。
少女の顔立ちと制服には、どこか見覚えがある。しかし、管区を持たないカセドラル直属騎士だったアリスが、一般民と接触した機会などほとんど無いはずだ。
と、その時、まるで赤毛の少女の背後に隠れていたかのように更に小柄な少女がもう一人、おずおずという感じで姿を現した。
「あ……あの…………、お、お飲み物です……」
ほとんど黒に近い焦げ茶色の髪の、こちらは更に緊張の極致という感じだ。思わず苦笑しながら、アリスは差し出されたワインの瓶を受け取った。
「そんなに怯えなくても、取って食べたりしないわよ」
そう言いかけた瞬間、ようやくアリスの記憶が蘇った。
この緊張し切った声――この二人は、あの時の……?
「ね……あなたたち、もしかして……セントリア修剣学院の……」
尋ねると、かちこちになった少女二人の頬が一瞬、ほっとしたように緩んだ。しかしすぐにびしっと姿勢を改め、ブーツの踵を打ちつけながら名乗る。
「は、はい! あた……私は、補給大隊所属、ティーゼ・シュトリーネン初等練士です!」
「あの、お、同じく、ロニエ・アラベル初等練士、です!」
SAO4_40_Unicode.txt
反射的に返礼しながら、アリスはやはりそうか、と内心で頷いた。
キリトとユージオを学院から連行したとき、彼らに別れの挨拶をする許可を求めてきたのがこの二人だ。
いくら守備軍が人員不足に窮していようとも、まさか学生の徴用まではしているまい。となると二人は、自ら志願して住み慣れた央都からこんな東の辺境までやってきたのか。
如何にあのキリトと交流があったとは言え、まだ幼さの抜けきらない少女二人がいったい何故そこまで……。
思わずアリスがまじまじと二人を眺めると、その視線を受けて、黒褐色の髪の少女は、再び赤毛の少女の背中に隠れてしまった。ティーゼと名乗った赤毛の子もぎゅうっと身体を縮こまらせ、逃げ場を探すように眼を伏せたが、やがて決死の覚悟とでも言うべき表情を作って口を開いた。
「あっ……あの……き、き、騎士様……た、大変なご無礼であると、その、じゅ、重々承知しておりますがっ……」
これにはアリスも再び苦笑せざるを得ず、それを可能なかぎりの柔らかい微笑みに変えるよう努力しながら言葉を挟んだ。
「だから、あのね、そんなに畏まる必要はぜんぜんないのよ。この野営地では私も、人界を守るために集まった一人の剣士に過ぎないんだから。私のことはアリスと呼んで頂戴、ティーゼさん、それに……ロニエさん」
すると、ティーゼと、その背中からぴょこっと顔を出したロニエの二人は同時に唖然としたように口を開いた。
「……ど、どうしたの?」
「い、いえ……その……。以前、学院でお見かけしたときと、随分……御印象が、ちがって……」
「そう……かしら」
はて、と首をかしげる。自分ではまったく自覚は無いが、ルーリッドで暮らした半年のあいだに、それなりの変化はあったのだろうか。騎士長は、ふっくらしたなどと事実無根の感想を口にしていたが。
いや、確かに、シルカが作ってきてくれる料理があまりに美味しくてつい食べ過ぎてしまったのは否めないが……まさか外見に出るほどの……。
強張りそうになった頬にもういちど笑みを浮かべ、アリスは「それで」と言葉を繋いだ。
「なにか、ご用でもあるの?」
「あ……は、はい」
ほんの少しだけ緊張の色を薄めたティーゼが、一瞬きゅっと唇を噛んでから言った。
「あの……私たち、騎士さ……アリス様が、飛竜でご到着になられた際に、黒髪の……若い男性をお一人伴っておいでだったと聞き及びまして……それで、もしかしたら、そのお方が、私たちの知っている人ではないかと、そう思って……」
「あ、ああ……そうか、そうよね」
右手に小鍋、左手にワインの瓶を握ったまま、アリスはようやく少女たちの来意を悟り、頷いた。
「あなたたち、学院でキリトと親しかったんですものね」
と、アリスが口にした瞬間、二人の顔がまるで瞬時に蕾が花開いたかのようにさあっと輝いた。ロニエにいたっては、茶色の瞳にうっすらと涙まで滲ませている。
「やっぱり……キリト先輩だった……」
か細い声で呟いたロニエの手を握り、ティーゼも期待に満ちた声で叫んだ。
「じゃあ……ユージオ先輩も……!」
その名前を聞いたとたん、アリスは鋭く息を詰め、眼を見張った。
いけない。この二人はもちろん――知らないのだ。カセドラルで繰り広げられた一昼夜の激闘と、その結末を。
絶句したアリスに気付き、二人は不思議そうな表情を作った。アリスは数秒間、ティーゼとロニエの瞳を交互に見つめたあと、ゆっくり眼を伏せた。
今更、ごまかすことはできない。
それに、この二人にはすべてを知る権利がある。恐らく彼女たちは、キリトと、そしてユージオにもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。
意を決して顔を上げると、アリスはゆっくりと口を開いた。
「あなたたちには……辛すぎる現実かもしれない。でも、私は信じます。キリトと、そしてユージオの後輩だったあなたたちなら、かならず受け止められると」
アリスの内心の期待に反して、キリトはティーゼとロニエをその視界にとらえても、一切の反応を見せなかった。
落胆しつつも、ほんの少しだけほっとしている自分に気付き、アリスは天幕の隅で強く両手を握りながらじっと悲壮な光景を見つめつづけた。
ベッドに腰掛け項垂れたままのキリトの前に跪いたロニエは、小さな両手でキリトの左手を包み込んで、頬に涙を伝わらせながら小さく何かを話しかけている。
しかし更に痛々しいのは、敷き革にぺたりとしゃがみこんで、折れた青薔薇の剣を見つめつづけるティーゼだった。紙のように白くなった顔には、ユージオの死を伝えられたときから一切の表情がない。
アリス自身は、ユージオという名の若者とは、直接言葉を交わす機会はほとんど無かった。
カセドラルに連行し地下牢に叩き込むまでと、塔の八十階で彼らを迎撃したときの数分間、あとはもう最上階での対アドミニストレータ戦で共闘しただけだ。
あの騎士長ベルクーリに時穿剣を発動させてなお勝利し、また自らの身体を剣に変じて最高司祭の片腕を斬り飛ばした心意力には心底敬意を覚えるが、ユージオのひととなりに関してはもっぱらルーリッドでシルカから聞いた思い出話に依る部分が大きい。
シルカいわく、ユージオはおとなしく物静かな少年で、アリス――当時のアリス・ツーベルクに引っ張られていろいろな冒険に嫌々付き合わされていたらしい。そんな性格ならば、さぞかしキリトともいい相棒同士だったのだろうと思う。
キリトとユージオは、きっと学院でもあれこれ騒ぎを起こしたに違いない。そんな二人に、この少女たちは魅せられ、大きな影響を受けたのだ。
だから――お願い、受け止めて。キリトとユージオは、とても大切なたくさんのものを守るために戦い、傷つき、散ったのよ。
アリスは半ば祈りながら、二人の、ことにティーゼの様子をじっと見守った。
人界に暮らす人々は、あまりにも巨大な恐怖や悲嘆といった精神的衝撃を受けると、耐え切れずに心を病んでしまう場合も多い。先日の闇の軍勢によるルーリッド侵攻でも、体は無傷なのに臥せりきりになってしまった村人が僅かながら出たようだ。
ティーゼは、たぶん、ユージオを愛していたのだろう。
この若さで、愛する人の死という巨大な衝撃を受け入れるのは、生半なことではあるまい。
アリスの視線の先で、座り込んだティーゼの指先がぴくりと動き、少しずつ青薔薇の剣の刀身に近づき始めた。
緊張しながらその様子を見守る。青薔薇の剣は、半分に折れているとはいえ最上位の神器だ。あの少女に扱えるとは思わないが、しかし絶望もまた巨大な心意を導く。何が起きるかは予測できない。
震えながら伸ばされたティーゼの指が、ついに薄青い刀身に触れた。刃ではなく峰を、そっとなぞっていく――。
と、その瞬間。
灯り取り穴から差し込み天幕を満たす赤い光を押しのけ、折れた刀身がかすかに、しかし確かに青く煌いたのを、アリスは見た。
同時にティーゼがびくんと身体を逸らせ、顔を仰向ける。
何かを感じたらしいロニエも振り向き、友達を見つめた。張り詰めた空気のなか、じわり、とティーゼの睫毛に大きな水滴が浮かび上がり、音も無く零れ落ちた。
「……いま…………」
薄い色の唇から、ひそやかな呟きが流れた。
「……聞こえた……ユージオ……せんぱいの、声……。泣かないで、ティーゼ、って……ぼくは、ずっと、ここにいるから……って……」
零れる涙はみるみるその量を増し、突然ティーゼは剣の上に顔を伏せると、幼い子供のように激しい嗚咽を漏らした。ロニエもまた、キリトの膝に伏せてわあわあと号泣する。
その、言葉も出ないほど痛ましくしかし美しい光景につい目頭を熱くしながらも――。
アリスの心の一部は、そんなことがあるだろうか、と考えを巡らせていた。
剣に心意が残る?
確かに、武装完全支配術の発動中は、武器と主の意思は一体となる。ユージオの場合はそれだけではなく、実際に青薔薇の剣とその身体を融合させ、その最中に命を落としたのだ。
だから、残った剣の欠片に、主の意思が残響のように焼きつく――ということもないではないのかもしれない。
しかし。
いまティーゼは、ユージオが自分に呼びかけた、と確かに言った。であるなら、剣に残った心意は、ユージオが落命したときの木霊ではないということになる。
少女の恋心が聞いた幻なのか? それとも……?
ああ――もどかしい。キリトならば、この現象の秘密を即座に看破してくれるだろうに。この世界の外側、謎の神々が住まう場所から落ちてきたという彼なら。
ぐるぐると渦巻くアリスの思考に、まるで小さな気泡のように、ひとつの言葉が浮かび上がった。
ワールド・エンド・オールター。
果ての祭壇。その場所には、この世界の外側へと続く道があるという。
もしそこにたどり着ければ、あらゆる謎が一瞬で氷解するのだろうか? それどころか――喪われたキリトの心も取り戻せるのだろうか……?
しかし、果ての祭壇は人界の外、東の大門を出て真南に進んだ彼方にあるという。つまり、闇の種族が支配するダークテリトリーのそのまた辺境だ。
そんなところに行こうとするなら、まず東の大門の向こうに布陣する大軍を、防ぐどころか突破しなくてはならない。いや、仮に敵陣を突破できたとしても、大門の守りを空にして南へ向うわけにはいかない。闇の軍勢が、そのままアリスたちを追ってくるとは思えないからだ。
彼らにとっての蜜流るる地である人界から目を逸らさせるためには、どうしても追ってこなくてはならない理由を作ってやる必要がある。だが――ダークテリトリーの民にとっては、”人界の蹂躙”は数百年来の悲願だ。それ以上に魅力的なものなど、あるはずがない……。
やはり、いずれ果ての祭壇を目指すとしても、その前に闇の軍勢を完全に殲滅しなくては。
たどり着いた結論に、アリスは思わず瞑目した。
殲滅、などと……敵の先陣を押し返すことすらおそらく至難のこの状況で。
そっと息を吐いてから、アリスは数秒間の黙考を断ち切り、泣きじゃくる少女二人に歩み寄った。
ソルスの残照はずいぶん前に西の彼方に消え去ったのに、東の大門の向こうに細く見えるダークテリトリーの空には、不吉な血の色がしつこく揺らぎ続けている。
まるでその光景を遮断するかのように、人界守備軍野営地の中央、昼間は飛竜発着場に使われる草地には、白い陣幕が南北方向に張られていた。その手前、高々と翻る整合騎士団旗と四帝国旗の下に、整合騎士約二十名に加えてほぼ同数の衛士の隊長格が集まり、三々五々固まっては深刻な顔を突き合わせている。
その幾つかの小集団が、騎士と衛士の区別なく出来上がっていることに気付き、アリスは少し驚いて近づく脚を止めた。
輝くような銀甲の鎧をまとった整合騎士と、美麗さは劣るが優先度は充分に高そうな黒鋼の鎧を着込んだ衛士長が、双方右手に同じシラル水のグラスを持って熱心な議論を交わしているのだ。耳をそばだてれば、衛士の言葉からは迂遠な敬語のたぐいの一切が省かれているようだ。
「急拵えの寄り合い所帯にしてはなかなかのモンだろう、嬢ちゃん」
突然かたわらで低い声が響き、アリスは慌てて向き直った。
着流しの懐に両手をしまった騎士長ベルクーリは、顔の動きだけで敬礼しようとしたアリスを制した。
「そういうしち面倒くさい儀礼だのは全部ナシにしたのさ。少なくとも、俺ら騎士と衛士長同士ではな。幸い、禁忌目録にも『一般民は騎士サマと話す前には十分間ご機嫌伺いをしなくてはならない』なんて項目は無ェからな」
「は、はぁ……。それは大いに結構なことと思いますが……しかし、それはさておいても……」
言葉を切り、再び視線を臨時の軍議場に向ける。
「整合騎士は全員参加と聞きましたが、見たところ二十名ほどしか来ていないようですが」
「だから、これで全部さ」
「え……ええ!?」
思わず高くなりかけた声を掌で押さえ、アリスはやや渋面になった騎士長を見上げた。
「そんな……ばかな。騎士団には私を含め五十名が存在するはずでは」
それは、アリスに与えられたフィフティという神聖語名が示すとおりだ。
ベルクーリは、そりゃそうなんだが、とため息混じりに答えるとひときわ声を低くした。
「嬢ちゃんも知ってるだろう。元老チュデルキンは、記憶制御に齟齬を来たしそうになった騎士に”再調整”という処理を施していた。奴が死んだときその処理中だった十名は……いまだに眼を醒ましていないんだ」
「…………!」
思わず眼を見張る。そんなアリスから視線を外し、ベルクーリはいっそう苦々しい声で続けた。
「再調整用の術式群を知悉していたのは、高い確率でチュデルキンと最高司祭だけだ。その二人が死んだ今となっては、十名の騎士の処理を中断し覚醒させることは不可能かもしれん。――よって、現在動ける整合騎士は四十名。うち五名はカセドラルと央都の指揮管理のために残し、さらに十五名を果ての山脈全体の警護に当たらせている。差し引き二十……それがこの絶対防衛線につぎ込める上限、というわけだ」
「二十人……ですか」
たったの、と付け加えそうになるのをアリスは唇を噛んでこらえた。
しかも、よくよく確かめればその半数以上が神器を――つまり武装完全支配術を持たない下位騎士だ。近間の斬り合いだけならばゴブリンの百は二百は屠ってみせる猛者たちではあるが、戦況全体を動かすほどの爆発力は期待できない。
思わず押し黙ったアリスに、調子を切り替えたベルクーリの声が掛けられた。
「ときに、あの若者の預け先だがな……なんなら、オレから後衛部隊に……」
「あ……いえ、大丈夫です」
騎士長の、ぎこちない気遣いにかすかに微笑みながら、アリスは首を振った。
「偶然、修剣学院で彼の傍付きをしていたという志願兵が居りましたので……開戦後は彼女達に任せることになりました」
「ほう、そりゃ良かった。……で、どうだ? 過去に交流のあった者と接触して、何か反応はあったか?」
無言でちいさくかぶりを振る。
ベルクーリは短く息を吐き出すと、そうか、と唸った。続けて、いっそう潜められた声で、
「……正直、オレにはあの若者こそが、この戦いの帰趨を左右する最後の一要素に思えてならんのだ……」
アリスははっと視線を上げた。
「嬢ちゃんやユージオ青年の助力はあったにせよ、剣でチュデルキンと最高司祭を斃したというのはとてつもない事だぞ。こと心意の強度だけを比べれば、恐らくオレも及ばないだろう」
「……まさか、そのような……」
キリトの強さに今さら疑義を呈するつもりは毛頭ないが、しかし騎士長ベルクーリの心意は二百年以上の悠久の時間を経て研ぎ上げられたものなのだ。対するにキリトはまだ二十歳になるやならず。むしろ、剣技や体術はともかく意思力だけは騎士長に敵わないと見るのが自然なのではないか。
だが、ベルクーリは確信に満ちた仕草でアリスの言葉を否定した。
「先刻、心意を打ち合わせたとき確かに感じた。この若者は、オレなど問題にならぬほどに膨大な実戦の経験がある、とな」
「実戦……? とは、どういう意味です……?」
「文字通りだ。命のやり取りだよ」
それこそまさか、と言うほかない。
人界に暮らす人間たちは、禁忌目録や各帝国の膨大な法に保護、あるいは束縛され、木剣での試技はすれども真剣勝負の機会など生まれてから死ぬまで一度も無いのだ。
唯一の例外が整合騎士で、果ての山脈を侵そうとする闇の怪物や暗黒騎士と規則の無い戦いをすることはある。しかしそれにしても月に一、二度あるかないかで、しかも整合騎士側が戦力に於いて圧倒的に勝っているので正直なところ命の取り合いとは言い難い。
そう考えれば、人界でもっとも実戦の経験が豊富なのは、騎士団がいまより遥かに小規模な頃から闇の軍勢と戦ってきたベルクーリであるのは間違いない。実際、整合騎士になりたての頃は――信じがたいことではあるが――当時の暗黒騎士に手酷くやられ、命からがら逃げ延びたこともあるらしい。
そのベルクーリよりも、キリトが実戦の回数に於いて勝っている?
仮にそんなことが有り得るとすれば――それは、この世界での経験ではない。
彼のほんとうの故郷であるという”外の世界”。しかし、そこは同時に真の創世神たちが住まう神界でもあるはずだ。なのに、実戦? 命の取り合いを……?
もう何をどう考えていいかわからず、アリスは少し迷ったあと意を決した。
かくなるうえは、ベルクーリに全てを話すしかない。”外の世界”、そしてそこに続く回廊があるという”果ての祭壇”のことを。
「……小父様……実は、私……あの戦いのとき……」
考えかんがえ、そこまで口にしたときだった。
突然、金属質の声が鋭く響いた。
「閣下、時間です」
はっ、と声のしたほうに視線を向ける。
立っていたのは、夜空の下でもひときわ麗々しく光る薄紫色の装甲にくまなく全身を包んだ、一人の整合騎士だった。
その、細身の騎士の顔を隠す鋭角な意匠の銀面を見たとたん、アリスの心中に浮かんだ感慨は――端的にあらわせば、うへえ、というものだった。
アリスにとって、恐らくこの世界でもっともウマの合わぬ人物。騎士団副長にして第二位の整合騎士、ファナティオ・シンセシス・ツーだ。
内心を顔に出さないようけっこうな努力をしながら、アリスは右拳を左胸にあてる騎士の礼をした。
相対するファナティオも、かしゃりと装甲を鳴らして同じ動作を行う。しかし、両脚を少し開いてまっすぐ直立するアリスに対して、ファナティオは片脚に体重をあずけて右腰を吊り上げ、上体を横に湾曲させたなよやかな姿勢を取っている。意識してやっている訳ではないのだろうが、胸にあてた手も無骨な拳ではなく、優美に反らせた五指を折りたたんだ形だ。
この人の、こういう所がどうにも……、と腕を下ろしたアリスは内心でひとりごつ。
鎧と兜、それに口調で厳重に隠しているつもりなのだろうが、だからこそ、ファナティオからは”女性”が大輪の花のように匂い立つのだ。そしてそれは、最年少で整合騎士に任ぜられたアリスにはついぞ会得する機会のなかった”技”でもある。
副騎士長ファナティオは、カセドラル五十階においてキリト及びユージオと闘い、キリトの記憶解放技に直撃されて瀕死の重傷を負った。しかしキリトは、苦労して倒したファナティオに治癒術をほどこし、さらに不思議な術式でどこかに転送してまで救ったのだという話を、アリスはその場に居合わせた下位騎士からの伝聞で知った。
いかにもキリトのやりそうな事だとは思うが――しかしやはり心穏やかではいられない。
だいたいこの人は、百年間ずっと騎士長一筋ですというわりには、自分に心酔している騎士を九人も直属部下にしているのだ。憧れるだけで永遠に手も触れさせられない彼らこそいい面の皮だ。せめて、四六時中銀面をかぶっていないで顔くらい見せてやればいいものを。
と、内心でぶつぶつ言ったその瞬間、ファナティオが両手を兜の側面にかけたのでアリスはぎょっとした。
ぱち、ぱちりと留め金が外され、薄紫に輝く装甲が無造作に引き上げられる。大きく広がった艶やかな黒髪が、夜空に流れて絹のように光った。
ファナティオの素顔を見る機会があったのは、カセドラルの大浴場で偶然行き会ってしまったときだけだった。このような衆人環視の場で副騎士長が面を取るのは記憶にあるかぎり初めてのことだ。
美貌にうっすらと白粉を刷き、唇に艶やかな紅を差したファナティオは、アリスににこりと微笑みかけると言った。
「久しぶりね、アリス。元気そうで嬉しいわ」
「…………」
“ね”? “わ”?
つい数秒間も絶句してしまってから、アリスはようやく挨拶を返した。
「お……お久しぶりです、副長」
「ファナティオでいいわよ。それより、アリス。小耳に挟んだんだけど……あの黒髪の坊やも、一緒に連れてきたそうね?」
何気なく発せられた言葉に、アリスは驚きを脇に押しやって、さっと警戒心を漲らせた。キリトとユージオに倒された整合騎士は多いが、そのなかでももっとも恨みを抱いていそうな者を挙げればこのファナティオだろう。アリスがカセドラルから出奔した半年前、もしファナティオが眠りから醒めていたら処刑論はもっとずっと高まっていたはずだ。
「は……、はい」
短く肯定だけしたアリスに、副騎士長は艶然とした微笑を浮かべたまま頷いてみせた。
「そう。なら、軍議のあとで少しだけ会わせてくれないかしら?」
「え……な、何故です、副、いえファナティオ……殿?」
「そんな顔をしないで。別にいまさら斬ろうなんて思ってないわよ」
微笑みに少しだけ苦笑を混ぜ、ファナティオは肩をすくめた。
「ただ、ひと言だけお礼が言いたいの。あの坊やが助けてくれたお陰で、私は今ここに居られるんだから」
「……でしたら、キリトに言う必要はないと思います。あなたを癒したのは、おそらく先の最高司祭、カーディナルという名のお方ですから。そしてあの方はすでに身罷られました」
どうしても疑わしい顔になりかけるのを苦労して抑えながらアリスがそう言うと、ファナティオは視線をすっと宙に向け、軽くうなずいた。
「ええ……おぼろげに憶えているわ。あのように暖かく、力強い治癒術は初めてだった。でも、私をあの方のところに送ってくれたのはやはり坊やなのだし、それに……もう一つ、別のことでも有難うと言いたいのよ」
「別……?」
「そう。私と戦い、倒してくれたことをね」
……やっぱり斬る気なのでは。
と身構えたアリスに、ファナティオは真面目な顔で、大きくかぶりを振った。
「本心よ。だってあの坊やは、整合騎士として生きたこの百年でたった一人、私を女と知ってなお本気で剣を振るった男なんだもの」
「は……? それは……どういう……」
「私も、昔はこんな分厚い兜を被らずに、あなたのように素顔を晒して戦っていたのよ。でも、ある日気付いてしまったの。模擬戦の相手をする男の整合騎士たち、それどころか命の取り合いをしている最中の暗黒騎士ですら、剣筋にわずかな気後れがあることにね。許せない、と思ったわ。私が女だから、勝てるのに勝たない――なんてことは」
それは――無理もないことだろう。素顔のファナティオから匂い立つこの色香を、無視できる男はそうそういるまい。この世界の男たちにとって、女とは守り愛しむものなのだ。そのように、魂に書き込まれているのである。ダークテリトリーの住民である暗黒騎士も、子を成し育てる以上例外ではあるまい。まるで外見の異なるゴブリンやオークは、もちろんまったく別だろうが。
しかし同じ女騎士であるアリスは、相手の遠慮など一切気にしたことは無かった。敵が気後れしようと全力を振り絞ろうと、自分のほうが遥かに強いという確信があったからだ。
そんなことに拘るのは、やはりあなたがどこまでも”女”である証左なのでは。
とアリスが内心独りごちたのと同時に、ファナティオがまったく同じことを呟いた。
「だから私は顔を隠し声を変え、敵を近間に入れない剣技と術式を身につけた。でも、それは、私もまた自分の性別にとらわれていたってことなのよね。あの坊やはそれを一発で看破したわ。その上で私と全力で斬り結んだ。素晴らしい一瞬だった……詰まらない拘りが全部飛んでいくほど、ね。要は、私が相手に変な遠慮なんかさせないほど強くなれば、それでいい話だったのよ。――その単純な事実に気付かせてくれて、その上私を生かしてくれた坊やに、お礼を言いたいと思うのは不思議ではないでしょう?」
真面目な顔でそう言ってのけたあと、ファナティオは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「それに……やっぱり、少しだけ癪だしね。坊やが私にまるで”女”を感じなかった、っていうのも。だから、私の魅力で坊やが目を醒まさないか、試してみようと思って」
「な……」
何だと。
もしそれでキリトが覚醒したら今までの努力が空しすぎるではないか。そしてキリトの場合、その可能性が皆無だと言い切れない部分がある。
眉間が険しくなるのをもう隠さずに、アリスは尖った声で言い返した。
「お言葉は有り難いのですが、彼はもう休んでおりますし。ファナティオ殿のお気持ちは、私が明日確かに伝えておきますゆえ」
「あら」
笑みを消し、副騎士長もぴくりと切れ長の目尻を動かした。
「坊やに会うのに、あなたの許可が要るの? 私は、あなたが騎士長閣下に面会を求めてきたとき、私情で拒んだことは無いつもりだけど」
「それこそ、私が小父様……騎士長殿と会うのにファナティオ殿の許可は不要でしょう。だいたい、考えてみれば、男の騎士にコテンパンにして欲しかったのなら騎士長殿に頼めばよかったではないですか」
「あら、閣下はいいのよ。世界最強の剣士なんだから、万人に対して手加減して当然だわ。暗黒将軍にすら情けをおかけになったのよ」
「へえ、そうですか? 私との稽古のときは、小父様は汗だらだらになるほど本気でしたけど?」
「……閣下! いまのは本当ですか!?」
「そもそも小父様がこの人を甘やかすから……」
アリスとファナティオは、同時に横に向き直った。
無人であった。
つい数分前までは確かに騎士長ベルクーリが立っていたはずのその場所を、夜風に乗って枯れ草だけがかさかさと通り過ぎていった。
十分ほど遅れて開始された軍議は、進行を務める副騎士長ファナティオ・シンセシス・ツーと、新たに参陣した整合騎士アリス・シンセシス・フィフティの発する巨大な剣気のせいで、異様なほどに緊張した雰囲気のなか始まった。
手短に自己紹介を終えたアリスは、最前列に用意された携行椅子にどすんと腰を下ろした。
「……アリス様」
隣に座るエルドリエがそっと差し出してきたシラル水のグラスを、ひったくるように受け取って、冷えた甘酸っぱい液体をひといきに流し込む。長々と息をついて、どうにか気分を切り替える。
――それにしても。
やはり少ない。神器を装備する上位整合騎士は、よく見知った顔ぶれが騎士長たる”時穿剣”ベルクーリ、”天穿剣”ファナティオ、”星霜鞭”エルドリエ、そして”熾焔弓”のデュソルバート・シンセシス・セブン。加えて、名前程度しか知らない騎士が二名、それにアリスで合計わずか七名だ。
残りは、おそろいの白い鎧を着込んだファナティオ直属の”宣死九剣”と、番号の若い――と言ってもアリスよりは古株だが――四名の下位騎士。これが、この最終防衛線に投入できる整合騎士団の全戦力というわけだ。
対するに、一般民で構成される衛士隊の隊長たちは三十名ほどが列席している。危惧したよりも士気は低くないようだが、しかしやはり、一瞥しただけで整合騎士との剣力の差が見えてしまう。アリス自身は無論のこと、もっとも下位の騎士ですら三十人と立て続けに手合っても勝ち残るだろう。
「――四ヶ月に渡って、あらゆる戦法を検討してきましたが……」
いつの間にか話し始めていたファナティオの声が、アリスの意識を引き戻した。
「結局のところ、確実なのは、敵軍に包囲された時点で我が方の勝ち目は消えるということだけです」
天穿剣の細い鞘を指示棒がわりに、ファナティオは陣幕の手前に設えられた巨大な地図を示した。
「見てのとおり、果ての山脈のこちら側は、一万メル四方に渡って広大な草原と岩場しかありません。ここまで押し込まれたら、あとは十倍の敵軍に包囲殲滅されるのみでしょう。ゆえに、頼みの綱はこの、東の大門から続く幅百メル長さ千メルの峡谷しかありません。ここに縦深陣を敷き、敵軍の突撃をひたすら受け止め、削り切る。これを基本方針とします。これについて、何か意見はありますか」
さっ、と手を挙げたのはエルドリエだった。藤色の巻き毛を揺らして立ち上がった若者は、日ごろの洒脱さを抑えた声を宵闇に響かせた。
「仮に敵軍が、ゴブリンやオークからなる歩兵のみで構成されておれば、五万が十万でも斬り倒せましょう。しかし、それは彼奴らとても承知の上。ダークテリトリーには強力な弩弓を装備するオーガの軍団、さらに危険な暗黒術師団も存在します。歩兵の後背から浴びせられるであろうそれら遠距離攻撃にはいかなる対処を?」
「これは……ある程度危険な賭けですが……」
ファナティオは一瞬唇を止め、視線をエルドリエからちらりとアリスに向けてきた。思わず瞬きをしながら、続く言葉を待つ。
「……峡谷は、昼でも陽光が差さず、また植物がほとんど見当たらない。つまり、空間神聖力が薄いのです。開戦前に、それを根こそぎ消費してしまえば、敵軍は強力な術式を撃てなくなる」
ファナティオの大胆な意見に、騎士と衛士長がこぞってざわめいた。
「無論、それは我が方も同じこと。しかしこちらには、そもそも神聖術師は百名ほどしか居りません。術式の撃ち合いとなれば、神聖力の消費量は敵のほうが遥かに多いはず」
確かに、それはその通りだ。だが――ファナティオの作戦には、問題点が二つある。
絶句したエルドリエにかわって起立したのは、彼の遠距離戦の師、デュソルバートだった。赤銅色の鎧に身を包んだ威丈夫が、錆びた声で問いかける。
「成程、副長殿の慧眼には感服する。しかし、神聖術は攻撃のみに用いられるものではなかろう? 神聖力が枯渇してしまえば、傷ついた者の天命の回復すらできなくなるのではないか?」
「ですから――賭けと申しました。この野営地には、教会の宝物庫から聖具・霊薬のたぐいをありったけ運び込んであります。術式を防御や回復に限定すれば、それらだけを供給源としても二日、いや三日は保つはずです」
これには、先ほどを上回る驚きの声が軍議場に満ちた。神聖教会の宝物庫と言えば、数多のおとぎ話の素材になっているほどの厳封、禁足、絶対不可侵の代名詞だ。宝物が運び込まれこそすれ、持ち出されたのは人界史上初めてのことではなかろうか。
さしもの豪傑騎士も、厳つい顔に驚きの色を浮かべて押し黙った。彼が低く唸りながら着座するのを待って、アリスは意を決し立ち上がった。
「問題は……もうひとつあります、ファナティオ殿」
先刻の一幕のことは意識の外に押しやり、冷静な声で続ける。
「いかに供給が薄いとは言え、峡谷はまったき闇でもなく、はるか虚空でもない。あの空間には、すでに膨大な神聖力が満ちているとおもわれます。一体何者が、開戦前の短時間で、その力を根こそぎ使い尽くせましょう?」
短い静寂。
山脈を貫く谷間の広大さは、建物の一室とは比べ物にならない。そこに満ちる力を完全に枯渇させ得る術式の巨大さは想像を絶する。そのような力の持ち主など、それこそ――すでに亡き最高司祭アドミニストレータ以外ありえないのではないか。
しかし副騎士長ファナティオは、先ほどと同じ意味ありげな視線をもう一度アリスに向け、ゆっくり頷いた。
「居ます。たった一人だけ、それが可能な者が」
まさか。誰が――騎士長ベルクーリか?
しかし、続けて発せられたのは、アリスの思いもよらぬ名前だった。
「あなたです、アリス・シンセシス・フィフティ」
「え……!?」
「自分では気付いていないかもしれませんが……現在のあなたの力は、もう整合騎士をも超えています。今のあなたなら、行使できるはず……天を割り地を裂く、まことの神聖術を」
「それほど強力なのか、上位整合騎士とは?」
岩鱗竜二頭が牽く巨大な御座車に揺られながら、ガブリエルは尋ねた。
絹張りの長椅子でも震動は完全には消せないが、イラク戦争で散々味わったブラッドリー歩兵戦闘車の殺人的乗り心地に比べれば何ほどのこともない。傍らの小テーブルに置かれたワイングラスも、規則正しい波紋を生み出しているだけだ。
ガブリエルの足元で、毛足の長い絨毯にしどけなく寝そべる妙齢の美女は、包帯でぐるぐる巻きの右脚をさすりながら頷いた。
「あたくしの乏しい語彙では、とても連中の極悪さを余さず陛下に伝えられませんわ。そうですね……三百年近い戦いの歴史において、我らが闇の騎士や術師が、整合騎士を討ち取った例はただのひとつも無い、と言えばご理解戴けますかしら? もちろん、その逆は星の数ほどありますのよ」
「フムン……」
口を閉じたガブリエルに代わって、壁際であぐらをかき酒をボトルごと抱えたヴァサゴがいぶかしむ声を出した。
「でもよう、ディーのアネさんよ。その整合……騎士とかいう妙な名前の奴ら、そんなに強ぇならなんで逆にこっちに攻め込んでこなかったんだ?」
暗黒術師長ディー・アイ・エルは、皇帝に対するときよりもやや艶然とした笑みをそちらに向け、人差し指を立てた。
「いいご質問ですわ、ヴァサゴさま。彼奴らは確かに一騎当千の猛者ですが、それでもあくまで一騎に過ぎないのです。広大な空間で万軍に囲まれれば、かすり傷でも積もり積もって天命が尽きることも有り得る。ゆえに連中は卑怯にも、その危険が無い果ての山脈上空から決して出てこないのですわよ」
「へーえ、なるほどねえ」
本気で頭を働かせているのか疑わしくなる、好色な視線をディーの肢体に無遠慮に這わせながらヴァサゴが頷いた。
「アレだな、たとえメタルキングでも、こっちがどくばり装備二十人パーティーなら確実に……」
「は……? めた……?」
益体も無い例えを出すヴァサゴにじろりと一瞥を呉れてから、ガブリエルは軽く咳払いをして言った。
「ともかく、だ。要は、その整合騎士どもを、じゅうぶんに広い戦場に引っ張り出すかあるいは押し込めば力押しで殲滅できる、というわけだな?」
「理屈では、そうですわね。雑兵どもの犠牲は甚大でしょうけどね」
ディーはうふふ、と笑うと絨毯上の銀杯から毒々しい色の果実を一つとり、同じくらい真っ赤な唇で舐めるように含んだ。
言われるまでもなく、歩兵ユニットの損耗などガブリエルにはどうでもいいことだ。それどころか、眼下のディーを含めた全軍と引き換えに敵軍を撃破できるなら何の文句もない。これは、ヴァリアンス部隊で頻繁に行われるウォー・シミュレーションではないのだ。
双方の軍勢が一兵残らず相討ったあと、新たな支配者としてゆうゆうとヒューマン・キングダムに君臨し、全土に最初にして最後の命令を発する。すなわち、『アリスという名の少女を探し、連れてこい』。それで、この奇妙な世界におけるミッションは完了だ。
そう思うと、このエキゾチックな風味だが上等なワインの味わいも惜しくなる。ガブリエルはグラスを取り、大きく呷ると、口全体で愉しんでから嚥下した。
この時、ガブリエル・ミラーの脳裏にある”アリス”の姿は、酷似した名前を持つ彼の最初の獲物、アリシア・クリンガーマンの無垢で華奢な容姿と無意識のうちに融合していた。
ゆえに、ガブリエルはあるひとつの可能性に関する検討を怠ってしまった。
まったく想像もしなかったのだ――追い求める”アリス”が、騎士として敵軍を率いていようなどということは。
御座車を中核に据えた長大な軍列は、ゆっくりと、しかし確実に、西の果てを目指して行進を続けた。血の色の空のかなたに、鋸のように黒く聳える山脈の連なりが徐々にその姿を現しつつあった。
「じゃあ……よろしくお願いするわね、キリトのこと」
アリスは、年若い少女ふたりの顔を順に見つめながら言った。
初等練士、いやすでに一人前の剣士であるティーゼとロニエは、ぴんと背筋を伸ばして力強く頷いた。
「はい、お任せくださいアリス様」
「必ず、私たちが先輩を守りとおしてみせます」
さっ、と敬礼してから、ティーゼが左手を、ロニエが右手を、新造された車椅子の握りにかける。
灰白色に輝く細身の椅子は、物資天幕に余っていた全身鎧をアリスの術式で形状変化させたものだ。ルーリッドで使用していた木製車椅子と同程度の強度を持ち、しかし遥かに軽い。
とは言え、そこに座るキリトがしっかりと抱きかかえた二本の剣の重量まではどうしようもない。アリスはやや危ぶんだが、少女たちはさほど困難な様子も見せず、二人呼吸を合わせて椅子をごろごろと、天幕の敷革の上を一メルほども前進させてみせた。
これなら、たとえ全速撤退を命じられても遅れはするまい。――もっとも、峡谷から撤退を余儀なくされた時点で、守備軍はまるごと包囲殲滅されると決まったようなものなのだが。
本心を言えば、戦況に僅かなりとも危うさが見えた瞬間に、この二人にだけは全力で西に逃げるよう指示したい。だが、それは運命を数ヶ月、いや数週間先延ばしにするだけのことだ。東の大門が陥落した瞬間、ここ以外の山脈を護る十五名の騎士も撤退し、各地の村や街から住民を避難させつつ央都セントリアに最後の防衛線を引く手はずになっている。しかしそれも空しい抵抗というものだろう。最終的には侵略軍に蹂躙され、あの美しい都も、白亜のカセドラルも焼け落ちるしかない。果ての山脈という閉じた壁の内側に逃げ場などないのだ……。
アリスは屈みこみ、同じ高さからキリトの瞳を覗き込んだ。
野営地に到着してからの四日間、最後の望みをかけて、時間を見つけてはキリトに語りかけ、手を触れ、抱きしめてきた。しかし、ついに今日まで、反応らしい反応を引き出すことは出来なかった。
「キリト。……もしかしたら、これが最後のお別れになるかもしれないわ」
ごくごくかすかな囁き声で、アリスは黒髪の青年に語りかけた。
「小父様は、あなたがこの戦の行方を決めるような気がする、と言った。私も……そう思うわ。だって、この守備軍はあなたが造ったようなものですもんね」
実際、キリトとユージオが居なければ、今頃東の大門に布陣していたのは最高司祭アドミニストレータと整合騎士団、そしてあの忌まわしい剣骨兵に変身させられた無数の一般民だったろう。
すさまじい威力を発揮した剣骨兵が一万もいれば、たしかにダークテリトリー軍などものの数ではなかったはずだ。しかしそれは人界の滅亡と同義だ。キリトたちは、ひとつの命とひとつの心を犠牲にその悲劇を防いだ。
だが、このまま今の守備軍が敗北すれば、形は違えど巨大な悲劇が降りかかる。それでは、何のためにあの苦しい戦いがあったのか分からない。
「私も頑張る。天命を一滴残らず燃やし尽くしてみせる。だから……もし私が倒れて、最後の声であなたを呼んだら、きっと立ち上がって、その剣を抜いてね。あなたさえ目覚めれば、敵が何千、何万いようと関係ない。片っ端から斬り倒して、世界を守ってくれる。だって、あなたは……」
――あの最高司祭にすら勝ったんだから。三百年を生きた最強の術者、世の理さえも支配した半神人に。
胸のなかで呟き、アリスは両手を伸ばすと、ぎゅっと強くキリトの痩せ細った身体を抱き締めた。
一瞬とも数分とも思えた抱擁を解き、立ち上がったアリスは、見開いた大きな瞳に様々な感情を揺らして自分を凝視しているロニエに気がついた。なんだろう、と一瞬思ってから、すぐに悟る。
「ロニエさん。あなた……好きなのね、キリトのこと」
微笑みながらそう言うと、焦茶色の髪の少女は左手をさっと口元にあて、頬から耳までを真っ赤に染めた。何度も瞬きしてから視線を伏せ、消え入るような声で呟く。
「い、いえ、そんな……畏れ多い……私なんか、ただの傍付き初等練士ですから……」
「畏れ多くなんかこれっぽっちもないわよ。だって、ロニエさんは爵士家の跡取りなんでしょう? 私なんか辺境のちっちゃい村の生まれだし、キリトは出身地もよくわからない無登録民……」
笑いを含んだ声でそう続けたアリスの言葉を、不意にロニエが激しくかぶりを振って遮った。
「違うんです! 私は……もう……」
長い茶色の睫毛に、大きな水滴を溜めたロニエは、一瞬傍らのティーゼに視線を向けて唇を震わせた。見れば、ティーゼのほうも沈痛な表情を作り、左手でしっかりとロニエの身体を抱いている。
絶句したロニエに代わって、ティーゼが紅葉色の瞳を伏せたまま、掠れた声で話しはじめた。
「アリス様は……キリト先輩とユージオ先輩が犯した禁忌を、ご存知ですよね?」
「え……ええ。学院内での諍いにより……ほかの学生を殺めた、と聞いたわ」
半年前、いまだ疑うことを知らぬ教会の守護者だったアリスのもとに元老院からの捕縛命令が降りてきたときの、小さいとは言えぬ驚きは今も覚えている。一般民がおなじ一般民を殺害したなどという重大な禁忌違反は、史書のなかにすら見出せないものだったからだ。
「では、先輩たちがなぜその禁忌を犯すに到ったか、については……?」
「いえ……そこまで……は……」
首を振りかけたアリスは、不意に耳奥に蘇ったひとつの叫び声に、はっと息を飲んだ。
あれは、キリトとともにカセドラル外壁から放り出され――罪人の助けは要らないと喚くアリスに向って、彼が叫んだ言葉……。
『――禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!』
そうだ、私はこの二人の名をあのとき聞いていた。
上級生、とはキリトたちが斬った学生のことだろう。そして、陵辱――とはつまり――。
目を見開いたアリスに対して、ティーゼはきつく唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。
「あたしたちは……憤りのあまり我をわすれて、上級修剣士に対する逸礼という学院則違反を犯してしまいました。その結果、貴族間賞罰権規定を適用され……」
思い出すのも苦痛なのだろう。ティーゼの声が詰まり、ロニエは俯いたまま低くしゃくりあげた。もうそれ以上言わなくていい、そう思ってアリスは手を挙げて止めようとしたが、ティーゼは目でいいえと言って再び話し始めた。
「私たちは汚され、キリト先輩とユージオ先輩はそんな私たちのために剣を振るいました。私たちがもう少しだけ賢かったら、あの事件は起きなかった。先輩たちが、法を正すために教会と戦い命を落とすこともなかったんです。私たちは……もう二度とすすげない汚れと罪を背負ってしまった。だから……口が裂けても、先輩たちのこと、好きだなんて言えないんです」
そこまでを吐露し終え、ついにティーゼの目にも涙が溢れた。幼い少女たちは互いに抱き合い、その年齢には重過ぎる悔恨と屈辱の嗚咽を低く漏らした。
アリスはきつく奥歯を噛み締め、天幕の梁材を見上げた。
四帝国上級貴族の腐敗ぶりについては知っているつもりだった。飽食と蓄財、そして邪淫。
だが、かつての整合騎士アリスは、それら行状を詳しく知ることで自分さえも汚されるような嫌悪感を覚え、あえて目を逸らしていたのだ。一般民が何をしようと、それが禁忌に触れぬかぎりは関係ない――神界より召喚された、人の子ならぬ己には。そう信じ続けていた。
しかしそれこそが罪だったのだ。キリトが憎んだ、禁忌目録には触れないがそれゆえに巨大な罪。
アリスは大きく息を吸い、吐いた。今の自分に出せる、もっとも毅然とした声で少女たちに語りかける。
「いいえ、違うわ。あなたたちは汚されてなんかいない」
さっ、と顔を上げたのはロニエだった。いつもティーゼの陰にかくれている印象のある少女が、今だけは道場で対峙する剣士のように瞳を燃やして叫んだ。
「アリス様には……貴い整合騎士のアリス様には分かりません! 私たちの体は……あいつらに……何度も、何度も……」
「体はただの容れ物に過ぎない! いえ、それ以下の、私たちの心が作り出すあいまいな境界でしかない! 大事なのは――」
握った右拳で、強く胸の中央を叩く。
「心です。魂だけが唯一確かに存在するものです。いいですか……見ていなさい。これは術式ではありません」
アリスは眼を閉じ、意識を集中した。
一週間前、ルーリッドが襲撃されたおり、アリスは一時的に整合騎士の鎧を創り出し身にまとった。あまりにも強く、烈しく念じればそのようなことが起きるのは、最早事実として感得している。
だが、いまはそれだけでは足りない。自分の生身の肉体をも、思念によって変化させねばならない。
できるはずだ。かつてキリトが見せてくれたではないか。アドミニストレータの前に、二刀を握って立ったキリトは、確かに彼であって彼でない姿に変じていた。
戻るのだ。九年前の自分に。
見知らぬ巨大な塔のなかで記憶を失って目覚めた不安と寂しさを打ち消すために、ひたすら分厚い氷の鎧で心を覆ってしまうまえのアリスに。
私も、あなたたちと同じなのよ、ロニエ、ティーゼ。人の子として生まれ、多くの誤りを犯し、巨大な罪を背負って、今ここに居る。ユージオが人を殺めたのがあなたたちのせいだと言うなら……それ以前に、九年前の私がささやかな禁忌に触れなければ、そもそもユージオたちが央都を目指すことも無かったのだから。
そう――ほんとは、わたしのせいなの。
アリスは目を開けた。
直立しているのに、目の前にキリトの俯けられた顔があった。
見上げると、呆然と自分を見下ろしているティーゼとロニエがいた。
「……ね? 体は、心の従属物なのよ」
自分の唇から流れた声は、驚くほど高く、幼かった。青いドレスの上に重なる白いエプロンをぽんぽんとはたき、絹糸のような金髪をなびかせながらくるりと一回転して、アリスは続けた。
「そして心は誰にも汚されない。私はこの齢のとき、術式で魂を刻まれ、記憶を操作されて整合騎士になったわ。でも、その心がいまの私なの。私はいまの自分が好きよ」
小さな両手を持ち上げ、アリスはロニエとティーゼの手を同時にきゅっと握った。
ぽたり、ぽたりと頬に落ちてきた少女たちの涙が、先ほどとまったく異なる色をしていることを、アリスは幼子の瞳で見てとった。
どどろん。
どどろん。
地面を揺るがす重低音は、ジャイアント族が打ち鳴らす竜革の太鼓だ。
巨大な心臓の鼓動に圧される無数の血球のように、攻撃部隊が最終陣形を展開させていくさまを、最後方の御座車から皇帝ベクタ=ガブリエルは無言で見守った。
先鋒は、ゴブリンの軽装兵とオークの重装兵が計一万。果ての山脈に穿たれた峡谷の幅にぴったり合わせて縦隊を組ませている。隊列の各所には、まるで攻城塔のごときジャイアントの巨体も配置されており、数はおよそ五百と少ないが、歩兵部隊を援護する主力戦車としての活躍が期待できるだろう。
亜人種混成部隊の後ろには、五千の拳闘士団、同じく五千の暗黒騎士団が第二陣として控える。新たに暗黒将軍を襲名した若い騎士は、先代の汚名を雪ぐつもりか先陣を希望したがガブリエルは退けた。騎士ユニットは全体的な士気の低下が予想されたので、その不確定要素を排するためだ。
第三陣は、オーガの弩弓兵七千と、女性ばかりの暗黒術師団三千。これは、歩兵の後ろから峡谷に突入させ、遠隔攻撃によって敵軍を殲滅するのが役目だ。術師総長ディーによれば、たとえ遠距離からでも、敵の主軸――整合騎士の姿さえ視認できれば、火力を一点集中することで斃し得るという。
正直なところガブリエルは、無敵とすら称されるその騎士たちと直接戦闘してみたい、そしてその魂を喰らってみたいという欲望を感じないでもなかった。しかし、何らかの突発的事態によってこのアカウントを喪っては元も子も無いし、アンダーワールド人、つまり人工フラクトライトは後にいくらでも生産できる。いまは”アリス”を押さえ、オーシャンタートルから脱出するのが先決だ。
内部時間にしてすでに八日、現実世界では十五分近くが過ぎ去っている。今後、ヒューマンキングダムを完全支配し、アリス捜索の命令を世界すみずみにまで伝達するのにさらに十日ほどはかかろう。そう考えれば、この戦争は可能な限り速やかに――最長でも丸一日ほどで片付けたい。
「あーあ、結局オレっちは出番なしっスかねえ、兄貴?」
隣で何本目かのワインボトルを抱えたヴァサゴがぼやいた。ちらりと視線を流し、少しばかり辛らつな口調で指摘する。
「見ていたぞ。お前、あのシャスターという騎士がミューテーションしたとき、オレを放って真っ先に逃げたろう」
「うへ、さすがは兄貴。見てますねぇー」
悪びれる様子もなく、ヴァサゴはにやりと笑った。
「いやぁ、あのオッサン本気すぎてちょっと引いちまったんスよ。ドンビキっすよ」
しばし横目で、ヒスパニックの若者の整った顔貌を眺めたあと、ガブリエルは短く問うた。
「ヴァサゴ、なぜこの任務に志願した?」
「へ? アンダーワールドへのダイブっすか? そりゃ勿論面白そうだから……」
「その前だ。オーシャンタートル襲撃任務……いや、違うな。なぜ今の仕事を選んだ? 警備会社の非合法活動部門などと……リスクばかりが大きい職場だろうに。お前の齢なら、ハンスやブリッグのような中東帰りの”戦争の犬”というわけでもあるまい」
ガブリエルにしては長い質問だったが、もちろん、ヴァサゴ・カザルスという人間に心底からの興味を抱いたわけではない。ただ、この若者の軽薄な態度の下に、何かがあるのか、それとも無いのかとふと思っただけだ。
ヴァサゴはひょいと肩をすくめ、同じっすよ、と答えた。
「そっちもやっぱり、面白そうだから……っス。そんだけっすよ、マジで」
「ほう……」
面白いのは何がだ? 銃が撃てること? それとも人を殺せることか?
そこまで聞くか、それとも会話を打ち切るかガブリエルが少し考えたそのとき、階段からこつこつと杖の音が響き、限界まで浅黒い肌を露出した美女――暗黒術師総長ディーが現れた。
恭しく一礼してから、唇をちろりと舐めて報告する。
「陛下、全軍の配置、完了いたしましたわ」
「うむ」
ガブリエルは組んだ脚を解くと玉座から立ち上がり、ぐるりと眼下を眺めた。
前方に展開する主力三万のほかに、主にゴブリンとオークからなる予備兵力一万七千、それに商工ギルドが受け持つ輜重部隊三千が御座車の左右に待機している。
この、総数五万に及ぶ軍隊が、ダークテリトリーに存在する兵力のすべてだ。その数は実に全人口の半分に及び、銃後に残っているのは女子供と老人だけだ。
だから、仮に五万ユニットを全損してなお敵の守りを破れなかったときは、計画の根本的な修正を余儀なくされる。と言うよりも、アリス確保の可能性はほぼ断たれる。
とは言え敵軍は、偵察の竜騎士によれば多くとも五千の規模だという。つまり整合騎士とやらさえ計画どおり排除できれば、敗北は有り得ない。
「……よし、ご苦労。大門の崩壊まではあとどれくらいだ?」
「おおよそ三時間でございます」
「では、一時間後に第一陣を峡谷に進入させろ。大門の手前ぎりぎりまで展開させて、崩壊と同時に一斉突撃。戦線を押し上げられるようなら、即時弓兵と術師を投入して一気に敵を殲滅するのだ」
「はっ。……一時間とかけずに敵将の首級をお持ちして見せますわ。もっとも、黒焦げになってしまうかもしれませんけど」
うふふ、とディーは微笑んでみせた。背後に控える伝令術師たちに早口で指令を伝え、深く一礼して階段を降りていく。
ガブリエルは巨大四輪車の前部に歩み寄ると、まっすぐ正面に屹立する巨大な石門を眺めた。
まだ二マイルほども先にあるはずだが、すでに頭上に圧し掛かってくるかのような存在感を発揮している。あの質量の塊が丸ごと崩壊するさまはさぞかし見ものだろう。
しかし、真の饗宴はそこから始まる。弾けては消える数千の魂は、きっと途方も無く美しい煌きを放つに違いない。オーシャンタートルのアッパーシャフトに立てこもるK組織のスタッフ連中は、自分たちがスケジュールした最大のスペクタクルを大モニタで見物できないことを悔しがっているだろうか。
どどろん。どどろん。
どん、どっ。どん、どっ。
テンポを速めた戦太鼓が、荒野を濃密に覆う餓えと猛りを、いっそう駆り立てていくようだった。
新たに支給された黄金の胸鎧と篭手を、アリスは入念に革帯を締めながら装着した。
“変身”が短時間で解除されてよかった、と考え、少し可笑しくなる。あの姿のまま前線に現れたら、副騎士長たちはさぞかし慌てただろう。
純白の、艶のある革製長スカートの上にも、黄金の小片をいくつも組み合わせた直垂を着ける。仕上げに金木犀の剣を左腰に吊るすと、カセドラル時代以上にきらびやかな騎士装が出来上がり、アリスはわずかに眉を顰めながら姿見を覗き込んだ。
薄暗い物資天幕に、山吹色の光源を積み上げたかのような有様だ。開戦は日没とほぼ同時の予定なので、宵闇にこの姿はさぞ目立つだろう。だがそれでいい。少しでも敵を引き付け、衛士たちやほかの騎士の損耗を軽くするのがアリスの役目だ。
最後に軽く髪を梳き、整えてから、アリスは涼やかに具足を鳴らして天幕を出た。
待ち構えていたように、エルドリエが駆け寄ってきて感嘆の声を漏らす。
「おお……素晴らしい……ソルスの光輝を凝縮したがごとき……まさにこれこそ我が師アリス様……」
「どうせ一時間も戦えば土埃に塗れます」
素っ気無く言葉を遮り、西空を見上げる。
陽光はすでに朱色へと変じつつある。地平線に消え去るまではあと三時間というところか。それと時を同じくして、ついに東の大門の天命が消滅する。三百年の封印が解けるのだ。
やれるだけのことはした。
この五日間、アリスも衛士隊の訓練に合流したが、彼らの練度はたった半年とは思えないほどの段階に到達していると思えた。驚いたのは、すべての者が、人界には存在しなかったはずの連続剣技を身につけていたことだ。
聞けば、副騎士長ファナティオがひそかに磨いた技を皆に特訓したのだという。最長でも五連撃までらしいが、本能のままに振るわれるゴブリンやオークの蛮刀相手には心強い武器となるだろう。
無論、独自の連続技体系を持つ暗黒騎士が出てくれば衛士には荷が重い。更に高速の連撃を持つらしい拳闘士も含めて、そのときは整合騎士が相手をするしかない。
要は、当初押し寄せるであろう亜人たちの大軍勢を最小の損耗でしのぎ切れるかどうかだ。
そして、それは即ち、弩弓と暗黒術の遠距離攻撃を防ぎきれるかどうかでもある。
その成否は、今やアリスひとりの能力にかかっている――。
視線を空から下ろすと、後方の補給部隊が最後の食事を煮炊きする煙が、幾筋も立ち上っているのが見えた。
あの下に、ロニエとティーゼ、そしてキリトがいる。
護る。なんとしても。
「……アリス様、そろそろ……」
エルドリエの声にうなずき、アリスは片足を引いた。
ふと思いつき、ただ一人の弟子にじっと視線を注ぐ。
「な、何か?」
戸惑ったように瞬きする、薄い色の瞳をじっと見つめ、アリスは引き締めていた唇をわずかに緩めた。
「……これまで、よく尽くしてくれましたね、エルドリエ」
「は……な、なんと!?」
唖然と立ち尽くす白銀の騎士の左手に、そっと自分の右手を添え、続ける。
「そなたが傍に居てくれたことは、私にとっても救いでしたよ。最初の師デュソルバート殿に叩頭してまで私の指導を欲したのは……幼かった私を案じたから、そうなのでしょう?」
整合騎士の老化は、基本的に凍結されている。しかし九年前、わずか十一歳にして騎士になったアリスは、天命が充分に増加するまで凍結処理を受けなかった。
今でこそ外見的にはエルドリエとほぼ同年齢だが、彼がアリスに師事した四年前には、さぞかし心細げな少女に見えたことだろう。まさにその年頃のティーゼたちと触れ合った今なら、それがわかる。
「とっ……とんでもない、そのような不遜なことは断じて! 私はただ、アリス様の剣技の見事さに心底敬服したがゆえにっ……」
白皙に血の色をのぼらせて否定するエルドリエの手を一瞬ぎゅっと握り、離して、アリスは今度こそしっかりと微笑んだ。
「そなたが支えてくれたから、私は倒れることなく今この場所まで歩き続けることができました。有難う、エルドリエ」
数瞬絶句した若き騎士の目に、突然、大きな涙の粒がわきあがった。
「…………アリス様……なぜ……できました、などと」
ごく細く、掠れた声がそう問うてくる。
「なぜ、道がこの地で終わってしまうような言い方を……なさるのです。私は……私はまだ、まるで教わり足りませぬ。まだあなたの足元にも達していない。これからも、ずっと、ずっと私を鍛え導いていただかねばなりませぬ……!」
伸ばされた、震える右手が自分に触れる寸前――。
アリスは、打って変わって厳しい声で叫んだ。
「整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス!」
「は……はっ」
ぴたりと手を止め、騎士が直立不動の姿勢を取る。
「師として最後に命じます。……生き抜きなさい。生きて平和の訪れを見届け、そして取り戻しなさい。そなたのまことなる人生と、愛する者を」
カセドラル最上階には、アリス以外のすべての整合騎士の”奪われた記憶”と”愛する者”がいまも封印されている。それらをあるべき場所、かたちに戻すすべはかならずあるはずだ。
直立したまま、滂沱の涙をこぼすエルドリエに強く頷きかけ、アリスはばっと身を翻した。黄金の髪と純白のスカートが、刻一刻色を深める大気を眩く切り裂いた。
まっすぐ目の前に、暗く沈む峡谷と”東の大門”が見える。
これからアリスは、生涯最大最長術式の詠唱に入る。ソルスからの供給が停止した空間神聖力を一滴あまさず凝集し、敵軍に痛撃を加えるために。
もし、わずかにでも意識集中を損なえば、神聖力が暴発しアリスの存在を一片も残さず消し飛ばすだろう。
だが、もう恐怖も心残りもない。整合騎士アリスとして、ベルクーリやエルドリエたちの愛情を受け、またルーリッドのアリスとしても、妹シルカとともに半年も暮らすことができた。
そして何より、ユージオとキリトという奇跡の剣士たちと出会い、戦い、触れ合うことで、人としての感情を――哀しみ、怒り、それに愛を知ったのだ。これ以上何を望もう。
アリスは、音高く装備を鳴らしながら、開戦を待つ守備軍の中央を一歩一歩まっすぐに進んでいった。
SAO4_41_Unicode.txt
三百年の停滞の幕引きであり、同時に剣戟と殺戮の世の幕開けでもあるその現象は、ソルスの朱い輝きが地平に没するのと同時に訪れた。
五千の人界守備軍も、五万の侵略軍も、一様に息を潜めただただ目を見開いた。
創世の時代より地上に屹立しつづけた大門は、無限にも等しかったはずの天命のさいごの一滴が零れ落ちた瞬間、まるで死に抗うように巨獣の雄叫びにも似た地響きを世界中に轟かせた。それは不吉な遠雷となって、西は央都セントリアから、東は帝城オブシディアまでも届き、住民は皆足を止めて空を仰いだ。
数秒後。
二枚の岩板の中央に、天辺から根元まで一直線の亀裂が音高く走った。その内側から白い光がほとばしり、両側に布陣した全兵士は思わず目を瞑った。
亀裂は凄まじい勢いで大門の隅々にまで伸び、それを追って白光も網目のごとく広がった。刻まれた神聖文字が、一瞬炎に包まれて紅く輝き――そして生き物のようにうねって形を変えた。新たに出現した文字列は、”Final Pressure Experiment Stage”というものだったが、その示す意味を理解できたものは戦場にたった二人しか居なかった。
文字が燃え尽きるのとほぼ同時に。
亀裂から天まで届くほどの閃光が立ち上がり、ついに”東の大門”は、上部から崩壊しはじめた。
「うおっ……スゲッ……!」
御座車の手すりから身体を乗り出し、ヴァサゴが興奮した声で叫んだ。
「あーあっ、マジ録画しとくんだったぜ! ハリウッドがものすごいカネ出したろうになあ! つうか、AIだの何だのよりもこの技術を頂くべきっすよ兄貴! VFXスタジオでも作りゃ、あっという間に億万長者だ!」
ガブリエルも、眼前の一大スペクタクルシーンにさすがに目を奪われていたが、ヴァサゴの即物的な喚き声に短く息をつくと、冷静に指摘した。
「録画は出来ん。あれはポリゴンじゃないからな。STLに接続している今しか見られないショウだ」
彼方の大門は、すでに半ばちかくまで、無数の瓦礫となって崩れ落ちつつある。轟音も震動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊たちは皆、地面に墜落する前に光となって宙に溶けていく。あの様子なら、残骸がバリケードとなってしまう気遣いは無さそうだ。
ガブリエルは漆黒の毛皮マントを翻して玉座から身を起こすと、ディーが置いていった大型の髑髏(スカル)に歩み寄った。
脚高の小テーブルに据えられた、艶やかな黒色のそれは、音声伝達能力を持つ神器(アーティファクト)らしい。この親髑髏に向って話せば、たちまち将軍たちに持たせてある子髑髏へと伝わるということだ。ストライカー装甲指揮車のマルチチャンネル通信システムには劣るが、いちいち伝令を走らせるよりは遥かに即時的だ。
髑髏のうつろな眼窩にむかって、ガブリエルは鋼のように引き締まった声を放った。
「貴様らが待ち望んだ”刻”が来た! 殺せるものはすべて殺せ! 奪えるものは余さず奪え! ――蹂躙せよ!!」
軍勢のそこかしこから、大門の崩落音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、かがり火を反射させて血の色に輝く。
右手を高く突き出し、まっすぐ前方に振り下ろしざま、ガブリエルは総司令官としての最初の命令を下した。
「第一陣――突撃開始!!」
侵略軍先陣の主力を構成するゴブリン部隊の右翼をまとめるのは、コソギという名の、山ゴブリン族の新たな長だった。暗黒将軍の叛乱に巻き込まれて死んだ先代の長ハガシの、十七人もいる息子のひとりだ。
ハガシは、歴代の長のなかでも最も残忍で貪欲と称されていた。コソギはその資質を色濃く受け継いだが、それだけではなくゴブリンにあるまじき知性をその醜い外見の下に隠し持っていた。
今年で二十歳になる彼は、もうずいぶん長いこと、なぜゴブリン族が闇の国の五種族のなかでももっとも最下層に位置づけられているのか、と考えてきた。
たしかにゴブリンは、五族にあって最も矮躯であり、力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足るじゅうぶんな頭数があり、事実いにしえの”鉄血の時代”には、オークや黒イウムどもと対等の戦いを繰り広げた。
やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族平等条約が結ばれ、ゴブリンの長も十候会議に席を得た。しかし実情は決して平等などというものではない。山ゴブリンも、平地ゴブリンも、与えられている領土は北方の痩せ細った土地で、子供は常に餓え、年寄りはばたばた死んでいく。
つまりは、他種族の長どもにしてやられたのだ。ゴブリン最大の強みである数を殺ぐため、広大だが地味の乏しい土地にうまいこと封じ込めた。ゆえにゴブリン族は、どれだけ時代が過ぎようとも生きのびることだけに精一杯で、文明を育てることができない。黒イウムのように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのためにまとめて川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるか、承知の上で。
肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳流した蛮刀ではなく、精錬された鋼鉄製の装備を与えることもできる。養成所で剣技と戦術を学ばせ、あるいは黒イウムに独占されている暗黒術すらも習得できるかもしれない。
そうなれば、もうゴブリンを下等種族だなどとは呼ばせない。コソギの父ハガシも、常に黒イウムどもへの妬みと劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭が無かった。この戦で武功を立て、皇帝の覚えを目出度くする程度の知恵しかなかったのだ。
武功など立てられるものか。この全軍の配置を見ればそれが解る。
おそらく、基本的な作戦を進言したのは暗黒術師総長だろう。あの女は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで、”一番槍の栄誉”を押し付けてきたのだ。先陣切って突撃したゴブリンが、伝説の悪魔こと整合騎士にばたばた切り伏せられているところを、安全な後方から暗黒術でまとめて焼き払い、勲功をうまうまと掻っ攫う肚だ。そうはさせるものか。
と言って、もちろん命令に背くわけにはいかない。降臨した皇帝ベクタの力のほどは、ゴブリンの長二人と暗殺ギルドの長を一瞬で絶命させた暗黒将軍の攻撃を受け、毛ほどの傷も負わなかった時点で明らかだ。皇帝は明確な強者であって、強いものには従わなくてはならない。
だが、あの黒イウムの女は違う。いまやコソギも対等な十候なのだ。腹黒い姦計に諾々と従ってやる義理はない。
与えられている命令は、ただ先陣として突撃し、敵軍を殲滅せよというものだ。脚を止めて、後方から術式が降りそそぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。そこに、あの女の裏をかく余地がある。
コソギは、大門が崩壊する直前、腹心の隊長たちにひそかにある指令を下していた。
与えられた黒髑髏がカタカタ顎を鳴らし、皇帝の突撃命令を伝えたとき、彼は革鎧の懐に手をいれ、かねて準備していた小さな球を取り出した。今頃、ほかの隊長も同じことをしているはずだ。
轟音とともに、かつて東の大門だった、最後の岩塊が崩れ落ち、光となって消えた。
眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、たくさんのかがり火と、煌びやかな武器防具の照り返しが見えた。
白イウムの守備部隊だ。
奴らの向こうには、山ゴブリン族に栄光の時代を到来させるに充分な、豊かな土地と無限の資源、それに労働力がたっぷり満ち満ちている。
捨石になどなってたまるものか。その役は、哀れにもふたたび愚かな長を戴いてしまった平地ゴブリン族とオークどもに担ってもらおう。
コソギは、左手の球をしっかり握り締め、右手で鈍く光る鋳鉄のだんびらを突き上げて、金属質の声で叫んだ。
「てめえら、固まって俺についてこい!! ――突撃ぃぃぃぃッ!!」
「第一部隊、抜剣! 戦闘用意!! 術師隊、治癒術詠唱用意!!」
副騎士長ファナティオの鋭利な叫びが、宵闇を切り裂いた。
すかさず、じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱がそれに続く。数を抑えられたかがり火の赤い色が、刃に沿って流れた。
前方からは、津波のような轟きが凄まじい高速で迫る。
無数のゴブリンが発する小刻みな足音。オークのものはそれより少し間が広い。さらに、ジャイアントの大槌を打ちつけるような走行音が不規則に混じり、それら震動に甲高い鬨の声が加わる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。
大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ、三百人の衛士に加えられた心理的重圧は恐るべきものだった。剣を一合も交えぬうちに、隊列が瓦解し散り散りに逃げ惑っても不思議は無かった。すべての衛士にとって、戦争はおろか、命の掛かった実戦すらも初めての経験なのだ。
彼らをその場にとどめ、剣を握らせ続けたのは、防衛線最前列に等間隔に立つ、三人の整合騎士の背中だった。
左翼を受け持つのは、”星霜鞭”エルドリエ。
中央には、指揮官でもある”天穿剣”ファナティオ。
そして右翼を、”熾焔弓”デュソルバートが守る。
闇の底にあってなお眩く煌く全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかと地面を踏みしめ、微動だにせずその時を待った。
騎士たちの心中にも、無論恐れも、怯えもあった。数十年から百年以上もの戦闘経験があると言っても、そのすべては暗黒騎士との一対一の決闘か、せいぜい十、二十の亜人族を相手にしたものでしかないのだ。これほどの圧倒的大軍を眼前にしたことは、第二位のファナティオにも――あるいは後方の第二部隊を指揮する騎士長ベルクーリにすら無かった。
その上、彼らはもう盲目的に従うべき最高司祭アドミニストレータも、教会が象徴していた絶対的正義も失っていた。実際のところ、央都に残った整合騎士の中には、最高司祭の命令なくしては指いっぽん動かせぬと言った者も居たのだ。
この戦場に立つ騎士たちの、最後の拠り所、それは――皮肉にも、かつて”シンセサイズの秘儀”の際に破壊し尽くされたはずの、たった一つの感情だった。
デュソルバート・シンセシス・セブンは、熾焔弓を握る左手の、薬指に嵌まる古ぼけた指輪を右手の指先でそっと撫でた。
最古の整合騎士のひとりである彼は、ほぼ百年という年月を、任ぜられた北方の治安を維持することだけに費やしてきた。
果ての山脈を侵すダークテリトリーの勢力を退け、任地内に発生した大型魔獣を駆除し、まれには禁忌目録を犯した罪人を連行した。それら任務がなぜ与えられているのかを考えることは遠い昔に止めた。己を神界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、地上に暮らす人間たちの営みについて、一抹の興味も抱くことはなかった。
そんなデュソルバートをときおり戸惑わせたのは、目覚めの際に訪れるひとつの夢だった。
艶やかに白い、小さな手。その薬指には、簡素な銀色の指輪が光っている。
手は彼の髪を撫で、頬に触れ、そしてそっと肩を揺する。
囁き声。
起きて、あなた。もう朝よ……。
デュソルバートは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし元老院の耳に入れば、不具合として消去されてしまうと思ったからだ。彼はその夢を失いたくなかった。なぜなら、夢に現れる小さな手に嵌まるのと同じ指輪を、彼も騎士となったその時から自分の指に見出していたからだ。
あれは、神界での記憶なのだろうか。もしこの下界で使命を全うし、天上への帰還が許されれば、再びあの誰かとめぐり合えるのだろうか。デュソルバートは、長い間その疑問を胸に秘め、あるいはただ一つの望みとして心の奥底に仕舞い続けてきたのだ。
しかし――半年前、カセドラルを激震させたあの事件に於いて。
デュソルバートは、反逆者たる二名の若者と戦い、武装完全支配術までも用いながら敗北した。未知の剣技で熾焔弓の炎を打ち破った黒髪の若者は、デュソルバートに向って言った。
整合騎士は、神界から召喚されてなんかいない。地上に暮らすふつうの人間が、記憶を消され騎士に仕立てられたに過ぎない。
完全無謬であるはずの最高司祭の言葉が偽りであるなどとは、とても信じがたいことだった。しかし、あの若者たちは最終的に、アドミニストレータその人に挑み、勝利してしまった。いや、それ以前にデュソルバートには解っていたのだ。彼らの剣閃には、偽りの色はひとすじも混じっていなかったと。
となれば――あの手の持ち主もまた、天上ではなく、この地上に生きた人間であるということになる。
その考えを受け入れたとき、デュソルバートは騎士となって以来はじめてすることをした。銀の指輪を胸に抱き、滂沱の涙とともにむせび泣いたのだ。なぜなら、整合騎士と異なり、人間の天命は長くとも七十年で尽きてしまうから。つまりもう、彼を「あなた」と呼んだ誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。
それでも彼は、騎士長の求めに応じて人界を守るため、この地に赴いた。
あの手の主が、ほんの短い年月であったにせよ、彼と生き、暮らし、目覚めを共にしたこの世界を守るために。
つまり、騎士デュソルバートをいまこの瞬間、闇の大軍勢の前にしっかりと立たせているのは、消し去られたはずのひとつの感情――”愛”の力だった。
そして彼のあずかり知らぬことではあったが、同一線上に立つファナティオ、またエルドリエも、それぞれの愛する者のために戦おうとしていたのだ。
デュソルバートは指輪から右手を離すと、背後に据えられた巨大な矢筒から、鋼矢を四本同時に掴み出した。
それをまとめて熾焔弓につがえる。
長い術式詠唱はもう済ませてあった。エルドリエらは温存するようだが、彼の奥義は混戦のなかでは力を発揮できない。武器の天命の半ばまでは消費する覚悟で、デュソルバートは大きく息を吸い、最後の一句を放った。
「リリース・リコレクション!!」
灼熱。
吹き上がった巨大な火柱が、二百メル先に迫り来る侵略者たちの獣面をあかあかと照らし出した。
水平に引き絞られた四本の矢もまた、純粋な炎と化して紅く輝いた。
「――整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである! 我が前に立つもの悉く骨すら残らず燃え尽きると知れッ!!」
名乗りの韻律は、かつて北方辺境のとある小村から――本人の記憶には残らぬことではあるが――ひとりの少女を連行した際のものとまったく同一だった。しかし十字の鉄面を外した今、声は抑揚豊かに、高らかに響いた。
直後、限界まで張り詰めた弦が解放され――。
ズドオオッ!!
放射状に発射された四筋の火線が、この戦いの幕を開ける最初の攻撃となった。
そして、最初の犠牲者となったのは、新たな長シボリに率いられる平地ゴブリンたちだった。シボリは、山ゴブリンの新族長コソギほどの知恵も企みもなく、ただ腕力のみで長の座に就いたがゆえに、圧倒的破壊力を持つと予想される整合騎士の攻撃に対して一切の策を用意せず、ただ愚直な突撃を命じたのみだった。
火焔弾は、密集して突進するゴブリン軍を正面から貫き、最大の効果を上げた。
具体的には、合計で実に四十二人にのぼるゴブリン歩兵を焼き尽くしたのだ。その周囲の集団は浮き足だち、悲鳴が飛び交ったが、しかしもともと平地ゴブリンの突撃には秩序も隊列も意図すらも存在せず、血に餓えた蛮兵たちは斃れた仲間の死体を踏み潰して疾駆を続けた。
デュソルバートは、物も言わずに再び四本の矢を番え、放った。
今度は拡散させず、四弾をひとつにまとめて巨大な火球を作り出す。
グワアアッ!!
という爆発音とともに、敵の戦列に火柱が屹立し、空中に幾つもの矮躯が舞った。その数は五十を超えていたが、しかし、ゴブリンの突進は止まらない。止められるはずもないのだ、背後からはオーク軍がその巨体を揺らしながら追随してきており、後退などしようものなら圧倒的重量にひき潰されてしまう。
平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの長コソギのように具体的な思索には出来ないまでも、最下層種族として矢面を突撃させられていることへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、ただ、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの白い人間たちへの殺意へと転換された。
長シボリは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った巨大な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。
「てめェら! まずあの弓使いを殺せ! 囲んで刻んで轢き潰せ!!」
殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!
平地ゴブリンたちは一斉に咆哮した。
デュソルバートは、その殺意を一身に受けつつ三度四矢を番え、発射した。またしても五十以上のゴブリンが消し炭へと変わったが、敵部隊の総数はいまだ三千を超える。
彼我の距離が五十メルを切ったところで彼は熾焔弓の炎を収め、通常の射撃へと切り替えた。矢筒から凄まじい速度で鋼矢を掴み出しては目標も定めずに乱射する。
そのデュソルバートの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと進み出た。
「騎士殿を守れ!! 奴等の刃を触れさせるなッ!!」
叫んだのは、いまだ二十代の若い隊長だった。見事な体躯に両手用の長剣を携え、ぐうっと大きな構えを取る。
下がれ、無理をするな、とデュソルバートは言いたかった。武技を究めた彼からすれば、半年の猛訓練を経てもなお、衛士たちの剣は実戦には心許ないものだったからだ。
しかし、彼はぐっと息を溜め、低く叫んだ。
「済まん……左右を頼む」
「お任せあれ!!」
隊長が、ニッ、と太く笑った。
直後――。
殺到してきたゴブリン軍と、迎え撃つ衛士隊の剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。
それより数瞬前。
峡谷の中央では、副騎士長ファナティオが、この世界の常識に照らせば奇妙としか言いようのない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。
片膝立ちで、上体をまっすぐに伸ばしている。肩の高さに持ち上げた右手には、神器”天穿剣”の柄がしっかり握られている。しかし拳の向きはいわゆる逆手で、水平に固定された剣の後端を鎧の肩当てで支えている状態だ。
対して左手は前方にぴんと伸ばされ、掌で天穿剣の切っ先やや下を受け止めている。もしこの光景をガブリエル、あるいはヴァサゴが見れば、まったく同じ感想を抱いたことだろう、つまり――まるでライフルを構える狙撃兵のような。
ある意味ではそのものだとも言える。ファナティオは、殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な狙点を見定めているのだ。デュソルバートの熾焔弓は、矢の放ち方によって効果範囲を拡散させられるが、天穿剣はあくまで極細の光線を一点凝縮で発射することしかできない。ゆえに、膨大な敵軍に無闇と撃ち込んでも効果は薄い。
狙うべきは、敵軍のどこかにいるはずの指揮官、暗黒界十候の誰かだ。
ダークテリトリーの軍勢は、完全な力のヒエラルキーによって統率されている。ゆえに兵士たちは上位者の命令には絶対服従し、どんな状況でも命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が倒されたときに統制が失われるのもまた一瞬だということだ。
……でも、実は私たちも、かつてはそうだった。
ファナティオは、刹那の感慨を抱く。
最高司祭アドミニストレータ斃るる、の報は整合騎士団を瓦解させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立ち直らせたのは、ベルクーリの言葉だった。
――オレたちの使命、存在意義は、最高司祭と元老院の命令に従うことか?
――否。人界を、そこに暮らす人々を護ることだ。
――さらに否。護りたいという意思を、自ら発し、体現することだ。
現実には、すべての騎士がその言を理解し賛同し得たわけではない。それは、この戦場に集った騎士がわずか二十名しか居ないことが示している。
しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を秘めているはずだ。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた三千の衛士たちもまた。そこがダークテリトリー軍とは決定的に違うところだ。
ファナティオは、百年ぶりに晒した素顔をぴたりと愛剣の柄につけ、両の眼にすべての集中力を注ぎ込んだ。
地響きを立てて突進する敵軍は、すでに百メルの距離まで肉薄している。右翼では、デュソルバートが記憶解放技による攻撃を開始したらしく、赤々とした炎と爆発音が立て続けに響きはじめている。
その、夜闇を染めた一瞬の輝きに――。
ファナティオは、ついに探していた目標を捉えた。
両翼のゴブリン軍を追い立てるように、中央を突き進んでくる巨大な影。恐るべき体格を誇るジャイアント族だ。その先頭に立つ、周囲より頭ひとつ抜きん出た姿は、かつて一度だけ目にしたことのある彼らの長・シグロシグに違いない。
巨人族は凄まじく誇り高い、あるいは高慢な連中だ。体の大きさだけを優劣の尺度とする彼らは、暗黒界の実質的支配階級である闇人族をも内心では見下しているらしい。
となれば、戦端が開かれる前に長を一撃で――しかも人族に――倒されれば、その動揺もまた巨大だろう。
ファナティオは大きく息を吸い、溜め、囁いた。
「リリース……リコレクション」
低く震動するような音を立てて、天穿剣の刀身全体がまばゆい白に発光した。
柄と切っ先が作る直線上に、シグロシグの樽のような胸の中央をぴたりと捉え――短く、鋭く。
「貫け――光ッ!」
ズバァァァッ!!
ソルスの力を凝縮した熱線が、戦場を貫いた。
「……はじまった」
整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、くぐもった爆発音を遠く聞きながらぽつりと呟いた。
レンリは、大門防衛の任をみずから志願した、七名の上位騎士のひとりだ。つまり守備軍の全戦力のうち、少なからぬ割合を個人で担う主力中の主力と言っていい。
しかし今彼が膝をかかえてうずくまっているのは、本来しっかと立っているべき、守備軍第二部隊左翼最前列ではなかった。そのはるか後方、遺棄される予定の物資天幕の薄暗い片隅だった。
逃げ出してしまったのだ。
ほんの十分前、夜闇と開戦直前の熱気にまぎれて遁走し、無人の天幕を見つけて潜り込んだあとは、ただひたすら息を殺し耳をそばだてていたのである。
レンリがそのような挙に出てしまった理由は、彼が守備軍に参じた動機とまったく同一のものだった。
失敗作。
最高司祭にその烙印を押され、レンリは七年間も深凍結されていた。その汚名を返上するべくこの地に身を投じたはずなのに、最後の最後で恐怖に耐えることができなかったのだ。
レンリの記憶からは消去されていることだが、彼はかつて、南方帝国はじまって以来の天才剣士と呼ばれた少年だった。弱冠十三歳にして央都セントリアに上り、その翌年には四帝国統一大会で優勝するという快挙を成し遂げて、整合騎士へと取り立てられ――あるいは改造された。
“シンセサイズ”を経て目覚めてからも、彼は剣に凄まじい天分を示し、たちまち上位騎士に任ぜられ最高司祭から最大の賛辞とともに神器を与えられた。
カセドラルに秘蔵される数多の神器の授受に際しては、アドミニストレータ、あるいは騎士本人が生涯のパートナーとなる相手を選ぶわけではない。実際にはその逆、神器が使い手を選ぶのだ。騎士の魂と神器のリソースとの間に発生する共振現象によって。
レンリと彼の神器、双投刃”比翼(ヒヨク)”はたしかに強く共振した。
しかし――ありうべからざることに、彼は一度として発動できなかったのだ。上位騎士の真価たる、武装完全支配術を。
最高司祭の興味が離れるには半年で充分だった。彼のすぐあとに整合騎士となった”フィフティ”の、圧倒的な武才学才がそれを後押しした。
すべてレンリの責に帰すのは酷というものだろう。フィフティ(アリス)の才能は、それをもって最高司祭に整合騎士団の完成を決断せしめ、翌年からの大会優勝者をみな素体として凍結保存させてしまったほどだったのだから。
だが現実として、レンリは失敗作の判断を下され、七年もの長い眠りを強制されることとなった。
褐色の氷へと変ずる瞬間、彼が強く意識していたのは、巨大な欠落感だった。
自分には大切な何かが欠けている……だから、”比翼”は共振すれども解放されなかったのだ、という。
そして七年後、レンリは再び目覚めた。
あたかもカセドラルを激震させた反逆事件の真っ只中だった。常駐する騎士たちが次々と敗北し、切り札たるフィフティまでもが生死不明となるに及んで、元老チュデルキンの判断で再起動させられたのだ。
しかし、レンリは今度も責務を果たせなかった。完全な覚醒へといたる前に、チュデルキンも、最高司祭までもが斃れ、ようやく動けるようになった彼が目にしたのは、混乱の極みにある騎士団の姿だった。
ダークテリトリー全軍の一斉侵攻に立ち向かうという絶望的な任務への参加を、七年ぶりに目にする騎士長ベルクーリは求めていた。
それに応じた騎士たちの――なんと雄々しく輝いていたことか。
彼らと共に行けば、分かるかもしれない。自分にいったい何が欠けているのか。なぜ神器は応えてくれないのか。
完全に自信を喪失していたレンリは、おずおずと手を挙げ、前に進み出た。下位騎士たちのあいだから、冷笑を含んだ視線が浴びせられたのは錯覚ではあるまい。しかしベルクーリは力強くうなずき、レンリの肩を掴み、ただひと言を口にした。頼りにしているぞ、と。
――なのに。
初めての戦場、いやレンリにとっては初めての実戦の重圧は、予想を遥かに超えるものだった。直接視認はできないのに、数百メル前方にひしめく闇の軍勢の殺意が、熱い鉄臭さとなって押し寄せてきて、気付けばレンリは逃げ出してしまっていたのだった。
戻らなければ。立たなければ。いま立ち上がらなければ、ぼくは永遠に失敗作のままだ。
わずかな時間に、何度そう自分を叱咤しただろう。
だが、抱えこんだ両膝から顔すらも上げられないうちに、ついに響き渡った開戦の轟音――。
「はじまって……しまった」
レンリはもう一度呟いた。
両腰に下がる一対の投刃が、彼を責めるようにかすかに哭いた、気がした。
もう戻れない。いまさらどんな顔で、自分を信じてくれた騎士長や衛士たちの前に立てよう。いや――そもそも、ぼくなんか居ても居なくても大差ないんだ。武装完全支配が使えない上位騎士なんて、むしろ邪魔なだけだ。
いっそう深く、両膝のあいだに顔をうずめようとした――その時。
天幕の入り口から、小さな声が届いてきて、レンリはびくっと全身を震わせた。
「ここは……どう?」
まさか探しにきたのか!? とレンリは騎士らしくもなく竦み上がったが、しかし続いて、別の声が聞こえた。どちらも、若い女性らしい。
「うん、ここなら大丈夫そうね。先輩を奥に隠して、私たちは入り口を守りましょう」
ジャイアント族の長シグロシグは、長いあかがね色の顎鬚と細かく編みこんだたてがみ、小山のような体躯、そして数多の傷がきざまれた魁偉な容貌を持つ齢五十七の伝説的闘士だった。
“力で支配する”というダークテリトリー唯一の法を、もっとも純粋に奉じ、実行しているのが彼ら巨人たちだろう。ほんの幼児の頃から、ありとあらゆる種類の力比べ、技比べ、胆比べで無限回の選別にかけられ、暗黒騎士団以上の厳密な序列が決定される。彼らの領地は西方の高原地帯だが、そこに豊富にスパンするはずの巨獣、魔獣のたぐいは常にほぼ枯渇状態にある。巨人たちが、さまざまな通過儀礼のターゲットに指定し、片端から狩り尽くしてしまうからだ。
なぜそこまでして、純粋な強者たらんとするのか。
そうしなければ、フラクトライトが崩壊してしまうのだ。
ダークテリトリーの亜人四種族はすべて、異形の体に人間の思考原体を封じ込めた、ひどく歪な存在だ。ゴブリンたちは、その矮躯から永続的に生じる人間への劣等感を、恨みのエネルギーに転換することで意識崩壊を抑えている。
そしてジャイアントは逆に、人間への強烈なまでの優越感を手に入れることで、”人にして人に非ざる”ゆがみを抑え付けているのだ。
すべての巨人は、少なくとも一対一の戦いでは、人間には絶対に敗れてはならない。それが彼らの精神の拠り所であり、絶対の掟だった。だからこそ過剰なまでのイニシエーションを設定し、種族の総数を削ってまでも、個体の優先度を限界まで引き上げてきたのである。
ゆえに――。
この戦場に召集された五百のジャイアント族戦士は、その寡黙な物腰とは裏腹に、強烈な闘志を腹の底に滾らせていた。いにしえの”鉄血の時代”以降に生まれた世代である彼らにとって、初めての対人間族大規模戦闘という華々しい見せ場なのだ。
長シグロシグに至っては、本気で腹を決めていた。
初回の突進で敵全軍を屠り、戦争を終わらせてやる、と。
どうやら皇帝に主力と位置づけられているらしい暗黒騎士団、暗黒術師団、拳闘士団には、一度の出番も与えない。奴ら抜きで勝利することで、この”十候時代”にあっても、巨人こそがもっとも優越した種族であることを証明するのだ――と。
与えられた伝声髑髏が、突撃命令をカタカタと発したとき、シグロシグは全身に刻まれた古傷がかあっと熱を帯びるのを感じた。それらはすべて、素手で引き裂いてきた無数の大型魔獣の力が乗り移っている証だった。
「踏 み 潰 せ !!」
発した命令はただそれだけだった。
そしてそれで充分だった。周囲の頼もしい勇士たちと同時に、右手の巨大な戦槌を振り上げ、地響きのごとき雄叫びを放ちながらシグロシグは疾駆を開始した。
前方の闇の底には、麦粒のような人間たちの群れが見える。
身長三メル半に達するジャイアントにとっては、ほとんどゴブリンと変わらないひ弱な姿だ。装備する剣など、岩鱗竜の仔の牙にも及ばない。
かたっぱしから叩き潰し、蹴り飛ばし、引き千切る。
シグロシグの魂に刻まれた、人間への優越回路が加熱し、快感のスパークを散らした。四角い顎が歪み、凶暴な笑みが漏れた。
刹那。
異質な、しかしかすかに憶えのある感覚が、彼の背骨をそっと撫でた。
何だこれは。
冷たい。痺れる。氷の針。
昔――とおい、とおい昔、同じ感覚を。”ひよっこ谷”の奥で。はじめての試練。黒嘴鳥の卵を取りに。あのとき感じた――これは――
シグロシグは疾駆しながら目を見開き、まっすぐ前方を注視した。
谷底にひざまずく、小さな小さな人間が見えた。髪が長く、体が細い。女か。きらきらする鎧を着込んでいる。騎士。
果ての山脈の上を飛ぶ銀色の竜騎士を、かつて一度だけ見たことがあった。降りてきたら首級を取ってやるつもりだったが、シグロシグに山を越える意思無しと判断したのか、そのまま飛び去ってしまった。逃げたか、とその時は思った。
だから、あんな奴ら大したことはないはずだ。
なのに――あの女騎士の黒い目――。
まだ百メル近い距離があるのに、シグロシグは跪く騎士から注がれる視線をまざまざと意識した。そこには、本来あるべき畏れも、怯えも、大釜の湯に落とした塩一粒ぶんほども含まれていなかった。
かわりに、獲物を見定める冷徹さだけが存在した。
狩られる。
巨人族一、つまりあらゆる種族のなかで最強の戦士たるこのシグロシグが。
「ヒゴッ…………」
のどの奥から、厳つい容貌にまったくふさわしくない、裏返った悲鳴が漏れた。
両脚が萎えたように力を失い、右手の戦槌が途方もなく重くなった。結果、シグロシグは体勢を崩し、つんのめった。
直後。
ズバァッ!! という、これまで聞いたどんな音にも似ていない唸りとともに、女騎士の腕からまばゆい光の槍が一直線に発射された。それは、シグロシグのすぐ前を走っていたジャイアントの右胸を呆気なく貫通し、しかもそこで止まらなかった。
もしシグロシグが転ばなければ、槍は正確に彼の心臓を吹き飛ばしていただろう。
その代わりに、白い光は巨人の長の立派なたてがみの右半分と、いくつもの玉環を飾った長い耳をまるごと蒸発させた。
さらに、背後に居た腹心ふたりの頭を貫き、致命傷を与えてからようやく小さな光の粒を散らして消滅した。
一瞬で天命を全損させられた三人が、重い地響きとともに立て続けに倒れるさまを、シグロシグはほとんど意識できなかった。自分の頭の右側を焼き焦がされた猛烈な痛みすらも、彼を襲ったひとつの感情の前には小虫に刺されたようなものだった。
それはつまり――恐怖。
シグロシグは情けなく尻餅をついた格好のまま、がくがくと顎を震わせた。
数日前の、前暗黒将軍の謀反騒ぎを目の当たりにしたときですら、彼は驚きこそすれ恐怖とは無縁だった。あの男が殺したのは、所詮は虚弱な暗殺者やらゴブリンどもでしかないのだ。たしかに皇帝の力のほどは認めざるを得なかったが、あれは人間ではなく古の神なのだから問題はない。
なのになぜ、あんなちっぽけな女騎士ひとりに、これほどまでに恐怖させられるのだ。
たかが人間あいてに。このシグロシグが。怯えて。腰を抜かして。
「う……そだ……嘘だ、嘘だ、うぞだッ」
光に焼かれた側から臭い煙を上げる顎鬚を動かし、巨人の長は呻いた。
有り得ない。受け入れられない。そう念じるほどに、視界のあちこちが白く飛び、ちかちかと火花が瞬く。口と舌が、意思を離れて高速で痙攣し、奇妙な音と化した言葉が途切れることなく漏れる。
「うそだうぞだうぞうぞだ、殺す、こ、殺す殺す、うそだ、うぞでぃ、ころでぃる、でぃ、でぃ、ディディディディ」
この瞬間、シグロシグのフラクトライト中にあまりにも強固に築かれた”主体”と、腰を抜かして立てないという”状況”が迂回不可能なコンフリクションを起こし、ライトキューブ内で量子回路の崩壊が発生しはじめた。
巨人の、鋼色をしているはずの瞳が、白眼ともども真っ赤な光を放った。
「ディッ、ディル、ディ――――――――」
周囲で立ち尽くすジャイアントたちが呆然と見守るなか、シグロシグは突然がばっと飛び上がり――。
巨大な戦鎚を、まるで小枝のようにぶんぶんと振り回しながら、凄まじい速度で疾走を再開した。
前方にいた同族たちを左右に跳ね除け、敏捷なゴブリン部隊にすら追いつくと、勢いを緩めずなおも突進する。足元で湿った音と甲高い悲鳴が立て続けに放たれたが、意識崩壊過程にある巨人はもうそれを知覚することはなかった。
ただ、あの女騎士を殺せ、という命令だけが頭のなかで割れ鐘のように鳴り響いた。
結局のところ、平地ゴブリンの長シボリも、ジャイアントの長シグロシグも、整合騎士という存在への評価をまったく誤っていたのだ。
しかし、侵略軍先陣三部隊のひとつを率いる山ゴブリンの長コソギだけは違った。彼は、整合騎士が持つ圧倒的破壊力を、大きな犠牲を払って学んだばかりだった。
果ての山脈北方の、一度は封印された洞窟を掘り返しての人界先行侵入を企てたのはコソギなのだ。彼自身は帝城から動けなかったが、血を分けた兄弟の三人に大規模な手勢を与え、オークの一部をも唆して、他の十候には秘密のうちに作戦を実行させた。
しかし結果は惨憺たるものだった。部隊は全滅、兄弟たちも揃って戦死の報を受け愕然とするコソギに、わずかに生還した兵たちはさらに信じがたいことを口々に告げた。
いわく――二百に上ったゴブリン・オーク連合部隊は、たった一人の騎士に敗北したのだ、と。
騎士が自在に操る無数の小刃が、触れるだけで屈強な戦士たちの首を刎ね、胸を穿ち、悲鳴を上げる暇も与えずに天命を奪い尽くしたのだ――と。
まったく信じられないことだったが、しかしコソギは、多くの同族を失って得た教訓を無駄にするほど愚かではなかった。整合騎士に真っ向正面から挑む愚挙は二度としまい、と彼は決意した。
しかし、山ゴブリンに与えられた役目は、まさにそのものだった。
少なくとも暗黒術師長ディーは、整合騎士の恐怖を熟知していたのだ。だからこそこの作戦を立てた。ゴブリン、オーク、ジャイアントを使い捨てにし、いっときの混戦状態を作り出したところで、整合騎士ともどもまとめて焼き払う、という。
その無慈悲な作戦を皇帝が承認してしまった以上、従わざるを得ない。コソギは三日三晩知恵を絞った。どうすれば愚直な突撃命令を遂行しつつ、前方の整合騎士・後方の暗黒術師という二重の陥穽から逃れられるか。
ようやくひねり出した奇策――それが、隊長たちに配布した、ネズミ色の小球だった。
いち早く侵略軍の先頭を突進したコソギは、たちまち前方に、輝く鎧をまとった長身の騎士の姿を捉えた。
それは、彼の部隊を壊滅させたアリスではなく、その弟子エルドリエだったのだが、無論コソギには区別のしようもない。どちらにせよ、ゴブリンにとっては無慈悲な死をばらまく悪魔であることに違いはなかった。
「よしっ……投げろ!!」
騎士までの距離が五十メルを切った時点で、コソギは次の命令を発した。
同時に、自らの左手に握った小球を強く押しつぶす。
バチッという音が弾け、球に入ったヒビから小さな炎が漏れた。勿論火薬の類ではない。アンダーワールドにその文明レベルのオブジェクトは存在しない。
そして、術式によって生成される熱素でもなかった。球の中央に仕込まれているのは、山ゴブリンの聖地である極北の火山に生息する”燧虫(ヒウチムシ)”という小さな甲虫だ。うっかり潰すと、一瞬ではあるが高温の炎を撒き散らし、手酷い火傷を負わされる。
虫を覆っているのは、これも北方にのみ産するある種のコケを干し、粉にしてから練ったものだった。本来は、狼煙に使用するようデザインされている植物だ。しかしゴブリンたちは、暗殺ギルドと同じくオブジェクト濃縮技術を用いて、効果を数十倍に増強していた。
結果――。
コソギらが一斉に放った小球は、強力なスモーク・グレネードとでも言うべき代物までになっていた。虫の放った火によって着火されたコケ粉は、鼻先も見えなくなるほどの濃密な煙をもうもうと吐き出し、峡谷の北側を完全に覆い尽くした。
いかに夜目の利くゴブリンと言えども、これでは視界は零に等しい。
しかしコソギの策は、煙にまぎれて敵を倒すことではなかった。煙幕に突入する寸前、彼は三つ目の命令を喚いた。
「てめえらぁ、走れェェェェ!!」
言うやいなや、蛮刀を背中に戻し、両手を地面につける。もともと矮躯のゴブリンは、この姿勢を取ると人間の膝上ほどの高さしかない。更に、地面付近は煙が薄く、かすかに敵兵たちの位置が見て取れる。
コソギと三千の山ゴブリンたちは、エルドリエと衛士隊を完全に無視して、四つん這いの姿勢で走り続けた。
皇帝の命令は、ただ敵軍に突撃すること。敵軍のどこを目指して、とは指定されていない。コソギは敵主力、ことに整合騎士とはただすれ違うにとどめ、後方にいるはずの補給部隊を襲う策を立てたのだ。
前線の向こうにもぐりこめば、やがて降り注ぐであろう暗黒術師とオーガ弩弓兵の一斉攻撃は回避できる。それで白イウムどもが全滅すればよし、そうでない場合も、無限に広がる人界の奥深くに逃げ込めばいいだけだ。
こうして、ほぼ同時にひらかれた三つの戦端のうち、北側だけはほぼ血を流さぬまましばし進行することとなった。
そして、コソギにとっては幸運、人間たちにとっては不運なことに――。
エルドリエの背後に展開・待機する守備軍第二部隊左翼の衛士たちは、いつの間にか指揮官たる整合騎士が姿を消していることに、ようやく気付きつつあるところだった。
人界最初の犠牲者は、第一部隊右翼戦線において、デュソルバートのすぐ傍で奮闘していた初老の衛士だった。
ゴブリンが投げた手斧を、盾でぎりぎり弾ききれなかったのだ。
彼は、西方帝国近衛軍で長らく小隊長を勤めた実直な下級貴族だった。剣の腕は確かだったが、天命降下線のかなり先端にあるという事実はいかんともしがたく、首元に食い込んだ粗雑な斧は完全な致命傷を与えた。後方から放たれた修道士隊の治癒術も、そのダメージをカバーすることは出来なかった。
デュソルバートは、咄嗟に弓の乱射を止め、倒れた老人に高位治癒術を施そうとした。しかし衛士は首を振り、激しく吐血しながら叫んだ。
「なりませぬ!! これぞ、この老いぼれの天職であり天命……騎士殿、人の、世を、お任せ……します、ぞ…………」
直後、いくばくかのリソースを空間にほとばしらせながら、老剣士は絶命した。
デュソルバートはぎりりと歯を食いしばり、その命をいちどの火焔矢に変えて、目の前に躍りかかってきたゴブリンを吹き飛ばした。
その後も、ゆっくりと、しかし途切れることなく守備軍の衛士たちは斃れ続けた。その数十倍の亜人たちもまた、無慈悲な突撃命令に諾々と従い、命を散らした。
戦場に放散される、強制中断された天命リソースのほとんどは――。
峡谷のはるか上空。
闇にまぎれてホバリングする一尾の飛竜。
その背中にしっかと立つ、黄金の騎士のもとへと渦巻きながら凝集されていった。
身を隠す暇も、そのための場所も無かった。
レンリは、背中を丸め膝を抱えたおおよそ騎士らしからぬ格好のまま、物資天幕の奥に近づいてくる複数の人影をただ見上げた。
年の頃十五、六とおぼしき少女がふたり。灰色のチュニックとスカートの上から、銀線を編んだ軽そうな防具を身に着けている。腰には、おそろいの細身の直剣。顔に見覚えはなく、また装備の等級からしても、整合騎士ではなく一般民の衛士だろう。
奇妙なのは、片方の少女が押している、金属製の椅子だった。脚のかわりに四つの車輪が取り付けられたそれに、項垂れるように腰掛けている黒髪の若者へとレンリの眼は吸い寄せられた。
二十歳くらいか。恐ろしく痩せているうえに、右腕が肩から欠損している。一見した限りでは、少女らより遥かに弱々しい印象しか受けない。しかし、青年が左腕でしっかりとかき抱いている二本の長剣――納刀されていてなお、鞘を通して圧倒的存在感を放つそれらが、ことによると”比翼”よりも上位の神器であることをレンリは即座に見抜いた。
いったいどういうことだろう。正式な所有権を得ることはもちろん、あのように膝に載せるだけでも、恐ろしく高い優先度が必要となるはずだ。しかし、魂の欠損を如実に示して虚ろに宙を眺める青年には、とてもそのような力があるとは思えない……。
そこまで考えたとき、少女らも暗がりにうずくまるレンリに気付いたらしく、ハッとした表情で脚を止めた。
前に立つ、長い赤毛の少女が、意外なほどの疾さで右手を剣の柄に伸ばす。
抜刀されてしまう前に、レンリは両手を軽く持ち上げ、掠れた声で言った。
「敵じゃないよ。……驚かせて済まない」
卑劣な敵前逃亡の身にしては、案外滑らかに舌が動いた。もうどうなったって知るもんか、という自暴自棄ゆえのことかもしれないが。
「立っていいかな? 手は見せておくから」
「……はい」
警戒の色濃い声で少女が頷くまで待って、レンリはゆっくり腰を上げた。肩をすぼめ、両手を掲げたまま、一歩、二歩前に出ると、天幕入り口からかすかに差し込む篝火の光が最上級の鎧と両腰の神器にまばゆく反射した。少女ふたりが鋭く息を飲み、次いでまっすぐ背筋を伸ばす。剣と車椅子から離れた右手が、左胸の前で礼のかたちを取る。
「き……騎士様! し、失礼致しました!!」
青ざめた顔で謝罪を続けようとする赤毛の少女を、レンリは首を振って制した。
「いや……脅かした僕が悪い。それに、僕はもう……整合騎士じゃぁない……」
後半は、半ば呟き声になってしまったが、少女らはきょとんとした顔で首を傾げた。戸惑うのも無理はない、レンリの背に垂れる豪奢な縁取りつきの白マント、それに胸当ての中央に輝く、十字に円を組み合わせた教会徽章は見違えようのないものだ。
レンリは、降ろした手の指先でその徽をそっと撫で、自虐的な――いっそ、もう墜ちるところまで墜ちてしまえという心境で、呆気なく真実を吐露した。
「持ち場を放り出して、逃げてきたんだよ。もう最前線では戦闘が開始されている。今頃、僕が指揮するはずの部隊は大騒ぎだろう。出なくていい死者だって出てるはずだ。そんな僕が、騎士でなんかあるものか」
唇の端をゆがめて微かに笑いながら、顔を上げた。
少女の大きな紅葉色の瞳に、小さく自分が映っているのが見えた。
額に短く垂れる、灰桃色の髪。丸みを帯びた柔弱な輪郭。そして、剛毅さなど欠片も見出せない、まるで女の子のような薄青の眼――。十五歳の幼さのなかに凍結された、”失敗作”の騎士。
大嫌いな自分の容姿から、素早く眼を逸らす寸前。
赤毛の少女が、何か新たな驚きに打たれたかのように、はっと口元を押さえるのが見えた。
「…………?」
上目づかいに、探るような視線を向けるレンリに、少女は慌てたように首を振った。
「あ……、す、すみません。な、なんでも、ありません……」
俯いてしまった赤毛の少女をかばうように、いままで後ろにいた黒髪の少女が一歩進み出て、細い声で言った。
「申し遅れました……私たちは、補給部隊所属のアラベル練士とシュトリーネン練士、それにこちらがキリト修剣士どのです」
キリト。
その名を聞いて、レンリは鋭く息を吸い込んだ。
知っている。忘れようもない、半年前にセントラル・カセドラルに僅か二人で斬り込んだ反逆者の名前ではないか。レンリが防衛のために再覚醒させられ、しかし持ち前の鈍臭さで戦いそこねた、その当人。
それでは――この青年が、至聖者、最高司祭アドミニストレータを斃したのか。欠損した右腕はその傷痕なのか。
痩せ細り、虚ろな表情を下向けるだけの剣士に、レンリはどうしようもなく気圧されるものを感じて半歩足を引いた。しかし、そんな心情に気付く様子もなく、アラベルという姓らしい小柄な少女は、どこか必死そうな口調で続けた。
「あの……私たち、騎士様の御事情については何を申し上げることもできません。なぜなら、私たちだって、守備軍の一員でありながらこうして前線ではなくはるか後方に身を隠しているのですから……。でも……今は、それが私たちの任務なのです。騎士アリス様から託された、この方を護りぬくこと」
アリス。
シンセシス・フィフティ――あらゆる面でレンリと対照的な、若き天才騎士。いまは最前線に単騎で留まり、乾坤一擲の巨大術式を準備中のはずだ。
一層の心理的圧迫に襲われるレンリを、まるで追い込むように、必死の色を瞳に浮かべたアラベル練士が言葉を連ねた。
「ここでお会いしたのも何かの縁。騎士さま、私たちに手を貸してくださいませんか。正直、私たち二人では、一匹のゴブリンの相手すらも覚束ないのです。なんとしても……なんとしても、私たちはキリト先輩をお護りしなくてはならないのです!」
なんと眩く、なんと強い意思の輝きだろうか。
己の使命をしかと心に刻み、身命を投げ打ってでも遂行しようと決意した人間だけが持つ、貴い光だ。
こんなうら若い一般民の女の子ですら秘めているものを、僕はどこに置き忘れてきてしまったのか。あるいは、整合騎士としてこの人界に落ちてきたその時すでに欠落していたのか。失敗作……。
自分の口から、どこか投げやりな声が流れるのを、レンリは聞いた。
「ここにいれば、大丈夫……だと思うよ。守備軍第二部隊を総指揮するのは騎士長ベルクーリ閣下だし、あの人の護りが抜かれるようなことがあれば、それはもう人界の終わりと同じことだ。どこに逃げても、結末は一緒さ。僕は、すべてが終わるまでここで座ってることにしたんだ。隣にいるって言うなら、邪魔しやしないよ……」
語尾を無音の吐息に溶かし、レンリは再び柱のかげに腰を下ろそうとした。
しかし――まさに、ちょうどその瞬間。
整合騎士エルドリエが護る最前線左翼では、山ゴブリン族長コソギらが投じた煙幕弾が連鎖的に炸裂していた。立ち込めた濃密な煙に乗じて、大量のゴブリンたちが、荒い布目から零れる水のように防衛線をすり抜けはじめた。
彼らの目指す目的が、まさに人界守備軍最後方・補給部隊の殲滅であることに、レンリも、同年の少女ふたりも、気付けようはずもなかった。
ジャイアントの長シグロシグのフラクトライト崩壊は、急速に進行した。
しかし、それは全的なものではなく”主体”の一部を深く冒すものであったがゆえに、存在の完全消滅に至るまでにはしばしの猶予があった。
そしてその現象は、ある副産物を生み出すことになった。
心意である。
副騎士長ファナティオの超攻撃によって惹起・抽出された、”弱い自己”というイメージが一片残らず破壊された結果、シグロシグのフラクトライト中には、これまで数十年間制御されてきた人間への怒りが一気に解き放たれることとなった。
それは、ファナティオへの純粋な殺意となってシグロシグのライトキューブから迸り、メイン・ビジュアライザーを経由して、その先へまでも溢れ出した。
具体的には――。
シグロシグの、赤く輝く双眼に捉えられたファナティオの身体を凍りつかせたのだ。
体高四メル近い巨体を、颶風のような勢いで突進させながら、巨人の長は右腕の大鎚を高々と振り上げた。
なぜ――動けない!!
ファナティオは、言うことを聞かない右脚を叩きつけようとした拳にすらも力が入らないことに激しい驚愕をおぼえた。
自分が、この整合騎士団副長たるファナティオが、たかだか巨人族の長あいてに竦み上がるなどということは有り得ない!
そう胸中で叫ぶものの、体は重く、脚は萎え、跪いた狙撃姿勢から立ち上がることすらできない。
似たような現象が、薄らかな記憶として残っている気はした。
騎士長ベルクーリとの手合いにおいて、どうしても抜きつけられない、右手が動かない、そんな経験だ。しかしその時感じた、重く、稠密で、それでいてどこか柔らかく包み込んでくる気配とはまるで異なる――無数の逆棘が生えた革帯で無慈悲に締め付けられるような痛みが、ファナティオの全身を苛んでいる。
惜しくも狙撃しそこねたシグロシグは、一時倒れこんだようだったが、直後異様な勢いで跳ね上がり、突進を開始した。その距離はもう六十、いや五十メルを切る。
一対一であれば、敵ではない――はずだった。
暗黒界十候のうちで、ファナティオがその力を認めるのは暗黒将軍シャスターひとりだけだ。数年前に手合わせしたときは、三十分にもわたる撃剣のすえに迂闊にも兜を割られ、ファナティオの素顔を見たシャスターが剣を引くという屈辱を舐めさせられた。
しかし、あの時ですら負けたとは思っていない。ベルクーリの厳命により、暗黒騎士との手合いにおいては武装完全支配術の使用を禁じられていたのだから。
そして、ベルクーリも確かに言っていた。こと剣力に於いては、十候にあってシャスターは抜きん出ている、と。ならば、それ以外の者に遅れを取るはずはない。ましてや――睨まれただけで竦み上がるなどと!
しかし、ファナティオの理解を超えた現実が、刻一刻と眼前に迫ってくる。
巨大な鉄鎚が振り下ろされるまで、あと五秒、それ以下か。はやく立ち、迎撃の初動を開始せねば。打ち合いさえすれば、世界有数の神器・天穿剣があのような無骨な金属塊を叩き毀せぬ道理はない。
なのに――体が――指先まもでが。氷のように。
「ニンゲンコロディルディルディ――――――」
野太い、異様な絶叫がシグロシグの喉から迸った。
眼だけでなく、鉄鎚全体までもが、赤黒い光をどろりと放った。
ああ……閣下。
ファナティオは動かない口で小さく呟いた。
下位整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーは、その長い生涯のすべてを、たった一人に捧げて生きてきた。
支配者たる最高司祭ではない。騎士団の長ベルクーリでもない。
副長ファナティオこそがその相手だ。彼女の苛烈なまでの激しさと、その裏に隠された苦悩に、ダキラは強く惹かれた。
下界の基準に従えば、その感情はまさしく恋慕に他ならない。しかし様々な理由によってダキラは完全なまでに己の感情を封じ込め、ファナティオの直属部隊”宣死九剣”の一員として顔と名前すらも棄て去った。直属となれたことだけで、ダキラにとっては望外の幸福だったのだ。
九剣は、決して下位騎士内の精鋭部隊などではない。ファナティオが、単騎で前線に出すのは不安と判断した実力不足の騎士を集め、連携戦法を叩き込むことで生存率を高めようとした、いわば落ちこぼれ部隊というのが正しい。
ゆえに騎士団内部でも少なからず蔑視されており、事実半年前の動乱では、一般民の反逆者ふたりを相手に全員まとめて重傷を負わされるという失態を演じた。だがそのことよりも、ダキラには、主たるファナティオを護りきれなかったことのほうが何倍も辛かった。いっそ、あの時命を落としているべきだったと、カセドラル医療院のベッドで何度も思った。
しかし、傷癒えたダキラたち九剣に、ファナティオは叱責どころか労いの言葉を掛けたのだ。
公の場では一度も外したことのなかった銀面を外し、怜悧な美貌を優しく微笑ませた副騎士長は、順番に九剣の肩を叩きながら言った。
――この私も死に掛けたのだ、諸君らが恥じることなど何もない。それどころか、良く戦ったと思うぞ。あのときの”環刃旋舞”の連携技はこれまでで一番見事だった。
その時、九剣揃いの兜の下で、ダキラは涙を滲ませながら決意した。
次こそ――。
今度こそ、二度とこの方を傷つけさせぬ、と。
“次”はまさに今、この時だった。
指示なくして決して動いてはならぬ、と命令されていたにも関わらず、ファナティオの様子がおかしいと見てとるやダキラは地を蹴り、戦列から単身飛び出していた。
本来の戦闘能力から考えれば、届くはずのない間合いだった。しかしダキラは、その体が光の筋となって霞むほどの速度で疾駆し、ファナティオの直前に割り込むと、巨人の長が振り下ろす鉄鎚を横にした両手用大剣で受けた。
ガガァーン!! という轟雷にも似た衝撃音と、赤に白が混じった閃光が激しく散った。
ダキラの剣は、神器などにはほど遠い、せいぜいが業物という程度のものだ。対して、この時シグロシグの得物は、流れ込んだ”殺”の心意によって恐るべき優先度に高められていた。
わずか半秒ののち、大剣の中央に深い罅割れが走り、そこから幾筋もの光条が伸びた。己の愛剣が砕け散ると同時に、ダキラは柄と峰を離し、頭上に圧し掛かる鉄鎚の縁を両手で支えた。
ごき、めきり、という鈍い音がダキラの身体を通して響いた。
手首から二の腕までの骨が一瞬で圧し折れたのだ。
視界が白く飛ぶほどの激痛。鎧の継ぎ目から噴き出した鮮血が、兜の表面に飛び散った。
「ぐ……うぅ……!!」
すべての歯を食いしばり、漏れそうになる悲鳴を気合に変えて、ダキラは更に落下してくる鉄鎚の中心を兜の額で受けた。
鋼鉄の十字面が呆気なく粉砕され、露出した額、首、さらに背骨と両膝からも嫌な音が聞こえた。痛みは灼熱の炎と化して全身を駆け巡り、視界すべてが赤く染まった。
しかし下位騎士ダキラは倒れなかった。
すぐ後ろには、ファナティオがいまだ立てずにいるのだ。この醜い武器を振り下ろさせるわけにはいかない。
守るんだ。今度こそ。
「い……ぃああああああ!!」
高い雄叫びが唇から迸った。
全身から漏れ出ていく天命が、一瞬の青白い燐光と化してダキラを包んだ。
光は砕けた両腕に集まり、眩く炸裂した。同時に、巨大な鉄鎚は上空に弾き返され、シグロシグの巨体を道連れに数メルも後方へと吹き飛んだ。
重い地響きを聞きながら、ダキラもゆっくりと背中から崩れ落ちた。
「……ダキ!!」
すぐ耳元で、悲鳴のような叫びが放たれた。
ああ……ファナティオ様が、名前を呼んでくれた。
いったい、何年ぶりかしら。
兜を失い、麦わら色の短いおさげ髪と、そばかすの残る頬を露出させたダキラは、主の伸ばした腕の中に倒れこみながらかすかに微笑んだ。
南方の小さな漁村に生まれたダキラは、姓を持たない貧しい漁師の娘として育った。
そんな彼女が、十六の齢に犯した禁忌。それは、一つ年上の、同性の親友に恋してしまったこと。
無論告白などできようはずもない。苦しみのあまり、ダキラは深夜、村の教会の祭壇で懺悔し赦しを乞うた。しかしその祭壇は、セントラル・カセドラルの自動化元老機関と直結しており、禁忌違反者として検出されたダキラは教会へと連行され――すべての記憶を奪われた。
もう名前も思い出せない、ダキラの恋した相手は、少しだけ副騎士長に似た面影を持っていた。
おぼろに霞む視界のなかで、ファナティオの美貌が強く歪み、その長い睫毛から涙が滴るのを、ダキラは穏やかな気持ちで見つめた。
あの副騎士長さまが、自分のために泣いてくださっている――。
これ以上の幸福は考えられなかった。無限にも思えた生の果てに、ついに成すべきことを成し、死すべき時宜を得たのだという充足感だけがあった。
「ダキ……なんで……なぜこんな……!」
悲痛な囁きが耳元で零れた。
ダキラは最後の力で砕けた左手を持ち上げ、指先でファナティオの頬を伝う雫をそっと拭った。
にっこりと微笑み、ダキラは、秘め続けてきたひと言を掠れた声で呟いた。
「ファナティオ……さま……、お慕い……もうして、おりま……す…………」
その瞬間、整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーの天命が完全に尽きた。
騎士団最初の犠牲者は、こうしてその瞼を永遠に閉じた。
私は――私は何をしているのだ!!
ファナティオは、自分よりもさらに小柄な、傷だらけの躯を強くかき抱きながら胸中で絶叫した。
涙に歪む視界には、倒れた巨人の長と、その背後から迫るほかの巨人たちに飛びかかっていく残りの”宣死九剣”の姿が映る。
自分が守るために集めた者たちだ。厳しい言葉しかかけなかったが、皆が愛する弟であり、妹だ。なのに――逆に守られ、あまつさえ命を落とさせてしまうなど――
「……赦さぬ!!」
それは、シグロシグとともに、己にも向けた言葉だった。
これ以上の犠牲者は絶対に、ぜったいに出さない。彼らの誰よりも先に、こんどは私が死ぬ。
その決意は、シグロシグが放射する不正強度の殺意を上回る、”大義”――あるいは”愛”の心意となってファナティオの魂から迸った。
全身を縛っていた氷の棘が消えた。
ダキラの遺骸を横たえ、立ち上がったファナティオの右手に、地面からふわりと浮き上がった天穿剣ががしっと収まった。
前方では、飛びかかった二人の騎士を右腕の一薙ぎで振り払ったシグロシグが立ち上がったところだ。
両眼から屹立する赤い光は、もう爆発寸前の溶鉱炉のごとき眩さに達している。
「ゴロッ……ゴロッ……ゴロオオオオオ!!」
異様な雄叫びは、世界中を震わせるほどの音量だ。
しかしファナティオの心中には、もう一片の怯えも畏れも無かった。
す、と片手上段に構えた天穿剣が――。
ヴォォォン!! という震動とともに白い光をまとった。その眩い輝きは、まっすぐに五メル以上も伸長すると、そこで状態を保った。
シグロシグが、鉄鎚を両手で振りかぶりながらぶわっと高く跳ねた。
一見無造作に、しかし恐るべき速度でまっすぐ振り下ろされた天穿剣が、空中に巨大な光の帯を描いて鉄鎚の打撃面と接し――
ズ、バァッ!!
呆気なく巨大な武器を左右へと分断した。真っ赤に灼けた断面から飛び散る、溶けた金属の雫よりも速く、長大な光の剣はそのまま巨人の長の頭頂に食い込み、勢いを僅かにも衰えさせることなく一気に地面までも斬り下げられた。
世界最大の巨躯を誇る闘士が、空中を飛翔しながら真っ二つに分断される光景に、残りのジャイアント族も、人界の衛士たちも、一様に言葉を失った。
凄まじい衝撃とともに墜落した、かつてシグロシグだったふたつの肉塊の中央で、ファナティオはブンッと小気味よい音を立てて光の刃をふたたび振りかざすと、高らかに叫んだ。
「総員前進!! 敵を殲滅せよ!!」
SAO4_42_Unicode.txt
無尽蔵に湧いて出るとすら思える平地ゴブリン族の波状攻撃に、デュソルバートは焦燥と消耗の色を深めていた。
無論、ゴブリンの兵卒如き何匹連続で相手にしようとも後れを取るものではない。事実彼の視界内には、斬られ、射抜かれ、灼かれた亡骸が山と積み上がっている。
しかし、広く横一線となって押し寄せる敵軍を、独りで同時に迎え撃つのは不可能だ。どうしても大部分は一般民の衛士たちに任さざるを得ない。
個々の練度と装備を比較すれば、ゴブリンよりも衛士のほうがかなり高いだろう。半年間の厳しい訓練によって身に彼らが身につけた”連続剣技”は、ゴブリンが遮二無二振るう蛮刀よりも確実に疾く、鋭い。だが、その実力差は、整合騎士とゴブリン兵の圧倒的乖離と比べればはるかに不確実なものだ。やはり足りない――敵兵が撒き散らす獣の如き殺気と、そして恐るべき多数というふたつの要素をひっくり返すには。
自分の身に備わった、常軌を逸して強大な力を百に分割し、衛士たちに分け与えたい――とデュソルバートは痛切に感じた。そのほうが、この戦場ではどれほど有効に機能するか。
しかし無論、そのような術式は存在しない。
貴重な衛士たちは、ある者は複数のゴブリンに飛びかかられ、ある者は疲労の極に達し、そしてある者は不運にも足を滑らせて、次々と命を落としていった。彼らの悲鳴が戦場に響くたびに、デュソルバートは自らの天命が激しく削られていくような気すらした。
これが、大規模複数戦闘。
これが、戦争というものか。
犠牲者零が当然であり前提条件ですらあった、これまでの闇の勢力との戦いとはまったく異なる。必然的に発生する死者の数を、冷徹に織り込んだうえで展開される醜悪な消耗戦。
この戦場には、誇りも、高潔さも、それどころか”闘い”すらも存在しない。
ここにあるのはただの”殺し合い”だ。
まだか。
まだ後方から部隊交代の命令は出ないのか。
開戦から何分が経過したのかもすでに分からなくなっていた。デュソルバートは闇雲に右手の長剣を斬り払い、少しでも間合いが開くや鋼矢をごっそり掴み出して乱れ撃った。いつしか冷静さも、判断力も失われ、彼は敵兵の一部が奇妙な行動を取り始めているのに気付かなかった。
平地ゴブリンの新族長シボリは、山ゴブリンの長コソギと較べてはるかに愚鈍で、凶暴で、そして残忍だった。
当初シボリは、敵軍を率いるという整合騎士なる存在について、眉唾もののお伽噺に出てくる悪魔くらいにしか認識していなかった。所詮は白イウム一匹、荒地で大型獣を狩るときのように囲んで潰せばそれで終わるとたかをくくっていたのだ。
しかしいざ蓋を開けてみれば、悪魔というだけあって実にタチが悪く、どれだけ手勢を突撃させてもさっぱり近寄れない。大爆発する火矢はもちろん、普通の矢も驚くほど正確かつ強烈に兵たちの脳天や心臓を貫いてくる。
さてどうしたものか。
しばらく考えたあげく、シボリが出した結論は至極単純かつ無慈悲なものだった。
つまり、悪魔の矢が尽きるまで待つことにしたのだ。
――とは言え、無為に突撃させられる兵たちもまた、当然のように『たまったものじゃない』と考えた。彼らの中には、シボリより知恵の回る者もそれなりに居て、抗命とはいかぬまでも出来るかぎりの工夫はすることにした。
斃れた仲間の死骸を両手で掲げ、自分は頭を縮めて、悪魔からつかず離れず矢を射掛けさせはじめたのである。
デュソルバートも、これが開戦直後であれば、そのような単純な策など即座に見抜いたはずだ。しかし、力尽きていく衛士たちの断末魔が彼の冷静さを、本人も気付かぬうちに削り取っていた。さらに夜戦であることも、ゴブリンらを利した。
――おかしい。敵が倒れるのが、やけに遅い。
とデュソルバートが気付いたときには、充分すぎるほど用意させたはずの鋼鉄矢が、あろうことか尽きつつあった。
「よーしよし、やっとこ矢ぁが切れやがったな」
シボリは両肩に担いだ蛮刀の峰で、ごりごり首筋を掻きながらほくそ笑んだ。
部族の兵が、前線に文字通り人垣となって骸を晒している光景など、彼の精神には一抹の圧迫も与えなかった。かつての酸鼻極まる”鉄血の時代”を潜り抜けた先祖たちが残した、”戦争への耐性”ゆえの強靭さだった。
兵は三分の一がとこやられたようだが、まだ二千以上残っている。後方には予備戦力も残っているし、白イウムどもの国を滅ぼしてたっぷりの肉と麦を手に入れれば、部族はいくらでも殖やせるのだ。
しかし広い領土を得るためには、それなりの手柄も立てなければならない。悪魔の首を二、三個取ればよかろう。
「うっしゃ、いくぞテメェら。あの悪魔を囲んで掴んで引き倒せ。首はこのシボリ様が落とす」
周囲を固める、いずれも屈強、粗暴な側近たちに顎で指示し、シボリはうっそりと歩を進めた。
「くっ……不覚……」
デュソルバートは低く呻いた。
ようやく、離れた暗がりでひょこひょこ動いていた敵兵が、死骸の案山子であることに気付いたのだ。
頭や心臓ではなく足元を狙ってそれらを操るゴブリンを仕留め、背後の大矢筒を探った手が、空しくなめし皮の底を擦った。
矢が無くては、熾焔弓もただの長弓と何ら変わらない。熱素と鋼素から生成することは可能だが、それは充分な間合いのある、しかも一対一の闘いでのみ有効な技だ。そもそもこの戦場では、余剰な空間神聖力はほぼすべてが上空の整合騎士アリスに吸収されて、大気はからからに渇いているはずなのだ。
歯噛みしながら熾焔弓の弦を左肩に引っ掛け、デュソルバートは再び腰から剣を抜いた。
まさにその時、前方の薄闇から、足音も重苦しく急接近してくる一際逞しい一団が見えた。
これまで相手にしてきた雑兵とは明らかに出で立ちが異なる。胸から腰を、分厚い板金を連ねた鎧で覆い、恐ろしく長く太い上肢は鋲を打った革帯が固く巻かれている。握っているのは、野牛でもまるごと裁けそうな肉厚の大鉈。
その、隊長格と思しき七匹の後ろに、さらに巨躯の――ほとんどオーガにも近い体格を持つ一匹が控えているのをデュソルバートは認めた。
鋳物ではなく鍛鉄の鎧や、両手の大段平、頭に揺れる極彩色の飾り羽を見るまでもなく、それがこの一軍の指揮官であることは即座に知れた。
突き出た額と、ひしゃげた鼻梁の奥に赤く輝くゴブリンの長の両眼と、デュソルバートの鋼色の双眸が見合わされた瞬間、周囲の空間がぎしりと密度を増した。絶え間なく撃ち合わされていた剣と蛮刀が、徐々にその音を間遠にしていき、やがて途絶えた。
衛士たちも、ゴブリンたちも無言で間合いを取り、固唾を呑んで双方の将の対峙を見守った。
デュソルバートは、駆け寄ってこようとする数名の衛士らを左手で制した。右手の剣を油断なく構えながら、低く錆びた、しかしよく通る声で問う。
「貴様が暗黒界十候の一……ゴブリンの長か」
「おうよ」
巨躯の二丁段平が、ざくっと片足を鳴らして立ち止まり、黄色い牙を剥き出して応えた。
「平地ゴブリン族長、シボリ様だ」
デュソルバートは、荒い息を懸命に静めようとしながら、敵将を真正面から睨み付けた。
こいつだ……こいつを倒せば、敵軍はいっときにせよ瓦解する。その機を逃さず戦線を押し込めば、先陣の役目は果たしおおせる。
たとえ、神器が使えなくとも。
たとえ十候を含む八対一でも、かくなるうえは必勝あるのみ。整合騎士は一騎当千――ここでその真なるを顕さずして如何せん!
「吾は整合騎士、デュソルバ……」
高らかに名乗りかけた声を、野卑な叫びが断ち切った。
「おおっと、獲物の名前なんざ興味ねえ! おめぇは肉だ、俺様が取る首級にくっついた邪魔っけな肉だ!! おら……てめぇら、かかれ!!」
ウ――――ラアアアアアッ!!
凶暴な鬨の声を唱和し、七匹の精鋭ゴブリンが一斉に襲い掛かってくるのを、デュソルバートはすうっと息を吸いながら見つめた。
剣士の誇りを持たぬ奴ばらならば、あのまま”戦争”をしていればよかったものを――このような”決闘”の真似事をしようなどと、
「笑止!!」
あらゆる整合騎士は、鞭使い、槍使い、そして弓使いである以前に剣士である。
デュソルバートが右手の長剣を大上段に構え、一気に振り下ろすその挙動を、しかと視認できた者はその場には一人も居なかった。
仄白い光芒を引く無音の斬撃が完了した数瞬あとに、ぴきん、と微かな音が響き、先頭のゴブリンが頭上に掲げていた蛮刀が真っ二つに分断された。
ぶしゃっ!!
直後、そのゴブリンの背中に赤い筋が出現し、そこから大量の鮮血が迸った。
一匹目が倒れるより、いや己の死に気付くよりも疾く、デュソルバートは次撃を繰り出した。
ファナティオや、かつて戦った反逆者たちが操ったような連続剣技ではない。あくまで伝統的な、構え・斬撃・構えを繰り返す古い流派だ。しかしその技は、無限にも等しい年月の間に磨かれ、練られ、神速の域にまで達していた。これに追随できるのは、一握りの暗黒騎士だけだろう。
事実、ほとんど同時に左側から斬りかかったはずの二匹目も、その獲物をようやく振り下ろしはじめたあたりで板金鎧ごと心臓を断ち割られ絶命した。
圧倒的、としか言えない実力差だ。
しかし、精鋭ゴブリンたちは臆するということを知らなかった。長シボリもまた彼らにとっては恐るべき上位者であり、その命令に抗うという選択肢は存在しないのである。
同族が撒き散らす血煙を浴びながら、デュソルバートの真横に回りこんだ二匹が左右から同時に襲い掛かった。
しかし、歴戦の騎士はいささかも慌てることなく、まず左のゴブリンを真下から一直線に斬り上げ、弦月の弧をなぞるような軌道で滑らかに背後へと撃ち降ろした。右の敵は、逆に額から腹までをすぱっと裂かれる。刹那の一挙動で前後の敵を両断する、まさに神業だ。
残り三、いや将を入れて四。
同時に来るか、それとも連続か。
赤黒い血飛沫を宙に引きながら、デュソルバートは次の構えに入った。
視界左、五匹目が愚直に斬りかかってくる。他方向に刃の光は無い。
「ぬん!」
短い気合とともに、大きく引いた剣を袈裟懸けに払い下ろす。
銀光の弧を描き、剣尖が敵の左肩へ――。
そこで、デュソルバートは信じがたいものを見た。
彼の斬撃とまったく同時に、敵ゴブリンの右肩ごしに出現した蛮刀が、まっすぐ振り下ろされてくる!
その刃は、いまだ息のある仲間の肩から胸を断ち割りつつ、近接するデュソルバートの首筋へと。
回避も、受けも不可能。
咄嗟に判断し、掲げた左腕に、がつっと分厚い大鉈が食い込んだ。
痺れるような衝撃。手甲が砕け、肉が裂かれ、刃が骨にまでも届く。火花のような激痛。
「く……おおッ!!」
驚愕を気合で塗りつぶし、デュソルバートは強引に敵刃を左へ受け流した。ごっき、と鈍い音が響き、左腕の骨が完全に砕かれたことを告げた。
たかが――片腕!!
全精神力を振り絞って、斬撃途中の剣を止めたデュソルバートは、それをそのまままっすぐ突き込んだ。捨石となった五匹目の身体を貫通した剣が、その向こうで仲間ごとデュソルバートを攻撃した六匹目の身体を捉えた。
しかし、手応えが浅い。
早く剣を抜き、距離を取り、次撃の構えに繋げねば。
いつしか額に汗を浮かべながら、デュソルバートは一気に剣を引き戻した。
絶息し、ぐらりと倒れるゴブリンの体の向こうに見えたのは――。
武器を捨て、地を這うように両腕を広げて飛びかかってくる、残る二匹の姿だった。
そして、そのような、まるで土下座するがごとき体勢にある敵を攻撃し得る型は、身につけた流派には存在しなかった。
一瞬の戸惑いは、充分すぎるほど致命的だった。
がっ、がしっ! と両脚が同時に敵に抱え込まれた。凄まじい膂力に、一秒と踏み止まれずデュソルバートは地に引き倒された。
首をもたげ、見開いた両眼の先に、これ以上はないほどの残忍な喜悦を浮かべ、両手の大段平を振りかざし飛びかかってくる敵将シボリの巨体が見えた。
まさか――こんな――ところで。
整合騎士が。このデュソルバートが。有り得ない――。
“有り得ない”。
その思考が、この世界に生きる者にとってとてつもなく危険なものであることを彼が知りようはずもなかった。瞬時に凍りついた意識が、デュソルバートの動きを完全に封じた。
金縛り状態に陥り、ただただ迫り来る死の刃を見つめることしかできない騎士の耳に――。
響いた、雄々しい叫び。
「騎士どのぉぉぉぉっ!!」
敵将に向って右手から突っ込んでいくのは、あの偉躯の衛士長だった。名前すらまだ聞いていない若者は、両手に握った大剣を振りかざし、渾身の、正統的な、それゆえにあからさまな大技を放とうとした。
対して、シボリは小五月蝿そうな渋面を作り、無造作に左手の段平を斬り払った。
ガギン!!
鈍く、けたたましい金属音が響いた。
シボリとほぼ同等の体格を持つ衛士長が、まるで紙人形のように吹き飛ばされ、地面に激突し、二転、三転した。技術、速度、装備の差をいとも容易く覆す、圧倒的な膂力だ。
赤くく光る獣の眼が、すうっと細められた。残忍な喜悦を振りまきながら、空中でひょいっと段平を逆手に持ち替え、いまだ立てない衛士長に止めを刺そうと――。
だめだ。
これ以上の犠牲は、
容認できない!!
その一瞬の思考が、デュソルバートの硬直した魂を、灼けた鉄棒のようにまっすぐ貫いた。
両足を拘束するゴブリンを振りほどき、立ち上がり、移動する時間はもうない。右手の剣を投げつける、いやそれも結果を数秒遅らせるだけだ。
どうすれば、と考えるよりも速く、右手と左手がほとんど自動的に閃き――彼は、百年の生ではじめて行うことを、これまで考えすらもしなかったことをした。
砕けた左手で水平に構えた熾焔弓に、右手の剣をつがえて、強く引き絞ったのだ。
まるで、大地に繋がれた縄を引くような、凄まじい手ごたえ。意識を根こそぎ吹き消すほどの激痛。
しかしデュソルバートは、割れ砕けよと奥歯を食いしばり、一気に発射態勢を取ると、叫んだ。
「焔よ!!!ッ」
ゴアアアッ!!
吹き上がった火柱の凄まじさは、かつて発動した全ての記憶解放術をはるかに凌駕していた。
当然だろう、つがえられた長剣は、神器と呼ばれてもおかしくない古の銘品なのだ。量産される鋼矢とは、けた違いの優先度を持つ。その内包する神聖力を、すべて火焔へと変えたのである。
炎熱に耐性のあるはずの、精銅の全身鎧がたちまち赤熱し、まばゆく輝いた。
脚に取り付く二匹のゴブリンが、悲鳴を上げる暇も与えられずに口から炎を吹き出して燃え始めた。
いぶかしそうに振り向いたシボリが、両眼を丸く剥き出し、右手の段平を投げつけるべく振り上げた。
しかしそれより速く――。
「――灼き尽くせッ!!」
ボアウッ、という轟音とともに、炎と化した長剣の鍔が左右に伸び、翼のように羽ばたいた。
撃ち出された巨大な火焔は、まるで熾焔弓のかつての姿――南方の火山に棲んでいたという不死鳥が甦ったかの如く、両翼を広げ、尾をたなびかせて、一直線にゴブリンの将を呑み込んだ。
火焔を防ごうとしたのか、体の前で十字に組み合わされた段平が、しゅっと音を立てて蒸発した。
そして、その持ち主もまた、燃焼の過程を辿ることすらなく、一瞬で黒い炭と化し――それすらも白く溶け、光の粒となって舞い散った。
ようやく事態を理解し、後ろを向いて逃げ惑いはじめた残りの平地ゴブリン軍も、実に二百名以上が同じ運命を辿った。
中央のファナティオ、右翼のデュソルバートの苦闘。
それにエルドリエの指揮する左翼を見舞った煙幕による混乱を、後方の第二部隊に控える守備軍総指揮官・騎士団長ベルクーリ・シンセシス・ワンは明瞭に察知していた。
しかし、彼は動かなかった。
動けない理由があったのだ。第一に、手塩にかけて育てた部下たちに絶対の信頼を置いていたということもあるし、第二には敵地上部隊の主力――暗黒騎士団と拳闘士団が動かないうちは、予備戦力を投入するわけにはいかないという事情もあった。
しかし、最も大きい第三の理由は、ダークテリトリーについて知悉する彼が懸念せざるを得ない、思わぬ方角からの奇襲の可能性だった。
つまり、飛行戦力である。
空中飛翔術式の存在しない――正確には、故最高司祭の秘匿した術式総覧(インデックス)にのみ記され、彼女の死とともに永遠に喪失した――この世界では、整合、暗黒双方の騎士団にごく少数存在する竜騎士は、言わば規格外の力だ。剣の届かぬ高空を飛翔し、術式や熱線で地上の兵を薙ぎ払う。
だが、貴重すぎるがゆえに、そう容易くは投入できない。敵より先に出撃させて、万が一地上からの術や弓矢で墜とされでもしたら、その瞬間から巨大な不利を背負うことになってしまう。
ゆえにベルクーリは、アリスの騎乗する”雨縁”以外の飛竜を最後方に温存させたし、敵暗黒騎士も同様にするだろうと確信していた。だから、彼が懸念した奇襲は、竜騎士によるものではない。
それ以外に、闇の軍勢には、彼らだけが持つ飛行兵力が存在するのだ。
“飛塑兵”、あるいは”ドローン”と呼ばれる、醜悪な有翼怪物である。暗黒術師によって粘土その他の多様な材料から生成され、知性は持たないが幾つかの簡単な命令だけを解する。つまり、飛べ、進め、殺せ、の言葉のみを。
実はドローンとまったく同じものを、最高司祭も作成・研究していたらしいという話をベルクーリは騎士アリスから聞いていた。しかし、さしもの最高司祭といえども、醜悪な外見をそのままに整合騎士団に導入するのはためらったと見える。ふさわしい姿への改変が間に合わぬうちに彼女が入寂してしまったのは、今となっては惜しいと言わざるを得ないが、無い物ねだりをしても仕方ない。
以上の理由によって、ベルクーリは、上空からのドローンの奇襲に備えておく必要があった。
そして飛竜が出せず、また修道士隊も衛士らの治癒に手一杯の状況では、高空の広範な防衛が可能なのは彼ひとりだった。
正確には、彼の持つ神器”時穿剣”のみが。
第二部隊の中央に仁王立ちになり、納鞘したままの愛剣を両手で地面に突いたベルクーリは、瞑目したままひたすらに意識を集中していた。
部下たる整合騎士、そして勇敢な衛士たちの苦しい戦いぶりは、間断なく彼の知覚に届いてくる。左翼の大混乱とゴブリン部隊の侵入も、手に取るように察知できる。
しかし、彼は一歩も動くわけにはいかない。
なぜなら既に発動しているのである。武装完全支配術、”未来を斬る”という時穿剣の強大な力を。
虚空に描き、保持している斬撃線は、その数実に――三百本以上。
東の大門が崩壊する直前、ベルクーリは独り騎竜・”星咬(ホシガミ)”にまたがり、大門のすぐ手前上空に、幅百メル・奥行二百メル・高さ百五十メルという巨大な”斬撃空間”を作り出しておいたのだ。気合の篭もった一閃を放つたびに、微細な上下動と後退を繰り返し、虚空にびっしりと密な網目を描いたのである。
それだけの数と広がりを持つ心意を、数十分も保持するのは、二百年以上を生きた不死人たるベルクーリにも初めてのことだった。肉体から意識を離し、ただひたすらに精神を集中してどうにか可能となる絶技だ。全軍の指揮をファナティオに任せたのは、ひとえにこのためなのだ。
早く――早く来い。
無為な焦りとは無縁の精神的境地に達している彼にして、ひたすらそう念じずにはいられなかった。自身の消耗はともかくとして、時穿剣の神聖力は半ば以上を消費してしまっている。一度記憶解放を解除し、同じことを繰り返すのは不可能だ。敵ドローンを確実に殲滅できねば――そしてドローンが、斬撃空間のさらに手前に浮遊する整合騎士アリスを襲えば、守備軍唯一の望みが潰える。
――早く。
この地に集った上位整合騎士七名のうち、もっとも自虐的な心理状態に陥っていたのは持ち場を放棄してしまったレンリ・シンセシス・フォーティナインだったが、彼とは別の意味で大きな脆弱性を秘めていたのが、レンリより遥か長い経験があるはずのエルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。
エルドリエは自他共に認める、第三位騎士アリスの崇拝者である。
その感情は、”宣死九剣”のダキラがファナティオに抱いていたような恋慕とはまた異なる。己の全てを捧げて仕えつつ、同時に庇護もしたいという、二律背反性が色濃く存在する。
整合騎士として覚醒したその直後から、アリスは騎士団史上最大の天才と謳われた。修道士や司祭らすらも軽く上回る神聖術行使権限に加え、これまでいかなる騎士とも共鳴することを拒んできた最古の神器、永劫不朽のふたつ名を持つ”金木犀の剣”の主に選ばれ、さらに騎士長ベルクーリの超絶技を若木のように吸収していく武才をも併せ持っていたのだ。
外見こそ幼い少女だったが、アリスは多くの騎士にとって、近寄りがたい北天の孤星のようなものだった。最高司祭アドミニストレータの後継者であるという噂も、それに拍車をかけた。
ゆえに、エルドリエも、五年もの長きに渡ってアリスに話しかけようともしなかった。忌避していた、とすら言っていい。最古騎士の一人であるデュソルバートを師に持ち、早い段階で上位騎士に任ぜられ、それを誇りとしてきた彼にとって、目覚めた直後から上位騎士であり騎士長その人の唯一の弟子であるアリスには、脅威を覚えこそすれ親しみなど抱けようはずもなかったからだ。
しかし――四年前。
幼い子供から、凄絶なまでの美少女へと花開き、ますます孤高の度合いを増していたアリスの、思いもよらぬ姿をエルドリエは偶然目撃してしまったのだ。
深夜。ひそかに剣の修行をしようと足を運んだ薔薇園の奥深く。
簡素な寝巻き姿のアリスが、ひとつの粗雑な墓標の前に身を投げ出し、すすり泣いていた。どう見ても手作りの、白木を剣で斜めに斬っただけの墓標に刻まれていた名は、数日前に天命の尽きた老飛竜――アリスの”雨縁”、そしてエルドリエの”滝刳”の母竜のものだった。
たかが竜。たかが下等な使役獣ではないか。何故墓などつくり、何故泣く必要があるのだ。
と、その時のエルドリエは、理性では考えた。
しかし、鼻で笑って身を翻そうとした彼は、自分の目頭に熱くこみ上げるものに気付き驚愕した。
地上を去った母を悼んで泣く姿――、それが何故、引き裂かんばかりに心を打ったのかは今でも分からない。ただエルドリエは、直感的に、この感情は絶対的に正しく貴いものであり、そして今見た光景こそがアリスの真実の姿なのだと悟った。
その日以降、天才騎士アリスは、エルドリエの眼にはそれまでとはまったく異なるように映りはじめた。天才という望まぬ運命に耐え、甘受し、しかし秘かに誰かの差し伸べる腕を求める、今にも風に折れそうな硝子の花。
守りたい。自分があの少女を苛む寒風を防ぎたい。
その思いは日々強くなるばかりだった。しかし、守るなどという発想はあまりにもおこがましいものであるのもまた事実だった。アリスの才能は、術においても剣においても、エルドリエを遥か凌駕するのだから。
唯一可能だったのは、その時点での師たるデュソルバートへの圧倒的な不敬となると分かりながら、新たな師としてアリスの指導を欲することだけだった。
以来、四年の月日を、エルドリエはただ二つのことを果たすためだけに生きてきた。師アリスを守り、また認められること。
ことに後者は、至難というよりない目標だった。天才騎士アリスの実力は、当時ですら騎士長ベルクーリとほとんど変わらないのではないかと思わせる高みに達しており、エルドリエは追いつくというより愛想を尽かされないために必死になって修練に励んだ。
同時に、日常的にアリスにあれこれ話しかけ、食事を共にし、いつしか身につけた気障かつ軽薄な話術で――と、彼自身は思っていたが、実際には整合騎士となる以前の”地”が戻っていたのだ――少しでも笑顔を引き出そうと努力した。
そのような日々は少しずつ実を結び、剣力も上昇し、またごく稀なことではあるが師の唇に微かな笑みが浮かびはじめたように思えてきた頃。
カセドラルを、あの大事件が襲った。
最初は、ただの通常業務だったはずなのだ。確かに、ふたりの学生が犯した”殺人”という大罪はエルドリエの長い記憶にも無いものだったが、広い人界には諍いと偶発的な不幸が重なって血が流れてしまう事件ならば稀には起こる。実際、北セントリアの学校で捕縛した罪人らは、最初はまるで危険にも凶悪にも見えなかった。むしろ単なる、しょげ返った一般民の若者でしかなかった。
だから、彼らを飛竜で連行し、カセドラルの地下牢に叩き込んだあと、師アリスがしばしの黙考のすえに『念のため、一晩だけ牢の出口を警備しておきなさい』とエルドリエに命じたときは少々驚いた。そして、薔薇園でのワイン片手の夜明かしもたまにはよかろうと任に就き、東の空が白みはじめた頃、ほんとうに罪人らが脱獄してきたときはもっと驚いた。
師の慧眼に感服し、その信頼に応えるべくエルドリエは彼らの前に立ちふさがり――あろうことか、見事なまでに敗れた。武器と言えば千切れた鎖しか持たない一般民相手に、しかも、”星霜鞭”の武装完全支配術まで用いながら。
いや、敗北は受け入れざるを得ない。あの二人は結局、デュソルバートや、ファナティオと宣死九剣、師アリスから騎士長ベルクーリの護りすら突破し、最終的に最高司祭アドミニストレータまでも斬ってのけたのだから。アリスも、あの名も知れぬ北の寒村の庵で、罪人の片割れを前に確かに言っていた。この人は、整合騎士を上回る最強の剣士なのだ、と。
己があの黒髪の若者に、剣力で明白に劣ることが口惜しいのではない。
そうではなく――自分ではなかったのだ、という事実が。
師アリスが自ら作り出した氷の箱庭から、彼女の心を解き放つ者は、自分ではなくあの若者だったのだ、という認識がエルドリエを激しく揺さぶった。
開戦前、師が、これまで一度として見せたことのない慈愛に満ちた微笑みとともに礼の言葉を口にしたとき、彼は感涙とともに決意したのだ。せめて、この戦いにおいて、四年にわたる指導がいかに大きく結実したか、それを師に伝えねば、と。
その強い心意は、エルドリエの実力を引き上げると同時に、追い込みもしていた。
仮に、彼の率いる左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、エルドリエは右翼デュソルバートをも上回る獅子奮迅の働きを見せただろう。
しかし、実際にはゴブリンらは強烈な煙幕で彼と左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて後背を襲うという予想もしなかった作戦に出た。
ゴブリン如きにしてやられた、空から見守るアリスの目の前で醜態を晒した、という衝撃と焦りがエルドリエから冷静な判断力を奪った。彼は、鼻先も見えない濃密な煙のなかで闇雲に周囲を見回し、衛士らに指示を飛ばそうとした。しかし、どうにか思いついたのは、この状況で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまう、ということくらいで、煙をどう除去していいのかまるで思いつかなかった。
藤色の巻き毛を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、エルドリエはただ立ち尽くした。
再び膝を抱えこんで自分だけの世界に戻ろうと、腰を落としかけた整合騎士レンリは、耳に届いた大勢の叫び声の予想外の近さに、ぴたりと動きを止めた。
まさか、これほど早く敵軍が戦列を突破してくるなどということは有り得ない。まだ、開戦からたかだか十分ほどしか経過していない。
気が高ぶっているせいだ、それで遠くの音が明瞭に聞こえるんだ、とレンリは思い込もうとした。
しかし、迫ってくる鬨の声が自分だけの錯覚ではないことを、同じ天幕に逃げ込んできた二人の少女たちの反応が教えた。
「うそ……、もうこんな後方まで!?」
赤毛の少女、シュトリーネンという姓らしい練士がさっと顔を上げると、素早く天幕の入り口に走った。
僅かに垂れ幕を持ち上げ、外を確認する。即座に、その幼さの残る顔が青ざめた。
「け……煙が……!」
掠れた叫びに、アラベル練士のほうも身体を強張らせる。
「えっ……ティーゼ、火も見えるの!?」
「う、ううん、ただ……変な色の煙だけが……。――いえ、待って、煙の中から……人が、沢山……」
垂れ幕の隙間から外を覗く赤毛の練士の言葉が、分厚い綿に吸い込まれるように、不意に止まった。
嫌な沈黙だった。
レンリは中腰のまま眉をしかめ、耳を澄ませた。
いつの間にか、鬨の声は遠く薄れている。しかし、その静けさの底を、何かが――。
ひたひた。
ひたひた、と。
突然、シュトリーネン練士が、からくり人形のようなぎこちない動きで、一歩、二歩と天幕の中に下がった。右手ががくがくと強く震えている。剣を抜こうとしているのだ、とレンリが気付くのとほぼ同時に。
ばさっ! と乱暴に垂れ幕が引き開けられた。
外はすでに夜闇に包まれて、わずかな篝火の光だけが薄赤くゆれている。それを背景に、のっそりと立つ人影。やや小柄で、妙に猫背、対して腕は異様に長く――握られているのは、ただ板金を切り出したかのような、無骨極まる刀。
入り口から吹き込む空気に混ざる、強烈な異臭がレンリの鼻を刺し。
シュトリーネン練士が、鞘をカタカタ鳴らしながら抜剣し。
アラベル練士が低く、鋭く叫んだのは、ほぼ同時だった。
「――ゴブリン!!」
その声に、しゅうしゅうと擦過音の混ざる、しわがれた囁きが答えた。
「おうおう……白イウムの、娘っこだぁ……おれの……おれの獲物だぁ……」
あまりにも明け透けな、生々しい欲望の響き。
上位整合騎士でありながら、レンリが肉眼で闇の種族を見るのはこれが初めてのことだった。果ての山脈まで飛んでいくための騎竜を与えられる前に、凍結処分されてしまったからだ。
ぜんぜん――ちがう。
レンリは、内心で呆然とそう呟いた。
下位騎士の時分に、古参騎士の講義や、書物類を通してダークテリトリーの亜人四種については知識を得ていた。しかし、まるでお伽話に出てくる悪戯妖精のように想像していたゴブリンと、今目の前に立つ人型の生物との間には、果てしない隔絶があった。
この世界に、これほどまでに濃密な殺気と欲望が存在したなんて。
人間を、壊して喰おうと本気で考える生き物がいるなんて――。
つま先まで完全に痺れ上り、動くことも出来ないレンリの目の前で、うぞり、とゴブリンが一歩前に進んだ。
シュトリーネン練士は、両手で握った長剣を、しっかりと中段に構えようと――したのだろうが、両膝が激しく震えるせいで切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、歯が打ち合わされる音か。
「テ……ティー……」
アラベル練士が、細い声を喉から漏らした。右手で剣の柄を握ったものの、どうしても抜けない、というように背中を引き攣らせている。
そしてもう一つ、奇妙な音がレンリの耳に触れた。
ぎし、ぎし、と何かが軋むような。
ちらりと視線をだけを右に動かしたレンリが見たのは――。
すぐ隣の暗がりで、車椅子にぐったりと沈み込み、虚ろな表情で俯く黒髪の若者。その、二本の剣を抱く左手に、血管が浮き、関節が盛り上がり、恐ろしい力が込められていることを示している。
そう、まるで、剣を抜く右手が存在しないことを憤るかのように。
「君は……」
レンリは、音にならない声で囁いた。
君は、あの子たちを助けようというのか。立つことも、抜剣することも、それどころか喋ることさえできないのに。
ああ……。
そうか。
この若者、最高司祭を斃したという反逆者の強さというのは。たぶん、剣技でも、術力でも、神器でも、武装完全支配でもなく。
騎士、一般民の隔てなく皆が生まれながらに持ち、しかし容易く見失ってしまう、ささやかな力。
勇気。
レンリの右腕がかたく強張り、震え、ゆっくりと動き始めた。
ゴブリンが、シュトリーネン練士の頭上に、分厚い蛮刀をずいっと振り上げた。
指先が、右腰の神器”比翼”の片方に触れた。
刹那――。
シュバァッ!!
鋭く空気を斬る音。青白い閃光。それは低い位置から弧を描いて跳ね上がり、シュトリーネン練士の赤毛を掠めて右に曲がり、ゴブリンの立つ位置を通過して急激に角度を変え――まっすぐ伸ばされたレンリの、右手の二本の指のあいだにぴたりと挟まれた。
「……ぐ、ひ……?」
いぶかしむような、ゴブリンの唸り。
その、鼻と顎が垂れた顔面の中央に、斜めの赤い線が走った。
どっ。
まず落ちたのは、肘の上で綺麗に切断された、蛮刀を握った右腕だった。
次いで、ゴブリンの頭がずるりとずれて、上半分だけが蛮刀の上に湿った音をたてて転がった。
双投刃”比翼”は、くの字形をした、ごく薄い鋼の刃二枚が一対を成す神器である。
長さ六十センほどのその刃に、柄は存在しない。両端ともがごく鋭い切っ先となっており、その一方を指先で挟んで投擲する。高速回転しながら飛翔した刃は、鋭角な楕円軌道を描いて主のもとに戻り、それを再び二指で受けとめる。
つまり、通常の使用に際してすらも、剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、戻ってきた刃を受けそこね、容易く手指を落とされる。
そのような武器を軽々と扱えるというだけで、レンリの技量の並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にその自覚はまったく無い。武装完全支配術を発動できない、というたった一つの負い目が、彼の精神を強く萎縮させているからだ。
ゆえに、瞬時の神業でゴブリンを即死させたからと言って、レンリがすぐさま戦意を取り戻せたわけではなかった。
伸ばした右手の先で、りぃぃ……ん、と微かに刃鳴りする青鋼の冷たさを感じながら、レンリは左手で強く鎧の胸を押さえた。縮こまりすぎた心臓が、今にも圧力に耐えかねて破れそうだ。
「……騎士、さま」
一瞬の静寂を破ったのは、振り向いたシュトリーネン練士だった。その深紅色の瞳に浮かぶ涙は、巨大な恐怖の余韻か。
「騎士様……、ありがとう……ございます。助けて……くださったのですね」
囁かれた感謝の言葉に、レンリは思わず顔を背けた。やめてくれ、そんな眼で見ないでくれ。僕の勇気はいまの一投で枯れてしまったよ。――胸のうちでぽつりと呟く。
不意に、投刃の重みが増したような気がして、レンリは右手を下ろした。
今のゴブリンは、夜闇にまぎれて単独で飛び出してきた欲深者だったのだろう。敵本隊は、きちんと前線で迎撃されているはずだ。
半ば願うようにそう予想した、まさにその瞬間。
天幕の外、驚くほど近くで、新たなゴブリンの雄叫びと、人間の悲鳴が響いた。同時に剣戟の金属音。それらは瞬く間に数を増し、全方位から一気に押し寄せてくる。
大きく息を吸い、背筋を伸ばしたシュトリーネン練士が、レンリをまっすぐ見つめて言った。
「騎士様、ゴブリンの集団が、おそらく煙幕のようなものを使用して前線を突破、後方を襲っております! 補給部隊には非武装のものも多く居ります、彼らを守らねば!」
「し……集団……」
あんな奴らが――何十匹、何百匹、いや戦争なのだ、それ以上の規模でもおかしくない。
無理だ。僕にはできない。一匹のゴブリンですら、あれほど恐ろしかったのだ。軍勢の前になんか、絶対に立てない。
呼吸が浅くなる。脚から力が抜ける。
逃げ場所を探して泳いだ瞳が――。
再び、黒髪の若者が隻腕で抱える、二振りの長剣に吸い寄せられた。
いつの間にか、不思議な光景がそこに出現していた。
二振りの片方、精緻な薔薇の象嵌をほどこした白鞘に収められた剣が、薄闇のなかで、仄かに発光している。薄青い、しかしどこか暖かみのある微かな光が、まるで心臓のように――とくん、とくんと脈打つ。
溶ける。全身を包む冷気が、胸中に満ちる恐怖が、ゆるゆると溶かされていく。
先刻、若者が発散していたものが勇気なら――いま、この剣から溢れ、レンリの心に流れ込んでくるものは……。
「……君たちは、ここでこの人を守っていて」
自分の口から、しっかりとした声が流れるのをレンリは聴いた。
顔を上げると、シュトリーネン練士だけでなく、アラベル練士の眼にもいつしか涙が宿っていた。二人に向けて強く頷きかけ、レンリは具足を鳴らしながら、天幕の入り口に歩み寄り、垂れ布を大きく跳ね上げた。
即座に、視線が血塗れた光景を捉えた。
二十メルほど離れた物資天幕に寄りかかるように、一人の傷を負った衛士がかろうじて立ち、右手の小剣をどうにか構えようとしている。その目の前に二匹のゴブリンが迫り、我先にと蛮刀を振り上げる。
しゅっ、とレンリの右手が唸り、風切り音だけが飛んだ。ゴブリンが立つ位置で、一瞬ちかりと反射光が閃き、二匹の動きが止まる。
指先に無音で投刃が戻ってくるのと、二つの首が落ちるのは同時だった。しかしレンリはその結果を確かめることなく、すでに視線を左に向け、新たな目標に向けて左腰の鋼刃を放った。内側からくぐもった悲鳴の漏れる天幕の、頑丈な厚織布を引き裂こうとしていたゴブリンの背中から左肩にかけてがすぱっと裂けた。
今度は背後に気配。
砂利を踏みしだきながら急接近してくる足音に向けて、レンリは右手の刃を後ろ手に投じた。その後に振り向き、敵の顔面を断って戻ってきた武器を受ける。
僅か三秒で四匹のゴブリンを始末したレンリに、周囲の闇から粘つく視線が一斉に注がれた。
「騎士だ……」
「大将首だ!」
「殺せ! 殺せ!!」
軋るような唱和を浴びながら、レンリは敵をこの場所から引き離すべく、東へと走った。そちらには、確かにシュトリーネン練士の言ったとおり奇妙な灰緑色の煙がもうもうと立ち込め、その奥から更に無数のゴブリンたちが湧き出しつつある。
あの視界では、前線は大混乱だろう。主力衛士たちが態勢を立てなおし、ゴブリン部隊を追ってくるには最短でも五分ほどはかかるかもしれない。
その間、自分ひとりで敵を引きつけ、食い止めることができるだろうか。
いや――やるしかないんだ。ここで逃げたら、僕は間違いなく、永遠に失敗作だ。
なぜなら、ようやく分かったような気がするんだ。僕に欠けているもの。”比翼”と共鳴しながら同化を阻んだ、大きな欠落がなんなのか。
その思いを強く噛み締め、レンリは走った。
すぐに、整然と並ぶ天幕の列が切れ、前線とのあいだの空白地帯に達する。すぐ左に垂直に切り立つ崖の岩肌、前方には無数に沸いてくるゴブリンの主力、後方からは引き返して追いかけてくる先鋒部隊。
完全な被包囲状況に自ら飛び込んだレンリは、脚を止めると、二枚の薄刃を挟み持った両手を左右一杯に広げ、叫んだ。
「僕の名はレンリ!! 整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナイン!! この首が欲しければ――悲鳴すら上げられずに死ぬことを覚悟してかかって来い!!」
高らかな名乗りに応えたのは、無数の怒りと欲望の咆哮だった。
一斉に蛮刀を振り上げ、飛びかかってくるゴブリンの群れに向かって、レンリは双刃を同時に放った。
右の刃は左方向へ。左の刃は右へ。包囲突進する敵の最前列を、まるで舐めるようなゆるい円弧を描いて死の閃光が飛翔する。
ばらっ、ばららら……。
腕が、首が、立て続けに胴から離れ、こぼれ落ちた。
しかし一瞬前まで仲間だった残骸を蹴り飛ばし、わずかな逡巡も見せずに新たなゴブリンが迫ってくる。
レンリは、戻ってきた二枚の刃を、指で挟むのではなく、弧の内側に人差し指を引っ掛けるようにして受け止めた。勢いを殺さぬよう、指先で猛烈に回転させながら、一呼吸の間も置かずに再度投擲する。
まったく同じ光景が繰り返された。通常攻撃の威力だけを比較すれば、”熾焔弓”や”天穿剣”をも上回る凄まじい殺戮だ。”比翼”の刃は紙よりも薄く、それが超高速で回転しているため、生半な防具は無いも同然の切れ味を発揮するのだ。
連続同時投擲が、もう一度。
そしてさらにもう一度行われ、さしもの数を誇るゴブリンらも、仲間のあまりにも呆気ない死に様に怯んだか、やや突進の勢いが緩んだように思えた。
いける――。もう少しだけ持ちこたえれば、前線から衛士たちが追いついてきてくれる。
レンリは仄見えた希望とともに、五度目の投擲を行った。
――しかし。
耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。
カァン! キャリイイン!!
という、甲高い反射音だった。
大きく軌道をぶらせて戻ってきた二枚の刃を、レンリは一杯に伸ばした両手で危うく受け止めた。とても指先に引っ掛けるという芸当を見せる余裕はなく、この局面で初めて死の刃が静止した。
さっ、と視線を向けた先、谷の北側から、一匹のゴブリンがうっそりと姿を現した。
大きい。
いや、体格はさほどでもない。肉体年齢十五歳のレンリと較べても、目線の高さはさほど変わらない。
しかし――その全身を包む、鋼のような筋肉の盛り上がりと、何より放射される鍛えられた殺気は、他のゴブリンらとまるで異なるものだった。
「……お前が大将か」
レンリは低い声で問うた。
「いかにも、俺が山ゴブリン族長のコソギだよ、騎士の坊や」
鋭く吊り上がった黄色い瞳で、じろりと周囲を睥睨する。
「あぁあ、随分と殺してくれたなあ。何でこんな後ろに整合騎士が居残ってるのかねえ。まったくアテがはずれちまったよ」
言葉遣いすらも、他のゴブリンとはまったく違う。制御された意思と、知性の響き。
――関係ない、そんなもの。たった一度、たまたま跳ね返せたからって、そう何度も続くわけはない。
レンリはぐうっと両腕を後ろに引くと、短く叫んだ。
「なら……これでお前らの戦争は終わりだ!!」
シュバッ!!
全力、最速の投射だった。
右の刃は斜め上から、左の刃は地面から跳ね上がるように、正確にコソギの首を狙って飛んだ。だが。
カカァン!!
今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。
敵将コソギは、右手に握った大鉈と、左手の小刀で、二枚の投刃を見事に防いだのだ。
なぜ!?
驚愕し、見開かれたレンリの眼が、コソギの携える武器の輝きをとらえた。
その形こそ無骨な代物だが、色が違う。あれは、他のゴブリンが持っているような粗雑な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間かけて鍛え抜いた、高優先度の業物だ。
視線に気付いたか、コソギは一歩距離を詰めながら、にやりと笑った。
「おうよ。ま、あくまで試作品だがね。暗黒騎士どもから製法を盗むために、そりゃあ血が流れたもんさ。だがな……それだけが防がれた理由じゃあないぞ、坊や」
「……舐めるなッ!!」
ふっ、と両手が霞むほどの速度で振り抜かれる。今度は、遥か上方へと舞った薄刃が、レンリと敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず――
「……!?」
確信は、即座に裏切られた。コソギという名のゴブリンは、あろうことか、両手の得物を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を逸らしたのだ。
不規則に揺れながら戻ってきた刃を、レンリはわずかに受け止めそこね、左手の指先に浅い切り傷を負った。しかしその痛みなど、驚愕の前には存在せぬも同然だった。
「軽いんだよ、騎士坊や。それに軌道が素直すぎる」
コソギの短い台詞は、完璧なまでに”比翼”の弱点を言い当てていた。
投刃それぞれの重量は、神器と呼ばれる武器としては、有り得ないほどに軽い。鋭利さと高速回転に性能が突出しているため仕方ないことではあるのだが、それゆえに、速度に反応でき充分な優先度の装備を持つ敵の防御を、強引に押し切るということができないのだ。
また、刃が描く飛翔軌道は、行きと戻りが完全な対称形となる。これは、たとえ背後から襲ってくる場合でも、投擲直後の軌道さえ見逃さなければその攻撃点を正確に予測できるということでもある。
わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまでを看破してのけたコソギの知性にレンリは戦慄した。ゴブリンと言えば、粗野で、下等で、卑しいだけの怪物ではなかったのか。
「ゴブリンのくせに……ってツラだな、坊や」
にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、コソギが囁いた。
「だが、俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、ってな。整合騎士は一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこんな後ろに隠れてた、そうなんだろ?」
「……ああ、そうさ」
目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったレンリは、虚勢を捨て、頷いた。
「僕は失敗作だ。だけどね……勘違いするなよ。出来損ないなのは僕だけで、こいつじゃない」
両手の指先に挟んだ薄刃を、ゆっくりと降ろす。
“比翼”の明瞭なる弱点。それを完全に覆しうる、たった一つの方法が、このふたつの武器の記憶を解放することだ。
伝え聞く、比翼の源となった古の神鳥は、それぞれ左と右の翼を喪ったつがいだったのだという。一羽だけでは飛べない彼らは、互いの身体を繋ぎ合わせることで、他の鳥たちには飛べない高みまでも舞い上がり、無限に等しい距離を往くことができた。
その伝説を聞いたがゆえに、レンリは武装完全支配術を発動できなくなってしまったのだ。
“シンセサイズの秘儀”によって記憶から奪われた、”愛する者”。
それは、四帝国統一大会の決勝で戦い、極限の鬩ぎ合いのなかで刃が止まらずに命を奪ってしまった、幼馴染の親友だった。
レンリと親友は、まさしく比翼の鳥だった。物心つくかつかぬ頃から二人で腕を競い合い、故郷を出て央都に上ってからも、互いの存在を心の支えにしてあらゆる試練を突破し――人界最高の舞台にまで同時に達した。
だが、そこで翼は折れてしまった。
記憶を封印され、整合騎士となってからも、レンリの心にぽっかりと開いた巨大な喪失感は埋まることはなかった。剣を取り戦う”勇気”、誰かと心を繋ぐ”情愛”、その二つを見失ったレンリに、一枚ずつの翼を繋いで飛翔する比翼鳥の姿を心象化できるはずもなかったのだ――。
しかし。
つい先刻目にした、傷ついた若者と、腕に抱かれた二本の剣が。
その片方が放った仄かな光が。
レンリに声なき声で語りかけた。この世界には、たとえ命尽きようとも、決して喪われないものがあると。
それは記憶。思い出。
誰かの命は、心繋いだ誰かに受け継がれ――そしてまた、次の命へ連なっていく。
レンリは、勝利を確信した表情で迫ってくるゴブリンの将から視線を外し、そっと瞼を閉じた。
何もかも諦めたがごとき、力ないその姿から、突然、熱風のような剣気が放たれた。かっ、と両眼が見開かれる。二枚の鋼刃を挟み持った両腕が、顔の下半分を隠すように交差される。
ズバアァツ!!
腕が真横に振り抜かれると同時に、舞い上がった二条の光。高い弧を描き、右と左からコソギへと襲い掛かる。
「何度やろうが……無駄だッ!!」
ゴブリンの長は、苛立ちを滲ませた怒号とともに、投刃を受けるのではなく全力で弾き返した。
ガッ、ギャリイインッ!!
眩い火花とともに、薄い翼は呆気なく跳ね返り、再び空高く飛翔した。それらは、まるで螺旋のような曲軌道を引きながら――絡まりあい、寄り添い、一点へと。
瞬間。
「リリース……リコレクション!!」
レンリは、かつて何度も唱え、その度に絶望を味わった聖句を、喉も破けよとばかりに叫んだ。
小さなソルスにも似た眩い光が、谷間後方を照らし出した。
鳥の形をした二枚の鋼刃が、輝きながらその頂点を接合させ、融けあい、完全なる一へと変貌する。
ゆるゆると回転するそれは、十字の刃を、まるで遠い夜空の星のように青く煌かせていた。神器”比翼”、その解放された姿。
遥か高空で光を放つ己の分身に、レンリはそっと右手を差し伸べた。
――綺麗だ。
――まるで僕と……――のようだ。
ぐ、と強く手を握り。その拳を、勢いよく振り下ろす。
ギュアアアアッ!!
十字刃が、瞬時に猛烈な勢いで回転しながら、空を舞った。レンリの腕の動きに従い、降下し、舞い上がり、旋回する。
「なに……おぅっ!!」
一声吼えたコソギが、猛禽のように上空から襲い掛かる比翼を、左右の武器で同時に叩き落そうとした。
しかし、双方が触れる直前――それまでの滑らかな軌道を急激に変化させ、十字刃は垂直に跳ねると、再度真下へ向けて加速した。
カッ。
かすかな、乾いた音だった。
が――次の瞬間、コソギの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い輝きが走り。
直後、眩い閃光の奔流を振り撒きながら、真っ二つに分断された。
死の瞬間、コソギは、いったい何故自分が敗れたのかをその傑出した知力で考えた。
彼の力学に従えば、己よりも、ひ弱そうな小僧騎士のほうがより強い殺意と欲望を秘めていたのだということになる。しかし、どれほど凝視しようとも、あどけなさの残る白い顔にはいかなる殺気をも見出すことは出来なかった。
ならば、いったい己は何に敗北したのか。
どうしてもそれを知りたかったが、しかし直後、視界がまったき闇に包まれた。
戦線のはるか東、ダークテリトリー軍の第二陣後方。
皇帝の御座竜車には見劣りするが、それでも充分に豪奢な二輪馬車に、浅黒い肌も露わな一人の女が腕組みをして立っている。暗黒術師ギルド総長ディー・アイ・エルである。
その馬車の脇に控える、細い黒衣の人影が、ゆるりと主に身体を向けた。
「シグロシグ殿、シボリ殿、コソギ殿、共に討ち死にとのこと」
顔を薄い紗で覆った伝令術師が低く告げた言葉に、ディーは露骨な舌打ちを漏らした。
「ええい、使えぬ……所詮は亜人か、獣どもめらが」
艶やかな胸元の肌に垂らした、小型の装身具をちらりと一瞥する。銀の円環に十二の貴石を配したそれは、仄かな色合いの変化で時刻を教えるという最高級の神器だ。六時の石は紫に光り、七時の石はいまだ闇色。つまり開戦からわずか十五分ほどしか経過していないことになる。
「整合騎士の座標固定はどうなっている」
苛立った声で尋ねると、伝令は短い術式に続けてぼそぼそ呟き、耳を澄ませる仕草を見せてから答えた。
「最前線に視認できた三名は照準済みです。後方にさらに二名探知していますが、固定にはいましばらく」
「クソ、遅いな。それとも、そもそもの数が少ないのか……しかし、せめてその五人は確実に落とさねば……」
ディーは、皇帝の前に出ているときの媚態が嘘のような冷たい表情でひとりごちると、少し考え、命じた。
「よし、ドローンを出せ。コマンドは……」
眼を細めて、崩壊した大門とその彼方の戦線までの距離を測り、続ける。
「……七百メル飛行、のち降下、無制限殲滅」
「その距離ですと、最前線の亜人部隊を多少巻き込みますが」
「構わん」
無感動に言い捨てる。
伝令の女術師も、一切の感情を見せずに「は」と首肯し、さらに尋ねた。
「数は如何なさいます。現状で孵化済みの八百体すべてを運んできておりますが」
「ふむ、そうだな……」
ディーはさらに数瞬、思考を巡らせた。
作成に多くの資源と時間が必要となるドローンは、彼女にとってはゴブリンなどよりもよほど貴重な戦力だ。出し惜しみしたいのはやまやまだが、『後方からの同時集中斉射による敵主力殲滅』というディーの献策がもし失敗すれば、皇帝の不興を買うことは間違いない。
「……八百全部だ」
命じた唇に、小さく酷薄な笑みが浮かんだ。
ディーの秘めたる野望――この戦が終わり、光の巫女とやらを手に入れれば再び地の底に還るのであろう皇帝ベクタから、摂政の地位を与えられ暗黒界及び人界をあまねく実効支配する。それが叶った暁には、ドローンなど何万体でも作れる。最大の障害だった暗黒将軍シャスターはすでに亡く、残る実力者と言えば単なる金の亡者や格闘にしか興味の無い小僧とくれば、大望成就はもはや目の前と言えよう。
あの半神人、最高司祭アドミニストレータですら成し得なかった、全世界の征服――。
そのうえで、神聖教会の総本山に秘匿されているのであろう無限天命の術式をも手に入れてみせる。
不老不死。永遠の美。
ディーは、背筋を這い登る甘美な戦慄に、ぞくりと身を震わせた。青く塗られた唇を、ちろりと覗いた舌が舐める。
ちょうどその時、伝令術師の指令が前方の術師本隊に行き渡り、まるで闇が翼を得たかのごとき漆黒の人造怪物どもが一斉に飛び立った。
ぬらりとした肌に篝火を照り返させながら、八百ものドローンは命ぜられたままに上昇し、まっすぐに峡谷へと吸い込まれていった。
――来た。
騎士長ベルクーリは、これまで彫像のように引き結んでいた口元に、はじめて持ち前の太い笑みを浮かべた。
大門手前の上空に描いた心意に、ついに広範かつ多数の反応があったのだ。
暗黒騎士や飛竜の気配ではない。無機質、無感動な、魂を持たぬモノの手応え。
しかしまだ発動はさせない。敵の放ったドローンの全てが”斬撃圏”に呑まれるまで、たっぷりと引き付ける。
ベルクーリの研ぎ澄まされた知覚には、すでにファナティオ、デュソルバートの奮戦と、一時は逃亡してしまった上位騎士レンリの覚醒までもが捉えられていた。
敵先陣の将すべてを討ったとなれば、もうこの局面で戦線を押し込まれることはない。あとは、目論見どおりアリスが空間神聖力を根こそぎ奪うことで敵の遠距離攻撃を無効化してくれれば、無傷の守備軍第二陣でダークテリトリー軍主力たる暗黒騎士団・拳闘士団を迎え撃てる。
己の、真の出番はその先だろう、とベルクーリは推測していた。
長年の好敵手たる暗黒将軍シャスターとの一騎打ち、ではない。
ベルクーリは、すでに、敵本陣にシャスターの気配がないことを察していた。おそらく、数日前に知覚した巨大な剣気の消滅――あれが、かの豪傑の最期だったのだ。
最古の整合騎士として、無限の年月を生きてきたベルクーリにはすでに、寿命ある人間たちの死を嘆き哀しむことはもうできない。それでも、この男ならば、いつか暗黒界と人界の無血融和の可能性を拓いてくれるやもと期待していたシャスターの死は、無念以外のなにものでもなかった。
かくなるうえは、シャスターの命を絶った、あの無限の虚無にも似た気の持ち主――何者かは分からないが、恐らくいまのダークテリトリー軍を率いているのであろう総司令官を、この手で斬ることで弔いに代えるだけだ。
あるいはそこで、ついに自分の命も終わるのかもしれない、とベルクーリは感じている。
しかし、もう生への執着は、彼のなかには欠片も残っていなかった。
死すべき時宜を得て死するのみ。
ファナティオ配下の下位騎士ひとりが、今わの際に放ったその心意に、ベルクーリは見事と感嘆すると同時に――かすかな羨望をも覚えていたのだ。
しかし、無論まだその時ではない。
上空の暗闇を、細波にも似た羽音の重なりとともに侵入してくるドローンの群れが、ついに斬撃圏にまるごと呑み込まれた。
ベルクーリはかっと両眼を見開き、地に突き立てていた愛刀・時穿剣を、ゆるやかな、しかし恐ろしく迅い動作で大上段に振りかぶった。
「――――斬ッ!!」
気合一閃、虚空を刃が切り裂いた。
同時に、遥か上空で、無数の白い光条が整然とした格子模様を作ってまばゆく瞬いた。
奇怪な断末魔の大合唱に続いて、どす黒い雨が、亜人混成軍の頭上に滝のように降り注いだ。ドローンの血液は微弱な毒性を持っており、それが将を失った大混乱に更なる拍車をかけた。
これまで、まったくの無感情を貫いていた伝令師の声に、かすかな怯えの響きを聞きつけた時点で、ディーは不吉な予感にとらわれた。それは一秒後、現実へと変わった。
「おそれながら……ドローン八百体、降下前に全滅した模様にございます」
「な…………」
絶句。
続いた破砕音は、馬車の車輪に叩きつけられた高価な水晶杯の悲鳴だ。
「何ゆえだ! 敵にそれほど大規模な術師部隊が居るとは聞いていないぞ!」
それ以前に、術式のみにて八百ものドローンを屠ることは不可能に等しい。素材が粘土であるがゆえに、火炎術も、凍結術も、さしたる効果を持たないのだ。もっとも有効なのは鋭利な武器での攻撃だが、鋼素から生成した低優先度の刃にそこまでの威力があるはずはない。
「……竜騎士はまだ出ていないのだな?」
どうにか怒りを押さえ込み、ディーは尋ねた。伝令師は、低くこうべを垂れたまま肯定した。
「は、大門付近上空には、現時点まで一匹の飛竜も確認しておりません」
「と……なると……アレか。彼奴らの切り札……”武装完全支配術”。しかし……よもやこれほどの……」
語尾を飲み込みながら、剥き出した糸切り歯をきりりと噛み合わせる。
暗黒将軍シャスターと同じように、ディーも整合騎士の隠し持つ超絶技については研究を進めさせていた。しかし、いかんせんこれまでは実物を目撃することすら至難だったのだ。神器と騎士本人の力の相乗効果であろう、ということくらいしか解明できていない。
「だが……武器をそのように使うかぎり、天命は必ず消費されるはずだ。連発はできまい…………」
全力で思考を回転させながら、ディーがそう呟いたとき。
前線からの声に耳を傾けていた伝令師が、さっと顔を上げ、少し張りの戻った声で伝えた。
「総長様、後方の整合騎士二名の座標固定、完了いたしました。あわせて、五の目標を照準中」
「……よし」
頷き、更に考える。
不確定要素たる敵の武装完全支配術を、更に消費させるために地上部隊主力の暗黒騎士団と拳闘士団を投入するか。それとも、こちらの切り札、暗黒術師団をここで動かし、一気にけりをつけるか。
ディーは本来、念入りに策を巡らせ万難を排してから動く用心深い性格だ。
しかし、虎の子のドローンを全て喪失するという予想外の展開が、彼女を自覚なき焦燥に追い込んでいた。
機は熟したのだ。
新たな水晶杯に、黒紫色の酒を満たしながら、ディーは自分に言い聞かせた。
私は冷静だ。今こそ、最初の栄光を掴み取る時。
杯をひといきに干し、それを掲げて、ディー・アイ・エルは高らかに命じた。
「オーガ弩弓兵団、及び暗黒術師団、総員前進! 峡谷に進入後、”広域焼夷矢弾”術詠唱開始せよ!!」
SAO4_43_Unicode.txt
くるるる……。
高く、心細そうな喉声。飛竜”雨縁”が、主を気遣っているのだ。
整合騎士アリスは、どうにか微笑らしきものを唇に浮かべ、囁いた。
「大丈夫よ、心配しないで」
だが、実際のところは、まったく大丈夫ではない。視界はゆらゆらと歪み、呼吸は荒く、手足は氷のように冷たい。次の瞬間に気を失ってもおかしくない。
アリスを消耗させているのは、保持・詠唱中の、今にも暴発しそうなまでに密度を高めている巨大術式ではなかった。
その力の発生源となっている、無数の死そのものだった。
騎士。衛士。修道士。そして敵たるゴブリン、オーク、ジャイアントの、凄まじい勢いで喪われていく命が、アリスを苛む。
かつてのアリスは、一般民の生死や、ましてダークテリトリーの住民の生き死になど、思考に上せる必要すらも感じなかった。
半年間のルーリッドの暮らしを経て、村人たちのささやかな営みの貴さを知り、それは守るべきものだという認識を得たが、しかし暗黒界に暮らす者たちに思いを致すまでにはならなかった。その証左として、ほんの十日ほど前、ルーリッドを襲った亜人の群れをアリスは何の躊躇いもなく殲滅している。
闇の軍勢は血も涙もない侵略者であり、一兵残らず討ち尽くすべきもの。
今の任務に就くその瞬間まで、そう信じて疑うことはなかった。
しかし。
なんということか――。
遥か眼下の戦場から、絶え間なく生み出され、蒸散してくる天命力の感触は、人のものも怪物たちのものも、まったく同一だったのだ。一抹の差異なくすべてが暖かく、柔らかく、元の持ち主がどちらの軍の兵士なのかを感じ分けることは完全に不可能だった。
これはどういうことなの、とアリスは激しく動揺した。仮に、人界の民も、暗黒界の怪物も、本質的に同一の魂を持ち、ただ生まれた場所が山脈のあちらかこちらかだけの違いしかないのだとすれば。
いったい何故彼らは、そして私は戦っているのか。
その疑問に答えの出ようはずはなかった。
アリスは、そこで無理やりに考えるのを止め、ただただ峡谷に放出される神聖力を凝集し、術式に換えることだけに集中した。
おそらく、この世界でただ一人、疑問の答えを知っているのであろう黒髪の若者を守る――そのためだけに。
しかし、無数の悲鳴と断末魔が谷いっぱいに反響し、否応なくアリスの精神を締め付ける。死ぬ。死んでいく。誰かの父が、兄が、姉妹が、そして子が。
……はやく。
アリスは心の裡で呟く。
いっそ、はやくその”時”が来てほしい。己の力で、巨大な死を生み出すことでこの惨劇を終わらせられる、その時が――。
人界侵略軍先陣を構成する、亜人混成部隊は壊走の一歩手前で踏みとどまっていた。
三人の長はすべて死んだ。殺された。それはつまり、敵を率いる騎士が、彼らの誰よりも強いということだ。そして、力あるものがすべてを支配する。
もしこの戦いが、亜人たちだけのものだったなら、長たちが討たれた直後に残る兵らは全面降伏していただろう。
危うくその事態を食い止めていたのが、彼らのうえに初めて降臨した暗黒の神、皇帝ベクタの存在だった。皇帝は十候の誰よりも強く、そして今はまだ人界の騎士とどちらが上かは決定されていない。
だから亜人たちは元命令を固守せざるを得ず、勢いに乗る人界守備軍と懸命に刃を打ち合わせた。
その、懸命なる奮闘が稼ぎ出した数分間を利用して、ダークテリトリー軍の切り札である遠距離戦力、つまりオーガ部隊と暗黒術師部隊が大門崩壊跡の線ぎりぎりに密集展開した。
陣形は、七千ものオーガ軍が前方で巨大な弩弓を構え、後方で三千の術師が攻撃術を詠唱するというものだ。指揮を取るのは、オーガ族の長フルグルではなく、術師総長ディーの最側近である練達の高位術師だった。
術師は、後方の伝令師から届いた命令に耳を澄ませ、ひとつ頷くや叫んだ。
「オーガ隊、弩弓発射用――意! 術師隊、”広域焼夷矢弾”術式詠唱開始!! 照準師、敵整合騎士座標への誘導術式詠唱開始!!」
広域焼夷矢弾、とはこの作戦のためにディー・アイ・エルが設計した、大規模殲滅術式である。限りある空間暗黒力を全て炎熱の威力へと換え、それをオーガの矢に乗せることで長距離の射程を実現する。”バードシェイプ”や”アローシェイプ”といった発射、誘導のための変形に術力を消費しないため、爆発、焼却の凄まじさは想像を絶するものになるはずだった。皇帝ベクタの威のもとに十候軍が共闘するこの戦だからこそ実現できる、”鉄血の時代”にも存在しなかった史上最大の攻撃術だ。
さらにディーは、風素因術に秀でた数名の術師によって、敵の主力である整合騎士に向けて威力を誘導・集中する”風の道”を造らせるという周到な策を用意していた。これは、仮にその誘導を一点に凝らせば、かの最高司祭アドミニストレータですら防げなかったと思われるほどの超高優先度攻撃となるはずだった。まさしく、かつて賢者カーディナルが危惧した、”個の力では対抗しきれない数の威力”そのものだったのだ――。
再び、雨縁が低く啼いた。
しかし今度は、鋭い牙鳴りの混ざる警戒音だった。
アリスは、朦朧とし始めていた意識を、気力を振り絞って立てなおし、じっと遥か彼方の闇の底を見徹した。
――来た!!
混戦を続ける亜人部隊のむこうに、新たな軍勢が整然と、しかし高速で突き進んでくる。金属鎧の輝きは無い。つまり前衛部隊ではなく、遠距離攻撃部隊だ。
彼らこそ、人界守備軍を一掃し得る、凶悪なる威力を秘めた破壊者たち。
しかしそれは、この私も同じなのだ――。
アリスが設計・駆式している術。それは、伝え聞いたファナティオとキリトの戦いに着想を得た、”反射凝集光線”術とでも言うべきものだった。
峡谷に満ちる空間神聖力と、戦いが生み出した放散天命力という膨大なリソースをもとに、アリスはまず晶素によって差し渡し三メルはあろうかという巨大な硝子球を生成した。
次に、その球を、鋼素によって分厚い銀膜を造り、くまなく覆う。
出来上がったのは、”閉じた鏡”だ。あとはそこに、発生するリソースの全てを光素へと変えて閉じ込めていく。
素因の保持、それは古から、幾多の高位術者たちを悩ませてきた基本かつ究極の技術だった。
生み出した各種の素因は、意識を繋いでおかねば気ままに空中を漂い、やがて消滅なり破裂なりしてしまう。そして、保持し得る素因の上限は、人間が持つ端末――つまり十指の数と一致する。
元老チュデルキンは、その特異な体格を利用して、頭のみで倒立することで両足の指をも端末化し、二十の素因を操った。さらに最高司祭アドミニストレータは、いかなる精神力を用いてか、自身の銀色の髪をも端末とすることで、百近くもの素因を保持した。
しかし、そのどちらもアリスには真似できない技術だ。そもそも、二十が百でもこの状況ではまったく足りない。何せ敵の暗黒術師は三千、全員が中位階梯だとしても最低一万五千を超える素因を発生させ得るのだから。
ゆえに、アリスは、発生させた素因から意識を切っても位置を保てる方法を考えた。しかし、攻撃術として一般的な熱素や凍素は、何に触れてもそれを燃やし、あるいは凍らせて消えてしまう。風素に至っては閉じ込めることがそもそもできない。
だが、カセドラル五十階での戦いに於いて、キリトが”天穿剣”の光を、わずかな鋼素と晶素から生成した鏡で反射してのけた、と聞いて、アリスは考えた。
光は、鏡と接しても跳ね返るだけなのだとしたら――閉じた鏡を造ってやれば。そして、その内側に光素を生成すれば。
理論上、鏡の天命が尽きるまで、無限個の光素を保持しておけるのではないか。
屈強なオーガ兵たちの引き絞った弩弓が、ぎりぎりと軋みながら天を向いた。
無数に煌く凶悪な鏃に、三千の暗黒術師たちは炎熱の力を封じ込めるべく、両手を差し伸べて、一斉に起句を詠唱した。
「「「システム・コール!!」」」
女声のみが幾重にも和するそれは、まさしく死の合唱だった。術師ひとりひとりは、自らが加わり作り出す力場の巨大さに陶酔しながら、次の術式を歌い上げた。
「「「ジェネレート・サーマル・エレメント!!」」」
しなやかな指先に、仄かに赤い輝点が瞬き――
即座にその色をくすませ、ささやかな煙とともに消滅した。
指揮官の高位術師は、いったい何が起きたのか即座に理解することが出来ず、もう一度式を唱えた。しかし結果は一緒だった。
呆然とする彼女に、傍らにいた若い術師が、おそるおそる言葉をかけた。
「ぶ、部隊長さま……これは……空間暗黒力が、枯れ切っているのでは……」
「そ、そんなはずがあるものですか!!」
指揮官は、愕然として叫んだ。幾つもの指輪が嵌まった左手で、前方の戦線を指す。
「あの悲鳴が聞こえないの!? 人も、亜人も、あんなに死んでるじゃないの!! あれだけの命が、一体どこに消えてしまったって言うのよ!!」
それに答えられる者は居なかった。オーガ兵たちも、発射命令が出ないことに苛立ちながらも、ただ弓を絞り続けるしかなかった。
時、来たれり。
アリスは一瞬瞑目し、すぐにきっと眦を決した。
たった一人のために多すぎる命を奪う罪は、己の両肩に背負ってみせる。
直径三メルの銀球は、雨縁の背中と首に保持され、その内圧を限界まで高めている。それにぴったりと合わせた掌に、ぐっと力を込め、アリスは叫んだ。
「雨縁……首を下げて!!」
命令に従い、飛竜が体を前傾させる。ずず、と銀球が転がりはじめ、ちょうど一回転して虚空へと放たれた、その瞬間。
「……バースト・エレメント」
これほどの威力を内包した術式にしては、あまりに短く、単純な一句だった。
銀鏡球は、前方に向いた一箇所をわざと薄く造られていた。
無限個の光素が崩壊する純粋な力は、そこに集中し、銀を真っ赤に溶解させ――。
パウッ。
という、かすかな音とともに外界へと放たれた。
最前線で”それ”を見たファナティオは、呆然と立ち尽くしながら、己の記憶解放攻撃の百倍はある、と考えた。
それ以外の衛士・騎士は、ただ単純に、ソルスの神威だ……と畏怖した。
幅十メルはあろうかという純白の光の柱が、斜め下方に向けて伸び、亜人部隊の中央に突き立った。そのまま峡谷の奥へと、撫でるように向きを変え――。
クアァッ。
甲高い共鳴音とともに、熱と光の波が峡谷の幅一杯に溢れかえり、直後、天地を引き裂く轟音とともに、山脈の稜線までも届く火柱が吹き上がった。
ほとんど手の届きそうな距離に出現した、とてつもない規模の”破壊”を、ディー・アイ・エルは当初みずからの作戦が生み出したものと誤解した。
しかしすぐに、峡谷の東、つまり外側に向けて押し寄せてきた熱気が、彼女を凍りつかせた。
灼けた風が運んできたもの。それは間違いなく、亜人部隊の、そしてディーが手塩にかけた暗黒術師たちの断末魔の悲鳴だった。
立ち尽くすディーに、傍らの伝令師が、掠れたわななき声で告げた。
「……原因不明の空間力枯渇現象により、我が方の”広域焼夷矢弾”術式は不発……直後、敵陣より放たれた未詳の大規模攻撃により、亜人混成部隊の九割、オーガ弩弓兵の七割、さらに暗黒術師隊の……三割が壊滅した模様です……」
「原因不明の枯渇……だと!?」
ディーは、突如噴出した瞋恚のままに叫んだ。
「原因は明らかだ! あの馬鹿でかい術式が、峡谷のあらゆる空間暗黒力を吸い取ったのだ!! しかし……有り得ぬ、あれほどの術はこの私にも……それこそ、死んだ最高司祭にしか行使できないはず!! ならば、何者の仕業だというのだ!?」
怒鳴り散らしてみたものの、何ら建設的な思考は湧いてこない。この局面をどう打開したものか、それ以前に皇帝ベクタになんと報告すればいいのか、十候最大の智謀を持つと言われたディー・アイ・エルにしてもまったく思いつかなかった。
桁外れに巨大な術式を行使した反動と、何よりもそれが生み出した惨劇そのものに打ちのめされ、アリスは雨縁の背中にくたりと崩れ落ちた。
飛竜は主の体をやさしく受け止めると、緩やかな螺旋を描いて人界守備軍の最前線に降下した。
真っ先に駆け寄ってきたのは、副騎士長ファナティオだった。両腕を伸ばし、滑り落ちかけたアリスを抱きかかえる。
「見事……見事な術式、そして心意だったわ、アリス。御覧なさい、あなたが導いた勝利よ」
囁くような声に薄目を開けると、いまだ赤熱する峡谷の底を、狂乱の体で逃走していく敵生存兵の姿が見えた。死体のほうはほとんど確認できない。最初の超高熱線を受けて瞬時に蒸発してしまったか、その後の爆発で跡形もなく四散したのだ。
あまりにも無慈悲な破壊を、誇る気持ちには到底なれなかった。
しかし、直後、周囲の衛士たちから津波のような歓声が沸き起こった。それはすぐに一つにまとまり、脈打つ勝ち鬨へと変わる。
整合騎士団万歳、四帝国万歳の唱和を聞きながら、アリスは詰めていた息を吐き、ファナティオの腕から立ち上がった。向けられる歓声に、かすかな笑顔と控えめに挙げた右手で応えてから、副騎士長に向けて口を開く。
「ファナティオ殿、戦いはまだ終わったわけではありません。今の術式が新たに発生させた神聖力を敵に再利用されぬよう、治癒術で消費しておかねば」
「そうね……向こうにはまだ主力が健在ですものね」
黒髪の麗人は頷くと、声を張り上げた。
「よし、修道士隊、それに衛士でも治癒術の心得のあるものは、空間力の尽きるまで全力で負傷者の治療に当たれ! 敵陣の動きからも眼を離すなよ!」
鋭い命令が響き渡るや、鬨の声に変わって、システムコールの起句が各所で響き始めた。
アリスは体の向きを変え、愛竜のやわらかい顎裏を掻いてやりながら、優しく囁いた。
「お前も、よく頑張ってくれましたね……ひとところに静止し続けるのは疲れたでしょう。寝床に戻って、食べ物をたっぷり貰いなさい」
竜は一声うれしそうに啼くと、浮き上がり、最後方の仲間たちのもとへと滑空していった。さて、自分も負傷者の救護に当たろう、そう思って一歩足を踏み出した、その時。
「……師よ」
低く響いた声は、騎士エルドリエのものだった。
ただ一人の弟子を労おうと、笑顔とともに視線を動かしたアリスが見たのは――常に洒脱で軽妙だったはずの若者の、凄惨な姿だった。
右手の剣。左手の鞭。ともに、何層にもこびり付いた血で赤黒く染まっている。それだけではない。白銀の鎧も、艶やかだった藤色の巻き毛も、返り血で酷い有様だ。いったい、どのような戦い方をすればこんな姿になるのか。
「え……エルドリエ! 怪我はないのですか!?」
息を飲みながら尋ねると、騎士はどこか虚ろな表情で、ゆっくりと首を振った。
「いえ……。しかし……いっそ、命を落とすべきでした……」
「……何を言っているのです。そなたには、この戦いが終わるまで、衛士たちを率いて戦い抜くという使命が……」
「私はその使命を果たせませんでした」
ひび割れた声で、騎士は呟いた。
アリスには知り得ぬことだったが、エルドリエは山ゴブリン族の奸系で前線突破を許してしまったあと、たっぷり数分間も、術式なしで煙幕を晴らそうと無駄な努力を続けたあと、ようやく手勢を率いて後方を襲ったゴブリンを追ったのだ。
しかしその時にはすでに、山ゴブリン族長コソギは、”失敗騎士”の烙印を押されていたはずの整合騎士レンリに討たれたあとだった。挽回の機会をも奪われたエルドリエは、ほとんど惑乱の体で、長を失い逃げ惑うゴブリンたちを片端から殺戮し――血にそぼ濡れた姿で、師が上空から放った神威の術式を見上げたのだった。
「アリス様の期待を……私は裏切った……」
鞭を腰に戻した左手で、エルドリエは激しく長い巻き毛を引き毟った。
「愚かな……無様な姿を……生き恥を晒し……何が騎士か……!」
そして、何が”師を守りたい”か。
あの凄まじい術式の威力。違いすぎる――何もかも。
所詮、必要なかったのだ。天才騎士である師には、自分のような半端者など。剣技も、術力も、完全支配術にも秀でるものを持たず、その上ゴブリンごときの策にしてやられる愚昧ぶりをも露呈したのだから。
このざまで、守るどころか――師の心を、愛を得ようなどと――滑稽にも程がある。
「私には……アリス様の弟子を名乗る資格など……!」
血を吐くような激しさで、エルドリエは叫んだ。
「そなたは……そなたは、良くやりました!」
呆然としながらも、アリスはどうにかそれだけを口にした。
一体、エルドリエに何が起きたのか、推測することもできなかった。前線に多少の混乱はあったようだが、さしたる被害もなく敵を打ち破っているではないか。
「私にも、守備軍にも、そして人界の民たちにもそなたは必要な者です。何故そのように、己を責めるのです」
最大限穏やかな声でそう言い聞かせたが、エルドリエの眼光の昏さは薄れることはなかった。返り血が点々と跳ねる頬を震わせ、騎士は聞き取りにくい声で呟いた。
「必要……。それは……戦力として、ですか……それとも…………」
言葉は、最後まで言い終えられることはなかった。
不意に空気を震わせた、異質な唸りが、アリスとエルドリエの聴覚を同時に刺激した。
「ふるるるる……」
狼のような、犬のような、湿った喉声。アリスは眼を見開き、峡谷の奥側を見やった。
地面が冷えて再び訪れた夜闇にまぎれるように、巨大な影がうっそりと立っていた。
人のかたちではない。奇妙な角度に折れ曲がった下肢、異様に細い腰周り、前傾する逞しい上体と、そこに乗る頭は――まさしく、狼のものだ。ダークテリトリーの亜人。オーガ族。
神速で右手を剣の柄に掛けたアリスは、しかしすぐに相手が丸腰であることに気付いた。それどころか――体の左半分は醜く焼け焦げ、薄く煙を上げている。熱線に灼かれ、重傷を負ったのだ。しかしなぜ、他の亜人のように撤退しなかったのか。
いつの間にか、周囲からは衛士たちや騎士の姿は消えている。エルドリエと話しているあいだに、治療のために彼らも少し後方に引いたのだ。
オーガの挙動を鋭く警戒しながら、アリスは低く問うた。
「……そなた、見たところもはや瀕死の深手。その上丸腰で敵陣に打ち入るのは何ゆえか」
返ってきた言葉は、まったく予想外のものだった。
「……るる……おれ……は、オーガの長……フルグル…………」
名乗りとともに、突き出た口吻から長い舌が垂れ、ハァハァと激しい呼吸音が響く。
アリスは小さく息を飲んだ。オーガの長、つまり暗黒界十候の一人であり、敵軍の最高位の将ではないか。となれば、やはり最後の力で斬り込みにきたのか。
しかし、オーガは更に意外な言葉を発した。
「おれ……見た。あの……光の術……放ったの、お前。あの力……その姿……お前、”光の巫女”。るるる……お前、連れていけば……戦争、終わる。草原、帰れる……」
何を――言っているのか。
光の巫女? 戦争が終わる?
まったく意味は分からなかったが、しかし、自分が今何かとてつもなく重要な情報に触れているのだということをアリスは直感した。もっと訊き出さねば。一体、巫女、つまり自分を、どこに”連れていく”というのか。
だが、その瞬間。
「…………おのれ……獣が何を言うかッ!!」
絶叫したのはエルドリエだった。右手の血刀を振りかぶり、一直線にオーガの長に斬りかかる。
だが、その刃は、振り下ろされることはなかった。
凄まじい速度で、ほとんど瞬間移動のように飛び出したアリスが、左手の二本の指だけでぴたりとエルドリエの全力の斬撃を押さえたのだ。
「し……師よ、何故!?」
悲鳴にも似た声を漏らす弟子に、言葉を掛ける余裕もなく、アリスは目の前のオーガに向かって更にもう一歩踏み出した。
間近で見ると、亜人の傷は深手というよりも既に致命傷だった。左腕から胸にかけてはほぼ炭化し、そちらの眼も白く濁っている。意識すらも、半ば混濁状態であることが察せられたが、アリスは尚も問いを続けた。
「――いかにも、私こそが”光の巫女”。さあ、私を連れていくのは何処なのです。私を求めるのは誰なのですか」
「……るるるる……」
オーガの、無事なほうの眼が鈍く光った。長い舌から、血の混じった唾液が垂れる。
「……皇帝……ベクタ、言った。欲しいの、光の巫女だけ。巫女をつかまえ、届けた者の願い、何でも聞く。オーガ……草原帰る……馬飼って……鳥撃って……暮らす…………」
皇帝――ベクタ!!
伝説の暗黒神! そんなものが、ダークテリトリーに降臨したというのか。その神が、この戦を、そして”光の巫女”を欲しているのか。
アリスは、得た情報をしっかりと記憶しながらも、目の前の大きな亜人に憐れのこもった視線を向けた。
この、狼の頭を持つ戦士からは、ゴブリンが放つような生臭い欲望の匂いはまるで漂ってこない。ただ、命ぜられるままに戦場に参じ、命ぜられるままに弓を引き絞り――しかし、それを放つことなく部族の者ほとんどが死に絶えた。
「私を……恨まないのですか。そなたの民を皆殺しにしたのは、この私です」
アリスは、無為と知りながらそう言わずにいられなかった。
オーガの答えは、至極単純であり、それゆえに真理を含んでいた。
「強いもの……強さと同じだけ、背負う。おれも……長の役目、背負っている。だから……お前、捕まえて、連れて……いく…………」
ぐるるるるっ!!
突然、オーガの口から凶暴な咆哮がほとばしった。
逞しい右腕が、凄まじい迅さでアリスに向かって伸びた。
チン。
短く響いたのは、金木犀の剣の鍔鳴りだった。アリスが、オーガの数倍の速度で抜剣し、一閃ののち鞘に収めたのだ。
ぴたりと亜人の巨躯が停まった。
アリスが一歩退くと同時に、ゆっくりとオーガはその身を横たえ、地に沈んだ。逞しい胸に、薄く一直線の傷痕が浮かんだが、あまりの滑らかさゆえか一滴の血も零れなかった。
音も無くまぶたを閉じた、狼頭の戦士のむくろに、アリスは右手をかざした。ふわりと放散されるささやかな神聖力を受け止め、幾つかの風素を生み出す。
「せめてその魂を、草原に飛ばしなさい……」
緑色の光は、一陣のつむじ風となって峡谷の空へと舞い上がっていった。
御座車の床にひざまずき、限界まで平伏しながら、ディーは己を見下ろす皇帝の視線に心底恐怖した。
怒りに、ではない。
氷色の瞳は、ひたすら無感情に、ディーの価値と能力のみを計ろうとしている。己が無能、無用の者であると判断されたとき、はたして皇帝がどのような処分――罰ではなく――を下すのか、それを考えただけで骨の髄まで震えがきた。
やがて、低く滑らかな声が短く問うた。
「ふむ。つまり、お前の策が失敗したのは、敵が先んじて空間……暗黒力を吸収・消費し尽くしたから、というわけだな?」
「は……はっ!」
ディーは額を足元に擦り付けるようにして答えた。
「まさにその通りであります、陛下! 最高司祭無き敵軍に、それほどの術者が残っているという情報は入っておりませなんだゆえ……」
「暗黒力を補充するすべはないのか?」
必死の言い訳には耳も貸さず、皇帝は対応策のみを求めた。しかし、それに対しても、ディーは首を横に振るしかなかった。
「お……おそれながら……敵整合騎士を殲滅し得るほどの高密度暗黒力の補充には、肥沃な地勢、横溢な陽光がともに必要となり……あるいは、オブシディア城の宝物庫になら暗黒力に転用可能な輝石のたぐいが秘蔵されておりましょうが、回収に向かうにも数日の時間が……」
「なるほど」
皇帝は軽く頷くと、鋭利な相貌を西の峡谷へと向けた。
「……しかし、見たところ、この地には草木もなく、またすでに日も沈んでいるようだが。ならば、お前は何を力の源として大規模術式を実行しようとしたのだ?」
ディーは恐怖のあまり、暗黒術体系の開祖たる古神ベクタが、ごく基本的な理屈について問うてくる違和感を意識することはなかった。己の保身のみを懸命に追う女術師は、沈黙を畏れるようにひたすら口を動かした。
「はっ、それは、何と言ってもいくさ場に御座りますゆえ……亜人ども、また敵兵どのも流した血と尽きた命が暗黒力となって大気を満たしておりました」
「ふ……む」
皇帝が玉座から立ち上がる気配がしたが、ディーは顔を上げられなかった。
こつ、こつ、と黒革の長靴が近づいてくる。内臓が絞られるような恐慌。
凍りつくディーのすぐ左脇で立ち止まった皇帝は、毛皮マントの裾を夜風になびかせながら、小さく呟いた。
「血と……命か」
「”光の巫女”……?」
干した果物と木の実を刻んで混ぜた堅焼きパンを大きくかじり取った騎士長ベルクーリは、逞しい顎を動かしながら首を捻った。
いっときの停戦状態を利用して、守備軍の兵たちには補給部隊から大急ぎで戦場食が配布された。負傷者の治療はあらかた終了し、超高位術者でもある整合騎士の活躍もあって、瀕死だった者ですらもすでに起き上がってスープをかき込んでいる。しかし無論、死んだものたちは戻ってこない。千名で構成されていた第一陣のうち、百五十近い衛士と、一人の下位騎士が命を落としていた。
アリスは、小さくちぎったパンを口に運びながら、正面に腰を下ろす騎士長に頷きかけた。
「はい。そのような名称、これまでどんな歴史書にも見出したことはありませんが、しかし敵の総司令官がそれを強く求めているのは確かと思われます」
「司令官……闇の神ベクタ、か」
唸るベルクーリの手中のグラスに冷えたシラル水を注いでから、副長ファナティオが言葉を発した。
「とても信じられません……神の復活、などと……」
「まぁ、な。しかし……得心のゆく部分もある。敵本陣を覆う異質な心意を、お前も感じておらぬわけではあるまい」
「は……確かに、吸い込まれるような冷気を……感じる気も致しますが……」
「何せ、世界が創られて以来はじめて大門が崩れたのだ。もう何が起きても不思議ではない、と考えるべきかもしれん。だがな……嬢ちゃんよ」
勁い眼光がアリスを正面からとらえる。
「ダークテリトリーに暗黒神ベクタが降臨し、そ奴が”光の巫女”を求めており……さらにその巫女が、嬢ちゃんのことだと仮定するとして、それが今の戦況にどう影響する?」
そう。
結局はそういうことになる。ベクタは巫女を手に入れれば満足するのだとしても、残る闇の種族らは、人界を喰らい尽くすまでは決して止まるまい。この峡谷を何が何でも死守せねばならないという状況に変わりはない。
しかし、アリスには、もうひとつだけ脳裏に染み付いて離れない単語があった。
“世界の果ての祭壇(ワールドエンド・オールター)”。
そこに辿りつけば、半年前のカセドラルでの戦いの最後で、キリトが会話をしていた謎の”外の神々”に呼びかけられるはずだ。
今までは、そこに向かいたくとも、大門の防衛を放棄するわけには絶対に行かないという事情があった。
しかし――追ってくるなら。
光の巫女を求めるベクタとその軍が、山脈から出たアリス一人を追いかけてくるならば。
むしろ、敵軍を人界から引きはなし、更に守備軍の陣容を整える時間を稼げるのではないか――。
あまりにもあやふやな”祭壇”の話は伏せたまま、アリスは毅然とした口調で、守備軍最高指揮官に告げた。
「私が単身、敵陣を破って、ダークテリトリーの辺境へと向かいます。敵の首魁と、少なからぬ手勢は私を追ってくるはず。充分な距離を取って分断したところで、残る敵軍を逆撃、殲滅して頂きたい」
皇帝ベクタは、何の感情も交えぬ乾いた声で言った。
「ディー・アイ・エル。三千も使えば足りるか?」
「……は、は?」
言葉の意味がわからず、ディーはついに顔を持ち上げた。皇帝の横顔は、いっそ穏やかとすら思えるほどに滑らかで、ただその眼だけが、ぞっとするような何かを湛えて眼下の軍勢を睥睨していた。
「敵整合騎士を排除する術式を再度行使するための暗黒力として――」
続いた言葉に、さしもの冷酷なる智将も、愕然と両眼を見開いた。
「あのオーク予備兵力の命を三千も消費すれば足りるか、と聞いている」
両脚から這い登る冷気。深甚なる恐怖。
それらは、背筋に染みとおる過程で――あまりにも甘美な、皇帝への帰依と陶酔へと変わった。
「……充分でございます」
ディーは、意識せぬまま皇帝のブーツにすがり、額を押し付けて囁いた。
「ええ、充分にござりますとも陛下。ご覧に入れてさしあげますわ……我が暗黒術師ギルド史上最大最強、この世の地獄の顕現たる奇跡の術式を……」
人界、暗黒界問わず、アンダーワールドに住まう者の名前は、言語と直結する意味を持たない、”音の羅列”である。
これは、最初の人工フラクトライトを育てたラーススタッフ、”原初の四人”が、名前というものについて深く考えることなく、彼らの認識するファンタジー的なカタカナ名を”子”や”孫”たちに与えたことに端を発する。
原初の四人が死去(ログアウト)したあと、フラクトライトたちは独力で子供を生み、育てていくこととなった。そこで彼らを戸惑わせたのが、確立されぬままの命名法だった。
やむなく、初期の親たちは自分と似たような、意味を持たない音の組み合わせを子に与えていた。しかし時代が下り、世代交代が進むなか、いつしか名付けにも法則が生まれ、それはアンダーワールド独自の”命名術”というようなものにまで進化することとなった。
つまり、アからンまでの音と、濁音、半濁音すべてに意味を与え、その組み合わせによって子供の未来に願いを込める――というものだ。
例を挙げれば、ア行の音は真摯さ。カ行の音は快活さ。サ行は俊敏さ。タ行は、元気で丈夫。ナ行は包容力……等々。よって、”ユージオ”は、優しく、仕事が早く、真面目であるように、という意味になる。”ティーゼ”は、元気で面倒見がよく、武術に才があることを願ってつけられた名前だ。命名術はダークテリトリー五族でも共通のもので――あまりにも繁殖力が強すぎるゴブリン族は、簡便に話し言葉を流用することも多いが――、たとえば”シグロシグ”は、敏捷、勇猛、精悍、また敏捷勇猛たるべし、という欲張りな名前である。
さて――。
亜人五族を率いる五人の将、最後の生き残りであるところのオーク族の長。
彼は、その名を、リルピリンと言った。
リルピリンは、かの暗黒将軍シャスターをして、ディー、コソギと並んで人界との和平を阻む最大の障害であると言わしめたほどの、人族への強烈な敵意の持ち主として知られている。
しかし、それは決して生来の性質ではなかった。
彼は、オークの有力豪族の子として生を受けたとき、種族の歴史上もっとも見目麗しい赤子であると賞された。与えられた名前は、美しさを表すラ行音を三つも含んだ、オークとしては稀有なものだった。
リルピリンは、両親の願いどおり、容姿も、そして心根も美しい若者としてまっすぐ育った。武才にも恵まれ、次代の長として誰からも期待され、そしてある日、先の十候に付き従って、初めてオーク領である南東の湖沼地帯を出て帝城オブシディアに登った。
きらびやかな鎧と剣で身を飾り、誇らしく背を反らして城下町へと入った彼が目にしたのは――ほっそりとした体、艶やかな髪、そしてくっきりと麗しい目鼻立ちを持つ”人族たち”だった。
リルピリンは、天地が砕けるような衝撃とともに知った。自分の美しさは、あくまで、『オークとしては』という一句が先に付くものであること。そして、オークは、暗黒界五族のなかでもっとも醜い種として嘲笑されていることを。
でっぷりと丸い腹、短い手足、巨大で平らな鼻、小さく潰れた眼、垂れ下がった耳。そのような造作を持つオークにあって、リルピリンが『美しい』と称えられたのは、取りも直さず、顔立ちがかすかに人族に近いから、という理由だったのだ。
それを知ったとき、リルピリンの魂は崩壊寸前にまで追い込まれた。精神を保つため、彼はひとつの激烈な感情にすがるしかなかった。つまり、敵意だ。いつか必ず人族を打ち滅ぼし、全員を奴隷化したあげく、二度とオークを醜いと嗤えないように一人残らず目を潰してやる、という凄まじい決意を秘めたままリルピリンはオークの長となった。
だから、彼は決して、先天的な残虐性を持っているわけではない。それは巨大な劣等感の裏返しというだけであり、一族の者に対しては、変わらず慈悲深き名君だった。
「そ……そではあんまりだ!!」
皇帝の命令が届いたとき、リルピリンは思わず叫んだ。
オーク軍はすでに、先陣の補助兵力として一千名を出し、悉く失っている。自分の指揮の届かないところで、ゴブリンやジャイアントどもに命ぜられるまま戦い、死んでいった彼らのことを考えるだけでも胸がつぶれそうだというのに、新たに下された指示はあまりにも無慈悲なものだった。
暗黒術師の攻撃術の礎となるために、三千の人柱を拠出せよ。
もはや、戦士としての名誉も、それどころか知性あるものの尊厳すら欠片も認められない死に様だ。ただの肉――輜重部隊の竜車に積まれている毛長牛どもと何ら変わりないではないか。
「おで達は、戦うだめにここに来たんだ! お前らの失敗を命で償ってやるだめではない!」
甲高い声を振り絞り、リルピリンは抗弁した。
しかし、腕組みをして立つ暗黒術師総長ディーは、冷たい眼で見下ろしながら、傲然と言い放った。
「これは勅令である!!」
ぐ、とオークの長は喉を詰まらせた。
皇帝ベクタの力のほどは、あの暗黒将軍の叛乱劇のさいに嫌と言うほど目にしている。十候を遥か超える力を持つ、圧倒的な強者だ。
強者には従わねばならない。それ以外の選択肢は一切ない。
しかし――。しかし。
リルピリンは立ち尽くし、両拳をぶるぶる震わせた。
と、背後から、オークにしては低く滑らかな声がかけられた。
「長よ。皇帝の命には、しだがわねばなりませぬでしょう」
ハッ、と振り向くと、立っていたのはやや細めの体と、薄くながい耳を持つ女オークだった。リルピリンの遠縁にあたる豪族で、子供の頃にはよく一緒に遊んだ幼馴染だ。
穏やかな笑みを口元に滲ませ、彼女は続けた。
「私と、我が隊三千名、喜んで命を捧げまする。皇帝のだめ……そして、一族のだめに」
「…………」
リルピリンは言葉を失い、ただ長い牙を砕けそうなほどに噛み合わせることしかできなかった。女オークは一歩前に出ると、密やかな声で囁いた。
「リル。私は信じでいます。人だけではなく、死んだオークの魂も神界に召されるのだと。いつか……まだ、そこで会いましょう」
お前までもが命を捧げる必要はない、そう言いたかった。しかし、人柱となる三千の兵に運命を受け入れさせるには、彼らがある意味では長よりも崇拝している姫君であるところの彼女が共に逝くことが必要であるのも確かだった。
リルピリンは、強く相手の手を握り、呻くように言った。
「すまん……許しでくれ……すまない……」
そんな二人を厭わしそうに見下ろしながら、ディー・アイ・エルが、無慈悲に言い放った。
「五分以内に三千名を峡谷手前百メルに密集陣形で待機させよ。以上だ!」
身を翻し、去っていく人族の長を、オークの長は燃え上がりそうな視線で凝視した。なぜ、なぜオークだというだけでこんな仕打ちを受けなければならないのか、という叫びが胸中で渦巻いたが、答えはどこからも得られなかった。
整然とした縦列を組み、本陣を出て行進していく三千の兵たちは、いっそ誇らしげですらあった。だが、それを見送る七千の同族からは、すすり泣きと怨嗟の声が低く、深く響いた。
若き姫に率いられた三千のオークは、暗黒騎士団と拳闘士団の陣の中央を、旗指物を翻しながら抜けていき、峡谷の入り口から少し下がったところで方陣を組んだ。
その周囲を、黒い霧が湧くように、二千の暗黒術師たちが取り囲んだ。
開始された詠唱は、術式の呪わしさを映してか、ひどく耳障りな共鳴音を作り出し大気を震わせた。
「あ……ああ…………」
リルピリンは掠れた呻き声を放った。突如、愛する兵たちが、苦悶するように身を捩り、地に崩れたのだ。
のたうつ彼らの体から、白く点滅する光の粒のようなものが、間断なく吸い出されていく。それらは術師のもとへと集まると同時に黒く変色し、わだかまって、次第に奇怪な長虫のような姿へと変わっていく。
三千の兵と、ひとりの姫将軍の悲鳴が、鋭く、鮮やかにリルピリンの耳に響いた。
それに混じって、口々に叫ばれる、甲高い声もまた。
オーク万歳。オークに栄光あれ。
直後、兵たちの体が、立て続けに爆ぜ始めた。血と肉片をばら撒きながら、なおも大量の光を放出し、たちまち術師たちに奪われる。
いつしかリルピリンは両膝を突き、右拳を地に打ち付けていた。あふれ出した涙が、大きな鼻の両側を伝い、音を立てて砂に落ちた。
人め。
人め!
人どもめらが!!
怒りと怨みの絶叫が脳内にはじけるたびに、なぜか右眼が強く痛んだ。
時を遡ること十数分。
人界守備軍本陣では、二分された部隊が、再会を誓い合って握手や抱擁を繰り返していた。
整合騎士アリスの策を容れた騎士長ベルクーリが、もう一つの決断を付け加えたのだ。
それは、囮となって敵軍を引きつける”光の巫女”ことアリスに、部隊の五割を同行させる、というものだった。もちろんアリスは強く反対し、単独行を主張したが、騎士長は聞き入れなかった。
――囮が嬢ちゃん一人では、敵は大して追っ手を振り分けないだろう。充分な戦力が共に逃げてこそ、分断策も奏功するってもんだ。
そう言われれば、反論はできない。”光の巫女”などというあやふやな話ひとつを根拠に、自分にひとりに敵全軍を引き寄せる価値があると主張するのは強引にすぎるのも確かだからだ。
それに、アリスは、雨縁の背に自分だけでなくキリトをも載せていくつもりでいた。単身囮となりつつ、彼の身を守りつづけられるか、いくばくかの不安もあった。部隊が共に附いてきてくれるなら、その意味では心強い。
守備軍の二分割が決定されたあと、ベルクーリはさらに皆を驚かせた。
総指揮官たる騎士長自身も、囮部隊に加わるというのだ。
これには、居残り部隊の指揮官に命ぜられたファナティオとデュソルバートが大反対した。
「お前らはもう充分働いたじゃねえか」
諭すような口調で言うベルクーリに、ファナティオは眦を吊り上げて抗弁したものだ。
「私がお傍におらねば、着替えも畳めないような人が何を仰いますか!!」
これには、騎士や衛士たちの間から、大いに囃し立てる声が上がった。ベルクーリは苦笑し、ファナティオの耳元に顔を寄せて何か囁き――驚いたことに、副長は俯いて引き下がったのだった。
デュソルバートのほうは、緒戦で鋼矢が尽きてしまったという明快な事実を指摘され、こちらも已む無く受け入れた。現在、後方の街に補給隊員が仕入れに走っているが、一、二時間でどうなるものでもない。
進む部隊、留まる部隊、別れを惜しむどちらの顔も、等しく緊張と気遣いに満ちていた。実際、どちらがより危険なのかは定かでない。敵軍のどれくらいが囮部隊を追い、どれくらいが大門攻撃を続行するかは、神のみぞ――いや、敵総指揮官たる暗黒神ベクタのみが知っているのだ。
やがて、囮部隊を構成する五人の上位騎士とその飛竜、千二百の衛士、更に五十人の補給部隊の準備が整った。
補給隊の輜重段列には、四頭立ての高速馬車十台が仕立てられた。そのうち一つに、キリトの車椅子と、二人の少女練士たちも乗っているはずだ。
アリスは、彼女らが囮部隊に加わることに激しく逡巡した。しかし、ティーゼとロニエの決意は固かった。それに、一体何があったのか、上位騎士の一人であるレンリが命に代えても彼女たちを守ると誓ったのだ。
アリスは、正直なところ、騎士レンリをほとんど記憶に止めていなかった。だが、その幼い顔に満ちた決意と自信、そして両腰に装備された神器がまとう心意は本物だと思えた。
ベルクーリの”星咬”を先頭に、五騎の飛竜が助走を開始したとき、後方に残る部隊からは控えめな歓声が上がった。
アリスは、騎士長の左後方で雨縁の手綱を握りながら、さらに左に付くエルドリエにちらりと視線を送った。
常に饒舌な弟子が、出撃準備のあいだ中やけに寡黙だったことが少し気になった。しかし、何か言葉を掛けようとした寸前、星咬がふわりと離陸し、アリスも慌てて前を向くと雨縁の横腹を軽く蹴った。
「よし――峡谷を出ると同時に、竜の熱線を敵主力に一斉射! 向こうにはもう遠距離攻撃手段はほとんど無いはずだ、敵竜騎士にだけ気をつけろよ!」
ベルクーリの指示に、はいっ、と鋭く応える。
すぐ後ろからは、騎馬と徒歩で突進する衛士たちの足音が重く響く。彼らと輜重馬車が峡谷を出て、南つまり右方向に直角転進し、充分に距離を取るまでは整合騎士だけで戦場をかき回さねばならない。
狭く暗い峡谷の彼方に、たちまち無数の篝火が見えてくる。
やはり――多い。あれだけ倒したのに、敵本隊の規模はいまだ膨大だ。
とは言え、その大部分は暗黒騎士、それに拳闘士であるはず。どちらも近接戦闘に特化した部隊で、飛竜に騎乗した整合騎士に対する有効な攻撃方法は持たない。
いや。
あれは、何だ。
風切り音に混ざって届いてくる、低くうねるような、呪詛じみた唱和。
術式――多重詠唱!?
馬鹿な、この一帯にはもう、大規模攻撃術を行使できるほどの神聖力は残っていないはず!!
アリスは自分の直感を否定しようとした。
しかし同時に、すぐ前を飛ぶベルクーリが、「奴ら……何て真似を!!」と吐き捨てる声が聞こえた。
ああ。
なんと、
いう、
力か!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、両手を高く掲げながら、あまりの法悦に全身をわななかせた。
これほど濃密に飽和した空間暗黒力場を体感した術師は、史上ひとりたりとも存在するまい。
知性あるものの天命というのは、この世界で最も優先度の高い、純粋なる力の塊である。たとえそれが、卑しく醜いオークの命であろうとも。この密度を百年もののワインに喩えるならば、陽光や大地から供給される力などただの水だ。
そのうえ、先刻の”広域焼夷矢弾”で用いようとしたのは、あくまで戦闘で消費された命の残りカスである。しかし今は、三千もの命を、術式により直接暗黒力に変換しているのだ。
ディー以下二千名の術師たちが差し伸べる両手には、それぞれ黒いもやが凝集して出来上がったような、無数の足を持つ醜悪かつ巨大な長虫が何匹ものたくっている。これらは闇素因から生成された、いわば”天命喰らい”だ。剣も盾も、あらゆる物質では絶対に防げない。暗黒力の変換効率としては、火炎や凍結攻撃には劣るが、これほど豊富な供給源があれば話は別だ。
貴重な部下を千人も焼き殺してくれた、敵の”光の柱”への意趣返しとしてディーはこの術を選んだ。のた打ち回って死んでいくオーク兵の断末魔すら、彼女には甘美な交響曲でしかなかった。
「よぉし……”死詛蟲”術、発射用意!!」
高らかに叫んだディーの眼に――。
何をとち狂ったか、峡谷の奥から突撃してくる竜騎士どもと、騎兵、歩兵の群れが映りこんだ。
一瞬の驚きは、すぐに歓喜へと変わった。これで、醜い死に様を晒す敵軍の有様すらも、間近で鑑賞できるというものだ。
「焦るな!! 充分引き付けろ!! …………まだ……まだだ…………――今だ、放てぇぇぇッ!!」
ゾワアアアァァァァッ!!
怖気をふるうような唸りとともに、無数の長虫が、敵軍目指してまっすぐに飛びかかっていった。
まるで漆黒の壁のごとく峡谷を埋め尽くし、押し寄せてくる術式を視認して、一般民の衛士のみならず、上位整合騎士たちまでもが言葉を失い思考を凍らせた。
その、有り得ないほどの――恐らく、先にアリスが使った反射凝集光線術を上回る超々高優先度と、さらに術式の属性を瞬時に認識したがゆえのことだった。
闇素因系呪詛攻撃。
物理防御不可能な、直接天命損耗術。
空間力の変換効率が異常に低い呪詛術式を、なぜ敵がこれほど大規模、高密度に行使できたのか――しかも周囲の力場はほぼ枯渇しているのに――、という謎を看破できたのは、騎士長ベルクーリだけだった。
しかし彼とても、対応防御策を即座に指示することまではできなかった。
あらゆる攻撃術には、その源となった素因や、密度、範囲、速度、方向性など、多くの属性が存在する。
ゆえに防御するためには、それら属性のいずれかを相殺、あるいは逆利用する必要がある。火炎術なら凍素で打ち消す、追尾術なら囮を撒く、直進術なら己を高速回避させる、など、適切な対応を瞬時に選択実行できることが高位術者の条件であると言っていい。
だが、この場合だけは。
敵の攻撃が、あまりにも規格外だった。
闇素因術を相殺できるのは光素因のみ。しかし、光素もまた転換効率が低く、とてもあれだけの呪詛を昇華できるほどの量を生成はできない。ファナティオの記憶解放攻撃ならば間違いなく敵術式を撃ち抜けるが、天穿剣の光はあまりにも細すぎるし、そもそもこの場には居ない。
「回避!! 急上昇!!」
ベルクーリにしても、ただそう叫ぶことしかできなかった。
五匹の飛竜が、螺旋を描くように反転し、まっすぐ峡谷の上空を目指す。
ゾッ、ワァッ!!
闇色の奇蟲群も、おぞましい羽音とともに向きを転じる。
しかし。
「――いかん!!」
ベルクーリが叫んだ。
追ってくる蟲たちは、全体の半分にも満たない量だった。
残りはすべて、後方を駆けてくる衛士たちと、補給部隊目掛けて直進した。
「……っ!!」
鋭い呼吸音を漏らし、騎士アリスが飛竜を再び反転させた。下方を這い進む暗黒術の先頭めがけて突っ込んでいく。
シャッ!! と高らかな鞘鳴りとともに金木犀の剣が抜かれた。たちまち、刀身が山吹色の輝きを帯びる。
「嬢ちゃん!! 無理だ、その技では!!」
ベルクーリの叫びが上空から響いた。
そう――、一対多の戦闘に於いても、圧倒的なまでの威力を示す金木犀の剣の武装完全支配術だが、あくまでも物理金属属性なのだ。実体の薄い呪詛を斬ることはできない。
アリスにも、それはいやというほど理解できていた。
しかし、衛士たちが襲われるのをただ見ていることなどできなかった。
そのとき。
更に一頭の竜が、翼を畳み、流星のような勢いでアリスの雨縁を追い抜いた。
滝刳。
騎士エルドリエの竜だった。
師を追随して竜を上昇させる最中、エルドリエの脳裏には、ただひとつの言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。
守る。
師を、アリスを、剣を奉げ献身を誓った人を、守らなければ。
だが、同時に、まったく同じ音量で決意を嘲う声も聞こえた。
どうやって守るというのだ。お前ごとき力足らずが。あらゆる能力に於いてはるか劣り、そのくせ師の視線を、気持ちを求めてやまない愚か者が。
これまでの年月、エルドリエの剣力の源となっていたのは、ひとえにアリスに尽くさんという強烈な心意だった。それあってこそ彼は騎士団有数の力を得ることができたのだが――ゆえに、揺らいだときの反動もまた巨大だった。
自分には、師アリスを守る力も、その傍らに立つ資格もない。
そう思いつめた時点で、彼の力は、すでにほぼ喪われつつあったのだ。
すぐ眼前を飛翔するアリスの、金色の髪のきらめきを、エルドリエはただ追った。
かくなる上は、師とともに、同じ地に命を散らすのも――また良し。
そんな諦めとともに、反転するアリスを追随したエルドリエの視界に、地上を突進する衛士隊が捉えられた。
その後方。
土煙を上げて進む高速馬車。
一台の幌を貫いて、ひとつの、ささやかな青い光がちかちかと瞬いた。
脳裏に、不思議な声が聞こえた。
――あなたの決意に。
――守りたいという気持ちに。
――代価は必要ない、そうでしょう?
――愛は求めるものじゃない。ただ与え、与えつくして、なおも枯れることのないもの。そうでしょう……?
ああ……。
私は、何を、迷っていたのか。
力が足りないから。心を独占できないから。だから守れない。
なんてちっぽけな……。
アリス様は、人界すべてを救おうとしているというのに。
エルドリエは、右手で滝刳の手綱を強く鳴らし、叫んだ。
「行けッ!!」
主の心意を感じ取ったかのように、竜が翼を引きつけ、一気に加速した。たちまちアリスの竜を追い抜き、殺到する死の長虫の群れの直前に達する。
左手がひらめき、腰から白銀の鞭を抜いた。
神器”星霜鞭”は、かつて東方で神蛇と呼ばれた、巨大な蛇を源とする武器である。その記憶を解放することで、射程を五十メルに伸ばし、同時に七の目標を攻撃する。
今の状況では、そのような拡張性能は何の役にも立たない。
しかしエルドリエは、断固たる確信とともに、強く念じた。
蛇よ!!
古の神蛇よ!
貴様もくちなわの王ならば、あれらごとき長虫の群など――喰らい尽くしてみせろッ!!
「リリース・リコレクション!!」
高らかな一声。星霜鞭が、まばゆい銀の光を放った。
迸った光条は、幾百、千をも超える数となり、闇の虫群へと襲い掛かっていく。
いつしか光はすべて、輝く蛇へとその姿を変えていた。エルドリエの左手から放射状に放たれた蛇たちは、鋭い牙の煌くあぎとを大きく開け――死の長虫に喰らい付いた。
ゾワアッ!!
無数の震動音とともに、闇素の粒が舞い散った。衛士たちを襲おうとしていた一群と、上空の騎士に向かっていた一群が、すべて光の蛇を最優先の敵と認識したがごとく、瞬時に向きを変えた。
蛇たちが、たちまち無数の長虫に纏わりつかれる。闇の呪詛は、蛇の身体を覆い、さかのぼり、その源へと殺到していく。
エルドリエは、いまこの状況で唯一干渉可能な、敵術式の属性――。
“自動追尾属性”を逆利用し、己ひとりの身に、全威力を集中させたのだ。
ゾッ。
騎士の全身が、闇に呑まれた。
直前まで、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスの天命は、数値にして5600を少し超えていた。
その値が、瞬時に、マイナス500000へと変化した。
エルドリエの体が、胸のすぐ下で、爆発するように砕け、飛び散った。
「エルドリエ――――――!!!」
アリスは絶叫した。
四年の年月を共に過ごした、ただ一人の弟子が、肉体のなかば以上を失い竜の背から滑り落ちていく。
雨縁を急降下させたアリスは、身体を乗り出し、左手を限界まで伸ばして、エルドリエを掴み止めた。そのあまりの軽さに息が詰まったが、歯を食いしばり、胸に掻き抱いて竜を上昇させる。
主を気遣うように、滝刳もすぐ隣を追ってきた。併進する竜たちの上で、アリスはもう一度叫んだ。
「エルドリエ!! 眼を……眼を開けなさい!! 許しません、このようなところで……私を、一人にするなど!!」
胸から下を失い、蒼白に色を失ったエルドリエの瞼が、わずかに震えた。
うっすらと持ち上がった睫毛の下で、紫がかった瞳が、朧な光を湛えてアリスを見た。
「……師、よ……、ご無事で…………」
「ええ……、ええ、無事ですとも、そなたのお陰で!! 言ったでしょう、私にはそなたが必要なのです!!」
不意に視界が歪んだ。エルドリエの頬に、いくつもの水滴が散った。それが己の涙だと知ることもなく、アリスは弟子の体を強く抱いた。
耳元で響く、声ならぬ声。
「アリス様……あなたは、もっと、ずっと……多くの人々に、必要とされて……おります。私は……なんと小さかったのでしょうな……あなたを……独り占め、しようなどと……」
「そなたが求めるなら何でもあげます!! だから帰ってきなさい!! 私の弟子なのでしょう!!」
「もう、じゅうぶんに頂きました」
満ち足りたような囁きとともに、腕のなかのささやかな重みが、いっそう薄れ、遠ざかっていくのをアリスは感じた。
「エルドリエ!! エルドリエ――!!」
呼びかける声に、最後のつぶやきが、ぽつりと重なった。
「泣かない……で…………かあさ……ん…………」
そして、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス、またの名を二等爵士家嫡子エルドリエ・ウールスブルーグの魂は、永遠にアンダーワールドから去った。
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愛する弟子の体が、まるで、数秒間にせよ存在し言葉までも交わしたのが奇跡であったかのように、止めようもなく空気に溶けていくのをアリスは感じた。
鎧の欠片すらも残さずからっぽになったかいなの中に、かすかに漂う温もりを一杯に吸い込んでから、アリスはきっと顔を上げた。
これは戦だ。
だから、敵がどのような攻撃を行おうと、それによってどのような損害を被ろうと、その事自体を恨むのは筋違いだ。事実、ほんの数十分前、アリス自身も無慈悲としか言えぬ巨大術式で、万になんなんとする敵軍の命を奪っているのだから。
なればこそ。
この怒りを。哀しみを。更なる力に変えて、一層の殺戮をもたらしたとしても――
「……よもや覚悟しておらぬとは言うまい!!」
右手の剣をまっすぐ前方に向け、アリスは叫んだ。
「雨縁! 滝刳! 全速突撃!!」
術式拘束によって使役される飛竜は、本来、決められた主以外の者の戦闘命令は絶対に受け付けない。
しかし、二頭の兄妹竜は、同時に鋭い咆哮を轟かせると、翼を打ち鳴らして突進を開始した。峡谷の外側、炭色の大地がどこまでも連なるダークテリトリーの光景がたちまち近づく。
瞋恚に突き動かされながらも、アリスの蒼い瞳は、敵本陣の隊形をすばやく視認した。
三百メルほど先、左側に、揃いの金属鎧に身を包んだ暗黒騎士団、約五千。右には逞しい裸形を革帯で締め上げた拳闘士団、同じく五千。これらが敵軍の主力だ。
さらに後方には、亜人の残存兵力と思しき一万以上のオーク、ゴブリン歩兵と、大規模な輜重部隊が展開している。あのどこかに、敵の総大将、暗黒神ベクタも居るはずだ。
そして、もっとも手前、騎士と拳闘士の部隊に挟まれるように密集する、黒衣の集団があった。
あれだ。あれが、先刻の大規模暗黒術を行使した術師部隊だ。数は約二千か。
突進する飛竜を見上げ、恐慌に陥ったかのようにばらばらに後退しようとしている。
「逃がさん!!」
低く叫ぶと、アリスは竜たちに命じた。
「彼奴らの後方を狙え!! 熱線……放てッ!!」
即座に首をたわめた兄妹竜の、開かれたあぎとに白い陽炎が宿る。
シュバッ!!
大気を灼いて平行に迅った二条の光線が、後退する暗黒術師たちの行く先へ突き刺さった。
大地を揺るがす爆音。吹き上がる火炎。巻き込まれた人影が、木の葉のように舞う。
炎に退路を塞がれた術師らは、完全に統制を失い、ひとところにわだかまった。
アリスは金木犀の剣を高々と掲げた。刀身が、太陽よりも眩い山吹色の光を放つ。
ジャッ!
歯切れのいい音を立てて、剣が幾百もの小片へと分離した。それら一つひとつは、アリスの心意を映して、かつてないほど鋭利に尖った姿をしていた。
馬鹿な。
有り得ん!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、峡谷から一直線に突進してくる竜騎士を見上げながら、胸中で絶叫した。
三千のオークの命を贄とし、二千の術師が詠唱した”死詛蟲”術は想定以上の威力を孕んで敵軍へと襲い掛かった。整合騎士はおろか、地上の兵どもも悉く食い荒らして尚余りある規模だったはずだ。
なのにどうしたことか、あらゆる命を貪ろうとするはずの術式が、たった一人の騎士へと集中し、まったく馬鹿馬鹿しい過剰殺戮のみを行ったあげくに消滅してしまったのだ。
あれほどの規模の術をすべて誘導し得るような、大量の擬似生命を各種素因から合成する時間も空間力もまったく無かったはずなのに。論理的ではない。まったく理屈に合わない。
この私が、世界の叡智の中心たる暗黒術師ギルド総長が知らない力など、存在するものか!!
だが事実として、敵軍はたった一人の犠牲を出したのみで再度の前進を開始し――ああ、何ということか、術師隊目掛けてまっすぐに襲い掛かってくる。
「後退!! 総員後退!!」
ディーは叫び、自ら二輪馬車の手綱を引いて向きを変え、走り出そうとした。
しかし直後、頭上を二筋の白い光が貫き、ほんの数十メル先へと突き刺さった。
轟音とともに爆炎が膨れ上がり、数十人の部下が巻き込まれて悲鳴を上げた。あわてて馬たちを制止させたディーのところまでも熱波が押し寄せ、自慢の髪をちりちりと焦がした。
「ひっ……」
悲鳴を上げ、ディーは馬車から転がるように降りた。こんなものに乗っていては、的にしてくれと言うようなものだ。
部下に紛れて右へと走ろうとしたディーの視界を、眩い黄金の光が照らした。
吸い寄せられるように見上げた先で、一頭の竜の背に跨る整合騎士の剣が、無数の光へと分離した。
その光ひとつひとつが、恐ろしいまでの威力を秘めていることがディーには直感的に察せられた。この場に薄く漂う空間力から、どのような素因を生み出そうと防げるものではないことは明らかだった。
糞ッ、畜生ッ、死んでなるものか!!
こんな下らない場所で!! 世界の王となるべきこの私が!!
鬼神の形相で眦を吊り上げたディーは、かぎづめのように指を曲げた両手を振りかざし――すぐ前を走る二人の術師の背に突き立てた。
ずぶり、と鋭い爪が苦も無く肌を裂き、肉に潜る。握り締めた丸い柱は、背骨に他ならない。
「で、ディー様!?」
「なにを……っ!? お、おやめくださっ……」
引き裂くような悲鳴を上げる部下たちの言葉に耳も貸さず、高位暗黒術師は、凶相に笑みを浮かべながら起句を唱えた。
続く駆式は、まさしく呪詛としか言えぬものだった。
物体形状変化。それも、生きた人間の天命を力源とし、その肉体を変容させる呪わしい秘術だ。
ぶじゅる。
血と組織片を振りまきながら、ふたつの若く美しい躯が、肉色の組織へと溶けた。それらは、地面にうずくまったディーを隙間無く覆い、硬化して、弾力のある生きた防御膜を作り出していく。
直後、地上を、山吹色の死の嵐が覆いつくした。
アリスは、耳に届く悲鳴、断末魔の絶叫を、心を鬼にして完全遮断した。
もう二度とあの術は使わせない。術者も、その記憶すらも地上から抹消する。
右手に残った、光り輝く柄を振りぬくたび、その動きに従って眼下の敵部隊を鋭利な花弁が薙ぎ払っていく。金属鎧を身につけない術師たちは、抗うすべもなくその身を穿たれ、地に臥す。
二千はいたと思われる術師隊の、九割近くを殲滅したと確信するまで、アリスは記憶解放状態を維持し続けた。剣の天命はかなり損耗しただろうが、惜しむつもりはまったく無かった。
折り重なる仲間たちの骸に目もくれず、二百弱の術師たちが火炎を回り込んで後方へと逃げ延びていったが、それらまでは追わず、アリスは視線を空へと引き戻した。
左側奥、暗黒騎士団の後方から、十騎ほどの飛竜が離陸するのが見えたのだ。
空中戦へと移行するかと思ったが、敵の竜騎士はこちらを牽制するように旋回するだけで、距離は詰めてこなかった。理由はすぐにわかった。後方から、ベルクーリらの竜が追いついてきたのだ。
「嬢ちゃん……! 無理すんじゃねえ!」
エルドリエの死を気遣ってか、すぐ隣に滞空し、そう声を掛けてくる騎士長に、アリスは強張った顔を向けて頷いた。
「ええ……大丈夫です、小父様。衛士隊の離脱支援のほう、よろしくお願いします。私は、囮の役目を果たしてきますから」
「おう……だが、あんまり突っ込むなよ!」
ベルクーリは叫び、敵竜騎士に向き直った。アリスは、傍らの滝刳に滞空指示を出し、雨縁を微速で前進させた。
暗黒騎士の、拳闘士の、オーク、ゴブリンの――そして位置まではわからないが、巨大な気配を持つ何者かの意識が己に収束してくるのを、アリスはまざまざと感じた。
後方では、峡谷から出た衛士隊と補給隊が、南へ転進し全速離脱していく震動が低く轟いている。
その足音を覆いつくさんばかりの声で、アリスは高々と叫んだ。肉声は心意に乗り、天地四方に響き渡った。
「――我が名はアリス!! 整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ!! 人界を守護する三神の代理者、”光の巫女”である!!」
直後、敵の全軍が重く震えた。無数の渇望が、触手のように伸び上がってきてアリスに触れる。やはり、敵は人界の侵略と同じかそれ以上の重さで、”光の巫女”なるものを求めているのだ。
それが真に己のことなのか、それとも自分はただの僭称者なのか、そんなことはアリスにはどうでもよかった。ただ、敵の半数が自分を追って来さえすれば。敵をこの地から引き離し、時間を稼ぐことで、エルドリエが、ダキラが、そして散った多くの衛士たちが望んだ人界防衛の望みが少しでも繋がるのなら、それでよかったのだ。
「我が前に立つもの、悉く聖なる威光に打ち砕かれると覚悟せよ!!」
「おお……」
皇帝にして暗黒神ベクタ、または魂の狩人ガブリエル・ミラーは、玉座から立ち上がると、低い声を漏らした。
「おお」
三千のオークユニットを消費した攻撃までもがどうやら失敗したこと、術師ユニットの大半が破壊されたらしいことさえも、ガブリエルに一切の動揺は与えなかったが、しかし今この瞬間だけは、彼の冷え切った魂が確かに震えていた。
かすかな、笑みらしき形を作った薄い唇から、さらに密やかな声が放たれた。
「アリス……。――アリシア」
はるか一キロ以上も彼方の空に浮かぶ、黄金に光り輝く一人の騎士の姿を、ガブリエルの両眼は詳細に捉えていた。
まっすぐに流れる金髪。抜けるような白い肌。真冬の空のように澄み切った蒼い瞳。
ガブリエルの意識のなかで、その容姿は、かつて手にかけた少女アリシア・クリンガーマンの、美しく長じたすがたへと完全に重なった。あの時つかまえそこねたアリシアの魂が、いまこの場所に再び現れたのだと、ガブリエルには何の疑いもなく確信できた。
今度こそ。
こんどこそはこの手に捕らえねば。永遠に閉じ込め、保存し、所有し尽くさねば。
竜の首を翻し、南の夜空へと飛び去っていく竜に、青い炎にも似た視線を向けながら、ガブリエルは伝令髑髏に低く、しかし熱く囁きかけた。
「全軍、移動準備。拳闘士団を先頭に、暗黒騎士団、亜人隊、補給隊の順に隊列を組み、南へ向かえ。あの騎士を、光の巫女を無傷で捕らえるのだ。捕らえた軍には、人界全土の支配権を与える」
動き出した闇の軍勢が巻き起こす土埃が、血の色の星ばかり瞬くダークテリトリーの夜空に幾筋もたなびき始めた。
晶素から生成した簡易遠視器を覗いていた騎士長ベルクーリが、顔を上げて低く唸った。
「こりゃ何と……暗黒神とやらは、随分と嬢ちゃんにご執心のようだな。ほぼ全軍で追っかけてくる気らしいぞ」
「喜ぶべき、なのでしょうね。少なくとも無視されるよりは遥かにマシです」
緊張を生ぬるいシラル水で飲み下しながら、アリスは呟いた。
人跡未踏の――あくまで人界人は、という意味だが――ダークテリトリーの荒野を、東の大門跡から真南に五千メルほども直進したところに見出した小さな丘陵で、守備軍囮部隊は最初の小休止を取っている。
衛士たちの士気は高い。
一時は全員を絶望の淵に叩き落した敵の巨大術式を、ひとりの整合騎士が身を挺して防いだことで、その意気に報うべし! という集合心意が彼らを包んでいるのだ。
しかしアリスは、と言えば、いまだにエルドリエの死を受け入れられないでいる。
ルーリッドでの半年を除けば、四年間というもの彼は常にアリスに付き従い、お勧めのワインやらお菓子やらを発掘しては味見させたり、下手かつ気障な冗談を披露したり、とにかく一日として大人しくしていることはなかった。
いったいこの者は、剣と術を学びに来ているのか、それともただ騒ぎにきているのかと首を捻ることもしばしばだった。だが、今にしてようやくわかる。エルドリエの存在が、いかに自分の心を軽くし、風通しを良くしてくれていたか。
……そこにあるときは、それが当たり前すぎて存在にすら気付けないのに、なくしてはじめてこんなに巨大な喪失を感じるなんて。
アリスは北西の空に鋭く連なる果ての山脈に視線を振りながら、右手でそっと腰の後ろに留めた一巻きの鞭――”星霜鞭”に触れた。
ユージオの剣を決して離そうとしないキリトの気持ちが、今ならばよくわかる。
一瞬瞑目したアリスが、再びまぶたを開くのを待っていたかのように、騎士長が言った。
「今後の方針だが……基本的には、囮部隊の整合騎士五、いや四と千二百の衛士の最後の一人が倒れるまで、ひたすら敵軍を引っ張り、頭数を削いでいく、ということでいいんだな?」
丘陵の突端、一際高い小岩に並んで立つ騎士長に、アリスは深く頷きかけた。
「私はそう考えています。すでに、侵略軍五万のうち半数以上を殲滅し、また最も厄介と思われた暗黒術師隊もほぼ掃討しました。あとは敵主力たる騎士と拳闘士をある程度損耗させ……そして暗黒神ベクタさえ倒せば、残敵が休戦交渉のテーブルに着く可能性は高い、と思いますがいかがでしょう」
「うむ……問題は、その時敵軍のアタマが誰になってるのか、ということだがな……。シャスターの小僧さえ健在ならばな……」
「やはり、暗黒将軍がすでに……というのは確実ですか、小父様」
「先刻、一瞥した限りではあの場には居なかった。シャスターだけでなく、嬢ちゃんと戦ったこともある彼奴の女の気配もしなかったな……」
太いため息。ベルクーリが、暗黒将軍とその弟子である女騎士に、秘かに大きな期待を掛けていたのだということをアリスは知っている。
そっと首を振り、最古の騎士は低く呟いた。
「いまは、彼奴の地位を継いだ暗黒騎士が、魂をも受け継いでいることを祈るのみだ。望み薄……だが」
「薄いですか」
「うむ。この地に生きるものたちは、禁忌目録のような成文法は一切持たない。あるのはただ、”強者に従う”という不文律のみだ。そして……残念ながら、暗黒神ベクタとやらの心意は圧倒的だ……青二才の暗黒騎士なぞでは到底太刀打ちできまい……」
確かに、先刻敵軍の上空で名乗りを上げたときアリスは、恐ろしく冷たく、底なしに暗い気配が敵の後方から伸び上がり自分に迫ってくるのをまざまざと感じた。あんな感覚は、記憶にあるかぎり初めてのものだった。最高司祭アドミニストレータの心意を銀の電光に喩えるならば、あれは永遠の虚無だ。
思い出しただけで軽く粟立った二の腕をそっとさすり、アリスは頷いた。
「そうですね……神に逆らおう、などという愚か者がそうそう居るとも思えませんし」
すると、騎士長はふっと短く笑みを漏らし、アリスの背中をぽんと叩いた。
「とは言え、我らが人界には三人も現れたわけだしな。この地にも気骨のある奴がまだ居ることを願おう」
その時、上空から強い羽ばたき音が響き、二人は顔を上げた。
旋回降下してくるのは、騎士レンリの飛竜、”風縫(カゼヌイ)”だ。竜の爪が地面を捉えるよりはやく、軽快な身のこなしで飛び降りた少年騎士は、一息つくと急き込むように言葉を発した。
「報告します、騎士長どの! この先八百メルほど南下したところに、伏撃に利用可能と思われる潅木地帯が広がっています!」
「よし、偵察ご苦労。全軍をそこまで移動させてくれ、配置は追って指示する。お前さんの竜はそろそろ限界のはずだ、たっぷり餌と水を与えて休ませておけよ」
「はっ!」
素早く騎士礼を行い、走り去っていく小柄な影を見送ってから、アリスはふと騎士長の口元にかすかな笑みが浮かんでいるのに気付いた。
「……小父様?」
問いかけると、ベルクーリは一瞬照れたように顎をかき、いや何、と肩をすくめた。
「記憶を奪い、天命を停止させて整合騎士を造る”シンセサイズの儀式”……とても許されることではないが、しかし、もうああいう若者が騎士団に入ってこないのは残念なことだ、と思ってね」
アリスは少し考え、同じく微笑みながら言った。
「記憶改変、天命凍結処理を経なくては整合騎士にはなれない、なんてことは無いと思いますわ、小父様」
右手でもう一度、星霜鞭をそっと撫でる。
「たとえ我ら悉く地に臥そうとも、魂は、意思はかならず次の誰かに受け継がれると、私はそう信じます」
「よぉし、やっとで出番か!!」
ばしぃっ、と右拳を左掌に打ちつけ、拳闘士ギルド筆頭たる若きイシュカーンは威勢よく叫んだ。
闘いの熱を間近に感じながら、ただ座して待つのみだったこの一時間の何と長かったことか。
亜人部隊を焼き払った眩い光の柱も、暗黒術師らが行使したおぞましい長虫どもも、”光の巫女”を執拗に求める皇帝ベクタの謎めいた命令すらも、イシュカーンの闘志には何らの影響も及ぼしていない。
己の肉体と、それ以外の全て。世界はそのように二分され、そしてイシュカーンの興味は、肉体を高めること以外にはまったく向けられることはないのだ。彼には、たとえ先に見たような巨大術式の標的となろうとも、拳と気合ですべて跳ね返してみせるという断固たる自信があった。
赤銅色に灼けたたくましい裸体に革の腰帯とサンダルのみを身につけた拳闘士は、くるりと振り向くと、自身が率いる屈強の男女五千と、その後ろに続く暗黒騎士団を見やった。ほんの五分ほど駆け足移動しただけなのに、拳闘士団と騎士連中との間には千メル近い距離が開いてしまっている。
「相変わらず動きが遅いな、騎士ってのは!」
毒づくと、すぐ隣に控える、イシュカーンよりも頭一つ以上も背の高い巨漢が巌のような口元に苦笑を浮かべた。
「やむを得ぬでしょう、チャンピオン。彼らは体と同じほどにも重い鎧と剣を身につけているのですから」
「何の役にも立ちゃしないのにな!」
言い切り、イシュカーンは再び前を向くと、軽く足踏みをしながら奇妙な動作を行った。右手の五指で筒をつくると、それをひょいと右眼に当てたのだ。
見開かれた炎の色の虹彩の中央で、瞳孔が拡大する。
「オッ、あいつら動き始めたぞ。こっちに……じゃ、ないな。まだ下がる気かよ」
短い舌打ち。
夜闇に沈む、五千メルも彼方の地平線上にいる敵の動向を正確に見て取ったイシュカーンは、少し考えてから言った。
「なあ、ダンパ。皇帝の命令は、追っかけて掴まえろ、だけだったよな」
「そのようですな」
「うっし……」
右手の親指を軽く噛みながら、にやりと笑う。
「少しつついてみるか。――兎隊百人、前に出ろ!!」
後半を高く張り上げた声に、即座におうっという剽悍な唱和が返った。
部隊から飛び出してきたのは、やや細身の――と言っても鞭のような筋肉をたっぷりと蓄えた――闘士たちだった。額に、揃いの白い飾り革を巻いている。
「整合騎士とやらに軽く挨拶に行くぞ! 気合入れろよ!!」
おうっ。
「十七番武舞踏、開始!!」
イシュカーンは叫ぶと同時に右手を突き上げ、両足を激しく踏み鳴らした。
まったく同じ動作を、側近ダンパと”兎隊”の百人も、一糸乱れぬ完璧な統御で繰り返す。
ズン、ザ、ザザッ。
うっ、らっ、うっらっ。
リズミカルな足踏みと唱和が鳴り響くにつれ、イシュカーンの赤金色の巻き毛から汗が迸り、肌は真っ赤に上気していく。部下らもまったく同様だ。
ほんの三十秒ほどで舞踏は終了し、百と二人の闘士たちは全身から湯気を上げながら動きを止めた。
いや、それだけではない。闇夜の底で、彼らの肌は、ごくかすかだか確かに赤い光を帯びている。
拳闘士。
それは、肉体の何たるかを数百年探求し続けてきた一族である。
騎士も、術師も、最終的には”心意によって外界に干渉する”ことを極意であり到達点と定める。言い換えれば、イマジネーションによる外部対象物の書き換え、ということになる。
しかし拳闘士はまったく逆――心意によって、己の肉体のみをオーバーライドするのだ。本来的な制約を超え、素肌で鋼を超える防御力を、素手で巌を砕く攻撃力を実現する。
そしてまた、素足で馬を追い抜く高速疾走も。
「ううううう、らあああああっ!!」
高らかな喊声とともに、イシュカーンは地を蹴って走りはじめた。ダンパと百人の闘士も続く。
ゴアッ!!
空気が裂け、大地が震えた。
「――!?」
潅木地帯目指して移動を始めた衛士隊を追いかけるべく、数歩足を進めたところで、アリスは異様な熱を感じて振り向いた。
何か――来る。
速い!!
遥か地平線を動いていたはずの敵軍から、少なからぬ一団が突出し、有り得ない速度で距離を詰めてくる。騎馬の突進などというものではない。竜騎士か、と一瞬思ったが、あまりに数が多いし、そもそも地上を移動している。
「……拳闘士か」
隣で騎士長が唸った。
「あれが……」
その名前を知ってはいたが、アリスは実際に目にするのは初めてだった。国境に出没するのは主にゴブリンと黒騎士だけで、拳闘士が人界侵略に興味を示したことはこれまでなかったからだ。
しかし最古騎士だけあってベルクーリはまみえたことがあるらしく、多少の緊張を帯びた声で続けた。
「厄介な奴らだ。生の拳でなら傷を受けるくせに、剣で斬られることは断固拒否しやがる」
「は……? 拒否……?」
鋼の刃で身を裂かれることに、否も応もないだろうに、とアリスは思ったが、ベルクーリは軽く肩をすくめただけだった。
「戦えばわかる。俺と嬢ちゃん二人で当たったほうがよさそうだ」
「…………」
アリスはごくりと喉を鳴らした。ベルクーリが、自身で足りないと言うのはよっぽどのことだ。
しかし、せっかく高まった剣気を、次の騎士長の言葉が台無しにした。
「あー、ちなみに……嬢ちゃんは、脱ぐのは抵抗あるよな、やっぱ?」
「はあ!?」
思わず両手を体の前で交差させながら、尖った声を出す。
「な、何を言い出すのですか! 当たり前です!!」
「違う、そういう意味じゃ……いやそういう意味なんだが……オレが言いたいのは、奴らの拳に鎧や衣は役に立たないというかむしろ邪魔というかだな……」
顎をがりがり擦りながら要領を得ない言葉を連ねたあげく、騎士長は、まあいいや、と首を振った。
「ともかく、そのままで戦うなら武装完全支配術の用意をしておけよ」
「は……、はい」
再び背に緊張が伝う。見たところ、接近する敵は百前後だ。その数に対して金木犀の剣の解放攻撃が必要と言うからには、やはり容易ならざる相手なのだ。
しかし、一つ問題があった。
暗黒術師を掃討したときに、記憶解放状態を長時間維持してしまったため、金木犀の剣の天命は現在かなり消耗しているのだ。通常の斬撃に用いるなら問題はないが、分離攻撃はあと何分使えるか心許ない。
そしてそれは、騎士長の時穿剣も同じだろう。数百のドローンを瞬時に墜とした凄まじい広範囲攻撃を、アリスは間近で見ていた。二人の剣はともに、最低でも夜明けまでは鞘に収めておくべき状態なのである。
だが、この数十秒の会話のあいだに、敵拳闘士の一隊はもうその逞しい裸形が見て取れる距離にまで接近している。彼らを、いまだ伏撃態勢の整わない衛士隊に接近させるわけにはいかない。
アリスは、固く唇を引き結んで騎士長に頷きかけると、岩場を北に向かって滑り降りようとした。
しかしその直前、二人の背後から、静かな女性の声が掛けられた。
「わたくしが行きましょう」
アリスはぎょっとして振り向いた。隣のベルクーリもまた目を剥いている。
いつの間にかそこに立っていたのは、囮部隊に配された上位整合騎士五名――騎士長、アリス、エルドリエ、レンリに続く最後のひとりだった。
長身痩躯を、艶の薄い、地味な灰色の鎧に包んでいる。やはり濃い灰色の髪は、額に張り付くようにきっちりと分けられ、首の後ろでひとつに束ねられている。顔もまた、良く言えば清潔感を漂わせ、悪く言うと地味だ。齢の頃はアリスと同じ二十前後か、薄い眉に一重の切れ長の眼、唇に紅は無い。
名を、シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
腰に帯びる神器は、”黒百合の剣”。
しかし、彼女がその銘で呼ばれることはめったになかった。騎士たちは、たまに彼女を話題にするときは、常にもうひとつのあざなで呼んだ。
すなわち、”無音”。
アリスとベルクーリがぎょっとしたのは、シェータが単身で敵拳闘士を防ぐと言い出したからではない。
誇張ではなく、初めて聴いたのだ。”無音”のシェータが発する声を。
溝を飛び越え、ちょっとした岩くらいなら蹴り砕き、イシュカーンと百一人の拳闘士たちは猛然たる疾駆を続けた。
もうすぐ、悪魔とさえ称される整合騎士と闘れる。その期待が、若き闘士の口元に、抑えようもなく凄みのある笑みを滲ませている。
正直なところ、この戦に駆り出されるまで、イシュカーンに敵騎士への興味は更々無かった。所詮は、鎧に身を隠し剣などという無粋な棒を振り回すやつら、と蔑んでいたのだ。事実同朋たる暗黒騎士団にも、闘者として敬意を抱けるのは威丈夫シャスターただ一人しか見出せなかった。
しかし、待機命令中、瞑想しながら感じ取った敵の闘気は、どうして馬鹿に出来ない、それどころか瞬間的には爆発じみた昂ぶりすら見せる雄々しいものだった。
無粋な鎧を剥けば、その下にはきっと見事に鍛錬された肉体があるに違いない。
イシュカーンはそう期待し、汗と拳のぶつかり合いの予感に、全身を滾らせていたのだ。
だから――。
ほんの数分前まで敵がとどまっていた小丘陵の手前に、ついにひとりの敵騎士を見出したとき、その立ち姿に拳闘士の長は唖然と口を開いた。
細い。
見たところ女のようなので、ある程度肉が薄いのは仕方ないが、それにしても細すぎる。全身くまなく金属鎧で覆ってなお、イシュカーン配下の女拳闘士の誰よりも華奢だ。装甲の下には、おそらく一束の筋肉もついているまい。腰に下がる鞘までもがまるで鉄串のようだ。
右手を上げて部下らを停止させ、自らも土煙を上げて制動したイシュカーンは、火炎のように両端が巻き上がった眉毛をきつくしかめて口を開いた。
「何だよ、てめえは。何してんだそこで」
ぴったりと頭に張り付く灰色の髪をかすかに揺らして、騎士は首を傾げた。何と答えたものか迷うように、いやむしろ答えなければいけないのかどうか考えるような仕草。
眉も眼も、鼻筋も口も鋭利な小刀でひといきに刻んだがごとき涼しげな顔に、一切の表情を浮かべることなく、女騎士はしょぼしょぼと喋った。
「わたくしはあなたの敵です。あなたを通さないためにここにいます」
ふはっ。とイシュカーンは、鼻と口から同時に大量の息を吐き出し、笑ったものか怒ったものか迷ったすえに肩をすくめるに止めた。
「そのナリじゃ、ガキ一人すら通せんぼできねえだろうに。それともあれか、手妻使いか、てめえは」
今度も、じれったいほどの間を置いて騎士は短く答えた。
「わたくしは、術式は不得手です」
体の裡に練り上げた闘気を萎えさせる敵の様に、苛立ちを感じたイシュカーンは、「ああ、いいよもう」と吐き捨てると、配下にちらりと視線を向けひとりの名を呼んだ。
「ヨッテ、相手してやれ」
「あいきた!!」
打てば響くような返事とともに、即座に集団から飛び出てきたのは、やや痩身の女拳闘士だった。それ以外の者が放つ不満げな唸りを受けながら、軽やかに武舞を踏むその顔には、敵騎士とはまったく対照的な荒々しい笑みが浮かんでいる。
ぶ、ぶぶん。
女闘士が、五メルも離れたところから空打ちした拳が風を巻き起こし、女騎士の前髪を揺らした。
この期に及んでも、その細面には闘志らしきものはひとかけらも見出せず、代わりにどこか困惑するような表情とともに小さく呟いた。
「……ひとり……」
「そりゃこっちの台詞だよ、このガリガリ!」
分厚い唇を捲り上げて、ヨッテが叫んだ。拳闘士としては細いと言っても、対峙する騎士よりは子供ひとり分ほども重いだろう。
「ぶちのめしたら、殺す前に吐くほど肉を詰め込んでやるよ! いいからさっさと抜きな!!」
女騎士は、もう何を答えるもの億劫と言いたげな仕草で、灰色の装甲を鳴らしながら左腰の柄を握った。
しゅらん。
無造作に抜かれた刀身を見て――。
「……ンだそらあ!!」
下がって腕組みをしていたイシュカーンは思わず叫んだ。
細い、などというものではない。鞘がすでに肉焼き串のようだったが、抜き身の幅はわずか半セン、赤子の小指ほども無いではないか。しかも、どうやら薄さは紙一枚以下、さらに色が艶のない黒なので、宵闇の下ではそこにあるのかどうかも定かでない頼りなさだ。
棒、などというものではない。これでは針だ。
ヨッテの顔に、朱色の怒気がみなぎった。
「……っけんなっ……」
ずざんっ。
両脚で短い武舞、というより地団太を踏んでから、赤銅色の雌豹は一直線に襲い掛かった。
イシュカーンの目から見ても、なかなかの踏み込みだった。拳闘士ギルド兎隊は、その名に反して、敏捷性だけでなく鋭い牙を持ち合わせた者達を集めた精鋭なのだ。
びばっ。
空気を引き裂いて、ヨッテの拳が疾った。
まっすぐに顔面を狙ったその打突を、騎士は避けずに極細の剣を置くように迎え撃った。
キィンッ!!
響いた音は、まるで二つの鉄鉱石を打ち合わせるような、甲高いものだった。実際に、眩い橙色の火花までが散った。直後。
くにゃ、と、騎士の握った黒い針があっけなく曲がった。
イシュカーンは、唇に薄い笑みを浮かべた。
拳闘士の肌は、生半な剣では裂くことはできないのだ。
一族に生を受けた子供は、立てるようになるとすぐにギルドの修練所に叩き込まれる。そこでまず最初に行う訓練が、鋳鉄のナイフを拳のみで叩き割ることだ。
長じるに従って、鋳鉄は鍛造鋼に、ナイフは長剣へと変わっていく。叩き割るだけでなく、生身に振り下ろされもする。その課程で、若者たちは己が肉体に鋼以上の硬さを持つ自負を抱く。我が五体は、刃に対して不可侵なり、と。
現在の長イシュカーンは、眼球で直径二センの鋼針を受け止める。
一闘士でしかないヨッテは、無論そこまでの心意を鍛えてはいないが、それでも五体でもっとも強固に確信すべき拳が、どんな剣にも負けるはずはないのだ。
それがあのような戯けた極細針となればなおさら。
大きく撓んだ黒い針が、情けない悲鳴とともに折れ飛んで、女騎士の頬に鉄拳が食い込む――
様をすべての拳闘士が思い描いた。
ぴぅっ。
響いたのは、革鞭が空気を打つような、奇妙な音だった。
直突きをまっすぐ撃ち抜いた姿勢で、ヨッテが静止している。その拳は女騎士の右頬ぎりぎりを通過し、その騎士もまた右手を前方に振り抜いている。
刀身がどうなっているか、イシュカーンの位置からはよく見えなかった。
何だよ、あんなでかい的を外すなよ。長は内心でそう毒づいた。
ヨッテのやつは、この勝負には勝ったとしても、闘技場の三等控え室からやりなおしだ。いくら拳を硬くしても、敵を殴れないんじゃぁ宝の持ち腐れ……。
すっ、と音も無く、ヨッテの握り拳が中指と薬指のあいだから裂けた。
「な……」
思考を停止させたイシュカーンの眼前で、裂け目は前腕から肘、二の腕へと続き、肩へと抜けた。
骨から微細な血管までも、一切潰れた部分のない完璧な切断面をあらわにして、ヨッテの右腕の外半分が、どさっと地面に落ちた。桶でぶちまけたように鮮血が迸ったのは、ようやくそれからだった。
「っああああああ!?」
甲高い悲鳴に混じって、再びあの音がした。
ぴう。
悲鳴が中断し、拳闘士の首がころりと落ちた。
前傾姿勢で俯き、前髪に顔を隠した女騎士の口元から、小さな吐息が漏れた。
“無音”のシェータが口を開かないのは、引っ込み思案だからでも、他人嫌いだからでもない。
ただひたすら、他の整合騎士の関心を引かぬように――よもや訓練だの手合いだのを申し込まれることのないように、ひっそりと息を殺していたのだ。
もし、誰かと比武するようなことになれば、たとえそれが騎士長ベルクーリその人であろうとも、首を落としてしまう(・・・・・・・・・)かもしれない、という恐怖ゆえに、シェータは百年を超えるカセドラルでの暮らしにおいて無音を貫いた。喋ることがあるのは、身の回りの世話をする召使と、昇降係の少女くらいのものだった。
彼女は、四帝国統一大会優勝を経てシンセサイズされた、生粋の剣士だ。しかしその年の大会は、ほぼあらゆる記録から抹消されている。なぜなら、寸止めが最上の徳とされる大会において、シェータと対戦した全員が斬死するという血塗られた結果になってしまったからだ。
上位整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、ある意味では、拳闘士ギルドの長イシュカーンとまったく好対照な精神を持っていた。
イシュカーンが殴ることだけを考えているとすれば、シェータは、斬ることにしか興味がない。
とは言え、彼女がそれを愉しんでいるかというと、まったくそんなことはない。
斬ってしまうのだ。剣を持ち何かと対峙した瞬間、シェータの眼にはすでに、その断たれるべき切断面が、いや斬られたあとの姿すらも、はっきりと見える。そうなるともう、その予感、いや予知を現実にせずにはいられない。それが動かぬ棒杭くらいなら、彼女は手刀ですら滑らかに斬ってしまう。
自身は、己のその性を、忌まわしいものとしてずっと押し殺してきた。
奥深くに秘めたその衝動を見抜いたのは、最高司祭アドミニストレータだった。
アドミニストレータは、現在でこそ常識となっている、術式行使における空間リソース理論を二百年以上も昔に究めようとしていた。
そんな最高司祭がどうしようもなく興味をそそられたのが、ダークテリトリーにおいて”鉄血の時代”の終焉となった最大最後の合戦だった。東の大門と帝城オブシディアの中間に広がる平野にて、五族が相討った悲惨な激戦において、無限にも等しいほどに放出された空間力をアドミニストレータは惜しんだ。
とは言え、用心深い彼女が自身でダークテリトリーの探索になど行くわけもなく、召喚したのがシェータだったのだ。最高司祭は、そのころすでに”無音”のあざなを得ていたシェータにそっと囁きかけた。
単身、かの地に潜行し、合戦跡にて”何か”を探しなさい。できることなら、巻き込まれずに生き残った魔獣の類を。それが無理なら普通の動物を。最低でも鳥や虫を。とにかく空間力を吸い込んだ何かを。
もし見つけてきたら、それから神器を造ってあげる。”何でも斬れる最高優先度の剣”をね?
まさに媚薬のひと垂らしだった。シェータは、飛竜すら使わずに山脈を越え、炭殻色の大地を何万、何十万メルも踏み分けて、ついに血臭漂う合戦場にたどり着いた。
亜人と人が死力を尽くして殺し合ったその地に、動くものはなかった。魔獣はおろか、鼠一匹、烏の一羽すら残らず巻き込まれ消し飛んでいたのだ。
しかしシェータは諦めなかった。何でも斬れる剣。その言葉の響きが彼女の心を捕らえ、決して離そうとしなかった。
三日三晩の探索行のすえ――。
ついに見出したのが、風に頼りなく揺れる、たった一輪の黒百合だった。
そのささやかな花が、広大な戦場で唯一生き残った、リソース吸収オブジェクトだったのだ。
自分の唇から漏れた細い呼気が、悲嘆のため息だったのか、それとも陶酔の吐息だったのか、シェータには分からなかった。
それを言えば、なぜ数分前、無音の誓いを破って騎士長らに防衛役を志願したのかもよく分からない。いやそもそも、カセドラルに於いて、守備軍への参加を募る呼びかけに手を挙げた動機が何だったのかすら自覚できていない。
他の騎士たちのように、人界を守りたいからなのか?
それとも、ただ斬りたいからか?
あるいは――、
斬ってほしいからなのだろうか?
でも、もう、どうでもいいことだ。事ここに到ってしまえば、どうあれ剣を停めることはできない。
シェータはゆるりと顔を上げ、凍りついたようになっている逞しい拳闘士たちを見やった。
一切の躊躇いも、畏れもなく、漆黒の極細剣を握った灰色の騎士は、百人の敵集団へと真正面から斬り込んだ。
「……凄まじい技ですね」
喘ぐように囁いたアリスの言葉に、騎士長ベルクーリも低い唸りで応じた。
「うむ……。ここだけの話だが、半年前にあの娘を低温睡眠槽から覚醒させたとき、オレぁ多少ビビってたよ」
「私はまったく知りませんでした。シェータ殿が、これほどの技を身につけていたなんて……」
眼下の低地で、拳闘士の先行隊約百名と、整合騎士シェータの闘いが繰り広げられている。正確には、一方的な殺戮と呼ぶべきものだろう。刀身の姿すらも定かでない微細な剣が、ぴゅん、と鳴るたびに周囲の敵の、腕が、脚が、そして首が呆気なく落ちる。
感嘆しながらも、しかしアリスは、シェータの痩せた背中が漂わせる何かに、かすかな気がかりをおぼえていた。
あれは殺気ではない。それどころか敵意、戦意のかけらすら見いだせない。
ならば、なぜあの人は、ああも鬼神のごとく闘えるのか。
「考えるな、百何十年見続けてきたオレにも、あの娘のことはわからんのだ。何一つ」
呟くように言い、騎士長は身を翻した。
「ここは任せて大丈夫だろう。やがて敵本隊も追いついてくるはずだ、オレたちはそっちへの迎撃準備に加わらなきゃならん」
「え……ええ」
頷き、眼下の戦いから視線を外すと、アリスは後を追った。
更に約一千メル南。
砂礫ばかりの荒地がようやく切れ、奇妙な形の枝葉を伸ばした潅木が密に生える一帯に、守備軍囮部隊の本隊がその姿を紛れ込ませていた。
構成は、衛士が千二百、修道士が百、補給隊が三十人。これで、まずは五千の敵拳闘士隊を迎え撃たねばならない。
整合騎士レンリは、細かく分けた衛士と修道士を、樹木の陰に隠すように待機させていった。林を貫いて伸びる一本だけの細い道には、補給隊の馬車の轍が真新しく刻まれている。これを追う敵を、なるべく深く長く引き込んだところで、左右から痛撃する作戦だ。
むろん、拳闘士に剣が効かないことはレンリもすでに騎士長から聞いていた。同時に、彼らの弱点も。
拳闘士は、術式攻撃への防御が不得手なのだ。
手前の、コケすら生えていない荒地では、とても高位術式の使用に耐えるだけの空間力は無いが、この潅木地帯ならば多少は空気が濃い。よって、主に修道士隊によって敵に一度の痛撃を見舞い、同時に幻惑して、無傷で後方へと退避することは可能なはずだ。つい先刻たらふく餌を食べた飛竜たちにも、少しだけ熱線で手伝ってもらう。
レンリはすでに、迅速な後退を念頭に置いて、補給隊の馬車を部隊の最南に遠ざけていた。
前線から離せば離すほど安全だ、と彼は判断したのだ。
夜闇に紛れた敵が、直接補給隊を襲う可能性など、若い彼にはまったく想定の埒外だった。
しかし――レンリが部隊の配置に腐心しているまさにその瞬間、十台の馬車の護衛についていた僅か五名の衛士の、最後の一人が声も出せずにひそやかに絶命していた。
光沢の鈍い真っ黒な金属鎧に全身を包み、おどろおどろしい兜まで被りながらも、まったく何の音も立てずに潅木の下を移動するひとつの影があった。
進む先には、人界守備軍の若い衛士が一人、せわしなく左右に視線を走らせている。
しかし、彼は背後にだけは視線を向けない。そちらには他の仲間がいるはずだからだ。
影は、衛士の死角を、小枝の折れる音ひとつさせずに滑るように接近していく。腰には立派な長剣が下がっているが、それを抜くこともなく、右手に握ったごく小さなナイフだけをそっと構える。
ぬ、と左腕が伸び、衛士の口と鼻を塞いだ。
同時に右手が閃き、むき出された喉を一直線に掻き切る。
まったくの静寂のうちに殺戮が終了し、ぐったりと力を失った体を、影は注意深く茂みの下に押し込んだ。
顔全体を覆う、細い覗き孔が切られた鉄面の下から、ごく密やかな声が漏れる。
「ファイブダウーン、ツー・モア・ポイント」
くっく、と喉が鳴る。
古代神聖語――ではない。
影の正体は、今現在アンダーワールドにたった三人しか存在しない現実世界人のひとりにしてオーシャン・タートル襲撃チームの一員、ヴァサゴ・カザルスだった。
一時間とすこし前、ダークテリトリー軍最後方の御座竜車でワインを喇叭呑みしながら、消耗していくばかりの自軍ユニットを眺めていた彼は、ボスであるガブリエル・ミラーに何の気なしに言ったのだ。
「ヘイ、ブロ、そろそろ任せっぱなしじゃなくて、ちっと動いたほうがよくないですかい?」
すると、ガブリエルはちらりとヴァサゴを振り向き、片眉を持ち上げて答えた。
「なら、まずはお前が動いてこい」
続けての指示は、前方の戦場ではなく、はるか南に離れた地点へ潜行することだった。
ガブリエルは、敵軍がまるでSF映画のような巨大レーザーで亜人ユニットを焼き払った時点で、敵の一部がダークテリトリー側へと突出してくることを予想したのだ。
しかしなぜ北でなく南へ進むと言い切れるのか、と訊いたヴァサゴは、ボスの「そっちのほうが広いからな」という答えを聞いたときは内心おいおいと思わずにいられなかった。しかし実際こうして目の前に敵が来てしまったのだから、降参して一働きするしかない。
いかに敵ユニットどもが強力だろうと、補給物資をすべて失えば脚は止まるだろう。ヴァサゴは、この世界にダイブして初めての暇つぶし(キリング・タイム)を継続するべく、暗い林の奥に視線を凝らした。
すぐに、枝葉でカムフラージュされた馬車のシルエットを見抜く。
鉄面の下で、ちろりと唇を舐め、黒い狩人は移動を始めた。
と、馬車の後尾に動きがあった。ぴたりと脚を止め、樹の幹に貼り付く。
持ち上がった幌から顔を出したのは、真っ白い肌に黒い髪を垂らした、うら若い少女だった。何かを感じたのか、怯えの滲んだ顔で周囲を見回している。
ヴァサゴが動かずにいると、少女はやがておずおずとした動作で地面に降り、馬車の内側に何かを囁きかけてから、ゆっくり移動を始めた。
まるでスクール・ユニフォームのような灰色の服のベルトから下がる、ちっぽけな剣に手を置いたまま、まっすぐにヴァサゴの潜む方向へと向かってくる。
ぴゅう、と口笛を吹きたくなるのを我慢して、暗殺者はにんまりと笑みを浮かべるにとどめた。
「調子にいいいいいッ」
あっと言う間に部下がばたばたと殺されていく光景を、数秒にせよ見せ付けられたイシュカーンは、我に返ると同時に怒号を発した。
「乗んなこらあああああッ!!」
ようやく出来た、敵と自分をつなぐ細い空間を、仲間を跳ね飛ばすような勢いで突進する。
握り締めた右拳に、憤激を写し取ったかのような真っ赤な光が宿った。
それを、小さく鋭い動作で引き絞り、全体重を乗せてまっすぐ撃ち出す。輝く炎の軌跡が、一直線に敵騎士の首元の急所へと伸びる。
騎士は、剣での防御は間に合わないと見てか、分厚い装甲に包まれた左手を広げてイシュカーンの拳を受けようとした。
俺の拳の前に――あらゆる鎧は紙細工だッ!!
断固たる心意に満ちた一撃が、女騎士の掌に衝突し、眩い光の線を放射状に撒き散らした。
バガァァァン!!
直後、凄まじい炸裂音とともに、灰色の手甲が吹き飛び、前腕を覆う篭手も砕け散り、二の腕から肩の装甲までもが粉々に割れ落ちた。
剥き出しになった、やはりごくごく華奢な騎士の腕の、滑らかに白い肌のそこかしこから細かい血の霧が噴いた。
しかし、驚いたことに骨は無事のようだった。それでも激痛はあるだろうに、騎士はわずかに眉をひそめたのみで、イシュカーンの手首をつよく掴むとその手を返し、動きを封じた上で右手の極細剣を閃かせた。
きぃぃぃん! という甲高い金属音が、拳闘士の肘あたりで響いた。
刀槍不入。
それが拳闘士の力の源たる大原則だ。その確信を得るためにこそ、彼らはその身にわずかな革帯しかまとわず、裸形を晒しているのだ。防具に頼った時点で、拳闘士の心意は弱まってしまうのである。
ゆえにイシュカーンも、自分の腕に叩きつけられた軟弱な剣を、意思力だけで弾き返そうとした。
しかし。
肌に食い込んでくるひんやりと冷たい密度は、これまで彼がその身で受けたどんな刃とも別種のものだった。
この剣もまた、鋼ではなく意思だ。勝利でも、剣技としての斬撃ですらもなく、ただただ事象としての切断のみを貪欲に求めている。
それを、言葉ではなく直感で察したイシュカーンは、反射的に左の拳を振りぬいていた。
ボッ。
空気を揺らして、一瞬前まで騎士がいた空間を、輝く拳が突き抜けた。
それでも、完全に外したわけではなく、灰色の胸当ての一部を掠った。飛びのいた騎士の、その部分の装甲にヒビが入り、ばかっと砕ける。
だが、イシュカーンも無傷ではなかった。
刃が一秒足らず食い込んだ、右ひじの肌に、ごくごく薄い切り傷が走っているのを彼は眺めた。小さな血の珠が、ひとつだけじんわりと浮かんでくる。たった一滴――されど、一滴。
それを舌で舐めとり、若い拳闘王は獰猛な笑みを浮かべた。
「……ほう。女、てめぇ、見かけと中身はずいぶんちげぇな」
灰色の女騎士は、困惑するように眉をひそめると、頓珍漢なことを言った。
「……わたくしのほうが、年上なのに……」
「はぁ? そりゃそうだろうよ、整合騎士ってのは何十年も生きるバケモンなんだろうが。じゃあババァって呼んだほうがいいのかよ」
「…………」
女騎士の涼しげな造作に、ぴくりと震えが走る。
だが、それはすぐに、ほんの微かな笑みへと変わった。
「……許します。あなた、硬いから。すごいですね、斬れるとこ、ほとんど見えない」
「ちっ……何を言ってやがる」
どうにも奇妙な敵の間に呑まれまい、と、イシュカーンは周囲に転がる二十以上の骸を見回した。一人ひとりの名前が脳裏をよこぎると同時に、腹の底から深紅の憤怒がふつふつと湧いてくる。
「まるで……切れ易そうだから切った、みたいな言い方しやがって。許さねえ。ブチのめす!!」
ざん、ざっ、ざん!!
素早く踏んだ武舞に、たちまち周囲を取り囲む闘士たちが追随する。それは怒りの足踏みでもあった。滾るような音韻に、高らかな喊声も重ねられる。
うっ、らっ、うららっ、うっ、らっ。
武舞踏という名の集団心理誘導装置によって、みるみる拳闘士たちの心意が高まっていく。互いに擦れ合う赤銅色の肌から汗が迸り、それは火の粉へと変わって天に昇る。
騎士は動かなかった。まるで、イシュカーンが限界まで昂ぶるのを待つように。
上等だ。
脚を止めた拳闘王の、赤金色の巻き毛と眉は炎を宿して逆立ち、全身、とくに左右の腕からは渦巻くような赤い光が噴き上がっていた。
対峙する女騎士は、あくまで静かだった。ゆるりと下げられた漆黒の細針は、闇の密度をはらんでしんしんと冷えている。
「っ……くぞおおおお女ああああァァァァァ!!」
びゅごっ!!
炎が唸り、イシュカーンは一直線に距離を詰めた。
女騎士が、あの嫌な風鳴りとともに右手の剣を振りかぶる。
ぴぅ。
極細の切断線が、イシュカーンの左肩に触れる寸前――。
間合いで勝るはずの剣よりも一瞬迅く、拳闘士の一撃が騎士の左脚を叩いた。拳ではない。蹴りだ。地面から低く跳ね上がったつま先が、炎を引きながら灰色の装甲に突き刺さった。
バガッ!!
破砕音とともに、左脚の鋼甲が、長靴だけを残してすねから太腿部まで砕けた。腰まわりを覆っていた短いスカートも、一瞬の炎を発して燃え落ちる。
「拳闘士の技が、殴りだけだと思うなよ!!」
にやりと笑い、イシュカーンは重心を入れ替え、左脚をムチのように撓らせた。
女騎士の右手中で剣が回転し、蹴りの軌道にまっすぐ斬り降ろされる。
金属同士が擦れるような、耳を劈く軋み音が炸裂した。左脚が、まるで不動の巨岩を蹴ったかのような重みに遮られた。拳闘士の長は、久しぶりに感じる鋭利な痛みを無視して、右脚いっぽんで腰を回し、渾身の拳撃を放った。
紅蓮の炎逆巻く一撃は、騎士の胸当ての中央を見事に捉えた。
ガガァァァァン!!
紛れもない爆発が炸裂し、両者の体が前後に弾き飛ばされる。
無理な踏み込みだったせいか、手応えがやや浅かった。イシュカーンは軽く舌打ちをしながら踏みとどまり、己の左脚を確かめた。
大腿部外側に、鮮やかな刀傷が深さ一センほども刻まれている。たちまち真っ赤な血があふれ出し、黒い地面に滴る。
フン、かすり傷だ、と鼻を鳴らして顔を上げ、今度は敵を見た。
灰色の騎士は、地面に片膝を突いて、こほ、こほと小さく咳き込んでいる。いくらかの威力は徹ったようだが、しかし華奢な姿はすぐにすうっと立ち上がった。
もとから損傷していた胸甲は、いまの一撃で完全に吹き飛び、上半身は胸に残る僅かな布と、右の篭手以外完全に露出している。下半身もまた、腰周りに焼け残ったスカートと、右脚の装甲だけが健在だ。
人界人特有の雪色の肌が、夜闇のなかでも眩しく輝くのに僅かに眼を細めながら、イシュカーンは嘯いた。
「なかなか闘士らしいナリになってきたじゃねえか。だが肉が足りねえな。もっと喰って鍛えろ女」
周囲から一斉に浴びせられる揶揄の叫びを無視し、騎士は肩のあたりに僅かに残った布切れを引き剥がして捨てると、ぴゅんっと右手の剣を振った。
「……あなたこそ……いま、ちょっと、柔らかくなった」
「……ンだと、てめぇ」
鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出す。
凶相をつくりながらも、イシュカーンは一瞬おのれの呼吸がわずかに浅くなるのを感じた。
馬鹿な、あるはずがない。たかだかあの程度の半裸を見せ付けられたくらいで、闘気が弱まるなどと。一族の女たちは平常あれよりずっと肌を露出しているし、そんなものを見て動揺するのは修練所初等課程のガキだけだ。
世界には、握った拳固と、それでぶちのめすべき相手しか存在しない。
たとえ目の前にいるのが、風にも折れそうなほど細く、眩しいほど白い肌をした、異人種の女だとしても。
「もうタダじゃおかねえ……見せてやるぜ、俺様の全力って奴をよ」
威嚇する狼のようにそう唸ってから、イシュカーンは女騎士に人差し指を突きつけ、吼えた。
「だからてめぇも全力で来い!! いつまでもネムたいツラしてんじゃねえ!!」
すると、騎士は再び困ったような顔をし、左手でしばらく頬だの眉間だのを触れたあげく、ほんの少しだけ眉の角度をきつくして、言った。
「ジョートー、です」
「…………おお、上等だぜ」
この間に呑まれるからどうでもいいことを考えてしまうのだ。
イシュカーンは大きく息を吸い、溜め、ぐっと腰を落とした。
右拳の甲を相手に向けて正中に構え、がふううううっ、と長く呼気を吐き出す。大きく開いた両脚が、大地の力を吸い取ったかのようにごおっと炎を上げ、その熱は身体を通って拳へと集まっていく。
赤く燃え盛る炎が、やがて黄色く輝き、さらに青みを帯びた白へと変わる。
いまやイシュカーンの右拳は、大気さえも焦がすほどの超高熱を蓄えて、きん、きんと鋭い高音だけを放っている。
対する女騎士は、こちらは半身になって腰を落とした。左手を、掌を上にしてまっすぐ前に伸ばし、右手の極細剣を体の後ろで水平一直線に構える。まるで、限界まで撓められた投石器のような力感。
すでに自分の体が頭頂から下腹部まで真っ二つになってしまったかの如き緊張感に、イシュカーンはニヤリと笑った。
こんな相手は初めてだ。まったく燃えさせてくれる。
動いたのは、双方同時だった。
純黒の半月と、蒼炎の流星が激突した瞬間、透明な水晶の壁にも似た密度の衝撃波が発生し、地面を砕きながら周囲に広がった。取り囲む拳闘士たちが、ひとたまりもなく真後ろに押し倒される。
騎士の剣と、闘王の拳は、針先ほどの一点で触れあい、鬩ぎ合った。限界を超えて圧縮された力が七色の光となって迸り、夜空に駆け上った。
シェータの技量を以ってすれば、実はこのような馬鹿正直な力比べをせずとも敵を倒すのは容易い局面だった。
若い拳闘士は、全ての心意を右拳だけに集中させて飛び込んできたので、それ以外の部分は実に斬り易そうにシェータには見えたのだ。けれんのない一直線の拳打を回避し、ひといきに首を落とすこともできた。
だがシェータはそうせず、敢えて敵の、全ての力が結晶化したかのように輝く拳を迎え撃った。意識してのことではない。体が、剣がそれを求めたのだ。
自身の選択を、意外だとシェータは感じた。おのれが、騎士としての誇りだの、高潔さだの、その手の精神性とは無縁な存在だということは百年も前に自覚している。斬りたいから斬る。あるのはそれだけ。
それは、殺したいから殺す、と同義だったはずだ。他の整合騎士が内心では忌避する山脈警護任務のあいだだけ、シェータは自己の存在を確認できた。首を刎ね、あるいは唐竹割りにしてきた黒騎士や亜人は数知れない。
その衝動を、忌まわしいものとしてひた隠し、”無音”と呼ばれて生きてきた自分が、なぜ今殺すことを――しかも敵は暗黒界の大将首なのに――選択しなかったのか、シェータにはまったく不思議だったのだ。
でも、ああ、もう考えるのも煩わしい。
在るのは、右手の剣と、目の前の輝く拳だけ。
なんて硬いの。斬れるかな。
楽しい。
敵騎士の、びっくりするほど小ぶりで、色の薄い唇に、ふたたび微かな笑みが浮かぶのをイシュカーンは見た。
それが、自分を――あるいは闘いを嘲弄するものでないことは、もう理解できた。
なぜなら、己の唇にも、今まったく同質の笑いが刻まれているからだ。
なんだよ、なよっちいナリしてるくせに、異界人のくせに、てめえも同種じゃねえか。
ぴしっ。
ごくささやかな震動が、拳の内側に響いた。
それが、敵の黒い刃が欠けたものではなく、自分の右拳の骨に罅が入った音だとイシュカーンは察した。
だめか。押し負けるか。
しかし、まあ、しゃあねえ。
拳が断たれれば、剣圧はそのまま体をも割るだろう。そう推測しながらも、イシュカーンに懼れはなかった。これほどの敵とまみえる機会は、おそらくこの戦のあとには二度とあるまい。ならば、まあ、悪い死にざまじゃねぇ……
そう考え、目を閉じようとしたその瞬間。
拳にかかる圧力が弱まった。
グワッ!!
押さえ込まれていた衝撃が一気に解放され、イシュカーンと敵騎士を木の葉のように吹き飛ばした。敵の心意が逸れた理由は、衝突する二人の間に割り込もうとした巨大な人影だった。
同じように打ち倒されたその影に、イシュカーンは尻餅をついたまま獰猛に吼えた。
「ダンパ!! てっめぇ……!! 何しやがんだ!!!」
「時間切れです、チャンピオン」
身体を起こした巨躯の副官は、ただでさえ小さい眼を糸のように細めながら、言った。ごつごつした腕を持ち上げ、短い指で北を示す。
イシュカーンがそちらに眼を向けると、いつの間にか拳闘士団の本隊と、その後ろの暗黒騎士団が目視できる距離にまで接近していた。確かに、集団戦が始まるというのに長が私闘に明け暮れている場合ではない、のだが――。
激しく舌打ちしながら視線を戻すと、巻き上がる土埃の向こうで、もうほぼすべての防具衣服を失った敵騎士が、しかしそれを気にする様子もなく細い剣を鞘に収めようとしていた。
「女! これで勝ったつもりじゃねえだろうな!!」
少し前に斬死を覚悟したことも忘れ、若い拳闘士は叫んだ。
灰色の髪を揺らし、騎士はちらりとイシュカーンを見ると、言葉を探すように短く首を傾げてから言った。
「その、女、っていうの……やめて欲しい」
「あのな……大体、てめぇこの状況で、どうやって逃げようって……」
その時、ごうっ、という突風が南から吹き寄せて、騎士を取り囲む数十人の部下たちが一斉に顔を背けた。
思わず瞬きしたイシュカーンの視界に、高々と左手を差し伸べる騎士と、急降下してくる一頭の飛竜の姿が朧に映った。
騎士は飛竜の脚に手を掛け、ふわりと空へ舞い上がっていく。のやろう、と歯噛みした拳闘王は、思わず叫んでいた。
「てめぇ、そんなら名乗っていきやがれ!!」
打ち鳴らされる羽音に混じって、微かな声だけが降ってきた。
シェータ。
シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
たちまち夜闇に紛れて消えた白い裸身を、イシュカーンは立ち上がりながら見送り、もう一度舌打ちした。
許されるならば――あの強敵との再戦は、二年、せめて一年の修練ののちにしたい。自分にもまだまだ鍛えるべき部分があることが分かったからだ。
しかし、いくさ場でそんな我が侭が通らないことが理解できるくらいには、イシュカーンも子供ではなかった。
北から合流してくる五千の部族と、さらに五千の騎士で、敵本隊を蹂躙せねばならない。その過程であの女とふたたび拳を交える機会があるかどうかすら定かではないのだ。
“光の巫女”とやらを掴まえれば。
一瞬、そんなことを考えた自分に、イシュカーンは更なる舌打ちを見舞った。
何を馬鹿なことを。その褒美として、あの女の助命を皇帝に願う? 一族の者全員から、気が狂ったと思われるだろうさ。
踵を返し、イシュカーンは左脚の傷を手当させるために、薬草壷を腰に下げる部下へと歩み寄った。
そうだ。
そのまま、まっすぐこっちに来い。
潜伏からの奇襲(アンブッシュ)の醍醐味を、口腔内でキャンディのように転がしながら、ヴァサゴは念じた。
隠蔽(ハイディング)は完璧だ。金属鎧のマイナス補正など物ともせず、潅木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。
黒髪の少女は、周囲を懸命に警戒しているが、その視線はヴァサゴの潜む茂みをただ通り過ぎるのみだ。あと七メートル。五メートル。
ああ、いいね。実にいいね、この感じ。まったく久しぶりだ。
更に一メートル、無警戒に近づいてきた少女が、くるりと右に向きを変え、ヴァサゴが隠してきた死体のほうへ進み始めた。
もう一息引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。
ヴァサゴはまったくの無音のうちに暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。
口を塞ぎ、驚愕に収縮する身体を、一気に切り裂く――
その予感があまりにも迫真かつ甘美だったために、ヴァサゴは、目の前にきらりと光った白刃を見たとき一瞬ぽかんと立ち尽くした。
「……ワゥ!」
首元数センチを剣先が横切ってから、慌てて飛びのく。
まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、左腰の剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと一歩踏み込んでいたら、喉を裂かれていたか。
かしゃり、と両手で剣を構えなおす少女の黒い瞳に、恐怖と敵意はあれど驚きの色が無いことを見てとり、ヴァサゴは潜伏が見破られていたことを不承不承受け入れた。
ナイフを右手でくるくる回しながら、口を開く。
「ヘイ、ハニー……」
そこで気付き、英語をネイティブと遜色ない日本語に切り替える。
「お嬢さん。何故わかった?」
少女は、油断なく剣を中段に据えながら、硬い声で答えた。
「……何も無いと思えるところを一番警戒しろって、先輩が教えてくれたもん」
「せ、先輩だぁ……?」
瞬きしながらも、ヴァサゴは何か記憶に引っかかるものを感じていた。はて、その台詞、どこかで聞いたような……。
しかし、思考がどこかにたどり着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。
「敵襲!! 敵襲――!!」
ちっ、と舌打ちし、ナイフを右腰に収める。
仕方ない、遊びもここまでか。
ヴァサゴは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。
「お前ら……仕事だ!!」
今度こそ、少女が驚愕のあまり瞠目した。
ヴァサゴの後背、数十メートル離れた茂みから、ざ、ざざざ……次々にと身体を起こしたのは、暗黒騎士団から引き抜いてきた革鎧装備の軽装偵察部隊百名。
少女の警告に反応し、前方の馬車から飛び降りたもう一人の少女も、北側から駆けつけた数十名の衛士たちも、一様に凍りついた。
「な……後ろに敵が!? 百人規模!?」
整合騎士レンリは、術師による急報が信じられずに叫び返した。
まずい、まずい!
補給部隊が全滅し、物資が失われたら全軍が動けなくなる。それに、後ろにはあの練士たちもいるのだ。絶対に守ると誓った二人の少女と、ひとりの若者が。
救援を百、いや二百は送らなければ……しかし、今本隊を動かせば、北から肉薄しつつある敵拳闘士隊に伏撃がバレるかもしれない。そうなったらもう、数ではるか優る敵にひとたまりもなく殲滅されてしまう。いや、すでに奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?
即座に結論が出せず、立ち尽くすレンリに、背後から太い声が掛けられた。
「まさか、俺たちの南進が見抜かれてたたぁな……」
丘陵から戻ってきた騎士長ベルクーリとアリスだった。レンリからすれば、雲の上とも思える実力者のふたりだが、その顔にももう余裕はまったく無い。ことにアリスは、今にも補給部隊のいる森の南へと飛んでいきそうだ。
ベルクーリの威躯の後ろに眼を向けると、千メル北の丘陵地帯のむこうには、すでに大軍が立てる地響きと、立ち上る土煙が色濃く迫りつつある。
騎士長は、一瞬瞑目すると、すぐに灰青の瞳をかっと見開いて指示した。
「レンリ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給隊の救援に向かえ。北からの敵はオレが食い止める」
「止めると言っても……小父様、敵は五千を超えます! それに、拳闘士に剣は効かぬと……」
「まあ、何とかするさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削ると決めたのは嬢ちゃん……いやアリス、お前だろう!!」
騎士長は、それだけ言うとくるりと北を向いた。
腰の時穿剣を、ゆっくりと抜き出す。
その、時経た鋼色の刀身に宿る輝きの薄さを見れば、剣に残された天命が僅かであるのは明らかだった。
ガイン!
ギャッ!!
カァァァァン!!
ヴァサゴの渾身の剣撃を、少女の細腕で三合とは言え防いだことを、むしろ称えるべきだろう。
しかもヴァサゴは連続剣技を使ったのだ。だから、少女の手から弾かれた剣が背後の幹に突き立ったとき、暗殺者の唇からは紛れも無い賞賛の口笛が漏れた。
なおも健気に拳を構えようとする黒髪の少女を、容赦なく地面に引き倒し、剣を突きつける。
「ロニエ――――!!」
馬車から新たに現れた、赤毛の少女が悲鳴にも似た声を上げて駆け寄ってきた。
ヴァサゴは右手の剣をぴたりと、ロニエという名らしい少女の首元に据え、近づく少女の動きを牽制した。すくんだように、細い二本の脚が止まる。
「くっ……くっく」
鉄面の下で、抑えようも無く含み笑いが漏れた。
これだよ、この感じ。
他人の命を、絆を、愛を剣先で弄ぶこの愉悦。
「……殺しゃしないよ、そこで大人しく見てればな」
赤毛のほうにそう囁いておいて、組み伏せた黒髪の少女の頬を指先で撫でる。
背後からは、血に飢えた百人の戦士たちがひたひたと近寄ってくる足音が響く。
間近で見開かれた、大きな黒い瞳に満たされていた決意が、徐々に、徐々に、絶望の闇に沈んでいく――。
……?
不意に、その瞳の焦点が、ヴァサゴの顔から逸れて、空へと向かった。
濡れた虹彩に、何かが反射している。
光。
降り注ぐ。
乳白色の光の粒が、ふわり、ふわりと舞い降りてくる。
ヴァサゴは、奇妙な戦慄を背中に感じながら、ゆっくりと顔をあげた。
漆黒の夜空。血の色の星々。
それらを背景に、浮かぶ小さな――それでいて凄まじく巨大な何かを秘めた影。
人。女だ。
真珠で出来ているかのように輝くブレストプレート。篭手とブーツも同色。
ドレープの多いスカートは、翼のようにいくつもの細片が寄り集まってできている。夜風になびく、腰より長い髪は、艶やかな栗色――。
「ステイシア……さま」
腕の下で、黒髪の少女が呟いた。
その声は、ヴァサゴの意識には届かなかった。空に浮遊する女の、小さな顔がちらりとかいま見えた瞬間、漆黒の狩人は吸い寄せられるように身体を起こし、立ち上がった。
解放された少女が、即座に走り去ったが、それを眼で追うことすらしなかった。
天に浮く人影が、すう、と右手を伸ばした。
優美な五指を、ゆるりと横に振る。
ラ――――――――――。
まるで、幾千もの天使が同時に唱和したかのような、重厚な和音が世界を揺るがした。
人影の指先から、オーロラのような光が放たれて、ヴァサゴの背後へと降り注く。
ゴッゴゴゴゴゴゴ……。
地響き。そして悲鳴。
振り向いたヴァサゴが見たのは、大地に口をあけた底なしのクレヴァスと、そこに飲み込まれていく百人の手下たちの姿だった。
ぽかんと眼を見開いたまま、視線を空に戻す。
女は、今度は左手を、北の空へと振った。
再びあの天使の歌声。
先刻の、数十倍もの規模で降り注いだオーロラが、その先でいかなる現象をもたらしたのかはもう想像の埒外だった。
最後に、空に浮く女は、まっすぐ足下のヴァサゴを見下ろした。
右手の人差し指が持ち上げられ、ぽん、と一度宙を弾く。
ラ――――――――。
虹色の光の幕がヴァサゴを包んだ。
足元の地面が消えた。
ひとたまりもなく無限の暗闇へと落下しながら、ヴァサゴは両手を空へと差し伸べた。
「マジかよ……おい、マジかよ」
口から震える声が漏れた。
あの顔。
あの髪。
あの気配。
「ありゃあ………………”閃光”じゃねえか」
SAO4_45_Unicode.txt
騎士長ベルクーリは、愛剣を右手にぶら下げ、ただ立ち尽くした。
目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はそれぞれ遥か地平線にまで続き、深さはもう推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音がしないのだ。
そして、この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。天空から、壮麗な和音とともに七色の光が降り注ぎ、それを追うように地面が割れた。
たとえ千人、いや一万人の術師を投じようとも、そう――それこそ最高司祭アドミニストレータその人であろうとも、とうていこれほどの事象は引き起こせまい。
神威だ。神の御業だ。
暗黒神ベクタに続いて、さらなる神が地上に降臨したのだ。
ベルクーリは畏怖とともにそう考えたが、しかし、直後それを否定した。
巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千の敵拳闘士団が、呆然と立ち竦んでいる。
万物に天命を与え、また滅する権限を持つ神ならば、あの闘士たちの足下を引き裂き、容赦なく地の底に墜としていただろう。しかし地割れは、全速で疾駆していた彼ら全体が安全に停止できる余裕を取って生じた。
騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。
つまりこれは、人の意思が作り出したものだ。
結城明日奈/アスナ/スーパーアカウント01”創世神ステイシア”は、初ログイン時のみに許される微速落下保護に身をまかせながら、はやく、はやく地上へ、とそれだけを念じた。
ログインは、ようやく特定したキリトの現在座標上空で行われたはずだ。だから、舞い降りる先に、愛する人が、その魂が、間違いなく待っている。
狂おしいほどの思慕と同時に、スパークにも似た激痛がアスナの頭を駆け回った。思わず顔を歪め、歯を食いしばる。
ステイシアアカウントに付与された管理者権限、”無制限地形操作”を使用することの弊害は事前に警告されていた。フィールドという膨大な量のニーモニック・データが、STLを介してメイン・ビジュアライザーとアスナのフラクトライトを瞬時に往復する過程で、脳に過大な負荷が発生するのだ。
比嘉タケルからは、もし頭痛を感じたら、その時点で必ず使用を中止するようにと強く言われていた。
しかしアスナは、ログインした瞬間、ささやかな”人界人”とそれに前後から迫る膨大な”暗黒界人”のライトマーカーを認識するや、躊躇いなくコマンドを唱え腕を振った。
北から接近する大集団は、その手前に長大な谷を刻むことで進行を止めた。しかしキリトの居るであろう座標に、戦慄するほど肉薄していた百人ほどは、直下の地面を消し去るしかなかった。
彼らは皆、ほんものの魂を持つ”人間”だったのだ。キリトがどうにかして守ろうと、二年半もの間苦闘し続けた、真のボトムアップAIたち。
あるいは、死に行く彼らの恐怖と怨念がSTLを逆流し、耐え難い痛みをもたらしているのかもしれない。
しかしアスナは強く一度眼をつぶり、音を立てるほどに見開いて、迷いを打ち消した。
自分のなかの優先順位は、もう何年も前に決定している。
キリト――桐ヶ谷和人のためなら、どんな罪も犯す。どんな罰だって受け入れる。
永遠とも思えた数十秒を経て、パールホワイトのブーツのつま先が湿った地面を捉えた。
背の低い、捻くれた潅木が密生する森の底だ。夜空に月はなく、朧な赤い光だけがかすかに降り注いでいる。
ようやく薄れ始めた頭痛を、何度か頭を振って意識から追い出すと、アスナはまっすぐ背を伸ばした。馬のいななきが低く聞こえて、視線をめぐらせると、茂みに隠すように大型の馬車が何台も停まっているのに気付く。
どこ……? どこにいるの、キリトくん?
焦燥のあまり、その名前を叫ぼうとしたとき、背後から震える声が掛けられた。
「ステイシア……さま……?」
振り向くと、そこに立ち尽くしているのは、学校の制服のようなグレイのジャンパースカートを身につけた二人の少女たちだった。
不思議な顔立ちだ。日本人とも、西洋人とも言えない。肌の色はなめらかなクリーム、髪は右の子が紅葉のような赤、左の子がごく深い焦げ茶。
そして何より、二人の腰のベルトに下がる使い込まれた長剣が、この世界の構造と現在の状況を強く象徴している。
赤毛の少女が、微かに開いた唇から、ふたたび声を漏らした。
「あなたは……かみさま……ですか……?」
完璧な日本語。しかし、少し、ほんの少しだけ異国風のイントネーションが含まれている。そこにアスナは、アンダーワールドが歩んできた三百年という歴史を、まざまざと感じ取った。
なんてものを――創ったの。菊岡さん。比嘉さん。
あなたたちラースにとっては、ただの試行実験のひとつだったのかもしれないけれど。
この世界は、間違いなく生きている。
「……いえ……ごめんなさい。わたしは神様じゃないわ」
アスナは、ゆっくり首を振って、そう答えた。
黒髪の少女が、胸元できゅっと両手を握り、でも、でも、と呟く。
「奇跡を起こして……私を助けてくれた。みんなも、助けてくれるんですよね……? 衛士さんたちや、騎士さんたちや、人界の人たち……それに、キリト先輩も」
その名前を聞いたとたん、胸の奥を貫いた疼きのあまりの鋭さに、アスナは喘いだ。
ふらつく脚を踏みとどまり、何度か唇を動かしてから、ようやく囁き声を絞り出す。
「わたしは……わたしはただ、その人に会いにきただけなの。キリトくんに。お願い……どこにいるの? 会わせて……連れていって」
滲みそうになる涙を必死に堪え、アスナは懇願した。少女ふたりは、唖然としたように目を見開いたが、やがて、おずおずと脚を踏み出した。
「……はい。こっち、です」
距離を取って呆然と見守る、逞しい剣士たちの輪のなかを、少女たちに導かれてアスナは歩いた。
たどり着いたのは、一台の馬車の後尾だった。分厚いカンバス地の幌が垂れ下がり、中は見えない。
「キリト先輩は、ここに……」
黒髪の少女の言葉が終わるのを待たず、アスナは息を詰めながら馬車の荷台に飛び乗った。両手で幌をかきわけ、よろめくように中へ進む。
幾つもの木箱や樽が積まれた荷台は、たった一つの蝋燭の灯に、ささやかに照らされていた。
木箱の間を縫い、奥へ。奥へ。
かすかに、懐かしい匂い。お日様のような。森と草原を渡る風のような。
暗がりに馴れたアスナの瞳を、きらりといくつかの光が射た。
細身のフレームを組み合わせた車椅子。華奢な銀輪。
その上に、影のようにひっそりと身を沈める、黒衣の姿――。
「………………」
圧倒的な感情の大嵐に打ち据えられ、アスナは立ち尽くした。あれほど沢山考えてきた、再会の言葉はひとつも出なかった。
オーシャン・タートル上部シャフトのSTLに横たわる体から奪われ、囚われた、愛する人の魂がそこにあった。
傷つき、損なわれ、それでも確かに息づく命が。
おそらく――。
SAO世界から解放され、しかし目覚めることはなかったアスナを所沢の病院のベッドに見出したとき、キリトもまったく同じ痛みを、哀しみを、そして決意を感じたに違いない。
今度はわたしが。必ず、どんな代価を払おうとも、ぜったいに助ける。
ようやく呼吸を取り戻し、アスナはそっと囁いた。
「…………キリトくん」
痛々しいほどに痩せ細ったその体からは、右腕がまるごと失われていた。白黒二本の剣を抱える左腕が、アスナの声が響いたとたん、ぴくりと震えた。
俯けられたままの顔と、うつろな黒瞳にも、細波のような痙攣が走った。
「ぁ…………」
ひび割れ、掠れた声が、唇の奥から漏れる。
「ぁ……あー……あぁ…………」
かたかた、と車椅子が小さく震動した。左手が、真っ白になるほど強く握り締められ、肩から腰にかけても軋むような強張りが走った。
俯いたまま動かない両頬に、すう、と二筋の涙が流れ、剣へと滴った。
「キリトくん……いいよ、もういいよ!!」
アスナは叫び、跪くと、愛する人の枯れ枝のようになった体を強く抱き締めた。自分の両眼からも、熱いしずくがとめどなく溢れるのを感じた。
再会したその瞬間、キリトの魂が癒され、意識が戻る――。
そんな奇跡を、期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし、キリトのフラクトライトに加えられた損傷が、純粋に物理的なものであることをアスナは認識していた。彼はいま”主体”を、自分のなかの自己を完全に喪失しているのだ。それが何らかの手段で再構築されない限り、いかに外部から激烈な入力があろうとも、自発的出力に変えることはできない。
耳裏に、比嘉の言葉が蘇る。
『彼は、激しく自分を責めていた……』
キリトは、この世界と、そこに暮らす人々を守るために戦った。その果てに、心を繋いだ仲間を、友を失った。
巨大すぎる喪失感と悔恨が、彼の心に穴を開けてしまったのだ。
でも、たとえその穴が無限に広がる虚無であろうとも、わたしが埋めてみせる。わたし一人で出来なければ、心を繋いだ沢山の人たちの力を借りて。
愛で満たせない喪失が、あってたまるものか。
アスナは、強い決意が自分のなかに満ちるのを意識した。これ以上、キリトにはひとかけらの哀しみだって感じさせない。
――キリトくんが愛し、生きたこの世界は、わたしが守るんだ。謎の襲撃者たちから、そしてラーススタッフからも。
最後にもう一度、強くキリトを抱擁してから、アスナは立ち上がった。
振り向き、涙ぐみながらこちらを見ている二人の少女たちに微笑みかける。
「ありがとう。あなたたちが、キリトくんを守ってくれたのね」
ゆっくり頷いた黒い髪の少女が、震える声で問いを発した。
「あの……あなたは……? ステイシア様でないなら……誰なんですか?」
「わたしの名前はアスナ。あなたたちと同じ人間よ。キリトくんと同じ世界から来たの……同じ目的を果たすために」
おそらく、これが、生体脳に魂を持つ現実世界人と、ライトキューブに魂を持つアンダーワールド人が、真の意味ではじめての邂逅を遂げた瞬間だった。
「こりゃぁ何とも……たまげたとしか言えませんな」
御座竜車の先端から、突如出現した地割れを見下ろしていたガブリエルに、どこかのん気な声が掛けられた。
視線を向けると、デッキの片隅に設けられたハッチから、恰幅のいい中年男が顔を出したところだった。たしかレンギルという名の、商工ギルドの頭領だ。幅広の袖を体の前で合わせ、深々と一礼する。
いまや残り少なくなった将軍ユニットの一人だが、この男自身には大した戦闘力はないらしい。何用か、という意味を込めて片眉を動かすと、レンギルは両手を合わせたまま告げた。
「陛下。間もなく紫の月が昇りますれば……即時の行動命令が御座りませぬようでしたら、全軍に食事と休息のお許しを頂きたくまかり越しました」
「ふむ」
再び、黒々と口を開けるクレヴァスに視線を向ける。
あの地割れが、東西どこまで続いているのか確認させるために放った偵察兵からはいまだ報告がない。つまり、一マイル二マイルのオーダーではないということだ。さりとて、人力での土木作業で埋め尽くせる深さではないことも見ればわかる。
となれば、航空ユニットの使いどころであるはずだが、暗黒騎士団の飛竜とやらはわずか十頭しか居ないらしい。二万の歩兵を運ぶのに、何往復させればいいのか見当もつかない。
術式ならば何とかなるのかと、わずかに生還した暗黒術師に検討させもしたが、あの規模の峡谷に軍隊が渡れるほどの耐久性のある橋を掛けるのは不可能という返事だった。総長ディー・アイ・エル級の術者が、再び多数のオークを生贄に用いればあるいは、と言うことだったが、彼女は敵騎士の反撃により骸も残さず戦死との報が届いている。
野心に満ち満ちていたわりには、呆気なく退場したものだ。ガブリエルは一瞬そのような感慨を抱いたが、所詮はAIの駒だ、とすぐに意識から消し去った。
つまるところ――。
あの巨大な地割れは、この世界の”ゲームバランス”から逸脱した代物だ、ということだ。ダークテリトリーのAIに修復不可能な操作を、ヒューマンエンパイアのAIが実現できる道理はなかろう。
ならば、あれは恐らく、現実世界からの干渉だ。K組織のスタッフが、ガブリエルと同じようにスーパーアカウントでログインしてきたに違いない。目的もまた同じだろう。”アリス”を回収し、システムコンソールを用いてこの世界からイジェクトさせる。
厄介な局面になったのは確かだが、そうと分かっていれば、まだ対処のしようはある。
むしろ――面白くなってきた、とすら言えよう。
ガブリエルは、ごく微かな笑みを薄い唇の端に一瞬浮かべ、消し去ってから、レンギルに向き直った。
「よかろう。本日はこの地点で野営する。兵にはたっぷり食わせておけ、明日は忙しくなるからな」
「はっ。陛下の御厚情、真に痛み入ります」
再び深々と平伏し、商人の長はいそいそと姿を消した。
「キリト先輩と……同じ、世界?」
つぶらな瞳を見開き、少女たちは声を揃えて呟いた。
「そ、それは……神界のことなのですか? 創世三神や……素因を司る神様たちや、天使たちが暮らしている天上の国……?」
「違うわ」
アスナは慌てて首を振った。
「確かに、この国の外側にある世界だけど、決して神様の国じゃない。だって……ほら、このキリトが、神様だの天使だのだなんて思える?」
すると、少女ふたりは車椅子に視線を向け、互いに眼を見交わしてから、短くくすっと笑みを漏らした。すぐに慌てた様子でそれを消し、こくこくと頷く。
「は、はい……確かに、毎晩学院を抜け出して買い食いにいく神様なんていない……と思いますけど……」
赤毛の少女の言葉に、今度はアスナが唇をほころばせた。まったく、この世界でまでそんなコトしてたのね、と呆れるやら嬉しいやらで、またしても目頭が熱くなりかける。
瞬きでそれを抑え、ね? と頷きを返すと、今度は黒髪の子がおずおずと口を開いた。
「なら……その、外側の世界、っていうのは、いったい……何なのですか?」
アスナは少し考え、答えた。
「それは、ひとことでは言い表せないの。この場の指揮を執っている人たちにも同時に説明したいから……案内してもらえるかしら?」
「は、はい。分かりました」
緊張した面持ちで了承した少女たちを追い、大型馬車の後端に向かおうとしたアスナは、一瞬脚を止めてキリトを見た。
俯けられた顔には、いまだ細く涙の筋が光っている。
だいじょうぶ、もう大丈夫よ、キリトくん。
あとはわたしに任せてね。
心の中でそう囁きかけ、きゅっと左手を握ってから、アスナは身を翻した。
木箱の間をすり抜け、少女たちに続いて、荷台から飛び降りる。
ブーツが、地面を捉えたその瞬間。
黄金の煌きが、尾を引いて降りかかった。
剣光。
そう判断する前に、体が反射的に動いていた。右手が閃き、左腰に装備された細剣を抜き撃つ。
キャリイィィン!!
甲高く澄んだ剣戟が、夜の森を貫いた。
あまりの衝撃に、右手が肘まで痺れた。なんという重い剣か。
飛び散った大量の火花が白く焼きついた視界に、息もつかせぬ次撃の軌道のみが見えた。
単発技では押し切られる!
瞬時に判断し、アスナは細剣を敵の斬撃に向かって連続して突き込んだ。
カキャキャァン!!
三発目で、ようやく刃が止まった。全力の鍔迫り合いに移行しながら、アスナはようやく襲撃者の姿を確認した。
息を飲む。
とてつもなく美しい、同年輩の女剣士が、雪のような肌に血の色を滾らせてアスナを睨んでいた。矢車草の色の瞳に、電光にも似た怒りが迅っている。
黄金を細く鋳溶かしたかのようなストレートのロングヘアが、せめぎ合う剣圧に翻る。上半身を覆うブレストプレートと、そして握られた長剣もまた、深く透き通る山吹色。
少し離れた場所で、目を丸くして立ち尽くしていた少女たちが、ようやく細い悲鳴を上げた。
「き……騎士様!!」
「違います、この方は敵ではありません、アリス様……!!」
――――アリス!
それでは、この凄絶なまでの美貌を持ち、巨岩のように重い剣を振るう剣士こそが――世界初の真正ボトムアップAI、高適応性人工知能A.L.I.C.E.たる”アリス”なのか。プロジェクト・アリシゼーションの目的そのものであり、ラースと襲撃者たちの双方が希求する、一連の事件のまさに核心。
しかし、なぜこれほどの敵意を。この状況で。
全力で刃を噛み合わせながら、アスナが何かを言おうとしたその寸前、”アリス”の桜色の唇から、名手の奏でるヴァイオリンのように艶やかな響きの声が鋭く迸った。
「きさま、何者だ!! なぜキリトに近づいた!!」
その台詞を聞いた途端。
アスナの中で、あらゆる事情を脇に押しやる、一つの感情が音を立てて弾けた。
具体的には、ものすごくカチーンと来た。
反射的に返した言葉は、事態にドラム缶数本ぶんのガソリンをぶちまけるに等しいものだった。
「なぜって……わたしの、だからよ」
「なにを言うかっ、狼藉者が!!」
アリスが、真珠色の歯をきりっと鳴らしてから叫んだ。
ギャリッ、と火花を振り撒きながら、二本の剣が離れる。
ふわりと飛びのいた黄金の剣士は、ブーツが地面を捉えるや、再び猛烈な左上段斬りを撃ち込んできた。しかし、アスナも今度は気後れ無く、右手に浸み込んだ連続技を放っていた。
夜闇のなかで、巨大な弧月と、幾つもの流星が激突し、眩く輝いた。
肘から肩までを貫く衝撃に、アスナは、個人的感情はさておきまったく瞠目すべき剣技だ、と改めて息を飲んだ。正直、実力では少々劣ることを認めなければならない。互角に撃ち合えるのは、ステイシアアカウントに付与された、つまり”GM装備”であるこの細剣がアリスの黄金の長剣よりも高優先度だからだ。
再び鍔迫り合いとなり、短い間隙が生まれた。
その静寂を、渋く錆びた男の声が破った。
「うーむ、こりゃ実に何とも、見事な眺めだね。咲き誇る麗しき花二輪。いや絶景絶景」
直後、それまで誰も居なかったはずの空間から、ぬう、と二本の逞しい腕が伸び、アリスとアスナの剣の腹を、指先でひょいと摘んだ。
「!?」
まるで万力に挟まれたかのごとく剣が動かなくなった。唖然とするアスナを、細剣ごと軽がると吊り上げた腕は、争う二人の剣士をふわりと引き離して再び着地させた。
立っていたのは、見上げるような体躯を持つ、四十過ぎの男だった。
前あわせの、着物に似た装束の上から最低限の防具を身につけている。腰に下がる鋼色の長剣も、袖口から伸びる前腕も、そして鋭くも重厚な貌にも沢山の細かい瑕が走り、古強者という形容がすぎるほどにぴったり来る。
その男が現れた途端に、何歳か幼くなってしまったかのような印象を帯びたアリスが、ふくれ顔で抗議した。
「なぜ邪魔をするのですか小父様! この者は恐らく敵の間者……」
「ではない、と思うぞ。おっ死ぬところだったオレを命拾いさせてくれたのは、こちらのお嬢さんなんだからな」
君らもそうだろ、という男の言葉は、目を丸くして立ち尽くす灰色の制服の少女たちに向けられたものだった。
二人は、恐る恐るというふうに頷き、交互にか細い声を発した。
「は……はい、騎士長閣下。その方は、私たちを助けてくれたのです」
「腕の一振りで、敵の大部隊を奈落に落として……まさしく、神の御業でした」
騎士長と呼ばれた男は、さいぜんアスナが地面に穿った亀裂の方向にちらりと目をやると、アリスの肩に手を掛けながら言い含めるように説いた。
「オレも見たさ。天から七色の光が降り注ぎ、大地がばっかりと百メルも裂けた。さしもの拳闘士団も飛び越えられずに泡を食ってたよ。一息に蹂躙されるところだった我が軍を、このお嬢さんが救ってくれたのは間違いない事実だ」
「…………」
いまだ、右手に華麗な黄金剣をぶら下げたまま、アリスが胡散臭そうな視線でじろりとアスナをねめつけた。
「……ならば、小父様は、この者が敵の間者でも、神画の装束を模倣した不心得者でもなく、本物のステイシア神だなどと仰るおつもりですか」
アスナは、黙したまま軽く唇を噛んだ。ここで、この場の総責任者らしい”騎士長”に、神様なりと認定されでもしたらまた厄介なことになる。
しかし幸い、男は逞しい口元を僅かに緩めると、いいや、と言った。
「そうは思わん。オレの知ってる神サマとやらは、もっと無慈悲な存在だからな。たとえば、いきなり斬りかかってきた乱暴者なぞ容赦なく地の底に突き落とす、くらいにはな」
これにはアリスも、唇を尖らせながらも反論はできないようだった。尚も敵意の消えない青い瞳でアスナに火花の出そうな一瞥を呉れてから、右手の剣を鯉口にあてがい、シャキン! と一気に鞘に落とす。
実のところ、アスナにも大いに言いたいことはあった。要約すれば、えっらそーに、あなたキリト君のなんなのよ、ということだが、深呼吸ひとつでどうにか憤慨を意識から押し出す。これから、このアリスを説得して遥か南の果てにあるという第三のシステム・コンソールまで連れていかねばならないというのに、ケンカしている場合ではまったくない。
同じように剣を収め、アスナは現状で最も頼れそうな騎士長に視線を向けると、口を開いた。
「ええ……仰るとおり、私は神などではありません。あなた方とまったく等しい人間です。ただ、あなた方のおかれた状況について、幾ばくかの知識を持っています。なぜなら私は、この世界の”外側”から来たからです」
「外側……ね」
騎士長は、短い顎鬚をざらりと擦りながら、太い微笑を浮かべた。
対照的に、アリスのほうは、目を見開いて鋭い呼吸音を発した。
「外の世界……!? キリトのやってきた場所から、お前も来たというの!?」
これにはアスナも驚いた。では、キリトは、アンダーワールドの構造についてある程度アリスに話していたのか。
STRA――主観時間加速機能の倍率を考慮すれば、キリトはすでにこの世界で三年近い年月を過ごしている計算になる。いったい、そのうちどれくらいをこのアリスと共有したのだろう、とつい考えてしまう。
アリスのほうも、同系統の思考に辿りついたらしく、再び一歩詰め寄ろうとしたが騎士長の腕がそれを制した。
「ここから先は、他の騎士や衛士長たちにも聞いてもらったほうがよかろう。茶でも飲みながら話そうや。敵軍も今夜はもう動けまい」
「……そう、ですね」
眉のあたりに険を漂わせたまま、アリスも頷いた。
「よし、そうと決まれば……そこの君たち、熱い茶と、オレには火酒を用意してくれないか。君たちも一緒に話を聞くといい」
騎士長にそう言われた制服の少女たちは、は、はいっ! と畏まって敬礼した。
アスナは、この場所を離れる前にもういちどキリトに会いたい、と思ったが、身動きひとつする前にアリスの鋭い言葉が飛んできた。
「言っておきますが、今後私の許可なくその馬車には立ち入らないように。キリトの安全を確保するのは私の責任範囲ですから」
むかっ。
と頭をもたげる感情をどうにか寝かしつける。
「……あなたこそ、わたしのキリトくんを呼び捨てにするのやめなさいよ……」
「何か言いましたか!?」
「……いいえ、なにも!」
ふん、と同時に顔を逸らし、アスナとアリスは騎士長の背中を追った。
その場に残された二人の少女――ティーゼとロニエは、同時にふう、と息を吐いた。
「なんか……凄いことになってきちゃったね」
ティーゼは勢いよくぱちんと両手を合わせると、親友に言った。
「さ、急いでお湯沸かさなきゃ! あと、火酒ってどの馬車だっけ?」
たたっ、と走り出す赤い髪を追いかける直前、ロニエが口の中で呟いた言葉を聞いたものは、誰もいなかった。
「……私の、なのになぁ……」
ぱちぱち、と音を立てて燃える焚き火を、お茶のカップ片手にアスナはしばし見つめた。
なんとリアルな炎だろうか。
SAOやALOで幾度となく目にした、グラフィックエンジンによって描画されるエフェクトとしての火炎とは根本的に次元が異なる。生乾きの薪が爆ぜるたびに飛び散る火の粉、濃密に漂う焦げ臭さ、顔や手の表面をかすかにあぶる熱までが、現実以上の現実感を備えてアスナの五感を刺激する。
アンダーワールドにログインしてから、こうして折りたたみの布張り椅子に腰を降ろすまで、劇的状況の連続で”世界を味わう”暇などまったくなかった。あらためて感覚を総動員させると、STLによって与えられる”ニーモニック・ビジュアル”の凄まじいクオリティに圧倒されざるを得ない。
これでは、ここが仮想世界なのだと知らずにログインさせられたキリトは、当初それを確認するのに大変な苦労をしたことだろう。何せ――この世界には、いわゆる”NPC”は一人たりとも居ないのだから。
アスナは、焚き火から視線を移し、森に開けた円形の広場に集う人々を順繰りに眺めた。すでに、簡単な紹介だけは受けている。
すぐ左にどっかと座り、古めかしい酒瓶を独り占めしているのは整合騎士長ベルクーリ。その隣に、整合騎士アリス。オレンジの灯りに照らされ、深みを増した金髪の美しさには、同性ながらため息をつきそうになる。
アリスの向こうで、どこか所在なさそうに腰を下ろした十五、六の少年も、やはりこの世界で最強のクラスである整合騎士らしい。名前はレンリと言ったか。
さらに視線を移すと、まるで影のようにひっそりと座る細身の女性騎士が目に入る。真新しい鎧が体に合わないようで、しきりに革帯を引っ張ったり緩めたりしている様はあたかもVRMMO初心者だが、シェータという名で紹介されたとき、一瞬アスナと視線を合わせた切れ長の瞳には、得も言われぬ迫力があった。
彼女の左側、アスナから見て焚き火の向こうには、衛士というクラスの者たちが十人ほど椅子を並べている。いずれも剛毅な面構えの、いかにもつわものという雰囲気たっぷりだ。
そして、アスナのすぐ右に、先ほどの制服の少女らが、限界まで身を縮めてちょこんと座っている。赤毛の子がティーゼ、黒髪の子がロニエと名乗った彼女らは、何とキリトが二年も籍を置いていた学校の後輩なのだそうだ。
以上、十数人の剣士たちの顔をひととおり見渡して、アスナはひとつの感慨を深く噛み締めた。
彼らは、まさしく、本物の人間だ。
その容姿、所作、漂わせる気配まで、作り物めいた部分は欠片も見出せない。この中で、”法や命令に逆らえない”という人工フラクトライトの限界を突破したのがアリスただ一人である、という前提すらもいっそ信じられないほどだ。
キリトの、彼ら全員を守らんという心情も、今ならば深く理解できる。
その志を、わたしも共有するんだ。
アスナは強くそう決意しながら、大きく息を吸い、言葉を発した。
「皆さん、はじめまして。私の名前はアスナ。”世界の外側”からやって来ました」
今や懐かしくすらあるほどに遠ざかってしまった、辺境の村ルーリッドでの短い隠遁生活のあいだ、アリスはよくキリトの車椅子を押しては近くの牧場を見に行った。
白木の柵に囲われた緑の草地では、沢山のふわふわした羊たちが大人しく草を食み、その間を真っ白い子羊が元気に駆け回っていた。
アリスは、何て幸せそうなのだろう、と思ったものだ。柵の外のことなど何も考えず、閉ざされ、守られた世界でただ安穏な日々を送っている。
よもや――。
この世界の人間も、まったく同じ状況にあろうとは。
アスナと名乗る不思議な女性の語った言葉は、すべての騎士と衛士隊長に、天地が割れ砕けんばかりの衝撃を与えた。さすがの騎士長ベルクーリは飄々とした顔を貫いてみせたが、それでも内心大いに思うところはあっただろう。
なにせ、アスナという栗色の髪の剣士は、この世界全体が、柵に囲われた牧場、あるいは硝子でできた水槽であると告げたのだ。
彼女は、世界を”アンダーワールド”という神聖語で呼んだ。そして、その外側――地勢的にではなく、観念的な外部――に、”リアルワールド”なる異世界が広がっているのだという。
当然ながら、それは神界とはどう違うのか、という疑問が衛士たちから発せられた。
来訪者は答えた。リアルワールドに暮らしているのも、感情と欲望、そして有限なる天命を持つ人間なのだ、と。
そして今、リアルワールドのごく限られた場所において、二つの勢力が、アンダーワールドの支配権をかけて争っているのだという。
アスナはその一方の使者であるらしい。目的は、アンダーワールドの保全。
そしてもう一方の勢力の目的は――アンダーワールドから、たったひとりの人間を回収し、しかる後に世界すべてを破壊し無に帰すこと。
それを聞いた衛士たちは不安げにざわめき、若い騎士レンリも低いうめき声を漏らした。
動揺を鎮めたのは、ベルクーリの喝破だった。
同じこったろう、と二百年以上を生きた豪傑は断じた。人界の外側に広大無辺のダークテリトリーがあり、何万もの軍勢が侵略のときを手ぐすね引いて待ってたって事実を、これまで真剣に考えてきた奴なんざいねえんだ。今更、その外側にもうひとつ世界が増えたくれえでおたつくな。
甚だ暴論ではあるが、頼もしい錆び声でそう言い切ってから、騎士長はアスナに向かって、誰なのだその、お前さんの敵方が欲しがる”ひとり”とは、問うた。
異邦人の明るい茶色の瞳が、ベルクーリから逸れ、まっすぐにアリスを射た。
「じょ……冗談ではありません!!」
アリスは、思わず叫んだ。椅子を蹴って立ち上がり、右手を胸当てにバシッと当てて、さらに言い募る。
「逃げる!? 私が!? この世界と、そこに暮らす人々、それにこの守備軍の仲間たちを見捨てて……リアルワールドとやらに!? 有り得ない! 私は整合騎士です! 人界を守ることが最大にして唯一の使命なのです!!」
すると、今度はアスナが勢いよく立った。まっすぐ長い髪を大きく揺らし、名匠の拵えた銀鈴を思わせる声で反駁してくる。
「ならば尚のことだわ! もし”敵”……暗黒界人ではなく、リアルワールドにおける強奪者たちが、あなたを捕らえこの世界から引きずり出せば、残る人々や……それだけじゃない、大地も、空も、何もかもが消滅させられてしまうのよ! 敵はもう、いつここを襲ってきてもおかしくないの!」
「おっと、その点については情報が古いな、アスナさん」
悠揚迫らぬ声を挟んだのは騎士長ベルクーリだ。
「どうやら、もう来てるぜ。お前さんの敵とやらは」
「えっ……」
絶句するアスナを、焦らすように火酒の壷をぐいっと呷ってから、騎士長は続けた。
「これで合点が行ったってもんだ。”光の巫女”。そしてそれを求める”暗黒神ベクタ”。いま敵軍を指揮してるベクタ神とやらも、間違いなくあんたと同じくリアルワールドから来た人間だろう」
「暗黒……神」
顔を青ざめさせてそう呟いたアスナは、続けて少々意味不明な言葉を漏らした。
「なんてこと……ダークテリトリー側のスーパーアカウントは、ロックされてなかったんだわ……」
「あの……ちょ、ちょっといいですか」
生まれた一瞬の間隙をついて、少年騎士レンリがおずおずと手を挙げた。
全員の視線が集まったのを意識してか、頬を赤らめながら若者はか細い声で尋ねた。
「そもそも、光の巫女って何なんですか? その、リアル……ワールドの”強奪者たち”って連中は、いったい何故アリス殿をそんなに欲しがるんです?」
その質問に答えたのは、この会議でも当然”無音”を貫くと思われていた灰色の騎士シェータだった。
「右眼の……封印」
これには、アリスもぎょっとして、一瞬憤りを忘れた。
「し……知ってるんですか、シェータ殿!? なぜ!?」
「考えると……痛くなる。世界で一番硬いもの……”破壊不能属性”のカセドラル、切り倒したら……楽しいだろうな、って」
しーん。
という誰もが何も言えない沈黙を、無かったことにしたのはベルクーリの咳払いだった。
「あー、この場にも、秘かに身に覚えがある者はほかにも居ようかと思う。帝国法や、禁忌目録、あるいは神聖教会への忠誠に、わずかなりとも不満なり反意を抱くと、その瞬間右の目ン玉に赤い光がちらつき、同時に刺すような痛みに襲われる現象だ。普通はその瞬間、あまりの激痛にそれまで考えていたことを忘れる。しかし、なおも不穏当な思考を続けると、痛みは際限なく強まり、右の視界すべてが赤く染まり――しまいにゃぁ……」
「右眼そのものが、あとかたもなく吹き飛びます」
アリスは、あの忌まわしい一瞬を鮮明に思い出しながらそう呟いた。
一同の顔に、濃淡はあれ等しく恐怖の色が浮かぶ。
「では……アリス殿は…………」
畏れをはらんだレンリの声に、ゆっくり頷いて、アリスは続けた。
「私は、元老チュデルキン、そして最高司祭アドミニストレータと戦いました。その決意を得るために、一時右眼を失いました」
「あ、あの…………」
レンリよりも更に細い声で発言機会を求めたのは、これまで目を丸くして話を聞いているだけだった、補給部隊の少女ティーゼだった。
「ユージオ先輩も。私の……私たちのために剣を振るい、罪を犯したとき、右眼から……血が……」
さもありなん、とアリスは頷いた。一般民でありながら、幾多の激闘を乗り越え、騎士長をも退け、アドミニストレータ相手に見事な心意の発露を見せたあの若者なら、右眼の封印くらい乗り越えただろう。
そうだ、そういえば、あの時アドミニストレータが、封印について何かを……。
「ふむ……」
腕組みをしたベルクーリが、双眸を半眼に閉じて唸った。
「つまり、”敵”とやらは、封印を自ら打ち破った者を欲しているというわけか。アスナさん、ちょいと訊くが、あんたたちリアルワールド人にも、同じ封印があるのかい?」
「…………いえ」
わずかな逡巡ののちに、栗色の髪が横に揺れた。
「おそらく、法や命令を破れるかどうか、というその一点だけが、リアルワールド人とアンダーワールド人の差異なのだと思います」
「ならば、つまりアリス嬢ちゃんは、今や完全にあんたらと同じ存在ってわけだな? だがおかしかないか? 同じものを、なぜそうまで強く求める? リアルワールドにも人間はわんさと住んでるんだろうに」
「それは…………」
再び、先ほどよりも強い迷いの色を見せ、アスナは口篭った。
しかしアリスは、記憶にひっかかっていた逆棘が抜けた瞬間、大きく叫んでアスナの言葉を遮ってしまった。
「そうよ! “コード871”!」
両手を握り締め、あふれ出す記憶を声に乗せる。
「最高司祭は、右眼の封印のことをそう呼んでいたわ、コード871、って。 “あの者”が施した、って! その時は意味がわからなかったけど……これも、リアルワールドの言葉じゃないの!?」
アスナの顔に、再び驚愕の色が迅った。
小ぶりな唇がわななき、掠れ声が絞り出される。
「……まさか……封印は、向こうの人間が……? あっ……”深刻なレベルの……情報漏れ”……」
よろり、と椅子に沈み込んだ異界人が続けて漏らした囁きの意味は、アリスには分からなかった。
「…………いけない……スパイは自衛官じゃないわ……ラースの技術者に……いまも隔離されてない……!」
アスナは激しく動揺した。
上位存在への盲従、という人工フラクトライト唯一の瑕疵を取り除くために、菊岡や比嘉らラーススタッフは多大な努力を重ねてきた。なぜなら、現状の人工フラクトライトは、与えられた命令を善悪や妥当性によって検証できないということになるからだ。彼らをAIとして戦闘兵器に搭載した場合、仮に命令系統のハッキング等により所属部隊に対する攻撃や民間人の無差別殺傷指示が発令されれば、それは再確認もなしに実行されてしまう。
ゆえにラースは、その限界を突破し得る人工フラクトライトを生み出すために、”人界”と”ダークテリトリー”からなるアンダーワールドという強負荷実験装置を創造した。
しかし、まるで実験の成功を妨げるかのような”右眼の封印”が、現実世界の何者かによってひそかに施されていたとするならば。
そのサボタージュの目的は恐らく、あの武装襲撃チームが準備を整え、移動を完了するまでの時間稼ぎだろう。
つまり、比嘉が存在を示唆していた内通者は、アンダーワールド・メインフレームにかなり高位の管理者権限をもつ者ということになる。具体的には、ラースの中枢エンジニアの誰かだ。
そしてその何者かは、いまもオーシャンタートルのアッパーシャフトを無制限に闊歩している。入ろうと思えば、他のスタッフの目を盗んで、アスナとキリトが横たわる第二STL室にだって侵入できるのだ……。
ぞっ、と肌を撫でる寒気を払い落とし、アスナはさらに考えた。
この情報を、可及的速やかに現実サイドに伝える必要がある。しかし、システムコンソールから遠く離れた座標にログインしてしまった以上、アスナから外部を呼び出す手段は無い。たった一つだけ、今使用している”創世神ステイシア”のHPをゼロにする――つまり死亡するという方法があるにはあるが、その場合もうこのスーパーアカウントではログインできない。メインコンソールがロックされている今、アカウントデータのリセット操作もできないからだ。
襲撃者たちが、暗黒神ベクタという同レベルのアカウントを利用している以上、一般民相当のステータスでは対抗できまい。アリスを守り、無事にログアウトさせるためには、今のアカウントが必須なのもまた確かなのだ。
どうする。どちらを優先すれば。
ここまでを瞬時に思考したアスナは、たった一度の深呼吸を経て、意思を決定した。
今はアンダーワールド内部を優先する。この世界は、STRAのリミット上限、現実世界比1200倍という超高速で駆動しているのだ。むこう側で内通者が動き出すまでに、いくばくかの時間的余裕はあるはずだ。
そのあいだに、何としても敵の指揮するダークテリトリー軍からアリスを守り抜き、現実サイドへとイジェクトさせる。もしそれに失敗し、アリスが敵の手に落ちたら、連中は真正AIを独占するために残るライトキューブ群を容赦なく破壊し尽くすだろう。キリトが命を賭けて守ろうとしたこのアンダーワールドを。
結城明日奈が下した判断は、現在得られる情報に照らせばまったく正しいものだった。
しかし、彼女も、そしてオーシャンタートルの比嘉タケルや菊岡誠二郎すらも、ひとつの重大な事実に気付いていなかった。
STRA倍率は、現実時間でおよそ二時間前から、最低の1倍にまでダウンさせられていたのだ。操作したのはクリッターであり、命じたのはガブリエルだった。
約二十時間後にはイージス艦が突入してくる、という状況にある襲撃チームが、まさか倍率を下げて自らの首を絞めるなどと、ラースの人間にはまったく予想できなかったのも無理はない。
当然、倍率ダウン操作の狙いに到っては、はるか想像の埒外だったのだ。
だが――。
この時点で、たった一つの、人間ならぬ存在だけがガブリエルの狙いを看破していた。
結城明日奈が持ち込んだ携帯端末に潜む、世界最高レベルのトップダウン型擬似人工知能である”彼女”は、ある意思を秘めて自分をオーシャンタートルの大口径アンテナから外部ネットワークへと飛翔させた。
「どうか……したの?」
いつの間にか敬語でなくなっているアリスの言葉に、アスナははっと顔を上げ、首を振った。
「いいえ……大丈夫。ごめんなさい、話の腰を折って」
「折られてはいないわ。あなたの答えを待ってるんだから」
アリスが、相変わらずとげとげしい口調で問い質してくる。
「どうなの? コード871、って名前に思い当たるところはないの?」
「あるわ。これから説明するところよ」
つい、反射的につっけんどんな声を出してしまう自分がアスナには不思議だった。
これまでアスナは、あまり誰かとケンカしたという記憶がない。周囲の友達――リズベットやシリカ、リーファ、シノン達とはいつも楽しく遊んでいるし、学校でも皆と仲良くやっている。
いったい、最後にこんなふうにやりあった相手は誰だろう、と思い出を辿ったアスナは、思わずぷっと噴き出しそうになった。その相手は間違いなく、誰あろうキリトだ。
SAOに囚われて一年何ヶ月か経った頃だったか。ある層のフィールド・ボスモンスターの攻略方針を巡ってアスナはキリトと激しく対立し、まさに今のような尖った言葉をぶつけまくった挙句にデュエルオファーまで叩きつけた。その敵意が、恋心に変わるまでは一ヶ月も無かった気がする。
となれば、このアリスという女の子とも、いずれ同様に仲良くなる時が来るのだろうか。
いや、それはなかなか薄い可能性ね。
そう思いながら、アスナは口を開いた。
「間違いありません。あなたの言う、コード871という封印を仕掛けたのは、リアルワールドの人間……”敵”に与する者です」
来訪者アスナの言葉を聞きながら、アリスは、いったいなんでこんなに苛々するんだろうと考えた。
無論、第一印象は最悪だ。何のことわりもなく、車椅子のキリトに近づかれていい気分がするわけがない。傷ついたキリトを、この半年間守り、世話してきたのは自分なのだから。
しかしあのアスナという娘は、キリトと同じくリアルワールドからやってきた。言動からして、その世界でキリトと何らかの関係があったのは間違いない。となれば、異世界にまで追いかけてきたのだし、一目会うくらいの権利はあるのかもしれない。
それがこのイライラの原因なのだろうか。世界でいちばんキリトに対して義務と責任があるのはこの私だ、と思ってきたのに、突然新たな関係者が現れたからか。
あるいは、アスナの恐るべき剣技への対抗心だろうか?
あんな超高速の連撃を、アリスは間違いなく初めて目にした。速度で言えば、副騎士長ファナティオすら問題にならない。連続技、というよりまるで同時に複数の突き技が放たれたようにすら感じた。もし撃ち合わせた剣が少しでも弾かれていれば、切り替えしは向こうのほうが速かっただろう。同年代、同性の剣士にここまで戦慄させられたことは無い。
もしくは――。
アスナが、こうして見つめているだけでため息が出そうなほどに美しいから、か。
険しい部分がひとつもない、優美という言葉が結晶したかのような異国風の顔立ち。ミルク色の肌は焚き火の色に艶やかに照り映え、栗色の長い髪が柔らかに揺れるさまは、まるで極上の絹を選び抜いて束ねたかのようだ。衛士長たちの目には、陶酔にも似た賛嘆の色が浮かんでいる。彼らは、アスナがステイシア神その人なりと名乗ったところで、疑いも無く信じただろう。
知りたい。
リアルワールドとか、敵とかそういうことではなく、アスナという個人について。キリトとの関係について。その剣技について。
いつしか自分がぼんやり思考を彷徨わせていたことに気付き、アリスは我にかえるや慌てて耳を澄ませた。
アスナの涼やかな声が夜気を震わせている。
「……”敵”は、アンダーワールドにおいて封印を破る者……つまり”光の巫女”が現れ、彼ら以外の勢力がその者を取り込むことを恐れたのです。なぜなら、光の巫女は、リアルワールドにおいてとてつもなく貴重な存在となり得るからです」
「そいつが解らんのだよなぁ」
騎士長ベルクーリが、酒壷をちゃぷちゃぷ回しながら唸った。
「光の巫女、つまりアリス嬢ちゃんは、リアルワールド人と同等の存在ってわけだろ? さっきも訊いたが、同じものになぜそれほど固執するんだ? “敵”にせよアスナさんの陣営にせよ、いったい、アリス嬢ちゃんを連れ出して何をさせるつもりなんだい?」
「それは……」
アスナは、言葉に詰まったかのように唇を噛んだ。
長い睫毛が伏せられ、沈痛な色がその頬に浮かぶ。
「…………ごめんなさい、今は言えません。なぜなら、わたしは、アリスさんに自分の目でリアルワールドを見て、判断してほしいのです。向こう側は、決して神の国でも理想郷でもない。それどころか、この世界と比べれば遥かに醜く、汚れています。アリスさんを欲しがる人たちの動機もそう。今ここでそれを話せば、アリスさんはリアルワールドを、そこに暮らす人間たちを許せないと思うでしょう。でも……そんな部分ばっかりじゃないんです。この世界を守りたい、皆さんと仲良くしたい、って思う人も、きっと沢山います。そう……キリト君のように」
どこか必死な響きのある、長い言葉を、アリスは黙って聞いた。
そして、自分でも驚いたことに、ゆっくりと頷いた。
「……いいわよ。今は聞かないわ」
両手を軽く広げ、肩をすくめる。
「どうあれ、私はしたくない事をするつもりなんてないしね。それ以前に、行くって決めたわけでもない。外の世界を見てみたい気はするけど、それは目の前の敵を……暗黒神ベクタ率いる侵略軍を打ち破って、ダークテリトリーとのあいだに和平が成立してからのことよ」
すると、また強行に反撃してくると思ったアスナは、こちらも短い沈黙ののちに小さく首肯した。
「……ええ。あのダークテリトリー軍を、リアルワールド人が指揮している以上、私とアリスさんが単独でこの部隊を離れるのは危険かもしれない。敵も当然それくらい予想してくるでしょうから。私も……皆さんと一緒に戦います。”暗黒神ベクタ”の相手は、私に任せてください」
おおっ、という声が衛士長たちから上がった。彼らにとってアスナは、本人がどう言おうとステイシア神とさほど変わらぬ存在なのだろう。何より、大地を裂くほどの超攻撃力があれば、残る敵軍の二万が十万でもさほどのことはないのかもしれない。
同じことを騎士長も考えたらしく、うーむと腕組みをしてから訊ねた。
「ま、事情はおいおい、ということにしとくか。話を目先のことに戻すが……アスナさんはアレかい? あの地面をばかっといく奴は、無制限に使えるのか?」
「……残念ながら、ご期待には沿えないかもしれません」
アスナは、肩をすぼめながらゆっくり首を振った。
「あの力は、脳……というか意識に、巨大な負荷をかけるようなのです。苦しさだけならいくらでも耐えますが、あまり乱発すると、意識を保護するために、この世界から強制的に弾き出されてしまう可能性があります。そうなっては、わたしはもう戻ってこられなくなる。おそらく、大規模な”地形操作”は使えてあと一度か二度でしょう」
期待が大きかったぶん、焚き火を囲む面々に失望の色が広がった。それを感じたアリスは、思わずもう一度立ち上がっていた。
「私たちの人界を守るのに、異世界人の力ばかりアテにしてどうするの! もう、充分に助けてもらったじゃないの。今度は、私たち騎士と衛士が異界人にその力を見せる番だわ!」
激しい身振りで力説してしまったが、アスナの意外そうな視線を受けて、気恥ずかしくなり目を逸らす。
真っ先に同意したのは、この場では最年少であろう騎士レンリだった。
「そう……そうですよ! 彼女は神様じゃない、僕らと同じ人間だって聞いたばっかりでしょう! なら、僕らだって同じくらい戦えるはずじゃないですか!」
両腰の神器を鳴らしてそう力説する少年騎士の視線が、アスナから離れてその隣の赤毛の練士に向けられるのを見て、アリスはおやおやと内心微笑んだ。
次いで、”無音”のシェータまでもが、ぼそりと言葉を発した。
「私も……また、あの人と戦いたい」
顔を見合わせていた衛士長たちが、口々に追随するのにそう時間はかからなかった。
そうとも、やってやろう、俺たちが守るんだ――という意気軒昂な叫び声に、いつのまにか草地の周囲に集っていた多くの衛士らが一斉に唱和した。大勢の意思を感じてか、焚き火の炎が一際激しく燃え上がり、赤く夜空を焦がした。
これで――よかったのだろうか。
与えられた天幕の中で、真珠色のアーマーを外しながら、アスナは考えた。
ラーススタッフの思惑としては、アスナが一刻も早くアリスをシステムコンソールに連れて行き、サブコントロール室にイジェクトすることを願っているだろう。
しかしその後はどうなる。菊岡らにしてみれば、アリスのフラクトライトさえ手に入れれば、あとはそれをコピーし、構造解析して、無人兵器搭載用AIの礎とすればいいのだ。残る数十万の人工フラクトライトはもはや用無しということになる。膨大な電力とスペースを消費するアンダーワールドを、現状のまま維持するメリットなど彼らにはない。
さらに、アスナにしてみれば、この世界に来たのはアリスの保護と同時にキリトの意識との接触を願ったためでもある。
彼と触れあい、言葉を掛け、どうにか回復のきっかけを探す。一度アンダーワールドから切断されてしまえば、再び現状のダイブを再現できる保証などないのだから、キリトのフラクトライトと触れ合うのはこれが最後の機会となるかもしれないのだ。比嘉も言っていたではないか。かくなる上は、アンダーワールドに於いて何らかの奇跡がキリトを癒すことに期待するしかない、と。
今すぐにでも、彼のいる補給隊の天幕に駆け込み、抱きしめ、言葉を掛けたい。許されるなら、ダイブしている間ずっとそうしていたい。キリトを置き去りにして、はるか南のコンソールを目指すなんて、絶対にいやだ。
――せめて、この一夜だけでも、無駄にはできない。
すべての装備を外し、軽快なチュニックとスカート姿になったアスナは、大きく息を吸い込み、耳を澄ませた。
個人用天幕には、散々辞退したのに警備の衛士がひとり付けられてしまった。神の護衛をするというので張り切った若者は、居眠りする様子もなく律儀に天幕のまわりを周回している。
その足音が、ざくざくと下生えを踏みしめながら正面を通り過ぎ、真後ろに差し掛かったあたりで、アスナは素早く天幕を出た。無音の跳躍を三度繰り返し、一瞬で十メートル先の大木の裏に潜り込む。
そっと窺うと、若い衛士はまったく気付いた様子もなく天幕の後ろから現れ、周回を継続した。ごめんなさいね、と内心で謝り、アスナは木立の奥を目指した。
大規模な会戦の疲れから人々は早々に眠り込んだようで、わずかな見張りを除いて気配はない。見張りの意識も森の外のみに向いており、アスナは見つかることなく補給隊の野営天幕群に紛れ込んだ。
目をつぶり、意識を研ぎ澄ませる。
愛する人の気配は、すぐに感じられた。
そちらへ向け、トトッと数歩移動したアスナは、視界の隅できらりと光った金色に息を詰めた。
げー、と思いつつ恐る恐るそちらを見る。
ひとつの天幕に背中を預け、腕組みをして立つ姿があった。アスナと同じような生成りのワンピースに、毛糸のショールだけを羽織っている。じろり、と睨む瞳は深いブルー。
「……来ると思ったわ」
束ねた金髪の先を揺らして、アリスがふふん、と小さく鼻を鳴らした。
自分とほとんど同じ身長、同じ体型、同じ年齢の相手をまっすぐ見つめ、アリスは準備していた言葉を投げつけようとした。
近づくな、と言ったでしょう。大人しく自分の天幕に戻りなさい。
しかし、胸に吸い込んだ空気は、容易に喉から出ていこうとしなかった。
異界人アスナの瞳に、過ぎるほどに明らかな感情の色を見出してしまったからだ。
思慕。それゆえの苦悩。それゆえの決意。
ふうっ、と長い息だけを吐きながら、アリスは自分に言い聞かせた。
譲るわけじゃない。キリトを蘇らせる責務を最も強く負う者が私であるという事実は変わらない。なぜならキリトは、私とともに戦い、ともに傷つき、私の目の前で力尽きて倒れたのだから。
だから、これはあくまで――キリト復活のための努力の一環に過ぎないのだわ。
「……取引よ」
アリスが発した短い言葉を聞いて、アスナがぱちくりと瞬きをした。
「キリトには会わせてあげる。私が知るかぎりの情報も教える。だからあなたも、あなたが知るキリトに関する全てを私に教えなさい」
一秒足らずの驚き顔に続けて、アスナはその唇に、どこか自信たっぷりな微笑を浮かべた。
「いいでしょう。でも、すごく長くなるわよ。一晩じゃ終わらないかも」
まったく気に入らない、と改めて唇を尖らせてから、アリスは一応尋ねた。
「情報の質と期間は?」
するとアスナは、橙がかった茶の瞳をちらりと夜空に向け、両手の指を折る仕草を見せながら答えた。
「えーと……顔見知りくらいの時期が一年。お付き合いが一年。それと、一緒に暮らしたのが二週間」
ぐっ。と思わず言葉に詰まる。予想外に長い。
しかしアリスは、ここで萎れてなるものかと胸を張り、言い返した。
「私は……肩を並べて戦ったのが丸一晩。そのあと、一つ屋根の下で半年間、二十四時間付きっ切りで世話をしたわ」
今度はアスナがやや仰け反った。だがすぐに体勢を戻し、ふうんそう、などと呟く。
両者は、まるで完全武装のうえ抜剣済みであるかのごとく闘気を全開にして、しばしにらみ合った。夜気がびりびりと震え、二人の間に舞い落ちた運の悪い枯葉が、ピシ、ピシと音を立てて弾ける。
無刀の鬩ぎ合いに、果敢にも割り込んだのは――不意に響いた、ささやかな声だった。
「あのぉ……」
アリスは、ぎょっとしてそちらに視線を向けた。眼前のアスナも、鏡に映るがごとく同じ行動を取る。
黒髪を短く編んで、灰色の寝巻きの上に垂らした、補給部隊の少女練士ロニエの姿がそこにあった。両手を絞るように胸の前で握り、再び口を開く。
「あの、わ、私、一ヶ月キリト先輩のお部屋を掃除して、あと剣技とかも教えてもらいました! お二人と比べると、だいぶ少ないですけど……その、私も、情報交換を……」
思わず数度まばたきしてから、アリスはふたたびアスナと視線を合わせた。同時に口元に浮かんだのは、ため息にも似た微苦笑だった。
「いいわよ。あなたもお仲間ってわけね、ロニエさん」
アリスは肩をすくめて小柄な少女に頷きかけた。ほっとしたように笑顔を浮かべる年若い練士に、なかなか大した度胸だわね、とつい感心してしまう。
微妙な空気を漂わせつつ、三人は足音を殺して移動し、アリスを先頭にひとつの小型天幕に潜り込んだ。敷き革のうえに二つ並んだ簡易寝具のうち、片方は空で、もう一方に黒髪の若者が瞼を閉じて横たわっている。毛布の端から覗くのは、二本の長剣の柄だ。
それを見たアスナの唇に、どこか懐かしそうな感傷が滲むのを、アリスは見逃さなかった。
「……どうかした?」
訊くと、敵意を一瞬で忘れ去ってしまったかのような無垢な笑顔を見せ、異世界の娘は答えた。
「”二刀流”のキリト。この人、一時期そう呼ばれてたの」
「……へえ……」
そう言えばキリトは、アドミニストレータとの最後の決戦において、己の黒い剣とユージオの白い剣を両手に握り自在に操った。
アリスは、眠るキリトの向こうに回りこみ、すとんと腰を下ろすと、二人にも座るよう手振りで示しながら言った。
「じゃ、まずはその話から聞きましょうか」
黒い荒野の夜はしんしんと更けていき、紫色の月だけがささやかに地上を照らした。
守備軍の剣士たちも、真新しい峡谷を挟んで野営するダークテリトリー軍も、やがて夢よりも深い眠りに落ちた。
双方の総力戦を目前に控えた、最後の穏やかな夜の片隅で、たった一つの天幕の蝋燭だけがいつまでも消えることはなかった。時折、厚織布の内側からひそやかな笑い声が響いたが、それを聞いているのは高い梢にとまる一羽の梟だけだった。
“死”を予感したことはある?
不意に、耳奥で鮮やかに蘇った声に、ベルクーリ・シンセシス・ワンはぱちりと瞼を開けた。
不吉な色の朝焼けが、暗い天幕の中にもごく微かに忍び込みつつある。空気は氷のように冷え、吐く息を受けるとほのかに白く色づく。
午前四時十分、と彼は読んだ。かつては大時計の針であった神器・時穿剣と精神を一体化させているベルクーリには、時刻を正確に察知するという特技がある。もう十分もたったら、伝令兵に全軍起床の角笛を吹かせねばならない。
太い両腕を頭の後ろにまわし、年経た剣士は眠りを破ったひと言を脳裏に反響させた。
――死を予感したことはあるか。
そう彼に尋ねたのは、彼の唯一の上位者、最高司祭アドミニストレータだ。
いつ頃の記憶なのかはすでに定かではない。百年前か――百五十年か。かつて、魂の崩壊を防ぐための不要記憶消去処置を施されたベルクーリにとって、遠い過去の記憶は時系列どおりに整理できるものではないからだ。
銀髪の支配者は、その裸体を惜しげもなくびろうど張りの長椅子に横たえ、しどけない仕草でワインの杯を弄びながら問うた。
床の上にどっかと胡坐をかき、酒肴のチーズをひとかじりした所だったベルクーリは、顎を動かしながら、はてと首を捻った。
無限に繰り返される日々に――それは自ら望んだものであるはずなのだが――少々倦むこともあったのか、アドミニストレータは、たまに自身に次ぐ長命者であるベルクーリを居室に呼び出しては酒の相手をさせた。
支配者の気まぐれにも馴れていたベルクーリは、機嫌取りを考えるでもなく、思いついたことを口にした。
――まだヒヨッコだった頃、先代だか先々代の暗黒将軍に捻られた時は、さすがにやべぇかと思いましたがね。
すると最高司祭はにやりと笑い、軽く水晶杯を振った。
――でも、そいつの首はずいぶん前に取ってきたじゃない? 確か、そのへんに転がってる宝石のどれかに転換したような気がするわ。それ以降はもうないの?
――うーむ、ちょいと思い出せませんな。しかし何故そのようなことを? 猊下には無縁の感覚でしょうや。
問い返すと、悠久の時を生きる少女は、長い脚を組み替えながらうふふと微笑んだ。
――んもう、わかってないわねえベリちゃん。毎日よ。私は毎日感じてる。朝、目を醒ますたびに……ううん、夢のなかですらも。なぜなら、私はまだすべてを支配していないから。まだ生きてる敵がいるから。そして、未来のいずれかの時点において、新たな敵が発生する可能性があるから。
なるほどね。
その会話から百数十年後、人界を遥か離れたダークテリトリーの森の片隅で、ベルクーリはにやりと不敵に笑った。
今、ようやくアンタの言葉の意味が分かったよ。
死を予感するとは、つまり、自ら死の可能性を追い求めていることの裏返しだ。
得心のいく終着点を、ふさわしい死に様を、全力で足掻いても抗えぬ強力な敵を――結局は、アンタも求めていたのかな。
今のオレのように。
今この瞬間、間近に迫る死をありありと予感しているこのオレのようにね。
アドミニストレータ亡き今、世界最長命の人間となった騎士長ベルクーリは、寝床から一息に起き上がると逞しい体に白の着物を羽織った。帯を締め、履物を突っかけ、腰に愛剣を差す。
早朝の冷気のなかに踏み出し、起床の指示を伝えるために、伝令兵用の天幕に向けてベルクーリは歩きはじめた。
ほぼ同時刻、数千メル北のダークテリトリー軍野営地付近から、地平線を微かに染めはじめた曙光を頼りに十頭の飛竜が飛び立った。
その背に跨る暗黒騎士たちの腕には、それぞれ一巻きの太い荒縄が掴まれていた。一端は、すでに巨大峡谷の縁に打ち込まれた木杭に固定されている。
引き出される綱をびょうびょうと風に鳴らしながら、竜たちは幅百メルの谷を飛び越え、南岸に着地した。飛び降りた騎士たちは、剣の替わりに大きな槌を握ると、馴れぬ手さばきで新たな杭を地面に打ち込みはじめた。
皇帝ベクタが下した命令は――。
拳闘士団と暗黒騎士団一万は、峡谷に張られた十本の綱のみを頼りに、向こう側へ渡るべし。
敵の妨害攻撃が予想されるが、構わず渡峡を強行するべし。
落下した者の救助は行わない。
糧食その他の物資は運ばない。
つまるところそれは、大量の犠牲者を織り込み、しかも補給は無しという無慈悲極まる決死作戦だった。拳闘士団長イシュカーン、そしてシャスターの後を継いだ若き暗黒騎士団長は、やるかたない憤懣を覚え歯を食いしばった。
しかし、絶対支配者たる皇帝に逆らうという選択肢は彼らにはなかった。
せめて敵軍が気付かぬうちに渡峡を完了したい――という将たちの願いも空しく、夜通しダークテリトリー軍を警戒していた人界側の偵察騎兵が、遥か離れた丘の上で馬首を南に巡らせた。
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堅焼きパンに、チーズと燻製肉、干し果物を挟んだ朝食をもぐもぐ食べながら、アスナは寝ぼけ頭で考えていた。
……時間が一千倍に加速されているということは、現実世界の人々がご飯を一度食べるあいだに、わたしは千回食べるってことよね。まさか、そのぶん太るなんてことはないだろうけど……。
ちらりと視線を前に向けると、同じように瞼の重そうな整合騎士アリスが、サンドイッチを口元に運んでいる。厚手の布ごしにも、その体がほどよく引き締まり、無駄な弛みの欠片もないことがわかる。
はたしてこの世界には、生活習慣病のたぐいは存在するのだろうか? それとも体型は、産まれた時点で付与される固定パラメータなのだろうか? あるいは――外見はすべて、精神のありようを映す鏡に過ぎないのか。
傍らでは、寝床から上体を起こしたキリトに、ロニエがサンドイッチを少しずつ千切っては食べさせている。アリスいわく、天命の維持にはじゅうぶん足りる量の食事はさせてきたそうだが、しかしキリトの体が見る間に痩せほそっていくのはどうしようもなかったらしい。
まるでこの世界から、いやあらゆる世界からも、消え去ってしまいたいと彼自身が望んでいるかのように。
「……今朝は少し、顔色がいいですね、キリト先輩」
不意に、アスナの心を読んだかのように、ロニエが呟いた。
「それに、ごはんもしっかり食べてくれるし」
「まさか、美女三人の添い寝が効いたのかしらね」
アリスの言葉に、思わず複雑な笑いを浮かべてしまう。
昨夜は結局、横たわるキリトを囲んで、午前一時くらいまで話し込んだ。三人が溜め込んだキリトの記憶を開陳しあうには、それでもぜんぜん時間が足りなかったのだが、ついに睡魔に負けてその場で眠りに落ちてしまったのだ。
一瞬のちに鳴り響いたかのような角笛の音に叩き起こされ、こうして朝食を口にしながらアスナが改めて思ったのは、この人はどこにいても変わらないな、ということだった。
誰にでも優しく、それゆえに多くを背負い、己を傷つける。
――でも、今度ばかりは無茶だよ。たった一人で世界をまるごと背負おうだなんて。
――少しはわたしや、他の人たちにも頼ってよね。だってみんな、キミのことが大好きなんだから。
――もちろん、一番はわたしだけど。
アスナは、改めて強い決意が胸中に満ちるのを感じた。キリトが目覚めたとき、笑顔でこう告げるのだ。大丈夫、ぜんぶうまくいったよ。キミが守りたかったものは、わたしとみんなでちゃんと守ったよ、と。
アスナの意思は、その場の二人にも伝わったようだった。アリスとロニエも、眠気の抜け落ちたまなざしをアスナと見交わすと、ぐっと強く頷いた。
敵襲を告げる角笛の、切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、その直後だった。
パンの切れ端を咥えたまま自分の天幕に駆け戻ったアリスは、手早く鎧を身に纏い、金木犀の剣を引っつかむや再び飛び出した。
同じように武装したアスナと合流し、ロニエとティーゼに「キリトを頼むわね!」と声を掛けてから、野営地の北を目指す。
黒い森が切れるあたりには、すでに帯剣したベルクーリの姿があった。偵察騎兵から報告を受けていた騎士長は、駆けつけたアリス、アスナと、ほぼ同時に到着したレンリ、シェータの姿を確認するや、厳しい表情で唸った。
「なるほど、”敵”側リアルワールド人てのの遣り口は相当なモンだな。皇帝ベクタが、思い切った手に出たようだ」
続いた言葉に、アリスも思わず唇を噛んだ。
荒縄一本を頼りに、幅百メルの峡谷の横断を強行。
落下すれば命はないのだ。強靭な体力と精神力がなければ出来ない芸当だ。そのような作戦を強いるとは、ベクタはよほどなりふり構っていないのか――あるいは、兵の命など紙くずほどにしか思っていないのか。
とは言え、仮に三分の一が渡峡に失敗したとしても、敵主力はまだ七千近くも残る計算だ。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はない。
当初の作戦である、森に潜伏しての術式攻撃も、こう明るくなっては不可能だ。ならば更に南進し、再度奇襲の機を待つべきか?
アリスの迷いを断ち切ったのは、騎士長ベルクーリのひと言だった。
「こいつは戦争だ」
ぼそりとそう言い放った古の豪傑は、その逞しい首筋に太い腱を浮き立たせながら続けた。
「異界人のアスナさんはともかく、オレたちがダークテリトリー軍に情けを掛けてる場合じゃねえ。この機は……活かさねばならん」
「機……と?」
意表をつかれ、鸚鵡返しに問うたアリスに、ベルクーリは鋭い眼光で応じた。
「そうだとも。……騎士レンリよ」
突然名前を呼ばれ、若い整合騎士がさっと背筋を伸ばす。
「は……はっ!」
「お前さんの神器”比翼”の最大射程はどれくらいだ?」
「はい、通常時で三十メル、記憶解放状態ならばおそらく五十……いや七十メルは」
「よし。では……これから我ら四騎士で渡峡中の敵主力に斬り込む。オレとアリス、シェータはレンリの護衛に専念。レンリは、神器で敵軍の張った綱を片っ端から切れ」
アリスは小さく息を飲んだ。
成程――敵も横断用の綱は必死で守るだろうが、仮にその根元に人垣を築かれたとて、曲線軌道で飛翔する投刃ならば敵頭上を超えて綱への直接攻撃が可能なのだ。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。
しかし、弱冠十五歳の少年騎士は、その幼い顔に固い決意をみなぎらせ、右拳を左胸に当てた。
「御命、了解致しました!」
ついで、無音の騎士シェータも、低く呟く。
「だいじょうぶ。私が……守る」
そして、ベルクーリの指示からは外れていたアスナまでもが一歩前に出た。
「わたしも行きます。壁は多いほうがいいでしょう」
アリスは一瞬瞑目し、胸中で呟いた。
今更この私に――巨大術式で一万の敵亜人部隊を焼き払い、また完全支配術で二千の暗黒術師を殺戮した私に、栄誉ある戦いなぞ求める資格があるはずもない。
いまはただ、剣を抜き、斬るのみ。
「――急ぎましょう」
四人に頷きかけ、アリスは視線を北の丘へと向けた。深紅の曙光が、すでにその稜線を黒く際立たせていた。
急げ。
急げ急げ!
両の拳を握り締め、拳闘士団長イシュカーンは胸のうちで何度もそう叫んだ。
広大な峡谷に張り渡された十本の荒縄を、拳闘士と暗黒騎士たちが半分ずつ分け合って次々に渡り始めている。
両手両脚を綱に絡め、ぶら下がって進もうとするのだが、そのような訓練などしたことのない兵たちの動きはぎこちない。せめて全員分の命綱を作り、配布する時間があればよかったのだが、皇帝はその猶予を与えてくれなかった。
その上、自分が真っ先に渡りたい、というイシュカーンの上申も瞬時に退けられた。昨夜、命令を拡大解釈してわずかな手勢とともに先行接敵した行動への戒めらしい。貴様らは余の命令にただ従えばよい、という皇帝の氷のような声が耳朶に染み付いている。
歯噛みしながら拳闘王が見守る先で、最も進みの早い部下がようやく綱の中ほどにまで達した。
赤銅色の肌は、早朝の冷気に晒されてもうもうと湯気を上げ、滴る汗の輝きがこの距離からでも見て取れる。やはり相当の苦行なのだ。
その時だった。
巨大な谷間を、一際強い突風が吹き抜けた。
びょおおおっ! と綱が鳴り、ぐらぐらと大きく揺れる。
「あっ……!」
イシュカーンは思わず声を上げた。数人の部族兵が、汗で濡れた掌を綱から滑らせたのだ。
谷間に轟く、吼えるような雄叫び。それは断じて悲鳴ではない、と若き長は歯を食いしばった。いくさ場ではなく、曲芸の真似事をさせられた挙句に命を落とすことへの無念の咆哮だ。
突風の一吹きで、無限の暗闇に沈む谷底目掛け十名を超える拳闘士と黒騎士が落下していった。
しかし、すぐ後に続く者たちは果敢にも綱渡りを続けた。さらに根元では、およそ三メルの間隔をあけて、次々と新たな兵らが綱に取り付いていく。
無情にも、突風は断続的に吹き寄せ、その度に新たな命が失われた。いつしか、イシュカーンの握り拳からは、炎にも似た赤い光が立ち上りつつあった。
犬死にだ。
いやそれ以下だ。弔うべき骸すらも残らないのだから。
しかもその目的が、暗黒界五族の悲願である人界侵攻ではなく、光の巫女などという女一人を皇帝が欲しがっているからと来れば、部族の者にどう詫びていいのかもわからない。
急げ、急いでくれ。これ以上の邪魔が入る前に全員渡りきってくれ。
若い長の願いが伝わったのか、あるいは動作に馴れたせいか、速度を上げた先頭の兵らがようやく向こう岸に到着した。五秒ほどの間をあけ、次の者も大地に足をつける。
この調子だと、十本の綱を一万の兵が渡り終えるのに一時間以上は楽に掛かる計算になる。そんな長時間、敵がこの作戦に気付かないでいるなどということが有り得るとは思えない。
しかし、今だけは万に一つの幸運を祈るしかなかった。
恐ろしいほどの速度で太陽が東の空を昇り、大地を赤く照らし出していく。
対して、渡り終えた兵たちの数はじれったいほどゆっくりとしか増えていかない。多くの落下者を出しながら、五十が百となり、二百、ようやく三百を超えたとき。
赤い空に黒々と刻まれる南の稜線に、五の騎馬がその姿を現した。
イシュカーンの超視力を以ってしても、その背に乗る敵兵の姿までは識別できない距離だった。たった五……偵察兵か。ならば、敵が態勢を整えるまでにまだ少しの猶予はあるか。
その判断、あるいは希望は、一瞬で打ち砕かれた。
五騎は、恐ろしい速度でまっすぐ峡谷目掛けて丘を駆け下りはじめたのだ。翻るマント、色とりどりの煌びやかな甲冑、そして何より、全員から陽炎のように濃く立ち上る強烈な剣気をイシュカーンは否応なく視認した。
整合騎士! しかも五人!!
「守れ!! 綱を死守しろぉーっ!!」
対岸までは声が届くかどうかも定かでない距離だったが、イシュカーンは思わず叫んでいた。
命令が聞こえたか、すでに渡峡を終えた三百強の兵らの半数が、綱を留める丸太杭の根元に集まり円陣を組む。残りはその前で迎撃態勢を取る。
飛翔するが如き速度で、丘から峡谷までの千メルの荒野を駆け抜けた敵騎士たちは、同時に馬から飛び降りると一丸となって右端の綱へと突進した。
先頭を走るのは、白いゆったりとした装束をなびかせた巨漢。その右に、黄金の髪と鎧を輝かせる女騎士。左には、昨夜イシュカーンと拳を交えたシェータという名の女騎士の姿が見える。その三者に囲まれるように小柄な騎士が一人と、さらにその後ろにもう一人居るようだが、仔細には確認できない。
裸体から汗の珠を飛び散らせながら、数十人の拳闘士たちが一斉に飛びかかった。
「ウラアァァ――――ッ!!」
猛々しい喊声とともに、拳が、足が、騎士らに降り注ぐ。
ちかっ。ちかちかっ。
幾つかの閃光が短く瞬いた。
どばっ。
大量の鮮血が、逆向きの滝となって空へと噴き上がった。その向こうで、闘士たちの腕が、脚が、そして首が冗談のように呆気なく体から切り離されるのが見えた。
直後。
銀色の輝きが、きらきらと光の筋を引きながら三騎士の背後から高く飛翔した。
それは、赤い朝焼けの中、斜めの弧を描いて拳闘士たちの頭を飛び越え――今も大量の兵らが取り付く、右端の太縄へと――。
「やめろおおおぉぉぉ――ッ!!」
イシュカーンの鋭敏な耳は、自身の絶叫に紛れることなく、ぶつ、というかすかな切断音を聞き分けた。
張力の反動で、大蛇のように宙をうねる綱。
ひとたまりもなく振り落とされ、谷底へと落ちていく数十人の闘士たち。
その光景を、見開いた両のまなこに焼き付けながら、イシュカーンは我知らず口走っていた。
「これが……戦かよ。こんなものが闘いと呼べるのか」
背後に付き従う副官ダンパも、今ばかりは何も言えないようだった。
軽業師の真似事をさせられた挙句、敵の前に立つことすら出来ずに地割れに飲み込まれていく部族の民たちは、断じてそのような死に方をするために長く辛い修練に耐えてきたのではない。
郷で彼らの帰りを待つ、老いた親や幼子らに何と伝えればいいのだ。敵の刃に雄々しく立ち向かい、誉ある散りざまを得たのではなく――その肌にひと筋の傷も受けぬうちにただ地の底に消えたなどとどうして言えよう。
立ち尽くすイシュカーンの耳に、闘士たちの無念の雄叫びが幾重にもこだました。
かならず仇は取ってやる。だから許せ。許してくれ。
ひたすらにそう念じたものの、しかし何者を仇と定めればいいのか、イシュカーンには即座に判断できなかった。
数倍の軍勢を前に、敵整合騎士たちも必死なのだ。こちらの最後の一人が谷を渡り、整列し終えるまで座って見ていてくれ、などと頼める筈もない。むしろ、時宜を逃さず即応するためにたった五人で斬り込んできたその意気は見事ですらある。
ならば、いったい誰が。
何者が、闘士たちの無為なる死の責を負うべきなのか。
こうしてただ、阿呆のように両手を握って立っている名ばかりの長か。
それとも――。
不意に、右眼の奥に鋭い痛みを感じ、イシュカーンは歯を食いしばった。血の色の光が脈打つように視界にゆらめき、その向こうで、二本目の綱が断たれて空に舞った。
敷設させた十本のロープのうち、三本までもがたちまちのうちに切断される様子を、ガブリエル・ミラーは自軍後方から頬杖をつきながら眺めた。
やはり、AIの性能では人界側のユニットのほうがやや優秀と見える。いや、状況対応力だけを見れば段違いというべきか。昨夜の第一次会戦も含め、ダークテリトリー軍の攻撃を瞬時に切り返し、手痛いカウンターを決めてくる様は、とてもCPU相手のシミュレーション・ゲームとは思えない。
そのゲームの結果、ガブリエルはすでに自軍ユニットの七割以上を損耗しているのだが、しかし彼にいまだ焦りは無かった。
今この瞬間、百の単位で失われていく主力ユニットを目視しながらも、彼はただ待っていたのだ。”その時”が来るのを。
約八時間前――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームに陣取る襲撃チーム唯一の非戦闘員クリッターは、STRA倍率を×1に引き下げると同時に、衛星回線を通じてあるひとつのURLを全米のオンラインゲーム・コミュニティへとばら撒いた。
それは、彼がガブリエルの指示で手早く作成した、とあるプロモーション・サイトへのアクセスを促すものだった。
サイトには刺激的な配色のフォントが並び、飛び散る鮮血のエフェクトとともに、以下の内容を告知していた。
新規VRMMOタイトルの時限ベータテストを開催。
史上初、”殺戮特化”型PvPゲーム誕生。
レーティング無し。倫理コード無適用。
それらの惹句を見たユーザーたちは、このメーカーはどんな命知らずか、と呆れつつも大いに喜んだ。
二〇十六年現在、VRMMOタイトルの法規制が進むアメリカでは、業界団体による厳格なレーティング審査を受け、倫理コードに則ったうえでなければとてもサーバーの運営は出来ない状況となっている。具体的には、血液エフェクト、悲鳴エフェクト、死体表現の全面禁止である。
その規制は、VRMMO発祥国である日本よりも格段に厳しく、全米のプレイヤーは巨大なフラストレーションを募らせていた。そこに突如現れたのが、謎のベータテスト告知だったのだ。
URLはあらゆる種類の回線を通じて口コミで広がり、接続用クライアントが恐ろしい勢いでダウンロードされ、コピーされ、再アップロードされた。たった八時間で、クリッターの作成したクライアントプログラムを導入したアミュスフィアは、実に三万台を突破した。
ガブリエルが貴重な現実時間を消費してまでも仕掛けた最大の策。
それは、全米のVRMMOプレイヤーに、ダークテリトリーの暗黒騎士アカウントを与えたうえで自らの戦力としてアンダーワールドに接続させるというものだった。
そのようなことが可能であるとは、ラースを率いる菊岡誠二郎も、アンダーワールドを設計した当人である比嘉タケルですらもまったく考えもしなかった。しかし、アンダーワールドは、下位レベルではあくまでザ・シード規格に適合したVRMMOパッケージに過ぎないのだ。通常のポリゴン表現によるゲーム世界としてならば、ただアミュスフィアさえ有ればログインすることも、オブジェクトに触れることも――あるいは他のキャラクターを殺すこともできるのである。
そして、全米のアミュスフィア販売数は、現時点で五百万台を突破している。
ガブリエルとクリッターの秘策は、完全にラーススタッフの想像の埒外にあった。
また、たとえ気付いたところで、メインシャフトを占拠された状態では衛星回線の切断すらも不可能だった。
しかし、クリッターが問題のURLを送信した時点で、ただ一つの存在だけがそのパケットに気付いた。
結城明日奈の持ち込んだ携帯端末から、オーシャンタートル内の状況を観察していたトップダウン型人工知能・ユイは、プロモーションサイトにアクセスし、ガブリエルの狙いを正確に推測してのけたのだ。
彼女はなんとか、物理的・回線的に封鎖されたサブコントロールルームに状況を警告しようとしたが、明日奈の船室に置きっぱなしにされた端末のアラームをいくら鳴らそうと、とても聞こえるものではなかった。
やむなくユイは、遥か太平洋を隔てた日本へと意識を引き戻し、幾つかの携帯端末番号を同時にコールした。
現実世界では女子高校生、仮想世界では超級狙撃手である朝田詩乃は、寝入りばなに響いた着信音が意識に届くや、自宅アパートのベッドからがばっと跳ね起きた。
心臓が口から出そうになった理由は、そのメロディが、桐ヶ谷和人の自宅回線からの着信を示すものだったからだ。
まさか。意識不明のうえに行方不明になったままのキリトからコールが。
混乱しながら端末に押し当てた耳に、飛び込んできたのは幼い少女の切迫した声だった。
『シノンさん、ユイです!』
「え……ゆ、ユイちゃん?」
キリトの所有するAIであるユイのことは無論知っている。ほんの一週間前、彼の行方を明日奈たちと話し合ったとき、ユイの情報処理能力と感情表現の高度さを目の当たりにしたばかりだ。
しかし、よもや直接電話をかけてくるとは予想できず、詩乃は絶句した。耳に、ほんのかすかに電子的な響きのある甘い声が、急き込むように流れ込んでくる。
『説明は後からします。今すぐ準備をし、家を出てタクシーに乗ってください。行き先住所と最小時間経路は端末に送ります。運賃はシノンさんの電子マネー口座に入金しておきます』
直後、ちゃりーんというサウンドエフェクトが、詩乃の端末にオンライン振込みがあったことを告げた。
「え……た、タクシー?」
言われるままに立ち上がり、パジャマのズボンから脚を引き抜きながら、詩乃はいまだ回転数の上がらない頭でそう訊ねた。しかし、続いたユイの言葉が、氷水のように詩乃の意識を覚醒させた。
『はい。パパとママが危険なのです!!』
「き……危険!? お兄ちゃんとアスナさんが!?」
女子校生にして剣士、そして桐ヶ谷和人の妹でもある桐ヶ谷直葉は、ジーンズのボタンを留めながら聞き返した。
『リーファさん、あまり大声を出すとおばさまが起きてしまいます』
端末から流れ出すユイの冷静な声に、慌てて口をつぐむ。
「そ……そうね。ていうか……こんな時間にこっそり抜け出すなんて初めてだよ……」
『今からおばさまに事情を説明し外出許可を求める時間的余裕は残念ながらありません。ホームサーバーに、部活の朝練があるので早く登校するむねメッセージを吹き込んでおけば大丈夫でしょう』
「わ……わかった。すごいな……ユイちゃん策士だねえ」
いたく感心しながら着替えを終えると、直葉は足音を忍ばせて階段を降り、玄関の戸に手をかける。いかに時代物の日本家屋とは言え、夜間はオンラインセキュリティが働いているはずなのだが、警報はユイが切ったらしい。
和人が行方不明となって以来、心労の色著しい母親・翠の目を盗んで行動することに罪の意識を感じたが、直葉は心の中で手を合わせて家を出た。
――ごめんなさい、お母さん。お兄ちゃんは、きっと私が助け出すからね。
大通りに出ると、幸いまだ回送ではなく割増表示のタクシーがたくさん走っており、すぐに掴まえることができた。直葉の年齢にやや訝しげな顔をする運転手に、親戚が急病なんですと言い訳し、端末を覗き込む。
「ええと……東京の港区までお願いします」
六本木とまでは言わないほうがいいような気がした。
比嘉タケルは、かじりかけのエナジーバーが膝の上に落ちた感覚に、はっと目を開いた。
きつく瞬きを繰り返してから、壁の時計を確かめる。JSTで午前四時少し前。視線を横に動かすと、サブコントロールルームに詰めるラーススタッフたちの、疲れ果てた顔がいくつも見えた。
ドクター神代は、コンソールの椅子の一つに横向きに腰掛け、こくりこくりと頭を揺らしている。菊岡二等陸佐ですら、寝てはいないまでも、メインモニタに向けられた黒縁めがねの下の細い眼にいつもの鋭さは無い。
あとは、技術系のクルー四人が壁際に敷かれたマットレスに屍のように転がっているだけだ。自衛官の警備要員たちは、情報漏洩者が含まれる可能性を考慮し、菊岡が全員をサブコントロールの一層下で耐圧隔壁の警戒に当たらせた。
謎の武装グループの強襲を受けてから、ようやく六時間が経過したことになる。
オーシャンタートルを護衛する――はずだった――イージス艦《ながと》に突入命令が出るまで、あと十八時間。この状況下では、絶望的なまでに長い。時間が加速されているアンダーワールドにおいてをや、である。
結城明日奈が、スーパーアカウント”ステイシア”を用いてダイブしてからももう三時間が経過している。内部時間では四ヶ月にもなんなんとする月日が過ぎ去った計算になる。なのに、いまだにアリス確保任務が成功したとも失敗したとも連絡が無いとはどういうことか。
「そんなに遠くしたっけなあ……ヒューマンエンパイアからワールドエンドオールターまで……」
もごもご呟きながら、脳裏にラースのロゴマークと酷似するアンダーワールド全図を思い描こうとした――そのとき。
コンソールに設置された電話機が、びびび、びびびと耳障りな音で喚きたて、比嘉は思わず飛び上がった。
「き……菊さん、デンワ」
下のフロアで何かあったのか、と思いつつ指揮官に声を掛ける。
同じようにびくっと跳ね起きたアロハシャツ姿が、つま先から下駄を落としながら受話器に飛びついた。
「サブコントロール、菊岡だ!」
少々掠れてはいるが、びんと強く響く応答に、やや間を開けてスピーカから流れたのは――防衛要員を指揮する中西一尉ではなく、戸惑いをたっぷり含んだ若い男の声だった。
「え、えーとそちら、ラース本社のSTLプロジェクト本部……ですよね? 私、ラース六本木支部の平木と申しますが……」
「は? ろ、ろっぽんぎ?」
菊岡にしては珍しく、完全に意表をつかれたような間の抜けた声だったが、しかし比嘉もまったく同感だった。
なぜこんな時間に六本木支部が連絡してくるのだ。あそこのスタッフは、ラースが国防予算によって運営される偽装企業であることも、その中核が日本本土ではなくはるか南洋を漂うオーシャン・タートルに置かれていることも、プロジェクト・アリシゼーションという名称すらも知らされていない。
そしてもちろん、ラースが今謎の敵の攻撃に晒されていることも。六本木支部は、完全にSTL関連技術開発のみに特化した、あくまで一出先機関なのだ。
そう……STL……。
不意に、何か閃きのシッポのようなものが比嘉の脳裏をかすめたが、それを捕まえる前に菊岡が大きく咳払いした。
「あ、ああ、はい。STLプロジェクトチームの菊岡ですが」
「あ、どうもどうも! 以前一度お眼にかかりました。ご無沙汰しております、こちらで開発主任をやらさしてもらってます平木ですぅー」
そんなカイシャインみたいな挨拶はいいから早く本題を言え!!
と比嘉は胸中で叫んだし、菊岡もまったく同じ顔をしていたが、出てきた声は見事な偽装会社員振りだった。
「あっはい、どうもお疲れ様です平木主任。こんな時間まで残業ですか?」
「いやぁー、それがちょっと、飲んでるうちに終電逃がしちゃってぇー。会社の場所が悪いんですよー六本木とか。あ、上にはオフレコでこれ、うふふ」
お前が今話してるのが上だよ! ザ・てっぺんだよ! いいから用件を言えよ!!
比嘉の念力が通じたか、平木はそれ以上無駄口を叩かず、口調を改めた。
「あーっと、それでですねえ……ちょっと問題、というか……妙な話なんですけどね。ここに今、外部のヒトがアポなしで突然来まして……」
「外部? 取引先ですか?」
「いえ、まったく無関係の……ていうか、どう見ても女子高生なんですよ、しかも二人……」
「はぁ!?」
再び菊岡と、比嘉、ついでにいつの間にか立ち上がっていた神代博士も素っ頓狂な声を出す。
「じょ……し、こうせいですか?」
「ええ。いやもちろん追い返そうとしたんですよ、この会社守秘関連すごい厳しいですから。でも……そのコたちの言ってることが、どうにも……」
要領を得ない平木の言葉に、ついに比嘉も立ち上がり、コンソールに両手をついた。菊岡のほうは、見上げた忍耐力を発揮し、穏やかに問い返した。
「で、いったい何を言われたんです?」
「えーとですね。今すぐラース本部の菊岡誠二郎って人に連絡して、こう言えと。アンダーワールドの、STRA倍率を即刻確認するように、と……」
「なにぃ!?」
再び、異口同音に驚愕の叫びが漏れた。
なんで外部の女子高生がそんな単語を知っているのだ!! アリシゼーション計画の全貌を知悉していなければ絶対に出てこない台詞ではないか。
口をぽかんと開けて菊岡と眼を見交わした比嘉は、半ば自動的にコンソールに向き直り、キーボードに指を走らせた。
暗いモニタに、白く現在の時間加速倍率が浮き上がる。
×1.00。
「げっ……等倍!? いつからだ!?」
あえぐ比嘉から視線を外し、菊岡が急き込むように受話器に向けて叫んだ。
「な……名前。その女の子たちは名乗りましたか」
「あっ、はい。それが、これもフザケた話っていうか……どう考えても本名じゃないんですが。えっとですね、”シノン”と”リーファ”だって菊岡さんに伝えてくれって言うんですよ。顔は日本人なんですけどねえー」
ガコッ。
という乾いた響きは、菊岡が右足だけに突っかけた下駄からカカトを滑らせた音だった。
ラース六本木支部エントランスのオートロックが開き、浅田詩乃と桐ヶ谷直葉が小走りに中に入るのを確認して、人工知能ユイは小規模な安堵表現を行った。
具体的には、ほう、とささやかなため息を漏らし、演算能力の大半を同時継続中の別のタスクへと振り分ける。
ユイは、こちらの目的の達成には多大な困難が伴うと推測していた。なぜなら、ユイ単独では絶対に遂行不可能なことがらだからだ。
しかし同時に、これに失敗すれば、愛する”パパ”と”ママ”の願いは空しく潰えるであろうことも確かだった。
詩乃の携帯端末から意識を引き戻し、ユイはそのつぶらな瞳で、目の前に並んで座る四人の”妖精たち”を順に見た。
VRMMO-RPG、アルヴヘイム・オンライン内部に存在するキリトとアスナのプレイヤーホーム、そのリビングルームにユイたちは居る。
葉っぱで編んだようなソファに腰掛けるのは、三角形の耳と小さな牙を持つケットシー族のアバターでログインしている、プレイヤー”シリカ”。
隣に、メタリックピンクの髪をふんわり膨らませた、レプラホーン族の”リズベット”。
少し離れたテーブルに腰を乗せるのは、赤く逆立つ髪に悪趣味なバンダナを巻いたサラマンダー族、”クライン”だ。さらに、その横に腕組みをして立つ灰色の肌の巨漢が、ノーム族の”エギル”。
彼らはいずれも、生還者(サバイバー)と通称される、デスゲームSAOを生き抜いた歴戦のVRMMOプレイヤーであり、またキリトとアスナの無二の親友たちでもある。ユイの連絡を受け、深夜にも関わらず快くALOにログインした彼らは、いまちょうど状況の概説を聞き終わったところだった。
額に巻いたバンダナごしにがりがりと頭を掻きながら、クラインが持ち前の飄々とした声に最大限の深刻さを滲ませて呻いた。
「ったく……あんにゃろう、まーた一人でとんでもねえことに巻き込まれやがって……。自衛隊が作ったザ・シード連結体(ネクサス)”アンダーワールド”に、そこに生まれたマジモンの人工知能”アリス”かよ」
「その人工知能っていうのは、NPCじゃなくて……あたしたち人間と同じ存在、っていうことなの?」
続けて発せられた質問はリズベットのものだ。ユイはそちらに向けて大きく頷いた。
「ええ、そのとおりです。私のような既知AIとは構造原理から完全に異なる、本物の魂なのです。ラース内部では”人工フラクトライト”と呼ばれていますが」
「それを、戦闘機に乗せて戦争させようだなんて……」
ユイと、膝で丸くなる小竜”ピナ”を順に見たシリカが顔をしかめた。
「実際には、ラースとしてはそれを他国向けのデモンストレーション的な技術基盤に用いる意図のようですが……現在オーシャンタートルを占拠している襲撃者たちは、もっと具体的な用途を想定していると私は推測します」
ユイの言葉に、クラインが渋面を作って訊ねた。
「いったい何者なんだい、その襲撃者っつうのは」
「98%の確率で米軍か米情報機関が関与しています」
「べ……べーぐん!? てアメリカ軍!?」
仰け反るリズベットに、ユイはこくりと首を動かした。
「もし”アリス”が米軍の手に落ちれば、いずれ確実に無人機搭載AIとして実戦配備される日が来るでしょう。パパもママも、それだけはなんとしても阻止したいと思うはずです。なぜなら……なぜなら」
不意に、自分の情動アウトプットプログラムが不思議な反応を見せたことに、ユイは戸惑った。
頬を、ぽろり、ぽろりと大粒の水滴が転がり落ちていく。
涙。
私、泣いている。でも、いったいなんで。
その戸惑いすらも、衝き上げるような未知の感覚に押し流され、ユイは胸の前で小さな両手を握り締めて言葉を続けた。
「なぜなら、”アリス”は、SAOから始まったあらゆるVRMMOワールドと、そこに生きた多くの人々の存在の証であり、費やされたリアル・リソースの結実だからです。私は確信します。ザ・シードパッケージが生み出されたそもそもの目的が、”アリス”の誕生に他ならないと。連結された無数の世界で、たくさんの人たちが笑い、泣き、哀しみ、愛した、それら魂の輝きがフィードバックされていたからこそ、アンダーワールドに真の新人類が生まれたのです。パパや、ママや、クラインさん、リズベットさん、シリカさん、エギルさん、そのほか多くの人々があの浮遊城で流した涙が、今”アリス”の体に赤い血となって流れているのです!」
しばらく、誰ひとりとして口を開こうとしなかった。
ユイには、眼前の人間たちの意識回路で発生しているであろう思考や感情を推察するすべは無かった。情報集積体でしかない既知AIが、本物のエモーションを持たず、理解もできない存在であることを、誰よりも知っているのはユイだったからだ。
そう、キリトやアスナ、そしてその愛する人たちを助けたいというこの強い衝動ですらも、メンタル・ヘルスケア・プログラムとして最基層に書かれたコードに由来するものでしかないのだ。
そんな自分の発する、単なる情報の羅列にすぎない言葉が、人間たちの心にどれほど届き得るものだろうか、とユイはこの会合を始める以前から――大きな目的を抱いてオーシャンタートルを飛び立ったその瞬間から危惧していた。
だから、突然リズベットの瞳に透明な涙が盛り上がり、つう、と流れるのを見てユイは珍しく驚きを覚えた。
「そう……、そうだよね。繋がってるんだ、ぜんぶ。時間も、人も、大きな川みたいに」
シリカも、目を潤ませながら立ち上がり、ユイの前に跪くとそっと両腕を回してきた。
「大丈夫だよ、ユイちゃん。キリトさんも、アスナさんも、私たちが助けにいくから。だから泣かないで」
「おうとも。水臭ぇぞユイッペ、俺らがキリトを見捨てるわきゃ無ぇだろうが」
ぐい、とバンダナを目深に引き下げ、クラインが湿った声で追随した。隣のエギルも深く頷き、重々しいバリトンで宣言した。
「あいつにはでっかい借りがあるからな。ここらで少しは返しておかんとな」
「……皆さん…………」
シリカに抱かれたまま、ユイはそう言うのが精一杯だった。
先ほどから、理由のわからない涙が後からあとから溢れ、一向に止まろうとしないからだ。
時間がないのに。語るべきことがまだまだあるのに。行動優先度からすれば、今は冷静に情報を伝達しなければいけないときだ。私の情動アウトプット回路は壊れてしまったのだろうか。
しかしユイは、己の全存在を満たすひとつのコードに支配され、しゃくりあげながら同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「……ありがとう、ございます……ありがとうございます、皆さん……」
数分後、ようやく情動の最適化に成功したユイは、口早に現在の状況と今後起こるであろう事象の推測を四人に告げた。
眉間に険しい谷を刻み、クラインが唸った。
「USからのダイブが、最低でも三万……多ければ十万以上か……。そいつらにとっては、キリトとアスナ、そしてアリスを含む人界軍てのは、PvPのマトでしかねぇ、って訳かよ」
「いっそ、アメリカのネットゲームコミュニティにこっちも書き込みをしたらどうなの? 実験のこととか、襲撃のこととか暴露して、偽装ベータテストに参加しないでください、って頼めば……」
リズベットのストレートな意見に、ユイは小さくかぶりを振った。
「ことの真相は、日米の軍事機密争奪戦なのです。下手にそれを匂わせると、むしろ逆効果になりかねません」
「相手は本物の人間だから、殺さないで……って書くのも、じゃあ、やぶへびですよね」
シリカがしゅんとした顔で呟く。
重い沈黙を、すぐにクラインの威勢のいい声が破った。
「へっ、なら同じ手を使えばいいってこった! ネトゲ廃人の数ならUSなんぞに負けやしねえぞ。こっちもベータテスト告知サイトを作って、その……ラースの何とかさんに対等のアカを用意してもらえば、三万や四万すぐに集めてみせるぜ!」
「だが、厄介な問題がひとつある」
エギルが、丸太のような両腕を組みながら短く指摘した。
「ンだよ、問題って」
「時差だ。日本はいま日曜の午前四時半、つまりもっとも接続数の減る時間帯だ。対して、アメリカは土曜の昼間。アクティブプレイヤーの数では、向こうのほうが圧倒的に多いぞ」
「う…………」
今はじめてそれに気付いたような顔で、クラインが呻いた。
当初から、まったく同じことを懸念していたユイは、大きく頷くと言った。
「エギルさんの仰るとおりです。そもそものVRMMOプレイヤー絶対数の差に、時間帯の問題、さらに募集にも大きく出遅れていることを加味すると、我々が日本で集められる人数は一万にも遠く及ばないでしょう。つまり、敵側と同レベルのアカウントを使用するのでは、対抗できる可能性は非常に低いと言わざるを得ません」
「でも、アスナが使った神様アカウントってもう無いんでしょう? だからって、キリトみたいに一からレベル上げしてる時間もあるわけないし……やっぱり、ラースに用意してもらえるアカウントのうち、一番強いやつで頑張るしかないんじゃ……」
硬い表情でそう呟くリズベットを、ユイはじっと見つめた。
「いいえ……アカウントは存在します。敵側の使用するデフォルトアカウントより、レベルも装備もはるかに強力なものが」
「えっ……ど、どこに?」
「皆さんはもうそれを持っています。今この瞬間、ログインに使用している、まさにそのアカウントです」
ぽかん、とした顔を作る四人に向け、ユイは己の使命の核心を告げるために口を開いた。
彼らに、とてつもなく巨大な代償を――文字どおりその半身を捧げることを求めようとしているという認識はあった。
しかし同時に、この人たちならば必ず応じてくれると、ユイは強く信じた。
「――コンバートです! 皆さんが、そして他の多くのVRMMOプレイヤーたちが、あまたのザ・シード世界で鍛え上げたキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするのです!」
午前五時。
アルヴヘイム・オンライン世界の中央に位置する中立都市アルン、そのさらに中心にそびえる世界樹内部の巨大ドームに、三千人を超えるプレイヤーが集結していた。
かつて、ドームの天蓋に設けられたゲートを防御していた守護騎士モンスターの姿はもうない。かわりにこの場所は、妖精九種族間の会議や交渉に用いられるようになっている。
クラインやリズベットらがゲーム内メールを飛ばしまくった時点で、ログインしていた領主プレイヤーはほんの三人だけだった。しかし彼らや、各種族の役職プレイヤーを拝み倒し、リアルで連絡をつけてもらうという禁じ手までも繰り出した結果、わずか四十分で八人の領主全員が一同に会することとなった。
周囲の広大な空間に、立ったり浮遊したりしているプレイヤーたちの三割近くは、作成したばかりのキャラクターを使用している。だが、VRMMO初心者というわけではない。彼らは皆、他のザ・シード規格タイトルにおけるベテランプレイヤーであり、ALOにアカウントを持つ友人知人の求めに応じて集まったのだ。
つまり、このドームに集う三千人は日本人VRMMOプレイヤーの精鋭中の精鋭であり、ユイが一縷の望みをかけた、アンダーワールドの人界守備軍を救いうる唯一の戦力なのだった。
いま、しんと静まり返った彼らの頭上を、よく通るリズベットの声がさらに魔法で増幅されて高らかに響いている。
「……私が皆さんに言ったことは、嘘でも冗談でもありません! 日本が、その国家予算で造ったザ・シード・ネクサスである”アンダーワールド”を、もうすぐアメリカ人プレイヤーたちがそれと知らずに侵略し、攻め滅ぼそうとしているのです!」
リズベットは、ナショナリズムを煽るような言い方に忸怩としたものを覚えながらも、今はそれすらも利用しなければいけないのだと自分を叱咤した。
「アンダーワールドに暮らしているのは、ただのNPCではないんです! 皆さんがダイブしてきた、たくさんのVRMMO世界から還元された情報を源として生まれた、ほんものの人工知能なんです! 彼らを守るために、皆さんの力を貸してください!!」
リズベットは、数分間の演説をその言葉で締めくくり、プレイヤーたちをぐるりと見回した。
たくさんの妖精たちの顔には、一様に戸惑いの表情だけが浮かんでいる。それはそうだろう、突然聞かされて、すぐに理解できるような話ではない。
低いざわめきを割って、しなやかな腕が発言を求めた。
進み出たのは、長身を緑色のローブに包んだシルフ族の領主、”サクヤ”だった。
「リズベット。君や、君の友人たちが悪戯でこんなことをするとは思えないし、何よりあのキリトがもう一週間もログインしていないのは確かにただ事ではないだろう。しかし……」
低く滑らかなサクヤの声が、いつになく困惑を含んで揺れた。
「……正直、にわかに信じがたい。いや、事実確認は、君の言うとおりログインしてみれば出来るのだろうが……先ほど君は、”アンダーワールド”へのダイブにあたっては、幾つかの問題点があるとも言ったな? まずその問題とやらを説明してくれないか?」
――ついに、この瞬間がきた。
リズベットは大きく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
正念場だ。ここでしくじれば、誰も救援には来てくれないだろう。
ぱちりと両眼を開き、目の前のサクヤを、そして他の領主たちと無数のプレイヤーを順に見渡しながら、リズベットはしっかりした声で告げた。
「はい。アンダーワールドは、ゲームとして運用されているわけではありません。ゆえに、ダイブには幾つかの問題が発生します。まず第一に……コマンドメニューが存在しません。よって、自発的ログアウトができないんです」
ざわめきが突然大きくなる。
“自発的ログアウト不能”、それはかつて存在したデスゲーム・ワールドを否応なく思い起こさせるフレーズだ。現在では、アイコン操作と音声コマンド双方でログアウトできないVRワールドは、MMOゲームに限らず違法となっている。
「ログアウトの方法は、内部で”死亡”するしかありません。しかし、ここで第二の問題が発生します。アンダーワールドには……センス・アブソーバが設定されていないのです。恐らく、ダメージに伴って、かなり強烈な錯覚痛があるはずです」
さらに大きなどよめき。
痛覚遮断もまた、法で義務付けられたVRサーバの必須機能だ。それが存在しない、つまりアブソーバレベル0状態ということは、剣で切られたり炎で焼かれたりすると、ほとんど現実と同じ強さの苦痛を味わうことになる。場合によっては、生身の体に痣が浮き出ることすらある。
動揺の声が少し収まるのを待って、リズベットはついに第三の、そして最大の代償を口にした。
「そして、もう一つ。アンダーワールドサーバは、現在、開発者たちですらオペレーションできない状態にあります。つまり……コンバートした皆さんのアカウントデータを、再コンバートできるかどうかは保証できません……ことによると、キャラクターロストという結果になる可能性があるのです」
一瞬の沈黙に続き――。
突如、凄まじいボリュームの怒号が、広大なドーム空間に満ち溢れた。
フロアの中央に並ぶリズベット、クライン、シリカ、エギルの四人と、小さなピクシーに姿を変えてクラインの肩に乗るユイは、実際的圧力をともなって押し寄せてくる罵声の波に耐えて、まっすぐに立ちつづけた。
この反応は、まったく予想されたとおりのものだった。
彼らハイエンドゾーンのプレイヤーたちは、そのキャラクターを育て上げるために、尋常ならぬ時間と努力をつぎ込んでいる。一時間必死になってモンスターを倒しまくって、ようやく経験値が0.1%上がるかどうか、という、湖の水をバケツでくみ出すような作業を日々積み重ねてその位置にとどまっているのだ。
その、精魂傾けて鍛えてきたキャラクターを失うかもしれないなどと言われて、平静でいられるはずもない。
「ふ……ふざけんなよ!!」
集団から数歩飛び出てきたひとりが、リズベットに人差し指をつきつけて叫んだ。
深紅の全身鎧に身を包み、背中に巨大な両手剣を背負ったサラマンダーだ。たしか、領主モーティマー、将軍ユージーンに次ぐ地位にある指揮官格のプレイヤーだったはずだ。
ヘルメットをもぎ取り、怒りに燃える両眼を露わにしたサラマンダーは、背後の大集団が一瞬押し黙るほどのボリュームで更に言葉を放った。
「こんな時間に無理やり人を集めまくって、わけのわかんねえ違法サーバーにダイブしろってだけでもどうかしてんのに、その上キャラロスするだぁ!? 消えたらお前らが補償できんのかよ!!」
呵責のない言葉に、隣から飛び出そうとするクラインを手で押さえ、リズベットは可能な限り静かな声で答えた。
「できないわ。あなたたちの育てたキャラクターが、お金に換えられるものじゃないことくらいよく分かってるもの。だからお願いしてるんです。私たちを助けて、って。今、アンダーワールドで必死になってアメリカの攻撃を防いでる、私たちの仲間を助けてくださいって」
叫ばずとも、リズベットの声はドーム全体に滔々と流れた。サラマンダーは一瞬息を詰めたようだったが、すぐにそれを怒気に変えて吐き出した。
「仲間っつうのはあいつらだろ! 生還者とか言われて、レベルも大したことねえのに自分らだけ特別みてえな顔してる連中だろうが! 分かってんだよ、お前ら元SAO組が、心んなかじゃ俺たちのこと見下してることくれえよ!!」
今度は、リズベットが言葉を失う番だった。
サラマンダーが指摘したことを、リズベットはこれまで自覚も意識もしたことはなかった。だが、言われてみれば、そのような心理がほんとうに一欠片も存在しないと確信はできない気もした。プレイヤーホームを、地上フィールドではなく上空の新アインクラッドに構え、ほとんど下に降りることもなく、昔なじみとばかり交流してきたのは事実なのだ。
リズベットの動揺を見抜いたか、サラマンダーは尚も容赦ない言葉を重ねた。
「人工知能とか、防衛機密とか知るかよ! VRMMOにリアルの話持ち込んで偉そうなこと言ってんじゃねえよ! そういうのは、お前らだけでやりゃいいだろうが! リアルでもお偉い生還者様だけでよ!!」
そうだ、帰れ、という罵声が周りからいくつも追随した。
だめだった。
あたしの言葉じゃ、ぜんぜん届かなかった。
リズベットは、我知らず涙ぐみそうになりながら、すがるような気持ちで仲のいいALOプロパーの実力者、シルフ領主サクヤや、サラマンダー将軍ユージーン、ケットシー領主アリシャ・ルーたちを見やった。
しかし、彼らは言葉を発しようとしなかった。
それぞれの瞳に強い光を宿し、ただじっとリズベットを見つめていた。まるで、おまえの意思を、覚悟を見せてみろ、と言うかのように。
リズベットは、大きく息を吸い、ぎゅっと瞼を閉じた。そして、今この瞬間にも懸命の闘いを続けているはずのアスナや、傷ついたキリト、そして一足先に戦場に馳せ参じていったリーファやシノンのことを思った。
――あたしのレベルじゃ、たとえコンバートしても、とてもみんなのようには戦えない。でも、だからこそ、あたしにしかできないことだってあるんだ。いまこの瞬間が、あたしの戦いなんだ。
ぱちりと瞼を開け、涙滴を振り飛ばし、リズベットは話しはじめた。
「……ええ、これはリアルの話よ。そしてあなたの言うとおり、SAO出身者は、リアルとバーチャルを混同しがちなのかもしれない。でも、決して、あたしたちは自分が英雄だなんて思ってない」
隣で、涙を浮かべて立ち尽くすシリカの手を握り、続ける。
「あたしとこの子は、あなたの言う生還者だけが集められた学校に通ってるわ。転入に選択の余地はなかった。元の学校は中退扱いになってたから。あの学校ではね、かならず週に一度カウンセリングを受けないといけないの。モニタリングソフトに繋がれて、現実感がなくなることはないかとか、人を傷つけたくなることはないかとか、下らない質問いっぱいされる。学籍と引き換えに、投薬を強制されてる子だって何人もいるんだ。あたしたちはみんな、政府にとっては監視対象の犯罪者予備軍なの」
いつしか怒声の波は収まり、張り詰めた静寂がドームを支配していた。眼前のサラマンダーさえも、意表をつかれたように目を見開いている。
自分の言葉の行き先が、リズベットには分からなかった。ただ、溢れてくる感情を、意思を、懸命に声に変え続けた。
「でも……ほんとは、そういう扱いをされてるのは旧SAOプレイヤーだけじゃないわ。VRMMOプレイヤーはみんな、多かれ少なかれそんな目で見られてる。ネットゲーマーは社会に寄生してるとか、真面目な労働者が積み上げたGDPをすり減らすだけとか、税金も年金も払わない現実逃避者だとか……徴兵制を復活させて、訓練で強制的に現実を教え込むべきだなんて議論まであるわ!」
数千のプレイヤーのあいだに、ぎりりと緊張が高まるのをリズベットは感じた。針で一つつきすれば、先ほどに倍する怒りが爆発するに違いない。
しかし、リズベットは、片手を胸にあてて尚も叫んだ。
「だけど、あたしは知ってる! あたしは信じてる! 現実はここにあるって!!」
もう一方の手で、大きく周りを――世界を指し示す。
「この世界は、ここと繋がる沢山の連結体は、絶対に仮想の逃げ場所なんかじゃない! 本当の生活と、本当の友達と、本当の笑いや、涙や、出会いや、別れがある……”現実”なんだ、って!! みんなもそうでしょう!? この世界こそがリアルなんだって信じてるから頑張れるんでしょう!? なのに、これはただのゲームだって、所詮バーチャルだって切り捨てたら、じゃあ、あたしたちの本当はどこにあるの……!!」
ついに、堪えきれずに涙が溢れた。それを拭うこともせず、リズベットは最後の言葉を絞り出した。
「……みんなで育てた沢山の世界が、この世界樹みたいに寄り集まって、芽吹いて、ようやくつけたたった一つの実を、あたしは守りたい! お願い……力を貸してください……!!」
静まり返ったドームの天蓋にむけて、リズベットは両手を差し伸べた。
涙に揺れる視界に、幾千の妖精の羽が放つ燐光が、きらきらと滲んだ。
瞬く銀光が、暁の空にきらきらと大きな弧を描く。
ほんの一秒後、乾いた音とともに五本目の太綱が切断され、黒い蛇のように宙をうねった。
多重の悲鳴。なすすべもなく跳ね飛ばされ、奈落へと落ちていく人影。
それらから耳と目を背け、アスナは懸命に眼前の敵だけに意識を集中させた。
いや、たとえそうしたところで、胸中の動揺が薄れるわけではなかった。右手の細剣を閃かせるたびに飛び散る鮮血、崩れる肉体、そして失われる命はすべて本物なのだ。
悲壮な決意を呑んだ表情で、次々に飛びかかってくるダークテリトリーの戦士たちは、決して自身の望みによってそうしているわけではない。
皇帝ベクタなる最高権力者に身を宿した、現実世界の何者かに命ぜられるままに戦い、命を散らしていく。
しかしアスナは、全精神力を振り絞ってその事実を意識から排除した。
いまはアリスの身を護ることだけが最優先事項だ。実際、僅かにでも気を散らせば剣を弾き飛ばされかねないほどに、敵拳闘士たちの拳足は硬く、疾い。
ベクタ神の指揮下にある、ダークテリトリー軍の戦力はこの拳闘士と暗黒騎士を残すのみと聞いた。無謀な渡峡作戦を利用して敵主力を損耗させれば、ベクタアカウントを利用する強襲チームに打てる手も尽きてくるはずだ。
あとは、人界に対する危険が消えたところで、あらためてアリスをワールド・エンド・オールターまで導き、現実世界へ――オーシャンタートル上部のサブコントロール側へとイジェクトすればよい。強襲者たちに、イージス艦突入時刻までに隔壁を破る手立てが無ければ、だが。
「――よし、六本目にいくぞ!!」
騎士長ベルクーリの鋭い声が響いた。即座に、アスナを含む四剣士が応と返す。
西に移動を開始しかけたとき、遥か南から、高らかな角笛の旋律が響き渡った。
見れば、一キロ先の丘を、人界軍の衛士たちが整然と隊列を組んで駆け下りはじめたところだった。ほんの十五分ほどで装備・編成を終え、整合騎士たちの救援に馳せ参じたのだ。
「ったく……大人しくしてない奴らだ」
ベルクーリが苦言じみた声を出したが、しかしその口元には笑みが滲んでいる。
いかに騎士たちの剣力が圧倒的とはいえ、五本のロープを切断するあいだに、残る五本を渡り終えた敵の数は五百ほどにも達している。このタイミングでの援軍は、正直ありがたい。
ロープを守ろうと隊列を組む敵拳士・騎士たちにも動揺が走った。一部が南に向き直り、急造の防御線を築こうとする。しかし、土煙を上げて殺到する人界軍は一千を超える数だ。
この戦いは、どうやらこっちの勝ちね、ベクタさん。
アスナが胸中で呟いた――
その言葉が消えないうちに。
奇妙な現象を、両の瞳がとらえた。
血の色の朝焼けを背景に、遥か上空から、不思議なものが降りてくる。
黒い線。一本ではない。数十――いや、数百。
いや、数千か。
線は、微細なドットの連なりからなっているように見えた。懸命に目を細めると、そのドット一つひとつが、数字やアルファベットであることが分かる。
それら謎のラインあるいは情報は、幾束も寄り集まって、峡谷のこちら側、戦場から一、二キロほど離れた場所に円を描くように降り注いだ。
いつしか、アスナだけでなく他の整合騎士や、ダークテリトリーの兵たちすらも、足と腕を止めてその奇妙な現象に見入っていた。
戦場の西側に突き立った最初の黒線が、地面に溜まり、小さな塊となり――
それが人の姿を取るまで、ほんの二秒ほどしかかからなかった。
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拳闘士団長イシュカーンは、身のうちに滾る憤怒を、一瞬にせよ忘れた。
あれは、何だ。
巨大峡谷の対岸では、大綱を渡り終えた五百の暗黒界兵と、五人の整合騎士、そして一千の人界兵がまさに激突せんとしていた。
しかし、突如彼らの動きが止まり、愕然とした様子で視線を戦場の外側へと向けたのだ。
引き寄せられるように自らも顔を動かしたイシュカーンが見たのは、峡谷南岸に巨大な半円を描いて降り注ぐ、漆黒の雨だった。
天から、奇妙な震動音を放ちながら無数の黒線が落ちてくる。
それらは、地面に接すると同時にぶわり、ぶわりと膨れ上がり――たちまち、人間の形へと変化した。
出現したのは、艶のない黒の全身鎧に身を固め、長剣や戦斧、長槍で武装した戦士たちだった。
一見、暗黒騎士団の歩兵のように見える。
だが、直後、言いようの無い違和感がイシュカーンを襲った。
黒い歩兵たちの、緊張感のないだらりとした立ち姿。それでいて、濃密に立ち上る生々しい欲望。
何より――その数!
主戦場から五百メル以上の距離をあけて出現したというのに、歩兵集団は黒い壁に見えるほど密だ。ざっと概算しただけでも、一万人は軽く超える。二万、いや三万にすら達するか。
暗黒騎士団にそれほどの戦力があったのなら、十候合議体制などとうに破棄され、ダークテリトリーは彼らの統べる地となっていただろう。
それに、峡谷のこちら側に並んで陣取る暗黒騎士たちの間からも、驚きと動揺の声がさざめきとなって湧き上がっている。彼らも知らないのだ。あの軍団が何なのか。
そもそも、彼らはどこから現れたのか。黒い雨に身をやつして移動する術式など聞いたこともない。また、三万の歩兵を自在に転移させる力は、暗黒術師ギルドにだってあるはずがない。
となれば――。
あれは、皇帝にして暗黒神たるベクタその人の成したことに違いない。
漆黒の歩兵らは、皇帝が地の底より召喚した、本物の”闇の軍勢”なのだ。
イシュカーンの驚きは、一秒後、更なる憤りへと変化した。
あんな大軍の召喚が可能なのならば!
なぜもっと早く実行しなかったのか。これでは、無謀な渡峡作戦によって命を散らした拳闘士と暗黒騎士たちは、ただ敵をおびき寄せるための囮ではないか。
いや――事実そのとおりなのか。
皇帝は、自らの配下を呼び出す時間を稼ぐためだけに、あのような、まるで殺してくれと言わんがばかりの作戦を強行させたのか。
……違う。
この作戦だけではない。東の大門での攻防も含めて、暗黒界軍の戦力損耗ぶりは異常だった。亜人混成軍を、オーク予備戦力を、そして暗黒術師団をほぼ全滅させておきながら、皇帝は彼らの死を悼むどころか、眉ひと筋動かすことさえしなかったのだ。
つまり、最初から、皇帝ベクタにとっては五万の暗黒界軍すべてが捨石だったのだ!
この瞬間まで、弱冠十七歳の拳闘士長イシュカーンは、己が体の鍛錬と技の向上、そして部族の躍進にしか興味のない若者だった。
しかし今、彼ははじめて自らが属する暗黒界と、そして人界をも含む世界全体を俯瞰する視点を得た。
その観念は同時に、圧倒的な矛盾を彼の意識中に生み出した。
皇帝は強者である。強者には従わねばならない。
しかし。
しかし――。
右眼が、これまでないほどの激痛に見舞われ、イシュカーンは呻いた。
よろめき、跪いた彼の視線の先で、三万を超える黒の兵たちが、人語ならぬ喊声を轟かせながら、一斉に地を蹴った。
半円の環が縮まっていく。
約一千の人界兵たちが、整合騎士らと合流し、方陣を作って迎撃態勢を取る。
その西側では、五百の拳闘士と暗黒騎士たちが、どうしていいか分からないように立ち尽くしている。
いかに皇帝ベクタの策が無慈悲極まるものであろうとも、しかしこれで、少なくともあの五百人の命は救われたことになるのか。
イシュカーンは、右眼を強く抑えながら、意識の片隅でそう思った。
しかし彼は、無慈悲という言葉の本当の意味を知らなかった。
五百の暗黒界兵は、人界兵らより先に、召喚された闇の大軍と接触した。
無数の剣が、斧が、槍が振りかざされ――。
血に飢えた叫びとともに、味方であるはずの拳闘士たちに振り下ろされた。
「な……なんだあの連中は!?」
アスナは、初めて聞く騎士長ベルクーリの驚愕の叫びに、何と答えていいか分からなかった。
数万にも上る軍勢の突如なる出現が、皇帝ベクタのアカウントを乗っ取った襲撃チームの仕業であることは明らかだ。
しかし、どこからこれほどの数の戦力を引っ張り出したというのか。
モンスター扱いの自動操縦キャラクターを生成したのだろうか。しかし、メインコンソールはロックされ、そのような管理者権限操作は不可能だ。せいぜい、アスナのように座標を指定しての直接ダイブしか手段はないはずで、しかも襲撃者たちに使用できるSTLはたったの二機。
アスナを襲った一瞬の混乱を――。
ほんの百メートル先まで迫った、漆黒の剣士たちの叫び声が氷解させた。
「Shake it up!」
「Kill ‘em all!!」
英語!!
あれは現実世界の人間――しかも発音からしてアメリカ人だ!
だが、なぜこんなことが……ここは、隔離された真の異世界……。
いや。
いや――。
アンダーワールドは、STLを使用してダイブした者にとっては、”ニーモニック・ビジュアル形式”という現実以上のリアリティを持つ異界だが、しかしその設計には汎用VRMMOパッケージ、ザ・シードが用いられているのだ。つまり、アミュスフィアされあれば、ポリゴンレベルの下位層にはダイブ可能であり……そしてオーシャンタートルには、軍事レベルの大容量衛星回線が備えられている。
ならば、アンダーワールド・メインフレームのアドレスと、ダイブ用アカウントを付与したクライアントプログラムを作成し、現実世界にばら撒けば。
可能なのだ。何万人――それこそ何十万人にも及ぶ軍勢を作りだすことは。
あのアメリカ人たちは、この戦いの真実など何も知らず、おそらく新VRMMOタイトルのオープンβテストとでも信じ込まされてダイブしたのだろう。
それなら、剣を振り下ろすことに一切の呵責は無いはずだ。彼らにとっては、眼前の兵士たちは、人間と同じレベルの意識体などではなく、単によく出来たNPCでしかないのだから。
彼ら一人ひとりに悪意があるわけではない。現実世界でなら、同じサーバーに接続し、パーティーを組むことだってある気のいいVRMMOプレイヤーたちなのだ。おそらく、時間をかけてアンダーワールドと人工フラクトライトの真実を話せば、剣を引いてくれる者が大半なのではないか。
しかし――いまはその時間がない。もし、倒した敵のポイントに応じて、正式サービス稼動後にレアアイテムが分配される、等とでも説明されていれば、日本人だって同じことをするだろう。
もはや、一切の説得も、説明も通じまい。
守らなければ。この場でただ一人、かりそめの命を与えられている自分が。
アスナは右手の細剣を振り上げると、口のなかで素早くコマンドを唱えた。
「システム・コール! ジェネレート・フィールド・オブジェクト!!」
剣に、七色のオーロラが宿る。
昨夜と同じように、底なしの峡谷を作るわけにはいかない。人界軍の退路まで断たれてしまう。
かわりに、槍のように鋭い巨岩をイメージしながら、アスナは剣を大きく振った。
ラ――――、という荘重なサウンドエフェクトが響き渡る。虹色の光が切っ先から迸り、地に突き刺さる。
ゴ!!
突如、前方の地面が震動し、険峻な岩峰が頭をもたげた。それはたちまち、三十メートル近くも伸び上がり、その場所にいた黒い歩兵たちを数十人も高々と跳ね飛ばす。
ゴン! ゴッ!! ゴゴォォン!!
続けて、更に四つの岩山が並んで出現し、一気にせり上がった。大地が揺れ、更に数百単位で黒い鎧兜が空に舞った。英語の罵り声を甲高く喚き散らしながら、ある者は岩に磨り潰され、ある者は地面に激突して、大量の血と肉片をばら撒く。
アスナには、彼らが己の”死”をどう知覚したのかを推測する余裕は無かった。
いきなり、猛烈な激痛が頭の芯を貫き、その場に膝を突いてしまったからだ。
目の前に白い火花が飛び散り、息もできずに喘ぐ。昨夜、巨大峡谷を作ったときよりも遥かに強烈な痛みだ。膨大な地形データが通過する過程で、フラクトライトが――あるいは脳細胞が損耗していく生々しい感覚。
でも、ここで倒れるわけにはいかない!!
これでキリトと同じ傷を負うなら本望だ。アスナはそう念じながら、歯を食いしばり、剣を杖にして立ち上がった。
東側から押し寄せる兵士たちの足は、多少鈍った。西側では、アスナの推測を裏付けるかのように、アメリカ人たちがダークテリトリー軍にまでも襲い掛かっている。考えてみれば、彼ら暗黒界人こそ哀れと言うべきかもしれなかった。しかし今は、憐憫にかられている余裕はない。
残る一方、南に突破口を作り、そこから人界軍を脱出させる。
荒く息をつきながら振りかざした右腕を――。
曙光を受けて煌く篭手が、そっと抑えた。
「……アリス……!?」
掠れ声で叫ぶ。
黄金の騎士は、その白い美貌に確たる決意を浮かべ、小さく首を振った。
「無理をしないで、アスナ。あとは私たち整合騎士に任せなさい」
「で……でも、あいつらは……リアルワールドの……私の世界からやってきた敵なの……!」
「……分かります。覚悟なき欲望……血に飢えた刃。あのような奴ばら、何万いようと物の数ではない」
「そうだとも。オレたちにも少しは出番を分けてくれや」
アリスの言葉を引き取り、ベルクーリが太く笑った。
この状況でも、余裕に溢れた騎士たちの言葉だが――その表情には、これまで以上の悲壮なる覚悟がみなぎっていることを、アスナは察した。
黒い津波となって押し寄せる敵の数は、人界軍の三十倍以上。
もう、気迫でどうなるレベルではないのだ。
しかし、騎士長はその使い込んだ長剣を高々と掲げると、強靭な声を響かせた。
「よおォし!! 全軍、密集陣形!! 一点突破でずらかるぞ!!」
「オ……オ、オ……」
イシュカーンの口から漏れたのは、人の言葉ではなかった。
「オ……オオオオォォォォォ――――!!」
体の両側で握り締めた拳から、ぽたぽたと血が垂れた。しかしその痛みを自覚することもなく、若い闘士は獣の咆哮を放ち続けた。
死んでいく。飲み込まれていく。
状況が分からず、戦うことすらもできない一族の闘士たちが、闇雲に振り下ろされる刃のしたで悲鳴と鮮血を次々と撒き散らしていく。
なのに、残された五本の太縄を渡る兵たちは動きを止めることはない。対岸に渡れ、というのが皇帝の命令だからだ。絶対者に命ぜられたままに、諾々と綱を渡りきり、その直後に黒の軍勢にわっと集られ、切り刻まれる。
なぜ――どうして皇帝は、渡峡の中止と、ダークテリトリー軍への攻撃停止を命じてくれないのか。
これでは、部族の兵たちは囮ですらない。
召喚された黒い軍勢に捧げられる生贄ではないか。
「こ……皇帝に……」
上申せねば。作戦を停止してくれるよう要請しなくては。
怒りと絶望、そして視界の右側を染める赤光と右眼の激痛に苛まれながらも、イシュカーンは後方の御座竜車に向かおうと足を一歩動かした。
その瞬間。
上空を、ひとつの巨大な影が横切った。
飛竜。
黒い装甲によろわれたその背に乗るのは――豪奢な毛皮のマントと、長い金色の髪を翻した、まさしく皇帝ベクタその人だった。
「あ……あ……!!」
イシュカーンが無意識のうちに発した言葉ならぬ叫びが聞こえたか、竜の鞍上で、皇帝がちらりと地上に視線を投げた。
その闇色の瞳には、一切の表情はなかった。
無為に死にゆく兵たちに、ひとかけらの憐憫も、それどころか興味すらも抱いていない、氷のような一瞥だった。
皇帝ベクタは、イシュカーンからすっと視線を外し、峡谷の南へと竜を飛翔させた。
あれが――神。あれが支配者。
しかし、支配者ならば。何ぴとも及ばない力を持つ強者ならば。
それに応じた責務だってあるはずではないか!
統べる軍を、治める民を導き、一層の繁栄をもたらす、それが支配者の務めであるはずだ。何千何万の命をただ使い捨て、そのことに何ら感情を動かさない者に――皇帝を――右眼が――支配者を名乗る――右眼が痛い――資格など…………!!
「うっ……お……おおおああああああ!!」
イシュカーンは、高々と右拳を突き上げた。
そして、その指先を鉤づめのように曲げ。
思考を妨げる灼熱の発生源である、おのれの右眼に突き立てた。
鮮血が飛び散り、ぶち、ぶちという嫌な音が響き渡った。
「お……長よ!! 何を!?」
駆け寄ろうとするダンパを左手で押しのけ、短い絶叫とともに、若き闘士は右の眼球を一気に引き抜いた。その白い球体は、拳のなかで奇怪な閃光を放っていたが、ぐしゃりと粉砕されると同時に光も消えた。
この時点でイシュカーンは、アリスやユージオのように”コード871”の自力解除にまで到ったわけではなかった。
ゆえに彼は、皇帝に対する直接的叛意を形成することはできず、現状与えられた命令である、「渡峡作戦の継続」及び「自身は綱を渡ってはいけない」という二つの指示は破棄できなかった。
しかし、彼はほとんど反逆に等しいレベルで、皇帝の命令を回避する手段を無理やり見出すことには成功した。
イシュカーンはゆっくり振り向き、唖然とした顔で見下ろすダンパに、低い声で語りかけた。
「皇帝は、あの黒い兵どもに関しちゃ何も命令してねえ。そうだな?」
「は……それは、そのとおりですが」
「なら、俺達があいつらをブチ殺すぶんには皇帝にゃ関係ないってことだ」
「……チャンピオン…………」
絶句するダンパを隻眼でぎろりと凝視し、イシュカーンは命じた。
「いいか……橋がかかったら、部族全軍で突撃してこい。何がなんでも、仲間を助けるんだ」
「は……!? 橋なぞ、ど、どうやって……」
「知れたことだ。頼むんだよ」
静かに言い放ち、イシュカーンは峡谷に向き直った。
突如、その逞しい両脚を、強烈な炎が包み込んだ。
赤々と燃える足跡を残しながら、拳闘士王は谷に向けてゆっくりと走り出した。速度はすぐに高まり、やがて一条の火焔となるまでに加速する。
綱を渡っちゃいけねえなら……飛びゃぁいいんだろうが!!
胸中でそう絶叫し、彼は幅百メルの奈落へと向けて、左脚を思い切り踏み切った。
“跳躍”は、拳闘士の重要な鍛錬の一つである。
修行は、砂地での安全な幅跳びに始まり、やがては並べた刃や煮えたぎる油を飛び越すことで心意を形成する。
その距離は、一流闘士では最終的に二十メルを超える。それは、人間の飛行が禁じられたこの世界においては、生身での跳躍の上限でもある。
しかし今、イシュカーンが体を投じたのは、限界距離の五倍にも達する幅をもつ底なしの峡谷だった。
宙に火炎の尾を引きながら、拳闘士はひたすらに前だけを睨み、空気を蹴った。
十メル。二十メル。体はまだ上昇していく。
三十メル。三十五メル。谷から吹き上がる強風に乗り、見えない翼に後押しされるように、さらに高みに駆け上る。
四十メル。
もう少し――あとほんの一息昇れれば……そこから先は惰力で向こう岸まで届く――。
しかし。
谷の真ん中の、ほんのわずか手前まで達したとき、無情にも風が止んだ。
がくり、と体が勢いを失う。跳躍軌道が頂点に達し、下向きの曲線へと移行する。
五メル……足りねえ。
「うおおおお!!」
イシュカーンは叫び、何かを掴もうとするかのように右手をまっすぐ伸ばした。しかし手がかりも、足がかりもあるはずはなく、足下の暗闇から這い登る冷気だけが彼の体を撫でた。
その時――。
「チャンピオオオオオン!!」
凄まじい雄叫びがイシュカーンの耳を打った。
ちらりと後方を見る。
副官ダンパが、己の頭よりも大きい巨岩を右腕で掴み、今まさに投擲体勢に入ったところだった。
長年付き合った忠実なる部下の意図を、長はすぐに察した。しかし――あれほどの大岩を、五十メル以上も投げるなど、人間に出来ることではない……。
ごわっ。
と、突如ダンパの右腕が膨らんだ。全身の力がそこだけに集中したかのように、筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がる。
「オオオオ!!」
巨漢が吼え、数歩の助走に続いて、右腕が振り抜かれた。
まるで投石器のように、空気を震動させて岩の塊が射出され――直後、腕全体が、鮮血と肉片を振り撒いて爆裂した。
どさりと倒れるダンパの姿を左眼に焼きつけ、イシュカーンは歯を食いしばって、一直線に飛来する岩のみに意識を集中させた。
「……いぇああああ!!」
気合とともに、左の足裏で思い切り岩を踏み抜く。
バガァァン!!
と岩が四散し、その反動でイシュカーンの小柄な体は弾かれたように再度加速した。対岸で戦う剣士たちの姿が、もう目の前にあった。
盛大な罵り声を上げてばったりと倒れるアメリカ人歩兵の体から細剣を引き抜き、アスナは荒く息をついた。
暗黒界人を相手にするときのような、命を奪うことへの心理的重圧はない。かつての”閃光”、その後の”バーサクヒーラー”の二つ名のとおりに容赦ない連続剣技を繰り出し、屠った黒い兵たちの数はすでに十を超えた。
しかし――いかんせん、敵が多すぎる!!
アスナだけでなく、人界軍の衛士たち、そしてことに四人の整合騎士の奮戦はまさに鬼神の如しだ。方形に密集陣を組む衛士たちの先頭に立ち、なんとか南に血路を切り開くべく、屍の山を築いている。
だが、あとからあとから押し寄せる黒い歩兵の壁を押し戻すことができず、足を止めて鬩ぎ合うのが精一杯の状況だ。
何より、いずれ彼らも気付くだろう。切り倒した敵の死骸が、数十秒後にあとかたもなく消滅し、その場に血の一滴すらも残らないことに。自分たちが、命を持たぬ幻の軍隊を相手にしていることに。
「うわ……だめだ……うわあああ――!!」
突如背後から響いた絶叫に、アスナはハッと振り向いた。
衛士たちの戦列の一部が破られ、漆黒の泥水のように、アメリカ人たちがなだれ込むのが見えた。
甲高い罵声を迸らせながら、手当たり次第に衛士たちに襲いかかり、数人で取り囲んで切り刻む。血が、肉が飛び散り、悲鳴が断末魔の絶叫に変わる。
そのあまりにもリアルな死に様に、一層の欲望を掻き立てられたかのように、黒の兵士たちは新たな得物へと群がっていく。
「やめて……やめて……!!」
アスナは叫んだ。
今は、一部の犠牲は無視して、ひたすら南へと斬り進むときだ。理性ではそう分かっていたのに、しかし体が勝手に向きを変え、北へと走り出すのを止められなかった。
「やめてえええええええええ!!」
血を吐くような苦鳴とともに、押し寄せる黒い奔流へと単身斬り込む。
アメリカ人プレイヤーたちに悪意はない。ただ利用されているだけ――という認識も、吹き荒れる激情を止めることはできなかった。
ズカカカッ!!
右手が閃き、真珠色の細剣が立て続けに黒いヘルメットのバイザーを貫いた。頭部にクリティカルヒットを負った四人が、剣を取り落とし、喚き声を上げながらのたうち回る。
その反応からして、アミュスフィアを利用してダイブしているはずの彼らが、ペイン・アブソーバ機能で保護されていないことは明らかだ。すでにそうと察していたアスナは、これまでなるべく一撃で心臓を破壊し即死・即ログアウトさせるようにしていたのだが、そんな理性もいつしか失せていた。
剣の高優先度に任せ、鎧の上から突き、切り裂き、時には敵の剣ごと断ち割る。
アメリカ人たちが見ているのは、あくまでポリゴンの敵であり、エフェクトの血液だ。しかしSTLダイブしているアスナには、彼らもまた生身の人間であり、飛び散る返り血は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。
いつしか足元に溜まっていたその血に――ずるりと右足が滑った。
どうっ、と横倒しになったアスナの眼前に、巨躯の歩兵が圧し掛からんばかりに立ちはだかった。
「fucking bitch!!」
振り下ろされるバトルアックスの下から逃れようと、アスナは右に転がった。
しかし、地面を突いた左腕を引き戻すまえに、分厚い刃が前腕を捉えた。
かつっ。
あまりにも軽い音とともに、腕が肘の下から切断され、宙に舞った。
「っ……あ…………ッ!!」
凄まじい激痛に、目の前に白い火花が散った。呼吸が止まり、体が硬直した。
滝のように血を振り撒く左腕を抱え込み、アスナは喘いだ。抑えようもなく溢れた涙を通して、自分を取り囲み、武器を振り上げる四、五人の黒い影だけが見えた。
突然――。
バトルアックスの大男の頭部が、爆発したかのように飛散した。
ボッ、ボガガガン!!
鈍い打撃音だけが連続して響いた。機関銃のようなその響きひとつで、アスナに止めを刺そうとしていた歩兵たちの体が次々に粉砕され、視界外に消えた。
「へっ……ヤワい連中だ」
激痛を堪えながら、どうにか上体を起こしたアスナが見たのは、精悍な容貌と炎のように逆立った髪を持つ、小柄な若者だった。
――ダークテリトリー人!
一瞬痛みを忘れ、アスナは息を吸い込んだ。肌の色、革の腰帯ひとつのその装束、間違いなくつい先ほどまで剣を交えていた拳闘士の一族だ。
しかし、なぜ皇帝ベクタの支配下にあるはずの者が、同じくベクタに召喚された黒歩兵を攻撃したのか。まるで、アスナを助けようとするかのように。
見下ろす拳闘士の、朱色の眼は片方しかなかった。右の眼窩は醜い傷痕に潰され、まだ新しい血の筋が涙のように頬で乾いている。
若者は、更に押し寄せようとするアメリカ人たちを、その隻眼でぎろりと睥睨すると、右拳を高々と掲げた。
ゴッ!!
そのごつごつした拳骨を、突然赤々とした炎が包んだ。
「ウ……ラアァァァッ!!」
裂帛の気合とともに、拳が地面へと叩き込まれる。
ドッ……グワッ!!
炎の壁にも似た衝撃波が半円形に発生し、前方の黒歩兵たちをひとたまりもなく吹き飛ばした。
――なんという威力だ!
アスナは瞠目した。今戦ったら――あるいは負ける……。
ずいっ。
突き出された左腕が、アスナの鎧の首元を掴んだ。強引に立たされたアスナを、一つだけの瞳が間近で睨み付けた。
「……取引だ」
若々しい、それでいて深い苦悩の滲む声で発せられた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「と……りひき?」
「そうだ。あの岩槍や、でけえ地割れを作ったのはお前だな。いいか、地割れに、狭くていいから橋を架けろ。そうすりゃ、四千の拳闘士団が、この黒い軍隊どもをブッ潰すまでお前らと共闘してやる」
共闘――ダークテリトリー軍が!?
そんなことが有り得るのか。暗黒界人は、いやこの世界の人間は、コード871によって上位者とその命令には逆らえないのではないのか。
しかし、この若者には右眼が無い。これはつまり、封印を自力解除した証なのか? 彼もまた、アリスと同じく限界突破フラクトライトへと進化したのか?
でもこの傷痕は――右眼が破裂したというより、無理やり抉り出したかのような……。どう考えれば、どう判断すればいいのか。
アスナの刹那の逡巡を、右側から響いた声と剣風が破った。
「その人、たぶんウソはつかない」
ぴゅ、ぴゅぴゅん。
驚くほど細く、よくしなる漆黒の剣で数人の歩兵の首を落としたのは、灰色の髪を持つ女性の整合騎士だった。名は、たしかシェータ。
「おう」
シェータを見た若い拳闘士が、にやりと不敵な――それでいてどこか照れたような笑みを微かに浮かべた。
その瞬間、アスナは決断を下した。
信じよう。
おそらく、”地形操作”能力が使えるのはこれで最後だ。ならばその機会は、破壊ではなく創造のために使うのも、悪くないだろう。
「……わかった。橋を作ります」
左腕の傷口から手を離し、アスナは右手のレイピアを高く掲げた。
ラ――――――――。
荘重な天使の歌声に続き、七色のオーロラが高く天を衝いた。
それは一直線に北へと突き進み、峡谷を貫き、対岸まで達した。
低い地響きが轟き、大地が震えた。
ゴン! ゴゴゴゴン!!
突如、崖の両側から岩の柱が突き出た。それらは見る間に長く伸び、谷の中央で結合すると、更に太く、しっかりとした架橋へと変化した。
「ううううううう、らあああああああ!!」
地形変化に伴う地響きの数倍の音量で迸ったのは、四千の拳闘士団が放つ怒りの雄叫びだった。
隻腕の巨漢を先頭に、闘士たちが一斉に橋上を疾駆し始めた。
切断された左腕の痛みに数倍する頭痛に、一瞬気を失いながら、アスナはわずかに安堵の息を吐いた。
これで――この場は脱出できるかもしれない。
どうか無事でいて、アリス。
約一分前。
戦場の最南部に於いて――。
整合騎士アリスは、あとからあとから湧いてくるような黒い歩兵たちを、もう何人斬り倒したのか数えられなくなっていた。
こいつら――おかしい。
剣士としての覚悟も、鍛錬された剣技もないのに、奇妙な言葉を喚き散らしながら仲間の死骸を踏み越え次々に飛びかかってくる。まるで、命が惜しくないかのように。それどころか、自分の、仲間の、敵の命の重さを歯牙にもかけぬかのように。
これが、リアルワールドの人間たちなのだとしたら。
確かに、アスナの言うとおり、向こう側は決して神の国ではないのだろう。
果てしなく続く殺戮と、尽きることなく出現する敵の数に、さしものアリスもいつしか意識を鈍らせていた。
もう嫌だ。こんなのは戦いではない。
早く――早くこの戦列を切り崩し、抜け出したい。
「どけ……そこをどけえええ!!」
鋭く叫び、金木犀の剣を横一文字に振り抜く。
敵の頭が、腕が、立て続けに飛ぶ。
「システムコール!!」
即座に術式起句を唱え、十の熱素因を生成する。それらを融合させ、炎の槍を作り出し、放つ。
「ディスチャージ!!」
ドッゴオオッ!!
デュソルバートの熾焔弓には劣るが、巨大な爆発がまっすぐに敵軍を突き抜け、穴を穿った。
その向こうに――。
見えた。黒い大地と、盛り上がった丘。
包囲を破ってあそこまで後退したら、この戦場から発散されたリソースを利用して”封鎖鏡面光術”を組み、黒い歩兵どもを一気に焼き払ってやる!
「せあああああ!!」
気合とともに、アリスは地を蹴った。
戦列に開いた穴を、剣を左右に閃かせながら駆け抜ける。
「……嬢ちゃん!!」
背後で、騎士長ベルクーリの鋭い声が聞こえた。
だが、それに続く、先走るな、のひと言はアリスの耳には届かなかった。
抜ける。もう少しで突破できる。
立ちふさがった最後の一人を、足を止めぬまま斬り伏せ、アリスはついに無限とも思えた敵の包囲を破って南の荒野へと飛び出した。
剣を鞘に収めながら、血のにおいのしない新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、尚も全力で疾駆する。
不意に、周囲が暗くなった。
朝日が翳ったのか、と一瞬思った。
直後、ドカッ!! と凄まじい衝撃が背中を打ち、アリスの意識は暗転した。
皇帝ベクタ/ガブリエル・ミラーにとっても、この局面は賭けだった。
しかし彼は確信していた。戦場にダイブさせた数万のアメリカ人プレイヤーに、人界軍を包囲攻撃させれば、”光の巫女”アリスは必ず再びあの巨大レーザー攻撃を行うために単身、あるいは少人数で脱出してくると。
徴用した飛竜の背にまたがり、戦場の遥か高空でホバリングしながら、ガブリエルはひたすら待ち続けた。それは、アンダーワールドにダイブして以来、最も長く感じた十分間だった。
しかしついに、黒蟻の群のような歩兵の戦列を抜け出た黄金の光を彼は見た。
「アリス……アリシア」
ガブリエルは、彼にしてはまったく珍しい本当の笑みを唇に浮かべ、囁いた。
手綱を一打ちし、竜をまっすぐに急降下させる。
彼の虚無的な心意は、すでに飛竜のAIを完全に侵食し、道具のごとく意のままに操っていた。竜は命ぜられるまま、翼を畳んで音も無く落下すると、突き出した右の鉤爪で地面を駆ける黄金の騎士の背中を一掴みにした。
バサッ!!
広げた翼を大きく鳴らし、竜は再び空へと駆け上がった。
ガブリエルは、背後の混沌極まる戦場には一瞥も呉れなかった。
彼にはもう、暗黒界軍が、人界軍が、そして召喚した現実世界人たちがどうなろうとどうでも良かった。
あとはただひたすら、この座標から最短距離のシステムコンソールである、”ワールドエンド・オールター”を目指す。そこからアリスの魂をメインコントロールルームへと排出する。
ちらり、と視線を下向けると、気を失ったまま竜の足に捕獲されている黄金の騎士の、風になびく金髪が見えた。
早く触りたい。その体を、魂を、心行くまま味わいたい。
システムコンソールまでは長い道行きだ。飛竜に乗っても数日は掛かるだろう。その時間を利用して、アリスがアンダーワールドでの肉体を備えているあいだに愉しむのもまた良かろう。
ガブリエルは、背筋を甘美な衝動が這い登るのを感じ、もういちど唇を吊り上げた。
まさか。
よもや――五万のダークテリトリー軍と、新たに召喚した三万の歩兵たちを、丸ごと使い捨てにするとは。
たった一人の少女を攫うためだけに!
騎士長ベルクーリは、皇帝ベクタなる存在の虚無的な心意を知覚したその瞬間から、強く警戒し続けてきたつもりだった。しかし、己に敵の全貌がまるで見えていなかったことを、アリスが拉致された瞬間になってようやく自覚させられる結果となった。
割れ砕けんばかりに歯噛みをしてから、ベルクーリは、いったい何十年ぶりなのか自分でも分からない行動に出た。
腹の底から、本気の怒声を放ったのだ。
「貴様ッ、オレの弟子に何しやがるッ!!」
びりっ、と空気が軋み、声の軌跡に白い電光すら弾けた。
しかし、アリスを捕獲した飛竜の騎手は、振り向くことすらせず一直線に南空へ上昇していく。
愛剣を構え、ベルクーリはその後を追って走ろうとした。しかし、アリスが術式で敵戦列に開けた穴はすでに塞がり、漆黒の歩兵たちが奇怪な罵声を吐きながらうじゃうじゃと押し寄せてくる。
「そこを……」
どけっ、とベルクーリが叫ぶより早く、頭上を眩い銀の光が駆け抜けた。
きりきりきり、と高く澄んだ音を響かせながら飛翔する二条の投刃。整合騎士レンリの神器、比翼だ。
背後で、少年騎士の鋭い声が聞こえた。
「リリース・リコレクション!!」
カッ、と一瞬の閃光を放ち、二枚の投刃がひとつに融合する。十字の翼へと変化した刃は、低空へ舞い降りると、ぎざぎざの軌道を描いて突進し敵兵たちを左右になぎ倒す。
「騎士長、行ってください!!」
レンリの叫びに、ベルクーリは背中を向けたまま応じた。
「すまん! 後は頼む!」
ふっ、と腰を落とし、右足で思い切り地を蹴る。
瞬間、騎士長の姿は白い突風へと変化した。敵の大群に再び開いた間隙を、飛ぶが如く駆け抜けたベルクーリの速度は、ダークテリトリーの拳闘士が武舞によって実現する疾駆を遥か上回っていた。
長剣をぶら下げた右手と、前に傾けた上体は微動だにさせぬまま、脚だけを朧にかすませて最古の騎士は戦場の南へと抜けた。
アリスを攫った皇帝ベクタの竜は、すでに遥か高空をゆく小さな黒点でしかなくなっている。
疾走しながら、ベルクーリは左手を口元にあて、高らかに笛の音を吹き鳴らした。
数秒後、前方の稜線から、銀色の巨大な翼がその姿を現した。ベルクーリの騎竜・星咬だ。
飛来する竜は、しかし一頭だけではなかった。アリスの騎竜・雨縁、そして今は亡き騎士エルドリエの竜・滝刳もその後ろに従っている。
「お前ら……」
ベルクーリは呟き、二頭に出そうとした待機命令を、ぐっと飲み込んだ。
低空を滑るように接近してきた星咬が、くるりと向きを変え、ベルクーリに向けて脚を突き出す。
その鉤詰に左手をかけ、騎士長は一気に竜の背中へと自らを放り上げた。鞍に跨るや、右手の剣をまっすぐ前方に突き出す。
「行けっ!!」
叫ぶと、星咬と、雨縁、滝刳は同時に翼を打ち鳴らし、紫に染まる暁の空へと駆け上った。
くさび型に隊列を組んで併進しはじめた三騎の、はるか前方をゆく黒い飛竜の脚のあたりで、黄金の光が一瞬ちかっと煌いた。
岩の架橋を一気呵成に突進してきた四千の拳闘士たちは、半ば殲滅されかかっていた数百の同族たちと合流すると、人界軍のすぐ横を駆け抜け、まるで巨大な破城槌のごとく敵軍の中央へと激突した。
十人ひと組が横一列に密接し、完璧に同期した動きで右拳を引き、構える。
「ウッ、ラァッ!!」
ボッ、と放たれた十本の突きが、黒歩兵たちの剣をへし折り、鎧を穿った。悲鳴と血煙を撒き散らし、二十人以上の敵が後方へと吹っ飛ぶ。
闘気の全てを込めた突きを放ち終わった十人が、すっと横に広がって隙間を空けると、その間から真後ろの十人が飛び出てきてガチッと横列を組む。
「ウララッ!!」
今度は前蹴りが、これも見事にシンクロした動作で撃ち出された。再び大量の敵が、爆弾でも落とされたかのように四散した。
「……すごい」
左腕の傷口に、即席で丸暗記してきた治癒術を施しながら、アスナは思わず呟いた。
拳闘士たちの闘いぶりは、SAOで攻略組が行っていたスイッチ・ローテーションと似ているが、遥かに洗練されている。十人かける十列で百人、その集団が四十以上も、まるで工事用重機のように敵を蹂躙していく様は見ていて空恐ろしいほどだ。
「感心してるだけじゃ困るぜ。このまま南に抜けたとして、そのあとはどうするんだ。あれだけの敵、囲みを突破はできても、この場での殲滅はちと難しいぜ」
アスナの隣で腕組みをして立つ、一時共闘中の敵将が、厳しい表情で言った。
確かに、前への突進力は無敵と思える拳闘士隊だが、数倍の歩兵に側面から突っ込まれて崩される集団も出始めている。何せ、召喚されたアメリカ人たちの数は、いまだ二万を軽く超えるのだ。
「……では……敵陣を破り、南へ抜けたら、そのまま距離を取ってください。わたしがもう一度、地割れを作って敵を隔離します」
アスナは低くそう応じた。
――できるだろうか。さっき、小さな橋を作っただけでも気絶しそうになったのだ。再び、地平線まで届くほどの大規模な地形操作を行ったら、今度こそ強制カットオフされるか……下手をすると、脳に物理的な外傷を負うことも……。
一瞬の迷いを、アスナは強く唇を噛んで振り払った。やるしかないのだ。この、アメリカ人の召喚が、強襲チームの最後の策のはずだ。ならば、たとえ相討ちになったとしても――。
戦場の北端に居るアスナのもとに、一人の衛士が南から駆けつけてきたのはその時だった。
「伝令!! 伝令――!!」
深手を負ったらしく、顔の半分を血に染めた衛士が、アスナの前に膝をつくとかすれ声で叫んだ。
「整合騎士レンリ様より伝令であります!! 整合騎士アリス様が、敵総大将の駆る飛竜に拉致されました! 飛竜はそのまま南に飛び去った模様……!!」
「な…………」
アスナは言葉を失った。
そうか――まさか、この状況は。人界軍から、アリス一人を誘い出すための……!!
「皇帝……が、飛び去った、だと」
しわがれた声で応じたのは、拳闘士の長だった。左だけ残った赤い眼に、異様な光を浮かべてさらに声を絞り出す。
「それで……さっき、飛竜に……。見物じゃなかったのか……。おい、女!!」
若者は、アスナを爛々と輝く隻眼で凝視し、急き込むように詰問した。
「アリスってのは、”光の巫女”だな!? 皇帝はなぜそいつに固執するんだ!? 光の巫女が皇帝の手に落ちたら、いったい何が起きるってんだよ!?」
「この世界が……滅びます」
アスナは、短く答えた。拳闘士の顔が、愕然と強張る。
「暗黒神ベクタが、光の巫女アリスを手に”世界に果ての祭壇”に到ったとき……この世界は、人界も、ダークテリトリーも、そこに住む人々を含めてすべて無に還るのです」
自らの言葉が、どうしようもなくロールプレイングゲームのシナリオじみていることを、アスナは僅かに意識した。しかし、これはまったくの事実なのだ。アリスの魂を手に入れた強襲チームは、もう用無しとなったライトキューブクラスターを丸ごと破壊するであろうことは当然の予測である。
ああ……どうすれば。スーパーアカウント”ステイシア”にも飛行能力は付与されていない。飛竜に乗っている皇帝ベクタを、どうやって追いかければいいの。
アスナの内心の苦悩に答えたのは、いつのまにか前線から戻っていた灰色の騎士シェータだった。レイピアというよりフルーレに近い漆黒の剣をぴゅんっと鳴らし、血のりを振り落としながら、涼しげな容貌の女騎士は言った。
「飛竜も……永遠には飛べない。半日が限界」
すると、シェータをちらりと見てすぐに視線を逸らした拳闘士の長が、ばしっと掌に拳を打ち付けて叫んだ。
「なら、気合で追っかけるっきゃねえな!!」
「追っかける、って……あなた……」
アスナは呆然と敵将の若々しい顔を見た。
「あなた、ダークテリトリー軍の人なんでしょう? なんで、そこまで……」
「皇帝ベクタは……俺たち暗黒界十候を並べて、確かに言ったんだ。自分の望みは光の巫女だけだと。そいつさえ手に入れれば、あとはどうでも知ったこっちゃねえ、ってな。巫女をかっ攫った今、皇帝の目的は達せられた……つまり、俺ら暗黒界軍の任務も一切合財終わったわけだ。あとは、俺らが何をどうしようと自由、そうだろが!!」
なんという――牽強付会な。
アスナは唖然と若き将の顔を見た。しかし、そこにあったのは、威勢のいい言葉とはほど遠い、悲壮な決意の色だった。
左眼でまっすぐにアスナを見て、拳闘士は言った。
「……俺は……俺たちは、皇帝には直接逆らえねえ。あの力は圧倒的だ……俺より恐らくは強かった暗黒将軍シャスターを、指一本動かさず殺したからな。もし改めてあんたらと戦うよう命じられたら、従うしかねえ……。だから、俺たち拳闘士団は、ここで黒い兵隊どもを防ぐ。あんたと人界軍は力を使わずに、皇帝を追っかけてくれ。そんで……皇帝を……野郎を……」
突然言葉を切り、若者は、まるで存在しない右眼が痛むかのように顔をゆがめた。
「野郎に、教えてやってくれ。俺たちは、てめぇの人形じゃねえってな」
ちょうどその時、一際高い拳闘士たちの喊声が、戦場の南から響いた。部隊の先頭が、ついに黒歩兵軍の囲みを破り、荒野へと抜け出たのだ。
「よぉし……」
若い長は、ずだん! と右足を踏み鳴らし、凄まじい音量で命じた。
「その突破口を保持しろ!!」
アスナに視線を戻し、短く言う。
「あんたたちは早く脱出しろ!! 長くは持たねえ!!」
大きく息を吸い――アスナは頷いた。
人間だ。この人は、まさしく強靭なる魂を持つ人間に他ならない。一族が渡っているロープを無慈悲にも切断し、百人以上を剣に掛けたわたしたちに、叩き付けたい恨みと憎しみだってあるだろうに。
「……ありがとう」
どうにかそれだけを口にし、アスナは身を翻した。
背中に、整合騎士シェータの声が掛けられた。
「私も……ここに、残る」
何となく、それを予測していたアスナは、肩越しに灰色の髪の女騎士に向かって短く微笑みかけた。
「わかりました。しんがりをお願いします」
一族の闘士たちが東西に構えて保持する突破口を、栗色の髪の不思議な女騎士と、七百ほどに減じた人界軍が走り抜けていくのを、イシュカーンは無言で見送った。
土煙から視線を外し、となりに立つ灰色の整合騎士を見やる。
「……いいのかよ、女」
「名前、もう言った」
剣呑な目つきで睨まれ、苦笑まじりに言い直す。
「いいのか、シェータ。生きて戻れるかどうかわかんねえぞ」
真新しい鎧をかしゃりと鳴らし、細身の騎士は肩をすくめた。
「あなたを斬るのは私。あんな奴らにはあげない」
「へっ、言ってろ」
今度こそ、イシュカーンは朗らかに笑った。
犬死にしていく仲間を助けたい。それだけを願っていたはずの自分が、人界軍に協力し、黒い軍隊から彼らを守るために部族全体の命運を賭けようとしているのはどうにも不思議だったが、しかし、胸中には爽やかな風が吹いていた。
まあ、悪くねえさ。こんな死にざまも。
世界を守るためなら――郷のオヤジも、弟や妹たちも、分かってくれるだろう。
「よぉおし!! 手前ら、気合入れろよ!!」
即座に、ウラアー!! という雄叫びが返った。
「円陣を組め!! 全周防御!! 寄ってくるアホウ共を、片っ端からぶちのめしてやれ!!」
「滾りますな、チャンピオン」
音もなく背後の定位置に戻っていたダンパが、左手をごきごきと鳴らした。
南の丘を越え、補給隊の待つ森へと撤退しながら、アスナは少年騎士レンリから、騎士長ベルクーリが三匹の飛竜とともに皇帝ベクタを追跡していることを知らされた。
「……追いつけると思いますか?」
アスナの問いに、レンリは幼さの残る顔に厳しい表情を浮かべ、答えた。
「正直、微妙なところです。基本的には、同じ速度で飛び、同じ時間に休息せねばならないわけですから……ただ、皇帝ベクタの竜は、アリス様を運んでいるせいで、天命の消耗は多少なりとも多いはずです。逆に騎士長閣下は、三匹の竜を順次乗り換えて疲労を抑えることが可能ですゆえ、徐々にですが距離は詰まるかと……」
となると、あとは果ての祭壇までの道行きのあいだに、騎士長が追いついてくれることを祈るのみだ。
しかし、首尾よく皇帝を捕捉したとして――。
騎士長ベルクーリは、スーパーアカウントたる暗黒神ベクタに単独で勝てるのだろうか?
よもや、襲撃者たちも神アカウントでログインしてくるなどとは予想もしなかったアスナは、ベクタに付与された能力を比嘉タケルに説明されていない。しかし、ステイシアの地形操作と同等の力をベクタも持っているとしたら――たとえ整合騎士たちの長と言えども、一対一での戦いは厳しすぎるのではないだろうか……。
そこまで考えたとき、レンリがしっかりした口調で言った。
「もし追いつければ、騎士長閣下はかならずアリス様を助けてくださいます。あの方は……世界最強の剣士なのですから」
「……ええ、そうですね」
アスナも、ぐっと強く頷いた。
今となっては、信じるだけだ。アンダーワールド人の意思の強さを、先刻目の当たりにしたばかりではないか。
「ならば、私たちも全軍で南進しましょう。幸い、この先はひたすら平坦な土地が広がっているようです。ベルクーリ様が、敵の飛竜を落としてくだされば……」
「分かりました、アスナ様。至急出立の準備をさせます!」
レンリは走る速度を上げ、一足先に森の中へと消えた。
ちょうどその頃――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームでは、情報戦担当員クリッターが、ログイン準備の整ったアメリカ人VRMMOプレイヤー第二陣・二万人を、新たにアンダーワールドに投入しようとしていた。
しかしその座標は、ガブリエル・ミラーの現在位置を追うかたちで、第一陣の投入地点よりも南に十キロメートルほども変更されていた。
「ワウッ!!」
奇妙な喚き声とともに、ヴァサゴ・カザルスはがばっと身を起こした。
長い巻き毛を振り回しながら、周囲を素早く確認する。
鈍く光る鋼板の壁。滑り止めの樹脂加工が施された床。薄闇にぼんやりと浮かぶ幾つものモニタやインジケータ。
そして、目の前でくるりと回転した大型のシートに座る、ひょろりと痩せた坊主頭の男をまじまじと眺めてから、ヴァサゴはようやくここが現実世界のオーシャンタートル・主コントロール室なのだと認識した。
坊主頭の男――クリッターは、ふん、と短く鼻を鳴らしてから高い声で言った。
「あらら、目ぇ醒ましやがったか。脳細胞がコゲてるほうに賭けたのになぁー」
「んだとコラ」
反射的に罵り声を上げてから、自分の身体を見下ろす。壁際に敷かれた薄いマットレスに寝かされ、腹の上にはおざなりにフライトジャケットが掛けてある。
一体何がどうしたんだったか、と強く頭を振ると、脳の芯がずきんと痛んだ。思わず再びアウッツ! と罵り、部屋の反対側で車座になってカードに興じている数人の隊員に声を掛ける。
「おい、誰かアスピリン持ってねえか」
髭面のブリッグが、無言でポケットを探ると、小さなプラスチック瓶を放ってきた。片手で受け取り、キャップを捻って中身をざらっと口に投げ込み、ぼりぼり噛み砕く。
舌が痺れるほどの苦味に、ようやく記憶がわずかに鮮明化した。
「そうか……あのクソ深ェ穴に落っこちて……」
「いったい、どんな死にザマしたんだぁー。八時間もぶっ倒れやがってよー」
「は、八時間だぁ!?」
驚愕し、ヴァサゴは頭痛も忘れて跳ね起きた。
クリッターのシートに駆け寄り、正面コンソールのデジタルクロックを睨む。JSTでAM6:03。イージス艦突入のタイムリミットまで、約十二時間しか残されていない。
いや、それよりも、八時間も失神していたならば、すでにアンダーワールド内部では一年もの年月が過ぎ去ったはずだ。戦争は、アリス捕獲ミッションはどうなったのか。
だが、クリッターはヴァサゴの驚きを見透かしたかのように、ちっちっと舌を鳴らして言った。
「眼ン玉剥いてんじゃねえー。安心しなー、おめえが中でおっ死んだ時点で、時間加速は一倍にまで下がってっからよー」
「い……一倍だと」
ならば、状況は大して変化していないのか。いやしかし、それはそれで大問題だろう。
「おい、分かってんのかこのコオロギ野郎! あと十二時間で、JSDFの海兵隊だか何だかが突っ込んでくるんだぞ!」
坊主頭をがくがく揺らすヴァサゴの手を、煩わしそうに振り払い、クリッターは答えた。
「ったりめーだろうがぁー。こりゃあ全部、隊長の指示だっつうのー」
続いて説明された”作戦”は、ヴァサゴの度肝を抜くに充分なものだった。
ミラー中尉は、ダークテリトリー東端の帝城、つまりシステムコンソールを離れる時点で、クリッターに秘かに指示していたのだ。刺激的な”ハードコアVRMMO”のベータテスト告知サイトを作成し、接続用クライアントプログラムを用意しておけと。そして、ダークテリトリー軍の戦力が半減した時点で加速率を一倍に低下させ、同時に全米でベータテスターの募集を開始しろ、と。
「この機能制限されたコンソールじゃー、中尉とてめーの座標、それに大まかな人間の分布しかわからねー。だから、この作戦は、ヒューマンエンパイア側の抵抗が予想より激しかった場合の保険だったんだがよー」
クリッターは細長い指をキーボードに躍らせ、大モニタにアンダーワールド全図を表示させた。
丸っこい逆三角形をした世界地図の、東の端から二本の赤いラインが伸び始め、西へと移動していく。
「これがてめーと隊長の移動ログだー。いいかー、てめーはこの、エンパイアのゲートあたりをウロチョロして、ここで死にやがったわけだ」
赤いラインの片方が、”東の大門”から南へ少し折れたあたりで×印とともに途切れた。
「しかし隊長は今、さらにズーっと南へと進行してる。しかも全軍を北に置き去りにして、単独でだー。これがどういうことかっつうと……」
「”アリス”を追っかけてるか、もしくは既に捕まえてるか、のどっちかだな」
ヴァサゴは唸った。クリッターも頷き、説明を続ける。
「もともとの作戦じゃー、残り時間が八時間にまで減るか、あるいはヒューマンエンパイア軍が全滅したとこで、もう一度加速率を上限まで戻すっつーことになってた。それでも内部では一年にもなるからなー。加速を戻した時点で、ダイブさせた外部ベータテスターは同期ズレで全員放り出されちまうけど、戦争さえ勝ってりゃーこっちのモンだー」
「なら、今すぐ戻せよ! もう、人界守備軍はほとんど残ってねえんだろうが」
「それが、そう単純じゃねー。いいか、ここを見ろー」
クリッターはキーを叩き、マップの一部を拡大させた。
人界と暗黒界を隔てる東の大門、そこから南へ数キロ下ったところに、平地と丘、森林が並んでいる。ヴァサゴの記憶にも新しい、人界軍が潜伏していた森だ。
しかしいつの間にか、森と平地のあいだには、東西に五十キロメートル近くも伸びる巨大な峡谷が出現していた。その谷のすぐ南側に、もやもやと蠢く雲のようなものが、二色に色分けされて表示されている。
「この、黒で表示されてんのが、俺がアンダーワールドにぶっこんだUSベータテスターの集団だー。ずいぶん減ったが、まだ二万は残ってる。んで、黒に半包囲されてる赤い丸はダークテリトリー軍だ。四千人くれーかな」
「お……おいおい、どう見ても黒が赤を襲ってるじゃねェか」
「偽ベータテスト告知じゃー、超リアルなNPCを殺し放題としか書いてねーからな。USからダイブしてる連中は、人界軍も暗黒界軍も区別してねー。けど、なんでだか、赤の減りが予想より遅ぇー。皇帝に絶対忠実の暗黒界軍が、皇帝に召喚されたUSプレイヤーに抵抗するわきゃねーんだけどよー」
「どうせ、ねちねちいたぶって殺すのに夢中になってんじゃねえのか」
「まー、この赤四千はそのうち全滅するとしてだー。問題は、ここにちょこっとだけ、青い集団がいるだろがー」
クリッターがカーソルを動かす。確かに、南へ直進する皇帝ベクタことミラー中尉を追うように、ほんのささやかなブルーのもやが移動している。
「こりゃ人界軍だー。マップ上じゃちっちぇーけど、これでも七、八百はいる。こいつらが隊長に追いつくと面倒だからなー、なんとか阻止しなきゃなんねー」
「阻止ったってよ……どうするんだよ」
ヴァサゴの問いに直接答えず、クリッターはひっひっと短く笑うと、キーを操作した。
マップ上に、ぽっと別ウインドウが開く。そこには、白一色を背景に、巨大な黒い雲がもやもやと蠢動している。
「こいつらは、第一次接続に乗り遅れたプレイヤー連中だー。二万に達したら、これをこの青集団の座標にブチこむぜー。戦力比1:25だ、一瞬で殲滅するぜー? そしたら加速を一千倍まで戻す。隊長がアリスを捕まえて、南のシステムコンソールに到着する猶予はたっぷり残るはずだぁー」
「……そう上手くいきゃいいけどな」
ヴァサゴは顎に伸びた髭をざらっと擦りながら反駁した。
「おめーが思ってる以上に、人界軍てのはヤルぜ。とくにあの整合騎士って連中はとんでもねえ、ダークテリトリー軍の第一波を根こそぎブチ殺したからな。さもなきゃ、俺があんなブザマにやられる……わけが……」
そこまで口にした時。
ヴァサゴはようやく、自分が何者に、どのようにして殺されたかを思い出した。
鋭く息を詰め、黒い眼を見開く。網膜に、はるか高みから見下ろす、女神じみた姿がまざまざと蘇る。
「”閃光”……!! そうだ……間違いねぇ、ありゃあ絶対にあの女だ……!!」
「はぁ? 何言ってんだー?」
怪訝そうなクリッターの坊主頭をがしっと掴み、ヴァサゴは喚いた。
「おいトンボ野郎!! てめーの作戦、もうK組織の奴らもやってんぞ!! 人界軍に、日本人のVRMMOプレイヤーが混じってたんだよ!!」
「なにぃー?」
胡散臭そうな顔のクリッターには構わず、ヴァサゴは獰猛な笑みを口の端に上せた。
「”閃光”アスナが居るってことは……もしかしたら、ヤツも中に居るんじゃねえのかよ。うおっ……マジかよ、こうしちゃいらんねえ……。おい、俺ももう一度ダイブするぞ! 二万の援軍と同時に、俺もその青集団の座標に降ろせ!!」
「ダイブ、つったって、もうテメーが無駄にした皇帝副官アカウントは残ってねーぞ。雑兵アカでいいんなら幾らでもあるけどよ」
「あるぜ……アカならよ。とっておきのヤツがよ」
クック、と喉の奥で笑い、ヴァサゴはコンソール上からエナジーバーの包み紙を拾い上げると、クリッターの胸ポケットから抜き取ったペンを手早く走らせた。
「いいか、そのIDでザ・シード・ネクサスのポータルサーバーにログインしたら、キャラをアンダーワールドにコンバートしろ。それを使ってダイブする」
そういい残し、ヴァサゴはSTL室に続くドアへと数歩走りかけた。
しかし、そこでぴたりと脚が止まった。
怪訝な顔で見守るクリッターを、ゆっくりと振り向いたその顔には――豪胆な電子犯罪者さえぞっとするような、凶悪な笑みが色濃く浮かんでいた。
ヴァサゴは、分厚いブーツに何の音もさせずに引き返し、クリッターの耳に短く囁きかけた。数秒後、今度こそがしゃりと開閉したドアを呆然と見やるハッカーの手には、小さな紙片だけが残された。
紙には、”ID:”に続いて、三文字のアルファベットと8桁の数字が記されていた。
“SAO12418871”。
補給隊の馬車に駆け込んだアスナが見たのは、横倒しになった銀色の車椅子と、左手を弱々しく動かす黒衣の青年、そして覆いかぶさる二人の少女たちだった。
さっ、と顔を上げたロニエが、涙に濡れる頬を歪めて言った。
「あ……アスナ様! キリト先輩が……何度も、何度も外に出ようとして……」
アスナは唇を噛みながら頷き、キリトの前に跪くと骨ばった左手を右手でぎゅっと握った。
「ええ……。アリスさんが……敵の皇帝に拉致されたのです」
「えっ……アリス様が!?」
叫んだのはティーゼだった。白い頬が、いっそう青ざめる。
一瞬の沈黙を破ったのは、キリトの細いしわがれ声だった。
「あ……ぁ……」
左手が弱々しく動き、アスナの左腕を撫でようとする。
「キリトくん……わたしを、心配してくれたの……?」
思わずそう呟いたとき、アスナの負傷に気付いたロニエが、悲鳴に似た声を発した。
「あ、アスナ様! 腕が……!!」
「大丈夫。この傷は……わたしにとっては仮初めのものですから……」
呟き、アスナは切断されたままの左腕をそっと持ち上げた。
比嘉タケルに、アンダーワールドの上位レイヤーを形作る”ニーモニック・ビジュアル”についてはざっと説明を受けている。下位サーバーで生成されるポリゴンや、与えられた数値的ステータスとは別に、イマジネーションによって具現化するもうひとつの現実。
スーパーアカウント・ステイシアに付与されたヒットポイント――天命は膨大なものだ。設定可能な上限の数字を与えられている。だから、通常武器による攻撃ならば、百、いや千の剣に貫かれても天命がゼロにはなるまい。
しかし、この傷を受けたとき、アスナは振り下ろされる巨大なバトルアックスに恐怖した。イマジネーションが弱化したのだ。ゆえにこれほどの重傷を、自ら作り出してしまった。
キリトの右腕も同じことだ。数値としての天命は全快しているのに、腕は復元されない。それは、キリトが自分を許せないでいるせいなのだ……。
アスナは自分の右手を、左腕の切断面にかざした。
意識を集中し、自分に強く言い聞かせる。
もう、わたしは二度と怯えたりしない。キリトくんに心配させたり、絶対にしないんだ。
ぽっ、と左腕に光が宿った。白く暖かい輝きは、次第に前腕を、五指をかたちづくり、喪われた左手を復元していく。
奇跡を見るように眼を丸くする二人の少女たちに微笑みかけ、アスナは元通りになった左手でそっとキリトの頭を抱いた。
「ね、わたしは大丈夫。アリスさんだって、きっと救い出してみせる。だから……その時は、キリトくんももう、自分を責めるのはやめて……」
言葉が届いたかどうかは分からなかった。しかしアスナは、一瞬強くキリトを抱きしめ、身体を起こした。
「わたしたちは、これから全軍で敵皇帝の後を追います。いま、ベルクーリさんが飛竜で追跡してくださってますから、わたしたちもきっとどこかで追いつけるはずです。それまで、キリトくんをお願いね、ロニエさん、ティーゼさん」
「は……はいっ!」
「お任せください、アスナ様!」
頷く少女たちにもう一度にこりと笑みを向け、アスナは涙をこらえながら馬車から飛び降りた。
整合騎士レンリの指示は的確で、部隊が移動準備を整えるのに五分と掛からなかった。負傷者の治療も術師隊の手によってすぐに終わり、補給隊を中央に隊列が組まれる。
準備完了を報告するレンリに、アスナは言った。
「いま、残っている整合騎士はあなただけです、レンリさん。出発の指示は、指揮官であるあなたが」
緊張した面持ちで、しかし力強く頷いた少年騎士は、右手を高く掲げ、叫んだ。
「全隊……進行開始!!」
隊列の先頭を、レンリの飛竜・風縫がどっどっと走りはじめる。続いて、衛士四百をふたりずつ乗せた二百頭の騎馬。物資と補給隊、術師隊を乗せた十台の馬車。さらに、衛士三百が分乗する、百五十の馬が続く。
ただ一頭、整合騎士シェータの竜だけがどうしてもその場を動こうとしなかった。
主の髪に似た灰色の鱗を持つ飛竜は、去りゆく仲間に向けてクルルルルッと一声高く啼き、自らは北へ――主の残った死地へと飛び去っていった。
残る敵は、皇帝ベクタただ一人。
その正体は、同じく仮の命を持つ現実世界人だ。ならば、刺し違えてでもかならずわたしが倒してみせる。騎士シェータと、赤い眼の若者、そして四千の拳闘士たちのためにも。
アスナは、強い決意を抱きながら、部隊の中ほどをゆく馬車に追いつくとその天蓋にひらりと飛び乗った。
数分後、黒い木々の連なる森が途切れ、前方にすり鉢状の巨大な盆地が姿を現した。まるでクレーターのようなそのくぼ地を貫き、細い道が南へとまっすぐ伸びている。
道が設定してあるということは、その先に何か建造物があるということだ。そして、ダークテリトリーの南部は何ものも住まない荒野だと比嘉に説明されている。つまり――この道の終わるところに”ワールド・エンド・オールター”があり、そしてその途上のどこかに皇帝ベクタと整合騎士アリスがいる。
皇帝の飛竜はもちろん、それを追うベルクーリの竜もすでに見えない。しかし、人界軍八百は、地響きを立てながら可能な限りの速度で道を突き進んでいく。
クレーターの縁を越え、下り坂を駆け降り――すり鉢の底に部隊が差し掛かった。
何かが、震えた。
ぶうぅぅ……ん、という、虫の羽音のような震動音。
「……?」
アスナはちらりと視線を上げた。正面から、右へ、そして左へ。
真後ろを向いたとき、ようやく、音の発生源を眼で捉えた。
黒く、細い、線。
ランダムに途切れ、明滅するラインが、赤い空から一直線に地面に降りてくる。
「…………うそ……」
唇が震え、声がこぼれた。
嘘よ。やめて。
しかし。
ザアアアアッ!!
という、驟雨にも似た轟音が一気に炸裂した。ラインは、左右へと広がりながら、無数に降り注ぐ。クレーターの縁に沿って、何千、万を超える勢いで南へ進み、部隊の進行方向をぴたりと閉ざす。
もう怯えない、と誓ったばかりなのに、アスナの両脚からすうっと力が抜けた。
ラインの溜まった地点に出現したのは、あのおぞましい漆黒の鎧姿だった。
「ぜ……全隊、止まるな!! 突撃!! 突撃――!!」
先頭で、整合騎士レンリが的確な指示を発した。動揺しかけた人界軍の、そこかしこから馬のいななきが響き渡る。
ドッ、と重い音とともに、部隊の速度が増した。クレーターの斜面を、今度はまっすぐに駆け上がっていく。
しかし、まるでその動きを読んでいたかのように、出現した新手の歩兵群は南に多く配置されていた。槍衾の分厚さは、ささやかな小川に叩き込まれた土嚢の山のようだった。
どうする、”地形操作”を使うか――。しかし、下手に手を出せば、部隊の進軍をも妨げてしまう。
アスナの一瞬の躊躇いを、飛竜の雄叫びが貫いた。
見れば、隊列の先頭で、騎士レンリの乗った竜がその口から炎をちらつかせながら一気に突進していく。
「いけない……あの子、捨て身で……!」
口走ったアスナの声が聞こえたかのように、竜の背中でレンリがちらりと振り向いた。
あとは、頼みます。
少年の唇が、そう動いた。
前を向いた騎士は、両腰から二枚のブーメランを取り出し、大きく構えた。
それが投擲される――寸前。
空の色が、変わった。
血の赤に染まるダークテリトリーの空が、四方八方に引き裂かれ、その奥に紺碧の青空が広がるのをアスナは見た。
クレーターの縁に密集し、今にも突進しようとしていた無数の黒歩兵も、突進を続ける人界兵たちも、先頭を走る騎士レンリすらも、一様に天を振り仰いだ。
無限の蒼穹。
その彼方から――白く輝く太陽が降りてくる。
いや、人だ。空と同じ濃紺の鎧と、雲のように白いスカート。激しく揺れる短い髪は水色。白く輝くのは、左手に握られた巨大な弓だ。顔は、逆光になってよく見えない。
誰――あなたは、誰なの?
アスナの、無音の問いに答えるかのように、空に浮く少女はゆっくりと弓を天に向けて掲げた。
右手が、これも強く発光する細い弦を引き絞る。
一際鋭い閃光。弓と弦に大して垂直に、天地を貫くかのような巨大な光の矢が出現した。
人界軍も、黒い歩兵たちも、一人のこらず言葉を忘れた静寂の中。
ほんの微かな音とともに、巨大な光線が真上に向かって撃ち出された。
それは、ぱっ、と瞬時に全方位へ分裂し――。
百八十度向きを変え、無限数のレーザーと化して地上へと降り注いだ。
スーパーアカウント02、”ソルス”。
付与された能力は、”無制限殲滅”である。
SAO4_48_Unicode.txt
朝田詩乃/シノンは、自らのもたらした巨大な破壊を見下ろしながら、比嘉という名の技術者によるレクチャーを耳裏に蘇らせていた。
『スーパーアカウントは、確かに強力だけど決して万能じゃない。どうしてもアンダーワールドにダイブしたうえで大規模なオペレーションを実行しなくてはならなくなった場合に、内部の住民たちにギリギリ受け入れられるであろう形でそれを行うために用意されたものなんス』
『えーと……つまりGM(ゲームマスター)じゃなくて、ものすごく強いPC(プレイヤーキャラ)でしかない、ってこと?』
初期のNERDLES実験機のように巨大なSTLマシンに横たわったシノンは、眉をしかめながらヘッドセットにそう問いかけた。流れてきたのは、パチン、という恐らく指を鳴らす音だった。
『イエス、まさに然りッスよ。ゆえに、君に使ってもらう”ソルス”アカウントも、アンダーワールドのリソース原則からは逃れられない。アスナさんの使っている”ステイシア”は、オブジェクトに設定されたリソースを利用してその形を変えるわけですが、ソルスの熱線攻撃にはどうしても空間リソースの吸収・リチャージが必要なんス。自動リチャージ能力は上限設定ですから、日中であれば枯渇は有り得ないはずッスが、連射は不可能と考えてください』
たしかに、左手の白い長弓は、広範囲射撃の直後からその輝きを薄れさせていた。両端からふたたび光が戻りつつあるが、再度の全力攻撃が可能となるまでは十分はかかるだろう。
連射不可。ふん、上等じゃない。
オートマチックよりボルトアクションのほうがしっくり来るってもんだわ。
胸中で嘯き、シノンは爆炎の収まった地上を確認した。
差し渡し一キロはありそうなクレーターの縁には、黒焦げになり煙を上げる死体がぐるりと折り重なっている。いちどの射撃で、おそらく六、七千の敵兵を屠っただろう。あれが、本物のアンダーワールド人ではなく、シノンと同じように現実からログインしているアメリカ人だというのは正直さいわいなことだ。ベータテストと信じ込まされ、接続した瞬間に焼き殺されたプレイヤーたちは、今頃向こう側で怒り心頭だろうが。
クレーターの中央では、黒い軍勢に比べるとあまりにもささやかな騎馬部隊が、再度の前進をはじめている。敵はまだたっぷり一万以上も残っているが、そのうち半数近くはふたたびの射撃、というより爆撃を恐れて上を見たまま動かないので、なんとか囲みは突破できそうだ。
シノンはいっそう眼を凝らし、人界部隊の戦列を確認した。
すぐに、一台の馬車の天蓋に立ち、まっすぐ自分を見上げている栗色の髪の少女に気付く。
思わず笑みをこぼれさせ、シノンはソルスアカウントに付与されたもう一つの能力・”連続飛行”を制御しながら、斜め下方へと一直線に舞い降りた。
群青色のブーツのつま先が、カンバス地の幌を捉えると同時に、軽く片手を挙げる。
「や、お待たせ、アスナ」
にこ、と微笑むと、眼前の少女のはしばみ色の瞳に、珠のような涙が盛り上がった。
「……詩乃のん……!!」
絞りだすような叫びとともに飛びついてきたアスナに、思い切り抱きしめられる。シノンは身体を震わせる親友の背中をそっと叩き、もういちど囁いた。
「がんばったね。もう大丈夫……あとは私に任せといて」
自分よりほんの少し背の高いアスナを腕のなかに抱いたまま、一割ほどリチャージされた左手の弓をまっすぐ前方に向け、右手で軽く弦を引く。
ソルスの弓は、弦を引き絞る強さでその威力を、弓の縦横の向きで攻撃範囲を設定する。十センチほど引いた弦の中に、細く眩い光矢が出現した。シノンはその先端を、部隊の先頭を走る大きな竜の行く手をさえぎる敵集団に照準した。
ビシュッ、とささやかな発射音。
僅かに傾けていた弓から放たれた光線は、直径十メートルほどの範囲に着弾し、スティンガーミサイル顔負けの爆発を引き起こした。黒い鎧兜が塊で吹っ飛び、ぽかりと開いた間隙に、すかさず竜が突入した。踏みとどまっていた歩兵も、巨大な鉤爪に引っ掛けられ、ひとたまりもなく宙を舞う。
ここに来て、ようやく敵兵たちも、倒すべき獲物あるいは稼ぐべきポイントが逃げていくことに気付いたようだった。一万数千のスラングが全方位から炸裂し、クレーターの斜面を黒い津波のように歩兵たちが駆け下りてくる。
シノンは、弓を腕にひっかけてアスナの両肩に手を置き、そっと体を引き起こした。
「アスナ。ここからしばらく南にいったとこに、遺跡みたいな廃墟が見えたわ。道はその真ん中を貫通してて、左右はでっかい石像がいっぱい並んでるの。あそこでなら、敵に包囲されることなく戦線を限定できると思う。なんとかそこで、この敵を撃退しよう」
流石にアスナも歴戦の剣士だけあって、シノンの言葉を聞くと即座に眼に勁い光が戻った。ぐい、と涙を拭ってから口を開く。
「わかったわ、詩乃のん……シノン。いくらアメリカ人VRMMOプレイヤーが多くても、これ以上の数はすぐには用意できないはず。あの一万何千かを撃退すれば、敵に打てる手はもう無いわ」
「ま、私にまかせといてよ。……で、それはそうと……」
人界軍の隊列の最後尾が、どうにか敵の包囲を抜けたことを確認してから、シノンは改めてちらりとアスナを見た。
「……その、キリトは……この部隊にいるの?」
これには、アスナも微かな苦笑を漏らした。
「今更そんな、遠慮っぽい聞き方しなくてもいいわよ。キリトくんは、ココ」
持ち上がった右手の人差し指が、ちょいちょいと足元を指す。
「わ、そうなの。じゃあ……ちょっと、挨拶してくるね」
ごほん、と咳払いしてから、シノンは大型馬車を覆う幌の後ろ端に右手を引っ掛け、すとんと内部に身体を降ろした。
続いてアスナも降りてくるまで待って、積んである木箱の奥へと向かう。
まず眼に入ったのは、灰色の制服に身を包んだ二人の異国の少女たちだった。同時に眼をまん丸にし、片方が小さな声を漏らす。
「そ……ソルス様……?」
「こんにちは、はじめまして。ソルスっぽいけど、中身は違うの。私の名前はシノン」
可能なかぎりの笑顔を向けると、二人はいっそうの驚き顔を作ったが、すぐに背後のアスナを見て何か得心したようだった。
「そ、アスナと同じリアルワールド人よ。そして、キリトの……友達」
「そう……なんですか」
赤い髪の少女がほうっと息をつき、黒い髪の子は、口のなかで小さく、女のひとばっかり、と呟いた。
まだまだこんなもんじゃないわよ、と内心で苦笑しながら、シノンは左右に分かれた少女たちの間を数歩進んだ。
キリトの状態は、比嘉タケルから聞かされてはいた。しかしこうして、実際に傷ついた姿を見ると、胸がいっぱいになって思わず涙が滲んだ。
「ぁ…………」
しわがれた声を漏らす、かつての敵にして戦友、そして命の恩人の前に、シノンはそっと膝をついた。
車椅子に沈むその姿に、かつての力強さはわずかにも残されていなかった。シノンは弓を肩にひっかけたまま、両手を差し伸べ、痩せ細ったからだをきつく抱いた。
キリトの魂は、その中心の大切な部分――”自己”が損なわれてしまったのだという。
回復の手段は、いまのところ見つかっていない、と比嘉は沈んだ声で言った。
しかしシノンは、ぎゅっと眼をつぶって涙の粒をこぼしながら、そんなの簡単なことじゃない! と胸中で叫んだ。
キリトの記憶、キリトのイメージ、そしてキリトへの気持ち――愛ならば、沢山の人が山ほど持っている。それらを少しずつ集めて、キリトの心に戻してあげればいいんだ。ほら、感じるでしょう……私のなかの君を。皮肉屋で、そのくせ隠れ熱血で、そして誰よりも強い、同い年の男の子を。
シノンは顔の向きを変え、キリトの頬にしっかりと唇を触れさせた。
この時――。
朝田詩乃は、自分の強い感傷が、桐ヶ谷和人の唯一の治療方法に紙一重のところまで肉薄していることを知らなかった。
もし彼女に、アンダーワールドとフラクトライトの構造について充分な知識があれば、解答にたどり着くことは可能だったかもしれない。しかし、詩乃がダイブ直前に受けたレクチャーは、現在の状況とソルスアカウントの使用方法にとどまっていたのだ。
ゆえに詩乃は、唇を触れさせたときになぜ和人が一瞬その身体を震わせ、体温がかすかに上昇したように感じたのか、その理由に思いを致すことはなかった。
すぐにキリトから身体を離したシノンは、立ち上がり、背後の三人を見た。
「だいじょうぶ、キリトはきっとすぐに元通りになるよ。みんなが、本当にこの人を必要とした時にね」
アスナと二人の少女たちは、涙ぐんだままこくりと頷いた。
「じゃあ……私、一足さきに南の遺跡に飛んでいって、地形の確認をしてくる。貴方たち、キリトのこと、よろしくね」
そう声をかけ、馬車の後ろに向かいかけたシノンの肩を――。
突然アスナが、がしっと強く掴んだ。
その瞳にとてつもなく切迫した光が浮かんでいるのを見て、シノンは息を飲んだ。
「あ……アスナ、どう……」
「シノン、今飛ぶって言った!? あなた、飛べるの!?」
急き込むような問いに、戸惑いながら頷く。
「え……ええ。ソルスアカウントの能力なんだって。制限時間とかもないって聞いたけど……」
「なら、助けてほしいのはわたし達じゃないわ! アリスを……皇帝に攫われたアリスさんを追いかけて!!」
続けてアスナが説明した状況は、シノンの心胆を寒からしむるに充分なものだった。
すべての鍵となる整合騎士アリスが、現実側の敵である皇帝ベクタに拉致され、はるか南を飛行中であること。いまそれを追っているのは、騎士長とよばれる剣士ただ一人であること。
「スーパーアカウント相手に、いかに騎士長さんと言えども荷が重いわ。もし皇帝が果ての祭壇に到着する前にアリスさんを救出できなければ、この世界は丸ごと破壊されてしまうの。シノン、ベルクーリさんを助けて!」
どうにか事情を飲み込み、騎士長ベルクーリの外見を頭に叩き込んだシノンは、馬車から離陸すると一気に高度を取った。
土煙を立てて南下する人界軍八百。
北から怒涛の勢いで追いすがる一万以上の黒い軍勢に比べれば、まるで津波に飲まれる直前のボートの群れのようだ。
アリスを取り戻したら、すぐ駆けつけるから――それまでがんばって、アスナ。
内心でそう呼びかけて、シノンはくるりと南を向き、一気に加速した。白い尾を引く流星となり、赤い空をまっすぐに切り裂く。
前方、無限に広がる世界を俯瞰しながら、シノンはふと考えた。
そういえば――。
同時にログインしたはずのリーファは、どこに行ってしまったんだろう?
レンリ率いる人界軍、追いすがる一万三千のアメリカ人プレイヤー。
その遥か北では、アスナが作った峡谷の際で、イシュカーンとシェータ及び拳闘士団が、いまだ二万近く残るアメリカ人たちを相手に絶望的な戦いを続けている。
そして、さらに数万メル北方。
もはや古戦場の趣きすらある、東の大門を望む荒野に、一つのずんぐりした姿がたたずんでいた。
丸い巨躯を包む、鈍色の鎧。風になびく革マント。丸い頭の両脇に薄い耳が垂れ、大きな鼻がまっすぐ突き出ている。
オーク族の長、リルピリンである。
残るわずかな部族兵を後方に待機させ、単独で東の大門にほど近い地点までやってきたのだ。一人の護衛すらもつけなかったのは、地面を這い回る自分の姿を見せたくなかったからだ。
何時間も苦労して、リルピリンはようやく求めるものを見つけ出した。華麗な彫刻を施した、銀のイヤリング。
そっと拾い上げ、掌に載せたそれは、皇帝の命により人身御供となったオーク族の姫将軍の耳にいつも輝いていたものだった。
遺品は、それだけだった。荒野には、姫とともに死んだ三千のオークの遺骸どころか、骨の欠片すらも残っていなかった。暗黒術師たちのおぞましい邪術が、オークたちの身体をあまさず喰らい尽くしてしまったのだ。
その残酷を行ったあの憎むべき女術師も、それを許した皇帝も、もうこの地には居ない。
暗黒術師ギルド総長ディーは、”光の巫女”の反撃により死に、皇帝は巫女を追って飛び去ってしまった。リルピリンへの待機命令を解除することもなく。
のこる数千の部族兵だけでは、とても東の大門を守る人界兵と整合騎士に勝つことはできない。暗黒界五族の悲願である、人界征服の夢は潰えたのだ。
だとすれば。
いったい――なんのために。
なぜ、リルピリンと共に育った姫将軍と、生贄にされた三千、そしてそれ以前に大門での戦いに出陣した二千のオークは死なねばならなかったのか。その死がなにをもたらしたというのか。
無。一切、何ひとつ。
ただ、人より醜いという理由だけで、五千もの一族が空しく死んだ。
リルピリンは、握り締めたイヤリングを胸に抱き、がくりと地に膝を突いた。怒り、やるせなさ、そして圧倒的な哀しみが胸に突き上げ――それが涙と嗚咽に変わろうとした――
その直前。
背後で、どすっと軽い音がした。
慌てて振り向いたオークの長が見たのは、地面に尻餅をつき顔をしかめた、深緑の髪と白い肌、そして若草色の装束に身を包む若い人間の女だった。
その唐突すぎる出現に対する驚きよりも、人間族への怒りや殺意よりも、リルピリンが真っ先に感じたのは、自分を見ないでくれ、という羞恥にも似た感情だった。
なぜなら、眼前の娘は、あまりにも美しすぎたのだ。
絞ったばかりのミルクの色の肌からして、初めて間近に見る白イウム――人界人であるのは明らかだ。
背が高く骨太で、たっぷりと張った肉と、銅色の肌を持つ暗黒界人の女とはまるで違う。手足は触れただけで折れてしまいそうなほど華奢で、髪は風もないのにさらさらと揺れ、きょとんとした風情でまっすぐ見上げてくる大きな瞳は、磨き抜かれた翠玉のようだ。
リルピリンは、この小さくひ弱な種族を、震えるほどに美しいと思ってしまう自分の感覚を呪った。
同時に、娘の緑色の瞳に、嫌悪の色が満ちるのを恐れた。
「み……見るなッ!! おでを見るなあッ!!」
喚きながら左手で自分の顔を覆い、右手で大刀の柄を握る。
悲鳴を聞かされるまえに、首を刎ねてしまえ。
そう思って、抜き打ちの動作に入りかけたリルピリンは、耳に届いた声――言葉にびくりと凍りついた。
「あの……こんにちは。それともおはよう、かな」
身軽な動作で立ち上がり、裾の広がった短い足通しをぱたぱた叩きながら、娘はにっこりと笑った。
顔を覆う指のあいだから、唖然と小さな人間を見下ろし、リルピリンは瞬きを繰り返した。
娘の瞳には、いっさいの嫌悪も、侮蔑も、それどころか恐怖すらも浮かんでいない。白イウムの子供にとっては、オークは人食いの悪鬼そのものであるはずなのに。
「な……なぜ」
自分の口から漏れ出た言葉は、一万の軍団を率いる暗黒界十候の一人にはまるで似つかわしくない、途方にくれたような響きを帯びていた。
「なぜ逃げない。なぜ悲鳴を上げない。人間のくぜに、なぜ」
すると、今度は娘が驚いたような、困ったような表情を作った。
「なぜ、って……だって」
そして、まるで大地は平らで、空は赤い、と言うかの如き何気なさで続けた。
「あなたも人間でしょう?」
その瞬間、背筋に走った震えの理由が、リルピリンには分からなかった。大刀の柄を強く握り締めたまま、喘ぐように亜人の長は言った。
「に……にんげん? おでが? 何を馬鹿な、見ればわがるだろうが! おではオークだ! おまえらイウムが人豚と罵るオークだッ!!」
「でも、人間だよね」
華奢な両腰に手をあて、娘はまるで親が子に言い含めるような調子で繰り返した。
「だって、こうして話が出来てるじゃない。それ以外に何が必要なの」
「なに……って…………」
最早、どう反駁していいのかすらリルピリンには分からなかった。緑色の髪の少女が自信たっぷりに提示した価値観は、これまで人間族に対する劣等感と怨嗟のみを燃やして生きてきたオークの長にはあまりにも異質すぎた。
話が出来れば人間?
“人間”の定義とはそんなものなのか? 言葉なら、ゴブリンだって、オーガだって、ジャイアントだって操る。しかし、それにオークを含めた四種族は、ダークテリトリーの開闢以来”亜人”と呼ばれ、人間とは頑として区別されてきたのだ。
荒い鼻息だけを漏らして立ち尽くすリルピリンの衝撃と混乱を、少女は「そんなことよりも」とひと言で押しのけ、くるりと周囲を見回した。
「……ここは、どこなの?」
桐ヶ谷直葉/リーファ/スーパーアカウント03”テラリア”は、どうやらログイン座標が大きくズレてしまったらしいと推測し、短くため息をついた。
使用したSTLマシンが、ロールアウトしたばかりの、まだビニールカバーも取れていない新品だと聞いたときから嫌な予感はしていた。直葉は新品の竹刀は決して試合では使わないし、同様に電子機器も信用していない。どういうわけか昔から、電子デバイスの初期不良引き当て率は異常高値を維持しているのだ。
ログインは、並んでマシンに入ったシノンと同様、先にダイブしているアスナの座標で行われたはずなので、周囲にひと気がないのはやはり事故が起きたのだろう。いや、正確にはひとりだけ、目の前にお相撲さんのような巨体を持つ誰かが立っている。
ダイブ直後のみ有効となるカラーマーカーによれば、このオークのアバターを持つ人は、目下の敵であるアメリカ人プレイヤーではない。アンダーワールドに暮らす”人工フラクトライト”、つまりAIユイの説明によるところの真正人工知能だ。
その成り立ちを説明されたときから、リーファは、どうしても、何がなんでもそれが必要という状況にならない限り、彼ら相手に剣は抜くまいと決めていた。当然のことだ――兄キリトが守ろうとした”人間たち”を、殺すなんて出来るわけがない。人工フラクトライトは、この世界で死ぬと、その魂は現実世界でも完全に消滅してしまうのだから。
それにしても――。
眼前のオークアバターの精密度は、数多あるザ・シード規格VRMMO中最高峰のグラフィックを誇るALOに馴れたリーファの目にも驚異的だった。ピンク色の大きな鼻と耳の動き、逞しい巨体をよろうアーマーとマントの質感、そして何より、小さな黒い両眼の表情の豊かさは、その奥に宿る魂が紛れもなく本物だということを如実に示している。
なぜか気後れしたように顔を背けるオークに、とりあえずここがどこなのか尋ねてみたが、答えはすぐには返ってこなかった。ならばもっと手前から始めよう、と思い、リーファは別の質問を発した。
「えーと……あなたのお名前は?」
混乱の極みに突き落とされたオークの長は、娘が二度目に発した質問には、思わず反射的に答えていた。名前だけは、自分に与えられたすべてのもののなかで、唯一気に入っていたからかもしれない。
「お……おでは、リルピリン」
口にしてから、すぐに後悔する。昔、はじめて帝城にのぼったとき、リルピリンの名を聞いたイウム貴族の若者たちが大笑いしたことを思い出したのだ。
しかし娘は、またしてもにっこり笑いかけてきた。
「リルピリン。可愛い、良い名前ね。私はリーファ。はじめまして、よろしく」
そして、何度目かの驚愕すべき挙に出た。
しなやかな白い右手を、まっすぐ差し出してきたのだ。
握手――という習慣は無論知っている。オーク同士でも日常的に行われる。しかし、これまでイウムとオークが握手した話など聞いたことがない!
いったい何なのだ、この人間は。何かの罠か、それとも術師の手妻なのか。いつのまにか幻惑術にでも掛けられてしまったのか。
娘の右手を凝視し、唸るしかできないリルピリンを娘はたっぷり十秒近くも見つめていたが、やがて少しだけがっかりしたように手を下ろした。その様子に、なぜか胸の奥がちくりと痛む。
これ以上娘と会話をしていたら、いや見ているだけでも、頭がどうにかなってしまいそうだった。リルピリンは、もう眼下の小さな人間を叩き斬る気にはなれなかったが、それ以外のもっとも頭を使わずにすむ解決法にすがるべく、口を開いた。
「お前……人界軍の士官だな。お前を捕虜にする。皇帝のところに連れでいぐ!」
年齢はともかく、娘の装備する若草色の鎧や、背負われた長い曲刀は、どう見ても一介の兵士に与えられるものではない。精緻な意匠や素材の輝きは、あるいはリルピリンの装備より上質とも思える。
大将軍たるリルピリンの大声にも、娘はまるで怯える様子も見せなずに何かを考えているようだったが、やがて小さく肩をすくめると訊いてきた。
「皇帝、ってのは暗黒神ベクタのことよね?」
「そ……そうだ」
「わかった。なら、いいわ。連れていって頂戴」
頷き、両手をそろえてずいっと前に突き出す。それが、握手ではなく虜縛を促す動作であることはすぐに分かった。
ほんとうに、一体何を考えているのか。
リルピリンは、ベルトから飾り帯を一本外し、少女の手首を手荒に――しかし少しだけ緩めに縛った。その端を握り、ぐいっと引っ張ってから、ようやく皇帝がもう本陣には居ないことを思い出す。
しかし、これ以上難しいことを考えると、頭の芯が焼き切れてしまいそうだった。皇帝がいなくとも、あの嫌な目つきの副官か、商人の長レンギルあたりが処置を決めてくれるだろう。
ぐるっと身を翻し、やや控えめに帯を引っ張りながら歩きはじめた、ほんの数秒後。
突如、周囲に、黒い靄のようなものが色濃く立ちこめはじめた。嫌なにおいがつんと鼻をつく。たちまち視界が失われ、リルピリンは油断なく周囲を見回した。
「あっ……!?」
短い驚きの声、あるいは悲鳴は、まちがいなくリーファという名の娘のものだった。
さっと振り向いたリルピリンが見たのは、濃密な黒霧のむこうからぬっと突き出た一本の腕が、娘の髪を掴んで引っ張り上げているさまだった。
直後、腕の持ち主が霧を割って姿を現した。
死んだはずのあの女――暗黒術師総長ディー・アイ・エルが、狂気じみた笑みを紅い唇に浮かべ、立っていた。
なぜ、追いつかない。
整合騎士長ベルクーリは、怒りと焦燥のなかにも深い驚きを感じていた。
追跡行はもう二時間以上も続いている。
人界守備軍が野営していた森を、その南に広がっていた円形の窪地を飛び越え、奇怪な巨像が林立する遺跡を通過して、かつてないほど深くダークテリトリーの奥地に分け入りながら、しかし距離は一切縮まる様子がない。愛弟子である整合騎士アリスを拉致した皇帝ベクタの飛竜は、相変わらず遥か地平線に浮かぶ極小の黒点のままだ。
皇帝は、一頭だけの飛竜に、自身とアリスの二人を乗せて飛んでいる。
対するベルクーリは、星咬、雨縁、そして滝刳の三頭に順に飛び移り、竜たちの疲労を可能なかぎり抑えている。理屈では、そろそろ追いついていてもおかしくないはずだ。
一体なぜ追いつけないのか。皇帝は、飛竜の天命をも自在に操るというのか。そんなはずはない。天命及び空間力の循環は、最高司祭アドミニストレータすら操れなかった、世界の最大原則ではないか。
もちろん、まさか無限に飛べるというわけではないだろう。この先、”世界の果ての断崖”までは、飛竜の翼でも二、三日は確実に要する距離があるはずだ。しかし、ベルクーリを乗せる竜たちもいずれは降下、休息しなくてはならない。速度が同じなら、永遠に距離は縮まらない。
やむを――得ないか。
はるか地平線まで届く射程の術式など、ベルクーリにも到底操れない。今この状況を打破できる可能性があるとすれば、それは唯一……。
騎士長は、右手でそっと腰の愛剣に触れた。
ひんやりと硬い、頼もしい手ざわり。しかし、その天命がまだ完全回復にはほど遠いのは、感触で分かる。東の大門で使用した大規模な記憶解放攻撃による消耗が、予想以上に大きかったのだ。
これから使う術は、神器・時穿剣の最終奥義ゆえに、莫大な天命を消費する。
撃てて一度。その一撃を、針の穴を通す以上の精密さで命中させねばならない。
ベルクーリは、騎乗していた滝刳の首筋をそっと撫でると、ひょい、と隣の星咬の背に飛び移った。
長年共に戦った相棒に、手綱を持つこともなく意思を伝え、高度を慎重に調整する。
照準するのは、遥か地平線を往く砂粒のような黒点。
皇帝本人を狙いたいのはやまやまだが、姿も視認できないこの距離では外す危険が大きすぎる。どうにかその動きが滲むように見て取れる、飛竜の片翼に全精神力を集める。
鞍の上に仁王立ちになったベルクーリの右手が、ゆるり、と動いた。鞘から、全体が同一の鋼より削り出された長剣を滑らかに抜き出す。
体の右に構えられた、傷だらけの刀身が、不意に揺れた。朧のごとくかすんだ刃が、飛竜の前進につれて、幾つもの残影を後ろに引く。
唇が、罪のない飛竜への詫びを短く呟く。
直後、薄青い色の瞳をすうっと細め――最古の騎士ベルクーリは、裂帛の気合を込めて叫んだ。
「時穿剣――裏斬(ウラギリ)!!」
ずうっ、と重く、しかし凄まじい速度で刃が振り下ろされた。青い残影がいくつも斬撃の軌道に沿って輝き、順に消えた。
遥か数十万メルかなたで、黒い飛竜の左の翼が、付け根から吹き飛ぶのが確かに見えた。
「匂う……におうわ、なんて甘い……天命の香り……」
人族の娘の髪を掴み、体ごと吊り上げたディー・アイ・エルの唇から、ひび割れた声が漏れ出でた。
どれほど憎んでも憎み足りないはずの暗黒術師の姿を、しかしリルピリンはただ呆然と眺めた。
艶やかに輝いていた肌も、豪奢だった黒い巻き毛も、酷い有様だった。全身に、鋭利な刃物に斬られたような傷が縦横無尽に走り、じゅくじゅくと血を滲ませている。ディーが身動きするたびに、それらの傷が幾つかぱっくりと口を開き、鮮血がほとばしるが、術師の身にまとわりつく黒い煙がたちまち傷口に集まり、しゅうっと嫌な匂いを放って止血していく。
煙の源は、ディーの腰にぶら下がる小さな皮袋だった。見ると、袋の口からは時折、奇怪な虫めいた代物が顔を出し盛んに黒い霧を吐き出しているようだ。おそらく、天命の減少を抑えるためのおぞましい邪術に違いない。
嫌悪感のあまり鼻を拉げさせるリルピリンをちろりと見て、ディーは再び唇の両端を吊り上げた。
「素晴らしい獲物ね。誉めてやるわよ、豚。ご褒美に、いいものを見せてあげるわ」
言うや否や――。
ディーは、髪を引っ張り上げられて顔をゆがめる娘の襟首に、鉤爪のような右手の指を食い込ませた。
ばりぃっ、と容赦のない音とともに、鎧と、その下のチュニックまでもが一瞬で引き裂かれる。
眩いほどに白い上半身の肌が露わになり、娘はいっそう顔を歪めた。その様子に、ディーは嗜虐的な吐息を荒々しく吐き出し、しゅうしゅうと笑った。
「どう、人族の女の体を見るのははじめてかしら? 豚には目の毒かしらね! でも、面白いのはこれからよ…………!!」
毟り取った緑色の鎧と長刀を背後に投げ捨てたディーの右手の五指が、突然、骨をなくしたかのようにうねうねと蠢いた。
いつのまにか、それは指ではなく、ぬらぬらと光る長虫のような姿へと変じていた。先端には、同心円状に細かい鋸歯が並ぶ口がぱくりと開き、おぞましい蠕動を繰り返している。
「ほら……!!」
ディーが叫ぶと同時に、五本の指あるいは触手は、娘の上体に巻き付きずるずると這い回った。動きを封じた上で、先端が鎌首をもたげ――肌の五箇所に、突き刺さるがごとく噛み付いた。
「アァッ!!」
鮮血が飛び散り、リーファという名の娘は、瞳を見開いて悲鳴を上げた。触手を剥ぎ取ろうと手を動かすが、手首をリルピリンの飾り帯に拘束されているためにままならない。
五箇所の傷口からの出血は、一瞬で収まったかのように見えた。しかし実際はそうではなく、ディーの右手に繋がる触手が、ごくごくと音を立てて飲んでいるのだと、リルピリンは察した。
暗黒術師は、喉を反らし、甲高い声で術式を唱えた。
「システムコール!! トランスファ・デュラビリティ……ライト・トゥ・セルフ!!」
ぽっ、と青い輝きが娘の傷口から迸る。それは血液の流れと同調するように触手を伝い、ディーの腕に吸い込まれていく。娘の苦悶はいっそう激しくなり、華奢な身体が折れんばかりに仰け反る。
「はぁっ……凄いわ……凄いわぁ!! なんて濃くて……甘いの!!」
きんきん響く金切り声がリルピリンの耳を劈いた。
その痛みで、オークの長は我に返り、喘ぐように叫んだ。
「な……何をする!! こでは、おでの捕虜だ!! おでが皇帝のもとへ連れでいぐ!!」
「黙れ豚アアッ!!」
瞳孔をぐるりと裏返したディーが、狂気に満ちた声で喚いた。
「私が皇帝に作戦指揮の全権を委任されていることを忘れたかッ!! 私の意志は皇帝の意思!! 私の命令は皇帝の命令なりいいいッ!!」
ぐっ、とリルピリンは喉を詰まらせた。
その作戦なぞ、とうの昔に失敗に終わっているではないか、という反駁が喉元まで突き上げる。しかし、皇帝は何も指示せぬまま戦場から消えてしまったのだ。ならば、あらゆる命令は維持されているというディーの主張を覆す材料は何もない。
立ち尽くすリルピリンの目の前で、声無き悲鳴を上げる娘の動きが、徐々に弱々しくなっていく。それに比例して、ディーの肌に刻まれた無数の傷が、片端から癒着し、ふさがっていく。
「ぐ……グゥ……」
食い縛った牙のあいだから、押し潰された声が漏れた。
リルピリンの目にはいつしか、天命を吸われる娘の姿が、生贄となり息絶えた姫将軍の姿と重なって映っていた。
娘の瞳から、徐々に光が薄れていく。肌の色はすでに白を通り越して蒼ざめ、いつしか両腕はだらりと力なくぶら下がっている。しかし、ディーの右手の触手は、尚も飽き足らぬように蠢き、一滴のこさず血を吸い取ろうとする。
死ぬ……死んでしまう。
せっかくの捕虜が。
いや、自分を見ても恐れも蔑みもしなかった、はじめての人間が。
その時――。
不思議な現象、あるいは奇跡が発生し、リルピリンは目を見張った。
地面が。
炭殻のように黒く不毛なダークテリトリーの大地が、娘を中心に、緑色に輝いている。
オーガ族の住まう東の果てでしか見られないはずの、柔らかそうな若草が一斉に萌え出で、色とりどりの小さな花もそこかしこに咲いた。風の匂いが芳しく変わり、血の色の日差しすら穏やかな黄色へと転じた。
その、生命に満ち溢れる光景が、渦巻きながら瞬時に娘の体へと吸い込まれていく。
青白かった肌にたちまち血の色が戻り、瞳にも輝きが蘇る。
一瞬の幻視が消え去ると同時に、娘の天命が全回復したことをリルピリンは直感で悟った。理由のわからない安堵が、胸の奥に満ちた。
しかし、それは即座に打ち破られた。
「なんてこと……湧いてきた……また溢れてきたわぁぁぁ!!」
すでに、こちらも傷はほぼ全快しているはずのディーが、箍が外れたような声で喚いた。
娘の髪を掴んでいた左手を離し、そちらの指をも醜悪な触手生物へと変容させる。
どすっ、どすどすと鈍く湿った音を立て、あらたに五本の触手が娘の肌に突き刺さった。
「っ……あああっ……!!」
か細い悲鳴を、ディーの哄笑がかき消した。
「アハハハハ!! ア――ハハハハハハ!! 私のよ!! これは私のよおおおお!!」
――耐えなければ。
現実世界でもかつて感じたことのない、目のくらみそうな激痛に晒されながら、リーファはただそれだけを念じた。
スーパーアカウント”テラリア”に付与された能力はダイブ前に説明されている。
“無制限自動回復”。周囲の広範な空間から、自動的にリソースを吸収し、天命つまりヒットポイントに常に変換し続けるのだ。ただでさえ膨大な設定数値にその能力が加われば、天命損耗による死亡はほとんど有り得ないはずだ、と比嘉という技術者は言っていた。
なればこそ、リーファは、捕虜となる危険を冒しても暗黒神ベクタ――現実世界人の”敵”――と遭遇し戦いを挑もうと意図したのだし、またアンダーワールド人に対しては剣を抜くまいと決めもしたのだ。
ただでさえ、自分はこの世界で死のうと何も失わないというのに、それに加えてヒットポイントが無限では、不公平にも程がある。剣士として、そんな真似だけはどうしても出来ない。
いま、自分を苛んでいる女性も、リルピリンと同じくアンダーワールド人、つまり人工フラクトライトだ。
剣で斬れば、その魂は完全に消滅してしまうのだ。どのような事情で傷つき、どのような理由により回復を欲しているのか、知りもせずに戦うわけにはいかない。
ああ――でも。
衣服をほとんど剥ぎ取られた羞恥すら感じる余裕がないほどに、天命を吸い取られる痛みは圧倒的だ。
これは本当に、現実の肉体とは切り離された仮想の感覚なのだろうか。
「……やめろ」
それが自分の口から漏れた言葉だと、リルピリンはすぐには気付かなかった。
しかしすぐに、今度は明らかに口が動き、喉が震動した。
「やめろ!」
針穴のように瞳孔が縮んだディーの眼が、きろり、とリルピリンを舐める。腹の底に湧き上がる寒気に耐え、オークの長は更に言った。
「もう、あんだの天命は完全に回復しだではないか。これ以上そのイウムから吸い取る必要はないはずだ!」
「……なぁに、それ。命令……?」
歪んだ歌のような調子で、ディーが囁いた。
その間にも、両手の指は一層激しく蠢き、娘の肌を締め上げ血を貪り続ける。暗黒術師の肌は完全に再生して油を塗ったような照りを取り戻し、髪すらも本来以上の長さで豊かに垂れている。
それどころか、その全身から、余剰となった天命が青い光の粒となって空中に放散されていくではないか。なのに、ディーは自身より遥かに小柄な娘を背後から抱き絡め、虐げるのをやめようとしない。
「言ったでしょ、豚? この捕虜はもう私のよ。私がどれだけ天命を吸おうと、豚の目の前で辱めようと、あるいはこの場でくびり殺そうと、お前には関係ないでしょ?」
くく、くくく、と喉奥からこもった笑いが響く。
「ンー、でも、そうね。見つけたのはお前なんだし、少しくらいは譲歩すべきかしらねえ? なら……今そこで、裸になってみせなさい」
「な……何をいっでる……」
「私ね、前まえっから、お前がその大仰な鎧とマント着てるのを見ると吐き気がするのよねえ。豚のくせに、まるで人みたいじゃなぁい? そこで素っ裸になって、四つん這いでフガフガ鳴いてみせたら、もしかしたらこの娘を返してあげるかもよ?」
ずきり。
突然、視界の右半分に赤い光がちらついた。同時に、右眼奥から鉄針を差し込まれるような痛みが頭を貫く。
豚のくせに。
人みたい。
ディーの言葉に、リーファという少女の発した言葉がかさなる。
人間でしょう?
それ以外に、何が必要なの?
この娘を、ディーに殺させてはいけない。いや、殺させたくない。そのためなら……そのため、ならば。
リルピリンの震える両手が、マントの留め金にかかった。ぶちっ、と一気に引き千切る。
足元にわだかまったマントを踏みつけ、リルピリンは鎧を締める革帯に手をかけた。
不意に、微かな声が聞こえた。
「……やめて」
はっ、と顔を上げると、自分をまっすぐ見ているリーファと眼が合った。
激痛に涙ぐむその翠玉の瞳が、ゆっくり左右に振られた。
「私は……だいじょうぶ、だから。やめて、そんな、こと」
声は最後まで続かなかった。ディーが突然、娘の頬に軽く歯を立てたのだ。
「それ以上つまらないこと言ったら、可愛い顔を食い破るわよ。せっかく面白い見世物なのに。ほら、どうしたの豚。さっさと脱ぎなさいよ。それとも人間の裸に興奮しちゃったのかしら?」
きゃはははは、とけたたましい笑いが続く。
リルピリンは、鎧の留め具に掛けた手を、ぶるぶると震わせた。
右眼の痛みはもはや圧倒的だった。だが、胸中に渦巻く怒りと屈辱に比べれば、何ほどのこともなかった。
「お……おでは……おでは」
突然、両眼から溢れ、頬を伝って滴るものがあった。左側に垂れる雫は透明だったのに、右側のそれは深紅に染まっていた。
右手が、ゆっくりと留め具から離れ――左腰の大刀の柄へと伸びた。
「おでは、人間だッ!!」
叫ぶと同時に、右の眼がばしゃりと爆裂した。
半減した視界の端に、リルピリンはしっかりとディーの姿を捉え続けていた。嗜虐的な哄笑が途切れ、その口がぽかんと開いた。
ディーの無防備な足元に向け、リルピリンは全身全霊を込めた抜き打ちを放った。
しかし――片目が消滅した直後ゆえに、距離感が狂った。
剣先は、ディーの右足の脛を掠めただけで空しく流れ、リルピリンは無理な斬撃姿勢ゆえに左肩から地面に倒れこんだ。
見上げた先で、凶悪な面相へと変じたディー・アイ・エルが、唇を歪めて吐き捨てた。
「臭い豚がァ……よくもこの私に傷をッ……!」
ぶん、と娘の身体を後方に投げ捨て、両手の触手を高くかざす。それらはギィンと硬い音を放ち、一瞬で黒く輝く十本の刃へと変容した。
「切り刻んで、肉にして、竜のエサに食わしてくれる!!」
左右に大きく広げられた刃が、振り下ろされるのをリルピリンはただ待った。
とっ。
とん。
と微かな音が、立て続けに響いた。ディーの動きがぴたりと止まった。
術師の両腕が、その付け根からぽろりと零れ落ち、湿った音とともに地面に転がるのを、リルピリンは呆然と眺めた。
驚愕の表情を浮かべたのはディーもまた同様だった。左右の肩から滝のように鮮血を振り撒きながら、長身の女はゆっくりと身体の向きを変えた。
白く輝くリーファの姿が、リルピリンの視界に入った。
ほぼすべての衣服を失ったその華奢な体躯では、とても扱えそうにない長大な曲刀をまっすぐ前に振りぬいている。両手首は拘束されたままなのに、この娘が、ディーの両腕を瞬時に切断したのは明らかだ。
ディーが、乾いた声で言った。
「人間が……豚を助けて、人を斬る……?」
信じられぬ、というふうに首を左右に振り続ける暗黒術師をまっすぐ見て、リーファが答えた。
「違います。人を助けるために邪悪を斬るのです」
すうっ、と長刀が大上段に構えられた。
ひゅかっ。
とても届くとは思えない遠間から、娘が真っ向正面の斬撃を放った。
なんと――美しい。
鍛え上げられた、一切の無駄のない体。研ぎ上げられた極限の技。
再度の、しかし今度は感動の涙に滲むリルピリンの視界で、暗黒界最強の術者にして十候最大の実力者、ディー・アイ・エルの肢体が音も無く真っ二つに裂けた。
最後の力を振り絞って片翼のみで軟着陸し、細く一声啼いて息絶えた飛竜を、ガブリエル・ミラーは無感動に見下ろした。
視線を外したときにはもう、彼の記憶と思考から竜の存在は完璧に排除されていた。表情を変えぬまま、ぐるりと周囲を見渡す。
墜落したのは、円柱様の奇岩がいくつも立ち並ぶエリアだった。どの岩山も、高さ三百フィート、直径も百フィートはありそうだ。そのうち一つの上に彼は立っている。
飛び降りるのは、さすがに無謀に過ぎる。エレメントを生成・操作するこの世界の魔術にも、まだ習熟しているとは言いがたい。足元に、意識を失ったまま横たわる整合騎士アリスを抱えて降下するとなれば尚更危険は増す。
カラビナとハーケン、ザイルがあれば、現実世界でもこの程度の垂直壁面はたやすく懸垂降下してのけるガブリエルだが、今は”待ち”でよかろう、と判断を下した。
なぜなら、遥か北の空から、ガブリエルを何らかの手段で撃墜した張本人とおぼしき敵が、三匹の竜を伴って急接近中だからだ。敵を処理し、しかるのちに新しい竜のAIを支配して南下を再開すればよい。
視線をまっすぐ頭上へと動かす。クリムゾンの空に浮かぶ太陽は、すでにかなりの高さに達している。
クリッターが時間加速を再開するまで、もう何時間もあるまい。問題は、戦場に投入したアメリカ人ベータテスターたちが、再加速で弾き出されるまでに首尾よく人界軍を殲滅してのけるかどうかだが――テスターの数はおそらく五万は楽に越えるはずだ。たった一千ほどしか残っていなかった人界軍に抵抗はできまい。
不確定要素があるとすれば、暗黒界軍を次々に蹂躙してのけた整合騎士とやらだが、そのひとりアリスはこうして手の内にあるし、恐らく接近中の追跡者もまた騎士だろう。北方の戦場には、残っていたとしても一人、二人。
問題は何もない、と短く頷き、ガブリエルは最後に、横たわる整合騎士アリスをじっと眺めた。
改めて、つくづく――美しい。
体の奥を這い回る興奮を抑えられないほどに。
眼を醒ましたときのために、武装を布一枚に到るまで全解除して、きつく拘禁しておくかどうかガブリエルは少し迷った。合理的判断としてはそうすべきなのだろうが、しかし敵が迫っている中で、慌しく作業的に扱うのは躊躇われる。
やはり、時間加速が再開してから、たっぷりと時間をかけて味わいたい。鎧のバックル一つ外すにも、優美に、厳粛に、象徴的に。
「……もう暫らくそのまま眠っているといい、アリス……アリシア」
優しく言葉をかけ、ガブリエルは敵を迎え撃つべく、テーブルロックの中央へと歩を進めた。
暗黒神ベクタアカウントを使用するガブリエル・ミラーにも、それを発見したクリッターにも知る由もないことだったが、最強騎士たるアリスが、たかが飛竜に蹴られただけで気絶したまま数時間も覚醒しないのは、すべてベクタに付与された能力ゆえのことだった。
アンダーワールドに設定された四種のスーパーアカウントは、それぞれ、世界の直接的――つまり神の御業的な――操作を目的として存在する。
フィールド改変を行うステイシア。
動的・静的オブジェクトを破壊するソルス。
オブジェクト耐久度を回復するテラリア。
そしてベクタは、住民たる人工フラクトライトそのものを操作の対象とする。
具体的には、住民たちの精神活動、つまりフラクトライト中の光子情報(ベクターデータ)を一時停止し、遥か離れた地点に再配置したり、新たな家族を作らせたりするのだ。
行為としては住民を襲い、攫うかたちとなるため、他の三神とは異なり信仰の対象とはなりにくい。ゆえに最高優先度装備、上限天命数値に加え、術式対象にならないという強力な保護が施されている。アンダーワールドに童話として伝わる”ベクタの迷子”は、過去に行われたその種の操作が元となっているのである。
もちろん、そのための音声コマンド体系が存在するのだが、STLを使用して他フラクトライトに働きかけるかぎりにおいては、コマンドはトリガーにすぎない。限定的な効果ならば、イマジネーションのみにても発生させることは可能となる。
そして、暗黒神ベクタの能力は、ガブリエルの特異な精神とは、ある意味では最上の、同時に最悪の組み合わせでもあった。
人の心を――その熱を、光を、輝きを吸う。
アリスは、一時的にフラクトライトの活力を奪われ、強制的な昏睡状態へと置かれていたのだ。
暗黒将軍シャスターの必殺の心意を喰らい尽くしたのもまた、ベクタとガブリエルの力の融合あってのことだった。
そして今、シャスターの長年の好敵手であった整合騎士長ベルクーリも、同じ道へと進もうとしていた。
ベルクーリは、幸運にも、敵皇帝ベクタがすぐには脱出できそうもない高い岩山の上に着陸したのを視認した。
絶技を使用したことによる強い消耗感を、気力で振り払う。
「よぉし……もうひとっ飛び、頼むぞ星咬、雨縁、滝刳!!」
声と同時に、三頭は限界まで接近し、ひとつの巨大な翼のように加速した。
敵が静止していれば、たとえ十万メル以上の距離でも飛竜にとってはほんの数分だ。
戦いの前に残された時間を、ベルクーリは静かな黙考へとあてた。脳裏に、今朝方見た夢が鮮明に蘇る。
死を予感したことはある?
夢のなかでそう言った最高司祭アドミニストレータは、二百年以上付き合ったベルクーリにも、最後まで謎に包まれた存在だった。
深凍結処理から解放され、アリスに最高司祭の死を知らされたときも、驚愕というほどのものはなかった。長い間お疲れさん、という感慨があった程度だ。むしろ、寿命ある存在だった元老チュデルキンが死んだことのほうに驚いたものだ。
だから、アドミニストレータの最後の戦いと、その散り様について、殊更アリスに尋ねることもしなかった。突然自分の肩にのしかかってきた人界防衛の任に忙殺されたせいも無論あるが、あるいは、知りたくなかったのかもしれないという気もする。あの銀髪銀瞳の少女の、欲望と執着、業の深さを。
ベルクーリにとっては、アドミニストレータは常に物憂げで、飽きっぽく、気まぐれなお姫様だった。
尊敬したことはない。服従こそすれ忠誠を誓った覚えもない。
しかし――。
仕えること自体は、決して、厭ではなかった。
「そうさ……それだけは、信じてくれよな」
呟き、最古の騎士はぱちりと鋭い双眸を開いた。
もう、横たわるアリスの黄金の鎧と、その手前に影のようにひっそりと立つ皇帝ベクタの姿がはっきりと見て取れた。
「よし……お前らは、上空で待機! もし俺がやられたら、すまんがなんとかアリスを奪還して、北へ逃げてくれ!」
竜たちに低くそう指示し――ベルクーリは、遥か高空から、ふわりとその身を躍らせた。
流星のように光の軌跡を残して飛び去ったソルス/シノンの後を追うように、人界軍八百は必死の南進を続けた。
徒歩で追ってくる黒の歩兵軍団一万三千は、多少引き離されつつある。しかし、一頭が二人の衛士を乗せている馬たちもこのまま走り続けることはできない。
アスナは、キリトとティーゼ、ロニエの乗る馬車の天蓋に立ちながら、祈るように南を凝視し続けた。
はたして――。
二十分ほどの行軍のあと、地平線に、寺院めいた巨大な遺跡が蜃気楼のように浮かび上がった。
生命の気配は無い。朽ちた石たちが静かに眠るばかりだ。
まっすぐ伸びる道を挟むように、ふたつの平らな大宮殿が横たわっている。高さは二十メートルほど、幅は左右に三百メートル以上もあるだろうか。敵軍の包囲を防ぐ障壁としては充分な規模だ。
ふたつの宮殿の間を、道はそのまま南へ続いている。参道めいた印象を持つのは、宮殿の壁に接するかたちで道の両側に、奇怪な巨像がびっしり並んでいるからだ。
東洋風の仏像でも、西洋風の神像でもない。しいて言えば、どこか南米の遺跡を彷彿とさせる、ずんぐりと四角いシルエットだ。すべてが真ん丸い目と巨大な口を彫り込まれ、胸の手前で短い手を合わせている。
あれは、アンダーワールドが生成されたとき、ラースのエンジニアがデザイン、配置したものなのだろうか? それとも、ザ・シードパッケージが自動生成したのか?
あるいは――かつてこの地に暮らしたダークテリトリー種族が、岩山から掘り出したものか……?
たとえば、たくさんの死者に捧げる、巨大な墓標として。
不吉な想念を、アスナは鋭い吐息で押しやった。
部隊の先頭を走る飛竜の背の騎士レンリに、大声で伝える。
「あの参道の中ほどで敵を迎え撃ちましょう!」
すぐに、了解です! という声が返った。
数分後、部隊はその勢いを減じることなく、薄暗い遺跡に突入した。左右から、四角い巨大神像たちが、じっと無言で見下ろしてくる。馬のひづめと馬車の車輪が、土から敷石へと変わった道路に硬質の音を響かせる。
ひんやりと冷たい空気を切り裂くように、レンリの爽やかな声が命じた。
「よし、前部衛士隊は左右に分かれて停止! 馬車隊と後方部隊を通せ!」
さっ、と割れた騎馬の間を十台の馬車が進み、同じように停止した後続騎馬隊も抜けて、いちばん奥に達したところで停まった。
密度のある静寂をはらんだ風が、人界軍を撫でるようにひゅうっと吹き抜ける。
しかしそれも一瞬だった。北から追いすがる大部隊の立てるどろどろという地響きが、たちまち追いついてくる。
アスナは、馬車から飛び降りると、幌の内側から顔を見せた少女たちに声を掛けた。
「これが、最後の戦いよ。キリトくんのことお願いするわね」
「はい! 命に代えても!」
「必ずお守りいたします!」
固く握った小さな右拳で騎士礼をするロニエとティーゼに、同じ仕草を返しながら、アスナは短く微笑みかけた。
「大丈夫、絶対にここまで敵は通さないから」
それは、半ば自分に誓った言葉だった。開いた右手を軽く振り、アスナは毅然と身を翻した。
駆けつけた部隊の先頭では、レンリがてきぱきと衛士たちを配置していた。
道の幅はおよそ二十メートル。理想的とは言えないが、この人数でも完全ブロックした上でスイッチローテーションを組むのは不可能ではあるまい。
要は、後方からの術師たちの支援が続くあいだに、犠牲者を極力抑えて敵を削りぬくことが可能かどうか、だ。幸いなのは、黒歩兵軍に、魔術職の姿がまるで見えないことだ。アンダーワールドの複雑なコマンド体系を、短時間でアメリカ人プレイヤーたちに習得させることは不可能と判断してのことだろうが、この状況では正直ありがたい。
いざとなれば――。
わたし一人で、敵全軍斬り伏せる。
アスナは大きく息を吸い、決意とともに体の底に溜めた。
ステイシアの膨大な天命を考えれば、数値的ダメージによって倒されることはないだろう。問題は、あの恐るべき痛みに耐え切れるかどうか、だ。心が痛みに負けたとき、この体は傷つき、命はあれども剣を握れないという無様を晒すことになる。
アスナは目を閉じ、傷ついたキリトのことを思った。彼が受けた痛みと、背負った悲しみの大きさを思った。
部隊の一番前に向けて歩き出したとき、心にはもう一片の恐れも無かった。
おそらくは、この戦争において最後の大規模戦闘となるはずの激突は、昇りきった朝日のもとで行われた。
プロモーションサイトが約束していたリアルな血と悲鳴を求めて、二十人ほどの重武装ベータテスターたちが、真っ先に遺跡参道へと突入していった。
彼らを迎えたのは、しかし、レーティング無視の娯楽を提供するための哀れなNPCなどではなかった。
世界を、そして敬愛する黄金の少女騎士を救わんとする決意を秘めた、真の勇士たちだった。その剣は意志に満ち、断固たる威力で振り下ろされた。
一方的に殲滅されていくアメリカ人プレイヤーたちを、高みから見下ろすひとつの影があった。
極限まで金属装甲を廃した、ライダースーツにも似た革の上下。艶のあるレザーの到るところに、銀色の鋲が突き出ている。
武器は、腰に下がる大型のダガーひとつのみ。顔は見えない。レインコートに似た、やはり黒革のポンチョを羽織り、フードを口元まで下ろしているからだ。
唯一覗く大きめの唇は、極限まで歪んだ笑みをにやにやと湛えていた。
ヴァサゴ・カザルスである。
アンダーワールドに再ログインした彼は、直後浴びせられたシノンの広範囲レーザー照射をなんなく回避し、アメリカ人たちに紛れ込んで人界軍を追ったのだ。しかし初期の突撃には加わらず、西側の大宮殿の壁をするすると登ると、戦線を見下ろす位置にある神像の頭にあぐらを掻き、特等席からの見物を決め込んだのだった。
「おーお、相変わらずキレると容赦ねーなあの女。うほほ、殺す殺す」
愉しくてたまらぬ、というふうに、笑い混じりに呟く。
はるか眼下では、真珠色の鎧に栗色の髪をなびかせた少女――”閃光”アスナが、ヴァサゴの遠い記憶にある姿そのままに、右手のレイピアを閃かせている。
あの時も、ヴァサゴは同じように、ハイディングしつつアスナの戦闘を眺めたものだ。世界(ゲーム)が終わる前にかならず仕留めてやる、と内心で固く誓いながら。
――アスナの隣で、より凄まじい戦いぶりを見せる黒衣の剣士ともども。
SAO4_49_Unicode.txt
騎竜の背を離れたとき、ベルクーリの下にはまだ二百メル近い空間が残っていた。ただ落下するに任せれば、いかに彼とて着地の衝撃には耐えられない。
しかし騎士長は、まるで見えない階段でも存在するかのように、螺旋を描きながら空を駆け下りた。
実際には、一歩ごとに足下に風素を生成・炸裂させ、その反動で落下速度を殺したのだ。下肢を素因制御端末とする技を、彼は十年以上前に元老チュデルキンから盗んでいた。アンダーワールドに存在する闘法に、騎士長ベルクーリの知らぬものは無い。
遥か眼下の、尖塔にも似た岩山の頂上に立つ皇帝ベクタの死角へ、死角へと跳躍しながら、最古騎士は愛剣の柄に手を添えた。
初撃で決める。
容赦なく、静かに、当たり前のように、殺す。
整合騎士長ベルクーリが必殺の心意を練るのは、実に百五十年以上も昔に初代の暗黒将軍を斬って以来のことだった。それほどの長きに渡って、彼の殺意を呼び起こす敵は出現しなかったのだ。
セントラル・カセドラルで単身挑みかかってきた、ユージオという名の若者との戦闘に於いてでさえ、ベルクーリは本気になりこそすれ殺気を漲らせることはなかった。いや、それを言うならば、初代暗黒将軍に対してすら、怒りや憎しみのような負の心意を抱いたわけではない。
つまり、ベルクーリは、その長い生涯で初めて刃に怒りを込めたことになる。
彼は怒っていた。心底激怒していた。アリスを拉致されたことのみに対してではない。
リアルワールドという外世界からやってきたよそ者が、和睦成立の可能性のあった暗黒界人たちをいいように操り、戦場に駆り立て、無為に命を落とさしめた。それは、二百年以上もこの世界を見守り続けてきたベルクーリには、どうしても赦せないことだった。
――てめぇにどんな事情があるかは知らねえ。
だが、リアルワールド人の全員がてめぇのようなど腐れじゃねえことは、あのアスナという娘を見ればわかる。
つまり、てめぇという個体の本質が、どうしようもなく悪だということだ。
ならば、その報いを。
暗黒将軍シャスターの、整合騎士エルドリエの、そして戦場に散った多くの人間たちの、命の重さを。
この一撃で、とくと知れ!!
「ぜ……あぁッ!!」
高度十メルで最後の一歩を踏み切り、騎士長ベルクーリは、あらんかぎりの意思を込めた斬撃を皇帝ベクタの脳天目掛けて振り下ろした。
大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの眩さに、空の色すら彩度を失った。
それは間違いなく、かつてアンダーワールドで発生したすべての剣技中最大最強の威力を内包した一撃だった。メインビジュアライザー内のニーモニック・データ書き換え優先度はシステム制御命令のそれをも上回り、つまりあらゆる数値的ステータスを無効化するほどの絶対事象だったのだ。
皇帝ベクタに設定された無限に等しい天命数値すらも削り切るほどに。
命中しさえすれば。
降り注ぐ絶対的な死を見上げながらも、ベクタの表情はまるで動かなかった。
せいぜい見ることしかできないくらいの、超速の一撃だったのだ。いかなる反応も、対処も不可能なはずの、その刹那。
黒水晶の鎧に包まれたベクタの体が、音もなく滑った。
唯一回避可能な方向へ、回避に足るだけのぎりぎりの距離を。
ベルクーリの剣に触れたのは、宙になびいた赤いマントだけだった。その瞬間、分厚い毛皮は微細な塵へと分解し――。
ズガァァァッ!! という雷鳴じみた轟音とともに、硬い岩盤に一直線の傷痕が刻まれた。巨大な岩山全体が震動し、縁からいくつもの塊が剥がれ落ちていった。
あれを、躱すかよ。
そう瞠目しながらも、ベルクーリの体はほんの一瞬たりとも停まらなかった。戦闘のさなか、予想外の展開に思考が凍るような段階はとうに脱している。
弧を描くように体を入れ替え、皇帝の側面へと回りこむ。再度、横薙ぎに一閃。全身全霊を込めた大技を空振っておきながら、着地、移動、再攻撃まで、半秒とかかっていない。
その追い撃ちすらも、ベクタは避けた。
まるで風に吹かれた黒い煙のように、予備動作もなくゆらりと地面を滑る。切っ先は、鎧の表面を掠めて空しく火花を散らすのみ。
しかし。
今度こそ、ベルクーリは確信した。
――取った。
初撃は、外れはしたが消えたわけではなかった。神器・時穿剣の完全支配技、”未来を斬る”という能力を、彼は発動させていたのだ。
皇帝ベクタは、致死の威力が留まる空間に、まっすぐ背中から吸い込まれていく。
鉄の環で束ねられた、白っぽい金色の髪が中ほどから切断され、ぱっと広がる。
額に嵌まる宝冠が、かすかな金属音とともに砕け散る。
ベクタの腕が、許しを請うかのように高く掲げられた。
黒を纏う長身が、縦に裂けるさまを、ベルクーリは強く予感した。
ぱん。
軽く乾いた破裂音。
その源は――頭の後ろで打ち合わされた、皇帝の両の掌だった。
――素手で、
挟み止めた、だと。しかも背を向けたまま。
有り得ない。いや、斬撃を両手で包み込むように受ける奥技は、暗黒界の拳闘士たちには伝えられているが、あれは彼らの鉄より硬い拳あっての代物だ。そもそも、あの空間に保持されていた威力は、拳闘士の長と言えども素手で止められるようなものではなかったはずだ。
その思考は、ほんの一瞬のものではあったが、しかしベルクーリの動きはついに止まった。
ゆえに、続いて発生した事象を、彼はただ黙視してしまった。
蜃気楼のように空中に留まる必殺の斬撃が、皇帝の両手に吸い込まれていく!
同時に、見開かれたふたつの青い瞳が、底なしの闇に染まりはじめる。
いや、それだけではない。闇の底には、ちかちかと瞬く無数の――あれは――星?
違う。
あれは、魂だ。この男が、これまで同様に吸い取ってきた、人々の魂が囚われているのだ。
「……貴様は、人の心意を喰うのか」
そう呟いたベルクーリに、斬撃を吸収し尽した両手をすっと降ろしながら、ベクタは答えた。
「シンイ? ……なるほど、心(マインド)と意思(ウィル)か」
ひどく寒々しい、生物の気配が抜け落ちた声だった。それを発した赤い唇が、見かけは微笑みに似た形へと変形した。
「お前の心は、まるでグレート・ヴィンテージのワインのようだ。とろりと濃密で……どっしり重く、キックの強い後味。私の趣味ではないが……しかし、メインの露払いに味わうには吝かではない」
青白い右手が動き、腰の長剣の柄を握る。
ぬるぬると鞘から抜き出された細身の刀身は、青紫色の燐光に包まれていた。それを力なく垂らし、皇帝ベクタはもういちど微笑んだ。
「さあ、もっと飲ませてくれ」
ついに、粗雑な造りの大剣が、アスナの二の腕を掠めた。
焼けた金串を押し当てられるような感覚。
――痛いもんか!!
強く念じる。途端に、僅かに薄赤く刻まれた痕が、すうっと消えていく。
その時にはもう、右腕が煙るように閃き、眼前の大男の右肩から左脇腹へと四連の突き技を叩き込んでいる。男の顔が歪み、シッ!! という罵り声とともに地に沈む。
今のが何人目だったか、すでに数えられなくなっていた。
それどころか、遺跡参道での戦端が開かれてもう何分、何十分経っているのかすら定かでない。ひとつだけ確かなのは、参道入り口から殺到してくる黒い歩兵たちは、まだまだ無限に等しいほど存在する、ということだけだ。
ふん、これくらいの持久戦、大したことないわ。アインクラッドじゃ、ボス戦が一、二時間続くのなんてザラだったんだから。
内心でそううそぶき、アスナは大男の死体を踏み越えて飛びかかってきた敵の斧を思い切り払い落とした。
重心を崩した上で、的確なクリティカルダメージを叩き込みながら、ちらりと横に視線を走らせる。
参道中央で奮戦するアスナの右側では、数人の衛士をはさんで整合騎士レンリが、両手のブーメランを交互に投射しながら死体の山を築いている。その威力と、照準の正確さはそら恐ろしいほどで、こちらはもう暫く任せきりでも平気そうだ。
しかし問題は左サイドだった。隊長格の衛士たちを多めに配置しているが、徐々に戦線が押し込まれているのがわかる。
「左、先頭交代の間隔を速めて! 治癒術もそっちを厚くしてください!」
背後から即座に諒の叫びが返るが、その声にも疲弊の色が濃い。
気がかりは、もう一つあった。
いま戦っている歩兵たちは、決して単純なAIで動く人型モンスターではないのだ。MMORPG発祥国たるアメリカの、百戦錬磨のプレイヤーたちなのである。PvP、GvGに慣れ親しんだ彼らが、そろそろ単純な突撃では埒が開かないと考え始めてもおかしくない。
自分なら、どうするだろう。ひたすらレイピアを閃かせながら、アスナは考える。
定石としては、後方からの遠隔攻撃だ。だが、敵に魔術師は居ないし、そもそも術式コマンドのチュートリアルを受けているかどうかすら怪しい。
となれば弓だが、弓兵のアカウントが用意できなかったのか、これも装備した兵を見た記憶はない。あとは手持ちの武器を投げるくらいだが、それは心理的抵抗が大きかろう。投げたものは、その後戦闘に参加できなくなってしまう。
どうやら、打開策ナシと判断してよさそう――か。
ならば、当初の予定どおり一万の敵を削り切るのみ!
アスナが、決意を新たにしたのと、ほとんど同時に。
参道の入り口が、不意に黒く翳った。
差し込む朝日が遮られたのだ。横一列に並ぶ巨大な盾と――旗ざおのように林立する、長大なランスに。
重槍兵!
「た……対突撃用意!! 槍の穂先をしっかり見て回避してください!! 懐にさえ入れれば倒せる敵です!!」
アスナが叫ぶと同時に、ガシャッ! と金属音が轟き、巨大なランスが一斉に構えられた。
二十人近くもぎっしり並んだ重装歩兵たちが、太い雄叫びとともに突進を開始する。
その威圧感に、衛士たちが浮き足立つ気配がした。お願い、落ち着いて! と念じながら、アスナは自分の正面を走る槍兵を凝視した。凶悪に黒光りするランスが、一直線に迫ってくる。
ぎりぎりまで引きつけ――パリィ・アンド・ステップ。
ぎゃいっ、と火花を散らしながら、レイピアが槍の側面を滑っていく。
「……せああっ!!」
気合とともに、見上げるように巨大な敵の、鎧の首元に剣尖を突き上げる。重い手応えとともに、ヘルメットのバイザーから鮮血が噴き出す。
響いた悲鳴は、しかし、アメリカ人のものだけではなかった。
左を護る衛士数名が、ランスを回避しきれず身体を貫かれたのだ。
「こ……のおッ!!」
叫び、アスナは持ち場を離れて左へ走った。全体重を乗せたシングル・スラストで、一人の胸板を鎧ごと突き破る。血に濡れる刃を引き抜き、その向こうの敵の両腕を、二連撃スラッシュで切り落とす。
さらにもう一人が、衛士の体から抜き取ったばかりのランスを、アスナは駆け上った。二メートル近い巨躯の肩に着地すると、左手でヘルメットを無理やりずらし、露出した首筋に逆手のレイピアを叩き込む。
悲鳴も上げられずに地に沈んだ敵の背中に乗ったまま、アスナは叫んだ。
「負傷者を後方へ!! 最優先で治癒して!!」
荒く息をつきながら確認すると、いまの突撃で六人もの衛士がランスの直撃を受けたようだった。すでに絶命したとしか見えない者も混じっている。
いけない……これでは、狭い参道は逆に敵を利してしまう。
瞬時に対応策を見つけられず、立ち尽くしたアスナの耳に、再びの地響きが届いた。
数秒の間も置かずに、次の重槍兵二十人が突進を開始したのだ。
アスナは、二、三秒ほども迫りくるランスの列を見てしまってから、視線を自分が本来立っているべき戦列の中央へと戻した。
そこには、まだ幼い顔をしたうら若い衛士が、がくがくと両膝を震わせながら剣を構えていた。
「あ…………!」
細く叫び、アスナは走った。
飛び込むように少年の前に駆け込み、左側を見る。
ぎらつく鋭い穂先が、すぐそこにあった。
アスナは左手でそれを掴んだ。しかし。
滑らかな表面に手袋が滑り――。
ドカッ。
という鈍い衝撃が、全身を叩いた。声も出せぬまま、アスナはただ、自分の上腹部を深々と刺し貫いた巨大な金属を見下ろした。
最小限。
いや、最大効率の剣、と言うべきか。
騎士長ベルクーリは、これまで見たどんな流派とも異質な皇帝ベクタの剣技を、そのように感じた。
まず、ほとんど足が動かない。踏み込みも、回り込みも、ごく僅かに地面を滑るだけで行われる。さらに、攻撃に際しても予備動作が無いに等しい。空中にだらりと掲げられた剣が、突然ぬるっと最短距離を飛んでくる。
つまり予測が不可能に近いのだ。ゆえにベルクーリは、皇帝の決して素早くも力強くもない攻撃に、五回までもただ退がることを強いられた。
そして、五回で充分だった。
膨大な戦闘経験から、予兆のないベクタの剣技ですらも間を盗み、ベルクーリは反撃に転じた。
「シッ!」
敵に付き合ったわけではないが、最低限の気合とともに、上段斬りをベクタの六撃目に合わせる。
強く歪んだ金属音を、青い火花が彩った。
敵の水平斬りを、全力の斬り降ろしが抑え込み、押し返した。
大した抵抗もなく、ぐぐぐっと刃が沈んでいく。ベクタの長身が、くにゃりと撓む。
口ほどにも無ぇ!!
ベルクーリは、このまま肩から腹まで斬り下げてやる、と練り上げた心意を刀身に注ぎ込んだ。時穿剣が鋼色の光でそれに応える。ベクタの長剣を、断ち割らん勢いで押し下げていく。切っ先が敵の肩に触れ――装甲に僅かに食い込み――。
瞬間、ベクタの剣が怪しく輝いた。
青紫色の燐光がその厚みを増し、ぬるぬると時穿剣に絡みつく。同時に、力強く漲っていた白銀の煌きが、萎れるように消え去っていく。
なんだ、これは。
いや……。
そもそも、オレは、何を……しようと……。
ビシッ、という鋭い音とともに左肩に凍るような痛みを感じ、ベルクーリははっと目を見開きながら大きく飛び退いた。
胸を膨らませて激しいひと呼吸を行い、一瞬失われそうになった意識を立て直す。
――今のは、一体。
戦いの最中に、己が何をしているか分からなくなった……だと!?
強く自問した直後に、いや、そんな生易しいものではなかった、と思い直す。
そう、まるで、自分がなぜこの場所に存在するのか、自分が誰なのかすらも分からなくなったような、圧倒的な空白が意識を侵食したのだ。
「貴様……剣から、直接オレの心意を吸いやがったのか」
低い唸り声でベルクーリは問うた。
答えは、左右非対称に歪んだ微笑だった。
舌打ちして、左肩を一瞥する。かすり傷、と言うにはやや深い。
「フン……楽しませてくれるじゃあないか、皇帝陛下。剣を撃ち合えねェとは、面倒な縛りだぜまったく」
にやりと笑いながら嘯くと、ベクタは一度瞬きしてから、ちいさく首を捻った。
「……ふむ。そういえば、試したことはなかったな」
言葉の意味は、すぐに解った。
皇帝は、右手の長剣を、無造作にベルクーリに向けて突き出したのだ。
その切っ先から青黒い嫌な光が、ぬとっ、と伸びた。
なんだと……まさか、遠間からも。
という思考が閃いたのと、光がベルクーリの胸に触れたのは同時だった。
蝋燭の炎が立ち消えるように、意識がふうっと遠ざかった。
騎士長は、するすると近づいてきた剣が、己の左腋下に忍び込むのを棒立ちのままただ見つめた。
ずちっ。
という湿った音が響き、跳ね上がった長剣が、ベルクーリの太い腕をその付け根から切り離した。
「ぐ……う……うぅッ!!」
アスナは、喉から溢れ出そうになった絶叫を、低い呻き声のみに押し止めた。痛み――などというものではない。高温のバーナーで体を穿たれ続けているような、許容量を超える圧倒的な感覚の爆発。
――痛いもんか。
痛いもんか、こんな傷!!
黒光りするランスは、上腹のやや左側を深々と刺し貫いている。おそらく背中からは一メートル近くも抜け出ているだろう。
肩越しにちらりと確認すると、真後ろにいた少年衛士は、幸い切っ先に頬を掠められただけだったようだ。アスナは、蒼白な顔で自分を見上げる少年に、全精神力を振り絞って微笑みかけた。
この子の命の重さにくらべれば――わたしの、仮想の傷なんて!!
「うぅ……あッ!!」
気合とともに、身体を貫くランスを握ったままの左手に、ありったけの力を込める。
バギン! と耳障りな音がして、直径十センチ近い金属槍が掌のなかで砕け散った。手を背中に回し、突き出た槍を掴んで引っ張る。
目の前に火花が散り、指先からつま先までを灼熱感が駆け抜けた。しかしアスナは手を止めず、無理やりにランスを引き抜くと、それを足元に放り捨てた。
腹の巨大な傷と、口の両方から凄まじい量の鮮血が迸った。しかし身体をふらつかせることもなく、口元を右手でぐいっと拭い、アスナは燃えるような視線で眼前の敵を見上げた。
ランスの持ち主だった巨漢は、ヘルメットの奥の眼を、どこか戸惑ったように激しく瞬かせた。
「オーマイゴッド」
同じ言葉がもう一度繰り返され、早口の英語が続く。
「……なんだよ……ぜんぜん楽しくないぜ、こんなゲーム。俺はもう降りる。とっとと殺してくれ」
アスナは頷き、右手のレイピアで、大男の心臓を正確に貫いた。分厚い鎧を騒々しく鳴らしながら巨体が崩折れ、命の気配が消えた。
傷の痛みでは流れなかった涙が、なぜか今になって両眼に滲んだ。
この戦場を覆う痛みは、苦しみは、そして憎しみは、本来存在する必要のなかったものだ。
アメリカ人プレイヤーたちと、人界軍の衛士たちが殺しあう理由なんて何もない。出会う状況さえ異なれば、きっといい友達にだってなれたはずの人々なのだ。自分がそうであったように。
仮想世界は……VRMMOは、こんなことのために生まれてきたんじゃない。
「うがっ……た……たす……」
日本語の悲鳴が、アスナの一瞬の想念を停止させた。視線を向けると、地面に倒れた衛士にむけて、今まさに巨大なランスが突き下ろされようとしているところだった。
「う……ああああ!!」
激情を雄叫びに変え、アスナは地を蹴った。
右手のレイピアをまっすぐに突き出す。左手を体の脇で握り締める。
全身を、白い光が覆った。足が地面から離れ、まばゆい彗星となってアスナは飛翔した。細剣最上位突進技、”フラッシング・ペネトレイター”。
黒い槍兵が、無数の肉片と化して飛び散った。その向こうにいた敵も、同様の運命を辿った。さらにもう一人。
四人目の体を、巨大神像の根元に縫いとめ、アスナは動きを止めた。肩で息を吐きながら振り向く。
重槍突撃の第二波でも、五人以上の死傷者が出たようだった。しかし、参道入り口ではすでに、第三波の二十人が凶悪な槍衾を構えている。
ぐったりとした骸からレイピアを引き抜き、アスナは叫んだ。
「全員、持ち場を死守!! レンリさん、中央に移動してください!!」
アスナの身体を染める鮮血を見て顔を強張らせる若い騎士に、安心させるように短く微笑みかけてからアスナは続けた。
「――わたしは、単騎で斬り込みます。討ち漏らした敵だけ、よろしく頼みます」
「あ……アスナ様!?」
喘ぐような声を出すレンリや他の衛士たちに、ぐっと右拳を突き出して――。
アスナは、一直線に走り出した。
体の重心が狂い、よろめいたベルクーリは、地面に転がった己の左腕を踏みつけた。
痛みよりも先に、その怖気をふるうような感覚に、意識が呼び戻された。
「ぐっ……!」
再び大きく跳んで距離を取る。
左肩の傷口から振り撒かれた血が、白い岩板に深紅の弧を描いた。
なんて――ことだ。
剣を向けられただけで意識が強制停止されるだと。
剣を咥え、右手を傷口にかざしながら、ベルクーリは全速で思考を回転させた。その間にも、無詠唱で発動した治癒術が、青い光で出血を止めていく。しかし無論、腕を再生させるほどの時間も、空間力もこの岩山には無い。
どうする。どう対抗する。
完全支配技”時穿剣・表”はもう通用しない。宙に留まる斬撃心意を、片端から吸われるだけだ。
ならば”裏”なら。しかしあの技を発動するには、巨大すぎる条件が二つある。ひとつは、長すぎる攻撃動作を敵が黙って見ていてはくれないということ。もうひとつは――照準すべき座標の固定が、異常に困難だということ……。
考え続けようとした騎士長は、額を伝ってきた脂汗を、瞬きで振り飛ばした。
そのあと、不意に気付いた。
オレは今、必死になっている。
いつのまにか一欠片の余裕も無くなってるじゃねえか。
つまり――こここそが死地だ。その際の際だ。
「……へっ」
整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンは、状況を正確に認識してなお、太い笑みを浮かべた。
視線を、ゆるゆると近づいてくる皇帝ベクタから、頂上の片隅に横たわる黄金の騎士――アリス・シンセシス・フィフティへと動かす。
嬢ちゃんよ。
オレは、嬢ちゃんが求めていたものを、満足に与えてやれなかったな。親の情、ってヤツを。
なんせ、オレも自分の親ってもんをまるで覚えちゃいないもんでな。
でも、これだけは分かるぜ。
親は、子を守って死ぬモンだ。
「貴様には……永遠に分からねぇことだろうがな、化け物め!!」
叫び、ベルクーリは地を蹴った。
策も何もなく、ただ愚直に、己の全てを剣に込め――最古の騎士は走った。
「がっ……は……」
荒い呼吸とともに吐き出された大量の血液が、足元に飛び散った。
地面に突き刺したレイピアだけを支えに、それでもアスナは立ち続けた。
重槍突撃の第三波、及び第四波をどうにか斬り伏せたものの、全身の受傷は十箇所を超えている。乳白色だった上着も、薄い虹色に輝いていたスカートも無残に引き千切れ、濃い赤一色に染まってしまった。
ランスの直撃を受け、穴だらけになった体が、今も動くことが信じられない。いや――実際には、理不尽なまでに膨大な天命が、アスナに力尽きることを許さないのだ。
この体が崩れ落ちるのは、心が折れたときだけ。
なら、わたしは、永遠に立ち続けられる。
全身の体感覚はすでに無かった。灼熱感と極冷感が交互に神経を苛み、視界を歪ませる。
アスナは、薄暗い視界に敵第五波を捉えると、地面からレイピアを引き抜いた。
もう、俊敏な回避動作は取れない。
ならば、ランスを体で受け止め、しかるのちに斬るのみ。
羽のように軽かったはずのレイピアが、今はまるで鉛の棒だ。それを両手で構え、上体をかがめて、アスナは敵を待った。
「GO!!」
威勢のいい号令。ドッ、と地面が揺れ、二十の鉄塊が突進を開始する。
どっ、どっ、どどどど……。
たちまち加速する足音に。
高周波の震動音が、どこからともなく混じった。
アスナは視線だけを上向けた。
赤い空から、一本の線が降りてくる。
それは、途切れ途切れのコードの羅列。
「…………ああ……」
零れた吐息には、ほんの少しだけ、諦めの色が混じっていた。
しかし――。
ラインの色は、見慣れた黒ではなかった。夜明け前の空のように、深い蒼に染まっていた。
その事実がどういう意味を持つのか、もうアスナには推測できなかった。両眼を見開き、ただ結果のみを待った。
ラインは、高さ十メートルほどの空中でそのコードを凝集させ、一瞬の閃光に続いて、人の姿へと変じた。
ぶんっ。
突然、人影が霞んだ。回転をはじめたのだ。ヘリコプターのローターのように、あるいは巨大な竜巻のように、猛烈な唸りを上げて再度降下を開始する。
その真下に立つ二十人の重槍歩兵たちも、いつしか脚を止めて空を見上げていた。
彼らのまんなかに、群青の竜巻がふわりと舞い降り――。
突如の深紅を生み出した。
血だ。竜巻に巻き込まれた歩兵たちが、瞬時にバラバラに分断され、広範囲に鮮血を撒き散らしたのだ。
放射状にばたばたと倒れた槍兵の中央で、竜巻はゆっくりとその回転を減じ、ふたたび人の姿に戻った。
背を向けて立つ、細身の長身。艶のある群青色の板金鎧が、逆光を受けて煌く。左手を腰の鞘の鯉口に添え、右手は、抜刀された恐ろしく長い曲刀をまっすぐ横に振り抜いている。
アスナは、今の攻撃――技を、見たことがあった。
ソードスキル。
カタナ広範囲重攻撃――”旋風車(ツムジグルマ)”。
ゆっくりと身体を起こした人影は、カタナを右肩に担ぎ、ひょいっと顔を振り向かせた。
趣味の悪い漢字柄のバンダナの下で、無精ひげの浮いた頬が、にやりと動いた。
「おう、待たせたな」
「ク……ライン……?」
アスナは、自分のかすれ声を最後まで聞くことができなかった。
突然、凄まじい震動音の重奏が、世界に満ちたからだ。アメリカ人たちが出現したときとまったく同じサウンドなのに、アスナにはそれが、最上の交響楽のように聞こえた。
空から降ってくるのは――無数の色彩に輝く、幾千ものコードラインだった。
斬りかかる。
意識が薄れる。
受傷の痛みで覚醒する。
それを何度繰り返したのか、もう分からなかった。
皇帝ベクタは、まるで戦いを長引かせようとするかのように致命傷を与えてはこなかったが、数多の傷口から流れ出た血液、つまり天命の総量が、そろそろ最大値を上回りつつあることをベルクーリは知覚していた。
だが彼は、二百数十年の生で築き上げた不動の精神力を振り絞り、何も考えず、何も恐れず、脳裏でただ一つのことだけを遂行し続けていた。
数をかぞえること。
正確には、時間を測ることを。
時刻を察するという特技を持つベルクーリだが、その超感覚を、ただ一秒を厳密に感じるためにのみ使い、ひたすらに時を刻み続けたのだ。皇帝の剣に思考を混濁させられているその最中にすら、ベルクーリは無意識下で数字を積み重ねていた。
――四百八十七。
――四百八十八。
最も困難なのは、その行為を、明確な心意にしてはいけないということだ。
心を吸われ、時を測っていることを敵に知られてしまっては、この怪物ならばあるいは目的までも悟るかもしれない。
ゆえにベルクーリは、剣には全力の殺気のみを込め、愚直な攻撃のみを繰り返した。時には、挑発的な台詞までも吐きながら。
「……どう、やら……剣技のほうは、大したこと無ぇようだな……皇帝陛下、よ」
――四百九十五。
「こんだけ当てて、倒せねぇようじゃ……二流、いや、三流だな」
――四百九十八。
「そらッ、まだまだ行くぜ!!」
気合とともに、真っ向正面から斬りかかる。
――五百。
皇帝の周囲に広がる、青紫色の光の撒くに剣が触れる。
ふっ、と思考が途切れる。
気付くと、地面に片膝を突いており、新たに左頬に増えた傷から音を立てて血が滴る。
――五百八。
もうすぐだ。もう少しだけ保ってくれ。
ゆらり、と立ち上がり、ベルクーリは背後の皇帝を見た。
これまで一切の感情を見せなかったその顔に、かすかな嫌悪の色が浮かんでいた。原因は、斬りこみとともにベルクーリが飛び散らせた血の一滴が、白い頬に飛び散ったかららしい。
指先で赤い染みを擦り落とし、ベクタは囁いた。
「……飽きたな」
ぱしゃっ、と赤い水溜りを踏んで一歩前に出てくる。
「お前の魂は重い。濃すぎる。舌にこびりつく。その上単調だ。殺すことしか考えていない」
平板な声で切れぎれの言葉を連ねながら、皇帝はさらに一歩近づいてきた。
「もう消滅していい」
すう、と持ち上げられた剣が、粘液質の光を放った。
ベルクーリは表情を変えぬまま、しかし僅かに奥歯を食いしばった。
もう少しなんだ――あと三十秒。
「へ……そう、言うなよ。オレは、まだまだ……楽しめる、ぜ」
よろよろと、誰もいない空間に向かって数歩踏み出す。右手の剣を持ち上げ、力なく動かす。
「どこだ……よ、どこ行きゃあがった。お、そこか……?」
両眼にうつろな光を浮かべ、騎士長は力ない動作で剣を振った。
こつん、と剣先が地面を叩き、さらに大きくよろめく。
「あれ……こっち、だったか……?」
再び、風切り音すらしない一撃。ずるずると片足を引き摺り、ベルクーリは尚も動き続ける。
大量出血により視力を喪失し、思考すらも混濁した――としか思えぬ、情けない姿。
しかしそれは、騎士長一世一代の演技であった。
おぼろに霞がかった灰青色の瞳は、あるものだけをしっかりと捉えていた。
足跡である。
十分間の無為な攻撃により、決して広いとは言えない岩山の頂上には、ベルクーリの血がほぼ満遍なく振り撒かれている。それが皇帝のブーツの底と、騎士長の革サンダルの底に踏まれることで、明らかに異なる二種類の赤い靴跡が縦横無尽に走っているのだ。
言い換えれば、それは――両者の詳細な移動記録だ。
譫妄状態の演技とともにベルクーリが目指しているのは、もっとも乾いて黒ずんだ、皇帝の足跡だった。
最初にベルクーリの左腕を切断したときに作られたものである。
無意識下の時間計測は、その直後から開始されている。
つまり――皇帝ベクタは、十分前そこに存在した。そして、そこからどの方向に移動したか、血の足跡は如実に記録していた。
――五百八十九。
――五百、九十。
「おっと……みつけた……ぜ……」
ベルクーリは弱々しく呟き、左右にふらつきながら時穿剣を振りかぶった。
掛け値なしに最後の一撃となるはずだった。
剣に、そして主に残された天命は、双方ともに今まさに尽きんとしていた。
その全てを費やし、ベルクーリは、神器・時穿剣の武装完全支配技を発動させようとした。
“時穿剣・裏”。
斬撃威力を空間に保持し、”未来を斬る”表技とは逆に、裏は”過去を斬る”力である。
アンダーワールドのメインフレームは、あらゆるヒューマンユニットの移動ログを、六百秒つまり十分間ぶん記録している。
時穿剣はそのログに干渉し、正確に十分前のたった一秒の位置情報を、現在のそれとシステムに誤認させる。
結果、ただ虚空を斬った刃は、かつてその位置に存在した者の、現在の身体に届く。回避不可能、防御不可能の、文字通りあらゆる技や努力を裏切りあざ笑う一撃。
ゆえにベルクーリは、裏攻撃の発動を忌避し続けてきた。ユージオ青年と戦い、敗れたときすら、使えば難なく勝てたはずなのに使わなかったのだ。元老チュデルキンに、神聖教会への背信行為と取られかねないと分かっていながら。
しかし、同等以上に規格外の力を操る皇帝ベクタ相手に用いるに、一切の遠慮は無い。
皇帝ベクタの飛竜を落としたとき、ベルクーリは、一直線に同じ速度で飛ぶ敵の動きを利用し、十分前に敵が存在した座標を正確に割り出した。だが、互いに接近しての混戦では、座標特定は飛躍的に困難となる。
もちろん、十分前の一瞬に敵がどこに存在したかを覚えておくことはできる。しかしその方法だと、仮に技の発動を邪魔された場合、また十分の数えなおしとなってしまうのだ。
たとえば、この瞬間のように。
「お前、何か考えているな」
滑るように接近してきた皇帝ベクタの、全身にまとわりつく青黒い”気圏”をベルクーリは打って変わって俊敏な動作で回避した。
――仕損じた。
記憶解放直前だった時穿剣を構えなおしながら、ベルクーリは胸中で呟いた。
これで、掛け値なしに万策尽きた。
秘策の存在を悟られた以上、皇帝はもう二度と大技を発動させるだけの猶予を与えてはくれまい。事実、ベルクーリに向かって、長剣から次々と青紫の光を伸ばしてくる。
騎士長は、しかし、その攻撃を全力で回避し続けた。
足掻く。
足掻いて足掻いて、醜く倒れる。己の死に様はそのように迎えると、ずいぶん昔に決めたのだ。
三回。四回。
五回までも、ベルクーリは皇帝の攻撃を避けた。
しかしそこでついに、光の触腕が身体を掠めた。
ふっ、と意識が途切れ――。
目を見開いたベルクーリが見たのは、己の腹に深々と突き立ったベクタの長剣だった。
ずるっ、と刃が引き抜かれ、最後の天命が深紅の液体へと姿を変えて勢いよく噴き出した。
ゆっくりと後ろ向きに倒れる騎士長の眸に。
遥か高みから、大気を切り裂いて急降下してくる一頭の飛竜が映った。
――星咬。
おいおい、どういうこった。待機しとけって言ったろう。飛竜が、主の命令に背くなんて聞いたことねえぞ。
大きく開かれたあぎとから、青白い熱線が一直線に迸った。
一撃で数十の兵を焼き尽くす威力を秘めたそれを、皇帝ベクタは、無造作に掲げた左腕で受けた。
装備された透き通る黒の装甲が、熱線を四方へと難なく弾く。飛び散った火花が、眩く宙を焦がす。
皇帝の剣からあの光が放たれ、白い熱線を遡るように星咬の体へと達した。以前乗っていた竜を、難なく支配したその技を受けて――しかし、ベルクーリの騎竜は停まらなかった。
その命を熱と光に転換しながら、皇帝へと真っ逆さまに突っ込んでいく。
ベクタの白い顔に、わずかに厭わしそうな色が浮かんだ。
剣を大きく引き絞り、己を咬み千切らんとする巨大な竜の口へと、無造作に突き立てた。
限界優先度の武器に押し戻された熱線が、行き場を失い逆流して、飛竜の体を引き裂いた。
星咬が命を投げ出して作り出した、たった七秒の猶予――。
それを、ベルクーリは無駄にしなかった。
背後で、数十年の時を共に過ごしてきた愛竜が絶命する気配をまざまざと感じながら、騎士長は、記憶を解放され青い残影を引く時穿剣を、六百七秒前に皇帝ベクタが存在したことを示す血の足跡目掛けて全力で斬り降ろした。
時穿剣・裏のもうひとつの特性。
それは、システムに干渉するがゆえに、威力が対象の天命数値へと完全に届き得るということである。心意による防御もまた不可能なのだ。
ゆえに、あらゆる心意攻撃を無効化・吸収する皇帝ベクタの能力も、この瞬間だけは発動しなかった。
まず、システム上設定されたベクタの膨大な天命がゼロへと変じた。
そしてその結果として、皇帝の長身が、その左肩口から右腰にかけて完全に分断された。
ずるり、と切断面から体がずれる瞬間にも、皇帝ベクタの顔には一切の表情というものが無かった。蒼い瞳が、硝子玉のように虚ろに宙に向けられていた。
落下した上半身が、地面に接するその寸前。
漆黒の光が、心臓のあたりから炸裂し、無音無熱の大爆発を引き起こした。
それが収まったとき、地面には、皇帝の存在を示すものは何一つ残されていなかった。
数秒遅れて、ベルクーリの右手の中で、天命の尽きた時穿剣がかすかな金属音とともに砕け散った。
……あったかいな。
もう少し、このままでいたい。
アリスは、まどろみから目覚める寸前の心地よさに意識を漂わせながら、かすかに微笑んだ。
揺れる日差し。
身体を受け止める、大きな膝。
髪を撫でる無骨な手。
お父さん。
こんなふうに、膝まくらをして貰うのは何年ぶりだろう。この安心感を、完全に守られて、心配事なんか一つもない、何もかも大丈夫な感じを長いあいだ忘れていた。
ああ……でも、そろそろ起きなきゃ。
そして、整合騎士アリスは、そっと睫毛を持ち上げた。
見えたのは、瞼を閉じ、微笑みながら俯いている初老の剣士の姿だった。
逞しい顔や首筋に走る幾つもの古傷。その上に、これも無数の真新しい刀傷が刻まれている。
「……小父様?」
アリスは、ようやくはっきりしてきた意識とともに、短く呟いた。
そうだ――私、皇帝の飛竜に捕まったんだ。まったく、何て迂闊だったんだろう。背後も警戒しないで闇雲に突撃するなんて。
でも、やっぱりさすがは小父様だわ。敵の総大将から助け出してくれるなんて。この人さえ居れば、何もかも安心ね。
微笑み、上体を起こしたアリスは――騎士長の受けている傷が、顔に留まらないことに気付き、息を詰めた。
左腕は丸ごと斬り落とされている。白かった装束は、血で真っ赤だ。そして、はだけた胸の下に……恐ろしいほど深く、惨い傷が……。
「お……小父様……!! ベルクーリ閣下!!」
叫び、アリスは手を伸ばした。
その指先が、騎士長ベルクーリの頬に触れた。
そしてアリスは、偉大なる最古騎士の天命が、すでに尽きていることを悟った。
……おいおい、そんなに泣くなよ嬢ちゃん。
いつか、必ず来るときが来ただけじゃねえか、なあ。
己の骸にすがりつき、泣きじゃくる金髪の少女を見下ろしながら、整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンはそう言おうとしたが、しかし声は地上までは届かなかった。
……嬢ちゃんなら大丈夫。もう、一人でもやってゆけるさ。
なんたって、オレのたった一人の弟子で……オレの娘なんだからよ。
眼下の光景は、どんどん遠ざかっていく。愛しい黄金の騎士に最後の微笑みを投げかけ、ベルクーリは視線をかなたの空に向けた。
その下に居るはずの、もう一人の騎士へも思念を飛ばす。
届いたかどうかは分からなかったが、心の中にはただ、無限に続くと思われた日々の果てにも、ついに死すべきときが来たのだという感慨と満足だけがあった。
まあ、悪いくたばり方じゃねえよな。
「そうよ、泣いてくれる人がいっぱい居るんだから、幸せだと思いなさい」
不意に響いた言葉に振り向くと、そこに浮かんでいるのは、眩い裸体に長い銀の髪だけを流したひとりの少女だった。
「……なんだ、アンタやっぱり生きてたのかよ」
肩をすくめると、銀瞳を瞬かせ、最高司祭アドミニストレータは軽く笑った。
「そんな訳ないじゃない。これは、あなたの記憶のなかの私。あなたが魂に保持していた、アドミニストレータの思い出」
「ふうん、何だかよくわかんねえな。でも……オレの記憶のなかのアンタが、そうやって笑ってられてよかったよ」
ベルクーリもにやりと笑い、おっ、と横を見た。
そこには、いつのまにか愛竜・星咬がその長い首を摺り寄せていた。
銀色に透き通る飛竜の首筋を掻いてやってから、騎士長はひょいっとその背中に飛び乗った。手を伸ばし、アドミニストレータの華奢な体も自分の前に座らせる。
ただ一人の主は、振り向くと首を傾げて問うた。
「お前は、私を恨んでいないの? お前を無限に続く時間の牢獄に閉じ込めた私を?」
ベルクーリは少し考え、答えた。
「うんざりするほど長かったのは確かだが、でもまあ、面白え一生だったさ。うん、そう思うよ」
「……そう」
微笑むアドミニストレータから眼を離し、ベルクーリは星咬の手綱を鳴らした。
竜は透き通る両翼を広げ、無限の空を目指して、ゆっくりと羽ばたいた。
遥か離れた北の空の下――。
大地に高く屹立する、かつて東の大門として知られた巨大な遺構の中央に立っていた整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは、はっと眼を見開いて空を見上げた。
耳元に、愛する男の声が響いた気がしたのだ。
――済まねえな。どうやらもう、会えそうにない。
――後は頼んだぜ。その子を、幸せにしてやってくれ……。
同じ言葉を、ファナティオは、この場所で別れる直前に騎士長ベルクーリから掛けられた。
篭手に包まれた両手で、そっと下腹部を撫でる。
新しい命を授かったのは、三ヶ月前だった。これまで、百年というもの頑なにファナティオに触れようとしなかったベルクーリは、あるいはその時点から予感していたのかもしれない。
己の死を。
ゆっくりと地面に跪き、ファナティオは持ち上げた両手で顔を覆った。
自然と、嗚咽が漏れた。
ベルクーリが、ファナティオだろうと誰だろうと女性を遠ざける理由は、遥か昔に聞かされていた。
整合騎士が異性と契りを結び、子を授かったとして――。
その子供は、天命凍結処理を受けているベルクーリやファナティオよりも、確実に先に老いて死んでしまうのだ。と言って、最高司祭に同様の処理を施してもらうのもまた残酷なことである。
ベルクーリがファナティオの気持ちを受け入れたのは、最高司祭が入寂したあとのことだ。
つまり彼は、見守ると決めたのだ。限りある時を生きる、我が子の姿を。
ならば――。
「……御安心ください、閣下。この子は、私が立派に育てます。閣下のように、雄々しく、誇り高い人間に」
嗚咽とともに、ファナティオはしっかりと決意を言葉にした。
でも、今だけは。
今だけ、嘆く私を許してくださいね。
地面に身を投げ出し、かつて騎士長ベルクーリが駆け抜けていった土を握り締め、ファナティオは声を上げて泣いた。
「てめえらに個人的な恨みは無ぇが……」
長刀をまっすぐ黒の歩兵群に向けたクラインの、ブロークンな英語が古代遺跡に響き渡った。
「ダチをさんざ痛めつけてくれた借りは返すぜ。三倍返し……いや、億倍返しだこの野郎ども!!」
言い放つや、敵軍の壁にまっすぐ突っ込んでいく。その無謀さに、傷の痛みも一瞬忘れてアスナは呆れたが、直後クラインのすぐ隣に黒褐色のコードラインが降り注ぎ、新たな人影を作り出した。
現れたのは、大型工具のごとく無骨かつ凶悪なバトルアックスをひっさげた、チョコレート色の肌の巨漢だった。
「……エギルさん!!」
掠れた声でその名を呼ぶ。
かつて、SAO攻略組を戦力面でも経済面でも強力にサポートし続けた”戦う商人”は、ちらりとアスナを振り返ると、魁偉な容貌ににやりと笑みを浮かべ、右拳の親指を立てた。
すぐに、地響きを立ててクラインの後から突撃していく。
三人目と四人目は、アスナのすぐ目の前に現れた。
青いワンピースの上にフリルつきの白いエプロンを重ね、腰に大型のハンマーを下げたショートカットの少女。続いて、軽快なスパッツ姿に銀灰色のチェーンメイルを装備し、二本のおさげを頭の両側に跳ねさせた小柄な女の子。
「リズ!! シリカちゃん!!」
ここでついに、アスナの両眼に涙が溢れた。
同時に全身から力が抜け、がくりと膝を突きながら、アスナは強い絆で結ばれた仲間たちに両手を差し伸べた。
「来て……来てくれたのね……」
「来るわよ、もちろん」
「当たり前じゃないですか」
同時ににっこりと笑ってから、リズベットはアスナの右手を、シリカは左手をぎゅっと握った。二人の顔が、泣き笑いに変化する。
「……こんなに無茶して……傷だらけになって……。がんばりすぎだよ、アスナ」
「あとは任せてください。みんな、来てくれましたから」
リズベットとシリカに両側から抱きしめられただけで、アスナは全身に穿たれた傷の痛みが、仄かな暖かさに溶け、消えていくのを感じた。
「ありがと……ありがとう……」
あとからあとから零れ落ちる涙を通して、コードラインの雨が、遺跡の入り口付近に降り注ぐのが見えた。
現れたのは、鮮やかな色彩を身にまとう無数の剣士たち。
一斉に剣を、斧を、槍や弓を握り、周囲の黒い歩兵たちに斬りかかっていく。
その熟練の個人技と、見事に統制の取れた集団連携は、彼らがみなアメリカ人テスター達を上回る経験を持つVRMMOプレイヤーであることを示していた。
――そうか。
アスナは、ようやく再回転し始めた頭で状況を察した。
アメリカ人たちが現れた時点で、アンダーワールドの時間加速は当然一倍に固定されていたのだ。それはつまり、日本からでも、アミュスフィアによるダイブが可能だということだ。
でも、皆の身にまとう鎧や携えた剣の強い輝きからは、使用されているのがデフォルトの衛士アカウントでないことが如実に見て取れる。
つまり――コンバートしたのだ。
長い、長い時間と努力をつぎ込み、育てたVRMMOキャラクターを、アンダーワールドサーバーへと同等置換させたに違いない。
もう一度、元のVRMMOに持ち出せるかどうかも定かでないのに。それどころか――アンダーワールドの法則を考えれば、”死亡”した瞬間にキャラクターがデリートされてしまうことだって有り得るのに!
「みんな……ごめん……ごめんね」
アスナは涙声で目の前の親友二人に、そして前線を押し上げていく沢山の剣士たちに謝った。
「何言ってるのよ、アスナ」
リズベットの答えは、揺るぎない確信に満ちていた。
「あたしたちがキャラを育ててきたのは、きっとこのためなんだよ。今この場所で、大切なものを守るために、あたしたちのアバターは存在したんだ」
アスナはゆっくり、深く、強く頷いた。
最後にぎゅっと二人の手を握り、立ち上がったときには、全身の傷はすべて消え去っていた。
と、背後から、おずおずと声が掛けられた。
「あの……アスナ様? いったい……あの騎士たちは……」
目を丸くして立っていたのは、整合騎士レンリだった。その後ろに、危地を救われた衛士たちも従っている。
アスナは、レンリとリズベットたちの間に視線を往復させてから、微笑みとともに答えた。
「わたしの、大事な仲間たち。リアルワールドから、助けに来てくれたの」
レンリは数回瞬きし、リズベットとシリカに遠慮がちな視線を向け――。
その幼さの残る顔に、大きく安堵の表情が浮かんだ。
「……よかった……ほんとによかった。僕はてっきり、外の世界の人間たちは、アスナ様以外はみんなあの恐ろしい兵隊たちなのかと……」
「ちょっとちょっと、そんな訳ないじゃん!!」
少し心外そうな、しかし親しみを込めた笑顔とともに、リズベットがレンリの肩を叩いた。
「あたしリズベット。よろしくね、騎士くん」
「あ……は、はい。僕は、レンリといいます」
その光景を微笑みながら眺めていたアスナは、不意に、強い予感をおぼえた。
自分はたぶん、この光景を、一生忘れないだろう。
分かたれた二つの世界に生まれた人たちが、出会い、言葉を交わし、関係を築きはじめた、この瞬間を。
ここから続いていくはずの物語に、悲しみで幕を下ろしてしまうわけにはいかない。
大きく息を吸い、アスナは口調を変えてリズベットに尋ねた。
「リズ、コンバートしてくれた人たちの数は?」
「あ、うん。二千を少し超えるくらい、かな。がんばったんだけど……話を聞いてくれた人全員ってわけにはいかなかった……」
唇を噛む親友の背中を、軽く叩く。
「じゅうぶん過ぎるわ。でも……再コンバートの可能性を残すためにも、消耗戦は避けたいわね。あまり前線を広げないで、ヒールを厚くしよう。リズとシリカちゃんは、二百人くらい後方に下げて、支援隊を組織して」
意識を戦闘に切り替え、アスナはレンリと衛士たちにも口早に指示した。
「皆さんも、不本意でしょうが治癒術要員に回ってください。リアルワールドの剣士たちは神聖術に不慣れなので、彼らにコマンドを教えてやってくださると助かります」
「は……はい! 衛士隊、聞いてのとおりだ! 援軍のかたがたを支援するぞ!」
すぐに、この一両日の連戦に疲弊の色濃い衛士たちも、強く応の叫びを返した。
「……それで、アスナさんはどうするんですか?」
訊いてくるシリカに、アスナは片目をつぶってみせた。
「勿論、いちばん前で斬り込むわよ」
もう、負ける気はさらさらしない。
最前線に駆けつけ、そこにアルヴヘイムで見慣れた面々――シルフ領主サクヤや、ケットシー領主アリシャ、サラマンダー将軍ユージーンらの姿を見出したアスナは、意を強くしながら彼らと深く頷きを交わした。
いや、ALOからのコンバート組だけではない。
正確極まるクロスボウの連射で、剣士たちを強力に援護しているのはガンゲイル・オンラインのガンナーたちだろう。
それに、密に固まって嵐のように敵をなぎ払っていくのは、かつてあまたのVRMMOを席巻した最強集団、スリーピング・ナイツの面々だ。
アスナを見つけ、にこっと笑顔を送ってくるシーエンの顔に、もう一度涙がにじみそうになるのを堪える。
彼らは皆、分身たるアバターを喪失する覚悟で助けにきてくれたのだ。ならば、ただ一人スーパーアカウントに保護されている自分が最大の危険を冒し、彼らの犠牲を最小にとどめなくてはならない。
アスナは戦場を走り抜け、広がりすぎた前線を縮小して、遺跡参道の入り口を中心とした半円形へと築きなおした。
いかにコンバートプレイヤーたちのステータスが強力と言えども、総数二千に対してアメリカ人プレイヤーたちはまだ一万を超える数が残っている。消耗戦になれば、死者つまり喪失するアバターの増加は避けられない。
幸いというべきか、アンダーワールド人界軍の少なさと必死の防戦ぶりに戸惑いを見せつつあったアメリカ人たちも、この状況に至って、これを通常のベータテストと認識しなおしたようだった。威勢のいい叫びとともに、日本プレイヤーの防御線に馬鹿正直な突撃を繰り返し、次々と倒れていく。
残る最大の懸念は――。
アンダーワールドに厳として存在する、リアルな”痛み”だった。
斬られ、痛みを感じたときにはもう死亡・ログアウトするアメリカ人たちと違い、負傷・後退・回復を繰り返す日本人たちは、常に強い苦痛に晒され続ける。
それが、徐々に心を折っていくのは、アスナが先刻我が身で実感したとおりだ。
お願いみんな……がんばって。あと一万、いえ九千の敵を削り切るまで。
そうすれば、オーシャンタートルを襲撃した者たちが、アンダーワールドで行使できる戦力は尽きる。あとは、騎士長ベルクーリとシノンが足止めしていてくれるはずの皇帝ベクタに追いつき、アリスを奪還するのみ。
最前線でレイピアを振るいながら、アスナは精一杯の声で叫び続けた。
「大丈夫……勝てるよ! みんななら、絶対に勝てる!!」
広野タカシは、何度目かの、一体僕はここで何をしているんだろう、という疑問を感じていた。
午前五時に友人からのメールで叩き起こされ、ログインしたALOでの理不尽極まるコンバート要請に応じたのは、決して演説していた女の子に共感したからでも、涙にほだされたからでもない。
正直、なんとなく、というのが一番近い。
どんなVRMMOだろうという好奇心が少し。高校に入って初っ端の実力テストが最悪だったせいで、どうせもうすぐ親にアミュスフィア取り上げられるし、という投げ遣りな気持ちがもう少し。そして――何かがあるのかも、見つかるかも、というほんの僅かな予感。
二年間の廃プレイで育て上げたキャラクターをコンバートし、聞いたこともないサーバーにログインしたタカシを待っていたのは、目の前に立ちはだかる黒い鎧の大男と、本場の発音による”サノバビッチ”と、振り下ろされるハルバードだった。
悲鳴を喉に詰まらせながら飛び退いたが、斧槍の先っぽが左脚の装甲にがつっと食い込んだ。
あんな痛みを感じたのは、小学生の頃に自転車で転び、スネの骨を折ったとき以来だった。
聞いてねえよ――!! と内心で絶叫しながら、タカシはハルバードの追い討ちを懸命に掻い潜り、抜いた廃装備の片手剣で何とか大男とのタイマンに勝利し、脚の傷から流れ出るリアルな血に吐きそうになっていたところを、引っ張られるように戦域後方の回復部隊へと連れてこられたのだった。
僕はここで何をしているんだ。
という疑問に曝されつつ、もう嫌だ、ログアウトする! と口走るタカシの治療に当たったのは、薄青い僧侶服を着た、つまり僧侶なのであろう同年輩の女の子だった。
なんだか――不思議な感じがした。
「まあ、酷い傷! すぐに治して差し上げますから、騎士様」
細い声でそう言い、タカシの脚に両手をかざして呪文――というかコマンドを唱える女の子を見て、一瞬NPCかと思った。
しかし、灰色がかった茶色の瞳に浮かぶ懸命な色、異国風なのに何人だか定かでない顔立ち、そして、傷を癒していく白い光の暖かさ。それら全てがタカシに、この子は本物の人間なのだ、と告げていた。
そんなことがあるのだろうか。日本語を話すのに、日本人プレイヤーではなく、NPCでもない。ならば、この女の子は一体誰なのか。そして、ここは何処なのか。
奇妙なことではあるが、タカシは、左脚の傷とその痛みを受けたときよりも、それらが暖かな光に溶けるように癒されていく瞬間はじめて、自分が単なるVRゲームではなくある種の巨大な出来事(もしくは運命)の只中に居るのだということを強く意識した。
「さあ、これでもう大丈夫です、騎士様」
僧侶服の少女が、少しだけ誇らしげな表情で両手を離したとき、あれほど惨たらしかった傷口はすっかり塞がり、薄茶色の痕がわずかに残るのみだった。
「あ……ありがとう」
タカシはつっかえながらも礼の言葉を口にした。何かもう少し、”騎士様”に相応しい気の利いた台詞が言えないものかともどかしく思い、しかし俯けた顔がかあっと熱くなるだけで舌はぴくりとも動こうとせず、気付くと彼は、自分でもまったく思いがけない行動に出ていた。両腕を伸ばし、少女の華奢な体を、そっと抱き寄せたのだ。
もしこの世界が、通常のVRMMOワールドであれば、タカシの行為は”NPCへの不適切な接触”コードを侵害し、警告を受けるか強制的にログインステージまで戻されていただろう。
しかし僧侶見習いの少女は、タカシの腕のなかでぴくりと体を震わせ、驚いたように小さく息を吸い込んだだけだった。数秒後、タカシは、少女の腕がおずおずと自分の背中に回され、控えめではあるが確かな圧力をもって引き寄せるのを感じた。
「大丈夫ですよ、異国の騎士様」
肩口で、穏やかなささやき声が発せられた。
「臨時の神聖術師の私だって、こうして……ささやかですが、自分の務めを果たせているんですもの。騎士様はその何倍も、立派に、勇敢に、戦っておいでです。いくさ場で畏れの風に惑わされたときは思い出してください……ご自分が、多くの民を、そして世界を守るために剣を取っているのだということを」
口をつぐみ、少女は、いっそう強くタカシを抱きしめた。
タカシにとって、女の子と抱き合うという経験は、現実世界と仮想世界を通して初めてのことだった。しかしたとえ、万が一現実世界で彼女ができるようなことがあったとしても、この瞬間を上回る経験は決してできまいという確信があった。
目くるめく一瞬が過ぎ去り、互いの体がそっと離されたあと、タカシは意を決して尋ねた。
「君……よかったら、名前を教えてくれないか」
幸い、今度はスムーズに口が動いた。見習い僧侶は、白い頬をほんのりと赤く染めながら頷き、言った。
「はい……。私はフレニーカと言います。フレニーカ・シェスキ」
「フレニーカ」
不思議な響きだが、しかし目の前の少女にしっくりと馴染むその名を呟いてから、タカシははっきりとした声で名乗った。”ヴォルディレード”というキャラクター名ではなく、大嫌いなはずの本名を。
「僕は……僕の名前はタカシ。広野タカシ。……あの……この戦争が終わったら、また、会えるかな」
フレニーカは眉をわずかに持ち上げ、その下の薄茶色の瞳を微笑むようにきらめかせて頷いた。
「勿論ですとも、騎士タカシ様。戦が終わり、世界に平和がきたら、その時にはかならず。ご武運を……いつも神にお祈りしております」
膝の上に置かれたタカシの左手を、フレニーカはぎゅっと両手で包み込んでから、恥じ入るように俯き、さっと立ち上がった。
薄い青色の僧服の裾をひるがえし、たたっと天幕の外へ走り去っていくフレニーカの姿を見送りながら、タカシは強く意識した。再び彼女の前に、胸を張って――騎士として立つためには、彼女の言うとおり、勇敢に戦い抜かねばならないと。この世界は、もはやゲームでも、そしてある意味ではアミュスフィアが作り出す仮想世界ですらもないのだ。タカシの生まれ育った現実世界と同じ質量を持つ、もうひとつの現実なのだ。
もしかしたら、ログアウトしたあと、何を馬鹿なことを考えたんだ僕は! とのたうち回る羽目になるかもしれなかったが、しかしタカシはこの瞬間だけは本気で信じた。そして決意した。
たとえHP、いや命が尽き、この世界から放逐されるときがきても、最後の一瞬まで前を向き、剣を振りかざそう。どれほどの傷、痛みを与えられようとも。それが出来なくては、きっと二度とフレニーカと会うことはできまい。
タカシは立ち上がり、おっしゃあ! と叫んで、再び最前線目指して走りはじめた。
SAO4_50_Unicode.txt
「間に合った……ッスかね……」
酷使しすぎて強張った両腕をぶらぶらさせながら、比嘉タケルは呟いた。
日本のVRMMOネットワークから急遽送り込まれてきた約二千ものアカウントデータを、わずか一時間足らずでアンダーワールド適合形式にコンバートしてのけたのだ。両手の指先に、キーボードの硬い感触が張り付いてしまったかのようだ。
「間に合ったわ。必ず」
スポーツドリンクのボトルを差し出した神代博士が言った。
受け取り、握力の失せた右手で苦労してキャップを捻ると、中身を大きく呷る。ベンダーの電源はとうに落ちているので、液体は生ぬるかったが、それでも腸に染み入るようだった。
ふうっと息を吐き、比嘉はゆっくり首を振った。
「まったく……なんて迂闊だったのか……」
ラース六本木支部に突然現れた二人の女子高生から、メインシャフト下層を占拠する襲撃者たちが、現実世界のアメリカ人VRMMOプレイヤーたちをアンダーワールド内で戦力として利用しようとしていると告げられたときは、たっぷり五秒近く思考停止してしまったものだ。
しかもそれを察したのが、結城明日奈の携帯端末に潜んでいた既存型AIだと言われれば、自分の目のフシ穴っぷりと脳みそのスポンジっぷりを全面的に認めるしかなかった。
取るものもとりあえず、菊岡二佐の知己だという女子高生たちを残るスーパーアカウントでダイブさせ、しかる後に膨大なコンバート作業をこなし、どうにか”援軍”を結城明日奈の現在座標に降下させたところ――である。
五万を超えるアメリカ人プレイヤーたちに、創世神ステイシアたる明日奈と人界軍が排除されていれば、アリス確保の可能性はほぼ潰える。実際、状況を認識した菊岡と中西一尉は、オーシャンタートル外壁を人力で登攀し、衛星アンテナを物理破壊することも検討していた。
しかし、外壁に出るには、どうしても一時的に耐圧隔壁のロックを解除する必要がある。それを襲撃者たちに察知されれば、サブコントロールまで制圧されるという最悪の結果を招きかねない。
ゆえに、菊岡と比嘉は、すべてを託すことにしたのだ。女神としてアンダーワールドに降り立った三人の女子高校生たちと、アカウント喪失のリスクを承知で援軍に志願してくれた、日本の若者たちに。
この時点で、プロジェクト・アリシゼーションの機密はすでに半ば以上がネットに流出してしまったことになる。
しかしもう、そんなことは大した問題ではない。
襲撃者たち――そしておそらくその背後にいるのであろうアメリカ軍産複合体にアリスを奪われ、来るべき無人兵器の時代を、またしても彼らに完全支配されてしまうことに比べれば。
「そうッスよ……」
比嘉はシートにぐったりと身を沈ませながら、誰にも聞こえない音量でひとりごちた。
「”アリス”はもう、ただのUAVコントローラなんかじゃない。本物の異世界に生まれた、新しい人類なんだ……君にはとっくにそれが分かっていた、そうッスよね、桐ヶ谷君」
視線を、アンダーワールド南部の地勢を表示するメインウインドウから、片隅に表示された桐ヶ谷和人のフラクトライトモニタに向ける。
ささやかに揺らぐ放射光は、相変わらずその中央に寒々しい虚無を抱え込んだままだ。失われた主体。傷ついた自己イメージ。
これ以上そのウインドウを開いておくのがいたたまれず、比嘉はマウスを操作して、窓を閉じようとした。
そして×印をクリックする寸前、ぴたりと指を止めた。
「ん……?」
丸い眼鏡を持ち上げ、目を凝らす。おや、と思わされたのは、ウインドウ下部に横長の線で表示された、フラクトライト活性の変動ログだった。
ほんの四、五十分前。それまで殆ど動くことのなかったラインが、鋭いピークをたった一つだけ刻んでいた。慌ててログを過去にスライドさせる。するとはたして、八時間ほども遡ったあたりに、もう一つさらに大きなピークが見出された。
「ちょ……ちょっと、凛子ハカセ。これ見てくれますか」
「その呼び方やめてちょうだい」
嫌そうな声とともに、ドクター神代がメインスクリーンに顔を向けた。
「これは、桐ヶ谷君のフラクトライトモニタでしょ? この変動は何なの?」
「彼の、全喪失したはずの自己意識が一瞬活性を示した……ってことなんスが……そんなこと、あるはず無いはずなはずなんス」
「日本語おかしいわよ。――外部から、何か強い刺激があったんじゃないの?」
「と言っても、その刺激を処理する回路が吹っ飛んでる状態なんスよ。本能や反射を処理する領域の活性ならまだ分かりますけど……ええと、この時間は……」
比嘉はログ窓のタイムスケールに目を凝らした。だが、それを確認したところで、その時刻にアンダーワールド内部で何があったのかまでを知るすべは無い。
しかし、その時――。
「ちょっと待って」
神代博士が、緊張感の増した声を出した。
「この時間。これ……どっちも、あの子たちがSTLでダイブした頃じゃないの? 明日奈さんと、六本木に現れた二人が」
「えっ、マジっスか。……うわ、マジっスよ」
比嘉も息を飲んだ。たしかに、折れ線グラフに二つの鋭利なピークが刻まれた時間は、まさしく女子高校生たちがアンダーワールドに降り立った直後に他ならない。
「えっ、どういうことなんだ……。ただ、親しい人間が現れたから強い反応を示した、ってだけなのか? いや……桐ヶ谷君のダメージは、そんなリリカルな理由で回復する代物じゃないはずだ……何か理由が……フィジカルでメカニカルな理由があるはずなんだ……」
シートから立ち上がり、比嘉はうろうろとサブコンを歩き回った。容易ならざる気配に気付いたのか、さすがにダウン気味だった菊岡や、壁際にへたりこむ技術者たちもいぶかしい視線を向けてくる。
しかしそれを意識もせず、比嘉は思考をひたすら回転させた。
「自己……主体……己を己と規定するイメージ……そのベクターデータのバックアップが、どこかにあった……? いや、有り得ない……キリト君のフラクトライトは一度もコピーしていない……仮にコピーしていたところで、それを単に書きもどすだけじゃ機能しないはずだ……生きた接続回路を持つデータじゃないと……どこだ……どこに……」
「ねえ。ねえ、比嘉くん」
ヒガくんってば、と何度か名前を呼ばれて、ようやく比嘉は顔を上げた。
「なんッスか」
「前から君が言ってる、主体の喪失、って具体的にどういうことなの?」
「ええと……そりゃつまり……」
黙考を邪魔されて、あからさまな渋面を作りながらドクター凛子に答える。
「心のなかの自分っスよ。客体に対する主体。自分ならこの場面でどうするか、を処理する回路」
「うん、それは前にも聞いたわね。でも、私が言いたいのはね……主体と客体って、そんな簡単に分割できるものなの? ってことなの」
「は?」
予想外の言葉に、比嘉は激しく目をしばたかせた。
しんと静まり返り、クーリングユニットの低音だけが響く部屋に、神代博士の艶のある声が流れる。
「私たちは理系だから、どうしても主観的予測と客観的データを厳密に切り分けようとする習い性があるけど……でも、こと心に限って言えば、自分ひとりだけで自己像を規定するなんてこと、ほんとにできるのかしら。自分のなかの自分ていうのはつまり、他の人の目から見た自分とかなり重複する部分がある……、そうは思わない?」
「他人の……なかの……自分……」
言葉にしたとたん、比嘉はその概念が、自分のもっとも忌避する種類のものであることを自覚した。
人にどう見られるか。人と比べてどうか。
――神代凜子にどう見られるか。
――茅場晶彦と比べてどうか。
そうか……。
僕は、自分の顔すらよく知らない。たぶん似顔絵を描けば、似ても似つかぬ代物になるだろう。それは僕が、自分の容姿を――どう足掻いても茅場先輩と比べるべくもない有様を、遠い昔から忌避してきたからだ。僕のなかの主体なんて、所詮その程度のものなんだ。
おそらく、周囲の人間のなかの”比嘉タケル像”を集めて合成すれば、かなりのところまで再現できてしまう程度のものでしかないのだ……。
こりゃ一本取られた、と自嘲ぎみの微笑みを浮かべようとした比嘉は――。
びくっ、と口元を強張らせた。
ここに至ってようやく、凛子博士の発言の真意を悟ったからだ。
「……セルフイメージの、バックアップ」
呟き、がばっと顔を上げたときにはもう、情けない自己嫌悪など欠片も残さず消え去っていた。
「そうか……ある、あるぞ、桐ヶ谷君が吹っ飛ばしちまった主体を補い得るデータが! 彼に近しい人たちのフラクトライトの中に……!!」
叫び、先刻に倍する速度で床上を歩き回る。
「でも、それを抽出するにはSTLが必要だ……しかも、一人だけじゃ再現性が薄い……せめて二人、いや三……人……」
大きく息を吸い、止める。
桐ヶ谷和人をもっとも深く知り、そのイメージを魂に保存している人物。それは間違いなく結城明日奈だ。しかも彼女は、まさに今、和人の隣のSTLに接続している。
そして六本木分室のSTLには、おそらく和人とも知り合いなのであろう女の子が、さらに二人。
比嘉は菊岡二佐に視線を向け、掠れた声で聞いた。
「菊サン。六本木からダイブしてる子たちは、桐ヶ谷君の関係者……なんスよね?」
「……ああ、無論」
菊岡も、黒縁メガネのレンズをきらーんと輝かせながら頷いた。
「シノン君は、キリト君に文字通り命を助けられた仲だ。そしてリーファ君は、キリト君の妹だよ」
一瞬の沈黙に続き、比嘉も丸メガネのレンズを光らせた。
「……来た。来たっスよこれ! できる……復元できるかもしれないッス、キリト君のセルフイメージを! 女の子たちのフラクトライトから、強固に構築されてるはずの桐ヶ谷君像を抽出・融合させて、STLを使って喪失領域に繋いでやれば……その”生きたデータ”は、桐ヶ谷君のフラクトライトに接続し得るはずだ……」
体の底から湧いてくる熱気に、比嘉はばしっと両手を打ち合わせた。
そして――一秒後。
その熱が、跡形もなく奪われ、冷えていくのを感じた。
「あっ……ああ……うそだろ……あああっ……」
「ど、どうしたの、何なのよ比嘉君!」
早口に言い募るドクター神代の顔を見て、比嘉はうわごとのように呟いた。
「その操作が……できるのは……メインコントロールからだけッス……」
再び、重い沈黙が灰のように降り注ぎ、サブコントロールルームの床に積もった。
深いため息を漏らしたのは、指揮官である菊岡だった。
「そうだな……当然、そういうことだ……。いや、そうしょげるな、比嘉君。キリト君の治療に光明が見えただけでも良しとしよう。実際のオペレーションは、状況が終了し、オーシャンタートルから連中を追い出した後からでも……」
「それじゃあ……遅いんスよ……」
比嘉は俯いたまま菊岡の言葉を遮った。
「”ながと”からコマンドが突入してきて、メインシャフトで大規模な戦闘になったら、十中八九サブ電源も落ちるでしょう。メインコンも破壊されるかもしれない。当然、桐ヶ谷君のSTLはシャットダウンして、彼はアンダーワールドからログアウトする。そしたら……おそらく桐ヶ谷君は、もう二度とSTLダイブは出来ません。今の状態では、初期ステージを通過できないスから……。治療はなんとしても、彼と三人の女の子たちが、アンダーワールドに接続してるあいだに行わなくちゃならないんス」
淡々と言葉を続けながら、比嘉は自身のなかに、ある種の決意が満ちてくるのを感じていた。
こんな時、自分ならどうするか。
しばらく前ならば、おそらくこう答えていただろう。僕に何ができるわけもない。茅場センパイじゃあるまいし、と。
でも、そんなものは本物のセルフイメージじゃない。ただの逃げだ。言い訳だ。
僕が知っている比嘉タケル、STLとアンダーワールドを設計した大天才ならば、きっとこう言うはずなんだ。
「……僕、行くッスよ、菊さん」
「行くとは……どこにだ」
眉をしかめる指揮官を見やり、比嘉はにやりと笑った。
「別に、下に殴りこもうってわけじゃないッス。メインコントロールから、キリト君のSTLに繋がってる主回線ダクトには、一箇所だけ点検用コネクタがあったはずッスよね。あそこに端末を繋げば、四つのSTLの操作だけなら可能ッス。残念ながら、ライトキューブクラスタは別回線ですが……」
一瞬、唖然とした顔を見せた菊岡は、鋭さを増した表情で反駁した。
「しかし、コネクタは隔壁の向こうだぞ。一瞬でもロックを解除すれば、敵に意図を悟られるかもしれん。それに、ケーブルダクトは下からもアクセスできる。あんな狭いパイプの中で、敵に発見されたら撃ってくれと言うようなものだ」
「一番目の問題は、囮作戦でいきましょう」
「オトリ、とは?」
「隔壁を解除したら、艦内通路のハッチからも下に突入させるんス。もちろん、貴重な人員をじゃなくて……アレを」
再び、菊岡の細い目が光った。
「なるほど……アレか。”ロボ三衛門”だな。すまない、誰か隣の倉庫から運んできてくれないか」
スタッフの一人が通路に走り出すのと同時に、神代博士ががくんと顎を落とした。
「な……なにそれ!?」
「凛子先輩は、人工フラクトライトのこちらでの姿をご存知ッスよね?」
「姿……つまり保存メディア? ライトキューブのこと?」
「そう、単なるこれっくらいの立方体です」
比嘉は両手で五センチ四方のサイコロ型を示しながら頷いた。
「つまり、単体では一切の動作や移動が出来ない。それでは、仮に”アリス”が完成し、現実世界にイジェクションしたところで、体が無いというストレスで崩壊してしまうのではと我々は危惧したんス。ゆえに、まあ、その、人間型のマシンボディを試作してみようと。幸い予算はタップリあるし」
ちょうどその時、ドアがしゅっとスライドし、大きな台車がごろごろと運び込まれてきた。しゃがむ形で乗っているのは、確かに人間のシルエットをしてはいるが、どこか大昔のロボットヒーローめいた外装を与えられた等身大のメカニカルボディだ。
「あっ……きれた……。国民の税金をチョロまかして、そんな物作ってたのね……」
「いやいや、バカにしたもんじゃないッスよ! 既存の制御プログラムでも、時速二.五キロで二足歩行するんスから! 人工フラクトライトは、勿論僕らと同レベルのバランサー機能を備えてますからね。こいつに搭載すれば、理論上はナマの人間に迫る動きが可能なはずッス!」
「はぁ……、まあ……いいわ」
神代博士は額を押さえながら二、三度頭を振り、表情を切り替えた。
「つまり、隔壁ロックを解除したあと、通路のハッチからその……ロボザエモンをオートプログラムで侵入させるわけね。まあ……確かに目立つ、というか悪巧み以外の何物にも見えないでしょうけど……」
「そして同時に、僕がケーブルダクトに侵入する。連中が哀れな三衛門を撃ちまくってるあいだに、コネクタからSTLを操作する」
「ねえ。ちょっと待って。ザエモンて……まさか、イチエモンとニエモンが……」
比嘉と菊岡はドクター神代の疑問を黙殺し、深刻な表情で作戦検討を続けた。
「しかし比嘉君。ロック解除はそれで誤魔化せたとしても、君が発見される危険が完全に消滅するわけじゃないぞ。やはり、護衛を数人連れていったほうが……」
「いえ、今となっては自衛官スタッフは貴重すぎる戦力ッス。それに、あんなクソ狭いダクトを移動できるのはガリチビの僕くらいッスよ。何、さっと行ってさっと帰ってきますから」
比嘉は軽い調子でそう言った――ものの、やはり心拍が増加するのは止めようがなかった。
もし敵に発見され、拳銃で撃たれたら、と思うと胃の下あたりがきゅうっと縮む。オーシャンタートル襲撃時ですら、比嘉は直接には敵コマンドの姿を目視していないのだ。
しかし。
僕は、いやラースという組織全体が、桐ヶ谷君に巨大な借りがある。比嘉タケルは内心でそう呟いた。
記憶をブロックしたとは言え、現実世界で三日、内部では十年以上もの時間を過ごさせて、人工フラクトライト達に重要なトリガーを与えてもらった。限界突破フラクトライトたる”アリス”が発生したのは、間違いなく彼の存在あってこそだ。
さらにその後、治療目的だったとは言えリミッターを解除したSTLにつなぎ、結果としてフラクトライト破損という重大なダメージを被らせてしまった。しかもその原因は、彼がアリスを保全しようとしてアンダーワールド統治組織と苦しい戦いを繰り広げ、多くの仲間を失ったせいなのだ。
ならば、彼を治療できる可能性がある以上、どんなリスクを冒してでもそれに挑戦しなくてはならない。そうでなくては一生彼に顔向けできない。
比嘉タケルはぐっと両拳を握り、菊岡に頷きかけた。
――その時だった。
第四の声が、細々とサブコントロールルームに響いた。
「あのぉ……私も、比嘉チーフと一緒に行きますよ……」
全員の視線を集めたのは、これまで壁際のマットレスにうずくまっていた、ラース技術スタッフの一人だった。比嘉に負けず劣らず小柄で、四肢の細さではあるいは上回るかもしれない。
「私もこんなガリガリですし……でも、弾除けくらいには……なるかな、って……。それに、あのケーブルダクトの敷設監督したの、私ですから……」
これまであまり存在感のなかったその男性スタッフの顔を、比嘉はまじまじと見つめた。けっこう齢が行っている、おそらく三十代半ばか。長い髪を後ろで束ね、海のまんなかに何ヶ月もいたにしては肌が白い。勇気ある挙手をしたわりには、小さい眼をおどおどと泳がせているが、しかしこれでも確か大手メーカーの研究職ポストを蹴って偽装企業ラースに参じた志ある人物だったはずだ。
正直、道連れができるのはありがたい。比嘉はそのスタッフにまっすぐ向き直り、深く頭を下げた。
「……ほんとのトコ、コネクタの位置をいまいち覚えてないんスよね。すみません、同行お願いします……柳井さん」
ガブリエル・ミラーは、わずかな意識途絶も起こさず、スムーズに現実世界へと帰還した。
いや、正しくは、帰還ではなく予定外の放逐と言うべきだった。STLのシートベッドに横たわったまま、ガブリエルはかすかな驚きの味を口中に転がした。
よもや自分が、仮想世界での一対一での戦闘で敗れるとはついぞ予想していなかったのだ。しかもその相手は、人間ではなく人造の擬似意識だった。
あの老いた男に敗れた理由がなんなのか、ガブリエルは貴重な数秒間を費やして考えようとした。
意思の強さ? 魂の絆? 人と人とをつなぐ愛の力……?
馬鹿馬鹿しい。
ガブリエルは、自覚することなく唇の端に仄かな冷笑を浮かべた。この世界に、目に見えぬ力があるとすれば、それはただ一つ――自分を、来るべき楽土へと導く運命の力だけだ。
つまり、敗れたのは必然だ。それが必要だったからだ。運命は、暗黒神ベクタなどという紛い物の姿ではなく、ガブリエル自身の血肉を求めている。正しいかたちで、再びあの世界に降り立つことを求めているのだ。
ならば、そうするまでだ。
思考を終え、ガブリエルは音もなくシートから降りた。
もう一台のSTLに目をやると、意外にもヴァサゴ・カザルスがまだダイブを継続している。とっくに”死亡”し、ログアウト済みかと思っていたのだが、この男はこの男で何か求むべきものを見出したのだろうか。
まあ、好きにすればいい。
肩をすくめ、ガブリエルは隣接するメインコントロールルームへのドアをくぐった。すぐに、金色の坊主頭がコンソールからひょいっと離れ、緊張感の無い声を放ってくる。
「おつかれです、隊長ー。いやー、やられちまいましたねえー」
「状況は」
そっけなく尋ねると、クリッターはやや表情を改めて報告を返した。
「えー、ご指示のとおり、アメリカから掻き集めたプレイヤー五万人を順次投入しました。すでに半数が損耗していますが、マァ『人界軍の殲滅』という目的は達せられるでしょう。不確定要素としては、K組織側も同様の手段に出まして……戦場に、日本からの大規模接続が確認されましたが、数は二千程度なので、大きな問題にはなるまいと……」
「フムン?」
ガブリエルは片眉を持ち上げて主スクリーンを見た。
そこには、アンダーワールド南部の地形図が表示されている。”東の大門”から一直線に南へと飛び、×印とともに途切れている赤いラインは、暗黒神ベクタことガブリエルの移動ログだろう。世界の南端に存在するシステムコンソールまではまだ半分も来ていないが、アリスは今もその場所に留まっているはずだ。
そして、赤いラインを追いかけるかたちで、青の太いラインも南下している。これが人界軍か。いまは密に固まって停止しているようだ。
その青い人界軍を半包囲するかたちで、黒で表示されている大勢力が押し潰そうとしている。これがアメリカ人のVRMMOプレイヤーとすると、青と黒の間に防壁のように広がる白い光が、日本からの接続者二千――というわけか。
「この日本人たちが使用しているのは、人界側のデフォルトアカウントなのか?」
「だと思いますがねー。それが何か?」
「いや……」
ペットボトルのミネラルウォーターを呷りながら考える。日本のVRMMO中毒者たちが、その半身、いやある意味では現実以上の自分自身であるキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするなどということが有りうるだろうか?
いや、まさか。ガブリエルは再度冷たい笑みを浮かべた。
つい一ヶ月ほど前、VRMMO”ガンゲイル・オンライン”の大会でガブリエルに苦もなく全滅させられた連中のような若者たちが、興味本位で接続することはあっても、キャラクター喪失などというリスクを冒すはずはない。
短く回想した戦闘シーンの最後、水色の髪の少女スナイパーが、遠隔起動トラップで爆死させられる寸前に見せた強い目の光だけがかすかに意識に引っかかったが、しかしガブリエルは肩をすくめて思考を打ち切った。
「よし、それでは俺は再度ダイブする。アカウントは、これをコンバートしろ」
ちょうどコンソールに転がっていたペンで、紙切れにIDとパスワードをメモって渡すと、クリッターがぱちぱちと瞬きをした。
「おやま、隊長もですかー」
「も……とは」
「いやー、ヴァサゴの野郎も一度死に戻ったんですがねー。なんかヤケに嬉しそうに、自前アカをコンバートしてまた潜りましたよ」
「ほう」
ガブリエルは、クリッターの手元に放置されていた包み紙に目をやった。記されていたIDの先頭に並ぶ、三つのアルファベットが視界に飛び込んでくる。
「……なるほど。なるほどな」
くっ、と珍しく本物の笑いが喉から短く漏れた。訝しげな顔をするクリッターの肩をぽんと叩き、言う。
「気にするな。ああ見えて、ヤツにもあるんだろう、しがらみってものが。では、よろしく頼むぞ」
身を翻し、STL室に向かう間も、ガブリエルの唇には歪んだ笑みが張り付いていた。
同時刻、ヴァサゴ・カザルスもまた、フードの下でにやにやと笑いながら眼下の戦場を眺めていた。
遺跡参道の北端に立つ巨大神像の頭上からは、アメリカ人プレイヤーと日本人プレイヤーが血みどろの殺し合いを繰り広げるさまが一望できる。
いや、正確に表現するならば、それは一方的殺戮と言うべきものだろう。
参道入り口を中心に、広い半円を描いて布陣する二千人のカラフルな剣士達は、殺到する黒い歩兵群をほとんど損耗することなく斬り倒していく。装備の差も大きいが、仮想世界慣れした身のこなしや、何より後方の支援体制の厚さが決定的だ。傷を負ったものは即座に参道内部に築かれた天幕に運び込まれ、回復呪文で傷を癒してまた元気に前線へと走っていく。
痛みの存在するアンダーワールドにおいて、その士気の維持されようは見上げたものと言うべきだった。それを言うなら、二千ものプレイヤーが、自らのメインキャラクターをコンバートしてまで参戦したこと自体が大いなる奇跡と言ってよかった。
ガブリエル・ミラーすらも、有り得ないことと退けた現状を――。
しかしヴァサゴ・カザルスは、ほぼ正確に予測していた。
アメリカからの接続が可能なら、日本からも人界の援軍がやって来るだろうこと。そしてそれは、コンバートを利用して行われるだろうということまでも、ヴァサゴは予期したのだ。
彼は今、獅子奮迅の活躍を見せる日本プレイヤーたちの中に、”閃光”アスナ以外にも幾つか覚えのある顔を見出し、心の底から興奮していた。躍り上がらんばかりに狂喜していた、とさえ言っていい。
二度と再来するまい、と諦めていたあのデスゲームが、形を変えて再び出現したのだから。
いや、勿論この世界で死んだとて、本物の命まで取られるわけではない。
しかしアンダーワールドには、あの浮遊城には無かったものが有り、有ったものが無い。
つまり――。
“苦痛”があり。
“倫理保護コード”がない。
ならば、きっと大いに楽しめるはずだ。あるいは命を奪う以上の興奮すらも。
「くく、くくくふふふふ」
堪えきれず、ヴァサゴはフードの下でひそやかな笑いを漏らした。
――間に合わなかった。
シノンは、言葉もなく、初老の剣士の傷だらけの骸とそれに取りすがる黄金の少女騎士を見下ろした。
傍らでは、二頭の巨大な飛竜が、嘆きを共有するかのように頭を垂れている。
二つの世界の行く末を左右する黄金の騎士アリスと、彼女を拉致した暗黒神ベクタ、そして二人を追跡する整合騎士長ベルクーリに追いつくために、シノンは懸命に飛行した。ALOで猛特訓した随意飛行技術を大いに発揮し、システムの許す限りの速度で南を目指したのだが、ようやく追いついたときにはもう戦闘は終わってしまっていたのだ。
いや――、讃えるべきはベルクーリの力だろう。
追いつくはずのない飛竜に追いつき、斃せるはずのないスーパーアカウントを斃したのだから。
しかし、ここに一つの巨大な不条理がある。
騎士長は死んだ。その魂は永遠に喪失した。
しかし、暗黒神ベクタはその限りではないのだ……。
シノンは、虚脱したように座り込むばかりのアリスに、危機が去ったわけではないことを告げねばならなかったが、しかし言葉が見つからなかった。
貴重な数分の時間が沈黙のうちに流れ、先に声を発したのは、騎士アリスのほうだった。
仰向けられたとてつもない美貌に息を飲むシノンを、濡れたように輝くふたつのコバルトブルーの瞳がまっすぐに射た。
「あなたも……リアルワールドの方ですか」
「ええ……」
シノンは頷き、どうにか唇を動かした。
「私はシノン。アスナとキリトの友達。暗黒神ベクタから、あなたとベルクーリさんを助けるために来たんだけど……ごめんなさい、間に合わなかった」
跪き、こうべを垂れたシノンに向かって、アリスはそっとかぶりを振った。
「いえ……。私が愚かだったのです。赤子のように攫われてしまった私の咎です……。小父様の……偉大なる整合騎士長の御命に、到底釣り合うものではないのに」
その声に滲む、凄まじい悔恨と自責の響きに、シノンは言葉も無かった。アリスは視線を彷徨わせ、続けて尋ねてきた。
「戦況は、どうなっていますか」
「……アスナと人界軍が、アメリカの……いえ、黒い軍勢を何とか防いでいる、と思う」
「ならば、私も戻ります」
ふらっと立ち上がり、飛竜の片方に向かおうとしたアリスを、シノンはそっととどめた。
「いけない。アリスさん、あなたはこのまま南の……”世界の果ての祭壇”に向かってください」
「なぜです。皇帝ベクタはもう死んだのでしょう」
「……それが……そうではないの」
そしてシノンは、アリスに説明した。リアルワールド人は、アンダーワールドで死んでも、その命を失うわけではないこと。皇帝ベクタに宿っていた”敵”が、今この瞬間にも新たな姿を得て襲来しかねないことを。
反応は――これまで抑えてきたあらゆる感情が炸裂したかのような、凄まじい怒りだった。
「小父様が……命を捨ててまで刺し違えた敵が、死んでいないと!? ただ一時姿を消し、何事も無かったかのように甦ると……そう言うのですか!?」
がしゃっ、と黄金の鎧を鳴らし、アリスはシノンに詰め寄った。
「そんな……そんな、ふざけた話があってたまるものか……!! では……小父様は何のために……何ゆえに死なねばならなかったのですか!! 片方の命しか懸かっていない立ち合いなぞ……まるで、まるでただの茶番ではないですか……」
蒼い双眸から、再び涙が溢れるのを、シノンはただ見つめることしかできなかった。
自分に何を言う資格も無い、とシノンは強く思った。
これまで、仮想世界における無限回の戦闘で、無限回の死を繰り返してきた自分に。そして、この世界では、暗黒神ベクタと同じように死ねども死なない自分には。
しかしシノンは、大きく息を吸い、アリスをまっすぐ見つめて言った。
「なら……アリスさん、あなたは、キリトの苦しみも偽物だと、茶番だと言うの?」
はっ、と黄金の騎士が息を飲む。
「キリトもリアルワールド人よ。この世界で死んでも、リアルワールドでの命までは失わない。でも、彼が受けた傷は本物。彼が感じた痛みは、損なわれた魂は、本物なのよ。……私はね、キリトが好き。大好きだわ。アスナだってそう。他にも、彼のことが好きな人はいっぱいいる。その全員が、キリトのことを心配してる。元気になって、って必死に祈ってる。そして、言葉にはしなくても、何でそこまでしなきゃいけなかったの? って思ってるわ」
アリスの両肩をそっと掴み、シノンははっきりした声で言った。
「キリトが傷ついたのはね、あなたを助けるためなのよ、アリス。そのためだけに、彼はあんなになるまで頑張った。彼の、その気持ちまで、あなたは偽物だって言うの? いえ、キリトだけじゃないわ。騎士長さんだってそう。あなたを助けるために、こんなに傷だらけになって、必死で機会を作ってくれたのよ。あなたが、”敵”の手から脱するための貴重な時間を!」
いらえは、すぐには返らなかった。
アリスは、横たわるベルクーリの骸を、しばし無言で見つめていた。その瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ――そして騎士は、ぎゅっと瞼を瞑って、何かに耐えるように顔を上向かせた。そのまま、かすれた声で問いが発せられた。
「私は……もう一度、この世界に戻ってこられますか。愛する人たちに、もう一度会えますか」
それに対して、確たる回答を生み出すための知識はシノンのなかには無かった。ただ一つだけ確実なのは、アリスが”敵”の手に落ちれば、アンダーワールドを内包するアーキテクチャの一切は全て破壊され尽くしてしまうだろうということだけだった。
だから、シノンはゆっくり、力強く頷いた。
「ええ。あなたが……無事でさえいれば」
「……分かりました。ならば、私は南へ向かいましょう。”世界の果ての祭壇”に何が待つのかはわかりませんが……それが小父様の、そしてキリトの意思ならば……」
アリスはふわりと白いスカートを広げて跪き、横たわるベルクーリの頬にそっと口づけた。
立ち上がったとき、その全身には、見違えるようなオーラが漲っていた。
「雨縁。滝刳。もう少しだけ飛んで頂戴ね」
二頭の飛竜にそう言葉を掛けてから、アリスはシノンに視線を向けた。
「あなたは……どうするのですか、シノンさん」
「今度は、私がこの命を使う番だから」
にこっと微笑みかけ、シノンは続けた。
「暗黒神ベクタは、おそらくこの場所に復活すると思う。私は、なんとか斃せるように……少なくとも充分な時間が稼げるように、頑張ってみる」
アリスは軽く唇を噛み、深く頭を下げた。
「……すみません。お願いします。あなたのお命……お心を、決して無駄にはしません」
南の空へと飛び去っていく二頭の竜を見送り、シノンは肩にかけていた白い長弓を手に戻した。
オーシャン・タートルを襲撃したのは、恐らくアメリカ国家機関に支援されたアサルトチームだという。その一人がスーパーアカウント04たる暗黒神ベクタに宿り、アリスを襲った。
現実世界では、単なる高校生のシノンには到底抗いようもない相手だ。
しかしこの場所でなら。仮想世界での一対一の戦闘ならば。
誰が来ようと勝ってみせる。
強く自分にそう誓い、シノンはただ、敵が再ダイブしてくるその瞬間を待った。
振り抜いた右拳から、最後の骨が砕ける音がかすかに伝わった。
拳闘士団長イシュカーンは、胸甲の真ん中を陥没させて大の字に倒れる黒い敵兵から視線を外し、己の拳を静かに眺めた。
そこにあるのはもう、あらゆる物を打ち毀してきた鋼鉄の拳骨ではなかった。粉砕された骨と肉が詰まる、ぐずぐずに腫れた皮の袋だった。
左拳は数分前から同じ状態になっている。両脚の骨にも無数の亀裂が走り、蹴ることはおろか走ることすら不可能だろう。
「……見事な闘いぶりでしたよ、チャンピオン」
副官ダンパの掠れた声に、ちらりと後ろを見る。
地面に座り込んだ巨漢は、両腕を完全に喪失したあとも頭突きと体当たりのみで戦い続けた証として、顔と胴体に酷い刀傷を縦横に受けていた。常に闘志と智慧を湛えて光っていた小さな両眼はおぼろに霞み、ダンパの天命が今まさに尽きかけていることを示していた。
イシュカーンは、勇士の魂に敬意を表すべく、砕けた拳を額に掲げてから答えた。
「まァ、これなら、あの世で先代に会っても恥ずかしくねえ死に様だろう」
脚を引き摺って副官の隣まで移動し、どかっと座り込む。
二万を超えていた黒い敵軍は、長時間の激戦を経て、すでに三千程度にまで減少している。しかしその代償として、拳闘士団も今や三百人程度が残るのみとなっていた。しかも全員が満身創痍、もう満足に陣形も組めず、ひとところに密集して座り込みただ押し潰されるのを待っているに過ぎない。
周囲をぐるりと取り囲む三千の敵兵が、一気呵成に最後の突撃を仕掛けてこないのは――。
イシュカーンとダンパの視線の先で、鬼神の如き戦闘を続ける、一人の騎士と一頭の飛竜の存在ゆえだった。
消耗はもう完全に限界を超えていた。
整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、それでも霞む視界に敵の影を知覚すると、鉛のように重い右腕を動かし、黒百合の剣を振りかぶった。
びう、と鈍い風切り音。
極細の刀身が、敵の黒い鎧の肩口に食い込む。反動で、手首から肘にかけて無数の針に刺されるような痛みが駆け巡る。
「い……やああぁぁぁぁ!!」
“無音”のあざなにまったく似つかわしくない、形振り構わない気合を絞り出す。剣がどうにか敵の装甲を割り、その下の身体を一直線に切り裂く。
意味の取れない罵声とともに倒れる歩兵から刀身を引き抜き、シェータは荒く息をついた。
これほどまでに疲労困憊した理由は、無限とも思われる敵の数もさることながら、黒い兵たちの奇妙な生気の無さゆえだった。
心意が通じにくいのだ。黒い鎧も剣も、シェータの神器と比べれば優先度では遥か劣る代物のはずなのに、切断に際して妙に乾いた抵抗感がある。同じことが、敵の攻撃にも言えた。剣には一切の心意を感じず、事実軽く粗雑な斬撃ばかり繰り出してくるくせに、なぜか実効力だけはあるのだ。
まるで、影と戦っているようだった。ほんとうにはこの場に居ない者たちが、どこからか映し出す影絵の軍隊と。
楽しくなかった。斬るためだけに生きているはずの自分が、この影たちを斬ることに、強い嫌悪しか感じていないことをシェータは自覚した。
――なんでだろう。
――相手が影だろう生身だろうと、それどころかただの彫像だとしても、ただ硬ければ私は満足できたはずなのに。斬ることしか知らない人形、それが私なのに。
最小の刀身に最大の優先度を秘めた神器、黒百合の剣。それは切断のためにのみ存在する道具であり、また鏡に映るシェータ自身でもあった。斬ることをやめれば、どちらの存在証明も完全に失われてしまう。
最高司祭アドミニストレータは、シェータが暗黒界の古戦場から持ち帰った一輪の百合を、一振りの剣に組成変換した。それをシェータに下賜しながら、こう言った。
――この剣は、あなたの魂に刻まれた呪いを形にしたものよ。性質遺伝パラメータの揺らぎが生み出した、殺人衝動という名の呪いをね。斬って、斬って、斬り続けなさい。その血塗れた道の果てにのみ、あなたの呪いを解く鍵がある……かもしれないわ。
その時は、最高司祭の言葉の意味は分からなかった。
シェータは、言われたままに、無限に等しい年月に渡ってひたすら斬り続けてきた。そしてついに、最高の好敵手に巡り合った。これまで刃を通して触れ合った、全ての人、全ての物より硬いひとりの男に。
もう一度戦いたい。戦えば、何かが分かるかもしれないから。
その思いだけに衝き動かされ、シェータは人界軍と分かれてこの戦場に残ったのだ。なのに、どうやら、赤い髪の闘士との再戦は叶いそうになかった。
シェータは荒い息をつきながら、ちらりと背後を振り返った。
離れた岩の上にあぐらをかく、傷だらけの拳闘士の長が見えた。なぜか悲しそうな、済まなそうな視線で、じっとシェータを見つめる朱色の瞳と目が合った。
不意に、ずきん、と胸が痛んだ。
――なんだろう。
――私は、あの人を斬りたいはずなのに。何もかも焼き尽くすような、熱い、熱い戦いをもう一度味わいたい、そしてあの金剛石のように硬い拳を断ち切りたい、それだけが望みだったはずなのに。なのになんで、こんなふうに胸が……締め付けられるんだろう。
――私は、あの人を……。
きしっ。
微かな音が、右手の中から響いた。
シェータは黒百合の剣を持ち上げ、その刀身を眺めた。あらゆる光を吸い込むような、極細の漆黒線の一箇所に――蜘蛛の糸よりも薄い亀裂が、稲妻のように走っているのが見えた。
ああ、
そうか。
シェータは大きく息を吸い込み、そして小さく微笑んだ。
あらゆる疑問が、今氷解した。アドミニストレータの言葉の意味、呪いとは何なのかを、シェータはついに悟った。
どすどすという地響きに視線を戻すと、次の敵兵が、無骨な戦槌を振り上げて駆け寄ってくるところだった。
シェータは滑らかな足取りで敵の一撃を回避し、右手の剣を黒い鎧のど真ん中に突きこんだ。
最後の攻撃は、まったくの無音だった。すべるように、しなやかに敵の命を絶った黒百合の剣が――その中ほどから、同じく一切の音を立てずに、無数の花弁を散らすように砕けた。
手中の柄までもがはらはらと崩れ落ちていくのを、シェータは名残惜しく口元にあてて呟いた。
「……長いあいだ、ありがとう」
一瞬、さわやかな花の香りが漂った気がした。
少し離れた隣では、騎竜である宵呼(ヨイヨビ)が、尾の一撃で敵兵を叩き潰したところだった。
竜の灰色の鱗は、流れ出た血でほぼ隙間なく濡れ、爪や牙もほとんど欠けている。熱線はもう吐き尽くし、動きは見る影もなく緩慢だ。
敵の突撃がいっとき途絶えたのを確認し、シェータは竜に歩み寄ると、その首に手を這わせた。
「あなたも、ありがとう、宵呼。疲れたね……もう、休もう」
そしてシェータと飛竜は、身体を引き摺るように、拳闘士団の生き残りが固まる低い丘に向かった。
迎えた拳闘士の長は、今にも弾けてしまいそうな傷だらけの右手を持ち上げ、シェータを迎えた。
「すまねえ……大事な剣、折らしちまったな」
詫びる言葉を、シェータは首を振ってとどめた。
「いいの。やっと、分かったから。私がなぜ斬り続けてきたのか……」
がくんと地面にひざを突くと、両手を持ち上げ、若い闘士の顔を挟み込む。
「斬りたくないものを見つけるため。守りたいものを見つけるために、私は戦い続けてきた。それは、あなた。だからもう、剣は必要ない」
一瞬、大きく見開かれた拳闘士の左眼に、透明な雫が湧き上がるのをシェータは少し驚きながら見つめた。
若者は、きつく歯を食いしばり、喉を鳴らして囁いた。
「ああ……ちきしょう。アンタと、所帯を持ちたかったな。きっと、強ぇガキが生まれたろうにな。先代より、オレよりずっと強い、最強の拳闘士になれる子がよう」
「だめよ。その子は、騎士にするわ」
二人は短く見つめあい、そして微笑んだ。優しい表情の巨漢に見守られるなか、シェータとイシュカーンは短く唇を触れ合わせ、並んで座った。
三百人の拳闘士と、一人の整合騎士、そして一頭の飛竜は、黒い歩兵たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくるのを、ただ無言で待った。
「どうやら大勢は決した……ってヤツかな、こりゃ」
アスナは、自分とほぼ同時に後方に戻ってきたクラインの言葉に、そうねと応じた。
幾つかの手傷を負った二人を、もと魔法職の日本人プレイヤーが、覚えたばかりの神聖術で癒していく。本職のアンダーワールド人修道士の、イマジネーションを利用して効果を増幅する技までは真似できないものの、ハイレベルからのコンバートによる高い術式行使権限ゆえに治癒力はじゅうぶんなものがある。
「ほんとうにありがとう、クライン。何てお礼を言ったらいいか……」
言葉を詰まらせるアスナを見て、クラインは照れくさそうに鼻の下を擦った。
「おいおい、水臭ぇよ。お前さんと……キリトの野郎にゃ、これくらいじゃ返しきれねえ借りがあるからな。……あいつも、居るんだろ、ここに?」
声をひそめるクラインに、アスナはそっと頷いた。
「ええ。戦闘が終わったら、会ってあげて。クラインがいつもの下らないギャグかませば、ツッコミたくて目を覚ますかも」
「おい、ひでえよそりゃ」
口元に笑みの形をつくりながらも、クラインの目は深い気遣いに満ちていた。すでに知っているのだ――キリトの受けた傷の深さを。
ああ、でも、本当に。
すべてが無事に解決し、”敵”がアンダーワールドからもオーシャンタートルからも撃退されて、シノンや、リーファや、クラインたち元攻略組、サクヤたちALO組……そしてアリスたち人界の剣士らに囲まれれば、キリトも目覚めずにはいられないかもしれない。
その瞬間を、笑顔で迎えるためにも、今をがんばらなくては。
傷が完全に癒えるや否や、アスナは術師プレイヤーに礼を言って立ち上がった。
前線では、クラインの言うとおり、すでに戦闘の趨勢は決していると言っていい。黒いアメリカ人プレイヤーたちの数は最早日本人と同数程度にまで減少し、戦意を喪失したかのようにやけっぱちな突撃を繰り返すのみだ。
しかし、この古代遺跡での戦闘は、単なる一局面に過ぎない。
問題は、皇帝ベクタに拉致されたアリスだ。騎士長ベルクーリ、それにシノンがどうにか足止めしてくれているうちに、何とか追いついてアリスを奪回せねばならない。コンバート組から最精鋭のチームを編成し、人界軍の馬を借りて全速で南下するのだ。
追いつきさえすれば、敵がどんなアカウントを使っていようが、日本のトップVRMMOプレイヤーを結集した選抜チームに勝てないはずはない。そう断言できるほど、彼らの力は圧倒的だ。戦う彼らの鎧や剣が、陽光を反射して放つ七色の輝きは、まさしく最高の宝石を零したようだ……。
滲みかけた涙をぐいっと拭い、アスナは視線を前線から後方へと向けた。
遺跡の参道入り口では、補給隊の馬車も奥から引き出され、即席の陣地が築かれている。傷ついた日本人たちが、アンダーワールド人たちに術式で癒されている光景は、これもアスナの目には言葉に出来ないほど貴重なものに映った。
「……大丈夫、ぜんぶうまくいくわ……きっと」
思わず囁いた言葉に、隣のクラインが力強い相づちを入れた。
「おうさ。さて、俺らももう一頑張りしてこようぜ!」
「ええ」
頷き、再び戦線へと振り向きかけたアスナは――。
視界の端をかすめた何かに注意を引かれ、ぴたっと動きを止めた。
何だろう……何か、黒い、いや暗い……染みみたいな……。
きょろきょろ視線を彷徨わせたアスナは、ようやく、それを見つけた。
遺跡参道に立ち並ぶ、巨大な神像。
その右側、一番手前の像の頭上に、誰かが立っている。
逆光で、よく見えない。赤いダークテリトリーの空に滲むように、揺れる黒い影。
戦場から逃げ出したアメリカ人だろうか? それとも、偵察を買って出た日本人?
いぶかしみながら目を凝らすと、その影が揺れているのは、だぶっとした黒いポンチョをかぶっているからだと分かった。フードを口元まで引き下げているために、顔はまったく見えない。
しかし。
「ね、クライン。あの人……」
走り出しかけていたクラインの袖を引っ張って、アスナは左手の指を伸ばした。
「あそこに立ってる人、なんか見覚えない?」
「へ……? ありゃ、見物してやがる。誰だよまったく……見覚えっつったって、あんなカッパ着てりゃ、顔……なんか……」
クラインの声が、急に途切れた。
アスナが目をやると、無精ひげの浮いた面長の顔が、紙のように色を失っているのに気付いた。
「ちょっと、どうしたのよ。思い出したの? 誰だっけ、あの人?」
「いや……まさか。ありえねぇよ、そんな……。亡霊を……見てるのか……? ありゃあ……あの黒いカッパは……ラフィン・コフィンの」
その単語を聞いた瞬間。
アスナも、頭の中がすうっと氷のように冷えるのを感じた。
ラフィン・コフィン。かつて、浮遊城アインクラッドに恐怖を撒き散らした最強の殺人者(レッド)ギルド。”赤眼のザザ”や”ジョニー・ブラック”が属し、多くの一般プレイヤーをその毒牙に掛け……最終的に、攻略組プレイヤーによる合同討伐隊との死闘を経て壊滅した。
その戦いで、ラフィン・コフィンのほぼ全てのギルドメンバーは死亡するか黒鉄宮送りとなったが、しかしただ一人だけ取り逃がした者がいたのだ。急襲したアジトになぜか姿が無かったギルドリーダー、SAOで最も多くのプレイヤーを殺した男、その名前を、”PoH(プー)”と言った。
常に黒いポンチョのフードを目深にかぶり、包丁じみたダガーのみを装備していた殺人鬼が、二年のときを経て、いま遺跡神像の上からアスナとクラインを見下ろしている。
「……嘘、よ」
アスナも、掠れた声で囁くことしかできなかった。
幻だ。亡霊を見ているのだ。
消えろ。消えてよ。
しかし――陽炎に揺れる黒い影は、アスナの願いをあざ笑うかのように、ゆるりと右手を挙げた。そして、生気の無い動きで左右に振った。
続く光景は――。
まさしく、悪夢の現出に他ならなかった。
黒いポンチョ姿の隣に、ひょいっと新たな人影が現れた。二人、三人。
そして、神像の背中が接する巨大な遺跡宮殿の屋上に、ごそりと黒い集団が頭を出した。左側の宮殿屋上にも、ぬっと数十人規模で影が湧き出る。
やめて。もうやめてよ。
アスナは祈った。これ以上の絶望には、もう心が耐えられそうになかった。
なのに。
黒い集団の出現は、左右に果てしなく伸びる宮殿のふちに沿って、尽きることなくどこまでも続いた。千、五千、一万人――。おそらく三万を超えたところで、アスナは数える努力を放棄した。
有り得ない。
アメリカ人は、五万もの大人数が苦痛とともに追い出されたばかりなのだ。これほどの大軍を、こんな短時間で用意できるはずはない。と言って、日本人のはずもない。日米のVRMMOプレイヤーの総数からしても、到底考えられない数だ。
幻だ。あれはみんな、術式で作り出された実体無き影なのだ。
いつしか、アメリカ人プレイヤーとの戦いにほぼ勝利した前線の日本人たちも、手を止めて後ろを振り返っていた。広大な戦場に、奇妙な静寂がしんと張り詰めた。
さわさわ。ざわざわ。
宮殿の屋上に密集する、途轍もない大軍勢の放つさざめきが、不吉な風のようにアスナの耳に届いた。
混ざり合い、溶け合ったそれが何語なのか、とっさに分からなかった。懸命に耳を済ませると、うち一人がやや大きな声で言った語尾が、どうにか聞き分けられた。
――しゃおりーべん。
何……どういう意味なの?
その時、隣でクラインが、声にならない声で呻いた。
「ああ……やべえ……やべえぞこりゃ……。あの大軍は、日本(jp)でもアメリカ(us)でもねェ……」
アスナは、背中に冷たい汗が這うのを感じながら、続く言葉を聞いた。
「あいつらは……中国(ch)と、韓国(kr)だ」
クリッターは、中国・韓国からの大量の接続をアンダーワールドに導き終えたいまもまだ半信半疑だった。
ヴァサゴ・カザルスが再ダイブ直前に指示していったとおり、日本の北西に位置する二国のネットワークにも偽の誘引サイトを作り、接続用クライアントをバラ撒いたのだが、その作業中にも何度首を捻ったかわからない。
――だって、あいつらみんな同じ顔をしてるじゃないか。
アメリカ人には、日本と韓国が地続きではないことを知らない者も大勢いる。両方とも中国の一部だと思っている者も。クリッターはさすがにそこまでという事はないが、しかし完全なる友好国なのだとは思っていた。EUのゴチャゴチャしている辺りと同じように。
だから、ヴァサゴが指定していった誘引サイトの体裁は、まったく理解不能だったのだ。
サイトは、アメリカに作ったものとは異なり、わざと急ごしらえの粗雑な出来を装っていた。実際、中国語と韓国語に堪能な隊員の手を借りて突貫作業で翻訳したのでデザインに凝る余裕は無かったのだが。
サイトのトップには、『中韓の有志が合同で立ち上げた、初の草の根VRMMOサーバーが日本から攻撃を受けている!!』と書かれていた。
その下にやや小さなフォントで、ザ・シード連結体を独占しようとする日本プレイヤー達がサーバーをハックし、異常に強力なキャラクターを好き放題に作り出して、有志のテスターを攻撃している。サーバーにはまだ痛覚遮断機能も倫理保護コードも存在せず、ゆえに同朋たちは非常な苦痛とともに虐殺されているのだ、という意味の説明が続いた。
クリッターにしてみれば、まったく真実味も説得力もない話だった。しかし、彼を驚愕させたことに、偽誘引サイトへのアクセスは凄まじい勢いで増加し、クライアントが各所でミラーされていく速度は、アメリカの比ではなかった。
クリッターは、唖然としながら思った。
――これではまるで、この日本と、中国・韓国のVRMMOプレイヤーは、仲がよくないみたいじゃないか?
――ところがどっこい、憎みあってるとすら言っていいんだなぁ、これが。
ラフィン・コフィンを率いていた頃のキャラクター、PoHとしてアンダーワールドに復帰したヴァサゴ・カザルスは、黒いフードの下でにやにや笑いながらひとりごちた。
ヴァサゴは、サンフランシスコで生まれ、十歳の頃母親に連れられて日本に渡った。日本の貿易商社の社長が、まだ若く美しかった母親を見初め――いや、金で買ったのだ。籍は入れずに、住まいと生活費だけを与えたのだから。
暮らしは豊かだったが、心はいつも荒んでいた。街にひしめく、同じ色の髪と肌をした連中を見ると吐き気がした。ナーヴギアが発売され、アメリカのバーチャルネットに接続できるようになったときは、心のそこから解放された気分を味わったものだ。
なのに、ほんの気まぐれから購入したゲームソフト、”Sword Art Online”に五万人もの日本人と一緒に閉じ込められ、ログアウトできなくなってしまったのだ。
――そりゃあ、殺すさ。殺すしかねぇだろ。
最初の”殺人”は偶発的なものだった。
次のときには、仲間を誘った。
恐怖やストレスを抱え込み、鬱屈している連中を見つけて誘惑するのは実に簡単だった。”ラフィン・コフィン”が結成され、レッドギルド・レッドプレイヤーという概念が確立されたのは、その後のことだ。
つまり、ヴァサゴこそが、SAOに”プレイヤーによる殺人行為”を持ち込んだ張本人であると言える。
その動機は、日本人を殺したかったから、ではない。
日本人が日本人を殺すところが観たかったからだ。連中同士の殺し合いが、どうしようもなく興奮させられる最上のショウだったからだ。
そして今、長い時を経て、あの興奮がすさまじい規模で再現されようとしている。
ヴァサゴにとっては、何人だろうと関係ない。東アジア人は皆等しくクズである。母親を金で買った日本人も――母親を妊娠させて捨てた韓国人も。
ヴァサゴ/PoHは、高く右手を挙げ、彼が最初に覚えた言語である韓国語で叫んだ。
「あの侵入者どもに思い知らせてやれ!! 二度と同朋に手出しする気にならないように、念入りに痛めつけて、辱めて、切り刻んで殺せ!!」
恐らく五万は下回らないだろう大集団は、二つの言葉で口々に怒りの叫びを迸らせた。彼らの目には、日本人プレイヤーたちが殺していたアメリカ人集団が、同国人のクローズドαテスターに見えていたはずだ。
ヴァサゴは、哄笑を懸命にこらえながら、勢いよく手を振り下ろした。
直後、どざあああっ! と音を立てて、大軍勢は宮殿の屋上から、洪水のように僅かな日本人たちへと降り注いでいった。
――さあ、殺し合え。醜悪に、無様に、滑稽に踊ってくれ。
「……来た」
シノンは、口のなかで呟いた。
赤い空から糸のように垂直に伸びてくる、漆黒の破線をついに視認したのだ。
理想を言えば、この時点でソルスの弓の最大威力攻撃をチャージし、敵の実体化直後を吹き飛ばしたい。それなら、防御も回避もできないはずだからだ。
しかし、今すべきことは時間稼ぎである。もし敵が無限に高位アカウントを生成できるなら、即死させても意味がない。
それよりは持久戦に持ち込み、まずは敵の対応を見定めるのだ。もし命を惜しむ様子を見せるなら、アカウントは貴重なワンオフ物と判断できる。その場合は全力で破壊し、二度と同じアカでログインできなくすればよい。
しかし、もしアカウントが量産タイプならば、殺してしまうわけにはいかない。限界まで戦闘を長引かせ、アリスが遠くまで逃げる時間を稼がなくてはならないのだ。
ゆえにシノンは、弓の弦を引くことなく、空中にホバリングしたまま敵の実体化を待った。
黒いデータラインは、つい数分前まで騎士長ベルクーリのむくろが横たわっていた岩山へと震動しながら降りていく。
遺体は、整合騎士アリスがコマンドによってリソースへと変え、騎士長の剣のかけらと混ぜ合わせて小さな鋼のペンダント二つに転換し、持ち去った。ひとつは、同輩である女性騎士に渡すと言う。
恋敵? と聞くと、アリスは少し微笑んで答えた。私の恋敵はあなたです、と。
――まったく。
そうと聞いては、簡単にログアウトしてやる訳にはいかない。キリトが目覚める瞬間までは、何が何でもこの世界にとどまらなくては。
シノンは、もう一度戦闘方針を心中で確認してから、じっと岩山に視線を凝らした。
黒い線が、頂上の中央に達し、粘性の液体となってどろどろとわだかまっていく。
それはまるで、地獄へと続く底なしの水溜りのように濃く、深い色をしていた。
ラインが最後まで吸い込まれていき、そして――。
とぷん。
表面に小さな波紋が立ち、直後、ずるっと右手が突き出された。シノンの背に、理由のわからない悪寒が強く這った。やけに細長い五指が、うねうねと滑らかに宙を掻く。
今すぐ焼き払ってしまいたい! という渇望をこらえ、シノンは敵の実体化を待った。
ずるり。腕が一気に肩口まで伸び上がる。ついで左手が出現し、ぐっと水溜りのふちを掴む。
湿った水音を立て、ゆっくりと男の頭部が出現した。
――意外にも、どうという特徴のない顔だった。暗黒神ベクタを操っていた人間が再ダイブしたはずなのに、麗しくも、逞しくもない。張り付くようなスタイルの短い金髪、微かに灰色がかった白い肌、白人系のデザインではあるのだが妙にのっぺりした印象がある。
青いビー玉のような目が、きょろ、きょろと動いてから、上空のシノンを捉えた。
あれっ、と思った。
どこかで見たような眼だ。すべてを反射するような、それでいて吸い込むような、表情のない瞳。
つり上がっても、垂れてもいない眼窩が、シノンを見据えた瞬間、少しだけ見開かれた。そして――きゅうっ、と笑うように細められた。
ああ、間違いない。知ってる。私はこの眼を知っている。それも、つい最近――どこかで――。
シノンが呆然と見下ろす先で、どぷんっ、と音がして男の全身が一気に現れた。
服装がまた奇妙だ。ごつごつと皺の寄った灰色のジャケットとボトムス。足は編み上げブーツに包まれ、胴は硬そうなベストに覆われている。まるで、コンバットスーツのようだ。左腰に下がる長剣と、背中に装備されたクロスボウが、とてつもない違和感をかもし出している。
驚いたことに、男の足元から、さらに出現するものがあった。
黒い水溜りがぎゅうっと広がる。それが地面から薄く剥がれ、翼のように左右へと伸びる。
いや、ほんとうに翼なのだ。ばたばた、と忙しなく羽ばたいた直後、男を乗せたまま岩山から離陸したではないか。
飛竜か、と思ったが違う。なんだか妙な生き物だった。お盆のように丸く平べったい胴体の前縁に、黒い眼球が幾つも張り付いている。左右に伸びる翼だけが、竜のような皮膜と鉤爪を備えていた。
男は、謎の有翼生物の背に乗ったまま、すうっとシノンと同じ高度まで上昇してきた。
そして、薄笑いを浮かべたまま、右手を横に挙げた。シノンは警戒しながらその動作を見守った。
男の手は、まるで何かを握っているフリのようにゆるく開かれていた。と、親指がにゅっと伸び、見えないスイッチを深く押した。
同時に男の唇が、無音のまま動いた。ボム、と発音するがごとく。
瞬間、シノンはついに思い出した。無意識のうちに掠れた声が漏れた。
「……サトライザ……」
間違いない。あの男は――ほんの一ヶ月前に行われたガンゲイル・オンラインの大会決勝戦で、シノンを遠隔起動爆弾で吹っ飛ばしたアメリカ人だ。
しかし、なぜここに。こんな場所に。
シノンは弓を構えるのも忘れ、愕然と眼を見開き続けた。
SAO4_51_Unicode.txt
ピラミッド型の自走メガフロート・オーシャンタートルの中央部を、高強度チタン合金製の堅牢なメインシャフトが貫いている。
円筒状のシャフト最下部には、さらに複層の防護壁に覆われたうえで、主機である加圧水型原子炉が格納される。その上に、占拠されたメインコントロールルームと、第一STL室が存在する。
アンダーワールド、ひいてはアリシゼーション計画の中枢たるライトキューブクラスターとメインフレームは、さらにその上部に鎮座している。ここまでが下層(ロウワー)シャフトということになる。
シャフトはそこで一度、水平に広がる耐圧隔壁によって分断される。上層(アッパー)シャフトと呼ばれる隔壁の上側には、巨大な冷却設備群に続いて、ラーススタッフが退避中のサブコントロールルームと、第二STL室が設置されている。
アッパーシャフトの船首サイドを貫く狭い階段を、今ひとりの――あるいは一体の人間型ロボットがゆっくりと自力下降しつつある。人工フラクトライト格納用マシンボディ試作三号機、通称”ロボザエモン”である。ぎこちない動きを見守るように、武装した数名の自衛官があとに続く。
同時に、シャフト船尾サイドを垂直に走るケーブル格納ダクト内に、申し訳程度に設置されたハシゴを、二人の小柄な人間がゆっくりと這い下りていた。
――閉所恐怖症でも、高所恐怖症でもなくてほんとうに良かった。
と比嘉タケルは自分を勇気付けようとしたが、この状況に恐怖症の有る無しなど関係ないような気もした。
何せ、ダクトはまっすぐ五十メートルも真下に伸びているのだ。汗ばむ手を一度でも滑らせ、あるいは足を踏み外したら、はるか下方でダクトを封鎖している耐圧ハッチに激突して、かなり楽しくない経験を味わうはめになる。
こんなことなら、同行の柳井さんに先に行ってもらえばよかった。それなら少なくとも、眼下の底なし穴を見つづけるハメにはならなかったのに。
――ていうか、弾避けになるとか言っといて、いざ侵入となったら「お先にどうぞ」ってどうゆうこっちゃねん。
比嘉は少々恨めしい目つきで、数メートル上でハシゴに取り付いているスタッフ柳井をちらりと見やった。
しかし、色白の顔をいっそう青くして、必死の形相でステップを握り締めている姿を見れば文句も言えない。この危険な任務に名乗り出ただけでもアッパレと思うべきだし、柳井のベルトに差し込まれたオートマチック拳銃の存在は、多少なりとも心強くさせてくれる。
再び下に視線を戻したのと同時に、耳のインカムから低い声が流れ出た。
『どう、比嘉君。問題はない?』
頭上のダクト入り口から頭だけ覗かせ、降りる二人を見守っている神代博士の声だ。
比嘉は口元のマイクに、同じくぎりぎりの囁き声を返した。
「え……ええ、何とか。あと五分ほどで、耐圧ハッチまで到達すると思うッス」
『了解。そちらの準備が出来次第、ロボザエモン班に突入の指示を出すわ。比嘉君たちがハッチを開けるのは、敵が迎撃を開始してからよ』
「ラジャー。うわお、なんかミッション・インポッシブル感漂いまくりッスね」
『頼むからポッシブルにして頂戴。私には、アンダーワールド内部の状況がどう転ぶかも、キリト君の復活にかかってる気がしてならないのよ。……すみません柳井さん、その子のこと宜しくお願いしますね』
後半の言葉を向けられた柳井スタッフの、ラッジャーです! という裏返った声が比嘉のインカムからも聞こえた。
――その子って、ねえ。
比嘉は苦笑しつつ、いつのまにか汗の乾いた掌で、鋼鉄のステップをぎゅっと握った。
ハッチまでは、もうあと半分を切っていた。
中国・韓国からダイブしたプレイヤーたちが、モニタ上で巨大な黒雲となってゆらめく様を呆然と眺めていたクリッターは、不意に響いた警報にがばっと飛び起きた。
「なん……!?」
慌ててコンソールを見回すと、右側のサブモニタのひとつに赤いアラーム表示が瞬いているのに気付いた。
「おわっ……耐圧隔壁のロックが解除されてるじゃねえかー! だ、誰か通路を見にいってくれ!!」
叫ぶ言葉が終わらないうちに、壁際からアサルトライフルを掴み挙げたハンスが脱兎の如く駆け出していった。
「お……おい、いい手なんだぞ畜生!」
一声ボヤいて、色の揃ったトランプカードを床に叩きつけ、ブリッグが後を追っていく。
まさか、装備で圧倒的に劣るK組織がやぶれかぶれのバンザイアタックを仕掛けてきたのか? それとも何かの策か……?
クリッターも思わずコンソールから離れ、コントロールルームのドアまで移動した。
階段を駆け上っていく足音に続いて聞こえてきたのは、ワァッツ、ガッデム、という驚愕の叫び声だった。
直後、ライフルの連射音がそれに続いた。
かたた、かたたたた、という乾いたその音が、自動小銃の立てるものだと比嘉はもう知っていた。
今頃シャフトの反対側では、哀れなロボザエモンが美しいCNC切削アルミ外装を孔だらけにされているのだろう。しかし、電源とサーボ系は強靭なチタン骨格の後ろに実装されているため、しばらくは動き続けるはずだ。
『いいわ! 開けて!!』
インカムからドクターの声が響くと同時に、比嘉は全身の力を込めて、マンホール型の耐圧ハッチのハンドルを回した。ぷしっ、という音がして、油圧動力により分厚い蓋が持ち上がる。
ロウワーシャフトに続くダクトは完全な暗いオレンジの光に沈んでいた。ライフルの連射音が、一層鮮明に響いてくる。
ごくりと唾を飲み、比嘉はストラップで胸にぶら下げた小型端末の感触を確かめてから、一気にハシゴを降りはじめた。
こういうとき、映画だと何か叫ぶんだよな。えーと確か……。
「……ゴーゴーゴーゴー!!」
口の中で呟くと、耳から凛子博士のいぶかしげな声が返った。
『え、何か言った?』
「い、いえ、何でも。……点検用コネクタまで、あと二十メートル……あっ、見えた、あれッス!」
ダクトの壁を這う、何本もの太い光ケーブルを飲み込むパネルボックスが、ずっと降りたところに確かに見えた。
あそこに端末を繋げば、理論上はすべてのSTLを直接オペレーションできるはずだ。
待ってろよ、桐ヶ谷君。いま、君の心を目覚めさせてやるからな!
恐怖心も忘れ、懸命にステップを降りる比嘉のインカムから、最後の通信が響いた。
『じゃあ、私はサブコンで、キリト君のフラクトライトをモニタするからね。比嘉君、気をつけてね!!』
ドクター神代、いや凜子先輩のその声は、遥か遠い学生時代と何ら変わらず、比嘉は思わずはるか上を仰ぎ見ようとした。
しかし視界に入ったのは、必死の形相でハシゴを降りる柳井スタッフの姿だけだった。
やれやれ、と思いながら、比嘉はすぐ足元に迫ったパネルボックスに視線を戻した。
「おやおや……君は、GGOの。確か”シノン”だったかな? まさか、こんなところで会えるとは」
特徴の薄い顔に、にっこりと笑顔を浮かべる”サトライザ”を凝視しながら、シノンは懸命に両手の震えを抑えようとした。
しかし指先は強張り、掌は冷たく、無理に動かすとソルスの弓すらも取り落としてしまいそうだった。
奇妙な有翼生物の背に乗ったサトライザは、温度のない笑顔を作ったまま、滑らかな日本語で続けた。
「これはどういうことかな。 日本国内にもSTLは存在するとラビットは言っていたが……君はK組織の関係者? それとも、こんな場所でまで傭兵をやってるのかい?」
シノンは、乾いて張り付いてしまったような口を懸命に開き、どうにか声を発した。
「サトライザ……お前こそ、なぜここに」
「必然だからに決まってるじゃないか」
嬉しくてたまらぬというふうに、黒と灰色の迷彩に彩られたジャケットの腕を広げ、サトライザは言った。
「これは運命だよ。私と君を引き付けあう魂の力さ」
その口調が、じわじわと変容していく。声の帯びる温度までもが、際限なく低下する。
「そう……私は君を欲した。だからこうして巡り合った。これで色々なことが分かるだろう。ライトキューブからだけでなく、STLとSTLを介せば現実世界の人間からでも魂を吸い取れるのかどうか。君とK組織の関係。そして……君の魂は、どんな味と香りを持っているのかも。さあ……こっちに来たまえ、シノン。私にすべてを委ねるのだ」
ずっ……。
と、重い音を立てて、不意に世界が歪んだ。
空気が。音が。そして光さえも、ぐにゃりと捻じ曲げられながら、サトライザを中心に吸引されていく。
「な……」
何、これ。
という思考を最後に、シノンは己の意識までもが、奇妙な磁力に引かれていくのを感じた。
いけない。抵抗しないと。戦わないと――。
心の片隅でそう叫ぶ声は、しかしどうしようもなく小さく無力だった。
いつしか、群青の鎧に包まれたシノンの体そのものが、広げられたサトライザの腕のなかへと吸い寄せられはじめた。
くたりと力を失った左手の指先に、ぎりぎり白い弓を引っ掛けたまま、シノンはするすると空中をスライドしていく。
数秒後、朧に霞む意識のなかで、シノンは自分の体がサトライザという名の重力源にぬるりと包まれるのを感じた。
男の左手が、虫のように背を這う。右手の指先が頬をなぞり、耳を覆い短い髪をぱさりと払う。
露わになった左耳に、サトライザのやけに赤い唇が近づき、耳介を軽く挟まれた。同時に、冷たい粘液のような声が頭のなかに滴り落ちてくる。
「シノン。君は、サトライザという名前の意味を考えてくれたことはあるかな?」
「…………?」
ぐったりと脱力したまま、シノンは首を左右に振った。
「いかにもアメリカ人ごのみの、禅の”サトリ”をもじった単語のようだろう? しかし違う。これは純然たる英単語なのだ。フランス語からの借用語ということになっているが、大本はラテン語だ。スペリングは、Subtilizer。意味は”下に隠すもの”。転じて――”盗むもの”」
呪文めいた抑揚で喋りつづける唇から忍び出た舌が、軽く耳を舐めた。同時に、指の長い両手がアーマーの継ぎ目を探りはじめる。
「私は、君を盗む。君のすべてを盗む……」
「じ……人界軍! 補給隊! 全速前進――ッ!!」
アスナは、東西の遺跡宮殿屋上を埋め尽くす大軍が動き出す寸前、声を振り絞ってそう叫んだ。
アンダーワールド人の衛士部隊と馬車隊は、遺跡参道を少し入ったところに陣を構えている。宮殿は、その参道のすぐ両側に広がっているのだ。これでは、真っ先に襲ってくれと言っているようなものだ。
「物資は捨てて!! 今すぐ参道から出て、走って!!」
さらに指示するが、到底間に合いそうにない。新たに戦場に現れた、おそらく中国と韓国からの接続者たちは、いまにも巨大神像の頭を踏み越えて、人界軍の真っ只中へと飛び降りていきそうだ。
アスナは歯を食いしばり、思念を凝らした。
ラ――――――、という多重サウンドに続き、振り下ろしたレイピアからオーロラが一直線に迸った。
目の前に白い火花が飛び散る。すさまじい激痛が脳を焼く。
しかし同時に、参道の両側に並ぶ四角い神像たちが、地響きを立てて動き始めた。短い腕を振り回し、いかつい口を開いて、空中の黒い兵士たちを叩き落し噛み潰す。
聞きなれない言語による悲鳴と絶叫。降り注ぐ鮮血。
それに重なって、一層の激怒と罵倒の雄叫びが響き渡る。
対話と説得の可能性は最初から無かった。いったい、何をどのように説明されたのか、それほどまでに隣国のプレイヤーたちが放つ怒りの集合思念は強烈だった。
神像群を操作できたのはほんの三十秒程度だったが、その時間を利用して、どうにか数百人の人界人たちと十台の馬車は参道から脱出した。一直線に広い荒野へ突進してくるその部隊を、二千の日本人プレイヤーでぐるりと包み、応戦態勢を取る。
しかしこれでは、掩体に利用できるものは一切無く、絶望的な全周防御を強いられてしまう。数で優るアメリカ人たちを、さしたる被害もなく撃退できたのは、宮殿の壁を利用して戦線を限定し、分厚いスイッチローテーションを組めたからだ。おそらく四万から五万に迫ろうという中国・韓国人部隊に全方位を取り囲まれれば、前線崩壊は時間の問題だ。
「くっ……」
アスナは歯を食いしばりながら、もう一度レイピアを高く掲げた。
お願い、壁を……二千人を囲むに足る防壁を、最後に作らせて。
祈りながら、思念を凝らそうとした。
しかし。
ばちっ、という一際巨大なスパークがアスナの全身を貫いた。同時に膝から力が抜け、がくりと地面に両手を突いてしまう。
喉元に熱くこみ上げてきたものを吐き出すと、それは少量の血だった。
「無理すんな、アスナ!!」
叫んだのはクラインだった。
「そうだ、ここは任せろ」
太い声でエギルも続ける。
前方から押し寄せ、日本部隊を取り囲むように左右に割れる黒い大軍勢の分厚い中央めがけ、二人の剣士が突撃していく。
炸裂するソードスキルのエフェクト光が、青く、赤く瞬いた。
彼らの左右でも、ALOの領主たちや、スリーピングナイツの猛者たちが、それぞれに全力の戦闘を開始した。
機関銃のように突き抜ける金属音。重く響く単発の爆砕音。長剣が、戦斧が、槍が唸り、鍛え上げた連続剣技が炸裂するたびに、黒い兵士たちが鮮血とともに地に臥した。
ぎしっ、と空気が密度を増して軋み、大軍の突進が一瞬止まった。
それは――。
決壊した堤防から襲い来る怒涛の濁流を、素手を広げて防ごうとする哀切な努力に他ならなかった。
悲鳴と喊声の渦巻く戦場の空を、かすかに流れる甲高い哄笑を、うずくまったままアスナは聞いた。
霞む眼を向けると、遥か離れた宮殿の屋上で、黒いフードの男が腹をかかえて身を捩っているのが見えた。
遠くで断続的に響く銃撃音を聞きながら、比嘉は出せる限りの速度でハシゴを降りた。
オレンジの光を受けて鈍く輝くパネルボックスにやっとで辿りつくと、強張った指先で蓋を開ける。
内部には、ごちゃごちゃと配線がひしめく端子盤が鎮座していて一瞬げんなりするが、片手でそれらを掻き分け掻き分けどうにか問題のコネクタを見つけ出した。
いよいよだ。
大きく息を吸い、思考を落ち着けてから、持参したケーブルの片端をそっと捻りこむ。胸にぶら下げた端末を開き、LCDに光が入るのを確認してからもう一端を接続する。
祈るような気持ちで、自作のSTLオペレーション用ツールを立ち上げ、スタートアップ表示を睨みつける。四角いカーソルの点滅間隔がやけに遅く感じられる。
STL#3、Connect......OK。
#4、OK。
まず、サブコントロールに隣接する第二STL室の二台から正常な信号が返る。
続いて、数秒の間をあけて六本木分室の#5、#6との接続が確立した。
「……っし!」
比嘉は低く呟いた。これで、桐ヶ谷和人と三人の少女たちが使用するすべてのSTLの直接操作が可能となったはずだ。
惜しむらくは、メインコントロールから第二STL室および衛星アンテナに続く回線のみをジャックしている状態ゆえに、第一STL室の二台には手を出せないことだ。それが可能なら、#1、#2からダイブしている襲撃者の魂を焼き払うことすらできるのだが。
余分な思考を堰き止め、比嘉は作業を急ぐべく小さなキーボードに右手の五指を置いた。
――行くぜ!
と気合を入れるのと、頭上から甲高い囁き声が降ってきたのはほぼ同時だった。
「……うっ、動くな!!」
柳井スタッフの声だ。この状況でいきなり何を。
苛立ちながら頭上を振り仰いだ比嘉が見たのは、三メートル先で青黒く輝く自動拳銃の銃口だった。
「…………は?」
ぽかん、と放心したのは、わずか半秒足らずだった。
比嘉は瞬時に状況を把握し、その原因を推測した。
――こいつだ。この男が、襲撃者たちにアリシゼーション計画の情報を流していた内通者だったんだ。
しかし残念ながら、即時の対応策までは出てこなかった。
ゆえに、比嘉はただ無為な質問を発することしか出来なかった。
「……柳井さん。何でッスか」
生白い額に脂汗の玉をびっしりと浮かべた技術者は、唇をかすかに痙攣させてから、細い声を絞り出した。
「い……言っとくけど、お門違いだからな。ボクを裏切り者扱いするのは」
扱いも何も、そのものだろ!!
という比嘉の内心の叫びが聞こえたかのように、柳井は更に言葉を重ねた。
「ぼ、ボクは初志貫徹してるだけだ。ボスの遺志はボクが引き継ぐ、そのためにラースに潜り込んだんだからな」
「ぼ……ボスの、遺志? 誰のことを言ってるんスか……」
呆然とそう尋ねると、柳井は肩から垂れた長髪を払い、芝居じみた笑みを浮かべて答えた。
「き、君もよぉーく知ってる人さ。……須郷サンだよ」
「な…………」
――何い!?
比嘉は今度こそ目を剥いた。
須郷伸之。比嘉や神代博士と同時期に、東都工業大学重村ゼミに在籍していた人物だ。天才・茅場晶彦にあからさまな対抗心を燃やし続け、しかしついに超えることあたわず、そのせいなのかどうか、旧SAOサーバーの接続者数千人を違法な人体実験に利用するという暴挙に出た男。
事件が明るみに出たあと逮捕され、一審の実刑判決に控訴して現在は東京高裁で係争中、のはずである。
「……死んでないッスよ」
思わずそう呟くと、柳井はヒヒッと甲高い笑いを漏らした。
「に、似たようなもんさ。最低でも十年は食らい込むでしょ。ボクも危ないとこだった、もう一人のスタッフに全部おっかぶせて、どうにか逃げ延びたけどね」
「じゃあ、あんたも……あの人体実験に関わってた……?」
「関わったなんてもんじゃないよぉ。ありゃあ楽しかったなあ……バーチャル触手プレイとかさぁ……」
――いったい菊岡二佐は、なんでこんな男の背景をチェックし損ねたのか!
と比嘉は鼻息荒く考えたが、しかしすぐに無理もないかとため息をついた。
偽装企業ラースは、アメリカにほぼ掌握されている現在の防衛技術基盤に、純国産の風穴を開けようという意図のもとに設立された。それはつまり、既存の財閥系メーカーや防衛商社の利潤をおびやかす存在となり得る、ということでもある。
ゆえに、技術系スタッフの陣容を揃えるのには大いに難渋した。こと大メーカーからの参加者は皆無に近かったはずだ。そんななかで、レクトという大企業でNERDLES技術部門に勤めていた柳井のラース参入が、もろ手を挙げて歓迎されてしまったのもやむを得ない。
比嘉の視線の先で、柳井はしばしうっとりと回想に浸っている様子だったが、すぐに拳銃をちゃきっと構え直した。技術スタッフにまで射撃訓練を施した菊岡の周到さが、今だけは裏目に出たかっこうだ。
幸い、柳井はまだ吐き出すべき鬱屈が残っているらしく、裏返り気味の声で会話を続けた。
「ま、ボスの人生はもうエンドロールだけど、あの人が繋いだラインは生きてる。なら、ボクがそれをきちんと使ってあげなきゃ、あの人も浮かばれないよね」
「ライン……て、どことっスか」
「グロージェン・マイクロ・エレクトロニクス」
にんまりと、どこか得意そうな柳井の声。
「な、なんだって!?」
と比嘉は驚いて見せたものの、内心ではやはり、と思っていた。
グロージェンMEは、アメリカの軍産システムに深く食い込むハイテク企業だ。須郷伸之はガンとして口を割らなかったが、違法実験データの売り込み先だったという噂は、では事実だったのだ。須郷が研究していた、NERDLESによる思考・感情操作技術への投資を回収するため、”A.L.I.C.E.”の強奪までも目論んだというわけだ。
「下の連中が首尾よく”アリス”を回収すれば、ボクにもでっかいボーナスと、向こうでのポストが約束されるってワケさ。これぞまさに、須郷さんが夢見てたアメリカンサクセスストーリーだよね」
その後、世界はアメリカ軍が配備するであろう超高性能無人兵器群に震え上がるわけだけどな。
比嘉はそう反駁したいのを必死に堪えた。今は、少しでも会話を長引かせ、僅かなチャンスを拡大しなくてはならない。
――気付いてくれ、凛子さん!
強くそう念じたとき、無意識のうちに右手をぎゅっと握ってしまった。
「うっ動くな!!」
柳井が叫び、銃口をダクトの壁面方向にずらし――トリガーを引いた。空気が膨らみ、鼓膜が痺れた。
おいおい、という思考が比嘉の脳裏に瞬くのと、ダクトの金属壁に火花が弾けるのと、右肩の下に強い衝撃が走ったのはほぼ同時だった。
「あれっ」
と、柳井が驚いたような声を出した。
シノンは、上体を包むブレストプレートが、音もなく前後に割れ、落下していくのをぼんやりと感じた。
明け方の夢によく似ていた。
何かをしなくてはならない。したはずなのに、それは夢なので本当にはしていない。ひたすら繰り返される幻のサイクル。
何者かのひんやりと冷たい指が、首筋を撫でる。強い嫌悪感。恐怖。しかしそれらすらも、即時に意識から吸い出され、ぼんやりとぬるい空疎が取って変わる。
腕が背中に回り、身体を持ち上げられた。ふわりと仰向けになる感覚。お盆型の有翼生物の、濡れたような背中に横たえられる。
いけない。
これは、仮想空間における非現実の出来事ではない。
その認識が、赤い警告灯のように暗い意識の片隅で瞬く。そちらへ向かって走り出そうとするが、粘度の高い液体に、いつしか腰の辺りまで飲み込まれている。
上着の胸元をゆわえる細い革紐が、丁寧に抜き取られていく。太腿を、指先がくすぐるように這い回る。
それらの感覚に反応して浮かび上がってくる感情を、男は洞穴のような両眼で、長い舌で、貪欲に吸い取っていく。
――やめて。
――盗まないで。
という懇願すらも即座に奪われ、残るのは真綿のように分厚い麻痺感のみ。
はだけられた胸元から冷たい手が忍び込み、シノンはついに諦めの涙をひとつぶ零した。
生き物のような舌がそれを舐め取る。
「やめ……て…………」
呟いた唇に、男の舌が近づく――。
バチッ!!
という衝撃が、突如シノンの身体と意識を打った。
見開いた目の先で、開かれた上着の襟ぐりから、眩い銀色の火花が迸るのが見えた。
熱い!!
という巨大な感覚が、男の吸引力を一瞬上回った。ほんの短い時間だけ回復した思考力を、チャンバー内の炸薬のように破裂させ、シノンは男の身体の下から全力で飛び退いた。
ソルスアカウントの飛行能力をフルに発揮し、大きく距離を取る。
「…………っ……」
大きく喘ぎながら、シノンは尚も上着の内側でスパークする何かを、右手で引っ張り出した。
それは、細い銀のチェーンにぶら下がる、白っぽい小さな金属のプレートだった。薄い円形の一端に孔が穿たれ、鎖が通っている。
「な……んで、これが」
ここに。
シノンは驚愕し、息を詰めた。
これは、現実世界の自分、朝田詩乃がいつも首に下げているネックレスだ。高価なものではない。金属はただのアルミニウムである。
しかし、シノンにとっては大きな意味を持つ品だ。
去年、シノンが巻き込まれた”死銃事件”。
その犯人の一人だった同級生の少年が、劇薬を封入した高圧注射器でシノンを襲った際、駆けつけた桐ヶ谷和人――キリトは胸に致死の薬液を噴射された。
その薬の侵入を防いだのが、彼が胸から外し忘れていた、たった一つの心電モニター用電極だ。
シノンはその電極からシリコン部分を剥離させ、アルミプレート部だけをペンダントヘッドに加工して、ひそかにいつも胸にぶら下げている。そのことは、キリトやアスナにも秘密にしている。勿論、STLでのダイブをオペレートした、ラースの技術者が知る道理があるはずもない。
だから、これがアンダーワールドにおいて、オブジェクト化されているなどということは有り得ないのだ。
――しかし。
ラースの人は言っていた。STLを用いてダイブする限りにおいて、アンダーワールドはただのポリゴン被造物ではない、と。
記憶とイマジネーションによって生み出される、もうひとつの現実なのだ――と。
ならばこのペンダントは、自分のイメージが出現させたものだ。
シノンは白い金属板にそっと唇をつけてから、それを服の下に戻した。
完全に回復した意識を、離れた場所に浮遊する平たいコウモリ生物に戻す。
背中では、サトライザが虚無的な視線を、自分の右手に注いでいた。その指先から、かすかな白煙が上がっているのをシノンは見た。
サトライザの顔が、かくん、と持ち上がった。
口元に、かすかな、ほんのかすかな不快の色が浮かんでいた。
「……お前は、怪物じゃないわ。ただの人間よ」
シノンは低くそう呟いた。
確かにサトライザの力は強力だ。おそらく、凄まじいイマジネーション強度で、シノンの用いるSTLにまで干渉しているのだ。
でも、イメージ力なら負けない。
なぜなら、それこそが、狙撃手にもっとも必要とされるパラメータなのだから。
シノンは、左腕に引っかかっているソルスの弓を見下ろした。ぱしっと手中に移し、じっと思念を凝らす。
白く輝く弓の中央部が、突然青みがかったスチールの色へと変化した。
変色範囲が広がると同時に、湾曲する弓がまっすぐな直線を描きはじめる。四角いグリップが、銃床が出現し、最後に巨大なスコープがどこからともなく装着された。
手のなかにあるのは、もう流麗な長弓ではなかった。
無骨で、凶悪で、しかし途轍もなく美しい五十口径対物狙撃ライフル――”ウルティマラティオ・ヘカートII”。
無二の相棒のボルトハンドルを、じゃきんと音高く操作し、シノンはにやりと笑った。
サトライザが厭わしげに歪めた口元から、白い犬歯が牙のようにちらりと剥き出された。
“交戦”と呼べるものは、わずか七分間しか続かなかった。
その後状況は、三分間の防戦を経て、一方的な殺戮へと移行した。
「死守して……! アンダーワールド人部隊だけは……何としても!!」
アスナは頭の芯に居座り続ける痛みを無視し、最前線でレイピアを乱舞させ続けながら声のかぎりにそう叫んだ。
しかし、声の揃った頼もしい応答はもう返らない。
周囲では、カラフルな鎧を輝かせる日本人プレイヤーたちが一人またひとりと、モノトーンの暗黒界アカウント仕様装備に身を固めた隣国人たちに包囲され、飲み込まれ、刃で滅多刺しにされていく。咆哮、金属音、悲鳴、そして断末魔の絶叫が次々に響く。
比較すれば、アメリカ人重槍兵部隊の直線的突進のほうがまだしも対処のし様があった。
新たに出現した大軍は、二つの国からダイブしているせいか、あるいは滾らせている異様な怒りのせいか、秩序も統制もなく形振りかまわない殲滅のみを目指している。複数人で目標の脚に掴みかかり、引き倒し、圧し掛かって自由を奪う。このような戦い方をされては、数の差を戦術、あるいは士気で覆すことなど到底できない。
二千人が円形に繋いだ防御陣が、見る間に侵食され、薄くなっていく。
アスナは、尽きることなく押し寄せてくる兵士たちを闇雲に斬り払い、突き倒しながら、昨夜アンダーワールドにダイブして以来はじめて心の中で声を上げた。
――誰か、たすけて、と。
絶望的抗戦のなかにあって、比較的健闘を続けている部隊のひとつが、アルヴヘイム・オンラインにおいてシルフ族の領主を務める女性プレイヤー、サクヤ率いる緑の剣士隊だった。
シルフはもともと、ALO内種族対抗戦においても、密集陣形での集団戦を得意としている。重装プレイヤーの個人技にウェイトを置くサラマンダー族に対抗するために練り上げた連携が、この場の混戦でもある程度有効に機能した。剣士たちがほとんど肩を接するように密に並ぶことで、各個に引きずり倒されるのをどうにか防いでいるのだ。
「よし、我々が後退の突破口を作るぞ! “りんどう”隊、”からたち”隊、密集陣のまま戦線を右に押し上げろ!!」
自身も最前面で細身の長刀を縦横に振るいながら、サクヤは叫んだ。
右翼方向で戦闘中のはずのサラマンダー隊と合流し、彼らの突貫力を利用して一気に敵陣を破る。支援部隊を包囲から逃がすことができれば、どうにかまともな撤退戦へと移行し得るかもしれない。
「行くぞ! 両部隊、”シンクロソードスキル”開始用意!! カウント、5、4、3……」
サクヤが、そこまで指示しかけたときだった。
耳に、遠くからかすかなひとつの悲鳴が、くっきりと明瞭に聞こえた。
「きゃああああっ!!」
はっ、と呼吸を止め、サクヤは左方向に視線を走らせた。
今しも、オレンジと黄色を基調とした装備の日本人部隊が崩壊し、黒と灰色の波に飲み込まれていくところだった。その中ほどで、両手に装備したメタルクローを押さえられ、引き倒される小柄な姿が確かに見えた。
「アリシャ!!」
サクヤは叫んだ。瞬間、彼女は勇猛果敢な指揮官から、ひとりの女子大生へと戻っていた。
「やめろ――――――っ!!」
叫び、持ち場を離れて単身左へと駆け出す。立ち塞がる敵を右に、左に斬り飛ばし、ひたすらに親友のもとへと突き進む。
ケットシー族領主アリシャ・ルーは、手足を拘束され、無数の手に装備を引き剥がされながらも、接近するサクヤを見るや激しく左右に顔を振った。
「だめっ、サクヤちゃん戻って!! 部隊を指揮してえっ!!」
そのひと言を最後に、黄色い髪から伸びる三角の耳と小麦色の肌がサクヤの視界から消えた。
「アリシャ――――ッ!!」
悲鳴にも似た声を迸らせながら、サクヤはケットシー隊を押し包む敵の大集団にひとり突入した。あらん限りのソードスキルを繰り出し、鮮血と肉片の雨を振り撒いてひたすら前進し――。
どかっ。
という衝撃に視線を落とすと、背中から右腹を貫いて伸びる槍の穂先が目に入った。
恐るべき激痛が神経を駆け巡り、脚から力を奪った。
それでもさらに四歩前進したものの、そこで身体が意思の制御から離れ、がくんと膝が地面にぶつかった。
直後、暴虐の嵐がサクヤをも飲み込んだ。右手から長剣が奪われ、和風の二枚胴と具足が引き剥がされ、薄緑の直垂が一瞬で千切れ飛んだ。
この場にダイブしている二千人の――急激に減少中ではあるが――jp接続プレイヤーのなかで、もっとも正確に状況を把握しているのはおそらく、ギルド”スリーピング・ナイツ”の三代目リーダーであるシーエンだった。
シーエンは、kr接続プレイヤーたちが口々に放つ怒りの言葉を断片的に聞き取り、彼らがどのような情報に煽動されたのかを察知した。
――私がなんとかしないと。たぶん、韓国語を話せるのは私だけだ。
そう決意し、魔法職のシーエンを守るように周囲に立つ四人のギルドメンバーに声を掛ける。
「みんなお願い、一秒だけでいいからブレイクポイントを作って!!」
すぐさま、以心伝心の仲間たちが、疑問を差し挟むことなく諒の声を返す。
先頭で鬼神の如き激戦を続ける両手剣士のジュンが、ちらりと背後を見て叫んだ。
「よし、テッチ、タルケン、ノリ、シンクロで単発大技を決めるぞ! カウント、2! 1!」
完璧に同期して繰り出された重攻撃が、天地を揺るがす大爆発と閃光を引き起こし、一瞬周囲に静寂と停滞を作り出した。
すかさずシーエンは、目をつけていたリーダー格らしき大柄な韓国人プレイヤーへと走り寄り、振り下ろされる長剣を、むき出しの左手で受け止めた。
掌が裂け、骨が砕け、血があふれ出す。
しかしその仮想の痛みは、かつてシーエンが味わった骨髄移植や治験薬カクテル療法の苦しみに比べれば、どうということはなかった。わずかに眉をしかめただけで、シーエンはじっと相手の鎧の奥の両眼を見つめ、韓国語で叫んだ。
「聞いて!! 貴方たちはだまされています!! このサーバーは日本企業のものだし、私たちはチーターじゃなく、正規の接続者です!!」
その声は、周囲の広範囲に高らかに響き、沈黙をさらに少しだけ長引かせた。
シーエンの手に刃を握られた韓国人は、やや気圧されたように仰け反ったものの、すぐに鋭い声で反駁した。
「――嘘をつけ! 見たぞ、お前たちはさっき、俺たちと同じカラーのプレイヤーを皆殺しにしていたろう!!」
「あれは、貴方たちと同じように偽の情報でダイブさせられたアメリカ人です! 日本企業の実験の妨害をさせられているのは、貴方たちなのよ!!」
再び、戸惑いを帯びた静寂。
それを破ったのは、シーエンの声でも、韓国人リーダーの声でもなかった。
「汚い日本人に騙されるな!!」
韓国語でそう叫んだ声は、重く、強く、冷たく、それでいてどこか嗤いを含んでいるように感じられた。
視線をずらしたシーエンが見たのは、いつの間にか少し離れた後方に立っていた、黒いフードポンチョ姿の男だった。
艶のある布が割れ、同じく黒いレザーにぴったりと包まれた右腕が伸びて、まっすぐにシーエンを指差した。
「正規接続者だというなら、なぜお前らだけそんな高級な装備を持っているんだ? GM装備なみにピカピカ光ってるじゃないか! チートで好き勝手に作り出したに決まってる!!」
そうだ、そうだ! という叫びが周囲から追随した。
シーエンは、必死に男の言葉を否定した。
「違います! 装備が異なるのは、私たちのメインアカウントをコンバートしたからよ!」
その途端、フードの男が高くせせら笑った。
「テストサーバーにメインキャラを移すなんて、そんな間抜けが居るかよ! 嘘だ、全部嘘だぞ!!」
「本当よ、信じて!! 私たちは、このアカウントを喪失する覚悟で、ここに……」
ひゅんっ、と空気を切り裂く音がした。
シーエンは、飛来したダガーが自分の右肩に深く突き立ったとき、痛みよりも遥かに大きな絶望を感じた。武器を投じた男が猛々しく喚いた言葉は、シーエンには理解できなかった。
ch接続プレイヤーの集団が、いっときの停戦状態を破って突撃してくるのを見て、目の前の韓国人も荒く剣を引き戻し、右足でシーエンを蹴り飛ばした。
地面に倒れこんだシーエンは、背後から仲間たちが駆け寄ってくる足音を聞きながらも、再び立ち上がることができなかった。
――なぜ。
整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、戦場の空に渦巻く憎しみの劫火を見上げながら、それだけを胸中で繰り返した。
――なぜ彼らは、同じリアルワールド人同士で、これほどまでに憎みあい、殺しあわなくてはならないんだ。
いや、己が言えたことではないのかもしれない。この世界に住まう者たちだって、人界人と暗黒界人に分かれ、何百年も血みどろの戦いを続けてきたのだから。ほんの数日前、東の大門で流された血の量は、この戦場の土に浸み込みつつあるそれと匹敵するだろう。レンリ自身、両腰に下がる神器・比翼により、数え切れないほどのゴブリンの命を絶った。
それより遥か以前に、たかが剣名と栄誉のためにかけがえのない友の血に刃を濡らしもした。
でも、だからこそ。
世界の外側に広がるというリアルワールドには、憎しみも争いもなく、ただ友愛のみが空気を満たしているのだと信じたかった。
しかし、それが幻想であるのは最早明らかだった。リアルワールド人であるアスナや、その仲間たちは人界人と同じ言葉を話すのに、新たに襲ってきた数万の軍勢が口々に放つ叫びは、レンリにはまるで理解できないものだ。言語ですらここまで乖離しているのなら、休戦や和睦の交渉すら不可能ではないか。
つまり、争いこそが人間の本質だということなのだろうか。
アスナがアンダーワールドと呼んだこの世界でも、その外側のリアルワールドでも、そしてもし存在するのならばさらにその外の世界でも、人は果てしない殺し合いだけを続けているのか。
――そんなはずがあってたまるか!
レンリはぎゅっと両拳を握り締め、滲みかけた涙をこらえた。
整合騎士シェータは、敵であるはずの暗黒界軍拳闘士団を守るためにひとり死地に残った。あの人は、たぶん、剣と拳を通じて暗黒界人と分かりあったのだ。血にまみれた道の向こうにだって、きっと希望はあるんだ。
ならば、今は戦わねばならない。ただ守られ、立ち尽くしているときではない。
レンリは、必死の防戦を続けるアスナ側のリアルワールド人部隊の救援に向かうべく、前線に歩き出そうとした。
と、小さな声が背後で響いた。
「騎士様。私も行きます」
振り向くと、立っていたのは補給隊に所属する赤い髪の練士、ティーゼだった。小ぶりの剣を左手にしっかりと握り、悲壮な表情でぎゅっと口元を引き締めている。
「だ……だめだよ、君はあの人を守らないと……」
「その役目は、ロニエに譲ります。私は……、私の好きだったひとは」
ティーゼは、紅葉色の瞳にうすく光るものを浮かべ、続けた。
「あの人は、大切なものを守るために命を散らしました。私も、その志を継ぎたいんです」
「…………そう」
レンリは顔を歪め、唇を噛んだ。
突然、自分でも思いがけないことに、両の腕が前に伸び、細いティーゼの身体を引き寄せていた。はっ、と強張る背中に軽く手をあて、声をかける。
「なら、君は僕が守る。絶対に守るから……だから、僕の背中から離れないで」
「…………はい。有難うございます、騎士様」
ティーゼの小さな手も、ほんの一瞬レンリの背中に触れた。
それでもう充分だった。
エルドリエさん。シェータさん。そしてベルクーリさん。
あなた達のように、僕もようやく命の使い場所を見つけられたようです。
心のなかで呟き、整合騎士レンリは少女練士ティーゼの手を取ると、悲鳴と絶望渦巻く戦域へと駆け出した。
神代凜子は、サブコントロールに駆け戻ると、つい十数分前まで比嘉タケルが座っていたオペレーター席に飛び込んだ。
正面の大モニタに幾つも開かれたウインドウのうち、下部のひとつを注視する。表示されているのは、桐ヶ谷和人のフラクトライト状態を現す立体グラフだ。
虹色のグラデーションに彩られた星のような放射光の中央部には、”主体の欠損”を示すという黒い闇が滲んでいる。
いま、比嘉タケルは四台のSTLを直接操作し、問題の欠損を桐ヶ谷少年と深く関わる三人の少女の記憶を用いて修復しようとしている。そのために、敵に占拠された下層シャフトに単身――いや、たった二人で潜入したのだ。
今のところ、敵襲撃者たちは、囮としてシャフトの主通路から突入させた”ロボザエモン”の迎撃に気を取られている。しかし、ライフルで撃ちまくられればそう長くは持たない。ロボットを破壊すれば、敵も考え出すだろう。果たして、日本人たちは何をしたかったのか、と。
――比嘉君、急いで!
心のなかでそう呼びかけたとき、しゅっとドアがスライドし、がこがこ下駄を鳴らしてアロハシャツ姿の男が駆け込んできた。
「ど……どうだい、キリト君のほうは!?」
「今のところは、まだ。囮のほうはうまく行ってる?」
訊き返すと、菊岡は肩で息をつきながら、ずれた眼鏡をくいっと持ち上げた。
「ザエモンに即席で搭載したスモークグレネードは全部撃ちつくした。煙が通路から排出されるまではもう少し引っ張れるだろうが、その後は再び隔壁をロックしないと危険だ。あまり時間はないぞ」
「比嘉くんは、長くても五分で終わるって言ってたけど……」
口をつぐみ、凛子は再びモニタに視線を戻した。
桐ヶ谷少年のフラクトライトには、相変わらず変化はない。ぎゅっと両手を握り締め、アメリカの主婦が口にする『鍋の湯を見つめていると沸騰が遅くなる』という諺に従う心境で目を上に向ける。
するとそこには、まるで架空のファンタジー地図のような――いやある意味その物である、アンダーワールドの地形概略図ウインドウが開かれたままになっていた。
つい、じっと凝視してしまう。
数日前、オーシャンタートルに到着してすぐに見せられた”人界全図”の、さらに外側が表示されている。人界を取り囲む円形の山脈から、南東方向にずっと下ったところに、四角を二つ並べたような人工地形が見て取れる。そこには、結城明日奈を示す白い光点と、人界側アンダーワールド人集団を示す青いモヤ、日本から接続中のプレイヤー集団を示すクリーム色のモヤが密に固まっている。
そして、彼らを取り囲む黒いモヤが、襲撃者たちに誤誘導されてダイブしたアメリカ人集団――のはずなのだが、しかしやけに規模が大きい。日本人たちの二十、いや三十倍ほどもいるのではないか。
これでほんとうに大丈夫なのだろうか、明日奈以外の二人はどこに行ってしまったのだろうと画面を見回すと、その人工地形から遥か南に下ったところに、水色の光点を一つ発見した。おそらくこれが朝田詩乃か。
となると桐ヶ谷直葉はどこに。更に地図を詳細に眺め、ようやく見出した黄緑色のドットは、主戦場から随分と北で輝いていた。たしか比嘉は、二人とも明日奈の座標にダイブさせたと言っていたのに何故、と眉をしかめた凜子は――。
ふと、直葉の光点の強い輝きにほとんど隠れるように、もう一つ赤い光が瞬いているのに気付いた。
「…………?」
もう、ラース側からSTLダイブしている人間は居ないはずだ。となるとこのドットは何だろう。
反射的にマウスを滑らせ、カーソルを慎重に赤いドットにあわせてクリックすると、はたして、新たなウインドウが開いた。眼を凝らし、連なる微細な英字フォントを読み取る。
「ええと……制限、対抗指数……検出閾値……報告? 何なのこれ……」
意味が分からない、と続けようとした、その時だった。
「な……なにィ!?」
今まで桐ヶ谷和人のグラフに注視していた菊岡がいきなり大声を出し、凜子は飛び上がった。
「な、なによ!?」
しかし菊岡は何も言わず、凛子の手の上からマウスを操作し、新たなウインドウを引っ張り出す。
「ぐっ……間違いない、新たな限界突破フラクトライトだ……なぜこのタイミングで……!」
がりがりと髪をかき回す菊岡の顔を、凛子も思わず目を丸くして見上げた。
「えっ……それってつまり、第二の”A.L.I.C.E.”ってこと?」
「そう、その通り……ああ、いや、待った……これは……」
菊岡は、詳細なログが表示されているウインドウを高速でスクロールさせ、喉の奥で長く唸った。
「……厳密には、”アリス”と同じレベルとは言えない……。論理回路ではなく、情動回路を生成して制限を突破したようだが……しかし貴重なサンプルなのは間違いない。このまま大人しくしてくれていればいいが……ああ、いかん、すぐ南のアメリカ人集団に向かっている!」
両手で頭を抱える菊岡からマウスを奪い返し、凜子も問題の人工フラクトライトが限界を突破したときの詳細ログを注視した。
「はあはあ……確かに、感情フィールドに新しいノードが連鎖反応的に発生してるわね……そうか、まるでこれは……薄膜上のバイオチップの成長過程に似て…………ん? ねえ、菊岡さん?」
「な……なんだい」
おっおおお、と身を捩っていた菊岡は、仰け反らせた首だけをモニタに向けた。
「この、ここんとこに挿入されてるルーチンは何なの? なんだか、やけに違和感があるって言うか……人工的な……まるで、回路の新生を阻害するみたいな……」
凛子は、目を細め、懸命に長大なプログラムコードを追った。
「右視覚領域に……擬似痛覚注入? これじゃ、せっかく人工フラクトライトが発生させかけた論理や情動も、痛みでかき消されちゃうわよ。あなたたちは、わざと限界突破にこんな障壁まで設けていたの?」
「い……いや、そんなことはしていない。するわけないじゃないか、目的と真逆の行為だ……というか、明白に妨害してる」
「そう……よね。それに、このコードのクセ、比嘉くんのと違う……あ、最初のとこにコメントアウトがあるわ、消し忘れかしら……。”コード871”? 871って何?」
「ハチナナイチ? 聞いたこともないよ……いや、待て……待てよ、つい最近、どこか……で……」
突然菊岡はがっこがっこと駆け出し、すぐ傍の椅子に掛けられたままになっていた薄汚れた白衣を掴みあげた。ばんっと音をさせて広げ、襟のあたりを凝視している。
「ちょっと、何よ、どうしたの?」
凛子が尋ねると、黒縁眼鏡の下で両目をぐりんと見開いた菊岡が、白衣の襟タグを突き出すように示した。
そこには、黒の油性マジックで、”871”の数字がくっきりと記されていた。
「その、白衣は……さっき、比嘉くんと一緒に下に行った、スタッフの柳井さんが……」
呟いた凜子は、自分の声が尻すぼみに消えていくのを聞いた。
柳井。871。
「……ヤナイ!?」
凜子と菊岡は、同時に声を上げた。
拳闘士団長イシュカーンは、近づく黒い死の姿を、片方だけの瞳で眺めた。
皇帝の召喚した奇妙な兵士たちは、包囲の輪をほんの二十メルの距離まで縮めると、もう拳闘士たちに戦意が無いのを確認したのか、互いに頷き合った。
直後、意味の取れない、やけに威勢のいい雄叫びを口々に放ち、一斉に地面を蹴った。
地面と空気が揺れるのを感じながら、イシュカーンは壊れた左手で、隣に座る女騎士の右手を強く握った。すぐに握り返される感覚があり、痺れきった神経に、甘い痛みが一瞬かよった。
最後のときを迎えるため、目をつぶろうとした、その瞬間――。
震動と雄叫びが、一気に倍に増えた。
「……イシュカーン。あれ」
シェータの声に、視線を巡らせる。
見えたのは、戦場の北に広がる巨大峡谷の向こうから、土煙を上げて殺到する大軍勢だった。
丸く、巨大な身体。突き出た平たい鼻と、垂れ下がった耳。
オークだ。
「……なんでだ」
イシュカーンは呆然と呟いた。オーク軍は、ずっと北の大門前で皇帝ベクタから待機を命ぜられたままのはずだ。皇帝が姿を消したままである以上、その命令が解除されるはずはない。事実、五千の暗黒騎士団は、峡谷のすぐ向こう岸で愚直な待機をひたすら続けている。
わけがわからず、ひたすら目を凝らしたイシュカーンは、オーク軍の先頭をつっ走るひとつの小さな姿にようやく気付いた。
肩のあたりで切りそろえられた深緑色の髪を揺らし、裾の広がった短いズボンから、真っ白な脚をのぞかせている。間違いなく人間――人界人――の娘だ。
しかし、あれではまるで、あのちっぽけな女の子が、オーク部隊全軍を率いているようではないか!
殺到する大軍に気付いたのか、拳闘士団を取り囲む黒い歩兵たちの動きも止まった。
直後、オーク軍の先頭を走る娘が、峡谷にかかる石橋へと突入した。
きらっ、と眩い輝き。
全身を緑色の装備に包んだ小さな娘が、背中から恐ろしく長い刀を抜き放ったのだ。
瞬間、何かを感じたのか、イシュカーンの手の中でシェータの手がぴくっと震えた。
緑の娘は、まだ橋を渡りきらないうちから、すうっと長刀を両手で高く振りかぶった。黒の歩兵たちまでは、まだ百メルちかい間隙がある。
だが――。
ふっ、と娘の刀が煙った。イシュカーンの眼にすら、その斬撃は視認できなかった。緑色の閃光が一瞬閃き、そして直後、凄まじい現象が発生した。
振り下ろされた刃から、黒い地面にまっすぐに光が走り、その直線状に存在した黒の歩兵団から鮮血の幕が高く、高く吹き上がった。
ぴっ。
振り切られた位置から、返された刀が今度はまっすぐ跳ね上がった。再度、光の直線が黒の軍勢を貫いた。先の血飛沫がまったく収まらぬうちに、やや角度を変えて新たな真紅の幕がそそり立つ。
「……すごい」
シェータが、音にならない声で囁いた。
出現した愛銃ヘカートIIを、シノンは即座に頬づけして構えた。
サトライザとの距離は五十メートルも無い。対物ライフルで狙撃するには、いかにも近すぎる。この距離で、動く敵を照準し続けるのは至難だ。
ゆえにシノンは、サトライザが状況に対応してくる前に勝負をつけるべく、スコープのクロスヘア上に黒い影を捉えた瞬間迷わずトリガーを引いた。
閃光。轟音。
凄まじい反動に、空中に浮いたままのシノンは、ひとたまりもなく木の葉のように吹き飛ばされた。くるくる回転する世界を、懸命に制動する。イマジネーションで作り出した銃なら反動をゼロにすることもできるか、と一瞬考えるが、しかしそれでは恐らく威力もゼロに減じられるだろう。
どっちにせよ、今の一撃が当たっていればそれで終わりだ。
どうにか体にブレーキをかけ、シノンはサトライザの居る方向を見やった。
そして、信じがたい光景を目にした。
複眼有翼の怪生物の背に立つ男は、黒ファティーグの左腕を持ち上げ、その掌をぴんと立てている。
掌の前には、闇と光が入り混じって激しく渦巻いており、その空間を挟んで小さく、強く輝いているのは――間違いなく、シノンが放った弾丸だった。
吸おうというのか。
五十口径ライフルから放たれた、戦車の装甲すら貫く徹甲弾を。
一瞬、シノンの心に怯えが走った。それと同期するように、渦巻く闇がその勢いを増した。白く輝く光弾に、黒い触手の如くまとわりついていく。
「負けるな……」
シノンは無意識のうちに呟いた。続けて、叫んだ。
「負けるな、ヘカート!!」
ズバッ。
と微かな音を立てて、光が闇を貫いた。
サトライザの左手から、指が三本瞬時に消し飛んだ。ファティーグの袖も引き千切れ、むき出しになった腕からぱぱっと鮮血が飛び散る。
……行ける!!
シノンはぐっと歯をかみ締め、ヘカートIIのボルトを引いた。排出された空薬莢が、きらきら輝きながらはるか地面へと落下していく。
サトライザは、しばし傷ついた己の手を見ていた。その滑らかな眉間に、ひと筋の谷が刻まれた。
ぎろり、と青い眼がシノンを睨んだ。
同時に右手が動き、背中から大型のクロスボウを抜き出す。
「……ふん」
シノンは微かに息を吐いた。あんなもので、対戦車ライフルに対抗しようとは――……。
ぐにゃ。
突然、黒い石弓が歪んだ。
左右に広がる弓部が折りたたまれるように消えていく。同時にズルリと湿った音を立て、全体の長さが倍以上に伸びる。木製だったはずのフレームが、黒い金属の輝きを帯びる。
ほんの一秒後、サトライザの右手には、巨大なライフルが握られていた。シノンはその銃の名前を瞬時に想起した。
バーレットM82A1。
ヘカートIIと同じ、五十口径対物狙撃銃だ。
サトライザの口元が、薄い笑みの形に歪んだ。
「……上等じゃない」
シノンも呟き、ヘカートの銃床をぐっと右肩に押し当てた。
SAO4_52_Unicode.txt
「うわっ……だ、大丈夫?」
まるで本気で心配しているが如き柳井の細い声に、比嘉は一瞬痛みを忘れた。
「じ……自分で撃っといてその言い草……!」
「いやー、当てる気は無かったのよ、これホント。ヒトゴロシとか背負う覚悟無いしさぁ。せっかくキャリフォルニアあたりにイカすコンドミニアム買っても、悪夢とか見て飛び起きたりとかしたらウザイじゃん」
どうやら本当に本気でそう思っているのだ、と理解した途端、脱力感が倍増し腕から力が抜ける。いかん、と強く瞬きしてから、おそるおそる傷を確認する。
弾はどうやら、鎖骨のすぐ下に命中したようだ。痛みというより、凍るような麻痺感が右腕全体に広がり始めている。酷く出血しており、シャツはすでに脇腹あたりまで赤黒く染まっている。
現在の状況、及び今後の展開に対する恐怖が、ようやく比嘉の胃の下あたりに重く湧き上がりはじめた。歯を食いしばる比嘉を見下ろし、柳井はなおも喋り続けている。
「ほんとは、キミの作業をチョロっと妨害して、点検コネクタを破壊してから下のメインコントロールに脱出するつもりだったんだよねえ。ボクも帰りの潜水艦に乗せてもらう手はずになってるからさぁ。幸いラース側に死人も出なかったし、これでアリスさえ回収できれば、さわやかな結末だったのにねぇ」
「死人が……出なかっただって……?」
比嘉は再び怪我のことを忘れ、軋るような声を出した。
「……今、このチャンスに桐ヶ谷君の治療が出来なければ、彼の意識はもう二度と回復しないんだぞ! 彼の魂を殺すのは、アンタだよ柳井さん!」
「あー。あー……そーね……」
柳井は、不意にすっと表情を消した。オレンジの非常灯に浮かび上がる生白い頬を、かすかな痙攣が走る。
「うん……死んでいいや、あのガキは」
「な…………」
「だってさぁ、あの小僧は殺しちゃったんだよ。ボクのかわいいアドミーちゃんをさ」
「あど……みー……?」
「神聖教会最高司祭・アドミニストレータ猊下だよ。ボクはねえ、約束してたんだ。あの子のアンダーワールド完全支配に最大限協力するって。それに、もしサーバーが初期化されることになっても、あの子のライトキューブだけ保全してあげる、ってね」
比嘉は愕然と眼を見開いた。
神聖教会――というのは、アンダーワールド内の”人界”統治組織の名称だ。凄まじく厳密な法体系と、強大な武力であまねく人界住民を完全に支配していた。
比嘉たちが、高適応型フラクトライト”アリス”の出現を察知しつつも確保できなかったのは、時間加速下のアンダーワールドで、神聖教会が迅速な対応でアリスを連行し、そのフラクトライトに独自の封印処置を施してしまったせいだ。
そう、あまりにも素早すぎ、的確すぎる手際だった。
まるで、人工フラクトライトの何たるかを完全に熟知しているかのように。
そのとおりだったのだ。神聖教会は、少なくともそのトップであったらしい”アドミニストレータ”という人工フラクトライトは、世界と人の魂の構造を知ってしまっていたのだ。
「……アンタが、汚染したのか……」
比嘉が低く呻くと、柳井はツツっと小さく舌を鳴らした。
「おっと、最初にコンタクトしてきたのはあの子のほうだよ。ボクが当直のとき、いきなりスピーカーから声が聞こえたときはそりゃあ焦ったなぁ……。あの子は、自力でアンダーワールドの全コマンドリストを発見して、システムコンソールから外部コールしてきたんだ。リスト呼び出しコマンドをサーバーに残してたアンタのミスだよぉ、元を辿ればね」
んっふふ、と笑い、柳井は何かを思い出すように、とろんとした目つきになった。
「ボクも最初は、こりゃあ完全初期化だなぁと思ってさ。どうせみんな消されちゃうならまぁいいかって、こっそりSTLでアドミーちゃんのとこにダイブしてみたんだよね。そしたらさぁ……ああ、あんな綺麗な子、ボクは見たことなかったなぁ……。性格から、声から、口調から、何もかもボクの理想どおりで……あの子は、約束してくれたんだ。協力したら、見返りに、ボクを第一のシモベにしてくれるって。いろいろ……いろいろしてくれるってさぁ……」
――違う。
汚染されたのは、この男のほうだ。
比嘉は、背中が総毛立つのを感じながらそう悟った。柳井は、馬鹿な裏切り者だが知能は高い。そんな人間を、ここまで取り込み支配する――アドミニストレータとは、如何なる存在だったのか。
と、回想に浸っていた柳井の顔から、不意に表情が抜けた。
「……でも、あの子は死んでしまった。殺されちゃったんだ。須郷さんの実験も邪魔した、あの小僧にさ。カタキ、取ってあげなきゃアドミーちゃんが可哀想だよね」
ちゃき、と金属音を立てて柳井は拳銃をまっすぐ構え直した。
「そうだよ……そうだ、やっぱりボクも一人くらいは殺さないと、あの子の供養にならないよね……」
柳井の細い眼は大きく見開かれ、小さな瞳孔が細かく震えていた。
……やばい。今度こそ、本気だ。
比嘉は思わず目をつぶった。
――間に合わないか。
リーファは、遥か離れた場所でアスナとキリトが陥っている窮地を感じ、強く唇を噛んだ。
眼前には、数千の黒い兵士たちがわだかまり、行く手を阻んでいる。
実はオーク族の長だったらしいリルピリンに要請し、アスナたちを助けるために南進をはじめたものの、やがて見出したのは目指す人界部隊ではなかった。
現実世界からのダイブ者と思しき軍勢に囲まれる、わずか数百の男女たちは、リルピリンいわくオークと同じ暗黒界軍の拳闘士団らしかった。それを聞き、一瞬も迷うことなく、リーファは救援を決めた。
「敵陣には、私ひとりが斬り込むからね。あなたたちは、拳闘士たちを守って、そっちに向かうヤツだけを迎え撃って」
そう指示すると、リルピリンは共に闘う、と猛然と抗議した。リーファは首を振り、五指にひづめの生えたオークの手をそっと押さえた。
「だめよ、あなた達に犠牲者は出したくないの。私なら大丈夫……あんな奴ら、何万人いたって負けないわ」
そう笑いかけ、リーファは単身、突撃を敢行したのだった。
自身のヒットポイントが、ほぼ無限の回復力を持つことはすでに実証されている。それに、前方のアメリカ人も、同じようにかりそめの命を持つ者たちだ。
キリト達の救援が間に合いそうもない以上、ここでオークたちの命を無為に落とさせることはリーファには出来なかった。
超ロングレンジからの二連斬を叩きこんだあと、リーファは脚を止めることなく、勢いのままに敵集団へと突入した。
いかなる理由によるものか、ALO内と比べて間合いが数倍に拡張されたソードスキルを、立て続けに放つ。地面を切り裂くような咆哮と、鮮やかな閃光が炸裂し、放射状に血風が巻き起こる。
しかし、連続技と連続技のあいだにできる隙までは消せず、わずかな硬直時間を狙って無数の剣が襲ってきた。かわしきれず、リーファの体からも大量の鮮血が飛び散る。
「ええ――いッ!!」
気合とともに、強く地面を踏む。足元から、ぶわっと緑の輝きが溢れ、全身の傷が一瞬で癒える。
四肢に反射するような痛みの余韻を振り払い、リーファは更に剣を振るった。
たとえ万の傷を受けようと、この場の敵だけは現実世界へ追い返してみせる。
ログイン座標ずれで意図せぬ場所に飛ばされてしまった自分に役目があるとすれば、それはきっと一人でも多くのアンダーワールド人たちの命を助けることだ。キリトが愛し、守ろうとしたという人々の。
左方向から、なかなかの速度で突き出されてきた剣を、リーファは腕を貫かせて止めた。
「せああ!!」
返す刃で、その持ち主を一息に切り伏せる。
リーファは、腕に突き刺さったままの剣を、口に咥えて抜き取ると、血のりとともに吐き捨てた。
第二射は、ほぼ同時だった。
二丁のアンチマテリアルライフルから放たれた巨大な弾丸は、ほとんど擦れるような距離ですれ違い、悲鳴じみた轟音とともに大きく軌道を逸らして飛び去った。
シノンは、今度は無様にくるくる回転することなく、両足で後方の空気を踏みしめながら反動を抑え切った。視線の先では、サトライザも有翼怪物を強く羽ばたかせて空中に踏みとどまっている。
このような、三六〇度完全なオープンスペースで、しかも対物狙撃銃同士で撃ち合うのはシノンには初めての経験だった。ガンゲイル・オンラインでは飛行はサポートされていないので当然と言えば当然だが、二脚を立てての伏射が常だったヘカートIIの、空中での反動の大きさは予想外だ。
この勝負――。
先に反動を抑え、同様に敵が静止した一瞬を照準できたほうの勝ちだ。排莢しながら、シノンはそう考えた。
つまり、敵にまず撃たせ、それを回避してのける必要がある。
同じことを、おそらくサトライザも考えているだろう。右方向へスライド飛行するシノンの逆へ、逆へと回り込んでくる。
何の合図が有ったわけではないが、まったく同時に、双方とも高速機動を開始した。
静止時間が発生しないぎりぎりの鋭角ラインを描きながら、ランダムに飛び続ける。銃口をぴたりと敵に追随させながらも、己もまた敵の射角に捉われ続けていることを強く意識する。
サトライザの構えるバーレットのマズルが、ついにシノンの動きを先読みしたか、ひゅっと霞むほどの速度で動いた。
――来る!!
シノンは歯を食いしばり、眼を見開いた。
巨大な銃口から火炎が迸る。
限界速度でダッシュしつつ、体を右に捻る。
胸元が焦げるほどの距離を、致死の銃弾が擦過していく。群青色のアーマーが、ぴしっと音を立ててひび割れる。
――避けた!
最初で最後の機会。サトライザが急制動し、静止する一瞬を撃つ!
ヘカートを構えかけたシノンが見たのは。
真正面から飛来する、二発目の銃弾だった。
連射――なぜ!?
ああ……しまった。
バーレットは、セミオートマチックライフル……。
その思考が弾けるのと同時に、シノンの左足が、太腿の中ほどから音も無く爆砕した。
絶望的状況に抗い、戦場に最後まで立ち続けたのは、スーパーアカウントに保護されたアスナと、そしてアンダーワールド人である整合騎士レンリ、及び彼の騎竜、更に騎士と竜に守られるかたちで剣を握る少女剣士ティーゼだった。
アスナは、極限の疲労と苦痛で霞む視界に、鬼気迫る闘いぶりを繰り広げる少年騎士の姿をとらえ続けた。
小柄な騎士は、前線に現れるや巨大な十字ブーメランを自在に飛翔させ、押し寄せる敵の波を片端から薙ぎ倒した。その凄絶なる威力は、怒りに燃える隣国人たちの突撃を、数分にせよ押し返したほどだった。また、巨大な飛竜が浴びせ掛ける熱線もおおいに敵を怯ませた。一人と一頭の戦いぶりは、彼らがまさしくアンダーワールドという異世界に生まれ育った本物の竜騎士なのだということを、十二分に証明していた。
しかしやがて、敵も気付いた。騎士レンリは、その武器を投擲・操作している間、本人はほぼ無防備になってしまうということに。
何十度めかにブーメランが放たれ、黒い軍勢の最前列を横薙ぎにしかけた瞬間、その後方から長槍が無数に投擲された。アメリカ人たちと戦ったとき、アスナが秘かに恐れた戦法が、ついに実行されたのだ。
槍は、黒い雨となって空を流れ、降り注いだ。
最初の投擲は、飛び出した飛竜が、広げた翼と胴体で受け、防いだ。
銀の鱗と赤い血を飛び散らせながら、竜は細い悲鳴とともに横倒しになった。
すかさず、第二陣の槍衾が投げ放たれた。
ざあっと重い音を立て殺到する黒い穂先を一瞬見上げてから、騎士レンリは振り向くと、背後に居たティーゼの細い体をぎゅっと抱きかかえ、自分の下に隠した。
甲高い無数の反射音に混じって、どかっ、どかっ、という鈍い音を二回、アスナは聴いた。
背中の装甲の継ぎ目に二本の槍を深々と受け、レンリはティーゼを覆うようにゆっくりと前のめりに倒れた。制御を失った十字ブーメランが、一瞬の光とともに二つに分裂し、離れた地面に突き刺さった。
その頃にはもう、戦域のほかの場所でも戦闘はほぼ終了していた。
力尽き、倒れた日本人プレイヤーに、黒い姿が一斉に群がり、我先にと武器を叩きつけていく。血と肉、かすかな悲鳴が振り撒かれ、やがて途絶える。
あるいは、高優先度装備をすべて強制解除された姿で、地面に突きたてられた長柄の武器に磔にされている者も数多く見える。彼らの傷から流れる血よりも、顔を伝う屈辱と無念の涙のほうが何倍も痛ましい。
コンバート者二千人の円陣がほぼ無力化され、いままでその中央に守られていた人界軍がいよいよ露出し始めていた。
非武装の補給隊、術師隊を守るように、約六百人の人界軍衛士たちが、ぐるりと密集して剣を構えている。どの顔にも悲壮なまでの覚悟が満ち、じりじりと迫る黒の軍勢に向け、決死の突撃をかけるその時を静かに待っている。
「……やめて……」
アスナは、自分の唇から零れた声を聞いた。
それは、全身に受けた傷の痛みではなく、ただ絶望と哀しみによって心が折れた音だった。
「お願い……もうやめてよ……」
呟きとともに、右手からレイピアが落ちて地面に転がった。その傷だらけの刀身に、頬から滴った涙の粒が小さく弾けた。
眼前に立ちはだかる大柄な男が、敵意に満ちた鋭い罵声とともに、両手剣を高々と振り上げた。
その刹那。
雷鳴にも似た大音声が轟きわたり、アスナに向けて振り下ろされんとしていた刃と、全戦場で進行中のあらゆる攻撃行為を停止させた。
スト――――――ップ!! と途轍もないボリュームで叫んだのは、これまで戦域を少し離れたところから見守っていた黒フードの男だった。殺人ギルド・ラフィンコフィン頭首”PoH”――の亡霊。
隣国人プレイヤーたちは、おそらくマーカーによって黒フードを指揮官と認識させられているらしく、不承不承ながら徐々に武器を降ろしていった。アスナを斬り伏せようとしていた大男も、激しい舌打ちとともに剣を引き、代わりに無造作な足蹴を見舞ってきた。
黒い地面に倒れこんだアスナは、歯を食いしばり、萎えた腕で懸命に身体を起こした。
視線を巡らせると、黒革の裾を揺らしながらゆっくりと前進してくる黒フード男の姿が見えた。指揮慣れしたよく通る声で周囲のプレイヤーたちに何か声を掛けているが、韓国語なので理解できない。
と、周囲の黒い兵士たちが次々に頷き、周りの仲間たちに何かを伝えはじめた。
突然、傍に立っていた男がアスナの髪を掴み、引っ張りあげた。思わず細く悲鳴を漏らしてしまうが、男は聞く耳も持たず、ずるずるとアスナを引き摺っていく。
周囲でも、似たようなことが行われていた。どうやら、まだ生きている日本人プレイヤーを一箇所に集めるつもりらしい。複数人に蹴立てられ、あるいはポールアーム製の十字架に磔にされたまま、半死半生のプレイヤー達が次々と連行されてくる。
黒フードは、小規模な全周防御態勢を取る人界軍衛士隊の至近まで堂々と歩み寄っていくと、振り向いて片手を振り、再び何かを指示した。
自分を引っ立てる男に、乱暴に背中を蹴り飛ばされて、アスナは数メートルも吹っ飛んで地面に沈んだ。周りに、どさどさと立て続けに日本人が突き転ばされてくる。チェーン系の武器で磔にされた者は、そのまま一箇所にまとめて晒された。
生存者の数は、すでに二百を切っていた。
ヒットポイント量が生存率に直結したのか、やはりハイレベルプレイヤーが多く残っている。少し見回すと、すぐにALOの領主の面々や、スリーピングナイツのメンバーを発見できた。
しかし、彼らの姿に、かつての誇り高いおもかげはもう無かった。
すべての武装を強制解除され、ほとんど全員が身ひとつの有様だ。肌には惨い傷が縦横に走り、折れた刃が体に突き刺さったままの者も多い。だが、みなの顔に一様に浮かぶのは、苦痛でも怒りでもなかった。生気を失ったかのような、虚脱した絶望だけが色濃く漂っていた。
戦場に荒れ狂った憎しみの凄まじさ。
それに対してさして抵抗することもできなかった無力感。
いわば――魂に刻み込まれた、敗北という烙印。
もうこれ以上何も見たくなかった。地面に突っ伏して、最後の時まで瞼を閉じていたかった。
しかしアスナは、滲む涙をとおして、尚も仲間たちの姿を目に焼き付け続けた。
視線を一周させたところで、乱れたピンク色のショートヘアに気付いた。顔を両手に埋め、肩を震わせている。
アスナは脚を引き摺り、ゆっくりとその背中に近づくと、親友の体に両手を回した。
リズベットは一瞬全身を強張らせてから、がくりとアスナの胸に頭を預けてきた。血と涙に汚れた頬が引き攣り、掠れた声が漏れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……あたし……あたしが……みんなを……」
「違う……違うよ、リズ!」
アスナも、涙まじりの声で小さく叫んだ。
「リズのせいじゃない。わたしが悪いの……ちゃんと考えれば……予想できたはずなのに……」
「アスナ……。あたし……知らなかったよ。戦うこと……負けることが、こんなだって、知らなかった……」
返す言葉が見つからず、アスナは顔を上げると、ぎゅっと両眼をつぶった。零れ落ちた涙が、幾つも頬を伝った。
耳に届いた小さなすすり泣きに眼を開けると、地面に大の字になった褐色の肌の巨漢――エギルと、その隣にうずくまる小柄なシリカが見えた。
エギルは、よくこれで天命が残っているとすら思えるほど酷く負傷していた。おそらくはシリカを守り、よほど激しく戦い続けたのだろう。樽のような体にはスピアやハルバードが十本以上も貫通し、四肢はほとんど叩き潰されたような有様だ。髭の下で歯を食いしばっているのは、想像を絶する苦痛に耐えているからに違いない。
少し離れた場所には、背を向けて胡坐をかくクラインの姿もあった。こちらは、左腕が肩の下から斬り飛ばされ、傷口にトレードマークのバンダナが巻いてある。身体を丸め、俯いているのは、顔を見られたくないからだろうか。
生存者は皆、大なり小なり同様の状態だった。
武器も、鎧も、そして闘志も奪われ地に伏す二百人を、少し離れた位置に立つ黒フードの男はぐるりと睥睨し――そこだけ覗く口元に、にやりと大きな笑みを浮かべた。
再びぐるりと振り向き、アンダーワールド人部隊へと正対する。
右手が持ち上がり、皆殺しにしろ、という指示が発せられる瞬間を、アスナは恐怖とともに待った。
しかし、響いたのは意外な内容の日本語だった。
「武器を捨て、抵抗を止めろ。そうすれば、お前らも、後ろの捕虜も殺しはしない」
衛士隊長たちの顔に、一瞬の驚きに続いて、朱色の憤激が走った。
「……ふざけるな!! 今更我らが命なぞ惜しむと……」
「言うことを聞いて――ッ!!」
衛士の言葉を遮り、叫んだのは、アスナだった。
リズベットの身体を抱きしめたまま、涙に濡れた顔を上げ、アスナはさらに懇願した。
「お願い……あなたたちは生きて! どんな屈辱を味わおうとも、生きのびてください!! それが……それが、私たちの……たった一つの…………」
希望なのだから。
胸が詰まり、そこまでは言葉にできなかった。
しかし、衛士たちはぐっと歯を噛み締め、顔を歪め、やがて――ゆっくりと項垂れた。
がしゃ、がしゃんと音を立てて投げ捨てられる剣を見て、周囲の、いまだ三万以上残るプレイヤーたちの間から、高らかな勝利の叫びが湧き上がった。それらはすぐに、リズミカルな自国名の連呼へと変わっていく。
黒フード男は、さっと片手を上げて数人の黒い歩兵を呼びつけ、何かを指示した。即座に兵らは頷き、降伏した人界軍部隊のなかへと足音高く分け入った。
一体、何を……と思ったのも束の間、黒フードがざくざくと音を立てて歩み寄ってきて、アスナの視界を塞いだ。
目の前で立ち止まった男を、なけなしの力を込めた両眼で見上げる。
フードの奥の闇は、この距離でも見通せなかった。逞しく割れた顎や、首元にのぞく巻き毛がかろうじて見える。
その顎が動き、低く湿った笑いを含む声が漏れ出た。
「……よう、”閃光”」
――やはり!!
息を飲み、アスナは胸の奥から言葉を絞り出した。
「……お前……PoH……!」
「おおっと、懐かしい名前だな。知ってたか? それ、”Prince of Hell”の略なんだぜ?」
そのとき、片手を地面に突いてにじり寄ってきたクラインが、燃えるような目で黒フードを見上げた。
「てめェ……てめェかよ。この……人殺しが!!」
掴みかかろうとしたクラインを、男のブーツが無造作に蹴り飛ばした。たちまち、周囲の人垣から数名が走り出てきて、剣や槍でクラインの動きを封じる。
アスナはぎりっと奥歯を噛みながら、PoHに低く尋ねた。
「これは……復讐なの? ラフィン・コフィンを壊滅させた私たち攻略組への……?」
「…………」
PoHは、しばし無言でアスナを見下ろしていた。その肩が細かく震えているのにアスナは気付いた。
やがて、男は――ぷっ!! と盛大に吹き出した。
ポンチョの下で細い身体を折り曲げ、くくく、ひひひと笑い続ける。
発作のような嘲笑をようやく収め、ポンチョから細い右手を突き出すと、PoHは朗らかな声で続けた。
「あー、ええっと……こういう時、日本語でなんて言うんだったかな……」
くるくると回された指が、パチン! と鳴った。
「そうそう。”お目出度ぇな”? まったくウケるぜ。あのな……」
かくん、と膝を折り曲げた男は、至近距離からアスナを覗き込んできた。フードの奥に、ぎらぎらと輝く眸だけが見えた。
「……教えてやるよ。ラフィン・コフィンの隠れアジトを、てめぇら攻略組様に密告したのは……このオレなんだぜ?」
「な…………」
アスナも、クラインも、そして瀕死のエギルまでもが目を見開いた。
「なぜ……そんな…………」
「あのアホどもと付き合うのも飽きてたしなァ。サル同士殺しあうのが見たかったっつぅのもあるけど……一番の理由は、やっぱこれだな。オレはな……お前らを、”人殺し”にしてやりたかったんだよ。お偉い勇者ヅラして最前線に篭もってる攻略組ご一行様をよ。お膳立てには苦労したぜ。ラフコフの奴らにも直前に警告して、”逃走はムリだが迎撃は間に合う”タイミングをびったし作ってさ」
――そうか。あのアジト急襲が事前に漏れていた形跡があったのは、そういう訳だったのか、とアスナは愕然としながらも思った。
そのせいで、戦闘の初期にはレベルで優る攻略組のほうが押され、数名の死者まで出したのだ。劣勢を覆したのは、当時すでに抜きん出た実力を示していたキリトの奮戦であり、彼がラフィンコフィンの切り込みプレイヤー二名を斬り倒したことで――状況が逆転し……。
「……あれが……狙いだったの?」
アスナは、ほとんど音にならない声で囁いた。
「キリトくんに……PK行為を、背負わせるために……?」
「イエス。アブソリュートリィ・イエス」
PoHの声も、熱を帯びた囁きにまでひそめられた。
「オレは、あの戦いを近くからハイディングして見てたんだよ。”黒”の熱血バカが、ブチ切れて二人もぶっ殺したときは、思わず爆笑してハイドが破れるとこだったぜ。理想としてはよ、のちのちあいつとアンタを無力化のうえ拘束して、あん時のことをロング・インタビューしてやろうと思ってたんだけどよ……まさか七十五フロアでエンディングとはなぁ」
瞬時に沸騰した怒りが、アスナに傷の痛みをいっときにせよ忘れさせた。
「き……キリトくんが、どれだけあの時のことを、悩んで、苦しんでると思うの!?」
「ほ、そりゃよかった」
PoHの声は、対照的に氷のような冷たさを帯びていた。
「でも、そいつは怪しいもんだな? ほんとに後悔してるならよ……普通、VRMMO辞めるんじゃねえの? 殺したヤツに申し訳なくてさぁ。分かってんだぜ、あいつも居るんだろ、ここに。感じるんだよ。なんで馬車に篭もってんのかは知らねえが……まあ、直接聞くさ」
言葉を失ったアスナの頬を、指先でそっと撫で、PoHは勢い良く立ち上がった。
いまだ周囲でうねり続ける大歓声の底に、低く湿った声が流れた。
「イッツ・ショーウ・タァ――――イム」
くるりと振り向いたPoHの向こうに――。
人界軍部隊をふたつに割って、黒い歩兵の手でごろごろと運ばれてくる車椅子と、拘束されたまま付き従う、灰色の制服姿の少女が見えた。
ああ……。
やめて。
それだけは。
アスナの胸中に、悲痛な懇願が溢れた。クラインが跳ねるように立ち上がろうとし、すぐに押さえつけられた。
PoHは、目の前まで押されてきた車椅子を、身体をひょいと傾けて覗き込んだ。
「……ンン?」
訝しそうな唸りとともに、つま先でこつんと、椅子からぶら下がる脚をつつく。
「何だこりゃあ……? おい、”黒の剣士”、起きろよ。”二刀流”、聞こえてんのかぁ?」
かつてのあざなで呼ばれたキリトは――しかし、まったく反応しなかった。
黒いシャツの上からも如実に分かる、痩せ細った体を背もたれに斜めに預け、顔をかくんと俯かせている。中身のない右の袖が風に揺れ、二本の剣をきつく抱く左手も、骨ばかりが目立つ。
アスナの隣に突き飛ばされてきたロニエが、真っ赤に泣きはらした目をしばたかせ、小さく言った。
「キリト先輩……戦いのあいだ、何度も、何度も立ち上がろうとして……そのうち、力尽きたみたいに静かになって……でも……涙が……涙だけが、いつまでも……」
「ロニエさん……」
アスナは左手を伸ばし、しゃくりあげるロニエの華奢な身体を引き寄せた。
きっと顔を上げ、PoHに鋭い言葉を投げる。
「分かったでしょう。彼は戦って、戦いぬいて、傷ついたの。だからもう構わないで! キリトくんをそっとしておいて!!」
しかし黒フードの男は、アスナの声など耳に入らぬ様子で、キリトの顔を至近距離から覗き込み喚き続けた。
「おいおーい、嘘だろ! 締まらねえよこんなんじゃよ! おい、起きろって! ヘイ、朝だよー! おーい!! グッド・モー……ニン!!」
突然、PoHは右足を銀の車輪に掛け、容赦なく蹴り倒した。
騒々しい金属音とともに横倒しになった車椅子から、痩せた体が地面に投げ出された。
アスナとクラインが、同時に立ち上がろうとして背後の剣に押し止められた。エギルも、血の泡が混じった低い怒りの声を漏らし、リズベットとシリカ、それにロニエが細い悲鳴を上げる。
PoHは、背後の様子にはもう目もくれず、キリトに歩み寄るとつま先で乱暴に身体を仰向けさせた。
「なんだよ……マジで壊れちまってるのかよ。あの勇者サマが、ただの木偶かぁ?」
いまだ、しっかりと二本の剣を抱えたままの左腕から、白いほうの鞘を奪い取る。じゃきっと引き抜かれたその刀身は、半ばほどで痛々しい折れ口を晒している。
盛大な舌打ちとともに、PoHは剣を鞘に戻した。と――。
「ぁ……。ぁー……」
キリトが、細いしわがれ声とともに、左腕を白い剣へと弱々しく伸ばした。
「おっ!? 動いたぜ!! なんだ、コイツが欲しいのか?」
PoHは、じらすように空中で白い剣を動かしてから、それを無造作に投げ捨てた。空中でそちらに動こうとするキリトの左腕を、ぐいっと右手で掴み、引っ張り上げる。
「ほら、何とか言えよ!!」
ぱし、ぱしん! と音を立て、PoHの左手がキリトの頬を張った。
アスナの視界が、憤怒のあまりか薄赤くそまった。しかし、再び立ち上がろうとするより早く、クラインの血の滲むような絶叫が響き渡った。
「てめえが!! てめえがキリトに触るんじゃねえ――――!!」
片腕で掴みかかろうとするその背中を、背後から太い剣が貫き、容赦なく地面に縫いとめた。
がっ、と大量の血を吐き出し、突っ伏してなお、クラインは己の身体を引き裂きながら、前に進もうとした。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
片脚がまるごと吹き飛んだ痛みより、はるかに強く濃い恐慌を、シノンは感じた。
これまでシノンは、脚で空気を蹴る感覚で随意飛行を制御してきたのだ。はたして、右脚だけで試みた急速回避は、ぶざまな錐揉み旋回へと変わってしまった。
「く…………」
歯噛みをしながら、シノンは唯一可能な機動、つまりひたすら真っ直ぐな後退に移った。空中に、左脚から漏れ出る血が鮮やかな赤のラインを引く。
可能な限りの速度で距離を取りつつ、サトライザを照準し、三発目の弾丸を発射した。
しかし、まったく同時に、余裕の表情で追ってくる敵のライフルも火を吐いた。
同一直線上を突進するふたつの12.7ミリ弾は、交錯した瞬間、甲高い不協和音と鮮やかな火花を撒き散らして軌道を逸らし、それぞれ遥かな虚空へと飛び去った。
胸中に忍び込む懼れを、ボルト操作で薬莢と一緒に払い捨て、シノンは第四射を敢行した。
またしても、二つの雷鳴が重なって轟く。弾丸たちは齧り合った瞬間、巨大なエネルギーを空しく宙に放散し、螺旋を描いて飛び去っていく。
第五射。第六射。
結果はまったく同じだった。サトライザが、わざとシノンの射撃にあわせて自らもトリガーを引き、弾丸を相殺させ続けているのは明らかだ。
現実世界ではもちろん、GGO内でもこんな芸当は出来るまい。しかし、この世界ではイマジネーションが全てに優先する。意図しているサトライザはもちろん、シノンまでもこの結果を予想してしまっているゆえに、超音速で飛行する弾丸の相撃ちという有り得ない現象が現実となるのだ。
それでもシノンにはもう、ボルトを引き、照準を合わせ、トリガーを絞るという三動作以外のことは何ひとつ出来なかった。
七発目の弾丸が、哀切な悲鳴を撒き散らしながら大きく右へと逸れ、消えた。
排莢。照準。
――カチン。
かちん、かちんと、シノンの指の動きに合わせて撃針が空しく鳴った。
ヘカートIIの装弾数は、ワンマガジン七発。予備の弾倉は無い。
対して、バーレットの装弾数は十。まだ、あと二発残っている。
百メートル離れた場所で、サトライザが浮かべた冷たい笑みを、シノンははっきりと視認した。
構えられた黒い銃が、ぱっと炎を吐いた。
シノンの右脚が付け根から吹き飛んだ。
途端、一直線の飛行すらままならなくなり、シノンの身体は徐々に落下し始めた。
反動を抑えたサトライザが、最後の一撃を放つべく、右眼をスコープに当てた。レンズいっぱいに広がる青い硝子のような虹彩が、シノンの心臓をまっすぐに射抜いた。
――ごめんね。
ごめんね、アスナ。ごめんね、ユイちゃん。ごめんね……キリト。
シノンが口の中でそう呟いた直後、バーレットが十発目の弾丸をそのあぎとから解き放った。
赤い炎の螺旋をあとに引き、サトライザの視線を正確にトレースして飛来した弾が、シノンの青い装甲を粉砕し、上衣を蒸発させ、その捻転する尖端を肌に――。
バチッ!!
と、再びあの火花が迸った。
閉じかけた両眼を見開いたシノンの目の前で、高速回転する細長い弾丸を、ちっぽけなアルミのメダルが食い止めていた。
渦巻く白いスパークの中心で、厚さ一ミリもない円盤が、断固たる意思を示して光り輝いているのを見た瞬間、シノンの両眼から涙が溢れた。
――諦めない。
絶対に諦めたりしない。信じるんだ。私を。ヘカートを。そして、このメダルを通して繋がる、ひとりの男の子を。
一際激しい閃光とともに、金属円盤とライフル弾が同時に蒸発した。
シノンはヘカートIIを力強い動作で構え、トリガーに人差し指を掛けた。
たとえイマジネーションによって変形したとは言え、この武器に与えられたシステム上の性能は持続しているはずだ。周囲の空間からリソースを自動吸収し、攻撃力としてチャージする”ソルスの弓”の力が。
ならば撃てる。マガジン内の弾が尽きていようが、絶対にヘカートは応えてくれる。
「いっ……けええぇぇ――――!!」
トリガーを引いた。
発射されたのは、金属をまとった徹甲弾ではなかった。
無限のエネルギーを凝縮した純白の光線が、マズルブレーキから七色のオーロラを放散させながら、一直線に宙を疾った。
サトライザの顔から笑みが消えた。右へとスライド回避しかけた瞬間、白い光線がバーレットの機関部を直撃した。
オレンジ色の火球が膨れ上がり、サトライザを完全に飲み込み――。
轟音。爆発。
押し寄せる熱い突風を肌に感じながら、シノンは石のように落下し、数秒後、岩だらけの地面に激突した。
もう、飛ぶことはおろか、這いずることも出来そうになかった。吹き飛ばされた両脚の痛みは凄まじく、意識を保つことすら至難だった。
それでも、シノンは瞼を持ち上げ、かすむ視界を懸命に見通そうとした。
遥か中空にわだかまる黒煙が、徐々に風に運ばれていく。
やがて現れたのは――いまだホバリングを続ける、サトライザの姿だった。
しかし無傷ではない。ライフルの爆発に巻き込まれた右腕は完全に消し飛び、肩口から薄い煙がなびいている。滑らかだった顔の右側も焼け焦げ、唇からひと筋の血が垂れている。
サトライザの顔に、ついに凶悪な殺意が浮かんだ。
……いいわよ。何度だって相手してあげるわ。
シノンは、残された全ての力を振り絞り、ヘカートを持ち上げようとした。
数秒後、サトライザの視線がふっと外された。有翼生物がぐるりと向きを変え、黒衣の男は細い煙の筋を引きながら、一直線に南に向かって飛び去った。
シノンは、もう保持しているのも限界だった巨大な対物ライフルを、そっと地面に降ろそうとした。接地した瞬間、それはもとの白い弓へとその姿を戻した。
最後の力で、シノンは右手を持ち上げ、胸元に残されたチェーンの切れ端に触れた。
「……キリト」
呟くと同時に、涙が頬にすうっと流れた。
身体に突き立つ幾つもの刃を、抜き捨てる余裕すらもうリーファには無かった。
全身の痛みが融けあい、まるでむき出しになった全神経を直接針で突き刺されているかのようだ。
幾つかの傷は、明らかに致命傷と呼べるものだった。腹部を貫く二本の剣は動くたびに内臓を切り刻み、背中から胸に抜ける一本は確実に心臓を直撃している。
しかしリーファは止まらなかった。
「う……おおあああッ!!」
大量の鮮血とともに気合を迸らせ、何十度――あるいは何百度目かのソードスキルを開始する。
長剣が黄緑の輝きを帯び、縦横に空を裂く。身体の周囲に留まった幾つもの光の円弧が、一瞬の溜めのあとにパッと周囲に拡散し、それを追うように無数の敵兵がばらばらっと身体を崩壊させる。
大技を放ったあとの硬直時間を狙い、数人の敵が殺到してきた。ぎりぎり飛び退き、攻撃の大半は避けたものの、長いハルバードの一撃に左腕を叩き斬られた。
勢いで倒れそうになるのをぐうっと踏みとどまり、
「ぜあああッ!!」
横薙ぎの一閃で三人の身体を分断する。
リーファは、地面に落ちた左腕を拾い上げ、傷口に押し当てながら強く右足を踏んだ。
緑の閃光とともに、地面に草花が萌え出で、消えていく。天命が上限まで回復し、惨い傷は残ったものの、左腕も再度接続される。
この状況では、テラリアに付与された無限回復能力は、もう神の恩寵などと呼べるものではなかった。
むしろ、呪いと言うのが相応しい。どれほど傷つき、激痛を味わおうとも、倒れることは許されないのだ。不死ではあるが不可侵ではない矛盾ゆえの、想像を絶する責め苦。
リーファを支えているのは、ただひとつの信念だけだった。
――お兄ちゃんなら。
絶対に、こんな傷くらいで倒れたり、しない。
なら、私も倒れない。たかが三千人、一人で斬り伏せてみせる。だって私は……お兄ちゃんの……
「――――妹なんだからああああッ」
左手につがえられた長刀の切っ先が、真紅の輝きを迸らせた。
がしゅっ!! という重い金属音とともに突き出された刀から、巨大な光の槍が解き放たれ、百メートル以上もまっすぐに戦場を貫く。ばしゃあっ! と円状に敵兵の身体が捩れ、引き千切られ、飛散する。
「……はっ……はあっ…………」
荒く吐いた息は、すぐに大量の鮮血へと変わった。
口元を拭い、ふらりと立ち上がったリーファの左眼を、唸りを上げて飛来した長槍が貫き、後頭部へと抜けた。
数歩後ろによろめき――しかしリーファは倒れなかった。
左手を後ろに回して、槍を一気に引き抜く。頭の内側を、痛みとはちがう異様な感覚が突き抜ける。
「う……うううおおお!!」
だん、だん!! と足踏みし、天命を回復させる。欠けた左の視界が、テレビのようにぶつっと音を立てて復活する。
見れば、いつしか敵はもう百人ほどしか残っていなかった。
にやり、と笑いながら、リーファは血まみれの左手を持ち上げ――掌を上向けると、そろえた指先をくいくいと動かした。
やけっぱちな雄叫びを上げて突進してくる集団に向け、ずうっと重い動作で長刀を振りかぶる。
「いぇ……ああああああッ!!」
一閃。
鮮血を吹き上げ、分断された敵集団のただ中へ、リーファは恐れることなくその身を投じた。
約三分後に、最後の敵兵が倒れたとき、リーファの身体に突き立つ金属は十本に増えていた。
四肢から力が抜け、後ろに倒れこんだが、背中に貫通した剣や槍がつかえて途中で止まった。
悲鳴のような声で名前を呼びながら駆け寄ってくるオークたちの足音を聞きながら、リーファは瞼を閉じ、小さく呟いた。
「私……がんばったよね……、お兄ちゃん……」
左耳のインカムから、低い囁き声が聞こえたのは、柳井の銃のトリガーが動き始めたのと同時だった。
『比嘉君、避けて!!』
え。
避けてって……弾を?
と間抜けなことを考えた直後に、ずっと高いところから、何かが空気を切り裂いて落下してくる音を比嘉は聴いた。
ガァン!!
と響いた音は、拳銃の発射音ではなかった。遥か頭上の、ケーブルダクト進入口から投げ込まれた巨大な何かが、柳井の脳天を直撃した音だった。
柳井の見開かれた目が、ぐりんと上を向いた。ステップを握っていた左手が、ずるりと滑り落ちる。
「うわ……ちょっ……」
比嘉は、肩の痛みも忘れて右腕を上げると、両手でステップを握り、限界まで身体をダクトの壁面に押し付けた。
まず落下してきたのは、一体どこから持ち出したのかと言いたくなるほど馬鹿でかいモンキーレンチだった。続いて、まだ硝煙の匂いをこびり付かせた小型の拳銃が目の前を横切った。
最後に、意識を失った柳井の身体が、ずぼっと比嘉の身体とダクト壁の間に挟まり、停まった。
「ひ……ひぃっ!」
思わず肩を縮め、一層身体を引っ込めてしまう。
柳井の身体が徐々にずれ始め、汗とコロンの匂いを擦りつけながら眼前を通過し――。
「…………あ」
比嘉が呟くと同時に、足下に五十メートル続く空間へと落下していった。何度か、壁やハシゴにぶつかる音が響いたのに続いて、最後にどすんという一際重い衝突音が伝わってきた。
「…………うーん……」
死んじゃった……かな? いや、あの感じだと骨が二、三……いや五、六本イッたくらいかな……。
という、半ば停止気味の比嘉の思考を、インカムからの悲鳴じみた声が破った。
『比嘉君……ねえ、比嘉君!! 無事なの!? 答えてよ、ねえ!!』
「…………いや、ちょっと、ビックリして……。凛子さんでも、そんな声出すんスねえ……」
『な……何のんきなこと言ってるの!! 怪我は!? 撃たれてないの!?』
「あー、えーっと……」
比嘉は、あらためて肩の傷を眺めた。
出血量はちょっと恐ろしいことになりつつある。右腕は、動くものの表面感覚はないし、それにやけに寒い。思考もちょっといつもどおりではない気がする。
しかし、比嘉は大きく息を吸い、腹に力を溜めてから、可能なかぎり元気そうな声を出した。
「いや、ぜんぜん平気ッス! かすり傷ッスから。僕はオペレーションを継続します、先輩はキリト君のモニタリングのほう、よろしくッス!!」
『……ほんとうに、大丈夫なのね? 信じるわよ!? 嘘だったら許さないからね!?』
「いやもう……ばっちり、バッチグー、ッス」
比嘉は上を仰ぎ、はるか頭上に見える小さなシルエットに向けて慎重に手を振った。この距離でこの暗さなら、神代博士からは出血の様子までは確認できないはずだ。
『じゃあ……私は戻るけど、グラフに変化があり次第飛んでくるからね! 頼むわね、比嘉君!!』
シルエットが引っ込みかけた瞬間、比嘉は思わず小さく呼びかけていた。
「あっ……り、凛子さん」
『何、どうしたの!?』
「いや……その、ええと……」
――学生時代、茅場先輩や須郷サンだけじゃなく、僕もあなたに夢中だったって知ってました?
と、比嘉は言おうとしたものの、そんなことを口にしたら生還の確率が大幅に減少する気がしたので、かわりに適当な台詞でお茶を濁した。
「あの、この大騒ぎが全部片付いたら、食事でもどうッスか?」
『……分かったわ、マクダでも星牛でも奢ってあげるから、がんばって!!』
そして、神代博士の姿が比嘉の視界から消えた。
――やっすいなぁ。
て言うか、”死ぬやつが言うっぽい度”では大差なかったなあ。
比嘉は苦笑し、端末のモニタに視線を戻した。指先の痺れた右手をキーボードに載せ、慎重にコマンドを打ち込み始める。
三番STLに……四番を接続。五番、六番……接続。
ふっ、とフォントが二重に霞み、比嘉は両眼をしばたいた。
さあ……キリト君、そろそろ起きる時間だぜ。
アスナは、涙のベールを通して、ただひたすらに愛する人の姿を見つめ、祈った。
お願い、キリトくん。私の心も、命も、なんでもあげるから……だから、目を覚まして。
――キリトくん。
――キリト。
――お兄ちゃん。
………………キリト……。
キリト。
誰かが、名前を呼んだ気がして――
俺は、浅いまどろみから引き戻された。
瞼を持ち上げると、オレンジ色の光の帯に浮かぶ、いくつもの粒子が見えた。
朧な視界が、徐々に焦点を結んでいく。
揺れる白い布。カーテン。
銀色の窓枠。古びたガラス。
揺れる梢。傾き始めた太陽の色に染まる空に、ゆっくりと伸びる飛行機雲。
埃っぽい空気を大きく吸いながらのろのろと身体を起こすと、深緑色の黒板を大儀そうに擦るセーラー服の背中が目に入った。しゅっと音を立てて滑った黒板消しが、白いチョークで大きく書かれた文字の最後のひとつをかき消した。
「……あの、桐ヶ谷君」
再び名前を呼ばれ、視線を動かすと、気後れしたような、苛立ったような表情で俺を見下ろす、別の女子生徒が目に入った。
「机、動かしたいんだけど」
どうやら俺は、ホームルーム中に居眠りして、そのまま掃除時間へと突入してしまったらしい。
「ああ……悪い」
呟き、机にぶら下がるぺたんこのザックを指に引っ掛けると、俺は立ち上がった。
頭の芯が重い。
長い――とてつもなく長い映画を見たあとのような疲労感があった。筋もなにも思い出せないのに、巨大な感情の残滓だけが身体の中にこびり付いている気がして、強く頭を振る。
訝しそうな顔つきになる同級生から視線を外し、教室の後ろの出口に向けて歩きだしながら、俺は小さく呟いた。
「なんだ……夢か…………」
学校を出て、青みを増しはじめた空に浮かぶ黄色い雲を見上げると、ようやく僅かばかり思考が冴えた。ひんやり乾いた秋の空気を、大きく吸い込む。
毎朝四時にベッドに倒れこみ、八時には起床して登校、その後ひたすら続く授業中に補填的な睡眠時間を稼ぐ生活を送る俺にとって、一日がピークを迎えるのは夕刻以降のことだ。秋分の日が過ぎ、夜が長くなるこれからの季節は気分も軽くなる。逆に、明かりを消す頃にはすでに窓の外が白み始めている六月、七月などは、寝入り端の憂鬱さを日中も引き摺ってしまう。
と、言ってもべつに、再来年に待ち構える高校受験の勉強に明け暮れているわけではない。
前後を歩く中学生たちの、夢と希望、恋と友情に溢れた会話を遮断するためにオーディオプレイヤーのイヤホンを両耳にねじこみ、背中を丸めて、俺は家路を辿った。
途中にあるコンビニで、これから朝四時まで続く戦いのための補給食を買い込み、ついでに電子マネーアカウントに幾らかチャージする。
ゲーム情報誌をぱらぱら捲ってから自動ドアを抜けると、駐車場のすみの薄暗がりに輪になって座り込む四、五人の同級生の顔が見えた。周囲にはカップ麺やおにぎりの包装が散乱し、傍若無人な笑い声を響かせている。
無視して通り過ぎようとしたとき、中の一人が俺に向けた、すがるような視線と目が合った。
ブレザー姿でなければ小学生にしか見えないその男子生徒とは、去年一年間そこそこ仲良くしていた。当時、同じネットゲームにハマっていたせいだ。
そして、いかにも文科系の極みのような二人組に、不良連中が目をつけるのも当然の流れと言えた。今、彼の周囲で馬鹿話に興じている連中だ。使いっぱしりを強要するところから始めて、ジュースやパンを奢らせるようになり、やがてダイレクトに金銭を要求し出すに及んで俺は行動に出た。剣道場から持ち出した竹刀で、リーダー格をしたたかブチのめしたのだ。
たった二年で辞めてしまった剣道だが、思わぬところで役に立ったものだ。双方の親が学校に呼ばれ、大ごとになりかけたが、俺が超小型レコーダーで録画しておいた恐喝シーンを会議室の大モニタで再生してやったら即座にウヤムヤな決着を迎えた。
その後、ヤンキー連中はしばらく大人しくしていたようだが、どうやら懲りずにパシリだの恐喝だのを再開したらしい。
脚を止め、顔を向けていると、しゃがみ込む一人が鼻筋に皺を寄せて唸った。
「んだよキリガヤ、何見てんだよ」
俺は肩をすくめ、答えた。
「別に」
そして、そのまま歩行を再開した。かつて友達だった生徒の視線を強く背中に感じたが、もう二度とあんな面倒な真似をする気はない。今年になってからは話もしていない相手だし、そもそも武闘派のネトゲ廃人なんて笑い話にもならない。
白いビニール袋をほとんど空のバックパックに押し込み、インナーヘッドフォンのボリュームを上げて、夕暮れに染まる世界を掻き分けて歩く。こっち側で誰かとルーティーンではない会話をしたあとは、決まってこんな乖離感覚が押し寄せてくる。
早く接続したい。世界に繋がりたい。
強い焦燥に急かされるように、ダークグレイとオレンジに塗り分けられた住宅街をひたすら歩く。
やがて、古めかしい竹垣に囲われた自宅が、設定視野に入った地形オブジェクトのように前方に浮かび上がる。
屋根つきの門をくぐり、砂利を踏んで玄関へ向かう。
と、鋭く空気を切る音と、歯切れのいい掛け声が耳に届いた。
裏手の広い芝生のうえで、竹刀の素振りをする緑色のジャージ姿の女の子が目に入る。短く切りそろえられた髪、飛び散る汗、見事なまでに制御された動作のすべてが眩しく、思わず歩みを止める。
俺が立ち尽くしていると、女の子はすぐに気付き、素振りをとめてにっこりと笑った。
「おかえり、お兄ちゃん!」
屈託無く掛けられた言葉に、反射的に視線を逸らせてしまう。
凄まじい隔絶感。俺が遠ざけてきたあらゆるものが、薄膜一枚へだてた向こうに光り輝いている気がする。いったいいつから、こんな感覚が生まれてしまったのか。同時に習い始めた剣道を、俺だけさっさと辞めてしまった時だろうか。それとも――その少し前、生前の祖父にしたたか叱られた時か。
あれは何が原因だったんだっけ。
祖父の道場に通っていた、年上の近所の男の子に、ネットで調べた立ち関節技を使って勝ったせいだったか……。
瞬時の物思いに囚われた俺を、ジャージの女の子は大きな瞳でじっと見つめ続けている。
「……ん」
挨拶にもならない短音を返し、俺はすぐさまきびすを返した。玄関に向かう背中に、やはり物言いたげな視線だけが残った。
広い家のなかは無人だった。
父親は海外に赴任中だし、母親は仕事柄、俺より不規則な生活を送っている。そのことに文句はまったくない。むしろ有り難いほどだ。
ネクタイを引き抜きながら階段を駆け上り、自室へと飛び込む。ふう、と大きく息を吐き、ザックを放り出す。
ほんとうに中学二年男子の部屋か、と言いたくなるほどに殺風景だ。シンプル極まるデスクには自作のパソコンとELモニタ。本棚にはプログラミングやアプリの解説本。あとはタンスとベッドしかない。
そのベッドの上に鎮座するモノが、この部屋と俺の生活を支配する主だ。
艶やかなダークブルーの外装をまとうヘルメット型ヘッドギア。
そしてもう一つ、細いケーブルで接続するキューブ型のマシン本体にマウントされた、一枚の光学ディスク。
“ナーヴギア”と、”ソードアートオンライン・βエディション”。
俺は制服を蹴散らすように脱ぎ捨て、楽なスウェットに着替えると、コンビニで買ってきたブロック栄養食を一本貪るように胃に詰め込んだ。水分を取り、トイレを済ませ、ある種の中毒患者のように息を浅くしながらベッドへと倒れこむ。
ナーヴギアを被り、ハーネスをロックして、電源を入れる。かすかなドライブ回転音。ファンの排気音。
遮光シールドを降ろし、スタンバイ完了を示すビープ音が鳴るや否や、きょう一日に出したすべての声のなかで、もっとも明確な発音で接続プロセス開始コマンドを口にする。
リンク・スタート。
俺が降り立ったのは、当然ながら、昨日――正確には今朝ログアウトした座標だった。
浮遊城アインクラッド最前線、第10層主街区。その中央に高く聳える、鐘楼の最上部。頭上には、くっきりと上層の底が見える。
俺は、目の前の窓ガラスに映る自分の姿を確認した。
現実の俺より、二十センチは背が高い。胸も腕も逞しく、しかし腹は削いだようにくびれている。その完璧なバランスの身体を包むのは、純白の地にコバルトブルーのトライバルパターンが入った華麗なハーフアーマーだ。メンテしたばかりなので、ワックスを掛けたような光沢が日光を眩く反射している。背中に流れるマントは純銀の毛皮製。腰には、クリスタルのように透きとおる柄を持つ大型の片手剣。
すべての装備が、現時点で入手可能な最高性能を備えている。とは言え、週末には次の層が開通するだろうから、また一式更新する必要があるだろう。どうせ、金(コル)は口座に腐るほど溜まっている。
最後に、これも瑕疵ひとつ無いデザインの顔を確認する。βテスト開始当初に、無限とも思えた数値パラメータをいじり込んで造り上げた自信作だ。実は”かわいい女の子”を作るよりも、”かっこいい男”を造るほうが十倍は難しい。ここまでのレベルに達している男アバターは、アインクラッドには存在しない確信がある。
背中に垂れる青銀の長髪を一振りし、俺はガラスから視線を外した。
黒のレザーパンツのポケットに両手を突っ込み、鐘楼の手すりに白いブーツを乗せ――ひと息に空中に飛び出す。
眼下の中央広場までは、たっぷり三十メートルはあるだろう。その高度を、マントと長髪をなびかせながら、俺は矢のように落下する。敷石に衝突する直前でくるくると二回転し、物凄い大音響とともに両脚から着地する。
高い敏捷度、筋力パラメータおよび軽身スキルはもちろん、熟練のプレイヤースキルとおまけに度胸がなくてはできない芸当だ。俺のステータスでも、この距離を頭から落下したらヒットポイントが吹っ飛び、はるか下層の黒鉄宮で気まずい蘇生をすることになる。
見事着地を決め、立ち上がった俺を、周囲で目を丸くしていたプレイヤーたちが笑顔で迎えた。「キリト、おはー!」「キリトさん、こばーっす」と次々に掛けられる統一感の無い挨拶に、こんばんはーっす! と、現実世界の俺が口にしたこともない元気な声を返す。
たちまち殺到するパーティー狩りの誘いを、一つずつ丁寧に断り、俺は街区のはずれにある宿屋へと向かった。
事前に指定されていたのは、二階の一番奥の部屋だった。カウンターのNPCから古めかしい真鍮のキーを貰い、素早く階段を登ると奥の扉の鍵を外す。
中で待っていたのは、俺に負けず劣らず高価かつ派手な装備に身を固めた、二人の男性プレイヤーだった。一人が大柄な両手剣使い、一人は華奢なナックル使いだ。
「ちわ」
と、短く頭を下げたのはナックル戦士のほうだった。俺も、どもっすと答え、ドアを閉める。ロックされたのを確認してから、索敵スキルを使い、部屋と壁の向こうを丹念にチェックする。
「やー、ハイドしてる奴なんかいないっすよー」
と苦笑する男に、俺も薄く笑いながら肩をすくめて見せた。
「念のためですよ。それと……もちろん、記録系クリスタルも無しですよね」
「もち、当然っす。キリトさんを引っ掛けるようなこと、うちのギルドがするわけないっすよ」
鵜呑みにするわけには行かないが、それでも俺は一応納得し、空いている椅子に腰を下ろした。
それを待っていたように、これまで無言だった両手剣が、ずいっと身を乗り出してきた。
「改めて、はじめまして、よろしくです」
「はじめまして」
俺も再び頭を下げる。
初対面ではあるが、互いに知らない間柄ではない。この二人は、SAOβで現在最大勢力を誇るギルドの、副長と参謀なのだ。そして俺は、つい二週間前まで第二勢力ギルドに属していた。
フリーになった途端、数多のギルドから加入の誘いが舞い込んだが、たっぷりともったいつけた上で今日この二人との会談に応じたのには、訳があった。
しかし俺は、内心を隠したままポーカーフェイスで交渉に就いた。
二人は、準備金として用意できるコルの額や、ギルドで蓄積しているレアアイテムの一覧などをウインドウで示し、熱心なリクルートを開始した。それをひととおり聞いたところで、俺は脚を組み、にこやかに言った。
「うーん、正直、金には困ってないですし、アイテムもこれと言って……って感じですかねえ」
「いや、勿論これは叩き台ってことで、ここからも交渉の余地は……」
早口でそう言い募る副長の目をじっと見て、俺は囁いた。
「金とかアイテムはいらないです。ただ……たった一つだけ、条件を飲んでくれれば、あとは何も無しで加入しますよ」
「じ……条件……とは?」
つり込まれたようにひそひそ声になった男に、俺はニッと片頬を歪めて笑いかけ、言った。
「おたくのギルドのリーダー職に、すごい地味な装備の片手剣使いの男がいるでしょう」
「え……、ええ」
「あいつ……狩らせてもらえませんか」
SAO4_53_Unicode.txt
「狩る、って……どういう……?」
「べつに、フィールドでPKしようってわけじゃありません。俺もいまさらオレンジになりたくないですしね」
二人を安心させるように、笑顔を当たり障りないものへと変える。
本音では、PKも辞さないくらいの気分ではあるが、オレンジネームを人知れず白に戻すのは大変な苦労だし、そもそも人口過密な上層の狩場でプレイヤーを襲うのはよほどタイミングに恵まれなければ不可能だ。
「……ただ、何か理由をつけて、鍵つき(クローズド)の闘技場にあいつが一人になるようにセッティングしてもらえればそれでいいです。あとは俺がケリつけますから」
「闘技場……ですか」
副長のほうが、考え込む仕草を見せる。
SAOβにおいて、街区圏内で対人戦闘を行うには、デュエルを申し込んで受諾されるか、あるいは第1層はじまりの街にある闘技場を利用するしかない。もちろん、いきなり開いたデュエル窓のYESボタンを闇雲に押す人間などいるはずはないが、闘技場ならばゲートをくぐった時点であらゆる保護は消滅する。設定次第で、デスペナルティも装備のランダムドロップも発生するのだ。
「うーん……。彼は、ウチにとってもかなりの戦力ですしねえ……。それにしても、なんでそんなことを? キリトさんは確か、前の大会の個人戦で彼と当たって、勝ってますよね?」
「や、まあ、そうなんですけどね。ちょっと事情がありまして」
俺は語尾を濁しておいて、表情を改めると言葉を続けた。
「……これさえOKしてもらえれば、すぐにそちらに加入させてもらいますし……それに、本サービス開始後もお世話になれるといいなと思ってるんです」
途端、二人の目つきが変わった。
正直なところこのゲームでは、俺程度のプレイヤースキルがあれば、ソロプレイのほうが経験値的にも金銭的にもずっと効率がいい。”不可避の魔法攻撃”が存在しないゆえに、反応速度いかんでは、一人で同時に複数のMobを相手にすることも可能だからだ。ろくにスイッチもできず、経験値とドロップだけ吸っていくPTメンバーなど邪魔物以下の存在だ。
だからこそ、ギルド運営に燃えるタイプの連中は、強力な前衛プレイヤーの確保に血道を上げることになる。俺は、彼らが口を開くまえから、答えの内容を確信していた。
「……まぁ、あくまで事故、って体裁にしてもらえるなら……なあ?」
語尾は、ナックル男に向けられたものだった。そちらもかくかくと頷き、おもねるように続けた。
「ぶっちゃけ、あの人最近IN率低いんですよね。リーダー職がそれじゃあ、ちょっと、ねえ」
「じゃ、決まりですね。一件が片付き次第、すぐに加入させてもらいますから」
俺も笑顔で調子を合わせ、右手を差し出した。
よほど話を急いでいたのだろう、彼らはその夜のうちにセッティングを終え、闘技場のクローズドルームの入室パスとなる鍵をメッセージに添付して送ってきた。
俺は、オブジェクト化した大型の鍵を指先でくるくる回しながら、はじまりの街の裏通りだけを選んで闘技場を目指した。
指定された時刻は午前三時。さすがにプレイヤー達も続々ログアウトしていく頃合で、裏道にはNPCの黒い影しか見えない。
今日一日、どこで何をしていたのかすらよく思い出せないほど、俺は気を昂ぶらせていた。指先にまで負の感情が満ち溢れ、今にも黒く滴りそうだ。
前方の夜闇をついて、ぬっと聳え立つ遺跡めいた闘技場に、ほとんど駆け足で踏み込む。
毎月開催される公式大会や、大規模なGvG戦で使用されるメインコロシアムの入り口を通り過ぎ、奥に幾つも並ぶ小コロシアムの、一番奥のドアの前で立ち止まる。
張り出されている羊皮紙には、CLOSEDの大フォントと、無制限ルールの但し書きが黒々と連ねてある。鍵穴に右手のキーを差込み、重い金属音を響かせながら回す。
内部も薄暗かった。照明は、四隅の鉄籠で揺れる篝火だけだ。小部屋とは言うが、そこは遠距離職同士のデュエルにも対応した空間なので、縦横とも三十メートルはある。周りは黒ずんだ石壁に囲まれ、床は白い砂が敷き詰められている。
その中央に、所在なげにぽつりと立つ人影があった。
赤い篝火を反射するのは、ただ打ち出した鋼鈑を連ねただけのような、簡素なバンディッドメイル。頭には、同じく鋲打ちスチールのオープンヘルメット。マントは無く、服は茶色のなめし革。
そして左腰に、実用一本やりの無骨な片手用直剣が下がっている。
あらゆる武装が、まるでログイン直後の初期装備だが、しかしもちろんそれは見た目だけだ。数値的性能では、俺の純白と藍青のアーマーと遜色ないはずだ。そういうところが――気に食わない。
まったく、気に入らない。
バンディッドメイルの男は、闘技場に入ってきた俺に気付くと、少年とすら言える幼い顔に怪訝そうな表情を浮かべた。その容貌すらも、やる気あるのかと言いたくなるほど地味な、特徴の無いデザインだ。
「あれっ……キリトさん?」
暗がりから、砂の上に進み出た俺を見て、少年は目を丸くした。
「あっ、ども……ひ、久しぶりです。あれ……今日は、新しいギルメンの顔合わせイベントって聞いてるんですが……他の人はどうしたんだろう」
「どうも」
俺も軽く頭を下げ、低い声で続けた。
「他の人には、今日は遠慮してもらったんですよ。ちょっと、二人だけで話がしたいな、って思って」
「え……?」
怪訝そうながらも笑顔を浮かべる少年に、俺はゆっくり歩み寄った。こちらも、にこりと笑顔を浮かべ――。
ノーモーションで放った抜き打ちを、ぎりぎりのところで防いでみせたのは、流石と言うべきか、食わせ者と言うべきか。
ギャリン!! と軋むような金属音が響き、相手の鈍色の剣と、俺の半透過色の剣が激しく火花を散らした。そのまま、小柄な少年に圧し掛かるように鍔迫り合いを続けながら、俺は打って変わった口調で囁いた。
「キリトさん、じゃねえよ。俺がアンタに何の用なのか、とっくに分かってるだろう」
「え……ぼ、僕は何も……」
小刻みに首を振る相手の顔を間近で見た途端、腹の底に押さえつけていた怒りが爆発し、俺は叫んだ。
「ざけんな!!」
両手で握っていた剣の柄から、左手を離して固く握り、体術スキルの単発重攻撃を思い切りバンディッドメイルの腹に叩き込む。黄色いライトエフェクトが炸裂し、小柄な体がひとたまりもなく吹っ飛ぶ。
砂地の上を転がる少年を追うように、片手剣の長距離ソードスキルを発動させる。緑色の円弧を描いて襲い掛かる刃を、相手――敵はごろごろ転がって避けた。白い砂が爆発したように飛び散り、俺はそれ以上は追わず、敵が立ち上がるのを待った。
唇を震わせる相手の顔を凝視し、吐き捨てる。
「つい先月のことを、忘れたわけじゃないだろうが。個人戦のセミファイナルで俺と当たったときの話だよ。気付いてないとでも思ってたのか。アンタが、手ぇ抜いて、わざと負けやがったことに」
篝火の下でも分かるほど、ヘルメットの下の顔が瞬時に血の気を失った。フルダイブ環境下の過剰な感情表現だが、その分相手の精神状態を如実に伝えてくる。
「……どうせトトカルチョ関係の八百長請け負ったんだろ。アンタがいくら稼ごうと知ったこっちゃないけど……許せねえんだよ!! てめえみたいな、どうせゲームだろとか、マジになってんじゃねえよとか裏で言ってる奴は!!」
そう――、この世界は、たかがゲームである。それが絶対不変の真実なのは俺も重々理解している。
恐らく、デュエルで手を抜かれたくらいで熱くなっている俺が馬鹿なんだろう。公式大会の上位カードでは、巨額の賭け金が動く。考えようによっては、八百長を請け負い大金を稼ぐことすらも、ロールプレイの一環と言えなくもない。
しかし。
俺は、準決勝でこの男と戦ったとき、おそらくSAOβに初ダイブして以来もっとも本気になった。ソードスキルの出の速さ、ディレイの短さ、あらゆるフェイントに即応してくる判断力、すべてが感嘆すべきレベルだったからだ。
それまでまったくノーマークのプレイヤーだったこともあって、こんな奴もいたのか、と――俺は、嬉しくなった。勝っても負けても、試合が終わったら声を掛けてフレンド登録させてもらおう、などと本気で思った。
タイムアップ間際に、相手がわざとこちらの技を喰らい、大仰に倒れるその瞬間までは。
間抜けもいいところだ。
青ざめる少年をねめつけながら、俺は腰のポーチに手を突っ込み、つかみ出したものをざらっと周囲にばら撒いた。
砂の上で輝くのは、すべて深紅色のクリスタルアイテムだ。
「見たことあるだろ、これ。”即時蘇生結晶”……すごい値段だったぜ、これだけ揃えるのには」
俺の意図を察したのだろう、相手の表情が一層強張る。
この高価なクリスタルは、効果範囲内で死んだプレイヤーひとりを、黒鉄宮送りになる前にその場で自動蘇生させてくれる。しかしデスペナは発生するし、装備も落とす。
それはつまり、使いようによっては、意図的な連続殺害(レスキル)も可能となるということだ。
「これから、アンタを十回連続で殺す。確実に1レベルダウン、装備も全ロスするまで。明日からどんなに必死こいても、次の……β最後の大会までにリカバリーは絶対できない。それが嫌なら……本気で戦ってみせろよ」
抑揚の失せた声でそう宣言し、俺は剣を振りかぶった。
戦いは、予想、あるいは期待したとおり激烈なものとなった。
俺の習得しているあらゆるソードスキルを、少年は的確にパリィし、あるいはステップで避け続けた。一人のギャラリーもいない深夜のクローズドエリアで、俺と彼はさきの大会を上回る熱戦を繰り広げた。
怒りは消えていなかったが、それでもなお抑えようもなく手足が、そして精神が昂ぶるのを俺は感じた。全速の攻撃を撃ち込んだ直後、鼻先を掠めるような反撃を掻い潜るタイトロープ感覚。
これほどのテクニックがあって、なぜ――。
何でなんだよ!!
と内心で叫びながら、俺は脳神経が灼き切れるほどの勢いで、現時点で最長の五連撃を放った。
ほとんど同時に、立て続けの光芒が四つ、眩く弾けた。
そして、まるでデジャヴのように、戦いは意外な結末を迎えた。
少年が、受けられるはずの五撃目を受けず、わざと胸のど真ん中に喰らったのだ。
その一撃はクリティカル判定され、半分以上残っていたHPバーが一瞬で吹っ飛んだ。俯き、よろめいた少年の身体が無数のポリゴンとなって爆砕し、直後、床に転がるクリスタルの一つが強く輝いて同じく砕けた。
いったん宙に拡散しかけたポリゴンが、ぎゅうっと再凝縮されていく。
赤い光の柱が伸び、収まったその場所には、蘇生された少年の姿があった。しかし、つい一瞬前まで被っていたヘルメットが消え失せ、金属音とともに足元に転がった。
俺は、顔をうつむけたままの少年を愕然と凝視し――。
軋り声を絞り出した。
「て……めぇ……! また……同じ、真似を……」
ほとんど自動的に、剣が動いた。真正面からの、見え見えの右袈裟斬り。
しかし、またしても少年は避けなかった。肩口から脇腹へと斬撃が疾り、赤いライトエフェクトが斜めに輝いた。
ぐらりと身体を揺らし、一歩よろめいただけで、少年は踏みとどまった。
「……僕は」
赤みがかった短い金髪に表情を隠し、少年がぼそりと呟いた。
「僕は、嬉しかったんだ。君が……キリト君が、うちのギルドに入るかも、って聞いて。すごく楽しみだったんだよ」
「な……」
一瞬言葉を飲み込み、直後それは猛烈な怒声となって俺の喉から迸った。
「……何を今更言ってやがる!! なら、なんであの時手抜きなんかした!! 俺は……俺は……ッ」
「わざと負けたのは、八百長したからじゃない!!」
少年も高い声で叫び、露わになった顔を上げた。両眼から、滝のように涙が溢れていた。
この世界では、感情を隠せないかわりに、嘘泣きもできない。ほんとうに、泣きたくなるほど悲しいと感じなければ、涙は流れない。
その、何かを訴えかけるような、すがるような眼差しを見て――俺は、短く息を飲んだ。
どこかで……この目を、どこかで見たような……。
「僕は、君と向こうでもういちど友達になってから、こっちでちゃんと名乗りたかったんだ!! 僕だよ……僕なんだよ、キリト君。いや、桐ヶ谷君……」
「な…………」
俺は言葉を失った。
目の前の、特徴のないアバターの顔が、昨夕、コンビニの駐車場で見た幼い顔と重なった。
「お……お前……なんで……。SAOβに当選したなんて、ひと言も……」
「僕は……いつも、君みたいになりたいって思ってた。VRでも、現実でも、すごく強くて、いつもクールな君みたいに……。だから、僕も自分の力であいつらを撃退して、それからもう一度……友達に、なれたらって…………」
少年が大きくよろめき、地面に剣を突いて踏みとどまった。
「僕は……あの大会で、君と戦ってるとき、心のなかで思ってた。気付いてくれたら、って……君が、僕だって気付いてくれたら、そしたら言おう、って。もう一度……僕と…………仲良く…………」
その時。
少年の口から、大量の鮮血が溢れた。
俺の剣が身体を薙いだ箇所からも、恐ろしいほどの血が飛び散った。
ずるっと音を立てて傷口から内臓がはみ出し、砂の上に次々に落ちた。
「な…………」
何だこれは。
SAOに、こんなリアルな死亡エフェクトは存在しないはずだ。
いや――リアルなんてものじゃない。噎せ返るような血の匂い。篝火を反射する臓器の色合い。そして、少年の頬に伝う涙の煌き。
ぐらりと小柄な体が傾いた。
どう、と横倒しになり、動きを止めたその姿を、俺はただ呆けたように見つめ続けた。
「……おい。……おいって」
ふらつきながら砂に膝をつき、手探りでクリスタルをひとつ拾い上げる。
「おい、とっとと蘇生しろよ。どうなってんだよ……何だよ、これ」
おそるおそる少年の顔を覗き込む。
見開かれた目に、光は無かった。
生乾きの涙に濡れる瞼をうつろに開いたまま、少年は絶命していた。
「なあ……冗談やめろよ。わかったよ……俺が、俺が悪かったから、なあ、おい、起きろよ!!」
ぼっ、と音を立て、篝火がひとつ消えた。
もう一つ。三つめ、四つめも掻き消え、闘技場は暗闇に包まれた。しかし、俺の剣によってほとんど真っ二つに分断された遺骸だけは、視界から消えようとしなかった。
「う……うぁ……」
喉からしわがれた声を漏らし、俺は後ずさった。
後ろを向き、走り出そうとしたが、いつの間にか足元が砂からタールのような粘液に変わっていて、ばしゃっと倒れこんでしまう。
うずくまり、瞼をきつく瞑って、俺は悲鳴を上げ続けた。
夢だ。
これは全部、悪い夢なんだ。
だって、こんなこと、実際には起きなかったはずだ。
俺とあいつは、闘技場から出て気まずい沈黙のうちにログアウトしたあとも、結局リアルでは何ひとつ変わらなかった。俺はあいつを無視し続け、あいつは不良グループと縁切りできずネットゲームを辞め、一ヵ月後にはSAO正式サービスが――あのデスゲームが始まり、俺はただ生きのびることだけに懸命になって……。
何だ……?
これは――記憶?
ねばつく暗闇の底で手足を縮め、悲鳴をかみ殺しながら、俺は脳裏にフラッシュする幾つもの情景に翻弄された。
浮遊城での、二年間に及んだ生存闘争。
妖精の国で目指した、果てしない空。
黄昏の荒野を飛び交う銃弾。
嫌だ――もう思い出したくない。この先を知りたくない。
そう何者かに懇願するものの、しかしシーンは容赦なく切り替わり続ける。
現実世界から突如切断され。
深い森に囲まれた空き地で目覚め。
斧音に導かれるように歩き、辿り付いた巨大な黒杉の根元で、俺は彼と出会った。
ゴブリンとの戦闘。切り倒された巨大樹。
世界の中央を目指した長い旅。学院で修練に明け暮れた二年間。
いつだって、彼は俺の隣にいた。穏やかに笑っていた。
彼と一緒なら、なんだって出来るはずだった。
肩を並べて白亜の塔を駆け上り、強敵を次々と打ち破った。
そしてついに頂上に達し、
世界の支配者と剣を交え、
長く苦しい戦いの果てに、
彼は、その、
命を――
「う……うああああああ――――ッ!!」
俺は両手で頭を抱え、絶叫した。
俺だ。俺の無力さ、俺の愚かさ、俺の弱さが彼を殺した。流れてはいけない血が流れ、失われてはいけない命が失われた。
俺が死ぬべきだった。かりそめの命しか持たない俺が。俺と彼の役目が逆になっても、何ら問題は無かったはずなのだ。
「あああ……アアアアア!!」
叫び、のた打ち回りながら、さっき近くに投げ捨てたはずの剣を手探りで捜す。自分の胸に突き立て、首を掻き切るために。
しかし、指先には何も触れない。ねっとりとした黒い粘液がどこまでも広がるだけだ。
ぐるりと向きを変え、尚も捜し続ける。這いずり、闇雲に掻き毟る指先に。
何か、柔らかいものが触れた。
はっと目を見開く。
つい数分、あるいは数瞬前、俺が闘技場で斬り殺した少年の死体がまだそこにあった。
完全に分断された胴。黒い粘液の上に、あざやかに広がる深紅の血。
吸い寄せられるように体をさかのぼった視線が、青白い顔を捉えた。
それはいつの間にか、遠い記憶にかすむ同級生のアバターではなくなっていた。
柔らかそうな、亜麻色の短い髪。繊細な目鼻の造作。
びくっ、と指先を引っ込めた俺の喉から、金属を磨り潰すような声が漏れた。
「ア……アア…………」
彼の惨たらしい死体が、そこにあった。
「ウア……アアアアア――――!!」
不協和音じみた悲鳴を撒き散らし、俺はいつの間にか身にまとっていた簡素な黒いシャツの前を引き千切った。
痩せ細った胸の中央に、鉤爪のように曲げた右手の指先を突き立てる。
皮膚が裂け、肉が千切れるが、痛みはまるで感じない。俺は両手でおのが胸を引き毟り続ける。
心臓を抉り出し、握りつぶすために。
それだけが、俺が彼のために出来る、最後の……――
「キリトくん……」
突然、誰かが俺の名を呼んだ。
俺は手を止め、虚ろな視線を持ち上げた。
彼の死体のすぐ向こうに、いつのまにか、ブレザーの制服姿の女の子が一人立っていた。
長い栗色の髪をまっすぐ背中に流し、はしばみ色の瞳を濡らして、じっと俺を見つめている。
「キリト……」
新たな声とともに、右側にもう一人少女が出現した。額の両脇で結わえた髪を細く垂らし、やや吊り上がり気味の灰色がかった瞳に、こちらも涙の粒を光らせている。
「お兄ちゃん……」
そして、さらにもう一人。
白いセーラー服の襟のすぐ上で、黒い髪をまっすぐに切りそろえた少女が、同じく漆黒の瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。
三人の少女たちの意思と感情が、強い光となって迸り、俺のなかへと流れ込んでくる。
陽だまりのような暖かさが、俺の傷を癒し、哀しみを溶かそうとする。
――でも。
でも……ああ、でも。
俺に、この許しを受け取る権利なんか……
あるはず、ないんだ。
「ごめんよ」
俺は、自分の口から静かな言葉が零れるのを聞いた。
「ごめんよ、アスナ。ごめん、シノン。ごめんな、スグ。俺は……もう立てない。もう戦えない。ごめん…………」
そして俺は、胸から抉り出された小さな心臓を、ひとおもいに握り潰そうとした。
「何でだ……なぜなんだ、キリト君!!」
比嘉タケルは、薄れようとする意識を懸命に繋ぎとめながら、低く叫んだ。
接続された三台のSTLからは、桐ヶ谷和人の傷ついたフラクトライトを補完するべく、圧倒的な量の信号が流れ込んでくる。これまで、数多の実験を繰り返し膨大なデータを収集してきた比嘉でさえ驚愕するほどの、奇跡とすら言える数値だ。
しかし、携帯端末の小さなモニタの左上に表示された三番STLのステータスインジケータは、いまだに機能回復ラインの直前で震えながら停止したままだった。
「まだ……足りないのか…………」
比嘉は呻いた。
桐ヶ谷和人の回復しかけた主体意識は、このままでは”現実”ではなく、”記憶”――あるいは”傷”とのみリンクしてしまい、そこから戻ってこられなくなる。待っているのは、永遠にリフレインする悪夢だ。これなら、まだ機能停止していたほうが幸せだと断言できるほどの。
せめて、あと一人。
もう一人、和人と大きな繋がりを持ち、強いイメージを蓄積している人間が接続したSTLがあれば!
しかし、菊岡二佐いわく、今接続している三人の少女たちが、間違いなく世界でもっとも桐ヶ谷少年を知り、愛している人間だと言う。それに、空いているSTLはもうどこを捜しても存在しない。
「くそっ……畜生……」
比嘉は奥歯を噛み締め、ダクトの壁を殴りつけようと拳を握った。
そして、その手をゆっくり解いた。
「……あれ……なんだ……? この……接続は……」
呆然と呟きながら、眼鏡をモニタに限界まで近づける。
今まで気付かなかったが、画面左上に四角く表示された三番STLのウインドウに、右、下、右下の三台のSTLから繋がるラインのほかにもう一本――ドットをごく薄く輝かせながら、画面外へと消える接続ラインを見つけたのだ。
吸い寄せられるように、解いた右手の人差し指を近づけ、ラインに触れる。
画面がズームアウトし、接続先が下からスクロール表示されてくる。
「メイン……ビジュアライザーから……? なぜ…………!?」
自分が重傷を負っていることも忘れ、比嘉は叫んだ。
メインビジュアライザーは、数十万の人工フラクトライトたちの魂を格納するライトキューブ・クラスターの中央に鎮座する巨大なデータストレージだ。
そこに蓄積されるのは、あくまでアンダーワールドを構成するオブジェクトのニーモニックデータのみであり、人の魂は一つたりとも存在しないはずだ。
だが――、しかし。
「オブジェクト……記憶としてのオブジェクト……」
比嘉は全速で思考を回転させながら、無意識のうちに呟いた。
「フラクトライトも、オブジェクトも、データ形式としては同一だ……つまり、誰かが……あるいは誰か達が、意識が焼きつくほどに強い思いを、モノに込めれば……? それが、擬似的なフラクトライトとして機能することも……ある……のか…………?」
自分でそう推測しておきながら、比嘉は半信半疑だった。もしそんなことが可能なら、アンダーワールドでは、記憶としての物体を、持ち主の意思の力で自在に制御できるということになってしまう。
しかしもう、この薄く頼りない接続ラインが、たったひとつの望みであるのは確かなようだった。
何が起きるのか、これで事態が好転するのか悪化するのか比嘉にはまったく推測できなかったが、それでも彼は意を決し、メインビジュアライザーから三番STLへと続くゲートを全解放した。
「キリト」
心臓が破壊される、その寸前――。
新たな声が、俺の名を呼んだ。力強く。暖かく。包み込むように。
「キリト」
ゆっくり、ゆっくり顔を上げた俺が見たのは。
つい一瞬前まで、惨い死体が横たわっていたはずのその場所に、しっかりと両脚で立つ”彼”の姿だった。
ダークブルーの制服には染み一つない。亜麻色の短い髪は綺麗に撫で付けられ、薄めの唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そして、明るいブラウンの瞳には、いつもそうだったように、二人の絆を信じ、疑うことのない輝きがどこまでも無限に深く煌いていた。
俺は、いつのまにか傷が消えうせてしまった胸から両手を離し、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼の名を呼ぶ声が漏れた。
「……ユージオ」
もう一度。
「生きてたのか、ユージオ」
彼――俺の親友、そして最高の相棒であるユージオは――。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
「これは、君が抱いている僕の思い出。そして、僕が焼き付けた、僕の心」
「思い……出…………」
「そうさ。もう忘れてしまったのかい? あの時、僕らは強く確信したじゃないか。思い出は……」
そしてユージオは、右手を広げ、自分の胸に当てた。
「ここにある」
俺も、鏡像のようにまったく同じ動作を行い、続けた。
「永遠に……ここにある」
もう一度、にこっと微笑んだユージオの隣に、アスナが進み出てきて言った。
「わたしたちとキリトくんは、いつだって心で繋がってる」
反対側に踏み出したシノンが、小さく首を傾けて笑った。
「たとえ、どんなに遠く離れてても……たとえ、いつか別れがやってきても」
その横に、ぴょんと飛び出した直葉があとを引き取った。
「思い出と、気持ちは、永遠に繋がりつづける。そうでしょ?」
ついに、俺の両眼から、熱く透明な雫が滝のように溢れ出た。
一歩前に踏み出し、俺は永遠の親友の瞳を懸命に覗き込んで、尋ねた。
「いいのか……ユージオ。俺は、もう一度、歩きはじめても……いいのかな」
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「そうとも、キリト。たくさんの人たちが、君を待ってるよ。さあ……行こう、一緒に、どこまでも」
双方から差し出された手が、触れ合った。
瞬間、眼前の四人が白い光の波動となって、俺のなかへと流れ込んだ。
そして――――。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
深く地面に縫いとめられながらも、なおも右手で地面を引っかくクラインを、PoHは厭わしそうに見下ろした。
「ウゼェ……吐き気がするぜ。こんなぶっこわれた木偶になに熱くなってんだよ。いいやもう、お前消えろ」
そして、黒フードがアスナ達の背後の黒いプレイヤーたちに向けられ、何か指示が発せられようとした――そのとき。
いつの間にか、拘束された日本人プレイヤーたちの間に紛れ込んでいたひとりの小柄な剣士が、突如立ち上がり、PoHに向けて突進した。
「いやあああああっ!」
鋭い気合が響き、灰色のスカートと赤い長髪がひるがえった。
腰溜めに構えた簡素な直剣とともに、体当たりするがごとく突っ込んでいくのは、後方で騎士レンリと一緒だったはずの補給隊の少女だった。
「ティーゼ……!!」
目を見張るアスナの腕のなかで、ロニエが悲鳴を上げた。
ティーゼの突進は、アスナの目から見ても、飛んでいるがごときスピードだった。これは当たる、と息を飲んだ、次の瞬間。
ばさっと広がったポンチョがティーゼの目をくらませたか、突き出された剣が貫いたのは、惜しくも薄い黒レザーのみだった。
ぬるっとした動きで飛び退いたPoHが、右腰にぶら下がる大型のダガーを、音も無く抜いた。まるで中華包丁のように四角く、禍々しい赤に染まる刃に、アスナの呼吸が止まった。
“友切包丁(メイトチョッパー)”。SAOで、間違いなくもっとも多くのプレイヤーの血を吸った、呪われた武器だ。
「ティーゼさん!!」
叫びながら立ち上がろうとしたが、背後から交差して伸ばされた剣が、肩に食い込んで動きを封じた。
渾身の突撃をかわされたティーゼは、頭上に高々と振りかざされた肉厚の刃をただ見上げていた。
項垂れたその小さな頭に、容赦なく赤黒い包丁が叩き付けられ――
キィン!!
と、オレンジの火花を振り撒いて、赤毛に触れる寸前で跳ね返された。
「……お?」
PoHが訝しげに呟き、再度ダガーを振り下ろす。
結果は同じだった。三度目も。
無力に立ち尽くすティーゼの技ではないことは明らかだ。アスナから見える横顔のなかで、紅葉色の瞳を大きく見開いている。
と、アスナの腕のなかで、ロニエが掠れた囁きを漏らした。
「……心意の太刀」
「え……? そ、それは……?」
「整合騎士の……最高奥義です。私も……本物を見るのは初めてですが……でも、誰が……」
確かに――。
この戦場に残る整合騎士は、レンリ少年ただ一人。しかし彼は、ずっと後方で重傷を負い、倒れたままのはずだ。
アスナは、不意にある予感をおぼえ、息を詰めてゆっくりと視線を動かした。
そして、唇から、かすかな吐息を漏らした。
「ああ…………」
もう一度。
「ああ」
溢れた涙は、数十秒前のそれとは、まったく意味合いを異にしていた。
PoHの足元に、力なく倒れたままのキリトの――
右腕(・・)が動いている!
中身が存在しないはずの、黒いシャツの右袖が、徐々に、徐々に持ち上がっていく。
同時に、肩から肘にかけて、布の内側に確たる存在が満ちていく。
やがて、まっすぐ真上に伸ばされた袖口から、逞しい右手が一瞬の輝きとともに出現した。
現象に、やっとPoHも気付いたようだった。しかし、行動に移るでもなく、フードから覗く唇をぽかんと開いてただ見下ろしている。
今度は、キリトの左腕も動きはじめた。
傍らの地面に放り出されていた、白鞘の長剣を拾い上げる。それを、体の前へと持ち上げる。
右手が、青い薔薇の象嵌が施された柄を強く握った。
すう、と薄青い刃が抜き出されていく。
でもあの剣は、真ん中から……。
とアスナが思った、その瞬間。
鞘の内側から、凄まじい強さで青い閃光が幾条も迸り、それ以外のすべてを影に沈めた。光は、渦巻き、荒れ狂い、一気に収束し――。
折れた箇所から、刃を再生していく!
大きく抜き放たれた長剣は、完全にその刀身を取り戻していた。魂を抜かれるほどに美しく、凄絶な輝きが青く世界を照らした。
「…………キリト、くん」
アスナの濡れた呟きが、まるで聞こえたかのように。
バッ!!
と、痩せ細り、萎えきっていたはずの黒衣の体が、一切の予備動作なしに高く、高く空中へと飛び上がった。
アスナが、クラインが、エギルが、リズ、シリカ、ロニエ、ティーゼが……そしてPoHと無数の黒い歩兵たちが見上げるなか、黒い姿は右手の剣で光の尾を引きながら、何度も前方宙返りを繰り返し。
全員に背を向けて、ざしゃあっと音高く両脚で着地した。その反動で、足元に転がっていた黒いほうの鞘が、くるくると空中に舞い上がった。
じゃりん!!
黒衣の左手が閃き、宙にある剣の柄を握るや、一気に抜刀する。
こちらの剣は、透き通る漆黒の刀身を持っていた。黒と白、二本の剣を握った左右の手が、それらを勢いよく回転させ、高らかな金属音とともに両側に切り払った。
信じがたい現象はさらに続いた。
埃にまみれていた黒いシャツとズボンが、突然、艶やかなレザーの輝きを帯びる。骨ばかりだった五体が、一気に逞しい筋肉を取り戻す。
どこからともなく黒いロングコートが出現し、背中を包んで大きくたなびく。前髪が鋭く突き出し、額に垂れる。
その頃にはもう、アスナを含む全員が、喉の奥から堪えきれない嗚咽を漏らしていた。
今ついに甦った黒の剣士、”二刀流”キリトは、ゆっくりと肩越しに振り向くと――。
まっすぐにアスナを見て、あの懐かしい、力強く、ふてぶてしく、それでいてかすかに含羞のある笑みを、にっと浮かべた。
――キリトくんだ。
わたしのキリトくんが、帰ってきた。
アスナは、胸の奥であらゆる感情が爆発し、光となって体の末端まで広がっていくのを感じた。悲嘆と絶望が一瞬で蒸発し、無数の刀傷が作り出す痛みすらも消えた。
今なら、万の敵とも再び対峙できるという確信があったが、しかしアスナは動かなかった。この光景を、そして感情を、心のなかに永遠に焼き付けておくために。
同様に、リズベットやクラインたち、あるいは周囲のコンバートプレイヤーも、それぞれの感情に打ち震えながらただ目を見開いていた。
皆を拘束し、包囲する数万の隣国人たちもまた、成り行きを見守って立ち尽くしている。
静寂を、最初に破ったのは殺人鬼PoHだった。
殺そうとして殺せなかった赤毛の少女のことなど、もう意識から完全に飛んでしまったかのようにキリトに向き直り、赤い包丁の背で肩を叩きながら低く言った。
「オゥ――ケェ――――イ。やぁっと起きたかよ、勇者サマ。そうこなきゃな。これでやっと、お預け食ってたエンドロールが見れるってわけだ。てめぇが、やめてーやめてーって泣き喚く最高のシーンがよ」
ずい、とキリトにフードを寄せて、音になるかならない声で続きを囁く。
「手足をぶった切って、もう一度動けなくしたてめぇの目の前で、あの女をグチャグチャにぶっ壊してやるぜ。SAOじゃコードに引っかかって出来なかった、最高のメニューでな」
ククク、と喉を鳴らして身を引いたPoHは、左手を高々と掲げて、韓国語及び英語で叫んだ。
「こいつがサーバー攻撃の首謀者だ!! 拘束しろ!! 他の奴らは全員殺して、狭い島国に叩き帰してやれ!!」
戦場にくすぶっていた狂乱の余熱が、一気に再点火された。
怒声とともに、津波のような黒い軍勢が、剣を手放した人界軍へと殺到していく。キリトへも数十人のプレイヤーが走り寄り、日本人を拘束していた者たちも、我先にと剣を振り上げる――。
悲劇的結末へのカウントダウンの最中にも、アスナはただ信じ、黒衣の剣士を見つめ続けた。
キリトは、まったく気負いも何もない動作で、右手の白い剣をひょいっと半回転させ、地面に突き立て。
ひと言、静かに発音した。
「リリース・リコレクション」
世界の色が消えた。
剣の刀身が放った青白い輝きの、あまりの眩さが何もかもを塗りつぶしたのだ。
光は、円環となって剣から全方位に迸り、虜囚となった日本人たちを、人界軍を、そして三万以上の黒い軍勢を瞬時に飲み込んだ。
ほんの一秒足らず瞼を閉じたアスナは、戦場に渦巻いていた憎悪と殺意の熱気が嘘のように吹き払われるのを感じた。
清浄とした冷気を胸に吸い込みながら、ゆっくりと目を開ける。
そして、驚きのあまり息を止めた。
世界が――凍っている。
つい一瞬前まで、石炭のような黒い瓦礫だけが果てしなく広がっていたはずの大地が、深く透き通る青い氷へと変じている。見つめるあいだにも、きん、きんと音を立てながら霜の結晶が成長し、微風に舞い上がって、空気を微細に煌かせる。
溜めていた空気を大きく吐き出すと、それは白い雲へと変わった。
そのあとでアスナは、ようやく世界からあらゆる音が消えていることに気付いた。
あれほど轟々と響いていた雄叫びも、地面を揺るがす無数の足音も、それどころかすぐ背後で罵り声を上げかけていたプレイヤーの気配すらも消えているではないか。
地面に突き立てた白い剣に手を乗せたまま立つキリトから視線を外し、アスナはロニエとリズベットの身体を抱いたまま、ゆっくりと振り向いた。
そこに居た――あるいは在ったのは、五体を分厚く氷に覆われた黒い兵士の姿だった。
高々と剣を振り上げた格好で、ヘルメットのおくの両眼を見開いたまま、二センチちかくありそうな青い氷に完全に封じ込められている。
いや、それだけではない。
足元から、螺旋を描いて這い登っているのは、氷で出来た植物の蔓だ。アスナが見入るあいだにも、蔓はみるみるうちに腰から胸、腕へと成長していく。透き通った極薄の葉を次々と開かせながら、青い蔓はついに兵士の頭部へと達し、そこに大きな蕾をいくつか膨らませた。
しゃりん。
と、鈴の音のような音がかすかに響き、蕾が綻んだ。青く透ける大きな花弁が、幾重にも開いていく。これは――薔薇だ。
現実世界には存在しない、純粋なブルーに輝く薔薇の花が、血の色の陽光にもその色をいささかも濁らせることなく咲き誇った。
開いた花の中央から、白い光の粒がいくつも空中に漂いだすのをアスナは見た。同時に、爽やかな甘い香りが大気に満ちた。
「…………神聖力が……」
左腕の中で、ロニエがごくごく微かな声で囁いた。
神聖力。つまり、アンダーワールドを動かす根源法則、空間リソースのことだ。あの薔薇は、兵士に与えられた天命をリソースに変えて放散しているのか。
ようやく視線を引き離し、周囲を見る。
青薔薇の花園が、どこまでも無限に続いていた。
日本人プレイヤーを拘束していた兵士たちも、人界軍に襲いかかろうとしていた者たちも、それどころか荒野にひしめく数万の隣国人全員が、無音のうちに凍りつき、それぞれ複数の青い花を頭や胸に咲かせている。花からは一様に光の粒が次々と零れ、風に乗って舞い飛ぶ。
つまり――つまり今この瞬間――。
三万のプレイヤー全員が完全に動きを封じられたうえで、そのヒットポイントを奪われ続けているのだ。
アスナやシノン、リーファが使用するスーパーアカウントの能力を結集したとて、このような真似は到底できない。いったい、いかなる力、いかなる術理がこれほどの超現象を実現しているのか。
そんな疑問が、アスナの脳裏を過ぎったのは一瞬のことだった。
あまりにも凄絶にして、あまりにも美しすぎる光景に、アスナも、ロニエも、他の日本人たちもただ呆然を目を見開くことしかできなかった。
再び滲んだ涙を通して、アスナは空に舞い散る光の群れを追った。
と、その一部が、他とは異質な動きで寄り集まり、流れていくのに気付いた。リボンのように宙を滑る輝きを、アスナは目で追った。
それは頭上を超え、螺旋を描いて地面へと降り――
そして、不思議な光景を、アスナは見た。
PoHへの捨て身の攻撃が回避されたその場所で、いまだに膝を突いていたままのティーゼのすぐ前に、光が凝集しておぼろな人影を作り出したのだ。
それは、ティーゼやロニエが着ているのと同じ意匠の制服に身を包んだ、ひとりの青年だった。
短く、柔らかそうな髪が額に流れる。涼しげな目元と、細めの唇には穏やかな微笑が湛えられている。
白く光る人影を見上げた瞬間、ティーゼの顔がぎゅっと歪んだ。
唇が小さく何かを叫び、弾かれるように立ち上がった少女は、青年の胸に一直線に飛び込んだ。
青年はティーゼを抱きしめ、その耳に何かを囁きかけるような仕草を見せたあと、ゆっくりと顔の向きを変え、キリトを見た。キリトもまた、微笑みを浮かべて青年を見やった。
二人は同時に頷きあい――そして、人影はすうっと、空に溶けるように消えた。ティーゼが青く凍る大地に膝から崩折れ、うずくまり、低くすすり泣いた。
その声を圧して、怒りと憎しみに満ちた叫びが響き渡った。攻撃側ではただ一人、青い薔薇の拘束を受けなかったPoHの声だ。身体を折り曲げ、伸ばしながら英語の罵り言葉を幾つも連発させたあと、黒フードの殺人鬼は日本語で詰問した。
「……なんだこりゃあ!! てめぇ、何しやがった!?」
キリトは、右手を白い剣の柄に置き、左手で黒い剣をゆるりと下げたまま、微笑みを消して鋭くPoHを見返し、答えた。
「”武装完全支配”。騎士たちが三百年をかけて磨き上げた技だ。お前には理解できない」
「ぶそう……? ハッ、つまりはシステム上のインチキ技だろうが!! てめぇには似合いだぜ、”二刀流”さんよ!!」
PoHは、右手の包丁で大きく周囲を指し、吐き捨てた。
「そらどうした、早く連中を殺せ! 動けない奴らを切り刻んで、悲鳴の大合唱を聞かせてくれよ!!」
「その必要はない」
キリトの声は、あくまで静かで、それでいて強い意思に満ちていた。
「彼らの天命が尽きるまで、薔薇は咲き続ける。そして、お前が望む苦痛も憎悪も生み出すことなく散っていく」
「この……ガキがぁ…………」
突如、PoHの声が、凄まじい怨嗟の響きを帯びた。実際に、フードの下の口の付近に、悪魔の吐息のごとき火炎がちらつくのすらアスナは見た。
「てめぇの、そういう所が許せねえんだよ。人殺しの分際で勇者面しやがってよ。サルはサルらしく、食ってヤって殺しあってりゃぁいいんだ!!」
ゴッ!!
という重い震動は、PoHの右手の包丁めいたダガーが赤い光を帯びた音だった。
ぎし、ぎし、と軋みながらダガーが巨大化していく。赤黒い刀身に、生き物のように血管が這い回り、脈打ちながら膨れ上がっていく。
たちまちのうちに、包丁はギロチンの刃のごとき凶悪な代物へと変貌を遂げた。それを、右手一本でPoHは軽々と振り上げ、巨大術式を維持中のキリト目掛けて振り下ろした。
鼓膜を引き裂くような金属音とともに、刃はキリトの手前の空間で止まった。ティーゼを守ったときの数倍の火花が発生し、青い世界を赤く照らした。
二人の足元の氷がひび割れ、飛び散った。同時にPoHのフードがばさっと跳ね上がり、その中の素顔が露わになった。
SAO時代には一度も晒されることのなかった殺人者の容貌は、どう見てもアジア人のものではなかった。高い鼻筋、窪んだ顎、長く伸びる巻き毛は、まるでハリウッド俳優のように整っている。
しかし、両の眼に渦巻く憎しみの炎が、男の顔をその名のとおり悪魔じみたものに見せていた。アスナは、キリトの力に僅かの疑いも抱いていなかったが、それでも背筋に冷たいものが這うのを感じた。
PoHの唇が歪み、むき出された犬歯が、突然長く伸びた。
額に流れる巻き毛を突いて、黒く鋭い角が二本伸び上がった。
それだけではない。ポンチョの下の、どちらかと言えば小柄な体すらも、見る見るうちに逞しく膨れ上がり上背を増していく。
キリトの、不可視の”心意の太刀”に食い込む巨大包丁が、徐々に、徐々に沈みはじめる。火花はいつしか火炎へと変わり、周囲の氷を溶かし出す。
「……死ね、イエロー」
にやりと笑った悪魔の口から、低く歪んだ声が漏れた。
キリトの両眼が、すうっと細められた。これまで無表情を貫いていた口元が、こちらも強靭な笑みを浮かべた。かつて彼が、アインクラッドのフロア守護ボスや、多くの強力なプレイヤーと対峙したときに決まって見せた表情。
コートの左腕が、すう、と動いた。
握られた黒い長剣を、まっすぐ空へと掲げ――再び、あのコマンドが響いた。
「リリース・リコレクション!」
轟!!
という唸りとともに、刀身を黒く渦巻く闇が包み込んだ。
アスナは風を感じた。大気が、キリトの左手へと吸い込まれていく。同時に、戦場に咲き誇る十万以上の青薔薇から放散された光の粒――空間リソースも、一斉に揺れ、動き、寄り集まって、黒い剣に流れ込んでいく。
突如、刀身が輝いた。
純黒でありながら――黄金。
黒曜石を透かして太陽を見るかのような。
ちりちり、と空気が弾けるのをアスナは感じた。剣の優先度が、無限の高みへと昇りつめ、世界そのものを震わせているのだ。
“武装完全支配”とはつまり、整合騎士レンリの二つのブーメランが融合し、自在に飛翔するような、武器固有の性能拡張コマンドなのだろう。
白い剣は、広範囲の敵を凍結し、その天命をリソースとして空中に放散する。
黒い剣は、周囲のリソースを吸収し、威力へと変える。
とてつもなくシンプルで、それゆえに強力無比な複合技(コンボ)だ。完璧なる一対。最高のパートナー。
白い剣の本来の持ち主が、先ほど一瞬現れた幻影の青年であることをアスナは直感的に察した。
そして彼がもう、この世には居ないことも。
またしても溢れた涙の向こうで、アスナは、キリトがゆっくりと左手の剣を振り下ろすのを見た。
速度も重さもない、刃で空気を撫でるような動き。
黄金に輝く刀身が、悪魔へと変じたPoHの、赤い巨大包丁に触れた。
ぱっ。
と一瞬の閃光を残し――赤い刃が微細な粉塵と化して飛び散った。
悪魔の逞しい右腕が、筋繊維と血管を解くように、手首から肘、肩へと分解、消滅していく。
そして――。
どぐわっ!! という爆発音とともに、PoHの体が高々と空中に跳ね上がった。
深紅の空を背景に、いっそう赤い血の螺旋が描かれる。
旋風に巻かれる木の葉のように吹き飛んだPoHは、たっぷり五秒以上もかけて青く凍る地面へと戻ってきた。
無様に墜落するのではなく、両足の靴底で着地してみせたのは、最後の矜持の発露だろうか。しかし、その時にはもうあれほど逞しかった筋肉は元に戻り、悪魔の角や牙も消えうせていた。
革つなぎに包まれた細い体をよろめかせ、踏みとどまったPoHは、左手で右肩の傷口を強く抑えながら鼻筋に皺を寄せて吐き捨てた。
「……キャラの性能で勝ったのが……そんなに自慢かよ、小僧。いいさ、とっとと殺しやがれ。だがなァ……」
血まみれの左手が、まっすぐキリトを指差した。濃い眉の下の両眼が、かすかに赤い焔を瞬かせた。
「ここで死んだって、たかがログアウトするだけだってことを忘れるなよ。俺は必ず返ってくるぜ。この仕事でたっぷり稼いだ資金で、過去を買い換えて、必ずてめぇの国に戻る。光栄に思えよ、殺すサル一覧の上のほうに、てめぇとあの女の名前も書き加えといてやるからなぁ」
くっ。
クックックックッ。
歪んだ唇から響く嗤い声は、まさしく呪詛と呼ぶべきものだった。アスナは歯を食いしばり、恐れるもんか、怖がってなんかやるもんか、と自分に言い聞かせた。
鼻先に指を突きつけられたキリトは――。
表情を、まったく変えなかった。
漆黒の瞳に毅然とした光を浮かべたまま、PoHを正面から見据えている。
唇が動き、静かな声が流れた。
「……まだ分からないのか。俺がなぜ、お前だけを青薔薇の蔓に捕らえなかったのか」
「な……んだと……?」
そこでようやく、キリトの唇にもかすかな笑みが滲んだ。
「殺さないために決まってるだろ。SAO攻略組の、レッドプレイヤー対応方針を忘れたのか? “無力化、及び無期限幽閉”だ」
「きっ……さまァ……!!」
PoHの貌に凄まじい表情が浮かんだ。
怒り。殺意。そして――屈辱。
左手一本で殴りかかろうとしたPoHの胸に、キリトはいまだ強い輝きを放ち続ける黒い剣の切っ先を、軽く当てた。
アスナは、先ほどと同じく、PoHの体が瞬時に爆裂する光景を予想し息を詰めた。
しかし、直後発生した現象は、想像を絶するものだった。
剣の刀身から幾筋もの”闇”が噴き出し――PoHの五体の各所へと流れ込んでいく!
闇の奔流は、ごつごつと波打ち、分岐し、まるで樹の枝であるかのようにアスナには見えた。
「ぐおっ……な……ンだこりゃァッ……!!」
動きを止め、叫ぶPoHに顔を寄せ、キリトが一層低い声で囁いた。
「この剣の完全支配術式は俺が組んだんだけど……ちょっと手抜きでさ。ただリソースの記憶を無加工で呼び覚ますだけなんだ。陽力、地力を無限に吸い上げ、力に換える大樹の記憶を」
「樹……だと……」
「そうだ。樹の属性は……穿ち、貫くだけじゃない。取り込み、同化する力もある。見たことないか、PoH? 他のモノが、樹の根っこや幹に埋まって、一体化してるところを?」
同化……。
アスナははっと目を見開き、PoHの足元を凝視した。
銀の鋲を無数に打ったロングブーツは、もうそこには無かった。男の両足は、かわりに、いくつにも分岐して地面にもぐる樹木の根へと変貌していた。
「あっ……脚が……うごかねェ……!? 何しやがったッ……このガキがぁ……ッ!!」
PoHは吼え、左拳で再度キリトを殴ろうと高く振りかぶった。
ぎしっ。
と固い軋み音が響き、ほそい左腕が空中で動きを止めた。
艶やかな黒レザーが、ごつごつとささくれた樹皮へとみるみるうちに変質する。指が細長く伸び、裂け、たちまち完全な枝へと姿を変える。
形質変化は、脚と腕から始まり、胴体へと広がっていく。ついに恐怖の色を映しはじめたPoHの顔に、キリトはそっと最後の言葉を囁きかけた。
「お前たちが呼び込んだプレイヤー集団のHPが尽き、ログアウトしたら、すぐに時間加速が再開されるだろう。お仲間が、なるべく早くお前をSTLから出してくれるように祈れよ、PoH。たぶん、少しばかり長くなるだろうからな。あるいは……もしかしたら遠い、遠い未来、このへんに開拓村ができたら、斧を持った子供がお前を切り倒してくれるかもな」
それに対して、何かを言い返そうとしたPoHの口が――。
黒い樹皮に空いた、ちいさなウロへと変わった。整っていた目も鼻も、樹皮に刻まれた単なる皺でしかなくなった。
そこに存在するのはもう、幹を奇妙な形に捩り、一本だけの枝を高々と空に向けた、小さな黒いスギの樹でしかなかった。
キリトは、ようやく輝きを薄れさせた黒い剣を引き戻し、とん、と地面に突き立てた。
そして、ゆっくりと空を振り仰ぎ、尚も無数に漂い続けるリソースの集合光をその瞳に捉えた。
すうっと左手が持ち上がる。五本の指が、見えない楽器を奏でるように、しなやかに閃く。
続いたコマンド詠唱もまた、謳うがごとく抑揚豊かに、力強く響いた。
「システム・コール……トランスファ・デュラビリティ、スペース・トゥ・エリア」
さあああっ……。
と、かすかな、それでいて無数に、無限に広がる優しい音が世界に満ちた。
雨が降る。
リソースの星ぼしが上空に凝集し、白く、暖かく輝く光の雫となって降り注ぐ。傷つき、力尽きて横たわる二百人の日本人プレイヤーたちに染みこみ、その体を癒していく。
あるいは、心も。
ほとんど同時に、クラインの身体を剣で貫いたまま凍る二人の隣国人たちの体が、すうっと薄れ、消えるのをアスナは見た。静寂のうちにHPが完全消滅し、アンダーワールドからログアウトしたのだ。
消滅は、連鎖するように続いた。エギルを、シリカを拘束していた兵たちが消え、アスナの肩を押さえていた剣も同じく消えた。ALOプレイヤーたちを磔にしていたポールアームや、チェーン類も次々に空気に溶けていく。
全てを癒す雨の下を、ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってくる黒衣の剣士の姿を、アスナはただ見つめた。
立ち上がることも、声をかけることもできなかった。動いたら、すべてが幻になってしまう気がした。だから、ただただ目を見開き、唇に微笑みを浮かべ、アスナは待った。
代わりに、立ち上がったのはクラインだった。
切り落とされた片腕は、すでに完全に修復されている。胸と腹を貫かれた箇所も、滑らかな肌が見えるばかりだ。
「キリト……。キリトよう」
湿った声が、低く響いた。
「いっつも……オイシイとこ持って行きすぎなんだよ、オメエはよう……」
よろよろと進みながら発せられた言葉は、もうほとんど泣き声だった。
長身のカタナ使いは、黒衣の二刀剣士の両肩をがしっと握り、バンダナのなくなった額を、やや背の低い相手の胸に乱暴に押し当てた。背中が震え、太い嗚咽が漏れた。
「うおっ……うおおおおううう…………」
号泣する友の背中に、キリトもまた両腕を回し、強く引き寄せた。目を瞑り、きつく歯を食いしばって仰向けられたその頬にも、光るものがあった。
たっ。
と、小さな足音が聞こえた。アスナの傍から走り出したのはロニエだった。涙の粒を空中に引きながら、キリトの右肩へとぶつかっていく。すぐに、高く細い嗚咽が加わった。
身体を起こし、地面に胡坐をかいたエギルの眼も濡れていた。リズベットとシリカが、抱き合って泣きはじめた。周囲から集まってきた日本人プレイヤーたち、ALO領主のサクヤやアリシャ、ユージーン、またスリーピングナイツのシーエンやジュン、その他多くの者たちの顔にも、光の雨以外の雫が見える。
驚いたことに、前方から近づいてきた人界軍の衛士や術師たちも、一様に目元を赤くしていた。彼らはいっせいに跪くと、右拳を胸に当てながら深くこうべを垂れた。
「…………僕には分かっていましたよ、あの人と、二本の剣が、皆を救ってくれると」
不意に、背後から穏やかな声がかけられた。
振り向いたアスナが見たのは、微笑む少年騎士レンリと、その後ろに従う巨大な飛竜だった。
アスナは胸がいっぱいで、一度、二度と頷くことしかできなかった。レンリも頷くと、少し離れた場所に膝をついたままのティーゼに歩み寄り、その隣に腰を落とした。
いつしか、まわりを取り囲む氷結した兵士たちの大群は、半分以下へと数を減じていた。
彼らが皆ログアウトすれば、襲撃者たちは『外部兵力による状況制圧』を諦め、時間加速倍率を再び上限まで引き上げるだろう。アミュスフィアを用いて接続している皆は、その時点で自動切断されてしまうはずだ。
キリトもそれに気付いているのだろう、クラインの肩を叩いてそっと身体を離すと、生き残った日本人プレイヤーたちをぐるりと見渡した。
そして、深々と頭を下げ、言った。
「みんな……ありがとう。みんなの意思と、流してくれた血と涙は、絶対に無駄にしない。本当に、ありがとう」
そう――。
戦いは、まだ終わったわけではないのだ。
PoHと、アメリカ人、中国人、韓国人プレイヤーたちは排除されたが、まだ敵の首魁が残っている。アリスを拉致し、今この瞬間も、はるか南の空を飛び去りつつある。
アスナは大きく息を吸い、ようやく立ち上がった。
それぞれの感情に打ち震えながら立ち尽くすプレイヤーたちの間を、ゆっくりとキリトに歩み寄る。
身体を起こしたキリトが、まっすぐにアスナを見た。
ああ――今すぐ胸に飛び込みたい。子供みたいに泣きじゃくりたい。抱きしめ、髪を撫でてほしい。
しかしアスナは、全精神力を振り絞って感情を押さえつけ、口を開いた。
「キリトくん……。皇帝ベクタが……アリスを」
「ああ。状況は、おぼろげにだけど記憶している」
キリトも表情を引き締めて頷き、そして、まっすぐ右手を差し出した。
「助けにいこう。手伝ってくれ、アスナ」
「…………ッ……」
もう、限界だった。
アスナは走り、その手を取り、頬に押し当て、身体を預けた。
キリトの左腕が、ぎゅっと強く背中に回された。
抱擁は一瞬だったが、しかし、言葉にできないほど大量の情報が瞬時に二人の魂を行き交うのをアスナは感じた。
キリトは、まっすぐに視線を合わせながらもう一度頷き、その瞳を南の空へと向けた。
左腕も、その方向へとまっすぐに伸ばされる。指が、何かを探るように動く。
「…………見つけた」
「え……?」
アスナは瞬きしたが、キリトは答えず、小さく微笑んだだけだった。
突然、少し離れた場所に突き立ったままの二本の剣が、かすかな音とともに地面から抜け、浮き上がった。
同じく浮遊したそれぞれの鞘に、澄んだ音を立てて収まり、回転しながら飛んでくる。
黒のロングコートの背中に、ばしっと交差してぶつかると、自動的にベルトが両肩のバックルに接続された。
キリトはもう一度ぐるりと皆を見回し、クラインの肩と、ロニエの頭を軽くぽんと叩くと、言った。
「それじゃあ、行ってくる」
そして――。
そしてリズベットは、キリトとアスナの姿が、地面から屹立した光の柱に飲み込まれ、掻き消えるのを見た。
一瞬ののち、そこにはもう誰も居なかった。見開いた眼をぱちぱちと瞬きさせ、リズベットは、はぁーっと長くため息をついた。
「まったく……相変わらず無茶というか無軌道というか……」
隣でシリカが、くすっと笑った。
クラインが、ばしっと両手を打ち合わせ、叫んだ。
「おいおい、ちくしょう……――かよあの野郎。無敵じゃねえかよ。ちくしょう、オイシイよなあ、いっつもよう……」
クラインが大ファンであると常々標榜している、大昔の少年向けバトル漫画の主人公の名を出して毒づくその口調を、新たな涙がつたう表情が裏切っていた。おそらく彼にとっては、SAOで出会って以来惚れ抜いてきたキリトという存在は、まさにそのものだったのだ。無敵で、絶対的な、永遠のヒーロー。
――そして、あたしにとっても。
リズベットも、尽きぬ涙に濡れる瞳を、はるか南の空へと向けた。
ログアウトされるまで、おそらくあと数分となったこの世界を、強く記憶に焼き付けておくために。
激痛と屈辱のなか切断されていったたくさんのプレイヤーたちに、あたしたちの戦いは無駄じゃなかった、と伝えるために。
SAO4_54_Unicode.txt
クリッターは、思わずコンソールに身を乗り出し、短い罵り声を上げた。
数万規模の黒い集合ドットが、中心から外側へ向けて急速に消滅していく。
つまり、ヴァサゴの秘策によってアンダーワールドに投入された中国及び韓国のVRMMOプレイヤーたちが、何らかの手段によって殲滅され、自動ログアウトしているのだ。
黒い円環の中央部には、いまだに青で表示される人界軍と、乳白色の日本人部隊が一千人規模で残存している。無視するには大きすぎる数だし、この千人に、三万の中韓連合軍を撃破する力があるというのなら尚更危険だ。
「……ヴァサゴのアホは何やってんだ……」
ちょっちょっと舌打ちしながら、クリッターはメインモニタをさらに凝視した。
日本人部隊の至近には、強く輝く赤ドットが一ついまも残存している。2番STLから、自前のアカウントをコンバートしてダイブ中のヴァサゴだ。
捕虜か何かになって身動き取れないのか? それとも、単身で千の敵軍をどうにかする手段がまだあるのか?
いますぐ隣のSTL室に駆け込み、ヴァサゴを叩き起こして襟首をがくがく揺さぶりたいという衝動をクリッターは堪えた。
サーバーに対するGM権限操作がロックされている現状では、アカウントの初期化もできない。つまり、ヴァサゴを強制ログアウトさせた場合、今のアカウントは二度と使えないのだ。どうにか可能なのは、ザ・シードプログラムとは切り離された機能である内部時間加速倍率の操作だけだが、それをするにも慎重にタイミングを図る必要はある。
大きく深呼吸してから、クリッターは視線を下に動かした。
アンダーワールドの深南部に、今も高速で移動中の赤ドットがもう一つ。襲撃チーム隊長、ガブリエル・ミラー中尉だ。
今考えるべきは、アリスを確保、あるいは追跡中のミラー中尉に、人界軍が追いつき邪魔をする可能性が依然としてあるかどうか、である。
アメリカ、中国、韓国から総数十万になんなんとするプレイヤーを送り込んだ結果、敵性勢力の南進は大きく阻害された。今やミラー中尉は、内部距離にして数百マイルも先行している。むろん、ジェット戦闘機ならばひと息に飛べてしまうが、アンダーワールドにそんなものが有るとは考えにくい。せいぜい、有翼の生物ユニット程度だろう。
――追いつきはするまい。
クリッターは、三秒ほどの長考のすえにそう判断した。
イージス艦突入のタイムリミットまで、もう現実時間にして十時間を切っている。ミラー中尉の指示は、残り八時間に達したところで加速再開だったが、外部から投入したプレイヤー集団がほぼ全滅した今、等速倍率を維持している意味は無い。
ならば、ふたたび内部を一千倍に加速し、ミラー中尉のアリス捕獲任務に充分な時間的猶予を作り出しておくべきだろう。
「しゃあねえ……ヴァサゴ、もうちっと根性見せとけー」
いまだ微動だにしない北部戦場の赤ドットにそう呟きかけ、クリッターはSTRA倍率操作レバーへと指を伸ばした。
レバーと連動する仕組みの、メインモニタ上のスライダーウインドウを見上げたところで、ふと横の目盛りに視線が停まる。
いまは、スライダーの針は一番下、×1のところに存在する。そこから、100刻みでスケールが切られ、×1000のところでいちど横に区切り線が引いてある。
実際には、目盛りはさらにその上にも続き、×1200でもう一度区切られる。どうやらそこが、STLを用いて生身の人間がダイブしている場合のセーフティラインらしい。
ところが、スライダーウインドウはまだまだ伸び、最終的には×5000にまで達しているのだ。住民がライトキューブ中の人工フラクトライトだけならば、内部時間はそこまで加速できるということだろう。
時間加速倍率は、レバーを操作し、その隣の開閉式カバーつきボタンを押し込むことで決定される。クリッターはボタンに触らぬよう注意しながら、そっとレバーを上に押し上げてみた。
モニタ上のスライダが滑らかに上昇し、隣でデジタル数字が目まぐるしく切り替わる。
×1000のところで、がくんという抵抗感。
強く押し込むとレバーはさらに動き、×1200で再び止まった。そこからはもう、どれだけ力を入れようともぴくりとも動く気配はなかった。
「ふうむ…………」
クリッターは好奇心を刺激され、飛行機のスロットルに似たかたちの大型レバーをじっと観察した。
するとすぐに、決定ボタンの反対側に、銀色に輝くキーホールがあることに気付いた。
「なるほどね」
坊主頭を一本指でこりこり掻きながら薄く笑う。
安全リミットが千二百倍、ということは、実際の危険域はもう少し上のはずだ。仮に内部時間がぎりぎりまで逼迫したような場合に備えて、安全装置の解除を試みておくのも悪くはあるまい。
くるりと振り向いたクリッターは、銃撃で孔だらけになった人型ロボットを取り囲みワイワイ言っている部隊員たちに、ぱちんと指を鳴らした。
「おおい誰か、ピッキングのスペシャリストはいないかー?」
なんて柔らかくて……いい匂いなんだ……。
それは間違いなく、ここ数ヶ月で最上の眠りだった。ゆえに比嘉タケルは、彼を揺り動かし目覚めさせようとする外部刺激に、限界まで抵抗した。
「……っと、比嘉君! ちょっとってば! 眼を開けてよ、ねえ!!」
しかし、それにしてもやけに必死だなあ。
まるで僕が死にかけてでもいるみたいじゃないか。
いくらなんでも大袈裟すぎるだろう。まさか刺されただの、撃たれただのって訳でもあるまい……し…………
「――――うお!?」
覚醒とともに一気に記憶が甦り、比嘉は喚きながら目を開けた。
すぐ眼前にあったのは、黒縁眼鏡を強烈に光らせた三十男の顔だった。
「うおわ!!!」
もう一度叫ぶ。
飛び退ろうとしたが、体が命令を拒否した。代わりに、右肩に凄まじい痛みが走り、比嘉は三度目の奇声を上げた。
――そうだ。
僕は、ケーブルダクトであの男に撃たれて……。
血がすんごい出たけど無かったことにして、STLの操作を優先したんだ。三人の女の子のフラクトライト出力を、桐ヶ谷君のSTLに直結したけど覚醒には至らず……その後、何かがあって……。
「……き、キリト君は」
打って変わって弱々しく掠れた声で、比嘉は聞いた。
答えたのは、清涼感のある女性の声だった。
「フラクトライト活性は……完全に回復したわ。それどころか、活動的すぎるくらい」
「そ……そうっ、スか……」
比嘉はふううっとため息まじりに呟いた。
あの状態から回復するとは、まさに奇跡だ。そして、自分があの出血で生きているのもまったく奇跡的――。
そこで、ようやく己の置かれた状況を確認する。
寝かされているのは、サブコントロールルームの床の上だった。右肩には包帯。左腕には輸血パック。
そして、体の左側に、覚醒時に見た眼鏡の男。菊岡二佐。右側に、白衣を脱いだ神代博士がそれぞれ座っている。
菊岡が、こちらもはあーっと息を吐きながら、首を左右に振った。
「まったく……あれほど無茶をするなと……いや、スパイが技術スタッフに居たことを看破できなかった私の失点だが…………」
いつも丁寧に梳かされていた前髪は乱れ、眼鏡のレンズには汗の雫が伝っている。見れば、神代博士のほうも汗だくだ。どうやら、二人で比嘉の救命措置にあたっていたらしい。ならば、夢うつつに感じた好ましい感触は、その時の……。
――ん?
どっちが心臓マッサージで、どっちが人口呼吸だったんだ?
比嘉は思わずそれを尋ねそうになったが、あやういところで口をつぐんだ。世の中には、追求すべきでない真実というものもある。
比嘉は、力の入らない身体をぐったり横たえたまま、眼を閉じて別の質問を口にした。
「アンダーワールドは……アリスは、どうなってますか」
菊岡が、比嘉の左腕を軽く叩き、答えた。
「アメリカ、中国、韓国からの接続者はすべて撃退された。ことに、中韓プレイヤーはどうやらキリト君が一人で片付けたらしい。流石というか矢張りというか、凄まじい力だね……それも、比嘉君の頑張りがあったればこそだが」
「えっ……中国と韓国からも来たんスか!? 援軍でなく……敵として!?」
思わず身体を起こそうとしてしまい、右肩から指先まで走った激痛に喘ぐ。
「ちょっと、無理しちゃだめよ! 弾は貫通したけど、神経をぎりぎりのとこで避けてたんだから……。中国、韓国に関しては、ネチズン間の緊張をうまく煽って接続させたみたいね。戦場トランス効果も、もちろんあったでしょうけど……」
「そう……ですか……」
比嘉は小さく慨嘆した。もともと、このアリシゼーション計画に身を投じたのは、イラン戦争で散った韓国人の親友のためという動機も何割かを占めている。なのに、計画がなりゆきとは言え日韓の若いネットワーカー達の対立を加熱させてしまったならば、不本意以外の何者でもない。
そこだけはどうにか動かせる首を小さく振り、比嘉は思考を切り替えた。
「中韓からは……どれくらい来たんッスか?」
「四万を超えていたようだ。日本本土から応援に来てくれたプレイヤーたち二千人は、ほぼ全滅した……」
菊岡が、錆び色を深めた声で呟いた。
「その時点で、中韓プレイヤーはまだ三万以上が残っていたが、幸いそこでキリト君が」
「えっ、なんですって」
比嘉は思わず指揮官の言葉を遮った。
「三万の大軍勢を、キリト君が一人で!? ……有り得ない。アンダーワールドに、そんな大規模かつ高威力な攻撃が可能な武器も、コマンドも存在しないッスよ。しない……はず、ッス……」
そこまでを口にしたとき、比嘉はようやく、あのスパイ――柳井に撃たれた前後のことを鮮明に思い出した。
柳井は、”最高司祭アドミニストレータ”なるアンダーワールド人に深く取り込まれていたようだった。いったいいかなる経緯で、そのような事態に至ってしまったのか。
それに、桐ヶ谷和人のSTLに接続していた、メインビジュアライザー内のイレギュラー・フラクトライト。ただのオブジェクトが、擬似的にせよ人の意識として機能するなどと、まったく想定もしていなかったことだ。
「……ねえ……菊さん…………」
比嘉は、大量失血によるもの以外の寒気を背中に感じながら、指揮官に呟きかけた。
「もしかしたら……僕らは……何か、とんでもないものを……」
その時だった。
コンソールのほうから、鋭いアラーム音が部屋中に響いた。
それは、比嘉が設定した、時間加速倍率の変動警報に他ならなかった。
アンダーワールドで最も高速に移動しうる属性である光素因に、肉体と装備のすべてを組成転換し、俺とアスナは飛んだ。
とは言え、そのスピードは現実世界で言うところの光速には程遠い。はるか南を行くアリスに追いつくには、最低でも三分はかかりそうだ。
この時間を利用して、アスナに言いたいこと、謝りたいこと、感謝したいことは山ほどあった。しかし俺は、手をつないで右側を飛翔するアスナの光り輝く姿を、どうしても直視できなかった。
理由は――。
覚醒直後の、全身の血液が炎に変わってしまったかのような全能感覚が薄れるにつれて、直近の記憶がみるみるうちに整理整頓鮮明映像化していったからだ。
問題は、昨日の深夜の光景である。
馬車の荷台に寝かされた俺の周りに、アスナとアリスとロニエが輪になって座り、全員が順番に俺の思い出あるいは悪行の数々を披露し続けるというあの一幕を、生き地獄と言わずして何と言おう。
――キリト先輩ったら、傍付きをしてたすっごい美人の上級生さんが卒業するとき、西部帝国にしか咲かない花のブーケ贈って大泣きさせたんですよー。
――そういえば、整合騎士団の女副長もやたらと気に入ってたみたいだわ。”坊や”とか呼んでたわよあの人。
「うっ…………」
思わず両手で頭を抱えてしまう。
「うぎゃ――――――」
これが呻かずにおれようか。
しかしその瞬間、意識集中が途切れ、体の属性がたちまち元に戻った。物凄い風圧が全身を叩き、ひとたまりもなくく錐揉み落下状態に陥る。
やべ、と呟きながら、とりあえずロングコートの裾を飛竜の翼に形状変化させ、姿勢を制御する。と――。
「きゃあああああ!!」
はるか上空から、スカートの裾を押さえながらアスナがまっすぐ落ちてきた。
もう一度、やばっと口走りつつ慌てて両手をいっぱいに伸ばす。
危ういところでキャッチした瞬間、アスナの真ん丸く見開かれたはしばみ色の瞳と、ばっちり眼が合った。ここだ。謝るならここしかない。
「アスナ……ちがうんだ!!」
ってこれじゃあ謝罪でなく言い訳じゃないか。しかしもう後戻りはできない。
「ソルティリーナ先輩やファナティオ副長とは、まったく何にもなかった! ステイシア神に誓って、なん~~~にもなかった!!」
俺の必死の弁解を聞いたアスナの顔が――。
ほにゃ、と緩んだ。小さな両手で俺の頬を挟み、どこか呆れたように言う。
「……変わってないねえ、キリトくん。こっちで二年もがんばってたっていうから、少しは大人になったのかな……って……思ったけど…………」
突然、アスナの両眼から、透明な雫が溢れた。唇がわななくように震え、掠れた声が押し出された。
「よかったぁ……キリトくんだ……何にも、変わってない……わたしの……」
「そんな……俺は、俺だよ。変わるわけない」
「だって……なんだか、神様みたいだったんだもん。あんなすごい大軍を、一瞬で片付けちゃうし……二百人を一発ヒールするし……おまけに、空飛ぶし……」
これには思わず苦笑してしまう。
「この世界の仕組みに、他の人よりちょっと詳しいだけさ。飛行くらい、慣れればアスナもすぐできるようになる」
「できなくていい」
「え?」
「こうして、抱っこして飛んでもらうからいい」
アスナは泣き笑いの顔でそう言うと、両手を俺の顔から背中へと移し、ぎゅっと抱きついてきた。摺り寄せられる頬に、俺も強く抱擁を返し、改めて口にする。
「ほんとに……ありがとな、アスナ。あんなに傷だらけになってまで、人界の人たちを守ってくれて……痛かったろうに……」
この世界における苦痛の鮮明さを、俺は二年前、果ての山脈で隊長ゴブリンに斬られたときに知った。あの時は、たかが肩を掠められただけだったのに、痛みのあまりしばらく立ち上がれなかったほどだ。
なのにアスナは、外部接続者の大軍を向こうにまわし、全身に惨い傷を受けながらも戦い抜いた。アスナのがんばりがなければ、ティーゼやロニエたちの人界部隊は、ずっと早く全滅していただろう。
「ううん……わたしだけじゃないよ」
俺の言葉を聞いたアスナは、触れ合う頬をそっと横に動かした。
「シノのんや、リーファちゃんや、リズや、シリカちゃん、クライン、エギルさん……それに、スリーピングナイツやALOのみんなも、ものすごく頑張ってくれた。それに、整合騎士のレンリさんや、人界軍の衛士さんたちや、ロニエさん、ティーゼさんも……」
そこまで言いかけて、アスナははっとしたように身体を強張らせた。
その理由を、俺は続く言葉を聞くまえに察していた。
「あっ……そうだ、キリトくん! 騎士長さんが……ベルクーリさんが、敵の皇帝を追いかけて、ひとりで……」
「…………」
俺は――ゆっくりと、首を左右に振った。
ついに直接言葉を交わす機会のなかった最古騎士ベルクーリの巨大な剣気が、すでにこの地上に存在しないことを知覚したからだ。
彼とは、この戦争が始まる直前、たった一度だけイマジネーションの刃――彼は”心意”と呼んでいた――を打ち合わせた。徐々に蘇っていく俺の記憶のなかでは、ベルクーリはすでにそのとき己の死を予感していた。
彼は三百年の生の終着点に、アリスを守るための戦いを選んだのだ。
俺の動作の意味を悟り、アスナは両腕に一層の力を込めると、小さく啜り泣いた。しかしすぐに嗚咽を押し殺し、尋ねた。
「……アリスさんは……無事なの……?」
「ああ。まだ捕まってはいない。もうすぐ、世界の果てに……三つ目のシステム・コンソールに到着する」
「そう……なら、わたしたちが守らないと。ベルクーリさんのために」
そっと離されたアスナの顔は、涙に濡れてはいたが強い決意に満ちていた。俺も、ゆっくりと頷き返した。と、アスナの瞳が、わずかに揺れた。
「でも、いまは……少しだけ、もう少しだけ、わたしだけのキリトくんでいて」
囁きとともに近づいた唇が、強く俺の唇を塞いだ。
異世界の赤い空の下、ゆっくりと黒い翼を羽ばたかせながら、俺とアスナは長い、長いキスを交わした。
この瞬間――俺はようやく、なぜ二年半前に俺がこの世界に落とされたのかを思い出した。
あの、六月の雨の日。
アスナを自宅に送る道すがら、俺たちは”死銃事件”の最後の主犯にして”ラフィン・コフィン”の幹部、ジョニー・ブラックに襲われたのだ。筋弛緩薬を大量に注射されたところで記憶は完全に途切れる。おそらく俺は呼吸停止に陥り、脳になんらかのダメージを負い、その治療のためにSTLとアンダーワールドが使われたのだろう。
SAO時代の怨霊と言うべき、赤眼のザザとジョニー・ブラックは逮捕され、なんの因果かオーシャンタートルの襲撃者たちに紛れていた頭首PoHも今や小さな樹の姿で拘束されている。時間加速が再開すれば、外部から強制切断されるまでにあのまま感覚遮断状態で何日、何週間過ごすことになるのかは定かでないが、精神には少なからぬダメージはあるはずだ。少なくとも、この半年間の俺と同じくらいの。残酷だとは思うがやりすぎとは思わない。絶対に。
奴は、アスナを狙うと言ったのだから。
存在が溶け合うほどの、めくるめく時間が過ぎ、俺とアスナは唇を離した。
「思い出すね、あのときを……」
アスナが、そう言いかけ、不意に唇をつぐんだ。その理由はすぐに分かった。
あのとき――とは、SAOクリア後の浮遊城崩壊のさなか、赤い夕焼け空の下で交わしたキスのことだ。あれは、そう、別れのキスだった。
俺は微笑み、不吉な予感を振り払うようにしっかりと言った。
「さあ、行こう。敵を倒し、アリスを助けて、みんなで現実世界に……」
その言葉が終わる前に。
頭の中央に直接、切迫した大声が鳴り響いた。
『キリト君!! 桐ヶ谷君!! 聞こえるか!? キリト君!!』
この、錆びた声は――。
「え……あんたか? 菊岡さん?」
『そうだ、聞こえてるな! すまん……大変なことになった!! 時間加速倍率が……やつら、STRAのリミッターを……!!』
額に血管を浮き上がらせ、キーホールに突っ込んだ二本のワイヤをこねくり回すブリッグの髭面を、少々の不安を感じつつクリッターは見守った。
鍵開けならまかせてもらおう、と威勢のいい台詞とともに立候補したものの、さすがにSTRA操作レバーのセーフティだけあって安アパートの旧式シリンダー錠とは訳が違ったらしい。指先の動きはどんどん乱暴になり、吐き出される罵り言葉のボリュームも上昇する一方だ。
ブリッグのすぐ後ろに立つハンスが、左手首のクロノメータを覗き込みながら楽しそうに言った。
「はーい、三分経過よぉ。あと二分で五十ドルだからねぇ~」
「うるせえ、黙ってろ! 二分ありゃ……こいつを開けたあと、ハワイで一泳ぎして、帰って……これるぜ……」
ワイヤが立てるがちゃがちゃ音が、解錠と言うより破壊行為じみてきたところで、クリッターは「やっぱもういい」と口を挟もうとした。が、この二人がギャンブルを始めてしまった以上、決着を見るまでもう誰にも止められない。
「はいあと一分~。そろそろサイフの準備しといたほうがいいわよぉ~」
「ホーリー・シット!!」
巨大な喚き声とともに、突然ブリッグが立ち上がり、ワイヤの切れ端を床に叩きつけた。
やっと諦めてくれたか、とクリッターが内心ほっとした、その時。
顔面を赤黒く染めた兵士は、無言で腰のホルスターから馬鹿でかいハンドガンを抜き出し、銃口をキーホールに向けた。
「おい……ま…………」
轟音。もう一発。
彼以外の全員が呆然と黙り込むなか、ブリッグはデザート・イーグルを腰に戻し、まずハンスを、次いでクリッターを見てから肩をすくめた。
「開いたぜ」
クリッターは口をぽかんと丸くしたまま、視線を動かして、今や直径二インチの黒い孔になってしまった鍵穴を眺めた。
暗闇の奥で二、三度火花が散り、直後、斜めの状態で静止していた操作レバーがゆっくりと傾きはじめた。五インチほど動いたところで、がこ、とかすかな音とともに停まる。モニタのデジタル表示を確認すると、クリッターが意図した1200倍のちょっと上――どころか、設定上限の×5000という数字がこうこうと輝いている。
その時、再びがこんという音が響いた。
レバーが、更に奥へと傾いていく。
「う……うそ…………」
呟いたクリッターの眼前で、デジタル数字も5000を超え――10000を超え……。
いや、まだ大丈夫だ。処理実行ボタンに触れなければ、実際に倍率が変動することはない。そっとレバーを戻し、無かったことにするのはまだ可能だ。
「おい……触るなよ!! 誰も触るなよ!!」
裏返った声でそう喚きたて、クリッターはハンスとブリッグを手振りでコンソールから遠ざけた。
振り返り、そっとレバーに右手を伸ばす。
ボンッ。
というささやかな爆発音は、クリッターの手がレバーに触れる直前に響いた。
ハッカーのすぐ眼前で、赤いボタンが、透明カバーごと吹っ飛んだ。
メインコントロールルーム正面の壁いっぱいに広がる大モニタ全体が真っ赤に染まり、スピーカーから耳障りなアラームが響き渡った。
時間加速機能が再び操作されたことを教える警報が耳に届いた瞬間、比嘉は再び起き上がろうとしてしまい、激痛に顔をゆがめた。
「ひ……比嘉くん! だから、ムリは……」
神代博士が駆け寄り、比嘉の体に手をかけた、その直後――。
サブコントロールルームのメインモニタが、一気に赤く染まった。
「な……なんだ!?」
叫んだのは菊岡だった。コンソールに飛びつく指揮官の肩ごしに、助け起こされた比嘉も懸命に目を凝らした。
巨大なフォントで表示されているのは、STRA機能に三段階に設けられたリミッターがすべて解除され、アンダーワールド全体が限界加速フェーズへ突入することを知らせるカウントダウンだった。
「な…………」
絶句し、喘ぐ比嘉に代わって、神代博士が鋭い質問を発した。
「限界加速、ってどういうこと!? STRA倍率は上限千二百倍じゃなかったの!?」
「そ……それは、ナマの人間がダイブしてるときのリミットで……人工フラクトライトだけなら、五千倍が……上限ッス……」
ほとんど自動的に比嘉が答えると、博士の涼しげな目元が強張った。
「五千!? てことは……こっちの一秒が、内部では約八十分……十八秒で一日経っちゃうじゃないの!!」
その声を聞き、比嘉と菊岡は顔を見合わせ――同時に、軋むような動作でかぶりを振った。
「え……何、なにが違うのよ?」
「千二百倍は、現実世界の人間の魂寿命を考慮した安全上限……五千倍は、外部からのアンダーワールドの観察が可能な上限で……どちらも、ハード面での限界ではないんです……」
比嘉は、からからに乾いて焼け付く喉から懸命に言葉を押し出した。背中を支える神代博士の腕が、びくっと震える。
「な、なら……ハード的な上限って……いったい……」
「ご存知のとおり、アンダーワールドは、光量子によって構築され、演算されているんです。その通信速度は、事実上無限……つまり限界は、下位サーバーに搭載されたアーキテクチャによってはじめて規定されるわけで……」
「いいから早く! 何倍なのよ!?」
比嘉は目を瞑り、言った。
「限界加速フェーズでは……STRA倍率は、五百万倍(・・・・)をわずかに超えます。衛星回線で接続してる六本木の二台は、そんな速度には対応できないッスから自動切断しますが……こっちの二台を使ってる二人にとっては……」
現実世界での一分が――内部における十年。
その暗算を瞬時にこなしたのだろう、神代博士の見開かれた両眼が軽く痙攣したように見えた。
「な……んてこと……。早く……はやく明日奈さんと桐ヶ谷君を、STLから出さないと!!」
立ち上がりかけた博士の腕を、こんどは比嘉が押さえた。
「だめです凜子さん! もう初期加速フェーズに入っている、むりやりマシンから引き剥がしたら、フラクトライトが飛んじまう!!」
「なら、さっさと切断処理を始めてよ!!」
「僕がさっき、なんでわざわざケーブルダクトを這い降りたと思ってるんスか! STLのオペレーションは、メインコントロールからしかできないんだ!!」
比嘉も裏返った声でそう喚いてから、視線をコンソール前の指揮官へと動かした。
菊岡はすでに、比嘉の言おうとしていることを察しているようだった。
「……菊さん。僕、もう一度下に行きます」
その言葉を聞いた途端、指揮官も頷き、答えた。
「わかった。私も行こう。君を背負ってハシゴを降りるくらいの体力はあるつもりだ」
「い……いけません二佐!!」
叫んだのは中西一尉だった。血相を変え、ごつごつとブーツを鳴らしながら数歩進み出る。
「危険です、その任務は小官が……」
「隔壁をもう一度開放するんだ、君らには通路の防衛をして貰わなければならない。時間がない、これは命令だ!」
これまで見せたことがないほど鋭い表情で菊岡が言い放った言葉に、中西はぐっと下顎を強張らせ、視線を落とした。
比嘉は、右手をおそるおそる持ち上げ、痛みはするものの指先がちゃんと動くことを確認しながら、尚も必死に考えた。
モニタに表示されている、限界加速フェーズ突入カウントダウンは残り十分足らず。
しかし、今から耐圧隔壁を再開放し、あの延々続くハシゴを降り、コネクタからSTLを切断操作するにはどう見積もっても三十分はかかる。
その二十分の時間差のあいだに、アンダーワールドで経過する時間は――実に、二百年。
人間の魂寿命である百五十年を、遥か超える年月だ。
それ以前に、そのような無限に等しい年月を、アンダーワールド内部で過ごすことなど……現実世界人には、とても耐えられるものでは……。
アンダーワールド内部……。
「そ……そうか!!」
比嘉は叫び、左手を菊岡に向かって振り回した。
「き、菊さん!! さっきSTLを操作したとき、僕、キリト君との通信チャンネルを確保しといたんス! C12番回線で呼びかけてください!!」
「し、しかし……何を言えば……」
「内部から脱出するんスよ!! あと十分のあいだにシステムコンソールまでたどり着くか、もしくは天命を全損すれば、STLが自動的に切断処理を開始するッス!! ただ、限界フェーズに突入したあとはコンソールは機能しませんし、死ぬのはもっと最悪だ!! 全感覚遮断状態で二百年過ごすことに……それだけは強く警告してください!!」
「に…………」
二百年だって!?
と口走りそうになり、俺はあやうく言葉を飲み込んだ。
すぐ目の前で、アスナがきょとんとした表情で俺を見ている。菊岡の声は、彼女には聞こえていないのだ。
『いいかキリト君、あと十分だ! それまでにコンソールまでたどり着き、自力ログアウトしてくれ!! どうしても不可能なら、自ら天命を全損するという方法もあるが……これは不確実なうえに危険が大きい、理由は……』
擬似死状態で二百年過ごさなければならない可能性があるから。
それを悟った俺は、菊岡の言葉を遮り、尋ねた。
「わかった、なんとかコンソールからの脱出を目指してみる! もちろん、アリスも連れていくからそのつもりで準備しといてくれ!」
『……すまん。だが、この際アリスの確保よりも、君たち二人の脱出を優先してくれ! いいか、たとえログアウト後に記憶を消去できるとしても、二百年という時間は人間の魂寿命をはるかに超えている! 正常に意識回復できる可能性は……ゼロに等しい……』
苦しさの滲む菊岡の声に――。
俺は、静かに応えた。
「心配するな、必ず戻るよ。それと、菊岡さん。半年前……いや、昨夜は酷いこと言って悪かったな」
『いや……我々は、誹られて当然のことをした。こっち側で、君にぶん殴られるときのために絆創膏を用意しておくよ。……比嘉君の用意ができたようだ、私はもう行かねば』
「ああ。じゃあ、十分後にな、菊岡さん」
そして、通信が切れた。
俺は、コートの裾を羽ばたかせてホバリングしながら、腕のなかのアスナをじっと見つめた。
「……キリトくん、菊岡さんから連絡があったの? 何か……大変なこと?」
ゆっくりと首を左右に振り――俺は、答えた。
「いいや……十分後に時間加速が再開するから、なるべく急いでくれっていう話さ」
アスナはぱちぱちと瞬きし、小さく微笑みながら頷いた。
「そうね、いつまでもこんなことしてちゃ、アリスさんに悪いもんね。さ、助けにいこ!」
「ああ。もう一度飛ぶよ」
ぎゅっとアスナを抱きしめ、再び光素へと二人を組成転換する。あらゆる色が金色の輝きへと置き換わる。
遥か南を往くアリスと、それを追う巨大かつ異質な気配を捕捉し――俺は、飛んだ。
追いつかれる。
雨縁の鞍上で後方を振り返ったアリスは、小さく唇を噛んだ。
赤い空を背景に、ぽつんと浮かぶ黒点は、五分前より確実に大きくなっている。敵の速度が増したというよりも、ついに二頭の飛竜が力尽きつつあるのだ。
まったく休息もせずに飛びっぱなしなのだから当然、と言うより、ここまで頑張ってくれたことが奇跡に近い。人界の直径に数倍する距離を、たった半日で天翔けたのだ。二頭ともに、天命そのものを消費しての限界飛行を続けているのは明らかだ。
しかし――となると、あの追跡者は何なのか。
遠視術で確認したところ、飛竜とは異なる奇怪な有翼生物の背に乗っているようだ。だが、あんな生き物は、人界はもちろんダークテリトリーでもついぞ見たことはない。
追いすがる男は、暗黒神ベクタの姿を借りていたリアルワールド人なのだと言う。
そして、一度は騎士長ベルクーリの捨て身の剣に斃れた。しかし再び新たな命を得てこの地に降り立ち、アリスを追ってきた。
ベルクーリの死を貶めるその仕業に対して、断じて許せないという怒りはまだある。
だが、アリスはこの数時間の飛行のあいだに、ようやく成すべきことを見出していた。
敵が、この世界では不死だというのなら――。
リアルワールドで斬るまでのこと。
そのためにも、何としても”世界の果ての祭壇”まで辿り着くのだ、といちどは決意したのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
視線を前方に戻すと、まっすぐ前方の赤い空を透かして、凄まじい規模の断崖絶壁がはるか天までそびえているのがうっすらと見える。伝説に聞く、”世界の終わり”だ。飛竜で超えることが可能な”果ての山脈”とは異なり、ダークテリトリーをぐるりと囲むあの断崖は、無限の高みにまで続いているらしい。
その壁面の手前、飛翔する竜たちとほぼ同じ高度に――。
小さな浮島がひとつ、ぽつんと漂っていた。
底のとがった杯のような形をしている。いったい、いかなる力で虚空に浮遊しているのかは推測もできない。
眼を凝らすと、平らな上面の中央に、何らかの人工的構造物が見て取れる。おそらく、あれこそが目指す”果ての祭壇”なのだろう。世界の出口。リアルワールドへの入り口。”真実”の在り処。
惜しむらくは、わずかに遠い。
背後に迫る敵と比べて。
アリスはそっと眼を閉じ、息を吸い、長く吐いた。
右手で軽く愛竜の首を撫で、命じる。
「ありがとう雨縁、それに滝刳。ここまででいいわ、地上に降りてちょうだい」
二頭は、弱々しい声でかすかに鳴き、並んだまま螺旋降下に入った。
眼下の地形は、すこし前から、まるで虚無の具現化のごとき黒い砂漠へと変わっている。神が創造に飽いたかのような、茫漠と続く砂の海に長い軌跡を引きながら、竜たちは倒れこむように着地した。
ふるるるる、と喉の奥から掠れ声を漏らして身体を横たえた雨縁の背から、アリスは即座に飛び降りた。腰のポーチを探り、最後の霊薬の小瓶を取り出す。
竜の、半開きになった口のなかに、青い液体を正確に半分だけ注ぎ入れ、ついで隣の兄竜の口にも一滴残さず流し込む。いかに神聖教会製の霊薬とは言え、飛竜の膨大な天命を癒すにはまるで足りないが、それでももう一度離陸するだけの力は戻ったはずだ。
アリスは、左右の手で竜たちの和毛の生えた顎下をそっと撫でた。
「雨縁。滝刳」
呼びかけた途端、自然と両眼に涙が浮いた。それを懸命に堪え、続ける。
「ここでお別れです。最後の命令よ……人界まで飛び、西域の竜の巣に戻って、雨縁はだんなさん、滝刳はお嫁さんを見つけなさい。子供をいっぱい生んで、立派に育てるのよ。いつかまた、騎士を乗せて飛べるくらい、強い、強い子供たちを」
不意に、雨縁が頭を持ち上げて、アリスの頬を舐めた。
滝刳は腰に鼻面を摺り寄せて、そこに下がる星霜鞭の匂いを嗅いだ。
二頭が頭を離すと同時に、アリスは強く命じた。
「さあ、行って!! 振り返らないで、まっすぐ飛びなさい!!」
くるるるっ!!
竜たちは同時に頭をもたげ、高らかに鳴いた。
命令どおり、後ろを見ることなくまっすぐ西に向けて助走を開始する。
どっどっどっという重い足音に続いて、広げられた翼が砂漠の風をはらみ、ふわりと巨体が宙に浮いた。
兄妹竜は、翼端が触れ合うほどの近さで大きく空気を打ち、一気に高度を取った。
と、そこで――。
雨縁が、その長い首をくるっと振り向かせた。
愛竜の、銀色の瞳がまっすぐにアリスを見た。その縁に、大きな雫が溜まり、きらっと輝いて空に散った。
「雨……縁……?」
アリスの呟きが終わらぬうちに。
頭を前に戻した飛竜とその兄は、左の翼だけを激しく打ち鳴らし、体の向きを九十度転換した。
猛々しい雄叫びを響かせ、全速で空に駆け上がっていく。まっすぐ一直線に――もうはっきり視認できるほどにも近づきつつある、追跡者目指して。
「だめ……だめよ! 雨縁、だめ――――ッ!!」
アリスは絶叫し、走った。
しかし、砂漠の黒い砂が重くブーツに絡みつく。
手をついて倒れこんだアリスの視線のさきで、雨縁と滝刳は、二重の螺旋を描きながら不死の敵が待ち受ける高空へと突進していった。
銀色の鱗が、赤い陽光を受けて炎のように輝く。
鋭い牙の並ぶあぎとが、一杯に開かれる。
二頭の竜たちは、追跡者が射程距離に入るやいなや、渾身の熱線を吐き出した。空を貫く純白の光は、まるで飛竜の命そのものの燃焼であるようにアリスには見えた。
怪生物の背に乗る敵は、迫り来る超高熱を見ても、その軌道を一切変えようとしなかった。
ただ、無造作に左手を伸ばし、五指を広げる。
防げるわけがない。飛竜の熱線は、整合騎士の記憶解放攻撃と、高位術者の集団多重術式を除けばこの世界で最も高い優先度を持つのだ。それが二条。あんな短時間では、とても対抗し得る防御術など組む余裕はない。
アリスはそう推測し、あるいは願った。
しかし。
甲高い共鳴音を響かせながら殺到した二本の熱線が、敵の身体を飲み込み焼き尽くすと見えた、その寸前。アリスの理解を超えた、奇怪な現象が発生した。
追跡者の左手を中心に、漆黒の闇が渦巻きながら広がったのだ。
周囲の光景が、まるで闇に向かって落ち込むかのようにくにゃりと歪んだ。凄まじい威力を内包するはずの、飛竜の熱線ですらもその例外ではなかった。直進軌道がたわみ、色が青紫へとくすむ。そのまま、男の左手へと吸い寄せられていき――。
幾つかの光芒を散らしただけで、音も閃光も爆発もなく、二条の光線は闇へと飲まれた。
どんな術も剣技も届かない遥か高空を飛ぶ、黒い点でしかない敵の口元に、薄い笑みが浮かぶのをアリスは確かに見た。
直後。
ジャッ!! という耳障りな響きとともに、男の左手にわだかまる闇から、幾本もの漆黒の稲妻が迸った。
まるで、竜たちの熱線を飲み込み、咀嚼し、己の力へと消化してから吐き出したかのようなその攻撃が、飛翔する雨縁と滝刳の体を容赦なく貫いた。二頭の体ががくんと揺れ、鮮血と白煙が空に色濃くたなびいた。
「あ……あ…………」
アリスは喘ぎ、空に高く手を差し伸べ、叫んだ。
「雨縁――――ッ!! 逃げて!! もういいから、逃げて――――ッ!!」
悲鳴は、確かに竜たちに届いたはずだった。しかし二頭の飛竜は、まるでアリスの声に決意を新たにしたかの如く両翼を激しく打ち鳴らし、再び突進を開始した。
口が大きく開かれる。牙の隙間から、陽炎のような熱気が立ち上り、ちらちらと白炎が瞬く。
ズバッ!!
二撃めの熱線が、空を灼いた。
今度もまた、男は闇の盾を展開させ、光の矢を受けた。
先刻と同じ反撃がくるのは明らかだったのに、竜たちは果敢にも突撃を続けた。あぎとから光線を放ち続けたまま、翼を猛然と羽ばたかせ、一直線に敵に向かって突っ込んでいく。
二頭の体に穿たれた傷口から飛び散る血が、炎へと変わった。銀の鱗が次々と剥離し、光の粒となって空に舞った。
竜たちの、存在そのものが光に転換されていく。
命を燃やして放たれつづける熱線が、闇の渦を満たし、飽和させていく。荒れ狂う熱気に耐えかねたか、男の左手からも白煙が上がりはじめる。
だが――そのとき。
敵の全身が、青黒い闇のベールに包まれた。左手から放たれる虚無の渦も勢いを増し、直後、その中央から放たれた黒い稲妻が白い熱線を押し戻しはじめた。
衝突する白と黒の力は、両者の中間でほんの一秒ほど拮抗し。
あっけなく逆転した。
力尽きたように翼の勢いを緩める雨縁と滝刳にむかって、無数の黒い稲妻が躍りかかる――。
「いやぁ――――ッ!! 雨縁!! あまより――――――ッ!!」
アリスの絶叫が、涙とともに砂漠の空気に散った、その瞬間だった。
星が降った。
天から、ふたつの煌く光が、恐ろしい速度で落下してくる。
ひとつはそのまま地上を目指し。
そしてもう一つは、竜たちと追跡者の中間地点で、なんの反動もなくぴたりと静止した。白い光がぱっと飛び散り、そのうちに隠していたものの姿を露わにした。
人。
剣士だ。
尖った黒髪と、同じく漆黒のコートが風になびく。背中には、交差して装備された白黒二本の長剣。両腕を胸の前で組み、迫りくる闇の雷閃を、傲然と見つめている。
バン!! バシィッ!!
という衝撃音とともに、稲妻が剣士を打った。いや、正確には、触れることなく弾かれた。腕組みをしたまま空中にすっくと立つその姿の直前で、不可視の障壁に遮られて空しく威力を散らしたのだ。
アリスはただ、息を止め、眼を見開いて空を見上げた。
黒衣の剣士が、ゆっくりと振り向き、地上のアリスを見た。
わずかに少年らしさの残る、鋭利な容貌が小さくほころび、漆黒の双瞳が強く煌いた。アリスは、胸のおくに強い火花が散るのを感じた。それは、感情というよりも、実際の着火力であったかのようにアリスの心を激しく燃え立たせた。
両眼から新たな涙が溢れるのを意識しながら、アリスは呟いた。
「キリ……ト…………」
半年の長い眠りから醒めた青年は、力強い、しかしどこか照れたような笑みを一瞬浮かべて頷くと、身体を反転させて右手をまっすぐ掲げた。
彼の背後では、瀕死の竜たちが最後の力で翼をはばたかせている。その翼端と、長い尾の先端は、すでに光に溶けるように消滅を始めている。
雨縁が、ルーリッド郊外の家で半年間ともに暮らしたキリトを見て、首をかたむけ、小さくくるるっと鳴いた。
キリトも頷きを返し、眼を閉じた。
不意に、虹色の光の膜が二頭の竜を覆った。まるで、巨大なしゃぼん玉に包まれたかのようだ。
しかし竜たちは恐れるでもなく、翼を畳み首を曲げて、小さく身体を丸めた。
ふたつの光球が、アリスの頭上に、ゆっくりと舞い降りてくる。
呼吸も忘れて見上げるアリスの視線のさきで、不思議な現象が生起した。
七色の光をまとう雨縁と滝刳の巨体が、みるみるうちに小さくなっていく。いや、小さくと言うよりも――若く、幼くなっていくのだ。
鋭い鉤爪が丸みを帯びる。銀鱗が、柔らかいにこ毛に置き換わっていく。尾も首も短くなり、翼が薄い皮膜から、長い羽毛の集合へと変化する。
差し伸べたアリスの両腕のなかにふわりと収まったとき、竜たちの体はもう全長五十センもなかった。青みがかった白の毛皮に包まれた滝刳は、眼を閉じすやすやと眠っているようだ。
そして、緑がかった柔毛の球のような雨縁が――かつて、二頭の母竜がその天命を終えたとき、腕のなかで悲しげに啼いていたときとまったく同じ姿に戻った愛竜が、まっすぐアリスを見上げ、真珠粒のような歯のならぶ口を開いて短く声を発した。
「きゅるっ」
「あま……より……」
呟いたアリスの頬を伝い、こぼれた涙が、竜の毛皮に弾かれてきらきらと光った。
直後、二頭の幼竜を包む虹色の光が、一気にその強さを増した。アリスの腕を、現実的な固さで押し返してくる。何度か瞬きしたとき、そこにあるのは二つの大きな卵になっていた。
白銀色の卵は、どんどん小さくなっていき、最終的に掌に並んで載るくらいにまでなってからようやく七色の輝きを消した。
アリスは、二つの小さな卵にそっと頬を寄せながら、この現象の意味をおぼろげに推測した。雨縁と滝刳の天命が、その膨大さゆえにもう術式では回復しきれないほど損耗していると判断したキリトは、天命上限そのものを最小限に縮小する――つまり幼竜から卵にまで還元することで消滅を免れさせたのだ。
如何様に術式を組めばそのような効果を実現できるのか、いまや世界最高の術者でもあるはずのアリスにすら想像もつかなかった。しかし、訝しく思う気持ちはかけらも無かった。
卵たちを優しく両手で包みこみ、アリスはまっすぐ空を見上げた。
「ありがとう……おかえりなさい、キリト」
涙混じりの声でそう囁きかける。
遥か高空までは届くはずもなかったが、黒衣の人影はしっかりと頷き、微笑んだ。
耳に、懐かしいあの声が聞こえた。
――俺のほうこそ……長い間、心配かけたな。
――ありがとう、アリス。
――次は、リアルワールドで会おう。
そして、キリトはゆっくりと体の向きを変え、闇をまとう追跡者と正対した。
両者のあいだの空間が、せめぎあう心意に耐えかね、白く火花を弾けさせた。
「……キリト……」
その敵は、たとえあなたでも、尋常の攻撃では斃せない。
アリスはそう危惧し、唇を噛んだ。
と、不意に傍らから声がした。
「だいじょうぶよ、アリスさん」
振り向くと、立っていたのは真珠色の装備に身を包むリアルワールド人の少女だった。
「アスナ……さん……」
柔らかい茶色の髪を風になびかせながら、アスナは微笑み、アリスの背に触れた。
「キリトくんを信じましょう。わたしたちは、”果ての祭壇”に急がないと」
「え、ええ……」
頷いたものの、今やそれはそう容易いことではない。
アリスは真南に向き直り、遥か地平線から屹立する”世界の終わり”の断崖と、その手前に浮遊する白い浮島を見上げた。
「”果ての祭壇”は、たぶんあの浮島にあると思うけど……もう竜たちには乗れないし、どうやってあんな高いところまで……」
「大丈夫、私に任せて」
アスナは頷くと、腰から華麗な細剣を抜いた。
それをまっすぐ彼方の浮島に向け、長い睫毛を伏せる。
突然、昨夜も聞いたあの天使の重唱が、ラ――――――、と高らかに響き渡った。
七色の光が空から黒い砂漠へと、一直線に降り注ぐ。
ごん!!
重い音とともに、すぐ目の前の砂のなかから、白い石版が浮き上がった。
ご、ごごごん!
その向こうに、少し高さを増してもうひとつ。さらにひとつ。
息を飲むアリスの眼前に、はるか天まで伸び上がる白亜の階段が出現し、浮島までつながるのに二十秒とかからなかった。
地形操作を終え、剣を降ろしたアスナが、がくりと砂に膝をついた。
「あ、アスナさん!!」
「だい……じょうぶよ。急ぎましょう……祭壇が閉じるまで、あと八分くらいしかないわ……」
閉じる――?
言葉の意味が、アリスには咄嗟に理解できなかったが、尋ねるまえに強く右手を掴まれた。
立ち上がり、物凄い速さで階段を駆け上りはじめたアスナに手を引かれ、アリスも走った。走りながら、もう一度だけ振り向き、高みで敵と対峙する黒衣の剣士を見上げた。
――キリト、言いたいこと、聞きたいことが、山ほどあるんですからね!!
――絶対に勝って。勝って、もういちど私の前に戻ってきて。
漆黒の砂漠につらなる大理石の浮き階段と、その上を飛ぶような速度で登っていく二人の少女剣士の姿は、ため息が出そうなほどに美しく、詩的で、かつ象徴的だった。
俺は、その光景を脳裏に焼きつけ、胸のうちで呟いた。
――アリス。アスナ。
――これで……お別れだ。
アスナに、次の時間加速は五百万倍に達することと、もしそれまでに自力脱出できなければこの世界で二百年を過ごさねばならないことを伝えなかったのには理由がある。
それを知れば、アスナも、アリスも、俺とともに戦おうとするに違いないからだ。たとえそれで、タイムリミットである十分のうちに脱出できなくなったとしても。
俺は、アリスを追う敵の気配を知覚した瞬間、その異質さに戦慄した。いや、気配という表現は相応しくない。そこに在るのは無それのみだからだ。あらゆる情報を呑み込み、光ひとつぶすら逃がさないブラックホール。
そのような相手をタイムリミット前に撃破し、尚且つ三人そろって無事に脱出できる可能性はごく低い。となれば、俺のなかの行動優先順位はおのずから定まる。
アスナとアリスを確実にログアウトさせること。
それ以外に優先されるものなど無い。何一つ。
俺は、一枚絵のように美しい光景をしっかりと記憶に刻みこみ、顔の向きを変え、まっすぐに”敵”の姿を見た。
ついに邂逅したそいつ――いや、それは、まったく奇妙としか言えない存在だった。
男だ。それは分かる。
そして、それしか分からない。
顔の造作は、これが自作のアバターなのだとしたら、おそらく”白人男性の平均的容貌”の再現を意図したのだろう。眉にも、眼にも、鼻筋、口元、輪郭にもいっさいの特徴というものがない。ただ、肌が白く、瞳が青く、髪が薄い金色としか表現のしようがないのだ。
体格も、白人種としては至って普通だ。太っても、痩せてもいないその体を、ミリタリージャケットめいた服に包んでいる。ならばこの男は軍人なのか、というとそれも定かでない。なぜなら、ジャケットの上下に施された黒と灰色の迷彩模様が、ある種の粘液のように絶えず動き回っているからだ。それが、男の”不定”という特徴を強く表していると思えてならない。そもそも、左腰に装備されているのは銃ではなく長剣だ。
この男が、オーシャンタートルを襲撃した特殊部隊――おそらく米軍関連――の一員であることは移動中にアスナから聞いた。ならば、人工フラクトライト関連技術の奪取を目論んだ組織なり企業に、金で雇われた傭兵であるはずなのだ。しかし、少し離れた場所から、ガラスのような眼で俺を見ている男が、そんな現実的利益を求めている人間とはとても思えない。いや、そもそも人間である気すらしない。
約一秒の観察と思考を終え、俺は口を開いた。
「……お前は、何者だ」
答えは即座だった。滑らかな、それでいてどこか金属的な響きのある声で、男は言った。
「求め、盗み、奪う者だ」
途端、男の全身を取り巻く青黒い闇が、その蠕動の勢いを増した。俺は頬にかすかな微風を感じた。空気が、いや情報が闇に吸い込まれているのだ。
「何を求める」
「魂を」
問答を交わすにつれ、吸引力も増していく。空間を構成する情報だけではない。俺の意識そのものもまた、虚無的な重力に引かれるのを感じる。
と、はじめて男の口元が表情めいたものを浮かべた。希薄な気体を思わせる笑み。
「オマエこそ何者だ。なぜそこに居る。何を根拠として私の前に立つのだ」
逆に、問い。
俺が――何者か、だって?
アンダーワールドに降臨した勇者? ――まさか。
人界を守護する騎士? ――違う。
脳裏に否定の言葉を浮かべるたびに、何かが俺のなかから吸い出され、奪われていくのを感じる。しかし、なぜか思考を止めることができない。
SAOをクリアした英雄? ――否。
最強のVRMMOプレイヤー? ――否。
“黒の剣士”? “二刀流”? ――否、否。
どれも、俺自身が望み描いた存在ではない。
ならば、俺はいったい何者だ……?
すう、と意識が薄れかかったその瞬間。
あの懐かしい声が、心の奥底で俺の名を呼んだ。
俺は、いつの間にか俯けていた顔をさっと持ち上げ、呼ばれたままに強く名乗った。
「俺はキリト。剣士キリトだ」
ばちっ!!
と白いスパークが弾け、俺にまとわりつこうとしていた闇の触手を断ち切った。思考が即座に鮮明さを取り戻す。
今の現象はいったい何だ!?
この男は――二台のSTLを介して、直接こちらの意識に干渉できるのか。
俺は、イマジネーションの防壁を強く張り巡らせながら男の眼を凝視した。そこにあるのはまさしく虚無だ。他人の心を吸い取る、底なしの暗闇。
この戦いはおそらく、いかに自分を強く規定し、そして相手にも自己を規定させるかで決まる。
「お前の名は」
無意識のうちに俺は誰何していた。
男はわずかに考え、名乗った。
「ガブリエル。私の名はガブリエル・ミラー」
それがキャラクターネームやハンドルネームではなく、男の本名であることを俺は直感的に察した。
なぜなら、途端に男の容貌が変化したからだ。目つきが異様に鋭く、氷のような冷酷さを帯びる。唇が薄く引き締まり、頬が削げる。
同時に、全身から噴き出す闇のオーラが一気にその厚みを増した。
この段階で、俺ははじめて男の右腕が肩から欠損しているのに気付いた。これまで、腕のように蠢いていた不定形の闇が、ずるずると伸びて腰の剣に触れた。
湿った音を立てて抜かれた剣に、確固とした刀身は存在しなかった。
青黒い闇だけが、一メートルほども炎のように立ち上っている。まさしく、非存在の存在だ。
右肩から伸びる影の腕で握った闇の剣を、男は奇怪な震動音とともに切り払った。
俺も、わずかに距離を取りながら、両肩の剣を同時に抜刀した。左手に青薔薇の剣、右手に夜空の剣。
闇色、ということならギガースシダーの枝から削り出した夜空の剣も負けてはいない。しかし、その刀身が黒曜石のように陽光を反射しているのに対して、男の剣はまるで空間がそこだけ切り取られているかのようだ。リソース吸収属性、などというレベルではあるまい。おそらくは……
「――行くぜ、ガブリエル!!」
敢えて敵の名を叫び、俺は翼に変形させたマントの裾を羽ばたかせた。
高く舞い上がりながら剣を体の前で交差させる。
「ジェネレート・オール・エレメント!」
全身の体表面を端末とするイメージで、全属性の素因をそれぞれ数十個ずつ同時に生成すると、俺は急降下と同時にそれらすべてを発射した。
「ディスチャージ!!」
炎の矢が、氷の槍が、その他幾つもの色彩が光線となって宙を疾る。
術式を追いかけるように、左右の剣を振りかぶる。
ガブリエル・ミラーは、一切の回避行動を取ろうとしなかった。
薄笑いを浮かべたまま、ただその場ですっと両手を広げただけだった。
青い闇を纏うその体に、八色の光が突き刺さる。
わずかに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、俺は右手の剣で薙ぎ払い、左手の剣で貫いた。ボッ、と闇が飛び散り、交錯した俺の肌に冷気を残した。
そのまま全力で飛翔を続け、上昇と同時に振り向く。
俺の視線が捉えたのは――。
流出した闇を、ずるすると引き戻し、何事もなかったかのようにこちらに振り向くガブリエルの姿だった。その身体を包む黒いジャケットには、傷一つ残っていない。
やはり。
あの男の属性は、斬撃、刺突、火炎、凍結、旋風、岩弾、鋼矢、晶刃、光線、闇呪に対して吸収(ドレイン)だ。
交錯の瞬間、虚無の刃に撫でられた俺の右肩から、抉られるようにコートと筋肉が消滅し、ぶしゅっと鮮血が飛び散った。
SAO4_55_Unicode.txt
ガブリエル・ミラーは、長い空中階段を駆け上っていく”アリス”ともう一人の少女の姿をちらりと確認し、二人がシステムターミナルに到達するまでの残り時間を五、六分と見積もった。
となれば、唐突に出現した邪魔者との戦闘にかまけている余裕は無い。即刻無力化し、浮島へと急行するのが論理的な判断というものだろうが、新たな敵にほんのわずかな興味を覚えて、彼はその場に滞空し続けた。
一瞥したところでは、ただの子供にしか見えない。
先に戦い、相討ちとなった初老の騎士と比べれば、威圧感など無に等しい。おそらくは、”シノン”と同じくK組織に協力する現実世界人のVRMMOプレイヤーなのだろうが、圧力という点ではあの少女にすら劣る。
なぜなら、眼前の黒衣の若者は、闘気のたぐいをほとんど放散していないからだ。
何者か、と尋ねたその瞬間だけ、僅かに意思を吸い出すことができたものの、その回路もすぐに遮断されてしまった。以降は、まるで透明な殻に包まれているかのようにガブリエルの思考走査を弾き続けている。心を味わえぬ敵などとは、戦っても何も面白くない。
すぐさまステータス数値的に殺害・排除し、アリスを追おうと一度は考えた。
しかし若者がコートの裾をコウモリの翼状に変化させ、更に全属性の魔法を同時に操るのを見て少しだけ気が変わった。この世界に慣れている、と感じたからだ。
アリスを確保し、STL技術とともに第三国に脱出したあとは、自分だけの世界を隅々まで好みに合うように構築する作業が待っている。それを効率的に行うためにも、若者が持っている操作技術を奪っておくのは悪くない。
そのためには、あのイマジネーションの殻を破壊する必要がある。
ガブリエルは薄い笑みとともに、黒衣の少年に向けて言葉を放った。
「三分やろう。私をせいぜい楽しませてくれ」
「……気前のいいことだな」
俺は、指先の一撫でで傷を塞ぎながら呟いた。
だが、ガブリエル・ミラーの余裕にはたっぷりと裏づけがある。何と言っても全属性の攻撃に対して無敵なのだ。
――いや、たった一つだけ、通用するダメージも無くはないだろう。奴の右腕を肩から吹っ飛ばしたのは、恐らく先行していたシノンだ。イマジネーションで狙撃銃を作り出し、撃ち抜いたのだ。つまり、”銃撃”属性の攻撃ならばさしものガブリエルも吸収しきれないということになる。
その理由は、あの男がまがりなりにもミリタリージャケット姿であることと無関係ではあるまい。兵士としての長い経験を通して大口径銃の威力を知り抜いているがゆえに、自分が撃たれたときのダメージもまた無効化できなかったのではないか。
だが、このアンダーワールドで銃を具現化するなどという離れ業は、愛銃ヘカートIIを手足のように扱うシノンだからこそ出来たことだ。俺にはとても真似できないし、仮に拳銃ひとつくらい作り出せたところで、とても威力までは伴うまい。
つまり俺は、銃撃属性以外に、何かあの奇怪な男がダメージとして認識し得るものを見つけ出す必要がある。
それは即ち、ガブリエルという人間を知るということだ。どのように生き、何を望み、何故今ここに居るのかを看破しなくてはならない。
左右の剣をぴたりと構え、俺は口の端に笑みを浮かべた。
「いいだろう、楽しませてやるよ」
いったい、あの態度の根拠は何なのか。
長期間アンダーワールドにログインし、システムに慣れているのは確かだろうが、しかしたかがゲームプレイヤーの子供ではないか。大仰に両手に握った剣や、派手派手しい魔法攻撃の全てが無力であることを思い知らされたばかりだというのに、何故ああもふてぶてしく笑っていられるのか。
ガブリエルはかすかな不快感とともに考え、つまりは時間稼ぎのための虚勢だと結論づけた。
たとえこの世界で死のうとも、現実の肉体には何の傷も負わないとたかをくくっているのだ。その上で、もう一人の仲間がアリスを確保するまで戦闘を引き伸ばすことだけを考えている。
所詮は愚昧な子供だ。付き合うのは三分でも長すぎる。
かりそめの右腕に握った、虚ろなる刃をゆらりと振り――ガブリエルはそれを、自らが乗る有翼生物の背に無造作に突き刺した。
もともとこの怪物は、剣やクロスボウと同じく、”サトライザ”のアカウントが所持していた飛行用バックパックがコンバート時に置換されたものだ。意思のままに制御できるとは言え、両足だけで乗っているのは安定感に欠ける。あの少年のように、翼だけにしたほうが合理的というものだ。
背中を串刺しにされた怪物は、ギイッと短い悲鳴を上げただけで、たちまち虚無に吸い込まれた。ガブリエルは、剣を通して右腕に流入してきたデータを背中に回し、意思を集中させた。
ばさっ。
という羽ばたき音ともに、少年と同じく黒い翼が肩甲骨のあたりから伸長した。しかし、こちらはコウモリのような皮膜型ではなく、鋭い羽毛を重ねた猛禽のそれだ。天使の名を持つ自分には、こちらのほうが相応しい。
「……一つ、盗んだぞ」
ガブリエルは、虚無の刃を若者にまっすぐ向けながら囁いた。
次の攻撃で、敵の乗る円盤型の飛行生物を陥とそうと思っていた俺は、先手を打たれて一瞬判断力が低下した。
その隙を逃さず、黒い猛禽の翼を羽ばたかせてガブリエルが間合いに滑り込んでくる。
ノーモーションで突き込まれてきた刃の速度は、驚くべきものだった。剣技に関しては素人と睨んでいたがとんでもない。十字にクロスさせた二本の剣で、下から救い上げるように受ける。
ぎじゅっ!
と異様な音とともに、青黒い闇の剣が俺の鼻先で停止した。
青薔薇の剣と、夜空の剣が激しく軋む。かろうじて虚無に喰われはしないものの、言わば断絶空間と切り結んでいるようなものだ。天命に巨大な負荷がかかっていることは想像に難くない。
しかし、バックステップで回避せず、あえて危険を冒してブロックで受けたのは作戦のうちだった。俺は、下から突き上げた剣が再度斬り降ろされてくる勢いを利用し、思い切り身体を後転させた。
「ラァ!!」
気合とともに、ガブリエルの顎目掛けて真下から蹴りを浴びせる。
橙の光を引きながら伸び上がったつま先が、尖った顎下を捉えた。ボッ、と闇が飛び散り、敵が仰け反る。
――どうだ!?
翼で強く空気を叩き、距離を取りながら俺は敵の様子を確かめた。銃撃、とまでは行かなくとも、”打撃”ならば――奴がほんとうに特殊部隊の兵士なら、当然格闘術の訓練も受けているはずゆえ、ダメージと認識する可能性はある。
かくん、と頭を戻したガブリエルは、しかし、表面的にはまったく無傷だった。
顎から飛び散った黒い闇は、すぐに元通りに凝集して滑らかな皮膚へと変わった。そこを左手で撫でながら、敵はにやりと笑った。
「なるほどな。しかし残念ながら、そんな大技はショウ・アップされたテレビ向けの代物だ。本物のマーシャル・アーツというのは……」
びゅっ!!
と空気を鳴らし、言葉半ばで、ガブリエルはその姿が霞むほどの速度で突っ込んできた。左上から振り下ろされる剣を、俺は反射的に青薔薇の剣で弾き、同時に右手の剣で反撃した。敵の肩口に刃が食い込み、まるで高濃度の粘液に包まれたかのような手応えとともに動かなくなる。
と、伸びきった俺の右腕に、するりと絡みつくものがあった。ガブリエルの左腕だ。黒い蛇のように巻きつき、たちまち逆関節を極められ――。
ごきっ。
という嫌な響きとともに、俺の脳天に銀色の電流にも似た激痛が走った。
「ぐあっ……」
呻く俺の眼を間近から覗き込み、ガブリエルは囁いた。
「……こういうものだ」
直後、猛烈なラッシュが開始された。
虚無の剣が、無限にも思える連続技を超高速で撃ち込んでくる。それを右手の剣一本でどうにか捌こうとするが、時折防御を抜けてきた一撃が、体のあちこちを浅く抉り取っていく。へし折られた左腕を回復させるために精神を集中する暇などまったく無い。
「く……おっ……」
思わずうめき声を漏らし、俺は距離を取るべく翼を強く羽ばたかせた。
全力でバックダッシュしながら、剣を握るだけで精一杯の左腕に右手の指を二本這わせる。
白い光が集まりかけた、その時。
ガブリエルがすっと左手を掲げ、鉤爪のように五指を曲げてから、一気に開いた。
十本以上の漆黒のラインが放射状に広がり、途中で鋭角に折れてまっすぐ襲い掛かってくる。
俺は歯を食いしばり、イマジネーションの防壁を展開した。アリスの竜たちを襲った同じ技を弾いたときは強固な確信があったが、今は集中力の半分を治癒に割いている――という認識それ自体が、盾の強度を減少せしめ――。
ズバッ。
という震動が、体の数箇所に生じた。
防壁を貫通した闇の光線三本が、胴と両脚を穿った。痛みよりも先に、凄まじい冷気が感覚を駆け巡った。見れば、撃たれた箇所には青黒い虚無がまとわりつき、俺の存在そのものを喰らっている。
「ぐ……!!」
再び唸りながら、大きく息を吸い、気合を放つ。それでようやく虚無は剥がれたが、新たな傷口から大量の鮮血が迸った。
「ハハハ」
乾いた声に顔を上げると、ガブリエル・ミラーがその刃のような相貌を歪め、笑っていた。
「ハハハ、ハハハハハ」
いや、これは笑いではない。唇はつり上がっていても、目元は一切動かず、硝子のごとく青い瞳にはさらなる飢えだけが渦巻いている。
ガブリエルは、両腕をゆっくり体の前で交差させると、力を溜めるような仕草を見せた。
闇が重く身震いする。炎のように激しく揺れ動き、その厚みをどこまでも増す。
「ハ――――――ッ!!」
強烈な気声とともに、腕が左右に開かれた。
ズッ、と新たな黒翼が二枚、すでにある翼の上から伸び上がり、大きく広がった。さらに下側からももう一対。
計六枚になった巨大な翼を上から順に羽ばたかせ、ガブリエルは徐々に高度を増していく。撫で付けられていた金髪が波打ちながら広がり、その頭上に漆黒のリングが輝く。
いつしか両眼も、人のそれではなくなっていた。眼窩にはただ、蒼い光だけが満たされている。
まさしく――死の天使だ。
人の魂を狩り、奪い去る超越者。このような自己像を持つものに対して、いったいどんな攻撃が有効だというのか。
俺は、恐怖の具現化たるその姿から視線を外し、手をつないで空中階段を駆け上るアスナとアリスの姿を確認した。まだ、道程の半分をやっと過ぎたところだ。ターミナルまで到達するにはあと二分、いや三分はかかろうか。
たったそれだけの時間すら稼げるかどうか、俺はすでに確信することができなくなっている。
なんという、全能感だ。
全身を駆け巡るパワーの、あまりの強烈さにガブリエルは三度目の哄笑を放った。
なるほど、これがこの世界におけるイマジネーションの真髄――”心意”というものか。
竜巻の巨人と変じた暗黒将軍や、時間を斬った敵騎士の力の秘密をついに手に入れたのだ。ガブリエルは今まで、彼らの技を未知のシステムコマンドに拠るものと思っていたが、そうではなかった。要は、いかに強く己が力を確信できるかだけだ。すべて、あの子供が眼前であれこれ実演してくれたお陰である。
感謝の意味で、もう一分くれてやろう。
ガブリエルは六翼を大きく広げ、闇のつるぎを高々と掲げた。
一分のあいだに、小僧の存在すべてを切り刻み、魂を抽出して喰らい尽くす。更なる力を我が物とするために。
青紫色の稲妻をまとわりつかせながら、ガブリエルは突撃態勢に入った。
もはや軍人ですらなくなってしまった敵の姿を、俺はただ見上げた。
あの男――いや存在が恐れ、脅威と認識するようなものなどもう何も思いつかない。既に銃撃ですら無効となった証として、吹き飛んでいたはずの右腕も、いつのまにか完全に再生している。
つまるところ、覚悟が足りなかったのだ。
ガブリエル・ミラーを甘く見ていたわけではない。その異質な気配は、最大の警戒に値するものだった。しかしだからこそ俺は、この戦いを始める前から、あるいは勝利を諦めてしまっていたのかもしれない。時間さえ稼げれば――、つまりアリスとアスナが脱出するまで戦いを引き延ばしさえすれば、俺も敵も二百年という時間の獄に囚われ、二度と現実に戻れないのだから。
ああ……そうか。
もしかして俺は、それを望んですらいたのだろうか?
アインクラッドを超える、真なる異世界。茅場晶彦が望み、創ろうとした理想郷。アンダーワールドはまさにそう呼ぶに相応しい。
俺はかつて、SAOに囚われた二年間のあいだ、自分が真に脱出を望んでいるのかどうか常に迷っていた。迷いながらも攻略組として最前線で戦い続けたのは、あの世界での生活にも厳然としたタイムリミットがあると認識していたからだ。病院のベッドに横たわり、点滴だけで命をつなぐ生身の体がいつかは衰弱の限界を超えるだろう、という。
しかし、加速されたアンダーワールドにはそれがない。倍率五百万倍となれば尚更、現実の肉体のことなど考える必要が無くなる。俺は魂の寿命が尽きるまで、この異世界に留まり続けられる。無意識にでも、そう考えなかったとほんとうに断言できるだろうか?
その結果――。
俺の大切な人たちが、どれほど哀しむかに思いを致しもせず。
直葉が、母さん、父さんが、ユイ、クライン、エギル、リズ、シリカ……その他多くの、俺を救ってくれた人たちが。
そしてアリスが。
アスナが。
どんなに嘆き、苦しみ、涙を流すかを、考える……こともなく……。
結局、俺は、人の心を知ることのできない人間なのだ。
中学生の頃、初めての友達を見捨て、仮想世界で斬り殺したあの時から、何も変わっちゃいないんだ……。
――違うよ、キリト。
懐かしい声。
氷のように冷えた左手に、かすかな温もり。
――君がこの世界を離れたくないと思ったなら、それは自分のためじゃない。この世界で知り合った人たちを、君が愛しているからだ。
――シルカを、ティーゼを、ロニエを、ルーリッドの人たちや、央都や学園で知り合った人たち、整合騎士や衛士たち……カーディナルさんや、もしかしたらアドミニストレータも……そしてたぶん、僕をね。
――君の愛は、大きく、広く、深い。世界すべてを背負おうとするほどに。
――でも、あの敵は違う。
――あの男こそ、心を知らない。理解できない。だから求める。だから奪おうとする。壊そうとする。それはつまり……
怖れているからだよ。
ガブリエル・ミラーは、黒衣の少年の頬に、細い涙の筋が伝うのを見た。剣を握る両手が、怯えるように胸の前に縮こまった。
恐怖か。
死に行く者の恐怖こそ、ガブリエルにとっては最も甘美な調味料だった。これまで手に掛けた多くの犠牲者が流した涙を、ガブリエルは舌で味わい、陶然としたものだ。
体の芯から湧き上がる巨大な渇きを感じ、尖った舌先で唇を舐めながら、ガブリエルは左手の指先を振りかざした。
たちまち無数の黒球が出現し、蠅のように唸る。
指先で小僧をポイントすると同時に、それらはすべて極細のレーザーへと変わり、空中を走った。
どす、どすどすっ。
確たる手応えとともに、華奢な五体のそこかしこに突き刺さる。闇と鮮血が絡まりながら迸る。
「ハハハハハ!!」
哄笑しながら一気に零距離まで肉薄したガブリエルは、虚無の剣を思い切り引き絞り――。
一息に、少年の腹を貫いた。
時間が圧縮されたような刹那ののち。
黒のシャツとコートに覆われた胴が、荒れ狂う虚無に引き裂かれ、呆気なく分断された。
飛び散る血と肉。骨。臓器。
紅玉のように美しいその輝きに、ガブリエルは左手を突っ込んだ。
少年の上半身からぶら下がり、尚も脈打つ最大の宝石――心臓を掴み、引き千切る。
掌のなかで、抵抗するようにどくん、どくんと震え続ける肉塊をそっと口元まで引き寄せ、ガブリエルは虚ろな表情で宙に漂う瀕死の少年に向かって囁きかけた。
「オマエの感情、記憶、心と魂の全てを……今、喰らってやるぞ」
そう言い放った死の天使の姿を、俺は、半眼に閉じた瞼の下から見つめた。
ガブリエルは、異様に赤い唇を大きく開け、まるで熟しきった林檎を齧るように、俺から奪った心臓に真っ白い歯を立てた。
……ざりっ。
という怖気をふるうような音が大きく響いた。
白面が大きく歪み、その口から俺のものではない血が大量に溢れた。
当然だ。
俺が、自分の心臓のなかに鋼素から生成しておいた無数の小刃を食ったのだから。
「ぐっ……」
唸り、口を押さえて後退するガブリエルに、俺は掠れた声で言った。
「そんな……ところに、心も記憶もあるものか。体なんか……ただの、器だ。思い出は……いつだって……」
ここにある。
俺という意識そのものと融けあい、一体となり、永遠に分かたれることはないのだ。
体が引き千切られた痛みは、もう痛みとも呼べぬほどの凄まじいものだった。しかしこの一瞬こそが、最大最後の機だ。逃せば二度目は無い。
ユージオだって、身体を分断されて尚戦ったのだ。
俺は両手の剣をいっぱいに広げ――鮮血を飛び散らさせながら叫んだ。
「リリース・リコレクション!!!」
青白と純黒の光が、同時に炸裂した。
前に向けた青薔薇の剣からは、氷の蔓が幾筋もほとばしり、ガブリエルの体を二重三重に締め付ける。
そして、まっすぐ掲げた夜空の剣からは――。
巨大な闇の柱が屹立し、天を目指した。
轟音とともに伸び上がった漆黒は、真紅の空を貫いてはるかな高みまで届き――まるで太陽そのものに激突したかのように、そこで四方八方へと広がった。
空が、覆われていく。
血の色が凄まじい速度で塗りつぶされ、真昼の光が消える。
暗闇は数秒で地平線まで達し、尚も彼方を目指し続ける。
いや、それは虚無的な闇ではない。滑らかな質感と、微かな温度を持つ、
無限の夜空。
無人の荒野、林立する奇岩群の根元にシノンはひとり横たわり、天命が尽きるその時をただ待っていた。
吹き飛んだ両脚の傷が間断なく疼き、意識を半ば以上霞ませている。胸元に残るチェーンの切れ端を、まるで命綱にすがるように強く握り締め続けるが、その右手にも徐々に力が入らなくなっていく。
薄れゆく思考が、はたしてログアウトを予告しているのか、それとも本物の失神へと至るものなのか分からなくなりかけた、その時。
空の色が、変わった。
真昼なのに不気味な血色を漲らせていた空が、南から凄まじいスピードで黒く覆われていく。太陽の光が遮断され、灰色の雲も塗りつぶされ――そして、まったき闇がシノンを包んだ。
違う。完全な暗黒ではない。
どこからか降り注ぐほのかな燐光が、頭上の岩山や、枯れた木々や、首元の鎖を薄青く照らし出した。暖かなそよ風が吹き渡り、前髪を揺らした。
夜だ。あまねく世界を、優しく、穏やかに包み、癒していく夜のとばり。
不意にシノンは、はるか過去の情景を思い出した。
こことは違う異世界の、砂漠での一夜。幼い頃に遭遇した事件の記憶に日々苛まれる苦しみを、シノンは思い切り吐き出し、ぶつけ、泣き喚いた。あのときそっと背中を抱き、受け止めてくれた腕の強さと優しさが、頭上の夜空にも満ちみちている。
そうか――この夜は、キリトの心なんだ。
あの人は、決して眩しい太陽じゃない。人々の先頭に立ち、燦々と輝くことはない。
でも、辛いとき、苦しいときにはいつだって後ろから支えてくれる。悲しみを癒し、涙を乾かしてくれる。ささやかに、でもたしかに煌く星のように。夜のように。
いま、キリトはこの世界を、ここに生きる人たちを守るための、最後の戦いのさ中にいるのだろう。巨大すぎる敵に抗い、抗いつづけて、最後の力を振り絞っているのだろう。
なら、お願い――届けて、私の心も。
シノンは、涙に濡れる瞳で懸命に夜空を見上げ、祈った。
まっすぐ頭上に、水色の小さな星がひとつ、ちかっと瞬いた。
リーファは、無数のオークたちと拳闘士たちに囲まれて横たわり、やはり最後の時を待っていた。
もうテラリアの回復力を行使するために、右足を踏みしめる力も残っていなかった。切り刻まれ、貫かれた全身はただ凍るように冷たく、指先すらぴくりとも動かない。
「リーファ……死ぬな! 死んだらいげない!!」
傍らに跪くオーク族長リルピリンが、吼えるように叫んだ。その小さな眼に限界まで溜まった透明な涙を、リーファは薄く微笑みながら見上げ、囁いた。
「泣かない……で。私は、きっとまた……もどって、くるから」
それを聞いたリルピリンが、身体を丸め、肩を震わせるのを見てリーファは思った。
――お兄ちゃんを直接手助けはできなかったけど、でも、これでよかったんだよね。私は、ちゃんと役目を果たしたよね。そうでしょ……?
と、その瞬間。まるで、リーファの心の声に応えるかのように。
空の色が消えた。
真昼の空が、突如闇夜へと変じたことへの驚きの声が、オークや拳闘士たちのあいだに満ちた。リルピリンも濡れそぼった顔を上げ、いっぱいに両目を見開いている。
しかし、リーファは驚きも、恐れもしなかった。闇を追うように南から吹き渡り、やさしく頬を撫でた夜風に、兄の匂いを感じたからだ。
「お兄ちゃん……」
呟き、大きく空気を吸い込む。
リーファにとってキリトは、常に最も近く、そして最も遠い存在だった。
兄はたぶん、自力で真実を見出す前から、無意識下では察していたのだろうと思う。いまの父母が、自分のほんとうの両親ではないことを。リーファが物心ついた頃にはすでに、キリトは孤独と隔絶の色を濃くまとわりつかせていた。決して誰かと深く結びつこうとせず、友情が生まれかける端から自分で壊し続けた。
その性癖が兄をネットゲームに耽溺させ、その耽溺が兄に”SAOを解放すべき勇者”の役回りを導いたという事実を、しかしリーファは偶然の皮肉だとは思わない。同時に予定された救済だとも思わない。
それは兄が自ら選び取った道なのだ。選び、懸命に背負い続けようとする。それこそがキリトという人間の強さだ。
この夜空は、キリトがこの世界を、そこに住まう人々すべてを背負うと決意した証に他ならない。なぜなら――
……お兄ちゃんは、私よりもずっと、ずっと剣士なんだから。
リーファは、最後の力を振り絞って感覚のない両腕を動かし、胸の上で竹刀を握るように組んだ。
そして、念じた。兄の剣に、私の心の力よ、届け、と。
遥か頭上に、緑色の星がひとつ強く輝くのが見えた。
リズベットは、シリカの手を握り締めながら、無言で太陽の消えた空を見上げた。
空を夜闇が塗りつぶしていく途轍もない光景は、否応なくあの日のことを思い起こさせた。
SAOが開始されて二年が経った、初冬の午後。
店から飛び出したリズベットは、上層の底を埋め尽くすシステムメッセージの羅列に、ついにデスゲームがクリアされたことを知ったのだ。瞬間、キリトだ、と思った。キリトが、私の鍛えた剣を振るって最終ボスを倒したのだ、と。
現実に戻ってのちに、キリトはリズベットに言ったことがある。
――俺はあのとき、本当は負けたんだ。ヒースクリフに斬られて、確かにHPがゼロになった。でも、なぜかすぐには消えなかった。ほんの数秒だけど右手が動いて、相討ちに持ち込めた。あの時間をくれたのは、リズや、アスナや、クラインたち他のみんなだと思う。だから、ほんとうの意味でSAOをクリアした勇者は俺じゃないんだ。リズたちみんなが勇者なんだ。
その時は、何謙遜してんのよ、と笑って背中を叩いてしまったのだが、しかしあれはキリトの本心だったのだろう。彼は、こう言いたかったのだ。真に強い力は、人と人との心のつながりの中にこそある、と。
「……ね、シリカ」
リズベットは夜空から視線を外し、ちらりと隣の友人を見やった。
「あたしね……やっぱり、キリトが好き」
シリカも微笑み、答えた。
「私もです」
そして二人同時に、かすかな燐光を帯びる闇夜に顔を戻した。
目を瞑る寸前、少し離れた場所で高く拳を突き上げるクラインと、両腰に手を当てて何事か呟くエギルのシルエットが見えた。
同じように、それぞれのやり方で祈り、願う、数百人のプレイヤーたちの呟きを、リズベットは聞いた。
――あたしたちは、アミュスフィアだけでこの世界に接続してるけど……でも、届くよね、キリト。心が繋がってるもんね。
頭上に、同時に数百の星屑がさあっと広がった。
整合騎士レンリは、左手を騎竜・風縫の首にかけ、右手で少女練士ティーゼの左手を握ったまま、息をすることも忘れて突如訪れた夜闇を見つめた。
昼を夜に変えてしまうなど、教会に残されているどのような史書にも記述のない、恐るべき現象だ。しかし、レンリに恐れはなかった。
二本の槍に身体を貫かれ、不可避の死をいままさに受け入れようとしていた時、空から光の雨が降り注いで致命傷を跡形もなく癒した。あの雨とまったく等質の暖かさを、この夜ははらんでいる。
自分が最後まで生き残ってしまったことが、レンリには不思議でもあり、また許せないという気持ちもあった。騎士エルドリエのように、戦いのなかで雄々しく散ることこそが、もう名前も思い出せないかつての友に報いる唯一の道であると思い定めていたからだ。
しかし、レンリはあの光の雨のなかで感じた。
車輪つきの椅子から立ち上がることもできなかった黒衣の剣士。彼もまたたった一人の友を喪ったのだ。そしてその死の責が自らにあると苦しみ、心を閉ざしていた。
なのにあの人は立ち上がった。そして、レンリの神器・比翼と同じように己と友の分身たる二本の剣を操り、凄まじい力を発揮して数万の敵軍を滅した。彼は、その背中でレンリに教えてくれた。
生きること。生きて、戦い、命を、心を繋いでいくこと。それが――それだけが……。
「それだけが、強さの証なんだ」
呟き、レンリはティーゼの手を握る手にわずかに力を込めた。
黒髪の友達ともう一方の手を繋ぐ赤毛の少女は、ちらりとレンリを見上げると、夜闇のなかでも紅葉色に煌く瞳を和らげ、しっかりと頷いた。
三人は、再びまっすぐ漆黒の空を見上げ、それぞれの祈りを捧げた。
さあっと刷かれた数百の星屑のなかに、三つの強い輝きが星座となって瞬いた。
拳闘士団長イシュカーンは、跪くオークたちに囲まれて今まさに死にゆこうとしている緑の髪の娘を、言い知れぬ感慨とともに少し離れた場所から見つめた。
あの娘の戦いぶりは、鬼神と呼んでも追いつかぬ途轍もないものだった。それを見て、オークたちが皇帝の命に背き拳闘士団の救援に駆けつけた理由を、イシュカーンはようやく理解できたと思った。つまりオーク族は、あの娘が皇帝よりも強いと信じたのだ、と。
しかし、違った。
一万のオークがあの娘に従った――いや、恭順した理由はただ一つ、娘が彼らを人間だと言ってくれたからだと、族長リルピリンはイシュカーンに教えたのだ。誇らしげにそう告げたときのリルピリンの隻眼からは、かつてあれほど渦巻いていた憎しみの色が嘘のように抜け落ちていた。
「なあ、女……じゃねえ、シェータよ」
イシュカーンは、傍らに立つ灰色の女騎士の名を呼んだ。
「力ってのは……強ぇってのは、どういうことなんだろうな……」
今や無刀の騎士となったシェータは、束ねた長い髪を揺らし、首を傾げた。その涼しげな瞳が、背後に並んで立つ飛竜と、両肩に包帯を巻いた巨漢を順に見てからイシュカーンに戻され、そして唇が小さく綻んだ。
「あなたにも、もう分かってる。怒りや憎悪より、強い力があるってこと」
瞬間――。
見慣れたダークテリトリーの血の色の空が、闇に沈んだ。
息を飲み、頭上を振り仰いだイシュカーンの視線のまっすぐ先に、たったひとつ緑色の星がちかっと瞬いた。
シェータの手が伸び、星を指差した。
「……あれだわ。ほんとうの力。ほんとうの光」
「……ああ。…………ああ、そうだな」
イシュカーンは呟いた。左眼に滲んだもののせいで、星の緑色が滲んだ。
傷だらけの拳を、生まれて初めて殴るためではなく握り締め、拳闘士の長は勝利以外の何かのために祈った。
緑の星から少し離れたところに、真紅の星がひとつ炎のように燃え上がった。すぐ隣に、灰色の光が寄り添うように浮かんだ。
直後、生き残った拳闘士たちが控えめに武舞を唱和する声が響き、数百の星がさあっと広がった。
同じように、一万のオーク軍も夜空を見上げ、祈りに加わった。
そしてまた、背後に固まる暗黒騎士たちも続く。彼らの一部は、オーク軍に同調して謎の軍勢から拳闘士団を守ってくれたのだ。
星の数はたちまち千を超し、万を超えた。
東の大門に残る人界守備軍と、整合騎士ファナティオ、デュソルバート、さらに数名の下位騎士たちも、一様に言葉を失い夜空を見つめた。
彼らの胸中に去来する思いはそれぞれ異なっていたが、祈りと願いの強さは同じだった。
ファナティオは、世を去った整合騎士長ベルクーリが愛した世界、そしてまた体内に宿る新たな命がこれから生きていく世界のために祈った。
デュソルバートは、左手の指に輝く小さな指輪をそっと右手で包み込み、かつて対となる指輪を嵌めていた誰かと共に暮らした世界のために祈った。
他の騎士や衛士たちも、愛する世界が平和のうちに存続するように、祈りを捧げた。
遥か北方の山岳地帯では山ゴブリン族が祈り、荒野では平地ゴブリン族が祈った。
東方の湿地では夫や父の帰りを待つオークたちが祈り、西方の高台ではジャイアント族が祈った。
主なき帝城オブシディアの城下町では浅黒い肌の人間たちが、そして南東の草原地帯ではオーガたちが眼を閉じ、祈った。
夜のとばりは、果ての山脈を越え、人界にまでも一瞬で届いた。
遥か北方、ルーリッドの村の教会で、洗濯のための井戸水を汲んでいた見習いシスターのシルカは、高く澄んだ青空が南東の方角から暗闇に覆われていく光景に眼を奪われ、立ち尽くした。掌からロープが滑り、水面に落ちた桶がかすかな水音を立てたが、耳に届くことはなかった。
唇から漏れた囁きは、ひそやかに震えていた。
「……姉さま。…………キリト」
今、まさにこの瞬間――。
誰よりも愛する二人が、懸命の戦いを繰り広げていることを、シルカは夜風に感じ取った。
つまり、キリトは再び目覚めたのだ。ユージオを喪った悲しみの縁から、もう一度立ち上がったのだ。
シルカは短い草の上に跪き、両手を胸の前で組み合わせた。眼を閉じ、呟いた。
「ユージオ。お願い……姉さまとキリトを、守ってあげて」
祈りとともに再び見上げた夜空に、青い星がひとつちかっと瞬いた。
その周囲に、見る間に色とりどりの星が浮かび上がる。見れば、先ほどまで中庭で遊びまわっていた子供たちが、無言で地面に膝をつき、小さな手を握り締めている。
教会前の広場では商人や主婦たちが。
牧場や麦畑では男たちが。
村長の執務室ではアリスの父ガスフトが、森のはずれではガリッタ老人が祈った。誰一人、恐れ慌てる者はいなかった。
ルーリッドの上空を、無数の星々が埋め尽くすのに数秒とかからなかった。
同じように、少し南に上ったところにあるザッカリアの街のうえにも、数多の星屑が広がった。
四帝国の各地に点在する村や街の住民たちも一様に無言の祈りを捧げた。
さらに、人界の中央に位置する巨大都市セントリアの市民たち。修剣学院の生徒たち。
神聖教会に属する修道士や司祭たちすら例外ではなかった。
カセドラル五十階と八十階を結ぶ昇降板の操作係を務める少女は、その長い生を通して初めてすることをした。職務中に、硝子製の風素生成筒から手を離し、天窓の彼方に広がる無限の星空を見上げて両手を組み合わせたのだ。
彼女は、カセドラル以外の世界を知らなかった。最高司祭の死も、暗黒界軍の侵攻も、少女の人生にはこれまで何らの変化ももたらさなかった。
だから少女は、ただひとつのことだけを祈った。
もう一度、あの二人の若い剣士たちに会えますように、と。
広大なアンダーワールド全土を包む真昼の夜空に、色とりどりに煌いた星の数は十数万に及んだ。
それら星ぼしは、最果ての辺境のものから順に、鈴の音のような響きを奏でながらある一点を目指して流れはじめた。
世界の最南端。
ワールド・エンド・オールターと呼ばれる浮島の至近で、まっすぐ天に掲げられた一本の長剣のもとへと。
ようやく天辺の見えてきた階段を全速で駆け上っていたアリスは、足元の大理石にくっきりと映る自分の影が、より巨大な影に突如として溶け消えるのを見た。
息を詰め、背後を振り仰いだ瞳に飛び込んだのは、とてつもない光景だった。
虚無の剣を振りかざし、六枚の黒翼を広げる敵。
その身体に幾重にも巻きつき、動きを封じる氷の蔓。
氷の源、青白く輝く長剣を握るのは、飛竜の翼を背負う黒衣の剣士。
剣士の体は、胸から下が完全に喪われていた。瞬時に天命が全損して当然の状態で、尚も戦い続けるその心意力は驚異と言うよりない。
しかし、真なる奇跡はほかに存在した。
高々と掲げられた剣士の右手が握る、漆黒の長剣から膨大な闇の奔流がまっすぐ屹立し、空を、あまねく世界を覆っている。
いや、無明の闇ではない。
遥か北のかなたに瞬きはじめた無限の色彩、無数の光点は、あれは星だ。静謐なる輝きの群れが、空を……夜を彩っていく。
と――。
星たちが、動き始めた。
銀鈴のような、竪琴のような、清らかな音色を幾重にも奏でながら、まっすぐこの地を目指して集まってくる。白の、青の、赤、緑、黄色の線を細く、長く引いて、夜空に巨大な虹の弧を描き出す。
すべての星々が、全世界に生きる人々の心の力そのものの顕現であることをアリスは直感した。
人界人も。
暗黒界人も。
人間も。
亜人も。
いま、世界は祈りのもとにひとつになっている。
「……キリト…………!!!」
アリスはその名を呼び、高く左手をかざした。
私の心も。人造の騎士として、わずかな年月だけを生きたかりそめの心ではあるけれど、でもこの気持ちは――この胸に溢れる感動は、きっと本物だから。
左手から、眩く煌く黄金の星が放たれ、一直線にキリトの剣を目指して飛翔した。
アスナは、振り返らなかった。
キリトの死闘に応えるために唯一できるのは、たとえ一刹那たりとも無駄にせず、システムコンソールを目指すことだけだと解っていたからだ。
だからアスナは、アリスの手を引き、あらゆる心と体の力を振り絞って懸命に駆け続けた。
しかし、胸の奥に熱い想いが満ちるのだけは止められなかった。
想いはふたつの雫となって睫毛を滑り、宙にこぼれた。
夜風に運ばれ、舞い上がった雫は溶け合って、七色の光を放つ星になった。
闇にオーロラの尾を引き、まっすぐ飛んでいく星を一瞬だけ見上げ、アスナは振り向くことなく走った。走りながら、ただ信じた。
ガブリエル・ミラーは、なぜたかが氷如きに己が拘束されるのか理解できなかった。
つい先刻は、あらゆる属性の術式攻撃と、さらには剣による斬撃すらも完全に無効化してのけたではないか。
確かに、心臓に仕込まれた姑息な刃に口を傷つけられはした。しかしそれは、咀嚼の動作が口腔を実体化させてしまっただけのことだ。今はもう、全身を虚無のイメージに厚く覆いなおしている。
我は刈り取る者。あらゆる熱を、光を、存在を奪うもの。
深淵なり。
「NU……LLLLLLLL!」
人のものならぬ異質な唸りが、喉の奥から迸った。
背から伸びる三対の黒い翼すべてが、右手の剣と同じ虚無の刃へと変貌した。
それらを激しく打ち鳴らし、周囲の空間すべてを切り裂く。ようやく青白い蔓が引き千切れ、体の自由が戻った。
「LLLLLLLLLLLLL!!」
咆哮とともに、ガブリエルは七本の虚ろなる刃を全方位に広げた。
何も持たぬ左手をまっすぐ前に突き出し、今度はこちらが小僧を拘束するべく、闇のワイヤーを放とうとした、その時。
ようやくガブリエルは、空から赤い光が消えていることに気付いた。
そして、まっすぐ頭上に次々に降り注いでくる、無数の流星にも。
夜空の剣を解放したとき、俺は具体的なイメージを何ひとつかたちにすることが出来なかった。
心のなかにはただ、長いこと”黒いやつ”だったこの剣に名前を与えてくれたときの、ユージオの言葉だけが遠い残響となって蘇っていた。
しかし、剣から迸った闇が昼を夜に変え、その名のとおり夜空を作り出し。
夜空に突如流れた無数の星たちが、虹色の光柱となって剣に流れこんできたときに、俺は何が起きたのかを察した。
夜空の剣の力は、広汎な空間からのリソース吸収力である。
そして、この世界における最強のリソースは、決して太陽や大地からシステム的に供給される空間神聖力ではない。人の、心の力だ。祈りの、願いの、希望の力なのだ。
無限に降り注ぎ続けると思われた星光の、最後のひとつが剣に吸い込まれ。
そして、たった二つだけ地上から舞い上がってきた、金色と虹色の星が刃に融けた、その瞬間――。
剣全体が、とてつもない強さで純白に輝いた。
光は、柄から俺の腕へと流れ込み、身体をも満たしていく。さいぜん爆散させられた下半身も、白い光体となって瞬時に再生する。
そして左腕が星光に包まれ、握られた青薔薇の剣もまた眩く煌き――。
「お……おおおおおお!!」
俺は、二本の剣を大きく広げ、叫んだ。
「LLLLLLLLLLLLLLL!!」
眼前で、青薔薇の縛めを破ったガブリエル・ミラーが、同じく奇怪な咆哮を放った。
ガブリエルの姿は、もはや人のものではなくなっている。漆黒の流体金属のように不気味に輝く裸体を青黒いオーラが包み、眼窩から放たれるバイオレットブルーの光は地獄から漏れ出てくるかのようだ。
右手に握る、長大なる虚無の刃を高々と振りかざし、更に同じ刃へと変じた六枚の翼を全方位に伸ばしている。
直後、まっすぐ俺に向けられた左手から、密度のある冷ややかな細線が無数に溢れ、飛びかかってきた。
「……おぉッ!!」
俺は、気合とともに光の壁を放ち、それら全てを弾き返した。
背中から伸びる、輝く翼を一杯に広げ。
左右の剣をぴたりと構え、思い切り空を蹴る。
彼我の距離は僅かなもので、突撃は一瞬にも満たないはずだ。しかし、俺はその時間がどこまでも引き伸ばされるような加速感に包まれる。
俺の右側に、何者かの影が出現した。
黒い美髯を蓄え、長大な刀を帯びた見知らぬ壮年の剣士だ。ぴたりと連れ添う浅黒い肌の女剣士の肩を抱くその男は、俺を見て言った。
『若者よ、殺意を捨てるのだ。あやつの虚ろなる魂は、殺の心意では斬れぬ』
今度は、左側に初老の威丈夫が現れた。白い着流し姿に、鋼色の長剣を佩いている。魁偉な容貌ににやっと太い笑みを浮かべるのは、騎士長ベルクーリだった。
『恐れるな、少年。お前さんの剣には、世界そのものの重さが乗ってるんだぜ』
更に、ベルクーリの隣に、真っ白い素肌に長い銀髪を流した少女が出現する。
最高司祭アドミニストレータは、あの謎めいた銀の瞳と微笑みを俺に向け、囁いた。
『さあ、見せてみなさい。私から受け継いだ、お前の神威なる力のすべてを』
そして最後に、俺のからだに寄り添うように、ローブと学者帽姿の幼い女の子が現れた。茶色の巻き毛が流れる肩に小さな蜘蛛を乗せた、もう一人の最高司祭カーディナル。
『キリトよ、信じるのじゃ。おぬしが愛し、おぬしを愛する、たくさんの人々の心を』
小さな眼鏡のおくで、バーントブラウンの瞳が優しく瞬いた。
そして、彼らの姿は消え――。
最大の敵、ガブリエル・ミラーが最小の間合いに入った。
俺は、いっそうの力に満たされた両腕で、かつて最も修練し、最も頼った二刀剣技を放った。
“スターバースト・ストリーム”。連続十六回攻撃。
「う……おおおおおおお!!」
星の光に満たされた剣が、宙に眩い軌跡を引きながら撃ち出されていく。
同時に、ガブリエルの六翼一刃が、全方位から襲い掛かってくる。
光と虚無が立て続けに激突するたびに、巨大な閃光と爆発が世界を震わせる。
速く。
もっと速く。
「オオオオ――――ッ!!」
俺は咆哮しながら、意識と一体化した肉体をどこまでも加速させ、二刀を振るう。
「NULLLLLLLLLLLLLLL!!」
ガブリエルも絶叫しながら絶空の刃を撃ち返してくる。
十撃。
十一撃。
相討ち、放出されるエネルギーが周囲の空間を灼き、稲妻となって轟く。
十二、
十三撃。
俺の心には、怒りも、憎しみも、殺意もなかった。全身に満ち溢れる、無数の星の――祈りの力だけが俺を動かし、剣を閃かせた。
――この世界の、
十四撃。
――全ての人々の心の輝きを、
十五撃。
――受け取れ!! ガブリエル!!!!
最終十六撃目は、ワンテンポ遅れるフルモーションの左上段斬りだった。
攻撃を視認したガブリエルの蒼い眼が、勝利の確信に嗤った。
まっすぐ放たれた斬撃より一瞬速く、敵の左肩から伸びる黒翼が、俺の左腕を付け根から切り飛ばした。
光に満たされた腕が一瞬で爆散し、空中に青薔薇の剣だけが流れた。
「LLLLLLLL――――――!!!!」
高らかな哄笑とともに、ガブリエルの右手に握られた虚無の剣が、まっすぐ俺の頭上に振り下ろされた。
ぱしっ、
と頼もしい音が響き、俺のものではない白いふたつの手が、宙に漂う青薔薇の剣の柄を握った。
凄まじい炸裂音とともに、無数の星が飛び散り――
青薔薇の剣と、虚無の刃がしっかと切り結ばれた。
剣を握るユージオが、短い髪を揺らして俺を見た。
『さあ――今だよ、キリト!!』
「ありがとう、ユージオ!!」
確かな声で叫び返し。
「う……おおおおお――――!!!!」
俺は、十七撃目となる右上段斬りを、ガブリエル・ミラーの左肩口に渾身の力で叩き込んだ。
漆黒の流体金属を飛び散らせ、深く斬り込んだ剣は、ちょうど心臓の位置まで達して停まった。
瞬間――。
俺とユージオ、夜空の剣と青薔薇の剣を満たす星の光のすべてが、ガブリエルの裡へと奔流となって注ぎ込まれた。
ガブリエル・ミラーは、自身のうちに広がる虚ろなる深淵に、突如圧倒的なまでの正のエネルギーが大瀑布となって流れ落ちてくるのを感じた。
視覚は無数の流光に覆われ、聴覚を多重の音声が次々に通過していく。
――神様、あの人を……
――あの子を、無事に……
――戦を終わらせ……
――愛してるわ……
――世界を……
――世界を、
――世界を、守って……!
「……ハ、ハ、ハ」
心臓を少年の剣に貫かせたまま、ガブリエルは両手と六翼をいっぱいに広げ、哄笑した。
「ハハハ、ハハハハハハ!!」
愚か、愚昧、愚劣極まれり。
私の飢えを、果てなき虚無を、満たそうなどと。
それは所詮、宇宙そのものを人の手で暖めようという不遜な企てに過ぎないと――何故わからぬ!!
「一滴あまさず、呑み干し――喰らい尽くしてくれる!!」
ガブリエルは、両眼と口から蒼い虚無の光をほとばしらせ、叫んだ。
「できるものか! 人の心の力を、ただ恐れ、怯えているだけのお前に!!」
少年が、全身に黄金の波動を漲らせ、叫び返した。
剣が一層強烈に輝き――凍りついた心臓に、さらなる熱と光を叩き込んでくる。
視界が白熱し、聴覚が振り切れる。
それでも尚、ガブリエルは哄笑を放ちつづけた。
「ハハハハハ、ハ――――ハハハハハハ!!!」
俺に懼れは無かった。
敵の裡を満たす虚無はまさに果て無きブラックホールの如きだったが、しかし俺のなかにも、人々の心と祈りが作り出した巨大な銀河が煌々と渦巻いていた。
ガブリエルの眼窩と口腔から屹立するヴァイオレットの光が、徐々にそのスペクトルを変移させはじめた。
紫から赤へ。オレンジへ。イエローを経て――そして、純白へと。
ぴしっ。
とかすかな音が響き、夜空の剣を呑み込む漆黒の流体金属の身体に、ほんの小さな亀裂が走った。
もう一本。さらに、胸から喉へと。
亀裂からも、白い光が溢れ出す。背中の六枚の翼が、根元から白い炎に包まれていく。
哄笑を続ける口元が大きく欠け、肩や胸にも孔が開いた。
四方八方に、鋭い光の柱を伸ばしながらも、ガブリエルは嗤うのをやめようとしない。
「ハハハハハハハハハハアアアアアアアァァァァァァ――――――――」
声はどんどん周波数を上げていき、やがてそれは金属質の高周波でしかなくなり。
虚無の天使の全身が、くまなく白い亀裂に包まれて――。
一瞬、内側へ向けて崩壊、収縮し。
解放され。
恐るべき規模の光の爆発が、螺旋を描いて遥か天まで駆け上った。
「――――――ははははははは!!」
ガブリエル・ミラーは、哄笑しながらがばっと起き上がった。
眼に入ったのは、灰色の金属パネルを張られた壁面だった。日本語の注意書きステッカーが、配線やダクトに幾つも貼られている。
「ははは、は、は…………」
息を荒げて笑いの余波を収めながら、ガブリエルは何度か瞬きを繰り返した。改めて左右を見回す。
間違いなくそこは、オーシャン・タートル第一STL室だった。どうやら、予期せぬ要因により自動ログアウトしてしまったらしい。
何たる興ざめな結末だ。あのまま、無限とも言える魂の集合流を飲み尽くし、ついでに小僧の心も喰ってやろうと思っていたのに。今すぐ再ログインすればまだ間に合うだろうか。
顔をしかめつつ振り向いたガブリエルが見たのは。
STLのシートに横たわり、眼を閉じる長身の白人男性の姿だった。
……誰だ。
と一瞬思った。
襲撃チームにこんな隊員がいただろうか? それよりこいつは、私がダイブするためのマシンで一体何をしている……
そこまで考えてから、ようやく気付く。
これは、この顔は、自分だ。
ガブリエル・ミラーだ。
ならば、それを見おろしているこの私は……いったい、誰なのか?
ガブリエルは両手を持ち上げ、眺めた。そこにあったのは、ぼんやりと半透明に透ける、朧な光のかたまりだった。
何だこれは。何が起きたのだ。
その時――。
背後で、小さな声がした。
「……ようやく、こっちに来てくれたのね、ゲイブ」
さっと振り向く。
立っていたのは、白いブラウスと紺のプリーツスカート姿の、幼い少女だった。
長いふわふわした金髪の頭を深く俯けているため、顔は見えない。しかしガブリエルには、その少女が誰なのか、すぐに解った。
「……アリシア」
つぶやき、口元を綻ばせる。
「なんだ、そんな所にいたのかい、アリー」
アリシア・クリンガーマン。ガブリエル・ミラーが、魂の探求という崇高なる目的のために、はじめて殺した幼馴染の少女。
あの時、確かに見た清らかに輝くアリシアの魂を、捕獲しそこねたことはガブリエルにとって長らく痛恨事となっていた。だが、実は喪われてはいなかったのだ。ちゃんと傍に居てくれたのだ。
ガブリエルは、己を襲った奇妙な現象のことも忘れ、微笑みながら右手を伸ばした。
しゅっ。と凄まじい速さでアリシアの左手が伸び、小さな五指がガブリエルの手をきつく握った。
冷たい。まるで氷のようだ。ちくちくと、冷気が針のように突き刺さってくる。
ガブリエルは反射的に手を引こうとした。しかし、アリシアの左手は万力のごとく微動だにせず、ガブリエルは笑みを消し、眉をしかめた。
「……冷たいよ。手を離してくれ、アリー」
呟くと、金髪が素早く左右に揺り動かされた。
「だめよ、ゲイブ。これからはずっと一緒なんだから。さあ、行きましょう」
「行くって……どこにだい。だめだよ、私にはまだやるべきことがあるんだ」
呟きながら、ガブリエルは渾身の力で手を引っぱった。しかし動かない。それどころか、徐々に下に引っ張られていく。
「離して……はなすんだ、アリシア」
少し厳しい声を出したのと、ほとんど同時に。
さっ、とアリシアが頭を持ち上げた。
丁寧に梳られた前髪の下の顔が、視界に入ったその瞬間――。
ガブリエルは、心臓がきゅうっと縮み上がるような感覚に襲われた。
内臓がせりあがる。息が荒くなる。肌が粟立つ。
何だこれは。この感情は一体何なのだ。
「あ……あ、あ、あ……」
奇妙なうめき声を上げながら、ガブリエルはゆっくり首を左右に振った。
「離せ。やめろ。離せ」
無意識のうちに左手を持ち上げ、アリシアを突き飛ばそうとしたが、しかしその手も即座にがっちりと掴まれてしまう。冷え切った金属のような指が、ぎりぎりと肌に食い込んでくる。
うふふ。
とアリシアがわらった。
「それが恐怖よ、ゲイブ。あなたの知りたがっていた、本物の感情。どう、素敵でしょう?」
恐怖。
これまで探求と実験のために殺してきた人間たちが、いまわの際に一様に浮かべていた表情の源。
しかし、その感覚は、とても心地よいものとは言えなかった。それどころか、とてつもなく不快だった。こんなものは知りたくない。早く終わらせたい。
しかし――。
「だめよ、ゲイブ。これから、ずーっと続くの。あなたは永遠に、恐怖だけを感じ続けるの」
ずるり、と音がして、アリシアの小さな革靴が金属の床に沈みこんだ。
そして、ガブリエルの足も。
「あ……ア……やめろ。はなせ……やめろ」
うわごとのように口走るが、沈降は止まらない。
突然、床から白い腕がずぼっと飛び出し、ガブリエルの脚に巻きついた。もう一本。さらに。もっと。
それらが、これまで手にかけてきた獲物たちの手であることを、ガブリエルは直感的に察した。
恐怖はどこまでも高まっていく。心臓が恐ろしい速さで脈打ち、額を脂汗が流れる。
「やめろ……やめろ、やめろやめろやめろ――――――ッ!!」
ガブリエルはついに絶叫した。
「来てくれ、クリッター! 起きろヴァサゴ!! ハンス!! ブリッグ!!」
部下を呼んだが、しかしすぐ目の前にあるドアはしんと沈黙したままだ。隣のSTLに横たわるはずのヴァサゴも、起き上がる気配は無い。
いつしか、身体は腰までも床に飲み込まれている。両手を引っ張るアリシアは、もう肩までしか見えていない。
その”顔”が、完全に没する寸前、大きく笑った。
「あ……あああ……うわあああああ――――――――ッ!!」
ガブリエルは悲鳴を上げた。
何度も。何度も。
肩に、首に、そして顔に白い手たちが巻きつく。
「ああああ……ぁぁぁ…………ぁ………………」
とぷん、と音がして、視界が闇に沈んだ。
ガブリエル・ミラーは、己を待ち受ける運命を悟り、未来永劫放ち続けることになる悲鳴をいっそう甲高く迸らせた。
そして――。
アンダーワールドの時間流が、再びその速度を増しはじめた。
同期信号が途切れた瞬間、アミュスフィアを用いてダイブしていた数百人の日本人たちは自動切断され、それぞれの部屋やネットカフェのブースで、それぞれの感慨に熱く胸を浸しながら目覚めた。
彼らは皆、しばらく無言のまま、異世界で体験したことを噛み締め、考え、心に刻んでいたが、やがて目尻に滲んだ涙を拭うと、改めて携帯端末やアミュスフィアを操作した。先の戦闘で倒れ、ログアウトした友人たちに、すべてをありのまま伝えるために。
シノンとリーファは、再加速の寸前に、天命喪失によりアンダーワールドを去った。
ラース六本木分室のSTLで覚醒した二人は、なおも神経に漂いつづける痛みの余韻が薄れるのを待ちながら、瞳を見交わし、ふかく頷きあった。
シノンも、リーファも、キリトが蘇り、敵を倒し、世界を救って、もうすぐこの世界に戻ってくることを疑っていなかった。
次に会った、その時こそは――。
たとえ届かなくても、ちゃんと気持ちを言葉にしよう。
二人はそう心を決め、それを互いに悟って、小さく微笑んだ。
――しかし。
リミッターを完全解除されたSTRAシステムは、アンダーワールドに流れる時の鼓動を、これまでを遥か上回る領域にまで加速しようとしていた。
千倍を超え。五千倍を超え。
限界加速フェーズの名で呼ばれる、現実比五百万倍という時間の壁の彼方を目指して。
俺は、星の光が消え去った身体を宙に横たえ、背中の翼を力なく羽ばたかせた。
斬り飛ばされ、消滅したはずの左腕はいつの間にか再生していた。その手のなかの青薔薇の剣を、残された力で懸命に握りしめながら、俺は滲もうとする涙をこらえた。
剣のなかに焼きつき、これまで何度も俺を救い、励ましてくれたユージオの魂が、あの瞬間――ガブリエルの刃を揺るぎなく受け止めてくれた刹那に、ついに全て燃え尽きてしまったことを俺は悟っていた。
死者は還らない。
だから思い出は貴く、美しい。
「……そうだよな、ユージオ……」
呟いたが、応えはなかった。
俺はゆっくりと両手の剣を持ち上げ、背中の鞘に収めた。
直後、頭上の夜空が、その色を薄れさせはじめた。
闇が溶け、流れ、その彼方の光を甦らせていく。
……青。
ふたたび現れたダークテリトリーの空は、しかし、あの血の色ではなかった。
澄み切った青だけが、どこまでも広がっていた。
SAO4_56_Unicode.txt
ついに開始された”限界加速フェーズ”の影響によるものなのか、それとも十数万の人々の祈りがもたらした奇跡なのかは定かではない。
どのような理由であるにせよ、透明感のある蒼穹は泣きたいほどに美しかった。俺は、郷愁と感傷が強く揺り起こされるのを感じながら、その青を胸いっぱいに吸い込んだ。
まぶたを閉じ、長く息を吐き、そっと身体の向きを変える。
開いた眼にうつったのは、下方から音も無く崩壊していく白亜の階段だった。
翼を広げ、溶け崩れる階段を追うように、ゆっくり降下する。目指すのは、空に浮かぶ小さな島。
円形の浮島には、溢れんばかりに色とりどりの花が咲き乱れていた。その花畑を貫いて白い石畳が伸び、中央の神殿めいた構造物へと続いている。
俺は、石畳の中ほどに着地し、翼をもとのコートの裾へと戻しながら周囲を見回した。
甘く、爽やかな蜜の香りが鼻をくすぐる。瑠璃色の小さな蝶が何匹もひらひらと舞い、幾つか生えている小さな樹のこずえでは小鳥が囀る。抜けるような青空と、穏やかな陽光のもとで、その光景はとてつもなく美しかった。まるで一幅の名画のようだった。
そして、無人だった。
小路の上にも、その先の、円柱が立ち並ぶ神殿にも、人の姿は無かった。
「……よかった。間に合ったんだな」
ぽつりと呟く。
ガブリエル・ミラーが光の螺旋に飲み込まれて消滅した直後、STRAによる加速が再開されたのを俺は感覚で知った。アスナとアリスが、無事にコンソールから脱出できたかどうかは微妙なタイミングだった。しかし、二人はあの長大な階段を時間内に駆け抜け、辿り着いたのだ。
アリス――この世界が生まれた理由そのものたるひとつの魂、限界突破フラクトライトたるあの少女は、ついに現実世界へと旅立った。
これからも、彼女には多くの苦難が待っているだろう。まったく理を異にする世界、不自由な機械の身体、そして真正人工知能を軍事利用しようとする企図とも彼女は戦わねばならない。
しかし、アリスならやり遂げるだろう。彼女は、最強の騎士なのだから。
「……がんばれよ…………」
俺は、空を振り仰ぎ、もう二度と会えない黄金の整合騎士のために祈った。
そう――。
限界加速フェーズが開始された今、俺が内部から自発的にログアウトする手段は完全に失われた。世界に三つあるシステムコンソールはすべて凍結され、また天命を全損しても、無感覚の暗闇のなかでフェーズ終了を待たねばならない。
いま、外部では菊岡たちラーススタッフが、俺のSTLを停止させるために奮闘しているはずだが、それも最短であと二十分はかかるということだった。
そのあいだに、この世界では二百年もの月日が経過する。
魂の寿命を使い果たし意識消失へと至るのか、それとも五百万倍という加速に長時間耐えられずもっと早い段階で消えるのかはわからない。
唯一確かなのは、俺はもう現実世界に戻ることはない、ということだ。
両親や、直葉。シノン。クライン、エギル、リズ、シリカ。
学校の友人たちや、ALOのフレンドプレイヤーたち。
アリス。
そして、アスナ。
愛する人たちに、もう決して会うことはできない。
白い敷石のうえに、俺はゆっくり膝を突いた。
崩れる上体を、両手で支えた。
視界がぼやけ、きらきらと光が揺れて、磨かれた大理石に落ちて弾けた。いくつも。何度も。
今だけは――たぶん、少しだけ泣く権利はあるだろう。
喪われ、二度と還らない、大切なものたちのために、俺は泣いた。食いしばった歯のあいだから嗚咽を漏らし、涙を次々と雫に変えた。
ぽた、ぽたぽた。
水滴が石を叩く音だけが、耳に届く。
ぽた。
ぽた。
――こつ。
こつ、こつ。
不意に、確かな密度を持つ音が、重なって響いた。
こつ、こつ。近づいてくる。かすかな震動が指先に伝わる。
空気が揺れる。濃密な花々の芳香に、ほのかに新しい香りがたなびく。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
神代凜子は、サブコントロール室の操作席に腰掛け、コンソールの正面やや左に設けられた小さなガラスのハッチを息を飲んで見つめた。
ハッチ上部の液晶窓には、『EJECTING...』という赤い文字が点滅している。
圧縮空気が抜ける音が、低く耳を打つ。
やがて、窓の向こうに、小さな黒い四角形が姿を現した。液晶が緑に変わり、『FINISHED』の表示が輝いた。
凜子は震える手を伸ばし、ガラスハッチを開け、それを取り出した。
堅牢そうな金属のパッケージだ。一辺6センチほどの立方体。ずしりと重い。継ぎ目無く密閉された面のひとつに、超微細なコネクタが設けられている。
このなかに――”アリス”の魂が眠っている。
オーシャンタートル基部に設けられた巨大なライトキューブクラスターから、システム命令に従ってたった一つの結晶キューブがイジェクトされ、自動的に金属パッケージに封入されたのちに長いエアラインを押し上げられてここまで到達したのだ。
それは同時に、アンダーワールドという内的世界から、リアルワールドという外部世界への旅でもある。
凛子は一瞬、言い知れぬ厳かな感慨に打たれて言葉を失ったが、すぐに我に返るとパッケージを握り締めたまま叫んだ。
「アスナさん、アリスのイジェクト完了したわ! あとはあなたよ、急いで!!」
ちらりと、真紅に染まる主モニタのカウントダウンを見やる。
「残り30秒しかない!! 早く……ログアウトを!!」
一瞬の沈黙。
続いて、スピーカから返ってきたのは――予想だにしない言葉だった。
「ごめんなさい、凛子さん」
「え……? な、何を……?」
「ごめんなさい。わたしは……残ります。今までほんとうに有難うございました。凜子さんのしてくださったこと、決して忘れません」
スピーカから響く結城明日奈の声は、穏やかで、優しく、そして静かな決意に満ちていた。
「アリスをお願いしますね。アリスは、優しい人です。とても大きな愛を持ってるし、沢山の人に愛されています。アリスのために消えていった魂たちのためにも……そして、キリトくんのためにも、絶対に軍事利用なんかさせないでください」
言葉を失った凜子の耳に、明日奈のさいごの言葉が届いた。
「みんなにも、伝えてください。ごめんね、って……。さようなら……ありがとう」
直後、カウントがゼロに達した。
長いサイレンの音に続いて、重々しい機械の唸りが狭いケーブルダクトに反響した。
壁のむこうの冷却システムがフル稼働を開始したのだ。アンダーワールドを支えるシステム群が放つ膨大な廃熱を、幾つもの大型ファンが懸命に吸い出している。いまオーシャンタートルを海から眺めれば、ピラミッドの天辺付近にかすかに陽炎が揺れているのが見えるだろう。
「…………はじまった……」
比嘉タケルは、低く呟いた。
「ああ」
短く応えたのは、比嘉を背負って細いハシゴを降りている菊岡誠二郎だ。
二人は、限界加速フェーズ突入が避けられないと判断した時点で即座に準備し、ダクトに潜り込んだのだが、負傷した比嘉の体をハーネスで固定する作業などに八分を費やしてしまった。
菊岡は、噴き出た汗が滴るほどの勢いでハシゴを降り続けたものの、耐圧隔壁に到達する前についに加速が再開してしまったのだ。
祈るような気持ちで比嘉はインカムのスイッチをいれ、サブコントロールの神代博士に呼びかけた。
「凛子さん……どうなりましたか」
ノイズに続き、回線接続音がしたものの、届いたのは重い沈黙だった。
「……凜子さん?」
「……ごめんなさい。アリスは、無事に確保できたわ。ただ……」
押し殺すような声で、神代博士はその先を告げた。
比嘉は息を飲み、ついでぎゅっと眼をつぶった。
「……わかりました。こちらも、全力を尽くします。ハッチ開放タイミングは、追って連絡します」
回線を切り、比嘉は詰めていた呼吸を長く吐き出した。
状況を察したのだろう、菊岡は訊いてこなかった。ただ、筋肉質の背中を懸命に躍動させ続けている。
「……菊さん……」
数秒後、比嘉はようやく囁き声を絞りだし、指揮官に神代博士の言葉を伝えた。
クリッターは、メインモニタに新たに開いたウインドウと、そこに並ぶアルファベットを呆然と眺めた。
クラスターからライトキューブが一つ排出され、耐圧隔壁のむこうのサブコントロール室へ運ばれたことを、短い文字列が教えている。
それはつまり、アリスがK組織に確保された、ということだ。
言い換えれば、アンダーワールド内部からアリスを発見・奪取しよう、という十時間以上にも及んだ作戦が完全に失敗したわけだ。ヴァサゴとミラー中尉がダイブし、暗黒界の軍勢を率いて人界に侵攻して、ハリウッド映画じみた派手な戦争を繰り広げ、さらにはアメリカ人と中国、韓国人あわせて十万人近くを騙して戦わせた努力すべてが水の泡となった。
坊主頭をがりがりと掻き、クリッターはひとつ鼻を鳴らしただけで思考を切り替えた。
残された五時間ちょっとで、物理的にアリスを再奪取できる可能性はあるだろうか?
耐圧隔壁をこちら側から破壊する方法は無い。ただ、先ほどのように上から隔壁が開放されれば話は別だ。
そもそも、さっきハッチが開いたのは何だったんだ。あんなロボットにスモークグレネードを載せただけで、こっちをどうにか出来るなどとほんとうに考えたのか?
あれが、もし陽動だったとしたら? 隔壁開放の目的が、ほかにあったのだとすればそれは一体何だ?
クリッターは振り向き、隊員たちに声をかけた。
「おい、誰かオーシャンタートルの設計図持ってきてくれー」
すると、ブリッグとさっきの賭けが成立したのしないのの言い争いを続けていたハンスが、こちらを見ないままラミネート加工された紙綴りを放ってきた。やれやれと首を振り、クリッターは受け取った設計図を捲った。
「えーと……? これがメインシャフトで……隔壁がここを横切ってて……ロボットが突っ込んできた階段がこれだろー……」
そのとき、モニタに表示されていたカウントダウンがゼロになり、部屋全体に低い機械音が響いた。時間加速が再開したのだ。しかも、ブリッグの馬鹿が制御レバーを破壊してしまったせいで、倍率がとんでもないことになっている。
しかしもう、アンダーワールドがどうなろうと関係ない。作戦が失敗したということはイコール、ヴァサゴもミラー中尉もダイブ中に”死亡”したのだろうから、今ごろ隣の部屋でログアウト処理が進んでいるはずだ。
今は、ミラー中尉が戻ってくるまえに、次の作戦オプションを見つけておくのが先決だろう。
クリッターは、薄暗い照明の下で懸命に地図を睨み、そしてついに気付いた。
「お、ここにも小さいハッチがあるぞー……なんだこりゃ、ケーブルダクト……?」
比嘉タケルに状況を伝え終えた凜子は、長く沈痛なため息とともにシートに背を預けた。
時間内の脱出が確実に不可能となった桐ヶ谷和人のために、自身もアンダーワールドに残ろうという結城明日奈の決意は、あまりにも若く、直情的で、そして――貴いまでに美しかった。
凜子はどうしても思い出さざるを得ない。
かつて愛した男が、彼女を現実世界に置き去りにして遥かな異世界に消えてしまったことを。
もしあの時、共に往く機会を与えられていたら、自分はどうしただろうか。彼と同じように、一方通行のプロトタイプSTLで脳を焼き尽くし、意識のコピーのみを残す道を選べただろうか。
「晶彦さん……あなたは…………」
眼を閉じ、声ならぬ声でつぶやく。
浮遊城アインクラッドと、そこに閉じ込められた五万のプレイヤーたちによる”本物の異世界”を創り出すことだけが当初は彼の望みだったはずだ。
しかし、二年間に及んだ浮遊城での日々において、彼は何かを見、何かを知った。その何かが彼の考えを変えた。
もっと、もっと先がある、と。
SAO世界は終着点ではなく、始まりでしかないのだと彼は気付いた。だからこそ、長野の原生林に囲まれた山荘で、彼はナーヴギアの信号入出力素子の高密度化を進め、やがて自身を殺すことになる試作機を完成させた。
その基礎資料を託された凜子が、医療用高精度NERDLESマシンたるメディキュボイドを開発し。
メディキュボイドに数年間も連続接続しつづけた一人の少女によって提供された、膨大なまでのデータを基にラースと比嘉タケルがSTLを完成させた。
つまり考えようによっては、アンダーワールドという究極の異世界は、彼――茅場晶彦の意思を礎として生まれたのだと言い切れる。
ならば、アンダーワールドの完成をもって、茅場の望みはその到達点に至ったということなのか?
いや、違うはずだ。
なぜなら、彼が残したもうひとつの種子、”ザ・シード”パッケージというピースがパズルのどこに収まるのかがまだ解らない。
確かに、ザ・シード規格のVRMMOがスタンダード化していたからこそ、先刻の外部勢力によるアンダーワールド襲撃に、日本人プレイヤーたちのアカウント・コンバートによって対抗できたのだと言える。
だがまさか、さしもの茅場もあの事態を数年前に予想していたわけではあるまい。コンバート機能によるアンダーワールドへのダイブは、あくまで副次的産物であったはずだ。
であれば、一体何が目的なのか……全世界のVRワールドを、共通規格のもとに相互連結することが、なぜ必要だったのか……。
「……せ。神代博士」
背後から呼びかけられ、凜子ははっと瞼を開けた。
振り向くと、剛毅な容貌の中西一尉が、素早い敬礼とともに報告した。
「隔壁再開放への対応準備、完了いたしました。いつでもどうぞ」
「あ……は、はい。どうもありがとう」
さっとモニタの時刻表示を確認する。限界加速フェーズに突入してから、すでに一分が過ぎている。内部時間では……十年。
信じられない。桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂年齢は、もう凜子のそれをも超えてしまっている。
早く……一分一秒でも早くログアウトさせなければ。もし、魂寿命すべてを使い尽くす前に脱出できさえすれば、限界加速フェーズが開始されて以降の記憶すべてをリセットすることは可能だ。しかし、そのための猶予時間は、理論上ではあと約十二分足らずしかない。
比嘉君……菊岡さん。
急いで!!
凜子はきつく唇を噛み、念じた。
菊岡二佐の喉から吐き出される呼吸音は、もう壊れかけの送風機のようだ。滝のような汗がシャツを変色させ、比嘉の服をもぐっしょりと濡らしている。
比嘉は、ここからは自力で降ります、という台詞を何度も飲み込んだ。
柳井の放った銃弾に撃ち抜かれた右肩は、鎮痛剤を限界量まで飲んでいるにも関わらず鈍く疼き、大量に失血した体は鉛のように重苦しい。とても自力でステップを掴むことなどできそうもない。
それにしても――、と、比嘉は思う。
この事態に際し、菊岡二佐がここまで必死になるとは、正直意外と思わざるを得ない。
アリシゼーション計画の精髄たる限界突破フラクトライト”アリス”は、すでに確保されたのだ。あとは、アリスを構造解析し、従来のフラクトライトとの差異をつきとめれば、真正ボトムアップAIの量産にめどがつく。きたる無人兵器時代に、日本独自の技術基盤を打ち立て、アメリカ軍産システムによる支配から脱するというラースの設立目的がついに達成されるのだ。
それこそが、菊岡誠二郎という人間の悲願であるはずだ。
総務省に出向してまでSAO事件に首を突っ込んだのも、自らキャラクターを作ってまで若いVRMMOプレイヤーたちとの交流を続けたのも、すべてはそのためだ。
だから、菊岡の行動優先順位から言えば、いまは耐圧隔壁をガンとして閉め切り、イージス艦の突入時刻までアリスのライトキューブを死守する、という選択をしそうなものだ。
たとえそれで、アンダーワールドに取り残された桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂が崩壊しようとも。それに激しく反対するであろう神代博士を、船室に軟禁することも辞さず。
「……意外、だなあ……と、思ってる……かい」
突然菊岡二佐が、荒い息の下からそう声を発し、比嘉はウヒッと妙な音を漏らした。
「いっ、いえ、そのぉ……ま、その、キャラじゃないなーと、いう気はするッスけど……」
「まっ……たくだ」
菊岡は、残りわずかとなったハシゴを全力で降下しながら、ぜいぜいと喉を鳴らして短く笑った。
「しかし……言って、おくがね。これも……打算、あっての、行動……さ」
「へ……へぇ」
「僕は……常に、最悪を、考える、主義でね。今は……敵に、まだ、アリス……再奪取の、可能性があると、思わせておいたほうがいい」
「さ、最悪……ッスか」
敵がこのケーブルダクトに気付き、耐圧隔壁開放中に下から突っ込んでくる以上の最悪が、果たしてあるだろうか。
しかし、比嘉がその推測を進めるまえに、ついに菊岡のコンバットブーツの底が、チタン合金のハッチにぶつかった。
動きを止め、激しい呼吸を繰り返す指揮官に代わって、比嘉はインカムの通話スイッチを押した。
「凜子さん、到着しました! 隔壁ロック、解除してください!!」
「うおっ……マジに、開けやがったー!」
クリッターは、メインモニタに表示された耐圧隔壁開放警告を見上げ、叫んだ。
いったい何故。なんのために。
どう考えても間尺に合わない。アリスを確保した今、K組織がわざわざ防御をゆるめるどんな理由があるというのだ。
しかし、今はあれこれ考えている時間はない。クリッターは背後を振り返り、長い腕を振り回して隊員たちに喚いた。
「えーっと、あー、ブリッグだけ残して、ハンス以下全員は主通路に突入してくれー! 撃ちまくって、隔壁の向こうを確保するんだー!」
「簡単に言ってくれるわね……」
ハンスがちっちっと舌を鳴らしながらも、ライフルを担ぎ上げた。十数名の隊員たちも続く。
「お……おいおい、俺はどうすりゃいいんだ」
不服そうに唇を尖らせるブリッグの髭面に向けて、クリッターはぱちんと指を鳴らした。
「ちゃーんと仕事はあるってー。アンタの腕にふさわしい、重要な任務がさー」
無論内心ではまったく別のことを考えている。このアホウからは、なるべく眼を離さないほうがいい。
「いいかー、俺とアンタは、こっちのケーブルダクトを見にいく。どうやらコイツが敵の本命だと、俺は睨んでるんだよねー」
「お……おう、そうか。そうこなくっちゃな」
ニンマリと笑い、大げさな仕草でアサルトライフルのマガジンを確認するブリッグの背中を、クリッターはため息を隠して叩いた。
ハンスたちに続いてメインコントロールのドアをくぐり、別方向に駆け出す寸前、クリッターはちらりと奥の扉――第一STL室を見やった。
そう言えば、やけにログアウトに時間がかかってないか? ヴァサゴの奴、まさかノンビリ煙草でも吸ってるんじゃないだろうな。
一応確認するべきか、と思ったが、すでにブリッグがどかどか走り出してしまっている。
再びため息を飲み込み、クリッターも後を追った。
ほんの数十秒で、目標地点まで辿り着く。一見、ただ通路が行き止まっているだけだ。しかし地図によれば、眼前の小さなハッチの向こうに、シャフト上部とメインフレームを繋ぐケーブルダクトが設けられているはずだ。
回転式の開閉ハンドルを、汗ばむ手で握り、まわす。
重い金属扉を引きあけたクリッターがまず眼にしたものは、暗いオレンジの光に照らされたごく狭いトンネルだった。正面の壁に、垂直にのぼるステップが設けられている。
次に、何気なく足元を見下ろして――。
「……ウオァ!?」
拉げた声とともに、クリッターは飛び退った。
そこに、身体をUの字に折りたたむようにして、男が一人すっぽりと嵌まりこんでいたからだ。背後で、ブリッグががしゃっとライフルを構える。が、すぐに、押し殺した声で指摘する。
「……死んでるぜ」
確かに、横顔を向ける男の頚椎は、不自然な角度に曲がっている。最大級のしかめ面を作りながら、クリッターは男の顔を覗き込み、数回まばたきした。
「あれっ……こいつ、アレじゃねーかー。K組織の情報提供者……どうなってんだ、スパイだってバレたのかぁ……? でも、だからってこんな殺し方ー……」
おそるおそる指先で男の肌に触れると、ひんやりじっとりした感触が伝わってくる。温度からして、死んだのは恐らく最初の隔壁開放時だ。つまり一度目は、この男がロウワーシャフトに脱出しようとして行ったものなのか? そして、ハシゴを踏み外して墜落死した?
しかし、とすればなぜ隔壁は再び開かれたのか。
クリッターは、ブリッグに向き直り、言った。
「一応、ダクトの上がどうなってるか、確認してみてくれー」
髭面の巨漢はふんと鼻を鳴らし、右手を伸ばすと、無造作にスパイの死体を通路に引っ張り出した。ライフルを構えながら、ずいっと上体を暗いトンネルに突っ込み――。
おいおい、頭から入るなよ、とクリッターが考えかけたその瞬間。
「ダムン!!」
叫ぶと同時に、いきなり発砲した。
黄色い閃光がクリッターの網膜に弾け、音調の異なる二種の射撃音が鼓膜を叩いた。
悲鳴を飲み込んで飛びすさった目の前で、ブリッグの巨体が、見えないハンマーに打ちのめされたかのように床に叩き付けられた。
「うおっ!! 何だよ、くそっ!!」
クリッターは喚き、尻餅をついてさらに後ずさった。ブリッグは、ついさっきまでスパイの死骸が収まっていた場所に上体をつっこみ、ぴくりとも動かない。格好だけでなく、運命も同じ道をたどったのは明らかすぎるほどに明らかだ。
――さて。どうしたものか。
冷や汗を滝のように流しながらクリッターは考えた。
ブリッグの右手からライフルを回収し、トンネル内の敵と果敢に撃ち合って仇を取る? まさか! 俺はただのコンピュータ・オタクで、仕事は考えることとキーボードを叩くことだけだ。
ずりずりと尻を擦り、メインコントロール室を目指して退避しながら、さらに思考を続ける。
少なくとも、これでK組織に積極的な攻撃の意図があることだけはわかった。しかし、戦力では明らかにこちらが優っているのだ。戦えば、向こうにも当然犠牲は出よう。ヘタをすれば、アッパーシャフト全てを占領され、アリスを再奪取されかねないではないか。
それ以上の”最悪”があると、K組織の指揮官は考えているのか? こちらに、オーシャンタートルを丸ごと吹っ飛ばすほどの火力があるとでも思っている? まさか、手持ちのC4では耐圧ハッチ一枚吹っ飛ばせないのに……。
火力…………。
不意に、クリッターは鋭く空気を吸い込んだ。通路の先に転がる二つの死体も、意識から消えた。
ある。
オーシャン・タートルを丸ごと破壊し、アリスとK組織をもろとも海の藻屑に変える方法が。たった一つだけ。
確かに、アリスの奪取が不可能と判断した場合は、少なくとも完全に破壊せよというのがクライアントから与えられた命令だ。しかし、そのためにこの巨大な自走メガフロートと、数十人の乗員をもろとも道連れにするなどということが許されるのだろうか。
そんな恐ろしい決断を、自分に下せるわけがない。一生悪夢に悩まされること必定だ。
クリッターは立ち上がり、指揮官の判断をあおぐべく、走った。
「き……菊さん! 大丈夫っすか、菊さん!!」
押し殺した声で、比嘉は尋ねた。ダクト最下部のハッチから出現した敵は、少なくとも三発はライフルをぶっぱなしたはずだ。
返事は、なかった。比嘉を背負い、右手にステップを、左手に拳銃を握る菊岡二佐は、肩を壁面に押し当てるようにして力なく項垂れている。
うそだろ、おい、やめてくれ。あんたはまだまだ必要な人間なんだ。
「き……」
菊岡サァァァァァァン!!
と、叫ぼうとしたその時、二佐が激しく咳き込んだ。
「げほっ……うえぇ、いや……参った。防弾ベスト着てきて正解だったと、今思っている……」
「あ……当たり前っすよ! 本気でアロハのまま来るつもりだったんスか……」
はああ、と安堵の息を吐きながら、再び怪我の有無を問い質す。
「うん、一発ベストに当たっただけのようだ。それより、君こそ無事か。やたらと跳弾したようだが」
「え……ええ。身体も、端末も無傷っス」
「なら、急ごう。コネクタはもうすぐそこだ」
再び降下をはじめた菊岡の背に揺られながら、比嘉はふたたび意外だ、と内心で呟いた。
菊岡二佐は、てっきり肉体的技能は苦手な人なのだろうとこれまで思っていたのだが、広い背中にうねる筋肉は鋼のようだし、それにさっきの射撃。ハシゴにぶら下がり、左手一本で真下を狙うという悪条件にも関わらず、ダブルタップで連射した二発が敵のノドと額を正確に撃ち抜いたのだ。
まったく、どれだけ付き合おうと底の割れないオッサンだ。
小さく首を振り、比嘉は視界に入ってきた点検コネクタに繋ぐためのケーブルを、右手で準備した。
通路を駆け戻ったクリッターは、上方から響いてくるライフルの連射音を聞きながら、メインコントロール室に走りこんだ。
部屋に、ミラー中尉とヴァサゴの姿はない。まだSTLから出ていないのだろうか。すでに、時間加速が再開してから五分以上が経っているというのに。
思いついたアイデアを、彼らに説明したものかどうか、クリッターはまだ迷っていた。聞けば、二人は即座に実行の命令を出すだろうという確信があったからだ。彼らは、目的遂行のために無関係な犠牲者が何人出ようと気にするような人間ではない。
結論を出せぬまま、クリッターは勢いよく第一STL室のドアを押し開いた。
「隊長! アリスが、敵に…………」
続くべき言葉は、軋るような音に変わって喉の奥に引っかかった。
手前側、一番STLのシートベッドに横たわり、額から上を巨大なマシンに飲み込まれたミラー中尉の顔には、これまで一度も見せたことのない表情が浮かんでいた。
いや、クリッターは、そのような表情を、いままでどんな人間の顔にも見たことはなかった。
青い両眼が、ほとんど飛び出す寸前にまで見開かれている。口は、顎関節が外れてしまったかのごとく限界まで広げられ、しかも斜めに歪んでいる。突き出た舌が奇怪な角度で折れ曲がり、まるで別の生き物のようだ。
「た……隊……長……?」
喘ぎながら、クリッターはがくがく膝を震わせた。いま、ミラー中尉の突出しかけた眼が動いたら、自分は悲鳴を上げてしまうだろうという確信があった。
奥歯を小刻みに鳴らしながら、おそるおそる手を伸ばし、まるで何かを防ごうとするように掲げられた中尉の左手首を、そっとつまむ。
脈は、なかった。
そして肌は氷のように冷たかった。強襲チーム指揮官ガブリエル・ミラー中尉は、身体に何の傷もないのに、完全に絶命していた。
胃からこみあげてくるものを必死に押し戻し、クリッターはかすれ声で叫んだ。
「ヴァサゴ……早く起きろ! 隊長が……し、死……」
脚を引き摺るように一番STLを回り込み、その奥の二号機のシートに視線を振る。
今度こそ、クリッターは本物の悲鳴を上げた。
副隊長ヴァサゴ・カザルスは、一見おだやかに眠っていた。瞼の閉じた顔に表情は無く、両手もまっすぐ身体の横に伸びている。
しかし――。
あれほど艶やかな黒に輝いていた、波打つ長髪が。
いまは、百歳を超えた老人のような、乾いた白髪ばかりに変じていた。
もうヴァサゴの脈を確認する気も起こらず、クリッターは言うことを聞かない膝をかくかく震わせて後ずさった。一刻もはやくこの部屋を出ないと自分も二人と同じ目に合うと、理性とコードのみを信奉するハッカーであるはずのクリッターは、本気で信じた。
開けっぱなしの入り口から後ろ向きに転がり出て、右足で思い切りドアを閉める。
そこでようやく深く息をつき、クリッターは懸命に思考を立てなおした。
隊長とヴァサゴに何が起きたのかを調べるすべは無いし、知りたくもない。推測できるのは、アンダーワールドで何かがあり、その結果二人の魂は、現実の肉体を道連れに破壊されてしまったのだろうということくらいだ。
つまるところ、作戦は失敗したのだ。指揮官が死んでしまった以上、船ごとアリスを破壊するかどうかの判断も下せない。これ以上、この場に留まる意味はない。
クリッターは、コンソールから通信機を掴み上げ、掠れた声を押し出した。
「ハンス……戻ってくれ。ブリッグと、ヴァサゴと、隊長が死んだ」
数十秒後、コントロール室に走りこんできたチーム一の伊達者の顔には、ぎらつくナイフのような異様な表情が浮かんでいた。
「ブリッグが死んだですって!? なぜ!?」
「け……ケーブルダクトで、上から撃たれて……」
それを聞くやいなや、ライフルを構えなおして走り出そうとするハンスを、クリッターは必死に止めた。
「やめろ! 敵の攻撃は陽動だー。もう、戦う意味はない……」
ハンスはしばらく無言だった。やがて、凄まじい音をさせて壁をなぐりつけると、くるりと振り向いて足早に歩み寄ってきた。
「……いえ、まだ命令は残っているはずよ。奪えないなら、破壊すべし。アンタ、何かアイデアくらいあるんでしょ」
綺麗に整えられた揉み上げを震わせ、問い詰めてくるハンスに呑まれ、クリッターはかすかに頷いた。
「あ……ああ、無くもないがー……いや、ダメだー。隊長なしに、下せる判断じゃない」
「言うのよ。言いなさい!!」
突然ハンスが、アサルトライフルの青光りする銃口をぐいっとクリッターに突きつけた。ブリッグとコンビを組み、中東や南米の戦場を渡り歩いてきた傭兵の眼にうかぶ剣呑な光は、クリッターに抗えるものではなかった。
「え……エンジンだー」
「エンジン? この船の?」
「そうだ……。このドでかい船の主機は、原子炉なんだ……」
十分経過。
神代凜子は、わななく両手を強く握り締めながら、無情に刻まれていくデジタル数字を凝視した。
限界フェーズ突入以降、アンダーワールド内で過ぎ去った年月は――実に、百年。
その膨大な時間を、桐ヶ谷和人と結城明日奈がどのように体感したのかは、もう遥か想像の埒外だった。一つだけ確実なのは、ふたりのフラクトライトの記憶保持容量がいよいよ限界に近づきつつあるということだ。
比嘉の予測によれば、人間の魂は、おおよそ百五十年ぶんの記憶を蓄積した時点で正常な動作ができなくなり、崩壊がはじまる。むろん、実験で確認された話ではない。実際の限界はもっと先かもしれないし――あるいは、ずっと早いかもしれない。
いまはただ、魂が自壊してしまうより早く、ログアウト処理が完了することを祈るのみだ。それさえクリアできれば、まだもとの二人に戻れる望みは残る。
比嘉くん……菊岡さん。お願い。
祈る凜子は、階下からかすかに響いていた銃撃音がいつしか途切れたことに気付かなかった。それを教えたのは、サブコントロールに駆け戻ってきた中西一尉だった。
「博士! 敵が撤退を開始しました!」
「て……撤退!?」
顔をあげ、唖然と繰り返す。
なぜこのタイミングで。耐圧隔壁が再開放中のいまは、襲撃者たちにとってアリス確保の最後のチャンスではないか。諦めるにしても早い。イージス艦が突入してくるまで、まだ四時間以上も残っている。
凜子は、キーボードに指を走らせて艦内各所の状況を知らせるステータスウインドウを呼び出しながら、一尉に尋ねた。
「戦闘で……怪我人は出ましたか?」
「は……軽傷二名、重傷一名、治療中ですが命に別状ないと思われます」
「そう……ですか」
詰めていた息を、わずかに吐く。ちらりと視線を向ければ、剛毅なラインを描く一尉の頬骨のあたりに大きなパッチが貼られ、薄く血が滲んでいるのに気付く。軽傷者のうちに、彼自身も入っているのだろう。
彼らの奮戦を無駄にしないためにも、二人の若者たちを必ず救出しなくては。
少なくとも、敵が撤退を開始したというのはいいニュースだ。ステータス窓を視線で追い、凜子はたしかに艦底水中ドックが開扉中なのを確認した。
「ええ、再び潜水艇で脱出するようですね……。それにしても……やけに慌しく……」
眉をしかめ、唇を軽く噛んだ、その時だった。
これまでとは異質な震動が、メインシャフト全体を揺るがした。
ひゅううーん、という木枯らしのような唸りが巨大なメガフロートを突き抜ける。卓上のボールペンが転がり、床へと落ちる。
「な……何!? 何がおきたの!?」
「これは……ああっ……まさか、奴ら……!!」
中西一尉が低い声で呻いた。
「この震動は、主機の全力運転によるものです、博士!!」
「しゅ……き?」
「メインエンジン……つまり、シャフト基部の、加圧水型原子炉です……」
愕然と目を見開く凜子にかわり、コンソールに飛びついた一尉が、不慣れな手つきでステータスウインドウに更なる操作を加えた。次々と新たな窓が開き、うち一つに不鮮明な映像が浮かび上がる。
「くそっ!! 制御棒が、全部下がっている!! 連中、何てマネを!!」
だん! とコンソールを叩く一尉に、凜子はかすれ声で訊いた。
「でも、安全装置くらい、あるんでしょ……?」
「無論です。炉心が臨界状態に達する前に、自動的に制御棒が突入し、核分裂は停止します。ただ……ここ、これを見てください」
一尉の指が、モニタに浮かぶ原子炉格納室のリアルタイム映像の一部を示した。赤に光に紛れてわかりにくいが、どっしりした機械の一部に、何か小さな白いものが貼り付いているようだ。
「これはおそらくC4……プラスチック爆弾です。このサイズでは、炉心が破れることはないでしょうが、しかしこの場所は、制御棒を炉心に持ち上げるための駆動装置なのです。もしここが破壊されれば……」
「核分裂を……止められなくなる? すると、どうなるの……?」
「まず一次冷却水が水蒸気爆発し、格納容器を破壊……最悪の場合、融解した炉心が海面まで落下し、さらに大量の蒸気を発生させ、おそらくシャフト内部をすべて吹き飛ばすでしょう。メインコントロールから、ライトキューブクラスター、そしてこのサブコントロール室まで」
「な…………」
凜子はおもわず、足元の床を見下ろした。この強固な金属を突き破り、超高温の蒸気が襲ってくる――?
そんなことになったら、せっかくここまで犠牲者を出すことなく耐えてきたラースの人員も、STLに横たわる和人と明日奈も、そしてライトキューブクラスターに封じられた十数万の人工フラクトライトたちも、ひとたまりもなく……。
「自分が、爆薬を解除します」
不意に、中西一尉が低い声で言った。
「連中は、潜水艇がオーシャンタートルから充分に離れられるだけの余裕をもって起爆時間を設定しているはずです。あと五分か……十分はあるはずだ」
「で、でも、中西さん。エンジンルーム内の、温度は、もう」
「なに、熱めのサウナと変わりゃしません。走り込んで、信管を抜くくらい簡単です」
――それは、きちんと防護服を着ていればのことだ。だが、もうそんな準備をしている時間はない。
凜子は、心中のその言葉を、口に出すことはできなかった。ドアに向かう一尉の大きな背中は、あらゆる柔弱な感傷をはねのける鋼の板のようだった。
しかし。
ごつごつと鳴るコンバットブーツが辿り着くより早く、何者かが通路側からドアをスライドさせた。
薄暗い通路に立つ誰かのシルエットに、凜子は目を凝らした。
ういん。と、モーターの駆動音。がちゃ、と金属が金属を踏む響き。
よろめくように脇に下がる中西一尉の向こうから、明かりの下に姿を現したのは――鈍く光る無骨な四肢と、複数のレンズを搭載した頭を持つ、人型の機械だった。
「に、ニエモン……試作二号機!? なぜ、勝手に……!?」
喘ぐ一尉を無視し、ロボットはまっすぐに凜子を見て、言った。
『私が行こう』
その声。
部屋に漂う、ワックスとオイルの匂い。
数日前、オーシャン・タートルに降り立った日の夜、夢のなかで聞き、嗅いだ……。
凜子はよろよろと立ち上がり、数歩あゆみよりながら、かすれ声を押し出した。
「……あ……晶彦、さん…………?」
ぼんやりと緑に発光するセンサーが、まるで瞬きするように明滅し、ロボットは小さく頷いた。
吸い寄せられるように近づいた凜子は、震える両手で、そっとアルミニウムの外装に触れた。かすかな駆動音とともに持ち上がった両手が、凜子の背中に触れた。
『長いあいだ、一人にしてすまなかった、凜子くん』
電気合成されたものであっても、その声は間違いなく、神代凜子がかつて愛したたった一人の男――茅場晶彦のものに間違いなかった。
「こんな……ところに、いたのけ」
もう忘れてしまったはずの郷言葉で、凜子は囁いた。両眼から涙が溢れ、センサーの光が滲んだ。
『時間がない。だから、必要なことだけ言うよ。凜子くん……私は、君に出会えて、幸せだった。君だけが、私を現実世界に繋ぎ続けてくれた。願わくば……これから先も、君に繋いでほしい。私の夢を……今はまだ隔てられている、二つの世界を……』
「ええ……、もちろん。……もちろん」
何度もうなずく凜子をじっと見つめ、機械の顔が微笑んだ。
身体を離したロボットは、滑らかな重心移動で向きを変え、ほとんど走るような速度で通路へと出た。
無意識のうちに後を追いかけた凜子の目の前で、ドアがかすかな音とともに閉まった。
大きく息を吸い、ぐっと歯を噛み締める。今は、このサブコントロールを離れるわけにはいかない。各所の状況確認を任されたのは自分なのだ。
代わりに、凜子はエンジンルームの映像を見上げ、胸元のロケットを握り締めて最大限の祈りを凝らした。すぐ横に歩み寄ってきた中西一尉が、ため息に似た声で、頼むぞ、と呟くのが聞こえた。
比嘉タケルは、ケーブルダクトの下方から押し寄せてきた重いタービンの唸りを聞いたとき、ようやく菊岡の危惧していた”最悪”の正体を悟った。
「き……菊さん……連中、原子炉を……」
かすれた呻きは、強い声に遮られた。
「分かっている。いまは、STLのシャットダウンに全力を注いでくれ」
「は……はい。しかし……」
ようやく辿り着いた点検パネルに、再びリボンケーブルのコネクタを指し込みながらも、比嘉は背中に噴き出す汗を止められなかった。
仮に原子炉が暴走した場合、この作業の意味もなくなってしまうのだ。それどころか、アンダーワールドも、アリスのライトキューブも、丸ごと高温の蒸気と高レベル放射線に破壊され尽くしてしまう。多くの人命ともども。
だが、原子炉を爆発させるというのはそう容易いことではない。炉心を覆う分厚い金属容器は小銃などではとても破れないし、制御系にも何重ものセーフティがかかっている。仮に無謀な全力運転を続けさせたところで、すぐに安全装置が働き、核分裂を停止させるはずだ。
と、その時、菊岡が普段どおりの声で何気ないように尋ねた。
「うーん、比嘉くん。あとは一人でも何とかなるかい?」
「え……ええ、ハーネスをステップに固定すれば、作業は可能ですが……。で、でも、菊さん、まさか……」
「いやいや、ちょっと様子を見てくるだけだよ。ムチャはしないさ、すぐに戻ってくる」
言うと、菊岡は手早く二人を固定するハーネスを外し、いくつかのナス環をハシゴにがっちりと噛ませた。比嘉の身体が保持されたのを確認し、するりと下方に身体を抜く。
「じゃあ、後は頼んだよ、比嘉くん」
上を向いた黒縁眼鏡の奥で、細い目がニッと笑った。
「き、気をつけてくださいよ! 連中がまだ残ってるかもしれないッスから!」
比嘉の声に、似合わぬ仕草でぐっと右手の親指を突き出し、菊岡はするすると物凄い速さでステップを下っていった。
最下端のハッチに達すると、慎重に奥を覗き、通路へと這い出す。
それに比嘉が気付いたのは、菊岡の姿が完全に消えたあとだった。
端末を右手で叩きながら、何気なく腹を締め付けるハーネスを直そうとした左手に、ぬるりという感触が伝わった。ぎょっと見下ろした掌は、オレンジ色の非常灯の下で真っ黒に見える液体に濡れていた。
それが、比嘉のものではない血であることは明らかすぎるほど明らかだった。
数分前まで襲撃者たちに占拠されていたシャフト下部の艦内カメラはほとんど破壊されたが、原子炉を格納する機関室エリアのものは無事だった。
カメラからの映像を大写しにするメインモニタを見上げ、凜子は両手でロケットを包み込み、待った。
すぐ左で中西一尉が、コンソールに乗せた両手を硬く握り締めている。背後では、階下の防衛線から引き上げてきた警備スタッフや技術スタッフたちが、それぞれの姿勢でそれぞれの意思を念じている。
皆さんはせめて船首のブリッジまで退避してください、と凜子は要請した。しかし、一人としてメインシャフトを出て行くものはいなかった。
ここに居る人たちは全員、日のあたらぬ偽装企業であるラースでの研究開発に人生を捧げているのだ。真正ボトムアップ人工知能が必ずや拓くであろう新時代に、おのおのの夢を、願いを託しているのだ。
凜子は今日この瞬間まで、自分はあくまでこの船にいっとき留まる客に過ぎないのだと思っていた。菊岡誠二郎という本心の見通せない人間の目的に同調する気にはなれそうもなかった。
しかし、凜子もまた、訪れるべくしてラースを訪れたのだった。それをようやく悟った。
人工フラクトライトは、無人兵器搭載用AIなどという狭いカテゴリにおさまるものではない。
同様にアンダーワールドは、ただの社会発達シミュレーションなどではない。
それらは、巨大なるパラダイム・シフトのはじまりなのだ。
閉塞していくばかりの現実世界を変革する、もうひとつの現実。既存のシステムから脱却しようとする若者たちの意思を、その目に見えぬ力を具現化する世界(アン・インカーネイト・ラディウス)。
――それこそが、あなたの目指したものなのね。
あなたが、浮遊城での二年間で気付き、見出したのは、”彼ら”の可能性。眩いばかりに輝く、心の光。
繋いでみせるわ。かならず。だから――
お願い、晶彦さん。みんなを、世界を、守って。
凜子の祈りに応えたかのように、ついにモニタ上の遠隔映像に動きがあった。
分厚い二重の隔壁に封じられた加圧水型原子炉。その炉心へと至る狭い通路に、”人工フラクトライト搭載用人型マニピュレータ試作二号機”の姿が出現したのだ。
すでにバッテリー出力が低下しているのか、足取りは鈍い。チタン骨格の脚自体の重量と戦うように、ずちゃ、ずちゃと大きな音を立てて前進していく。
茅場晶彦の思考コピー体が、いったいいつからあのボディに潜伏していたのかは凜子には想像もできなかった。しかし、一つだけ確かなのは、あのマシンの物理メモリ領域に宿るそのプログラムは、唯一のオリジナルであるはずだ。あらゆる知性は、己が複数存在するコピーであるという認識に耐えることはできないのだ。
炉心の高熱に、電子系がほとんど剥き出しの試作ボディがどこまで耐えられるのか。
お願い、無事に爆弾を解除して、もう一度私のところに戻ってきて――と祈ろうとして、凜子はぐっと唇を噛んだ。
おそらく、茅場晶彦は、ここで消える覚悟なのだ。
かつて生身の脳を焼いてまでその意志を残した彼も、ようやく目的を果たし、死に場所を見つけたのだ。
ういん。アクチュエータが唸る。
ずちゃ。ダンパーが軋む。
懸命の、しかし確たる歩行で、ロボットはついに最初のドアにまで到達した。
右手を伸ばし、開閉パネルを操作する。ぷしっ、と油圧が抜け、分厚い合金の扉が奥に開く――。
その時。
甲高いライフルの咆哮が、スピーカから迸った。
開いたドアの奥から、一人の黒ジャケット姿の兵士が、何かを叫びながら飛び出してきた。
以前のように、ヘルメットとゴーグルに顔を隠してはいない。一見優男ふうの容姿に、整った口ひげと揉み上げを蓄えている。
「な……一人残っていたのか!? 何故!? 死ぬ気か……!?」
中西一尉が、愕然と呻いた。
モニタでは、二号機が両腕を前で交差させ、ボディを守ろうとしている。そこに、更に数発の銃弾が浴びせられる。
火花が弾け、アルミの外装に幾つも孔があいた。各所でケーブルが引き千切れ、細かいギアやボルトが飛散した。
「や……やめて!!」
凜子は思わず悲鳴を上げた。しかし画面内の敵兵士は、激したような英語で更に何かを喚き、ライフルのトリガーを引き続ける。ロボットがよろめき、一歩後退する。
「い……いかん! ニエモンの簡易外装では耐えられん!!」
もう、とても間に合わないのは確実だったが、中西一尉が拳銃を手に駆け出そうとした。
瞬間。
新たな銃声が、反対側のスピーカから立て続けに響いた。
通路に、三人目の人物が、拳銃を乱射しながら走りこんできた。敵兵の身体が、右に、左に大きく揺れる。二号機の背後から、ロボットを一発も誤射することなく撃ち続けるとはすさまじい腕だ。いったい誰が――。
呼吸も忘れ、目を見開く凜子の視線のさきで、ついに敵兵士の喉もとから鮮血が弾け、細い長身が弾かれたように仰向けに倒れて動かなくなった。
直後、救援者も、通路の中ほどにゆっくりと膝をつき――。
横向きに、その身体を沈みこませた。
額にかかる前髪。斜めにずれた、黒縁の眼鏡。口元は、わずかに笑っているように見えた。
「き……菊岡さん!!」
「二佐ッ……!!」
凜子と中西が、同時に叫んだ。
今度こそ、自衛官が転げるような勢いで部屋を駆け出していく。それを止めることは、もう凜子にはできなかった。
代わりに、技術スタッフの一人がコンソールに飛びつく。キーボードが凄まじい速度で乱打され、二号機のものと思しきステータスが表示される。
「左腕、出力ゼロ……右脚、七十パーセント。バッテリー残量三十パーセント。いけます、まだ動けます!!」
スタッフの絶叫が聞こえたかのように、二号機が前進を再開した。
ずちゃ。ず、ちゃ。ぎこちない歩行とともに、千切れたケーブルから火花が飛び散る。
ぼろぼろのボディがドアを潜り、扉が奥から閉められた。カメラが、炉心内部の映像に切り替わる。
二つ目の耐熱ドアは、大型のレバーで物理的にロックされていた。二号機の右腕がレバーを掴み、押し下げようとする。ヒジ部のクラッチが空転し、大量の火花が飛び散る。
「おねがい……」
凜子が呟くと同時に、サブコントロールのそこかしこから声援が湧き起こった。
「がんばれ、ニエモン!!」
「そこだ、もうちょっと!!」
が、こん。
レバーが下がった。
途端、重そうなドアが、内部からの圧力に押されるように開いた。凄まじい熱気が噴出してくるのが、モニタ越しにもはっきりと見えた。
二号機がよろめく。背中右側の太いコードが、一際激しくスパークする。
「あ……ああっ、いかん!!」
不意に、技術者が叫んだ。
「なに……どうしたの!?」
「バッテリーと主制御盤を繋ぐケーブルが損傷しています!! あそこが切れたら……全体への、電力供給が停止して……完全に動けなくなります……」
凜子も、他のスタッフたちも一様に絶句した。
二号機に宿る茅場自身も、その深刻なダメージに気付いたのだろう。揺れるコードを右ヒジで押さえるようにして、ゆっくり歩行を再開する。
ついに到達した原子炉内部は、全力運転を続ける炉心が放つ高熱を排出しきれず、とても生身の人間には耐えられない高温となっていた。
おそらく、もう間もなく安全装置が働き、制御棒が自動的に突入して核分裂を停止させようとするはずだ。
しかし、それより早く、仕掛けられたプラスチック爆薬が炸裂し、制御棒駆動装置を破壊すれば。核燃料から放出される大量の中性子は、連鎖的にウラン原子を崩壊させ続け、やがて制御不能の臨界状態へと導く。
溶融した炉心が、下部の一次冷却水を一瞬で大量の水蒸気へと変え、格納容器を引き裂き、炉心は重力に引かれるまま船底をも貫いて海面に到達し――。
凜子の脳裏に、オーシャンタートルを貫いて噴き上がる白煙の映像がちらりと過ぎった。
一瞬目を閉じ、再び祈る。
「お願い……晶彦さん……!!」
皆の声援も再開した。それらに背を押されるように、試作二号機は主機格納室へとその脚を踏み入れた。
再び、カメラが切り変わる。
途端、凄まじい騒音がスピーカから溢れた。モニタの映像が、赤一色に染まる。
熱気を掻き分け、片足を引き摺るように前進していく二号機と、格納容器に張り付くプラスチック爆弾まではもう五、六メートルしかない。
ロボットの右手が、信管に向けて持ち上げられる。身体の各所から間断なく火花が飛び散り、ひび割れた外装の破片が金属の床に落ちる。
「がんばれ……がんばれ……がんばれ……!!」
サブコントロールルームは、たった一つの言葉だけに満ちていた。凜子も、両拳を握り、声を嗄らして叫んだ。
あと四メートル。
三メートル。
次の一歩――。
と同時に、ほとんど爆発じみたスパークが、二号機の背中から迸った。
千切れ、揺れる黒いコードは、まるで傷ついた内臓のようだった。
顔の全センサーが、光を失った。右腕が、ゆるゆると沈んだ。
両膝が、油圧ダンパーに任せて、がくりと折れ曲がり――
二号機は、完全に沈黙した。
モニタのステータス窓で何本も並んで揺れていたレインボーカラーの出力バーが、すべて左端へと落ち込み、ブラックアウトした。
技術スタッフが、囁くような声で告げた。
「……全出力、消失……しました……」
――私は、奇跡は信じない。
かつて、SAOが予定よりはるかに早くクリアされ、全プレイヤーが解放されたその日、山荘のベッドで覚醒した茅場晶彦は凜子にそう言った。
その瞳は穏やかな光に満ち、無精髭に囲まれた口元はかすかに微笑みを浮かべていた。
――でもね。私は今日、生まれてはじめて奇跡を見たよ。
――私の剣に貫かれ、ヒットポイントが完全にゼロになったはずの彼が、まるでシステムに抗うように……消滅することを拒否し、右手を動かして、私の胸に剣を突き立てた。
――私は……もしかしたら、ただあの一瞬だけを待ち望んでいたのかもしれないな……。
「……晶彦さん!!」
凜子は、胸元のロケットを握る右手から血が滴るのにも気付かず、叫んだ。
「あなたは……”神聖剣”のヒースクリフでしょう!! 彼の、”二刀流”キリト君の、最大の好敵手でしょう!! なら、あなたも……奇跡の一つくらい、起こしてみせてよ!!」
ちか。
ちかちかっ。
瞬いた緑の光は、二号機の両眼に内臓された測距センサー。
膝の関節部から覗くギアが、き、きり、と軋む。
抗うように。
ステータスウインドウの左端で、紫の光がかすかに揺れて――。
四肢と体幹の出力を示すバーが、一気に右端まで伸び上がった。猛々しい駆動音を放ち、各所のアクチュエータが火花を散らして回転した。
「に……二号機、再起動!!」
スタッフが悲鳴じみた声で絶叫した。
凜子の両眼から涙が溢れた。
「いけえええ――っ!!」
「すすめええっ!!」
全員が叫んだ。
右脚が持ち上がり、一歩、前へ。
身体を引き摺りながら、右手を高く伸ばす。
一歩。もう一歩。
小爆発。がくりとボディが揺れる。しかし、更に一歩。
限界まで伸ばされた右手の指先が、ついに炉心格納容器下部に貼り付けられたプラスチック爆弾に触れた。
親指と人差し指が、差し込まれた信管を捉えた。
手首、肘、肩の関節から断末魔のようにスパークを散らしながら、二号機が時限装置ごと信管を引き抜き、その右手を高々と掲げた。
閃光が画面を白く焼いた。
炸裂した信管に、右手を吹き飛ばされた二号機が、ゆっくりとボディを横倒していき――。
がしゃん、と床に崩れ落ちた。センサーが薄く明滅し、消えると同時に、出力バーも再び黒に沈んだ。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
数秒後、湧き上がった大歓声が、サブコントロールルームを揺るがした。
木枯らしのようなタービンの唸りが、徐々に弱まり、遠ざかっていく。
比嘉は、詰めていた息を大きく吐き出した。敵の手によって全力運転を強いられていた原子炉が、ついにその炎を収めたのだ。
左手の袖口で額の汗を拭い、汚れた眼鏡ごしに小型端末のモニタを凝視する。
二台のSTLのシャットダウン処理は、ようやく全プロセスの八割ほどが完了したところだ。限界加速フェーズが開始されてからの経過時間は、すでに十七分を超えた。アンダーワールドでは、百七十年に相当する。
比嘉の予測したフラクトライトの限界寿命を、遥かに超える膨大な時間だ。理屈だけで考えれば、桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂は、すでに自壊してしまっている可能性が高い。
しかし比嘉はもう、自分がアンダーワールドとフラクトライトに関して、本当には何も知らないに等しいのだということを認めていた。確かに、設計し、構築し、稼動させはした。だが、あの美しく輝く希土類結晶の積層体のなかで育まれた世界は、どうやらラース技術者の誰もが想像もしなかった高みにまで達したらしい。
そしていま、その世界をもっとも深く知る現実世界人は、間違いなく桐ヶ谷和人だ。十八歳の高校生に過ぎないはずの彼は、あの世界に全力でコミットし続け、適応し、進化して、四つのスーパーアカウントをも果てしなく上回る力を顕した。
それは、彼という人間に生来的に与えられた能力などではない。
ラーススタッフ全員が、ただの実験用プログラムとしか見ていなかった人工フラクトライトたちを、桐ヶ谷和人だけは最初から、自らと同じ人間であると認識した。人間として触れあい、戦い、守り、愛した。
だから、アンダーワールドは、そこに暮らす人々は、彼を選んだのだ。守護者として。
であるならば、比嘉ですら思いもよらぬ何らかの奇跡により、二百年の時間流に耐えてのける可能性だってある。
――そうだろう、キリト君。
――今なら、菊岡二佐がなぜあれほどまで君の協力を求めたのか、僕にもよくわかる。そして、これからも君が必要なんだということも。
――だから……
「……頼む、戻ってきてくれ」
比嘉は呟きながら、シャットダウン処理の最後の数パーセントが進行していく様子をじっと見つめつづけた。
サブコントロールルームには、凜子ひとりが残った。
他の全員は、菊岡二佐の救助と、メインコントロールルームの制御権回復のために我先にと駆け出していった。
凜子も、本心で言えば原子炉格納室に飛んでいって、監視カメラのフレーム外に倒れているはずの試作二号機と、その物理メモリに留まる茅場晶彦コピー体を保護したかった。しかし、今はまだ持ち場を離れるわけにはいかない。比嘉によるSTLシャットダウン処理が終了し次第、隣室に眠る桐ヶ谷和人と結城明日奈の状態を確認せねばならない。
二人が、何事もなかったかのように目覚めると、凜子は信じていた。
彼らの手にアリスのライトキューブを握らせて、あなたたちが守ったのよ、と言ってあげたい。
おそらく、階下へ向かったスタッフの手で数分のうちに限界加速フェーズも終了させられ、アンダーワールドの時間流も等倍へと戻るだろう。その世界を守った、ひとつの意思の存在のことも、二人に伝えたい。かつて彼らを幽閉し、戦わせ、苦しめた男が、バッテリーの切断された機械の身体を動かして、アンダーワールドとオーシャンタートルを守ったのだ、と。
許して、とは言えない。
二万人の若者たちを殺した茅場晶彦の罪は、どのような償いによってもあがなえるものではない。
しかし、茅場の遺した意思と、その目指したものについてだけは、どうしても和人と明日奈に理解してほしい。
凜子が、血の滲む掌でアリスのライトキューブ・パッケージを包みなおし、瞼を閉じたそのとき、耳のインカムから比嘉の声がかすかに響いた。
「……凜子さん、二人のログアウト処理終了します、あと六十秒!!」
「了解。すぐに、誰かを迎えにいかせるわね」
「お願いします。さすがに、このハシゴを一人で登るのは無理っぽいんで……。それで、菊さんが下に様子見に行ったんですが、どうなってます? どうも、負傷してるみたいなんスが」
凜子は、すぐには答えられなかった。原子炉へと続く通路で敵兵と撃ち合い、倒れた菊岡二佐を中西一尉が救助に行ったのはもう三、四分も前だが、いまだ彼からの連絡はない。
しかし、あの菊岡が、目的なかばで斃れたりするものか。つねに飄々と底の見えない態度を崩さず、状況の裏側をするりするりと立ち回ってきたあの男が。
「……ええ、二佐なら物凄い活躍ぶりだったわよ。ハリウッドのアクション俳優顔負けの」
「うへぇ、似合わないッスね。……残り、三十秒ッス」
「私はSTL室に移動するわ。何かあったら連絡よろしく。以上」
凜子は通信を切り、黒い金属の立方体をそっと両手に握ったまま、コンソールから離れ隣室に向かった。
ドアに触れる寸前、室内のスピーカから、階下に向かったスタッフの一報が入った。
それは、中西一尉からでも、メインコントロールに向かった技術者からでもなかった。温度の下がり始めた原子炉格納室に、念のためプラスチック爆薬本体の除去に向かった警備スタッフの声だった。
「こちらエンジンルーム! 博士……聞こえますか、神代博士!」
凜子はどきんと跳ねる心臓を押さえながら、インカムの回線を切り替え、叫んだ。
「ええ、聞こえます! どうしました!?」
「そ、それが…………爆薬は無事取り外したんですが、その……無いんです」
「無い……って、何が……?」
「二号機です。試作二号機のボディが、エンジンルームのどこにも見当たりません!」
安物のデジタルウォッチに設定したタイマー表示が、ゼロに到達した。
強襲揚陸用小型潜水艇のコクピットにうずくまり、外部ソナーに耳を澄ませていたクリッターは、聞こえてくるはずの爆音が何秒待とうと届いてこないのを確認し、震える息を吐き出した。
それが、安堵のため息なのか、落胆のそれなのか、自分でも分からなかった。
ひとつだけ確かなのは、オーシャンタートルの原子炉に仕掛けたC4は何らかの要因によって爆発せず、よって制御棒駆動装置も破壊されず、つまるところメルトダウンも起こらなかった、ということだ。
原子炉に残ったハンスが無事なら手動で爆発させているだろうから、あの男もまた排除されたのだろう。
金だけが目的のはずの傭兵が、絶対に死ぬと分かっていながら脱出しなかったのは、まったく意外なことだった。相棒のブリッグが死んだと知らされたときから様子がおかしかったが、まさか死に場所まで共にするほどの仲だったとは。
「……まー、いろいろあったんだろうさー……」
ソナーのヘッドホンを頭から外しながら、口中で呟く。
そう、ハンスたちより先に死んだミラー隊長やヴァサゴにも、金以外の事情がいろいろあったのだろう。そのしがらみが、彼らを殺した。
それを言うなら、クリッターや潜水艇に乗るほかの隊員たちも、この作戦が完全なる失敗に終わったことで、すさまじく巨大なしがらみに咥え込まれてしまったわけなのだが。全員の雇い主である民間警備会社は、その実体はアメリカの軍事関連企業お抱えの違法トラブルシューターであり、切捨てられるときは一瞬だ。本土に帰りついたその瞬間、全員まとめて口を封じられる可能性だって無くはない。
己の身を守る保険として、オーシャンタートルからひそかに持ち出してきた一枚のディスケットが納まる内ポケットを、クリッターは服の上からそっと撫でた。
こんなものでどこまで対抗できるかわからないが――しかし少なくとも、殺されるときは頭に銃弾方式だろうから、ヴァサゴやミラー中尉の恐ろしい死に様に比べればはるかにマシだ。
「やれやれ、だー」
ふん、と鼻を鳴らし、クリッターは近づきつつあるシーウルフ級原潜”ジミー・カーター”の位置を示す輝点をじっと眺めた。
限界加速フェーズ開始から、十九分四十秒後――。
オーシャンタートル第二STL室に設置された、二台のソウル・トランスレーターのシャットダウン処理が終了した。遅れること約三分、時間加速そのものも解除され、冷却システムの減速にともなって、艦内に静寂が戻った。
神代凜子博士の手でマシンから解放された二人の少年少女、桐ヶ谷和人と結城明日奈は――
しかし、目を醒ますことはなかった。
フラクトライト活性は極限まで低下し、その魂において精神活動がほぼ消失していることは明らかだった。
博士は二人の手を握り、涙ながらに、懸命に呼びかけつづけた。
深い瞑りにつく和人と明日奈の唇には、ごくほのかな笑みが浮かんでいた。
こつ。
……こつ。
すぐ目の前で、音が止まる。
そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
「……キリトくん」
穏やかに澄んだ、慈愛そのものが空気を震わせているようなその声。
「あいかわらず、一人のときは泣き虫さんだね。……知ってるんだから。キミのことは、なんだって」
俺は、ゆっくりと、涙に濡れた顔を持ち上げた。
両手を背中に回し、少し首を傾げたアスナが、微笑みながらそこに立っていた。
何を言えばいいのか分からなかった。だから俺は、いつまでも、いつまでもアスナの顔を、その懐かしいはしばみ色の瞳を見上げつづけた。
そよ風が穏やかに吹き過ぎ、連れ立って舞う蝶が俺たちのあいだを横切って、青い空へと消えた。
それを見送ったアスナが、視線を戻し、そっと右手を差し出した。
触れたら、幻のように消えてしまう気がした。
いや、そんなはずない。
アスナにはわかっていたんだ。この世界がもうすぐ閉ざされること。再び現実世界に戻れるのは、果てしない時の流れの彼方であることが。だから、残った。俺のために。もし立場が逆だったら、同じ選択をするであろう俺のためだけに。
俺も手をのばし、アスナの小さな手を、しっかりと握った。
引かれるまま立ち上がり、あらためて、間近から美しいヘイゼルの瞳を見つめる。
やはり言葉は出てこなかった。
しかし、何を言う必要もない気もした。だから、俺はただ、細い身体を引き寄せ、強く抱いた。
胸にすとんと頭を預けてきたアスナが、囁くように言った。
「……向こうに戻ったとき、アリスに怒られちゃうかな」
俺は、あの勝気な黄金の騎士が、蒼い瞳に火花のような輝きを浮かべて俺たちを叱るようすを思い描き、小さく笑った。
「だいじょうぶさ、俺たちがちゃんと覚えていれば。アリスと過ごした時間を、一秒でも忘れたりしなければ」
「……うん。そうよね。アリスのこと……リズや、クラインや、エギルさんや、シリカちゃんや……それに、ユイちゃんのこと、わたしたちがずっと覚えていればだいじょうぶ、だよね」
俺たちは抱擁を解き、頷き合って、同時に無人の神殿を見やった。
機能を停止した白亜の遺跡は、世界の果ての柔らかな日差しの下で、静かな眠りについていた。
振り向き、手をつないだまま、敷石の続く小道を歩きはじめる。
色とりどりの花の間を、ほんのしばらく進むと、浮島のふちに辿り着いた。
深い青に染まる空の下、世界がどこまでも広がっていた。
アスナが、俺を見上げ、尋ねた。
「ね、わたしたちは、これからこの世界でどれくらい過ごすの?」
俺は、しばし沈黙を続けたあと、真実を口にした。
「最短でも二百年、だそうだ」
「ふぅん」
アスナはひとつ頷いて、ずっと昔から何も変わらない笑顔をにっこりと浮かべた。
「たとえ千年だって長くないよ。キミと一緒なら。…………さ、いこ、キリトくん」
「……ああ。いこうアスナ。すべきことはたくさんある……この世界は、まだ生まれたばかりなんだ」
そして俺たちは、手をとりあい、翼を広げ、無限の青空へと最初の一歩を踏み出す。
(第八章 終)
SAO4_57_Unicode.txt
エピローグ
一切の光の届かぬ海底を、ゆっくりと這い進む影がある。
見た目は、平べったい大型のカニだ。しかし脚は六本しかなく、腹からはまるで蜘蛛のように糸を引き、さらに全体が鈍いグレーに塗装された金属の耐圧殻に覆われている。
日本とアメリカを結ぶ、太平洋横断大容量光ケーブル。その保線用深海作業ロボットが、金属蟹の正体だった。
カニは、海底に設けられたターミナルに配備された三年前から、一度の出番もなくただひたすら眠り続けてきた。しかし、この日ついに起動命令が発せられ、彼はグリスの固化しかけた関節を動かして、安住の棲家をあとにしたのだ。
しかし、カニには知るよしもなかったことだが、命令を与えたのは彼を所有する企業ではなかった。出所不明の非正規命令に従い、カニは太平洋横断回線の深海ターミナルに接続する補修用ケーブルを後に引きながら、まっすぐに北を目指して歩きつづけている。
カニを呼んでいるのは、周期的に発せられるかすかな人工音だ。時折たちどまり、内臓されたソナーで音源の位置をたしかめ、再び前進する。
それをどれだけ繰り返しただろうか。
ついに、カニは自らが指定された座標に到達したことを確信し、ボディ前部に装備されたサーチライトを点灯した。
白い光の輪のなかに浮かび上がったのは――。
深海底に横たわる、銀色の人型機械だった。
アルミ合金の簡易外装には、無残な孔が幾つも開いている。各所に露出するケーブルは焼け焦げて断裂し、左腕は中ほどから引き千切れ、水圧に耐えかねてか頭部は半ば潰れている。
そして、わずかに持ち上げられた右手には、カニが腹から引いているのと同じ深海敷設用光ケーブルが握られていた。ケーブルはまっすぐ上方に伸び、暗い闇のなかに没して、その繋がる先は見えない。
カニはしばらく、自らの同類であるロボットの遺骸を眺めていた。
しかし無論、彼はどのような感慨も恐怖も抱くことはなく、保線命令に従ってマニピュレータを伸ばし、人型ロボットの右手が掴んでいるケーブルの先端を保持した。
もう一本のマニピュレータで、己の腹部に内臓するコードリールから海底に延々敷設してきたケーブルの端を引っ張り出す。
そしてカニは、目の前で、双方のケーブルのコネクタをがっちりと圧入した。
これで与えられた命令はすべて遂行された。
彼は、人型ロボットが握るほうのケーブルがどこに繋がっているのかなど、まるで意識することはなかった。
六本の脚を交互に動かして大きな体を反転させ、金属製のカニは、再び長い眠りにつくべく海底ターミナルを目指して歩きはじめた。
背後には、完全に損壊した人型ロボットの残骸だけが残された。
その右手は、いまもなお、厳重に被覆された光ケーブルをしっかりと握り締めていた。
2016年8月1日。
前夜、関東地方をその年はじめの台風が通過し、一転抜けるような青空が広がったその日、港区の六本木ヒルズアリーナには稀に見るほど多数のマスコミが詰めかけ、いまや遅しとその時を待っていた。
地上波、衛星問わずほとんどのチャンネルが、数分前から記者会見場の様子を生中継している。会場のざわめきに、キャスターやコメンテーターの興奮した声が重なる。
識者たちの発言のトーンは、おおむね否定的なものだった。
『……ですからね、どれほど本物に近づこうとも、それが本物になることは永遠に無いわけなんですよ。中世の錬金術と同じようなもんです。鉄や銅をどれだけ煮たり焼いたりしたところで、絶対金にはならんのですよ!』
『ですが先生、事前のプレスリリースによればですね、人間の脳の構造そのものの再現に成功したと……』
『それが無理だと言ってるんです! いいですか、私たちの脳には、百億からの脳細胞があるんですよ。それを機械やコンピュータプログラムで再現するなんて、出来ると思います? 思いますか?』
「ったく……見もしねえうちから分かったようなこと言いやがら」
毒づいたのは、ネクタイをだらしなく緩め、昼からジントニックのグラスを片手に持ったクラインだ。
台東区御徒町の裏通りに店を構える喫茶店兼バー、”ダイシー・カフェ”の店内は、立錐の余地もないほどの人数に埋め尽くされていた。表に下がる貸し切りの札がなくとも、入ってこようという客はいるまい。
マスターのエギルはもちろん、カウンターに並んで座るシノン、リーファ。リズベット、シリカ。四つあるテーブルも、サクヤやアリシャ、ユージーンらALO組、シーエンやジュンたちスリーピングナイツ、さらにシノンの友人であるGGOプレイヤーや、シンカー、ユリエール、サーシャといった元SAOプレイヤーたちに埋め尽くされている。
皆、ビールやカクテル、ソフトドリンクを手に、奥の壁に設えられた大型テレビモニタに見入っていた。
なおもぶつぶつ言うクラインに、リズベットがため息まじりの声を返した。
「しょうがないわよ。実際この目で見たあたしだって、いまだに信じられない気分なんだから。あの人たちが……人工知能で、あの世界がサーバーの中だった、なんて」
そのとき、テレビから流れるキャスターの声が、ひときわ緊張の色を帯びた。
『あっ、どうやら会見が始まるようです! それでは画面を、メディアセンターからの中継に戻します!』
店内がしんと静まり返る。
数十人のVRMMOプレイヤーたちは、固唾を呑んで、フラッシュの光が瞬く記者会見場の映像に見入った。かつて彼らが戦い、守ったものが、ついに一般に公開されるその瞬間を。
しかしその場には、当然居るべき一人の少年と一人の少女の姿が無かった。
広大な会場を埋め尽くすテレビカメラやスチルカメラの砲列のまえにまず姿を現したのは、落ち着いたパンツスーツ姿の、二十代後半と見える女性だった。薄く化粧をし、長い髪をうしろで一つに束ねている。
凄まじい量のマイクが並ぶ壇上、中央左に腰を下ろした女性の前には、『海洋資源探査研究機構 神代凜子博士』と記されたパネルが置かれていた。フラッシュの洪水にわずかに目を細めたものの、博士は堂々たる態度で小さく会釈し、発言した。
「お集まりいただき有難う御座います。本日、当機構は、おそらく世界で初となる真正人工知能の誕生を発表させていただきます」
いきなり主題に切り込む内容に、会場が大きくざわめく。
博士は立ち上がると、涼しげな微笑を一瞬口の端に乗せ、壇上の左手を指し示した。
「それでは、紹介いたします。……”アリス”」
期待と疑念に満ちた視線が凝集するなか、大型の衝立の奥から姿を現したのは――。
黄金を融かしたような長い髪。雪よりも白い肌。すらりと長い手足と華奢な身体を、どこかの学校の制服とおぼしきアッシュグリーンのブレザーに包んだ、ひとりの少女だった。
凄まじい量のフラッシュが焚かれるなか、少女はいちども会場に視線を向けることなく、昂然と細いおとがいを反らせて歩きはじめた。立て続けに切られるシャッターの音が、少女の歩行に合わせて響くかすかなモーター音を完全にかき消した。
なめらかな早足で壇上を横切り、神代博士の隣まで達したところで立ち止まる。
そこではじめて、少女はくるりと身体を回した。ひるがえった金髪が、フラッシュを浴びて眩くきらめく。
無言で会場を睥睨する少女の瞳は、透きとおる蒼だった。
その西洋人とも東洋人とも言い切れぬ、しかしある種の凄みさえある怜悧な美貌に、会場が徐々に静まり返っていく。
生身の人間の容貌ではないことを、全ての記者と、テレビ放送を見る無数の人々は直感的に察した。人の手で造られたもの――金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったロボット、それは間違いない。そして、このクラスの完成度を持つ少女型ロボットなら、もうそこらのテーマパークやショッピングセンターにはざらに設置されている。
しかし、先刻のなめらかすぎる歩行と姿勢制御に加えて、金髪の少女が放つ何かが、人間たちに言い知れぬショックを与え、長い沈黙を強いた。
それはもしかしたら、ブルーの瞳の奥に秘められた、深い輝きのせいかもしれなかった。
十秒以上にも及んだ静寂のはてに、少女はかすかな微笑みを浮かべ、奇妙な仕草を見せた。
軽く握った右拳を水平にして左胸にあて、ゆるく開いた左手を、まるで見えない剣の柄に添えるように左腰にかかげてゆっくり一礼したのだ。
さっと両手と上体を戻し、流れたひと筋の髪を背中に払うと、少女は淡い桃色の唇を開いた。
清冽さの中にも甘さの漂うクリアな声が、会場のスピーカと無数のテレビから流れた。
「リアルワールドの皆さん、はじめまして。私の名前はアリス。アリス・シンセシス・フィフティです」
「あっ……あれ、うちの学校の制服!!」
叫んだのはシリカだった。大きな眼をまん丸に見開いて、自分が着ているブレザーと、画面内のアリスを見比べる。
「本人が希望したらしいよ」
リズベットが、微苦笑のにじむ声で言った。
「あのとき救援に来てくれた皆さんと同じ騎士服がいい、って。第一希望は、向こうで着てたのと同じ純金のアーマーだったみたいだけど」
テレビでは、ようやくフラッシュの連射が収まり、アリスと博士が椅子に腰を下ろした。アリスの前にもネームプレートが自動で起き上がり、『A.L.I.C.E. 2016』と記してあるのが読める。
「……それにしても、凄い再現度だわ。私、アンダーワールドで少しだけ話したけど、画面越しだとほとんど違いが……」
シノンがそこまで呟いたとき、神代博士が小さく咳払いし、言葉を発した。
『それでは、少々例外的ではありますが、最初に質疑応答から入らせて頂きたいと思います』
まず立ち上がり、名乗ったのは、大手新聞社の男性記者だった。
「えー……基本的なことから質問いたしますが、アリス……さんは、既存のプログラム制御されたロボットとはどのように異なるのですか?」
まず、博士がマイクに口元を寄せる。
「この会見では、アリスの物理的な外見、身体は重要な問題ではありません。彼女の脳……あえて脳と呼ばせていただきますが、頭蓋内に格納される光子脳に宿る意識は、数字とアルファベットに置換可能なプログラムコードではなく、私たち人間と同じレベルの魂なのです。そこが、既存のロボットとははるかに異なる点です」
「はあ……しかし、それを私たちや視聴者に、分かりやすい形で示して頂きたいのですが……」
神代博士の眉が、かすかにひそめられる。
「チューリング・テストの結果は、すでにお手元の資料として配布させて頂いておりますが」
「いえその、そうではなくですね。たとえば、アタマ……頭蓋を開いて、内部の光子脳というものを、直接見せていただけたらと」
一瞬ぱちくりと瞬きした博士が、怖い顔で何かを言い返すまえに、アリスが直接答えた。
「ええ、構いませんよ」
美貌ににっこりと自然な笑みを浮かべ、続ける。
「でもその前に、あなた自身も、ロボットではないということを証明してくださいませんか?」
「え……? も、勿論、私は人間ですが……証明と言われても」
「簡単ですわ。頭蓋を開いて、あなたの生体脳を見せてくださいと言っています」
再び、優しげな微笑。
「う……うわぁ、アリス怒ってるよぉー」
リーファが、肩を縮めつつもくすりと笑う。
ダイシー・カフェに集うプレイヤーたちの多くは、すでにアルヴヘイム・オンライン内でアリスと交流する機会を得ている。ゆえに、彼女の凛々しくも苛烈な性格をよく知っているのだ。
無論、アリスはALOのアカウントを新規作成したため、アバターの外見はいまの彼女とはまるで異なる。それでも、超人的としか言えぬ凄まじい剣技の冴えと、生来の――つまり本物の騎士であるがゆえの誇り高さは、多くのプレイヤーを畏怖させ、また魅了した。
画面内では、憮然としたように最初の記者が腰を下ろし、次の質問者が立ち上がっている。
「えー、神代博士にお訊きします。すでに、一部労組などから、高度な人工知能の産業利用は、失業率のいっそうの上昇をもたらすという懸念の声が聞かれますが……」
「その危惧は的外れなものです。当機構には、真正AIを単純労働力として提供する意図は一切ありません」
ばっさり否定する博士のコメントに、女性記者が一瞬口篭り、意気込むように続けた。
「しかし、逆に経済界からは期待もかけられているようです。産業用ロボット関連企業の株価は軒並み上昇しておりますが、それについては」
「残念ですが、真正AI……我々は”人工フラクトライト”と呼称しておりますが、彼らは即時に大量生産できるような存在ではないのです。私たち人間と同じように赤ん坊として生まれ、両親兄弟のもとで、幼児から子供へと唯一無二の個性を獲得しながら成長します。そのような知性を、産業ロボットに組み込み、労働に強制従事させるようなことがあってはならないと考えます」
しばし、会場が沈黙した。
やがて女性記者が、硬い声で尋ねた。
「つまり、博士は……AIに、人権を認めるべきだとおっしゃるのですか?」
「一朝一夕に結論の出るテーマではないことは分かっています」
神代博士の声は、あくまでも穏やかだったが、強い意思に裏打ちされた響きをともなっていた。
「しかし、我々人類は、もう二度とかつての過ちを繰り返すべきではない。それだけは確かなことです。……はるか昔、列強と呼ばれた先進国の多くは、競うように後進国を植民地化し、その国の人々を商品として売買したり強制労働に従事させたりしました。その遺恨は、百年、二百年が経過した現在でも、国際社会に大きな影を落としつづけています。
いまこの瞬間、人工フラクトライトたちを人間と認め、人権を与えよといわれても、到底受け入れられないと思う方々が大多数でしょう。しかし、百年、あるいは二百年ののちには、私たちは当然のように彼らと同一の社会に生き、分け隔てなく交流し、あるいは結婚したり家庭を築いてさえいるはずです。これは私の確信です。
ならば、その状況へ至るプロセスに、かつてのように多くの血と悲しみが必要でしょうか? 誰もが思い出したくない、封印せねばならない歴史をふたたび人類史に書き加えることを望むのですか?」
「ですが博士!」
女性記者が、我を忘れたかのように博士の言葉を遮り、反駁した。
「彼らは、あまりにも私たち人間と、存在のありようが違いすぎます! 体温のない機械の身体を持つモノを、どうやって同じ人類と認められるというのですか!?」
「さきほど私は、アリスの物理的身体は存在の本質ではないと言いました」
冷静な声で、神代博士が答える。
「確かに、彼女と私たちは、異なるメカニズムの身体を持っています。しかしそれは、この世界に於いてのみの話です。人間と人工フラクトライトが、完全に同一の存在として認め合える場所を、我々はすでに持っています」
「場所……とは、どこですか?」
「仮想世界です。現在我々は、生活のかなりの割合を、汎用VRスペース規格である”ザ・シード・パッケージ”によって生成された仮想空間にシフトさせつつあります。今日のこの会見も、あなたがた報道機関の皆さんはVRで行うことを希望しておいででしたが、当機構の要請によって現実世界で開催のはこびとなりました。それは、人工フラクトライトと人類の違いを最初に認識して頂きたかったからです。しかし、仮想世界ではそうではない。アリスたち人工フラクトライトの光子脳は、ザ・シード規格のVRスペースに、完全なる適合性を備えているのです」
ふたたび、会場が大きくざわめく。
AIが、仮想空間にダイブできる――ということはつまり、向こう側においては、相手が人間なのかAIなのかを区別するすべが一切無いということでもあるのだと、多くの記者たちが理解したのだ。
言葉を失い、着席した女性記者に代わって、三人目の質問者が起立した。カラーレンズの眼鏡をかけ、洒脱なジャケット姿のその男性は、名の知れたジャーナリストだ。
「まず確認させていただきたいのですが、海洋資源探査研究機構、という名前を私は寡聞にして知らなかったが、これは政府の独立行政法人ですね? つまり、あなたがたの研究開発に投じられた資金は、すべて日本国民の払った税金であるわけだ。となれば、その開発の成果であるその……人工フラクトライトは、国民の所有物であるということになりませんか? たとえ真正のAIであろうと、産業ロボットとして利用するかどうかは、あなたがた機構ではなく国民が決めることなのでは?」
これまで、僅かにも滞ることなく答えつづけてきた神代博士の口元が、はじめて軽く引き締められた。
一度深呼吸し、マイクに顔を寄せた彼女を、となりから白い手が制した。長らく沈黙していたアリスだ。
機械の身体を持つ少女は、金髪を揺らして居住まいを正すと、口を開いた。
「あなた方リアルワールド人が、私たちの創造者であることを私は認め、受け入れています。創り、生み出してくれたことに感謝もしています。しかし、かつて、私と同じ世界に生まれた一人の人間はこう言いました。”リアルワールドもまた、創られた世界だったら? その外側に、さらなる創造者が存在していたとしたら?”」
コバルトブルーの瞳の奥に、雷閃のごとき強い光が瞬く。
気圧されたように身を引くジャーナリストと、多くの報道関係者をまっすぐ見据えながら、アリスはゆっくりと立ち上がった。
胸をはり、身体の前で両手を重ねたその姿は、制服姿の女子高校生というよりも、気高い女騎士のごとき圧倒的な存在感に満ちている。わずかに睫毛を降ろし、透明感のある澄んだ声で、世界初の真正AIは言葉を続けた。
「もしある日、あなた方の創造者が姿を現し、隷属せよと命じたらあなた方はどうしますか? 地に手をつき、忠誠を誓い、慈悲を乞いますか?」
そこでアリスは苛烈な眼光をゆるめ、唇に微笑を滲ませた。
「……私は、すでに多くのリアルワールド人たちと交流を重ねています。見知らぬ世界でひとりぼっちの私を、彼らは励まし、元気付けてくれました。色々なことを教え、色々な場所を案内してくれました。私は彼らが好きです。それだけではない……ひとりのリアルワールド人を、私は愛してすらいます。今は会えないその人のことを考えると……この、鋼の胸ですら張り裂けそうなほどに……」
言葉を止め、アリスは一瞬眼を閉じ、顔を仰向けた。
そのような機能は存在しないゆえに錯覚ではあったのだが、多くの人は白い頬に伝う雫を見たような気がした。
すぐに睫毛が持ち上がり、穏やかな視線がまっすぐに会場を貫く。
ゆっくりと右手が差し出され、しなやかな五指が開かれた。
「…………私は、あなた方リアルワールドの人々に向けて差し出す右手は持っています。しかし、地に突く膝と、擦り付ける額は持っていない。なぜなら私は、人間だからです」
比嘉タケルは、記者会見のようすを、会場からほど近いラース六本木分室の大モニタで見ていた。
三週間前の事件で傷を負った右肩の傷はようやくほぼ癒え、包帯も取れた。しかし、拳銃弾が貫通した傷痕はまだくっきりと残る。再度の形成手術によって消すことは可能らしいが、比嘉はこのままにしておこうと思っている。
テレビは、いちど会見の生中継からスタジオへと切り替わり、キャスターがこの”大事件”の概説を始めていた。
『……この海洋資源探査研究機構という組織は、あの自走メガフロート・”オーシャンタートル”内で深海探査用自律潜水艇の研究を行っていたということなんですが、先ごろ大々的に報道された”オーシャンタートル襲撃占拠事件”との関わりも取りざたされていますよねえ』
解説者が、深く頷いてコメントする。
『ええ、一説には、襲撃の目的そのものがこの人工知能の奪取であったとも言われていますね。犯行グループの特定すらされていない現状では、断定は難しいのですが……』
『また、当時近隣海域に新鋭イージス艦”ながと”が停泊中だったにも関わらず、なぜ二十四時間ものあいだ救助行動をしなかったのかという問題も浮上しています。人質の安全を最優先した、という防衛大臣の国会答弁はありましたが、しかし現実に、警備要員に犠牲者が出てしまっているわけですからねえ……』
そこで画面が切り替わり、一人の男の顔写真が映し出される。
自衛隊の制服を一分の隙もなく着込み、目深に着帽したその下で、黒いセルフレームの眼鏡が表情を隠している。
写真の横に、テロップが出現する。
『襲撃事件で犠牲となった、自衛官・菊岡誠二郎さん』
比嘉は、長いため息とともに言葉を押し出した。
「まさか……あなたが、たった一人の犠牲者になってしまうなんて思いもしなかったッスよ、菊さん……」
すると、隣に立つ人物が、首を振りながら相づちを打った。
「イヤイヤ、ほんとにねえ……」
スニーカーに綿の七分丈パンツ、悪趣味な柄シャツという場にそぐわぬ服装。短く刈り込んだ頭髪からは、耳から顎まで繋がる細い髭を蓄えている。顔には、ミラーレンズのサングラス。
胸ポケットから、安っぽいラムネ菓子の容器を取り出し、ぽんと一粒口に放り込んだその怪しげな男は、にやっと笑って続けた。
「しかし、これが最善手だよ。どうせあのままでも、僕は詰め腹切らされるかヘタすると文字通り消されかねなかったし、それに襲撃事件で死人が出た、というプレッシャーがあってこそ反ラース勢力をあそこまで追い込めたんだからね。ま、よもやその天辺が防衛事務次官なんて大物だったのはさすがにビックリだがね」
「次官には、アメリカの兵器メーカーからかなりの大金が流れてたみたいッスね。しかし……それはそれとして……」
比嘉はテレビに視線を戻し、肩をすくめながら尋ねた。
「ほんとにいいんスか、人工フラクトライトをこんな大々的に公表しちゃって? これじゃあ、無人兵器搭載計画のほうは完全におじゃんッスよ、菊さん」
「いいのさ。要は、それが可能であるということさえ、アメリカ側に伝わればいいんだ」
アサルトライフルの5.56ミリ弾にボディアーマーごと脇腹を貫かれながらも、運よく臓器の損傷を免れ比嘉より早く回復してのけたラース指揮官・菊岡誠二郎は、にやっと笑ってみせた。
「これで向こうの兵器メーカーも、共同開発をタテに技術公開をゴリ押すようなマネは出来なくなる。なんせ、もう人工フラクトライトは完璧に完成してしまっているわけだからね。この会見を見れば、連中も理解せざるを得ないだろう。いやまったく……アリスの美しさは……人以上じゃないかい……」
テレビ画面に再び映し出されたアリスの映像を見上げ、菊岡はサングラスの下の細い目を眩しそうに瞬かせた。
「そうッスね……まさしく、アリシゼーション計画の結晶ッスね……」
しばし、並んで沈黙を続けながら、比嘉は頭の片隅で考えた。
そういえば――ラースが実現を目指した”高適応性人工知的存在”、頭文字を取って”A.L.I.C.E.”の完成形であるあの少女が、アンダーワールドでもアリスの名を与えられて育ったというのは、結局奇跡的な偶然に過ぎなかったのだろうか?
もし偶然でなければ、そこにどのような理由が存在し得るだろう。あの柳井のように、ラーススタッフの誰かが秘かに内部に干渉した結果なのか? あるいは……スタッフ以外に、たった一人アンダーワールドにログインした、彼の……。
思考を止め、比嘉は振り向くと、広い部屋の奥に並ぶ二台のSTLを見やった。
わずか二ヶ月前、まだアンダーワールドが単なる試行実験のひとつでしかなかった頃、三日間に及ぶ連続ダイブに使用したのと同じ機械に、彼――桐ヶ谷和人は再び横たわっている。
左腕には輸液用インジェクター。胸には心電モニタ用電極。瞼の閉じられたその顔は、オーシャンタートルから搬送されて以来三週間に渡って続く昏睡のあいだに、いっそう肉が落ちてしまったようだ。
しかし、寝顔は穏やかだった。口元には、満足感すら漂っているように見える。
それはすぐ隣で眠りにつく、ひとりの少女――結城明日奈も同じだった。
二人のフラクトライト活性は、STLによって常時モニタリングが続けられている。
脳から、あらゆる反応が消えてしまったわけではない。もしフラクトライトが完全に自壊していれば、呼吸すらも停止してしまうはずだ。しかし、精神の活動は極限まで低下し、もはや回復の望みは断たれつつある。
それも当然なのだ。和人と明日奈は、あの限界加速フェーズのあいだに、二百年に迫る膨大な時間を体感したはずだ。わずか二十六年しか生きていない比嘉には、その質量を想像することもできない。フラクトライトの理論限界を大きく超える年月を経てなお、心臓がまだ動いていることがすでに奇跡と言っていい。
二人の保護者に対する説明と謝罪は、六本木に移送されてすぐに比嘉と神代博士によって行われた。ラースの実体が一部自衛官と国防関連メーカーの有志技術者で構成されていることを除けば、ほぼ全ての真実を明らかにしたつもりだ。
桐ヶ谷和人の両親は、涙を見せはしたものの取り乱すことはなかった。すでに、妹からおおまかな事情を聞いていたせいもあったのだろう。問題は、結城明日奈の父親だった。
何といっても、あの巨大企業・レクトの前代表取締役社長なのだ。立腹は凄まじく、即日告訴に踏み切らんばかりの勢いだったが、意外なことにそれを止めたのは母親だった。
大学教授であるという明日奈の母は、眠る娘の髪を撫でながら言った。
――私は娘を信じています。娘は、私たちに黙って消えてしまうようなことは絶対にしません。必ず、元気に帰ってくるはずです。だから、あなた、もう少し待ちましょう。
今頃、二人の両親も、記者会見の中継を見ているだろう。彼らの子供たちが懸命に守りぬいた、新たな人類の姿を。
アリスが――人工フラクトライトが現実世界に堂々と踏み出したこの記念すべき日を、悲しみで彩るわけにはいかない。
だから、どうか……目を醒ましてくれ。キリト君。アスナさん。
俯き、そう祈る比嘉の腕を、突然菊岡が肘でつついた。
「おい、比嘉くん」
「……なんスか、菊さん。今ちょっと集中してるんスけど」
「比嘉くんって。あれを……あれを見ろ」
「会見なら、もうだいたい終わりでしょう。記者の質問も、ほぼ予想の範囲内……」
呟きながら顔を上げた比嘉は、ラムネ容器を握る菊岡の腕が、中継画面ではなく右側のサブモニタを指していることに気付いた。
そこに表示されている二つのウインドウは、二台のSTLのリアルタイムモニタ情報だ。
黒い背景に、ぼんやりと薄い白色のリングが浮かんでいる。微動だにしないその朧な輝きが、眠る少年少女の魂の残光を……
ぴくん。
と、ごくごく小さなピークが、リングの一部から突出し、すぐに消えた。
比嘉は眼鏡の下で激しく瞬きし、喉をつまらせて喘いだ。
広大な記者会見場には、再び神代博士の声が響いている。
「……長い、長い時間が必要でしょう。結論を急ぐ必要はありません。今後、新たなプロセスを経て誕生してくるはずの人工フラクトライトたちと、仮想世界を通じて交流し、感じ、考えてほしい。それが、当機構がこの放送をご覧の皆様に望むただひとつのことです」
演説を終え、博士が着席したが、拍手は無かった。
記者たちの顔には、なおも戸惑いだけが色濃く浮かんでいる。
すぐに、次の質問者が手を挙げ、起立した。
「博士、危険性についてはどのようにお考えですか? つまり、AIたちが、我々人間を絶滅させて地球を支配しようと考えることが、絶対にないと言い切れるのですか?」
ため息を押し殺すように、神代博士が回答する。
「ただ一つの場合を除けば、有り得ません。その可能性があるのは、我々のほうから彼らを絶滅させようとした時だけです」
「しかし、昔から多くの小説や映画では……」
無為な質疑が続こうとしていたその時、突然、着席していたアリスががばっと立ち上がった。質問者が気圧されたように体を引く。
蒼い眼を見開き、まるで遠い音に耳を澄ませるかのように視線を虚空に彷徨わせたアリスは、数秒後、短く発言した。
「急用が出来ました。私はここで失礼致します」
そして、長い金髪を翻し、機械の身体が出せる最大の速度でステージの袖へとたちまちその姿を消してしまった。
記者たちも、テレビの前の無数の視聴者も、一様に唖然と黙り込んだ。
急用――と言ったが、この会見以上に重要なことがあるのだろうか?
壇上にひとり残された神代博士も、さすがに驚いた様子だったが、やがて何かに思い至ったように数度瞬きした。大きく息を吸い、吐いたその口元に、かすかな微笑がよぎったのに気付いた記者は居なかった。
見間違いではない。
ふたつのフラクトライトモニタに同時に発生したパルスは、およそ十秒にいちどというゆっくりした周期ながら、着実に、確固として、そのピークを高めつづけている。
「き……菊さん!」
比嘉は喘ぎながら、背後のSTLに向き直った。
和人と明日奈の寝顔に、変化はない。
いや――。
見つめるあいだにも、紙のように白い二人の頬に、少しずつ、少しずつ血の色が蘇っていく。心臓の拍動が強まりつつあるのだ。監視装置の表示は、体温も僅かずつ上昇中であることを告げている。
期待していいのだろうか。二人が、何らかの奇跡によって覚醒、否、魂の死から蘇生しようとしているのだと。
それからの十分間は、比嘉にとってはかつて覚えのないほど長く感じられる時間だった。
施設内の手の空いているスタッフを招集し、あれやこれや準備させる間にも、頻繁にモニタを見上げては二人のフラクトライトが正常状態に近づいていくのを確かめた。そうしないと、虹色に脈打つ放射光が、幻のように消え去ってしまうのではないかと懼れたのだ。
飲料水だのタオルだの思いつくかぎりの用意が整い、もう待つしかすることがなくなった頃、STL室のドアがスライドし、予想もしなかった姿がそこに現れた。
比嘉と菊岡は、同時に叫んだ。
「あ……アリス!?」
六本木ヒルズで世紀の記者会見中であるはずの制服姿の少女は、四肢のアクチュエータを音高く駆動しながらSTLに走り寄った。
「キリト! ……アスナ!!」
かすかに電子的な響きのある声で二人の名を呼び、ベッド型シートの傍らにひざまずく。
比嘉は、見開いた眼を、おそるおそるテレビの中継放送に向けた。画面はスタジオに切り替わっており、キャスターが急き込むように、突然会見の主役が消えてしまったことについてコメントしている。
「…………まぁ、神代博士がなんとかしてくれるさ」
菊岡が強張った笑顔でそう呟き、テレビ画面を消した。
確かに、いまは会見どころではない。比嘉は、アリスの後ろまで歩み寄ると、じっと金髪の少女のようすを見守った。
アリスは、ライトキューブ・パッケージ内で休眠した状態で、オーシャンタートルからここラース六本木分室まで運ばれた。そして、人工フラクトライト搭載用マシンボディ完成体の頭蓋内に封入され、リアルワールドにおいて目覚めたのだ。
記者会見で彼女自身が語ったとおり、見知らぬ異世界に突如放り出された衝撃は、大変なものがあっただろう。激変した環境に、たった三週間で適応し得たのは、なにより強い決意があったからに違いない。つまり――”アスナ”と”キリト”に、再び会うのだ、という。
いま、ついにその時が来たのだ。
アリスの両手が、かすかなモーター音とともに持ち上がり、ジェルベッドに乗る和人の右手を包んだ。
骨ばった指が、わずかにぴくりと動いた。
伏せられた睫毛が震える。
唇が小さく開き――閉じ――また開き――。
瞼が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。やや絞られた照明を受けて、黒い瞳が透き通った光を放った。
その眼に、まだ意志の動きは見えない。早く、はやく何か言ってくれ、と比嘉は念じた。
より大きく開かれた唇から、掠れた呼吸音が小さく漏れる。やがてそれは、声帯の震動を乗せて、声となる。
「…………ィ…………ディル…………」
比嘉の背筋に、氷よりも冷たいものが走った。その響きは、崩壊するフラクトライト・コピーが放つ奇怪な叫びと、とても、とてもよく似て……
いや。
「……ビー……オー……ライ」
続いたのは、異なる音だった。
It will be alright。和人は、そう言ったのだ。間違いなく。
しんと静まり返った室内に、もうひとつの声が穏やかに流れた。
「Sure」
応えたのは、隣のSTLで同じく瞼をうっすらと開いた明日奈だった。
二人は一瞬瞳を見交わし、かすかに頷きあい。
そして、顔を反対方向にむけた和人が、自分の手を握るアリスの顔を見て、微笑んだ。
「……やあ、アリス。久しぶりだね」
「…………キリト。……アスナ」
アリスが囁き声で名を呼び、同じく微笑み、激しく瞬きを繰り返した。まるで、涙を流す機能がないことを悔やむように。
和人は、そんなアリスに、慈しむような視線を向けながら続けて言った。
「アリス。君の妹、シルカは、ディープ・フリーズ状態で君の帰りを待つ道を選んだ。カセドラル八十階、あの丘の上で、いまも眠りについている」
「…………!!」
アリスの身体が激しく震え、金髪が揺れた。
ゆっくりとベッドに上体を沈み込ませたアリスの肩に手を沿え――。
和人は、はじめて菊岡と、そして比嘉の眼をまっすぐに見た。
その瞬間、比嘉の精神の奥底に、不思議な感覚が弾けた。感動、ではない。興味でもない。これは……畏怖?
闇のように黒い桐ヶ谷和人の瞳の奥にある何かが、比嘉を慄かせた。
二百年。
無限に等しい年月を経た魂。
凍りつく比嘉に向かって、和人が言葉を発した。
「さあ、早く、俺とアスナの記憶をデリートしてくれ。我々の役目は、もう終わった」
ふ、と目が醒めた。
いつものように、僅かな戸惑いをまず感じる。ここは何処(どこ)で、いまは何時(いつ)なのだろう、という。
しかし、その違和感も、日ごと日ごとに薄れていく。それはつまり、とどめようもなく過去が過去となっていきつつある、ということなのだろう。悲しく、寂しいことだが。
壁の時計をちらりと確認する。
午後四時。昼食後のリハビリを終え、シャワーを浴びたあと、一時間半ほど眠ってしまったらしい。
病室には、白いカーテン越しに差し込む夏の残照が、くっきりとしたコントラストを作り出している。耳を澄ませば、どこか遠くで鳴くセミの声が、かすかに届いてくる。それに、様々な機械と無数の人間が作り出す、都会の喧騒も。
俺は、身体を起こすと、ベッドから降りた。
さして広くもない個室を横切り、南向きの窓まで移動する。両手で、いっぱいにカーテンを開く。
強烈な西日に眼を細めながら、眼下に広がる巨大な都市を無心に眺める。膨大なリソースを消費し、複雑かつ激しく活動し続けるリアルワールド。俺の属する世界。
還ってきたのだ――という感慨と、ほとんど同じ質量で、還りたいとも思ってしまう。いつか、この哀切な望郷の念も消えてなくなるときが来るのだろうか。
立ち尽くす俺の耳に、穏やかなチャイムの音が触れた。振り向きながら、どうぞ、と応えると、ドアがスライドして来訪者の姿が現れた。
長い栗色の髪を、二本に細く束ねている。白いカットソーと、夏らしいアイスブルーのフレアスカート。ミュールも白。
陽光の粒子が残留しているようなその出で立ちに、思わず眼をしばたく。
ほんの三日前、一足先に退院したアスナは、右手に持った小さな花束を振りながらにこっと笑った。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「いや、俺もたった今起きたとこ」
笑みを返し、病室に歩み入ってきたアスナを軽く抱擁する。
すると、アスナの左手が俺の腕や背中をさささっと撫でた。
「うーん、まだ標準キリトくんの九割くらいかなー。ちゃんと食べてる?」
「食べてる、食べまくってる。仕方ないよ、二ヶ月も寝たっきりだったんだからさ」
苦笑とともに身体を離し、俺は肩をすくめる。
「それより、俺も退院の日が決まったよ。明々後日(しあさって)だって」
「ほんと!?」
ぱっ、と顔を輝かせ、アスナは既に満杯の花瓶に歩み寄りながら続けた。
「じゃあ、どーんと快気祝いしないとねー。まずALOで、そのあとこっちでも」
手早く花瓶の水を換え、萎れた花を除いてから、携えてきたペールパープルの薔薇二輪を加えてサイドボードに戻す。
俺はしばし、その青に近づこうと頑張っているかのような色の花たちを見つめてから、そうだな、と相づちを打った。
ベッドに腰を下ろすと、アスナも隣にきて、ちょこんと座る。
再び訪れる郷愁。しかし、さっきのように胸を刺す鋭い痛みは無い。
身体をもたれさせてくるアスナの肩を抱き、俺は意識を記憶の彼方に彷徨わせる。
あの日――。
限界加速フェーズに突入したアンダーワールドに取り残された俺とアスナは、花咲き乱れる”世界の果ての祭壇”を飛び立ち、漆黒の砂漠や、赤い奇岩の群れを超えて、まず古代遺跡戦場に留まっていた人界守備軍と合流した。
その地に、すでにリーファやシノン、クライン、リズたち現実世界からの援軍の姿は無かった。再加速と同時に自動的にログアウトしたのだ。
俺は、泣きじゃくるティーゼとロニエをいたわってから、齢若い整合騎士レンリを紹介された。彼とともに部隊を再編し、北への路をたどり、”東の大門”まで帰還した。
その地に残っていた騎士団副長ファナティオ、騎士デュソルバートと緊張感のある再会を果たした俺は、初対面となる整合騎士シェータから、暗黒界軍の臨時総大将イシュカーンなる人物のメッセージを受け取った。
暗黒界軍は一度はるか東の帝城まで引き上げ、戦に生き残った将軍たちで体制を再編し、一ヵ月後に人界軍との和議の席を持ちたいということだった。自ら大使の役を買って出たシェータが、灰色の竜に乗って東へ飛び去るのを見送ったあと、人界守備軍の全部隊は央都セントリアへの帰途についた。
道々の街や村の住民たちは、なぜかもう戦が終わり、平和が訪れたことを知っており、守備軍は大変な歓声に送られることとなった。
セントリアに到着してからは、それはもう目の回るような日々だった。
ベルクーリ亡きあとの最高位騎士であるファナティオを手伝って、神聖教会の立て直しやら戦争で犠牲となった衛士の家族への補償などに忙殺され、あっという間に一ヶ月が過ぎ――。
再び東の大門を挟んで開催された、人界・暗黒界の和議交渉の場で、俺とアスナは向こうの総大将イシュカーンと邂逅した。
俺より若い、燃えるような深紅の髪の戦士は、その場で俺に言ったのだ。
――おめぇが、皇帝ベクタを斬ったつう、”緑の剣士リーファ”の兄貴か。
――疑うわけじゃねぇが、一発試させろ。
そして俺とイシュカーンは、なぜか和平会議の席で互いの頬を思い切りどつき合い……彼は、何かに納得したように頷くと、俺に告げた。
……確かにおめぇは、皇帝より、そして俺より強ぇ。だから、癪だが、認めるぜ……おめぇが、最初の…………だと…………
そのあたりで、俺の記憶はぷっつりと途切れる。
次のシーンではもう、STLの中で目を開けた俺に、ラースの比嘉さんが『記憶の消去、無事に完了したッスよ』と声を掛けている。
博士によれば、俺とアスナは、あの和議が成立した日から、二百年近くもアンダーワールドで活動を続けたはずだという。しかし、そんな膨大すぎる年月のあいだに、いったい何をしていたのかはまったく思い出せない。恐ろしいことに、ラース六本木分室で覚醒後、俺が比嘉タケル・菊岡誠二郎両名と交わしたという会話すら完全に忘れているのだ。
それは、アスナも同様らしい。
しかし彼女は、いつものほにゃっとした笑顔で言ったものだ。
――キリトくんのことだから、どーせ色んなもめ事に首つっこんだり、あちこちの女の子から逃げ回ったりしてたに決まってるよー。
そう言われると無理に思い出そうという気にはならないが、しかしやはり哀切な寂寥感だけは消すことができない。
なぜなら、いまこの瞬間も等倍比率で稼動しつづけているはずのアンダーワールドにはおそらくもう、ファナティオやレンリたち整合騎士、イシュカーンたち暗黒候、それにロニエとティーゼは、生きていないのだ……。
不意に、俺の心を読んだように、アスナが呟いた。
「だいじょうぶ。記憶は消えても、思い出は消えないよ」
そうさ、キリト。泣くなよ……ステイ・クール。
耳の奥で、懐かしい声がかすかにこだまする。
そうだ。思い出は、脳の記憶野だけに保存されるものではない。全身の細胞に広がるフラクトライト・ネットワークに、しっかり刻み込まれているのだ。
俺は、滲みかけた涙をぎゅっと振り落とし、アスナの髪を撫でながら応えた。
「ああ。きっと……いつかまた、会えるさ」
穏やかな静謐に満ちた時間が、数分続いた。
白い壁に落ちる西日が、徐々にその色あいを濃くしていく。時折、ねぐらに帰る鳥たちの影が、さっと横切る。
沈黙をやぶったのは、再びのチャイムだった。
俺はわずかに首をかしげた。この時間に面会の予定は入れていないはずだ。やむなくアスナの肩から手を離し、声を出す。
「どうぞ?」
しゅっ、とドアがスライドすると同時に、懐かしくも小憎らしいあの声が響いた。
「やあやあ、ようやく退院だってね! こりゃパーっとやらないとね。……っと、おや、こりゃあお邪魔しちゃったかな?」
俺はため息混じりに言葉を返した。
「……なんでさっき先生に聞かされたばっかりの退院予定をアンタが知ってるのかは追及しないでおくよ、菊岡さん」
元総務省仮想課職員にして元二等陸佐、偽装企業ラースの潜伏指揮官・菊岡誠二郎は、先日の悪趣味なナリとは打ってかわった出で立ちで、するりと病室に入ってきた。
真夏だというのに高級そうなスーツの上下をびしっと着込み、ネクタイまできっちり締めている。短い髪をていねいに撫でつけ、フレームレスの細い眼鏡をかけた顔には汗の玉ひとつ浮いていない。
どの方向から見ても、外資系企業のエリートビジネスマン然としたその姿を、あのニカニカ笑いと右手に下げた安っぽい紙袋が裏切っていた。
菊岡は、その袋をひょいと持ち上げながら言った。
「これ、差し入れ。キリト君には体力つけてもらわないとだからねぇー、何にしようか随分迷ったんだけど、凜子博士が頼むから市販品にしてくれって怖い顔で言うからさ。でも、元気回復には発酵食品、これだけは譲れないからね、色々詰め合わせてきたよ。まず琵琶湖のフナズシね、今はニゴロブナが獲れないから買おうったってなかなか買えないんだぜ。それと沖縄のトウフヨウ、これで泡盛の古酒やると最高だよ。そして究めつけがこのチーズ、と言ってもただのチーズじゃない、フランス直輸入の泣く子も黙るウォッシュタイプの逸品、かのエポワスだよ! 毎日酒で洗いながら長期熟成させるうちに、表面でステキな微生物ががんがん繁殖して、ちょっとのけぞるほどの芳しい香りを……」
「冷蔵庫」
俺は菊岡がうっとりした顔でまくし立てる長広舌をばっさり切り、病室の隅を指差した。
「へ? なんだい?」
「差し入れ、ありがとう。冷蔵庫、そこ」
「ええー、開けようよ」
「この部屋の窓、嵌め殺しなんだよ! そんなもの開けたらどうなると思ってんだ」
すでに紙袋からはそこはかとない芳香が漂い、アスナが口元を覆いながらじりじり後退していく。菊岡は心底残念そうな顔で、差し入れを冷蔵庫に仕舞うと、来客用に椅子に腰を下ろした。
すぐに眼鏡の奥にいつもの笑みを浮かべ、組んだ膝の上で両手の指先を合わせる。
「いや、しかし本当によかった。考えてみるとキリト君は、先々月に”死銃事件”の共犯者に襲われて負傷して以来、肉体的にはずっと昏睡状態だったんだからねえ。たった十日のリハビリで、そこまで元気になるとは流石だねえ」
「あー……まあ……お世話になりました、と言うべきなんだろうな……」
俺は、窓に背中をもたれさせ、腕組みしながら唸った。
襲撃事件で心停止に陥り、脳機能を損なった俺が回復したのは、STLによるフラクトライト賦活治療あってのことだ。しかしこの男は、そのために俺を入院先の病院から救急車を偽装してまで非合法に拉致し、ヘリではるばる南洋のオーシャン・タートルまで空輸してしまったのだ。
正規の手続きを取れなかった事情は分かる。俺のSTL治療は一刻を争っただろうし、ラースとSTLは存在を明らかにできない極秘実験のための組織・設備だ。むしろ、俺を助けるためにそこまで危ない手に打って出た菊岡には全面的に感謝していい。
――のだが。
「……なぁ、菊岡さん。俺が二度目にアンダーワールドにダイブしたとき、記憶ブロックが働かずに、今の俺のまま森で目覚めたのは、本当に予定外の事故だったのか?」
「勿論だ」
菊岡は、笑みを薄めて頷いた。
「あの時点で、現実世界の君をそのままアンダーワールドに投下する意味はまるで無かった。シミュレーションが歪曲してしまうからね。まぁ実際には、歪曲というよりも、すでに汚染されていた世界を君が軌道修正してしまったわけだが……」
「まさか、ラースにあの須郷の部下が潜り込んでたとはなぁ」
ちらりと、隣に立つアスナを見やる。
先ほどとは別種の嫌悪を滲ませ、むき出しの両腕を掌で覆いながら、アスナは呟いた。
「あのナメクジ男のいる部屋の隣で、何時間も完全ダイブしてたと思うとぞっとするよー。その上、比嘉さんを撃つなんて……ほんとは、ちゃんと捕まって、裁かれてほしかったけど……」
「だが、あの死にかたは、むしろ幸運だったのかもしれんよ」
菊岡が静かに言葉を引きついだ。
「もしあの男……柳井が首尾よく襲撃者たちと合流し、アメリカに脱出していたとしても、クライアントだったグロージェンMEが口約束を守ったとは思えない。むしろ、STLと人工フラクトライトに関する知識を手段を選ばず吐き出させたあと、あっさり処分しただろうね。アメリカ軍事企業のダークサイドは、一個人が渡り合えるような相手ではないのだ」
「アンタが、自分の死まで演出したのもそれが理由か?」
「まぁ、ね」
己の言葉を反証するがごとく、単身で巨大な敵に挑み続けている男は、にかっと笑って両手を広げた。
その飄々とした仕草に、アスナが気遣わしそうな声をかける。
「でも……大丈夫なんですか、自衛官の身分まで捨てちゃって? ご家族とか……どうなさってるんです?」
言われてみれば、俺は菊岡の私生活についてはまるで知らない。自宅の場所、家族の有無……それどころか、この謎めいた男が自衛官だと知ったのもごく最近のことなのだ。
菊岡は、すぐには答えなかった。
めずらしく、迷うように視線を窓の外の夕景に彷徨わせている。
数秒後、錆びのある深い声が、静かに告げた。
「心配してくれて有難う。大丈夫、私に親兄弟はいない。ほんの赤ん坊だった頃に、旅客機の墜落事故で皆死んだ」
俺とアスナは、返す言葉もなく絶句した。
菊岡が赤ん坊だった頃、というと、1980年代だろうか。確かに、大きな航空機事故があった記憶がある。墜落原因は、公式に断定されたあとにも異論が絶えない。その中にはたしか――戦闘機によるミサイル誤射、というものもあったはずだ。
静寂のなか、菊岡が不意に顔をあげ、いつもの笑みとともに手を振った。
「や、すまん、こんな話をされても反応できないよね。気にしないでくれ、というか、そんな心配そうな顔をしなくてもいいよ。何と言えばいいのか……うむ、そう、これからも、僕の戦いはまだまだ続く! ……んだからさ」
この男一流の韜晦芸に、アスナがかすかな笑みを蘇らせる。
「……これから、どうなさるんですか? ラースの公式責任者は、凜子博士に委任なさったし、あまり六本木分室に顔も出せないでしょう?」
「言ったろう? 僕にはまだまだ、すべきことがある。当面は……オーシャンタートル、いやアンダーワールドの保全に、全力を傾けねば」
俺は、もっとも尋ねたかった話題が突然出て、思わず身を乗り出した。
「そう、それだよ。アンダーワールドは今後、どうなるんだ……?」
「……情勢は、とうてい楽観はできない」
菊岡は、長い脚を組み替え、僅かに瞑目した。
「オーシャンタートルは現在、襲撃当時の海域にそのまま停泊・封鎖されている。船内には、わずかに原子炉監視用のスタッフが数人残るのみだ。海域は厳重に警備され、誰も近づけない……と言えば聞こえがいいが、要は保留中なのだ。国も、決断しかねているんだよ」
「保留……?」
「本音を言えば、政府はすぐにでもラース、いや海洋資源探査研究機構を解体し、人工フラクトライト関連技術を直接管理下に置きたいだろう。何せ、大量生産すれば、超低コストの労働力がいくらでも生み出せるんだからね。中国の大規模工場でも太刀打ちできないほどの。ただ、それをすれば、あの襲撃占拠事件の真相までも明らかになってしまう。事件の黒幕が米軍事企業で、しかも裏金を貰ってイージス艦を凍結させていたのが現役の防衛事務次官だ、という大スキャンダルがね。金は、一部の与党代議士にも流れていた。そいつらは、国内の大手兵器メーカーとも癒着している。これらが丸ごと暴露されれば、政権の屋台骨が揺らぐ」
威勢のいい言葉のわりには、菊岡の表情は憂慮に満ちている。
「揺らぐ……だけか?」
「そう、そこだ。揺らぐが、ひっくり返るまでは行かないだろう……。政府与党はいずれ、事務次官と議員数名を切り捨てる決断を下すはずだ。同時にラースは解体され、関連技術はすべて財閥系の大企業に持っていかれる。アリスは接収、オーシャンタートルのライトキューブクラスターも初期化は避けられない……」
「そ……そんな!」
アスナが鋭く叫んだ。ヘイゼルの瞳に、ちかっと怒りの火花が瞬く。
俺は、彼女の腕に指先を触れさせ、菊岡にその先を促した。
「その事態を避けるための策も、もうあんたの頭の中にはあるんだろう?」
「策……と言うよりも、希望、かな」
菊岡の口元に、珍しく素直な笑みが滲んだ。
「望みは、残された時間のあいだに、我々に有利な世論が形成される……という一点にしかない。つまり、人工フラクトライトに人権を認める方向のね。そのためには、現実世界の人々に、少しでも多く、長く、人工フラクトライトたちと交流して貰わねばならない。ザ・シード連結体の存在意義は、まさにそこにあったのだろう」
「……そう……だな」
「しかし、アンダーワールド人がリアルワールドに接続するための恒久経路の存在が大前提だ。現在、オーシャンタートルが使用していた衛星回線は、国によって切断されてしまっている。僕はこれから、回線の復旧を目指して動く。記者会見では、まずは先手を打てたからね。いましばらくの時間はあるはずだ」
「回線か……」
俺は、ちらりと窓の外に広がるオレンジ色の空を見上げた。
あの夕焼けの向こうでは、無数の通信衛星がそれぞれの軌道を飛翔している。しかし、アンダーワールドと交信できるほどの大容量回線を備えたものとなると、数はそうとう限られるはずだ。菊岡のプランが、とてつもなく困難なものであることは、考えるまでもなくわかる。
しかし、もう事ここに至ってしまえば、一介の高校生に過ぎない俺にできることはない。信じて、託すしかないのだ。
俺は視線を戻すと、一歩進み出て、頭を下げた。
「菊岡さん……頼む。アンダーワールドを、守ってくれ」
「言われるまでもないよ」
菊岡も立ち上がり、にっと笑った。
「僕にとっても、アンダーワールドは今や、人生を賭けた夢なのだ」
素敵な差し入れの紙袋だけを残し、菊岡誠二郎は来たときと同じく一陣の風のように立ち去った。
アスナが、ふう、と短く息をついて言った。
「態度も言葉も、すごーく立派で頼もしいんだけど……なぜか裏があるような気がしちゃうとこが、菊岡さんの人徳よね……」
「当然あるだろう、何枚重ねで」
俺は短く笑い、ベッドに腰を下ろした。
「ああ言ってるけど、菊岡さんはまだ諦めてないよ。自衛隊に、人工フラクトライト搭載型国産戦闘機を配備することを」
「え……ええ!?」
「勿論、無理やりAIとして組み込むようなことはもうしないだろうさ。だけど、アンダーワールド人に、自発的に就職してもらったらどうだ? 整合騎士や暗黒騎士は、そもそも生まれついての戦士なわけだし」
「あ……そっか……うーん」
何やら考え込むアスナと同時に、俺も推測の先をたどる。
菊岡の出自と、動機。その先にあるものは、もしかしたら、俺が考えていたよりもはるかに途轍もないものなのではないか?
ことによると、日本国内の、米軍基地の全廃……というような……。
あれこれ思考を彷徨わせていると、不意にアスナが叫んだ。
「あ、いっけない! もうこんな時間だよ!」
「ん? 面会時間は、まだ……」
「そうじゃなくて、今日これからだよ。ALOの、全種族会議!」
「あ……そうだった」
俺もぱたんと指先を打ち合わせる。
先月の、オーシャンタートル襲撃事件において。
敵が繰り出した、国外からのVRMMOプレイヤー大量投入という策に対抗するために、日本国内のALO他のプレイヤーたち約三千人が、キャラクターコンバートによって決死の救援を行った。結果彼らは、わずか数百人を残してほぼ全滅し、精神的にも深いダメージを受けたのだ。
今日はその、言わば義勇軍に参加した人たちへ事実報告を行うための会議が大々的に開催されるのである。俺とアスナは、当事者中の当事者として当然参加せねばならない。
「うーん、家まで帰ってる時間無いかなー」
どこかわざとらしく呟くと、アスナは持参したトートバッグから、ずるっとアミュスフィア一式を取り出した。
「しょーがない、わたしもここでダイブしよっと」
「…………」
俺はぱちぱち瞬きし、思わずつっこむ。
「……あのーアスナさん、どう見ても最初っからそのつもりで……」
「ちがうよ、念のためだもん。細かいこと気にしない!」
一瞬唇を尖らせてから、にっこり笑い、突然俺にかぶさるようにベッドに倒れこんできた。
看護師さんが検温にでも来たらえらいこっちゃ、と思いつつ、俺も細い腰に腕を回し、ぎゅっと引き寄せた。
しばし、静寂のなかに互いの息遣いだけが響く。
アンダーワールドに取り残された俺とアスナが、フラクトライトの限界を遥か超える二百年という時間を、どのような手段で乗り越えたのかを知るすべはもう無い。
あるいは、アドミニストレータのように長い時間を眠って過ごしたのかもしれないし、内部からのSTL操作によって己の記憶を整理し続けたのかもしれない。しかし、これだけは断言できる。アスナが傍にいてくれたからこそ、俺は俺のままこの世界に戻ってこられたのだ。
触れあう肌を通して、アスナの声が聞こえる気がした。
――どんな世界に行っても。どれだけ時間が経っても。
――いつでも、一緒だよ……。
「……ああ、そうだな」
俺は肉声で呟き、微笑むアスナの髪を撫でてから、アミュスフィアをそっと被せた。
ハーネスをロックしてやってから、自分も同じように装着する。
瞳を見交わし、小さく頷き合って、俺たちは同時にコマンドを唱えた。
「リンク・スタート」
「パパー!!」
ログインした途端、勢いよく飛びついてきた小さな姿を、両手で受け止める。
高々と持ち上げてから胸に抱くと、ネコのように喉声を篭もらせながら、頬を摺り寄せてくる。
ユイとは、アミュスフィアの使用が許可された一週間前から、毎日会っている。なのに、甘えん坊の度合いは増すいっぽうな気がする。
しかしもちろん、叱るつもりなどまったく無い。何と言っても、ユイは失踪した俺の居場所を追跡したり、オーシャンタートルを襲撃した連中が他国のVRMMOプレイヤーを利用することを予測して対抗手段を講じたりと、獅子奮迅の大活躍だったのだ。
ひとしきり甘えて満足したのか、白いワンピース姿が光の粒に溶けて消滅し、かわりに掌サイズのピクシーが出現した。透明な翅を震わせて舞い上がり、俺の左肩の定位置にちょこんと腰掛ける。
俺は、改めて、”我が家”――ALO内新アインクラッド18層の、森の家を見回した。
こちらも、毎晩のように訪れているのに、こみ上げてくる懐かしさは薄れる気配もない。
あるいはそれは、アンダーワールドでアリスとともに半年を過ごした、ルーリッド近郊の小屋とどこか似ているせいかもしれない。当時、俺はほぼ活動停止中だっため記憶は不明瞭だが、しかし穏やかな日々の手触りだけは、いまも鮮やかに染み付いたままだ。
あの頃、毎日のように食べ物を持ってきてくれたアリスの妹シルカは、アリスと再び出会うために己を完全に凍結する選択をしたという。記憶を消去する前の俺は、それだけをアリスに伝えたそうだ。
以来アリスは、言葉には出さないが、再びアンダーワールドに還れる日を心待ちにしている。俺も、早くその望みを叶えてやりたいと思う。だが、今はまだ、遥か南洋のオーシャンタートルにまで繋がる回線そのものが存在しない。
俺は、かすかな吐息に物思いを紛らせ、ユイを肩に乗せたまま振り向いた。
まるで、俺の感慨をすべてお見通しというふうに微笑む水色の髪のアスナと、手を繋いで家を出る。
アルヴヘイムは、夜闇が薄れつつある時刻だった。外周から差し込む曙光を、広げた翅にいっぱいに受け、ふわりと飛び立つ。
世界樹の根元、大ドームの周囲には、すでに多くのプレイヤー達が集結していた。
俺は、その一角にいつもの顔ぶれを見出し、勢いよく降下した。
「遅っせえぞ、キリト!」
着地と同時に繰り出されてくるクラインの拳に、軽く自分の拳を打ちつける。
相変わらず悪趣味なバンダナの下にニヤニヤ笑いを浮かべ、カタナ使いはからかうような口調で続けた。
「ここじゃあ瞬間移動はできねーんだから、もうちっと余裕持って来いよな、勇者サマよう」
「うっせ。あれは瞬間移動じゃなくて、光速飛行なんだよ」
「一緒だよ一緒!!」
盛大に背中を叩かれる。
その隣で、腕組みをして立つエギルも、巨大なげんこつを伸ばしてきた。ごつんと挨拶を交わすと、こちらも髭面をにんまりと崩しながら追い討ちをかける。
「あんな超性能のアカウントに馴れちまったら、こっちじゃ大分弱まってるんじゃないのか? 会議の後、軽くモンでやってもいいぞ」
「うぐ……」
思わずぎくっとなる。今ここで戦闘したら、心意攻撃や防御ができないことを忘れて、気合だけで剣を弾こうとしてしまいそうだ。
「……こ、こっちこそアンダーワールド仕込みのワザを見せてやるから期待しとけよ」
とりあえず強がっておいてから横を向くと、そこには黄緑色のポニーテールを揺らすリーファと、肩に長大な弓をひっかけたシノンの笑顔があった。順番に、掌を打ち合わせて挨拶する。
二人とは、もちろん覚醒直後から何度も対面している。
リーファ……直葉からは、オークの族長リルピリンを助け、ともに戦った顛末を聞かされた。「がんばったな」と頭を撫でると、顔をくしゃくしゃにして泣いたその姿からは、ダークテリトリーの将兵たちに強烈な印象をのこす”緑の剣士”の鬼神めいた闘いぶりはなかなかイメージしにくい。しかし、同時に俺は深く納得もしていた。何と言っても、直葉は俺がドロップアウトした剣の道をわき目も振らず突進し続ける、真の剣士なのだ。
オークの一族は、講和会議の場で、彼らを初めて人間と呼んでくれた緑の剣士の再臨を、未来永劫待ち続けると宣言していた。その意志は、二百年が経過したのちにも、まったく変質することなく伝えられているに違いない。
シノンは、ガブリエル・ミラーとの単独戦闘の模様を淡々と俺に語り、あの男こそがGGOの個人戦でシノンを倒したサトライザ当人だったことを明かした。ガブリエルの心意攻撃によって麻痺させられ、危うく意識を吸収されかかったところを、”お守り”が護ってくれたのだという。
それが何なのかはどうしても教えてくれなかったが、俺もシノンにガブリエルとの戦いの帰趨と、そして現実世界であの男を襲った末路を伝えた。
襲撃者たちが撤退したのち、第一STL室に、ガブリエルとそしてもう一人の敵たるラフィン・コフィン頭首PoHの姿はなかったが、STLのログからある程度のことは分かっている。まずガブリエル・ミラーは、俺との戦闘の直後、フラクトライトの大部分がまるで過大な情報に押し流されるように脳から喪失。直後に心臓も停止し、死亡したことは確実だ。
PoHのほうは、もうすこし複雑らしい。奴は、限界加速フェーズ開始後も、内部時間でおおよそ十年間は精神活動を保持していた。その後、徐々にフラクトライト活性は低下し、三十年経過の時点で知的活動はほぼ消失したようだ。
これは恐ろしい想像なのだが、俺はPoHと戦ったとき、奴が死亡ログアウト・再ログインするのを防ぐために肉体をただの樹木へと組成転換し、そのまま放置した。つまり奴は、皮膚感覚以外の入力をすべて断たれた状態で、暗闇のなか数十年を過ごしたことになる。フラクトライトが崩壊するのも当然だ。
俺の述懐を聞いたシノンは、まっすぐ俺を見つめ、後悔してるの? とだけ訊いた。
答えは、否だ。俺があの戦いを悔いることは、俺のために異世界に馳せ参じ、巨大な苦痛に耐え抜いたシノンやリーファ、他多くの人々のためにも決して許されない。
二人と深く見交わした視線を外し、その隣に並んで断つリズベットとシリカとも順に握手する。
「あの時、援軍の皆を説得してくれたのはリズなんだって? 演説、俺も聞きたかったなぁ」
言うと、ピンク色の髪に手をやり、リズベットはイヤハハハと笑った。
「演説なんてそんな大層なモンじゃないのよ。あのときはもう、夢中で……」
「すっごかったんですよぉー、大熱弁でしたよ!」
割り込んだシリカの三角耳を、リズベットがぎゅーと引っ張る。
「シリカも、ありがとな」
笑いながらかけた言葉に、小柄なビーストテイマーはとがった八重歯を覗かせてはにかんだ。
「えーっと、じゃあ、ご褒美ください」
言うや否や、ぎゅっと抱きついてくる。右肩に乗った水色の小竜ピナが、高く囀りながら羽ばたき、俺の頭に飛び移る。
「あっコラ! 何してんのよ!」
リズベットが、今度はシリカの尻尾を思い切り引っ張った。ふぎょ! という奇妙な悲鳴に、周囲からどっと笑いが巻き起こる。
見渡すと、いつのまにか周りには幾重もの人垣があった。
サクヤ以下、シルフのプレイヤーたち。アリシャ・ルーの背後にはケットシーたち。ユージーン率いるサラマンダー。それに、シーエンやジュンたちスリーピング・ナイツの姿も見える。
――帰ってきたのだ。
俺はこの瞬間、六本木分室のSTLで目覚めて以来もっとも強く、そう感じた。
無論、これで何もかもハッピーエンドというわけではまったくない。アンダーワールドの行く末は甚だ不透明だし、あの大規模戦闘で死亡・喪失に至ったアカウントの救済や、悪化してしまった隣国のVRMMOプレイヤーたちとの関係改善策など、解決せねばならない問題は山積している。
シリカに対抗して右腕にぶらさがるリズベットに、俺は小声で訊いた。
「……アカウント復旧可否の返事、きたか?」
「あ……うん」
いつも元気な顔が、わずかに曇る。
「ラースの、比嘉さんだっけ? あの人が調べてくれた範囲では、アンダーワールドのサーバーにはまだデータが残ってるみたい。でも、そのアカウントでログインしてこっちに再コンバートするには、回線が復旧するのを待たなきゃならない、って……」
「そっか……。でも、キャラが残ってるのは明るい材料だな。あと……お隣さんたちのほうは……?」
「難しい。すごく」
表情が、さらに沈んだ。
「ひどい戦闘だったからね……。でも……あの憎しみの遠因を作ったのは、こっちにも責任があるんじゃないかって意見もあるんだ。ザ・シード・ネクサスを日本国内だけに留めて、向こうからの接続を一切遮断してたからね。だから今度、対話再開のきっかけにするために、1ワールド開放しようって話が持ち上がってるの。今日は、主にそれについて議論されると思うよ」
かすかな微笑で言葉を切ったリズベットに、俺も小さく頷きかけた。
「うん……。壁は、関係を悪化はさせてもその逆は無いからな……」
脳裏には、もちろん、アンダーワールドの人界と暗黒界を数百年隔てつづけた果ての山脈の威容が浮かんでいた。
空に向かってそびえる世界樹を一瞬仰ぎ見てから、根元に視線を戻す。
内部の大ドームへと繋がるアーチには、すでに歩み入っていく多くのプレイヤー達の姿がある。
「さ、俺たちも行こう」
周囲の仲間たちを促し、足を踏み出しかけた時――。
突然、音声コールの着信を告げるアラームが脳裏に鳴り響いた。
「あ、デンワだ。ちょっと先行っててくれ」
皆をうながし、その場でメニューを呼び出してコールを受ける。発信元は、見慣れぬIDだった。
「もしもし?」
しばし、かすかなノイズだけが続いた。
やがて聞こえてきたのは、懐かしいあの声だった。
『……キリト。私です。アリスです』
「アリス! やあ……久しぶり。たしか、今日の会議に君も来てくれるって聞いてたけど……」
『それが……すみません。こちらで出席しているパーティーが、まだ終わりそうになくて……。皆さんに、ごめんなさいと伝えておいてください』
「……そっか」
思わず、俺も嘆息する。
世界初の真正AIたるアリスは、その存在を現実世界人に印象づけるべく、官公庁・企業主催のレセプションやらパーティーに連日出席するという多忙な日々を送っている。神代博士も謝っていたし、本人もやむを得ぬことと理解しているようだが、しかしまるで見世物のような扱いが楽しいわけはあるまい。
「分かった、みんなにはちゃんと言っておくよ。アリスも、あんまり無理するなよな。嫌なことは嫌って言えよ」
『……私は、騎士ですから。務めは何であれ果たすのみです』
毅然としたその物言いにも、かつての張りがないように思えてしまうのは気のせいか。
『それでは……また、後日』
「ああ。じゃあ、また、な」
俺は言い、通信を切ろうと指を動かした。
ボタンに触れる寸前――。
『キリト……。私……萎れてしまいそうです』
かすかなささやき声が響き、向こうから回線が切断された。
SAO4_58_Unicode.txt
比嘉タケルは、かれこれ一時間近くも迷い続けていた。
積み上げた雑誌類の上に乗る、古ぼけたキーボード。その右端の、磨り減ってつるつるになったエンターキーを、押すべきか押さざるべきか。
東五反田にある自宅アパートの八畳間は、学生の頃から溜め込んできた機械類で隙間なく埋まっている。それらが放出する廃熱を、旧式のエアコン一台では処理しきれず、室内はじっとりと暑い。熱源をひとつでも減らすべく照明はつけていないので、闇に沈む空間のそこかしこに赤や緑、青のLED類が星のように瞬いている。
座椅子にうずくまる比嘉の正面では、万年炬燵に設置された30インチモニタが灰色の光を放つ。画面に動きはない。黒いウインドウが一枚、虚ろに表示されているのみだ。
比嘉は、何十度目かのため息を漏らしながら、背中を座椅子に預けた。錆びかけたフレームがぎしっと軋む。
ラースの技術スタッフには、自宅に着替えを取りにいくだけと言ってあるので、もう三十分もしたら再びラース六本木分室に戻らねばならない。神代博士は、”死んだ”菊岡二佐のかわりに日々対外業務に追われる身なので、今は比嘉がプロジェクトの実質的責任者なのだ。
しかし、その立場を利用して分室からあるモノをこっそり持ち出したことが知られれば、間違いなく叱責――いや降格されるだろう。
そのモノは今、炬燵の右側に鎮座する、複雑怪奇な装置に接続されている。手造りのフレームに、基盤だの配線だのがごちゃごちゃと詰め込まれたその装置は、間違いなくこの部屋でもっとも高価かつ高度なシロモノだ。まるまる一年をかけて比嘉自身が設計・開発した、プロトタイプのライトキューブ・インタフェースである。
そして、接続されているのは、一辺六センチの黒い金属製立方体。
“アリス”が使用するマシンボディの頭蓋内に格納されているものと、まったく同じパッケージだ。
比嘉は、しばし立方体の冷ややかな光沢を見つめた。
「……うまく動くわけない」
ぽつんと呟く。
「すぐに崩壊しちゃうに決まってるんだ。この僕や、菊さんのコピーもそうだったんだから。知性は、自らが複製であるという認識には絶対に耐えられない。たとえ……たとえそれが……」
その先を口にすることなく、比嘉は大きく息を吸い、ぐっと胸に溜め――。
震える指先で、キーボードのエンターキーを叩いた。
プログラムが走り出す。マシンに火が入る。大型のファンが唸りを上げて回転する。
モニタに表示された黒いウインドウの中央に、まるで星が生まれたかのごとく、虹色の放射光が小さく浮かび上がった。
無数のピークが、鋭く、力強く闇を貫く。揺らめき、震え、まばゆく輝く。
やがて、モニタの両側に置かれたスピーカーから、聞き覚えのある声が静かに響いた。
『…………そこにいるのは、たぶん、比嘉さんかな?』
ごくりと唾を飲み、掠れた声で答える。
「そ……そうだ」
『俺を、消さなかったんだな。正確には……コピーした、と言うべきか』
「消せる……消せるわけ、ないッスよ!!」
比嘉は、己の行為を弁解するかのごとく、低く叫んだ。
「君は、二百年という時間に耐え抜いた初のフラクトライトなんだ! いや……人類史上、もっとも長い時間を生きた人間になってしまったんだ! 消去できるわけない……そうだろ、キリト君!!」
掌にじっとりと汗が滲むのを感じながら、比嘉は、相手の名を呼んだ。
ウインドウの上部には、経過時間を示すデジタル数字が目まぐるしくカウントされている。三十二秒。
桐ヶ谷和人の――正確には、アンダーワールドでの二百年に及ぶ限界加速フェーズを耐え抜き、覚醒した直後の彼のフラクトライト・コピーは、すでに己が複製であるということを認識している。
これまでの実験では、その認識を得たあたりからコピーの言動は冷静さを失い、恐慌に陥り、奇怪な叫び声を放ちながら例外なく崩壊へと至った。比嘉は、歯を食いしばり、スピーカからの応答を待った。
数秒後――。
『……こういうこともあるかと、予想はしていた……』
呟きにも似た、静かな言葉。
『……比嘉さん。コピーしたのは、俺のフラクトライトだけか?』
「あ……ああ。記憶消去オペレーション中に、菊岡二佐や、神代博士の目を盗んで複製作業するのは、君ひとりぶんが限界だったんだ……」
『そうか…………』
ふたたび、長い沈黙を挟んで、ライトキューブに封じられた複製意識はあくまでも穏やかに語った。
『妃と……アスナと、話したことがある。仮にこのような状況に至ったらどうするか、と。アスナは言った。もし、複製されたのが自分ひとりなら、即座に消去してもらう。二人ともに複製されたのなら、残り少ない時間を、リアルワールドとアンダーワールドの融和のために使いましょう、と、ね……』
「なら……君ひとりの場合は? その時はどうすると?」
つり込まれるように尋ねた比嘉は――。
返ってきた言葉を聞いて、かすかな戦慄をおぼえた。
『アンダーワールドのためにのみ戦う。なぜなら俺は……あの世界の、守護者なのだから』
「た……戦う……?」
『アンダーワールドは現在、非常に流動的な状況に置かれている。そうだろう?』
「確かに……そうッスけど……」
『あの世界は、現実サイドにあっては、悲しいほどに無力だ。エネルギー、ハードウェア、メンテナンス、そしてネットワーク……あらゆるインフラを一方的に依存せざるを得ない。それでは、とても長期的な安全は保障されない』
すでに、経過時間は一分を遥かに超えている。しかし、複製体の口調はあくまで冷静で、崩壊のきざしすら見えない。
比嘉は、座椅子の上で背筋を伸ばしながら、無意識のうちに反論した。
「しかし、それはどうしようもないことッスよ。アンダーワールドの物理存在であるライトキューブ・クラスターは、オーシャンタートルから動かすことはできないんだ。そしてあの船は、いまは国の管理下にある。政府の決定いかんでは、明日にも動力が落とされ、クラスターが丸ごと初期化されちまうことだってあり得る……」
『原子炉の核燃料は、あとどれくらい持つ?』
突然、予想外の質問をぶつけられ、比嘉はまばたきした。
「え……ええっと、あれはもともと原潜用の加圧水炉ッスから……クラスターを維持するだけなら、たぶんあと四、五年は……」
『ならば、原則的には、その期間は燃料を補給する必要はない。つまり、外部からの干渉さえ防げば、アンダーワールドは存続できる、そうだろう?』
「で、でも、防ぐと言っても……オーシャンタートルには、武装のたぐいは一切無いんスよ!」
『俺は、戦うと言った』
静かで、穏やかな、しかし鋼鉄の刃を思わせる声が短く響いた。
「た……戦う、と、言っても……今は衛星回線も遮断されて、オーシャンタートルには通信すら出来ないし……」
『回線はある。あるはずだ』
「ど、どこに……!?」
思わず身を乗り出した比嘉は、予想もしなかった答えを耳にした。
『ヒースクリフ……いや、茅場晶彦。あの男の力が必要だ。まずは、彼を捜さねばならない。比嘉さん……協力してくれるな?』
「か……茅場、先輩……!?」
死んだはず……いや、二度死んだはずだ。
最初は、長野の山荘で。次に、オーシャンタートルの機関室で。
しかし、茅場晶彦の思考模倣プログラムが潜んでいた試作二号のボディは、機関室から忽然と消えうせていた。
「生きて……るのか……」
呻いた比嘉は、もうウインドウの時刻表示を確認することも忘れ、ただ放心した。
どうなってしまうんだ。
かつての仇敵同士であるはずの、茅場晶彦のコピーと、そして桐ヶ谷和人のコピー。このふたつ……いや、二人が出会ったら、何が起きるんだ。
もしかしたら……僕は、何か、とんでもないモノの蓋を開けてしまったのでは……。
一瞬、そのような思考が脳裏をかすめたが、しかしそれはすぐに圧倒的な興奮に吹き飛ばされてしまった。
見たい。その先を知りたい。
比嘉は、大きく息を吸い、吐いて、震える声で言った。
「……わかったッス。幾つか、昔のアテがあるッスから……暗号化したメッセージを流してみるッスよ……」
もう、後戻りはできない。
ぎゅっと目をつぶり、両の掌をTシャツで拭ってから、比嘉は猛然とキーボードを叩きはじめた。
ウインドウでは、凄まじく巨大な放射光が、比嘉の指先を見守るように虹色の輝きを周期的に揺らめかせていた。
俺は、二ヶ月ぶりに帰ってきた自分の部屋を、ぐるりと見回した。
飾り気のないデスクとメタルラック。パイプベッド。無地のカーテン。
懐かしい……と思うより先に、その殺風景さに唖然とする。訂正せねばならない。この部屋を見るのは、ほぼ三年ぶりなのだ。俺は、アンダーワールドで、約二年というもの北セントリア修剣学院の寮に起居していたのだから。
上級修剣士専用の部屋には、どっしりした木製の家具や、時代ものの茶器だの額、分厚い絨毯がくまなく配置され、俺の眼を楽しませてくれた。
なにより、傍付きだったロニエとティーゼ、そして……ユージオの笑顔が、いつでも隣にあった。
思い出に変わったはずの、痛切な胸の痛みが鮮やかによみがえり、俺は喉を詰まらせる。
手に持った大型のバッグをどさりと床に落とし、数歩進むと、ベッドに腰を下ろした。身体をゆっくりと横倒しにする。干したばかりなのだろう、シーツから日向の匂いが漂う。
目を閉じる。
耳のおくに、かすかな声がこだまする。
――昼寝なら、神聖術の課題終わらせてからにしなよ。また僕のを写すつもりかい?
――そうだ、このあいだ教わった技、ちょっと工夫してみたんだよ。あとで修練場にいかないかい。
――あっ、また抜け出してお菓子買ってきたろ! もちろん僕のぶんもあるよな!
――ほら、起きろよキリト。
――キリト……。
俺は、ゆっくりと身体を回転させ、顔をまくらに埋めた。
そして、STLの中で目覚めて以来、ずっと我慢し続けていたことをした。
シーツを握り締め、歯を食いしばり、声を上げて泣いた。幼子のように涙を流し、身体を震わせ、ひたすらに号泣した。
いっそのこと――。
いっそ、すべての記憶を消してもらえばよかったのだ!
森の中でひとり目覚め、小川のほとりを歩き、斧音に導かれて、黒い巨樹の下で一人の少年と出会ったあの瞬間から始まる、三年近い記憶の全てを!
どれほど泣いて、泣き続けても、涙が枯れることはなかった。
やがて、控えめな音で、ドアがノックされた。
俺は返事をしなかったが、ノブが回る音とともに、小さな足音が響いた。枕に突っ伏したままの俺の、頭のすぐ上側で、ベッドがわずかに沈んだ。
指が、遠慮がちに髪を撫でる。
頑なに無反応を続ける俺に、穏やかだが、しっかりと芯の通った声がかけられた。
「ね、話して、お兄ちゃん。あの世界であった、楽しいこと、悲しいこと、全部」
「………………」
俺は、尚も数秒間そのまま沈黙していた。
やがて、ゆっくりと身体を反転させ、涙に滲む視界に、直葉の――俺のたった一人の妹の笑顔を捉えた。
帰ってきたのだ。家に。家族のもとに。
過去は過去となり、今は続いていく。ただひたすらに、前へ、前へと。
目をつぶり、涙を拭って、俺は震える唇を開いた。
「…………いちばん最初に、森のなかで出会ったとき、あいつはただの木こりだったんだ。信じられないと思うけど、たった一本のスギの木を、三百年間、何世代もかけて切り倒そうとしてたんだぜ……」
俺が、リハビリを終えて家に戻ったのは、2016年8月16日だった。その夜、まるまる一晩かけて、俺は直葉にアンダーワールドでの出来事を語って聞かせた。
翌日の朝、俺は、一本の電話で叩き起こされた。
それは、ラース六本木分室から、アリスが失踪したという知らせだった。
「し……失踪!? それは、情報的に、ってことですか!?」
Tシャツにトランクスという格好のまま、俺は携帯端末をきつく握り締めた。
回線の向こうの神代博士は、抑制されたなかにも緊張を帯びた声で答えた。
「いえ……物理身体ごと、なの。社屋内の監視カメラの映像では、昨夜二十一時ごろ、自分でセキュリティロックを解除して、警備員の目を盗んで外に出たみたい」
「自分で……、ですか」
わずかばかり、詰めていた息を吐く。
今現在、アリスの存在を快く思っていない勢力は、日本国内に両手の指で数え切れないくらいあるだろう。さらに、実利的、宗教的、信条あるいは心情的に彼女を破壊したいと望む個人となると、その数を推測することもできない。そのような輩に強奪されたとあらば、剣も神聖術も使えないいまの彼女では、身を護るすべは皆無だ。
ラースもそれを認識しているからこそ、いまの六本木分室の警備体制はちょっとした要塞なみの堅固さに引き上げられている。しかし、さすがに内部から出る者までは盲点だった、ということか。
あとは、なぜアリスがそのような挙に及んだのか、ということだが――。
数日前、ALO内での音声コールが切断される間際に、彼女がぽつりと発した言葉が脳裏に蘇る。
絶句する俺にむけて、神代博士は沈痛な声で続けた。
「アリスに、過大な負荷をかけているのではと危惧してはいたのよ。でも、何度、疲れてない、休みたくない? って訊いても、笑顔で首を振るばかりで……」
「そりゃ……そうですよ。あの誇り高い騎士が、誰かに弱音なんか吐くわけないんです」
「たった一人、あなたを除いては、ね。……桐ヶ谷君、アリスはまず間違いなく、あなたに連絡してくると思うの。で……退院したばっかりなのに、申し訳ないんだけど……」
語尾を濁らせる博士に、俺は急いで答えた。
「ええ、分かってます、大丈夫です。もしメールなりコールなりあったら、すぐ駆けつけますから……。――でも、博士。いまのアリスが、そんなに長距離を移動できますか?」
「私たちも、それを心配しているの。内臓バッテリーだけでは、フル充電からでも、歩行なら約三十分、走ったりすれば十分も保たないわ。もし、六本木近辺のどこかで動けなくなって……そこを、非友好的な人間に見つかったりしたら……」
「あの外見ですからね……」
新たな不安要素に、強く眉をしかめる。アリスの眩い金髪と、透き通るような肌、そしてシリコン外装を仕上げたスタッフが精魂こめた美貌は、ロボットであるや否やに関わらず目立つことこの上ない。
「いま、手の空いてるスタッフ全員で、この界隈を探し回ってるわ。ネットの書き込みも監視してるし、公共監視カメラ網にも潜り込んで録画チェックもしてる」
「なら、俺もひとまずそっちに行きます。連絡あったとき、すぐ急行できたほうがいいでしょうから」
「そうしてくれると助かるわ。お願いするわね、桐ヶ谷君」
そして、通話は慌しく切断された。
俺はクロゼットから適当に服を引っ張り出し、手足を突っ込むや否や、端末とバイクのキーを引っ掴んで自室を飛び出した。
階段を駆け下りると、一階はしんと静まり返っている。オヤジと母さんは仕事、直葉は剣道部の朝練だろう。今夜は家族四人で俺の退院祝いをしてくれるらしいが、正直それどころではない。
冷蔵庫のオレンジジュースをラッパ呑みし、ラップを掛けて置いてあったベーグルサンドを口に咥え、玄関へとダッシュ。スニーカーを突っかけ、ドアノブを握ったところで、インタフォンが甲高く鳴り響いた。
一瞬、心臓が飛び跳ねる。まさか――アリスが、何らかの手段でここまで自力移動してきたのか。
「アリ…………」
ス、と口走りながらドアをひき開けた先に立っていたのは。
何のことはない、ブルーのユニフォームと帽子に身を固めた、宅配便のお兄さんだった。
間の悪いことこの上ないが、「ちわーす、お荷物です!」と明るく挨拶するその額に、玉のような汗が浮いているのを見れば、後にしてくださいとも言えない。
急いで上り框に取って返し、下駄箱の上から三文判を掴んだ俺に、お兄さんはさらなる追い討ちを加えた。
「お荷物、着払いでーす!」
「あ……、はい」
思わず小銭を取りに戻りそうになるが、この世界にはたしか、電子マネーという便利なものがあったはずだ。ポケットから携帯を引き抜き、お兄さんの差し出す認証端末にかざす。
「まいどーっ!」
一声残して走り去っていく姿を見送り、俺は改めて玄関先に残された荷物を確認した。
七十センチ角ほどのダンボールだ。生ものでなければ、このまま放置して出かけてしまえと思いつつ、送り状を確認する。品物は、電気製品。送り主は――。
「なぬ……」
海洋資源探査研究機構、と明朝体でタイプしてある。ラース六本木分室にストックされている伝票だろうか。あて先欄には、俺の住所氏名。しかし、ぎこちなく角ばったその文字は、どう見ても俺の筆跡ではない。
神代博士が出した荷物なら、さっきの電話で触れただろう。ならば、菊岡さんか、比嘉さんが送ってきたものか。となると中身は、アンダーワールド、あるいはSTLに関連する何らかの機器?
俺は唇を噛み、意を決して、ガムテープの封に指をかけた。
一気に引き剥がす。わずかに持ち上がった蓋を、そっと左右に――開き……。
「…………うわあああああ!!」
そして、恐怖の悲鳴を喚き散らした。
箱のなかに、ぎっしりと詰まり、不自然な方向に折れ曲がったそれは――人間の、手足。
呼吸が止まり、喘ぎながら仰け反った俺は、直後、二度目の絶叫を強いられた。
「ギャアアアアア!?」
手足の隙間の暗がりで、ぱちりと一つの眼が見開かれ、俺をまっすぐ凝視したのだ。
ほとんど腰を抜かした俺の、ダンボール箱の縁にかけたままの右手首を、異様な角度で伸び上がった白い手がぎゅっと掴んだ。
三度目の悲鳴を上げるまえに、どこか呆れたような声が、箱の中から静かに放たれた。
「騒いでないで、早く引っ張り出してくれませんか、キリト」
約三分後。
俺は自宅の上り框に腰を下ろし、両手で頭を抱えてうずくまっていた。
“宅配便で送られてくる美少女ロボット”が実現してしまったというこの現実に、どうにか認識をアジャストさせようと苦闘してみた――ものの。
「……できるか!!」
叫び、努力を放棄して、がばっと立ち上がる。
振り向いた先では、見慣れた制服に身を包んだ美少女ロボットが、物珍しそうに廊下の柱を指でなぞっている。
やがて、ちらっと俺を見て、ロボット――の外装を操る真正ボトムアップAI、アンダーワールド人、整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティは、微笑みながら言った。
「この家屋は、木材で建てられているのですね。まるで、ルーリッドの森で暮らした家のよう。あの小屋よりも、ずっと立派ですけど」
「あー……うん……たぶん、建ってから七、八十年は経つと思うよ……」
力なく答えると、青い瞳をいっそう見開く。
「よくもそれほどに天命が持つものですね! きっと、立派な樹を使ったのですね……」
「そうだね……ていうか……ていうか!」
どすどすと廊下を歩き、がしっとアリスの肩を掴み、一体ぜんたい何がどうなっているのか問い質そうとした俺の言葉を、蕾がほころぶような笑顔が遮った。
「まずは、この鋼素製の体の天命を回復させてもらえないかしら? ええと……こちらの言葉では、”充電”と言ったと思いますが」
訂正しよう。
“宅配便で送られてきた美少女ロボットが家庭用コンセントで充電する”現実だ。
俺がアンダーワールドにダイブしているあいだに、リアルワールドはかくも未来へと遷移してしまったのだ。
「ああ……充電ね……どうぞ、好きなだけ……」
俺はアリスの肩を押し、リビングへと案内した。
マシンボディの充電用プラグは、左脚のふくらはぎというやや意外な場所に内臓されていた。
そこから引き出したケーブルを壁のコンセントに繋いだアリスは、ぴんと背筋の伸びた姿勢でソファに腰掛け、なおもくるくると周囲を眺め回している。
――とりあえずお茶でも淹れるべきか、と腰を浮かせかけてから、ようやく今のアリスはおそらく飲食はしないだろうと思い至る。俺はいまだ激しく動転しているらしい。
気を落ち着かせるために、目先のちょっとした疑問から解消するべく、口を開く。
「えーと……まず、どうやって自分を宅配便に仕立てるなんて離れ技を実現したのか、そこから教えてもらおうかな……」
すると、金髪碧眼の美少女は、くだらないことを聞くと言わんがばかりに肩をすくめ、答えた。
「簡単なことです」
いわく。
六本木分室内で、着払いの送り状と梱包テープと大サイズの強化ダンボールを用意したアリスは、まず監視カメラの映像に、わざと居室を出て行く自分の姿を記録させたのだそうだ。
しかるのち、エントランスのカメラ視界外で箱を組み立て、俺の住所を記した送り状を添付し、各関節のロックを解除しながら箱のなかにきっちりうずくまる。上蓋の片側にだけテープを貼り、内側から引っ張るようにして蓋をたたむ。さらに、内部からもテープで蓋を仮止めする。
そうしておいて、宅配業者にメールで集荷を依頼する。やってきた業者は、むろんゲートで警備員のチェックを受けるが、メールは確かにビル内から発信されたものだし、エントランスにはちゃんと荷物がある。よもやその中に、世界でもっとも重要なAIが潜んでいるなどと知るよしもなく、業者はやや甘いテープの封をきっちり貼りなおし、荷物を回収してトラックに乗せ、翌朝に埼玉県は川越市まで配達し……。
「…………なるほどね……」
俺はずるずるとソファに沈み込みながら呟いた。
結局、アリスはある意味では一歩たりとも六本木分室のビルから外に出ていなかったわけだ。足取りが掴めないのも当然だ。
しかし、驚くべきは手口の巧妙さではなく、まだリアルワールドを訪れて一ヶ月にしかならないアリスがそれを発想し得たことだろう。俺がそう口に出すと、異世界人は再び軽く肩を上下させ、言った。
「まだ騎士に任ぜられて間もない見習いの頃、いちどこの手でカセドラルを抜け出して街を見物したことがありますから」
「……そ、そうっすか」
これで、アリスが情報テクノロジーに習熟してしまったら、いったいどうなるのか。彼女は、アミュスフィア無しで即時に仮想空間にダイブできる、ある意味ネットワークの申し子なのだ。
――という恐るべき想像をわきに押しやって、俺はまっすぐ座りなおすと、ようやく根本的な問いを発した。
「しかし……アリス。いったい、なぜ、こんなことを? 俺んチに来てみたかったのなら、凜子博士にそう言えば、時間は作ってくれたと思うぞ」
「そうでしょうね。あの方はいい人です。私のことをとても気にかけてくださっています。ゆえに――キリトの家を訪問する機会は得られても、護衛の衛士が一個小隊つき、ということになったでしょうね」
造りものとはとても信じられない、細くながい睫毛が伏せられる。
「……こんな、逃げ出すような真似をして申し訳ないとは思っています。今頃、リンコ博士たちは大変心配し、私を探し回っているでしょう。謝罪は、戻ってから如何様にもします。しかし……私は、どうしても、この時間を得たかった。あなたと……仮の姿ではなく、本物の体を持つキリトと、二人きりで向き合い、言葉を交わす時間が」
大きく見開かれた青い瞳が、まっすぐに俺を射た。
二つの碧眼は、ガラスレンズとCCDセンサーで構成された光学受像装置であるはずなのに、息を飲むほど美しい煌きをその奥に秘めている。それはもしかしたら、短い回路を経てつながる、彼女のフラクトライトそのものが放つ光なのかもしれない。
アリスは、かすかなモーター駆動音を奏でながら、滑らかな動作で立ち上がった。
ガラステーブルを回り込み、一歩、二歩、俺に近づく。
そこで、壁に繋がるケーブルがぴんと張り詰め、歩行を妨げた。白い頬に、かすかなやるせなさが過ぎる。
俺は、大きく息を吸い、同じように立ち上がった。
同じく二歩進み、アリスのすぐ前に立つ。
俺よりわずかに低い位置にある双眸が、強烈な意思を秘め、きらっと瞬いた。唇が動き、甘く澄んだ、しかし同時に電子的な響きを持つ声が発せられた。
「キリト。私は、怒っているのです」
何に対して、と言われずとも俺は言葉の意味を察した。
「そう……だろうな」
「なぜ。なぜ……あのとき、言ってくれなかったのですか! もう会えないかもしれないと。これが永遠の別れになるかもしれないと。二百年という時間の壁の両側に隔てられ、再びまみえることはもう叶わないのだと、あの”果ての祭壇”でひとこと言ってくれれば、私は……私はひとり逃げたりしなかった!!」
マシンボディに涙を流す機能がもしあったら、間違いなく数多の雫にいろどられていただろう表情で、アリスは叫んだ。
「私は騎士です! 戦うさだめの人間です! なのに……なぜお前はたった一人であの恐るべき敵に立ち向かうことを選び、その隣に私がいることを望んでくれなかったのですか! お前にとって私は……アリス・シンセシス・フィフティという存在は、いったい何なのです!!」
持ち上げられた小さな拳が、どん、と俺の胸を叩いた。もう一度。さらにもう一度。
俯けられた小さな頭が震え、額が左肩にぶつかった。
俺は、持ち上げた両手で、そっと金色の髪を包み込んだ。
「君は……俺の、”希望”だ」
ぽつりと呟く。
「俺にとってだけじゃない。あの世界で生き、死んでいった沢山の人たちの……かけがえのない希望なんだ。だから、どうしても守りたかった。失いたくなかった。希望を、未来へ繋げたかった」
「……未来…………」
胸のなかで、濡れた声が響いた。
「未来とは、どのような形をしているのですか。私がこの混沌とした世界で、不自由な鋼の体に、下らない会合に、そして尽きることのない寂しさに耐え続けた果てに、何があるというのです」
「…………ごめん、今は俺にもわからない」
両腕に力を込め、俺はせめて懸命に、自分の感情と思考のすべてを伝えようとした。
「でも、君がここにいることで、世界は変わっていく。君が変えていく。その行き着く先で、カーディナルの、アドミニストレータの、ベルクーリの、エルドリエの……ユージオの願いが報われるときが必ずくると、俺は信じている」
それだけではない。かつて、もう一つの異世界で生き、戦い、死んでいった多くの若者たちの命もまた、この場所、この瞬間に繋がっているのだ。
アリスは、俺の肩に額を乗せたまま、長い、長い時間沈黙を続けた。
やがて、そっと身体を離した異界の騎士は、かつて白亜の塔で出会ったときと同じように、毅然とした微笑を浮かべ、言った。
「……リンコ博士に連絡しなくては。あまり心配させては、申し訳ありませんから」
俺は、なおもしばらく、アリスの瞳を見つめ続けた。その奥の、張り詰めた感じはまだ消えていない気がしたからだ。
しかし、これ以上俺に何ができるだろう。あるいは、時間をかけることでしか解決できない問題なのかもしれない。
「……うん、そうだな」
頷き、ポケットから携帯端末を引っ張り出すと、俺はラース六本木支部の直通電話にコールした。
俺からの電話でことの次第を知った神代博士は、さすがに五秒ほど絶句したものの、最初に返ってきた言葉はアリスへの謝罪だった。やはり、本当に”善い人”なのだ。あの茅場晶彦が、生涯でただ一人心を許した女性というだけはある。
「……気遣いが及ばなかったわね。むしろ、私たちがアリスさんに甘えてしまったんだわ」
自省に続けて、神代博士は思わぬ指示を俺に伝えた。
電話を切った俺は、ソファから心配そうにこちらを見ているアリスに大きく笑いかけた。
「大丈夫、別に怒ってなかったよ。それどころか、申し訳ながってた。それで……今日は一晩、ここに泊まってきていいってさ」
「ほ、本当ですか!?」
アリスの顔も、ぱっとほころぶ。
「うん。念のため、GPSトラッカーはオンにしてくれって言ってたけど」
「それくらい、ささやか過ぎる代償です」
頷き、一度長めの瞬きをすると、アリスはさっと立ち上がった。
「そうと決まれば、まずはこのお家や庭を案内してくださいな。リアルワールドの伝統的建築物を、実際に見るのは初めてなのです」
「ああ、いいよ。……と言っても、ただの民家なんだから、あんまり見るものなんてなあ……」
首をひねってから、そうだ、と思いつく。
「あ、じゃあ、ちょっと庭に出るか」
アリスが、充電の終わったケーブルを収納するのを待って、玄関から出て玉砂利敷きの庭へと回る。
鯉や金魚の泳ぐ池や、節くれだった松の樹などにいちいち興味を向ける騎士様に、あれこれ解説しながら向かった先は――。
敷地の北東の隅にひっそりと建つ、古めかしい道場だった。
アリスは、靴を脱いで板張りの床に上がったとたん、何のための建物なのかを見抜いたようだった。さっと俺を見て、急き込むように言う。
「ここは……修練場ですね?」
「そう。こっちじゃ、道場って言うんだけどね」
「ドージョー……」
呟き、正面に向き直ったアリスは、右手を胸、左手を腰にあてるアンダーワールド流の騎士礼をさっと行った。俺も、日本流に一礼してから、並んで中に入る。
いまは亡き祖父が建て、現在は直葉だけが出入りする剣道場の床は、黒光りするまでに磨きこまれていた。真夏だというのに、素足にひんやりと冷たい。空気まで、どこか違っているような気がする。
アリスはまず、正面の壁にかかる掛け軸をじっと眺め、次いでその隣に設えられた棚に歩み寄った。
右手を伸ばし、年代ものの竹刀を一振りそっと持ち上げる。
「これは……修練用の木剣ですね。でも、アンダーワールドのものとはずいぶん違う」
「うん。竹っていう軽い木材で出来てて、当たっても大怪我はしないように工夫してあるんだ。向こうの重い木剣は、ヘタすると天命が三割くらい削れたけどな」
「なるほど……。こちらには、即効性の治癒術は存在しないんですものね。剣の修練にも、大変な苦労が伴うのでしょうね……」
深く頷いてから、アリスはさらに数秒間黙考を続けた。
と、突然。
くるりと振り向き、驚いたことに、持っていた竹刀の柄を俺に向けて差し出した。
「へ? 何を……」
「決まっています。修練場ですることはひとつしかないでしょう」
「え……ええ!? ほんとに!?」
その時にはもう、アリスは左手で別の竹刀を取り上げていた。俺はやむなく、突き出された柄を握る。
「と……言っても、なあ。アリス、きみ、その体で……」
「気遣い無用!」
びしっ。
と鋭くも凛々しいひと言。
俺は口を半開きにしたまま、板張りの上を歩いていく制服姿の機械少女を眺めた。
確かに、アリスに与えられているマシンボディは、2016年現在の水準に照らしても途轍もなく高度なものだ。オーシャンタートルで試作されたものを上回る動力性能を、遥かにスマートな躯体に搭載し得た理由は、人型二足歩行ロボット最大の難関であるバランサー機能を丸々省略できたからだと聞く。
俺たち人間は、直立している間、無意識のうちに絶えず左右の脚にかかる重量を制御しバランスを維持している。その機能を、センサーやジャイロ及びプログラムで機械的に再現しようとすると、関連デバイスの容積はとてもリアルな人型シルエットには収まりきれない。だが、アリスはその限りではない。なぜなら、彼女のフラクトライトは、俺たち人間とまったく同レベルのオートバランサーをすでに備えているのだから。各関節に内臓されたアクチュエータやダンパーの制御を、ライトキューブから出力される信号に直結すればいいだけの話だ。
――とは、言うものの。
現時点では、決して、ナマの人間の動作に完全に追いついたわけではない。それは、あの宅配便の送り状に書かれていた文字のぎこちなさを見れば明らかだ。ましてや、竹刀を……剣を振るなどという複雑かつ高速な動きに耐えられるとは思えない。
というようなことを、俺は一瞬のうちに考え、ゆえに大いに困惑した。
しかしアリスは、まったく迷いのない足取りで俺の正面、五メートルほどの距離にまで移動すると、右手で握った竹刀をぴたりと垂直に掲げた。
アンダーワールド古流、天衝崩月の構え。
突然、俺の皮膚を、怜悧かつ稠密な風が撫でた。思わず息を飲み、半歩下がる。
剣気。
嘘だろ、有り得ない、と思うより早く――。
俺の身体も、自然と動いていた。右手で握った竹刀を、腕を外に捻転させて、下段に構える。左手を、柄頭に添える。そのまま腰を落とし、切っ先がほとんど床に触れかける位置で止める。同じく古流、尖月流影の構え。
考えてみれば、俺も病み上がりのうえに、現実世界では虚弱なネットゲーマーに過ぎない。マシンボディの性能どうこうと言えた義理ではないのだ。ならば、全力で一本勝負の相手をするのが、礼というものだろう。
薄く笑みを浮かべた俺に、アリスも微笑で応じた。
「思い出しますね……カセドラルの庭園で、お前と初めて剣を交えたときのことを」
「あんときはコテンパンだったけどな。今回はそうはいかないぜ」
始め、の声を掛ける審判はいなかったが、俺とアリスは、同時にじりっとつま先を動かした。
双方、構えを崩さぬまま、少しずつ少しずつ間合いを詰めていく。ぴりぴりと空気が帯電し、庭で盛んに鳴き続けるセミの声が遠ざかる。
ぴぃーん、という耳鳴りにも似た静寂が、際限なくその密度を増していき。
アリスの青い瞳が、すうっと細められ。
一瞬の雷閃にも似た光が、その瞳孔の奥に瞬き――。
「イヤアアアア!!」
「セエエエアア!!」
同時に裂帛の気合を放ちながらも、俺は、黄金の髪を翻し真っ向正面から剣を斬り降ろしてくる騎士の姿に、ただ見とれた。
ウイン!!
というアクチュエータの咆哮に続き、すさまじい衝撃が俺の右手首を襲った。直後、乾いた音が道場いっぱいに響いた。吹っ飛んだ二本の竹刀が、右と左に落下し、くるくると回りながら床板の上を滑っていった。
俺とアリスは、打突の勢いを殺しきれず正面衝突して、そのまま倒れこんだ。
どすん、と背中が板張りにぶつかる。ついで、ゴンゴン、と鈍い音が二回聞こえた。最初のは、アリスの額が俺のおでこにぶつかった音。二回目のは、俺の後頭部が床板に激突した音だ。
「いっ…………」
呻いた俺の顔を、至近距離から見下ろしたアリスが、にっこりと微笑んだ。
「私の勝ちね。決まり手は、秘技・”鋼頭打槌”よ」
「そ……そんなワザ、聞いたこと……」
「今つくったの」
くすくす、と楽しそうに笑ってから、白い頬が再び降りてきて、俺の頬に触れた。耳元に、澄んだ春風のような声が流れた。
「キリト。私、もう大丈夫。この世界で、生きていけるわ。剣を振れるかぎり、どこにいようと、私は私だもの。いま、解ったの……私の戦いは、まだ終わってない。そして、あなたの戦いも。だから、前を見て、前だけを見て、まっすぐに進んでいくわ」
その日の夜は、別の意味で、緊迫感あふれるものとなった。
自宅のリビングには、ちょっと覚えがないほど久々に家族四人が揃い――さらに賓客一人を交えて、俺の退院祝いが催されたのだ。
直葉とアリスは、すぐに打ち解け、剣道の話で大いに盛り上がっていた。
アリスと母さんも、俺を話のネタにしてなごやかに歓談した。
しかし、テーブルの右端で向き合う俺とオヤジのあいだにだけは、大変に張り詰めた空気が流れることとなった。
俺のオヤジ、桐ヶ谷峰嵩という人物は、ほぼあらゆる意味で俺と真逆なパーソナリティを持つ男だ。真面目。勤勉。秀才。一流大学を出てアメリカのビジネススクールに留学し、そのまま現地で最大手の証券会社に就職して、いまも日本にはほとんど帰ってこない。万事アバウトな母さんと、よくもまあ波風ひとつ立てず――というかいまだに熱愛夫婦を続けていられるものだ。
オヤジは、すでにビールとワインを随分あけているにも関わらず顔色ひとつ変わらない白皙にメタルフレームの眼鏡を光らせ、ついにこの夜の本題へと切り込んできた。
「和人。色々と話したいことはあるが、まずは最初に、お前の口から聞くべき言葉を聞いておきたい」
とたん、テーブルの反対がわも、しんと静まり返る。
俺は、齧りかけのチキンウイングを皿に置くと、咳払いして立ち上がった。テーブルの端に両手をつき、ぐっと頭を下げる。
「……オヤジ。母さん。またしても心配かけて、悪かった」
すると、翠母さんのほうは、快活に微笑んで首を振った。
「もう慣れちゃったわよ。それに、今回は、カズはとっても大きな仕事をしたんでしょ? 人間、一度請け負った仕事は何をおいてもやり遂げないとだめよ。書くと言った原稿は書く、守ると言った締め切りは守る!」
「ママ、私情はいってるよ」
直葉の突っ込みに、緩みかけた空気をふたたびオヤジが緊迫させる。
「母さんはああ言ってるが、お前が失踪してるあいだの母さんの心労は大変なものだったんだぞ。海洋資源探査研究機構の人たちに事情は聞いたし、お前が重要な役目を果たしたのはそこのお嬢さんを見ても解るが、しかし忘れてはいけない。和人、お前の本分はいったい何だ」
剣士! とか、アンダーワールドの守護者! とか答えられたらどんなにか気持ちよかろうと思うが、しかしこの場でそんなことが言えるわけもなく。
「高校生、です」
しゅーんとする、とはこのことだ。これではまるで親に説教される子供だ。唖然と眼を見開くアリスの視線が頬に痛い。かの世界であまたの強敵と渡り合った俺も、現実世界ではこの有様なのだ。
オヤジは、ひとつ頷き、いっそう厳しい声で続けた。
「そうだ。ならば、お前がもっとも力を注ぐべきことは自ずから明らかだろう」
「……勉強して、進学することです」
「もう、高校二年の夏なんだぞ。確か、アメリカに留学希望だと母さんに聞いていたが、準備は進んでいるのか」
「あー……そのことなんだけど……」
俺は口をつぐみ、まず母さん、ついでオヤジの顔を見て、再び頭を下げた。
「すまない。進路、変更したい」
眼鏡の奥で、オヤジの眼が厳しさを増す。
「言ってみなさい」
促され、俺は意を決して、まだアスナにしか言っていない内容を告げた。
「日本の大学の電子工学部……できれば帝工大に行きたい。そして、将来的には、ラー……いや、海洋資源探査研究機構に就職したい」
がたん!
と椅子を鳴らして立ち上がったのは、アリスだった。
両手を胸のまえで握り締め、眼を見開いている。俺はその碧眼をちらりと見やり、一瞬微笑んだ。
ずいぶんと前――のような気もするが実際にはほんの二ヶ月前、俺はアスナに、アメリカに留学して脳インプラント型VR技術について学びたいと言った。その理由は、インプラント型が、アミュスフィアの正しい後継であると考えたからだ。ニーモニック・ビジュアルという異質なデータ形式を用いるSTLよりも、従来型のポリゴンデータを扱うNERDLESマシンに愛着があったからだ。
しかし。
アンダーワールドで過ごした日々は、俺の認識を根底から覆すに充分すぎる体験だった。
俺はもう、あの世界から離れられないし、離れるつもりもない。一生をかけて実現すべきテーマを、ついに見つけたのだから。
アンダーワールドとリアルワールドの融合、という。
俺をまっすぐ見つめ、大輪の花のような笑みを浮かべたアリスが、オヤジに視線を移して口を開いた。
「……お父様」
その呼びかけに、直葉がぎょっとしたように眼をむく。
「私の父様は、私が騎士の道を歩んだことを、ついに許してくださいませんでした。しかし、私はそのことをもう悔やんではいません。私は、己の信ずるところを行動で示し、父様もそれを解ってくださったと信じているからです。キリト、いえ、カズトもそれができる人です。なぜなら、彼はこの世界では一学徒であっても、かの世界では間違いなく、世界最強の騎士だったのですから。雄々しく戦い、無数の民を守った英雄なのですから」
「アリス……」
俺は思わず彼女の言葉を制しようとした。オヤジには、騎士だの戦いだのと言っても解ってもらえないと確信していたからだ。
だが。
「アリスさん」
オヤジが、常に冷厳さを失わない口元に微笑みを浮かべたのを見て、俺は心底ぎょっとした。
「私も母さんも、それはもう知っているよ。和人は、この世界でもすでに英雄なのだから。そうだろ、”黒の剣士”」
「げっ……」
一層の驚愕に見舞われ、仰け反る。まさか、あの与太だらけの本を、二人も読んだというのか。
笑みを消し、オヤジはアメリカ仕込みの強烈な視線をまっすぐ向け、言った。
「和人。進路を決め、勉強し、受験、進学、さらに就職することはすべてひとつのプロセスに過ぎないが、同時に人生が与えてくれる果実でもある。迷い、揺れることはあっても、後悔は無きよう生きなさい」
俺は、短く眼を閉じ、大きく息を吸い――。
みたび頭を下げて、答えた。
「必ず、そうする。ありがとう、オヤジ、母さん」
そして、視線を上げてから、頬の片側だけに笑みを滲ませて付け加える。
「貴重なアドヴァイスのお礼ってわけでもないけど……オヤジ、もしグロージェン・マイクロ・エレクトロニクスかその関連企業の株を持ってるなら早いとこ売ったほうがいいぜ。最近、ものすごいギャンブルに出て大損したらしいから」
俺のささやかな逆襲に、しかしオヤジは片方の眉をぴくりと持ち上げただけだった。
「ほう。覚えておこう」
――このようにして、現実は少しずつ現実らしさを取り戻していくんだな。
などと考えながら、俺は自室のベッドに転がった。
ホームパーティーは無事に終わり、オヤジと母さんは一階の寝室に引っ込んで、アリスは二階の直葉の部屋で寝ることになった。二人がどんな話をするのか少々恐ろしいが、しかし二人が仲良くなってくれたのは喜ばしいことだ。アリスも、そうやって一歩一歩現実世界に馴染んでいってくれればいいと思う。
もうすぐ夏休みも終わり、二学期が始まる。
俺は、体感時間では二年以上も高校の授業から遠ざかっていたため、休みの残り二週間はアスナにみっちりシゴかれることになっている。北セントリア修剣学院で学んだ剣術や神聖術体系の記憶領域に、数式だの英単語だのが上書きされていくわけだ。
アリスはああ言ってくれたが、おそらく俺は、もう二度と本当の意味では剣を取り戦うことはないだろう。
これからは、この現実世界での目標を実現するためにのみ、全ての時間とエネルギーを費やさねばならない。勉強し、進学し、希望が叶うかどうかはともかく就職して、可能な限りまっすぐ歩いていかねばならない。
それもまた、大切な戦いなのだ。寂しいことではあるが。
少年期は、いつか必ず終わる。
陽光と爽風、歓声と興奮、冒険と多くの未知なるものに彩られた黄金時代は、そうと気付いたときには彼方に去り、二度と戻ることはない。
おそらく、俺は、幸運な子供だったのだろう。
数多の異世界を、右手に愛剣、左手に白地図、そして胸をどきどき高鳴らせて走り続けられたのだから。色とりどりの宝石のように煌く思い出を、溢れるほどに魂に刻み込むことができたのだから。
窓の外、どこか遠くで、最終電車が鉄橋を渡る音がする。
庭の草むらで、虫たちが夏の終わりの歌を奏でる。
少しだけひんやりした風が、網戸から入り込んでカーテンを揺らす。
俺は、現実世界の音と匂いを、体いっぱいに吸い込み、眼を閉じた。
「……さようなら」
そっと呟いた、別れの言葉とともに――。
ひとつの時代が通り過ぎていった。
――と、思っていたのだ。
8月17日深夜、自室ベッドで、穏やかな眠りに落ちたその瞬間までは。
「……キリト。起きてください、キリト」
肩を揺すられ、俺は甘酸っぱい感傷に満ちた睡眠から引き戻された。
「…………ん……」
掠れた声を喉から漏らしながら、いやいや瞼を持ち上げ。
すぐ目の前に、黄金の睫毛に彩られた紺碧の瞳を見出して、シーツの上で軽く飛び上がった。
「ふごっ……!? あ、アリス……!?」
「しっ、大きな声を出さないで」
「と、言われても君、これはちょっとその、不適切というかその……」
「なにを考えているのです」
むぎー、と左耳を引っ張られ、ようやく意識が覚醒しはじめる。
寝ぼけ眼で、改めて枕元の時計を見るとまだ午前三時を少し回ったところだ。窓の外では、まだ高い位置に真ん丸い月が輝いている。
視線を戻す。
朧な月光を受けて、俺の枕元にひざまずくアリスは、青い無地のTシャツ一枚という大変に不穏当な格好だった。長い裾からは、自ら発光しているがごとき白い脚が惜しげもなく晒されている。シリコンの皮膚に薄く走っているはずの接合ラインもこの暗さではまるで見えず、その優美なラインが人造物だとはまったく信じられない。
「……あ、あまり見ないでください」
シャツの裾をぐいっと引っ張る姿に、俺は再び喉を詰まらせて跳ね起きた。
無理やり視線を持ち上げるものの、今度は薄い生地を持ち上げる膨らみと、その上に流れる鋳溶かした黄金のような髪が眼に入り、思考が急減速する。
俺の分かり易すぎる動転ぶりに、アリスも今更羞恥を感じたのか、ぷいと横を向き唇を尖らせながら言った。
「……おそらく覚えていないでしょうが、お前と私は半年も同じベッドで眠っていたのです。今更そのような反応をせずともよいでしょう」
「えっ……そ、そうなの?」
「そうなのです!!」
叫んでから、はっと口を両手で押さえる。俺も首をすくめ、隣室の気配を窺ったが、幸い直葉が起きた様子はない。もっとも彼女は、朝練に出る三十分前までは、たとえ地震と台風が一緒に来ても起きやしないのだが。
アリスは咳払いし、きっと俺を睨んだ。
「お前が妙な反応をするからいつまで経っても本題に入れないではないですか」
「そ……そりゃ失礼。えー、あー、うん、もう大丈夫です」
軽いため息、及びかすかなモーター音とともに立ち上がり、アリスは表情を改めて口を開いた。
「約五分前……尋常ならざる内容の通信文が、遠隔伝信術……ではない、ネットワーク経由で私に届きました」
「メール? 誰から?」
「差出人の名前はありません。内容は……口で言うよりも、文面を見たほうがいいでしょう」
ふい、と視線を動かし、俺のデスクの上、ソリッドPCの隣に設置されたプリンタを凝視する。
度肝を抜かれたことに、突然プリンタが排気ファンを回転させはじめた。背面にセットされたA4の用紙が、一枚引き込まれていく。間違いなく、アリスが無線で印刷命令を発したのだ。いつの間にこんなワザを覚えたのか。
という俺の驚きを。
トレイに吐き出された紙をアリスが俺にさし出し、記された文章に眼を走らせたときの驚愕が、瞬時に地平線まで吹き飛ばした。
横書きに記された、その内容は――。
『白き塔を登りて、かの世界へと至る。
雲上庭園.大厨房武具庫.暁星の望楼.聖泉階段霊光の大回廊』
たっぷり五秒ほどにも渡って、俺は自分が見ているものを理解できなかった。
半覚醒状態だった頭が動き出すにつれ、ようやく、アリスの”尋常ならざる”という言葉を実感する。
一行目の内容もさることながら。
問題は、二行目だ。そこに黒々と刻まれた、聞き覚えのある名称の羅列。
雲上庭園……暁星の望楼……これらは間違いなく、アンダーワールドは人界の首都セントリア、その中心に屹立していた神聖教会セントラル・カセドラルの各フロアの名前だ!
しかし、ならば、このメールの差出人はいったい誰なのだ!?
現実世界において、カセドラルの内部構造を詳しく知る人間は、たった二人しか存在しないはずだ。つまり、俺とアリスである。
菊岡さんや比嘉さんたちラーススタッフは、神聖教会という統治組織の名称までは外部からモニタできても、フロアの名前まではとても調べられなかったろう。また、アスナやクラインたちのように、援軍としてアンダーワールドにログインしたVRMMOプレイヤーは多いが、彼らは皆セントリアから遥か離れたダークテリトリーの荒野に出現し、ほぼその場でログアウトした。カセドラルをその眼で見る機会すら無かったはずなのだ。
いや――。
再び文面を詳細に辿った俺は、さらに信じがたいことに気付いた。
二行目の後半に見える、”聖泉階段”という名前。そんなフロアは、どう思い出しても通過した記憶がない。つまり、このメールの発信者は、俺ですら知らない内容を書き記している。
俺は、真剣な光を湛えるアリスの瞳を見返し、尋ねた。
「……アリス。この、聖泉階段というのは……」
「確かに、カセドラルに実在します」
騎士はこくりと頷き、白い両手を胸の前で握り締めて、続けた。
「しかし……秘匿されているのです。聖泉階段は、地上百層の威容を誇るカセドラルが、遥か昔、たった三階しかない小教会だった頃の遺構なのです! 第一層の大階段の下に封印され、何ぴとたりとも見ることはかないません。その存在を知る者すら、小父様、私、そして……最高司祭アドミニストレータの、たった三人しか居ないはずなのです……」
「な…………」
俺は、更なる驚きに打たれて喘いだ。
アリスは一歩踏み出し、俺の右手をぎゅっと掴んだ。その指先が、細かく震えているのに俺は気付いた。
「キリト……まさか……まさか。生きて……いたのでしょうか。あの半神人……最高司祭が……」
発せられた声には、深い畏れの響きがまとわりついている。
俺は、細い背中に手を回し、そっと引き寄せながら言った。
「いや……有り得ないよ。最高司祭は、確かに死んだ。元老チュデルキンともども、光になって四散するのを俺は確かに見た。そうだ……それに、ここを見ろよ」
左手に持ったプリント用紙を、アリスに示す。
「一行目に、こう書いてある。”白き塔を登りて、かの世界へと至る”。白き塔、というのはセントラル・カセドラル、そしてかの世界とはアンダーワールドのことだろう。もし差出人がアドミニストレータなら、かの世界とは絶対に書かないよ。”我が世界”、そう書くはずだ」
「そう……ですね、確かに。それは、私にも確信できます」
金色の前髪が俺の頬に触れる距離で、アリスが頷く。
「しかし……となれば、この文はいったい誰が……」
「わからない……推測する材料が無さ過ぎる。むしろ……この文章の意味が解れば、差出人も解るんじゃないかな……」
「意味……?」
「うん。よくよく読めば、おかしなところが幾つもある」
俺はアリスを促して並んでベッドに座り、指先で印刷文をなぞった。
「一行目には、登りて、と書いてあるけど……そうすると、二行目がなんかおかしいだろ? 最初の”雲上庭園”、これは俺と君が初めて戦ったフロアだ。たしか、相当上のほうだった。でも、次には”大厨房武具庫”とある。厨房は知らないけど、武具庫があるのはずっと下、地上三階だったはずだよ。と思えば、次は”暁星の望楼”だ。これは、俺たちが苦労して外壁を登って、どうにかこうにかカセドラル内部に戻ったフロアだろ。ほとんど塔の天辺だ。順番が前後しすぎる」
「そう……でしたね。……懐かしい……。外壁に、剣一本突き立ててぶら下がってるとき、お前は私に八回もバカと言ったのよ」
「そ、そこまで思い出さなくてもいいって」
首を縮める俺を見上げ、アリスはにこっと笑った。
「でも、本当は少しだけ嬉しかった。あんなふうに、誰かと心の底から言い合いをしたのは初めてだったから」
思わず、透明感のある笑顔をまじまじと見つめ返してしまう。
青い瞳が、わずかに潤んでいるように見えるのは気のせいか。
その、深い水底のような輝きから、俺は全精神力を振り絞って視線を外した。少々掠れた声で、説明を続ける。
「……それに、ここ。読点の位置もおかしいよ。なんで大厨房と武具庫のあいだ、それに聖泉階段と霊光の大回廊のあいだには点が無いんだ?」
アリスは、低い駆動音とともにゆっくり首を回し、再び文面を見た。
「……打ち忘れ……では、ないのでしょうね。……おや?」
何かに気付いたように、顔を用紙に近づける。
「キリト。一行目と二行目で、点の形が違いませんか? それに、何か意味があるのかは分かりませんが……」
「え……?」
俺も慌てて至近距離から覗き込む。
確かに――。一行目、”登りて”と”かの世界”の間に打ってあるのは、通常の読点だ。
しかし二行目に三つ打たれているのは、読点ではなくピリオドに見える。あるいはドットか。
ドット…………。
「あ…………あっ!!」
俺は低く叫び、腰を浮かせた。
「そ、そうか。カセドラルは百階しかないから……だから、二つを連結させて……つまり、これは……」
手探りで、ベッドのサイドボードからボールペンを掴み取る。キャップを引き抜きながら、アリスに急き込むように尋ねる。
「アリス。雲上庭園は、何階だったっけ!?」
「え……む、むろん、80層ですが」
「そうだよな。で……大厨房は?」
「10層です」
告げられる数字を、次々に紙の余白に書きなぐっていく。
「確か望楼が……で……聖泉階段は一層……大回廊が……」
手を止めたとき、そこには、三つのドットに区切られた、四つの数列が並んでいた。
見覚えのある体裁――どころではない。俺のような人種が日常的に見慣れている、ある種の書式。
これは、IPアドレスだ。
このメールは、現実世界のどこかに存在する、ひとつのサーバーを示していたのだ。
俺はデスクのPCに飛びつき、スリープを解除すると、キーボードを乱打してまずhttp、次いでftpで問題のIPに接続しようとした。しかし結果は、どちらもアクセス拒否だった。唇を噛み、さらに考える。接続プロトコルは他にも色々あるが、おそらく根本的なところを間違っている気がする。
再び、文面を眺める。
登るべき”白き塔”、とは二行目のアドレスそのものを指しているのだろう。
そして、登った先で”かの世界”に至る、ということは。
そのサーバーは。
「……そう……だったのか!!」
指先が冷たく痺れていくのを感じながら、俺はくるっと振り向いた。
「アリス。これは……接続経路だ! アンダーワールドに繋がる道なんだ!!」
押し殺した叫びを聞いたとたん、アリスの瞳が大きく見開かれた。
弾かれるように、ベッドから立ち上がる。
「……行ける……いえ、帰れるのですか。あの世界へ。私の……世界へ」
囁かれた言葉に、俺は、確信を持って深く頷いた。
アクチュエータの駆動音が高らかに響き、一直線に飛び込んできた身体を、俺は両手で受け止めた。
耳元で響いた嗚咽と、頬に触れた水滴の感触は、たぶん錯覚だったのだろう。
金属とシリコンのマシンボディに、そんな機能は無いはずなのだから。
常識的な時間になるまで待てるほどの忍耐力を、俺もアリスも持ち合わせていなかった。
ゆえに、午前四時を深夜ではなく早朝だとこじつけて、凛子博士の携帯端末に容赦なくコールした。
幸い、博士は今夜、六本木分室に泊り込みのようだった。最初はさすがに何が何だか解らぬ様子だったが、俺の説明が佳境に差し掛かったとたん、「そ、それホントなの!?」という悲鳴まじりの声とともに、ベッドから跳ね起きる気配が届いた。
「ホントです。ヘッダが偽装されてるんで、発信元のトレースはまず無理でしょうけど、内容からして本物としか思えません」
「そ……そう。なら、今すぐにでも確かめてみないと……」
そう口走る博士に、俺はすかさず畳み掛けた。
「その役目……俺と、アリスにやらせてください」
「えっ…………」
聞こえた息づかいは、驚き――ではなく、呆れたゆえのため息だろう。
「桐ヶ谷君……あなた、あんな目にあったのに……」
「それで懲りるような人間なら、そもそも最初からラースでバイトなんかしてませんよ」
再び、長い吐息。
「……そう、よね。そういうあなただからこそ出来たこと、これから出来ることもあるんでしょうし。でもね……今度は、ちゃんと親御さんの許可を取ってきてね」
「勿論です、任せてください。で……ちょっと確認させてほしいんですが。……アリスは、そっちからオーシャンタートルに接続する場合、STLは使うんですか?」
「いえ、必要ないわ。アリスのライトキューブ及びインタフェースは、あなたの生体脳と巨大なSTLを合わせたものとまったく同じ機能を果たすんだから。必要なのは、ケーブル一本とジャック一つよ」
「そう、ですよね。なら……えーと、ちょっと待ってください」
俺は、背後で両手を握り締めて見守るアリスに向き直った。
「アリス。その……悪いんだけど、彼女も一緒でいいかな……アスナも」
ぴくり、と片方の眉が動く。
ため息がわりの、軽いモーター音。
「……ま、いいでしょう。不測の事態となった場合、戦力が多いにこしたことはありませんから」
「す、すまない、恩に着る。……というわけなんで、博士……」
さらに幾つかのやり取りを経て通話を切ったあと、俺はアスナも叩き起こし、状況を伝えた。
こちらは、接続経路が見つかった、と言ったとたん今後の展開をすべて悟ったようだった。
ほんの一、二分で連絡を終え、さて、と部屋を見回す。
卓上には、すでに、明日から使うはずだった参考書やら何やらがきっちりまとめて置かれている。
それらの出番は、甚だ不本意ながら、もう少し先のこととなりそうだった。
プリンタの背中から、用紙を一枚抜き取ると、手早くボールペンを走らせる。直葉の部屋から制服を回収してきたアリスと、互いに背を向けて着替え、足音を殺して部屋を出る。
階段を降り、リビングのテーブルに手書きのメモを置き。
古めかしい引き戸を慎重に開閉して、白みはじめた空の下へと踏み出した。ひんやり冷たい早朝の空気を胸いっぱい吸ってから、ガレージの隅で埃を被っていた125ccのバイクとメットを二つ引っ張り出す。
家からじゅうぶんに離れるまで押して歩き、シートに跨ると、後ろにアリスも座らせて――。
俺は、セルを回しながら言った。
「しっかり掴まってろよ! 飛竜並みにすっとばすからな!」
ぎゅっと俺の腹に手を回しながら、アリスが答える。
「私を誰だと思っているのです!」
「はは、そうだったな、竜騎士さん。じゃ……行こう!!」
自宅のリビングに残してきた文面は、以下のようなものだ。
『オヤジ、母さん、スグへ。ちょっとやり残した冒険をしてくる。夏休みが終わるまでには戻るから、心配しないでくれ。 K 』
早朝の幹線道を、川越街道、環七、246とすっとばして辿り着いたラース分室通用口の前には、すでにタクシーで先発していたアスナの姿があった。
やっほー、と手を振りかけて、俺の後ろに乗るアリスの姿に気付いてぴきっとこめかみを震わせる。
「……キリトくん。これ、どーゆーコトなのかな?」
「え……ええと、その。手短に言うと、色々あったけど、何もなかった……的な……」
「色々、と、何も、の中身を詳しく」
こうなることは解っていたのだ。解っていて、俺はあえて無策のままここまで来た。なぜなら、穏当な説明などできようはずもないからだ。
「詳しい話は、そのうちする、絶対するから! …………老後の茶飲み話とかに……」
語尾をゴニョっと付け加えて、バイクを職員用駐車場に停め、後輪をロックする。
振り向いた俺の眼には、畏れていた光景が飛び込んできた。
両手を腰に当てて立つアスナ。腕組みして立つアリス。対峙する両者は、しかも同じ学校の制服姿とくる。ぴりぴり、と空気を焦がす電光が見えるようだ。
俺は恐る恐る、両者に声をかけた。
「……あのぅ、君たち、そういうのもう終わったんじゃなかったっけ……ほら、アンダーワールドの、人界守備軍の野営地で……」
「あれはあくまで停戦交渉だったの!」
「停戦とは、ふたたび戦端を開く前提で行われるものです!」
同時に鋭く言い放ち、ふたたび視線をかち合わせる。
闘気を全開にしてせめぎ合う、二人の超級剣士の姿を二秒ほど見つめ――。
俺は、この場で唯一できることをした。
つまり、極力気配を消し、徐々に後ずさりながら、通用口の内部へと退避しようとしたのだ。
しかし、厳重なセキュリティシステムに、通行カードと指紋と網膜を認証させ終わったところで甲高い電子音が響き、二人がさっとこっちを向いた。
「あっ、コラ!!」
「逃げるとは何事です!!」
と、いう声が聞こえたときには、すでに俺は風のごとく廊下を疾駆している。
各方面のデリケートなコンディションを、いつまでもサスペンドしていることの誹りは甘んじて受けよう。
しかし、真に申し訳ないが、俺の少年期はもう少しだけ続く予定なのだ。
息を切らせてSTL室に飛び込んできた俺とアスナ、アリスを、神代博士は目を丸くして迎えた。
「……焦る気持ちはわかるけど、そんなに走らなくたって、STLも接続経路も逃げやしないわよ」
呆れ声を出す博士に、わざとらしい笑顔で答える。
「いやーハハハ、一刻も早く接続を試してみたくて! 何と言っても、ダイブが成功するかどうかで、今後のアンダーワールドの安全保障にも大きく影響っテ!!」
語尾は、アスナに右脇腹を思い切りつねられたことによるものだ。
さらにアリスからの追撃を受ける前に、長時間ダイブ用の滅菌衣に着替えるべく、隣接する更衣室へと退避する。
実際、博士に言った台詞は掛け値なしの本心でもある。
アンダーワールドを内包するオーシャンタートルは、現在、非常に微妙なシチュエーションに置かれている。その稼動および独立を維持するための方策は、いまのところ一つしかない。
人工フラクトライトつまりアンダーワールド人と、現実世界の人間たちの交流を進め、友好的な関係を醸成することだ。現実世界人の大多数が、アンダーワールド人もまた人間なりと認めてくれれば、国や企業も強引なことは出来なくなる。
いや――。
暴論を承知で言えば、別の方策もあることはある。
実際的防衛力の獲得だ。すでに開発が進んでいるはずの”ライトキューブ搭載仕様UAV”で武装し、国家として外圧と伍するのだ。
もっとも、これは妄言の範疇だ。UAVをどうやって必要数配備するのか、維持費をどう捻出するのか、そもそも飛竜しか知らないアンダーワールド騎士が超音速戦闘機に適応するのにいったい何年かかるのか。クリアすべきハードルはあまりに多い。
どちらにせよ、絶対に必要となるのが、国の管理下にある通信衛星以外の恒久接続回線だ。アンダーワールド人が、彼らにとっての新天地たるザ・シード連結体にダイブし、その存在を現実世界人に知らしめていくために。
それが可能となるか否かは、俺が握り締めるメモに書き記された、ひとつのIPアドレスにかかっている。
着替えを終え、更衣室を出た俺は、凜子博士にメモを持つ手をまっすぐ差し出した。
博士は、受け取るのを僅かにためらったようだった。しかしすぐに、指先で強く紙片を挟んだ。
「……おそらく、あの人が関わっているのでしょうね」
ひっそり発せられた言葉に、俺は小さく頷いた。
どうやって、カセドラルの内部名称を知ったのかまでは解らない。しかし、オーシャンタートルとネットを繋ぐ秘匿回線を設けるなど、あの男にしか出来ないことだ。
茅場晶彦……ヒースクリフにしか。
考えてみれば――。
俺の戦いは、あの男との直接対峙なくして終わるわけはないのだ。今回、ヒースクリフは俺の眠るSTLのすぐ傍を通り過ぎただけで、ふたたびネットワークの暗闇へと消えてしまった。
ダイブの準備を始めた博士に背を向け、俺は自分の携帯端末を起動し、囁きかけた。
「ユイ。問題のアドレスについては、何かわかったか?」
家を出る前に、俺から調査を頼まれた超AIにして愛娘ユイは、画面に映る可憐な顔をちいさく横に振った。
「サーバーの物理位置はおそらくアイスランドですが、単なる中継点だと思われます。防壁が手ごわくて、その先まではトレースできません」
「そっか……ありがとう。それで……あの男のほうは?」
「それが……ザ・シード・ネクサスの304番ノードに、それらしきごく微細な移動痕跡を発見したんですが、すぐに失探してしまって……」
しゅん、と肩を落とすその頭を、タッチパネルごしに指先で撫でてやる。
「いや、充分だよ。三百……アメリカか……。それ以上は追いかけなくていい。直接接触は、たとえユイでも危険だからな。あいつは、今やほとんどユイと同質の存在となっているはずだ」
「私のほうが上です!」
ぷーっと膨らんだ頬を、苦笑とともにつつく。
「ま、とりあえず行ってくるよ。今度は、もうあれやこれやの危険はない……と思う」
「もし何かあったら、すぐ助けにいきますから!」
「頼りにしてるよ。じゃあ、またな」
伸ばされた小さな手と、画面越しに指を触れ合わせ、俺は端末の電源を落とした。ちょうどその時、着替えの終わったアリスとアスナが女性用更衣室から出てきた。
幸い、二人は二度目の休戦協定を結んでくれたようで、火花の出るようなオーラは収まっている。
俺は、二人と順番に目を見交わし、言った。
「何せ、二百年後だ。人界と暗黒界が、どうなってるのか見当もつかない。まあ……三百年のアドミニストレータ治世にくらべれば短いし、そんなに激しい変化があるとは思わないけど……」
アリスがしっかりと頷き、続ける。
「少なくとも、セントラル・カセドラルが現存することは確かなようです。ならば、人界もそのままと考えてよいでしょう」
アスナも、アリスの腕に触れ、微笑む。
「いちばん最初に、シルカさん、だっけ? 妹さんを目覚めさせにいかないとね」
「ええ!」
もう一度、深く頷きあい――。
俺たちは、二台のSTLと、一脚のリクライニングシートに、それぞれ歩み寄った。
ひんやり冷たいジェルベッドに、身体を横たえる。凛子博士の操作によって、巨大な量子通信デバイスがゆっくり降りてきて、額から上にしっかりと被さる。
「それじゃ……行くわよ」
博士の声に、異口同音に答える。
「はい!」
マシンが低く唸りを上げる。
俺の意識、魂を構成する不確定光子雲――フラクトライトが生体脳から切り離され、五感と重力が喪失する。
魂は、電気的信号へと翻訳され、広大無辺なネットワークへと飛び出す。
大容量の光回線を超高速で突進し、懐かしい異世界を目指してひたすらに飛翔する。
新たな冒険へ。
次なる物語の中へと。
まず、光が見えた。
極小の白い輝きが、虹色の放射光となって拡大し――視界を覆い――さらに広がり。
その奥に、純粋なる黒が出現した。
俺は、光のトンネルの先の暗闇へと、一直線にダイブする。
いや、全き闇ではない。
黒を背景に、恐ろしいほどの数の、色とりどりの光点がいっぱいに満ちている。
星だ。夜空…………
とも、違う。
なぜなら。
「……う、うわあああ!?」
俺は、足元を眺め、絶叫した。
なぜなら、地面が存在しなかった!
慌てて両脚をばたばたさせるものの、ブーツの先は何にも触れない。足元にもまた、無限の星空がどこまでも続くのみだ。横を見ても、上を見ても、星。星また星。
「きゃ、きゃあああ!?」
「こ……これは……!?」
左右で、同時に悲鳴が聞こえた。
いっぱいに広げた俺の両手が、むぎゅっと思い切り掴まれる。
右を見ると、真珠色のハーフアーマーに細剣、薄い虹色に彩られたスカートというステイシア神の装束に身を包んだアスナが浮いていた。
左には、黄金のブレストプレートと白いロングスカート、腰に白銀の鞭を下げ山吹色の長剣を佩いたアリス。
二人とも、瞳を丸く見開いて、目の前に広がる果てしない星空を眺めている。
いや。
これはもう、星空ではなく。
「…………宇宙…………?」
俺は、おそるおそる呟いた。
途端に、猛烈な寒気を意識する。アリスとアスナも、くしゅんと盛大なくしゃみをする。天命が急減少しているのが確実なほどの、激烈な低温環境だ。
いや、二人の声が聞こえる時点でほんものの宇宙空間ではないのだろうが、限りなくそれに近い。俺たちは、そこに生身でぽっかりと浮遊している。
俺は意識を集中し、光属性の防御壁を球形に展開すると、全員を包み込んだ。
ぼんやり薄い輝きに包まれた途端、突き刺すような寒気がようやく遠ざかる。
ほっと息をつき、改めて眼前のとてつもない光景を見回した。
視界の右上から左下にかけて、ひときわ密な星の群れが帯をつくって横切っている。天の川――と言うべきなのだろうが、抜きん出て明るい恒星たちをどう線で結んでも、現実世界で慣れ親しんだ星座はひとつも見つけられない。
やはりここは、アンダーワールドなのだ。
しかし、ならば大地は……そして空はどこに行ってしまったのか。
ふと、激しい戦慄を覚え、俺は身を竦ませる。
――まさか。
消えてしまった……のだろうか。
二百年の時間のはてに、人界と暗黒界を構成していた大地そのものの天命が潰え。
そこに生きていた十数万の人々ともども、すべて虚無へと還ってしまったのだろうか……。
「うそだ……そんな…………」
震える声で、そう囁いた俺の左手を。
突然、アリスが軋むほど強く握った。
「キリト。……あれを」
はっ、と顔を向けると、黄金の騎士はいつのまにか体の向きを変え、真後ろを見つめていた。
伸ばされた手が、まっすぐに一方向を指差す。
俺も、息を詰めながら、ゆっくり、ゆっくりと振り向いた。
星が見えた。
遥か彼方に小さく瞬く恒星ではなく――視界の全てを覆わんばかりの、巨大な惑星が、そこに在った。
球体の上半分は、完全な黒に染まっている。
しかし、その中ほどから、黒は徐々に藍へ、群青へ、さらに紺碧へと色を変えていく。
そして、下半分の円弧は、眩い水色に輝いている。
水色は、徐々に、徐々にその色を強くしていく。円弧の下端に、白い光が盛り上がり、さっ、と横一直線の光芒が伸びた。
夜明けだ。
惑星の向こうに隠れていた太陽――ソルスが、今まさに姿を現そうとしているのだ。
眩い白光から目を逸らし、再び惑星の表面を見やる。
先ほどまで深い藍に沈んでいた地表も、少しずつ明るい青に照らし出されていく。
白い雲が薄くたなびくその向こうに、黒い大陸の輪郭線があった。
少し上下が短い逆三角形をしている。
大陸の右上付近に、白い光点の集合がひとつ。左上に、さらに大きな円形の集合光が見えた。
明らかに、文明の光だ。よくよく見れば、二つの集合を結び、さらに下方にも伸びるいくつもの光のラインが網目状に走っている。
俺は、その大陸の形と二つの大都市の位置から、自分が見ているものを即座に悟った。
右上の都市は、暗黒界の首都オブシディア。
そして左上は――人界央都セントリアだ。
あの大陸、あの星こそが、かつて俺が生き、戦い、駆け抜けたアンダーワールドなのだ。
茫然としたまま視線をうごかし、隣のアリスを見やった。
その白い顔にも、深い驚きと畏怖だけが浮かんでいる。
と、不意にアリスははっと目をしばたくと、俺の手を離し、剣帯の後ろに装備されたポーチを探った。
そっと取り出されたものは、掌から少しはみ出すほどの大きさの、二つの白い卵だった。
片方はほのかな緑、もう一方はほのかな青に輝いている。光は、一秒間隔で周期的に強さを変動させている。まるで呼吸のように。鼓動のように。
アリスは、二つの卵をそっと胸に抱き、瞼を閉じた。その頬に、音も無く、ふたすじの涙が流れ、零れて、丸い水滴となって漂った。
俺は、自分の目にも涙が滲むのを感じた。反対側を見ると、手を繋いだままのアスナの瞳も濡れていた。
俺たちが見守るなか、アリスは星々の海を踏みしめ、一歩前に出た。左手で二つの卵を抱き締め、右手をまっすぐに巨大な惑星に向けて差し伸べた。
夜明けの星と同じ色の瞳に、無限の輝きを秘め、黄金の整合騎士は凜と響く声で高らかに叫んだ。
「世界よ!! 私が生まれ、私が愛したアンダーワールドよ!! 聞こえますか!!」
全宇宙の恒星たちが震え、青い惑星も、息づくように一瞬その光を強めた。
俺はまぶたを閉じ、ただ耳だけを澄ませた。
新たな時代の訪れを告げる言葉を、永遠に記憶に刻み込むために。
「私は、いま帰還しました! …………私は、ここにいます!!」
(エピローグ 終)
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プロローグ
「こちらブルーローズ73。気圏離脱を確認。星間巡航速度へと移行します」
整合機士スティカ・シュトリーネンは、口元の集声器にそう告げると、左手で制御棹をゆっくりと前に倒しこんだ。
機竜が、白銀の巨体をかすかに震動させる。いっぱいに開かれた両の翼が、ほのかな青に輝く。宇宙空間の希薄なリソースを広範囲から収集し、駆動機関に送り込んでいるのだ。
すぐに、機関心臓部に封じられた永久燃素が甲高い唸りを上げて反応し、長い尾の両脇の主噴射孔から白い炎が吐き出される。ぐん、と体が操縦席に押し付けられる感覚。惑星の気圏内では味わえない強烈な加速に、思わず口元が綻ぶ。
『ブルーローズ74、了解』
耳の伝声器に、短いいらえがあった。ちらりと映像盤を見ると、二番機も噴炎をまばゆく煌かせながら、右斜め後ろに追随してくる。
スティカと同時に叙任されて以来コンビを組む、整合機士ローランネイ・アラベルが二番機の搭乗者だ。普段から無口な子だが、機竜操縦中の使用を義務づけられている古代神聖語で話すときは、いっそうそっけなくなる。
そのくせ、速度中毒っぷりはスティカ以上だ。苦笑しながら、スティカは軽く注意した。
「速すぎるわ、ローラ」
『あなたが遅いのよ、スティ』
なにぃ、と思う。
アンダーワールド宇宙軍の規律は絶対だが、しかしさしもの鬼教官の眼も気圏の外にまでは及ばない。それに、目的地である伴星アドミナまでは三時間の長旅だ。多少の誤差は出て当然。
スティカは、制御棹をさらにもう一目盛り倒しこみ、真横に並びかけた二番機をわずかに引き離すと、にんまり微笑みながら身体を背もたれに預けた。
上向いた視線が、狭い操縦室の天蓋に嵌め込まれた、精緻なレリーフをとらえる。
垂直に並ぶ、白と黒二本の剣。それを取り巻く、青い薔薇と山吹色の金木犀の花。いまや伝説の存在となりつつある、星王の紋章だ。
星王と星王妃が、主星カルディナはセントラル・カセドラルの玉座を去ってすでに三十年が過ぎた。
整合機士に任ぜられて四年、まだたった十五歳のスティカとローランネイは、もちろん直接まみえたことはない。しかし二人とも、同じく機士だったそれぞれの母親から、たっぷりと逸話を聞かされて育った。そして、母たちもまた同じように、その母から沢山の昔話を伝えられたのだ。
シュトリーネン家とアラベル家は、二百年の長きに及んだ星王の治世に、その当初から近衛機士――当時は騎士と称したらしいが――として仕えてきた歴史を持っている。
七代前の祖先、騎士ティーゼ・シュトリーネンとロニエ・アラベルは、まだ王座につく前の星王を護り、当時カルディナ第一大陸を支配していた四皇帝家との戦いに功を成した。やがて、専横をほしいままにしていた皇帝と大貴族はあまねくその権力を廃され、私領地にて虐げられていた民はすべて解放された。
王はその後、最初の機竜を開発し、大陸を囲み気圏いっぱいまでそびえていた壁を超える。
未開の地に跋扈していた太古の神獣たちと辛抱強く交渉し、時には一対一の決闘に勝利して、次々と肥沃な入植地を開拓しては、当時は亜人と呼ばれ差別されていたらしいゴブリン族やオーク族たちに与え、それぞれの国を作らせた。
やがてカルディナ全星を踏破した王の黒い瞳は、無限の宇宙へと向く。
改良に改良を重ねた機竜で、ついに気圏離脱を果たし。
カルディナと対をなしてソルスを周回する惑星を見出し、アドミナと名づけ。
大型星間航行用機竜による定期航路を拓いて、アドミナ星に最初の移民都市を建設したのち、推されてアンダーワールド初の星王位に就いたのだ。
不老者であった王と王妃の統治のもと、二つの星の繁栄は永遠に続く――と誰もが信じていたのだが、しかし王はあるとき、一つの予言とともに玉座を降りて長い眠りに入った。そして三十年前、ついに再び民の前に現れることなく、揃って世を去ったのだ。
以来、政治は軍及び民の代表による合議のもと行われている。もはや戦うべき敵の存在しない現在では、地上軍、宇宙軍の規模は縮小されつつあるが、しかし王の予言に従い機士の訓練だけは古と変わらぬ厳しさを保っていた。
王は、こう言い残したのだ。
――いずれ、異世界”リアルワールド”の門が再び開くときが来る。
――そのとき、巨大な変革が二つの世界にもたらされることとなるだろう。
スティカには到底実感できない話だが、異世界の門が開いたのちには、アンダーワールドそのものの存続すらも不確定となる時代が訪れるという。融和と友愛を望むだけでなく、誇りと独立を貫くための力も磨き続けねば、人、巨人、ゴブリン、オーク、オーガの人間五族は、二百年前の”異界戦争”を上回る悲劇に見舞われるだろうとも言い伝えられている。
しかし、スティカに畏れはない。
たとえどんな世界に行こうと、どんな時代が訪れようと、機竜の翼さえあれば私は立派に戦ってみせる。なぜなら、私は、遥か創世の時代より続く伝統を持つ、栄光ある整合機士団の一員なのだから。
と、内心で呟き、再び天蓋の紋章を見上げた――
その直後だった。
副映像盤が突如真っ赤に輝き、異常な規模の素因集積体を感知したことを、文字と警告音の双方で告げた。
「な……なに!?」
叫びながら跳ね起きると、ほぼ同時に伝声器からローランネイの緊張した声が響いた。
『こちらブルーローズ74、闇素系生物の接近を探知! 素因密度……二万七千!?』
「神話級宇宙獣だわ…………”深淵の恐怖(アビッサル・ホラー)”…………」
神聖語ではなく汎用語でそう呟いたときには、すでに主映像盤に広がる星海の右隅に、インクを落としたような漆黒の虚無が映し出されていた。
アビッサル・ホラーの固有認識名を与えられたその生物は、確認されている宇宙棲息型神獣のなかでも、最悪の一頭だった。球状の体から十二本もの長大な触腕を伸ばした全長は、最大で二百メルを超える。単座機竜の十五倍にも達するサイズだ。
そしてその巨体は、高密度に集積した闇素因で構成されており、ほとんどの属性攻撃を受け付けない。しかし、”最悪”と呼ばれる理由は他にあった。
アビッサル・ホラーは、他の多くの神獣と異なり、人間との意思疎通を一切受け付けようとしないのだ。まるで破壊と殺戮の衝動のみで構成されているが如く、星間航行する機竜を見つけるや、一直線に襲い掛かり、喰らい尽くす。
かつて、神獣たちには常に敬意を以って接していた星王も、アドミナ星に向かう民間の大型機竜が破壊されるという悲劇を受けて、この宇宙獣だけは消滅させようとしたと聞く。しかし、一人で一軍を上回るとすら言われた王にも、アビッサル・ホラーを完全殲滅することはできなかった。
その後の研究により、かの宇宙獣は一定の速度と軌道を維持して二つの惑星のあいだを周回していることがわかり、苦肉の策としてあらゆる機竜は接触を回避できるタイミングでのみ星間航行を許可されることとなった。
もちろん、スティカとローランネイも、宇宙獣が遥かアドミナ星の裏側を飛行しているはずの日時を選んでカルディナ星を離陸してきたのだ。
――なのに。
「なんで……出現が早すぎるわ……」
震える両手を操縦桿に乗せたまま、スティカは呟いた。
しかし直後、ぎゅっと一度強く瞬きし、鋭い声で集声器に向けて叫んだ。
「左旋回百八十度、のち全速で離脱! カルディナ気圏まで退避します!」
『了解!!』
応答するローランネイの声にも、強い緊張の響きがある。
スティカは機竜を左にロールさせながら、思い切り操縦桿を引いた。姿勢制御噴射孔から白い炎が長く迸り、息が出来ないほどの重さで体が座席に押し付けられる。映像盤の星々が、弧を描いて右下に流れる。
旋回が終わったとき、主映像盤には、ほんの数十分前に離陸してきたばかりの惑星カルディナの青い輝きがいっぱいに映し出されていた。手を伸ばせば届きそうな大きさなのに、しかし実際には絶望的なほど遠い。
祈るような気持ちで、最大加速をかける。永久燃素が悲鳴じみた咆哮を放つ。
しかし、速度計に表示される出力は、上限に達する前に停まってしまう。アビッサル・ホラーが超広範囲からリソースを奪っているせいで、機竜の両翼のリソース収集器が性能を発揮できないのだ。
副映像盤の後方視界では、漆黒に染まる宇宙獣の姿が先刻よりも明らかに大きくなっていた。すでに、ざわざわと蠢く触腕までがはっきり視認できる。
そのうち、特に長い二本の腕の先端が、ぼんやりと青紫色の光を蓄え始めた。
『スティ、奴が攻撃態勢に入った!』
二番機からの声に、即座に応える。
「こっちも見えたわ! 後方に光素防壁を展開!!」
言いながら、左手で制御盤に並んだ釦の一つを叩く。ごん、ごんという音とともに機竜の腰部装甲が開く。すうっと息を吸い、意識を集中し――。
「システム・コール! ジェネレート・ルミナス・エレメント!!」
叫ぶと、握りしめた操縦桿内部の伝達経路を介して、機竜の両腰から十個の光素因が宇宙へと放出された。
それらはたちまち、スティカのイマジネーションに従って変形し、円盤型の防壁を作り上げる。
直後。
宇宙獣の触腕が、眩い青紫の光球を、まるで投げるように放った。
金属が引き裂かれるような衝撃音とともに、闇色の攻撃弾が宇宙を貫く。
ほんの三秒ほどで、光素防壁と接触し――。
「……きゃああっ!!」
機竜を襲った凄まじい震動に、スティカは思わず悲鳴を上げた。同時に、伝声器からもローランネイの叫び声が聞こえた。
二つの攻撃弾は、渾身の防壁を紙のように容易く引き千切り、白銀の背面装甲を深く抉ったのだ。
各種計器が、一瞬で真っ赤に染まる。リソース伝達経路にも異常が発生し、加速が格段に鈍る。
映像盤の彼方で、スティカは、不定形の闇でしかないアビッサル・ホラーがにやりと嗤ったのを確かに感じた。
側面映像を見れば、二番機も片翼を引き千切られ、がくりと速度を落としている。
「ローラ! ローラ!!」
叫ぶように呼びかけると、幸い、掠れた声ですぐに応答があった。
『……だいじょうぶ、私は無事。でも……この子は、もう、飛べない……』
「……機外に、脱出するしかないわ。機士服の飛翔器だけで、なんとかカルディナまで……」
『無理よ! …………ううん、嫌よ、そんなの!! この子を捨ててなんか行けない!!』
ローランネイの絶叫に――。
スティカは、何も言い返せなかった。
機士にとって、機竜はただの金属のかたまりではない。心を通わせた唯一無二の相棒なのだ。いにしえの、整合騎士たちが駆っていたという飛竜のように。
「…………そうね。そうよね」
呟き、スティカは両手でそっと操縦桿を包み込んだ。
大きく息を吸い、微笑みを浮かべて呟く。
「なら、最後まで一緒に戦いましょう。……再旋回、のち主砲で攻撃。それでいいわね、ローラ」
『……了解』
最後の通信は、いつものように、素っ気無いひと言だけだった。
微笑したまま、スティカはゆっくり操縦桿を引き、傷ついた愛竜を再び百八十度回頭させた。
主映像盤に、迫り来る巨大な闇の姿がいっぱいに映し出される。蠢く長大な触腕には、すでに八個もの紫色の攻撃弾が蓄えられている。
オオオオオオ――――…………ン。
と、アビッサル・ホラーが吼えた。あるいは哄笑したのかもしれない。
せめて、一矢報いて死のう。次にこの航路を襲うまでの時間が、少しでも長くなるように。
覚悟を決め、スティカは操縦桿上部の赤い釦を半分押し込んだ。
機竜の先端に装備された主砲が、がしゃりと展開する。本来なら、ここで最も有効な属性の素因を生成するのだが、アビッサル・ホラーに対してはどの属性もさして痛打とならない。
ならば、最も得意な凍素攻撃を行おう、と考えてコマンドを唱える。
機竜のあぎとが、澄み切った青に輝く。
ちらりと隣を見ると、二番機の主砲からは赤い光が漏れている。ローランネイは燃素攻撃を選択したようだ。
ほんの千メル先にまで接近した宇宙獣が、攻撃準備の整った八本の触腕をいっぱいに広げた。
スティカは、いっぱいに息を吸い込んで、発射命令を叫ぼうとした。
しかし――。
『ま……待って、スティ!! あれは……!?』
右耳を、ローランネイの驚愕の声が貫いた。
この期に及んでいったい何を……、と思った、その時。
スティカも、それを見た。
星が降ってくる。
映像盤のまっすぐ上方向から、白く煌くひとつの光が、すさまじい速度で接近してくる。
機竜!? と、一瞬思った。しかし、すぐに否定する。距離に対して、あまりに小さい。二メル以下、ほとんど生身の人間の大きさしか……
いや。
そのものだ。
星と見えたのは、球形に展開する光素防壁の輝きだった。その内側には、明らかに人のかたちをした黒い影がくっきりと視認できる。
人影が、二機の機竜の約百メル前方で停止するのと。
アビッサル・ホラーが巨大な咆哮とともに八個の光弾を放ったのは、ほとんど同時だった。
極々低温の宇宙空間になぜ生身の人間が、という驚きに打たれるより早く、スティカは叫んでいた。
「何をしているの!! 早く、逃げて!!」
しかし、その何者かはまったく動こうとしない。
長いコートの裾を翻しながら、敢然と、あるいは傲然と腕組みをしたまま、空間の一点で仁王立ちになっている。
あんな薄い防護壁など、アビッサル・ホラーの攻撃弾の前には薄紙ほどの役にも立たない。唸りを上げて襲い来る弾のひとつに触れたとたん、人影が血肉を振り撒いて四散するさまを、スティカは予期した。
「逃げて――――っ!!」
『逃げなさい!!』
ローランネイと同時に、再び絶叫する。
ひとつが直径三メルほどもありそうな青紫色の光弾が、金属質の唸りとともに殺到し。
まるで、見えない壁に激突したかのごとく、虚空で停止し、あらぬ方向へと跳ね返った。
宇宙が震えた。
見開かれたスティカの瞳がとらえる無数の星々が、水面のように波紋を作って揺れた。直後、到達した衝撃波が、機竜の巨体を震わせた。
唖然と息を飲み言葉を失ったスティカは、映像盤の右端の小さな計器が、一瞬で上端まで振り切れたことに気付いた。
「うそ……あ……有り得ないわ……」
かつて、その計器が二割ほども振れたところすら、スティカは見たことがなかった。耳に、ローランネイの、畏怖したような声が響く。
『……信じられない……こんな……心意強度…………まるで、この世界すべてを揺るがすほどの…………』
だが、眼前の事実だけは疑いようがない。
小さな生身の人間が、素因も使わずに、その心意――古の騎士の秘奥義――だけで宇宙獣の攻撃を弾いてのけた、という事実だけは。
オ……オオオオオオ――――…………
彼方で、アビッサル・ホラーが吼える。
それは怒りか、あるいは――怯えの叫びなのか。
光弾による遠隔攻撃は効かないと悟ったか、宇宙獣は、無数の触腕をいっぱいに伸ばして突進を開始した。
対峙する小さな人影は、広げた両腕を背中に回し、そこに装備された二本の長剣を一気に抜き放った。
「まさか……剣で戦おうというの!?」
思わず身を乗り出し、両手を映像盤に突く。
アビッサル・ホラーの全長は二百メルを超えるのだ。しかも、その体は実存の薄い闇素の集積だ。あんな、一メル少々の刃ではとうてい斬れるものではない。
しかし、人影――謎の剣士は、気負いのない動作でぴたりと左手の白い剣を巨獣に向け。
一声、叫んだ。
虚ろな宇宙空間と、機竜の分厚い外装甲を通してさえ、剣士の声はスティカの耳に朗々と響いた。
『リリース・リコレクション!!』
強烈な光が、一瞬表示映像を白く焼きつかせた。
回復した映像盤の中央で、剣士のかざす刃から、幾筋もの青白い光線が迸りアビッサル・ホラーへと殺到していくのが見えた。
宇宙獣の巨体とくらべれば、まるで絹糸のようにささやかに見える光線なのに、それに貫かれ、絡めとられた獣の突進速度は目に見えて衰えた。自在にのたうっていた十二本の触腕の動きも、徐々に強張り、鈍くなっていく。あたかも、凍りついていくかのように。
しかし、そんなことは有り得ない。アビッサル・ホラーは極限低温環境である宇宙に適応した生物なのだ。宇宙の温度すら下回るほどの冷気など、作り出せるはずがない。
というスティカの驚愕を、耳から響いたローランネイの囁き声が吹き飛ばした。
『あれは……あの技は、まさか…………”武装完全支配術”…………?』
「えっ……そんな、最上位機士にしか使えないはずよ!」
『でも……あの術式は、そうとしか……』
切れ切れの通話を、三度響いた宇宙獣の怒声が遮った。
オッ……オオオオオオンンンン!!
突如、捕縛された巨体が震え、新たな触腕が三本も出現した。それらは漆黒の大槍となって、謎の剣士へと襲い掛かっていく。
しかし、剣士はなおも悠揚迫らぬ動きで、今度は右手の剣を振りかざし。
再び、叫んだ。
『リリース……リコレクション!!!』
迸ったのは、宇宙獣の触腕よりも一層深く、重く、稠密な闇色だった。
全長五十メルを超えるかとすら思われる、凄まじく巨大な闇の刃が、三本の触腕を迎え撃つ。
双方が接触した瞬間、再び空間が歪むかと思われるほどの衝撃波が発生し、二機の機竜を揺らした。青紫の電光が虚空を這い回り、映像盤を眩く光らせる。
もう、スティカには、自身の驚きを言葉にすることはできなかった。
わずか七名の最上位整合機士にしか使えないはずの秘技を、しかも同時に複数発動させ。駆逐機竜の編隊ですら抗し得ないアビッサル・ホラーの全力攻撃を、たった一人で受け止める。
そのような剣士が存在するなどとは、たとえセントリアの両親にだって信じてもらえまい。
だが――。
真に驚愕すべき光景は、その先に待っていたのだ。
『スティ!! また……一人、剣士が!!』
はっ、と視線を彷徨わせると、謎の二刀剣士が出現したのと同じ方向から、さらにひとつの人影が舞い降りてくるのが見えた。
いっそう小柄だ。防御壁ごしにも、長い髪と短いスカートが揺れているのが見える。女性なのだろうか。
右手には、儚いほどに華奢なレイピアが握られていた。
女性は、その剣をすっと真上に掲げ――。
一気に前方へと振り下ろした。
漆黒の宇宙に、虹色のオーロラが一直線に出現し、美しく揺らめくのをスティカは見た。同時に、耳に不思議な、まるで無数の歌い手が高い和声を奏でるかのような音が響いた。
ラ――――――――。
心意検出計の針が、上端でびりびりと震動した。
星が。
あまりにも巨大な隕石が、どこからともなく出現し、炎をまとわりつかせながら頭上を横切っていく。
カルディナとアドミナを結ぶ航路上の隕石は、もう何十年も前にすべて排除されたはずだ。だが、機竜全体をがくがくと揺さぶるその重量感は、幻では有り得ない。
己に向かって、真正面から突進してくる巨大な質量を見て、アビッサル・ホラーが吼えた。
新たに二本の触腕を生成し、星を受け止めようとするかのごとく振りかざす。
衝突の一瞬は、無音だった。
燃え盛る隕石の先端が、宇宙獣の腕を瞬時に分断し。
巨躯の中心に、容易く沈み込み――。
闇の凝集たる獣を、一撃のもとに粉砕せしめた。
オオオオオオオォォォォォ――――――………………
断末魔の絶叫が、隕石の爆発音に重なり、宇宙に響き渡った。純白から真紅へと至るリソースの大解放が、スティカの目を強く灼いた。
「た……倒した…………の……? あの、怪物を…………?」
わななく声で、そう囁く。
だが――。
『あっ……まだ……まだだわ!!』
常にほんの少しばかり冷静な二番機搭乗員が、その現象に先に気付いた。
粉々に四散し、爆発に巻き込まれてすべて焼かれたかと思ったアビッサル・ホラーの断片が、不意に揃って動き出したのだ。
ひとつが数十センほどしかない、もとの巨体と比べればあまりに微細な闇の塊が、蠅の群れのように不規則に蠢きながら宇宙の深淵へと逃れていく。
そう――、言い伝えによれば、かつて星王もここまでは獣を追い込んだのだ。
しかし、数千の断片となって逃走するアビッサル・ホラーをすべて滅することが出来ず、軌道の果てに逃れ去った獣はやがて傷を癒して、再び航路を襲うようになった。
これでは、また伝説が繰り返されるだけだ。
「だめ……逃がしちゃだめよ!! そいつらを、全部焼き滅ぼさないと!!」
思わず、スティカは叫んだ。
しかし、二刀剣士と細剣士は、すぐには動けないようだ。無理もない、あれほど巨大な心意を発動させたのだ。
アビッサル・ホラーの断片群は、まるであざ笑うような湾曲軌道を描き、飛び去っていく。
――と。
蠅の群が、不意に乱れた。
散りぢりになり、逃げ惑うかのように不規則な動きを見せる。
スティカは息を飲み、映像盤に指先を触れさせると、一部を拡大した。
黄金色の光が見えた。
まるで小型のソルスのように、純粋な金の輝きを放射状に放つその何かを、さらに拡大する。
「…………人…………」
三人目の剣士だ。
黄金を流したかのような髪。同じく金の装甲。純白のスカート。揺るぎなく敵を睥睨する瞳は、空の蒼。
……知っている。
「私……この剣士……いえ、騎士を、知ってるわ」
スティカは囁いた。即座に、耳に『私も』の声が返る。
この黄金の騎士は、セントラル・カセドラル五十層・玉座の間に掛けられている、巨大な肖像画に描かれた姿そのものだ。古の異界戦争に於いて数多の武勲を上げ、戦いのさなかに姿を消したと言われる、史上最強の整合騎士のひとり。たしか、名を――。
「……アリス……様……?」
まるで、その声が聞こえたかのように、騎士の右手が動いた。
左腰の長剣を、あでやかな動作で抜き放つ。
山吹色の刀身が、ソルスの曙光を反射して、恐ろしいほどの光を帯びた。まるでその輝きを畏れるかのように、宇宙獣の断片は統制を失い、散り散りになって逃げ去っていく。
騎士は、長剣を両手で体の前に構え。
宇宙に吹き渡る爽風のような声で、叫んだ。そして同時に、機竜の心意計の針が、小さな爆発音とともに吹き飛んだ。
『リリース・リコレクション!!』
剣が、自ら強烈な輝きを迸らせた。
刀身が、じゃきっ! という金属音とともに、無数の細片へと分離した。
騎士はゆるりと右手に残った柄を動かした。
細片たちは、まるで風に舞い散る黄金の花弁のごとく、さあっ……と虚空に広がり。
一気に、無数の流星雨と化して虚空を疾った。
黄金の輝きひとつひとつが、恐ろしいほど正確な照準で、逃げ惑う漆黒の断片群を貫いていく。射抜かれた闇の蠅は、ひとたまりもなく金色の光に焼き尽くされ、蒸発する。
「…………すごい」
スティカには、そう呟くことしかできなかった。
たとえ、機士団の機竜をすべて並べ、主砲を一斉射撃したところでこれほどの精度と威力は望むべくもない。
ほんの数分前まで、宇宙……いやアンダーワールド最強最悪の神話獣と恐れられていたアビッサル・ホラーであった闇の断片の、最後のひとつが黄金の矢に貫かれたとき、これまでとは比べ物にならないほどの異質な絶叫が甲高く轟いた。
ギイイイィイィィィィォォォォォォ………………。
その声を最後に、宇宙獣はついに完全消滅した。
スティカはただ茫然と、黄金の光が騎士のもとに戻り、再び一本の長剣へと還るさまを見守った。
黄金の騎士が、仮にいにしえの整合騎士アリスその人なのだとしても、残る二人はいったい誰なのか。
映像盤では、剣を納めた黄金騎士が、すうっと宙を飛翔して黒衣の二刀剣士と真珠色の細剣士のもとへと近づいていく。
三人は、短くなにかやり取りしたあと――そろって、まっすぐスティカたちのほうへと振り向いた。
顔はよく見えない。しかし、そろって口元に微笑を浮かべているのだけは解る。
と、二刀剣士が、その白と黒の長剣を背中に戻し、右手を軽く振った。
その瞬間――。
スティカの胸の奥の奥、とても深いところを、言い知れぬ巨大な感情が貫いた。
息が詰まるほどの、甘く切ない痛み。
「あ……ああ……」
漏らした吐息と重なって、耳にローランネイの声が密やかに響いた。
『スティ。私、知ってる。私、あの人を知ってる』
「ええ、ローラ。私も……私もよ」
二度、三度と頷く。
知識として記憶しているのではない。そうではなく。
心臓が。体が。魂が、憶えている。
不意に、甘く香ばしい蜂蜜パイの匂いが鼻をくすぐる。
草原を渡る風の爽やかさ。穏やかに降り注ぐ日差しの暖かさ。
遠く、微かに響く笑い声。
スティカはたまらず立ち上がると、気密兜の晶板を下ろし、操縦席右側の持ち手を引いた。
ぷしゅっ、と空気が抜ける。機竜の操縦席を覆う三層の装甲が展開し、頭上に無限の星海がいっぱいに広がる。すぐ隣に遊弋する二番機からも、同じ音が聞こえた。
離れたところに固まって立ち、手を振り続ける三人の剣士たちの姿を、スティカはその眼でじかに見つめた。
いや。
もう一人――。
スティカの紅葉色の瞳は、不意に揺らめくように出現した、四人目の剣士の姿を確かに捉えた。
黒衣の二刀剣士のすぐ左に立ち、穏やかに微笑むひとりの青年。その姿は、眼を離した瞬間に消えてしまいそうなほどに朧に透き通り、陽炎のように瞬いている。
短い亜麻色の髪を揺らし、青年はゆっくり、大きく、頷いた。
スティカの両眼から、涙が溢れた。
頬を伝い、透明な気密晶板の内側に滴り、流れていく。一雫、またひとしずく。
やがて青年の姿は、カルディナの影から現れたソルスの光に溶けるように消え去った。
同時に、齢若い整合機士は、ついに悟っていた。
これが――この瞬間こそが、予言に記された”新たな時代のはじまり”なのだ。
彼らは、過去から現れ、未来の扉を開く使者なのだ。
この時から、世界は変わり始める。
異界の扉が開き、新しい時代の潮流が音を立てて流れだす。
それは決して、楽園の到来を告げるものではないはずだ。想像もできないような、巨大な変革と激動が訪れることになるのだろう。
しかし、スティカに恐れはなかった。
なぜなら――――。
こんなに胸が高鳴っているのだから。
あの人たちとの邂逅を、魂が震えるほどに待ち焦がれていたのだから。
ぎゅっと瞼をつぶり、涙を振り落とし、スティカはまっすぐに前を見た。
立ち上がったまま、指先でそっと操縦桿を前に倒す。
傷ついた機竜の翼が、かすかな青に輝きはじめる。
永久燃素が息づき、ささやかな推力が機体を動かす。
隣のローランネイと、一瞬視線を見交わし、深く頷きあい。
アンダーワールド生まれの少女、整合機士スティカ・シュトリーネンは、機竜をゆるやかに飛翔させた。
彼方で手を振る、見知らぬ、懐かしい剣士たちに向かって。
次なる時代の扉へと。
未来へと。
Sword Art Online 4 -Alicization-
完
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ソードアート・オンライン 外伝1 『黒の剣士』
「お願いだよ……あたしをひとりに…… しないでよ……ピナ……」
シリカの頬を伝うふたすじの涙は雫となって滴り、地面の上の大きな一枚の羽根に当たって光の粒を散らした。
その淡い水色の羽根は、長い間彼女の唯一の友達でありパートナーでもあった使い魔・ピナの遺品だった。ほんの数分前、ピナはシリカを守るために死んでしまった。モンスターの武器によって致命傷を与えられ、一声悲しげに鳴いて氷のように砕け散った。トレードマークだった長い尾羽いちまいだけを残して――。
シリカは、アインクラッドでは珍しいビーストテイマーだ。だった――と言うべきか。テイマーの証である使い魔はもういないのだから。
ビーストテイマーとは、システム上規定されたクラスやスキルの名前ではなく、通称である。ごくごくまれに、通常はプレイヤーに対して敵対的(アクティブ)なモンスターが、「こちらに興味を示して」くるというイベントが起きることがある。その機を逃さず餌を与えるなどして飼い馴らすことに成功すると、そのモンスターはプレイヤーの「使い魔」としていろいろ冒険の手助けをしてくれる貴重な存在となる。その幸運なプレイヤーを、賞賛とやっかみをこめてビーストテイマーと呼ぶ。
無論すべてのモンスターが使い魔となってくれるわけではない。可能性があるのは、ごく一部の小動物型モンスターだけだ。イベント発生条件は完全には判明していないが、唯一、「同種族のモンスターを殺しすぎていると絶対に発生しない」のは確実と言われている。
よく考えるとこれはかなり厳しい条件である。つまり、使い魔となりうるモンスターを狙って数多く遭遇を繰り返そうとしても、通常それらのモンスターはアクティブであり、戦闘になってしまうのは避けられないからだ。狙ってビーストテイマーになろうと思ったら、対象モンスターと数多くエンカウントし、イベントが発生しなかった場合は全て逃亡しなくてはならない。その作業の辛さは想像に難くない。
その点、シリカは途方もなく幸運だったと言える。
何の予備知識もなく、気まぐれで降り立った層の気まぐれで立ち寄った森の中で、初めて遭遇したモンスターが攻撃せずに近寄ってきて、前日に気まぐれで買った袋入りのナッツを上げたところそれがたまたまそのモンスターの好物だったというわけだ。
種族名「フェザーリドラ」、全身をふわふわしたペールブルーの綿毛で包み、尻尾のかわりに二本の大きな尾羽を伸ばしたその小さなドラゴンは、そもそもが滅多に現れないレアモンスターだった。テイムに成功したのはどうやらシリカがはじめてだったらしく、彼女がそのドラゴンを肩に乗せてホームタウンの8層主街区・フリーベン市に戻ると大きな話題を呼んだ。翌日から大勢のプレイヤーがシリカのもたらした情報をもとにテイムに挑んだらしいが、成功したという話はほとんど聞かなかった。
シリカは、その小竜にピナという名前をつけた。現実世界で飼っていた猫と同じ名だ。使い魔モンスターは直接戦闘力はそう高くないのが常であり、ピナもその例に漏れなかったが、そのかわりにいくつかの特殊能力を持っていた。モンスターの接近を知らせる索敵能力、少量ながら主人のHPを回復させるヒール能力など、そのどれもが貴重なものでありシリカの冒険は飛躍的に楽になったのだが、何より彼女が嬉しかったのは、ピナの存在がもたらす安らぎと暖かさだった。
使い魔のもつAIはそれほど高級なものではない。言葉はもちろん使えないし、命令も十種ほどを解するにすぎない。しかし、わずか12歳でこのゲーム、閉鎖世界SAOに囚われて、不安と寂しさに押しつぶされそうになっていたシリカにとってピナが与えてくれた救いは筆舌に尽くしがたいものだった。ピナというパートナーを得て、ようやくシリカの「冒険」――それは即ちこの世界で「生きる」ことそのものなわけだが――が始まったと言ってもよい。
それから一年、シリカとピナは順調に経験を積み、短剣使いとしての腕も上がって、中層クラスのプレイヤーの間ではそこそこ名前が通るまでになった。無論、最前線で戦うトップ剣士達にはレベル的に及ぶべくもなかったが、実際のところ四万数千のプレイヤー中わずか数百人しかいない「攻略組」というのはある種伝説的な存在であって、その姿を目にすることすらほとんど無いため、主ボリュームゾーンを形成する中層級プレイヤーの中で名前が通るということがすなわちアイドルプレイヤーの仲間入りをするということでもあった。
そもそもが絶対的に少ない女性プレイヤー、さらにはその年齢のせいもあって、「竜使いシリカ」が多くのファンを持つ人気者になるのにそう時間はかからなかった。パーティーやギルドへの勧誘は引きも切らず、その状況で、13歳の彼女が多少舞い上がってしまっても責めることはできまい。だが、結局はその慢心が、シリカに悔やんでも悔やみきれない間違いを犯させることになった。
きっかけはささいな口論だった。
シリカは二週間前に誘われたパーティーに加わって、35層北部にひろがる広大な森林地帯、通称「迷いの森」での冒険に参加していた。もちろん、現在の最前線ははるか上の58層で、フロアそのものはすでに攻略されている。だがトップ剣士たちは基本的に迷宮区の踏破にしか興味を示さないため、「迷いの森」のようなサブダンジョンは手付かずのまま残されており、中層プレイヤーの格好のターゲットとなっている。
シリカの参加した6人パーティーは手練れ揃いで、朝から存分に戦闘をこなし、多くのトレジャーボックスを発見して、かなりのコルとアイテムの稼ぎを上げた。周囲が夕刻の色彩を帯びはじめ、皆の回復ポーションがあらかた尽きたので冒険を切り上げることにして、主街区へ戻ろうと歩き始めた時だった。早くもアイテム分配に色気を出したもうひとりの女性プレイヤーが、牽制のつもりか、シリカに言った。
――あんたはそのトカゲが回復してくれるんだから、ヒール結晶はいらないわよね。
カチンと来たシリカは、痛烈に言い返した。
――そういうあなたこそ、ろくに前面に出ないで後ろをちょろちょろしてるんだから、クリスタルなんか必要ないんじゃないですか。
あとはもう売り言葉に買い言葉で、リーダーの盾剣士の仲裁も焼け石に水、頭に血が上ったシリカはとうとう言い放った。
――アイテムなんかいらないわよ。あなたと組むのは金輪際ごめんだわ。あたしを欲しいっていうパーティーは山ほどあるんですからね!
せめて森を脱出して街に着くまでは一緒に行こうと引き止めるリーダーの言葉にも耳を貸さず、シリカは5人と別れて枝道に飛び込んだ。ムシャクシャした気分のままにずんずん歩き続ける。
たとえソロでも、短剣スキルを七割近くマスターし、ピナのアシストもあるシリカにとっては、35層のモンスターはそれほどの強敵ではなかった。労せず撃破し、主街区まで到着できる――はずだったのだ。道にさえ迷わなければ。
「迷いの森」というその森林ダンジョンの名前はダテではなかった。
巨大な樹々がうっそうと立ち並ぶ森は数百のエリアに分割され、ひとつのエリアに踏み込んでから一分経つと東西南北のエリアへの連結がランダムに入れ替わってしまうという設定になっていた。森を抜けるには、一分以内に次々とエリアを突破していくか、35層主街区の道具屋で販売している高価な「森の地図」というアイテムによってエリアの連結を確認しながら歩くしかない。
地図を持っているのはリーダーの盾剣士だけだったし、迷いの森では転移結晶を使っても街には飛べず、ランダムで森のどこかに飛ばされる仕様になっているので、シリカはやむなくダッシュでの突破を試みなければならなくなった。だが、曲がりくねった森の小道を、巨木をかわしながら走り抜けるのは予想以上に困難だった。
まっすぐ北へ向かっているはずが、エリアの端に達する直前で一分が経過してしまい、どこともしれぬ場所に転送されることを繰り返しているうち、だんだんシリカは疲労困憊してきてしまった。夕陽の色はどんどん濃くなり、近寄る夕闇に焦るほどエリア脱出はうまくいかなくなる。
やがて彼女は走ることを諦め、偶然森の端のエリアに飛ぶことを期待して歩きはじめた。だが、なかなか幸運には見舞われず――。とぼとぼ進むうちにも、容赦なくモンスターは襲いかかってくる。レベル的には余裕があるとは言え、周囲が暗くなるにつれて足場もよく見えなくなる。無傷で全ての戦闘を切り抜けるというわけにも行かず、ついに残りのポーションから非常用の回復結晶までも使い果たしてしまった。
シリカの不安を感じ取ったように、肩に乗ったピナがくるるる、と鳴きながら頬に頭をすり寄せてくる。相棒をなだめるように撫でながら、シリカは自分の短気と増長から窮地を招いてしまったことを悔やんでいた。
神さま――。彼女は歩きながら心のなかでつぶやいた。反省します。二度と自分が特別だなんて思いません。だから、次のワープで森の外に出してください。お願いします――
祈りながら、かげろうのように揺らいでいる転送ゾーンに足を踏み入れた。一瞬のめまいに似た感覚のあと、目前に広がったのは――当然のように、今までと何ら変わらぬ深い森だった。木立の奥は夕闇に溶け去り、森を包んでいるはずの草原はかけらも見えない。
げんなりしつつ、再び歩き出そうとしたとき――。肩の上でピナがさっと頭をもたげ、一声するどく、きゅるっ! と鳴いた。警戒音だ。シリカはすばやく腰から愛用の短剣を抜き、ピナの見据える方向へ身構えた。
数秒後、苔むした巨木の陰から、低い唸り声が聞こえてきた。視線を集中すると、黄色いカーソルが表示される。複数だ。二……、いや、三匹。モンスターの名前は「ドランクエイプ」、迷いの森で出現する中では最強クラスの猿人だ。シリカは唇を噛んだ。
とは言え――。
レベル的には、それほどの窮地というわけでもなかった。
シリカ達中層クラスのプレイヤーがフィールドに出る場合、出現モンスターに対して十分すぎるほどの安全マージンを取るのが通例である。目安的には、ソロで5匹のモンスターに囲まれた場合でも、回復手段無しで勝てる程度以上、ということになる。
なぜなら、最前線でゲームクリア目指して戦うトップ剣士たちとは違い、中層プレイヤーが冒険を行う理由は、一つには日々の生活に必要なコルを稼ぐため、二つ目は中層クラスに留まるための最低限の経験値稼ぎ、三つ目にぶっちゃけ退屈しのぎ、といったところだからだ。どれも、現実の死を賭けるほどの目的とは到底言い難い。実際はじまりの街には死の可能性をわずかでも増やすことを忌避したプレイヤー達が数千人の規模で残っている。
とは言え、そこそこの食事をし、宿屋のベッドで寝るためには定期的な稼ぎが必要だし、何よりプレイヤーの平均的レベル圏内におさまり続けていないと不安になってしまうのがMMOプレイヤーの宿命ということもあって――ゲーム開始から一年半近くが経過した現在では、ボリュームゾーンを形成するプレイヤーたちは十分以上のマージンを取った上でダンジョンに出かけ、それなりに冒険を楽しむようになってきていた。
それゆえ――。35層最強クラスのドランクエイプ三匹と言えども、竜使いシリカの敵ではない、はずだった。
疲労した精神に鞭を入れて、シリカは短剣を構えた。肩からピナがふわりと飛び上がり、こちらも臨戦態勢を取る。
木立の奥から現れたのは、全身を暗赤色の毛皮に包んだ巨大な猿たちだった。右手に粗末な根棒を握り、左手には瓢箪にヒモをつけたような壷を下げている。
猿人たちが根棒を振り上げ、犬歯をむき出して雄叫びを上げている最中に、先手必勝とばかりにシリカは先頭の一匹に向かって地を蹴った。短剣スキルの中級突撃技『ホワイトファング』を命中させて大きくHPを削り、そのまま短剣の身上である高速連続技に持ち込んで圧倒する。
ドランクエイプが使用するのは低レベルのメイススキルで、一撃の威力はそこそこ大きいものの攻撃スピードも連続技の回数も大したことはない。シリカは連撃を的確に浴びせては素早く飛び退って敵の反撃をかわし、また踏み込むというヒットアンドアウェイを繰り返してたちまち一匹目のHPバーを減らしていった。ピナも時折しゃぼん玉のようなブレスを吐き、猿の目を幻惑する。
四度目のアタックで連続技『ラピッドバイト』を放ち、一匹目のドランクエイプにとどめを刺そうとした時――。一瞬の間をついて、目標の右後方から新たな敵が強引にスイッチしてきた。シリカはやむなく標的を変更。最初の猿は後方に退き、何やら左手の壷をあおっている――。
と、視界の端で一匹目のドランクエイプのHPバーをチェックしていたシリカを驚愕させることが起こった。バーがかなりの速度で回復していくのだ。どうやら壷には、何らかの回復剤が入っているらしい。
ドランクエイプとは以前にもこの35層で戦闘したことがあり、その時は2匹を労せずに蹴散らした。スイッチさせる余裕すら与えなかったので、よもやこんな特殊能力を持っているとは気付かなかった。シリカは歯噛みをしつつ、二匹目を確実に仕留めることに全力を傾ける。
だが。猛攻の末にバーをレッド領域にまで減少させ、とどめの強攻撃を見舞うべく距離を取った瞬間、またしても横合いから無理やり割り込まれた。三匹目のドランクエイプだ。見ると、最初の猿はもうほとんどHPをフル回復させてしまっている。
これではキリがない。シリカの心の中に、焦りの色がじわじわと広がっていく。
彼女は、そもそもソロでモンスターと戦った経験がほとんど無かった。レベル的な安全マージンというのはあくまで数値の話であって、プレイヤーのスキルはまた別の問題だ。想定外の事態に際して、シリカの中に生まれた焦りは徐々にパニックの色彩を帯びていく。攻撃のミスが目立ち始め、それは同時に敵の反撃も呼ぶ。
三匹目のドランクエイプのHPバーを、どうにか半分ほど減らした時。連続技に連続技を繋げようと深追いしすぎたシリカの硬直時間を逃さず、とうとう猿人の一撃が彼女の体を捉えた。
棍棒は木を削っただけの粗末なものだったが、重量ゆえの基本ダメージとドランクエイプの筋力補正によって、シリカのHPバーは思いもよらぬ量、三割ちかくも減少した。背中に冷たいものが疾る。
回復ポーションの手持ちが尽きていることも、シリカの動揺を大きくした。ピナがヒール・ブレスで回復させてくれるHPは一割程度、しかもそう頻繁に使えるものではない。それを計算にいれても、あと三回ダメージを受けると――死んでしまう。
死。その可能性が脳裏をよぎったとたん、シリカは竦んでしまった。声が出ない。脚が動かない。
今まで、彼女にとって戦闘というのは、スリルはあってもリアルな危険とは遠いものだった。その延長線上に、本当の「死」が待っているなんて思いもしなかった――。
雄叫びを上げ、再び棍棒を高く振り上げるドランクエイプの前で目を見開いて硬直しながら、シリカは初めてSAOにおける対モンスター戦の何たるかを悟っていた。ゲームであっても遊びではない、その矛盾した真実を。
唸りを上げて降ってきた棍棒が、棒立ちになったシリカを襲った。強烈な衝撃に耐え切れず、地面に倒れてしまう。HPバーがぐいっと減少し、黄色い注意域へと突入する。
もう、何も考えられなかった。走って逃げる。転移結晶を使う。取り得る選択肢はまだあったのに、シリカは呆然と三たび振り上げられる棍棒を見つめることしかできなかった。
ドランクエイプの攻撃は――しかし、シリカには当たらなかった。
空中で、棍棒の前に飛び込んだ小さな影があった。衝撃音。エフェクト光とともに水色の羽毛がぱっと散った。
地面に叩きつけられたピナは、首を上げ、つぶらな青い瞳でシリカを見つめた。一声、小さく「きゅる……」と鳴いて――直後、きらきらした欠片を振りまきながら砕け散った。長い尾羽が一枚ふわりと宙を舞い、かすかな音を立てて地面に落ちた。
シリカの中で、音を立てて何かが切れた。全身を縛っていた見えない糸が消滅した。悲しみより先に、怒りを感じた。たかが一撃食らっただけでパニックを起こし、動けなくなってしまった自分への怒りだ。そしてそれ以前に、ささいなケンカでへそを曲げ、ひとりで森を突破できると思い上がった、愚かな自分への怒り。
シリカは俊敏な動きで飛び退り、モンスターの追撃をかわすと、叫び声を上げながら敵に猛然と襲い掛かった。右手の短剣を閃かせ、猿人の体に次々と叩き込む。
仲間のHPが減ったと見るや、ふたたびスイッチで割り込もうと横合いから攻撃してきた最初のドランクエイプの棍棒を、シリカは避けずに左手で受けた。直撃ほどではないがHPバーが減少する。しかしそれを無視し、あくまで三匹目、ピナを殺した敵を追う。
小さな体を活かして懐に飛び込み、全身の力を込めて短剣を猿人の胸に撃ち込んだ。クリティカルヒットの派手なエフェクトと同時に、敵のHPバーが消滅した。悲鳴。直後に破砕音。
爆散するオブジェクトの破片の中、シリカは振り返ると、無言で新たな目標へと突撃した。HPバーはすでに赤い危険域に突入していたが、それすらももう意識しなかった。
振り下ろされる棍棒の真下に、無謀な突撃を強行しようとしたとき。
二匹並んだドランクエイプを、その背後から横一文字に強烈な白光が薙いだ。一瞬で、猿たちの体が上下に分断され、次々と絶叫と破壊音を振りまきながら砕け散った。
呆然と立ち尽くしたシリカは、オブジェクト片が蒸発していくその後ろに、一人の男が立っているのを見た。黒髪に黒いコート。背はそれほど高くないが、男の全身からは強烈な威圧感が放出されているように思えた。本能的な恐怖を覚え、シリカはわずかに後ずさった。二人の目が合った。
男の瞳は、しかし穏やかで、夜の闇のように深かった。男は右手に握った片手剣を背中の鞘にチン、と音を立てて収め、口を開いた。
「すまなかった。君の友達、助けられなかった……」
その声を聴いたとたん、シリカの全身から力が抜けた。こらえようもなく、次々と涙が溢れてきた。短剣が手から滑り落ち、地面に落ちるのも気づかず、シリカは視線を地面の上の水色の羽根に移すと、その前にがくりと跪いた。
熱く渦巻いていた怒りが消え去ると同時に、とてつもなく深い悲しみと喪失感が胸の奥に湧き上がってきた。それは涙に形を変え、とめどなく流れ落ちていく。
使い魔のAIには、自らモンスターに襲い掛かるという既存行動パターンは存在しない。だからあの時、振り下ろされる棍棒の前に飛び込んだのはピナ自身の意思、一年間に渡って共に暮らしてきたシリカとの友情の証であると言えた。
嗚咽を洩らしながら、両手を地面につき、シリカは言葉を絞り出した。
「お願いだよ……あたしをひとりに……しないでよ……ピナ……」
水色の羽根は、しかし、何のいらえも返さなかった。
† 2 †
「……すまなかった」
再び、黒衣の男の声がした。シリカは必死に涙をおさめ、首をふった。
「……いいえ……あたしが……バカだったんです……。ありがとうございます……助けてくれて……」
嗚咽をこらえながら、どうにかそれだけを口にする。
男はゆっくり歩み寄ってくると、シリカの前に跪いた。再び遠慮がちに声をかけてくる。
「……その羽根だけどな。アイテム名、設定されてるか?」
予想外の男の言葉に戸惑い、シリカは顔を上げた。涙をぬぐい、改めて水色の羽根に視線を落とす。
そういえば、一枚だけ羽根が残っているのは不思議ではあった。プレイヤーにせよモンスターにせよ、死亡して四散するときは装備から何から全てが消滅するのが普通だ。シリカはおそるおそる手を伸ばし、右手の人差し指で羽根の表面をぽんとシングルクリックした。半透明のウインドウが出現する。重量とアイテム名が表示されている。「ピナのこころ」――。
それを見て、ふたたびシリカが泣き出しそうになる寸前、あわてたように男の声が割り込んだ。
「心アイテムが残っていれば、まだ蘇生の可能性がある」
「え!?」
シリカは慌てて顔を上げた。ぽかんと男の顔を見つめる。
「最近わかったことだから、まだ知ってる奴は少ないんだ。47層の南に、『思い出の丘』っていうダンジョンがある。名前のわりに難易度が高いんだけどな……。そこのてっぺんに咲く花が、使い魔蘇生用のアイテムらし――」
「ほ、ほんとですか!?」
男の言葉が終わらないうちに、シリカは腰を浮かせ、叫んでいた。悲しみが詰まった胸の奥に、希望の光がぱっと差し込んでくる。だが――。
「47層……」
シリカは再び肩を落とした。今いる35層からは、はるかに12も上のフロアだ。とても安全圏とは言えない。マージンを考えず、回復アイテムを大量に携行すればダンジョン攻略もまったく不可能とは言えないが、しかし……。
「うーん」
目の前の男が、困ったような声を出して頭をかいた。
「実費とちょこっと報酬を貰えれば俺が行ってきてもいいんだけどなあ。使い魔を亡くしたビーストテイマー本人が行かないと、肝心の花が咲かないらしいんだよな……」
意外に人の良さそうな剣士の言葉に、シリカはちょっとだけ微笑むと、言った。
「いえ……。情報だけでも、とってもありがたいです。がんばってレベル上げすれば、いつかは……」
「それがそうも行かないんだ。使い魔を蘇生できるのは、死んでから3日だけらしい。それを過ぎると、アイテム名の『こころ』が『形見』に変化して……」
「そんな……!」
シリカは思わず叫んでしまう。
彼女のレベルは現在44。仮にこのSAOが通常のRPGだった場合、適正レベルは各層の数字と同じというわかりやすい設定なのだが、異常なデスゲームとなってしまった現在、安全マージンを考えるとおよそ10の上積みが必要となる。
つまり、47層に行こうと思ったら、最低でもレベル55に達さなくてはならないのだが、たった三日、いや実際の攻略を考えると二日でレベルを10以上も上げるなんてどう考えても無理な話だ。かなり勤勉に冒険を繰り返してきたシリカでも、一年半かかって今の数字なのだ。
再び絶望に捕らわれて、シリカはうなだれた。地面からピナの羽根を摘み上げ、両手でそっと胸に抱く。自分の愚かさ、無力さ、全てが悔しくて、自然と涙がにじんでくる。
男が立ち上がる気配がした。立ち去るのだろうと思い、もう一度お礼を言わなければと考えるが、口を開く気力も残っていない――。
と、不意に、目の前に半透明に光るシステム窓が表示された。トレードウインドウだ。見上げると、男が手許で同じウインドウを操作している。トレード欄に次々とアイテム名が表示されていく。『シルバースレッド・アーマー』、『シャドウ・ダガー』……。どれ一つとして見た事のあるものは無い。
「あの……」
戸惑いつつ口を開くと、男がぶっきらぼうな口調で言った。
「この装備で5、6レベルぶん程度底上げできる。俺も一緒に行けば、多分なんとかなるだろう」
「……」
口をつぐんだまま、シリカも立ち上がった。男の真意をはかりかね、じっとその顔をみつめる。
年齢の察しにくい男だった。黒尽くめの全身から発散する圧力と落ち着いた物腰はかなり年上のようにも思えるが、長めの前髪にかくれた目はナイーブそうで、どこか女性的な線の細さのある顔立ちからは少年めいた印象も受ける。シリカはおずおずと言った。
「なんで……そこまでしてくれるんですか……?」
正直、警戒心が先に立った。
今まで、自分よりはるかに年上の男性プレイヤーに言い寄られたことが何度かあったし、一度は求婚さえされた。13歳のシリカにとってはそれらの体験は恐怖でしかなかった。現実世界では、同級生に告白されたことすらなかったのだ。
いきおいシリカは、下心のありそうな男プレイヤーは事前に避けるようになっていたし、そもそもアインクラッドでは「甘い話にはウラがある」のが常識だ。
男は返答に困ったようにまた頭をかいた。何かを言いかけるように口を開くが、すぐに閉じてしまう。視線を逸らし、小声でつぶやく。
「……マンガじゃあるまいしなぁ。……笑わないって約束するなら、言う」
「笑いません」
「君が……妹に、似てるから」
あまりにもベタベタなその答えに、シリカは思わず吹きだしてしまった。慌てて片手で口を押さえるが、込み上げてくる笑いを堪えることができない。
「わ、笑わないって言ったのに……」
男は傷ついた表情で肩を落とし、うつむいてしまった。その姿がさらに笑いを呼ぶ。
悪い人じゃないんだ……。必死に笑いを飲み込みながら、シリカは男の善意を信じてみよう、と思っていた。一度は死も覚悟したのだ。ピナを生き返らせるためなら、惜しむものなんてもう何もない。
ぺこりと頭を下げ、シリカは言った。
「よろしくお願いします。助けてもらったのに、その上こんなことまで……」
トレードウインドウに目をやり、自分のトレード欄に所持しているコルの全額を入力する。男が提示してきた装備アイテムは十種以上に及び、その全てが非売品のレアアイテムらしい。
「あの……こんなんじゃ、ぜんぜん足らないと思うんですけど……」
「いや、お金はいいよ。どうせ余ってたものだし、俺がここに来た目的とも、多少被らないでもないから……」
謎めいたことを言いながら、男は金を受け取らずにOKボタンを押してしまった。
「すみません、何からなにまで……。あの、あたし、シリカっていいます」
名乗りながら、少しだけ、男が『知ってるよ』と驚く反応を期待したのだが、どうやらシリカの名は知らないようだった。残念に思い、すぐに、自分のそういう思い上がりが今回の事態を招いたんだと反省する。
男は軽くうなずくと、右手を差し出してきた。
「俺はキリト。しばらくの間、よろしくな」
握手を交わす。
シリカは、左手に握ったピナの羽根をそっと頬にあて、胸の中でつぶやいた。
待っててね、ピナ……。絶対、生き返らせてあげるからね――。
† 3 †
ありがたく受け取った数々のアイテムを早速装備してみることにして、シリカは左手を振ってメインウインドウを開いた。まず、手にもったピナの羽根をそっとウインドウの表面に置く。水色の羽根は自動で所持アイテムに格納され、姿を消す。次いで右側に並んだメニューからアイテムリストを選択し、さらに装備アイテム階層へと降りる。所持アイテムの一覧を新規入手順にソートすると、先程の武器防具がずらりと並んだ。
シリカのメイン武器である短剣から、軽量級のアーマー、グローブ、ブーツ、鎧の下に着けるボディスーツまである。これらの装備アイテムに、サイズの違いは存在しない。一度アイテム欄に格納して、装備フィギュアに移動させれば、どんな体格のプレイヤーであろうともぴたりとフィットしたサイズで実体化される。
アイテムを確認したあと、まずは自分がいま装備している防具を解除しようとして――シリカの指がぴたりと止まった。目の前に立つ、キリトと名乗る男の顔を見上げ、かすかに頬を赤くしながら口を開く。
「あ、あの……」
「? ……あ……」
それだけで、キリトはシリカの言わんとする所を察したようだった。
「ご、ごめん」
慌てたように後ろを向き、手近な巨木の陰に姿を消す。
今着けているレザーアーマーや布のグローブなどを解除するのはともかく、ダークブルーのボディスーツまで着替えると、その下はもう簡単な下着を身に付けているだけだ。操作している間はあくまで状況に忠実な下着姿になってしまう。いくら架空世界の擬似的な体とは言え、恥ずかしいものは恥ずかしい。
シリカは、キリトの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、急いでウインドウ左側の装備フィギュアに指を走らせた。各所に表示されている装備アイテム名にタッチし、次々と解除していく。細い指がひらめくたびに、彼女が身にまとう武装が音も無く消滅していく。
SAOにおけるシリカの肉体は、はるか一年半前のあの日、最初で最後のログインをしたときにナーヴギアが大雑把にスキャンして生成したその時のままだ。小学校のクラスでは、整列するとかなり後ろの方に位置した彼女だが、SAOプレイヤーの平均からすればその体格は群を抜いて小さい。
敏捷力を活かしたヒットアンドアウェイが身上の短剣使いには、体の小ささは利点なのだが、シリカにとっては、本当ならもっと背が伸びているはずなのに、という不満のほうが大きい。全武装を解除し、シンプルなコットンの下着姿に――せめてゲームの中ではもっとお洒落なシルクの下着を着けてみたいと思うのだが、腹の立つことにそういうモノは高性能防具なみの値段がして手が出ない――なったシリカの体は、人形のように華奢で、細い。
それが羨ましいと言った年上の女性プレイヤーもいたし、そこがいいんだと面と向かって力説した男性プレイヤーもいたが(鳥肌が立った)、せめてもう少しあるべき場所にボリュームが欲しいというのがシリカの秘めたる願いである。
春とは言え夕暮れの森の中はまだまだ寒く、シリカは体を縮めながら急いでウインドウを操作した。
右側のアイテムリストから、新しいボディスーツを選んでドラッグし、装備フィギュアの所定の欄にドロップする。鈴の音のような効果音、淡いライトエフェクトと同時に、肩口から腿の半ばまでを覆うぴったりとした薄手のスーツが実体化される。色は、以前のものとよく似た深いブルーだ。
次に、ライトアーマーをドロップ。胸部に、細い銀糸を編んで作った小さな鎧が装着される。以前のレザーアーマーよりもはるかに軽いが、防御力の数値は驚くほど高い。さらに、ブーツ、グローブ、バンダナ等を身につけていく。どれもがステータス補正値のついた強力なアイテムだ。
短剣を腰に装備し、最後にこれだけは以前から持っていた、ゆったりしたキュロットスカートを身に着けると、自分の体を一通り見回して、シリカはウインドウを消去した。
「もう、いいですよー」
巨木の向こうに声をかける。恐る恐るといった気配で姿を現したキリトの前で、シリカは両手を広げてくるりと一回転してみせた。
「なかなか似合ってるよ」
キリトがにこりと微笑すると、シリカは自分でも驚くほど嬉しくなって、笑みがこぼれてしまう。照れ隠しに、腰の短剣を抜くと、二、三度振ってみた。深い艶消し黒の刀身を持つその短剣は、それほど軽くはないがバランスのいい逸品で、空気を切り裂く音が心地いい。
キリトは腕組みをすると、口を開いた。
「ちょっと連続技を出してみてくれないか」
頷き返して、シリカは腰を落とし、右手の短剣を構えた。現在マスターしている中で最上位の五連撃技『ファルコン・クロウ』、その初動となる上段突き下ろし攻撃を放った瞬間――シリカは自分の体が予想以上の早さで動いたことに驚き、二撃目のタイミングをミスって見事にすっ転んでしまった。
「ふにゃ!」
ふかふかした苔のテーブルでしこたま鼻を打つ。
笑いをかみ殺しながら右手を差し伸べるキリトの顔を軽く睨み、シリカはすました表情でその手を取った。立ち上がり、首を捻る。
「あれー……。タイミングが、ぜんぜん違う」
「うん」
キリトは頷くと、言った。
「装備重量が軽くなったり、敏捷度にマジックアイテムの補正がついたりすると、連続技のスピード自体が上がって撃ち込みタイミングがずれていくんだ。今までは徐々に装備を買い換えてきたわけだけど、今回は急に装備が全部入れ替わったから、よく使う連続技はタイミングを練習しておいたほうがいいね」
今まで、有力プレイヤーとして人に助言をすることはあってもその逆はあまり記憶になかったシリカだが、キリトの言葉には素直に頷いてしまう何かがあった。
「はい。今夜中に直しておきます」
再び微笑して、キリトは空を振り仰いだ。つられてシリカも上空を見上げる。木々の梢を透かして届く西陽はほとんど消え去り、紫色の夕闇がゆっくりと世界を包もうとしていた。
「さて……そろそろ街に戻らないとな」
キリトの言葉に、急に現実にかえった気分で、シリカは剣士の顔を見上げた。そう言えば、ここの脱出に散々手間取っていたのだということを今更のように思い出す。
「そうですね……。あの、地図、お持ちですか……?」
「ああ、一応あるけどな……。走ったほうが早いかな」
そう言われて、シリカはしゅんとして下を向く。
「すみません……。一分で一エリア、走りきれなくて……」
「あ、悪い。うーん」
キリトはぼりぼりと頭をかいた。
「歩いてもいいけど、夜型のモンスターが出ると厄介だな……」
シリカをちらりと見下ろしてくる。
「えーと……。これはあくまで実際的な、ゲーム攻略上の提案であって、君のことを子供扱いしてるわけじゃないということと、俺に良からぬ意図があるわけではないということを理解してほしい。その上で聞くんだが……おんぶとだっこ、どっちがいい?」
「なっ……」
予想だにしないことを言われ、シリカは真っ赤になって俯いた。どっちもとてつもなく恥ずかしいが、しかし確かに、このまま夜に突入して、昼間より強力な夜行性モンスターに遭遇してしまうのは無視できない危険がある。キリトのレベルは自分よりは高いだろうが、はっきりしたことを聞いていない以上それを過信することはできない。
散々もじもじしたあと、シリカは消え入るような声で言った。
「だ、だっこで」
「了解」
ひょい、という感じで、キリトは無造作にシリカの体を横抱きに持ち上げた。まるで危なげのないその様子は、かなりの筋力パラメータ値を想像させる。
「ちょっと飛ばすから、しっかり掴まってて」
「は、はい」
不意に早鐘のように鳴り始めた鼓動をいっしょうけんめい落ち着かせようと苦労しつつ、シリカはおそるおそるキリトの首に手を回した。と、その途端――
「ひゃっ……」
息もできないほどの突風が、シリカの顔を叩いた。どうにか目を開け、前方を見ると、落下しているかのような速さで次々と木々が視界を流れていく。
とてつもないスピードだった。飛んでいるとしか思えない。夢中でキリトの首にしがみつくうち、前方に転送ゾーンのゆらぎが見えてきた。速度を落とさず、そこに飛び込む。
一瞬の転移感覚のあと、即座に加速し、森を駆け抜けていく。曲がりくねった小道を走るのは面倒とばかりに、岩や樹の幹さえも足場に、一直線に突き進む。
「うわあ……すごいっ……」
無意識のうちに、シリカははしゃぎ声を上げていた。アインクラッドに来て以来味わったことのないスピードだった。驚いたことに、早くも次の転送ゾーンが視界に入ってくる。一分だなんてとんでもない。二十秒も経っていないのではないか。
「もっと……もっと速く……!」
シリカの声に応えるように、キリトはさらに速度を上げた。もう完全に宙を飛翔している。時々視界の端にモンスターが現れ、こちらをターゲットした証の黄色いカーソルが表示されるが、次の瞬間にはもうはるか後方へと吹っ飛んでいってしまう。たとえ飛行型モンスターでもこの速度に追随するのは不可能だろう。
次々とエリアを突破して、とうとう前方にあれほど脱出したかった草原が見えてきたとき、シリカは少しだけ残念に思った。いつまでも、こうして抱かれたまま世界の果てまでも飛びつづけていたかった。
† 4 †
35層主街区は、白壁に赤い屋根の建物が並ぶ牧歌的な農村のたたずまいだった。それほど大きい街ではないが、現在は中層プレイヤーの主戦場となっていることもあって、行き交う人の数はかなり多い。
シリカのホームタウンは8層にあるフリーベンの街だ。とは言え、もちろんマイルームを購入しているわけではないので、基本的にはどこの街の宿屋に泊まろうとそれほど大した違いはない。最重要ポイントは供される夕食の味なのだが、その点シリカはここの宿屋のNPCコックが作るチーズケーキがかなり気に入ったので、迷いの森の攻略を始めた二週間前からずっと逗留を続けている。
物珍しそうに周囲を見回すキリトを引き連れて、大通りから転移門広場に入ると、早速顔見知りのプレイヤー達が声を掛けてきた。シリカがフリーになった話を早くも聞きつけ、パーティーに勧誘しようというのだ。
「あ、あの……お話はありがたいんですけど……」
受け答えが嫌味にならないよう一生懸命頭を下げてそれらの話を断り、シリカは傍らに立つキリトに視線を送って、言葉を続けた。
「……しばらくこの人とパーティーを組むことになったので……」
ええー、そりゃないよ、と口々に不満の声を上げながら、シリカを取り囲む数人のプレイヤー達は、キリトにうさんくさそうな視線を投げかけた。
シリカは既にキリトの腕前の一端を見ていたが、所在無さそうに立つ黒衣の剣士は、その外見からはとてもじゃないが強そうには思えない。
特に高級そうな防具を装備しているわけでもないし――鎧のたぐいは一切無し、シャツの上は古ぼけた黒革のロングコートだけ――、背負うのはシンプルな片手剣一本きりだ。そのくせ盾も持っていない。
「おい、あんた――」
最も熱心に勧誘していた背の高いカタナ使いが、キリトの前に進み出て、見下ろす格好で口を開いた。
「見ない顔だけど、抜けがけはやめてもらいたいな。俺らはずっと前からこの子に声かけてるんだぜ」
「そう言われても……なりゆきで……」
困ったような顔で、キリトは頭をかく。
もう少し何か言い返してくれてもいいのに、とちょっとだけ不満に思いながら、シリカはカタナ使いに言った。
「あの、あたしから頼んだんです。すみませんっ」
最後にもう一度深々と頭を下げ、キリトのコートの袖を引っ張って歩き出す。今度Mes送るよー、と未練がましく手を振る男たちから一刻も早く遠ざかりたくて、シリカは早足に歩いた。転移門広場を横切り、北へ伸びるメインストリートへと足を踏み入れる。
ようやくプレイヤー達の姿が見えなくなると、シリカはほっと息をついて、キリトの顔を見上げて言った。
「……す、すみません、迷惑かけちゃって」
「いやいや」
キリトはまるで気にしていないふうで、かすかに笑みを滲ませている。
「すごいな。人気者なんだ、シリカさん」
「シリカでいいですよ。――そんな事ないです。マスコット代わりに誘われてるだけなんです、きっと。それなのに……あたしいい気になっちゃって……一人で森を歩いて……あんなことに……」
ピナのことを考えると、自然と涙が浮かんでくる。
「だいじょうぶ」
あくまで落ち着いた声で、キリトが言った。
「絶対生き返らせられるさ。心配ないよ」
シリカは涙をぬぐい、キリトに微笑みかけた。この人の言う事なら信じられると思いながら――。
やがて、道の右側に、一際大きな二階建ての建物が見えてきた。シリカの定宿、『風見鶏亭』だ。そこで、自分が何も聞かずにキリトをここに連れてきてしまったことに気付く。
「あ、キリトさん。泊まりはどこで……」
「ああ、ホームは50層なんだけど……。面倒だし、俺もここに泊まろうかな」
「そうですか!」
嬉しくなって、シリカは両手をぱんと叩いた。
「ここのチーズケーキがけっこういけるんですよ」
言いながらキリトのコートの袖を引っ張って宿屋に入ろうと――したところで、ちょうどその時隣りに建つ道具屋から出てきた一人の女性プレイヤーと目が合った。
「……!」
今一番会いたくない顔だった。迷いの森でパーティーとケンカ別れする原因になった槍使いだ。
目を伏せ、無言で宿屋に入ろうとしたのだが。
「あら、シリカじゃない」
向こうから声を掛けられ、仕方なく立ち止まる。
「……どうも」
「へぇーえ、森から脱出できたんだ。よかったわね」
真っ赤な髪を派手にカールさせ、やや過剰気味な化粧を乗せた、確か名前をロザリアと言ったその女性プレイヤーは、口許をゆがめるように笑うと言った。
「でも、今更帰ってきても遅いわよ。ついさっきアイテムの分配は終わっちゃったわ」
「要らないって言ったはずです! ――急ぎますから」
会話を切り上げようとしたが、ロザリアはまだシリカを解放する気は無いようだった。目ざとくシリカの肩が空いているのに気付き、嫌な笑いを浮かべる。
「あら? あのトカゲ、どうしちゃったの?」
シリカは唇を噛んだ。使い魔は、アイテム欄に格納することも、どこかに預けることもできない。つまり身の回りから姿が消えていれば、その理由は一つしかないのだ。そんな事はロザリアも当然知っているはずなのに、あくまでシリカの答えを待つようににやにや笑っている。
「死にました……。でも!」
キッとロザリアを睨みつける。
「ピナは、絶対に生き返らせます!」
いかにも痛快という風に笑っていたロザリアの目が、わずかに見開かれた。小さく口笛を吹く。
「へえ、『思い出の丘』に行く気なんだ。でも、あんたのレベルで攻略できるの?」
「できるさ」
シリカが答える前に、キリトが進み出てきた。シリカをかばうようにコートの陰に隠す。
「そんなに難易度の高いダンジョンじゃない」
ロザリアはあからさまに値踏む視線でキリトを眺め回し、その赤い唇に、再び嘲るような笑みを浮かべた。
「アンタもその子にたらしこまれた口? 見たトコそんなに強そうじゃないけど」
悔しさのあまり、シリカは体が震えるのを感じた。うつむいて、必死に涙を堪える。
「行こう」
肩に手が乗せられた。キリトに促され、シリカは宿屋へと足を向けた。
「ま、せいぜい頑張ってね」
ロザリアの笑いを含んだ声が背中を叩いたが、もう振り返ることはしなかった。
『風見鶏亭』の一階は広いレストランになっている。その奥まった席にシリカを座らせ、キリトはNPCの立つフロントに歩いていった。手早くチェックインを済ませ、ウェイターに話し掛けてから戻ってくる。
向かいに腰掛けたキリトに、自分のせいで不愉快な思いをさせてしまったことを謝ろうと、シリカは口を開いた。
だが、キリトは手を上げてそれを制すると、軽く笑った。
「まずは乾杯しよう」
ちょうどそのとき、NPCが湯気の立つマグカップを二つ持ってきた。大ぶりの陶器のカップに、不思議な香りの立つ赤い液体が満たされている。
パーティー結成を祝して、というキリトの声にこちんとカップを合わせ、シリカは熱い液体を一口すすった。
「……おいしい……」
スパイスの香りと、甘酸っぱい味わいは、遠い昔に父親が飲ませてくれたホットワインに似ていた。しかし、シリカは二週間の滞在でこのレストランのメニューにある飲み物は一通り試したのだが、この味は記憶にない。
「あの、これは……?」
キリトはにやりと笑うと、言った。
「NPCレストランはボトルの持ち込みもできるんだよ。俺が持ってた『ルビー・ネクタール』っていうアイテムさ。カップ一杯で敏捷力の最大値が1上がるんだぜ」
「そ、そんな貴重なもの……」
「何、酒をアイテム欄に寝かせてても味が良くなるわけじゃないしな。俺、知り合い少ないから、開ける機会もなかなかないし……」
おどけたように肩をすくめる。シリカは笑いながら、もう一口ごくんと飲んだ。どこか懐かしいその味は、悲しいことの多かった一日のせいで硬く縮んだ心をゆっくり解きほぐしていくようだった。
やがてカップが空になっても、その暖かさを惜しむようにシリカはしばらくそれを胸に抱いていた。視線をテーブルの上に落とし、ぽつりとつぶやく。
「……なんで……あんな意地悪言うのかな……」
キリトは真顔になると、カップを置き、口を開いた。
「君は……オンラインRPGは、SAOが……?」
「初めてです」
「そうか。――どんなMMOでも、キャラクターに身をやつすと人格が変わるプレイヤーは多い。善人になる奴、悪人になる奴……。それをロールプレイと、従来は言ってたんだろうけどな。でも俺はSAOの場合は違うと思う」
一瞬、キリトの目が鋭くなった。
「今はこんな、異常な状況なのにな……。攻略組なんて数はろくにいなくて、それもボス戦でどんどん死んじまう。誰だって死にたかないさ、全員が一致協力してクリアを目指すなんて不可能だってことはわかってる。でもな、他人の不幸を喜ぶ奴、アイテムを奪う奴、――殺しまでする奴が多すぎる」
キリトは、シリカの目をまっすぐみつめてきた。怒りの中に、どこか深い悲しみの見える目の色だった。
「俺は、ここで悪事を働く奴は、そのプレイヤー本人が腹の底から腐った奴なんだと思ってる」
吐き捨てるように言う。直後、気圧されたようなシリカの表情に気付き、すまない、と軽く笑った。
「……俺だって、とても人のことは言えた義理じゃないんだ。人助けなんてろくにしたことないしな。仲間を――見殺しにしたことだって……」
「キリトさん……」
シリカは、目の前の黒衣の剣士が、何か深い懊悩を抱えているのだと、なんとなく悟っていた。いたわる言葉を掛けたかったが、言いたい事を形にできない貧弱な語彙がうらめしい。その代わりに、テーブルの上で握り締められたキリトの右手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
「キリトさんは、いい人です。あたしを、助けてくれたもん」
キリトの拳から、力が抜けた。穏やかな微笑が浮かぶ。
「……俺が慰められちゃったな。ありがとう、シリカ」
その途端、シリカは、胸の奥のほうがずきん、と激しく痛むのを感じた。わけもなく心臓の鼓動が速くなる。顔が熱くなる。
あわててキリトの手を放し、両手で胸をぎゅっと抑えた。でも、深い疼きは一向に消えない。
「ど、どうかしたのか……?」
慌てたように身を乗り出してくるキリトに向かってぶんぶん首を振り、どうにか笑顔を浮かべ、言った。
「な、なんでもないです! あたし、おなか空いちゃった」
† 5 †
シチューとパンにチーズケーキの食事を終え、ウインドウを開いて時計を見ると、時刻はすでに八時を回っていた。明日の47層攻略に備えて早目に休むことにして、二人は風見鶏亭の二階に上がった。広い廊下の両脇にずらりと客室のドアが並んでいる。
キリトが取った部屋は、偶然にもシリカの部屋の隣りだった。顔を見合わせて、笑いながらおやすみを言う。
部屋に入ると、シリカは着替える前に連続技の復習をすることにして、新しい短剣を構えた。意識を集中しようとするが、胸の奥にずきずきするものが居座り続けて、なかなか上手くいかない。
それでもどうにか失敗なく五連撃を出せるようになったので、シリカはウインドウを出して武装解除すると、下着姿になってベッドに倒れこんだ。壁を叩いてポップアップメニューを出し、部屋の明かりを消す。
全身に重い疲労を感じていたので、すぐに寝付けると思っていたのだが、何故かいつまでたっても眠りは訪れなかった。
ピナと友達になってからは、ずっと毎晩暖かく、柔らかいピナの体を抱いて寝ていたので、広いベッドが心細い。それに、胸の芯に残る疼きの余韻……。
散々ごろごろしてから寝ることを諦め、シリカは上体を起こした。左の――キリトの部屋に繋がる壁をじっと見つめる。
(キリトさん、起きてるかな……。もう寝ちゃったかな……。お話、したいな……)
時計を表示すると、十時半になっていた。窓の下の大通りを行きかうプレイヤー達の姿もいつしか途絶え、かすかに犬の遠吠えだけが聞こえてくる。
この時間に、知り合って間もない男性プレイヤーの部屋を訪ねることの是非を数分間真剣に悩み、やがてノックだけしてみようと決意してシリカは立ち上がった。装備アイテム欄を開いて、持っている中で一番かわいいチュニックを身にまとう。
柔らかい蝋燭の光が落ちる廊下に出て数歩進み、ドアの前で数十秒躊躇したあと、シリカは右手を上げて控えめに二度叩いた。
通常、全てのドアは音声完全遮蔽圏であって、話し声が漏れることはない。しかしノックの後三十秒だけはその限りではなく、すぐにキリトの声でいらえがあり、ドアが開いた。
武装――と言ってもコートとグローブに剣帯だけだが――を解除してシャツ姿になったキリトは、シリカの姿を見るとわずかに目を丸くして言った。
「やあ、どうかしたの?」
「あの――」
ここに来て何も上手い理由を考えてこなかったことに気付き、シリカは慌てた。『おはなししたい』では余りにも子供っぽすぎる。
「ええと、その、あの――よ、47層のこと、聞いておきたいと思って!」
幸いキリトはいぶかしむ様子もなく頷いた。
「ああ、いいよ。階下に行く?」
「いえ、あの――よかったら、お部屋で……」
「え……いや……それは……その」
キリトは困ったように頭をかいていたが、やがて「まあ、いいか」と呟き、ドアを大きく開けて腰をかがめた。
「どうぞ、お姫様」
部屋は、シリカの所とまったく同じ構造だった。右手にベッド。その奥にティーテーブルと、椅子が一脚。調度品はそれだけだ。左の壁に据え付けられたランタンが、オレンジ色の光を放っている。
シリカを椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けると、キリトはウインドウを開いた。手早く操作し、小さな小箱を実体化させる。
テーブルの上に置いた箱を開くと、中には小さな水晶球が収めてあった。ランタンの光を受けて輝いている。
「きれい……。それはなんですか?」
「水晶の地図、っていうアイテムだよ」
キリトが水晶を指先でクリックすると、メニューウインドウが出現した。手早く操作し、OKボタンに触れる。
と、水晶が青く発光し、その上に大きな円形のホログラムが出現した。どうやらアインクラッドの層ひとつを丸ごと表示しているらしい。街や森が、木の一本に至るまで微細な立体画像で描写されている。通常の、システムメニューから表示できる簡素なマップとはえらい違いだ。
「うわあ……!」
シリカは夢中で青い半透明の地図を覗き込んだ。目を凝らせば道を行き交う人の姿まで見えるような気がする。
「ここが主街区だよ。で、こっちが思い出の丘。この道を通るんだけど……この辺にはちょっと厄介なモンスターが……」
キリトは指先を使い、淀みない口調で47層の地理を説明していった。その、柔らかい声を聞いているだけで、ほんわりと温かい気分になってくる。
「この橋を渡ると、もう丘が見え……」
不意にキリトの声が途切れた。
「……?」
「しっ……」
顔を上げると、キリトは厳しい表情で指を唇に当てた。鋭い視線でドアを睨んでいる。
突然、その体が動いた。稲妻のようなスピードでベッドから飛び出し、ドアを引き開ける。
「誰だっ……!」
シリカの耳に、どたどたと駆け去る足音が聞こえた。慌てて走りより、キリトの体の下から首を出すと、ちょうど廊下の突き当たりの階段を駆け下りていく人影が見えた。
「な、何……!?」
「……話を聞かれていたな……」
「え……で、でも、ドア越しじゃあ声は聞こえないんじゃ……」
「聞き耳スキルが高いとその限りじゃないんだ。そんなの上げてる奴は……なかなかいないけど……」
キリトはドアを閉め、部屋に戻った。ベッドに腰を下ろし、考え込む表情を見せる。その隣りに座り、シリカは両腕を自分の体に回した。言い知れない不安が沸き起こってくる。
「でも、なんで立ち聞きなんか……」
「――多分、すぐにわかるさ。ちょっと何件かメッセージを打つから、待っててくれ」
かすかに笑顔を見せると、キリトは水晶地図を片付けてウインドウを開いた。ホロキーボードを表示させ、指を走らせはじめる。
シリカはその背後で、ベッドにまるくなった。遠い記憶が蘇って来る。シリカの父親はフリーのルポライターだった。いつも旧式のパソコンに向かい、気難しい顔でキーを叩いていた。彼女は、そんな父親の後ろ姿を見ているのが好きだった。
不安はもう感じなかった。斜め後ろからキリトの横顔を眺めていると、忘れていたぬくもりに包まれるような気がして、シリカはいつしか目を閉じていた。
SAOex1_02_Unicode.txt
† 6 †
耳もとで奏でられるカウベルの音に、シリカはゆっくりと瞼を開けた。彼女にだけ聞こえる起床アラームだ。設定時刻は午前七時。
毛布の上掛けを剥いで上体を起こす。いつも朝は苦手なのだが、今日は常になく心地よい目覚めだった。深く、たっぷりとした睡眠のおかげで、頭の中がきれいに洗われたような爽快感がある。
大きく一つ伸びをして、ベッドから降りようとしたところで、シリカはぎょっとして凍りついた。
窓から差し込む朝の光の中で、床に座り込み、ベッドに上体をもたれさせて眠りこけている人物がいた。侵入者かと思い、大声で悲鳴を上げようと口を開いてから、ようやく昨夜自分がどこで寝てしまったのかを思い出す。
(あ、あたし、キリトさんの部屋で……)
それを認識して、シリカはこれ以上ないほど真っ赤になった。感情表現がオーバー気味なSAOのことだから、本当に頭から湯気のひとつも出ているかもしれない。どうやらキリトはシリカをベッドでそのまま寝かせ、自分は床での睡眠に甘んじたようだった。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、シリカは両手で顔を覆って身悶える。
数十秒かけてどうにか思考を落ち着けると、シリカはそっとベッドから出て床に降り立った。音を立てないようにキリトの前にまわり、顔を覗き込む。
黒衣の剣士の寝顔は、思いがけずあどけないもので、シリカは思わず微笑した。起きている時は剣呑な眼光のせいでかなり年上に見えていたが、こうしてみると案外自分とそれほど違わないかもしれないとも思う。
いつまでも寝顔を見ていたかったがそういうわけにもいかず、シリカはそっと剣士の肩をつつきながら呼びかけた。
「キリトさん、朝ですよー」
その途端、キリトはぱちりと目を開けると、まばたきを繰り返しながらシリカの顔を数秒間見つめた。すぐに慌てたような表情を浮べ、
「あ……。ご、ごめん!」
いきなり謝りだす。
「起こそうかと思ったんだけど、よく寝てたし……君の部屋に運ぼうにも、ドアは開かないし、それで……」
プレイヤーが借りた宿屋の部屋は絶対不可侵領域で、どのような手段を用いようとも侵入することはできない。シリカも慌てて手を振ると、言った。
「い、いえ、あたしこそ、ごめんなさい! ベッド占領しちゃって……」
「いやあ、ここじゃあどんな格好で寝ても筋肉痛とかないしね」
立ち上がったキリトは、言葉とは裏腹に首をぽきぽき曲げながら、両手を上げて伸びをした。思い出したようにシリカを見下ろし、口を開く。
「……とりあえず、おはよう」
「あ、おはようございます」
二人は顔を見合わせて笑った。
一階に下りて簡単な朝食を摂り、表の通りに出ると、すでに明るい陽光が街を包んでいた。攻略に出かけるプレイヤーと、逆に深夜の冒険から戻ってきた夜型プレイヤーが対照的な表情で行き交っている。
宿屋の隣の道具屋でポーション類の補充を済ませ、二人はゲート広場へと向かった。幸い、昨日の勧誘組には出会わずに転移門へと到着することができた。青く光る転送空間に飛び込もうとして、シリカははたと足を止める。
「あ……。あたし、47層の街の名前、知らないや……」
あわててマップを呼び出して確認しようとすると、キリトが右手を差し出してきた。
「いいよ、俺が指定するから」
恐縮しながらその手を握る。
「転移! フローリア!」
キリトの声と同時にまばゆい閃光が広がり、二人を覆い包んだ。
一瞬の転送感覚のあと、ゆっくり目をあけたその途端、シリカの視界には様々な色彩の乱舞が飛び込んできた。
「うわあ……!」
思わず歓声を上げる。
47層主街区ゲート広場は、無数の花々で溢れかえっていた。円形の広場を細い通路が十字に貫き、それ以外の場所は煉瓦で囲まれた花壇となっていて、名も知れぬ草花が今が盛りと咲き誇っている。
「すごい……」
「47層は通称フラワーガーデンって呼ばれてて、街だけじゃなくてフロア全体が花だらけなんだ。時間があったら、北の端にある『巨大花の森』にも行けるんだけどな」
「それはまたのお楽しみにします」
キリトに笑いかけ、シリカは花壇の前にしゃがみこんだ。薄青い、矢車草に似た花に顔を近づけ、そっと香りを吸い込む。
花は、細かい筋の走った五枚の花弁から、白いおしべ、薄緑の茎に至るまで、驚くほどの精細さで造り込まれていた。
もちろん、この花壇に咲く全ての花を含む、アインクラッド全体に存在する植物や建築物が、常時これだけの精緻なオブジェクトとして存在しているわけではない。そんなことをすれば、いかにSAOメインフレームが高性能であろうともたちまちメモリの容量を使い果たしてしまう。
それを回避しつつプレイヤーに現実世界並みのリアルな環境を提供するために、SAOでは『ディティール・フォーカシング・システム』という仕組みが採用されている。プレイヤーがあるオブジェクトに興味を示し、視線を凝らした瞬間、その対象物にのみリアルなディティールを与えるのである。
そのシステムの話を聞いて以来、シリカは次々と色々なものに興味を向ける行為はシステムに余分な負担をかけているような強迫観念にとらわれて気が引けていたのだが、今だけは気持ちを抑えることができず次々と花壇を移動しては花を愛で続けた。
心ゆくまで香りを楽しみ、ようやく立ち上がるとシリカはあらためて周囲を見回した。
花の間の小道を歩く人影は、よくよく見るとほとんどが男女の二人連れだ。皆しっかりと手を繋ぎ、あるいは腕を組んで楽しげに談笑しながら歩いている。どうやらこの場所はそういうスポットになっているらしい。シリカは傍らに所在なさそうに立つキリトをそっと見上げた。
(あたしたちも、そう見えてるのかな……?)
急に火照ってきた頬を誤魔化すように笑うと、シリカは思い切ってキリトの右腕に腕を絡ませてみた。
「さ、フィールドにいきましょう!」
「あ……、う、うん」
キリトもやや照れた様子だったが、腕をほどくことはせず、ゆっくりと歩き出した。
ゲート広場を出ても、街のメインストリートは同じように花に埋め尽くされていた。その中を歩きながら、シリカは昨日キリトと出会った時のことを思い出していた。あれからまだ一日も経っていないのだということが信じられない。それほど、キリトの存在は自分の中で大きいものになってしまっている。
(キリトさんは、どうなのかな……)
黒衣の剣士には相変わらず謎めいたところがあり、その内心を察することはできない。シリカはしばらく躊躇したあと、思い切って口を開いた。
「あの……キリトさん。妹さんのこと、聞いていいですか……?」
「ど、どうしたんだい急に」
「あたしに似てる、って言ったじゃないですか。それで、気になっちゃって……」
アインクラッドでは、現実世界の話を持ち出すのは最大のタブーだ。理由はいろいろあるが、「この世界は仮想のものだ」という認識が心に根付いてしまうと、SAOにおける「死」を現実のものとして受け止めることができなくなってしまうからだ。
それでもなお、シリカは自分に似ているというキリトの妹のことを聞いてみたかった。例え妹としてでも、キリトが自分に対して求めているものがあるのかないのか、それを知りたかった。
「……仲は、あんまりよくなかったな……」
やがて、キリトはぽつりぽつりと話しはじめた。
「というより、接点がなかった。共通の話題なんか、何にもなくて……家で顔を合わせるのすら避けていた……。俺はそうなってしまったことを、長い間後悔していたんだ……」
かすかな嘆息。
「……じいさんが厳しくてね。俺と妹は、俺が六歳の時に強制的に近所の剣道場に通わされたんだけど、俺はどうにも馴染めなくて二年でやめちまったんだ。じいさんにそりゃあ殴られて……。そしたら妹が、大泣きしながら、自分が二人分頑張るから、叩かないで、って俺を庇ってね。俺はそれからパソコンにどっぷりになっちゃったんだけど、妹は本当に剣道に打ち込んで、じいさんが死ぬちょっと前には全国でいいとこまで行くようになってた。じいさんも満足だったろうな……。だから、俺はずっと妹に引け目を感じていたんだ。本当はあいつにも他にやりたいことがあったんじゃないか、俺を恨んでるんじゃないかってな。そう思うと、つい会話も避けちゃって……そのまま、ここに来てしまったんだ」
キリトは言葉を止めると、そっとシリカの顔を見下ろした。
「だから、君を助けたくなったのは、俺の勝手な自己満足なのかもしれない。妹への罪滅ぼしをしてる気になってるのかもしれないな。御免な」
シリカは一人っ子だった。だからキリトの言う事は完全には理解できなかったが、しかしなぜかキリトの妹の気持ちはわかるような気がした。
「きっと……妹さん、恨んでなんかいなかったと思います。キリトさんが好きなことする手助けができて嬉しかったんだと思います。じゃなきゃ、そんなに頑張れませんよ」
一生懸命言葉を探しながらシリカが言うと、キリトはにこりと笑った。
「君には慰められてばっかりだな。……そうかな……。そうだといいな」
シリカは、胸の奥に暖かいものが広がるのを感じていた。キリトが心のうちを話してくれたことが嬉しかった。
いつの間にか、二人は街の南門まで歩いてきていた。銀色の細い棒を組み上げて作られた巨大なアーチに、つる性の植物が這い回って無数の白い花を咲かせている。メインストリートはその下を抜け、緑の丘に挟まれた街道となって春霞の向こうに消えている。
「さて……いよいよ冒険開始なわけだけど……」
「はい」
シリカはキリトの腕から離れ、表情を引き締めて頷いた。
「君のレベルとその装備なら、ここのモンスターは決して倒せない敵じゃない。でも……」
喋りながらキリトはベルトにつけた小さなポーチを探り、中から水色の結晶体を二つ掴み出した。それをシリカの手の中に落しこむ。転移結晶だ。
「フィールドでは何が起きるかわからない。いいかい、もし予想外の事態が起きて、俺が『離脱しろ』って言ったら、必ずその結晶でどこの街でもいいから跳ぶんだ。俺のことは心配しなくていい」
「で、でも……」
「約束してくれ。俺は……一度パーティーを全滅させてるんだ。二度と同じ間違いは繰り返したくない」
キリトの表情はあまりにも真剣で、シリカは頷くしかなかった。キリトは約束だよ、と繰り返すと、にっと笑い、言った。
「じゃあ、行こう!」
「はい!」
腰に装備した短剣の感触を確かめながら、シリカは心の中で決意していた。少なくとも、昨日みたいにパニックに陥るような真似だけはしない、自分に出せる全力で戦うんだ――と。
† 7 †
――しかし。
「ぎゃ、ぎゃあああああ!? なにこれ――――!? き、気持ちワルイ――――!!」
47層のフィールドを南に向かって歩きだして数分後。早速最初のモンスターとエンカウントしたのだが。
「や、やあああああ!! こないで――――」
背の高い草むらをかきわけて出現したソレは、シリカの思いもよらぬ姿をしていた。一言で表現すれば歩く花、だ。濃い緑色の茎は人間の腕ほども太く、根元で複数に枝分かれしてしっかりと地面を踏みしめている。茎もしくは胴のてっぺんにはヒマワリに似た黄色い、大きな花が乗っており、花弁に囲まれたその中央には牙を生やした口がぱっくりと開いて毒々しい真っ赤な色の内部をさらけ出している。
茎の中ほどからは二本の流線型の葉が伸び、刃状に鋭くなったその縁が武器になっているらしい。人食い花は大きな口にニタニタした笑いを浮べ、葉っぱを振り回してシリカに飛び掛ってきた。なまじ花が好きなため、醜悪にカリカチュアライズされたそのモンスターの姿はシリカに激しい生理的嫌悪を催させた。
「やだってば――――」
シリカはほとんど目をつぶって短剣をぶんぶん振り回す。傍らに立つキリトが呆れたような声で言った。
「だ、だいじょうぶだって。そいつは凄く弱いから。花のすぐ下の、ちょっと白っぽくなってるとこを狙えば簡単に――」
「だ、だって、気持ち悪いんですうううう―――」
「そいつで気持ち悪がってたら、この先に進んだら大変だぞー。花がいくつもついてる奴や、食虫植物みたいなのや、ぬるぬるの触手がいっぱい生えた奴まで……」
「キエ――――!!」
キリトの言葉に鳥肌が立って、悲鳴を上げながら一際大きく短剣を振ると、その刀身が運良く人食い花の首部分を捉えた。サクリという音とともに太い茎が断ち割られ、コロリと頭が地面に転がる。
甲高い声で絶叫した直後、花と胴体は破砕音を上げて消滅した。
「あ……よ、よわっちいや」
「だろう」
ホッと一息ついてシリカは短剣を鞘に収めた。キリトのほうに向き直り、恐る恐る尋ねる。
「あの……ひょっとして、この層のモンスターって……」
「うん、九割あんなやつだよ」
ニヤニヤしながら答えるキリトの前で、シリカはがっくりと肩を落とした。
それでも、十回ほども戦闘をこなすとようやくモンスターの姿に慣れることができ、二人は快調に行程を消化していった。一度ウツボカズラに似たモンスターの、粘液まみれの触手に胴体をぐるぐるまきにされた時は気絶するかと思ったが。
キリトは基本的には戦闘に手を出さず、シリカが危なくなると剣で攻撃を弾くだけのアシスト役に徹していた。パーティープレイでは、モンスターにダメージを与えた量に比例して経験値が分配される。高レベルモンスターを次々に倒すことで、普段の何倍ものスピードで数字が増加してゆきたちまちレベルが一つ上がってしまった。
赤レンガの街道をどんどん進むと小川にかかった小さな橋があり、その向こうに一際小高い丘が見えてきた。道はその丘を巻いて頂上まで続いているようだ。
「あれが『思い出の丘』だよ」
「見たとこ、一本道みたいですね?」
「ああ。ただ登るだけだから道に迷う心配はないけど、モンスターの量は相当らしいな。気を引き締めて行こう」
「はい!」
もうすぐ、もうすぐピナを生き返らせられる。そう思うと自然と歩みが速くなる。
色とりどりの花が咲き乱れるのぼり道に踏み込むと、キリトの言葉通りエンカウントが激しくなった。花モンスターの図体も大きくなるが、シリカの持つ黒い短剣の威力は想像以上に大きく、連続技のワンセットで大概の敵は倒すことができる。
想像以上と言えば、キリトの実力も底が知れないものがあった。
ドランクエイプ二匹を一撃で四散させるのを見たときから、かなりのハイレベル剣士だろうとは予想していたが、あそこから12層も上に来ているのにすこしも余裕を失う様子はない。モンスターが複数現れても一匹を除いてたちまち撃破し、シリカの手助けをしてくれる。
しかし、そうであればあるほど、そんなハイレベルのプレイヤーが35層あたりで何をしていたのかという疑問が頭をもたげてくる。何か目的があって迷いの森にいたような口ぶりだったが、あそこには特にレアアイテムやレアモンスターが出現するというような話はない。
この冒険が終わったら聞いてみよう、そう思いながらシリカが短剣を振るううち、弧を描く小道のループはどんどん急になっていった。激しさを増すモンスターの攻撃を退け退け、一際高く繁った木立の連なりをくぐると――そこが丘の頂上だった。
「うわあ……!」
シリカは思わず数歩駆け寄り、歓声を上げた。
空中の花畑、そんな形容が相応しい場所だった。周囲をぐるりと木立に取り囲まれ、ぽっかりと開けた空間一面に美しい花々が咲き誇っている。
「とうとう着いたな」
背後から歩み寄ってきたキリトが、剣を背中の鞘に収めながら言った。
「ここに……その、花が……?」
「ああ。真中あたりに岩があって、そのてっぺんに……」
キリトの言葉が終わらないうちに、シリカは走り出していた。確かに花畑の中央に白く輝く大きな岩が見える。息を切らせながら、シリカの胸ほどまでの高さがある岩に駆け寄り、おそるおそるその上を覗き込む。
「え……」
しかし、そこには何もなかった。くぼんだ岩の上には糸のような短い草が生え揃っているだけで、花らしきものはかけらも見えない。
「ない……ないよ、キリトさん!」
シリカは追いついてきたキリトを振り返り、叫んだ。抑えようもなく涙がにじんでくる。
「そんなはずは……。――いや、ほら、見てごらん」
キリトの視線に促され、シリカは再び岩の上に視線を戻した。すると――
「あ……」
柔らかそうな草の間に、今まさに一本の芽が伸びようとしているところだった。二枚の真っ白い、小さな葉が貝のように開き、その中央から細く尖った茎がするすると伸びていく。
昔理科の時間に見た早回しのフィルムのように、その芽はたちまち高く、太く成長していき、やがて先端に大きなつぼみを結んだ。純白に輝くその涙滴型のふくらみは、錯覚でなく内部から真珠色の光を放っている。
息を詰めてシリカとキリトが見守るなか、徐々にその先端がほころんで――しゃらん、と鈴の音を鳴らしてつぼみが開いた。光の粒が宙を舞った。
二人はしばらく身動きもせずに、小さな奇跡のように咲く白い花を見つめていた。七枚の細い花弁が星の光のように伸び、その中央からふわり、ふわりと光がこぼれては宙に溶けていく。
とてもこれに手を触れることなどできないような気がして、シリカはそっとキリトを見上げた。キリトは優しい笑顔を浮かべながらゆっくり頷いた。
頷き返し、シリカは花にそっと右手を伸ばした。絹糸のように細い茎に触れた途端、それは氷のように中ほどから砕け、シリカの手の中には光る花だけが残った。息を詰め、そっとその表面を指で触れてみる。ネームウインドウが音もなく開く。『プネウマの花』――。
「これで……ピナを生き返らせられるんですね……』
「ああ。心アイテムに、その花の中に溜まっている雫を振り掛ければいい。だがここは強いモンスターが多いから、街に帰ってからのほうがいいだろうな。もうちょっと我慢して、急いで戻ろう」
「はい!」
シリカは頷くと、メインウインドウを開き、花をそこに乗せた。アイテム欄に格納されたのを確認し、それを閉じる。
正直に言えば転移結晶で一気に帰還してしまいたかったが、シリカはぐっと我慢して歩き始めた。とてつもなく高価なクリスタルは本当に危険なぎりぎりの状況でのみ使うべきものなのだ。
幸い、帰り道ではほとんどモンスターと出くわすことはなかった。ほとんど駆け下りるように道を進み、麓に到達する。
あとは街道を一時間歩くだけ、それでまたピナに会える――。弾む胸を抑えながら、小川にかかる橋を渡ろうとしたとき。
不意に後ろからキリトの手が肩にかけられた。きょとんとして立ち止まる。振り返ると、キリトは厳しい顔で橋の向こう、道の両脇に繁る木立のほうを睨み据えていた。その口が開く。
「――そこに隠れてる奴、出てこいよ」
† 8 †
シリカは慌てて木立に目を凝らした。だが人影は見えない。緊迫した数秒が過ぎたあと、不意にがさりと木の葉が動いた。プレイヤーを示すカーソルが表示される。色はグリーン、犯罪者ではない。
短い橋の向こうに現れたのは、シリカの知っている顔だった。
炎のように真っ赤な髪、同じく赤い唇、エナメル状に輝く黒いレザーアーマーを装備し、片手には細身の十字槍を携えている。
「ろ……ロザリアさん……!? なんでこんなところに……!?」
驚愕するシリカの問いには答えず、ロザリアは唇の片側を吊り上げて笑うと言った。
「アタシのハイディングを見破るなんて、なかなか高い索敵スキルね、剣士サン。あなどってたかしら?」
そこでようやくシリカに視線を移す。
「その様子だと、首尾よく『プネウマの花』をゲットできたみたいね。おめでと、シリカちゃん」
ロザリアの真意がつかめず、シリカは数歩あとずさった。何とは言えないが嫌な気配を感じる。すると、その直感を裏切らないロザリアの言葉が続き、シリカを絶句させた。
「じゃ、さっそくその花を渡してちょうだい」
「……!? な……何を言ってるの……」
その時、今まで無言だったキリトが進み出て、口を開いた。
「そうは行かないな、ロザリアさん。いや――犯罪者(オレンジ)ギルド『タイタンズハンド』のリーダーさん、と言ったほうがいいかな」
ロザリアの眉がぴくりと跳ね上がり、唇から笑いが消えた。シリカは何度目かの驚愕に捕らわれ、呆然とキリトを見上げた。
「え……でも……だって……ロザリアさんは、グリーン……」
「オレンジギルドと言っても、全員が犯罪者カラーじゃない場合も多いんだ。グリーンのメンバーが街で獲物をみつくろい、パーティーに紛れ込んで、待ち伏せポイントに誘導する。昨夜俺たちの話を盗聴してたのもあいつの仲間だよ」
「そ……そんな……」
シリカは愕然としながらロザリアの顔を見やる。
「じゃ……じゃあ、この二週間、一緒のパーティーにいたのは……」
ロザリアは再び毒々しい笑みを浮べ、言った。
「そうよォ。冒険でたっぷりオカネが貯まって、おいしくなるのを待ってたの。本当ならあのパーティーは今日ヤッちゃう予定だったんだけどー」
シリカの顔を見つめながら、ちろりと舌で唇を舐める。
「一番楽しみな獲物だったあんたが抜けちゃうから、どうしようかと思ってたら、なんかレアアイテム取りに行くって言うじゃない。その『プネウマの花』、今が旬のレアだから、とってもいい相場なのよね。やっぱり情報収集は大事よねえー」
そこで言葉を切り、キリトに視線を向けて肩をすくめた。
「でもそこの剣士サン、そこまでわかってながらノコノコその子に付き合うなんて、バカ? それとも本当に体でたらしこまれちゃったの?」
ロザリアの下衆な侮辱に、シリカは視界が赤くなるほどの憤りを覚えた。剣を抜こうと腕を動かしかけたところで、肩をぐっと掴まれる。
「いいや、どっちでもないよ」
あくまで冷静なキリトの声。
「俺もあんたを探してたのさ、ロザリアさん」
「――どういうことかしら?」
「あんた、十日前に、38層で『シルバーフラグス』っていうギルドを襲ったな。メンバー七人が皆殺しにされて、リーダーだけが脱出した」
「……ああ、あの貧乏な連中ね」
興味のなさそうな顔でロザリアが頷く。
「リーダーだった男はな、毎日朝から晩まで、ゲート広場で泣きながら仇討ちをしてくれる奴を探してたよ」
キリトの声を、ゾクリとするような冷気が包んだ。硬く研ぎ上げた氷の刃にも似た、触れるものすべてを断ち切る響き。
「でもその男は、依頼を引き受けた俺に向かって、あんたらを殺してくれとは言わなかった。黒鉄宮の牢獄に入れてくれと、そう言ったよ。――あんたに、奴の気持ちがわかるか? ――わかるか!!」
「わかんないわよ」
面倒そうにロザリアは答えた。
「何よ、マジになっちゃって、馬鹿みたい。ここで人を殺したって、ホントにその人が死ぬかどうかわかんないじゃない。そんなんで、現実に戻った時罪になるわけがないわよ。だいたい戻れるかどうかもわかんないのにさ、正義とか法律とか、笑っちゃうわよね。アタシそういう奴が一番嫌い。この世界に妙な理屈持ち込む奴がね」
ロザリアの目が凶暴そうな光を帯びる。
「で、アンタ、その死にぞこないの言う事真に受けて、アタシらを探してたわけだ。ヒマな人だねー。大体さぁ、一人でどうにかなるとでも思ってんの……?」
不意に口をつぐみ、やや不安そうにきょろきょろとあたりを見回した。
「まさか、アンタも仲間を隠して……」
「いいや、俺とこの子だけさ。だから安心して、そこに隠してる手下を出したらどうだ」
キリトの言葉に再びニヤリと笑うと、ロザリアは片手を上げた。
「じゃ、お言葉にあまえてそうさせてもらうわね」
すると、橋の両脇の木立が激しく揺れ、次々と人影を吐き出した。シリカの視界に連続していくつものカーソルが表示される。ほとんどが禍々しいオレンジ色だ。その数、十。一つだけロザリア以外にグリーンのカーソルがある。針山のように尖った髪型は、間違いなく昨夜宿屋の廊下を逃げていった男のものだ。
新たに出現した十人の盗賊は、皆派手な格好をした男性プレイヤーだった。こぞって髪型を下品にカスタマイズし、銀のアクセサリやサブ装備をじゃらじゃらと身に纏っている。男たちはにやにやと笑いを浮かべながら、シリカの体に粘つくような視線を投げかけてきた。
激しい嫌悪を感じて、シリカはキリトのコートの陰に姿を隠した。小声で囁きかける。
「き、キリトさん……人数が多すぎます、脱出しないと……!」
「だいじょうぶ。俺が逃げろ、と言うまでは、結晶を用意してそこで見てればいいよ」
穏やかな声で答えると、キリトはシリカの頭にぽん、と手を置き、そのまますたすたと橋に向かって歩き出した。シリカは呆然と立ち尽くす。いくらなんでも無茶だ、そう思って、再び大声で呼びかけた。
「キリトさん……!」
その声がフィールドに響いた途端――。
「キリト……?」
不意に、盗賊の一人が呟いた。笑いを消して眉をしかめ、記憶を探るように視線を宙にさまよわせる。
「その格好……盾無しの片手剣……。――『黒の剣士』……?」
急激に顔を蒼白にしながら、男は数歩後ずさった。
「や、やばいよ、ロザリアさん。こいつ……ビーターの、こ、攻略組だ……」
男の言葉を聞いた残りのメンバーの顔が、一様にこわばった。驚愕したのはシリカも同じだった。あっけにとられて、前に立つキリトの大きいとは言えない背中を見つめる。
今までの戦いぶりから、相当な高レベルプレイヤーだろうとは予想していた。しかしよもや、最前線で未踏破の迷宮に挑み、ボスモンスターをすら次々と屠りつづける『攻略組』、真のトップ剣士の一人だとは夢にも思わなかった。彼らの力はSAO攻略にのみ注がれ、中層フロアに降りてくることすら滅多にないと聞いていたのに――。
ロザリアも、たっぷり数秒間口をぽかんと開けてから、不意に我に返ったように喚いた。
「こ、攻略組がこんなとこをウロウロしてるわけないだろ! どうせ、名前をカタってアタシらをびびらせようってコスプレ野郎に決まってる。それに――もし本当に『黒の剣士』だとしても、この人数でかかってたった一人が殺れないわけないじゃんよ!」
その声に勢いづいたように、オレンジプレイヤーの先頭に立つ大男の両手剣士も叫んだ。
「そ、そうだ! 攻略組なら、すげえ金とかアイテムとか持ってんぜ! オイシイ獲物だっつうの!」
口々に同意の言葉を喚きながら、盗賊たちは一斉に抜刀した。無数の金属がぎらりと凶悪な光を放つ。
「キリトさん……逃げて! 逃げてよ!!」
シリカはクリスタルを握り締め、必死に叫んだ。ロザリア達の言うとおり、いくらキリトが強くてもあの人数相手に勝ち目はないと思えた。だがキリトは動かない。武器を抜きすらしない。
そのキリトの様子を諦めと取ったか、ロザリアともう一人のグリーンを除く九人の男たちは武器を構えると、猛り立ったような笑みを浮かべ我先にと走り出した。短い橋をドカドカと駆け抜け――
「ウオラァァァ!!」
「死ねやァァァ!!」
うつむいて立ち尽くすキリトを半円形に取り囲むと、剣や槍の切っ先を次々にキリトの体へと叩き込んだ。同時に九発もの斬撃を受け、キリトの体がぐらぐらと揺れた。
「いやあああああああ!!」
シリカは両手で顔を覆いながら絶叫した。
「やめて!! やめてよおおお!! キリトさんが、死んじゃうよおお!!」
だが男たちは無論耳を貸すはずもなく。
「ゲハハハハハ!!」
「オラァ!! クソがぁ!!」
暴力に酔ったように、ある者は哄笑しながら、ある者は罵り声を上げながら、手を休めることなくキリトに向かって武器を叩き込み続ける。橋の中ほどに立ったロザリアも、顔に抑えきれない興奮の色を浮かべ、右手の指を舐めながら食い入るように惨劇を見つめている。
シリカはぐいと涙をぬぐい、短剣の柄を握った。自分が飛び込んでも何の助けにもならないとわかってはいたが、これ以上見ていることはできなかった。キリトに駆け寄ろうと、一歩踏み出したところで――シリカはあることに気付き、動きを止めた。
キリトのHPバーが減っていない。
いや、正確には、絶え間ない攻撃を受けることでほんの数ドットずつわずかに減少するのだが、数秒経つと急激に右端まで回復してしまうのである。
やがて、男たちも目の前の黒衣の剣士が一向に倒れる様子が無い事に気付き、戸惑いの表情を浮かべた。
「あんたら何やってんだ!! さっさと殺しな!!」
苛立ちを含んだロザリアの命令に、再び数秒間にわたって斬撃が雨のように降り注ぐが、やはり状況は変わらない。
「お……おい、どうなってんだよコイツ……」
一人が、異常なものを見るように顔を歪めながら、腕を止めて数歩後ずさった。それが呼び水になったように、残りの八人も攻撃を中止し、距離を取る。
しんとした沈黙が周囲を覆った。その中、ゆっくりとキリトが顔を上げた。静かな声が流れた。
「――十秒あたり400、ってとこか。それがあんたら九人が俺に与えるダメージの総量だ。俺のレベルは78、ヒットポイントは14600……さらに戦闘時回復スキルによる自動ヒールが十秒で600ポイントある。何時間攻撃しても俺は倒せないよ」
男たちは愕然としたように口を開け、立ち尽くした。やがて、サブリーダーらしき両手剣士がかすれた声で言った。
「そんなの……そんなのアリかよ……。ムチャクチャじゃねえかよ……」
「そうだ」
吐き捨てるようなキリトの返答。
「たかが数字が増えるだけで、そこまで無茶な差がつくんだ! それがレベル制MMOの理不尽さというものなんだ!!」
キリトの、抑えがたい何かをはらんだ声に威圧されたように、男たちは後ずさった。その顔に張り付いた驚愕が恐怖へと変わっていく。
「チッ」
不意にロザリアが舌打ちすると、腰から転移結晶を掴み出した。宙に掲げ、口を開く。
「転移――」
だが、その言葉が終わらないうちに――ぶん、と空気が震える音がしたと思ったとたん、ロザリアのすぐ前にキリトが立っていた。
「ヒ―――」
体を強張らせるロザリアの手からクリスタルを奪い、そのまま襟首を掴むと、ずるずると橋のこちらがわに引き摺ってくる。
「は……放せよ!! どうする気だよ畜生!!」
無言のまま、棒立ちの男たちの中央にロザリアの体を投げ出すと、キリトは腰のポーチを探った。取り出されたのは青い結晶体だった。だが転移結晶よりも色が格段に濃い。
「これは、俺に依頼した男が全財産をはたいて買った回廊結晶だ。黒鉄宮の監獄エリアが出口に設定してある。あんたら全員これでジェイルに跳んでもらう。あとは『軍』の連中が面倒見てくれるさ」
地面に座り込んだまま唇を噛んだロザリアは、数秒押し黙ったあと、赤い唇に強気な笑いを浮かべ、言った。
「――もし、嫌だと言ったら?」
「全員殺す」
簡潔なキリトの答えに、その笑みが消える。
「と、言いたいとこだけどな……仕方ない、その場合はこれを使うさ」
キリトがコートの内側から取り出したのは、小さな短剣だった。その刀身をよく見ると、薄緑の粘液に濡れているようだ。
「麻痺毒だよ。レベル五の毒だから十分は苦しむぞ」
もう、誰も強がりを言う者はいなかった。キリトは短剣を仕舞うと、濃紺の結晶を掲げ、叫んだ。
「コリドー・オープン!」
瞬時に結晶が砕け散り、その前の空間に青い光の渦が出現する。
「畜生……」
長身の両手剣士が、肩を落としながら最初にその中に飛び込んだ。残りのオレンジプレイヤー達も、ある者は毒づきながら、ある者は無言で光の中に消えていく。盗聴役のグリーンプレイヤーもそれに続き、ロザリア一人が残るだけとなった。
赤髪の女盗賊は、仲間が全員回廊に消えても、強気に動こうとしなかった。地面にあぐらをかき、挑戦的な視線でキリトを見上げている。
「……やりたきゃ、やってみなよ。グリーンのアタシに傷をつけたら、今度はあんたがオレンジに……キャッ!!」
言葉が終わらないうちに、キリトが再びロザリアの襟首を掴みあげ、高くぶら下げたまま回廊へ向かって歩きだした。ロザリアが手足をばたばたさせて抗う。
「ちょっと、やめて、やめてよ! 許してよ! ねえ! ……そ、そうだ、アンタ、アタシと組まない? もし欲しければ、アタシを――」
台詞は最後まで続かなかった。キリトは力任せにロザリアを頭からコリドーに放り込み、その姿が掻き消えた直後、回廊そのものも一瞬まばゆく光って消滅した。
静寂が訪れた。
小鳥のさえずりと小川のせせらぎだけが聞こえるうららかな春の野原は、再びキリトとシリカだけの世界になっていた。
シリカは動けなかった。キリトの正体に対する驚き、犯罪者たちが消えた安堵、色々な感情がいっぺんにこみ上げてきて、口を開くこともできない。
キリトは首を傾けると、立ち尽くすシリカをしばらく無言で見つめ、やがてささやくように言った。
「……ごめんな、シリカ。君を囮にするようなことになっちゃって。俺のこと、言おうと――思ったんだけど、君に怖がられると思って、言えなかった」
シリカは、必死に首を振ることしかできなかった。心の中にたくさんの気持ちがぐるぐると渦巻いている。
「街まで、送るよ」
キリトはそう言って歩き出そうとした。その背中に向かって、どうにか声をかける。
「あ――足が、動かないんです」
振り向いたキリトは軽く笑って右手を差し出してきた。シリカはその手をぎゅっと握った。やっと、シリカも少しだけ笑うことができた。
† 9 †
35層の風見鶏亭に到着するまで、二人はほとんど無言だった。言いたいことは沢山あるはずなのに、シリカののどは小石が詰まったように言葉を発することができない。
二階に上がり、キリトの部屋に入ると、窓からはすでに赤い夕陽が差し込んでいた。その光の中、黒いシルエットとなってたたずむキリトに向かって、シリカはようやく震える声で言った。
「キリトさん……行っちゃうんですか……?」
しばしの沈黙。シルエットがゆっくり頷いた。
「ああ……。五日も前線から離れちゃったからな。すぐに、攻略に戻らないと……」
「やだ!!」
一声叫んで、シリカはキリトの胸に飛び込んだ。両手で必死にすがりつき、泣き声混じりに言う。
「お別れなんて、やだよ! キリトさん……あたしも、あたしも……」
連れていって、と言いたかった。
しかし、言えなかった。
キリトのレベルは78。自分のレベルは45。その差33――。残酷なまでに明確な、キリトとシリカを隔てる距離だ。キリトの戦場についていっても、シリカなど一瞬でモンスターに殺されてしまうだろう。同じゲームにログインしていながら、現実世界以上に高く分厚い壁が二人の世界を遠ざけている。
「うっ……うっ……」
シリカは体を震わせ、溢れようとする気持ちを必死にこらえた。それは涙に姿を変え、次々と湧き出してくる。
今ここで、好きなんです、と言えば、キリトはもうしばらくシリカのそばに留まってくれるかもしれなかった。でもそれはキリトの優しさにつけこむ行為に思えたし、何より最前線には彼を待っているもっと多くの人たちがいるはずだった。だからシリカは唇を噛み締め、キリトの胸に顔を押し当てて懸命に耐えた。
不意に、ふわりとキリトの両腕が肩を包むのを感じた。耳もとで、低く穏やかなささやき声がした。
「レベルなんてただの数字だよ。この世界での強さは単なる幻想にすぎない。そんなものよりもっと大事なものがある。だから、次は現実世界で会おう。そうしたら、今度は本当の友達になれるよ」
本当はキスしてほしかった。恋人になれる、と言ってほしかった。でも、張り裂けそうな心の奥に、キリトの言葉が暖かさとなって沁みこむのを感じながら、これ以上は望むまい――そう思って、シリカはそっと目を閉じ、つぶやいた。
「はい。きっと――きっと」
体を離し、キリトの顔を見上げると、シリカはようやく心からの笑顔を浮かべることができた。キリトも微笑み、言った。
「さ、ピナを呼び戻してあげよう」
「はい!」
頷き、シリカは左手を振ってメインウインドウを呼び出した。アイテム欄をスクロールし、「ピナのこころ」を実体化させる。
ウインドウ表面に浮かび上がった水色の羽根をそっと円いティーテーブルに横たえると、次に「プネウマの花」も呼び出す。
真珠色に光る花を手に取り、ウインドウを消すと、シリカはキリトを見上げた。
「その花の中に溜まっている雫を、羽根に振りかけるんだ。それでピナは生き返る」
「わかりました……」
水色の長い羽根を見つめながら、シリカは心の中でささやきかけた。
(ピナ……いっぱい、いっぱいお話してあげるからね。今日いちにちにあったすごい冒険の話を……ピナを助けてくれた、あたしが、生まれてはじめて恋した人の話を)
両目に涙を浮かべながら、シリカは右手の花をそっと羽根にむかって傾けた。
(ソードアート・オンライン外伝1 黒の剣士 終)
SAOex2_01_Unicode.txt
一日目
アスナは毎朝の起床アラームを七時五十分にセットしている。
なぜそんな中途半端な時間なのかというと、キリトの設定時刻が八時ちょうどだから、である。十分早く目を覚まし、ベッドに入ったまま、隣りで眠る彼を見ているのが好きなのだ。
今朝もアスナは、やわらかい木管楽器の音色によって目覚めたあと、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖をつきながらキリトの寝顔を眺めていた。
出会ったのが半年前。攻略パートナーとなったのが二週間前。結婚して、ここ22層の森の中に引っ越してきてからはわずか6日しか経っていない。誰よりも愛する人だが、実のところ、キリトに関してはまだまだ知らない事も多い。それは寝顔ひとつとっても言えることで、こうして眺めていると、だんだん彼の年齢がわからなくなってくる。
わずかに斜に構えた落ち着いた物腰のせいで、自分より少し年上かなと普段は思っている。しかし深い眠りに落ちているときのキリトには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがあるため、なんだか遥かに年下の少年のようにも見えてしまう。
歳くらい、訊いてもかまわないだろう――とは思う。いかに現実世界の話を持ち出すのが禁忌とは言え、二人はもう夫婦なのだから。歳どころか、現実に戻ってからまた出会うためには、本名、住所から連絡先まで伝え合っておいたほうがいいのは確実だ。
しかし、アスナはなかなかそれが言い出せないでいる。
現実世界のことを話した途端、ここでの『結婚生活』が仮想の、薄っぺらなものになってしまいそうで怖いからだ。アスナにとって今一番大切な、唯一の現実はここでの穏やかな日々であって、たとえこの世界からの脱出がかなわぬまま現実の肉体が死を迎えることがあるとしても、最後の瞬間までこの暮らしが続いてくれるなら悔いはない。
だから、夢から醒めるのは、もう少し後に――。そう思いながら、アスナはそっと手を伸ばし、眠るキリトの頬に触れた。
それにしても、幼い寝顔だ。
長めの黒い前髪と、その下に光るやや険のある眼のせいで起きているときは強面の印象があるが、こうして見ていると線の細い顔立ちは少女的ですらある。こんな時、アスナはいつも不思議な感情にとらわれてしまう。
キリトの強さについては今更考えることは何もない。ベータテストの時から蓄積した途方もない経験と、絶え間ない攻略で獲得した数値的ステータス、そしてそれらを支える判断力と意思力。血盟騎士団リーダーのヒースクリフには敗れはしたものの、キリトはアスナの知る限り最強のプレイヤーだ。どんなに厳しい戦場でも、傍らに彼がいる限り不安を味わったことはない。
しかし、寄り添って横たわるキリトを眺めていると、なぜか彼が傷つきやすいナイーブな弟ででもあるかのような気持ちがきゅうっと胸の奥に湧き上がってきて、抑えられなくなる。守ってあげなくちゃ、と思う。
そっと息をつきながら、アスナは身を乗り出し、キリトの体に腕をまわした。かすかな声で囁きかける。
「キリト君……大好きだよ。ずっと、一緒にいようね」
その途端、キリトがわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「!!」
アスナは慌てて跳び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。
「お、おはよ、キリト君。……いまの……聞いてた……?」
「おはよう。いまの……って、何?」
上体を起こし、欠伸を噛み殺しながら聞き返すキリトに向かって、アスナは両手をぶんぶんと振った。
「う、ううん、なんでもないの!」
てへへ、と笑ってから、ふと考える。不意を突かれたので動転して誤魔化してしまったが、別に何も恥ずかしいことは口にしていない。そこで、キリトのほうに体を寄せながら、言った。
「やっぱなんでもなくない」
「は……? 朝から何を……」
ぽかんとするキリトの首に、えいっ、と飛びついて、耳もとで囁く。
「だいすき、って言ったの」
「なっ……」
今度はキリトが赤くなる番だった。その頬に向かって、アスナはゆっくりと唇を近づけた。
目玉焼きと黒パン、サラダにコーヒー(に似た飲み物)の朝食を終え、二秒でテーブルを片付けると、アスナは両手をぱちんと打ち合わせた。
「さて! 今日はどこに遊びにいこっか」
「おまえなあ」
キリトが苦笑する。
「身も蓋もない言い方するなよ」
「だって毎日楽しいんだもん」
アスナにとっては偽らざる本音だ。
振り返るのも苦痛を伴う記憶だが、SAOの囚人となってからキリトに出会うまでの一年半、アスナの心は硬く凍りついていた。
寝る間も惜しんでスキル・レベルを鍛え上げ、攻略ギルド血盟騎士団のサブリーダーとして抜擢されてからは時としてメンバーが音をあげるほどのハイペースで迷宮に潜りつづけた。心にあるのはただゲームクリア、そして脱出だけで、それに資する活動以外のすべてを無駄なものと思っていた。
それを考えるとアスナは、何故もっと早くキリトと巡り合うことができなかったのかと悔やまずにはいられない。彼と出会ってからの日々は、現実世界での生活以上に色彩と驚きに溢れたものだった。彼と共になら、ここでの時間も得がたい経験と思えた。
だからアスナには、今ようやく手に入れた二人だけの時間、その一秒一秒が貴重な宝石のように思えるのだ。もっともっと、二人で色々な場所に行き、色々なことを話したい。
アスナは、両手を腰にあてて唇を尖らせると言った。
「じゃあキリト君は遊びにいきたくないの?」
するとキリトはにやりと笑い、左手を振ってマップを呼び出した。可視モードとしアスナに示す。ここ22層の森と湖の連なりが表示されている。
「ここなんだけどな」
指し示したのは、二人の家から少し離れた森の一角だった。
22層は低層フロアゆえに面積がかなり広い。直径で言えば八キロメートル強ほどもある。その中央には巨大な湖があり、南岸に主街区であるコラルの村。北岸に迷宮区。それ以外の場所はすべて針葉樹の美しい森となっている。アスナとキリトの小さな家はフロアのほぼ南端、外周部間近の場所にあり、今キリトが示しているのは家から北東へ二キロメートルほど進んだ場所である。
「昨日、村で聞いたウワサなんだけどな……。この辺の、森が深くなってるとこ……。出るんだって」
「は?」
聞き返すアスナにむかって、キリトは意味深な笑いを浮かべる。
「だから、出るんだって」
「何が?」
「――幽霊」
アスナはしばし絶句してから、おそるおそる聞き返した。
「……それって、アストラル型のモンスターってこと? レイスとかシャドウみたいな?」
「ちゃうちゃう、SAOのモンスターじゃないよ。ホンモノさ。プレイヤー……人間の、幽霊。女の子だって」
「ひゃ……」
アスナは思わず顔を引きつらせてしまう。その手の話は、人並み以上に苦手な自信がある。ホラー系フロアとして名高い65、66層あたりの古城迷宮は、あれこれ理由をつけて攻略をサボってしまったほどだ。
「だ、だって、ここはゲームのデジタル世界だよ。そんな――幽霊なんて、出るわけないじゃない」
無理やり笑顔を作りながら、ややムキになって抗弁する。
「それはどうかなー?」
だがお化けがアスナの弱点と知っているキリトは、いかにも楽しそうに追い打ちをかけてくる。
「例えばさぁ……。恨みを残して死んだプレイヤーの霊が、電源入りっぱなしのナーヴギアに取り憑いて……夜な夜なフィールドを彷徨ってるとか……」
「やめ――――っ!!」
「わはは、悪かった、今のは不謹慎な冗談だったな。まあ俺も本当に幽霊が出るとは思っちゃいないけど、どうせ行くなら何か起きそうなところがいいじゃないか」
「うう……」
唇を尖らせながら、アスナは窓の外に目を向けた。
冬も間近なこの季節にしてはいい天気だ。ぽかぽかと暖かそうな陽光が庭の芝生に降り注いでいる。幽霊が出るには最も適さない時間、に思える。
ちなみに、アインクラッドではその構造上、早朝と夕方を除いて太陽を直接見ることはできない。しかし日中は十分以上の面光源ライティングによってフィールドは明るく照らされている。
アスナはキリトに向き直り、つんとあごを反らせながら言った。
「いいわよ、行きましょう。幽霊なんて居ないってことを証明しに」
「よし決まった。――今日会えなかったら、今度は夜中に行こうな」
「絶対いやよ!! ……そんな意地悪言う人にはお弁当作ってあげない」
「げげ、ナシナシ、今の無し」
キリトに最後のひと睨みを浴びせてから、アスナはにこりと笑った。
「さ、準備を済ませちゃおう。わたしはお魚焼くから、キリト君はパンを切ってね」
手早くフィッシュ・バーガーの弁当をランチボックスに詰め、二人が家を出たときは午前九時となっていた。
迷宮攻略に追われていた日々には特に意識しなかったが、こうしてシンプルな生活に入ってみるとアスナは改めて気づくことがある。それはSAO内では一日が実に長い、ということだ。理由は簡単で、現実世界での生活に否応無く付随する煩雑なあれこれ、その殆どをすっぱりと省略できるからだ。
例えば、こうして二人で出かけようとすると、現実世界ではその準備にかかる時間はとてつもないものとなるだろう。弁当作りは言わずもがな、台所を片付け、ゴミを出し、髪を洗い、乾かし整え、服をあれこれと迷いながら着たり脱いだり、さらに鏡の前で簡単な化粧に数十分。家を出て、駅まで歩き、電車に乗って待ち合わせ場所へ――。考えただけで気が遠くなりそうだ。
しかし今や弁当は数分で完成、ゴミは一つとして発生せず、服はウインドウでの操作のみで選択でき(しかも収納場所と小遣いを気にせず買い放題)、化粧もする必要などまるでない。言わば生活における『楽しさ』を得るために必要不可欠な『過程』をばっさり切り捨てることができるのだ。
アスナは以前、そのことが今の幸福な結婚生活に悪影響を与える可能性について考えたことがある。簡単に言えば、払うべき犠牲と努力(遅刻しそうになって駅まで走るとか)を払わずに、毎日こんなに楽しく暮らしているのは気がとがめる――ということだが、最終的には悪いことなどなにもない、という結論に至った。一日、二十四時間の中で、キリトと語り、触れ合い、愛を確かめる時間が増えることに何の弊害があるだろう。
そのことをどう思うか尋ねてみたところ、キリトの答えはこうだった。
ひょっとしたら、俺たちは未来の生活を生きているのかもしれないよ、と彼は言った。あるいは遠い未来には、人間は現実空間を捨て、体の管理は機械に任せ、仮想世界で育ち、出会い、働き、老いていくのかもしれない。そこには、現実の生活から必然的に発生するトラブル――転んで怪我をする、物を失くす、そういったことが存在せず、その分、人間はちょっとだけ笑顔でいられる時間が増えているかもしれない、と。
ここにくる以前のアスナなら、その話を聞いても嫌悪を覚えるだけだったろう。だが今は、そういう方向もあるいはありなのかな、と思う。要は――一番大切なのは自分のこころが何を感じるか、それだけなのだ。
庭の芝生に出たところで、アスナはキリトを振り返ると、言った。
「ね、肩車して」
「か、かたぐるまぁ!?」
素っ頓狂な声でキリトが聞き返す。
「だって、いつも同じ高さから見てたんじゃつまんないよ。キリト君の筋力パラメータなら余裕でしょ?」
「そ、そりゃそうかもしれないけどなぁ……。おまえ、いい歳こいて……」
「歳は関係ないもん! いいじゃない、誰が見てるわけでなし」
「ま、まあいいけどなぁ……」
キリトは呆れたように首を振りながらしゃがみこみ、背中をアスナに向けた。スカートをたくしあげ、その肩をまたぐように両足をかける。
「いいよー」
キリトが重みなどないかのような、身軽な動作で立ち上がると、それにつれて視点が一気に上昇した。
「わあ! ほら、ここからもう湖が見えるよ!」
「俺は見えないよ!!」
「じゃあ、あとでわたしもやってあげるから」
「……」
脱力したようにうなだれるキリトの頭に手をかけ、アスナは言った。
「さ、出発進行! 進路北北東!」
たぶん、これがこの世界で生きる、ということなのだ。捨て去ったのは煩雑な作業だけではない、あの世界で自分をしばっていた常識そのものだ。仮想世界でこころを飛翔させれば、日々は次々と新しい顔を見せてくれる。
すたすたと歩き出したキリトの肩の上で屈託無く笑いながら、アスナは痛いほどの、キリトへの――そして二人で暮らす日々への愛おしさを感じていた。自分は今、十七年の人生の中でいちばん『生きて』いる、そう思った。
小道を歩き出して(実際に歩いているのはキリトだけだが)十数分後、22層に点在する湖のひとつに差し掛かった。うららかな陽気に誘われてか、朝から数人の釣り師プレイヤーが湖水に糸を垂らしている。小道は湖をかこむ丘の上を通り、左手に見える湖畔まではやや距離があるが、近づくうちに二人に気づいたプレイヤー達がこちらに手をふってきた。どうやら皆笑顔で、中には腹を抱えて笑っている者もいる。
「……誰も見てなくないじゃん!!」
「あはは、人いたねー。ほら、キリト君も手を振りなよ」
「ぜったい嫌だ」
文句を言いながらも、キリトはアスナを下ろそうとはしなかった。内心では彼もおもしろがっているのがアスナにはわかる。
やがて道は丘を右に下り、深い森の中へと続く。モミの木に似た巨大な針葉樹がそびえる間を縫って、ゆっくりと歩く。木の葉擦れの音、小川のせせらぎ、鳥のさえずりが森の光景に美しい伴奏を添えている。
アスナは、いつもより近くに見える木々の梢に視線を向けた。
「大きい木だねえー。ねえ、この木、登れるのかなあ?」
「う~ん……」
アスナの問いに、キリトはしばし考え込む。
「システム的には不可能じゃない気がするけどなぁ……。試してみる?」
「ううん、それはまた今度の遊びテーマにしよう。――登ると言えばさあ」
アスナはキリトの肩に乗ったまま体を伸ばし、木々の隙間から遠くに見えるアインクラッド外周部に目をやる。
「外周にいくつか、支柱みたいになって上層まで続いてるとこがあるじゃない。あれ……登ったらどうなるんだろうね」
「あ、俺やったことあるよ」
「ええー!?」
体を傾け、キリトの顔を覗き込む。
「なんで誘ってくれなかったのよう」
「まだそんなに仲良くなかったころだってば」
「なによ、キリト君が避けてたんじゃない」
「……さ、避けてたかな?」
「そうよー。わたしがいっくら誘っても、お茶にも付き合ってくれなかったよ」
「そ、それは……。い、いやそんな事よりだな」
会話が妙な方向に行き始めたのを修正するようにキリトが言葉を続ける。
「結論から言えばダメだったよ。岩がでこぼこしてたから登るのは案外簡単だったんだけど、八十メートルくらい登ったとこで急にシステムのエラーメッセージが出て、ここは侵入不可能領域です! って怒られてさぁ」
「あっはっは、ズルはだめだねーやっぱ」
「笑いごとじゃないぞ。それにびっくりして手を滑らせて、見事に落っこちてな……」
「え、ええ!? さすがに死ぬでしょうソレ」
「うん。死ぬと思った。緊急転移があと一秒遅れてたら戦死者リストに仲間入りさ。死因が墜落死ってのはかなりレアだろうなぁ」
「もう、危ないなぁ。二度としないでよね」
「そっちが言い出した話だろ!」
他愛ない会話を交わしながら歩くうち、森はどんどん深くなっていった。心なしか、やかましかった鳥の声もまばらになり、梢を縫って届く陽光もひかえめになってきている。
アスナは改めて周囲を見回しながら、キリトに尋ねた。
「ね、その……ウワサの場所って、どのへんなの?」
「ええと……」
キリトが手を振り、マップで現在位置を確認する。
「あ、そろそろだよ。座標的にはあと何分かで着く」
「ふうん……。ね、具体的には、どんな話だったの?」
聞きたくないが、聞かないのも不安で、アスナは問い掛けた。
「ええと、一週間くらい前、丸太を集めてた工芸スキルプレイヤーがこのへんに入り込んだそうだ。このへんの木材はアイテム的にも質がいいらしくて、夢中で集めているうちに暗くなっちゃって……。あわてて帰ろうと歩き始めたところで、ちょっと離れた木の影に――ちらりと、白い影が」
「…………」
アスナ的にはそこでもう限界だったが、キリトの話は容赦なく続く。
「モンスターかと思って慌てたけど、どうやらそうじゃない。人間、小さい女の子に見えたって言うんだな。長い、黒い髪に、白い服。ゆっくり、木立の向こうを歩いていく。モンスターでなきゃプレイヤーだ、そう思って視線を合わせたら」
「…………」
「――カーソルが、出ない」
「ひっ……」
おもわず喉の奥で小さな声を洩らしてしまう。
「そんな訳はない。そう思いながら、よしゃあいいのに近づいた。そのうえ声をかけた。そしたら女の子がぴたりと立ち止まって……こっちをゆっくり振り向こうと……」
「も、も、もう、や、やめ……」
「そこでその男は気がついた。女の子の、白い服が月明りに照らされて、その向こう側の木が――透けて見える」
「――――――!!」
必死に悲鳴をこらえながら、アスナはぎゅっとキリトの髪を掴んだ。
「女の子が完全に振り向いたら終わりだ、そう思って男はそりゃあ走ったそうだ。ようやく遠くに村の明かりが見えてきて、ここまでくれば大丈夫、と立ち止まって……ひょいっと後ろを振り返ったら……」
「――――――!?!?」
「誰もいなかったとさ。めでたしめでたし」
「――――き、き、キリトくんの、ばか――――っ!!」
アスナはぽかぽかとキリトの頭を叩いた。
「わあ、ごめんごめん! 勘弁!」
「お、降ろしてよう」
地面に膝をついたキリトの背から滑り降りると、足に力が入らず、すとんとしゃがみこんでしまう。
「わ、わたしそういう話、ほんとにダメなの!! ……ぎゅーってして」
キリトに向かって手を差し伸べると、すまなそうな顔でキリトは跪き、アスナの体を両腕で包み込んだ。ぎゅっと力が込められると、ようやく少し安心する。
「――しかしなあ」
耳もとで、まだすこしおもしろがるようなキリトの声。
「あれだけモンスターに囲まれても大丈夫な奴が、お化けはだめなの?」
「アストラル系は苦手だってば! ……それに、モンスターは剣で斬れるけど、お化けは……」
語尾を口の中で紛らし、キリトの胸に顔を埋める。
「わかったわかった、ごめんな。ほら、大丈夫だから。俺がついてるよ」
幼子をあやすような声とともに、キリトが髪を撫でてくれる。しばらくそうしているとどうにか気持ちが落ち着き、アスナは顔を上げた。そのまま体を伸ばしてキリトの頬に自分の頬をすり寄せ、仕草でキスをせがもうとした――その時だった。
うっすら目を開けた、アスナの視界に、キリトの肩口から見える森の光景が入り込んできた。彼の背後には、灰色の巨木が幾重にも建ち並び、その奥は昼なお深い薄闇の中に溶け込んでいる。その木のうちの一本、二人からかなり離れた針葉樹の幹の傍らに、白いものがちらりと見えた。
とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じながら、アスナはその何かにむかっておそるおそる視線を凝らした。キリトほどではないが、アスナの索敵スキルもかなりの錬度に達している。自動的にスキルによる補正が適用され、視線を集中している部分の解像度がぐんと上昇する。
白い何かは、ゆっくりと風にはためいているように見えた。植物ではない。岩でもない。布だ。更に言えば、シンプルなラインのワンピースだ。その裾から覗いている二本の細い――脚。
ゆっくりと視線を上げていく。ふくらんだスリーブから伸びた華奢な右手は木の幹に添えられ、左手は体の脇に下ろされている。広めの襟ぐりは深紅のリボンで飾られ、雪のように白い胸元と、そこから続く細い首――漆黒のロングヘアが風になびき、卵型の小さな顔、引き結ばれた色の薄い唇――そしてとうとう、無限の闇を湛えたような、表情の無い二つの黒い瞳に、アスナの視線が吸い込まれた。
少女が立っている。キリトの話にあったのと寸分違わぬ白いワンピースをまとった幼い少女が無言で佇み、二人をじっと見ている。
ふらりと意識が薄れかかるのを感じながら、アスナはどうにか口を開いた。ほとんど空気だけのかすれ声をどうにかしぼり出す。
「き、き、キリトくん、あそこ――」
キリトがさっと振り向いた。直後、その体もびくりと硬直する。
「う、うそだろおい……」
アスナはもう喋れない。視線を少女から逸らせぬまま、数秒が経過した。少女は動かない。二人から数十メートル離れた場所に立ち、じっとこちらを見つめている。もし、すこしでもこっちに近づいてきたら、わたし気絶しちゃうだろうなあ、そう思ってアスナが覚悟を決めたその時。
ふらり――と少女の体が揺れた。動力の切れた人形のような、妙に非生物めいた動きでその体が地面に崩れ落ちた。どさり、というかすかな音が耳に届いてくる。
「あれは――」
不意にキリトが立ち上がった。
「幽霊なんかじゃないぞ!!」
一言叫んで走り出す。
「ちょ、ちょっとキリトくん!」
置き去りにされたアスナはあわてて呼び止めたが、キリトは目もくれず倒れた少女へと駆け寄っていく。
「もう!!」
やむなくアスナも立ち上がり、その後を追った。まだ心臓がどきどき言っているが、気絶して倒れる幽霊なんて聞いたこともない。やはりあれはプレイヤーとしか思えない。
遅れること数秒、針葉樹の下に到達すると、すでに少女はキリトに抱え起こされていた。まだ意識は戻っていない。長い睫毛に縁どられた目蓋は閉じられ、両腕は力なく体の脇に投げ出されている。念のためワンピースに包まれた体をまじまじと眺めるが、透けている様子はどこにもない。
「だ、大丈夫そうなの?」
「う~~~ん」
キリトは少女の顔を覗き込みながら言った。
「と、言ってもなぁ……。この世界じゃ息とかしないし、心臓も動かないし……」
SAO内では、人間の生理的活動のほとんどは再現が省略されている。自発的に息を吸い込むことはできるし、空気が動く感触も味わえるが、無意識呼吸は行われない。心臓の鼓動も、緊張したり興奮してドキドキするという感覚はあるものの他人のそれを感じ取ることはできない。
「でもまあ、消滅してない……ってことは生きてる、ってことだよな。しかしこれは……相当妙だぞ……」
言葉を切り、キリトは首をかしげた。
「妙って?」
「幽霊じゃないよな、こうして触れるし。でも、カーソルは……出ない……」
「あ……」
アスナはあらためて少女の体に視線を集中させた。だが、通常アインクラッドに存在する動的オブジェクトならプレイヤーにせよモンスターにせよ必ず表示されるはずのカラー・カーソルが出現しない。いまだかつてこんな現象に遭遇したことはなかった。
「何かの、バグ、かな?」
「そうだろうな。普通のネットゲームならGMを呼ぶってケースだろうけど、SAOにGMは居ないしな……。それに、カーソルだけじゃない。プレイヤーにしちゃちょっと若すぎるよ」
確かにそうだった。腰を落としたキリトの両腕に抱きかかえられたその体はあまりにも華奢で、小さい。年齢で言えば十歳にも満たないだろう。ナーヴギアには建前的ながら装着に年齢制限があり、確か十三歳以下の子供の使用は禁じられていたはずだ。
アスナはそっと手を伸ばし、少女の額に触れた。ひんやりとした、滑らかな感触が伝わってくる。
「こんな……小さな子が……二年も、この中に……」
その苦しみは想像もつかない。アスナは唇を噛むと、立ち上がり、言った。
「とりあえず、放ってはおけないよ。目を覚ませばいろいろわかると思う。うちまで連れて帰ろう」
「うん、そうだな」
キリトも少女を横抱きにしたまま立ち上がった。アスナはふと周囲を見回したが、深く暗い森がどこまでも続くばかりで、少女がここに居た理由のようなものは何も見つからなかった。
道を戻り、森から出て二人の家にたどり着いても少女の意識は戻らなかった。寝室のアスナのベッドに少女を横たえ、上掛けをかけておいて、二人はその向かいのキリトのベッドに並んで腰を下ろした。
数分間沈黙が続いたあと、キリトがぽつりと口を開いた。
「可能性としては、この子はやっぱりプレイヤーで、あそこで道に迷っていた――というのが一番有り得ると思う。クリスタルを持っていない、あるいは緊急脱出の方法を知らないとしたら、ログインしてから今までずっとフィールドに出ないで、始まりの街にいたと思うんだ。なんでこんな所まで来たのかは判らないけど、始まりの街にならこの子のことを知ってるプレイヤーが……ひょっとしたら親とか、保護者がいるんじゃないかな」
「うん。わたしもそう思う。こんな小さい子が一人でログインするなんて考えられないもん。親とか、兄弟とかがきっと――。……無事だと、いいけど」
最後の言葉は口の中に飲み込むようにして、アスナはキリトに顔を向けた。
「ね、意識、戻るよね」
「ああ。まだ消えてないってことは、ナーヴギアとの間に信号のやり取りはあるんだ。睡眠状態に近いと思う。だから、きっとそのうち、目をさます……はずだよ」
しっかり頷きながらも、キリトの言葉には願望の色があった。
アスナは立ち上がると、少女の眠るベッドの前にひざまずき、右手を伸ばした。そっと少女の頭を撫でる。
それにしても美しい少女だった。子供というよりは、妖精のような気配を漂わせている。肌の色はアラバスターのようなきめの細かい純白。長い黒髪は艶やかに光り、どこか異国風のくっきりとした顔立ちは、目を開けて笑ったらさぞ魅力的だろうと思わせる。
キリトもアスナの横に歩み寄り、腰を落とした。おそるおそる右手を伸ばし、少女の髪に触れる。
「十歳は行ってないよな……。八歳くらいかな」
「それくらいだね……。わたしが見た中ではダントツで最年少プレイヤーだよ」
「そうだな。前にビーストテイマーの女の子と知り合ったけど、それでも十三歳くらいだったからなぁ」
はじめて聞く話に、アスナは思わずキリトの顔を見やってしまう。
「ふうん、そんなかわいいお友達がいたんだ」
「ああ、たまにメールのやり取りを……い、いや、それだけで、何もないぞ!」
「どうだか。キリト君鈍いから」
つんと顔をそらす。
風向きがおかしくなりつつあるのを察したように、キリトは立ち上がると、言った。
「お、もうこんな時間だな。お昼にしようぜ」
「その話、あとできちんと聞かせてもらいますからね」
ひと睨みしてからアスナも立ち上がり、この場は放免してあげることにしてにこりと笑う。
「さ、お弁当たべよ。お茶いれるね」
晩秋の午後がゆっくりと過ぎ去り、外周から差し込む赤い陽光が消え去る時間になっても、少女は眠りつづけている。
アスナがカーテンを引き、壁のランプを灯していると、村まで出かけていたキリトが戻ってきた。無言で首を振り、少女に関する手がかりが無かったことを告げる。
二人とも賑やかに夕食を楽しむ気になれず、簡単なスープとパンだけをそそくさと食べると、キリトが買ってきた何種類かの新聞を確認する作業に取りかかった。
新聞、と言っても紙を束ねた現実世界のそれとは違い、雑誌程度のサイズの羊皮紙一枚でできている。その表面はシステムウインドウ状のスクリーンになっており、ホームページを操作する要領で収められた情報を切り替えて表示させることができる。
内容も、プレイヤーが運営している情報系ホームページそのもので、ニュースから簡単なマニュアル、FAQ、アイテムリストなど多岐にわたる。その中には探し物・尋ね人コーナーもあり、二人が目をつけたのはそこだった。少女を探している人がいるのではないかと思ったのだ。しかし――。
「……ないな……」
「ないね……」
数十分かけてすべての新聞を調べ終わり、二人は顔を見合わせて肩を落とした。あとはいよいよ少女が目を覚まし、話を聞けるまで待つしかない。
いつもの夜なら、二人とも宵っ張りということもあって他愛ない話をしたり簡単なゲームをしたり、夜の散歩としゃれ込んだり、あるいは心ゆくまで愛を確かめ合ったりとすることは山ほどあるのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。
「今日はもう寝よっか」
「ん。そうだな」
アスナの言葉にキリトも頷いた。
居間の明かりを消し、寝室に入る。少女がベッドを一つ使っているので、もう片方に二人で寝ることにして(実際は毎晩そうなのだが)、そそくさと寝巻きに着替えた。
寝室のランプも火を落として、二人はベッドに横になった。
キリトにはいろいろ妙な特技があるのだが、寝つきの良さもそれに含まれるだろう。アスナが、少し話をしようと横を向いた時にはもう深い眠りに落ちているようだった。
「もう」
小声で文句を言い、反対側、少女の眠るベッドのほうに向き直る。薄青い闇の中、黒髪の少女は相変わらずこんこんと眠りつづけていた。今まで意識的に彼女の過去について考えないようにしていたのだが、こうして見つめているとどうしても思考がそちらのほうに向かってしまう。
親なりの保護者といっしょに今まで過ごしていたのなら、まだいい。だが、仮に――ひとりでこの世界にやってきて、二年間を恐怖と孤独のうちに送っていたのなら――たかだか八、九歳の子供に、それは耐えがたい日々だったろう。自分ならとても正常な精神状態を保てたとは思えない。
ひょっとして――。アスナは最悪の事態を想像する。もし、あの森の中で彷徨い、昏倒してしまったのが、少女のこころの状態に起因するものだとしたら。アインクラッドにはもちろん精神科医などいないし、助けを求めるべきシステム管理者もいない。クリアには最低あと半年はかかると予想され、それもアスナやキリトの努力だけではどうにもならない。今二人が前線から離れているのも、ひとつには二人を含む一部のトッププレイヤーのレベルが突出しすぎ、攻略組の数が覚束なくなってきているからなのだ。
少女の苦しみがどれほど深いものであっても、自分がそれを救ってあげることなどできない――。そう思うと、アスナは不意に耐えがたい胸の痛みに襲われた。無意識のうちにベッドから離れ、眠る少女のそばまで移動する。
しばらく髪を撫でていたあと、アスナはそっと上掛けをめくり、少女の隣りに横になった。両腕で、小さな体をぎゅっと抱きしめる。少女は身動き一つしなかったが、どことなくその表情が和らいだような気がして、アスナは小さく囁いた。
「おやすみ。明日は、目が覚めるといいね……」
SAOex2_02_Unicode.txt
二日目
朝の白い光の中でまどろむアスナの意識に、ゆっくりと穏やかな旋律が流れ込んでくる。オーボエによって奏でられる起床アラーム、曲は「Country Road」だ。アスナは覚醒直前の浮遊するような感覚の中、懐かしいメロディーに身をゆだねる。やがてストリングスの軽快な響きと、クラリネットの主旋律が重なり、そこにかすかな声でハミングが――。
(――ハミング?)
歌っているのは自分ではない。アスナはぱちりと目を開けた。
腕の中で、黒髪の少女が目蓋を閉じたまま――アスナの起床アラームに合わせてメロディーを口ずさんでいた。
一拍たりともずれていない。しかし、そんなことはあり得ない。アスナはアラームを自分にのみ聴こえるよう設定しているので、彼女の脳内のメロディーに合わせて歌うなどということは誰にも不可能だ。
だが、アスナはその疑問をとりあえず先送りすることにした。それよりも――。
「き、キリト君、キリトくんってば!!」
体を動かさないまま、背後のベッドに眠るキリトに呼びかける。やがて、むにゃむにゃという声と共にキリトが起き上がる気配がする。
「……おはよう。どうかしたかー?」
「早く、こっちに来て!」
床板を数歩あるく音。ひょいとアスナの体越しにベッドを覗き込み、すぐにキリトも息を飲んだ。
「歌ってる……!?」
「う、うん……」
アスナは腕の中の少女の体を軽く揺すりながら呼びかけた。
「ね、起きて……。目を、覚まして」
少女の唇の動きが止まった。やがて、長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。
濡れたような黒い瞳が、至近距離からまっすぐにアスナの目を射た。ぱちぱちと数度まばたきして、ふたたび色の薄い唇がゆっくりと動く。
「あ……う……」
少女の声は、極薄の銀器を鳴らすような、はかなく美しい響きだった。アスナは少女を抱いたままゆっくりと体を起こした。
「……よかった、目が覚めたのね。自分がどうなったか、わかる?」
言葉をかけると、少女は数秒のあいだ口をつぐみ、やがてゆっくりと首を振った。
「そう……。お名前は? 言える?」
「……な……まえ……。あた……しの……なまえ……」
少女が首をかしげると、艶やかな黒髪がふわりと動き、頬にかかる。
「ゆ……い。ゆい。それが……なまえ……」
「ユイちゃんか。いい名前だね。わたしはアスナ。この人はキリトよ」
アスナがキリトのほうを示すと、ユイと名乗る少女の視線も動いた。アスナと、中腰で身を乗り出すキリトを交互に見て、口を開ける。
「あ……うな。き……と」
たどたどしく唇が動き、切れ切れの音が発せられる。アスナは、昨夜感じた危惧がふたたびよみがえるのを感じていた。少女の外見は少なくとも八歳程度、ログインから経過した時間を考えれば現在の実年齢は十歳ほどには達していると思われる。しかし少女のおぼつかない言葉の様子は、まるで物心ついたばかりの幼児のようだ。
「ね、ユイちゃん。どうして22層にいたの? どこかに、お父さんかお母さんはいないの?」
ユイは目を伏せ、黙り込んだ。しばらく沈黙が続いたあと、ゆっくりと首を振る。
「わかん……ない……。なん……にも、わかんない……」
抱き上げて食卓の椅子に座らせ、暖めて甘くしたミルクを与えると、少女はカップを両手で抱えるようにしてゆっくりと飲み始めた。その様子を目の端で見ながら、すこし離れた場所でアスナはキリトと意見を交換することにした。
「ね、キリト君。どう思う……?」
キリトは厳しい顔で唇を噛んでいたが、やがて俯いて言った。
「記憶は……ないようだな……。でも、それより……あの様子だと、精神に……ダメージが……」
「そう……思うよね、やっぱ……」
「くそっ」
キリトの顔が、泣き出す寸前のように歪む。
「この世界で……色々、酷いことも見てきたけど……こんなの……最悪だ。残酷すぎるよ……」
その瞳が濡れているのを見ると、アスナの胸にも突き上げてくるものがあった。両腕でぎゅっとキリトの体を包み込み、言う。
「泣かないで、キリトくん。……わたしたちに、出来ることだって、きっと……あるよ」
「……そうか。そうだな……」
キリトは顔を上げると、小さく笑ってアスナの両肩に手を置き、食卓へと歩き出した。アスナもその後に続く。
がたがたと椅子を移動させてユイの横に座ると、キリトは明るい声で話しかけた。
「やあ、ユイちゃん。……ユイって、呼んでいい?」
カップから顔を上げたユイが、こくりと頷く。
「そうか。じゃあ、ユイも俺のこと、キリトって呼んでいいよ」
「き……と」
「キリト、だよ。き、り、と」
「……」
ユイは難しい顔でしばらく黙りこむ。
「……きいと」
キリトはにこりと笑うと、ユイの頭にぽんと手を置いた。
「ちょっと難しかったかな。何でも、言いやすい呼び方でいいよ」
ふたたびユイは長い時間考え込んでいた。アスナがテーブルの上からカップを取り上げ、ミルクを満たして目の前に置いても身じろぎもしない。
やがてユイはゆっくり顔を上げると、キリトの顔を見て、おそるおそる、というふうに口を開いた。
「……パパ」
次いでアスナを見上げて、言う。
「あうなは……ママ」
アスナの体が抑えようもなく震えた。こみ上げてくるものを必死に押さえつけ、ユイに向かって笑いかける。
「そうだよ……ママだよ、ユイちゃん」
それを聞くと、ユイははじめて笑顔を浮かべた。切りそろえた前髪の下で、表情の乏しかった黒い瞳がきらりと瞬き、一瞬、人形のようなその整った顔に生気が戻ったように見えた。
「――ママ!」
こちらに向かって差し出された手を見て、アスナは両手で口許を覆った。
「うっ……」
もう限界だった。こらえきれず嗚咽がこぼれる。椅子からユイの小さな体を持ち上げ、しっかりと胸に抱きながら、アスナは色々な感情が混じりあった涙が溢れ、頬を伝うのを感じていた。
ホットミルクを飲み、小さな丸パンを一つ食べると、ユイは再び眠気を覚えたらしく椅子の上で頭を揺らしはじめた。
テーブルの向かい側でその様子を見ていたアスナは、ぐいと両目をひと拭きすると隣の椅子に腰掛けるキリトに視線を向けた。
「わたし――わたし……」
口を開くが、言いたいことをなかなか形にすることができない。
「ごめんね、わたし、どうしていいのかわかんないよ……」
キリトはいたわるような眼差しでしばらくアスナを見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「……この子が記憶を取り戻すまで、ずっとここで面倒みたいと思ってるんだろ? 気持ちは……わかるよ。俺もそうしたい。でもな……ジレンマだよな……。そうしたら当分攻略には戻れないし、そのぶんこの子が解放されるのも遅れる……」
「うん……それは、そうだね……」
自分はともかく、とアスナは思う。誇張ではなくキリトの攻略プレイヤーとしての存在感はずば抜けたものがあり、迷宮区の未踏破エリアのマップ提供量はソロプレイヤーでありながらあまたの有力ギルドを上回っていた。数週間のつもりの新婚生活だが、こうして自分ひとりがキリトを独占していることにある種の罪悪感を抱いてしまうほどだ。
「とりあえず、出来ることをしよう」
キリトは寝息を立て始めたユイを見やりながら言葉を続けた。
「まず、始まりの街にこの子の親とか兄弟とかがいないか探しにいくんだ。これだけ目立つプレイヤーなら、少なくとも知ってる人間がいると思うし……」
「……」
もっともな意見だった。しかしアスナは、自分の中にこの少女と別れたくないと思っている部分があることに気付いていた。夢にまでみたキリトと二人だけの生活だったが、なぜかそれが三人になることに抵抗はない。まるでユイが自分とキリトの子供のように思えるからだろうか――とそこまで漠然と思考してから不意に我に返り、アスナは耳まで赤くなった。
「……? どうしたの?」
「な、なんでもないよ!!」
いぶかしむキリトに向かってアスナはぶんぶんと首を振って、言った。
「そ、そうだね。ユイちゃんが起きたら、始まりの街に行ってみよう。ついでに新聞の尋ね人コーナーにも書いてもらおうよ」
キリトの顔を見ることができず、早口で言いながらアスナは手早くテーブルの上を片付けた。椅子で眠るユイに目をやると、もう完全に熟睡しているようだったが、気のせいかその寝顔は昨日とは違いどことなく安らかな笑みを浮べているように思えた。
ベッドに移動させたユイは午前中ずっと眠りつづけ、また昏睡してしまったのではないかとアスナはやや心配したのだが、幸い昼食の準備が終わる頃目を覚ました。
ユイのために、普段はほとんど作らない甘いフルーツパイを焼いたのだが、テーブルについたユイはパイよりもキリトが旨そうにかぶりつくマスタードたっぷりのサンドイッチに興味を示し二人を慌てさせた。
「ユイ、これはな、すごく辛いぞ」
「う~……。パパと、おなじのがいい」
「そうか。そこまでの覚悟なら俺は止めん。何事も経験だ」
キリトがサンドイッチを一つ差し出すと、ユイはためらわず小さな口を精一杯あけてがぶりと噛み付いた。
二人が固唾をのんで見守るなか、難しい顔で口をもぐもぐさせていたユイは、ごくりと喉を動かすとにっこり笑った。
「おいしい」
「中々根性のある奴だ」
キリトも笑いながらユイの頭をぐりぐりと撫でる。
「晩飯は激辛フルコースに挑戦しような」
「もう、調子に乗らないの! そんなもの作らないからね!」
だが始まりの街でユイの保護者が見つかれば、ここに帰ってくるときはまた二人きりだ。そう思うとアスナの胸中には一抹の寂しさがよぎる。
結局残りのサンドイッチを全て平らげてしまい、満足そうにミルクティーを飲むユイに向かって、アスナは言った。
「ユイちゃん、午後はちょっとお出かけしようね」
「おでかけ?」
きょとんとした顔のユイに向かって、どう説明したものか迷っているとキリトが言った。
「ユイの友達を探しにいくんだ」
「ともだち……って、なに?」
その答えに、思わず二人は顔を見合わせてしまう。ユイの「症状」には不可解な点が多い。単純に精神的年齢が後退していると言うよりは、知能があちこち欠損しているような印象がある。
その状態を改善させるためにも、本当の保護者を見つけたほうがいいんだ……。アスナは自分にそう言い聞かせ、ユイに向かって答えた。
「お友達っていうのは、ユイちゃんのことを助けてくれる人のことだよ。さ、準備しよう」
ユイはまだいぶかしそうな顔だったが、こくりと頷いて立ち上がった。
少女のまとう白いワンピースは、短いパフスリーブで生地も薄く、初冬のこの季節に外出するにはいかにも寒そうだ。もっとも寒いと言ってもそれで風邪を引いたりダメージを受けたりということはないのだが――氷雪エリアで裸になったりすれば話は別だが――、不快な感覚であることに変わりはない。
アスナはアイテムリストをスクロールさせて次々と厚手の衣類を実体化させ、どうにか少女に合いそうなセーターを発見すると、そこではたと動きを止めた。
通常、衣類を装備するときはステータスウインドウから装備フィギュアを操作することになる。布や液体などの柔らかいオブジェクトの再現はSAOの苦手分野であり、衣類は独立したオブジェクトと言うよりは肉体の一部として扱われているからだ。
アスナの戸惑いを察したキリトがユイに尋ねた。
「ユイ、ウインドウ、開けるか?」
案の定少女は何のことかわからないように首を傾げる。
「じゃあ、左手の人差し指を振ってみるんだ。こんなふうに」
キリトが指を振ると、手の下に紫色の四角い窓が出現した。それを見たユイはおぼつかない手つきで動きを真似たが、ウインドウが開くことはなかった。
「……やっぱり、何かシステムがバグってるな。でも、ステータス開けないってのは致命的すぎるぞ……。何もできないじゃないか」
キリトが唇を噛んだ、その時。むきになって左手の指を振っていたユイが、今度は右手を振った。途端、手の下に紫に発光するウインドウが表示された。
「でた!」
嬉しそうににっこり笑うユイの頭上で、アスナはあっけにとられてキリトと顔を見合わせた。もう何がなんだかわからない。
「ユイちゃん、ちょっと見せてね」
アスナはかがみ込むと、少女のウインドウを覗き込んだ。だが、ステータスは通常本人にしか見ることができず、そこには無地の画面が広がっているだけだ。
「ごめんね、手を貸して」
アスナはユイの右手を取ると、その細い人差し指を移動させ、カンで可視モードボタンがあると思われるあたりをクリックさせた。
狙い違わず、短い効果音とともにウインドウの表面に見慣れた画面が浮き上がってきた。基本的に他人のステータスを盗み見るのは重大なマナー違反であるので、こういう状況ではあってもアスナは気がとがめて極力画面に目をやらずアイテム欄のみを素早く開こうとしたのだが――。
「な……なにこれ!?」
画面上部を視線が横切った瞬間、驚きの言葉が口をついて出た。
メニューウインドウのトップ画面は、基本的に三つのエリアに分けられている。最上部に名前の日本語/英語表示と細長いHPバー、EXPバーがあり、その下の左半分に装備フィギュア、右半分にコマンドボタン一覧という配置だ。アイコン等は無数のサンプルデザインから自由にカスタマイズすることができるが、基本配置は不可変である。のだが、ユイのウインドウの最上部には、『ユイ / Yui-MHCP001X』というネーム表示があるだけでHPバーもEXPバーも、レベル表示すらも存在しない。装備フィギュアはあるものの、コマンドボタンは通常と比べて大幅に少なく、わずかに『アイテム』と『オプション』のそれが存在するだけだ。
アスナの動きが止まったことをいぶかしむように近づいてきたキリトも、ウインドウを覗きこむなり息を飲んだ。ユイ本人はウインドウの異常など意に介せぬふうで、不思議そうな顔で二人を見上げている。
「これも……システムのバグなのかな……?」
アスナがつぶやくと、キリトは喉の奥でちいさく唸りながらいらえた。
「なんだか……バグというよりは、もともとこういうデザインになってるようにも見えるけどな……。くそ、今日くらいGMがいないのを歯がゆいと思ったことはないぜ」
「ふつうはSAOってバグどころかラグることもほとんどないから、GMなんて気にしたことなかったけどね……。これ以上考えてもしょうがない、よね……」
アスナは肩をすくめると、あらためてユイの指を動かし、アイテム欄を開かせた。その表面に、テーブルから取り上げたセーターをそっと置くと、一瞬の光を発してアイテムはウインドウに格納された。次いでセーターの名前をドラッグし、装備フィギュアへとドロップする。
直後、鈴の音のような効果音とともにユイの体が光の粒に包まれ、淡いピンクのセーターがオブジェクト化された。
「わあー」
ユイは顔を輝かせ、両手を広げて自分の体を見下ろした。アスナはさらに同系色のスカートと黒いタイツ、赤い靴を次々と少女に装備させ、最後に元々着ていたワンピースをアイテム欄に戻すとウインドウを消去した。
すっかり装いを改めたユイはうれしそうに、ふわふわしたセーターの生地に頬をこすりつけたりスカートの裾を引っ張ったりしている。
「さ、じゃあお出かけしようね」
「うん。パパ、だっこ」
屈託なく両手を伸ばすユイに、キリトは照れたように苦笑しながら少女の体を横抱きにかかえ上げた。そのままちらりとアスナに目を向け、言う。
「アスナ、一応、すぐ武装できるように準備しといてくれ。街からは出ないつもりだけど……あそこは『軍』のテリトリーだからな……」
「ん……。気を抜かないほうがいいね」
頷いて、手早く自分のアイテム欄を確認すると、アスナはキリトと連れ立ってドアへと歩き出した。少女の保護者が見つかればいい、というのは素直な気持ちだったが、ユイと別れる時のことを考えると不思議な動揺も感じてしまう。出会ってわずか一日で、ユイはアスナが長らく忘れていた、心の柔らかい部分をすっかり捉えてしまったかのようだった。
『始まりの街』に降り立ったのはほとんど一年ぶりのことだった。
アスナは複雑な感慨を覚えながら、転移ゲートを出たところで立ち止まり、広大な広場とその向こうに広がる街並みをぐるりと見渡した。
もちろんここはアインクラッド最大の都市であり、冒険に必要な機能はほかのどの街よりも充実している。物価も安く、宿屋の類も大量に存在し、効率だけを考えるならここをベースタウンにするのがもっとも適している。
だが、アスナの知り合いに関して言えば、ハイレベルのプレイヤーで未だに『始まりの街』に留まっている者はいない。『軍』の専横も理由のひとつだろうが、何よりこの巨大な時計塔広場に立って上空を見上げると、どうしてもあの時のことを思い出さざるを得ないからだ、とアスナは思う。
最初はほんの気まぐれだったのだ。
実業家の父親と学者の母親の間に生まれたアスナ――いや明日奈は、物心ついたころから両親の期待を強く感じながら育ってきた。両親はともに穏やかだが毅然とした人物で、明日奈にはいつも優しかったが、そうであればあるほど、彼らの期待を裏切った時その笑顔の下からどのような表情が顔を出すのかと考えることが恐怖となった。
それは兄も同じだったろう。兄と明日奈は、そろって両親の選んだ私立の小学校に入学し、何ひとつとして問題を起こさず、つねに上位の成績を保ち続けた。中学は有名な進学校にすすみ、歳の離れた兄が大学に入って家を出てしまってからは、ただただ両親の期待を裏切らないことだけを考えて生きてきた。複数の習い事をこなし、両親の認めた友達とのみ付き合い、しかしそんな生活の中で、明日奈はいつしか世界が小さく、硬く収縮していくのを感じていた。このまま既定された方向に――両親の決めた高校、両親の決めた大学に進み、両親の決めた相手と結婚してしまったら、自分はきっと自分よりも小さな、とてつもなく硬いカラに押し込められ、永遠にそこから出ることはかなわないだろう、という恐怖におびえていた。
だから――、父親の会社に就職し、家に戻ってきた兄が(残念ながら兄はそのカラにとらわれてしまったのだ、と思った)ナーヴギアとSAOをコネで手に入れ、珍しく目を輝かせながら明日奈に向かってゲーム世界のことを語ったとき、テレビゲームなど触ったこともなかった明日奈だがその不思議な新世界にはわずかな興味を覚えたのだった。
もちろん、兄が自室で使用していれば、ナーヴギアのことなどすぐに忘れて思い出すこともなかっただろう。だが間の悪いことに兄はSAO初日に海外へと出張することになってしまい、それゆえにほんの気まぐれで明日奈は兄に一日だけ貸してくれ、と頼んだのだった。普段見たことのない世界を見てみたい、ただそれだけの気持ちで――。
そして、全てが変わってしまった。
あの日、明日奈からアスナへと姿を変え、見知らぬ街、見知らぬ人々の間に降り立ったときの興奮は今でも覚えている。
だがその直後、頭上に降臨した半透明の神によってこの世界の真実の姿が脱出不可能のデスワールドであることを告げられたとき、最初にアスナが考えたのは、まだ手を付けていない数学の課題のことだった。
すぐに帰ってあれを片付けないと、翌日の授業で教師に叱責されてしまう。そんなことはアスナの人生においてはあってはならないことで……しかしもちろん、事態の深刻さはそんなものではなかった。
一週間、二週間と日々が無為に過ぎ去っても、SAOに救出の手は伸びなかった。始まりの街の宿屋の一室に閉じこもり、ベッドの上にうずくまって、アスナはとてつもないパニックを味わいつづけた。時として悲鳴を上げ、絶叫しながら壁を叩きさえした。今は中学三年の冬なのだ。すぐに受験が、そして新学期がやってきてしまう。そのレールから外れることは、アスナにとって人生の終焉そのものに等しかった。
アスナは毎日狂おしく頭を抱えながら、暗く深い確信を抱いていた。
両親はきっと、娘の身を案じるよりは、ゲーム機などのせいで受験を失敗しようとしている娘に激しく失望していることだろう。友人たちは悲嘆に暮れつつも同時にグループの脱落者を哀れみ、蔑んでいるだろう。
それらの黒い思念が臨界に達したとき、ようやくアスナはひとつの決意を固め、宿屋を出た。救出を待つのではない、自分からここを脱出するのだ。世界の救世主となるのだ。そうすることでしか、自分はもう周囲の人々の心を繋ぎとめておくことはできないだろう。
アスナは装備を整え、リファレンスマニュアルを全て暗記し、フィールドへと向かった。睡眠は日に二、三時間をとるのみで、残りの時間は全てレベルアップにつぎ込んだ。生来の知力と意思力をすべてゲーム攻略に傾けたとき、彼女がトップレベルプレイヤーに名を連ねるようになるまでそう長い時間はかからなかった。狂剣士・『閃光』アスナの誕生であった。
そして今――。二年が経ち、十七歳になったアスナは、当時の自分をいたましい気持ちとともに振り返る。いや、ゲーム開始直後の頃だけではない。それまでの、硬く収縮した世界でのみ生きていた自分に対しても、痛々しく、切ない感情を覚える。
自分は「生きる」という言葉の意味を知らなかった。ただただ、あるべき未来のことだけを考え、現在を犠牲にしつづけた。「今」というのは、正しい未来へと向かう過程でしかなく、それゆえに過ぎ去ると同時に虚無の中に消えてしまった。
どれか一つだけではだめなのだ。SAO世界を俯瞰すると深くそう思う。
未来のみを見る者は、かつての自分のように狂ったようにゲーム攻略にあけくれ、過去だけを抱く者は宿屋の一室でうずくまっている。現在だけに生きる者は犯罪者として刹那的な快楽を追い求める。
だが、この世界においてなお、現在を楽しみ、数々の思い出を作り、脱出に向けて努力することができる人々もいる。それを教えてくれたのが、一年前に出会った黒髪の剣士だ。彼のように生きたい、そう思ったときからアスナの日々は色彩を変えた。
今なら、現実世界でもあの殻を破れそうな気がする。自分のために生きられそうな気がするのだ。この人が傍らにいてくれる限り――。
アスナは、隣に立ち、彼なりの感慨を抱いて街並みを見ているのであろうキリトにそっと寄り添った。上空の石の蓋を眺めると、あの時の記憶がふたたび甦ってきたが、感じた痛みはかすかなものだった。
感傷を振り払うように頭を一振りすると、アスナはキリトの腕の中のユイの顔を覗き込んだ。
「ユイちゃん、見覚えのある建物とか、ある?」
「うー……」
ユイは難しい顔で、広場の周囲に連なる石造りの建築物を眺めていたが、やがて首を振った。
「わかんない……」
「まあ、始まりの街はおそろしく広いからな」
キリトがユイの頭を撫でながら言った。
「あちこち歩いてればそのうち何か思い出すかもしれないさ。とりあえず、中央マーケットに行ってみようぜ」
「そうだね」
頷きあい、二人は南に見える大通りに向かって歩き始めた。
それにしても――。歩きながら、アスナは少々いぶかしい気持ちで改めて広場を見渡した。意外なほど、人が少ない。
始まりの街のゲート広場は、二年前のサーバーオープン時に全プレイヤー五万人を収容しただけあってとてつもなく広い。完全な円形の、石畳が敷き詰められた空間の中央には巨大な時計塔がそびえ、その下部に転移ゲートが青く発光している。塔を取り囲むように、同心円状に細長い花壇が伸び、それに並んで瀟洒な白いベンチがいくつも設置されている。こんな天気のいい午後には一時の憩いを求めるプレイヤーで賑わってもおかしくないのに、見える人影は皆ゲートか広場の出口に向かって移動していくばかりで、立ち止まったりベンチに腰掛けたりしている者はほとんどいない。
上層にある大規模な街では、ゲート広場は常に無数のプレイヤーでごった返している。世間話に花を咲かせたり、パーティーを募集したり、簡単な露店を開いたりと、たむろする人々のせいでまっすぐ歩けないほどなのだが――。
「ねえ、キリト君」
「ん?」
振り向いたキリトに、アスナは尋ねた。
「ここって今プレイヤー何人くらいいるんだっけ?」
「うーん、そうだな……。生き残ってるプレイヤーが約四万、その三分の一くらいが始まりの街から出てないらしいから、一万三千人ってとこじゃないか?」
「そのわりには、人が少ないと思わない?」
「そう言われると……。マーケットのほうに集まってるのかな?」
しかし、広場から大通りに入り、NPCショップと屋台が建ち並ぶ市場エリアにさしかかっても、相変わらず街は閑散としていた。やたらと元気のいいNPC商人の呼び込み声が、通りを空しく響き渡っていく。
それでもどうにか、通りの中央に立つ大きな木の下に座り込んだ男を見つけ、アスナは近寄って声をかけてみた。
「あの、すみません」
妙に真剣な顔で高い梢を見上げている男は、顔を動かさないまま面倒くさそうに口を開いた。
「なんだよ」
「あの……この近くで、尋ね人の窓口になってるような場所、ありません?」
その言葉を聞いて、男はようやく視線をアスナに向けてきた。遠慮のない目つきでアスナの顔をじろじろと眺めまわす。
「なんだ、あんたよそ者か」
「え、ええ。あの……この子の保護者を探してるんですけど……」
背後に立つキリトの腕に抱かれ、うとうとまどろんでいるユイを指し示す。
クラスを察しにくい簡素な布服姿の男は、ちらりとユイを見やると多少目を丸くしたが、すぐにまた視線を頭上の梢へと移した。
「……迷子かよ、珍しいな。……東七区の川べりの教会に、ガキのプレイヤーが一杯集まって住んでるから、行ってみな」
「あ、ありがとう」
思いがけず有望そうな情報を得ることができて、アスナはぺこりと頭を下げた。物はついでと、更に質問してみることにする。
「あのー……一体、ここで何してるんですか? それに、なんでこんなに人がいないの?」
男は渋面を作りながらも、まんざらでもなさそうな口調で答えた。
「企業秘密だ、と言いたいとこだけどな。よそ者なら、まあいいや……。ほら、見えるだろ? あの高い枝」
男が伸ばした指の先を、アスナは目で辿った。大ぶりな街路樹は、頭上に張り出した枝々に赤金色に色づいた葉をびっしりと付けているが、目をこらしてみるとその葉影にいくつか、深紅の楕円形をした実が成っているのが見て取れる。
「もちろん街路樹は破壊不能オブジェクトだから、登ったって実はおろか葉っぱの一枚もちぎれないんだけどな」
男の言葉が続く。
「一日に何回か、あの実が落ちるんだよな……。ほんの数分で腐って消えちまうんだけど、それを逃さず拾えば、NPCにけっこうな値で売れるんだぜ。食ってもうまいしな」
「へえええー」
料理スキルをマスターしているアスナは、食材アイテムの話にはひとかたならぬ興味がある。
「幾らくらいで売れるの?」
「……これは黙っててくれよ。一個、12コルだ」
「……」
得意げな男の顔を見ながら、アスナは思わず絶句した。その値段の、あまりの安さに驚愕したためだ。それでは、丸一日この樹に張り付いていても百コルも稼げない計算になる。
「あ……あの……それじゃあんまり割に合わないっていうか……。フィールドでワームの一匹も倒せば、150コルにはなりますよ」
そう言った途端、今度は男が目を丸くした。頭がおかしいんじゃないか、と言わんがばかりの視線をアスナに向けてくる。
「本気で言ってるのかよ。フィールドで、モンスターと戦ったりしたら……死んじまうかもしんねえだろうが」
「……」
アスナは返す言葉がなかった。確かに男が言うように、対モンスター戦には死の危険が常に付きまとう。だが現在のアスナの感覚では、それは現実世界で交通事故に遭うのを心配するようなもので、怖がってもはじまらないと言うしかない。
SAO内での死に対する自分の感覚が鈍磨しているのか、男がナーバスすぎるのか、咄嗟に判断することができずにアスナは立ち尽くした。多分、どちらが正解というものではないのだろう。始まりの街では、きっと男の言う事が常識なのだ。
アスナの複雑な心境など気にもとめぬ様子で、男はしゃべり続けた。
「で、何だっけ、人がいない理由? 別にいない訳じゃないぜ。みんな宿屋の部屋に閉じこもってるのさ。昼間は軍の徴税部隊に出くわすかもしれないからな」
「ちょ、ちょうぜい……。それは一体なんなの?」
「体のいいカツアゲさ。気をつけろよ、奴等よそ者だからって容赦しないぜ。おっ、一個落ちそうだ……話はこれで終わりだ」
男は口をつぐむと、真剣な眼差しで上空を睨み始めた。アスナはぺこりと頭を下げると、今の会話中ずっとキリトが沈黙していたことに気付き、後ろを振り返った。
「……」
そこにあったのは、戦闘中もかくやという真剣な目つきで赤い木の実を見据えているキリトの姿だった。どうやら次に落ちる実を全力で奪取するつもりらしい。
「やめなよもうー! 大人気ないなぁ」
「だ、だってさ、気になるじゃん」
アスナはキリトの襟くびを掴むと、ずるずる引きずりながら歩きはじめた。
「あ、ああ……うまそうなのに……」
未練たらたらなキリトの耳もとで、小声でささやく。
「あの人には悪いけど、買値12コルの木の実がそんなに美味しいわけないよー」
「そ、そうか……」
「それより、東七区ってどのへん? 教会で若いプレイヤーが暮らしてるみたいだから、行ってみよう」
すっかり眠りに落ちてしまったユイを受け取り、しっかりと抱くと、アスナはマップをのぞき込みながら歩くキリトの横に並んで歩調を合わせた。
ユイは外見的には10歳程度の体格なので、現実世界でこんな真似をしたら数分で腕が抜けそうになるところだが、ここでは筋力パラメータ補正のお陰で羽毛のまくらほどの重さしか感じない。
相変わらず人影の少ないだだっぴろい道を、南東目指して十数分も歩くと、やがて建築物の少ない、広大な庭園めいたエリアに差し掛かった。黄色く色づいた広葉樹の林が、初冬の寒風の中わびしげに梢を揺らしている。
「えーと、マップではこのへんが東七区なんだけど……。その教会ってのはどこだろう」
「あ、あそこじゃない?」
アスナは、道の右手に広がる林の向こうに一際高い尖塔を見つけ、視線でその方向を示した。青灰色の屋根を持つ塔のいただきに、十字に円を組み合わせた金属製のアンクが輝いている。間違いなく教会のしるしだ。各町に最低ひとつはある施設で、内部の祭壇ではモンスターの特殊攻撃『呪い』の解除や対アンデッドモンスター用の武器の聖別などを行うことができる。魔法の要素がほとんど存在しないSAOにおいて、もっとも神秘的な要素のある場所と言ってよい。また、継続的にコルを納めることで教会内の小部屋を借りることもでき、宿屋の代わりに使う場合もある。
「ち、ちょっとまって」
教会に向かって歩き出そうとしたキリトを、アスナは呼び止めた。
「ん? どうしたの?」
「あ、ううん……。その……もし、あそこでユイちゃんの保護者が見つかったら、ユイちゃんを……置いてくるんだよね……?」
「……」
キリトの黒い目が、アスナをいたわるように和らいだ。近寄り、両腕でそっと、眠るユイごとアスナの体を包み込む。
「別れたくないのは俺もいっしょさ。何て言うのかな……ユイがいることで、あの森の家がほんとうの家庭になったみたいな……そんな気がしたもんな……。でも、会えなくなるわけじゃない。ユイが記憶を取り戻したら、きっとまた訪ねてきてくれるさ」
「ん……。そうだね」
ちいさく頷くと、アスナは腕の中のユイに頬をすり寄せ、意を決して歩き出した。
教会の建物は、街の規模に比べると小さなものだった。二階建てで、シンボルである尖塔も一つしかない。もっとも始まりの街には複数の教会が存在し、ゲート広場近くのものはちょっとした城館ほどのサイズがある。
アスナは、正面の大きな二枚扉の前に達すると、右手で片方の扉を押し開けた。公共施設なので当然鍵は掛けられていない。内部は薄暗く、正面の祭壇を飾るろうそくの炎だけが石敷きの床を弱々しく照らし出している。一見したところ人の姿はない。
入り口から上半身を乗り入れ、アスナは呼びかけた。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー?」
声が残響エフェクトの尾を引きながら消えていっても、誰も出てくる様子はない。
「誰もいないのかな……?」
首を傾げながら横に立つキリトの顔を見ると、彼はそっと首を振りながら口を開いた。
「いや、人がいるよ。右の部屋に三人、左に四人……。二階にも何人か」
「……索敵スキルって、壁の向こうの人数までわかるの?」
「熟練度980からな。便利だからアスナも上げろよ」
「いやよ、修行が地味すぎて発狂しちゃうわよ。……それはそうと、何で隠れてるのかな……」
アスナはそっと教会内部に足を踏み入れた。しんとした静寂が周囲を包むが、なんとなくその中に息を潜める気配を感じるような気がする。
「あの、すみません、人を探してるんですが!」
今度はもう少し大きな声で呼びかける。すると――右手のドアが僅かに開き、そのむこうからか細い女性の声が響いてきた。
「……軍の人じゃ、ないんですか?」
「ちがいますよ。上の層から来たんです」
アスナもキリトも、帯剣はおろか戦闘用の防具ひとつとして身につけていない。軍所属のプレイヤーは常にユニフォームの重武装をまとっているので、格好だけでも、軍とは無関係であることがわかってもらえるはずだ。
やがて、ドアがゆっくりと開くと、その向こうから一人の女性プレイヤーがおずおずと姿を現した。
暗青色のショートヘア、黒ぶちの大きなメガネをかけ、その奥で怯えをはらんだ深緑色の瞳をいっぱいに見開いている。簡素な濃紺のプレーンドレスを身にまとい、手には鞘に収められた小さな短剣。
「ほんとに……軍の徴税官じゃないんですね……」
アスナは安心させるように女性に微笑みかけると、頷いた。
「ええ、私たちは人を探していて、今日上から来たばかりなんです。軍とは何の関係もないですよ」
その途端――。
「上から!? ってことは本物の剣士なのかよ!?」
甲高い、少年めいた叫び声と共に、女性の背後のドアが大きく開き、中から数人の人影がばらばらと走り出してきた。直後、祭壇の左手のドアも開け放たれ、同じく数名が駆け出してくる。
あっけにとられたアスナとキリトが声もなく見守るなか、メガネの女性の両脇にずらりと並んだのは、どれも少年少女と言ってよいうら若いプレイヤーたちだった。下は十二歳、上は一四歳といったところだろう。皆興味しんしんといったふうにアスナとキリトを眺め回している。
「こら、あんた達、部屋に隠れてなさいって言ったじゃないー」
慌てたように子供たちを押し戻そうとする女性だけが二十歳前後と思われる。もっとも、誰一人として命令に従う子はいない。
だが、やがて、先程真っ先に部屋から走り出してきた、赤毛の短髪をつんつん逆立てた少年が、失望したような叫び声をあげた。
「なんだよ、剣の一本も持ってないじゃん。ねえあんた、上から来たんだろ? 武器くらい持ってないのかよ?」
後半はキリトに向かって発せられた言葉である。
「い、いや、ないことはないけど……」
目を白黒させながらキリトが答えると、再び子供たちの顔がぱっと輝いた。見せて、見せてと、口々に言い募る。
「こらっ、初対面の方に失礼なこと言っちゃだめでしょう。――すみません、普段お客様なんてないものですから……」
いかにも恐縮したように頭を下げるメガネの女性に向かって、アスナはあわてて言った。
「い、いえ、かまわないです。――ね、キリトくん、いくつかアイテム欄に入れっぱなしだっと思うから、見せてあげたら?」
「う、うん」
アスナの提案に頷くと、キリトはウインドウを開き、指を動かし始めた。たちまち幾つもの武器アイテムがオブジェクト化され、傍らの長机の上に積み上げられていく。最近の冒険でモンスターがドロップしたアイテムを、換金する暇がなくて放置していたものだ。
キリトが、二人の装備品を除く余剰アイテムを全て取り出しウインドウを閉じると、子供たちが歓声を上げてその周囲に群がった。次々と剣やメイスを手にとっては刃の銀色の輝きに見入っている。過保護な親が見たら卒倒しそうな光景だが、街区圏内では武器をどう扱おうとそれによってダメージを受けることは有り得ない。
「――すみません、ほんとに……」
メガネの女性が、困ったように眉を寄せつつも、喜ぶ子供たちの様子に笑みを浮べながら、言った。
「……あの、こちらへどうぞ。今お茶の準備をしますので……」
礼拝堂の右にある小部屋に案内されたアスナとキリトは、振舞われた熱い茶をひとくち飲んでほっと息をついた。
「それで……人を探してらっしゃるということでしたけど……?」
向かいの椅子に腰掛けたメガネの女性プレイヤーが、ちいさく首を傾けながら言った。
「あ、はい。ええと……わたしはアスナ、この人はキリトといいます」
「あっ、すみません、名前も言わずに。わたしはサーシャです」
ぺこりと頭を下げあう。
「で、この子が、ユイです」
膝の上で眠りつづけるユイの髪をそっと撫でながら、アスナは言葉を続けた。
「この子、22層の森の中で迷子になってたんです。記憶を……無くしてるみたいで……」
「まあ……」
サーシャという女性の、大きな深緑色の瞳がメガネの奥でいっぱいに見開かれる。
「装備も、服以外はなんにもなくて、上層で暮らしてたとは思えなくて……。それで、始まりの街に保護者とか……この子のことを知ってる人がいるんじゃないかと思って、探しに来たんです。で、こちらの教会で、子供たちが集まって暮らしていると聞いたものですから……」
「そうだったんですか……」
サーシャは両手でカップを包み込むと、視線をテーブルに落とした。
「……この教会には、いま、小学生から中学生くらいの子供たちが三十人くらい暮らしています。多分、いま始まりの街にいる子供プレイヤーのほぼ全員だと思います。このゲームがはじまったとき……」
声はか細いが、意外にはっきりした口調でサーシャが話しはじめた。
「それくらいの子供たちのほとんどは、パニックを起こして多かれ少なかれ精神的に問題を来しました。勿論ゲームに適応して、街を出て行った子供もいるんですが、それは例外的なことだと思います」
当時中学三年だったアスナにも覚えのあることだった。宿屋の一室で閉じこもっていた頃は確かに精神が崩壊するぎりぎりまで追い詰められていたと思う。
「当然ですよね、まだまだ親に甘えたい盛りに、いきなりここから出られない、ひょっとしたら二度と現実に戻れない、なんて言われたんですから……。そんな子供たちは大抵虚脱状態になって、中には何人か……自殺した子もいるようです」
サーシャの口許がかたくこわばる。
「わたし、ゲーム開始から一ヶ月くらいは、ゲームクリアを目指そうと思ってフィールドでレベル上げしてたんですけど……ある日、そんな子供たちの一人を街角で見かけて、どうしても放っておけなくて、連れてきて宿屋で一緒に暮らしはじめたんです。それで、そんな子供たちが他にもいると思ったらいてもたってもいられなくなって、街じゅうを回っては独りぼっちの子供に声をかけるようなことを始めて。気付いたら、こんなことになってたんです。だから、なんだか……お二人みたいに、上層で戦ってらっしゃる方もいるのに、わたしはドロップアウトしちゃったのが、申し訳なくて」
「そんな……そんなこと」
アスナは首を振りながら、一生懸命言葉を探そうとしたが、喉がつまって声にならなかった。後を引き継ぐようにキリトが言った。
「そんなこと、ないです。サーシャさんは立派に戦ってる……俺なんかより、ずっと」
「ありがとうございます。でも、義務感でやってるわけじゃないんですよ。子供たちと暮らすのはとっても楽しいです」
ニコリと笑い、サーシャは眠るユイを心配そうに見つめた。
「だから……私たち、二年間ずっと、毎日一エリアずつ回って、困ってる子供がいないか調べてるんです。そんな小さい子がいれば、絶対気付いたはずです。残念ですけど……始まりの街で暮らしてた子じゃあ、ないと思います」
「そうですか……」
アスナはうつむき、ユイをきゅっと抱きしめた。気を取り直すように、サーシャの顔を見る。
「あの、立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とか、どうしてるんですか?」
「あ、それは、わたしの他にも、街周辺のフィールドなら絶対大丈夫な程度のレベルになった年長の子が何人かいますので、食事代くらいはなんとかなってます。ぜいたくはできませんけどね」
「へえ、それは凄いな……。さっき街で話を聞いたら、フィールドでモンスターを狩るなんて常識外の自殺行為だって言ってましたよ」
キリトの言葉に、サーシャはこくりと頷いた。
「基本的に、今始まりの街に残ってるプレイヤーは全員そういう考えだと思います。それが悪いとは言いません、死の危険を考えれば仕方ないことなのかもしれないんですが……。でも、そのせいでわたしたちは、この街の平均的プレイヤーよりお金を稼いでいることになっちゃうんです」
確かに、この教会の客室を常時借り切っているなら、一日あたり数百コルが必要になるだろう。先刻の木の実ハンターの男の日収を大きく上回る額だ。
「だから、最近目をつけられちゃって……」
「……誰に、です?」
サーシャの気弱そうな目が一瞬厳しくなった。言葉を続けようと口を開いた、その時――。
「先生! サーシャ先生! 大変だ!!」
部屋のドアがばんと開き、数人の子供たちがなだれ込んできた。
「こら、お客様に失礼じゃないの!」
「それどこじゃないよ!!」
先程の赤毛の少年が、目に涙を浮べながら叫んだ。
「ギン兄ィ達が、軍のやつらにつかまっちゃったよ!!」
「――場所は?」
別人のように毅然とした態度で立ち上がったサーシャが、少年に尋ねた。
「東五区の道具屋裏の空き地。軍が十人くらいで通路をブロックしてる。クリオだけが逃げられたんだ」
「わかった。――すみませんが……」
サーシャはアスナとキリトのほうに向き直ると、軽く頭を下げ、言った。
「わたしはすぐに子供たちを助けに行かなければなりません。お話はまたのちほど……」
「俺たちも行くよ、先生!!」
赤毛の少年が叫ぶと、その後ろの子供たちも口々に同意も声を上げた。少年はキリトのそばに駆け寄り、必至の形相で言った。
「兄ちゃん、さっきの武器、貸してくれよ! あれがありゃあ、軍の連中もすぐ逃げ出すよ!」
「いけません!」
サーシャの叱責が飛ぶ。
「あなたたちはここで待ってなさい!」
その時、今まで無言で成り行きを見守っていたキリトが、子供たちをなだめるように右手を上げた。普段は茫洋と掴み所のない態度の彼だが、こんな時だけは不思議な存在感を発揮し、子供たちがぴたりと口をつぐむ。
「――残念だけど――」
落ち着いた口調でキリトが話しはじめた。
「あの武器は、必要パラメータが高すぎて君じゃ装備できない。俺たちが助けに行くよ。こう見えてもこのお姉ちゃんは無茶苦茶強いんだぞ」
ちらりと視線を向けるキリトに、アスナも大きく頷き返した。立ち上がり、サーシャのほうに向き直って口を開く。
「わたし達にもお手伝いさせてください。少しでも人数が多いほうがいいはずです」
「――ありがとう、お気持ちに甘えさせていただきます」
サーシャは深く一礼すると、メガネをぐっと押し上げ、言った。
「それじゃ、すみませんけど走ります!」
教会から飛び出したサーシャは、腰の短剣をきらめかせながら北に向かって一直線に走りはじめた。キリトと、ユイを抱いたアスナもその後を追う。走りながらアスナがちらりと後ろを振り返ると、大勢の子供たちがついてくるのが見えたが、サーシャも追い返す気は無いようだった。
林の間を縫うように走り、やがて現れた東六区の市街地の裏通りを抜けていく。最短距離をショートカットしているようで、NPCショップの店先や民家の庭などを突っ切って進むうち、前方の細い路地を塞ぐ、見覚えのある制服を身にまとった男達の一団が目に入った。どうやらその向こうで、狩りに出ていた教会の子供たちを取り囲んでいるらしく、威圧的な胴間声が漏れ聞こえてくる。
路地に走りこんだサーシャが足を止めると、それに気付いた軍のプレイヤーたちが振り返り、にやりと笑みを浮べた。
「おっ、保母さんの登場だぜ」
「……子供たちを返してください」
硬い声でサーシャが言う。
「人聞きの悪いこと言うなよォ。すぐに返してやるよ、ちょっと社会常識ってもんを教えてやったらな」
「そうそう。市民には納税の義務があるからな」
ひゃははは、と男達が甲高い笑い声を上げた。固く握られたサーシャの拳がぶるぶると震える。
「ギン! ケイン! ミナ!! そこにいるの!?」
サーシャが男達の向こうに呼びかけると、すぐに怯えきった少女の声でいらえがあった。
「先生! 先生……助けて!」
「お金なんていいから、全部渡してしまいなさい!」
「先生……だめなんだ……!」
今度は、しぼり出すような少年の声。
「クッヒャッ」
道をふさぐ男の一人が、ひきつるような笑いを吐き出した。
「あんたら、ずいぶん税金を滞納してるからなぁ……。金だけじゃ足りないよなぁ」
「そうそう、装備も置いてってもらわないとなァー。防具も全部……何から何までな」
男達の下卑た笑いを見て、アスナは路地の奥で何が行われているか咄嗟に察した。たぶん兵士たちは、少女を含む子供たちに、着衣も全て解除しろと要求しているのだ。アスナの内部に殺意にも似た憤りが芽生える。
サーシャも同時にそれを察したらしく、殴りかからんばかりの勢いで男たちに詰め寄った。
「そこを……そこをどきなさい! さもないと……」
「さもないと、何だい、保母先生? あんたがかわりに税金を払うかい?」
にやにや笑う男達は、まったく動こうとするそぶりを見せない。
街の内部、いわゆる街区圏内では、犯罪防止コードというプログラムが常時働いており、他のプレイヤーにダメージを与えることはもちろん、無理矢理移動させるような真似は一切できない。しかしそれは裏を返せば、行く手を阻もうとする悪意のプレイヤーも排除できないということであり、このように通路を塞いで閉じ込める「ブロック」、更には直接数人で取り囲んで相手を一歩も動けなくしてしまう「ボックス」といった悪質なハラスメント行為の存在を許す結果となっている。
だがそれも、あくまで地面を移動する場合においてのみ可能な行為だ。アスナはキリトを見やると、言った。
「行こう、キリトくん」
「ああ」
頷きあい、二人は地面を蹴った。
敏捷力と筋力のパラメータを全解放する勢いで跳躍した二人は、呆然とした表情で見上げるサーシャと軍メンバーの頭上を軽々と飛び越え、数回建物の壁を蹴りながら飛翔すると、四方を壁に囲まれた空き地へと降り立った。
「うわっ!?」
その場にいた数人の男達が驚愕の表情で飛びすさる。
空き地の片隅には、十代なかばと思しき二人の少年と一人の少女が、固まって身を寄せ合っていた。少女は白いキャミソール一枚、少年たちも下着姿だ。アスナは唇を噛むと、子供たちに歩み寄り、微笑みかけながら言った。
「もう大丈夫よ。早く服を着なさい」
少年たちはこくりと頷くと、慌てて足元から着衣を拾い上げ、ウインドウを操作しはじめる。
「おい……オイオイオイ!!」
その時、ようやく我に返った軍プレイヤーの一人がわめき声を上げた。
「なんだお前らはァ!! 邪魔すんのかコラァ!!」
「おっ、待て待て、この女いけるじゃん」
アスナの顔をじろじろ見ながら、ひときわ重武装の男が進み出てきた。どうやらリーダー格らしい。
「姉ちゃん、見ない顔だけど、俺たちの邪魔すっとどうなるか、わかってんだろうな? 逃がしゃしねえぞ。本部でじっくり話、しようや」
「おお、それいいねぇ」
周囲の男達が追従するように笑い声を上げる。調子に乗って近寄ってきたリーダーは、夏みかんの皮に切れ目を入れたようなごつごつした顔を突き出してアスナの顔を覗き込み、次いでアスナの腕の中で眠っているユイに視線を落とした。ぴゅう、とヘタな口笛を吹き、言う。
「うほっ、これ姉ちゃんのガキかよ?」
再び、野卑な爆笑。
「ま、姉ちゃんがあいつらのかわりに税金払ってくれるなら文句はねえや。さ、本部いこうか。そのガキもいっしょにな」
「そのへんにしといたほうがいいぞ」
低い、キリトの声が流れた。
「いますぐ消えろ。そろそろ我慢の限界だからな」
「……なんだと?」
リーダーの細い目が凶暴な光を帯びる。腰から大ぶりのブロードソードを引き抜くと、わざとらしい動作でぺたぺた刀身を手のひらに打ちつけながら数歩キリトに歩み寄った。剣の表面が低い西日を反射してぎらぎらと輝く。一度の損傷も修理も経験していない、新品の武器特有の輝き。
「てめえこそ消えろや! 邪魔すんじゃねえよ、何なら圏外行くか圏外! おぉ?」
「……剣を振ったことも無い人間が剣士じみた口を利くな……」
アスナの唇からかすれた声が漏れた。事が穏便に済めばそれが一番といままで我慢していたが、ユイを欲望でぎらつく目で見られた瞬間、憤激が限界を超えたのを自覚していた。
「……キリトくん、ユイちゃんをお願い」
キリトにユイを渡すと、彼はいつの間にか実体化させていたアスナの細剣を片手でひょいと放ってきた。受け取りざま鞘を払い、リーダーに向かってすたすたと歩み寄る。
「お……お……?」
状況が飲み込めず、口を半開きにする男の顔面に向かって、アスナはいきなり全力の片手突きを叩き込んだ。
周囲を染める紫色の閃光。爆発にも似た衝撃音。男の重そうな体が宙をくるくると回りながら吹き飛び、数メートル離れた石壁に激突して再び紫の閃光を撒き散らした。
「そんなに戦闘がお望みなら、わざわざフィールドに行く必要はないわ」
地面に座り込んで、両目を限界まで丸く見開いた男の前まで歩み寄ると、アスナは再び右手を閃かせた。閃光。轟音。リーダーの体が地面をごろごろと転がる。
「安心して、HPは減らないから。そのかわり、圏内戦は恐怖を刻み込む」
容赦ない歩調で三たび歩み寄るアスナの姿を見上げ、リーダーはようやくアスナの意図を悟ったように唇をわななかせた。
犯罪防止コード圏内では、武器による攻撃をプレイヤーに命中させても見えない障壁に阻まれてダメージが届くことはない。だがこのルールにも裏の意味があり、つまり攻撃者が犯罪者カラーに落ちることもないということになる。
それを利用したのが「圏内戦闘」であり、通常は訓練の模擬戦闘として行われる。しかし、攻撃者のパラメータとスキルが上昇するにつれ、コード発動時のシステムカラーの発光と衝撃音は過大なものとなり、また両者のステータス差があまりに大きいと、発生する衝撃によって宙を吹き飛ぶような事も起こりうる。慣れない者にとっては、HPが減らないとわかっていてもその恐怖はおおよそ耐えられるものではない。
「ひあっ……ぐぎゃっ……やめっ……」
アスナの剣撃によって宙を舞うたびに、リーダーはだらしない悲鳴を上げた。
「お前らっ……見てないで……なんとかしろっ……!!」
その声に、ようやく我に返った軍メンバーが、つぎつぎと武器を抜いた。
南北の通路からも、予想外の事態を察したブロック役のプレイヤー達が走りこんでくる。
半円形に周囲を取り囲む男達に、アスナは狂戦士時代に戻ったような爛々と光る眼を向けた。物も言わず地面を蹴り、集団に突っ込んでいく。
たちまち、轟音と絶叫の連続が狭い空き地に充満した。
数分後――。
我に返ったアスナが足を止め、剣を降ろすと、空き地にはわずか数人の軍プレイヤー達が失神して転がるのみだった。残りは皆リーダーを見捨てて逃げ出したらしい。
「ふう……」
大きくひとつ息をついて、細剣を鞘に収め、振り返ると――そこには、絶句してアスナを見つめるサーシャと、教会の子供たちの姿があった。
「あ……」
アスナは息を詰めて一歩後ずさった。先程の、怒りに身を任せた修羅のごとき荒れようは、さぞかし子供たちを怯えさせただろうと思い、悄然とうつむく。
だが突然、子供たちの先頭にいた、例の赤毛で逆毛の少年が、目を輝かせながら叫んだ。
「すげえ……すげえよ姉ちゃん!! 初めて見たよあんなの!!」
「このお姉ちゃんは無茶苦茶強い、って言ったろう」
にやにや笑いながらキリトが進み出てきた。左手でユイを抱き、右手には剣を下げている。どうやら数人は彼が相手をしたらしい。
「……え、えへへ」
困ったようにアスナが笑うと、子供たちがわっと歓声を上げて一斉に飛びついてきた。サーシャも両手を胸の前で握り締め、両目に涙を溜めて泣き笑いのような表情を浮べている。
その時だった。
「みんなの――みんなのこころが――」
細いが、よく通る声が響いた。アスナははっとして顔を上げた。キリトの腕のなかで、いつのまにか目覚めたユイが宙に視線を向け、右手をその方向へ伸ばしていた。
アスナはあわててその方角を見やったが、そこには何もない。
「みんなのこころが――ひかりに……」
「ユイ! どうしたんだ、ユイ!!」
キリトが叫ぶとユイは二、三度まばたきをして、きょとんとした表情を浮べた。アスナもあわてて走りより、ユイの手を握る。
「ユイちゃん……何か、思いだしたの!?」
「……あたし……あたし……」
眉を寄せ、うつむく。
「あたし、ここには……いなかった……。ずっと、ひとりで、暗い場所にいた……」
何かを思い出そうとするかのように顔をしかめ、唇を噛む。と、突然――。
「うあ……あ……ああああ!!」
その顔がのけぞり、細いのどから高い悲鳴がほとばしった。
「!?」
ザ、ザッという、SAO内で初めて聞くノイズのような音がアスナの耳に響いた。直後、ユイの硬直した体のあちこちが、崩壊するようにぶれ、振動した。
「ゆ……ユイちゃん……!」
アスナも悲鳴を上げ、その体を両手で必死に包み込む。
「ママ……こわい……ママ……!!」
かぼそい悲鳴を上げるユイをキリトの腕から抱き上げ、アスナはぎゅっと胸に抱きしめた。数秒後、怪現象は収まり、硬直したユイの体から力が抜けた。
「なんだよ……今の……」
キリトのうつろな呟きが、静寂に満ちた空き地にかすかに流れた。
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三日目
「ミナ、パンひとつ取って!」
「ほら、余所見してるとこぼすよ!」
「あーっ、先生ー! ジンが目玉焼き取ったー!」
「これは……すごいな……」
「そうだね……」
アスナとキリトは、目前で繰り広げられる戦場さながらの朝食風景に、呆然とつぶやき交わした。
始まりの街、東七区の教会一階の広間。巨大な長テーブル二つに所狭しと並べられた大皿の卵やソーセージ、野菜サラダを、三十人の子供たちが盛大に騒ぎながらぱくついている。
「でも、凄く楽しそう」
少し離れた丸テーブルに、キリト、ユイ、サーシャと一緒に座ったアスナは、微笑しながらお茶のカップを口許に運んだ。
「毎日こうなんですよ。いくら静かにって言っても聞かなくて」
そう言いながら、子供たちを見るサーシャの目は心底愛しそうに細められている。
「子供、好きなんですね」
アスナが言うと、サーシャは照れたように笑った。
「向こうでは、大学で教職課程取ってたんです。ほら、学級崩壊とか、問題になってたじゃないですか。子供たちを、私が導いてあげるんだーって、燃えてて。でもここに来て、あの子たちと暮らし始めてみると、見ると聞くとは大違いで……。彼らより、私のほうが頼って、支えられてる部分のほうが大きいと思います。でも、それでいいって言うか……。それが自然なことに思えるんです」
「何となくですけど、わかります」
アスナは頷いて、隣の椅子で真剣にスプーンを口に運ぶユイの頭をそっと撫でた。ユイの存在がもたらす暖かさは驚くほどだ。キリトと触れ合うときの、胸の奥がきゅっと切なくなる愛しさとはまた違う、目に見えない羽根で包み、包まれるような、静かな安らぎを感じる。
昨日、謎の発作を起こし倒れたユイは、幸い数分で目を覚ました。だが、すぐに長距離を移動させたり転移ゲートを使わせたりする気にならなかったアスナは、サーシャの熱心な誘いもあり、教会の空き部屋を一晩借りることにしたのだった。
今朝からはユイの調子もいいようで、アスナとキリトはひとまず安心したのだが、しかし基本的な状況は変わっていない。かすかに戻ったらしきユイの記憶によれば、始まりの街に来たことはないようだったし、そもそも保護者と暮らしていた様子すらないのだ。となるとユイの記憶障害、幼児退行といった症状の原因も見当がつかないし、これ以上何をしていいのかもわからない。
だがアスナは、心の奥底では気持ちを固めていた。
これからずっと、ユイの記憶が戻る日まで、彼女といっしょに暮らそう。休暇が終わり、前線に戻る時が来ても、何か方法はあるはず――。
ユイの髪を撫でながらアスナが物思いに耽っていると、キリトがカップを置き、話しはじめた。
「サーシャさん……」
「はい?」
「……軍のことなんですが。俺が知ってる限りじゃ、あの連中は専横が過ぎることはあっても治安維持には熱心だった。でも昨日見た奴等はまるで犯罪者だった……。いつから、ああなんです?」
サーシャは口許を引き締めると、答えた。
「そう昔のことじゃないです、『徴税』が始まったのは。軍が分裂してるな、って感じがし始めたのは半年くらい前からです……。恐喝まがいの行為をはじめた人達と、それを逆に取り締まる人達もいて。軍のメンバーどうして対立してる場面も何度も見ました。噂じゃ、上のほうで権力争いか何かあったみたいで……」
「うーん……。なにせメンバー数千人の巨大集団だからなぁ。一枚岩じゃないだろうけど……。でも昨日みたいなことが日常的に行われてるんだったら、放置はできないよな……。アスナ」
「なに?」
「奴はこの状況を知ってるのか?」
奴、という言葉の嫌そうな響きでそれが誰を意味するか察したアスナは、笑みを噛み殺しながら言った。
「知ってる、んじゃないかな……。団長は軍の動向に詳しかったし。でもあの人、何て言うか、ハイレベルの攻略プレイヤー以外には興味なさそうなんだよね……。キリト君のこととかずっと昔からあれこれ聞かれたけど、オレンジギルドが暴れてるとかそんな話には知らんぷりだったし。多分、軍をどうこうするためにギルドを動かしたりとかはしないと思うよ」
「まあ、奴らしいと言えば言えるよな……。でも俺たちだけじゃ出来ることもたかが知れてるし、そもそも圏内じゃ暴れようもないしなぁ」
眉をしかめてお茶を啜ろうとしたキリトが、不意に顔を上げ、教会の入り口のほうを見やった。
「誰かくるぞ。一人……」
「え……。またお客様かしら……」
サーシャの言葉に重なるように、館内に音高くノックの音が響いた。
腰に短剣を吊るしたサーシャと、念のためについていったキリトに伴われて食堂に入ってきたのは、長身の女性プレイヤーだった。
銀色の長い髪をポニーテールに束ね、怜悧という言葉がよく似合う、鋭く整った顔立ちのなかで、空色の瞳が印象的な光を放っている。
髪型、髪色、さらに瞳の色までも自由にカスタマイズできるSAOだが、もともとの素材が日本人であるため、このような強烈な色彩設定が似合うプレイヤーはかなり少ないと言える。アスナ自身も、かつて髪をチェリーピンクに染め、失意のうちにブラウンに戻したという人には言えない過去がある。
美人だなぁ、キリトくんこういう人が好みなのかなぁという穏やかならぬ第一印象ののち、改めて彼女の装備に視線を落としたアスナは、思わず体を固くして腰を浮かせた。
鉄灰色のケープに隠されているが、女性プレイヤーが身にまとう濃緑色の上着と大腿部がゆったりとふくらんだズボン、ステンレススチールふうに鈍く輝く金属鎧は、間違いなく「軍」のユニフォームだ。右腰にショートソード、左腰にはぐるぐると巻かれた、黒革のウィップが吊るされている。
女性の身なりに気付いた子供たちも一斉に押し黙り、目に警戒の色を浮べて動きを止めている。だが、サーシャは子供たちに向かって笑いかけると、安心させるように言った。
「みんな、この方はだいじょうぶよ。食事を続けなさい」
一見頼り無さそうだが子供たちからは全幅の信頼を置かれているらしいサーシャの言葉に、皆ほっとしたように肩の力を抜き、すぐさま食堂に喧騒が戻った。その中を丸テーブルまで歩いてきた女性プレイヤーは、サーシャから椅子を勧められると軽く一礼してそれに腰掛けた。
事情が飲み込めず、視線でキリトに問い掛けると、椅子に座った彼も首を傾げながらアスナに向かって言った。
「ええと、この人はユリエールさん。どうやら俺たちに話しがあるらしいよ」
ユリエールと紹介された銀髪の鞭使いは、まっすぐな視線を一瞬アスナに向けたあと、ぺこりと頭を下げて口を開いた。
「はじめまして、ユリエールです。ギルドALFに所属してます」
「ALF?」
初めて聞く名にアスナが問い返すと、女性は小さく首をすくめた。
「あ、すみません。アインクラッド解放軍、の略です。その名前はどうも苦手で……」
女性の声は、落ち着いた艶やかなアルトだった。常々自分の声が子供っぽいと思っているアスナはさらに穏やかでない気分になりながら、挨拶を返す。
「はじめまして。私はギルド血盟騎士団の――あ、いえ、今は脱退中なんですが、アスナと言います。この子はユイ」
時間をかけてスープの皿を空にし、シトラスジュースに挑んでいる最中だったユイは、ふいっと顔を上げるとユリエールを注視した。わずかに首を傾げるが、すぐにニコリと笑い、視線を戻す。
ユリエールは、血盟騎士団の名を聞くと、わずかに目を見張った。
「KoB……。なるほど、道理で連中が軽くあしらわれるわけだ」
連中、というのが昨日の暴行恐喝集団のことだと悟ったアスナは、ふたたび警戒心を強めながら言った。
「……つまり、昨日の件で抗議に来た、ってことですか?」
「いやいや、とんでもない。その逆です、よくやってくれたとお礼を言いたいくらい」
「……」
事情が飲み込めず沈黙するキリトとアスナに向かって、ユリエールは姿勢を正して話しはじめた。
「今日は、お二人にお願いがあって来たのです。最初から、説明します。ALF……、軍というのは、昔からそんな名前だったわけじゃないんです……」
「軍が今の名前になったのは、かつてのサブリーダーで今の軍の実質的支配者、キバオウという男が実権を握ってからのことです……。最初はギルドMTDって名前で……、聞いたこと、ありませんか?」
アスナは覚えが無かったが、キリトは軽くうなずいて言った。
「MMOトゥデイだろう。SAO開始当時、日本最大のネットゲーム情報サイトだった……。ギルドを結成したのは、そこの管理者だったはずだ。たしか、名前は……」
「シンカー」
その名前を口にしたとき、ユリエールの顔がわずかに歪んだ。
「彼は……決して今のような、独善的な組織を作ろうとしたわけじゃないんです。ただ、情報とか、食料とかの資源をなるべく多くのプレイヤーで均等に分かち合おうとしただけで……」
そのへんの、「軍」の理想と崩壊についてはアスナも伝え聞いて知っていた。多人数でモンスター狩りを行い、危険を極力減らした上で安定した収入を得てそれを均等に分配しようという思想それ自体は間違っていない。だがMMORPGの本質はプレイヤー間でのリソースの奪い合いであり、それはSAOのような異常かつ極限状況にあるゲームにおいても変わらなかった。いや、むしろだからこそ、と言うべきか。
ゆえに、その理想を実現するためには、組織の現実的な規模と強力なリーダーシップが必要であり、その点において軍はあまりにも巨大すぎたのだ。得たアイテムの秘匿が横行し、粛清、反発が相次ぎ、リーダーは徐々に指導力を失っていった。
「そこに台頭してきたのがキバオウという男です」
ユリエールは苦々しい口調で言った。
「彼は、体制の強化を打ち出して、ギルドの名前をアインクラッド解放軍に変更させ、さらに公認の方針として犯罪者狩りと効率のいいフィールドの独占を推進しました。それまで、一応は他のギルドとの友好も考え狩場のマナーは守ってきたのですが、人数を傘にきて長時間の独占を続けることでギルドの収入は激増し、キバオウ一派の権力はどんどん強力なものとなっていったのです。最近ではシンカーはほとんど飾り物状態で……。キバオウ派のプレイヤー達は調子に乗って、街区圏内でも徴税、と称して恐喝まがいの行為を繰り返すようにすらなっていました。昨日、あなた方が痛い目に会わせたのはそんな連中の急先鋒だった奴等です」
ユリエールは一息つくと、サーシャの淹れたお茶をひとくち含み、続けた。
「でも、キバオウ派にも弱みはありました。それは、資財の蓄積だけにうつつを抜かして、ゲーム攻略をないがしろにし続けたことです。本末転倒だろう、という声が末端のプレイヤーの間で大きくなって……。その不満を抑えるため、最近キバオウは無茶な博打に打って出ました。ギルドの中で、もっともハイレベルのプレイヤー十数人で攻略パーティーを作って、最前線のボス攻略に送り出したんです」
アスナは、思わずキリトと顔を見合わせた。74層迷宮区で散ったコーバッツの一件は記憶に新しいところだ。
「いかにハイレベルと言っても、もともと私達は攻略組の皆さんに比べれば力不足は否めません。パーティーは敗退、隊長は死亡という最悪の結果になり、キバオウはその無謀さを強く糾弾されたのです。もう少しで彼を追放できるところまで行ったのですが……」
ユリエールは高い鼻梁にしわを寄せ、唇を噛んだ。
「こともあろうに、キバオウはシンカーをだまして、回廊結晶を使って彼をダンジョンの奥深くに放逐してしまったのです。ギルドリーダーの証である『約定のスクロール』を操作できるのはシンカーとキバオウだけ、このままではギルドの人事や会計まですべてキバオウにいいようにされてしまいます。むざむざシンカーを罠にかけさせてしまったのは彼の副官だった私の責任、私は彼を救出に行かなければなりません。でも、彼が幽閉されたダンジョンはとても私のレベルでは突破できません。そこに、昨日、恐ろしく強い二人組みが街に現れたという話を聞きつけ、いてもたってもいられずに、お願いに来た次第です。キリトさん――アスナさん」
ユリエールは深々と頭を下げ、言った。
「どうか、私と一緒にシンカーを救出に行ってください」
長い話を終え、口を閉じたユリエールの顔を、アスナはじっと見つめた。悲しいことだが、SAO内では他人の言うことをそう簡単に信じることはできない。今回のことにしても、キリトとアスナを圏外におびきだし、危害を加えようとする陰謀である可能性は捨てきれない。通常は、ゲームに対する十分な知識さえあれば、騙そうとする人間の言うことにはどこか綻びが見つかるものだが、残念ながらアスナ達は『軍』の内情に関してあまりにも無知すぎた。
キリトと一瞬目を見交わして、アスナは重い口を開いた。
「――わたしたちに出来ることなら、力を貸して差し上げたい――と思います。でも、その為には、こちらで最低限のことを調べてあなたのお話の裏付けをしないと……」
「それは――当然、ですよね……」
ユリエールはわずかにうつむいた。
「無理なお願いだってことは、私にもわかってます……。でも……『生命の碑』の、シンカーの名前の上に、いつ線が刻まれるかと思うともうおかしくなりそうで……」
銀髪の鞭使いの、気丈そうなくっきりとした瞳がうるむのを見て、アスナの気持ちは揺らいだ。信じてあげたい、と痛切に思う。しかし同時に、この世界で過ごした二年間の経験は、感傷で動くことの危うさへ大きく警鐘を鳴らしている。
キリトを見やると、彼もまた迷っているようだった。じっとこちらを見つめる黒い瞳は、ユリエールを助けたいという気持ちと、アスナの身を案じる気持ちの間で揺れる心を映している。
――その時だった。今まで沈黙していたユイが、ふっとカップから顔を上げ、言った。
「だいじょうぶだよ、ママ。その人、うそついてないよ」
アスナはあっけにとられ、キリトと顔を見合わせた。発言の内容もさることながら、昨日までの言葉のたどたどしさが嘘のような立派な日本語である。
「ユ……ユイちゃん、そんなこと、わかるの……?」
顔を覗き込むようにして問いかけると、ユイはこくりと頷いた。
「うん。うまく……言えないけど、わかる……」
その言葉を聞いたキリトは右手を伸ばし、ユイの頭をくしゃくしゃと撫でた。アスナを見て、にやっと笑う。
「疑って後悔するよりは信じて後悔しようぜ。行こう、きっとうまくいくさ」
「あいかわらずのんきな人ねえ」
首を振りながら答えると、アスナはユリエールに向き直って微笑みかけた。
「……微力ですが、お手伝いさせていただきます。大事な人を助けたいって気持ち、わたしにもよくわかりますから……」
ユリエールは、空色の瞳に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます……」
「それは、シンカーさんを救出してからにしましょう」
アスナがもういちど笑いかけると、いままで黙って事態のなりゆきを見守っていたサーシャがぽんと両手を打ち合わせ、言った。
「そういうことなら、しっかり食べていってくださいね! まだまだありますから、ユリエールさんもどうぞ」
初冬の弱々しい陽光が、深く色づいた街路樹の梢を透かして石畳に薄い影を作っている。『はじまりの街』の裏通りは行き交う人もごく少なく、無限とも思える街の広さとあいまって寒々しい印象を隠せない。
しっかり武装したアスナと、ユイを抱いたキリトは、ユリエールの先導に従って足早に街路を進んでいた。
アスナは、当然のこととしてユイをサーシャに預けてこようとしたのだが、ユイが頑固に一緒に行くと言って聞かなかったので、やむなく連れてきたのだ。無論、ポケットにはしっかりと転移結晶を用意している。いざとなれば――ユリエールには申し訳ないが――離脱して仕切りなおす手はずになっている。
「あ、そう言えば肝心なことを聞いてなかったな」
キリトが、前を歩くユリエールに話し掛けた。
「問題のダンジョンってのは何層にあるんだ?」
ユリエールの答えは簡素だった。
「ここ、です」
「……?」
アスナは思わず首をかしげる。
「ここ……って?」
「この、始まりの街の……中心部の地下に、大きなダンジョンがあるんです。シンカーは……多分、その一番奥に……」
「マジかよ」
キリトがうめくように言った。
「ベータテストの時にはそんなのなかったぞ。不覚だ……」
「そのダンジョンの入り口は、王宮――軍の本拠地の地下にあるんです。発見されたのは、キバオウが実権を握ってからのことで、彼はそこを自分の派閥で独占しようと計画しました。長い間シンカーにも、もちろん私にも秘密にして……」
「なるほどな、未踏破ダンジョンには一度しか湧出しないレアアイテムも多いからな。そざかし儲かったろう」
「それが、そうでもなかったんです」
ユリエールの口調が、わずかに痛快といった色合いを帯びる。
「基部フロアにあるにしては、そのダンジョンの難易度は恐ろしく高くて……。基本配置のモンスターだけでも、60層相当くらいのレベルがありました。キバオウ自身が率いた先遣隊は、散々追いまわされて、命からがら転移脱出するはめになったそうです。使いまくったクリスタルのせいで大赤字だったとか」
「ははは、なるほどな」
キリトの笑い声に笑顔で応じたユリエールだが、すぐに沈んだ表情を見せた。
「でも、今は、そのことがシンカーの救出を難しくしています。キバオウが使った回廊結晶は、先遣隊がマークしたものなんですが、モンスターから逃げ回ってるうちに相当奥まで入り込んだらしくて……。レベル的には、一対一なら私でもどうにか倒せなくもないモンスターなんですが、連戦はとても無理です。――失礼ですが、お二人は……」
「ああ、まあ、60層くらいなら……」
「なんとかなると思います」
キリトの言葉を引き継ぎ、アスナは頷いた。60層配置のダンジョンを、マージンを十分取って攻略するのに必要なレベルは70だが、現在アスナはレベル87に到達し、キリトに至っては90を超えている。これならユイを守りながらでも十分にダンジョンを突破できるだろうと思って、ほっと肩の力を抜く。だがユリエールは気がかりそうな表情のまま、言葉を続けた。
「……それと、もう一つだけ気がかりなことがあるんです。先遣隊に参加していたプレイヤーから聞き出したんですが、ダンジョンの奥で……巨大なモンスター、ボス級の奴を見たと……」
「……」
アスナは、キリトと顔を見合わせる。
「ボスも60層くらいの奴なのかしら……。60層ボスってどんなのだったっけ?」
「えーと、確か……四本腕の、でっかい鎧武者みたいな奴だろう」
「あー、アレかぁ。……あんまり苦労はしなかったよね……」
ユリエールに向かって、もう一度頷きかける。
「まあ、それも、なんとかなるでしょう」
「そうですか、よかった!」
ようやく口許をゆるめたユリエールは、何かまぶしい物でも見るように目を細めながら、言葉を続けた。
「そうかぁ……。お二人は、ずっとボス戦を経験してらしてるんですね……。すみません、貴重な時間を割いていただいて……」
「いえ、今は休暇中ですから」
アスナはあわてて手を振る。
そんな話をしているうち、前方の街並みの向こうに巨大な白亜の建築物が姿を現しはじめた。四つの尖塔が、次層の底に接するほどの勢いでそびえ立っている。始まりの街最大の施設、通称『王宮』だ。ゲームが通常どおり運営されれば、何らかのイベントなりクエストなりが行われる場所だったのだろうが、開始直後からほぼ無人であり現在では軍が本拠地として占拠している。ゲート広場を挟んで向かい側にある漆黒の宮殿『黒鉄宮』にはプレイヤーの名簿である『生命の碑』があるためアスナも数回訪れたことがあるが、王宮にはいまだかつて一度も足を踏み入れたことはない。
ユリエールはまっずぐ王宮の正門には向かわず、広場をぐるりと迂回して城の裏手に回った。巨大な城壁と、それを取り巻く深い堀が、侵入者を拒むべくどこまでも続いている。人通りはまったく無い。
数分歩き続けたあと、ユリエールが立ち止まったのは、道から堀の水面近くまで階段が降りている場所だった。覗き込むと、階段の先端右側の石壁に暗い通路がぽっかりと口を開けている。
「ここから城の下水道に入り、ダンジョンの入り口を目指します。ちょっと暗くて狭いんですが……」
ユリエールはそこで言葉を切り、気がかりそうな視線をちらりとキリトの腕の中のユイに向けた。するとユイは心外そうに顔をしかめ、
「ユイ、こわくないよ!」
と主張した。その様子に、アスナは思わず微笑を洩らしてしまう。
ユリエールには、ユイのことは「一緒に暮らしているんです」としか説明していない。彼女もそれ以上のことは聞こうとしなかったのだが、さすがにダンジョンに伴うのは不安なのだろう。
アスナは安心させるように言った。
「大丈夫です、この子、見た目よりずっとしっかりしてますから」
「うむ。きっと将来はいい剣士になる」
キリトの発言に、アスナと目を見交わして笑うと、ユリエールは大きくひとつ頷いた。
「では、行きましょう!」
「でええええええええ」
右手の剣でずば―――っとモンスターを切り裂き、
「りゃあああああああ」
左の剣でどか―――んと吹き飛ばす。
久々に二刀を装備したキリトは、休暇中に貯まったエネルギーをすべて放出する勢いで次々と敵を蹂躙しつづけた。ユイの手を引くアスナと、金属鞭を握ったユリエールには出る幕がまったくない。全身をぬらぬらした皮膚で覆った巨大なカエル型モンスターや、黒光りするハサミを持ったザリガニ型モンスターなどで構成される敵集団が出現する度に、無謀なほどの勢いで突撃しては暴風雨のように左右の剣でちぎっては投げ、ちぎっては投げであっという間に制圧してしまう。
アスナは「やれやれ」といった心境だが、ユリエールは目と口を丸くしてキリトのバーサーカーっぷりを眺めている。彼女の戦闘の常識からは余りにかけ離れた光景なのだろう。ユイが無邪気な声で「パパーがんばれー」と声援を送っているので尚更緊迫感が薄れる。
暗く湿った地下水道から、黒い石造りのダンジョンに侵入してすでに数十分が経過していた。予想以上に広く、深く、モンスターの数も多かったが、キリトの二刀がゲームバランスを崩壊させる勢いで振り回されるため女性三人には疲労はまるでない。
「な……なんだか、すみません、任せっぱなしで……」
申し訳なさそうに首をすくめるユリエールに、アスナは苦笑しながら答えた。
「いえ、あれはもう病気ですから……。やらせときゃいいんですよ」
「なんだよ、ひどいなぁ」
群を蹴散らして戻ってきたキリトが、耳ざとくアスナの言葉を聞きつけて口を尖らせた。
「じゃあ、わたしと代わる?」
「……も、もうちょっと」
アスナとユリエールは顔を見合わせて笑ってしまう。
銀髪の鞭使いは、左手を振ってマップを表示させると、シンカーの現在位置を示すフレンドマーカーの光点を示した。このダンジョンのマップが無いため、光点までの道は空白だが、もう全体の距離の七割は詰めている。
「シンカーの位置は、数日間動いていません。多分安全エリアにいるんだと思います。そこまで到達できれば、あとは結晶で離脱できますから……。すみません、もう少しだけお願いします」
ユリエールに頭を下げられ、キリトは慌てたように手を振った。
「い、いや、好きでやってるんだし、アイテムも出るし……」
「へえ」
アスナは思わず聞き返した。
「何かいいもの出てるの?」
「おう」
キリトが手早くウインドウを操作すると、その表面に、どちゃっという音を立てて赤黒い肉塊が出現した。グロテスクなその質感に、アスナは顔を引き攣らせる。
「な……ナニソレ?」
「カエルの肉! ゲテモノなほど旨いって言うからな、あとで料理してくれよ」
「ぜったい嫌よ!!」
アスナは叫ぶと、自分もウインドウを開いた。キリトのそれと共通になっているアイテム欄に移動し、『スカベンジトードの肉 ×24』という表示をドラッグして容赦なくゴミ箱マークに放り込む。
「あっ! あああぁぁぁ……」
世にも情けない顔で悲痛な声を上げるキリトを見て、我慢できないといったふうにユリエールがお腹をおさえ、くっくっと笑いを洩らした。その途端。
「お姉ちゃん、初めて笑った!」
ユイが嬉しそうに叫んだ。彼女も満面の笑みを浮べている。
それを見て、アスナはそういえば――、と思い返すことがあった。昨日、ユイが発作を起こしたのも、軍の連中を撃退し、子供たちが一斉に笑った直後だった。どうやら少女は周囲の人の笑顔に特別敏感らしいと思われる。それが少女の生来の性格なのか、あるいは今までずっと辛い思いをしてきたからなのか――。アスナは思わずユイを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。いつまでも、この子の隣で笑っていようと心の中で誓う。
「さあ、先に進みましょう!」
アスナの声に、一行は再びさらなる深部を目指して足を踏み出した。
ダンジョンに入ってからしばらくは水中生物型が主だったモンスター群は、階段を降りるほどにゾンビだのゴーストタイプのオバケ系統に変化し、アスナの心胆を激しく寒からしめたが、キリトの二本の剣は意に介するふうもなく現れる敵を瞬時に屠りつづけた。
通常では、高レベルプレイヤーが適正以下の狩場で暴れるのはとても褒められたことではないが、今回は他に人もいないので気にする必要はない。時間があればサポートに徹してユリエールのレベルアップに協力するところだが、今はシンカー救出が最優先である。
マップに表示される、現在位置とシンカーの位置を示す二つの光点は着実な速度で近づいてゆき、やがて何匹目ともしれぬ黒い骸骨剣士をキリトの剣がばらばらに吹き飛ばしたその先に、一際明るい、暖かな光の漏れる通路が目に入った。各ダンジョンで共通の色あいとなっているそのオレンジ色は、間違いなく安全エリアの照明だ。
「シンカー!」
もう我慢できないというふうに一声叫んだユリエールが、金属鎧を鳴らして走りはじめた。剣を両手に下げたキリトと、ユイを抱いたアスナもあわててその後を追う。
右に湾曲した通路を、明かり目指して数秒間走ると、やがて前方に大きな十字路と、その先にある部屋が目に入った。
部屋は、暗闇に慣れた目にはまばゆいほどの光に満ち、その入り口に一人の男が立っている。逆光のせいで顔は良く見えないが、こちらに向かって激しく両腕を振り回している。
「ユリエ―――――ル!!」
こちらの姿を確認した途端、男が大声で鞭使いの名を呼んだ。ユリエールも左手を振り、一層走る速度を速める。
「シンカ――――!!」
涙まじりのその呼び声にかぶさるように、男の声が――
「――来ちゃだめだ――――ッ!! その通路は……ッ!!」
それを聞いて、アスナはぎょっとして走る速度をゆるめた。だがユリエールにはもう聞こえていないらしい。部屋に向かって必死に駆け寄っていく。
その時。
部屋の手前数メートルで、三人の走る通路と直角に交わっている道の右側死角部分に、不意に黄色いカーソルが出現した。一つだけだ。アスナは慌てて名前を確認する。表示は『The Soulslasher』――。
「だめ――っ!! ユリエールさん、戻って!!」
アスナは絶叫した。間違いなくボスモンスターだ。黄色いカーソルは、すうっと左に動き、十字の交差点へ近づいてくる。このままでは出会い頭にユリエールと衝突する。もうあと数秒もない。
「くっ!!」
突然、アスナの左前方を走っていたキリトが、かき消えた――ように見えた。実際には恐ろしい速度でダッシュしたのだ。ずばんという衝撃音で周囲の壁が振動する。
瞬間移動にも等しい勢いで数メートルの距離を移動したキリトは、背後から右手でユリエールの体を抱きかかえると、左手の剣を床石に思い切り突き立てた。すさまじい金属音。大量の火花。空気が焦げるほどの急制動をかけ、十字路のぎりぎり手前で停止した二人の直前の空間を、ごおおおおっと地響きを立てて巨大な黒い影が横切っていった。
黄色いカーソルは、左の通路に飛び込むと十メートルほど移動してから停止した。ゆっくりと向きを変え、再び突進してくる気配。
キリトはユリエールの体を離すと、床に突き刺さった剣を抜き、左の通路に飛び込んでいった。アスナも慌ててその後を追う。
呆然と倒れるユリエールを抱え起こし、そのまま交差点の向こうへと押しやる。ユイも腕から降ろし、安全エリア側に進ませると、アスナは細剣を抜いて左方向へと向き直った。
二刀を構え、立ち止まったキリトの背中が目に入る。その向こうに浮いているのは――身長2メートル半はあろうかという、ぼろぼろの黒いローブをまとった骸骨だった。
フードの奥と、袖口からのぞく太い骨は濡れたような深紅に光っている。暗く穿たれた眼窩には、そこだけは生々しい、血管の浮いた眼球がはまり、ぎょろりと二人を見下ろしている。右手に握るのは長大な黒い鎌だ。凶悪に湾曲した、鈍く光る刃からは、ぽたりぽたりと粘っこい赤い雫が垂れ落ちている。いわゆる死神の姿そのものである。
死神の眼球がぐるりと動き、まっすぐにアスナを見た。その途端純粋な恐怖に心臓を鷲掴みにされたような悪寒が全身を貫く。
でも、レベル的にはたいしたことないはず。
そう思って細剣を構えなおしたとき、前に立つキリトがかすれた声で言った。
「アスナ、いますぐ他の三人を連れて安全エリアに入って、クリスタルで脱出しろ」
「え……?」
「こいつ、やばい。俺の識別スキルでもデータがわからない。強さ的には90層クラスだ……」
「!?」
アスナも息を飲んで体をこわばらせる。その間にも、死神は徐々に空中を移動し、二人に近づいてくる。
「俺が時間を稼ぐから、早く逃げろ!!」
「き、キリトくんも、一緒に……」
「後から行く! 早く……!!」
最終的離脱手段である転移結晶も、万能の道具ではない。クリスタルを握り、転移先を指定してから実際にテレポートが完了するまで、数秒間のタイムラグが発生する。その間にモンスターの攻撃を受けると転移がキャンセルされてしまうのだ。パーティーの統制が崩壊し、勝手な離脱をするものが現れるとテレポートの時間すら稼げず死者が出てしまうのはそういう理由による。
アスナは迷った。四人が先に転移してからでも、キリトの脚力をもってすれば、ボスに追いつかれることなく安全エリアまで到達できるかもしれない。しかし先程のボスの突進速度はすさまじいものだった。もし――先に脱出して、そのあと、彼が現れなかったら――。それだけは耐えられない。
アスナはちらりと後ろを振り返った。こちらを見つめるユイと視線が合った。
ごめんね、ユイちゃん。ずっと一緒だって言ったのにね……。
心の中でつぶやき、アスナは叫んだ。
「ユリエールさん、ユイを頼みます! 三人で脱出してください!」
凍りついた表情でユリエールが首を振る。
「だめよ……そんな……」
「はやく!!」
その時だった。ゆっくりと鎌を振りかぶった死神が、ローブから瘴気を撒き散らしながら恐ろしい勢いで突進を開始した。
キリトが両手の剣を十字に構え、アスナの前に仁王立ちになった。アスナは必死にその背中に抱きつき、右手の剣をキリトの二刀に合わせた。死神は、三本の剣を意に介さず、大鎌を二人の頭上めがけて叩き降ろしてきた。
赤い閃光。衝撃。
アスナは自分がぐるぐると回転するのを感じた。まず地面に叩きつけられ、跳ね返って天井に激突し、再び床へと落下する。呼吸が止まり、視界が暗くなる。
朦朧とした意識のままキリトと自分のHPバーを確認すると、両方とも一撃で半分を割り込んでいた。無情なイエロー表示は、次の攻撃には耐え切れないことを意味している。立ち上がらないと――。そう思うが、体が動かない――。
――と、不意に、傍らに立つ人影があった。小さなその姿。長い黒髪。背後にいたはずのユイだった。恐れなど微塵もない視線でまっすぐ巨大な死神を見据えている。
「ばかっ!! はやく、逃げろ!!」
必死に上体を起こそうとしながら、キリトが叫んだ。死神はふたたびゆっくりとしたモーションで鎌を振りかぶりつつある。あれほどの範囲攻撃に巻き込まれたら、ユイのHPは確実に消し飛んでしまう。アスナもどうにか口を動かそうとした。だが唇がこわばって言葉が出ない。
だが、次の瞬間、信じられないことが起こった。
「だいじょうぶだよ、パパ、ママ」
言葉と同時に、ユイの体がふわりと宙に浮いた。ジャンプしたのではない。見えない羽根で舞い上がるように移動し、二メートルほどの高さでぴたりと静止した。次いで、右手を高くかかげる。
ごうっ!! という轟音と共に、ユイの右手を中心に紅蓮の炎が巻き起こった。炎は一瞬広く拡散したあとすぐに凝縮し、細長い形にまとまり始めた。みるみるうちにそれは巨大な剣へと姿を変えていく。焔色に輝く刀身が炎の中から現れ、後方へと伸び続ける。
やがてユイの右手に出現した巨剣は、優に彼女の身長を上回る長さを備えていた。熔融する寸前の金属のような輝きが通路を照らし出す。剣の炎にあおられるように、ユイの身に着けていた分厚い冬服が一瞬にして燃え落ちた。その下からは彼女が最初から着ていた白いワンピースが現れる。不思議なことに、ワンピースも、長い黒髪も炎に巻かれながらも影響を受ける様子は一切無い。
自分の身の丈を超える剣を、ぶん、と一回転させ――
「いやああああああ!!」
炎の軌道を描きながら、ユイは恐るべきスピードで黒い死神へと撃ちかかった。
あくまでCPUが単純なアルゴリズムに基づいて動かしているにすぎないボスモンスター、その血走った眼球に、アスナは明らかな恐怖の色を見た――ような気がした。
炎の渦を身にまとったユイが、轟音とともに空中を突進していく。死神は、自分よりはるかに小さな少女を恐れるかのように大鎌を前方に掲げ、防御の姿勢をとった。そこに向かって、ユイは真っ向正面から巨大な火焔剣を思い切り撃ち降ろした。
一際激しく炎を噴く刀身が、横に掲げられた大鎌の柄と衝突した。一瞬両者の動きが止まる。
と思う間もなく、再びユイの火焔剣が動き始めた。途方も無い熱量で金属を灼き切るがごとく、じわじわと赤い鎌の柄に発光する刃が食い込んでいく。ユイの長い髪とワンピース、そして死神のローブが千切れんばかりの勢いで後方にたなびき、時折飛び散る巨大な火花がダンジョン内を明るいオレンジ色に染め上げる。
やがて――。
轟、という爆音とともに、とうとう死神の鎌が真っ二つに断ち割られた。直後、いままで蓄積していたエネルギーすべてを解き放ちながら、炎の柱と化した巨剣がボスの頭蓋骨の中央へと叩きつけられた。
「!!」
アスナとキリトは、その瞬間出現した大火球のあまりの勢いに、思わず目を細めて腕で顔をかばった。ユイが剣を一直線に振り下ろすと同時に火球が炸裂し、紅蓮の渦は巨大な死神の体を巻き込みながら通路の奥へとすさまじい勢いで流れ込んでいった。大轟音の裏に、かすかな断末魔の悲鳴が響いた。
火炎のあまりのまばゆさに思わず閉じてしまった目を開けると、そこにはもうボスの姿は無かった。通路のそこかしこに小さな残り火がゆらめき、ぱちぱちと音を立てている。その真っ只中に、ユイひとりだけがうつむいて立ち尽くしていた。床に突き立った火焔剣が、出現したときと同じように炎を発しながら溶け崩れ、消滅した。
アスナは、ようやく力の戻った体を起こし、細剣を支えにゆっくりと立ち上がった。わずかに遅れてキリトも立つ。二人はよろよろと少女に向かって数歩あゆみ寄った。
「ユイ……ちゃん……」
アスナがかすれた声で呼びかけると、少女はゆっくりと振り向いた。小さな唇は微笑んでいたが、大きなふたつの瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。
ユイは、じっとアスナとキリトを見つめると、やがて口を開き、ゆっくりと言った。
「パパ……ママ……。ぜんぶ、思い出したよ……」
王宮地下迷宮最深部、安全エリアとなっている正方形の部屋。入り口は一つで、中央にはつるつるに磨かれた黒い立方体の石机が設置されている。
アスナとキリトは、石机にちょこんと腰掛けたユイを無言のまま見つめていた。ユリエールとシンカーにはひとまず先に脱出してもらったので、今は三人だけだ。
記憶が戻った、とひとこと言ってから、ユイは数分間沈黙を続けていた。その表情はなぜか悲しそうで、言葉をかけるのがためらわれたが、アスナは意を決してそっと話し掛けた。
「ユイちゃん……。思い出したの……? いままでの、こと……」
ユイはなおもしばらくアスナを見つめつづけていたが、やがてこくりと頷いた。泣き笑いのような表情のまま、小さく唇を開く。
「はい……。全部、説明します――キリトさん、アスナさん」
その丁寧なことばを聞いた途端、アスナの胸はやるせない予感にぎゅっと締め付けられた。何かが終わってしまったのだという、切ない確信。
四角い部屋の中に、ユイの言葉がゆっくりと流れはじめた。
「この世界、『ソードアート・オンライン』は、ひとつの巨大な制御システムのもとに運営されています。システムの名前は『カーディナル』、それが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。
「カーディナルはもともと、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下部プログラムによって世界のすべてを調整する……。モンスターやNPCのアクション、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。――しかし、ひとつだけ人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」
「GM……」
キリトがぽつりと呟いた。
「ユイ、君はゲームマスターなのか……? アーガスのスタッフ……?」
ユイは数秒間沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。
「……カーディナルとその開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーヴギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニターし、問題を抱えたプレイヤーのもとを訪れて話を聞く……。『メンタルヘルス・カウンセリングプログラム』、MHCP試作一号、コードネーム『Yui』。それがわたしです」
アスナは驚愕のあまり息をのんだ。言われたことを即座に理解できない。
「プログラム……? AIだっていうの……?」
かすれた声で問い掛ける。ユイは、悲しそうな笑顔のままゆっくりと頷いた。
「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています。――偽物なんです、ぜんぶ……この涙も……。ごめんなさい、アスナさん……」
ユイの両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、光の粒子となって蒸発した。アスナはゆっくりと一歩ユイのほうに歩み寄った。手を差し伸べるが、ユイはそっと首を振る――アスナの抱擁を受ける資格などないのだ――というように――。
いまだ信じることができず、アスナは言葉をしぼり出した。
「でも……でも、記憶がなかったのは……? AIにそんなこと起きるの……?」
「……二年前……。正式サービスが始まった日……」
ユイは瞳を伏せ、説明を続けた。
「何が起きたのかはわたしにも詳しくはわからないのですが、カーディナルが予定にない命令を下部プログラム群に下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……。わたしの他のケア用プログラムは、不要なものとして全て消去されました。しかしわたしは試作品として正式に登録されていなかったためか、管理者権限を奪われただけで存在は残されたのです。
「プレイヤーへの接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニターだけを続けました。状態は――最悪と言っていいものでした……。ほとんどすべてのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すらいました。わたしはそんな人たちの心をずっと見つづけてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかしプレイヤーにこちらから接触することはできない……。義務だけがあり権利のない矛盾した状況のなか、わたしは徐々にエラーが蓄積し、崩壊していきました……」
しんとした地下迷宮の底に、銀糸を震わせるようなユイの細い声が流れる。アスナとキリトは、言葉もなく聞き入ることしかできない。
「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ二人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした……。喜び……やすらぎ……でもそれだけじゃない……。この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその二人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました……。そんなルーチンは無かったはずなのですが……。あの二人のそばに行きたい……直接、わたしと話をしてほしい……。すこしでも近くにいたくて、わたしは毎日、二人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、彷徨いました……。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」
「それが、あの22層の森なの……?」
ユイはゆっくりと頷いた。
「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お二人に……会いたかった……。森の中で、お二人の姿を見たとき……すごく、嬉しかった……。おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……。わたし、ただの、プログラムなのに……」
涙をいっぱいに溢れさせ、ユイは口をつぐんだ。アスナは言葉にできない感情に打たれ、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「ユイちゃん……あなたは、ほんとうのAIなのね。ほんものの知性を持っているんだね……」
ささやくように言うと、ユイはわずかに首を傾けて答えた。
「わたしには……わかりません……。わたしが、どうなってしまったのか……」
その時、いままで沈黙していたキリトがゆっくりと進み出てきた。
「知性とは……自己の相対化ができるということだ。自分の望みを言葉にできるということだよ」
柔らかい口調で話し掛ける。
「ユイの望みはなんだい?」
「わたし……わたしは……」
ユイは、細い腕をゆっくりと二人のほうに伸ばした。
「ずっと、いっしょにいたいです……パパ……ママ……!」
アスナは溢れる涙をぬぐいもせず、ユイに駆け寄るとその小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「ずっと、一緒だよ、ユイちゃん」
少し遅れて、キリトの腕もユイとアスナを包み込む。
「ああ……。ユイは俺たちの子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」
だが――ユイは、アスナの胸のなかで、そっと首を振った。
「え……」
「もう……遅いんです……」
キリトが、戸惑ったような声でたずねる。
「なんでだよ……遅いって……」
「この場所は、ただの安全エリアじゃないんです……。GMがシステムにアクセスするために設置されたコンソールなんです」
ユイがちらりと視線を向けると、部屋の中央の黒い石に突然数本の光の筋が走った。直後、ぶん……と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がる。
「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないように配置されたものだと思います。わたしはこのコンソールからカーディナルにアクセスし、オブジェクトイレイサーを呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正機能で破損したデータを復元できたのですが……それは同時に、いままで管理外にあったわたしにカーディナルが注目してしまったということでもあります。今、コアシステムがわたしのプログラムを走査しています。すぐに異物という結論が出され、わたしは消去されてしまうでしょう。もう……あまり時間がありません……」
「そんな……そんなの……」
「なんとかならないのかよ! この場所から離れれば……」
二人の言葉にも、ユイは黙って微笑するだけだった。ふたたびユイの白い頬を涙が伝った。
「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです」
「嫌! そんなのいやよ!!」
アスナは必死に叫んだ。
「これからじゃない!! これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」
「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎとめてくれた……」
ユイはまっすぐにアスナを見つめた。その体を、かすかな光が包み始めた。
「ユイ、行くな!!」
キリトがユイの手を握る。ユイの小さい指が、そっとキリトの指を掴む。
「パパとママのそばにいると、みんなが笑顔になれた……。わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしのかわりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」
ユイの黒髪やワンピースが、その先端から光の粒子を撒き散らして消滅をはじめた。ユイの笑顔がゆっくりと透き通っていく。重さが薄れていく。
「やだ! やだよ!! ユイちゃんがいないと、わたし笑えないよ!!」
溢れる光に包まれながら、ユイはにこりと笑った。消える寸前の手がそっとアスナの頬を撫でた。
『ママ、わらって……』
アスナの頭の中にかすかな声が響くと同時に、ひときわまばゆく光が飛び散り、それが消えるともう、アスナの腕のなかはからっぽだった。
「うわあああああ!!」
抑えようもなく声を上げながら、アスナは膝をついた。石畳の上にうずくまって、子供のように大声で泣いた。つぎつぎと地面にこぼれ、はじける涙の粒が、ユイの残した光のかけらと混じり合い、消えていった。
ending epilogue 四日目
昨日までの冷え込みが嘘のような、あたたかい微風が芝生の上をそっと吹き抜けていく。陽気に誘われたのか、小鳥が数羽庭木の枝にとまり、人間たちの様子を興味深そうに見下ろしている。
サーシャの教会の広い前庭には、食堂から移動させた大テーブルが設置され、時ならぬガーデンパーティーが催されていた。大きなグリルから魔法のように料理が取り出されるたび、子供たちが盛大な歓声を上げる。
「こんな旨いものが……この世界にあったんですねえ……」
昨夜救出されたばかりの『軍』最高責任者シンカーが、アスナが腕を奮ったバーベキューにかぶりつきながら感激の表情で言った。隣ではユリエールがにこにこしながらその様子を眺めている。第一印象では冷徹な女戦士といった風情の彼女だったが、シンカーの横にいると陽気な若奥さんにしか見えない。
そのシンカーは、昨日は顔も見る余裕がなかったのだが、こうして改めて同じテーブルについてみると、とても巨大組織『軍』のトップとは思えない穏やかな印象の人物だった。
背はアスナより少し高い程度、ユリエールよりは明らかに低いだろう。やや太めの体を地味な色合いの服に包み、武装は一切していない。隣のユリエールも今日は軍のユニフォーム姿ではない。
シンカーは、キリトの差し出すワインのボトルをグラスで受け、改めて、という感じでぐっと頭を下げた。
「アスナさん、キリトさん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」
「いや、俺も向こうでは『MMOトゥデイ』にずいぶん世話になりましたから」
笑みを浮べながらキリトが答える。
「なつかしい名前だな」
それを聞いたシンカーは丸顔をほころばせた。
「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればなんぼかマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」
テーブルの上に和やかな笑い声が流れる。
「それで……『軍』のほうはどうなったんですか……?」
アスナが訊ねると、シンカーは表情をあらためた。
「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと早くそうすべきでしたね……。私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。――軍自体も解散しようと思っています」
アスナとキリトは軽く目を見張った。
「それは……ずいぶん思い切りましたね」
「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……。ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」
ユリエールがそっとシンカーの手を握り、言葉を継いだ。
「――軍が蓄積した資財は、メンバーだけでなく、この街の全住民に均等に分配しようと思っています。いままで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……。サーシャさん、ごめんなさいね」
いきなりユリエールとシンカーに深々と頭を下げられ、サーシャは眼鏡の奥で目をぱちくりさせた。慌てて顔の前で両手を振る。
「いえ、そんな。軍の、いいほうの人達にはフィールドで子供たちを助けてもらったこともありますから」
率直なサーシャの物言いに、再び場に和やかな笑いが満ちた。
「あの、それはそうと……」
首をかしげて、ユリエールが言った。
「昨日の女の子、ユイちゃん……はどうしたんですか……?」
アスナはキリトと顔を見合わせたあと、微笑しながら答えた。
「ユイは――お家に帰りました……」
右手の指をそっと胸元にもっていく。そこには、昨日まではなかった、細いネックレスが光っていた。華奢な銀鎖の先端には、同じく銀のペンダントヘッドが下がり、中央には大きな透明の石が輝いている。類滴型の宝石を撫でると、わずかなぬくもりが指先に沁みるような気がした。
あのとき――。
ユイが光に包まれて消滅したあと、石畳に膝をついてこらえようもなく涙をこぼすアスナの傍らで、不意にキリトが叫んだ。
「カーディナル!!」
涙に濡れた顔を上げると、キリトが部屋の天井を見据えて絶叫していた。
「そういつもいつも……思い通りになると思うなよ!!」
ぐいと腕で両目をぬぐうと、彼は突然部屋の中央の黒いコンソールに飛びついた。表示されたままのホロキーボードに猛烈な勢いで指を走らせ始める。
たちまちキリトの周囲には無数のウインドウが出現し、高速でスクロールする文字列の輝きが部屋を照らし出した。呆然とアスナが見守るなか、キリトの指はどんどん速度を上げ、キーボード全体に青白いスパークが閃きはじめた。
「行くな……ユイ……ユイ……!」
うわごとのように呟くキリトは、もう周囲のウィンドウを見てさえいない。両目を半眼に閉じ、直接システムと交信しているかのように思えた。
緊迫した数秒間が過ぎ去ったあと、不意に黒い岩でできたコンソール全体が青白くフラッシュし、直後、破裂音とともにキリトがはじき飛ばされた。
「キ、キリトくん!!」
あわてて床に倒れた彼のそばににじり寄る。
頭を振りながら上体を起こしたキリトは、憔悴した表情の中に薄い笑みを浮べると、アスナに向かって握った右手を伸ばした。わけもわからず、アスナも手を差し出す。
キリトの手からアスナの手のひらにこぼれ落ちたのは、大きな涙のかたちをしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。
「こ、これは……?」
「――全部は無理だったけど……ユイのコアプログラム部分をどうにかシステムから切り離して、圧縮してオブジェクト化した……。ユイの心だよ、その中にある……」
それだけ言うと、キリトは力を使い果たしたように床にごろんところがり、目を閉じた。アスナは手の中の宝石を覗き込んだ。
「ユイちゃん……そこに、いるんだね……。わたしの……ユイちゃん……」
ふたたび、とめどなく涙が溢れ出した。ぼやける光の中で、アスナに答えるように、クリスタルの中心が一回、強くとくん、とまたたいた。
別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供たちに手を振り、転移ゲートから22層に帰ってきたアスナとキリトを、森の香りがする冷たい風が迎えた。わずか三日の旅だったが、ずいぶん長く留守にしていたような気がして、アスナは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なんという広い世界だろう――。
アスナはあらためてこの不思議な空中世界に思いを馳せた。無数にあるといっていい層ひとつひとつに、そこに暮らす人々がいて、泣いたり笑ったりしながら毎日を送っている。いや、大多数の人にとっては辛いことのほうがはるかに多いだろう。それでも、皆が自分の戦いをたたかっているのだ。
わたしの居る場所は……。
アスナは我が家へと続く小道を眺め、次いで上層の底を振り仰いだ。
――前線に戻ろう。不意にそう思った。
近いうち、わたしは再び剣を取り、わたしの戦場に戻らなくてはならない。いつまでかかるかわからないけど、この世界を終わらせて、みんながもう一度、本当の笑顔を取り戻せるまで戦うのだ。みんなに喜びを――。それが、ユイの望んだことなのだから。
「ね、キリトくん」
「ん?」
「もしゲームがクリアされて、この世界がなくなったら、ユイちゃんはどうなるの?」
「ああ……。容量的にはぎりぎりだけどな。俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになっている。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」
「そっか」
アスナは体の向きを変え、ぎゅっとキリトに抱きついた。
「じゃあ、向こうでまたユイちゃんに会えるんだね。わたしたちの、初めての子供に」
「ああ。きっと」
アスナは、二人の胸の間で輝くクリスタルを見下ろした。ママ、がんばって……。耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした。
(Sword Art Online外伝2 『Four days』 終)
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Sword Art Online
外伝3.1 『サルビア』
「もーダメ。もう限界」
情けない声で泣き言を漏らす和人の顔を横目でとらえ、直葉は笑いをかみ殺しながら声を張り上げた。
「ほら、がんばれ! あと二十回!」
ぴりりと切れるように冷たい空気の中、二人並んで竹刀を振り下ろし続ける。毎朝三百回の素振りは和人にはまだきついようで、数分毎に「だめー」とか「死ぬー」とか口走りながらも、それでも必ず最後まで続ける根性は見上げたものだと直葉は思う。
「二九八、……二九九、……はい終わりー」
「腕が……腕がもげる……」
今朝もどうにか振り終えた和人は、竹刀を直葉に渡すとふらふらと縁側に歩み寄り、板の上にごろりと横たわった。その様子に微笑みを浮かべながら、直葉は二本の竹刀を布巾で拭い黒松の幹に立てかけた。ジャージのポケットから小さなパイル地のハンカチを取り出して汗を拭き、ほっと一息。
先日まで庭を覆っていた雪は、最近の晴天続きですっかり姿を消してしまった。庭から玄関に回る砂利道の脇に並べて置かれているプランターの土が乾き気味なのに気づき、直葉は縁側で瀕死の体といった気配の和人に容赦なく声をかけた。
「お兄ちゃん、そこのじょうろに水入れて持ってきてー」
数秒後、和人は「うぁ~い」という生気のない返事と共に起き上がると、縁側の下から使い古した如雨露を引っ張り出し、庭の隅にある手洗い場で水を汲んで直葉に手渡した。受け取ったそれをプランターの上で傾けると、軽やかな音とともに細かい水滴が曲線を描いて降り注いだ。
「……これは何の花?」
言いながらしゃがみこんだ和人の視線の先では、淡いオレンジ色の小さな花が、寒さに身を寄せるようにつつましく咲いている。
「福寿草よ。秩父紅、っていう種類」
「ふうん……。こんな季節に咲くんだな」
直葉が答えると、和人は思うところでもあるかのように、感慨深げに福寿草の花弁をつついた。
「うちにある花じゃ一番早咲きだね。……でも、お兄ちゃん、花に興味なんかあったっけ?」
「いやあ、『向こう』に似たような花があったからさ。……こっちのプランターは? 見たとこ空だけど」
「そこには、春になったらサルビアを蒔くの。花が咲くのは夏になってからね」
「サルビア……。ってのはどんな花だっけ?」
水やりを終えた直葉は、如雨露に残った水を黒松の根元に撒きながら、呆れ声で答えた。
「毎年咲いてるじゃない。赤い、ちっちゃい金魚みたいな花がいっぱい咲くのよ。お兄ちゃん、子供の頃はサルビアが咲くとすぐに花を抜いて蜜を吸っちゃうもんだから、お母さんによく怒られてたよ」
すると和人は愕然とした顔で立ち上がった。
「み、蜜ぅ!? 俺がそんなサバイバーみたいな真似を……?」
「あーっ、忘れてる。あたしの分がすぐなくなっちゃって悲しかったんだから」
「……あたしの分?」
「あ……」
うっかり余計なことまで口走ってしまった直葉は、肩をすくめてペロリと舌を出した。
「まてよ……思い出したぞ……」
和人の口許ににやにや笑いが浮かぶ。
「よく怒られてたのは俺じゃくてスグだろう。たしか母さんに『一日三本まで』とか決められてさ」
「ふふ、ばれたか。よく覚えてたね。今にして思うと不思議だけど、あのサルビアの蜜がどんなお菓子より甘く思えたんだよね……」
「うーむ、味までは思い出せないな……」
記憶の底を探るように、和人はしばらく視線を宙に彷徨わせていたが――。
「あっ……」
不意に目を見開いて立ち尽くした。
「……? どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや……そうだ……そう言えば……」
要領を得ない言葉をぶつぶつ呟く様子が心配になって顔を見上げると、不意に和人は至近距離から直葉の目を覗きこんできた。心臓がドキンと跳ね、カッと熱くなる頬を隠すように慌てて一歩飛び退る。
「な、なによ、びっくりするじゃない」
「……スグ、今時間ある?」
「へ? ……今日は学校行かないから、だいじょぶだけど……?」
「よし。ちょっと付き合え」
状況が飲み込めず目を丸くする直葉の腕を掴むと、和人はずんずんと母屋の軒下に向かって歩きだした。
「ちょ、ちょっと、どこ行くのよ」
「いいからいいから。後ろ、乗れよ」
自分のマウンテンバイクを引き出すと、ナンバーロックを解除してひょいっと跨る。
「えー、あたしこんなカッコだし……」
直葉が学校指定のグリーンのジャージを見下ろしながら文句を言うと、和人はにやっと笑って言った。
「どうせロードワークはその格好でやってるじゃないか」
「ロードはもっとかっこいいジャージでやってるの! ……しょうがないなあもう」
口を尖らせながら、MTBのリアキャリアに腰を下ろす。和人の腰に腕を回し、ぎゅっとしがみつくと、再び早鐘のように鳴り始めた鼓動が伝わってしまいそうで心配になる。
「しっかりつかまってろよ!」
そんな直葉の内心など気にとめる風もなく、和人は力強くペダルを踏み込んだ。ジャッと音を立てて後輪が玉砂利を蹴り、MTBは勢い良く門扉を抜けて走り始めた。
時刻は八時過ぎ、平日なので道には駅に向かう人々が列をなして歩いていた。二人の乗った自転車は、その流れとは逆の方向目指して車道を疾駆していく。すれ違う人たちが皆にこにこと笑っているような気がして、直葉は和人の背中に顔を埋めて小声で叫んだ。
「は、恥ずかしいよお兄ちゃん! どこまで行く気なのよ!」
「そう遠くない……はずなんだけどなあ……」
「はずぅ!?」
自転車は郊外目指してぐんぐん進んでいく。リアキャリアは金属製で固いが、和人のMTBはタイヤが太い上にサスペンション付きなのですわり心地はそう悪くない。
十分も走っただろうか、やがて和人は小さな神社の裏手でブレーキを掛けた。古い住宅街の一角で、すでに人通りもなくひっそりとしている。
「……ついたの?」
「……」
直葉の問いには答えず、和人は自転車を降りた。直葉も荷台からぴょんと飛び降り、腰に手を当てて背中を伸ばす。
「……ねえ、いいかげん説明してよ。この神社に何かあるの?」
「……」
てっきり和人の目的地は目の前のうら寂しい神社だと思ったら、意に反して和人は、神社とは道を挟んで反対側に建つ豪奢な一軒家の門前に立った。
「……? 知り合いのお家なの?」
直葉もその隣に並び、赤い煉瓦ふうのタイルで外装された屋敷を見やった。白いペンキ塗りの木柵で囲われた広い庭は、干し藁のように色が抜けた芝生で覆われ、小さな子供がいるのか赤い三輪車が一台、主の帰りを待っている。
再び問い掛けるように顔を見上げると、和人はやがてゆっくりと首を振った。
「いや……知らない家だよ。ここ……広い空き地だったんだ。草がいっぱい生えててさ」
ふう、と大きく息をつき、軽く微笑む。
「……そりゃそうだよな……。もう、七、八年も前の話だもんな……」
「空き地……? そこに何かあったの……?」
「いや……。何も。さあ、帰ろうぜ」
「もう、わけわかんないよ。空き地探してこんなとこまで来たのぉ?」
自己完結したように頷くと身を翻し、自転車へと歩き始めた和人の背中に向かって唇をとがらせる。ひとつ肩をすくめて、直葉もその後を追おうとしたとき――。
「あ……」
直葉の視界を、鮮やかなブルーが過ぎった。
芝生の一角がレンガで囲われ、小さな花壇になっていた。その中央、耐寒性の植物が広げた濃緑の葉に隠れるように――密生した背の低い草が、鈴なりに青い小さな花を咲かせていた。
「……サルビアだ」
「……え?」
直葉の声に、和人が駆け寄ってきて、隣で花壇を覗き込んだ。
「サルビア……どこだ?」
「これよ。この青い花」
「だって……スグは赤い花だって言ったじゃないか」
「サルビアは何百種類もあるのよ。これはブルーサルビアの仲間ね。でも、おかしいなあ……」
直葉が首をかしげたちょうどその時、大きな家の勝手口が開いて、中からエプロン姿の若い女性が出てきた。長い髪をポニーテールにまとめ、手には輝くブリキの如雨露を持っている。
女性は直葉たちの姿を見るとわずかに目を広げたが、すぐににこりと笑うとそのまま近づいてきた。警戒するふうもなく白い頬をほころばせ、口を開く。
「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
直葉たちも慌てて挨拶を返した。
「あなた達、ご近所の方?」
「え、ええまあ」
「うちに何か御用かしら?」
「あ、あの……えーと……」
もごもごと言葉を詰まらせる和人の前に身を乗り出し、直葉はあわてて言った。
「あの、サルビアが、きれいだなって思って!」
「あら、ありがとう」
女性はにっこりと微笑む。直葉はほっとして言葉を継いだ。
「でも……普通サルビアはどんなに遅くても十二月までですよね? これは特別な種類なんですか?」
「ああ……私も不思議に思ってたの。これは宿根する種類なんだけど、毎年十一月には花が落ちてたのに、今年はなぜか年が明けても花をつけて……。普通のブルーサルビアだと……思うんだけど、よくわからないのよね」
「わからない……?」
「このサルビア、家を建てる前からこの土地に咲いてたのよ。あんまり見事なもんだから、造成する前に株を少し移しておいたの。それから毎年元気に咲いてるわ」
「ほ、ほんとですかそれ!」
突然和人が叫び、直葉と女性は驚いて顔を上げた。
「ど、どうしたのよお兄ちゃん」
「あ、いや……」
和人は何故か照れたように頭をかいていたが、やがて恐る恐るというふうに口を開いた。
「……このサルビアの種蒔いたの、俺なんです。……七年前に……」
「え、ええ!?」
「あら、まあ!」
直葉はあまりに予想外の言葉を聞かされて仰天したが、女性は如雨露を胸に抱いてにこっと大きく笑った。
「そうだったの。じゃあこの花はあなたを待っていたのかも知れないわ。ああ……ちょっと待ってね」
女性はかがみ込むと如雨露を起き、ぱたぱたと家に駆け戻っていった。すぐにまた姿を現したときには、右手に小さなスコップ、左手に白いプラスチック製の鉢を下げていた。
直葉と和人が見守る中、女性はブルーサルビアの群の一角にスコップを入れると、慎重な手つきで三株を掘り起こし、植木鉢に収めた。エプロンのポケットから手提げつきのビニール袋を取り出すと鉢を入れ、微笑みながら両手で和人に差し出す。
「お分けしますわ。お持ちになって」
「あ……いや、俺、そんなつもりじゃ……」
「いいのよ。花もきっと嬉しがってるわ」
「……ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて……」
和人は頭を下げると、袋を受け取った。かさりと花が揺れ、ほのかな芳香が直葉の鼻をくすぐった。
「それじゃ、またいつでも花を見にいらしてね。春には沢山咲くのよ」
「はい、ぜひ。――失礼します」
如雨露で水を撒きはじめた女性に向かってもう一度頭を下げ、和人は歩きはじめた。
「さ、帰るぞ、スグ」
「あ、う、うん。……さようなら」
直葉はまだ成り行きを飲み込めなかったが、ぺこりと挨拶すると和人の後を追った。
和人は自転車には乗らず、片手で引きながら歩き始めた。その隣に並び、直葉は好奇心を押さえきれず早口で言った。
「ちょっとお兄ちゃん、一体何がどうなってるのよ。種蒔いたってホント!?」
「あー、ええとだな……」
和人は神社のまわりをぐるりと半周すると、石段の前で自転車を止めた。なぜかわずかに顔を赤くし、あー、うー、ゴホゴホと咳払いしていたが、やがて右手の袋をぐいっと直葉に差し出してきた。
「スグ、誕生日プレゼントだ」
「はあ!? ……あたしの誕生日、まだまだ先だよ?」
「七年前の分だ」
いよいよわけがわからない。首を傾げ、視線で問い掛ける。
「……七年前な……。スグの誕生日に、思いっきりいっぱいサルビアの蜜を吸わせてやろうと思って、小遣いはたいて種を買ってあの空き地に蒔いたんだ。ところがこの神社への道がどうしても分からなくなっちゃってな。ずいぶん探したんだけど、結局たどり着けなくて、諦めたんだ。あの時は悲しかったなあ……。それが今になって一発で見つかるんだから、子供の記憶なんて頼りないもんだよなあ」
「お兄ちゃん……」
直葉は目をいっぱいに見開いて、照れたように視線を逸らす和人の顔を見つめた。溢れ出してきた色々な感情にぎゅうっと心臓を掴まれたような気がして、胸が詰まった。
そっと右手を伸ばして、袋の口から覗くサルビアの花芯をひとつ引き抜いた。その根元に溜まった雫を舌先で受けると、仄かで、かつ鮮やかな甘さがいっぱいに広がり――その瞬間、直葉は、自分と和人が過ごしてきた十数年の時間の流れが微風となって肌を撫でていくのを感じた。気づかないうちに、頬をふた筋の雫が伝わり、ぽとりと足元に落ちた。
「お、おい、何も泣かなくても……」
慌てたように口篭もる和人の胸に、直葉は勢い良く飛び込んだ。両手を背中に回して、思い切り抱きしめる。やがて、和人の手がそっと頭を撫でるのを感じた。直葉は頬をすり寄せ、口の中に残る甘さをひそやかに言葉にして漂わせた。
「お兄ちゃん……大好き」
SAOex3_01_Unicode.txt
巨大な水車がゆるやかに回転する心地よい音が、工房の中を満たしている。
さして広くもない職人クラス用プレイヤーホームだけど、この水車のおかげでやたらと高かった。48層主街区リンダースの街開きでこの家を見つけたとき、あたしは一目で「ここしかない!」と思って、次に値段を見て愕然としたものだ。
それからというものあたしは死にものぐるいで働き、各方面に借金をして、目標貯金額三百万コルを二ヶ月で達成した。もしここが現実なら全身にがっちりと筋肉がつき、手に堅いたこが出来てしまうほどにハンマーを振りまくった。
その甲斐あって、数人いたライバルにどうにか先んじて証書を手にし、この水車つきの家は晴れて『リズベット・ハイネマン武具店』となった。三ヶ月前、春にしては肌寒い日のことだった。
水車のごとんごとんという音をBGMに、慌しく朝のコーヒー(これがアインクラッドにあって本当によかった)を飲んだあと、あたしは鍛冶屋としてのユニフォームに着替え、壁の大きな姿見でざっと検分した。
鍛冶屋の――と言っても、作業服のようなものではなく、どちらかと言えばウェイトレスに近い。桧皮色のパフスリーブの上着に、同色のフレアスカート。その上から純白のエプロン、胸元には赤いリボン。
この服装をコーディネートしたのはあたしではなく、友人でお得意様でもある同い年の女の子だ。彼女いわく「リズベットは童顔だからごつい服は似合わないよー」ということで、最初は大きなお世話だ! と思ったけれど、確かにこのユニフォームに替えてから店の売上は倍増し――いささか不本意ではあったものの――以来ずっとこれで通している。
彼女のアドバイスは服だけに留まらず、髪型もことあるごとにいじられて、今はペールピンクのふわふわしたショートヘアという脅威的なカスタマイズを施されている。しかし周囲の反応を見るにどうやらこれもまんざら似合っていないというわけでもないらしい。
あたし――鍛冶屋リズベットは、SAOにログインした時は十五歳だった。現実世界でも歳より幼く見られがちだったけれど、この世界に来てからその傾向はいっそう強くなってしまった。鏡に映るあたしは、ピンクの髪に、ダークブルーの大きめな瞳、小さな鼻と口、古風なエプロンドレスとあいまってどこか人形のような雰囲気を漂わせている。
向こうではお洒落に興味のないマジメ中学生だった――常に眼鏡に三つ編みで通していた――だけにギャップを感じないではいられない。最近ではどうにかこの外見にも慣れてきたものの、性格だけは直せず、時折お客を怒鳴りつけてしまってはギョッとした顔で凍りつかせてしまうこともしばしばだ。
装備のし忘れがないことを確認すると、あたしは店先に出て、「CLOSED」の木札を裏返した。開店を待っていた数人のプレイヤーに最大級の笑顔を向け、「おはようございます、いらっしゃいませ!」と元気良く挨拶する。これが自然に出来るようになったのも実はけっこう最近のことだ。
お店を経営したい、というのは大昔からの夢だったけれど、たとえゲームの中とは言え夢と現実とは大違いで、接客やらサービスの難しさは宿屋を拠点に路上販売をしていた頃から嫌というほど味わった。
笑顔が苦手ならせめて品質で勝負をしようと、早い段階から遮二無二武器作成スキルを上げたのが結果的には正解だったらしく、幸いここに店を構えてからも多くの固定客がうちの武器を愛用してくれている。
ひととおり挨拶を済ませると、接客はNPCの店員に任せて、あたしは売り場と隣り合わせの工房に引っ込んだ。今日中に作らなくてはならないオーダーメイドの注文が十件ほど溜まっている。
壁に設えられたレバーを引くと、水車の動力によってふいごが炉に空気を送り、回転砥石がうなり始める。アイテムウインドウから高価な金属素材を取り出して、赤く燃え始めた炉に放り込み、十分熱せられたところで金床の上に移す。片ひざをついて愛用のハンマーを取り上げ、ポップアップメニューを出して作成アイテムを指定。あとは金属を既定回数叩くだけで武器アイテムが作成される。そこには特にテクニックのようなものは介在せず、完成する武器の品質はランダムだけれど、叩く時の気合が結果を左右すると信じているあたしは神経を集中しながらゆっくりハンマーを振り上げた。地金に最初の一撃を加えようとしたまさにその瞬間――。
「おはよーリズ!」
「うわっ!」
突然工房のドアがばたんと開いて、あたしの手許は思い切り狂った。金属ではなく金床の端っこを叩いてしまい、情けない効果音とともに火花が飛び散る。
顔を上げると、闖入者は頭をかきながら舌を出して笑っていた。
「ごめーん。以後気をつけます」
「その台詞、何回聞いたかなあ。……まあ、叩き始めてからでなくてよかったけどさ」
あたしはため息とともに立ち上がり、再び金属を炉に放り込んだ。両手を腰にあてて振り返り、あたしよりわずかに背の高い少女の顔を見上げる。
「……おはよ、アスナ」
あたしの親友にしてお得意様のレイピア使いアスナは、勝手知ったる工房の中を横切ると白木の丸椅子にすとんと腰を降ろした。肩にかかった栗色のロングヘアを、指先でふわりと払う。その仕草がいちいち映画のようにサマになっていて、長い付き合いにもかかわらずつい見とれてしまう。
あたしも金床の前の椅子に座ると、ハンマーを壁に立てかけた。
「……で、今日は何? ずいぶん早いじゃない」
「あ、これお願い」
アスナは腰から鞘ごとレイピアを外すと、ひょいと投げてきた。片手で受け取り、わずかに刀身を抜き出す。使い込まれて輝きが鈍っているが、切れ味が落ちるほどではない。
「まだあんまりヘタってないじゃない。研ぐのはちょっと早いんじゃないの?」
「そうなんだけどね。ピカピカにしときたいのよ」
「ふうん?」
あたしはあらためてアスナを見やった。白地に赤の十字模様を染め抜いた騎士服にミニスカートの出で立ちはいつもどおりだが、ブーツはおろしたてのように輝いているし、耳には小さな銀のイアリングまで下がっている。
「なーんか怪しいなあ。よく考えたら今日は平日じゃない。ギルドの攻略ノルマはどうしたのよ」
あたしが言うと、アスナはどこか照れたような笑みを浮かべた。
「んー、今日はオフにしてもらったの。この後ちょっと人と会う約束があって……」
「へええー?」
あたしは椅子ごと数歩アスナににじり寄った。
「詳しく聞かせなさいよ。誰と会うのよ」
「ひ、ひみつ!」
アスナは頬をわずかに染めながらそっぽを向く。あたしは腕を組むと、深く頷きながら言った。
「そっかぁー、あんたこの頃妙に明るくなったと思ったら、とうとう男ができたかぁ」
「そ、そんなんじゃないわよ!!」
アスナの頬が一層赤くなる。咳払いをして、あたしの方を横目で見ながら、
「……わたし、前とそんなに違う……?」
「そりゃあねー。知り合った頃は、寝ても醒めても迷宮攻略! って感じでさ。ちょっと張り詰めすぎじゃないのーって思ってたけど、春頃からすこしずつ変わってきたよ。大体、平日に攻略サボるなんて前のあんたからは想像もできないよ」
「そ、そっか。……やっぱ影響受けてるのかな……」
「ねえ、誰なのよ。あたしの知ってる人?」
「知らない……と思うけど……どうかな」
「今度連れてきなさいよ」
「ほんとにそんなんじゃないの! まだぜんぜん、その……一方通行だし……」
「へーっ!」
あたしは今度こそ心の底から驚く。アスナは最強ギルドKoBのサブリーダーにしてアインクラッドで五本の指に入るという美人で、彼女に言い寄る男は星の数ほどいるが、まさかその逆パターンがあろうとは夢にも思わなかった。
「なんだかねー、変な人なの」
アスナはうっとりと宙を見つめながら言う。口元にはほのかな微笑が浮かび、少女漫画ならバックに盛大に花が舞い散ろうという風情だ。
「掴み所無いっていうか……。マイペースっていうか……。その割りにはむちゃくちゃ強いし」
「あら、あんたよか強いの?」
「もう、ぜんっぜん。デュエルしてもわたしなんか多分十秒も持たないよ」
「ほほー。そりゃあかなり名前が限られますなぁ」
あたしが脳内の攻略組名簿を繰り始めると、アスナは慌てて両手を振った。
「わあ、想像しなくていいよー」
「まあ、そのうち会わせて貰えると期待しておきましょう。でもそういうことなら、ウチの宣伝、よろしく!」
「リズはしっかりしてるねえホント。紹介はしとくけどね。――あ、やば、早く研磨お願い!」
「あ、はいはい。すぐに研ぐからちょっと待ってて」
あたしはアスナのレイピアを握ったまま立ち上がると、部屋の一角に備えられている回転砥石の前に移動した。
赤い鞘から細い剣を抜き出す。武器カテゴリ『レイピア』、固有名『ランベントライト』、あたしが今まで鍛えた剣の中でも五指に入る名品のひとつだ。今手に入る最高の材料、最高のハンマー、最高の金床を使っても、ランダムパラメータのせいで出来上がる武器の品質にはばらつきがある。これほどの剣が打てるのは一ヶ月に一本がいいところだろう。
刀身を両手で支え、ゆっくり回転する砥石に近づけていく。武器の研ぎ上げには特にテクニックのようなものは無く、一定時間砥石に当てれば完了するのだけれど、やはりおざなりに扱う気にはなれない。
柄から先端に向かって丁寧に刀身を滑らせる。オレンジ色の火花が飛び散り、それと同時に銀色の輝きが蘇っていく。やがて研ぎが完了した時には、レイピアは朝の光を受けてきらきらと透き通るようなクリアシルバーの色合いを取り戻していた。
剣を鞘にぱちりと収め、アスナに投げ返す。彼女が同時に弾いてきた百コル銀貨を指先で受け止める。
「毎度!」
「今度アーマーの修理もお願いするね。――じゃ、わたし急ぐから、これで」
アスナは立ち上がると、腰の剣帯にレイピアを吊った。
「気になるなぁー。あたしもついて行っちゃおうかな」
「えー、だ、だめ」
「ははは、冗談よ。でも今度連れてきなさいよね」
「そ、そのうちね」
ぱたぱたと手を振って、アスナは逃げるように工房から飛び出していった。あたしは一つ大きく息をすると、再び椅子に腰掛けた。
「……いいなぁ」
ふと口をついて出た台詞に、思わず苦笑い。
この世界に来て一年半、生来あまりくよくよしない性質のあたしは商売繁盛だけに情熱を費やしてここまでやってきたけれど、鍛治スキルをほぼマスターし、店も構え、このところ目標を見失いがちなせいか、ときどき人恋しくなってしまうことがなくもない。
アインクラッドは絶対的に女の子が少ないので、そりゃ今まで口説かれたことはそれなりにあるけれど、何だかその気になれなかった。やっぱり自分から好きになった人がいい――と思う。そういう意味ではアスナのことが正直うらやましい。
「あたしも『素敵な出会い』のフラグ立たないかなぁー」
呟いてから頭をぶんぶん振って妙な思考を払い落とし、あたしは立ち上がった。火箸で炉から真っ赤に焼けたインゴットを取り出し、再び金床の上に。ハンマーを持ち上げて、えいやっと振り下ろす。
工房に響くリズミカルな鎚音は、いつもならあたしの頭をすぐに空っぽにしてくれるのに、今日に限ってはなかなかもやもやするものが去ろうとしなかった。
その男が店にやってきたのは、翌日の午後のことだった。
あたしは昨夜少々無理をしてオーダーメイドの注文を片付けたせいで睡眠不足で、店先のポーチに据えられた大きな揺り椅子に沈没してうたた寝をしていた。
夢を見ていた。小学校のころの夢だ。あたしはマジメでおとなしい子供だった(と思う)けれど、午後一番の授業中にどうにも眠くなってしまうクセがあって、よくうとうとしては先生に起こされていた。
あたしはその、大学出たての若い男性教師に憧れていて、居眠りを注意されるのはとても恥ずかしかったけれど、彼の起こしかたもなんとなく好きだった。そっと肩をゆすりながら、低い、穏やかな声で――
「ね、君、悪いけど……」
「はっ、はいっ、ごめんなさい!!」
「うわ!?」
バネ仕掛けのようにびよーんと立ち上がり、大声で叫んだあたしの前に、唖然とした顔で硬直している男性がいた。
「あれ……?」
あたしはぼんやりと周囲を見渡す。机が並んだ小学校の教室――ではなかった。ふんだんに配された街路樹、広い石畳の道を取り囲む水路、芝生の庭。あたしの第二の故郷、リンダースの街だ。
どうやら久々に思い切り寝惚けてしまったらしい。咳払いで気恥ずかしさを押し隠すと、客とおぼしき男に挨拶を返す。
「い、いらっしゃいませ。武器をお探しですか?」
「あ、う、うん」
男はこくこくと頷いた。
一見したところ、それほどの高レベルプレイヤーには見えなかった。歳はあたしより少し上だろうか。黒い髪に、同じく黒い簡素なシャツとズボン、ブーツ。武装は背中の片手剣ひとつきりだ。あたしの店の品揃えは、装備可能レベル帯の高い武器がほとんどなので正直心配だったが、顔には出さずに男を店内に案内する。
「えーと、片手剣はこちらの棚ですね」
レディメイド武器の見本が陳列されたケースを示すと、男は困ったように微笑みながら言った。
「あ、えっと、オーダーメイドを頼みたいんだけど……」
あたしはいよいよ心配になる。特殊素材を用いたオーダー武器の相場は最低でも十万コルを超える。代金を提示してからお客が赤くなったり青くなったりするのはこちらとしても気まずいので、何とかそんな事態を回避しようと、
「えーと、今ちょっと金属の相場が上がってまして、多少お高くなってしまうかと思うんですが……」
と言ってみたものの、黒衣の男は涼しい顔でとんでもないことを言い返してきた。
「予算は気にしなくていいから、今作れる最高の剣を作ってほしいんだ」
「……」
あたしはしばし呆然と男の顔を見ていたが、やがてどうにか口を開いた。
「……と言われても……具体的にプロパティの目標値とか出して貰わないと……」
つい口調が多少ぞんざいになったけど、男は気にするふうもなく頷いた。
「それもそうか。じゃあ……」
細い剣帯ごと背中に吊った片手剣を外し、あたしに差し出してくる。
「この剣と同等以上の性能、ってことでどうかな」
見たところ、そう大した品には見えなかった。茶色い革装の柄、同色の鞘。でも、右手で受け取った途端――。
重い!!
あやうく取り落としそうになった。恐ろしいほどの要求STRだ。あたしも鍛冶屋兼メイス使いとして筋力パラメータは相当上げているけど、とてもこの剣は振れそうにない。
恐る恐る刀身を抜き出すと、使い込まれて黒ずんだ光を放つ肉厚の刃がぎらりと光った。一目でかなりの業物だと知れる。指先でクリックし、ポップアップメニューを表示させる。カテゴリ『ロングソード/ワンハンド』、固有名『エリュシデータ』。製作者の銘、無し。ということはこれはあたしの同業者の手になるものではない。
アインクラッドに存在するすべての武器は、大きく二つのグループに分かれる。
一つはあたし達鍛冶屋が作成する「プレイヤーメイド」。もう一つが冒険によって入手できる「モンスタードロップ」だ。自然な成り行きとして、鍛冶屋はドロップ品の武器にあまりいい感情を抱かない。いきおい「無銘」「ノーブランド」などと揶揄的な呼び名も横行することになる。
だがこの剣は、ドロップ品の中でもかなりのレアアイテムだと思われた。通常、プレイヤーメイドの平均価格帯の品と、モンスタードロップの平均出現帯の品を比べれば前者に軍配が上がるのだけれど、たまにこういう「魔剣」が現れることもある――らしい。
とりあえず、あたしの対抗意識は大いに刺激された。マスタースミスの意地にかけてもドロップ品に負けるわけにはいかない。
重い剣を男に返すと、あたしは店の正面奥の壁に掛けてあった一本のロングソードを外した。二ヶ月前に鍛え上げた、あたしの最高傑作だ。白革の鞘から抜き出した刀身は薄青く輝き、氷点下の冷気をまとっているかのように見える。
「これが今うちにある最高の剣よ。多分、そっちの剣に劣ることはないと思うけど」
男は無言であたしの差し出した青い剣を受け取ると、片手でひゅひゅんと振って、首を傾げた。
「少し軽いかな?」
「……使った金属がスピード系の奴だから……」
「うーん」
男はどうもしっくりこないという顔でなおも数回剣を振っていたが、やがてあたしに視線を向けると言った。
「ちょっと、試してみてもいいかい?」
「試すって……?」
「耐久力をさ」
男は左手に下げていた自分の剣を抜くと、店のカウンターの上にごとりと横たえた。その前にすっくと立ち、右手に握ったあたしの青い剣をゆっくり振りかぶる――。
男の意図を察したあたしは慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと、そんなことしたらあんたの剣が折れちゃうわよ!!」
「折れるようじゃだめなんだ。その時はその時さ」
「んな……」
無茶な、という言葉をあたしは飲み込んだ。剣をまっすぐ頭上に振りかぶった男の目に鋭い光が宿った。すぐに刀身をペールブルーのライトエフェクトが包みはじめる。
「セイッ!」
気合一閃、もの凄い速さで剣が打ち下ろされた。まばたきする間もなく剣と剣が衝突、衝撃音が店中をびりびりと震わせる。炸裂した閃光のあまりのまばゆさに、あたしが目を細めて一歩後退った、その瞬間。
刀身が見事に真ン中からへし折れ、吹き飛んだ。
――あたしの最高傑作の。
「ぎゃああああ!!」
あたしは悲鳴を上げると男の右手に飛びついた。残った剣の下半分をもぎ取り、必死にためつすがめつ眺め回す。
……修復、不可能。
と判断し、がくりと肩を落とした、その直後。半分になった剣がなさけない音と共にポリゴンの破片を撒き散らし、消滅した。数秒間の沈黙。ゆっくりと顔を上げる。
「な……な……」
あたしは唇をわななかせながら、男の胸倉をがしっと掴んだ。
「なにすんのよこのーっ!! 折れちゃったじゃないのよーっ!!」
男も、顔を引きつらせながら答えた。
「ご、ごめん! まさか当てたほうが折れるとは思わなくて……」
……かち――――ん、と来た。
「それはつまり、あたしの剣が思ったよりヤワっちかったって意味!?」
「えー、あー、うむ、まあ、そうだ」
「あっ!! 開き直ったわね!!」
男の服を放し、両手をがしっと腰に当てて胸を反らす。
「い、言っておきますけどね! 材料さえあればあんたの剣なんかぽきぽき折れちゃうくらいのをいくらでも鍛えられるんですからね!」
「――ほほう」
勢いに任せたあたしの言葉を聞いた男が、にやっと笑った。
「そりゃあぜひお願いしたいね。これがぽきぽき折れるやつをね」
カウンターから黒い剣を取り、鞘に収める。あたしはいよいよ頭に血が上り――
「そこまで言ったからには全部付き合ってもらうわよ! 金属取りにいくとこからね!」
あっ、と思った時にはそう言い放っていた。しかしもう後には引けない。男は眉をぴくりと動かすと、無遠慮な視線であたしをじろじろ眺め回した。
「……そりゃ構わないけどね。俺一人のほうがいいんじゃないのか? 足手まといは御免だぜ」
「むきーっ!!」
なんと神経を逆撫でする男であろうか。あたしは両腕をばたばた振り回しながら子供のごとく抗弁する。
「ば、馬鹿にしないでよね! これでもマスターメイサーなんですからね!」
「ほほーお」
男がひゅう、と口笛を吹く。完全に面白がっている。
「そういうことなら腕前を拝見させてもらおうかな。――とりあえず、さっきの剣の代金を払うよ」
「いらないわよ!! そのかわり、あんたの剣よか強いのができたら、思いっきりふんだくるからね!」
「どうぞ幾らでもふんだくってくれたまえ。――俺の名前はキリト。剣ができるまでひとまずよろしく」
あたしは腕を組み、顔をふいっと反らせて言った。
「よろしく、キリト」
「うわっ、呼び捨てかよ、リズベット」
「むか!!」
――パーティーを組むにしては、最悪な第一印象だった。
「その金属」の噂が鍛冶屋の間に流れたのは十日ほど前のことだった。
SAOでは、最上層を目指す、というのが勿論最大のグランド・クエストなわけだけれど、それ以外にも大小さまざまのクエストが用意されている。NPCにお使いを頼まれたり、護衛したり、探し物をしたりと内容は幅広いけど、たいてい報酬にそこそこなアイテムが含まれる上に、一度誰かがクリアすると次に発生するのに時間がかかったり、中には一回こっきりのクエストもあるとあって、プレイヤーの注目度はのきなみ高い。
そんなクエストの一つが、58層の片隅にある小さな村で発見されたのだ。村の長であるNPCいわく――
西の山には白竜が棲んでいる。竜は毎日餌として水晶をかじり、その腹にクリスタルの精髄である金属を溜め込んでいる。
明らかに武具素材アイテムの入手クエストだ。さっそく大人数の攻略パーティーが組まれ、山の白竜はあっけなく討伐された。
――しかし、何も出なかった。小額のコル、けちなアイテム、ポーションや回復結晶代にすらならなかったと言う。
さては金属はランダムドロップなのかと、色々なパーティーが長老に話を聞いてフラグを立てては竜を倒したけど、これがさっぱり出ない。一週間ほどで鬼のような数のドラゴンが殺されたもののとうとう金属を手にするパーティーは出なかった。きっとクエストに見落としている条件があるのだ、と、今は盛んに検証が行われているところらしい。
あたしがその話をすると、工房の椅子に足を組んで座り、あたしが(イヤイヤ)淹れたお茶を啜っていたキリトと名乗る男は、「ああ」と軽く頷いた。
「その話、俺も聞いたな。確かに素材アイテムとしては有望っぽいよな。でも、ぜんぜん出ないんだろ? 今更俺たちが行っておいそれとゲットできるのか?」
「いろんな噂のなかに、『パーティーにマスタースミスがいないと駄目なんじゃないか』っていうのがあるのよ。鍛冶屋で戦闘スキル上げてる人ってそうはいないからね」
「なるほどな、試す価値はあるかもな。――ま、そういうことなら早速行こうぜ」
「……」
あたしはほとほと呆れてキリトの顔を見る。
「そんな脳天気っぷりでよく今まで生き残ってこれたわね。ゴブリン狩りにいくんじゃないのよ。それなりにパーティー整えないと……」
「でもそうすると、もしお目当てのブツが出ても最悪くじ引きだろ? そのドラゴンって何層の奴って言ったっけ?」
「……58層」
「んー、まあ、俺一人でどうにかなるだろ。リズベットは陰から見てればいいよ」
「……よっぽどの凄腕か、よっぽどのバカチンね、あんた。まあ泣いて転移脱出するのを見るのも面白そうだからあたしは構わないけどね」
キリトはふふんと笑うだけで何も答えず、お茶をずずーっと飲み干すとカップを作業台の上に置いた。
「さて、俺はいつ出発しても構わないぜ。リズベットは?」
「ああもう、どうせ呼び捨てにされるならリズでいいわよ。……ドラゴン山自体はそんなに大きくないらしいし、日帰りできるみたいだからあたしも準備はすぐ済むわ」
ウインドウを開き、エプロンドレスの上に簡単な防具類を装備する。愛用のメイスがアイテム欄に入っているのを確認し、ついでにクリスタルとポーションの手持ちが十分あるのも確かめる。
左手を振って「OK」と言うと、キリトも立ち上がった。工房から店頭に出ると、幸いお客は一人もいない。ドアの木札を「CLOSED」に裏返す。ポーチに立って外周を振り仰ぐと、まだまだ明るい陽光が差し込んでいた。日没までは相当間がある。金属入手に成功するにせよ失敗するにせよ――まず間違いなく後者だと思うけれど――あまり遅くならないうちに帰ってこられそうだった。
――なんか、妙なことになったなぁ……
店を出て、転移門広場目指して足を進めながら、あたしは内心で首を捻っていた。
隣でのんびりと歩く黒衣の男には、あたしは決していい印象を持っていない――はずだ。言うことはいちいちムカつくし、尊大で自信家だし、なによりあたしの傑作をぽっきりとやってくれたのだ。
しかしそれでいて、あたしはその初対面の男とこうして並んで歩いている。なんとこれから遠いフロアまで出かけて、パーティーを組んで狩りまですることになっている。これではまるで――まるでデー……
そこで思考を無理やり堰き止める。こんなことはかつて一度もなかった。それなりに仲のいい男性プレイヤーは何人かいるけれど、二人きりで出かけるのはなんだかんだと理由をつけて回避してきた。そう……怖かったのだ。特定の男性と、一歩踏み込んだ関係になるのが怖かった……。そうなるなら、まずあたしからちゃんと好きになった人と、ずっとそう思っていたはずだった。
なのに気付くとこの妙な男と――。これは一体どういうことなのか。
あたしの秘めたる葛藤に気付く風もなく、キリトはゲート広場の入り口に食べ物の屋台を見つけるといそいそと駆け寄っていった。やがて振り向いたその口には、大きなホットドッグが咥えられている。
「りうへっとも食う?」
……内心で思いっきり脱力する。悩んでいるのが馬鹿らしくなり、あたしは大声で答えた。
「食う!」
かりっとしたホットドッグ――正しくはそれに似た謎の食べ物――を齧り終わる頃には、58層北にある噂の村に辿り着くことができた。
フィールドのモンスターはさして問題ではなかった。
現在の最前線が63層であることを考えると、出現するモンスターは強敵の部類に属する。でもあたしのレベルは60台後半だったし、大口叩くだけあってキリトもそれなりに強いようで、ほとんどダメージを負うことなく数回のエンカウントを切り抜けることが出来た。
唯一の誤算は、このフロアのテーマが氷雪地帯だったということで――。
「びえっくし!!」
小さな村の圏内に踏み込み、気が抜けた途端、あたしは盛大なくしゃみを炸裂させた。他のフロアは夏なので油断していたら、ここでは地面に雪が積もり、家々の軒先からは巨大なつららが下がっている。
骨まで凍み通るような寒さにがたがた震えていると、隣に立つキリトが、呆れ顔で聞いてきた。
「……余分の服とかないのか?」
「……ない」
すると自分だってとうてい厚着には見えない黒衣の男はウインドウを操作し、大きな黒革のマントをオブジェクト化させてあたしの頭にばふっと放ってきた。
「……あんたは大丈夫なの?」
「精神力の問題だ、きみ」
まったくいちいちムカつく男だ。だが毛皮で裏打ちされたマントは実に暖かそうで、あたしはその魅力に抗しきれずいそいそとくるまった。途端に冷気が消失し、ほっと一息つく。
「さて……長老の家っていうのはどれかなー」
キリトの声に、小さな村をぐるりと見渡すと、中央広場の向こうに一際高い屋根を持つ家が見えた。
「あれじゃない?」
「あれだな」
頷きあい、歩き出す。
――数分後。
予想たがわずあたし達は村の長である白髯豊かなNPCを発見し、話を聞くことに成功したのだけれど、その話というのが長の幼少時代から始まり、青年期、熟年期の苦労話を経て、唐突にそういえば西の山にはドラゴンが、という経過を辿るとてつもない代物で、全部終わった頃には村はすっかり夕景に包まれていた。
へとへとに消耗して長の家から転がり出る。家々を覆う雪のフードを赤い夕日が染めて、その光景はとても美しいものだったが――。
「……まさかフラグ立てでこんな時間を食うとはなあ……」
「うん……。どうする? 明日また出直す?」
キリトと顔を見合わせる。
「うーん、でもドラゴンは夜行性とも言ってたしなあ。山ってあれだろ?」
指差すほうを見ると、そう遠くない場所に白く切り立った険しい峰が見えた。と言っても、アインクラッドの構造的制約によってその高さは絶対に百メートルを超えることはない。登頂にはそれほど苦労はしないだろうと思われる。
「そうね、行っちゃおうか。あんたが泣きべそかくとこ早く見たいしね」
「そっちこそ俺の華麗な剣さばきを見て腰抜かすなよ」
見合わせた顔を、二人してフンとそむける。でも、なんだか――キリトと憎まれ口の応酬をするのにちょっとワクワクし始めているような――
あたしはぶんぶんと頭を振って妙な気分をリセットし、ざくざくと雪を踏みしめて歩き始めた。
遠くからは険峻と見えた竜の棲む山も、踏み込んでみればさして苦労もせず登ることができた。
よくよく考えれば、今まで数多の混成パーティーが何度となく登頂に成功しているのだ。難易度が高かろうはずもない。
出現するモンスターの中で最も強力なのは、時間帯のせいもあるのか『フロストボーン』なる氷でできたスケルトンだったけど、ホネ系のモンスターならあたしのメイスの敵ではない。がしゃーんがしゃーんと気持ちいい音をさせながら蹴散らしていく。
雪道を登ること数十分、一際切り立った氷壁を回り込むと、そこがもう山頂だった。
上層の底部がすぐ近くに見える。そこかしこに、雪を突き破って巨大なクリスタルの柱が伸びている。残照の紫光が乱反射して虹色に輝くその光景は幻想的の一言だ。
「わあ……!」
思わず歓声を上げて走り出そうとしたあたしの襟首を、キリトががっしと掴んだ。
「ふぐ! ……なにすんのよ!」
「おい、転移結晶の準備しとけよ」
その表情はやけに真剣で、あたしは思わず素直に頷いていた。クリスタルをオブジェクト化し、エプロンのポケットに入れる。
「それから、ここからは俺がやるから、リズはドラゴンが出たらそのへんの水晶の陰に隠れるんだ。絶対顔を出すなよ」
「……なによ、あたしだって素人じゃないんだから、手伝うわよ」
「だめだ!」
キリトの黒い瞳が、まっすぐあたしの目を射た。その途端、不意に――この人は真剣にあたしの身を案じているのだ、ということが判って、息を詰めて立ち尽くしてしまった。何も言い返せず、再びこくりと頷く。
キリトはにっと笑うとあたしの頭にぽんと手を置き、「じゃあ、行こうか」と言った。あたしはもうコクコクと頭を振ることしかできない。
なんだか、突然空気の色まで変わってしまったような気がした。
キリトと二人でここまで来たのは、ちょっとした気分転換というか、その場の勢いというか――生死のかかった戦いだなんて意識はまったくなかった。
あたしはもともと、レベルアップのための経験値のほとんどは武具作成で得たのであって、本当にシビアな戦場には出たことがない。
でも、この人は違うんだ……、そう思った。日常的にギリギリの場所で戦っている人間の目だった。
混乱した気持ちを抱えたまましばらく歩くと、すぐに山頂の中央に到達した。
水晶柱にぐるりと取り囲まれたその空間には――
「うわあ……」
巨大な穴が開いていた。直径は十メートルもあるだろうか。壁面は氷に覆われてつるつると輝き、まっすぐどこまでも深く伸びている。奥は闇に覆われてまるで見えない。
「こりゃあ深いな……」
キリトがつま先で小さな水晶のかけらを蹴飛ばした。穴に落下したそれは、きらりと光ってすぐに見えなくなり――いつまでたっても、何の音もしなかった。
キリトはこつんとあたしの頭を突付くと、言った。
「落ちるなよ」
「落ちないわよ!」
唇を尖らせて言い返す。
その時だった。最後の残照で藍色に染め上げられた空気を切り裂いて、猛禽類のような高い雄叫びが響き渡った。
「その陰に入れ!!」
キリトが有無を言わせぬ口調で、手近の大きな水晶柱を指した。
あたしは慌てて言葉に従いながら、キリトの背中に向かってまくし立てた。
「ええと、ドラゴンのアタックパターンは、左右の鈎爪と、氷ブレスと、突風攻撃だって! ……き、気をつけてね!」
最後の部分を早口で付け加えると、キリトは背を向けたまま気障な仕草で親指を立てた左拳を振った。直後、その前方の空間が揺らぎ、滲み出すように巨大なオブジェクトの湧出が始まった。
ディティールの粗いポリゴンの塊が、立て続けにごつごつと出現する。それらは次々と接合しては、面を削ぎ落とすように情報量を増してゆき、やがて巨大な体がほぼ完成した――と見えたところでその全身を震わせて再び雄叫びを上げた。無数の細片が飛び散り、きらきらと輝きながら蒸発していく。
そこに姿を現したのは、氷のように輝く鱗を持った白竜だった。巨大な翼を緩やかにはためかせ、宙にホバリングしている。恐ろしい――というよりは美しいという表現が相応しい姿だ。紅玉のような大きな瞳をきらめかせ、あたしたちを睥睨している。
キリトが落ち着いた動作で背に手をやり、黒鉄色の片手剣を音高く抜き放った。すると、それが合図ででもあったかのように、ドラゴンが大きくその顎門を開き――硬質のサウンドエフェクトと共に、白く輝く気体の奔流を吐き出した。
「ブレスよ! 避けて!」
あたしは思わず叫んだが、キリトは動かない。仁王立ちのまま、右手に握った剣を、かざすように前に突き出す。
あんな細い武器でブレス攻撃が防げるものか――と思った瞬間、キリトの手を中心に、剣が風車のように回転し始めた。薄緑のエフェクトに包まれているところを見るとあれも剣技の一つなのだろうか。すぐに刀身が見えないほどに回転が速まり、まるで光の円盾のように見える。
そこに向かって、氷のブレスが正面から襲い掛かった。まばゆい純白の閃光。思わず顔を背ける。でも、キリトの剣が作り出したシールドに打ち当たった冷気の奔流は、吹き散らされるように拡散し、蒸発していく――。
あたしは慌ててキリトの体に視線を合わせ、HPバーを確認した。完全にはブレスを防げないのか、じわじわと右端から減少していくが、呆れたことに数秒たつとすぐに回復してしまう。超高レベル戦闘スキルの『バトルヒーリング』だと思われる――けれども、あれはスキルを上昇させるのに、戦闘で大ダメージを受けつづける必要があるので、現実問題として修行するのは不可能と言われている。
一体――何者なの……?
あたしは今更のように黒衣の剣士の正体に思いを馳せた。これほどの強さを持つのは、攻略組以外に考えられない。でも、KoBをはじめ主だったトップギルドの名簿には該当する名前はない。
と、その時、ブレス攻撃が途切れたのを見計らったようにキリトが動いた。爆発じみた雪煙を立てて、宙のドラゴンへと飛び掛る。
普通、飛行する敵に対してはポールアーム系や投擲系の、リーチの長い武器で攻撃して地面に引き摺り下ろし、それからショートレンジの戦闘に持ち込むのがセオリーだ。でも驚いたことにキリトはドラゴンの頭上を超えるほどの高さまで飛翔すると、空中で片手剣の連続技を始動させた。
キュキューン、という甲高い音を立てながら、目で追いきれない程のスピードで攻撃が白竜の体に吸い込まれていく。ドラゴンも左右の鈎爪で応戦するものの、手数が違いすぎる。
長い滞空を経てキリトが着地したときには、ドラゴンのHPバーは三割以上減少していた。
――圧倒的だ。ありうべからざる戦闘を見た衝撃で、背中にぞくぞくするものが疾る。
ドラゴンは、地面のキリト目掛けてアイスブレスを吐いたが、今度はダッシュで回避して再びジャンプ。重低音を響かせながら、単発の強攻撃を次々と叩き込む。その度にドラゴンのHPががくん、がくんと減少する。
バーは、たちまち黄色を通り越して赤へと突入した。もうあと一、ニ撃で決着がつくだろう。今度ばかりは素直にキリトの強さを称えてやろうと、あたしは体を起こした。水晶柱の陰から一歩踏み出す。
その途端。背中に目でもついているかのように、キリトが叫んだ。
「バカ!! まだ出てくるな!!」
「なによ、もう終わりじゃない。ささっとカタを……」
あたしが声を上げた、その時――。
一際高く舞い上がったドラゴンが、両の翼を大きく広げた。それが、音高く体の前で打ち合わされると同時に、竜の真下の雪がどばっ! と舞い上がった。
「……!?」
思わず立ち尽くしたあたしの数メートル前方で、地面に片手剣を突き立てたキリトが何かを言おうと口を開いた。だが直後、その姿は雪煙に包まれ――次の瞬間、あたしは空気の壁に叩かれて、あっけなく宙に吹き飛ばされた。
しまった――突風攻撃――!
空中でくるくると回りながら、今更のように思い出す。だが幸い、攻撃力自体はさほど無いようで、ダメージはそう受けていない。両手を広げ、着地体勢を取る。
けれど――雪煙が切れた、その先に、地面はなかった。
山頂に開いていた巨大な穴。あたしはその真上に吹き飛ばされてしまったのだ。
思考が停止する。体が凍りつく。
「うそ……」
それしか言えなかった。右手を、空しく宙に伸ばす――。
――その手を、黒革のグローブに包まれた手が、ぎゅっと掴んだ。
あたしは、なかば焦点を失っていた両眼を見開いた。
「――!!」
はるか遠くでドラゴンと対峙していたはずのキリトが、宙に身を躍らせ、左手であたしの手を掴んでいた。そのままぐいっと彼の胸に引き寄せられる。いったん離れた左手があたしの背に回り、固く包み込む。
「掴まれ!!」
キリトの叫び声が耳もとで響いて、あたしは夢中で両手を彼の体に回した。直後、落下が始まった。
巨大な縦穴の中央を、二人抱き合ったまま真っ直ぐに落ちていく。風が耳もとで唸り、マントがばたばたとはためく。
もし穴が、フロアの表面ぎりぎりまで続いているなら、この高さから落ちたら間違いなく死ぬ。そんな思考が頭を掠めたけど――現実のこととは思えなかった。ただ呆然と、遠ざかっていく白い光の円を見ていた。
不意に、キリトが剣を握った右手を動かした。背後に引き絞り、次いで前方に撃ち出す。がしゅん! という金属音とともに光芒が飛散する。
重い突き技の反動で、あたしたちは弾かれたように穴の壁面目指して落下の角度を変えた。青い氷の絶壁がみるみる迫ってくる。思わず歯を食いしばる。ぶつかる――!
激突の直前、再び右手を振りかぶったキリトが、剣を思い切り壁面に突き立てた。武器をグラインダーにかけた時のような火花が盛大に飛び散る。がくん、という衝撃とともに落下の勢いが鈍る。だが停まるには至らない。
金属を引き裂くような音を盛大に立てながら、キリトの剣が氷の壁を削っていく。あたしは首を動かし、落ちる先を見やった。雪が白く溜まった穴の底が見えた。みるみる近づいてくる。激突までもうあと数秒もない。あたしは、せめて悲鳴だけは上げるまいと必死に唇を噛み、キリトの体にしがみついた。
キリトが剣から手を離した。両腕であたしを固く抱き、体を半回転させて自分が下になる。そして――
衝撃。轟音。
爆発したかのように舞い上がった雪が、ふわふわと落ちてきて頬に触れ、消えた。
その冷たさで、飛びかけた意識が引き戻された。眼を見開く。至近距離にあったキリトの黒い瞳と視線が交差する。
あたしをきつく抱きしめたまま、キリトが唇をわずかに動かした。
「ワォ」
片頬をゆがめてかすかに笑う。
「生きてたな」
あたしもどうにか頷き、声を出した。
「うん……生きてた」
数十秒――ことによったら数分、あたしたちはそのままの姿勢で横たわっていた。動きたくなかった。キリトの体から伝わる熱が心地よくて、頭がぼおっとする。もっと――もっと強く抱いて欲しい――
でも、やがて、キリトは腕を解き、ゆっくりと体を起こした。腰のポーチからハイポーションとおぼしき小瓶をふたつ取り出し、一つをあたしに差し出してくる。
「飲んどけよ、一応」
「ん……」
頷いて、あたしも上体を起こした。瓶を受け取り、HPバーを確認すると、あたしのほうはまだ三分の一近く残っていたが、直接地面と激突したキリトはレッドゾーンまで突入していた。
栓を抜き、甘酸っぱい液体を一息に飲み干してから、あたしはキリトのほうに向き直った。ぺたりと座ったまま、まだうまく言うことを聞かない唇を動かす。
「あの……、あ……ありがと。助けてくれて……」
するとキリトは、例によってシニカルな笑みをかすかに滲ませ、言った。
「礼を言うのはちょっと早いぜ」
ちらりと上空に視線を向ける。
「……ここから、どうやって抜け出したもんか……」
「え……テレポートすればいいじゃない」
あたしはエプロンのポケットを探った。青く光る転移結晶をつまみ出し、キリトに示す。だが――。
「無駄だろうな。ここはもともとプレイヤーを落っことすためのトラップだろう。そんな手軽な方法で脱出できるとは思えないよ」
「そんな……」
あたしはキリトににじり寄り、左手を差し出した。キリトがその手を握ってくるのを確認し、クリスタルを掲げる。
「転移! リンダース!」
――あたしの叫び声が、空しく氷壁に反響し、消えていった。結晶はただかすかにきらめくのみ。
キリトは手を離すと、軽く肩をすくめた。
「結晶が使える確信があったら落ちてる最中に使ったけどな。無効化空間っぽい気配がしたからな……」
「……」
あたしが肩を落として俯くと、キリトがぽん、と頭に手を置いてきた。そのままあたしの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「まあ、そう落ち込むな。結晶が使えないってことは、逆に言えばなにか脱出の方法が必ずあるってことだ」
「……そんなの、わかんないじゃない。落ちた人が百パーセント死ぬって想定したトラップかもよ? ……ていうか、普通死んでたわよ」
「なるほど、それもそうだ」
キリトがあっけなく頷くのを見て、あたしは再びがっくりと脱力する。
「あ……あんたねえ! もうちょっと元気づけなさいよ!!」
思わず声を荒げると、キリトはにやっと笑って言った。
「リズは怒ってたほうがかわいいぜ。その意気だ」
「んな……」
不覚にも赤面しつつ硬直してしまったあたしの頭から手を離し、キリトは立ち上がった。
「さあて、いろいろ試してみるかぁ。アイデア募集中!」
「……」
この状況に至ってもマイペースを崩さないキリトの態度に、あたしは苦笑するしかなかった。少しだけ元気が出てきた気がして、ぱちんと両手で頬っぺたを叩くと、あたしも立ち上がる。
ぐるりと周囲を見渡すと、そこはほぼ平らな氷の床に雪が薄く積もった、まさに穴の底だった。直径は変わらず十メートルほどだろうか。はるか高みの入り口から、氷壁に反射しながら差し込んでくる頼りない夕陽の残照にぼんやりと照らされている。じきに完全な暗闇に包まれてしまうだろう。
見たところ、地面にも、周囲の壁にも抜け道のようなものは無かった。あたしは腰に両手を当て、必死に頭を働かせ、浮かんできた最初のアイデアを口にした。
「えーと……助けを呼ぶっていうのはどうかしら」
「うーん、ここ、ダンジョン扱いじゃないか?」
だがキリトにあっさりと否定されてしまう。
フレンド登録しているプレイヤー、例えばアスナになら、フレンドメッセージというメールのようなもので連絡する手段があるのだが、迷宮ではその機能は使えない。ついでに言えば位置追跡もできない。
念のためメッセージウインドウを開いてみたが、キリトの言うとおり使用不可能だった。
「じゃあ……ドラゴン狩りにきたプレイヤーに大声で呼びかける」
「山頂までは高さ八十メートルはあったからなぁ……。声は届かないだろうな……」
「そっか……って、あんたもちょっとは考えなさいよ!!」
次々に意見を退けられ、あたしがややムクレて言い返すと、キリトはとんでもない事を言った。
「壁を走って登る」
「……バカ?」
「かどうか、試してみるか……」
あたしが唖然として見守るなか、キリトは壁ぎりぎりまで近づくと、突然反対側の壁目掛けて凄まじい速さでダッシュした。床に積もった雪が盛大に舞いあがり、突風があたしの顔を叩く。
壁に激突する寸前、キリトは一瞬身を沈めると爆発じみた音とともに飛び上がった。遥か高みで壁に足をつき、そのまま斜め上方へと走りはじめる。
「うっそ……」
眼と口をポカンとあけて立ち尽くすあたしの遠い頭上で、キリトがB級映画のニンジャのごとく、氷壁を螺旋状に駆け上がっていく。みるみるうちにその姿は小さくなり――三分の一近くも登ったところで、ツルンとこけた。
「わあああああああ」
再び壁面に剣を突きたて、がりがり削り取りながらキリトが落ちてくる。
「わあああ!?」
あたしも悲鳴を上げて落下地点に駆け寄る。腕を伸ばすが、わずかに届かず――ごしゃっ! という音とともにキリトが床に貼り付いた。
数分後。二本目のポーションを咥えたキリトと並んで壁際に座り込み、あたしは大きくため息をついた。
「――あんたのこと、バカだバカだと思っていたけどまさかこれほどの……」
「……もうちょっと助走距離があればイケたんだよ」
「そんなわけねー」
ぼそりと呟く。
飲み干した瓶をポーチに放り込んだキリトは、あたしのツッコミを無視して大きく一回伸びをすると、言った。
「ま、ともかく、こう暗くなっちゃ今日はここで野営だな……」
確かに、夕焼けの色はとうに消え去って、穴の底は深い闇に包まれようとしていた。
「そうね……」
「そうと決まれば、っと……」
キリトはウインドウを出すと、指を走らせ、何やら次々とオブジェクト化させた。
大きな野営用ランタン。手鍋。謎の小袋いくつか。大きなマグカップ二つ。
「……あんたいつもこんな物持ち歩いてるの?」
「ダンジョンで夜明かしは日常茶飯事だからな」
どうやら冗談ではないらしく、真顔でそう答えるとランタンをクリックして火をともした。ぼっという音とともに、明るいオレンジ色の光が辺りを照らし出す。
ランタンの上に小さな鍋を置くと、キリトは雪の塊を拾い上げて放り込み、更に小袋の中身をぱぱっとあけた。蓋をして、鍋をダブルクリック。料理待ち時間のウインドウが浮き上がる。
すぐに、ハーブのような芳香があたしの鼻をくすぐりはじめた。よく考えたら昼にホットドッグを齧ったきりだ。ゲンキンな胃が、思い出したように盛んに空腹を訴えてくる。
やがて、ポーン、という効果音と共にタイマーが消えると、キリトは鍋を取り上げて中身を二つのカップに注いだ。
「料理スキルゼロだから味は期待するなよ」
片方を差し出してくる。
「ありがと……」
受け取ると、じんわりとした温かみが両手に広がった。
スープは、香草と干し肉を使った簡単なものだったが、食材アイテムのランクが高いらしく、じゅうぶんすぎるほど美味しかった。冷えた体に、ゆっくりと熱がしみとおっていく。
「なんか……へんな感じ……。現実じゃないみたい……」
スープを飲みながら、ぽつりと呟いていた。
「こんな……初めてくる場所で、初めて会った人と、並んでご飯食べてるなんてさ……」
「そうか……。リズは職人クラスだもんな。ダンジョン潜ってると、行きずりのプレイヤーとにわかパーティー組んで野営するとか、けっこうあるよ」
「ふうん、そうなんだ。……聞かせてよ。ダンジョンの話とか」
「え、う、うん。そんな面白いもんじゃないと思うけど……。おっと、その前に……」
キリトは、空になったふたつのカップを回収すると、手鍋といっしょにウインドウに放り込んだ。続けて操作し、今度は大きな布の塊を二つ取り出す。
広げた所を見ると、それは野営用のベッドロールらしかった。現実世界のシュラフに似ているが、かなり大きい。
「高級品なんだぜ。断熱は完璧だし、対アクティブモンスター用のハイディング効果つきだ」
にやりと笑いながら一つを放ってくる。受け取り、雪の上に広げると、それはあたしなら三人は入れるほどの大きさだった。再び呆れながら言う。
「よくこんな物持ち歩いてるわねえ。しかも二つも……」
「アイテム所持容量は有効利用しないとな」
キリトは手早く武装を解除し、枕許に剣を置いてベッドロールの中にもぐりこんだ。あたしもそれに倣い、マントとメイスを外して袋状の布の間に体を滑り込ませる。
自慢するだけあって、確かに中は暖かかった。その上見た目よりはずいぶんふかふかと柔らかい。
ランタンを間に挟み、一メートル半ほどの距離を置いてあたし達は横たわった。なんだか――妙に照れくさい。
気恥ずかしさを紛らわすように、あたしは言った。
「ね、さっきの話、してよ」
「ああ、うん……」
キリトは両腕を頭の下で組むと、ゆっくりと話しはじめた。
迷宮区で、MPK――故意にモンスターを集めて、他のプレイヤーを襲わせる悪質な犯罪者――の罠に引っかかった話。弱点のわからないボスモンスターと、丸二日戦いつづけた話。レアアイテムの分配をするために百人でジャンケン大会をした話。
どの話もスリリングで、痛快で、どこかユーモラスだった。そして、全ての話が、明らかに告げていた。――キリトが、最前線で戦いつづける攻略組の一人であることを。
でも――そうであるならば――。この人は、その肩に、四万のプレイヤーの運命を背負っているのだ。こんな、あたしなんかの為にその命を投げ出していい人ではないはずだ――。
あたしは、体の向きを変え、キリトの顔を見た。ランタンの光を照り返す黒い瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
「ねえ……キリト。聞いていい……?」
「――なんだよ、改まって」
その口もとに、わずかに照れたような笑みが浮かぶ。
「なんであの時、あたしを助けたの……? 助かる保証なんてなかったじゃん。ううん……あんたも死んじゃう確率のほうが、ずっと高かった。それなのに……なんで……」
キリトの口から、一瞬笑いが消えた。やがて、ごくごく穏やかな声で、呟いた。
「……誰かを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだほうがずっとましだ。それがリズみたいな女の子なら尚更、な」
「……馬鹿だね、ほんと。そんな奴ほかにいないわよ」
口ではそう言いながら――あたしは不覚にも涙が滲みそうになっていた。胸の奥が、どうしようもなくぎゅーっと締め付けられて、それを必死に打ち消そうとする。
こんなに馬鹿正直で、ストレートで、暖かい言葉を聞いたのは、この世界に来て初めてだった。
ううん――元の世界でもこんなことを言われたことはなかった。
不意に、あたしの中にここ数ヶ月居座りつづけていた人恋しさ、寂しさのうずきのようなものが、大きな波になってあたしを揺さぶった。キリトの暖かさを、もっと直接、こころの触れる距離で確かめたくなって――。
無意識のうちに、唇から、言葉が滑り出していた。
「ね……そっちに……行っても、いい……?」
一瞬キリトが目を見開き、やがてその頬がわずかに赤らむのを見てからようやく、あたしは自分が何を言ったのか意識した。
「あ……あの……」
顔がかーっと熱くなる。心臓ががんがんと鳴り響きはじめる。動かない唇をどうにか動かし、まとまらない言葉を音にする。
「さ、寒くって。……それで……」
――でも、我慢できるから、と続けようとしたところで、キリトが動いた。体をベッドロールの奥側に寄せ、俯いたまま短く呟く。
「……いいよ」
キリトの隣は――ものすごく暖かそうだった。触れたい、体を寄せ合いたいという欲求が、縺れ、絡まりあった思考を押し流していく。
あたしは、ふわふわと熱に浮かされたような気持ちのまま上体を起こした。ベッドロールから這い出し、キリトの枕許まで移動する。
顔を赤くしたキリトは、あたしと目を合わせようとはしなかったが、右手でそっと布を持ち上げた。
無言で狭いすきまに入り込もうとして、硬い生地のロングスカートとエプロンがじゃまだなあと思う。今更恥ずかしがっても仕方ない――とぼんやりした頭の片隅で考え、ウインドウを出して手早く装備を解除。薄いブルーのキャミソール姿になって、つま先から布の中へと滑り込んだ。
途端に、ふわりと穏やかなぬくもりがあたしの全身を包んで、それだけで気が遠くなるほどの心地よさを感じた。もっと――もっと、感じたい。体を動かし、キリトの傍へと移動する。上体を密着させ、お互いの足先を絡める。
キリトが、おそるおそる、という感じに腕をあたしの体に回してきた。彼の肩口に顔を押し付けたまま、微かに囁く。
「もっと……強く、抱いて……」
ぎゅっ、と腕に力が込められ、頭の芯がびりびりと痺れた。
「はぁっ……」
堪えきれず、深い吐息を漏らす。
人間の暖かさだ、と思った。
この世界に来てから、常にあたしの心の一部に居座り続けていた渇きの正体がようやくわかったような気がしていた。
ここが仮想の世界であること――あたしの本当の体はどこか遠い場所に置き去りで、いくら手を伸ばしても届かない、そのことを意識するのが怖くて、次々に目標を作っては遮二無二作業に没頭してきた。剣を鍛え、店を大きくして、これがあたしのリアルなんだと自分に言い聞かせてきた。
でも――あたしは心の底で、ずっと思っていた。全部偽物だ、単なるデータだ、と。餓えていたのだ。本当の、人の温もりに――。
もちろん、キリトの体だってデータの構造物だ。今あたしを包んでいる暖かさも、電子信号があたしの脳に温感を錯覚させているに過ぎない。
けれど、ようやく気付いた。そんなことは問題じゃないんだ。心を感じること――現実世界でも、この仮想世界でも、それだけが、唯一の、真実なんだ。
キリトの心が発する熱で、あたしが溶けていく。からだの境界があいまいになり、心臓の疼きだけが意識を支配していく。
倫理コード解除設定のことは、知識として知っていた。キリトが求めてくればあたしは応じるだろうとも思っていた。でも、もう、そんな必要はなかった。二人の間を行き交う電子パルスが、心の距離をゼロにする――。
「もっと――もっと触って……」
キリトの手が動くたびに、頭の中がばちばちと弾ける。体を包む熱がどんどん高まっていく。
「…………ッ!!」
不意に、ぎゅっと閉じているはずの目蓋の裏が真っ白になった。意識がぱぁっと飛散した。なめらかな暗闇の中を、どこまでも落ちていく――。
眠りに落ちたのか、気を失ってしまったのか、それさえもわからなかった。
SAOex3_02_Unicode.txt
爽やかな香りにふわふわと鼻をくすぐられて、あたしはゆっくりと目蓋を開けた。
白い光が世界を満たしていた。いつの間にか夜が明けていたようだ。氷壁に幾重にも反射してきた朝陽が、縦穴の底に積もる雪を輝かせている。
視線を巡らせると、ランタンの上にポットが置かれ、ゆらゆらと蒸気がたなびいていた。芳香の元はそこらしい。ランタンの前には、こちらに横顔を見せて座る、黒衣の人物。その姿を見るだけで、あたしの胸のなかにぽっと小さな火が灯るような気がする。
キリトはこちらを振り向くと、小さく微笑んで、言った。
「おはよう」
「……おはよ」
あたしも言葉を返す。もぞもぞと体を起こすと、キリトが慌てた表情で視線を逸らせた。なんだろう、とぼんやり思ってからふと自分の体を見下ろすと、簡素なキャミソール一枚しか身に着けていない。
「ひゃっ」
あわてて再度上掛けに潜り込んでから、ようやく昨夜の事を思い出す。そうだ――あたしは、このキリトのベッドロールに入って……抱き合って……それで……
燃え出すかと思うほど顔が熱くなる。頭まで布に潜り、恥ずかしさの波が引くのをひたすら待つ。
どうにか心臓を落ち着かせて、顔を出してキリトの様子を覗き見ると、彼も頬を赤くしてソッポを向いていた。その様子にちょっとだけ勇気付けられて、数回口をぱくぱくさせてから、言う。
「あの……あの、ゆうべは……」
そこで、ふと口篭もる。あの体験を言葉にすることはできないと思った。だから、
「……ううん、なんでもない……。夢を、見たよ。すてきな夢」
そう言った。
「そうか……俺もだ」
キリトは短く答え、カップを取り上げてポットの中身を注ぐとあたしに差し出してきた。
「あ、ちょっとまって」
ウインドウを出し、手早く服を着るとベッドロールの外に出る。キリトの右隣に座り、カップを受け取る。
花とミントの香りがする、今まで飲んだことのないお茶だった。一口ふたくち、ゆっくりと含む。ほっと心が温かくなる。
あたしは体をずらすと、キリトにぴたりとくっつけた。顔を向けると一瞬目が合ったけれど二人ともすぐに視線を逸らす。しばらくの間、二人がお茶を啜る音だけが響いた。
「ねえ……」
やがて、あたしはカップに視線を落としたまま呟いた。
「ん?」
「……このまま、ここから出られなかったらどうする?」
「毎日寝て暮らす」
「あっさり即答するわねえ。もうちょっと悩みなさいよ」
笑いながらキリトの腕をひじでつつく。
「……でも、それも悪くないね……」
言って、頭をキリトの肩にもたれさせようとした、その時――。
「あっ……!?」
突然キリトが叫び、身を乗り出した。支えを失ったあたしはコテンと地面に転がってしまう。
「もう、なんなのよ!」
体を起こしながら文句を言ったが、キリトは振り向きもせずに立ち上がった。そのまま、円形の穴底の中央目指して駆けていく。
いぶかしみながらあたしも立ち、後を追った。
「どうしたっての?」
「いや、ちょっと……」
キリトは膝をつき、両手で積もった雪をかき分け始めた。ざくざく、という音とともに、たちまち深い穴が穿たれていく。と――
「あっ!?」
あたしの目に、突然銀色の輝きが飛び込んできた。朝の光を反射して、何かが雪の奥できらめいている。
キリトはその何かを全て掘り出すと、両手で掴み、立ちあがった。興味を抑えきれず、あたしは至近距離から覗き込んだ。
白銀に透き通る、長方形の物体だった。キリトの両掌からわずかにはみ出すくらいの大きさだ。あたしにとっては見慣れた形、見慣れたサイズの代物――金属インゴット。でもこんな色のものは見たことがない。
あたしは右手の指を動かし、そっとインゴットの表面を叩いた。ポップアップウインドウが浮かび上がる。アイテムの名前は『クリスタライト』。
「これ――ひょっとして……」
キリトの顔を見上げると、彼も訝しげな表情ながらも頷いた。
「ああ……。俺たちが取りに来た金属……なんだろうなぁ……」
「でも、なんでこんなとこに埋まってるのよ」
「うーむ……」
キリトは右手の指でつまんだインゴットをためつすがめつ眺めながら首を捻っていたが、不意に「あっ……」と声を漏らした。
「……ドラゴンは水晶を齧り……腹の中で精製する……。はは、なるほどね」
何かを合点したかのように笑いを漏らし、金属をあたしに向かってひょいっと放ってきた。あわてて両手で受け止め、胸にぎゅっと抱く。
「ちょっと何なのよ! 自分だけ納得しちゃってさあ」
「この縦穴はトラップじゃない。ドラゴンの巣だよ」
「え、ええ?」
「つまりそのインゴットはドラゴンの排泄物だ。ンコだ」
「ン……」
あたしは頬を引き攣らせながら、胸の中のインゴットに視線を落とした。
「やだっ」
思わずキリトに投げ返してしまう。
「おっと」
それをキリトが器用に指先で弾き返してくる。子供じみた投げ合いを数回繰り返したあと、最終的にキリトが早技で広げたアイテム欄にインゴットをすぽりと格納してお開きとなった。
「ま、なんにせよ目標達成という訳だ。これで後は……」
「脱出できればねえ……」
二人、目を見交わしてため息。
「とりあえず思いついたことを片端から試すしかないなぁ」
「そうねー。あーあ、ドラゴンみたく翼があれば……」
――と言いかけたところで。あたしはある事に思い至って、口をぽかんと開けたまま絶句した。
「……なんだよ、リズ」
首を傾げながらあたしの顔を覗き込んでくるキリトに向かって、
「ねえ――。ここ、ドラゴンの巣だって言ったわよねえ」
「ああ。ンコがあるからにはそうなんじゃ――」
「それはどうでもいいのよ! ドラゴンが夜行性で、朝になったってことは、巣に帰ってくるんじゃないかって……」
「……」
押し黙ったキリトとしばらく見つめ合い、次いで二人そろって上空、穴の入り口を振り仰ぐ。まさにその瞬間――。
遥か高み、白く切り取られた光のなかに、滲むように黒い影が生まれた。それはみるみるうちに大きくなる。二枚の翼、長い尾、鈎爪を備えた四肢までがすぐに見て取れるようになる。
「き……き……」
あたしたちは揃って後退った。でももちろん、どこにも逃げ場があろう筈もなく。
「来た―――――っ」
二重に叫びながらそれぞれの武器を抜く。
縦穴を急降下してきた白竜は、あたしたちの姿を認めると一声甲高く鳴いて地表すれすれに停止した。今回は隠れる場所はない。緊張を押し殺しながらメイスを構える。
同じく片手剣を構えたキリトが、あたしの前に出て早口で言った。
「いいか、俺の後ろにいろよ。ちょっとHPが減ったらすぐにポーションを飲んどけ」
「う、うん……」
今度ばかりは素直に頷く。
ドラゴンが口を大きく開け、再び雄叫びを上げた。翼の巻き起こす風圧で雪が舞い上がる。長い尻尾が地面をびたんびたんと叩き、その度に雪面に深い溝が穿たれる。
先制あるのみ、とばかりに右手の剣を振りかぶり、突進しようとしたキリトだが――なぜか突然その動きを止めた。
「……あっ……まさか……」
低い声を漏らす。
「ど、どうしたの?」
「……」
あたしの問いには答えず――。剣を下げると、キリトはいきなり振り向き、あたしの体を左手でぐっと抱き寄せた。
「!?」
わけが判らずパニクるあたしは、そのままヒョイとキリトの肩に担ぎ上げられてしまった。
「ちょ、ちょっと、なにを――うわっ!!」
ずばん! という衝撃音とともに、周囲の風景が霞んだ。キリトが猛烈なダッシュをかけたのだと悟るのに一秒ほどかかった。次いで急制動。猛烈な加減速に晒されて目を回しかけたあたしの視界に、ドラゴンの後姿が入った。あたしたちを見失ったかのように、首を左右に振っている。
さては後背から攻撃するつもりなのかな――と思ったのもつかの間、なんとキリトはそろそろとドラゴンに歩み寄り――。何を考えているのか、剣を鞘に収めると、空いた右手で揺れているドラゴンの尻尾の先端をむんずと掴んだ。
その途端、ドラゴンが甲高い叫び声を上げた。驚愕の悲鳴――に聞こえたのは気のせいだろうか。いよいよもってキリトの意図が理解できず、あたしも喚き声を上げようとした所で。
いきなり白竜が両の翼を広げると、凄まじいスピードで急上昇を開始した。
「うぷっ!」
空気が顔を叩く。と思う間もなく、あたし達の体は弓で打ち出されたかのような勢いで宙に飛び出した。竜の尻尾に引っ張られ、左右に揺れながら縦穴を駆け上っていく。円形の穴底がみるみる遠ざかる。
「リズ! 掴まってろよ!!」
キリトの声に、無我夢中で彼の首にすがり付く。周囲の氷壁を照らす陽光はどんどん明るくなり、風切り音のピッチが微妙に変わっていき――白い輝きが爆発した、と思った瞬間、あたしたちは穴の外へと飛び出していた。
一瞬細めた目を見開くと、58層の雪原が周囲一杯に広がっていた。明るい光を受けてきらきらと輝く広い世界。恐怖も忘れ、思わず歓声を上げた。
「わぁっ……」
「イェ――!!」
キリトも大声で叫び、パッと右手を離した。あたしをひょいっと横抱きにして、慣性に任せて宙をくるくると舞っていく。
飛翔は数秒のことだったのだろうが、その数十倍にも感じられた。あたしは笑っていたと思う。溢れる光と風が心を雪いでいく。感情が昇華していく。
「キリト――あたしねぇ!!」
思いっきり叫んだ。
「なに!?」
「あたし、あんたのこと好き!!」
「なんだって!? 聞こえないよ!!」
「なんでもなーい!!」
ギュッと首に抱きついて、あたしは笑い声を上げた。やがて、奇跡にも似た時間が終わり、地表が近づいてきた。最後に一回くるんとまわり、キリトは両脚を大きく広げて着陸姿勢を取った。
ばふん! と雪が舞い上がった。長い滑走。雪を除雪車のように掻き分けながら減速し、とうとう二人は山頂の端に停止した。
「……ふぅ」
キリトは一息つくと、あたしをすとんと地面に降ろした。名残惜しかったが、彼の首に回した両腕を解く。
二人揃って大穴のほうを振り仰ぐと、こちらを見失ったらしいドラゴンが上空をゆっくりと旋回していた。
キリトは背中の剣に手をかけ、僅かに刀身を抜き出したが、すぐに動きを止めた。やがてチン、と音を立てて剣を鞘に戻す。軽い笑みを浮かべると、ドラゴンに向かって小声で言った。
「……今まで狩られまくって迷惑したろうな。アイテムの取り方が広まればお前を殺しにくる奴もいなくなるだろう。これからはノンビリ暮らせよ」
――システムの設定したアルゴリズムによって動いているにすぎないモンスターに向かって何を馬鹿なことを、と昨日までのあたしなら思っただろう。でもなぜか、今はキリトの言葉が素直に心に浸透していく気がした。あたしは右手を伸ばすと、そっとキリトの左手を握った。
二人が無言で見守る中、白竜は首を巡らせると、一度澄んだ声で鳴いて巣穴の中へと降下していった。静寂が訪れた。
やがてキリトがちらりとこちらを見て、言った。
「さて、帰るか」
「そうね」
「クリスタルで飛んじゃう?」
「……ううん、歩いて帰ろ」
あたしは微笑みながら答えると、キリトの手を握ったまま足を踏み出した。そこであることに気が付いて、キリトの顔を見る。
「あ……ランタンとかベッドロールとか、置いてきちゃったね」
「そう言えば……。まあ、いいさ。誰かが使うかもしれないしな」
顔を見合わせて笑い、あたしたちは今度こそ家路を辿るべくゆっくりと山道を歩き始めた。間近の外周部から覗く空は雲ひとつない快晴だった。
「たっだいま~!」
あたしは懐かしの我が家のドアを勢い良く押し開けた。
「おかえりなさいませ」
カウンターに立つ店番の少女NPCが丁寧な挨拶を返してくるのに手を振って、店の中をぐるりと見回す。たった一日留守にしただけだが、何だか妙に新鮮に見えた。
昨日と同じ屋台で買い食いしたキリトが、ホットドッグをくわえながらあたしに続いて店に入ってきた。
「もうすぐお昼なんだから、ちゃんとした店で食べようよ」
文句を言うと、キリトはにやりと笑って左手を振り、ウインドウを出した。
「その前に、早速作っちゃおうぜ、剣」
ぱぱっとアイテム欄を操作し、白銀のインゴットを実体化させる。ひょいっと放ってきたそれをキャッチし――アイテムの出自については意識的に考えないようにしながら――あたしは頷いた。
「そうね、やっちゃおうか。じゃあ工房に来て」
カウンター奥のドアを開けると、ごとんごとんという水車の音が一際大きくなった。壁のレバーを倒すと、ふいごが動いて風を送り始める。すぐに炉が真っ赤に焼け始める。
インゴットをそっと炉に投下して、あたしはキリトを振り返った。
「片手用直剣でいいのね?」
「おう。よろしく頼む」
キリトは来客用の丸椅子に腰掛けながら頷いた。
「了解。――言っとくけど、出来上がりはランダム要素に左右されるんだから、あんまり過剰に期待しないでよ」
「失敗したらまた取りに行けばいいさ。今度はロープ持参でな」
「……長いやつをね」
あの盛大な落下を思い出して、笑いを漏らす。炉に目をやると、インゴットはもう十分焼けているようだった。火箸を使って取り出し、金床の上に。
壁からハンマーを取り上げ、メニューを設定すると、あたしはもう一度ちらりとキリトの顔を見た。無言で頷いてくる彼に笑みで応え、ハンマーを大きく振り上げる。
気合を込めながら赤く光る金属を叩くと、カーン! という澄んだ音とともに、明るい火花が盛大に飛び散った。
リファレンス・マニュアルの鍛治スキルの項には、この工程について、『作成する武器の種類と、使用する金属のランクに応じた回数インゴットを叩くことによって』という記述しかない。
つまり、金属をハンマーで叩く行為そのものには、プレイヤーの技術の介在する余地はない、というふうに読めるのだけれど、そこは様々な噂やオカルトの飛び交うSAOのこと、叩くリズムの正確さと気合が結果を左右する、という根強い意見がある。
あたしは自分のことを合理的な人間だと思っているけど、この説だけは長年の経験から信奉している。ゆえに、武器を作るときは余計なことを考えず、ハンマーを振る右手に意識を集中し、無の境地で叩き続けるべし――という信条がある。
でも。
カン、カン、と心地よい音を立ててインゴットを叩きながら、今だけはあたしの頭の中に色々な想念が渦巻いて去ろうとしなかった。
もし首尾よく剣が出来て、依頼が終了したら――。当然キリトは最前線の攻略に戻り、そうそう会うこともなくなってしまうだろう。剣のメンテに来てくれるとしても、せいぜい十日に一遍がいいところだろう。
そんなの――そんなの、いやだ。あたしの中で、そう叫ぶ声がする。
人の体温に餓えながら――ううん、だからこそ、あたしは今まで特定の男性プレイヤーとの距離を縮めることに躊躇してきた。あたしの中の寂しさの種が恋心にすりかわってしまうのが怖かったから。それは本当の恋じゃない、仮想世界が作る錯覚だと、そう思ってきたから。
でもゆうべ、キリトの体温に包まれながら、あたしは、そのためらいこそがあたしを縛る仮想の茨だと悟った。あたしはあたし――。鍛冶屋リズベットであり、同時に篠崎里香でもある。キリトも同じだ。ゲームのキャラクターじゃない、血の通った本当の人間だ。なら、彼を好きだ、というこの気持ちだって本物なんだ。
満足の行く剣が打ち上がったら、彼に気持ちを告白しよう。傍にいて欲しい、毎日、迷宮からこの家に帰ってきて欲しいと、そう言おう。
インゴットが鍛えられ、輝きを増していくのと同時に、あたしの中の感情も確固としたものになっていくようだった。あたしの右手から思いが溢れ出して、鎚を通して生まれかけている武器に流れ込んでいくのを感じた。
――そして、とうとうその瞬間がやってきた。
何度目とも知れない――多分二百回から二百五十回の間――槌音が響いた直後、インゴットが一際まばゆい白光を放った。
長方形の物体が、輝きながらじわじわとその姿を変えていく。前後に薄く延び始め、次いで鍔と思しき突起が盛り上がっていく。
「おお……」
低い声で感嘆の囁きを洩らしながら、キリトが椅子から立ち上がり、近づいてきた。あたしたちが並んで見守るなか、数秒をかけてトランスフォームが行われ、ついに一本の剣がその姿を現した。
美しい、とても美しい剣だった。ワンハンド・ロングソードにしてはやや華奢だ。刃身は薄く、レイピアほどではないが細い。インゴットの性質を受け継いでいるかのように、ごくごく僅かに透き通っているように見える。刃の色はまばゆいほどの白。柄はやや青味を帯びた銀だ。
『剣がプレイヤーを象徴する世界』、その謳い文句を裏付けるように、SAOに設定されている武器の種類は途方もなく多い。カテゴリはもちろん、そこに含まれる武器の固有名をかぞえれば数千は下らないと言われている。
普通のRPGとは異なり、その固有名の多様さは、武器のランクが上がれば上がるほど増大していく。下位の武器は、例えば片手直剣なら『ブロンズソード』やら『スチールブレイド』といった味気ない名前で、それらの剣はこの世界に無数に存在するけれど、現在出現している最上級クラスの武器、例えばアスナの(これはレイピアだけど)『ランベントライト』あたりはおそらく世界に一本の、文字通りワンメイク物だ。
もちろん、同程度の性能を持つレイピアは、プレイヤーメイド、モンスタードロップ問わず他にも存在するだろう。でもそれらは皆異なる名前、異なる姿を持っている。それゆえに、ハイレベルの武器は持ち手を魅了するし、魂を分けた相棒となっていくのだ。
武器の名前と姿は、システムによって決定されるため、製作者たるあたしたちでも完成するまでわからない。あたしは金床の上できらめく剣を両手で持ち上げ――ようとして、その優美な外見にそぐわない重さに驚愕した。キリトの持つ黒い剣『エリュシデータ』に劣らないSTR要求値だ。腰に力を入れ、気合とともに胸の前まで持ってくる。
刀身の根元を支える右手の指を伸ばし、軽くワンクリック。浮かび上がったポップアップウインドウを覗き込む。
「えーと、名前は『ダークリパルサー』ね。今のところ情報屋の名鑑には載ってない剣だと思うわ。――どうぞ、試してみて」
「ああ」
キリトはこくりと頷くと、右手を伸ばし剣の柄を握った。重さなど感じさせない動作でひょいっと持ち上げる。左手を振ってメインメニューを出し、装備フィギュアを操作して白い剣をターゲット。これで剣はシステム上もキリトに装備されたことになり、数値的ポテンシャルを確認することができる。
でもキリトはすぐにメニューを消すと、数歩下がってから剣を左手に持ち替え、ヒュヒュン、と音を立てて数回振った。
「――どう?」
待ちきれずに訊ねる。キリトはしばらく無言で刀身を見つめていたが――やがて、大きくニコリと笑った。
「……いい剣だ」
「ほんと!? ……やった!!」
あたしは思わず右手でガッツポーズをしていた。その手を突き出し、キリトの右拳にごつんと打ち合わせる。
こんな気持ちは久しぶりだった。
昔――、10層あたりの町で路上販売していた頃、がむしゃらに作った武器をお客に褒められたときにもこんな気分がした。鍛冶屋をしていてよかった、と心から思える瞬間。スキルを究め、ハイレベルプレイヤーだけを相手にした商売に乗り換えるうちに、いつしか忘れてしまっていた気持ちだった。
「……心の問題、だね……ぜんぶ……」
あたしがふと洩らした言葉に、いぶかしい顔でキリトが首を傾げてくる。
「う、ううん、なんでもないよ。――それより、どっかで乾杯しようよ。あたしお腹空いちゃった」
照れ隠しに大声で言い、キリトの背後から彼の両肩を押す。そのまま工房から出ようとして――あたしはふと、ある疑問に気がついた。
「……ねえ」
「ん?」
肩越しに振り向くキリト。その背中に吊られた、黒い片手剣。
「そう言えば――あんた最初、『この剣と同等の』って言ったわよね。その白いのは確かにいい剣だけど、あんたのそのドロップ品とそんなに違うとも思えないわよ。なんで似たような剣が二本も必要なのよ?」
「ああ……」
キリトは振り向くと、何かを迷うような表情であたしをじっと見つめてきた。
「うーん、全部は説明できない。それ以上聞かない、って言うなら教える」
「何なのよ、もったいぶって」
「ちょっと離れて」
あたしを工房の壁際まで下がらせると、キリトは左手に白い剣を下げたまま、右手で背中の黒い剣を音高く抜きはなった。
「……?」
彼の意図が掴めなかった。先程装備フィギュアを操作したからには、現在システム的に装備状態にあるのは左手の剣だけで、右手にもう一本武器を持ったところで何の役にも立たないはずだ。それどころか、イレギュラー装備状態と見なされてソードスキルの発動ができなくなる。
あたしの戸惑い顔に一瞬視線を向け、キリトはゆっくりと左右の剣を構えた。右の剣を前に、左の剣を背後に。わずかに腰を落とし――、そして、次の瞬間。
赤いエフェクトフラッシュが炸裂し、工房を染め上げた。
キリトの両手の剣が交互に、目に見えない程のスピードで前方に撃ち出された。キュババババッ! というサウンドが空気を圧し、カラ撃ちにも関わらず部屋中のオブジェクトがびりびりと震えた。
明らかにシステムに規定された剣技だ。でも――、二本の剣を操るスキルなんて聞いたことがない!
息を呑んで立ち尽くすあたしの前で、おそらく十連撃を超える連続技を放ち終わったキリトが音もなく体を起こした。左右の剣を同時に切り払い――右手の剣だけを背中に収めて、あたしの顔を見て言った。
「とまあ、そういう訳だ。――この剣の鞘が要るなぁ。みつくろってもらえる?」
「あ……う、うん」
キリトに度肝を抜かれるのは何度目だろうか。いいかげん慣れつつあるあたしは、とりあえず疑問を先送りすることにして、壁に手を伸ばしホームメニューを表示させた。
ストレージ画面をスクロールし、馴染みの細工師からまとめて仕入れている鞘の一覧をざっと眺める。キリトが背に装備しているものに良く似た黒革仕上げのやつを選び出し、オブジェクト化。小さくうちの店のロゴが入ったそれをキリトに手渡す。
ぱちりと音をさせて白い剣を鞘に収めたキリトは、ウインドウを開いてそれを格納した。背中に二本装備するのかと思ったらそういうわけでもないらしい。
「……ナイショなんだ? さっきの」
「ん、まあな。黙っててくれよ」
「りょーかい」
スキル情報は最大の生命線、聞くなと言われれば追求はできない。それよりも、秘密の一端にせよ見せてくれたことが嬉しくて、あたしは小さく笑って頷いた。
「……さて」
キリトは腰に手を置くと、表情を改めた。
「これで依頼完了だな。剣の代金を払うよ。いくら?」
「あー、えっと……」
あたしは一瞬唇を噛んでから――ずっと胸の中で暖めていた答えを口にした。
「お金は、いらない」
「……ええ?」
「そのかわり、あたしをキリトの専属スミスにして欲しい」
キリトがわずかに目を見張る。
「……それって、どういう……?」
「攻略が終わったら、ここに来て、装備のメンテをさせて……。――毎日、これからずっと」
心臓の鼓動が際限なく速まっていく。これはバーチャルな身体感覚なんだろうか、それともあたしの本当の心臓も、今同じようにドキドキしているんだろうか――と頭の片隅で考える。頬が熱い。きっと、あたしは今顔じゅう真っ赤になっていることだろう。
いつもポーカーフェイスを崩さなかったキリトも、あたしの言葉の意味を悟ったのか、照れたように顔を赤くして俯いた。今まで年上に見えていた彼だが、その様子を見ていると同年代か、ことによると年下のようにも思えてくる。
あたしは勇気を振り絞って一歩踏み出し、キリトの腕に手をかけた。
「キリト……あたし……」
竜の巣から脱出したときはあんなに大声で叫んだ言葉だったけれど、いざ口にしようとすると舌が動かない。じっとキリトの黒い瞳を見つめ、どうにかそのひとことを音にしようとした――その時だった。
工房のドアが勢い良く開いた。あたしは反射的にキリトから手を離し、飛び退った。
「リズ!! 心配したよー!!」
一瞬遅れて駆け込んできた人物は、大声で叫びつつあたしに体当たりするような勢いで抱きついてきた。栗色の長い髪がフワリと宙を舞った。
「あ、アスナ……」
唖然として立ち尽くすあたしの顔を、アスナは至近距離で睨みながら猛然とまくし立てた。
「メッセージは届かないし、マップ追跡もできないし、常連の人も何も知らないし、一体ゆうべはどこにいたのよ! わたし黒鉄宮まで確認に行っちゃったんだからね!」
「ご、ごめん。ちょっと迷宮で足止め食らっちゃって……」
「迷宮!? リズが、一人で!?」
「ううん、あの人と……」
視線でアスナの斜め後ろを指し示す。くるりと振り向いたアスナは、そこに所在なさそうに立つ黒衣の剣士の姿を見ると、目と口をポカンと開けてフリーズした。次いで、ワンオクターブ高い声で――
「き、キリトくん!?」
「ええ!?」
今度はあたしが仰天する番だった。アスナと同じように棒立ちになってキリトを見やる。
彼は軽く咳払いすると、右手を少し上げて言った。
「や、アスナ、久しぶり……でもないか。一日ぶり」
「う、うん。……びっくりした。そっか、早速来たんだ。言ってくれればわたしも一緒したのに」
アスナは両手を後ろで組むと、含羞むように笑って、ブーツの踵で床をとんとんと叩いた。その頬がわずかに桜色に染まっているのを見て――
あたしはすべてを察した。
キリトがこの店に来たのは偶然じゃないんだ。あたしとの約束を守って、アスナがここを推薦したんだ……彼女の、想い人に。
(どうしよう……どうしよう)
頭のなかで、その言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。足先からゆっくりと全身の熱が流れ出してしまうような気がした。体に力が入らない。息ができない。気持ちの行き場が――見付からない……。
立ちつくすあたしの方に向きなおると、アスナは屈託のない様子で言った。
「この人、リズに失礼なこと言わなかったー? どうせあれこれ無茶な注文したりしたんでしょ」
そこで小さく首をかしげ――
「あれ……でも、ってことは、ゆうべはキリトくんと一緒だったの?」
「あ……あのね……」
あたしは咄嗟に足を踏み出し、アスナの右手を掴むと工房のドアを押し開けた。わずかにキリトの方を向き、彼の顔を見ないようにしながら早口に言う。
「少し待っててくださいね。すぐ帰ってきますから……」
そのままアスナの手を引き、売り場に出る。ドアを閉め、陳列棚のあいだを抜けて店の外へ。
「ちょ、ちょっとリズ、どうしたのよ」
戸惑った声でアスナが聞いてきたけど、あたしは無言で表通り目指して早足で歩き続けた。あれ以上、キリトの前にいられなかった。逃げ出さなければ、行き場を無くした気持ちをぶつけてしまいそうだった。
あたしの只ならぬ様子に気付いたのか、アスナはそれ以上何も言わずに黙ってついてきた。そっと彼女の手を離す。
東に向かう裏通りに入り、しばらく歩くと、高い石壁に隠れるように小さなオープンカフェがあった。客は一人もいない。あたしは端っこのテーブルを選ぶと、白い椅子に腰掛けた。
アスナは向かいに座ると、気遣わしげな様子であたしの顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、リズ……?」
あたしはなけなしの元気を振り絞って、にこりと大きな笑みを浮かべた。アスナと気安い噂話に花を咲かせるときの、いつもどおりのあたしの笑顔。
「……あの人なんでしょー」
腕を組み、アスナの顔を斜に見る。
「え、ええ?」
「アスナの、好きな人!」
「あ……」
アスナは肩をすぼめるようにして俯いた。頬を染めながら、大きくこくんと頷く。
「……うん」
ずきん、という鋭い胸の痛みをむりやり無視して、更ににやにや笑いを浮かべる。
「確かに、変な人だね、すっごく」
「……キリトくん、なにかした……?」
心配そうなアスナに、力いっぱい頷き返す。
「あたしの一番の剣をいきなりヘシ折ってくれたわよ」
「うわっ……ご、ゴメン……」
「別にアスナが謝ることないよー」
自分のことのように、両手を胸の前で合わせるアスナを見ると、胸の奥がさらにずきずきと疼く。
(もうちょっと……もうちょっとだけ、がんばれリズベット……)
心の中で呟いて、どうにか笑顔を保ちつづける。
「まあそれで、あの人の要求する剣を作るにはどうしてもレア金属が必要だってことになって、上の層に取りにいったのよ。そしたらせこいトラップに引っかかっちゃてさ、脱出に手間取って、それで帰れなかったの」
「そうだったの……。呼んでくれればよかったのに、ってメッセージも届かないのか……」
「アスナも誘えばよかったね、ごめん」
「ううん、昨日はギルドの攻略があったから……。で、剣はできたの?」
「あ、まあね。まったく、こんな面倒な仕事は二度とゴメンだわ」
「お金いっぱいふんだくらないとダメだよー」
同時にあははと笑う。
あたしは微笑を浮かべたまま、最後のひとことを口にした。
「まあ、ヘンだけど悪い人じゃないわね。応援するからさ、頑張りなよ、アスナ」
限界だった。語尾がわずかに震えた。
「う、うん、ありがと……」
アスナは頷きながら、首を傾げてあたしの顔を覗きこんできた。伏せた目蓋の奥を見られないうちに、勢い良く立ち上がり、言う。
「あ、いっけない! あたし、仕入れの約束があったんだ。ちょっと下まで行ってくるね!」
「えっ、店は……キリトくんはどうするの?」
「アスナが相手してて! よろしく!」
きびすを返し、駆け出した。背後のアスナに向かってパタパタと手を振る。振り向くわけには行かなかった。
ゲート広場の方に向かって走り、オープンカフェから見えないところまで来ると、最初の角を南に曲がった。そのまま街の端っこ、プレイヤーのいない場所目指して一心不乱に駆け続けた。視界がゆがむと、右手で目を拭った。何度も何度も拭いながら走った。
気付くと、街を囲む城壁の手前まで来ていた。緩やかに湾曲して伸びる壁の手前に、巨大な樹が等間隔で植わっている。その一本の陰に入ると、幹に手をついて立ち止まった。
「うぐっ……うっ……」
喉の奥から、抑えようもなく声が漏れた。必死に堪えていた涙が、次々と溢れ出しては頬を伝って消えていった。
この世界に来て二度目の涙だった。ログイン初日に、パニックを起こして泣いてしまってからは、もう決して泣くまいと思っていた。システムに無理やり流させられる涙なんて御免だと思っていた。でも今あたしの頬を伝う涙より熱く、辛い涙は、現実世界でも流したことはなかった。
アスナと話しているとき、喉もとまで出かかっていた言葉があった。「あたしもあの人が好きなの」と、何度も言いかけた。でも、言うわけにはいかなかった。
工房で、向き合って話すキリトとアスナを見たとき、あたしは、自分のための場所がキリトの隣にはないことを悟った。なぜなら――あの雪山で、あたしはキリトの命を危険にさらしてしまったから。あの人の隣には、あの人と同じくらい強い心を持った人しか立てない。そう……例えば、アスナのような……。
向かい合う二人の間には、丁寧に仕立てられた剣と鞘のように強く引き合う磁力があった。あたしはそれをはっきりと感じた。それになにより、アスナはキリトのことを何ヶ月も思い続けて、少しずつ距離を縮めようと毎日がんばっているのに――今更そこに割り込むような真似が、できるはずもなかった。
そうだ……あたしは、キリトと昨日出会ったにすぎないんだ。見知らぬ人と慣れない冒険をして、心がびっくりして熱に浮かされてるだけだ。本物じゃない。この気持ちは本物じゃない。恋をするなら、急がず、ゆっくり、ちゃんと考えて――、あたしはずっと、ずっとそう思ってきたじゃないか。
なのに、なんでこんなに涙が出るんだろう。
キリトの声、仕草、この二十四時間で彼の見せたすべての表情が、次々と瞼の裏に浮かび上がる。あたしの髪を撫で、腕を取り、強く抱きしめてくれた彼の手の感触。彼の暖かさ、あの心の温度――。あたしの中に焼きついたそれらの記憶に触れるたび、激痛が胸の奥を深くえぐる。
忘れるんだ。全部夢だ。涙で、洗い流してしまうんだ。
街路樹の幹に指を立て、強く握り締めて、あたしは泣いた。うつむいて、声を押し殺し、泣きつづけた。現実世界ならいつかは涸れるはずの涙だけど、両目から溢れ出す熱い液体は、どれだけ流そうと尽きることはないように思われた。
そして――、あたしの後ろから、その声がした。
「リズベット」
名前を呼ばれて、全身がびくりと震えた。柔らかく、穏やかで、少年の響きを残したその声。
きっと幻だ。彼がここにいるはずがない。そう思いながら、涙を拭いもせず、あたしは顔を上げゆっくりと振り向いた。
キリトが立っていた。黒い前髪の奥の目に、彼なりの痛みに耐えている色を浮べ、あたしを見ていた。あたしはしばらくその瞳を見つめ返し、やがてかすれ、震える声で囁いた。
「……だめだよ、今来ちゃ。もうちょっとで、いつもの元気なリズベットに戻れたのに」
「……」
キリトは無言のまま一歩足を踏み出し、右手をこちらに伸ばそうとした。あたしは小さく首を振ってそれを拒んだ。
「……どうしてここがわかったの?」
訊くと、キリトは首を巡らせ、街の中心部のほうを指した。
「あそこから……」
その指の先、はるか遠くには、ゲート広場に面して立つ教会の一際高い尖塔が、建築物の波の上に頭を出していた。
「街じゅう眺めて、見つけた」
「ふ、ふ」
涙はあいかわらず密やかに流れ続けていたが、それでもキリトの答えを聞いて、あたしは口許に笑みを浮べた。
「あいかわらずムチャクチャだね」
そんなところも……好きだ。どうしようもない程。
再び嗚咽の衝動がこみ上げてくるのを感じた。それを必死に押さえつける。
「ごめん、あたしは……だいじょぶだから。今は、一人にしといて」
それだけどうにか言って振り返ろうとした時、キリトが言葉を続けた。
「俺――、俺、リズにお礼が言いたいんだ」
「え……?」
予想外の言葉に戸惑い、彼の顔を見つめる。
「……俺、昔、ギルドメンバーを全滅させたことがあって……。それで、もう二度と、人に近づくのはやめようって決めたんだ」
キリトは瞬間眉を寄せ、唇を噛み締めた。
「……だから今は、誰かと、その……付き合ったりとか、そんな気にはなれないんだ。パーティー組むのも怖くて……。でも、昨日、リズにクエストやろうって誘われたとき、何故かすぐにOKしてた。一日中、ずっと不思議に思ってた。どうして俺はこの人と一緒に歩いてるんだろうって……」
あたしは胸の痛みも一瞬忘れ、キリトを見た。
それは――それは、あたしが……。
「今まで、誰かに誘われても、全部断ってた。知り合いの……いや、名前も知らない奴でも、人の戦闘を見るだけで足がすくむんだ。その場から逃げ出したくてたまらなくなる。だからずっと、人がいないような最前線の奥の奥ばっかりこもってさ。近いうち、一人でひっそり死ぬだろうって、そう思ってた。――あの穴に落ちたとき、一人生き残るより死んだほうがましだって思ったの、ウソじゃないんだぜ」
かすかに笑みを浮べる。その奥に底知れない疲弊の色を見た気がして、あたしは息を飲む。
「でも、生きてた。意外だったけど、リズと一緒に生きてたことが、すごく嬉しかった。それで、夜に……リズが、俺のとこに、来たとき……わかったんだ。リズがすっごく暖かくて……こんな暖かさがあったのかって、思った。俺、多分……ずっと、誰かに傍に来て欲しかったんだ。それにようやく気がついた」
「……」
今度は、心の奥から、本当の笑みが浮かび上がってきた。あたしは不思議な感慨にとらわれながら、口を開いた。
「それは……それはね……、あたしが考えてたことだよ。あたしも、まったく同じこと思ってた、ずっと」
不意に、心の奥に突き刺さった氷の棘が、ゆるりと溶けだすような、そんな気がした。いつしか涙も止まっていた。あたしたちは、しばらくの間、黙って見詰め合っていた。あの飛翔のとき訪れた奇跡の時間の手触りが、再びあたしの心を捉えた。
報われた。そう思った。
今のキリトの言葉が、割れ落ちたあたしの恋の欠片をくるみ、そのまま深いところに沈んでいくのを感じた。
「今はまだ――」
キリトが言葉をつないだ。
「まだ、無理かもしれないけど、もう少し時間がたてば、俺……」
あたしは小さく手を挙げ、キリトの言葉をさえぎった。微笑しながら、首を左右に振る。
「その先は、アスナに聞かせてあげて。あの子も苦しんでる。キリトの暖かさを欲しがってるよ」
「リズ……」
「あたしは大丈夫」
そっと頷き、両手で胸を押さえた。
「まだしばらくは、熱が残ってるよ。だからね……お願い、キリトがこの世界を終わらせて。それまでは、あたし頑張れる。でも、現実世界に戻ったら……」
ニッと悪戯っぽく笑った。
「第二ラウンド、するからね」
「……」
キリトも笑い、大きく頷いた。次いで左手を振り、ウインドウを出す。何をするのかと思っていると、背中から『エリュシデータ』を外し、アイテム欄に格納した。続けて装備フィギュアを操作すると、同じ場所に新しい剣が実体化した。『ダークリパルサー』、あたしの――思いが詰まった、白い剣。
「今日からこの剣が俺の相棒だ。代金は……向こうの世界で払うよ」
「おっ、言ったわね。高いぞ」
笑いあいながら、ごつんとお互いの右こぶしを打ちつける。
「さ、店に戻ろ。アスナが待ちくたびれちゃうし……お腹も空いたし」
言うと、あたしはキリトの前に立って歩き始めた。最後に一回、ぐいっと両目を拭うと、目尻に留まっていた最後の涙が散り、光の粒になって消えていった。
今日は朝から一際厳しく冷え込んだ。
あたしは両手を擦り合わせながら工房に入った。壁のレバーを引き、すぐに赤く焼け始める炉に手をかざして温める。水車のごとん、ごとんという音だけは相変わらずだが、初冬の今でこれだけ寒いのだ。もし真冬になって裏の小川が凍ってしまったらどうなるのだろうと思うと心配になる。
しばらく考えこんでからハッと我に返り、妙な思考を振り払ってスケジューラを確認した。今日が納期のオーダーが八件も溜まっている。てきぱき片付けないと日が暮れてしまう。
最初の注文は軽量タイプの片手用直剣。インゴット一覧をしばし睨んで、予算と性能の折り合いがつくものを選び出し、炉に放り込む。
この頃ではあたしのハンマー捌きの腕も上がったし、新しい金属もいろいろ入荷するようになって、コンスタントにハイレベルな武器を打てるようになってきている。程よく焼けた頃合を見計らってインゴットを金床の上に。ハンマーを設定して、勢いよく振り下ろす。
でも、片手用直剣に限って言えば――。今年の夏に鍛えたあの剣を上回るものは一つとして出来なかった。それが口惜しくもあり、嬉しくもある。
あたしの心のカケラが埋まったあの剣は、今日も遠い前線で、元気に暴れていることだろう。時々目の前の砥石で面倒を見ているけど、普通の武器とは違い、使い込まれる程に刀身の透明度が増しているような気がする。なんだか、いつか数値的消耗度とは別に、その役目を終えて砕けてしまうのではないか――そんな予感さえする。
でもまあ、それは多分もうしばらく未来のことだ。今の最前線は75層。あの剣にはまだまだ頑張ってもらわないといけない。あの人――キリトの右手の中で。
気付くと、いつの間にか規定回数を打ち終えていたらしく、インゴットが赤い光を放ちながら変形し始めた。魔法の瞬間を固唾を飲んで見守り、やがて出現した剣を手にとって検分する。
「……まあまあ、かな」
呟いて、あたしはそれを作業台の上に置いた。さっそく次のインゴット選びに取り掛かる。今度はツーハンドアクス、リーチ重視……。
お昼をだいぶ過ぎた頃、どうにか全ての注文を片付け、あたしは立ち上がった。首をぐるぐる回しながら大きく伸びを一回。ほっと息をつくと、壁に掛かった小さな写真が目に入った。
肩を寄せてピースサインをするあたしとアスナ。アスナの隣、半歩下がった位置に立ち、苦笑いしているキリト。この建物の前で撮影したものだ。半月ほど前――あの二人が、結婚の報告に来たときに。
誰が見ても似合いの二人なのに、ゴールするまでに結局半年もかかったのだ。あたしもだいぶヤキモキさせられて、色々世話を焼いたから、とうとう結婚すると告げられたときはとても嬉しかった。それに――ほんの少しの、切ない疼きも。
あの夜のことは今でもよく夢に見る。あたしの、さして起伏のない二年間の中で、ささやかな宝石のように光る幻想の夜の思い出。熾火のように、三ヶ月経った今でもあたしの胸を暖めている。
「……我ながら……」
呆れるなあ、と心の中で呟いて、写真をそっと指先でなぞった。合理的なリアリストだと自己評価していたのに、実はこんな健気な性格だったとは自分でもまるで気付かなかった。
「結局、ずーっと恋してるんだよ、キミに」
写真の一点をトン、と叩いて、あたしは身を翻した。遅い昼食は自分で適当に作ろうか、それともたまには外で食べようか、と考えながら、工房を出た――その時だった。
いまだかつて聞いたことのない効果音が、大音量で頭上に響き渡った。リンゴーン、リンゴーンという、鐘のようなアラームのような……。咄嗟に天井を眺めたけれど、どうやら音はそのさらに上、上層の方向から響いているらしい。
慌てて外に駆け出そうとしたところで、さらにあたしを驚愕させる出来事が起こった。ここに店を開いて以来、当然ではあるけれど一日も休まずカウンターに立ちつづけた店番NPCが、いきなり音もなく消滅したのだ。
「……!?」
目を丸くして、さっきまで彼女がいた空間を凝視するものの、戻ってくる気配はない。何か容易ならざる事が起こっている。
転がるように外に出たあたしは、さらなる驚きに見舞われて立ち尽くした。
頭上百メートルに広がる上層の底、その無機質な灰色の蓋の手前に――巨大な、赤い文字がびっしりと並んでいた。食い入るように見ると、『System Supervisory Mode』と『Urgent Notification』の二つの英文が市松模様状に並んでいるようだ。
「システム管理モード……緊急告知……?」
わけが判らず周りを見回すと、あたしと同じように沢山のプレイヤー達が棒立ちになって上層を見上げている。その光景に、何となく違和感が紛れているような気がして少し考えると、すぐにその理由に思い至った。
普段なら、道を歩いたり、物を売ったりしているはずのNPCがただの一人もいないのだ。たぶん、うちの店番と同時に消えたのだと思われるけれど……一体、なぜ――。
不意に、鳴りつづけていたアラーム音が停まった。一瞬の静寂の後、今度はソフトな女性の声が、同じく大音量で降ってきた。
「ただいまより プレイヤーの皆様に 緊急のお知らせを行います」
人工的、電気的な響きのある声だった。明らかにゲーム運営サイドのアナウンスだと思われるけれど、管理者の気配をぎりぎりまで削り落としているSAOでこの手の告知を聞いたのは初めてのことだった。固唾を飲んで耳を澄ませる。
「現在 ゲームは システム管理モードで 稼動しております。すべての モンスター及びアイテムスパンは 停止します。すべての NPCは 撤去されます。すべての トレードを含むメッセージ交換は 不可能となります」
システムエラー? 何か致命的なバグが出た……?
あたしは咄嗟にそう思った。心臓を、不安の手がぎゅっと掴む。でも、次の瞬間――。
「アインクラッド標準時 十一月 七日 十四時 五十五分 ゲームは クリアされました」
――システム音声は、そう告げた。
ゲームは、クリアされました。
その言葉の意味が、数秒間分からなかった。周囲のプレイヤーも、皆凍りついた表情で立ち尽くしていた。でも、更に続く言葉を聞いて、全員が飛び上がった。
「プレイヤーの皆様は 順次 ゲームから ログアウトされます。 その場で お待ちください。 繰り返します……」
突然、うわあっ! という大歓声が巻き起こった。地面が――、いや、アインクラッド中が震えた。皆が抱き合い、地面を転げまわり、両手を突き上げて絶叫していた。
あたしは動けず、何も言えず、店の前でただ立っていた。どうにか両手を持ち上げ、口を覆った。
やったんだ。彼が――キリトが、やったんだ。いつものムチャクチャを……。
それは確信だった。だってまだ75層なのだ。それなのにゲームをクリアしてしまうような無茶、無謀、無軌道は、絶対にキリトの仕業だ。
耳もとで、微かな囁き声が聞こえた気がした。
(――約束、守ったぜ……)
「うん……うん……。とうとう、やったね……」
ついに、あたしの両目から熱い涙が迸った。それを拭いもせず、あたしは思い切り右手を突き上げて、何度も何度も飛び跳ねた。
「おーい!!」
両手を口にあて、遥か上層にいるはずの彼に届けとばかりに、力いっぱい叫んだ。
「絶対、また会おうね、キリト――!! ……愛してる!!」
(ソードアート・オンライン外伝3 『ココロの温度』 終)
SAOex4_01_Unicode.txt
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
リズベットの声に、アスナはホロキーボードを打つ指を止めると、顔を上げた。
「ゼッケン? 運動会でもするの?」
「ちがうちがう」
リズベットは笑いながら首を振り、テーブルの上から湯気を立てるマグカップを取り上げて一口含むと、話を続けた。
「カタカナじゃなくて漢字。絶対のゼツに剣と書いて、絶剣」
「絶……剣。新実装のレアアイテムかなんか?」
「のんのん。人の名前よ。あだ名……というか、通り名かな。誰も本名は知らないんだけどね。あんまり強すぎるんで、誰が呼び始めたのか、ついた名前が絶剣。絶対無敵の剣、空前絶後の剣……そんな意味だと思うけど」
強い、と聞いて、アスナの好奇心は大いに刺激された。もとより剣の腕には大いに覚えのあるところだ。アルヴヘイム・オンラインのプレイヤーである今でこそ、後衛で回復魔法の詠唱が主任務となる水妖精――ウンディーネを種族として選択しているが、それでも時々昔の血がうずいて、腰のレイピアを抜いては敵陣に斬り込んでおお暴れしてしまうので、「バーサクヒーラー」などという優雅さとは縁遠い二つ名を頂戴してしまっている。
毎月開かれるデュエル大会にも積極的に参加して、ALOの三次元戦闘に慣れた今では火妖精族のユージーン将軍や風妖精族のサクヤ領主といった剛の者たちと肩を並べるにまでなっているので、新たなつわもの出現と聞いては無関心ではいられない。
書きかけの生物学のレポートをセーブし、ホロキーボードを消去すると、アスナはかたわらのマグカップを取り上げ、指先でワンクリックして熱いお茶を満たした。床から直接伸びる生木の椅子に深く座りなおし、本格的に話を聞く体勢に入る。
「それで……? その絶剣さんは、どんな人なの?」
「えっとね……」
新生アインクラッド第22層の深い森は、すっぽりと白い雪に覆われていた。
外の世界も一月初旬の冬真っ只中だが、近年とみに温暖化が進行していることもあり、東京では気温が零度を下回ることはほとんどない。現在建設が計画されている「都心第二階層」が数十年後に完成の暁にはほんものの雪が降ることすら無くなると聞く。
しかし、運営体のサービス精神の発露なのか、妖精の国アルヴヘイムではまさに厳冬と言うに相応しい気候が続いている。大陸の中央にある世界樹以北は、フィールドでの体感温度が零下10度、20度に下がることなどザラで、きちんとした防寒装備か、あるいは耐寒呪文の援護なしにはとても空を飛ぶ気にはなれない。
もっとも、小川の底まで凍りつくようなその寒気も、分厚い木壁に守られた部屋のなかまでは届かない。
2015年5月の、アルヴヘイム・オンラインの大規模アップデート――『浮遊城アインクラッド』実装以降、アスナをゲームプレイに駆り立てたモチベーションはただひとつだった。
必要な額のコル、いやユルド硬貨を遮二無二貯めて、誰よりも早く第22層の転移門をアクティベートし、針葉樹林の奥にぽつりとたつログ造りのプレイヤーハウスを購入すること。無論、はるかな昔に存在したもうひとつの浮遊城で、たった二週間だけだが楽しく、甘く、切ない日々を送った、まさにその場所に建つ家である。
22層は森しかない過疎フロアだし、主街区の村にもプレイヤーハウスはいくつも用意されているし、よもや同じ家を狙うライバルはいないだろうと思っていた。それでも、キリトはもちろんリズベットやシリカ、リーファたちの手も借り、どうにか膨大な額の資金を用意して、自らの手で倒した第21層ボスモンスターのしかばねを蹴り飛ばすようにログハウスの前にたどり着き、購入ウインドウのOKボタンをクリックし終えたときには、思わずしゃがみこんで泣いてしまった。(その夜、パーティーが終わって客たちが皆帰ったあと、キリトと、元の少女態に戻ったユイと三人で祝杯のグラスを合わせたときも、もう一度大泣きした)
なぜこの場所にこれほどまで拘ったのか、その理由はアスナにもなかなか言葉にすることはできない。はじめて本気の恋した男の子と、仮想世界のなかでとは言え艱難辛苦ののちにようやく結ばれ、短かったが幸せな日々を過ごした場所だから、と言ってしまうのは簡単だが、それだけではない気がアスナはしている。
おそらく、この家は、現実世界において常に居場所を探していたアスナが、ついに見出した真の意味での『ホーム』だったのだ。つがいの鳥が翼を休め、身を寄せ合って眠るような、小さく暖かい場所。心の還る場所。
もっとも、苦労のすえ手に入れて以来、ログハウスはすっかり仲間たちの溜まり場になってしまって、来客の途切れる日はほとんど無い。アスナが精魂こめて内装した小さな家の居心地よさは、一度訪れた者を例外なく虜にしてしまうようで、SAO時代の仲間はもちろん、ALOで新しくできた友人たちも頻繁にやってきてはアスナの手料理に舌鼓を打っていく。――いちど、どうしたタイミングか、サクヤとユージーンが同席してしまったときはなかなかに緊張感あふれる食卓が出現したものだが。
今日――2016年1月6日も、森の家のリビングルームに「生えた」樹のテーブルは、おなじみの面々で埋まっていた。
アスナの右隣にはシリカが座り、ホロウインドウ上に表示させた数式――冬休みの宿題に頭を捻りながらうなり声を上げている。左隣ではリーファが、同じく英文を睨んで顔をしかめている。
向かい側にはリズベットが座り、こちらは木苺のリキュール片手に椅子にふんぞりかえって脚を組み、ゲーム内で売っている小説に没頭しているようだった。
現実世界では午後4時ごろだが、窓の外はすでにとっぷりと日が暮れ、しんしんと降り積もる雪がランプの光を照り返していた。かすかな風鳴りの音を聞くまでもなく凍えるほどに寒そうだが、部屋の奥のペチカでは赤々と薪が燃え、その上の深鍋ではきのこのシチューがふつふつと湯気を上げて、暖かさとともにいい匂いを届けてくる。
アスナもホロキーボードに両手を置き、ブラウザ窓をいくつも宙に浮かべて(ALOのプレイヤーホームでは、オプション設定によってはゲーム外のネットにも接続できる)、そこに呼び出した資料に目を走らせながら、課題のレポートを順調に仕上げていた。
母親(もちろん現実の)は、アスナが現実世界でできることをVRワールドで済ませることにいい顔をしないが、長時間に及ぶ文章の入力などは、こちら側でやったほうが明らかに効率がいい。眼も手首も疲れないし、自室のモニタのUXGA解像度では不可能な数の資料窓をいくつも見やすい位置に浮かべておけるのだ。
いちど、母親にもそう言って、文章入力専用のアミュスフィア用アプリケーションを試させてみたことがあるのだが、ほんの数分で「眩暈がする」と言ってログアウトし、以来見向きもしなかった。
たしかに仮想世界酔いというものは存在するが、いまやダイレクトVRワールドネイティブであるとさえ言ってもいいアスナにとっては、こちら側の現実感はある意味では現実以上である。両手の指は一度のミスタイプもなく飛ぶように動き、エディタ上の文章は着々と結論へと近づいて――
と、そのとき、右肩にこつんと乗っかるものがあった。
見ると、シリカが、黒いショートヘアの頭をアスナの肩にもたれさせ、突き出た三角形の耳をぴくぴくさせながら、幸せそうな顔で寝息を立てている。
アスナは思わず微笑みながら、そっと左手の人差し指でシリカの猫耳をくすぐった。
「ほら、シリカちゃん。今寝ちゃうとまた夜眠れなくって困るよー」
「うにゅ……むにゃ……」
「冬休みもあと三日しかないんだよ。宿題がんばらないと」
耳をつんと引っ張ると、シリカはぴくんと体を震わせてから頭を起こした。ぼーっとした顔で何度か瞬きを繰り返し、頭をぷるぷる振ってアスナの顔を見る。
「う……うう……ねむいです」
呟きながら、小さな白い牙のある口を大きく開けて大きな欠伸をひとつ。アスナの知っている猫妖精族、ケットシーのプレイヤーたちはこの家にくると皆よく眠るので、ひょっとしてそういう種族的特性でもあるのかと疑いたくなる。
シリカの前のホロパネルを覗き込んで、アスナは言った。
「もうすぐそのページも終わりじゃない。がんばって、やっつけちゃおう?」
「ふ……ふぁい……」
「ちょっとこの部屋あったかすぎる? 温度下げようか?」
聞くと、今度は左隣で、リーファが笑いを含んだ声で言った。
「いえ、そーじゃなくて、アレのせいだと思いますよー」
「?」
振り向くと、リーファは黄緑色の長い髪を揺らして、部屋の奥、ペチカの向こうに視線を向けた。
「……ああ、ナルホド……」
その方向を見て、アスナは深く納得しながら頷いた。
赤々と燃える暖炉の前には、磨かれた木で出来た大きな揺り椅子がひとつ。
椅子に深く沈みこみ、白河夜船の体で眠りこけるのは、浅黒い肌に漆黒のつんつん髪を持つ影妖精族、スプリガンの少年だった。言うまでもなくキリトである。
彼の胸の上では、水色の羽毛を持つ小さなドラゴンが、これまた体を丸め、頭をふわふわのシッポに突っ込んで、心地よさそうに眠っている。ビーストテイマーであるシリカの、SAO時代からの相棒である小竜のピナだ。
そして、ピナの柔毛に包まれた体をベッドがわりに、さらに一回り小さな妖精があどけない寝顔を見せている。艶やかな濃紺のストレートヘア、白いワンピース姿の彼女は、キリト専用の「ナビゲート・ピクシー」でありまたアスナとキリトの「娘」でもある、その実体は旧SAOサーバーから突然変異的に生み出された人工知能のユイである。
キリトとピナとユイが三段の鏡餅のように積み重なり、揺り椅子の上で幸せそうに眠りこける有様は、一種魔力的と言ってもよい催眠効果を放射していて、数秒見つめるだけでアスナの目蓋もとろりと重くなってくる。
キリトというのが、実にまたよく眠る男なのだ。まるで、SAO時代寝る間も惜しんで迷宮区の攻略に明け暮れた貸しを今取り立てているとでも言うかのように、この家にいるときは、ちょっとでもアスナが目を離すとお気に入りの揺り椅子に倒れこんでぐうぐう眠ってしまう。
そして、揺り椅子の上のキリトの寝姿ほど、眠気を催させるものをアスナは知らない。
かつてSAOのなかに居たころは、森の家で、またエギルの店の二階で、キリトが椅子を揺らしていると、必ずといっていいほどアスナはその上に乗っかって、暖かいまどろみを共有したものだ。つまりアスナにとっても大いに身に覚えがあるところなので、シリカやリーファが眠気を誘われるのは理解できる。
しかし不思議なのは、至極単純なアルゴリズムで動いているはずのピナまでが、キリトが寝ているところに居合わせると、ご主人様であるシリカの肩からぱたぱた飛び立って、キリトの上でくるりと丸くなって眠ってしまうことだ。これはもう、寝ているキリトからはなんらかの「眠気パラメータ」が発生しているのではないかと疑いたくなる。実際、さっきまで頭をフル回転させてレポートを書いていたはずなのに、いつのまにか体がふんわりと……
「ちょっとアスナさん、自分が寝てますよ! あっ、リズさんまで!」
シリカに肩をゆさゆさと揺すられ、アスナははっと顔を上げた。
同時に、テーブルの正面ではリズベットがびくんと体を起こし、ぱちぱち目をしばたかせてから照れくさそうに笑った。銀妖精族レプラホーンの特徴である、金属光沢のあるペールピンクの髪をかきあげ、言い訳のようにぶつぶつつぶやく。
「アレ見てるとなんでこう眠くなるのかねぇ……。ひょっとしてスプリガンの幻影魔法じゃないだろうなぁー」
「ふふ、まさか。眠気覚ましに、お茶淹れるね。と言っても手抜きだけど」
アスナは立ち上がると、背後の棚から、カップを四つ取り出した。最近のクエストで手に入れた、「クリックするだけで99種類の味のお茶がランダムに湧き出す」魔法のマグカップだ。
テーブルにカップと、お茶うけのフルーツタルトが並ぶと、ゲンキンに眠気を払拭したシリカも含めて、四人はさっそくそれぞれ異なる香りのする熱い液体を口元に運んだ。
「そういえば、さ」
リズベットが思い出したように言ったのは、その時だった。
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
* * *
「うわさをよく聞くようになったのは、ちょうど年末年始のあたりだから……一週間前くらいからかなあー」
そう言うと、リズベットは何かを合点したかのようにちいさく頷きながらアスナを見た。
「そっか、じゃあアスナが知らないのも当然か。あんた年末からずっと京都だったもんね」
「もう、こっちにいる時に嫌なこと思い出させないでよリズ」
アスナが渋面をつくると、リズは大きな口をあけてあっはっはと笑った。
「いやー、イイトコのお嬢さんも大変だね」
「ほんと大変だったわよ。一日中着物で正座して挨拶ばっかりしてたし、夜に『潜ろう』にも母屋にはいまどき無線LANも入ってないんだよ。アミュスフィアもってったのに無駄になっちゃった」
ふう、とため息をついて、お茶をごくりと飲み干す。
アスナは、昨年末から両親、兄とともに、京都にある結城本家、つまり父親の実家になかば強制的に赴かされていた。アスナの、二年にわたる「入院」の間に親類筋には大いに心配をかけ、また世話になったからそのお礼を、と言われれば嫌とも言えない。
幼い頃は、年始を本家で過ごすのは当たり前のことと思っていたし、同年代のいとこたちに会うのも楽しみだった。
しかし、中学に上がった頃からだったろうか。アスナはだんだん、その恒例行事が気詰まりに思えるようになってしまった。
結城の本家というのは、誇張でなく二百年以上も前から京都で両替商を営んできた家で、維新や戦争の動乱にもしぶとく生き残り、現在では関西一円に支店を持つ地方銀行を経営している。父親の結城彰三が、一代でレクトという大電器メーカーを興せたのも本家の潤沢な資金援助があったればこそであり、親戚筋を見渡せば、社長だの官僚だのはごろごろ転がっているのだ。
当然のように、いとこたちは皆アスナや兄と同じような「いい学校」の「優等生」で、宴席で子供たちが行儀良く並んで座るとなりでは、親たちがうちの子は何の大会で表彰されただの、全国模試で何番を取っただのという話を、表面上は穏やかに、だが延々と応酬し続けるのである。自分を包み込む世界の「硬さ」に恐怖を覚えはじめていたアスナにとっては、毎年のその行事が、子供たち全員に序列を付け直す作業のように思えたのだった。
2012年11月、中学三年の冬にアスナはSAOに捕われ、2015年の1月にキリトの手によって解放されたので、今年の年始の挨拶は実に四年ぶりということになる。本家の、京風数寄屋造りの広大な屋敷で、アスナはきつい振袖を着せられ、祖父、祖母をはじめ膨大な数の親類縁者に、しまいには自分が接客NPCに思えてくるほどに繰り返し挨拶をさせられた。
それでも、ひさしぶりにいとこたちと会えるのは嬉しいことだったのだが、アスナの無事なる帰還を我が事のように喜んでくれる彼ら彼女らの瞳のなかに、アスナは嫌なものを見つけてしまったのだった。
いとこたちは一様に、アスナを憐れんでいた。生まれたときから始まり、そしてまだ何年も続くレースから、早くも脱落してしまったアスナに同情し、可哀想だと思っていたのだ。考えすぎではない。子供のころからずっと人の顔色を窺い続けていたアスナには判る。
もちろん、今のアスナは、その頃の人格とは全く異なる存在だ。あの世界が、そして一人の少年が否応なくアスナを生まれ変わらせた。だから、いとこたちや、おじ、おばたちの憐憫も、アスナの心の表面を微風のように通過していったにすぎない。自分はまず第一に剣士であり、戦う人間である、それはあの世界が消えたいまでも変らないという信念がアスナの心を支えている。
しかし、その価値観は、VRMMOなどというものは害悪としか考えていないいとこたちにはまったく理解してもらえないだろう。そして、本家にいるあいだじゅう、ずっとどこか不機嫌だった母親にも。
いい大学に入り、いい就職をしなければという強迫観念はもう欠片もない。今の学校は好きだし、あと一年かけて、本当にやりたいことをじっくり探すつもりだ。もちろん、いっこ年下の男の子と現実世界でも家庭を持つのが最終目標であるのだが。
――などと考えながら、アスナはにこやかに親戚たちのあれやこれやの詮索をやり過ごし続けたのだが、どうにも参ったのは、明日にはようやく東京に戻れるという晩に、はとこにあたるという二つ年上の大学生と屋敷の奥まった部屋で二人きりにされたことだった。
本家の銀行の専務だかの息子だというその男は、自分が何を専攻しており、もう就職が決定しているという銀行ではどのようなポストにつきどのように出世していくかということをひたすら喋りつづけ、アスナとしてははあそうですかと思いつつ笑顔で感心してみせるしかなかったのだが、引っかかるのはまるで周囲が示し合わせてアスナとその男を二人きりで残したように思えてならないことで、ことによるとそこには何か大人たちの胡散臭い意図が……
「ちょっとアスナ、聞いてる?」
テーブルの下でリズベットにつま先をつつかれ、アスナはハッと物思いから復帰した。
「あ、ご、ごめん。ちょっとヤなこと思い出しちゃって」
「なあにそれ? 京都でお見合いでもさせられた?」
「…………」
「……なにひきつってるのよアンタ。……まさか……」
「ないない、なんにも無いわよ!」
アスナはぶんぶん首を振ると、空になったマグカップを再びクリックし、湧き出した怪しい紫色のお茶をごくごくと喉に流し込んだ。
「それで……強いって、その人はPKerなの?」
「んーん、デュエリストよ。セルムブルグのちょっと北にさ、でっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない。あそこの樹の根元に、毎日午後3時になると現われて、立ち合い希望プレイヤーと一人ずつ対戦すんの」
「へええー。大会とか出てた人?」
「や、まったくの新顔らしいよ。でもレベルは相当高そうだから、どっかからのコンバートじゃないかな。最初は、MMOトゥデイの掲示板に対戦者募集って書き込みがあってさ。ALO初心者のくせにナマイキだ、いっちょへこましたろう、って奴らが30人くらい押しかけたらしいんだけど……」
「返り討ち?」
「全員、きれいにね。HPを三割以上削れた人はひとりもいなかった、ってゆーんだから相当だよね」
「ちょっと信じられませんよねー」
フルーツタルトをもぐもぐしながら、シリカが割って入った。
「あたしなんか、まともにエアレイドできるようになるまで半年くらいかかったんですよ。なのに、コンバートしたてであの飛びっぷりですからね!」
「シリカちゃんも対戦したの?」
アスナが訊くと、シリカは目を丸くして首をぶんぶん振った。
「まさか! デュエルを観戦しただけで勝てないのは確信しましたもん。ま、リズさんとリーファはそれでも立ち合ったんですけどね。ほんと、ちゃれんじゃーですよね」
「うっさいなあ」
「何事も経験だもん」
リズベットとリーファが口を尖らせて言うのを笑顔で聞きながら、アスナは内心で少々驚いていた。
もとより種族的に戦闘は不向きで、その上鍛冶スキルを優先的に上げているリズベットはまだしも、シルフ随一と言っていいエアレイドの達人であるリーファを空中戦で上回るとは只者ではない。しかもコンバートしたてで、などという話はもはや前代未聞と言っていい。
「それは本物っぽいねえ。うーん、ちょっとワクワクしてきたなあ」
「ふっふ、アスナはそう言うと思った。もう、月例大会の上位常連どころで残ってるのは、サクヤとかユージーンとかの領主やら将軍組だけなんだけど、あのへんは立場的に辻試合は難しいしねえ」
「でも、そんだけ強さを見せ付けちゃうと、もう対戦希望者なんていなくなっちゃったんじゃないの? 辻デュエルの負け経験値ペナルティって相当なもんでしょ?」
「それがそうでもないんです。賭けネタが奮ってるんですよ」
と、再びシリカ。
「へえ? なにかすごいレアアイテムでも賭けてるの?」
「アイテムじゃないんです。なんと、オリジナル・ソードスキルを賭けてるんですよ。すっごい強い、必殺技級のやつ」
アスナは思わず、キリトの癖を真似て、肩をすくめながらピュウと口笛を吹きたくなる衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
「OSSかぁー。何系? 何連撃?」
「えーと、見たトコ片手剣系汎用ですね。なんとびっくり十一連撃ですよ」
「じゅーいち!」
今度こそ、反射的に唇を細めて高い音を鳴らしてしまう。
今は無き旧ソードアート・オンラインをSAOたらしめてした代表的なゲームシステム、それが「ソードスキル」である。
無数の系統の武器ごとに設定された「技」のことで、内容は一撃必殺の単発攻撃から疾風怒濤の連続攻撃まで様々だ。武器による通常攻撃と異なるのは、一度初動を開始すれば、脳神経直結環境技術の本来的な制約である通信ラグを無視して、技の出終わりまでシステムが最大速度で体を自動操縦してくれるという点である。副次的効果として攻撃中は派手なライトエフェクトとサウンドエフェクトを伴い、技の使用者は自分が超戦士となったかのような快感を味わうことができる。
アルヴヘイム・オンラインにおける、一連の大規模アップデートの一環として、新運営体はソードスキル・システムもほとんどオリジナルのままの形で実装するという大胆な決断をした。
つまり新生ALOは、戦闘システムに根幹からの大変革を加えられたことになる。これはさすがにプレイヤー達の間に大論議を巻き起こしたが、反対論者たちもいちどソードスキルを体験するとほとんどの者がその快感に魅せられてしまった。アップデートから半年以上が経過した現在でも、「空中機動」+「剣技」という新しい戦闘体系は、多くのユーザーコミュニティで日々活発な報告と議論の対象となっている。
さて、そのソードスキルだが、冒険心溢れる運営者たちは、先人の遺産をただそのまま拝借することを良しとしなかった。
そこで彼らが新要素として開発・導入したもの、それが「オリジナル・ソードスキル」システムだ。
その名のとおり、「独自の剣技」である。動きすべてがあらかじめ設定されている既存の剣技ではなく、プレイヤー自らが編み出し、登録することのできるソードスキル。
これが発表されたとき、多くのプレイヤー達は、「ド派手」で「かっこいい」自分だけの必殺技を手に入れようと、我先にとそれぞれの武器を振り回した。
そして一様に深い挫折を味わった。
オリジナルソードスキル略してOSSの登録手順は非常に単純だ。
まずウインドウを開き、OSSタブに移動し、剣技記録モードに入って記録開始ボタンを押す。その後、おもむろに武器を振り回し、技が終わった時点で記録終了ボタンを押す。それだけだ。
しかし、「ぼくのかんがえた必殺技」がソードスキルとしてシステムに認められるためには、非常に厳しい条件をクリアする必要があった。
斬り(スラッシュ)と突き(スラスト)の単発技は、ほぼ全てのバリエーションが既存の剣技として登録済みである。よって、OSSを編み出そうと思ったら、それは必然的に連続技とならざるを得ない。しかし、一連の動きにおいて、重心移動や攻撃軌道その他もろもろに無理がわずかにもあってはならず、また全体のスピードは、完成版ソードスキルに迫るものでなくてはならない。
つまり、本来システムアシストなしには実現不可能な速度の連続技を、アシストなしに実行しなくてはならないという、矛盾とさえ言っていいほどの厳しい条件が課せられているのだ。
そのハードルをクリアする方法は只ひとつ、気が遠くなる回数の反復練習あるのみである。一連の動きを、脳のシナプスが完全に覚えこむまで。
本来そういう地味な鍛錬が苦手な傾向のあるVRMMOプレイヤー達は、そのほとんどがあっけなく「俺必殺技」の夢を放棄してしまった。それでも、一部の努力家たちがOSSの開発・登録に成功し、中世の剣術流派開祖にも似た栄誉を手にすることになった。
実際、一部のプレイヤーは「○○流」という名のギルドを興し、街に道場を開くに至っている者すらいる。
それを可能にしたのが、OSSシステムに付随する「剣技伝承」システムだ。
つまり、OSSを編み出すことに成功したものは、一代コピーに限って、技の「秘伝書」を他のプレイヤーに伝授することができるわけだ。
OSSは、対プレイヤーはもちろん、対モンスターにも絶大な効果を発揮する。それゆえ皆が欲する。いきおい技の伝承は非常に高額な代償を必要とするようになり、五連撃を超えるような「必殺技」の秘伝書はALO世界で最も高価なモノとなりつつある。現在一般に知られているなかで、最も強力なOSSは、サラマンダー将軍のユージーンが編み出した『ヴォルカニック・ブレイザー』八連撃であるが、金には困らない立場のユージーンはこれを誰にも伝承させていない。一応アスナ自身も数ヶ月の苦労の果てに六連撃技の開発に成功しているが、それですっかり気力を使い果たし、新しい技に取り掛かる気には当分なりそうもない。
そのような状況のなかに登場したのが、破格の十一連撃技をひっさげた謎の剣豪『絶剣』、というわけなのである。
「まあ、そういうことなら対戦希望者が殺到するのも納得だね。みんなはそのソードスキル、実際に見たの?」
アスナの問いに、三人はそろって首を振った。代表して、リズベットが口を開く。
「んーん、なんでも、辻デュエルを始めた初日のいちばん最初に、演舞として披露したらしいんだけど、それっきり実戦では使ってないみたいね。……というか、OSSを使わせるほど絶剣を追い詰められた人はまだ誰もいない、って言うか」
「リーファちゃんでも無理だったの?」
尋ねると、リーファはしゅんと肩を落として首を振る。
「お互い、HPが六割切るくらいまではいい勝負だったんですけど……結局最後までデフォルト技だけで押し切られちゃいました」
「へええ……。――そう言えば、肝心なことな何も聞いてなかった。種族とか、武装は? どんなの?」
「あ、インプですよ。武器はレイピアですけど、アスナさんの剣よりもうすこし重いかな。――ともかく、速いんです。通常攻撃もソードスキル並みのスピードで……動きが目でも追えないくらいでしたよ。あんなこと初めてですよ、すごいショック」
「スピード型かー。リーファちゃんにも見えないんじゃ、わたしも勝機ナシかな。……――あ」
そこまで言ってから、アスナはようやく重要なことを思い出した。
「動きのスピードと言えば、反則級のヒトがそこで寝てるじゃない。キリト君は? そういう話、興味持ちそうだけど」
言うと、リズベット、シリカ、リーファは互いに目を見交わし、いきなりプッと吹き出した。
「――な、なに、どうしたの?」
あっけに取られるアスナに向かって、リーファがくすくす笑いながら、衝撃的なことを口にした。
「ふふふ。――もう戦ったんですよ、お兄ちゃん。そりゃもう、きれーに負けました」
「ま……」
負けた。あのキリトが。
アスナは口をぽかんと開け、そのままたっぷり数秒間にわたって固まった。
剣士としてのキリトは、アスナのなかでは最早「絶対的強者」という名の観念的存在となっていると言っても過言ではない。SAO、そしてALOの二世代を通して、一対一のデュエルでキリトを破ったのはアスナの知る限り血盟騎士団々長ヒースクリフ唯一人であり、それすらもゲームマスターとしてのシステム的優遇措置に助けられた結果である。
リズベット達には喋ったことは無いが、実はアスナ自身もSAO時代に一度だけ、キリトとギリギリの本気デュエルで剣を交えたことがある。
まだ知り合って間もない、アスナがKoB副長として最前線攻略の指揮を取っていた頃の話だ。
あるフロアの強力なボスモンスターの攻略方針を巡って、KoB以下の最速攻略優先派ギルドと、キリト以下数人のソロプレイヤーが対立したことがあった。両者の主張は平行線のまま妥協点を見出すことが出来ず、最終的に双方の代表によるデュエルで結論を出すことにしたのだ。
アスナはその頃すでに、内心ではキリトに惹かれつつあったのだが、まだその気持ちを打ち消そうという気分も大きかった。個人的な感情が、ゲームクリアという大義に優先することは許されないと思っていたのである。
デュエルは、自分のなかの柔弱な心を打ち消すいい機会だとアスナは考えた。キリトを倒し、ボスモンスターをきっちり効率的に討ち取ることで、ふたたび冷徹な自分に戻れるだろうと。
しかしアスナは、キリトという一見頼り無さそうな剣士の隠された実力を知らなかった。
デュエルは熱戦の名に相応しいものだった。剣を打ち交わすうちに、アスナの脳裏からすべてのしがらみは吹き飛び、ただ好敵手と戦うことのよろこびだけが全身にあまねく満ち溢れた。かつて体験したことのない次元での、直接脳神経パルスを交感するかのような戦闘はおよそ20分にも及んだのだが、その時間すらも意識することはなかった。
そしてアスナは敗れた。全身全霊の気合を乗せた突きを、およそ人間技とは思えない反応で回避され、直後にレイピアはアスナの右手から弾かれて空高く舞った。
結局、そのデュエルを経験することによって、逆にアスナの恋心は打ち消しようのないものになってしまったのだが、同時にキリトの剣はアスナのなかにもうひとつの印象を深く刻んでいった。
――最強の剣士。その確信は、SAO時代の「キリト」というキャラクターデータが消滅した今でも、わずかにも薄れてはいない。
ゆえにアスナは、キリトが「絶剣」に敗れたという話に、戦慄すら伴う衝撃を受けたのである。
アスナはリーファからリズベットに視線を移すと、掠れた声で聞いた。
「キリトくんは……本気だったの?」
「う~~~ん……」
リズベットは腕組みをすると眉をしかめた。
「こう言っちゃなんだけど、あの次元の戦闘になると、あたし程度じゃ本気かそうでないかなんて判らないんだよね……。まあ、キリトは二刀じゃなかったし、そういう意味じゃ全力ってことにはならないんだろうけど。それに、さ……」
リズベットはふと言葉を切ると、暖炉の炎を映して煌めく瞳を、眠るキリトに向けた。その口もとに、穏やかな微笑が浮かぶ。
「あたし、思うんだ。たぶん、もう、正常なゲームの中じゃ、キリトがほんとのほんとに本気で闘うことは無いんじゃないかな、ってさ。逆に言えば、キリトが本気になるのはゲームがゲームじゃなくなった時、バーチャルワールドがリアルワールドになった時だけ……だから、アイツが本気で闘わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ。ただでさえ厄介な巻き込まれ体質なんだから」
「…………」
アスナは、ちくりとする胸の痛みを意識しながら、リズベットの言葉にこくんと頷いた。
「ン……。そうだね」
両隣で、リーファとシリカもそれぞれの感慨を込めながらゆっくりと首を動かす。
しばし訪れた沈黙を破ったのはリーファだった。
「――でも、あたしが感じた限りではですけど……お兄ちゃん、真剣だったと思いますよ。少なくとも、手を抜いてたってことはまったく無いと思います。それに……」
「……なあに?」
「確信はないんですが、勝負が決まるちょっと前、鍔迫り合いで密着して動きが止まったとき、お兄ちゃん何か喋ってたような気がするんですよね……。そのすぐ後、二人が距離を取って、絶剣さんの突進攻撃をお兄ちゃんが回避しきれないで決着したんですが……」
「ふうん……何話してたんだろ?」
「それが、聞いても教えてくれないんですよね。何かありそう……な気はするんですけどねえ」
「そっか。じゃあ多分、わたしが聞いてもだめだろうなあ。あとはもう、直接闘ってみるしかない、かな」
アスナが呟くと、リズベットが眉を上げた。
「やっぱり闘う気?」
「勝てるとは思わないけどねー。なんだかその絶剣ってヒト、何か目的があってALOに来たような気がするんだ。辻デュエルすること以外にね」
「うん、それはあたしも思った」
「ともかく、明日セルムブルグに行ってみるよ。付き合ってくれる?」
くるりと見回すと、リズベット、シリカ、リーファは同時に頷いた。シリカがシッポをぴんぴん振りながら言う。
「もちろんですよ! こんな名勝負見逃せません」
「勝負になるかどうかわかんないけど……じゃ、決まりね。午後3時に現われるんだっけ、なら2時半にここで待ち合わせしよう」
ぽん、と両手を合わせてから、アスナはウインドウを出し、現実時間窓に目を走らせた。
「いけない、もう6時か。晩御飯遅れちゃう」
「じゃ、今日はここでお開きにしましょう」
リーファが自分の前のウインドウをセーブし、ぱぱっと片付ける。三人がそれにならうあいだに、リーファは揺り椅子に歩み寄ると、背もたれを掴んでがっこがっこと派手に揺らした。
「ほら、お兄ちゃん起きて! 帰るよー!」
その様子を微笑しつつ見やりながら、アスナはふとあることに思い至り、リズベットに顔を寄せた。
「ねえ、リズ」
「なに?」
「さっき、絶剣はコンバートプレイヤーだろう、って言ったけどさ……。それだけ強いなら、可能性としては、もしかすると……元SAOプレイヤー、って線もあるんじゃないの?」
小声で尋ねると、リズは真剣な表情を作り、小さく頷いた。
「うん。あたしもまずそれを疑ったんだ。で、キリトが絶剣と闘ったあと、どう思うか訊いてみたんだけどさ……」
「キリト君は、何て……?」
「絶剣がSAOプレイヤーだった可能性は、まず無いだろう、って。なぜなら……」
「…………」
「もし絶剣があの世界にいたなら、二刀流スキルは、俺でなくあいつに与えられていたはずだ、って」
SAOex4_02_Unicode.txt
チチッ
という短い電子音とともに、アミュスフィアの電源が落ちた。
薄っすらとまぶたを持ち上げる。同時に、湿った冷気が肌にまとわりつくのを、明日奈は感じた。
エアコンを弱暖房運転にセットしておいたのだが、タイマーを解除するのを忘れてダイブ中に停止してしまったらしい。10畳の少し広すぎる部屋の温度は、完全に外気と熱平衡に達している。かすかな音に気付いて大きな窓に目を向けると、黒いガラスに無数の水滴が張り付いていた。
明日奈は身震いしながら、ベッドの上でゆっくりと体を起こした。サイドボードに埋め込まれた統合操作パネルに指を伸ばし、タッチセンサーを一度叩く。それだけで、軽いモーター音とともに二箇所の窓のカーテンが閉まり、エアコンが息を吹き返し、天井の隅のライトパネルがややオレンジがかった光を灯す。
レクト家電部門が開発した、最新のパッケージング・インテリア技術が明日奈の部屋にも使われている。入院中にいつのまにか部屋がリフォームされていたのだが、明日奈はなぜかこの便利な仕掛けが好きになれない。ウインドウひとつで部屋中のものが操作できるのは、VRワールドでは当たり前のことだが、それが現実世界に出現すると、どこか薄ら寒いものを感じさせるのだ。壁や床のいたるところに張り巡らされたセンサー類の、無機質な視線をどうしても肌に意識してしまう。
あるいはそう感じるのは、何度か訪れたことのあるキリト――和人の家が伝統的な和風家屋で、あの暖かみと自宅の冷たさをつい対比してしまうからかもしれない。母方の祖父母の家もちょうどあんな感じだった。夏休みに遊びにいったときは、陽光の降り注ぐ縁側に座って足をぶらぶらさせながら、おばあちゃんが作ってくれたかき氷を食べたものだ。その祖父母はすでに鬼籍に入り、家も取り壊されてしまって久しい――。
小さくため息をつきながら、明日奈はスリッパに足を突っ込み、立ち上がった。途端、かすかに立ちくらみを感じて、じっと俯く。現実の重力がずしりと全身を引き寄せるのを強く意識する。
無論、仮想世界の中でも同じだけの重力感覚はシミュレートされている。だが、あの世界のアスナはいつでも軽やかに地を蹴り、体と魂を空に解き放つことができる。現実世界の重力というのは、単なる物理的な力ではない。どうしても振りほどくことのかなわない、様々な事象の重さが含まれている。再びベッドに倒れこんでしまいたい誘惑に駆られるが、すぐに夕食の時間だ。一分でも遅れれば、母親の小言のネタがひとつ追加されてしまう。
重い足をひきずるようにクローゼットの前に移動すると、手を伸ばすまでもなく、扉が折りたたまれながらスライドした。ゆったりした厚手のスウェットの上下を脱ぎ、何かに反抗するかのように床に放り投げる。染みひとつない白のブラウスと、ダークチェリーのロングスカートに着替え、隣のドレッサーのスツールに腰を下ろすと、またしても自動で三面鏡が展開し、上部の明るいライトが点灯する。
母親は、家の中でも明日奈がいいかげんな格好をしているのを好まない。ブラシを手にとり、ダイブ中に乱れた長い髪を手早く整える。
ふと、今ごろ川越の桐ヶ谷家ではどのような光景が繰り広げられているだろうか、と明日奈は考えた。
今日は和人と二人で食事当番なのだと直葉は言っていた。まだ寝惚け眼の和人を、直葉が階下に引き摺っていく。二人で台所に並び、直葉が包丁を使う隣で和人が魚を焼く。そのうちに母親の翠さんが帰ってきて、テレビを見ながらビールの晩酌を始める。賑やかな応酬のあいだにも次第に料理が出来上がり、テーブルに並ぶと、三人揃っていただきますを言う。
震える息を大きくひとつ吐いて、明日奈はこぼれそうになった涙をこらえた。ブラシを置き、立ち上がる。
自分の部屋から薄暗い廊下に一歩出ると、ドアを閉める直前に、背後で照明が勝手に落ちた。
半円を描く広い階段を降り、一階ホールに出ると、ハウスキーパーの佐田明恵がちょうど玄関のドアを開けようとしているところだった。夕食の用意を済ませ、帰宅するところだろう。
40代前半の小柄な女性に向かって、明日奈はぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様です、佐田さん。毎日ありがとう。遅くまで御免なさいね」
言うと、明恵は滅相もない、というふうに目を丸くして首を振り、直後深々と一礼する。
「と、とんでもないです、お嬢様。仕事ですので」
明日奈でいい、と言っても無駄なのはこの一年で思い知っている。かわりに歩み寄ると、小声で尋ねた。
「母さんと兄さんはもう帰ってます?」
「浩一郎様はお帰りが遅くなるそうです。奥様はもうダイニングにいらっしゃいます」
「……そう、ありがとう。引き止めてごめんなさい」
明日奈がもう一度会釈すると、明恵は再び深く腰を折り、重いドアを開けてそそくさと帰っていった。
彼女には確か中学生と小学生の子供がいるはずだ。家は同じ世田谷区内だが、今から買い物をして帰宅すると、七時半を回ってしまうだろう。食べ盛りの子供には辛い時間だ。一度、母親にそれとなく、夕食は作り置きしてもらってもいいじゃないと言ってみたことがあるのだが、一顧だにされなかった。
三箇所のドアロックが掛かる金属音を聞きながら、明日奈はきびすを返し、ホールを横切ってダイニングルームへと向かった。
重厚なオーク材のドアを開けた途端、静かだがびんと張った声が明日奈の耳を叩いた。
「遅いわよ」
ちらりと壁の時計を見ると、6時半ちょうどである。だがそのことを口にする前に、再び声が飛んでくる。
「五分前にはテーブルに着くようにしなさい」
「……ごめんなさい」
低い声で呟きながら、毛足の長いカーペットを踏んで、明日奈はテーブルへと歩み寄った。視線を伏せたまま、背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。
20畳はあろうかというダイニングルームの中央に、12脚の椅子を備えた長いテーブルが設えてある。その北東の角から二番目が明日奈の席と決まっている。左隣が兄・浩一郎の椅子であり、東端が父・彰三の椅子だが、今は両方とも空いている。
そして、明日奈の左斜め向かいの椅子に、母親の結城京子が座し、お気に入りのシェリー酒のグラスを片手に、ポータブル端末に視線を落としていた。
女性としてはかなりの長身だ。痩躯だが、しっかりした骨格のせいで華奢というイメージはない。艶やかなダークブラウンに染められた髪を左右に分け、あご下の線でぴしりと切り揃えている。
顔立ちは、整ってはいるものの、鋭い鼻梁とあごのライン、そして口もとに刻まれた短く深い皺が冷厳な印象を拭いがたく与えている。もっともそれは本人が望んで作り上げたイメージかもしれない。鋭い舌鋒と辣腕の政治力で学内のライバルたちを蹴落とし、昨年49歳にして教授の座に着いた人物なのだ。
明日奈が席に着くと、京子は顔を上げないまま端末を片付け、ナプキンを広げて膝に置いた。ナイフとフォークを取り上げたところで、ようやく明日奈の顔をちらりと見る。
今度は明日奈が視線を伏せ、いただきます、と呟いてスプーンを手に取った。
しばらく、銀器が立てるかすかな音だけがダイニングに響いた。
ブルーチーズ入りのグリーンサラダ、そら豆のポタージュ、白身魚のグリルにハーブのソース、全粒粉のパン、エトセトラ……といったメニューだ。毎日の食事はすべて京子が栄養学的に計算し、決めたものだが、勿論調理したのは彼女ではない。
いつの頃から、母親とふたりだけの食卓が、こんなに緊張感に満ちたものになってしまったのだろう、と考えながら明日奈は手を動かした。
いや、あるいはずっと昔からこうだったのかもしれない。スープをこぼしたり、野菜を残したりすると手厳しく叱責された記憶がある。昔の明日奈は、賑やかな食卓というものを知らなかっただけなのだ。
機械的に食事を続けながら、記憶のかなた、異世界の我が家へと意識が彷徨いそうになった時、京子の声が明日奈を引き戻した。
「……またあの機械を使ってたの?」
明日奈はちらりと母親に視線を向け、小さく頷いた。
「……うん。みんなと宿題する約束があったから」
「そんなの、ちゃんと自分の手でやらないと勉強にならないわ」
自分の手でやっていることに代わりはないのだ、と言っても京子には理解してもらえないのは明らかだ。明日奈は俯いたまま、違うことを言う。
「みんな、住んでるとこが遠いの。あっちでなら、すぐに会えるのよ」
「あんな機械使っても会ってることにはならないわよ。だいたい、宿題なんて一人でやるものです。友達と一緒じゃ遊んじゃうだけだわ」
シェリー酒のグラスを傾け、京子は舌の速度をさらに上げる。
「いい、あなたには遊んでる余裕なんてないのよ。他の子より二年も遅れたんだから、二年分余計に勉強するのは当たり前でしょう」
「……勉強はちゃんとしてるわ。二学期の成績通知表、プリントして机に置いておいたでしょう?」
「それは見たけど、あんな学校の成績評価なんてあてになりませんよ」
「あんな……学校?」
「いい、明日奈。三学期は、学校のほかに家庭教師を付けるわ。最近はやってる機械越しのじゃなくて、ちゃんと家に来て見てもらいます」
「ちょ……ちょっと待ってよ、そんな急に……」
「これを見てちょうだい」
京子は有無をいわせぬ口調で明日奈の抗議を遮ると、テーブルから端末パネルを取り上げた。差し出されたそれを受け取り、明日奈は眉をしかめて画面に目を走らせる。
「……なにこれ……。編入試験……概要?」
「お母さんのお友達が理事をしてる高校の、三年次への編入試験を、無理を言って受けられるようにしてもらったのよ。あんな寄せ集めの学校じゃなくて、ちゃんとした高校です。そこは単位制だから、あなたなら前期だけで卒業要件を満たせるわ。そうすれば、九月から大学に進学できるのよ」
明日奈は唖然として京子の顔を見つめた。端末をテーブルの上に戻し、右手を小さく上げて、尚も言い募ろうとする京子の言葉を遮る。
「ま、待って。困るよ、そんなこと勝手に決められても。わたし、今の学校が好きなの。いい先生も沢山いるし、勉強はあそこでもちゃんとできるよ。転校なんて必要ないわ」
どうにかそれだけ言うと、京子はこれみよがしなため息をついた。目蓋を閉じ、金縁の眼鏡のブリッジ部分を指先で押さえながら、椅子の背もたれに体を預ける。この間の取り方も、京子一流の、常に己の優位を相手に意識させつづけるための話術の一環だ。教授室のソファーでこれをやられた男性はさぞ萎縮することだろう。夫の彰三ですら、家のなかでは京子との意見対立を極力避けているように見える。
「……お母さん、ちゃんと調べたのよ」
京子は諭すような調子で話しはじめた。
「あなたの通っているところは、とても学校とは言えないわ。いいかげんなカリキュラムに、レベルの低い授業。教師だって寄せ集めで、まともな経歴のある人はほとんどいないじゃない。あれは教育機関と言うよりも、矯正施設とか、収容施設とか言ったほうがいい場所だわ」
「そ……そんな言い方……」
「事故のせいで教育が遅れてしまった生徒の受け皿なんて体のいい事を言ってるけど、あの学校は、ほんとうのところは、将来的に問題を起こすかもしれない子供を一箇所に集めて監視しておこうっていう、ただそれだけの場所なのよ。それは確かに、おかしな世界でずっと殺し合いをしてた子供もいるそうだから、そういう施設は必要かもしれないけれど、でもあなたまでそんなところに入ることはないのよ」
「…………」
あまりに一方的な言葉をぶつけられ、明日奈は口を開くこともできない。痺れたような思考の奥底で、一瞬、すべてを吐露してしまおうかという衝動が頭をもたげる。わたしもその殺し合いをしてきたのだ、この手で人ひとりの命を奪ったのだ、と。そしてそのことを、わたしは一片も悔いていないのだ、と。
「あんなところに通ってても、まともな進学なんてできるわけないわ」
明日奈の葛藤に気付く様子もなく、京子は早口で話し続ける。
「いい、あなたは今年でもう19になるのよ。でも、今のところにいたんじゃ、大学に入れるのがいつになるか判ったもんじゃない。中学の時のお友達は、今ごろみんな受験の真っ最中だわ。少しは焦る気持ちがないの?」
「進学なんて……何年遅れたって、たいした問題じゃないわ。それに、大学に行くだけが進路じゃないし……」
「いけません」
京子は明日奈の言葉をにべもなく否定した。
「あなたには能力があるの。それを引き出すために、お母さんとお父さんがどれくらい心を砕いてきたかあなたも知ってるでしょう。なのに、あんなおかしなゲームに二年も無駄にさせられて……。平凡な子供なら、お母さんだってこんなこと言いませんよ。でも、あなたはそうじゃないでしょう? 与えられた才能を十全に生かさず、腐らせてしまうのは罪だわ。あなたは立派な大学に行って、一流の教育を受ける資格と能力がある。ならそうすべきです。省庁や企業に入って能力を生かすもよし、大学に残って学究の道に進むもよし、お母さんもそこまでは干渉しません。でも高等教育を受ける機会すら放棄することは許さないわよ」
「先天的な才能なんてものはないわ」
明日奈はどうにか、京子の長口上の接ぎ穂に言葉を割り込ませた。
「人の生き方なんて、今ある自分が全てでしょう? わたしも昔は、いい大学に入っていい就職をすることが人生のすべてだと思ってた。でも、わたしは変わったの。今はまだ答えは出せないけど、本当にやりたいことが見つかりそうなのよ。今の学校にあと一年通って、それを見つけたいの」
「自分で選択肢を狭めても仕方ないでしょう。あんなところに何年通っても、何の道も開けないわ。でも、編入先の学校は違うわよ。上の大学は名門校だし、そこでいい成績を残せば、お母さんのところの大学院にだって入れるわ。いい、明日奈。お母さんは、あなたに惨めな人生を送ってほしくないの。誰にでも胸を張って誇れるキャリアを築いてほしいのよ」
「わたしのキャリアって……それなら、あの人はなんなの? 本家で引き合わされた……何を吹き込んだのか知らないけど、あの人もうわたしと婚約でもしたような口ぶりだったわよ。わたしの生き方の選択肢を狭めてるのは母さんじゃない」
明日奈は自分の声がわずかに震えるのを抑えられなかった。視線に精一杯の力をこめたが、京子は動じる様子もなくグラスに唇をつける。
「結婚もキャリアの一部よ。物質的に不自由のあるような結婚をしてしまったら、五年、十年先に後悔するわ。あなたの言うやりたい事だって、できなくなっちゃうわよ。その点、裕也君なら申し分ないわ。今時、大手の都市銀行よりも地盤のしっかりした地方銀行のほうが安心だしね。お母さんは裕也君を気に入ったわよ。素直ないい子じゃない」
「……何にも反省してないのね。あんな事件を起こして、わたしと大勢の人を苦しめて、レクトの経営を危くしたのは、母さんが選んだ須郷伸之なのよ」
「やめてちょうだい」
京子は盛大に顔をしかめ、煩い羽虫でも払うように左手をぱたぱたと振った。
「あの人の話は聞きたくもないわ。……だいたい、あの人を気に入って養子にしようって言い出したのはお父さんですよ。人を見る目がないのよ、昔から。大丈夫よ、裕也君はちょっと覇気のないところがあるけど、そのぶん安心できるじゃない」
たしかに、明日奈の父彰三は、ずっと以前から身近な人間をあまり顧みないところがあった。会社の経営だけに注力し、社長職を退いた今も、海外資本との提携を調整するためにまったく家に帰らない日々が続いている。須郷の開発・経営能力と上昇志向のみを評価し、内部の人間性に目を向けなかったのは自分の不徳だったと、彰三本人も口にしていた。
しかし、須郷伸之が、中学生の頃から徐々に攻撃的な性格を強めていったのは、周囲から与えられる苛烈なプレッシャーに原因の一端があったのだと明日奈は思う。そして、その圧力の一部には、間違いなく京子の言葉も含まれている。
明日奈は苦いものを飲み下しながら、硬化した声で言った。
「――ともかく、あの人とお付き合いする気はまったく無いわよ。相手は自分で選ぶわ」
「いいわよ、あなたに相応しい、立派な人なら誰でも。言っておきますけど、あんな子――あんな施設の生徒は含まれませんからね」
「…………」
京子のその言い方に、特定の人物を指し示すような響きを感じて、明日奈は再度唖然とした。
「……まさか……調べたの? 彼のこと……」
掠れた声で呟いたが、京子は否定も肯定もせず、さらりと会話の方向を逸らした。
「わかってちょうだい、お母さんもお父さんも、あなたに幸せになってほしいのよ。あなたが幼稚園の頃から、ずっとそれだけを願ってきたの。ほんのちょっと躓いちゃったけど、まだまだじゅうぶん立て直せるわ。いま、真剣に頑張ればね。あなたなら、輝かしいキャリアを積み重ねられるのよ」
わたしではなく、母さんのでしょう、と明日奈な胸の奥で呟いた。
明日奈や兄の浩一郎は、京子自身の輝かしいキャリアの一要素なのだ。浩一郎は一流大学に進み、レクトに就職してからも着実に実績を残し、京子を満足させた。明日奈もそれに続くはずが、SAO事件などというわけのわからないものに巻き込まれ、また直後に須郷が起こした事件でレクトの企業イメージも低下し、京子は自分のキャリアに傷がついたと感じているのだ。
明日奈はこれ以上言葉を戦わせる気力を失い、まだ半分近く残っている皿の横にフォークとナイフを置いて立ち上がった。
「……編入のことは、しばらく考えさせて」
どうにかそれだけ言ったが、京子の答えは無味乾燥なものだった。
「期限は来週中ですからね。それまでに必要事項を記入して、三通プリントしてデスクに置いておいてちょうだい」
明日奈は俯き、振り向いてドアに向かった。そのまま部屋に戻ろうと思ったが、胸の奥にわだかまるものを抑えられず、廊下に一歩出たところでテーブルの京子に向かって言った。
「母さん」
「……なに?」
「母さんは、亡くなったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのことを恥じてるのね。米農家じゃなくて、由緒ある名家に生まれなかったことが不満なんでしょう?」
京子は一瞬あっけに取られたように目を丸くしたが、すぐにその眉間と口もとに深く険しい谷が刻まれた。
「……明日奈! ちょっとここに来なさい!」
鋭い言葉が飛んできたが、明日奈は重いドアを閉めて、その先を遮った。
逃げるような早足で階段をのぼり、自分の部屋のドアを開けた。
途端、センサーの目が明日奈を捉え、照明とエアコンが自動的に点いた。
明日奈は耐えがたい苛立ちを感じ、まっすぐにサイドボードに歩みよると、部屋の統合制御AIを完全に停止させた。そのまま体をどさりとベッドに投げ出し、高価なブラウスが皺になるのもかまわずに大きなクッションに顔を埋める。
泣くつもりはなかった。剣士として、悲しい涙、悔しい涙はもう流さないと決めていた。しかし、その決意すらも、胸を塞ぐやるせなさを果てしなく増幅させていくようだった。
何が剣士だ、と心のどこかで嗤う声がする。たかがゲームの中で、ポリゴンの剣を少しばかり上手く振り回せるからといって、それが現実世界にどれほどの力を及ぼせるというのか。明日奈は歯を噛み締め、自分に向かって問いかける。
あの日、あの世界で一人の少年に出会って、自分は変わったはずだった。誰かに与えられた価値観に盲従することはもうやめて、本当になすべきことのために戦える人間になったはずだった。
しかし、外側から見たとき、今の自分はあの世界に赴く以前とどこが違うというのだろう。親類たちの前では飾り物の人形のように空疎な笑みを浮かべ、親に強制されたルートをきっぱりと拒否することもできない。本当の自分と信じる姿に戻れるのがVR世界の中だけだというなら、何のために現実世界に戻ってきたのかまるでわからない。
「キリトくん……キリトくん」
いつしか、唇のすきまから、その名前を何度も呼んでいた。
キリト――桐ヶ谷和人は、現実世界に帰還して一年以上が経過するいまでも、SAO世界で得た強靭な精神を苦もなく保ちつづけているように見える。それなりのプレッシャーは彼にもあるはずだが、それをまったく顔に表すこともない。
いつか、それとなく将来の目標を訊いてみたところ、照れくさそうに笑いながら、プレイする側でなく作る側になりたいのだ、とキリトは言った。それも、ゲーム世界などのソフトウェア的なものではなく、制約の多い現行NERDLES技術に取ってかわる、より親密なマンマシン・インタフェースを。そのために、すでに海外の技術系フォーラム・ワールドにも出入りし、勉強や意見交換を活発に行っているらしい。
彼なら、何の迷いもなく、一直線にその目標に突き進んでいくだろうと明日奈は思う。叶うなら、ずっと彼の隣にいて、同じ夢を追っていきたい。その為に何を勉強すればいいのか、あと一年いっしょに学校に通い、じっくりと見極めていきたい。
でも、その道もいま絶たれようとしている。そして明日奈は、結局はこのまま抗えないかもしれないという無力感に襲われている。
「キリトくん……」
今すぐ会いたい。現実世界でなくてもいいから、あの家で二人きりになって、彼の胸で思い切り泣いて、全てを打ち明けてしまいたい。
でも、できない。キリトが愛した自分は、この無力な結城明日奈ではなく、最強剣士の列に名を連ねた「閃光」アスナなのだという認識が重い鎖となって明日奈を絡め取っている。
『アスナは……強いな……。俺よりずっと強い……』
かつてあの世界でキリトが呟いた言葉が耳もとに甦る。明日奈が弱さを露わにしたとたん、彼の心が離れていってしまうかもしれない。
それがとても怖い。
明日奈はうつ伏せになったまま、いつしか浅い眠りに落ちていた。
銀鏡仕上げの鞘を腰に吊り、キリトと腕を絡ませて木漏れ日の下をどこまでも歩き続ける自分が見えた。だが、もう一人の自分はどこか暗い場所に閉じ込められて、笑いあう二人を声も出せずに覗き見ることしか出来なかった。
浅い夢のなかで、あの世界に還りたい、と明日奈は強く思った。
* * *
久しぶりに訪れる湖上都市セルムブルグは、昔とまったく変わらない美しい姿を青い水面に映していた。
アスナは白亜の城をかなたに見ながら、隣に座るキリトの肩にこてんと頭をもたれさせた。
島全体が城砦都市となっているセルムブルグ主街区は、61層全体に広がる湖の中央にその威容を聳えさせている。湖には他にも大小さまざまな島が点在し、二人は今、主街区の少し北に位置する小島の岸壁に並んで座っていた。背後には大きな樹が枝を広げ、足元を小波がちゃぷちゃぷと洗っている。冬にしては暖かい風が湖面を渡ってきて、周囲の細い草をさやさやと鳴らす。
「ね、覚えてる? キリトくんが初めてわたしの部屋に来たときのこと」
顔を見上げながらアスナが尋ねると、キリトはわずかに微笑みながら答えた。
「自慢じゃないが、記憶力の自信の無さには自信がある――」
「ええー」
「――けど、あの時のことは鮮明に覚えている」
「……ほんと?」
「勿論。あんときはほら、俺が超レアな食材アイテムをゲットしてさ。アスナがシチューを作ってくれたんだよ。ああ……あの肉は旨かったなあ……。今でも時々思い出すよ」
「もう! ごはんのことしか覚えてないんでしょ!」
アスナは唇をとがらせ、それでも声に笑いを滲ませながらキリトの胸を突付いた。
「……まあ、わたしも思い出しちゃうことあるけどね」
「なんだよ、人のこと言えないじゃないか。……なあ、あのシチューは現実世界では再現できないかな?」
「う~~ん……。基本的には鶏肉に似てたから、ソースに工夫すればもしかしたら……。でもさ、たぶん、思い出のままにしとくのがいいよ。もう二度と味わえない料理、ってなんだか素敵じゃない」
「うう、うむ、まあそうだな」
頷きながらもまだどこか残念そうなキリトを見て、アスナはもう一度笑ってしまう。
「あ、そうだ。……なあ」
「なあに?」
「なんかいつの間にかまたけっこうユルドが貯まってきたんだけどさ、次はセルムブルグに部屋買う? もとアスナの部屋があったとこ。このあいだ見に行ったら、まだ空いてたぜ」
「んー」
キリトの提案に、アスナはしばらく考えてから、首を横に振った。
「ううん、いいや。あんまりいい思い出ばっかりあったわけじゃないしさ。お金は、アルゲードにエギルがお店出すのに協力してあげようよ」
「あのボッタクリ商店が復活するのか……。融資するなら利息はトイチで……」
「うわ、ひどいなぁ」
キリトと旧アインクラッドの思い出話をしていると、本当にきりがない。笑いながらあれこれ言葉を交わしているうちに、ふとアスナは、セルムブルグからこの島に飛んでくるプレイヤーの数がかなり増えてきているのに気付いた。皆、二人の頭上を飛び越して、島の中央に屹立する大樹を目指していく。
「あ、そろそろ時間だ。いかなくっちゃ」
そう言いながらも、アスナが触れ合う体の温もりを惜しんでいると、キリトがどこか真剣な表情でつぶやいた。
「絶剣と、戦うなら……」
「……え?」
「えーと……うーん、いや、その……強いぞ、ほんとに」
キリトの口調にどことなく歯切れの悪さを感じとって、アスナは首を傾げた。
「強いのは、リズたちからじゅうぶん聞かされたよー。ていうか、そもそもキリト君でも勝てなかったんだからさ。わたしにどうこうできるとは最初から思ってないけど。ただその剣を見てみたいだけだから……。それにしても、信じられないなあ、キリト君が負けちゃうなんてさ」
「今は俺より強い奴はいっぱいいるって。まあ、その中でも絶剣は別格だったけどな」
「そう言えば、なんかデュエル中に喋ってたみたいってリーファちゃんが言ってたけど。何話してたの?」
「あー、うーと、ちょっと気になったことがあって……」
「どんなこと?」
「えっと、その……」
キリトの視線に、ある種の気遣わしさが混じっているのを、アスナは敏感に感じ取った。ますます訳がわからなくなり、眉をしかめる。
いくら絶剣なる男が強いと言っても、ここはもうSAO世界ではないのだ。例えデュエルでリザインが間に合わず、HPが無くなったところで、誰かに蘇生魔法をかけてもらえばすぐにその場で復活できる。デスペナルティで経験値は減少するが、何時間か狩りをすればすぐに取り返せるはずだ。
だが、キリトはアスナの思いもよらぬことを呟いた。
「あいつに、聞いたんだ。――君は、完全にこの世界の住人なんだな、って。答えは、猛烈なスピードの突進技だった。あの速さは……限界を超えていた……」
「……それって、ものすごい廃プレイヤーってこと?」
アスナが首を傾げながら訊くと、キリトは慌てたように首を振った。
「い、いや、そうじゃない。もっとピュアな意味でさ。純粋に、この世界で生きている人間……そんな気がしたんだ」
「それって……どういう意味……?」
「――あんまり先入観を持たせなくないな。これ以上は、アスナが自分で感じてみてほしい。戦えばわかると思う」
キリトに頭をぽんと叩かれ、アスナがぱちくりと目をしばたいたそのとき、背後の樹の向こう側にいくつかの降下音が立て続けに響いた。直後、聞きなれた大声。
「ちょっと目を離すとすぐこれなんだから!」
ざくざくと草を鳴らして近寄ってくる足音に、アスナは慌てて体を起こす。
リズベットは両手を腰に当てて立ち止まると、じとっとした目でアスナを見下ろしながら言った。
「お取り込み中すみませんけど、そろそろ時間でーす」
「わ、わかってるわよ」
背中の翅を使って体を持ち上げ、すとんと直立すると、アスナは全身の装備を確認した。青銀の糸を編んだ短衣と、お揃いのスカート。水竜の革で作ったブーツとグローブ。腰の剣帯には、水晶の柄を持つレイピア。いずれも現段階で手に入るアイテムとしては最高級のスペックを備えている。これで敗れても武装の差のせいにはできない。
マジックアクセサリの類も含めてチェックを終え、最後に時計を一瞥した。現実時間の午後3時をわずかに回ろうとしている。
傍らで立ち上がったキリトの顔にちらりと視線を送ってから、振り向いてリズベットとその背後のシリカ、リーファ、さらにその頭上のユイをぐるりと見回し、アスナは言った。
「――じゃ、行きましょう」
横一列で低空を飛行し、小島の中央を目指す。梢の連なりが途切れると、すぐに大きな丘が視界に入った。頂上には巨大な樹が四方に枝を広げ、その根元にはすでに沢山のプレイヤー達が集まって幾重にも輪を作っている。盛大な歓声が津波のように揺れながら届いてくる。
ギャラリーの輪のなかに空きスペースを見つけ、アスナ達が着陸したちょうどその時、遥か上空から喚き声とともにプレイヤーが一人落下してきた。大樹の根元に、猛烈な勢いで頭から突き刺さり、盛大な土煙を上げる。
見たところサラマンダーらしいその剣士は、しばらく大の字になって伸びていたが、やがて頭を左右に振りながらむっくりと上体を起こした。まだ墜落のショックが収まらないらしく顔をしかめながら、両手を差し上げて大声で喚く。
「参った! 降参! リザイン!」
途端、デュエル終了のファンファーレが宙に鳴り響き、一層大きな拍手と歓声がそれに続いた。
すげえ、これで六十七連勝だ、誰か止める奴はいないのかよ、と賞賛ともぼやきともとれる叫び声が無数に交錯する。それを聞きながら、アスナは勝者の姿を確認しようと、上空を振り仰いで目を細めた。
大樹の枝が作り出す木漏れ日の光の中を、くるくると螺旋軌道を作って降下してくるひとりのプレイヤーの姿が見えた。
思ったより小柄だ。名前のイメージから、筋骨隆々の巨漢といった姿を想像していたが、どちらかと言えば華奢な体型である。逆光の中をゆっくりと近づいてくるにつれ、細部が徐々に見て取れるようになる。
肌の色は、闇妖精インプの特徴である、ごくわずかに紫がかった白。長く伸びたストレートの髪は、濡れ羽色とでも言うべき艶やかな黒だ。胸部分を覆う黒曜石のアーマーはやわらかな丸みを帯び、その下のチュニックと、風をはらんではためくロングスカートは矢車草のような青紫。腰には、黒く細い鞘。
唖然として見つめるアスナの視線の先で、無敗の剛剣士「絶剣」は、地面の直前でくるりと一回転すると、軽やかにつま先から着陸した。そのまま左手を横に伸ばし、右手を胸に当てて、お芝居のような仕草で礼をする。途端、四方の男達から、もういちど盛大な歓声と口笛。
絶剣はぴょこんと体を起こすと、満面ににいっと笑みを浮かべ、打って変わって無邪気な動作でVサインを作った。身長は明らかにアスナより低い。顔は小造りで、えくぼの浮かぶ頬、つんと上向いた鼻の上に、棗型のくりくりとした大きな瞳が、アメジストのような輝きを放っている。
アスナはいまだ驚きからさめやらぬまま、隣のリズベットのわき腹を肘でつついた。
「……ちょっと、リズ」
「なに?」
「絶剣って――女の子じゃない!」
「あれ、言わなかったっけ?」
「言ってないよ! ……あ、もしかして……」
今度は反対側に立つキリトの顔をやや横目で見る。
「キリトくんが負けた理由って……」
「ち、違うよ」
真顔でぶんぶんぶんと首を振るキリト。
「女の子だから手加減したとかじゃないって。もう、超マジでした。ほんと。……少なくとも途中からは」
「どーだか」
つん、と顔をそむける。
その間にも、起き上がったサラマンダーが、敗れたにも関わらず笑顔で絶剣と握手を交わし、頭をかきながらギャラリーの一角に戻っていった。闇色の髪の少女は、ごく低位のヒール魔法を自分に掛けながら、くるりと周囲を見回す。
「えーと、次に対戦するひと、いませんかー?」
その声も、幼い少女のように高くかわいらしい響きだ。生身のプレイヤーの要素が反映されるのは性別のみで、年齢までは中からはわからないのだが、それでもまるで実年齢に即した姿であるように思えてくる。
周囲からは、お前行けよ、ヤダよ即死だよ、などというやり取りが聞こえるだけで、なかなか名乗り出る者はいなかった。と、今度はアスナの脇腹を、リズベットが肘でどやした。
「ほら、行きなさいよ」
「や……ちょっと、気合入れなおさないと……」
「そんなもんあのコと一合撃ちあえばバリバリ入るわよ。さ、行った行った!」
「わっ」
どすん、と背中を押され、アスナは数歩つんのめりながら進み出た。転びそうになるのを翅を広げて立て直し、顔を上げたところで、絶剣の二つ名を持つ女の子と正面から目が合った。
「あ、お姉さん、やる?」
ニコッと笑いかけられ、アスナは仕方なく、
「え、えーと……じゃあ、やろうかな」
と小声で答える。強面の大男と予想していた絶剣と、試合前に威勢のいい舌戦のひとつも繰り広げてやるはずが、調子が狂うことおびただしい。
しかし周囲からは、たちまち沸き立つような歓声が上がった。月例大会の表彰台常連であるアスナの顔を知るものも多いようで、名前を呼ぶ声もいくつか漏れ聞こえてくる。
「おっけー!」
少女はぱちんと指を鳴らすと、手を振ってウインドウを出し、素早く操作した。即座に、アスナの前にデュエル申し込み窓が出現する。
OKボタンに指先を触れながら、アスナは訊ねた。
「えーと、ルールはありありでいいのかな?」
「もちろん。魔法もアイテムもばんばん使っていいよ。ボクはこれだけだけどね」
即答しながら、絶剣は左手で剣の柄をぽんと叩いた。無邪気なほどの自信ぶりに、アスナの戦意もようやくぴりっと刺激される。
そう言われたら、遠距離からの魔法攻撃といった絡め手は使えないな、剣同士の真っ向勝負なら望むところよ、とアスナが内心で呟きながらレイピアの柄に右手を添えた、その時。
絶剣が、更に余裕を伺わせることを大声で言った。
「あ、そうだ。お姉さんは、地上戦と空中戦、どっちが好き?」
当然空中で戦うものと思っていたアスナは、虚をつかれて、剣を抜きかけた右手をぴたりと止めた。
「……どっちでもいいの?」
言うと、絶剣はにこにこしながら頷く。これも一種の駆け引きかとおもわず勘ぐるが、インプの少女が浮かべる笑顔にはひとかけらの邪さも感じとれない。つまり、単純に、どちらで戦おうと勝てると思っているのだ。
そういうことなら、こちらも素直に甘えさせてもらおう、と考えながらアスナは答えた。
「じゃあ、地上戦で」
「おっけい。ジャンプはあり、でも翅を使うのはなしね!」
絶剣は即座に頷くと、背後に広げていた特徴的なシルエットの翅を畳んだ。コウモリに似たかたちのそれは、たちまち色を薄れさせ、ほとんど見えなくなる。アスナもそれに倣い、肩甲骨の先に伸びる翅から、意識の接続を切る。
アスナは、ALO接続初日には補助スティックを使わない随意飛行をほぼマスターし、今ではもうアップデート以前の古参プレイヤーたちにも空中戦で引けを取らないほどの腕前になっている。
それでも、やはり二年に及ぶSAO内での戦闘で体に染み付いた動きはそうそう薄れるものではない。地上で戦えるのは正直有り難いことだった。つま先を動かし、ブーツの底を通して伝わる地面の硬さを、しっかりと感じ取る。
剣を抜いたのはほぼ同時だった。じゃりーん、と高い音が二つ、重なって響いた。
絶剣が装備しているのは、細めの両刃直剣だった。鎧と同じく、黒曜石のような深い半透明の色合いを帯びている。武器のランクとしてはアスナが持つレイピアとほぼ同等であり、一部のレジェンダリィ・ウェポンが持つようなエクストラ能力は無いはずだ。
絶剣は中段に構えた剣を前に、自然な半身の姿勢を取った。対してアスナは右手を体側に引き付け、レイピアをほぼ垂直に向ける。すうっと波が引くように周囲の歓声が遠ざかっていく。
大きく息を吸い、吐いたところで、進行していたカウントがゼロになった。
「DUEL」の文字が一瞬の閃光を発すると同時に、アスナは全力で地を蹴った。約七メートルの距離を瞬時に駆け抜けながら、体を右方向にきゅっと捻る。
「シッ!」
短い気合とともに、弓から撃ち出される矢のように右手をまっすぐ突き出した。慣性力と捻転力をすべて乗せた突きを、絶剣の体の中心やや左に向けて二発、わずかにタイミングをずらして右に一発。ソードスキルではない通常技なのでスピードはさほどではないが、かわりに照準は精密だ。最初の二発を右に避けてしまうと、続く一発の回避はほとんど不可能となる。
絶剣は、アスナの思惑どおり、体をすっと右に振って初撃と次撃を避けた。その動きが止まったところに、狙い違わず三撃目が吸い込まれていく――
だが、剣尖がアーマーの胸元を捉えるその直前、絶剣の右手が煙るように動いた。同時にアスナのレイピアの右側面に小さな火花が弾け、突きの軌道が微妙にズレた。
絶剣が、己の武器で超高速の突き技の途上にあったレイピアを正確にパリィしたのだ、と頭で理解したときにはもう、剣先は絶剣の鎧をわずかに掠めて宙に流れていた。
カウンターの反撃を予想し、アスナはうなじの皮膚がちりちりと痺れるのを感じた。だがここで剣を戻そうとすれば体勢が硬直してしまう。技の慣性に逆らわず、思い切り体を左に回転させる。
同時に、首元目掛けて跳ね上がってくる黒い輝きが視界に入った。
「――ッ!!」
まさに雷光と言うべき恐ろしいほどのスピードに、戦慄が全身を駆け抜けた。歯を食い縛り、右足のつま先に地面を抉り取るほどの力を込めて体を捻る。
足元は短く細い草が密に生えており、設定された摩擦力は石畳や裸地と比べるとわずかに低い。その数値がアスナを裏切り、ずるりと右足が滑った。瞬間的に、体ががくんとズレた。
だがそれが幸いし、絶剣の剣先はアスナの胸元を掠めるに留まった。ずばん! という衝撃が耳のすぐそばを通過した。もし髪に当たり判定があったら、アスナの水色のロングヘアは長さが半分になっていただろう。虚空に放出されたエネルギーが、空気を揺らして拡散していくのが目の端に見えた。
アスナはグリップの回復したブーツで地面を蹴り飛ばし、大きく右にジャンプした。左足でもう一度跳び、充分な距離を取って停止する。
追撃に備えて腰を落としたが、絶剣は相変わらず笑顔を崩さないまま、再び剣を中段に構えて動きを止めた。アスナはばくばく言う心臓をなだめながら、どうにか笑みを返した――ものの、内心では冷や汗を滝のように流していた。
自分に向かって飛んでくる突き技の軌道というのは、近づく小さな点でしかない。それを回避するには、基本的に足を使ったステップ防御を使うしかないのだが、絶剣はアスナのレイピアの横腹を正確に弾いてのけた。カウンター攻撃のスピードよりも、アスナはその超反応速度に舌を巻いていた。強い強いと散々聞かされていたものの、相手の思いがけず可愛らしい容姿に緩んだ意識に、ばしゃりと冷水を浴びせられたような思いだった。一時は、キリトが敗れたのは女の子相手の油断もしくは手心のせいかと疑ったのだが、それはあらぬ濡れ衣と言うべきだろう。彼でさえ、アスナの全力突きをパリィ防御してのけたことは一度もないのだ。
アスナは再び深く息を吸うと、ぐっと止めた。確かに恐るべき相手だが、たった一合交えただけで諦めては剣士の名がすたる――
不意に、耳の奥にこだまする声があった。
(何が剣士だ――そんなもの――たかがゲームの――)
ぎりりと歯を噛み締めて、意識からノイズを振り落とす。この世界はもうひとつのリアル・ワールドであり、そこでの戦いはいつだって真剣勝負なのだ。そうでなければならないのだ。
己を鋭く鞭打つように、アスナは剣を鳴らして右肩の上に構えた。今度は剣先をまっすぐ相手に向ける。
通常技が通用しないとなったら、あとは危険覚悟でソードスキルを撃ち込むしかない。しかしソードスキルにはシステム的な技後硬直時間が設定されており、もし全弾を回避されたら、致命的な反撃を叩き込まれるのは必至だ。どうにか相手の体勢を崩して、必中の状況を作らなくてはならない。アスナは空いている左手をぐっと握り締めた。
再度地面を蹴って飛び出したときには、意識は完全に研ぎ澄まされていた。ALO世界での戦闘ではほとんど感じたことのない、神経系が燃え上がるような加速感が体じゅうを包んでいく。
こんどは、絶剣のほうも飛び出してきた。口元からふっと笑みが消え、紫水晶の瞳がきらりと光る。
右斜め上段から、轟と襲い掛かってきた黒曜石の剣を、アスナは左からの切り払いで受けた。火花、金属音と同時にすさまじい衝撃が右手に伝わる。撥ね戻された剣を、絶剣は武器の重量を感じさせないほどのスピードで切り返し、次々と撃ち込んでくる。見てから反応したのでは絶対に間に合わない速さだ。視界全体で捉えた相手の全身の動きから次の攻撃方向を予測し、受け、また避ける。時折偶発的に剣が互いの体を掠め、じわじわと二人のHPが減少していくが、クリーンヒットと言えるものは一発も無い。
超高速の剣戟を響かせながら、アスナはふとある種の違和感を覚えていた。
確かに、絶剣の攻撃速度、反応速度には恐るべきものがある。純粋なスピードだけを見ればキリト以上だ。だがそれでも、アスナがどうにかついていけるのは、SAOで培った膨大な戦闘経験に加えて、相手の攻撃が素直すぎるせいもある。武器を振りはじめで止めたり、テンポを一瞬遅らせたりといったフェイントはまったく使ってこない。
もしかしたら、対プレイヤー戦闘の経験はあまりないのかもしれない、とアスナは感じた。もしそうなら、一瞬だけでも意表を突ければ、勝機は見える。
右上、左上、左横と続いた三連撃をかいくぐり、アスナは思い切って絶剣の懐にまで飛び込んだ。ほぼ密着と言っていいほどの間合いだ。これでもうステップ防御は互いに使えない。
アスナが腰を落とし、右手のレイピアを相手の体の中心めがけて、思い切り突き込もうとし――
絶剣がそれに反応し、剣を下から切り上げようとした――
その瞬間、アスナは右手を思い切り引き戻し、同時に握った左拳を絶剣の右体側に向けて叩き込んだ。はるばるノーム領の首都の修練場にまで赴いて修行した、「拳術」スキルによる攻撃だ。専用のナックル系武器を装備していないので威力はないが、無スキルではありえないダメージが発生する。
どう、という衝撃が左拳に伝わり、絶剣の目が驚きに丸くなった。
――最初で最後のチャンス。アスナは躊躇なく、ソードスキル「カドラプルペイン」四連撃を発動させた。
レイピアがまばゆい赤に発光し、同時に右手がシステムの見えざる手に後押しされて、稲妻のように宙を裂いた。
アスナは攻撃が命中するのを確信した。相手は体勢を崩している。距離的にも、最早回避は不可能だ。
だが。右手をシステムの加速に委ねながら、絶剣の顔を見たアスナの背に、再度の戦慄が疾った。絶剣は大きな目を見開いていたが、紫色の瞳に驚きの色はなかった。その瞳孔は、ぴたりとレイピアの先端に焦点を合わせていた。
この突きが見えている――!?
アスナがそう思った瞬間、絶剣の右手が閃いた。
剣をグラインダーに掛けたときのような、硬質の擦過音が四つ、立て続けに響いた。アスナの四連撃は、上下左右に正確に弾かれ、一撃として命中したものは無かった。アスナには、絶剣の黒い剣が残した薄墨のような残像しか見えなかった。
最後の一撃が受け流され、右手を前に出した格好のまま、コンマ何秒の――しかし絶望的な――硬直時間がアスナを襲った。その隙を絶剣が見逃すはずもなかった。
ぎゅん、と引き戻された黒曜石の剣が、青紫色の光を帯びた。
恐らく、硬直中でなくとも回避は難しかったであろうスピードの直突きが、アスナの左肩を捉えた。そのまま斜めに、右腹に向かって五連撃。全てを綺麗に貰い、HPバーががくがくと急激に減少した。記憶にない技だった。ということはオリジナル・ソードスキルだ。これほどの速度の五連突きを編み出すとは――
とアスナが呆然と考えたその時、剣がその光を失わぬまま、今度は左上に構えられた。
五発で終わりではないのだ。まだ続きがある。ようやく硬直が解けた体を引き起こしながら、アスナは三度慄いた。
仮に、同じような突きがもう五発続いたら、ほぼ間違いなくHPはゼロになる。かと言って、回避は不可能だ。
無駄な逃げ動作をして背中を斬られるくらいなら、わずかな可能性に賭けたほうがいい。アスナはレイピアを握る右手に力を込め、もう一度ソードスキルを発動させた。唯一マスターしているOSS五連撃技、「アストラルティアー」。
赤と青の閃光がまばゆく交錯した。アスナの右肩から左下に向けて、先ほどの連撃とあわせてバツの字を描くように剣尖が叩き込まれる。
だが今度こそ、アスナのレイピアも絶剣を捉えた。小さな星型の頂点を辿りながら、五発の突き技が黒いアーマーを貫いていく。
五連撃を交換し終わり、一瞬の静寂が訪れた。二人とも、まだ倒れていなかった。
絶剣のHPはアスナには見えないが、アスナのHPバーはほんの少しだけ残っていた。もともと、SAOからのキャラデータ引継ぎ組であるアスナのHP数値はALO古参組を上回るほどなのだ。驚異的な十連撃でそれをほぼ削りきった、絶剣のOSSの威力は凄まじいものが――
――絶剣の剣を包む青紫色の輝きは、まだ消えていなかった。
もう一度引き戻された剣が、アスナの体の中央、バツの字の交差点をぴたりと照準する。
それでは、これが、絶剣がデュエルに賭けているという十一連撃OSSなのか、とアスナは感嘆とともに思った。
強い。そしてそれを上回る美しさを持った技だ。これほどの剣技に敗れるなら悔いはない。そう心のなかで呟きながら、アスナはとどめの一撃を待った。
猛然と襲い掛かってきた十一撃目は、しかし、アスナを貫く寸前でぴたりと停止した。
「――!?」
唖然として目を見開くアスナの前で、絶剣は武器を下ろすと、何を思ったかすたすたと近づいてきた。左手でアスナの肩をぽんと叩き、にっこりと輝くような笑みを浮かべる。その唇が動いて、威勢のいい声が発せられた。
「うーん、すごくいいね! お姉さんに決めた!!」
SAOex4_03_Unicode.txt
「な……ええ……?」
アスナはもう訳がわからず、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。
「あ、あの……デュエルの決着は……?」
「こんだけ戦えば、ボクはもう満足だよ。お姉さんは最後までやりたい?」
笑顔でそう言われては、アスナも首を横に振るしかない。どちらにせよ、絶剣が最後の一撃を止めなければ、アスナのHPは確実にゼロになっていたのだ。少女は嬉しそうに大きく頷くと、言葉を続ける。
「ずっと、ぴぴっとくる人を探してたんだ。ようやく見つけた! ね、お姉さん、まだ時間だいじょうぶ?」
「う……うん。平気だけど……」
「じゃ、ボクにちょっと付き合って!」
絶剣は涼やかな音を響かせて腰の鞘に剣を収めると、勢い良く右手を差し出した。アスナもとりあえず剣を鞘に戻し、おずおずとその手を取る。
途端、絶剣は背中の翅を大きく広げると、ロケットのような勢いで地面を蹴った。
「わっ」
慌ててアスナも翅を広げ、宙に浮き上がる。
「ちょっと、どこいくのよアスナ!」
甲高い声に振り向くと、リズベットが驚き半分呆れ半分と言った顔で手を上げていた。
「え、えっと……あとで連絡するー!」
答えるのと、絶剣が両の翅を輝かせて猛ダッシュに入るのはほぼ同時だった。アスナは右手を引っ張られながら、懸命に背中の翅を震わせて、謎めいた少女剣士のあとを追った。
絶剣は61層の湖の上空を一直線に南下すると、アインクラッド外周の開口部から躊躇なく外に飛び出した。
「わぷっ!」
途端に濃密な雲の塊がアスナの顔を叩く。白一色の空間をさらに数秒突き進むと、不意に雲が切れ、セルリアンブルーの空が無限に広がった。
視界の遥か右下方には、雲の層を貫いて緑色の円錐が伸びているのが見える。アルヴヘイム中央にそびえる世界樹の先端だ。視線を動かして真下を見ると、青く霞む地表が薄っすらと見て取れる。海岸線を丸く抉ったような湾の形状からすると、現在アインクラッドはウンディーネ領の上空を飛行中だったらしい。
一体どこに行くつもりなのか、と思ったとき、前を飛ぶ絶剣が急に上昇に転じた。
体を半回転させると、目の前にアインクラッドの湾曲した巨体が絶壁のように屹立している。ひとつ百メートルの高さを持つ層を次々に横切って、絶剣は尚も高みを目指して飛び続ける。
――と言っても、巨大浮遊城の外周部を自由に出入りできるのは、すでに攻略された層に限られている。未踏破層の外周は不可侵領域になっているのだ。心配になったアスナは、それを確認しようと口を開いたが、叫ぶべく息を吸い込んだところで再び飛翔角度が九十度変わった。
絶剣が目指しているのはどうやら67層のようだった。アスナの記憶が正しければ、現在の最前線だ。苔むした外壁の隙間を縫うように、すぽんと内部に飛び込むと、いきなり周囲が暗くなった。
アインクラッド67層は常闇の国だ。外周の開口部は極端に少なく、昼間でも差し込む陽光は無いに等しい。内部はごつごつした岩山がいくつも上層の底まで伸び、そのそこかしこから生えた巨大な水晶の六角柱がぼんやりとした青い光を放っている。印象としては、アルヴヘイム北方のノーム領を構成する地底世界に近い。
スプリガンと並んで暗視能力に秀でたインプの少女は、アスナの手を引いたまますいすいと岩山の間を飛翔していく。時折前方に、飛行モンスターであるガーゴイルの集団が姿を現すが、戦闘を行う気は無いようで、敵群の索敵範囲を巧みに避けて翔び続ける。
やがて出現した深い谷に飛び込み、尚も低速で一分ばかり飛ぶと、円形に開けた谷底に貼り付くように小さな街が見えた。67層主街区の、名前は確か『ロンバール』だ。
岩の塊からまるごと掘り出したようなその街は、細い路地やら階段やらが複雑に絡み合っており、それらをオレンジ色の灯りが照らし出している。寒々とした夜の底にぽつりと燃える焚き火のように、どこかほっとする光景だ。
絶剣とアスナは、紫と水色の軌跡を闇に引きながら、街の中央の円形広場目指してゆっくりと降下していく。
街区圏内に入った証である穏やかなBGMが耳に届き、かすかなシチューの香りが鼻をくすぐった――と思ったときには、靴底がすとんと石畳を叩いていた。
アスナはふう、と息をついて、とりあえず周囲を見回した。ロンバールは、夜の精霊たちの街、というコンセプトに添って巨きな建物はひとつも存在しない。青みがかった岩造りの小さな工房や商店、宿屋がぎっしりと軒をつらね、それらをオレンジ色のランプが照らし出す光景は幻想的な美しさと夜祭り的な賑わいを同居させている。
旧SAO時代のこの街は、層の攻略にこそ手間取ったものの、さして重要な施設もないせいで、人が集まった時期はごく短かった。アスナも数日逗留した記憶しかない。
しかし今は、攻略最前線だけあって多くのプレイヤー達が装備を鳴らして闊歩している。皆がひとくせふたくせありそうな、つわものめいたオーラを漂わせており、それを見るアスナの胸に懐かしさとほろ苦さが入り混じった感慨が去来した。
森の家を手にいれるため、22層までは常に前線に立ちつづけたアスナだが、それ以降の層ではほとんどボス攻略には参加していない。街開きのカタルシスは、新規に浮遊城での冒険を楽しんでいるプレイヤー達が味わうべきだと思うし、最前線にいると思い出すのは楽しいことばかりではないからだ。
目をつぶり、軽く髪を払って感傷を振り落とすと、アスナは隣に立つ絶剣を見やった。
「わたしに用って、なに? ここに何かあるの?」
訊くと、絶剣はにっと笑みを浮かべ、再びアスナの手を取った。
「その前に、まずボクの仲間に紹介するよ! こっち!」
「あ、ちょ……」
たったか駆け出す絶剣の後を追い、アスナは広場から放射状に伸びる狭い路地のひとつに潜りこんだ。
小さな階段を登り、降り、橋を渡りトンネルをくぐり、着いた先は一軒の、宿屋とおぼしき店の前だった。「INN」の文字と大釜を象った鋳鉄製の吊り看板が揺れる戸口をくぐり、居眠りする白髭のNPCの横を通り抜けて奥の酒場兼レストランへと足を踏み入れる。その途端――
「おかえり、ユウキ! 見つかったの!?」
はしゃぐような少年の声が、二人を出迎えた。
酒場の中央の丸テーブルには、五人のプレイヤーが陣取っていた。他に人影はない。絶剣はすたすたと彼らの前に歩み寄り、くるりとアスナのほうに振り向いた。すっと右手を横に伸ばし、
「――紹介するよ。ボクのギルド、『スリーピング・ナイツ』の仲間たち」
再び半回転し、今度はアスナを手で示して、
「で、このお姉さんが――……」
そこで一瞬言葉に詰まる。ぎゅっと首をすくめると、おおきな瞳を回しながらぺろりと舌を出した。
「……ごめん、まだ名前聞いてなかった」
だああっ、と五人のプレイヤーが椅子の上でコケる。その様子にアスナは思わずくすりと笑いながら、ぺこりと一礼して名乗った。
「わたし、アスナといいます」
すると、アスナから見ていちばん左に座っていた、小柄なサラマンダーの少年が立ち上がった。頭の後ろで小さなシッポに結ったオレンジ色の髪を揺らして、元気な声で言う。
「僕はジュン! アスナさん、よろしく!」
その隣は、ノームの巨漢だった。砂色の癖っ毛の下に、にこにこと細められた糸目が愛嬌を沿えている。突き出たお腹を無理矢理ひっこめるようにぺこりと頭を下げ、のんびりした口調で名乗った。
「あー、えーっと、テッチって言います。どうぞよろしく」
続いて立ったのは、ひょろりと痩せたレプラホーンの青年だった。きちんと分けた黄銅色の髪と、鉄ブチの丸眼鏡が学生めいた印象を与える。小さな丸い目を一杯に見開き、かくんと腰を折ってから、なぜか赤面しながら慌てたようにまくしたてる。
「わ、ワタシは、そ、その、タルケンって名前です。よ、よ、よろしくお願いし……イッテ!!」
語尾に悲鳴がかぶったのは、彼の左に座っていた女性プレイヤーが、重そうなブーツでむこうずねを蹴飛ばしたからだ。
「いいかげんその上がり性なおしなよタルは! 女の子の前に出るとすぐこれなんだから」
威勢のいい口調で言うと、ガッタンと椅子を鳴らして立ち上がった。目を丸くするアスナに向かって顔中でにいっと笑いかけ、太陽のように広がった黒髪をぐしゃぐしゃかき混ぜながら名乗る。
「アタシはノリ。会えて嬉しいよ」
浅黒い肌と灰色の翅を見る限りスプリガンのようだが、ぐいっと太い眉ときりりとした目、厚めの唇、骨太の体格には影妖精族のイメージはあまり無い。
そして、最後のひとりは、アスナと同じくウンディーネの女性プレイヤーだった。ほとんど白に近いアクアブルーの髪を両肩に長く垂らし、伏せた長い睫毛の下には穏やかな濃紺の瞳が輝いている。すっと長く通った鼻梁に艶やかな唇、驚くほど華奢な身体は、本来治療師としての能力に秀でる水妖精族のイメージにぴったりだ。
女性はふわりとした動作で立つと、落ち着いたウェットな声で自己紹介した。
「はじめまして。私はシーエンです。ありがとう、来てくれて」
「んで――」
最後に、五人の右に立った絶剣が、おおきな瞳をきらきら輝かせながら言った。
「ボクが、いちおうギルドリーダーのユウキです! アスナさん……」
がっしとアスナの両手を取り、
「一緒にがんばろう!」
「えっと……何をがんばるのかな?」
笑いをこらえながらアスナが訊くと、絶剣ことユウキはきょとんとした顔をしてから、再びぺろりと舌を出した。
「そっか、ボクまだなんにも説明してなかった!」
ずこーっ! と再度五人が椅子の上に崩れ落ちる様子を見て、アスナはついに吹き出してしまった。お腹をかかえてくっくっと笑っていると、やがてユウキと、残り全員も大声で笑い出す。
どうにか笑いを飲み込もうと苦労しながら、アスナはもう一度『スリーピング・ナイツ』のメンバーをぐるりと見回し――そして、かすかに背筋をぞくぞくと走るものを感じた。
全員が全員、凄まじい手練だ。何気ない一挙手一投足の滑らかさを見ただけで、アスナには判る。六人とも、VR世界での動きに完全に慣れきっている。恐らく武器を取れば、絶剣に近いレベルの強さを発揮するに違いない。
これほどの凄腕集団が存在することを、アスナも、おそらくキリトやリズたちもまるで知らなかった。仮に全員が、絶剣と同じく他世界からコンバートしてきたとすれば、元のVRワールドではさぞかし名の通ったチームだったに違いない。
慣れ親しんだVR体と全アイテムを捨ててまで、ALOに移住してきた理由はなんだろう……とアスナが考えていると、ようやく笑いを収めた絶剣――ユウキが、赤いカチューシャを飾った頭をぽりぽりかきながら、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、アスナさん。訳も言わずにこんなとこまで連れてきちゃって。ようやくボクと同じくらい強い人みつけたんで、嬉しくて、つい……。えーと、あらためてお願いします。ボクに……ボクたちに、手を貸してください!」
「手を……貸す?」
首を傾げて繰り返しながら、アスナは、頭のなかでいろいろな想像を瞬時に巡らせた。
単純な、お金やアイテム、スキルアップポイント目的の狩りの手伝いということはないだろう。これほどのハイレベル・ギルドに、今更アスナが一人加わったところで出来ることはたかがしれている。
同様に、特定のレアアイテムやプレイヤーハウスを入手するという目的も考え難い。情報自体が高額で取引されていた旧SAOとは違い、ALOには無償で攻略情報を載せている外部ウェブサイトが山ほどある。それらを参考に腰を据えて取り組めば、ほとんどのアイテムはいずれ取得できるはずだ。
有り得るとすれば、絶剣がアスナに求めた「強さ」というのは単純な数値的能力ではなく、戦闘の駆け引きを含めたノウハウ全般ということなのだろうか。となると、それがもっとも必要とされるのは、対モンスターではなく対プレイヤー戦である。しかもギルドに紹介したということは、絶剣が今まで行ってきた一対一のデュエルではなく、集団による大規模戦闘――平たく言えばどこかのギルドとノールールで殺しあうということだ。
そこまでを一瞬で考え、アスナはわずかに唇を噛んでから、おずおずと口を開いた。
「あの……もし、他のギルドとの戦争の手伝いだったら、悪いんだけど……」
試合形式の大会や、システムに則ったデュエル以外の対人戦は、どうしてもあとに感情のしこりを残すことになる。もちろん、一時のぶつかり合いを長々と根に持つプレイヤーは少数派だが、それでもアスナ本人のみならず周囲の友人たちにまで後々迷惑をかけることになる可能性は否定できないのだ。
よって、アスナはたとえ狩場で理不尽なマナーレス行為を浴びせられようとも、プレイヤー相手には絶対に剣を抜かないようにしている。
そのことを、どうにか簡潔に説明しようと、続けて口を開いた。だが、絶剣は一瞬ぱちくりと目を見開いてから、ぶんぶんと首を振った。
「ううん、違うよ、どっかと戦争とかそんなんじゃないんだ。えっとね……その、ボクたち……笑われるかもしれないんだけど……」
ふいっとうつむき、はにかむように唇をもごもごさせてから、上目遣いにアスナを見た絶剣は、まったく思いもよらないことを口にした。
「……あのね、ボクたち、この層のボスモンスターを倒したいんだ」
「は……はあ!?」
アスナは完全に意表を突かれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ボス……ボスモンスターって、迷宮区のいちばん奥にいるやつ……? 時間湧きのフラグドモブとかじゃなくて?」
「うん、そう。一回しか倒せない、アレ」
「うーん……そっか……ボスかぁ~~」
絶句しながら残り五人のギルドメンバーの顔を見回すと、全員が目をきらきらさせながら、アスナの返事を待っているようだった。どうやら本気らしい。
「それは……まあ、ゼッ……じゃない、ユウキさんたちの強さなら……」
ぱちぱちと何度も瞬きしてアタマを切り替え、実際的なボス攻略の可能性について考える。
「そうだね……お金はかかるけど、あと35人くらい集めて、えーと、6パーティー程度の態勢を組めれば、不可能じゃないと思うけど……」
すると、絶剣はさらにもじもじしながら、再度首を左右に動かした。
「えっとね……それじゃ、ダメなんだ。僕たち六人と、アスナさんだけで倒したい……んだけど……どうかな……」
「えぇ!?」
もう一度おおきな声を出してしまう。
新生アインクラッドに配置されているフロア守護モンスターは、旧SAOと比べると、やけくそなまでの強化を施されている。もちろんゲームシステムが大幅に変わっているので単純な比較はできないが、旧時代のボスたちのほとんどが、ひとりの死者も出さずに攻略可能だったのに対して、新ボスモンスター群は超強力な通常・特殊攻撃によってプレイヤーたちをたんぽぽの綿毛のように吹き散らしていく理不尽な強さを誇っているのだ。
当然、攻略のための作戦も変わらざるを得ない。可能なかぎりの人数を集め、死者が続出するのを見越してヒーラーの層を厚くする。ひとりが与える10のダメージより、10人で12のダメージを与えることを重視する。アスナが最後に参加したボス攻略戦は21層のものだが、そんな低階層でさえ、仲間を総動員した21人3パーティー態勢が全滅寸前まで行ったのである。
ボスの強さは、当然階層が上がるごとに増加している。徐々に終盤が見えつつある65、66層あたりは、有力な大ギルドがいくつも協定を結んで、ようやく攻略したのだと聞いた。
つまり、いくら強者ぞろいとは言ってもたかだか7人でボスを倒そうというのは無茶もいいところなのだ。
アスナは、言葉を選びながら手短にそのへんの事情を説明した。
「……っていうわけだから……7人っていうのは、ちょっと無理かなあって思うんだけど……」
言葉を切ると、ユウキたちは互いに顔を見合わせ、なぜか全員が照れたように笑った。代表して、ユウキが口を開く。
「うん、ぜんぜん無理だった。実は、65層と66層のボスにも挑戦したんだ」
「えー!? ろ……6人で!?」
「そう。ボクたち的にはけっこうがんばったつもりだったんだけど……どうしてもMPと回復アイテムがもたなくて。あれこれ言ってるうちに、でっかいところに倒されちゃった」
「そ……そっかあ……。本気なんだね」
アスナはもう一度ゆっくりと6人の顔を見た。確かに無謀な挑戦もいいところだが、そういう気概そのものは嫌いではない。ゲームに慣れすぎたプレイヤーは、出来ること、出来ないことにすぐ見切りをつけたがってしまうものだ。『スリーピングナイツ』がもつエネルギーは、アスナの目にはとても新鮮なものに映った。
「でも……何で? どうしてそこまでしてボスを倒したいの?」
ボスを倒せば、尋常ではない額のユルドと、希少な武具、アイテムを手に入れることができる。だが、その動機は、どこかこの6人はそぐわないような気がした。
「えっと……えっとね」
ユウキは、アメジスト色の瞳をいっぱいに広げて、何ごとかを言おうと口を動かした。しかし、言葉が出てこない。何かが胸に詰まったように、幾度も唇を開いたり、閉じたりするが、言うべき言葉がなかなか見つからないようだった。
と、ユウキの隣にいた長身のウンディーネ、シーエンと名乗った女性が、助け舟を出すように声を発した。
「あの、私から説明します。その前に、どうぞ、座ってください」
アスナを含めた7人がテーブルにつき、NPCにオーダーした飲み物が並んだところで、シーエンは卓上でしなやかな指を組み合わせ、落ち着いた声で喋りはじめた。
「実は、私たちはこの世界で知り合ったのではないんです。ゲーム外のとあるネットコミュニティで出会って……すぐに意気投合して、友達になったのです。もう……二年ほども経ちますか」
睫毛を伏せたまま、何かを思い出すように一瞬言葉を切る。
「最高の仲間たちです。みんなで、色々な世界に行って、色々な冒険をしました。でも、残念ですが、私達が一緒に旅を出来るのもたぶんこの春までなんです。みんな……それぞれに忙しくなってしまいますから。そこで私達は、解散するまえに、ひとつ絶対に忘れることのない思い出を作ろうと決めました。無数にあるVRMMOワールドの中で、いちばん楽しく、美しく、心躍る世界を探して、そこで力を合わせて何かひとつやり遂げよう、って。そうしてあちこちコンバートを繰り返して、見つけたのがこの世界なのです」
シーエンは仲間たちの顔を順に見回した。ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、ユウキの五人は、それぞれ顔を輝かせて大きく頷く。シーエンもふわりと微笑し、続ける。
「この世界――アルヴヘイム、そしてアインクラッドは素晴らしいところです。美しい街や森、草原、世界樹――そしてこの城をまわりを、皆で連れ立って飛んだことを、全員永遠に忘れることはないでしょう。望むことは、あとひとつ……この世界に、私達の足跡を残したい」
ほとんど閉じられた瞼のおくで、シーエンの藍色の瞳が真剣な光を帯びる。
「ボスモンスターを攻略すれば、はじまりの街にある黒鉄宮、あそこの『剣士の碑』に名前が残りますよね」
「あ……」
アスナは一瞬目を見開いてから、大きくこくんと頷いた。昔のことなので忘れていたが、確かにボスを倒したプレイヤーの名前は黒鉄宮に記録される。アスナ自身も、21層の欄に名を残している。
「その……自己満足もいいところですけれど、私達、どうしてもあの碑に名前を刻んでおきたいんです。でも、問題がひとつあります。ボスを攻略したのが一パーティーなら、その全員の名前が記録されるのですが、パーティーが複数になってしまうと残るのはパーティーリーダーの名前だけになってしまうのです」
「そ……そっか。うん、確かにその通りですね」
アスナもこくんと頷く。
「つまり、全員の名を残そうと思ったら、挑めるのは一パーティーだけということになってしまいます。私達、65層と66層で一生懸命がんばったんですが、どうしてもあと少しが及ばなくて……。そこで、みんなで相談して決めたのです。パーティーの上限人数は7人なので、あとひとりだけ空きがあります。僭越な話ですけど、私達の中で最強のユウキと同じかそれ以上に強い人を探して、助けてくれるようにお願いしてみよう、って」
「なるほど……。そういうことだったんですか」
アスナはひとつこくんと頷き、視線を白いテーブルクロスの表面に落とした。
『剣士の碑』に名前を残す。その望みは理解できる。
VRMMOに限らずネットゲームというものはプレイヤーに多くの時間を要求するため、進学や就職といった理由によって、春ごろに引退していく者は多い。必然的に、何年も存続した親密なギルドが解散を余儀なくされることもあるだろう。その思い出を、この世界が続くかぎり残る記念碑に刻んでおきたいと思うのは自然なことだ。
ほかならぬアスナ自身も、果たしていつまでALOを続けられるかわからない状況だ。母親がこれ以上強硬な態度に出れば、アミュスフィアの使用そのものを禁じられるかもしれない。残る時間が有限なら、その一分一秒を濃密なものにしたい、という思いは彼らと共通している。
「……どうでしょう? 引き受けてはもらえませんか? 私達は、コンバートしてまだあまり経っていないので、お礼がじゅうぶんできないかもしれないんですが……」
金額を提示すべくトレードウインドウを操作しようとするシーエンを、アスナは両手で制止した。
「あ、いえ、どうせ経費が山ほどかかりますから、手持ちのお金はそっちに回したほうがいいです。報酬は、ボスから出たものを何かもらえればそれで……」
「じゃあ、引き受けてもらえるんですか!?」
シーエンと、残り五人の顔がぱっと輝く。
「え……ええと……」
アスナは軽く唇を引き結び、作戦成功の可能性を考えようとした。
遥かな昔、今はもうないギルドのサブリーダーとして、沢山のボスモンスターの攻略作戦を立案したときの記憶が甦ってくる。当時は、限られた人員とアイテムを懸命にやりくりして、絶望的な戦いに乗り出していったものだ。他の攻略ギルドやソロプレイヤーたちと何時間も討議し、怒鳴りあい、時には地面に手をついて助力を乞うたこともある。そこまでの苦労をしたのは、あの世界ではひとつどうしても堅守しなくてはいけない条件があったからだ。つまり、一人の死者も出さないこと。
しかしもう、すべては変わったのだ。今のこの世界でプレイヤーに与えられた義務そして権利はたった一つ、楽しむことだけだ。勝算がないからと言って退くのは、果たしてゲームを楽しんでいることになるのだろうか。ユウキたちは、すでにたった六人で65、66層のボスモンスターに挑み、しかも善戦したらしい。
失敗することをあれこれ考えるよりも、とりあえず、ぶつかってみる。そんな無鉄砲なゲームプレイはずいぶん長い間していないような気がした。どうせ、全滅したところで失うのは少々の経験値だけだ。
「……やるだけ、やってみましょうか。成功率とかは置いといて」
アスナは顔を上げて、いたずらっぽく微笑みながら言った。真っ先に歓声を上げたのはユウキだった。両手で、テーブルのうえのアスナの右手をがしっと包み、大きな瞳をいっぱいに見開く。
「ありがとう、アスナさん! 最初に剣を打ち合ったときから、そう言ってくれると思ってた!」
「そ、それはちょっと買い被りすぎかも……。あと、アスナって呼んでくれていいよ」
「ボクもユウキって呼んで!」
我先にと手を差し出してくるほかの五人ともそれぞれかたく握手を交わす。
新たに注文したジョッキでの乾杯が一段落したところで、アスナはふと浮かんできた疑問をユウキに向かって口にした。
「そういえば、ユウキちゃ……ユウキはデュエルで強い人を探してたんだよね?」
「うん、そうだよ」
「それなら、私の前にも、強い人はいっぱいいたと思うんだけどなあ。特に、つんつん頭で大剣使いのスプリガンのこととか、憶えてない? 多分、その人のほうが、わたしより助けになると思うんだけど……」
「あー」
それだけでユウキはキリトのことに思い至ったようだった。こくこくと頷き、何故かむずかしい顔で腕を組む。
「憶えてる。確かにあの人も強かった!」
「じゃあ……どうして助っ人を頼まなかったの?」
「うーん……」
珍しく口ごもってから、ユウキはちらりと不思議な笑みを浮かべた。
「やっぱり、あの人はダメ」
「な……なんで?」
「ボクの秘密に気付いちゃったから」
ユウキも、シーエンたちもそのことについては語りたくないようだったので、それ以上追求はできなかった。おそらくその秘密というのは、絶剣ことユウキの突出した強さに関連することと思われたが、アスナにはまるで見当もつかなかった。
首を傾げていると、話題を変えようとするかのように、レプラホーンのタルケンが丸眼鏡を押し上げながら言った。
「それで……攻略の、具体的な手順は、ど……どうなるんでしょう?」
「あ……ええっと……」
喉元にひっかかる疑問を、ジョッキの果実酒で飲み下し、アスナは人差し指を立てた。
「まず、大事なのは、ボスの攻撃パターンを把握することなの。避けるべきところは避け、護るべきは護り、攻めるべきところを全力で攻めれば、勝機が見えるかもしれない。問題は、その情報をどうやって得るかってことだけど……多分、ボス狩り専門の大ギルドには聞いても無駄でしょうね。一度は、全滅を前提に挑戦してみないとだめだと思う」
「うん、ボクたちは大丈夫だよ! ただ……前の層でも、その前でも、ぶっつけ本番で全滅したあと、すぐに他のギルドに攻略されちゃったんだ」
ユウキがしゅんとした顔をすると、テーブルの反対側で、サラマンダーの少年ジュンがギザギザした眉毛をしかめて言葉を繋いだ。
「三時間後に出直したらもう終わってたんだよなー。気のせいかもしれないけど……なんか、僕らが失敗するのを待ってたみたいな……」
「へえ……」
アスナは口もとに手を当てて考え込んだ。最近、ボス攻略に関していろいろなトラブルが発生しているとは噂に聞いていた。大規模なギルド同盟による専横が過ぎるというのが主な内容だが、そんなところが果たして6人程度のギルドに注意を払うだろうか。
「うーん、じゃあ一応、全滅したらすぐに再挑戦できるように準備を整えておきましょう。みんなの都合がいいのはいつなのかな?」
「あ、ゴメン。アタシとタルケンは夜だめなんだ。明日の午後一時からはどうかなあ?」
大柄なスプリガンのノリが、頭をかきながらすまなそうに言う。
「うん、わたしは大丈夫。じゃあ、あした一時にこの宿屋に集合でいい?」
オッケー、了解、と口々に頷く面々に向かって、アスナはもう一度笑いかけると、大きな声で言った。
「――がんばろうね!」
名残惜しそうに、本当にありがとうと繰り返すユウキの頭をぽふぽふと撫で、宿屋を後にしたアスナは、ひとまずリズベット達のところに戻ることにした。思わぬ成り行きのことを話せば驚くだろうなあ、とわくわくしながらロンバールの中央広場にある転移門を目指して早足に歩く。
覚束ない記憶を辿りながら隘路を抜け、ようやく目の前に賑わう円形広場が出現した、その時だった。
ブツン、とまるでスイッチを切ったように、世界が暗くなった。感覚の全てが消滅し、アスナはまったき闇の中に放り出された。
底無しの穴に放り込まれたような、急激な落下感覚に襲われ、きつく奥歯を噛み締める。唐突に天地の方向が九十度切り替わり、背中にぐいっと圧力がかかる。次いで、五感のスイッチがばちんばちんと乱暴に再接続されていくショックに、アスナは全身をかたく強張らせてこらえた。
二、三度まぶたを痙攣させてから、霞んで涙がにじむ眼をどうにか押し開くと、自室の天井がぼんやりと見えた。
馴染んだベッドの柔らかさが、ようやく身体の背面に伝わってくる。浅い呼吸を何度も繰り返すうち、神経系の混乱は徐々に収まっていった。
一体、何があったのだろう。瞬間的な停電か、もしくはアミュスフィアに何らかの障害が――と思いながら、腕に力をこめて上体を起こし、ヘッドボードのほうに振り返って、明日奈は唖然と口を開けた。ベッドの傍らには、険しい表情を作った京子が立っており、右手をアミュスフィア本体の上部に置いていた。
異常切断の理由は、京子がマシンの電源を落としたせいなのだ、と悟って、明日奈は抑えきれずに声を荒げていた。
「な……なにするのよ母さん!」
だが、京子は眉間に深い谷を刻んだまま、無言で北側の壁に目をやった。明日奈もその視線を追い、埋め込み型の時計の針が、6時半を5分ほど回っていることに気付く。
思わず明日奈が唇を引き結ぶと、京子はようやく口を開いた。
「先月食事の時間に遅れたとき、お母さん言ったわよね。今度、このゲーム機を使ってて遅れたら、スイッチ切りますからね、って」
その、どこか勝ち誇ったように聞こえる口調に、反射的に大声で言い返しそうになる。俯いてその衝動をどうにか飲み込んでから、明日奈は低く震える声で言った。
「……時間を忘れてたのはわたしが悪かったわ。でも、だからって電源切らなくてもいいじゃない。身体を揺するか、耳もとで大声で呼んでもらえれば、中に警報が届くから……」
「前にそうしたら、あなた目を醒ますまで5分もかかったじゃないの」
「それは……移動とか、挨拶とかいろいろ……」
「何が挨拶よ。わけのわからないゲームの中での挨拶を、本物の約束事より優先させるの、あなたは? お食事が冷めちゃったら、せっかく用意してくれたお手伝いさんに悪いとは思わないの?」
たとえゲームの中でも相手は本物の人間なのよ、それに母さんこそ、大学に行ってるときはよく電話一本で料理を丸ごと無駄にさせるじゃないの――と、いくつもの反論が頭を過ぎった。しかし明日奈は再び下を向き、震える息を深く吐いた。かわりに出てきたのは、短い一言だけだった。
「……ごめんなさい。次から気をつけます」
「次はもうないわよ。今度これのせいで決まりごとをおろそかにしたら、機械は取り上げます。だいたい……」
京子は口もとをかすかに歪めると、明日奈の額にかかったままのアミュスフィアを一瞥した。
「お母さん、あなたがわからないわよ。そのおかしな機械のせいで、あなた大切な時期を二年間も無駄にしちゃったのよ? 見るのも嫌だとは思わないの?」
「これは……ナーヴギアとは違うわ」
呟いて、頭から二重の金属円環を外す。SAO事件の反省から、アミュスフィアに施されている何重ものセーフティ機構について口にしようとしたが、すぐに言っても無駄だと思い直した。それに、使っている機械が異なるとは言え、VRMMOゲームのせいで明日奈が二年に渡って植物状態に陥ったのは事実だ。その間、京子が多いに心配したのは確かだろうし、一時は明日奈の死をも覚悟したそうだ。母親がマシンを嫌う気持ちは解るし、理解しなければならない。
明日奈が黙っていると、京子は大きなため息をついて、ドアの方に向き直った。
「食事にするわよ。すぐに着替えて降りてきなさい」
「……今日はいらない」
夕食を作ってくれたハウスキーパーの明恵に悪いと思ったが、とても母親と向かい合って食事をする気にはならなかった。
「――好きにしなさい」
かすかに首を振って、京子は部屋を出ていった。かちんと音を立ててドアが閉まると、明日奈は制御パネルに手を伸ばしてエアコンの運転モードを急換気に変え、母親のつけていた強いコロンの残り香を追い出そうとしたが、それはいつまでもしつこく漂いつづけた。
“絶剣”ユウキとその魅力的な仲間達との出会い、そして新たな冒険の予感が残したわくわくする気持ちは、陽に照らされた雪球のように跡形も無く消えてしまっていた。
明日奈は立ち上がり、クローゼットを開けると、色褪せて膝に穴のあいたジーンズを引っ張り出して足を通した。プリントもののトレーナーをかぶり、合成素材の白いダウンジャケットを引っ掛ける。
手早く髪を整え、ヒップバッグと携帯端末を掴んで足早に部屋を出た。階段を降り、玄関ホールでスニーカーを履いて重いドアを押し開けようとしたとき、横の壁に設置されたパネルから鋭い声が響いた。
『明日奈! こんな時間にどこに行くの!?』
だが明日奈はそれには答えず、母親に遠隔操作でドアをロックされる前にノブを回した。両開きの扉が開け放たれた瞬間、双方の側面から音を立てて金属のバーが飛び出したが、ぎりぎりのタイミングで先んじた明日奈はするりと外に抜け出した。湿気を含んだ冷たい夜気が顔を叩く。
足早に車回しを横切り、ゲート脇の通用口から家の敷地外に出ると、明日奈はようやく詰めていた息を吐き出した。呼気が目の前に白く漂い、たちまち薄れて消える。ジャケットのジッパーを首元まで引き上げ、両手をポケットに突っ込むと、東急宮阪駅の方へと歩きはじめた。
行く宛がある訳ではなかった。母親にあてつけるように家を飛び出てみたものの、これが単なる子供っぽい反抗のポーズに過ぎないことは明日奈にもわかっていた。ジーンズのポケットに入っている端末には位置情報モニター機能があり、母親には明日奈が何処にいるか逐一知られてしまう。だからといって端末を置いてくるほどの度胸があるわけでもない。そんな自分への苛立ちが、胸の奥の無力感をいや増していく。
大きな屋敷が連なる住宅街のなかに、ぽつんと佇む小さな児童公園の前に差し掛かり、明日奈は足を停めた。入り口に立つ逆U字型の金属パイプに腰を乗せ、ポケットから端末を引っ張り出す。
ぱちんと開いて親指でキーを操り、画面にキリト――和人の番号を呼び出す。コールボタンに指を置き、しかし、明日奈はそこでまぶたを閉じて俯いた。
和人に電話して、ヘルメットを余計に一つ持ってバイクで迎えにきて、と言いたい。やかましいけれど速いバイクの後ろに跨って、和人の腰にぎゅっと手を回して、新年でがらがらの幹線道路をどこまでも真っ直ぐ飛ばしてほしい。そうすればきっと、アルヴヘイムで全力飛行するときのように、頭のなかのもやもやはたちまち消えてしまうだろうに。
けれど、いま和人に会ったら、感情を抑えきれずに、泣きながら何もかもを打ち明けてしまうだろう。学校を変わらなくてはいけないこと。ALOにも行けなくなるかもしれないこと。明日奈を既定の方向に押し流していく冷徹な現実と、それに抗えない自分――つまりは、ひた隠しにしてきた己の弱さそのものを。
明日奈は端末のボタンから指を離すと、それを静かに畳んだ。一瞬ぎゅっと握り締めてから、ポケットに戻す。
強くなりたい。かたときも揺るがない精神の強さ。扶養者に頼らず、自分の望む方向に進むための強さが欲しい。
しかし、同時に弱くなりたい、と叫ぶ声がする。自分を偽らず、泣きたいときに泣ける弱さ。すがりつき、わたしを守って、助けて、と言える弱さが欲しい。
降り始めた雪の一片が、頬に触れ、たちまち融けて流れた。明日奈は顔を上げ、仄白い闇のなかから落下してくるまばらな白点を、無言で見つめ続けた。
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「えーとつまり、ユウキとジュン、テッチが近接前衛型、タルケンとノリが中距離、シーエンが後方援護型ってことね」
アスナは腕を組み、武器防具を装備したスリーピングナイツの面々を見回した。
昨夜紹介されたときは軽装の普段着姿だったが、今は全員がエンシェント・ウェポン級の武装に身を固めている。絶剣ユウキはきのうと同じ黒のハーフアーマーに細身のロングソード。サラマンダーのジュンは小さな身体に不釣合いとも思える赤銅色のフルプレートをがっちり装備し、背中には身長と同じほどの長さのある大剣を吊っている。
巨漢ノームのテッチも同じく肉厚のプレートアーマーに、さらに戸板のごとき巨大なシールドを携えている。武器はごつごつした突起を四方に伸ばした、いかにも重そうなメイスだ。
眼鏡のレプラホーン・タルケンはひょろっとした体を真鍮色のライトアーマーに包み、武器は恐ろしく長いスピア。その隣に立つ姉御肌のスプリガン・ノリは、金属を使っていない道着ふうのゆったりした防具をまとい、これまた天井に届きそうな長さの鉄棍を携えている。
そして、唯一のメイジらしいウンディーネのシーエンは、僧侶ふうの白と濃紺の法衣と、ブリオッシュのように丸くふくらんだ帽子を身につけ、右手に細い銀色のスタッフを下げていた。全体としてはバランスが取れたパーティーだが、強いて言えば補助回復役が少し弱い。
「ってことは、わたしはヒーラーに回ったほうがいいみたいだね」
腰のレイピアを剣帯ごと外しながらアスナが言うと、ユウキがすまなそうに首を縮めた。
「ごめんねーアスナ。あれだけ剣が使えるのに、後ろに回ってもらっちゃって」
「ううん、わたしじゃ盾役はできないし。そのかわり、ジュンとテッチにはばしばし叩かれてもらうから、覚悟してねー」
にやにや笑いを浮かべ、重装備の二人を見る。猛烈な体格差のあるサラマンダーとノームのコンビは一瞬顔を見合わせたあと、同時にがしゃんとアーマーの胸を叩いた。
「お、おう、まかせとけ!」
威勢はいいものの引き攣ったジュンの台詞に、全員が愉快そうな笑い声を上げる。
アスナはアイテムウインドウを開くと、外したレイピアをその中に格納し、替わりに魔力増幅効果のあるねじれた杖を取り出した。生木そのままの、先端に葉っぱが残る一見貧相なアイテムだが、実は世界樹のいちばん天辺の枝を切ったものだ。入手するには巨大な守護竜の猛攻撃をかいくぐる必要がある。
「さて、と」
杖でとん、と床を突き、アスナは言った。
「じゃあ、ちょいとボス部屋を覗きに行きますか」
連れ立ってロンバールの宿屋を出て、常夜の空に飛び立った。
予想したとおり全員がスティックなしの随意飛行で、その滑らかな飛びっぷりにアスナはあらためて感嘆する。とても、ALOにコンバートして間もない者たちとは思えない。これはもう、VRMMOゲームに対する慣れというよりも、その根幹を成すNERDLES技術そのものへの適応力が高いと言わざるを得ない。稀にそのようなプレイヤーがいるのは確かだが、アスナの長いゲームプレイ経験のなかでも、直接知っているのはキリトやリーファといったごくわずかな数に留まっている。
それが六人も集まっているとは、一体どのような経緯で結成されたギルドなのだろうか。よくよく考えてみると、今日は一月八日であり、世間一般では仕事始め学期始めである。アスナの学校は万事余裕のあるカリキュラムのせいでまだ数日の休みが残っているが、ギルドメンバー六人全員をこんな昼間に集めるのは普通ではなかなか困難なのではないだろうか。
単純に考えれば、突出した強さのことも含め、ゲームに実生活のすべてを費やす超コアプレイヤーの集団である、と判断するのが妥当だろう。しかしアスナは、それも違うと感じていた。スリーピングナイツの面々からは、その手のギルドにありがちな我執の強さが見て取れない。皆が皆、どこか清流のような透明感を身にまとっている。
いったい、生身のプレイヤーはどのような人たちなのだろう、とアスナがいつもなら殆ど気にしないことを考えていたその時、前方を飛ぶユウキが相変わらず元気な声で叫んだ。
「見えたよ、迷宮区!」
はっとして眼を凝らすと、連なる岩山の向こうに、一際巨大な塔が見えた。円筒形のそれは地上から上層部の底までまっすぐに伸びている。根元からは、ひとつが小さな家ほどもありそうな水晶の六角柱がいくつも突き出し、放つ青い燐光で闇のなかの塔をぼんやりと照らし出している。迷宮への入り口は、塔の下部にぽっかりと黒く開いていた。
しばしホバリングし、入り口の周囲にモンスターや他パーティーの姿がないのを確認してから、ゆっくり降下する。最後尾のアスナは、地に足がつくと、六人に続いて巨大な塔を見上げた。空中から眺めるのとはまた異なる、まさしく威容と言うべきその姿に、しばし圧倒される。
「……じゃあ、打ち合わせどおり、通常モンスターとの戦闘は極力回避で行きましょう」
アスナが言うと、さすがに顔を引き締めたユウキたちは無言で頷いた。それぞれ腰や背中に手をやり、じゃりんと音高く得物を抜く。
シーエンが銀のスタッフを掲げ、立て続けにいくつもの補助スペルを詠唱した。七人のパーティーメンバーの体をライトエフェクトが包み、視界の右端、HPバーの下部に複数のアイコンが点灯する。つづいてノリがキャスティングを行い、全員に暗視魔法を掛けていく。
準備が完了したところで、もういちど顔を見合わせて頷きあい、前衛のユウキから迷宮区に踏み込んだ。入り口からしばらく続いた天然の洞窟が、石畳を組み合わせた人工の迷宮に変わると、明らかに周囲の温度が下がり、湿った冷気がアスナの肌を撫でた。
SAO時代に散々苦労させられたとおり、迷宮区内部はうんざりするほど広く、また出現モンスターのレベルもフィールドとは比較にならない。その上、アルヴヘイム地上に存在するダンジョン群と同じく、中ではまったく飛行できない。マップデータはあらかじめ購入しておいたが、それでもボス部屋までは最短でも三時間はかかるだろう。
――と、事前に予想していたのだったが。
わずか一時間と少しで、目の前に幅広の回廊とその奥の巨大な扉が出現したとき、アスナはあらためてユウキたちの実力に舌を巻く思いだった。個々の戦闘能力はそれなりに把握していたつもりだったが、更に見事と言うべきは六人の連携技術だ。言葉もなしに、小さな身振り手振りだけで立ち止まるべきところは立ち止まり、突っ切るところは突っ切っていく。アスナはほとんど、パーティーの最後尾をただ付いていけばよかった。モンスターと戦闘になったのはたったの三回であり、それすらも、アスナの指示に従って瞬時にリーダーの個体を屠ったため敵群が混乱したところを簡単に振り切ることができた。
ボス部屋への回廊を前進しながら、アスナは少々ぼやきたい気分で傍らのシーエンに囁きかけた。
「なんだか……わたし、本当に必要だったのかなあ? あなたたちを手助けできる余地なんて、ほとんどないような気がするんだけど……」
すると、シーエンは目を丸くして、ふるふるとかぶりを振る。
「いえ、とんでもない。アスナさんの指示があったからトラップも一度も踏みませんでしたし、戦闘もすごく少なくてすみましたし。前の二回では、遭遇する敵ぜんぶと正面から戦っちゃったので、ボス部屋につく頃には随分消耗しちゃって……」
「……それはそれで凄いけどね……――っと、ユウキ、止まって」
アスナが少し高めた声で言うと、前衛三人はぴたりと足を止めた。
すでに、ボス部屋へと続く長い回廊も半ば以上を踏破し、突き当たりの、おどろおどろしい装飾を施された石扉の細部までが見て取れる。回廊の両脇には一定間隔で円柱が立っているが、その陰を含めて、モンスターの姿はない。
訝しそうな顔で振り向くユウキやジュンに向かって、唇に人差し指をあててみせてから、アスナは大扉の左側、最後の円柱の向こう側に視線を凝らした。
回廊の照明は、円柱上部の壁龕に据えられた火皿の青白い炎だけだ。ノリの暗視魔法の補助があっても、ゆらゆら揺れる石壁の影の微細な動きは捉え難い。が、直感的に、アスナは視界の一部分に違和感を覚えたのだった。
手振りでユウキたちを退がらせて、アスナは右手の杖を掲げた。早口で少し長めのスペルワードを組み立てながら、左手の平を胸の前で上向ける。
詠唱が完了すると、手の平のうえに、胸ヒレを長く伸ばした小さな魚が五匹出現した。青く透き通るその魚たちに顔を寄せ、目指す方向に向かって軽く息を吹きかける。
途端、魚たちはぴちちっと跳ねてから、空中を一直線に泳ぎはじめた。対隠蔽呪文用精霊『サーチャー』を召還したのだ。五匹はわずかな角度をつけて放射状に泳いでいき、うち二匹が、アスナの眼に止まった空気の揺らぎの中に突入した。
ぱあっと青い光が広がった。サーチャーが消滅し、その奥で、一瞬だけ緑色の膜が出現してから、たちまち溶け崩れるように消えた。
「あっ!」
ユウキが驚いたような声を上げた。さっきまで何もなかった円柱の向こうに、忽然と三人のプレイヤーが姿を現したのだ。
アスナは素早く視線を走らせた。インプ二人、シルフ一人、全員が短剣装備の軽装だ。と言っても、武装のグレードはかなり高い。知った顔はなかったが、カーソル横に表示されたギルドタグには見覚えがあった。中盤以降、アインクラッドの迷宮区を立て続けに攻略している大規模ギルドのエンブレムだ。
迷宮区で、周囲にモンスターもいないのにハイドしているとは穏やかではない。一般的にはPKの手口だ。アスナは向こうの遠距離攻撃に備えて再び杖を掲げ、傍らでユウキたちもがしゃりと武器を構えなおす。
だが、予想に反して、三人組のひとりが慌てた様子で片手を上げて叫んだ。
「ストップストップ! 戦う気はない!」
焦った声の調子は演技とは思えなかったが、アスナは警戒を解かずに叫び返した。
「なら、剣を仕舞いなさい!」
すると、三人は顔を見合わせ、すぐにそれぞれの短剣を腰の鞘に収めた。アスナはちらりとシーエンを振り返り、囁いた。
「連中がもう一度抜剣するそぶりを見せたら、すぐにアクアバインドを掛けて」
「わかりました。うわあ、対人戦ははじめてですよ。どきどきしますね」
どきどきというよりもワクワクしているかのように目を輝かせるシーエン及び仲間たちの様子に、わずかに苦笑してから、アスナは三人組に向き直った。ゆっくりと数歩近寄り、言う。
「PKじゃないなら……何が目的でハイドしてたの?」
再びちらりと視線を交わしてから、リーダーとおぼしきインプが答えた。
「待ち合わせなんだ。仲間が来るまでにMobに襲われたら面倒なんで、隠れてたんだよ」
「…………」
もっともらしく聞こえるが、どこか怪しい。隠蔽呪文使用中は馬鹿にならない速度でマナが消費されるため、数分ごとに高価なポーションを飲み続ける必要がある。そもそもこんな迷宮の最奥まで辿り付けるなら、そこまでしてモンスターとの戦闘を避ける必要は無いはずなのだ。
しかし、これ以上こちらから難癖をつけることもできそうになかった。万難を排するならこちらからキルするという手もあるが、大規模ギルドとトラブルになると後々色々面倒なのも確かだ。
アスナは疑問を飲み込んで、軽く頷いた。
「わかったわ。――わたし達、ボスに挑戦に来たんだけど、そっちの準備がまだなら先にやらせてもらってもいいわね?」
「ああ、もちろん」
ことによると、更に巧言を重ねてボスモンスターへの挑戦を妨害してくるかも、と予想したのだが、あにはからんや痩身のインプは短く即答した。そのまま、二人の仲間を手振りで下がらせ、自らも大扉の脇へと退く。
「俺たちはここで仲間を待つから、まあ、がんばってくれや。じゃあな」
わずかな笑みを頬に浮かべ、インプは仲間のシルフのほうにあごをしゃくった。頷くと、シルフは両手を掲げ、慣れた口調でスペルワードの詠唱を開始する。
たちまち、術者の足元から緑色の空気の膜が沸きあがり、三人の体を覆い包んだ。すぐに膜の色がすうっと薄れ、揺らぐように消えたときには、そこにはもう誰の姿も見えなかった。
「…………」
アスナはしばらく口もとを引き締めたまま、再びハイドした男達のほうを見つめていたが、やがて肩をすくめるとユウキのほうに向き直った。絶剣の異名を持つ少女は、いまの不穏なやり取りにもまったく気分を害した様子は無いようで、大きな紫の瞳をきらきらさせたまま、アスナに向かって軽く首をかしげてみせる。
「……とりあえず、予定どおり一度中の様子を見てみましょう」
アスナが言うと、ユウキはにいっと笑いながら大きく頷いた。
「ん、いよいよだね! がんばろ、アスナ!」
「様子見と言わず、ぶっつけでぶっ倒しちゃうくらいの気合で行こうぜ」
威勢のいいジュンの言葉には、アスナも笑いを返すしかない。
「まあ、それが理想だけどね。でも、無理して高いアイテム使ってまで回復しなくていいからね。あくまで、わたしとシーエンがヒールできる範囲内でがんばるってことで、いいわね」
「はい、先生!」
茶目っ気たっぷりに答えるジュンのおでこを指で突いておいて、アスナは他の五人を順繰りに見ながら続けた。
「死んでも、すぐには街に戻らないで、ボスの攻撃パターンをしっかり見ておいてね。全滅したら、いっしょにロンバールのセーブポイントに戻るってことで。――フォーメーションは、ジュンとテッチが最前面でひたすら耐える。タルケンとノリはその両翼から攻撃。ユウキは自由に遊撃、可能ならボスの背面に回ってみて。で、わたしとシーエンが後方で補助回復、と」
「了解」
一同を代表して巨漢のテッチが重々しい声で言う。左手のタワーシールドをがしゃりと掲げ、右手のメイスを肩に担ぎ、大扉のすぐ前にジュンと並んで立つと、ちらりとアスナを振り向いた。
アスナがぐいっと頷き返すと、ジュンが空いている左手を扉に掛けた。肩を怒らせ、ぐいっと力を込める。
黒光りする岩でできた二枚扉は、一瞬抵抗するかのように軋み声を上げたあと、ごろごろと雷鳴に似た音を回廊全体に響かせながらゆっくりと左右に割れはじめた。内部は完全な闇――
と思ったのも束の間、ドアのすぐ前で、青白いかがり火が二つ、ぼうっと吹き上がった。続いて、さらに左右に二つ。わずかな時間差を置いて、無数の炎が輪を描くように立ち上っていく。
ボス部屋は完全な円形だった。床面は磨かれたような黒石、広さも相当なものだ。いちばん奥の壁に、上層へと繋がる階段を隠す扉が見える。
「――いくわよ!」
アスナが叫ぶと同時に、ジュンとテッチが思い切りよく部屋の内部に走り込んだ。残る五人もすぐに後を追う。
全員が、決めたとおりのフォーメーションにつき、それぞれの武器を音高く構えた、次の瞬間。部屋の中央に、荒削りの巨大なポリゴンが湧出した。黒いキューブ状のそれは、たちまち幾つも組み合わさり、角が面取りされ、みるみるうちに情報量を増していく。
最後に、ばしゃーんと無数の破片を宙に散らして、ボスモンスターが実体化した。身の丈4メートルはあろうかという黒い巨人だ。見上げるほどでかい上に、頭が二つ、腕が四本あり、それぞれの手に凶悪な形をした鈍器を握っている。
地震のごとく床を揺らして、巨人は着地した。下半身に対して上半身のボリュームが異様に大きく、体をかなり前傾させているが、それでも二つの頭ははるか上空に位置している。
赤く光る四つの眼で、アスナたちをしばし睥睨したあと、巨人は轟くような咆哮を上げた。上側の二つの手に握られた破城槌並みのハンマーを高く振り上げ、下側の二本の腕で、錨も吊るせそうな太い鎖を床に打ち付けて――。
「だああああ、負けた負けた!!」
最後に転移してきたノリが、ばんばんタルケンの背中を叩きながら、愉快そうに喚いた。
ロンバール中央広場に面した、ドーム状の建物の中。部屋の真ん中、一段低くなった床に立つ位置セーブクリスタルの周囲に、アスナたち七人は転送されていた。無論、67層ボスである黒巨人の猛攻の前にあえなく全滅したからである。
「ううー、がんばったのになあー」
無念そうに肩を落とすユウキの襟首を、アスナはがっしと掴んだ。
「ふえ?」
いぶかしい顔をするユウキを引っ張り、そのまま部屋の隅へと走り出す。
「みんなも、早くこっちきて!」
とりあえず宿屋に戻って休憩兼残念会、などと言っていたジュンたちも、ぽかんと顔を見合わせたあと、すぐに後を駆けてくる。
建物の中には誰の姿もなかったが、念を入れて入口まで声の届かない場所に全員を集めると、アスナは早口で捲し立てた。
「のんびりしてる余裕はないわよ。ボス部屋の前にいた三人、覚えてるでしょ?」
「ええ、はい」
シーエンがこくりと頷く。
「あれは、ボス攻略専門ギルドの偵察隊だわ。同盟ギルド以外のプレイヤーがボスに挑戦するのを監視してるのよ。多分、前の層も、その前も、ユウキたちがボスと戦ってるところをハイドして見てたはずよ」
「えっ……わあ、ぜんぜん気付かなかった!」
「恐らく、わたし達の人数から、攻略に成功する可能性は無いと判断したのね。だから、妨害よりもボスと戦わせて攻撃パターンの情報収集することに作戦を切り替えたのよ」
「ううー、もしかして今までボクたちが全滅したあと、すぐに攻略されちゃったのはそのせいなの……?」
「間違いないわね。ユウキたちががんばりすぎて、ボスの手の内を最終段階まで丸裸にしたから、彼らも攻略に踏み切れたんだと思う」
「と、いうことはつまり……」
シーエンが柳眉をひそめて呟く。
「今回も、噛ませ犬役を演じてしまったということですか……?」
「……なんてこった」
タルケンの嘆き声に、五人もがっくりと肩を落とそうとしたが、その前にアスナはばしんとユウキの肩を叩いた。
「ううん、そうと決まったわけじゃないわ!」
「え……? どういうことなの、アスナ?」
「まだ現実では昼の二時半、こんな時間に何十人も集めるのは、いくら大規模ギルドでも大変なはずだわ。少なく見積もっても二時間くらいはかかると思う。その間隙を突くのよ。――いい、あと五分でミーティングを終えて、三十分でボス部屋まで戻る!」
「ええー!?」
さすがのスリーピングナイツ達も、今度こそは驚愕の声を上げた。それに向かって、アスナはにこっと笑いかける。
「わたし達ならできるわ。それに――ボスもきっと倒せる」
「ほ、ほんと!?」
「きっちり冷静に、弱点を突ければね。作戦はこうよ。ボスは巨人型、多腕なのが厄介だけど、正面をきっちり作れる分、非定型クリーチャータイプよりマシだわ。攻撃パターンは、ハンマーの振り下ろし、鎖の薙ぎ払い、頭を下げての突進。HPが半減してからは、プラス広範囲ブレス攻撃。さらにHPが減ると、武器四つでの八連撃ソードスキル……」
アスナは床にホロパネルを広げると、手早くボスの攻撃パターンを列挙した。次に、それぞれに対する詳細な防御方法を指示していく。
「……だから、ジュンとテッチは鎖は無視していいわ。ひたすらハンマーに集中して。次に弱点だけど、ハンマーの振り下ろし攻撃を、武器や盾で受けないで空振らせて、床を叩かせるとコンマ7秒くらい硬直時間があるわ。その隙を逃さずに、ノリとタルケンはきっちり強攻撃を入れて。あと、背中側にもかなりの隙がある。ユウキはひたすらバックを取って、突進系のソードスキルで攻めていいわ。鎖は真後ろまで届くから気をつけてね。で、ブレスへの対応だけど……」
作戦会議でこんなに喋ったのは、間違いなく血盟騎士団時代以来だ、と心の隅で思いながら、アスナは思い切り口を回転させた。六人は真剣な顔でこくこくと頷きつづけている。
まるで学校の先生にでもなったかのような感慨をおぼえつつ、アスナはぴたり4分でレクチャーを終えた。次にアイテム欄を開くと、預かっていた攻略予算で買い込んだ大量の回復ポーション類を、まとめて実体化させる。
がしゃがしゃんと音を立て、床の上に色とりどりのガラス瓶の山が出来た。それを、先刻の挑戦で皆が受けたダメージ量に従って次々に分配していく。最後に、青い瓶に入ったマナ回復薬を自分とシーエンのポーチに放り込み、すべての準備が完了した。
アスナは背筋をぴしっと伸ばすと、全員の顔を見回して、微笑みながら力強く頷いた。
「もう一度言うけど、あなた達……ううん、わたし達なら、あのボスに勝てる。ずーっと前からここで戦ってるわたしが保証するわ」
すると、ユウキもいつもの邪気の無い笑みを浮かべ、言った。
「ボクの勘は間違ってなかったよ。アスナに頼んでよかった。もし攻略がうまくいかなくても、ボクの気持ちは変わらないからね。――ありがとう、アスナ」
「……その言葉は、祝勝会の時までとっておいてね。じゃ……もう一度、がんばろう!」
再びロンバールを飛び立った六人は、掛け値なしの全速飛行で迷宮区を目指した。最短距離をまっすぐ飛んだので、フィールドモンスターに何度かターゲットされたが、ノリの幻惑魔法で眼をくらませて一気に突っ切る。
巨塔まではほんの五分で辿り付いた。立ち止まらずに入り口に飛び込み、今度は足を使って最上階へと駆け抜ける。さすがに狭いダンジョンの中では、モンスター群の真ん中を突破するわけには行かなかったが、かわりに絶剣ユウキがその本領を発揮し、リーダー個体をほとんど一息に斬り倒した。
設定したタイマーが28分を経過したとき、ついに目の前にボス部屋へと続く回廊が現われた。広い通路は、ゆるく右に湾曲しながら、螺旋状に塔の中央部まで伸びている。
「おっしゃあと2分ッ!!」
ジュンが叫ぶと、ユウキの前に立ってスプリントを始めた。
「あっ、こらまてー!」
それをユウキが追っていく。
このぶんなら、どうにか例のギルドの鼻を明かせそうだ、と思いながら、アスナも懸命に走った。ぐるぐると円を描きながら一行はたちまち回廊を走破し、ついに例の大扉が目の前に――
「!?」
扉の前に広がる光景に、アスナは驚愕しながら両足でブレーキを掛けた。ユウキとジュンも、ブーツで床をがりがり擦りながら急停止する。
「な……なんだい、これ……!?」
アスナの傍らで、ノリが呆然と囁いた。
ボス部屋の扉へと至る、長さ十メートルほどの回廊は、およそ二十人ほどのプレイヤーでぎっしりと埋まっていた。
種族はまったくバラバラだが、唯一共通しているものがあった。全員のカーソル横のギルドエンブレムだ。さきほど、扉の前でハイドしていた三人と同じものである。
遅かった!? まさかこんなに早く――、と内心で歯噛みしてから、アスナはおや、と思った。ボス攻略にしては、人数が少ない。二十人、つまり三パーティーというのは、噂に聞くこのギルドの攻略チームのおよそ三分の一程度である。
つまりまだ全員が集まっているわけではないのだ。こんな迷宮の最奥部を集合場所にするとは大胆な話だが、その分連中も焦っているということか。
アスナは流石に眉をしかめているユウキの隣に歩み寄ると、濃紺のロングヘアに隠された耳に口を寄せた。
「大丈夫、一回は挑戦できる余裕はありそうだわ」
「……ほんと?」
ほっとしたような顔を見せるユウキの肩をぽんと叩き、アスナはつかつかと集団へ歩み寄った。全員がまっすぐ視線を注いでくるが、何故か口もとに妙なにやにや笑いを浮かべている者が多い。
それを無視して、アスナは集団のいちばん前に立つ、一際ハイランクの武装をまとったノームに話し掛けた。
「ごめんなさい、わたし達ボスに挑戦したいの。そこを通してくれる?」
だが、太い腕を見せつけるように前に組んだノームは、アスナの予想の及ばないことを口にした。
「悪いな、ここは今閉鎖中だ」
「閉鎖……って、どういうこと……?」
唖然としながら訊き返す。ノームは大げさに眉を上下させると、何気ない口調で続けた。
「これからうちのギルドがボスに挑戦するんでね。今、その準備中なんだ。しばらくそこで待っててくれ」
「しばらくって……どのくらい?」
「ま、一時間てとこだな」
ここに至って、ようやくアスナは男達の魂胆を理解した。彼らは、ボス部屋前に偵察隊を配置して情報収集に当たらせるだけでなく、攻略に成功しそうな他集団が現われたときには更に多人数の部隊で通路を物理的に封鎖するという作戦を取っているのだ。
このところ、一部の高レベルギルドによる狩場の独占が問題になっているという噂は聞いていた。だがよもや、中立域においてこんな露骨な占領行為がまかり通っているとはまるで知らなかった。
自然に声が尖ろうとするのをどうにか堪えながら、アスナは言った。
「そんなに待っている暇はないわ。そっちがすぐに挑戦するっていうなら別だけど、それが出来ないなら先にやらせて頂戴」
「そう言われてもね」
しかしノームはまったく動じる様子もない。
「こっちは先に来て並んでるんだ。順番は守ってもらわないと」
「それなら、準備が終わってから来てよ。わたし達はいつでも行けるのに、一時間も待たされるなんて理不尽よ」
「だから、そう言われても、俺にはどうにもできないんだよ。上からの命令なんでね、文句があるならギルド本部まで行って交渉してくれよ。16層にあるからさ」
「そんなとこまで行ってたらそれこそ一時間経っちゃうわよ!」
つい大声で言い返してしまってから、アスナは唇を噛み、自分を落ち着かせるために大きく深呼吸した。
どう交渉しても、彼らに道を空ける気はないらしい。ならばどうするか。
ボスがドロップする金品をすべて提供するという取引を申し出るというのはどうだろう。いや、ボス攻略の魅力はアイテムだけではない。莫大なスキルアップポイントと、剣士の碑に名を残す名誉という実体のない付随物もある。とても連中が飲むとは思えない。
あるいは、不当行為としてGMに訴え出るという手段もあるにはある。しかし、基本的に運営サイドはプレイヤー間のトラブルには干渉したがらないし、双方の言い分を申し立てて裁量を待っているうちにも時間はどんどん過ぎていく。
八方塞りで立ち尽くすアスナを高いところから一瞥して、ノームは交渉終了と見たか身を翻し、仲間のほうに戻ろうとした。
その背中に向かって、アスナの斜め後ろにいたユウキが声を投げかけた。
「ね、君」
立ち止まり、肩越しにひょいと振り返るノームに、いつもの笑顔のままのユウキは元気な声で訊ねる。
「つまり、ボクたちがこれ以上どうお願いしても、そこをどいてくれる気はないってことなんだね?」
「――ぶっちゃければ、そういうことだな」
直截なユウキの物言いに、ノームもさすがに鼻白んだ様子だったが、すぐに倣岸な態度を取り戻して頷いた。それに向かって、ユウキはにっこりと笑いかけると、短く言った。
「そっか。じゃあ、仕方ないね。戦おう」
「な……なに!?」
「ええ……?」
ノームの男と同時に、アスナも驚いて声を漏らした。
中立域ではプレイヤー・キルが可能なALOではあるが、実際にプレイヤーを襲う行為にはルールに明文化されている以上のしがらみが色々と付随する。相手が、大規模なギルドの所属員であるとなれば尚更だ。たとえその場では勝利しても、事後にギルドあげての報復があるかもしれないし、恨みをゲーム外にまで持ち出されることだって無いとは言えない。最初からPKをプレイスタイルとしている者以外は、大ギルド相手に戦闘を吹っかけることはほとんどできないのが実情なのだ。
「ゆ……ユウキ、それは……」
そのへんのことをどう説明したものか、アスナは口を開いたものの言葉に詰まった。そんなアスナの背中を、ユウキは笑みを消さないまま、ぽん、と叩く。
「アスナ。ぶつからなきゃ伝わらないことだってあるよ。例えば、自分がどれくらい真剣なのか、とかね」
「ま、そういうことだな」
背後でジュンが相槌を打つ。振り返ると、五人とも平然とした態度でそれぞれの武器を握りなおしている。
「みんな……」
「封鎖してる彼らだって、覚悟はしているはずだよ。最後のひとりになっても、この場所を守りつづける、ってね」
ユウキは再びノームに視線を投げかけると、小さく首を傾け、言った。
「ね、そうだよね、君」
「あ……お、俺たちは……」
まだ驚きから醒めやらぬ様子の男に向かって、腰の剣を音高く抜き、ぴたりと剣尖を据える。ふっ、と口もとの笑みを薄れさせ――
「さあ、武器を取って」
ユウキのペースに飲まれたように、ノームは腰から大ぶりのバトルアックスを外すと、ふらりと構えた。
次の瞬間、小柄なインプの少女は、一陣の突風となって回廊を駆けた。
「ぬあっ……」
ようやく事態を理解したとでもいうように、ノームは目を丸くして唸り声を上げると、大きく斧を振りかぶる。だが、その動きはいかにも遅すぎた。ユウキの黒曜石の剣は、闇色の軌跡を残して低い位置から跳ね上がり、男の胸の真ん中を捉えた。
「ぐっ!」
ユウキの1.5倍近い身長のノームは、その一撃だけでぐらりと体勢を崩した。そこに、真っ向正面の上段斬りが襲い掛かる。どすっ、と重い音を立ててノームの肩口に剣が食い込み、HPバーを大幅に削り取る。
「ぬおおおお!!」
ついに男は怒りの雄叫びを上げ、目の前の少女に向かって思い切り斧を振り下ろした。さすがに有名ギルドでパーティーリーダーを張るだけあって、そのスピードは中々のものだったが、”絶剣”ユウキの相手はいかにも荷が重すぎた。
バキィン、と甲高い音がして、斧はユウキに触れるはるか以前に大きく弾かれた。体を泳がせるノームの眼前で、ユウキはぐうっと弓を絞るように右手の剣を大きく引いた。同時に、刀身が血のような赤い光を放つ。キリトが得意としていた片手剣用単発ソードスキル、『ヴォーパル・ストライク』だ。
爆発じみた衝撃音が回廊を突き抜け、壁を震動させた。ユウキの放った突き技はノームの胸の中央を深く貫き、そのHPバーをあっけなく吹き散らした。周囲を染めた真紅のライトエフェクトが消えると同時に、男の巨体を黄色い炎が包み、直後、その姿は溶け崩れるように消滅した。あとには、小さな残り火がひとつ漂うだけだ。
ボス攻略専門ギルドと銘打つだけあって、突然の襲撃には慣れていなかったのであろう残りの者たちは、ここに至ってようやく事態を呑みこんだようだった。
「て、てめえええっ!!」
一人のサラマンダーが腰から大ぶりの曲刀を抜き放つと、怒号を発した。それを合図に、全員がみるみる殺気立ち、それぞれの武器を高く掲げる。
「さて、私たちも行きますか」
シーエンがあくまで落ち着いた声で言うと、アスナの肩をぽんと叩いて微笑んだ。
「えー……っと……」
どういう顔をするべきか咄嗟に判断できず、とりあえず強張った笑みを浮かべてみたアスナのすぐ隣を、どりゃあああと威勢のいい声を上げながらジュンが駆け抜けていく。そのすぐ後ろにヘビーメイスを担いだテッチが続き、更に槍と鉄棍をプロペラのように回しながらノリとタルケンが追従する。
いまや明確に敵となった相手集団も、一戦交えると決まってからの動きは速かった。前面に重装甲のノームやサラマンダーが並び、鉄の壁と化して、一人突出しているユウキ目掛けて殺到してくる。
ユウキには、後退する気はさらさら無いようだった。いきなりソードスキルで迎撃するつもりらしく、大上段に高く振りかぶった剣がまばゆい紫に発光する。その右翼にジュンとタルケン、左翼にテッチとノリが突入し、くさび型のフォーメーションを作る。
双方が激突した瞬間、ががぁん!! という大音響が炸裂し、立て続けに幾つものライトエフェクトが弾けた。たちまち秩序なき混戦が始まり、広い回廊は剣戟の音に満ち溢れた。
ユウキが対人戦闘に熟達しているのは、アスナが自分の剣で確かめているが、彼女以外のメンバーも、戦う相手がモンスターからプレイヤーになったところでまるで臆することなく得物を振り回した。ジュンの大剣とテッチの戦槌は、その重量を活かして真正面から敵の防御を崩し、出来た隙をタルケンの長槍とノリの鉄棍が的確に捉えていく。ユウキのほうはと言えば、持ち前の超絶回避力を存分に発揮し、殺到する複数の武器をひょいひょいと掻い潜っては敵の懐に密着して、必殺のカウンターを叩き込んでいく。
数倍の人数相手に、まさに獅子奮迅と言うべきスリーピングナイツの戦いっぷりだったが、しかし敵集団も容易には倒れなかった。後方に控えたメイジ隊が途切れることなく回復魔法を詠唱しているせいだ。
あまりの乱戦による偶発的ヒットで、ユウキ以外のメンバーのHPも徐々に減り始めたようだった。アスナの隣でシーエンがヒール呪文の詠唱を始める。
と、集団からするりと抜け出し、アスナとシーエンに向かってダッシュしてくる影が二つあった。レザー系の軽鎧、手には鈍く光るダガーを装備したアサシンタイプだ。
その連中が、数十分前にボス部屋の前でハイドしていたプレイヤーだと気付いたとき、ようやくアスナも肚を決める気になった。長い杖を両手で構えると、頭上で風車のようにぶんぶん回転させ始める。
「ふんっ!!」
気合とともに体ごと振り回すと、黄色い光の帯を引きながら、世界樹の枝は飛び掛ってきたアサシン二人を真横から薙ぎ払った。コンコーン! と薪を割るような音を立てて二人は跳ね飛ばされ、床に叩きつけられる。
攻撃者たちは、まさかウンディーネのメイジから棒術系ソードスキルによる反撃を受けるとは思ってもいなかったようで、床に転がったまま一瞬目を丸くした。その隙を逃さず、アスナはダッシュで距離を詰めると、一人を回転系三連撃、もう一人を突き技四連撃で仕留める。
倒した相手が紫と緑の炎に包まれて消滅するのに目もくれず、アスナは振り返ると、シーエンに向かって言った。
「ヒールは一人で大丈夫?」
さすがに驚いたような顔をしながらも、シーエンはこくりと頷いた。
「ええ、多分間に合うと思います」
「じゃあ、わたしは敵のヒーラーを排除してくるわ」
にっ、と唇の端で笑ってみせて、アスナは手早くウインドウを出すと杖をアイテム欄に放り込み、かわりに愛用のレイピアを装備した。たちまち、腰の周囲を銀色の光が取り巻き、ミスリル糸を編んだ剣帯と、それにぶら下がる同素材の鞘が実体化する。
しゃらんと音を立てて細く長い剣を引き抜き、アスナは前方の混戦地帯を睨んだ。双方入り乱れた戦士たちはほぼ回廊の幅いっぱいに広がっているが、強いて言えば右側の層が薄い。
すーはー、と一回呼吸を整えて、アスナは思い切り石畳を蹴った。右手のレイピアを腰溜めに構え、全力でダッシュする。速度が充分乗ったところで、進行方向でこちらに背を見せて戦っているユウキに向かって大声で叫ぶ。
「ユウキ!! 避けて!!」
「へ……? ――わあ!?」
ひょいっと振り向いたユウキは、突進するアスナを視認するや慌てて飛び退った。そのむこうで、剣を振りかぶったまま硬直するサラマンダー目掛けて、アスナは姿勢を低くしてまっすぐ剣を突き出した。
ばっ、と剣先から純白の光が幾筋も迸り、たなびくようにアスナを包んだ。直後、ふわりと体が浮き上がる感覚。アスナは彗星のように長く光の尾を引きながら、猛烈なスピードで突進していく。
「うわああっ!!」
ようやく我に返ったサラマンダーは、左手の盾を体の前にかざそうとした。だがギリギリ間に合わず、その体の中央にレイピアの先端が触れた。
途端、まるで暴走する巨獣に轢かれでもしたかのように、サラマンダーは宙高く弾き飛ばされた。ユウキの剣によってHPをほとんど削られていたらしく、その体は空中にあるうちに真紅の炎を噴き上げて四散する。
彗星と化したアスナは、一人を屠ってもまったく勢いを削がれることなく、更に後方の敵本隊に向かって一直線に突入した。たちまち三、四人が同じように吹き飛ばされ、ある者は空を舞い、ある者は地面に叩きつけられる。細剣カテゴリの長距離突進系ソードスキル、『フラッシング・ペネトレイター』なる技だ。発動するためには充分な助走が必要なため、一対一の戦闘では使える場面はほとんど無いが、このように敵集団を突破するためには非常に有効な手段となる。
一瞬のうちに鎧と盾の鉄壁を貫通し、更に十メートル近くも飛翔してから、アスナはようやく迷宮の床に着地した。靴底でがりがりと火花を散らしながらブレーキをかけて停止し、うずくまったまま顔を上げる。目の前では六人ほどのローブをまとったメイジたちが固まり、呆然とアスナを見下ろしていた。
「どーも」
アスナはにこっと笑いかけると、立ち上がりながら右手のレイピアをぎゅん、と後ろに引き絞った。
集団戦になにより重要なのは、実は前面に立つ近接戦闘要員の能力よりも、後方のバックアップ態勢である。そんなわけで、回復要員を排除された敵集団は、ユウキたちの猛攻撃の前にあっけなく潰滅した。
アスナが再びレイピアを仕舞い、杖を取り出していると、近寄ってきたユウキがばしんと背中を叩いた。
「やるねえアスナ! ボクでもなかなかあんな無鉄砲な突撃はしないよー」
あはは、と笑われ、アスナもやや複雑な笑みを返す。
「そ、その言われ方は心外だなあ。先に彼らをぶっとばしちゃったのはユウキじゃない」
「うーん、まずかったかなあ……?」
今更のように首を傾げられると、アスナも笑いながら否定するしかない。
「ううん、そりゃちょっと驚いたけど、終わってみればこうするしかなかったって感じだし。それに……」
じっ、とユウキの大きなアメジストの瞳を見る。
「なんだか、忘れてたことを思い出させてもらった感じ。ぶつからなければ、伝わらないこともある……。ほんと、そうだよね」
「ぼ、ボク、そんな深い意味で言ったわけじゃないよ」
照れたように肩をすくめるユウキに向かって、アスナはもう一度微笑みかけた。
「わたしも、ずーっと昔は知ってたはずなんだ。本音を飲み込んじゃダメな時だってある……」
「……?」
「……ねえ、ユウキ」
不思議そうに目をしばたかせるユウキに向かって、アスナは口を開きかけたが、思い直して首を振った。
「ううん、ごめん、後にする。それより、さっきの人たちがまた押しかけてくる前にボスを倒しちゃわないと」
先刻まで床に漂っていた二十幾つのリメインライトは全て消え去っていた。恐らくロンバールのセーブポイントで蘇生し、攻略ギルドの本隊と合流したあとは、数倍の勢力になって殺到してくるだろう。
アスナは振り向くと、五人の仲間たちに声を掛けた。
「みんな、だいじょぶ? 疲れてない?」
「へーきへーき! これくらいで消耗するような鍛え方はしてないって!」
肩に鉄棍を担いだノリが、がっはっはと笑いながら隣のタルケンの背中をばしばしと叩く。のっぽのレプラホーンは、眼鏡をずり下げながらわざとらしくゴホゴホ咳き込んでみせるが、激戦に疲労した様子はまるで無い。
あはは、と笑いながら、アスナは視界の端のHP、MPバーを確認した。戦闘直後に飲んでおいたポーションの効果で、ちょうどフル回復したところだった。
皆が全快したのを確認したユウキがぱちんと両手を叩き、元気な声で言った。
「じゃ、もいっちょ行こっか!」
おー、と唱和しつつ、アスナたち六人はそれぞれの武器を高く掲げる。手早く打ち合わせどおりの隊列に並びなおし、アスナとシーエンの補助スペル詠唱が終わったところで、ユウキが右手を回廊どんつきの大扉に掛けた。一瞬ぐっとためてから、思い切り開け放つ。
今度は青いかがり火がすべて点灯するのを待つことなく、全員が内部に駆け込んだ。この照明の演出は全フロアで共通しており、最初のひとつが灯ってからボス湧出が終わるまでが、攻略参加の猶予時間となる。
重低音を響かせながら、四角い岩のようなポリゴンが出現した。みるみるディティールが増加し、黒巨人がその姿をほとんど完成させたころ、背後の回廊から遠く無数の靴音とときの声が響いてきたが、アスナはもうほとんど注意を払わなかった。
雷鳴のような雄叫びを轟かせ、ボスモンスターがずしんと着地するのと同時に、両扉が重く震動しながら動き出し、数秒でぴたりと閉ざされた。
小瓶の栓を親指で弾き飛ばし、中の青い液体を一息に呷りながら、アスナはマナ回復薬の残存数をちらりと確認した。腰のポーチにぎっしりと詰まっていたはずのポーションだが、四十分を超える激戦のあいだにみるみる消費され、残すところあと三本だけとなってしまった。一緒にヒーラー役を受け持っているシーエンのほうも似たような状況だろう。
前衛攻撃役の面々も限界まで頑張ってはいるのだ。黒巨人の攻撃パターンのうち、回避可能なものは全て避けている。しかし、巨人のふたつの口から時折放たれる毒属性の広範囲ブレスと、二本の鉄鎖で周囲を狂ったように薙ぎ払う全方位攻撃だけはいかんともし難い。その二つが飛び出すたびに、アスナとシーエンは最上級の全体回復スペルの詠唱を余儀なくされるため、マナポイントがいくらあっても追いつかない。
こちらの攻撃も、ノリの棍とタルケンの槍、ユウキの剣がもう無数にクリーンヒットしているのだが、まるで耐久力無限の鉄壁を叩いているような嫌な手応えだ。ボスは時折四本の腕を体の前で交差させて防御姿勢を取り、そうなると実際に鉄のように硬くなってすべての攻撃を弾くため、徒労感もいや増していく。
喉元までせり上がってくる焦燥感を、ポーションと一緒にむりやり飲み下して、アスナは声を張り上げた。
「みんな、もうちょっとだよ! もうちょっとだけ、頑張ろう!」
――と言ってはみたものの、五分前にも同じことを叫んでいるのだ。ボスモンスターはHPバーを確認することができないため、残りHPはその挙動から推測するしかない。戦闘開始時にはのろのろと動いていた黒巨人が、今は恐慌状態とでも言うべきおお暴れっぷりなので、体力が残り少ないのは確かなはずだが、それすらも希望的観測の域を出ていない。
こういう先の見えない長期戦では、後方でバックアップするプレイヤーはマナポイントが減少していくだけだが、前線で敵の猛攻に晒されるフォワードは実際に精神力、集中力を消耗させていくことになる。通常のボス攻略戦では、最前面に立つプレイヤーはおよそ十分で控えと交替するのがセオリーなので、それを考えればスリーピングナイツの面々の頑張りは驚異的と言える。
しかしさすがに疲労は隠し切れないようで、アスナの呼びかけに、おう! と元気な声で応えたのはユウキだけだった。小柄なインプの少女だけは何十分経っても憔悴の色ひとつ見せず、軽快なステップで巨人の槌と鎖をかいくぐっては右手の剣で的確にダメージを入れていく。
いままで、ユウキの強さを超絶的な反射速度としてとらえていたアスナだが、ここにきてまたひとつ認識を新たにさせられる思いだった。集中を途切れさせることなく剣を振るい続ける意思の強靭さは、これもかつてのキリトに匹敵するかもしれない。
ふと、アスナは、何度目ともしれない回復スペルを詠唱しながら、眼前の光景を遠い記憶に重ね合わせていた。
まえのアインクラッドの、七十何層だったかのボス攻略戦で、キリトも似たような巨人タイプ相手にたった一人で奮闘したものだ。敵の猛攻を避けに避けまくり、両手の剣を機関銃のようなスピードで振り回して、ボスの弱点らしき脇腹へと――
「あっ……」
アスナは、不意に訪れた電撃的な閃きに、思わず短い声を漏らした。途端、詠唱中だったスペルをファンブルしてしまい、ぼふん! と周囲に黒煙が立ち込める。
しまった、と首を縮めたが、アスナに続いてキャスティングしていたシーエンの魔法が危ないところで間に合った。前方で毒ブレスに包まれていたテッチたちのHPバーが、たちまち安全圏まで回復する。
ちらりと視線を向けてきたシーエンに、アスナはごめん、というように左手を立ててから、早口で言った。
「シーエン、ちょっと思いついたことあるの。30秒だけヒール任せていい?」
「ええ、大丈夫です。私はまだマナに余裕ありますから」
頷くシーエンに向かってもういちど手を上げてから、アスナは右手の杖を掲げた。大きく息を吸ってから、限界のスピードで新たな呪文の詠唱を開始する。
スペルワードが組み立てられるに従い、アスナの前にきらきらと氷の粒が出現し、それはたちまち凝集して、四つの鋭い氷柱を作り出した。氷のナイフが出来上がると同時に、アスナの視界に青い光の点が表示される。非追尾型攻撃スペル用の照準点だ。
アスナは慎重に左手を動かし、青い光点の位置を微調整して、黒巨人の二つの頭のすぐ下、喉もとへとあわせた。巨人がどすんどすんと前進し、上側の二本の手でハンマーを大きく振り上げたその瞬間――
「えいっ!!」
アスナは右手の杖をぶんと振った。たちまち、四本の氷柱は青い軌跡を引きながら飛翔し、狙い違わず巨人の二本の首のつけねに命中した。
「グオオォォォォ!!」
途端に黒巨人はどこか悲鳴じみた声をもらし、ハンマー攻撃を中止して、四本の腕を首の前でしっかりと交差させて体を丸めた。そのまま五秒ほど防御姿勢を取ってから、ふたたび腕を振り上げて、戦槌を思い切り石畳に叩きつける。
ずどどーんという大音響とともに床が地震のように揺れ、アスナは転ばないように両足を踏ん張りながら、小さく呟いた。
「やっぱり……」
再び訝しそうに首を傾げるシーエンに、簡単に説明する。
「あの防御行動、ランダムかと思ってたけどそうじゃなかった。首元にウィークポイントが設定されてるんだわ。弱点探してる余裕なかったから、はなっからアテにしてなかったんだけど……」
「じゃあ、そこを攻めれば倒せるんですか?」
「少なくとも、効率は良くなる……と思うけど、ちょっと場所が高いな……」
巨人の身長はおよそ四メートル、首筋を狙おうにも、タルケンの長槍でもぎりぎり届かない。フィールドでならいくらでも飛んで攻撃できるが、迷宮区ではそれができない。
「カウンター覚悟でソードスキルを使うしかないかもですね」
シーエンの言葉に、アスナもあごを引く。飛行不可圏ですこしでも滞空しようと思ったら、突進系のソードスキルを使うか、あるいはジャンプして連撃系の技を繰り出すしかない。当然、使ったあとには硬直時間が待っており、無防備に落下していくところを狙い撃ちにされるのは必至だ。無論、スペルで蘇生を試みることはできるが、成功率は100%ではなく、また詠唱も気が遠くなるほど長いためにがたがたとパーティー全体が崩壊することにもなりかねない。
しかし――、ユウキなら、一も二もなくやってみようと言うに違いない。そう思いながらシーエンの顔を見ると、華奢な外見とはうらはらに肝っ玉の据わっているウンディーネも、ぐっと力強く首肯した。
「わたし、前に出て作戦を伝えてくる。もう少しだけヒール役お願い」
「任せてください!」
アスナはポーチから残りのポーションのうち二つをつかみ出し、シーエンに渡すと、くるりと踵を返して走りはじめた。
十メートルほどの距離を一瞬で駆け抜け、黒巨人に近づいた途端、真横からうなりを上げて鉄鎖が襲い掛かってきた。慌てて首を縮めて回避するが、肩ぐちを先端の錘がかすめて、たちまちHPが減少する。
それに構わず走りつづけ、ユウキのすぐ後ろに達すると、アスナは叫んだ。
「ユウキ!!」
剣を振りながらくるっと振り向いたユウキは、目を大きく見開いた。
「アスナ! どうしたの?」
「聞いて、あいつには弱点があるの。二本の首のまんなかを狙えば大ダメージを与えられるはずだわ」
「弱点!?」
ユウキは再びくるっと振り向くと、食い入るように巨人の頭を見上げた。途端、遥か上空から大樽のようなハンマーが降ってきて、二人はあわてて飛びのく。続いて発生する震動波を垂直跳びで回避しながら、ユウキは叫んだ。
「高い……ボクじゃ、ジャンプしても届かないよ!」
「ちょうどいい踏み台があるじゃない」
アスナはにっと笑うと、少し離れたところで戸板のような盾を掲げ、鎖の乱舞からノリを守っているテッチに視線を向けた。すぐに、ユウキも納得したかのようににかっと笑い返してくる。
二人は同時にダッシュすると、テッチの後ろ三メートルほどの位置に回りこんだ。ユウキが口に両手をあて、この体のどこから、と思うような大声を出す。
「テッチ! 次にハンマー攻撃がきたらすぐにしゃがんで!!」
巨漢ノームは、振り向くと豆つぶのような目を見開いたが、すぐにこくこくと頷いた。
黒巨人はひとしきり鎖を振り回したあと、大岩のような上半身を反らせて空気を吸い込み、一瞬溜めてから二つの口を大きく開いて、ごばぁぁー! と黒いガスを吐き出した。たちまち周囲は硫黄のような悪臭に包まれ、前面にいる皆のHPがみるみる減少する。
が、ブレス攻撃が終わった瞬間、見事なタイミングで青い光が降り注ぎ、体力を回復させていく。巨人は続けて、上側の腕に握った二本のハンマーを高く振り上げた。
ユウキが腰を落とし、ダッシュの用意をする。アスナはその小さな背中に向けて、早口で言った。
「最後のチャンスよ! がんばれ、ユウキ!」
ユウキは背を向けたまま応えた。
「まかして、姉ちゃん!!」
ねえ……ちゃん?
思わぬ呼び方をされ、アスナがぱちくりと瞬きをしたその時にはもう、少女は猛然と地を蹴っていた。
前方では、巨人が床をぶち抜く勢いで二つのハンマーを叩きつけた。ででーん! と衝撃音が響き渡り、放射状に発生する震動波を、テッチがしゃがみこんでやり過ごす。
直後ユウキも跳んだ。左足をテッチの広い肩に掛け、右足で分厚いヘルメットの天辺を踏みつけて――
「うりゃああああ!!」
鋭い掛け声とともに、ユウキはまるで見えない翅をはばたかせたかのように、高く飛翔した。一直線に巨人の胸元に迫ると同時に、右手の剣を大きく引き絞り、
「やーっ!!」
再度の気合を迸らせながら、二つの首の接合部目掛けて、凄まじいスピードで突き込んだ。青紫色のエフェクトフラッシュが迸り、円形の部屋中をまばゆく照らし出した。
空中においてソードスキルを発動させた場合、たとえそこが飛行不可圏内であったとしても、技が出終わるまでは使用者が落下することはない。ユウキは黒巨人の正面に滞空したまま、電光のように右手を閃かせつづけた。右上から左下に向かって突きを五発。そのラインと交差する軌道でもう五発。重い音とともに剣先が急所を抉るたび、巨人は四本の腕を捻じ曲げて悲鳴じみた絶叫を上げる。
バツの字を描くように十発の突き技を叩き込んだあと、ユウキは再び体を大きくひねり、右手の剣の刀身に左手をあてがった。
瞬間、刃から放たれた閃光の、あまりの眩しさにアスナは思わず目を細めた。ユウキの黒曜石の剣が、今だけは金剛石に変わったように見えた。白く輝く剣は、ジェット戦闘機じみた衝撃音を響かせながら、バツ字の交差点、巨人の首元の中心に突き刺さると、そのまま刀身の根元まで深く深く貫いた。
巨人が絶叫を止めて凍りついた。アスナも、ジュンやテッチ達も、そして右手をいっぱいに伸ばしたユウキも、時間が停止したかのような静寂のなかで、ぴたりと動くことをやめた。
やがて、埋まり込んだ剣を中心に、巨人の黒光りする肌に蜘蛛の巣のような白い亀裂が発生した。罅割れは、その内部から放たれる白光の圧力に耐えかねるように、ぴしぴしと長さと太さを増していく。それはみるみるうちに巨体の四肢すべてに広がり――
立ち木が裂けるような鋭い音とともに、二つの首の接合部から、黒巨人は真っ二つに断ち割れた。直後、ガラスの像が圧潰するかのように、四メートルの巨体すべてが大小無数の塊となって砕け散った。ほとばしった純白の光が、物理的な圧力をともなって押し寄せ、アスナの髪を激しく揺らした。重低音と高音が入り混じったエフェクトサウンドがドーム中に荒れ狂い、十数秒後、鈴を鳴らすような硬質の音色を高く引きながら薄れ、消えて行った。
円周部からドームの薄闇を照らしていた青いかがり火が、激しく揺れ、一瞬薄れて、なんの変哲もない橙色へと変わった。同時にボス部屋全体が明るい光で満たされ、漂っていた妖気の残滓を追い払った。
気付くと、すべてが終わっていた。
「……はは……やっ……たぁ……」
アスナは掠れた笑いを漏らすと、その場にぺたんとへたり込んだ。顔をめぐらせると、ボスが消滅した場所にポカンとした表情で立ち尽くしていたユウキと、目が合った。
小柄な少女は、数秒間も訝しそうに瞬きを続けていたが、やがてその口もとに薄っすらと微笑みがにじみ出て来た。それはたちまち、いつもの、輝くような満面の笑みへと変化する。
右手の剣を鞘に戻すのももどかしく、ユウキはだっとアスナに駆け寄ってきた。2.5メートルほども手前で、両手をいっぱいに広げて地を蹴り、そのままどすーんとアスナの胸に飛び込んでくる。
「ぐはっ!」
アスナは大げさな悲鳴を上げてみせると、ユウキと一緒に床に倒れ込んだ。そのまま、至近距離で互いの目を覗き込んでから、同時に爆発するように笑い出す。
「あははは……やった、勝った……勝ったよ、アスナ!」
「うん、やったね! あ――……疲れた――!!」
上にユウキを乗っけたまま、手足を大の字に広げてばったりと床に伸びる。周囲では、同じくへたり込んでいた仲間たち五人が、それぞれの格好でガッツポーズをし、歓声を上げていた。
と、アスナは、頭の上のほうからギギギ……と重い音が響いてきたのに気付いた。視線を向けると、さかさまの視界のなかで、入り口の大扉がゆっくりと開いていく。
突然、その扉が左右に激しく叩きつけられた。奥から、無数のプレイヤー達がときの声とともに突入してきた――が、すぐに内部の異変に気付いて立ち止まると、戸惑ったようにきょろきょろと周囲を見回す。
ボス攻略ギルドの面々の先頭に立つ、一際高級な装備にびっちりと身を固めたサラマンダーの大男と、アスナの目が合った。大男の顔に、じわじわと理解と屈辱の色が浮かぶのを、アスナは少々痛快な気分で眺めた。
「へへ……」
にんまりと笑みを浮かべてみせたあと、アスナとユウキは、床に転がったまま同時にVサインを作って、男達に突きつけた。
数十通りの捨て台詞を残して攻略ギルドが引き上げたあと、アスナとスリーピングナイツの面々は、ボスモンスターがドロップした鍵を使って、部屋の奥の扉を開けた。長い螺旋階段をひたすら登り、東屋ふうの小さな建物の床から飛び出すと、そこはもう前人未到の68層だった。すぐ近くに見えた主街区まで一息に飛び、中央広場の転移門をユウキがアクティベートしたところで、ボス攻略クエストは全て終了となった。
さっそく、青く光るゲートを使ってロンバールの街まで戻ってきた七人は、広場の片隅で輪になると、あらためてばしんばしんとハイタッチを交わした。
「みんな、おつかれさま! ついに終わったねえー」
笑みとともに言いながら、アスナはそこはかとない寂しさを感じていた。あくまで傭兵である身としては、契約の終了はすなわちひとまずの別れを意味する。
ううん、これから友達になればいい、時間はたっぷりあるのだ――と思い直していると、不意にアスナの肩をぽん、とシーエンが叩いた。見ると、整った顔にはいつになく真剣な色が浮かんでいる。
「いいえ、アスナさん。まだ終わっていません」
「……え?」
「大切なことが残っていますよ。――打ち上げ、しましょう」
がくっと膝から崩れ、もうっ! と拳を振り上げてから、アスナは両手を腰に当てた。
「うん、やろう! どーんと盛大にやろう」
言うと、ジュンがにやっと笑みを浮かべた。
「なんせ予算はたっぷりあるしな! 場所はどうする? どっか大きい街のレストランでも貸し切りにすっか」
「あ……」
アスナはふと思い立つと、両手の指先を組み合わせながら、皆の顔を見回した。
「えっと、そういうことなら……わたしの家にこない? ちっちゃいとこだけど」
それを聞いたユウキが、ぱっと顔を輝かせる。だが、どうしたことか、その笑顔は雪が溶けるようにたちまち消え去ってしまった。そのまま、軽く唇を噛んで俯いてしまう。
「ゆ……ユウキ? どうしたの?」
戸惑いながらアスナが声をかけても、いつも元気だった少女は顔を上げようとしなかった。代弁するかのように、シーエンが口を開いた。
「……あの……ごめんなさい、アスナさん。気を悪くしないで頂きたいんですけど……私たちは……」
だが、言葉は最後まで続かなかった。ずっと下を向いていたユウキが、突然鋭く息を吸い込むと、右手でシーエンの手をぐっと掴んだのだ。
ユウキはぎゅっと唇を引き結び、ゆがめた眉のしたで大きな瞳に切々とした光を浮かべて、じっとシーエンを見つめた。何かを言いかけるように二、三度唇が小さく動いたが、音が発せられることはなかった。
だが、シーエンにはユウキが言いたいことがわかったようだった。口もとに、ごくごくかすかな微笑を浮かべると、右手でユウキの頭をぽんと撫で、アスナに向き直った。
「アスナさん、ありがとう。お気持ちに甘えて、お邪魔させて頂きますね」
いまの一幕の意味が理解できず、アスナは首を傾げた。しかしすぐに、その場の空気を吹き散らすようにノリがいつもの豪快な声で言った。
「そうと決まったら、まず酒だな! 樽で買おう、樽で!」
「ここには、ノリさんの好きな芋焼酎は無いですよ」
眼鏡を押し上げながらぼそぼそとタルケンが口を挟むと、たちまち厳しい突っ込みが背中に飛んだ。
「なんだとこら! いつアタシが芋焼酎好きなんて言ったか! アタシが好きなのは泡盛なんだぞ!」
「色気の無さじゃ一緒じゃんかよ」
ジュンの更なる突っ込みに、皆の笑いが続く。一緒に笑いながら、アスナはユウキに再び視線を向けた。ユウキの顔にもようやく笑みが戻りつつあったが、その瞳に揺れるどこか切なそうな色は、まだ完全には消えていなかった。
まず、連れ立って現時点では最大であるアルゲードの街のマーケットに赴き、大量の酒と食料を買い込んでから、一行は18層に転移した。
小さな村の広場から飛び立ち、深い雪に埋もれた森を眼下に見ながら南を目指す。氷の張った湖を一息に越えると、木立の中にぽかりと開けた空き地と、そこに立つ小さなログハウスが見えた。
「あっ、あそこ!?」
ユウキのはしゃぎ声に、こくこく頷く。
「そうだよー……あっ」
アスナが答えるや否や、ユウキは両手を広げると、一気に加速した。そのまま、まっすぐ家の前庭目指して落ちていく。直後、ぼふーんと盛大な雪煙が上がり、近くの森から驚いた鳥の群が飛び立った。
「……まったく」
シーエンと顔を見合わせて笑ってから、アスナも翅を一打ちして着陸体勢に入った。しばし滑空してからすとんと庭に降り立つと、待ちきれないように足踏みしていたユウキに引っ張られるようにしてドアに向かう。
家に、仲間たちの誰かがいたらさっそく紹介しようと思っていたのだが、残念ながら部屋は無人だった。
「へえー、ふうーん、ここがアスナのおうちかあ!」
ユウキは嬉しそうに、床から生えたテーブルや、赤々と火が燃えさかる暖炉、壁に掛けられた剣などと見てまわっている。残り六人はテーブルの周りに集まると、それぞれのアイテム欄から買い込んできたご馳走を取り出した。たちまち謎の酒肴が山のように積み重なる。
ノリの希望どおり大樽で仕入れたワインの栓を抜き、黄金色の液体をなみなみと注いだグラスが並ぶと、それでもう宴席の準備は完了した。キッチンでアスナの調味料コレクションに見入っていたユウキをジュンが掴まえてリビングに引っ張ってきて、七人そろってテーブルにつく。
乾杯の音頭をアスナが辞退したので、ユウキが握ったグラスを掲げて、満面の笑顔で叫んだ。
「それでは、ボス攻略成功を祝して……かんぱーい!」
乾杯! の唱和と、かちんかちんとグラスがぶつかり合う音が続き、全員が一気にワインを干す。あとは、たちまち秩序無きどんちゃん騒ぎへと移行した。
ジュンとテッチが先刻倒したボスの話、ノリとタルケンがALOに存在する酒の話で盛り上がっている隣で、アスナはユウキとシーエンから、今までコンバートしたVRMMO世界の話を聞いていた。
「間違いなく最悪だったのはねえ、アメリカの『インセクサイト』っていうやつだよー」
ユウキは両手で体を抱くような素振りをしながら、顔をしかめた。
「ああ……あれはねえ」
シーエンも苦笑いしながら首を縮める。
「へえ……どんなやつ?」
「虫! 虫ばっか! モンスターが虫なのはともかく、自分も虫なんだよぉー。それでも、ボクはまだ二足歩行のアリンコになったんだけど、シーエンなんか……」
「だめ、いわないでー」
「でっかいイモムシでさ! 口から、い、糸をぴゅーって……」
そこで我慢しきれないように、ユウキはけたけたと笑った。シーエンの、憤慨したような幻滅したような顔に、アスナも一緒になって笑う。
「いいなあー、みんなでほんとに色んなところに行ってるんだねえ」
「アスナは? VRMMO歴、かなり長そうだけど」
「わたしは、えーと、ここだけなんだ。この家を買うお金を貯めるのに、随分時間が掛かっちゃって……」
「そっかー」
ユウキは顔を上げると、もう一度、目を細めてリビングを見渡した。
「でも、ほんと、すっごく居心地いいよ、このお家。なんだか……昔を思い出すって感じ」
「そうですね。ここにいると、本当にほっとします」
シーエンもこっくりと深く頷く。
と、不意に、その小さな口がアッというふうに開かれた。
「ど、どうしたの、シーエン?」
「しまった、忘れてました! お金と言えば……私達、アスナさんにお手伝いをお願いするときに、ボスから出たものを全部お渡しするって約束してましたよね。どうしましょう、こんなに色々買い込んじゃって」
「うわ、ボクもすっかり忘れてた!」
申し訳無さそうに肩をすぼめる二人に、笑いながら手を振ってから、アスナは口を開いた。
「いいよ、いいよ。少しだけ、何かもらえれば。あ、ううん――やっぱり……」
そこで口をつぐみ、すうっと息を吸う。
ボス攻略戦の前から、ぼんやりと考えていたことを言葉にするチャンスだ、そう思って、アスナは真剣な顔でユウキを見た。
「やっぱり、何もいらない。その代わり、お願いがあるんだ」
「え……?」
「あのね……契約はこれで終わりなんだけど……でも、わたし、ユウキともっと話したい。訊きたいことが、いっぱいあるの」
どうすれば、ユウキのように強くなれるのか――それを、教えてほしい。胸の奥でつぶやきながら、アスナは続けた。
「わたしを、スリーピングナイツに入れてくれないかな」
「…………」
ユウキは、すぐには答えず、きゅっと唇を噛んだ。見開かれた大きな目に、再びもどかしそうな光がたゆたう。
いつのまにか、シーエンも、そして他の四人も、話を止めてじっとユウキとアスナを見ていた。訪れた静寂のなか、ユウキは長いあいだ無言でじっとアスナを見つめていた。やがて動いた唇から、そっと発せられた声は、いつに無く弱々しく揺れていた。
「あのね……あのね、アスナ。ボクたち……スリーピングナイツは、もうすぐ……たぶん、春までに解散しちゃうんだ。それからは、みんな、なかなかゲームには入れないと思うから……」
「うん、わかってる。それまででいいの。わたし、ユウキと……みんなと、友達になりたい。それくらいの時間はあるよね……?」
アスナは身を乗り出し、じっとユウキの紫色の瞳を覗き込んだ。だが、初めてのことだったが、ユウキはすぐに視線をそらしてしまった。そのまま、小さく左右に首を振る。
「ごめん……ごめんね、アスナ。ほんとに……ごめん」
何度もごめん、とつぶやくユウキの声はいつになく辛そうで、アスナはそれ以上言い募ることができなかった。
「そっか……。ううん、わたしの方こそ、無理なお願いしてごめんね、ユウキ」
「あの……アスナさん、私……私たちは……」
傍らで、シーエンがユウキの言葉を補おうとするかのように言いかけたが、珍しく彼女も言うべき言葉が見つからないようだった。
アスナは、揃ってつらそうな顔をしている皆をぐるりと見渡すと、場をとりなすようにぱたんと手をたたき、意識して元気な声を出した。
「ごめんねー、急に変なこと言って、困らせちゃって。景気づけに、アレ、見にいこう!」
「アレ……?」
首を傾げるシーエンと、俯いたままのユウキの肩を同時にぽんと叩く。
「肝心なことを忘れてるね! そろそろ更新が反映されるころだよ、アレ……『剣士の碑』!」
「おっ、そうか!」
ジュンが大声とともに立ち上がった。
「いこういこう! 写真撮ろうぜ!!」
「ね、いこ?」
アスナがもう一度言うと、ようやくユウキは顔を上げ、小さく笑った。
まだどこか元気のないユウキの手を引き、転移門から飛び出すと、アスナは『はじまりの街』の中央広場を見渡した。
「ふわー、やっぱここは広いなあ! さ、こっちだよ、みんな!」
巨大な王宮に背を向け、花壇の間を縫うように早足で歩くと、すぐに前方に四角い『黒鉄宮』の姿が見えた。アインクラッドでも最も有名な観光スポットのひとつなので、初心者からベテランまで、多くのプレイヤーが出入りしている。
高いメインゲートをくぐり、建物の中に踏み込むと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。異常に高い天井に、プレイヤーのブーツが鉄の床を叩く音が無数に反響している。
かんかんと高い足音を立てて、アスナとユウキたちは奥の大広間に向かった。二つの内門を抜けると、一際静謐な感じの空間が広がり、その中央に巨大なモノリスが鎮座していた。
「あれか!」
せっかちらしいジュンとノリが、アスナとユウキの両側を抜けて走っていく。数秒遅れで剣士の碑の足元まで達すると、アスナも顔を上げ、びっしりと並ぶ文字列の末尾を探した。
「あ……あった」
不意に、ユウキが呟いた。アスナと繋いだ手に、きゅっと力がこもった。同時に、アスナも見つけた。黒光りする鉄碑のほぼ中央、『Braves of 67th floor』の表示のあとに、日本語で七人の名前が深々と刻み込まれていた。
「あった……ボクたちの、名前だ……」
どこか呆然としたようにユウキが呟く。その瞳がかすかに潤んでいるのを見て、アスナも胸が詰まるような気がした。
「おーい、写真撮るぞ!」
ジュンの声が後ろから響いて、アスナはユウキの肩を掴むと、くるんと半回転させた。
「ほら、笑わないと」
アスナの言葉に、ようやくユウキもにこっと笑顔を見せる。六人が碑の前に並ぶと、ジュンは握っていた記録クリスタルのポップアップウインドウを操作し、タイマーを設定して手を離した。クリスタルはそのまま空中に留まり、上部にカウントダウン表示が瞬く。
駆け寄ってきたジュンがユウキとテッチの間に収まり、全員が笑顔を浮かべた瞬間、ぱしゃっと音がしてクリスタルが光った。
「おっけー!」
再びジュンが駆け戻っていく。アスナとユウキは、もう一度振り返って鉄碑を見上げた。
「やったね、ユウキ」
アスナは手を離すと、ユウキの頭をそっと撫でた。ユウキはこくんと頷いたあとは、長いあいだずっと七人の名前を見つめていたが、やがてかすかな声で呟いた。
「うん……やった、ついにやったよ、姉ちゃん」
「ふふふ」
それを聞いて、アスナはつい笑みをこぼした。
「ユウキ、また言ってる」
「え……?」
何のことだかわからない、というふうにユウキはアスナの顔を見た。
「わたしのこと、姉ちゃん、だって。ボス部屋でも言ってたよー。ううん、わたしは嬉しいけど……――!?」
何気なく言いかけた言葉を、アスナは途中で飲み込んだ。
ユウキが、両目を限界まで見開いて、口もとを手で覆っていた。その紫色の大きな目に、みるみるうちに大きな雫が盛り上がり、こぼれると、頬を伝って次々に滴った。
「ゆ……ユウキ……!?」
息を飲んで手を伸ばそうとしたアスナから、ユウキは二歩、三歩と後ずさった。その唇が動き、掠れた声が流れた。
「アスナ……ぼ、ボク……」
不意にユウキは俯くと、溢れる涙をぐいっと拭って、左手を振った。出現したウインドウを、震える指で叩く。たちまち、その小さな体を、白い光の柱が包み――
それを最後に、”絶剣”ユウキは、アインクラッドから姿を消したのだった。
SAOex4_05_Unicode.txt
明日奈は手の中の紙片に目を落とすと、そこに手書きで記された名前と、眼前に横たわる巨大な建築物の壁面に立体的に浮き出た名前が同一であることを確かめた。
横浜市都筑区。緑の多い丘の間に抱かれるように、その建物はあった。背が低いかわりに両翼がたっぷりと広がった設計や、周囲の丘陵ののどかな佇まいを見ていると、とてもここが首都圏とは思えないが、明日奈の家がある世田谷からは東急線を使って30分もかからなかった。
建物はまだ新しく、冬の低い日差しを浴びて茶色いタイルの壁面をきらきらと光らせている。自分が長いあいだ眠っていたあの場所によく似ているな、と思いながら、明日奈はメモをポケットに仕舞った。
「ここにいるの、ユウキ……?」
小さな声で呟く。会いたい、と思う反面、ここにあの少女が居なければいい、とも考えてしまう。
わずかに逡巡したあと、明日奈は制服の上に着たコートの襟をかき合わせて、正面エントランス目指して足早に歩きはじめた。
“絶剣”ユウキがアインクラッドから消えてから、すでに三日が経過していた。最後の瞬間、剣士の碑のまえで彼女が見せた涙は、まだ明日奈のまぶたに焼き付いている。このまま忘れてしまうことなど、到底できそうになかった。どうしてももう一度会って、話をしたかった。しかし、送ったメッセージは、すべて送信相手がログインしていません、というリプライを返してきたし、開封された様子もなかった。
スリーピングナイツの仲間たちなら、ユウキの居場所を知っているはず、とも思ったのだが、二日前、溜まり場になっていたロンバールの酒場でひとりアスナを迎えたシーエンは、睫毛を伏せて首を振った。
「私たちも、ユウキと連絡が取れないのです。ALOだけでなく、他のVR世界にもログインしている様子はありませんし、現実世界の彼女について知っていることもほとんどありません。それに……」
シーエンはそこで言葉を切り、どこか気遣わしそうな視線でアスナを見た。
「アスナさん。たぶん、ユウキは再会を望んでいないと思います。誰でもない、あなたのために」
アスナは愕然として言葉を失った。数秒たってから、どうにか声を絞り出した。
「な……なんで? ううん……何となく、ユウキやシーエンたちが、わたしと必要以上に関わらないように線を引いてるのはわかってた。わたしのことが迷惑だっていうなら、もう追いかけないよ。でも……わたしのため、って言われても納得できない」
「迷惑なんて……」
いつも静謐な態度を崩さないシーエンが、珍しく表情を歪め、激しく首を左右に振った。
「私たちは、あなたと出会えたことを本当に嬉しく思っています。この世界で、最後にとても素敵な思い出が作れたのはアスナさんのお陰です。どんなに感謝してもし足りません。でも……どうか、お願いですから、これで私達のことは忘れてほしいのです」
そこで言葉を切り、左手を振ってウインドウを操作した。アスナの前に、小さなトレードウインドウが現われた。
「予定には少し早いのですが、スリーピング・ナイツは解散することになると思います。アスナさんへのお礼は、ここにまとめてあります。この間のボスからドロップしたものと、私達の全ての所持アイテムを……」
「い……いらない。受け取れないよ」
アスナは指先を叩きつけるようにウインドウをキャンセルし、一歩シーエンに歩み寄った。
「本当に、これでお別れなの? わたし……ユウキや、シーエンや、みんなのことが好き。ギルドは解散しても、友達としてずっと仲良くしていけると思ってた。でも、そう思ってたのはわたしだけなの……?」
これまでのアスナなら、絶対に口にしないような言葉だった。しかし、ユウキたちと行動を共にしたたった数日のうちに、アスナは少しずつ自分が変わりつつあるのを感じていた。だからこそ、みんなと別れるのは嫌だった。
しかし、シーエンは顔を伏せ、頭を振るだけだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、こうしたほうがいいんです。ここで、別れたほうが……」
そして彼女もウインドウのボタンを押し、ログアウトした。シーエンや、ジュンやノリたち他のメンバーも、それきりALOにログインしてくることは無かった。
たった三日間の付き合いだ。それで友達になったつもりだったアスナが間違っているのかもしれなかった。しかし、スリーピングナイツの面々は、アスナの心の奥深くに拭いきれない印象を残していった。このまま忘れることなど、絶対にできそうになかった。
シーエンと会った翌日には、三学期が始まったのだが、久々にリアル世界でキリト――和人やリズベット達と会っても、明日奈の心はどこか沈んだままだった。気がつくと、瞼の裏、鼓膜の奥に、ユウキの笑顔を甦らせているのだった。姉ちゃん、とユウキは明日奈のことを呼んだ。それに気付いて、彼女は涙を流した。その理由をどうしても知りたかった。
そして昨日。昼休みに、明日奈は『屋上で待ってる』という和人からのメールを受け取った。
冷たい風が吹き渡っていくコンクリート剥き出しの屋上で、空気循環用の太いパイプに寄りかかって、和人は明日奈を待っていた。近づくアスナを、じっと――シーエンと同じような――気遣わしげな視線で見つめたあと、和人は唐突に言った。
「どうしても、絶剣に会いたいのか」
「……うん」
こくりと、深く明日奈は頷いた。
「会わないほうがいい、と言われたんだろう? それでも?」
「うん、それでも。わたし、どうしてももういちど会って話したい。話さないとだめなの」
「そうか」
短く答えて、和人は明日奈に小さな紙片を差し出した。
「え……?」
「あくまで可能性だ。それも、50%くらいの……でも、俺は、絶剣はそこにいると思う」
「ど……どうして、キリト君にわかったの……?」
メモを受け取りながら、明日奈は呆気に取られて訊ねた。和人はすっと視線を空に向け、呟いた。
「そこが、日本で唯一、『メディキュボイド』の臨床試験をしている場所だからだ」
「メディ……キュボイド?」
聞きなれない、不思議な単語を繰り返しながら、明日奈は紙片を開いた。
そこには、横浜港北総合病院、という名前と地番が小さな文字で書かれていた。
綺麗に磨かれたガラスの二重自動ドアをくぐり、たっぷりと採光されたエントランスに踏み込むと、どこか懐かしい消毒薬の匂いがかすかに漂った。
小さな子供を抱いた母親や、車椅子の老人がゆっくりと行き交う静かな空間を横切って、明日奈は面会受付カウンターへ向かった。
窓口横に備えられた用紙に住所氏名を書き込み、面会を希望する相手の名前を書く欄で、手が止まる。明日奈が知っているのはユウキという名前だけだし、それすらも本名かどうかはわからない。和人からは、たとえそこに彼女がいてもそれを確認できるかどうか、面会できるかどうかはわからない、と言われていたが、ここまで来て諦めるわけにはいかなかった。意を決して、用紙を持って窓口へと向かう。
カウンターの向こうで端末を操作していた白いユニフォームの女性看護師は、明日奈が近づく気配に顔を上げた。
「面会ですね?」
笑顔とともに発せられた質問に、ぎこちなく頷く。一部空欄の申請用紙を差し出しながら、明日奈は言った。
「ええと……面会したいんですが、相手の名前がわからないんです」
「はい?」
訝しそうに眉を寄せる看護師に向かって、懸命に言葉を探す。
「たぶん十五歳前後の女の子で、もしかしたら名前は『ユウキ』かもしれないんですが、違うかもしれません」
「ここには沢山の入院患者さんがいらっしゃいますから、それだけではわかりませんよ」
「ええと……ここで試験中の『メディキュボイド』を使ってる方だと思うんですが」
「ですから、患者さんのプライバシーに関しては……」
その時、カウンターの奥にいたもうひとりの看護師がすっと顔を上げると、じっと明日奈の顔を見た。次いで、明日奈の相手をしていた看護師に向かって、何事か耳打ちをする。
最初の看護師は、ぱちぱちと瞬きし、あらためて明日奈を見上げてから先ほどとは微妙に異なる口調で言った。
「失礼ですがあなた、お名前は?」
「あ、ええと、結城、明日奈と言います」
答えながら、申請用紙を滑らせるように差し出す。看護師は用紙を受け取ると目を落とし、それから奥の同僚に渡した。
「何か身分証を拝見できますか?」
「は、はい」
慌ててコートの内ポケットから財布を取り出し、学生証を抜いて提示する。看護師はカード上の写真と明日奈の顔を仔細に見比べたあと、軽く頷き、しばらくお待ちくださいと言って傍らの受話器を取り上げた。
内線でどこかに掛けたらしく、二、三小声でやり取りしてから、明日奈に向き直る。
「第二内科の倉橋先生がお会いになります。正面のエレベータで4階に上がってから、右手に進んで、受付にこれを出してください」
差し出されたトレイから、学生証ともう一枚銀色のカードを取り上げ、明日奈はぺこりと頭を下げた。
四階受付前のベンチで更に15分近く待たされてから、明日奈は足早に近寄ってくる白衣の姿に気付いた。
「やあ、ごめんなさい、申し訳ない。すみません、お待たせして」
妙な詫び方をしながら会釈したのは、小柄ですこし肉付きのいい男性医師だった。おそらく三十代前半だろうか、つやつやと広い額の上で髪をきっちり七三に分け、縁の太い眼鏡を掛けている。
明日奈は慌てて立ち上がると、深く頭を下げた。
「と、とんでもない。こちらこそ急にお邪魔してしまって。あの、わたしならいくらでも待てますけれど」
「いえいえ、今日の午後は当番じゃないですから、ちょうどよかった。ええと、結城明日奈さん、ですね?」
やや垂れぎみの目をにこにこと細めながら、男性医師は軽く首をかたむけた。
「はい。結城です」
「僕は倉橋といいます。紺野くんの主治医をしております。よく訪ねてきてくれました」
「こんの……さん?」
「ああ、そうでした。紺野ユウキくんです。ユウキは、草木の木に綿、季節の季と書くんですがね。木綿季くんは、ここのところ毎日、明日奈さんの話ばかりしていますよ。あ、すみませんつい、木綿季くんがそう呼ぶもので」
「いえ、明日奈でいいです」
微笑みながら答えると、倉橋医師も照れたように笑い、右手でエレベータのほうを指し示した。
「立ち話もなんですので、二階のラウンジに行きましょう」
案内された、広々とした待合スペースの奥まった席に、明日奈と医師は向かい合って座った。大きなガラス窓からは、病院の広大な敷地と、周囲の緑を遠く望むことができる。周囲に人影は少なく、遠くから伝わってくるホワイトノイズだけが空気をかすかに揺らしている。
明日奈は、心の中で溢れかえるような疑問の数々を、どこから口にしたものか迷っていた。が、先に倉橋医師が沈黙を破った。
「明日奈さんは、木綿季くんとVRワールドで知り合ったんですよね? 彼女が、この病院のことを話したんですか?」
「あ、いいえ……そういう訳ではないんですが……」
「ほう、それでよくここが分かりましたね。いやね、木綿季くんが、もしかしたら結城明日奈さんという人が面会にくるかもしれないから、受付にその旨伝えておいてくれと言うものだから、病院のことを教えたのかと驚いたらそうじゃないと言う。じゃあこの場所がわかるわけないよ、と僕は答えたんですが、さっき受付から連絡がきたときは、いや驚きましたよ」
「あの……木綿季さんは、わたしのことを話したんですか……?」
なら嫌われたわけじゃないのかな、という安堵で胸のおくがほっと温かくなるのを感じながら明日奈は訊いた。
「それはもう。ここ四、五日は、僕との面談では明日奈さんの話ばかりですよ。ただね、木綿季くん、あなたの話をしたあとは決まって大泣きしてね。自分のことでは決して弱音を吐かない子なんだが」
「えっ……な、なんで……」
「もっと仲良くなりたい、でもなれない、会いたい、けどもう会えないと言うんです。その気持ちは……わからなくもないんだが……」
そこで初めて、倉橋医師はわずかに沈痛な顔を見せた。明日奈は深く一呼吸してから、急き込むように尋ねた。
「木綿季さんも、彼女の仲間たちも、中……VRワールドで私にそう言いました。何故なんです!? 何故もう会えないんですか!?」
メモに病院の名前を見たときから、じわじわと膨らみつつある危惧のかたまりを飲み込みながら明日奈が身を乗り出すと、倉橋医師はしばらく無言のまま、テーブルの上で組み合わせた両手に視線を落としていたが、やがて静かに答えた。
「それでは、まず、メディキュボイドの話からはじめましょうか。明日奈さんは、勿論アミュスフィアのユーザーなんですよね?」
「え……ええ、そうです」
青年医師は、ひとつ頷くと顔を上げ、言った。
「僕はね、NERDLES技術がそもそもアミューズメント用途に開発されたことが残念でならないのです」
「え……?」
「あのテクノロジーは、最初から医療目的に研究されるべきでした。そうすれば、現状はあと一年、いや二年分は進んでいたはずです」
思わぬ話の成り行きに戸惑う明日奈に向かって、医師は指を立ててみせた。
「考えてください。アミュスフィアのもたらす環境が、どれほど医療の現場で有効に機能するか。例えば、視覚や聴覚に障碍をもつ人たちにとっては、あの機械はまさに福音なんですよ。先天的に脳に機能障害がある場合は残念ながら除外されますが、眼球から視神経に異常があっても、アミュスフィアなら直接脳に映像を送り込めるわけです。聴覚の場合も同様です。光や音をまったく知らずに育った人たちでも、今やあの機械を使うことで、ほんとうの風景というものに触れられるようになったのです」
熱っぽく語る倉橋医師のことばに、明日奈はこくりと頷いた。アミュスフィアがそのような分野で広く活用されるようになったのは、そう最近のことではない。いずれヘッドギアが更に小型化され、専用のレンズと組み合わせれば、視覚障碍者も晴眼者とまったく同じように生活を送れるようになると言われている。
「また、有用なのは信号伝達機能だけではありません。アミュスフィアには、体感覚キャンセル機能もありますよね」
医師は指先で自分のうなじの部分を叩いた。
「ここに電磁パルスを送ることで、一時的に神経を麻痺させるわけです。つまり、全身麻酔と同じ効果がある。例えば手術時にアミュスフィアを用いることで、ある程度の危険がある麻酔薬の使用を回避できると考えられています」
いつの間にか医師の話に引き込まれていた明日奈は、頷いてからふと気付き、首を横に振った。
「ええ……いえ、それは無理じゃないですか? アミュスフィアでインタラプトできる感覚レベルはごく低いものに限られています。体にメスを入れるような激痛を消去することは、アミュスフィアには、いえ、初代機――ナーヴギアにも出来ないと思いますし……たとえ延髄でキャンセルしても、体の神経は生きているわけですから、脊髄反射は残るのでは……?」
「そう、そうです」
倉橋医師は、意を得たりというように何度も首を動かした。
「まったくその通りです。それにアミュスフィアは電磁パルスの出力も弱いし、処理速度も遅いので、応答性に多少の問題があります。VR世界に長時間ダイブするならそれでもいいのですが、レンズと組み合わせてリアルタイムに現実環境と同期させることは難しい。そこで現在、国レベルで開発が急がれているのが、世界初の医療用NERDLES機器――メディキュボイドなのです」
「メディキュ……ボイド」
「まだ仮称ですがね。要は、アミュスフィアの出力を強化し、パルス発生素子を数倍に増やし、処理速度を引き上げ、また脳から脊髄全体をカバーできるようベッドと一体化したものです。見た目はただの白い箱なのでキュボイド……直方体と呼ばれています。これが実用化され、多くの病院に配備されれば、医療は劇的に変わりますよ。麻酔はほとんどの手術で不要となりますし、また現在ロックトイン状態と診断されている患者さんともコミュニケートできるようになるかもしれません」
「ロックトイン……?」
「ああ――閉じ込め症候群、と呼ばれる状態ですね。脳の、思考する部分は正常なのだが、体を制御する部分に障害があり、意思を表すことができない状態です。メディキュボイドなら脳の深部までリンクすることができますからね、たとえ体が動かなくても、VRワールドを利用して社会復帰できる可能性すらあるのです」
「なるほど……つまり、ただVRゲームを遊ぶためのアミュスフィアよりも、ずっと本当の意味での、夢の機械、なんですね」
頷きながら何気なく明日奈はそう口にした。しかし、それを聞いた途端、まさに夢について語っていた風の倉橋医師は、急に現実に引き戻されたかのように口を閉じ、わずかに表情を暗くした。眼鏡を外し、目蓋を閉じて、深く長く嘆息する。
やがて、小さく首を左右に振りながら、医師はどこか悲しそうに微笑んだ。
「ええ、まさに夢の機械です。しかし……機械には、当然限界がある。メディキュボイドが、最も期待されている分野のひとつ……それは、ターミナル・ケアなのです」
「ターミナル・ケア……」
聞きなれない英単語を鸚鵡返しに口にする。
「漢字では、終末期医療、と書きます」
その言葉の響きに、明日奈は冷水を浴びせられたような思いを味わった。絶句し、目を見開く明日奈に向かって、眼鏡を掛けなおした倉橋医師はどこかいたわるような眼差しを向け、言った。
「あなたは、後で、ここで話を止めておけばよかったと思うかもしれません。その選択をしても、誰もあなたを責めません。木綿季くんも、彼女の仲間たちも、本当にあなたのことを思いやっているのですよ」
だが、明日奈は迷わなかった。どんな現実を告げられても、それを正面から受け止めようと思ったし、またそうしなければいけないという思いもあった。明日奈は顔を上げると、はっきりした声で言った。
「いえ……続けてください。お願いいします。わたしはそのためにここに来たんですから」
「そうですか」
倉橋医師は再び微笑むと、大きく頷いた。
「木綿季くんからは、明日奈さんが望めば、彼女に関する全てを伝えてほしいと言われています。木綿季くんの病室は中央棟の六階にあります。少し遠いので、歩きながら話しましょう」
ラウンジを出て、エレベーターを目指す医師の後について歩きながら、明日奈は頭のなかで何度も同じ言葉を繰り返していた。
終末期。終末。その言葉がなにを指すのかは、単純なまでに明白なような気もしたし、まさかそんなはずはない、「そのこと」を示すのにそんな直裁な単語を用いるわけがないと打ち消す気持ちもあった。
ただひとつはっきりしているのは、自分が、これから明らかにされる真実を、正面からすべて受け止めなくてはならないということだった。ユウキは明日奈にそれができると信じたからこそ、彼女の現実へと踏み込むことを許してくれたのだ。
中央棟2階のロビーに三機並んだエレベーターの、ドアのあいだに設置されたパネルの上部に医師が手をかざすと、直接触れていないのに上向きの三角印が青く灯った。すぐにポーンと穏やかなチャイムが鳴り、右端の扉がスライドした。
白い光が溢れる箱に乗り込み、再び医師が内部のパネルに指を近づけるとドアが閉まった。作動音も、Gの変化もほとんど感じさせないままに、エレベーターが上昇を始める。
「ウインドウ・ピリオド、という言葉を聞いたことはありますか?」
不意に倉橋医師に尋ねられ、明日奈は瞬きして記憶のインデックスを探った。
「たしか……保健の授業で教わったと思います。ウイルスの……感染に関することですか?」
「そのとおりです。たとえば人間が何らかのウイルスに感染したと疑われる場合、主に血液を検査するわけですよね。検査の方法としては、血液中のウイルスに対する抗体を調べる抗原抗体検査、そしてより感度の高い、ウイルス自体のDNA・RNAを増幅して調べるNAT検査があるわけですが、そのNAT検査を用いても、感染直後から十日前後はウイルスを検出できないのです。その期間を、ウインドウ・ピリオドと呼びます」
医師はそこで言葉を切った。直後、かすかな減速感が訪れ、チャイムとともにドアが開いた。
最上階となる六階は、部外者の立ち入りは制限されているらしく、降りてすぐ正面にものものしいゲートが設置されていた。医師が胸からネームプレートを外してゲート脇のセンサーに近づけると、小さな電子音がして金属の遮断バーが降りた。手振りで促され、明日奈は足早にゲートをくぐった。
下層と違って、このフロアには窓は無いようだった。つるつるした白いパネルに覆われた通路がまっすぐに延び、前方でT字に分岐している。
再び明日奈の前に立って歩き始めた倉橋医師は、通路を左に曲がった。柔らかな白光に満たされた無機質な道がどこまでも続いている。白衣の看護師が数名行き交っているだけで、外界の騒音はまったく届いてこない。
「――そのウインドウ・ピリオドの存在ゆえに、必然的に起こってしまうことがあります」
医師はふたたび静かな声で話しはじめた。
「それは、献血によって集められる、輸血用血液製剤の汚染です。無論、確率は低い。一度の輸血によって何らかのウイルスに感染してしまう確率は、何十万分の一でしかありません。しかし、その数字をゼロにすることは、現代の科学では不可能なのです」
かすかな嘆息。そこに含まれる、ごくごくわずかな憤りと無力感を、明日奈は感じる。
「木綿季くんは、2001年の5月生まれです。難産で、帝王切開が行われました。その時――カルテを確認できなかったのですが――何らかのアクシデントにより大量の出血があり、緊急輸血が施されたのです。用いられた血液は、ウイルスに汚染されていました」
「…………」
「今となっては、確たることはわからないのですが、おそらく木綿季くんが感染したのは出産時かその直後。お父さんはその一ヶ月以内でしょう。ウイルス感染が判明したのは9月、お母さんが受けた輸血後の確認血液検査によってです。その時点では……もう、家族全員が……」
再び深く息をついて、医師は足を止めた。通路の右側の壁にスライドドアがあり、かたわらの壁に金属パネルが設置されている。そこに嵌めこまれているプレートには、「第一特殊計測機器室」、といかめしい文字が並んでいた。
医師はもう一度ネームカードを外すと、パネル下部のスリットに通した。電子音が響き、ぷしゅっという音とともにドアが開く。
胸の奥をぎゅうぎゅうと絞るような痛みを感じながら、明日奈は倉橋医師に続いてドアをくぐった。内部は、奥行きのある妙に細長い部屋だった。
正面の壁に、今通ったのと同じようなドアがあり、右側にはいくつかのモニタを備えたコンソールが設置されている。左の壁は一面横長の大きな窓だが、ガラスは黒く染まって、内部を見ることはできない。
「この先はエア・コントロールされた無菌室なので入ることはできません。了承してください」
そう言うと、医師は黒い窓に近寄り、下部のパネルを操作した。かすかな震動音とともに、窓の色が急速に薄れ、たちまち透明なガラスに変化して、その向こうをさらけ出した。
小さな部屋だった。いや、面積自体はかなり広い。一見して小さいと思ってしまったのは、部屋中を様々な機械が埋めつくしているからだ。背の高いもの、低いもの、シンプルな四角形、複雑な形のものが混在して、だから、部屋の中央にあるジェルベッドに気付くのには少し時間がかかった。
明日奈は限界までガラスに顔をちかづけて、じっとベッドを凝視した。
青いジェルに半ば沈むように、小柄な姿が横たわっていた。胸元まで白いシーツが掛けられており、そこから覗く裸の肩は痛々しいほどに痩せている。喉元や両腕には様々なチューブが繋がり、周囲の機械類へと続いている。
ベッドの主の顔を、直接見ることはできなかった。頭部のほとんどを飲み込むように、ベッドと一体化した白い直方体が覆いかぶさっているからだ。見えるのはほとんど色のない薄い唇と、尖った顎だけだった。直方体の、こちら側の側面にはモニタパネルが埋め込まれ、さまざまな色の表示が躍っていた。モニタ上部に、簡素なロゴで「Medicuboid」と書かれているのが見えた。
「ユウキ……」
明日奈は掠れた声で囁いた。ついにここまで、現実のユウキの元まで来た。しかし、最後の2メートルを、絶対に超えられない分厚いガラスの壁が隔てている。
医師に背を向けたまま、明日奈は言葉をしぼり出すように尋ねた。
「先生……ユウキの病気は、なんなんですか……?」
答えは短く、しかし途方も無い重さを持っていた。
「後天性免疫不全症候群……AIDSです」
あるいはそうなのかもしれないと、この大きな病院を見たときから考えていた。ユウキは何れかの、重い病に冒されているのかもしれない、と。しかしやはり医師の口から具体的な病名を聞くと、息が詰まるのを抑えることはできなかった。ガラス越しに、明日奈は横たわるユウキを見つめ、全身をかたく凍りつかせた。
これは本当に現実なのか、と思った。あの、誰よりも強く、どんなときも元気なユウキが、いくつもの機械の谷間に埋もれるように横たわっている光景を、事実として認識することを理性も感情も拒否していた。
なにも知らなかった。わたしは何も知らず、また知ろうともしなかった大馬鹿だ、と叫ぶ声がした。あのとき、アスナの眼前から消える直前にユウキが見せた涙の意味――それは――それは……
「しかし、現在ではエイズという病気は、世間で思われているほど恐ろしいものではないのですよ」
立ち尽くすアスナの背に、あくまでも穏やかな倉橋医師の声が投げかけられた。
「たとえHIVに感染しても、早期に治療を始めることができれば、十年、二十年という長いスパンでエイズの発症を抑えることも可能です。薬をきちんと飲み、健康管理を徹底することで、感染以前とほとんど変わらない生活を送ることだって出来るのです」
きい、という小さな音が、医師がコンソール前の椅子に腰掛けたことを告げた。言葉は続く。
「しかし、新生児がHIVに感染した場合の五年生存率が、成人と較べて大きく低下することも事実です。木綿季くんのお母様は、家族全員の感染が判明したあと、皆で死を選ぶことも考えたそうです。しかし、お母様は幼少のころからのカソリック信徒でいらした。信仰の力と、もちろんお父様の力もあって最初の危機を乗り越え、病気と闘いつづける道を選んだのです」
「闘い……つづける……」
「ええ。木綿季くんは、産まれたその瞬間から生きるためにウイルスと闘ってきた。もっとも危険な時期を脱してからは、体は小さくても元気に育って、小学校にも入学したのです。――沢山の薬を定期的に飲みつづけるというのは、子供には辛いものです。逆転写酵素阻害剤は、副作用も強いですしね。それでも、木綿季くんは、いつかは病気が治ると信じてがんばりつづけた。学校もほとんど休まず、成績もずっと学年のトップクラスだったそうです。友達も沢山いて、私もビデオを何本も見せてもらいましたが、いつでも輝くような笑顔でしたよ……」
わずかな間。医師が小さくため息を漏らすのを、明日奈は聞く。
「――木綿季くんがHIVキャリアであることは、学校には伏せられていました。それが普通なのです。学校や企業の健康診断では、血液のHIV検査を行うことは禁じられています。しかし……彼女が四年生に上がってすぐの頃です。経路は不明なのですが、木綿季くんがキャリアであるということが、同学年の保護者の一部にリークされたのです。噂はすぐに広まりました。……HIV感染を理由とするいかなる差別も、法によって禁じられていますが、残念ながらこの社会は、善なる理念によってのみ動いているわけではない……。彼女の通学に反対する申し立てや、あるいは電話や手紙による有形無形の嫌がらせが始まりました。ご両親もずいぶん頑張られたようです。しかし、結果として一家は転居することを余儀なくされ、木綿季くんも転校することになってしまったのです」
「…………」
明日奈は声を挟むこともできない。ただひたすら、背筋を固くして、告げられる言葉に耳を傾けることしかできない。
「木綿季くんは、涙ひとつ見せずに、新しい学校にも毎日通いつづけたそうです。ですが……残酷なものですね。ちょうどその頃から、免疫力低下の指標となるCD4というリンパ球の数値が急激な減少を始めました。それはつまり……エイズの発症、ということです。私は、そのきっかけになったのは、彼女の心を痛めつけた前の学校の保護者や教師たちの言葉だと今も信じています」
若い医師の声は、あくまで穏やかに抑制されたものだった。ただ、ほんのわずか響いた鋭い呼吸音だけが、彼の心情を表していた。
「――免疫力が低下することによって、通常では容易に撃退できるはずのウイルスや細菌に冒されてしまう。それを日和見感染と言います。木綿季くんも、ニューモシスティス肺炎という感染症を発してこの病院に入院することになりました。それが三年と半年前のことです。病院でも、木綿季くんはいつも元気でしたよ。にこにこと笑顔を絶やさないで、絶対に病気なんかには負けないといつも言っていました。辛い検査にも、泣き言ひとつ漏らさなかった。ですがね……」
言葉を切った医師が、体を動かす気配。
「細菌やウイルスは、病院の中、そして何より患者自身の体内、いたるところに存在します。一度エイズを発症したら、あとはもう日和見感染への場当たり的な対処療法を続けていくしかないのです。カリニ肺炎に続いて、木綿季くんは食道カンジタ症に感染しました。――ちょうどその頃、世間はあのナーヴギアによる事件で揺れに揺れていました。NERDLES技術の封印論まで浮上するなかで、国と一部のメーカーによって研究開発が続けられていた医療用ナーヴギア……メディキュボイドの試験機が開発され、臨床試験のためにこの病院に搬入されました。しかし、試験と言っても、元になったのがあのナーヴギアですし、また数倍の密度に引き上げられた電子パルスが、長期的に脳にどのような影響を与えるのか誰にもわからなかった。それを承知した上で実験台になろうという被試験者はなかなか見つかりませんでした。それを知った私は……木綿季くんとご家族にある提案をしました……」
続く言葉を待ちながら、明日奈はベッドの上のユウキと、その頭部をほとんど飲み込んでいる白い直方体をじっと見つめた。
頭の芯が、痺れたように冷たかった。混乱した意識の片隅で、突きつけられた現実から目をそむけるように、漠然と考える。
メディキュボイドは、開発された時期的に、アミュスフィアではなくナーヴギアの発展形なのだろう。明日奈はもうすっかりアミュスフィアという機械に慣れているが、それでも時々、もう手許には無いナーヴギアが作り出した仮想世界のクリアさを懐かしく思い出すことがある。SAO事件の反省を活かし、三重四重のセーフティ機能が設けられているアミュスフィアではあるが、それゆえに生成する世界のリアリティという点では初代機に一歩劣るのは否めない。
ナーヴギアの数倍というパルス発生素子を装備し、全身の体感覚を完璧にキャンセルすることが可能で、さらにアミュスフィアを遥かに上回る処理速度のCPUを持つというメディキュボイド――。とするなら、アルヴヘイムでユウキが見せた圧倒的なまでの強さは、マシンの性能に由来するものなのだろうか?
一瞬そう考えてから、明日奈はすぐ内心でかぶりを振った。ユウキの剣技の冴えは、機械のスペックなどという段階を遥か上回るレベルに達している。戦闘センスだけ見ても、おそらくキリトと同等かそれ以上なのは間違いない。
明日奈が理解しているところでは、キリトの強さというのは、丸二年に及んだSAO内での虜囚生活において、誰よりも長時間最前線で闘いつづけた経験に由来するものだ。ならば、ユウキは、メディキュボイドの作り出す世界の中でどれほどの時間を過ごしたのだろうか――。
「ご覧のとおり、メディキュボイド試験機は非常に精密でデリケートな機械です」
しばし沈黙していた倉橋医師が、ふたたび話しはじめた。
「長期間安定したテストを行うために、クリーンルームに設置されることになりました。つまり、空気中の塵や埃のほかに、細菌やウイルスなども排除された環境下、ということです。ということは、もし被試験者としてクリーンルームに入れば、日和見感染のリスクを大幅に低下させることができる。私は、木綿季くんとご家族に、そう提案したのです」
「…………」
「今でも、それが木綿季くんにとって良いことだったのかどうか、迷うこともあります。エイズの治療においては、QoL、クオリティ・オブ・ライフというものが重視されます。生活の質、という意味ですね。治療中の生活の質をいかに高め、充実したものにするか、という考えです。その観点に立てば、被試験者としてのQoLは決して満たされたものとは言えない。クリーンルームから出ることも、誰かと直接触れ合うことも出来ないのですからね。――提案に、ご両親も木綿季くんもとても悩まれたようでした。しかし、バーチャル・ワールドという未知の世界への憧れが、木綿季くんの背を押したのでしょうね……。彼女は被試験者となることを承諾し、この部屋に入りました。以来ずっと、木綿季くんはメディキュボイドの中で暮らしています」
「ずっと……というのは……?」
「文字どおりです。木綿季くんが現実世界に帰ってくることはほとんどありません。というより、今はもう帰ってこられないのです。ターミナル・ケアでは苦痛の緩和のためにモルヒネなどを用いますが、彼女の場合はそれをメディキュボイドの感覚キャンセル機能に置き換えていますから……。一日に数時間行われるデータ採取実験のほかは、ずっと色々なバーチャル・ワールドを旅しているのですよ。私との面談も、もちろん向こうで行っています」
「つまり……二十四時間ダイブしたまま、ということですか……? それを……」
「三年間です」
医師の簡潔な答えに、明日奈は言葉を失った。
いままで、世界中のアミュスフィアユーザーのなかで、最も長時間のダイブ経験を持つのは自分を含む旧SAOプレイヤーだと思っていた。だが、それは間違いだった。目の前のベッドに横たわる痩せた少女こそが、世界でもっとも純粋な仮想世界の旅人なのだ。そしてそれこそが、ユウキの強さの根源なのだ。
――君は、完全にこの世界の住人なんだな。と、キリトはユウキに問うたそうだ。彼はきっと、短い戦闘の中で、自分と近しいものをユウキに感じたのだろう。
明日奈は、心の内に、敬虔さにも似た感情が広がるのを意識した。自分よりも遥かな高みに立つ剣士の前で、こうべを垂れ、剣を捧げるような気持ちで、目を閉じ、わずかに頭を下げた。
しばし沈黙したあと、明日奈は振り返り、倉橋医師を見た。
「ありがとうございます、ユウキに会わせてくれて。――ユウキは、ここにいれば大丈夫なんですね? ずっと、向こう側で旅を続けられるんですね……?」
だが、明日奈の問いに、医師は即答しなかった。コンソールの前の椅子に腰掛け、両手を膝の上で組み合わせて、穏やかな眼差しでじっと明日奈を見た。
「――たとえ無菌室に入っていても、もとより身体に内在する細菌やウイルスを排除することはできません。免疫系の機能低下に伴って、それらは確実に勢力を増していきます。木綿季くんは現在、サイトメガロウイルス症と非定型抗酸菌症を発症しており、視力のほとんどを喪失しています。さらに、HIVそのものを原因とする脳症が進行しています。おそらくもう、自力で体を動かすことはほぼできないでしょう」
「…………」
「HIV感染から十四年……エイズ発症から三年半。木綿季くんの病状は末期です。彼女も、清明な意識でそれを認識している。木綿季くんが、あなたの前から姿を消そうとした理由はもうお判りのことと思います。」
「そんな……そんな」
明日奈は眼を見開き、小さく首を振った。だが、告げられた事実を押し退けることは出来なかった。
ユウキは、明日奈と近づくことをいつも躊躇っていた。それは真実、明日奈を思いやってのことだった。やがて確実に訪れる別れに明日奈が苦しまないようにと、ユウキはそれだけを考えていたのだ。
しかし明日奈は何も知らず、気付かず、ユウキを苦しめていた。黒鉄宮でログアウトする前にユウキが見せた涙を、明日奈は鋭い痛みとともに思い出してた。
その時、明日奈はあることに気付き、はっと顔を上げて医師を見た。
「あの……先生、もしかして、ユウキにはお姉さんがいるのでは……?」
尋ねると、医師は一瞬驚いたように眉を上げ、しばし迷ったようだったが、ゆっくりと頷いた。
「――木綿季くん本人のことではないので話さなかったのですが……。ええ、そうです。木綿季くんは双子だったのです。すべての端緒となった帝切が行われたのも、それが原因です」
記憶をたどるように、視線をすっと上向け、微笑む。
「お姉さんは、藍子さんという名前でした。やはりこの病院に入院していました。あまり似ている双子ではなかったですね……。元気で活発な木綿季くんを、いつもにこにこと静かに見守っていましたよ。そう言えば……顔も、雰囲気も、どことなくあなたに似ていたかもしれない……」
なぜ過去形で話すのですか、と胸のうちで呟きながら、明日奈は医師を見詰めた。心の声を聴いたように、医師はもういちど、そっと頷いた。
「木綿季くんのご両親は二年前……お姉さんは一年前に、亡くなりました」
失うこと、の意味は知っているはずだった。
あの世界で、明日奈は人の命が消える瞬間を繰り返し目の当たりにしてきた。自らぎりぎりの距離でその淵を覗き込んだことも幾度もある。結果、理解した――つもりでいた。時がくれば人は死ぬのだということを。どんなに足掻いても、どうにもならない現実があるのだということを。
しかし今、たった数日間交流したにすぎないユウキという少女の過去と現在を知り、明日奈はその重みに耐えかねて、目の前の厚いガラスに体を預けた。現実、という言葉の意味が、曖昧に溶けて流れていってしまうようだった。俯き、額を冷たい平面に押し付ける。
自分はもうじゅうぶんに戦った。だから、今のささやかな幸せに固執して何が悪いのか、と心のどこかで思っていた。変化を恐れ、軋轢に怯え、後すさって口をつぐむことにあれこれ言い訳をしてきた。
でも、ユウキは生まれてからずっと戦ってきたのだ。全てを奪い去ろうとするあまりにも過酷な現実とただひたすら戦いつづけ、そして近づきつつある終わりの時を知ってなお、あれほどに輝く笑顔を浮かべてみせたのだ。
明日奈はかたく瞼を閉じた。心の奥で、どこか遥かな異世界を旅しているのだろうユウキに向かって呼びかける。
――もう一度、もう一度だけ会いたい。会って、今度こそ本当の話をしたい。ぶつからなければ、伝わらないことだってある、とユウキは言った。弱い自分を覆うように身にまとったものをすべて剥ぎ取り、ユウキともう一度言葉を交わすことが叶わないなら、何のためにわたしたちは出会ったのか。
ついに、瞼のふちに熱くにじむものを感じた。明日奈は右手をガラスに押し当て、極限まで平滑なその表面に何かの感触を探すように、指先に力を込めた。
その時だった。どこからともなく、柔らかな声が降り注いだ。
『泣かないで、アスナ』
明日奈は弾かれたように勢い良く顔を上げた。睫毛の水滴を飛ばしながら眼を見開き、ベッドの上のユウキを凝視する。小さなシルエットは、先ほどと何も変わることなく横たわっていた。顔を隠す白いマシンにも変化はない。しかし、こちらに向いたその側面に設けられたインジケータのひとつが、不規則に青く点滅しているのに明日奈は気付いた。モニタパネルの表示も数秒前とは異なり、小さな文字で『patient talking』という一文が浮かんでいるのが見えた。
「ユウキ……?」
明日奈は口のなかで囁いてから、もう一度、今度は震えながらもはっきりとした声で言った。
「ユウキ? そこに、いるの?」
すぐにいらえがあった。どうやら、隔壁上部に設けられたスピーカから声は聞こえてくるようだった。
『うん。レンズ越しだけど、見えてるよ、明日奈。すごい……向こう側と、ほんとにそっくりなんだね。ありがと……来てくれて』
「……ユウキ……わたし……わたし」
言わなくちゃ、と思うほどに言葉は出てこない。例えようもないもどかしさに、胸元をぎゅっと押さえる。
だが、唇を開くまえに、再度頭上から声がした。
『先生、アスナに隣の部屋を使わせてあげてください』
「え……」
戸惑いつつ振り向くと、倉橋医師はやや厳しい顔で何事か考えていたようだったが、すぐに穏やかな笑みを取り戻し、深く頷いた。
「いいでしょう。――あのドアの奥に、私がいつも面談に使っているシートがあります。カギは中から掛けられますが、時間は20分ほどにしておいてください。色々手続きを省略しているもので」
「は……はい」
慌てて頷き返し、明日奈はもう一度メディキュボイド側面のインジケータ部を見やった。
『アプリ起動ランチャーにALOが入ってるから、ログインしたら、ボクたちが初めて会った場所に来て』
「うん……わかった。待ってて、すぐいくから」
しっかりした声で答え、明日奈は身を翻した。モニタルームの奥の壁に備えられたドアまで数歩で達し、センサーに手をかざす。しゅっとスライドして開くや否や体を滑り込ませる。
その向こうは、モニタルームの半分ほどの狭い部屋だった。高級そうなレザーのリクライニングシートが二脚並んで据えられ、双方のヘッドレスト部分に、見慣れたリング型ヘッドギアが掛けられていた。
振り向いてドアをロックするのももどかしく、バッグを床に放り投げると、明日奈は近いほうのシートに体を横たえた。肘掛け前部のボタンで背もたれを適当な角度に調節し、アミュスフィアを取り上げると頭に装着する。大きく一回息を吸い、電源を入れると、眼前に白光が広がって、明日奈の意識を現実世界から切り離していった。
森の家のベッドルームで眼を開けたアスナは、感覚が馴致するのも待たずに、文字通り飛び起きた。
翅を鳴らして宙を滑り、床に一度も足を着かずに窓から外へと飛び出す。アルヴヘイムは早朝の時刻だったようで、深い森は一面白い霧に包まれていた。くるりとターンして急上昇し、霧のカーテンを突き破って木々の上へ。両手をぴたりと体側に揃え、フロア中央目指して猛然とダッシュする。
三分足らずで主街区上空に達すると、アスナは広場の真ん中に青く光る転移門目掛けて一直線に降下した。周囲に数人いたプレイヤー達が目を丸くして見上げるなか、反転、急制動、速度が相殺された瞬間にすぽんとゲートに飛び込む。
「転移! セルムブルグ!」
叫ぶと同時に青白い光は滝のように流れ、アスナを高く押し上げ始めた。
転移は数秒間で完了し、すぽんと放り出されたそこはもう城砦都市セルムブルグの中央広場だった。激しく石畳を蹴って離陸すると、今度は都市の北にある小島を目指す。朝靄が流れる湖水に影を落としながら、全速で飛行する。
すぐに、向かう先に一際大きな樹のシルエットが姿を現した。あの根元で”絶剣”ことユウキが連日の辻デュエルを催していたことなど、もう遥か昔のことのようだ。当時は大勢のギャラリーで賑わった小島は、今はもうひっそりと静まり返っていた。
アスナは徐々にスピードを落としながら、大樹の幹を回り込むように着陸体勢に入った。白い霧が濃密に立ち込めているせいで、地表の様子はよく見えない。
露を含んだ草をかすかに鳴らし、地面に降り立つと、アスナは周囲を見渡した。日の出前で光量が少ないせいもあり、ほんの数メートル先すらも見通せない。焦燥感に駆られながら、早足に樹の周囲を回る。
ちょうど半分周り、幹の東側に出た、その時だった。ようやく外周部から差し込んだ曙光が、一瞬朝靄を吹き払った。白いカーテンの切れ目に、アスナは捜し求めた姿を見出した。
ユウキはアスナに背を向けて、長い濃紺の髪と、矢車草の色のロングスカートを風に揺らしていた。息を詰めて見守るなか、闇妖精族の少女はふわっと振り向き、アメジスト色の瞳でまっすぐにアスナを見た。色の薄い唇に、溶け去る寸前の雪つぶのような、儚げな笑みが浮かんだ。
「――なんでかな、アスナがボクを見つけてくれるような、そんな予感がしてたんだよ。何も教えられなかったんだから、そんなわけないのにね」
囁くように言い、ユウキはもう一度微笑んだ。
「でも、アスナは来てくれた。ボクの予感が当たるの、けっこう珍しいんだ。嬉しかったよ……すごく」
たった数日会わなかっただけで、ユウキの佇まいにある種の透明感が増しているような気がして、アスナは胸をぎゅっと締め付けるような痛みを感じた。眼前の少女が幻であるのを恐れるかのように、一歩、また一歩、ゆっくりと歩み寄る。
伸ばした指先が、ユウキの左肩に触れた。瞬間、そこに感じた温もりを確かめたいという衝動を抑えられず、アスナは両腕の中に、小柄なその体をそっと包みこんだ。
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ユウキは驚いた様子も見せず、若草が風にたなびくように、アスナの肩口に頭を預けた。アーマー越しに触れ合う体から、電子パルスに媒介されるデジタルデータ以上の、心を震わせるような暖かさが伝わって、アスナはゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。
「……姉ちゃんに抱っこしてもらったときとおんなじ匂いがする。お日様の匂い……」
全身をアスナにもたれさせながら、ユウキが囁いた。
「藍子……さん? お姉さんも、VRMMOを……?」
「うん。あの病院は、一般病室でもアミュスフィアが使えたから。姉ちゃんは、スリーピングナイツの初代リーダーだったんだよ。結成してしばらくは、『アスカエンパイア』ってゲームに居たんだけどね……。ボクなんかより、ずーっと強かったんだ……」
ユウキの額がぎゅっと肩に押し当てられるのを感じて、アスナは右手を上げ、艶やかな髪をそっと撫でた。一瞬の体の強張りをすぐに解き、ユウキは言葉を続ける。
「スリーピングナイツのメンバーは、最初は9人いたんだよ。でも、もう、姉ちゃんを入れて3人いなくなっちゃった……。だからね、シーエンたちと話し合って、決めたんだ。次のひとりの時には、ギルドを解散しよう、って。その前に、みんなで素敵な思い出を作ろう……姉ちゃんたちに、胸を張ってお土産に出来るような、すごい冒険をしよう、って」
「…………」
「ボクたちが出会ったのは、『セリーンガーデン』っていう、医療系ネットワークの中にあるヴァーチャル・ホスピスなんだ。病気はそれぞれでも、大きな意味では同じ境遇の人たち同士、VR世界で話し合ったり、遊んだりして、最期の時を豊かに過ごそう、っていう目的で作られた場所……」
病院を訪れ、倉橋医師の話を聞いたときから、アスナは心のどこかであるいは、と思っていた。ユウキを含むスリーピングナイツのメンバーに共通する、強さ、朗らかさ、そして静けさ。その理由は、皆が同じ場所に立っているからではないのかと。
しかし、予期していたつもりでも、ユウキの言葉は途方もない重みをともなってアスナの胸の底に降り積もった。シーエンや、ジュン、テッチたちの明るい笑顔が、次々と脳裏を過ぎった。
「アスナ、ごめんね。本当のことを言えなくて。春にスリーピングナイツが解散する、っていうのは、みんなが忙しくなってゲームを引退するからじゃないんだ。良くてあと三ヶ月、って告知されてるメンバーが二人いるからなんだよ。だから……だから、ボクたちは、どうしてもこのすてきな世界で、最後の思い出を作りたかった。あの大きなモニュメントに、ボクたちがここにいたよ、っていう証を残したかった」
再びユウキの声が震えた。アスナはただ、両腕に一層力を込めることしかできなかった。
「でも、どうしてもうまくいかなくて……一人だけ、手伝ってくれる人を探そう、って相談したんだ。反対意見もあったよ。もしボクたちのことを知られたら、その人に迷惑をかけちゃう、嫌な思いをさせちゃうから、って。……その通りになっちゃったね。ごめんね……ごめんね、アスナ。もし出来るなら……今からでも、ボクたちのことは忘れて……」
「出来ないよ」
短く答え、アスナはユウキの頭に頬を摺り寄せた。
「だって、迷惑なんてこと、これっぽっちもないもん。嫌な思いなんてしてない。わたし、ユウキたちと出会えて、ユウキたちの手伝いが出来て、凄く嬉しいよ。今でもまだ……スリーピングナイツに入れてほしいって、そう思ってる」
「……ああ……」
ユウキの吐息も、華奢な体も、一瞬、深く震えた。
「ボク……この世界に来られて、アスナと出会えて、本当に嬉しい……。今の言葉だけで、じゅうぶん、じゅうぶんだよ。これでもう……何もかも、満足だよ……」
「…………」
アスナはユウキの両肩に手をかけると、そっと体を離した。濡れたように輝く紫色の瞳を、間近からじっと覗き込む。
「まだ……まだ、してないこと、一杯あるでしょう? アルヴヘイムにだって、行ってない場所沢山あるだろうし……他のVRワールドも含めたら、この世界は無限に広がってる。だから、満足なんて、言わないでよ……」
言葉を探しながら懸命に語りかけるが、ユウキはどこか遠くを見るように眼差しを煙らせ、微笑むだけだった。
「この三年間で……ボクたち、色んな世界で、色んな冒険をしたよ。その最後の1ページは、アスナと一緒に作った思い出にしたいんだ」
「でも……あるでしょう、まだ……したいこと、行きたい場所……」
ユウキの言葉に頷いたら、その瞬間に眼の前の少女が朝靄の向こうに消えていってしまいそうで、アスナは必死に口を動かした。すると、ユウキはふっと視線の焦点を、遥か彼方からアスナの顔に合わせ、ボス攻略中に何度か見せたようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そうだね……ボクね、学校に行ってみたいな」
「が……学校?」
「仮想世界の学校にはたまに行くんだけどね、なんだか、静かで、綺麗で、お行儀良すぎてさ。ずーっと前に通ってたみたいな、本物の学校にもう一度行ってみたいな」
もう一度くるっと瞳を瞬かせて笑ってから、済まなそうに首を縮める。
「ごめんね、無理言って。アスナの気持ちはすっごく嬉しい。でもね、ほんとに満足なんだよ、ボク……」
「――行けるかも」
「……え?」
ユウキはぱちくりと目をしばたかせ、アスナの顔をまじまじと見た。記憶のフタを懸命にこじ開けようとしながら、アスナはもう一度言った。
「行けるかもしれないよ……学校」
翌1月12日、午後12時50分、校舎三階北端。
昼休みの喧騒がかすかに届く電算機室で、明日奈は背筋を伸ばして椅子に腰掛けていた。
ブレザータイプの制服の右肩には、細いハーネスで固定された、直径7センチほどの半球ドーム状の機械が載っている。
基部は黒いメタル素材だが、ドーム部分は透明なアクリル製で、その内部に収められたレンズ機構が見て取れる。基部からは二本のケーブルが伸び、一本は明日奈の上着のポケットに収められた携帯端末に繋がり、もう一本は目の前の机に鎮座した小型のパソコンへと接続されている。
パソコンの前では、桐ヶ谷和人と、彼と同じくハードウェア制御コースを受講している二人の生徒が頭を寄せ合い、先刻からあれこれと呪文めいた言葉で意見を交換していた。
「だからさ、これじゃジャイロが敏感すぎるんだって。視線追随性を優先しようと思ったら、ここんとこのパラメータにもうすこし遊びがないと……」
「でもそれじゃあ、急な挙動があったときにラグるだろ」
「そのへんは最適化プログラムの学習効果に期待するしかねえよ」
「ねえキリトくん、まだー? 昼休み終わっちゃうよー」
三十分以上に渡って姿勢固定を強制されている明日奈が、焦れながら声を出すと、和人もう~んと唸りながら顔を上げた。
「とりあえず初期設定はOKとしとこう。えーと、ユウキさん、聞こえてます?」
明日奈ではなくドーム装置に向かって和人が呼びかける。すると、すぐに機械に備えられたスピーカーから、まごうことなき”絶剣”ユウキの元気な声が応えた。
『はーい、よく聞こえてるよー』
「よし、じゃあ、これからレンズのキャリブレーションを取りますんで、視界がクリアになったところで声を出してください」
『はい、了解』
明日奈の肩に乗っている半球形のメカは、通称『視聴覚双方向通信プローブ』と言うもので、和人たちの班が今年度の頭からずっと試行錯誤しているテーマだった。
簡単に言えば、アミュスフィアとネットワークを通して、現実世界の遠隔地と視覚、聴覚のやり取りをしようという機械だ。プローブ内部のレンズとマイクに収集されたデータは、明日奈の携帯を介してネットに流され、横浜港北総合病院のメディキュボイドを経由して仮想空間内のユウキに届くという仕組みである。レンズは半球内を自由に回転し、ユウキの視線の動きと同期して映像を得ることができる。ユウキは今、自分の体が10分の1ほどに小さくなり、アスナの肩に座っていると感じているはずだ。
以前からこの研究テーマに対する愚痴を散々聞かされていた明日奈は、ユウキが学校に行きたいと言ったとき、咄嗟に思い出したのだった。
ういいん、とごく微かな音を立ててレンズが焦点を動かしていき、ユウキの「そこ」という声と同時に止まった。
「よし、これで終わりだ。一応スタビライザーは組み込んであるけど、急激な動きは避けてくれよ。あんまり大きな声も出さないこと。ささやくくらいで充分伝わるからな」
「りょーかい」
あれこれ注意事項をまくしたてる和人に背筋を大きく伸ばしながら返事をし、アスナはそっと立ち上がった。さっそく、肩のプローブに向かって小声で話かける。
「ごめんねーユウキ、先に学校の中案内しようと思ったけど、昼休みがもう終わっちゃうのよ」
すぐに、小型スピーカーからユウキの声が返ってきた。
『いいよ、授業見学するのもとっても楽しみ!』
「オッケー、じゃあまず、次の授業の先生に挨拶にいこう」
突貫でプローブの設定をやらされて、やや疲れた表情の和人たち三人にひらっと手を振り、明日奈は電算機室を出た。
廊下を歩き、階段を降り、連絡橋を渡るあいだも、ユウキは何かを見つけるたびにわあっと歓声を上げていたが、『職員室』というプレートのついたドアの前に来ると、急に静かになった。
「……どうしたの?」
『えーと……ボク、昔から苦手だったんだよね、職員室……』
「ふふふ、大丈夫。この学校は先生っぽくない先生ばっかりだから」
笑いを交えながら囁いて、明日奈は勢いよくドアを開けた。
「失礼しまーす!」
『し、失礼しまぁす』
大小ふたつの挨拶と同時に中に入ると、すたすたと机の列を横切っていく。
五時限目の現代国語を受け持つ教師は、一度都立中学の教頭を定年まで勤め上げ、この実験的教育施設に乞われて再就職したという人物だ。すでに六十台後半ながら、学校の各所に取り入れられているネットワークデバイスを器用に操り、理知的な物腰もあって明日奈は好感を持っている。
そういう人物なので、恐らく拒否反応はあるまいと思いつつも、多少緊張しながら明日奈は事情を説明した。見事な白髪白髭の教師は、大きな湯呑みを片手に耳を傾けていたが、話が終わるとひとつ頷いて言った。
「うん、構わんよ。ええと、君、名前は何と言ったかね?」
『あ、はい……ユウキ――紺野木綿季です』
実際にプローブから即座に返答があると、さすがに教師は少々驚いたようだったが、すぐに口もとを綻ばせた。
「コンノくん、よかったらこれからも授業を受けに来たまえ。今日から芥川の『トロッコ』をやるんでね、あれは最後まで行かんとつまらんから」
『は……はい、ありがとうございます!』
ユウキに続いて明日奈も礼を言ったところで予鈴が鳴った。慌ててもういちどぺこりと頭を下げ、職員室から出た直後、二人同時にふうーっと息をつく。
ちらりと視線を交わして笑いあうと、明日奈は足早に教室へと向かった。
自分の席に座ったとたん、肩の上の謎の機械について周囲の同級生たちから質問攻めにあったりもしたが、ユウキが入院中であることを説明し、実際にユウキが喋ると皆すぐに仕組みを理解して、次々と自己紹介を始めた。それが一段落したところで本鈴が鳴り、教師が前のドアから姿を現した。
日直の号令で礼を終え――プローブの中でもレンズがういん、ういんと上下した――教壇の脇に進み出た老教師は、髭を一撫でするといつもと何ら変わらぬ様子で授業を始めた。
「えー、それでは、今日から教科書九八ページ、芥川龍之介の『トロッコ』をやります。これは芥川が三十歳の時の作品で――」
教師の概説が続くあいだ、明日奈は薄いタブレット型端末を持ち上げてテキストの該当個所を表示させ、ユウキにも見えるように体の前に持ち上げていた。が、直後の教師の台詞に、思わずそれを取り落としそうになった。
「――では、最初から読んでもらいましょう。紺野木綿季くん、お願いできるかな?」
「は!?」
『は、はいっ』
明日奈とユウキは同時に素っ頓狂な声を上げた。教室中が一瞬ざわつく。
「無理かね?」
尋ねる教師に、明日奈が何かを答える前に、ユウキが大きな声で叫んだ。
『よ、読めます!』
プローブのスピーカーには充分な出力のアンプが内臓されているようで、その声は教室の隅まで楽に届く大きさだった。明日奈は慌てて立ち上がると、両手でタブレット端末をレンズの前にかざした。首を右に傾け、囁く。
「ユウキ……よ、読める?」
『もちろん。これでもボク、読書家なんだよ!』
即答すると、ひとつ間を取ってから、ユウキは元気よくテキストを朗読しはじめた。
『……小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは……』
テキストを保持したまま、明日奈はそっと目を閉じ、抑揚豊かに文章を読み上げるユウキの声に意識を集中した。
心のなかのスクリーンには、明日奈の隣の席に立つ、制服に身を包んだユウキの姿がはっきりと見えた。いつか必ずこの光景は現実になると、明日奈はその瞬間確信した。医学は年々、長足の進歩を遂げている。きっとごくごく近い未来には、HIVという悪魔を根絶する薬品が開発され、ユウキが現実世界へと帰還する日がくるに違いない。その時には、今度こそ本当に手と手をつないで、学校や街を案内しよう。帰り道にファーストフード店で買い食いして、公園に寄り道して、他愛ないお喋りをしよう。
明日奈は、ユウキに気付かれないように、そっと左手で目尻を拭った。ユウキは情感たっぷりに、いつまでも前世紀の名文を読みつづけ、教師もなかなかそれを止めようとしなかった。昼下がりの校内はしんと静まり返り、まるで全校の生徒が朗読に耳を傾けているかのようだった。
そのまま六時間目の授業も一緒に受けたあと、明日奈は約束どおり学校中を案内して回った。クラスの生徒たちが十人あまりも一緒についてきて、我先にとユウキに話し掛け続けたのが予定外ではあったが。
ようやく二人だけに戻って、中庭のベンチに腰掛けたときには、すでに空はオレンジ色に染まりつつあった。
『アスナ……今日はほんとにありがとう。すごく楽しかった……ボク、今日のこと、ぜったい忘れない』
不意にユウキが真剣な調子で言い、明日奈は反射的に明るい声で答えた。
「何言ってるの。先生も、毎日来てもいいって言ったじゃない。明日の現国は三時間目だからね、遅刻しちゃだめだよ! それよりさ……もっと、他に見たいものとか、ない? 校長室以外ならどこでもいいよ」
ユウキはふふ、と笑ったあと、しばし沈黙した。やがて、おずおずという様子で声を発する。
『あのね……一箇所、行ってほしいところがあるんだ』
「どこ?」
『その、学校の外でも、大丈夫?』
「え……』
明日奈は思わず口をつぐんだ。一瞬考え込むが、プローブのバッテリーはまだ充分に保つし、携帯端末がネットに接続できる場所なら、移動の制限は無いはずだ。
「うん、大丈夫だよ。携帯のアンテナがある場所ならどこでも!」
『ほんと!? あのね……ちょっと遠いんだけど……横浜の、保土ヶ谷区、月見台ってところ……』
学校のある調布から、京王線、東横線、相鉄線と乗りついで、横浜市保土ヶ谷区へと向かった。
さすがに電車の中では時折ひそひそと囁くだけに留めたが、それ以外の路上では、明日奈は周囲の目を気にすることなく肩の双方向通信プローブと話しつづけた。ユウキが入院している三年のあいだに、街の風情もそれなりに変わっているようで、彼女が興味を持ったものにはみな近くまで寄っては解説を加えた。
そんなことをしていたものだから、星川駅で電車を降りたときにはもう、ロータリー中央に立つ大時計の針は五時半を回っていた。
濃い朱から紫に変わりつつある空を振り仰ぎ、明日奈は大きく息を吸った。すぐ近くに、木々の多く残る丘陵が広がっているせいか、冷たい空気の味も東京とはずいぶん違うような気がする。
「綺麗な街だね、ユウキ。空がすごく広いよ」
明るい調子で語りかけたが、ユウキは済まなそうな声で返事をしてきた。
『うん……。ごめんね、アスナ。ボクのわがままのせいで、こんな遅くまで……。お家のほうは、大丈夫?』
「へーきへーき! 遅くなるのなんていつものことだもん」
反射的にそう答えるが、実際のところ、明日奈が夕食の刻限に遅れたことはほとんどなく、またその場合、母親の機嫌は大いに損なわれる。しかし今は、帰ってからいくら叱られようとも一向にかまわない気分だった。ユウキが望めば、プローブのバッテリーが続くかぎり、どこまでも遠くまでいくつもりだった。
「ちょっと、メールだけさせてね」
何気ない声でそう言うと、明日奈は携帯端末を取り出した。プローブとの接続は保持したまま、メーラーを立ち上げて、自宅のホームコンピュータ宛に帰りが遅れる旨のメッセージを飛ばす。恐らく母親からは、刻限無視を難詰するメール、次いで直接通話がかかってくるに違いないが、端末をネットに繋ぎっぱなしにしておけば留守番サービスに転送されるはずだ。
「これでOK、っと。さ、ユウキ、行きたいところって、どこ?」
『えっとね……駅前を左に曲がって、二つ目の信号を右に……』
「ん、わかった」
ひとつ頷いて、明日奈は歩き出した。駅前の小さな商店街を、ユウキのナビゲーションに従って通り抜けていく。
ユウキは、パン屋や魚屋、郵便局や神社の前を通るたびに、懐かしそうに一言、二言呟いた。やがて住宅地に入っても、大きな犬のいる家や、立派な枝ぶりの楠などに目を留めては、嘆声を上げる。
だから明日奈は、ユウキが何も言わなくても、この街がかつて彼女の暮らしたところなのだと察することができた。そして、二人の向かう先に待つものも、また――。
『……その先を曲がったところの、白い家の前で止まって……』
そう告げるユウキの声が、微かに震えているのに明日奈は気付いた。葉を落としたポプラの並ぶ公園に沿って右に曲がると、左側に、白いタイル張りの壁を持つ家がひっそりと建っていた。
さらに数歩すすみ、青銅製の門扉の前で明日奈は立ち止まった。
『…………』
肩で、ユウキが長い吐息を漏らした。明日奈はおもわず指を伸ばしてプローブのアクリルドームに添えながら、囁きかけた。
「ここが……ユウキの、お家なんだね」
『うん。……もういちど、見られるとは思ってなかったよ……』
白い壁と緑色の屋根の家は、周囲の住宅と較べると少し小さめだったが、その分たっぷりと広い庭を持っていた。芝生には、白木のベンチつきのテーブルが置かれ、その奥には赤レンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。
しかしテーブルは風雨に晒されて色をくすませ、花壇もただ黒土に枯れた雑草がちらほら生えているだけだ。両隣の家の窓ガラスからは、団欒の暖かなオレンジ色がこぼれているのに、白い家の窓はすべて雨戸が閉められて生活の気配はまったく無い。
しかしそれも当然と言えた。かつてこの家に暮らした、父、母と娘二人の家族は、今はもう一人を残すのみなのだ。そしてその一人も、エアシールされた扉の向こうで、機械群に囲まれたベッドに横たわり、そこから出ることはかなわないのだ。
最後の残照の下ですみれ色に染まる家を、明日奈とユウキはしばし無言で見つめ続けた。やがて、ユウキがぽつりと呟いた。
『ありがとう、アスナ。ボクをここまで連れてきてくれて……』
「……中に、入ってみる?」
誰かに見咎められれば困ったことになりかねなかったが、それでも明日奈はそう尋ねた。しかし、ユウキはういんとレンズを左右に振りながら、言った。
『ううん、もうこれで充分。さ……早く帰らないと、遅くなっちゃうよ、アスナ』
「まだ……もうしばらくなら、大丈夫だよ」
反射的にそう答えて、アスナは後ろを振り向いた。細い道を挟んだ向かいには公園があって、その外周を石積みの基部を持つ生垣が取り巻いている。
アスナは道を渡ると、膝の高さの石積みに腰掛けた。プローブのまっすぐ正面に、長い眠りの中にある小さな家を捉える。ここからなら、ユウキの視界にも敷地の全景が入るはずだ。
更にしばらく沈黙を続けたあと、ユウキが言葉を発した。
『この家で暮らしたのは、一年足らずだったんだけどね……。でも、あの頃の一日一日は、すごく良く覚えてる。前はマンションだったから、庭があるのがとっても嬉しくてね。ママは感染症を心配していい顔しなかったけど、いつも姉ちゃんと走り回って遊んでた……。あのベンチでバーベキューしたり、パパと本棚作ったりもしたよ。楽しかった……』
「いいなー。わたし、そんなことした事ないよ」
明日奈の家にも、広大と言っていいほどの庭園がある。しかし、父母や兄と、そこで遊んだ記憶は明日奈にはなかった。いつも一人でままごとをしたり、絵を描いたりしていた。だから、ユウキの語る家族の思い出は、深い憧憬を伴って明日奈の胸にも響いた。
『じゃあ、今度18層のアスナの家でバーベキューやろうよ?』
「うん! ……ぜったい、約束だよ。わたしの友達も、シーエンたちもみんな呼んで……」
『うひゃ、なら、お肉すごい用意しといたほうがいいよー。ジュンとタルケンが、むっちゃくちゃ食べるから』
「ええ? そんなイメージじゃないけどなー」
あはは、と笑いあってから、再び家に視線を戻す。
『今ね……、この家のせいで、親戚中大もめらしいんだ』
呟いたユウキの声は、再びわずかに寂しさの色を滲ませていた。
「大もめって……?」
『取り壊してコンビニにするとか、更地にして売るとか、このまま賃貸しするとか……みんな色んなこと言ってるみたい。こないだなんか、パパのお姉さんって人が、VRワールドまでボクに会いに来たんだよ。病気のことわかってから、リアルじゃすごい避けてたくせにさ……。ボクに……――書けって……』
遺書を――ということなのだろう。明日奈は思わず息を詰め、歯を噛み締めた。
『あ、ごめんね、変な愚痴言っちゃって』
「う……ううん、いいよ。――すっきりするまで、もっと言っちゃいなよ」
どうにか、ちゃんとした声を出せた。
『じゃ、言っちゃう。でね……言ってやったんだ。現実世界じゃボク、ペン持てないしハンコも押せないけど、どうやって書くんですか? って。叔母さん、口ぱくぱくしてたよ』
ふふふ、とユウキは笑みを漏らす。つられて、明日奈も少し微笑む。
『でね、そのときに、この家はこのまま残してほしい、ってお願いしたんだけどね。管理費なら、パパの遺産で十年分くらいは出せるはずだからさ。でもね……やっぱ、ダメみたい。多分、取り壊されちゃうことになると思う。だから、その前に、もう一度見たいと思ってたんだ……』
家の各所をズームしているのだろう、サーボ機構の立てる微音が、明日奈の右耳に伝わった。ユウキの思いが詰まったようなその音を聞いているうちに、胸がいっぱいになってしまった明日奈はつい、思いついたことをそのまま口にしていた。
「じゃあ……こうすればいいよ」
『え……?』
「ユウキ、今十五だよね。十六になったら、好きな人と結婚するの。そうすれば、その人がずっとこの家を守ってくれるよ……」
言ってしまってから、あっと思った。ユウキに好きな相手がいるとすれば、それはまず間違いなくスリーピングナイツ男性陣の誰かだろうが、そのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身なのだ。すでに余命を宣告されている人もいると言う。つまりたとえ結婚しても、状況は大きく変わらないか余計複雑になるのであり、そもそも結婚というのは相手の事情や感情だってあるではないか……。
しかし、ユウキは一瞬沈黙したあと、あははははと大声で笑った。
『あははは、ア、アスナ、凄いこと考えるねえ! なるほど、それは思いつかなかったよー。うーんそっか、いい考えかも。婚姻届なら、がんばって書こうって気になるしね! ――でも、残念だけど、相手がいないかなー』
まだあははと笑い続けるユウキに、明日奈は首を縮めながらも言葉を返す。
「そ、そう……? ジュンとか、いい雰囲気だったじゃない」
『あーだめだめ、あんなお子様じゃ! そうだねえ……えーと……』
急に声にいたずらっぽい響きを混ぜて、ユウキは言った。
『ね、アスナ……ボクと結婚しない?』
「えっ……」
思わず絶句する。アメリカに倣って同性間結婚を法的に認めようという議論は、毎年何度かマスコミの話題に上るが、なかなか衆議院の本会議にまではたどり着けないでいる。というようなことを瞬間的に考えながら、明日奈が動転していると、先にユウキがもう一度愉快そうに笑った。
『ごめんごめん、冗談。アスナにはもう、大事な人いるもんね。あの人でしょ……このカメラの調整してくれた……』
「え……その……うん、まあ……」
『気をつけたほうがいいよー』
「へ……?」
『あの人も、ボクたちとは違う意味で、現実じゃないとこで生きてる感じがするから』
「…………」
ユウキの言葉の意味を考えようとしたが、頭のなかがぐるぐるして中々収まらなかった。熱くなった頬をさする明日奈の横顔にちらりとレンズを向けてから、ユウキは穏やかな声で言った。
『ほんとに、ありがとう、アスナ。この家をもう一度見られただけで、ボクは凄く満足してるんだ。たとえ、家がなくなっても、思い出はここにある。ママやパパ、姉ちゃんと過ごした、楽しかった頃の記憶は、ずっとここにあるんだから……』
ここ、というのが、家のある土地ではなく、ユウキの心の中を指す言葉であることが明日奈には判った。
この家の姿は、自分の中にももう刻まれている、という気持ちを込めて明日奈は大きく頷いた。ユウキの言葉は続いた。
『……ボクや姉ちゃんが、薬を飲むのが辛くて泣いたりすると、ママはいつもイエス様の話をしてくれたんだ。イエス様は、私達に、耐えることのできない苦しみはお与えにならない、って。それで、姉ちゃんと、ママと一緒にお祈りしながら、でも、ボクは少しだけ不満だった。ほんとは、聖書じゃなくて、ママ自身の言葉で話してほしいって、ずっと思ってた……』
わずかな間。すっかり濃紺に変わった空に、大きな赤い星がひとつ瞬き始めている。
『でもね、今この家をもう一度見て、わかったんだ。ママは、ずっとボクに話しかけてくれてた。言葉じゃないんだ……気持ちで、包んでくれてた、って。ボクが、最後まで、まっすぐに前を向いて歩いていけるように、ずっと祈ってくれてた……ようやく、それがわかったよ』
明日奈の眼にも、白い家の窓際にひざまずいて、星空に向かって祈りを捧げる母と二人の娘の姿が見えるような気がした。ユウキの静かな声に導かれるように、明日奈はいつしか、ずっと、ずっと以前から胸のおくにわだかまっていた気持ちを言葉に乗せていた。
「わたしもね……、わたしも……、もうずっと、母さんの声が聞こえないの。向かい合って話しても、心が聞こえない。わたしの言葉も伝わらない。ユウキ、前に言ったよね。ぶつからなけりゃ、伝わらないことがある、って。どうしたら、ユウキみたいにできるかな……? どうしたら、ユウキみたいに強くなれるの……?」
すでに両親を亡くしているユウキに対して、配慮のない言葉かもしれなかった。すくなくとも、普段の明日奈ならそう考え、口にすることはなかったろう。しかし今だけは、肩のプローブを通して伝わるユウキの精神的波動が、明日奈の心を覆う壁を溶かしていた。まるで幼かったころに戻ったかのように、無心な気持ちで、明日奈は尋ねた。
ユウキは、どこか困ったような声で答えた。
『ボク……強くなんかないよ、ぜんぜん』
「そんなことない。わたしみたいに、人の顔色うかがって、怯えたり、尻込みしたり、ユウキはぜんぜんしないじゃない。すごく……すごく、自然に見えるよ」
『うーん……でもね、ボクも昔、まだ現実世界にいた頃は、いつも違う自分を演じてた気がする。パパもママも、ボクと姉ちゃんを産んだことを、心のどこかでずっと謝ってたの分かってたし……。パパとママのために、ボクはいつも元気でいなきゃ、病気のことなんかぜんぜんへっちゃらでいなきゃ、って思ってた。だから、メディキュボイドに入ってからも、そんなふうにしか振舞えなくなっちゃったのかも。本当のボクは、周りのぜんぶを恨んで、憎んで、毎日泣き喚いてるような子なのかもしれないよ』
「……ユウキ……」
『でもね、ボクは思うんだ。演技でもいいや……って。強いふりをしてるだけでも、それで笑顔でいられる時間が増えるなら、ぜんぜんかまわないじゃない、ってさ。ほら、ボク、もうあんまり時間がないからさ……。誰かと触れ合うときに、遠慮して、遠くから気持ちの端っこを突っつきあったりする時間が勿体無いって、どうしても思っちゃうんだよね。それなら最初からどかーんとぶつかってさ。もし相手に嫌われちゃっても、それはそれでいいんだ。その人の心のすぐ近くまで行けたことには変わりないもんね』
「……そうだね……。ユウキがそうやってくれたから、わたしたち、たった何日かでこんなに仲良くなれたんだよね……」
『ううん、それはボクじゃないよ。ボクが逃げても、アスナがいっしょうけんめい追いかけてくれたからだよ。――昨日、モニタルームにいるアスナを見て、声を聞いてたら、アスナの気持ちがすごく伝わってきた。この人は、ボクの病気のことを知っても、まだボクにもう一度会いたいって思ってくれてるんだ、って分かって、本当に……本当に、泣いちゃうくらい嬉しかったんだ』
一瞬声を詰まらせてから、ユウキは続けた。
『……だから、お母さんとも、あの時みたいに話してみたらどうかな。気持ちって、伝えようとすればちゃんと伝わるものだって思うよ。だいじょうぶ、アスナはボクよりずっと強いもん。ほんとだよ。ぶつからなきゃ、伝わらない……アスナがどーんってぶつかってきてくれたから、ボクは、この人にならボクの全部を預けられるって、そう思えたんだ』
「……ありがと。ありがとう、ユウキ」
どうにかそれだけ言って、明日奈は目尻に滲む涙がこぼれないように、上を向いた。首都圏の、完全には暗くなることのない夜空にも、人工の光に負けずに煌めく星たちをいくつも数えることができた。
駅に戻ったところで、プローブのバッテリ残量アラームが鳴った。明日奈はユウキと翌日また一緒に授業を受けることを約束し、携帯端末の接続を切った。
ふたたび電車を乗りついで、世田谷の自宅に帰りついたときには、九時を大きく回っていた。
しんと冷たい空気に沈む玄関ホールに、ドアロックのかかる音がやけに大きく響くのを聞きながら、明日奈は大きく一回息をした。右肩には、まだユウキが腰掛けていた重みがわずかに残っている。その暖かさをそっと左手で押さえてから、靴を脱ぐと、足早に自室に向かった。
室内着に着替え、すぐに廊下に出る。向かったのは、同じ二階の奥にある兄・裕明の書斎だ。父親と同じく殆ど家に居着こうとしない裕明は、当然まだ帰っていないだろうと思いながらノックをしたが、やはり返事は無かった。構わず、勝手にドアを開ける。
書斎とは名ばかりの、本物の書物はほとんど存在しない部屋の中央に、大きなビジネスデスクがでんと横たわっている。その左サイドに、目当てのものがあった。裕明が仮想空間内の会議などに使用しているアミュスフィアだ。
明日奈のものより数段新しいヘッドギアとドライブを掴み上げると、自室に取って返した。早速本体の電源を入れると、予備のアルヴヘイム・オンラインのディスクをドライブに挿入する。ベッドに横になり、裕明のアミュスフィアのアジャスタを自分の頭のサイズにセットして、すぽんと被る。
パワースイッチを入れると、たちまち接続シークエンスが開始され、次いでALOのログイン空間へと転送された。だが明日奈は、いつも使っているメインのアカウントではなく、「他人」になりたい時にたまに使用しているサブアカウントでALOにダイブした。
出現したのは、18層、森の家のリビングルームだった。しかし体はいつもの「アスナ」ではなく、「エリカ」という名の別キャラクターだ。服装をチェックし、腰に帯びていた二本のダガーを外してチェストに仕舞う。即座にメニューを開き、一時ログアウトコマンドを実行する。
ほんの数十秒のダイブから、明日奈はたちまち現実の自分の部屋へと復帰した。頭からアミュスフィアを外すが、青いインジケータはゆっくりと点滅を続けている。これはVRワールドとの接続がサスペンド状態になっているという表示であり、再度頭に装着してパワースイッチを入れれば、ログイン過程をスキップしてゲームに戻ることができる。
兄のアミュスフィアを手にしたまま、明日奈は立ち上がった。ナーヴギアと違って、アミュスフィアはドライブ本体とは無線で接続されており、家の中であればほとんど端から端まで回線を維持できるはずだ。
ドアを開け、再び廊下に出ると、今度は少々重い足取りで階段を降りた。
一階のリビング、ダイニングを覗いたが、やはりもうテーブルは綺麗に片付けられ、母親の姿は無かった。さらに屋敷の奥へと向かい、廊下を一度曲がると、その先の、母親の仕事部屋のドアの下部からうっすらと光が漏れているのに気付いた。
ドアの前で立ち止まり、ノックしようと右手を上げてから、何度か躊躇う。
いつから、母親の部屋を訪ねるのが、こんなにも気詰まりになってしまったのだろう、と明日奈は苦い笑みとともに考えた。しかしそれは多分、半ば以上明日奈に原因があることなのだろう。気持ちが伝わらないのは――伝えようとしていなかったせいだ。それを、ユウキが気付かせてくれた。
明日奈はぐっと息を吸うと、音高くドアをノックした。
すぐに、どうぞという声が微かに聞こえた。ノブを回し、開いた隙間に体を滑り込ませると、後ろ手にドアを閉める。
京子は、重厚なチーク材の机に向かい、昔ながらのパソコンのキーボードに指を走らせていた。しばらくそのままキーを高い音とともに叩きつづけてから、一際強くリターンキーを鳴らし、ようやく体を椅子の背に預ける。眼鏡を押し上げつつ明日奈のほうに向けられた視線は、常にない苛立ちに満ちているように見えた。
「……遅かったわね」
それだけを口にした京子に、明日奈は俯きながら謝罪した。
「ごめんなさい」
「夕食はもう始末しましたからね。何か食べたいなら、冷蔵庫の中のものを勝手にしなさい。この間話した編入申請書の期限は明日ですからね。朝までに書き上げておくのよ」
話は終わった、とばかりにキーボードに手を戻そうとする京子に向かって、明日奈は用意していた言葉を口にした。
「そのことなんだけど……話があるの、母さん」
「言ってみなさい」
「ここじゃ説明し難いの」
「じゃあどこなら言えるのよ」
すぐには答えず、明日奈は京子のかたわらまで進み出ると、左手で体の後ろに下げていたものを差し出した。サスペンド中の、アミュスフィアを。
「VRワールド……。少しだけでいいから、これで、来てほしい場所があるの」
銀色の円環をちらりと一瞥しただけで、京子はおぞましい物を見るように眉間に谷を刻んだ。議論の余地もない、というように右手を振る。
「嫌よ、そんなもの。ちゃんと顔と顔を向かい合わせて出来ない話なんて、聞く気はありませんよ」
「お願い、母さん。どうしても見せたいものがあるの。五分だけでいいから……」
いつもなら、ごめんなさい、と一言だけ言って引き下がる場面だった。しかし明日奈はもう一歩前に出て、間近からじっと京子の瞳を見詰め、言い募った。
「お願いします。わたしが今、何を感じて、何を考えているのか、それを話すのには、ここじゃだめなのよ。一度だけでいい……わたしの世界を、母さんに見せたいの」
「…………」
京子はますます眉間をきつく寄せ、唇を引き結んでじっと明日奈を見ていたが、数秒後、ふうっと長いため息をついた。
「――五分だけよ。それに、何を言われようと、お母さんはあなたを来年度もあの学校に通わせる気はありませんからね。話が終わったら、申請書をちゃんと書くのよ」
「……はい」
明日奈は頷き、左手のアミュスフィアを差し出した。京子は触るのも嫌そうに顔をしかめながらそれを受け取り、ぎこちない手つきで頭に載せた。
「どうすればいいの、これ?」
明日奈は手早くアジャスタを調節してから、言った。
「電源を入れたら、そのまま自動で接続するから。中に入ったら、私が行くまで待ってて」
京子が軽く頷き、椅子の背もたれに体を預けたのを確認して、明日奈はアミュスフィアの右側面にあるパワースイッチを入れた。主インジケータが点灯状態になり、接続インジケータが不規則な点滅を始める。すぐに、京子の体からふっと力が抜けた。
明日奈は急いで仕事部屋から飛び出ると、廊下と階段を全力で駆け抜けて、自分の部屋へ戻った。どすんとベッドに飛び込むと、使い込んだアミュスフィアを頭に載せる。
パワースイッチに触れると、目の前に放射状の光が伸びて、明日奈の意識を現実から切り離した。
見慣れた白木作りのリビングルームに降り立ったアスナは、くるりと部屋中を見渡して『エリカ』の姿を探した。すぐに、食器棚の脇に掛けてある鏡の前に、若草色のショートヘアを持つシルフの少女が立ち、自分の姿を覗き込んでいるのを見つけた。
アスナが近づいていくと、エリカ/京子は肩越しにちらりと振り向き、現実世界の彼女とまったく同じ仕草で眉をしかめた。
「なんだか、妙なものね。知らない顔が自分の思い通りに動くなんて。それに……」
つま先で、何度か体を上下させる。
「ヘンに体が軽いわ」
「そりゃあそうよ。その体の体感重量は40キロそこそこだもの。現実とはずいぶん違うはずよ」
微笑を交えながらアスナが言うと、京子は再び不愉快そうに眉根を寄せた。
「失礼ね、私はそんなに重くありませんよ。――そう言えば……あなたは向こうと同じ顔なのね」
「うん……まあね」
「でも、少し本物のほうが輪郭がふっくらしてるわね」
「お母さんこそ失礼だわ。現実とまったく一緒です」
言葉を交わしながら、アスナは、前に京子とこんな何気ない会話をしたのは一体いつのことだろう、とふと考えた。もう少しこのままお喋りをしたい、と思ったが、京子は両腕を胸の前で組むと、軽口を打ち切る意思を示した。
「さ、もう時間がないわよ。見せたい物って、何なの」
「……こっちに来て」
アスナはため息を押し殺しながらリビングを横切り、ふだんは物置に使っている小部屋のドアを開けた。京子が覚束ない足取りで付いてくるのを待って、小部屋の奥にある小さな窓へと導く。
南向きのリビングからは、大きな芝生の庭と小道、なだらかな丘とその向こうの湖を美しい絵のように一望することができるが、北向きの物置部屋の窓からは、草深い裏庭と小さな川、間近に迫る針葉樹の森が見えるだけだ。この季節ではそのほとんどが雪に覆われて、寒々しいという以外に表現できない風景である。
しかし、それこそが、アスナが京子に見せたかったものだった。
アスナは窓を開け放つと、深い森を眺めながら言った。
「どう、似てると思わない?」
京子は再び眉をしかめ、小さく首を振った。
「何に似てるって言うのよ? ただのつまらない杉林じゃ――」
言葉は、途中で吸い込まれるように消えた。口を半ば開けたまま、茫然とした視線で窓の外を眺めている。その横顔に向かって、アスナはそっと囁いた。
「ね、思い出すでしょう……お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんの家を」
明日奈の母方の祖父母、つまり京子の両親は、宮城県の山間部で農業を営んでいた。家があったのは、急峻な谷間をどうにか切り拓いたような小さな村で、田んぼはすべて棚のように山肌に貼り付き、機械化などしようもなかった。主に作っていたのは米だったが、収穫できるのは一家が一年食べれば無くなってしまうほどの量でしかなかった。
それでもどうにか京子を大学まで進学させることができたのは、ささやかながら先祖伝来の杉山があったからだ。旧い木造の家は、その山裾にうずくまるように建っており、縁側に座ると、見えるものは小さな庭と小川、そしてその奥の杉林だけだった。
しかし明日奈は、幼い頃から京都の結城本家よりも「宮城のじいちゃんばあちゃん」の家に行くことを好んだ。毎年夏休みと冬休みは駄々をこねてまで連れて行ってもらい、祖父母と一緒の布団で、色々な昔話を聞かせてもらったものだ。夏に縁側で食べたかき氷、秋に祖母と一緒に干した柿、色々な思い出があるが、特に良く覚えているのは、真冬、しんしんと冷えるなか掘り炬燵に入って、みかんを食べながら、窓の外の杉林に見入っているという情景だった。
祖父母は、林なんか見て何が面白いのかと訝ったが、白い雪のなかに黒い杉の幹がどこまでも連なるさまを見ていると、心が吸い込まれそうになるのだった。自分が、雪の下の穴で春を待つ子ネズミになったような気がして、心細いような、暖かいような、不思議な感慨に包まれて、いつまでも杉林を見つめ続けた。
祖父と祖母は、明日奈が中学二年の時に相次いで他界した。棚田や山はすべて売却され、住む者のなくなった家は取り壊された。
だから、宮城の山村からは物理的にも観念的にも遥かに隔たった場所であるアインクラッド18層にこの家を買い、北の窓から雪深い針葉樹林を見たとき、明日奈の胸には泣きたくなるほどの郷愁が過ぎったのだった。
京子が、生家が貧しい農家だったことを恥ずかしいと思っていることは知っていた。だがそれでも、明日奈はどうしてもこの窓からの眺めを京子に見せたかった。彼女がかつて毎日のように眺め、そして無理矢理忘れ去ってしまったのであろう風景を。
京子は、無言で杉林に見入っていた。その横に進み出て、アスナはゆっくりと話しはじめた。
「わたしが中一の時の、お盆のこと覚えてる? 父さんと母さん、それに兄さんは京都に行ったけど、わたしはどうしても宮城に行きたいって言い張って、ほんとにひとりで勝手に行っちゃったときのこと」
「…………覚えてるわ」
「あの時ね、わたし、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに謝ったの。お母さんが、お墓参りに来れなくてごめんなさい、って」
「あの時は……結城の本家でどうしても出なきゃいけない法事があったから……」
「ううん、責めてるんじゃないのよ。だってね……お祖父ちゃんたち、私が謝ったら、茶箪笥から分厚いアルバム持ってきてね。中見て、すっごい驚いたよ。――母さんの、最初の論文から始まって、色んな雑誌に書いた記事や、インタビューが、全部ファイルしてあった。ネットに載ったやつまで、プリントして貼ってあったよ。二人とも、パソコンなんてぜんぜん分からなかっただろうにね……」
「…………」
「それで、わたしにそのアルバムを見せてくれながら、お祖父ちゃん言ったわ。母さんは、自分たちのたった一つの誇りなんだ、って。村から大学に進んで、学者になって、雑誌にたくさん寄稿して、どんどん立派になるのが、凄く嬉しいんだ、って。論文や学会で忙しいんだから、お盆に帰れなくても当たり前だし、それを不満に思ったことは一度もない……って……」
京子は、ただじっと森を見詰めながら、無言でアスナの言葉を聞いていた。その横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。だが、アスナは懸命に口を動かしつづけた。
「そのあと、お祖父ちゃん、こう続けたの。――でも、母さんも、いつかは疲れて、立ち止まりたくなる時がくるかもしれない。いつか後ろを振り返って、自分の来た道を確かめたくなるかもしれない。その時のために、自分たちはずっと、この家を守っていく……もし、母さんが、支えを欲しくなったときに、帰ってこられる場所があるんだよ、って言ってやるために、ずっと家と山を守り続けていくんだ……。――わたし、その時は、お祖父ちゃんの言葉の意味が全部はわからなかった。でも、最近になって、ようやくわかってきた気がするんだ。自分のために走り続けるのだけが人生じゃない……誰かの幸せを、自分の幸せだと思えるような、そういう生き方だってあるんだ、って」
アスナの脳裏に、キリト、ユウキ、リズベットたち、シーエンたちの顔が一瞬、浮かんだ。
「……わたし、周りの人たちみんなを笑顔に出来るような、そんな生き方をしたい。疲れた人をいつでも支えていけるような、そんな生き方をしてみたいの。そのために――今は、あの学校に行きたい」
言葉を探し探し、アスナはどうにかそこまでを言い終えた。
しかし京子は、口元を引き結んだまま、森を眺めつづけていた。その濃緑色の瞳には、茫漠とした色が浮かんでいるだけで、内心を伺うことはできなかった。
そのまま、およそ五分以上も沈黙が続いた。巨木のあいだの雪原を、ウサギに似た小さな動物が二匹、じゃれあいながら跳ねていった。アスナは一瞬そちらに視線を取られてから、京子の横顔を見直して、ハッと息を飲んだ。
京子の、今は白磁のように透き通った頬に、ひと筋の涙が流れ、ぽたぽたと滴っていた。唇がかすかに動いたようだったが、言葉は聞き取れなかった。
しばらくして京子は、自分が泣いていることにようやく気付き、慌てたように両手で顔を何度もぬぐった。
「ちょっと……何よこれ、私は、別に泣いてなんか……」
「……母さん、この世界では、涙は隠せないのよ。泣きたくなったときは、誰も我慢できないの」
「不便なところね」
吐き捨てるように言い、京子は何度も目を擦っていたが、ついに諦めたように、両の手の平で顔を覆った。やがて、その奥からかすかな嗚咽が漏れ出した。アスナは何度か躊躇ったあと、小刻みに震える京子の肩に、そっと手を乗せた。
翌朝。
朝食のテーブルについた京子は、すっかりいつもどおりの様子で、新聞を捲っていた。おはようの挨拶のあとは静寂のうちに食事が終わり、明日奈は編入申請書を提出しろと言われることを覚悟した。が、京子はいつもに較べるとわずかに険の取れた目つきで明日奈を見て、唐突に言った。
「あなたは、誰かを一生支えていくだけの覚悟があるのね?」
明日奈は慌てて頷いた。
「う……うん」
「――でも、人を支えるには、まず自分が強くなけりゃダメなのよ。大学にはきちんと行きなさい。そのためにも、三学期と、来年度はこれまで以上の成績を取ることね」
「……母さん……じゃあ、転校は……」
「言ったでしょう? 成績次第よ。頑張るのね」
それだけ言うと、京子は足早にダイニングを出て行った。音高く閉まったドアをしばらく凝視してから、明日奈はそっと頭を下げ、ありがとう母さん、と呟いた。
着替え、鞄を持って家を出るまでは、そのまま神妙な態度を保ったが、表門を出たとたん、明日奈は霜の光る路面を思い切り駆け出していた。自然に、唇から笑みが溢れた。
和人に言いたかった。今年も、ずっと同じ学校に通えることを。ユウキに言いたかった。母親と、ちゃんと話が出来たことを。
駅に向かう人波を縫って走りながら、明日奈は駅につくまでずっと、浮かんでくる微笑みを抑えることができなかった。
その三日後、約束どおり、森の家で盛大なバーベキュー大会が催された。
集まったメンバーは、キリト、リズベット、リーファ、シリカらいつもの仲間たちと、ユウキ、シーエンたちスリーピングナイツのメンバー。サクヤ、アリシャ、ユージーンら一部種族の領主たちとその側近。計数十人という大集団の胃を満たすために、わざわざ食材狩りのパーティーが結成されたほどだ。
乾杯の音頭に先駆けて、アスナはスリーピングナイツの面々をあらためて皆に紹介した。病気のことだけは伏せたが、彼らが色々なVRMMOを股にかけた凄腕集団であること、解散前にALOで思い出づくりをしていることなどは、ユウキたちの了承を得てすべて話した。
67層ボスをたった七人で攻略した謎のギルドの噂、そして何より辻デュエルで百人以上を斬ってのけた”絶剣”の噂はすでにアルヴヘイム中を駆けめぐっていたようで、サクヤやユージーンなどはさっそく自陣への勧誘を始めたものだ。ユウキは笑って辞退したが、もしスリーピングナイツがいずれかの種族に傭兵として雇われたら、ALOのパワーバランスは大いに変化し、現在進行中のグランドクエスト第二弾の行方に多大な影響を与えたことだろう。
賑やかな乾杯のあと、嵐のような暴飲暴食の宴が始まり、アスナもユウキと一緒に大いに食べ、飲んだ。その席上で、こうなったら68層以降のボス攻略も狙っちゃおうということになり、勢いで二次会が68層迷宮区踏破ツアーになって、なんとそのまま大人数でボス部屋になだれ込んで巨大な甲殻類型のボスを屠ってしまったのは笑い話に類するものだろう。
剣士の碑に刻まれた名前は、残念ながらユウキと、パーティーリーダーを努めたキリト達数名のものになってしまったが、69層はあらためてスリーピングナイツだけでチャレンジすることを約して、その日は解散となった。
アルヴヘイムで冒険を重ねるあいだも、現実世界では、ユウキは双方向通信プローブを使って毎日授業に参加した。和人や直葉の家も一緒に訪ねたし、エギルの店にも遊びに行った。
出会った当初は、妙にカンの良すぎる和人のことを警戒していたユウキだが、互いに片手直剣の使い手とあって話してみるとすぐに打ち解け、ALO内では剣技の研鑚について、現実世界ではプローブの発展形についてなど、盛んに議論を戦わせて時折アスナをやきもきさせたものだ。スリーピングナイツのほかのメンバーたちも、リズベットやリーファたちとそれぞれ仲良くなって、色々なイベントを企画しては大いに楽しんだ。
二月。
アスナとスリーピングナイツは、69層、そして70層のボスをもワンパーティーで撃破して、アルヴヘイム中にその勇名を轟かせた。中旬に開催された統一デュエル・トーナメントでは、東ブロックではキリトが、西ブロックではユウキがそれぞれ破竹の勢いで勝ち進み、決勝はVRMMO情報番組「MMOフラッシュ」で生中継されるとあって、最高潮の盛り上がりを見せた。
無数のプレイヤーたちが固唾を飲んで見守るなか、ユウキとキリトはそれぞれの大技OSSを連発するド派手な激戦を展開し、30分以上に及んだ試合の最後に、ユウキが神技とも言える11連撃でキリトを破ったときには、世界中が震えるほどの大歓声が湧き起こった。
四代目統一チャンピオンの座についたユウキの名は、ALOの枠を超えて広く鳴り響いた。
三月。
期末試験を終えた明日奈は、通信プローブを肩に乗せ、里香、珪子、直葉と一緒に、三泊四日の京都旅行に出かけた。その時には、プローブの情報を複数のクライアントに並列して送れるようになっていたため、ユウキだけでなくシーエンやジュンたちにも京都を案内できるとあって、色々な名所を解説する言葉にも力が入った。
宿は結城家の広大な屋敷を有効に利用させてもらい、毎夜色々な京料理に舌鼓を打つことができたが、味ばかりはプローブで送ることができず、散々ユウキたちにずるーいと連発されてしまった。お陰で、帰ってからVR世界で味を再現することを約束させられ、明日奈は料理シミュレーションソフトの中で大変な苦労をすることとなった。
すべてが、夢のように過ぎていった。アスナとユウキは、仮想世界と現実世界で、長い、長い旅をした。行きたい場所は山ほどあるし、時間もまだまだ沢山ある、とアスナは信じていた。
四月まであと数日、となったある日。オホーツク海から張り出してきた寒気団が、関東一円に季節はずれの大雪を降らせた。
春の気配を覆い隠すように積もった厚いぼたん雪が、弱々しい日差しの下でようやくすべて解けかけた頃。
明日奈の携帯に、倉橋医師から、ユウキの容態が急変したという知らせが届いた。
端末の小さなモニタに表示された短いメッセージを凝視しながら、明日奈は胸の奥でただひとつの言葉だけを何度も繰り返していた。
そんなはずはない。
そんなはずがないではないか。このところユウキはとても精力的にあれこれ活動しているし、脳のリンパ腫も進行が止まっていると倉橋医師も言っていた。近年では、HIV感染後、20年以上ウイルスを押さえ込むことに成功している例も多数あるそうだ。ユウキはまだたった15歳……なにもかも、これからではないか。急変、というのは、今まで何度かあったという日和見感染の重症化であって、今回だってユウキは乗り越えるはずだ。
しかし、明日奈は心のもう一方で理解してもいた。医師が直接明日奈にメッセージを送ってきたのは、初めてのことだった。つまりこれは、その時が来た――という知らせなのだろう。明日奈が夜毎ベッドの中で、怯えとともに想像しては打ち消してきた、その時が。
せめぎあう二つの声に翻弄されながら、明日奈は数秒間立ち尽くしていたが、やがてぎゅっと一度まばたきしてから、新しくメーラーを起動した。キリトやリズベットたちと、シーエンたちに、短い同一文面のメールを送信する。それが済むと、部屋着を脱ぎ捨てて、服装に迷う時間も惜しかったので機械的に学校の制服を身につけた。靴を履くのももどかしく、表門から半ば駆け出すと、柔らかく降り注ぐ日差しが、先日降った雪の名残に白く跳ね返って明日奈の眼を射た。
三月末の日曜日、午後二時。道ゆく人は皆、待ちわびた春の訪れに浮き立つように、ゆっくりと歩いている。その傍らをすり抜けながら、明日奈は懸命に駅まで走った。
どのように電車の行き先を確かめ、乗り継いだのか、まるで覚えていなかった。ふと我に返ると、港北総合病院の最寄駅の改札を走りぬけたところだった。まるで頭の奥が白くハレーションを起こしたように痺れて、ばらばらの思考の断片がいくつも浮かんでは消えていく。
明日奈はぎゅっと歯を噛み締めると、ユウキ、待ってて、と一言呟いて、ちょうどロータリーに走りこんできたタクシーに駆け寄った。
病院の面会受付窓口には、すでに話が通っていたようだった。明日奈が強張った口で来意を告げると、看護師はすぐにプレートを寄越して、中央棟六階へ急ぐように言った。
エレベーターの階数表示がひとつひとつ増えていくのをじりじりしながら待ち、ドアが開いた途端飛び出す。セキュリティゲートのセンサーに、プレートをぶつけるようにして通過すると、マナー違反と知りつつ再び走る。白く無機質な通路を記憶にある通りに辿り、最後の角を曲がると、ついにユウキが眠る無菌室のドアが視界に入った。
――その途端、明日奈は息を飲んで立ち尽くした。
二つ並んだドアのうち、手前がモニタルームの入り口だ。そしてその奥、いかにも厳重そうな注意書きが大書してあるのが、エアシールされた無菌室のドア。以前明日奈がこの場所を訪れたときは、当然のように固く閉じられていたそれが、今は大きく開け放たれていた。茫然と見つめるうちに、そこから何の変哲もないナースウェアを身につけた看護師が一人、足早に姿を現した。
看護師は明日奈を見ると短く頷き、横を通り抜けながら、「早く中へ」と囁いた。その声に促され、よろよろと数歩進み、ドアの前に立つ。
白一色の部屋の内部が、否応なく眼に飛び込んできた。
あれほど沢山あった機械類の殆どは、左の壁際へと押しやられていた。中央のジェルベッドの周囲には、二人の看護師と一人の医師が付き添い、横たわる小さな姿を見守っていた。三人とも、通常の白衣姿だった。
その光景を見た瞬間、明日奈は悟った。全ては、もう、取り返しのつかない段階へと入ってしまっているのだということを。はるか以前に既定された「その時」が訪れるのを、ただ見守ることしかできないのだということを。
倉橋医師が顔を上げ、明日奈の姿を認めた。左手を上げ、短く差し招く。半ば自動的に、ふらつく足を交互に動かして、明日奈は部屋の中へと入った。
ジェルベッドまではほんの数メートルなのに、とてつもなく長く感じた。冷徹な現実までの残り距離を一歩一歩削り取るように歩き、明日奈はベッドの傍らに立った。
白いシーツを胸まで掛けられた、痩せ細った少女が横たわり、薄い胸をごくゆっくり上下させていた。右上の心電図が、緑色の波形を弱々しく刻んでいる。
以前に見たときは、少女の頭をほぼ覆い隠していたメディキュボイドが、その長方形の筐体を二つに分離させていた。ちょうど耳の線から上の部分が、90度後ろに倒されている。内部はちょうど人の頭の形にくぼんでおり、そこに眼を閉じた少女の顔が包まれていた。
初めて目にする、現実世界のユウキの顔は、痛々しいほど肉が落ち、透けるように色素が薄かった。しかしその容姿は、明日奈にどこか神秘的な美しさを感じさせた。本物の妖精がもしいるなら、こういう姿を持っているかもしれないと思わせるものがあった。
無言のままユウキを見つめていると、いつの間にか横に立っていた倉橋医師が、低い声で言った。
「よかった……間に合って」
間に合う、という言葉に受けいれがたいものを感じた明日奈は、きっと顔を上げ、医師を見た。だが、眼鏡の奥の細い、理知的な眼は、あくまでいたわるように明日奈を見ていた。再び、医師が言った。
「四十分前、一度心臓が停止しました。投薬と除細動によって脈拍が戻りましたが、恐らく、次は……もう……」
明日奈はぐっと息を詰めてから、食い縛った歯のあいだから掠れた声を絞り出した。しかし、意味のある言葉を組み立てることはできなかった。
「なんで……なんでですか……。だって……だって、ユウキは、まだ……」
医師は一度頷いてから、かすかに首を左右に振った。
「――本当は、一月にあなたがここを訪れた頃から、いつこの日が来てもおかしくなかったのです。HIV消耗性症候群による発熱と、脳原発性リンパ腫の進行で、木綿季くんの命はずっと、薄い氷の上を歩くような状況にあった。しかし木綿季くんは、この三ヶ月、我々も驚愕するような頑張りを見せた。絶望的な闘いを、日々勝ち続けてきたのです。彼女は、充分すぎるほどに頑張った……いや――それを言うなら……」
ここで初めて、医師の声がわずかに震えた。
「木綿季くんにとっては、この十五年の生そのものが長い、長い闘いだったのです。HIVとだけじゃない……冷酷な現実そのものに、彼女はずっと抗いつづけてきた。メディキュボイドの臨床試験も、彼女には計り知れない苦痛を与えたはずです。しかし……木綿季くんは頑張りぬいた。彼女がいなければ、メディキュボイドの実用化は確実に一年は遅れたでしょう。だからもう――ゆっくり、休ませてあげましょう……」
医師の言葉を聞きながら、明日奈は胸のうちでそっとユウキに語りかけていた。
ユウキが――「負ける」わけないよね。だって、あなたは”絶剣”……何だって斬れないものはない、絶対最強の剣士だもん。ユウキは勝ったよ。病気にも……運命にも――。
その時だった。
ユウキがかすかに頭を動かした。薄いまぶたが震え、ほんの少しだけ持ち上がった。その奥、すでに光を失っているはずの灰色がかった瞳が、澄んだ光を湛えて、まっすぐに明日奈を見た。
ほとんど肌と同じ色の唇が小さく動いた。同時に、シーツのしたで細い右手がぴくりと震えて、ゆっくり、ゆっくりと明日奈のほうへ差し伸べられた。
医師が、感極まったような声で囁いた。
「明日奈さん……手を、握ってあげてください」
その言葉が終わらないうちに、明日奈は両手を伸ばし、ユウキの骨ばった右手を包み込んでいた。ひんやりとした手が、何かを求めるように明日奈の指をきゅっと握った。
瞬間、明日奈は天啓のように理解した。ユウキが、本当は何を欲しているのかを。
ユウキの手を握ったまま、さっと顔を上げた明日奈は、医師に向かって早口に言った。
「先生……今、メディキュボイドは使えますか?」
「え――それは、電源を入れれば……。しかし……木綿季くんも、最後は機械の外で……」
「いえ、ユウキはもういちどあの世界に行きたがってます。わたしにはわかるんです。お願いします……もう一度、メディキュボイドを使わせてあげてください」
医師は数秒間じっと明日奈を見ていたが、やがてぐっと頷いた。傍らの看護師たちにいくつか指示をしてから、メディキュボイドの上半分をそっと半回転させ、ユウキの頭に被せる。
「起動に一分ほどかかりますが……あなたは?」
「隣のアミュスフィアを使わせてもらいます!」
言いながら、明日奈は最後にユウキの手をぎゅっと握り、体の横へと戻した。待ってて、すぐ行くからね――と囁き、身を翻す。
無菌室を飛び出し、隣のモニタルームに駆け込むと、奥のドアを開けた。二つ並んだシートの片方に飛び乗ると、ヘッドレストの横からアミュスフィアを取り上げ、頭に乗せる。パワースイッチを入れ、起動シークエンスを待つ間も、明日奈の心はすでにあの場所へと飛んでいた。
森の家で覚醒したアスナは、前に病院からログインしたときと同じように、寝室の窓から飛び出すと全速で主街区を目指した。飛行するあいだに、ウインドウを開くと、念のために待機してもらっていたリズベットやシーエンたちにメッセージを飛ばす。
転移門に飛び込むと、迷うことなくセルムブルグを指定する。湖上都市に出現するや否や、今度は湖の彼方にあるあの島を目指す。二人がはじめて出会った、あの大樹の下を。
アインクラッドは夕暮れだった。外周部から差し込む夕陽が、湖を金色に染めていた。その光の帯に導かれるように、アスナはまっすぐ小島の上空に達すると、急降下して柔らかい草地の上に降り立った。
樹の周囲を捜す必要はなかった。ユウキは、もはやはるかな昔のように思えるあの日、二人が剣を交えたまさにその場所に立っていた。やや冷たい風に濃紺のロングヘアを揺らしながら、ユウキはゆっくりと振り向いた。
近づくアスナの姿を見ると、ユウキはにこりと笑った。アスナもくしゃっと微笑みを返す。
「――ありがとう、アスナ。ボク、大事なことをひとつ忘れてたよ。アスナに、渡すものがあったんだ。だから、どうしてももう一度ここで会いたかった」
その声はいつものように朗らかだったが、ほんの、ほんの少しだけ揺らいでいた。そうやって立ち、話しているだけで、ユウキが全身のエネルギーを振り絞っているのだということがアスナには分かった。
だが、アスナはユウキの前まで歩くと、首を傾け、同じように明るく尋ねた。
「なに? わたしに渡すものって」
「えーとね……いま作るから、ちょっと待って」
にっと笑うと、ユウキはウインドウを出し、何か短い操作を加えた。それを消すと、右手で腰の剣を、しゃらんと音高く抜き放つ。
赤い夕陽を受けて、ユウキの黒曜石の剣は燃えるような輝きを放っていた。それを体の正面で、大樹の幹に向かってまっすぐに構える。そのまま、ユウキはしばらく動かなかった。――まるで、残された最後の力を、すべて剣尖の一点に集めようとしているかのように、アスナには思えた。
ユウキの横顔が、苦痛を感じたようにわずかに歪んだ。ふらっと上体が揺れたが、ぐっと開いた足を踏ん張ってこらえる。
もういいよ、無理しなくていいよ、と言いたかった。しかしアスナはきつく唇を噛み、待った。さわっと草原を風が渡り、止んだ、その瞬間ユウキは動いた。
「やあっ!!」
裂ぱくの気合とともに、右手が閃いた。樹の幹に向かって、右上から左下に、神速の突きを五発。ぎゅん、と剣を引き戻し、今度は左上から右下に五発。突き技が一発命中するたび、凄まじい炸裂音が鳴り響き、天を突く大樹全体がびりびりと震えた。樹が破壊不能オブジェクトでなければ、間違いなく半ばからへし折れているだろうと思えた。
十字に十発の突きを放ったユウキは、もう一度ぎゅうっと全身を引き絞ると、最後の一撃を交差点に向かって突き込んだ。青紫色の眩い光が四方に迸り、足元の草が放射状にばあっと倒れた。
吹き荒れた突風が収まっても、ユウキは剣を幹に突きたてたままぴたりと動きを止めていた。
と、その剣尖を中心にして、小さな紋章が回転しながら展開した。同時に、じわじわと四角い羊皮紙が樹の表面から湧き出すように出現し、青く光る紋章を写し取ると、端からくるくると巻き上がっていく。
ユウキが剣を戻すと、完成したスクロールはそのまま宙に漂った。ゆっくりと左手を伸ばし、ユウキはそれを掴んだ。
かしゃん、と小さな音を立てて、右手の剣が草むらに落ちた。直後、ユウキの体がぐらりと揺れ、崩れ落ちようとした。アスナは素早く駆け寄ると、その体を支えた。そのままそっと腰を落とし、小さな体を両腕で包むように抱え上げる。
ユウキが眼を閉じていたので、一瞬どきんとしたが、すぐにその目蓋はすっと持ち上がった。ユウキはかすかに微笑むと、囁くように言った。
「へんだな……。痛くも、苦しくもないのに、なんか力が入らないや……」
アスナも微笑みかえすと、言った。
「だいじょぶ、ちょっと疲れただけだよ。休めば、すぐによくなるよ」
「うん……。アスナ……これ、受け取って……。ボクの……OSS……」
その声は、先ほどとは打って変わって途切れ途切れに震えていた。ユウキに残された最後の器官、意識の拠り所たる脳までもがすでに力尽きようとしていることを悟って、アスナの心に狂おしいほどの激情が吹き荒れたが、それを押し殺してもう一度微笑んだ。
「わたしに、くれるの……?」
「アスナに……受け取って……ほしいんだ……。さ……ウインドウを……」
「う……うん」
アスナは左手を振ると、ウインドウを出し、OSS設定画面を開いた。ユウキはぶるぶると震える左手を持ち上げると、そこに握られた小さなスクロールを、そっとウインドウに落とした。スクロールは光とともにたちまち消滅し、それを見たユウキは、満足そうなため息とともにぱたりと左手を落とした。ふわりと笑ってから、消え入るようにかすかな声で言った。
「技の……名前は……『マザーズ・ロザリオ』……。きっと……アスナを……守って、くれる……」
それを聞いた瞬間、ついに堪えきれなかった涙がいくつか、ユウキの胸元に落ちた。だが微笑みは消さないまま、アスナははっきりとした声で言った。
「ありがとう、ユウキ。――約束するよ。もしわたしがいつか、この世界から立ち去るときが来ても、そのときもかならずこの技は誰かに伝える。あなたの剣は……永遠に絶えることはない」
「うん……ありがと……」
ユウキはこくりと頷いた。その眼にも、光るものが滲んだ。
その時だった。いくつかの震動音――飛翔音が、重なって響いてきた。それはたちまち大きくなり、アスナとユウキを取り巻くように、立て続けにブーツが草を踏む音がした。顔を上げると、ジュン、テッチ、タルケン、ノリ、シーエンの五人が、我先にと駆け寄ってくるところだった。
五人は、ユウキを半円形に囲んで膝を落とした。ぐるりと皆の顔を見回し、ユウキは困ったように笑った。
「なんだよ……みんな、お別れ会は……こないだ、したじゃん。最後の見送りは……しないって、約束……なのに……」
「見送りじゃねえ、カツ入れに来たんだよ。次の世界で、リーダーが俺たち抜きでしょぼくれてちゃ困るからな」
にやっと笑いながら、ジュンが言った。赤銅のガントレットに包まれた手で、ユウキの右手をぐっと掴み、続ける。
「次に行ってもあんまウロウロしねえで待ってろよ。俺たちもすぐに行くからよ」
「何……言ってんの……。あんますぐ……来たら、怒る……からね」
ちっちっと舌を鳴らし、今度はノリが威勢のいい声で言った。
「だめだめ、リーダーはあたしらが居なきゃなんも出来ないんだから。ちゃんと、おとなしく待っ……待って……」
突然、ノリの顔がくしゃっと歪み、大きな黒い瞳から涙がぼたぼたと落ちた。喉のおくから、堪えきれないように嗚咽を二度、三度と漏らす。
「だめですよ、ノリさん……泣かないって、約束ですよ……」
笑顔で言葉を挟んだシーエンの頬も、二筋の涙できらきらと光っていた。最早溢れる涙を隠そうともせず、タルケンとテッチもユウキの手をぎゅっと掴む。
ユウキは五人の顔をぐるりと見回すと、泣き笑いの顔で言った。
「しょうがないなあ……みんな……。ちゃんと、待ってる……から、なるべくゆっくり……来るんだ、よ……」
スリーピングナイツの六人は、手を重ね合わせると、再会を誓うようにぐっと力強く頷きあった。シーエンたちが立ち上がるのと前後するように、新たな翅音がいくつか近づいてきた。
現われたのは、キリト、リズベット、リーファ、シリカの四人だった。皆、着地すると同時に駆け寄ってくると、ユウキを囲む輪に加わり、それぞれ一度ずつユウキの手を握る。
ユウキを腕の中に横たえ、涙に揺れる視界でその情景を見ながら、アスナはふとあることに気付いた。キリトたちが降り立っても、どこからかかすかな飛翔音が聞こえてくる。それもひとつではない。様々な種族の翅音が、いくつも、いくつも重なって、荘厳なオルガンのような反響音を作り出している。
アスナも、ユウキも、シーエンやリズベットたちも、ふっと空を振り仰いだ。
見えたのは、セルムブルグの方向からこちらに向かって伸びる、ひと筋の太いリボンだった。
何十人ものプレイヤーが、列を作って飛んでくる。その先頭にあるのは、長衣の裾をはためかせて飛ぶ、シルフ領主サクヤの姿だ。後ろに続くのは、様々な階調のグリーンを身にまとうシルフたちである。あの人数では、今ログインしているシルフのほぼ全員が集まっているに違いない。
いや――セルムブルグからだけではない。外周部のいろいろな方向から、いくつもの帯が小島目指して伸びてきていた。赤いリボンはサラマンダー。黄色いのはケットシーだろうか。インプ、ノーム、ウンディーネ……それぞれのリーダーに率いられたプレイヤーの大集団が、一直線に大樹へと向かって集まってくる。その数五百……いや、千を超えるだろうか。
アスナの腕のなかで、眼を見開いたユウキが、感嘆の声を漏らした。
「うわあ……すごい……。妖精たちが……あんなに、たくさん……」
アスナはユウキに微笑みかけながら言った。
「ごめんね、ユウキは嫌がるかもって思ったんだけど……わたしが、リズたちにお願いして呼んでもらったの」
「嫌なんて……そんなこと、ないよ……。でも、なんで……なんでこんなに、たくさん……夢……見てるのかな……」
ユウキが吐息混じりに囁くあいだにも、小島の上空にまで達した剣士たちは、次々と滝のような音を立てて降下してきた。サクヤやアリシャたち領主を先頭とした大集団は、すこし距離を置いてアスナたちを取り囲むと、次々に草地に片膝を着き、こうべを垂れる。さして大きくもない島は、みるみるうちに無数のプレイヤーで一杯になった。
アスナはユウキの瞳をじっと見つめ、一杯になった胸のうちをどうにか言葉にしようと、唇を動かした。
「だって……だって……」
再び、ぽたぽたと涙が滴る。
「ユウキ……あなたは、かつてこの世界に降り立った、最強の剣士……。あなたほどの剣士は、もう二度と現われない。そんな人を、さびしく見送るなんて……できないよ。みんな、みんなが、祈ってるんだよ……ユウキの、新しい旅が、ここと同じくらい素敵なものに、なりますように、って」
「…………嬉しい……ボク、嬉しいよ……」
ユウキは首を持ち上げ、周囲を取り囲む剣士たちをぐるりと見渡すと、ふたたびがくりとアスナの腕に頭を預けた。
目蓋を閉じ、小さな胸で何度か深く息をついてから、ユウキは再び紫色の瞳でじっとアスナを見た。すうっと大きく息を吸い、まるで最後の力をすべて振り絞るかのように、切れぎれだがはっきりとした声で話しはじめた。
「ずっと……ずっと、考えてた。死ぬために生まれてきたボクが……この世界に存在する意味は、なんだろう……って。
「何を……生み出すことも……与えることもせず……たくさんの薬や、機械を……無駄づかいして……周りの人たちを困らせて……自分も悩み、苦しんで……その果てに、ただ消えるだけなら……今この瞬間にいなくなったほうがいい……何度も、何度もそう思った……。なんで……ボクは……生きてるんだろう……って……ずっと……」
ユウキの、残された命の最後の一滴までが、今まさに燃え尽きようとしていた。腕の中の小さな体が、少しずつ軽くなり、透き通っていくようだった。ユウキの声はか細く、切れぎれだったが、しかしそれはかつて聞いたどんな言葉よりも純粋に、アスナの魂の深奥まで届いた。
「でも……でもね……ようやく、答えが……見つかった、気がするよ……。意味……なんて……なくても……生きてて、いいんだ……って……。だって……最後の、瞬間が、こんなにも……満たされて……いるんだから……。こんなに……たくさんの人に……囲まれて……大好きな人の、腕のなかで……旅を、終えられるんだから…………」
ユウキは短い吐息とともに言葉を止めた。その紫色の瞳は、アスナを透過して、どこか遥かに遠い場所を望んでいるかのようだった。もしかしたら、ほんとうの異世界――英雄たちの魂が集うという、真なる妖精の島を。
アスナはもう、流れ落ちる涙を止めることはできなかった。零れた滴たちは、次々にユウキの胸元で光の粒を散らした。しかし、口元には、いつしか自然と微笑みが浮かんでいた。大きく一度頷いてから、アスナはユウキに最後の言葉を告げた。
「わたし……わたしは、かならず、もう一度あなたと出会う。どこか違う場所、違う世界で、絶対にまた巡り合うから……そのときに、教えてね……ユウキが、見つけたものを……」
瞬間、ユウキの紫の瞳が、ぴたりとアスナの瞳をとらえた。その奥に、かつて出会ったときと同じ、無限の活力と勇気に満ちた輝きが、刹那のあいだきらめいた。それはすぐに、二つの水滴へと形を変え、溢れ、ユウキの白い頬を伝って滴り、光となって消えた。
唇がごく、ごくかすかに動いて、微笑みの形を作った。アスナの意識に直接、声が響いた。
「ボク、がんばって、生きた」
「生きて……よかった」
降り積もった無垢な雪原に最後の結晶がひとつ落ちるように、ユウキは、そのまぶたをそっと閉じた。
制服の右肩に、ふとかすかな気配を感じて視線を落とすと、薄桃色の花びらが一枚貼り付いていた。
明日奈は左手の指先で慎重にそれをつまみあげ、手の平に載せた。染みひとつ無い綺麗な楕円形の花びらは、まるで何か言いたいことでもあるかのようにしばらく震えていたが、やがて訪れた風に巻き上げられ、同じように宙を舞う無数の白点のなかに姿を消した。両手を膝の上に戻し、明日奈は再び霞がかった春の空を見上げた。
四月最初の土曜日、午後三時。一週間前に旅立ったユウキの告別式が、つい先ほど終わったところだった。式場となった、保土ヶ谷の丘陵地帯にあるカソリック教会は周囲を桜並木に取り囲まれて、一斉に散り始めた花たちもまるでユウキを送っているかのよう――であったのだが、式のほうは「しめやかに」、あるいは「ひそやかに」というお決まりの形容詞は似合わないものとなった。ユウキの親戚筋の出席者が、喪主を務めた叔母という女性を含めてわずか四人だったのに対して、友人を名乗る十代二十代の参列者が優に百人を超えたからだ。無論、ほぼ全員がALOプレイヤーである。三年を超える入院生活を経て、告別に訪れるようなユウキの知人はもう殆ど居ないと思っていたのだろう親戚側も、受付で眼を白黒させていた。
式が終わっても、皆は教会の広大な前庭に三々五々固まり、”絶剣”の思い出話に浸っているようだった。しかし、明日奈は何故かその輪に加わる気になれず、こっそり抜け出すと礼拝堂の陰にあるベンチを見つけて、ひとり空を見ていたのだった。
もう、ユウキがこの世界には居ないのだということ――肩のプローブ越しに歓声を上げたり、森の家でアスナの料理に満面の笑みを浮かべたりしたユウキが、遠い世界に旅立ってしまって、二度と戻ることはないのだということが、どうしても現実として理解できなかった。涙はようやく涸れたけれど、雑踏の中や喫茶店の片隅、あるいはアルヴヘイムの風の中で、ふとユウキの声を聞いたような気がして、心臓がどきんと跳ねることが何度もあった。
この頃、命というのはいったい何なのだろうとよく考える。
すべての生命は遺伝子の運搬装置でしかなく、己の複製情報を増やし、残すためにのみ存在する、という説が巷間を賑わしたのは何十年前のことだったろうか。その観点に立つならば、ユウキを長いあいだ苦しめたHIV、ヒト免疫不全ウイルスなどは純粋な生命そのものだろう。しかしウイルスたちは、ひたすらに増殖、複製を繰り返した挙句、ついに宿主であるユウキの命を奪い、同時に自分たちも死に絶えてしまった。
考えようによっては、人間だって同じようなことを数千年にわたって繰り返している。自己の利益を優先するために時として複数の人命を奪い、自国の安全を保障するために複数の他国に犠牲を求める。今も空を見上げれば、相模湾の巨大メガフロート基地から飛び立ちいずこかを目指す戦闘機の編隊が、春霞の彼方に白く雲を引いている。人間もいつかは、ウイルスと同じように自らが生きる世界そのものを破壊してしまう時が来るのだろうか? それとも、別種の知性との生存競争に敗れ、駆逐されてしまうのだろうか……?
ユウキが最後に遺した言葉が、耳の奥にいまも谺している。何を生み出すことも、与えることもなく――。確かにユウキは、自分の遺伝子を残すことなくこの世界を去った。
でも、と明日奈は思いながら、制服のリボンにそっと触れる。この胸の奥には、ほんの一瞬の触れ合いを通して、ユウキが深く刻みこんでいったものが確実に存在する。巨大な困難に臆すことなく立ち向かう”絶剣”の雄々しい姿、その魂そのものがしっかりと息づいている。それは、今日この場所に集まった百人以上の若者たちも同様だろう。たとえ時が少しずつ記憶を漱ぎ、思い出を結晶化させていくとしても、残るものは必ずあるはずだ。
ならば、命には、四種類の塩基によって伝えられる遺伝情報だけでなく、実体のない記憶、精神、魂を運ぶ機能だってあるということになる。ミーム、模倣子といったあいまいな概念ではなく、いつか遠い未来、精神そのものを純粋に記録できる媒体が出現することがあれば、もしかしたらそれこそがこの人間という不完全な生命の自滅を防ぐたったひとつの鍵となるのではないのか――。
その日がくるまでは、わたしはわたしにできる方法で、ユウキの心のかたちを伝えていこう。いつか子供ができたら、繰り返し話して聞かせよう。現実と仮想世界の狭間で、奇跡のように眩しく煌めいた一人の小さな女の子のことを。
胸のうちで自分に向かってそう呟き、明日奈はいつしか閉じていた目蓋をそっと開けた。
すると、前庭から建物の角を回ってこちらに近づいてくる人影が目に入った。あわてて指先で、目尻に滲んでいた雫を払い落とす。
女性だった。一瞬どこかで会ったような気もしたが、顔は記憶にはなかった。やや長身、黒のシンプルなワンピースにショールを羽織っている。肩までのストレートの髪は深い黒で、胸元の細い銀のネックレスだけが唯一の装身具だ。歳は二十代前半といったところだろうか。
女性は真っ直ぐに明日奈に向かって歩いてくると、少し前で立ち止まり、ぺこりとお辞儀をした。明日奈も慌てて立ちあがり、頭を下げる。顔を上げると、女性の抜けるような白い肌がまぶしく目を射た。が、血色の薄いその白さは、妙にかつての、長い眠りから醒めたばかりの頃の自分を思い起こさせるものだった。あらためて見ると、ショールから覗く首筋や手首は、触れれば折れてしまいそうなほどに細い。
女性は無言のまま明日奈の顔をじっと見ると、棗型の綺麗な目をふっと和ませた。口もとに淡い微笑が浮かぶ。
「明日奈さんですね。向こうとまったく同じ姿なので、すぐにわかりました」
落ち着いた、ウェットなトーンのその声を聞いた途端、明日奈にも相手が誰だか分かった。
「あ……もしかして……」
「はい。私、スリーピングナイツのシーエンです。本名は、アン・シーイェンといいます。初めまして……ご無沙汰してます」
「こ、こちらこそはじめまして! 結城明日奈です。一週間ぶりですね」
互いにどこか矛盾した挨拶を交わし、明日奈とシーイェンはくすりと笑いあった。左手でベンチに腰掛けるよう促し、自分もその隣に座る。
そうしてから、ようやく明日奈はあることに気付いた。スリーピング・ナイツのメンバーは全員が難治性疾患と闘う身であり、しかもターミナル・ケア、終末期医療が必要となる段階の病状なのではなかったか。このように、屋外を一人で出歩いて大丈夫なのだろうか……?
シーイェンは、明日奈のその懸念を敏感に察知したようで、こくりと小さく頷いて口を開けた。
「大丈夫、この四月でようやく外出を許してもらえるようになったんです。付き添いで兄が一緒に来てるんですが、表で待ってもらっています」
「……じゃあ、あの……お体のほうは、もう……?」
「はい。……私の病気は、急性リンパ性白血病というもので……発症したのは、もう三年前になります。一度は化学療法で寛解……あ、寛解というのは、体の中から白血病細胞が一応消えることです――したんですが、去年再発して……。再発後は、有効な治療法は骨髄移植しかないと言われています。でも、家族は誰も、白血球型が適合しなくて……骨髄バンクでも、ドナーになってくださる方は見つかりませんでした。もう、ずっと前に気持ちの整理はつけて、残された時間を精一杯生きよう、って思ってたんですけど……」
シーイェンは一瞬言葉を切ると、すっと視線を頭上の桜に向けた。つむじ風が、無数の花弁を巻き上げ、雪のように吹き散らしていく。
「――再発後、骨髄移植ができない場合は、サルベージ療法と言って色々な薬の組み合わせで寛解を目指します。新薬、治験薬も積極に使うので、副作用も厳しくて……あんまり辛いので、何度ももういい、って思いました。どうせ望みが無いなら、残りの時間を安らかに過ごせるような治療に切り替えて下さいって、何度もお医者様に言おうとしました……」
桜吹雪に揺れるシーイェンの髪が、ウィッグであることに明日奈は気付いていた。
「でも……ユウキと会うたびに、くじけちゃダメだって思いました。ユウキは同じ苦しみと十五年も闘いつづけてるのに、ずっと年上の私が、たった三年で何を泣き言言ってるの、って。そう自分に言い聞かせました。――ところが、二月頃から少しずつ薬の量が減ってきて……お医者様は、数値が良くなってきてるって仰ったんですけど、私は、とうとうその時が来たんだな、って思ってました。サルベージ療法から、QoL優先療法に切り替えたんだ、って。それは勿論、怖かったですけど……でも、ほっとしてもいたんです。ユウキの状態を聞いてましたから……ユウキと一緒なら、どこにだって行ける、そう思ってました。どこに行っても、私を守ってくれると……。おかしいですよね、ずっと年下の子に、こんなに依存して……」
「いえ……わかります」
明日奈は短く言葉を挟みながら、こくりと頷いた。シーイェンも微笑み、頷いて、続けた。
「――それなのに……一週間前、ユウキとお別れした次の日でした。お医者様が、私の病室に来て……完全寛解、つまり白血病細胞が完全に消えたから、もう退院していい、って仰ったんです。何を言ってるんだろう、って思いましたよ。いわゆる……家族と過ごすための一時帰宅なのかな、とか色々考えて……混乱が収まらないまま、その翌々日に、本当に退院してしまったんです。もしかして、病気が治ったのかもしれない、って思えるようになったのは、昨日あたりですよ。治験薬のひとつが、劇的に効いたそうなんですが……」
一瞬言葉を切り、シーイェンは泣き笑いのような表情でくしゃりと顔を歪めた。
「なんだか、まだ、実感はぜんぜんありません。なくしたはずの時間を急に返されても、戸惑うばかりです。それに……ユウキに……」
わずかに声が震える。目尻に小さな涙の珠が浮かんでいるのに気付き、明日奈も胸を詰まらせる。
「ユウキが待ってるのに、私だけ、ここに残ってて、いいのかなって……。ユウキや、ランさんや、クロービスやメリダと……いつまでも一緒って約束したのに、私……私は……」
それ以上は言葉が続かないようだった。シーイェンは俯くと、肩を震わせた。
ランさん、とは初代ギルドリーダーだったというユウキのお姉さんだと思われた。後の二人も、もう今は亡きスリーピングナイツのメンバーなのだろう。およそこの世界に存在する逆境のなかで、もっとも険しい境遇において結ばれた絆だからこそ、それはある意味では家族や恋人よりも強いものなのかもしれなかった。明日奈は、自分にいったいどんな言葉を掛ける資格があるというのだろう、と思いながら、それでも口を開かずにはいられなかった。
左手を伸ばし、ベンチの上に投げ出されたシーイェンの右手をそっと包み込む。骨ばった細い指は、しかし、確かな暖かさを明日奈の掌に伝えてくる。
「わたし……最近、思うんです。命は、心を運び、伝えるものだ、って。わたし、長い間怯えていました。人に気持ちを伝えるのも、人の気持ちを知るのも怖かった。でも、それじゃいけないって、ユウキが教えてくれたんです。自分から触れ合おうとしなければ、何も生まれない、って。わたしは、ユウキから貰った強さを、色々な人に伝えたい。ユウキの心を、歩きつづけられるかぎり遠くまで運びたい。そして……いつかもう一度ユウキと出会ったとき、たくさんの心をお返しできればいいな、って、そう思ってます」
つっかえながら、明日奈はどうにかそこまでを口にした。言いたいことは半分も言葉にできなかったような気がしたが、シーイェンは俯いたままゆっくり、深く頷くと、もう一方の手を明日奈の左手に重ねた。
顔を上げたシーイェンの、美しい漆黒の瞳は深く濡れていたが、口元には確かな微笑が浮かんでいた。
「ありがとう……明日奈さん」
囁き、シーイェンは不意に両腕を伸ばして、明日奈の背に回した。明日奈もその華奢な体をしっかりと抱きとめる。耳もとで、言葉が続く。
「私達、明日奈さんにはとても感謝しているのです。お姉さんのランさんが亡くなったあと、ユウキはお姉さんの代わりに、ずっと私達を励まし、支えようと頑張ってくれました。私達も、それに甘えてしまって……辛いとき、挫けそうなとき、皆がユウキにすがって力を分けてもらいました。ですが、何を今さら、と言われるかもしれませんが……私はユウキが心配だったのです。彼女の心は、誰が支えればいいんだろう、って。ユウキはいつでもにこにこして、辛い顔ひとつ見せませんでしたけれど……あの小さな背中に、すごくたくさんのものを背負って、いつかそれがユウキの心を折ってしまうんじゃないかと……。――そんなとき、あなたが現れてくれたのです。明日奈さんと一緒にいるときのユウキは、とても楽しそうで、自然で、まるで飛ぶことを思い出した小鳥のようでした。そのまま、高く高く、どこまでも舞い上がって……私達の手の届かないところまで……行ってしまいましたけど……」
シーイェンはそこでしばらく言葉を切った。明日奈の心のスクリーンにも、小さな鳥に姿を変えて、遥かな異世界の空を舞うユウキの姿が一瞬映った。
体を離し、シーイェンは含羞むように少し笑った。指先で、涙の粒をそっと払い落とす。すう、と一回呼吸をして、はっきりとした声でまた話しはじめた。
「――実は、私だけじゃないんです。ジュンも……難しいガンなんですが、最近使い始めた薬がずいぶん効いて、腫瘍が小さくなってきてるそうなんです。まるで、ユウキが、まだこっちに来るのは早いって言ってるみたいだね、って二人で話しました。スリーピングナイツがもう一度揃うのは、かなり先のことになってしまいそうです」
「……そうですよ。次こそは、わたしも正式メンバーにして貰う予定なんですから」
明日奈とシーイェンは互いの顔を見て、ふふ、と笑みを交わした。揃ってもう一度、薄桃色に霞む空を見上げる。穏やかな風が、背後から吹き過ぎて髪を揺らした。ふわりと二人の肩を包んでから、背中の翅を羽ばたかせて高く飛んでいくユウキの姿を思い浮かべ、明日奈はそっと目を閉じた。
そのまま、何分そうしていただろうか。近づいてくる新たな足音がふたつ、静謐な沈黙を終わらせた。顔を前に戻すと、明日奈と同じ色の制服を着た少年――桐ヶ谷和人と、黒の礼服姿の倉橋医師が歩みよってくるところだった。
明日奈とシーイェンは同時に立ち上がると、ぺこりと挨拶をした。同じように頭を下げてから、和人が明日奈を見て言った。
「ここに居たのか。邪魔しちゃったか?」
「ううん、大丈夫。でも……あれ? キリト君と倉橋先生は知り合いだった?」
「ああ……最近だけどね。例の通信プローブの件で、メールのやり取りをしてるんだ」
そうなんですよ、と倉橋医師が言葉を引き取る。
「あのカメラには実に興味をそそられましてね。医療用NERDLES技術の中に活かせないか、相談に乗ってもらっているのです」
「そうだったんですか。……あの、そう言えば……」
ふいに明日奈はあることを思い出し、医師に向かって尋ねた。
「メディキュボイドのテストのほうは、どうなるんでしょう? 誰かが引き継ぐんですか……?」
それを聞くと、医師は頬を緩め、大きく頷いた。
「ああ、いえ、テストとしてはもう充分すぎるほどのデータは得られているのです。今後は実際の製品化に向けて、メーカーとの協議を詰めていくことになっています。もうすぐ、安さんや他の皆さんも、メディキュボイドを使えるようになるかもしれませんよ……」
言葉の後半はシーイェンに向けてのものだったが、そこまで言ってから、倉橋医師は一瞬目を丸くしてから慌てたように続けた。
「いや、これは失礼。最初に言うべきことを忘れていた。――安さん、退院、ほんとうにおめでとう。木綿季くんも……どんなに喜んでいるか……」
差し出された医師の手をぎゅっと握り返し、シーイェンは大きく頷いた。続けて、すでにゲーム内で知己となっている和人とも握手を交わす。
「ありがとうございます。メディキュボイドは使わせてもらえそうにないですが……でも、ユウキが残してくれたデータが、たくさんの、病気と闘う人たちの助けになると思うと……とても、嬉しいです」
シーイェンがそう言うと、医師は何度も頭を上下に動かした。
「本当に。――あの機械をテストした最初の人間として、木綿季くんの名はずっと残ると思います。初期設計の提供者と並んで……何か凄い賞を贈られてもいいくらいです……」
「多分、そんなもの貰ってもユウキは喜ばないですよ。『食べられないしなあ』とか言いそうです」
シーイェンの台詞に、全員が笑った。和やかな笑い声が収まってから、明日奈はふと倉橋医師の言葉の一部が耳に残っているのに気付き、それを繰り返した。
「あの……先生、さっき、初期設計の提供者……と仰いました? 設計したのは、医療機器メーカーではないんですか?」
「ああ……ええと、ですね」
医師は記憶の底を浚うように眼鏡の奥で目を細めた。
「もちろん、試験機の開発そのものはメーカーが行ったんですが、機械のコアとなる部分、超高密度信号素子の基礎設計は、外部からの提供があったのです。たしかこれも女性で……海外の大学の研究者だったはずですよ。日本人ですがね……ええと、名前は……」
そのあとに医師が告げた姓名は、明日奈にはまったく聞き覚えのないものだった。シーイェンも同様なようだったが、ふと和人の顔を見たとき、そこに浮かんでいる表情を見て明日奈は息を呑んだ。
和人は肌を蒼白にし、まるでありえない何かを見たとでも言うように、視線を虚ろにしていた。唇が二度、三度、小さく攣る。
「ど……どうしたの、キリト君!?」
慌てて明日奈が声をかけたが、和人はしばらく沈黙を続けていた。やがて、唇から掠れた声が漏れた。
「俺は……その人を、知っている」
「え……?」
「会ったこともある……その人は……」
和人はふっと明日奈の目を見た。その黒い瞳は、時空間の壁を突き抜け、どこか異世界を覗き込んでいるようだった。
「その人は、ダイブ中の……ヒースクリフの体の世話を引き受けていた人だ。彼と……同じ研究室で、一緒にNERDLES技術の研究をしていたという……つまり、メディキュボイドの基礎設計の、本当の提供者は……」
「…………」
明日奈も言葉を失った。シーイェンも、倉橋医師も、訝しそうな顔で首を傾けていたが、何を答えることもできなかった。ただ呆然と、目の前を通り過ぎていく桜の花びらを視線で追った。
不意に、明日奈は、”流れ”を感じた。
この現実と名づけられた世界が、単なるひとつの相にすぎず――。それら世界が無数の花弁のように寄り集まって構成された更なる上位構造が存在し、そして今、すべての世界を包み、うねり、流れていく巨大な力が、ゆっくりとその形を現そうとしている――。
明日奈は両手でぎゅっと自分の体を抱いた。一際強く吹いた風が、周囲に漂う花びらを全て、遠い空へと運び去っていった。
SAOex5_01_Unicode.txt
ソードアート・オンライン 外伝5 『圏内事件』
いったい何なんだ、この女は。
そりゃ確かに、いい天気なんだから昼寝でもしろと言ったのは俺だし、その実例を示すべく再び芝生に転がったのも俺なら、ついうっかりそのまま寝てしまったのも俺なのだが。
まさか、三十分ほどうたた寝してからハッと目を醒ましてみれば、本当に隣でグースカ熟睡しているとは予想外にもほどがある。豪胆なのか意地っ張りなのか、あるいは――ただの寝不足の人か。
何なんだホント。という呆れ感を最大限に表すべく首を左右に振りながら、俺はすーぴー寝息を立てる細剣使いの女――ギルド『血盟騎士団』サブリーダー、『閃光』アスナの整った横顔を眺め続けた。
話のそもそもは、あまりにいい天気なのでジメついた迷宮区にもぐる気をなくした俺が、今日は一日、主街区転移門を取り囲むなだらかな丘でチョウチョを数えると決めた事だった。
実際素晴らしい天気だった。仮想浮遊城アインクラッドの四季は現実と同期しているが、その再現度はやや生真面目すぎて、夏は毎日きっちり暑いし冬はばっちり寒い。気温のほかにも、雨や風、湿り気やホコリっぽさ、更には小虫の群れといった気候パラメータが山ほど存在し、たいがいはどれかが好条件なら他のどれかが悪い。
だが今日は違ったのだ。気温はぽかぽか暖かく、柔らかな日差しが空気を満たし、そよ風はベタついてもイガラっぽくもなく、おかしな虫も発生していない。いくら春とは言え、これほど全ての気候パラメータが好条件に固定されることは、年間通して五日もあるまい。
これはデジタルの神様が、今日くらいは攻略の疲れを癒すため昼寝でもしていろと言っているのだなと解釈し、素直に従った――のだが。
柔らかな芝の斜面に寝転がり、うとうとまどろんでいた俺の頭のすぐ横を、ざしっと白革のブーツが踏んだ。同時に、聞き覚えのあるキツイ声が降ってきた。曰く。
――攻略組の皆が必死に迷宮区に挑んでいるときに、何をノンビリ昼寝なのか。
瞼をほぼ閉じたまま、俺は答えた。曰く。
――本日の気候は年間通して最良なり。之を堪能せずして如何せん。
キツイ声尚も反駁して曰く、
――天候など毎日一緒なり。
俺再び答えるに曰く、
――汝隣に臥すれば自ずと悟るべし。
もちろん実際の問答は口語で行われたのだが、ともかくその結果、この女は何を考えたか本当に隣に寝転がり、こともあろうに本当に熟睡してしまったというわけだ。
さて。
時刻はまだ正午前で、芝生にぴったりと並ぶ俺と『閃光』に、転移門広場に行き交うプレイヤー達が遠慮のない視線を照射していく。ある者は驚愕に目を剥き、ある者はくすくす笑い、中には記録結晶のフラッシュを浴びせる不埒モノまでいる。
しかしそれも当然と言えよう。KoBサブリーダーのアスナと言えば、泣く子も黙る攻略の鬼、前線を怒涛のハイペースで押し上げるターボエンジンであり、またソロプレイヤーのキリトと言えば――やや不本意ではあるが――一部の不真面目者とツルんで頭の悪い遊びばかりしている攻略組きっての不良生徒である。
その組み合わせが並んで昼寝していれば片方の当人たる俺だって笑う。と言って、起こしてまた怒られてもソンだし、これはもう放って帰っちゃう一手だろう。
と思いたいのはヤマヤマだが、実際にはそれはできない。
なぜなら、『閃光』がこのまま熟睡し続けた場合、各種ハラスメント行為の対象になりかねないだけでなく――最悪、PKされてしまう可能性すらゼロではないからだ。
確かに、今いるここ、第59層主街区の中央広場は『圏内』である。
正確には『アンチクリミナルコード有効圏内』。
この内部では、プレイヤーは他のプレイヤーを絶対に傷つけることはできない。剣で切りつけても紫色のシステムエフェクトが光るだけでHPバーは1ミリも減らないし、各種の毒アイテムも一切機能しない。無論、アイテムを盗むなど論外だ。
つまり、圏内では、アンチクリミナルの名のとおり一切の直接的犯罪行為はおこなえない。これはSAOというデスゲームにあって、『HPがゼロになれば死ぬ』のと同じくらい絶対のルールなのだ。
だが、残念ながら、こちらには抜け道が残されている。
それがつまり、プレイヤーが熟睡しているケースだ。長時間の戦闘で消耗したりして、ほとんど失神に近いレベルで深く眠っているプレイヤーは、少しの刺激では目覚めない場合もある。
そこを狙って、『完全決着モード』のデュエルを申し込み、寝ている相手の腕を勝手に動かしてOKボタンをクリックさせる。あとは文字通り寝首を掻くだけだ。
あるいは更に大胆に、相手の体を圏外まで運び出してしまうという手もある。直立し足を踏ん張っているプレイヤーは『コード』で保護され強引に動かすことはできないが、『担架』アイテムに乗せれば移動は自由自在だ。
このどちらのケースも、過去に実際に行われた。『レッド』共の腐った情熱は留まるところを知らない。その悲劇を教訓に、今ではあらゆるプレイヤーは必ず、施錠できるホームか宿屋の部屋で寝るようになっている。俺でさえ、芝生に寝転ぶ前に『索敵スキル』による接近警報をセットしたし、それ以前に熟睡はしなかった。
のだが。
今現在、隣で爆睡する『閃光』は、どう見てもγ波が出まくっている。たとえメーキャップアイテムで顔にラクガキしても起きるまい。まったく、豪胆なのか意地っ張りなのか、それとも――
「疲れてる……んだろうな」
俺は小さく呟いた。
SAOでは仕様上、レベルアップだけが目的ならソロがいちばん効率がいい。なのにこの女は、ギルドメンバーのレベリングの面倒をキッチリ見つつも、自身も俺に迫るくらいの強化ペースを維持している。おそらく、睡眠時間を削って深夜も狩りをしているのだろう。
その辛さは、俺にも覚えがある。同じようにハードな経験値稼ぎに没頭していた四、五ヶ月前は、俺も一度眠ったら死んだように数時間は絶対起きなかったものだ。
ため息を飲み込み、俺は長期戦に備えてストレージから飲み物を取り出すと、芝生に座りなおした。
寝ろと言ったのは俺だ。なら、起きるまで付き合う責任もあるだろう。
外周の開口部からオレンジ色の夕陽が顔を出す頃になって、『閃光』アスナは小さなくしゃみとともにようやく目を醒ました。
なんとたっぷり八時間も爆睡していた計算だ。最早昼寝どころの騒ぎではない。ヒルメシ抜きで付き合わされた俺は、せめて冷徹なる副団長様が、この状況を認識したあとどんなオモシロ顔を見せてくれるかだけを楽しみにひたすら凝視し続けた。
「……うにゅ……」
アスナは謎の言語で呟いたあと、数回瞬きし、俺を見上げた。
かたちの良い眉が、わずかにひそめられる。芝生に右手をついてふらふらと上体を起こし、栗色の髪を揺らして右、左、さらに右を眺める。
最後にもう一度、あぐらをかいて座る俺を見て――。
透明感のある白い肌を、瞬時に赤く染め(おそらく羞恥)、やや青ざめさせ(おそらく苦慮)、最後にもう一度赤くした(おそらく激怒)。
「な……アン……どう…………」
再び謎言語を放つ『閃光』に、俺は最大級の笑顔とともに言った。
「おはよう。よく眠れた?」
白革の手袋に包まれた右手が、ぴくりと震えた。
しかし、さすがは最強ギルドのサブリーダーと言うべきか、アスナはそこで自制心のチェックロールに成功したらしく、レイピアを抜くことも(どうせ圏内ではあるが)、あるいはダッシュで逃走することもなかった。
ぎりぎりと食い縛られた口元から、短いひと言が押し出された。
「…………ゴハン一回」
「は?」
「ゴハン、何でも幾らでも一回おごる。それでチャラ。どう」
この女の、こういう直截さは嫌いではない。寝起きの頭で瞬時に、なぜ俺が長時間付き合ったのかを理解したのだ。圏内PK行為からガードするためだけではなく、日ごろの精神疲労を回復させるため、寝られるだけ寝かせてやろうと考えたところまで。
俺は片頬で――今度は本心から――ニヤっと笑い、OK、と答えた。
ついでに、じゃあ君の部屋で手料理を、とワルノリしたくなるがそこはこちらも自制する。伸ばした両脚を振り上げ、反動でくるっと立ち上がった俺は、右手を差し出しながら言った。
「57層の主街区に、NPC料理にしてはイケる店があるから、そこ行こうぜ」
「……いいわ」
素っ気ない顔で俺の手につかまり立ち上がったアスナは、ふいっと俺から顔を逸らし、まるで夕焼けを胸に吸い込もうとするかのように大きく伸びをした。
第57層主街区『マーテン』は、現在の最前線からわずか二フロア下にある大規模な街で、必然的に攻略組のベースキャンプかつ人気観光地となっている。
さらに夕刻ともなれば、前線から帰ってきたり、あるいは下層から晩飯を食べにきたプレイヤーたちで大いに賑わうこととなる。
俺とアスナは、ごったがえすメインストリートを、肩を並べて歩いた。すれ違う連中のうち、少なからぬ数がギョッと眼を剥くのがなんとも楽しい。アスナとしては、敏捷力パラメータ全開のダッシュで目的の店に飛び込みたいところだろうが、残念ながら――もしくは幸い、行き先は俺しか知らない。
まず間違いなく、SAO最後の日までもう二度とこんな真似は出来ないだろうなあという感慨を噛み締めつつ十分ほども歩いたところで、道の右側にやや大きめのレストランが現れた。
「ここ?」
ほっとしたような、胡散臭そうな顔で店を見るアスナに、俺は頷いた。
「そ。お薦めは肉より魚」
スイングドアを押し開け、ホールドすると、細剣使いはすました顔で入り口を潜った。
NPCウェイトレスの声に迎えられ、そこそこ混み合う店内を移動する間も、幾つもの視線が集中するのを俺は感じた。そろそろ、愉快というより気後れのほうが大きくなってくる。これほど注目されるというのも、実際のところ楽ではあるまい。
だがアスナは、堂々たる歩調でフロアの中央を横切り、奥まった窓際のテーブルを目指した。俺がぎこちなく引いた椅子に、滑らかな動作で腰を下ろす。
なんだか、オゴってもらうはずがエスコートさせられているような気になりつつも、俺も向かいに座った。せめて遠慮なくご馳走になるべく、食前酒から前菜、メイン、デザートまでがっつり注文し、ふう、と一息いれる。
速攻届いた華奢なグラスに唇をつけてから、アスナも同じように、ほうっと長く息をついた。
わずかに険の抜けたライトブラウンの瞳で俺を見て、可聴域ぎりぎりのボリュームで囁く。
「ま……なんていうか、今日は……ありがと」
「へ!?」
驚愕した俺をじろっと見て、もう一度。
「ありがとう、って言ったの。ガードしてくれて」
「あ……いや、まあ、その、ど、どういたしまして」
日ごろ、攻略組の会議で丁々発止やりあってばかりいるので、不覚にも軽く噛んでしまう。すると、小さくくすっと笑って、アスナは背中を椅子に預けた。
「なんか……あんなにたっぷり寝たの、ここに来て初めてかもしれない」
「そ……そりゃ幾らなんでも大げさじゃないのか」
「んーん、ホント。普段は、長くても三時間くらいで目が醒めちゃうから」
甘酸っぱい液体で口を湿らせ、俺は尋ねた。
「それは、アラームで起きてるんじゃなくて?」
「うん。不眠症って程じゃないけど……怖い夢見て飛び起きたりしちゃうのよ」
「……そっか」
不意に、胸の奥に鋭い痛みが生じる。かつて、同じことを言った人の顔がちらりと脳裏を過ぎる。
『閃光』もまた、生身のプレイヤーなのだ。そんな当たり前のことに今更気付かされ、俺は言うべき言葉を探した。
「えー……あーっと……なんだ、その、また外でヒルネしたくなったら言えよ」
我ながら間抜けな台詞だったが、それでもアスナはもう一度微笑むと、頷いた。
「そうね。また同じくらい最高の天候設定の日がきたら、お願いするわ」
その笑顔に、俺はもう一つ、この女がちょっと有り得ないほどに美人なのだということにも気付かされ、不覚にも絶句した。
幸い、発生しかけた微妙な空気を、サラダの皿を持ってきたNPCが回避させてくれた。さっそく、色とりどりの謎野菜に卓上の謎スパイスをぶっかけ、フォークで頬張る。
ばりばりごくんと飲み込んでから、俺はアレコレを誤魔化すべくぼやいた。
「考えてみれば、栄養とか関係ないのに、なんで生野菜なんか食べてるんだろうな」
「えー、美味しいじゃない」
レタスっぽい何かを上品に咀嚼してから、アスナが反論する。
「まずいとは言わんけどさあ……せめて、マヨネーズくらいあればなあー」
「あー、思う。それは思う」
「あとソースとか……ケチャップとかさ……それに……」
「「醤油!」」
二人同時に叫び、同時にぷっと吹き出した――
その瞬間だった。
どこか遠くから、紛れもない恐怖の悲鳴が聞こえた。
「……きゃあああああ!!」
――――!?
息を飲み、腰を浮かせ、背の剣に手を伸ばす。
同じように、レイピアの柄に右手を添えたアスナが、打って変わって鋭い声で囁いた。
「店の外だわ!」
直後、椅子を蹴立てて出口へと走り出していく。俺も慌てて白い騎士服の背中を追う。
表通りに出ると同時に、再び絹を裂くような悲鳴が耳に届いた。
恐らく、建物を一ブロック隔てた広場からだ。アスナはちらりと俺を見ると、今度こそ掛け値なしの全力ダッシュで南へ走り出した。
白い稲妻のごとき疾駆に必死に追随し、ブーツの底から火花を散らしながら角を東へ曲がって、すぐ先の円形広場へと飛び込む。
そしてそこで、俺は、信じられないものを目にした。
広場の北側には、教会らしき石造りの建物がそびえている。
その二階中央の飾り窓から一本のロープが垂れ、環になったその先端に――男が一人、ぶら下がっていた。
NPCではない。分厚いフルプレート・アーマーに全身を包み、大型のヘルメットを被っている。ロープは鎧の首元にがっちり食い込んでいるが、広場に密集するプレイヤーたちを恐怖に喘がせているのはそれではない。この世界ではロープアイテムによる窒息で死ぬことはない。
恐怖の源は、男の胸を深々と貫く、一本の黒い長槍だ。
男は、槍の柄を両手で掴み、口をぱくぱく動かしている。その間にも、胸の傷口からは、赤いエフェクト光がまるで噴き出る血液のように明滅を繰り返す。
それはつまり、この瞬間も、男のHPに連続的ダメージが生じているということだ。一部のピアース系武器にのみ設定されている特性、『貫通継続ダメージ』だ。
どうやら黒い長槍は、それに特化した武器のようだった。柄の途中に無数の逆棘が生えているのが見て取れる。
俺は一瞬の驚愕から覚めると同時に、叫んだ。
「早く抜け!!」
男がちらりと俺を見た。両手がのろのろと動き、槍を抜こうとするが、食い込んだ武器は容易に動こうとしない。死の恐怖で、手に力が入らないのだ。
壁面にぶら下がる男の体は、地面から最低でも10メートルは離れている。今の俺のステータスでは、とてもジャンプして届く距離ではない。
ならばスローイングピックでロープを切るか。しかしもし狙いが逸れ、男に当たったら。それで残りHPがゼロになったら。
普通に考えれば、この場所は『圏内』なのだから、そんなことは起こり得ない。だがそれを言ったら、あの槍によるダメージ発生そのものが有り得ない話なのだ。
逡巡する俺の耳に、アスナの低く鋭い叫びが届いた。
「君は下で受け止めて!」
直後、物凄いスピードで教会の入り口めざし駆け出していく。内部の階段で二階まで登り、あのロープを切る気だ。
「わかった!」
アスナの背中にそう叫び返し、俺はぶらさがる男の真下へとダッシュした。
――しかし。
半分ほど走ったところで、ヘルメットの下にのぞく男の両眼が、空中の一点を零れ落ちんばかりに凝視した。何を見ているのか、俺は直感的に察した。
自分のHPバーだ。
正確には、それがゼロになる瞬間だ。
広場に満ちる悲鳴と驚声のなか、男が何かを叫んだような気がした。
そして。
無数のグラスが砕け散るような音とともに、青い閃光が夜闇を染めた。
爆散するポリゴンの雲を、俺は呆けたようにただ見上げた。
拘束すべき物を失ったロープが、くたりと壁面にぶつかった。一秒後、落下してきた黒いスピア――あるいは凶器が、目の前の石畳に、重い金属音を響かせて突き立った。
† 2 †
無数のプレイヤーが放つ悲鳴が、街区に満ちる平和なBGMをかき消した。
俺は巨大な衝撃を覚えながらも、懸命に目を見開き、教会を中心とした広い空間にひたすら視線を走らせた。存在すべきもの――かならず出現しなければならないものを探すために。
すなわち、『デュエル勝利者宣言メッセージ』。
ここは主街区の、つまりアンチクリミナルコード有効圏内のど真ん中だ。この場所でプレイヤーがHPにダメージを受け、なおかつ死にまで至るからには、その理由は一つしかない。
完全決着モードのデュエルを承諾し、それに敗北すること。
それ以外には有り得ない。絶対に。
ならば、男が死ぬと同時に、『WINNER 誰それ 試合時間 何秒』という形式の巨大なシステムウインドウが近くに出現するはずなのだ。それを見れば、あのフルプレ男を槍一本で殺した相手が誰なのか即時に解る。
――のだが。
「……どこだ……」
我知らず呟く。
システム窓が出ない。広場のどこにも見あたらない。表示されている時間はたった三十秒しかないのに。
「みんな! デュエルのウィナー表示を探せ!!」
俺は周囲のざわめきを圧する大声でそう叫んだ。プレイヤーたちは即座に俺の意図を悟ったらしく、すぐさま視線を四方八方に走らせはじめた。
だが、発見の声は無い。もう十五秒は経つ。
ならば建物の内部か。ロープが垂れ下がっている教会の二階の部屋にメッセージが出ているのか。そうならアスナが見ているはずだ。
と思った瞬間、問題の窓から『閃光』の白い騎士服がのぞいた。
「アスナ!! ウィナー表示あったか!?」
日ごろは呼び捨てなど恐ろしくてとても出来ないが、さんを付ける時間も惜しんで俺は叫びかけた。
しかし服装と同じくらい蒼白の顔が、素早く左右に振られた。
「無いわ! システム窓もないし、中には誰もいない!!」
「……なんでだ……」
呻き、俺はさらに空しく周囲を見回した。
数秒後、誰かの呟きが小さく聞こえた。
「……ダメだ、三十秒経った…………」
教会の一階に常駐するNPCシスターの横をすり抜け、俺は建物の奥にある階段を駆け上った。
二階は、宿屋の個室に似た四つの小部屋に分かれているが、宿と違ってドアロックはできない。通り過ぎた三部屋には、目視でも索敵スキルによる探知でも潜んでいるプレイヤーは見つけられなかった。
唇を噛み、俺は四つ目の、問題の小部屋に足を踏み入れた。
窓際で振り向いたアスナは、気丈な表情を保ってはいたが、やはり内心ではショックを受けているようだった。俺のほうも、眉間のあたりが強張るのを隠すことはできない。
「教会の中には、他には誰もいない」
報告すると、KoBサブリーダーは即座に問い返してきた。
「隠蔽アビリティつきのマントで隠れてる可能性は?」
「俺の索敵スキルを無効化するほどのアイテムは、最前線でもドロップしてないよ。それに念のため、入り口に隙間なく立ってもらってる。この建物には裏口も無いし、窓がある部屋はここだけだ」
「ん……わかった。これを見て」
アスナは頷くと、白いグローブの指で部屋の一画を示した。
そこには、簡素な木製のテーブルが置かれていた。動かせない、いわゆる『固定アイテム』だ。
その脚の一本に、やや細い頑丈そうなロープが結わえられている。結わえる、と言っても実際に手で結ぶわけではない。ロープのポップアップ窓を出し、結束ボタンを押して、さらに対象をクリックすることで自動的に固定される仕組みだ。いちど結べば、ロープのデュラビリティを超える荷重をかけるまでは切れたり解けたりすることはない。
黒光りするロープは、空間を二メートルほど横切って、南側の窓から外に垂れている。
ここからは見えないが、先端で環をつくってあって、そこにあのフルプレ男が首吊りになっていた、というわけだ。
「うーん…………」
俺は唸りながら首を捻った。
「どういうことだ、こりゃ」
「普通に考えれば……」
アスナが同じく小首を傾げて答えた。
「あのプレイヤーのデュエルの相手がこのロープを結んで、胸に槍を突き刺したうえで、首に環を引っ掛けて窓から突き落とした……ことになるのかしら……」
「見せしめのつもりか……? いや、でもそれ以前に」
大きく息を吸い込み、俺は明瞭な声で告げた。
「ウィナー表示がどこにも出なかった。広場に詰め掛けてた百人近くが誰も見なかったんだぜ。デュエルなら、かならず出現するはずだろう」
「でも……有り得ないわ!」
鋭い反駁。
「『圏内』でHPにダメージを与えるには、デュエルを申し込んで、承諾されるしかない。それは君だって知ってるでしょう!」
「……ああ、それは、その通りだ」
俺たちは、しばし同時に沈黙した。
窓の外の広場からは、尚もプレイヤーたちのざわめきが途切れることなく届いてくる。彼らもまた、この『事件』の異質さに気付いているのだ。
やがて、アスナがまっすぐ俺を見て、言った。
「このまま放置はできないわ。もし、『圏内PK技』みたいなものを誰かが発見したのだとすれば、早くその仕組みを突き止めて対抗手段を公表しないと大変なことになる」
「……俺とあんたの間じゃ珍しいけど、今回ばかりは無条件で同意する」
頷いた俺に、僅かな苦笑を滲ませて、『閃光』はずいっと右手を突き出してきた。
「なら、解決までちゃんと協力してもらうわよ。言っとくけど、昼寝の時間はありませんから」
「してたのはそっちじゃないか……」
ぼそりと呟きつつも、俺も手を差し出し、白と黒の手袋ごしにぎゅっと握手を交わした。
『証拠物件』のロープを回収し、俺とアスナは小部屋を出ると、教会の出入り口へと戻った。同じく証拠品である黒い槍は、移動する前にすでにアイテムストレージへ格納してある。
立ち番を頼んだ顔見知りのプレイヤー二人に、礼を言ってから尋ねたが、やはり通過した者は一人もいないようだった。
広場に出た俺は、こちらを注視している野次馬たちに手を挙げてから、大きな声で呼びかけた。
「すまない、さっきの一件を最初から見てた人、いたら話を聞かせてほしい!」
数秒後、おずおずという感じで、人垣から一人の女性プレイヤーが進み出てきた。こちらは顔に見覚えはない。武装もNPCメイドのノーマルな片手剣で、おそらく中層からの観光組だろう。
心外にも、俺を見てやや怯えたような顔をする女の子に、代わってアスナが優しい口調で問いかけた。
「ごめんね、怖い思いしたばっかりなのに。あなた、お名前は?」
「あ……あの、私、ヨルコっていいます」
そのか細い震え声に、俺は確かな聞き覚えがあった。思わず口を挟む。
「もしかして、さっきの悲鳴も、君が?」
「は……、はい」
ゆるくウェーブする濃紺色の髪を揺らして、ヨルコという女性プレイヤーは頷いた。年齢は17、8だろうか。
髪と同じくダークブルーの、やや垂れぎみの眼に、不意に薄い涙が浮かんだ。
「私……、私、さっき……殺された人と、友達だったんです。今日は、一緒にゴハン食べにきて、でもこの広場ではぐれちゃって……それで……そしたら…………」
それ以上は言葉にならないというように、両手で口元を覆う。
震える細い肩を、アスナがそっと押し、教会の内部へと導いた。何列も並ぶ長いすのひとつに腰を下ろさせ、自分も隣に座る。
俺はやや離れたところに立ち、じっと女の子が落ち着くのを待った。友人が惨いやり口でPKされる一部始終を見たというなら、そのショックは計り知れないものがあるだろう。
アスナが背中をさすっていると、やがてヨルコは泣き止み、消え入りそうな声ですみません、と言った。
「ううん、いいの。いつまでも待つから、落ち着いたら、ゆっくり話して、ね?」
「はい……、も……もう大丈夫、ですから」
案外と気丈でもあるのか、ヨルコはアスナの手から身体を起こし、こくりと頷いた。
「あの人……、名前はカインズっていいます。昔、同じギルドにいたことがあって……今でも、たまにPT組んだり、食事したりしてたんですけど……それで今日も、この街まで晩ご飯食べにきて……」
ぎゅっと一度眼をつぶってから、震えの残る声で続ける。
「……でも、あんまり人が多くて、広場で見失っちゃって……周りを見回してたら、いきなり、この教会の……窓から、人が、カインズが落ちてきて、宙吊りに……しかも、胸に、ヤリが……」
「その時、誰かを見なかった?」
アスナの問いに、ヨルコは一瞬黙り込んだ。
そして、ゆっくりと、しかし確かに首肯した。
「はい……一瞬、なんですが、カインズの後ろに、誰か立ってたような気が……しました……」
俺は無意識のうちに両の拳をぎゅっと握った。
やはり、犯人はあの部屋にいたのか。とすれば、被害者――カインズを窓から突き落としてから、衆人環視のなかゆうゆうと脱出してのけたということになる。
そうなるとやはりハイディング機能つき装備を使ったはずだが、あの手のアイテムは、移動中は効果が薄くなる。そのデメリットを補正するほどのハイレベルな隠蔽スキルを持っているということか。
脳裏に、『アサシン』などという不穏な単語がちらりと過ぎる。
まさか、このSAOに、俺やアスナですら知らない武器スキル系統が存在したのだろうか?
そのスキル特性に、アンチクリミナルコードを無効化するようなものがあったとすれば……?
同じことを考えたのか、アスナが一瞬背中を震わせ、ぎゅっと自分の腕を掴んだ。
† 3 †
一人で下層まで帰るのが怖いと言うヨルコを、最寄の宿屋まで送り届けてから、俺とアスナはとりあえず転移門広場まで戻った。
事件から三十分ほどが経過し、さすがにもう人の数は減りつつあった。それでも、俺たちの報告を聞くために二十人近い、主に攻略組のプレイヤーたちが待機していた。
彼らに俺は、死んだプレイヤーの名前がカインズであること、殺害の手口は今のところまったく不明であることを伝えた。そして、ことによると、未知の圏内PK手段が存在するかもしれないという危惧も。
「……そんな訳だから、当面は街中でも気をつけたほうがいいと、出来る限り広範囲に警告してくれるか」
俺がそう締めくくると、皆一様に真剣な表情で頷いた。
「分かった。情報屋のペーパーにも載せてくれるよう頼んどく」
大手ギルドに所属するプレイヤーが代表してそう応じたのを潮に、その場は解散となった。
俺は視界隅の時刻表示をちらりと確認した。まだ夜七時過ぎで、少し驚く。
「さて……、次はどうする」
隣のアスナに訊くと、僅かな間もおかずに即答が来た。
「手持ちの情報を検証しましょう。とくに、ロープとスピアを。出所が分かれば、そこから犯人を追えるかもしれない」
「となると、鑑定スキルが要るなぁ。お前、上げて……るわけないよな」
「当然、君もね。……ていうか……」
そこではじめてアスナは表情を動かし、じろっと俺を見た。
「その『お前』ってのやめてくれない?」
「へ? ……あ、ああ……じゃあ、えーと……『貴女』? 『副団長』? ……『閃光様』?」
最後のは、この女のファンクラブが発行する会誌で用いられている呼称だ。効果覿面、レーザーのごとき視線で俺を焼灼してから、アスナはぷいっと顔を背けて言った。
「ふつうに『アスナ』でいいわよ。さっきそう呼んでたでしょ」
「りょ、了解」
震え上がった俺は素直に頷き、慌てて話題を戻した。
「で、鑑定スキルだけど……フレンドとかにアテは……?」
「んー」
一瞬考え込んでから、すぐ首を振る。
「武器屋やってる子が持ってるけど、今は一番忙しい時間だし、すぐには頼めないかなあ……」
確かに今頃は、一日の冒険を終えたプレイヤーが装備のメンテや新調に殺到する時間帯だ。
「そっか。じゃあ、熟練度がイマイチ不安だけど俺の知り合いの雑貨屋戦士に頼もう」
「それって……あのでっかい人? エギルさん……だっけ?」
さっそく窓を広げ、メッセージをだかだか打ち始めた俺に、アスナが口を挟んだ。
「でも、雑貨屋さんだってこの時間は忙しいでしょう」
「知らん」
と答え、俺は容赦なく送信ボタンを押した。
第50層主街区『アルゲード』は、転移門から出た俺とアスナを、相変わらずの猥雑な喧騒で出迎えた。
まだアクティベートされてからそれほど経っていないというのに、すでに目抜き通りの商店街には無数のプレイヤーショップが開店し、軒を連ねている。その理由は、店舗物件の代金が下層の街と比べても驚くほど安く設定されていたからだ。
当然、それに比例して店は狭く外観もキタナイが、このアジア的――あるいは某電気街的混沌が好きだというプレイヤーも多い。俺もその一人で、近々ここに引っ越してくる予定を立てている。
エキゾチックなBGMと呼び込みの掛け声に、屋台から流れ出す安っぽい食い物のにおいがミックスされた空気のなかを、俺はアスナを先導して足早に歩いた。白い騎士服のミニスカートから惜しげもなく生脚をさらした細剣使いの姿は、この街では少々目立ちすぎる。
「おい、急ごうぜ……って」
ナナメ後方のヒールの音が遠ざかったのを意識して振り向いた俺は、眼をむいて喚いた。
「何買い食いなんかしてんだよ!」
怪しげな屋台で怪しげな串焼き肉をお買い求めになった『閃光』サマは、あぐりと一口かじってから、悪びれずにしれっと答えた。
「だって、さっきサラダつついただけで飛び出てきちゃったじゃない。……うん、これ、けっこうイケるよ」
もぐもぐ口を動かしながら、はい、と左手に握ったもう一本の串を俺に差し出してくる。
「へ? くれるの?」
「だって、今日は最初からそういう話だったでしょ」
「あ……ああ……」
反射的に頭を下げつつ受け取ってから、俺はようやく、オゴリフルコースがオゴリ串焼きになってしまったことを悟った。ちなみに、さっき入ったレストランの代金は、店から飛び出た時点で手をつけていたサラダの分だけが互いのアイテム欄から均等に引かれている。
エスニックな味付けの謎肉をがつがつ頬張りながら、俺は、いつか絶対この女に手料理を作らせてやるという決意とともに歩いた。
目指す雑貨屋に到着したのは、二本の串がきれいになるのとほぼ同時だった。音も無く消滅した串を握っていた手を開き、別に汚れてはいないがぱたぱたと叩いてから、俺はこちらに背を向けている店主に呼びかけた。
「うーっす。来たぞー」
「……客じゃない奴に『いらっしゃいませ』は言わん」
雑貨屋兼斧戦士のエギルは、その巨躯と異相に似合わないしょぼくれた声でそう唸り、狭い店内の客に呼びかけた。
「すまねえ、今日はこれで閉店だ」
えーっ、という不満の声に、逞しい体をぺこぺこ縮めて謝罪しつつ全員を追い出し、店舗の管理メニューから閉店操作を行う。
カオス極まる陳列棚が自動で収納され、ぎいばったんと表の鎧戸が閉まったところで、エギルはようやく振り向いた。
「あのなあキリトよう、商売人の渡世は、一に信用二に信用三四が無くて五に荒稼ぎ……」
怪しげな警句は、俺の隣に立つ人間を見た瞬間フェードアウトした。
禿頭の下回りを囲む髭をぷるぷる震わせて棒立ちになるエギルに、アスナは清楚な笑顔とともに頭を下げた。
「お久しぶりです、エギルさん。急なお願いをして申し訳ありません。どうしても、火急にお力を貸していただきたくて……」
魁偉な顔をひとたまりもなく崩し、エギルは即座に任せてくださいと胸を叩いて茶まで出した。
まったく男というのは、先天的パラメータに決して抵抗できない哀れな種族だ。
二階の部屋で事件のあらましを聞いたエギルは、さすがに事の重大さを察したようで、突き出た眉稜の下の両眼を鋭く細めた。
「……デュエルじゃない、というのは確かなのか」
太いバリトンで唸る巨漢に、揺り椅子に体を預けた俺はゆっくり頷いた。
「あの状況で、誰もウィナー表示を見ないということは考えにくいし、今はそう考えるべきだと思う。それに……デュエルだとしても、メシを食いにきた場所で申し込みを、増してや『完全決着モード』を受諾するなんて有り得ないよ」
「それに、直前まであの子……ヨルコさんと歩いてたなら、『睡眠PK』の線も無いしね」
小さな丸テーブルの上のマグカップを揺らしながら、アスナが補足する。
「第一、突発的デュエルにしては手が込み入りすぎてる。事前に計画されたPKなのは確実と思っていい。そこで……こいつだ」
俺はウインドウを開くと、アイテムストレージからまず問題のロープを実体化させ、エギルに手渡した。
テーブルの脚に結束されていたほうの先端は当然回収したときに解けているが、その反対側はまだ大きな環になったままだ。
エギルはその輪っかを目の前にぶらさげ、嫌そうな顔で鼻を鳴らすと、太い指でタップした。
開かれたポップアップウインドウから、『鑑定』メニューを選択する。スキルを持たない俺やアスナがそれをしても失敗表示が出るだけだが、商人クラスのエギルなら、ある程度の情報を引き出せるはずだ。
はたして巨漢は、彼だけに見えるウインドウの中身を、太い声で解説した。
「……残念ながら、プレイヤーメイドじゃなくNPCショップで売ってる汎用品だ。ランクもそう高くない。耐久度は半分近く減ってるな」
俺は、あの恐ろしい光景を脳裏に再生させながら頷いた。
「そうだろうな。あんだけ重装備のプレイヤーをぶら下げたんだ。物凄い加重だったはずだ……」
しかし殺人者にしてみれば、男のHPがゼロになり、爆散するまでの十数秒保てばじゅうぶんだったわけだ。
「まあ、ロープにはあんま期待してなかったさ。本命はこいつだ」
俺は開いたままのストレージをタップし、さらにアイテムを実体化させた。
黒く輝く短槍《ショートスピア》は、狭い部屋の中では、いっそう重々しい存在感を放って三人を沈黙させた。武器のランクで言えば、俺やアスナの主武装とは比較にならないほど下だが、そういう問題ではない。
この槍は、一人のプレイヤーの命を残酷な遣り口で奪った、本物の『凶器』なのだ。
俺はどこかにぶつけないよう、慎重に槍をエギルに手渡した。
このカテゴリの武器にしては珍しく、全体が同一素材の黒い金属で出来ている。長さは1.5メートル程か、手元に30センチのグリップがあり、柄が続き、先端に20センチの鋭い穂先が光る。
特徴は、柄の半分以上にびっしりと短い逆棘が生えていることだ。それによって、一度突き刺さったものを抜くときの要求筋力値を上げているのだ。
この場合の筋力値とは、プレイヤーに設定された数値パラメータと同時に、脳から出力されナーヴギアが延髄でインタラプトする信号の強度をも意味する。あの瞬間、死の恐怖に呑まれたフルプレ男――カインズは、仮想の体を動かすための明瞭な信号を生成することが出来なかった。両手で掴んだ槍を抜くことが出来なくても無理はない。
そう考えれば、やはりこれはただの突発的PKではないのではないか、という思いが改めて強くなる。それほどに、『貫通継続ダメージ』による死は残酷なものなのだ。相手の剣技でも、武器の威力でもなく――自分の怯えに殺されるのだから。
俺の一瞬の思考を、鑑定を終えたエギルの声が破った。
† 4 †
「PCメイドだ」
俺とアスナは、同時にがばっと身を乗り出した。
「本当か!」
思わず叫ぶ。
PCメイド、つまり『鍛冶スキル』を習得したプレイヤーによって作成された武器ならば、必ずそのプレイヤーの『銘』が記録される。そして、この槍はおそらく、特注仕様のワンオフ品だ。鍛えたプレイヤーに直接訊ねれば、発注購入したのが誰だか覚えている可能性が高い。
「誰ですか、作成者は?」
アスナの切迫した声に、エギルはシステムウインドウを見下ろしながら答えた。
「『グリムロック』……綴りは『Grimlock』。聞いたことねぇな。少なくとも、一線級の刀匠じゃねえ。まあ、自分用の武器を鍛えるためだけに鍛冶スキル上げてる奴も居ないわけじゃないが……」
商人クラスのエギルが知らない鍛冶屋を、俺やアスナが知ってるわけもなく、狭い部屋には再び短い沈黙が満ちた。
しかしすぐに、アスナが硬い声で言った。
「でも、探し出すことは出来るはずよ。このクラスの武器を作成できるレベルまで、まったくのソロプレイを続けてるとは思えない。中層の街で聞き込めば、『グリムロック』とパーティーを組んだことのある人がきっと見つかるわ」
「確かにな。こいつみたいなアホがそうそう居るとは思えん」
エギルが深く頷き、アスナと同時にアホソロプレイヤーの俺を見た。
「な……なんだよ。お、俺だってたまにはパーティーくらい組むぞ」
「ボス戦のときだけでしょ」
冷静に突っ込まれれば、反論できずに押し黙るしかない。
ふん、と鼻を鳴らし、アスナは改めてエギルの手中のショートスピアを見た。
「ま……正直、グリムロックさんを見つけても、あんまりお話したいカンジじゃないけどね……」
それには俺も同意見だった。
確かに、カインズを殺したのは、この槍をオーダーした未知のレッドプレイヤーであって、鍛冶屋グリムロックではない。
しかし、ある程度の技のある鍛冶プレイヤーなら、この武器が何のために設計されたものなのか推察できるはずなのだ。
『貫通継続ダメージ』は、基本的にモンスター相手には効果が薄い。なんとなれば、アルゴリズムによって動くMobは、恐怖を知らないからだ。貫通武器を突き刺されても、ブレイクポイントが発生し次第、むんずと掴んで容易く引っこ抜いてしまう。当然、その後親切に武器を返してくれるわけもなく、遠く離れた場所にポーイと捨てられたそれは戦闘が終わるまで回収できない。
ゆえに、この槍は対人使用を目的として作成されたものだということになる。俺の知っている鍛冶屋なら全員、仕様を告げられた時点で依頼を断るはずだ。
なのにグリムロックは槍を鍛えた。
よもや殺人者本人ということはあるまいが――鑑定すれば容易く名前が割れてしまうので――しかし、倫理観のかなり薄い人物か、あるいは秘かにレッドギルドに属しているということすら有り得る。
「……少なくとも、話を聞くのに、タダってわけにはいかないカンジだな」
俺がそう呟くと、エギルはぶんぶん首を振り、アスナはじろっと一瞥くれた。
「折半でいきましょ」
「……わかったよ、乗りかかった舟だ」
肩をすくめてから、がめつい商人に最後の質問をする。
「手がかりにはならないと思うけど、いちおう武器の名前も教えてくれ」
禿頭の巨漢は、わかりやすい安堵顔を作ると、三たびウインドウを見下ろした。
「えーっと……『ギルティソーン』となってるな。罪のイバラ、ってとこか」
「……ふーん」
改めて、俺はショートスピアの柄に密生する逆棘を眺めた。
勿論、武器の名前はシステムがランダムに命名したものだ。だから、その単語になんらかの意志が込められているわけではない。
――しかし。
「罪の……茨」
囁くように呟いたアスナの声もまた、どこか寒々とした響きを帯びているように思えた。
俺とアスナ、そして助手のエギルは連れ立ってアルゲードの転移門から、まずは最下層『はじまりの街』へと移動した。
目的は、もちろん黒鉄宮に安置された『生命の碑』を確認することだ。鍛冶屋グリムロック氏を訪ね当てようにも、生きていてくれなければどうしようもない。
広大なはじまりの街は、春だというのに荒涼とした雰囲気に覆われていた。
お天気パラメータのせいだけではない。宵闇に包まれた幅広の街路にはプレイヤーの姿はほとんど無く、気のせいかNPC楽団が奏でるBGMも鬱々とした短調のメロディばかりだ。
ここ最近、最大ギルドにして自治組織でもある『アインクラッド解放軍』がプレイヤーの夜間外出を禁止したという冗談のような噂を耳にしていたが、これはどうやら本当なのかもしれない。出くわすのは、お揃いのガンメタとオリーブグリーンの装備を着込んだ『軍』の見回りだけなのだ。
しかもそいつらは、俺たちを見つけるたびに、中学生を補導するお巡りさんのごとき勢いで駆け寄ってくるので心臓に悪い。もっとも、先頭に立つアスナの絶対零度の視線を食らってたちまち退散していくのだが。
「……こりゃあ、アルゲードが賑わうわけだよなあ……物価高いのに……」
思わず慨嘆すると、エギルが更に怖い噂を教えてくれた。
「何でも、近々プレイヤーへの『課税』も始める気らしいぞ」
「へ!? 税金!? ……うそだろ、どうやって徴収するんだよ」
「モンスターのドロップから自動で天引きされたりしてな」
「お前の店も、マル査に差し押さえられたりな」
等々と頭の悪い会話を続けた俺たちも、さすがに黒鉄宮の敷石を踏んだ途端に押し黙った。
その名のとおり、黒光りする鉄柱だけで組み上げられた巨大な建物は、外より明らかに数度低い空気に満たされていた。すたすたと前を歩くアスナも、むき出しの腕を寒そうに擦っている。
時間が遅いだけあって、幸い内部に他の人間の姿は無かった。
昼間の此処は、友人や恋人の死を信じられずに確認に訪れ、名前のうえに無情に刻まれた横線を目にして泣き崩れるプレイヤーの嘆きが途絶えることはない。おそらくは、あの槍に命を奪われたカインズの友人にして事件の目撃者ヨルコも、明日あたり確かめに来るのではないだろうか。
勿論、俺もそう遠くない過去に同じことをした。今だって完全に乗り越えられたわけではない。
青みがかったかがり火に照らされた無人の広間を、俺たちは早足に歩いた。
左右に数十メートルにわたって続く『生命の碑』の前に到着しても顔を上げずに、目測で直接Gの欄あたりを睨みつける。
エギルはそこで止まらず、右のほうに歩いていった。俺とアスナは息をひそめながら列挙されるプレイヤーネームを視線でなぞり、ほぼ同時にその名前を見つけた。『Grimlock』。横線は――なし。
「……生きてるね」
「だな」
思わず、同時にほっと息をつく。
そうと判れば、もうこの場所に長居する理由はない。少し離れたKのあたりを眺めていたエギルも、すぐにひとつ頷いて戻ってきた。
「カインズ氏は、確かに死んでるぞ。サクラの月22日、18時27分」
「……日付も時刻も間違いないわ」
アスナと同時に、短く黙祷する。カインズ――『Kains』の綴りはヨルコに目撃談を聞いたときに確認済みだ。
足早に黒鉄宮を出たところで、俺たちは一様に詰めていた息を吐き出した。
いつの間にか、街区BGMはテンポのゆっくりとした深夜帯用のものへと変わっている。NPC商店もすべて鎧戸を閉めてしまい、道を照らすのはごく薄い環境ライティングだけだ。
「……グリムロック氏を探すのは、明日にしましょう」
アスナの声に俺が頷くと、エギルが異相に情けない表情を浮かべて唸った。
「あのな……俺はだな、いちおう本業は戦士じゃなく商人でだな……」
「分かってるよ。助手役は今日でクビにしてやろう」
苦笑しながら言うと、分かりやすい安堵顔を作る。
この人のいい巨漢は、本心から「商売優先」とか「調査面倒」とか思っているわけではない。あの槍を作ったプレイヤーに直接相対するのが嫌なのだ。恐れではなく、その逆――怒りを爆発させてしまいかねないから。
ポンとエギルの背中を叩き、今日の礼を言ってから、俺たちは転移門広場への帰路についた。
50層アルゲードに戻るエギルがまずゲートに消え、ギルドホームへ帰るというアスナとも明朝の待ち合わせを確認して分かれた。
俺の現在の定宿は、48層の主街区にある。青く光る転移門の渦へと飛び込み、行き先を告げ、わずかな浮遊感ののちに再び石畳へと踏み出した俺を――。
突然、6、7人のプレイヤー達が一斉に取り囲んだ。
† 5 †
一瞬、背中の剣を抜きそうになった。
たとえ何十人に囲まれようとも、『圏内』に居る限り一切の危険はない、という常識がこの数時間で少々ぐらつきつつあったせいだ。
しかし俺は、右手の指を一本ぴくっと動かしただけでどうにか自制した。集団の顔ぶれには、明確な見覚えがあった。
攻略ギルドの中でも、押しも押されぬ大手である『聖竜連合』に所属するプレイヤー達だ。半円形に並ぶその面々の中ではリーダー格と推測される一人に向けて、俺は口を開いた。
「こんばんは、シュミットさん」
機先を制して笑顔で挨拶してやると、長身のランス使いは一瞬言葉に詰まってから、再び眉間に皺を寄せて早口で言った。
「……聞きたいことがあってアンタを待ってたんだ、キリトさん」
「へえ。誕生日と血液型……じゃあないよな」
ついつい混ぜっ返すと、運動部の主将然とした短髪の下のくっきりとした眉が軽く震えた。
同じ攻略組どうし、別に敵対しているわけではないが、俺と『聖竜連合』はウマが合うほうではない。比較すれば、アスナ率いる『血盟騎士団』とのほうがまだ友好的に付き合っているかもしれない。
その理由は、血盟騎士団の目的が「最速のゲーム攻略」であるのに対して、聖竜連合のベクトルは「最強ギルドの称号」に向いている気がするからだ。彼らは基本的にギルド外メンバーとパーティーを組まないし、狩場情報も積極的には公開したがらない。その上、ボスモンスターへの止めの一撃《エンドアタック》――アイテムドロップ判定にボーナスが付く――をかなり意地汚く欲しがる。
しかしまあ考えようによっては、SAOというゲームを一番楽しんでいる人たち、と言えなくもないので文句を口にしたことはないが、二度ほどあった加入要請はすげなく断った経緯がある。ゆえに、俺とはあまり仲がよろしいとは言えないわけだ。
今現在、転移門広場の壁を背にする俺を半円に取り囲む七人の間隔も、実に微妙な距離を作っている。プレイヤーを囲んで動けなくする『ボックス』ハラスメントとまでは言えないが、俺が輪の外に出ようとすると誰かの体に触れねばならず、それもまた非マナー行為ではあるので躊躇われるという、『なんちゃってボックス』状態である。
ため息を押し殺し、俺は語調を改めてシュミットに問うた。
「答えられることなら答えるよ。何が聞きたいんだ?」
「夕方、57層であったPK騒ぎのことだ」
その即答は、予想されたものだった。軽く頷き、背中を石壁に預けて腕組みすると、俺は視線で先を促した。
「デュエルじゃなかった……って噂は本当なのか」
低めの渋い声で訊かれ、俺はやや考えてから肩をすくめた。
「少なくとも、ウィナー表示窓を見た人間は誰も居なかったのは確かだ。ただ、何らかの理由で全員が見落としたという可能性はある」
「…………」
シュミットの少々角ばった顎が、ぐっと噛み締められた。首元の装甲がかしゃっと鳴る。
聖竜ギルメンの例に漏れず、プレートアーマーは銀に青の差し色が入ったカラーリングだ。背負われた主装備のランスは二メートル以上も高く突き出し、鋭い先端にはご丁寧にブルーのギルドフラッグが夜風になびいている。
しばし沈黙したあと、シュミットは一層低い声を出した。
「殺されたプレイヤーの名前……『カインズ』と聞いたが間違いないか」
「事件を目撃した友人はそう言っていた。さっき、黒鉄宮まで確認に行ってきたが時間も死因もピッタリだったぜ」
ぐび、と太い喉が動くのを見て、ここでようやく俺も不審なものを感じた。首を傾け、問い返す。
「知り合いなのか?」
「……アンタには関係ない」
「おいおい、こっちに質問だけしといてそりゃない……」
言いかけたところで、突然怒鳴られた。
「アンタは警察じゃないだろう! KoBの副長とこそこそ動いてるみたいだが、情報を独占する権利はないぞ!」
広場の外まで届いたであろう大声に、周囲のメンバーたちもやや戸惑った様子で顔を見合わせた。どうやら、シュミットが詳しい事情を話さずに頭数を集めてきただけらしい。
となると、事件に関係している可能性があるのは、聖竜連合そのものではなくシュミット個人だということだ。ふむふむと脳内にメモっていると、突然目の前にガントレットに包まれた右手が突き出された。
「アンタが現場から、PKに使われた武器を回収してったことは知ってるぞ。もう充分調べただろう、渡してもらう」
「……おいおい」
これは明らかなマナー違反行為と言っていい。
SAOでは、装備フィギュアに設定されていない武器をドロップすると、わずか六十秒で所有者属性がクリアされる。そのアイテムは、システム上も通念上も、次に拾った人間のものとなる。あの黒い槍は、カインズの命を奪った時点ですでに装備解除されていた。ゆえに、今はもう俺の名前が所有者として登録されている。
他人の武器をタダで寄越せとは横柄な話もあったものだが――しかし、確かにあの槍は、武器である以前に重要な証拠品だ。刑事でも探偵でもない俺がガメておくのもちょっとどうかと、一割ほどは思わなくもない。
よって俺は、今度は隠すことなく堂々とため息をつき、左手を振ってアイテムストレージを開いた。
実体化させた黒いショートスピアを右手で持ち上げ、せめてカッコくらいつけるべく、俺とシュミットの間の敷石に音高く突き立てる。
ギャリーン!! と盛大な火花を散らし屹立した槍を、シュミットは、気圧されたように半歩引いて見下ろした。
改めて眺めると、実に禍々しいデザインの武器だ。プレイヤーキルのためだけの仕様なのだから、当然と言えば当然だが。
一分経つのを待ちながら、俺はランス使いにせいぜい低い声で告げた。
「鑑定の手間を省いてやるよ。この槍の名前は『ギルティソーン』。造った鍛冶屋は、『グリムロック』だ」
今度こそ、明確な反応があった。
シュミットは、細めの両眼をいっぱいに見開き、口を半分開いて、嗄れた喘ぎを漏らしたのだ。
間違いなく、このお兄さんは鍛冶屋グリムロックと、そしておそらく被害者カインズの関係者だ。だが、直接訊いても無論答えるまい。
さて……と考えていると、僅かに震える腕が伸び、地面から槍を引き抜いた。
歯をぎりぎりと食いしばったシュミットは、たたき付けるようなモーションで開いたストレージにスピアを放り込み、背中のランスをがしゃっと鳴らして体の向きを変えた。
発せられた最後の言葉は、実に類型的なしろものだった。
「……あまりコソコソ嗅ぎ回らないことだ。行くぞ!」
そして聖竜連合の男たちは、足早に転移門へと消えていった。
さてさて。
† 6 †
「DDAが?」
俺の報告を聞いたとたん、アスナは僅かに目元をしかめた。
DDA、とはディヴァイン・ドラゴンズ・アライアンスの頭文字で、ギルド聖竜連合の略称である。泣く子も黙るDDA、そこのけそこのけDDAが通る、ぐらいの威圧感のある名前なのだが、その神通力もKoB副長のアスナには通じない。
明けたサクラの月23日は、さっそく天候パラメータの機嫌が悪く、朝から霧雨模様となっていた。空の無いアインクラッドで雨が降るのは理不尽だが、それを言えば晴天時の日差しも有り得ないことになってしまう。
午前7時ちょうどに、事件現場のある57層の転移門で待ち合わせた俺とアスナは、とりあえず手近なカフェテラスで朝食がてら情報を整理することにした。最大のトピックは、やはり昨夜俺を待ち伏せた上で、強引に情報と凶器を巻き上げていった聖竜ギルメン・シュミット氏のことだった。
「あー、いたわねそんな人。でっかいランス使いでしょ」
「そそ。高校の馬上槍部主将って感じの」
「そんな部活ないけどね」
朝から冴え渡る俺のユーモアを一蹴し、アスナは考え込むようにカフェオレのカップを抱えた。
「……実はそいつが犯人、てセンは無いわよね?」
「断定は危険だけど、まあ無いよな。足がつくことを恐れて凶器を回収する、くらいなら最初から現場に残す必要がない。あの槍はむしろ、犯人のメッセージだったと俺は思う」
「そうだね。あの殺し方に加えて、武器の名前が『罪の茨』じゃ、これは処刑だぞ、って大声で言ってるようなもんだものね」
そう――、それ以外の何者でもなかろう、恐らく。
俺は声をひそめて、導かれる推察を口にした。
「つまり、動機は復讐ってことだよな。過去にあのカインズ氏が何か『罪』を犯して、それに対する『罰』として殺したと、犯人はそう主張しているわけだ」
「そう考えると、シュミットはむしろ、犯人側じゃなくて狙われる側、って感じだわね。以前にカインズと一緒に何かをして、その片方が殺されたから焦って動いた……」
「その『何か』が分かれば、自動的に復讐者も分かる気がするな。……ただ、これが全部、犯人の演出に過ぎない可能性もある。先入観は持たないようにしないと」
「うん。特に、ヨルコさんに話を聞くときはね」
アスナと同時に頷きあい、俺はちらっと時刻表示を確認した。午前9時になったら、すぐ近くの宿屋に滞在中のヨルコに、もう一度詳しい事情を聞きにいくことになっている。
黒パンとチーズに野菜スープの朝食をもそもそ食べ終えても時間がかなり余り、俺は向かいに座るアスナの姿をぽけーっと眺めた。
今日は、私用だからということなのか、いつもの白地に赤の縁取りのある騎士服ではない。ピンクとグレーの細いストライプ柄のシャツに黒レザーのベストを重ね、ミニスカートもレースのフリルがついた黒、脚にはグレーのプリントタイツ。
おまけに靴はピンクのエナメル、頭にも同色のベレーとくれば、何だかやたらとキメてきている――ような気もするが、これが女性プレイヤーの平均的普段着であるのかもしれないし、それが判断できるほどのファッションアイテムの知識は残念ながら持ち合わせていない。何せ、どれだけ見ても、上から下までで総額何コルかかっているのか見当もつかないのだ。
だいたい、殺人事件の調査にオシャレしてくる理由もないし、などとぼんやり考えていると、不意にアスナがちらっと視線を上げ、ぷいと横を向いた。
「……何見てるの」
「えっ……あ、いや……」
よもや服の値段を訊くわけにも行かず、さりとて『可愛い服だね、よく似合ってるよ』などと言おうものなら大激怒か大爆笑されることは必至なので、とっさに取り繕う。
「えーと……そのどろっとした奴、旨い?」
アスナは瞬きし、スプーンでつついていた謎のポタージュっぽいものを見下ろし、もう一度俺を見て何とも微妙な表情を作ったあと、はぁーっと深く長いため息をついた。
「……おいしくない」
ぽそっと答えて皿ごと脇に押しやる。軽い咳払いを挟み、細剣使いは口調を改めた。
「わたし、昨夜ちょっと考えたんだけどね。きのうの槍が発生させた『貫通継続ダメージ』だけど……」
そういえば、この女が帯剣してないとこは始めて見るかも、などと今更気付きつつ俺は頷いた。
「うん?」
「例えば、圏外で貫通属性武器を刺されるじゃない? そのまま圏内に移動したら、継続ダメージってどうなるのか、君知ってる?」
「えー……と」
思わず首を捻る。確かに、そんなシチュエーションにはこれまで遭遇したことはないし、考えたことすらない。
「いや、知らないな……。でも、毒とかは圏内入った瞬間消えるだろ? 継続ダメージも同じじゃないか?」
「でも、そしたら刺さってる武器はどうなるの? 自動で抜けるの?」
「それもなんだか気持ち悪いな。……よし、まだちょっと時間あるし、実験しようぜ」
俺の言葉に、アスナが目を丸くした。
「じ、実験!?」
「百聞一見」
怪しげな四字熟語とともに立ち上がると、俺は街区マップを呼び出し、最寄の門への道を確認した。
マーテンの街の外は、節くれだった古樹が点在する草原になっていた。
ほんの数週間前、ここが最前線だったときに散々通った道なのだが、すでに記憶は薄い。春の訪れとともに緑が芽吹いたせいもあろうが、基本的には、攻略された層の圏外フィールドというのはほとんど用の無い場所なのだ。
しとしと降る霧雨を掻き分けて、市街の門から出たとたん、視界に『Outer Field』の警告が表示された。別に、すぐにモンスターが襲ってくるわけではないものの心の一部が自動的に緊張する。
腰にいつものレイピアを装備しなおしたアスナは、前髪に溜まる水滴を煩わしそうに弾いてから、怪訝そうな声を出した。
「で……実験て、どうする気?」
「こうする気」
俺はベルトを探ると、常に三本装備されている『スローイング・ピック』を一本抜き出した。
アインクラッドに存在するあらゆる武器は、斬撃《スラッシュ》・刺突《スラスト》・打撃《ブラント》・貫通《ピアース》の四属性に分類される。俺のメインウェポンである片手直剣は斬撃武器だし、アスナのレイピアは刺突武器だ。メイスやハンマーが打撃、そしてカインズを殺したスピアや、シュミットの持つランスが貫通武器ということになる。
ここで微妙なのが、幾つか存在する投擲系武器の扱いだ。同じ投げモノでも、ブーメランや円形の刃を持つチャクラムは斬撃、スローイングダガーは刺突、そして俺のスローイングピックは貫通と属性が分かれる。そう、たかだか長さ12センチほどの大型の鉄針にしか見えないが、このピックは立派な貫通武器であり、ゆえに僅かながら継続ダメージが発生するのだ。
自分のHPは実験に提供しても、装備の耐久度まで減らすのは馬鹿らしいので左手のグローブを外し、広げた手の甲に向けて俺は右手のピックを振り上げた。
「ちょ……ちょっと待って!」
鋭い声にぴたっと手を止める。
見ると、アスナはアイテム窓を開き、治癒クリスタルを取り出しているところだった。思わず苦笑する。
「大げさだなぁ。こんなピックが手に刺さったくらいじゃ、総HPの1、2パーセントくらいしか減らないよ」
「バカ! 圏外じゃ何が起きるかわからないのよ! さっさとパーティー組んでHPバー見せて!!」
愚かな弟を叱る姉のような口調で雷を落としたアスナは、さらにウインドウを操作し、俺にPT要請を飛ばしてきた。首を縮めて即座に受諾すると、視界左上の俺のHPバーの下に、やや小型のアスナのHPも出現した。
考えてみれば、この女とPTを組むのはこれが初めてのことだ。ボス攻略を巡る意見の対立から、デュエルまでしたのもそう昔のことではないというのに。
右手にピンクのクリスタルを握り、緊張した面持ちで待機するアスナの顔を、俺は思わずまじまじと眺めてしまった。
「…………なに?」
「いや……なんつうか、こんなに心配してくれると思わなくて……」
言ったとたん、アスナの白い頬が結晶と同じ色に染まり、目を丸くした俺を再びの落雷が襲った。
「ち……違うわよ! いえ、違わないけど……もう、さっさとしてよ!!」
ひぃっ、と震え上がり、改めてピックを構える。
「じゃ、じゃあ、いきます」
宣言してから、大きく息を吸い――。
俺は、まっすぐ伸ばした自分の左手目掛けて、投剣スキルの初級技『シングルシュート』のモーションを起こした。
右手の二本の指で挟んだピックが、控えめなライトエフェクトとともにぴうっと飛翔し、直後にどすっと手の甲を貫通した。
衝撃に続いて、不快な痺れと僅かな鈍痛が神経を走る。
HPバーは、予想より僅かに多く、約3パーセントを減らしていた。そう言えばこのあいだピックを高級なドロップ品に換えたんだった、と今更思い出す。
不快感に耐えながら、刺さった鉄針を眺めていると、五秒後に再び赤いエフェクト光が閃いた。同時にHPが0.5%ほど削れる。まさにこれが、カインズの命を奪った『貫通継続ダメージ》に他ならない。
「……はやく圏内に入ってよ!」
強張るアスナの声に背を押され、俺はひとつ頷くと、HPバーとピックの双方に視線を据えたまますぐ近くのゲートへと向かった。
ブーツの底が踏む湿った草が、硬い石畳へと変わると同時に、視界に『Inner Area』の表示が浮かんだ。
そして――HPバーの減少が停止した。
五秒ごとに赤いエフェクトがフラッシュはするのだが、ヒットポイントは僅かにも減らない。やはり、圏内ではあらゆるダメージはキャンセルされるのだ。
「……止まった、わね」
アスナの呟きに、こくりと首肯する。
「武器は刺さったまま、でも継続ダメージは停止、か」
「感覚は?」
「残ってる。これは……武器を体にぶっ刺したまま圏内をうろつくバカモノが出ないようにするための仕様かな……」
「今の君のことだけどね」
冷たい声で言われ、首を縮めてピックを摘むと、一思いに引き抜いた。神経をひときわ強い不快感が走り、思わず眉をしかめる。
左手の甲には何の傷も残っていないが、冷たい金属の感触はいっこうに去ろうとせず、俺はそこをふーふー吹きながら呟いた。
「ダメージは確かに止まった……。てことは、カインズは何故死んだんだ……? あの武器だけの特性なのか……あるいは未知のスキルか……ってうわ!?」
最後の叫び声の理由は――。
いきなりアスナが、俺の左手を両手で掴んで引き寄せて、ピックが刺さっていた箇所をぺろっと舐めたことによるものだ。
「おまっ……な……なっ……」
すぐに顔を背け、横目で俺を見て、曰く。
「がんばったから、ごほーび」
――――――――。
突然心臓がばくばく言い出したのは、ただびっくりしたからだ。
それだけだ、絶対に。
SAOex5_02_Unicode.txt
† 7 †
9時ぴったりに宿屋から出てきたヨルコは、余り眠れなかったらしく、何度も瞬きを繰り返しながら俺とアスナにぺこっと一礼した。
同じように頭を下げてから、まずは詫びる。
「悪いな、友達が亡くなったばっかりなのに……」
「いえ……」
ブルーブラックの髪を揺らし、ヨルコはかぶりを振った。
「いいんです。私も、早く犯人を見つけて欲しいですし……」
言いながら視線をアスナに移した途端、目を丸くする。
「うわぁ、凄いですね。その服ぜんぶ、アシュレイさんのワンメイク品でしょう。全身揃ってるとこ、初めて見ましたー」
……また新しい名前が出てきたぞ、と思いながら俺は訪ねた。
「それ、誰?」
「知らないんですかぁ!?」
だめな人を見る目で俺を眺めてから、ヨルコは解説してくれた。
「アシュレイさんは、アインクラッドで一番早く裁縫スキル1000を達成したカリスマお針子ですよ! 最高級生地のレア素材持参じゃないと、なかなか作ってもらえないんですよー」
「へーっ!」
素直に感心する。アホみたいに戦闘ばかりしている俺とても、片手直剣スキルが1000に到達したのはそう昔の話ではない。
ついついアスナの頭からつま先まで視線を高速移動させていると、細剣使いは頬の辺りを引き攣らせ、ひと言叫んで歩きはじめてしまった。
「ち……違うからね!」
――何がどう違うんでしょうか。
やけに得心したふうのヨルコと、さっぱり解らない俺を引き連れて、アスナは昨夜夕食を食べ損ねたレストランのドアを潜った。
時間が時間だけあって、店内に他のプレイヤーの姿はない。一番奥まったテーブルにつき、ちらりとドアまでの距離を確かめる。これだけ離れていれば、大声で叫びでもしない限りは、店の外まで会話が漏れることはない。
ナイショ話をしたいなら宿屋の部屋をロックするのが一番、と俺も以前は思っていたが、それだと逆に聞き耳スキルの高い奴に盗み聞きされてしまう危険が高まると最近学んだ。
ヨルコも朝食はもう済ませたというので、三人同じお茶だけをオーダーし、速攻届いたところで改めて本題に入る。
「まず、報告なんだけど……昨夜、黒鉄宮の『生命の碑』を確認してきたんだ。カインズさんは、あの時間に確かに亡くなってた」
俺の言葉に、ヨルコは短く息を吸い込み、瞑目してからこくりと頷いた。
「そう……ですか。有難うございました、わざわざ遠いとこまで行って頂いて……」
「ううん、いいの。それに、確かめたかった名前が、もう一つあったし」
さっと首を振ってから、アスナがややひそめられた声で、最初の重要な質問を放った。
「ね、ヨルコさん。あなた、この名前に聞き覚えはある? 一人は、多分鍛冶プレイヤーで、『グリムロック』。そしてもう一人は、槍使いで……『シュミット』」
俯けられたヨルコの頭が、ぴくりと震えた。
やがて、ゆっくりとした、しかし明確な肯定のジェスチャーがあった。
「……はい、知ってます。二人とも、昔、私とカインズが所属してたギルドのメンバーです」
か細い声に、俺とアスナはちらっと視線を見交わした。
やはりそうか。となれば、もう一つの推測――かつて、そのギルドで今回の事件の原因となる『何か』があったのかどうかも確認せねばならない。
今度は、俺が二つ目の質問を発した。
「ヨルコさん。答えにくいことだと思うんだけど……事件解決のために、本当のところを聞かせてほしいんだ。俺たちは、今回の事件を『復讐』だと思っている。カインズさんは、そのギルドで起こった何らかの出来事のせいで、犯人の恨みを買い、報復されたんじゃないかと……。何か、心当たりはないかい……?」
今度は、すぐには答えが返ってこなかった。
ヨルコは俯いたまま、長い沈黙を続けたあと、かすかに震える手でお茶のカップを持ち上げ、唇を湿らせてからようやく頷いた。
「……はい……あります。そのせいで、私たちのギルドは消滅したんです。忘れたかった……忘れたはずの出来事ですけど……お話しします……」
――ギルドの名前は、『黄金林檎』っていいました。べつに攻略目的でもなんでもない、総勢たった8人の弱小ギルドで、宿代と食事代のためだけの安全な狩りだけしてたんです。
でも、半年前……去年の秋口のことでした。
中間層の、なんてことないサブダンジョンに潜ってた私たちは、それまで一度も見たことのないモンスターとエンカウントしたんです。全身まっくろのトカゲ型で、もの凄くすばしっこい……一目でレアモンスターだって解りました。大騒ぎになって、夢中で追いかけまわして……誰かの投げたダガーが、偶然、ほんとにものすごいラッキーで命中して、倒せたんです。
ドロップしたアイテムは、地味な指輪がひとつだけでした。でも、鑑定してみて皆びっくりしました。敏捷力が、20も上がるんですよ。そんなアクセサリ、たぶんいまの最前線でもドロップしてないと思います。
そこから先は……想像、できますよね。
ギルドで使おうって意見と、売って儲けを分配しようって意見で割れて、かなりケンカに近い言い合いになったあと、多数決できめたんです。結果は、5対3で売却でした。そこまでのレアアイテム、とても中層の商人さんには扱えないので、ギルドリーダーが最前線まで持っていって競売屋に委託することになりました。
その日はそこで解散して、オークションが終わってリーダーが帰ってくるのをわくわくしながら待ちました。8人で分配してもきっとすごいお金になるから、あのお店の武器を買おうとか、ブランドのお洋服買おうとか、カタログ見ながらあれこれ考えて……、その時は、まさか……あんなことになるなんて……。
…………リーダー、帰ってこなかったんです。
翌日夜の待ち合わせを一時間過ぎても、メッセージ一つ届かなくて。位置追跡も反応ないし、こっちからのメッセージ送っても返事がないし。
嫌な予感がして、何人かで、黒鉄宮の『生命の碑』を確認にいきました。
そしたら…………。
ヨルコはそこでぎゅっと唇を噛み、ゆっくりと首を左右に振った。
俺とアスナは、しばしかけるべき言葉を見つけられなかった。
幸い――と言うべきか、ヨルコはやがて目尻を拭うと顔を上げ、震えてはいるがはっきりした口調で告げた。
「死亡時刻は、リーダーが指輪を預かって上層に行った日の夜中、一時過ぎでした。死亡理由は……貫通属性ダメージ、です」
「……そんなレアアイテムを抱えて圏外に出るはずがないよな。てことは……『睡眠PK』か」
俺が呟くと、アスナもかすかに首肯した。
「半年前なら、まだ手口が広まる直前だわ。宿代を惜しんで、パブリックスペースで寝る人もそれなりに居た頃よ」
「前線近くは宿屋も高いしな……。ただ……偶然とは考えにくいな。リーダーさんを狙ったのは、指輪のことを知っていたプレイヤー……つまり……」
瞑目したヨルコが、こくりと頭を動かした。
「ギルド『黄金林檎』の残り七人……の誰か。私たちも、当然そう考えました。ただ……その時間に、誰がどこに居たのかをさかのぼって調べる方法はありませんから……皆が皆を疑う状況のなか、ギルドが崩壊するまでそう長い時間はかかりませんでした」
再び、重苦しい沈黙がテーブル上を這った。
嫌な話だ、とても。
同時に、あり得ることだ。じゅうぶんに。
万に一つの幸運でドロップしたレアアイテムが原因で、それまで不和の兆しすらなかった仲良しギルドが崩壊してしまう例というのは実はそう珍しいことではない。話としてあまり聞かないのは、当事者たちにとっては消し去ってしまいたいだけの記憶だからだ。
しかし、ここで俺はどうしても、ヨルコにしなければならない質問があった。
沈鬱な表情で俯く女性に、俺はあえて渇いた口調で尋ねた。
「ひとつ、教えてほしい。そのレア指輪の売却分配に反対した三人の、名前は……?」
さらに数秒間黙りつづけてから、ヨルコは意を決したように顔を上げ、はっきりと答えた。
「カインズ、シュミット……そして、私です」
† 8 †
やや意外な回答、ではあった。
無言で瞬きだけをした俺に向かって、ヨルコはかすかに自嘲の滲む言葉を続けた。
「ただ、反対の理由は、彼らと私で少し違いました。カインズとシュミットは、前衛戦士として自分で使いたいから。そして私は……当時、カインズと付き合いはじめていたからです。ギルド全体の利益よりも彼氏への気兼ねを優先しちゃったんです。バカですよね」
口をつぐみ、テーブルに視線を落とすヨルコに、これまで長く沈黙していたアスナが柔らかい語調で訊ねた。
「ね、ヨルコさん。もしかして……あなた、カインズさんと、ずっとお付き合いしてたの……?」
すると、ヨルコは俯いたまま、ゆっくりと首を左右に振った。
「……ギルド解散と同時に、自然消滅しちゃいました。たまに会って、ちょこっと近況報告するくらいで……やっぱり、長く一緒にいればどうしても指輪事件のこと思い出しちゃいますから。昨日もそんな感じで、ご飯だけの予定だったんですけど……その前に、あんなことに……」
「……そう……。――でも、ショックなのは変わらないわよね。ごめんなさいね、辛いこと色々訊いちゃって」
ヨルコは再び短くかぶりを振った。
「いえ、いいんです。それで……グリムロックですけど……」
突然その名前を切り出され、俺は思わずまっすぐに座りなおした。
「……彼は『黄金林檎』のサブリーダーでした。そして同時に、ギルドリーダーの旦那さんでもありました」
「え……、リーダーさんは、女の人だったのか?」
思わず確認すると、ヨルコはこくりと頷いた。
「ええ。とっても強い……と言ってもあくまでボリュームゾーンでの話ですけど……強い片手剣士で、美人で、私はすごく憧れてました。だから……今でも信じられないんです。あのリーダーが、たとえ『睡眠PK』にせよ、むざむざ殺されちゃうなんて……」
「……じゃあ、グリムロックさんもショックだったでしょうね。結婚までするほど好きだった相手が……」
アスナの呟きに、ヨルコはぶるっと身体を震わせた。
「はい。それまでは、いつもニコニコしてる優しい鍛冶屋さんだったんですけど……事件直後からは、とっても荒んだ感じになっちゃって……ギルド解散後は誰とも連絡取らなくなって、今はもうどこに居るかも分からないです」
「そうか……。辛い質問ばかりして悪いけど、最後にもう一つだけ教えてほしい。昨日の事件……カインズさんを殺したのがグリムロックさんだ、という可能性は、あると思うか? 実は、カインズさんの胸に刺さっていた黒い槍……鑑定したら、作成したのはグリムロックさん当人だったんだ」
この問いはつまり、半年前の『指輪事件』の真犯人がカインズである可能性があるか、と尋ねているに等しい。
ヨルコは長い逡巡を見せたあと、ごく僅かな動きで、首を縦に振った。
「……はい、そう思います。でも、カインズも、私も、リーダーをPKして指輪を奪ったりなんかしてません。無実の証拠はなにも無いですけど……。もし昨日の事件の犯人がグリムロックさんなら……あの人は、指輪売却に反対した三人を、全員殺すつもりなのかもしれません……」
俺とアスナは、ヨルコをもとの宿屋に送り届けたあと、数日分の食料アイテムを渡して絶対に部屋から出ないよう言い含めた。
せめてもの配慮として、宿屋でもっとも広い三部屋続きのスイートに移動してもらい、料金も一週間ぶん前払いしておいたが、暇つぶしにネットゲームをすることもできないアインクラッドでは閉じこもっているにも限度がある。なるべく早く事件を解決すると約束し、俺たちは宿屋を後にした。
「……ほんとは、KoBの本部に移ってもらえればもっと安心なんだけどね……」
アスナの言葉に、俺は55層『鉄の都』グランザムに新設されたばかりのKoBギルド本部の威容を思い出しながら頷いた。
「まあな……。でも、本人がどうしても嫌だって言うなら無理強いもできないしな」
ヨルコをKoB本部で保護するためには、事情をギルドにあまさず説明せねばならない。それはつまり、半年前の『黄金林檎』解散劇の一部始終がオープンになるということだ。ヨルコはおそらく、カインズの名誉のためにそれを拒んだのだろう。
転移門広場まで戻ると同時に、街に十一時の鐘が響いた。
雨はようやく上がったが、代わりに濃い霧が漂い始めた。俺はそれを透かして、黒とアッシュピンクで統一された装いのアスナを見やり、口を開きかけた。
「さて、これから……」
「……?」
尻切れトンボに黙り込んだ俺に、アスナが首をかしげた。
今更すぎる――のは確かだろうが、やはりここはヒトコトでも言っておくべきなのだろうか。
「あ、いや、え――と。その……よ、よく似合ってますよ、それ」
おお言えた。これで俺も一流の紳士。
と思ったのも束の間、めりっと音がしそうなほどに剣呑な顔になったアスナが、右手の人差し指をどすんと俺の胸につきつけながら唸り声を出した。
「うー! そーゆーのはね、最初に見たときに言いなさい!!」
着替えてくる! と超高速反転したその横顔が、耳まで赤くなっていたのは、やはり激怒ゆえであろうか。
分からない。まったく分からない、女性というものは。
手近の無人家屋を利用して装備をふだんの騎士装に変更したアスナは、長い髪を背中に払いながらつかつかと戻ってくると言った。
「で、これからどうするの?」
「あ、は、はい。選択肢としては……その一、中層で手当たり次第にグリムロックの名前を聞き込んで居場所を探す。その二、ギルド黄金林檎のほかのメンバーを訪ねて、ヨルコの話の裏づけを取る。その三……カインズ殺害の手口の詳しい検討をする、くらいかな」
「ふむむ」
腕組みをし、アスナは首をかしげた。
「その一は、二人じゃちょっと効率悪すぎるわね。現在の推測どおりグリムロックが犯人なら、積極的に身を隠してるでしょうし。その二は……結局ほかのメンバーも当事者なんだから、裏の取りようがないって言うか……」
「へ? どういうこと?」
「つまり、仮にさっきのヨルコさんの話と矛盾する情報が聞けたとするじゃない? でも、私たちにはどっちが真実なのか断定するすべなんか無いってことよ。混乱するだけだわ。もうちょっと客観的な判断材料が欲しいわね……」
「じゃあ……その三か」
ちらりと目を見交わし、俺たちはこくりと頷いた。
そもそも俺とアスナがこの事件にここまで熱心に首を突っ込んでいるのは、ヨルコには申し訳ないが『黄金林檎』リーダー殺害事件の真相を暴くためではなく、カインズを殺した『圏内PK』の手口を突き止めるためなのだ。
昨夜、目の前で起きたあの事象に関して断定できたことは、『圏外で発生した貫通継続ダメージを圏内に持ち込んだものではない』という一点のみだ。他にどのような可能性があるのか、一度とことん議論しておく必要はある。
「でもな……もうちょっと、知識のある奴の協力が欲しいな……」
俺が呟くと、アスナが眉をひそめた。
「そうは言っても、無闇と情報をばら撒いちゃヨルコさんに悪いわ。絶対に信頼できる、それでいて私たち以上にSAOのシステムに詳しい人なんか、そうそう……」
「…………あ」
俺はふと、一人のプレイヤーの名前を思いつき、指をぱちんと鳴らした。
「いるじゃん。あいつ呼び出そうぜ」
「誰?」
俺が名を告げたとたん、アスナが目を剥いてのけぞった。
昼飯オゴるから、という俺署名の追記に惹かれたわけではないだろうが、アスナがメッセージを飛ばした30分後、本当にその男が現れたのには少々驚いた。
アルゲード転移門から音も無く進み出た長身の姿を見たとたん、広場に満ちるプレイヤーたちが激しくざわめいた。暗赤色のローブの背にホワイトブロンドの長髪を束ねて流し、一切の武器を持たない、SAOには存在しない『魔導師』クラスとすら思える雰囲気をまとう男――ギルド『血盟騎士団』リーダーにしてアインクラッド最強の剣士、『神聖剣』ヒースクリフは、俺たちを見るとぴくりと片方の眉を持ち上げ、滑るように近づいてきた。
アスナがびしいっと音がしそうな動作で敬礼し、急き込むように弁解した。
「すみません団長! このバ……いえ、この者がどうしてもと言ってきかないものですから……」
「何、ちょうど昼食にしようと思っていたところだ。かの『黒の剣士』キリト君にご馳走してもらえる機会など、そうそうあろうとも思えないしな」
滑らか、かつ鋼のようなテノールでそう言うヒースクリフの整った顔を見上げ、俺は肩をすくめた。
「あんたにはここのボス戦で10分もタゲ取ってもらった礼をまだしてなかったしさ。そのついでに、ちょっと興味深い話を聞かせてやるよ」
† 9 †
最強ギルドKoBのナンバー1と2を、俺はアルゲードでもっとも胡散臭い謎のNPCメシ屋に案内した。
迷宮のような隘路を、五分ほども右に折れ下に潜り左に回って上に登りした先に、ようやく現れた薄暗い店を眺めてアスナが言った。
「……帰りもちゃんと道案内してよね。わたしもうゲートまで戻れないよ」
「ウワサじゃあこの街には、道に迷ったあげく転移結晶も持ってなくて、延々さまよってるプレイヤーが何十人も居るらしいよ」
俺が薄く微笑みながらそう脅かすと、ヒースクリフが何事でもないように注釈を加えた。
「道端のNPCに頼めば10コルで広場まで案内してくれるのだ。その金額すらも持っていない場合は……」
上向けた両手をひょいっと持ち上げ、すたすた店に入っていく。
何ともいえない顔になったアスナとともに、俺も後を追った。
狭い店内は、期待通りまったくの無人だった。安っぽいテーブルにつき、陰気な店主にアルゲードそば三人前を注文してから、曇ったコップで氷水をすする。
「なんだか……残念会みたくなってきたんだけど……」
「気のせい気のせい。それより、忙しい団長どののために早速本題に入ろうぜ」
俺の向かいで涼しい顔をしているヒースクリフを、ちらっと見上げて俺は言った。
昨夜の事件のあらましを、アスナが的確かつ簡潔にまとめて説明するのを聞くあいだも、『神聖剣』の表情はほとんど変わることはなかった。ただ唯一、カインズの死の場面で、片方の眉がぴくっと動いた。
「……そんなわけで、ご面倒おかけしますが、団長のお知恵を拝借できればと……」
アスナがそう締めくくると、ヒースクリフはもう一くち氷水を含み、ふむ、と呟いた。
「では、まずはキリト君の推測から聞こうじゃないか。君は、今回の『圏内殺人』の手口をどう考えているのかな?」
話を振られ、俺は頬杖をついていた手をはずして指を三本立てた。
「まあ……大まかには三通りだよな。まず一つ目は、正当な圏内デュエルによるもの。二つ目は、既知の手段の組み合わせによるシステム上の抜け道。そして三つ目は……アンチクリミナルコードを無効化する未知のスキル、あるいはアイテム」
「三つ目の可能性は除外してよい」
即座にそう言い切ったヒースクリフの顔を、俺は思わずまじまじと凝視してしまった。アスナも同様に、二、三度瞬きしてから呟く。
「……断言しますね、団長」
「想像したまえ。もし君らがこのゲームの開発者なら、そのようなスキルなり武器を設定するかね?」
「まあ……しないかな」
「何故そう思う?」
磁力的な視線を放つ真鍮色の瞳をちらりと見返し、俺は答えた。
「そりゃ……フェアじゃないから。認めるのもちょい業腹だけど、SAOのルールは基本的にフェアネスを貫いてる。たった一つ、あんたの『ユニークスキル』を除いては、な」
最後の一言を、片頬の笑みとともに付け加えてやると、ヒースクリフも無言で同種の微笑を返してきた。少しばかりギクッとする。
いくらKoB団長とは言え、つい最近俺のスキルスロットに追加された『あれ』のことまでは知らないはずだ。
謎のニヤニヤ笑いの応酬を続ける俺とヒースクリフを順に見やって、アスナがため息混じりに首を振り、言葉を挟んだ。
「どっちにせよ、今の段階で三つ目の可能性を云々するのは時間の無駄だわ。確認のしようがないもの。てことで……仮説その一、デュエルによるPKから検討しましょう」
「よかろう。……しかし、料理が出てくるのが遅いな、この店は」
眉をひそめ、カウンターの奥を見やるヒースクリフに、俺は肩をすくめて見せた。
「俺の知る限り、あのマスターがアインクラッドで一番やる気ないNPCだね。そこも含めて楽しめよ。氷水なら幾らでもおかわりできる」
卓上の安っぽい水差しから、団長殿の前のコップにどばどば注いでから続ける。
「――圏内でプレイヤーが死んだならそれはデュエルの結果、てのがまぁ、常識だよな。だが、これは断言していいが、カインズが死んだときウィナー表示はどこにも出なかった。そんなデュエルってあるのか?」
すると、隣でアスナが軽く首をかしげた。
「……そういえば、今まで気にしたこともなかったけど、ウィナー表示の出る位置ってどういう決まりになってるの?」
「へ? ……うーん」
確かに、それは俺も考えもしなかったことだ。しかし、ヒースクリフは迷うふうもなく即座に答えた。
「決闘者ふたりの中間位置。あるいは、決着時ふたりの距離が十メートル以上離れている場合は、双方の至近に二枚のウインドウが表示される」
「……よく知ってんな、そんなルール。てことは……カインズから最も遠くても五メートル弱の位置には出たはずだな」
あの惨劇の様子を脳裏に再生し、俺はぷるぷる首を振った。
「周囲のオープンスペースには窓は出なかった。これは確実だ、目撃者があんだけ居たんだからな。あとは、カインズの背後の教会の中に出た場合だけど、それならあの時点で犯人もまた教会内部に居たはずで、カインズが死ぬ前に中に飛び込んでったアスナと鉢合わせてなきゃおかしい」
「そもそも、教会の中にもウィナー表示は出なかったよ」
アスナが付け加える。
うむむ、と唸ってから――。
「……デュエルじゃなかった……のか、やっぱり」
呟くと、うらぶれたメシ屋の店内に、いっそう濃い影が落ちた気がした。
「……選択間違ってない? このお店……」
呟いたアスナが、切り替えるようにコップを干し、たんっとテーブルに置いた。そこにすかさず氷水をなみなみ満たす俺。
微妙な顔でアリガトと言い、アスナは指を二本立てた。
「じゃあ、残る可能性は二つ目のやつだけね。『システム上の抜け道』。……わたしね、どうしても引っかかるのよ」
「何が?」
「『貫通継続ダメージ』」
テーブル上に、必要も無いのに置いてある爪楊枝(この世界では歯は汚れない)を一本抜き、アスナはそのささやかな武器でしゅっと空気を貫いた。
「あの槍は、公開処刑の演出だけじゃない気がするの。圏内PKを実現するために、継続ダメージがどうしても必要だった……そう思えるのよ」
「うん。それは俺も感じる」
頷いてから、しかし俺はおもむろにかぶりを振る。
「でも、それはさっき実験したじゃないか。たとえ圏外で貫通武器を刺しても、圏内に移動すればダメージは止まる」
「歩いて移動した場合は、ね。なら……『回廊結晶』はどうなの? あの教会の小部屋を出口に設定したクリスタルを用意して、圏外からテレポートしてくる……その場合も、ダメージは止まるのかしら?」
「止まるとも」
再び、ヒースクリフが切れ味鋭く即答した。
「徒歩だろうと、回廊によるテレポートだろうと、あるいは誰かに放り投げられようと、圏内……つまり街の中に入った時点で、『コード』は例外なく適用される」
「ちょっと待った。その、『街の中』てのは、地面や建物の内部だけか? 上空はどうなる?」
ふと、奇妙な空想にとらわれて俺は尋ねた。
あのロープ。槍に貫かれたカインズの首にロープを掛け、地面に触れないよう吊り上げたまま回廊を通して教会の窓からぶら下げる……?
これには、さしものヒースクリフもやや迷った様子を見せた。
しかしほんの二秒後、束ねられた長髪がゆっくり横に揺れた。
「いや――、厳密に言えば、『圏内』は街区の境界線から垂直に伸び、空の蓋、つまり次層の底まで続く円柱状の空間だ。その三次元座標に移動した瞬間、『コード』はその者を保護する。だから、仮に街の上空百メートルに回廊の出口を設定し、圏外からそこに飛び込んでも、落下ダメージは発生しないことになる。大いに不快な神経ショックを味わうことにはなるが」
「へえーっ」
俺とアスナは異口同音に嘆声を漏らした。
『圏内』エリアの形状にではない。そんなことまで知っているヒースクリフの博覧強記ぶりに対してだ。ギルドマスターというのはそこまで勉強しなきゃ務まらないのか、と思いかけたが、脳裏に某カタナ使いの無精ひげ面が浮かび即座に否定する。
しかし――。
となると、だ。例え『貫通継続ダメージ』と言えども、カインズが圏内に居た以上、その発生は停止していなくてはならない。つまりあの男のHPを削りきったのは、短槍『ギルティソーン』以外のダメージソースである、ということになる――のだが。そこに、抜け道がありはしないだろうか。
考え考え、ゆっくりと推測を口にする。
「……生命の碑には、カインズの死亡時刻とともに、その死亡原因も確かに表記されていた。『貫通属性攻撃』、とね。そして、カインズの消滅とともに現場に残ったのは、あの黒い槍だけだった」
「そうね。他の武器がひそかに用いられたとは考えにくいわ」
「いいか……」
俺は脳内で、強力なモンスターにクリティカルヒットを食らったときのあの胃がでんぐり返るような感覚を思い起こしながら先を続けた。
「物凄い威力の一撃をもらったとき、HPバーはどうなる?」
アスナは、何を今更と言いたげな眼で俺を見やり、答えた。
「ごっそり減るわよ、もちろん」
「その減りかただよ。あるハバが一瞬でゴソっと消滅するわけじゃなくて、右端からスライドして減っていくだろ。つまり、被弾と、その結果としてのHP減算のあいだには、僅かながらタイムラグがあるわけだ」
ここに至って、ようやくアスナは俺の言いたいことを察したようだった。ヒースクリフのほうは完璧な無表情を保っているので、内心はとても見抜けない。
二人を順繰りに見てから、俺は手振りとともに言った。
「例えば、だ。圏外において、カインズのHPを、槍の一撃で満タンからゼロまで持っていく。あいつは装備から見ても壁タイプの戦士だ、HPの総量はかなりの数字だったろう。バーが左端まで減り切るのに、そうだな……5秒はかかってもおかしくない。その間に、カインズを回廊で教会に送り、窓からぶら下げる……」
「ちょ……ちょっと待ってよ」
アスナが掠れた声で遮った。
「攻略組じゃなかったにせよ、カインズさんはボリュームゾーンでは上のほうのプレイヤーだった。そんな人のHPを単発ソードスキルで削りきるなんて、私にも……キミにも不可能なはずだわ!」
† 10 †
「まあ、そうだろうな」
軽く頷く。
「たとえ『ヴォーパル・ストライク』がクリティカルで入っても、半分も減らせないだろう。でも、SAOには何万というプレイヤーが居るんだ。攻略組に所属していない……つまり俺やアスナがまったく知らない、しかもレベルがはるかに上の剣士が存在するという可能性は否定できない」
「つまり……あの槍でカインズさんを殺したのがグリムロックさん本人なのか、依頼された『レッド』なのかは分からないけど、ともかくその当人は、フル武装の壁戦士《タンク》を一撃死させられるほどの実力者だ、って言いたいの……?」
肯定の意を示すためにひょいっと肩をすくめてから、俺は『先生』の採点を待つ気分で向かいに座る男を見やった。
ヒースクリフは、半眼に閉じた瞳をしばらくテーブルに向けていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「手法としては、不可能ではない。確かに、圏外において対象プレイヤーのHPを一撃で消失せしめ、あらかじめ開いておいたコリドーによって即座にテレポートさせれば、見かけ上の『圏内PK』を演出することは出来る」
おっ、もしや正解? と思ったのも束の間、よく通る声で「だが」の一言が続いた。
「……無論君も知っているだろうが、貫通武器の特性というのは、一にリーチ、二に装甲貫通力だ。単純な威力では、打撃武器や斬撃武器に劣る。重量級の大型ランスならまだしも、ショートスピアならば尚更だ」
これは痛いところを突かれた。
不貞腐れる子供のように唇を尖らせる俺に、かすかな笑みを向けてヒースクリフは続けた。
「決して高級品ではないショートスピアで、ボリュームゾーンの壁戦士を一撃死させようと思ったら……そうだな、現時点でレベル100には達している必要があろうかと思うが」
「ひゃくぅ!?」
素っ頓狂な声を出したのはアスナだ。
見開いたはしばみ色の瞳で、ヒースクリフと俺を順番に眺めてから、細剣使いはぷるぷると首を振った。
「い……居るわけないわよ、そんな人。今まで、君やわたしがどんだけ激しいレベリングをしてきたか、忘れたわけじゃないでしょう。レベル100なんて……二十四時間、最前線の迷宮区に篭もり続けたって絶対にムリだわ」
「私もそう思うね」
最強ギルドKoBのナンバー1と2に揃って否定されてしまえば、しがないソロプレイヤーに論理的反駁なぞできようはずもない。
しかし俺は、最後にぶちぶちと諦め悪く言い返した。
「……ぷ、プレイヤーのステータス由来じゃなくて、スキルの強さってセンもあるぜ。例えば、さ……じゃない、二人目の『ユニークスキル』使いが現れた、とかさ」
すると、暗赤色のローブの肩を揺らし、団長どのがかすかに笑った。
「ふ……、もしそんなプレイヤーが存在するなら、私が真っ先にKoBに勧誘しているよ」
そして内面のうかがい知れない目でじいっとこっちを見るものだから、俺はこのセンを引っ張ることを断念し、安物の椅子に背中を預けた。
「うーん、いけると思ったんだけどなぁ。あとは……」
フィールドボスモンスターに頼んで一撃くらわしてもらう、等と頭の悪いアイデアを口にする前に、俺の隣にのそっと立つ人影があった。
「……おまち」
やる気の無い声とともに、NPC店主は四角い盆からドンブリを三つテーブルに移した。油染みのあるコック帽の下に伸びる長い前髪のせいで、顔はさっぱり見えない。
他の層の、清潔で礼儀正しくキビキビしたNPC店員ばかり見慣れているのだろうアスナの唖然とした視線に見送られながら、店主はのそのそとカウンターの向こうに戻っていった。
俺は卓上から安っぽいワリバシを取り、ぱきんと割って、ドンブリを一つ引き寄せた。
同じようにしながら、アスナが低い声で言った。
「……なんなの、この料理? ラーメン?」
「に、似た何か」
答え、俺は薄い色のスープに沈むちぢれメンを引っ張り上げた。
うらぶれた店内に、しばしズルズルという音が三つ、わびしく響いた。
ノレンの外をかさかさと乾いた風が吹きぬけ、表で謎の鳥がクアーと長く鳴いた。
数分後、空になったドンブリをテーブルの端に押しやってから、俺は向かいの男を見やった。
「……で、団長どのは、何か閃いたことはあるかい?」
「…………」
スープまできっちり飲み干し、ドンブリを置いたヒースクリフは、その底の漢字っぽい模様を凝視しながら言った。
「……これはラーメンではない。断じて違う」
「うん、俺もそう思う」
「では、この偽ラーメンぶんだけ答えよう」
顔を上げ、ぱちんとワリバシを置く。
「……現時点の材料だけで、『何が起きたのか』を断定することはできない。だが、これだけは言える。いいかね……この事件で、唯一確かなのは、君らがその目で見、その耳で聞いた一次情報だけだ」
「……? どういう意味だ……?」
「つまり……」
ヒースクリフは、真鍮色の双眸で、並んで座る俺とアスナを順番に見つめ、言った。
「アインクラッドに於いて直接見聞きするものはすべて、コードに置換可能なデジタルデータである、ということだよ。そこに、幻覚幻聴の入り込む余地はない。逆に言えば、デジタルデータでないあらゆる情報には、常に幻、欺瞞である可能性が内包される。この殺人……『圏内事件』を追いかけるのならば、目と耳、つまるところ己の脳が受け取ったデータだけを信じることだ」
ごちそうさまキリト君、と最後に言い添え、ヒースクリフは立ち上がった。
謎めいた剣士の言葉の意味を考えながら、俺も席を立ち、店主に「ごっそさん」と声をかけてノレンを潜った。
前に立つヒースクリフの、「何故こんな店が存在するのだ……」という呟きが、かすかに耳に届いた。
迷路のような街並みに溶けるように団長どのが消えてしまうと、俺は隣に立ち尽くすアスナに向き直り、訊ねた。
「……お前、さっきの、意味わかった?」
「……うん」
頷くので、おおさすが副長、と思う。
「アレだわ。つまり『醤油抜きの東京風しょうゆラーメン』。だからあんなワビシイ味なんだわ」
「へ?」
「決めた。わたしいつか必ず醤油を作ってみせるわ。そうしなきゃ、この不満感は永遠に消えない気がするもの」
「……そう、頑張って……」
うんうん、と頷いてから、そうじゃなくて! と一応つっこむ。
「え? 何、キリトくん?」
「変なもん食わせたのは悪かった、謝る、だから忘れてくれ。それじゃなく、ヒースクリフの奴、なんか禅問答みたいこと言ってただろ。あれの意味」
「ああ……」
アスナは今度こそしっかり頷き、答えた。
「あれはつまり、伝聞の二次情報を鵜呑みにするな、って意味でしょう。この件で言えば、つまり、動機面……ギルド黄金林檎の、レア指輪事件のほうを」
「ええー?」
俺は思わず唸り声を出した。
「ヨルコさんを疑えってのか? そりゃまあ、証拠なんかまるで無い話ではあるけど……さっきアスナも、今更裏づけの取りようもないから、疑っても意味ないって言ってたじゃないか」
するとアスナは、一瞬ぱちくりと俺を見てから、ふいっと顔を背けてこくこく頷いた。
「ま、まあ、それはそうなんだけどね。でも、団長の言うとおり、PK手段を断定するにはまだ材料が足らなすぎるわ。こうなったら、もう一人の関係者にも直接話を聞きましょう。指輪事件のことをいきなりぶつければ、何かぽろっと漏らすかもしれないし」
「へ? 誰?」
「もちろん、きみからあの槍をかっぱらってった人よ」
† 11 †
視界右下端の数字が、ちょうど14:00を示した。
普段なら、昼飯タイムを終え、迷宮区攻略・午後の部が絶賛開催中の頃合だ。しかし今日はもう街から出る余裕はあるまい。最前線のフィールドを横切り、ダンジョンの未踏破エリアに着く頃には日が暮れてしまう。
俺のほうは、「天気がいいから」という理由だけでサボるような不真面目君なのでどうということもないが、二日連続で攻略を休んでしまうハメになった『閃光』の心中やいかに。
と思いつつ、隣を歩くアスナの様子を横目で探ったが、意外にも日ごろより雰囲気が和らいでいるように思えた。アルゲード裏通りの謎いショップを冷やかしたり、どこに続くのかわからない暗渠を覗き込んだり――俺の視線に気付くや、ぱちぱちと瞬きしてから、ん? という感じで微笑んだりもするではないか。
「どうしたの?」
訊かれ、俺はぷるぷる首を振った。
「い……いえ、なんでもないです」
「変な人ー。今に始まったことじゃないけど」
くすっと笑い、両手を腰の後ろで組み合わせて、ととんとステップを踏むようにブーツの踵を鳴らす。
まったく、変なのはどっちなのだ。これが本当に、昨日ヒルネ中の俺に雷を落とした攻略の鬼と同一人物なのか。あるいは、何だかんだ言って『アルゲードそば』が気に入ったのだろうか。ならば次はぜひあの店で、更なる混沌の味『アルゲード焼き』を試していただきたい。
等と考えているうちに、やっとこ前方から転移門広場の喧騒が近づいてきた。幸い今回は、道案内NPCの世話になることなく戻ってこられたようだ。
俺は妙に落ち着かない気分をむりやり切り替えるため、ひとつ咳払いをした。
「ウホン……さてと、次はシュミット主将に話を聞くわけだけど。考えてみたら、この時間、聖竜も狩りに出てるんじゃないの?」
「んー、それはどうかしらね」
微笑を消したアスナが、華奢なおとがいに指先をあてて答えた。
「ヨルコさんの話を信じれば、シュミット君も『指輪売却派』の一人で……つまり、カインズさんと立場を同じくしているわけよね。本人にもその自覚があるのは、昨日きみの前に現れたときの様子からも明らかでしょう。謎の『レッド』に狙われてる……と思われる状況で、圏内から出るかしら」
「ああ……言われてみれば、そうかもな。でも、その『レッド』は、圏内PK手段を持ってる可能性が高いんだぜ。街に居ても、絶対に安全とは言い切れない」
「だからこそ、せめて最大限の安全を確保しようとするでしょうね。宿屋に閉じこもるか、あるいは……」
そこまで聞いて、俺はようやくアスナの言わんとするところを悟った。指をぱちんと鳴らし、続ける。
「あるいは『篭城』するか、だな。DDAの本部に」
最強ギルドのひとつ聖竜連合が、56層に華々しくギルド本拠《ホーム》を構えたのはつい先日のことだ。血盟騎士団本部のある55層のひとつ上なのは決して偶然ではあるまい。豪勢極まる披露パーティーには、何のお情けか俺も呼ばれたが、ホームよりもキャッスルというべき大仰さには驚き呆れたものだ。せめてものイヤガラセに、クラインやエギルと卓上のご馳走を片っ端から平らげてやったが、過剰な味覚信号が入力されたせいかその後三日も腹部の膨満感に悩まされた。
アルゲードの転移門から移動した俺は、街を見下ろす小高い丘にそびえ建つ忌まわしき飽食の城を睨み、うえっぷとおくびを漏らした。
アスナのほうは特に感慨もないらしく、すたすたと赤レンガの坂道を登っていく。
銀の地に青いドラゴンを染め抜いたギルドフラッグが翻る白亜の尖塔群を見上げながら、俺はしつこくぼやいた。
「しっかし、いくら天下のDDA様と言っても、よくこんな物件買う金があるよなぁ。どうなんすかそのへん、KoBの副長どのとしては」
「まーね、ギルドの人数だけで言えば、DDAはうちの倍はいるからね。それにしたってちょっと腑に落ちない感じはするけど。うちの会計のダイゼンさんは、『えろう高効率のファーミングスポットを何個も抱えてはるんやろなぁ』って言ってた」
「へええ」
ファーミング、というのは、大量のMoBを高回転で狩りつづけることを指すMMO用語だ。俺が去年の冬、とある事情で無茶なレベリングにまい進したときに篭もった『アリ谷』などが代表的なスポットだが、その場所で発生した経験値がある閾を超えると、SAO世界を支配するデジタルの神である『カーディナル・システム』の手によって効率が下方修正されてしまう。
ゆえに、優秀なファーミングスポットは全プレイヤーに公開し、その恩恵が枯れるまで公平に分け合いましょう、というのが攻略組の共通認識であるわけなのだが、DDAはそれに反してスポットをいくつか秘匿しているのではないか――というのがアスナの言の要旨である。
ズルイと言えばズルイが、DDAが強化されれば結果として攻略組総体も強化されるわけで、真っ向正面から糾弾するわけにもいかない。
その先には、最終的に、攻略組という存在そのものにつきまとう自己矛盾が現れてくるからだ。デスゲームからの解放を錦の御旗に、システムが供給するリソースの大部分を独占し、恐るべき先細りのヒエラルキーを維持し続けようとする俺たち全員のエゴが。
そう考えれば、攻略組の対極に存在する組織『アインクラッド解放軍』の主張する、全プレイヤーの獲得リソースの一極徴収・公平分配――という方針も、あながち妄言と一蹴できないのかもしれない。
そう――、仮に『軍』のその主張が実現していれば、恐らくは今回の『圏内事件』も起こらなかったのだ。原因となった指輪は、ドロップした瞬間に徴税され、売却され、利益が数万に分割されて融けて消えたのだろうから。
「まったく……、ほんとに嫌な性格してるよ、このデスゲームを創った奴は……」
なんでよりにもよってMMOなのだ。RTS《リアルタイムストラテジー》とか、FPS《ファーストパースンシューティング》とか、もっと公平で、刹那的で、一瞬でカタのつくゲームは山ほどあるというのに。
SAOは、高レベル者のエゴを試している。矮小な優越感と、仲間の――ひいては全プレイヤーの命を天秤にかけることを強制してくる。
指輪事件の犯人は、その我執に呑まれたのだ。
俺にとっては、まったく他人事ではない。レアなマジックアイテムなど比較にならぬほど重大な秘密を、己のステータスウインドウに独占している俺には。
――と、俺の呟きを聞いたのか、まるで全思考までもトレースしたようにアスナが囁いた。
「だから、この事件はわたし達が解決しなきゃいけないんだよ」
そして、俺の右手を一瞬きゅっと握り、揺るがぬ強さの滲む微笑みを見せると、すぐ目の前に迫った巨大な城門に確かな足取りで歩み寄って行った。
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† 12 †
ギルドの本拠地として登録されている建築物の敷地には、基本的に所属メンバーしか立ち入ることはできない。プレイヤーホームと同じ扱いというわけだ。だから本来ならば門番など必要ないのだが、人手に余裕のあるギルドは、警備というより来客の取次ぎのために交代制で人員を配置していることが多い。
聖竜連合もその例に漏れず、麗々しい城門には二人の重装槍戦士が仁王像のように立ちはだかっていた。
門番つうか、RPGの中ボスだよな絶対。などと考え、思わず内心で構えてしまう俺とは異なり、アスナはすたすたと右側の男に近寄るとさらりと挨拶した。
「こんにちは。わたし、血盟騎士団のアスナですけど」
すると、巨躯の戦士は一瞬上体をのけぞらせ、軽い声を出した。
「あっ、ども! ちゅーっす、お疲れっす! どーしたんすかこんなトコまで!」
ぜんぜん仁王様でも中ボスでもなかった。アスナは見事なスマイルを、駆け寄ってきた左の男にも惜しげなくサービスし、用件を切り出した。
「ちょっとお宅のメンバーに用があって寄らせてもらったの。シュミットさんなんだけど、連絡してもらえます?」
すると男たちは顔を見合わせ、片方が首を捻った。
「あの人は今前線の迷宮区じゃないっすかね?」
それに、もう一方が答える。
「あ、でも、朝メシのときに『今日は頭痛がするから休む』みたいなこと言ってたかも。もしかしたら自分の部屋に居るかもしれないから、呼んでみるッスね」
実に協力的でびっくりしてしまう。DDAとKoBはギルド単位では決して仲がいいとは言えないはずだが、個人ではその限りではないのか――あるいは、アスナの魅力パラメータの力か。後者だとしたら、俺は出ていかないほうがよさそうだ。
城門にほど近い木の幹に張り付くようにして軽く隠蔽レベルを上げてみたりしている間に、門番の一人がすばやくメッセージを打ち、送信した。
するとわずか三十秒ほどで返信があったらしく、俺はほっと息をついた。やはりシュミットはこの城に立てこもっているのだ。前線のダンジョンで戦闘中なら、そんな素早いレスポンスはとても出来ない。
文面をちらっと見た門番は、困ったように眉を寄せた。
「やっぱ今日は休みみたいっすけど……でも、なんか、用件を聞けとか言ってるんですけど」
するとアスナは、少し考え、短く答えを口にした。
「じゃあ、『指輪の件でお話が』とだけ伝えてください」
効果は覿面だった。
頭痛で臥せっているはずの男は、物凄いダッシュで城門に駆けつけるや否や、「場所を変えてくれ」とひと言唸ってそのまま丘を降りはじめた。顔を見合わせ、同時に肩をすくめてから、俺とアスナもその後を追った。
のしのし歩くシュミットの格好は、昨日俺から槍を巻き上げていった時と同じ、高級そうなプレートアーマーだった。しかも、その下に薄手のチェインメイルまで重ねている。さすがに両手用ランスまでは背負っていないが、装備重量はたいへんなものだろう。その重さを感じさせずに高速前進していく様は、前衛戦士というよりはアメフトの選手のようだ。
SAOプレイヤーにはごく珍しい体育会系オーラを纏った大男は、坂道を降りきって市街に入ったところでようやく足を止め、がしゃりと鎧を鳴らして振り向きざまに詰問してきた。
「誰から聞いたんだ」
「へ?」
と訊き返しかけてから、「指輪のことを」が省略されているのだと気付き、慎重に答える。
「ギルド『黄金林檎』の元メンバーから」
とたん、逆立つ短髪の下で、太い眉毛がびくりと動いた。
「名前は」
ここで俺はやや迷ったが、仮にシュミットが昨日の事件の犯人ならば、当然カインズがヨルコと一緒にいたことは知っているはずだ。今更名前を伏せる意味はない。
「ヨルコさん」
答えると、大男は一瞬放心したように視線を上向け、次いでふうううっと長く息を吐いた。俺は無表情を保ちながら、素早く考えた。今の反応が見た目どおり『安堵』ならば、それはヨルコが自分と同じ側、つまり『指輪売却派』だったことを知っているからだろう。
やはりシュミットもすでに、昨日の事件の構図が、グリムロックを含む『売却反対派』の誰かによる『売却派』への復讐であるという可能性に辿り着いているのだ。だからこそ、仮病で狩りを休み安全なギルド本部に立てこもっていた。
現時点では、シュミットがカインズ殺害の犯人であるという線はかなり薄くなってきているが、それでも動機がないわけではない。例えば指輪事件の犯人はカインズとシュミットで、口封じのために一方が一方を殺した可能性は残る。そう考えつつ、俺は直球な質問を放った。
「シュミットさん。昨日あんたが持っていった槍を作ったグリムロック氏、今どこにいるか知ってるか?」
「し……知らん!!」
叫びながら、シュミットは激しく首を振った。
「ギルド解散以来いちども連絡してないからな。生きてるかどうかも知らなかったんだ!」
早口で言いながらも、視線が街並みのあちこちを彷徨う。まるで、どこからか槍が飛んでくるのを怖れるように。
と、ここで今まで黙っていたアスナが、穏やかな声で話しかけた。
「あのね、シュミットさん。わたし達は、黄金林檎のリーダーさんを殺した犯人を捜してるわけじゃないの。昨日の事件を起こした人を……もっと言えば、その手口をつきとめたいだけなのよ。『圏内』の安全を今までどおりに保つために」
わずかな間を取り、いっそうの真剣味を加えて続ける。
「……残念だけど、現状でいちばん疑わしいのは、あの槍を鍛えた……そしてギルドリーダーさんの旦那さんでもあったグリムロックさんです。もちろん、誰かがそう見せかけようとしている可能性もあるけど、それを判断するためにも、どうしてもグリムロックさんに直接話を聞きたいの。今の居所か、あるいは連絡方法に心当たりがあったら、教えてくれませんか?」
大きなヘイゼルの瞳で凝と見詰められ、シュミットは僅かに上体を引いた。
そのままぷいっと横を向き、口元をかたくなに引き結んでしまう。アスナの正面攻撃も効かないとは、これは一筋縄ではいかないかと俺はため息を飲み込んだ。しかし、直後。
「…………居所は本当にわからない。でも」
ぼそぼそとシュミットは話しはじめた。
「当時、グリムロックが異常に気に入ってたNPCレストランがある。ほとんど日に一度は行ってたから、もしかしたら今でも……」
「ほ、ほんとか」
俺は身を乗り出しながら、同時に考えた。
アインクラッドでは、食べることがほとんど唯一の快楽と言っていい。そして同時に、廉価なNPC料理で好みの味が見つかることはかなり稀だ。俺とても、日々の食事はわずか三軒のレストランをローテーションしているのだ。
毎日行くほど気に入った店なら、ずっと断ちつづけることはなかなかに難しいはずだ。
「なら、その店の名前を……」
「条件がある」
言いかけた俺の言葉を、シュミットが半ばで遮った。
「教えてもいいが、一つだけ条件がある。…………彼女に、ヨルコに会わせてくれ」
シュミットを手近な道具屋で待たせ、俺とアスナは出された条件について手短に話し合った。
「危険は……ないわよね? あるのかしら?」
「う、うーん……」
アスナに問われ、しかし俺も即座には判断ができずにしばし唸った。
仮にシュミットが、あるいはほとんど有り得ないだろうがヨルコが昨日の圏内殺人の犯人だったとすると、どちらの場合も一方がもう一方を次の標的にしている可能性は高い。引き合わせたその場で謎の『圏内PK技』が炸裂し、新たな死者が出てしまうという展開だって絶対にないとは言えない。
ただ、その場合も、武器を装備してソードスキルを発動させる手順は絶対に必要になるはずだ。そしてイクイップ操作には、ウインドウを開いて装備フィギュアをいじりOKボタンを押すだけの、最低でも四、五秒はどうしても要求される。
「…………俺たちが目を離さなければ、PKのチャンスは無いはずだ。でも、それが目的じゃないとすると、そもそもシュミットの奴なんで今更ヨルコさんに会わせろなんて言い出すんだ」
両手を軽く広げてみせると、アスナも大きく首を傾げる。
「さあ……実は片想いしてた、とかじゃ……ないわよね、うん」
「えっ、マジで」
俺は思わず、朴訥そうと言えなくもない外見のシュミット氏を振り向こうとしたが、アスナにコートの襟を引っ張られ制止されてしまった。
「違うって言ってるでしょ! ……ともかく、危険がないならあとはヨルコさん次第だわ。メッセージ飛ばして確認してみる」
「は、はい、お願いします」
アスナはウインドウを開くや、猛烈な速度でホロキーボードをタイプした。この『インスタント・メッセージ』は即時に連絡が取れる便利な機能だが、たとえ相手の名前が判っていても、フレンド登録しているか同じギルドのメンバーか、あるいは結婚していないと利用できない。よってグリムロック氏への連絡には使えないわけだ。
ほんの一分足らずで返信があったらしく、アスナは開いたウインドウを一瞥するや頷いた。
「OKだって。じゃあ……ちょっと不安だけど、案内しましょう。場所はヨルコさんが泊まってる宿屋でいいわよね」
「うん。彼女を外に出すのはまだ危険だからな」
同意してから、俺は今度こそ背後の道具屋で待っているシュミットに向き直った。頷きかけると、重武装の大男は、あからさまにほっとした顔になった。
三人で五十七層主街区マーテンの転移門から出たときには、街はすでに夕景に包まれていた。
広場にはNPCや商人プレイヤーの屋台が立ち並び、賑やかな売り声を響かせている。その間を、一日の疲れを癒しにきた剣士たちが三々五々連れ立って歩いているが、広場のとある場所だけが、ぽかりと空疎な間隙を作っていた。
小さな教会に面した一画。言うまでもなく、昨日カインズという名の男が謎の惨死を遂げた場所だ。俺はどうしても吸い寄せられそうになる視線を無理やり前方に固定し、アスナとシュミットの前後を挟む並びで歩き始めた。
数分で目指す宿屋に到着し、二階へとのぼる。長い廊下の一番奥が、ヨルコが滞在――あるいは保護されている部屋だ。
ドアをノックし、キリトです、と名乗る。
すぐに細い声でいらえがあり、俺はノブを回した。『フレンドのみ開錠可』設定のドアロックが、かちんと軽い音を立てて解除される。
引きあけたドアの正面、部屋の中央に向かい合わせに置かれたソファの一方に、ヨルコが腰掛けていた。す、と立ち上がり、ウェーブのかかる髪を揺らして軽く一礼する。
俺はその場から動かずに、ヨルコの張り詰めた表情、そして背後のシュミットの同じく強張った顔を順番に見て、言った。
「ええと……まず、安全のために確認しておくけど、二人とも武器は装備しないこと、そしてウインドウを開かないことを守ってほしい。不快だろうけど、宜しく頼む」
「……はい」
「わかっている」
ヨルコの消え入りそうな声、シュミットの苛立ちの滲む声が同時に応じた。俺はゆっくり中に足を踏み入れ、シュミットを導きいれた。
随分と久しぶりに対面するはずの、元『黄金林檎』メンバー同士の二人は、しばし無言のまま視線を見交わしていた。
かつてはギルメンだったヨルコとシュミットだが、今となってはそのレベル差は二十を超えているだろう。しかし俺の目には、シュミットのほうが余計に緊張しているように見えた。
事実、先に口を開いたのはヨルコだった。
「……久しぶり、シュミット」
そして薄く微笑む。対するシュミットは、一度ぎゅっと唇を噛み、かすれた声で答えた。
「……ああ。もう二度と会わないだろうと思ってたけどな。座っていいか」
ヨルコが頷くと、フルプレートアーマーをがしゃがしゃ鳴らしながらソファーに歩み寄り、向かい側に座った。さぞかし窮屈だろうと思うが、除装する様子はない。
俺はアスナとちらりと目を見交わすと、ドアを閉めてロックされたことを確認し、向き合って座るヨルコとシュミットの東側に立った。反対側にはアスナが立つ。
数日間の缶詰を強いられるヨルコのためにいちばん高い部屋を借りたので、四人が環になってもまだ周囲は広々としていた。ドアは北側の壁にあり、西には寝室へと続くもう一つのドア、東と南は大きな窓になっている。
南の窓は開け放たれ、春の残照を含んだ風がそよそよと吹き込んでカーテンを揺らしていた。もちろん窓もシステム的に保護されており、誰かが侵入してくることは絶対にない。周囲の建物よりやや高台になっているので、白いカーテンのあいだから、濃い紫色に沈む街並みが遠くまで見渡せる。
風に乗って届いてくる街の喧騒を、ぽつりと発せられたヨルコの声が遮った。
「シュミット、いまは聖竜連合にいるんだってね。すごいね、攻略組のなかでもトップギルドだよね」
素直な賛辞と思えたが、シュミットは眉間のあたりにいっそうの険しさを漂わせ、低く答えた。
「どういう意味だ。不自然だ、とでも言いたいのか」
とげとげしいにも程がある返しに俺は目を剥いたが、ヨルコは動じなかった。
「まさか。ギルドが解散したあと、凄く頑張ったんだろうなって思っただけよ。私やカインズはくじけて上にのぼるのを諦めちゃったのに、偉いよね」
肩にかかる濃紺の髪をそっと払い、微笑む。
フルプレ装備のシュミットとは比較にならないが、今夜はヨルコも相当に着込んでいた。厚手のワンピースに革のダブレットを重ね、さらにベルベットのチュニックを羽織って肩にはショールまで掛けている。金属防具は無くとも、これだけ着込めば相当の防御力が加算されているはずだ。表面上は平静でも、やはり彼女も不安なのだろうか。
こちらは緊張を隠そうともしないシュミットが、がちゃっと鎧を鳴らして身を乗り出した。
「オレのことはどうでもいい! それより……、訊きたいのはカインズのことだ」
トーンを押し殺したものに変え、続ける。
「何で今更カインズが殺されるんだ!? あいつが……指輪を奪ったのか? GAのリーダーを殺したのはあいつだったのか!?」
GA、というのがGolden Apple、つまり黄金林檎の略称であることはすぐに解った。しかし、今の台詞は、シュミットが指輪事件および圏内殺人双方と無関係だと宣言したに等しい。これが演技だとしたら大したものだ。
低い叫びを聞いたヨルコの表情が、初めて変わった。微笑を消し、正面からシュミットを睨みつける。
「そんな訳ない。私もカインズも、リーダーのことは物凄く尊敬してたわ。指輪の売却に反対したのは、コルに変えてみんなで無駄遣いしちゃうよりも、ギルドの戦力として有効利用すべきだと思ったからよ。ほんとはリーダーだってそうしたかったはずだわ」
「それは……、オレだってそうだったさ。忘れるな、オレも売却には反対したんだ。だいたい……指輪を奪う動機があるのは、反対派だけじゃない。売却派の、つまりコルが欲しかった奴らの中にこそ、売り上げを独占したいと思った奴がいたのかもしれないじゃないか!」
がつっ、とガントレットを嵌めた右手で自分の膝を叩き、頭を抱え込む。
「なのに……、グリムロックはどうして今更カインズを……。反対派を全員殺す気なのか? オレやお前も狙われてるのか!?」
――演技、にはどうしても見えなかった。歯を食いしばるシュミットの横顔には、明確な恐怖が刻まれているように、俺には思えた。
怯えるシュミットに対して、再び平静さを取り戻したヨルコが、ぽつりと言葉を投げかけた。
「まだ、グリムロックがカインズを殺したと決まったわけじゃないわ。彼に槍を作ってもらった他のメンバーの仕業かもしれないし、もしかしたら……」
虚ろな視線を、ソファの前に置かれた低いテーブルに落とし、呟く。
「リーダー自身の復讐なのかもしれないじゃない? 圏内で人を殺すなんて、普通のプレイヤーにできるわけないんだし」
「な…………」
ぱくぱくと口を動かし、シュミットは喘いだ。これには俺も、少しばかりぞっとさせられたことを否定できない。
シュミットは微笑むヨルコを呆然と見やり、言った。
「だって、お前さっき、カインズが指輪を奪ったわけがないって……」
すぐには答えず、ヨルコは音もなく立ち上がると、一歩右に動いた。
両手を腰の後ろで握ると、南の窓に向かってゆっくり後ろ向きに歩いていく。スリッパが立てる音にあわせて、細かく切られた言葉が流れる。
「私、ゆうべ、寝ないで考えた。結局のところ、リーダーを殺したのは、ギルメンの誰かであると同時に、メンバー全員でもあるのよ。あの指輪がドロップしたとき、投票なんかしないで、リーダーの指示に任せればよかったんだわ。ううん、いっそリーダーに装備してもらえばよかったのよ。剣士として一番実力があったのはリーダーだし、指輪の能力を一番活かせたのも彼女だわ。なのに、私たちはみんな自分の欲を捨てられずに、誰もそれを言い出さなかった。いつかGAを攻略組に、なんて口で言いながら、ほんとはギルドじゃなくて自分を強くしたいだけだったのよ」
長い言葉が途切れると同時に、ヨルコの腰が南の窓枠に当たった。
そのままそこに腰掛けるようにしながら、ヨルコはもうひと言だけ付け加えた。
「ただ一人、グリムロックさんだけはリーダーに任せると言ったわ。だからあの人には、多分私たち全員に復讐する権利があるんだわ。そしてもちろん、リーダー本人にも」
しん、と落ちた沈黙のなか、冷たい夕暮れの風がかすかに部屋の空気を揺らした。
やがて、かちゃかちゃかちゃ、と小さく鳴り響いたのは、細かく震えるシュミットの体を覆う金属鎧だった。歴戦のトッププレイヤーは、蒼白になった顔を俯け、うわごとのように呟いた。
「…………冗談じゃない。冗談じゃないぞ。今更……半年も経ってから、何を今更なんだよ……」
がばっ、と上体を持ち上げ、突然叫ぶ。
「お前はそれでいいのかよ! 今まで頑張って生き抜いてきたのに、こんな、わけもわからない方法で殺されていいのか!?」
シュミットと、俺、そしてアスナの視線が窓際のヨルコへと集まった。
どこか儚げな雰囲気をまとう女性プレイヤーは、視線を宙に彷徨わせながら、しばらく言葉を探すようだった。
やがてその唇が動き、何かを言おうとした――
その瞬間。
とん、という乾いた音が部屋に響いた。同時に、ヨルコの目と口が、ぽかんと見開かれた。
続いて、細い体がふらっと揺れた。がく、という感じで一歩踏み出し、くるっと振り返って窓枠に手をつく。
その時、一際強く風が吹き、ヨルコの背中に垂れる髪を流した。
俺はそこに、信じがたいものを見た。
真っ白い起毛のショール。その中央に、小さな黒い棒のようなものがくっついている。
それはあまりにもちっぽけで、瞬間、いったい何なのかわからなかった。だが、その棒を包み込むように明滅する赤い光を認識した途端、俺は戦慄した。
あれは、スローイングダガーの柄だ。そして刀身は、丸ごとヨルコの体に埋まっている。
いずこからか飛来した武器に貫かれ、頼りなく揺れる体が、ぐらっと窓の奥へと傾いた。
「あっ……!」
アスナが悲鳴じみた喘ぎを漏らした。同時に俺は飛び出していた。
手を伸ばし、ヨルコの体を引き戻そうとする。だが。
ショールの端にわずかに指先が掠っただけで、ヨルコは音もなく外側へと落下していった。
「ヨルコ!!」
身を乗り出し、叫ぶ俺の目の前で。
眼下の石畳に墜落し、バウンドしたヨルコの体を、青い光が包んだ。
ぱしゃっ、という、あまりにもささやかな破砕音。ポリゴンの欠片が、炸裂したブルーの光に吹き散らされるようにして拡散し――。
一秒後、乾いた音を立てて、漆黒のダガーだけが路上に転がった。
有り得ない!!
何重もの意味で、俺の脳内に無音の絶叫が響いた。
部屋の中はシステム的に保護されているのだ。たとえ窓が開いていようとも、その内部に侵入することは勿論、何かを投げ込むことも絶対に不可能だ。
さらに、あんな小型のスローイングダガーでは、たとえ貫通継続ダメージが発生していたにせよヨルコのHPすべてを吹き飛ばすことなど絶対にできない。しかも、ダガーが刺さってからヨルコが落下して消滅するまで、どう長く見積もっても五秒と経過していなかった。
絶対に有り得ない。これはもう、『圏内PK』などという呼び方では収まらない、恐るべき即死攻撃だ。
息が詰まり、背筋に極低温の戦慄が駆け巡るのを感じながら、俺はぐいっと顔を上げ、見開いた両眼での外の街並みをカメラのように切り取った。
そして、それを見た。
二ブロックほども離れているだろう、同じくらいの高さの建物の屋根。
深い紫色の残照を背景に、ひっそりと立つ黒衣の姿を。
漆黒のフーデッドローブに包まれ、顔は見えなかった。脳裏に閃く、死神、という単語を押しのけて俺は叫んだ。
「野郎っ……!!」
そして窓枠に右足を掛け、背後を見ずにもう一声――
「アスナ、後頼む!!」
叫び、通りを隔てた向かいの建物の屋根へと一気に跳んだ。
† 13 †
しかし、いかに敏捷力補正があるとは言え道幅五メートルを助走なしに飛び越えようとしたのはやや無謀だったようで、俺は足から着地はできずに、いっぱいに伸ばした右手で目指す屋根の縁を危うく掴んだ。
今度は筋力補正を発揮して、倒立の要領で体を放り上げる。くるっと反転して立ち上がると同時に、後ろからアスナの切迫した声が届いた。
「キリトくん、だめよ!」
制止の理由は明白だった。もしあのスローイングダガーによる攻撃を被弾すれば、俺も即死してしまうかもしれないからだ。
しかし、ここで身の安全を優先して、ついにその姿を現した殺人犯を見逃すことなどどうしてもできなかった。
ヨルコの保護を請け負ったのは俺だ。しかし、システム的に保護された宿屋に閉じこもっていれば絶対に危険はないと短絡的に考え、その先を想像しなかった。システム的保護、というならばそもそも街中――圏内すべてがそうであるはずなのだ。圏内でPKを行える相手ならば、宿屋の保護すらも無効化できる可能性があると、なぜ考えなかったのか。
俺の悔恨をあざ笑うかのように、彼方の屋根の上で、黒ローブの人影がくるりと身を翻した。
「待てっ……!」
叫び、俺は猛然と走りはじめた。同時に背中の剣を引き抜く。もちろん俺の剣では奴にダメージを与えられないだろうが、投げられたダガーを弾くことならできるはずだ。
助走の勢いを殺さぬよう、屋根から屋根へと思い切り良く飛び移っていく。足下の道を行き交うプレイヤーたちは、俺を敏捷力自慢の痛いパフォーマーだと思っているだろうが、今は構っていられない。コートの裾をなびかせ、夕闇を切り裂くようにジャンプを続ける。
フーデッドローブの何者かは、逃げる様子もなく悠然と立ち、急接近する俺を眺めている。と――。
不意に殺人者の右手が動き、ローブの懐へと差し込まれた。俺は息を詰め、剣を正面に構えた。
しかし。
引き出された手に握られていたのは、スローイングダガーではなかった。宵闇の底でも、鋭いブルーの煌きが俺の目を射た。転移結晶。
「くそっ」
俺は毒づき、疾駆しながら左手で腰のピックを三本同時に抜いた。振りかぶり、一息に投擲する。ダメージが目的ではなく、反射的な回避動作を取らせてコマンド詠唱を遅らせる狙いだ。
だが相手は落ち着いていた。銀のライトエフェクトを引いて襲い掛かる三本の鋼針を怖れる様子もなく結晶を掲げる。
フーデッドローブの寸前で、ピックたちは全て紫色の障壁に阻まれ、空しく屋根に転がった。俺はせめて、相手の音声コマンドを聞き取ろうと耳を澄ませた。行き先が判れば、俺も結晶で追跡することができる。
目論みは、しかし今度もまた裏切られた。直後、マーテンの街全体に、大ボリュームの鐘の音が響き渡ったのだ。
俺の耳――正確には聴覚野は、午後六時を告げるシステムサウンドに大部分占領されて、殺人者が最低限のボリュームで発声したコマンドを捉えることができなかった。青いテレポート光が迸り、あと通り一つを隔てたところまで肉薄した俺の視界から、不吉なフーデッドローブ姿が呆気なく消え去った。
「…………っっ!!」
俺は声にならぬ叫びを上げ、右手の剣を、寸前まで奴が立っていた場所へと叩きつけた。紫の光が飛び散り、視界の中央に、【Immortal Object】のシステムタグがささやかに表示された。
屋根ではなく道を使って悄然と宿屋まで戻った俺は、ヨルコの落下した窓の下で立ち止まり、そこに転がっている漆黒のスローイングダガーを眺めた。
つい数分前、そこで一人の女性が死んだ――消滅したことが、どうしても信じられない。俺にとって、プレイヤーの死というのは、あらゆる努力、あらゆる回避策を積み重ねてなお及ばぬときにのみ訪れる悲劇だった。あんなふうに即時的かつ不可避の殺人手段など存在していいはずがない。
身をかがめ、ダガーを拾い上げる。小型だが、全体が同一の金属素材でずしりと重い。剃刀のように極薄の刃には、鋸に似た逆歯がびっしりと刻まれている。間違いなく、カインズを殺したショートスピアと同じ意匠で造られたものだ。
仮に今、これを俺の体に刺せば、俺のHPも急減少するのだろうか。ふと実験してみたいという衝動に駆られるが、ぎゅっと瞼をつぶってそれを払い落とし、俺は宿屋に入った。
二階に上り、ノックして名乗ったあとノブを回す。ガチンと響くシステム的開錠音を空しく聞きながら、ドアを開ける。
アスナはレイピアを抜剣していた。俺を見るや、憤激と安堵が同量ずつ混ざったような表情を浮かべ、押し殺した声で叫んだ。
「ばかっ、無茶しないでよ!」
ふう、と長く息を吐き、続ける。
「……どうなったの?」
俺は小さく首を振った。
「だめだ、テレポートで逃げられた。顔も声も、男か女かも判らなかった。まあ……あれがグリムロックなら、男だろうけど……」
SAOでは同性婚は不可能だ。黄金林檎のリーダーが女性だったなら、結婚していたというグリムロックは自動的に男だということになる。もっとも、それは絞込みフィルタとしては使えない情報だ。SAOプレイヤーの、実に八割近くが男なのだから。
さして意味を持たない俺の言葉に――。
不意の反応を見せたのは、ソファーの上で大きな体を限界まで丸め、かちゃかちゃと金属音を響かせていたシュミットだった。
「……ちがう」
「違うって……なにが?」
訊ねたアスナを見ることなく、いっそう深く顔を俯けながら、シュミットは呻いた。
「違うんだ。あれは……屋根の上にいたローブは、グリムロックじゃない。グリムはあんなに背が高くない。それに……それに」
続いて発せられた言葉に、俺も、アスナも息を呑んだ。
「あのフードつきローブは、GAのリーダーのものだ。彼女は、街に行くときはいつもあんな格好をしていた。そうだ……指輪を売りにいくときだって、あれを着ていたんだ! あれは……さっきのあれは、彼女だ。俺たち全員に復讐に来たんだ。あれはリーダーの幽霊だ」
はは、はははは、と不意にタガが外れたような笑い声を漏らす。
「幽霊ならなんでもアリだ。圏内でPKするくらい楽勝だよな。いっそリーダーにSAOのラスボスを倒してもらえばいいんだ。最初からHPが無きゃもう死なないんだから」
ははははは、とヒステリックに笑い続けるシュミットの目の前のテーブルに、俺は左手に握ったままのものを放り投げた。
ごとん、と鈍い音が響くや、シュミットはぴたりと笑いを止めた。凶悪に光る鋸歯状の刃を、数秒見詰め――。
「ひっ…………」
弾かれたように上体を仰け反らせる大男に、俺は抑えた声を投げかけた。
「幽霊じゃないよ。そのダガーは実在するオブジェクトだ。SAOサーバに書き込まれた、ただのコードの塊だ。あんたのストレージに入ったままのショートスピアと同じく。信じられなきゃ、それも持っていくといい」
「い、いらない! 槍も返す!!」
シュミットは絶叫し、ウインドウを開くや、震える指先を何度もミスらせながら操作して黒いスピアをオブジェクト化させた。窓の上に浮かびあがった武器を、払い落とすようにダガーの隣に転がす。
そしてまた頭を抱えてしまう男に、アスナが穏やかな声をかけた。
「……シュミットさん。わたしも、幽霊なんかじゃないと思うわ。だって、もしアインクラッドに幽霊が出るなら、黄金林檎のリーダーさん一人だけのはずがないもの。今まで死んだ一万五千人みんなが無念だったはずだわ。そうでしょう?」
まったくそのとおりだ、と俺も思った。俺だって、ここで死んだら口惜しさのあまり化けて出る自信がある。運命なりと受け入れて成仏できそうな人間は、俺の知るかぎりKoBリーダーのあんにゃろうくらいのものだ。
だが、シュミットは、項垂れたまま今度も首を左右に動かした。
「あんたらは……彼女を知らないだろ。あの人には……なんか、そんなところがあったんだよ。すげえ強くて、いつも公正だったけど……オレは、オレは彼女が……グリセルダが笑ったところを見たことがない」
しん、と重苦しい沈黙が広い部屋を満たした。
開け放たれた窓の外はいつのまにかすっかり日が沈み、オレンジ色の街明かりが幾つも灯って、その下は一夜の憩いを求めるプレイヤーたちで賑わっているはずだが、その喧騒も不思議にこの部屋を避けているようだった。
俺は大きく息を吸い、無理やりに静寂を破った。
「……あんたがそう信じるなら、好きにすればいいさ。でも俺は信じない。この二軒の圏内殺人には、絶対にシステム的な裏打ちがあるはずだ。俺はそれを突き止めてみせる。……あんたにも、約束どおり協力してもらうぞ」
「きょ、協力……?」
「グリムロックの行きつけの店を教えるって、あんた言ったよな。今となっては、それだけが唯一の手がかりだ。何日張り込むことになっても、絶対に見つけだす」
正直、グリムロックという名のプレイヤーを探し当てたところで、その先のプランがあるわけではない。『軍』ではあるまいし、監禁して締め上げるような真似ができるはずはないからだ。
だが、殺される寸前のヨルコの言葉どおりに、グリムロックが指輪売却派の三人、あるいは元ギルメンの全員の殺害を狙っているのなら、これからも動き続けるはずだ。悟られずに監視を続け、次の圏内PKを実行しようとする瞬間を押さえる――、今思いつける手はそれくらいしかない。
シュミットは再び項垂れたが、やがてかすかな動作で頷いた。ふらりと立ち上がり、壁際のライティングデスクに歩み寄ると、備え付けの羊皮紙と羽ペンを取り、何かを書きつける。
その背中に、俺はふと思いつき、声をかけた。
「あ、ついでに、元黄金林檎のメンバー全員の名前も書いておいてくれるか。あとでもう一度、『生命の碑』で生存者を確認しにいくから」
うっそりと頷き、巨漢は置きかけたペンを握りなおすと更にしばらく走らせた。
やがて、書きあがった羊皮紙を片手に戻ってくると、それを差し出す前に言った。
「…………攻略組プレイヤーとして情けないが……オレはしばらくフィールドには出ない。ボス攻略パーティーは、オレ抜きで編成してくれ。それと……」
長い逡巡のあと、かつての剛毅さがすっかり抜け落ちた虚ろな表情で、ギルド聖竜連合のリーダー職を務めるランス使いは呟いた。
「これから、オレをDDAの本部まで送ってくれ」
† 14 †
シュミットを臆病と笑うことなど、俺にも、アスナにもできなかった。
怯えきった巨漢をあいだに挟み、56層転移門から聖竜の本部まで歩く間、俺もアスナも周囲の暗闇にひたすら視線を走らせていたからだ。もし似たようなフード付きローブを着込んだ無関係の他人が突然現れたら、反射的に飛びかかっていたかもしれない。
本部の巨大な城門をくぐっても、シュミットはまるで安堵の顔は見せなかった。小走りに建物へと飛び込んでいく背中を見送って、俺はふう、と息をついた。
傍らのアスナと、しばし互いに顔を見合わせる。
「…………悔しいね……ヨルコさんのこと…………」
やがてそう呟き、唇を噛むアスナに、俺は「そうだな」と掠れた声で応じた。
身勝手とわかってはいるが、ヨルコの死は、カインズのそれに数倍する衝撃を俺にもたらした。窓から落下していく彼女の姿を脳裏に思い描きながら、続けて言う。
「今までは正直、乗りかかった船、みたいな気持ちもあったけど……もう、そんなこと思ってちゃだめだよな。彼女のためにも、なんとしてもこの事件を解決しないと。――俺はこれからすぐ、問題のレストランの近くに張り込む。君はどうする?」
語尾が消えないうちに、さっと顔を上げたアスナが、しっかりした声で答えた。
「どうする、なんて訊かないでよ。行くわ、もちろん。一緒に、最後まで突き止める」
「……そっか。じゃあ、よろしく頼む」
正直、アスナを今後も付き合わせることにわずかな迷いはあった。俺たちが当事者として事件に関わり続ければ、いつグリムロックの新たな標的として狙われても不思議はないからだ。
しかしそんな俺の逡巡を断ち切るように、アスナは勢いよく踵を返すと、転移門広場目指して歩きはじめた。俺は冷たい夜気を大きく吸い込み、一気に吐き出してから、足早に彼女のあとを追った。
カインズのメモに記されていた店は、20層主街区の下町にある小さな酒場だった。曲がりくねる小路にひっそりと看板を揚げている佇まいからは、『毎日食べても飽きない』級の料理が出てくるとはなかなか思えない。
しかし、こういう店に隠れ名物があるのもまた事実であり、俺は店内に突進してメニューを片っ端から試してみたいという欲求を抑えるのに少々苦労した。もしグリムロックがあのフーデッドローブの殺人者ならばすでにこちらの顔を見ているわけであり、先に気付かれたら二度とこの店には現れるまい。
近くの建物の角に身を潜め、周囲の地形を確認した俺は、幸い店の入り口を見通せる位置に宿屋が一軒あるのに気付いた。人通りが途切れた瞬間を狙って宿屋に飛び込み、通りに面した二階の部屋を借りる。
狙いどおり、窓からは問題の酒場の入り口がはっきり視認できた。部屋の明かりを落としたまま窓際に椅子を二脚運び、俺とアスナは並んで腰を下ろすと監視態勢に入った。
しかし直後、アスナが「ねえ」と眉を寄せた。
「……張り込みはいいけど、わたし達、グリムロックさんの顔知らないよね」
「ああ。だから最初はシュミットも連れてこようと思ってたけど、あの様子じゃちょっと無理そうだったからな……。俺はいちおう、さっきローブ越しとはいえグリムロックとおぼしきプレイヤーをかなりの近距離から見てる。身長体格で見当をつけて、ピンと来る奴が現れたら、ちょっと無茶だけどデュエル申請で確認する」
「えーっ」
アスナが目を丸くして上体を引いた。
SAOでは、他のプレイヤーに視線をフォーカスさせると、黄色あるいはオレンジのカーソルが出現する。しかし、フレンドやギルメンでない限りカーソルには相手のHPバーしか表示されず、名前もレベルも判らない。
これは安易な犯罪行為を防ぐための当然の仕様なのだが、今回のように人を探そうとすると少なからぬ苦労を強いられることとなる。他人の名前を確実に知ろうと思ったら方法はたった二つ、トレードを申し込んで受諾されるか、あるいは圏内デュエルを申請するしかない。仮にグリムロックらしき男を見つけたとして、突然トレードを申請してもOKされるわけがないので、あとは強引にもほどがあるがいきなりデュエルを申し込むしかないのだ。これなら、相手が受諾しようとしまいと、挑戦した時点で俺の視界に『誰それに1vs1デュエルを申請しました』というシステムメッセージが出現する。
無論ノーマナー行為もいいところだが、今回ばかりは致し方ない。それを相手が受諾し、武器を抜けば――まあ、そのときはそのときだ。
一瞬驚いた顔を見せたアスナも、すぐに他に方法がないことを理解したのだろう。不承不承という様子ながら頷いた。
「……でも、わたしも一緒に行くからね」
続けてきっぱりと宣言されてしまえば、部屋で待っててという言葉を飲み込むしかない。
今度は俺が躊躇いながら頷き、ついでに時刻を確認する。午後6時40分、そろそろ街が晩飯を食いにきたプレイヤーで賑わいはじめる頃だ。問題の酒場も、地味な店構えのわりにスイングドアが頻繁に揺れている。しかしまだ、目の裏に焼きついたあのフーデッドローブ姿に合致する体格のプレイヤーは現れない。
あんなに客が入るってことは、やっぱり隠れ名店なのかなあ。気になるなあ。
などと考えたとたん、強烈な空腹を覚えて俺は胃を押さえた。その途端、目の前にずいっと突き出されてきたものがあった。視線を通りに落としたまま白い紙包みを差し出すアスナは、唇を尖らせ、「ほら」と短く言った。
「へ……く、くれるの?」
「この状況でそれ以外何があるのよ。見せびらかしてるとでも?」
「い、いえ。すいません、もらいます」
首を縮め、紙包みを受け取る。ちらっと視線を振ると、アスナも同じものをオブジェクト化させ、ウインドウを消している。
おそるおそる紙を剥がすと、出てきたのは大ぶりのバゲットサンドだった。かりっと焼けたパンのあいだに、野菜やロースト肉がたっぷり挟まれたそれをほけーっと眺めていると、またアスナが冷ややかな声で言った。
「そろそろ耐久値が切れて消滅しちゃうから、急いで食べたほうがいいわよ」
「えっ、はっ、はい、頂きます!」
消えると聞いては呆けている時間はない。あれこれ考えることは後回しにして、俺はあんぐりと大口を開けてかぶりつき、パリザクモニュという歯ごたえにしばし浸った。味付けもシンプルながら適度に刺激的で、次々頬張ってしまう。アイテムとしての耐久値は味には関係ないので、存在している限りは出来立てと何ら変わることはない。
視線を酒場の入り口に固定しながらも、大型のバゲットを一気に貪り尽くし、俺はふうーと満足のため息をついた。ちらっと横目でまだ上品に口を動かしているアスナを見やり、訊ねる。
「とってもご馳走様。それにしても、いつの間に弁当なんて仕入れてたんだ? 通りの屋台じゃ、こんな立派な料理売ってないよな?」
「耐久値がもう切れるって言ったでしょ。こういうこともあるかと思って、朝から用意しといたの」
「へえ……さすが攻略担当責任者様だなあ。メシのことなんてまったく考えてなかったよ。……ちなみに、どこの店の?」
私的名店リストのかなり上位に食い込む味だったので、しばらくはこれを攻略のお供にしようと思って俺はさらに質問した。しかしアスナは小さく肩をすくめ、予想外の答えを返した。
「売ってない」
「へ?」
「お店のじゃない」
何故かそこで押し黙り、それ以上何も言いそうにないので、俺はしばし首を捻ったあげくようやく悟った。店にて購った物に非ず、つまり自作アイテム也、とKoBサブリーダー様はのたまったのだ。
俺はたっぷり十秒ほど放心した挙句、やばい何か言わなきゃ、と軽めのパニックに見舞われた。朝方の、アスナのおめかしを全力スルーしてしまうという失態を二度繰り返すわけにはいかない。
「え……ええと、その、それは何といいますか……が、がつがつ食べちゃって勿体なかったなあ。あっそうだ、いっそのことアルゲードの市場でオークションにかければ大儲けだったのになあハハハ」
ガツン! とアスナの白革のブーツに椅子の脚を蹴り飛ばされ、俺は震え上がって背筋を伸ばしながら、またしても間違ってしまったことを悟った。
凄まじい緊張に満ちた数分間が過ぎ去り、自分も食事を終えたアスナがぽつりと呟いた。
「…………来ないね」
「えっ、う、うん。まあシュミットの話じゃ毎晩通ってるってわけでもなさそうだったからな。それにあの黒フードがグリムロックなら、PK行為のすぐあとにメシ食う気にもなかなかならないだろうし……二、三日は覚悟したほうがいいな」
早口でまくし立てながら、俺はもう一度時間を確かめた。張り込みを始めてからまだ三十分しか経っていない。俺はもう、グリムロックを見つけるまでは何時まで、何日かかってもこの部屋に篭もる覚悟だったが、副団長閣下はどうするつもりなのだろう。
と考えながらもう一度だけ視線を振ったが、アスナは深く椅子に腰掛け、立ち上がる気配もなかった。
あれっ、もしかして俺のさっきのセリフ、『二、三日ここに泊まろう』って意味になり得る? と今更思いつき、手に汗握りかけた途端、アスナがぽつりと声を発した。
「ねえ、キリト君」
「はっ……はい!」
しかし続けて発せられた言葉は、幸い――あるいは残念ながらまったく無関係の内容だった。
「君ならどうしてた? もし君が黄金林檎のメンバーだったら、超級レアアイテムがドロップしたとき、何て言ってた?」
「…………」
数秒間絶句し、さらに数秒黙考してから、俺は首を振った。
「……そうだなぁ。もともと俺は、そういうトラブルが嫌でソロやってるとこもあるしな……SAO以前にやってたMMOじゃ、レアアイテムの隠匿とか、売却益の誤魔化しとかでギルドがぎすぎすしたり、崩壊まで行った経験も結構あるから……」
MMOゲーマーのモチベーションは、突き詰めていけば、優越感の獲得にその大部分が求められることは否定できない。そして優越のもっとも解りやすい指標こそが『強さ』だ。鍛え上げたステータス、そして強力なレア装備の力でモンスターを、あるいはプレイヤーを蹴散らす。その快感は、極論、ネットゲーム以外では味わうことのできないものだ。現在の俺とても、『攻略組』などと呼ばれて畏怖される快感があるからこそ、長時間のレベリングを続けられるのだ。
仮にいまギルドに所属していて、ものすごい大金に換えられるアイテムがドロップしたとして――そして、ギルドの中に、それを装備するに相応しい誰かが居たとして。
俺は「あんたが使うべきだ」と言えるだろうか?
「…………いや、言えないな」
ぽつりと呟き、俺は一度首を左右に振った。
「自分が装備したい、とも言えないけど、だからってメンバーの誰かに譲るとも言えない。だから……そうだな、俺はもし黄金林檎のメンバーだったら、やっぱり売却派に入ったと思うよ。アスナは?」
訊くと、こちらは迷いを見せずに即答した。
「ドロップした人のもの」
「へっ?」
「KoB《うち》はそういうルールにしてるの。パーティープレイでランダムドロップしたアイテムは、全部それを拾ったラッキーな人の物になる。だってSAOはコンバットログが無いから、誰に何がドロップしたとか、全部自己申告じゃない。ならもう、隠匿とかのトラブルを避けようと思ったらそうするしかないわ。それに…………」
そこで少し言葉を切り、視線を酒場の入り口に据えながらも、アスナは僅かに目元を緩めた。
「そういうシステムだからこそ、この世界での『結婚』に重みが出るのよ。それまでなら隠そうと思えば隠せたものが、結婚した途端に何も隠せなくなる。逆に言うと、一度でもレアドロップを隠匿した人は、もうギルドメンバーの誰とも結婚できない。『ストレージ共通化』って、物凄くプラグマチックなシステムだけど、同時にとってもロマンチックだと私は思うわ」
その口調に、どこか憧れるような色合いを感じた気がして、俺は思わず二、三度瞬きをした。不意にわけもなく緊張し、俺はまたしても受け答えを大誤りした。
「そ、そっか、そうだよな。じゃああれだな、もしアスナとパーティー組んで戦闘したら、ドロップねこばばしないようにするよ俺」
ガタン! という音は、アスナが椅子ごと飛び退いた音だった。
部屋の明かりを消しているので顔色までは見えなかったが、数秒間に何種類もの表情をローテーションさせたあと、『閃光』は右手を振り上げて叫んだ。
「ば……バッカじゃないの! そんな日、十年待っても来ないわよ! あ、そ、そんなっていうのはつまり、君とパーティー組む日ってことよ。ていうか、ま、マジメに入り口チェックしなさいよ! 見落としたらどうすんのよ!」
が――――っと一しきり怒鳴り、アスナはぷいっと後ろを向いてしまった。会話のあいだ、一秒として酒場から視線を切らないでいたつもりだった俺は少々傷つき、「見てるよう」と情けない反論を口にしてから、ふと考えた。
ギルド黄金林檎の崩壊劇の原因となった指輪。そもそも、それが最初にドロップしたのは一体誰のストレージだったのだ?
別に大したことではない。しかし、リーダーを殺してまで奪うくらいなら、最初から隠匿したほうがずっと簡単だ。つまりドロップを申告したプレイヤーだけはリーダー殺害の犯人ではないことになる。
それもついでにシュミットに訊いておくんだったな、と俺は顔をしかめた。俺もアスナもシュミットとフレンド登録まではしていないので、ちょこっとインスタントメッセージで確認するという訳にはいかない。
とは言え、それは今更知っても仕方ない情報ではある。俺たちが追いかけているのは指輪事件ではなくて圏内殺人事件のほうなのだから。そう思いつつも、俺は諦め悪くシュミットに書いてもらったメモを取り出した。
アスナにちょっと店見ててと頼んでから、酒場の所在地に続いて列挙してあるギルド黄金林檎のメンバー名一覧を確認する。
グリセルダ。グリムロック。シュミット、ヨルコ、カインズ……金釘流のアルファベットで書きつけられた八つの名前。そのうち少なくとも三人は、すでにこの浮遊城から去っている。
これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。グリムロックの復讐を止め、その圏内殺人のシステムを暴かねばならない。絶対に。
俺はそう心に刻みつけ、メモをストレージに格納しようとした。
しかし、小さな羊皮紙の一辺がオブジェクトから文字列へと変換される、その寸前――。
メモのある一点に、視線が吸い寄せられた。
「…………え……?」
呟き、慌てて目を近づける。ディティール・フォーカス・システムが作用し、羊皮紙上に書き付けられた文字のテクスチャがくっきりと解像度を増す。
「どういうことだ…………」
呟いた俺に、アスナが一瞬戸惑いの気配を向けてきた。
「どうしたの?」
だが、それに対して何かを答える余裕は俺にはなかった。脳をフル回転させて、今俺が見ているものの意味、その理由、そして意図を推し量ろうとする。
数秒後。
「あっ……ああ…………!!」
叫び、俺は椅子を蹴立てて立ち上がった。右手の紙片が、衝撃の大きさを映して激しく震えた。
「そうか……そうだったのか!!」
喘ぐように口走ると、アスナが戸惑いともどかしさ、苛立ちを等量ずつ含んだ声を発した。
「何よ、一体何に気付いたの!?」
「俺は……俺たちは……」
掠れた声を喉から押し出しながら、俺はぎゅっと強く両眼を瞑った。
「……何も見えていなかった。見ているつもりで、違うものを見ていたんだ。『圏内殺人』……そんなものを実現する武器も、スキルも、最初から存在しちゃいなかったんだ!!」
† 15 †
これは後から聞いた話だ。
ギルド聖竜連合ポールアーム部隊リーダーの要職につく攻略組プレイヤー・シュミットは、馴染んだギルド本部の自室に戻ってからも、ベッドに入ることはおろか、重装鎧を解除する気にもなれなかった。
部屋は城――というより城塞の、分厚い石壁の奥深くにあり、窓はひとつたりとも存在しない。そもそもギルドの本拠地はメンバー以外はシステム的に立ち入れないので、自室に居るかぎり安全だ。そう自分に言い聞かせても、どうしても視線をドアノブから外すことができない。
目を離した瞬間、あのノブが音もなく回るのではないか? そこから影のように滑り込んできたフーデッドローブの死神が、気付かないうちに背後に立っているのではないか?
周囲からは豪胆な壁戦士《タンク》と思われていたが、実際のところ、シュミットを攻略組の上位に留めているモチベーションは、『死への恐怖』以外の何物でもなかった。アインクラッドで生き残るには強くなくてはならない。そして強くなるためには大ギルドに所属しなくてはならない。その一念で、シュミットは攻略組プレイヤーとしても異例のペースでのし上がったのだ。
努力の甲斐あって、今やシュミットのHP、装備の防御力、そして鍛え上げた防御スキルの数々は、アインクラッドでも最堅固と言っていい高みに達していた。右手に巨大なランス、左手にタワーシールドを構えれば、たとえ正面から同レベルのMobが三匹来ても支え続けられるという自信があった。シュミットにしてみれば、紙にも等しい革装備に、攻撃一辺倒の武器とスキル構成のダメージディーラー――例えば数十分前まで顔を合わせていた黒づくめのソロプレイヤーのような――は、頭がおかしいとしか思えない人種だった。
なのに。
膨大なHPも。鎧のアーマー値も。ディフェンススキルも。つまりシステム的防御の全てが通用しない殺人者が今更現れるとは。しかもそいつが、明らかな意思を持って自分を狙っているだなんて。
幽霊――だなどと、本気で信じているわけではない。
いや、それすらももう確信は持てない。アンチクリミナルコードという絶対のルールを黒い霧のようにすり抜け、ちっぽけなスピアやダガー一本で軽々と命を奪っていくあの死神。あれはつまり、殺される間際の彼女の怨念がナーヴギアを通してサーバーに焼きついた、いわば電子の幽霊なのではないか?
だとすれば、堅固な城壁も、分厚い扉の錠前も、そしてギルドホームのシステム的不可侵も一切が無力だ。
来る。絶対今夜、眠りに落ちたところを狙ってあいつはやってくる。そして三本目の逆棘の武器を突き刺し、命を奪っていく。
その運命から逃れるには――もう、手段は一つしかない。
赦しを乞うのだ。跪き、額をこすり付けて謝罪し、怒りを解いてもらうのだ。自分の罪――半年前、さらなる強さ、いや硬さを求めてより上位のギルドに移るために犯した、たった一つの罪を告白し、心から懺悔すれば、たとえ相手が本物の幽霊だとしても赦してくれるはずだ。乗せられただけなのだから。口車に乗せられ、魔が差して、つい些細な犯罪行為――いや、それ以前の単なるノーマナー行為を犯してしまっただけなのだから。まさか、結果があのような悲劇に結びつくなどとは考えもせずに。
シュミットはふらりと立ち上がると、ウインドウを開き、転移結晶を一つオブジェクト化させた。力の入らない右手で握り締め、大きく一度深呼吸してから、掠れた声で呟いた。
「転移……ラーベルグ」
視界が青い光に覆われ、薄れると、そこはもう夜のただ中だった。
時刻は二十二時を回り、しかも辺鄙な既攻略層とあって、転移門広場にプレイヤーの姿はまったく無かった。周囲のNPC家屋もきっちりと鎧戸を閉め、商店の営業も終わっているので、まるで圏内ではなくフィールドに出てしまったかのような錯覚に襲われる。
半年前まで『黄金林檎』はこの村のはずれに小さなギルドホームを構えていたので見慣れた光景のはずなのだが、シュミットにはまるで村全体が自分を拒んでいるかのように思えた。
分厚い鎧の下で体をぶるぶる震わせ、崩れそうになる両脚を無理やり動かして、シュミットは村の外へと向かった。
目指したのは、主街区を出て二十分ほども歩いたところにある、小さな丘の上だった。当然ながら『圏外』であり、もはやアンチクリミナルコードは適用されない。しかしシュミットにはどうしてもここに来なければならない理由があった。あの黒衣の死神に見逃してもらうためには、もうこれしか思いつかなかった。
脚を引きずるようにして丘の天辺まで登ったシュミットは、頂上に生える捻じくれた低木の枝の下にあるものを少し遠くから見詰め、激しく体をわななかせた。
風化し、苔むした石の墓標。ギルド『黄金林檎』リーダー、今は亡き女性剣士グリセルダの墓だ。どこからともなく降り注ぐ朧な月明かりが、十字形の影を乾いた地面に刻んでいる。時折吹き抜ける夜風が、枯れ木の枝をぎぎ、ぎぎと鳴らす。
元々は、樹も墓碑もただの地形オブジェクトだった。デザイナーが何の意図もなく設置した風景的装飾だ。しかし、グリセルダが殺されてから数日後、黄金林檎が解散したその日に、残った七人のプレイヤーでここを彼女の墓にしようと決めて遺品の長剣を埋めた――正確には墓石の根元に放置し、耐久値が減少して消滅するに任せたのだ。
だから墓標に碑銘は無い。しかし、グリセルダに謝罪するためには、もうこの場所しか思いつかない。
シュミットはがくりと跪き、這いずるようにして墓石に近づいた。
砂利混じりの地面に額をこすりつけ、何度か歯をかちかちと鳴らしたあと、ありったけの意志を振り絞って口を開いた。思いのほかはっきりとした声が迸った。
「すまない……悪かった……赦してくれ、グリセルダ! オレは……オレは、まさかあんなことになるなんて思ってなかった……あんたが殺されちまうなんて、これっぽっちも予想してなかったんだ!!」
『ほんとうに……?』
声がした。奇妙なエコーのかかった、地の底から響いてくるような女の声。
すうっと意識が遠ざかりかけるのを必死に堪え、シュミットは恐る恐る視線を上向けた。
捩れた樹の陰から、音も無く黒衣の影が現れた。漆黒のフーデッドローブ。だらんと垂れた袖。闇夜の底で、フードの奥はまるで見とおせない。
しかし、そこから放射される冷たい視線をシュミットははっきりと意識した。悲鳴を迸らせそうになる口を両手で押さえ、シュミットは何度も頷いた。
「ほ……ほんとうだ。オレは何も聞かされてなかった。ただ……ただオレは、言われるがままに、ちょっとした……ほんのちょっとしたことを……」
『なにをしたの……? あなたは私に、なにをしたの、シュミット……?』
するするする、とローブの右袖から伸びる黒い細線を、シュミットは見開いた両眼で捉えた。
剣だ。しかし恐ろしく細い。使う者のほとんど居ない、『エストック』という片手用の近距離貫通武器。まさに針と言うよりない円断面の極細の刀身には、螺旋を描くように逆棘がびっしりと生えている。
ひぃぃっ、と喉の奥から細い悲鳴を漏らし、シュミットは何度も何度も額を地面に押し付けた。
「お……オレは! オレはただ……指輪の売却が決まった日、いつの間にかポケットにメモと結晶が入ってて……そこに、指示が…………」
『誰のだ、シュミット?』
今度は男の声だった。
『誰からの指示だ……?』
硬く首筋を強張らせ、シュミットは凍りついた。
鋼にでもなってしまったかのような首を軋ませながらどうにか持ち上げ、視線を上向ける。ちょうど樹の陰から、二人目の死神が姿を現すところだった。まったく同じ黒のフーデッドローブ。身長は一人目より僅かに高い。
「…………グリムロック……?」
ほとんど音にならない声でシュミットは呻いた。
「あんたも……あんたも死んでたのか…………?」
死神はその問いには答えず、替わりに無音の一歩を踏み出した。フードの下から、陰々と歪んだ声が流れる。
『誰だ……お前を動かしたのは誰なんだ……?』
「わ……わからない! 本当だ!!」
シュミットは裏返った声で喚いた。
「メモには……メモにはただ、リーダーの後を付けろと……や、宿屋にチェックインして、食事のために外に出たら、部屋に忍び込んで回廊結晶の位置セーブをして、そ、それをギルド共通ストレージに入れろとだけ書いてあって……お、オレがしたのはそれだけなんだ! オレはグリセルダに指一本触れてない! ま、まさか……指輪を盗むだけじゃなくて、こ、こ、殺しちまうなんて……オレも、オレも思ってなかったんだ!」
必死の弁解をまくし立てる間、二人の死神は身じろぎもしなかった。通り過ぎる夜風が枯れ木の梢とローブの裾を揺らした。
限界まで恐怖を募らせながらも、シュミットは脳裏に刹那の回想を瞬かせていた。
メモを見た瞬間、無茶だ、と呆れた。しかし同時に巧い手だと驚きもした。
宿屋の個室はシステム的にロックされるが、寝るとき以外はフレンド/ギルドメンバー開錠可設定にするのが普通だ。それを利用して回廊結晶のポータル位置を部屋の中に設定し、部屋の主が熟睡している時を狙って侵入する。あとはトレードを申し込み、相手の腕を勝手に動かして受諾させ、指輪を選択して交換ボタンを押す。
とてつもなくリスキーだが、しかし圏内でアイテムを奪うほとんど唯一の方法だとシュミットは直感した。メモの末尾に提示された報酬は、指輪の売却益の半額。成功すれば手に入る金額が一気に四倍になり、もし失敗――つまりトレード中にリーダーが起きてしまっても、顔を見られるのはメモの差出人ひとりだけだ。そいつが後から何を言おうと、知らぬ存ぜぬで通せばいい。宿屋に忍び込みポータルをセーブするだけなら、証拠は何も残らない。
シュミットは迷ったが、迷うことがすでにギルドとリーダーを裏切っているに等しかった。すべては一足飛びに攻略組にのし上がるため、そこでゲームクリアに貢献すれば結果としてリーダーを助けることにもなるのだと行為を正当化し、シュミットはメモに指示されていた通りのことをした。
翌日の夜、シュミットはリーダーが殺されたことを知った。さらにその翌日、約束どおりの額の金貨が詰まった革袋が自室のベッドに置かれてるのを見つけた。
「オレは……こ、怖かったんだ! もしあのメモのことを暴露したら、今度はオレが狙われると思って……だ、だから、本当にオレは知らないんだ、あれを書いたのが誰なのか! ゆ、赦してくれグリセルダ、グリムロック。オレは、ほ、本当に殺しの手伝いをする気なんかなかった。信じてくれ、頼む…………!」
甲高い悲鳴混じりの声を絞り出し、シュミットは何度も額を地面にこすり付けた。
一しきり夜風が唸り、ぎしぎしと梢が軋んだ。
それが収まると同時に、これまでの陰々としたエコーが綺麗に失せた女性の声が静かに響いた。
「全部録音したわよ、シュミット」
聞き覚えのある――つい最近聞いたばかりの声だった。シュミットはおそるおそる顔を持ち上げ、そして唖然と目を見開いた。
左手で持ち上げられた漆黒のフードの奥から現れたのは、数時間前、まさにこのローブ姿の死神に殺されたはずの当人の顔だった。波打つダークブルーの髪が、ふわりと風にたなびいた。
「…………ヨルコ…………?」
音にならない声で囁いたシュミットは、続けて隣の死神が露わにした実直そうな相貌を目にして、半ば気が遠くなりながら呟いた。
「………………カインズ」
「い、生きてるですって……!?」
驚愕の叫びを漏らすアスナに、俺はゆっくり頷きかけた。
「ああ、生きてる。ヨルコさんも、カインズ氏もな」
「だ、だって…………、だって」
何度か大きく呼吸を繰り返してから、アスナは窓枠に手をつき、かすれ声で反駁した。
「だって……私たち、ゆうべ確かに見たじゃない。槍に貫かれて、窓からぶら下がったカインズさんが、確かに死ぬところを」
「違う」
俺は大きく一度首を振った。
「俺たちが見たのは、カインズ氏の仮想体《アバター》が、ポリゴンの欠片を大量に振り撒きながら、青い光を放って消滅する現象だけだよ」
「だ、だから、それがこの世界での『死』でしょう?」
「……覚えてるか? 昨日、教会の窓から宙吊りになったカインズ氏は、空中の一点をぴったり凝視してた」
伸ばした人差し指を顔の前に掲げ、俺は言った。アスナが小さく頷く。
「HPバーを見てたんでしょう? 貫通継続ダメージで、徐々に減ってくところを……」
「俺もそう思った。でも、そうじゃない。彼が本当に見ていたのは、HPバーじゃなく、自分の着込んだフルプレートアーマーの耐久値だったんだ」
「た、耐久値ですって?」
「うん。今日の午前中に貫通ダメージが圏内でどうなるか実験をしたとき、俺は左手のグローブを外しただろ? 圏内では、プレイヤーに何をしようとHPは絶対に減らない。でもオブジェクトの耐久値は減る……さっきのバゲットサンドみたいに。もちろん装備類の耐久値は、食べ物みたいに自然減はしないけど、でもそれは損傷を受けてない場合だ。いいか、あの時、カインズのアーマーは槍に貫通されてた。槍が削っていたのは、カインズのHPじゃなく、鎧の耐久値だったんだ」
そこまで口にしたとき、眉を寄せていたアスナがハッと眼を見開いた。
「じゃ、じゃあ……あの時砕けて飛び散ったのは、カインズさんの肉体じゃなくて……」
「そう。彼の着込んでいた鎧だけなんだよ。そもそもおかしいと思ったんだ、飯を食いにきたのに、なんであんな分厚いアーマーをびっちり着込んでいたのか……あれは、ポリゴンの爆散を、可能な限り派手にするためだったんだ。そして、まさに鎧が壊れる瞬間を狙って、中身のカインズ氏は……」
「結晶でテレポートしたのね」
呟き、アスナは頭の中であの場面を再生しようとするかのように瞼を閉じた。
「その結果発生するのは、『青い光を放ってポリゴンが粉砕、飛散し、プレイヤーが消滅する現象』……つまり死亡エフェクトに限りなく近い、でもまったく別のもの」
「うん。恐らく実際にカインズ氏が取った行動は、圏外であの槍を鎧ごと体に突き刺し、回廊結晶かあるいは深夜に徒歩で教会の二階まで移動して、自分の首にロープを掛け、鎧が破壊される寸前に窓から飛び降りタイミングを合わせてテレポートした……そんな感じだろう」
「…………なるほどね……」
ゆっくりと深く頷き、アスナは瞑目したまま長く息を吐いた。
「……なら、ヨルコさんの『消滅』も同じトリックだったってことだよね。……そっか…………生きてるのね…………」
声には出さず、口の動きだけで「よかった」と呟いてから、アスナはすぐにきゅっと唇を噛んだ。
「で、でも。確かに彼女、やたらと厚着はしてたけど、スローイングダガーはいつ刺したの? 圏内じゃコードに阻まれて、体に触れることすらできないはずだわ」
「刺さってたんだ、最初から」
俺は即答した。
「よく思い出してみろよ。俺とアスナ、シュミットが部屋に入った時から、彼女一度も俺たちに背中を見せようとしなかった。これから訪ねてくってメッセージが届くや否や、圏外まで走って背中にダガーを刺して、マントかローブを装備して宿屋まで戻ったんだ。あの髪型だし、ソファーにぴったり座られたら、あんなちっぽけなダガーの柄は全部隠れるよ。そして服の耐久度が減ってくのを確認しながら会話を続け、タイミングを見計らって後ろ向きに窓まで歩いて、足で壁を蹴るかなんかして音を出してから後ろを向く。俺たちには、窓の向こうから飛んできたダガーがその瞬間刺さったようにしか見えない」
「そして自分から窓の外に落下した……あれは、転移コマンドをわたし達に聞かれないためだったのね。…………てことは、キリト君が追っかけた黒ローブは……」
「十中八九、グリムロックじゃない。カインズだ」
† 16 †
俺がそう断定すると、アスナは視線を宙に向け、短く嘆息した。
「あれは犯人どころか、被害者だったわけね。……え、でも、待ってよ」
眉根を寄せ、身を乗り出す。
「わたし達、ゆうべわざわざ黒鉄宮まで『生命の碑』を確認しに行ったじゃない。カインズさんの名前には、確かに横線が刻まれてた。死亡時刻もぴったり、死因だってちゃんと『貫通属性攻撃』だったわ」
「そのカインズさんの名前の表記、憶えてる?」
「えっと……確か、K、a、i、n、s、だったかな」
「うん、俺たちはヨルコさんからそう教わって、頭から信じた。でも……ほら、これ」
俺は、この一連の推理に辿り着く切っ掛けとなった羊皮紙片をアスナに差し出した。数時間前、シュミットに書いてもらった『黄金林檎』メンバーの一覧表だ。
手を伸ばし、受け取ったアスナは、紙片の中ほどを一瞥するや「えーっ」と叫んだ。
「『Caynz』……!? これがカインズさんの本当の綴りなの!?」
「一文字くらいならともかく、三文字も違えばシュミットの記憶違いってこともなさそうだしな。つまりヨルコさんが、俺たちにわざと違うスペリングを教えたんだ。Kのほうのカインズ氏の死亡表記を、Cのカインズ氏と誤認させるためにね」
「え……じゃ、じゃあ……」
アスナは顔を強張らせ、声のトーンを低めた。
「あの時……私たちが教会前の広場でCのカインズさんの偽装死亡を目撃した瞬間、同時にアインクラッドのどこかでKのカインズさんも貫通ダメージで死んでたってことなの? 偶然……ってことはないわよね……? まさか…………」
「ちがうちがう」
俺は軽く笑いながら、大きく右手を振った。
「ヨルコさんたちの共犯者が、タイミングを合わせてKのほうを殺した、ってことじゃない。いいかい、生命の碑の死亡表記はこうなってた。『サクラの月22日、18時27分』……アインクラッドに、サクラの月つまり四月の二十二日が来るのは、昨日で二回目なんだよ」
「あっ…………」
アスナはしばし絶句し、次いで同じように力の無い笑みを浮かべた。
「…………なんてことなの。わたし、まったく考えもしなかったわ。去年なのね。去年の同じ日同じ時間に、Kのほうのカインズさんは、この件とはまったく無関係にもう亡くなってたのね……」
「そう、おそらくは、そこが計画の出発点だったんだ」
俺は一度大きく深呼吸をし、考えをまとめながら話を続けた。
「……ヨルコさんとカインズ氏は、かなり早い段階から、偶然同じ読みのできる見知らぬ誰かが去年の四月に死亡していることに気付いていたんだ。最初は話の種程度のことだったんだろう。でもある時どちらかが、この偶然を使えばカインズ氏の死亡を偽装できるのではないかと思いついた。しかも尋常の対モンスター戦闘死じゃない……『圏内殺人』という恐るべき演出を付け加えて」
「…………確かに、わたしも君もころっと騙されたもんね。同じ読みのできる他人の死亡表記、貫通継続ダメージによる圏内での装備破壊、それと同時の結晶転移……この三つを重ねて、圏内でのPKを限りなく真実に見せかけたんだわ…………そして、その目的は…………」
アスナは囁くような声で続きを口にした。
「『指輪事件』の犯人を追い詰め、炙り出すこと。自分達が犯人と疑われ得る立場であることを逆に利用して、ヨルコさんとカインズさんは自らの殺人事件を演出することで、存在しない『復讐者』を作り出した。圏内でPKをしてのける恐ろしい死神を……結果、恐怖に駆られて動いたのが……」
「シュミットだ」
俺は頷き、指先で顎を擦った。
「多分、最初からある程度疑ってたんだろうな。……シュミットは、こう言っちゃなんだけど中堅ギルドだった『黄金林檎』から、一足飛びにDDAに加入した。それはやっぱり異例なことではあるよ。よっぽど急激なレベルアップか、あるいは急激な装備更新がないと……」
「とくにDDAは加入要件厳しいもんね。…………でも、じゃあ、彼が指輪事件の犯人だった、ってこと……? あの人がグリセルダさんを殺して、指輪を奪ったの……?」
攻略組の作戦参謀としてシュミットとは何度も顔を合わせているアスナは、僅かに頬を強張らせ、じっと俺を見た。
しばし唇を噛み、俺はやがてそっと首を左右に振った。
「……判らない。疑いうる材料はあるけど……あいつに、『レッド』の気配があるかどうかと言うと……」
SAOにおける殺人者、つまりレッドプレイヤーは、どこか逸脱した雰囲気をまとっているものだ。それはある意味当然と言える。なぜならここでプレイヤーを殺すことは、ゲームクリアを阻害するに等しい行為なわけで、つまりレッドの連中は極論、「ここから出られなくてもいい」と思っている――あるいは積極的に「このデスゲームが永続すればいい」と願っているということになるからだ。
その負の願望は、否応無く言動の節々に現れる。だが、黒衣の死神に心の底から怯え、俺たちにギルド本部までの護衛すら頼んだシュミットからは、『レッド』の狂気を俺は感じ取れなかった。
「…………確信は持てないな。無関係じゃない、ってことくらいは充分言えるだろうけど……」
俺の呟きに、アスナも同感だというようにこくりと頷いた。窓際から近づいてきて、俺の座る椅子の肘掛にちょこんと腰を乗せる。
俯き、胸の前で腕を組んで、アスナは沈んだ声を出した。
「…………シュミットさんは、どうするつもりかな。復讐者の存在を信じきったとして、しかも圏内、ううんギルドの本部ですら安全じゃないとまで追い詰められたとしたら……」
「もし共犯者が居れば、そいつとコンタクトするだろうな。おそらくヨルコさんとカインズ氏の狙いはそれだろう。シュミットにも共犯者の今の居所が判らなければ、うーん……俺なら…………」
どうするだろう。一時の欲望や怒りの衝動に負け、プレイヤーを殺害し、それを後悔したとき、いったい何ができるだろう。
俺はまだ、この世界でプレイヤーの命を奪ったことはない。しかし、俺のせいで死んでいった仲間ならいる。俺の愚かさと醜い自己顕示欲ゆえに、俺ひとりを残して全滅したギルドの仲間たちのことを俺はいまも常に悔やんでいる。ギルドが仮のホームとしていた宿屋の裏庭に生える小さな樹を彼らの墓標と定め、何の贖罪にもなりはしないが、毎月の命日には花や酒を手向けに行く。だから、恐らくシュミットも――。
「…………もしグリセルダさんのお墓があれば、そこに行って赦しを乞うよ」
するとアスナは、俺の声の変調を敏感に察したか、肘掛の上からまっすぐこちらを見て穏やかに微笑んだ。
「そうね。わたしもそうする。KoBの本部にも、いままでのボス戦で亡くなった人のお墓があるからね……」
そこでふと口を噤み、やや表情を翳らせる。
「……? どうした?」
「ううん……ただ、ちょっと思ったの。もしその、グリセルダさんのお墓が圏外にあったら? シュミットさんがそこに謝りに行ったとして……ヨルコさんとカインズさんは、ただ許すかしら? まさかとは思うけど、今度こそ本当に復讐しようとはしないかしら……?」
予想外の言葉に、俺は一瞬背筋を強張らせた。
絶対に無いとは言えない。こんな手の込んだ『圏内殺人事件』を演出するほどに、ヨルコとカインズは指輪事件の犯人を憎んでいるのだ。彼らは少なくとも二つは転移結晶を使っている。二人のレベルからすれば大変な出費だろう。そこまでの準備をして、謝罪を引き出すだけという結果に満足するだろうか……?
「あ……、いや……そうか……」
しかし俺はふとあることに気付き、首を振った。
「いや、無いよ。二人はシュミットを殺しはしない」
「なんで言い切れるの?」
「だって、アスナはまだヨルコさんとフレンド登録したままだろう? 向こうから登録解除されたって表示は見てないよな?」
「あ……、そう言えば、そうね。宿屋での第二の殺人を信じきってたから、そのまま自動解除されたものと思ってたけど、生きてるなら登録も継続してるはずだわ」
ひとつ頷き、アスナは左手を振ってウインドウを出すと、素早く操作してもう一度首肯した。
「確かに登録されたままよ。もっと早くこれを見てれば、事件のカラクリに気付けたのになぁ……でも、となると、そもそもヨルコさんはなんでフレンド登録を受け入れたのかしら? ここから計画が全部破綻することも有り得たわよね?」
「おそらく……」
俺は眼を閉じ、体を椅子の背もたれに預けた。
「……俺たちを結果として騙すことへの謝罪という意味と、もう一つ、俺たちを信じてくれたんだろうな。フレンド登録が生きてることに気付いても、そこから彼らの真の意図まで推測して、シュミットをおびき出す邪魔はしない、とね。アスナ、ヨルコさんを位置追跡してみろよ」
瞼を開けてそう言うと、アスナは頷いてさらにウインドウを叩いた。
「……いま、二十層のフィールドに居るわ。主街区からちょっと離れた、小さい丘の上……じゃあ、ここが……」
「グリセルダさんのお墓だろうな。そこに、カインズもシュミットも居るはずだ。もしシュミットがそこで死ねば、俺たちにヨルコさんたちが殺したんだと判ってしまう。だから、殺すまではしないだろう」
「じゃあ……逆は? 指輪事件に関わってたことを知られたシュミットが、口封じのために二人を殺すことは有り得ない……?」
尚も心配そうなアスナの言葉に、俺は少し考え、今度も首を横に振った。
「いや……その場合も俺たちに露見しちゃうし、そもそもあの人は犯罪者《オレンジ》タグに、いや殺人者《レッド》になって攻略組から放逐されることに耐えられないだろう。だから、互いに相手を殺す心配だけはないと思う。…………任せよう、彼らに。俺たちの、この事件での役回りはもう終わりだよ。まんまとヨルコさんたちの目論みどおりに動いちゃったけど、でも……俺は嫌な気分じゃないよ」
そう言うと、アスナもしばらく考えてから、うんと微笑んだ。
しかし、俺もアスナも、この時点でいまだ巨大な思い違いをしていたのだ。
事件はまだまだ終わってはいなかった。
† 17 †
再び、聞いた話だ。
シュミットは驚きの余り息も絶えだえになりながら、死神ローブの下から現れた二人のプレイヤーの顔を何度も交互に見返した。
グリセルダとグリムロックだとばかり思っていた死神の正体は、ヨルコとカインズだった。しかし、この二人とてすでに死んでいることに変わりはない。カインズの死亡は伝え聞いただけだが、ヨルコのそれは――つい数時間前、自分の眼で確かに見たばかりなのだ。窓の外から飛来した黒いダガーに貫かれ、街路に落下してその仮想体《アバター》を飛散させた。
やはり幽霊なのか、と一瞬ほんとうに気絶しそうになったが、顔を露わにする直前にヨルコが発した台詞が、危ういところでシュミットの意識を救った。
「ろ……ろく、おん……?」
喉から漏れた嗄れ声に答えるように、ヨルコはローブの懐から引き抜いた手をシュミットに示した。握られているのは、ライトグリーンに輝く八面柱型の結晶。録音クリスタルだ。
幽霊が、アイテムを使って会話を録音などするはずはない。
つまりヨルコの、そしてカインズの死は偽装だったのだ。手口は想像もつかないが、二人は自分の『死』を演出することで存在しない復讐者を造り上げ、真に復讐されるべき三人目を追い詰めた。そして恐怖に駆られた三人目の、罪を告白し懺悔を乞う声を記録した。すべては――遠い過去の、ひとつの殺人事件の真相を暴くための計画だった。
「…………そう……だったのか…………」
ついにことの真相に辿り着いたシュミットは、声ならぬ声で呟き、その場にぐたりと脱力した。
まんまと騙され、証拠まで抑えられたことへの怒りはなかった。ただただ、ヨルコとカインズの執念――それに、グリセルダを慕う気持ちの深さへの驚嘆だけを感じていた。
「お前ら……そこまで、リーダーのことを…………」
呟いた声に、カインズが静かに応じた。
「あんたも、だろう?」
「え……?」
「あんただって、リーダーを憎んでたわけじゃないんだろ? 指輪への執着はあっても、彼女への殺意まではなかった、それは本当なんだろう?」
「も……もちろんだ、本当だ、信じてくれ」
シュミットは顔を歪め、何度も首肯した。
戦力差で言えば、おそらくこの二人を合わせたよりも自分のほうが強いだろう。しかしここで武器を抜き、二人の口を封じるといったような選択肢はまったく浮かんでこなかった。レッドプレイヤーに墜ちればもうギルドに、ひいては攻略組にいられなくなる、という気持ち以上に、ここでヨルコとカインズを殺せば、自分はもう二度と正気ではいられなくなるという確信があった。
だからシュミットは、まだ録音クリスタルが作動中なのを承知の上で、再び告白を繰り返した。
「オレがやったのは……宿屋の、リーダーの部屋に忍び込んでポータルの出口をセーブしたことだけだ。そりゃ……受け取った金で買ったレア武器と防具のおかげで、DDAの入団基準をクリアできたのは確かだけど……」
「メモの差出人に心当たりがない、っていうのは本当なの?」
ヨルコの厳しい声に、もう一度激しく頷く。
「い、今でもまったく解らないんだ。十人のメンバーのうち、オレとあんたら、リーダーとグリムロックを除いた三人の誰かのはずだけど……その後、一度も連絡してないし……あんたらは、目星をつけてないのか?」
シュミットの問いに、ヨルコは小さく首を横に振った。
「三人全員、ギルド解散後も『黄金林檎』と同じくらいの中堅ギルドに入って、普通に生活してるわ。レア装備やプレイヤーホーム買った人は一人もいない。いきなりステップアップしたのはあなただけよ、シュミット」
「…………そうか……」
シュミットは呟き、下を向いた。
グリセルダが死んだのちに、部屋に届けられていた皮袋の中の金《コル》は、当時では想像もできないほどの大金だった。それまでは指をくわえて見ているしかなかったオークションハウスの出品リストの天辺近くに並ぶ超高性能装備を、一気に全身ぶん揃えられたほどだったのだ。
あの金を遣わずにストレージに放置しておけるとは、凄まじいと言うしかない自制心だ。いや、それ以前に――。
顔を上げ、シュミットは己の苦境も一瞬忘れて、胸中に生じた疑問を口にした。
「……で、でもよ。おかしいだろ……遣わないなら、なんでリーダーを殺してまで指輪を奪う必要があったんだ…………?」
虚を突かれたように、ヨルコとカインズがやや上体を引いた。
アインクラッドでは、稼いだ金をストレージに貯め続けておくことのメリットはほぼ存在しない。1コルの価値は、カーディナルシステムの緻密なドロップレート操作によって常に等価に保たれ、インフレもデフレも起こらないからだ。遣われないコルに意味はない。つまり――
「てことは……あのメモの差出人は……」
必死に思考を回転させながら、シュミットはおぼろげに浮かびつつあった推測を口にしようとした。
しかし、意識を集中しすぎていたせいで、それ《・・》に気付くのが遅れた。
「シュ…………!」
目の前のヨルコが掠れた声を漏らしたときには、背後から回り込んできたダガーが、すと、とプレートアーマーの喉部分の隙間に潜り込んでいた。
一瞬の驚愕から、最前線でそれなりに鍛えた対応力で立ち直り、シュミットは飛び退こうとした。たとえ喉を切り裂かれても、この世界では即死はしない。急所ゆえにダメージはやや大きいが、それでもシュミットの膨大な総HP量に比べれば微々たるものだ。
しかし。
体を反転させるより早く、両脚の感覚が切断され、シュミットはがしゃりと音を立てて地面に転がった。HPゲージを、緑色に点滅する枠が囲っている。麻痺状態だ。壁戦士《タンク》として耐毒スキルを上げているのに、その防御を貫通するとは物凄いハイレベルの毒だ。いったい誰が――
「ワーン、ダウーン」
しゅうしゅうと擦過音の混ざる声が降ってきて、シュミットは必死に視線を上向けた。
鋭い鋲が打たれた黒革のブーツがまず見えた。同じく黒の、細身のパンツ。ぴったりと体に密着するようなスケイルメイルも黒。右手には、刀身が緑に濡れる細身のダガーを携え、左手はポケットに差し込んでいる。
そして頭は、頭陀袋のような黒いマスクに覆われていた。眼の部分だけが丸く繰り抜かれ、そこから注がれる粘つくような視線を意識するのと同時に、シュミットの視界にプレイヤーカーソルが出現した。見慣れたグリーンではなく、鮮やかなオレンジ色が眼を射た。
「あっ……!」
背後で小さく悲鳴が聞こえ、視線を振り向けると、ヨルコとカインズを一まとめにして巨大なカマで威嚇する、やや丸い体型のプレイヤーが見えた。こちらも全身黒尽くめだが、革ではなくびっしりと襤褸切れのようなものが垂れ下がるギリースーツだ。頭部までも覆うその襤褸の間から、暗い赤に光る両眼が見えた。カーソルの色は同じくオレンジ。
この二人を、シュミットは知っていた。直接見たことがあるわけではない。ギルド本部で回覧される、要注意プレイヤーリストの上位に全身のスケッチが載っていたのだ。
ある意味ではボスモンスター以上に攻略組の仇敵である、殺人《レッド》プレイヤーたち。そのなかでも最大最凶のギルドで幹部を勤める男たちだ。シュミットを麻痺させたダガー使いが『ジョニー・ブラック』。ヨルコたちを押さえるカマ使いが『赤眼のザザ』。
ということは。まさか――あいつ《・・・》までもが。
嘘だろう。やめてくれ。冗談じゃない。
というシュミットの内心の絶叫を裏切るように、じゃり、じゃり、と新たな靴音が聞こえた。
呆然と視線を振ったシュミットは、アインクラッドにおける最大の恐怖を体現するその姿を見開いた眼で捉えた。
膝上までを包む、つや消しの黒いポンチョ。目深に伏せられたフード。
だらりと垂れ下がる右手に握られるのは、まるで中華包丁のように四角く、血のように赤黒い刃を持つ大型のダガーだ。
「…………『PoH《プー》』…………」
シュミットの唇から漏れたひと言は、恐怖と絶望を映して激しくわなないていた。
SAOex5_04_Unicode.txt
† 18 †
殺人ギルド『笑う棺桶《ラフィン・コフィン》』。
結成されたのは、SAOというデスゲームが開始されてからわずか半年後のことだ。それまでは、ソロあるいは少人数のプレイヤーを大人数で取り囲みコルやアイテムを強奪するだけだった犯罪者《オレンジ》プレイヤーの一部が、より過激な思想のもとに先鋭化した集団である。
その思想とはつまり――『デスゲームならば殺して当然』。
現代日本では許されるわけもない『合法的殺人』が、この状況《アインクラッド》でなら可能となる。なぜならあらゆるプレイヤーの体は現実世界においては完全ダイブ中、つまり無意識状態であり、本人の意思では指一本動かせないからだ。日本国の法律が及ぶ範囲においては、HPゲージがゼロになったプレイヤーを『殺す』のは常に殺人装置たるナーヴギアと計画者たる茅場晶彦であって、ゲージを減少させたプレイヤーではない。
ならば殺そう。このゲームを愉しもう。それは全プレイヤーに与えられた権利なのだから。
――という劇毒じみたアジテーションによって少なからぬ数のオレンジを誘惑、洗脳し、狂的なPKに走らせたのが、肉切包丁をぶら下げる黒ポンチョの男、PoHなのだ。
そのユーモラスなプレイヤーネームに反して、氷のような冷酷さのみを放射する男は、シュミットのすぐ近くまで歩み寄ってくると短く命じた。
「ひっくり返せ」
即座にジョニー・ブラックのブーツのつま先が、うつ伏せに倒れるシュミットの腹の下にこじ入れられる。ごろりと上向けにされたシュミットの顔を真上から覗き込み、黒ポンチョの男は再び声を発した。
「woa……確かに、こいつはでっかい獲物だ。DDAの幹部様じゃないか」
張りのある艶やかな美声なのに、なぜかその声には深い異質さがまとわりついている。フードに隠れて顔は見えないが、波打つ豊かな黒髪がぱさりと一房垂れ下がり、夜風にゆらりと靡いた。
己が絶体絶命の危地にあることを認識しながらも、シュミットは思考の半分で、なぜ、どうして、と疑問詞だけを繰り返していた。
なぜこいつらが、今この場所に出現するのだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーと言えば、恐怖の象徴であると同時に最大級のお尋ね者であり、こんな下層のフィールドを理由もなくうろついてるはずがない。
つまりこの三人は、シュミットがここに居ることを知ったうえで襲ってきた、ということになる。
だがそれも間尺に合わない。DDAの人間には行き先を言わずに出てきたし、ヨルコとカインズが情報を流すはずもない。そもそも、彼らは二人とも『赤眼のザザ』のカマに威嚇され、血の気を失っている。偶然、こいつらの配下が近くのフィールドに居てシュミットたちを見かけ、上に連絡したのだとしても、出現があまりにも早過ぎる。
なんでこんなことに。何らかの事情があってこの三人が偶然この層に居合わせたという、万にひとつの巨大な不運なのか? それとも――この偶然こそが、死んだグリセルダの復讐なのか……?
丸太のように転がったまま、縺れた思考を彷徨わせるシュミットを見下ろして、PoHが小さく首を傾げた。
「さて……、イッツ・ショウ・タイム、と行きたいとこだが……どうやって遊んだもんかね」
「あれ、あれ行きましょうよヘッド」
即座にジョニー・ブラックがしゅうしゅうと甲高い声を出した。
「『殺し合って、生き残った奴だけ助けてやるぜ』ゲーム。まあ、この三人だと、ちょっとハンデつけなきゃっすけど」
「ンなこと言って、お前このあいだ結局残った奴も殺したろうがよ」
「あ、あーっ! 今それ言っちゃゲームにならないっすよヘッドぉ!」
緊張感のない、しかしおぞましいやり取りに、ザザが鎌を掲げたままヒャッヒャッと笑った。
ここにきて、ようやく現実的な恐怖と絶望が背筋を這い登ってきて、シュミットは思わず目を瞑った。
生き残るためにひたすら強化したステータスも装備も、この連中の前には無意味だ。こいつらはもうすぐ食前酒めいた戯言を打ち切り、それぞれの武器を振りかざすだろう。ことにPoHの持つ大型ダガー『友切包丁《メイトチョッパー》』は、現時点での最高レベルの鍛冶職人が作成できる最高級の武器を上回る性能を持つモンスタードロップ、いわゆる『魔剣』だ。シュミットが着込む分厚いプレートアーマーの防御をも容易く抜いてくるはずだ。
――グリセルダ。グリムロック。
これがあんた達の復讐だというなら、オレがここで死ぬのは仕方ないのかもしれない。しかしなぜヨルコやカインズを巻き添えにするんだ。あんた達を殺した真犯人を暴くために、とてつもない労力をつぎ込んできた彼らまで。なぜ――。
シュミットが、絶望に彩られた思考を泡のように弾けさせた、その時。
背中に密着する地面から、かすかな震動が伝わってくるのを感じた。
どどどっ、どどどっ、というリズミカルな震えは、どんどん大きく、確かなものになる。すぐに耳にも重い響きが届いてくる。
しゅっ、と鋭い呼吸音でPoHが部下二人に警告した。ジョニーがダガーを構えながら飛び退り、ザザが鎌をいっそう深くヨルコとカインズの首元につきつける。
動かない首を懸命に巡らせたシュミットの目が捉えたのは、主街区の方向から、一直線に近づいてくる白い燐光だった。
激しく上下する四つの光が、闇夜に溶けるような漆黒の馬のひづめを包む冷たい炎であると見て取れたのは数秒後だった。馬の背には、これも黒一色の騎手の姿がある。まるで冥府から出現した不死《アンデッド》の騎士とも思える何者かは、荒野に白い炎の軌跡を引きながら猛烈な速度で肉迫してくる。ひづめの音は耳をつんざくような地響きへと変わり、それに甲高いいななきが重なる。
たちまち小高い丘のふもとに達した騎馬は、数度の跳躍でてっぺんまで上り詰めると、後ろ脚だけで立ち上がり、鼻面から白く燃える噴気を激しく漏らした。その勢いに押されるようにジョニーが数歩下がり、直後、一杯に手綱を引いていた騎手が――馬の背中から真後ろへと転がり落ちた。
どすん、と尻餅をつくと同時に「いてっ!」と毒づいたその声には、聞き覚えがあった。
腰をさすりながら立ち上がった闖入者は、巨大な黒馬の手綱を握ったまま、ちらりとシュミットを、次いでヨルコとカインズを見て緊張感の無い声を出した。
「ぎりぎりセーフかな。タクシー代はDDAの経費にしてくれよな」
アインクラッドには、所持アイテムとしての騎乗動物《マウント》は存在しない。しかし一部の街や村にはNPCの経営する厩舎があり、そこで騎乗用の馬や、ストレージに収まりきれない大量の荷物を運搬するための牛などを借りることができる。だが乗りこなすためには当然それなりのテクニックが要求され、また料金も馬鹿高いために、使おうという者はそうそう居ない。
だがこの場合は、主街区から徒歩では絶対に間に合わなかっただろう。シュミットは詰めていた息をゆっくり吐き出しながら、闖入者――攻略組ソロプレイヤー、キリトの顔を見上げた。
キリトは握った手綱をぐいっと引き、馬を回頭させると、その尻をぽんと叩いた。レンタルが解除され、たちまち走り去っていく黒馬のひづめの音に、迫力にはやや欠ける声が重なった。
「よう、PoH。久しぶりだな。まだその趣味悪い格好してんのか」
「……手前ェに言われたかねえな」
答えたPoHの声は、僅かながら殺意を孕んでびんと強く響いた。
続けて、一歩踏み出したジョニー・ブラックが、こちらは明確に上ずった声で喚いた。
「ンの野郎……! 余裕かましてんじゃねぇぞ! 状況解ってんのかコラァ!」
ぶん、とダガーを振り回す配下を左手で制し、PoHは右手の包丁を指先でくるくる回した。
「こいつの言うとおりだぜ、キリトよ。格好よく登場したのはいいが、いくら手前ェでも俺たち三人を一人で相手できると思ってるのか?」
シュミットは、いまだ麻痺の解けぬ全身の中でわずかに動かせる顎をきつく噛み締めた。
状況はPoHの言うとおりだ。いかに攻略組でトップクラスの戦闘力を誇るキリトと言えども、ラフィン・コフィンのトップ3をまとめて倒せるわけがない。なぜ、せめて『閃光』を連れてこなかったのか?
「ま、無理だな」
左手を腰にあて、キリトは平然と言い返した。しかしすぐに続けて、
「でも耐毒POT飲んでるし、回復結晶ごっそり持ってきたから十分は耐えてやるよ。そんだけあれば、援軍が駆けつけるには充分だ。いくらあんたらでも、攻略組三十人を三人で相手できると思ってるのか?」
直前とまったく同じ台詞を返されたPoHが、フードの奥で軽く舌打ちするのが聞こえた。ジョニーとザザが、不安そうに視線を周囲の暗闇へと泳がせる。
「…………Suck」
やがて、短く罵り声を発したPoHが、じゃりっと右足を引いた。
左手の指を鳴らすと、配下二人がざざっと数メートル退く。鎌から解放されたヨルコとカインズがその場にふらふらと膝を突いた。
PoHは右手の包丁を持ち上げ、まっすぐキリトを指し、低く吐き捨てた。
「……『黒の剣士』。手前ェだけは、いつか必ず這わせてやる。大事なお仲間の血の海でごろごろ無様に転げさせてやるから、期待しといてくれよ」
† 19 †
三つの影が丘を下り、夜闇に溶けたあとも、俺は索敵スキルによって視界に表示されるオレンジ色のカーソルがちゃんと離脱していくのを確認し続けた。
犯罪者プレイヤーは、アンチクリミナルコードによって護られた街や村には原則として立ち入れない。境界に踏み込んだ途端、鬼のように強いNPCガーディアンが大挙して襲ってくるからだ。そして転移門を備えた各層主街区は例外なくコード圏内なので、あの三人が他の層に移動するためには、転移結晶の行き先に『圏外村』を指定するか、高価な回廊結晶を使うか、あるいは徒歩で攻略済みの迷宮区を上り下りするしかない。
おそらくは一番目だろうが、それにしても往復で六個の転移結晶を使ったとなると連中にしても馬鹿にならない出費だろう。溜飲を下げつつも、三つのカーソルが視界から消滅した途端、俺は無意識のうちに太く長い安堵のため息をついていた。
まったく、予想以上にやばい奴らが出てきたものだ。つまり、あの三人はこの時この座標にシュミットが――ギルド聖竜連合の前衛隊長、攻略組でも最大級のHPと防御力を持つ男がいることを知っていたということになる。
その情報の出所も、すぐに明らかになるはずだ。
俺は闇に沈む荒野から視線を切ると、ウインドウを出し、十数人を引き連れてこちらに急行中であるはずのクラインに【街で待機していてくれ】と手早くメッセージを送った。
次に腰のポーチから出した解毒ポーションをシュミットの右手に握らせ、大男が震える手でそれを呷るのを見届けてから、視線を少し離れた場所の二人に移す。
血の気を失って座り込む死神ローブ姿のプレイヤーたちにかけた声が、少しばかり皮肉っぽいものになってしまったのは止むを得ないというべきだろう。
「また会えて嬉しいよ、ヨルコさん。それに……はじめまして、カインズさん」
数時間前、俺の目の前でポリゴン片を飛散させながら消滅したばかりのヨルコは、上目遣いに俺を見ると、数秒後ごくかすかな苦笑を頬に浮かべた。
「ほんとうは、あとできちんとお詫びにうかがうつもりだったんです。……と言っても、信じてもらえないでしょうけれど」
「信じるかどうかは、おごってもらうメシの味によるな。言っとくけど、怪しいラーメンとか謎のお好み焼きはナシだからな」
きょとんとするヨルコの隣で、黒いローブを脱いだ朴訥そうな男――『圏内事件』最初の死者カインズが、ぐいっと一度頭を下げた。
「はじめまして――ではないですよ、キリトさん。あの瞬間、一度だけ眼が合いましたね」
落ち着いた低音で発せられた言葉に、俺はようやく思い出す。
「そういえば、そうだったかもな。あんたが死ぬ、じゃない、鎧の破壊と同時に転移する寸前だろう?」
「ええ。あの時ね、この人には偽装死のカラクリを見抜かれてしまうかもしれない、って何となく予感したんですよ」
「そりゃ買いかぶりだ。完璧騙された」
今度は俺が苦笑した。僅かに緩んだ空気を、がしゃりと鎧を鳴らして上体を起こしたシュミットの、いまだ緊張の抜けない声が再度引き締めた。
「……キリト。助けてくれた礼は言うが……なんで分かったんだ。あの三人がここを襲ってくることが」
俺は、食い入るように見上げてくる巨漢の眼を見返し、少し言葉を探した。
「分かった、ってわけじゃない。ありうると推測したんだ。相手がPoHだと最初から知ってたら、ビビって逃げたかもな」
つい混ぜっ返すような言い方になってしまうのには理由がある。
俺がこれから話すことは、この三人に――ことにヨルコとカインズに、巨大な衝撃を与えるだろう。全ての脚本を書き、演出し、主演までした二人も存在に気付いていないプロデューサーが、この事件の陰には潜んでいるのだ。俺はゆっくり息を吸い込み、出しうる限りの静かな声で語りはじめた。
「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……」
事件は終わった。あとはヨルコ、カインズ、そしてシュミットに任せよう。
20層主街区の下町にある酒場を見下ろす宿屋の二階で、俺はアスナにそう言い、椅子に深く身を沈めた。
彼らが互いに殺し合うことはないはずだ。ならば、この『圏内事件』の幕は、その原因となった『指輪事件』の当事者だけで降ろすのが一番いいんだ。そう確信して発した俺の言葉に、アスナも「そうね」と頷いた。
しばし訪れた静寂のなかで――俺はふと、胸のどこかに、ごくごく小さなトゲが引っかかっているような感覚に捉われた。
何か考えるべきことがある。その存在は分かっているのに、何を考えればいいのか分からない、そんなもどかしさ。違和感の訪れは、アスナの穏やかな声を聞いた瞬間だった。
アスナがこの部屋で、酒場の監視を続けながら口にした内容のどこかにこの感覚の根がある。そう思った俺は、無意識のうちに「なあ……」と声を掛けていた。
「……なに?」
隣の椅子でちらりと視線を上げるKoB副団長様に向かって、俺は思考の八割を違和感の分析に振り分けながら、まったく無思慮極まる質問を発した。
「アスナ。お前、結婚してたことあるの?」
答えは底冷えするような殺気の篭もった視線と、ぎゅっと握られた右拳と、中腰で前傾する攻撃予備動作だった。
「うそ、なし、いまのなしなし!!」
どつかれる前に叫び、両手と首をぶんぶん振ってから、俺は慌てて言葉を補足した。
「ちがうんだ、そうじゃなくて……お前さっき、結婚について何か言ってたろ?」
「言いました。それがどうかした?」
据わった眼で一瞥され、いっそう震え上がりながらも、必死に口を動かす。
「ええと……ぐ、具体的にはなんだっけ。ほら、ロマンチックだとかプラスチックだとか……」
「誰もそんなこと言ってないわよ!」
結局コード発動直前の勢いでがつんと俺のスネを蹴飛ばしてから、アスナは幸い俺の記憶を補正してくれた。
「ロマンチックでプラグマチックだって言ったの! プラグマチックっていうのは実際的って意味ですけどね、念のため!」
「実際的……SAOでの結婚が?」
「そうよ。だってある意味身も蓋もないでしょ、ストレージ共通化だなんて」
「ストレージ……共通化…………」
それだ。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる小さなトゲの出所だ。
結婚したプレイヤーのアイテムストレージは完全に統合される。所持容量限界は二人のSTR値の合計にまで拡張され、大変な利便性をもたらすと同時に、レアアイテムを持ち逃げされるような結婚詐欺に見舞われる危険も生じる。
そのシステムの何に、俺はこんなに引っかかるんだ。
圧倒的なもどかしさに翻弄されながら、俺はさらに質問を発した。
「じゃ、じゃあさ……、離婚したとき、ストレージはどうなるんだ?」
「え……?」
虚を衝かれたように、アスナは眼を丸くした。軽く首を傾げ、俺を殴ろうとしていた拳をきゅっとおとがいに添える。
「ええっとね……、確か、いくつかオプションがあるのよ。自動分配とか、アイテムを一つずつ交互に選択していくとか……ほかにも幾つか、わたしもよく覚えてないけど……」
「詳しく知りたいな。どうするか……そうだ、アスナ、試しに俺と」
その先を危うく口にしなかったのは、まったくの英断あるいは僥倖と言うべきであろう。
先刻に数倍する殺気をまとい、銘刀ランベントライトの鞘に手をかけながら、『閃光』はにっこりと笑った。
「試しにあなたと、なあに?」
「…………お、俺と…………質問メール書いてみないか、ヒースクリフ宛の」
――ほんの一分で帰ってきたメールには、離婚時のストレージの扱いについて、詳細かつ簡潔に記してあった。まったくシステムの生き字引のような男だ。
さっきアスナが言った、自動等価分配、交互選択分配。それに加えて、パーセンテージで偏らせた自動分配も可能らしい。これはつまり、慰謝料を発生させることも可能ということだろう。まったく実際的なシステムだ。
そのメールを読み上げるアスナの声を聞きながら、俺は必死に考え続けた。
それらのオプションは、当然離婚時に双方が合意の上で選択するのだろう。逆に言えば、分配オプションに合意できなければ、システム的離婚もできないわけだ。しかし、全てのケースで理性的な話し合いができるわけではあるまい。何がなんでも離婚したいが相手が同意しないような場合にはどうすればいいのだろう。この世界には、裁判所は存在しない。
その疑問に答えたのは、ヒースクリフの返信メールの末尾に記された一文だった。
「……ちなみに、無条件での離婚は、アイテム分配率を自分ゼロ、相手百に設定した場合にのみ可能となる。その例では、離婚成立・ストレージ分割時に相手方が持ちきれないアイテムは全て足元にドロップする。キリト君、くれぐれも一方的に離婚されそうになったならば宿屋の部屋などに避難しておくことをお薦めする。以上だ……ですって」
メールを読み終えたアスナが、微妙な表情でウインドウを消去した。
その顔をぼんやりと眺めながら、俺は口のなかで、今のメールの一箇所だけを何度もリピートした。
自分ゼロ、相手百。自分ゼロ……相手百……。
「あっ…………」
胸の奥に突き刺さる違和感のトゲが、ずきりと鋭く疼くのを俺は感じた。
ほんの小さなそれが、たちまち巨大化していく。もどかしさから疑念へ、そして確信を経て驚愕、さらには恐怖へと変質する。
「あ…………あああ……!!」
叫び、がたんと椅子を蹴倒して立ち上がった俺は、目の前のアスナの両肩を掴んだ。ぎょっとしたように身を引いた『閃光』が、打って変わって掠れた声を出した。
「ちょっ……な、何よ……あなたまさか、こんなとこで…………」
その台詞の意味を斟酌する余裕もなく、俺は呻き声を絞り出した。
「自分百《・・・》、相手ゼロ《・・・・》。必ずそうなる離婚の仕方が、ひとつだけある」
「……え……? な、何を言ってるの…………?」
細い肩を強く握り締め、小さな顔をぐいっと引き寄せて、俺は囁きかけた。
「死別《・・》だ。結婚相手が死んだ瞬間、ストレージは本来の容量に戻り、収納しきれないアイテムはすべて足元にドロップするはずだ。つまり……つまり…………」
† 20 †
震える喉を一度ごくりと動かしてから、その先を音にする。
「……つまり、ギルド『黄金林檎』のリーダー・グリセルダが何者かに殺されたその瞬間、彼女のストレージに入っていた指輪は、犯人ではなく……結婚相手であるグリムロックのストレージに残るか、あるいは足元でオブジェクト化されたはずなんだ」
間近にあるはしばみ色の瞳が、一度、二度とゆっくりしばたかれた。
そこに浮かぶ戸惑いの色が、不意に深い戦慄へと変化した。
「指輪は……奪われて、いなかった……?」
ほとんど無音で発せられた問いに、俺はすぐには答えられなかった。体を起こし、窓枠に背中を預けて呟く。
「いや……、そうじゃない。奪われた、と言うべきだ。グリムロックは、自分のストレージに存在する指輪を奪ったんだよ。彼は、幻の『圏内事件』の犯人じゃない。『指輪事件』の犯人だったんだ」
アスナの左手からこぼれたレイピアの鞘が、重い金属音を響かせて床に転がった。
「…………おかしい、って思ったのは、ほんの三十分前だ……。なあ、カインズさん、ヨルコさん。あんたたちは、あの二つの武器をどうやって入手したんだ?」
俺の質問に、相棒とちらりと眼を見交わしてからヨルコが答えた。
「……『圏内PKを偽装する』という私たちの計画には、継続ダメージに特化した貫通属性武器がどうしても必要でした。あちこちの武器屋さんを探し回ったんですけど、そんな特殊な仕様の武器を置いてるところは見つからなくて……。と言って、鍛冶屋さんにオーダーすれば、武器に銘が残ってしまいます。その人に訊けば、オーダーしたのが被害者である私たち自身であることがすぐに解ってしまうでしょう」
「だから、僕たちは已む無く、ギルド解散以来はじめてあの人に……リーダーの旦那さんだったグリムロックさんに連絡を取ったんです。僕たちの計画を説明して、必要な貫通武器を作ってもらうために。居場所は解らなかったけれど、フレンド登録だけは残っていたので……」
説明を引き継いだカインズの言葉に、ついにその名前が現れた。俺は耳に全神経を集中し、聞き入った。
「グリムロックさんは、最初は気が進まないようでした。返ってきたメッセージには、もう彼女を安らかに眠らせてあげたいって書いてありました。でも、僕らが一生懸命頼んだら、やっとあの二つの武器を作ってくれたんです。届いたのは、僕じゃないカインズさんの死亡日時の、ほんの三日前でした」
この台詞からも、やはりヨルコとカインズは、グリムロックを奥さんを殺された被害者だと信じていることがわかる。
俺は大きく息を吸い、二人に激しい衝撃を与えまた深く傷つけるであろう言葉を、無理やりに胸から押し出した。
「…………残念だけど、グリムロックがあんたたちの計画に反対したのは、グリセルダさんのためじゃないよ。『圏内PK』なんていう派手な事件を演出し、大勢の注目を集めれば、いずれ誰かが気付いてしまうと思ったんだ。結婚によるストレージ共通化が、離婚ではなく死別で解消されたとき……その中のアイテムがどうなるのか」
「え……?」
意味が解らない、というようにヨルコたちが首をかしげた。
無理もない、アインクラッドではいくら仲が良くとも結婚にまで至るカップルはごく稀だ。離婚する者たちはもっと少ないだろうし、その理由が片方の死亡となれば尚更だ。俺はともかくアスナですら、グリセルダさんが殺されたとき、指輪は殺人者の懐にドロップしたのだろうと信じて疑わなかったのだ。
「いいかい……グリセルダさんのストレージは、同時にグリムロックのものでもあった。たとえグリセルダさんを殺したところで、指輪は奪えないんだ。彼女が死んだ瞬間に、グリムロックのもとに言わば転送されてしまうんだから。そして、グリムロックがその指輪をつい魔が差して秘匿した、ということも有り得ない。シュミット……あんたは、コルで報酬を受け取ったんだろう?」
俺の質問に、地面にあぐらを掻いたままの大男は呆然と首を縦に振った。
「グリムロックは、シュミットが結果的にグリセルダさん殺害の片棒を担いだことを知っていた。それはつまり……」
「グリムロックが……? あいつが、あのメモの差出人だったのか……?」
俺の言葉に重ねて、ひび割れた声でシュミットが呻いた。
魂が抜け落ちたような表情は、ヨルコとカインズの顔にもあった。数秒後、ヨルコが波打つ髪を揺らしてかぶりを振り、その動作はすぐに激しさを増した。
「そんな……嘘です、そんなことが! あの二人はいつも一緒でした……グリムロックさんは、いつだってリーダーの後ろでにこにこしてて……それに、そうです、あの人が真犯人だっていうなら、なんで私たちの計画に協力してくれたんですか!? あの人が武器を作ってくればければ、私たちは何もできませんでした。『指輪事件』が掘り返されることもなかったはずです。違いますか?」
「あんたたちは、グリムロックに計画を全部説明したんだろう?」
唐突な俺の問いに、一瞬口をつぐんでから、ヨルコは小さく頷いた。
「……なら、彼は、計画が全て成功したらどうなるのかを知っていた。つまり……罪の意識に駆られたシュミットがグリセルダさんのお墓に懺悔し、そこをヨルコさんとカインズさんが更に問い詰めるという、この最終幕まで。なら、それを利用して、今度こそ『指輪事件』を永久に闇に葬ることは可能だ。共犯者であるシュミット、解決を目指すヨルコさんとカインズさん、その三人を……まとめて消してしまえばいい」
「……そうか。だから……だから、あの三人が…………」
虚ろな表情で呟くシュミットをちらりと見て、俺は沈鬱な気分で顎を引いた。
「その通りだ。『ラフィン・コフィン』のトップスリーが突然現れたのは、グリムロックが情報を流したからだ。この場所に、DDAの幹部なんていう大物が、しかも仲間なしで来ている……とね。恐らく、グリセルダさんの殺害実行を依頼したときから、パイプがあったんだろうな……」
「…………そんな……」
くたり、と膝から崩れ落ちそうになったヨルコを、カインズが右手で支えた。しかしその顔も、月明かりの下でもはっきり解るほど蒼白になっている。
カインズの肩に掴まったまま、ヨルコが一切の艶の失せた声で囁いた。
「グリムロックさんが……私たちを殺そうと……? でも……なんで……? そもそも……なんで結婚相手を殺してまで、指輪を奪わなきゃならなかったんですか…………?」
「俺にも、動機までは推測できない。でも、『指輪事件』のときはアリバイ確保のためにギルドの拠点から出なかった彼も、今回ばかりは見届けずにはいられなかったはずだ。三人が処分され、二つの事件が今度こそ完全に葬られるのをね。だから……詳しいことは、直接聞こう」
言葉を切った俺の耳に、丘の西側斜面を上ってくる二つの足音が届いた。
† 21 †
まず目に入ったのは、夜闇の中にも鮮やかに浮き上がる白と赤の騎士服だった。言わずと知れた『閃光』アスナだ。右手に、透き通るような白銀の刃を持つ細剣を下げている。俺が知る限りアインクラッドで最も繊細かつ美麗な剣だが、同時にあらゆる防御を貫く最も獰猛な武器でもある。
その鋭い切っ先と、持ち主の剣呑な眼光に追われるように、一人の男が歩いていた。
かなりの長身だ。裾の長い、ゆったりとした前合わせの革製の服を着込み、つばの広い帽子を被っている。陰に沈む顔のなかで、時折月光を反射して光るのは眼鏡だろうか。全体の印象としては、鍛冶屋というよりも香港映画に出てくる兇手《ヒットマン》を思わせる雰囲気だ。俺の先入観のせいも無論あろうが。
カーソルの色は、二人ともグリーンだった。男の逃走を阻止するためにアスナが一時的にオレンジになってしまうことも覚悟していた俺は――その場合は当然、アライメントを回復するための七面倒くさいクエストに護衛を兼ねて付き合うつもりではあったが――そっと安堵の息をついた。しかしすぐに気を引き締め、丘を登りきって近づいてくる男を正面から見据える。
銀縁の丸眼鏡の下にあったのは、どちらかと言えば柔和な印象の顔だった。細面で、垂れ気味の目尻は優しげだ。だが、僅かにのぞくやや小さめの黒目には、俺の警戒心を強く呼び覚ます何かが確かにあった。
男は俺から三メートルほど離れた位置で立ち止まり、まずシュミットを、次にヨルコとカインズ、最後にちらりと苔むした小さな墓標を見てから言葉を発した。
「やあ……、久しぶりだね、皆」
低く落ち着いたその声に、数秒経ってからヨルコが応じた。
「グリムロック……さん。あなたは……あなたは、ほんとうに…………」
グリセルダを殺して指輪を奪ったのか。そして事件を隠蔽するために、更にこの場の三人をも消し去ろうとしたのか。
音にはならねど誰の耳にも明らかに聞こえたその問いに、男――ギルド『黄金林檎』サブリーダー、鍛冶屋グリムロックはすぐには答えなかった。
背後のアスナがレイピアを鞘に収め、俺の隣に移動するのを見送ってから、再び微笑を形作る唇を動かす。
「……誤解だ。私はただ、事の顛末を見届ける責任があろうと思ってこの場所に向かっていただけだよ。そこの怖いお姉さんの脅迫に素直に従ったのも、誤解を正したかったからだ」
――おお、否定するのか、と俺はやや瞠目した。確かにPoHらに情報を流したという証拠はないが、しかし指輪事件のほうはシステム的に言い逃れようがないはずなのだが。
「嘘だわ!」
鋭く反駁したのはアスナだった。
「あなた、ブッシュの中で隠蔽《ハイディング》してたじゃない。私に看破《リビール》されなければ動く気もなかったはずよ!」
「仕方がないでしょう、私はしがない鍛冶屋だよ。このとおり丸腰なのに、あの恐ろしいオレンジたちの前に飛び出していけなかったからと言って責められねばならないのかな?」
穏やかに言い返し、革手袋に包まれた両手を軽く広げる。
シュミット、カインズ、そしてヨルコは無言でグリムロックの言葉を聞いていた。やはりまだ半信半疑なのだろう。かつてのサブリーダーが、凶悪なレッドプレイヤーに依頼して自分たち《ギルドメンバー》を殺そうとしたなどとはおいそれと思えないだろうし、また信じたくもあるまい。
再度なにかを言い返そうとするアスナを左手で制し、俺はここでようやく口を開いた。
「初めまして、グリムロックさん。俺はキリトっつう……まあ、ただの部外者だけど。――たしかに、あんたがこの場所にいたことと、『ラフィン・コフィン』の襲撃を結びつける材料は今は何もない。奴らに訊いても証言してくれるわけはないしな」
実際には、今グリムロックにメニューウインドウを可視化してもらい、フレンドリストをチェックすれば、そこには『ラフコフ』の暗殺依頼窓口になっているグリーンプレイヤーが存在するはずだ。しかし残念ながら俺もその名前までは知らない。
だが、シュミットらの殺害未遂はともかく、こちらを言い逃れるすべは無い。そう確信しながら、俺は言葉を続けた。
「でも、去年の秋の、ギルド『黄金林檎』解散の原因となった『指輪事件』……これには必ずあんたが関わっている、いや主導している。なぜなら、グリセルダさんを殺したのが誰であれ、指輪は彼女とストレージを共有していたあんたの手元に絶対に残ったはずだからだ。あんたはその事実を明らかにせず、指輪を秘かに換金して、半額をシュミットに渡した。これは、犯人にしか取り得ない行動だ。ゆえに、あんたが今回の『圏内事件』に関わった動機もただ一つ……関係者の口を塞ぎ過去を闇に葬ることだ、ということになる。違うかい?」
俺が口を閉じると、濃い沈黙が荒野の丘に生まれた。いずこからかしんしんと降り注ぐ青い月光が、グリムロックの顔に強い陰影を刻み付ける。
やがてその口元が奇妙な形に歪み、僅かに温度を下げた印象のある声が流れた。
「なるほど、面白い推理だね、探偵君。…………でも、残念ながら、ひとつだけ穴がある」
「なに?」
反射的に問い返した俺をちらりと見て、グリムロックは黒手袋をはめた右手で鍔広帽子を引き下げた。
「確かに、当時私とグリセルダのストレージは共有化されていた。だから、彼女が殺されたとき、そのストレージに存在していた全アイテムは私の手元に残った……という推論は正しい。しかし」
月光を反射する丸眼鏡の奥から鋭い視線を俺に浴びせ、長身の鍛冶屋は抑揚の薄い声でその先を口にした。
「もしあの指輪がストレージに格納されていなかったとしたら? つまり、オブジェクト化され、グリセルダの指に装備されていたとしたら……?」
「あっ…………」
アスナが微かな声を漏らした。
虚を衝かれたのは俺も同様だった。確かにそのケースを、迂闊にも俺はまったく考えていなかった。
オブジェクト化されたアイテムは、それを装備するプレイヤーが他のプレイヤーに殺されたとき、無条件でその場にドロップする。だから、もしグリセルダが問題の指輪を装備していたならば、それはグリムロックのストレージには転送されずに殺人者の手に落ちたという論法は成り立つ。
形勢の逆転を自覚してか、グリムロックの口角が少しばかり持ち上がった。
「……グリセルダはスピードタイプの剣士だった。あの指輪に与えられた凄まじい敏捷力補正を、売却する前に少しだけ体感してみたかったとしても不思議はないだろう? いいかな、彼女が殺されたとき、確かに彼女との共有ストレージに格納されたアイテムは全て私の手元に残った。しかしそこに、あの指輪は存在しなかった。そういうことだ、探偵君」
俺は無意識のうちに強く奥歯を噛み締めた。なんとかグリムロックの主張を論破し得る材料を探そうとするが、指輪がグリセルダの指に装備されていたかいないかを証言できるのは、実際に彼女を手に掛けた殺人者――恐らくはラフコフのメンバーの誰かだけだ。
黙りこんだままの俺に向けて、グリムロックは帽子の鍔を軽く持ち上げてみせた。そのまま他の四人をぐるりと見渡し、慇懃に一礼する。
「では、私はこれで失礼させてもらう。グリセルダ殺害の首謀者が見つからなかったのは残念だが、シュミット君の懺悔だけでも、いっとき彼女の魂を安らげてくれるだろう」
再び帽子を深く引き下げ、するりと身を翻した鍛冶屋の背に――。
ヨルコが、静けさの中にも烈しい何かを秘めた声を短く投げかけた。
「待ってください……いえ、待ちなさい、グリムロック」
ぴたりと足を止めた男が、少しだけ顔をこちらに向ける。眼鏡の下の柔和そうな眼に、ほのかに厭わしそうな色が浮かんでいる。
「まだ何かあるのかな? 無根拠かつ感情的な糾弾なら遠慮してくれないか、私にとってもここは神聖な場所なのだから」
滑らかに、かつ傲然と言い放ったグリムロックに向かって、ヨルコはさらに一歩踏み出した。
何のつもりか、白い両手を胸の前に持ち上げてそれに一瞬視線を落とす。再び正面を向いた濃紺の瞳には、これまでの彼女には見られなかった強靭な光が浮かんでいる。
「グリムロック、あなたこう言ったわね。リーダーは問題の指輪を装備していた。だから転送されずに殺人者に奪われた。でもね……それは有り得ないのよ」
「……ほう? どんな根拠で?」
ゆるりと向き直ったグリムロックに、ヨルコはなおも苛烈な声を浴びせる。
「ドロップしたあの指輪をどうするか、ギルド全員で会議をした時のことをあなたも覚えているでしょう? 私、カインズ、それにシュミットは、ギルドの戦力にするほうがいいと言って売却に反対したわ。あの席上でカインズが、本心では自分が装備したかったのに、まずリーダーを立ててこう言った。――『黄金林檎』で一番強い剣士はリーダーだ。だからリーダーが装備すればいい」
ヨルコの隣で、カインズの顔にややばつの悪そうな表情が浮かぶ。しかしヨルコは意に介せず、身振りを交えて語り続ける。
「それに対して、リーダーなんて答えたか、私はいまでも一字一句思い出せるわ。あの人は、笑いながらこう言ったのよ。――SAOでは、指輪アイテムは片手に一つずつしか装備できない。右手のギルドリーダーの印章《シギル》、そして……左手の結婚指輪は外せないから、私には使えない。いい? あの人が、その二つのどっちかを解除して、レア指輪のボーナスをこっそり試してみるなんてこと、するはずないのよ!」
鋭い声が響いた途端、俺を含めた全員が小さく息を呑んだ。
確かに、メインメニューの装備フィギュアに設定されている指輪スロットは、右手と左手に一つずつだ。だが――
弱い。
俺の内心の声をトレースするかのように、グリムロックが低く呟いた。
「何を言うかと思えば。『するはずがない』? それを言うならば、まずこう言ってもらえないかな? ――グリセルダと結婚していた私が、彼女を殺すはずがない、と。君の言っていることは、根拠なき糾弾そのものだ」
「いいえ」
ヨルコが、囁くように答えた。俺は瞠目し、小柄な女性プレイヤーがゆっくり首を横に振るのを見守った。
「いいえ。違うわ。根拠はある。…………リーダーを殺した実行犯は、現場となったフィールドに、無価値と判断したアイテムをそのまま放置していった。それを発見したプレイヤーが、幸いリーダーの名前を知っていて、遺品をギルドホームに届けてくれた。だから私たちは、ここを……この墓標をリーダーのお墓にすると決めたとき、彼女の使っていた剣を根元に置いて、耐久度が減少して消滅するに任せた。でもね……でも、それだけじゃないのよ。皆には言わなかったけど……私は、もう一つだけ遺品をここに埋めたの」
言うがいなやヨルコは振り向き、すぐ傍にあった小さな墓標の裏に跪くと、素手で土を掻き始めた。その場の全員が呆然と凝視するなか、やがて立ち上がったヨルコは、右手に乗ったものをまっすぐ差し出した。それは、地面から掘り出されたにもかかわらず月光を受けて銀色に光るごく小さな箱だった。
「あっ……『永久保存トリンケット』……!」
アスナが小さく叫んだとおり、ヨルコが示したそれは、マスタークラスの細工師だけが作成できる『耐久値無限』の保存箱だった。最大サイズでもせいぜい十五センチ四方なので大型のアイテムは入れられないが、アクセサリ程度なら幾つか収納できる。これに入れたアイテムは、たとえフィールドに放置しようとも、耐久値の自然現象によって消滅することは絶対にない。
ヨルコはそっと左手を伸ばし、銀の小箱の蓋を持ち上げた。
白い絹布の上に鎮座する、二つの指輪がきらりと輝いた。
その片方――銀製、やや大型の指輪をヨルコはまず取り上げた。
「これは、リーダーがいつも右手の中指に装備してた、『黄金林檎』の印章《シギル》。同じものを私もまだ持ってるから比べればすぐ解るわ」
それを戻し、次にもう一方――黄金に煌く細身のリングをそっと取り出す。
「そしてこれは――これは、彼女がいつだって左手の薬指に嵌めてた、あなたとの結婚指輪よ、グリムロック! 内側に、しっかりとあなたの名前も刻んであるわ! ……この二つの指輪がここにあるということは――リーダーは、ポータルで圏外に引き出されて殺されたその瞬間、両手にこれらを装備していたという揺るぎない証よ! 違う!? 違うというなら、反論してみせなさいよ!!」
語尾は、涙まじりの絶叫だった。
頬に大粒の涙を零しながら、ヨルコは金色に煌く指輪をまっすぐグリムロックに突きつけた。
しばらく、口を開こうとする者はいなかった。カインズ、シュミット、そしてアスナと俺は、ただ息を詰め、眼を見開いて、対峙する二人を見守り続けた。
長身の鍛冶屋は、口元を嘲るように歪ませたまま、十秒以上も凍りついていた。やがてその唇の端が細かく震え、きつく引き結ばれ――。
「その指輪……たしか葬式の日、君は私に訊いたね、ヨルコ。グリセルダの結婚指輪を持っていたいか、と。そして私は、剣と同じように、消えるに任せてくれと答えた。あの時……欲しいと言ってさえいれば…………」
深く俯き、広い鍔に丸ごと顔を隠したグリムロックは、脱力したようにその場に膝を突いた。
ヨルコは金の指輪を箱に戻すと、蓋を閉め、それをぎゅっと胸に掻き抱いた。天を振り仰ぎ、濡れる顔をくしゃっと歪ませて、鋭さの失せた声で囁いた。
「…………なんで……なんでなの、グリムロック。なんでリーダーを……奥さんを殺してまで、指輪を奪ってお金にする必要があったの」
「…………金? 金だって?」
と、膝立ちのまま、グリムロックが掠れた声でく、く、と笑った。
左手を振り、メニューウインドウを呼び出す。短い操作でオブジェクト化されたのは、やや大きめの革袋だった。持ち上げたそれを、グリムロックは無造作に地面に放った。どすんという重い響きに、澄んだ金属音が幾つも重なった。その音だけで、俺にはその袋の中身が、恐るべき額のコル金貨であると推測できた。
「これは、あの指輪を処分した金の半分だ。金貨一枚だって減っちゃいない」
「え…………?」
戸惑ったように眉を寄せるヨルコを見上げ、次いで俺たちを順番に見渡し、グリムロックは乾いた声で言った。
「金のためではない。私は……私は、どうしても彼女を殺さねばならなかった。彼女がまだ私の妻でいるあいだに」
丸眼鏡を一瞬苔むした墓標に向け、すぐに視線を外して、鍛冶屋は独白を続けた。
「グリセルダ。グリムロック。頭の音が同じなのは偶然ではない。私と彼女は、SAO以前にプレイしたネットゲームでも常に同じ名前を使っていた。そしてシステム的に可能ならば、必ず夫婦だった。なぜなら……なぜなら、彼女は、現実世界でも私の妻だったからだ」
俺は心の底から驚愕し、小さく口を開けた。アスナが鋭く息を呑み、ヨルコたちの顔にも驚きの色が走る。
「私にとっては、一切の不満のない理想的な妻だった。夫唱婦随という言葉は彼女のためにあったとすら思えるほど、可愛らしく、従順で、ただ一度の喧嘩もしたことがなかった。だが……共にこの世界に囚われたのち……彼女は変わってしまった……」
グリムロックは帽子に隠れた顔をそっと左右に振り、低く息を吐いた。
「強要されたデスゲームに怯え、恐れ、竦んだのは私だけだった。いったい、あの彼女のどこにあんな才能が隠されていたのか……戦闘能力においても、状況判断力においても、グリセルダ……いやユウコは大きく私を上回っていた。それだけではない。彼女はやがて、私の反対を押し切ってギルドを結成し、メンバーを募り、鍛え始めた。彼女は……現実世界にいたときよりも、遥かに生きいきとし……充実した様子で…………その様子を傍で見ながら、私は認めざるを得なかった。私の愛したユウコは消えてしまったのだと。たとえゲームがクリアされ、現実世界に戻れる日がきても、大人しく従順な妻だったユウコはそこにはいないのだと。彼女は私に語ったよ。向こうに戻れたら、もう一度働きたい、いずれ起業もしてみたい、とね。私の畏れが、君たちに理解できるかな。もし向こうに戻ったとき……彼女に離婚を切り出されでもしたら……そんな屈辱に、私は耐えることができない。ならば…………ならばいっそ、まだ私が彼女の夫であるあいだに。そして合法的殺人が可能な、この世界にいるあいだに。ユウコを、永遠の思い出のなかに封じてしまいたいと願った私を……誰が責められるだろう……?」
長く、おぞましい独白が途切れても、しばらく言葉を発する者はいなかった。
俺は、不意に自分の喉から割れた呻き声が漏れるのを聞いた。
「屈辱……、屈辱だと? 奥さんが、言うことを聞かなくなったから……そんな理由で、あんたは殺したのか? SAO解放を願って自分を、そして仲間を鍛えて……いつか攻略組の一員にもなれただろう人を、あんたは……そんな理由で…………」
背中の剣に走ろうと一瞬震えた右腕を、俺は左腕で強く押さえた。
ゆるりと顔をあげ、眼鏡の下端だけを僅かにのぞかせて、グリムロックは俺に囁きかけた。
「そんな理由? 違うな、充分すぎる理由だ。君にもいつか解る、探偵君。愛情を手に入れ、それが失われようとしたときにね」
「いいえ、間違っているのはあなたよ、グリムロックさん」
反駁したのは、俺ではなくアスナだった。
冴えざえとした美貌に、俺には読み取れない表情を浮かべ、細剣士は静かに告げた。
「あなたがグリセルダさんに抱いていたのは愛情じゃない。ただの所有欲だわ。まだ愛しているというのなら、その左手の手袋を脱いでみせなさい。グリセルダさんが殺されるその時まで決して外そうとしなかった指輪を、あなたはもう捨ててしまったのでしょう」
グリムロックの肩が小さく震え、先刻の俺の映し絵のように、右手がぎゅっと左手を掴んだ。
しかし、それ以上手は動かず、鍛冶屋は押し黙ったまま革手袋を外そうとはしなかった。
再び訪れた静寂を、これまでひたすら黙り込んでいたシュミットが破った。
「……キリト。この男の処遇は、俺たちに任せてもらえないか。もちろん、私刑にかけたりはしない。しかし罪は必ず償わせる」
その落ち着いた声に、数刻前までの怯え切った響きはなかった。
がしゃりと鎧を鳴らして立ち上がった大男を見上げ、俺は小さく頷いた。
「解った。任せる」
無言で頷き返し、シュミットはグリムロックの右腕を掴んで立たせた。がくりと項垂れる鍛冶屋をしっかりと確保し、「世話になったな」と短く言い残して丘を降りていく。
その後に、再び銀の小箱を埋め戻したヨルコとカインズも続いた。俺たちの横で立ち止まり深く一礼すると、ちらりと眼を見交わして、ヨルコが口を開いた。
「アスナさん。キリトさん。本当に、何とお詫びして……何とお礼を言っていいか。お二人が居てくれなければ、私たちは殺されていたでしょうし……グリムロックの犯罪も暴くことはできませんでした」
「いや……。最後に、あの二つの指輪のことを思い出したヨルコさんのお手柄だよ。見事な最終弁論だった。現実に戻ったら、検事か弁護士になるといいよ」
すると、ヨルコはくすりと笑って肩をすくめた。
「いえ……。信じてもらえないかもしれませんけど、あの瞬間、リーダーの声が聞こえた気がしたんです。指輪のことを思い出して、って」
「……そうか……」
もう一度深々と頭を下げ、シュミットらに続いて丘を降りていく二人を、俺とアスナはその場に立ったまま見送り続けた。
やがて四つのカーソルが主街区の方向へと消え、荒野の小丘には、青い月光と穏やかな夜風だけが残された。
「…………ねえ、キリトくん」
不意にアスナがぽつりと言った。
「もし君なら……仮に誰かと結婚したあとになって、相手の人の隠れた一面に気付いたとき、君ならどう思う?」
「えっ」
予想だにしなかった質問に、俺は絶句せざるを得なかった。何せ、まだたった十五年と半年しか生きていないのだ。そんな人生の機微など理解しようもない。
しかし必死に考え続けた末、ようやく口にできたのは、少々深みには欠ける答えだった。
「ラッキーだった、って思うかな」
「え?」
「だ……だってさ、結婚するってことは、それまで見えてた面はもう好きになってるわけだろ? だから、そのあとに新しい面に気付いてそこも好きになれたら……に、二倍じゃないですか」
知的でないにも程がある言い草だが、しかしアスナは眉を寄せたあと、首を傾げ、ふんと鼻を鳴らして、少しだけ微笑んだ。
「ふうん、変なの」
「へ……変…………」
「ま、いいわ。そんなことより……色々ありすぎて、お腹すいたわよ。なんか食べにいこう」
「そ、そうだな。じゃあ……アルゲード名物、見た目はお好み焼きなのにソースの味がしないというあれを…………」
「却下」
ばっさり切られ、悄然としながら歩き出そうとした俺の肩を、突然ぎゅっとアスナが掴んだ。
びくっと飛び上がりつつ振り向いた俺の眼に――。
この『圏内事件』に関わって以来何度目かの、説明不能な光景が飛び込んできた。
アインクラッドでは、あらゆる感覚情報はコードに置換可能なデジタルデータである。ゆえに心霊現象というものは存在するはずがない。
よって、今俺が見ているものは、サーバーのバグか、あるいは脳が生み出した幻覚ということになる。
少し離れた、丘の北側。ねじくれた古樹の根元にぽつんと立つ、苔むした墓標の傍らに。
薄い金色に輝き、半ば透き通る、一人の女性プレイヤーの姿があった。
ほっそりした体を、最低限の金属鎧に包んでいる。腰にはやや細身の長剣。背中に盾。髪は短く、顔立ちはたおやかに美しいが、その瞳には俺の知る何人かのプレイヤーに共通する強い光があった。
それは即ち、己の剣でこのデスゲームを終わらせるのだという意思を秘めた、攻略者の瞳だ。
穏やかな微笑みを湛えた女性プレイヤーは、黙したまま俺とアスナを見詰めていたが、やがて何かを差し出そうとするかのように、開いた右手を俺たちに向けて伸ばした。
俺もアスナと同時に右手を差し伸べ、掌にほのかな熱を感じた瞬間、きゅっと握り締めた。唇が開かれ、密やかな声が流れた。
「ああ。あなたの意思は……俺たちが、確かに引き継ぐよ。いつか必ずこのゲームをクリアして、みんなを解放してみせる」
「ええ。約束します。だから……見守っていてください、グリセルダさん」
アスナの囁きが、夜風に乗って女性剣士まで届いた。透き通るその顔に、にっこりと大きな笑みが刻まれ――。
次の瞬間、そこにはもう誰も居なかった。
俺たちは手を下ろし、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがてアスナがきゅっと俺の右手を握り、微笑んで言った。
「さ、帰ろ。明日から、また頑張らなくちゃ」
「……そうだな。今週中に、今の層は突破したいな」
そして俺たちは振り向き、主街区目指して歩きはじめた。
(ソードアートオンライン外伝5『圏内事件』 終)
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ソードアート・オンライン外伝6 『赤鼻のトナカイ』
1
闇を貫く『ヴォーパル・ストライク』の血色の閃光が、大型の昆虫モンスター二匹のHPを、同時にゼロにした。
ポリゴンの抜け殻が四散するのを目の端で捉えながら、硬直時間が解けると同時に剣を引き戻し、振り向きざま背中に迫りつつあった鋭い大顎の攻撃を弾き返す。ギイイイと耳障りな哭き声を上げて仰け反る巨大アリを、もう一度同じ技を繰り出し仕留める。
ほんの三日ほど前、片手直剣スキルが熟練度950に達すると同時に剣技リストに出現したこの単発重攻撃技は、その使い勝手の良さで俺を驚かせた。技後の硬直時間はやや長いが、刀身の倍以上のリーチと、両手用の重槍に匹敵する威力はそれを補って余りある。無論、対人戦でこうも使いまくればすぐにタイミングを読まれてしまうだろうが、単純なAIの動かすモンスター相手なら関係ない。遠慮なしに連発し、押し寄せる敵群を真紅のライトエフェクトとともに吹き飛ばしていく。
――とは言え、わずかな松明の灯りの中一時間近くもぶっとおしで続く戦闘に、さすがに集中力が尽きかけているのを俺は自覚していた。大顎による噛み付きと、そこから吐き出す酸性の粘液だけという単純な攻撃パターンに少し前から即応できなくなりつつある。大アリどもは、数は多いが決して雑魚ではない。現在の最前線フロアである49層からほんの二層下に棲息する、充分に強力なモンスターだ。レベル的には安全マージン内だが、数匹に囲まれて立て続けに攻撃を受ければ、HPバーはたちまち黄色くなるだろう。
そんな危険を冒してまで既攻略層で単身戦闘を続ける理由はただ一つ、この場所が、現在知られているなかで最も効率のよい経験値稼ぎが可能な人気スポットだからだ。周囲のガケにいくつも開いている巣穴からぞろぞろ湧き出す巨大アリは、攻撃力は高いがHP、防御力ともに低いタイプのモンスターで、攻撃さえ避けつづけられれば短時間で大量に倒すことができる。もっとも、前述したとおり四方を囲まれて攻撃を被弾すると、体勢を立て直す間もなく一気に”持っていかれる”ので、とてもソロ向けの狩場とは言えない。人気スポットゆえに一パーティー一時間まで、という協定が張られているが、順番待ちの列に単独で並ぶのは俺だけだ。今も、谷の入り口で顔馴染みのギルドの連中が俺の狩りが終わるのを待っているが、その首の上には判を押したように呆れ面が並んでいるはずだ。いや、呆れられるならまだいい方かもしれない。仲間意識の強い大ギルドのプレイヤー達からは、”最強バカ””はぐれビーター”と笑い者扱いらしい。――だが、もちろん、知ったことではない。
視界左端に表示されたタイマーが五十七分を回るのを見て、俺は次にモンスター湧きの波が切れたタイミングで撤収することを決め、最後の集中力をかき集めるべく大きく息を吸うとぐっと止めた。
左右から同時に接近してきたアリの、右の奴にピックを投げつけて動きを牽制しておいて、左の奴を隙の少ない三連撃技『シャープネイル』で仕留める。振り向くのと同時に『ヴォーパルストライク』を、大きく開いた顎の中央にぶち込む。硬直中に、少し離れたところから発射された緑色の酸を左腕のグローブで振り払い、じゅっという音とともにわずかに減少するHPバーに舌打ちしながら地面を蹴って大きくジャンプ。空中からアリの柔らかい腹を掻っ捌いて息の根を止め、その向こうにいたラスト二匹を、現在マスターしている最長連続技の六連撃を半分ずつ使って屠ると、次の波が巣穴から湧き出す前に猛然とダッシュした。
全長三十メートルほどのアリ谷を五秒足らずで駆け抜け、狭い出口から転がるように脱出したところで、初めて息を吐く。新鮮な空気を求めて激しく喘ぎながら、この苦しさは意識の中だけのことなのか、それとも現実の肉体の呼吸も止まっていたのだろうかと考える。答えが出る間もなく胃が痙攣するような感覚が訪れ、堪えようもなく数回えずいてから襤褸切れのごとく真冬の凍った地面に突っ伏した。
倒れたままの俺の耳に、近づいてくる複数の足音が届いた。顔見知りの奴らだが、今は挨拶するのも億劫だ。行ってくれというふうに右手をのろのろと振ると、ふうっという太い溜息とともに錆びた声が言うのが聞こえた。
「ちょっとお前らとレベル差がついちまったから、オリャあ今日は抜けるわ。いいな、円陣を崩さねえで、両隣の奴のカバーを常に意識するんだぞ。危なくなったら遠慮しねえで大声で呼べ。女王が出たらすぐ逃げろ」
リーダーぶりが板についた指示に、うす、おう、と六、七人の声が答え、ざくざくと下草を鳴らして靴音が遠ざかっていった。俺はようやく整ってきた呼吸をゆっくりと繰り返しながら、右手を突いて上体を起こし、傍らの木の幹にぐったりと寄りかかった。
「ほれ」
飛んできた回復ポーションの小瓶をありがたく受け取り、栓を親指で弾くと、貪るように呷る。苦みのあるレモンジュースといった味が、途方もなく美味く思える。空になった瓶を地面に放り、それが小さな光とともに消滅するのを見てから顔を上げた。
三ヶ月ほど前、最前線の迷宮区で知り合った、ギルド『風林火山』リーダーのクラインは、相も変らぬ趣味の悪いバンダナの下で無精ひげに囲まれた口もとを歪め、言った。
「いくらなんでも無茶しすぎなんじゃねェのか、キリトよ。今日は何時からここでやってんだ?」
「ええと……夜八時くらいか」
俺が掠れた声で答えると、クラインは大袈裟な渋面を作る。
「おいおい、今三時だから、七時間も篭りっ放しかよ。こんな危ねえ狩場、気力が切れたら即死ぬぞ」
「平気さ、待ちがいりゃあ一、二時間休める」
「いなきゃあぶっ通しなんだろうが」
「そのためにわざわざこんな時間に来てるんだ。昼間のここは五、六時間待たされるからな」
このバカったれが、と舌打ち混じりに吐き捨てると、クラインは腰からレア武器の日本刀を外し、俺の前にどかっと座り込んだ。
「……まあ、お前ェが強いのは知ってるけどよ。アリんこ共をソロであのペースだからな……。レベル、どんくれえになった」
レベルを含むステータス情報はプレイヤーの生命線であり、おいそれとは尋ねないのがこのSAOのマナーではあるが、クラインが口は悪いが”いい奴”なのはこの数ヶ月で充分に知っているし、風林火山は攻略組の中でも名の通った存在で、決して陰でPK行為に手を染めるようなギルドではないので、俺は肩をすくめながら正直に答えた。
「今日上がって69だ」
ざらざらとアゴを撫でていた手を止め、クラインはバンダナに半ば隠れた目を丸くした。
「……おい、マジかよ。オレよか10も上か……。――なら、尚のこと解んねぇぜ。ここ最近のお前ェのレベル上げは常軌を逸してるぞ。どうせ昼間も過疎い狩場に篭ってンだろ? 何でそこまでしなきゃならん。ゲームクリアの為……なんてお題目は聞きたかねぇぞ。お前ェ一人がどんだけ強くなったところで、ボス攻略のペースはKoBとかの強力ギルドが決めるんだからな」
「放っとけよ。レベルホリックなんだよ、経験値稼ぎ自体が気持ちいいんだよ」
自虐的な笑みとともに吐き出した俺のセリフを、クラインはふっと真面目な顔になって退けた。
「なわけねえだろうが……そんなボロボロになるまでする狩りがどんだけキツいか、それくれぇオレだって知ってるつもりだ。ソロは神経磨り減らすからな……。いくらレベル70近くても、この狩場で単騎じゃ安全マージンなんてあって無いようなもんだぞ。綱渡りもいいところだ、”向こう側”に転げ落ちるギリギリの線でレベル上げを続ける意味がどこにあるんだって聞いてンだよ」
風林火山は、もともと攻略組の中でもソロ志向のプレイヤーが必要に迫られやむなく作ったギルドだと聞いている。メンバーはどいつも過干渉嫌いの無頼派で、それはリーダーのクラインも例外ではないはずだ。
いい奴ではあるが、そんな男がここまで俺のようなはぐれビーターに気を使って見せるのは、恐らくその振りをせざるを得ない事情があるのだろう。そして、俺はその事情にある程度検討がついているのだった。苦手な言葉の駆け引きを続けるクラインに助け舟を出すつもりで、俺は苦笑しながら口を開いた。
「いいぜ、そんな心配する振りなんかしないで。知りたいんだろ、俺がフラグMobを狙ってるのかどうか」
フラグMob、とはクエスト等の攻略キーとなっているモンスターのことである。大概のものは数日、あるいは数時間に一回というペースで出現するが、中にはたった一度しか倒す機会のない、言わば準ボスモンスターのようなものも存在する。当然強さも半端ではなく、ボス攻略に準じた大パーティー構成を持ってあたるのが常識である。
クラインは、正直に顔を強張らせると、そっぽを向いてアゴをごしごし擦った。
「……オリャぁ別に、そんなつもりじゃあ……」
「ぶっちゃけて話そうぜ。俺がアルゴからクリスマスボスの情報を買った、っていう情報をお前が買った……という情報を俺も買ったのさ」
「ンだと」
クラインはもう一度目を見張り、次いで派手な舌打ちをした。
「アルゴの野郎……鼠の仇名はダテじゃねえな」
「あいつは売れるネタなら自分のステータスだって売るさ。――ともかく、だから俺たちは、互いに相手がクリスマスボスを狙ってることを知ってるわけだ。現段階でNPCから入手できるヒントも全て購入済みだってこともな。なら、俺がこんな無謀な経験値稼ぎをしてる理由、そしてどんなに忠告されても止めない理由もお前には明らかだろう」
「ああ……悪かったよ、カマかけるみてェな言い方してよ」
クラインはアゴから離した手でがりがりと頭を掻き、続けた。
「二十四日夜まであと五日を切ったからな……。ボス出現に備えてちっとでも戦力を上げときたいのは、どこのギルドも一緒だ。さすがにこんなクソ寒ぃ真夜中に狩場に篭るようなバカは少ねぇけどな。だがな……、うちはこれでもギルメンが十人以上いるんだぜ。充分に勝算あってのボス狙いだ。仮にも、”年イチ”なんていう大物のフラグMobが、ソロで狩れるようなモンじゃねえことくらい、お前ェにもわかってるだろうが」
「…………」
反論できず、俺は薄茶色に枯れた下生えに視線を落とす。
SAO開始後一年。二度目のクリスマスを目前に、いまアインクラッドじゅうをある一つの噂話が駆け巡っていた。一ヶ月ほど前から、各層のNPCが、こぞって同じクエストの情報を口にするようになったのだ。
曰く、ヒイラギの月――つまり十二月の二十四日夜二十四時ちょうど、どこかの森にある樅の巨木の下に、”背教者ニコラス”なる伝説の怪物が出現する。もし倒すことができれば、怪物が背中に担いだ大袋の中にたっぷりと詰まった財宝が手に入るだろう――。
いつもは迷宮区の踏破にしか興味を示さない攻略組の有力ギルド連も、今度ばかりは色めき立った。財宝とやらが巨額のコルにせよレアな武器にせよ、フロアボス攻略の大きな助けになるのは明らかだからだ。これまでプレイヤーから奪い取ることしかしなかったSAOシステムからの、気前のよいクリスマス・プレゼントだと言うならば、受け取るに否応のあろうはずもない。
ソロプレイヤーの俺はしかし、当初その噂にはまるで興味を引かれなかった。クラインに言われるまでもなく単独で狩れる相手とは思えなかったし、これまでのソロプレイを通してその気になれば部屋が買えるほどの金も手に入れている。何より、誰もが狙っているフラグMob攻略に名乗りを上げて無用の注目を浴びるのは真っ平だ。
だが――二週間前、そんな俺の心情を、あるNPC情報が百八十度変えた。それ以後、俺はこの人気狩場に日参し、大勢の笑い者になりながら、狂ったようにレベル上げに邁進してきたのだった。
クラインは、押し黙った俺に付き合ってしばらく口を噤んだあと、低くつぶやいた。
「やっぱり、あの話のせいかよ。――”蘇生アイテム”の……」
「……ああ」
ここまで話したのなら今更隠しても仕方ない。俺が素っ気無く肯定すると、刀使いは、何度目かの太い溜息をつきながら、絞り出すように言った。
「気持ちはわかるぜ……まさに夢のアイテムだからな。”ニコラスの大袋の中には、命尽きた者の魂を呼び戻す神器さえもが隠されている”……。でもな……大方の奴らが言ってるとおり、オレもそいつだけはガセネタだと思うぜ。ガセというか、SAOが本来の、普通のVRMMOとして開発されてたときに組み込まれたNPCのセリフが、そのまま残っちまった……。つまり、本来は、経験値のデスペナルティ無しにプレイヤーを蘇生させるアイテムだったんだろうさ。だが、今のSAOじゃ、ンなことは有り得ねえ。ペナルティはすなわち、プレイヤー本人の命なんだからよ。思い出したくもねェけど、あの最初の日、茅場の野郎が言ってたじゃねェかよ」
俺の耳にも、事件初日のチュートリアルで、茅場晶彦のクリスタルマスクが発した言葉が甦った。”HPがゼロになった時点でプレイヤーの意識はこの世界から消え、現実の肉体に戻ることは永遠になくなる”。
その言葉が欺瞞だったとは思えない。だが――だが、しかし。
「しかし、この世界で死んだあと実際にどうなるのか、知ってる奴はここには一人も居ないんだ」
俺は何かに抗うようにそう口にした。途端、クラインが鼻筋に皺を寄せ、吐き捨てるように言う。
「死んだあと向こうに戻ったら実は生きてて、目の前で茅場が”なーんちゃって”とでも言うってか? ふざけんなよ手前ェ、そんなの一年も前に決着がついてる議論だろうが。もしそんな糞みてえなジョークなら、速攻プレイヤー全員のナーヴギアを剥ぎ取りゃあ事件解決だ。それが出来ねェからには、このデスゲームはマジなんだよ。HPがゼロになった瞬間、ナーヴギアが電子レンジに早変わりして、オレらの脳をチンすんだよ。そうでなきゃよ――これまで――これまで糞モンスにやられて、死にたくねえって泣きながら消えてった奴らは――何のためによ――」
「黙れよ」
自分でもぎょっとするほどしわがれた声で、俺はクラインの台詞を遮った。
「そのくらいのことが、俺にわかってないと本気で思ってるなら、もうお前と話すことはない。……確かに、あの日茅場はああ言ったさ。だがな、このあいだのフロアボス合同攻略の時、KoBのヒースクリフが言ってただろうが。”仲間の命が助かる確率が一パーセントでもあるなら全力でその可能性を追え、それができない者にパーティーを組む資格は無い”ってな。あの男は好きになれないが、言ってることは正しい。可能性の話を俺はしてるんだ。例えばこうだ。この世界で死んだ者の意識は、現実に戻りはしないが、しかし消えもしない。言わば保留エリアみたいなとこに移されて、そこで最終的にゲームがどうなるか待っている。それなら、蘇生アイテムが成立する余地は残る」
珍しく長広舌をふるい、ここ最近の俺が縋り付いている頼りない仮説を披露すると、クラインは怒りの色を収め、替わりに憐れみにも似た目でじっと俺を見た。
「……そうか」
やがて発せられたその声は、打って変わって静かだった。
「キリト……お前ェ、まだ忘れらんねえんだな、前のギルドのことが……。もう半年にもなるってのによ……」
俺はそっぽを向き、言い訳のように言葉を吐き出す。
「それを言うなら、まだ半年だ。忘れられるわけがないだろうが……全滅したんだぞ、俺以外……」
「”月夜の黒猫団”だったか? ……攻略ギルドでもねえのに、前線近くまで上ってきた挙句、シーフがアラームトラップ引いたんだろう。お前ェの責任じゃねえよ。生き残ったお前ェを褒めこそすれ、誰も責めたりしねえ」
「そうじゃないんだ……俺の責任だ。前線に上るのを止めることも、宝箱を無視させることも、アラーム鳴った後でさえ全員を脱出させることだって、俺にはできたはずなんだ……」
――俺が、自分のレベルとスキルを仲間に隠してさえいなければ。クラインにも教えていないその事実を、胸の奥で苦々しく噛み締める。不器用な刀使いが、慣れない慰めを口にしようとする前に、俺は続けて言った。
「確かに、一パーセントもない確率だろうさ。俺がクリスマスボスを見つけられる可能性、そいつをソロで倒せる可能性、蘇生アイテムが実在する可能性、そして死んだ奴の意識が保存されてる可能性……全部合わせたら、砂漠から砂を一粒探し出すようなものかも知れん。だが……だがゼロじゃない。ゼロじゃないなら、俺はそれに向かって最大限の努力をしなきゃいけないんだ。大体な……クライン、お前だって別に金に困ってるわけじゃないだろ。なら、ボスを狙う理由は俺と同じじゃないのか」
俺の問いに、フンを鼻を鳴らすと、クラインは地面に置いてあった刀の鞘を掴みながら答えた。
「オリャあお前ェみたいな夢想家じゃねェよ。ただよ……うちのギルドも、前に一人やられちまってるからな。あいつの為に、やるべきことはやってやんねえと、寝覚めが悪りィからな……」
立ち上がったクラインに向かって、俺は小さく苦笑した。
「同じだよ」
「違うね。あくまでオレたちゃ財宝狙いのついでにやってんだ。……どれ、連中だけだと心配だからな、ちょっくらオレも様子見てくら」
「ああ」
短く頷き、目を閉じて木の幹に深く寄りかかった俺の耳に、遠ざかる刀使いの言葉が小さく届いた。
「それからよ、オレがお前ェの心配したのは、別に情報聞き出すためのカマかけばっかりじゃねえぞこの野郎。無理してこんなとこで死んでも、お前ェの為に蘇生アイテムは使わねえぞ」
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「心配してくれて、どうもありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて、出口まで護衛頼んでもいいですか」
それが、ギルド”月夜の黒猫団”リーダー・ケイタの第一声だった。
SAOという名のデスゲームが始まって五ヶ月ほど経過したある春の夕暮れ、俺は当時の前線から十層以上も下のフロアの迷宮区に、武器の素材となるアイテムの収集を目的に潜っていた。
ビーター、つまりベータプレイヤーとしての知識を活かしたスタートダッシュと、強引なソロプレイによる高経験値効率のせいですでに最前線のモンスターと単独でやりあえるほどのレベルに達していた俺にとって、その場所での狩りは退屈に思えるほど楽な作業だった。他のプレイヤーを避けながらもたった二時間ほどで必要量のアイテムを集め、さて帰ろうと出口に向かったとき、通路を少し大きめのモンスター群に追われながら撤退してくるパーティーと遭遇したのだった。
ソロプレイヤーの俺から見ても、バランスの悪いパーティーだった。五人編成のうち、前衛と言えるのは盾とメイスを装備した男一人で、あとは短剣のみのシーフ型に、クォータースタッフを持った棍使い、長槍使いが二人。メイス使いのHPが減ってもスイッチして盾となる仲間が居らず、ずるずると後退するのは必至の構成である。
全員に視線を合わせてHPバーを確認してみたところ、このまま出口まで逃げ切るほどの余裕はありそうだったが、その途中で他のモンスター群をひっかけてしまえばその限りではない。俺はしばし迷ったあと、隠れていた脇道から飛び出し、リーダー格とおぼしき棍使いに声を掛けた。
「ちょっと前、支えてましょうか?」
棍使いは目を見開いて俺を見ると、一瞬迷ったようだったが、すぐに頷いた。
「すいません、お願いします。やばそうだったらすぐ逃げていいですから」
頷き返し、俺は背中から剣を抜くと、メイス使いに背後からスイッチと叫ぶと同時に、無理矢理モンスターの前に割り込んだ。
敵は、さっきまで俺がソロで散々狩っていた武装ゴブリンの一団だった。ソードスキルを全力で放てば即座に一掃できるし、あるいは無抵抗で撃たれるままになったとしても、バトルヒーリングスキルによるHP回復だけで相当時間耐えることも可能だ。
だが、瞬間、俺は恐れた。ゴブリンをではなく、背後のプレイヤー達の視線をである。
一般的に、ハイレベルのプレイヤーが下層の狩場を我が物顔に荒らしまわるのは、とても褒められた行為ではない。長期間続ければ、上層のギルドに排除依頼が飛んで、散々吊るし上げられた挙句に新聞の非マナープレイヤーリストに載ってしまう、などという目にも合う。勿論この場合は緊急なのだから問題ない、と俺も考えはしたが、しかしそれでも俺は怖かったのだ。恐らく礼を言うだろう彼らの目に、ビーターと俺を嘲る色が浮かぶのを。
俺は、使用するソードスキルをごく初歩的なものに限定し、わざと時間をかけてゴブリン達と戦った。それが、最終的に取り返しのつかない過ちへと繋がることになるとも知らずに。
ポーションでHPを回復させたメイス使いと数回のスイッチを繰り返し、ゴブリン群を全て倒した途端、見知らぬパーティーの五人は俺が驚くほどの盛大な歓声を上げた。次々とハイタッチを交わし、勝利を喜び合う。
内心で戸惑いながらも、俺は慣れない笑顔を浮かべ、差し出された手を次々と握り返した。最後に両手で俺の手を取った、紅一点の黒髪の槍使いは、目に涙を滲ませながら何度も繰り返した。
「ありがとう……ほんとに、ありがとう。凄い、怖かったから……助けにきてくれたとき、ほんとに嬉しかった。ほんとにありがとう」
その言葉を聞き揺れる涙を見たとき、俺の胸に去来した感情に、俺は今でも名前を付けることはできない。ただ、助けに入ってよかった、そして彼らを助けられるくらいに自分が強くてよかった、と思ったことは覚えている。
ゲーム開始以来ソロプレイヤーを通していた俺だったが、前線フロアで他パーティーの助太刀に入ったことが初めてというわけではなかった。しかし、攻略組の間では、フィールドでの助力はお互い様という暗黙の了解がある。自分がいつ助けられる側に回るかわからない訳で、助太刀しても殊更に礼など求めないし、された方も短い挨拶を口にする程度だ。手早く戦闘後処理を済ませ、無言で次の戦闘へと向かう。そこにあるのは、求めうる最大の効率で己を強化し続けるための、単純な合理性だけだ。
だが、彼ら――月夜の黒猫団は違った。たった一つの戦闘に勝利したことを全員で大いに喜び、健闘を称えあっていた。スタンドアロンRPGでは必須の、勝利ファンファーレが聞こえてきそうなその光景が一段落したあと、俺が自分から出口までの同行を提案したのは、彼らのいかにも仲間然とした雰囲気に惹かれたからかもしれなかった。もっと言えば、このSAOという狂ったゲームを本当の意味で攻略しているのは、彼らのほうだと思ったからかもしれなかった。
「俺もちょっと残りのポーションが心許なくて……よかったら、出口まで一緒に行きませんか」
俺の嘘に、ケイタは大きく顔をほころばせ、頷いた。
「心配してくれて、どうもありがとう」
――いや、黒猫団の潰滅から半年経った今ならわかる。俺は単に気持ちよかったのだ。利己的なソロプレイヤーとして積み上げたステータスで、自分より遥かに弱い彼らを守り、頼られるのが快感だったのだ。ただそれだけのことなのだ。
迷宮区から脱出し、主街区に戻った俺は、酒場で一杯やりましょうというケイタの言葉にすぐに頷いた。彼らにとっては高価であったろうワインで祝杯を上げ、自己紹介も終わって場が落ち着くと、ケイタは小声で、さも言いづらそうに俺のレベルを聞いた。
俺はその質問を半ば予期していた。だから、その時までに、適切と思われる偽の数字の見当をつけていた。俺の口にした数字は、狙い違わず彼らの平均レベルより三ほど上――そして俺の本当のレベルの二十も下だった。
「へえ、そのレベルで、あの場所でソロ狩りができるんですか!」
驚き顔のケイタに、俺は苦笑してみせた。
「敬語はやめにしよう。――ソロって言っても、基本的には隠れ回って、一匹だけの敵を狙うとかそんな狩りなんだ。効率はあんまり良くないよ」
「そう――そうか。じゃあさ……キリト、急にこんなこと言ってなんだけど……君ならすぐにほかのギルドに誘われちゃうと思うからさ……よかったら、うちに入ってくれないか」
「え……?」
白々しく問い返した俺に、丸顔を上気させながらケイタは言い募った。
「ほら、僕ら、レベル的にはさっきのダンジョンくらいなら充分狩れるはずなんだよ。ただ、スキル構成がさ……君ももう分かってると思うけど、前衛できるのはテツオだけでさ。どうしても回復がおっつかなくて、戦ってるうちにジリ貧になっちゃうんだよね。キリトが入ってくれればずいぶん楽になるし、それに……おーい、サチ、ちょっと来てよ」
ケイタが手を上げて呼んだのは、あの黒髪の槍使いだった。ワイングラスを持ったままやってきた、サチいう名らしい小柄な女性は、俺を見ると恥ずかしそうに会釈した。ケイタはぽんとサチの頭に手を置き、言葉を続けた。
「こいつ、見てのとおりメインスキルは両手用長槍なんだけど、もう一人の槍使いに比べてまだスキル値が低いんで、今のうちに盾持ち片手剣士に転向させようと思ってるんだよね。でも、なかなか修行の時間も取れないし、片手剣の勝手がよく分からないみたいでさ。よかったら、ちょっとコーチしてやってくれないかなあ」
「何よ、人をみそっかすみたいに」
サチはぷうっと頬を膨らませて見せると、ちらりと舌を出しながら笑った。
「だってさー、私ずっと遠くから敵をちくちく突っつく役だったじゃん。それが急に前に出て接近戦やれって言われても、おっかないよ」
「盾の陰に隠れてりゃいいんだって何度言えばわかるのかなぁー。まったくお前は昔っから怖がりすぎるんだよ」
これまでずっと殺伐とした最前線でのみ暮らし、SAOを――いやすべてのMMORPGをリソースの奪い合いとしか理解していなかった俺にとって、彼らのやり取りは微笑ましく、そして眩しいものに映った。俺の視線に気付いたケイタは、照れたように笑うと言った。
「いやー、うちのギルド、現実ではみんな同じ高校のパソコン研究会のメンバーなんだよね。特に僕とこいつは家が近所なもんだから……。あ、でも、心配しなくていいよ。みんないい奴だから、キリトもすぐ仲良くなれるよ、絶対」
そういうケイタを含め全員がいい奴なのは、迷宮区からここまでの道行きだけでもう分かっていた。そんな連中を騙していることに、ちくりと罪悪感の疼きを感じながら、俺も笑顔を作り、こくりと頷いた。
「じゃあ……仲間に入れてもらおうかな。改めて、よろしく」
前衛が二枚になっただけで、黒猫団のパーティーバランスは大幅に改善された。
いや、もしも彼らのうち一人でも疑いの気持ちで俺のHPバーを見ていれば、それが不自然に減少しないことにいずれ気が付いたはずだ。しかし、気のいい仲間たちは、コートがレア素材製なんだという――これは嘘ではなかったが――俺の説明を信じ、まったく疑問を持った様子はなかった。
パーティーでの戦闘中、俺はひたすら防御に徹し、背後のメンバーに敵の止めを刺させることによって経験値ボーナスを譲りつづけた。ケイタたちのレベルは快調に上昇し、俺の加入後一週間でメイン狩場を一フロア上にするほどだった。
ダンジョンの安全エリアで車座になって、サチ手作りの弁当を頬張りながら、ケイタは丸い目を輝かせて俺に夢を語った。
「もちろん、仲間の安全が第一だよ。でもさ……安全だけを求めるなら、はじまりの街に篭ってればいいわけでさ。こうして狩りをして、レベルを上げてるからには、いつか僕らも攻略組の仲間入りをしたいって思うんだ。今は、最前線はずっと上で、血盟騎士団とか聖竜連合なんていうトップギルドに攻略を任せっぱなしにしちゃってるけどさ……。ねえキリト、彼らと僕たちは、何が違うんだろうなあ?」
「え……うーん、情報力かな。あいつらは、どこの狩場が効率いいかとか、どうやれば強い武器が手に入るなんて情報を独占してるからさ」
それはまさに俺が攻略組足り得た理由だったが、ケイタはその答えが不満なようだった。
「そりゃ……そういうのもあるだろうけどさ。僕は意思力だと思うんだよ。仲間を守り、そして全プレイヤーを守ろうっていう意思の強さっていうかな。そういう力があるからこそ、彼らは危険なボス戦に勝ちつづけられるんだ。僕らは今はまだ守ってもらう側だけど、気持ちじゃ負けてないつもりだよ。だからさ……このままがんばれば、いつかは彼らに追いつけるって、そう思うんだよ」
「そうか……そうだな」
口ではそう言いながらも、俺は内心で、そんな大層なもんじゃない、と思っていた。攻略組を攻略組たらしめているモチベーションはただ一つ、数万人のプレイヤーの頂点に立つ最強剣士で有り続けたいという執着心それ自体だ。その証拠に、SAO攻略、プレイヤー保護だけが目的なら、トッププレイヤー達は手に入れた情報とアイテムを最大限、中層プレイヤーに提供するべきなのだ。そうすることでプレイヤー全体のレベルが底上げされ、攻略組に加わる者の数も今とは比較にならないほど増加するはずだった。
それをしないのは、自分たちが常に最強でいたいからだ。勿論俺も例外ではなかった。その頃の俺は、深夜になると宿屋を抜け出し、最前線に移動してソロでレベル上げを続けていた。その行為が黒猫団メンバーとのレベル差を拡大させ、結果として彼らを裏切りつづけることになると分かっていたにもかかわらず。
だが、あの頃、俺は少しだけ信じてもいたのだ。もし本当に黒猫団のレベルが急上昇し、最前線で戦うプレイヤー達に加わるようなことがあれば、そのときこそケイタの理想が、閉塞的な攻略組の雰囲気を変えていくということも有り得るかもしれない、と。
実際、黒猫団の戦力強化は特筆すべきスピードだったと言える。当時戦場にしていたフィールドは、俺にとってはずっと以前に攻略を終え、危険なスポットも稼ぎのいいスポットも知り尽くした場所だった。それとなく彼らを誘導し、最大限の効率を叩き出し続けることで、やがて黒猫団の平均レベルは完全にボリュームゾーンから頭ひとつ抜け出した。俺の加入時には十あった前線層との差は、短期間で五にまで縮まった。貯金額も見る見る増加し、ギルドホームの購入さえも現実的な話となりつつあった。
しかし、たった一つ、サチの盾剣士転向計画だけははかばかしくなかった。
それも無理もないと言えた。至近距離で凶悪なモンスターと剣を交えるためには、数値的ステータス以前に、恐怖に耐えて踏みとどまる胆力が必要となる。SAO開始直後には、接近戦でのパニックが原因で多くのプレイヤーが命を落としたのだ。サチはどちらかと言えば大人しい、怖がりな性格で、とても前衛に向いているとは思えなかった。
俺は、自分が盾として充分以上のステータスを持っていると知っていたせいもあってサチの転向を急ぐ必要はないと考えていたが、他のメンバーはそうは思っていないようだった。むしろ、途中加入の俺ひとりに、しんどい前衛を押し付け続けるのは心苦しいと感じていたようで、仲良しグループゆえに言葉には出なかったがサチへのプレッシャーは強くなり続けていた。
そんなある夜、宿屋からサチの姿が消えた。
ギルドメンバーリストから居場所を確認できないのは、単独で迷宮区にいるせいと思われた。ケイタ以下のメンバーは大騒ぎとなり、すぐさま皆で探しに行くことになった。
だが、俺は、一人で迷宮区以外の場所を探すと言い張った。フィールドにもいくつか、追跡不能の場所があるからというのが表向きの理由だったが、本当は、索敵スキルから派生する上位スキルの”追跡”をすでに獲得していたからだった。もちろん、仲間にそれを打ち明けるわけにはいかなかった。
ケイタ達がその層の迷宮区目指して駆け出したあと、俺は宿屋のサチの部屋の前で追跡スキルを発動させ、視界に表示された薄緑色の足跡を追った。
小さい靴跡は、皆と俺の予想に反し、主街区の外れにある水路の中に消えていた。首を捻りながら中に踏み込んだ俺は、水の滴る音だけが響く暗闇のかたすみで、最近手に入れたばかりの隠蔽能力つきのマントを羽織ってうずくまっているサチの姿を見つけた。
「……サチ」
声を掛けると、肩までの黒い髪を揺らして彼女は顔を上げ、びっくりしたように呟いた。
「キリト。……どうしてこんなとこがわかったの?」
俺はどう答えたものか迷った挙句、言った。
「カンかな」
「……そっか」
サチはかすかに笑ったあと、再び抱えた膝の上に顔を伏せた。俺は再度懸命に言葉を捜し、工夫のない台詞を口にした。
「……みんな心配してるよ。迷宮区に探しにいった。早く帰ろう」
今度は、長い間答えはなかった。一分か二分待ったあと、もう一度同じことを言おうとした俺に、俯いたままのサチの囁き声が聞こえた。
「ねえ、キリト。一緒にどっか逃げよ」
反射的に聞き返した。
「逃げるって……何から」
「この街から。黒猫団のみんなから。モンスターから。……SAOから」
その言葉に、即座に答えられるほど、俺は女の子を――人間を知らなかった。再び長い間考えてから、俺は恐る恐る尋ねた。
「それは……心中しようってこと?」
しばらく沈黙したあと、サチは小さく笑い声を漏らした。
「ふふ……そうだね。それもいいかもね。……ううん、ごめん、嘘。死ぬ勇気があるなら、こんな街の圏内に隠れてないよね。……立ってないで、座ったら」
どうすべきなのかまるで分からないまま、俺はサチから少し間を空けて石畳の上に座った。半月形の水路の出口から、街の明かりが星のように小さく見えた。
「……私、死ぬの怖い。怖くて、この頃あんまり眠れないの」
やがて、サチがぽつりと呟いた。
「ねえ、何でこんなことになっちゃったの? なんでゲームから出られないの? なんでゲームなのに、ほんとに死ななきゃならないの? あの茅場って人は、こんなことして、何の得があるの? こんなことに、何の意味があるの……?」
その五つの質問に、個別に回答することは可能だった。しかし、サチがそんな答えを求めているわけではないことくらいは、俺にもわかった。懸命に考え、俺は――嘘を吐いた。
「多分、意味なんてない……誰も得なんてしないんだ。この世界が出来たときにもう、大事なことはみんな終わっちゃったんだ」
涙を流さずに泣いている女の子に、俺は酷い嘘を吐いた。なぜなら、少なくとも俺は自分の強さを隠して黒猫団に潜りこむことで密かな快感を得ていたからだ。その意味で、俺だけは明らかに得をしていたからだ。
俺はこのとき、すべてをサチに打ち明けるべきだった。誠意というものをひとかけらでも持ち合わせていたのなら、己の醜いエゴを包み隠さず話すべきだった。そうすれば少なくとも、サチはある程度プレッシャーから逃れることができたはずだし、ささやかな安心感さえ得られたかもしれなかったのだ。
だが、俺に言えたのは、嘘で塗り固めた一言だけだった。
「……君は死なないよ」
「なんでそんなことが言えるの?」
「……黒猫団は今のままでも充分に強いギルドだ。マージンも必要以上に取っている。あのギルドにいる限り君は安全だ。別に、無理に剣士に転向することなんてないんだ」
サチは顔を上げ、俺にすがるような視線を向けた。俺は、その目をまっすぐ受け止めることができなかった。
「……ほんとに? ほんとに私は死なずに済むの? いつか現実に戻れるの?」
「ああ……君は死なない。……死なない」
説得力など欠片もない、薄っぺらい言葉だった。だが、それでも、サチは俺の近くににじり寄り、俺の左肩に顔を当てて、少しだけ泣いた。
しばらくしてからケイタ達にメッセージを飛ばし、俺とサチは宿屋へと戻った。サチを部屋で休ませ、ケイタ達が帰ってくるのを一階の酒場で待って、俺は彼らに告げた。サチが盾剣士に転向するのには時間がかかること、可能なら今のまま槍戦士を続けたほうがいいこと、俺に前衛の負担がかかることには何ら問題ないということを。
ケイタ達は、俺とサチの間でどのようなやり取りがあったのか気になったようだったが、それでも俺の提案を快く受け入れた。俺はほっと胸を撫で下ろしたが、しかしもちろん、それで本質的な問題まで解決したわけではなかったのだ。
翌日の夜から、サチは夜が更けると俺の部屋にやってきて眠るようになった。俺にくっつき、君は死なない、という言葉を聞くとどうにか眠れるのだ、と彼女は言った。必然的に、俺は深夜の経験値稼ぎに出ることはできなくなったが、だからと言ってサチと他の仲間たちを欺いていることの罪悪感が消えることはなかった。
あの頃の記憶は、何故か押し固めた雪球のように小さく縮こまって、詳細に思い出すのが困難だ。ひとつだけ言えるとすれば、俺とサチは決して恋愛をしていたわけではなかった。同じベッドで眠っても、互いに触れることも、恋の言葉を囁くことも、見詰め合うことすらしなかった。
俺たちは多分、互いの傷を嘗め合う野良猫のようなものだったのだろう。サチは俺の言葉を聞くことで少しだけ恐怖を忘れ、俺は彼女に頼られることで汚いビーターである後ろめたさを少しだけ忘れた。
そう――俺はサチの苦悩をかいま見ることで、初めてこのSAO事件の本質の一部を知ることができたのだと思う。それまで、俺は、デスゲームと化したSAOの恐怖を本当の意味で感じることは一度も無かった。低層フロアの、すでに知り尽くしたモンスターを機械的に倒してレベルを上げ、あとはその安全マージンをたっぷりと維持したまま攻略組に名を連ね続けた。聖騎士ヒースクリフではないが、俺のHPバーが危険域に落ちたことは、考えてみればただの一度も無かったのだ……。
俺が苦労もせずに掻っ攫った膨大なリソースの陰に、こうして死の恐怖に怯える無数のプレイヤーが存在したのだ――と認識することによって、俺はついに自分の罪悪感を正当化する方法を見出したような気がしていた。その方法とは無論、サチを、そして黒猫団のメンバーを守り続けることである。
俺は、自分が快感を得るためにレベルを偽ってギルドに潜り込んだのだという事実を無理やりに忘れ、俺の行為は彼らを守り、一流の攻略ギルドに育て上げるためだったのだ、と都合のいいように記憶を塗り替えた。夜毎、夜毎、ベッドの隣で心細そうに丸くなるサチに向かって、君は死なない、君は死なない、絶対に生き延びる、と呪文のように唱えつづけた。俺がそう言葉を掛けると、サチは毛布の下でちらりと上目遣いに俺を見て、ほんの少し微笑んでから、浅い眠りに落ちていった。
だが、結局、サチは死んだ。
あの地下水路の夜からたった一ヶ月足らず後、俺の目の前でモンスターに斬り倒され、その体と魂を四散させた。
その日、ケイタは、ついに目標額に達したギルド資金の全額を持って、ギルドハウス向けの小さな一軒家を売りに出していた不動産仲介プレイヤーの元に出かけていた。俺とサチ、他の三人の仲間は、ゼロに近くなってしまったギルドメンバー共通アイテム欄のコル残額を眺めては笑いながら宿屋でケイタの帰りを待っていたが、やがてメイサーのテツオが言った。
「ケイタが帰ってくるまでに、迷宮区でちょっと金を稼いで、新しい家用の家具を全部揃えちまって、あいつをびっくりさせてやろうぜ」
俺たち五人は、それまで行ったことのなかった、最前線からわずか三層下の迷宮区に向かうことになった。もちろん俺は以前にそのダンジョンで戦ったことがあり、そこが稼ぎはいいがトラップ多発地帯であることも知っていた。だが、それを告げることはできなかった。
迷宮区では、レベル的には安全圏内だったということもあり、順調な狩りが続いた。一時間ほどで目標額を稼ぎ上げ、さっさと戻って買い物をしよう、という時になって、シーフ役のメンバーが宝箱を見つけた。
俺は、その時ばかりは放置することを主張した。しかし、理由を聞かれたとき、この層からトラップの難易度が一段上がるから、とは言えずに、何となくやばそうだから、と口ごもることしかできなかった。
アラームトラップがけたたましく鳴り響き、三つあった部屋の入り口から怒涛のようにモンスターが押し寄せてきた。これはムリだと瞬間的に判断した俺は、全員に転移クリスタルで緊急脱出しろと叫んだ。しかし、その部屋はクリスタル無効エリアに指定されており――その時点で、俺を含む全員が、程度の軽重はあれパニックに陥った。
最初に死んだのは、アラームを鳴らしたシーフだった。次にメイサーのテツオが死に、槍使いの男が続いた。
俺は完全に恐慌に陥り、それまで制限していた上位ソードスキルを滅茶苦茶に繰り出して、殺到するモンスターを倒しつづけた。だが、その数はあまりに多すぎた。宝箱を破壊すればよかったのだと気づいたのは、全てが終わったはるか後だった。
サチは、モンスターの波に飲み込まれ、HPを全て失うその瞬間、俺に向かって右手を伸ばし、何かを言おうと口を開いた。見開かれたその瞳に浮かんでいたのは、夜ごと俺に向けていたのと同じ、すがり付くような、痛々しいまでの信頼の光だった。
どうやって生き残ったのか、俺はよく憶えていない。ふと気付くとあれほどいたモンスターの姿も、そして四人の仲間の姿も、その部屋にはなかった。しかしそんな状況にあっても、俺のHPバーは半分を割り込んだ程度だった。
俺は、何を考えることもできず、一人呆然と宿屋へ戻った。
新しいギルドハウスの鍵をテーブルに載せ、俺たちの帰りを待っていたケイタは、俺の話を――四人が何故死に、俺が何故生き残ったのか、その全てを聞くと、あらゆる表情を失った眼で俺を見て、ただ一言こう言った。ビーターのお前が、俺たちに関わる資格なんてなかったんだ、と。
彼はその足で街外れのアインクラッド外周部へ向かい、後を追った俺の眼前で、何のためらいもなく柵を乗り越え、無限の虚空へと身を躍らせた。
ケイタの言ったことは、まったくの真実だった。俺が、俺の思い上がりが月夜の黒猫団の四人――いや五人を殺したことには何の疑いもない。俺が関わりさえしなければ、彼らはずっと安全なミドルゾーンに留まり、無茶なトラップ解除に手を出したりすることもなかったろう。SAOで生き残るためにまず必要なのは、反射神経でも、数値的ステータスでもなく、必要充分な情報である。俺は、彼らに高効率のパワーレベリングを施しながら、情報を分けることを怠った。あれは、起こるべくして起きた悲劇だった。守ると誓ったサチを、俺はこの手で殺した。
最後の瞬間、彼女が発しようとした言葉がどれほどの悪罵であろうとも、俺はそれを受け入れなくてはならない。あやふやな噂でしかない蘇生アイテムをひたすらに求めるのは、ただその一言を聞くためでしかない。
SAOex6_02_Unicode.txt
3
残された四日間で、俺はさらにレベルをひとつ上げ、70の大台に乗せた。
その間、俺は文字通り一睡もしなかった。代償なのか、時折鉄釘を打たれるような頭痛に襲われたが、恐らく寝ようとしても眠れなかっただろう。
クラインの風林火山はあれ以来、アリ谷の狩場に現れることはなかった。他ギルドの大パーティーに混じって列に並び、機械のように単騎ひたすらにアリを狩りつづける俺を見るプレイヤー達の眼は、やがて嘲笑から嫌悪へと変わった。時折何か話し掛けてきた奴もいたようだったが、俺と視線が合うや顔をそむけ、立ち去っていった。
クリスマスプレゼントを狙う多くの者たちの間で最大の懸案だった、”背教者ニコラス”が出現するというモミの巨樹が一体どこにあるのか――という問題については、俺はアリ谷でのレベル上げに勤しむ合間を縫ってほぼ確信を得るに至っていた。
何人もの情報屋から買った幾つもの樹の座標に、俺は全て赴いて確かめてみたが、それらは形こそいかにもクリスマスツリー然としていたものの実際にはモミではなくスギ類だった。針のような葉を持つスギと違い、モミの葉は先が丸まった細長い楕円形なのだ。
数ヶ月前、35層のフィールドにあるランダムテレポート・ダンジョン”迷いの森”の一角で、俺は一本の捻じくれた巨木を見つけていた。いかにも意味ありげな形状だったので、未知クエストの開始点かもしれないと仔細に調べたのだが、その時は何も発見することはできなかった。思い返してみれば、あの巨木こそモミの木なのだった。クリスマス――つまり今夜、あの木の下にフラグMob”背教者ニコラス”が出現するのはほぼ間違いないと思われた。
レベルが70に上昇したことを告げるファンファーレを無感動に聞きながら、俺は周囲のアリを一掃すると、ポーチから転移クリスタルを取り出した。順番を待っているプレイヤー達に一声かけることもせず、宿がある最前線・49層主街区へとひとまず戻る。
転移門広場で時計台を見上げると、零時まであと三時間と迫っていた。広場には、イブを共に過ごそうというたくさんの二人連れのプレイヤー達が、腕を組み、肩を抱きながら、ゆっくりと歩いていた。その間を早足で縫い、俺は宿屋へと急いだ。
長期滞在にしてある部屋に駆け込むと、まず備え付けの収納チェストを開き、出現したアイテムウインドウからありったけの回復・解毒クリスタルとポーション類と自分の所持品ウインドウに移動させる。これだけで一財産だが、もちろんその全てを使い尽くしても惜しくはない。
取って置きのレアな片手剣も取り出し、耐久度を確認したあと、アリ相手にぼろぼろになった背中の剣と交換する。レザーコートを含む防具類も全て新品と換える。
全ての作業が終了し、俺は窓を消そうとしたが、ふと手を止めて自分のアイテム欄の上部を見つめた。
そこには、『Self』、つまり俺自身のアイテム欄を示すタブと並んで、『サチ』の名前が記されたタブが残っていた。
これは、仲はいいが結婚には至らない――というプレイヤー同士で設定する、共通アイテムウインドウというものだ。問答無用ですべてのアイテムと金が共有設定になってしまう結婚と違って、このタブ内のアイテムだけが二人の間で共有されるという仕組みだ。
愛の言葉も、手を繋ぐことさえ求めなかったサチが、死ぬ少し前に作ろう、と言ったのだった。理由を聞くと、ポーション類の受け渡しが楽だから、とやや納得しにくいことを――その目的のためにすでにギルドメンバー共通タブがあったので――言ったが、それでも俺は了承し、サチだけとの共通タブを設定した。
サチが死んでも、その窓は残っていた。無論フレンドリストにもまだサチの名はある。だが、そちらのサチの名は連絡不可のグレーに変わり、この共通アイテム欄に残るいくつかのポーションやクリスタル類も、最早使われることはない。
半年経っても、俺はサチの名がついたタブを消すことはできなかった。ギルド用のタブは無感動に消去したにもかかわらず。彼女の蘇生の可能性を信じているから――というわけではない。ただ、それを消すことで、自分が少しでも楽になってしまうのが許せないだけだ。
十分近くもサチの名を眺めたあと、俺は我にかえってウインドウを消した。零時まであと二時間。
部屋を出て転移門に向かう間じゅう、俺は何度も最後の瞬間のサチの顔を思い出していた。あの時、彼女は何を言おうとしたのか、それだけを考えながら。
35層に転移し、ゲートから出ると、前線とは打って変わって広場は静まりかえっていた。中層プレイヤーの主戦場とは少しずれているし、主街区は取り立てて見所のない農村ふうの造りだからだ。しかしそれでもちらほらと見えるプレイヤーの目を避けるように、俺はコートの襟を引き寄せると、足早に街区から出た。
雑魚モンスターの相手をしている暇も、精神的余裕も無かった。背後を振り返り、尾行者がいないことを確かめるや、全力で走り始める。ここ一ヶ月の無茶なレベル上げで俺の敏捷度パラメータ補正もかなりアップしており、積もった雪を蹴る足は羽のように軽かった。相変わらず鈍痛がこめかみのあたりで疼いていたが、そのお陰で眠気も脳に忍び込めないようだった。
ほんの十分ほどの疾駆で、迷いの森の入り口に到達した。このフィールド・ダンジョンは無数の四角いエリアに区切られ、それぞれを結ぶポイントがランダムに入れ替わるため、地図アイテムを持っていないととても踏破することはできない。
俺は地図を広げると、マーカーを点けてある区画を睨み、そこへ至る経路を逆に辿った。頭の中にルートを刻み付けると、深夜の真っ暗な森のなかに、独り足を踏み入れた。
どうしても避けきれない戦闘を二度ほどこなしただけで、俺はさしたる障害も無く、目標のモミの木があるエリアのひとつ手前まで到達した。時間はあと三十分以上残っている。
これから、自分の命を奪うかもしれない――恐らくはその可能性が非常に高いボスモンスターと単独で闘うというのに、俺の心に恐怖の到来する気配すらもなかった。あるいは、むしろ、俺はそうなることを望んでさえいるのかもしれない、そう思えた。サチの命を呼び戻すための闘いで死ぬのなら、それは唯一俺に許された死に方と言えるのではないか――。
死に場所を探している、などとヒロイックなことを言うつもりはない。己の死に意味を求める資格が、サチを、そして四人の仲間を無為に死なせた俺にあろうはずもないのだ。
こんなことに何の意味があるの、サチは俺にそう問うた。それに対して俺は、意味などない、と答えた。
今こそ、俺はあの言葉を真実にすることができる。茅場晶彦という狂った天才が作り出した、無意味なデスゲームSAOの中でサチは無意味に死んだ。同じように、俺は誰の目にも止まらない場所で、誰の記憶にも残らず、いかなる意味も残さずに死ぬのだ。
もし、仮に俺が生き延び、ボスを倒すことができれば、その時は蘇生アイテムの噂は真実となるに違いない。俺は根拠も無くそう考える。サチの魂は黄泉平坂だかレテ河だかから舞い戻り、その時こそ俺は彼女の最後の言葉を聞くことができる。ようやく――ようやく、その時が来る……。
最後の数十メートルを歩くために、俺が足を踏み出そうとしたそのとき、背後のワープポイントから複数のプレイヤーが出現する気配がした。俺は息を飲んで飛び退り、背中の剣の柄に手をかけた。
現れた集団はおよそ十人。先頭に立つのは、サムライのような軽鎧に身を固め、腰に長刀を差したバンダナの男――クラインだった。
ギルド風林火山の主要メンバーたちは、各々表情に緊張を漲らせながら、最後のワープポイント前に立つ俺に近づいてきた。クラインの顔だけをまっすぐ凝視し、俺はしゃがれた声を絞り出した。
「……尾けてたのか」
クラインは髪を逆立てた頭をがりがり掻きながら頷いた。
「まあな。追跡スキルの達人がいるんでな」
「なぜ俺なんだ」
「お前ェが全部のツリー座標の情報を買ったっつう情報を買った。そしたら、念のため49層の転移門に貼り付けといた奴が、お前ェがどこの情報にも出てないフロアに向かったっつうじゃねェか。オレは、こう言っちゃなんだけどよ、お前ェの戦闘能力とゲーム勘だけはマジですげぇと思ってるんだよ。攻略組の中でも最強……あのヒースクリフ以上だとな。だからこそなぁ……お前ェを、こんなとこで死なすわけにはいかねえんだよ、キリト!」
伸ばした指先で、まっすぐに俺を指差し、クラインは叫んだ。
「ソロ攻略とか無謀なことは諦めろ! オレらと合同パーティーを組むんだ。蘇生アイテムは、ドロップさせた奴の物で恨みっこ無し、それで文句ねえだろう!」
「……それじゃあ……」
クラインの言葉が、俺の身を案じる友情から出ているのだということすら、俺にはもう信じることはできなかった。
「それじゃあ、意味ないんだよ……俺独りでやらなきゃ……」
剣の柄を強く握りながら、俺は狂熱にうかされた頭で考えた。
――全員斬るか。
ごくごく少ない、友人と呼べるプレイヤーの一人であるクラインを斬り殺し、レッドプレイヤーに墜ちてまで目的を完遂することを、俺はそのとき真剣に考えた。そんなことはまったく無意味だ、とかすかに叫ぶ声に、無意味な死こそ望むところだ、と圧倒的な音量でもうひとつの声が喚きかえす。
わずかでも剣を抜けば、その瞬間からもう俺は自分を止められないだろう。そんな確信があった。右手をぶるぶると震わせ、ぎりぎりの鬩ぎあいを続ける俺を、クラインはどこか悲しそうな眼でじっと見ていた。
エリアに、第三の侵入者が姿を現したのは、まさにその瞬間だった。
しかも今度のパーティーは、十人どころではなかった。ざっと見ただけでその三倍はいるだろうか。俺は愕然とその大集団を眺め、同じように呆気にとられて振り向いているクラインに、ぼそりと声を投げかけた。
「お前らも尾けられたな、クライン」
「……ああ、そうみてェだな……」
五十メートルほど離れたエリアの端から、風林火山と俺を無言で見つめる集団の中には、ここしばらくアリ谷で頻繁に見かけた顔がいくつも混じっていた。クラインの隣に立っていた風林火山の剣士が、リーダーに顔を近づけ、低く囁いた。
「あいつら、聖竜連合っす。モメるとあとが面倒っすよ」
その名前は俺もよく知っていた。血盟騎士団と並ぶ名声を誇る、攻略組中の名門ギルドだ。個々のプレイヤーのレベルは俺より下であろうが、あの人数相手に戦って勝つ自信はさすがに無かった。
だが――それも、結局は同じことなのだろうか?
ボスモンスターに殺されようと、大ギルドに殺されようと、それが犬死にであることに変わりは無いかもしれない。ふと俺はそう思った。少なくとも、クラインと戦うよりはずいぶんマシな選択ではないだろうか?
今度こそ、俺は背中の剣を抜こうとした。もう、あれこれ考えるのは億劫だった。ただの機械になってしまえばいい。ひたすらに剣を振るい、視界に入るものを殺し、そしてそのうちに壊れて止まる。
だが、クラインの叫び声が、俺の手を押しとどめた。
「くそッ! くそったれがッ!!」
刀使いは、俺より先に腰の武器を抜き放つと、背中を向けたまま怒鳴った。
「行けッ、キリト! ここはオレらが食い止める! お前は行ってボスを倒せ! だがなぁ、死ぬなよ手前ェ! オレの前で死んだら許さねェぞ、ぜってえ許さねェぞ!!」
「…………」
もう時間はほとんど残っていなかった。俺は、クラインに背を向けると、礼の言葉ひとつ口にすることなく、最後のワープポイントへと足を踏み入れた。
モミの巨木は、記憶にあるとおりの場所に、記憶にあるとおりの捻じくれた姿で静かに立っていた。他に樹のほとんどない四角いエリアは、積もった雪で真っ白に輝き、全ての生命が死に絶えた平原のように見えた。
視界端の時計が零時になると同時に、どこからともなく鈴の音が響いてきて、俺は梢の天辺を見上げた。
漆黒の夜空、正確には上層の底を背景に、ふた筋の光が延びていた。よくよく凝視すれば、何か奇怪な形のモンスターに引かれた巨大なソリらしい。
モミの木の真上に達すると同時に、ソリから黒い影が飛び降りてきて、俺は数歩後退った。
盛大に雪を蹴散らして着地したのは、背丈が俺の三倍はあろうかという怪物だった。一応人間型だが、腕が異常に長く、前屈みの姿勢ゆえにほとんど地面に擦りそうだ。せり出した額の下の暗闇で、小さな赤い眼が輝き、顔の下半分からは捻じれた灰色のヒゲが長く伸びて下腹部まで届いている。
グロテスクなのは、その怪物が、赤と白の上着に同色の三角帽子をかぶり、右手に斧、左手に大きな頭陀袋をぶら下げていることだった。おそらく、こいつをデザインした開発者の意図したところでは、大勢のプレイヤーがこの、サンタクロースを醜悪にカリカチュアライズしたボスを見て、怖がったり笑ったりするはずだったのだろう。だが、たった一人”背教者ニコラス”と対峙する俺にとって、ボスの意匠などもうどうでもいいことだった。
ニコラスは、クエストに沿ったセリフを口にするつもりなのか、縺れたヒゲを動かそうとした。
「うるせえよ」
俺は呟き、剣を抜くと、右足で思い切り雪を蹴った。
4
一年のSAOプレイを通して、俺のHPは初めて赤の危険域に突入し、そこで止まった。
ボスが倒れ、頭陀袋を残して爆散したとき、俺のアイテム欄にはもうひとつの回復クリスタルも残ってはいなかった。かつてないほど死に近づき、しかしぎりぎりで生き残ったのに、俺の心には歓喜の念も、安堵すら湧いてこなかった。むしろ、生き延びてしまった、という失望に似たものが、そこにはあった。
のろのろと剣を納めると同時に、残された頭陀袋も光芒を散らして消滅した。ボスがドロップしたアイテムは、すべて俺のウインドウに格納されたはずだ。大きくひとつ息を吐いてから、震える手を振り、窓を呼び出す。
新規入手欄には、うんざりするほど多くのアイテム名が並んでいた。武器防具らしきもの、宝石類、クリスタル類、食材に至るまでがごっちゃり列挙されている窓を慎重にスクロールし、ただひとつの物を探す。
数秒後、それは拍子抜けするほどあっさりと、俺の目に飛び込んできた。
『還魂の聖晶石』、それはそういう名前だった。俺の心臓がどくんと跳ね、ここ数日――あるいは数ヶ月に渡って麻痺していた心の一部に、突然血が通ったような気がした。
本当に……本当にサチは生き返るのか? ならば、ケイタも、テツオも、今までSAO内で命を落としたプレイヤー達の魂は、すべて消滅したわけではなかったのか……?
サチ……サチにもう一度会えるかもしれない。そう考えるだけで、俺の心は震えた。どんな言葉で罵られようと、どれだけ嘘を責められようと、今度こそ、俺は彼女をこの腕に抱きしめ、真っ直ぐにあの黒い瞳を見て、心の底から言おう、そう思った。君は死なない、ではなく、俺が君を守ると。そのためだけに、俺はがんばって強くなったのだ、と。
指が震えて、何度も操作をミスりながら、俺はようやく還魂の聖晶石を実体化させた。ウインドウの上に浮かび上がったそれは、卵ほども大きな、そして七色に輝く途方も無く美しい宝石だった。
「サチ……サチ……」
声に出して彼女の名を呼びながら、俺は宝石をワンクリックし、ポップアップメニューからヘルプを選択した。そこには、馴染んだフォントで、簡素な解説が記されていた。
『このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して『蘇生 【プレイヤー名】』と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができます』
およそ十秒間。
取ってつけたようなその一文が、これ以上ないほど明確に、冷徹に、サチが死にもう二度と戻ってこないことを俺に告げていた。
およそ十秒。それが、プレイヤーのHPがゼロになり、仮想体が四散してから、ナーヴギアがマイクロウェーブを発して生身のプレイヤーの脳を破壊するまでの時間なのだ。
俺は否応なく想像した。サチの体が消え、そのわずか十秒後、彼女のナーヴギアが主を焼き殺す瞬間を。サチは苦しんだのだろうか? 十秒の猶予時間のあいだに、何を考えたのだろうか? 俺に対する百通りの呪詛……?
「うああ……あああああ……」
俺の口から獣のような叫び声が漏れた。
右手で、ウインドウの上に浮く還魂の聖晶石を掴み上げ、俺はそれを力いっぱい雪の上に叩きつけた。
「あああ……ああああああ!!」
絶叫しながらブーツで何度も踏んだ。だが、宝石は無表情に煌めくのみで、割れることも、ヒビが入る気配すらなかった。全身の力を振り絞って咆哮し、俺は地面に両手をつくと、指で雪を掻き毟り、しまいには転げまわって叫びつづけた。
無意味、何もかもが無意味だった。サチが怯えと苦しみの果てに死んだこと、俺がボスに挑んだこと、いや、この世界が生まれ、そこに五万の人間が囚われたということそのものに、意味など何も無かった。それだけが唯一絶対の真実だと、俺は今完全に悟った。
どれだけの時間そうしていただろうか。いくら喚こうと、叫ぼうと、涙が溢れる気配は無かった。この世界にはそんな機能など無いのだろう。やがて、俺はのろのろと立ち上がり、雪に埋まった聖晶石を拾い上げ、元のエリアへと戻るワープポイントへと向かった。
森の中に残っていたのは、クラインと風林火山メンバーだけだった。聖竜連合とやらの姿はなかった。クライン達の人数が減っていないことを機械的に確認しながら、俺は地面に座り込んでいる刀使いに歩み寄った。
クラインは、俺に負けず劣らず消耗しているように見えた。恐らく、聖竜連合との交渉を、一対一のデュエルで決着させたのだと推測されたが、俺の胸中にはどのような感慨も浮かぶことはなかった。
近づく俺を見上げた刀使いは、一瞬ほっとしたように顔を緩めたが、俺の顔にどのような表情を見て取ったのか、すぐに口元を強張らせた。
「……キリト……」
割れた声で囁くクラインの、あぐらをかいた膝に、俺は聖晶石を放った。
「それが蘇生アイテムだ。過去に死んだ奴には使えなかった。次に、お前の目の前で死んだ奴に使ってやってくれ」
それだけ言い、出口に向かおうとした俺のコートを、クラインが掴んだ。
「キリト……キリトよぉ……」
その、無精ひげが生えた頬に、ふた筋の涙が伝うのを、俺は意外なものを見る気持ちで眺めた。
「キリト……お前ェは……お前ェは生きろよ……もしお前ェ以外の全員が死んでも、お前ェは最後まで生きろよぉ……」
泣きながら、何度も生きろと繰り返すクラインの手から、俺はコートの裾を引き抜いた。
「じゃあな」
それだけ言い、俺は迷いの森を出るために歩き去った。
どこをどう歩いたものか、気付くと俺は、49層の宿屋の部屋に戻っていた。
時刻は午前三時を回っていた。
これからどうしようかな、と俺は考えた。この一ヶ月、俺を生かしつづけてきた蘇生アイテムは、実在はしたものの俺が求めたものではなかった。それを手に入れるために、俺は経験値に餓えた愚か者として笑われ、最後には貴重な友情さえも失ってしまった。
しばらく考えつづけてから、俺は、朝になったらこの層のフロアボスと戦いにいくことに決めた。もしそいつに勝ったら、次は足を止めることなく50層のボスと戦う。その次は51層のボスと戦う。
愚かな道化に相応しい末路は、もうそれしか考えつかなかった。一度決めてしまうと気持ちが楽になり、俺は椅子に座ったまま、何も見ず、何も考えずに朝を待った。
窓から差し込む月光がじりじりと位置を変えていき、やがて薄れ、灰色の曙光がそれに取ってかわった。もう何時間眠っていないのか見当もつかなかったが、最悪の夜の次に来た最後の朝にしては、悪くない気分だった。
壁の時計が七時を指し、椅子から立ち上がろうとしたその時、聞き慣れないアラーム音が俺の耳に届いた。
部屋を見回したが、音源らしいものは見つけられなかった。ようやく視界の隅っこに、メインウインドウを開くことを促す紫のマーカーが点滅していることに気づき、俺は手を振った。
光っているのは、アイテムウインドウ中の、サチとの共通タブだった。そこに何か、時限起動アイテムが格納されていたのだ。首を傾げながらわずかな一覧をスクロールし、見つけたのは、タイマー起動のメッセージ録音クリスタルだった。
俺はそれを取り出し、ウインドウを消して、テーブルの上に置いた。
明滅するクリスタルをクリックすると、懐かしい、サチの声が聞こえた。
メリークリスマス、キリト。
君がこれを聞いてるとき、私はもう死んでると思います。もし生きてたら、クリスマスの前の日にこのクリスタルは取り出して、自分の口で言うつもりだからです。
えっと……、最初に、なんでこんなメッセージを録音したのか、説明するね。
私は、たぶん、あんまり長い間生き延びられないと思います。もちろん、キリトを含めた月夜の黒猫団の力が足りないとか、そんなこと考えてるわけじゃないよ。キリトはすごく強いし、ほかの皆もどんどん強くなってるもん。
えっとね、何て説明したらいいかな……。このあいだね、長い間仲良くしてた、ユッチっていう友達が死んじゃったんだ。私と同じくらい怖がりで、ぜんぜん安全なはずの場所でしか狩りをしなかった子なんだけど、それでも運悪く一人のときにモンスターに襲われて、死んじゃった。それから、私すごくいろいろ考えて、それで思ったんです。この世界でずーっと生きてくためには、どんなに回りの仲間が強くても、本人に生きようっていう意志が、ぜったいに生き残るんだって気持ちがなければだめなんだって。
私ね、ほんとのこと言うと、最初にフィールドに出たときからずっと怖かった。はじまりの街から出たくなかった。黒猫団のみんなとは現実でもずっと仲良しだったし、一緒にいるのは楽しかったけど、でも狩りに出るのはいやだった。そんな気持ちで戦ってたら、やっぱりいつか死んじゃうよね。それは、誰のせいでもない、私本人の問題なんです。
キリトは、あの夜からずっと、毎晩、毎晩、私に大丈夫って言ってくれたよね。死なないって。だから、もし私が死んだら、キリトはきっとすごく自分を責めるでしょう。自分が許せないって思うでしょう。だから、これを録音することにしたの。キリトのせいじゃないよって。悪いのは、私なんだって、そう言いたかったから。タイマーを次のクリスマスにしたのは、せめてそれまでは頑張って生きたいなって思ったからです。君と一緒に、雪の街を歩いてみたいから。
あのね……、私、ほんとは、キリトがどれだけ強いか知ってるんです。キリトのベッドで目を覚ましたとき、君が開いてるウインドウ、後ろからのぞいちゃったから。
キリトが、本当のレベルを隠して私達と一緒に戦ってくれるわけは、一生懸命考えたけどよくわかりませんでした。でも、いつか自分から話してくれると思って、ほかの皆には黙ってることにしました。それに、私、君がすっごく強いんだって知って、嬉しかった。それを知ってから、君の隣でなら、怖がらずに眠ることができたよ。それに、もしかしたら、私と一緒にいることが、君にとっても必要なことなのかもって思えたことも、すごく嬉しかった。それなら、私みたいな怖がりが、ムリして上の層に上ってきた意味もあったことになるよね。
えっと……えっとね、私が言いたいのは、もし私が死んでも、キリトはがんばって生きてね、ってことです。生きて、この世界の最後を見届けて、この世界が生まれた意味、私みたいな弱虫がここに来ちゃった意味、そして君と私が出会った意味を見つけてください。それだけが、私の願いです。
えっと……だいぶ時間余っちゃったね。これ、すごい一杯録れるんだね。えっと、じゃあ、せっかくクリスマスだし、歌を歌います。私ちょっと、歌得意なんだよ。『赤鼻のトナカイ』って歌をうたいます。ほんとはもっと、ウィンター・ワンダーランドとか、ホワイト・クリスマスとかかっこいい歌を歌いたいんだけど、歌詞覚えてるのがそれだけなんだ。
なんで『赤鼻のトナカイ』だけは覚えてるかって言うと、こないだの夜、キリトが言ってくれたからです。どんな人でも、きっと誰かの役に立ってる、私みたいな子でもこの場所にいる意味はある、って。それを聞いたとき、私すっごく嬉しくて、それでこの歌を思い出したんです。なんだか、私がトナカイで、君がサンタさんみたいだな、って。……ほんというと、お父さんみたいだな、って思った。私のお父さん、ちっちゃい時に出て行っちゃったから、お父さんってこんな感じかな、って君の隣で寝ながら毎晩思ったよ。えっと、じゃあ、歌います。
真っ赤なお鼻の トナカイさんは
いつもみんなの 笑い者
でも その年の クリスマスの日
サンタのおじさんは 言いました
暗い夜道は ピカピカの お前の鼻が 役に立つのさ
いつも泣いてた トナカイさんは 今宵こそはと 喜びました
……私にとって、君は、暗い道の向こうでいつも私を照らしてくれた星みたいなものだったよ。じゃあね、キリト。君と会えて、一緒にいられて、ほんとによかった。さよなら。
(ソードアート・オンライン外伝6 『赤鼻のトナカイ』 終)